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開港期釜山における東本願寺別院と地域社会 ( 国

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開港期釜山における東本願寺別院と地域社会 ( 国
Kobe University Repository : Kernel
Title
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会 (<特集>国
際ワークショップ海港都市国際学術シンポジウム「東ア
ジアの海洋文化の発展 : 国際的ネットワークと社会
変動」)(The Relationship between Higashi Honganji
Busan Betsuin and Communities of Seaport City of
Busan in Late 19th and Early 20th Centuries
(International Symposium for Port Cities Studies
"Development of Maritime Culture in East Asia :
Transnational Network and Social Changes"))
Author(s)
金, 潤煥
Citation
海港都市研究,6:43-57
Issue date
2011-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002771
Create Date: 2017-03-30
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開港期釜山における東本願寺別院と地域社会 *
金
潤 煥
(KIM Yunhwan)
はじめに
本研究は、近代東アジアの海港都市であった釜山を対象とし、日本仏教真宗大谷派東本
願寺別院と当該地域の朝鮮人や移住して来た日本人居留民との関係を考察することを目的
としている。
対象地域である近代東アジアの海港都市釜山は、人・モノ・文化が集まり、交流・ 疏
通する空間である。本研究は、仏教という共通文化であり、日本という異文化でもある日
本仏教を取り上げ、当該期の地域社会と宗教との関係から海港都市という地域社会の特色
を明らかにするための試論である。そして、それは近代における日本と東アジア諸地域と
の関係を考えることともつながっていると思われる。
近代日本仏教史の研究史を捉える場合に、二つの潮流がある。ひとつは、明治維新に
よって天皇国家体制が構築されていき、その体制にたいして仏教がいかなる反応をして
いったかという、いわば 「国家と宗教」 について、二つ目は、近代仏教として教団がいか
なる理念に基づいて教団形成を模索していったかを課題とするものである[日本仏教研究
会 2000: 62-70]。近代日本仏教における中国や朝鮮、台湾などの東アジアの諸地域への
進出についても、この二つの視点からの研究が可能であろう。日本仏教の朝鮮進出に関す
る先行研究は、主に明治政府と協力して行った宗教的な侵略であると分析している。そ
して、
真宗大谷派を中心に日本仏教の全般的な海外布教活動の実態や制度に関する研究[小
* 本稿の東本願寺釜山別院と朝鮮人との関係については、拙稿「近代日本仏教における朝鮮進出と地
域社会 : 開港初期釜山における東本願寺別院と朝鮮人との関係」(
『第 5 回立命館大学コリア研究セン
ター次世代研究者フォーラム論文集』立命館大学コリア研究センター、2011 年 3 月発刊予定)で詳
細に考察しているのであわせて参照されたい。
1 本稿では、奥村円心『朝鮮国布敎日誌』[柏原 1975]を主要な史料の一つとしている。この史料は、
奥村円心が朝鮮へ伝道を行った 1877 年 10 月から 1897 年 6 月に至る間の記録である。
日本仏教の朝鮮進出に関する先行研究として、日本研究者側からは、日本仏教のアジア侵略につい
ての反省や批判[美藤 1987]、[菱木 1993]、韓国側からは、宗教的侵略に対する批判として[김경
집 1992]、[김순석 1994]、[채상식 2000]といった成果があげられる。
44
海港都市研究
島・木場編 1992]や真宗大谷派朝鮮布教の基礎的な研究[木場 1992]などがあげられる。
また、李東仁という朝鮮開化僧侶を中心に、釜山東本願寺別院と朝鮮開化派の関係に着目
した研究[韓晳曦 1988、최인택 2000]や、真宗大谷派の朝鮮における社会事業を中心
とした研究[諸点淑 2006]がある。いずれも、宗派の活動を中心に述べており、地域社
会との関係に関する分析は少ない。
