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海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる

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海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる
2009年度活動概要
● 海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
ボランティア・NPO活動センターが実施する海外体験学習プログラムは、治安や衛生環
境が安全と判断される海外において、学生がその地域の抱える問題に触れるとともに、地域
貢献、福祉、環境関連の現地NPO・NGOとの交流を通して、ボランティアなどの体験学習
を行うことにより、異文化間における相互理解と共生を学ぶことを目的としています。
'07年度より、①学内企画(本学の専任教員がコーディネーターとなって企画・引率する
プログラムを公募し実施する)と、
②学外企画(NPO・NGO団体が実施するスタディーツアー
の中から、事前事後の学習だけでなく帰国後も継続的に活動できるなど、学生にとって学び
の多いプログラムを採択する)の2種類を提供しています。
今年度も同様に、夏春合わせて以下の5コースを実施しました。また、今年度からプログ
ラム終了後には、参加学生とセンター職員との間でふりかえりを兼ねた報告会を実施し、そ
の経験を共有するとともに、さらに学びを深める機会としました。
今後も国際社会における学生の関心事と学びの深さを踏まえ、危機管理面においてはテロ
や感染症などの危険が少ない地域で、なおかつ費用面でも参加しやすい企画を可能な限り提
供し、本学学生の学びの場を広げていきたいと考えています。
①学内
プログラム企画者・団体
行 先
経済学部 大林 稔 教授
インドネシア共和国 2009年9月4日(金)~ 2009年9月14日(月)11日間
経済学部 松島 秦勝 教授
パラオ共和国
②学外
Japan Philippines Community
フィリピン共和国
and Communication(JPCom)
40
実施機関
2009年9月1日(火)~ 2009年9月7日(月)7日間
2009年8月5日(水)~ 2009年8月12日(水)8日間
(特活)JIPPO
タイ王国
2010年2月7日(日)~ 2010年2月16日(火)10日間
(特活)テラ・ルネッサンス
カンボジア王国
2010年2月27日(土)~ 2010年3月7日(日)9日間
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
○インドネシア共和国
■参加学生
桂 智紀
経済学部 国際経済学科 3年次生
兼岩 陽子
経済学部 国際経済学科 3年次生
高谷 健太
経済学部 国際経済学科 3年次生
土田 知果
経済学部 国際経済学科 3年次生
成田 智哉
経営学部 経営学科 2年次生
松坂 進也
経済学部 国際経済学科 3年次生
■引率教員
大林 稔
経済学部 教授
■行程
日 付
9月4日(金)
9月5日(土)
地 名
関西国際空港
現地時間
参加者の行動
9:00
集合、搭乗手続き
11:00
空路、デンパサールへ
デンパサール
16:40
到着後、ホテルチェックイン
デンパサール
8:15
タマン・スリ・ブワナで「昔ながらの農村暮らし体験」
ホテル泊
バリ伝統スタイルの昼食
9月6日(日)
9月7日(月)
9月8日(火)
16:00
ホテル帰着
デンパサール
9:00
空路、マカッサルへ
マカッサル
10:15
到着後、ハサヌディン大学ゲストハウスへ
午 後
自由時間
9:00
ハサヌディン大学学長へご挨拶
9:30
大学の教授による講義
13:00
専用車にてRotterdamへ Rotterdam港見学
16:00
ホテル帰着
9:00
専用車にてタカラルのJICAプロジェクト現場へ 見学
マカッサル
マカッサル
ホテル泊
ホテル泊
ホテル泊
専用車でバンテンへ移動 ホテル泊
9月9日(水)
バンテン
15:00
バンテン
9:00
専用車にてBantaeng県知事を訪問
10:00
専用車にてLocal Forestry Peopleを訪問し交流
ホテル泊
専用車にてLocal Forestry Peopleを訪問し交流
9月10日(木)
バンテン
終 日
9月11日(金)
バンテン
9:00
専用車にてLocal Forestry Peopleを訪問し交流
マカッサル
14:00
専用車にてマカッサルへ移動
マカッサル
9:00
大学キャンパスにてForestryの長と交流
14:00
大学院長を訪問
15:00
大林教授による講義 5:00
専用車にてLocal Fish Marketを見学
午 後
空港へ向けて出発
16:30
空路にてデンパサールへ
ホテル泊
9月12日(土)
9月13日(日)
9月14日(月)
マカッサル
デンパサール
17:45
到着後、国際線へ
デンパサール
0:55
空路にて関西国際空港へ
関西国際空港
8:30
到着後、解散
ホテル泊
ホテル泊
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2009年度活動概要
桂 智紀(経済学部 国際経済学科 3年次生)
今回のインドネシア共和国への海外体験学
習はインドネシアの森林伐採、森林保全、及
び農民の暮らしの調査という名目で参加した
が、非常に有意義な機会になった。
特に、バリでの伝統的な農村体験に関して
はとても良い経験になった。伝統的な方法に
よる米などの農作物の作り方はとても印象深
く、この伝統的なスタイルを継承しつつ農民
達の生活水準を引き上げる必要性を感じた。
バリでのフィールドワークでは現地の小学
校にも訪問したのだが、子供から大人までの
バリでの生活に接することができて非常に良
のだろうかと感じた。なぜなら、
今回のツアー
かった。
のほとんどに地方行政の担当官が付き添って
マカッサルに移動してからは、バリとの大
いたため、満足していると言わざるおえな
きく違っていたため驚いた。第一印象は想像
かったのではないだろうか。
「未だに圧政の
以上に都会であったことだ。高速道路も走っ
部分が残っているため、なかなか本当のこと
ており、南スラウェシ州の大きな商業都市だ
が言えない」と現地ガイドの方が話していた。
ということが窺えた。ハサヌディン大学での
今回のツアーはラマダン期間中ということ
森林学部の教授による講義は非常に有意義
もあり、森林のこと以外にもイスラム教の宗
だった。インドネシアの森林問題の現状を政
風なども垣間見ることができ、結果的にラマ
府側の森林に対するアプローチ、住民側の森
ダンの時期にインドネシアを訪問して正解
林に対するアプローチ、大学の立場などから
だった。
説明を受けることが出来た。政府側は住民の
インドネシアのインフラ設備はバリよりも
要望を柔軟に取り入れているが、一部圧政が
マカッサル及びバンテインの方が整備されて
まだ残っており、解決に導くにはまだまだ時
いる印象がある。バンテインでは村の奥まで
間がかかりそうな印象があった。しかし、住
道路が舗装されており、行政もしっかり村を
民の森林保全に対する意識が十分に浸透して
管理しているようだった。いちご農園に行く
いることが分かった。これは講義からだけで
機会が今回あったが、いちご農園がある場所
はなく、プロジェクトが行われている村に赴
は高地だったが、上まで道路はアスファルト
き、村長と会談を行った時にも質問をしたの
舗装されていたのが印象的であった。
だが、非常に意識が高い回答が返ってくると
ツアーの最後の方にハサヌディン大学側に
ともに、政府側の考え方への理解も示してい
我々が提案する森林保全プロジェクトを説明
た。今回のスタディーツアーではいくつかの
したが、大学側から非常に前向きな回答を頂
村を訪問したが、訪問したどの村も成功例ば
いて、とても嬉しく思うとともに、このプロ
かりであった。プロジェクトの行われた村は
ジェクトを継続的に行っていくことが大事な
他の村に比べて裕福になっていると思われる
ため、時間が許す限りこのプロジェクトに参
が、プロジェクトの失敗例を見学することが
加していきたいと考えている。
できなかったため、プロジェクトを行って裕
今回、初めてこのような形で海外に行き調
福になったとは一概には言えないのではない
査活動を行ったが、とても有意義なツアーに
だろうか。村長は「政府側のプロジェクトに
なったので、機会があれば次回も何らかの形
満足しているか?」という質問に対して、
「満
で参加したい。
足している」と回答したが、果たして本当な
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海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
兼岩 陽子(経済学部 国際経済学科 3年次生)
今回のスタディーツアー参加では、インド
た。私たち第三者としては森林保護を、CO²
ネシア農村の暮らしを学び、現地住民の生活
排出の問題を第一に考えているのだが、現地
と森林との関わりについて学ぶことができ
住民は生活に必要な森林(木材・果実)が重
た。
要視され、水が出るということを森林に対し
バリでは実際に伝統的な農村の暮らしを体
て、まず求めることであった。私たちは森林
験し、インドネシアの自然の豊かさや生活ス
に注目していたが、水の存在をあまり意識し
タイル、生活と森林とが密接に関わっている
ていなかった。今回の農村訪問で人々が水を
ことが実感できた。バリ島はインドネシア国
森から引き、その水で農業を行い、家事をす
内で比較すると豊かな島であり、観光業の発
る様子を見ることができた。また、水が少な
達で私たちには馴染みのある観光地のように
い地域では生活レベルが水の豊富な地域と異
も感じられた。スラウェシ島ではバリ島とは
なったりもした。ホームステイした農家は水
異なりまた違った生活スタイルがあり、地域
が少ない地域だったが、いちご農園が成功し、
による違いが実感できて良かった。
村の中では裕福な家であった。村の中を散策
今回訪問したタカラール県やバンテン県は
し、他の家を訪問したが『家で小さな売店を
南スラウェシ州では比較的貧困地域で、州都
している家は広い』など小さな裕福さの違い
マカッサルがスラウェシ島では栄えた地域で
も見ることができた。訪問した時期が断食期
ある。島内での経済的な格差があり、同じ南
間と重なっていたにもかかわらず、家に訪問
スラウェシ州であっても都市の発展に差を感
すると飲み物やお菓子を出し歓迎してくれ
じた。
た。そこでは住民の穏やかさを感じた。子ど
私達のテーマは“森林保護”で、具体的に
も達との交流で生活レベルも知ることもでき
は『森林が減少する実態は何か』
『農民の生
た。
活と森林がどれほど関わっているか』
『現在
タカラール県ではJICAが行った参加型森
行われている森林保護の取り組みとは』を知
林保全の成果を見学した。住民が政府に要望
りたいと考えていた。これらの疑問を解決す
を出して森林経営を行っていた。住民の自主
るためには、発達した都市部での調査と貧困
的な取組を見学し、私達が何かプロジェクト
地域の密接な調査が必要であった。特に、山
を行う上で参考になる良い成功例であったと
岳地帯の農村の調査を重視し、実際に現地を
思う。タカラール県は州都マカッサルから近
訪問した。
く、まだアクセスできる地域であるため、後
で訪問したバンテン地域より地理的に恵まれ
ているようにも思う。今回は森林保全、管理
の運営を積極的に行っている県や村を訪問し
た事もあり住民の前向きな意見を聞くことが
できた。ただ、これらは成功例であり、まだ
私達が知らない問題点が多く存在するだろう
し、実際どこまで成功しているのかはまだ理
解不足である。今後も調べ学習が必要だと感
じた。今回の訪問で、新たに研究領域が拡大
したと思う。ローカルマーケットでは現地以
外の果物(アメリカ・中国産)も並んであっ
たり、野菜以外にも魚介類も多く売られてい
ホームステイの体験出来とても充実したも
たり、またガスやオイルなど日用品も並んで
のになったと思う。今回大きな収穫は、水の
いた。インドネシアの天然ガスは日本にも輸
存在である。ハサヌディン大学でのディス
出されており、インドネシア国内でガスの利
カッションで明らかになった政府と住民の森
用が増えれば木材利用も減るのではと新たな
林に対する捉え方のギャップは勉強になっ
提案を話したりもできた。フィッシュマー
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2009年度活動概要
ケットでは船で運搬をしている人に『どんな
ものを商品としているのか』
『運送ルートや
雇用形態』などをインタビュー出来た。やは
り海岸に面した地域は貿易業が栄えており、
最近では塩田や海藻が産業として栄えてい
た。南スラウェシ州内では森林に関わったも
の以外に地形にあった産業が多く存在してい
ることがわかった。南スラウェシを何カ所も
移動したことで森林以外にも、また、それに
関わるだろう新たな問題も見つけることがで
きた。特にゴミの問題は大きな問題だと思う。
バスでの移動中や村の訪問中に目についたの
がゴミであった。インドネシアでは日本と異
なり、ゴミ捨て場の設置が上手くされていな
かった。これも衛生的に問題があるだろうし、
このままゴミが増えると人々の生活も困難に
なると思った。これも森林減少と同様で考え
ていかなければいけない問題であろう。今回
のスタディーツアーで農村と森林について学
べただけでなく、農民、政府、大学の意識の
違いや私達の立場も再認識させられた。地域
によって違いが思った以上にあることもわ
かった。そこでは多民族国家であるインドネ
シアの民族性、島国であること、熱帯地域で
あることなど様々な点からその違いを見つけ
ることができた。また今回の目的である森林
保全、住民の暮らしを学ぶ延長上にまた新た
な問題も見つけることができたと思う。これ
らを参考にして今後もゼミでの研究を進めて
いきたいと思う。
高谷 健太(経済学部 国際経済学科 3年次生)
今回の海外体験学習では、現地で変更が相
次ぎ、当初予定していた数の村すべてを回る
ことができなかったが、それでもなお多くの
ことを知ることができた。特に、直接、人々
と接することができたことが、最も勉強に
なったことである。現地に行くまでに、イン
ターネットや書籍によって平面上の情報は
知っていた。しかしそれはあくまで資料で
あって、与件であって、スラウェシの本来を
示すものではなかった。なぜならそれらの
データを、まず自分の常識の中に当てはめ、
理解していたからである。彼らの考え方で、
捉え方で見たスラウェシ島は、参加前に抱い
ていた意識の何倍も大きなものであった。こ
のことが今回得られた重要な点であると思
う。知識を増やしたというよりも、考え方の
幅が広がったことが何よりの勉強になった。
今回、強く感じたことをあげていきたい。
第一に、訪問した村での森林に対する住民
の意識は、予想と正反対のものであった。私
は初め、市場から遠く離れ、職種の極めて少
ない森林周辺に住む人々は、伐採を行わなけ
