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中央銀行を統治したのは誰か くー870~ー980年) ー

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中央銀行を統治したのは誰か くー870~ー980年) ー
中央銀行を繊治したのは誰か
(1870−1980年)
1)
フランス中央銀行史研究の現場から
軸
上
康
男
中央銀行が広義の資本主義国家機構のなかに
銀行から出発した中央銀行の多くが,国有化さ
占める位置関係については,常にある種の曖昧
れて以後も株式会社という創設当初の設置形態
さ,わかりにくさがつきまとっている.すでに
を維持しており,国庫に配当金を納入している
1806年の時点で,皇帝ナポレオン・ボナパル
という事実である4).
トは自ら創設に関与したフランス銀行について
中央銀行につきまとう曖昧さは,それが歴史
こう言明している 「余はフランス銀行が十
のなかで獲得するにいたったいくつかの役割な
分に政府の掌中にあることを,とはいえ過度に
いしは機能に由来していると考えられる.まず,
そうならないことを欲する…」と2).
中央銀行はその出発点において銀行券の発行独
1974年から79年までフランス銀行の次席副
占権を国家から付与された.そのことから,中
総裁をつとめたテロン(Marcel Th6ron)は,
央銀行には国民通貨の安定を保障するという責
1990年にフランス財務省経済財政史委員会の
任が生じた.次いで19世紀末になると,銀行
オラルコア カイヴズ
求めに応じて音声記録を残しているが,彼はそ
システムの発展を背景にして,銀行資産の流動
のなかで,ナポレオンの言葉は依然としてフラ
化を通じて銀行システムの流動性を保障すると
ンス銀行に関して生きていると証言している3).
いう新しい任務 いわゆる「銀行家たちの銀
おそらく同様のことは,フランスの中央銀行に
行」・「:最後の貸し手」機能,ないしは近年の
かぎらず,世界の中央銀行の多く一ただし,
用語でいう「金融システムの安定維持」機能
本稿の最後で触れるような事情から,連邦制を
が加わる.さらに1920・30年代には,金
採用している諸国の中央銀行はひとまず除く
についてもいえるであろう.こうした曖昧
本位制の修正,次いで停止と軌を一にして,一
さを物語る象徴的な事実がある.それは,私立
国の経済に必要な通貨の総量,すなわち「マネ
ー・
Tプライ」を適正に維持することが任務に
加わる.
それゆえ中央銀行は,成立の当初から一貫し
1)本稿は2004年1月17日,筆者がフランス中
て公的な性格を有する機関であった.このこと
央銀行パリ本店内のセミナー(座長,パリ第8大学
教授マルゲラーズMichel Margairaz)において行っ
は,国家 具体的には,その代理人である政
た報告「フランスの中央銀行を統治するのは誰か
府 の側からすれば,国家には,中央銀行に
(1870−1980年)」(Qui gouveme la banque centrale
たいして自らの希望や要求を国民の名において
廿angaiseP 1870−1980)の原稿を,日本の読者向け
に書き直したものである。
受け入れさせる権利があることを意味する.と
2)D6clarations de Napo160n Bonaparte, faites le
27mars l806, au Conseil d’Etat, cit. par Gabriel
ころが国家は常に資金の借手として歴史の舞台
に立ち現れるために,中央銀行にたいする国家
Ramon, H耐。〃ε4θ」αBα%(1%ε4θF劣α%oε4㌃ゆγ2s Zθs
soz覇。θ∫07忽勿σ1θs, Paris,1929, p.77.
3)Comit6 pour 1’histoire 6collomique et
financiさre de la France(abr6肌CHEFF), archives
4)Jean−Pierre Patat, L6∫6α%9%θs oθ%伽α1θ∫, Paris,
orales:Marcel Th6ron, cassette n。12.
1972,p.67−69.
『エコノミア』第55巻第1号(2004年5月),17−32頁[E60ηo〃磁Vol.55 No.1(MAY 2004), pp.17−32]
■8
の要求のなかには国民通貨の信認を損なう要素
が潜んでいる.中央銀行の国家からの「独立」
が常にいわれるのはこのためであり,またそれ
にもかかわらず中央銀行と国家の関係が常に微
によるものである.1870年は筆者がフランス
銀行の内部文書を組織的にさかのぼることので
きたもっとも古い年にあたり,1980年は筆者
が同行の内部文書の閲覧を許されたもっとも新
である.
しい年にあたる.以下,この期間を1870−
1935年,1936−70年,1971−80年の3つの時
しかし以上のことは,あくまでも中央銀行を
期に分けて検討を進めることにしよう.
妙で,ときに緊張にいうどられるのもこのため
めぐる一般的な問題にたいする一般的な回答に
すぎない.歴史研究者が中央銀行の内部文書を
一般評議会による統治(1870−1935年)
探索する過程で遭遇する中央銀行の個別の政策
第1期はフランスで金本位制が採用されてい
意思,それを創り出す中央銀行の機構や組織の
た時代にあたる.フランス銀行に即していえば,
ありよう,それに中央銀行をとりまく外部的諸
それは同行が私的株式会社であった時代に対応
条件はきわめて複雑である.本稿は,フランス
している.
の中央銀行を例にとり,中央銀行を歴史的な文
この時期においては,フランス銀行の総裁と
脈のなかで理解するにうえで有益と思われる若
干の史実と論点を示そうとするものである.な
2人の副総裁の権限は一般に考えられるよりも
はるかに限定されていた.法的な側面からいえ
かでもとくに,フランス銀行の専門管理者であ
ば,同行の定款 すなわち1808年法に:規定
る総裁および副総裁は必ずしも同行の真の統治
された「基本定款」(statuts fondamentaux)の名
者であったとはいえず,真の統治者は時代や関
称をもつ定款 は総裁・副総裁に特別な権限
係する領域によって異なっていたという点に光
を付与していなかった.彼らが行使できたのは
をあてることを意図している.
一般評議会(理事会)の一構成員としての権限
フランス銀行の総裁・副総裁の統治領域につ
にすぎなかった.実際,総裁は単独でフランス
いては,前出の元次席副総裁テロンが「国内信
銀行を代表することができなかった.同行が政
用」(cr6dit int6rieur),「対外信用」(cr6dit
府と協定を結ぶ際に署名をするのは総裁ではな
ext6rieur),「一般管理」administration g6n6rale)
く,一般評議会の構成員全員であった.すなわ
の3つをあげている9.テロン自身は,フラン
ち,株主総会によって選任された「執政」
ス銀行におけるこの区分は同行の1973年定款
(r6gents)と呼ばれる理事(15人),監事(3人),
にもとつくものであると断っている.とはいえ,
それに政府選任の総裁および副総裁(3人)の
計21人であった6).一方,フランス銀行の日常
そうした区分は1973年以前についても有効で
あると考えられる.そこで本稿では,この領域
区分を念頭におきながら議論を進めることにす
的な活動は,一般評議会の内部に設置された常
設の委員会によって管理されていた.割引に提
る.ただし問題の複雑化を避けるために,すべ
示された手形の審査については「割引委員会」
ての時期について,3つの領域を均等に扱うこ
とはせず,時期ごとに特徴的な事実を取り上げ
(Comit6 d’Escompt),銀行券の製造,発行およ
るにとどめる.
本稿では1870−1980年の約110年間を考察
の対象にするが,それはもっぱら技術的な理由
6)こうした状況はフランス銀行が1946年1月
に国有化されるまでつづいた.それは1946年4月4
日,評定員のドゥロワ(Henri Deroy)が一般評議
会で,フランス銀行が今後国家と協約を結ぶ際に
は一般評議会ではなく総裁が署名することになる
のか,と質していることからも明らかである.
