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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』 の関係性

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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』 の関係性
九州大学総合研究博物館研究報告
Bull. Kyushu Univ. Museum
No. 10, 79-98, 2012
大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』
の関係性
森弘子・宮崎克則
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
Hiroko MORI · Katsunori MIYAZAKI
西南学院大学国際文化学部:〒 814-8511 福岡市早良区西新 6 -2-92
The Seinan University, Nishijin 6 -2-92, Sawara-ku, Fukuoka 814-8511, Japan
はじめに
『 鯨史稿 』は、文化5年( 1808 )に大槻清準( 1773~
その特徴は、古代以来の捕鯨に関する記録を収録した
1850年 )
がまとめた捕鯨の百科全書といえるものである。
こと、鯨の解剖図を掲載したことにある。特に
『鯨史稿』
1
多くの書籍を参考・引用し、
自分の見聞 も交えながら全
巻之三は、鯨の骨格図・内臓図を13点ほど掲載し、鯨の
6巻にまとめた。
「巻之一」~「巻之三」は鯨の名称・種
内部構造を明らかにした
(図1~4)。
類・鯨体の構造などを、
「巻之四」~「巻之六」は捕鯨業
従来の研究によると、
『 鯨史稿 』巻之三の図は、大
槻清準のオリジナルでなく、親戚関係にある3 大槻玄沢
について記述している。
大槻清準は、寛政3年( 1791 )の19歳から文化5年の
( 1757~1827年 )
『 鯨漁叢話』によるのではないかと言わ
れてきた。福本和夫『日本捕鯨史話』4は、
36歳まで17年間、昌平坂学問所で研鑽を積み、後に
仙台藩に儒学者として召抱えられ、藩校養賢堂の学頭
たいら
となった。昌平坂学問所の「祭酒」林大学頭衡( 述斎 )
我近代的鯨体解剖学の鼻祖は、私見によれば蘭方
の要請を受け、
『 鯨史稿』
を2部作成し、
1部は江戸城の
医大槻磐水であった。そして、鯨体の解剖学的図
1部は昌平坂学問所に納
「御文庫」
( 紅葉山文庫 )に、
解を掲載したのは、磐水が享和初年( 1 804 )
に著した
めた。昌平坂学問所の分が国立公文書館の「内閣文
「鯨漁叢話」がさいしょである。
( 中略 )
「鯨史稿」所
(ママ)
2
載の解剖図はむしろ、
「鯨漁叢話」のそれを踏襲した
庫」に残る 。
『 鯨史稿 』は、それまでの『 西海鯨鯢記 』や『 小児之
ものであったかもしれない。そういいかえた方がある
弄鯨一件の巻』
などの捕鯨に関する図説と大きく異なる。
いは正鵠に近いかと思われる。
 1
大槻清準『鯨海游志』
(『江戸科学古典叢書 鯨史稿』恒和出版)
によると、
諸国遊歴の途中の文化元年(1804)1月、
長崎県平戸生月島の益冨家に約
一週間滞在し、
捕鯨見物をしている。
 2
大槻清準『鯨史稿』 文化5年 国立公文書館「内閣文庫」所蔵(183-0580)
 3
大槻清準『鯨海游志』
(『江戸科学古典叢書』2 恒和出版1976)
によると、
清準は玄沢を
「従祖叔」
と記している。
 4
福本和夫『日本捕鯨史話』法政大学出版局 1960年
(180頁~183頁)
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
と述べている。
「磐水」は大槻玄沢のことである。
この福
信が述べているように、氏は「(『 鯨漁叢話 』を)
まだ見て
本説により、大槻清準『鯨史稿』巻之三は大槻玄沢『鯨
いない」
ことである。
『 鯨漁叢話』
は鯨に関するどのような
漁叢話』
をもとにしたと語られるようになった。
『 鯨史稿』
「本」だったのだろうか。本稿の目的は、両者の関係性
の骨格図や内臓図は医学的見地からの図であり、儒
を明らかにすることにある。
学者大槻清準の周辺で医学の知識を持ち合わせてい
福本説は、
「西洋鯨品説附言」をもとに導き出したも
たのは大槻玄沢であったから、
『 鯨漁叢話』
と結び付け
のである。大槻玄沢の鯨に関する他の著作として、
『蘭
られたと考えられる。
しかし、一番の問題点は福本氏自
畹摘芳鯨篇 全 』
( 国文学研究資料館蔵「祭魚洞文庫」)
〔図1〕 背美全身図
『鯨史稿』
(国立公文書館蔵)
〔図2〕 大骨之図
『鯨史稿』
(国立公文書館蔵)
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University Museum
Hiroko MORI · Katsunori MIYAZAKI
(ヨンストン)
森 弘 子・宮 崎 克 則
がある。
これは、
「西洋鯨品説附言」
と
「西士容 斯東私
五水族譜一百七十一号第一章大魚鯨品集説」は、J.
ヨ
動物集纂図彙第五水族譜一百七十一号第一章大魚
ンストン
『動物図説』の第5巻「魚類」第2章中の第1節
鯨品集説」の2編からなる。
「西洋鯨品説附言」の末尾
および第2節( 鯨体の内部器官とその働きの部分 )
を翻訳し
に「余ガ積思蓄念ノ根ザス所ヲ首メニ附シ、此ノ挙ニ至
たものである。
これにも
『鯨漁叢話』に関連する記述が
ルヲ漫記セルナリ」
とあり、玄沢が捕鯨に関心を持った
ある。
これらをもとに、玄沢はなぜ鯨に興味を持ったのか、
経緯が述べられ、文中に『 鯨漁叢話 』について触れて
そして
『鯨漁叢話』はどのような内容であったかを、
その
いる箇所がある。
また「西士容斯東私動物集纂図彙第
人物像にも触れながら検討しよう。
タツハ
〔図3〕 背美頷旁鰭骨之図
『鯨史稿』
(国立公文書館蔵)
〔図4〕 内景ヲ腹ヨリ見ル図・内景ヲ背ヨリ見ル図
『鯨史稿』
(国立公文書館蔵)
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
1.大槻玄沢と蘭学
大槻玄沢は仙台藩の「外科」医である。彼が蘭学に
②は長崎へ行きさえすれば外科医になれるのかという
身を置くようになった経緯と背景を、彼に影響を与えた
ことである。長崎奉行に随って行った槍持や鋏箱持さ
人々を通して見てみよう。
えも、帰国後に「阿蘭陀直伝」の外科医になっていると
(トモ)
いう。③は、
「 阿蘭陀草木書」に「草木の気味・効能 ニ、
(1)建部清庵(1712~1782年)
と杉田玄白
(1733~1817年)
本草綱目ナドノヤウニ知ルゝ ナリヤ」
ということである。
大槻玄沢が没した2ヵ月後の文政10年( 1827)
5月、玄
④は、
「阿蘭陀医書モ多ク渡リタルヤ」
ということであっ
沢の行跡を不朽にするため「亀戸村、葛飾神社」に碑
た。特に「阿蘭陀医書」については、当時「阿蘭陀外科
を建てたいとして、長男の玄幹(「茂楨」)が記した『先考
伝書」
として伝わっているものの実態は、
「通詞を頼■
5
それによると、
「先君諱ハ茂質、字ハ子煥、 色々の事を聞書きにしたるもの」や、
行実』がある。
「唐の医書の外科
姓ハ平、氏ハ大槻、玄沢と称ス、嘗テ磐井川ノ涯ニ家ス
の部から抜集め病論を集合したるもの」であったという。
ルヲ以テ磐水ト号ス」
とある。玄沢の諱は「茂質」。号は
そして、
たとえ「阿蘭陀医書」が日本に輸入されていても、
もんじ
北上川の支流である磐井川が一関の近くを流れていた
「彼邦の国 字言語を知らされば用に立さるへし・
・
・
・
・
・日
ので「磐水」
とした。玄沢の父玄梁は、仙台藩の支藩で
本にも学識のある人出て、阿蘭陀の医書を翻訳して漢
ある一関藩の藩医であった。玄沢は13歳から22歳まで
字にしたらば、正真の阿蘭陀流か出来」るのではない
に師事し、医
の9年間、一関藩の藩医建部清庵( 由正 )
か、
と清庵の願望を記している。