そこで、本研究では、先行研究から学びながら、開港期釜山に進出した東本願寺釜山別
院と地域民との関係に着目して分析を行う。開港場であり、前近代から朝鮮のなかで日本
との関係を持っていた釜山という地域の特性をふまえながら、日本仏教が、釜山に進出す
る過程で、地域民とどのような関係を持っていたか、そして、当該地域社会が日本仏教を
どのように受け入れたのかを明らかにしたい。
Ⅰ 近代釜山における東本願寺別院の設置
1 近代における日本仏教の国内状況と朝鮮進出
明治維新以後、明治政府は天皇を頂点とした神道国教化政策を行った。政策を推進する
中で神仏分離が実施され、廃仏毀釈運動にまで発展した。これによって、近代における日
本仏教は、檀家制度に安住し、幕藩権力の一翼を担ってきた従来の立場が脅かされること
になった。しかし、こうした神道の国教化政策は、庶民の反発や仏教勢力の必要性(民
衆に対する教化活動には仏教の力が必要であり、東・西本願寺は財政的にも明治政府を
支援した。
)
、宗教自由論、西洋諸国のキリスト教解禁要求などにより挫折した。そして、
条約改正等と相まって、1875 年には信教の自由が認められた。その結果、神道は宗教で
はなく国家の祭祀であり、国家神道という形で公定イデオロギーとなった[安丸 1979:
75-77、岩波新書編集部編 2010: 29-56]。
他方、近代日本仏教は、上述のように対内的には神道に既成の立場を脅かされるが、対
外的には教勢を伸ばしていく。この流れに、他の宗派より早く乗りだしたのが浄土真宗大
谷派であった。真宗大谷派にとって海外進出は、日本国内での狭められた位置を回復、海
外への新しい布教圏・布教権を確保するためであったと考えられる。
1876 年の「朝日修好条規(江華島条約)」の締結により、朝鮮初の開港場が釜山に設
置された。大谷派の朝鮮進出の動きもあり、1877 年に外務卿寺島宗則は内務卿大久保利
通を介して大谷派本山に朝鮮開教を勧めた。大谷派の本山は奥村円心と平野惠粹を釜山に
派遣し、朝鮮開港以来、日本仏教では初めて、朝鮮開教の拠点になる布教所を設置した[大
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会
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谷派本願寺釜山別院 1926: 3-4](1878 年 12 月に浄土真宗大谷派東本願寺釜山別院と改
称)
。東本願寺釜山別院は、釜山の日本人社会のみならず、朝鮮人社会とも多様な形で関
係を有しながら布教を行った。
2 釜山の開港と日本人居留民社会の形成
釜山には、開港前から草梁倭館が存在した。朝鮮時代、倭舘での外交交渉と貿易は江
戸幕府の一任下で対馬が担当しており、その構成員も主に対馬人であった。釜山の草梁倭
館は、朝鮮と日本の外交関係において、朝鮮唯一の交流の窓口でもあった[박진우 2007:
55-56]
。
1877 年 1 月、釜山には「朝日修好条規」の規定に従って、草梁倭舘がそのまま引きつがれ、
日本人専管居留地が設置された。1876 年 9 月に明治政府は太政官布告第 128 号を出し釜
山への渡航を許可した[박진우 2007: 58]。これによって、正式に対馬だけではなく、日
本各地からの渡航が可能になった。
日本人居留民は、開港直後は 82 人ほどであったが、真宗大谷派布教所ができた 1877
年には 300 人、1880 年に 2,000 人、日清戦争前後に 5,000 人、1903 年には 10,000 人
を超えるようになった[川島 1935: 17]。渡航者の目的は、主に、公用、商用であり[木
村 1989: 17]
、仲貿商、貿易商、小売雑商等の商業活動が中心であった。渡航者の出身地
は、開港前からの倭館との関係や地理的に近い、対馬、長崎、山口等の西日本であった[坂
本・木村 2007: 23-24]。その中でも、当時の新聞記事によると、開港後のわずか 2 年の
間に釜山の居留地は「まるで対馬厳原の町」のようであり、半分以上が対馬出身の人であ
ると書かれている。その他にも、対馬大親睦会の結成、商業活動も既存の対馬の人々に
頼ることが多かった[香月 1897: 333]ことから、釜山日本人居留民社会において対馬の
人々が重要な位置を占めていたといえる。
草梁倭館は、1678 年に、約 11 万坪の広さで、釜山の草梁に設置された。朝鮮時代、倭舘での外交
交渉と貿易は幕府の一任下により対馬が担当しており、倭舘に関するすべての権限は朝鮮側が持つ。
前近代の朝鮮と日本の関係において、釜山は朝鮮唯一の交流の窓口であった。倭館は 15 世紀初頭、
初めて設けられた ( 釜山浦、乃而浦、鹽浦 )。1582 年、豊臣秀吉の朝鮮侵略により閉鎖。徳川幕府時