5)CHEFF, archives orales:Marcel Th6ron,
Archives de la Banque de France, Procさs−verbaux du
cassette n。14.
Conseil g6n6ra1(σ加吻. PVCG),4avri11946.
■9
び廃棄については「銀行券委員会」(Comit6 des
安定だっただけでなく,特権更新と引換えに政
Billets),帳簿類および保有手形類の検査につい
府および議会から過大ともいえる各種の要求
ては「帳簿・ポートフォリオ委員会」(Comit6
(多数の支店・出張所および附属都市の増設,
des Livres et Portefeuilles),資金の出納について
国庫への納付金支払いなど)がフランス銀行に
は「現金出納委員会」(Comit6 des Caisses),担
突きつけられたからである8).特権更新法が
保証券の検査については「証券検査委員会」
1897年12月17日に議会を通過するまでに10を
(Comit6 de V6ri且cation des Titres),また支店業
務については「支店委員会」(Comit6 des
超える内閣が交代し,法案も1891年と1896年
の2度作成されている.このいずれの法案作成
Succursales)に7),それぞれ管理が委ねられて
過程においても,一定の段階で,ロートシルト
いた.これらの委員会には執政たちが交替で加
(Alphonse Rothschild)が幹事役をつとめる証
わり,銀行の幹部職員とともに業務の管理と運
券・ポートフォリオ委員会のメンバーが「一般
営にあたっていた.つまり,一般評議会の構成
評議会代表」の資格で財務大臣と直接折衝を行
員が銀行の個別の管理業務に直接的なかたちで
っている9).
責任を負っていたのである.
周知のように,執政たちの大多数は「高級銀
特権の更新という,フランス銀行の設置形態
行」(haute banque)と通称されるパリの個人銀
にかかわる最重要問題についても同様であっ
行家たちであり,彼らは政界と強いつながりを
た.たとえば,1857年の特;権更新にあたって
もっていた.フランスの世論は,個人銀行家た
は,この問題を専門的に担当する特別委員会が
ちの金融力や政治的影響力がフランス銀行内に
一般評議会内に設置された.また1897年の特
おける彼らの地位や権限に由来していると理解
権更新に際しては,常設の証券・ポートフォリ
し,また,言論人たちはそうした世論を背景に,
オ委員会がこの問題に取り組んでいる.いうま
何度となくフランス銀行とその指導者たちを激
でもなく特権更新をめぐっては,総裁自身も財
しく攻撃した.なかでも左翼カルテル政府が瓦
務省の資金局長(国庫局長の前身),それに財
務大臣や国民議会の関係議員と接触し協議を行
解した直後(1926年)や人民戦線政権が成立
する前夜(1936年)に,政治絡みの激しい反
っている.しかし総裁の役割は,あくまでも一
フランス銀行キャンペーン すなわち,反
般評議会の意向にそった連絡と調整の域を出る
「金力の壁」(mur d’argent),反「金融封建制」
ものではなかった.当局との間で協議が進み,
(f60dalisme financier)キャンペーンーが繰り
問題点や対立点がはっきりした段階では,必ず
広げられたことはよく知られている.このよう
一般評議会が交渉の前面に登場している.1897
なフランス史を彩る決定的な場面は,執政たち
年の特権更新を例にとろう.1891年から始ま
がフランス銀行の管理と運営に責任を負う委員
づた政府との交渉は著しく難航した.政局が不
会制度と深くかかわっていたのである10).
後述するように1936年7月24日以降になる
と,新しいフランス銀行法のもとで,個人銀行
7)ここにあげた6つの委員会は1936年時点で
機能していた委員会である(PVCG,18 aoat l936).
委員会の数や名称は歴史の経過のなかで異動があ
った模様である.1808年の基本定款には,割引委
員会,銀行券委員会,帳簿・ポートフォリオ委員
会,現金出納委員会の4つの委員会と,国庫および
徴税請負人とフランス銀行との関係を監督する
「対国庫・徴税請負人関係委員会」(Comit6 des
8)この点については,洋上康男「フランス銀
行と『信用の地方分権化』(1880−1914年)」『エコ
ノミア』第51巻第4号,2001年2月,11−13頁,
を参照.
9)PVCG,18 avril 1889;Procさs−verbaux du
relations avec le Tr6sor et les Receveurs g6n6raux)
Comit6 des Livres et Portefeuilles(α∂76肌PVCLP),
の計5つの委員会の構成や任務が規定されている.
27juillet l 896.
家たちが一般評議会から排除され,同評議会に
議会で了承されたあと,11月9日付で財務大臣
おける株主代表は少数に転じる.しかしこの法
に送付された.しかし,国有化されたにもかか
律のもとでも,委員会制度に変更はなかった.
わらず定款の改正が見送られたことから,この
1936年8月18日,再発足して問もない一般評議
会は,支店委員会と証券検査委員会を統廃合し
協約案が日の目をみることはなかった13).
て「管理委員会」(Comit6 de Contr61e)を創設
は,特権更新のような問題においてすら総裁が
したものの,それ以外の委員会については単純
主導的な役割を果たさなかったのはなぜか,と
に存続させることを決めている11).ただし委員
いう疑問である.その答えは簡単である.フラ
会の実質的機能は,実務に通暁した個人銀行家
ンス銀行が100パーセント民間の株式銀行であ
たちが排除されたこともあって,簡素化され,
ったからである.つまり,同行の将来にかかわ
多分に形式的・手続き的なものへと変化した模
る問題に責任を負えるのは株主から直接選出さ
様である12).
れた執政であり,かたちばかりの株式を所有す
古い委員会制度の最後の名残りは,フランス
る国家選任の総裁・副総裁14)ではない,との認
銀行が国有化される前夜の1945年に確認でき
る.国有化がほぼ確定した同年10月,一般評
識が一般評議会を支配していたからである.
1896年7月27日の帳簿・ポートフォリオ委員会
議会はその内部に,「特権更新委員会」
の会合で,ロートシルトは,進捗状況が思わし
(Commission du renouvellement du privilさge)と
くないフランス銀行特権更新交渉を前進せるた
いう名称の5人前評定員からなる特別委員会を
めの方策について,次のように発言している.
設置し,国有化後に国家との間に結ぶべき特権
銀行券流通残高が40億フランもあるこ
とですので,一般評議会はいつまでも待ち
つづけることなく,法律が通らなければ一
般評議会はフランス銀行の清算にとりかか
更新協約案(新定款案)の作成を付託した.委
員会が作成した協約案は同年11月8日の一般評
ところで,ここで2つの疑問が生じる.一つ
らざるを得なくなる,ということを公衆に
10)1928年から翌29年にかけてフランス銀行の
次席副総裁を務めた経済学者リストは,後年,日
記に1944年3月17日の日付で,彼の副総裁時代に
わからせるべきでしょう.もはや割引以外
に大きな利益を期待できなくなっている当
首相のポワンカレが日常的にロートシルト
行にたいして,政府は法外な犠牲を求める
(Edouard Rothschild)に相談していたと記してい
る.そして,「こうしたことを自分たちはやめさせ
べきではありません.仮に人が当行に重い
た」とつづけている(Charles Rist,σπθsαお。%
負担を課し,当行に法外な犠牲を払わせた
9∂’6θ.知%7%α14θ」α9%θ77θθ’4θ1りoo勿観。%θ939・
いというのであれば,一般評議会は株主
1948♪,Paris,1983, p.395.).しかし,彼の副総裁時
代に状況が変わったというのは疑わしい.という
のは,一般評議会がフランス銀行の管理・運営に
直接責任を負うという体制に変化がなかったから
である.実際,ロートシルトとならぶフランス銀
行の有力な執政ドゥ・ヴァンデルを主題に据えた
ジャンヌネーの浩潮な国家博士論文(Jean−Noel
Jeanneney, F7α%fO∫s 4θ ア「θ%461θ%1∼6ρz4∂」ゴ(1z4θ.