術を学んだ。
清庵の「阿蘭陀の医書を翻訳して漢字にしたらば」
と
建部清庵は、当時の「阿蘭陀流」
と称する医学に疑
いう思いは、杉田玄白達の『ターヘル・アナトミア』翻訳に
問を持った人である。
その疑問を解決するために、明和
通じるものであった。清庵が質問状を出し、玄白がそれ
7年( 1770 )閏6月18日付、
4ヵ条からなる質問状を弟子
に回答をするという書簡の往復はその後も続き、玄白は
の衣 関 甫軒に持たせ、江戸の大家を見つけ回答を貰っ
清庵の医者としての「見解」に感じ入り、
「はからずも翁
きぬ どめ
(べん)
6
てくるように命じた。杉田玄白『 蘭学事始 』によると、そ
われ知己千載の一奇遇な
その人にあたりしを、抃 躍し、
の質問状が江戸の玄白に届いたのは、
「 解体新書未だ
り」
と喜んでいる。一方の清庵は長男亮策を玄白に入門
上木の前なりしが」
とあり、
『ターヘル・アナトミア』の翻訳
させた。
7
が大分進んだ頃 であった。清庵が質問状を書いて、
そ
れが玄白の手に渡るまでに凡そ2年半の時が経ってい
(2)玄沢の蘭学への道
たことになる。安永2年( 1773 )正月、玄白は「答書」を衣
『先考行実』によると、建部亮策の江戸行きを知った
関に持たせて一関へ帰した。その後に清庵と玄白の交
大槻玄沢は、
自分も玄白の教えを受けることを望み、亮
流が始まった。両者の書簡の一部は、子弟たちによって
策と相談した。そして、江戸勤番の父玄梁に師匠であ
寛政7年( 1795 )
『 阿蘭陀医事問答 』
と題して出版され
る建部清庵から手紙を出してもらうことにした。清庵は
た。
最初拒んだが、玄沢の熱心さに折れて承諾をした。藩
8
『阿蘭陀医事問答』によれば、清庵が抱いていた疑
から2年間の遊学許可が出ると江戸に登り、安永7年
問点は、①「阿蘭陀ニハ内科ノ医者ハナキ ナリヤ」で
( 1778 )に亮策を介して杉田玄白の門に入った。
しばら
ある。彼は「阿蘭陀流ト称スル者皆、膏薬・油薬ノ類バ
くは父とともに一関藩の藩邸にいたが、父の帰国後、杉
という。
カリニテ、腫物一ト通リノ療治ノミスル 不審ナリ」
田玄白の塾に居を移した。
(コト)
 5
大槻茂楨『先考行實』文政10年 早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵
杉田玄白
『蘭学事始』緒方富雄校註 岩波書店1959年
 7
『解体新書』
が刊行されたのは、
安永3年
(1774)
8月。
 8
『和蘭医事問答』寛政7年 早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵
 6
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University Museum
Hiroko MORI · Katsunori MIYAZAKI
森 弘 子・宮 崎 克 則
玄沢は、蘭学を学ぶことを希望したが、杉田玄白は
に非凡な人物だが、残念なのは遊学の期限が迫ってい
許可をしなかった。その理由は、遊学の年限が短いこ
る”
と。それに対して、工藤平助は
“先生がこれほど賞賛
と、帰国しても同学の者が周囲にいないことにあった。
そ
されるのは普通ではない。本藩の「一声」があれば解決
こで、玄沢は同塾の有坂東渓に26文字を習い独学で
することです”
と言って別れた。
勉強していた。
それを知った杉田玄白は「其厚志ヲ察シ、
前野良沢は、工藤平助を訪ねるよう玄沢に告げた。
3
ヘイステル翻訳ノ業ニ与ラシムル」
と、玄沢の蘭学への
年の遊学期間が終わり故郷に帰る準備をしていた玄沢
志が固いことを知り、ヘイステルの翻訳に従事させた。
し
は、良沢に命じられたとおり、工藤平助を訪ねた。工藤の
かし玄沢は、
「一言半句解シ難ク、空ク手ヲ束ルノミナリ」
働きかけがあったのか、玄沢はさらに1年間の遊学期間
と、
ほとんど理解できなかったという
(『先考行実』)。
の延期が認められた。計4年間の江戸遊学を終えた玄
そこで玄沢は、
有坂東渓を介して前野良沢にいろいろ
沢は、帰郷後一関藩主に仕えていたが、天明6年(1785)
と尋ね、
それまで理解できなかったことが少し理解できるよ
に本藩の仙台藩に召し抱えられた。
その経緯について、
うになった。
その後玄沢は良沢を5~6度訪ねたが、
良沢は
『先考行実』
には「工藤ノ一声ヨリ出テ、国家老平賀蔵
「病ヲ称シ」て面会を断った。玄沢は「此師ニ就ズンバ宿
人、近臣茂木弘見、公儀使松崎仲太夫等ノ数輩ガ推奨
志ヲ遂ベカラザル ヲ知リ強テ尋問スル 数月」
と、
その後
ニ因ル」
とあり、
これは工藤の推薦によるものであった。
そ
も数ヶ月間必至の思いで面会を求めた。
その結果、
良沢は
9
玄沢
(
の後の両者の関係を、玄沢が書いた
『官途要録』
玄沢の「篤志」
を汲み会ってくれた。
『 先考行実』
には「口
が仙台藩に召抱えられて書き始めた公用に関する記録)
にみると、
とあり、
前野良沢
授面命ヲ得テ此の学ノ一班ヲ窺フ ヲ得」
玄沢は工藤家を親類として付き合い、平助の死に際して
から蘭学の基礎を習うことができたとある。
2年間の遊学期
はその届や服喪願いを出している。
また、工藤家の家督
間が終わると、
続けて1年間の延期が藩から認められた。
相続について藩への働きかけもしている10。
天明元年( 1781 )、玄沢の3年目の遊学期間が終ろう
玄沢は仙台藩に召し抱えられる時、次の希望を出し
とする頃、前野良沢の住居に仙台藩の藩医である工藤
た。
1つは、蘭学を続けることであった。玄沢は、杉田玄白
平助( 1734~1801年 )がやってきた。前野良沢と工藤平
に
『解体新書』
の見直しをするように命じられていた11。
そ
助の関係について、
『 先考行実』に「良沢先生ト交リ善
の2は、
「 江戸住宅」にして欲しいということであった。勤
シ」
とあり、続けて、
務で「御国表住宅」になったり、
藩主帰国に際し「御在所
表御供」など命じられたりしては、修行ができなくなるから
此書生貴藩ノ支藩一関侯ノ医員ナリ、余ニ従テ蘭学
である。
これらの希望は承諾された。
また、江戸詰めの藩
を脩スル 厚ク 実に非凡ノ人ナリ、但憾ム近日遊学
医は「官舎」に住むことになっていたが、
玄沢は藩邸の外
ノ期迫レリ、惜ムベシ、嘆ズベシト、工藤氏答テ曰、先
に居を構えることを許されている。
それは、
多くの同学の者
生カクマテ賞シ給フ 尋常ニアラズ、僕一策アリ、寡君
と交流し、情報の交換を容易にするためであろう。
『 先考
ノ一声アラバ事成ベシト言テ別レヌ
8月19日に「材木町ヘ僑居ヲ占
行実』
に、天明6年(1786)
(シテ)
ム」
とあり、
杉田玄白の塾を出て「材木町」に転居している。
とある。要約すると、前野良沢は工藤平助に次のように
仙台藩「外科」医の大槻玄沢は、建部清庵の願望や
言った。
“この「書生」は一関藩の「医員」で、
自分( 前野
杉田玄白・前野良沢等の期待を背負い、江戸で蘭学の
良沢 )
について蘭学を勉強することを強く望んでいる。実
研鑽に励む。
 9
大槻玄沢著『官途要録』早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵
天明5年
(1785)
の8月から文政10年
(1827)
7月までの仙台藩に仕えたことに関する自筆の記録である。
玄沢は、
文政10年3月30日に没している。
その
ため、
玄沢の筆跡は文政9年12月7日を最後とし、
その後は玄幹が記録している。
  10
『官途要録』
  11
『 重訂解体新書』
(早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵)
の「重訂解体新書附言」に大槻玄沢は次のように記している。
「抑々先生草創之功。
偉ニシテ且大也ト謂可矣。
但々其功起之初。
参攷書少ク質問人ニ乏シ。
稽証ニ不便。
研究ニ由無。
故以其訳未尽暢者有。
時
参訂ヲ加フト雖 其功未半。
而衰老日ニ逼リ。
人事旁午。
因循不果。
深ク以憾ト為。
因テ更ニ少子茂質ニ命 訂正之任ニ代シム」
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
2.
