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尾張藩陶器専売制度と美濃焼物の流通 ー取締役西浦円治を中心にー

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尾張藩陶器専売制度と美濃焼物の流通 ー取締役西浦円治を中心にー
尾張藩陶器専売制度と美濃焼物の流通
1取締役西浦円治を中心にー
一 尾張藩陶器専売制度の概要
はじめに
二 ﹁美濃焼物取締役﹂西浦円治
三 西浦家の中央市場進出
四専売制の再編成
おわりに
はじめに
山 形 万 里 子
瀬戸・美濃地方の諸窯は桃山時代に、志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒など、それまでになかった新しい技法による独
ずって日用雑器製造に終始するようになり、近世初期を過ぎると次第に衰微していった。
特の陶器を創出し、茶道文化のなかで開花した。しかし、時代の変遷とともに茶事用などの上級品の製作を京都にゆ
戸・美濃窯業は磁器を中心にめざましい復興を示して、近代産業としての発展の緒についたのである。
その後、享和元年に瀬戸で磁器︵11新製焼︶の焼成が始められると、隣接する美濃諸窯もただちにこれを導入、瀬
1
その背景には、窯業生産者側の①連房登り窯などによる大量生産方式の設備の開発、②製品種別による分業方式の
導入、その他の生産体制の拡充があり、他方、需要者側については①脆弱な﹁陶器﹂から日常の使用に耐える﹁磁
器﹂への製品の転換、②窯業生産の増大による価格の低下、などから焼物が一般の日用品として広く普及しはじめた
︵1︶
状況があげられる。
なお、瀬戸・藁焼物と並ぶ中央市場の主要講”︶肥前難︵富焼物︶は、+七世紀初頭の焼廃始当初から、
その販路のほとんどが欧州各地の海外市場であったが、安永の頃から京坂を中心とする国内市場での流通が次第に拡
・のように享和・文隼豊降陶難は、癩戸物﹂と一磐嚇されて、広範に全国各地へ甕するようにな.
大した。佐賀藩は文化元年、大坂堂島に陶器会所を開き、有田焼物の流通統制を本格化している。
た。しかし、その流通に関する研究はこれまでのところ極めて少ない。
哨般に、近世の商品流通史を研究するうえでの特に大きな障碍は中央市場、殊に江戸市場に関する史料の欠落であ
り、陶磁器についてもほぼ同様のことがいわれる。しかし、幸いなことに、多治見市には江戸十組瀬戸物問屋として
の経営史料を含む西浦家文書が多数残されており、それによって美濃焼物を中心とする各陶磁器市場の状況を、かな
りのところまで知ることができるのである。
西浦円治︵二代円治・天明三年∼文久元年、三代円治・文化二年∼明治一七年︶は美濃窯業の中心地多治見村の庄
屋役を代々勤め、その政治的立場と、窯株多数所持の経済的実力により、美濃五ケ村︵多治見.笠原.久尻.一口同山.
下石︶の窯方惣代として美濃生産地を掌握していた。
加えて、天保六年、尾張藩陶器専売仕組下の﹁美濃焼物取締役﹂に就任してからは、美濃焼物の集荷、流通をも手
中に収め、以後急速に在方商人経営を進展させた。そしてさらに、弘化三年に大坂店、翌同四年に江戸店を開店し
て、中央都市問屋としての経営活動を開始した。江戸店はその後、仲間内でも有力な十組瀬戸物問屋になっている。
本稿では、西浦円治と尾張藩陶器専売制度と、この両者の結合によって美濃焼物の流通が展開したという認識の下
に﹁尾張藩陶器専売制度﹂を考えてみたい。
2
一 尾張藩陶器専売制度の概要
︵1︶ 仕組の成立と運営
噛瀬戸焼物は、中央市場においては、先発の九州磁器に販路を圧迫されていたが、さらに寛政年間からは不況による
売捌不振と価格の下落が続き、これを口実とする中央都市問屋の荷代金延滞にも悩まされた。そこで、自力だけでは
い出、遠隔地市場での荷代金回収の円滑化と、生産・販売の拡大を計ろうとした。
中央都市問屋に対抗できない瀬戸窯屋、名古屋陶商は瀬戸焼物の生産と販売とを藩の統制下に置くことを尾張藩に願
このように尾張藩陶器専売制度成立の要因の一つは、中央市場における地方生産者の劣勢を打開し、製品の信用と
販売拡大の保護を藩に求めたことである。この結果、享和二年、瀬戸三ケ村︵瀬戸・赤津.下品野︶で生産惑珈る瀬
戸焼物を対象とする尾張藩陶器蔵物仕法が実施され、生産者は冥加・御益金上納と引替えに販売市場を確保した。こ
の場合の藩流通統制は領内配給の独占ではなく、江戸・大坂・京都の中央市場への持込み、つまり領外移出の独占で
あった。
領内貨幣である藩札で専売商品を買上げ、それを中央市場で正貨で販売することにより、たとえ専売利益が望めなく
近世専売制度において、専売品の領外移出独占の重要な目的は、正貨獲得にあったことが一般に指摘される。藩は
ても、売買を媒介として藩札と正貨との交換が実現した。多くの事例ではここに国産専売の究極の目的があったので
窪・
本稿事例の尾張藩陶器専売制度の場合も、正貨獲得に仕組成立の領主側の必然的要因が存在したとみられる。
尾張藩は、宝暦期以降、財政窮乏化が進み、寛政四年には藩債二十二万両余を整理するため、藩札﹁米切手﹂を発
行し、同七年には、金銀調達のため、﹁御勝手御用達商人﹂を任命している。
︵6︶ ︵7︶
︵8︶
これら一連の藩財政再建策は、藩主宗睦による天明ー寛政改革として推進されたものであったが、享和二年の陶器
専売制度の実施も、また藩政改革の一政策として位置づけられる。尾張藩における専売制の実施は、このほかに、明
3
︹9︶ ︵10︶
和八年に始まる岐阜縮緬、天保十三年からの尾西織物がある。
︵11︶
当初、陶器専売仕組の運営にあたっては、﹁御用達商人﹂二十名の中から三名が陶器蔵元を命ぜられている。この
内の二人、菱屋太兵衛、麻屋吉右衛門は、﹁清須越し﹂といわれる古い商家で、藩侯が清須から名古屋へ移封すると
きに従.てき豪柄の、近世初頭からの特権商人である。もう天の沓屋伝兵衛は、近世中期羅噺興した有力呉
︵12︶
服商で、寛政三年には、﹁御蔵縮緬御用﹂となり、尾張藩岐阜縮緬専売制と結合した特権商人であった。
彼らが陶器蔵元を勤めたのは仕組開始直後の文化元年から、文政期末前後の期間だけである。それ以後、天保六年
陶器蔵元制度が確立し、再編成される時には、これら陶商以外の特権商人は仕組から離れ、代って瀬戸物商人が蔵
元・取締役を勤め、彼らによって陶器専売制は運営されていった。
それでは、なぜ仕組開始にみたり、陶商以外の藩財政と密着した有力城下町特権商人が参加したのか、それは仕組
運営元手金の調達を彼らの出資に依存しなければならなかったからである。
蔵元制による中央市場への流通と代金決済方法を図示すると、︿図1>のようになる。製品は、瀬戸御蔵会所を経
て、名古屋尾張藩御蔵へ納入され、蔵元によって、その九割までが江戸・大坂・京都の大売捌所へ発送され、中央市
場の尾州瀬戸物会所で、会所所属問屋仲間に売捌かれた。荷代金は、三都の瀬戸物会所から江戸市ケ谷尾張藩勘定
を通じて、瀬戸の場合は瀬戸物会所経由で、また美濃の場合は取締所︵11西浦円治︶経由で、御益金︵運上︶一割を
所、ならびに大坂・京都の藩出先機関へ納められ、そこから為替送金で名古屋勘定所へ送られた。そして、御蔵会所
︵14︶
差引いて、窯元荷主に決済された。
しかし、市場が遠隔地で、通常の決済にも約ニカ月を要するため、荷主は待ちきれず、荷入れ滴塒に荷代金支払
いを求めた。この蔵元からの支払金は貸付金として扱われ、清算の際には﹁御利息﹂を差引かれている。この前金で
って融通した。
支払われる荷代金の資金を、藩は名古屋蔵元と三都瀬戸物支配人かち勘定所へ﹁永納金﹂として調達させ、これによ
︿表1>は、蔵元・支配人の永納額である。名古屋蔵元の麻屋、菱屋、水口屋の三人は、その資金力によって、各
地支配人が陶商であるのに対して、陶商以外でありながら、成立期の陶器仕組に参加したのであり、藩権力は城下資
4
●〔瀬戸三ケ村〕=瀬戸・赤津・一ド品墾∫
荷代金の前払
水野代官所
G窯元会所
〔江 戸〕
〔名古屋〕
流黛
取酬轍
(注)大坂も江戸と
同様の組織構造
ハ 靱 梅
為替送金
名古屋勘定所
笠松役所
(美濃郡代)
鶉薫戴
名古屋瀬戸物問屋
製品(直積)
製品
御国産陶器売捌所
(人)
中株(近国=馬荷のみ)
(=会所所属問屋仲間)
小株(近国遠国=荷い商のみ)
有力陶商数名
図1尾張藩陶器専売制度による瀬戸・美濃焼物の中央市場への流通と代金決済方法
江
屋屋屋
捌問阻
炉組外
辣
戸十組
仲買人(仲買鑑札)
大株(遠国=馬荷または船積)
尾州瀬戸物会所
荷代金
窯屋(窯株)
享和二年
御 蔵
製[叫
難諺琴藩飛
享和二年
鑑札認可
鑑札
交付願
取締所
雑費
御益金
下改め役8名
荷代金決済・製品・御益金
︵ー1上納金︶
美濃焼物取締所
[取締役]一西潮治
急
(注)妻木・駄知などの私領は統制外
荷代金
多治見・久尻・高山・笠原・下石
●〔美濃五ケ村〕=
美濃郡代の支配を受ける幕領
︵下げ金︶
i窯焼総体)
?@車 屋
市ケ谷尾張藩勘定所
荷代金
︵目運上・為銀
窯 屋
冥加・御益金
御利息・荷代金決済・御益金
御蔵会所
の
張屋嘉左衛門 ネ屋嘉右衛門
O後屋嘉兵衛
シ本屋藤七
g島屋市兵衛
@ 3人
文政
@ 3人
1,500両
年 輪 、。。両
年
