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WEB機関紙122号 - 管理職ユニオン・関西 情報発信基地

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WEB機関紙122号 - 管理職ユニオン・関西 情報発信基地
管理職ユニオン・関西 ホームページ http://www.mu-kansai.or.jp/
http://www.mu-keiji.gr.jp/
第122号 2007.05.12『管理職ユニオン・関西』ニュース
発行MU・関西ニュース編集委員会
URL: www.mu-kansai.or.jp
E-mail: [email protected]
URL: www.mu-keiji.gr.jp
E-mail: [email protected]
〒530-0044 大阪市北区東天満 2 丁目 2 番 5 号 第二新興ビル 605 号 TEL(06)6881-0781FAX(06)6881-0782
ユニオンの運営は組合員全員の手で
私達の活動の基本は、相談者・加入者が闘いを始めた時、その闘いをサポートすることにあります。
皆さん、月に一度は組合活動に参加しませんか?有給休暇を取って事務所に来ませんか?
この社会混迷の中で労働相談は後を絶たず、交渉や闘争も増え、事務所業務は増加する一方です。
労働相談、団体交渉要員、府労委闘争、裁判傍聴など、組合員の皆さんの応援をよろしくお願いします。
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思いもよらない退職勧奨
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Y.T
昨年 10 月 13 日に退職勧奨を受けた。定年までは必ず勤務を続けられるものだと信じていた。
一昨年の秋に元市立病院の院長(国立から市立への変換時に多くの退職者を出していると聞く)が短期大学
の学長として赴任され、以前から何度も医療系の教育内容にしたいとの話しが出ていたので、その方向で勧
められるのだろうと考えていた。昨年 4 月には姉妹校の 4 年制大学の学長にもなられた。学内の動線が悪い
とか、いろいろな改良すべき箇所があるはず、と思っていたが、まさか自分の身に降りかかるとは。私と同
時に男性教員にも退職勧奨があった。給料の高い先生から若い先生に変わって貰うとのこと。連絡をとりあ
って、上手くいくようにと考えたが、自分自身で交渉するのはイヤと思い、インターネットを探ったところ
管理職ユニオン・関西が出てきた。すぐに依頼とも考えたが、どのようなグループかを地域の市会議員に聞
いた。
「しっかりした仕事をするところだ」と伺った。事務所を訊ね、11 月に組合員になった。困り果てて心
身がどんな状態であっても大きく受け入れてくださり、ボツボツ本人が気づかない部分など改良すべく、い
ろんな意見を聞き、心身が健康になっていくところだと感じた。12 月初めに結論を出してほしいと学校の意
向であった。学長より退職勧奨を受けた時には「こんな事を言われて、うなだれたり、ガックリした様子を
学長には見せたくない。凛として背筋を伸ばし、対応しよう」と思った。
「相談する人はたくさんいるので、
即答はしません」と返事をした。初めは辞めてもよいと考えていたが、その交渉も自分のみではしたくなか
った。
機関誌発送の手伝いに事務所へ行く。いつもの事ながら、どのようにすると段取りが良く、仕事がハカド
ルかを考えて、立った状態で作業をしていると、
「座ってしないと疲れるよ」と声を掛けて下さった、アリガ
タク思いながらも「手っ取り速くしたいので」と反応した。その時に教えて頂いたのは「打てば響く話し方
は止めて、後輩に注意をする必要もなく、簡単なイヤがられない話にとどめる。自分の考えは出さない方が
よい。交渉はゲーム感覚で楽しむ様にする」とゲーム感覚で、他人事のように深刻になりすぎない。病気に
ならないことが第一で、健康を維持することがこの勝負に勝つことになると考えた。
11 月 20 日に色彩学の非常勤の要請が母校の先輩からあった。悪い事ばかりが続き、力が抜けていくのを必
死で何とか維持していた状況から力が湧いて来た。色彩は自分にとって一生の仕事にしたいと考え、東京の
色彩研究所へ就職までし、その後のチャンスで教員になれた。このチャンスも逃すわけにはいかない。と、
本務校があっての非常勤との話に、絶対辞めない!この非常勤のためにも絶対「辞める」とは言わない。同
僚や友達が相談に乗ってくれたり、アドバイスもくれた。勿論管理職ユニオン・関西のお世話にもなった。
長距離の交渉に月一回ペースで書記長の大濱氏が行ってくださり、名言と思える言葉を何度か伺った。12 月
21 日学長との交渉時、
「助教授のまま勤めてもらっていてもよい— -??」
「やめてくれとお願いしている!」
-----「協力してほしい」と学長の語彙が強く何度も同じ言葉! 大濱氏「強要になる」
「一方的不利益条件
で強要になる」
。
「経営状況が悪いのなら、一律に 10%カットとか」
。
「はじめから排除あり、人権問題になる」
と「K 党のように人格攻撃はしない、残る人にとってよくない」と「合理的な理由のない大幅な不利益変更は
コンプライアンス上問題となります」
。
「退職勧奨をするのも自由、断るのも自由となります」など。
2 月 13 日に学長から連絡が入る。正教授会で特任教授、6 割給与でということになったと。そのような事
は組合を通して貰いたいと伝え、何の返事もせず、組合に連絡をする。ただ唐突にこの案が出たのではなく、
胃癌で臥せっておられた学科長に「今日は顔色もよいので、聞いて貰いたい」と話しかけ「退職勧奨を受け
ていること、ご存知であった、自分は絶対に辞めない。教員生活の纏めも出来ていないので、辞めたくない」
と訴えた。以前に神戸までお見舞いに行ってから大変な味方になってくれるようになったと感じていた。
「よ
うわかっている。悪いようにはしないし、あんたはお金をすごく欲しいわけではないし、いなくなったら困
る。いろいろな重要なことをして貰っている」と学長に言ってくれた。学内に味方を作り、バックアップを
してもらう。身分を助教授職のままでなく、どうするか困っていた学長に、特任教授がよいとアドバイスを
してくれた様だ。2 月 22 日の交渉に向けて「みちのく銀行事件」を調べておくようにとの事、倒産の危機な
ら 1 割程度の給与減は裁判所は認めた例がある、6 割給与に対して裁判すれば必ず勝つと。家計簿や交通費な
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ど生活費をリストアップし、検討した。助教授のままでは教員職ではおれず、准教授にはする気がないとの
学長の意向。特任であっても教授職、やはり魅力がある。3 者(短期大学・学長、管理職ユニオン・関西・書記
長、私)の覚書を交わした。その内容は①雇用関係を定年(65 才まで)就業規則の特別任用教員規程にもとづい
て労働契約を締結する。
(但し、規程では 1 年毎の契約更新となる)②経営状況の困難な状態を理解して、労
働条件を現状の 60%程度になる事を確認する。③上記以外に問題が生じた場合、お互いに誠実に話し合って
解決するものとする。
又、今年の 1 月 6 日に全学園の事務職に対して 25 年 50 才以上の人に対して退職勧奨があった。嘱託には
再雇用しない。学苑は高校 2 校と短大、4 年制大学の 4 校があり、3 月中旬に本部から退職金の説明に来られ
た。その時に「何人くらい辞めるのですか? 20 人?30 人?」この質問に対して「30 人にはなりません」と。
自分にしたら交渉の結果残れることになったのだから、退職金には関係ないと思っていた。短大の身近な事
務職がたくさん辞められる。教員も仲間として行動してきた 2 人の先生が辞められる。教務の責任者として、
いつも近くにいた教え子のバリバリ事務職の女性も辞める。辞めてほしくない人も辞め、見切りをつけ、退
職金だけでも確保すると。私に対して「先生も退職金を確保できたのはよかった」と心配してくれていた。
新学期を迎えるにあたり、短大と 4 大の事務統合となる、特にベテラン教務事務が辞めるので、目配り心
配りで学生にとって不都合のないように、細かく気遣った。しかしスタッフがいない上に合理的対応、2 回生
は面食らっている。今まで事務所によく来ていた学生も寄り付かなくなり、卒業生も「誰もいてないやんか?