一私はその代表でありますが の信託
に応えるために特権を放棄せざるを得ない
でしょう.特権は一般評議会が責任を負っ
ている〔株主の〕利益を損なう恐れがある
からです.15)(傍点は引用者)
ロートシルトは自らを株主代表と位置づけ,
L初㎎召1z’θ〃θρo%z/o勿∼1914−1940, Paris,1976.) には,
1930年代に入っても状況にほとんど変化のなかっ
たことをうかがわせる情報が散見される.
11)PVCG,18 ao{it 1936.
13)以上については,権上,前掲書,301−04頁,
12)たとえば,手形の審査は,すべての手形を
対象とする審査から,抜取り審査に改められた.
参照.
野上康男『フランス資本主義と中央銀行』(東京大
学出版会,1999年,173−74頁)参照.
14)1808年の基本定款第28条は,総裁にフラン
ス銀行株式の所有を義務づけていた.
15) PVCLP,27 juillet 1886.
特権放i棄の可能性(とそれから不可避的に生じ
ともあれ以上より,この第一期については,
る国民通貨の混乱)に言及することによって政
次のように結論づけることができよう.フラン
府と世論に圧力をかけ,局面の打開を図るべき
ス銀行の統治機構は,法制面からみても実際面
だ主張していたのである16).いうまでもなく,
からみても,一般評議会と一致していた.戦争
このような交渉手法が似つかわしいのは株主か
や恐慌という例外的な時期を除けば,同行の中
ら選出された一般評議会の構成員たちであり,
心的な行為者はこの評議会の主要な構成員,す
官選の専門管理者ではなかった.
なわち株主を代表する執政たちであった.
第二の疑問は,執政たちはどのような原則に
ll.財務省による支配(1936−70年)
もとづいて政府や議会との交渉に臨んだのか,
である.この問いにたいする答えも疑問の余地
人民戦線政権のもとで成立した1936年7月24
がない.それは国家にたいするフランス銀行の
日の法律によって,一般評議会から銀行家が排
「独立性」(ind6pendance)ないしは「自律性」
除され,代りに,国家代表としての現職官僚と
(autonomie)の確保である.これらの用語はす
各省の推薦をうけた職業団体の代表が多数参加
でに19世紀末のフランスにも存在した.ただ
した.この結果,一般評議会における株主代表
しその意味するところは今日と大きく異なって
いる.一般評議会では当時,ロートシルトやオ
は一挙に少数(26人中の3人,しかも役職は監
事)に転じた.いわゆるフランス銀行の「事実
ッタンゲル(Rodolphe Hottinguer)などの有力
上の」国有化である.再編後の一般評議会の構
な執政たちによって次のような議論が行われて
成員は26人一その内訳は「執政」から「評
いた.フランス銀行にとって決定的に重要なこ
定員」(conseillers)へと名称が変更された理事
とは営業勘定の均衡維持である.この均衡が損
20人,監事3人,総裁・副総裁3人 に増え,
なわれればフランス銀行の信認が,したがって
しかもその多くは金融の素人であった.このた
また国民通貨の信認が失われる.それゆえ,フ
め,一般評議会の内部には,民間企業の経営委
ランス銀行の経費を膨張させてその経営を圧迫
員会にも似た「常任委員会」(Comit6 Permanent)
しかねない要求は何であれ排除されるべきであ
が設置された.そして,4人の評定員と総裁・
る.先の帳簿・ポートフォリオ委員会でもロー
副総裁から構成員されるこの常任委員会に,割
トシルトはこう述べている.「〔フランス銀行の〕
引率(基準公定歩合)をはじめとする一般評議
株式相場は何としても維持しなければなりませ
会の主要な決定事項が委譲された.これによっ
ん.というのは,当行の信用を何としても維持
て一般評議会は責任を大幅に軽減され,会合の
しなければならないからであります.株価はこ
の信用に直接影響を及ぼします.仮に株式が下
開催頻度もそれまでの週1回から月1回へと大
幅に減った.かくて一般の評定員は,中央銀行
がれば当行が衰退することは,誰の眼にも明ら
の運営に能動的に参加する存在というよりは,
かなことです.」17)
すでに決定され実施されている事柄の説明をう
ける,控えめで受動的な存在へと後退すること
になった.したがって,総裁・副総裁と一般評
16)特権更新交渉を進めるにあたり,特権の放
棄をほのめかすことによって交渉を有利に進めよ
うとしたのはフランス銀行だけではなかった.植
民地銀行のインドシナ銀行も,1924年から25年に
かけて政府と特権更新交渉を行った際,同様の行
動に出ている.権上康男『フランス帝国主義とア
議会との士関払いかんという狭く限定された問
題の枠組みのなかでみれば,明らかにバランス
は専門管理者である前者優位に傾いたといえ
る.
ジアーインドシナ銀行史研究』(東京大学出版会,
1985年,287−90頁)参照.
1946年1月1日からは,憲法制定国民議会で
成立した1945年12月2日の法律によってフラ
17)PVCLP,27 juillet 1886.
ンス銀行の株式はすべて国家所有となり,一般
22
評議会から株主代表が完全に排除される(フラ
あることを認めるにいたった.しかし総裁は,
ンス銀行の「法律上の」国有化).この結果,
政府との協議を済ませていないことを理由に常
総裁は単独で同行を代表できるようになる.ま
任委員会での割引率の変更を逡巡した.このた
たこれを機会に,先述した委員会制度も,割引
め,総裁と法定評定員の資格で出席していた財
委員会のみを残してすべてが廃止された模様で
務省資金局長のボーンガルトネル(Wilfrid
ある18).一方,1936年に創設された常任委員会
Baumgartner)がその場で協議を行えるよう,
は,新一般評議会の定員が17名と大幅に減員
会議は中断された.2人が別室で協議を終える
されたのにともなって廃止される.そしてその
のをまって会議は再開され,一般評議会は総裁
結果,一般評議会は常任委員会に委譲していた
提案にもとづいて割引率の引上げを決定した
権限を取り戻すことになる.しかしフランス銀
21).この一連の経過は,フランス銀行には財務
行の機構面からみるかぎり,国有化を契機に総
省との事前協議なしに割引率を変更することが
裁・副総裁への権限の集中がさらにいちだんと
できなくなっていたことを,きわめてわかりや
進んだことは疑いようがない.したがって,ま
すいかたちで示している.
ず1936年,次いで1946年と段階を追って,フ
割引率の変更に際してフランス銀行が事前に
ランス銀行の最上級の専門管理者集団 同行
財務省に通知したり,同省と非公式に調整した
の用語でいう「総裁府」19)(gouvernement)
りすることは1936年以前にもあったと考えら
一は自立化傾向を強めたといえる.
とはいえ,この自立化はきわめて限定的なも
れる.しかし,議事録の作成される公式の会合
のでしかなかった.この同じ時期に,フランス
にしたのはフランス銀行の歴史上これが最初で
銀行はもっとも重要な2つの領域で,財務省の
ある.一つは同行の基本的な介入手段である割
ある.もっとも1946年以降であれば,総裁の
言動もある程度は説明がつく.1945年12月2日
法のもとでは,この法律によって創設された国
引率の決定であり,いま一つは同行の基幹的金
民信用評議会(Conseil National du Cr6dit)が
融業務である割引業務の実施である.
