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Title 芥川龍之介作品解釈辞典(四) Author(s) 西原, 千博 Citation 札幌

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Title 芥川龍之介作品解釈辞典(四) Author(s) 西原, 千博 Citation 札幌
Title
芥川龍之介作品解釈辞典(四)
Author(s)
西原, 千博
Citation
札幌国語研究, 18: 1-24
Issue Date
2013
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7586
Rights
Hokkaido University of Education
芥川龍之介作品解釈辞典(四)
○『黒衣聖母』
(
「文章倶楽部」大正九年五月)
Ⅰ
『黒衣聖母』は次のように始まる。
」
「どうです、これは。
田代君はこう云いながら、一体の麻利耶観音を卓子の上へ
載せて見せた。
西 原 千 博
体が、ある悪意を帯びた嘲笑を漲らしているような気さえし
たのである。
そして、作品の最後の場面ではこの「麻利耶観音」は次のよ
うに書かれている。
私はこの運命それ自身のような麻利耶観音へ、思わず無気
味な眼を移した。聖母は黒檀の衣を纏ったまま、やはりその
美しい象牙の顔に、ある悪意を帯びた嘲笑を、永久に冷然と
ある。(中略)第一これは顔を除いて、他はことごとく黒檀
に嘲笑していることになる。しかも、「永久に」とあり、単な
ている」となり、見ている側のせいではなく「観音像」が本当
最初は「悪意を帯びた嘲笑」といっても、「気さえした」と
見る側の感じ方に過ぎない。ところが、最後の場面では「湛え
湛えている。──
を刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならず頸のまわり
麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門禁制時代の天主教徒
が、屢聖母麻利耶の代りに礼拝した、多くは白磁の観音像で
へ懸けた十字架形の瓔珞も、金と青貝とを象嵌した、極めて
る像とは言えなくなっている。この最初と最後の違いは像と神
母像」
)が作品中で「聖母」へと変わったということになるの
との違いとさえ言えるのではないか。すなわち「観音像」
(「聖
である。そして、このことこそがこの作品の主題ではないかと
精巧な細工らしい。その上顔は美しい牙彫で、しかも唇には
(中略)
珊瑚のような一点の朱まで加えてある。……
いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全
-1-
考えるのである。
があることをさりげなく示している。それは、読者への先入観
い 聖 母 だ と 云 う 事 で す よ。
」ということが語られる。これはこ
ともなっているだろう。
の後の出来事の伏線となっているだけではなく、神としての力
「聖母像」は「聖母」になったのか、
では、どのようにして、
作品に沿って確認していこう。
「何か怪しい表情が、象牙の顔のどこだかに、漂っているよう
徴を持っている。そして、
このような外見上の描写を踏まえて、
アの持つ純真さや処女性というイメージとは異質の女性的な特
母像」なのだから女性的なのは当たり前のようだが、聖母マリ
の朱まで加えてある」と、とても人間的、女性的である。
「聖
しいものとなる。
(注2)その上で「唇には珊瑚のような一点
きている。
白磁は無機質だが、
象牙は有機物でその点でより生々
はないか。しかも、顔は「多くは白磁」とあるのに、象牙でで
1)、このような顔だけ白い像はほとんど知られていないので
なく、黒と白の対照が認められる。黒い聖母像は存在するが
(注
まず、もう一度この像の最初の説明を確認しておこう。この
像は体の部分が黒檀で、顔が象牙でできている。全身が黒では
檀の麻利耶観音へ、こんな願をかけ始めました。
らせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒
それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を
抱き起すと、怖がるのを頻りになだめなだめ、自分の隣に坐
るのは、この話の証人として必要だからである。
この跡取りの子供のために隠居は「お英」と一緒に「観音像」
に「ご祈祷」あげはじめる。因みに、ここに「お英」がでてく
の隠居の心配と云うものは、一通りや二通りではありません。
から茂作が重病になると、稲見には曽祖母に当る、その切髪
七十を越した祖母の手に育てられて来たのだそうです。です
の疫病に父母共世を去って以来、この茂作と姉弟二人、もう
い痲疹に罹りました。稲見の母親はお栄と云って、二三年前
(中略)
何でも稲見の母親が十か十一の秋だったそうです。
その母親の弟になる、茂作と云う八ツばかりの男の子が、重
そして、「稲見と云う素封家」の話となる。
な心もちがした。
」と「怪しさ」が加わっている。しかし、こ
Ⅱ
こでは前述のようにまだ像として捉えられているので、最後は
「気さえした」とあくまでも見る側の問題(例えば、錯覚)と
「童貞聖麻利耶様、私が天にも地にも、杖柱と頼んで居り
ますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました
御守りなすって下さいまし。それも私風情の信心には及ばな
姉のお栄ばかりでございます。(中略)どうか茂作の一命を
この後、この「麻利耶観音」にまつわる「妙な伝説」が語ら
れることになる。ただし、その具体的な話の前に「ええ、これ
い事でございましたら、せめては私の息のございます限り、
なっている。
は禍を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする、縁起の悪
-2-
せなんだら、大方年頃になるでございましょう。
しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもございま
霊魂を天主に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。
茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、
確かに祖母の祈りは「せめては私の息のございます限り、茂作
です。
」
とある。従来からこの
「約束通り」
が問題となってきた。
音は約束通り、祖母の命のある間は、茂作を殺さずに置いたの
悪化してすぐに「息を引き取」る。それについて、「麻利耶観
祖母は切髪の頭を下げて、熱心にこう祈りました。すると
その言葉が終った時、恐る恐る顔を擡げたお栄の眼には、気
るのであり、これが「約束通り」と言えるだろうか。ただし、
思っていなかったことが解る。跡取りも亡くなってしまってい
英」が「大方の年頃」になっているとあって、すぐに死ぬとは
の 命 を 御 助 け 下 さ い ま し。
」とあり、その通りになっている。
のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。
ここでも「微笑したように」と観音像は生きているかのよう
に描かれている。しかも、
その後に
「お祈りを御聞き入れになっ
この祖母の愚を笑うものは「畢竟、人生に対する路傍の人に過
立場に立つのかによって解釈が変わってくるのである。ただし、
ただ、一方で孫が回復したと思って死んだ祖母が、かえって
哀れにも見えるのであり、祖母の主観に立つのか、第三者的な
(
『芥川龍之介とキリスト教』翰林書房)
しかし一方、祖母の主観的な立場から見れば祈りは聞かれ
たことに違いないのである。
る。例えば、曺紗玉氏は次のように述べている。
しかし、その前には跡取りの心配があり、「それまでには」「お
お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきまし
この点については見方にもよるのではないかという指摘もあ
(中略)
た。が、
祖母は反って満足そうに、
孫娘の背をさすりながら、
「さあ、もうあちらへ行きましょう。麻利耶様は難有い事
に、この御婆さんのお祈りを御聞き入れになって下すったか
らね。」
て下すった」とあって、この微笑が御聞き入れてくれた証拠の
ぎない。
」
(『芋粥』
)かもしれない。
ように読めるのである。あたかも意志を持った存在であるかの
と、何度も繰り返して云ったそうです。
ように。
うことになるのである。人の運命を決める力があるということ
「殺さずに置いたのです。
」
しかし、ここで注目したいのは、
という言葉である。つまり、この像は人を殺す力があったとい
であり、それはまさに神としての力と言うことになる。すなわ
翌日「茂作」の様態は回復し、祖母はその回復を喜ぶ。
この容子を見た祖母の喜びは、仲々口には尽せません。何
でも稲見の母親は、その時祖母が笑いながら、涙をこぼして
