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二つの偽造 パスポート - SOSTV Japan Mission
Bible Navi 第8課 二つの偽造 パスポート 教会に忍び込んだ偽りの福音 世の中に、多くの聖書教材が存在しますが、 聖書の真の意味を教えている本はどれほどあるでしょうか? Bible Navi 32シリーズは アルマゲドン戦争、獣の像、666、 この世界になぜ苦難があるのか、偽キリストの存在、 ニューエイジ運動、イエスキリストの再臨、十字架の真の意味、 生まれ変わったキリスト者の生活、聖書の預言と世界歴史の成就、 地獄の真実、創造と進化、健康的な生活、、 「アメリカが聖書に預言されているのか?」 七年の艱難は聖書的だろうか?」など、 是非知っておくべき真理を集めました。 真理を探しておられますか? この32シリーズを通して、永遠の生命を与えて下さるキリストに お会いできますことを祈っております。 Bible Navi 32シリーズ 編集 SOSTV Japan Mission TEL 050-1141-2318 Mail [email protected] HP sostvjp.net 성경으로 돌아가는길잡이 Bible Navi 제8호 第8課 二つの偽造パスポート 教会に忍び込んだ偽りの福音 Contents 第1部 教会に忍び込んだ偽りの救い 1 従順を条件に与えられた特権 4 2 救いの条件 5 3 天で反逆が再び起きない理由 6 4 サタンの基本戦略 6 5 不従順の言い訳は通用しない! 8 6 人々が服従しない理由 9 第2部 救いの偽造パスポート サタンが作った二つの偽造パスポート 1 第1の偽造パスポート―律法主義 11 2 第2の偽造パスポート―安価な恵みの福音 15 第3部 罪と救い 18 第4部 神様の裁き 23 第5部 信仰と従順についての聖書からの例証 1 べテスダ池の病人 27 2 悩めるクリスチャンの質問 30 SOSTV 案内 第1部 教会に忍び込んだ偽りの救い 1. 한 가지 조건을 전제로 주어진 특권 1 従順を条件に与えられた特権 も し、聖書全体を二つの単語で要約 するなら、皆さんはどんな言葉を選びますか? 「罪と救い」 という単語こそ聖書全体の内容を 最も正確に要約した言葉ではないでしょうか? 神様は最初の人間であるアダムとエバに、従 順を前提条件として、驚くべき特権を与えて下 さいました。彼らがエデンの園で従順である限 り、素晴らしい賜物が永遠に約束されていまし た。命、義なる品性、地球のあらゆる生物を治 める権威、そしてエデンの園の美しい環境など、すべてが彼らのものでした。 神様はただ一つの条件の下に、 これらのすべての祝福をお与えになりました。 それは、従えば永遠に生き続け、従わなければ死ぬということでした。 ところが、 この事実を知っているサタンは、アダムとエバに、神様が禁じられていた善と悪を 知る木の実を食べるように仕向け、不従順、即ち罪を犯させて、永遠の命と救いを 奪っていきました。サタンがアダムとエバに罪を犯させるために誘惑した出来事 は、その後の人類の運命にとって、致命的な転換点になりました。 人類の始祖が罪を犯した時から、キリストとサタン、罪と救い、真理と偽り、 従順と不従順の間に大争闘が始まりました。聖書のすべての章には、人類を本来 の正しい位置に回復させようとする、神様の偉大な救いの計画が記されています。 「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれ の民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」 (マタイ1:21)。 もちろん、 ここで罪とは神様の戒めにそむくことを言います。 二つの偽造パスポート | 6 2 救いの条件 時々、次のような質問をするクリスチャンがあります。 「人は行いによってでは なく信仰によって救われるとあるのに、 どうして、律法のことや外面的な行いのこ とを言うのですか?神様は、外側のことではなく、心の中を見て下さるのではあり ませんか?」。はい、それは正しい考えです。 しかし、私たちの内面の心と、外に現 れる行為は、つながっているという事実を忘れてはなりません。初めから神様は、 内面の愛と忠誠心をテストするために、外面的な服従――食べてはならない、 と いうルールを設けられました。 神様は心を見られるといっても、アダムとエバが神様の言いつけに従わなか ったことを、正当化することは出来ません。結局、行為は心の状態を現す鏡なので す。そのためにイエス様は、次のような言葉を語られました。 「もしあなたがたがわ たしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」 (ヨハネ14:15)。 イエス様を愛する者は、戒めに従順であり、愛さない者は従順な生涯を送るこ とができません。 天の神様のあがないのご計画とは、十字架の死と犠牲を見上げるクリスチャ ンの心の中に刻まれる、感謝と愛の精神を通して、彼らの全生涯が神様の戒めと 一致するように、心を救って下さることです。彼らは信仰を通して、 どんな苦難と苦 しみの中でも、神様の真理に一致する生涯を送るようになります。 聖書の最後の書である『ヨハネの黙示録』にも、従順に関する同一の争点が描 写されています。すべての人は、神様の印あるいは、獣の刻印のどちらかを受ける ことになります。アダムとエバの時と同様に、試みは神様の戒めに対する従順を 条件として、各自の魂にやってくることでしょう。 『ヨハネの黙示録』に記された言 葉によれば、最後の時代に救われる聖徒たちの特徴は、 「神様の戒めを守る」 こと です。人間の始祖が、エデンの園で永遠に生きることが出来るために与えられた、 服従という条件こそ、人間が天のみ国に入る条件となります。 救いの条件は、いつの時代も不変でした。黙示録では、そのことが特に強調さ れています。 「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒 の忍耐がある」 (黙示録14:12)。 「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子 ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦い をいどむために、出て行った」 (黙示録12:17)。 「いのちの木にあずかる特権 第1部 教会に忍び込んだ偽りの救い | 7 を与えられ、 また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、 さいわいである」 (黙示録22:14)。 3 天で反逆が再び起きない理由 天国で永遠に生きることが出来る人たちは、二度と罪を犯す可能性がない、 霊的に安全な人たちだけであることを忘れないようにしましょう。エデンの園で、 アダムとエバには善悪の選択権が与えられており、それによって彼らは不従順を 選びました。同じようにイエス様が再臨されて、聖徒たちがみ国に連れていかれ た後にも、聖徒たちには、選択権が与えられています。 しかし、天では再び反逆や 罪は起きることはありません。罪の歴史は二度と繰り返されることはありえないの です。 それは彼らに選択権がないからではなく、神様は、罪を犯すよりもいっそ死を 願うほどの清い聖徒たちだけを、み国へ連れて行かれるからです。み使いたちは、 人間と共に住んでも、天国が安全であることを知っています。なぜならみ使いたち は、聖徒たちが不死の体を受ける前に、 この世界でどのような経験を通ってきた かを、一番良く知っているからです。 罪の悪夢が、救われてみ国へ昇った聖徒たちによって、再現される危険性は全 くありません。聖徒たちは天で自分たちの経験を通して、罪と反逆の危険性を全 宇宙に証しすることでしょう。彼らのそのような体験の証しは、全宇宙を罪の危険 から守ってくれるでしょう。 4.사탄의기본전략 4 サタンの基本戦略 最初の反逆者であるサタンの基本戦略は、人々が罪を犯すように仕向けるこ とです。罪によって天から追放されたサタンは、汚れた者は絶対に天の王国に入 ることができないという事実を良く知っています。神様は罪を抱いている者を、決 してみ国へ受け入れることがお出来にならないのです。 次の使徒パウロの言葉にある通り、私たちは誰に従うかによって私たちの主人 が決定されます。私たちが従うものが、私たちの主人になるからです。 