寂しい校舎やなあ!!」と、よく遊びに来た卒業生も来なくなるのでは—---今日、
「先生は研究室にいて下
さい。用事の時だけ事務所にお越しいただければ、結構です」と新事務長より言われる。しかし細かくチェ
ックをしないと責任がとれない。どうなってもいいわ!と思えば、ご意向に沿うべきか? 抜けた仕事、ミ
ス仕事もある。出来るだけ早く発見して、掲示されるまでにミスを防ぎたいのだが、教務部長との名前だけ
のツナギならほっておくのだが、-----閑散とした校舎の 3 階に研究室がある。学生と交わるのが、授業のみ
になるのは残念でならない。どうしよう!!
又、新学期の給料をもらった、何とこれだけ!?数字に書かれていたものは確認したが、そこから税金な
ど引かれ、これっきりとガッカリしている。お金だけで働いてはいないといい格好をしても、働く励みはや
はり給料である。
3 月 に 解 決 し ま し た。 T
私は地方公務員で保育士です。昨年12月、分限免職処分などの免職を口頭で告げられました。インター
ネットで大阪労働弁護団のパワハラ・セクハラの学習会で管理職ユニオンを知り、その後、組合に出向きそ
の日のうちに加入しました。そして団体交渉の申し入れを2回しましたが、地方公務員法により2回とも拒
否されました。私は昨年4月に異動し転勤してきた保育士と一緒に当初一歳児クラスを担当してきましたが、
他の2名の保育士と3名による私への無視する行動と攻撃の数々を受け、そのうち上司の園長からも攻撃又
は無視がはじまりました。保護者が参加した参観では無理やり食事を食べさせた(苦手な野菜を園児が口か
ら吐き出したのを無理やり食べさせ嘔吐させた)虐待行為をした、又、園庭では子供たちを安心して見れな
い状況を作られた中、
「見てられへん!」と発した言葉を挙げられ、保護者が苦情を市役所子育て支援室(園
長)に入ったとのことでした。その日から私はクラス担任を降ろされ、事務所付けになった私にその後も数々
の職員による私に対するいじめが続きました。
昨年暮れ、職務命令(保育士として不適切という旨で研修を受けるようにと)が出、市役所子育て支援室
に異動させられました。雑用の仕事が続き、一応仕事もなくなると保育書物などで自習をさせられたり、そ
の後は3つの園を転々とし、又、雑用仕事でした。精神的にも肉体的にもつらい仕事を我慢しこなしてきま
した。その間にも「公平委員会」に不服申し立てをしました。 私の主人は市役所に勤務し、当初は私の相
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談にのってくれていた主人も役所側から何か言い含められているのでは思うような言動が見え、そのへんか
ら主人に対する不信感と警戒心も起こりはじめ、職場でも、家庭でも気持ちが落ち着く場所がありませんで
した。それに私の妹も市役所に勤めていて、管理職でもあり、私を辞めさせようとし、実の母までも妹同様、
仕事を辞めるように頻繁に電話がかかる毎日でした。もう完全に孤立した4ヶ月間でした。
「又、そのうち免
職を申し渡されるのでは?」と追い詰められ、落ち込み、自分を見失ったときもありました。ストレスから
か血便や血尿など体調不良、不眠、全身蕁麻疹などの症状もありました。ようやく、年3月末に新たに別の
保育所に異動の辞令が出ました。当時から思うと私にとって本当に信じられない程でした。管理職ユニオン
の皆様、本当にありがとうございました。助言を頂き、地方公務員法の勉強をし、今まで知らなかったこと
も少しは身につきました。今後はこれまでのことを教訓にし、仕事をしていきたいと思っています。現状は
まだこれまでの習慣で今も眠れない日が続いたり、異常に警戒してしまったり、胃が痛んだり、不安を覚え
ることもあります。時間が改善してくれることを願って待っています。
解決は自分で導くもの
組合活動は“やってもらう”
“やってあげる”の相互依存関係ではありません。会社依存から単に組合依
存に変わっただけでは解決にはなりません。あなたの“どうしたいのか”について、あなたが“どうす
るか”を決め、あなたが“主体”とならなければ何も始まりません。私達は、組合員が会社へ
の依存から脱し、自立して生きていくために、本人の主体性に基づいて組合員が相互協力し問題解決を
サポートしています。あなたの取り組み次第によってその解決も違ったものになりま
す。より納得できる解決を導くために組合活動や学習会に参加し、様々な問題で闘争している組合員と
交流して、自身の問題への取り組み方を考えてみましょう。
「組合員の○○○です」
とお電話下さい。参考になる交渉などをお知らせします。
はけん・パート関西 第4回総会に参加ください!