『蘭畹摘芳鯨篇 全』
と
『魚王譯史』
(1)
『 蘭畹摘芳』
とは
以テ草稿ヲ止メ、未ダ繕写ニ及ズ、余等不敏成事ナレ
うれい
12
早稲田大学付属図書館にある
『 蘭畹摘芳 』 は、大
ドモ、先生ノ久クシテ紊乱シ湮滅シ顕ナラザルノ恤ヲ
槻玄沢がオランダの諸書の中から必要とする事柄を
除スル事トス、因テ乞テ浄写ヲシ一編ト成スヲ欲ス、他
選んで翻訳したものを、弟子の山村昌永らが寛政4年
日ヲ待テ刪正シ以テ六物新志之続編ト作サン、先生
13
にまとめたものである 。内容は翻訳の部分と玄
( 1792 )
以其一時略訳肯許セズ、余等固請シテ集録シ、以テ
沢の考察からなり、考察の部分は「茂質按ズルニ」或い
一書ト為シ名ケテ蘭畹摘芳ト曰、蓋シ其諸物ノ訳文
は「按ズルニ」の文言で始まる
(茂質は玄沢の諱)。
その巻
則粗略ニシテ未ダ詳審ヲ尽サズト雖、然ナガラ其論
頭に「蘭畹摘芳引」
と題して、山村昌永が『蘭畹摘芳』
説精覈ニシテ実ヲ著ス、則和漢前賢ノ未ダ曽テ言及
成立の経緯を次のように記している。
セザル所ナリ、奇ナラザル哉、而シテ先生之業ヲ放レ
きょうへき
則其緒余ヲシテ我輩之拱壁也爾
蘭畹摘芳引 (読点は筆者による)
寛政壬子之春
此編也磐水先生修本業之余暇、或応儒而報答或会
山村昌永
薬品之挙出以示人者、皆臨時之略、訳忽忽之間所
作、固非有意於成編也、故其訳之也、有漢文焉有国
要約すると、
『 蘭畹摘芳』は玄沢(「磐水」)先生が本
字焉、率皆冗長重複、未遑成一編之体裁、然三四五
業の合間に、人に求められて回答したり、薬品の「挙
年之際己及数十種、累累盈筺而、先生以其有別所
出」の際、人に説明したりするために書かれたもので、
注意多止、草稿未及繕写、余等不敏事、先生之除恤
時々の「略訳」である。時間を見つけて翻訳されたもの
其久而紊乱湮滅而不顕、因乞欲浄写為一編、待他
で、
もともと本にまとめようという気持ちはなかった。だか
日刪正以作六物新志之続編、先生以一時略訳不肯
ら訳文は、漢文であったり、
「国字」であったり、文章がく
許之、余等固請集録以為一書、名曰蘭畹摘芳、蓋其
だくだしかったり、重複していたりしていた。時が経つに
諸物訳文雖則粗略未尽詳審、然至其論説精覈著実、 つれて、数十種になり、箱一杯に溜まった。先生は忙しく
則和漢前賢所未曽言及、豈不奇哉而放先生之業、
文章の整理ができなかったので、弟子である我々は、
こ
則其緒余而我輩之拱壁也爾
のままではいつかばらばらになって失われていくのでは
寛政壬子之春
ないかと思い、
『 六物新志』の続編とするためにも清書
山村昌永謹識
をして一編にまとめたいと願った。
しかし先生は一時の
「略訳」であるとして許可されなかった。それでも我々
<筆者が読みやすくするために以下のように読み下した>
は懇願して一書にまとめ「蘭畹摘芳」
と名づけた。いろ
此編、磐水先生本業ヲ修ルノ余暇、或ハ儒メニ応ジ
いろな事柄の訳文で詳しいものではないが、書かれて
而シテ報答、或ハ薬品ノ挙出ニ会シ以テ人ニ示ス者
いることは大事なことであり、
これまでの和漢の学者達
ニシテ、皆臨時ノ略訳ナリ、忽忽之間之所作ニシテ、
が誰も言及していないことである。
「蘭畹摘芳」は、
われ
固ヨリ編成ニ於テ意有ザル也、故ニ其訳ハ漢文有国
われ弟子達にとって大きな宝となった。
もと
おおむね
字有、率 皆冗長ニシテ重複ス、未ダ一編ノ体裁ヲ成
に出版された14
『蘭畹摘芳』
の一部は文化14年(1817)
スニ遑ナシ、然ルニ、三四五年ノ際、
己ニ数十種ニ及
(図5)。玄沢は「凡例」に次のように記している。
《杉田玄
ビ筐ニ盈ル、而シテ先生別ニ意ヲ注グ所多ク有ルヲ
白に命じられて、
『 解体新書』
と
『傷医新書』の翻訳を見
いとま
  12
大槻玄沢『蘭畹摘芳』寛政4年 早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵
玄沢が書いた文章を門人達が「筆録・校訂」
をした。
  14
大槻玄沢『蘭畹摘芳』文化14年出版 早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵
  13
2012 The Kyushu
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University Museum
Hiroko MORI · Katsunori MIYAZAKI
森 弘 子・宮 崎 克 則
〔図5〕 『蘭畹摘芳』
〔図6〕 『蘭畹摘芳総目』
早稲田大学付属図書館蔵
早稲田大学付属図書館蔵
直していた仕事の合間に、
たまたま西洋の薬品やその使
だけで、
「次編」から「五編」までの刊行は予告のみで
い方および産物や機器・図書などについて質問され、
そ
終わっている。
の訳文と説明を求められた。
それで、分かるところを翻訳
にまとめた『蘭畹摘芳』
山村昌永らが寛政4年( 1792)
し、求めに応じていた。
・
・
・
・もともとこの書は公にするつもり
は、
その時までに玄沢が翻訳したものを載せているが、
ではなかった。弟子達がこれを
「削正」
・
「輯録」
し、
「蘭畹
その後も玄沢による翻訳は増加した。増加した内容は、
摘芳」
と題名をつけ、彼らの間で「転借」
された。外部の
早稲田大学付属図書館に所蔵されている
『蘭畹摘芳
人に見せないようにと言っていたが、書肆の目に止まり出
総目』15によって知ることができる。
版を勧めるので、
いくらか訂正して出版する》。
(2)
『 蘭畹摘芳総目』
以上、
『 蘭畹摘芳』は、玄沢が輸入された蘭書からさ
まざまな事柄について翻訳したもので、
もともとはメモ書
に森約之が作っ
『蘭畹摘芳総目』は、文久2年( 1862)
きのようなものであった。それを弟子達が校訂・清書をし
た目録である。巻末に「文久二年壬戌十月蘭畹摘芳抜
て
『蘭畹摘芳』
と題した。
『 蘭畹摘芳』の「目録」に「通計
粋、急促不遑卒業故五条未写、而還原本、俟後日再補
五十二種」
とあり、寛政4年の段階では52種の訳文が
之目」
とあり、文久2年10月まで『蘭畹摘芳』
を「抜粋」
し
あったことがわかる。
その後も訳文は増大し、
その中から
ていたが、急に「卒業」
しなければならなくなった。
そのた
「駝鳥」や「阿郎悪烏当」
(オランウータン)
など19種の訳
め、
「五条」
(5種 )
についてはまだ写していないが、原本
に「大阪河内屋太助」
らが1
文を選び、文化14年(1817)
は返した。後日またこれを補う積りである、
と記している。
森約之『蘭畹摘芳総目』
によると
( 図6)、
『 蘭畹摘芳』
冊にまとめて
『蘭畹摘芳』初編として刊行した。
「次編」、
「三編」、
「四編」に分かれ、各編
『蘭畹摘芳』初編の末尾に「次編目録 近刻」
とあり、 は「初編」、
また「第三編第四編第五編未刻 目録載宇第次編」
と
は「巻一」から「巻十」まであったという。そしてそれぞ
ある。
「初編」以降も出版を続ける予定であったが、文政
れの巻に1~30種の訳文が載せられていた。
「次編」
に『 蘭畹摘芳 』初編が3分冊で再版された
2年( 1819 )
の「巻八」には、
「無門人輯訂等之名 鯨説 全巻
  15
森約之著『蘭畹摘芳総目』 文久2年 早稲田大学付属図書館「洋学文庫」所蔵
2012 The Kyushu
85
University Museum