︵2︶ 陶器仕組と藩財政
本との提携によって専売仕組を創始したのである。
尾張藩陶器仕組の藩財政上における意義が正貨獲得手段としての
面にあったことは、明らかである。しかし陶器仕組による収益の藩
財政に占める割合について、瞥見してみる。
益金、冥加金上納額については、断片ながら藩側の史料があり、ま
窯方の御益金︵荷代金運上︶については不詳であるが、蔵元の御
とめると、︿表2>のとおりとなる。金納二十万両前後の藩財政規
模からみるならば、︿表2>の額はいかにも少ない。しかし、文政
二年の御益金冥加金二二〇両と、江戸売捌高噌万一六〇〇両との比
率を、そのまま嘉永四年にあてはめてみると、この年の江戸での売
捌高は約四万両となる。
米切手の濫発、および換金手数料添銀相場の急騰を引き起こした。
天保∼嘉永期の尾張藩財政の極度の悪化は、二十万両を突破する
であったのが、天保十二年には﹁五匁から二三匁前後に、翌十三年
享和二年には米切手一両につき換金手数料は銀七匁二分ないし八匁
には二五匁ないし三⊥ハ匁にもなっている。
︵16︶
は、それ以上の正貨が陶器荷代金決済として、市ケ谷勘定所を経由
このような窮境にあった尾張藩にとって、年額二、三万両また
とは当然である。
して名古屋勘定所に入ってくることは、藩財政上、重要であったこ
また、尾張藩の江戸尾張間の為替金取扱方には、天保元年より描
6
5,700両
200両
3,000両
1,500両
1,000両
4人
井筒屋平三郎
元
?精ョ伝兵衛
H屋太兵衛
井筒屋久蔵
角谷屋善右衛門
慧劉河島屋仁兵副
麻屋吉兵衛門
京都翅入1合計額
江戸支配入
大坂支配人
名古屋蔵元
\
※『瀬戸市史陶磁史編3』より作成
表1蔵元・支配人による永納金上納額
ll欝} 5人
表2 尾張藩財政上の瀬戸物御益金冥加金(蔵元納分)
嘉永2年
845
760
安政元年
未詳
2年
3年
4年
933
瀬戸市史陶磁史編3尾張藩勘定方
u天保13年給金納払大法目当」金
文政2年
220両
瀬戸物御益金冥加金
天保13年
251両2分余
る。又兵衛は江戸瀬戸物商人であるが、為替取扱方とし
︵17V
山町大坂屋又兵衛、馬喰町伏見屋正三郎が任命されてい
て、﹁尾張殿此表用金差下候節、領分商人共ず御当地商
人共江差送置候商もの代金為替為取組、﹂と尾張藩と結
びつき、それを契機に経営を拡張した。その結果、嘉永
四年の十組問屋再興にあたって、新興江戸瀬戸物商人な
がら、元組構成員になったものとみられる。又兵衛が尾
︹18︶
張藩陶器専売仕組に参加するのは、再興後の安政二年頃
である。このように、瀬戸物商人が尾張藩為替送金を担
︵19︶
当していることからも陶器専売制の藩財政上の位置が推
張藩陶器専売制度は、自領の瀬戸焼物と、他領の美
物との両方を対象品とし、城下名古屋を経由する中
場への流通過程では、集荷・移出・販売の独占は同
7
察できるのである。
以上、尾張藩陶器専売制の成立と運営、陶器仕組と藩
れた美濃焼物の流通について、簡略にふれておきたい。
財政について概観したが、終りに、当仕組配下で統制さ
︵3︶ 美濃焼物の尾張藩蔵物扱い
尾張藩は享和三年、前年の瀬戸焼物に続いて、多治見
周辺の幕領で生産される美濃焼物についても尾張藩蔵物
扱いとし、自領の瀬戸焼物と同様な流通統制を開始し
市焼尾゜)
央濃 た2Ao
〃
296両
404
片岡嘉兵治「御用向覚書」の中の
同上 盆前・暮納
内 訳
名古屋市史産業編P43∼P 44
]戸売払高金11,600両
金 額
「名古屋市史,産業編」
嘉永2年
3年
4年
瀬戸物御益金冥加金
552両
同上「御用向覚書」
@ 6年
(5年間)
@ ∼
} 典拠備考
年 度
171,544両の内訳として
一機構によるものであった。瀬戸焼物と美濃焼物とは、尾州仕組においては分離していたものではなかったので、あ
る。
当仕組は、このように瀬戸焼物・美濃焼物を同時に取扱っているが、両者の間には自領・他領という生産地の基本
ヘ へ
的差異が存在し、さらに集荷独占構造における藩権力の行使も、当然同質ではなかった。それゆえ、仕組内で、両産
物は同格ではなく、﹁尾州仕組付属美濃焼物﹂の取扱いをされている。
しかし、中央市場移出独占による正貨獲得を藩財政補墳策としたい尾張藩陶器専売制にとっては、他領美濃焼物の
流通統制は、市場価格維持のためにも自領瀬戸焼物同様、重要なことであったのである。
る。
なお、尾張藩がこのように他領生産地美濃にまで強力に統制力を行使しえた背景には、次のようなことが考えられ
よる中途半端な支配統制から、美濃窯業地には一種の行政的空白が存在していたとみられるのである。
御三家の一つで、幕領美濃にも強力な政治力をもつ尾張藩に比べて、多治見を中心とする美濃窯方五ケ村を統轄す
る美濃郡代は、幕府勘定所支配下で短期間の任期を勤める小官吏にすぎなかった。そして尾張藩と美濃郡代の両者に
その後、化政期以降になると、窯業生産進展の結果、美濃生産地に有力な仲買商人が拾頭してくる。彼らは尾張藩
蔵元制によって独占されていた遠隔地市場への持込みを生産者自身の手で行なおうと、尾州仕組からの離脱運動を起
した。
この水揚会所設立運動は、江戸陶商および名古屋蔵元商人の強い反対にあい、実現しなかった。代って、尾張藩側
と美濃窯方との妥協の結果、天保六年三月には美濃焼物取締所が多治見村に設置された。以後、美濃焼物は取締役に
よって、生産地美濃で一元的に集荷されるようになる。
美濃焼物取締所設置による新しい尾州仕組体制の成立は、美濃窯方の取締改正というだけでなく、蔵元制度の手直
しでもあったのである。
︵21︶
陶商以外の有力城下資本の蔵元に代って、天保六年六月には名古屋瀬戸物商人が蔵元取締役に任命された。瀬戸焼
物の新蔵元.新取締役と、美濃焼物取締役とを統合して、尾張藩陶器蔵元体制が確立したとみられる。
8、
享和二年に始まる陶器蔵元制度は、天保六年に仕組中枢の蔵元取締役の刷新によって、新体制を確立し、
永五∼七年には、新興蔵元の進出で蔵元層内部が再編成されて、以後維新まで継続していったのである。
二 ﹁美濃焼物取締役﹂西浦円治
さらに嘉
化政期以降、農民的商品生産物、美濃焼物の生産拡充の結果、在地に仲買人が拾頭する。その中の一人、多治見村
西浦円治は、他領の領主的商品流通機構巨尾張藩陶器専売制度と連携して、﹁美濃焼物取締役﹂に就任し、その特権
によって、農民的商品生産の進展を自己の在地買集商人経営に転化させた。本章では、美濃焼物流通の重要な転機と
なった美濃焼物取締所の設置と、円治の取締役就任について、その過程と状況とを詳察する。
︵1︶ 水揚会所設立運動
9
近世中響降、美濃焼物流通の主要な担い手は他領尾張商人であ.た。尾張藩は文政年間に癩戸物仲買株Lを公
認しており、蔵元制による中央市場への移出独占と併せて、尾張藩領仲買人が在地および近国への美濃焼物の流通を
も掌握していたのである。
受け、同九年には焼物仲買を始めた。
しかし、化政期になると、染付焼︵日磁器︶の技術が美濃一円に普及し、飛躍的に生産が拡充するなかで、生産地
美濃においても仲買商人が拾頭する。なかでも、多治見村本郷、西浦円治は天明期以降、多治見村庄屋役を勤め、農
︵23︶
業と質物商を基盤に資本を蓄積し、文政六年には、恵那郡大川・水上村の窯株﹁○通りのうち、合わせて九通りを買
。は庄屋としての村落支配上の実力に加え、窯株の多数所持により近郷村々の新興窯方に対する経済支配を強化
その背景には、窯株が窯業生産者の生産手段所有を意味したものであったのが、次第に、単なる営業鑑札となり、
その結果、商業資本が窯株を所有して、焼物生産の上で力を持つようになったことがあげられる。
天保年間に入ると、美濃仲買人・窯屋は、最大の取引先である江戸問屋の不況による荷代金延滞・支払悪化のため
して、美濃焼物仲買を自己の経営の基幹に位置づけたのである。
(納
困窮の極限に達した。そのうえ、尾張藩蔵物扱いであった美濃焼物の荷代金は、江戸から名古屋勘定所へ為替送金さ
︵25V
は実質的な価格切下げで、尾領領外の美濃窯方にとっては、極めて不合理な支払い方法であった。
れてから、名古屋蔵元を通じて米切手で支払われたため、換金に手間取るうえに、手数料添銀が必要であった。これ
そ・で、美婆芳は、天保三年、江戸に美濃焼物独自の水揚会所を設立して・尾張藩支配からの離脱を企愈・水
く、荷代金延滞に困窮する美濃窯方の代弁者ともなって、この運動を推進したものとみられる。
揚会所設立運動では、多治見村円治と笠松村儀七が、窯方を代表して出府し交渉した。円治は仲買人の立場だけでな
︹27︶
江戸および名古屋問屋は、美濃側の弱点を見透して、この運動に同意する村々と、反対する下石村・市之倉郷との
結束分断を計りながら強硬に反対した。江戸瀬戸物問屋および名古屋蔵元は、美濃焼物が尾州仕組から離脱した場
になることを危惧したのである。その結果、江戸および名古屋問屋では荷受を断わるなど態度を硬化し、険悪な状態
合、焼物値段が瀬戸焼物、美濃焼物と二通りになり、値崩れして、蔵元制度による中央市場での価格維持がなし崩し
が続いて、窯元の在庫は焼き貯った。
また、天保三、四年は低温、多雨のため、凶作で全国的な大飢饒となったが、米価の高騰は窯方の困窮に拍車をか
けた。天保四年、多治見、笠原、滝呂、久尻各村の計四六名は笠松役所から金四〇〇両を借り入れ、また庄屋円治ら
