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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 「長崎華僑時中小学校」沿革小史 その一 補遺(一) Author(s) 増田, 史郎亮 Citation 長崎大学教育学部教育科学研究報告, 34, pp.13-19; 1987 Issue Date 1987 URL http://hdl.handle.net/10069/30633 Right This document is downloaded at: 2017-03-28T14:56:01Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 13 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第34号 1∼7(1987) 「長崎華僑時中小学校」沿革小史 その一 補遺(一) 増 田 史郎亮 A Short History of Nagasaki Overseas-Chinese Ji−Chu Primary School, 1,-Supplement(1) Shirosuke MASUDA 一、承 前 本稿は本年3月発行の教育学部研究報告ωに発表した上記題目の一文の補遺である。 筆者は,その一文の文中に長崎在留の華僑を主とする外国人の戸数・人口数調べの一部 を載せて,時中小学校の沿革を窺わせるファクターの一つとした事があるが,資料の所在 も知りながら,時間不足のため,不充分な調べに終わらざるをえなかった其の戸数・人口 調べを,今後の研究の事もあって,本稿で増補し,それに職業調べも若干,つけ加える事 とした。 不充分なが’らも,華僑社会の一部をかいまみるつてともなろうか。参考文献は後で一括 して述べる通りである。なお,この稿の三の部分を,一般向けにしたものが,長崎華僑(昭 和61年1月1日発行)の本文であることもここで断っておきたい。 三に展開する表は菱谷武平氏の「唐館の解体と中国居留地の形成一若干の古地図に ついて」(1970年目や「長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について」(1963年),嘉 村国男氏の『新長崎年表 下』(1976年),重藤威男氏の「支那人の外人居留地進出推移表」 (1967),蒲地典子氏の「明治初期の長崎華僑」(1976年),『長崎市制五十年史』・『長崎 市制六十五年史』・『明治維新以後の長崎』(1925年),『長崎市郷土誌』(1918年),『長崎 県警察史 上巻』(1976年),『外国人名前帳調』・『外国人員数書』(明治3年まで),『県 史稿』(明治4年),『諸御用留』(明治5年),『雑載』(明治6年),『外務課事務簿』(明治 7・8・9年),『外国人員並戸数調表』(明治10年∼明治32年),『県政事務引継書』(明治 33年),『長崎県統計書』(明治34年∼36年,大正8年∼15年),『長崎県警察統計書』(明治 37年∼大正7年)などの諸論文・諸書・諸統計書の資料を合成したものである。抜けた年 代の箇所もあり,昭和30年代以降の最近の箇所も調査時間の不足などで,これも前回同様, 資料の所在も知りながら手つかずの状態でもあり,種々の点で不充分である。誤っている 箇所も多々あろうし,他日を期し,読者の御教示を戴きつつ手直しして行きたいと思う。 以上のように不充分な表ではあるが,長崎華僑の人口動態の模様や居留外国人社会での位 置付け,時中小学校や長崎華僑を包んでいる環境なども同時に示し得たかと思う。 なお,酒中,………を付している箇所は調査の時期や資料の相違から生じた統計上の数 の違いを示したものであり,?としているのは,基礎資料が種々あって,記載の疎密,記 長崎大学教育学部教育学教室 増 田 史郎亮 14 録の不備などで,原著者の方で一応,合計欄に形式的に記入してあるものの,疑問のケ所 に?を付してあるものを,そのままに筆者が?としたものであることを断っておく。また, 明治4年の?447(150戸)と?346と並べているのは,違う著者の分を出したものであり, ・を付した欄は在留外国人の国籍の判明している分である事を示している。但し,本稿の 性格と紙面の都合でこれは省略した。これらも併せて断っておく。 菱谷武平氏,蒲地典子氏の前記研究によれば,幕末より明治13年頃にかけて,長崎華僑 の人達は,唐館より広馬場,特に新地,大浦・浪之平へ脱出していたこと,鎖国時代の出 稼的人口構成からノーマルな人口構成に移行していた事が判る。そして,その人数は,そ の時期は勿論,それ以後も在留白人を圧倒し,在留外国人中,圧倒的多数を誇っていた事 は後に掲げる表が如実に示している所である。 