ち、この言葉によって、逆に「茂作」や「祖母」は病気で死ん
いた顔が、未に忘れられないとか云っているそうです。
「茂作」の容体も
しかし、その後その祖母が急に亡くなり、
-3-
湛えている。──
「運命それ自身のような」と「聖母像」は像というより、現
実を超えた超常的なものへと変身をしている。そして、
「悪意
だのではなく、
神によって殺されたと言うことになるのである。
を帯びた嘲笑を」湛えるというのは、「悪意」という意志を持っ
否定型でさりげなく書かれている「殺さずに置いたのです。
」
という言葉が、実は像から神へのターニングポイントになって
しまうのではないだろうか。
ある。読者も、同様にこの像をあたかも「聖母」として捉えて
なる像から、文字通りの「聖母」に移行したということなので
超えた神としての位置づけになる。最初にも述べたように、単
ていることを示すのであり、さらに、「永久に」とは、現実を
いたのである。
Ⅲ
さらに、この像が神としての力を持っていたことが強調され
る。
祷
、
神
々
の
定
め
給
う
通常、聖母マリアは黒く表現されることはない。伝統的
に黒という色は、夜、闇、疑い、罪などを象徴的に表し、
また、黒い色についても次のような指摘をしている。
キリスト教以前の地母神崇拝と、キリスト教のマリア崇
拝の同化、そこに《黒い聖母》の謎が潜んでいるのである。
のように述べている。
注1 馬杉宗夫氏は『黒い聖母と悪魔の謎─キリスト教異形の
図像学─』(講談社現代新書)で、
《黒い聖母》像について次
見れば良いのである。
説の持つ力であり魅力である。だから読者は神をこそ、そこに
る。言葉によってこのような変貌を見せること、それこそが小
この作品では、最初は単なる物・像としての「聖母像」を提
出して、
「殺さずに置いたのです。」という言葉をターニングポ
祈
イントとして、最後にそれを神として読者に見せているのであ
の
えば、まだあなたはこの麻利耶観音の台座の銘をお読みになら
汝
FATA
DEUM
LECTI
SPERARE
PRECANDO
─
─を DESINE
所
動
か
す
べ
し
と
望
む
勿
れ
」
の
意
DESINE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO
……」
「
なかったでしょう。御覧なさい。此処に刻んである横文字を。
私はほんとうにあったかとも思うのです。ただ、それが稲
見家の聖母のせいだったかどうかは、疑問ですが、──そう云
事件自体はあったがそれが「聖母のせいだったかどうかは、
疑問」というのが、最も合理的な解釈だろう。しかし、その後
にそれとは逆にあたかも「聖母のせい」だと思わせるような文
が続いている。
「神々の定め給う所」とあり、そこに神の力が
働いたという可能性を示唆させている。そして、最後の一文に
いたる。
私はこの運命それ自身のような麻利耶観音へ、思わず無気
味な眼を移した。聖母は黒檀の衣を纏ったまま、やはりその
美しい象牙の顔に、ある悪意を帯びた嘲笑を、永久に冷然と
-4-
胎したと言われる聖母マリアには清純無垢な白という色彩
不吉で忌み嫌われるべき色彩である。それゆえ、処女で懐
のでしょう。実際私の母に対する情も、子でない事を知った
ませんでした。やはり話す事は私にも、残酷だと思っていた
り母に残酷ですから。母も死ぬまでその事は一言も私に話し
客はしんみりと返事をした。あたかも彼自身子以上の人間
だった事も知らないように。
ましたから。
」
「前よりも一層なつかしく思うようになったのです。その
秘密を知って以来、母は捨児の私には、母以上の人間になり
私はじっと客の目を見た。
」
「と云うのはどう云う意味ですか。
後、一転化を来したのは事実です。
」
がふさわしい。
言うまでもなく
「縁起の悪い聖母」
この黒のイメージは、
という設定に対応している。そのうえで、顔の白と衣の黒
との対照が怪しさを強調していると考えられる。
注2 ヴィクトル・I・ストイキツァの
『ピュグマリオン効果』
(松原知生訳ありな書房)には、ピュグマリオン神話におけ
るピュグマリオンが作成した像について、それが象牙でつく
られていることに注目している。象牙の特徴として、
「より
この場面について、平岡敏夫氏は次のように述べている。
柔らかく、いわばより『熱を帯びた』素材」としており、大
理石などとの違いを指摘している。ピュグマリオン神話は女
たしかにこの本文の末尾の言葉は何度読んでも胸迫る思い
もするが、たんなる芥川的な落ちと見て、さほどにも注意し
「芥川自身の憧憬であり、切なる〈母を呼ぶ声〉に
さらに、
「
〈母〉を呼ぶ声─『南蛮寺』から『点鬼簿』まで─」─
(
『芥川龍之介と現代』所収)
もってつくり出されていると言えよう。
は、現実の母と子の関係が現実の次元を超えて高い精神性を
にあり、子も実子という次元を超えているのだから、ここに
実の母と思っていた「前よりも一層なつかしく思うように
なった」というのだから、実母を超えた存在への希求がここ
(中略)
ないむきがあったのではないか。
の像が人間に変身する話であり、この作品の象牙も女神への
変身に繋がっているのではないか。
○『捨児』
(
「新潮」大正九年八月)
Ⅰ
の最後で母親だと思っていた人が、
実は母ではなかっ
『捨児』
たことを知ったことが書かれている。
「そうしてあなたが子でないと云う事は、──子でない事
を知ったと云う事は、阿母さんにも話したのですか。
」
私は尋ねずにはいられなかった。
「いえ、それは話しません。私の方から云い出すのは、余
-5-
ほかならない」としている。
が仙人になれなかった後で、「なれません。なれませんが、し
その形式に問題があるのではないかということであり、その結
助」という「客」が、
「私」に語るという形式を取っている。
手は不誠実ではないかいうことである。この作品は「松原勇之
こに至る語りの方に注目したい。というのも、この語り・語り
れまで為されてこなかったものである。ただし、本稿では、こ
たり、もったいぶった言い方をする必要も無いはずである。語
「松原勇之助」と具体的に登場している人物であり、間を置い
の言葉にも感じてしまうのである。特に、この作品の語り手は
大正五年十月─)というような「臭味」がこの『捨児』の最後
「それを我等は今、臭味と名づける」(
『手巾』─「中央公論」
が使われていた。
芥川の語りの一つの型となっている感があり、
まさに「反って」と読者の予想の反対を示している。これは
『黄梁夢』(
「中央文学」大正六年十月)でも、同様なパターン
かし私はなれなかったことも、
反って嬉しい気がするのです。
」
果平岡氏の言う「芥川的な落ち」という読みが生まれたのでは
りが不誠実という所以である。
この場面についての読みとしては平岡氏の述べている通りだ
ろうし、特に「現実の次元を超えて高い精神性」への注目はこ
ないかということである。平岡氏の意図に反するようだが、い
Ⅲ
わばその「芥川的な落ち」という読みがなぜ生まれたのかを検
証することになるだろう。
いうよりも、そのようなイメージを予測させるようにわざわざ
かりした、というようなマイナスのイメージを持つだろう。と
は「一転化」と言ったとき、
やはり実の母ではないと知ってがっ
いてから「前よりも一層」と語っている点に注意したい。読者
「子でない事
まず、何より先の引用した場面に注目したい。
を知った後、一転化を来したのは事実です。
」とあり、間を置
女の言葉が嘘でない事は、自然と和尚にもわかったのでしょ
委細を聞き終った日錚和尚は、囲炉裡の側にいた勇之助を
招いで、顔も知らない母親に五年ぶりの対面をさせました。
の「日錚和尚」は「勇之助」をこの女に会わせる。
れる。その後にこの母が名乗り出る。その話を聞いて「信行寺」
たくらむつもりだったのでしょう」と、贋者であった事が語ら
「信行寺」に捨てられていた男の子をめぐって、先に一人の
女が名乗り出ていた。しかし、それは「捨児を種に、悪事でも
さらに、もう一箇所不誠実ではないかと思われる語りがある。
間を置いていると考えられるのである。この読者にマイナスを
う。
Ⅱ
予想させて、逆にプラスの内容を示すというのは、芥川の作品
「女の言葉が嘘でない事は」とあるが、これが実は嘘を含ん
によく見られるパターンである。
『杜子春』
(
「赤い鳥」大正九年七月)でも、杜子春
例 え ば、
-6-
でいたのである。
不誠実と捉えられるのである。つまり、小説と日常との語りが
ある。小説であればうまく作られた伏線として認められるが、
う事にもなるだろう。
すれば、「母以上の人間」という言葉に「臭味」を感じてしま
的な落ち」として読まれるということである。そのためにとも
て、それが最後の言葉の読みに影響してくるのであり、
「芥川
されたという感じがして、不誠実と捉えるのではないか。そし
がそのような伏線を張る理由などないはずであり、読者はだま
面に至るまでの伏線となっているのである。しかし、「勇之助」
驚かせる展開にするための伏線であり、ここから続く最後の場
「今話した女は、私の母じゃなかったのです。
」という読者を
ましていることになるのではないか。言うまでもなく、
それは、