「一般的信用政策」(politique g6%勿1θdu cr6dit)
まず割引率からみることにしよう.第2期
を策定し,フランス銀行はその大枠のなかで個
(1936−70年)が開幕して間もない1936年9月
別の政策を遂行することになっていたからであ
24日の常任委員会議事録には,この時期を象
徴する出来事が記録されている.折からフラン
り,また,国民信用評議会の議長を財務大臣,
副議長をフランス銀行総裁がそれぞれ務めるこ
が激しい投機を浴び,金の流出が加速化してい
とになっていたからである22).
た.このときの会合では,数人の評定員が割引
率の引上げを主張し,総裁ラベリー(E士nile
では,すでに1945年以前に,なぜフランス
銀行は割引率の決定権限を喪失していたのであ
Labeyrie)も「何らかのことをする」20)必要の
ろうか.2つの理由が考えられる.一つは,
1936年7月24日の法律によるフランス銀行の事
組織的・構造的介入を許すことになったからで
で,総裁がきわめて率直に財務省への配慮を口
実上の国有化である.すでに繰り返し述べてい
18)筆者が行った史料調査では,割引委員会を
除いて,1946年以降の各種委員会に関係する文書
は発見できなかった.一般評議会議事録にもそれ
らの存続をうかがわせる記述がないことからみて,
割引委員会以外の委員会は廃止された可能性が高
るように,これによって銀行家は一般評議会か
20)Procさs−verbaux du Conseil permanent,24
い.
septembre 1936.
19)総裁府とは,狭義では総裁と2人の副総裁,
広義ではこれら3人に各部局の長たちを加えたフラ
ンス銀行の専門管理職集団の中枢を意味する.
21)以上については,丁子
22)国民信用評議会については,築上,前掲書,
314−21頁,を参照.
23
ら排除され,新たに多数の各界代表が一般評議
る。
会に加わった.そのなかで多数を占めたのは法
ところでこの第2期においても,財務省から
定評定員たち,すなわち財務省資金局長と4人
の準公的金融機関(預金供託金庫,クレディ・
割引率の決定権を取り戻そうとするこころみが
フォンシエ,クレディ・ナショナル,クレデ
府によって総裁に任命されたモニック
ィ・アグリコル全国金庫)の長たちである.元
(Emmanuel Monick)がそうした行動に出てい
フランス銀行総務局長ストロール(Pierre
定評定員は財務省の代表と何ら変わるところが
る。フランス銀行は1938年の年末以降,大戦
期を通じて低金利政策を実施していたが,戦後
にモニックがこの政策を変更しようとしたので
なかった23>.なぜなら,準公的金融機関を主管
ある.すでに1947年の秋から割引率の引上げ
するのは財務省国庫局であり,しかも準公的金
をめぐってフランス銀行と国庫局の関係は緊張
融機関の長は財務省の元高官たちであったから
していた.こうした両者の関係は1948年9月4
である.この証言はフランス銀行の上級管理職
日に決定的な局面を迎える.モニックはこの日,
員のものであるだけに重い意味をもっている.
夏以来高まっているインフレ圧力を殺ぐという
したがって1936年以降,一般評議会における
財務省の重みは圧倒的なものになっており,総
裁がその意向を無視することは事実上不可能に
理由を掲げて,割引率の1ポイント引上げを一
般評議会に提案した.しかしこれには,監事の
なっていたと考えられる.
ク=レネ(Frangois Bloch−Lain6)が強く反発
第二の理由は財政危機の慢性化である.財政
した.ブロック=レネは会議の席上,割引率が
が危機に陥れば国庫は大量の資金を市場で調達
せざるを得なくなる.当然のことながら国庫は
引き上げられれば国庫証券の利率引上げが避け
られなくなり,国家予算に巨額の負担増が生じ
低金利を望み,また中央銀行の適用金利(公定
るとして,自身と財務大臣の名において割引率
歩合)に強い関心をもつことになる.かくて一
の据置きを求めた.しかしモニックは,この要
求を次のように強い調子で撲ねつけた.
Strohol)が残した音声記録によれば,4人の法
般的にいって,財政危機のもとでは,中央銀行
トレゾルリ なかったわけではない.国土解放直後に臨時政
資格で同評議会に出席していた国庫局長ブロッ
総裁は国庫業務(資金繰り)の動向に重大な関
フランス銀行は従来どおり政府との接触
心を払わざるを得ない.ところで,フランスに
をつづけるべきであるとしても,当行には
おける財政危機は1933年以後,不況の深化に
ともなって深刻の度合いを増し,1936年の秋
はまさに危機の極点にあった.総裁ラベリーが
当行固有の務めがある.…金利の操作によ
国庫の意向に神経を尖らせたのには十分野理由
とであるばかりか当行の最低限の任務でも
があったのである.なお,付言しておけば,フ
ある.…この措置は国庫にたいして残念な
ランスはその直後の1936年10月に金本位制を
離脱する.これによりフランス銀行の割引率は
貴金属準備による拘束から開放され,同行が割
結果をもたらすかもしれない.しかしそう
引率を操作し得る余地は大きく広がる.したが
評議会が国庫局長の主張を採るとすれば,
ってこのとき以後,総裁はそれ以前にもまして,
当行の行動はいつも麻痺させられることに
財務省に配慮せざるを得なくなったと考えられ
なるであろう.なぜなら,当行の通貨面で
って通貨〔価値〕を維持し防衛するのは,
当行の本質的な役割のまさしく範囲内のこ
した結果は,いま求められている決定の障
害になるとは思われない.実際,仮に一般
の行動は国庫の都合でしか行えなくなるか
らである.当行の行動の自由が国庫の状態
23)CHEFF, archives orales, Pierre Stroh1,
の良し悪しによって縛られることは受け入
cassette n。14.
れがたい.24)
24
この日の一般評議会はモニックの強い指導力
仲介に入る準公的金融機関も当初のクレディ・
のもとに運営され,割引率は総裁の提案どおり
1ポイント引き上げられた.とはいえ,総裁は
ナショナル,預金供託金庫の2機関から,国家
契約金庫,クレディ・アグリコル全国金庫,フ
強い姿勢を1ヶ月も維持できなかった.クーユ
ランス国立貿易銀行,クレディ・フオンシエへ
(Henri Queille)を首班とする政権が9月ll日に
と拡大された.また手形の期限も最長7年にま
発足し,この新政権が国民信用評議会に「信用
で延長された.
の総量規制」を指示したからである.この新し
中期流動化信用を体現する「中期流動化手形」
い政策とのポリシー・ミックスを図るために,
(efεets a moyen terme mobilisables)の割引につい
フランス銀行は早くも9月30日に割引率の引下
ては,フランス銀行はそれを常に例外的に取り
げを余儀なくされた.一方,財務大臣の強い怒
扱った.この種の手形に優遇歩合を適用しただ
りをかったモニックは,翌1949年1月に総裁職
けではない.それらの割引にあたっては限度枠
を辞してパリバ銀行頭取に転じる25).
を設けず26),また審査も行わず,いわばそれら
モニックのあとを襲ったボーンガルトネルと
を「自動的に」受け入れた.そうした扱いをす
その後任のブリュネ(Jacques Brunet),ヴォル
る理由については,一般評議会で3点が確認さ
ムセル(Olivier Wormser),クラピエ(Bernard
れていた.第一に,手形は戦後フランスの戦略
Clappier)の4人の総裁はいずれも,信用政策を
的部門の資金調達にかかわっている.第二に,
変更する際には必ず財務大臣と事前に協議を行
それを仲介する準公的金融機関は高度の手形審
い,その協議内容を一般評議会に報告している.
査能力をもつ専門金融機関であるから,手形の
後継の総裁たちがモニックの轍を踏むことはな
審査をそれらの機関に委ねても不都合はない.