「あなたが たは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あな 二つの偽造パスポート |8 たがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるい は、義にいたる従順の僕ともなるのである」 (ローマ6:16)。私たちは、私たちが 服従する者の僕となるという事実を覚えるべきです。 もしあなたが神様に服従す るなら、あなたは神様の僕なのです。 しかしあなたが、神様に従順であることをやめるなら、神様の僕であることを 中断することになります。サタンの計画は、あなたがサタンに服従して、あなたを サタンの僕にすることです。 あなたが神様に不従順である限り、あなたが何をしようがサタンは無関心で す。あなたがキリストのみ名で何かをしても、あなたの心の中や生活において、神 様に対する不従順があるならば、サタンは関わる必要はありません。過去の歴史 を見るなら、多くのクリスチャンたちが、宗教的な儀式と活動に一生懸命でした が、神様のみ言葉に不従順であったために、サタンの僕になった例が余りにも多 くあるのです。 どうしてそのようになったのか、それを聖書的な立場で明らかにする必要があ ります。イエス様はそのような人々に、次のような警告の言葉を与えられました。 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの 名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出 し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』 と言うであ ろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、 こう言おう、 『あなたがたを全く知らない。 不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」 (マタイ7:22,23)。 イエス・キリストのこの言葉は、毎週教会へ通い、教会の活動に熱心に参加し ていても、神様の戒めを犯し、不法の人生を送っていたために、永遠の命を失う 悲劇の人々についての警告の言葉です。 「主よ、主よ」 と言って、主の名で全てを行 っていながら、天に入る直前にイエス様から 「あなたがたを全く知らない」 という 宣告を聞くようになる場面を考えたことありますか?なぜこのような悲劇が生じる ことになるのでしょうか?なぜ彼らは、そのような悲劇の主人公になったのでしょ うか? イエス様はこの聖書箇所の前に、その理由をもっと正確に説明されました。 彼らは主のみ名をたくさん使いましたが、 「天にいますわが父の御旨を」行ってい ませんでした。彼らは主のみ名を大きな声で呼び、熱心に働きましたが、その熱心 と行為は、神様のみ旨通りのものではありませんでした。 第1部 教会に忍び込んだ偽りの救い |9 この問題について、イエス様はマタイによる福音書15章9節で、 さらに具体 的に語っておられます。 「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝ん でいる」。神様を熱心に拝んでいた大勢の人々が、イエス様が再臨なさるとき初め て、自分たちが失われた者だったという事実を知るのです。 どれほどひどい衝撃を 受けることでしょうか!では、 どのようなことが神様を誤って拝むことであり、その 礼拝が無意味になった理由だったのでしょうか? イエス様が彼らの礼拝を受け入れられない理由は、彼らが神様の戒めを押し のけて、人間の作りあげた教理、即ち「人間のいましめを教として教え」ていたた めでした。イエス様が、真の従順を最も高い礼拝の形態とされたことに、注意しな ければなりません。 5. 불순종에 이유가 있을 수 있습니까? 5 不従順の言い訳は通用しない! 天の神様に服従しないことについて、正当な理由があるでしょうか?ある人々 は、もっともらしい理由をたくさん並べて、従わない言い訳を作っています。旧約 聖書のサウルの場合を注意深く調べてみましょう。神様はサウルをイスラエルの 初代の王として承認されました。彼は色んな面においてとても立派な人でした。 しかし、神様が彼をアマレク人との戦いに送られた時、彼がどのような行動を とったか、皆さんはご存知ですか?神様はサウルに、アマレクの人々を絶滅させる ように命令されました(Ⅰサムエル5:2、3)。 イスラエルの陣営にはどんな戦利品も持って帰ることは 出来ず、すべて破壊するようにとの神様の命令が下され ました。神様の命令は非常に具体的で明白でした。 しかしその時、イスラエルの人々はその命令は余りにも 不合理だと思いました。 サウルは、肥えた、状態の良い家畜を残して置きまし た。彼はなぜそのような行動をとったのでしょうか? 戦争から故郷に戻る道で、預言者サムエルに出会った 時、彼は自分の不従順について、非常にもっともらしく説 明しました。 「サムエルは言った、 『それならば、わたしの 耳にはいる、 この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いっ たい、なんですか』。サウルは言った、 『人々がアマレクび との所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にさ さげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。 二つの偽造パスポート | 10 そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました』」 (Ⅰサムエル15:14、15)。 サウルの答えがどんなにもっともらしく聞こえたとしても、彼の心の中には、邪 悪な偽善的な思いがとぐろを巻いていたのです。 まず、サウルの答えの中には、 家畜をみな殺さないで残して持って帰って来た責任を「民」のせいにする責任転 嫁の意図が多分にありました。サウルは不従順による責任から逃れようとしまし た。 しかし、サウルは王としての責任を与えられた者であり、神様から直接命令を 受けた者でした。 彼は「そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」 と言う事で、自分が神様の命 令を遂行したという事実を印象付けようとしました。全体からすれば、ほんの小さ な不従順に過ぎないことであって、それほど大きな反逆とは言えないのではない でしょうか。 まして、彼らが生かして持ち帰った家畜は、彼ら自身を富ませるための ものではなかったと、言っているのです。彼らは神様への供え物として捧げるため に、質の良い家畜を選んで持って帰って来ただけなのです。何が間違ったという のでしょうか? この問題の核心を、良く理解するべきです。サウルは、神様を礼拝しようとして 神様に不従順を犯したのでした。神様がサウルのそのような論理を、受け入れら れると思いますか?預言者サムエルの、刃のように鋭い言葉を聞いてみて下さい。 「サムエルは言った、 『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や 犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪 にまさる』」 (Ⅰサムエル15:22)。 サウルの話から、私たちは大切な教訓を得ることになります。それは神様が、 従順を最も高い礼拝の形態と見なされることです。ですからサウル王が、自分の 不従順に対して、非常に宗教的で説得力ある理由をあげたとしても、神様はそれ を明白に拒み、 これ以上サウルをイスラエルの王として扱われませんでした。 6. 사람들이 순종하지 않는 이유 6 人々が服従しない理由 今日も同じです。皆さん自身と周囲をよく見て下さい。人々は自分が理解して、 納得できることだけを信じ、従いたいという傾向があります。自分が受け入れたく ない戒めや、自分が理解し難い真理については、 もっともらしい言い訳を付けて、 拒むか無視してしまいます。そのようなクリスチャンたちは、サウル王の犯した過 ちを追うクリスチャンたちです。 第1部 教会に忍び込んだ偽りの救い | 11 私たちは自分自身の限界を認めるべきです。自分の無力、無知を知っている クリスチャンであれば、神様のあるみ言葉がよく納得出来ないからといって、その 言葉に従わなくてもいいとは思わないでしょう。 ところが今日、神様のみ言葉は、子供でも理解できるように明白に服従を要求 しているにもかかわらず、大多数の人が神様の戒めを無視しています。 このような 人々は、自分の理解力を神様の知恵より高いと考えているのではないでしょうか。 