と聞き手や読者は受け取るだろう。ということは、聞き手をだ
ある。父親はまるで存在感がないのである。むしろ、なぜ「父
話すのは母だけであり、「お母さん」と母だけが呼ばれるので
ただ、このような父の不在は『杜子春』にも見られるもので
ある。畜生になった「父母」が登場する場面では、「この男の
ためにあえて触れないという事だろうか。
てた期間が違うからというのだろうか。それとも母を強調する
である。
「和尚」については特にそのような言及もしない。育
言うまでもなく、
幼子の「勇之助」を育ててくれた「日錚和尚」
として捉えられる人物もいるのではないか、ということである。
ては何も語られていない。また、一方で、実は、〈父以上の人間〉
いのだろうか。どこかに実の父がいるはずで、そのことについ
之助」は母ばかりを問題として、父については何も触れていな
もう一つ、この母の問題とはいささか離れるが、父について
も触れておきたい。あるいは父の不在と言っても良い。なぜ「勇
Ⅳ
ている。
考えられるのである。これもまた「芥川的な落ち」へと繋がっ
重なったために不誠実な語りとして捉えられる事になったとも
日常の語りに伏線など必要ないのであり、逆に語り・語り手が
夫 が 浅 草 田 原 町 に 米 屋 を 出 し て い た と 云 う 事 や、 横 浜 へ
行って苦労したと云う事は勿論嘘じゃありません。が、捨児
をしたと云う事は、嘘だった事が後に知れました。
確 か に 一 部 は 本 当 の 事 で は あ っ た が、 肝 心 の 捨 児 の 話 は 嘘
だったのである。言うまでもなく、「勇之助」はそのことを知っ
た後で話をしているのである。なぜここでわざわざ、
「嘘でな
い事」と言うのだろうか。前の女の時には「和尚」は嘘を見抜
このことは、先にも触れたようにこの作品がわざわざ捨児本
人を語り手にして語らせたせいだと考えられる。具体的な語り
いていた。だから、
「自然とわかった」とあれば、嘘ではない
手を設定しながら、
実は彼の語りは作者の語りそのものであり、
母」としたのか、逆に疑問にすらなる。母だけで充分ではない
父母は」
、「死んだ父母」などと「父母」が繰り返されているが、
話を語ると言うよりも小説を語るという事になっているからで
-7-
られないだろうか。少なくとも、仙人と「和尚」の存在が父親
ことによって、いわば現実の父の存在が希薄になったとは考え
ある。そして、すでに父としての役割を果たしている者がいる
するという父としての役割を果たしているとも考えられるので
いると考えられる。また、仙人も父のいない「杜子春」を教育
割をしているが、それは母のいない子の父としての役割をして
言えば、父の代理である。前半の「和尚」は乳をもらう母の役
と同じような位置づけとして捉えられるのではないか。あえて
か。また、この『杜子春』には仙人が登場しているが、
「和尚」
特に、視点、あるいは視野(視界)に注目したい。
そこで、
本稿ではそのための仕掛けについて考察していきたい。
せるか、
ということがこの小説の一番の見せ所なのではないか。
いう通常あり得ない事を、いかにあり得るものとして読者に見
を殺したのだろうか。というよりも、この神による密室殺人と
人ということになるわけである。けれども、本当に「神」が人
としか考えられないことになる。「アグニの神」による密室殺
人は「アグニの神」が「婆さん」に「悪事の罰」を下したもの
ていた)ので犯人とは言えない。他に人はいない。とすると殺
部屋の中には「妙子」がいたが、「妙子」は気を失っていた(眠っ
加人と何か頻に話し合っていました。
支那の上海のある町です。昼でも薄暗いある家の二階に、
人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利
まず、この作品は部屋の中から始まる。
Ⅱ
の不在に繋がる可能性はある。ただし、この点については『杜
子春』の分析などを通して、さらに考察していく必要があり、
本稿では指摘にとどめたい。
○『アグニの神』
(
「赤い鳥」大正十年一・二月)
Ⅰ
ちの心理もここでは書かれていない。あたかも、誰かがその場
ここでの視点は三人称であるが、全知視点とは言えない。全
知であれば「商人らしい」
と推量はしない。推量するのは、「神」
で見ているかのようである。この語り手について五島慶一氏に
ならぬ人間のみである。また、
「人相の悪い」あるいは「狡猾
この作品は「アグニの神」による密室殺人を描いたものであ
る。部屋の戸には鍵が掛かっており、さらに、戸の外には「遠
よる次のような指摘がある。
「私が殺したのじゃありません。あの婆さんを殺したのは
今夜ここに来たアグニの神です。
」
藤」がいて部屋の中を覗いていた。そこは密室だった。そして、
そう」などという、主観的な言葉も使われている。登場人物た
「遠藤」が戸を破って中に入ると、胸にナイフが刺さった「婆
対する「アグニの神」では、(この点は寧ろ「お伽噺」の
遠藤は妙子を抱えたまま、おごそかにこう囁きました。
さん」の死体があった。すなわち密室殺人ということになる。
-8-
御する唯一の語り手が存在し、唯一の〈物語〉の展開を始終
定型に属すると言えるだろうが)強固に〈物語〉を支配=統
だ、当然読者は何を見ていたのか、疑問に思うだろう。この作
ら見ているだけである。あたかもその場にいるかのように。た
り手は「恵蓮」の視点に重ならず、あくまでも「恵蓮」を外か
ずになった「妙子」である。(
「妙子」と解ってからは「妙子」
また、この「恵蓮」が登場したとき「美しい支那人の女の子
です。
」とある。言うまでもなく、「恵蓮」は去年の春行方知れ
れる。内と外との対照が謎解きにも使われている。
スな作品となっている。なお、この答えは後に外からもたらさ
品は多くの謎が仕掛けられており、全体としてもミスティリア
担っている。
(「『アグニの神』論─「運命の力」は誰に示されたか」─
「三田國文」平成十七年六月)
考えられる。また、この部屋の中という点について、張宜樺氏
確かに、語り手は「強固に〈物語〉を支配」している。ただ
し、後に述べるように語り手の位置が章によってずれがあると
は次のように述べている。
としている。語り手はあくまでも全知の視点に立とうとしてい
く、「部屋」の外から内への眼差しも描かれていることによっ
場面を「部屋」の内と外に交互に転換し、内の様子だけでな
ちょうどその途端です。誰か外へ来たと見えて、戸を叩く
音が、突然荒々しく聞こえ始めました。
そして、第一章は外との繋がりを示して終わる。
ない。
と呼ばれることになる。)しかし、
ここでは、「支那人の女の子」
「部屋」の中を異空間として形作るには、
「アグニの
ただ、
神」の作品構成が大きく機能していたことも看過できまい。
て本当の意味で成り立っているからである。
先にあげた論で張氏はこの場面を「『部屋』の内と外の場面
転換」の「接続点」としており、「戸を叩く音によって、『部屋』
の内と外に時間的な接点を作り出している」と指摘している。
(「芥川龍之介『アグニの神』論─〈神〉を超えた「運命
の力」─」─「三田國文」平成一九年九月)
この作品は、張氏が指摘するような内と外との対照が認めら
れよう。第一章でも、部屋の中と外との接点が示されている。
品がリアルタイムで語られている事を示している。その時その
また、この「戸を叩く音」は境界線としての戸を意識させる
のであり、それが密室への準備ともなっているのである。
場で知ることのできたものしか語らないという事である。
張氏の指摘通り内と外がシンクロするのである。これはこの作
恵蓮はいつか窓側に行って、
ふと相手に気がついて見ると、
ちょうど明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているの
です。
窓というのは、外と内とを繋ぐものでもある。後には、窓か
らメッセージも届く。
「恵蓮」が何を見ていたのかは書かれていない。語
こ こ で、
-9-
Ⅲ
対 照 が あ っ た は ず だ が、 こ こ で は 内 の 知 識 が 外 に 反 映 し て し
まっている。(無論、この作品は「赤い鳥」という童話雑誌に
発表されたもので、子供たちに解りやすくするために、あまり
そして、先の「立ちすくんだ」理由がはっきりとする。
厳密に書かれていないということもあるだろうが。)
階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらく
「かれこれ同じ時刻に、
この家の外を通りかかった、
第二章は
年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二
は 呆 気 に と ら れ た よ う に、 ぼ ん や り 立 ち す く ん で し ま い ま し
「嘘をつけ。今その窓から外を見ていたのは、確かにお嬢
さんの妙子さんだ。」
じ時刻」というのが、第一章の終わりの「ちょうどその途端」
うな」顔色だったなどの疑問も明らかにされる。
がるのである。さらに、これによって、なぜ女の子が「蠟のよ
ここで部屋の中から外を見ていた視線と、部屋の外で部屋を
見上げていた視線が交わることになる。部屋の外と内が窓で繋