かったのである.・
第三に,それらの金融機関の長はフランス銀行
第二の割引業務についても,時期は1945年
の一般評議会に法定評定員の資格で参加してお
以降であるが,事情は割引率の場合とほぼ同じ
り,フランス銀行との関係はきわめて親密であ
であった.問題は,戦後復興を支える公共投資
る.したがって,必要に応じて手形の持ち込み
を支i援するために「中期流動化信用」(cr6dit
量を抑制することも容易である27).
mobilisable a moyen terme)と呼ばれる新しい信
しかし,一般評議会の内部でもときおり問題
用形式が大戦中に創設されたことにある.クレ
視されていたように,準公的金融諸機関による
ディ・ナショナルとフランス銀行との共同作業
手形の審査能力は必ずしも十分なものではなか
から生まれたこの信用形式は,準公的金融機関
った.また,手形の持込みを抑制することも,
2行の署名を含む4名の署名が付されている
それが戦略的部門で取り組まれたものだっただ
ただし,後年(1967年),署名数は3名に
けに,実際には容易でなかった.このため,フ
減らされる一ことを条件に,最長5年までの
ランス銀行による中期流動化手形の保有額は肥
期限の手形をフランス銀行が割り引くというも
大の一途をたどる.かくて1958年から1964年
のである.信用の用途は,当初は冶金,電力,
にかけて,元財務省資金局長で新自由主義者と
化学工業の3部門の設備金融に限定されていた
が,次第に中小企業,農業,貿易,住宅建設の
金融へと拡大されていった.それにともなって,
24)PVCG,4septembre l 948.
25)以上については,権上,前掲書,384−88頁,
参照.
26)1945年以後,フランス銀行は手形の割引に
あたって個別の銀行ごとに各種の上限枠を設定し
ていた.高上康男「フランスにおける新自由主義
と信用改革(1961−73年)一『大貨幣市場』創
出への道」『エコノミア』第54巻第2号,2003年11
月,10−13頁,参照.
27)PVCG,22 juin 1950,110ctobre 1951 et 4
f6vrier l954;町上,前掲書,427−28頁,参照.
2∫
して知られるリュエフ(Jacques Rueff)がさま
庫局長のピエール=プロソレット(Claude
ざまな場を利用して厳しく批判したように,中
Pierre=Brossollette)もまた慎重であった.準公
期流動化手形の割引はフランス銀行の資産構成
的金融機関がフランス銀行と一般銀行との仲介
を硬直化させ,同行の政策選択の幅を著しく狭
業務から排除されることになれば,それらの機
めることになった28).ちなみに,1958年末の時
関の営業活動は縮小を余儀なくされ,フランス
点でいえば,同行の資産総額は3分の1が中期
国立貿易銀行と国家契約金庫の2行はただちに
流動化手形で占められていた.また,当時のイ
経営危機に陥るとみられたからである.かくて,
ンフレへの寄与率は,対国庫前貸しが18パー
セントだったのにたいして中期流動化手形の割
ヴォルムセルは提案の撤回を余儀なくされた
30).
引は68パーセントにもたっしていた29).
以上のような,一般評議会で闘わされた3名
フランス銀行が中期流動化信用の改革に取り
署名廃止問題をめぐる議論からは,中期信用業
組もうとしたのは,第3期に入った1973年のこ
務に専門化した準公的金融諸機関とそれらの後
とである.同年4月,総裁ヴォルムセルは一般
見人たる財務省がフランス銀行の政策選択の自
評議会にたいして,手形を割引に受け入れる際
に求めてきた署名数を3名から2名に減らし,
諸銀行が準公的金融機関の仲介なしに中期手形
由をいかに大きく制約していたかがうかがえ
る.割引率と同様,フランス銀行は割引業務の
実施においても財務省の強い影響下にあったの
をフランス銀行に持ち込めるように制度を改め
である.
ることを提案した.総裁の説明によれば,理由
は2つあった.第一に,銀行システムの発展と
銀行集積のおかげで,3名の署名はとうの昔か
ら不要になっている.現時点では,それは古い
lIl.専門管理者(テクノクラート)による統治か
(1971−80年)
第3期は,総裁ヴォルムセルがその在任期間
費,企業にとっては信用経費を,それぞれいた
中(1969−74年)に実施した一連の改革によ
って特徴づけられる.それらの改革には,本稿
の主題と深くかかわる改革が少なくとも3つ含
ずらに膨張させる負の要因になっている.
まれていた.
しかしこの提案には,預金供託金庫総裁ペル
第一は,諸銀行の保有する手形類の流動化,
ーズ(Maurice P6rouse)とクレディ・ナショナ
すなわちフランスの金融用語でいう「再金融」
ル総裁クラピエの2人の法定評定員が強く反発
した.彼らは,こうした措置が戦後フランスの
(re且nancememt)の方式の根本的な変更である.
「形式主義」の名残りでしかない.第二に,過
剰な署名数は,フランス銀行にとっては事務経
フランス銀行は創設の当初から一貫して,手形
制度の廃止と準公的金融諸機関の「ユニバーサ
類の割引を自身の本質的な使命とみなしてき
た.そして銀行システムの流動性の調節(通貨
調節)も,フランス銀行は割引率の操作を通じ
ル銀行化」への道を開くことになるのを恐れた
た割引量の調節(信用調節)によって行ってき
のである.準公的金融機関を主管する財務省国
た.ヴォルムセルは,フランス銀行の介入の場
信用政策を支えてきた「選別」(s616ctivit6)の
放棄につながり,さらには準公的専門金融機関
を割引からインターバンク市場としての「貨幣
市場」(march6 mon6ta廿e)に移すことによって,
28)権上,前掲書,446−50頁;同「フランスに
このような伝統的市場統制方式を根本から変更
おける新自由主義(前掲論文)」5頁.
29)《E16ments pour un programme de r6novation
6conomique et且nanciさre》, doc. repris dalls Jacques
Rueff, Co〃z∂α云sρoz〃」「oア47θノ7〃α〃。ゴθろParis,1972,
30)以上については,権上「フランスにおける
p.157−158;権上,前掲書,447頁.
新自由主義(前掲論文)」29−35頁,を参照.
26
したのである.
替わるはずであった.
それまでフランス銀行の割引率は常に貨幣市
ところで本稿の主題との関連で重要なこと
場介入金利を下回る水準に設定されていた.ヴ
は,フランス銀行が行う貨幣市場への介入には,
ォルムセルはこうした割引率と貨幣市場介入率
それが変動金利による介入であるという純粋に
の位置関係を逆転させ,割引率を常に貨幣市場
技術的な理由から,財務省もフランス銀行の一
介入率を上回る水準に設定するように改め,そ
般評議会も直接的なかたちで関与できなかった
れを1971年1月19日から実施した.この結果,
諸銀行による再金融は基本的に貨幣市場で行わ
という事実である.これは,フランス銀行が
1971年の改革を通じて,通貨政策の本質的な
れるようになり,フランス銀行はこの市場に変
手段を手に入れたことを意味する.あるいはま
動金利で介入することになる.一方,これにと
もなって,旧来の固定的な割引率は実質的な意
た,1936年以来事実上政府の手に移っていた
金利の決定権を別のかたちで取り戻したことを
味を失い,「象徴的」31)なものに転じる.
意味する.
この貨幣市場改革は,前出のリュエフが
改革の第二はフランス銀行の定款改正であ
1960年代初頭に行った新自由主義的な信用改
る.一般には知られていないが,同行の活動を
革提案32)に起源を発している.また,改革実施
長期(165年)にわたって律してきたのは1808
の方法および手順は,マルジョラン,サドラン,
それにボォルムセル自身の3人からなる政府委
年に制定された基本定款であった.たしかに
1936年に人民戦線政権のもとで定款改正が行
員会が1969年4月に提出した「貨幣市場と信用
われているが,このときの改正は銀行の管理に
の諸条件に関する報告」33) 通称「マルジョ
関する部分に事実上限定されており,それ以外
ラン報告」(rapport Ma巾lin) のなかに具体
は旧定款を単純に継承したにすぎなかった34).