聖書が、主の日である安息日を、聖なる日として守りなさいと命令しているにも関 わらず、多くのクリスチャンたちは、市場で買い物をしていて、 さらには商売をする ことで、神様の明らかな命令に背いています。 創造主が、誤解の余地がないほどはっきりと命令されたことに、あえて逆らう 人たちはいったい誰ですか?教会に通って、神様を礼拝するために、賛美歌を歌 い、祈り、献金を捧げるクリスチャンたちではないでしょうか?もちろん、彼らの中 には神様のみ言葉が良く分からないために、そのような誤りを犯す者もあるはず です。 しかし大部分の人たちは、自分が神様の永遠不変の戒めに不従順である事 実を、明らかに意識しています。イエス・キリストの警告を、 もう一度聞いてみてく ださい。 「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」。 長年牧師として過ごしてきた中で、私はたびたび、神様の十戒は廃されたのだ から守る必要がなくなった、 と教える説教を耳にしてきました。そのような説教者 たちの大部分は、神様の偉大な愛について語っていて、真面目な説教をしていま した。 しかしそのような彼らが本当に神様を愛していると言えるでしょうか? このごろ、自動車の後ろのバンパ―に、よく次のようなステッカーが貼られて います。 「あなたがイエス様を愛するなら、微笑んでください!」。 「あなたがイエス 様を愛するなら、手を振ってください!」。人々は、イエス様への愛が、犠牲を要求 しない限り愛を好みます。 しかし愛が犠牲と損失を要求する時には、ほとんどの 人がその愛を拒んでしまいます。 ところで、聖書が教えている本当の愛は、犠牲と献身を伴う愛です。その愛は、 狭い門から入らなければならず、その道は細いものなのです。従ってイエス様は 「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」 (ヨハネ14:15) と言われました。 この言葉こそ、イエス様が教え、望んでおら れる真実の愛の説明です。イエス様が語られた愛は、安っぽい愛ではありません。 その愛は、泡のようにふくれてはすぐに消え失せてしまうような、感情的な愛では ないのです。 二つの偽造パスポート |12 第2部 救いの偽造パスポート サタンが作った二つの偽造パスポート サタンはどのようにして神様に従う人々が、罪を犯すように誘導するのでしょう か?彼が用いる最も効果的な戦略を調べる前に、私たちは今、最も優秀な偽造犯 を相手にしているという事実を理解していなければなりません。サタンは非常に 狡猾な欺瞞者で、 しばしば善と悪が混在するような手段を用いて、自分の目的を 成就しようとします。目的を達成するためなら、はなはだしい場合、聖書の言葉を 引用することさえあります。 サタンはよく聖書を研究していて、神様のみ言葉を悪用します。イエス様が荒 野で試みを受けられた時も、サタンは聖書の言葉を引用しました(マタイ4:1~ 11参照)。現代ではサタンが、 クリスチャンたちを神様の戒めに従わなくてもい いのだと思わせるために、大きく分けると、次の二つの偽造パスポート、つまり 律法主義と安価な恵みの教えを、キリスト教会の中にばらまきました。 1 第1の偽造パスポート―律法主義 サ タンの最初の偽造パスポートには、次のような聖句が印刷されています。 「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、 自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(黙示録22:14)。サタンはこの 聖句を用いて「人間が救われるために最も重要な事は戒めに従う事です。 もし私 たちが戒めに従うなら、私たちは永遠の命を受けるでしょう。戒めを守らなければ 救われません」 と主張しています。私たちの周辺で、 このようなことを耳にしたこと がありませんか?ある面において、 このような主張は真理です。 実際問題として、戒めを守ることは非常に大事なことです。 しかしそのような主 張の中には、致命的な偽りが混じっていることに気づくべきです。なぜならどんな 人も、救いを得るために、自分の力で戒めを守ることが出来るほど善良ではない からです。 このような主張をする人たちを、律法主義者と呼びますが、 クリスチャン の中でもかなりの人々が、 このようなサタンの欺瞞的な落とし穴に陥っています。 礼拝に休まず参加すること、十分の一献金をすること、奉仕や伝道活動をするこ と、こうしたことをやっているから自分たちは救われているのだと、漠然と思って 第2部 救いの偽造パスポート | 13 います。 これは、神様が立てられた救いの計画とは相反するもので、自分の力で行 った従順と犠牲の対価として救いを得ようとする、たいへん危険な思想です。 この ような律法主義は、あらゆる異邦の宗教の根幹にある教えです。 教会の牧師やリーダーの中には、 「礼拝を守らない人や、献金をしない人、伝 道しない人は救われない」 と言わんばかりの態度を取る人がいるのではないで しょうか。礼拝を守らない人を、あの人は恵みから落ちた人だと、裁くようなことは ないでしょうか。現代のクリスチャンが、聖書時代のような厳格な律法主義に陥っ ているわけではないとしても、その本質には、同じ律法主義の精神がはっきりとあ るのです。なぜなら、私たちが知っている通り、エデンの園で人類の始祖が罪を犯 した後では、人間の性質には大きな変化が起こったからです。 アダムは今日の私たちより、はるかに服従しやすい本質を持って創造されま した。彼は純潔で、堕落していませんでした。そして罪に陥る傾向のない性質を持 っていました。 ですから、彼が受けたすべての誘惑は外から来る誘惑だけでした。 ところが、私たちが先祖から受け継いだ性質は堕落したものであり、自分自身の 中に、最も大きな誘惑の傾向を持った本質です。 そのような人間であるにもかかわらず、サタンは神様に従うために懸命に努力 していくなら、いつかは罪を犯すことがないようにされると言って、数百万人の人 々を駆り立てています。 このようなサタンの欺瞞的主張を信じる人たちは、自分の 力で罪の傾向に勝利しようとして、 もっと熱心に教会へ通ったり、お祈りをしたり、 奉仕活動をしたりしますが、怒りや妬み、批判、姦淫の心に勝利することは出来 ず、失敗を繰り返すだけです。 このような律法主義的な信仰の持ち主は、やがて挫折して、次のような間違っ た結論に至ります。 「私も一生懸命やってみたけれども、結局失敗してしまった。勝 利することは不可能なことだ。神様は人間が出来ないことをあえてするように要 求なさる方ではない。だから神様の戒めに対する従順は、救いとは全く関係のな いことに違いない」。結果的に、律法主義を受け入れた人たちは、遅かれ早かれ 神様の戒めを大胆に犯す、堕落した生涯を送ることになります。 このような律法主義についてさらに考えてみましょう。仮にあなたが今この瞬 間から、残りの人生のすべてを、神様の戒めを完全に守ったと仮定してみましょ う。今後、ただ一度の失敗も罪を犯すことなく人生を送ったとします。そのような人 生を送れば、皆さんは救われると思いますか?いいえ違います。なぜならあなた には、すでに犯した罪があるからです。過去に犯した罪によって、皆さんにはすで に死が宣告されています。それゆえに、その後のどんな種類の善の行為でも、皆さ 二つの偽造パスポート | 14 んの過去の罪の記録を変更させることはで きません。人を殺した人が、隣人に多く施し たという理由で、罪が消えることはないのと 同じです。 これまでに、ただ一人だけしか、罪を犯さ ない生涯を送られた方はいません。そのお 方がイエス・キリストです。それに比べて、私 たちの過去の記録は、繰り返された汚れと 醜さだけしかありません。ですからどんな人 も、自分の過去を思えば、聖なる神様のみ前 に立つことの出来る人はいません。 ところが聖書は、神様は完全な義人だけを認め、義なる行いだけを受け入れ られると記しています。私たちの中で、誰もそのような生涯の記録を持っている人 はいません。私たちが、イエス・キリストのような清い生き方を送ることが出来な いのであれば、私たちには、救われる可能性が全くないのです。 しかし感謝なこと に神様の恵みを通して、私たちすべてに驚くべき配慮がなされているのです。 聖書の中で最も驚くべきみ言葉の一つが、 ローマ人への手紙5章10節です。 「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた とすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろ う」。 まず、 このみ言葉の前半の部分を検討してみましょう。 