ればならないほどに貧困化していると思って
いた。違法行為についても、
裏金の問題や人々
の生活を案じるところから、政府も見て見ぬ
ふりをしているのだと考えていた。しかしな
がら私達が今回訪れた村々では、それほどま
44
でに困窮した生活を送っているわけではな
く、果実の収穫がある分、豊かであるとまで
は言えないにせよ、都会での暮らしよりゆと
りがあるように見えたのである。また、村民
による森林保護に関する意識も存在し、村全
体で木を守っていこうとしていた。政府もそ
れを支援し、果実の苗木を無料で配布し、そ
の実の採取および販売を許可していたのであ
る。さらに森林保護官なるものが、違法伐採
者を逮捕し、時には射殺することもあると聞
いた。森林保護への意識だけではなく、違法
伐採に関する意識も高まっていることがわ
かった。
第二に、森林学部の森林保全に関する計画
とその成功例(村)についてである。森林の
減少に危機感を覚えているのは同じであった
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
が、森林学部はまず、政府と住民の森という
ものの位置づけの違いを指摘した。政府に
とって森とは辞書通りの意味をなすが、住民
にとっては、森と定義される土地であっても、
農耕が行えたり、住居が建てられる土地はま
ぎれもなく生産地域であり、生活の場となる
のである。これは大きなギャップとして今な
お存在し、計画に反対する村々とのネックに
なっている。森林学部長は、共通の森林への
理解が不可欠であると指摘していた。このよ
うにそこに生きる人々、立場によって考え方
が違い、それらを理解しない限り、保護であっ
ても支援であっても成り立たないのだという
ことを改めて痛感した。
またプロジェクトでは住民に森の定義を理
解してもらうためにも森林を3つの区間に分
けようとしている。それは、生産林・保護林・
保存林といい、左から順に警戒度、森の深さ
は増していく。生産林は木を植えるところで
あり、保護林、保存林は共に伐採が禁止され
ているが、保護林に関しては、第一に挙げた
ように果実の栽培が許可されていて、収入を
得ることができる。保存林に関しては死んで
倒れた木であっても、役所の許可がなければ
動かすこともできない。少し厳しいようでは
あるが、明確に区分されることにより、保護
がしやすくなったそうである。しかしこれで
は森を守る住民の意欲が保てない。そこで今、
森から流れる水に代金を発生させ、保護に
よって保たれる水を、町の人々に買ってもら
うことにより、保護の利益を得られるように
県と交渉を行っているそうである。
私達が危惧してきた森林減少に関する問題
は、すでに現地で森林保護への具体的な取り
組みがなされ、希望を見ることもできた。さ
らに、NPO立会いの下、年に何度か、県と
村の代表が集まって森林保護は勿論、道路整
備や配電などいろいろな討論がなされている
そうだ。政府と住民は離れた存在ではなく、
また政府から住民へ一方通行の押しつけでも
ない、話し合いによる両者が意見を言い、相
手に求める仕組みも充実している。参加前ま
でには考えられなかったたくさんの取組、関
係があることに気づくこと出来た。今回の経
験を基に、さらにスラウェシの森林と人々を
学んでいきたいと思う。
土田 知果(経済学部 国際経済学科 3年次生)
今回私はインドネシアのバリ島、スラウェ
シ島の2つの島への海外体験学習に参加し
た。
現地へ行くことの目的としては、実際に
フィールドに入ることによって、森林伐採の
現状を理解し、森林地域に住む人々の暮らし
や文化、森林との関わりについて、政府や住
民にとっての森林の存在意義の違いなどを学
ぶことが挙げられる。
インドネシアに行く前の学習では森林地域
に住む人々によって木がどんどん切り倒さ
れ、その木の売買によって人々は生活し、そ
れが産業として成り立っているイメージが強
かった。しかし実際行ってみると確かに山に
も木が切り倒された部分があったが、切り倒
した後の土地の利用、例えば畑にして作物を
育てていたりまた実のなる木を植えることで
木を切らなくても生産性のある土地の利用が
されていたり私が思っていたようなはげ山状
態の場所はほとんどなかったように感じた。
またNGOやJICAのプログラムが実行される
につれ徐々に国民に森林保全の意識が生まれ
ていることが分かった。林業を営む人々の暮
らしを守り、森も保全できる。これらの両立
が出来るような方法を見つけ出さなければな
らないと感じた。
海外体験学習では多くの人から話しを聞
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2009年度活動概要
き、ディスカッションできるチャンスがたく
さんあった。これはすごく貴重な経験だった
と思う。大学の学長、森林学科の方、村落開
発局、経済開発局、環境局、村の長、知事な
どたくさんの立場からの意見を聞くことがで
きたことは視点の違いによって森林の捕らえ
方が違うということを改めて認識するきっか
けとなった。住民の理解する森、政府が理解
する森、またNGOが理解する森、それぞれ
の立場によって森林の存在意義が違っていて
森林の価値をひとつに絞ることはむずかしい
のだとわかった。
日本の電化製品や車、バイク、またアニメ
や漫画、音楽もいたるところで目にし、耳に
することができた。町でも日本語で話しかけ
てくれる人がたまにいたり、小学校でも日本
語の授業で日本の歌が歌われていたり親日の
国だということをあらためて体感することが
できた。カメラを向けると笑顔を気さくに見
せてくれるところもとても印象的だった。テ
レビやケータイ電話、デジカメなどの新しい
技術や文化を取り入れつつも、家の造りやラ
イフスタイル、食事、村での人間関係や動物
との関係は決して変わらず伝統の形が残って
いるように感じた。決して急いで近代化する
ことなく、昔からのスタイルそのままに時間
の流れがゆったり感じられるインドネシア。
それは今の日本では感じることは出来ない魅
力ではないかと思った。だからインドネシア
では自然との共生が可能なのではないだろう
か。だからこそ、その魅力を守るためにも森
林の保全や保護の意識を高めていかなければ
いけないのだと思う。
実際に現地へ行くことで生の声を聞くこと
が出来た。私たちがどれだけ日本で情報を集
め、勉強し討論したとしても、実際の状況も
住民が求めていることも、そこで生活する住
民にしか分からないことだということが身に
しみてよくわかった。
成田 智哉(経営学部 経営学科 2年次生)
インドネシアに10日間滞在して学べたこと
は多くあります。この旅は僕にとって初めて
の海外体験であり、日本では味わえない未知
な体験ができた。その中でも違う言語に囲ま
れた生活というものが面白かった。やはり、
海外に行って感じたことは、英語は世界言語
であり英語を話せないと生活やコミュニケー
ションができないということだ。コミュニ
ケーションがとれないと言うことはとても情
けなかった。英語は勉強しないといけないと
思った。これから勉強していこうと思う。食
事などは、日本に何か似ているものがあり、
とても暮らしやすかった。何よりも食事がお
いしかったのが印象的だった。右手は食事や
握手のとき、左手は汚いものでありトイレの
ときに使うなど、国独自の作法なども知るこ
とが出来て良かった。
国のインフラを見てみると、日本よりは整
備されていなかったが、思っていた状態より
道がきれいで驚いた。もっとガタガタ道を想
像していた。あと、観光などでにぎわってい
るバリ島などよりもマカッサルなどの道の方
46
が整備されていてきれいだった。それも意外
でおもしろかった。政府や地方分権化による
援助などが上手くいっているのかもしれな
い。現にバンテンで泊めてもらった県知事の
話を聞いていても、県知事のやり方次第で町
や市が変わるのがわかった。現県知事が来る
1年前は街灯もなく、道も汚かったらしいが
今ではきれいになっていた。どんどん発展し
ているのがわかる。さすが人口的に見て世界
4位だけある。これからの発展が楽しみな市
場だと思う。
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
以上のことが、インドネシアでの印象です。
とても面白かったし、インドネシアの人々が
3年生が考えたCO²の削減プログラムについ
て、かなり興味をしていたのも良かったと思
う。僕は途中からこのプログラムに参加させ
てもらったが、とても難しいプログラムであ
り10年20年かかるプログラムだと思う。住民
が森林を増やすために苗を植え、不法伐採を
なくし、それによりCO²を削減できてから、
国が住民たちに報酬を渡す。本当に住民にお
金がまわるのか、可能なのかなど、今後いろ
いろ検討していかないといけない。インドネ
シアの人々の期待に応えるためにも。
森林について町の人々、NGOの人、大学
の教授など聞き込みをしたが、政府と住民の
仲がそこまで悪いというわけではなかった。
政府は住民に対して、木を切らせないように
する代わりに苗を植える資金を与えたり、苗
の植え方、木を切らなくても木から生る実を
売れば金になること、木を切るタイミングな
どを教育していた。とても良いことだと思う。
森林の削減にも理由がいくつかあり、不法伐
採もその土地の習慣みたいなもので、その土
地で結婚した新婚さんのための家を作るため
に木を切り、田んぼを作るなどの風習があり、
そのため不法伐採するなどのことがある。不
法伐採以外の理由としては雨期の時に起こる
洪水などで森林が破壊されるなどがあるみた
いだ。このような調査はやはり現地の人々に
聞くのが一番大切だと思った。インドネシア
のイメージは自分の中ですごく変わった。良
かったと思う。海外に行って初めてその国と
いうものがわかるのだと思った。
マカッサルやバンテンなどを行って思った
ことは、貧富の差がとてもはっきりしている
ということだ。金持ちの家には車があり、大
きな家がある。それは県知事の家に行って
はっきりとわかった。召使いの人や掃除役の
人、様々な人が家の中にいて誰が誰なのかわ
からなかった。大林先生が言っていたみたい
にアフリカでも、金持ちの家に身内がたくさ
ん来てご飯だけ食べて帰ったりする人もいる
みたいだ。この場合、身内というものがどこ
までのものなのかわからず、とても広い範囲
まで身内の枠があるようだ。そこが日本と違
い面白い。とても身内を大切にして、食料も
分け合うらしい。逆に貧しい人々は人にお金
や食料を乞う。実際にバリ島でお金を求めら
れてびっくりした。これが現実であり、どう
したら少しでも解決に繋がるのだろう。働く
ための場所や手続きをしっかり用意してあげ
たい。考えさせられるものがたくさんあった。
さらに、僕の中で一番良かったと思ったこ
とはラマダーンの時期に行けたということ
だ。実際に断食はしなかったが、バスの運転
手やガイドの人、通訳の人などは断食をし、
お祈りもしっかりしていた。あの暑さの中で
水も飲まないで仕事をすることは、本当にす
ごいことだと思った。朝御飯も日が出る前の
朝の3時くらいに食べていた。県知事が言っ
ていたように、ラマダーンのときは体に言い
聞かせるみたいだ。とても神聖なものを体験
できた。ビデオでしか見てないが断食だけ
じゃなくても、メッカに向けてのお祈りもす
ごくきれいなものだった。30分くらいかけて
やる人も少なくなかった。宗教というものは
すごい力を持っていると思った。僕たち日本
人にはない考えだ。イスラムの人は豚も食わ
ないし、酒も飲まない。
宗教への信仰心というものが、こんなにも
大きいものとは思わなかったし、こういう考
えの国や人々に出会えたことは、すごくいい
経験になった。このようなものを見ると日本
はいい加減だと思ったが、それが日本のいい
ところでもあると思った。
僕がこのインドネシアでの森林調査、生活
体験を通して感じたことは、発展途上国が先
進国の尻拭いをしているということだ。先進
国はインドネシアやアフリカなどにCO²をこ
れ以上増やさないためにも森林保全をしろと
命令し、木を植えさせ、都市化を妨げようと
する。一方で先進国は電気を使い、木を切り、
車を乗り回している。僕たちは自ら矛盾を作
り、環境を守らろうと言いながらもCO²を絶
え間なく排出している。仕様がないと言って
しまったら終わりだが、この矛盾だけがイン
ドネシア滞在中、常に頭の中にあった。それ
でも僕は日本に帰ってきたら、水をたくさん
使い、電気を使っている。大林先生も言って
いたことだが、世界的に見てCO²をたくさん
使う国の方が、使わない国よりも豊かな生活
をしている傾向があるらしい。すごく難しい
47
2009年度活動概要
問題である。この傾向を和らげていくために
は、やはり先進国側が発展途上国に対して援
助をしていかないといけない。援助と言って
も、その国が求めているものを的確に調査し
て支援しなければならない。食料を求めてい
る国に対して、鉛筆やノートを支給しても援
助にならないからだ。この旅でNGOとかに
も興味が湧いた。この興味はこれからも続け
ていく。学生の時しかできないことをこれか
ら考えてやっていこうと思う。
このインドネシアでの体験は僕にとって意
味のあるものだった。もっと他の国もみてい
きたい。
松坂 進也(経済学部 国際経済学科 3年次生)
今回の体験学習プログラムではたくさんの
人からのサポートを受け、いろいろな場所で
多くの話を聞くことが出来ました。私は海外
に行くのが始めてだったので、基本的なこと
もわからないことが多く、一緒に参加した仲
間や現地の人などに迷惑をかけることも多
かったと思います。しかし、そのぶん新鮮な
目で経験したものを見ることが出来たと思い
ます。
まず初めに訪れたバリは、一目でわかるほ
ど「特殊な町」でした。ビーチや大通りはと
ても整っていて、一見すごく綺麗な町ですが、
大通りを一本外れると印象が違いました。暇
そうにしている人や犬(野犬?)がいたり、
またごみがそこらに落ちていたり(大通りも
ある程度は落ちていますが)
、なかなか危険
な香りがしました。完全に観光都市なのだと
感じました。2日目の「昔ながらの農村暮ら
し体験」ツアーではバリの空港近くとは少し
違う、田舎の暮らしを見ることが出来ました。
基本的に農業を営んでいる人が多いようでし
た。また町にはあちらこちらに木像がおいて
ありました。小学校と農家を訪問したのです
が、小学校の子どもたちはなんというか「上
手く仕込まれている」印象でした。とても上
手に日本語で挨拶してくれるのですがいかに
も「観光都市」っぽいなぁと思いました。本
当はそうでないのなら失礼な見方ですけれ
ど、たぶんそうなのではと感じました。観光
都市として、円の獲得には日本語は必須です
し大事な事だと思います。農家ではバリの農
産物や闘鶏を見る事が出来ました。
3日目以降のマカッサルは「普通の町」で
した。港町で商業が発展しているからなのか、
バリのように危険な感じはしませんでした。
48
昼間はみんな仕事をしていて賑やかで、夜も
怖そうなオッサンや兄ちゃんがうろついてい
る感じはあまりなかったです(あくまで私が
歩いた場所の話ですが)
。経済が上手く回っ
ている印象を受けました。ハサヌディンも綺
麗な大学でした。トイレはインドネシアで一
番汚かったですが(笑)
。学生も、積極的で
は無いですがフレンドリーな人が多かったで
す。恥ずかしがりな人が多く、日本の学生と