的に示されていた.リュエフ提案およびマルジ
ランスの市場を,価格メカニズムによって調整
ヴォルムセルは,この19世紀に起源をもつ定
款を全面的に改正しようとしたのである.改正
定款は,まずその素案がフランス銀行の手で作
成され,次いで国庫局とフランス銀行との長期
にわたる協議を経て修正が施され,最後に財務
される単一の市場に再編成することにあった.
大臣ジスカールデスタンの手で「フランス銀行
また,この改革によって,フランス銀行の政策
に関する法案」(Projet de loi sur la Banque de
の基本はそれまでの「信用政策」(politique du
France)として議会に上程された.法案は1972
cr6dit) すなわち,割引(信用配分)を軸
年の年末に議会を通過したあと,1973年1月3
とする選別的な介入政策一から,イギリス型
日の法律として公布される.
の「通貨政策」(politique mon6taire) すな
わち,銀行システムの流動性の保障を目的とす
このようにして1973年定款が誕生するが,
これによって定款には以下の3つの重要な改正
るグローバルで中立的な介入政策 へと切り
が施された.
ヨラン報告によれば,貨幣市場改革の狙いは,
経済政策の必要に合わせて細かく設定された信
用・金利区分のために著しく分節化しているフ
第一に,新定款では金融業務に関する条項が
抜本的に簡素化され,おかげでフランス銀行の
31)PVCG,8avri11971.
32)この提案については,雪上「フランスにお
行動の幅は著しく拡大した.こうして,先に紹
介したフランス銀行の介入方式の変更も,いわ
ける新自由主義(前掲論文)」3−7頁,を参照.
33)Rαρρoπs%716脚70雇初。%伽〃θ6渉」6s
60〃疏∫oπs4%076疏, La Documentation frangaise,
57p.この報告書については,権上「フランスにおけ
る新自由主義(前掲論文)」19−24頁,を参照.
34)CHEFF, archives orales:Pierre Strohol,
cassette n。14.
27
ば追認されることになった.
般評議会が隔週に開催されるようになってから
第二に,総裁の権限が1808年以来はじめて,
は,同評議会の議事録綴りの頁数は半減し,そ
定款上に「フランス銀行の指揮と管理は総裁に
こに記録される評定員たちの発言も,新聞で報
委ねられる」(第7条)と明文規定された.た
道済みの事柄を総裁に確認するといった類のも
だし厳密にいえば,1946年の国有化以後,総
裁はこうした権限を行使してきており,定款は
すでに定着していた現実を追認したにすぎなか
のが増えている.一般評議会と総裁府との関係
った.さらに補足しておけば,新定款第7条に
の緊密度は明らかに低下したといえよう37).
かくて,ヴォルムセル手になる3つの改革は,
挿入された上記の文言は,かつて1806年の定
総裁府,一般評議会,財務省の3弁護の関係を
大きく変えることになった.元フランス銀行総
款に規定されていたものと同一であった.つま
務局長ストロールがいうように,これによって
り,1808年の定款改正の際に削除された文言
が1973年定款のなかで165年ぶりに復活したで
一般評議会と財務省の双方にたいする総裁府の
ある.
総裁府とは前述したようにフランス銀行の最上
第三に,評定員が若干減員され(12人から
級の専門管理者集団を意味しているから,それ
10人へ),それにともなって法定評定員制度も
は「テクノクラシー」の勝利と言い換えること
廃止された.評定員は以後,「通貨の専門家」
もできよう.
のなかから選任されるものとされ(第14条),
しかし,この「独立」はあくまでも相対的な
これによって準公的金融機関の長たちが自動的
ものであり,議論の余地のあるものであった.
に評定員になる道が閉ざされた35).
以下にあげる5つの事例からもうかがえるよう
以上に記した再金融方式の変更と定款の改正
に,フランス銀行と財務省はヴォルムセルによ
は制度に関係しており,それゆえフランス銀行
る改革以後もさまざまな環で分かちがたく結ば
の外部からも確認できるものであった.これに
れており,同行は決して同省から自由であった
たいして残る第三の改革は,外部からはうかが
わけではないからである.
いにくい.それは一般評議会の開催頻度の変更
第一は,フランス銀行が設定する割引率に関
である.一般評議会はフランス銀行の創設以来,
係している.1971年以降,割引率は「象徴的」
常任委員会がおかれた1936−45年の10年間を
「心理的」意味しかもたなくなったとはいえ,
除いて,毎週木曜日に開催されてきた36).しか
それは国内諸銀行の貸出し金利に支配的な影響
しヴォルムセルは,新定款の発効にともなって
を及ぼしつづけた.この割引率の変更に関して
一般評議会が改組されたのを機に,開催日を隔
は,それ以前と同様,フランス銀行は常に財務
週の木曜日に変更したのである.隔週開催はす
省と事前協議を行っていた.
でにイギリスとドイツで行われており,一般評
第二に,すでに前章で述べたように,フラン
議会が任務を遂行するうえで支障をきたすとは
ス銀行は1970年代に入っても,準公的金融諸
思われない,というのがその理由であった.一
機関を介して中期流動化手形を受け入れつづけ
「独立」が強まったということもできよう38).
た.しかも,この種の手形にたいしては相変わ
らず優遇歩合,すなわち同行の貨幣市場介入金
35)しかし,1973年に再編成された一般評議i会
には預金供託金庫総裁とクレディ・ナショナル総
裁が参加しており,実際には,準公的金融機関の
長たちが一般評議会から完全に排除されることは
利以下の金利を適用していた.中期流動化手形
なかった.
37)元総務局長ストロールもこのことを確認し
36)1808年の基本定款にも,一般評議会は「少
なくとも毎週1回開催される」と規定されていた
cassette n。14.
(第36条).
38) Z4θ〃z.
ている.CHEFF, archives orales:Pierre Strohl,
28
になる42).また,計画庁によって策定された第
の割引額は輸出手形の急増にともなって増大
し,1970年代の後半には,フランス銀行が貨
7次プラン(1976−80年)においても同様の目
幣市場で実施した再金融総額を上回りさえする
標値 ただし,こちらは中期の目標値 が
にいたった39).
定められた.かくてフランス銀行は,1970年
代半ば以降,政府の定める年次ならびに中期の
通貨目標値の実現に,さまざまな政策手段を動
第三に,実務レヴェルに視点を移すならば,
1970年代に入ってフランス銀行と財務省国庫
局の関係は弛緩するどころか,むしろ緊密化す
員して’協力することになったのである43).
る傾向にあった.両者の間では,すでに1967
第五に,政府はIMFやヨーロッパ共同体な
年から,実務者たちの月例会合が開かれるよう
どの国際諸機関を介して,いわば迂回的な方法
になっていたが,1970年代に入るとこの会合
で,自らの政策意思をフランス銀行の政策に反
は,国際通貨関係の混乱と深刻なスタグフレー
映させることもできた.もっとも有効だったの
ション,それにフランス政府による通貨目標値
はヨーロッパ共同体を介する方法である.上に
の導入(後述)を背景に,いちだんとその意義
指摘した通貨目標値の導入も実はそうした事例
を増している.ちなみに会合には,フランス銀
の一つであった.
行側から2人目副総裁,国庫局側から副国庫局
長,それに双方の各部署の長たちが参加してお
通貨目標値の導入は1970年代にヨーロッパ
共同体加盟諸国に広がったが,それを先導した
り,フランス銀行の内部では比較的詳しい会議
のは時の財務大臣ジスカールデスタンである.