この部分では、私たち が罪を犯したために、神様の敵になっていたと語っています。 私たちの救いの唯一の希望は、神様と和解することです。神様と私たちを分離 させ敵対関係においた罪が完全に除去され、神様と和解する救いの働きが成し 遂げられなければなりません。聖書のみ言葉は、ただイエス・キリストの身代わり の死だけがこのような和解をなし遂げることが出来たと言っています。 ではどのようにして十字架が敵対関係をなくし、人間と神様との関係を回復さ せたのでしょうか?イエス様は十字架で何を成し遂げて下さったのでしょうか。 神様の戒めは、その違反者に刑罰としての死を要求します。イエス様は十字架を 通して、 ご自分の肉体によって、アダム以来の全ての子孫が犯した罪の責任をと って、その刑罰である永遠の死を受けられたのです。 イエス様は、私たち一人ひとりの罪とその刑罰を受けて死なれ、私たちが死な なくてよいようにされました。 第2部 救いの偽造パスポート |15 イエス様は、私たちの上に臨んだ罪の定めと死刑宣告を引きうけて、それを十 字架に持って行かれた後、私たちに宣告されていた罪の刑罰を、身代わりとして 受けて下さいました。そのようにしてイエス様は、私たちが過去に犯した全ての罪 の醜い記録を帳消しにして下さったのです。同時にイエス様は、 ご自身の罪のな い完全な生涯と永遠の命を、私たちのものとして与えて下さいます。 このことによ って神様との和解が可能になったのでした。 では次に、イエス・キリストの十字架を通して設けられた永遠の命と救いを、 ど のようにして自分たちのものとして受け入れることができるでしょうか?私たちが そのお方の命を受け入れるためには、私たちの古い自己、自我が死ななければな りません。自己が放棄され、自我が死んだ時はじめて、神様は私たちを死んだ者と して、全く過去に罪を犯したことがない者として見て下さり、イエス様が私たちの 罪の責任と罰を、十字架で身代わりとして受けられたものとして取り扱って下さる のです。 ローマ人への手紙5章10節の後半部をよく調べてみましょう。 イエス・キリストの死を通して神様と和解したことについて説明した後、パウロは 続けて次のように言っています。 「御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なお さら、彼のいのち(生涯、Life)によって救われるであろう」。 ここで完全な救いを得 るためには、イエス・キリストの死と命、この二つが必要であることを認識しなけ ればなりません。過去の全ての罪は、イエス様の身代わりの死によって覆われる ことになりますが、その後の勝利は、人間の肉体を取って、罪のない生涯を送られ たイエス様から与えられる聖霊の力と、イエス様の模範の力を受けることによっ て成し遂げられることになります。 私たちは天の記録の書に、すでに記録されている悪行を帳消しにすることは 出来ません。それらはすべてキリストが身代わりとなられ、キリストの完全な従順 の生涯が私たちのものとなったことを信じる信仰によってのみ、消されることが出 来ます。さらにその後のクリスチャン人生は、キリストが私たちと同じ肉体を取り ながら罪に勝利された、その力を受けることによって、勝利ある歩みをする事が 出来るようになるのです。 この大切な真理をサタンが攻撃して、人々が戒めを軽ん じ罪を犯してもキリストを信じていれば救われるような、偽りの福音を提供してい ます。 二つの偽造パスポート | 16 2 第2の偽造パスポート―安価な恵みの福音 サタンは救いの問題について、 もう一つのとても巧妙な欺瞞を提供してきまし た。それは驚くほど本物そっくりで、多くの人がたやすくだまされてしまうような説 得力ある偽造品です。サタンはこのように主張します。 「どんな人間も神様の律法 を守ることで救われることは出来ない。我々は行いによって義と認められるので はなく、恵みによって救われるのである。戒めを完全に守ることは、我々がキリス トを愛するなら不必要である」。 サタンのこのような論理のある部分は真理です。 しかしその中には恐ろしい偽 りと欺きが隠されていることに気づかなければなりません。 もちろん、私たちが行 いによって義とされるのではないというのは真理です。 しかしそれは、私たちが従 順の義務から免除されたという意味ではありません。 数えきれないほど多くの人々が、 このサタンの巧妙な論理にだまされてその餌 食となっています。私はみ言葉を宣べ伝えていく中で、そのようなクリスチャンた ちを数多く見て来ました。様々な教団、教派に属しているクリスチャンを対象とし た伝道集会を開くと、初めの何日間かは、神様の真理に熱烈に同意しています。 し かし、神様のおきてと恵みに関する説教になると、直ちに次のような反応を示しま す。 「牧師先生、私たちに昔の旧約時代にあったおきてを強要しないで下さい!私 たちは行いによって救われるのではありません。私たちは今や恵みの下にいるの です。戒めを守ることで私たちが救われるわけではないことをご存知でしょう?」 ここで、私たちは問題にぶつかります。神様のおきてに対して強力な反対を表 わす人も、やはり真面目なクリスチャンたちであるということです。彼らは律法主 義に陥ることを恐れているのです。 しかし律法主義に対する彼らの警戒心は、彼 らをもう一つの偽りである、安価な恵みの中に引き入れ、結局、神様のおきては廃 されたという主張を受け入れるように誘導しました。 信仰と行いの問題において、 どちらか一方を強調して、聖書的なバランスを失 うことはさほど難しいことではありません。今日、二つの極端がありますが、サタン は私たちを、 この二つの極端のどちらかに追い込むために、 もっともらしい理論を 持ち出してきました。 しかし、信仰と行いについていえば、それは、 「信仰」 と書い た櫓と、 「行い」 と書いた櫓を左右につけたボートのようなものと考えれば分かり やすいでしょう。 どちらか一方を強調すると、ボートはグルグル回るだけで先へ進 まないことになってしまいます。 第2部 救いの偽造パスポート | 17 多くの人の信仰生活が前進できないで、同じ位置でもたもたしているのは、信 仰と行ないの二つの大事な面が、正しく、バランスよく活用されていないためでは ないでしょうか。信仰と行いは、お互いにぶつかり合うものではなく、離れることの できないものとして協力し合うものなのです。従って、真の信仰は必ず従順という 行為を生み出すのです。聖書は「行いのない信仰も死んだものなのである」 (ヤコ ブ2:26) と宣言しています。 人類の最大の敵であるサタンは、 「信仰による義」の教えを狡猾に偽造しまし た。彼は、 「義」の上に律法主義というカバーをかけたので、義は人間の力ではとう てい到達できないものとなり、信仰を持っても正しい行いが出来ないので、あり のままで救われるという安っぽい恵みに頼るようにさせたのです。その結果、おび ただしいクリスチャンたちが、真の「義」 と真の「信仰」の調和を知らないまま、偽り の義と偽りの信仰を受け入れてしまっています。見たところ数多くの教会で、イエ ス様の義が、正しい行為を伴わない、汚れた醜いものに変質しています。そして 信仰は、罪を持ったまま救われるという、安っぽい感情に過ぎないものとなってし まいました。 聖書を見ると、私たちは三種類の信仰を発見することができます。一つはサタ ンが持っている信仰です。使徒ヤコブはそのような信仰は行いの伴わない信仰 であると明言しました。 「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それ は結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを 伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか」 (ヤコブ2:19、20)。ヤコブが 行いの伴わない、知的な同意や感情的な高揚に過ぎない信仰を、悪霊どもの信 仰と断言していることに目を留めなければなりません。 二番目の信仰は、行いは伴っていても、間違った動機や目的に基づいている ものです。信号機のついた交差点に来た運転手のたとえを通して、二番目の信仰 を説明してみましょう。ある人が、赤信号で車を停止させました。彼はなぜ車を停 止させのたでしょうか?それが規則だから?赤信号で走って交通事故を起こすこ とを恐れたから?それとも警察官に見つかって違反キップを切られることを恐れ たからでしょうか?もし戒めに従う信仰が、 このような規則に対する義務感や、罰 への恐れなどから来ているとすれば、それは神様に受け入れられることができま せん。