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新 使 徒 教 会 教 理 要 綱
新使徒教会 教 理 要 綱 新使徒教会 新使徒教会の未来像と使命 未来像 人がくつろげ、聖霊と神への愛に満ちた生活を、イエス・キリストの福音に合わせ、この様にして主 の再臨と永遠の命に、自らを備える教会を望む。 使命 すべての人々に出向いて行き、 イエス・キリストの福音を教え、 水と聖霊によってバプテスマを授ける。 牧会を施し、温かい交わりを培い、どなたでも神の愛・主と他人に仕える喜びをも体験できる教会。 はしがき はしがき 今回初めて、新使徒教会の教義を体系的にまとめた著書が出版される運びとな りました。これまで新使徒教会の信仰の中で主だった内容を扱う書物はあり、 その一つが、 1992 年に最終改訂版が出た「新使徒信仰に関する問答書」でしたが、 信仰についてより包括的にまとめられたものを、との要請が高まってきました。 新使徒教会は多種多様な文化背景を持つ多くの国々で活動しています。こうし た多様性の中で、教義面での一致を図るためには、教理要綱のような統一した 基本的事柄の集大成が必要となります。 この教理要綱が――その企画は、私の前任者であるフェーア前主使徒によって 着手されました――すべての兄弟姉妹のもとに届けられることを、私はうれし く思っております。これが他宗派に所属している信徒の皆さんにも興味を持っ ていただけるならば、尚うれしく思うところであります。他宗派の方々がこの 教理要綱の内容をぜひ熟知していただきたいと、心より願っております。 この本はすべてのキリスト教信徒が共通に信念としている基本的な事柄だけで なく、新使徒教会独自の特徴も収められている。この教理要綱は、信仰を持っ た人たちのために、信仰によって書かれています。明確にしておかねばならな いのは、新使徒教会は、いかなる解釈上の違いがあっても、他宗派が表明して いることを十分に尊重している、ということです。 教理要綱は基本的に参考文献であり、新使徒教会における信仰生活の規範であ る。もちろんこの本がすべての疑問に対して詳細に答えるわけではありません。 しかしこの本は、タイムリーな問題について話し合うたくさんの機会を与えて くれます。 この本の作成に当たっては、教区使徒や使徒を中心とした作業部会が組織され はしがき ました。作成作業が進められる中で、重要な判断をする時には、世界中の教区 使徒が招集され、作業部会と合同で行われました。この文面は、私と十分に話 し合いを持った中で作られました。 作成に携わったすべての方々と、その方々が取り組まれたすべての作業に、心 より感謝を申し上げたい。この本が祝福のうちに用いられ、信仰の指針となる ことを祈念致します! ヴィルヘルム・レーバー 2012 年 3 月チューリッヒ 1 新約聖書の信仰告白 序論 1 新約聖書の信仰告白 キリスト教の信仰は人々に分け与えることが求められている。初期の段階からキリスト教 徒は、自分の信仰を公に言い広めたり、人々に証しをしたりしなさいとの命を受けてきま た「…いつでも弁明できるように備えていなさい」( 一ペト 3:15)。 新約聖書には、キリスト教の基本要素である、イエスが復活された主であるということを 示す主旨の文言や宣言文が収められている。例えば次のようなものである: 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。す なわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬ら れたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後 十二人に現れたことです」( 一コリ 15:3 - 5)。 「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリ ストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、か えって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神は キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のも の、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、 『イ エス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」( フィリ 2:5 - 11)。 こうした宣言は信仰に権威があることを示し、洗礼を受けてキリスト教徒になりたいと思 う者たちに、キリスト教の基本要素を教えた。さらにイエス・キリスト信仰は、新約時代 から異端の脅威にさらされながらも、純粋な形で伝播していった。 序論 2 用語について 教理要綱を表す英語の「教理要綱」の語源はギリシア語で ("kata"「下の方に」 「前のほうに」 、 "echein"「鳴り響く」 「反響する」)、もともとは洗礼を受ける準備をしている人たちへの教 育の意味で用いられていた。キリスト教の内容や、キリスト教によって生活がどう影響す るのかについて、この教理要綱の中で定められていたのである。 新使徒教会の教えは聖書を基本としている。旧約であれ新約であれ、その聖書が伝えてい る事柄の核心部分を、教理要綱が示しているのである。 まず、本書では、聖書を検証し、7 世紀から 8 世紀におけるエキュメニカル運動、初代教 会で使われた諸信条、キリスト教における最重要宣言文を紹介している。 そして、19 世紀初頭に新しい使徒職が成立して以降、新使徒教会がどのような見識を得 ているかについて論述する。これについては新使徒信条の中で宣言されている。 3 構成と内容 新使徒教会の教理要綱はまず、神の自己啓示、つまり神が御自身を表されることと聖書の 記述 ( 第 1 章 ) に関する見解を論述する。次に、新使徒信条 ( 第 2 章 )、神の三位一体性の 教義 ( 第 3 章 ) についてそれぞれ解説する。キリスト教が宗派を越えて共有する中心的な 考え方がいくつかあるが、これについても神の三位一体性を扱うこの章で論述する。この 章では、天地の創造者である父なる神、イエス・キリストという人の姿となられ、死んで よみがえられた御子なる神、そして聖別と新しい創造を可能にした御霊なる神への信仰に ついて解説する。 続けて第 4 章では、神の御前における人類の状況を解説し、罪に堕落したことによる贖い の必要性にも触れている。その流れの中で、モーセの律法の果たした役割及び福音と律法 との関係について解説する。十戒に対する見解 ( 第 5 章 ) では、キリスト教はただ内面の 問題だけでなく、実生活のあり方にも関係しているということを明確にしている。 4 本書の役割 罪人であっても、神によって義とされた、信仰のある人は教会の中で信仰を実践する。つ まりバプテスマに与った者たちの交わりをする。このような者たちはイエス・キリストを 信じ、キリストが主であることを公に言い広める。第 6 章では、イエス・キリストの教会 とその様々な形態について論述し、新使徒教会こそが唯一イエス・キリストの教会である と確信できる根拠を解説する。職務も――その意義については第 7 章で扱う――キリスト 教会の一部である。ここでは使徒職を、他の全職務の源であると考えている。教会と使徒 職は一つにつながっているということである。 サクラメント 第 8 章は、聖礼典すなわち水のバプテスマである洗礼、聖餐、聖霊のバプテスマである御 サクラメント 霊の証印についての解説で、救いに至らせるためになされる神の配慮にとって、聖礼典が サクラメント 不可欠であることを明らかにする。新使徒教会の信仰は聖礼典を基本としている。 「死後の生命」( 第 9 章及び「救いの御計画の完成」( 第 10 章 ) では、終末論を、個別的 側面と普遍的側面とに分けて扱う。人はだれでも、死んだらどうなるのか、死んだ人と神 との間にはどんな関係があるのか、死んでも救いを得るチャンスはあるのか、といった疑 問にぶつかる。そして新使徒教会の信徒にとっての、信仰の目標を示す。神の救いの御計 画による未来についても若干触れる。 新使徒教会の教義に関するこうした事柄については、キリスト教史及び新使徒教会史 ( 第 11 章 )、礼拝 ( 第 12 章 )、一般生活のあり方 ( 第 13 章 ) の中でも逐次取り扱う。 4 本書の役割 この新使徒教会教理要綱は、新使徒教会の信仰についてこれまで表明してきた内容を考慮 しているものの、言語の面でも、信仰面における事象の発展性においても、従来の教会出 版物に優るものである。すべてのキリスト教徒が共有する信仰の基本を、私たちも共有し ているということは、私たちが初代教会の諸信条を認めていることからも明らかである。 キリストによる救いへの道というものについては、こんにちにおける理解に基づく条件で 記述している。つまり、神は万能のお方であるから、現在解明され認識されている救いへ の道以外の方法によっても、人類に救いをもたらされる場合もある、という認識を持って いるということである。 序論 この教理要綱が果たす重要な役割は、教会で行われる諸教育や教役者会を行うための土台 であると考えることができる。さらに本書は、多言語や他文化を考慮する際に、教義の面 でより統一性を持った定義づけができるように考えられている。このように、新使徒教会 員の知育を深め、そして信仰を強めることにも寄与するのである。 新使徒教会の教義と他宗派のそれとの関連を明確にすることも必要である。そういういう 意味で本書は双方の立場、つまり新使徒教会と共通する部分とそうでない部分とを併記し ている。こうした違いを出すことは、他宗派を排除することを意図するものではなく、む しろ他宗派との建設的な交流を図るための出発点となり得るものである。 目次 目次 1 神 の 啓 示 ……………………………………………………………………… 31 1.1 創世と歴史における神の自己啓示………………………………………… 31 1.1.1 創造主としての神の自己啓示……………………………………………… 31 1.1.2 イスラエルの歴史における神の自己啓示………………………………… 32 1.1.3 御子という形による神の自己啓示………………………………………… 33 1.1.4 教会の時代における神の自己啓示………………………………………… 34 1.2 聖 書 …………………………………………………………………………… 35 1.2.1 聖書の内容と構成…………………………………………………………… 36 1.2.2 旧 約 聖 書 ……………………………………………………………………… 36 1.2.2.1 旧約聖書正典の起源………………………………………………………… 36 1.2.2.2 旧約聖書正典に属す書巻…………………………………………………… 37 旧約聖書の後半部に 1.2.3 まとめられている書巻群について………………………………………… 38 1.2.4 新 約 聖 書 ……………………………………………………………………… 39 1.2.4.1 新約聖書正典の起源………………………………………………………… 39 1.2.4.2 新約聖書に属す書巻………………………………………………………… 40 1.2.5 教義や信仰に対する聖書の果たす意義…………………………………… 41 1.2.5.1 聖霊による聖書の解釈……………………………………………………… 42 1.2.5.2 イエス・キリスト——聖書の中心………………………………………… 42 1.2.5.3 聖書の個人活用について…………………………………………………… 42 1.3 こんにちにおける聖霊の啓示……………………………………………… 43 1.4 信 仰 と は 神 の 啓 示 に 人 が 応 答 す る も の ………………………………… 44 1.4.1 父なる神を信じる…………………………………………………………… 45 1.4.2 御子なる神を信じる………………………………………………………… 45 1.4.3 御霊なる神を信じる………………………………………………………… 46 目次 1.4.4 信 仰 と 説 教 …………………………………………………………………… 46 2 信 条 文 ………………………………………………………………………… 49 2.1 聖書の時代における信条文………………………………………………… 49 2.2 初代教会が採用した信条文の起源………………………………………… 50 2.2.1 使 徒 信 条 ……………………………………………………………………… 50 2.2.2 ニカイア・コンスタンティノポリス信条………………………………… 50 2.3 初代教会が採用した信条文と それが新使徒教会に果たした意義………………………………………… 52 2.4 新 使 徒 信 条 …………………………………………………………………… 53 2.4.1 第 一 条 ………………………………………………………………………… 54 2.4.2 第 二 条 ………………………………………………………………………… 54 2.4.3 第 三 条 ………………………………………………………………………… 56 2.4.4 第 四 条 ………………………………………………………………………… 58 2.4.5 第 五 条 ………………………………………………………………………… 59 2.4.6 第 六 条 ………………………………………………………………………… 60 2.4.7 第 七 条 ………………………………………………………………………… 61 2.4.8 第 八 条 ………………………………………………………………………… 62 2.4.9 第 九 条 ………………………………………………………………………… 63 2.4.10 第 十 条 ………………………………………………………………………… 64 3 三 位 一 体 の 神 ………………………………………………………………… 67 3.1 神 の 本 質 ……………………………………………………………………… 67 3.1.1 三位格を備えた唯一の神…………………………………………………… 68 3.1.2 唯 一 の 神 ……………………………………………………………………… 68 3.1.3 聖 な る 神 ……………………………………………………………………… 69 目次 3.1.4 全 能 な る 神 …………………………………………………………………… 69 3.1.5 永 遠 な る 神 …………………………………………………………………… 70 3.1.6 愛 の 神 ………………………………………………………………………… 70 3.1.7 恵み深く義なる神…………………………………………………………… 71 3.1.8 完 全 な る 神 …………………………………………………………………… 71 3.2 神 ―― 父、 御 子、 聖 霊 ……………………………………………………… 73 3.2.1 三位一体の神に関する旧約聖書での記述………………………………… 73 3.2.2 三位一体の神に関する新約聖書での記述………………………………… 74 3.2.3 三位一体が教義として発展するまで……………………………………… 75 3.2.4 三 位 格 の 一 体 性 ……………………………………………………………… 76 3.3 父 な る 神 ……………………………………………………………………… 77 3.3.1 創 造 主 な る 神 ………………………………………………………………… 78 3.3.1.1 見 え な い 被 造 物 ……………………………………………………………… 80 3.3.1.1.1 天 使 …………………………………………………………………………… 80 3.3.1.1.2 人類にとって見えない領域の持つ意味…………………………………… 81 3.3.1.2 見 え る 被 造 物 ………………………………………………………………… 82 3.3.2 神に似せて造られた人類…………………………………………………… 83 3.3.3 人類が罪に堕ちる…………………………………………………………… 84 3.3.4 肉体と魂と霊とで構成される実在としての人類………………………… 85 3.4 御 子 な る 神 …………………………………………………………………… 86 3.4.1 たった一人の神の御子……………………………………………………… 87 3.4.2 人の姿をした御言葉………………………………………………………… 88 3.4.3 真の人であり真の神であるイエス・キリスト…………………………… 89 3.4.4 イエス・キリストに関する旧約聖書の記述……………………………… 90 3.4.5 イエス・キリスト――贖い主……………………………………………… 91 3.4.6 イエスに与えられた権威者の称号………………………………………… 92 3.4.6.1 メシア—キリスト—油注がれた者………………………………………… 93 3.4.6.2 主 ……………………………………………………………………………… しゅ 93 目次 3.4.6.3 人 の 子 ………………………………………………………………………… 94 3.4.6.4 インマヌエル—神の僕――ダビデの子…………………………………… 94 3.4.7 キリストの職務—王、祭司、預言者……………………………………… 95 3.4.7.1 イエス・キリスト――王…………………………………………………… 96 3.4.7.2 イエス・キリスト—祭司…………………………………………………… 97 3.4.7.3 イエス・キリスト――預言者……………………………………………… 99 3.4.8 人としてのイエス・キリストと その活動に関する新約聖書の記述………………………………………… 99 3.4.8.1 イエスの受胎と降誕………………………………………………………… 100 3.4.8.2 ヨルダン川におけるイエスの受洗………………………………………… 100 3.4.8.3 荒野におけるイエスへの誘惑……………………………………………… 101 3.4.8.4 イエスの布教活動…………………………………………………………… 102 3.4.8.5 イエスによる奇跡…………………………………………………………… 102 3.4.8.6 イエスの喩え話や比喩を用いた発言……………………………………… 104 3.4.8.7 イ エ ス と 律 法 ………………………………………………………………… 106 3.4.8.8 イエスと使徒たち…………………………………………………………… 107 3.4.9 イエスの受難と犠牲の死…………………………………………………… 108 3.4.9.1 イエス、聖餐を制定する…………………………………………………… 108 3.4.9.2 ゲッセマネの園におけるイエス…………………………………………… 109 3.4.9.3 最高法院に出廷したイエス………………………………………………… 109 3.4.9.4 ピラトとヘロデの前に立つイエス………………………………………… 109 3.4.9.5 十字架の刑に処せられ犠牲の死を遂げる………………………………… 110 3.4.9.6 イエスの苦難と犠牲の死に関する旧約聖書の記述……………………… 113 3.4.9.7 イエスの苦難と犠牲の死に関する御自身の発言………………………… 113 3.4.9.8 イエスの犠牲の死に関する使徒書簡の記述……………………………… 114 3.4.9.9 十 字 架 ………………………………………………………………………… 115 3.4.10 死者の領域におけるイエス・キリストの活動…………………………… 116 3.4.11 イエス・キリストの復活…………………………………………………… 117 3.4.11.1 イエス・キリスト復活が救いにもたらした意義………………………… 117 3.4.11.2 蘇られたお方が姿を現される……………………………………………… 118 3.4.11.3 復活されたイエス・キリストの体………………………………………… 119 目次 3.4.12 イエス・キリストの昇天…………………………………………………… 119 3.4.13 教会の頭であるイエス・キリスト………………………………………… 122 3.4.14 被造物の頭であるイエス・キリスト……………………………………… 122 3.4.15 イエス・キリスト再臨の約束……………………………………………… 123 3.5 聖 霊 な る 神 …………………………………………………………………… 125 3.5.1 位格としての聖霊…………………………………………………………… 125 3.5.1.1 父と御子と一つに結ばれている聖霊……………………………………… 126 3.5.1.2 御子の擬人化と聖霊………………………………………………………… 126 3.5.2 力 としての聖霊—聖霊の賜物……………………………………………… 127 3.5.3 旧約時代に聖霊が活動していたことを示す根拠………………………… 128 3.5.3.1 神 の 御 霊 ……………………………………………………………………… 128 3.5.3.2 旧約の預言者たちにおける聖霊の働き…………………………………… 129 3.5.4 イエスが聖霊を遣わすことを約束される………………………………… 130 3.5.4.1 弁 護 者 ………………………………………………………………………… 130 3.5.4.2 真 理 の 御 霊 …………………………………………………………………… 130 3.5.4.3 高 い 所 か ら の 力 ……………………………………………………………… 131 3.5.5 聖 霊 と 教 会 …………………………………………………………………… 132 3.5.5.1 ペンテコステ < 五旬節 > における聖霊の注ぎ……………………………… 132 3.5.5.2 聖 礼典における聖霊の働き………………………………………………… 133 3.5.5.3 使徒職における聖霊の働き………………………………………………… 133 4 贖いを必要としている人類………………………………………………… 4.1 悪――神に反発する力……………………………………………………… 135 4.1.1 神に反発する力としての悪………………………………………………… 136 4.1.2 位 格 と し て の 悪 ……………………………………………………………… 136 4.2 堕 罪 …………………………………………………………………………… 137 4.2.1 堕罪が人類に及ぼした結果………………………………………………… 138 4.2.1.1 罪 に あ る 人 類 ………………………………………………………………… 138 4.2.1.2 罪深い人類でも神は愛して下さる………………………………………… 139 ちから サクラメント 135 目次 4.2.1.3 良心……………………………………………………………………………… 140 4.2.1.4 理性……………………………………………………………………………… 142 4.2.1.5 信仰……………………………………………………………………………… 143 4.2.2 堕罪が被造物にもたらした結果……………………………………………… 145 4.3 罪 と 罪 責 ……………………………………………………………………… 146 4.3.1 罪 ……………………………………………………………………………… 146 4.3.2 罪 責 …………………………………………………………………………… 146 4.4 神による救いの御計画……………………………………………………… 147 4.4.1 旧約時代における救いへの願望…………………………………………… 148 4.4.2 イエス・キリスト――救い主であり救いの仲介者……………………… 148 4.4.3 花嫁の会衆を準備する……………………………………………………… 150 4.5 選 び …………………………………………………………………………… 151 4.5.1 旧約時代における選び……………………………………………………… 151 4.5.2 新約時代における選び……………………………………………………… 152 4.5.3 恵みによる神の自由な選び………………………………………………… 152 4.6 神 の 祝 福 ……………………………………………………………………… 154 4.6.1 創造の業における神の祝福………………………………………………… 155 4.6.2 旧約時代における神の祝福………………………………………………… 156 4.6.3 新約時代における神の祝福………………………………………………… 156 4.7 律 法 の 役 割 …………………………………………………………………… 158 4.7.1 「律法」という表現について………………………………………………… 158 4.7.2 義なるふるまいへの指針となる律法……………………………………… 159 4.7.3 罪を認識する指針としての律法…………………………………………… 160 4.8 律 法 と 福 音 …………………………………………………………………… 161 4.8.1 キリストの律法――恵み…………………………………………………… 161 目次 4.8.2 信仰と業との関係…………………………………………………………… 164 5 神の戒め………………………………………………………………………… 165 5.1 神の戒めに適った信仰生活を送る…………………………………………… 165 5.2 神の戒め――神の愛の表現………………………………………………… 166 5.2.1 神 へ の 愛 ……………………………………………………………………… 5.2.2 隣人愛――仲間を愛する…………………………………………………… 5.2.3 隣人愛――会衆における愛………………………………………………… 172 5.3 十 戒 …………………………………………………………………………… 172 5.3.1 「十戒」という表現について………………………………………………… 172 5.3.1.1 項目の付番について………………………………………………………… 172 5.3.1.2 旧約における十戒…………………………………………………………… 172 5.3.1.3 新約における十戒…………………………………………………………… 173 5.3.1.4 文 言 に つ い て ………………………………………………………………… 173 5.3.2 第 一 の 戒 め …………………………………………………………………… 178 5.3.2.1 神――主であり庇 護者である……………………………………………… 178 5.3.2.2 奴隷から導き出す神………………………………………………………… 178 5.3.2.3 神 を 崇 め 畏 れ る ……………………………………………………………… 179 5.3.2.4 他 神 崇 拝 の 禁 止 ……………………………………………………………… 179 5.3.2.5 偶 像 崇 拝 の 禁 止 ……………………………………………………………… 180 5.3.2.6 第一の戒めに対する違反行為……………………………………………… 180 5.3.3 第 二 の 戒 め …………………………………………………………………… 181 5.3.3.1 神 の 御 名 ……………………………………………………………………… 181 5.3.3.2 神の御名をみだりに唱えるとは具体的にどういうことか……………… 182 5.3.3.3 罰 に よ る 威 嚇 ………………………………………………………………… 182 5.3.3.4 神の名を崇める―――生活の中の祈りとふるまい……………………… 183 5.3.3.5 宣 誓 ―― 誓 い ………………………………………………………………… 183 5.3.4 第 三 の 戒 め …………………………………………………………………… 184 ひ ご 目次 5.3.4.1 イスラエルで第三の戒めが制定された理由……………………………… 184 5.3.4.2 イスラエルにおける安息日………………………………………………… 185 5.3.4.3 イエス・キリストと安息日………………………………………………… 185 5.3.4.4 安息日から日曜日へ………………………………………………………… 185 5.3.4.5 日曜日を聖別する―—礼拝において……………………………………… 186 5.3.4.6 日曜日の労働――義務と聖別とのはざまで……………………………… 186 5.3.4.7 日 曜 日 の あ り 方 ……………………………………………………………… 187 5.3.5 第 四 の 戒 め …………………………………………………………………… 187 5.3.5.1 旧約時代の認識による第四の戒め………………………………………… 188 5.3.5.2 イエス・キリストと第四の戒め…………………………………………… 188 5.3.5.3 パウロ書簡に見る第四の戒め……………………………………………… 189 5.3.5.4 キリスト教の歴史的経過の中で拡大解釈された第四の戒め………………… 189 5.3.5.5 現代生活における第四の戒め……………………………………………… 189 5.3.6 第 五 の 戒 め …………………………………………………………………… 190 5.3.6.1 旧約時代における殺人の禁止……………………………………………… 190 5.3.6.2 新約時代における殺人の禁止……………………………………………… 191 5.3.6.3 こんにちにおいて第五の戒めが持つ意義………………………………… 191 5.3.6.4 第五の戒めが持つ特有の問題点…………………………………………… 191 5.3.7 第 六 の 戒 め …………………………………………………………………… 194 5.3.7.1 結 婚 …………………………………………………………………………… 194 5.3.7.2 姦 淫 …………………………………………………………………………… 195 5.3.7.3 離 婚 …………………………………………………………………………… 195 5.3.7.4 夫婦間における聖なる振る舞い…………………………………………… 196 5.3.8 第 七 の 戒 め …………………………………………………………………… 196 5.3.8.1 一般的法体系における窃盗………………………………………………… 196 5.3.8.2 旧約聖書に見る窃盗の禁止について……………………………………… 197 5.3.8.3 新約聖書に見る窃盗の禁止について……………………………………… 197 5.3.8.4 様々な形態の窃盗…………………………………………………………… 198 5.3.9 第 八 の 戒 め …………………………………………………………………… 198 5.3.9.1 本 来 の 意 味 …………………………………………………………………… 198 5.3.9.2 旧約聖書に見る偽証の事例………………………………………………… 199 目次 5.3.9.3 新約聖書に見る偽証の事例………………………………………………… 199 5.3.9.4 こんにちにおける偽証―――嘘や詐欺行為の禁止……………………… 199 5.3.9.5 第八の戒めに抵触するその他の行為……………………………………… 200 5.3.9.6 霊的意味において偽りを証しすることと真実を証しすること……………… 200 5.3.10 第九の戒めと第十の戒め…………………………………………………… 201 5.3.10.1 項目の分け方や付番の違い………………………………………………… 201 5.3.10.2 貪 る ――― 罪 の 原 因 ………………………………………………………… 201 5.3.10.3 隣人の配偶者との関係を欲する…………………………………………… 201 5.3.10.4 隣人の財産を欲する………………………………………………………… 202 5.3.10.5 罪深い欲望に打ち勝つ……………………………………………………… 202 6 イエス・キリストの教会……………………………………………………… 205 むさぼ 6.1 「教会」という用語について…………………………………………………… 205 6.2 聖書に基づく教会の設立…………………………………………………… 205 6.2.1 旧約聖書に見るイエス・キリストの教会………………………………… 205 6.2.2 発足当初のイエス・キリストの教会……………………………………… 207 6.2.3 新約聖書でイエス・キリストの教会を喩えた表現……………………… 209 6.2.3.1 キ リ ス ト の 体 ………………………………………………………………… 209 6.2.3.2 神 の 民 ………………………………………………………………………… 210 6.2.3.3 神 の 都 ………………………………………………………………………… 210 6.2.3.4 神 の 御 国 ……………………………………………………………………… 211 6.2.3.5 神 の 羊 た ち …………………………………………………………………… 211 6.2.3.6 教会を喩 える他の表現……………………………………………………… 212 6.3 イエス・キリストの教会――神秘………………………………………… 213 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる……………………… 214 6.4.1 教会であることを示す特徴………………………………………………… 215 6.4.1.1 教会は「唯一」である……………………………………………………… 215 たと 目次 6.4.1.2 教会は「聖なるもの」である……………………………………………… 216 6.4.1.3 教会は「公同」である……………………………………………………… 216 6.4.1.4 教会は「使徒的」である…………………………………………………… 217 6.4.2 歴史に見るキリスト教会の出現…………………………………………… 218 6.4.2.1 初代使徒たちの時代におけるイエス・キリストの教会………………… 218 6.4.2.2 初代使徒たちが途絶えた後のイエス・キリストの教会………………… 219 6.4.2.3 使徒職が再興された後のイエス・キリストの教会……………………… 219 6.4.3 イエス・キリストの教会と牧会宣教職…………………………………… 220 6.4.4 イエス・キリストの教会と聖 礼典………………………………………… 221 6.4.5 イエス・キリストの教会と未来…………………………………………… 223 6.5 イエス・キリストの教会と宗教団体としての教会……………………… 224 7 牧 会 宣 教 職 …………………………………………………………………… 227 7.1 牧会宣教職と任務…………………………………………………………… 227 7.2 教会の牧会宣教職の起源…………………………………………………… 228 7.3 牧会宣教職制定に関する聖書の記述……………………………………… 229 7.3.1 旧 約 聖 書 の 記 述 ……………………………………………………………… 229 7.3.2 新 約 聖 書 に 見 る 牧 会 宣 教 職 の 制 定 …………………………………… 230 7.4 使 徒 職 ………………………………………………………………………… 231 7.4.1 使 徒 職 の 特 徴 ………………………………………………………………… 231 7.4.2 使徒の養成と派遣…………………………………………………………… 234 7.4.3 ペトロ――初代使徒の頭 …………………………………………………… 235 7.4.4 新約聖書における使徒の活動に関する記事……………………………… 236 7.5 使徒職から派生し発達した牧会宣教職…………………………………… 237 7.5.1 使 徒 職 の 継 承 ………………………………………………………………… 238 サクラメント かしら 目次 7.5.2 使徒職の活動休止…………………………………………………………… 238 7.5.3 使 徒 職 の 再 興 ………………………………………………………………… 239 7.6 新使徒教会の牧会宣教職…………………………………………………… 240 7.6.1 使 徒 職 ………………………………………………………………………… 240 7.6.2 使 徒 職 の 役 割 ………………………………………………………………… 241 7.6.3 使 徒 の 自 己 像 ………………………………………………………………… 241 7.6.4 使 徒 職 の 権 威 ………………………………………………………………… 241 7.6.5 イエス・キリストの教会における使徒…………………………………… 242 7.6.6 主 使 徒 職 ……………………………………………………………………… 243 7.6.7 教 区 使 徒 職 …………………………………………………………………… 243 7.7 任 命 …………………………………………………………………………… 244 7.8 牧会宣教職の職務行使……………………………………………………… 245 7.9 牧会宣教職の任務…………………………………………………………… 245 7.9.1 司 祭 職 ………………………………………………………………………… 246 7.9.2 執 事 職 ………………………………………………………………………… 247 7.10 指 名 …………………………………………………………………………… 248 8 聖 礼 典 ………………………………………………………………………… 249 8.1 洗 礼 …………………………………………………………………………… 251 8.1.1 用 語 の 定 義 …………………………………………………………………… 251 8.1.2 バプテスマが行われる根拠に関する聖書の記述………………………… 251 8.1.2.1 バプテスマに関する旧約聖書の記述……………………………………… 251 8.1.2.2 バプテスマに関する新約聖書の記述……………………………………… 252 8.1.3 救いを得るために洗礼が必要であること………………………………… 253 8.1.3.1 神の行為である洗礼………………………………………………………… 253 サクラメント 目次 8.1.3.2 原罪を洗い清める…………………………………………………………… 254 8.1.4 洗礼を正しく施与する……………………………………………………… 255 8.1.5 洗礼を受けるための要件…………………………………………………… 255 8.1.6 洗礼がもたらす効果………………………………………………………… 256 8.1.7 洗 礼 と 信 仰 …………………………………………………………………… 257 8.1.8 洗礼と御霊の証印…………………………………………………………… 257 8.1.9 洗礼とキリストへの服従…………………………………………………… 257 8.1.10 洗 礼 と 使 徒 職 ………………………………………………………………… 258 8.2 聖 餐 …………………………………………………………………………… 258 8.2.1 聖餐に対する呼称について………………………………………………… 259 8.2.2 聖餐に関する旧約聖書の記述……………………………………………… 260 8.2.3 食べ物を与えることに関するイエスの奇跡と聖餐……………………… 260 8.2.4 過 越 祭 の 食 事 ………………………………………………………………… 261 8.2.5 イエス・キリストによる聖餐の制定……………………………………… 261 8.2.6 コリント書簡に見る聖餐…………………………………………………… 262 8.2.7 パンとぶどう酒の持つ意味………………………………………………… 263 8.2.8 記念の食事としての聖餐…………………………………………………… 264 8.2.9 告白の食事としての聖餐…………………………………………………… 265 8.2.10 交わりの食事としての聖餐………………………………………………… 265 8.2.11 終末時代の食事としての聖餐……………………………………………… 266 8.2.12 聖餐におけるイエス・キリストの体と血の実在………………………… 266 8.2.13 聖餐におけるイエス・キリストの犠牲の実在…………………………… 267 8.2.14 罪の赦しと聖餐との関係…………………………………………………… 268 8.2.15 聖餐と使徒職との関係……………………………………………………… 268 8.2.16 聖餐における聖別の言葉…………………………………………………… 269 8.2.17 聖餐の執行と聖餐を受けること…………………………………………… 270 8.2.18 聖餐に与るための要件……………………………………………………… 270 8.2.19 聖餐を受ける方法…………………………………………………………… 270 8.2.20 聖餐のもたらす効果………………………………………………………… 271 8.2.21 聖 餐 に 与 る 資 格 ……………………………………………………………… 272 目次 8.2.22 他宗派の聖餐執行について………………………………………………… 272 8.3 御 霊 の 証 印 …………………………………………………………………… 273 8.3.1 「証印」という表現について………………………………………………… 273 8.3.2 旧約聖書に書かれている聖霊の約束……………………………………… 273 8.3.3 イエス、聖霊による油注ぎを受ける……………………………………… 274 8.3.4 ペンテコステの時に聖霊が注がれる……………………………………… 275 8.3.5 新約聖書における御霊の証印に関するその他の証し…………………… 275 8.3.6 御霊の証印の適切な施与…………………………………………………… 276 8.3.7 御霊の証印を受けるための要件…………………………………………… 277 8.3.8 御霊の証印は神の行為……………………………………………………… 277 8.3.9 御霊の証印がもたらす効果………………………………………………… 277 9 死 後 の 生 命 …………………………………………………………………… 279 9.1 魂 は 永 遠 で あ る ……………………………………………………………… 279 9.2 死 ……………………………………………………………………………… 279 9.3 来世における魂の生命……………………………………………………… 280 9.4 陰 府 …………………………………………………………………………… 281 9.5 陰府にいる魂の状態………………………………………………………… 282 9.6 故 人 を 救 う …………………………………………………………………… 283 9.6.1 執 り 成 し ……………………………………………………………………… 283 9.6.2 キリストに結ばれて死んだ者たちによる協力…………………………… 284 9.6.3 故人に救いをもたらす……………………………………………………… 284 10 未来の事柄に関する教義…………………………………………………… 287 目次 10.1 イエス・キリストの再臨…………………………………………………… 287 10.1.1 イエス・キリスト再臨の約束……………………………………………… 287 10.1.2 イエス・キリスト再臨に関係する出来事………………………………… 288 10.1.3 花 嫁 の 会 衆 …………………………………………………………………… 290 10.2 子 羊 の 婚 姻 …………………………………………………………………… 292 10.3 大 き な 苦 難 …………………………………………………………………… 292 10.4 力と大いなる栄光を帯びて主がおいでになる…………………………… 293 10.5 第 一 の 復 活 …………………………………………………………………… 293 10.6 救いの御計画のその後……………………………………………………… 294 11 キリスト教史概説…………………………………………………………… 297 11.1 初期キリスト教会…………………………………………………………… 297 11.2 初代の使徒たちが亡くなった後のキリスト教…………………………… 297 11.2.1 教 父 と 宗 教 会 議 ……………………………………………………………… 298 11.2.2 キリスト教世界――国教とその伝播……………………………………… 298 11.2.3 中世ヨーロッパのキリスト教を巡る様々な状況………………………… 299 11.2.4 宗 教 改 革 ……………………………………………………………………… 299 11.2.5 カトリックとプロテスタントの大きな変化……………………………… 300 11.2.6 19 世紀初めにおけるキリスト教…………………………………………… 301 11.3 カトリック使徒教会において再興された使徒職………………………… 303 11.3.1 使徒の導きによる教会の発展……………………………………………… 303 11.3.2 使 徒 職 の 増 員 ………………………………………………………………… 304 11.3.3 新使徒教会における使徒職の継続………………………………………… 304 目次 12 礼拝、祝福行為、牧会………………………………………………………… 307 12.1 礼 拝 …………………………………………………………………………… 307 12.1.1 礼拝に関する一般概念……………………………………………………… 307 12.1.2 旧約時代における礼拝……………………………………………………… 307 12.1.3 新約時代における礼拝……………………………………………………… 308 12.1.4 その後におけるキリスト教礼拝の発展…………………………………… 309 12.1.5 神と出会う場としての礼拝………………………………………………… 309 12.1.5.1 使 徒 の 教 え …………………………………………………………………… 310 12.1.5.2 パ ン を 裂 く …………………………………………………………………… 311 12.1.5.3 交 わ り ………………………………………………………………………… 311 12.1.5.4 祈 り …………………………………………………………………………… 312 12.1.6 御 言 葉 の 宣 教 ………………………………………………………………… 313 12.1.6.1 「説教」という用語について………………………………………………… 313 12.1.6.2 新約時代における御言葉の宣教…………………………………………… 313 12.1.6.3 こんにちにおける御言葉の宣教…………………………………………… 314 12.1.6.3.1 御言葉の宣教における中心的内容………………………………………… 315 12.1.6.3.2 御言葉を宣べ伝える目的…………………………………………………… 315 12.1.6.3.3 御言葉の宣教における基準………………………………………………… 315 12.1.7 主 の 祈 り ……………………………………………………………………… 317 12.1.7.1 礼拝中の主の祈り…………………………………………………………… 317 12.1.7.2 七 つ の 嘆 願 …………………………………………………………………… 318 12.1.7.2.1 「天にまします我らの父よ」………………………………………………… 318 12.1.7.2.2 「願わくは御名を崇めさせたまえ」………………………………………… 318 12.1.7.2.3 「御国を来らせたまえ」……………………………………………………… 319 12.1.7.2.4 「御心の天に成る如く地にも成させたまえ」……………………………… 319 12.1.7.2.5 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」…………………………………… 320 12.1.7.2.6 「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」……………… 320 12.1.7.2.7 「我らを試みに遭わせず」…………………………………………………… 321 12.1.7.2.8 「悪より救い出したまえ」…………………………………………………… 321 12.1.7.2.9 「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」……………………… 322 あが ごと 目次 12.1.7.2.10 「アーメン」…………………………………………………………………… 322 12.1.8 礼拝における罪の赦し……………………………………………………… 323 12.1.8.1 神 ―― 赦 す お 方 ……………………………………………………………… 324 12.1.8.2 旧約時代におけるいけにえの奉納による礼拝…………………………… 324 12.1.8.3 キリストの犠牲――罪の赦しの土台……………………………………… 324 12.1.8.4 罪の赦しを得るための条件………………………………………………… 325 12.1.8.5 悔 い 改 め と 自 責 ……………………………………………………………… 325 12.1.8.6 赦 さ れ な い 罪 ………………………………………………………………… 326 12.1.8.7 宣 言 と 権 限 …………………………………………………………………… 326 12.1.8.8 罪の赦しがもたらす効果…………………………………………………… 326 12.1.9 礼拝における聖 礼典の施 与………………………………………………… 328 12.1.10 閉 会 の 祝 祷 …………………………………………………………………… 328 12.1.11 礼拝の式次第と祝福行為…………………………………………………… 329 12.1.12 任命、指名、復職、引退…………………………………………………… 329 12.1.13 故人のための特別礼拝……………………………………………………… 330 12.1.14 礼 拝 中 の 音 楽 ………………………………………………………………… 330 12.2 祝 福 行 為 ……………………………………………………………………… 332 12.2.1 出 産 前 の 祝 福 ………………………………………………………………… 332 12.2.2 堅 信 礼 ………………………………………………………………………… 332 12.2.2.1 堅信礼を受ける年齢と条件………………………………………………… 333 12.2.2.2 堅信の宣誓及び堅信の祝福………………………………………………… 333 12.2.3 結婚式、結婚記念式、婚約式……………………………………………… 334 12.2.3.1 結 婚 の 祝 福 …………………………………………………………………… 334 12.2.3.2 結 婚 記 念 の 祝 福 ……………………………………………………………… 334 12.2.3.3 婚 約 式 ………………………………………………………………………… 335 12.2.4 献 堂 式 ………………………………………………………………………… 335 12.3 教 会 葬 ………………………………………………………………………… 336 12.4 牧 会 …………………………………………………………………………… 337 サクラメント せ よ 目次 12.4.1 幼 少 年 教 育 …………………………………………………………………… 339 12.4.1.1 教 会 教 育 ……………………………………………………………………… 339 12.4.1.1.1 就学前児童向け日曜学校…………………………………………………… 340 12.4.1.1.2 日 曜 学 校 ……………………………………………………………………… 340 12.4.1.1.3 宗 教 教 育 ……………………………………………………………………… 340 12.4.1.1.4 堅 信 礼 教 育 …………………………………………………………………… 341 12.4.2 青 少 年 牧 会 …………………………………………………………………… 341 12.4.2.1 青少年を取り巻く状況……………………………………………………… 341 12.4.2.2 青少年牧会の目標…………………………………………………………… 342 12.4.2.3 青少年牧会としての企画…………………………………………………… 342 12.4.3 家 庭 訪 問 ……………………………………………………………………… 342 12.4.4 告 白 …………………………………………………………………………… 344 12.4.5 死や悲しみにおける援助…………………………………………………… 345 12.4.5.1 終末期や臨終を迎えつつある人たちへの配慮…………………………… 345 12.4.5.2 遺 族 へ の 支 援 ………………………………………………………………… 346 12.4.5.3 悲しみと向き合う…………………………………………………………… 347 12.5 教 会 の 聖 日 …………………………………………………………………… 348 12.5.1 ク リ ス マ ス …………………………………………………………………… 348 12.5.2 棕 櫚 の 聖 日 …………………………………………………………………… 348 12.5.3 聖 金 曜 日 ……………………………………………………………………… 349 12.5.4 イースター < 復活祭 >………………………………………………………… 349 12.5.5 昇 天 日 ………………………………………………………………………… 350 12.5.6 ペンテコステ < 五旬節 >……………………………………………………… 350 12.5.7 感 謝 祭 ………………………………………………………………………… 351 12.5.8 宗教上の聖日に行われる礼拝の内容……………………………………… 351 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活……………………………… 353 13.1 祈 り …………………………………………………………………………… 353 13.1.1 旧 約 の 祈 り …………………………………………………………………… 353 目次 13.1.2 イエスが教える祈り………………………………………………………… 354 13.1.3 イ エ ス の 祈 り ………………………………………………………………… 355 13.1.4 初期キリスト教徒の祈り…………………………………………………… 356 13.1.5 新使徒教会員の祈り………………………………………………………… 356 13.1.6 祈りがもたらす効果………………………………………………………… 358 13.2 自発的に献金や犠牲を捧げる姿勢………………………………………… 359 13.2.1 旧約時代のいけにえの奉納による礼拝から 人命そのものが神に捧げられるまで……………………………………… 359 イエス・キリスト――自発的犠牲の手本………………………………… 360 13.2.2 13.2.3 13.2.4 13.3 13.3.1 13.3.2 13.3.3 信仰、感謝、愛に基づいて 自発的に献金や犠牲を捧げる姿勢………………………………………… 360 犠 牲 と 祝 福 …………………………………………………………………… 362 結 婚 と 家 族 …………………………………………………………………… 363 神から定められたものとしての結婚……………………………………… 363 結婚と結婚の祝福…………………………………………………………… 364 婚姻関係における性行動と家族計画……………………………………… 365 13.3.5 親 の 責 任 ……………………………………………………………………… 366 子 の 責 任 ……………………………………………………………………… 366 13.4 労働及び社会的義務を果たす……………………………………………… 367 13.5 社会の一員である新使徒教会……………………………………………… 367 国家に対する立場…………………………………………………………… 368 13.3.4 13.5.1 13.5.2 13.5.3 他宗教や他宗派との関係…………………………………………………… 368 社 会 と の 関 わ り ……………………………………………………………… 369 目次 付録 使 徒 信 条 ……………………………………………………………………………………… 373 ニカイア・コンスタンティノポリス信条………………………………………………… 373 新 使 徒 信 条 …………………………………………………………………………………… 374 十 戒 < モ ー セ の 十 戒 >……………………………………………………………………… 376 主 の 祈 り ……………………………………………………………………………………… 377 用 語 集 ………………………………………………………………………………………… 379 聖書の書巻名と略語………………………………………………………………………… 383 用語集 ( 日本教区 ) …………………………………………………………………………… 386 1.1 創世と歴史における神の自己啓示 1 神の啓示 天地を創造された神は、自然界において歴史を通じて様々な方法で御自身を啓示することに より、自然界が神の被造物であり、人類の歴史が救いの歴史であることを悟らせて下さる。 