管理職ユニオンの方針によって、2004年5月23日に結成してから3年が経ちます。
この1年は、組合員も少しずつ増えて自立化に向かっているといえます。実態は、管理職ユニオ
ンは正社員、非正規労働者は派遣・パートと組織対象者は異なりますが、労働組合運動という観点
から見れば一心同体の活動です。
両組織で400名を超えたところで、
今後は派遣・パート労働者の組織比率が増えることでしょう。
引き続き管理職ユニオンの皆さんの協力・協同をお願いします。以下の日程で、総会を開きますので
参加し、意見を述べにきてください。
日 時
会 場
議 事
2007年5月27日(日) 午後1時開場、1時30分開始、3時30分終了予定
ドーンセンター(大阪府立女性総合センター)セミナー室2 ドーンセンター地図はココ
活動報告(、会計報告、監査報告、基調、運動方針提案、予算提案、意見交換、役員選出などを行
います。
※【 懇親会 】 総会終了後、事務所に移動、 午後4時~6時予定
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《篠山「無の家」お別れパーティ》の案内
組合員のご両親から借りていた家と畑、篠山市糯ケ坪(もちがつぼ)の「無の家」を返却する事になりました。
長い間、それも無料で、ご好意に甘えて組合員の農作業、レクレーションなどの場として使用させてもらい
ました。
また、管理人のユニークな小宮勇介さんにも大変お世話になりました。彼は、神戸大出身の山岳部、
「無の
思想」を志す超自然農法派(ずぼら農法ともいう?)でした。雨水を風呂水に使う、風呂は薪で炊けるよう
に改造する、太陽光発電パネルをもらってくる、せっかくもらってきた耕耘機を使わない、畑は草の中に麦
や野菜が生えているという具合でした。
思えば、スタートは古家の修繕に始まった。大工仕事に、手作業によるコンクリートうちなど大活躍して
もらった。数え切れない焼肉パーティ、八上山登り、篠山城跡など見学、ホタルも見に行った。執行委員会
も1度行ったこともある。10 月の祭りに出くわした事も。私の友人や小宮君の友人も利用した。ここ4年は、
毎年2月に味噌仕込みを続けてきた。積もる話も思い出となる。篠山「無の家」に思いがある方はぜひ、な
い方も参加下さい。
申込みは、仲村まで、大阪、京都、姫路あたりから車で便乗して行くことになります。
こんにちは。篠山にいた小宮です。 残念なことに無の家が閉鎖されることになりました。
いま無の家の荷物を整理しているところなのでその途中経過をお知らせします。
以下欲しい物があれば連絡ください
洗濯機、東芝 2 層式二人家族用、日立全自動節水シャワー43 リットル、石油ストーブ二台、電気コタツ、
ビデオデッキ、ガスコンロ、草刈機、冷蔵庫 40cm角(韓国製一人用)パソコンラック、みずや、食器、
カセットコンロ本体 3 台、ビールサーバー、電池式はかり、扇風機、風呂釜二台、長府ボイラーの薪で焚け
る循環式、接続部分は 1 台分しかない
壊れているもの(捨てる予定)テレビ、CDプレイヤー、パソコン(プリンター、本体、ディスプレイ、
キーボード、マウス)自転車、耕運機の水田用の足(耕運機は山南町で活躍中)
寂しくなりますが、競売物件や田舎暮らしのHP等を見ているとどこかで家を買いたいとも思います
では、お元気で
お別れパーティは、篠山「無の家」現地で、6月16日(土)夕方6時半くらい~。
費用は、実費2000円程度の予定。ビール、焼酎、酒類の持ち込み大歓迎。
組合員交流会のご案内 ソフトボール大会
場所 長池公園運動場 日時 6 月 2 日 15 時ー17時
必要品:タオル、お茶、グローブのある方は、 持参してください。多数の参加を待っています。
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予告 神戸交流会 6月23日(土) 請う後期待!
場所 JR 神戸駅 近く
(詳細 次月ユニオンニュースに掲載します)
PM 3:00から ①管理職ユニオンの現状と今後(予定) (ユニオン 三役も参加予定)
②それぞれの現状報告会
PM 5:30から ③懇親交流会 会費1500円(予定)
第 50 回
労働運動研究会
労働運動研究会では、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著の「マルチ
チュード(上)」を読んでいます。みなさん来ませんか?
書籍に出て来たキーワードをもとに現代社会のさまざまな問題についても、
議論をします。どなたでも、いつからでも参加OKです。
・ 日時
5月24日(木) PM7:00~9:00
・ 場所
管理職ユニオン・関西 事務所
・ チューター *さん。
・ テキスト
「マルチチュード(上)」 NHKブックス P88 からです。
終わったあとは、軽くビールを飲みながら、懇談します。
(Y.M)
5月号原稿募集
内容 体験:意見ETC
字数 1000~2000(自由)
締め切り 5月 31 日(木)
大浜まで連絡下さい!
ユニオンでは色々な本を貸し出していますのでご利用ください。必ず貸し出しノートに記入して返却する
ようお願いします。また、良い本などがあればご提供いただけると幸いです。
書籍紹介文や感想文も募集しています。積極的にどしどしお寄せください。
(教育宣伝部:ユニオン狸)
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●こころのやまい(うつかもしれないあなたへ)
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法律対策部・執行委員 F
今、組合事務所に労働問題で相談のために来訪される方のなかには、抑うつ状態(心のやまい)に罹って
しまった人たちが数多く増えています。原因はいろいろありますがその殆どは会社対社員として勤務中のト
ラブルやストレス、人間関係、突然の解雇等の問題を抱えています。
組合では個々の相談を労働問題として対応し対処していますが、その内容は年々難しくなり休職を余儀な
くされて当該相談者の病の治癒・復職も大変厳しくなっている状況です。そうした状況をふまえて今回は当
該相談者が組合に加入して労働問題の解決に努力したものの、思う通りには為らなかった経緯を記します。
尚、本文は個人情報保護法等の見地から個人名や会社名、病名症状等はあえて記述せず一固体として表現し
ています。
固体Ⅰ
約30年間に及ぶ大手企業の勤務期間のうち後半において職場内でいじめ・嫌がらせなどを受けて対人関
係が巧く行かずうつ状態を発症し、途中で休職し治療を行うも再度発症し休職状態を繰返しました。当初会
社側は病状が回復し治癒する事に望みを託していましたが、二度目の発症後は次第に状態が悪くなり、当該
が組合に加盟して会社側と団体交渉を持ちましたが、会社側は治癒の見込みが望めないとして拒否の姿勢を
崩しませんでした。この間に当該の主治医や会社側の産業医の所見もありましたが、主治医と産業医による職
場復帰の診断に相違があり、組合と会社との事務折衝において「会社都合による退職」として退職金と解決
金支払で当該合意による合意書締結によって解決しました。本件は会社側産業医の判断をもとに会社側の復
職判定委員会が「復職の見込みが得られない」として退職になったケースです。
固体Ⅱ
これは準大手企業を約19年間勤務した例ですが、当該は約6年前に抑うつ状態になり発症しました。
最初の発症の原因は休日出勤や残業などからの過労でした。毎日が夜中の1時2時に帰宅するような状態が
続き、やがて正常に勤務が出来ない事態になりました。そして3ヶ月余り休職療養をおこなって職場に復帰
しましたが、復帰後も反復してリバンドを繰返し以前よりも症状が悪化してさらに2度目の休職状態に陥り、
長期の療養を行いましたが思うようには治らなかったのです。会社側は就業規則の休職期間を超えたことか
ら、期限を切って職場復帰が不可能であれば自然退職の手続きを取りたいと当該に通告しましたが、当組合
に加入した当該の「退職したくない」との思いから、団体交渉を通じて問題解決の方法を提案したのですが、
会社側は就業規則を理由にして応じ様とはしませんでした。
しかし、当組合は当該の意思を汲み入れて会社側と数回の事務折衝を行って、さらに6ヶ月間の休職延長