た。」とはじまり、
「同じ時刻」
、
「この家の外」と内と外が対照
とはかなりずれている。また、
ここでも、
なぜ「立ちすくんだ」
されている。ただし、「かれこれ」と曖昧にはなっているが、「同
のか謎になっている。
ただし、第一章が部屋の内だけだったのに、第二章では外か
ら内に入り込んでいる。必ずしも章と視界とが対応していない。
Ⅳ
先の「ちょうどその途端」に対応するのはこの後である。
すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支
那人の女の子の泣き声です。
日本人はその声を聞くが早いか、
一股に二三段づつ、薄暗い梯子を馳け上りました。そうして
が泣いているとは限らないだろう。よもや支那人独特の泣き方
うか。確かに、窓で「支那人の女の子」を見ているが、その子
声」というのはおかしくないか。泣き声で支那人と解るのだろ
のはずである。さらに言えば、そもそも「支那人の女の子泣き
「その
厳密にいえば、第一章には女の子の泣く場面はない。
途端」であれば、
「箒をふり上げ」た途端であり、殴られる前
である。
ようであったが、ここでは内面にまで入り込んで語っているの
あたかもその場にいる人物が、情景を観察、描写しているかの
なく、「考え」
即ち内面であることが示されている。これまでは、
が、その後に「そんな事を考えていると」とこれが独り言では
ているので、一見「遠藤」の独り言のようにも受け取れるのだ
第三章は外だけが書かれている。ただし、「せっかくお嬢さ
んの在りかをつきとめながら、~」
とあるのが、カギ括弧に入っ
があるとは思えない。
(しかも、実は日本人なのだからなおの
また、先に述べたように、窓から「妙子」の手紙が届く。
婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
こと解らない。
)外から内が窺い知れないという、内と外との
- 10 -
遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハサウナラナイ内ニ、ワザ
テイルノデス。
(中略)イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ
マス。私ハソノ神ガ乗リ移ツテイル間中、死ンダヨウニナッ
いた。
「妙子」は自分では「眠ってしまった」と言っているが、
初に述べたように、部屋は密室だったが、そこには「妙子」が
これもまた、「神」を犯人とするための仕掛けなのである。最
うしてこのような変更が行われてしまったのだろうか。実は、
ここでは、語り手はあたかも全知、つまり、神の位置にいる
かのようである。語り手の位置づけがずれてしまっている。ど
「妙子」は「いつかもうぐっすり寝入って」しまうのである。
ト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。サウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ
外からでは、本当に寝ているのか、演技をしているのかがはっ
遠藤サン。コノ家ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々
真夜中ニ私ノ体ヘ、
『アグニ』トイフ印度ノ神ヲ乗リ移ラセ
返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤ
作品に引きつける力である。
果たして、この「妙子」の「計略」はうまく行くのか。その
ような不安感や期待感を読者に持たせる。謎や疑問は、読者を
ことにもなる。
に犯人ではなくなり、殺せるとしたら、「神」しかないという
ければならなかった。(無論、一方では計略が失敗したことを
すり寝入って」と確実に「妙子」が寝ていた事を読者に示さな
きりと解らない。だから、
語り手は「妙子」の内面に入り「ぐっ
リマス。
「その時」と、ここでも第三章の最後と時間をシ
第四章は、
ンクロさせて始まる。ここでは、部屋の中だけが語られるのだ
Ⅴ
明示するためでもある。
)また、それによって「妙子」は確実
が、ここでも、
「妙子」の内面について語られている。
どうか私が睡らないように、
御守りなすっ
「日本の神々様、
て下さいまし。
(中略)日本の神々様、どうかお婆さんを欺
せるように、御力を御貸し下さいまし。
」
屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったの
妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触
れないと、思っていたのに違いありません。しかし実際は部
第五章において、この部屋は密室となる。しかし、そこは覗
く事ができた。
子の耳には、丁度銅鑼でも鳴らすやうな、得体の知れない音
です。
妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし
睡気はおいおいと、強くなって来るばかりです。と同時に妙
楽の声が、かすかに伝はり始めました。これはいつでもアグ
密室・個室が登場する事で覗くと言う事に意味が生まれる。
密室・個室とはまさに「誰の目にも触れない」内の空間なので
ニの神が、
空から降りて来る時に、
きっと聞える声なのです。
「妙子」の内的独白がそのまま
「心の中に」とあるように、
書かれている。さらに、彼女の内面も書かれている。そして、
- 11 -
とである。これまで、語り手は物語世界のどこかにいる人物、
界を限定したことは、実は視点を「遠藤」に限定したというこ
る事のできない行為が行われていたのである。また、鍵穴に視
でも扉によって隔絶された場所、密室があり、そこで人に見せ
だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手の喉に、
隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子
眼に天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の
この顔中紫に腫れ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、薄
うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。
陳彩は部屋の隅に佇んだまま、寝台の前に伏し重なった、
二人の姿を眺めていた。その一人は房子であった。──と云
瞬間以前と同じであった。
あるいは、全知の位置にいたが、ここでは、
「遠藤」と完全に
両手の指を埋めていた。
あり、そこで初めてプライヴシー、個人の秘密が生まれるので
重なるのである。
(第三章の冒頭の「遠藤」の内的独白はこの
ある。だから、そこを覗く事が意味を持つ。
(注1)この作品
準備であった。
「遠藤」
の内部から見ているということである。
)
この時戸から洩れる蜘蛛の糸ほどの朧げな光が、天啓のよう
もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立
ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、
すでに『影』
(
「改造」
この密室の鍵穴から覗くという場面は、
大正九年九月)にあった。
断ということになるからである。
備でもある。
「遠藤」の視点ということであれば、
「遠藤」の判
それが可能になっていたのは、犯人が主人のドッペルゲンゲル
が目撃しているのだから、
あり得ない事件、
不可能殺人である。
主人しか入れない密室で殺人が起こったのであり、それを主人
それにもかかわらず、当の「陳」が殺人を目撃したのである。
屋敷全体も探偵に見張られていて大きな密室となっており、外
後には戸を破っている。そして、こちらでも殺人が起こってい
「陳」は鍵の掛かった戸の前で、最初は音だけを聞いていた
が、その後に鍵穴から覗くのである。その上で、こちらでも最
そして、これは言うまでもなく、犯人を「神」とするための準
に彼の眼を捉えた。陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にあ
の
『影』
における密室殺人の上海版と言うべきものではないか。
(「中央公論」大
『アグニの神』についてはこれまで『妖婆』
正八年九月)との関係が指摘されてきたが(注2)、むしろこ
ルゲンゲルによる密室殺人ということになる。
であったからである。つまり、こちらは「神」ではなくドッペ
から入ることができるのは、この家の主人・
「陳」だけである。
た。こちらの犯人は「陳」のドッペルゲンゲルであった。この
る鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った。
そ の 刹 那 に 陳 の 眼 の 前 に は、 永 久 に 呪 わ し い 光 景 が 開 け
た。…………
(中略)
陳の寝室の戸は破れていた。が、その外は寝台も、西洋が