期から、
倭館再設置 ( 豆毛浦 ) の過程を経て草梁倭館に移転。1872 年 5 月、
明治政府は徳川幕府に変わっ
て、東萊府使との直接交渉を要求するが、朝鮮は明治政府との交渉を断る。1872 年 9 月、日本政府
は花房義質と陸軍を派遣して、対馬が担当してきた朝鮮との交渉を外務省が接収した。その後、日本
側はペリーの軍艦外交をまねいた江華島事件を起し朝日修好条規を締結した。
『朝鮮新報』、1882 年 3 月 15 日。
『朝鮮新報』、1882 年 3 月 5 日。
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海港都市研究
3 東本願寺釜山別院の設置
開港前の草梁倭館には、「東向寺」 という臨済宗の寺院が存在した。この寺院の僧侶は、
主に朝鮮との外交文書の草案の作成や文書の確認などの外交業務を担当し、朝鮮側から
は 「書僧」 と呼ばれた[田代 2002: 46]。また、盂蘭盆会などの仏教行事も行った[田代
2002: 93-94]
。その他にも、倭館での葬祭ともかかわっていたと考えられる。それは、
『京
城日報』1935 年 6 月 25 日付の新聞記事から推測できる。
日本人最初の墓と過去帳とを発見、日韓交遊の昔を語る尊い文獻 釜山の知恩寺境內
(釜山)釜山大庁町の知恩寺では目下寺内の拡張工事中であるが北側、土■■より■
八年■■二月 ( 中略 ) 次いで二百七十年前の寛文元年より慶応年間に至る二百二十年
間の日韓通商の有様を如実に物語る倭館東向寺の過去帳が知恩寺庫裏より発見され
た、過去帳には一千四十名の死亡年月日が紙魚に荒らされながらも明瞭に判読され釜
山浦開発の恩人と祠られる対州藩の津江兵庫亮をはじめ ( 中略 ) 因に東向寺は約三百
年前釜山鎮豆毛浦倭館に建立され明治九年廃寺となって対馬厳原西山寺に合祠此の過
去帳があったのを明治三十七年府内本町中野許太郎翁が発見して是れを書写し知恩寺
へ寄付したものである(傍線、筆者)
この記事は、東向寺の跡地から葬祭に関連する記録「過去帳」が発見され、1,410 名分
の死亡年月日が記録されていること、また、東向寺は 1876 年に廃寺となり、対馬厳原西
山寺に合祠されたことを伝えている。
1876 年に開港された釜山の日本人居留地では、日本各地からの渡航者が増えるなかで、
東向寺の廃寺もあり、葬祭関係の宗教施設が必要な状況となっていたと考えられる。この
流れから、1877 年に真宗大谷派の東本願寺釜山布教所 ( 後、釜山別院 ) が設立されたの
である。
真宗大谷派から派遣された奥村円心と平野惠粹は、釜山に上陸した後、日本人居留地
の管理官近藤真鋤に大谷派本山の書簡を渡し援助を要請した[朝鮮開教監督部編 1926:
23]
。近藤管理官はすでに外務省からの連絡を受けていたので、それを引き受けた。また、
奥村円心らは釜山別院官舎の借用願書を管理官に提出し、西官第 3 区 2 番地である 「参
判官館舎」 を引き受け布教場として利用した。この建物は、破損しているところが多かっ
「日本人最初の墓と過去帳とを発見」(『京城日報』
、1935 年 6 月 25 日)
。
「私共今般當港布敎之為め航海仕豫而従来之寺跡も有之哉に傳承仕候處右寺跡は目金御入用之趣に付
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会
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たため、官木などの払い下げを受け修理を行った。その後、釜山別院の輪番奥村円心は、
建物及び敷地 800 坪の永代借用の願書を管理官を通じて政府に提出し、1877 年 12 月 8
日に外務省から許可を受けることになる。このように、布教基盤を整えたうえで、本格的
な布教活動をはじめた。1877 年 11 月 8 日から、毎月 4-5 回の定期法会[大谷派本願寺
釜山別院 1926: 14-15]を開始し、単なる仏教の教えに止まらず、居留民の日常生活に関
する相談 • 指導も行っていた。
Ⅱ 東本願寺釜山別院と日本人社会
1 東本願寺釜山別院と管理官 ( 領事 ) との関係
一章で既に述べたように、大谷派の朝鮮進出の動きもあり、1877 年に外務卿と内務卿
が大谷派本山での朝鮮開教を勧めた。事実、東本願寺の朝鮮布教は、その始まりから明治
政府との関係を持つものであった。東本願寺釜山別院は、居留地の敷地提供、官木の払い
下げ、敷地に対する税金の免除[大谷派本願寺釜山別院 1926: 32-36]、朝鮮派遣の日本
官吏から寄付金等の支援を受けていたことからも明らかである。
東本願寺側は朝鮮内だけではなく日本においても、当時の朝鮮とかかわりのあった日本
