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愛知航空機と大村工廠で約 111 機が生産され た。昭和 20

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愛知航空機と大村工廠で約 111 機が生産され た。昭和 20
木更津の基地
海軍新鋭艦上攻撃機流星は、愛知航空機と大村工廠で約 111 機が生産され
た。昭和 20 年 5 月から木更津飛行場を本拠地とした攻撃第 5 飛行隊は、終
戦まで唯一の流星で編成された部隊であった。この部隊は、昭和 20 年 8 月 15 日に海軍公式
記録上最後の特別攻撃隊を編成、正午の玉音放送の数時間前に木更津飛行場から出撃し、太平洋
上においてアメリカ軍機に撃墜されている。写真は愛知航空機製 流星 の模型。日本の軍用機と
してはめずらしい逆ガル形の翼が採用され、魚雷と爆弾のどちらでも使用できる新型機種として
生産されたが、艦上機といいながら既に搭載できる航空母艦はなかった。パイロット達は「太田
山一家」と称していたことから、博物館のある太田山のふもとに宿舎があったようだ。
展示資料は大村工廠八代工場で生産された国内唯一の流星の風防。当時納品されるはずの木更
津の地に70年の時を経て到着。ほかに国内唯一の資料と思われる零戦五二型木製増槽、木更津
海軍航空隊看板、流星模型 など
航空廠
戦争遂行のため航空機増産が叫ばれ、成年男子は戦場に、それ以外の働ける
人材のほとんどが軍需工場の労働力として動員された。木更津市巌根駅前に作
られた海軍最大の工場、第二海軍航空廠に市内の学生の多くが配属され、航空機の修理に従事
した。しかし、空襲の激化にともない、君津市八重原や富津市佐貫工場などの工場疎開が行わ
れ、配属先によって学生はバラバラに配置された。机など道具類を下駄履きで岩根から八重原
まで運んだという証言もある。
左の図は、勤労動員を体験した木更津高等女学校(現在の木更津東高等学校)生徒が昭和 21
年 1 月に学校の冬休みの宿題として、昭和 20 年の 1 年間の経験を 1 ケ月ごとに 12 枚描いて
提出したものの 1 枚である。8月の終戦により、八重原工場から退去する学生たちが描かれて
いる。当時この課題を出した蔵持正三先生が絵と文章で、当事者による歴史を記録しようと意
図していたとすれば、戦後 70 年たった現在、この資料の重要性はさらに増しているといって
良いだろう。展示資料は、ほかに第二海軍航空廠守衛制服、動員者の記念写真等
平和の使者緑十字
一般に「緑十字」というと、敗戦後に飛行が必要な一部の日本軍機を認
証するために日の丸を緑色の十字に塗り替えた飛行機をいう。最初の緑十字機は木更津基地の
3 機であったが、伊江島に飛んだ2機を当時の連合国側のカラー写真から見る限り、十文字は
緑ではなく黒色のように見受けられる。
8 月 15 日の玉音放送、ポツダム宣言の受諾により、日本は正式に降伏の調印をするための
事務折衝が必要となった。日本の全権大使を乗せる飛行機は、木更津基地にいた女学生の手で
日の丸から白地に十文字の印に塗りかえられた。この頃は、まだ国内に戦争継続を主張する集
団が各地にいたため、極秘裏に進められ、国内軍隊の解体が急がれたという。
写真は 8 月 19 日極秘裏に木更津飛行場を飛び立ち、連合軍占領下の沖縄県伊江島の連合軍
兵士が多く見守る飛行場へ着陸態勢に入った 2 機の緑十字の内の1番機である。着陸後、連合
軍の用意した飛行機に乗り換え、マニラで事務折衝を終え、翌日、木更津へ戻ろうとするが、
2番機は軍用車両と接触事故を起こし飛び立てず、1番機は燃料切れにより20日22時 55
分頃に遠州灘へ不時着する。1番機は近年、漁業関係者の網にかかり、機体の一部が引き上げ
られた。不時着に失敗していたら9月2日の降伏調印式は成立しなかった可能性もある。
展示資料は、緑十字尾翼昇降舵の一部、同燃料タンク、緑十字の模型、写真ほか。
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