やも、洗面台も、それから明るい電燈の光も、ことごとく一
- 12 -
どちらも密室であり、犯人は「神」とドッペルゲンゲルという
特殊な存在なのである。
(注3)
「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。
あなたは私と約束した通り、アグニの神の憑った真似をやり
了せたじゃありませんか?──そんなことはどうでも好いこ
とです。さあ、早く御逃げなさい。
」
遠藤はもどかしさうに、椅子から妙子を抱き起しました。
作品に戻ろう。この後「婆さん」は予定通り「アグニの神」
を呼び出す。しかし、
「アグニの神」はあたかも「妙子」の計
略通りの事を話すのである。
「あら、嘘。私は眠ってしまったのですもの。どんなこと
を言ったか、知りはしないわ。
」
「婆さん」は死んだと思われ、その時「遠藤」はまだ部屋の外
と叫ぶ声」や「人が床の上へ、倒れる音」がしており、この時
が殺していない事を知っている。第六章の始めに「誰かのわっ
ているので、「遠藤」が殺したと考えるだろう。読者は「遠藤」
子」が殺した可能性を考えるし、「妙子」は自分ではないと思っ
「妙子」は「遠藤」が殺したと思う。登場人物のレベルで考
えるならば、
ここに「婆さん」の死体がある以上、「遠藤」は「妙
に死んでいました。
も自分の胸へ、自分のナイフを突き立てた儘、血だまりの中
倒れているのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外に
部屋の中を見廻しました。机の上にはさっ
遠藤はもう一度、
きの通り、魔法の書物が開いてある、──その下へ仰向きに
そして、部屋には「婆さん」の死体があった。
は解らないのである。
外から見ただけでは、「妙子」の言葉だけでは、本当かどうか
すでに述べたように四章での描写がこの「妙子」の言葉を証
明するものとなる。「遠藤」が「約束通り」と言っているように、
「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。
もし命が惜しかったら、明日とも言はず今夜の内に、早速こ
の女の子を返すが好い。
」
「婆さん」はあたかもその計略を見破ったかのよう
し か し、
であった。
「人を莫迦にするのも、好い加減におし。お前は私を何だ
と思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、耄碌はし
ていない心算だよ。早速お前を父親へ返せ──警察の御役人
じ ゃ あ る ま い し、 ア グ ニ の 神 が そ ん な こ と を 御 言 い つ け に
なってたまるものか。
」
婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の
先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「遠藤」は助けよう
「婆さん」は「妙子」を殺そうとする。
とするが、入口の戸はなかなか開かない。
Ⅵ
第六章になって、遠藤は部屋の中に飛び込む。
「計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだか
ら、──堪忍して頂戴よ。
」
- 13 -
ある可能性もある。真相は見ていないということなのである。
の胸にナイフを刺した所は見ておらず、あるいは単なる事故で
音しか聞くことができないのである。つまり、
実際に
「婆さん」
た時に殺されたとは限らないのである。戸に隔てられており、
にいたのである。しかし、厳密には、必ずしもこの声や音がし
しかし、「神」とても絶対的なものではないらしい。
だ、
「アグニの神」には「悪意」はない。
を利用しようとしたことの報いを受けたとも言えるだろう。た
のパターンだと言えるだろう。あるいはどちらもある意味で神
衣聖母』において、殺すことが神の実在を示唆することと同様
すべては「運命の力」と言う事になってしまうのである。こ
の失敗した事が反って成功に繋がるというのは、芥川の得意の
ただし、鍵穴から覗いていたことによって、最初から「妙子」
落ちである。それはともかくとして、「運命の力」について張
遠藤は婆さんの屍骸から、妙子の顔へ眼をやりました。今
夜の計略が失敗したことが、──しかしその為に婆さんも死
視野が限定されたこと、さらには音だけで殺す現場を見ていな
氏は先の論で次のように述べている。
ねば、妙子も無事に取り返せたことが、──運命の力の不思
いことにより、「神」
が殺したという解釈を成立させるのである。
しかいなかったということが証明されている。誰か別の人物が
と言うよりも、「遠藤」
がそのように解釈したということである。
または〈ア
総じて、「部屋」の中で起きた「出来事」の真相、
グニの神〉が実際に「こゝに来た」のだということよりも、
議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だった
全知視点であれば、真相を明らかにしなければならないが、
「遠
「御嬢さんの身の上を」案じていながら、鍵穴から覗き見を
い て 殺 し て 逃 げ た 可 能 性 は な い。 そ れ を 示 す た め の 覗 き で も
藤」の視点に限定することで、
「遠藤」における真相を示すだ
す る し か 出 来 な か っ た 遠 藤 に よ っ て、
〈神〉を身体化し、そ
あったのである。
「遠藤」でもなく、
「妙子」でもなく、また、
けで良いのである。
「遠藤」が「神」が殺したと思うのは許さ
の〈神〉をも含めたいずれの意志にも勝る「運命の力」を「お
のです。
れるが、「神」が殺したと「神」の視点から述べることはでき
ごそかに」体感させることに最終章の真意があったと思われ
他に人はいない。とすれば、殺したのは「神」しかいないこと
ないということである。この作品で場所が限定されていたり、
になる。視点が「遠藤」に限定され、戸や鍵穴などによりその
話者の位置が動いたり、視野が限定されていたのは、全てこの
すでに述べたように、この「出来事」の真相を描くことを目
的としていたのではなく、
あくまでも「遠藤」に「アグニの神」
る。
また、このことは同時にあの「妙子」の言葉が、みな「神」
の言葉であったということにもなるのである。つまり、これは
が殺したとおもわせる事、そして、それを読者が了承せざるを
ための仕掛けだったのである。
「神」が実在したということの証明でもあるのだ。また、
『黒
- 14 -
得ない状況(すなわち密室)を作ることが、この作品の目的だ
と考えられる。問題は、それらがすべて「運命の力」に帰すも
のなのかということである。それにしても、
ここで
「運命の力」
「私が殺したのじゃありません。あの婆さんを殺したのは
今夜ここに来たアグニの神です。」
遠藤は妙子を抱えたまま、おごそかにこう囁きました。
入門』
(メディアファクトリー新書)では次のように述べら
注1 個室ということについて、有栖川有栖・安井俊夫『密室
とはあまりに唐突ではないか。失敗することが成功をもたらす
ということが、
「運命の力」ということなのか。ここで注意し
台を上海にすることによって、個室を作ることができたと言
芥川の『影』はこの「お屋敷」が舞台であり、それによっ
て鍵の掛かる個室ができあがった。
『アグニの神』では、舞
有栖川 鍵の掛かる個室のリアリティというのは、西洋に
比べると日本ではやや希薄でしょう。
安井 はい。庶民のお家だと、昔はトイレとお風呂しか、
鍵はかかりませんでした。お屋敷なら問題ないですね。
れている。
たいのは、
先の引用には仕掛けがあったということである。
「計
略」は失敗したが、
「しかしその為に」
「婆さん」は死んだのだ
ろうか。「計略」が失敗したから、
「アグニの神」が登場したの
で は な く、
「アグニの神」が現れたから「計略」は失敗したの
である。「その為に」とは、
この順番を逆にしているのであり、
いわばすべてを「運命の力の不思議」に帰そうとしているとい
よるものではない。
「運命の力の不思議なこと」とは、失敗が
えるだろう。
うことである。
「アグニの神」の登場はなにも「運命の力」に
成功に繋がるという単純なことに過ぎず、
「アグニの神」はそ
童文学』
)で、この作品を「『妖婆』の童話版」としている。
注2 例えば、関口安義氏は「アグニの神」(『芥川龍之介と児
のことには関係ないのである。少なくとも、この作品を正確に
読めばそのようになるはずであり、すべてを「運命の力」に帰
「アグニの神」が犯人ということは「超自然的な力や不気
妖しげな魔術や超自然的な力や不気味な存在を使わず、
そんな奇怪なことを達成できるものだろうか。
犯人は、被害者を撃ち殺した後に、どうやって室内から
脱出したのだろうか。
「まえがき」で次のように述べている。
注3 二階堂黎人氏は、
『密室殺人大百科上』
(講談社文庫)の
そうとするのは無理がある。むしろ、
注目すべきは張氏が
「〈神〉
を身体化し」と述べていることである。つまり、
「神」を実在
させているということである。この「神」を実在させること、
それこそがこの作品の主題ではないのか。繰り返しになるが、