大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
是也」
とある。つまり、
『 蘭畹摘芳』の「次編」
「巻八」は、
「鯨説」のみでなっており、
これはまだ門人による校訂
①『魚王譯史』
(長崎県平戸市松浦史料博物館所蔵)、②
『 西洋鯨品訳説附言 』
( 国立国会図書館所蔵 )、③『 蘭
や清書がなされず、玄沢自筆のままであったという。
畹摘芳鯨篇 完』
(日本鯨類研究所所蔵 )、④『西洋鯨品
国文学研究資料館の「祭魚洞文庫」にある
『蘭畹摘
訳説』
( 岩崎弥太郎記念館静嘉堂文庫所蔵 )。
こられを比較
芳鯨篇 全』は、
『 蘭畹摘芳』
「次編」の「巻八」のみを
した結果、平戸藩主松浦氏の所蔵である
『魚王譯史』
まとめたものであろうと考えられる。その筆跡を、早稲田
が、誤写や脱字も少なく、
もっとも良質の写本と考えられ
大学付属図書館に所蔵されている大槻玄沢自筆の『多
る。松浦氏が大槻玄沢から鯨に関する彼の翻訳を借り
羅葉考余録』や『麝香余考』
などと比較した結果、
『蘭
て写本を作り、
『 魚王譯史』
と題したと考えられるが、確
畹摘芳鯨篇 全』
は玄沢の筆跡と異なり、写しである。
『 魚王譯史』
をもとに検討する。
証はない
(図7・8)。以下、
『国書総目録』
によると、
『 蘭畹摘芳鯨篇 全』
と同じ
内容を持つものとして、以下の4点をあげている。
〔図7〕 『魚王譯史』の表紙と
「西洋鯨品譚説附言」
松浦史料博物館蔵
2012 The Kyushu
86
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Hiroko MORI · Katsunori MIYAZAKI
森 弘 子・宮 崎 克 則
〔図8〕 『蘭畹摘芳鯨篇 全』の表紙と
「西洋鯨品説附言」
「祭魚洞文庫」
(国文学研究資料館蔵)
3.大槻玄沢と鯨
(1)玄沢と
「一角」
との出会い
て輸入されていた「一角」の角は、
4足の動物の角と信
『魚王譯史』は、
『 蘭畹摘芳鯨篇 全』
と同じように、
(ヨンストン)
じられていた。輸入薬物について玄沢が書いた『六物
「西洋鯨品訳説附言」
と
「西士容 斯東私動物集纂図
新志』16に「或人曰、通天犀ナル者ハ必ス是ナラン」
とあ
彙第五水族譜一百七十一号第一章大魚鯨品集説」の
り、当時の人々は天空を駆ける犀ではないかと考えてい
2編からなる。
「西洋鯨品訳説附言」は玄沢が捕鯨に
たのである。
に長崎遊学が許可され、10月
玄沢は天明5年( 1785 )
関心を持った経緯を述べ、
「 西士容斯東私動物集纂図
彙第五水族譜一百七十一号第一章大魚鯨品集説」
8日に江戸を出立した。
その途中、大坂の博物収集家の
は、J.
ヨンストン
『動物図説』の一部翻訳である。
木村蒹葭堂を訪れた。
『 蒹葭堂日記』17によると、玄沢は
『魚王譯史』の「西洋鯨品訳説附言」によると、玄沢
10月24日から11月6日まで7回ほど蒹葭堂を訪ねている。
は、蘭学を志した初期の頃、杉田玄白が所持するヨンス
木村蒹葭堂の「一角」についての研究書『一角纂考』18
トン
『 動物図説 』の一部を翻訳し、
「一角」が水棲動物
に寄せた玄沢の跋文によると、
玄沢は、
蒹葭堂といろいろ
であることを知った
( 図9)。当時、解毒や解熱の良薬とし
な「奇事」について話をしているうちに、
オランダの書を数
  16
大槻玄沢『六物新志』
(『江戸科学古典叢書 六物新志・稿/一角纂考・稿』恒和出版昭和55年)
『完本 蒹葭堂日記』
(水田紀久・野口隆・有坂道子編著 藝華書院 1009年)
  18
木邨遜斎撰『一角纂考』
(『江戸科学古典叢書 六物新志・稿/一角纂考・稿』恒和出版昭和55年)
  17
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
〔図9〕 一角魚身有鱗図と一角獣図
『一角纂考』
(シーボルト収集、
ライデン大図書館蔵)
冊見せられた。
その中の一冊に
『グリーンランド地理誌』
の鯨組主である益冨家に治療を乞われて生月島へ行
があった。
そしてその中には「一角魚之図説」があり、玄
き、数日滞在し捕鯨を自由に見物していた。彼の話の内
沢が数年前に翻訳したヨンストンの書と一致した。
『 魚王
容は、
譯史』
に「我海出ス所ノ子久治良ナル者ハ一角魚ノ種
族ナルカト云 ヲ得タリ」
と記している。蒹葭堂と各地の捕
其魚形態ノ出群偉大怪異ナル、其漁事ノ極メテ盛ナ
鯨の話をするうちに、
「一角」が日本近海にいる
「子久治
ル、数百ノ漁子水夫及び大小数船捕具調度尽ク完
良」
(コク鯨)
の仲間であることを初めて知った。玄沢の長
備シ、漁法ノ熟練絶技、実ニ壮観タリ、其此ヲ網シ得
19
崎遊学紀行文『瓊浦紀行』 によると、蒹葭堂に「一角」
テ、後ノ切截割烹ノ手練捷法ノ如キモ、其巧妙目ヲ驚
の翻訳を請われて、10月26日夜『グリーンランド地理誌』
スニニ堪タリ
(『魚王譯史』)
(ママ)
を借りて宿に帰った。27日
「一角」の原文を写し、28日か
というものであった。鯨が偉大な化け物のように見えたこ
ら翻訳を始め、
11月2日
「一角志訳文稿卒業」
とある。
天明6年(1786)
3月26日、遊学先の長崎を発ち帰路に
と、捕鯨業が極めて盛んなこと、数百人の漁師や水主
着いた。途中4月15日から21日まで大坂に滞在し、再び
が働き、大小の船や捕鯨道具が完備されていること。特
蒹葭堂を数回訪ねた。以上のように、玄沢は「一角」の
に解体処理の仕方は巧妙で驚くに値するという。鯨の
正体を探ることから、鯨への関心を深めていくことになる。
解体について、後に大槻清準も紀行文『鯨海游志』20に
「オヨソ獲ウルコト昼ニアレバ、報ヲ聞キテスナワチ往ク
(2)捕鯨への関心
モ 割スデニ尽ク」
と記している。昼間に鯨を捕獲したと
玄沢が捕鯨に興味を持ったのは、小石元俊から聞い
いう報せを聞いて出かけても、鯨の解体はすでに終了し
た話による。
『 魚王譯史 』に「余カコノ蓄念小石医生ノ
ているほど手際がよかった
( 図10.11は益冨組の捕鯨を図解
一話ニ発起シ」
とある。天明6年秋、長崎遊学から江戸
する
『勇魚取絵詞』)
。
へ帰ってきた玄沢宅に京都の医師小石元俊がやってき
小石元俊の話を聞いた玄沢は「余コレヲ聞テ神飛ヒ
て捕鯨の話をした。元俊はかつて肥前国平戸藩生月島
心馳セ、願クハ一目撃セン ヲ欲スレ 、今ニ於テハ絶
  19
大槻玄沢『瓊浦紀行』写本(『磐水先生随筆』巻之三)早稲田大学付属図書館所蔵
長崎遊学のために江戸を発ち、
翌年江戸に帰着するまでの玄沢の動静が記されている。
  20
『鯨海游志』
は、
大槻清準が大槻玄沢の長男玄幹と共に、
文化元年1月に生月島の益冨家に滞在して捕鯨見物をした時のことを書いたものである。
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〔図10〕 生月御崎納屋場 背美鯨切解図
〔図11〕 生月御崎浦骨納屋図
『勇魚取絵詞』
(松浦史料博物館蔵)
『勇魚取絵詞』
(松浦史料博物館蔵)
テ其地ヲ踏カタキ ヲ憾む」
と残念がっている。
「神飛ヒ
あることに心を動かされ喜び、私( 玄白)へ手紙で解らな
心馳セ」
と特記しているから、捕鯨の話は玄沢に強い衝
いところを尋ねてきた。天明5年( 1785 )の秋、小浜藩主
撃を与えたことが分かる。
酒井氏に随って越前小浜に行った帰りに、京都に立ち