少し印象が重なりました。また学生に女性が
多い気がしました。教授などの偉い人は男性
が多かったのですが。
昼間のマーケットは、通りがかった時はい
つも活気があり良い印象を受けます。ラマ
ダーン中なので昼間はそんなに人はいない筈
なのですが、思ったより人気があり、ガヤガ
ヤしていました。夕方になるとその何倍かの
人が来てごった返します。道は渋滞し、まる
でお祭りです。夜になると少し町の印象は変
わります。夜は海岸沿いのカフェや酒場に人
が集まります。私たちが行った時はちょうど
ラマダーンだったので、イスラム教の若者が
音楽を鳴らしたり、叫んだりしながら車で行
列をなして町をねりまわっていました。初め
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
はデモかと思うほど迫力がある光景でした。
ラマダーン中は毎日やっているようです。
5日目からはマカッサルから南に行き、ス
ラウェシでは貧困地区といわれる南部に行き
ました。マカッサルは商業の町というイメー
ジでしたが、こちらは農村といったイメージ
です。道中では昔は山賊が出ていたという山
道もありました。日本では山賊なんて今時
ゲームにも登場しないので驚きました。ただ
しインドネシアでも今ではそういう事もな
く、安全になっているようです。JICAのプ
ロジェクトの見学はとても有意義でした。住
民の理解度も高く、森林保全への取組は成功
しているように思えました。またJICAの他
にもいくつもプロジェクトが行われており、
そのなかのいくつかは見学できました。プロ
ジェクトはいちご農園やプールなど上手く自
然を活かしているものが多く、
「思っていた
ほど貧しくないのでは?」と感じました。し
かしよく考えてみれば、見せていただいたの
はいわゆる「成功例」だった気もします。
9/10 ~ 9/11はホームステイをさせて貰え
ました。ちょうどラマダーン時期であり、イ
スラムの伝統的な生活スタイルを体験する事
が出来てとても有意義でした。モスクの見学
もさせて貰えました。イスラム教のお祈りは
経済発展の枷になっていないのだろうかとも
思ったのですが、コミュニティの力を強める
という観点からは大事なものだと感じまし
た。経済への影響もそんなに悪いものではな
いように見えました。9/11の朝はホームステ
イ先で知り合った子どもたちと散歩に出かけ
ました。幸運なことに何軒かの民家を訪問す
ることが出来ました。本当の「生の生活」に
触れることが出来たように思えます。何軒か
の民家を回って思ったのは、やはりホームス
テイ先はとても裕福な家だったということで
す。大きくて綺麗な家屋で、おそらく地域で
の集会をするのもホームステイ先の家なのだ
ろうと思います。
この地域の人々はとても仲がよかったで
す。ムスクでのお祈りの時も楽しそうにお
しゃべりをしていたり、ホームステイ先の家
にはいくつもの家から子どもが泊まりにきて
いたり、コミュニティの繋がりが強いように
思えました。
今回インドネシアを見て回って、森林との
共生に向けて色々な試みが行われていること
がわかりました。私たちが想像しているより
もかなり進んでいました。森林の保護体制や
管理も、課題は多いものの少しずつ進められ
ているようでした。また人々の暮らしも裕福
とはいえませんが、生活が強烈に困窮してい
る状態ではなかったようです。森林と人間の
共生に希望がもてました。ただし今回は、い
わゆる「成功例」を見せて貰った感じは否め
ません。つまり、課題の部分はほとんど話に
聞くだけに終わってしまいました。それは少
し残念です。
とはいえ、多くの人と交流が出来、全体と
してはかなり良い体験が出来たと思います。
また、もともとの目的とは関係はありません
が「海外援助の意義」や「援助の形」など、
根本的な問題を考える機会になりました。こ
れはとても大事な事だと思います。私の海外
最初の一歩としては大成功だったのかなと思
います。
49
2009年度活動概要
○パラオ共和国
■参加学生
入倉 悠
国際文化学部 国際文化学科 3年次生
岩本かおり
国際文化学部 国際文化学科 3年次生
歌藤 智弥
国際文化学部 国際文化学科 1年次生
神山 雅宏
経営学部 経営学科 2年次生
高田 靖人
社会学部 社会学科 2年次生
渕端 英
国際文化学部 国際文化学科 3年次生
槙 康良
経営学部 経営学科 2年次生
米山 和宏
経営学部 経営学科 2年次生
■引率教員
松島 泰勝
経済学部 教授
■行程
日 付
9月1日(火)
地 名
関西国際空港
グアム
パラオ
9月2日(水)
現地時間
参加者の行動
9:00
集合、搭乗手続き
11:00
空路、グアムへ
15:30
到着
19:35
空路パラオへ
22:05
到着後、ホテルチェックイン
午 前
専用車にて訪問先へ
午 後
日本大使館、JICA事務所、パラオ観光局への訪問・イン
パラオ滞在
ホテルにてオリエンテーション
タビュー
9月3日(木)
ホテル泊
パラオ滞在
ホテル泊
NGOパラオ環境保護協会、NPOコーラル・セーバーに
おいて環境保護活動、
サンゴ再生活動への参加 ホテル泊
9月4日(金)
パラオ滞在
パラオ在住邦人(海外青年協力隊員、沖縄出身漁業会社
経営者・国吉正則氏、日本大使館専門調査員・辻修次氏等)
へのインタビュー
国際サンゴ礁研究センター訪問・インタビュー ホテル泊
9月5日(土)
空き缶のリサイクル工場やゴミ処分場の見学、インタビュー
パラオ滞在
パラオ・パシフィック・リゾートにおけるゴミ・汚水処
分施設の見学・インタビュー
9月6日(日)
パラオ滞在
ショナルツアー)に参加
9月7日(月)
夜
専用車にて空港へ
パラオ
1:45
空路にてグアムへ
グアム
4:40
到着
7:10
空路、関西国際空港へ
9:55
到着後、解散
関西国際空港
50
ホテル泊
ロックアイランド、バベルダオブ島のエコツアー(オプ
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
入倉 悠(国際文化学部 国際文化学科 3年次生)
初めて海外訪問がパラオ共和国だった。私
自身、単なる旅行気分で行くのではなく、自
分のゼミで勉強していることを頭に入れなが
らパラオに臨むつもりでしたが、私の興味の
あることは移民問題であり、聞くところによ
るとパラオ共和国は、人口はおよそ2万人で
あり、そのうちの約5000人がフィリピン人で、
フィリピンから出稼ぎでパラオに来ている。
実際に、道やお店に入ってみると地元のパラ
オ人の姿はほとんどいなく、ほぼ違った国か
ら来ている人であって、地元のパラオ人は市
が近々、アメリカからのコンパクトマネーが
役所などの公務員がほとんどだった。パラオ
切れるそうで、その支援がパラオを動かして
には移民に対する法律や規則があり、基本的
いるといっても過言でもないので、切れた瞬
に外国人はパラオでレストランやお店の経営
間にパラオは破綻する可能性があると野田さ
が出来ない法律になっている。そういう場合、 んは言っていました。
地元のパラオ人をオーナーにして実質的には
パラオは観光業が国の収益の90%以上を占
外国人が経営するのが当たり前になってい
めている現状であり、その事業に携わる人の
る。フィリピン人が5000人といったが、その
ほとんどが外国人であることから、自立はか
フィリピン人はエンジニアやメイドなどの労
なり難しい。地元の人も海外に留学し(多く
働力としてパラオに来ている。フィリピン大
がアメリカ)
、そのままが以外に永住してし
使館で聞くと、基本的にフィリピン人は経済
まうということが多々あるらしく、そのこと
的な理由で外国に出稼ぎとして渡航すること
も問題視されている。また、パラオではごみ
が大きな問題なっているが、基本的に外国に
問題が重要視されている。以前は、ごみを収
渡航するフィリピン人はかなり優秀であり、 集してある一定の場所に捨てるだけであり、
日本でも介護福祉関係の仕事に大きな影響力
汚染や臭いが強烈であった。しかし今では、
を持っているそうだ。
生ごみは土に返してそれを農業に安い値段で
パラオでは不法入国者が後を絶たず、強制
売ることや、鉄やペットボトルは他国に(例
送還といった場合もある。フィリピン大使館
えばオーストラリアや中国など)売ることに
に訪問した時にも中で数人の人が寝ていて、 したため、ごみ問題は少しずつ良い方向に向
恐らく所持金が無くなって行くところもなく
かっていることは確かである。しかし、現地
なり、大使館の中で泊まっているのであろう
の大学生によると、ごみの分別は行われてい
人を目にしました。パラオでも外国人を雇っ
るがゴミの収集車がせっかく分別したものを
て賃金を払わないといったことが多々あるら
一緒にしてはこんでいるそうだ。まだまだ、
しく、法律としては外国人に払う最低賃金は
一般の人々の認識が甘いのではないかと私は
月に400ドルであると決まっているが実際は月
感じました。
に150ドルぐらいしか払われていないようだ。
パラオに行って感じたことは、国家予算も
次に、パラオにあるJICA事務所に訪問し
少ない小さい島国の状態で独立し、今でもな
ましたがそこで、野田さんという事務所に勤
お苦しい状況であるのに国民はとても陽気で
務されている人からパラオの現状をいろいろ
せかせかしていない。これは良い面でもあり、
と聞いてみましたが、パラオが求める今後の
悪い面でもあると思う。なぜなら、この危機
展望は“自立”であるとおっしゃっていまし
的現状が認識がされていないのではないかと
た。パラオは1994年にアメリカから独立して
思うからだ。これはパラオの人々が認識する
今でもアメリカからのコンパクトマネーで国
ことであり、我々の問題ではどうしようもな
を支えられていることや、日本の無償援助も
いことである。しかし、私的には陽気でせか
活用するなど、なんとか暮らしていけている
せかしていないパラオが好きである。
51
2009年度活動概要
岩本かおり(国際文化学部 国際文化学科 3年次生)
今回の7日間の日程のうちパラオに滞在で
きたのは正味5日間だけでしたが、毎日朝か
ら晩までとても充実した日々を過ごすことが
できました。
私たちにとって最初の訪問先となった9月
2日のJICA PALAUでは、パラオに関する
基礎知識を所長の野口さんからパワーポイン
トを使ってわかりやすく説明していただき、
以降私たちが訪問したごみ処理施設やパラオ
観光局、大使館やNGOでお話させていただ
く際にとても役に立ちました。日本で事前学
習を行いあらかじめ考えていたものも含め、 抱えています。パラオ人なら誰でもハワイや
行く先々で私たちからのたくさんの質問に丁
アメリカ本土へ自由に進学・就職してよい権
寧に答えていただきました。
利を持っており、自国の最低賃金が2.5ドル
日本のODAはパラオ国際空港やコロール
なのに対し、近くのグアムで働く場合それが
市内の道路建設に使われ、非常に役立ってい
2倍になることからも簡単に想像できるよう
るようでした。JICA PALAUとして今後は
に、いったん島を出ていい生活を覚えてしま
電力供給に力を注いでいく予定だそうです。 うとなかなか戻って来ない、また大学などで
しかし、インフラ整備はまだ十分とは言えず、 学び、身につけた高度な知識や技術が地元に
自国での自立を目的としたアメリカからのコ
還元されないという問題に直面しています。
ンパクトマネーの打ち切りが来年に迫ってい
実際パラオコミュニティーカレッジ(PCC)
るにもかかわらず、国家予算60億円のうち3
を訪問して話した際にも、外に出て働き、た
~4割を日本・アメリカ・台湾政府からの援
くさん稼いでいい暮らしをしたいと考えてい
助に頼っており、残念ながら自立の見込みは
る学生がいました。それでも「パラオ大好
立っていないようでした。観光客7~8万人
き!!自分たちが生まれた場所だから。
」と
に対し人口2万人のパラオに各大臣や役人を
いう言葉を聞いたときはとてもうれしく感じ
揃えると国家予算の大半が彼らの人件費とし
ました。
て消えてしまうそうです。また、何かを輸出
今回のテーマが観光と環境だったこともあ
するにも地理的条件や資源の乏しさを見る
り、お会いしたほとんどの方に、異なる立場・
と、他国との競争力が無く、観光に次ぐ独自
角度からお話いただきました。現在ミクロネ
の新しい産業が無いのが現状です。パラオで
シア地域全体で環境保護に取り組んでおり、
は現在ごみ処理はタダ、下水処理や上水道も
中でもパラオは海をメインにしたエコツーリ
タダ同然という話を聞き、
私たちの中から「税
ズムの戦略を展開し、リーダー的存在を担っ
金を上げたらどうか?」という意見が出まし
ています。やはり観光開発と環境保護という
たが、パラオには“取れないところからは取
一見相反するものを両立させるのは難しいと
らない”という習慣があるらしく、病院でも
考えられます。ただ、私個人的には、バリ島
お金を払うのは全体の8割程度で、出国税や
やグアム島のように街中にショッピング施設
環境税を上げる計画は議会の承認を得た後も
があふれ、人や車がごった返すのではなく、
大統領がなかなかサインしなかったといいま
観光をメインにしている割にはみやげ物が無
す。この習慣や“血縁関係で面倒を見る”習
かったりと、多少の物足りなさも感じるが、
慣のおかげなのかパラオ人のGNIは約8千ド
のんびりとした島民の生活が感じられるパラ
ルと比較的高く、貧困層や超のつくほどの富
オのほうが気に入りました。環境に配慮し、
裕層も居らず、日本のような格差社会には縁
その保護に重点を置いている今の観光と環境
が薄いようでした。
のバランスをぜひ今後とも保っていってほし
そのほかにパラオは人材流出という問題も
いと思います。今回たくさんの方にお会いし、
52
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
お話しする機会に恵まれた中でも特にパラオ
観光局を訪問した際には東大大学院生の女性
2人が同行したこともあり、厳しい(鋭い)
質問や意見も出ましたが、それらも参考にし
て、観光のみでなくパラオ全体の発展につな
げていきたいという前向きな言葉を聞くこと
ができたため、とても有意義な2時間を過ご
せたことに感謝するとともに、今後もパラオ
に関する情報に耳を傾け、陽気で穏やかな
人々が暮らす美しい島の発展を願い、見守っ
ていきたいと思いました。
歌藤 智弥(国際文化学部 国際文化学科 1年次生)
「こんばんは、いらっしゃい」
パラオに到着して、現地人から初めて聞い
た言葉は日本語だった。スペイン、ドイツ、
日本、アメリカと統治を受けたパラオは、日
本やアメリカを中心に各国の文化を色濃く受
け継いでいた。車は右車線を走る。その車の
ほとんどは右ハンドルで日本車だった。非常
に右折がしやすいだろうと思う。
このパラオで僕が学ぼうと考えていたこと
は、相反する観光と環境をどう両立している
のかということ。また発展途上国の現状を直
に感じることだった。
だが実際に見たパラオ人の現状は、そう苦
しい生活をしているようにも見えず、むしろ
豊かにも見える人々の姿に驚きを禁じ得な
かった。町には日本でさえ存在する浮浪者の
姿もなかった。
この国にそれほど深刻な問題があるのだろ
うかと僕は思った。しかしJICAの事務所に
訪問し、現在のパラオの内情を知り、パラオ
は決して自活できているわけではないことを
知った。国家予算の四十パーセント以上を米