神は御子イエス・キリストという、類を見ない方法で御自身を啓示した。つまりお示しになっ た、ということである。永遠なる神は、こうした御自身の啓示を常に確実なものとするために、 ペンテコステに聖霊を遣わされた。神は、父、御子、御霊の三位一体からなる神として御自身 みもと をお示しになる。キリストが再臨される時に神の御許に引き上げられる者たちは、完全なもの となる。それは彼らが御子をありのままの姿で見ることになるためである ( 一ヨハ 3:2)。 1.1 創世と歴史における神の自己啓示 神そのものや本質、神の支配や神の御旨を、人類が自ら認識することはできない。だからと いって神は御自身を隠すことなく、むしろ人類に御自身をお示しになる。神の啓示は、天来の 本質、天来の真理、天来の御旨を公にすることであり、神が人類を愛し配慮して下さっている ことのしるしと捉えるべきである。 神の「自己啓示」、つまり神が御自身を表されるというのは神が御自身の本質を人類に悟ら せることである、と考えられている。つまり、御自身が天地の創造者、イスラエルを救うお方、 人類を和解させて下さるお方、新しい創造を成し遂げられるお方であることを人類に知らしめ る、ということである。しかし、自己の啓示や御旨の表明だけが神の自己啓示ではなく、御言 サクラメント 葉や聖礼典を通しても、御自身を啓示する。 1.1.1 創造主としての神の自己啓示 目に見える形で神が御自身を啓示されることにより、全人類が神を認識することができる。 ま 有史以来、人は自然の壮大さを目の当たりにして、自然がいつ造られ誰によって造られたのか という問いを抱いてきた。この問いに対する答えを突き詰めていくと、信仰に至るのである。 すなわち、 人類も含め物質的な世界を造りそれを保護してきたのは神である、 ということである。 物質世界は神の御旨と働きが表現されたものである。それゆえ、物質世界の中で神の自己 31 1 神の啓示 啓示を悟ることもできる。目に見える被造物によって、創造者なる神の存在ばかりでなく、神 の知恵や力をも見て取ることができる「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」( 詩 19:1 <新共同訳 2 節> )。 創造の業による神の啓示については、使徒パウロも指摘しており、全人類はこの御業によっ て神を悟ることができるはずである、と述べている、 「なぜなら、神について知りうる事柄は、 彼ら [ 神を信じない異邦人 ] にも明らかなためである。神がそれを示されたのである。世界が 造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、 これを通して神を知ることができる。従って、彼らには弁解の余地が」ない ( ロマ 1:19 - 20)。信じない者たちは、見える被造物を通して神が御自身を啓示されることがわからないため、 神によって創造された物を拝むことで、神の自己啓示を理解するという誤った結論を導き出し、 神によって創造された物として偶像を考え出すのである。このようなわけで、旧約聖書続編に ある知恵の書の中でも偶像崇拝を次のように批判している、 「美の創始者 [ であられる神 ] がそ れら [ 自然の力 ] を造られたからである。もし [ 信じない者たちが ] 宇宙の力と働きに心を打た れたなら、/天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、/それらを通して知るべきだっ たのだ。造られたものの偉大さと美しさから推し量り、/それらを造った方を認めるはずなの だから」( 知恵 13:3 - 5)。 自然界における被造物の神秘を感じ取れても、必ずしもそれを、人の能力で、生きた神と結 びつけられるわけではない。まして創造に伴う現象を見聞して、生きた神の存在を確信するこ とはなかなかできない。しかし、神の本質や御旨を人類が確実に悟れるのは、歴史を通じた神 の自己啓示の中でしかない。つまり人類に対して語られる神の御言葉を通して、初めて神の本 質や御旨を知ることができるのである。 1.1.2 イスラエルの歴史における神の自己啓示 歴史の中で神が御自身を啓示されたという事実が最初に明確にされているのは、旧約聖書に も書かれているように、数を増やしていったイスラエルの民の情勢においてである。 しば 神は燃え盛る柴の中で御自身を現され、御自分がアブラハム、イサク、ヤコブという代々に わたる族長たちの神であったことを指摘することで、歴史に言及された ( 出 3:6 参照 )。 イスラエルの民にとって、救いに関わる最も大きな出来事は、エジプトの奴隷状態からの解 放である。雲の柱と火の柱という形で彼らを解放された ( 出 13:21 - 22 参照 )。この出来事 は旧約聖書の中で頻繁に登場しており、多くの預言者が神によるこの偉業に触れており、詩編 よ の中でもこれに関する歌が詠まれている。 32 1.1 創世と歴史における神の自己啓示 エジプト脱出の他にも、神の民がカナン地方に自分のたちの国を与えられるという約束と、 シナイ山で交わされた契約は、神の啓示として非常に重要である。神は、御自分の民が暮らす 場所を自らお決めになり、シナイ山で十戒を与えてイスラエルの民が生活のする上での約束事 や規範を制定された。 イスラエルの民の信仰は、彼らの歴史において起こった神の啓示に基づいている。この神の 啓示を、 彼らは神による救いのための配慮、 もしくは刑罰としての裁きの表れとして受けていた。 詩編 105 編及び 106 編では、神が歴史を形成すると同時にその歴史の中で御自身を啓示さ れるということを、印象深く伝えている。同様に、イスラエル王国やユダ王国の士師及び王の 時代や、バビロン捕囚から帰還までの出来事は、歴史が作られる中で神が介在した例の一部で ある。 さらに神は、預言者を通して御自身を啓示された。「わたしは預言者たちに言葉を伝え / 多 くの幻を示し / 預言者たちによってたとえを示した」( ホセ 12:10< 新共同訳 11 節 >)。また 神は、御自身の民が進むべき道筋を教え導かれた「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地 からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いう る者はない」( ホセ 13:4)。さらに神は、預言者を通して、メシアすなわち救い主の来臨を約 束された ( イザ 9:6< 新共同訳 5 節 >;ミカ 5:2< 新共同訳 1>)。 1.1.3 御子という形による神の自己啓示 神の自己啓示の中でも、神がイエス・キリストという人の姿で御自身を啓示されたこと < = 神の擬人化 > は、それまでに無かったことである ( ヨハ 1:14;一テモ 3:16)。ルカによる福 音書では、敢えて歴史という枠組みの中で御子の誕生を位置づけている「そのころ、皇帝アウ グストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州 の総督であったときに行われた最初の住民登録である」( ルカ 2:1 - 2)。 神の擬人化が歴史的事実であることは、ヨハネの手紙一の中で特に強調されている。ヨハネ は、イエス・キリストが実際に「肉となって来られた」( 一ヨハ 4:2) ことに異議を唱える者 たちと対峙する。この場面について彼は手紙の中で次のように書いている、 「初めからあったも の、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわ ち、命の言について。――…わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、 あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためである。わたしたちの交わりは、御 父と御子イエス・キリストとの交わりである」( 一ヨハ 1:1 - 3)。 33 1 神の啓示 1.1.4 教会の時代における神の自己啓示 ペンテコステ < 五旬節 > の時にエルサレムで聖霊が注がれたことにより、神は御自身が父、 御子、御霊という三位一体であることをお示しになった。 古代においては、神は聖書で証しされているような方法で御自身を啓示されたが、近代に入 ると、使徒職を通して与えられる聖霊が悟りを得させて下さるようになった。聖霊により、神 による救いの御計画についてより深い見識が得られ、イエス・キリストという類を見ない神の 自己啓示と関連づけることができ、キリストが神であることを意識し続け、キリストの再臨に 注目することができるのである。 聖霊の自己啓示によってはっきりしたことは、人類や被造物の根本的な再生が可能であると サクラメント いうことである。人類については、聖礼典を通して再生が可能である。時が終わる時、天も地 も新しく造られるのである。 まとめ 神は、自然界において、歴史を通じて、様々な方法で、御自身を啓示される。それは、自然界が神の被造物であり、 歴史が救いの歴史であることを悟らせるためである。 (1) 人類は、自分自身で、神の存在や神の本質、神の支配や御旨を感じ取ることができない。 (1.1) 啓示とは、天来の本質、天来の真理、天来の御旨を示すことであり、人類に対する愛と配慮のしるしである。 (1.1) 「自己啓示」とは、神が創造主、イスラエル救済者、人類の和解者、新しく創造されるお方であることを知らしめ ることである。 (1.1) 見える被造物の中で神が自己を啓示される場合、全人類がそれに与ることができる。ただし信仰によって正しくそ れを認識することが必要である。 (1.1.1) 過去、現在、未来を通じて、神が御自身を啓示されることによって――つまり、御言葉が人類に提供されることに よって――はじめて神の本質や御旨を本当の意味で悟ることができる。 (1.1.1) 神はイスラエルの歴史において御自身を啓示された。このことは旧約聖書が証ししている。イスラエルの民にとっ て救いの業における最も大きな出来事は、エジプトにおける奴隷状態からの解放である。そのほかにも神は預言者 を通して御自身を啓示された。 (1.1.2) 34 1.2 聖書 イエス・キリストという形で神が人の姿になられたことは、神の自己啓示においても、他を圧倒する歴史的な出来 事である。 (1.1.3) ペンテコステの時に聖霊が注がれたことによって、神が父、御子、御霊なる三位一体であることを啓示された。(1.1.4) かつて聖書の中で神の啓示が証しされたが、こんにちにおいては、聖霊による悟りもある。聖霊は使徒職を通して 与えられる。 (1.1.4) 1.2 聖書 人類が体験した神の啓示や、救いの歴史における神の働きは、何世紀もの間、文献として記 録されてきた。神の働き、神の約束、神の戒めを記したこうした文献は、バビロン捕囚の時代 つまりキリスト降誕の何百年も前から、ユダヤ教に非常に大きな権限を与えられてきた。新約 聖書の中に「聖書」という表現があるのはこのためである。テモテへの手紙二では、聖書と呼 ばれるこれらの文献が、天来の啓示に基づいていることを次のようにはっきり述べている「ま た、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからである。この書物は、キリ スト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができる。聖書はすべ て神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益 である」( 二テモ 3:15 - 16)。 使徒パウロは、当時使われていたユダヤ教の聖典集を意味する語として「聖書」という用語 を用いているが、現代のキリスト教においても、旧約と新約の両方の時代に書かれた文献集を 意味する語として同じ用語を用いている。 同じく聖書を意味する英語の「バイブル Bible」は、ギリシア語で「書籍」 「巻物」を意味する「ビ ブリア Bιβλία」が語源である。聖書とは、千年以上にわたって書かれてきた書巻の集合体であ る旧約聖書と、約七十年かけて執筆された書巻の集合体である新約聖書をまとめたものである。 聖書の著者は神であり、聖霊の導きによって人間が執筆したものである ( 二ペト 1:20 - 21 参照 )。神は御旨通りに伝えるべき事柄を書き留めるために、人間の能力を活用された。聖 書書巻の内容は聖霊を源としているものの、表現の方法や形式は、筆者や当時の社会認識によ わいきょく る影響を受けている。聖書のこうした文面がこんにちに至るまで歪曲されてこなかったことに ついては、私たちの神に感謝すべきである。 35 1 神の啓示 聖書は神の啓示を証しするものであるが、神のなさったことをすべて完全に記録しているわ けではない ( ヨハ 21:25)。 1.2.1 聖書の内容と構成 聖書は、旧約聖書と新約聖書という、大きく二つの部分で構成されている。 「~約」とは、 エレミヤ書 31 章 31 - 34 節にある「新しい契約を結ぶ」という約束に由来している 1。旧約 聖書は、神がアブラハム、イサク、ヤコブ、それにモーセと結ばれた契約について書かれている。 それに対し新約聖書は、神が御子をお遣わしになって結ばれた新しい契約を証ししている。 旧約聖書も新約聖書も、人類に対する神による救いの御計画を証ししており、相互に密接な 関連性がある。旧約聖書と新約聖書を合わせて「聖書」として採用し始めたのは、9 世紀にさ かのぼる。 1.2.2 旧約聖書 旧約聖書の中には、天地創造、人類堕罪の後に起きた出来事までをまとめた書巻、イスラエ ルの民の誕生とその歴史を綴った書巻の他に、ユダヤ教でいうところの知恵文学と呼ばれる教 義書、イスラエルの詩歌と祈りを集めた詩編書巻、それに神から遣わされた預言者たちによる 言葉や活動を証しした書巻がある。 1.2.2.1 旧約聖書正典の起源 「正典」を意味する英語の「カノン canon」は本来「基準」「ガイドライン」を意味するが、 この語はギリシア語からの借用で、紀元 4 世紀以来ずっと、すべてのキリスト教世界が承認し ている書巻群を表す語として使われている。 キリスト教における旧約聖書正典は、ヘブライ語のユダヤ教正典を基本としている。イエス や初代使徒の時代になっても、ユダヤ教はきちんとした正典を定めていなかった。基本となる 書巻 ( トーラー、預言書、詩編 ) は決まっていたものの、その他の書巻についてはユダヤ教の 1 原文のヘブライ語では「契約」を意味する語として「ベリト 」תירבが用いられているが、そのギリシア語訳ではよ り広い意味を持つ「ディアテケー διαθήκη」という語が用いられている。 36 1.2 聖書 中でも宗派によって、承認不承認がまちまちだったのである。ヘブライ語のユダヤ教正典が最 終的に決定したのは、紀元 1 世紀の終わりである。 この頃は、キリスト教の旧約聖書正典も、完成とはほど遠い段階であった。すべてのキリス ト教派が統一して承認する旧約聖書正典は、こんにちにおいても存在していない。 1.2.2.2 旧約聖書正典に属す書巻 現在使用されている新共同訳聖書をはじめ、それ以前に使用されていた 1955 年訳口語訳聖 書や、それ以外の日本語聖書においても、旧約聖書は以下のように歴史書、教義書、預言書の 三部に分けることができる。 歴史書は以下の 17 巻である: モーセ五書 ( 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 ) ヨシュア記 士師記 ルツ記 サムエル記上、下 列王記上、下 歴代誌上、下 エズラ記 ネヘミヤ記 エステル記 教義書は以下の 5 巻である: ヨブ記 詩編 箴言 コヘレトの言葉 < 口語訳「伝道の書」> 雅歌 預言書は以下の 17 巻である: イザヤ書 エレミヤ書 哀歌 37 1 神の啓示 エゼキエル書 ダニエル書 ホセア書 ヨエル書 アモス書 オバデヤ書 ヨナ書 ミカ書 ナホム書 ハバクク書 ゼファニヤ書 ハガイ書 ゼカリヤ書 マラキ書 1.2.3 旧約聖書続編としてまとめられている書巻群について 聖書の中には、旧約聖書の後半に「外典」と呼ばれる書簡群を付している版が多くある。外 典とは「アポクリファ」ともいい「隠された書巻」という意味がある。この外典は紀元前 3 世 紀~ 1 世紀にかけて成立したユダヤ教の書巻である。内容的には、旧約聖書と新約聖書を橋渡 しする重要な役割を持っている。旧約聖書外典には、新約聖書の信仰における重要な基本理念 が予示されている。新使徒教会では、旧約聖書続編の書簡群を、信仰や教義の面で、正典に属 す書簡群と同等の扱いをしている。 新共同訳日本語聖書では、旧約聖書と新約聖書の間に「旧約聖書続編」として掲載されている。 外典は以下の 15 巻である: トビト記 ユディト記 エステル記 ( ギリシア語 ) マカバイ記一、二 (、三 2) 2 マカバイ記三は新共同訳聖書に掲載されていないが、日本正教会訳聖書には「マカウェイ第三巻」として訳出され ている。 38 1.2 聖書 知恵の書 シラ書 ( 集会の書 ) バルク書 エレミヤの手紙 ダニエル書補遺 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌 ダニエル書補遺 スザンナ ダニエル書補遺 ベルと竜 エズラ記 ( ギリシア語 ) エズラ記 ( ラテン語 ) マナセの祈り 1.2.4 新約聖書 新約聖書には、まず福音書や言行録として、イエスやその弟子 < 使徒 > たちによる宣教など の活動の記録がまとめられている。そして使徒たちから会衆や個人に宛てた書簡には、初期キ リスト教の時代における会衆生活や牧会宣教に対する考え方が書かれている。さらにこれら書 簡には、教えについて解説されている。教えとは、使徒たちが、自分たちを遣わされたお方か ら賜った職務によって宣べ伝えたものである。 「ヨハネの黙示録」は、新約聖書における預言書である。この書巻で、 イエス・キリストは、 様々 な方法で教会に忠告を与え、御自身の再臨を約束することで教会を慰め、未来にどのような出 来事が起こるかを提示しておられる。 1.2.4.1 新約聖書正典の起源 初期におけるキリスト教徒の会衆にとって、聖書といえば、今の旧約聖書に該当するものだ けだったが、まもなく「主の語録」( ロギア ) が特別な位置づけをされるようになった。ロギア は当初、口頭で伝えられていた。イエスが活動しておられた様子を文献として逐一記録する前 から、会衆では信条文を詠み上げたりや讃美歌を歌ったりしていた。こうした信条文や讃美歌 を通してイエス・キリストの死と復活が公に広められていった。そしてこうした信条文や讃美 歌が、使徒書簡となったのである。 こんにちの私たちに伝わるキリスト教関係の文献として最古のものは、パウロ書簡である。 39 1 神の啓示 パウロ書簡は礼拝で朗読された後、近隣の教会に伝えられていった。 パウロ書簡の次に成立した書巻はマルコによる福音書で、キリスト教徒が信じることを証し するものとしては最古のものである。マタイによる福音書とルカによる福音書は、内容や構成 において非常に類似している。 使徒の伝統を守り、使徒の教えを継承し、間違った教えを混在させないようにするためには、 教会に聖典として義務づけるための新約聖書を編集する必要があった。紀元 367 年、 教父であっ たアレクサンドリアのアタナシウスは、自身が書いたイースター < 復活祭 > の手紙の中で、現 在ある 27 の書巻すべてを、新約聖書正典として指定した。その後これら 27 書巻はヒッポレギ ひじゅん ウス宗教会議 (393 年 ) とカルタゴ宗教会議 (397 年 ) で批准された。 旧約聖書も新約聖書も人の考えではなく、何よりも神の御旨によって作られたものである。 1.2.4.2 新約聖書に属す書巻 新約聖書も旧約聖書同様、歴史書、教義書、預言書の三部に分けることができる。 歴史書は以下の 5 巻である: マタイによる福音書 マルコによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書 使徒言行録 < 口語訳「使徒行伝」> 教義書は以下の 21 巻である: ローマの信徒への手紙 コリントの信徒への手紙一、二 ガラテヤの信徒への手紙 エフェソの信徒への手紙 フィリピの信徒への手紙 コロサイの信徒への手紙 テサロニケの信徒への手紙一、二 テモテへの手紙一 テモテへの手紙二 テトスへの手紙 フィレモンへの手紙 ヘブライ人への手紙 40 1.2 聖書 ヤコブの手紙 ペトロの手紙一、二 ヨハネの手紙一、二、三 ユダの手紙 預言書は以下の 1 巻である: ヨハネの黙示録 まとめ 聖書の著者は神であり、その執筆者は、聖霊に促された人間である。文体そのものは、執筆者自身や彼らの社会認 識に影響されている。 (1.2) 聖書は、神の働きをすべて逐一記録しているわけではないものの、神の啓示を証しするものである。 (1.2) 聖書には旧約聖書と新約聖書がある。両者とも神による人類救済の御計画を証ししており、相互に密接に関連し合っ ている。 (1.2.1) キリスト教の旧約聖書正典はヘブライ語の正典を基本としている。旧約聖書は 17 の歴史書、5 つの教義書、17 の 預言者で構成されている。 (1.2.2.1;1.2.2.2) 旧約聖書続編の 14 巻 ( アポクリファ ) は、内容の点で、旧約聖書と新約聖書を橋渡しする重要な役割を担っており、 信仰や教義の面で旧約聖書正典と同様の扱いをすべき書巻である。 (1.2.3 ) 新約聖書は、イエスとその使徒たちの職務と彼らの活動を記録したものである。新約聖書の 27 巻は、紀元 4 世紀 から正典として定められている。5 巻の歴史書、21 巻の教義書、そして 1 巻の預言書とで構成されている。 (1.2.4; 1.2.4.1;1.2.4.2) 1.2.5 教義や信仰に対して聖書が果たしている意義 聖書は、新使徒教会の教えの基本である。従って、礼拝における御言葉の宣教も聖書を基本 とする。聖書の言葉は、説教の出発点であり土台である (12.1.6 参照 )。 41 1 神の啓示 1.2.5.1 聖霊による聖書の解釈 聖書は聖霊の促しによって成立したわけであるが、聖書を正しく理解するのも、聖霊によっ てはじめて可能となる。聖霊の働きによって、神の御旨――それに神から賜った聖書も同様に ――の深みさえも究めることができる ( 一コリ 12:10 - 12)。 使徒も「キリストに仕える者、 神の秘められた計画をゆだねられた管理者」として ( 一コリ 4:1)、聖書解釈の任務を担っている。とはいえ使徒が聖書の言葉を解釈するのも、聖霊によっ てはじめて可能となる。 1.2.5.2 イエス・キリスト——聖書の中心 旧約聖書の主たる目的は、メシアの来臨に向けた道筋を備えることと、メシアについて証し をすることである、というのがキリスト教の考え方である。イエス御自身もこのことをはっき りと述べておられる ( ヨハ 5:39;ルカ 4:17 - 21;24:27)。イエスは弟子たちに、聖書に ついて、御自身の活動と関連させて解説をされた。これについてイエスは次のように述べてお られる、 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実 現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」( ルカ 24: 44)。従って、旧約聖書の解釈は、神の御子を基本としなければならない。旧約は、キリスト という形で成就したのである。神の御子が人の姿となられたことは、神の自己啓示の中でも最 も重要であり、救いの歴史全体における中心である。まさに「イエス・キリストは聖書の中心」 と言えるわけである。 旧約聖書の各書巻――続編も含め――の中で示されている信仰や教義は、内容的に福音書が 教えていることと一致することによって、その意味を持つ。 1.2.5.3 聖書の個人活用について 信徒めいめいが、定期的に聖書の一節を読まれることをお勧めする。聖書を読むことで心が 養われ、生きるための指針や忠告を得、知恵を学ぶことができるからである。聖書を読む時に 大切なことは、聖書を学ぼうとする心の姿勢である。正しく理解できるように真剣に祈ると同 時に、神を畏れ、自身が聖なる者となる努力をすることも、聖書を有益に読む条件である。集 中して聖書を読むと、より深く福音を理解することができる。そして今度は知恵が増し加えら れて、信仰への確信が高まる。 42 1.3 こんにちにおける聖霊の啓示 まとめ 聖書の言葉は新使徒教会の教義の基本である。 (1.2.5) 聖霊の働きによって、聖書を正しく理解し、その深みをも究めることができる。聖書の解釈は、イエスの使徒たち にもその任務が与えられている。使徒であっても、聖霊によらなければ、聖書を解釈することはできない。 (1.2.5.1) イエス・キリストは聖書の中心である。従って旧約聖書も、福音の教えと一致することによって、その意味を持つ。 (1.2.5.2) 聖書を読むことは信徒に慰めと、教化と、指針と、忠告を与え、知恵を増し加える。 (1.2.5.3) 1.3 こんにちにおける聖霊の啓示 みもと イエスが父の御許に戻られた後、聖霊が新しいものを啓示されることによってそれまで隠さ れていたことが明らかになる、とする根本的根拠は、ヨハネによる福音書 16 章 12 - 14 節の 言葉である「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた がたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたが たに告げるからである」。イエス・キリストは使徒たちに、神の本質や救いの御計画についてさ らに深遠なことを、聖霊を通して教わることになる、と約束されたのである。 初代の使徒たちは聖霊の働きを、主のお示しという方法で感じ取っていた。主について ( フィ リ 2:6 - 11;コロ 1:15 - 20) と、これから起こる出来事 ( 一コリ 15:51 - 57) への理解 が、聖霊によって深まったという事実は、使徒書簡群が証明している。こうして使徒たちの活 動や証しは、聖霊が彼らに啓示されたものによって拡大していった ( エフェ 3:1 - 7)。 こんにち活動しているイエスの使徒たちによる宣教は、聖書の言葉を基本としている (1.2.5 参照 )。使徒は宣教活動を行う時に聖霊に導かれる。こうして先述した御子の約束も、こんに ちにおいて成就している。つまり、イエス・キリストによって表されていた神の自己啓示が、 現在は聖霊による神の啓示として維持されているのである。さらに聖霊はキリストが再臨され ることを告げておられる。神の御子が人としておいでになり、死なれ、復活され、再臨される ことは、こんにちにおける啓示の中心である。 43 1 神の啓示 さらに聖霊は、神の働きや救いの御計画についての新しい考察を、使徒職に与えられる。こ の考察については、聖書で暗示しているものの、まだ全貌が明かされていない。ただ一例とし て指摘できることは、故人となっている者たちも救いに与ることができる、ということである (9.6.3 参照 )。 こうして聖霊が啓示しておられることを宣べ伝えたり、その啓示が新使徒教会の教義である ことを公にしたりすることについて、主使徒は、その職に与えられている教師としての権威に 基づいて、その義務を果たさなければならない。 まとめ イエス・キリストは使徒たちに、神の本質や救いの御計画について、聖霊がよりはっきりと分からせて下さる、と 約束された。 (1.3) 聖霊は使徒職に、神の働きや救いの御計画について新しい洞察を得させて下さる。具体的内容については、すでに 聖書の中で若干示されている。 (1.3) 1.4 信仰とは神の啓示に人が応答するもの 信仰は人生の中で基本的に存在するものの一つである。元々、世の中に関する特定の教義や 思想をいうのではない。立証可能な知識とは対照的に、 多かれ少なかれ根拠のしっかりした信念、 つまり真実と思われる事柄が、信仰である。さらに言えば、 非宗教的な意味における 「信仰」 とは、 自分から主体的に誰かを信頼する姿勢である。 宗教的教義であると公言するかしないかに関係なく、人は誰でも何かを信じている。そうい う意味で、信念とする物事によって、人それぞれの性格を知ることができる。 宗教の範疇になると、信じている宗教の特徴によって、宗教のあり方やその原理に自分自身 をはめ込むのである。 キリスト教の基本及びその宗旨は、神の三位一体性である。神が父、御子、御霊であるとい う信仰は、イエス・キリストによって人類にもたらされた。信仰の基本については、ヘブライ 人への手紙 11 章の中で次のように書かれている、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見え ない事実を確認することです」(1 節 )。この 11 章では、神に近づくためには信仰が不可欠であ 44 1.4 信仰とは神の啓示に人が応答するもの ることを言おうとしている「信仰がなければ、 神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、 神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、 信じていなければならないからです」(6 節 )。 しかしそれでも、信仰によって神へ至る道を見出せるのがいつなのかについては、神の恵み の働きに委ねられている。信じるならば、信仰を賜物として受け止め、信仰を生活の場で実践 すべきである (4.2.1.5 参照 )。 1.4.1 父なる神を信じる 聖書が証ししているように、神は様々な方法で歴史を通じて御自身を啓示する (1.1 参照 )。 こうした啓示のうち、人類が神を悟るのは、天地創造の業である ( ロマ 1:18 - 20)。例え ば詩編に天地創造を称える歌がある。 さらに神は御言葉を通して人類に御自身を啓示され、人類の生活を仲介される。例えば、神 はアブラハムをお呼びになり、生まれ故郷を出るように命じておられる。 アブラハムは神に従い、 神から示された道を無条件に信頼して進んで行った ( 創 12:1 - 4)。そうすることによってア ブラハムは神への信頼姿勢を示したのである。 神は御自身を啓示される時に、いつも信じることを人類にお求めになる。召命に適切に対応 するというのは、唯一信じること、つまり召命に心を開いて受け入れることである。さらに、 信じるならば、自ら進んで無条件に、神に身を捧げ神に服従するために、人生を組み立てる努 力をする。 旧約の中心は、創造者、救済者、解放者であられる神への信仰であったが、神は既に、御父 として御自身を啓示しておられた。イザヤ書には次のように書いてある「どうか、天から見下 ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。…あなたはわたしたちの父である」( イザ 63:15 - 16;申 32:6 参照 )。 1.4.2 御子なる神を信じる メシアの来臨という旧約聖書の約束は、神が人の姿となって御子としておいでになったこと さと < 神の擬人化 > により成就した。イエス・キリストはこう諭しておられる、「神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。」( ヨハ 14:1)。つまり、天地の創造主であり、イスラエルの 民と契約を交わされた、全知全能の神を信じると同時に、御子として啓示されたお方をも、神 45 1 神の啓示 として信じなさい、ということである。こんにちにおいても求められているこの信仰には、イ エス・キリストの言われた言葉を守ることも含まれる ( ヨハ 8:51;14:23)。 旧約時代、 「父なる神」とは、神の民を養って下さるお方を指す表現であった。しかし、 イエス・ キリストにより、神は永遠の昔からただお一人の子を持つ父であることが明らかになったので ある。 イエス・キリストは、人類が神の子となって初穂として召されるための道を開いて下さる (10.1.3 参照 )。そのために人類は水と御霊とによって再生をする。つまり洗礼と御霊の証印 とに与るということである。アブラハムの子孫であることではなく、救い主を信じてすべての サクラメント 聖礼典に与ることが条件なのである ( ロマ 3:22,29 - 30;エフェ 2:11 - 18)。初穂にな みもと るということは、主が再臨された時に御許に引き上げられることを直接に意味する。初穂とな ることで、神との永遠の交わりを保証されるのである。 1.4.3 御霊なる神を信じる 聖霊の働きについては既に旧約時代に証しされている。王や預言者は聖霊に導かれていた ( 例:詩 51:11< 新共同訳 13 節 >;エゼ 11:5)。 主の御言葉によれば、新約聖書に書かれている聖霊の働きは、天からもたらされた啓示であ る ( ヨハ 14:16 - 17,26)。ここでも、人類はこれに信仰をもって応える。こんにちにおい て聖霊はあらゆる真理に導き、神の御旨を啓示して下さるからである。 1.4.4 信仰と説教 イエス・キリストは、御自身がお遣わしになった者たち、つまり使徒を受け入れることが、 御自分と御自分が宣べ伝える福音を信じることになる、ということを明らかにしておられる 「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わした。…また、彼らのためだ けでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いする」( ヨハ 17:18, 20)。 福音を宣べ伝えることによって信仰を生み出す「実に、 信仰は聞くことにより、 しかも、[『賜っ た任務、命令』という意味における ] キリストの言葉を聞くことによって始まるのである」( ロ マ 10:17)。 キリストは天に昇られてから、使徒たちに対して、すべての民に福音を宣べ伝え、彼らに御 46 1.4 信仰とは神の啓示に人が応答するもの 言葉を守らせる任務を与えられた ( マタ 28:19 - 20)。救いと将来の贖いとに与るためには、 福音を信じて受け入れることが基本要件である。これについてマルコによる福音書 16 章 16 節 でこう書かれている「信じて洗礼を受ける者は救われるが、 信じない者は滅びの宣告を受ける」 。 まとめ 信仰は人生の土台に存在するものの一つである。(1.4) キリスト教の基本とその宗旨は神の三位一体性である。神が御自身を啓示される時は必ず、信仰が人類に求められ る。信仰は神から受ける恵みの行為である。人類は生活の中でその信仰を実践する必要がある。(1.4) 旧約時代、信仰の中心は、父なる神、天地の創造者、救済者、解放者である神であった。(1.4.1) 神が御子として人の姿でおいでになったことにより、旧約聖書に書かれているメシア来臨の約束は成就した。これ 以降、神は創造者だけでなく、イエスとしても啓示されることを信じる必要が生じた。水と御霊とによる再生を通 して、イエス・キリストは人類が神の子となる道を開くと同時に、初穂の身分を得る機会を与えて下さる。(1.4.2) こんにちにおいては、聖霊の神を信じる。聖霊はあらゆる真理に導き、神の御旨を啓示して下さる。(1.4.3) イエスから遣わされた者たちが述べ伝える言葉は、信仰をもたらす。救いを得るためには、説教を通して与えられ る神の御言葉を受け入れる必要がある。(1.4.4) 47 2.1 聖書の時代における信条文 2 信条文 信条文とは信仰に関する教義において根幹となる部分を集約したものである。信条文を公の 場で宣言する、つまり告白することは、それぞれの宗派に属すための要件の一つである。信条 文を公に宣言することにより、同じ告白をした他の人たちと同じことを信じることになる。信 条文によってその宗派の特徴や、他宗派との違いが分かる。 2.1 聖書の時代における信条文 信条文は旧約時代から既にあった。ヤハウェがイスラエルの神であるとする告白は、主が歴 史的にイスラエルの人々への救済を行ってきたことと関連していた。イスラエルの人々の救済 とは、すなわちエジプトから彼らを解放するである ( 申 26:5 - 9)。神が唯一であることを宣 言するこの告白は、他の神々を否定することを求めている ( ヨシュ 24:23)。 シナゴーグで行われる礼拝では「聞け、イスラエルよ」( シェマ・イスラエル ) という信条 文が中心的存在である。この信条文には特に次のような文言がある「聞け、イスラエルよ。我 らの神、主は唯一の主である。…こんにちわたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たち に繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、…これを語り聞かせなさい」( 申 6: 4 - 7)。 新約聖書の信条文では、神による具体的な救いとしてイエス・キリストが遣わされたことを 宣言している。初期の段階から、キリスト教徒が洗礼や礼拝の時に、自身の信仰を言い表すた めの宣言文があった。 その一例として、「イエスは主である」( ロマ 10:9) という宣言文がある。初代教会の信条 文では「本当に主は復活した」( ルカ 24:34) という宣言にも見られるように、主の復活に重 点が置かれている ( 一コリ 15:3 - 5 参照 )。同様に「マラナ・タ」( 一コリ 16:22)――「主 はおいでになる」と訳出される――も信条文と考えることができる。これは初代教会でもアラ ム語を話す会衆の中で用いられたのが最初である。 そのほかに、イエス・キリストやその本質や御業を扱った告白文は、初代教会で読まれてい た詩歌の中に見ることができる。例えばテモテへの手紙一 3 章 16 節である「キリストは肉に おいて現れ、/ “ 霊 ” において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、 /世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた」( フィリ 2:6 - 11;コロ 1:15 - 20)。 49 2 信条文 2.2 初代教会が採用した信条文の起源 キリスト教がローマ帝国内に広まっていくと、以前の宗教や哲学の考えに固執したりそこか ら抜けきれなかったりする人たちも、部分的であれ、少なからずいた。こうした旧来の考えと キリスト教の教えとが混ざり合って、異端の教派が生じ、これが信徒たちに不安をもたらした。 特に、三位一体とイエス・キリストの本質に関する教義を巡って、深刻な論争に発展した。こ うした状況を打開するために、会衆や信徒一人ひとりの信仰を一致させるために、教義綱領を 宣言文のようにする取り組みが行われた。神の存在や神の働きに関係したある文言が信条文と なり得るかどうかを決める際に、その文言と、キリストやその使徒たちの教えとが一致するか どうかが、信条文を決定する基準になった。そして時間が経過する中で、使徒信条、ニカイア・ コンスタンティノポリス信条、アタナシウス信条といった様々な信条文が作られた。 2.2.1 使徒信条 使徒信条は元々、初代使徒たちの時代の後に作られたのが最初である。使徒信条にある主要 部分の一部は、使徒ペトロがコルネリウスの家で行った説教を基本としている ( 使 10:37 - 43)。まず基本部分が紀元 2 世紀に作られ、その後 4 世紀に若干の文言が追加された。 信条文は以下の通りである: 「天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、 わたしたちの主イエス・ キリストを、私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に 死人のうちから復活し、天に昇られました。そして全能の父なる神の右に座し、そこから 来て、生きている人と死んだ人とを裁かれます。聖霊を私は信じます。また、聖なる公同 の教会、聖なる者たちの交わり、罪の赦し、 からだの復活、 永遠の命を信じます。アーメン。 」 2.2.2 ニカイア・コンスタンティノポリス信条 紀元 325 年、コンスタティヌス 1 世はニカイア宗教会議 < ニケア公会議 > を招集した。こ の会議の呼びかけにおよそ 250 ~ 300 名の司教が参加した。コンスタンティヌス 1 世は、広 く普及したキリスト教の信仰を、国家を支える潜在能力と考えた。しかしキリストの本質を巡 50 2.2 初代教会が採用した信条文の起源 おびや る論争によって、キリスト教の統一性が脅かされていた ( いわゆる「アリウス論争」)。そこで コンスタンティヌス 1 世は司教たちに統一した教義を作らせようという思いを強く持ったので ある。 この公会議がもたらした重要な成果は、ニカイア信条が制定されたことである。その後、8 世紀までの数回の公会議――その中でも 381 年に行われた第 1 コンスタンティノポス公会議は 大きな役割を果たし、より改善された信条が次々と作られた。特に、ニカイア・コンスタンティ ノポリス信条は、使徒信条よりも神の三位一体性をはっきり打ち出しており、教会が持つ特徴 をはっきりと宣言している。ニカイア・コンスタンティノポリス信条の告白文は以下の通りで ある: 「私たちは、唯一の神、全能の父、天地とすべての見えるものと見えないものの造り主を ばんせい 信じます。また、万世の前に父から唯一生まれた御子、唯一の主、イエス・キリストを信 じます。主は光よりの光、神よりの神、生まれ、造られず、御父と一体であります。すべ てのものは主によって造られました。主は私たち人類のため、また私たちを救うために天 から降り、聖霊によっておとめマリアからからだを受け、人となり、ポンテオ・ピラトの もとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあ よみがえ るとおり三日目に蘇り、天に昇り、父の右に座しておられます。また主は未来において、 生きている人と死んだ人とを裁くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わるこ とがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子 1か ら 出 ら れ 、 父と子とともに崇められ、称えられ、預言者によって語られた主です。ま た私たちは、唯一の、聖なる、公同 [ カトリック ] の、使徒的教会を信じます。罪の赦し のための唯一の洗礼を信認し、死者の蘇りと来世の命を待ち望みます。アーメン。 」 だいたいニカイア信条と一致するものの、文言のかなり多いのがアタナシウス信条である。 6 世紀に成立したと思われ、フランスのオートンで行われた宗教会議 (670 年 ) で公式に発表さ れた。 1「子」という文言は ( ラテン語 filioque)、当初存在せず、8 世紀に西方教会によって付け加えられたものであるが、 その表現の追加を巡って東方教会と論争となり、こんにちに至るまで、東方教会で採用されるニカイア・コンスタン ティノポリス信条には「子」の文言がない。この論争は、1054 年にローマ・カトリック教会と東方正教会が分裂し た要因の一つとなった。分裂後、西方教会はローマ・カトリック教会、復古カトリック教会、改革派教会に分派し、 東方教会は各地に正教会が成立していった。 51 2 信条文 2.3 初代教会が採用した信条文と それが新使徒教会に果たした意義 新使徒教会の教義は聖書に基づいている。初代教会が採用していた信条文は、旧新約聖書で 証しするキリスト教の信仰の基本を表現している。初代教会の信条文は聖書で証ししている事 柄を逸脱していない。むしろその内容を簡潔で拘束力のある言葉でまとめている。こうして信 条文自体は、様々な垣根を越えて――水のバプテスマのように――すべてのキリスト教徒の一 致を表現している。 新使徒教会は、初代教会が採用していた二つの信条文に書かれているように、神の三位一体 性を信じ、真の神で真の人であられるイエス・キリストが処女マリアよりお生まれになったこ サクラメント とを信じ、聖霊が遣わされていることを信じ、教会を信じ、聖礼典を信じ、キリストの再臨を 信じて待望し、そして死者の復活を信じることを公に告白している。 まとめ 信条文とは、信仰の教義の根本をまとめたものである。信条文を読むことで、宗派独自の特徴が分かる。 (2) 旧約時代には既に信仰を告白する定式文があり、その中では、エジプトからの解放という歴史に基づく救いの業と 関連させて、神の唯一性を告白している。 (2.1) 新約聖書は、神の救いがイエス・キリストを通して行われたことを告白する内容となっている。 (2.1) 神の三位一体性やイエス・キリストの本質を巡る論争によって、複数の信条文が成立したものの、新約聖書が成立 の基準になった点、 つまりイエス・キリストとその使徒たちによる教義という点ではどの信条文も共通である。(2.2) 使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、アタナシウス信条のうち、使徒信条は紀元 2 世紀にまとめられ、 4 世紀に文言が若干追加された。ニカイア・コンスタンティノポリス信条は神の三位一体性を、特別な表現で告白 している。 (2.2.1;2.2.2) 初代教会の信条文は聖書の証しを簡潔にまとめたもので、権威を持つ。権威を与えられることで、様々な垣根を越 えて、すべてのキリスト教徒が一つであることを示している。 (2.3) 新使徒教会は初代教会が採用していた二つの信条文に定められている内容を、信仰告白としている。 (2.3) 52 2.4 新使徒信条 2.4 新使徒信条 聖書の言葉や初代教会の信条文を、信仰の権威に位置付けて解釈することは、使徒職の任務 である。そしてこれによってもたらされた大きな成果が新使徒信条である。新使徒信条には、 新使徒教会の信仰や教義が明記されている。 新使徒信条は初代教会で採用されていた信条文と密接に関連している。最初の三項目は使徒 信条と同じである。これは初代教会が採用していた信条文の意義をはっきり確認するためであ サクラメント る。そして、牧会宣教、聖礼典の執行、終末についての教育、個人と社会との関わり方につい て考える時に、最初の三項目をどう解釈し、どのように適用・補足すべきかを示しているのが、 残りの七項目である。 新使徒信条は何度か改訂を繰り返してきた。それは、新使徒教会の信仰を適切且つ時代に適 応した形で発展させるためである。時として解釈は継続的である。新約聖書も同様で、昔から 文言の修正が繰り返されているし、その解釈についても世代が反映されてきた。昔から固定し たままではなく、保護されてきたものもあれば変化してきたものもある。保護と変化というこ の二つの要素は伝統を守る上でとても大切である。解釈も同じである。保護しなければ、教会 の教えについての歴史が忘れ去られ、教えの原点が放棄され見えなくなる。しかし変化しなけ れば、教会の教えは新しい時代において不可解なものとなり、特定の時代にしか分からないよ うなものになってしまう。 時代を経る中で、新使徒信条は、神が三位一体であること、イエス・キリストが擬人化した 神であること、イエスの犠牲の死、イエスの復活、イエスの再臨、教会が救いを与える権威者 サクラメント であること、使徒が遣わされていること、聖礼典が救いを与えて下さる神の愛と配慮の表現で あることを、信じる事柄として広く宣べ伝えるようになった。 新使徒教会員は新使徒信条を告白する必要がある。どういう姿勢で信仰に臨むべきかを定め ているのが、この新使徒信条である。さらに新使徒信条によって、新使徒教会の信仰における 基本的内容を簡潔な形で熟知することができる。 新使徒信条は、二つの事実を認識した上で作られている。それは、一つは、神の愛、神の恵み、 神の万能性を教義や告白文で余すことなく表現することはできないということと、もう一つは、 神のこうした特徴が持つ偉大さは人の語る言葉などでは表現し尽くせない、ということである。 それゆえ、この新使徒信条によって、他宗派のキリスト教徒を救いから排除しようとするよう な意図はまったくない。 53 2 信条文 2.4.1 第一条 私は、天地の創り主、全能の父である神を信じます。 第一条は、 神が父であり創造者であることを表している (3.3 参照 )。神が創造者であることは、 旧約聖書にも新約聖書にも証しされている。天と地の両方、つまり――ニカイア・コンスタン つく ティノポリス信条が宣言しているように―― 「すべての見えるものと見えないもの」 が創られた、 ということである。物的なものも霊的なものも、神による創造の業を基礎として存在している。 すなわち神はあらゆる事実をお創りになった。この事実が神を証ししている。 神の万能性は創造の業においてだけでない。神はあらゆる点において万能である。