を申し入れて会社側に納得してもらい、当該は休職療養を続けました。
(この間に診療機関も2度転院)そし
て、症状も大変改善されて就労復帰を会社側に求める処まで来たので、再び事務折衝に於いて当該のリハビ
リ就労復帰を申し入れました。その結果会社側は産業医と主治医の所見を求め、更に、当組合、当該、産業
医、会社側による4者会談によって復職検討会を行うことを提案し実行をされました。当組合はその結果を
大いに期待していたのですが、やはり産業医の出した結論によって就労復帰は不可となり会社側は当組合の
要求により、応分の処置によって退職辞令が発令されたのです。
個体Ⅲ
やはり準大手企業を約20年間勤務した当該組合員の例ですが、工場のなかで1日中精密な作業を行う職
場に勤務していました。特殊な業務なので残業も多く過重な労働になるのですが、10年を越えた頃から職
場で単純ミスが目立つようなり、会社側は厳重注意を繰返すようになりました。それでも当該には会社側の
厳重注意の意味が理解できず、指示命令に従う勤務が覚束なくなってしまいました。そこで会社側は当該に
対して懲戒の意味も込めて減給処分にしてしまいました。ようやく事の重大さに気づいた当該は会社側に抗
議をしましたが受け入れてもらえず、逆にそのことで退職勧奨を暗に言い出したのです。
当該はその時点で当組合に労働相談に訪れましたがそのときはすでにショックで抑うつ状態になっていま
した。そして一度目の団体交渉では会社側の弁護士も入れて数回の交渉と事務折衝を重ねた結果、退職勧奨
の撤回と減給幅を小さくすることで合意が成立したのです。
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この間当該は病院にも通院して治療をしていましたが、その後 1 年10ヶ月ほど経って今度は会社側から
組合に直接話し合いたいと言ってきました。事情はやはり前回の繰り返しでした。当該を呼んで様子を聞き
ましたが、今回は更なる減給処分を言い渡されていたようです。当該の抑うつ状態は一見軽くなっていたよ
うに見受けたのですが、病状は一進一退を続けていたようで体調がすぐれない時に初歩的ミスの繰り返しが
あったようです。今回は病気休職か病気退職を迫られている状況の中でどのように打開すべきか考慮中の状
況です。
個体Ⅳ
これは弁理士という特殊な業務を行う人を雇っている会社の労働問題です。当該はこの会社に入ってから
たくさんの年数を経ているわけでは有りませんでしたが、入社時の雇用契約書と実務に相違があり問題が生
じました。残業時間の多さや業務内容の複雑・煩雑等から次第に疲労が目立つようになり不定愁訴が現れる
ように為ってしまったのです。会社側は業務の不出来を理由にして退職勧奨を行ってきました。
この会社に入社する前に軽い抑うつ状態になっていた時期もあったようですが、一応治癒したものと判断
して再就職してこの会社に入社したものです。しかし、過重な労働から精神的に不安定な状況になり当該は
当組合に労働相談に来ました。そのときはすでに強い抑うつ状態になっており、団体交渉にも会社側は応じ
ないでいきなり弁護士を介しての交渉になってしまいました。そこでとりあえず当該を病気休職にして休ま
せて現在は治療を続けています。将来に向かって同じ職種で復職の可能性は程遠く治癒するまでに多くの時
間を要するここと考えられます。当該は一時期「希死願望」が強くなり大変な時期もありましたが、専門医
による治療の結果今ではそれもなくなり時間の経過とともに良くなっていくものと期待が持てるようになり
ました。当該は将来において会社に復職することは不可能かもしれません。近々会社側の弁護士を介して事
務折衝が続けられますが当該に有利な条件を勝ち取る事ができればと考えています。
個体Ⅴ
この当該は公的機関に約20年勤務していたものですが、雇用者の一方的な理由によって解雇されてしま
ったケースです。約2年前に当該は解雇されるかもしれないといって労働相談に来所しました。そのときに
すでに抑うつ状態が顕著に表れている状況でしたが、当組合は相手方と交渉の用意をすべく当該が再び来所
されるのを待っていました。しかし再び訪れる気配も無く月日が経ってしまいその後の経過は不明のままで
した。その後ある日突然に当該は「解雇されてしまいました」といって組合を訪問して来たのです。組合で
はこの解雇要件は正当なのか不当なものであるのかを判断し様としましたが、両当事者の言い分が全く判然
とせず現在公的機関の審査委員会にかかっています。当該はうつ状態を生半可な治療で誤魔化しいたようで、
再発した現在は治癒するための治療が難しくなっている状況です。
*こころの疲れと「うつ」
。過度のストレスはこころに大きなダメージを与えます。ストレス過多の現代社会では、
誰もがこころに変調をきたす可能性をもっているといえるでしょう。
以上の如く個々の案件は内容が詳細には全て異なります。他にも過去に多く抑うつ状態やうつ状態になった組合
員の人々の事案がありますが、今これらの事柄はそれぞれ退職手当金等で解決をしたり、傷病手当金を受給中であ
ったり交渉中のものもあります。会社側は復職やリハビリ就労について現段階では消極的であり、一部の大手企業
には就業規則等で精神障害(うつ)の問題を取り組んでいますが多くの企業ではまだ未知の世界です。更に労災申
請や傷害年金の申請についてもいろいろな制限事項があり、時期を誤れば発症した場合自己に不利益なるばかりで
なく回復できない不利益が生ずる場合も多々あるのです。精神障害(うつ)の発症は当該本人や家族・会社側も気
づかない事が多くそのために深刻なトラブルになってしまうことも多いので、変だと思われるときは専門医の診察
を受けて早く治すように心がけましょう。
以上
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誰も書かないメンタルヘルスの話 23
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N
30 年前、ある国立O大学病院での出来事です。その日、院内食堂の主人が倒れました。食事をしている約 50 人
の医療スタッフは、誰一人助け様とはしませんでした。「倒れた人を助けるより、自分の食事のほうが大切」「誰かが
助けるだろう」 その光景を眺めながらランチをしていました。
◆一人の背の高い男性が駆け寄りました。細菌検査室のA技師でした。彼は大声で「お前ら医者やろ! 助けたらん
かい」と言いました。2~3 人の医師がしぶしぶ駆け寄り、相談をし、どこかの病棟に連れて行きました。
[私でなくても、誰かが何とかするだろう]
約 50 人の医療スタッフがいればあらゆる診療科の医師がいたでしょう。倒れた食堂の主人は、典型的なメタボ
リックシンドロームの体型でした。つまり布袋さんの様でした。
◆ 内科の医師は『あれは、きっと脳梗塞だろう。私は心臓が専門なので関係ない…』脳外科や神経内科の医師は、
『あの太り方は心筋梗塞かなんかやで。俺には関係ない』 皮膚科や眼科医は『私達は、救急は苦手だ。誤っ
た処置をして訴訟でも起こされたら大変だ。触らぬ神に祟りなし』 その他の医師は『(うちの病棟で引きうけ
たら看護師さん達が)先生、またエエカッコして患者を連れてきて…。仕事が一つ増えたじゃないの! 病棟は
満床よ!どこにいれるのよ!』と言われるに決まっている。
『トラブルは御免だ』と考えたでしょう。
[S救命救急センターで]
バリックス(食道静脈瘤破裂)の患者が運ばれてきました。口から「血ヘド」が溶岩のマグマの様に吹き出していま
した。ウイルス性肝炎のマカーは陽性でした。◆その日の救急の担当医は、I子医師でした。さっそく内視鏡で出
血部位を確認していました。
◆I子医師の術衣の大き目にあいた襟から、きれいな鎖骨が覗いていました。◆患者が「ごほん」と咳をしました。
患者の口から血反吐(吐血の固まり)が医師の顔めがけてドバッとかかりました。美しい顔の半分が赤黒い血に染ま
りました。隣にいた研修医に「ちょっと、これ(内視鏡)をもっていて」と言って、水道で 5~6 回顔を洗い、再び内視
鏡検査を始めました。
◆前日、朝 8 時からカンファレンスを始め、日勤、当直、当日の日勤を含め 33 時間連続勤務での出来事でした。
[女性の中の男性の部分? 男性の中の女性の部分?]