国などの支援に頼っており、建設物なども日
本や台湾のODAによるものだ。僕はパラオ
人自身でできることがないと言うのが最大の
問題だと思う。支援に頼りすぎるパラオの現
状は、自立した国とはいえるものではない。
国の中核である国会や裁判所でさえ台湾に
作ってもらっている。しかも壁を叩くと高い
音がするし、確実に中身スカスカの手抜き工
事が行われている。
パラオが自活できない原因として、人口が
二万人と非常に少ないことがまず挙げられ
る。日本で例えれば村レベルの人口で国を運
営しなければならないわけである。公務員だ
けで半分の人口を占めてしまう。次の問題と
してパラオには観光業以外に産業がないので
ある。産業を育てようにも人がいない、しか
も高度な教育を受けることが出来たパラオ人
は、より給料の良いグアムやアメリカ本土に
渡って行ってしまう。また何かを輸出しよう
としても、国の立地条件の悪さや輸出できる
物自体がないなどの問題がある。
海外体験学習プログラムのテーマでもある
持続可能な発展というものを考えると、パラ
オにとってこれは非常に難しいものだと思い
知らされた。パラオにおける唯一の産業、観
光業にも厳しい問題が多くあることが、パラ
オ観光局を訪問し、またエコツアーで実際に
体験することで分かった。
他の産業が上手くいかないのなら、観光業
を発展させればいいのではないかと僕は安直
に考えたが、それは環境問題を考慮するとと
ても簡単にできるものではなかった。パラオ
はかなり厳格に環境を守るための政策を行っ
ている。多数の島でも上陸が許される島はわ
ずかで、観光場所への物の持ち込み制限など
も徹底している。それでも観光客が来ると多
少の影響は出てくる。だだ収益のために観光
客を増やすということはできないのである。
これら多くのことを学び、僕のパラオへの
53
2009年度活動概要
意識は大きく変わった。パラオは今年で米国
の支援であるコンパクトマネーが打ち切ら
れ、さらに厳しいことになるだろう。問題だ
けが山積みにされており、いつまでたっても
パラオが本当に自立できる日の目途も付かな
い。
パラオの子供たちはとても良い笑顔をして
いた。そんな子たちと仲良くなれたのも一つ
の旅の収穫だと思う。はたして彼らが大人に
なった時、笑顔でいられる国にパラオはなれ
るのか。
パラオのたくさんの課題は僕のような一大
学生が考えてどうにかできるものではないだ
ろう。それでもパラオという国をこれからも
見守り、自らにもできることを考えていきた
いと思う。
神山 雅宏(経営学部 経営学科 2年次生)
パラオは人口約2万人でそのうち5千人が
外国人。1994年にアメリカから独立して丁度
今年で15年目になる。主要産業は素晴らしい
海や島の環境をメインにした観光業。言語は
パラオ語と英語。70歳以上の年配の方で日本
語を話せる方もいる。主食はタロイモと米。
ただ基本的にジャンクフードが好きでほとん
どの国民が日本で言うメタボ状態にある。子
ども達はみんなコーラとポテトチップスが大
好きで、栄養の偏りが危惧されている。平均
月収は約900ドルで、貧困層は存在しない。
パラオは血縁関係が強く万が一無職になって
も身内が引き取るため、ホームレスのような
人はいない。また日本のような格差社会がな
く、安定した生活を送っている。週末の娯楽
はおしゃべり。水道代は一定金額を支払えば
使い放題。このようなことがパラオに行き分
かったことである。
まずパラオ共和国で活動して最初に強く感
じたことが、明らかに我々日本人のことを好
んでいるという事だ。道路を歩いているとす
ぐにカタコトの日本語で話しかけて来てくれ
て、僕らが反応すると満円の笑みで返してく
れる。どこに行ってもどんな人でも同じこと
をしてくれる。
なぜパラオ人が日本人をそんなにも好んで
いるのかと言うと、まず一点はパラオという
何も無い島に日本が初めて電気、水道、道路
などのインフラ設備を取り入れ、戦後アメリ
カがパラオをただの植民地としていていたよ
うには扱わず、ちゃんと国として成立出来る
ようにしたためである。もう一点は今もなお
パラオに無償で資金援助をし続けていて感謝
しているからである。こうした点で、日本と
54
パラオは政府間でも親交が深い。
パラオには世界最上級の綺麗な海があり、
5日目に私も海に入ったが本当に人生が変わ
るような海で、ミルキーウェイ、ジェリー
フィッシュレイク、サンゴと未だかつて経験
したことの無い神秘的な空間を味わえた。た
だこの環境が今少しずつ失われつつある。こ
れには3つの理由があると考えられる。1つ
目は観光客の多さだ。やはりこれほどの綺麗
な海を見てみたいと思う人は多く存在し、現
在パラオに訪れる観光客は年間約8万~ 10
万人。多くの人が海へ入れば知らず知らずの
うちにどうしても海の生物を傷つけてしま
う。又、人口2万人の国に4倍も5倍もの人
が来れば必ず大量のごみが発生せざるおえな
くなる。今までパラオにはごみ処理場がなく
すべて埋め立てでごみを捨ててきたため、そ
のごみが雨などのせいで海へ流れ出しサンゴ
や海の生物に影響を与えていた。そのため現
在急ピッチでごみ処理場兼リサイクルセン
ターの充実に力を注いでいる。
2つ目は地球温暖化によるサンゴの白化現
象や、島の浸水問題である。現に5日目のツ
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
アーで途中休憩した島は、日に日に浸水して
いて、つい3日前まで立っていた木が倒れて
いたりと、目に見えて温暖化の影響が分かり、
ガイドさんは来年には無くなっているかもし
れないとまで言っていた。日本にいて今まで
温暖化を実感することはなかったが、今回パ
ラオに来て問題の深刻さに驚いた。
3つ目はアメリカからの無償財政支援であ
るコンパクトマネーの打ち切り問題である。
パラオは1994年にアメリカから独立した時に
15年間という契約で、財政支援をもらうこと
が決定していた。ただこの支援が今年の9月
一杯で終了となり、今パラオ政府は1年間の
延長支援を申し出ているようだ。パラオの国
家予算は年間約55億~ 60億でそのうちアメ
リカからの援助が約3,4割を占めている。
この援助が無くなれば、国民の7割を超す公
務員の給料の引き下げや、経済の停滞によっ
てお金が回らなくなり、パラオという国が存
在することが苦しくなることが予想される。
そして綺麗な海や島を維持する費用もなくな
るため、環境にも影響を与えるだろう。例え
ば税金を上げてみたり、今まで取っていな
かったところから税金を取ってみたりと、い
わゆる税制改革をしたらいいではないかと思
うかもしれないが、JICAの野田さんに聞い
てみると、パラオ人には取れないところから
は取らないという風習が存在していて、そう
いったことをなかなか起こせないらしい。
今後パラオがどのようにこの三つの問題を
解決させていくのか楽しみでもあり、何か自
分にも出来ることがあるならばしていきたい
と思う。
高田 靖人(社会学部 社会学科 2年次生)
平年に比べ割と涼しくなってきた日本に別
れを告げ、松島教授一同、我々9名は関西国
際空港を飛び立ち、朝早くからの出発であっ
たため、疲れからか深い眠りに落ちた。
次に目を覚ますと、コンチネンタル航空
CO978便はミクロネシア諸島上陸をフライト
していた。
グアム島、ヤップ島を経由し、パラオの空
の玄関口、パラオ国際空港に着いたのは22:
00過ぎ。
「皆さんお疲れ様でした。ようこそ
パラオへ!!」とインパックツアーの現地係
員。
「お帰りの際は出国税20ドルを徴収され
んにはJICAの活動だけでなく、パラオのセー
ますので、パスポートに挟んでおいてくださ
ルスポイントは観光だけであり、自分たちで
い」と。7日間、無事に旅程を終え、全員が 「モノを作って売る」ことはできないなど、
笑顔でこの20ドルを払うことができるのか…。 現在のパラオの経済や財政を深く教えていた
これから始まる日本の日常とはまるで別世
だいた。JICAの活動においては、今現在7
界の体験に不安と緊張を抱きながら、V.I.P
人が教育分野、3人がコンピュータ関係、そ
ゲストホテルへと無事到着し、一日目を終え
の他環境、測量、下水道管理、都市管理、看
た。
護師といった様々な分野で日本人の協力隊員
明けていよいよ今回の体験学習のキーワー
が活躍している。教育分野においては、日本
ド、
「持続可能な発展」をテーマに様々な施設、 のような四年制大学はなく二年の短期大学が
人を訪れた。
最高である。その中で特に力を注いでいるの
まず、最初に訪れたのが青年海外協力隊
が小学校を中心とした「算数教育」である。
(JICA)事務所。担当していただいたのは、 現在、日本で小学校の教諭をしていたプロが
JICA Palau事務所、所長の野田さん。野田さ
パラオの実践教育に加わり基礎学力の向上に
55
2009年度活動概要
努めているという。その他様々な分野で活躍
されている方々を目の当たりにし、感銘を受
けた。
パラオは基本的にアメリカ・日本・台湾・
韓国といった他国からの援助で成り立ってい
る。アメリカはコンパクトマネーという15年
間金銭的に援助し、日本はODAなどの経済
的援助、または人に技術を伝える「人材育成」
を中心としている。パラオの人口は今現在
1万9000人、その内5000人が外国人でその割
合の多くをフィリピン人が占める。ちなみに、
日本人のパラオでの労働者数は約300人であ
る。龍谷大学の学生数(19,237名)とほぼ同
じ人数で、警察、救急、病院など国の組織を
運営していくだけでも困難なことである。さ
らに、グアム、アメリカ、ハワイなどに5000
人ほどの人材が流出していることもあって、
諸外国の援助が必須なのが見てとれる。
こうして、1994年アメリカから独立して以
来、15年間続けてきた独立国家への歩みは程
遠いのである。今年、アメリカからの援助金
(コンパクトマネー)の期限が切れることも
あり、実際にこれが実行されるとパラオの国
家予算65億円が25億円になるという。これだ
け減らされると観光や環境に対する投資もで
きなくなり、パラオは近い将来壊滅的な被害
を受けることになる可能性が高い。
そこで打ち出したのがグリーン・フィー(環
境税)である。出国の際に出国税として20ド
ルを徴収するのだが、それに加えて30ドルを
追徴収するという。仮に4人家族でパラオに
旅行にくると出国するだけで、日本円で約
2万円も取られる計算になる。基幹産業が
「観
光」だけの国が、そこまでして観光者に対し
てお金を徴収することからどれだけパラオが
資金難なのかが伺える。
今回の体験学習のテーマ「持続可能な発展」
を成し遂げるための解決策は、
「とことん観
光に力を注ぐこと」ではないかと思う。観光
局を始めとして、観光産業に携わっている
人々は新たな観光スポットを開発し、比較的
観光者数が多い、日本、台湾、韓国などの市
場開拓を狙っており、今後独立国として国家
運営をしていくというのが大きな課題のよう
である。
7日間のツアーを通じて、パラオという日
本の淡路島よりも小さな国の中に、大きな課
題が山積していることが分かり、日本にいる
だけでは決して学べないことや体験できない
ことを経験し貴重な人生の財産になった体験
学習であったと思う。大学生のこの時期に、
7日間パラオで過ごした貴重な体験は今後、
日本での生き方、価値観すべてにおいて影響
されることは間違いない。松島教授をはじめ、
ボランティア・NPO活動センター大石課長、
参加者の皆さん、その他ご協力頂いた方全員
に「素敵な企画をありがとうございました」
という気持ちをこの場を借りてお伝えしま
す。
渕端 英(国際文化学部 国際文化学科 3年次生)
私が今回のプログラムに参加して最も学ん
だことはパラオにおける環境問題の現状で
す。パラオが観光客を惹きつける理由の1つ
はきれいな海である。パラオには、水の色が
透き通ったきれいな海はもちろん、ミルキー
ウェイのような神秘的な海も多々存在してい
る。しかし、これらパラオの海にも、環境問
題が深刻化していて、実際パラオを訪れてみ
て、環境問題の深刻さを肌で感じることがで
きた。特に5日目のエコツアーでそれを感じ
た。その1つは、地球温暖化により海水面が
上昇しているということである。海水面が上
56
昇していることにより、多くの島々の下の部
分が侵食され島の面積が縮小しているのが一
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
目で分かった。また、写真のように島の大木
が倒されている光景も目にした。驚くことに、
この木は数日前に倒れたそうである。これも
もちろん海水面の上昇による影響である。も
う1つは、サンゴ礁の減少、白化現象などで
ある。サンゴ礁が減少すると、その一帯に住
む魚の数が減ることにもつながるので、この
問題も非常に深刻である。ドルフィンパシ
フィックを訪問した際、係りの方が「この数
年でパラオの海は本当に変わった。
」と言っ
ていたのがとても印象的であった。今の状況
が続けば、パラオの海は更に悪化していき、
美しい海が失われる恐れもあるだろう。私達
観光客は、環境意識を高め、パラオの海を大
切にしていかなければならないのである。ま
た、パラオの学生は、環境意識は少し低いが、
彼らも年々気温が上昇していることには気付
いていた。それほど、パラオでは地球温暖化
の影響が出ているのである。さらに、現在パ
ラオではごみ問題も深刻化している。私たち
はリサイクルセンターに行き、パラオにおけ
るごみ問題の現状について教えていただい
た。リサイクルセンターには、写真のように
ごみが山のように積まれていて、これらのご
みを日本からの無償援助である機械を使って
肥料などにして再利用している。私たち観光
客は、パラオの環境を守っていくためにも、
なるべくごみを出さないことが大切である。
私は今まで環境問題について学習してきた
が、地球温暖化がもたらしている影響を目の
当たりにしたのは初めてである。今まで、な
かなか地球温暖化の影響を実感することがで
きなかったが、今回パラオでさまざまな地球
温暖化の影響を目の当たりにして、地球温暖
化の深刻さを知ることができた。
私がパラオで学んだもう1つのことは、人
との出会いの大切さである。私はパラオにお
いて非常にたくさんの方に出会い、大変お世
話になった。日本大使館やフィリピン大使館
の方、ドルフィンパシフィックの方、国吉さ
んなど、出会った全ての人が、忙しい中、私
達のために時間を割いて話をしてくださっ
た。そのおかげでパラオについてだけでなく、
様々なことを学ぶことができた。中でも特に
印象的だったのが辻さんとの出会いである。
辻さんは2日目と5日目に共に行動していた
だいた専門調査員の方である。辻さんは休暇
中にもかかわらず、私達にパラオにおける現
状や日本とパラオの関係、さらにパラオの観
光名所など、様々なことを教えて下さった。
また、2日目の夕食後、疲れているにもかか
わらず、個人的にパラオにおける環境問題に
ついて1時間ほど教えて下さった。現地に住
む方からの視線で教えて下さったので、非常
に勉強になった。そして、5日目は辻さんの
これまでの人生について話していただいた。
私は辻さんの話を聞いて、自分の人生に対す
る考え方が変わった。今までは目標に向かっ
て進み続けることだけを考えていたが、辻さ
んの話を聞き、目標を達成するまでにいろい
ろな道を進むことも大切であるということを