義務感や、罰への恐れや、報いへの期待は、結局自己中心的な動機でしか なく、神様が求めておられる信仰ではないのです。 二つの偽造パスポート | 18 不幸にも今日多くのクリスチャンたちは、罰への怖れが根底にあって信仰生活 を送っているように思えます。彼らの信仰は、 まるで地獄の火を避けるためにあち らこちら逃げ回っているようです。彼らは自分たちが歩んでいる道の終わりに、地 獄の火があるという事実を知っています。彼らはその火の中に落ち込まないよう に熱心に善行に励みます。 しかし、 このような種類の信仰は律法主義の異なる姿 に過ぎません。 最後に、三番目の信仰ですが、 これこそ神様の認められる唯一の信仰です。 その信仰について、 ガラテヤ人への手紙5章6節にこのように記されています。 「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いの は、愛によって働く信仰だけである」。 「愛によって働く信仰」、 まさしくこれです。 神様の律法に一致するすべての従順の行為が、愛と感謝の心を動機として表さ れるのです。 「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがた が愛に根ざし愛を基として生活する」(エペソ3:17)ようになるとき、それは真 の信仰と言えます。 第2部 救いの偽造パスポート |19 第3部 罪と救い 愛 が、 どうして神様の認められる唯一の動機なのかということについて、 もう少し考えてみましょう。使徒ヨハネは弟子たちの中でも特に「愛の使徒」 と呼 ばれるほどの、愛すべき品性を持っていた人物です。彼は12弟子の中で最も優 しく、暖かい心の持ち主として広く知られていますが、そのヨハネこそ、他の誰より も神様の戒めについてたくさん言及しています。 これから紹介する聖句は、非常に 断固とした明白なものであることが分かります。 私たちは罪の定義についての最も明白で率直な教えを、 ヨハネの記録に見る ことが出来ます。 「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」 (Ⅰヨハネ3:4)。ぜひこの聖句を皆さんの心の中に留めておいて下さい。 これか ら続けて罪の本質と性質について調べるとき、使徒ヨハネが提示した、 この罪に 対する定義に基づいて言及したいと思っています。 この聖句の意味は非常に明白ですが、 ここで「法」 という言葉についてもう少し 理解する必要があります。 ヨハネはここで「法」を何だと言っているでしょうか?ま た使徒パウロも、ローマ人の手紙7章7節で罪について記していますが、彼はそ こで「法」について次のような答えを準備しておきました。 「それでは、わたしたち は、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。 しかし、律法によらな ければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、 もし律法が『むさぼるな』 と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」。パウロは 「律法は罪なのか」 と質問し、それに対する答えとして、直接的に十戒の第十番 目のいましめである≪むさぼり≫について言及し、罪とは十戒を犯すことである という事実を明らかにしました。 「罪とは不法である」 というときの法とは、十戒を 犯していることなのです。 罪とは道徳律である十戒を犯すこと、そのことを覚えながら、次のヨハネ第一 の手紙3章5節を見てみましょう。 「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、 彼にはなんらの罪がない」。イエス様が私たちからとり除いてくださったも のは何でしょうか? 「私たちの罪」です。どのような罪でしょうか?十戒を 犯した罪です。つまりイエス様は、私たちを十戒を犯す罪から救 うためにこの地へ来られたのです。イエス様は私たちが罪を 犯さないようになるために来られたのです。 二つの偽造パスポート | 20 続いてヨハネは、驚くべき記録を残しています。6節の聖句は、今日のすべて のクリスチャンたちに、 とてつもない衝撃を与えるのに十分なみ言葉といえるでし ょう。 「すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともな く、知ったこともない者である」。 ものすごく率直に語られた言葉だと思いません か?私は今まですばらしく力強い説教をたくさん聞いてきましたが、 どんな説教者 もこれほど強力な説教を語ったことはありません。 愛の使徒ヨハネが6節で語っ ているのは、 「十戒に不従順な生涯を送る者たちはイエス・キリストに出会ってい ないのであり、そのお方が与えられた救いを知った事もない人たちである」 という ことです。衝撃的なメッセージではありませんか?しかしこれは事実その通りなの です。 けれどもここで留まってはなりません。 もう少し読み進んでみましょう。 さらに強 烈な記録があります。 「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人である と同様に、義を行う者は義人である。罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔 は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼ してしまうためである」 (1ヨハネ3:7、8)。 ここでヨハネは、真理をただ口で言 うだけの人と、真理によって歩む人たちの違いについて明らかにしました。 使徒ヨハネは、私たちが神の子とされたと言いながら、真実の神の子と悪魔の 子の区別を明白にし、 「だれにも惑わされてはならない」 という警告を与えていま す。 このみ言葉は、キリストを信じるというあらゆるクリスチャンが陥りやすい欺瞞 についての警告です。 マタイによる福音書24章3節で弟子たちは、イエス様に再臨と世の終わり の前兆について質問しました。その時イエス様は最初に次のような答えを与えら れました。 「そこでイエスは答えて言われた、 『人に惑わされないように気をつけな さい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人 を惑わすであろう』 (マタイ24:4)。終わりの時には、偽キリスト、偽預言者が現 れ、間違った教えを広げるので、惑わされないように気をつけなさいと言われた のです。 それゆえ私たちは、終わりの時には「信仰による義」や、 「罪とは何か」、 「信仰と 服従の関係」など、キリスト教にとって最も根本的な教えについて、惑わされる可 能性があるのです。 そこでヨハネは、 どんな人であっても十戒に意図的に不従順でありながら、神 様から義と認められたとは言えないということを明瞭に述べました。そのような人 は、口で何と言おうが 事実上悪魔に属している者であり、全くクリスチャンではな 第3部 罪と救い | 21 いと言っています! 次にヨハネは、神学者たちだけでなく一般の信仰者たちからも、論議の対象に なる言葉を記録しています。 「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種(Seed)が、その人のうちに とどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯 すことができない」(Ⅰヨハネ3:9)。黙示録12:17で「女の残りの子ら」 (The seed of the woman)は誰を指していますか?イエス・キリストこそ真の種(子孫) であり、回心した真の神様の子供は、その神の種であるキリストを自分自身の心 に宿しているので、罪を犯すことが出来ないのです。 キリストは罪と共存されることは出来ません。従って神様の十戒に対して、故 意に不従順を繰り返す人の心の中には、イエス様が宿られることは出来ないので す。 ここでヨハネは、 クリスチャンが自動的に罪を犯すことが出来なくなって、選択 の能力を喪失すると言っているのではありません。心に宿られたキリストは、その 人の思いと意志に働きかけ、力を与えて、戒めに服従することが出来るようにして 下さるという体験を語っているのです。 ここで、罪の問題を明確に理解しておきましょう。実は、アウグスチヌスやカル ヴァンによって、非聖書的な教えがキリスト教会に潜入して来ました。その教えと は、故意に不従順の生涯を歩みながらも、救いについての確信を持てるように仕 組まれた巧妙なものです。その恐ろしい教えを警戒して下さい!