小石元俊( 1743~1808年 )は、京都の儒医永富独嘯
寄った時、
日夜やって来て質問攻めをした。
その後、天明
21
庵に学んだ。
『 国史大辞典』 によると、明和2年( 1765 )
6年秋には江戸へやって来て、玄沢宅を宿として1年近
頃から約4年間、西国遊歴をしている。生月島の益冨家
く
( 実際は半年 )玄白の門下生と
『解体新書』
について討
に行ったのはこの頃であろう。彼の人となりは、杉田玄白
論をした。元俊は、蘭学を学ぶことはしていないが、帰京
後は元俊の塾に出入する生徒に、常に
『解体新書』のこ
『蘭学事始』
に次のようにある。
とを話し、
「実旨」
(『解体新書』の内容)
を説いて話した。
医事に志至って厚き男なり。
・
・
・
・解体新書を読みて、
たが
『魚王譯史』によると、元俊から捕鯨の話を聞いてか
千古の説に差ひしところを疑ひ、みづからしばしば観
ら11年後の寛政9年( 1797 )、玄沢は平戸藩主( 第九代
臓して、
この書の着実なるに感じ、爾来深くこれを喜
藩主松浦清=静山 )
の要請に応じて江戸藩邸で、西洋の
び翁へ書信を通じて猶その解しがたきところを尋問
人体解剖書について数回の「講会」をした。その終了
せり。天明五年の秋、翁侯家に陪して其国に罷りし帰
後、平戸藩の「侍医」芥川祥甫と
「鯨話」を何度かした
路、上京せし時、滞在の間日夜来りて問難したり。そ
という。
の後は東遊し玄沢が僑居を主とし滞在一年に近く、
玄沢が初めて鯨の実物を見たのは、翌年の寛政10年
つねづね社中とこの業を討論せり。蘭学とてはなさざ
5月であった。品川の漁夫がたまたま2歳位のナ
( 1798 )
れども、帰京の後その塾に於て出入の諸生徒に解体
ガス鯨を捕獲したとの報せを受けて出かけて行った。
し
新書をつねに講じてその実旨を人に示せしと
かし、鯨は水中にあったために全体像は分からず、
日数
が経っていたので腐乱していた。
要約すると、小石元俊は医療にとても熱心な男であ
さらに翌年、玄沢は捕鯨家に会うことができた。寛政
る。
・
・
・
・
『解体新書』
を読んで、書かれていることが今まで
12年(1800)、平戸藩士の山縣二之助が江戸に来た。当
言われてきた説と違うことを疑って、
自分でしばしば解剖
時、幕府は蝦夷地での捕鯨業の可能性を探るため、平
をした。
そして
『解体新書』
に書かれていることが事実で
戸藩の鯨組である益冨組の羽指 222名をエトロフ島に
  21
『国史大辞典』吉川弘文館
羽指:中園成生『鯨取りの系譜』
によると、
「西海では鯨に対して直接銛や剣を投げ、
最後に鯨の鼻を抉って綱を通す役目をする」
とある。
そのほか
に、
鯨の見張り所である山見場に詰めて、
鯨を見張ることもあった。
  22
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
派遣し調査をした。彼らは3月7日に下関から高田屋嘉
帰郷後、山縣二之助から1,
2の「図説」が贈られてきて、
平の辰悦丸に乗ってエトロフ島に行き、
5月20日から6月
それも
「叢話」
(『鯨漁叢話』)
に収めた、
とある。
15日までの25日間、現地調査を行った。そして9月末に
西海地域の捕鯨業では、鯨の内臓は小納屋という別
江戸へ来て、結果を報告している。
この時、幕府と平戸
の業者が加工していたので26、鯨組主であった二之助
藩および益冨組との連絡役として、山縣二之助は江戸
も詳細は知らなかったと考えられる。
23
へ来ていた 。
彼は、
もともと益冨組の組主(4代目益冨又左衛門 )で
(3)玄沢の鯨観
24
あったが、家職を弟に譲り、平戸藩に仕官していた 。持
玄沢は、鯨を研究の対象として捉えるとともに、大きな
病があったらしく、江戸で大槻玄沢に治療を依頼した。
利益をもたらす「利用の一尤物」
として捉えていた。
『魚
二之助は治療のために5回ほど玄沢の所に通い、玄沢
王譯史』
に「一魚ヲ獲レハ七郷ノ富ス、其油脂ヲ最トス、
もまた二之助を訪ねたことが、
「 寛政十二年 江府日記
臓・骨・筋・肉悉ク皆其用ニ中ラサルモノナシ」
とある。一
25
帰路日録」 に見える。
その間に玄沢は捕鯨の実際を
頭の鯨は七郷を潤すほどの経済的効果があり、鯨油以
彼から聞くことができた。
『 魚王譯史』
に、
外に内臓・骨・筋・肉など全てが役に立つという。
また、彼
は捕鯨について次のようにも述べている。
疹治往来ノ際、屡捕鯨の話ニ及ヒ、頗ル其詳ヲ得タリ、
聞ニ随テコレヲ手録シ、 ノ芥川生ノ話説ト相併セテ
我東方ハ四面環海、此物各川ノ海ニ現セサル ナク、
一雑記ヲ草シ、姑ク名ケテ鯨漁叢話ト題セリ
彼野作東北海ニ至ルモ極メテ夥シト云、因テ今所々
師家蔵スル所西哲容斯東私トイフ人図説スル海族譜
在ル所ノ漁方・沿海ノ地ニ伝ヘ、各土コノ漁ヲ以テ事
アリ、其中鯨品ノ図説アリ、余他ノ諸説ヲ渉猟スル際、
トセハ、国益経済其四民ヲ賑ハスノ一要ナルヘシ
略コレヲ読テ其概ヲ知ル、説中鯨ノ内景ヲ説ク、余其
略ヲ知ルヲ以テ山縣氏ニ問フニ、傍ラ其事ニ及フ、生
日本の東方は海に囲まれていて鯨が多く集まってく
等未タ其実ヲ究メサルモノ多シ、皈郷ノ後為ニ熟視
る。特に「野作」
( 蝦夷 )の東北の海にたくさんいる。
だか
再考ノ告ベシト約セリ、皈後ニ至リ一二ヲ図説 余ニ
ら「漁方」や「沿海ノ地」に
( 捕鯨法を)伝え、各地で捕鯨
贈ルモノアリ、
コレ亦即叢話ニ収ム
をすれば国の経済も豊かになり、人々も活気付くにちが
( ヵ)
いない。
とある。前半部分は、治療で行き来するうちにしばしば
この考えは、小石元俊の話を聞いて以来の玄沢の中
捕鯨の話になり、聞いたことを「手録」
(メモ)
し、以前に
に蓄積されてきた思いであった。平戸藩医芥川祥甫や
聞いた芥川氏の話と併せて雑記帳を作り、
『 鯨漁叢話』
藩士の山縣二之助から聞いた話で、捕鯨の「大略」を
と題した、
とある。つまり
『鯨漁叢話』は玄沢の「雑記」で
得ることができたが、それらを「集纂スルニ暇アラス」
と
あった。後半部分は、
「 師家」
(杉田玄白)が所蔵している
述べており、捕鯨書として編集するには情報不足であっ
「容斯東私」
(ヨンストン)の「海族譜」
(『 動物図説 』)
とい
た。
さらに、
ヨンストン
『 動物図説 』の翻訳を通じて、捕
う本の中に鯨の図説があり、鯨の「内景」
( 内蔵 )
につい
鯨業を広めたいという思いはより強くなった。
『 魚王譯
て書かれていた。
「予」
(玄沢)
はそのあらましを知ってい
史』の「西洋鯨品訳説附言」後半に
( 図12、続けて「西士
たので、山縣二之助に鯨の内蔵について質問した。彼
容 斯東私動物集纂図彙第五水族譜一百七十一号第一章大魚
は
“私等は、
まだその実際を知り尽くしていないものが多
鯨品集説」が始まる)
、
ヨンストンス
い。国に帰った後熟視再考して知らせます”
と約束した。
  23
「蝦夷地鯨漁御用之一件」
(「山縣家文書」)佐世保市立図書館所蔵
藤本隆士「近世西海捕鯨業経営と同族団(一)
(二)」
(『福岡大学商学論叢』第19巻第4号・第20巻第1号)
  25
「寛政12年 江府日記 帰路日録」
(「山縣家文書」)佐世保市立図書館所蔵
  26
古賀康士「西海捕鯨業における鯨肉流通―幕末期壱岐小納屋の販売行動を中心に」
(『九州大学総合研究博物館研究報告№9』2011年)
  24