華僑の人達の明治3年から明治10年迄の出身地・職業は,前期,蒲地氏の研究によれば, 福建省人が最多数で広東省,江蘇省,断江省,安徽省人がこれにつぎ,商人の傭工,商人, 職人および其の傭工の順であった事が判明している。(紙幅の関係で,菱谷武平氏,蒲地 典子氏の以上の研究も,其の詳細な紹介は出来ない。両氏の研究で,華僑の人達の人口動 態,性別・年齢構成など先の拙稿で紹介したものを本稿では省いた所がある。) なお,以上に関連して,以後の華僑社会での職業構成を筆者が調査した所を,若干,紹 介すれば,明治23年の華僑人口中の圧倒的多数が商人であり(2),明治36年は誘球,裁縫工, 労働業,雑貨商,料理業,呉服商,雑業(3),…明治38年は労働者,日本語学生,呉服商, 雑貨商,料理店,飲食店㈲…,大正7年の貿易商其他の店員,仕立業者並職工,料理人及 出前持……の順序となっていて,他の在留白人社会の多種職業に亘っている(法教師,教 師……)のとは著しい差異を示している(5)。これらも紙幅の都合で詳細を省き,別の拙稿 で詳述する積りである。なお,職業の分類,呼称は時期により一部,異っている事は上記 の通りで,原資料はそのままに記しておいた。 不充分ではあるが,これでも然し,大体の模様は推察できょうか。因みに,言うには及 ぶまいが,法教師とは宣教師のことである。 なお,表の作製に際しては,筆者のゼミ学生(当時二回生)尼崎悦朗君,大石聖君,浜 田幸一君の三君と妻 幸子の助力を得た。私事に亘るが,謝意を表したい。これらのこと も,ここで奪わせて断っておく。 華年比率次 華僑 韓国 白人 その他在留外国人に占める 合 計 戸数 人口 溜 別 男 女 文久2(1862)年 ・178人 98人 文久3(1863) ●200 113 87 56.50 207 116 80人 55.06% 91 50.04 242 134 108 55,37 文久4(1864) 元治元 元治2(1865) ●272 141 131 51.84 256 111 145 43,36 ・397 246 151 61.96 358 216 142 60.34 15 「長崎華僑時中小学校」沿:革小史その一補遺(一) 文久2(1866) ●401 224 177 55,26 390 238 152 61.03 文久3(1867) ●478 305 173 1 63,80 405 173 160 60.49 明治元(1868) ●574 375 199 65.33 483 288 195 59,63 939 744 195 79.23 明治2(1869) ●502 333 169 66.33 445 275 170 61.80 675 505 170 74.81 ●553 366 工83 66.18 明治3(1870) 515 338 177 65.63 639 ?462 177 ?72.30 明治4(1871) ・267戸 ?578人 ?477(150戸) 131(117戸) ?77.33 ?346 明治5(1872) ・222 719 528 191 73.43 ?273 明治6(1873) ・226 869 748 121 674 169 26 77.56 ?270 明治7(1874) ● 932 671 255 6 66.20 708 明治8(1875) ・239 952 ・242 839 719 120 607 232 72,35 810 690 120 579 231 71.48 701 249 2 73.63 7ユ7 明治9(1876) ?308 明治10(1877) ● ?582 明治11(1878) ・244 714 611 103 483 23ユ 67,65 473 明治12(1879) ● 779 704 明治13(1880) ● 771 651 75 568 211 72.91 120 550 221 71.34 578 605 明治14(1881) ・240 836 702 134 231 明治15(1882) ・228 829 687 142 601 228 4 72,50 明治16(1883) ・235 906 727 179 659 247 4 72.74 864 671 193 647 217 74,88 866 669 197 644 222 74.36 1 72,37 600余 229 明治17(1884) 明治18(1885) ・234 ・232 明治19(1886) ・230 952 730 222 692 260 56,07 明治20(1887) ・230 1,005 782 223 722 283 71.84 16 増 田 史郎亮 明治21(1888) ・231 11005 775 230 699 306 69.55 明治22(1889) ・248 1,054 795 259 701 353 66.51 明治23(1890) ・267 993 785 208 692 301 63,34 明治24(1891) ・270 11003 780 223 674 329 