第三区二番地官舎破損之一宇拜借仕度御許容被成下候はば相當之普請を加へ居留仕度候朮御入用之節
は何時にても返上可仕候間此段奉懇願候也
明治 10 年 10 月 1 日
大日本国京都下京三十区常葉町
眞宗東派本願寺役者 訓導 奧忖圓心
敎導織試補 平野惠粋
管理官 近藤眞鋤
右之通願出候付取次差出申候也
用番 阿比留護助」[大谷派本願寺釜山別院 1926: 8-9]
。
「私共先般西館第三区二番地官舎拝借居住仕居候然ル処今般布教上御座閊モ無御座趣御本省ヨリ御達
之上ハ右官舎を以テ布教場ニ充テ申度候間御座閊之筋モ無御座候ハバ永代拝借之儀御許可被成下度此
段奉懇願候也
京都府下京三十区常葉町
真宗東派本願寺役者
明治十年十二月十七日
教導職試捕 平野惠粋
訓導 奥村円心
管理官 近藤眞鋤
右之通願出候間取次差出候也
用番 真島仙蔵」[大谷派本願寺釜山別院 1926: 11-12]
。
前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年十二月二十八日 「此日公使出艦。故ニ別ヲ告クルトキ、公使花
房義質・書記官近藤真鋤両氏ヨリ金一千疋宛ヲ遷仏会ニ付寄付セラレタリ。
」。
48
海港都市研究
外務省の官吏と接触した。まず、朝鮮に派遣された日本国弁理公使花房義質とは、「花房
弁理公使君は昨廿四日朝鮮釜山港へ向け当地を発程せらるるに付き鈴木教正は祖道の為新
橋停車場まで送られたり同君は釜山より直ちに京城に■かれ御用■の上元山津へも巡回せ
らるる由に聞く」10( 傍線、筆者 ) とあるように、花房弁理公使が東京から釜山に渡航する際、
真宗大谷派の外国布教長鈴木恵淳が彼を見送ったことが記録されている。また、釜山の日
本領事であった前田献吉とも東京で数回会った記録がある。
『朝鮮国布敎日誌』の記述から、
朝鮮元山に東本願寺別院を建てることに関する話し合いであったことがわかる11。このよ
うに、海外進出の足がかりのために、朝鮮あるいは釜山地域と関係した日本外務省官吏と
の関係を深めていたと考えられる。
その一方、管理官 ( 領事 ) が東本願寺の僧侶と朝鮮について談話したり12、当時釜山駐
在の前田総領事が軍艦に乗って朝鮮各地を周遊する際、東本願寺の布教僧が同乗を許され
た13 ことから、領事らも別院の僧侶を利用したことが読み取れる。
2 開港期釜山における東本願寺釜山別院の諸活動
東本願寺別院は開港後の釜山に初めて設けられた宗教施設であった。開港以後から植民
地期までの東本願寺釜山別院は、布教活動、葬祭、教育活動、慈善事業はもとより、居留
民の日常生活に関する相談 • 指導14、衛生、墓地管理・火葬場事業、教誨などを始めとして、
日本人居留民社会が必要とするあらゆる面と密接に関係していた15。
開港初期における東本願寺釜山別院の諸活動としては、葬祭、教育、慈善事業などがある。
まず、葬祭関係では、草梁倭館から日本人専管居留地へ移行するなか、東本願寺釜山別
院も倭館の東向寺と同様に、日本人居留地において日本人の 「死」 と係わっていたと考え
10 『開導新聞』、明治十三年十一月二十五日。
11 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十三年二月 五日、「東京在前田献吉氏ヨリ ( 後筆傍註:釜山総領 ) 元
山津別院建設ノ儀ニ付東上セヨトノ報来レリ。」、明治十三年二月十四日、「前田献吉氏ヲ三田豊岡町
十六番地ニ訪問シテ数時間談話シテ浅草別院エ引取ル。
」、明治十三年二月十五日、「前田献吉氏ノ照
会ニテ元山別院建設方一切大倉喜八郎ニ依託セリ。
」、明治十三年二月十九日、外国布教長鈴木恵淳氏・
前田献吉氏ヲ浅草別院ニ饗応ス。」。
12 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年十月一日。
13 『朝日新聞』、1883 年 5 月 4 日。
14 「対馬人癖トシテ堕胎ヲナスモノアリ。官理官 ( ママ ) 添田節氏ノ内喩ニテ、該件ノ上ヨリ矯正ノ義
懇喩アラン事ヲ依託セラレシユエ、懇々話喩セシ処、遂ニ此癖ヲ止ムルニイタレリ。
」 ( 前掲『朝鮮国
布敎日誌』、明治十一年五月六日 )。
15 前掲『釜山と東本願寺』、前掲『朝鮮開教五十年誌』
、前掲『朝鮮国布敎日誌』
、真宗大谷派本願寺寺
務所文書課『宗報』、1898-1901 年、『中外日報』等からの釜山別院の活動を分析した。この点に関し
ては稿を改めて詳しく論じることにしたい。
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会
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られる。それは、1883 年から 1885 年まで陸軍軍医であった小池正直の『鷄林醫事』(1887)