I子医師は、骨の細い華奢な女性らしい雰囲気の人でした。その人が、髪を少年の様なショートカットをすると、
かつてロングヘアーのとき以上のコントラストがついて「新しい感覚」の美しさが匂いたっていました。よく検査室
に遊びに来ました。
◆「80%の男の部分と 20%の女の部分。それがアタシ」「その 20%は、純粋で濃密だね…」「そう?」「うん、狡さもな
いし、意地悪さも無いしね…」「N さんは男の部分は 20%でいいのよ」「…」「私は、100%男をやりたいタイプの医局
の医者とは合わないのよ」
[また一人女医さんが職場を去りました]
今年のI子医師からの年賀状に『N さん。人づてに聞きました。裁判に勝って、復職されたそうですね。良かっ
たですね。私は、ちょっと疲れました。しばらく廃業?します』とありました。友人は「患者さんの暴言に傷つかれ
たそうよ」と話してくれました。
医師不足?~本当の理由]
4月の初め、今月号の原稿は「医療の現状とメンタルヘルス」にしようと書き始めていました。◆4 月 30 日の朝
刊を読んでいたピノコが「トッチ! 読売新聞に『医の現場~疲弊する勤務医』という記事があるよ」と言いました。
急いで読んでみました。次の瞬間「勝負あった」という言葉が私の頭を駆け巡りました。◆5回シリーズで①「逮捕の
衝撃、退職決めた」~精いっぱいしても患者が死ねば ②患者の院内暴力・暴言増加 ③女医、両立に苦しむ~自身
の出産・育児環境は厳しく ④医師の多忙~進むフリー化 ⑤「開業できるなら逃げたい」~人手、財源不足の病院
「もう限界」でした(読売新聞タイトル抜粋)。
◆ この記事と向かい合ったとき、私は負けたと思いました。
[I子先生!戻ってきて!]
私は『一度、救急をやった人間は、例えバーンナウト(燃え尽き症候群)しても、必ず医療現場に戻ってくる』
『医
師もユニオンが必要』という確信をもっています。
「I子先生ゆっくり休んで、戻ってきて下さい」
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働く者のメンタルヘルス相談室からの報告
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副委員長
昨年11月5日に管理職ユニオン・関西の組合員が「うつ」で自殺されました。組合にとって3人目の自
殺者です。大手運送会社目通の社員で O さんです。
O さんの略歴を見てみましょう
1.1950年(S25年)2月12日生まれ
2.1969年(S44年)4月目通に入社
3.1995年(H7年) 9月、50歳直前に羽田トータルサービスへ出向を命じられ、関西空港勤務と
なる
4.1997年(H9年) 会社の検診でC型肝炎が判明(原因不明)
5.2000年(H12年)羽田トータルサービス出向のまま、成田空港勤務を命じられ単身赴任する
6.2001年(H13年)成田空港単身赴任のまま㈱カスコに出向を命じられる。
7.2004年(H16年)4月関西空港支店輸入混載課に配属。課長待遇から平社員にされる。羽田に行
く前、関西空港事業所長であった。
8.2004年(H16年)6月8日よりC型肝炎治療のため、県立尼崎病院に入院。この時点で「うつ」
発症
9.2004年(H16年)7月21日休職中に「会社に迷惑を掛けていると思うなら、この際自分から身
を引いたらどうや」と厳しい言葉を浴びせられる。
10. この月管理職ユニオン・関西に加入 8月17日職場復帰
11. 2005年(H17年)3月11日から5月27日まで休職。病名はうつであるが職場には自律経
失調症と届ける。この間全ての有給休暇を使い果たされ、以後1年間は有給ゼロの状態に追い込まれる。
12. 2006年11月些細な仕事上のミスを追求され5日に自死。56歳であった。
このように50歳からの出向、C肝炎罹病指摘後の単身赴任、出向から降格して支店に戻し、上司の嫌が
らせ、休職すると有給を巻き上げ、復帰後1年間有給なしに追い込む、また社宅退去の命令などあからさま
な嫌がらせを続けている。2回の団体交渉を行ったが不誠実な態度に終始している。現在会社責任を問う裁
判を準備している。
この裁判を側面から支援するため、NPOで企画・巡回している展示会を遺族に開放する事にしました。
展示会はすでに4月1日から8日まで京都で開催され、NHKの報道や京都新聞、読売新聞、朝日新聞に掲
載されました。大阪会場は5月29日から6月4日まで「20代20人を含む50家族の悲しみ」をテーマ
に開催されます。この展示会に日記、家族写真などを展示致します。また遺族の会場内びらまき、記者会見
も行います。もうすでに、東京の雑誌、毎日新聞、NHKの取材を受けました。読売新聞も取材の意向です。
展示会は、うつで自殺された家族の方々に「うつ」での自殺は家族の責任ではなく、社会の問題であること
を展示を通じて理解して頂くことを主目的としています。遺族からのお礼の手紙や見学者の感想を見るとあ
る程度この思いは届いているようです。
7月は神戸で開催する予定でしたが、目通の本社が東京であることもあり、東京で開催することにしまし
た。展示会は日本財団から大きな助成を得ることが出来ました。おかげで東京開催も可能となっています。
NPOは管理職ユニオンからの寄付でスタートしています。NPOの財政独立は未だ苦しい面がありますが、
何とか来年度は寄付なしに運営出来るよう奮闘中です。展示会会場では、自殺遺族からの相談2件、うつに
関する相談15件受けました。ホームページの閲覧も増え4月は8000件に達しました。大阪市立大学人
権問題委員会からの小論依頼や、雇用・能力開発機構からの講演依頼、NHK東京の取材依頼などはホーム
ページからでした。このほかユニオンおおさかからの学習会講師依頼等もあります。活動の幅は大きくなっ
ています。
見えてきたのは、個別相談中心から組織相談(会社の管理職層への働きかけ)サポーター育成が、一般の
講座による育成から自死遺族や「うつ」体験者をサポートタ-に育てる方向への転換です。展示会はそのた
めの対話の場としてとても有効です。また片山飛佑馬さん作「アパシー」の複製許可を得たことも大きな前
進でした。25歳で自死された片山飛佑馬さんの遺稿を読む作業の中で、相談活動もサポーター育成も進む