学んだ。たとえ失敗や後悔をしたとしても、
そのことは将来必ず活かされるということも
学んだ。私は辻さんの教えを忘れずに、これ
からの人生を歩んでいきたい。辻さんをはじ
め、今回パラオで出会った人たちのことは、
私は一生忘れはしない。みなさんとの出会い
を一生の思い出にしたい。
私は今回このプログラムに参加し、日本で
は学ぶことができないことをたくさん学ぶこ
とができた。今回学んだことは、大学在学中
だけでなく、社会に出てからも活かせること
なので、今回学んだことを忘れずに、これか
らの人生を歩んでいきたい。そしていつかも
う一度、パラオを訪れ、パラオの変化を肌で
感じたい。
57
2009年度活動概要
槙 康良(経営学部 経営学科 2年次生)
パラオ共和国は世間的にそれほど知られて
はいないと思うが、透きとおったきれいな海、
一面に広がる緑、年間の平均気温が27度とい
う熱帯で、一万年の時を経て、人を刺さない
クラゲが無数に棲む海水湖のジェリーフィッ
シュレイクや石灰が作り出した天然泥パック
のミルキーウェイ、ガラスマオの滝、そして
現地で働く日本人が世界一と称するダイビン
グスポットであるブルーコーナーといった観
光スポットがあり、
年間約7万人の観光客(そ
の内約3万人が日本人でトップ)が訪れる人
口がたった2万人(内5000人が外国人でその
3000人がフィリピン人)の小さい国である。
終戦までの31年間日本統治時代があり、その
時に日本政府は、パラオに教育やインフラ整
備などを行ったこともあって、パラオの人々
からは親日感情が感じられる。コロールの町
には、日本時代の灯篭や球場もあり、名前も
そのままである。日本語がそのままパラオ語
になっているものもあり、例えばベントウや
ダイジョーブは日本語と同じ意味である。
そんなパラオであるが実は様々な問題を抱
えている。その一つはパラオが観光業だけに
頼っていることである。パラオでは、人口が
あまりにも少ないので、ものを作ってもそれ
を消費するマーケットがないこと、さらには
海外向けの製品を作る工場を作って輸出する
にも、大陸から距離がありすぎるので、輸送
費がかかるなどの点から産業の発展がないの
である。
人口が増えていかない理由としては、パラ
オの最終の学校が短大までなので、若者がグ
アム、ハワイ、アメリカなどの大学に進み、
そのまま留学先で仕事を見つけ、定住するこ
とによる海外への流出が原因である。理由と
しては、パラオでの最低賃金は時給2.5ドル
に対してグアムは5ドルなので、納得できる。
現在5000人のパラオ人が海外で生活してい
る。
さらにパラオは外国からの多額の支援から
成り立っていることも問題視される。そのベ
スト3がアメリカ、日本、台湾である。アメ
リカはパラオの国家予算55億円のうち、18
億5千万円の実に3分の1の額の資金援助を
行っている。日本は、
経済協力やパラオの人々
58
に様々な面での技術を教える活動をしてい
る。そして台湾もまた資金援助をしている。
パラオの町にいると、いたるところに日本や
台湾の国旗が描かれている建物がある。これ
はその国からの援助で建てられたことを示す
ものである。政府の主要な建物は台湾からの
援助が多く、主要な道路や橋は大体日本から
の援助のものが多い。しかし、アメリカは独
立から15年経ったらパラオへのコンパクトマ
ネーを終了することを決めている。現在1年
間の延長を懇願している状況である。もしア
メリカからの援助がなくなると、非常に危機
的な状態になることが予測できる。パラオは
早急に手を打たなければならない。
パラオが抱える問題で、今回私が重要視し
たのは「環境問題」である。パラオは自然の
美しさを売りにした観光業が盛んなのでたく
さんの観光客が訪れる。その数が増えるほど
国が潤う。これは一見良いことのように見え
るが、環境問題にスポットをあてて考えると、
決して喜ばしいことではない。ただでさえ地
球温暖化の影響が顕著で沈みかけている島も
ありダメージをうけているのに、観光客が出
すゴミや、サンゴの白化やフィンキックに
よって削られたり、ジェリーフィッシュレイ
クのクラゲが死んでしまったりと、確実に環
境を荒らしてしまう。そのことで、パラオ政
府は現在観光客から様々な税金をとってい
る。グリーンフィーという環境税(30ドル)
も来年3月から徴収することを決めている。
観光業と環境保護は相反する部分がしばし
ばあるが、エコツアーといったような自然を
守りながら楽しめるような観光の発展が大切
であると考える。国民一人ひとりが、しっか
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
りと自覚を持ち、自然を愛する気持ちを持つ
観光客だけが訪れるような国になれるはずで
ある。
パラオの今後から目が離せないことであろ
う。
米山 和宏(経営学部 経営学科 2年次生)
パラオ共和国は人口約2万人の非常に小さ
な国である。首都はマルキョクで2006年10月
6日に旧首都コロールから遷都された。歴史
的にはスペイン、ドイツ、日本、アメリカと
統治され、1994年10月1日に独立した。2004
年の貿易額は輸出が5.9百万米ドル、輸入が
107.3百万米ドルで101.4百万米ドルの貿易赤
字である。よってアメリカ、台湾、日本など
の援助によって成り立つ国である。
私は、パラオ共和国でいろいろな方にお話
を聞いて一番興味を持ったのは援助に頼る国
が今後どのように存在していくべきなのかと
いうことである。コロール州を見渡すと援助
によって作られた道路や建物が多く存在す
る。日本も無償の援助や技術協力を行ってい
る。支援額では1位アメリカ、2位台湾、3
位日本である。すべてが違った形で支援協力
している。1994年の独立から15年後2009年に
自 立 で き る よ う に と ア メ リ カ はcompact
moneyと呼ばれる最大の支援を行ってきたが
今年で2009年となりcompact moneyは打ち切
られる。しかし、このまま打ち切られるとパ
ラオは国として存在できないので支援の継続
をアメリカに求めている。一見このような援
助は一方通行であると思われるが、パラオか
らは国連でその国に賛成票を投じてくれるな
どの利点を得ることができるので日本、台湾
などは援助し続けている。
そもそも、何故パラオが自立困難な状態な
のかというと第一に人口2万人というマー
ケットシェアでは、物を作っても売れない。
パラオの産業は財産である海などの自然を生
かし海外の観光客をターゲットにした観光業
しかない。漁業もあるがごく小さなものであ
る。製造業や商業などの産業を創出すること
は難しいというより、無理であるといっても
過言ではないだろう。またパラオにおいては
税金というものがあまり無いので国政を税金
でまかなうことも困難である。ゴルフコース
や高級リゾート施設など観光業をもっと発達
させるという案も存在するが施設の建設や観
光客の増加はパラオの自然を脅かす一番の根
源であり環境破壊に繋がる。そのような開発
行為でパラオの売りである自然が破壊されて
は意味が無いし、長期的な観光業の発達とな
らない。観光業と自然保護は矛盾するもので
あるといえる。そのため訪れた観光客には出
国税などの税金を徴収し、自然保護に当てて
いる。また、エコツアーなどの環境に配慮し
たツアーを組み、パラオの自然を守り続けよ
うとしている。
パラオには格差や貧困層が無く、GDPは平
均8000米ドルであり裕福な国であるといえ
る。それゆえに重大な犯罪も無く治安は良好
であるが、のんびりとした性格で学校や仕事
場にも普通に遅刻をしてくる人もいる。私は
そのようなパラオ人の性格、国民性もこの国
をどうにかして自立させようという気持ちが
生まれにくい一因ではないかと肌で感じた。
パラオには多くの観光資源が存在してい
る。その資源を最大限に活用して観光に結び
付け、産業を活発化させるしかパラオを存在
させる道は無い。観光サービスの質を上げ観
光客の人数を絞り、大きなお金を落としてい
くような観光客を取り入れ、税金や利益を大
きく得るようにすることが、今のパラオに
とっての課題ではないだろうか。
59
2009年度活動概要
パラオを長い目で見て発展を見出すために
は、日本などの先進国の資金援助や技術協力
は不可欠である。もはやパラオ単独で解決で
きる問題ではないJICAなどの協力団体を通
して、日本が持つノウハウを現地に根付かせ
ることによって、未来のパラオを形成する人
材が育成されるのであれば、一番のパラオの
財産であると思う。金銭面の援助も1つの案
として良いが、未来のある援助が今のパラオ
60
に求められていると思われる。それが現地に
JICAやその他で派遣され働く日本人の使命
ではないだろうかと思った。
パラオは素晴らしい自然に囲まれた国だっ
た。その資源を生かしてかつ保護し、観光と
保護の調和を図ることがパラオの自立への最
も重要な課題である。日本国内では経験でき
ない貴重な経験となった。
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
○フィリピン共和国
■参加学生
石川 春子
短期大学部 社会福祉学科 1年次生
合田 宏江
社会学部 臨床福祉学科 3年次生
西野 碧
経済学部 国際政治学科 3年次生
山本 美帆
国際文化学部 国際文化学科 1年次生
■企画運営団体
Japan Philippines Community and Communication(JPCom)
■行程
日 付
8月5日(水)
地 名
関西国際空港
マニラ ニノイ・
現地時間
参加者の行動
8:45
集合、搭乗手続き
10:25
空路、マニラへ
13:25
到着後、専用車でバギオへ
アキノ国際空港
バギオ
8月6日(木)
20:00
バギオ
カバヤン
到着後ロッジ泊
ローカルバスでカバヤンへ
10:00
到着、休憩後
16:00
現地オリエンテーション
ゲストハウス泊
8月7日(金)
カバヤン
町役場を表敬訪問
9:00
しょうがい児と保護者、関係者との歓迎会、交流
10:00
家庭訪問
14:00
地域の方々との夕食交流会
17:00
8月8日(土)
カバヤン
ゲストハウス泊
カバヤン散策
専用車でバギオへ移動
バギオ
8月9日(日)
バギオ
11:00
到着後休憩
16:00
しょうがい児リハビリテーションセンターについての説明
夜 間
ロッジ泊
9:00
子どもたちの家へ家庭訪問、保護者の起業支援プロジェ
クト見学
8月10日(月)
バギオ
17:00
各自しょうがい児宅にホームステイ
10:00
しょうがい児リハビリテーションセンターで子どもたち
との交流
市役所表敬訪問、市健康事務所訪問
14:00
スタディツアーの振り返り、スタッフとの夕食交流会
16:00
ロッジ泊
8月11日(火)
バギオ
9:00
バスでマニラへ移動
マニラ
17:00
ホテルチェックイン
8月12日(水)
マニラ
マニラ国際空港
関西国際空港
市内散策
12:30
出国手続き
14:25
空路、関西国際空港へ
19:15
到着後、解散
61
2009年度活動概要
石川 春子(短期大学部 社会福祉学科 1年次生)
この8日間は私のこれからの人生において
大きく影響するであろう体験となった。
当レポートでは現地の人達との交流を中心
に述べていく。現地の皆さんは私達を快く迎
え入れて下さった。交流会やお宅訪問時にも
積極的に私達との時間を過ごして下さった。
その気持ちはとても嬉しく、言葉の壁はある
もののそれが私達の感情伝達の壁にはならな
い事を感じた。中でもホームステイ先のお宅
では、私達がまるで本当の家族であるかのよ
うに愛情を持って接して下さった。そのよう
な受け入れ態勢があったからこそ私達は知り
たい事を存分に学ぶ事ができた。
そのホームステイ先はイアンという5歳の
男の子と母、祖母が3人で暮らすお宅だった。
(父、イアンの兄弟は別宅に住んでいる。
)イ
アンには中度の自閉症・発達障がい・学習機
能障がいがある。私とペア学生の2人がお邪
魔し、1日のほとんどを彼の母との会話に費
やした。イアンの障がいの原因・成長過程・
周囲の状況・経済的問題・これからの生活・
母のその時々の気持ちや考えの変化など踏み
込んで尋ねた。母は私達の思いを感じ、初対
面にも関わらず丁寧に話して下さった。2%
の可能性でイアンを授かった事、彼女自身イ
アンに対しどうすればよいか分からず毎日泣
いて過ごしていた事、STAC5(JPComのしょ
うがい児リハビリテーションセンター)に通
うようになってからのイアンの目覚ましい成
長の様子などを聞き、現地の人達の「しょう
がいに対する認識の低さ」に驚いた。しょう
がいとは「目が見えない」
・
「耳が聞こえない」
・
「足が無い」という身体しょうがいであると
大半の人が考えているのだ。したがって、そ
の他の障がいのある子が生まれると【変な子
が生まれた⇒恥ずかしいから家から出さない
(虐待率も高い)⇒障がいのある子の存在が
知られない⇒なかなかしょうがいへの理解が
進まない】という悪循環が起こっているよう
だ。行政の対応も不十分で本人やその家族の
みがどうしようもなく苦しんでいるケースが
ほとんどで、他の障がい児宅を訪問した際に
伺った話では、カバヤン町の重度の障がい者
は最高でも24歳までしか生きたことがないと
の事だった。又、訪れたお宅の男の子は発達
62
障がい等に加え、貧困による慢性的な栄養失
調にも陥っており、8歳にもかかわらず3〜
4歳程度の体重でまだ歯も生えていない状況
にあった。これでは本来の成長の可能性すら
奪われているに等しい。
これに対し、JPComの活動を見聞きし、
今彼らに必要な支援はこちらの解釈で良いと
思う目の前の物的支援だけではなく、彼らの
これからの人生においてより良い生活をする
為に必要な長期的目線でのサポートがいかに
大切かを学んだ。それは様々な社会問題が絡
み合う中、まずは彼らが生活できるよう保護
者の収入確保や、若い学生達と障がい児達が
接する事で障がいに対する理解を深める機会
をつくる等、現在彼らの抱えている問題の根
本的解決に向けた支援であった。
私自身も改めて支援の在り方を見つめ直す
機会となった。私一人の力は大きな力ではな
いが、実際に現場に触れて見て、聞いて、感
じて、学んだ事はたくさんある。これを私が
周囲の人達に伝え、伝えた人達の理解を深め、
更にまた人から人へと理解を拡大させ、少し
でも多くの人達に関心を抱いてもらうきっか
けとなれば良いのではないかと考えるに至っ
た。それがフィリピン・日本・世界・障がい・
福祉・文化・貧困・政治・ボランティア等ど
の分野からでもかまわない。まずは現状を
知ってもらう事が大切だと強く感じるからで
ある。
私自身も福祉分野はもちろんの事、福祉と
直結している社会状況もより深く継続して学
んでいく必要があると改めて確信した。そし
て、それ以上に人と人とのつながりの大切さ
を実際に感じる事ができ、大きな励ましを胸
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
に帰国する事ができた事を心から嬉しく思
う。サポートして下さった方々に心から感謝
する。
合田 宏江(社会学部 臨床福祉学科 3年次生)
今回私は、2回目のフィリピンだった。し
かしこの旅で、1回目のマニラ市のアペロク
ルス・トンド、ペレーズなどとはまったく違っ
た場所へ行くことができた。マニラから、何