67.20 67.61 明治25(1892) ・300 917 719 198 620 297 明治26(1893) ・283 960 738 222 610 350 63,54 明治27(1894) ・254 663 462 201 283 380 42.68 明治28(1895) ・290 1,041 794 247 543 498 明治29(1896) ・277 1,296 959 337 706 590 明治30(1897) ・280 11314 969 345 711 601 2 54,11 明治31(1898) ・365 1,388 1,055 333 824 562 2 59,36 明治32(1899) ・707 1,695 1,324 371 1,144 540 11 67.49 明治33(1900) ・624 1,852 1,408 444 1,246 12 577 17 67.28 明治34(1901) ・695 2,037 1,539 498 1,288 20 714 15 63,23 明治35(1902) ・524 1,617 1,274 343 1,064 2 542 9 65.80 明治36(1903) ・648 1,757 1,352 405 1,138 30 588 1 64,77 明治37(1904) ・561 1,574 明治38(1905) ・521 1,534 6 52.16 54.48 11068 18 487 1 67.85 1158376 1,093 17 423 1 71.25 , 明治39(1906) ・453 1,553 1,094 459 983 12 555 3 63.30 明治40(1907) ・438 1,523 1109414 994 16 512 1 65.27 , 明治41(1908) ・396 1,280 884 396 852 11 414 3 66.56 明治42(1909) ・370 1,290 868 422 839 50 398 3 65,04 明治43(1910) ・353 1,186 793 393 821 361 4 69.22 明治44(1911) ・316 1,127 760 367 818 309 ・316 1,103 725 378 816 287 1 73.98 大正2(1913) ・336 1,190 793 397 882 302 6 74,12 大正3(1914) ・350 1,245 838 407 944 298 3 75.82 4 77.25 2 76.12 難莞(1912) 72.58 大正4(1915) ・333 1,200 805 395 927 269 大正5(1916) ・324 1,189 803 386 911 276 大正6(1917) ・345 1,173 791 382 929 244 大正7(1918) ・369 ..斗:孝q...番銘....窪]=9......9タ旦....................3}互.................τ与=}i3....... 大正8(1919) ・379 ..生:争讐...番69....空生茎......!.,qq巨..................怨9..........旦.....76:舅....... 79.20 1,175 899(215戸) 276(99戸) 76.51 1,091 805 286 73.78 大正9(1920) ・387 ..亀書鐸...番9茎....三巨(1......」.1∫栓蔓..................鈴長....5.....ユ......τ9;99....... 1,122 841 281 74,95 大正10(1921) ・356 大正11(1922) ・354 1,217 804 413 963 252 2 79,13 ..生=孝6}..,亭3}....窪是q......}.・9旦.......9..........怨豊..........互.....番9:二7....... 1,134 891 243 78.57 17 「長崎華僑時中小学校」沿革小史その一補遺(一) 大正12(1923) ・370 1,303 875 428 大正13(1924) ●361 1,367 952 415 1,137 228 2 83.17 1,056 246 1 81.04 1,147 937 210 81.69 大正14(1925) ・376 1,492 1,052 440 1 1,267 奄焉莞(1926) ●349 1,467 1,023 444 1,247 218 2 85.00 1,247 1,047 200 83.95 臼召禾日3(1928) 日召禾07(1932) 日召禾口g(1934) 日召禾011(1936) 1,026 169 85.85 1,240 1,070 170 86.29 LOOO 839 16ユ 83,90 ● 1,192 1,006 186 84。