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〔図12〕 「西洋鯨品訳説附言」の後半
『魚王譯史』
(松浦史料博物館蔵)
嗟欧羅巴州方ノ俗、彼極北ノ絶域、氷海ヲ渉リ常ニ
ンランド等ニ遠ク航海往来シ漁事ヲ為ストキコユ」
とあり、
氷山氷原ヲ為スノ地タル ヲ知ルトイヘ
玄沢は輸入書の翻訳や、工藤平助・近藤重蔵等との交
、遠ク航海
コノ利用ヲ開ク、況ヤ我邦ノ四方沿海、各コノ漁猟ノ
流や『環海異聞』の編集などを通じて、知識を得ていた
業ノ起サハ毎州一箇ノ国益ナルヘシ
のである。
(4)大槻清準に託した捕鯨書の編集
とある。
「ああ、欧羅巴州の人達は、北の果ての人も住ま
ないような所まで氷海を渉り、そこは氷山や氷原ばかり
『 魚王譯史 』によると、玄沢は、長男玄幹と親戚の大
の土地であるということを知っていながら、遠くまで航海
槻清準の2人が、享和3年( 1803 )
に諸国遊歴の計画を
して捕鯨をしている。
ましてや、我が国の四方は海に囲
立てていることを知り、平戸へ行き
「漁鯨」
( 捕鯨 )
を見、
まれている。各地で捕鯨業を起こせば、国益となるはず
見たことを記録するよう頼んだ。長崎へやって来た2人
である」。
は、生月島の益冨家に1週間ほど滞在し捕鯨の実際を
ヨーロッパの捕鯨について、森田勝昭『 鯨と捕鯨の
見学した。帰府の後、清準は捕鯨の記録を玄沢に示し
文化史 』によると、
スペインとフランスにまたがる地方に
た。それは「余カ素志ヲ償フニ足テ其喜ヒ知ルヘシ」
と、
暮らすバスク人が、
ビスケー湾で捕鯨をしたことに始ま
期待した以上の出来ばえであった。
そこで「民治ニ勧メ
り、17世紀の初め頃からヨーロッパ人はスピッツベルゲ
とある
(『魚王譯史』)。玄
テ其集成ノ功ヲ竣ン ヲ慫慂ス」
27
ン島を根拠地にして捕鯨を行った 。
スピッツベルゲン島
沢は、清準(「民治」)
に捕鯨の記録を「集成」をすること
は、
ノルウェーの北、北緯75度あたりに位置する島であ
を勧めたのである。
る。
ヨーロッパの捕鯨について玄沢もある程度は知って
玄沢は「西洋諸書ノ鯨説ヲ訳述」することで清準に
いた。
『 魚王譯史』
に「エイスランド・スピッツベルゲ・グリー
協力する予定であったが、
「本務の忩劇ナル」時期のた
  27
森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』名古屋大学出版会1994年 22~40ページ
2012 The Kyushu
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
〔図13〕 『環海異聞』首巻の表紙と見返し
「法制史料」kj18-0-16(九州大学附属図書館蔵)
めに翻訳に取り掛かることはできなかったという
(『魚王譯
聞』が完成したのは文化4年(1807)
5月であった。
史』)
。
「本務の忩劇」
とはどのようなことだろうか。
これは、当時最新のロシア情報であった。完成すると
文化元年( 1804 )
9月、
ロシアのレザノフが日本との通
すぐに幕府若年寄の堀田摂津守が借り出し、
6月には
商を求めて長崎へやって来た。彼は、寛政5年( 1793 )、
蝦夷地視察に出かけている。玄沢は『環海異聞』編集
難風に遇い漂流し、
ロシアに保護されていた仙台藩の
の後、
『 北辺探事』
2巻、
『 北辺探事補遺』
3巻を編集し、
漂流民4人を護送して来ていた。
レザノフは、半年間の
仙台藩に提出している。
これらは、
ロシアに関する情報
幕府との通商交渉が不成立に終わり、漂流民を日本側
を諸書からまとめたものである。
この時期、幕府も仙台藩
に渡すと翌年3月長崎を離れた。漂流民たちは、長崎で
もロシアに関する情報を必要としていたことがわかる。
の取調べが終ると仙台藩に引き渡された。
レザノフが長
玄沢は、仙台藩「外科」医としての勤務の他に、
『環
崎を去った翌年・翌々年と、蝦夷地へのロシア人の襲撃
海異聞』
・
『北辺探事』
・
『北辺探事補遺』等の編集に従
が続き、幕府は非常な緊張状態に置かれた。仙台藩も
事するなど、文化2年の暮れから文化5年( 1808 )
までは
また蝦夷地警固を命じられるなど、対ロシア関係におい
多忙な時期であった。
『 魚王譯史』の「本務の忩劇」
と
て警戒の必要を余儀なくされた。
は、
このロシア情報のまとめに携わっていたことを指す
玄沢が書いた『官途要録』
によると、文化2年( 1805 )
のであろう。そのため、すぐには「西洋諸書ノ鯨説ヲ訳
12月19日、藩邸から
「明廿日四時、揃ニ而魯西亜国ヘ漂
述」することができず、
ようやく文化5年の夏に取り掛か
流之者共罷出候ニ付、御自分出勤仕候様被仰付候」
と
り、
8月に出来あがった。それがヨンストン
『動物図説』の
いう呼出しがあった。つまり
“明日の午前10時ごろ、
ロシ
鯨に関する部分の翻訳であり、
『 魚王譯史』
に「西士容
アへ漂着していたものたちが揃って出てくるので、出勤
斯東私動物集纂図彙第五水族譜一百七十一号第一
するように”
ということであった。玄沢は志村等治(弘強)
と
章大魚鯨品集説」
と題して収録されている
(ヨンストン『動
ともに、
その日から漂流民への聞き取りを始めた。
そして、
物図説』は、
フランスのストラスブール大学がWEB公開 28している。
それを
『環海異聞』全16巻にまとめた( 図13 )。
『 環海異
1650年のラテン語版である。筆者はラテン語の素養がないため専
  28
http://num-scd-ulp.u-strasbg.fr:8080/view/authors/jonston,_jan.html
2012 The Kyushu
92
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森 弘 子・宮 崎 克 則
ために訳したのである
(『魚王譯史』)。
門家にお願いした結果、玄沢はヨンストン
『動物図説』
を忠実に翻
訳しているとの回答を得た)
。
同じ文化5年、大槻清準は『 鯨史稿 』
を仕上げて林
玄沢は、
ヨンストン
『動物図説』
を選択した理由を「容
大学頭に提出した
( 図14 )。
『 鯨史稿』完成の月日は明ら
斯東私ノ集説ハ・
・
・
・
・皆目撃ノ実証、今時ノ分朋ヲ得ルノ
かでないが、清準は9月末に江戸を出立し10月の初め
権與とスベシ」
と記している。
ヨンストン
『動物図説』の鯨
に仙台に帰着している29ので、
8月に完成した玄沢による
に関する記述は、
ヨーロッパの諸書から鯨の目撃記録を
ヨンストン
『動物図説』の翻訳は、
『 鯨史稿』に生かすこ
収録したものであり、玄沢は想像や虚説を載せているも
とができなかった。
(明カ)
のではないとして、
これを翻訳した。
さらに「継志ノ子弟
等編録全集ノ一考ニ供セントスルナリ」
とあり、
自分の志
を継いでくれる
「子弟」
( 大槻清準)が編集する
「全集」の
〔図14〕 『鯨史稿』
国立公文書館蔵
  29
前掲「文化5年大槻清準『鯨史稿』成立の政治的背景」
2012 The Kyushu
93
University Museum
大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
The relation of Otuki Kiyonoris "GEISIKO" and Otuki Gentakus "GEIGYOSOWA"
4.