時間もかけて行ったバギオ、カバヤンはそれ
ぞれ異なった特徴があった。バギオは、ジブ
リの世界に来たかのようでカバヤンは、とて
もきれいな空気で喘息の私にとってはとても
心地良かった。また、ツアーのメンバー、現
地のスタッフ、ホストファミリー、ツアーで
出会った人々みんなが素晴らしかった。そん
な恵まれた環境の中で私は一週間を過ごすこ
言葉がなんとなくだが分かる気がした。おか
とができとても幸せに思い、またこのツアー
げで、フィリピンの遊びをたくさん教えても
を紹介していただいたことに感謝している。
らった。中には、日本の遊びに似ているのも
このツアーで一番印象に残っているのは、 あった。一緒に遊ぶ中で、子ども達の笑顔は
「ホームステイ」だ。たった1日しか過ごす
絶えなかった。本当に、子ども達の笑顔を見
ことができなかったが、本当にとても濃い時
られて幸せだった。また、子ども達の笑顔を
間を過ごせたと思う。ホームステイ先は1人
見ることで自分が将来どのような道に進んで
で宿泊し、そのため日本語はまったく通じな
行きたいかも感じさせられた。夜には、お母
い。ホストファミリーは、5人家族で、お父
さんが近所のお母さんを連れて来て、彼女が
さんは仕事により不在で英語が上手なお母さ
しているリサイクルグッズの作り方を教えて
んと、タガログ語を話す子どもが3人だ。3
もらいなさいと紹介してくれた。おばさんは、
人の姉妹の長女の目はほとんど見えず、知的
不器用な私にとても丁寧に教えてくれた。彼
に問題を抱えている子だった。だが、彼女と
女は、雑誌からぺんたてを作り、ストローで
1日一緒にいて思い感じたことは、この子は
鞄を作っていた。これを趣味で作り、副収入
本当に目が見えないのか?という印象を受け
を得ていた。彼女は、
何度もリサイクルと言っ
た。なぜなら家族が、常に支援をしている状
ていた。ここまで、リサイクルに熱を入れて
態ではなく、その中で堂々と生きている彼女
いる人は極僅かだと思う。そんな楽しい家庭
の姿を見て、障がいによる日々の生活のしづ
に宿泊をさせてもらったため、お別れの時は、
らさが感じられなかった。家族は、彼女を特
たった1日なのに泣いてしまうほどであっ
別視して支援をするのでなく、1人の娘、姉
た。本当にもう一度帰ってきたいと思える家
として接していた。彼女ができない部分だけ
庭だった。
を支援する家族は本当にすごいと思った。と
今回のツアーは、台風の影響もあり停電し
同時に、私自身も見習わなければならないと
たり、雨季ということもあり天気は悪かった。
思った。タガログ語しか話さない子ども達の
しかし、毎日降る雨が現地の気候だと感じさ
会話に入れないと思ってとても不安になった
せられることにもなった。現地の人にとって
が、そう思ったのは一瞬で、すぐに子ども達
はこの季節が当たり前かもしれないが、この
とも打ち解けられ言葉の壁はなくなった。言
天候を困難と感じている人も多いと思う。日
葉が通じなくても、相手と向き合い・仲良く
本は、四季があり人や文化の違いだけでなく、
なりたい・知りたいと思えば、自然と現地の
気候の違いも学ぶことができた。本当に、ツ
63
2009年度活動概要
アーのプログラムのテーマ以上に「深い出会
い」と「新しい発見」に出会えた旅だと思う。
これからは、このツアーで得たものや感じた
ものを伝えていくだけではなく、現地で感じ
たこれからの自分の課題をより明確にし、実
行していきたいと思う。
一週間という短い旅ではあったが、私に
とって一生忘れられない旅になったと思う。
西野 碧(経済学部 国際政治学科 3年次生)
今回の海外体験プログラムに参加するにあ
たって、私は心配なことが1つありました。
それは、このスタディーツアーが福祉に関連
しているということです。私は、今まで一度
も福祉に関係する勉強をしてきていなかった
ので、正直、私なんかが参加していいものか
どうか、出発前はすごく悩みました。しかし、
子どもが好きなことと、今まで触れてこな
かった福祉という分野に興味があったという
理由から、このプログラムの参加を決めまし
た。
このプログラムは一言で言うと「移動の旅」
でした。首都マニラから車で7時間かかって
バギオへ向かい、バギオから山道を5時間、
車に揺られてカバヤンへ。カバヤンへの道の
りはとても険しいものでした。舗装されてい
ない山道を、5時間も車に揺られるという経
験は初めてだったので、とてもしんどかった
です。それと同時に、アスファルトのありが
たさにも気付かされました。カバヤンでは台
風が来ていたせいもあって、大雨が続き、停
電するという事態に陥りました。ろうそくと
懐中電灯の灯だけで2日間生活しました。標
高が1500メートルのカバヤンでは、夜とても
冷え込むにもかかわらず、お湯が出なくなり、
シャワーは水ですましました。また、カバヤ
ンに住んでいる障がい児を抱えた家庭を2つ
訪問しました。脳性マヒと自閉症を抱えた子
どもの家庭では、生活が苦しいので病院へ
行って適切な治療が受けられなかったり、ま
た、身体・知的障害を持った子どもの家庭で
は、家に向かうまでに急な山道を登っていか
なくてはならなかったりと、障がい児が生活
するにはあまりにも厳しい生活環境でした。
そして、日本のように障がい児に政府から支
援があるわけでもありません。フィリピンの
山岳部地帯の現状に、ただただ驚くことしか
できませんでした。
64
バギオに帰ってきて、このプログラムのメ
インでもある、障がい児の家庭にホームステ
イさせてもらいました。私がステイした家庭
には、自閉症・ADHD・発達機能障害・学
習機能障害をもった5歳の男の子(Ian)が
いました。障害を持った子どもと接すること
が今までなかったので、始めはどのように接
していけばよいのか分からず、あたふたして
いました。しかし、時間がたつにつれて、だ
んだんIanの方から寄ってきてくれて、打ち
解けることができました。Ianは言葉がほと
んど理解できません。なので、私は言葉で何
か伝え合うよりも、スキンシップでIanに接
していくことを頭において接していきまし
た。最初は機嫌よく遊んでいたのですが、私
が持って行った日本のおもちゃがきっかけで
パニックを起こし、そうなるとお母さんしか
Ianを止められません。パニックを起こした
Ianを初めてみた時は驚きましたが、そんな
時はどうすればよいかなど、お母さんに詳し
く対処法を教えてもらい、私もIanに積極的
に接していくことができました。一緒にIan
と遊んでいると純粋に楽しかったし、言葉な
んてなくてもこんなにも通じ合えるものなの
だと実感できました。Ianと遊びながら、お
母さんともたくさんお話をしました。Ianの
家庭は貧しく、それは私が一日生活して感じ
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
とることができました。ガスを使うお金がな
いので、調理は全てかまどで行っていて、お
風呂もトイレも近所の人と共有でした。フィ
リピンでは、自閉症や発達機能障害などの病
気がまだまだ認知されておらず、Ianの家の
周りの人達の理解を求めるのは大変だとお母
さんから聞きました。公立の障がい者施設が
バギオには一つしかないので、Ianのような
障がいをもっている子が入所するのはとても
難しいようでした。私学の障がい者施設はた
くさんあるみたいですが、貧しい家庭は通う
ことができないのが現状です。政府からの援
助ももちろんないので、障がい児が社会に出
て行くのは日本よりも随分と困難なのだと痛
感しました。
福祉の知識がない私に、一緒に行ったツ
アーの仲間が、日本の福祉の現状や障がい児
への接し方、フィリピンの障がい児の現状な
どを教えてくれて、私自身の知識の幅がとて
も広がったプログラムになりました。また、
現地の人々とじかに接して、その家庭の生活
をすることで、抱えている問題の深刻さに触
れることができました。本当にこのプログラ
ムに参加して良かったと思います。この経験
がムダにならないように、日本でも何らかの
形でこのような活動に参加していきたいと思
い、また、今後の自分の人生の糧にしていき
たいと思います。
山本 美帆(国際文化学部 国際文化学科 1年次生)
この夏、私は8月5日〜 12日までの7泊
8日、フィリピンで障がいのある子どもとそ
の保護者の支援事業の現場に行くというツ
アーに参加してきました。
最初は動物保護や平和・戦争ということに
興味があったのですが、視野を広めたいとい
う個人の目的などから、今回「福祉」という
ものに参加しました。主催団体はJPcomさん
です。
プログラムとして移動が殆どの中、前半で
はバギオ・カバヤンというところに行きまし
た。バギオでは宿泊をしました。カバヤンと
はフィリピンの山岳地帯でそこでは町長表敬
訪問や障がい児・保護者との交流・またその
家庭訪問・地域の方との夕食会などをしまし
た。まずこの前半のプログラムですべてを表
す言葉として「地域のつながり」というもの
があげられると思います。その地域の特色・
人柄・地形を根本として現状をよく表してい
るものだし、また日本とはっきりと違うとい
える部分です。
災害で家が壊れたお宅がありました。障が
いを持った子がいるお宅で、お母さん1人・
子供1人でくらしています。状況だけでもつ
らいものがあるのに、家という基盤をなくし
たとき、村のみんなが協力して仮の家をつ
くったそうです。実際にお宅に訪問させてい
ただきました。壁は岩で、冬は隙間風が入っ
てくるそうです。とても狭く、街灯がないカ
バヤンでは夜は何も見えないであろう洞窟の
ような家でした。それでも家なのです。もし
近所のお宅がある日なくなったとして、日本
ではどうでしょうか。
交流会では障がいを持った方達との交流も
ありました。本当に障がいをもっているのか
と思える子もいました。普通に笑って走って
いたずらをして。反省として保護者の方に
もっとアプローチをかければ良かったと思っ
ています。JPcomさんとともに活動し、子ど
もたちの存在や行動の基盤になるのはすべて
保護者の方なのに、子どもたちと遊ぶことば
かりしていました。保護者の方達も私達が知
ることを求めていただろうに、本当にこれが
一番の反省点だと思っています。
後半では障がいを持った子どものお宅への
ホームステイでした。2人組に分かれて訪問
しました。私が訪問した先は24歳のジェリア
スという男の人がいるところでした。彼は身
体麻痺があり、言葉は理解できるけども会話
をするのが難しいということでした。貧困と
いうことはなく、普通のお宅のように感じま
した。キッチンもきれいでお父さんはちゃん
とした職があり、私が想像していた、貧しい
家というわけではなかったように感じまし
た。私のその想像が打破されたという点で、
ある意味このようなお宅を訪問できて良かっ
65
2009年度活動概要
たとも思います。最後の交流会ではいろんな
子ども達と踊りました。ジェリアスがお母さ
んのマーリーに花をあげているときには、思
わず涙が出ました。交流会はすごく楽しく、
私は言葉の壁を全く感じませんでした。むし
ろ言葉がないから伝わったり、言葉がなくて
も楽しさだけで分かり合えるものを感じまし
た。
私は貧困のことを考えても、日本での福祉
の現状を考えても、何をどう変えることはで
きません。ツアーに行く前このことに悩んで
いました。でも、帰る頃には私なりの結論が
66
出ました。この悩むことが、そして考えるこ
とが大切なのだと。行動の根本には思いが
あってそれをずっと忘れずにいることです。
私ができることは、報告会でみんなにつな
げることや、ボランティア・NPO活動セン
ターに来た人に、事細かに伝えることだと思
います。
でも私が一番したいことで、私にしかでき
ないことは、またホームステイ先に帰ってあ
げることだと思います。私がまだ忘れてない
よと、考え続けていることをなんらかの形で
この先伝えられたらいいなと思います。
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
○タイ王国
■参加学生
片岡 華絵
文学部 史学科 1年次生
■企画運営団体
特定非営利活動法人JIPPO(十方)
■行程
日 付
地 名
現地時間
参加者の行動
2月6日(土)
関西国際空港
22:00
集合、搭乗手続き
2月7日(日)
関西国際空港
0:30
空路、バンコクへ
バンコク国際空港
4:20
到着後、バンコク市内のスラックアッシュラムへ
バンコク
2月8日(月)
2月9日(火)
午後
アシュラム視察 バンコクセンター泊
バンコク
バスでコンケンへ(移動時間約8時間)
コンケン
ホテル泊
コンケン
プラチャーク開発事業訪問
ナコンパノム他 ウドン県の寺院訪問
2月10日(水)
コンケン
プラチャーク開発事業訪問
ロイエット県の寺院訪問
2月11日(木)
コンケン
バスでカンチャナブリへ(移動時間約8時間)
カンチャナブリ
ホテル泊
2月12日(金)
カンチャナブリ
カンチャナブリの寺院訪問 ホテル泊
2月13日(土)
カンチャナブリ
カンチャナブリの寺院訪問
ナコンパトム訪問 ホテル泊
2月14日(日)
2月15日(月)
カンチャナブリ
午前
バンコクへ移動
バンコク
午後
自由行動 ホテル泊
バンコク
午前
エメラルド寺院、ワットポーなどの仏跡訪問
夜
2月16日(火)
空港へ、出国手続き
バンコク国際空港
23:59
空路、関西国際空港へ
関西国際空港
7:30
到着後、解散
67
2009年度活動概要
片岡 華絵(文学部 史学科 1年次生)
タイの寺院を訪問してまず驚いた事は、静
けさと緑の多さである。しかし、決して近づ
きがたいという印象ではなく、ずっとそこに
留まっていたいと思わせるような雰囲気で
あった。そして、そこにそびえるきらびやか
な装飾をした建物には圧倒された。
2日目に訪れたワット・コークペック(サ
ラブリ県ムアン郡クットノックプラオ区)で
は、母に教えられながら手を合わせる小さな
女の子の姿があった。また、3日目に訪れた
ワット・プーカオトーン(チャヤプーン県ケ
ンクロー郡ターマファイワーン区)では、タ
イの寺院では珍しく、
「虹の家」という保育
園を併設していた。ここでは5人の職員に対
して40名の園児がいた。私たちが訪れた時は
ちょうど昼食の時間で、忙しそうに職員は働
いていた。ここの職員には、
「虹の家」の卒
園生も多く、小さな頃から自然と仏教に関
わっていく様子は日本にはないと感じた。
日本人において寺院は観光の対象であり、
見学するという感覚であるが、タイの人に
とっては観光地になっているエメラルド寺院
においても信仰の対象になっているように思
う。これは、
同行したタイ人コーディネーター
の参拝の様子を見ていて感じた事である。参
拝の様子ひとつとっても日本とはまったく
違っていたのであった。
今回、タイの仏教徒の2%が信仰する森林
派と呼ばれる寺院を訪れた。森林派の僧は、
街の僧よりも、厳格に戒律を守っており、森
の中に寺院を建設して修行していた。修行と
いっても厳しいものではなく、それぞれに
あったスタイルで瞑想をするといったもので
あった。私は裸足になって4,5メートルほ
どの砂の道をひたすら往復してみた。この砂
の道は何本も作られていて、地元の人であろ
う女性がやっていたのを見よう見まねでやっ
てみたのである。今まで何千、
何万人もの人々
が歩いて踏み固められた砂の感触が気持ち良
い。何往復もしていると足の裏から伝わる砂