39 σ 1,384 1,175 209 84.89 82 88.26 ● 日召禾[15(1930) ● ● 1,195 日召禾[122(1947) ・ 699 617 (以後,外国人登録法による。また台湾省人も含む。) 日召矛目23(1948) ・ 911 738 178 80.40 (法務庁国勢調査高調によれば,各省人840畠中,台湾縞入179名) 845 日三三024(1949) 日二三[i25(1950) H三二i026(1951) 日召考i027(1952) ● ● ● 日二王028(1953) ● 日三三029(1954) ● 768 77 90.88 867 783 84 90.30 976 803 173 82.27 820 739 81 90.12 852 779 73 90.43 818 739 79 90.34 註 (1) 長崎大学教育学部 教育科学研究報告 第32号 (2) 『長崎県警察史 上』 昭和51年 p.1304∼p.1305 (3) 『長崎県統計書』 明治36年 (4) 『長崎県警察統計書』 明治38年 (5) 『長崎市郷土誌』 大正7年 以下の写真四葉は現在の新地町界隈を昭和61年7,月31日に撮影したものであるが,筆者 の体調がすぐれなかったため二女 明日香に代行させた。順序が逆になるが,来年度の紀 要には,昔の新地町の写真を掲載する予定である。これも,長崎華僑社会を考えるつての 一つにもなろうかという筆者の気持ちからである。 18 増 田 史郎亮 付 記 なお,筆者は先の拙稿を発表する際の前準備として,長崎華僑史の略年表を用意して, 原稿を書いていたが,今般,宮崎大学教育学部福宿孝夫・小沼新 両教官の「長崎華僑史 略年譜」が発表されたので,それを紹介し,参照しながら,著者流の略年表を次に掲げ, 長崎華僑史を窺うよすがともしたい。 文久2(1862)年5月∼7月幕府所有の千歳丸,上海との問に官営貿易を試みた。高杉晋 作,五代才助,中牟田倉之助らと長崎の中堅層の商人,総員51人乗り込む。(一説,文久 元年)。 この年の長崎在留白人80人の内訳は米37人,英31人,蘭5人,葡4人,仏2人,露1人。 慶応元(1865)年 在留白人151人の内訳は英66人,米33人,蘭26人,仏11人,独10人, 葡3人,露2人。 明治元(1868)年 12月 新地,外人居留地に編入される。この年,唐人屋敷の処分が開 始され,唐館在留の清国人は広馬場・新地臥所へ進出する。この年,神戸の清国人240人, 大阪21名。 明治3(1870)年 この年,海岸通雑居地居留の復興欄内に福建公所(はじめは八閾公所 と称する)成立。3月,火災で唐人屋敷ほとんど焼失。 明治4年(1871)年 6月∼10月長崎と上海・香港・ウラジオストク問の海底電線開通。 明治7(1874)年 この年,在阪清国人,300人に達す。長崎経由で来覆した行商雑業多し。 明治10(1877)年 9月 清国度門よりコレラ,長崎に上陸,10月にかけ全国各地に流行。 長崎港に女神避病院を設立。 明治11(1878)年 清国領事館,大浦海岸通り2番に開設される。 明治13(1880)年 この年,在留清国人数,横浜2,172名,長崎549名(筆者によれば 「長崎華僑時中小学校」沿革小史その一補遺(一) 19 550名),神戸516名,大阪115名,雑居地に定住。 明治14(1881)年 この年 不景気,清国向輸出頓座。 明治17(1884)年 清仏戦争のため,清国向海産物暴落し海産物商損害被るも,漸次回復。 明治18(1885)年 この年,呉錦堂,長崎に来,22年神戸に移る。 明治19(1886)年 8月 清国北洋艦隊(提督丁汝昌)の水兵,飲酒暴行して日本警官と 乱斗し,双方死傷者を出し,3年後,双方から死傷者に弔慰金を贈呈する事で問題落着。 この年,長崎・天津間の航路開設。 明治24(1891)年 6月 清国北洋艦隊,長崎経由して神戸へ。 明治27年(1894)年 7.月 長崎・上海就航の日本汽船,運航停止。日清間の危機切迫し, 長崎在留の清国商人ら諸貨物の投げ売りなどをして帰国の準備を急ぐ。新地華僑街に火災, 焼失23戸,広馬場町に火災,焼失12戸(帰国旅費に窮した清国人が火事場泥棒をたくらみ 空地に放火したもの)。8月 日清戦争,長崎駐在の清国領事館,国旗を降ろす。張領事, 在留清国人の保護を米国領事に託して,家族・館員とともに英国汽船で引き揚げる。長崎 県,取締まりと保護のため,在留清国人の登録を実施(外国人登録の初め)。 明治28(1895)年 1.月 本国に引き揚げた清国人,再び長崎に帰着し始める(5月の初 めには400人を超え,清国向け石炭輸出も上向く)。4月 日清講和条約,三国干渉。この 年から日露戦争にかけ阪神清商の黄金時代。 明治31(1898>年3月∼7月独(膠州湾),露(旅順・大連),英(九龍半島・威海衛) を租借。 (未完) (昭和61年10月31日受理)