に、
「毎年ノ死亡ハ廿四名二シテ即チ平均毎月二名ノ死亡二当ルナリ因テ試ミニ之ヲ本願
寺出張所ニ正スニ亦言フ平均大約二名ノ死亡アリト以て暗符スルヲ知ルナリ」
(傍線、筆者)
[小池 1887]と書かれており、死亡者の人数が本願寺出張所(東本願寺、筆者)で確か
められることから、東本願寺別院が葬祭などの死亡者管理も行っていたことがわかる。
また、開港による日本人渡航者の増加に伴い、釜山では彼らの救済を目的とする慈善
事業が必要とされた。他の組織より早く別院が 1877 年 12 月に 「釜山教社」 を創立し、
慈善事業を始めた。「釜山教社」 の主たる活動は、釜山に進出した日本人貧困層の生活支
援、帰国者の世話、壬午軍亂、甲申政変時の居留民への生活支援等であった。また、日
清 • 日露戦争中には出征軍人やその家族への世話もした[大谷派本願寺釜山別院 1926:
18-30、56-58]。
そして、釜山別院は 1877 年の児童教育をはじめ、1879 年 1 月に 「韓語学舎」 を設置
し、居留民を対象に朝鮮語の教育を実施している[大谷派本願寺釜山別院 1926: 40]。
3 東本願寺釜山別院の経営と組織構成
釜山別院の経営は、当初大谷派本山からの毎年 1,236 円の別院維持費と、それとは別
に別院事業にかかわる所要金額の支援および居留民からの寄付金で維持されていた。しか
し、1903 年 12 月に、大谷派本山は財務整理を行い補助金を廃止したため、釜山別院は
信徒からの寄付金、火葬場・墓地管理の収入で、独立経営を行うことになった[大谷派本
願寺釜山別院 1926: 50]。
東本願寺釜山別院は、本山から派遣される輪番、輪番助勤と居留民を中心に総代や世話
方が組織され、彼らが別院の経営を行った。
1877 年に派遣された奥村円心から 1910 年までの釜山別院の輪番を整理したのが表 1
である。
表 1 からわかるように、輪番の在任期間はおよそ 3 年から 4 年である。輪番は寺院の
全般的なことを担当し、布教活動はもとより社会事業及び教育活動等にも参加した。
50
海港都市研究
表 1 東本願寺釜山別院歷代輪番 , 1877-1910 年
氏名
出身 ( 県 )
就任
退任
第 1 代 輪番
奧村円心
長崎
1877. 11
1880. 1
第 2 代 輪番
脇阪三應
岐阜
1880. 1
1883. 2
第 3 代 輪番
太田祐慶
愛知
1883. 2
1891
第 4 代 輪番
松見善月
滋賀
1891. 7
1895. 2
第 5 代 輪番
菅原磧城
滋賀
1895. 2
1899. 4
第 6 代 輪番
小谷眞了
福井
1899. 4
1901. 3
第 7 代 輪番
井上香憲
島根
1901. 3
1910
備考
1887 年に帰国後、1891 年に辞任
( 出典:
[大谷派本願寺釜山別院 1926: 65-67])
日本人居留民を中心に構成された東本願寺釜山別院の世話方に関して、別院設立当時の
世話方をまとめたのが表 2 である。
表 2 東本願寺釜山別院の総代及び世話方 ( 別院設立当時 )
氏名
西村傳兵衛
出身
山口県
職業
貿易商
参考
総代及び会計
柴田重兵衛
山口県
海業問屋
居留地会副議長
総代及び会計
福田增兵衛
坂倉甚七
長崎県対馬
釜山土木 ( 合資 )
後に、釜山別院教社総代
居留民會議員
居留民會議員
明治 11 年釜山に渡航、
50 年以上別院の世話方、
永野利右衛門
諫山運平
保家貞八
沖永吉五郎
阿比留議助
上野永次
本間 ( 馬 ) 卯三郎
上田森造 ( 蔵 )
吉村松蔵
濱田五郎
青山如竹
居留民會議員
長崎県対馬
釜山水産會社
釜山米豆取引所
長崎県対馬
新潟県
釜山水産會社
長州
長州馬島
商業
長崎県対馬
居留民会議員
商業会議所副会頭
居留民会議長
明治 13 年、居留民会総代
居留地会副議長
居留民会長
(出典:
[大谷派本願寺釜山別院 1926]、[朝鮮開教監督部編 1926]、[木村 2001]、[홍순권 2006]、[釜山名士録刊行会
1935]
、前掲『朝鮮国布教日誌』。出身地の表記は史料上のママ。)
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会
51
釜山別院の総代及び世話方の職業は商人が多く、出身地を分析すると、史料上把握でき
る総代及び世話方 15 名の内、不明 6 人を除くと、対馬4人、山口 2 人、長州2人、新潟
1人である。興味深いのは、別院の世話方に 4 人の対馬出身者を把握することができる
点である。対馬には東本願寺の檀家が存在しなかったことを考えると、日本仏教が江戸時
代の檀家を中心に布教を行ったこととは異なる布教活動の展開が考えられる。さらに、注