多治見村三役および笠松村儀七は、窯方の荷を引き受ける仲買人への融資に﹁○○両を、同じく笠松役所から借り入
れて、急場をしのいでいる。
︵28︶
このような凶作と不景気の社会状況も加わり、また江戸瀬戸物問屋および名古屋蔵元からの、尾張藩勘定所への強
力な働きかけもあって、水揚会所設立運動は結実しなかった。
五拾両也、十二月二六日道助江戸より帰国する。この年に長年︵天保三年︶より当冬迄凡千両余損相成候事﹂と記さ
天保六年の﹃加藤五郎兵衛︵三代円治︶日記﹄には、﹁父円治出府中借用金、道助︵三代円治︶出府中入用金凡弐百
れ、水揚会所設立運動に注ぎ込んだ費用の莫大であったことがわかる。水揚会所の設立は実現しなかったが、大きな
犠牲を払ったこの運動が、結局、天保六年の美濃焼物取締所設置への布石となったのである。
10
表3天保6年 美濃焼物取締規定による上納額(荷主の負担金)
名・負賭障課内容障収剖納剃上納先
江戸会所の
取締所雑
?i維持費と無代上納四皿)
荷主
?
江戸直
@ (5%)
マの場
き 川間
つ 津船費
に 名名包
個 桑桑荷
0 ∼
ェ場罠賃
物2市げ庭
︵2︶ 美濃焼物取締所開設
物取締仕法﹂の規定取決めに合意した。この取
天保六年三月、円治は名古屋蔵元と﹁美濃焼
その取締役に円治が就任、以後美濃焼物はすべ
締仕法は、多治見村に美濃焼物取締所を建て、
て取締所を経由し、この規定により売捌かれる
としたもので、土岐郡五ケ村の窯職一八九名も
︵29V
天保六年三月に円治へ調印一札を差し出した。
て、どのような改革であったのか、以下にその
取締所が設置されたことは、美濃窯方にとっ
意義を考えてみよう。
噌、従来は美濃窯方が個々に名古屋陶商へ出
の設置によって焼物は一、手買取となり、販路が
荷し、荷代金も個々に受取っていたが、取締所
組織化され、価格も安定した。また、荷代金の
受取は、名古屋まで行かずに取締所から直接受
た。さらにその支払方法も、天保十年前後の実
け取れるようになり、荷代金回収が円滑になっ
になっている。
態からみると、米切手ではなく、正貨の金建て
されることになり、荷改めが厳重になった。名
二、取締所を経由しない荷は抜荷として摘発
11
取締所
荷金野下屋
ー
−o
覇(手数料桑名,川下げの場合)駐
取締所
荷物金高の5分 取締所
軽衙雑荷主
尾張藩
タは,立
荷物1個につき銀1分
スだし当
御益銀
i運上銀)
取締所
正月・七月
辮リで決済
オ名古屋蔵
ウで保管
荷物金高の5分
荷主
※江戸直積とは,多治見の取締所および名古屋の蔵元を経由せず山元荷主と江戸
問屋との直接取引をいう。
※立会所は,名古屋に建てた取締所出張所で,そこで尾州会所と立会,相方協議
運営を計った。
※御益銀は,御運上銀,または御冥加とも呼称された。
※窯業史料編18より作成。
古屋城下の仲買人でも美濃窯元との直接取引は禁止された。
三、取締所には維持費が必要であるが、それは窯元荷主の負担となり、荷主は荷代金の五分を取締所へ、江戸直送
の分は名古屋蔵元へ五分上納、その他荷物一個につき銀一分ずつを尾張藩に納めねばならなかった。
取締規定による荷主の負担をまとめると、︿表3Vになる。
取締所設置は美濃窯元荷主にとっては運動の後退であった。彼らは販売先確保と代金回収の安定を得たが、美濃焼物
水揚会所設立の構想では、窯元荷主は、蔵元の一手販売から独立し、販路の自由を得ようとしたのであるが、この
は尾張藩蔵物として藩からの取締を強化されることとなった。
になったのである。
尾張藩からみれば、これによって瀬戸美濃両地の焼物すべ.てを尾張藩国産とし、その販売権を一手に掌握したこと
︵3︶ 取締役西浦円治
あった。
取締所は美濃窯方の生産販売の総元締となったが、ここで特に重要なのは、取締所が複数の構成要員にょる合議運
営機関ではなく、取締所すなわち西浦円治だったことである。以後、西浦家の経営を急速に進展させた要因がここに
た、美濃焼物の中央市場への出荷および決済は名古屋蔵元を経由して行なわれていることからも、﹁美濃焼物取締役﹂
美濃焼物取締役の職掌は、荷代金の前貸と決済、運上・会所費の徴収、通行手形の発行など、実質的には、瀬戸に
おける蔵元とまったく同﹁であったとみられる。しかし、﹁蔵元西浦円治﹂という名称を用いている史料はなく、ま
は蔵元的役割を担ってはいたが、やはり、その本質は名称どおり、瀬戸における﹁取締役﹂と呼応した蔵元配下の
﹁取締役﹂であったとみられる。
︵30︶
円治は、水揚会所設立運動に際しては、天保三年の日記に、﹁父円治︵二代︶江戸より重右衛門同道にて五月帰り、
尚又七月江戸出府是より名古屋蔵元相手に大入組と相成候事﹂と記しているように、御三家の一、つである尾張藩を後
で奔走したのであった。
楯とする蔵元商人を相手どり、土岐郡五ケ村窯方惣代として、美濃焼物を蔵元制度から独立させようという意気込み
12
ら、統制する側の藩仕組の地元支配人、すなわち取締役に就任したのである。このような立場の逆転を円治があえて
その円治が、取締所設置によって、反対していた蔵元制度そのものの一翼を担う形となり、窯方仲間惣代の立場か
に基づいて、尾張藩専売制と連携したのかどうか。
受け入れた動機は、何であったのか。﹁取締役﹂就任にあたって、果たして、将来する特権性を予見し、積極的意図
設立運動の﹁○○○両の出費や、江戸売捌金の慢性的延滞、凶作による減収などから、かなりの逼迫をみせていた。
水揚会所設立運動の天保三年から、取締役就任をはさんで天保八年前後にかけては、円治の財政状況は、水揚会所
は、名古屋蔵元衆から﹁窯方為仕送﹂として、金一五〇〇両を江戸送り荷代金と円治所有田地とを担保にして借用し
そのため、天保四年には仲買人救済資金一〇〇〇両を笠松役所から共同で借り入れ、さらに取締役就任の翌年に
ている。
以上は史料で明かにされているが、水揚会所設立運動の挫折から美濃焼物取締役就任に至るまでの、紆余曲折を直
接に示す史料は残されていない。
しかし周辺の状況については以下のようなことが推察される。
天保年間の段階では、名古屋の蔵元以下、城下町特権商人が国産売捌にあたって、江戸問屋に対してはやや主導権
をもち、また円治以下美濃荷主に対しては圧倒的な資金力と勢力をもっていたとみられる。
ては、尾張藩および蔵元としても、これをまったく無視するわけにはゆかず、そのため、﹁美濃焼物取締所﹂の設置
しかし、笠松役所から尾張藩勘定所への水揚会所設立願や、円治以下美濃窯方の執拗で粘り強い独立の要求に対し
が、尾張藩陶器蔵元制度にとっても有利な仕組として考え出されたのではないだろうか。
ではその際に、その取締役として、尾張藩が、尾州商人を任命せずに、美濃窯方の代弁者西浦円治を任命したのは
なぜだったのであろうか。
円治は在方商人としては、この時点ではそれほど卓越した資金力をもっていたわけではない。むしろこの任命は、
会所設立運動を強力に展開した傑出した政治的手腕への評価によったものとみられる。
美濃窯業の中心地多治見村の庄屋役としての政治的立場によったもの、さらには、美濃五ケ村の窯方惣代として水揚
13
結果として、円治は、それまでの窯株多数所有者という形での美濃窯
業生産部門の掌握に加えて、取締役就任によりその集荷流通部門をも
手中に収め、いわば美濃窯業全体を自己発展の基盤に位置させること
になったのである︵︿図2V参照︶。
従来も円治は、庄屋役質物商として、在方商人の堅実な経営基盤を
いく。
もっていたのであるが、これを契機として以後は急速な伸長をみせて
︵13︶
経済的
政治的
図2 西浦円治の美濃窯業生産者支配
。窯方取替金︵荷代金の前貸︶
・庄屋役
村政一般
。窯株の多数所有
・生産・生活物資の貸付
・別格仲買人 集荷の独占
・取締役i生産・流通の統制
円治は天保十二年に、尾張藩勘定所立入りに任命された。 円治が資金窮乏の低迷状態を脱して本格的進展をみせ始
めたのは、その後の天保末期から弘化期にかけてである。
三 西浦家の中央市場進出
しての進展成果の具現が、弘化三、四年の西浦大坂店・江戸店の開店であっ︵磁。
西浦円治は取締役就任後、領主的商品流通機構と提携したその特権によって、在地において美濃焼物を一元的に独
占集荷し、天保末期以降、陶器仲買商としての自己の経営を飛躍的に拡大させた︵︿表4V参照︶。その在方特権商人と
多治見本店と、大坂店.江戸店との経営は、在方商人と中央都市商人との二つの商人類型を同時に合わせもつこと
になった。西浦屋は三井.大丸のような中央都市に経営基盤をもつ﹁都市商人﹂に比べれば小身の商人であったとい
わなければならないが、﹁在方商人﹂という商人類型からみたならば、大店であったといえよう。
本章では、円治の中央市場進出について、それを可能にした背景、要因を城下町名古屋、中央市場江戸・大坂の状
況から分析し、西浦出店の藩仕組における意義についても考えてみたい。
︵1︶ 中央都市商人と藩専売制
尾張藩は天保十二年十二月の﹁株仲間解散令﹂に際して、瀬戸焼物および美濃焼物は特例として、それを適用せ
14
表4 円治の土地集積状況(西浦家文書より)
(天明6)文化15天保8天保13嘉永4安政4明治3明治6
21・石 37.6 56.6 80.4 45.2(分家) 73.378.4
88.2 (円治も含む)
(村内)
?