数多くの人たち は、義認というものが、自分の心の状態を変化させることなく、 「それにもかかわら ず」神様のみ前における自分たちの立場が変化するという教えを、何の疑いもな く 受け入れて信じています。 カルヴァンの思想は端的に言うと、 もし人が意図的に罪を犯し続けていたとし ても、キリストを通して覆って下さる義によって、神様に受け入れられる者とされる と信じることです。同じくあがない(Atonement) とは、私たちを罪の結果である刑 罰から救うことであって、罪そのものから私たちを救うことは出来ないという教え が、カルヴァンの思想の中に含まれています。そして私たちのためのキリストのあ がないは、罪に対するクリスチャンの本質を変化させることではなくて、罪がどん なものであるかという、その罪の本質を変えることだと教えるのがカルヴァンの思 想です。 このようなカルヴァンの思想では、人が一度回心してイエス・キリストを受け 入れるなら、罪を犯しても以前のように致命的なものとはなりません。つまり、回心 していない者が罪を犯すなら、それは永遠の滅亡ですが、回心して救いを得た後 に犯した同一の罪は、その人を地獄に送り出すことはできないようになるという 二つの偽造パスポート | 22 のです。 罪人の心を変える代わりに、罪の性質(本質)を変えるという意味をお分かり頂 けたことと思います。聖書の教えはこのようなものではありません。義認とは、私た ちが犯し続けている罪を覆ってくれるものではありません。義認とは新しい霊的 な生涯をもたらしてくれる回心(新生)を通して、全く新しい生命を私たちに供給し てくれるものです!義認の状態は、罪を故意に犯し続けている間は決して維持する ことができません。義認とは、汚いものの上にきれいなカバーをかけて、きれいに なりましたというようなものではありません。義認とは罪責感と罪の力を脱がせて もらうことであり、 クリスチャンが罪から清められた真の霊的状態に変化させられ ることを意味します。 このことを良く理解して下さい!真の信仰は常に従順という行為を生み出し ます。行いのない信仰は死んだものです。イエス様はご自分の民を彼らの罪から (From sins)救うために来られたのであって、罪の中(in sins)にあって救うために来 られたのではありません。 「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名付 けなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から(From their sins) 救うものと なるからである」 (マタイ1:21)。 聖書は罪について数多く語っていますが、ただ一度も、罪を少しは良い所があ るものと言ってはいません。ですから聖書では、私たちが犯す罪の量を少しずつ 減らしなさいというような表現を用いていません。聖書のどの箇所にも、不従順の 回数を少なくするようにとか、減らしなさいというようなことは言われていません。 罪というのは神様の目の前に、絶対に存在することの出来ないものです。 私たちは知っている限りの全ての罪を、断固として捨てるべきであり、常に拒ま なければなりません。イエス様は姦淫を犯した女に「お帰りなさい。今後はもう罪 を犯さないように」 と言われました。そのお方は「お帰りなさい。今後はその罪を少 なくしなさい」 と語られたのではありませんでした!使徒ヨハネは「子たちよ。 これ らのことをあなたがたに書きおくるのは、罪をだんだん減らためです」 と書いたの ではありません!(1ヨハネ2:1参照)。彼は「すべて神から生れた者は、罪を犯さ ない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。 また、その人は、神か ら生れた者であるから、罪を犯すことができない」 (Ⅰヨハネ3:9) と書きました。 愛の使徒ヨハネは罪について彼の手紙を書き送る時、全く迷わない態度で明 らかに言っています。 ヨハネの次の宣言を聞いてみましょう。 「罪を犯す者は、悪魔 から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れた のは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」 (Ⅰヨハネ3:8)。かつてどんな牧 第3部 罪と救い | 23 師が、 これほどはっきりと、 クリスチャンが罪から離れるべきことを語ったことがあ るでしょうか。 神様の戒めに意図的に不従順な道を選んだとしても、そのお方が私たちを義 と見なして下さると信じるのは、全く聖書の裏付けがない教えであり、全く愚かな ことです。 福音とは人を罪から救う神様の力のことですが、その力は私たちをある特定の 罪だけでなく、すべての罪から救うために十分なものです。神様が私たちの罪をお 赦しになった後で、そのまま私たちを罪の勢力下に残しておきたいと思っておられ るのだと信じていませんか?もし皆さんがそのように信じているのであれば、皆さ んは、神様を罪の共犯者に仕立て上げることになります。神様はその全能の力に よって私たちを罪から救うことがお出来になるお方です。 二つの偽造パスポート | 24 第4部 神様の裁き 次 に、神様の最後の裁きは私たちの行いが判断材料になるということに ついて学びましょう。 このように言うと、ある人たちはすぐに、 「それは律法主義だ」 と言うかもしれませんが、聖書はこのことについて、非常にはっきりと断言してい るのです。 ヨハネは「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の 前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、 もう一つの書物が開 かれた。 これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書か れていることにしたがって、 さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉 もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、 さばきを受け た」 (黙示録20:12、13) と言っています。 この言葉は、私たちがこれまで聞いてきた神様の愛と慈しみに、 どのように調 和するのでしょうか。行いが裁きの基礎となるという言葉は、行いによらず恵みに よって義とされるという聖書的義認と相反する言葉でしょうか?もちろん違いま す。そこで私たちは、行いによって裁かれるということの本当の意味を理解する必 要があります。 神様が各自の行いをどのようにテストして、 どのように判断されるかを知るこ とはとても重要なことです。人は何によって神様から拒まれ、何をもって受け入れ られるのでしょうか?人々が行った善行の量でしょうか?もし私たちが、私たちに 与えられたタラントを生かして、正しいことを十分にするならば、天の都の真珠の 門から入ることができるのでしょうか?そして行いが足りなかった者たちは都の 外に残されるのでしょうか? 山上の説教の中で、イエス様は天の王国の入り口を探している群れに、次の ように語られました。 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わ たしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。 また、あなたの名によ って悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありま せんか』 と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、 こう言おう、 『あなたが たを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」 (マタイ7:22、23)。 第4部 神様の裁き | 25 この言葉の中で最後に出てくる言葉を注意深く考えてみて下さい。イエス様 は彼らが行った内容や量について否定することや叱責する言葉を言われませ んでした。彼らは自分たちが行った数々の素晴らしい行為を並べ立てました。 行いの量は少しも不足していませんでした。彼らが拒まれたのは行いの量では ありませんでした。行ないの量を根拠にして裁かれるのではないことが分かり ます。 では行ないの質においてはどうでしょうか。彼らが行った内容を見ると、問題 はもっと難しくなります。彼らは行いの量だけでなく、質においても十分に見え ます。