事が出来ると思います。NPOは昨年4月1日に設立してから1年。
「うつ」ついてのまともな知識もなく、
孤立無援の状態からの出発でした。最初の半年は「うつ」に対する基本的な考えを確立する事に費やされま
した。それはホームページを充実することを通じて実行されました。ついで展示会の企画を立て、その資金
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を得るため昨年12月10日に「私の中で今、生きているあなた」という展示企画で助成金を申請しました。
本年2月には、まだ助成が決まっていない状態で京都展示会の日程を4月1日開催と決め、以後実現のため
走ってきました。
展示内容を集めるヒントは在野の過労死問題研究者の O 氏からいただきました。労働判例集の活用という
ことで、実際に17件ほどの判決文を見せてくれました。遺族との交渉の最初の部分も引き受けてくれまし
た。そのあとは、写真の印刷、会場の確保など全て1人でやらざるを得ませんでした。
ぎりぎりでパネル制作が間に合う状態でしたので、その他のことには手が回りませんでした。3月中旬に
100万円の助成が決定しました。報道機関より予想外の取材が、4月1日にありその報道から問い合わせ
が事務所に来ると言ううれしい誤算もあり、応対に出た事務所スタッフにご迷惑をおかけしました。ともあ
れたった1ヶ月前には想像も出来なかった注目を受ける事が出来ました。
今後とも山あり谷ありが続きますが、一歩、一歩、歩んでいきたいと思っています。O さんの裁判も含め
今後ともご支援をよろしくお願い致します。
1970 年代いきあたりばったり青春記⑪ O
毎回プラプラした文章で誌面後半の 2,3 ページを厚かましく占拠してきましたこの連載ですが、前回で区切りの
10 回目を迎えることが出来ました。予定は全 30 回で、その 33%を終えたところです。そこで今回は少し趣向を変
えて、①これまで登場しなかった班のメンバーの紹介 ②1978 年春から初夏にかけての出来事 ③26 歳の誕生日
時点でのぼくの略歴とプロフィール、をお届けします。今回初めて読んでくださる方は③→①→②の順で読んでい
ただく方がいいと思います。ややこしい話ですみませんが。
■
チーポンカンロン・カルテットと、ペイちゃん、ノンちゃんのこと
4月になった。K 班にも新入社員1名が配属されて、ようやくぼくにも後輩が出来るはずであった。
「あった」
となっているのは、そうならなかったからである。原因は他班のとばっちり。毎年4月1日付で大阪支店だけでも
40 人程の新入社員を採用するのだが、3月下旬になると、研修という名目で乗務実習をする。春の旅行シーズンを
迎え、まず大幅に欠員の生じている班から優先的に配属されるのだが、先陣をきって I という古参チーフの班に配
属された3人の女子研修生がたった2日で退職
(正式入社前だから入社辞退というべきか)
してしまったのである。
きくところによると、このトリオ、新人同士で意気投合したのはいいのだが、初乗務の日から緊張感のカケラもな
くおしゃべりのしまくり。あげくに仮眠室でも、
「あんたらええかげんに寝やな、明日の仕事に差し支えるで」とい
う先輩社員の注意も無視して明け方までペチャクチャやっていたらしい。そして翌朝、朝食を食べる余裕もなくや
っと乗り込んで「ねむーい。おなかすいたー」を連発したものだから、I チーフが「君ら、遊びにきてるんとちが
うで。ちょっとは社会人としての自覚を持たなあかんがな」とやさしく注意(I チーフの弁)したところ、3日目
の出勤前に電話で次々と入社辞退を告げてきたのだという。まずは家族を説得しようと、総務課長がその夜、リー
ダー格とおぼしきコの家に電話したところ、オヤジさんが出てきて「おタクの会社では、たった2時間の睡眠で朝
メシも食わさんと働かせるらしいでんな。それに、盆正月も休めんらしいし…そんな会社に大事な娘、よう預けら
れませんわ」と反撃されたらしい。朝メシ云々の件は当人に責あり、と弁明できても、盆正月に休めないのは事実
だから、
「このオヤジさんになんぼ言うてもあかんやろ」
と思った課長、
それ以上説得するのをあきらめたとのこと。
そんなわけで、比較的人員に余裕のある班から1名ずつ配属予定の新人を I 班に振り分けるということになった次
第である。ホンマえらい迷惑。そんな話を聞くと、昨春わが班に配属された4人組などは初乗務の日には緊張しま
くりだったから可愛いものだ。彼女達にはチーポンカンロン・カルテットという愛称が付いているので紹介してお
こう。まずは Y 子。ちえこ、と読むらしいのだが、中学・高校とずっとチーコが愛称だったという。不二家のペコ
ちゃんみたいに、クリクリッとした目とふっくらほっぺ。太目というほどではないが、ぽっちゃりタイプの愛嬌娘。
次に H 子。169 センチのぼくより数センチ高い長身でほっそりタイプ。背も高いが声も高く、その高目の声で一度
笑い出したら次々と笑撃波が押し寄せて3分間は止まらない。その間にひかり号は 10 キロばかり走ってしまう。
チーフは最初このコにポンタ(タヌキか!)と名付けたが、そう呼ばれて笑い出したらしばらく仕事にならないの
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で、ポンコ、ポンちゃんが愛称になった。次に H 子。徳島県出身で、T の女子寮在住。150 に満たない身長ながら、
がっしりした体格で、ワゴンが通れそうもない超満員の自由席も空き箱に弁当を満載して売り切ってくる猛烈根性
ガール。高校時代は柔道部だったという。チーフが「言いにくいわ。カン、でええやろ」と言うと、体育会系の礼
儀正しさで、
「はい。カンでけっこうです。高校時代は豆タンクでしたから、それよりずっといいです」と答えたと
のこと。最後に K 春。若狭の三方五湖の近くの出身でやはり T 女子寮の住人。名前のとおり、春霞のようにおっと
りしたコ。仕事は丁寧。丁寧すぎて、多忙時など少々まどろっこしいところはあるが。チーポンカンと続いたので、
この美春嬢にも「麻雀に関する愛称を付けよ」という難問がチーフから男性陣に出題された。
(笑点か!)