「神」を実在させるために、
「神」に殺人を犯させたというこ
とである。またそれを読者に了承させるための密室だったので
ある。すなわち「神」を実在させるための密室殺人だったので
ある。
- 15 -
う。ただし、本稿では次のような天城一氏の「密室殺人」に
味な存在」ということになる。ドッペルゲンゲルも同様だろ
じ方法で自殺することで殺人もまた信じてもらえることにな
したのは自分だと言っても信じてもらえないからである。同
きることにもなる。完全犯罪なるが故に、仮に「満村」を殺
○『母』
(
「中央公論」大一〇年九月)
けである。
う、完全犯罪のパラドックスがこの作品のモチーフだったわ
る。つまり、完全犯罪は殺人を証明することが不可能だとい
ついての言葉に従いたい。
す。
(
『天城一の密室犯罪学教程』
)
要約すると、密室殺人はそれ自身パラドックスです。だ
からメルヘン、ことばの語源的な意味で、小さな作り話で
出血」として受け取られてしまう恐れがあることである。そ
自殺(これもまた一つの殺人)とは見なされず、単なる「脳
ただし、同様の方法で自殺した場合一つ問題がある。それは
に駆られる。
それを避けるために自らの命を絶つことになる。
の後この「丸薬」を使って再度の完全犯罪を行うことの誘惑
して処理される。完全犯罪が成立したのである。しかし、こ
薬」によって殺害するが、殺人ではなく病死(
「脳出血」
)と
の作品では「ドクトル・北畠義一郎」は「満村恭平」を「丸
は「芸術的新探偵小説」の特集に発表されたものである。こ
『開花の殺人』
(
「中央公論」大正七年七月)である。こちら
補注 「密室殺人」は不可能犯罪といわれるが、芥川龍之介は
もう一つの不可能犯罪である完全犯罪の小説も書いている。
それでは、章をおって分析していこう。
もその場にいるような話者の視点から語られているからである。
なお、ここで〈呼んでいる〉というのは、この作品にはあたか
そこで、この作品においてどんな時に「母」と呼んでいるの
か、いわばこの作品の「母」の定義について考察してみたい。
か。
いる場面があるからである。子を亡くしても「母」なのだろう
た女が登場するからである。そして、その女を「母」と呼んで
か、ということである。というのは、この作品には子を亡くし
目したい。子を亡くしてしまった女は「母」と呼べるのだろう
ひきたくなるが、この中にある「子のある女」ということに注
『広辞苑』では、「母」について
「母」とはなにか。例えば、
「おんなおや。子のある女。母親。
」とある。「親」についても
Ⅰ
のために「北畠」は遺書を「本田子爵」に送ることになる。
第一章は、部屋の中をあたかもカメラが捉えていくように始
『アグニの神』という作品は、よくできたメルヘ
まさに、
ンなのである。
また、自殺することで実は、
「満村」を殺したことも証明で
- 16 -
まる。
部屋の隅に据えた姿見には、西洋風に壁を塗った、しかも
日本風の畳がある、
──上海特有の旅館の二階が、
一部分はっ
きり映っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新
しい何畳かの畳、最後にこちらへ後を見せた、西洋髪の女が
一人、──それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり
映っている。女はそこにさっきから、縫物か何かしているら
しい。
話者は姿見(鏡)に写ったものを描いていく。鏡には外見し
か写らず、感情などは写らない。だから、
「女」と呼ばれ、
「編
「この部屋ね、─この部屋は変えちゃいけなくって?」
(中略)
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌だ嫌だと云っていた
じゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が
嫌になったんですもの。」
何故、部屋を変わりたいのか、また、何故前の部屋は嫌だっ
たのか。この点はこの章でははっきりと書かれてない。ただ、
それに関することがほのめかされている。
「お前は己と約束したじゃないか? もう愚痴はこぼすま
い。もう涙は見せない事にしよう。もう、──」
男はちょいと瞼を挙げた。
み物か何かしているらしい」
と鏡に写ったものだけ語っていく。
まさにカメラの如くだが、カメラとは違い、
「切ないほど」と
「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎へは行きたくな
「涙は見せない事にしよう」とある。何があったのか。それ
は次の「あの事」ということになるが、それが何なのかは示さ
いとか、──」
いう話者の感情が含まれており、
人格化がされている。つまり、
前述のようにあたかもその場にいる人物として捉えられる。
ばれるだけである。それは、あたかも鏡に写った姿だけでは、
れていない。鏡には真相など映らない。
「母」という言
『母』という標題の作品だが、第一章では、
葉は出てこず、女は、
「女」もしくは「敏子」という名前で呼
外見だけでは「母」かどうか解らないということを示している
「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何
故この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれ
ほとんど敵意にも紛い兼ねない、悲しそうな光が閃いている。
男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、
注がれているのに気がついた。その眼には涙の漂った底に、
れば、──」
かのようである。子供と一緒になって初めて母と解るというこ
となのだろうか。ただし、ここでは子供については何も書かれ
て い な い。
「赤児の啼き声」が何度か繰り返し書かれているだ
けである。
「敏子」は執拗に旅館の部屋の変更について夫に
この章で、
うったえている。
- 17 -
へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の
何故この部屋が嫌になったか? ──それは独り男自身の疑
問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言の内に、男
える肩、濡れた睫毛、──男はそれらを見守りながら、現在の
に見えない炎のような、切迫した何物かが燃え立っている。震
敏子は伏眼になったなり、溢れて来る涙を抑えようとする
のか、じっと薄い下唇を噛んだ。見れば蒼白い頬の底にも、眼
気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。
句を次ぐのに躊躇した。
しかし言葉が途切れたのは、ほんの数秒の間である。男の
顔には見る見る内に、了解の色が漲って来た。
男は「何故」と聞きながら、その理由を知っている。知って
いながらあえて訊いている。それは理由にならないからという
敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。
」
「あれは己も気になっていたんだ。
男は感動を蔽うように、妙に素っ気のない声を出した。
映像化は、この作品の一つの特色となっている。
ひしがれた女の美しさを実によく捉えている。悩める敏子の
芥川は女性の美しさを描くのに特別の才を有したが、この
場面の敏子の描写は格別である。普段の敏子にない美、打ち
いる。
の場面について、関口安義氏は「美しさ」という事に注目して
とは呼ばれないが、夫として位置づけられているのである。こ
「女」というのが、話者の目線であれば、「妻」というのは
夫の目線だろう。
(とすれば、「母」とは誰の視点なのか。
)
「夫」
の で あ る。
「女」もまた、男がわかっていながらあえて訊いて
「あれか?」
いる事を解っている。だから、「男へ突きつけた反問」となる。
むしろ、逆に何故あなたは平気なのか、と言うのである。ここ
れか?」で暗示されているだけである。真相が明らかになって
るかのようですらある。
子」を「母」としてではなく、女として捉えないようにしてい
この男から見た美しさとは悩める母というのではなく、あく
までも「女」としての美しさである。それは、
あたかも男は「敏
「母」─「社会文学」平成二四年二月─『芥川龍之介新論』
(
所収)
からさらにこの点について述べたい。また、この「あれ」も具
には女と男の違い、さらには、
「母」と父の違いが示唆されて
体的には解らない。ただ、伏線として最後に赤児が泣いている
このように第一章では「敏子」は「妻」と呼ばれることはあっ
ても「母」と呼ばれることはないのである。
いるとも読めるが、
真相はまだ語られておらず、
その答えが「あ
事が書かれている。
「あれ」が赤児の泣き声だとしても、何故
それが嫌なのかは解らないままである。
第一章では「母」は登場していないが、
すでに述べたように、
一ヶ所だけ、
「妻」と呼ばれる場面がある。
- 18 -
Ⅱ
け気持ちが重なり合った。だから、それまで悲しそうにしてい