神がまった く前提条件の無いところから事物を創造された事実からも、神の万能性を知ることができる ( ラ テン語「クレアチオ・エクス・ニヒロ creatio ex nihilo」 「無からの創造」)、ヘブライ 11:3)。 第一条は、創造者である父なる神について取り上げているものの、ここでは御子なる神及び 聖霊なる神も創造の業に関わっていることが明記されている。つまり、三位一体の神が全体で 創造の御業に携わったということだが、このことは創世記 1 章 26 節にもその主旨のことが暗 示されている「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」 。ヨハネによる福音書 1 章 1 節 及びコロサイの信徒への手紙 1 章 16 節にも、御子が創造の業に関わられたことがはっきりと 書かれている。 2.4.2 第二条 私は、神の唯一の御子、私たちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、お とめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで よ み よみがえ 葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから蘇り、天に昇られたことを信じます。そして全 能の父である神の右に座し、そこから再びおいでになります。 第二条では、キリスト教信仰の土台でありその対象である、イエス・キリストを取り上げて いる。 「イエス・キリスト」という表現自体、ナザレのイエスが約束のメシア ( ヘブライ語: 「油 注がれた者」ギリシア語:「キリスト」) であり、イスラエルが待ち望んでいたお方である、と いうことを告白している。 しかしイエスはメシアであるだけでなく神の「神の唯一の御子」でもある ( ヨハ 1:14, 18)。これは、父なる神と御子なる神とが一体であることを表している。ニカイア・コンスタ 54 2.4 新使徒信条 ばんせい ンティノポリス信条ではこの「唯一の御子」について、 「万世の前に父から唯一生まれ」 、 「唯一 の主」 、 「光よりの光、神よりの神、生まれ、造られず、御父と一体」である、とその意味を明 らかにしている。旧約聖書でいう「主」は神を表するが、新約聖書になると、イエス・キリス トを表すようになる。それはイエス・キリストが天来の性質を帯びていることを強調するため である。第二条にある「主」という表現には、イエスが天と地の支配者であるという意味もあ る ( フィリ 2:9 - 11)。 次に、人であるイエスが元々神の性質を備えたお方であり、不思議な方法で誕生したことを 述べている。イエスの受胎は聖霊によるものであり ( ルカ 1:35;マタ 1:18)、人による一般 かいたい 的な受胎ではない。マリアは処女としてイエスを出産している ( ルカ 1:27)。処女懐胎という 事実を軽視したり昔のおとぎ話として捉えたりすべきではない。この事実はキリスト教の信仰 における根本である。四福音書に書かれているマリアの記述からわかることは、イエスが真の 人であり母親がいたということである。 イエスが歴史的に実在していたことは「ポンテオ・ピラト」に関する記述から明らかである。 この人物は紀元 26 ~ 36 年にかけてパレスチナを統括していたローマ帝国の総督で、彼の任期 あ 中にイエスが受難に遭われている ( ヨハ 18:28 以下 )。続いて第二条では、イエスに関わる三 つの重要な出来事に触れている。つまり「十字架につけられ、死んで葬られ」た、ということ である。ここで、イエスが本当に人であったことを、改めて強調している。イエスは屈辱的な 死である十字架の死に耐えなければならなかった。その後イエスは死んで葬られた。つまり普 通の人と同じ運命を歩まれたわけである。この一連の流れの中で起きた特別な出来事が「陰府 に下り、三日目に死人のうちから蘇り」という短い言葉でまとめられている。これは、私たち 人間の経験値を超える出来事であり、信仰を観点にしなければ、理解したり考えを表明したり することはできない。これ以外にももう一つの事柄を、この信条文の中で告白している。それ はコリントの信徒への手紙一 15 章 3 - 4 節の中でも触れられていることである「最も大切な こととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものである。すなわち、キリス トが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖 書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」 。この中で「聖書に書いてあるとおり」という文 言が二度使われているのは、この一連の出来事における一つひとつが偶発的に起きたのではな く、それぞれが救いの歴史における必然であることを示している。イエス・キリストは「復活 した」と告白する。イエスが復活されたことは、死んだ者は復活するということを一般化する ための前提であり、また死者の復活を約束するものである。 一方で、新使徒信条と同様に、使徒信条にも、「死んで葬られ」と「三日目に死人のうちか ら蘇り」との間に「陰府[死者の領域]に下り」との文言が入っている。その根拠も新約聖書 に明示されている。ペトロの手紙一 3 章 19 節に次のように書いてある「そして ( 十字架上の 55 2 信条文 死を遂げられた後に )、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教 されました」。 「死んで…蘇り」、その次に「天に昇られた」と告白している ( 使 1:9 - 11)。この部分の 結びとして、この世におけるイエスの生涯――蘇られたお方として直接この地上におられた時 みもと も含めて――についての告白がある。蘇られて天に昇られたとは、父の御許に帰られて高くさ れたということである。このようにイエス・キリストが高くされた状態については「全能の父 である神の右に座し」と表現している ( コロ 3:1)。 第二条全体の最後に、高められた主が御自分の民を御許に迎えるために再臨することを告白 している ( ヨハ 14:3)。 2.4.3 第三条 私は、聖霊と、唯一で聖なる公同の使徒的教会と、聖徒の交わりと、罪の赦しと、死者の復活と、 永遠の命とを信じます。 第三条の最初は、聖霊を信じることの告白である。聖霊は神の第三位格である。ニカイア・ コンスタンティノポリス信条でも、聖霊が神に由来するものであり、父と御子と一つであるこ とを告白している「主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ 、父と子と ともに崇められ、称えられ、預言者によって語られた主である」 。この告白によって、信徒は聖 霊を認め、聖霊が神性であることを認めている。 聖霊によって成し遂げられた御業の一つが、教会である。教会は人間が発想したり造ったり したわけではなく、神が設立されたものである。教会は、自分の意志で洗礼を受け、キリスト に従い、イエス・キリストが主であることを公に言い広める、つまり告白する人たちの集まり である。キリスト教会が設立された目的は二つある。一つは、人類が救いに与り、三位一体の 神との永遠の交わりが得られることである。もう一つは神を称え、神を崇めることである。 イエス・キリストの教会には秘められている側面と明らかにされている側面とがある。これ はイエス・キリストが、真の人であり真の神である、という二つの性質をお持ちであることと 関係している。秘められている側面は (6.3 参照 )、人間の理性によってそれを知ることは不可 サクラメント 能であるが、信仰によるならば可能である。そして、例えば聖礼典や神の御言葉、つまり天来 の救いや神が近くにおられることを悟らせるあらゆるしるしによって、その秘められている側 面を体験することもできる。教会において明らかにされている側面とは、イエス・キリストが 真の人であるということである。教会は、 人としてのイエスと同様に、 人類の歴史の一部である。 56 2.4 新使徒信条 とはいえ、人としてのイエスには罪が無かったが、教会において明らかにされている側面につ いては、罪が無かったわけではない。教会では、それを運営する人間の性質によって、罪が存 在する。そのため人間の歴史における過ちや不完全さは、教会内でも存在するのである。 使徒信条は「聖なる公同の教会」とのみ告白している。これは「唯一の、聖なる、公同の、 使徒的教会」というニカイア・コンスタンティノポリス信条からの抜粋である。この信条文は、 キリスト教会として無くてはならない要件が「唯一」 「聖なる」 「公同」 「使徒的」であることを 明記している。 教会は「唯一」である:イエス・キリストの教会が唯一である根拠は、神が唯一であるとい かしら うことである。父なる神は創造主である。イエス・キリストは教会における唯一の頭である。 イエス・キリストは唯一の主である。聖霊はこの教会の中で働かれ、信徒を真理の知恵で満た される。 教会は「聖なる」ものである:教会は神によって聖なるものとされている。教会の中で、聖 サクラメント なる事象が啓示され――例えば聖礼典を通して――教会の中で、聖霊が活動する。 教会は「公同」( ギリシア語「カトリック καθολικός」) である:教会が一般性もしくは普遍 性を持ち合わせているというのは、教会がすべてを包含するという意味である。つまり人間が 体験するあらゆることを超越するということである。すべてを救おうとする神の御旨は教会に おいて直接的に伝わる。しかもこの世も来世も、過去も現在も、すべてを救おうというもので ある。救いの御旨は未来にも伝えられて、新しい創造の業が完成していくのである。 教会は「使徒的」である:これには、教会の使徒性という言葉の意味の問題と、使徒という 人物の問題と二つの面がある。教会が使徒的なのは、一つは、初代の使徒たちによって宣べ伝え られたキリストの死と復活と再臨についての福音が現在の教会でも宣べ伝えられているからであ り、もう一つは、こんにち教会で活動している使徒によって歴史的に使徒職が存在してきたから である。 歴史的に見て、唯一で、聖なる、公同の、使徒的という教会のあるべき姿を完全に実現でき たことは一度もない。その原因は、何よりも教会で活動する人間の罪深さにある。しかし、そ うした不完全な状態であるにもかかわらず、キリスト教会は消滅したり利用されなくなったり サクラメント したことはない。使徒職が存在して、生きている人にも死んだ者にも三つの聖礼典が執り行われ、 御言葉の宣教が正しく行われている所であれば、極めてはっきりとキリスト教会を体験できる。 キリスト教会では、キリストの花嫁を天の婚宴の準備をさせるための、主による贖いの業 が構 築されている。 教会はすべての信徒にとって聖なるものであるが、狭い意味でいう「聖徒の交わり」には終 末論的側面がある。つまり、キリスト再臨の時にはじめて明らかになるキリストの花嫁に属す 者たちである。しかし広い意味でいう「聖徒の交わり」には現代的側面がある。つまりキリス 57 2 信条文 ト教会に属すすべての者たちを意味する。いずれにしても最終的に「聖徒の交わり」に属す者 たちは、新天新地が創造された時に完全な姿となる。 「罪の赦し」を得る機会は、キリストの犠牲によって創設されたものであるが、これは信仰 告白の目的でもある。罪の支配から根本的に解放されるために、 水によるバプテスマが行われる。 これにより、生まれながらの罪が洗い流される。 第三条の最後は、終末時代に向けた希望が二つ掲げられている。それは「死者の復活」と「永 遠の命」である。イエスの復活を信じ、死者の復活を――イエスの復活を信じることが前提で ――信じることは、キリスト教信仰における必須要素の一つである。 「死者の復活」とは、キリ ストのうちに死んだ者が輝かしい体を得、神の栄光に共に与る ( 一コリ 15:42 - 44)。 第三条の最後は「永遠の命」に触れている。つまり、新しく創造され、神と永遠に親しく交 わることを告白するのである。 2.4.4 第四条 おさ 私は、主イエスが御自身の教会をお治めになること、そのために使徒をお遣わしになったこと を信じます。そして御自身が再びおいでになるまで、教え、イエスの御名によって罪を赦し、 水と聖霊とによるバプテスマを授ける職務を、使徒にお委ねになったことを信じます。 第四条は、第三条で述べている、教会における信仰についてさらに深めている。ここではま かしら ず、イエス・キリストによる支配について述べている。イエス・キリストは「教会の頭」である。 それゆえ、教会をお治めになる ( コロ 1:18)。そして特に、教会を支配するために使徒が遣わ サクラメント されることに言及している。いわゆる大宣教令 ( マタ 28:19 - 20) も、福音の伝道と聖礼典 の施与が元々使徒職に与えられた職務であることを示している。第三条と同様に第四条でも、 教会が使徒的であることにに言及しており、教会の歴史的事象から見ても、教会の具体的枠組 みの中に、使徒職が組み込まれている。 歴史的に見ても、使徒職が初代教会の時代にしか存在しなかったわけではない。 「御自身[イ エス]が再びおいでになるまで」使徒職の任務を遂行する必要がある。イエス・キリストによっ て使徒を通してもたらされる効果――信徒一人ひとりが体験できることであるが――について、 次のように書かれている「教え、イエスの御名によって罪を赦し、水と聖霊とによるバプテス マを授ける」。 「教える」職務とは、主の死、主の復活、 主の再臨に関する福音を正しく宣べ伝えることである。 さらに「イエスの御名によって罪を赦す」ことが、使徒たちの担うべき職務である ( ヨハ 20:23)。つまり、イエス・キリストの徳とその犠牲に基づいて、人類に決定力を伴った罪の 赦しを宣べ伝えるのである。 58 2.4 新使徒信条 第四条の最後で、水と聖霊とによるバプテスマについて触れている。使徒職にはこの水と聖 霊とによるバプテスマを授ける職務、つまり神による新しい創造の実現を可能とするこれらの サクラメント 聖礼典を授ける職務が与えられている。 2.4.5 第五条 私は、神によって定められた教役者が使徒によってのみ任命されること、牧会宣教職に与えら れる権能、祝福、聖別は使徒職からもたらされることを信じます。 第五条も、第四条と同様に使徒職の重要性に触れている。第四条が教義の適切な宣教・罪の サクラメント 赦し・聖礼典の施与と、使徒職との関係を述べているのに対して、第五条が取り上げているこ とは、霊の職位である。人は神から牧会宣教職の任命を受ける。それゆえ、人が牧会宣教職に つ 就くのではなく、そもそも会衆がその職を行うわけではない。牧会宣教職は神が教会に対して お与えになった神の賜物なのである。第五条で書かれているように、人が担う牧会宣教職は、 人の判断ではなく天来の御旨に基づいている。牧会宣教職の任命は使徒職が行う。牧会宣教職 と使徒職は互いに密接な関係にある。従って、使徒職が活動する所には、霊の職務も存在する (7 参照 )。キリスト教会には、他にも、福音宣教を目的とした職務や信徒の利益に寄与する職 務が様々にある。ただしこうした職務は任命を経ずに行うことができる。 教役者は使徒職を通して「教役者に与えられる権能、祝福、聖別」が与えられる。牧会宣教 職はそれ自体が目的ではない。牧会宣教職に就くために何かをするというのではなく、教会、 特にほとんどの場合会衆の中に牧会宣教職の役目が存在している。「牧会宣教」とは、イエス・ キリストや会衆への奉仕と理解すべきである。 霊の職位を任命する際には「権能、祝福、聖別」という三つの概念を伴う。特に司祭職にとっ て、「権能」の部分が持つ重要性は決定的である。司祭職には、使徒の委任を受けて罪の赦しを サクラメント 宣言し、聖餐を聖別する権能が与えられるためである。司祭職は使徒職を通して聖礼典を適切 に執り行う。「権能」は使徒職を通して与えられるもので、救いをもたらそうとする神の絶対的 な御旨が、この権能によって適切に宣べ伝えられる。司祭職も執事職も、職務を遂行する中で、 天からの援助や聖霊の助けに与れることを確信するのは、 「祝福」によってである。そして「聖 別」とは、聖なるお方である神御自身が牧会宣教職を通して働きかけをして下さることを指す。 「聖別」する必要があるのは、教会が「聖なる」ものだからである。 59 2 信条文 牧会宣教職は、神に選ばれたとはいえ、その職務が中途半端になったり全くできなかったり することがある。しかしそれでも、神から召されたことに疑義を挟むことはあり得ない。 「 [牧会宣教職に与えられる]権能、祝福、聖別」は使徒職から与えられる。それゆえ、どの 牧会宣教職も使徒職との関係を断ち切ることができない。 2.4.6 第六条 私は、水のバプテスマが聖霊による人の新生に至る第一段階であること、水のバプテスマを受 けた者が、イエス・キリストを信じイエス・キリストが主であることを公に宣べ伝える者たち の仲間に加わることを信じます。 第六条が取り上げているのは水のバプテスマである。水のバプテスマが不可欠な要素である ことを述べている。洗礼によって、根本から分離していた神と人との関係が、一時的に修復さ れる。洗礼は、人が徳を積むことによって、つまり人が自ら決意して神を受け入れることで成 し遂げられることではない。神が人類に歩み寄られ、人類を罪の支配から解放して下さること によって、洗礼が成し遂げられる。罪に勝利するためにキリストによる犠牲の御業とその力を、 神の愛と配慮によって人類が共有させていただく。これは、人の生まれながらの罪が水の洗礼 ( バプテスマ ) によって洗い流されて、洗礼を受けた者がキリスト教会に組み込まれることに よって、具体化する。 つく 水のバプテスマが神の御前に新しく創られた者となるための要件をすべて満たすわけではな い。水のバプテスマは「聖霊による人の新生に至る第一段階」である。聖霊による新生に至る 過程が水のバプテスマによって開始され、その次に、御霊の証印によって聖霊という賜物が与 えられる。この御霊の証印が完了することで、はじめて水と御霊による再生が果たされたこと になる。 水のバプテスマは神との交わりだけでなく、キリスト教徒同士の交わりをもたらす。「水の バプテスマを受けた者が、イエス・キリストを信じイエス・キリストが主であることを公に宣 べ伝える者たちの仲間に加わる」と告白している通りである。キリストを信じるすべての者た ちは、イエスがキリストであり主であること――つまり生き方を決める力であること――を信 じることになる。 60 2.4 新使徒信条 2.4.7 第七条 私は、キリストが完全に有効な犠牲としてただ一度捧げられ、断腸の苦しみを受けた末に死な れたことを記念して、キリスト御自身により聖餐が制定されたことを信じます。聖餐にふさわ しく与ることにより、私たちの主であられるイエス・キリストとの交わりが築かれます。聖餐は、 種入れぬパンとぶどう酒によって、執り行われます。このパンとぶどう酒は、必ず使徒から任 職を受けた教役者が聖別して、これを施します。 第六条が洗礼について述べているのに対して、第七条では聖餐を取り上げている。第一文で は、聖餐がイエス・キリストによって制定されたことを告白している。第二文では、ふさわし い姿勢で聖餐を受けることによってもたらされる効果を述べている。そして最後の第三文の主 旨は、聖餐を聖別してこれを施すためにはその権能を与えられた教役者が必要である、という ことである。 サクラメント まず、聖餐というこの聖 礼典は記念の食事である、と述べている。この考え方は、聖餐に 関してこんにちまで伝えられてきた最古の文書の中でも明らかにされている。教会員らに向 かってイエスを覚えなさいと命じているのはイエス御自身である ( 一コリ 11:24 - 25)。聖 餐は「キリストが完全に有効な犠牲としてただ一度捧げられ、断腸の苦しみを受けた末に死な れたこと」を記念する。つまりイエスによる犠牲の業と、その犠牲の時間を超越した意義深さ を記念する。これは、四福音書に書かれているイエスの「苦しみと死」と関連している。そし て聖餐の持つ意義の永続性に続けて、イエスが十字架の刑を受ける直前に行われた具体的な出 来事を記念する。 聖餐を受けることには大きな効果がある。ただし「ふさわしい姿勢で」受けることが要件で ある ( 一コリ 11:27)。それを可能にするのは何よりも、信仰と、罪の赦しを受け入れること、 そして悔い改めの心を持つことである。そして聖餐にふさわしく与ることによって「私たちの 主であられるイエス・キリストとの交わりが築かれる」( ヨハ 6:56)。そういう意味で、聖餐は、 イエス・キリストを信じイエスに従おうとする願いやその実行力を強くする。聖餐が行われる 中で、主であるイエス・キリストと聖餐をを通して交わりを持つことができ、イエスに従う生 き方ができるための力をいただくことができるのである。 さらに第七条では、聖餐が「種入れぬパンとぶどう酒によって執り行われます」と告白して いる。聖餐を執り行うためには、「種入れぬパンとぶどう酒」――どちらも過越祭の食事と同じ もの――を用意しなければならない。水の洗礼バプテスマと同様に、 「種入れぬパンとぶどう酒」 は、聖餐を執り行うのに、目に見えるものとして必要な要素なのである。 聖餐における可視的部分の次に、第七条が最後に言及しているのは、この聖餐の持つ現実性 ――つまりキリストの体と血であるという事実――を示すための要件である。それは、パンと 61 2 信条文 ぶどう酒を「必ず使徒から任職を受けた教役者が聖別」しなければならないということである。 使徒職もしくは使徒から権限を受けた教役者によって、パンとぶどう酒がキリストの体と血に なる (8.2.22 参照 )。 この聖餐全般が持つ現実性を構築するために、必要な権限を与えられている牧会宣教職は、 せ よ 二つのことを行う。それは聖餐の聖別と施与である。まず、 「聖別」もしくは「聖別する」とい うのは、パンとぶどう酒を本来の飲食用と区別することを意味する (「父、御子、御霊なる神 の御名によって、聖餐にあたり、パンとぶどう酒を聖別します」)。そして聖餐の執行を宣言す ることによって、秘められているイエスの体と血の存在が、見える形として明らかにされるこ ほどこ とを告白する。次に、「施す < 施与する >」とは、キリストの体と血に、会衆が与れるようにす ることである。具体的には、聖餐に招き、聖別されたウェファーを施与する。 2.4.8 第八条 私は、水のバプテスマを受けた者が、神の子としての身分を受け、初穂となる要件を獲得する ために、使徒によって聖霊に与らなければならないことを信じます。 第八条は、御霊の証印つまり聖霊のバプテスマを扱っている。信徒に聖霊の賜物を与えるこ とである。 サクラメント 御霊の証印は使徒職だけが執り行うことのできる、一度だけ行われる聖礼典である。これを あずか 受けるためには、洗礼を受けていることが要件である。洗礼に与った者だけが、聖霊の賜物に 与る。 御霊の証印には、こんにちにおける効果と将来における効果とがある。聖霊の賜物を受ける ことによって、こんにちもたらされる効果は「神の子になること」である ( ロマ 8:14 - 17)。 水と御霊とによって再生を果たしたキリスト教徒は「神の子」の身分となる。神の子になるこ とにより、将来において、いわば初穂の地位を得、「王の系統を引く祭司」( 一ペト 2:9) とな る見込みが与えられる。従って、「神の子である」ということは、神の御前に立つ人がキリスト サクラメント の再臨までに、すべての聖礼典を受けていて、福音を正しく宣教するために生活が適応してい る状態にある、ということである。聖霊という賜物を受けることによって、将来、初穂として の地位を得るという効果がもたらされる。しかし御霊の証印を受けた段階では、まだ初穂の地 位を得ることはできず、初穂の地位を得るための要件を得ただけである。キリストの日に向け て努力するならば、花嫁の会衆、つまり「聖徒の交わり」に加わることができる。御霊の証印 サクラメント に与った者たちは、常にキリストに従い、御言葉と聖礼典を通してイエス・キリストの再臨に 向けて準備すべきである。 62 2.4 新使徒信条 2.4.9 第九条 私は、主が昇天されたのと同様に必ずまたおいでになり、主の来臨に希望を託しそのために自 みもと また、 らを整えてきた故人や存命者たちを、初穂として御許に引き寄せて下さることを信じます。 天における婚姻の後、主がその初穂と共に地上にまたおいでになり、平和の御国をお建てにな ることを信じます。そして、初穂たちが王の祭司として主と共に御国を治めることを信じます。 平和の御国の終結後、主は最後の審判を下されます。そして神は新しい天と新しい地をお創り になり、御自分の民と共に、永遠に住まわれます。 第九条は、第二条及び第三条の内容と同様に ( キリストの再臨、死者の復活、永遠の生命 )、 終末の出来事を扱っている。第九条の主旨は、将来においてこうした出来事が起こることを新 使徒教会の信仰とする、ということである。 第九条の冒頭は「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた がたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」という使徒言行録 1 章 11 節の内容である。 さらに第二条にある終末時代に関する告白内容を発展させている。 イエス・キリストの再臨に伴って、主は「主の来臨に希望を託しそのために自らを整えてき た故人や存命者たちを、初穂として御許に引き寄せて」下さる ( 一テサ 4:16 - 17)。 「故人や 存命者が初穂と」なると、その初穂に霊の体が与えられ、再臨されるキリストの御許に引き上 げられる。 「初穂」とは、神の財産となり、主の再臨を期待し続け、そのために自らを備えてき た者たちのことである。 キリストの再臨はその後の終末時代を左右する最大の出来事である。 「故人や存命者たち」 たと が成長すると、彼らはイエス・キリストと交わることになる。これを「天の婚姻」に喩えている。 「天の婚姻」は、主とその花嫁の会衆と直接交わりを持つことから始まる。 「天の婚姻」は一定の期間であり、これが終わると、イエス・キリストは――御自分の民と 共に――天の婚姻に加われなかったすべて人たちに直接目を向けられる。そしてイエス・キリ ストは見える姿で地上においでになり、「千年の平和王国」を設立される(黙 20:4,6) 。花 嫁の会衆は――その数は象徴的に「十四万四千」とされているが ( 黙 14:1)――「王の血統を ひく祭司」として ( 一ペト 2:9;黙 20:6)、キリストと共にその御国を統治する。そしてこ の世の者たちにも故人となった者たちにも、すべてに福音が宣べ伝えられる。 「平和の御国の終結後、主は最後の審判を下される。」この時イエス・キリストが義によって 裁くお方であることを、すべての被造物は知ることになり、イエス・キリストに、何一つ隠し 立てをすることができない ( ヨハ 5:22,26 - 27)。 第九条の最後は、未来における神の創造の業についての展望が示される「そして神は新しい 63 2 信条文 天と新しい地をお創りになり、御自分の民と共に、永遠に住まわれます」 。まず、ヨハネの黙示 録 21 及び 22 章に描かれている新しい創造の業について触れている。こうして創られた被造物 もと は、神の完全なる御臨在の下に置かれる。神が御自分の民と共に永遠に住まわれるというのは、 全く新しく創られた者たちが神と共にいることを意味する。これは、第三条の最後に書かれて いる「永遠の命」を指している。 2.4.10 第十条 私は、神による律法が侵されない限り、この世の権力に服従する義務を負うことを信じます。 第十条は、それまでの九つの信条文と、根本的に異なっている。第一条から第九条では、神 サクラメント による創造の業、御子と聖霊、教会、教会で行われる牧会宣教や聖礼典、未来への希望を扱っ ているのに対して、第十条が扱っているのは、キリスト教徒の国家との関わり方である。 おおやけ 第十条では、キリスト教徒が 公 及び社会の現実的枠組みから逸脱しない生き方をすること が明確に示されている。キリスト教が国家つまり「この世の権力」に対して肯定的な関係にあ るのが普通である、ということである。こうした肯定的な関係を「服従」という表現で集約し ている。 キリスト教会と政治権力との関係は、新約時代からかなり検討されていた ( 一ペト 2:11 - 17)。ローマの信徒への手紙 13 章 1 - 7 節では国家を「神に仕える者」と表現していることは、 よく知られているところである。しかしこの表現は多くの誤解を生んだ。たとえ不法な国家で あっても無条件に服従しなければならない、と解釈される可能性があるためである。しかしこ のような解釈では、国家が神に仕える、つまり神の御旨――例えばモーセの十戒――が国家の 律法を定める上での規範である、という観点が抜け落ちてしまう。 ローマの信徒への手紙 13 章 1 - 7 節は第十条の背景でもある。ここでは「服従すること」 ――つまり国家への忠誠――だけを要求しているのではない。 「神による律法が侵されない限り」 とあるように、服従すべき対象の正当性を判断する基準が示されている。国家も、完全に自由 というわけではなく、神の秩序には従わなければならない。国の律法と神の秩序とが矛盾せず、 両者が一定程度の相補関係にあるならば、キリスト教徒は、その国の律法を肯定的に受け入れ、 それを遵守しなければならない。しかし国の律法が神の秩序に矛盾するならば、 めいめいが「人 間に従うよりは、神に従うべきである」( 使 5:29)。 64 2.4 新使徒信条 まとめ 聖書や初代教会の信条文を、信仰の権威と位置づけることが使徒職の任務である。(2.4) 第一条は、父なる神による創造の業を扱っている。 (2.4.1) 第二条は、キリスト教の土台でありその実質である、イエス・キリストについて述べている。 (2.4.2) 第三条は、神の第三位格である聖霊を信じること、教会を信じること、その他救いの要素を信じることを告白する。 (2.4.3) 第四条は、イエス・キリストが教会を統治すること、及びその統治が使徒の派遣という形で行われていることを宣 言している。 (2.4.4) 第五条は、神が霊の職務を人にお与えになること、牧会宣教職が使徒職を通して権能と、祝福と、聖別とを受ける ことを述べている。 (2.4.5) 第六条は、洗礼について述べている。 (2.4.6) 第七条は、聖餐について述べている。 (2.4.7) 第八条は、御霊の証印について述べている。 (2.4.8) 第九条は、キリストの再臨とその後の出来事について述べている。 (2.4.9) 第十条は、キリスト教徒と国家との関係のあり方について扱っている。 (2.4.10) 65 3.1 神の本質 3 三位一体の神 父、御子、聖霊によって唯一の神が形成される。永遠の太古から神が三位一体であることは、 神が救いの歴史において御自身を啓示してきたことから証明される。最初から、父、御子、聖 霊が存在し、創造し、御業を成し、御業を維持してこられたことは、救いの歴史が示してきた。 旧約時代は、おもに父なる神が御自身を啓示した。御子や聖霊の働きは、まだほとんど人類 に認知されていなかった。ただ新約聖書の記述によれば、イスラエルの人々が砂漠を旅してい る時には既に御子がいたことを使徒パウロが述べており ( 一コリ 10:4)、聖霊も旧約時代に言 葉を発していたことが、マルコによる福音書 12 章 36 節やヘブライ人への手紙 3 章 7 節にはっ きりと書かれている。 神の御子が人となられ、死なれ、復活されたことや、聖霊が遣わされたことによって、神の 三位一体性が理解できる。イエス・キリストは、ヨハネによる福音書 16 章 13 - 15 節の中で、 御自身に属すものがすべて父に属し、聖霊の告げることがすべて父や御自分から出たことであ る、と仰せになり、神の働きが三位一体であることを強調しておられる。 三位一体の神は、父、御子、御霊の交わりにおける唯一の神である。神はこの交わりに人類 を加わらせようとして下さる。 3.1 神の本質 神について、その本質や働きを人間の英知で理解することはできない。万能且つ偉大なる神 に近づくことは、信仰を通してはじめてできることである。イエス・キリストは人類に、愛と あふ 憐れみと恵みに溢れた父なる神を啓示し、そうした愛や憐れみや恵みに人類が与れることを可 能とした。さらに、神からの啓示が聖霊によって与えられている。聖霊は信仰に忠実な者たち を神の深みへ究めさせて下さる ( 一コリ 2:6 - 16)。 神の本質にはいくつかの特徴がある。それは、唯一の神、聖なる神、全能なる神、永遠なる神、 愛に溢れる神、恵み深い神、義なる神、完全なる神であるということである。神は無名の存在 でもないし、存在が隠されているわけでもない。神は御自身のほうから人に歩み寄り、人に語 りかけ、人が神に語りかけられることを可能とする。 神の特徴を表現するならば、完全性や絶対性ということになるが、人類が扱える言葉を尽く しても、神に関する事実を忠実に表現することはできない。 67 3 三位一体の神 3.1.1 三位格を備えた唯一の神 神の三位一体性は奥義である。三位一体性を「父、御子、御霊なる神の御名によって」と表 現するが、名前が三つあるわけではなく、神の名は一つである。ただお一人の神が三位一体の 神なのである。イエスは使徒たちに「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるように命じる ことにより、神の三位一体性の意味を彼らに教え、悟らせた ( マタ 28:19)。 「父、御子、聖霊」 なる神と言っても、三者の神々がいるのではなく、三位格 ( ヒュポスタシス ) でお一人の神で ある、という意味である。 3.1.2 唯一の神 神が唯一の神であるという信仰は、旧新約聖書に一貫した根本的信仰告白の一つである。神 御自身がモーセに対して、御自身の唯一性と信頼性を説かれ、御自身が「わたしはある」とい う名である、と仰せになった ( 出 3:14)。神の唯一性を宣言する告白文――「聞け、イスラエ ルよ。我らの神、主は唯一の主である」( 申 6:4)――は、旧約の人々の歴史を通じてイスラエ ルの人々と共にあった。 モーセの十戒の第一の戒めで「あなたには、 わたしをおいてほかに神があってはならない」( 出 20:3) と明文化されているにもかかわらず、イスラエルの人々が神の唯一性を信じ他の神々や それらへの崇拝行為を一切排除するまでは、長い年月を要した。神々へのこうした崇拝行為を、 歴代の預言者は再三にわたって非難してきた。イザヤ書 45 章 21 - 22 節には次のように書か れている「意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べ ていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを 与える神は/わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、 救いを得よ。 わたしは神、ほかにはいない」。バビロン捕囚から帰還して以後、神が唯一であること ( 一神論 ) への信仰がユダヤ人に認識されるようになり、この一神教信仰が彼ら自身と異邦人との違いを 明確にする最大の特徴となった。知恵の書にも「神はあなた以外におられない」と書かれてい るように ( 知 12:13)、この信仰はこんにちに至るまでユダヤ教の大きな特徴となっている。 この信仰はキリスト教にも、初代使徒教会の時代からこんにちに至るまで深く根ざしている。 使徒パウロはこの一神教を、無条件に擁護した。 ギリシアの多神教やローマの諸宗教がある中で、 パウロは次のように書いている「そこで、…唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わた したちは知っている」( 一コリ 8:4)。 68 3.1 神の本質 3.1.3 聖なる神 旧約聖書では、神を「聖なる方」と表現している箇所がいくつかある ( イザ 43:3;エレ 50:29;ハバ 1:12)。神が聖なるお方であることは、神の本質、存在、一般性の一部であるが、 この聖なるというのは、神が威厳のあるお方で、非の打ち所のない、世俗とはかけ離れた存在 である、ということを表している。その根拠はヨハネの黙示録 4 章 8 節に次のように書かれて いる通りである「聖なるかな、 聖なるかな、 聖なるかな、/全能者である神、 主、/かつてお られ、今おられ、やがて来られる方」( イザ 6:3)。神の御言葉や御旨も同様に聖なるものである。 神が近くにおいでになる、つまり聖なるお方がその場に臨在されるような場面は、救いの歴 史を通じてしばしばあり、こうした事実に対して、神を敬うことが必要である。神の臨在は聖 なることであり、それを畏れ尊ぶことは、モーセの時代から実践されてきた。モーセは燃え上 がっている柴の中から神の声を聞いた「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。 あなたの立っている場所は聖なる土地だから」( 出 3:5)。神は聖なるお方であるため、神が啓 示される所は聖別される。 なら 聖なる神に倣うことは、賜物であり義務である「あなたたちは聖なる者となりなさい。あな たたちの神、主であるわたしは聖なる者である」( レビ 19:2;一ペト 1:15 - 16 参照 )。つ まり信徒一人ひとりに聖なる者となることが求められている。これは神が聖なるお方であるこ とに由来している。それゆえ、神の御名を「崇める」のである。これは主の祈りの中で「御名 が崇められるように」と唱えられている通りである ( マタ 6:9)。 3.1.4 全能なる神 つく 新使徒信条の第一条に「私は、天地の創り主、全能の父である神を信じます」と証ししてい るように、神は何でもすることができ、不可能なことは何一つなく、何の制限もなく御旨を成 就する。詩編 135 編 6 節に次のように書かれている「天において、 地において / 海とすべての 深淵において / 主は何事をも御旨のままに行われる」 。 神の万能性を、人類は、創造の業を見ても知ることができる。万物は、神の御言葉だけで、 何も無いところから生まれたからである ( ヘブ 11:3)。神はその万能性によって始めと終わり をお決めになる。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言 われる。『わたしはアルファであり、オメガである』 」( 黙 1:8)。それゆえ、新しい創造も、神 の万能性を具現化するものである。 69 3 三位一体の神 イエス・キリストも「神は何でもできる」と仰せになり、神が万能であることを表明してお られる ( マコ 10:27)。天使も神の万能性について「神にできないことは何一つない」と述べ ている ( ルカ 1:37)。 へんざい 神が万能であることは、神が遍在され且つ全知のお方であるということである。神の全知性 については、詩編 139 編 2 - 4 節に次のようで述べている「座るのも立つのも知り/遠くか らわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じ ておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられ る」。神の遍在性についても、同じ詩編の中で次のように述べている「天に登ろうとも、あなた はそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいる。曙の翼を駆って海 のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手を もってわたしをとらえてくださる」(8 - 10 節 )。 3.1.5 永遠なる神 「永遠のお方」である神には初めも終わりもない。時の制約が存在しないのである。「山々が 生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神」( 詩 90:2)。神は時の創造者であり、主である。物質的な世は時に隷属するが、神は時を支配し、 時をお定めになる。神は時を与えることも取り去ることもできるのである。 永遠性という神の本質は人類の経験値を超越する。時が無限であるというより、過去、現在、 未来が、神にとってはすべて今なのである。神が時の概念を超越・支配しておられることにつ いては、ペトロの手紙二 3 章 8 節に次のように説明している「愛する人たち、このことだけは 忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようである」 。 3.1.6 愛の神 新約時代だけでなく旧約時代においても、神は愛のお方として御自身を啓示された。神がイ スラエルの民をお選びになり、彼らをエジプトによる捕囚状態から解放されたのは、御自身の 愛によるものである。しかし神は歴史上の一つの行為において、イスラエルの民に対して、愛 のお方として御自身を啓示されただけではなかった。イエス・キリストを通して、究極的には 全人類に、愛のお方である御自身を啓示された「神は、その独り子をお与えになったほどに、 世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」( ヨハ 3: 70 3.1 神の本質 16)。神は愛をもってこの世に目を向けて下さるだけでなく、愛そのものなのである ( 一ヨハ 4: 16)。 3.1.7 恵み深く義なる神 神は恵み深いお方である。その恵みは、神の義の一部である。神は人類に、恵みと憐れみと 慈しみをお示しになる ( 詩 103:8)。神は、 御自分の民が迷走したり契約を守らなかったりしても、 その義によって、恵みを与えられた「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこ しえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる」( イザ 54:8)。 神の恵み深さは新約でも立証されている。神は人類に目を向けられ、人類が罪につまずいて も、その罪を赦して下さる。使徒パウロは「神はキリストによって世を御自分と和解させられ た」と証ししている ( 二コリ 5:19)。恵みによって、神は不義を義とされ、罪人をお赦しになり、 救いを必要としている者たちに贖いという救いをお与えになる。 神は義なるお方である「御業は完全で/その道はことごとく正しい」( 申 32:4)。 「罪が支 払う報酬は死である」( ロマ 6:23)、「然り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で 正しい」( 黙 16:7) といった宣言は、神が義なるお方であることを明確に表している。新約に おいて神は、イエス・キリストを通して、罪人を義とされた。罪人自身でこの義を得ることは 決してできない ( ロマ 3:24 - 26;5:18)。 3.1.8 完全なる神 神は完全である。改善すべき点も、変化すべき点も、成長すべき点も一切ない。神は変わる ことが無く、条件も制約も一切ない。神の働きは外的要因に基づくものではなく、あくまで御 自身の威厳による御旨に基づくものである。 神はモーセに「私はある」という名の完全なお方であることを啓示された ( 出 3:14)。 神の完全性は神の徳と密接に関連している。つまり神によって生じるもの、神から出るもの、 神によって造られるものはすべて完全であり良きものなのである。神が完全であることは、御 そ ご 旨と実行、御計画と実行との間に全くの齟齬がないことからも立証することができる。また神 か し によるものには、瑕疵もなければ、不完全もない。創造の業は神と同様に完全且つ良きもので ある。それゆえ、神による被造物は「極めて良」いのである ( 創 1:31)。 ぎまん 「御 神の完全性は真理とも関係している。神によるものには虚偽も、欺瞞も、不確実もない。 言葉の頭はまことである」( 詩 119:160)。天に由来する言葉は信頼することができる。神は 71 3 三位一体の神 約束を守られる。神は忠実なお方である。 神の真理は知恵と一致する。神は知恵によって被造物全体を支配し、知恵で被造物全体を満 たされる。 「知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、 /慈しみ深くすべてをつかさどる」 (知 8:1)。 神の完全性は「信仰の創始者また完成者である」( ヘブ 12:2) イエス・キリストによって、 直接悟ることができる。イエス・キリストはその言動において完全なお方だからである。イエス・ キリストこそ、人類が目指すべき完全性を備えた手本であり教師である ( フィリ 2:5)。 「神が上へ召して、お与えになる賞」( フィリ 3:14)――すなわち完全となること――は終 末時代のあるべき姿である。罪深い人類が完全に向かって努力するのは当然であるが、完全を 獲得することはないであろう。再臨されたキリストに迎えていただき、新しい被造物の一員に あずか なることを許されて、はじめて人類は神の完全性に与ることができるのである。 まとめ 父、御子、聖霊で唯一の神であり、初めよりおられ、創造され、行動され、維持してこられた。 (3) 神の本質や活動を、人が理解することはできない。神に近づくことは、信仰によってはじめて可能となる。 (3.1) 唯一の神は、父、御子、聖霊の三位一体である。三つの神々が存在するわけではなく、三者の位格 ( ヒュポスタシス ) が存在するということである。 (3.1.1) 神の唯一性を信じること ( 一神教 ) は、旧新約聖書に一貫した、根本的信仰告白の一つであり、初代使徒教会の時 代からこんにちに至るまでのキリスト教信仰に根ざしている。 (3.1.2) 聖なること――威厳、不可侵、世俗との隔離――は、神の本質、存在、一般性の一部である。神の御言葉も同様に 聖なるものである。 (3.1.3) 神は何でもおできになる。神にとって制約があるものは一つもない。神が万能であるということは、神が遍在され、 全知のお方であるということでもある。 (3.1.4 ) 神には初めも終わりもない。神の永遠性は無限であるが、時の概念が存在しないわけではない。時をお造りになっ たのは神である。神は、時の次元をことごとく超越しておられるのである。過去、現在、未来は神にとってすべて 等しく今である。 (3.1.5) 「神は愛である」( 一ヨハ 4:16)。神は歴史を通じて御自身が愛のお方であることを啓示される。とりわけ、全人 類のために御子を捧げられたことからも、神が愛のお方であることは明らかである。 (3.1.6) 72 3.2 神――父、御子、聖霊 神は恵み深く義なるお方である。神の恵み深さは、罪を赦して下さる事実によって立証することができる。神はイ エス・キリストを通して罪人を義なる者として下さる。 (3.1.7) 神は完全なるお方である。神の業や流儀に欠陥はない。神の働きは専 ( もっぱ ) ら、御自身による非の打ち所のな い威厳に満ちた御旨に基づいている。神は御自身の約束を守られる、忠実なお方である。神の完全性は、イエス・ キリストによって、直接悟ることができる。 (3.1.8) 3.2 神――父、御子、聖霊 神は御自身が父、御子、聖霊であることを啓示されてきた。これにより、神が三位一体であ ることを悟ることができる。こうした神の自己啓示が、三位一体の教えの基本を成している。 歴史と創造の業における神の働きは、父、御子、聖霊によるそれぞれの御業として行われる。 神は創造主、贖い主、和解者、新しい創造の実行者として御自身を啓示しておられる。そして、 イエスの生涯――受洗から、変貌、十字架の刑、復活、昇天まで――と、ペンテコステにおけ る聖霊の注ぎによって、三位一体性、すなわち神が父、御子、聖霊であることを示しておられる。 神の三位一体性の奥義は、旧新約聖書を通して様々な形で描かれている。しかし三位一体と いう表現が使われたり、三位一体に関する教えが示されたりしている箇所は無い。 初代教会では、 三位一体の教義が認められており、教えとして位置づけられていた。 3.2.1 三位一体の神に関する旧約聖書での記述 三位一体の神による働きは、すでに天地創造が行われる過程で出てくる ( 創 1:1 - 31;2: こんとん 1 - 4)。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」( 創 1:2)。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這 うものすべてを支配させよう」( 創 1:26)。ヘブライ語の原典に神の呼称として用いられてい る「エロヒム 」םיהלאという言葉は、複数形で「神々」を意味し、福音に照らして考えると、こ れは三位一体の神を表すと考えることができる。 例えば「神の使い」( 創 16:7 - 11,13;出 3:2 - 5;士 6:11 - 16) や、 「神の霊」( 創 1: 2)、「主の霊」( 申 3:10;サム上 16:13) といった様々な形表現されている、顕現された神の 姿は、三位一体の神の奥義を表すと考えることができる。 73 3 三位一体の神 3という数字に関わる出来事や3という数字が出てくる表現には、三位一体の神を意識して いる場合もある: • アブラハムの所を訪れた三人の神の使者 ( 創 18 章 ) は、神の三位一体性の奥義を表して いるというのが、キリスト教における伝統的解釈である。祭司の祝福による三位一体の 神の働きかけも、同じように解釈することができる「主があなたを祝福し、あなたを守 られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように 」 。 • 預言者イザヤが見た最初の幻の中で、天使が三度にわたって唱えた称賛の言葉も、神の 三位一体性を表していると考えられている「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄 光は、地をすべて覆う」( イザ 6:3)。 3.2.2 三位一体の神に関する新約聖書での記述 神が三位一体であることを十分に体系立てて解説している箇所は、新約聖書の中には無いも のの、神が三位一体であることや救いの歴史における三位一体の神の働きを明確に示す出来事 おおやけ や表現は記録されている。例えばイエスが公の活動を始めた直後の頃、 イエスは洗礼を受けたが、 この時天の父と聖霊が御自身を啓示し、神の御子を人としてお遣わしになったことを証しして おられる「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて “ 霊 ” が鳩のように御自分に降って来るのを、 御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天か ら聞こえた」( マコ 1:10 - 11)。ここで明らかなように、神の御子は父と聖霊と一つになって、 御業に取り組まれる。 洗礼を授ける職務を履行する際にも、父、御子、聖霊の名を唱える。イエス・キリストは、 天に昇られる前、この職務を使徒に与えられた ( マタ 28:18 - 19)。 ヨハネによる福音書には、神の三位格間のつながりがどの程度なのかを示す記述がある。具 体的には、イエス・キリストが「わたしと父とは一つである」と仰せになっているように ( ヨ ハ 10:30;ヨハ 1:1,18 参照 )、父と御子との一致性が書かれている。聖霊が遣わされるこ とを約束しているのも、神が三位一体である証拠である ( ヨハ 16:13 - 15)。 神の三位一体性については、新約聖書の書簡群でも扱われている。神を称える言葉や特定の 祝福を与える際の言葉の中で、神の三位一体性が触れられている。それゆえ、コリントの信徒 への手紙一 12 章 4 - 6 節で次のように書いてある「賜物にはいろいろあるが、それをお与え になるのは同じ霊 である。務めにはいろいろあるが、それをお与えになるのは同じ主 である。 。ここでは、 働きにはいろいろあるが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神 である 」 74 3.2 神――父、御子、聖霊 それぞれの位格がそれぞれ異なる自己啓示をしていることに加えて、神が唯一であることも述 べている。さらに、神の働きが神の三位一体性を示す根拠になっていることが、エフェソの信 徒への手紙 4 章 4 - 6 節で立証されている「体は一つ、霊は一つである。それは、 あなたがたが、 一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じである。主は一人、信仰は一つ、洗礼は 一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通 して働き、すべてのものの内におられる」 。三位一体の神によって救いの働きが行われているこ とは、ペトロの手紙一 1 章 2 節で次のように書かれている「…父である神があらかじめ立てら れた御計画に基づいて、“霊” によって聖なる者とされ < 聖別され >、イエス・キリスト に従い、また、 その血を注ぎかけていただくために選ばれたのである」 。 神が本質的に三位一体であることは、コリントの信徒への手紙二の結びの部分に書かれてい る祝祷の言葉に次のように表明されている「主イエス ・ キリスト の恵み、神の愛、聖霊 の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように。アーメン」( 二コリ 13:13)。 3.2.3 三位一体が教義として発展するまで 神の三位一体性が認知され、それが教義となっていく動きは、新約聖書が執筆された直後か ら始まっていた。父、御子、聖霊間の相互関係を言葉で表現するために、 「位格」 「ヒュポスタシス」 「実体」といった古代の哲学用語が使われた。三位一体の教義を信条文化したことによって、信 仰によって得られる悟りを言葉で表現することができるようになったと同時に、当時新約聖書 の証しと一致しない神の姿を広めていた異端論者から、信仰を守ることができた。