135.6(明治5)
小作地61.2 61.2
手作地49.4 44.9
︵33︶
ず、依然として尾張藩蔵物として専売体制を維持していた。
﹁勘定所立入り﹂に任命されたことは美濃生産者代表としての円治の立場を
仲買鑑札による美濃焼物売買統制は、﹁解散令﹂からみれば明らかに違法
︵34V
であり、この点で円治は苦境に立たされた。さらに、同年二月に尾張藩より
微妙なものにした。
天保十三年二月には、円治に対する取締役解任訴訟が起こされた。取締所
の統制を廃し、仲買株を停止して取引を自由化し、売捌先も拡大しようとす
る動きによったものであるが、その背景には右に述べた状況が集約されてい
たものと思われる。この解任訴訟一件は、円治の一方的な勝訴に終わった
が、それにもかかわらず、翌十四年正月には、円治は自ら取締を廃止しよう
という意向を示している。
︵35︶
ていた。 兇
一方、中央市場では、解散令によって特権商人の多くが重大な打撃を受け
天保十二年六月、江戸十組瀬戸物問屋で、尾張藩陶器仕組江戸支配人であ
った吉島屋市兵衛は、五千両の荷代金︵上納金︶未納一件を起こしている。
天保十四年十一月、尾張藩勘定所宛の書付のなかで、市兵衛は﹁十組問屋株
御解被鉤複二付、色々御用向も差嵩申候間−−﹂と株仲間解散の打馨
訴えている。
こうした特権商人たちの衰退とは逆に、独占を解かれた中央市場では弱小
滴駄の拾頭奮ざましかった。西浦屋は、・れ・り新興商人たちの橋渡しによ
って、弘化三年に大坂店、同四年に江戸店を開店、中央市場での経営に着手
した。解散令をめぐる天保弘化期は、円治にとっては在地での動揺を越え
15
82.4 108
円治(村内)
円治一族
掟米 115.6111.8
※嘉永4年は代替りによる分家への土地分散
※安藤勝昭論文「近世後期における窯業の展開一美濃・多治見地方における「窯
稼」の実態一」(昭和55年度岐阜大卒論)表16より転載
表5江戸店売上の推移
仕入
おもな地域別売上高
囈э繼T上州陪州レ棚導 1下総1相州1江
両
嘉永元年
両
両
9,924
10,934
2,242
2
ユ0,482
11,900
2,350
3
11,153
12,220
2,280
5
9,411
10,487
1,759
6
9,648
10,865
1,562
安政元
2
11,591
13,240
1,877
11,616
13,379
210
16,026
1,935
4
14,263
ユ6,568
2,683
5
10,320
11,772
1,596
6
18,531
21,255
2,534
万延元
16,177
18,713
2,022
文久元
21,803
25,532
3,800
28,251
32,804
4,776
2
3
27,448
3,582
元治元
26,517
30,658
3,207
慶応元
42,064
47,469
5,964
2
38,111
42,906
4,256
3
44,697
50,005
3,487
注
1,133
(総州を含む)
1,216
758
4
9
一
725
1
3
5
1
一
両
一
両
商
884
2,547
950
4,545
一
543
755
4, 436
1,117
3,309
476
592
4,284
515
917
5,759
750
1,008
5,655
一
一
一
700
一
861
1,215
1,046
1,115
1,370
6,468
754
857
9,882
818
1,111
1,003
9,039
1,046
一
一
8,329
6
1,308
1,070
871
8,157
4
1,532
2,010
1,200
9,724
0
2,465
1,876
1,376
11,456
7
一
一
両
両
一
一
一
一
両
両
177
1,009
397
397
145
1,417
670
1,246
3
1,067
385
1,734
82
1,075
17
1,275
1,216
265
1,541
1,648
543
2,685
1,763
615
2,700
2,254
228
2,928
2,304
71
3,000
1,452
一1,410
1,589
2,724
一689
900
2,536
284
1,149
3,729
1,374
2,523
4,553
一
31
一
469
〔近国とも)
1,062
2
2
一
1,161
2
2
両
1,387
(水戸を含む)
1,966冒
24,761
0
両
一
(水戸を含む)
一一
( 〃 )
218
一
一
一
(近国とも)
1,361
( 〃 )
2,921
一
1,499
4,023
( 〃 )
1,708
2β20
2,686
一770
3,457
1,239
4,140
1,471
4,594
1,205
2,442
8,727
1,39ユ
2,956
10,438
1,994
3,829
11,557
3,005
3,827
5,405
791
5,385
一
0
844
2,203
2,665
11,052
2,400
4,926
4,793
456
5,842
5
聰一
2,018
3,007
12,115
2,127
11,637
5,308
一12
5,830
(1)原資料によるため差引の合わないところもある。
(2)両未満は切り捨て。
r多治見市史』p1250西浦家文書より
O州
13,772
6
1水戸1奥州灘副純利益金店預・金
戸
両
9
ρ0門0﹁D3
3
﹂
96049イ1
3
54072205
⊥2
26
0
8
5
0
9
1
9
Q
V
1
占
4
7
6
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8
7
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0
1
q
︶
0
7Q
ρV
07
0∩
V
1
2
2
2
4
3
4
年 号
て、さらに活動を飛躍させる一転機であったと位置づけられる。
西浦出店の具体的経過およびその経営分析、さらに江戸瀬戸物問屋仲間の動向については別稿を予定し、ここでは
西浦江戸店の経営を概観するにとどめる。
開店翌年の総売上高は︸万両余であったが、その後、販路の拡張とともに仕入・売上げとも順調な伸びを示してい
る︵︿表5V参照︶。嘉永五、六年および安政五年の落込みは大火による焼失分によるものである。しかし、翌年には一
挙に盛り返して以後増加を続け、慶応三年には総売上高五万両余に達している。江戸店の仕入の主要部分は美濃焼と
肥前焼など多種を取扱うようになる。
瀬戸焼であり、安政三年までは双方合わせて、七〇∼八〇%を占め、その後江戸瀬戸物問屋として、京焼、信楽焼、
江戸店は、開店四年後の嘉永四年の﹁再興令﹂によって、十組瀬戸物問屋仲間元組構成員に公許され、そのなかで
も最有力商人の一人となった。安政年聞には継続して年行事を勤め、安政五、六年に、仲間結成以来の有力江戸陶商
西村屋勘兵衛、今利屋嘉兵衛の両店が経営悪化から存続の危機に陥った際には、西浦屋は仲間内の中心となって両店
を支援し、その再興を助けている。安政五年の﹁開港﹂を契機に、﹃層経営を発展させた西浦江戸店は、明治二年、
︵38︶
︵38∀
東京通商商会の肝煎に任命された。
ここで都市問屋と藩営専売制度との関係についてみると、両者の力関係は業種によって大幅に異なっていたとみら
れる。たとえば木綿の流通に関しては、江戸問屋側が非常に強力であり、それゆえ藩専売制度が江戸問屋にとって、
︵40︶
どれほど脅威となっていたかは疑問であるとして、都市問屋側の優位が一般に指摘されている。
しかし焼物の場合には、藩専売機構による集荷販売が大きな比率を占めており、都市問屋と藩との力関係は、ほぼ
対等または藩側が優位にあったとみられる。その理由として、次の二点があげられる。
②都市問屋が、前貸制などにより生産地を直接または間接に押さえる手段をもちえなかったこと
① 焼 物 生 産 地 の 特 定 性
窯業の生産構造の特殊性にも起因するとみられる。このような生産地の﹁特定性﹂が、都市問屋の優越を許さなかっ
市場価値の高い焼物の生産地は、原材料の入手、技術、搬入手段確保などの面から限定されていたが、これはまた
17
た大きな要因であったといえよう。
︵41V