たのが、ここでは「幸福そう」にとなっている。また二人が重
なることで、この瞬間だけ「敏子」の気持ちがかつての「母」
にする。)この「敏子」も基本的には女と書かれるが、
「母」と
女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。
これと同様の表現がもう一度繰り返される。
の気持ちになったと解釈することも出来るだろう。
呼ばれるところがある。そして、第一章では「母」と呼ばれる
「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでござい
ましょう?」
第二章には子供を産んだばかりの若い「敏子」が登場する。
(どちらも「敏子」なので、こちらは若い「敏子」と呼ぶこと
ことのなかった「敏子」もこの章では「母」と呼ばれている。
敏子は出窓へ歩み出ると、眩しそうにやや眼を細めた。
るのである。若い「敏子」は子がいるのだから、
「母」とする
単に「二人の母」と言っているが、二人の状況は全く違ってい
者の説明ではなく、女同士の会話の中で示される)
、話者は簡
事(即ち、第一章の真相)が書かれているのであり(しかも話
ここには「二人の母は」とあり、二人を同じように「母」と
呼んでいる。しかし、この場面の前に「敏子」が子を亡くした
と言う。それはなぜなのか。それは、前述のように二人の女の
る。あたかもその違いを無視したかのように話者は「二人の母」
ここで話者はさりげなく「二人の母」と呼んでいるが、先に
示したように二人の置かれている状況はまるで違うものであ
福そうに」と「寂しそう」の違いとして示されている。
うどさっきとは逆の関係になっているのである。それが、
「幸
に重なっていると考えられる。
同じように重なるとしても、ちょ
「一時は随分悲しゅうございましたけれども、──もうあ
きらめてしまいましたわ。
」
のは良いが、すでに「敏子」が子を亡くしたことが話されてお
気持ちが重なっているからだと考えられる。そして、若い「敏
「ええ、こうやって居りましても、居睡りが出るくらいで
ございますわ。
」
り、「母」と呼べるのだろうか。しかし、話者はそんなことに
子」は「母」と呼ばれる資格があるということである。その若
二人の母は佇んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。
お構いなしに「二人の母」としている。一応、この場面で「二
い「敏子」に重なることで「敏子」もまた「母」と呼んでもら
二人の母は佇んだまま、幸福そうに微笑し合った。
人の母」としているのは、
「敏子」が若い「敏子」に重なって
「二人の母は佇んだまま」と同じ表現を用いているが、今度
は「寂しそう」となっている。若い「敏子」が同情して「敏子」
いるからだと解釈できる。元々「たあた」を編んで幸福そうに
えるということなのではないか。これは逆に言えば、子を亡く
」
「まあ、御可愛いたあたですこと。
しているのは若い「敏子」であり、その若い「敏子」と一瞬だ
- 19 -
した女は「母」と呼ばれないということにもなる。確かに、こ
の二つの場面以外「敏子」は「母」と呼ばれていないのである。
やや上気した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。
女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、
第二章では、もう一箇所「母」という言葉が使われている。
も出来るだろうけれど。
は「母」と呼ばれない「敏子」が、より一層哀れだという見方
無論、逆にそのような「敏子」
、若い「敏子」に重ならなくて
の気持ちになれたのは、
幸せだったという見方も出来るだろう。
られるが、しかし一方で、ほんの一瞬であれ「敏子」が「母」
また、この正反対の境遇の二人をさりげなく同じだとしてい
ることは、当然作者の計算であり、第三章への伏線として捉え
う。「子のある女」が「母」なのである。
られるはずはなかった。それが、この手紙に対する彼女の常軌
うことを表しているかのようである。しかし、子供の事を忘れ
また、この章では「敏子」は「妻」と呼ばれる事が多い。そ
れは、あたかも子供の事を忘れ、
「母」という事を忘れたとい
のではないか。
こでこそ「二人の母」と呼ばれるべきものが、呼ばれていない
れた。けれども、今度はどちらも子がいない。そのために、こ
あの時、若い「敏子」には子がいた。だから「二人の母」とな
を亡くした女は「母」
と呼ばれる資格がないからと考えられる。
と呼ぶべきだが、この章では「母」とは呼ばれない。それは子
の状況は全く同じになったのである。ここでこそ「二人の母」
第三章で、若い「敏子」が病気で子供を亡くしたという手紙
が届く。第二章では「二人の母」と呼ばれながら、二人のおか
Ⅲ
──しかしその乳房の下から、──張り切った母の乳房の下
を逸した態度に見られる。
そして、これがこの作品の「母」の定義と言うことになるだろ
から、汪然と湧いて来る得意の情は、
どうする事も出来なかっ
この「得意の情」の裏返しが子を亡くした女の悲しみと言うこ
る。無論、
この「得意の情」は第三章への伏線ともなっている。
「母の乳房」とはまさに子供を意識した表現である。定義通
りに子のいる若い「敏子」は一人でも母と呼ばれているのであ
ている、気味の悪い力に似たものさえ。
さえ感じた。
日の光に煙った草木の奥に、いつも人間を見守っ
幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄なもの
敏子は男を睨むようにした。が、眼にも唇にも、漲ってい
るものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい
れた状況はまるで正反対の状態だった。しかし、ここでは二人
たのである。
とになる。
(中略)
「私は、──私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなく
- 20 -
なったのが、──」
敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。
「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんで
すけれども、──それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては
悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。
」
敏子の声には今までにない、荒々しい力がこもっている。
男はワイシャツの肩や胴衣に今は一ぱいにさし始めた、眩い
日の光を鍍金しながら、何ともその問に答えなかった。何か
こうした〈母〉の理解がいかにも観念的で、幼稚な──当
時の常套の語でいえば〈中学生じみた批判〉に見えるのは確
かである。だからこそ、それは〈母〉を夢想の幻影とどめね
ばならなかった龍之介の宿命のかたちを暗示するのである。
「 宿 命 の か た ち ─ ─ 芥 川 龍 之 介 に お け る 母 」 ─『 芥 川 龍
(
之介論』所収)
ここで言うように「〈中
「悪魔」かどうかはともかくとして、
学生じみた批判〉
」ということなのだろうか。
と考えられるので、このような「敏子」の態度は理解しづらい
は「敏子」と若い「敏子」とのやりとりについて知らなかった
方である。何故、そのような捉え方をするのか。
(ただし、男
「気味の悪い力」
、
「何か人力に及ばないもの」を見ている男の
ここで注目するのは、むしろこの解りやすい「嫉妬」に対して
「敏子」には子供のいた若い「敏子」への嫉妬があったとい
う事だ。あの
「得意の情」
への反発ということになる。しかし、
か? もう愚痴はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。
」
という自分の言葉を守っていると考えられる。だから、あくま
亡 く な っ た 子 供 の 事 に つ い て「 お 前 は 己 と 約 束 し た じ ゃ な い
ことになる。しかし、父はいないのである。これは第一章で、
に対しては夫として位置づけられるのであり、それ故夫はいる
だけである。ただし、
「妻」と呼んでいるところがあり、
「妻」
だが、この作品には父という言葉は出てこない。男という表記
人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞がったように。
とは言える。無論、
読者は知っているのであり、
想像しやすい。
)
は認めないのである。ただし、「あれは己も気になっていたん
このことについて考えるために、いささか唐突だが、父とい
う事について考えてみたい。「母」がいるのなら父もいるはず
この場面について、すでに三好行雄氏による次のような指摘
がある。
れていた。第三章でも男が子供について考える場面がある。
男はもう一度ハムモックに、ゆらりと仰向けになりながら、
同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、未に瀕死の赤児