三位一体の 教義は、4 世紀から 5 世紀にかけてはじめて行われた一連の宗教会議の中で、信仰告白文とし て採用された。 三位一体を意味するラテン語の "Trinitas" という語は、アンティオキアのテオフィロという 人物による造語であるが、三位一体を広く知らしめたのはテルトゥリアヌス (160 頃- 220) と いう、教会指導者である。テルトゥリアヌスは、 「三位格で一体である」と述べ ( ラテン語で「ウ ナ・スブスタンチア・トレス・ペルソナエ una substantia tres personae」)、神が一つであること を強調した。父、御子、聖霊に対して「位格」という用語を採用したのも、彼が最初である。 紀元 325 年に採択されたニカイア信条 < 原ニカイア信条 > では、父と御子が神として一体 であることが明記されているが、その直接的要因にはアリウス (250 - 336) によって広められ た教義が背景にあった。アリウスは、前世の御子が父によって何もないところから創り出され、 これが神による最初の最初の創造の業であるという説を唱えた。このアリウスの説に、ニカイ ア宗教会議は反対し、御子が創り出されたのではなく永遠の太古から三位一体の一位格として 存在していたことを強く主張した。 75 3 三位一体の神 「アリウス論争」として知られるこの論争は、ニカイア宗教会議後も終わることなく、381 年のコンスタンティノポリス宗教会議でも議論された。この宗教会議では、父と御子に加えて、 聖霊も神の一位格――真の神――であることが決議された。 その数年後、三位一体の教義は一部の例外を除いてキリスト教世界に広く受け入れられたが、 教義に関する議論は続いていた。特に、西方教会は、教父であったコンスタンティヌスの影響 によって、聖霊が父と御子の両方から発現するという考え方を強く主張した。これに対して東 方教会は、聖霊が御子を通して父から発現するとする、従来のニカイア・コンスタンティノポ リス信条を支持した。 16 世紀に起こった宗教改革の指導者たちは、初代教会 (2 ~ 6 世紀の教会を指す ) から続く 神の三位一体信仰を支持した。前述したように、例外として、聖霊に関して異なった解釈をす る宗派があったものの、三位一体の教義はすべてのキリスト教諸教会で共通である。この三位 一体論は、キリスト教における最も根本的な教えであり、他のアブラハム宗教であるユダヤ教 及びイスラム教と一線を画す決定的特徴である。675 年に行われた第 11 回トレド宗教会議の 決議内容は次の通りである「父は御子と同じ、御子は父と同じ、父と御子は聖霊と同じ、すな わち神は元々唯一である」。 3.2.4 三位格の一体性 キリスト教では、神が三位一体でありお一人であることを信仰告白している。三位格のそれ ぞれ――父、御子、聖霊――が真の神である。キリスト教徒は、神――父、御子、聖霊――が 永遠の太古から常に存在し続けてこられたことを信じる。 従って、 「父」 「御子」「聖霊」は、神の存在や啓示の手段を表す名称であるだけではない。 この三つの名称は、それぞれ存在の異なる位格を意味するのである。実際に、父は御子と同じ ではないし、 御子は父と同じではない。聖霊は父や御子と同じではないのである。なぜなら 「父」 はお生みになったお方であり、「御子」は生まれたお方であり、聖霊は父と御子の両方から発現 したお方だからである。 三位格は常に関連し合い、永遠にお一人である。三位格をそれぞれに区別しても、神がお一 人でなくなるわけではない。三位格は本質的に一つであり一体である。三位格の中で御旨が矛 盾することはない。父は永遠に御子にあり、永遠に聖霊にある。御子は永遠に父にあり、永遠 に聖霊にある。聖霊は永遠に父にあり、永遠に御子にある。 創造、救い、新しい創造という、神によるすべての働きは、父、御子、聖霊の働きである、 とキリスト教は信仰表明をする。神によるすべての働きとは父、御子、聖霊による働きでもあ 76 3.3 父なる神 るというわけだが、その働きは必ずしも同じ方法で実行されるわけではない。創造の業は父な る神と御子なる神によるものであったが、人となられたのは父でも聖霊でもなく、御子だけで ある。注がれたのは父でも御子でもなく、聖霊だけである。キリスト教において当初からの伝 えられてきたように、三位格にはそれぞれに重要な特徴を持っている ( 役割がある )。つまり、 父は創造主、御子は贖い主、聖霊は新天新地の創造主である。 まとめ 創造の業や歴史の中で成された神の働きは、父、御子、聖霊の働きである。(3.2) 神が三位一体であることに触れているのは、創造の業、三人の神の使者がアブラハムのところを訪れたこと、三つ から成るアロンの祝祷、預言者イザヤ見た最初の幻の中で天の使いが三度にわたって唱えた称賛の言葉に見ること ができる。(3.2.1) 三位一体の神が姿を現されたことの一例として、イエスが受洗された時に、父と聖霊が御子をお遣わしになったこ とを立証しておられる。また、イエスが大宣教令を命じられた時と、コリントの信徒への手紙二 13 章 13 節に書 かれている祝祷の言葉の中でも、父、御子、聖霊に言及している。(3.2.2) 神の三位一体性を教義とすることは、紀元 4 ~ 5 世紀にかけて行われた全教会会議で採択された。325 年のニカ イア宗教会議では、父と御子が一体の神であることが教義として定められた。また 381 年のコンスタンティノポ リス宗教会議では、聖霊が父と御子と共に一体であることが、教義として採択された。(3.2.3) 「父」 「御子」 「聖霊」はそれぞれ別々の位格として存在しているもの、常に関連し合い永遠に一つである。(3.2.4) キリスト教において当初から伝えられていることであるが、三位格にはそれぞれ独自の特徴を備えている。父なる 神は創造主、御子なる神は救い主、聖霊なる神は新天新地の創造主である。(3.2.4) 3.3 父なる神 神は、御子なる神が人となられたこと < 神の擬人化 > によって、最高の方法で父なるお方を 啓示される「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。そ れは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 […]いまだかつて、神を 見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、 この方が神を示されたのである」 ( ヨハ 1: 14,18)。父なる神は永遠の太古からただお一人の御子をお生みになった (3.4.1 参照 )。この奥 77 3 三位一体の神 義は御子がお示しになる者たちにしかわからない「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が 示そうと思う者のほかには、父を知る者はいない」( マタ 11:27)。 「父」という表現を、神との関わりの中で用いる場合、神による創造の業、神の権威、愛に 溢れた神の配慮という側面とつながりが出てくる。神は御自身がお創りなったすべてのものの 根源であり、その被造物のすべてを維持される。このように考えると、全人類が神に近づくこ とができる。人類をお造りになったのは、父なる神であるからである。 あふ 旧約時代、神はイスラエルの民に、御自身が愛に溢れ配慮に満ちたお方であることを啓示さ れた。神はモーセにこう仰せになった「あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。 『イ スラエルはわたしの子、わたしの長子である。 わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと 命じた』」( 出 4:22 - 23)。イスラエルの民は神を「父」と呼んでいた ( 申 32:6;エレ 31:9)。 イエスも、ユダヤの人々に向かって山上の説教をされた時、神を彼らの父と呼んでおられた ( マ タ 5:16)。イエスは彼らに対して、神をお呼びになる時は「天におられるわたしたちの父よ」( マ タ 6:9) と言いなさいと命じられた。 イエス・キリストは、水と御霊による再生を通して、いと高きお方の子――すなわち後継者 ――になる道筋を示された(エフェ 1:5;テト 3:5 - 7;ロマ 8:14 - 17) 。これにより「父」 と「子」の概念に新しい要素が加わった。ヨハネの手紙一 3 章 1 節では、再生を果たした者た ちが神の子となる保証を得られるのは、父としての神の愛を受けているからである、と述べて いる「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神 の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」 。 3.3.1 創造主なる神 「初めに、神は天地を創造された」(創 1:1)。最初に出てくるこの聖書の言葉は、新使徒信 条の第一条で告白する基本的真理を表している。天の諸領域と宇宙をお造りになったのは神で あるし、創造の過程で、宇宙の中にこの地上をお造りになったのも神である。そして地上にお いて神が人となられた。 あらゆる実在物は神による創造の働きによってもたらされた。まず神は、この創造の業を、 無から始められた ( ラテン語で「クレアチオ・エクス・ニヒロ creatio ex nihilo」)。何かひな形 のようなものがあってそれをもとにお造りになったのではない。まったく新しいところからお 造りになったのである「存在していないものを呼び出して存在させる神」( ロマ 4:17;ヘブ 11:3 参照 )。さらに神は、御自身がお造りになったものから、ものや生き物を形作られた ( 創 2:7 - 8,19)。すべての被造物は神に従属する。 78 3.3 父なる神 創造の業とその条理は、神の知恵を反映している。その深さは人間には計り知れないもの である。これについて詩編では次のように称えている「主よ、 御業はいかにおびただしいこ とか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」 ( 詩 104:24)。 新約聖書には、神が御子を通して万物をお造りになったことが示されている。このことにつ いては、ヨハネによる福音書の冒頭部に次のように書かれている「初めに言があった。言は神 と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成っ たものは何一つなかった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその 栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」( ヨハ 1: 1 - 3;コロ 1:16 参照;ヘブ 1:2;3.4.2 参照 )。父及び御子と同様に、聖霊も創造主である。 聖書ではこれを次のように表現している「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう…」( 創 世記 1:26)。 三位一体の神は、御言葉を通して、物質世界を創造された。物質世界は、神が維持し、支配 される。それゆえ被造物は、その根源や始まりだけでなく、存続や未来についても、その奥義 を内に秘めている。万物はその創造主による配慮を常に受けている。つまり「あなたは存在す るものすべてを愛し、/お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造 られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、/あなたが呼び出されないのに 存在するものが/果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、/あな たはすべてをいとおしまれる。あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある」 ( 知 11:24-12:1)。 まとめ 神の自己啓示の中でも、御子による擬人化は、唯一無二であり、卓越した方法である。 (3.3) 「父」という表現は、神との関わりの中で用いられる。この表現は、神による創造の業、神の権威、神による愛に 溢れる配慮と結びついている。 (3.3) 神は存在するものすべてを、御言葉によって創造された。ひな形もなく、まったくの無の状態からお造りになった。 そして御自身のお造りになったものから、物体や生物をお造りになった。これら被造物は、神によって維持され、 支配される。 (3.3.1) 79 3 三位一体の神 3.3.1.1 見えない被造物 聖書には、目に見えない世界、つまり物質世界以外の領域、そこで発生する事象、そこにお ける状態について言及している箇所が数多くある。見えない世界も、神がお造りになったもの であり、これを「見えない被造物」と呼んでいる。見えない被造物が人間の確認できない所に あることから「陰府 ( 黄泉 )」「あの世」などとも言う。神と同じように、その奥義を人類が測 り知ることは不可能である。しかし天からの啓示によるならば、見えない被造物を洞察するこ とはできる。 見えない世界について表現することは、実際にはできない。人が表現できることは、自分た ちの経験 ( 見えるもの ) に基づいているからである。そこで聖書では、見えない世界を表現す ひ ゆ るために比喩を用いている。 聖書の記述から、見えない被造物とは、神が御自身の玉座から統治する領域 ( 黙 4,5 章 )、 天使 (3.3.1.1.1 参照 )、永遠不滅である人の魂 (3.3.4 参照 )、そして死者の領域 (9 参照 ) である、 と判断することができる。神に敵対し、人類にとっても敵である悪魔も、見えない被造物の一 つである。しかし悪魔は悪しき者として創造されたわけではない (4.1 及び 4.1.2 参照 )。 3.3.1.1.1 天使 「天使」の英訳である「エンジェル angel」は、 ヘブライ語の「マラク 」ְךָאְלַםやギリシア語の「ア ンゲロス Ἄγγελος」の意味である。この二つの語とも、聖書の至る所に見られ、その中では「伝 達者、使者」1 という、この語が持つ一般的な意味で用いられているところもあるが、そのほと んどは天にいる神の使者を意味する。 天使の任務は神を崇め、神の指示を遂行することによって、神に仕えることである。状況に よっては、神の御旨であるならば、天使を見ることができる。聖書には、神の命を受けて天使 が人々に要件を伝達する場面が描かれている。そのほかにも、天使が神の命を受けて人々を助 けたり守ったりしたと判断される場面が、多く出てくる。天使は「皆、奉仕する霊であって、 救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」(ヘブ 1:14)。マタイに よる福音書 18 章 10 節では、小さな者たちの天使はいつも天の父のみ顔を仰いでいる、と指摘 している。 1 一例として、 ヨハネの黙示録 2 章及び 3 章では、人を「天使」として扱っている箇所がある。ここでは「教会の天使」 という表現があるが、これはそれぞれの教会を担当する主任を表していると考えることができる。 80 3.3 父なる神 天使が人類に行う奉仕は常に神の御旨に基づいている。それゆえ、感謝し崇めるべきは天使 ではなく、神お一人である「わたしは、栄光に輝く主の御前に仕えている七人の天使の一人、 ラファエルである。[…] わたしがあなたがたと共にいたのは、あなたがたに好意を持っていた からというより、神がそう望まれたからである。日々、神をほめたたえ、賛美の歌をささげな さい」(トビ 12:15,18)。 ルカによる福音書 2 章 13 節に書かれている「天の大軍」という表現は、天使の数の多さを 印象づける。同じようなことはマタイによる福音書 26 章 53 節にも書かれており、父は十二軍 団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう、 とイエスはここで述べておられる。天使は「力 ある勇士たち」( 詩 103:20) であり、聖なる、威厳のある存在である。天使は人類に、驚きや 恐怖を与えることもできる ( ルカ 1:11 - 12,29;2:9 - 10)。 さらに聖書には、人類堕罪の後にケルビムが命に至る道を守ったこと ( 創 3:24) と、預言 者イザヤの見た幻の中で、セラフィムが神の玉座の前で仕える様子 ( イザ 6:2 - 7) について 書かれている。 天使の中でも様々な地位があることが、聖書の記述から分かる。ミカエルは大天使長で ( ダ ニ 10:13;12:1;ユダ 9 節 )、ガブリエルやラファエルは神の御前に立っていた ( ルカ 1: 19;トビ 12:15) ということから高位にいたことが推測できる。天使のいる領域がどのように なっているのかについては、聖書に記述されていない。 天使が人類に仕えているこうした事実からも、神が人類を愛して下さることが分かる。 3.3.1.1.2 人類にとって見えない領域の持つ意味 身体は死んでも魂と霊は陰府の領域で永遠に存在し続ける、という信仰は人間にとって非常 に大きな意味がある ( 一ペト 3:19;一コリ 15 章 )。人がこの世にいる間に神に示してきた姿 勢は、その人が陰府の領域に入った時にその結果が反映される。 このように考えることによって、 悪魔の誘惑に打ち勝ち、神に喜ばれる生き方をすることができる。 そういう意味で、陰府の領域にある被造物や見えない被造物に興味を持つことは有益である。 しかし、まじないという手段で見えない被造物に興味を持つとか、降霊術という手段で死者の 霊を呼び出すなどという行為は、神の御旨に反する ( 申 18:10 - 11;サム上 28 章 )。 使徒パウロは、見えない被造物の持つ意味をこう明らかにしている「わたしたちの一時の軽 い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたち は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えな いものは永遠に存続するからです」( 二コリ 4:17 - 18)。 81 3 三位一体の神 まとめ 見えない世界 ( 見えない被造物、陰府の領域 ) については、聖書の中で数多く証しされており、神によって支配さ れている領域、人の持つ永遠の魂、死者の領域について言及している箇所がある。悪魔やそれに従う者たちも、こ の見えない世界に属している。 (3.3.1.1) 「天使」は基本的に、神を崇め、神から与えられた指示を遂行することで、神に仕える職務を担う、神の伝達者と 解釈することができる。聖書によれば、天使の世界には「大天使長」のような地位が存在する。ただし、天使の世 界がどのような仕組みになっているのかについては、記述が無い。 (3.3.1.1.1) 人間の魂や霊は、身体が死んだ後も永遠に存在し続ける。このように考えることによって、誘惑に打ち勝ち、神に 喜ばれる生き方をすることができる。 (3.3.1.1.2) 3.3.1.2 見える被造物 聖書の証しするところによれば、神は「第六日」までに、見える世界を創造された。ここで こうでい は、六日間という特定の時間に拘泥すべきではない。聖書が言おうとしているのは、人間が認 知し得るすべてのものが存在していく過程である。つまり、人が実存として認識できるすべて のものは、神によって造られた、ということである。天と地、光、地球、月、星の形成、動植 物、人そのものも、神の御言葉によって造られたそして皆「極めて良かった」のである ( 創 1: 31)。 おおむ 被造物が罪による影響下に置かれても、神から見て良好な状態は概ね維持されている。中で も、神は、被造物に与えられた秩序を注視しておられる ( 創 8:22)。それゆえ、見える被造物 は――堕罪後の状態であっても――神によって創造されたものであることを雄弁に物語ってい る ( ロマ 1:20)。さらに神は人の姿となり、物質世界に入って行かれた。 神は人類に生きるための環境をお与えになり、地上の支配とその保護をお命じになった ( 創 1:26 - 30;詩 8:6 <新共同訳 7 節> )。それゆえ、人類には、被造物の扱いについて、神 への説明責任がある。全生命体とその住居地を大切に扱うことが、神から命じられているので ある。 82 3.3 父なる神 3.3.2 神に似せて造られた人類 神は、すべての被造物とは別に、人類にだけ特別な立場をお与えになり、御自身と密接な関 係を築かれた。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、 空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。 』神は御自分にかたどって人を創 造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」( 創 1:26 - 27)。 人が他の被造物と異なる点は、身体としての性質だけでなく、霊的な性質も備わっているこ とである。これは、次のような神の働きが人に対して行われたためである「主なる神は、土(ア ダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生き る者となった」( 創 2:7)。神はこの特別な被造物に、生命力をお与えになった。さらに愛、個性、 自由、理性、 不滅性を、御自身と同じようにお与えになった。神のおかげで、 人類は創造主を悟り、 愛し、称えることができる。それゆえ、人類は、たとえ真の神を悟れなかったり、他のものを 代わりに信じたりすることがあっても、もとは神から出たものである。 人に身体的性質と霊的性質の両方を下さったのは神なのであるから、当然その両方に相応の 品位を与えられているはずである。 神に似せて人が造られたということは、見える被造物の中で例外的な地位を与えられたとい うことである。つまり人は神に愛され、神から語りかけていただくことのできる存在である。 しかも、 人が神に似ているということは、 神が 「見えない神の姿」 であられる ( コロ 1:15) イエス・ キリストによって、人となられたことの証左でもある。イエス・キリストは第二の「アダム」で あり ( 一コリ 15:45,47)、イエス・キリストによって神の姿は完全に明らかとなった。 しかし、人が神に似せて造られたからといって、人の性質をもとに神の性質について何かが わかるわけではない。神の性質はあくまでイエス・キリストに限ったものである。 神は人類に話す能力をお与えになった。これも、人が神に似せて造られたことと関連している。 神は永遠の太古から常に言葉を発してこられた。御言葉を通して、神はすべてを創造され、人 を名前でお呼びになった。天から声を聞くことによって、人は自分が人であることを自覚する ――神は人に向かって「あなた」と語りかけられることによって、その人は「私 ( わたし )」と なる。人は今や、祈りを通して神を称えたり、神と対話したり、さらに神の御言葉を聞いたり することができる。 物事を自由に決められる能力が人に与えられているのも、神に似せて人が造られたことに由 来している。それと同時に、人は自由を与えられていることによって、 自分の行動に責任が伴う。 人は自らの行いによって生じた結果を受けなければならない ( 創 2:16 - 17)。 男も女も神の姿に似せて造られたため、本質的にも神と同じである。男と女の創造について は、 共通部分もある一方で、互いに補完し合う役割も与えられた。そして両者共に地上を「支配」 83 3 三位一体の神 する任務、つまり地上を形成しそれを保護する任務を与えられている。地上を支配する権限を 与えられたからといって、被造物を無節操に扱う権限まで与えられているわけではない。人は 神に似せて造られているのであるから、天来の性質を備えている者らしく、つまり分別と慈し みと愛をもって被造物を扱う義務がある。 まとめ 認知可能なあらゆる実体の創造者である神は、人類に、生きるための環境をお与えになり、地上の支配と保護をお 命じになった。それゆえ人類は、すべての生命体とそれらが生きるための環境を、大切に扱う義務がある。 (3.3.1.2) 神は人類を、御自身の姿に似せてお造りになった。人類は見える被造物であると同時に見えない被造物でもある。 神は人類に生きる力 (「命の息」) をお与えになり、天来の性質を人類にもお与えになる。 (3.3.2) 「神の姿に似せて」造られたということは、見える被造物の中で特別な地位を得たということである。神は人類を 愛し、人類に語りかけて下さる。男と女は両方とも等しく神の姿に似せて造られている。 (3.3.2) 3.3.3 人類が罪に堕ちる 神は、人を創造された後、彼らが御自分と直接交わりが持てるようにされた。神は人に、善 悪を知る木から実を取って食べてはならない、という戒めをお与えになった。神は人類の主で あり立法者であった。人はその法に従う必要があった。 人類は、悪しき者の影響により、誘惑を受けた。そしてその誘惑に屈して、神から与えられ そむ ていた法に背いてしまった。これにより、罪が人類の一部となった。これは神との別離、霊的 な死を意味した。そして人は自分が神の前で裸であることに気づき、 それを恥と思うようになっ た ( 創 3:7 - 10)。 恥は、 人と創造主との間に元々あった信頼関係が壊れる兆候である。最初の人類が不服従だっ たため、それまで享受してきた神との交わりが持てなくなってしまった。 人が神と離ればなれになったことにより、人は地上で問題を抱えた存在となり、身体の死を もって寿命を終えるものとなった ( 創 3:16 - 19)。神と離れてしまった状態を、人が自ら修 復することはできないのである。 堕罪以来、人は罪深い者となった。つまり、罪に縛られ、罪無しで生きることはできなくなっ た。人は神に呪われた世界で、苦痛や悩みにさいなまれながら生きることになった (4.2.1 参照 )。 84 3.3 父なる神 こうしたことが原因で、人がそれまで享受していた自由は決定的に制限された。神の御旨に 従って生きようと努力しても、悪しき者の力によって、人は御旨に適う生き方ができない。そ のため人は一生涯罪の奴隷のままなのである。言い換えれば全く自由がきかず罪に束縛された 状態にあるということである。 しかし、人が罪を犯す存在になったとはいえ、神の慰めや助けを受けられない状態が続いて しまうわけではない。神は、人を死んだまま放置することはなさらない。人のいる前で、神は 蛇にこう言われた、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前 の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」( 創 3:15)。ここではじめて、イエスによる犠牲の業 に触れている。この犠牲の業により、主は悪に勝利されたのである。 3.3.4 肉体と魂と霊とで構成される実在としての人類 神によって造られた人類は、身体的存在であり、霊的存在 ( つまり精神と魂を備えた存在 ) でもある。身体は必滅であるが、霊と魂は不滅である (9.1 参照 )。 身体は生殖によって出現し、親という性質や形態を備えている。一方、魂は生殖という活動 で出現するものではなく、神が直接お造りになるものである。神による創造の業がこんにちに おいてもはっきりと表れるのは、この魂においてである。 聖書の中では、霊と魂を明確に分けているわけではない 2。人は霊と魂があることによって、 人は霊の世界を知り、神を悟り、神と対話することができる。 霊と魂と身体を、それぞれ別個のものとして考えるべきではない。これらは互いに結びつい ている。霊と魂と身体は、一つの統一体として存在するため、液体が物質に染みこむように、 互いに影響し合っている。人が地上に生きている限り、人は霊、魂、身体から成る一つの統一 体で ( 一テサ 5:23)、それぞれが影響し合っている。身体が死んだ後、人は霊と魂で構成され る実体となる。 死によって、人としての個ではなくなり、霊と魂によって個が形成される。 死んだ者が復活する時に、霊と魂は復活した体と一つになる (10.1.2 参照 )。 2 魂を意味する語として「プシュケー」という言葉があるが、これをここで取り上げている不滅の魂と混同させる べきではない。同様に永遠的特質を持つ霊と、 ( 口語的に「人の精神」と呼ばれる ) 知性とを区別しなければならない。 85 3 三位一体の神 まとめ 悪しき者が人類を誘惑すると、人類はその誘惑に屈して、神から与えられていた戒めを破ってしまった。つまり人 の中に罪が入り込んだということである。 (3.3.3) 罪が入り込んだ結果、人は神と離ればなれになった。それだけでなく、元々人類が享受していた自由が著しく制限 された。そこで人は当然ながら、神の御旨に適った生き方をしようといくら努力するわけであるが、いくら努力し てもうまくいかない。ただ罪人となっても、神の慰めや助けに与れなくなったわけではない。 (3.3.3) 神が人類を、身体的性質と霊的性質の両面の両方を備え形で、創造された。身体は必滅であるが、霊体――霊と魂 ――は永遠に生き続ける。死によって、 人としての個が消え去るわけではない。死んだ後は霊と魂で個を形成する。 (3.3.4) 3.4 御子なる神 イエス・キリストが神の御子であることを告白することは、キリスト教信仰の基本の一つで ある。これについては、新使徒信条第二条でも「私は、神の唯一の御子、私たちの主イエス・ キリストを信じます」と端的に告白している。この信条文の内容をさらに深めているのが、ニ ばんせい カイア・コンスタンティノポリス信条 (2.2.2 参照 ) の、次の一節である「私たちは、…万世の 前に ( アイオーン ) 父から唯一生まれた御子、唯一の主、イエス・キリストを信じます。主は 光よりの光、神よりの神、生まれ、造られず、御父と一体であります」 。 私たちが「御子なる神」という場合は、三位一体の神における第二位格、すなわち父なる神 及び聖霊なる神との交わりのうちに、永遠から永遠までを生き続け、支配されるお方を指す。 信条文にある「生まれた」という表現は生物学な言葉ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊 なる神における関係の奥義を言葉として表現しようとしたものである。 もっと 父なる神と御子なる神との間に、地位的格差はまったくない――尤も「父」「御子」という 表現は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条でいうところの、いわゆる「生まれた」序列 を表している可能性はある。父と御子は等しく真の神であり、本質的に同じである。このこと について、 ヘブライ人への手紙 1 章 3 節では「御子は、 …神の本質の完全な現れ」と述べている。 御子なる神は、イエス・キリストという姿で、人となられたが、神のままでもあった。神は そくせき 歴史の一部となり、歴史において足跡を残された。御子なる神を信じるということは、必然的 に歴史上の人物として活躍したイエス・キリストを信じることになる。新使徒信条第二条では、 86 3.4 御子なる神 神の御子が人となられてからの生涯におけるいくつかの重要な出来事を明らかにし、それらの 出来事が救いの歴史を築く上での基礎にもなっていることを説明している 「私は、 そのひとり子、 私たちの主イエス・キリストを、信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生ま よ み れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、 よみがえ 三日目に死人のうちから蘇り、天に昇られた。そして全能の父である神の右に座し、そこから 再びおいでになります」。 イエス・キリストは真の人であり真の神でもある。人としての性質と神としての性質の、二 つの性質を持ち合わせておられる。この二つの性質が純粋に、変わることなく、切り離したり 分けたりすることのできない状態で、お一人として存在しておられる。 御子は人としての性質において、他の人と同じである。他の人と違うのは、罪のない状態で この世においでになり、一度も罪を犯さず、十字架上で死なれるまで父なる神に従順であられ たことである ( フィリ 2:8)。 いや 一方、神としての性質においては、地上で卑しい状態になられても、神であることに変わり はなく、万能であり完全であり続けた。御子は様々な方法で、 御自身の位格の奥義をお示しになっ た。例えばマタイによる福音書 11 章 27 節で、御子は次のように述べておられる「すべてのこ とは、父からわたしに任せられている。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思 う者のほかには、父を知る者はいない」。イエス・キリストが神の御子であるということを悟る のは、神からの啓示によってである「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を 知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの 内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」( 一ヨハ 5:20)。 3.4.1 唯一生まれた神の御子 イエス・キリストが父から唯一お生まれになった御子であるということは ( ヨハ 1:14)、新 使徒信条第二条に明記されている「私は、その<神の > ひとり子…イエス・キリストを、信じ たぐい ます」。つまり、イエス・キリストが神との関係において、類の無い独特のあり方による御子で あるということである。「唯一お生まれになった」という表現は、御子が、天の父によって造ら れたのではなく、天の父からお生まれになったことを意味している。 「御子は […] すべてのも のが造られる < 創造される > 前に生まれた方です」( コロ 1:15)。 ひと ヨハネによる福音書 3 章 16 節には、イエスを「独り子」と表現している。イエス・キリス トは天の父の、正真正銘の姿を、御覧になることのできるお方である。ヨハネによる福音書 1 章 18 節には次のように書いてある「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにい 87 3 三位一体の神 る独り子である神、この方が神を示されたのである」 。 神の御子は人のように造られた存在ではないし、ある時期に現れた天使とも異なる。御子は 初めも終わりもない、天の父とは独立した存在であるため、永遠の太古に「お生まれになった」 となるわけである。ヘブライ人への手紙を書いた人物は、詩編 2 編 7 節の言葉を引用して、父 と御子との関係が独特であることを説明するために「お生まれになった<産んだ >」という語 を用いている ( ヘブ 1:5)。 3.4.2 人の姿をした御言葉 ヨハネによる福音書 1 章 1 - 18 節の中には、この世における神の姿とその啓示について、 根本的な事柄が書かれている。あらゆる物事を決定し、あらゆる物事が発生する始まりや根源 について述べている。この始まりは、それ自体無条件であり、時間を超越する。そしてこの始 まりは「ロゴス」という言葉と密接に関係している。ギリシア語の原書に出てくるこの「ロゴ ことば ス λόγος」という語は、新共同訳聖書で「言」と訳されている。このロゴスは、天地創造を促 した真の原動力である。ここでは、御言葉と神とが直接に関係している「初めに言があった。 言は神と共にあった。言は神であった」( ヨハ 1:1)。神と御言葉とは永遠の太古から存在して いるのである。 ヨハネによる福音書 1 章 14 節では、地上におけるロゴスの存在について、次のように証し している「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それ は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」 。すべてを超越する神の御言 葉は、初めから神と共にあった。そしてその御言葉は、地上もしくは人間社会に降り立った。 さらに、御言葉は肉となった。つまり、永遠の御言葉そのものが真の人となられたということ である。 「わたしたちはその栄光を見た」とは、人の姿をされた神の御子、つまり歴史上の事実とし て「言が肉となった」ことを表している。ここで、地上におけるイエス・キリストの活動を自 らの目で見た人たちについて触れている。弟子すなわち使徒たちは、肉となった御言葉である イエス・キリストと、直接交わりをしたのである ( 一ヨハ 1:1 - 3)。 すべてに優る父の栄光は、この世の史実となり、御子の栄光を直接認識することができた。 それゆえ、 御子は御自身について「わたしを見た者は、 父を見たのだ」こう言われたのである ( ヨ ハ 14:9)。 ヘブライ人への手紙 2 章 14 節に、御言葉が肉となった理由が次のように書かれている「子 88 3.4 御子なる神 らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられた。それは、死 をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼ[すためであった] 」 。 3.4.3 真の人であり真の神であるイエス・キリスト イエス・キリストが真の人であり真の神であること――つまり唯一位格の教え――は、紀元 451 年に開かれたカルケドン宗教会議 < 公会議 > で正式に確認された。イエスが二つの本質を 備えているという教えは、人類の想像力や知力では太刀打ちできない奥義である。 フィリピの信徒への手紙 2 章 6 - 8 節によれば、御子が人となられたのは、御自身を低く されたことの表れである「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固 執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」 。 イエスも普通の人が持つ身体的精神的感覚を一通り持ち合わせていた。御子は、人の体を備 え、その体に求められる諸条件による制約を受けていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、 神と人に愛された、とルカによる福音書 2 章 52 節に記録されている。カナの婚礼では、一緒 に楽しまれ、ラザロが死んだ時は悲しみ、涙を流された。荒野では、空腹を覚えられた。ヤコ ブの井戸に来た時は、のどの渇きを感じておられた。兵士から鞭で打たれた時は、痛みを感じ られた。十字架上の死が間近に迫っている時は、 「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われたの である ( マタ 26:38)。 ヘブライ人への手紙 4 章 15 節では、イエス・キリストが真の人であることを明確にしてい る他に、イエスが他の人類と異なる点についても述べている。それは罪のないお方であるとい うことである。 イエス・キリストは真の神でもある。 イエス・キリストが神の御子であると同時に三位一体の神でもあるということは、聖書に記 されている。ヨルダン川でイエスが受洗された時、天から「これはわたしの愛する子、わたし の心に適う者」という声が聞こえてきたことが書かれている ( マタ 3:17)。さらに、変貌の山 において天の父がイエスについて「これに聞け」と仰せになり、神の御子であることを明言さ れたことも記されている ( マタ 17:5)。 イエスは「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのも とへ来ることはできない」と仰せになった ( ヨハ 6:44)。そして「わたしを通らなければ、だ れも父のもとに行くことができない」とも言われた ( ヨハ 14:6)。これらは、父なる神と御子 なる神が同等に聖なる権威者であることを証明している。天の父は人類を御子の所へ引き寄せ、 89 3 三位一体の神 御子が天の父の所へと導かれるのである。 イエス・キリストはこう仰せになった「わたしと父とは一つである」( ヨハ 10:30)。つま り御自身と天の父とは本質的に一つである、と言われたが、イエスが真の神であるからこそ、 そのように宣言することができるわけである。 イエス・キリストが真の神であるという根拠を示す聖書の記述は、以下の通り他にもある: • キリストが昇天された後に使徒たちが取った行動:「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜び でエルサレムに帰[った]」( ルカ 24:52); • ヨハネによる福音書 1 章 18 節の記述:「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふとこ ろにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」 ; • 使徒トマスが昇天された御子を見た後の告白:「わたしの主、わたしの神よ」( ヨハ 20: 28); • キリスト讃歌に詠まれているイエスの本質に関する告白:「キリストの内には、満ちあふれ る神性が、余すところなく、見える形をとって宿っ[ている] 」( コロ 2:9); • ヨハネの手紙一 5 章 20 節に書かれている証し:「わたしたちは真実な方の内に、その御子 イエス・キリストの内にいるのである。この方こそ、真実の神、永遠の命である」 ; • 「キリストは肉において現[された] 」という記述 ( 一テモ 3:16)。 3.4.4 イエス・キリスト関する旧約聖書の記述 だざい 旧約聖書の中でも、メシア、救い主、贖い主について触れている箇所がある。例えば、堕罪 直後における蛇への呪いにおいて、贖い主の来臨に触れている ( 創 3:15)。 ヘブライ人への手紙を書いた人物は、いと高き神の祭司であったメルキゼデクの言行録の中 でイエス・キリストに言及していることを記している。メルキゼデクはアブラムにパンとぶど う酒を与え、彼を祝福した ( 創 14:17 - 20;ヘブ 7 章 )。 神の御子は、選民であったイスラエルの人々の歴史を通じて、彼らと共におられた。彼らが 砂漠をさまよっている間もキリストがおられたことは、使徒パウロが次のように書いているこ とから立証される「わたしたちの先祖は皆、…同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだ のは、 自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、 この岩こそキリストだったのです」 ( 一コリ 10:1 - 4)。 旧約の預言者たちは、贖い主の来臨に関することを、事細かく具体的に預言している: • イザヤは贖い主を示すいくつかの呼称を列挙している。これらの呼称は贖い主の唯一性 を表している:「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわ 90 3.4 御子なる神 たしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、 『驚くべき指導者、力ある神/ 永遠の父、平和の君』と唱えられる」( イザ 9:6< 新共同訳 5 節 >)。 • ミカは主がお生まれになる場所をこう表している「エフラタのベツレヘムよ/お前はユ ダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者 が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」( ミカ 5:2< 新共同訳 1>)。 • マラキは、御子を迎えるための道を備える人物について、次のように預言している「見よ、 わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、 その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万 軍の主は言われる」( マラ 3:1)。ここで述べている、道を備える使者とはバプテスマの ヨハネを指す ( マタ 11:10)。 • ゼカリヤは次のように述べ、主のエルサレム入城に言及している「娘シオンよ、大いに 踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、 勝利を与えられた者 < 日本語文語訳 「拯救 (= 救い ) を賜り」 > /高ぶることなく、 ろばに乗っ て来る/雌ろばの子であるろばに乗って」( ゼカ 9:9)。 こうして、神の御子が人となられ、地上での人生を歩まれることは、既に旧約聖書の中で示 されていたのである。 3.4.5 イエス・キリスト――贖い主 「イエス」という名には、「主は救い給う」という意味がある。主の使いは、イエスの誕生 を知らせると同時に、誕生するお方の名についてこう述べている「その子をイエスと名付けな さい。この子は自分の民を罪から救うからである」( マタ 1:21)。こうして命名に関すること まで指示されていることから、イエスが約束されていた救い主であり贖い主であることは明ら かである。 イエス・キリストは、御自身が神から遣わされた贖い主であることを、御業を通してお示し になった「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清く なり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」( マ タ 11:5)。しかしイエス・キリストによる贖いの業は、目に見える一時的なこの世だけでなく、 目に見えない永遠の世界にまで行き届くものである。この贖いの業は、人類に対する悪魔の影 響力を失わせ、人類を罪と死から導き出すものである。 人類の贖いはイエス・キリストによる犠牲の業を土台としている ( エフェ 1:7)。イエス・ キリストだけが、人類を救いに導くことができるのである ( 使 4:12)。 91 3 三位一体の神 まとめ 御子なる神は、三位一体の神における第二位格である。イエス・キリストという形で、神は人となられたが、神で もあり続けた。つまり神が歴史上の実在となったのである。 (3.4) イエス・キリストは真の人であり真の神であるため、二つの性質を持ち合わせている。イエス・キリストは――罪 の無い点を除いて――人としての性質に倣 ( なら ) い、他の人と変わらぬ存在であった (3.4) イエスは「唯一生まれた御子」と称される。唯一生まれた神の御子とは、父から生まれたということである。つま り造られたのではなく、初めも終わりもない永遠に存在しており、本質的に父と一つである。(3.4.1) すべてに優る神の御言葉 「ロゴス」 ( ) は、 初めから神と共にあったが、イエスによってこの世や人類にもたらされた。 言葉は「肉」となった ( ヨハ 1:14)――すなわち永遠の御言葉が真の人となった。すべてを超越する神の栄光は、 御子がこの世で示された栄光によって、歴史上の事実として直接認知されるようになったのである。 (3.4.2) イエス・キリストが真の人であり真の神であるという、二つの性質を持ち合わせているということは、神秘である。 他の人と同様に一通りの身体的感情的なことを認識するという点で、イエスは真の人であった。一方、 「わたしと 父とは一つである」と述べておられるように ( ヨハ 10:30)、本質面で父と一つであるという点で、真の神である ことをお示しになった。 (3.4.3) 旧約聖書ではメシアの来臨にも触れている。旧約聖書の預言者たちは、贖い主の来臨に関連した事柄について、具 体的且つ詳細に示している。神の御子の擬人化や、地上における生涯、さらに永遠に存在し続けることについても 預言している。 (3.4.4) イエス・キリストは、御自身が神から遣わされた贖い主であることを、御業を通してお示しになった。死と罪から の贖いは、ひとえにイエス・キリストによる犠牲の上に成り立っている。イエス・キリストによって、人類ははじ めて救いに近づくことができるのである。 (3.4.5) 3.4.6 イエスに与えられた権威者の称号 「権威者の称号」とは、御子だけが持つ様々な特質を表すために御子に付与された、聖書に 書かれている名称や呼称を指す。 92 3.4 御子なる神 3.4.6.1 メシア――キリスト――油注がれた者 この三つの名は同一人物を表している。 「メシア」はヘブライ語の "「("חישמマーシアハ」) の 慣用カナ表記で、ラテン語では "Christus" であり、その語源はギリシア語の "Χριστος"( クリス トス ) である。これを訳すと「油を注がれた < 塗られた > 者」となる。 詩編の一部では、イスラエルの国王を「油注がれた方」と表記している ( 詩 20:6< 新共同 訳 7 節 >)。この油注ぎは、神がダビデやその後継者たちと特別な契約を交わされる際に行われ あが た宣言と、密接に関係している。神から油を注がれた王を崇める場合に、王そのものを神と呼 ぶこともあった ( 詩 45:6 - 10< 新共同訳 7 - 11 節 >)。 イスラエルの人々の中では、歴代預言者たちの預言 ( イザ 61 章;エレ 31:31 以下 ) に基 づいて、メシアという概念が生じた。この概念によって、あらゆる人間的事物を超越し天来の 性質を備えたお方というものが次第に具体化していった。 これと同様に、新約聖書では、ナザレのイエスがこのメシア、すなわちキリストである、と 告白している。権威者として称号である「キリスト」 は、 イエスとの関連が非常に密接であるため、 イエス・キリストが正式名称となった。イエスを信じる者は誰でも、イエスがイスラエルによっ て待望されたメシア、神から遣わされた救いをもたらすお方であることを公に言い広めるので ある。 新約聖書がイエスについて述べている箇所は、すべてメシアを指している。つまりキリスト である。これが < ユダヤ教と > 決定的に異なる点である。こんにち多くのユダヤ教信徒は今な おメシアの来臨を待ち続けているが、キリスト教徒は、メシアは既に来臨し、イエス・キリス トとしておいでになった、と告白している。キリスト教は、 マルコによる福音書の冒頭部分で 「神 の子イエス・キリストの福音の初め」と、はっきりと宣言している。( マコ 1:1)。 しゅ 3.4.6.2 主 旧約聖書で「主」とは、イスラエルの神を表す場合がほとんどである。新約聖書では、 イエス・ キリストも指す。ローマの信徒への手紙には次のように書かれている「口でイエスは主である と公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救わ れる…」( ロマ 10:9)。初期キリスト教における最古の信仰告白文の一つである ( ラテン語「キュ リオス・イエスス Kyrios Iesous:「イエスは主なり」) は、このローマの信徒への手紙 10 章 9 節に由来する。ここで使われている「主」という語は、敬称ではなく、イエス・キリストの持 つ神としての権威を表す称号と考えるべきである。 93 3 三位一体の神 はんばく イエスが「主」であることは、イエス復活後の弟子たちにとって反駁する余地のない確信と よみがえ なった。使徒トマスは蘇られたイエスに「わたしの主、わたしの神よ」( ヨハ 20:28) と呼び かけている。 そしてイエスを「主」と呼ぶことは、擬人化された神御自身を表すことに他ならない。 使徒パウロは、イエス・キリストの支配は他のあらゆる支配権力――自らの神性を主張した ローマ皇帝を含めて――に優るものだ、と書いている「わたしたちが語るのは、隠されていた、 奥義としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定 めておられたものである。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。 もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」( 一コリ 2:7 - 8)。 イエスは栄光の主である故に、御名を称え、イエスを崇めることは、非常に大きな意味を持 つものである ( フィリ 2:9 - 11)。 3.4.6.3 人の子 ダニエル書 7 章 13 - 14 節で使われている「人の子」という表現は、人種の一部ではなく 天に属すお方であることを表している。 イエスの時代、敬虔なユダヤ人は「人の子」がおいでになりそのお方にこの世の支配を神が お委ねになることを期待していた。ヨハネによる福音書 3 章 13 節で、主は次のように仰せに なり、御自分が人の子であることをお示しになった「天から降って来た者、すなわち人の子の ほかには、天に上った者はだれもいない」 。そのため、イエスには罪を赦す権能がある ( マタ 9: 6)。そして安息日の主であるイエスは ( マタ 12:8)、「失われたものを捜して救うために」( ル カ 19:10) おいでになったのである。 最後に主は、人の子の苦しみと ( マタ 17:12)、犠牲の死 ( マタ 12:40;20:28) と、復活 ( マ タ 17:9) とを予告された。イエスが人の子について言われるときは、常に御自身のことを言っ ておられるのである。 ステファノも、人の子が神であることを次のように証ししている「天が開いて、人の子が神 の右に立っておられるのが見える」( 使 7:56)。つまり人の子であるイエス・キリストは現在、 みもと 天の父の御許におられる ( ヨハ 16:28)。 3.4.6.4 インマヌエル――神の僕――ダビデの子 聖書では他にも、インマヌエル、主の僕、ダビデの子といった権威者の称号をイエスにつけ ている。 94 3.4 御子なる神 「インマヌエル 」לֵאּונָּמִעとはヘブライ語で「神は我らと共におられる」という意味である。