の感触に神経が集中いてきたのでしだいに雑
念が消えて瞑想できた。
68
8日目に訪れたワット・スナンタワナラー
ム(カンチャナブリ県サイヨーク郡サイヨー
ク区ターティアン村)も森林派の寺院のひと
つである。ここは日本人が設立した寺院で説
法も日本語でしていただけたので、親しみや
すかった上にわかりやすかった。この寺院は
首都バンコクの華僑の資金提供で成り立って
いる。しかし、お金に触れる事は戒律で禁止
されているので、マーヤー・ゴータミ財団と
いう組織を設立し、ここに寄付するというか
たちで間接的に寺院に資金提供をしている。
この資金をもとに、子どもたちに奨学金制度
を設け、フェアトレード商品の製造、販売の
援助を行っている。私たちが訪れた日も多く
の人々が僧の話を聞きに来ていた。タイの
人々にとって寺院とは身近なところであり、
相談に行ける場所なのだろう。実際、この寺
院にも財界人などが相談しに来るそうだ。私
も僧の話を聞いていて、まるで心を洗われる
ようだったし、もっと深く知りたい、もっと
話を聞きたくなったのであった。
タイの仏教に触れて驚いたことは「正解」
がないということである。修行は個人が自身
と向き合うものであって、そこに正解はない
というところに衝撃をうけた。皆、それぞれ
のスタイルを大事にしているが、その根底に
は仏教に対する尊敬の念が人々の心に深く刻
み込まれているのではないか。
今回、普段観光では訪れる機会がないであ
ろう寺院を訪問したことで、仏教に対する考
えをより深められ、充実した時間を過ごせた。
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
○カンボジア王国
■参加学生
青野咲紀子
国際文化学部 国際文化学科 2年次生
井長 裕貴
法学部 法律学科 3年次生
小森 一平
法学部 政治学科 1年次生
妹尾 彩香
国際文化学部 国際文化学科 2年次生
藤澤 良介
経済学部 国際経済学科 3年次生
不破 歩美
国際文化学部 国際文化学科 2年次生
■企画運営団体
特定非営利活動法人テラ・ルネッサンス
■行程
日 付
2月28日(日)
3月1日(月)
3月2日(火)
3月3日(水)
3月4日(木)
3月5日(金)
地 名
関西国際空港
3月7日(日)
参加者の行動
09:00
集合、搭乗手続き
11:00
空路、ホーチミンへ
ハノイ
14:35
到着
18:30
空路にてプノンペンへ
プノンペン
19:20
到着後、ホテルチェックイン
プノンペン
09:00
カンボジア義肢装具士養成学校訪問
14:00
キエンクリエン職業訓練所視察
16:00
ゴミの山訪問 ホテル泊
09:30
キリング・フィールド
10:30
トゥールスレン博物館
13:30
専用車にてバッタンバンへ移動
バッタンバン
18:30
到着後、ホテルチェックイン
バッタンバン
07:30
4WDでカムリエン郡へ移動
カムリエン郡
11:00
到着
13:30
プレア・プット村視察
カムリエン郡
08:30
MAG地雷撤去現場視察
13:00
4WDでバッタンバンへ移動
バッタンバン
17:00
到着後、テラ・ルネッサンス事務所訪問
バッタンバン
08:00
MAGバッタンバン事務所訪問
09:00
ピースフルチルドレンホームⅡ
13:00
専用車でシェムリアップへ移動
15:00
到着後、希望小学校訪問
18:00
ホテルチェックイン
プノンペン
シェムリアップ
3月6日(土)
現地時間
シェムリアップ
ホテル泊
ホテル泊
ホテル泊
ホテル泊
ホテル泊
●アンコール遺跡群観光
08:00
アンコール・トム
10:00
タ・プローム
15:00
シェムリアップ市内観光
16:30
アンコール・ワット
18:30
空路、ホーチミンシティへ
ハノイ
19:30
到着
ハノイ
00:10
空路、関西国際空港へ
関西国際空港
07:00
到着後、解散
69
2009年度活動概要
藤澤 良介(経済学部 国際経済学科 3年次生)
今回のツアーで最も印象に残っているのは
多くの人の笑顔です。訪問した小学校の子ど
も達、現地NGOのスタッフの方々、旅の途
中で出会う村の人達・・・。多くの人に出会
う機会がありましたが、みんながそれぞれ素
晴らしい笑顔を持っていました。
しかし、カンボジアはそんな笑顔の裏に非
常に多くの影の部分を抱えている国でもあり
ます。ポル・ポト時代に亡くなったたくさん
の人々が眠るキリング・フィールドでは、今
も道のあちらこちらに埋まっている骨のかけ
らが当時の悲惨さを物語っていました。強制
現在を見ても、多くの課題が存在することを
収容所であったトゥールスレン博物館で、当
学びました。そんな中すごく印象的だったの
時収容されていた人達一人一人の写真を見る
が、より良い未来に向かって進もうとする人
と、それぞれの人の物語が少しずつ伝わり、 たちの姿です。訪問した職業訓練所や小学校
心に重くのしかかりました。MAGの地雷撤
では、それぞれの苦しい過去や現状を乗り越
去現場では、実際に埋まっている地雷を目の
えて成長しようとする生徒の姿と、それを心
前にしても全く実感がわかず、怖いという感
から応援する先生の姿がありました。
「生徒
情は生まれてきませんでした。ただ、その地
が卒業してから成長した姿を見せに学校へ遊
雷が爆破撤去された時のリアルな爆発音と何
びに来てくれるときが一番うれしい」という
とも言えない雰囲気だけは忘れることができ
校長先生の言葉がすごく印象的で、思わず胸
ません。街並みを見ても、人が多く、活気が
が熱くなりました。ツアーに同行してくれた
あり、建物もたくさん立ち並ぶ日本と変わら
テラ・ルネッサンスの現地スタッフの方々や、
ないような場所もありますが、少し裏側を見
訪問した施設で働く人々は自分たちの目指す
てみると、あちらこちらにゴミが落ちていて、 未来に向かって、本当に楽しそうに生き生き
それを拾って生活している人や、ゴミのそば
と活動をしていました。みんな何らかの辛い
の道路で寝ている人もいました。子どもが物
過去や現状を抱えながらも、それを嘆くだけ
売りをしている姿も何度も目にしました。都
ではなく、乗り越えて、より充実した生活を
市部から離れると道路は車が2度もパンクす
送ることを常に前向きに考えているように感
るほど穴だらけで、電気や水が満足に使えな
じました。
いところもたくさんありました。
そして、今回のツアーでは、非常に多くの
今回ツアーに参加して、カンボジアには内
尊敬できる人達に出会うことができました。
戦、貧困、大量虐殺、児童売買、地雷、不発
一緒にツアーに参加したメンバーは1人ひと
弾、障害者問題など、過去にさかのぼっても
りいろんな感じ方や考え方を持っていて、こ
のメンバーでツアーに参加することができて
本当に良かったと思います。主催者であるテ
ラ・ルネッサンスのスタッフの方々は、ツアー
を通して僕達に今までにない経験と気づきを
たくさん与えてくれました。他にも、カンボ
ジアのことを本気で多くの人に伝えようとし
てくださるガイドさん、訪問した施設で懸命
に働いていた方々、そして、無限のパワーを
持った子ども達・・・。みんなそれぞれすご
く尊敬できる部分を持っていて、そんな1人
ひとりの持っている素晴らしい力が発揮され
70
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
ることで、カンボジアはすごく活気のある国
となり、たくさんの笑顔を見ることができた
のだと思います。そして、このことは、日本
はもちろん世界中で共通のことだと思いま
す。世界中で秘めた力を持っている人はまだ
まだ存在し、その人達がそれぞれの一歩を踏
み出すことができたなら、世界は必ず変わる
と思います。このスタディーツアーは僕達に
とっての新しい一歩であり、今後はそれぞれ
の一歩をより多くの人に踏み出してもらえる
ように、僕自身も自分にできる一歩を歩み続
けたいと思います。
青野 咲紀子(国際文化学部 国際文化学科 2年次生)
私は正直迷いながらスタディーツアーに参
加しました。元々、発展途上国に興味があり、
実際に現地に行くことが大学生活の目標で
あったものの、自分が行ってなにになるんだ
ろう?だったら、参加費の20万円を寄付した
方が、現地の人の為になるのではないか?た
くさんのことを経験したいと思う気持ち、で
もそれは単なる自己満足ではないか?と考え
ていました。
ツアー中たくさんの矛盾を感じました。カ
ンボジア=貧しいというイメージはシェムリ
アップやプノンペンに行くと払拭されまし
た。カンボジア全土がいずれ発展して、国内
すべてがシェムリアップやプノンペンのよう
になるのはとても寂しい気持ちでいっぱいに
なりました。特にアンコール遺跡群の観光開
発では、カンボジアらしさを売るよりも、観
光客に受け入れられることに重きが置かれて
いるように思います。カンボジアの農村では
日本ではなくなってしまった幸せを感じまし
た。それは、手で届く範囲の幸せを感じる心
であり、自然と調和する幸せでした。貧しい
人を減らすには国の発展が必要であるけれ
ど、その発展によって失われるものがあるの
だったら、発展はしない方がいいんじゃない
か。
ごみ山には1日に300台ものトラックがご
み を 運 ん で く る そ う で す。 自 分 が 使 っ た
ティッシュが・・・自分が捨てた袋が・・・
明日ごみ山に行き、それを誰かが拾って、お
金にかえるのかもしれない・・・と思ったら、
私はカンボジアでごみをなかなか捨てられ
ず、日本に持って帰ってきてしまいました。
自分が捨てたもので誰かがお金を得るという
ことは、加害者になっているような気持ちに
なりました。カンボジアの豊かな人たちの気
持ちが私にはわかりませんでした。カンボジ
ア駐在の江角泰さんによると、カンボジアの
豊かな人たちはこの事実を知らないそうで
す。私は怒りを感じました。でも日本にいれ
ば、カンボジアの豊かな人としていることは
同じで、それ以上のことをやってしまってい
る自分。
職業訓練所では私たちの見学のために中断
される授業、見せ物ではないものに寄って
集って見る自分たち、貧しい人達を訪問して
いる傍ら、ホテルでなにひとつ困らず生活し
ている自分、貧しい人を助けたいと思うのに、
物乞いをする子どもたちを無視する自分…。
でも、そんな矛盾を感じるのは私だけでは
ありませんでした。同じツアーの参加者にも
そんな矛盾を感じる人がたくさんいました。
私にはそのことがなんだか心強く感じまし
た。そんな中、引率者が「自分なりの意見を
持つための資料探しの旅でいいんじゃない
か」
、
「授業を中断してまで伝えたい何かがあ
る。それをくみ取って、日本に帰ってどうす
るのか考える」という言葉をかけてください
ました。また、トゥールスレン博物館に訪問
した際に偶然、過去に拷問を受けた方にお会
いすることができました。その方が私たちに
71
2009年度活動概要
「ポルポト政権でなにが行われたのかを日本
で伝えて欲しい」とおっしゃいました。今ま
で、ツアーに参加したからには伝えること以
上にもっと大きななにかがあると思っていま
した。でも、
「伝える」ということに、重み
を感じました。そしてスタディーツアーに参
加したからには、伝えることは義務であり、
なんだか使命感を感じました。今回私はカン
ボジアでなにかできるわけではありませんで
したが、カンボジアからたくさんのことを
takeしました。これから、カンボジアの人に
なにかをgiveしていきたいと思います。それ
は形に見えるものがすべてではないというこ
とに気付かされました。
今回のツアーで忘れられないのは、子ども
たちの笑顔です。以前から、発展途上国につ
いてのテレビ番組や本を読んでいるとき、私
はいつも放心状態で、涙が止まりませんでし
た。現地でも私は泣いてばかりなんじゃない
かと思っていました。でも、泣くことはあり
ませんでした。子どもたちは私たちを笑顔で
迎えてくれ、たくさん遊んでくれました。プ
レアプット村の小学校では追いかけっこをし
たり、一緒に絵本を見たりしました。言葉は
通じないけれど、単に名前を呼び合ったりし
て、笑顔で会話したような気がします。私は
子どもが苦手で、あんなに自分も無邪気に
なって子どもと遊んだことは日本ではありま
せんでした。車がパンクして近くを歩いてい
たら、女の子が家から出てきました。ガイド
さんを通じて「将来なにになりたいの?」と
聞くと、
「工場で働きたい」と答えました。
まだ10歳にも満たない子からそんな答えが
返ってくるとは思いませんでした。でもその
子もお母さんといると、とても笑顔でした。
希望小学校では一人の女の子が私になついて
くれました。その子ははじめあまり笑わない
子でしたが、2人だけになると「I LOVE
YOU」と笑顔で言ってくれました。行く
前はただ漠然とした貧しい人を助けたいとい
う思いでしたが、今は、出会った子どもたち
の未来を潰したくないと強く思います。国は
違っても思いやる心が広がれば、世界は本当
に変わるんじゃないかと思いました。少なく
とも、まだ帰国して1週間ですが、私は変わ
りました。消費社会の日本で生活する自分を
見つめなおすようになりました。これからの
人生、あの子たちに恥のないように生きてい
こうと思っています。
井長 裕貴(法学部 法学科 3年次生)
私は今回、カンボジアのスタディーツアー
に参加し本当に多くのことを学びました。今
まで見たことのない世界を見て、肌で感じ、
視野を拡大したかったのと、国際協力に大変
興味があり、将来国際協力の仕事がしたくて、
実際の国際協力の現場を見たいという理由で
ツアーに参加しました。私は海外に行くのが
今回初めてで、見るものすべてが新鮮で驚き
の連続でした。ツアーではまず、カンボジア
義肢装具士養成学校を訪問しました。そこで
は、障がい者のために義肢装具を作ったり、
義肢装具を作る義肢装具士を養成していま
72
す。また障がい者がコミュニティ生活に参加
できるように、リハビリや職業訓練も行って
います。学校では様々な国から留学生が来て
おり、暑い中、障がい者のために一生懸命勉
強しながら、義肢装具を作っておられました。
学校の校長先生が、カンボジアは仏教国で、
前世で何か悪いことをした人達が障がいを
持って生まれてくると言われていているらし
く、それで差別があると言っておられました。
ですが、障がいを持っていても自立して働く
ことができれば社会に受け入れられるという
話を聞き、本当にそうだなと私は思いました。
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
次に行った職業訓練所でも、障がい者や女性
がバイクの修理や裁縫の技術を学んでおられ
て、もっと多くの人達がこのような技術を身
に付け、自立した生活を送ってほしいと思い
ました。
次にキリングフィールドとトゥールスレン
博物館についてですが、今回ツアーに参加し
てこれらを訪れたことが、私の中で一番印象
に残っています。キリングフィールドでは多
くの人の骸骨が塔に入っていて、なんとも胸
が苦しい思いでした。トゥールスレン博物館
では、収容所を生き延びたという7人のうち
の1人、チェンさんという方と出会いお話を
聞くことができました。つらい過去を思い出
しながら私達にお話ししてくださり、お話が
終わった後も聞いてくれてありがとうと言っ
てくださいました。僕は感謝の意を込めて
「オークン(ありがとう)!」と手をあわせ
て言いました。するとチェンさんは僕の手を