だ。
」とあることは、男も子供について考えていた事が示唆さ
でも「敏子」を「妻」としか呼ばないのである。「母」として
大正十年に書かれた「母」でも、死んだわが子を悼む母の
悲しみは、おなじ不幸に遭遇した母親の手紙の前で、
〈激し
彼女の〈酷薄な〉微笑は、夫を脅えさせる。
〈母〉は〈悪〉
が一人、小さい喘ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、い
い幸福の微笑〉を浮かべることのできる悪魔を隠していた。
と隣りあわせに、〈女〉の心性のうちに住んでいたのである。
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な赤児の泣き声に。──男はそう云う幻の中にも、妻の読む
つかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の間を縫った、健康
『好色』は五章からなっているが、その第四章〈好色問答〉
で主人公の「平中」の不幸が語られている。
○『好色』(
「改造」大正一〇・一〇)
か人力に及ばないもの」
という不可知なものとは、
実はこの
「母」
そうではなかったということである。
「気味の悪い力」や「何
持ちの現れと考えられるのである。「妻」
とばかり思っていたが、
考えられる。しかし、手紙に対する態度はやはり、
「母」の気
ではなく、夫に対する「妻」という位置づけがなされていると
ように「妻」
という言葉が多く使われている。子供に対する
「母」
た子供の死を乗り越えたのだろうか。この章では先にも述べた
考えられる。けれども、
「母」はどうなのだろうか。
「母」もま
はいないように読める。だから男であって父とは呼ばれないと
たという事なのだろうか。少なくとも、子供の死を引きずって
のは、どのような意味があるのだろうか。子供の死を乗り越え
「未に」とあるのは、自分の子供の病気の時を思い出してい
るのだろうか。しかし、それが「健康な赤児の泣き声」になる
ればこそだね。あれは平中一人ぢゃない。空海上人や小野道
せだと云うものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才な
終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合
そんな美人のいる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に
転々と憂き身をやつしに行くのだ。しかも末法の世の中に、
う云う蜃気楼は壊れてしまう。
その為にあいつは女から女へ、
る事が出来たと思っているのだ。が、勿論二三度逢えば、そ
云う美しさを見ようとしている。実際惚れている時には、見
髣髴と浮んでいるからだよ。平中は何時も世間の女に、そう
は、何時も巫山の神女のような、人倫を絶した美人の姿が、
に、可笑しい程夢中になってしまう。あれは平中の心の中に
出来ると、忽ちその女に飽きてしまう。そうして誰か外の女
範実 「僕か?僕はあまりなりたくない。だから僕が平中
を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人
手紙に聴き入っていた。
という存在それ自体ではないか。
は、御同様凡人が一番だよ……。」
天才とは永遠にあくことなく、絶対を求めつづけるもので
ある。したがって、人々を傷つけずにしおかないし、自己自
ここで言われている事は、駒尺喜美氏の指摘する通り、「天才」
の不幸という事である。
風も、きっとあいつと似ていたろう。兎に角仕合になる為に
この『母』という作品は、字義通りに子のある女を「母」と
したが、最後に「母」というものが字義を超えた、
「人力」を
超えた存在である事を示した作品だと考えられる。つまり、た
とえ子を亡くそうとも、
「母」はいつまでも「母」だというこ
となのである。あるいは、
「母」とはなにかは、所詮男には解
らないということか。
身も不幸におちいらざるを得ない。が、それは絶対を求める
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本稿で問題とするのは、「天才」
ということではなく、
しかし、
「心の中」の「美人」の方である。というのも、同時期に発表
(
「メリーゴーランド」─『芥川龍之介の世界』所収)
う解釈も出来るのである。心の中の画に勝る画は現実には存在
中に画があるために、現実の画に感動できなくなっているとい
ことが出来たから、その美しさが解ったのであり、二人は心の
られる。あるいは本当の傑作を知らないためだとも解される。
「王石谷」たちと「廉州」では鑑識の能力が違うためだと捉え
された『秋山図』
(
「改造」大正十年三月)にも、心の中の像が
ものの宿命である。
登場するが、そこでは歓迎されていたからである。
『秋山図』
しないのではないか、ということである。とすれば、この後二
人はどんな画を見てもさほどの感動はしないことになるのでは
しかし、
『好色』を踏まえるならば、
「廉州」は先入観無く見る
は次のように終わっていた。
ないか。それは不幸とも言えるだろう。このように考えるなら、
その怪しい秋山図が、
はっ
「しかし煙客先生の心の中には、
きり残っているのでしょう。それからあなたの心の中にも、
後で「平中」が最高の美人を見ているからである。
『好色』は『秋山図』の先を描いたという事も考えられるが、
「山石の青緑だの紅葉のしゅの色だのは、今でもありあり
見えるようです」
この作品の最後で半死になった「平中」は侍従の姿を思い浮
かべる。
ていた。また、同じように心の中に画があると言われた「煙客
場面の前で王石谷は王氏の「秋山図」を見て、別のものだとし
方によっては、
「範実」のような見方もできなくはない。この
も寂しすぎると云うだけなら、何処か古い画巻じみた、上品
所でもう少し欲を云えば、顔もあれぢゃ寂しすぎるな。それ
は 一 目 見 た 時 に も う ち ゃ ん と 気 が つ い て い た の だ。
(中略)
何時かあの範実のやつと、侍従の噂をしていたら、憾むら
くは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云ったっけ、あんな事
これこそ理想の女性像ではないか。現実の「侍従」について
は次のようにあった。
必ずしもそうとは言いかねる面もある。それは、この作品の最
「では秋山図がないにしても、憾むところはないではあり
ませんか?」
しかしその時の侍従の姿は、いつか髪も豊になれば、顔も
ほとんど玉のように変わっていた事は事実である。
──」
惲王の両大家は、掌を拊って一笑した。
こちらでは、心の中に画がある事を喜んでいる。同じ時期に
書かれていながら、まるで正反対のように見える。心の中にす
ぐれた美(人であれ、画であれ)を持つことは幸せなことなの
先生」も同様に捉えていた。ところが、その後に来た「廉州先
な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所
か、それとも不幸のことなのか。ただし、
『秋山図』でも、見
生」は同じ画を見て「癡翁第一の名作」と言う。これは、一見
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をしたのは、存外人を食っているものだ。その上色も白い方
があるのは、どう考えても頼もしくない。女でもああ云う顔
は、作者自身の問のはずなのだから。
ていたのだろうか。当然、この幸せなのか不幸なのかという問
ぢやない、浅黒いとまでは行かなくっても、琥珀色位な所は
あるな。
「髪も豊に」なり、顔も「琥珀色」から「玉のよう」になっ
ていて、ここで述べられている欠点が全て解消されているので
ある。それこそまさに理想の女性像といえるだろう。それは、
あたかも「平中」の心の中の美人が現前したかのようである。
いや、心の中に美人がいたからこそそのような美人を見ること
が出来たのである。とすれば、心の中に美人がいることは必ず
しも不幸とばかり言えないのではないか。
最高の美を心の中に持っていること、それが画であれば笑っ
て済ませるが、美人であれば不幸になる、などと簡単には言え
ない。画家として誰も見ることの出来ない画が心の中にあるこ
とは幸せではあっても、現実に存在するどのような画にも感動
しなくなるかもしれないのである。また、心の中に最高の美人
がいるために現実にいるすべての女性に失望していくことは不
幸かもしれないが、こちらもまた誰も見たことのない美人を見
ることが出来るのなら、それはそれで幸せかもしれないのだ。
一見すると、
『秋山図』では、心の中に画があることの幸せを
描き、『好色』では、その先の不幸を描いていると読める。し
かし、『好色』は必ずしも不幸とばかり言えない結末となって
いる。果たして、心の中に最高の美がある者は、幸せなのか、
不幸なのか。
それにしても、
作者は一体どんな美を心の中に持っ
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