マ タイによる福音書 1 章 22 - 23 節では、イエスについて、イザヤ書 7 章 14 節に書かれている 預言の言葉を引用している「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル と呼ばれる」。このように、イエス・キリストによって、神を直接目にしたり体験したりするこ とができたのである。 旧約聖書の中で用いられている「主の僕」という表現は、族長、預言者、使徒といった、救 いの歴史において傑出した人物を指す。イザヤが言及した主の僕が、イエス・キリストによっ て成就した ( イザ 42:1)。 新約聖書に出てくる「ダビデの子」という表現は、よく用いられていた呼称である。マタイ による福音書の冒頭には「アブラハムの子ダビデの子、 イエス・キリストの系図」とあり ( マタ 1: 1)、ダビデの子 < 子孫 > がイエス・キリストであることを明確に述べている。つまり、ダビデ に与えられた約束が神の御子によって成就したということである。 まとめ 「権威者の称号」とは、神の御子が備える様々な特質を表す名称もしくは呼称である。 (3.4.6) ナザレのイエスが「メシア」であるということは、新約聖書ではっきりと告白されている。 (3.4.6.1) 「主」とは、イエス・キリストが神としての権威を備えておられることを示す呼称である。 (3.4.6.2) 「人の子」とは、人種の一部ではなく、天に属すお方であることを示す名称である。 (3.4.6.3) イエスを表す権威の称号としては、他にも「インマヌエル」( 神は我らと共におられる )、 「神の僕」 、 「ダビデの子」 というものがある。 (3.4.6.4) 3.4.7 キリストの職務――王、祭司、預言者 「王」という称号には、支配・統治の概念がある。祭司は、人が神と和解するために、いけ のち にえを捧げる儀式を執り行った。預言者は神の御旨を宣べ伝え、後に起ころうとしている出来 事を預言する役目を担っていた。 支配・統治し、神と和解し、御旨を宣べ伝え、起ころうとしている出来事を預言すること― ―そのすべてをイエス・キリストは完全な形で実行されたのである。 95 3 三位一体の神 3.4.7.1 イエス・キリスト―― 王 つかい 主の使は、処女マリアにイエスの誕生を予告する際に、次のように言った「その子 [ イエス ] は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。…彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は 終わることがない」( ルカ 1:32 - 33)。 東方から来た三人の賢者は、お生まれになったユダヤの王を拝もうと、イエスのおられる場 所を訪ねた ( マタ 2:2)。 神が預言者エレミヤを通してお与えになった「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。 王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う」という約束は ( エレ 23:5)、イエス・キリ ストによって成就した。 最初にイエスの弟子となったナタナエルはこう告白した「ラビ、あなたは神の子である。あ なたはイスラエルの王である」( ヨハ 1:49)。しかしイエスが王であるというのは、この世の 政治に関わったり、具体的に権力を行使したりしたわけではなく、イエスがなさった行為やし るしや奇跡において、御自身の権威をお示しになったのである。 イエスはこの世の王国を造ろうという企ても、あるいは逆に政治的な命令に従おうという考 えも、一切持たなかった。 イエスが苦しみを受け死なれる前に、エルサレムに入られた過程については、四福音書すべ てに書かれている。イエスは、エルサレムに入ることにより、預言者ゼカリヤの預言した平和 と正義の王が ( ゼカ 9:9)、御自分であることをお示しになった。民衆は、イエスがこの世に おけるイスラエルの王になることを期待したと思われる。だからこそイエスを歓迎したのであ る ( ヨハ 12:13)。 イエスは、ピラトの尋問を受けた際も、御自身の御国がこの世に属すのではなく、この世の 権力者による影響力が御自分に何ら及ばないことを明らかにされた。そこでピラトはイエスに げんち 「お前がユダヤ人の王なのか」と問うことで、御子の口からユダヤ人の王であるという言質を取 ろうとした。これに対してイエスはこう言われた「わたしが王だとは、あなたが言っているこ とです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」 。ここでイ エスは、ローマ人やその他の人種によるこの世的権力の代表者を前にして、御自分が王であり 真理を証しする者であることを公にされたのである ( ヨハ 18:33 - 37)。 イエス・キリストは十字架上で死なれることにより、最も卑しい状態で生涯を閉じることに なるが、実際には高められていく過程の始まりであった。 「ピラトは罪状書きを書いて、十字架 の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架 につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘ ブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた」( ヨハ 19:19 - 20)。罪状書きが三つの言 96 3.4 御子なる神 語で書かれていたということは、さらに深い意味で捉えれば、この罪状書きにより、キリスト が王であることを世界中に知らしめることになった、ということである。 イエス・キリストが王としての威厳を備えておられることについて、ヨハネの黙示録の中で は「地上の王たちの支配者」と明記されている ( 黙 1:5)。第七の天使はラッパを吹き、次の ように告げた「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく 統治される」( 黙 11:15)。この時にあらゆる場所で、イエス・キリストによる統治が行われ ることとなる。 3.4.7.2 イエス・キリスト――祭司 旧約時代における祭司の主要な職務は、神への捧げ物の奉納、民衆に向けた律法の教育、律 法に関する難問や儀式の純粋性に関わるあらゆる問題の裁定であった。大祭司の任務は、自分 自身の罪、妻子たちの罪、人々の罪を、神の御前に捧げることであった。大祭司はこの任務の しせいじょ ために、年に一度――贖罪日 ( ヨム・キプル ) に――至聖所に入った。至聖所では大祭司がイ スラエルの人々のために儀式を行い、神とイスラエルの人々とを仲介する役目を果たした。 ヘブライ人への手紙には、旧約の祭司職や神殿に奉納される捧げ物について「この祭司たち は、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており」と書かれている ( ヘブ 8:5)。福 音に照らして考えれば、旧約の祭司職は暫定的なものに過ぎないことは明らかである。なぜな ら「律法が何一つ完全なものにしなかったから」である ( ヘブ 7:19)。 神の御子が人としておいでになったことにより、あらゆる祭司職に優る祭司が登場したので ある。イエス・キリストは、単なるイスラエル歴代の大祭司の一人ではない。イエス・キリス トはこの世を贖う大祭司である。つまり神御自身が罪という深淵の極みに勝利され、イエス・ キリストを通して世を御自身と和解させて下さるのである。このようなことを成し遂げられる 祭司は他にいないのである。それゆえ、イエス・キリストは永遠の大祭司である「しかし、イ エスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、 この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく 人たちを、完全に救うことがおできになります」( ヘブ 7:24 - 25)。 旧約の大祭司と違い、イエス・キリストは、神と和解する必要がない。というのは御自身が 和解を果たして下さるお方だからである。御子は神との接触を証しされるだけではない――御 子によって人と神は一つとなり、切り離すことができないのである。 神がこの世に対して愛に溢れた配慮をして下さっていることは、イエス・キリストが大祭司 のような務めを果たされたことからもはっきり現れている。イエス・キリストによって、人類 は神の救いに近づくことができるのである。 97 3 三位一体の神 ヘブライ人への手紙には、人々の罪を贖うためにキリストが大祭司となられた、と書かれて いる ( ヘブ 2:17)。永遠の大祭司であるイエス・キリストによって、罪の赦しと永遠の生命の 約束が保証されているのである。 ヘブライ人への手紙 3 章 1 節には、次のように書かれている「だから、天の召しにあずかっ ている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している < 告白している > 使者であり、大祭 司であるイエスのことを考えなさい」。イエス・キリストは、御自身が大祭司であるため、旧約 の大祭司に優る存在であると同時に、新約時代に使徒が活動するための前提でもある。使徒の 職務内容はコリントの信徒への手紙二 5 章 20 節に次のように明記されている「キリストに代 わってお願いします。神と和解させていただきなさい」 。 3.4.7.3 イエス・キリスト――預言者 神がモーセと交わされた約束はイエス・キリストによって成就した「わたしは彼らのために、 同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命 じることをすべて彼らに告げるであろう」( 申 18:18)。 旧約の預言者たちの任務は神の御旨を宣べ伝えることであった。預言者が伝える事柄はしば しば、「主は言われる」とその発信源が神であることを示していた。イエス・キリストがおいで になったことにより、神御自身が人類に語りかけるのである。 マルコによる福音書 1 章 15 節によれば、神はまず「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改 めて福音を信じなさい」と仰せになり、御自身の活動を始められた。主は「しかし、 わたしは言っ ておく」という発言に見られるように ( マタ 5 - 7 章 )、神としての権能を十分に発揮して教 えを説かれた。 さらにイエスは、預言者として将来起こる出来事をお示しになった。その概要については、 例えば、マタイによる福音書 24 章、マルコによる福音書 13 章、ルカによる福音書 21 章に書 かれている。 主は、この世を離れる際に、聖霊を遣わし、この聖霊があらゆる真理に導くことを約束された。 御子は、ヨハネの黙示録の中で、新しい創造に至るまでの救いの過程の全貌をお示しになっ た。過去を明らかにし、隠されていたことを明示し、永遠の生命に至る道を示し、将来におい ていくつかの出来事が起こることを約束されたのである。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決 して滅びない」( マコ 13:31) と言われたように、主の言葉は永遠に有効である。 98 3.4 御子なる神 まとめ イエス・キリストが王であることは、その働きに伴う権威や、お示しになったしるしによって知ることができる。 (3.4.7.1) 十字架に掲げられた罪状書き――三カ国語で書かれた――の意味をより深く捉えると、この罪状書きは、イエス・ キリストが王であることを、世界全体に向けて発信したことになる。 (3.4.7.1) イエス・キリストが持っておられる、王としての威厳については、ヨハネの黙示録にも書かれている。 ( 黙 1: 5; 11: 15)。 (3.4.7.1) この世を贖うための土台である大祭司は、イエス・キリストに見ることができる。イエス・キリストを通して、神 は御自身とこの世との和解を果たして下さる。旧約の大祭司と違い、イエス・キリストは神と和解する必要がなかっ た。旧約の大祭司は神と和解しなければならなかったのに対し、イエス・キリストは御自身が和解者なのである。 (3.4.7.2) 神はこの世を豊かな愛情によって配慮して下さる。 このことは大祭司であるイエス・キリストによって明らかに される。つまりイエス・キリストによって、人類は神の救いに近づくことができるのである。そしてイエス・キリ ストによって、罪の赦しが保証され、永遠の生命が約束されるのである。(3.4.7.2) 旧約の預言者は、神の御旨を宣べ伝えることが任務であった。イエス・キリストは神の御旨を告げ、過去を解明し、 隠されている事柄の全貌を明らかにし、命の道を示し、将来に向けた約束を与えることにより、預言者としての働 きをされた。 (3.4.7.3) 3.4.8 人としてのイエス・キリストとその活動に関する新約聖書の記述 四福音書では、イエス・キリストの生涯とその活動について証ししているものの、イエス・ キリストの伝記としてではなく、ナザレのイエスが約束されていたメシアであることの証しと してまとめられている。イエス・キリストは、人としての神の御国が始まった直後からこの世 の歴史の中で進められた、救いの執り成しについて語っておられる。キリスト信仰を告白する ための必須要素は、新約聖書に書かれているイエスの証しに基づいている。 99 3 三位一体の神 3.4.8.1 イエスの受胎と降誕 マタイによる福音書とルカによる福音書には、イエス降誕に関する記事がある。これによれば、 イエスがお生まれになったのは、ヘロデ王がユダヤを治め、アウグストゥスがローマ皇帝で、 キリニウスがシリア総督の時であった、という。これほど詳細且つ正確な史実が記されている ことは、ナザレのイエスに関する話を、作り話とか伝説の類で片付けてしまうには無理がある ことを証明するものである。 かいたい 人としてのイエスは、処女懐胎の経過をたどっていることから、その比類無き存在が重要視 される。処女懐胎についてはルカによる福音書にその経過が述べられている。天使ガブリエル は処女マリアに次のようなことを伝えた「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエ スと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼 に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、 その支配は終わることがない」 (ル カ 1:31 - 33)。さらにガブリエルはマリアに受胎の経過について次のように説明している「聖 霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子 と呼ばれる」( ルカ 1:35)。 新使徒信条第二条では、イエスが「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ…」と宣言 しているが、これはこの世の一般的出来事とは異なる例外的な経過で、イエスが擬人化された ことを表している。ナザレのイエスは真の人であるものの、その身体的特徴や人間性は、救い をもたらそうとする神の御旨と不可分に関連している。イエスの受胎とその誕生は、救いの活 動であり救いの歴史の一部なのである。このことは、イエス誕生を巡る象徴的な現象によって 明らかにされている: 荒野にいた羊飼いの所に、天使たちが現れて、良い知らせ < 良きおとずれ > を告げた「こん にちダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである」 ( ルカ 2:11;ミカ 5:2< 新共同訳 1> 参照 )。 一つの星が王の誕生を知らせた。東方からやって来た学者たちがその星の進む方向へ行くと、 ベツレヘムに行き着き、そこでそのお生まれになった方を拝んだ ( マタ 2:1 - 11)。 3.4.8.2 ヨルダン川におけるイエスの受洗 イエス・キリストは罪の無いお方であったにもかかわらず、バプテスマのヨハネから洗礼を 受け、罪人と同じ扱いを受けた ( 二コリ 5:21)。こうしてイエスが――悔い改めの表明である ――洗礼を受けたことから、イエスが御自身を低くして、すべての罪人がすべきことと同様に されたことは明らかである。 ここで明らかなように、イエス・キリストは罪の無いお方であるにもかかわらず、人々の罪 100 3.4 御子なる神 を御自身が負い、神の御前に義とされるための道筋をつけられたのである。 イエスが洗礼を受けられた後に、聖霊が見える形でイエスに下った。父は天からの声により 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と証しをされた ( ルカ 3:22)。神からの このような啓示を通して、イエスが神の御子であることが父によって示され、メシアであるこ とが公に言い広められた。つまりイエスはキリストであり、神の御子なのである。 バプテスマのヨハネは、イエスが苦しみを受ける僕 ( イザ 53:5) であり救い主であること を悟っていた。このことはヨハネの次の発言から明らかである「見よ、世の罪を取り除く神の 小羊だ」。このことは既にヨハネに示されていた。彼は次のようなお告げを受けたのである 「“ 霊 ” が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」 。ヨ ハネはこのお告げを受け入れて、改めて次のように述べている「わたしはそれを見た。だから、 この方こそ神の子であると証ししたのである」( ヨハ 1:29,33 - 34)。 3.4.8.3 荒野におけるイエスへの誘惑 イエスはヨルダン川で洗礼を受けた後、霊に導かれて、荒野へ行かれた。「悪魔から誘惑を 受けるため」である ( マタ 4:1)。イエスはそこで四十日間を過ごされ、何度も悪魔の誘惑に 遭遇された。しかしその誘惑に、イエスは忍耐され、悪魔を拒絶されたのである。 この出来事は、救いの歴史にとって大きな意味を持つ。というのはアダムが誘惑に屈して、 罪に堕ちたのに対し、キリストは「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたち と同様に試練に遭われ」( ヘブ 4:15)、新しいアダムとして誘惑に対抗されたのである。キリ ストは公生涯が始まる前から既にサタンに勝利したお方であることを証明されたのである。 まとめ ナザレのイエスの一生は、この世における神による救いの執り成しの歴史である。四福音書は伝記ではなく、信仰 の証しである。 (3.4.8) イエスが処女からお生まれになったことは、人としても無類であることを、十分に立証している。イエスの受胎と その誕生は、救いにおける大きな出来事であり、救いの歴史の一つである。 (3.4.8.1) イエス・キリストは罪の無いお方であったにもかかわらず、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、罪人の一人 となられた。この洗礼という行為――悔い改めの表明――は、御子が自らを低くして、罪人に対して課せられるこ とに甘受されたことを示している。この受洗の後、イエスが神の御子であることが、父なる神によって世界中に広 め伝えられた。 (3.4.8.2) 101 3 三位一体の神 3.4.8.4 イエスの布教活動 イエスによる教えの中心は、現在から将来にわたって到来する神の御国――歴史において明 らかにされる神の統治――についてであった「時は満ち、神の国は近づいた」( マコ 1:15)。 この時以降、神の御国はイエス・キリストを通して一人ひとりに認知されたのである ( ルカ 17:21)。 福音の根本は、イエス・キリストによって具体化された恵み、愛、和解である。神の御子で お あるイエス・キリストがおいでになった目的は、悪魔の業を滅し、罪に墜ちて身動きがとれな くなっている人類を贖い出し、悪魔の影響力から解放するためである。イエス・キリストは御 自分が犠牲となられたことにより、人類のために、神と和解する道と永遠の命に至る門を開い て下さったのである。イエス・キリストは、御自分が死と悪魔に勝利した主であることを、死 と復活を通してただ一度だけ証明された。人類はこの勝利を、信仰を通して共有することがで きるのである ( 一コリ 15:57)。 イエスは弟子たちに御自分に従いなさいと言われた。イエスは力と権威とをもって宣べ伝え、 罪をお赦しになった。そして、救いが御自身を通してもたらされたことを明らかにするために、 奇跡を行われた。こうして、神による統治が近づいていることと、御自身が救い主であることを、 教えを宣べ伝える中で強調されたのである。 3.4.8.5 イエスによる奇跡 四福音書とも、イエスがなさった奇跡に関する話を、イエスがメシアであることを証明する 実際の出来事として伝えている。イエスによる奇跡は、苦しんでいる人々のために、憐れみを 持って行われていることが分かる。またイエスの奇跡は、キリストの栄光 ( ヨハ 2:11) と神と しての権威 ( ヨハ 5:21) を示すためのものであるという点で、啓示としての出来事である。御 いや 悪霊を除く、 死者を蘇らせるといっ 子によって成された奇跡には様々なものがある。病人を癒す、 た奇跡や、自然現象に対する奇跡、食事に関する奇跡、能力に関する奇跡がある。 病人を癒す イエスは病人、盲目の人、足の不自由な人、耳の不自由な人、重い皮膚病を患ってい る人を癒された。この癒しの行為は、イエス・キリストが神の性質を備えているとい う点で注目された。イエスはかつて神が御自身についてイスラエルの人々に仰せになっ たこととまったく同様のことをなさったのである「わたしはあなたをいやす主である」 102 3.4 御子なる神 ( 出 15:26)。こうした奇跡の一つとして、カファルナウムで中風の人が癒された ( マ コ 2:1 - 12)。この人に対して、イエスは最初にこう言われた「子よ、あなたの罪は ぼうとく 赦される」(5 節 )。律法学者はこの奇跡を冒涜と考えたが、主は、御自分に罪を赦す権 能と癒やす力があることを、明らかにされたのである。これら癒しの奇跡は、御子か ら癒された人たちの信仰と密接に関係していた。 悪霊を追い出す イエスによる奇跡によって悪霊を追い出すこともできた ( マコ 1:23-28)。悪霊でさえ、 イエス・キリストを主と認めている ( マコ 3:11)。ここではっきりすることは、悪は それ自体が力として独立しているのではなく、神の力に従属している、ということで ある。つまり、人類を破壊的に支配したり影響を及ぼしたりする時代が、イエス・キ しゅうえん リストの来臨と共に終焉を迎えたのである ( ルカ 11:20)。 死者を蘇らせる 四福音書では、主が死者を呼んで生き返らせる場面を、三例挙げている。その三例とは、 ヤイロの娘 ( マタ 9:18 - 26)、ナインに住む男の子 ( ルカ 7:13 - 15)、そしてラ ザロ ( ヨハ 11:1 - 44) である。ラザロを復活させる前、主は根本的に重要なことを 仰せになり、御自身をお示しになった「わたしは復活であり、命である。わたしを信 じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬこと はない」( ヨハ 11:25 - 26)。イエス・キリストは、死者を蘇らせる力を持っている だけではない――イエス御自身が命であり、復活なのである。死者の復活は、イエス・ キリストを信じることは、死を克服して永遠の命を獲得することを意味し、これを象 徴するのが死者の復活である。 自然現象に対する奇跡 主は風と海に対して、静まるようにお命じになった。これにより、自然現象を克服す る力があることを示されたのである ( マタ 8:23 - 27)。この力は自然の力に勝るも のであり、神の御子が創造者であることを如実に表している。御子は、永遠なる父の 御言葉として、あらゆる被造物よりも前に存在しておられたのである ( ヨハ 1:1 - 3)。 食事に関する奇跡 五千人に食事をふるまわれた件については ( マコ 6:30 - 44)、四福音書すべてに書 かれている。またマタイによる福音書とマルコによる福音書には、四千人に食事をふ るまったことが記されている ( マタ 15:32 - 39;マコ 8:1 - 9)。こうした出来事は、 ほうふつ 一方で神が砂漠にいる御自分の民に食事をお与えになったことを彷彿させるものであ り、また一方で聖餐を連想させるものである「わたしは、天から降って来た生きたパ 103 3 三位一体の神 ンである。このパンを食べるならば、 その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、 世を生かすためのわたしの肉のことである」( ヨハ 6:51)。 この世的な物を賜る奇跡 この世のものを人々に豊かにお与えになるという奇跡も、イエス・キリストが神であ ることと神の御国が近いことを示している。このよう奇跡の例としては、例えば、ペ トロの大漁の話や ( ルカ 5:1 - 11)、カナでの婚礼でイエスが水をぶどう酒にされた 話 ( ヨハ 2:1 - 11) がある。 まとめ 福音の根本は、イエス・キリストによって啓示される恵み、愛、和解である。 (3.4.8.4) 奇跡については、四福音書のすべてが、実際の出来事として扱っており、その奇跡によって、イエスがメシアで あることを証明し、苦しんでいる人々のために神による憐れみに溢れた配慮が成されていることを説いている。 (3.4.8.5) 神の御子がなさった奇跡は数多く、病人をお癒しになったり、悪霊を取り除かれたり、死者を蘇らせたり、自然現 象や食事に関わる奇跡を行ったり、この世の物を奇跡によって与えられたりと、様々である。 (3.4.8.5) 3.4.8.6 イエスの喩え話や比喩を用いた発言 イエスは、説教の中で多くの喩え話をされた。それを聞く人たちの日常生活をもとにして、 多種多様な比喩を用いられたのである。マタイによる福音書 13 章 34 - 35 節には次のように 書かれている「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いな いでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 『わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。 』 」 。 イエスは、喩え話を用いて御自分の教えにおける根幹部分についてお話しになり、「天の国 は次のようにたとえられる…」と言って天の御国に関する奥義 < 秘密 > を明らかにされた ( マ タ 13 章 )。 マタイ、マルコ、ルカの三福音書には、四十を超える喩え話が収められている。こうした喩 え話を通して、御子は福音が持つ主要概念、つまり神の御国が近いこと、隣人を愛せよという 戒め、人類の心のあり方、人の子の来臨を説かれた。 104 3.4 御子なる神 神の御国がイエス・キリストに存在する つつま イエスは、からし種の喩え話を通して、神の御国の慎ましい始まり方――及びその成 長――について説かれた。パン種の喩え話では、あらゆる事物にキリストが浸透して いくことを明らかにされた ( マタ 13:31 - 33)。 畑に隠された宝の喩え話と高価な真珠の喩え話が言おうとしたことは、めいめいがキ リストの中に隠された富を知ることと、神の御国への招きを積極的に受け入れること である ( マタ 13:44 - 46)。 近づいている天国つまり神の御国におられる天の父は、愛に溢れたお方である。それ ほうとう ゆえ、見失った羊の喩え話、無くした銀貨の喩え話、放蕩息子の喩え話は ( ルカ 15: 4 - 32)、神が罪人を愛され、和解しようとする御旨を抱いていおられることを言おう としている。主は、人を分け隔てせず、すべての人を招き、御自分との交わりを提供 して下さるのである。 隣人愛 律法の中で最も卓越した戒めは、神を愛し隣人を愛しなさい、というものである。良 きサマリア人の話で ( ルカ 10:30 - 35)、イエスは、隣人とは誰かということと、隣 人を愛するとは人の苦境を見て見ぬふりをするのではなく助けてあげることだ、とい うことを説かれた。こうしたことを実践する姿勢は、最後の審判の喩え話からも学ぶ ことができる ( マタ 25:35 - 36)。 人の心の姿勢 ファリサイ派と徴税人の喩え話 ( ルカ 18:9 - 14) では、人の心の姿勢に焦点を当て ている。つまり、自分の行為を買いかぶることなく、謙虚な姿勢で恵みを求める気持 ま ちで神に近づく人が義なる者である、ということである。さらに種蒔 く人の喩え話で も人の心の姿勢を扱っている。つまり、神の御言葉を正しく理解するためには、偏見 を持たず神を畏れる心を持つ必要がある、ということである ( ルカ 8:15)。 仲間を赦さない家来の喩え話では、赦しの姿勢を扱っており、神の恵みに与った者は 他人にも恵みを示しなさい、と説いている。神の大いなる愛を知っている人は、自分 も隣人と和解しなければならない、と感じるのである ( マタ 18:21 - 35)。 人の子の来臨 人の子の来臨に関する喩え話の中で、イエスは将来の出来事についてお示しになった。 マタイによる福音書 24 章 37 - 39 節では、キリストの再臨とノアの時代とを比較し、 キリストの再臨が思いがけない時にやって来ることを説いている。同様の趣旨で、夜 にやって来る泥棒の喩え話を用いて、その結びに「だから、あなたがたも用意してい なさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と諭している ( マタ 24:44)。 105 3 三位一体の神 これと同様のことを、賢いおとめと愚かなおとめの喩え話でも伝えている ( マタ 25: 1 - 13)。主は思いがけない時においでになるから、そのために目を覚まして準備をし ておくことが大切である、と諭している。タラントンの喩え話がいおうとしているこ とは、キリスト再臨前の時間を有効に活用しなさい、ということである ( マタ 25:14 - 30)。 こうした喩え話によって、イエスから教わった、最後の時における再臨、救済と審判、イエ スの支配、この世の諸々の力、そして人類が実質的に行き着くことになる永遠の生命に関して イエスが言われたことの理解を深めることができるのである。 ひ ゆ 比喩 イエスは、御自身の本質を表現するために――それによる神の自己啓示のために―― 比喩を使われた。つまり「わたしは命のパンである」( ヨハ 6:35)、 「わたしは世の光 である」( ヨハ 8:12)、さらに救いに至る「門である」( ヨハ 10:9)、羊のために命 を捨てる「良い羊飼いである」( ヨハ 10:11)、「ぶどうの木である」( ヨハ 15:5) と 仰せになった。他にもイエスは御自分が「復活である」と言われた一方で「道であり、 真理であり、命である」とも述べておられる ( ヨハ 11:25;14:6)。父なる神に近 づくことできる道を開かれるのは、御子だけである。このように「わたしは…である」 と言われたことによって、御自身の威厳と神性をお示しになったのである。つまりイ エスは父の使者であるばかりでなく、神そのものなのである。 3.4.8.7 イエスと律法 モーセの律法はイスラエルにとって最高の権威であった。モーセの律法を遵守したり実行し たりすることが、人と神との関係にとって重要であると考えられていた。イエスは律法を廃止 するようなことはなさらなかったが、律法よりイエス御自身に権威があり、御自分が律法を超 越した主であることを明らかにされた。 すいくん 山上の説教 < 垂訓 > の中で ( マタ 5 - 7 章 )、イエスは、弟子たちや民衆の前で律法の位置 づけをお示しになった。いわゆるアンチテーゼ (「あなたがたも聞いているとおり、…と命じら れている。しかし、わたしは言っておく…。 」)――この論理手法を用いて、イエスは聴衆に対し て律法を明らかにして律法の土台となった神の御旨を正しく理解させた――においてイエスは、 権威をもって律法を解釈する資格を有する唯一のお方が御自身であることをお示しになった。 イエスは、モーセの律法の核心部分を明示することによって、律法が――旧約全体と同様に ――イエス御自身について述べたものであり、律法を成就させるために御自身がおいでになっ 106 3.4 御子なる神 たことを明らかにされた。イエスは、御自分が服従されたことにより、最初の人類による不服 従に勝利された。イエスは、律法を完全に成就させたことにより、人類に対して罪が無節操に 支配していた状態に終止符を打たれたのである。 3.4.8.8 イエスと使徒たち イエスは、福音を広めるために、弟子たちの中から使徒として十二人をお選びになった ( ル カ 6:12 - 16;マコ 3:14)。使徒は、キリストに従う者たちとして最も身近におり、イエス も使徒たちを信頼しておられ、両者は特別な関係にあった。他の弟子たちはイエスを理解する ことができずに離れていったが、使徒たちはキリストと共におり、イエスがキリストであるこ とを公の場に言い広めていった。イエスは使徒たちの足を洗うことによって ( ヨハ 13:4 以下 )、 謙虚な気持ちで仕えることを手本でお示しになった。イエスが聖餐を制定された時、その場に は十二人しかいなかった ( ルカ 22:14 以下 )。この十二人の使徒と、イエスはこの世で最後の 別れの言葉を交わされたのである(ヨハ 13 - 16 章) 。そして、聖霊が下ることを約束し、御自 身が天の父の御許に帰られることをお告げになったのも、この十二人に対してであった。イエ スはこの十二人と十二人の言葉によって信じた者たちのために、執り成しの祈りを捧げた ( ヨハ 17 章 )。イエスは彼らのために御自身を犠牲にされた。彼らも「真理によってささげられた者 となるため」である (19 節 )。 イエスは復活されたあとでたびたび御自身の姿を現されたが、それも使徒たちの前に現され た ( 使 1:2 - 3)。天に昇られる前に大宣教令をお命じになったのも、 使徒たちに対してであった。 まとめ イエスは、比喩や喩え話を用いて、教えの基本部分を説くことにより、天国の奥義を明らかにされた。喩え話の中 心は御自身の再臨であり、これにどう備えるべきかを表している。 (3.4.8.6) ヨハネによる福音書の中に書かれている喩え話で、イエスは御自分が真の神であることを示しておられる。(3.4.8.6) イエスは、モーセの律法の核心部分を明示された。そうすることにより、律法が――旧約全体と同様に――御自身 に触れていることを明らかにされたのである。 (3.4.8.7) 福音を広めるために、イエスは、弟子たちの中から十二使徒をお選びになった。イエスと、この十二人の使徒たち には、特別な信頼関係があった。イエスは復活後、何度も使徒たちのところに姿を現された。 (3.4.8.8) 107 3 三位一体の神 3.4.9 イエスの受難と犠牲の死 イエスが犠牲の死を遂げられる前日のことについては、四福音書の中で詳しく論じている。 主はろばに乗ってエルサレムに入られたが、これはゼカリヤ書 9 章 9 節の預言が成就したの である。イエスは神殿にいた鳩売りなどを一掃させられたが、これは主の家が聖なる場所であ ることを明らかにするためであった。ファリサイ派やサドカイ派との論争は激しさを増し、彼 らはイエスの殺害を企てたのである(ルカ 20 章) 。 イエスは高価な香油による油注ぎを受けられた。この時イエスは、御自分の死が近いこと を表明された ( ヨハ 12:7)。その場にいた人たちの中には、イエスへのこうした行為を無駄な ことと考え、腹を立てた。その香油を売れば、銀貨三百枚分にもなり、貧しい人に相当な施し ができたというのが、彼らの言い分であった。そして十二使徒の一人であったイスカリオテの ユダは、祭司長たちの所へ行った。祭司長たちはイエスを売り渡しす代金であった銀貨三十枚 をユダに支払った。銀貨三十枚は、奴隷を買い取る代金としての当時の相場であった ( 出 21: 32)。こうして預言者ゼカリヤ書 11 章 12 - 13 節の言葉が成就したのである。つまり主は、 いわば奴隷同然の扱いを受けたのである。 3.4.9.1 イエス、聖餐を制定する 過越祭を迎えるに際し、イエスは十二人の使徒と一緒におられた。一同が食卓に着くと、御 子イエスは聖餐を制定された。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈り を唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。 『取って食べなさい。これはわたしの 体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。 『皆、この杯から飲 みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血で ある』」( マタ 26:26 - 28)。これにより、イエスが当初「人の子の肉を食べ、その血を飲ま なければ、あなたたちの内に命はない」( ヨハ 6:53) と言われたこと――この言葉に弟子の多 くがイエスに背を向けたのであるが――の意味が解明された。 過越祭の食事をしている時、主は裏切り者を特定された。指摘を受けた人物はその後交わり から離れて行った。「時は夜であった」( ヨハ 13:30)。 108 3.4 御子なる神 3.4.9.2 ゲッセマネの園におけるイエス 最後の晩餐の後、イエスと使徒たちはゲッセマネの園へ行かれた。ここで、近づきつつある 十字架の刑に恐れを覚える御子の、人としての部分が明らかになる。イエスは謙虚さと服従の 姿勢でひざまずき、次のような祈りを捧げて、人としての部分と格闘をされた「父よ、御心なら、 この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行っ てください」( ルカ 22:42)。すると天の使いが現れ、イエスに力をお与えになった。イエス は完全に天の父の御旨に従われた――つまり犠牲となる覚悟をされたのである。 せっぷん その後イエスは逮捕された。イスカリオテのユダがイエスに接吻をして、イエスを兵士に売 り渡したのである。主は天の力を使って逮捕を逃れようとはなさらず、天の父からいただいた 苦い杯を受けられたのである ( ヨハ 18:11)。弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまった。 3.4.9.3 最高法院に出廷したイエス 最高法院はイエスを冒涜の罪を犯したと判断し、死刑を言い渡した ( レビ 24:16)。御自分 が神の御子であると主張したことが、冒涜と解釈されたのである。 イエスが最高法院で尋問を受けている頃、ペトロは、イエスを知っていることやイエスの弟 子であることを否定した ( ルカ 22:54 - 62)。ペトロがイエスを否定したことは、イエスに さらなる苦痛を与えることとなった。 イエスに死刑が言い渡された後、イスカリオテのユダはイエスに対する背信行為を後悔し、 祭司長らから受け取った銀貨三十枚を返そうとした「 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪 を犯しました」( マタ 27:1 - 5)。ところが銀貨の受け取りを拒否されたため、ユダはそれを 神殿に投げ入れ、自分は首つり自殺を図った。ユダのこうした言動から、キリストを死なせよ うと望んでいたわけではないと思われる。ユダの背信行為は聖書の預言が成就した形だが ( マ タ 27:9 - 10;エレ 32:9;ゼカ 11:12 - 13)、だからといってユダに対する責任が免除 されるわけではない。 3.4.9.4 ピラトとヘロデの前に立つイエス ユダヤ人はイエスを、ローマ総督であったポンテオ・ピラトの官邸に連れて行った。官邸は、 熱心なユダヤ教信徒ならば、汚れを受けないようにするという理由で、立ち入らない場所であっ 109 3 三位一体の神 た ( ヨハ 18:28)。しかしイエスは官邸に入らなければならなかった。 ピラトによる尋問を受ける中で、イエスは、御自分の御国がこの世に無いことと、イエス御 自身がこの世で権力を得ようとしていないことを、明確にされた。それゆえポンテオ・ピラト はイエスに何ら問題点を見出せず、イエスをヘロデに送致した。それまで敵対関係にあったピ ラトとヘロデは、この時以来関係が修復する ( ルカ 23:12)。この世の権力が合体して、主に 敵対する瞬間であった。 ローマ人はイエスを鞭打ち、民衆はイエスを死刑にせよと要求した。自らを「ユダヤ人の ないがし 王」と称して皇帝を蔑ろにしたことは死に値する罪であると、イエスを非難したのである ( ヨ ハ 19:12)。ピラトはイエス釈放の可能性を認識していた。というのは、イエスと、犯罪者の バラバのどちらかを民衆が選んで釈放することができたのである。しかし民衆は、祭司長や長 老に扇動されて、バラバを釈放したのである。ピラトは、その後の展開に対する責任が自分に 及ばないことを示すために、自分の手を洗い、次のように言った「この人の血について、わた しには責任がない。お前たちの問題だ」。すると民衆はこう答えた「その血の責任は、我々と子 孫にある」( マタ 27:24 - 25)。するとピラトはもう一度イエスに鞭を打ち、十字架刑に処す るために兵士に引き渡したのである。 ポンテオ・ピラトというローマ総督が関係したことから、イエスに対する判断と処理につい ては、単にユダヤ人だけの問題ではなくなった。ユダヤ人以外の異邦人も加担したことになる。 つまり、全人類が主を殺した罪を負っているのである。 3.4.9.5 十字架の刑に処せられ犠牲の死を遂げる ゴルゴタの丘へ向かう途中、大勢の人々はイエスの後を追って行った。死刑となるイエスを 嘆き悲しむ女性たちに向かって、主はこう言われた「エルサレムの娘たち、わたしのために泣 くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」 ( ルカ 23:28)。イエスがこう言われたのは、 やがて起こるエルサレム陥落を意味していたのである。 主と一緒に、二人の囚人に死刑が執行されることになった。イエスはその二人の間に立たれ た。ここで、罪人のひとりに数えられた、というイザヤ書 53 章 12 節の言葉が成就することに なる。ついに、想像を絶する重い苦しみが、イエスを死との格闘へと容赦なく襲うこととなる。 イエスが十字架上で言われた言葉は、イエスが神として偉大なお方であることを証明してい る。苦しみながら、そして臨終を迎えながらも、他者を憐れみ、赦し、執り成し、配慮するこ とによって、神の愛と恵みを示されたのである。 110 3.4 御子なる神 臨終におけるイエスの言葉は、キリスト教初期においても様々に言われており、四福音書に もそれぞれ異なる記載があり、臨終までの経過についても様々な記録がある。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」( ルカ 23:34)。 はりつけ 御子は、十字架に磔にされながら、御自分を十字架刑にしたすべての人々、その行為 の重大性がわかっていないすべての人々のために、天の父に執り成しをされたのであ る。これにより、汝の敵を愛せよという戒めを、 イエスは完全に実行されたのである ( マ タ 5:44 - 45,48)。 「はっきり言っておくが、あなたはこんにちわたしと一緒に楽園にいる」( ルカ 23:42 - 43)。 主は御自分とともに十字架刑を受ける囚人にも憐れみをお示しになった。この囚人は、 主に恵みを求めたのであり、死を目前にして、イエスが救い主であることを悟ったの である。この悔い改めをした囚人に対してイエスが開かれた楽園とは――当時の認識 によるものだが――以後、敬虔で義とされた者たちが入るところであった。 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」――「見なさい。あなたの母です」( ヨハ 19:26 - 27)。 イエスは、死に直面しながら、母マリアを気遣われ、彼女のことを弟子のヨハネに託 された。イエスは、御自身が大いに苦しみつつも、他者の窮状に目を注がれたのである。 キリスト教では伝統的にマリアを教会の象徴としてきた。教会は、使徒ヨハネが指摘 しているように、使徒職の配慮のもとにあったのである。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」( マコ 15:34)。 敬虔なユダヤ教徒は、人の臨終が近い時に、詩編 22 編の言葉を神に向かって申し述べ る。これは、神が遠くに行ってしまわれたことを嘆くと同時に、神の力と恵みによっ て自分たちの信仰を公に言い広めている。ここではイエスが、天の父に向かって言わ れたのである。 また詩編 22 編は、義なる者たちの苦しみと神への信頼を表している。さらに広義に捉 えれば、キリストによる犠牲の死、旧約聖書による救い主イエスの証しを表している、 と考えることができる。 「渇く」( ヨハ 19:28)。 これにより、詩編 69 編 21< 新共同訳 22> 節の言葉が成就した「人はわたしに苦いも のを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします」。これは、イエスがメ シアとして苦い杯を完全に飲み切ることで天の父の御旨を完全に成就されたことを、 比喩的に表している。 「成し遂げられた」( ヨハ 19:30)。 111 3 三位一体の神 こんにちでいう午後早くの、当時の時間単位でいう第九の時刻に発せられた言葉であ る。救いの歴史における重要な段階に終止符が打たれた瞬間である。すなわち、イエ スが人類の贖いのために犠牲となられた瞬間ある。イエスによる犠牲の死は旧約の終 焉であった。旧約はイスラエルの人々にしか適用されない契約だったが、新約が効力 を持つようになったことで、異邦人も契約に与る機会が設けられたのである ( ヘブ 9: 16)。 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」( ルカ 23:46)。 詩編 31 編 6 節からの引用であるこの言葉から明らかなのは、イエスは、死ぬ間際に 及んでも、天の父を完全に信頼しておられた、ということである。 主が死なれたことに伴い、劇的な出来事が起こった。台地が揺れ、岩が裂け、神殿の聖所と 至聖所とを隔てていた幕が真っ二つに裂けたのである。これは、旧約におけるいけにえの奉納 による礼拝がキリストの死によってその役割を終え、意味を成さなくなったことを意味する。 旧約は成し遂げられたのである。一方で、イエスが犠牲として死なれ、 「幕」――「イエスの肉」 を表している ( ヘブ 10:20)――が裂けたことにより、天の父に至る道が開かれたことを意味 しているのである。 イエスの見張りをしていた百人隊長や兵士たちは、この一連の出来事を見て非常に恐れ「本 当に、 この人は神の子だった」 と言った ( マタ 27:54)。 こうしてユダヤ人以外の人も、イエ スの死を見て、イエスが神の御子であることを証言した。 アリマタヤ出身のヨセフという最高法院に属していた人物が、イエスを埋葬するために、遺 体の引き渡しをポンテオ・ピラトに要求した。ヨセフはニコデモと一緒に、イエスの遺体を墓 に埋葬した。ニコデモはかつて、イエスから水と霊による再生の教えを受けた人物である。イ エスを埋葬した墓は岩を掘って作られた、それまで一度も使われたことのない新しい墓であっ た。石は墓の前にころがしてあった。祭司長と兵士が墓の番をした ( マタ 27:57 - 66)。 イエスは人類のために死なれたが、人類のために苦しみをも受けられたのである。そしてこ の苦しみによって救いが効力を持つようになったのである「あなたがたが召されたのはこのた めです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、 模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。 』 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せ になりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいま した。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受け になった傷によって、あなたがたはいやされました」( 一ペト 2:21 - 24)。 キリストは御自分が苦しみを受け、死なれたことにより、神と人類との仲介者として、罪と 死からの贖いをもたらして下さる。これにより「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という 112 3.4 御子なる神 バプテスマのヨハネの言葉が成就することとなる ( ヨハ 1:29)。主は御自分の死を通してサタ ンの力を砕き、死に勝利された ( ヘブ 2:14)。イエスはサタンによる誘惑とことごとく対決し、 罪の無い状態を維持された。そのため全人類の罪をすべて御自身の上に置くことができたので ある ( イザ 53:6)。さらにキリストの血は、徳を得て、罪によるあらゆる罪責を洗い流すこと ができる。捧げられたイエスの命を代価として、罪人は解放されるのである。キリストによる 犠牲の死が、神に至る道を人類に示すのである。 3.4.9.6 イエスの苦難と犠牲の死に関する旧約聖書の記述 イザヤ書 53 章に、謙虚な神の僕は苦しみを味わうことになる、という趣旨の記述がある。 これはイエス・キリストを指している。そして「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、 病を知っていた」と書かれている (3 節 [ 口語訳 ])。彼の謙虚さは、苦しみと死という形で集約 されている「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。[…] 彼はみず から懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやさ れたのだ」(4 - 5 節 )。これはキリストが苦しみの道を歩まれ、犠牲の死を遂げられることを 表している。 やり イエスの死後、番兵の一人がイエスの脇腹を槍で刺した。これによりゼカリヤ書 12 章 10 節の「…彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ…」という言葉が成就した。 イエスと一緒に十字架刑を受けた犯罪者に対して、兵士らは彼らの足を折ったが、イエスの 足は折らなかった。このことは、過越祭が最初に行われたときに子羊の肉の食べ方を定めた神 の戒めの中に、前もって示されていた ( 出 12:46;ヨハ 19:36)。 つづ これらの事例からわかるように、旧約聖書は単にイスラエルの民の歴史を綴ったものではな さかのぼ い。十字架から 遡 って考えることによって明らかになることがある。つまり、旧約聖書が目指 したのはイエス・キリストであり、旧約聖書に書かれている事柄はイエス・キリストによって 成就した、ということである (1.2.5.2 も参照 )。 3.4.9.7 イエスの苦難と犠牲の死に関する御自身の発言 四福音書では、主が折に触れて御自分の苦しみと死と復活について語っておられた様子を記 述している。以下にその事例をいくつか挙げる: • ペトロがイエスに「[あなたは]神のキリストです」と信仰を言い表す < 告白する > と、主 113 3 三位一体の神 は弟子たちに次のことをお示しになった「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、 はいせき 律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」( ルカ 9:22)。 へんぼう • 変貌の山での出来事から間もなく、イエスは弟子たちに次のような教えを説かれた「人の 子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」( マコ 9:31)。 にゅうじょう • 主はエルサレム 入 城 前に、十二人の弟子に向かってこう言われた「今、わたしたちはエ ルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死 刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。 そして、人の子は三日目に復活する」( マタ 20:18 - 19)。 • 律法学者とファリサイ派の人々がしるしを求めると、イエスは預言者ヨナの話を引用され た「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中 にいることになる」( マタ 12:40)。 • イエスは神殿にいた商人たちを追い出す際にも同様のことを言われた「この神殿を壊して みよ。三日で建て直してみせる」( ヨハ 2:19)。神殿とは御自分の体のことであることを、 弟子たちがわかったのはキリストが復活された後のことであった ( ヨハ 2:21 - 22)。 3.4.9.8 イエスの犠牲の死に関する使徒書簡の記述 イエスの死と、その死によって人類にもたらされた贖いに至る道は、使徒書簡の中心テーマ である。例えばヨハネの手紙一 3 章 16 節には次のように書いてある「イエスは、わたしたち のために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」( 一 ペト 2:21 - 24)。 ヘブライ人への手紙は、旧約と新約を比較し、キリストによる犠牲を、救いの歴史における 最も重要な出来事と位置付けている。旧約の祭司長たちは罪人であり永遠的ではなかったし、 祭司職もその役目を失った。