次に、都市問屋が生産者側に対して優位を確立するための常套手段の一つである荷代金前渡11前貸制は、この陶器
専売仕組には適用しえなかった。それは、尾張藩専売仕組下の瀬戸焼物は名古屋蔵元商人によって、また美濃焼物は
在方特権商人西浦円治によって独占集荷されていたが、特に美濃焼物の場合、円治は在地における多角経営の資本蓄
積手段を有している状況から、在地買集商人として、または買次問屋として、中央都市問屋の傘下に入る必要性がな
かったからである。
このように焼物の場合、都市商人は藩専売仕組参加による集荷機構に依存する部分が大きく、尾張藩陶器仕組︵瀬
i取締役)
@(取締役)・
名
テ 屋
@(蔵元)
城下町
御蔵・尾張藩勘定所
尾張藩勘定所
瀬戸物会所
中央都市
大坂・江戸
@(支配人)
売捌所(売捌人)←”」
西浦江戸店・大坂店
内の二つの地位
西浦家の中央市場進出の形態は、中央市場
における尾張藩陶器専売仕組の一構成員、つ
まり仕組所属売捌人11美濃焼物取扱所として
であった︵︿図3V参照︶。この出店によって、
円治は尾州仕組内において、二つの地位を兼
面性を意味した。
帯することになり、それは仕組内の円治の二
①美濃生産地での買集独占“取締役
尾張藩は、円治の出店による実質的な美濃
②中央市場内藩専売機構の構成員H売捌人
18
戸焼・美濃焼︶および、佐賀藩陶器仕組︵肥前焼︶への参加、不参加は、中央市場陶商の経営に重大な影響を与え、
︹42︶
ひいては十組瀬戸物間屋としての勢力維持の要因にもなっている。
西浦家の中央市場を可能にし、先導した背景には、中央市場でこのように有効に機能していた尾張藩専売制度があ
取締所
i代官)
1i⋮i去西浦円治Ti⋮ii
御蔵会所
在 地
図3西浦円治の尾張藩陶器仕組
った。しかし、進出の直接的起因は、﹁取締役﹂の特権によるものではなく、その特権によって強化された在地買集
商入としての経営進展によるものであった。
濃
美
瀬
焼物の集荷移出の独占を容認しながらも、依然として尾州仕組の頂点である蔵元には、名古屋商人を任命していた。
蔵元に藩勘定所経由の仕切決済を掌握させる尾州陶器蔵元制度を、藩が最後まで馨、存続させていた要因は・為替
送金による正貨獲得にあったとみられる。
︵2︶ 蔵元商人の衰退
らみてみる。
それでは次に、円治の進展とは対照的に衰退傾向にあった蔵元以下藩陶器仕組参加名古屋商人の動向を︿表6>か
Z。°心∼Zqド①までの13人は、天保六年、美濃焼物取締役任命と合わせて、蔵元に任命された名古屋有力瀬戸物商
人である。彼らの参加によって陶器蔵元制度が確立したとみられる。
その後、弘化二年、藩の荷代金下げ金延引を蔵元が碁え払いする譲が起・馨藩と薯し嶺内特権商人であ
る彼らにとって、尾張藩財政の極度の逼迫は当然彼ら自身の衰退の大きな原因となった。
その象徴的な出来事として、嘉永六年八月以降の、尾州商人の京坂市場への瀬戸焼物直積みの禁止がある。有力大
坂瀬戸物商人九人︵西浦大坂店も含む︶が、尾張藩に、証拠金一八〇〇両上納と引替えに、大坂商人の瀬戸焼物の京
坂市場独占販売と、京坂.西国市場への尾州商人の直積み禁止を申し入れたのに対して、尾張藩は領内特権商入の決
定的不利を承知のうえで、証拠金上納の大坂会所所属仲買人に、京坂市場独占販売を許可したのであっ︵艇。
また、尾州商人の京坂市場からの退行現象は、瀬戸焼物の取扱いに関してだけでなく、美濃焼物の京坂・西国市場
への販売においても顕著であった。西浦大坂店は経営拡充の結果、安政四年以降、生産地美濃における﹁取締役﹂と
京坂市場における﹁売捌人11大坂店﹂とを、直結したパイプによって、美濃焼物の京坂・西国市場への集荷販売を独
占していくことになる︵︿図4V参照︶。
尾州商人の衰退傾向の背景として、この時期の尾張藩財政の窮乏の状態を瞥見してみよう。︿表7>は、嘉永二年
の尾張藩の歳出入額である。歳入より不足合計額のほうが多く、﹁臨時払﹂のうち最大のものには、調達金の元利支
二万両、家中の増上米︼万九六〇両余などによる。つまり調達金と増上米によって、借金に借金をかさねて、ようや
払﹁四万一九〇二両があった。また、一一五万両の不足の償方は、調達金二〇万三八五九両余、江戸町人よりの調達金
19
※大坂瀬戸物町沿革,瀬戸市史,多治見市史史料編より作成
陶器蔵元制度)
嘉永2年
イ荷締顧
弘化2年
ラ替立替人・
嘉永6年8月
嘉永7年
蜊竰シ積制度
」戸焼蔵元新蔵元
安政3年
{業蔵元
定政4年
K名積復古願
万延元年
元治元年
]戸積
シ所積大札
備 考
初期↑城下町商人
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掾E・
○ ○ ○ ○ ○
休 株○ 休 株○
休 株○
20
サ買
?モ
ウ札
熨蜉
ワ札
゙所
@持
表6 名古屋瀬戸物問屋一覧(尾張藩
番号
Xと取引
屋 号
小川
麻屋吉右工門
水口屋伝兵工
2
菱屋善兵工
4
●・..・・
7
0・・…
山田
9
●・..・.
吉田
10
●..…
ll
●.一
●
●・・…
16
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●
●・・…
1匿一一一一.
..
一・…
..ヒ」L」.・...一幽幽幽一一......一...■.「「■■.「「
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蔵 元◎
宦D一.一一一一
蔵 元◎
◎ ・
蔵 元◎
蔵元取締役◎
◎ ・
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1
蔵元取締役O
.一.......「.
....
P−...一一一一
(角)加登屋吉兵工
一一...一.
L・..L.一
一一...一
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寤鼈鼈鼈鼈鼈黶D
蔵元取締役◎
一一一一一一一
Z・一一…一
蔵元取締役◎
一一一一一・一・
・一・・…・
L.■.....
山形屋庄三郎
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一.・.・
掾E一.一’
揶黶c一.
掾E・一.…
掾c・・
熊本屋久助
王9
河内屋和兵工
20
丸屋平兵工
21
1
瀬戸物屋利助
●…『.
●
22.
23
.」.・T..・
” 伊左工門
.......」.」...、.rr..」
..幽......
■「■■■■■■■■−−「「「1T「■■
1
(加登埆屋源左エ門
「
蝟?ョ佐兵工
綿屋与曽兵工
植田屋卯助
27
28
河内屋徳兵工
29
久木屋小左エ門
30
●..・・.
●
31
一幽.一・幽幽
兎見屋林蔵
.」....」.
,
河内屋九郎八
32
r
平出(手)屋徳右工門
33
1
仇 屋 平 八
34
●・…・
.幽...■.「
35
●・一
.,・」T・,・
36
藤屋忠左工門
土佐屋半次郎
,亨
,,.,
,.・..」・.
.幽.......
.・・幽・.・.・.....「..「.
.幽.幽 .一 ..幽.■.. r.・ ..・ ’
平子屋徳右工門
37
山陶屋兼助
38
●一一・一・
39
●…・・
....一匿.
●
40
吉田・
升 屋 為 助
瀬戸物屋源左工門
,,
,,,
竹皮屋伊八
41
麻 屋 直 助
綿 屋 嘉 助
42
43
●.!
高倉屋儀兵工
44
●』’
中島屋治助
坂本屋幸吉
松屋作兵工
,あ他,あ他 以下奏ll羅}趨物扱い城下在中仲買人
@ 小札
21
,曹,,,,■,,,,,,
甲甲甲
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1トEi’
25
●
萬 屋 嘉 助
●
24
46
T.......ゴ........・.
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・一..・幽幽.一..幽......「
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萬 屋 弥 i八
18
45
天保6年 天保13年
取締所規定
@ 為替立替蔵元
圃...」........
.■....「...−.........