目すべき点は、世話方の総代及び会計という重要な位置には、西村傳兵衛と柴田重兵衛の
山口県出身者を担当させていることである。
世話方のなかで、吉村松蔵を例に挙げると、彼は長州馬島の出身で、毎日のように別院
を訪問し参詣した。他の日本人を連れて別院に来ることもあった16。1878 年 8 月 24 日と
11 月 9 日の『朝鮮国布教日誌』には、「邦人吉村松蔵 ・ 上田森蔵外数名営繕費トシテ金弐
拾円余寄付ス」、「吉村松蔵、営繕費トシテ金五拾円誌納セリ」 と書かれており、別院に営
繕費を寄付したことも確認できる。
こうように日本人居留民から構成された世話方は、別院に対して寄付等の経済的支援だ
けではなく、別院の行事の補助や 「釜山教社」 の慈善事業への参加などで関わっていたの
である。
4 東本願寺釜山別院と日本人居留民との関係
開港直後、釜山居留地には対馬出身者が多かったため、釜山別院の諸活動は対馬出身者
のかかわりが多かった。
十一月二十七日前期昔受ケノ家屋五室ヲ修覆セリ(後筆頭註 : 修覆費四百円)。一室
トシ、一室ヲ小使処トシ、一室ヲ玄関トス(後筆頭註 : 当時一ヶ年経費一千二百円)。
ソレヨリ日ヲ追ッテ韓人布教ノ効果ヲ収ムル至レリ。内地人ノ布教ハ青山如竹(後筆
頭註 : 対州人ニテ富屋組主任ニシテ、漢字ニ通ジ、元対州藩ノ京都留主居ヲナセシ信
徒組ナリ)
(後筆頭註 : 釜山商業会議副議長。禅宗)ノ率先ニテ、毎土曜ニ説教演説
ヲナス。此ニ於テ内外人ノ布教ノ基礎ヲ築ケリ17。(傍線、筆者)
16 「十一月内外人ノ往来頻繁ニシテ寸暇モナク、殊ニ邦人長州馬島ノ産ナル吉村松蔵、商業ノ仮ヲ竊ン
テ毎朝東館ヨリ八時ニ参詣シ、勤行ヲ拝徳シ、ノチ談話ヲ聴聞シ帰ル事一日モ欠ル事ナシ。内地人ヲ
誘引シテ参詣スルニ至レリ。」(傍線、筆者)、(前掲『朝鮮国布敎日誌』明治十年十二月)
。
17 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十年十一月二十七日。
52
海港都市研究
釜山別院は、日本人居留民に対する布教に対馬出身であり富屋組の主任である青山如竹
を積極的に活用した。
また、
『朝鮮国布教日誌』の 1878 年 6 月 24 日「韓語教師浦瀬祐 ( 対馬の人 ) 官庁通訳
18
官来リ、
朝鮮ノ事情ヲ語ル。
(後筆頭註 : 後チ本願寺専任通弁トシテ雇入レ、月俸 40 円)
。」、
同年 8 月 28 日「浦瀬祐氏『教示章』ヲ韓語ニ訳セン事ヲ乞フ19。」、29 日「浦瀬祐氏 語
学教師ニ雇ヒ、当日ヨリ出張所ニ出勤せり。(後筆頭註 : 二十日ヨリ専任教師トシテ雇入
ル)20。
」から、対馬出身の浦瀬祐を別院の通訳や朝鮮語教師として雇ったことがわかる。
その他にも、釜山別院の輪番奥村円心が対馬の厳原に行って佐伯嘉兵衛という人物に釜
山別院の世話方を依頼することもあった21。
日本人居留民社会も、開港以後できた居留地唯一の宗教施設を利用した。それは、宗教
にかかわることだけではなかった。例えば、釜山布教所ができた直後に対馬人を中心とし
た居留民が児童教育の依頼をしている。
十四日ヨリ邦人子第教育ニ付、居留人議長青山如竹氏及ヒ惣代ヨリ請願セシニヨリ、
平野恵粋ヲシテ其任ニ当ラセ、玄関ノ室ヲ以テ教育室トナシ、十七八人ノ童子ニ読書、
算術、習字等ヲ授カタリ。義務教育ヲナシ謝義等ハ更ニ受ケス22。
開港当時、釜山の日本人居留地では充分な教育ができる状況ではなかった。1877 年 10
月に釜山の居留地内に東本願寺の布教所が設置されると、居留民会の議長であった青山如
竹及び総代から、児童教育に関する依頼があった。釜山布教所は、平野惠粹が児童の指導
を担当し、布教所の一部を教舎として利用した。授業科目は、読書・算術・習字等であり、
寺子屋式教育がなされた。
開始当時は、17-18 人の子弟が教育、教育費は無料であった。1880 年以降、居留民の
増加とともに教室が狭くなり、児童を全員受け入れることが出来なくなった。釜山別院は
居留地の総代と話し合った結果、近藤領事の協力を得て官舎の払い下げを受け、これを修
18 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年六月二十四日。
19 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年八月二十八日。
20 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年六月二十九日。
21 「厳原着。厳原ノ主人佐伯嘉兵衛ニ釜山別院世話方依頼ス。暴風雨ノタメ四日間滞在シ、七日出発シ
テ八日午前七時着。」(前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年十一月四日)