それに対してイエス・キリストは、 罪人ではなく永遠の存在である。 イエスの持つ祭司としての役割は永遠に続くものである。旧約の祭司が何度も捧げものをしな ければならなかったのに対し、キリストの犠牲はただ一度捧げられ、それが永遠の有効性を持 つのである ( ヘブ 9 章 )。 使徒書簡がイエスによる犠牲の死について取り上げているのは、当時、異端の教えが広まっ ていた事情もある。当時広まっていた異端とは、この世にやってきた使者が人のような姿をし ていただけで、十字架で苦しむことも死ぬこともなかったというものや、主の復活を否定する ものであった。これに対して、使徒パウロは書簡の中で「キリストが、聖書に書いてあるとお りわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目 114 3.4 御子なる神 に復活したこと」を明らかにし、こうした異端の教えに反論した ( 一コリ 15:3 - 4)。 イエスが犠牲の死を遂げられたことの意義は、コリントの信徒への手紙二 5 章 19 節に「神 はキリストによって世を御自分と和解させ…」と書かれている。 3.4.9.9 十字架 福音の中心は、十字架上の死と復活とを通して救いをもたらされた、イエス・キリストであ る。それゆえキリストの十字架は、罪深い人類に対して神がなされる様々な和解の働きかけを、 縮図として示すものである。コリントの信徒への手紙一 1 章 18 節で、使徒パウロは「十字架 の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」 と、十字架上でキリストが死なれたことに関して、相反した捉え方があることを指摘している。 そがい さげす みじ 当時十字架上で死ぬことは、人間社会から疎外された、蔑まれるべき人物の敗北であり惨めな 結末と考えられていた。しかし神の知恵によれば、敗北に思われても、実際には贖いという大 事業を成し遂げるための土台が据えられたわけであるから、この場合は勝利ということになる。 はりつけ 復活によって、神は十字架に磔となったお方を、キリストとされた ( 使 2:36)。ただキリス トお一人によって、救いはもたらされるのである。 まとめ イエスが犠牲の死を遂げられる数日前の様子については、四福音書の中で詳細に書かれている。イエス・キリスト は、使徒を一堂に会して、聖餐を制定された。イエスが逮捕されたのは、イスカリオテのユダが裏切ったためであっ た。その後イエスは最高法院に出廷し冒涜 ( ぼうとく ) 罪で起訴された。 (3.4.9;3.4.9.1-3.4.9.3) ローマ総督のピラトが共謀 ( きょうぼう ) したことによって、イエスに対する死刑判決とその執行は、イスラエル だけの責任ではなくなった。 (3.4.9.4) イエスの苦しみは、イエスの死と同様、人類のためであり、このことによって救いの効力が発揮されるようになっ た。イエス・キリストが仲介者として、苦しみの末に死なれたことにより、人類は神と和解することができるよう になり、罪と死からの贖いが可能となった。 (3.4.9.5) イエスによる犠牲の死によって、旧約の事柄が確認された。イエスは御自分が死んで復活することを自らお告げに なった。使徒の書簡では、イエスが犠牲の死を遂げられたことの意義を述べている。 (3.4.9.6;3.4.9.7;3.4.9.8) キリストの十字架は、神が罪深い人類に対してなされる様々な和解の働きかけを 縮図として示すものである。 (3.4.9.9) 115 3 三位一体の神 3.4.10 死者の領域におけるイエス・キリストの活動 ペトロの手紙一 3 章 18 - 20 節によれば、御子は十字架上で死なれた後に、ノアの時代に 従わなかった者たちの所へ行って福音を宣べ伝えた。彼らにも救いを提供するためである「死 んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて 死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」( 一ペト 4:6)。 このようにキリストによる救いの働きかけは故人にも行われる。御子は生前、罪人たちに働き かけをされたように、生前神の御旨に従わなかった者たちに働きかけをされたのである。 イエスが犠牲として捧げられて以来、故人も贖いを得ることが可能となった (9.6 参照 )。イ エス御自身も「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者 は生きる」と言っておられる ( ヨハ 5:25)。 御子イエス・キリストは、御自分が犠牲として死なれたことにより、悪魔から死の力を取り 去られた ( ヘブ 2:14 - 15)。それゆえ御子は死と陰府の鍵を持っておられる ( 黙 1:18)。こ こでいう「陰府」とは「永遠にむなしい地獄のような場所」ではなく、 「死んだ者たちがいる領 域」を言う。 「鍵」を持つということは、支配することを意味する。 ローマの信徒への手紙 14 章 9 節には次のように書かれている「キリストが死に、そして生 きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。主であられるキリストは、 天の父によって、万物の中で最も高い者となられた。神はキリストに 「あらゆる名にまさる名を」 お与えになった。「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に ひざまず」くのである ( フィリ 2:9 - 10)。 神の御子が死者の領域に入られたことは、ゴルゴタの丘で勝利されたお方の勝利である。御 子が死の力を砕かれたのである。これにより、死が終わりではなくなったのである。 まとめ キリストは故人にも救いを働きかけておられる。 (3.4.9.10) イエス・キリストは死と陰府の鍵を持っておられる。神の御子が死者の領域に入られたことは、ゴルゴタの丘で勝 利されたお方の勝利である。御子が死の力を砕かれたのである。これにより、死が終わりではなくなったのである。 (3.4.9.10) 116 3.4 御子なる神 3.4.11 イエス・キリストの復活 イエス・キリストの復活は、神の三位一体による行為である。三位一体による行為は、それ までに一度も無かったことである: • まず、父なる神の力が、イエスの死からの復活という形で啓示された ( 使 5:30 - 32)。 • して、御子なる神による次の言葉が成就した「わたしは命を捨てることもでき、それを再 び受けることもできる」( ヨハ 10:18)。 • 最後に、聖霊なる神も次のような証しをしておられる「もし、イエスを死者の中から復活 させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた 方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生か してくださるでしょう」( ロマ 8:11)。 イエス・キリストが復活されたことは、人間の人知でははかり知ることができない。しかし、 御子の復活を目撃した人物がいたことは、聖書の至る所で証しされているのである。その証し の一つは、墓の中が空になっていたことを弟子たちが証言していることである。さらに、復活 してから天に昇られる四十日間に、主が様々な場所で姿を現しておられることが証明されてい る。イエス・キリストの復活は、キリストに従った人たちが次世代の人々に一つの奇跡として 信じさせようとした希望的考察ではないし、神話的な思いを表現したものでもない。歴史的事 実である。実際に起きたことなのである。 3.4.11.1 イエス・キリスト復活が救いにもたらした意義 イエスが復活されたことは、神の力が死に優っていることを証明している。これはイエス・ キリストが神の御子として、本来備えている力である。 旧約はイエス・キリストが復活したことを以て成就した ( ルカ 24:46;ホセ 6:2)。この ことは御子自身も予告されたことである ( マコ 9:30 - 31;10:34)。 イエスの復活を信じないなら、イエス・キリストへの信仰は意味の無いものとなる「そして、 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無 駄です」( 一コリ 15:14)。キリストが復活したからこそ、永遠の生命への希望はそれを信じ る者にとって正当なものとなる。復活によって、 死は無きものとなり、 アダムの罪 < 堕罪 > によっ て生じていた神と人類との別離も解消されたのである ( 一コリ 15:21 - 22)。 イエスがキリストであることとイエスの復活への信仰を公に言い広めることは、人類救済に とって極めて重要である ( 一ペト 1:3 - 12)。キリストが復活し「眠りについた人たちの初穂」 117 3 三位一体の神 となられたことを信じることは、キリストが再臨された時に、キリストによって死んだ者たち が復活しこの世にいる者たちが変貌するための基本である「…死者は復活して朽ちない者とさ れ、わたしたちは変えられます」( 一コリ 15:52)。 よみがえ 3.4.11.2 蘇られたお方が姿を現される マグダラのマリアと数人の女性が夜明けに墓へやって来た。すると墓の石が転がしてあって、 中は空だった。彼女たちは、起こったばかりのイエスの復活を最初に知った人たちであった。 一人の天使がやって来て、イエスが蘇られたことを告げた ( マタ 28:5 - 6)。その後、蘇られ たイエスはマグダラのマリアに御自身をお示しになった。さらにペトロをはじめ他の使徒たち とも会われた。復活後に主が姿を現されたということは、イエス・キリストの復活は間違いな いことになる。イエスが復活された姿をお示しになった人物や、復活されたイエスであること なきがら を知った人物の氏名が具体的に挙げられている。それゆえ、弟子が復活に見せかけて亡骸を盗 んだといった推測は成り立たないのである ( マタ 28:11 - 15)。 復活を果たされた御子は弟子たちに姿を現され、彼らに今後のことを指示され、教えを施し、 権威と様々な職務をお与えになった。 主はエマオの弟子たちに聖書の内容を解説し、パンを裂かれた ( ルカ 24:25 - 35)。 復活された日の夕方、イエスは弟子たちの真ん中に立たれた。そして「あなたがたに平和が あるように」と挨拶をされた。これにより弟子たちは恐れずに自信を持つようになった。その後、 主は彼らに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と仰せに なり、彼らに職務をお委ねになった。復活されて死と罪から勝利された主なる御子は、使徒た ちに権威と力をお与えになり、息を吹きかけてこう仰せになった「だれの罪でも、あなたがた が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」 ( ヨハ 20:19 - 23)。 またある時、主はティベリアス湖畔で弟子たちに御自身を現された。ペトロはキリストの羊 の世話する職務を受けた。キリストの羊とは教会のことである ( ヨハ 21:15 - 17)。 こうして主は使徒たちに姿を現されて「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもっ て使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」( 使 1:3;ヨハ 21:1 - 14)。 使徒たちはキリストが復活した証しを、全世界に広めていった。使徒パウロはコリントの 信徒への手紙一 15 章 6 節で、復活された主が五百人以上もの兄弟たちに同時に現れた、と述 べている。そして自分自身が主の姿を見た最後の人物であるとも述べている。ただし、ここで 118 3.4 御子なる神 パウロが言っているのは、ダマスコ近くで起きた出来事を指しているわけだが ( 使 9:3 - 6)、 これは他の目撃証言と性質を異にしている。というのは、高められたキリストが天から直接啓 示されたためである。一方、キリストが復活されてから天に昇られるまでの間に地上でキリス トを見た者たちは、本当の意味でキリストの復活を目撃しているのである。 3.4.11.3 復活されたイエス・キリストの体 復活を遂げたイエス・キリストには、栄光の体が与えられている。イエスが復活したからと いっても、イエスに再びこの世の体が与えられたわけではない。例えば、 ラザロも復活したが ( ヨ ハ 11:17 - 44)、これとは根本的に異なる。彼は後日、ある時期にまた世を去っているが、蘇っ たキリストは永遠に死の束縛から解き放たれたのである「死者の中から復活させられたキリス トはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、 もはやキリストを支配しません」 ( ロマ 6:9)。 神はイエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったのである ( 使 13:34 - 35)。 キリストは神の力によって生きている ( 二コリ 13:4)。復活の後、有限と制約に縛られた 肉体から栄光の体となった。もはや空間や時間に束縛されることはなくなったのである。主は この体を帯びて弟子たちに現れ ( ルカ 24:36)、閉じた扉を通られ ( ヨハ 20:19,26)、弟子 たちと共にパンを裂き ( ルカ 24:30)、傷をお示しになり、彼らと一緒に食事をされた ( ルカ 24:40 - 43)。こうしてキリストが「霊」でなく、イエス・キリストとして身体的に存在して 彼らと共におられることを明らかにしたのである。 使徒パウロは、復活後のキリストの体と、キリストにあって死んだ者たちが復活後に与る 体とを比較している。この体は、栄光と力によって復活する霊の体である ( 一コリ 15:42 - 44)。キリストが再臨される時、この世に生きる者たちの体は、キリストの栄光ある体と同じ 形に変貌する ( フィリ 3:21)。 3.4.12 イエス・キリストの昇天 イエス・キリストは、復活後四十日目に使徒たちのいる前で、父なる神がおられる天へと昇っ て行かれた。その際イエスは使徒たちに最後の命令を下された「エルサレムを離れず、前にわ たしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」 。それは彼らが「間もなく聖霊による洗礼 119 3 三位一体の神 を授けられるからである」というものであった ( 使 1:4 - 5)。 おお イエスは、使徒たちを祝福しながら、天へと引き上げられて行き、雲に覆われて見えなくなっ た。使徒たちはそこに立ったまま、なおもイエスを見つめていた。すると白い服を着た二人の 人が彼らのそばに立ってこう言った「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ 有様で、またおいでになる」( 使 1:11)。使徒たちの中で、イエスが復活される様子を直接目 で見た者はいなかったが、昇天される様子は直接目撃している。蘇られたイエスが高くされて 天の父の御許に帰って行かれたことが、彼らにもわかったのである。 こうして主に備わっていた、 人としての性質は失われ、永久に神の栄光を帯びることとなった。かつてイエスが「わたしは 父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と言われたことが成就し たのである ( ヨハ 16:28)。 マルコによる福音書 16 章 19 節には次のように書いてある「主イエスは、弟子たちに話し た後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」 。イエスは、旧約の大祭司のように人の手で造ら れた聖所に入って行かれたのではなく、「天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前 に現れて下さったのである」( ヘブ 9:24)。つまり神の右の座において、御自分がお選びになっ た者たちのために執り成して下さるのである ( ロマ 8:33 - 34)。 キリストが神の右の座に着かれるという表現は、キリストが父なる神の力と栄光を豊かに分 け与えて下さることを示している。キリストはこの栄光を、将来における御自分の民にも分け 与えようとしておられるのである「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所 に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわ たしの栄光を、彼らに見せるためです」( ヨハ 17:24)。このことが実現するのは、キリスト みもと が故人となった者たちと存命中の者たちの中から御自分の民を御許に引き上げられる時である。 こうして彼らはキリストと常に共にいることになる ( 一テサ 4:15 - 17)。 120 3.4 御子なる神 まとめ イエス・キリストの復活は、神が三位一体で行われたことである。復活する様子を目撃した人はいないが、天に昇 られる様子は多くの人が目撃している。イエスの復活は願望ではなく、神話的な孤愁を表現したものでもない。実 際に起きたことである。 (3.4.11) イエスが復活されたことによって、信徒は、堂々と永遠の生命を待ち望むことができる。これにより、アダムの罪 の結果として生じた、死とそれに伴う神と人類との別離を修復する機会が設けられた。 (3.4.11.1) キリストが初穂として復活されたことを信じることは、故人となった者がキリストによって復活し、存命中の者が キリスト再臨の時に変貌することを信じる根拠となる。 (3.4.11.1) 主は復活された姿を弟子たちにお示しになった。復活されたお方に遭遇する場面は、新約聖書の至る所で証しされ ている。キリストの復活は、使徒たちによって世界中に証しされた。 (3.4.11.2) イエスは復活された後、有限と制約とに縛られていた肉の体を捨てて、栄光の体を持って天に昇られた。もはや空 間や時間に制約されることが無くなったのである。 (3.4.11.3) イエス・キリストは復活して四十日後に 、使徒たちのいる前で、天の父なる神の御許に帰られた。これに伴い、 それまで主に備わっていた、人としての性質に代わって、神の永遠の栄光を備えることになったのである。(3.4.12) キリストが復活される様子を目撃した人物はいない一方で、昇天される様子については使徒たちが直接目撃してい る。この時キリスト再臨を約束を、使徒たちは受けたのである。 (3.4.12) 121 3 三位一体の神 かしら 3.4.13 教会の頭であるイエス・キリスト イエス・キリストは父の御許に帰られたものの、昇天後も聖霊という形でこの世に存在し続 けている。聖霊は天においても地においても有効なあらゆる権威を受けているので「わたしは 世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との約束を実行しておられる ( マタ 28:20)。 聖霊はキリストに栄光を与え ( ヨハ 16:14)、教会において御自身の臨在を証明されるのである。 教会を表現するのに、使徒パウロは「キリストの体」という比喩をよく用いている。例えば、 神の栄光を称える讃歌の中で「御子はその体である教会の頭」と表現している ( コロ 1:18)。 主の教会には多くの会員がいるが、一つの体である「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆 たと 一つの霊をのませてもらったのです」( 一コリ 12:13)。この喩えが明らかにしていることは、 主の教会が単なる組織や団体ではないということである。主の教会は単に部分の集合体ではな い――その頭であるキリストに導かれた、生きた有機体である。教会は神の賜物であるから、 人の干渉する余地は一切ない (6 参照 )。 3.4.14 被造物の頭であるイエス・キリスト エフェソの信徒への手紙 1 章 20 - 23 節によれば、キリストを「すべての支配、 権威、 勢 力、 主権の上に置き、 今の世ばかりでなく、 来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置か れた」。キリストは「ロゴス」(3.4.2 参照 ) としてあらゆる被造物の初穂である「天にあるもの も地にあるものも、見えるものも見えないものも、[…] 万物は御子において造られたからです。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」( コロ 1:16)。神は、御子によっ て世界を創造されたのである ( ヘブ 1:2)。キリストは被造物の頭として、罪に汚れている人 類を「滅びへの隷属から解放」して下さる ( ロマ 8:19 - 22)。このことにより被造物は益に 与り、新しい被造物が現実のものとなる「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。 最初のものは過ぎ去ったからである」( 黙示録 21:4)。 122 3.4 御子なる神 まとめ イエス・キリストは天に昇られた後も聖霊を通してこの世におられる。 (3.4.13) 新約聖書には「キリストの体」という比喩が使われている。この比喩は、イエス・キリストの教会が単なる組織や 団体でなく、頭であるイエス・キリストに導かれた、生きた有機体であることを示している。 (3.4.13) 「ロゴス」である神の御子は、あらゆる被造物の初穂である。神は御子を通してこの世をお造りになったのである。 (3.4.14) 3.4.15 イエス・キリスト再臨の約束 イエス・キリスト再臨の約束は、新約聖書が伝えている事柄の中心である。「主の日」「キリ ストの日」 「主の将来」「キリストの栄光に関する啓示」「来臨」「主の再臨」といった表現は、 すべて同じ出来事を表している。つまり、キリストが再びおいでになって、故人となった者た ちと存命中の者たちの中から、御自分の民を御許に引き上げて下さる時を表しているのである。 これは最後の審判ではない。キリストの花嫁の用意が整って、子羊との婚礼を迎える時である ( 黙 19:7)。 キリスト再臨の約束に関する記述は、聖書の至る所に見られ、新約聖書全体にわたって書か れている: • まず、主御自身が使徒たちに向かって次のように仰せになった「行ってあなたがたのた めに場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、 わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」( ヨハ 14:3)。主は弟子たちに、用 心して、用意をしておくようにと命じておられる「あなたがたも用意していなさい。人 の子は思いがけない時に来るからである」( ルカ 12:40)。人の子の来臨に関する喩え話 (3.4.8.6 参照 ) は、キリストの日が急にやって来て受け入れられる者と置いていかれる者 とをはっきり分ける、というのがその主旨である。 • 天使たちはイエスが天に昇られる時に、イエスが再びおいでになる約束を、すでに与え ている ( 使 1:11)。 • 最後に、使徒書簡もキリスト再臨を再確認している。例えばヨハネの手紙一 3 章 2 節で は、完全な者となって主に似た者となる、と神の子たちに約束されている大いなる未来 について簡潔にまとめている。使徒ヤコブは信徒に対して、主がおいでになるまで忍耐 123 3 三位一体の神 しなさい、と訴えている「主が来られる時が迫っているからです」( ヤコ 5:8)。ヘブラ イ人への手紙の著者も、忍耐を促している「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。 遅れられることはない」( ヘブ 10:37)。キリストが今度おいでになる時は、罪のためで はなく「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」と述 べている ( ヘブ 9:28)。 • ペトロの手紙二では、キリスト再臨の約束が成就しないと考えるすべての人たちに対して 反論し、この約束を遅らせているというお考えもない、と述べている ( 二ペト 3:9)。 • 使徒パウロはキリスト再臨の約束を再確認し、書簡の中で繰り返し触れている。そこでパ ウロは、主の日に死者がキリストによって復活しこの世に存命中の者が変貌することにつ いて、具体的に述べている ( 一テサ 4:13 - 18)。盗人が夜にやって来るように、主の日 は来る、とも述べている ( 一テサ 5:2)。そしてパウロはコリントの手紙一を「マラナ・タ」 ――主よ来て下さい――という挨拶で結んでいる ( 一コリ 16:22)。 • ヨハネの黙示録を通して、イエス・キリストは、まもなく起こる出来事を示しておられる しか ( 黙 1:1)。「然り、 わたしはすぐに来る。」これが、ヨハネの黙示録で伝えようとしている 事柄の中心である。この呼びかけに、御霊と花嫁が「アーメン、主イエスよ、来てください」 と答えている ( 黙 22:12,20)。 ここに挙げた聖句では、キリストの再臨が間近に迫っていて必ず起こる、と述べている。こ のメッセージは、困難や失望の中にあってキリストの救いとキリストとの交わりをもたらし、 慰めを得させる ( ロマ 8:17 - 18)。キリスト再臨の約束は全人類に良い知らせをもたらして くれる。キリストを受け入れ、キリストの御霊を自らのうちに取り込み、罪深いながらも「あ なたがたの内におられるキリスト、 栄光の希望」( コロ 1:27) という主の言葉を守り続けるな らば、再臨の約束を自らに成就させることができるであろう。 まとめ キリスト再臨の約束は、新約聖書が伝えている事柄の中心である。最後の審判とキリスト再臨とは関係が無い。キ リストの霊とキリストの命を内に抱くならば――故人であっても存命中の人であっても――その者たちの中から御 自分の民を引き上げて下さるのである。 (3.4.15) キリスト再臨の約束については、新約聖書の至る所に記述があり、まもなく起こる、そして必ず起こる出来事とし て扱っている。 (3.4.15) 124 3.5 聖霊なる神 3.5 聖霊なる神 聖書では、聖霊つまり神の御霊について多く証ししている。神の御霊によってはじめて神を 理解することが可能である、と聖書は証ししている「人の内にある霊以外に、いったいだれが、 人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」( 一コ リ 2:11)。使徒パウロは、イエスが主であるという認識に至るためには聖霊との関連性が不可 分であるとしている「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」 ( 一コリ 12:3)。 新使徒信条第三条では「私は、聖霊[…]を信じます」と証している。これは「使徒信条」 の表現と一致している (2.2.1 参照 )。ニカイア・コンスタンティノポリス信条では、この内容 をさらに包括的に論じている「また、[ 私たちは ] 主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、 父と子から出られ 、父と子とともに崇められ、称えられ、預言者によって語られた主です」 。 聖霊は真の神である。聖霊は父と御子から発せられ、父と御子と交わりつつ永遠に生きて おられる。天地創造や救いの歴史においても、父と御子と共に関わっておられる (3.3.1 参照 )。 そして聖霊は神の位格の一つであり (3.1.1 参照 )、父と御子と共に、主と崇められ、称えられ るのである。 聖書の中で聖霊は「神の霊」とも称されている ( 創 1:2;ロマ 15:19)。他にも「主の霊」( サ ム上 16:13;二コリ 3:17)、「真理の霊」( ヨハ 16:13)、 「[ イエス・] キリストの霊」 (ロマ 8: 9;フィリ 1:19)、「御子の霊」(ガラ 4:6) 、 「栄光の霊」 (一ペト 4:14)と表現されている。 また新約聖書では、聖霊が「弁護者<口語訳=助け主>」 (ヨハ 14:16)であると述べている。 さらに「力」 「<神の>賜物」とも述べている(使 1:8;2:38) 。この神の力は、父と御子によっ て約束され、遣わされたものである。力であり賜物である聖霊は、御霊の証印が行われる時に 与えられる。御霊の証印と水のバプテスマによって、水と御霊による再生をし、神の子となる。 3.5.1 位格としての聖霊 神は最初から御自身を人類に啓示しておられた (1.1 参照 )。天地を創造する際にも、神は既 に位格として言葉を発し、行動しておられるのである。位格は神の持つ性質の一部であり (3.2.4 参照 )、父、御子、聖霊という形で位格を啓示している。父・御子と同様に、聖霊も語り君臨 いけい あが たてまつ される。それゆえ、畏敬の念をもって近づき申し上げ、崇め奉るべきお方である。聖霊も「主」 なのである ( 二コリ 3:17)。 125 3 三位一体の神 あざむ 聖霊には神としての威厳がある。使徒ペトロは使徒言行録 5 章 3 - 4 節で、聖霊を欺く者 は神を欺くことになる、とはっきりと述べている。聖霊が神の位格の一つであることは、福音 を宣べ伝えるために人をお遣わしになり ( 使 13:4)、人の霊と意思疎通ができ ( ロマ 8:16)、 祈る人たちのために神に執り成して下さるという事実 ( ロマ 8:26) から、明らかである。 聖霊の働きは以下の点において明確に啓示されている。 • イエス・キリストが人としておいでになったこと。 • 過去と現在に関する神の啓示。 • 使徒の派遣と働き。 サクラメント • 聖礼典。 • 伝道活動で語られる言葉。特にイエス・キリスト再臨の約束の護持。 3.5.1.1 父と御子と一つに結ばれている聖霊 ニカイア・コンスタンティのポリス信条 (2.2.2 参照 ) は、聖霊が父と御子から出る、と証し している。イエスは、父も御子も聖霊を遣わす、と仰せになっているからである「わたしが父 のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が 来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」( ヨハ 15:26)。つまり聖霊は 天の父から出て ( ヨハ 14:26)、御子から送られる、つまり御子から出る ( ヨハ 16:7)。それ ゆえ聖霊は、父の霊であり御子の霊なのである。このことはイエスの次の言葉でも表現されて いる 「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、 あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」( ヨハ 16:14 - 15)。 このように、聖霊の性質を理解すると、聖霊が父と御子と本質的に一つであることが明らか になってくる。聖霊も、父および御子と同じように「神よりの神」である。聖霊は造られず、 本質的に父と御子と一体であり、父と御子と同じく永遠に活動しておられるのである。 3.5.1.2 御子の擬人化と聖霊 神がイエス・キリストという人の姿となられたこと < 神の擬人化 > は、救いの歴史における 中心的な出来事である。聖霊によって処女マリアが妊娠したのである(マタ 1:18;ルカ 1: 35)。この聖書の記事については「私は、…イエス・キリストを、信じます。主は聖霊によっ てやどり、おとめマリアから生まれ…」と、新使徒信条にも触れられている。 126 3.5 聖霊なる神 聖霊は御子をお遣わしになることも証しておられる。イエスがヨルダン川で受洗されると、 聖霊が下り、 人となられた御子に神としての権威があることをお示しになったのである(マタ 3: 16 - 17;ヨハ 1:32 - 34) 。この時点で、人としてのイエスに聖霊という油注ぎが行われた ことにより、イエスは「油注がれたお方」すなわちメシアであることが、神によって認められ たのである。使徒ペトロはコルネリウスの家で次のような教えを説いている「あなたがたはご 存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出 来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた 者となさいました」 (使 10:37 - 38)。聖霊が人となった神の御子にとどまっておられたこと については、四福音書の中で証しされている(ルカ 4:1,14,18,21) 。 まとめ 神の御霊を理解することによってはじめて神を理解することができる、と聖書は証している。 (3.5) 聖霊は真の神である。聖霊は父と御子から出て、父と御子と共に永遠におられるお方である。聖霊は神の位格の一 つであり、主として崇め称えるべきお方である。 (3.5) 新約聖書では、聖霊を「弁護者」とも表現しているし、 「力」 「神の賜物」とも表現している。力であり神の賜物で ある聖霊は、御霊の証印の中で与えられる。 (3.5) 位格は神の本質の一つであり、父にも御子もそして聖霊にも表されている。 (3.5.1) 聖霊は父と御子から出る。聖霊も父と御子と同様に神よりの神である。聖霊は造られたものではなく、父と御子と 同じ一つの本質であり、父と御子と同様に永遠に活動しておられる。 (3.5.1.1) 神がイエス・キリストとして人の姿となられたのは聖霊によるものである。処女であったマリアが聖霊の働きによっ て妊娠したからである。聖霊は、イエスがヨルダン川で受洗された時に、イエスをお遣わしになることを証された。 この中で、いえすは御自身の持つ人としての性質に則 ( のっと ) って、聖霊の注ぎを受けられた。これにより、イ エスは「油注がれたお方」すなわちメシアとして、神から認められたのである。 (3.5.1.2) ちから 3.5.2 力としての聖霊――聖霊の賜物 英語でスピリット spirit と訳出される、ヘブライ語のルアク חורやラテン語のスピリトゥス spiritus、ギリシア語のプニュマ πνευμα には、「風、息、生気」などの意味がある。創世記 2 章 127 3 三位一体の神 7 節では、霊を神の命の息と表現している。聖霊は命そのものをもたらす。そこでわかることは、 聖霊は神による命の力である、ということである。 救いの歴史を通じて、神の御霊は人類に対する支配力をとして御自身を啓示される。そして 聖霊によって、人は神の道具となることができる。この力は人類に影響を与えたり、満足を与 えたり、新しくする(テト 3:5)ことさえできる。 イエス・キリストは御霊の力によって活動され、イエスの中で「主の力が働いた」( ルカ 4: 14;5:17)。イエスは、復活して天に昇られる直前に、使徒たちに次のような約束をされた「あ なたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」( 使 1:8)。 使徒ペトロは、ペンテコステの時に説教を行った後、バプテスマを受けた者たちに聖霊の賜 物が与えられることを約束した ( 使 2:38)。 この聖霊という賜物は、サマリアで起きた出来事に見られるように ( 使 8:14 - 17)、神が 使徒の按手と祈りを通してお与えになるものである。信じる者は聖霊に満たされ、同時に神の 愛にも満たされるのである ( ロマ 5:5)。 大切なのは、神の賜物としての聖霊と、神の位格としての聖霊とを区別することである。賜 物としての聖霊は、父、御子、聖霊によって与えられるものである。 3.5.3 旧約時代に聖霊が活動していたことを示す根拠 聖霊は父と御子と一つになって永遠に存在してきた。故に天地創造の時にも活動しておられ たし、救いの歴史の中でも活動しておられる。聖霊が旧約時代にも活動していた根拠は聖書の 至る所に書かれているものの、当時は三位一体という概念が存在せず、新約聖書のように聖霊 せ よ の施与という考え方もなかった。旧約時代、聖霊はメシア来臨と新約の成立について多くの約 束をお与えになった。 3.5.3.1 神の御霊 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」( 創 1:2)。この 表現は、三位一体の神である父、御子、聖霊が等しく天地創造の業に従事されていたことを表 している ( 創 2:7)。 旧約聖書の中で用いられている「神の霊」は、聖霊を指している。まだ位格としての定義は されておらず、命を与える力としている。 神の霊が活動したことを示す例としては、モーセの時代 ( 出 31:3;民 11:25 - 29) や、 128 3.5 聖霊なる神 イスラエルの士師の時代 ( 士 3:10;6:34;11:29;13:25) に記録がある。モーセや士師 たちは――聖霊の促しを受けて――敵との戦いにおいて、勇気と力をもって、主の民を導いた。 イスラエルの諸王も神の霊に満たされていた。これについてはサウル ( サム上 10:6) やダ ビデ ( サム上 16:13) の事例が記録されている。その後、イエス・キリストはこのダビデを通 して聖霊が活動したことについて、次のように述べておられる「ダビデ自身が聖霊を受けて言っ ている。 『主は、わたしの主にお告げになった。 「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあな たの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と』」( マコ 12:36)。これに関連して新約 聖書の箇所でも ( 例~使 1:16;4:25)、ダビデが聖霊に促されてイエス・キリストを示唆す る発言があったことを明らかにしている。 サクラメント あずか 新約の時代では、聖霊は聖礼典を通して与る永遠の賜物だが、旧約時代においては一時的に 聖霊が人を満たすだけであった ( サム上 16:14;詩 51:13< 新共同訳 15 節 >)。 3.5.3.2 旧約の預言者たちにおける聖霊の働き 聖霊が預言者を通して活動したり、預言者を通して語ったりしていたことは、旧約聖書でも 新約聖書でも証ししている ( 例~エゼ 11:5;ミカ 3:8;ゼカ 7:12;使 28:25)。新約聖書 では、預言者たちがイエス・キリストに言及していることを強調している「しかし、神はすべ ての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったの です」( 使 3:18)。 まとめ イエスは霊の力によって活動をされた。この同じ霊が降ることを、天に昇られる前に使徒たちに約束された。(3.5.2) 神は、使徒の按手と祈りを通して聖霊の賜物をお与えになる。重要なのは、神の賜物としての聖霊と、神の位格と しての聖霊とを区別することである。 (3.5.2) 旧約時代、聖霊が人類に満たされたのは、限られた瞬間だけであった。それに対して新約になると、聖礼典の賜物 として永遠のものとして人類を満たす。 (3.5.3) <旧約時代における > 聖霊の働きを表している事例としては、モーセ、士師、イスラエル諸王に見ることができる。 また、聖霊は預言者たちを通しても働いておられた。 (3.5.3.1;3.5.3.2) 129 3 三位一体の神 3.5.4 イエスが聖霊を遣わすことを約束される イエス・キリストは、父の御許に帰られる前、 弁護者であり「真理の御霊」である聖霊の来臨を、 使徒たちに告げられた。さらに、御自分の民に聖霊を、天の「弁護者」であり高い所からの力 として、お与えになることを約束された。イエスは、御自分がこの世を離れることは弁護者と して聖霊がおいでになるための前提である、と仰せになった ( ヨハ 16:7)。事実、聖霊はキリ ストが死なれ、復活され、父の御許に帰られ栄光を受けられた後で、はじめて賜物として施さ れるようになった ( ヨハ 7:39)。 3.5.4.1 弁護者 イエス・キリストは御自分の民の弁護者である ( マタ 28:20;一ヨハ 2:1)。御子イエスは、 捕らえられ十字架の刑を受ける前に、弟子たちに別れの言葉を交わされたが、その中で、もう 一人の弁護者を遣わす、と約束された。弁護者とはすなわち英語の paraclete である。この語は 補佐役、仲介者、弁護者を表すギリシア語のパラクレートス Παράκλητος が語源である「わたし は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして くださる。…しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あ なたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」 (ヨ ハ 14:16,26)。聖霊は、教会と共にとどまって下さる「もうお一人の」弁護者である。聖霊 はイエス・キリストを証しし、栄光をお与えになる ( ヨハ 16:14)。 この聖霊は、主が昇天されてペンテコステ < 五旬節 > の時に聖霊が注がれた後、キリストに 従う者たちの中において福音を生かし続け、彼らを補佐して下さる ( マタ 10:19―20)。 3.5.4.2 真理の御霊 またイエス・キリストは、聖霊は「真理の霊」であると仰せになった ( ヨハ 15:26)。この 真理の御霊は、何が神に喜ばれて、何が神の御旨に反するかを明らかにして下さる「その方が 来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」( ヨハ 16:8)。 聖霊は、真理と欺瞞とをはっきりと区別される ( 使 13:9 - 10)。 主は、この世で活動しておられた時に、すべての真理や救いの歴史を長々と説明されること 130 3.5 聖霊なる神 はなく、将来において聖霊が遣わされることに触れられた「言っておきたいことは、まだたく さんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来る と、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞 いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」( ヨハ 16:12 - 13)。こんにちにおける聖霊の働きも、これと同様である (1.3 参照 )。 真理の御霊によって啓示される事柄は、どれもキリストの本質やキリストの働きと密接に関 係している。それゆえ、聖霊は御子の権威を証するのである ( 一コリ 12:3)。聖霊は、イエス・ おおやけ キリストが肉の姿でおいでになったことを公にし ( 一ヨハ 4:2)、キリストが父の御子として おいでになり、将来再びおいでになることを告げ知らされる。 3.5.4.3 高い所からの力 復活を果たされた主は、天に昇られる前に、使徒たちに次のような約束をされた「わたしは、 父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまって いなさい」( ルカ 24:49)。つまり主は、聖霊をお遣わしになることをお告げになったのである。 これは神が預言者ヨエルを通して約束された通りである(ヨエ 3< 新共同訳 4>:1―5) 。この 約束がペンテコステの時に成就したのである。そしてこの時を機に、使徒たちが公に活動を開 始したのである。 ちから 「高い所からの力」( ギリシア語で「力 」を意味する「デュナミス δεναμις」という表現は、 御霊が実行力と促進力をもって強力に働きかけて下さることを示唆していると考えることがで き、神が力強く執り成して下さることを表している。世界の歴史において神と御子による自己 啓示が行われたように、聖霊による神の自己啓示も救いの歴史における一つの出来事として、 ペンテコステの時において行われたのである。聖霊は、神に喜ばれる生き方をしようとするこ とでキリスト再臨の準備をしようと努めているキリストの教会を、強めて下さるのである。 まとめ 弟子たちの弁護者であったイエス・キリストは、彼らに別の弁護者をお遣わしになると約束された。この別の弁護 者はイエス・キリストを証しし、栄光をお与えになる。このお方は、キリストに従う者たちの中で、福音を生きた ものとし続け、教会を支えて下さる。 (3.5.4;3.5.4.1 ) イエス・キリストは、聖霊を「真理の霊」と . 仰せになった。聖霊は、真理と欺瞞とを区別される。 (3.5.4.2 ) 131 3 三位一体の神 イエスは、将来において聖霊が啓示されることについて言及された。この聖霊の啓示はすべてキリストの本質とそ の御業との関連がある。 (3.5.4.2) 「高い所からの力」とは、聖霊の働きによる神の強力な執り成しを表している。 (3.5.4.3) 聖霊による神の自己啓示はペンテコステの時に起こった。これを機に、使徒の活動が公に始まった。 (3.5.4.3) 3.5.5 聖霊と教会 新約聖書に収められている諸書簡によれば、初期キリスト教会に聖霊がおられたことが示さ れている。イエス・キリストが弟子たちに弁護者として聖霊をお遣わしになることを約束して おられたからである。教会は「神の家」 「神の住まい」 「生ける神の神殿」と表現されている ( 一 テモ 3:15;エフェ 2:22;二コリ 6:16)。 旧約において、神殿は神の民にとって神の住まいであった ( 王上 8:13)。これが新約聖書で も応用されて、教会において神が常に臨在されること――それゆえ聖霊も臨在されることにな る――を表すのに、神の住まいと言われるようになったのである。信徒は「生きた石として用 いられ、霊的な家に作り上げられるように」する必要がある ( 一ペト 2:5)。 3.5.5.1 ペンテコステにおける聖霊の注ぎ ペンテコステの時に聖霊が注がれたことにより、神が父・御子・聖霊の三位一体であること が示された (3.1.1 参照 )。父と御子によって遣わされた聖霊が、使徒たちや彼らと一緒にいた 人たちを満たした。 これによりキリスト教会が歴史上初めて誕生した。このペンテコステの出来事により、聖霊 が教会の設立用件であることが明らかになった。つまり、教会と聖霊は一つである、というこ とである。 聖霊は使徒の導きによって会衆の中で絶えず臨在しておられる。使徒たちの中に神の命があ る。神の命は使徒の宣教活動によって啓示される。さらに信徒一人ひとりの言動を通しても、 神の命が現れるようにすべきである ( ロマ 8:14)。 132 3.5 聖霊なる神 人類は、聖霊の賜物に与ることによって、神の子として三位一体の神と交わりを持つ。この 交わりに加わることによって、主の御許に引き上げられようとする者たちは、キリスト再臨の 時に完全な者となることができるのである。 サクラメント 3.5.5.2 聖礼典における聖霊の働き サクラメント サクラメント 救いの力が聖礼典の中に備わっている根拠は、すべての聖礼典において神のすべての位格に よる働きがあることである。 それゆえ、水のバプテスマである洗礼の中にも聖霊の力が作用している。神が――父、御子、 聖霊すべてが――洗礼に与った者たちを、 神から離れた状態から導き出して下さるのである (8.1 参照 )。 聖餐のためにパンとぶどう酒を聖別するのも、そこに聖霊の働きがあるからこそ可能となる。 人の語る言葉によって、聖霊の力が神から出る実在の物をもたらすのである。聖餐が聖霊の力 によって支えられ、聖餐で食される物が使徒の与える権威に基づいて聖別されるならば、聖餐 は十分な有効性を持つ。つまりキリストの体と血が実在することになる (8.2.12 参照 )。 聖霊の賜物は、聖霊のバプテスマつまり御霊の証印の中で、使徒を通して与えられる。この 中で神の力、神の命、神の愛が人類にもたらされる。水と御霊による再生の中で聖霊が働いて、 神が人類の内側に宿られる ( ロマ 8:9)。 3.5.5.3 使徒職における聖霊の働き 使徒は、 聖霊の力によって職務を行う。聖霊は使徒の活動に特別の権威を与える。このことは、 聖礼典が適切に執行・実施され、聖書に基づいて福音が宣べ伝られ、キリスト再臨の約束が生 き続け、キリスト再臨に向けて花嫁の準備が行われていることからもわかる。こんにち遣わさ れている使徒を通して、聖霊は初代の使徒たちの時代と全く同じ働きをしているのである。 133 3 三位一体の神 まとめ 聖霊は初代教会に臨在しておられた。教会は「神の家」 「神の宿る所」「生ける神の神殿」と形容される。これは教 会に聖霊が臨在しておられることを示している。 (3.5.5) 聖霊は教会にとってなくてはならない存在である。つまり教会と聖霊は一体である。 (3.5.5.1) 聖霊は御霊の証印という聖礼典 ( サクラメント ) の中で使徒を通して与えられる。御霊の証印は御霊のバプテスマ である。洗礼や聖餐といった聖礼典が執り行われる際にも、聖霊の力が及ぶ。 (3.5.5.2) 使徒も聖霊の力によって職務を行う。 (3.5.5.3) 134 4.1 悪——神に反発する力 4 贖いを必要としている人類 人類は罪に堕ちたことにより、悪しき者からの贖いを必要としている。 4.1 悪—神に反発する力 天地創造の過程において悪がいつから生じたのかについては、合理的解明ができていない。 パウロは悪を秘密のものと述べている ( 二テサ 2:7)。悪を常にはっきりと認識することは不 可能である。なぜなら悪は姿を変えたり、善や天来のものに見せかけたりするからである ( 二 コリ 11:14)。悪の持つ究極の本質や、悪の力や、悪のもたらす影響は、福音への信仰によって、 はじめて明確になる。 神は絶対に正しいお方である。神の御言葉によれば、見える被造物も見えないも被造物も、 最初は「極めて良かった」のである ( 創 1:1 - 31)。それゆえ、悪が入り込む余地は、元々無 かったのである。神は悪をその目的でお造りにはならなかった。神は自ら悪をお造りになった のではなく、悪が生じたことを容認されたのである。 神は、人をお造りになった時、人を御自身に似た者とされた ( 創 1:26 以下 )。つまり、人 に自由意思が与えられた、ということである。神に従うか従わないかを、人は決められるので ある ( 創 2:16 - 17;3:1 - 7)。悪を行うこともこの自由意思に基づいているのである。悪 が表面化するのは、人が神やその御旨から距離を置くことによって、善に反することを承知の 上で意図的に行う時である。それゆえ人の内にある悪は、神がお造りになったものではない。 悪は当初、人が天から受けた戒めを破ったことによって自らが選んだ一つの選択肢に過ぎなかっ たのである。神は悪を求めておられたわけでもないし、悪をお造りになったのでもない。人の 判断を覆すようなことはなさらず、悪が生じることを容認されたのである。 罪への堕落以来、悪は人だけでなく被造物全体に影響を与えた ( ロマ 8:18 - 22)。 だざい 悪が広がり始めると、被造物 ( 人 ) は創造主に反発し始めた。不従順と堕 罪の結果として、 悪が足元に根付き、人を神から遠のかせ、神と疎遠にし、ついには神不在の状態にしてしまっ たのである。 135 4 贖いを必要としている人類 4.1.1 神に反発する力としての悪 悪は、神に依存したくないという願望と「神のように」なりたいという願望から生じる力で ある。これは天使を悪魔に、人を罪人にするほどの攻撃力である。 人類史を通じて、悪の力は何度もその影響力を見せつけてきた。例えば旧約聖書によれば、 ないがし アダムとエバが罪を犯した後、カインによる兄弟殺害、 ノアの時代における神を蔑ろにした状態、 エジプトによるイスラエルの民への圧政という形で、悪が具体化している。 悪の力は神の被造物を破壊する。悪は、破滅、思い違い、偽り、ねたみ、強欲といった、様々 な形態で具体化する。悪は破滅や死をもたらす。 堕罪以来、人は――人の姿をした神の御子を除いて――罪の無い生き方をすることはできな くなった。罪を犯す素質 ( 欲望 ) を備えてしまったためである。一方、悪に支配されているこ との不本意を感じる人はだれ一人いない。そのため、人はめいめいが自分の罪に対して責任を 取らなければならないのである。 4.1.2 位格としての悪 悪は力として現れるだけでなく、位格としても現れる。聖書ではこの位格を「悪魔」( マタ 4: 1)、 「サタン」、「汚れた霊」( 悪霊 ) と表現している ( ヨブ 1:6 以下;マコ 1:13,23)。 ペトロの手紙二 2 章 4 節およびユダの手紙 6 節では、罪を犯した天使について述べている。 えじき 彼らは悪の餌食となって、彼ら自身が悪しき者となった。「悪魔は初めから罪を犯し」( 一ヨハ 3:8)、 「最初から人殺しであって」、「偽り者であり、その父」である ( ヨハ 8:44)。へびがア ダムとエバに疑問を抱かせたことにより、人は神を疑い、神に反抗するようなった「決して死 ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存 じなのだ」( 創 3:4 - 5)。 反キリストは悪魔の表れである。イエスは「偽メシアや偽預言者」について説かれ ( マコ 13:22)、反キリストに言及された。「不法の者」「滅びの子」という表現も反キリストを意味 している ( 二テサ 2:3 - 4)。 サタンは神による救いの御計画の実行を阻むことはできない。それどころか「悪魔の働きを 滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」( 一ヨハ 3:8)。悪魔とそれに従う者たちの力には 限界があり、それもイエス・キリストが犠牲の死を遂げられたことで、すでに打ち砕かれてい る。イエス・キリストには「天と地の一切の権能」が与えられている ( マタ 28:18)。それゆえ、 イエス・キリストは諸々の霊に勝利する力をも備えておられるのである。 136 4.2 堕罪 ヨハネの黙示録 12 章で、悪はサタン、悪魔、竜、へびと表現されており、この悪が天から 追い出される、と書かれている。千年の平和王国の後、最後に一度だけ、悪に対して、神に反 抗する力が与えられる ( 黙 20:7 - 8)。