『鯨史稿』巻之三の典拠
『鯨史稿』では、引用の部分に漢文表記があったり、
耳底骨凹陥ヲナシテ鼓膜ヲ張ル、
ソノ骨
漢字平仮名交じりの表記があったりする。
このことから、
硬キコト石ノ如シ、
コノ骨用ル所ナシ、此事
『 鯨史稿 』編集における大槻清準の資料活用の方法
鯨漁叢話ニ出ツ
・
(陰所)カイノ内にアリテ茎ニ皮ノ室アリ、背美ハ
には、
2つの方法が採られていることがわかる。
1つは資
料をそのまま引用する方法であり、
もう1つは資料の内
色黒シ、座頭ハ色白シ
容に解釈を加えてまとめる方法である。資料をそのまま
(図有り、中略)
引用した部分は、原文どおりに記している。典拠とした
カクノ如キノ縫裂アリテ茎ハ内ニ蔵ル時ニ
原典が漢文表記の場合は漢文で表記し、原典が漢字
ヨリ脱出シテ斃ルルモノアリ、故ニ唯開ノミ
平仮名交じりの場合は、漢字平仮名交じりで表記して
ニテハ雌雄見分カタシ
いる。
『 鯨史稿』巻之三では、表1に示したように26点が
典拠として明記されている。例えば図15は、鯨の皮につ
軽ノ形チ大略図ノ如シ、此事鯨漁叢話ニ
いての説明において、宝暦10年( 1760 )刊の梶取屋次
(図有り、中略)
出ツ
右衛門『鯨志』
を典拠としたことを示す。原典どおり漢文
婦人ノ血症ニ用テ効アリ鯨漁
叢話
となっている。
このように、引用の資料名を文末に割書き
雌雄開ノ内ニ輪骨二ツ
し、解釈を加えた部分は概ね「此事・
・
・
・ニアリ」あるいは
(図有り、中略)長サ三四尺、或ハ二尺
四五寸
「此事・
・
・
・ニ出」などと記している。
山
ノ高サ一尺バカリ、
『 鯨史稿 』巻之三において、
「鯨漁叢話」あるいは
蟠ル
「此事鯨漁叢話ニ出ツ」
と注記されている部分を抜き
アリ。魚ニヨリテ一ツアルモアリ、此事鯨漁
出すと以下のとおりである。
<「鯨漁叢話」からの引用>
叢話ニ出ツ
・
(糞門) 糞色黄ニシテ人糞ノ如シ鯨漁
叢話
・
(ヒゲ)ヒゲヲ磨テ灸瘡ニ傅レバ、愈スナリ、
シカレ
・
(皮)鯨ノ全身黒漆ニ塗タル合羽ノ如シ、
コレヲ
トモ甚ダ滲ミ強シ鯨漁
叢話
・
(耳)耳ハ目ノ後チ、皴皮ノ中ニ小穴アリ、形チ
衣皮ト云テ紙ノ厚サアリ、是レハ網ニカカリ
( ※耳の図あり)、
カクノ如ニシテ容易にニ
又ハ取扱フトキ、盡ク剥ゲ落ルナリ、其次
見ヘ分タズ、
コレヲ解ケバ内ニ耳竅ヲ通シ、
ハ黒皮ナリ、背美・児鯨ハ厚サ三四分、座
表1 『鯨史稿』巻之三に使用された資料
( )の数は引用回数
資料名
資料名
資料名
蘭書(14)
鯨記(12)
刪訂鯨志(12)
鯨魚叢話(7)
唐津捕鯨図説(6)
鯨志(5)
紀州鯨図原本(4)
格致鏡原(3)
邊要分界図考(3)
蘭畹摘芳(2)
紀州鯨図原本或人標註(2)
鯨史(1)
和漢三才図会(1)
紀州鯨図原本魚譜(1)
本朝食鑑(1)
大和本草(1)
環海異聞(1)
述異記(1)
解体新書(1)
華夷風土志(1)
琢玉雑字(1)
彌雅翼(1)
喩民兵衡(1)
漢書(1) ※書名は不明
隋書(1) ※書名は不明
唐書(1) ※書名は不明
この中には、書名が特定できないものもある。
「ヒュブネル曰」や「和蘭」
「和蘭ノ説ニ」などである。
これらは、
まとめて「蘭書」
とした。
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Hiroko MORI · Katsunori MIYAZAKI
等ハ一分タラズアリ。其次ハ白身。是モ皮
森 弘 子・宮 崎 克 則
〔図15〕 『鯨史稿』巻之三の皮についての記述
ト云。油トル所ナリ。腹部厚シ。其最モ厚キ
モノハ一尺二寸許リ、背ハ一尺ホドアリ、
次ハ赤身ナリ鯨漁
叢話
・
(肉)白皮ノ内ニアル赤身ナリ、背ノ辺厚さ二三
尺、胸先ニテ五六寸、腹部ニテ一二寸、
小腹陰具ノ辺ニテハ七八寸ヨリ一尺ニ至
ル鯨漁
叢話
・
(脂)背美・白長須ニ多シ、児鯨ノ脂能金瘡ヲ愈
シテ速功アリ、又、湯溌火傷ニ妙ナリ鯨漁
叢話
「耳」の図は、本文中の1行の中に1文字分の大きさ
で小さく図が描かれている。
「陰茎」及び「開」の図は、
2行分の余白中に図が描かれていて、
これらは「鯨漁
叢話」から採られた図であることが明記されている
(図
17 )
。大槻清準が『鯨史稿』巻之三において、
『 鯨漁叢
話』から引用したのは以上のとおりである。
『 鯨漁叢話』
は、
もともと大槻玄沢のメモ書きであったから、記述内容
は簡単なものにすぎなかったことがわかろう。
〔図16〕 『鯨志』
宝歴10年(1760)
に刊行された梶取屋次
右衛門撰『鯨志』
( 寛政6年版)の「皮」につ
いての記述である。
『 鯨志稿』巻之三に原文
どおりに使われている。
〔 図15〕は紙面の都
合により、前半部分を省略している。点線部
分が〔図15〕
と同じであることを確認できる。
ライデン大学図書館蔵
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
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〔図17〕 『鯨史稿』巻之三の耳・陰所
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森 弘 子・宮 崎 克 則
おわりに
大槻玄沢が鯨に関心を持つきっかけになったのは、
物事を判断する基本姿勢には共通するものがあったの
であろう。
薬品として輸入されている「一角」の正体をさぐろうとし
たことに始まる。その後、京都の医師小石元俊に肥前
『鯨漁叢話』
に収められていたとされる鯨体の図に関
国平戸藩の益冨組の捕鯨の様子を聞き、捕鯨業に強
する記述は、
『 鯨史稿』の中では、前に示した図17に示
い関心を寄せるようになった。それは、捕鯨が大きな経
す4点である。
また、
『 魚王譯史』の中には、鼻孔の図に
済的効果をもたらすことを知り、捕鯨法を各地に伝えれ
関する記述の他に、山縣氏から贈られた「鬣 」
(鰭)
に関
ば、国も人々も豊かになると思ったからである。そのため
する記述があるが、
それ以外に図に関する記述は見ら
に玄沢は、
さまざまな機会を利用して情報を集めた。そ
れなかった33。
「実理ヲ究ン」
・
「実験ノ考証」