瀬戸物屋清左工門
久留米屋辰八郎
高木 久田屋伊右工門
山内 堺 屋 与 助
一束 久留米屋辰八郎
17
26
・◎・・…一・
一束
●
15
吉田
福島屋満蔵
吉田屋善七
?@ 元
○ ○ ○
8
14
麻 屋 禎 助
井筒屋源一郎
加登屋嘉兵工
6
天保4年
?Z物扱商人
文政元年
.一.r.一
◎ ◎
5
13
付蔵元
◎
3
文化15年
付蔵元
菱屋太兵工
1
12
文化元年
﹁
名字
◎ ◎ ◎
西浦江戸
ニ取引
◎ ◎ ◎
西浦本店
表7嘉永2年尾張藩歳出入額
金220,931両2分余
う、まさに破産状態にあ
美濃取締所
取締役
(桑名改所)
店
出
シ浦大坂店
四西近京
総総総
江戸店の担当
(注)美濃焼物の北国筋売捌は
図4 西浦家による美濃焼物名
らみても、領主財政の窮乏、破産とともに、それと密着した領内商人の経営悪化、
このように極端に悪化した藩財政を調達金上納という形で負担しなければならな
衰退の容易でなかったことも推察される。
。。”一9一①︶と合わせて、蔵元商人の増強を策して、蔵元制度を再編した。しかし、
かから、新蔵元を四人︵29卜。卜。”ωρω♪ω0︶任命し、初期からの蔵元︵Zo°伊
︿表6>にもどって、嘉永七年に、藩は、仲買鑑札他所積大札所持層の商人のな
めていく。
ートの縮小﹂という営業活動の根幹を脅かすものであっても、結局はそれを受け入
れざるを得なかったとみられ、嘉永六年以降、蔵元商人は衰退への傾斜をさらに強
い領内特権商人︵蔵元︶にとっては、﹁嘉永五年の国産売捌改革﹂が、﹁主要販売ル
古屋以西への販売独占
く財政をまかなうとい
ったのである。
︵46︶
い尾張藩においては、慢
大坂会所
特別の藩収入の途のな
性化した財政不足の補填
には、調達金、増上米の
人、領民、家中に負担を
徴発などにより、領内商
多治見村庄屋
美濃窯方惣代
強いるよりなかった。前代以来の借財が安政三年の記録で一七七万両余という額か
美濃窯方
かから二人︵Zo﹁ωGo GQゆ 帰︶が本業蔵元に任命されている。
安政三年にはこの新蔵元四人は役を解かれ、代わって同じく他所積大札所持層のな
22
金215,942両3分2朱
臨時払
大判9枚
金259,319両1分2朱
定例払
大判9枚
定例納
歳 出
歳入
(不足34,387両3分2朱)
※定例納より不足額の方が多額
(不足合計額250,330両3分余)
『愛知県史』2巻P318より
坂陶器会所支配人、および美濃焼物取締役西浦円治らと交渉に当たっている。
なお、Z9置久留米屋利助︵一束利助︶は別格で蔵元取締役に任命され、仕組の藩側を代表する形で、江戸・大
万延段階では、有力瀬戸物商人で仕組初期からの蔵元層︵]∠ρ蔭∼一①︶の中から六人、仲買鑑札大札所持層︵29
ミ∼心①︶のなかから五人︵その内三人休株︶、合計一、一人が蔵元商人として尾州陶器仕組の中核をなしていたとみら
れる。
かがえる。
これら一一人の江戸積を中心とした営業活動は、︿表8>の西浦江戸店の名古屋商人からの仕入高推移表からもう
できる。
西浦江戸店は弘化四年に開店して以来、維新期まで名古屋商人から瀬戸物︵本業焼11陶器、新製物11磁器︶を仕入
れているが、︿表8>から、その取引商人はZo.一∼刈までのグループと、ZρQ。∼卜。Oまでのグループの二つに大別
29一∼刈までの七人は仕組初期からの蔵元層で、維新期まで継続していた︿表6>のZρ9Q。℃ρ一ρ一ρ一伊
H①の七人と一致する。またZρ。。∼b。Oまでの=二人は、新興蔵元を含む仲買鑑札大札所持商人層で、︿表6Vの
Zo﹂刈∼心①のなかにその名前を見出すことができる。
蔵元七人は開店以来維新期まで間断なく西浦江戸店と取引しているが、新蔵元・大札商人層は後の安政元年から西
浦店と取引を始める。当初、彼らの取引高は少額であり、万延元年までは蔵元層七人が西浦店の瀬戸物仕入の大部分
を占めている。
しかし、文久三年以降、西浦店の瀬戸物仕入高は急増してゆくが、その増加分はそのまま新蔵元大札商人層の取引
増加となり、蔵元七人の取引高の比率は、文久三年および元治元年には総取引高の三〇%台に落ち込んでいる。慶応
元年には、いったんその比率は五八%まで回復しているが、翌二年には取引総額が一万八五六両と前年比四四%増に
急増しているにもかかわらず、蔵元七人の取引高は総取引高の四〇%を占めているにすぎない。
以上の数字から、幕末期には従来からの蔵元層の勢力が相対的に衰退をみせ、代わって新蔵元・大札商人層が急伸
していることがわかる。ただし﹁新﹂蔵元とは言っても、彼らは必ずしも新興商人ではなく、従来の蔵元を商人層の
23
(注)書藩融欝繰望鷹
仕入高推移表(本業先・染付焼合計)
↓
同3年 同4年 同5年 同6年万延元年文久3年元治元年慶応元年
・・年・・年↓・・取搬・考
386.00
本業
318.10
302.30
214.30
273.20
57.10
196.10
219.20
523.33
620.10
707.32
476.20
315.22
397.10
25.00
255.00
228.03
493.12
687.20 1,143.30
501.10
513.00
250.00
400.22
67.00
45.12
150.20
420.23
600.20
367.20
503.12
512.02
251.22
167.12
351.20
428.30
631.10
926.00
909.30
373.30
染付・本業
309’02
60.30
6.22
106.00
41.00
153.20
244.00
679.23
788.10
478.00
美濃・染付
135.12
141.20
191.02
611.20
428.00
248.10
579.20
748.33
386.32
562.30
〃 ”
257.10
632.30
127.20
378.10
376.10
585.01
425.00
643.10
染付・本業
419.00
580.02
〃
〃
P
2,・・4…2,586・3・・,・・7・…,・71・・211・・97…1・・・…21・…9…4・・377・・221…423・・2・・・…
1,073.00 675.10美濃・本業
50.00
30,00
16.30
27. 20
119,32
105.10
66. 20
221.20
20.10
118.10
188.11 201.20
128.32
184,30
82.10
227,20
96.20 281,00
364.30
675.23 492.201,019.10
18.20
38,20
10.10
8.00
9.20
99.20
607.121,173.30 583.00
染付
69.30 56,10
美濃
25.32
〃〃染付
101.12
72.10
23.30
197. 00
229.10
2,590.30 本業
30,102,361.202,051.001,117.31
361.22
392’30
36210
45,10 181.001,246.10 573.00
412,00
元治
休株
954.30 取次
美濃・染付・
本業
本業
5.10
59・20本業
延株
万休
本業・美濃
元治
休株
425.30染付
719.00
P ・4・・2・6・9…
759・・・…24…
192.103,710,223,879.303,162.106,433.107,682.00
3,653.103,612.201,732.303,690.321,289.205,416.006,308.337,539.3210,856.1211,652.00
79.2% 71.6% 85.9% 83.2% 85.1% 31,5% 38.5% 58.9% 40.7% 34,1%
f
衷8西浦江戸店の名古屋商人からの
↓ ↓
番号
式問屋名弘化・年i・永元年1・・年1・・年1・・年1蜘年1・・年
格
12qり4RV67
蔵元
天保6年
吉田屋善七
両
166.20
305.30 113,20
291. 00
26.12 315,32
147.32
本業
〃
瀬戸物屋清左工門
255. eo
619.02 −
736.10
331.30
〃
安政3年
堺 屋 与 助
61.20
83.30 74.03
132.30
88.12
〃
天保13年
角屋吉兵工
348.00
894.001,242 22
763.10
〃
山形屋庄三郎
32,02
683,20 13.22
186.02
〃
文化15年
扇 屋 頂 助
146.30
783,00 416,30
782.22
56.00←
141.20
〃
天保6年
福島屋満蔵
233.30
711,30 305’30
463.00
287. 00←
344.32
〃
〃
372.31
126.22
496.10 −1,617.20
498.30
染付
249.OO
159. 22
←
“繍7まで1・・233…1…8・・ 321・・ ・66・・3ト4 十・・…i2・ 433・ ・2]・・ 792…
8
大札嘉永6年 植田屋卯助
9
姦莞安政・年
瀬戸物屋源右工門
22.32
10
薪蔵元 嘉永7年
瀬戸物屋伊左工門
90.20
17.22
541.1
11
〃 〃
土佐屋半次郎
37.0
12
〃 〃
藤屋忠左工門
109.12
13
義箋安政・年
14
新蔵元嘉永7年 ,
15
宇佐見屋林蔵
大札嘉永6年
16
〃 〃
17
” 〃
18
〃 〃
竹皮屋伊八
河内屋九郎八
山 宗
?
20
米屋治郎丸
万 屋 弥 八
?