。結局ぼ
くの案が採用されて、栗はマロングラッセのマロンだから、当分のあいだ「マロンちゃん」と呼ぶことになった。
そして折をみてチーフが、
「マロンは長いわ。ロンでええやろ」ということになり、ロンちゃんになった。当人は、
男性陣の深慮遠謀などつゆ知らず、マロンが長いからロンになっただけだと思い、けっこうこの愛称を気にいって
いる。マの抜けた話だ。
この4人の初乗務は去年の3月 20 日過ぎのことだが、その日は、半月前にコーヒー事故で火傷を負ったぼくが
職場復帰した日でもあった。その前年の 76 年秋からぼくは専属のアルバイトとして K 班の準構成員的立場にあっ
た。
(組関係か!)
。当時退職者が相次ぎ、車内販売の正社員は N ちゃんと S ちゃんだけだったから、2人で教えき
れないところはバイト歴1年のぼくが彼女達に車販のイロハを教えたのである。年末よりチーフから「俺が推薦し
てやるから正社員になれ」と再三勧誘されていたのに、返事を先延ばしにしているうちに火傷でリタイア。復帰し
たら、配属予定の新人がいきなり4人も乗り込んできたものだから、正直なところ複雑な気持ちで彼女達に仕事を
教えたものだ。それでもぼくはまだ決心がつかず、4月の 16 日になってようやく正社員になった。わが社では、
たとえ1日でも早く入社した者が先輩として絶対的な優位に立つ。
(相撲部屋か!)
。というわけで、序列最下位の
まま1年がたち、ようやく後輩ができると思ったのに、新人配属がパーになり、トホホのホ。小学生だって4月に
なれば1級上がるのに。まあ、チーポンカンロン・カルテットは歳が6ッも下だし、ぼくに対して先輩風を吹かせ
ることもないので(当たり前や。こっちが仕事を教えたんやから)
、ふだんは気にはならないのだけれど、悲哀を感
じたのは7月半ばのボーナスの日。6月末日を基点に逆算するので、4月1日付の定期入社組は、満3ヶ月以上6
ヶ月未満に該当するとのことで(在職月数×1万円)
、一律3万円を支給されたのに、3ヶ月未満は支給の対象外
で、4 月 16 日入社のぼくには1円もなし。世の中にこんな不条理なことがあるだろうか。せめて、日割り計算で2
万5千円くれてもよさそうなのに。
まあそんなわけで、実質的な意味での年下の先輩といえば、ミューちゃんとペイちゃんの2人だけれど、ミュー
ちゃんについては長々と触れたので、ここではペイちゃんを紹介しおこう。本名北**。ペイちゃんの愛称が、い
っぺいのぺいをもじったものか、苗字の北に由来するのかは知らない。
(たぶん両方だろう)
。3年前の定期入社組
の 21 歳。食堂車の皿洗い担当。仕事は真面目、黙々とこなす。酒は付き合い程度に飲むがタバコは吸わず、ギャ
ンブルもしない謹厳実直青年。趣味は将棋と鉄道。チーフからは、
「ペイよ。カタいばかりが男やないぞ。ケンジみ
たいな遊び人にはならんでええけど、せめてナンぐらいには競馬したり、ネオン街のアヤシーィ店でプロのオネー
ちゃんと遊んだほうがおもしろい人間になるぞ」と言われても、
「ええ…でも、俺、鉄道好きですから、そっちにカ
ネ使いたいです」などと答えて T さんからは「鉄道だったら毎日 1000 キロ乗ってるじゃん。休みの日にまで、ま
だ乗りたいの?」と呆れられている。最後に野々**さん。愛称ノンちゃん、またはノンノン(パンダか!)9号車
ビュッフェの接客担当。身長は 164 か 5 と少し大柄、色白、ロングヘアー。途中入社4年目の 26 歳で、京都在住。
奈々ちゃんと同い年で、似たような経歴、さっぱりした気性でウマが合うのか、仕事の後など時々新大阪駅の喫茶
店で話し込んでる時がある。どうやら、ビュッフェの調理の M さんに惚れているらしいのだが、奈々ちゃん、あれ
でけっこう口が堅いので、ぼくにももらさない。
■ 1978 年、春から初夏へ
その年のわが社の春闘(ベアと夏期賞与)はあっけなく終わった。ベア 4.8%、賞与は昨夏と同率の 1.75 ヶ月。
労使双方というか、会社全体に、昨年末のボーナスをめぐっての「創業以来の大争議」の疲れが残っている、とい
う感じだった。4月、5月と平穏な日々が流れていった。人生には、あの2月 15 日のような激動の1日(正確に
はたったの4時間)もあれば、淡々と流れていく日々もある。あの夜以来、ミューちゃんにつきまとった男の影は
ぷっつりと消えた。気持ちに余裕が出来たせいか、ときどきぼくは、あの男に同情している自分に気がつくことが
ある。もしアイツの惚れた相手が同僚や取引先のOL、あるいは行き付けの喫茶店のウエイトレス、というのなら
ば徐々に懇意になって相手の趣味や好みを把握したうえでそれとなくデートに誘う、ということも出来ただろう。
しかし、惚れた相手が食堂車のウエイトレスでは、度々会えるわけもなく、速攻でデートを申し込んだのも仕方な
いか、という気がしてくる。それにしても、惚れた相手がラブホテルの一室に男といて、目の前でプチッと部屋の
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灯りを消されたら、きついよな…と同情している自分に気付き、食堂車の客としての、たった1度の出会いでミュ
ーちゃんの魅力を見出したアイツの感性に軽い嫉妬を感じている自分に気が付く。
そんなアイツのおかげで、ミューちゃんとはすっかり仲よくなった。いったん好きになってしまえば、彼女のす
るなんでもない仕草のひとつひとつまでが可愛くてたまらない。
去年の5月といえば、
食堂車の接客係に異動して、
慣れない仕事でストレスの塊。出社拒否寸前までいった。そのストレスの原因の半分は、年下の先輩、生意気な小
娘、と思っていたミューちゃんの存在だったのに、今年の5月は、そのミューちゃんの存在が励みになって、仕事
に行くのが楽しくて仕方がない。
6月になって、26 歳の誕生日が近づいてきた。モンチッチのお返しなのか、ミューちゃんが、
「ナーンちゃん、
プレゼント何がいい?」と尋ねる。
「双眼鏡」と言うと「え?何に使うの?」と訊くので「バードウオッチング」と
答えた。そうしたら、6月4日(日)
、東京泊まりの復路の車中でひそかに「これ1日早いけど、プレゼント」と小
さな箱を渡してくれた。
「ほんとは、ホースウオッチングやろ」と笑いながら。正午過ぎに仕事が終わり、午後から