彼らの中には、新しく教会を建てるために、数千万円のお金を献金した人 がいたかもしれません。彼らはイエス様の名を使って多くの力あるわざを行っ ていたのです。 ところがそのような立派な行為も、天国へ入るパスポートを受け ることにはならなかったのです。彼らはなぜ、イエス様の名によって数々のこと を行いながら、 「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」 という悲しい宣告を聞かな ければならなくなったのでしょうか。 このミステリーをどう理解したらいいのでし ょうか? この問題に対する答えを聖書の最後の書から発見できます。 この聖句を読 むと、すべての謎が解けて、問題の本質を理解出来るようになります。 ヨハネの 黙示録3章15節で、神様は「わたしはあなたのわざを知っている」 と語られま した。 もちろん、そのお方は私たちのすべての行いを書き記して、それによって 最後の裁きを実施されるのです。 しかし引き続き聖書を読んでみましょう。 「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むし ろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なま ぬるいので、あなたを口から吐き出そう」 (黙示録3:15,16)。 この聖句に、先ほどの問題を解く秘密があります。私たちの全ての行為は最 後の裁きのときに調べられるのですが、私たちの行いの量や質によってではな く、その熱によって裁かれることになるのです。つまり、私たちのすべての従順 は神様に対する献身や愛に燃えた心から出てくるものでなければならないとい うことです。すべてを見抜く神様の目によって、行為の動機が明らかにされ、検 討されるのです。人間の行いが、イエス・キリストに対する燃えるような愛の動 機から出てきたものでなければ、 どんな種類のよい行為も天国にはふさわしく ないものと見なされてしまうのです。 二つの偽造パスポート | 26 こうして私たちは、一見すると不思議に思える、善をたくさん行った人が拒まれ てしまう理由を知ることが出来ました。行ないが価値あるものとされるか、全く価 値のないものとされるか、それは燃えるようなイエス様への愛の動機によるので あって、それが、神様の前に、芳しい香りとなるか、口から吐き出されるほど忌まわ しいものになるかを分けるのです。 すべては動機にかかっているのであり、誰がその行動をするように力を与えた かにかかっています。あなたの行為の原動力は天から来たものでしょうか?それと もイエス様のみ名を利用しただけで、本当は自分の力、地獄から上がってきた勢 力によって行ったのでしょうか?イエス様に対する愛と感謝から行ったのでしょう か、それとも自分が救われるために行ったのでしょうか。心にあふれるイエス様へ の感謝は、多くの良いわざを生みだし、褒められてもけなされても、それが正しい という理由で良い行いに励みますが、自分の力で行ったことは、褒められないと やる気をなくし、けなされたら反発しか生み出しません。 神様はエデンの園の時から現在まで、テストの基準を変更しておられません。 神様はエデンのときと同じ種類の従順を要求なさいます。エデンで私たちの始祖 であるアダムは、堕落していない清い本性によって服従する力がありました。不 幸にも、アダムとエバの堕落後の子孫である私たちは、神様の戒めと調和するこ との出来ない、堕落した性質の遺伝子を受け継いでいます。イエス様は富める青 年に対して「イエスは言われた、 『なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。 よい かたはただひとりだけである。 もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさ い』」(マタイ19:17)と言われましたが、生まれつきの人間の性質は、戒めに従 うことも、戒めを心から喜ぶことも出来ないのです。 しかし、心を変化させ再創造して下さる神様の力と 「あなたがたのうちにいま すキリスト」 (コロサイ1:27)によって、私たちは新しい心を持った新しく生まれ た被造物となることが出来ます。 まさしくこのことがキリストが、 「よくよくあなたに 言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」 (ヨハネ 3:3) と語られた意味です。 先ほどの富める青年に、イエス様が「いましめを守りなさい」 (マタイ19:1 7) と言われたのは、彼が自分の力では戒めの本質的な要求に従うことが出来 ず、全面的にイエス様に頼る必要があることを教えるためのものでした。 誰も新しく生まれることなしには、戒めに服従することは出来ません。新しく生ま れていない人は、戒めを形式的、義務的に守ることは出来ますが、心から喜んで 従うことは決してできないので、困難が来ると外面的に守っていた戒めも放棄す ることになってしまいます。 第4部 神様の裁き | 27 結局新しく生まれたクリスチャンだけが救いを受けることになり、そのようなク リスチャンは、心が変えられた喜びの証として戒めに服従するようになるのです。 もう一度言いますが、新生の経験がない人は、神様に従うことが出来ないだけ でなく、やがて、自分が従えない律法を拒否するようになるのです。そして行為が 重要なのではなく、信仰が大切なのだ、イエス様の十字架を信じればいいのだ、 などと言い出すようになります。 さらに、 「戒めを守る必要がある」 という人を、律法 主義者と決めつけて反抗するようになります。 このように言う人を警戒しなければ なりません。それは律法が悪いのではなく、心が新しくされていないことが問題な のです。 もしあなたが、実を結ぶクリスチャンとして生きることを願われるなら、ぜひあ なたの隠された本当の動機が何か、聖霊の光によって照らされることを求めて下 さい。あなたの動機が変えられ、あなたが神様の戒めに一致する生涯を過ごすな ら、あなたの心は驚くべき喜びと満足感で満たされるでしょう。そしてキリストとの 継続的なつながりが保たれることでしょう。 誰かがあなたを律法主義者だと言って攻撃してきても、最後の裁きの日には あなたを罪と定めていたその人が、自分自身の言葉によって罪に定められること になるでしょう。愛に根ざしたあなたの行為は、律法主義とは全く違った豊かな品 性の実となって現れてくることでしょう。 「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスに あって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすように と、あらかじめ備えて下さったのである。」 (エペソ2:10)。 二つの偽造パスポート | 28 第5部 信仰と従順に関する聖書からの例証 1 べテスダ池の病人 エ ルサレムにある羊の門のそばに ヘブル語でべテスダと呼ばれる池があっ た。そこには五つの廊があった。その廊の 中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者 などが、大ぜいからだを横たえていた」 (ヨハネ5:2、3)。 べテスダの池の水はある時期になると 動きましたが、水が動いた時に、真っ先にこ の水の中へ入る者はどんな不治の病も癒 されると信じられていました。そこでその場 所には、大勢の病人たちが集まって来てい ました。水が動く時には、大勢の人が一度 に池に入ろうとしてなだれ込むので、弱い 男、女、子供たちは足で踏みつけられ、池の そばに近づくことさえ大変なことでした。たとえ池の近くまで行ったとしても、中に 入ることも出来ず、その場で息絶えてしまう人もありました。そこには小屋が建てら れ、病人たちが真昼の暑さや夜の寒さから保護されるようになっていました。そし てたくさんの、癒されたいという虚しい望みを抱いて、池の近くまで来て夜を明か す人たちがいました。 ある日イエス様が、一人でその池に来られました。イエス様は治る見込みのな い患者たちが、哀れな姿で池が動く時を待っているのをご覧になりました。イエス 様はご自分の癒しの力を使って、そこにいるすべての苦しんでいる人たちを健康 にしたいと願われました。 しかしその日は安息日でした。人々は礼拝を捧げるため に神殿に向かっていました。イエス様はご自分の癒しの働きが、ユダヤ人たちの 偏見を刺激して、 ご自分の働きに誤解を与えてしまうようになることをご存じでし た。 第5部 信仰と従順についての聖書からの例証 | 29 その時イエス様は、一人の最も悲惨な姿の人に目をとめられました。