。
22 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十年十一月。
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会
53
繕し 「修斉学校」 を創立した23。釜山別院は学校の運営に関する資金を本山に求め、200
円を修斉学校に寄付し、その後、別院内の小学校を修斉学校に移転した。学校の管理は釜
山別院から、居留民会が担うことになった。
また、対馬藩の旧藩士であった津江兵庫24 の碑石を建てることを依頼したことも興味深
いのである25。1878 年 11 月 11 日に、対馬の真島専蔵などが、津江兵庫の石碑を別院境
内に建てることを請願26 し、別院側はそれを許可した27。また、「東莱府招魂碑 明治十二
年十一月東莱府旧館に故参判官津江兵庫の招魂碑の建設を発起し、本願寺自ら先づ金壱
百円を寄付して釜山有志者を勤説し之れを成就した。( 中略 )」[大谷派本願寺釜山別院
1926: 17-18]という津江兵庫の碑石に関する記述も残されている。対馬人が別院に碑石
健立を請願したこと、別院もお金を出し碑石健立の発起人になったことは、開港期釜山に
おいて、東本願寺釜山別院と対馬の人々が相互補完関係にあったともいえよう。
Ⅲ 東本願寺釜山別院と朝鮮人社会
朝鮮時代は、崇儒抑佛 ( 仏教を排斥し儒教をあがめた政策 ) が基本的な状況ではあったが、
朝鮮仏教は庶民信仰として維持された。
このような状況のなかで、東本願寺釜山別院は、最初から日本人のみならず、朝鮮の人
にも布教を計画していた。布教書を朝鮮語で翻訳したり、1879 年 1 月には、朝鮮人に対
して「釜山学院」を設置し、日本語教育や仏教学を中心とした教育を実施しながら、積極
23 「釜山に於ける日本児育生教育の沿革」(『中外日報』
、1903 年 2 月 2 日)
。
24 津江兵庫は対馬藩の宗家の臣下であり、「参判官」 という官吏であった。彼は、1678 年の豆毛浦倭
館から草梁倭館への移館問題に係わった人物で、朝鮮との交渉中突然死する。この事件を契機に、交
渉が急進展し、1673 年 9 月に倭館の移転が許可された。また、津江兵庫の死亡に関しては、病死、自殺、
毒殺説等の記録が残されているが、1876 年開港以後の史料では、主に、倭館移館問題の責任感で割
腹自殺したと書かれている[김동철 2008]。
25 津江兵庫の碑石に関する先行研究[김동철 2008]は、1876 年の開港によって倭館から日本人居留
地に変わっていくなか、日本人居留民社会が、270 年間続いた倭館を記憶に残し、伝承するための津
江兵庫の碑石建立について分析している。しかし、開港以後、既存の対馬の人々と新しく日本各地か
ら移住してくる日本人が釜山の日本人居留民社会を形成することを考えると、二者間の対立関係から
の津江兵庫の碑石建立へのアプローチも可能であろう。
26 津江兵庫の石碑を別院境内に建てることを請願した理由は、
津江兵庫が 「参判官」 という官吏であっ
たことを考えると、一章で述べたように、倭館 「参判官館舎」 の建物に別院ができてからであると思
われる。
27 「対州人真島専蔵等ノ請ニヨリ、対州人津江氏ノ石碑ヲ境内ニ建ン事ヲ請フ。尤も釜山居留民中有効
ノ者ユヘ之ヲ許ス。」『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年十一月十一日。
54
海港都市研究
的に朝鮮人にも布教しようとした。
1 釜山別院と朝鮮人の僧侶
釜山別院が設けられた後、釜山・東萊を始め、慶尙道、全羅道、江原道、京畿道、京城
等の朝鮮各地から僧侶が訪問した28。特に釜山周辺の寺院である梵魚寺、通度寺の僧侶の
訪問が多かった。梵魚寺の混海という高い地位の僧侶との書簡のやりとりや贈り物のやり
とりも確認できる。
朝鮮の僧侶は別院を訪問して、拝仏したり、仏教に関して筆談や翻訳書等を通じて談話
を行った。一部の僧侶は朝鮮の現状を批判することもあった。釜山別院の奥村円心らは、
主に『真宗教旨』を利用し、浄土真宗の教義を積極的に布教した。その中で、金鐵桂、李
東仁29、無不、呉文定、默庵等は釜山別院を通じて日本に渡った30。その際、東本願寺側は、
領事や日本の外務省と協力し、朝鮮の僧侶を日本へ送った。
2 僧侶ではない朝鮮の人々
僧侶ではない朝鮮の人々も朝鮮各地から別院を訪ねた。特に釜山や東萊の朝鮮人が多く
別院を訪問した。なかでも、『朝鮮国布教日誌』に、崔璟希、李乃玉、金福珠らの名前が
幾度となく登場する。崔璟希31 は、積極的に他の朝鮮人を連れて別院を訪問したり、仏教
書籍を翻訳した32。李乃玉は釜山の有志であり、後に釜山初の近代学校「開成学校」の創