記録も作成されていた40).
1972年8月,彼は共同体全体で「反インフレ闘
総裁個人についても似たような状況にあっ
た.1974年から79年まで総裁を務めたクラピ
エが回想しているところによれば,総裁時代の
彼は,大統領のジスカールデスタンとは隔週に
争」(lutte contre l’in且adon)に取り組む必要があ
ると主張し,共同体諸国にインフレ抑止のため
の共闘を呼びかけた.これにはドイツの財務大
臣シュミット(Hermurt Schmidt)がいち早く同
1度の割合で,また首相兼財務大臣のバール
(Raymond Barre)とは週に1度 ときには週
に2度 の割合でそれぞれ会談の機会をも
ち,意見交換を行っていたという.そして
1970年代の末には,このような政権中枢との
親密な関係を背景に,クラピエはジスカールデ
41)CHEFF, archives orales:Bernard Clappier,
cassette n。12.クラピエとジスカールデスタンの親
密な関係については,2004年1月26日,上院議事
堂内で開催されたシンポジウム「ジスカールデス
タンの大統期とヨーロッパ」の場で,この元大統
スタンからヨーロッパ通貨制度(EMS)の創設
領自身も確認している.Colloque・Le septennat de
に向けた仏独秘密交渉のすべてを委ねられてい
Va16ry Giscard d’Estaing et l’Europe》(Palais du
る41).
第四に,フランス政府は1973年度から,経
マスコモネテ ル 済の流動性を管理すべく通貨総量(M2)の年
間増加率の目標値を設定するようになり,次い
で1977年度からはこの目標値を公表するよう
Luxembourg Paris, le 26 janvier 2004), organis6 par
le Centre d’histoire de l’Europe du vingtiさme siさcle
et l’Institut pour la d6mocratie en Europe.
42)通貨目標値の設定と公表は,当該年度予算
案のなかで行われた.フランスにおける通貨目標
値の導入については,一般的には,Didier Bruneel,
加〃zo〃〃αゴθ, Paris,1992, p.277−86.を参照.なお,
著者ブリュネールはフランス銀行の現職の総務局
長である.
39)図上「フランスにおける新自由主義(前掲
論文)」38,40頁,参照.
40)Archives de la Banque de France(abr6v.
43)ちなみに,当時首相兼財務大臣だったバー
ルは,自身の回想録のなかで,総裁クラピエが通
貨目標値の実現にたいして協力的であったと述べ
ている.1∼αツ勉。〃6Bα77aE窺名観θ〃α麗61θα%一!混一θ1
ABF),1331200301/436−440, r6unions mensuelles
Dガゼαノ¢,ルf6〃zo〃θz2勿α%∫θ, Paris,2001, p.158−59.
《Direction du Tr6sor−BF》.
Egalement voir Didier Bruneel, oρ. o肱,p.277−86.
29
調し,こうして共同体の各種機関がこの問題の
うかについては各国の自由に委ねることが望ま
検討に取り組むことになった.なかでもとりわ
しい,という内容のものになった46).これをう
け大きな期待が寄せられたのは「通貨委員会」
けて,閣僚理事会は1972年12月5日,流動性
(Comit6 Mon6taire)と「中央銀行総裁委員会」
の抑制とそのための通貨目標値の導入を共同体
(Comit6 des Gouverneurs des Banques Centrales)
加盟諸国に勧告する決議を採択した.
にたいしてである.というのは,通貨に関連す
通貨目標値とくに短期の通貨目標値に関して
る諸措置はいずれの国においても国会の議を経
は,その後も中央銀行家たちの疑念が消えるこ
ることなく実施が可能だったからである.しか
とはなかった.しかし1970年代後半になると,そ
し,各国の財務省と中央銀行の代表(国庫局長
れがもたらす反インフレ的心理効果に期待をか
と副総裁)から構成される通貨委員会と中央銀
ける各国政府の力に押されて,通貨目標値は共
行総裁から構成される中央銀行総裁委員会のい
同体内における通貨政策の統合に向けた調整47)
ずれも,通貨関連諸措置によるインフレの抑止
いわゆる「収敏」(convergence) のた
には懐疑的であった.当時のヨーロッパ諸国で
めの中心的な手段になる..明らかに共同体加盟
は,マネタリズム理論の影響をうけて通貨総量
諸国政府,少なくとも仏独両国政府は,共同体
の変動と経済成長との関係に関する研究が精力
を利用することによって自らの政策意思を自国
的に進められていたものの,なお多くの問題が
の中央銀行政策に反映させることに成功したの
理論面でも政策技術面でも解決されていなかっ
である.
たからである44).国内経済問題のあり方や利用
結びにかえて
可能な政策手段が国ごとに大きく異なっていた
中央銀行の「独立」か一
こともまた,加盟諸国間における合意形成を困
難にした.1972年10月6日付で国庫局長ピエー
フランス銀行の指導者たちは,本稿でいう第
ル=プロソレットがジスカールデスタンのため
3期以降の同行の歴史を「独立」に向けた歩み
に作成した覚書にも,通貨委員会における審議
すなわち,中央銀行制度における「テクノ
状況がこう記されている 「対インフレ闘争
クラシー」の台頭と勝利 として理解する傾
のために通貨関連手段を積極的に使うことを望
向がある48).1970年代初頭のヴォルムセルによ
む国はきわめて少ない」45)と.
しかし,フランスとドイツという共同体を支
る改革につづいて,1970年代の中葉に,フラ
ンスの経済政策の基調に大きな変化が生じたか
える2つの中軸国の政府が通貨関連諸手段に期
らである.
待を寄せていることがはっきりしていたため
に,両委員会とも否定的な結論を下すことはで
きなかった.両委員会の結論は,総通貨の増加
率を国内総生産の増加率以下に抑えることは必
46)ABF,1397199802/27, Compte rendu du
Comit6 mon6taire,16 et l 70ctobre l 972.
要であるが,それをどのような手段や方式で行
47)この調整に関する実務は,通貨委員会と中
44)たとえばフランスでは,フランス銀行,財
務省,計画庁の3つの機関で通貨目標値に関する研
究が行われたが,意見は大きく分かれていた.と
くに財務省国庫局の上層部にはその導入にたいし
politiques mon6taires)によって行われた. ABF,
央銀行総裁委員会の両委員会のもとに設置された,
バスティアンス(Bastiaanse)を責任者とする作業
班「通貨政策の調和」(Harmonisation des
1489200205/235−237.
r6union des supp16ants du Comit6 mon6taire de la
48)このような傾向は,とくにヴォルムセル,
クラピエ,ジュニエール,カムデシュスなど歴代
の総裁(あるいは副総裁)が退任する際に,本人
たちが一般評議会で述べた退任の辞および現職の
総裁が述べた送別の辞,あるいは彼らが死去した
CEE,40ctobre 1972.
際に現職の総裁が述べた弔辞のなかにうかがえる.
て強い反対論があった.
45)ABF,1397199802/27, Compte rendu de Ia
30
1976年に首相兼財務大臣に就任したバール
は,歴代の戦後政府がほぼ一貫して進めてきた
した.…こう申しますのは,健全で国際的
成長優i先政策を改め,政策の軸足を安定へと転
てわが国で国民的合意が成立したのは最近
換した.ちなみに,バールは自他ともに認める
のことだからです51>(傍点は引用者).