・
「目撃ノ実
れらの集めた情報を
『鯨漁叢話』
と題した。
証」を重んじる玄沢が、
この他に実物を見ないで鯨の解
(ひれ)
剖図を描いたとは考え難い。
と述べてい
玄沢が自ら「一雑記ヲ草シ」
(『魚王譯史』)
これらのことから
『鯨史稿』巻之三に掲載されている
るように、
『 鯨漁叢話』は鯨に関する雑記帳の類であり、
秩序立てて整理されているものではなかったと考えられ
鯨の解剖図が、
『 鯨漁叢話』
を踏襲したと結論付けるこ
る。
また、
「 姑ク名ケテ鯨漁叢話ト題セリ」
ともあり、
『 鯨漁
とは難しい。解剖図・骨格図の典拠として、福本和夫氏
叢話』の題名は一時的な仮題であったことがわかる。
は大槻玄沢『 鯨漁叢話 』
を重視されているが、大槻清
(しばら)
『魚王譯史』の中には、
「実理ヲ究ント欲スル」或いは
準が現地で実際に見たり、聞いたりしたことを基に描か
「実験考証」または「目撃の実証」
という表現がしばし
れたもの、
と考えるのが妥当であると思われる。ただ、玄
ば用いられている。筋道を立てて追求しているか、実際
沢が清準たちに捕鯨の見聞記録を頼む時、何を見てき
に経験し確実な証拠があるか、
目で見て確かめたかと
て欲しいか、その観点或いは視点は前もって示してい
いうことである。
これは、玄沢が物事を判断する時の基
たであろう。
また山縣氏にも同様の依頼をしていたであ
30
「其
本姿勢であると考える。
『 解体新書』 巻之一には、
ろうことは推測される。
之ヲ審セント欲スル者ハ直ニ割テ屍ヲ見ルニ如ハ無シ、
大槻玄沢が、捕鯨業にこれほど強い関心を持ったの
其次ハ禽獣ヲ割クニ如ハ無也」
とある。体内の構造や
はなぜか。その背景にあるものの一つとして、当時の社
器官の働きを詳細に知りたいと思うならば、直接死体を
会的状況をあげることができよう。天明3年( 1783)から4
解剖する以外にはない。それが出来ないならば禽獣を
年にかけての天明大飢饉では、東北地方は多くの餓死
解剖して確かめる以外にはない、
ということである。すな
者が出て農村は荒廃した。仙台藩の場合、米の生産高
わち、実際に自分の目で確かめることがいかに重要かと
は約90%の減収となり、飢えと疫病で数十万人の死者
いうことである。
が出たとされている
(『仙台市史』通史篇4近世2)。
31
玄沢は『重訂解体新書』 を成すにあたり、
「屡解体
玄沢は、天明4年( 1884 )夏、父の死に接し一関へ帰
以諸実景徴」
( 屡解体シテ、以テ諸実景ヲ徴ス)
と、
しばし
国している。そのとき、彼は東北地方の飢饉の惨状を目
ば解剖をして自分の目で人体の構造を確かめたことが
の当たりにしたはずである。農村の疲弊を憂い、人々を
「重訂解体新書附言」に記されている。世の中を実際
飢餓から救う方策に思いをめぐらすこともあったろうと推
に自分の目で見て確かめたいと、都合3年間の諸国遊
測する。
2年後の天明6年(1786)秋、小石元俊から生月
32
島の捕鯨の話を聞いた玄沢は、捕鯨業が東北の各地
歴を成し遂げた大槻清準 を「継志の子弟」
と玄沢が
認めたのは、医学と儒学をいう学問の分野は異なっても、 に広まれば、人々が豊かになると思ったのであろう。
  30
杉田玄白
『解体新書』安永3年刊 早稲田大学付属図書館所蔵
大槻玄沢編『重訂解体新書』文政9年刊行 早稲田大学付属図書館所蔵
  32
前掲「文化5年大槻清準『鯨史稿』成立の政治的背景」
  33
『魚王譯史』
の中の
『鯨漁叢話』
  31
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大槻清準『鯨史稿』と大槻玄沢『鯨漁叢話』の関係性
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『魚王譯史』
の中の「西士容斯東私動物集纂図彙第五水族譜一百七十一号第一章大魚鯨品集説」は、
図示したように、
翻訳の部分と考察の部
分からなっている。考察の部分は、
翻訳文の位置より1~2文字下げて書かれている。
また、
訳文中に割書きで挿入されているところもある。考察の
書き始めは概ね「茂質按ニ」或いは「按ニ」で始まっている。
この玄沢の考察の部分に、
芥川氏や山縣氏等から得た情報と思われるものが載せら
れている。
それらを抜き出すと以下のようになる。
(「・」は便宜上筆者による付け加え 「※」は筆者の解説)
・
「嘗テ肥前生月島ノ捕鯨家益冨某カ話ヲキクニ、
外口亦固リ両孔ヲナス、
其図別ニアリ」
(※鼻について)
・
「生月嶋ノ漁子此孔ヲ
「ハナ」
ト呼フ」
・
「嘗テ平戸ノ人ニ聞ク、
鯢ノ乳房其汁ヲ得ル 一荷ホトアリ」
・
「嘗テ聞ク、
鯨耳ハ小孔アルノミニシテ固ヨリ輪廓等ノ物ナシ」
・
「我平戸海ニテハ、
冬小寒ノ比ヨリ春ノ土用ノ間多ク聚ル、
故ニ其漁猟ヲ専ラニストイフ」
・
「我国ニテハ毎々鰮ヲ逐テ浅処ニ来ル、
コレ好ミテ食フ故ナリトソ」
・
「コレ亦生月島ノ漁師ニ聞く所ト同シ」
(※訳文「子ヲ産メハ其生児未タ稚弱ナリトイヘ 母魚伴ヒ行クナリ船子毎ニ見ル アリトイフ」に対する玄沢の考察)
・
「鬣ノ解剖セル図ヲ見ルニ皮裏ハ関節備リテ、
全ク人ノ手足支節ノ如シ、
平戸ノ山縣氏余カ為ニ嘗テ写真図ヲ贈レリ」
・
「生月島ノ人ニ聞ク所、
大抵コレト同シ、
其交会ノ状人ニ異ナラス」
(※繁殖行動について)
この中には情報提供者の氏名が記されていないものもある。
「平戸の人」
・
「生月島ノ漁師」
・
「生月島ノ人ニ聞ク」等である。玄沢がそれまでに接触
して捕鯨の話を聞いた平戸の人物は、
医師芥川祥甫と藩士山縣二之助であることから、
情報の提供者は芥川氏或いは山縣氏と考えられる。
また、鬣(鰭)
の図が、
山縣氏から贈られたことが記されている。山縣氏から贈られた図が、2種であったのか、
それとも1種であったのかは分からな
い。
また、
図の精粗についても分からない。鼻に関して「其図別ニアリ」の図は、
『 鯨漁叢話』
中に収められていたと思われるが、
これも精粗について
は分からない。
(つねづね)
いわし
(ひれ)
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