彼は 38年もの間、病気のために立ち上がることが出来ずに過ごしてきた人でした。 その当時、一般的に不治の病の原因といえば、その人が犯した罪の結果であり、 また神様が下された刑罰と見なされていました。その患者は一人で寂しく横にな ったまま、自分は神様の憐みから断たれたと考えて、みじめな歳月を過ごしてきま した。彼の無力をかわいそうに思っている人たちが、ただ一つの奇跡の可能性を 信じて、水が動くと思われる時期になると廊まで運んできてくれていました。 しかし肝心の、水が動いて池に真っ先に飛び込まなければならない時には、 彼を助けて水の中に連れて行ってくれる人は誰もいませんでした。たとえ彼が水 が動くのを見たとしても、決して自分で飛び込むことは出来ません。彼より体力の ある人たちが、先に飛び込んでしまいました。彼は、他人を押しのけ、われ先に池 に飛び込もうとする人々と競争することは出来ませんでした。 こうして彼は、癒され る唯一の可能性さえも閉ざされて、全く絶望的な状況だったのです。絶えず希望 を踏みにじられ、彼の気力はすっかり衰えきっていました。 その病人は床に横たわって、時々頭を持ち上げながらその池を眺めたりして いました。 ちょうどその時、彼の顔をのぞきこむ、一人の思いやりと優しさに満ちた 顔がありました。その人は、彼の眼をじっと見つめながら、言いようのない憐れみ に満ちた声で、 「なおりたいのか?」 と言われました。その瞬間、病人の心の中には 希望が湧き上がりました。何となく自分が助かるような気がしました。 しかし燃え上がった希望は、すぐさましおれてしまいました。彼は、自分が今ま でどんなにその池に入ろうとして頑張ってきたかを思い出しました。 これから次に 水が動き出す時まで、生きられる可能性さえほとんどありません。彼は疲れ果てて 顔をそむけ「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。 わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」 と答えるしかありま せんでした。 イエス様はこの病人に、 ご自分を信じる信仰を働かせるようにとは言われませ んでした。そのお方は単純に「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」 と、語られただけでした。 しかしその人は、彼のすべての信仰を尽くしてその言葉 を堅く握りました。その瞬間、彼のあらゆる神経と筋肉が新しい命に躍動し出した のです。彼の弱っていた足は力がみなぎり動き始めました。彼が疑わずにキリスト の命令に従って行動しようと意志を向けた時、彼のすべての筋肉は彼の意志に答 えたのです。彼は、自分の足で起き上がる事が出来、思い通りに体を動かすことが 出来る自分になっていることを知りました。 二つの偽造パスポート | 30 この時イエス様は、神様の助けについて、全く何の保証も彼に与えておられま せんでした。 ですから彼は、キリストの言葉をちょっと疑って、癒される唯一の機会 を逃してしまうこともあり得ました。 しかし彼はキリストの言葉を信じて、そのみ言 葉に信頼して行動を起こそうとしました。その時、完全な癒しの力を受けることが 出来たのです。 私たちもこのような信仰を通して、霊的な癒しを受けることが出来ます。私たち は罪のために神様の生命から断絶されてしまいました。私たちの魂はサタンの力 に縛られて、麻痺している状態です。 ちょうどべテスダ池の病人が、歩くことも動く ことも出来なかったように、私たちも自分の力では罪と誘惑に勝つことも、聖なる 生涯を送ることも決して出来ません。 多くの人たちが、自分たちの無力さを悟り、 どうしたら神様と調和する生き方 が出来るだろうかと、霊的な力を一生懸命求めています。それを手に入れるため に、彼らは祈ったり、聖書を学んだり、奉仕活動をしたりと空しく奮闘します。 しかし彼らは絶望の中で「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれ が、 この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」 (ローマ7:24) と叫ぶ のです。 このような絶望のうちにもがいている人は上を見上げて下さい。 救い主はご自分の血であがない取られた者たちを思いやって、言葉にはあらわ せない憐れみと慈しみをもって「なおりたいのか?」 と語りかけられます。 イエス様はあなたに、健康と平安のうちに起き上がりなさいと命じられます。 あなたがすっかり癒されたと感じられる時まで待たないで下さい。 単純にそのお方の言葉を信じて下さい。 そうすればみ言葉が成就するのです。 あなたの意志をキリストの約束の言葉の上に置いて下さい。 そのお方に仕えようと決心すれば、み言葉を実行する時に力を受けることが 出来るのです! どんなに悪い習慣であっても、長い間の放縦によって心と体を支配してきた強力 な情欲からも、キリストは私たちを救うことがお出来になり、是非救いたいと願っ ておられます。 イエス様は「自分の罪過と罪とによって死んでいた」 (エペソ2:1)魂に生命 を分け与えて下さいます。 イエス様は、弱さと不幸、罪の鎖に縛られていた人たちを解放して下さるのです! 第5部 信仰と従順についての聖書からの例証 | 31 2 悩めるクリスチャンの質問 時々、 このような質問を受けることがあります。 「私は最近、非常に深い泥沼に 陥っています。心は神様のみ言葉通り生きたいと思いますが、肉体が弱いために しばしば誘惑に陥って罪を犯してしまいます。何度も決心して、 もっと決心してい ますが、罪から逃れることができません。私の信仰生活は何が問題なのでしょう か?」 全ての人は利己的な本質を持って生まれてきます。私たちが遺伝的に受け継 ぐ罪ある利己的な本質では、神様のみ言葉に従順な生涯を送ることは出来ませ ん。ですからイエス様はニコデモに「水と霊とから生まれなければ、神の国にはい ることはできない」 と言われたのです。 十字架の愛を深く理解した人は、 もはや自分のために生きるのではなく、神様 と隣人のために生きたいという望みによって心が満たされるようになります。 これ こそが新しく生まれたことです。キリストの愛と犠牲を知っている人は、自然にそ の心の動機と目的が、悪から善に立ち帰るようになります。 このような変化が心の 中に生じた人だけが、初めて、神様のみ言葉に従順な生涯を送ることが可能にな るのです。 それにもかかわらず、悲しいことにおびただしいクリスチャンが、真に生まれ変 わる経験をしていないまま信仰生活を送っているのが現実です。生まれ変わって おらず、肉に属している人は、霊である聖書のみ言葉に耐えることが出来ません。 新しく生まれる経験がないなら、善を行いたいという望みはあっても、善を行うこ とは出来ないのです。それはあたかも狼が羊の真似をしようと懸命に努力するの と同じことです。 狼が羊の生活をすることが出来ないように、人も新しく生まれ変わらない限 り、真のクリスチャンとして過ごすことは出来ません。 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは 過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」 (Ⅱコリント5:17)。 キリストによって新しく造られた者だけが、新しい被造物になって新しい生涯 を生きることができます。真のクリスチャンの生活は、人間的な努力と決心だけで なるのではなくて、新しく造られること、新しく生まれることによって始まり、維持さ れるのです。 二つの偽造パスポート | 32 本当のクリスチャンになりたいと願う人、罪の支配から逃れたい人、悪い性格 を直したい人は、十字架を見上げて下さい。そしてそのお方の愛に、あなたの心 と生涯の全てを捧げるなら、キリストは聖霊を通して、あなたに新しい心を与え導 いて下さいます。 この新しい心こそが、神様があなたに与えられる天国へのパス ポートなのです。 第5部 信仰と従順についての聖書からの例証 |33 SOSTV Japan Mission 紹介 1. sostvjp.net 聖書研究用書籍、BibleNavi小冊子(32シリーズ)、インターネット説教、ブロ グ、SNS、書籍を多数揃えています。 (今後も、料理番組、預言セミナー、ダニエル 書、黙示録研究書籍、信仰書籍、月刊誌などをご用意する予定です。) 2. 書籍 聖所 手遅れになる 前に 福音の力を 体験せよ Remember Me 新生への道 信仰の リバイバル 3. 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