阪神競馬場へ行った。雨上がりの妙に肌寒い日だった。その日のメインは宝塚記念。1年前のメンバー、M さん、
セノちゃんに、今年はチーフも加えて4人。こっそりリボンを解いて双眼鏡を取り出すと、
「おっ、ナンは双眼鏡持
参か。ちょっと貸せや」と先に使われてしまった。メインの宝塚記念は7頭立て。3頭の天皇賞馬が人気を集めて
いた。今春の天皇賞馬グリーングラスと昨秋のホクトボーイ、そして 76 年春のエリモジョージ。前年のこのレー
スの主役、トウショウボーイとテンポイントの姿はなかった。トウショウボーイは引退して種牡馬となり、テンポ
イントは年明けの日経新春杯で左後肢を致命的な骨折、関係者の懸命の治療の甲斐なく、3月5日に衰弱死してい
た。TT2頭のいない今年の宝塚記念、ゲートが開いてレースは淡々と進んだ。福永洋一騎乗のエリモジョージが
グリーングラスの追撃を振り切ってあっさりと逃げ切った。3着にホクトボーイという順当な結果。4人ともたい
して大勝ちもせず、大負けもせず、仁川の駅前の居酒屋で2時間ばかり飲んで解散した。
その 24 時間後、ぼくは梅田の高層ビルのレストランに奈々ちゃんといた。前日、車中で奈々ちゃんが、
「ナンち
ゃん、明日だね、お誕生日。おウチで祝ってもらえるの?」と言うので、
「中学ぐらいまではだいたい祝ってくれて
いたけど、この 10 年程はたいてい 4,5 日過ぎてから気付いてくれる。自分でカレンダーに赤丸してアピールする
ような歳でもないし…」と言うと、
「オー、かわいそうなカワウソ。だったらあたしが祝ってやるよ」ということに
なったのだ。
暮れなずむ夕景を眺めながら、窓際の席で奈々ちゃんと乾杯。周囲のビルにポツリポツリと灯りがともりだす。
いつものように、奈々ちゃんとの楽しい語らい。杯を重ねながら、こんな日々がいつまでも続くわけがない、と頭
のスミで思っている。1ヵ月後、ぼくはこのお返しにどこかのお店で奈々ちゃんの 27 歳の誕生日を祝っているだ
ろう。そこまでは予測がつく。しかし、1年後となると、まったく予想も出来ない。この平穏で楽しい日々がどこ
かでプチッと断ち切られる日が、あるいは自ら断ち切らなければならない日が、そう遠くない将来に必ず来るはず
だ━そこまで考えて、もうそれ以上突き詰めて考えるのはやめた。ひきこもりから抜け出したあとのぼくは、物事
を突き詰めて考えないようにしている。今、そのことを考えても仕方がない。そういう情況になれば、その時の自
分が決断するだろう。今はこの時を楽しもう。そう決めて、ふと窓の外に目をやると、6月初旬の遅い日も暮れて、
ぼくたちは光の海の中にいた。伊丹の空港に降りていく、ジェット旅客機の灯が赤い。
■ 26 歳の誕生日時点の、ぼくの略歴とプロフィール
略歴:1952 年 6 月、大阪市の東のはずれに生まれる。公立の小中高卒。1浪後の 72 年4月、大阪郊外の私大に入
学。当初はそこそこマジメに通学するも、2年生になった頃から、キャンパスにいるよりパチンコ屋にいる時間の
方が長くなる。そこへ、オイルショック、狂乱物価、学費値上げ反対闘争で長期にわたる学園封鎖で遊びグセます
ます高じ、封鎖解除後も学業意欲まったく湧かず中途退学。バイトからバイトへ渡り歩く、フリーターの先駆者的
生活を送る。75 年 9 月、失恋をきっかけに、様々な要因が重なり、なにをするのも面倒になって、自宅2階でのプ
チひきこもり生活に入る。たいくつなので、それまであまり読まなかった本を読むようになる。半年後、貯金も底
をつき、本も買えなくなって、76 年 3 月、新幹線の車内販売のアルバイトを始める。しだいに元気を取り戻し、年
末より、K チーフから再三「正社員になれ」との誘いを受ける。77 年4月半ば、正社員となる。まもなく食堂車の
接客係に異動。慣れない仕事、年下の先輩、ミューちゃんとのアツレキ、などでストレスが溜まり、1ヶ月余りで
転職を考えるが、先輩社員の奈々ちゃんに「転職するにしても入社即退職では採用する側に与える印象がよくない
から2年ぐらいは辛抱したら」と言われ、
「それもそうだ」と思い直す。奈々ちゃんとは、それをきっかけに、月に
1,2 度の飲み友達となる。ミューちゃんとは、78 年2月 15 日、彼女に一目ぼれした三十男が、ストーカーと化し
てつきまとい、ボディーガード役を買って出たことから、すっかりうちとけ、それまでウットーしい存在だったの
が、その夜を境に恋心の対象となる。というわけで、26 歳の誕生日の時点でのぼくのプロフィール。
職業:新
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管理職ユニオン・関西 ホームページ http://www.mu-kansai.or.jp/
http://www.mu-keiji.gr.jp/
幹線食堂車のウエイター
自宅:大阪市鶴見区今津北5丁目、国鉄片町線徳庵駅から徒歩5分程のわりと静かな
住宅地で両親と同居
家族:酒飲みの印刷工の父(57 歳)と父に輪をかけた酒飲みの母(56 歳)
、他に結婚して
八尾に住む兄夫婦(ともに 30 歳)と3歳の姪っ子
趣味:競馬・映画・そこそこ読書・ときどきネオン街の妖
しい店に出没(パチンコは1年前にぷっつりやめた)
酒量:ビール大瓶2~3本、ウイスキーなら薄めの水割
り5~6杯、日本酒はほとんど飲めなかったが、前年夏より両親と奈々ちゃんに鍛えられて、3~4合なら飲める
ようになる
タバコ:ショートホープを日に数本
━つづく━
新 入 組 合 員 学 習 会
5/26(土)14 時~16 時
次回は6/30 です
管理職ユニオン事務所
管理職ユニオン・関西とは、どのような労働組合なのか? 組合の活用法、リストラ対応策、団体交渉の
進め方、事務所での対応などについて学習します。
悩んでここに駆け込んだのはあなただけではない事を知り、実体験を語り合うことによってストレスを発
散し、会社社会とは全く違う集まりを実感します。そして、それぞれが抱える問題を考え、どのように解決
していくのか、アドバイスを受けながら客観的に考える機会でもあります。
新入組合員の方は必ず参加して、より早い解決を目指しましょう。
今まで参加していない組合員の方もぜひ参加してください!
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