そして、20 章 10 節によれば、「火と硫黄の池」に投 げ込まれて、悪は果ててしまうのである。新しく創造が成される時、神は「すべてにおいてす べてとなられ」( 一コリ 15:28)、悪に安住の場所は無くなるのである。 まとめ 悪の根源を合理的に解釈したり筋道立てて説明したりすることはできない。悪の持つ真の本質を究極まで明確にす ることは、福音を信じることしかない。 (4.1) 当初は、見えるものも見えないものもとても良い状態であった。悪は、神が造ろうとして造られたものではない。 悪が生じるのを神が容認されたのである。悪を行う能力は、神に従うか従わないかを決定する、人の能力に基づい ている。 (4.1 ) 被造物が創造主に反発することによって、悪が展開する。すると神から離れ、疎遠になり、ついには神を蔑 ( ない がし ) ろにした状態となる。 (4.1) 悪は、神から離れようとする意志によって生じる破壊力であり、人を悪の餌食 ( えじき ) にしてしまう。悪によっ て人類は罪人となる。 (4.1.1) 人類は――人となられた神の御子を除いて――自らの欲望のために罪の無い人生を送ることができない。とはいえ、 否応 ( いやおう ) なしに悪に晒 ( さら ) される人は誰もいない。それゆえ自らの罪に対する責任から逃れることは だれ一人できない。 (4.1.1) 悪は力として現れるだけでなく、位格としても現れ、 「悪魔」「サタン」「汚れた霊」( 悪霊 ) などと呼ばれる。 (4.1.2) だざい 4.2 堕罪 罪に関する教義や、人類が罪の贖いを必要としていることを説く教義は、聖書で述べている 堕罪までの過程に基づいている (3.3.3 も参照 )「主なる神は人に命じて言われた。 『園のすべて の木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べ ると必ず死んでしまう。』」( 創 2:16 - 17)。――「女が見ると、 その木はいかにもおいしそうで、 137 4 贖いを必要としている人類 目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、 一緒にいた男にも渡したので、 彼も食べた」( 創 3:6)。 4.2.1 堕罪が人類に及ぼした結果 堕罪の結果、人はエデンの園を追い出されることになる ( 創 3:23 - 24)。 人は自分の行為によって神に背を向けてしまったため、新たな環境下に置かれることになっ た。これが神との別離である ( 創 2:17;ロマ 6:23)。 4.2.1.1 罪にある人類 人類は創造主を超越したいと考えた。そのため神と人との平穏な関係がこわれてしまった。 このことはこんにちに至るまで、人類に極めて大きな影響を与えている。 アダムはいわば、すべての罪人たちの原型である。罪を犯す動機、罪深い状態における行動、 堕罪後の絶望状態については、確かにアダムが原型である。 神によって定められた境界線を越えようと決心した背景は、「…神のように善悪を知るもの となる」という誘惑の言葉に表現されている ( 創 3:5)。罪深い行為をする動機には、神を超 えたいという他に、自分の力で神になりたいという欲望もある。神の戒めを尊重せず、自己の 欲望や官能的欲望を満たそうとするわけである。 創世記には、全人類の罪が大変な勢いで繁殖していく様子が描かれている。カインは神の勧 めや警告に反発して、自分の兄弟を殺害した ( 創 4:6 - 8)。その後も、人類の罪は増え続け、 その叫び声が天まで届いたため、神は大洪水によってその声にお応えになった ( 創 6:5 - 7, ごうまん 17)。しかしこうした裁きを受けても、人類はなおも、創造主に従わず、傲慢であったのである。 例えば、バベルの塔 ( 創 11:1 - 8) を建てようとして、神によってその野望が打ち砕かれた、 と聖書に書かれている。 堕罪後に全人類が罪深くなり、その結果として霊的に死ぬものとなった現象について、使徒 パウロは次のように書いている「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によっ て死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」 ( ロマ 5:12)。 堕罪は、人類に取り返しのつかない変化をもたらした。恐怖が人類と創造主との間を疎遠に 138 4.2 堕罪 し、人類は神に近づこうとしなくなったのである。逆に神から身を隠そうとしたのである ( 創 3: 8 - 10)。人間同士の関係もおかしくなった ( 創 3:12)。被造物同士の関係も同様である。こ の時以来、人は生きるために苦労をしなければならなくなった。そして一生を終えると、彼ら が元々いた場所である土に返るものとなった ( 創 3:16 - 19)。 人は罪無き状態に戻れないのである。 4.2.1.2 罪深い人類でも神は愛して下さる 人類は罪深いものとなり、自分の蒔いた種を自分で刈り取らなくてはならなくなった「罪が 支払う報酬は死です」( ロマ 6:23)。人類が従順でなくなり、厚かましくなっても、永遠なる 神は御自分がお造りなった者たちを愛しておられた。神はこのような者たちに、思いやりや世 話をし続けて下さったのである。この天来の思いやりを具体的に述べたものの中には、アダム とエバのために皮の衣を作って着せられたこと ( 創 3:21) や、兄弟を殺害したカインが復讐を 恐れていた時に彼を守られたこと ( 創 4:15) が挙げられる。 神は、堕罪後も人類を愛しておられたわけであるが、これが最も完全な形で具体化したのは、 御子が遣わされたことである。イエス・キリストがおいでになって、 罪に勝利されたのである ( 一 ヨハ 3:8)。イエス・キリストによって、罪のもたらす弊害から救い出されたのである ( 使 4: 12)。 反抗的で厚かましくなった人類がますます罪に深く陥ったのに対し、神の御子はが人となら れて天の父に完全に服従された。その意味で御子は人類にとって手本となられた ( フィリ 2:8)。 イエス・キリストは自ら犠牲として死なれたことにより、人を罪から解放するための徳を獲得 れいぞく され、ついには「滅びへの隷属」( ロマ 8:21) から贖い出され、人類が神と永遠に交わりを持 てるようになったのである。 このように人類と御子とが対照的姿勢を示していることについて、使徒パウロは次のように 表明している「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の 正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従 順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる のです」( ロマ 5:18 - 19)。 とはいえ、罪深い人類が自動的にに神の御前で義とされるわけではない。神は、イエスの犠 牲を通して、人類への献身的姿勢を示された。つまり人を責めようとなさらず、むしろ人に救 いを与えようとして下さるのである。それゆえ人類は、神から提供していただいたものを受け 入れ、救いを獲得するために、真剣に努力すべきである。そのために、神は人類に、良心と理 139 4 贖いを必要としている人類 性と信仰とをお与えになったのである。人類がこうした賜物をイエス・キリストと連携させる ならば、御子によって獲得された義に ( ロマ 4:25)、恵みによって近づくことが可能となる。 人類が成し遂げることに、義をもたらす効果は一切ない。人類が成し遂げること――つまり業 績――は、必要かつ当然の信仰的表現であり、神による救いの提供を受け入れたことを示すも のである。 まとめ 人が神と離ればなれになったのは、堕罪による結果である。そしてエデンの園から追い出されることとなった。ア ダムはすべての罪人の原型である。 (4.2.1;4.2.1.1) 神は、人類が罪に堕 ( お ) ちた後も、その人類を愛して下さる。このことは、イエス・キリストが遣わされたことで、 完全な形で具体化された。イエス・キリストは罪と死を征服されたのである。 (4.2.1.2 ) 4.2.1.3 良心 聖書では、良心とは人類が神から賜ったものである、としており、様々な用語を用いて表し 「心」 という語がよく使われている。心によって、 ている 1。良心 を表す用語として、旧約聖書では 神の声を聴くことができるのである。申命記 30 章 14 節には次のように書かれている「御言葉 はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」 。これ に対して使徒パウロは、神の御旨はモーセの律法のもとにある人たちだけでなく異邦人の心に も記される、と説いている「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行 えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄 がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思 いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」( ロマ 2:14 - 15)。それゆえ、 人は皆、神の御旨を意識しているのである――皆がそうした良心を持っているわけである。 罪深い人類は、進むべき方向性がわからない。神に従順であれば得られるはずの安心や支え かな を失ってしまったのである。そこで、良心という権威が、 神の御旨に適う決意をする一助となる。 とはいえ、誤った決意をする可能性も十分にあり、良心が理性や信仰によって導かれなければ、 その分誤った判断をする可能性は高まる。 1「良心」という語は、例えば社会学、哲学、心理学といった他の分野でも用いられるが、ここでは扱わない。 140 4.2 堕罪 人類は――自分のことを自らの意思に委ねられているので――自分の良心によって神の御旨 を知ることができる。こうして良心はその権威によって一人ひとりを善に向かおうとする気持 ちに導くことができる。それゆえ、人はめいめいの心に記されている律法によって、良心を拡 大したり良心に敏感になったりする努力を、絶えずすべきである。 良心は何が善で何が悪なのかを区別してくれる。良心が理性と信仰に支配されているならば、 賢明な行動ができるように、良心が人を促してくれる。さらに、神や周囲から罪のそしりを受 けるようなことをしているかどうかを悟らせ、思いであれ行いであれ神の御旨に反することや 神の定めに逆らうようなことをどの時点で行ってきたかを、良心が示してくれる。 何よりもまず、自省し、自己の良心に基づいて申し開きをしなければならない。罪を犯した り罪に当たる行為を招いたりしてきたことを良心が証しするならば――そして自責の念を感じ 悔い改めようとするならば――神は恵みによってキリストの徳による赦しを提供して下さる。 これが、罪に堕ちた人類が義とされるために神が据えて下さった道である。 人類は、神による癒しの配慮として水による聖なるバプテスマ < 洗礼 > に与ることができる 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救う のです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、 神に正しい良心を願い求めることです」 (一 ペト 3:21)。神の御言葉は、歩み始めた救いへの道を進み続けることができるように、人類を 強めてくれる。これにより人の良心が常に研ぎ澄まされる。そしてこのことが、神の御旨をま すますはっきりと悟る一助となる。 恵みを体験することにより、心が神の平和で満たされる。そしてそれまで犯した罪を非難し てきた良心は落ち着くようになる。これをヨハネは次のようにまとめている「これによって、 わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められる ことがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、 すべてをご存じだからです」( 一ヨハ 3: 19 - 20)。 まとめ 良心は、その権威によって、神の御旨に適う決断をする一助となることができる。何が善で何が悪かを比較検討す るのがこの良心である。 (4.2.1.3) 良心が理性と信仰に導かれているならば、この良心によって、賢明な行動ができ、神や周囲にとって罪となる行為 を招いたかどうかを知ることができる。 (4.2.1.3 ) 141 4 贖いを必要としている人類 4.2.1.4 理性 理性は、人を――神の似姿として――他のあらゆる被造物と区別する神の賜物である。特に 理性によって、自身のあり方を構築したり環境を理解したりすることができる。 理性は、人類が自らの知性や知識によって物事を考えたり行動したりする時に現れる。そう することにより、人は、意識しているか否かに関係なく、神や自分自身に責任を持つことがで きる (4.2.1.3 参照 )。人は周囲の環境を理解し、周囲と自分との関係を読み取ることができる。 人は個として自らを認識し、世の中との関係において自分自身を見つめることができる。結局、 理性は神から与えられた賜物でありこの理性によって人は適切にふるまうことができるのであ る「主は、彼らに、判断力と舌と目を与え、/耳と、よく考えるための心とを授けられた」( シ ラ 17:5 - 6)。 人類は神から「地を従わせ」る委託を受けた ( 創 1:28)。人類はその探求心によって、被造 物の中から可能なものを獲得したり活用したりしようとする。こうしたことを神と被造物に対 して責任感をもって行うならば、人類は理性ある行動、神の賜物に適った行動をしていること になる。 聖書では、理性を「知恵」とも表現している。知恵は知る能力であると解釈するならば、知 恵は神の働きに帰するものである。「存在するものについての正しい知識を、/神はわたしに授 けられた。宇宙の秩序、元素の働きをわたしは知り、…」( 知 7:17)。使徒パウロも理性を「人 の知恵」と表現している。人の知恵により、神の奥義を悟るための認知力が人類に備わる ( 一 コリ 1:20 - 21)。仮に人類が神の定めや神御自身に向かって越権行為となることをすれば、 神の知恵を愚かなものとして退けることになるであろう。これは究極的に言えば、理性が信仰 を拒絶することになる ( 一コリ 2:1 - 16)。そのようなことをすれば、ついには自らが生き ていることの目的を理解できなくなってしまうであろう。ところが人類によるこうした行為が けいもう 啓蒙時代以降、工業国を中心に至る所で顕著に見られるようになったのである。人間の探求心 が神やその被造物に対して無責任である場合に、必ずこうした傾向が表れている。 そういう意味で人の理性はその罪によって常に不完全である。不完全であるが故に、理性を おろ あらゆる物事の基準と決めつけることは、信仰的見地から、愚かさを露呈することになる「そ れは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味 のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにい る。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」( 一コリ 1:19 - 20)。 神の無限性を人の理性で理解し尽すことは不可能である。神の行為は人のあらゆる理性をも 超越するのである。それゆえ、神に関わる事柄を理性で理解し尽すことは絶対にできない、と いうことを、人は常に自覚しなければならないのである ( ロマ 11:33)。 142 4.2 堕罪 理性であらゆる事柄を測ることは不可能であるとはいえ、例えば四福音書における相互関係 を理解したり、聖書に書かれている言葉や喩え話を理解したり解釈したりするためには、理性 が必要である。イエスの教えを人々に伝えるためにも、理性は必要である。理性は神からの賜 物として価値の高いものではあるが、最高のものというわけではない ( フィリ 4:7)。従って、 理性を唯一の判断基準としてはならない。 理性が誘惑を受けて天来のものに背を向けようとしている時は、理性という賜物が正しく用 いられておらず、神への責任が欠如していることの表れであることを、一人ひとりが常に自覚 ごうまん 人類は信仰によって認識するのである「神 しなければならない。こうした傲慢さと戦う義務を、 の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ <…>」 ( 二コリ 10:5)。 まとめ 人は、自分の理解力や知識を駆使して、物事を考えたり行動したりする時に、理性を用いる。理性を用いることに より、人は、自覚しているか否かに関わらず、神や自分自身や被造物に責任を持つことになる。 (4.2.1.4) 理性は、人類を正しくふるまわせるように導く神の賜物である。 (4.2.1.4 ) 理性には限界があるため、無限である神を理性で理解することはできない。神の行為は、人のあらゆる理性を超越 するのである。 (4.2.1.4) 理性はあらゆる物事の基準になり得ない。しかし福音の相互関係を理解したり公に広めたりするためには、理性が 必要である。 (4.2.1.4) 4.2.1.5 信仰 「信仰」という語は、旧約聖書のヘブライ語には見当たらない。現今の訳本で用いられてい るこの語に該当する部分には、元々「信頼」 「忠誠」 「従順」 「確信」といった語が使われていた。 これらすべての語の意味が「信仰」という一つの語に含まれている。ヘブライ人への手紙 11 章 1 節には次のように書かれている「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確 認することです」(1.4 参照 )。 信仰は常に神に端を発する。神は御言葉や御業を通して御自身を啓示される。人類は、神を 完全に信頼している限り、神に服従できるわけだが、服従しなかったために、人は罪を犯し、 143 4 贖いを必要としている人類 神の御前で罪責を受けなければならなくなった。 以来人類は、 創造主との関係を壊してしまった。 神との交わりを回復させたいと願う人は皆、信じることが不可欠である ( ヘブ 11:6)。 旧約時代における信仰の典型として、 救いは将来の問題であった ( ヘブ 11:39)。神がイエス・ キリストという形で御自身を啓示された時に、旧約の約束は成就したのである。これにより信 仰は新たな段階を迎えることになった。つまり信仰は、贖い主であるイエス・キリストに向け られるようになったのである。キリストを信じることによって、神と和解し神と交わりを持つ ことができるのである。 御子は次のような信仰をお命じになった 「…神を信じなさい。そして、 わたしをも信じなさい」 ( ヨハ 14:1)。御子は信仰が示すあらゆることに対する不信心によってもたらされる結果につ いて、次のように強調された「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自 分の罪のうちに死ぬことになる」( ヨハ 8:24)。 一方イエス・キリストが神の御子であることを信じ、御子を受け入れる人たちに対しては、 「一 人も滅びないで、永遠の命を得る」という大いなる約束が与えられている ( ヨハ 3:16)。 真のキリスト教信仰は常に、まず神の選びと啓示による恵みに基づいている。このことは、 使徒ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白し、それにイエスが「シモン・ バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父 なのだ」とお答えになっておられることから明らかである ( マタ 16:16 - 17)。信仰は人類 に課せられた義務であると同時に神の賜物でもある。 神の御言葉を受け入れ、 信頼し、 それに従っ て行動するならば、生きた信仰が維持され、救いへと至るであろう。 まとめ 信仰は人類への義務として課せられている神の賜物である。神の御言葉を受け入れ、信頼し、それに従って行動す るならば、信仰が救いへと導く。 (4.2.1.5) 信仰の始まりは常に神である。神は御言葉や御業を通して御自身を啓示される。 (4.2.1.5) イエス・キリストを信じることによって、神との和解が可能となる。 (4.2.1.5) 144 4.2 堕罪 4.2.2 堕罪が被造物にもたらした結果 人類の堕罪は、何の罪もない被造物にまで影響が及んだ。 元々被造物は「極めて良かった」( 創 1:31)。つまり完全だったのである。人は見える被造 物を治めるものとされていた。そのため被造物に対して神への責任、さらにも被造物そのもの への責任を果たす立場にある ( 創 1:28 - 30)。人が見える被造物の中でこれだけ重要な立場 を担っていることを考えると、人が神に不従順であることは、この世の被造物に大きな影響を つち 与えることになる。人類が罪を犯した後、土――見える被造物の比喩表現――とへびの両方が とげ 呪われた ( 創 3:17 - 18)。棘とあざみ――そして人類が生きていくための労苦――は、人類 たと が神から遠く離れ神が人類から隠されてしまったことを喩えた表現である。こうした状況は堕 まんえん 罪以来被造物に蔓延していった。人類はもはや、被造物の中で神に直接近づくことができなく なってしまった。人の生命は不安と恐怖とを伴うこととなったのである。 てきがいしん 動物同士の振る舞いを見ると、敵愾心と不和の状況にあることがわかる。こうした状況を克 つづ おおかみ 服・修復したいという願いがイザヤ書 11 章 6 - 8 節に綴られている「狼は小羊と共に宿り/ ひょう こ や ぎ 豹は子山羊と共に伏す。…」。 このようなわけで、被造物にのしかかっている呪いから、彼らを解放しなければならない。 これについてローマの信徒への手紙では次のように明らかにしている「被造物は、神の子たち きょむ の現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志に よるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、 同時に希望も持っています。つまり、 れいぞく 被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる からです。被造物がすべてこんにちまで、 共にうめき、 共に産みの苦しみを味わっていることを、 わたしたちは知っています」( ロマ 8:19 - 22)。 まとめ 人類による不従順は、罪の無い被造物にまで影響を与えた。人の罪によって、元々完全だったものにまで損害を与 えたのである。 (4.2.2) こうして被造物が堕落していった中で、人類は神に直接近づくことができなくなった。人類の人生は疑念と恐怖を 抱えることになったのである。 (4.2.2) 罪に堕ちた被造物に必要なのは贖いである。 (4.2.2) 145 4 贖いを必要としている人類 ざいせき 4.3 罪と罪責 英語の聖書では、sin と guilt とを同じ意味で用いたり異なる意味として使い分けたりしてい る。この二つの概念の違いについては、御子が明確にしておられる。すなわちファリサイ派の 人物から、弟子たちが律法を破り罪を犯している、との指摘を受けた時、御子は弟子たちを弁 護する際にこう仰せになった「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならな い < 罪責を負わない >[第三の戒めを破ることによる罪] 、と律法にあるのを読んだことがない のか」( マタ 12:5)。 4.3.1 罪 罪とは、神の御旨に反したり神の存在を否定したりするあらゆることを指す。いかなる罪も、 神からの別離を引き起こす。神との密接な交わりを回復させるためには、罪を赦していただか なければならない (12.1.8 参照 )。 「罪に関する教え」としてまとまったものや、「何が罪なのか」を体系的包括的に「一覧」と したものは、旧約聖書にも新約聖書にも提示されていない。 神は御旨をお示しになることによって何が正しいのかを御自身でお決めになる。人は、神の 御旨を尋ね求め、それに従って行動することが望ましい。神の御旨に反する言動や意図的な考 えはすべて罪であり、意図的に善行を怠ることも罪である ( ヤコ 4:17)。 聖書では、十戒を破ること ( 出 20:20)、神に立てた誓いを破ること ( 申 23:22< 新共同訳 23 節 >)、キリスト信仰を拒否すること ( ヨハ 16:9)、それに強欲とねたみなどを「罪」とし ている。 ある行為が罪に当たるのかをどうかを判断する決定的要素は、神の御旨である。御旨は聖書 にも明確にされており、キリストの福音における考え方や精神にも合致し、聖霊によっても示 されている。何が罪なのかを、人が勝手に決めることは決してない。 生涯の中で様々な環境に置かれる人類は皆、自分の行動について、神と自分自身に説明責任 があり、一人ひとりが自らの行動に対する責任を負うのである。 ざいせき 4.3.2 罪責 神の御旨に反することは罪であり、神の御前でその責め < =罪責 > を負うことになる。義な 146 4.3 罪と罪責 る神、万能なる神が、罪を犯した者に対してその不品行をお認めになる時に、罪責が明らかに なる。罪責の軽重は、神のみがお決めになる。 このような罪責の及ぶ範囲は様々である。ここでは、罪を犯した者がその行為についてどの ような認識や動機を持っていたのかが決定要素となる。また、例えば一般的な生活環境、社会 構造、 法的基準、緊急時、性格異常のような、 人に及ぼす影響もその要素の一つであろう。 罪によっ ては、その罪責が実質的に存在しない場合もあれば、 「神に向かって叫ぶ」( 創 4:10) ほど残 酷な場合もある。こうしたことをすべて勘案すると、罪責は、罪と異なり、相対的と言える。 しゃめん 神はその愛によって、人類に対して罪からの解放と罪責からの赦免をお望みである。このた めに、神による犠牲の働きの縮図であるキリストが犠牲となられたのである。 まとめ 罪と罪責は区別しなければならない。 (4.3) 罪とは神の御旨に反することや神の本質に逆行するすべてのことをである。どの罪であれ、神から引き離してしま うので、この罪を赦していただかなければならない。罪に相当するかどうかは、専 ( もっぱ ) ら神の御旨によるも のであって、決して人が決めることはできない。 (4.3.1) 人が罪を犯すと、神は御自身の義と万能性において御自身に反する人類の不品行と判断され、人はその罪責を負う ことになる。負うべき罪責がどのよう程度深刻なものかについては様々である。それをお決めになるのは神お一人 である。故に罪責は相対的なものである。(4.3.2) 4.4 神による救いの御計画 聖書で用いられている「救い」には、 「救出」「保護」「贖い」の意味がある。神による働き は救いを意図しているのである。この働きの経過については、救いの御計画として認知されて いる。その過程の中で、神によって作成された御計画に従って行われる神の働きを知ることが できる。 救いの御計画は、堕罪直後から始まっている。大洪水からのノアの救出、神による族長の選 出とその祝福、イスラエルとの契約、それに旧約聖書に登場する神の民に関するエピソードと 続く。救いの歴史における最も大きな出来事は、イエス・キリストとという形で神が人となら れ < 神の擬人化 >、そのキリストが十字架上で犠牲となられ、復活され、そして天に昇られた 147 4 贖いを必要としている人類 ことである。これに続いて、聖霊が注がれ、初期の使徒たちによって福音が宣教されていった。 キリスト教はその後も発展し、再び使徒職が置かれるようになった。今後は、イエス・キリス トの再臨に向けた花嫁の会衆の準備を進めていくこととなる。その後、千年にわたる平和の王 国が訪れ、この期間に救いの働きが行われ、最後の審判へと続いていく。そして最後に神は新 しい天と新しい地をお造りになる。この一連の過程が「神による救いの御計画」である。 救いに関する神の考え方が最初に示されるのは、堕罪の後である (4.2 参照 )。従って、キリ スト教では伝統的に、救いの御計画の中心である贖い主の来臨を最初に示しているのがへびへ の呪いである、と考えられている。 与えられる救いの性質や規模については、救いの歴史における様々な時代ごとに、神が定め ておられる。しかし、時代に関わらず一貫しているのは、神の救おうとする御旨であり、この 御旨がすべての人類に適用することである。 4.4.1 旧約時代における救いへの願望 旧約時代の救いとは、この世の災難や奴隷状態からの救出が中心であった。この点において、 イスラエルの人々はエジプト人による捕囚からの解放を通して神の救いを体験した。 次に神は御自分の民にモーセを通して律法を授けられた。律法の中には、他人を巡って罪責 を負っている状態から解放されるためにすべき事柄が含まれている ( 出 21:28 - 30;レビ 25:39 以下 )。 その後時代の経過と共に、イスラエルの人々にとって救いの願望の中心は、次第にメシアの とら 来臨そして罪の力に囚われている状態からの解放へと移っていった「イスラエルよ、主を待ち 望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。 主は、 イスラエルを/すべての罪から贖っ てくださる」( 詩 130:7 - 8)。 4.4.2 イエス・キリスト――救い主であり救いの仲介者 ガラテヤの信徒への手紙 4 章 4 - 5 節によれば、旧約時代における救いの歴史は全般的に 神の御子の誕生を中心としていた「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも 律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出 して、わたしたちを神の子となさる < 私たちが神の子となる > ためでした」 。 イエス・キリストは神から遣わされた贖い主である。キリストは御言葉や御業を通して御自 148 4.4 神による救いの御計画 分が贖い主であることをお示しになる。キリストを信じる者は「この方がキリストであり、本 当に世の救い主である」ことを悟る ( ヨハ 4:42)。キリストにおいてのみ救いが存在するので ある ( 使 4:12)。 御子は、地上におられた時、癒しの奇跡を多くなさった。マタイによる福音書 9 章 2 - 6 いや 節によれば、イエスは重い皮膚病を患っていた人をお癒しになった際に、この癒しよりもはる かに意義深い癒しの業がありそれが罪から人を贖うことである、と指摘された。 救いはイエス・キリストを通してこの世にもたらされた。キリストは永遠の救いの創始者で ある ( ヘブ 5:9)。キリストは救いをもたらし、神と人とを仲介されるただお一人の方である ( 一 テモ 2:5 - 6)。キリストの犠牲によって、神と人との関係は新たな土台の上に据えられたの である。キリストが獲得された徳は、罪からの解放をもたらす――つまり、神と永遠に離れ離 れになった状態を修復するのである「…古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは すべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、 和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによっ て世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだね られたのです 」( 二コリ 5:17 - 19)。 人類は誰一人として自分自身で救いを成し遂げることはできない。人類は皆罪人であり、神 による救いの働きに頼らざるを得ないのである ( ルカ 16:26)。この世に存命中の者も陰府に いる者も、全人類がイエス・キリストを通じて救いに近づくのである ( 使 13:47;ロマ 14:9)。 神による救いの御計画によれば、時の経過と共に、存命していた者にも存命中の者にも、救 いが提供される。このように、初代の使徒たちによって福音が広められ、キリスト教が世界規 模で伝播し、キリスト再臨に向けて花嫁が整えられていくことが、この救いの御計画の全貌で ある。 まとめ 神の行為は救いを目的としている。この場合の救いとは「救出」 「保護」 「贖い」を意味する。これが救いの歴史と いう形で行われているのである。救いの歴史を見れば、神に適った一連の働きが行われてきたことを確認すること ができる。これがいわゆる「神による救いの御計画」である。 (4.4) 救いが与えられる方法や基準は、救いの歴史における様々な時期によって様々であるが、神の救おうとする御旨― ―あらゆる時代やあらゆる人々に対する御旨である――については一貫している。 (4.4) 旧約時代における救いの希望は、基本的にこの世の貧困や奴隷状態からの解放が中心であった。時代の経過に伴い、 イスラエルの望む救いが、次第にメシアの来臨へと変化していった。 (4.4.1) 149 4 贖いを必要としている人類 旧約における救いの歴史は、イエス・キリストを照準としていた。イエス・キリストは神から遣わされた贖い主で あり、永遠の救いの創始者、神と人との仲介者である。キリストが十字架上で獲得した徳は、罪からの解放――つ まり神と離れた状態からの修復――を可能とする。 (4.4.2) イエス・キリストによって、この世に存命中の人も、陰府に下った者も、全人類が救いを得ることが可能となった。 自分で自分の罪を贖うことはできない。 (4.4.2) 4.4.3 花嫁の会衆を準備する サクラメント 御言葉と聖礼典によるイエス・キリストとの交わりを通して、こんにちの信徒はキリスト再 臨のための準備を受けることにより、救いを体験する。キリストの再臨によって彼らは神の栄 光に与るのである。神による救いの御計画に基づいて、現段階でキリストの救いを得るために、 使徒職 (7.4 参照 ) が再興されている (11.3.3 参照 )。使徒は、神の御言葉を宣べ伝える職務と、 サクラメント 聖礼典を実施する職務 (8 参照 ) とが与えられている。 このような方法で救いが与えられるのは、キリストの花嫁を集めて、主の再臨に備えさせる ためである。恵みの賜物を信じて受け入れたキリストの花嫁にとって、救いとは、子羊との婚 姻――主の日に行われるもの――を通して神と永遠に親しく交わることである。 救いの御計画によれば、主の日以降における救いは (10.3 - 10.6 参照 )、別の方法で獲得す ることとなる。 つまり、キリストへの信仰を告白したことによって自らの生命を落とした者たちは、第一の 復活の時に一斉に復活し、キリストと共に祭司として統治する。この期間を千年の平和王国と 呼び、この期間中に救いが全人類に提供されることになる。最後の審判において恵みを見出し たすべての者たちが新しく創られて、神と共に親しく交わることとなる。 神による救いの御計画は、聖書から読み取れるように、新しい創造を以て完了となる ( 黙 21 章 )。 150 4.5 選び まとめ 神による救いの御計画は現在、使徒によって職務が行われている段階である。使徒職は御言葉と聖礼典 ( サクラメ ント ) を通して救いを与える。これは、花嫁の会衆を集めて主の日に備えさせることを目的としている。 (4.4.3) 花嫁の会衆が完全な救いに与るのは、キリストが再びおいでになる時である。その時に神と永遠に親しく交わるこ とができるのである。 (4.4.3) 4.5 選び 本来、神が御自分の決定による目的をもって、個別に人や集団をお召しになり、その者たち にその目的に関する責任を課されることが、選びである。 4.5.1 旧約時代における選び すでに天地が創造される場面において、天来による選びとその選びによって生じる責任に関 することが書かれている。神は、すべての被造物の中から、人をお選びになり、地上の支配を 職務としてお与えになった。人が賜ったこの特別な立場については、知恵の書 2 章 23 節に次 のように書かれている「神は人間を不滅な者として創造し、/御自分の本性の似姿として造ら れた」。旧約時代における救いの御計画が進む中で、この選びの意味は、ノア、アブラハム、イ スラエルの人々の事例において顕著に示された。 • 神は、地上からの人類の根絶をお決めになった時 ( 創 6:1 - 8)、ノアの救出を約束された。 ノアはこの選びに対して、神から命じられたすべてのことを実行することにより、この約 束に与った。その結果、ノアとその家族――つまり種としての人類――は破滅から逃れた のである。 • アブラハムが選ばれたのは、この世に住むすべての民族がアブラハムを通して祝福に与る ためであった ( 創 12:3)。彼に与えられた神の約束はイサクに受け継がれた。 • イサクには二人の息子がいたが、祝福を受ける権利を有していたのは、兄のエサウであっ た。しかし神は弟のヤコブをお選びになり、ヤコブが祝福を受けた ( 創 28:13 - 15)。 このことから、選びという神の恵みについて、誰一人として主張をさしはさむことができ 151 4 贖いを必要としている人類 お はか ないし、人の理解力で推し量ることもできない、ということがわかる。 • イスラエルの人々はヤコブの十二人の息子たちの子孫である。神は彼らを、旧約の民とし て召し出された「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面 にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあな たたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あな たたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた たちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き 出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」( 申 7: 6 - 8)。選びの根源は、神の愛なのである。 • 神はイスラエルの人々の中から、御旨を宣べ伝えるために、さらに特定の人物をお選びに なった。この人物はある職務を実行するために、神から事前に指名されていた者である。 すなわちモーセ、ヨシュア、士師、国王、預言者である。 4.5.2 新約時代における選び イエスは弟子たちの中から使徒を選出し、人々に教えを説き洗礼を授けるために、彼らを諸 国民の所へ派遣した(マタ 28:19 - 20;ルカ 6:13)。主は新約の民を、ユダヤ人と異邦人 の両方からお選びになる。この選びを自分のものとする人たちは、福音を信じて受け入れ、水 と聖霊によるバプテスマに与る。ペトロの手紙一 2 章 9 節には新約の民について次のように書 かれている「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のも のとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださっ た方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」 。つまり、新約の民に属す人たちは、 おんこ 神から受けた恩顧を――言葉においても行動においても――証ししなければならない、という ことである(二ペト 1:10 - 11)。 4.5.3 恵みによる神の自由な選び 選びは神の賜物であるが、信心によって受け入れられるか、不信心によって拒否されるか、 どちらかのものである。 選びは、行いによって得られるものではないし、まして人が口を挟む余地もない。理性では 説明できないのである。天来の選びは、信仰によってはじめて理解できる、神の奥義である。 神は御自分が前もって選んだ者をお選びになる ( ロマ 9:10 - 20)。 152 4.5 選び 神の選びを受け入れて自分のものとするのは、強制されることではない。天からの召命を信じ てそれに傾注し、与えられた職務を遂行するかどうかは、一人ひとりの決断次第である。 従って、恵みによる神の選びの行為 ( 人の行いとは無関係 ) と、神の選びを受け入れるか拒 むかを人が決める自由の間には、取り去ることのできない緊張関係が生じる。 神が人をお選びになるのは、その人を救うだけでなく、ほかの人たちを救うためでもある。 神による救いの御計画に基づいて働くために人が選ばれる。神が誰かをお選びになる時は、必 ずある職務や目的を伴うのである。 それゆえ、バプテスマに与りイエス・キリストが主であり救い主であることを公に言い広め る人たちが、キリスト教徒として召され、選ばれ、福音を広める。さらに、水と御霊の再生を 果たした者たちは、初穂となるための要件を満たしたことになる。彼らの中から、平和王国で 王の血統を受け継ぐ祭司となるために、キリストの花嫁が準備されるのである (10.6 参照 )。 選びの教えは、めいめいがどういうふるまいをするかが最初からわかっているとか、ふるま いを決める力が人にはない、ということでは決してない 2。逆にふりまい方を自由に選択でき ることこそが、人であるための不可欠な要素である。同様に、花嫁の会衆の一員としてある人 物を選ぶことは、別の人物を花嫁の会衆から排除することでは根本的に無い。すべての人が、 未来の救い――新しい創造において神と永遠に親しく交わること――を目指すことができるの である。 選びを信仰によって受け入れるということは、イエス・キリストに忠実に従うことである。 選びには終末論に関わる効果もある。すなわちイエス・キリストが王の王として平和王国を設 立される時、王の血統をひく祭司が、全人類に救いの良いおとずれを宣べ伝えることになる。 第一の復活に与る者たちは、そのために選ばれた者たちである ( 黙 20:6)。 人類はこの恵みを信仰を通して受け入れ、神とその御業に絶えず忠誠を尽くすことによって、 この選び――彼らが神から受けた選び――を自らのものとしたことを示す。このことから、信 徒は選ばれたという確信を引き出すのである。 選びは、神の愛による行為である。御自分がお選びになった者たちに対する誠実さは絶える ことがない。この者たちを神の愛から引き離すのことのできる外的影響力は何一つない ( ロマ 8: 29,37 - 39)。 2 選びは、神の定めと結び付けられることが多い。神の定めは天から一人ひとりに与えられる宿命であるという解釈 が、幾度もなされてきた。しかし神の定めが関係するのは、結局のところ地上における人生ではなく、神が人類を救 いに定められたという事実である。 153 4 贖いを必要としている人類 まとめ 選びは神の御旨に基づいている。神は御自身がお決めになったある特定の目的のために、ある人物を召し出される。 全被造物の中から、神は人をお選びになって、一つの職務を委任された。それは地上を支配する職務である。 (4.5; 4.5.1) 神による選びの恵みに対して口を挟むことは、誰一人できない。また人間が考えて理解できることでもない。この ことは、旧約聖書の至る所に事例を見ることができる。 (4.5.1;4.5.3) イエスは、弟子たちの中から使徒をお選びになり、教えを説きバプテスマを授ける職務を彼らに委任され、彼らを 全世界にお遣わしになった。そして神は、ユダヤ人と異邦人の両方から、新約の民をお選びになった。 (4.5.2) 選びは神による愛の賜物だが、信じて受け入れることもできるし、信じないで拒否することもできる。こうした自 由な選択ができるのは人類固有である。選びを信じて受け入れることは、イエス・キリストに熱心に従うことを意 味する。(4.5.3) 神が人類をお選びになるのは、その本人だけでなく他の人たちを救うためでもある。神が人をお選びになる時は、 必ず何らかの職務やそれに関係する目的がある。 (4.5.3) 選びとは、人類の行動が前もって決まっているということではない。(4.5.3) 4.6 神の祝福 「祝福」とは神による慈愛深い配慮である、というのが我々の見解である。神が人類や被造 物に対して救いや癒しによる働きかけをすることが祝福の意味である。祝福の反対は呪いであ り、これは神が人から背を向けると生じるものである。 人の存在そのものが神の祝福に依存していると確信するならば、神が万物の創造者でありそ の扶養者であることを信じることになる。 人は自分自身や仲間たち、あるいは被造物に益となる生き方を自分自身で構築することがで きない。 祝福の対極である呪いは、人が自らの堕罪によって神に反発した時に、人に降りかかったの である。呪いは、人を神から遠ざける方向に導いたり実際に遠ざけたりするために、あらゆる ことをする。人から見れば、絶えず心を乱されたり敵対関係に置かれたりして、ついには堕落 154 4.6 神の祝福 して、死に追いやられるのである。こうした状況を回避するために、人は自分では何もできず、 神に依存するしかない。 罪の餌食に至らしめる呪いから贖い出してくれるのが、恵みである。この神の賜物を信仰に よって受け止めて、自分自身を主の導きに委ねることによって、祝福に与ることができるので ある。 神は、祝福を与える目的で委任した人物を通して、祝福をお与えになる。 祝福は包括的であり、個人全体に効果をもたらす。祝福には上よりの力があり、将来におけ る救いを約束する。祝福は、神による愛に溢れる配慮の表現であり、働いて得られるものでは ない。祝福を受けるということは、神から良いものをいただくということである。自分で自分 を祝福することはできない。ただし、神の祝福を求めて祈りを捧げ、祝福を受けるにふさわし いふるまいはすべきである。 信仰があれば祝福がもたらされる。祝福は神の賜物で、絶えず新しくされる。その効果が永 遠に持続するかどうかは、ひとえに祝福を受けた人の姿勢や行動次第である。ふるまいが神に 適うものであれば、ほかの人々にとっても祝福となる。 祝福はそれに直接与る者の人生だけでなく、その者の子孫にも行き渡るのである。 4.6.1 創造の業における神の祝福 神は創造の御業を行う中で、すべての被造物を祝福し、生命を持つ被造物については増殖す る仕組み < 法 > を定めた。神は被造物を人に委託した。そのために神は人に特別な祝福を与え た ( 創 1:28 - 30)。ただこの祝福は、大洪水が起きた後に新たに行われている ( 創 9:1,11)。 神は「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむこと はない」と仰せになり、この祝福が万物に永久に与えられる、と述べている ( 創 8:22)。 元々被造物は神の祝福を受けていたが、罪の呪いによる影響で、十分に受けられなくなって しまった。とはいえまったく祝福が受けられないわけではない「土地は、度々その上に降る雨 を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます」( ヘブ 6:7)。 全人類がこの祝福に与ることができるのである ( マタ 5:45)。 155 4 贖いを必要としている人類 4.6.2 旧約時代における神の祝福 イスラエルに与えられた祝福の約束は、神が御自分の民と交わされた契約の一つであった。 この祝福に与れるかどうかは、契約上の義務をイスラエルの人々が履行するかどうか、つまり 神だけに仕え神の戒めに従うかどうかにかかっていた。イスラエルの人々が義務以外のことを すれば、呪いを受けるのである。義務を果たすかどうかは、彼らが決めることであった「見よ、 わたしはこんにち、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。 あなたたちは、こんにち、わたし が命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒 めに聞き従わず、…ならば、呪いを受ける」( 申 11:26 - 28)。これは、神とその戒めに逸脱 すれば呪いを受けることを明確に示している。 旧約時代、神の祝福は基本的に人々が日常において直接体験するものであり、例えば敵戦勝 利、長寿、豊かな財産、子孫繁栄、豊作といったこの世の生活におけるあらゆる分野に反映さ れた ( 申 28:3 - 6)。しかし旧約であっても、この世的幸福を優る祝福もすでにあった。この ことは神がアブラハムと交わした約束から明らかである「わたしはあなたを大いなる国民にし /あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわた しは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入 る」( 創 12:2 - 3)。この祝福は、個人的な幸福を約束するだけではない、はるかに高次元の ものであった。この祝福によってアブラハム自身も人々の祝福となった。神の祝福は後のあら ゆる世代に行き渡るものであった。つまりイエス・キリストにあるすべての国民にもたらされ るようになったのである ( ガラ 3:14)。 4.6.3 新約時代における神の祝福 新約の時代になると、天来の祝福はイエス・キリストを通して与えられるようになった。主 おさなご は御言葉を通して、奇跡を通して、行動を通して祝福をお与えになった。主は幼子たちを祝福し、 罪人をお赦しになった。そして究極の祝福として、主は全人類を和解させるために、十字架に おいて御自身の罪の無い生命を捧げ、罪を償うための犠牲となられた。こうして罪人にのしか かっていた呪いを、御自身が背負われたのである。 イエス・キリストによって獲得が可能となった祝福については、包括的な方法で理解するこ とができる。エフェソの信徒へ手紙 1 章 3 節に次のように書かれている 「わたしたちの主イエス・ キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、 天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」 。この祝福は、この世ができる前から、選 156 4.6 神の祝福 びによって始まったものである (4 節 )。さらにこの祝福は、罪の贖いと赦しをもたらし (7 節 )、 神の御旨を悟らせ (9 節 )、やがておとずれる栄光の後継者となる確約を受けるのである (11 節 )。 そしてこの祝福によって、福音を聞くことができ (13 節 )、聖霊の賜物によって証印を押され、 贖いの日まで栄光を受け継ぐ保証を得るのである (13 - 14 節 )。 信仰のある者たちにとっては周知のことであるが、イエス・キリストによって選ばれたとい うことは、祝福を受け継ぐために召されているということである ( 一ペト 3:9)。神の祝福に 感謝を示すために、神を畏れ、信仰に従順となり、自我を捨てる生き方をするのである。 祝福に伴うもう一つの面は、奉仕である (13.2.4 参照 )。これはキリスト教徒としての生き方 における基本的な実践である。 祝福の多くは、礼拝の中で与ることができる (12.1 及び 12.2 参照 )。 あふ 祝福に溢れるということは、永遠に神の栄光を共有するということである。 まとめ 祝福とは、愛に溢れた配慮による神の働きであり、人が獲得できるものではない。祝福は、神が人類やその他の被 造物に救いをもたらす働きかけをすることと同義である。 (4.6) 神は人を通して祝福をお与えになることがよくある。この人物は神が祝福を与える目的でお遣わしになった者であ る。自分自身を祝福することはだれもできない。信仰があれば、祝福は成長する。 (4.6 ) 神は、創造の業を行う中で、お造りになった被造物を祝福し、被造物が増殖する仕組みを定められた。神は人に被 造物への配慮を委任し、人への祝福を約束された。神の祝福は呪いによってその効果が制限されたものの、完全に 無効になったわけではない。 (4.6.1) 旧約において、神の祝福は基本的にこの世的利益として示されたが、それに優るものもあった。 (4.6.2) イエス・キリストは御言葉と御業を通して祝福をお与えになった。キリストは、人類を和解させるために、御自分 の罪の無い生命を贖罪の犠牲として捧げた。これこそ最も大いなる祝福である。 (4.6.3) 天からの祝福は礼拝の中で与れるようになっている。 (4.6.3) 祝福に満ち溢れるとは、神の栄光に永遠に与ることである。 (4.6.3) 157 4 贖いを必要としている人類 4.7 律法の役割 一般的に「律法」とは、より上位の権威を持つ者によって義務として発令される規定や規則 をいい、これを発令している権威者の領地に住むすべての人に適用されるものである。律法は 権利と義務の両方を定めている。 神は最高の権威者であり、何よりも立法者である。各人に適用される不文律法を「自然と倫 理に関する法則」と呼ぶ ( ロマ 2:14 - 15)。これは、人間生活を送るための倫理的道徳的な 用件や規範を明確にするものである。いわばこの道徳律は、いかに歴史的社会的変動があろう とも、変わることもなく影響を受けることもない。一般法を整備する際にも、普遍的道徳律を もとにすることがある。この道徳律の重要項目をまとめたものが、例えばモーセの十戒である。 義務項目を定めたり行動規範を指示したりしている律法もあるが、それだけでなく、実際の 生活に関することを規定する律法もある。実際の生活に関して規定する律法には、生物学的、 社会的、政治的生活を形成したりそれらに規定を定めたりする役割がある。この律法は、人間 生活における基本要素において、そして歴史や自然の営みの中でその存在を認識することがで きる。つまり、生と死、加齢と臨終、成功と失敗、さらに歴史上の事件や自然破壊といった、 あらゆる面で律法を体験することができるのである。 旧約聖書では、モーセの律法に適う生き方をすることによって神の御前で義とされる、とし ている ( 申 6:25)。この当時はモーセの律法が、イスラエルの人々が義務として負うべき最高 規範とされていた。