握ってくれました。その時僕は、つらい経験
を一生懸命伝えてくださったので、何らかの
形で僕も誰かに伝えなきゃと思いました。伝
えていくことで二度と同じ過ちを起こさない
ようにしなければいけないと思いました。
地雷原では、本物の地雷を見ることができ
実際に撤去作業も見ることができました。地
雷原の近くには普通に民家があり、1日でも
早く地雷を撤去して村の人達が安心して畑仕
事ができるようになってほしいと思いまし
た。
今回のツアーではほんとに多くのカンボジ
アの子ども達と出会うことができました。子
ども達は元気いっぱいで笑顔で私達に接して
くれました。しかしその背景には、
貧困であっ
たり、ごみ山や地雷原で暮らしたり、親がい
なかったり児童買春されたりというようなこ
とがあると聞きました。それでも子ども達は
元気いっぱいに、今を一生懸命生きていると
感じました。私もそれを学ばなければいけな
いと思いましたし、同時に子ども達のために
何かできることはないかと思いました。実際
に何ができるかを考え、行動したいと思いま
す。
私は今回ツアーに参加して、カンボジアの
人達の元気と優しさに触れ、自分の中の価値
観が変わり視野も広がりました。それに自分
のイメージしていたカンボジアと現実とでは
違いがあり、固定観念や先入観で物事を判断
せず、自ら行動して現実を見ることが大事だ
と学びました。どんなにつらいことがあって
も、カンボジアの人達のように元気にそして
笑顔を忘れずに生きていこうと思います。本
当に今回のツアーは良いツアーでした。これ
からもツアーでの経験を活かして頑張りま
す。カンボジアの人達やツアーに参加させて
くれたすべての人達に感謝したいと思いま
す。
「オークン!!(ありがとう)
」
73
2009年度活動概要
小森 一平(法学部 政治学科 1年次生)
今回、海外体験学習プログラムでカンボジ
アに行って、自分の目で見て、体験して、感
じて、本当にカンボジアに行って良かったと
思う。
カンボジア技師装具士養成学校で感心した
事は、義肢・装具がすべて無料で行っている
という事だ。なぜならカンボジアでは貧しい
人達が義肢・装具を必要としているからであ
る。やはり作るのにお金がかかると知ったら、
義肢・装具が必要だと分かっていても人はあ
まり来ないそうだ。それに、カンボジアでは
障害を持っているだけで仕事が無く、貧しく
なるのである。その理由は、カンボジアは仏
教の信仰心が強くて、この世で障害を持って
いるのは、前世で悪い事をしたからと思われ
ているからである。このような仏教的な考え
方が浸透しているので、この考え方を変える
事がとても重要だと言っていた。
キリング・フィールド、トゥールスレン博
物館は日本に帰ってきた今でさえ、あの場所
で大量虐殺が行われていたとは思えない。キ
リング・フィールドの真ん中には、死者の方々
を安置してある慰霊碑が建っている。そこに
は無数のガイコツが無造作に並べてあった。
そのガイコツはとても生きていた人とは思え
なかった。ガイコツを見ていると、だんだん
ガイコツが僕の方を見て、何か叫んでいるよ
うに見えた。今思うと、ポルポトが行った悲
惨な虐殺を伝えて欲しいと思っていたのかも
しれない。
MAGの地雷撤去現場では、実際地雷原の
中を歩いて行って地雷が埋まってある場所ま
で行ったのだが、35℃を超える中、ヘルメッ
74
ト、プロテクターを着けて毎日撤去している
と思うと、かなり過酷だ。自分達の周りには
DANGER! MINESと書かれた標識が立って
いた。私は歩いているうちに体がガクガク震
えだして止まらなくなった。そして、安全な
道を通っているにも関わらず、死ぬかもしれ
ないという恐怖が襲ってきた。そして地雷が
実際に埋まっている所まで行くと、なぜだか
分からないが急に涙が出てきた。しばらくし
てから今度は悔しくなった。なぜ地雷がこの
世に存在するのだろうか。どうして人の心も
体も傷つけるための道具があるのだろうか。
あんなに小さな物で人の人生を変えてしまう
ような物が存在している事に悔しくなってい
た。こんな体験は本を読むことだけでは分か
らなかった事である。だから地雷原を歩いて
感じたことを、地雷のことを知っている人も、
知らない人にも伝えたいと思う。もっと知っ
てもらいたいと思うから。
今回たくさんの小学校を訪問した。ごみの
山のすぐ隣にある小学校、プレアプット村の
田舎の小学校、希望小学校、孤児院。どこの
子どもも笑顔で人懐っこく、目がとてもキラ
キラしていた。そして初めてみる私たちに駆
け寄ってきて一緒に遊ぼうと誘ってくる。ご
み山の隣の小学校ではほんの2,3メートル
横にごみ山があり、小学校の中にもごみが散
乱していて、ごみにハエがたかっていたが、
子ども達は気にしている様子もなくとても嬉
しそうだった。この小学校を訪れた時に、日
本はどんなに衛生的できれいなのかという事
を実感した。
日本に帰ってきて周りの人に、
「日本に生
まれて幸せやったやろ。
」と言われた。確か
海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
に日本は食べるものには困らないし、欲しい
ものはすぐ手に入り、水道からは安全な飲み
水が出てくる。でも今回カンボジアという途
上国に行って感じたことは、物質的には日本
の方が豊かだが、その事が必ずしも幸せであ
るということではないということである。カ
ンボジアの人達は物質的には日本ほど豊かで
はないが、自分たちのペースで生活していて、
そこには自分たちの幸せがあって、笑顔が
あって。
だから、途上国の人がみんな、かわいそう
じゃないってこと。日本の人達が思っている
そのようなイメージを変えたいと思った。そ
して、今回カンボジアで見たこと、感じた事
を一人でも多くの人に伝えたいと思った。
妹尾 彩香(国際文化学部 国際文化学科 2年次生)
私は以前から途上国での貧困や地雷の問題
に関心をもっていました。しかし、日本でイ
ンターネットや本を使って勉強するだけでは
現地での本当の現状・現実がわからず、実際
に現地へ行って自分の目で見て、聞いて、感
じたいと思い、このツアーに参加しました。
実際にカンボジアへ行って一番印象に残っ
ているのは子どもたちの笑顔です。学校や孤
児院を訪問した際に、バスから降りると子ど
もたちが走り寄ってきて私たちを笑顔で出迎
えてくれました。日本から持ってきた鉛筆や
歯ブラシを一人一人に手渡していったときに
も、ものすごく喜んでくれていました。正直、
鉛筆1本でこんなにも喜ぶとは思っていませ
んでした。そんな子どもたちを見て、何とも
いえない辛い気持ちになりました。日本であ
り余っている文房具が途上国の人々にとって
どれほど役に立つかということを改めて考え
させられました。日本にいるときに、
「途上
国の人のために私は何ができるのだろう」と
ずっと考えていたのですが、カンボジアの子
どもたちと出会い、それはとても簡単なこと
で誰にでもできることだとわかりました。そ
して今まで文房具の寄付などといった、簡単
なことを実際に行動に移さなかった自分に悔
しさを感じました。
子どもたちと一緒に遊んでいるときには、
みんな元気いっぱいに走り回り、ずっと笑顔
で、私が元気付けられていました。しかし、
そんな子どもたちをよくみると足は傷だらけ
で爪が膿んでいる子もいたり、服はぼろぼろ
でサイズも合っていない、ゴミの山の小学校
では多くの子の手が汚れていました。田舎の
村へ行って子どもたちと遊んだあとの帰り
に、子どもたちの家の前を通ると、木ででき
たぼろぼろの家で、さっきまで楽しく一緒に
遊んでいた子どもたちは、すでに家の手伝い
を始めていました。子どもたちの笑顔の裏に
ある現実に心が痛みました。中でも、内戦や
HIV感染により親を亡くした子ども、貧しい
子ども、児童買春をさせられていた子どもた
ちがいる孤児院の訪問はスタディーツアーの
中で一番心に残っていることの1つです。孤
児院を訪問したときも、子どもたちは笑顔で、
遊んでいる間は子どもたちの辛い過去を忘れ
るほどでした。そのときずっと一緒に遊んで
くれていた女の子、スライモンは最後別れる
ときに手紙を書いてくれました。そのときに
スライモンが初めて見せた悲しそうな顔を見
たときに、それまで忘れていたここにいる子
どもたちの過去・現実を一気に突きつけられ
たような気持ちになりました。別れたあとの
車の中でも子どもたちのことが頭から離れ
ず、ずっと涙が止まりませんでした。文字で
はうまく表すことができませんが、カンボジ
アの現実を一番考えさせられた時間になりま
した。
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2009年度活動概要
他にも、地雷撤去現場、キリング・フィー
ルドで学んだ壮絶な過去、毎晩のミーティン
グで他のメンバーから考えさせられたこと、
歩いていると寄ってくる売り子たち、都会と
田舎の大きすぎる差など、カンボジアでは多
くのことを学び、体で感じ、たくさん考えさ
せられました。
日本に帰ってきた直後、きれいなトイレ、
整備された道路、飲める水、満たされた家と
いったような今までは当たり前だったことで
あるのに、カンボジアとの大きすぎるギャッ
プに精神的についていけませんでした。しか
し、帰ってきて3日たった今、すでに日本の
贅沢な生活に戻ってしまっています。私がア
ルバイトへ行っている間や家でテレビを見て
いる間も、スライモンは孤児院で貧しい生活
をしています。私はカンボジアで学んだ現実、
感じた想いを絶対に忘れてはいけません。こ
のスタディーツアーをただの自己満足で終わ
らせないために、カンボジアで出会った人々
のために、この想いを伝えて知ってもらう責
任があります。できることならば、多くの人
にカンボジアへ行って現実を体で感じてもら
いたいと思いました。実際に行ってみないと
わからないことはたくさんあります。カンボ
ジアへ行く前も「カンボジアって大丈夫な
ん?そこらじゅうに地雷埋まってるんちゃう
ん?」とたくさんの人に言われました。カン
ボジアの地雷撤去作業はどんどん進んでいま
す。しかし、その1つ1つの作業がどれほど
大変かはカンボジアの37度まで上がる暑さの
中、ヘルメットや防具をつけて実際に作業現
場を見てみないと、本当の大変さはわかりま
せん。地雷を爆破したときの音は40mほど離
れていたのにもかかわらず、全身に振動が伝
わってくるものすごく大きな音でした。
テレビでは途上国での辛さやかわいそうな
子どもたちの姿がよく取り上げられますが、
私が出会ったカンボジアの子どもたちはみん
な楽しそうで、常に笑顔でした。カンボジア
でたくさんの人たちと出会い、カンボジアの
現実について考えさせられることはたくさん
ありましたが、"かわいそう"と思うことはあ
りませんでした。カンボジアへ行く前はかわ
いそうと思ったこともありましたが、実際に
行ってきてその気持ちはなくなりました。そ
れは多分、想像以上に子どもたちが元気で、
たくましく、キラキラしていて、そこから学
び取ることがたくさんあったからだと思いま
す。
実際に現地へ行くことで、日本で勉強する
だけではわからないことを、体を使ってたく
さん感じとることができました。日本に帰っ
てきた今、本当にスタディーツアーに参加し
てよかったと思います。この経験や感情を無
駄にしないために、多くの人に伝え、自分に
できることを実際に行動に移していこうと思
います。
不破 歩美(国際文化学部 国際文化学科 2年次生)
今回の海外体験学習で、私は地雷・戦争・
虐殺を主なテーマとして学びました。そこで、
私は“人”について学んだ気がします。戦争
を起こしたのも、地雷を埋めたのも、虐殺を
したのも、地雷で足をなくしたのも、虐殺さ
れたのも、全て“人”だということを現場に
訪れ、歴史を振り返ることで実感したからで
す。それは当たり前のことかもしれないけど、
あんなに肌で“人”の恐ろしさを実感するこ
とは本当に初めてでした。
私達“人”は孤児院で出逢った子ども達の
殺す“悪魔”にもなれるのです。本当に私達
ような素敵な笑顔をもつ“天使”にもなれる
し、はたまたポル・ポト政権時に次々と人を “人”は、どんなものにでもなる可能性を持っ
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海外体験学習プログラム ~国際社会で視野を広げる~
ているのです。そう考えると、私は帰国後、
私が“人”であり、そういった可能性も秘め
ている存在であることが恐ろしくてたまらな
くなりました。
かつて、カンボジアで悲劇的な大虐殺を引
き起こした独裁者ポル・ポトは、最初は共産
主義者として、カンボジアの平和を望む普通
の人だったそうです。
しかし、政権を握った後、彼は自分以外の
存在を信じられなくなったのです。彼は、こ
の世界の全ての“人”を敵かスパイにしか見
なくなってしまったのです。そこから、彼は
敵だと思われる知識人などを全て抹消しまし
た。
つまり、私が今どんなに平和を願い生きて
いても、それがいつポル・ポトのような“悪
魔”になるかは分からないのです。ただ言え
るのは、
“人”は自分以外の他に信じるもの
がなければ、自分という存在を保つことが出
来なくなることです。だから、誰かを信じる
ことが“悪魔”にならない鍵かもしれないと
思いました。
カンボジア2日目はポル・ポトが起こした
悲惨な歴史を物語るキリング・フィールドを
訪れました。そこには、虐殺された大量の骸
骨が積まれていました。今はただの“物”と
化した骸骨でも、40年前は笑ったり、泣いた
り、色んな表情をする“人”だったと思うと、
何故か涙が勝手に出てきました。そして、私
はその殺された“人”を殺したのも“人”で
あることを考えました。歴史に「もしも」は
ないけれど、もしもポル・ポト政権がなけれ
ば、お互いに仲良く笑いあうことも出来たは
ずなのに、殺した“人”はどんな気持ちだっ
たのだろうかと思うと胸が痛くて、仕方があ
りませんでした。
4日目、私達はカンボジアの地雷原に行き、
本物の地雷を見ました。それは、パイナップ
ルのような形をしていて、私が一歩でも足を
踏み外したら平気で踏んでしまう距離にあり
ました。私はその地雷を見た時、正直このオ
モチャが人を殺すほどの威力があるとは実感
出来ませんでした。しかし、130m先からそ
の地雷が撤去される姿を見た時、
「ドンッ!」
という音と同時に地面が揺れました。それは
初めて兵器を感じた瞬間でした。私はとんで
もないものを“人”は作ってしまったのだと
感じました。そして、地雷を踏んで、足を失
くしてしまったテラ・ルネッサンスの現地女
性職員の姿を思い浮かべました。彼女はいつ
も明るくて、元気で、同じ車に乗った時、常
に話しかけてくれて、私がやるスベるギャグ
も笑ってくれました。しかし、彼女が昔、突
然あの地雷の爆発に巻き込まれてしまったの
だと思うと、私は彼女の心の傷を思い、辛く
てたまらなくなりました。
振り返ると、キリング・フィールドにして
も地雷にしても、カンボジアの歴史は、今も
多くの人を苦しめています。歴史は“人”が
生み出すものならば、どうか同じ歴史を“人”
が繰り返さないようにと私は切実に思いまし
た。そして、歴史を知った私達のような若者
が、新たな歴史をつくるため、行動しなけれ
ばならないと感じました。
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