19
升 屋 為 助
池 久
No.8∼N。.20ま
17.22
@での合計額
名古屋商人総取引高 No.1∼No.20
このうちNQ.1∼N。・7の占める割合
801.02
11・23・・221…8・・32ト・66・・31…473・…卜・・…巨・・L・1・・ s9・…
卜・%卜・%レ・%1・・%・・%1・9・・%陣・%
25
表9美濃焼物売捌尾州領美濃領仲買人の推移
尾州領仲買人
年 次
天保6年 32名
嘉永2年
36名天保
4名
163
天保12年 66
嘉永2年
1合計典
美濃領仲買人
J愚文」
・29名膿麗鴇帳」
103
220
129 嘉永2年9月
大株7(6.8%)
大株38(17.2%)
「仲買規定連印帳」
中株23(22.3%)
中株73(33.1%)
小株65(63.1%)
小株99(45.0%)
不記8(7.8%)
不記10(4.3%)
165
嘉永2年12月
「美濃焼物締方請
イ也所積株79(48%)
書帳」
小売株 86(52%)
元治元年
拠
元治元年7月
尾州仲買人
「御城下井在中共
85勝森獅蹴}大木・計74(87%)
?Z焼物仲買連印
城下
?v
(13%)
小売株 11
濫翻1在中139 同 休株
1)・4(…%)大樹 36(26%)22(61.1%)
(74%)
小売株 103
うち休株54
合計224 うち大株110
実数
゙灘}・7・
308
美濃 大株60
元治元年
同上
仲買人中株34138
小株44
頂点とするなら、彼らは
その次に位置していた領
あり、文政十一年には尾
内大株所持仲買商人層で
と引替えに瀬戸物仲買鑑
張藩瀬戸物会所から運上
︵47︶
のなかで、他所積、大坂
札を交付されている。そ
ど力のあった仲買商人層
西国積、または江戸積な
の実力者が、衰退傾向に
からも﹁新蔵元﹂として
あった蔵元層を補う意味
る。
任命されたものとみられ
の衰退傾向は、単に従来
以上に述べた尾州商人
のものではなく、彼らを
からの﹁旧﹂蔵元層だけ
追い上げ、脅かしていた
人層にも共通なものだっ
尾州領内仲買鑑札大札商
26
たのである。そのことは、︿表6>のなかにも﹁休株﹂の多さとして、明らかに示されているいる。
る︵︿表9>参照︶。
そしてこのような尾州商人の衰退は、また美濃焼物の在地での流通からの尾州商人の離脱をも、もたらしたのであ
最後に、西浦出店の藩仕組における意義について考えて、この章を終わる。
それは、中央市場進出が不可能であった仕組中枢の名古屋蔵元商人に代わって、特産品の産地である領国と、中央
市場とを直接的に結びつけたことにある。
西浦江戸店.大坂店の取扱営業品目は、自己の生産地独占集荷品である美濃焼物だけでなく、瀬戸焼物も重要商品
であって、特に江戸店は瀬戸焼物の江戸市場持込みの大きなパイプとなった。その結果、藩専売機構が補強され、中
央市場での藩独占売捌が確固たるものになり、より、安定したとみられるのである。
四 専売制の再編成
にし、尾張藩陶器専売制度の強化・再編過程とその要因を考え、本稿を総括する。
以上、﹁章から三章まで、尾張藩陶器専売制度の概要と、取締役西浦円治の集荷独占による経営拡張および中央市
場進出経過を具体的に明らかにした。四章では、領主権力と在方商人西浦円治との共生形態、相互依存関係を明らか
︵1︶ 共生による再編過程
態と再編過程をみていく。
円治と領主権力︵尾張藩.美濃郡代︶との共生関係の展開を図示すると、︿図5>になる。各段階ごとに、その形
①天保六年 美濃焼物取締役
天領美濃の多治見村に経営基盤をもつ西浦円治は、領主的商品流通機構11尾張藩専売仕組の取締役に就任し、その
特権を背景に農民的商品生産の成果を自己の経営拡大に転化することができた。
②天保一二年勘定所立入り
27
円治の尾張藩勘定所立入り任命
は、藩庁との結びつきを緊密化す
ることになった。それまでは、美
濃焼物取締役円治は、尾張藩とは
に位置していたからである。
名古屋蔵元を通した間接的な関係
③弘化三、四年 大坂店・
江戸店開店
﹁取締役﹂の特権によって結実し
中央市場出店の直接的起因は、
た在方商人の経営進展であった。
しかし、出店は尾州仕組に先導、
制約されており、間接的起因はや
はり尾張藩陶器専売制度であっ
た。﹁焼物﹂は中央市場における
集荷販売独占において、藩専売制
が有効に機能していた業種とみら
商人 特権在方商人
特権在方商人
︵江戸・大坂︶↑︵十組瀬戸物問屋︶
在方商人⋮特権在方商人ー中央都市⋮特権中央都市商人
幕府公許
十組問屋
そこに藩専売制と共生関係にある在方商人が自ら中央都市商人として進出する好機が存在していたので
れ、相対的に中央都市商業資本が
28
嘉永2年
西浦進出の形態は中央市場における尾張藩陶器仕組の﹁構成員、つまり﹁売捌人﹂としてであった。これに
弱かった。
ある。
また、
⊥…
は
在
地
で
の
﹁美濃焼物取締役﹂と、中央市場での﹁御国産陶器売捌人﹂と、陶器仕組内で二つの地位
より、西 浦 円治
図5西浦円治の領主権力との共生関係
安政6年
一→御用金下
改役
安政4年
(開 港)
←一 ??Z焼物
西国販売
独占 美濃郡代
弘化3年
弘化4年
←一 ?]戸・大坂
売捌人
嘉永4年
僑仲盟)
一美濃郡代
苗字帯刀
天保6年
←一 ??Z焼物
取締役
天保12年
(株仲間解散)
一一 ィ勘定所
立入り
(幕府)
(美濃郡代)
(尾張藩)
(西浦円治)
を兼務するようになる。
④安政四年 美濃焼物の京坂・西国販売独占
国への美濃焼物の販売を独占した。これは京坂市場において、販路縮小を余儀なくされていた名古屋城下町特権商人
大坂市場での藩専売仕組構成員、西浦大坂店は安政四年以降、衰退傾向にあった名古屋商人に代わって、京坂・西
と、一方、経営を進展させつつあった在方特権商人西浦円治と、両者の勢力交代を顕著に示す事象であった。
大坂店の美濃焼物販売独占は、単に中央都市商人としての西浦大坂店の営業活動ではなく、生産地美濃での﹁取締
役﹂と京坂市場での﹁売捌人﹂との、円治の仕組内での二つの地位を直結させた経営展開であった。
大坂店・江戸店の開店は、尾張藩陶器専売制に先導、制約されての進出であったが、その出店と中央都市商人とし
ての活動は、生産地と中央市場とを直結させ、藩仕組の集荷販売独占を補強する役割を果たした。と同時に、出店に
よって円治は尾張藩との共生関係を一層深めたのである。
あけられる。嘉永二年、二代円治は美濃郡代柴田善之丞より苗字帯刀を許され、また万延元年には、三代円治は御台
円治と領主権力との共生関係については、以上の尾張藩とのほかに、美濃幕領の統治者、美濃郡代との結びつきが
場備金に千両を上納して孫まで苗字御免、其の身一代帯刀御免になっている。そして江戸店は、安政六年、美濃郡代
︵48︶
岩田鍬三郎より御用金銀下改掛屋に任命されている。
美濃郡代は美濃焼物取締に関して、尾張藩に追随する形で統制力を行使していたが、円治への特権賦与は、主に上
納金を背景としたものであったとみられる。
売独占、と重層的に発展し、その結果、領主的商品流通機構11尾張藩陶器専売制度は強化・再編された。そして、こ
円治と領主権力尾張藩との相互依存関係は、①取締役、②勘定所立入り、④江戸・大坂店開店、③京坂・西国の販
の共生は村落支配者で上層農民出身の在方商人西浦円治の経営を飛躍的に進展させるのに有効に機能したのである。
︵2︶ 強化・再編の要因
なものであった。しかし、本稿の事例の場合、対抗する城下町商人︵名古屋︶と、在方商人︵美濃︶とが、同一領内
村落支配者および在方商人の藩専売制への進出、藩権力との共生は、幕末期の専売制の再編・強化策として一般的
29
いと思うのである。
ではなく、噌方は自領︵城下名古屋︶であり、他方は他領︵隣接する幕領多治見村︶と、出身が異なる点に注目した
本稿の場合、城下町商人ー在方商人は単に居住地区分からストレートに図式化される﹁城下町商人﹂﹁在方商人﹂
の商人類型には当てはまらない。つまり、同一領内で、城下町商人に対抗して拾頭してくる在方商人、そして、その
新興在方商人によって在下町商人が衰退するという農民的商品流通進展の図式とは異質なのである。
も、城下町商人に相対する意味での﹁在方商人﹂の範疇に入らない部分があり、彼らにとっては中央都市商人のよう
それは、東濃窯業地域五ケ村が幕領であることから、幕領11非領国地域での在方商人は、居住地が在方であって
な自由で、広範な活動の展開が可能であったということなのであろうか。