立と関係する人物である。金福珠は、陪通事(通訳官)出身である。その他に、朴散園、
朴柘峰等の釜山や東萊の人々を中心に別院を出入りした。張星七は京城から別院を訪問し
たり、様々な物を贈った。
そして、日本との商売のために別院を訪問した李圭三や金學威33、 朝鮮人として釜山別
院の教社に加入した人も注目される。その他にも、釜山の海関官吏であった李乃勸や朝鮮
28 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年一月三日、同年二月、三月十三日、五月九日。
29 李東仁に関しては多数の研究がなされている。李東仁は朝鮮の開化派と関係を持ちながら、釜山別
院を通じて日本に留学。京都の本山や浅草別院で修行、後に朝鮮に帰って、朝鮮の官吏としても活躍
する。
30 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年十二月三十日、明治十四年五月二日、大谷派本願寺『開導新聞』
1880 年 7 月 1 日。
31 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年三月六日。
32 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十年十一月二十一日、同年四月三十日、五月二十四日。
33 前掲『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年八月七日。
開港期釜山における東本願寺別院と地域社会
55
人通訳官が別院を訪ねたり、朝鮮官吏を別院の行事に招くこともあった34。
おわりに
以上のように、東本願寺別院と当該地域の朝鮮人や移住して来た日本人居留民との関係
を考察した。本研究で、明らかになったことをまとめると以下のようになる。
まず、開港期釜山の日本人居留民社会に設けられた東本願寺別院は、領事と協力しなが
ら、教育活動や社会事業など様々な布教活動を行った。日本人居留民は葬祭や教育などの
面で宗教施設を必要とし、東本願寺別院側もその日本人居留民を積極的に活用した。その
意味では、相互補完関係でもあった。このような関係は、日本仏教が江戸時代において地
域社会の檀家を中心に布教を行ったこととは異なり、日本各地から開港場に渡航する人々
に布教する新しい状況が生み出したものであると考えられる。そのなかでも、開港初期の
釜山では、対馬出身者との関係が注目される35。
もう一つは、東本願寺別院と当該地域の朝鮮人関係からみると、東本願寺釜山別院は日
本という異文化空間でありながら、仏教という宗教的な共通認識を持つ場であった。それ
は、日本人居留地が設置され日本人が増えるとともに、日本の朝鮮進出 ( 侵略 ) に反発す
る当該地朝鮮人の動きがあらわれるなかにあっても、多くの朝鮮の人々が別院に接近する
ことができた理由でもあった。
草梁倭館が存在したことや日本人居留地であったという釜山の地域的特殊性から、日本
との関りを持っていた朝鮮人、日本との関係をもつための朝鮮の人々を中心に別院を訪問
したと考えられる。このように、日本人居留地にあった東本願寺釜山別院は、朝鮮に存在
した日本への窓口の窓口としての役割も果したともいえよう。東本願寺別院もそれを利用
し朝鮮人とのつながりを広げていた。
以上のように、地域社会の人々と宗教との関係から、帝国主義と植民地支配=支配と被
34 부산근대역사관編『海隱日錄』、2008 年、1886 年 9 月 20 日庚戌、1887 年 10 月 14 日丁酉、前掲
『朝鮮国布敎日誌』、明治十一年八月九日。
35 推論に過ぎないが、壬辰倭亂 ( 文禄・慶長の役 ) 等の歴史的な経験、日本人の不良商行為、風習の
違いなどから、日本人に対する石投げや喧嘩、殺人事件などの反日感情があらわれた。当時、反日感
情の原因に関する指摘の中では、対馬人によるものであるという日本側の意見が多くみられる。これ
と関連して、対馬の人々が朝鮮、東莱府に協力することもあり[沈 2004]
、釜山での既存の対馬勢力
と明治政府の外務省や新しく移住してきた日本人との対立関係も伺える ( 日本の朝鮮進出において、
対馬が厄介な存在であり、対馬を排除するためであったのか )。また、これを東本願寺の朝鮮進出と
関連して考察することは今後の課題にしたい。
56
海港都市研究
支配という二項対立的な立場では描きにくい地域社会の特色を考察した。本研究は、国家
という枠組みのみでは捉えきることができない、東アジア規模での異文化交流によって育
まれた「海港都市文化」を多角的に考察するための第一歩であると考える。
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