新自由主義者であった49).もとより戦後のフラ
ンスで安定化政策が実施されたのはこれが最初
1992年にマーストリヒト条約が調印された
のは,まさにカムデシュスのいうように,健全
というわけではない.バールの政策 いわゆ
通貨について「国民的合意」が形成されている
る「バール・プラン」(plan Barre)一の特別
とみなされたからであった.また,翌1993年
な意義は,変動相場制とヨーロッパ通貨統合と
にフランス銀行の定款が改正され,同定款に同
いう20世紀末の大状況のなかで,「健全通貨」
行の「独立」を規定する一項が挿入されたのも
(une monnaie saine)をめざす政策がフランスに
同様の事情によるものであった52).
おいて構造化する契機になったという点にある
しかし歴史研究者は,以上のような歴史過程
50).実際,バールによって導入された安定化政
を事実として認めるにしても,フランス中央銀
策は,1981年5月に大統領に就任したミッテラ
行の同時代史を「独立」への歩みと単純に同一
ンの大統領期の当初こそ放棄されたものの,
視することには慎重であるべきであろう.とい
1983年3月には同じ社会党政権のもとで復活
うのは,第一に,前章で触れたようにフランス
し,以後,この政策は歴代の政権によって継承
銀行と国家を結びつける鎖の環にはさまざまな
されることになる.したがって1980年代の前
ものがあり,両者の関係の実態はきわめて錯綜
半には,フランスにおいても健全通貨をめぐっ
しているからである.とくに1970年代以降は,
て国民的合意が成立したかにみえるのである.
両者の関係が国内の制度的枠組みを超える場面
1984年から87年までフランス銀行総裁を務め
が多くなっているだけに,この関係を,国内の,
たカムデシュス(Michel Camdessus)は1987年
しかも法制面にのみに限定して論じることの意
1月15日,一般評議会で行った退任の挨拶のな
味は低下しているとみる必要がある.また第二
かで次のように述べている.
に,経済社会のありようが中央銀行の政策によ
幸運にも私は,わが国の通貨の健全性
って左右される場面がますます多くなり,中央
安易な金利政策,行政的手法による信
銀行の指導者たちに求められる資格要件が増え
用配分,競争的切下げといった安易な便法
る傾向にあるからである.元大統領のジスカー
の拒否,つまり長年にわたってフランスが
ルデスタンは,近年,さまざまな機会をとらえ
とらわれてきたこのような幻想の一切の拒
て,ヨーロッパ中央銀行の設立問題との絡みで
否 が広範な国民的合意を得て復活した
中央銀行総裁の資格について語っている.彼に
時期に,当行の総裁を務めることができま
よれば,総裁は「通貨政策と当該国の経済全般
に尊重される通貨という至上命題をめぐっ
との関係,それにまた政治および社会状況との
関係を理解していなければならない」のであり,
49)バールはハイエクとレプケによって創設さ
れたモンペルラン協会の会員である.また,彼は
2003年に公刊した回想録のなかで自由主義の定義
をこころみているが,その定義は1938年のウォル
ター・リップマン・シンポジウムに起源をもつ新
51)ABF, dossier personnel:Michel Camdessus,
extraits du PVCG,15janvier 1987.
自由主義と完全に一致している.,Rαッ〃zo〃4.8α77θ,
52)D6claration Iiminaire du Gouverneur Jacques
01).6髭」,p.56−57.
De Larosiさre au Comit6 central d’Enteprise
50)変動相場制とヨーロッパ通貨統合という2つ
の要因がフランスをして安定化政策に向かわせた
経緯については,別稿を予定している.
extraordinaire du 2 juin 1993,刀>FO, n.93.18,
Direction de la Communication de la Banque de
France,2juin l 993. ・
3■
テ ク ニ シ ャ ン
通貨問題の「専門技術者」であるだけではすま
およそ次のように語っている.中央銀行の独立
されない.総裁職というのは「言葉の非常に重
は財務省財務監察官の出身で,金融財政専門家
を制度設計することはどう考えてみても難し
い.唯一それが可能なのは連邦制を採用してい
る国の場合である.そこでは,連邦制という国
家統治の構造に対応して,通貨にたいする監督
としても広く知られているだけに,彼の発言は
の仕組みも分権的なものにすることができる.
重いといわねばならない.
実際,中央銀行の独立が制度的に つまり,
しかし,ここで一つ問題が生じる.それは,
実際にという意味ではない 保障されている
戦後のドイツ中央銀行や近年のヨーロッパ中央
とみられるのはドイツとアメリカ合衆国だけで
銀行のように,なぜ中央銀行法(定款)に政府
ある.フランスやイギリスのように連邦制をと
からの独立が明文で謳われるのか,またそれは
らない国では,この独立を制度的に保障する方
なぜ可能なのか,という問題である.
法としては総裁の任期を法律に明記するくらい
まず,なぜ謳われるのかという点についてい
のことしか考えられない56).ちなみにクラピエ
えば,考えられるのは,価格メカニズムを公準
とし,通貨の安定をとりわけ重要視する新自由
は,1950年代の財務省対外経済局長時代にモ
ネ(Jean Monnet)を補佐してヨーロッパ建設
主義54)との関係である.周知のように戦後の
にかかわり,次いで1960年代にはフランス銀
行副総裁の資格で,また1970年代には同行総
裁の資格でヨーロッパ統合の推進に通貨面から
要で高貴な意味における政治的ポスト」53)(傍
点は引用者)なのである.ジスカールデスタン
(西)ドイツでは,資本主義諸国のなかでも例
外的に,早い段階から新自由主義が「社会的市
いた.1970年代に入ると,深刻なスタグフレ
ーションのもとで,新自由主義はフランスをは
関与をつづけた.そして1970年代の末には,
前述したようにヨーロッパ通貨制度の創設にあ
たって中心的な役割を演じ,後任の総裁ジュニ
じめとするその他のヨーロッパ諸国を深くとら
エール(Renaud de la Geniさre)をして「あなた
場経済」の名のもとに国民の幅広い支持を得て
える.前述したように,フランスにおける中央
はヨーロッパ通貨制度の父などではありませ
銀行の「独立」への歩みは,.まさにこの思想潮
ん.ヨーロッパ通貨制度そのものです」57)とい
流のこの国への浸透と軌を一にしていた.
わしめた人物である.クラピエはヨーロッパの
他方の,なぜ謳うことが可能なのかという点
中央銀行事情にとりわけ精通した人物だったの
については,前出のクラピエが1990年に興味
である57).このクラピエの分析に即していえば,
深い音声記録55)を残している.彼はそこで,お
中央銀行の独立を制度化することはすべての国
について可能なわけではないということになろ
う.
(横浜国立大学国際社会科学研究科教授)
53)1砺1勿α∫6α744Es’α伽9. E窺7θ漉%α”θo
且gα魏6Foz6㎎πα%証ル%〃zo〃θz疹zノαπ’θ, Paris,2001,
p.225.なお,ジスカールデスタンは,こうした持論
にもとづいて,ヨーロッパ中央銀行総裁はEU諸国
の政府によって選出されるべきであったとして,
中央銀行総裁たちによって行われるヨーロッパ中
央銀行総裁の選出方式を批判する.
54)新自由主義の歴史的起源とその厳密な定義
については,権上康男「新自由主義と戦後フラン
ス資本主義(1938−73年)」『歴史と経済』第181
56)これと同様の分析は,1979年から84年まで,
フランス銀行の次席副総裁,次いで首席副総裁を
務めたプラットによってもなされている.Alain
Prate, Zπ、F名α%06θ’sα〃zo多z%αげθ. Essごzゴs%71θ∫7θ1α露。πs
号,2003年10月,を参照.
6魏7θ1αB碗σ%θ4θF7侃6θθ’1θsgo卿θ7%θ吻6窺s,
55)CHEFF, archives orales:Bernard Clappier,
Paris,1987, p.244.
cassette n。12.
57)PVCG,29 novembre l979.
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