︵49︶
﹁自領・城下町商人﹂と﹁他領・在方商人﹂との変則的な人的構成によって運営されていた尾張藩陶器専売制度は、
制再編の要因は、﹁他領﹂“﹁幕領﹂11﹁非領国地域﹂に経営基盤をもつ在方商人の仕組への参加、に求めることができ
幕末期にこのうちの﹁他領・在方商人﹂11西浦円治との連携を深化し、専売制度を再編・強化した。それゆえ、専売
るのではないだろうか。
そして、尾張藩陶器専売制度の再編・強化が﹁他領・在方商人﹂との共生によったことと、専売制の究極の目的が
為替送金による正貨獲得にあったこととが、﹁自領・城下町商人﹂を任命した﹁蔵元制度﹂を最後まで存続させたの
である。
名古屋蔵元商人は藩財政と密着するがゆえに、領主経済の困窮と土ハに衰退する傾向を示しながらも、藩勘定所経由
の国産売捌代金の仕切決済業務を引き継ぎ担当していたのである。 ’
お わ り に
本稿の主題は、傑出した在方商人の領主権力との結合による経営進展と、領主的商品流通機構の再編・強化にあっ
た。西浦円治は村政に結びつく、上層農民出身であり、既に村内では”特権商人”であった。それゆえ、彼の経営進
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した在方商人の個人的経営の進展であったといえよう。
展は、農民的商品生産を代表するというよりは、特権によって農民的商品生産の成果を自己の経営に転化し得た傑出
なぜならば、これに対して、美濃在地総体として、中農以下の階層出身の仲買人が広範に拾頭していたからであ
る。嘉永期以降、美濃仲買人仲間は結成し展開するが、その背景には農民的商品生産物11美濃焼物の生産拡充が指摘
でき、彼らこそが農民的商品生産の代表者であった。
また、美濃仲買商人は、相対的に衰退していく傾向にあった城下町商人U尾州商人に、代って美濃在方・近国の流
通鎧い手となり、在地.近国市場を把握して、”局地市場圏〃ともりつべき、新しい流通圏を形成する動向を示し
ていた。西浦多治見本店の在地・近国向け営業活動も、この動きの一端といえよう。
また、もう一つの幕末期の流通構造の変化として、遠隔地市場の拡大がある。西浦江戸店・大坂店は、中央都市商
人であると同時に、多治見本店の代理の役割をも担っていた。それゆえ、江戸店・大坂店の担当地域への販売は、中
央都市商人を経由しない、地方荷主の遠隔地直接売込み、とみることができる。ゆえに、これは遠隔地市場の拡大で
あり、また旧来の都市問屋の枠をのり越えた活動状況であった。
西浦円治の﹁連の経営活動は、領主的流通機構ロ尾張藩専売制度を再編・強化したものとはいえ、このような現象
をあわせると、幕藩制的市場構造の解体から、国内市場成立への方向の中に、位置づけられるものであろう。
注
︵1︶ 陶磁器の日常的な使用の浸透性は、近世各地の村々の﹁農間渡世書上﹂の中に、﹁荒物商﹂﹁瀬戸物商﹂として記載されて
いることからも、充分に確認できる。
︵2︶ 肥前陶磁器は、長崎出島からオランダ東印度会社︵VOC︶によって海外へ輸出された。これに関しては、西田宏子氏ほ
かの一連の美術史的研究がある。
︵3︶ 近世の陶磁器に関する研究は、全般的に美術史の分野での研究が先行していて、社会経済史的側面から取り上げた研究は
立ち遅れているといえる。肥前陶磁器︵有田焼︶の流通に関する研究には、池田史郎氏の﹃有田皿山代官旧記﹄他一連の研
究、﹃伊万里市史本編﹄﹃同書続編﹄をはじめとする前山博氏の一連の研究、中元美智子﹁佐賀藩における陶磁器専売﹂︵﹃九
州史学﹄四一号︶、拙稿﹁近世における肥前陶磁器の流通−佐賀藩専売仕法についてー﹂︵昭和㎝ω年度明治大学提出卒業論
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︵4︶ ﹃瀬戸市史﹄陶磁史編三、一〇四頁∼一〇七頁
文︶などがある。瀬戸焼・美濃焼の流通に関する特にまとまった研究はないようである。
︵5︶ 堀江保蔵﹁国産奨励と国産専売﹂一〇三頁∼一〇四頁、一二九頁∼一三〇頁、吉永昭﹁近世の専売制度﹂一二頁∼一四頁
︵7︶ 林董一﹁尾張藩御用達制度の成立﹂︵﹃同朋学報﹄14・15号︶
︵6︶ ﹃愛知県史﹄二巻、二九六頁、所三男﹁藩政改革と明治維新︵尾張藩︶﹂︵﹃社会経済史学﹄22巻5.6号︶
︵8︶ 所三男前掲論文
︵9︶ 日置弥三郎﹁近世における岐阜縮緬の︸考察﹂︵﹃岐阜史学﹄一一号︶
︵10︶ 川浦康次﹁天保後期における尾西綿織物業と他領商人﹂︵﹃徳川林政史研究所紀要﹄昭和念年度︶森原章﹁幕末尾張藩に
おける木綿生産と木綿統制﹂︵﹃愛知学大研究報告﹄ 一九五六︶
︵12︶ ﹃瀬戸市史﹄陶磁史篇三、一=二頁
︵11︶前掲注︵7︶
︵14︶ 前掲注︵12︶
︵13> 安藤精一﹁近世名古屋水口屋の商業﹂︵﹃経済理論﹄63号︶
︵15︶ 同右
︵16︶ ﹃愛知県史﹄二巻三〇六頁
︵17︶ ﹃大日本近世史料﹄市中取締之部第五九件
︵19︶ ﹁安政二年一〇月大地震二付宥免願書﹂︵﹃多治見市史・窯業史料編﹄Z。﹂。。ω︶
︵18︶ ﹃諸問屋名前帳﹄︵国会図書館旧幕引継書四集︶
︵20︶ ﹃多治見市史・通史編﹄一一四八頁
︵21︶ その背景には、御用達商人の中から任命されていた蔵元の経営悪化が考えられる。その一人、水口屋伝兵衛は、化政期に
︵22︶ ﹁文政一一年三月尾州御蔵瀬戸物仲買鑑札預り一札﹂︵﹃多・窯﹄Zρ日ω︶
家運が傾き、弘化三年には商業経営を廃止している。︵前掲注13︶
︵24︶ 同右、一一ニニ頁
︵23︶ ﹃多・通﹄一一一八頁
︵26︶ 同右
︵25︶ ﹁天保三年五月水揚会所設立方同意調印一札﹂︵﹃多・窯﹄Zρお︶
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︵27︶ ﹁天保四年三月水揚会所不同意之旨掛合書﹂︵﹃多・窯﹄Zo°辰︶
︵28︶ ﹁天保四年四月拝借金証文﹂︵﹃多・窯﹄署。.HO一︶
︵29︶ ﹁天保六年三月美濃焼物取締規定﹂︵﹃多・窯﹄乞。°H。。︶
︵30︶ ﹁嘉永二年加藤五郎兵衛一代日記﹂︵﹃多・窯﹄Zρ卜⊃O①︶
︵31︶ ﹁天保一二年二月円治勘定所立入申付状﹂︵﹃多・窯﹄Zρ卜⊃H︶
︵32︶ ﹃多・通﹄=一三三頁
︵33︶ ﹃名古屋市史・産業編﹄四九頁
︵34︶ ﹃多・通﹄一二九六頁∼一二九九頁
︵36︶ ﹁自天保一二年六月至弘化二年四月吉島屋市兵衛拝借金返上納一件﹂︵﹃多・窯﹄2ρ一。。㎝︶
︵35︶ ﹁天保一四年正月山元取締解之儀届書﹂︵﹃多・窯﹄宕ρ卜⊃G。﹀
︵37︶ ﹁弘化四年二月五郎兵衛御国産陶器売捌人加入請書﹂︵﹃多・窯﹄2。﹂認︶
︵39︶ 岩崎宏之﹁明治維新期の東京における商人資本の動向﹂︵﹃江戸町人の研究﹄一巻五九六頁︶
︵38︶ ﹁安政五年一一月西村屋勘兵衛再興一件﹂﹁安政六年二月今利屋嘉兵衛再興一件﹂︵﹃多・窯﹄Z。﹂ωG。憎Hc。昏︶
︵40︶ 松本四郎﹁近世後期の大伝馬町木綿問屋仲間﹂︵﹃江戸商業と伊勢店﹄六章三七〇頁、林玲子﹁江戸問屋仲間の研究﹄二五
二頁
︵42︶ 拙稿﹁美濃窯業と中央市場−多治見村西浦家の経営からー﹂第四章第一節︵昭和α①年度明治大学提出修士論文︶
︵41︶ 中井信彦﹃幕藩社会と商品流通﹄二三一頁∼二三三頁
︵43︶ ﹁弘化二年三月為替金立替払約定一札﹂︵﹃多・窯﹄Zρ旨㊤︶
︵45︶ 同右
︵44︶ ﹁安政四年一〇月西国筋荷物、大坂売捌人扱方願書﹂︵﹃多・窯﹄Z。°一週︶
︵46︶ ﹃愛知県史﹄二巻三一八頁
︵48︶ ﹁安政六年=一月御用金銀下改掛屋証文﹂︵﹃多・窯﹄乞ρ卜。逡︶
︵47︶ ﹁文政=年三月尾州御蔵瀬戸物仲買鑑札預り一札﹂︵﹃多・窯﹄乞。°ドH切︶
︵49︶ 安岡重明﹃日本封建経済政策史論﹄藤田貞一郎﹁商家の資本蓄積﹂︵﹃江戸時代の企業者活動・日本経営史講座ー﹄︶
︵50︶ 拙稿﹁美濃窯業と中央市場−多治見村西浦家の経営からー﹂第二章第五節
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付記
本稿は、明治大学に提出した筆者の修士論文︵昭和器年度︶の一部に加筆・修正を加えたものです。
本稿作成にあたり、機会を与えてくださった本学史学研究室の諸先生ならびに御指導いただいた木村礎先生に深く感謝致しま
す。
また、史料閲覧でお世話になった多治見市史編さん室の皆様に厚く御礼申し上げます。
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