一方、福音書では、神の御前で有効な救いと義はキリストの犠牲と復活へ の信仰からもたらされる、と定めている。律法よりも天来の恵みのほうが優先されるのである。 使徒パウロはローマ書簡の中で、義の概念が旧約聖書と福音書との間で異なっていることに ついて考察をしている。それは、律法と恵みの違いである。義とされるのが律法によるのかそ れとも恵みによるのかを巡って、初期のキリスト教会でユダヤ人キリスト教徒とユダヤ人以外 のキリスト教徒との間で論争となったため、パウロはこの問題を詳しく扱った。 4.7.1「律法」という表現について 「律法」とはまず、モーセの律法を収めたモーセ五書 ( トーラー ) を指す。モーセの律法の中 でもその根幹をなすものが十戒であり愛に関する二重の戒めである (5.3 参照 )。 旧約の時代、律法は救いに至る道筋であると考えられていた。律法を順守すれば神の祝福を 得、守らなければ神の呪いを受けるというわけである ( 申 11:26 - 28)。律法によって、罪 158 4.7 律法の役割 ひら を回避し、 神の御前で義となる生き方をして、 神の裁きを回避する道が開けたのである。しかし、 律法の礼典の部分ばかりが強調された――つまり形式的にしか十戒を実行しなかった――ため に、これを預言者たちが厳しく批判した ( イザ 1:10 - 17)。 救いすなわち神との完全な和解は、イエス・キリストによって確立された。新約聖書では、 モー セの律法の全貌を明らかにしている。それによれば、律法は――それまで信じられていたよう な――救いに至る道ではなく、神の御前における罪の束縛によって収拾のつかない状態である ことを悟らせ、真の救いに至る道がどれなのかを指針として与えるものである。 さらに新約聖書では、律法の概念をかなり拡大して、法則の範疇にまで認めている。神聖な 成文法としてだけでなく、人を含むあらゆる生命やあらゆる事物の基本的な状態をも、律法も しくは法則が指し示すようになったのである。因果に関する法則、種蒔きと収穫に関する法則、 生と死に関する法則など、律法の適用を免れるものは一つとして無くなったのである。律法は、 倫理道徳上要求される、人の内面に存在する権威でもある (4.2.1.3 参照 )。 ユダヤ人もユダヤ人以外の人々も、律法には従わなければならない。ユダヤ人はモーセによっ て示された律法に従う。一方ユダヤ人以外の人々は、神御自身が彼らの心を通して記した律法 に従う ( ロマ 2:15)。 4.7.2 義なるふるまいへの指針となる律法 神から与えられる律法には、神に喜ばれるふるまいを人類に教える役割がある。律法は生活 の中で神の慈しみ深い助けをもたらし、ふるまい方に関する具体的な規定を人類に与える。こ れにより律法は人を良い行いに至らしめ、悪を回避できるように働きかけてくれるのである。 モーセの律法の中で最も重要なのが、食事と純潔に関する戒め、そして安息日の遵守と祭礼 の実施に関する規定であった。律法は、正しい神崇拝のあり方や神と交わるための正しい方法 を示したのである。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げら れている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、 これである」 ( ミカ 6:8)。 「神の御言葉」――つまり律法――に従って行動することは、何よりも神に忠実であり続け、 偶像崇拝をしないことである。人は謙虚であるかどうかは、神に従順かどうかでわかる。人間 同士において「愛を実践する」とは、他人を敬い尊ぶことである。イエス・キリストは、山上 の説教の中で、律法が基本的に求めていることに関して次のように言われた「だから、人にし てもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」 ( マタ 7:12)。 旧約を遵守すれば、律法が要求することを実行でき、救いを得ることが可能ではあった。と 159 4 贖いを必要としている人類 ころが、律法に書かれていることをすべて実行するのは不可能であるという現実を認識させる 記述も、旧約聖書にはいくつも存在する ( 詩 19:12< 新共同訳 13 節 >)。とはいえ、律法を実 行する人は義なる者であり救いに与ることができる、という確信を持つことが一般的となった。 律法に背いた者は罪人であり、裁きを受ける脅威にさらされる、とされたのである。 4.7.3 罪を認識する指針としての律法 神から与えられた律法は、福音に照らして考えると、正しく理解することができる。 使徒パウロはローマへの信徒への手紙の中で次のように述べている「さて、 わたしたちが知っ ているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、 すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、 律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、 罪の自覚しか生じないのです」( ロマ 3:19 - 20)。律法の要求することを、人類は何度試み かんが ても実行できないでいる。そうした点を鑑みて人類は自らが罪深く不義であるために天の恵み を必要とすることを認識する ( ロマ 7:7 - 10)。 新約聖書の観点によれば、モーセの律法が持つ最も重要な役割は、自分の努力だけで救いを 得ることはできないという認識を持たせることにある。律法は不義なる人を義としたり、罪人 に恩赦を認めたりするものではない。とはいえ律法が求めている基本事項――十戒や、神と隣 人への愛の戒めで説いているような――は有効である。 このようなわけで、律法は人類が罪人であることを自覚させるものである。罪の赦しを通し て完全な救いに与る必要があることを明確に示している。律法自体がイエス・キリストを指し 示しているのである「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓 示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストの もとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」( ガラ 3: 23 - 24)。ここで「養育係」という用語は、様々なつながりの存在に気づかせキリストに至る 道に導く教師を表している。 パウロはローマの信徒への手紙の中で、 律法によって生じる義務について「一人 の人 ( アダム ) の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人 ( イエス・キリスト ) の従順によって多 くの人が正しい者とされるのです」とまとめている。つまりパウロによれば、この両者の間に 「律法が入り込んて来た」のである ( ロマ 5:19 - 20)。結局、モーセの律法の役割は、律法自 体が贖いをもたらすわけではないという認識に至らせることである。贖いは、イエス・キリス トを通してはじめて可能なのである。 160 4.8 律法と福音 まとめ 全人類に適用される不文且つ不変の律法は、自然と倫理に関する法則である。この法則の重要な部分は、十戒の中 に収められている。 (4.7) 現実の生活を支配する律法は、生物学的社会的生活に秩序をもたらすものである。 (4.7) 旧約の時代、モーセの律法は救いへの道であると考えられていた。人々が罪を回避し、神の御前で義とされる生き 方をして、神の裁きを逃れるための道筋が、この律法によって開かれたのである。救いへの道――つまり神と完全 に和解する道――は、イエス・キリストによって敷かれた。新約聖書が明らかにしているところによれば、モーセ の律法は救いへの道そのものではなく、救いへの道を指し示すものである。 (4.7.1) モーセの律法には、神に喜んでいただくふるまいをするように教える役割がある。神から与えられたモーセの律法 を正しく理解しているかどうかは、福音に照らし合わせて考えると明らかとなる。 (4.7.2) 律法は人が罪を犯す存在であることを明らかにし、罪の赦しによって完全な救いを得る必要があることをはっきり と示す。それゆえ律法の指し示しているのは、イエス・キリストなのである。 (4.7.3) 4.8 律法と福音 モーセの律法を厳守し、その内容を研究することは、旧約の時代においては最も重要なこと であった (4.7.1 参照 )。 「福音」とは「良い知らせ」という意味であるが、例えばイザヤ書 61 章 1 節のようにこれ は新約聖書だけの解釈ではなく、旧約聖書の中でも触れられている「主はわたしに油を注ぎ/ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるた めに」( ルカ 4:18)。 新約聖書で「福音」とは、イエス・キリストなる神による救いの働き、つまりお生まれになっ てから十字架で死なれ、復活し、最終的に再びおいでになるまでの救いの働きを言う。この福 音の中における重要な事柄を、使徒パウロは次のように書いている「最も大切なこととしてわ たしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書 いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある とおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです 」( 一コリ 15: 3 - 5)。 161 4 贖いを必要としている人類 このように、福音はイエスによる救いの働きを表しており、何事によっても相対化したり わいしょう 矮 小 化したりすることはできない。福音は、イエス・キリストが救いに至る唯一つの道である ことを伝えているのである。 律法と福音には一定の矛盾関係にあるものの、両者とも救いをもたらそうとする神の御旨を 明らかにしている。ただしモーセの律法は当時の選民つまりイスラエルの民に向けたものであっ たが、福音の有効性は普遍的である。 一方で、旧約聖書が律法であり新約聖書が福音である、と排他的に考えることもできない。 旧約聖書にも新約聖書にも、律法の要素もあれば福音の要素もある。しかし旧約聖書に書かれ ている律法と福音の真髄は、新約聖書を理解することによって解明することができる。聖書に ちりばめられている福音は「十字架の言葉」( 一コリ 1:18) であり、 「和解の言葉」( 二コリ 5: 19) なのである。 4.8.1 キリストの律法――恵み 使徒パウロは信仰のもたらす義について考察しているが、その中で旧約の預言者の言葉を引 用している。それは、イザヤ書 28 章 16 節とヨエル書 2 章 32 節 < 新共同訳 3 章 5 節 > である。 「実 に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して < 告白して > 救われるのです。聖書にも、 『主 を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別 はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる からです。 『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』 のです」 ( ロマ 10:10 - 13)。パウロは、 福音に関しては旧約も新約も一致していることを強調している。 全人類が罪人であるということは、新約聖書だけでなく旧約時代においても認識されていた 「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。…わたし とが は咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったので す」( 詩 51:4 - 5< 新共同訳 6 - 7 節 >)。これほど率直に罪人の状況を表現することは不可 能であろう。この聖句では、神を信じない人々より律法を遵守する人々のほうがすぐれている のではないかという考え方も成り立たない。つまり旧約時代から、贖いの必要性を認識してい た人たちがいたわけである。 イザヤ書 49 章から 56 章は、福音が伝える恵みを預言するものと考えることができる。53 章 4 - 6 節には次のように書かれている「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわ たしたちの痛みであったのに/ […] 彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えら 162 4.8 律法と福音 れ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。[…] そのわたしたちの罪をすべて/主 は彼に負わせられた」。 旧約の中に福音に関する言及があるように、新約の中にも、福音伝道の一部として律法に触 れている部分がある。律法の慎重な分析やその新しい解釈は、四福音書にも使徒書簡にも見ら れる。 要は、律法を無効にすることではなく、律法を正しく理解することにある。これはイエス・ キリストの福音によってはじめて示されたことである「実に、神は唯一だからです。この神は、 割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、 律法を確立するのです」( ロマ 3:30 - 31)。 キリストは律法の成就であり目標である。それゆえ、律法が救いに至る道であるという解釈 も、すでに過去のものである ( ロマ 10:4 - 5)。 旧約の時代は、律法が人生の指針となり罪からの勝利をもたらすものとされていたのに対し、 使徒パウロは、律法が罪の自覚を促すものでしかないことを明確にしている「律法によらなけ れば、 わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、 律法が『むさぼるな』と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」( ロマ 7:7)。 律法は人類に罪人であることの自覚を促すだけでなく、義なる行いをするための教えをも説 いている。イエス・キリストは、神と隣人を愛しなさいという戒めを用いて、モーセの律法の 中で永遠に有効かつ重要な要目について要約して説明された ( マタ 22:37 - 40)。 従って「キリストの律法」は、モーセの律法における重要項目――つまり神と隣人とを愛し なさいという戒め ( 申 6:5;レビ 19:18)――を引用したものであり、律法の基本的役割を強 けんざい 調したものである。ここで再び、律法と福音との矛盾と一致が顕在化する。 旧約を熱心に信じていた人たちは、モ-セの律法を実行することが罪からの勝利につながる、 かな と思っていた。しかしそれは叶わぬことだった。現実に罪からの勝利をもたらすのは「キリス トの律法」によるしかなかったのである。 神の御前で義とされるのは、赦しに与った人である。罪人が義とされるのは、キリストが犠 牲となられたからである「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、 一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」( ロマ 5: 18)。 163 4 贖いを必要としている人類 4.8.2 信仰と業との関係 人類が義とされるのは、イエス・キリストへの信仰によるものである。それゆえ、人の業 < 業績 > によって、聖なる者になったり義なる者になったりするわけではない「なぜなら、わた したちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、 信仰によると考えるからです」( ロ マ 3:28)。 とはいえ、信仰と業とは密接に関係しており、切り離すことはできない。良い業は信仰が生 きていることを表すものだからである。良い業を欠いていれば、信仰は死んでいることになる。 それゆえ信仰は内なる姿勢だけでなく、人にあることを行わせようとする推進力でもある ( ヤ コ 2:15 - 17)。 良い業の源は信仰である。いわば、見える形で信仰を表現しており、これにより信仰の実情 を知ることができる。信仰によって現れるのは、まず神への愛であり、隣人に対する愛に溢れ るふるまいである。 信仰と業とがそうであるように、義と聖なるふるまいとは相互依存の関係にあり、切り離す ことはできない。 まとめ 「福音」とは「良い知らせ」を意味する。新約聖書における「福音」とは、常にイエス・キリストによる神の救い の働きであると考える。 (4.8) 律法も福音も神の救おうとする御旨を表しているが、律法がイスラエルの人々に対するものである一方、福音は普 遍的に有効なものである。 (4.8) 旧約においても福音が扱われていたように、新約においても福音伝道として律法が扱われている。 (4.8.1) イエス・キリストは、モーセの律法において常に適用可能で必要な項目として、神への愛を謳った条文と隣人への 愛を謳った条文とを集約された。そのためモーセの律法における重要項目は「キリストの律法」とされている。 (4.8.1) イエス・キリストへの信仰によって。人は義とされる。そういう意味で、人の業績は、聖別や義化に貢献するもの ではない。とはいえ、信仰と業績――義化と聖別されたふるまい――は相互依存の関係にある。良い業の源は信仰 である。業 ( わざ ) は、いわゆる見える形の表現である。 (4.8.2) 164 5.1 神の戒めに適った信仰生活を送る 5 神の戒め 神は人類に、人類の利益を目的とした御旨を宣べ伝えるための戒めをお与えになった。 5.1 神の戒めに適った信仰生活を送る 神への信仰は、人の生活全般に決定的な影響をもたらす。神を信じる者は、思いや行動を通 して神の御旨に基づいた生き方をする努力をする。神が義なる秩序の権威者であることを悟っ ているからである。 この義なる秩序の枠組みにおいて行動できるように、創造主なる神は人類に戒めをお与えに なった。戒めは、神と人類との関係構築に関して、 神の御旨を表したものである。また戒めには、 建設的な人間関係を築くための土台となる働きがある。 信徒は神が主であることを認知し、その御業の持つ万能性を認識しつつそれを信頼するため、 神の御旨を求め、それに自分の考えを従わせようと努めるのである。 すでに旧約時代から、自分の信仰を行動に反映させていた人たちがいる。ヘブライ人への 手紙 11 章ではそうした人たちの事例についていくつか列挙している。こうした信仰の証人は、 キリスト教徒にとって模範的存在である。ヘブライ人への手紙 12 章 1 節では「絡みつく罪」 を捨て去り、罪と戦う信仰の道を勇気を持って走り抜きなさい、と述べている。 中でも最も偉大な模範は我々の信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストである。 イエス・キリストは天の父と共におられ、終始御自分の思いより天の父の御旨を優先をしてお られた ( ルカ 22:42)。天の父から命じられたあらゆることについて、キリストは無条件に従 いそして実行されたのである。このことを我々は励みとして、従順となり、キリストを模範と した生き方をしていくのである「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あ なたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」( ヨハ 15: 10)。このようにキリストは、信仰によって従順に御自身について行くすべての人たちに、永 遠の救いを創始されるのである ( ヘブ 5:8 - 9)。 サクラメント 聖礼典を受けることによって救いを獲得する、という認識を持つこともキリスト教信仰の一 つである。神によるこの救いの行為に与り、間近に迫るキリストの再臨に思いを馳せることに 165 5. 神の戒め より「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活[して] 、 祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト の栄光の現れを待ち望む」ことができるのである ( テト 2:12 - 14)。 「この世で、信心深く生活」するとは、偽善や見せかけではなく、幼子のような信仰で自ら の考えや行動を神の御旨に合わせるということである。幼子のような姿勢で天の父を信頼する のは、天の父が人類を愛しておられることに基づいている。信仰に従順であるならば、天来の 御旨に従うことができる。 イエスの名において「信仰に従順」であることは、使徒職の任務である ( ロマ 1:5;16: 25 - 26)。信仰に従順であり続ける人は、自分の生き方を、キリストの教えに適合させていく のである ( ロマ 6:17)。これこそ、神の戒めに適う、本当の信仰生活である。こうした生き方 をすることによって、神への愛を表現することができるのである。 まとめ 我々と神との関係がどうあるべきかを、神は十戒の中でお示しになっておられる。十戒ではさらに、人間関係の発 展にとって礎 ( いしずえ ) となる内容も含まれている。 (5.1) 人は信仰によって、神が主であることを認める。神を信頼し、自らの考え方や行動を、神の御旨に適合させた生き 方ができるように努める。 (5.1) イエスは絶対的に天の父に従順であった。我々もそれに従い、イエスを模範としてふるまうことが必要である。(5.1) 5.2 神の戒め――神の愛の表現 神は愛であり ( 一ヨハ 4:16)、戒めはその愛を表現したものである。戒めの目的は、人類が 神の御旨に従い、人間同士が協和的になれるようにすることである。神の戒めは、私たちが「清 い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛」( 一テモ 1:5) に導くものでもある。 神は人類を創造し、そして祝福された。神は最初から人類を愛しておられたのである。神 は堕落した被造物に対しても愛によって守って下さる。神による救いの働きは、すべてこの愛 に基づいている。神がイスラエルの民を選ばれたのは、愛によるものであった ( 申 7:7 - 8)。 神は戒めの中で彼らを守ろうとする御旨を伝えておられる。神は、世を愛しておられることを 166 5.2 神の戒め――神の愛の表現 示す最高の表れとして、御子イエス・キリストをお遣わしになったが ( ヨハ 3:16)、この時も 神は、イスラエルの人々の中にキリストを遣わしておられる。それはイスラエルの人々を通し てすべての国民が祝福を受けるためである。 神が旧約の民に対して律法を発布しそれを預言者に宣べ伝えさせたことについて、それが大 変大きな意義をもたらしていることを、イエス・キリストも述べておられる。 「律法の中で最も 重要な掟」が何かと問いかけを受けた時 ( マタ 22:36)、イエスはモーセの律法から二つの戒 めをお答えになっておられる「『心をつくし、 精神をつくし、 思いをつくして、 主なるあなたの 神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、 第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自 分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』これらの二つのいましめに、 律法全体と預言者と が、 かかっている」( マタ 22:37 - 40)。 イエス・キリストは旧約を完成させ、新約を開始されたお方である。新約によって神は、人 類が神の子となり神の本質そのものである愛を身に着けるための機会を、与えて下さったので ある「…わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから です」( ロマ 5:5)。この愛が注がれていることによって、神の愛が戒めの中に示されている ことを、私たちは悟ることができる。それゆえ私たちが戒めを実行するのは、懲罰を受けるこ との恐怖ではなく、天の父を愛する思いからである「このことから明らかなように、わたした ちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の 掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」( 一ヨハ 5:2 - 3;ヨハ 14:15, 21,23 参照 )。 5.2.1 神への愛 人が神を愛し隣人を愛する根拠は神にある。愛には創造主の性質があるため、永遠のもので ある。つまり愛はあらゆる被造物が造られる前から存在し、決して終わることがない。すべて のものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのである ( ロマ 11:36)。 こた 神が人類を愛しておられることにより、信徒はこの愛に応えようという願望が強くなってく る ( 一ヨハ 4:19)。神の啓示に人が応えるのが信仰であるのと同様に、人が受けた神の愛に応 えるのが人の愛である。 シラ書 1 章 14 節では「主を畏れること[別訳:主を愛すること]は、知恵の初めである」 と定義づけている。神を愛する人は一刻も早く神との交わりが得られることを渇望する。その ための努力をする中で、再生を果たしている者たちの心に神の愛が聖霊を通して注がれること は ( ロマ 5:5)、大きな助けとなる。神への愛は聖餐に与ることによって強められる。こうし て神への愛は再生を果たした信徒の内において成長し、ますます浸透していくのである。 167 5. 神の戒め 神を愛する人は、愛を追い求める ( 一コリ 14:1)。神を愛することは、人類全体に適用され る、一つの戒めである。この戒めには、全き献身をしなければならないのである「心を尽くし、 精神を尽くし、 思いを尽くし、 力を尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい」( マコ 12: 30)。この戒めを実行することにより、充実した、目的を持った生き方ができるのである。 神への愛は、個々人の性質に影響を与え、ふるまいを決定するものである。 まとめ 神の戒めは、御自身の愛を表している。戒めが与えられているのは、人類が御旨に適い、人間同士が協和的な関係 をもって生きることができるようになるためである。 (5.2) 戒めを通して神の愛を悟ることができるならば、懲罰の恐怖からではなく神への愛によって、戒めを実行すること ができるようになる。 (5.2) 5.2.2 隣人愛――仲間を愛する 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」( レビ 19:16 - 18)。モーセの律法で隣人と は基本的に、イスラエルの民における部族同士としている。この戒めは当初、この程度の枠組 みにおいてしか適用されなかった。しかしその後、イスラエル国家に住む外国人を保護する目 的で適用範囲が拡大された ( レビ 19:33 - 34)。 神の御子は、レビ記 19 章 18 節と申命記 6 章 5 節にそれぞれ書かれている戒めを一つにま とめ、二重の愛の戒めとされた ( マタ 22:37 - 39)。 良きサマリア人の喩えから ( ルカ 10:25 - 37)、隣人愛に関する制限事項――それまでこ の戒めはイスラエルの民のみに適用されるとされていた――が、イエスによって撤回されたこ とがわかる。まずイエスは、助けを必要としているならどのような人も隣人である、と定義さ れたのである。この喩えにおいてイエスは「ある人が…」と仰せになり、イスラエルの民や異 邦人などといった、何か特定の民族について言われたわけではない。他方、隣人とは助けを施 す側であることも考えられる――この喩え話では、イスラエルの人々から軽蔑されていた民族 であったサマリア人、となっている。ここで明らかなのは、人間の交流があった瞬間から隣人 となる、ということである。そのため私たちが交流を持つ人なら、どんな人も隣人である。 そうであるならば、十戒の適用範囲が拡大されてすべての人に十戒が適用される、というこ 168 5.2 神の戒め――神の愛の表現 とになる。 十戒のほとんどは、隣人との関わりに関するものである ( 出 20:12 - 17)。このことは、 神の御子が金持ちの青年とのやりとりにおいて、十戒の戒めと同列で、隣人を愛しなさいとい う戒めを制定された事実からも、言えることである ( マタ 19:18 - 19)。 使徒パウロは、人間同士に関する諸規定が隣人愛の戒めに集約されたという認識を示してい る ( ロマ 13:8 - 10)。主は、愛に関する二重の戒めが「律法全体と預言者」( マタ 22:37 - 40) にかかっていると、言われたが、このパウロの見識は主のこの発言に基づくものである。 また、山上の説教 < 垂訓 > におけるいわゆる「黄金律」に関する説教においても、主は同様の 発言をしておられる「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にし なさい。これこそ律法と預言者である」( マタ 7:12)。 いかなる人間関係であろうと、隣人となり得るのである。イエスがこの隣人という概念を非 常に重要視しておられた可能性は、山上の説教の中で弟子たちに、 あなたがたの敵を愛しなさい、 と説いておられることから推測できる。 隣人を愛することによって、憐れみが必要な人たちを憐れむことができる。たとえ憐れみを 必要とする者が敵であっても同様である。実際に、例えば他者、特に何らかの事情によって不 利な状況にある人に対して、益をもたらす献身的努力は、隣人愛である。 キリストに従う者たちが隣人愛を実践すべきなのは、この世のことだけではなく、神の御業 に関わることついても言えることである。これが「行いによって誠実に」愛することである一 ヨハ 3:18)。私たちが故人を執り成すのも、そのためである。 「隣人を自分のように愛しなさい」( マタ 22:39)――イエスがこのように言われたのは、人々 が自分の利益について考えてもよい、ということである。一方で主は、自己中心的な考えに明 確な限界を定めて、周囲の人たちに愛をもって接しなさい、と説いておられる。 どういう形であれ、隣人愛が実践されることは、高い評価に値することである。隣人愛を実 践すればするほど、苦悩感が軽減され、調和のとれた人間関係を構築することができる。イエス・ キリストの教えが示しているのは、神を愛することによって隣人愛も十分な成果を上げること ができるということである。 5.2.3 隣人愛――会衆における愛 隣人愛は、特に会衆において具体化される「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上 に努めるべきです」( ロマ 15:2)。イエスは次のように教えておられる「あなたがたに新しい 掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互い 169 5. 神の戒め に愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であるこ とを、皆が知るようになる」( ヨハ 13:34 - 35)。キリストに従う者たちが互いに愛し合って いることは、主の会衆であることを示す一つの特徴である。 愛について会衆に与えられている規範は、 マタイによる福音書 7 章 12 節に書かれている「黄 金律」を超越するものである。つまり、イエスが御自分の民を愛しているのと同じように、一 人ひとりが自らの隣人を愛すべきなのである。こうした愛を、初期キリスト教会の会衆は、多 くの人たちが「心も思いも一つにし」ていたことによって ( 使 4:32) 実現させていた。実際彼 らは赦し合うこと、平和を保つこと、愛し合うことを繰り返し教わっていたのである。使徒ヨ ハネは、愛し合いなさいという戒めを、神を愛しなさいという戒めと結び付けている。御子を お遣わしになり、キリストを犠牲とされたことによって、神は人類を愛された、とヨハネは説 いており、さらに「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛 し合うべきです」と言っている。ヨハネはこうした一連の考え方をさらに詳細に述べている。 つまり、神を愛していると言いながらその兄弟を嫌う人は偽り者である、と言っている。この ことから彼はこう結論付けているのである「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、 神から受けた掟です」( 一ヨハ 4:7 - 21)。 従って、私たちは、個人の性格や社会的立場に関係なく、会衆の兄弟姉妹に愛情をもって関 心を向けることによって、神への愛を表現することができる。使徒ヤコブは、会衆の中でいか なる形であれ差別があるならば「栄光に満ちた主イエス・キリストの信仰」と相いれない、 と言っ ている。どんな形であれ会衆の中で偏見があれば、隣人愛の戒めに違反することになる。こう したことに基づいてヤコブは次のような結論を導き出している「 […]しかし、人を分け隔てす るなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」( ヤコ 2:1 - 9)。 ぶべつ 「互いに愛し合いなさい」という戒めは、会衆に属す人たちにおける不和や偏見や侮蔑行為 が起こるのを防止する。隣人を愛しなさいという戒めによって、すでに絶望的状況にある同胞 の助ける必要性が生じている場合は、まず会衆の中でそれを実践すべきである「…すべての人 に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」( ガラ 6:10)。 「隣人を愛しなさい」という戒めは、会衆内の結束を促進し会衆の生活にぬくもりをもたら あつれき こうきゅう てきがいしん す特別な力である。そして、人間社会ならどこにでもありがちな軋轢が恒久的な敵愾心に発展 するのを阻止する。そして兄弟姉妹を互いに受け入れることができるようにする ( ロマ 15:7)。 会衆の中で、互いの期待度、互いの考え方、互いの行動様式が理解できなくても、互いを否定・ 排除し合うすべきではなく、寛容さを持って対処すべきである。 さらに、隣人を愛することによって、主に選ばれ「聖なる者とされ、愛されている」のは自 分だけではない、と考えられるようになる。こうした認識が持てるようになれば、慈愛、親しさ、 170 5.2 神の戒め――神の愛の表現 謙虚さ、柔和さ、寛容さをもって互いに接しなければならないことが必然的にわかるのである。 不満を感じる理由があれば、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じよ うにしなさい」という言葉通りに、赦す努力をしなければならない。使徒パウロは次のような 忠告を与えている「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させる きずなです」( コロ 3:12 - 14)。 一つ一つの会衆はキリストの体のようなものである。その会衆に属している一人ひとりは、 かしら その体の器官のようなものである。そのためすべての神の子は、共通の頭によって一つに結ば れており、その結びつきを断つことはできない「神は、…体を組み立てられました。 それで、 …各部分が互いに配慮し合っています」 。一人ひとりが相手の環境に関わることによって、全 体に益をもたらすことができるのである。人の悲しみに同情し、隣人に起きた良いことを決し てねたまないのは当然である「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部 分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」 。 「あなたがたはキリストの体であり、また、 一人一人はその部分です」ということを、すべての者たちは自覚する必要がある ( 一コリ 12: 12 - 27)。 コリントの信徒への手紙一 13 章で、使徒パウロは愛という道を示し、最後にこう締めくくっ ている「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いな るものは、愛である」。愛を会衆の中で実践するならば、いかなる能力や、才能や、洞察力や、 知力がもたらすものよりも、広範にわたる効果を得ることができるのである。 まとめ モーセの律法でいう隣人とは、本来イスラエルの民を表している。しかし良きサマリア人の喩えが示しているよう に、イエスはこのイスラエルの民という制限を解除して、すべての人が相手にとって隣人となり得る、されたので ある。 (5.2.2) イエスは、山上の説教の中で、敵を愛しなさい、と説かれた。 (5.2.2) 隣人愛は、自己中心的な考え方に制限を設けるものである。隣人愛は、すべての人に憐れみを示すように促してい る。キリストに従う者たちは、この世のことだけに隣人への愛を示すのではなく、人々に神の御業を意識させるこ とが必要である。故人のための執り成しが行われるのも、その一環である。 (5.2.2) 隣人愛は、神を愛することによって完全なものとなる。 (5.2.2) キリストに従う者たちに与えられている愛の規範は、 「黄金律」(「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、 あなたがたも人にしなさい。 」) よりも優先される。キリストが御自分の民を愛されるのと同じように、私たち一人 一人が他者を愛さなければならない。他者を愛することによって、相手と不和になったり、偏見をもったり、軽蔑 したりすることがなくなる。兄弟姉妹を互いに受け入れることができるからである。 (5.2.3) 171 5. 神の戒め 5.3 十戒 十戒は、モーセの律法すなわちモーセ五書 ( トーラー ) の中核を成し、神に喜ばれる行動様 式と神に喜ばれない行動様式を表したものである。この十戒から、具体的な指示事項を引き出 すことができる。この指示事項は、イエス・キリストから命じられている神と隣人への愛を、 日常生活の中でどうやって実行すべきかを表している。 十戒を通して、神は全人類に着目され、人類一人ひとりに対して生活における自身の行動に 責任を持たせておられる。 5.3.1「十戒」という表現について 「十戒」とは、出エジプト記 34 章 28 節及び申命記 10 章 4 節に書かれている「十の戒め」 (δέκα λόγοι デカ・ロゴイ ) を語源としている。 5.3.1.1 項目の付番について 聖書では戒めとして十の項目が挙げられており、その数は固定されているが、それぞれの項 目に付番がされていないため、項目の順序にばらつきが生じている。新使徒教会では、紀元 4 世紀から採用されている付番を踏襲している。 5.3.1.2 旧約における十戒 十戒はモーセの律法において、極めて重要な意味が与えられている。というのは、 十戒だけは、 神がシナイ山頂で直接人に対して語りかけてお与えになったものであり ( 申 5:22)、十戒だけ せきばん が石版に記されたからである ( 出 34:28)。 十戒の発布は、神がイスラエルと交わされた契約の一部である。十戒が発布されたことによ り、神はアブラハム、イサク、ヤコブと交わされたそれまでの契約を更新されたことになる ( 申 5:2 - 3)。申命記 4 章 13 節には次のように書かれている「主は契約を告げ示し、あなたたち が行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された」 。 172 5.3 十戒 十戒を守ることは、イスラエルの民にとって契約上の履行義務であり、十戒を守ることによっ て彼らは神の祝福に与ることができた ( 申 7:7 - 16)。すでに彼らの子供らは十戒を暗唱して いた ( 申 6:6 - 9)。この十戒はこんにちでもユダヤ教において非常に重要な意味を持っている。 5.3.1.3 新約における十戒 新約聖書における十戒は、神の御子によって強められ、その意味が深められている。イエス・ しゅ キリストは、 御自分が十戒だけでなく律法全体に優る主であると宣言しておられる ( マタ 12:8)。 金持ちの青年に言われた言葉が明らかにしていることによれば、ただ律法を守るだけでなくキ リストに従おうとする姿勢があることによって、はじめて永遠の命を得ることができる、とし ている ( マタ 19:16 - 22;マコ 10:17 - 21)。 イエス・キリストはモーセの律法について全く新しい考え方を明らかにされた (4.8 参照 )― ―このことは十戒についても同様である。使徒パウロはモーセの律法の目的について――旧約 における解釈に基づいて――「律法の実行によって、罪を自覚する」と述べている ( ロマ 3: 20)。 そむ 十戒の中の一つでも違反した場合、律法全体に背 いたことについて有罪となる ( ヤコ 2: 10)。従って、すべての人が律法に背いていることになる――従って全人類が罪人なのである。 律法ができることは罪を認識させることである。しかし犯した罪を洗い流すことができるの は、新約の基礎であるキリストの犠牲によるしかない。 十戒は新約聖書においても適用される。十戒は全人類が守るべきものである。十戒のとらえ 方が変わったのは――エレミヤ書 31 章 33 - 34 節に書かれている預言の通り――神の律法が 石版ではなく全人類の心や思いにも刻まれるようになったからである。神と隣人への愛に関す る戒めを実行することで、律法全体を実行することができるのである ( ロマ 13:8 - 10)。 5.3.1.4 文言について こんにち使われている十戒の文言は、聖書に書かれている文言と同じではない。暗唱がしや すく、本来の意味が変わることなく、わかりやすい表現が好まれるためである。 173 5. 神の戒め こんにちの表現による十戒の文言 第一の戒め わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。 第二の戒め あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せず にはおかれない。 第三の戒め 安息日を覚えて、これを聖とせよ。 第四の戒め あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる ことができる。 第五の戒め 殺してはならない。 第六の戒め 姦淫してはならない。 第七の戒め 盗んではならない。 第八の戒め 隣人に関して偽証してはならない。 第九の戒め 隣人の家を欲してはならない。 第十の戒め 隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 174 5.3 十戒 出エジプト記 20 章 2 - 17 節に基づく十戒の文言 第一の戒め わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あな たには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の 中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、 それらに仕えたりしてはならない。 わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫 に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈し みを与える。 第二の戒め あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せず にはおかれない。 第三の戒め 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、 いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの 町の門の中に寄留する人々も同様である。 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は 安息日を祝福して聖別されたのである。 第四の戒め あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる ことができる。 第五の戒め 殺してはならない。 第六の戒め 姦淫してはならない。 175 5. 神の戒め 第七の戒め 盗んではならない。 第八の戒め 隣人に関して偽証してはならない。 第九の戒め 隣人の家を欲してはならない。 第十の戒め 隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 申命記 5 章 6 - 21 節による十戒の文言 第一の戒め わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あな たには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の 中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、 あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代ま でも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 第二の戒め あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せず にはおかれない。 第三の戒め 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、 いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべ ての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の 奴隷もあなたと同じように休むことができる。 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ば してあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安 176 5.3 十戒 息日を守るよう命じられたのである。 第四の戒め あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなた の神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。 第五の戒め 殺してはならない。 第六の戒め 姦淫してはならない。 第七の戒め 盗んではならない。 第八の戒め 隣人に関して偽証してはならない。 第九の戒め 隣人の家を欲してはならない。 第十の戒め 隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 まとめ 十戒はモーセの律法の中核を成している。十戒を通して神は全人類に語りかけておられる。 (5.3) 十戒を宣べ伝えることは、イスラエルの民の義務事項であり、神がイスラエルと交わされた契約の一部である。 (5.3.1.2 ) イエス・キリストはモーセの律法や十戒に関する新しい考え方をお示しになった。そのため十戒は新約においても 有効である。 (5.3.1.3) 十戒の文言は聖書の中に二カ所見られる。出エジプト記 20 章 2 - 17 節と、申命記 5 章 6 - 21 節である。(5.3.1.4) 177 5. 神の戒め 5.3.2 第一の戒め わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。 ひ ご 5.3.2.1 神――主であり庇護者である 「わたしはあなたの主なる神である。 」――これは十戒冒頭部の宣言で、神がすべての上に立 つ主であることを表している。すべての創造者である神は、無制限の統治権を持つ。神は御言 葉を通して律法を制定される。神には従わなくてはならない。 神についてのこうした認識は、旧約聖書の律法書、詩編、預言書に証しされている。新約聖 書では、キリストが主であること、キリストによる天来の御旨には拘束力があることを強調し ている。 神は支配者であるだけでなく、庇護者でもある。神は祝福を通して全人類の庇護者として御 自身を啓示される。 5.3.2.2 奴隷から導き出す神 神の支配は絶対であり、人に対して御旨の根拠などを説明する義務はない。それにもかかわ らず神は、イスラエルの民が御自身に従順でなければならないことについて説明しておられる。 つまり神はイスラエルを「奴隷の家」とエジプトにおける奴隷状態から解放された。神は自由 へと導いて下さるのである。贖いの神なのである。 神はこの世的な意味でイスラエルを外国の支配から解放されたが、もっと大きな意味で、神 は御子イエス・キリストを通して全人類の庇護者として御自身を啓示される。愛によって神は 御子をお遣わしになったのである。愛と従順によって、御子は御自分の罪の無い生命を十字架 上で犠牲とされたのである。それ以来、罪と死をもたらす奴隷状態から贖われる機会を、全人 類が得たのである。贖いの持つ重要性を認識すれば、贖い主に愛と従順をお示ししたいと願う であろう。第一の戒めと神を愛することの必要性は、申命記 6 章 4 - 5 節において強調されて いる「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、 力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」 。 178 5.3 十戒 あが おそ 5.3.2.3 神を崇め畏れる 崇めるべきふさわしいお方は、主である神ただお一人である。 旧約時代における神崇拝の方法は様々なであった。詩編では、祈りを通して神を讃美し崇め つづ る言葉が綴られている。神殿におけるいけにえの奉納による礼拝も、神を崇敬する一つの形態 である。 時が経過していく中で、神殿崇拝は人々を、表面化し形骸化した神崇拝という誤った方向へ 導いてしまった。こうした事態を預言者たちは厳しく非難している ( アモ 5:21 - 22,24)。 こうした預言者たちの批判を受けて、イエスも次のように教えておられる「しかし、まことの 礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、 父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、 神を礼拝する者は、 霊と真理をもって礼拝しなければならない」( ヨハ 4:23 - 24)。適切な神崇拝は単なる形式 的な行為ではなく、神への献身的姿勢が完全であることにある。 神への献身的姿勢は、神を畏れることによって決まる。神を畏れるとは、 神を敬うことである。 卑屈な思いで神を怖がるのではなく、謙虚、愛、信頼の思いで神を畏れることである。神への 畏れは、戒めを守ろう、つまり罪を回避しようと努力することによって、その姿勢を示すこと ができる。 5.3.2.4 他神崇拝の禁止 うやま 「わたしのほかに神があってはならない。」こう言われたことによって、畏れ敬うべきは神た だお一人であることを、明らかにしておられる。人が聖なるものと考えるようなあらゆる物事 ―――生物、自然現象、物体、霊的媒体や象徴など―――を崇拝することは、罪である。パウ ロは次のように書いている「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ 天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおら れ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・ キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在している のです」( 一コリ 8:5 - 6)。 179 5. 神の戒め 5.3.2.5 偶像崇拝の禁止 イスラエル周辺の民族は、星座や自然現象を畏敬したり、偶像、動物の像、石などを神やそ の象徴として崇拝したりしていた。これにイスラエルの人々は影響されて、例えば金の子牛の おこな 像を造って拝むようなことをしばしば行っていた ( 出 32 章 )。 聖書では、第一の戒めとして、神によって創造された物事の模造を禁じている「あなたはい かなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、い かなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕え たりしてはならない」( 出 20:4 - 5)。 偶像の製造や崇拝の禁止とは、偶像を聖なるものとして崇めたり拝んだりすることの禁止を 表している、と考えるべきである。 勝手に神の姿を造り出すのではなく、この地上においでになった神であるイエス・キリスト を受け入れることが必要である。イエス・キリストは肉体として神の自己啓示を実現されたの である。ここでいう神の啓示とは外見の問題ではなく、神の本質や神の御旨についてである ( ヨ ハ 14:9)。 とはいえ、第一の戒めが絵画、彫像、写真、映画の作成自体を禁止しているわけではない、 というのが昔からのキリスト教の考え方である。これは、 神御自身が彫像の製造をお委ねになっ たという聖書の記述に基づいている ( 民 21:8 - 9)。 5.3.2.6 第一の戒めに対する違反行為 ごふ いけい 偶像、護符や山岳、樹木、自然現象を畏敬・崇拝することは、第一の戒めに対する違反行為 れいばい に当たる。さらに悪魔崇拝、占い、奇術、霊媒行為、交霊術も第一の戒めに対する違反になる。 権力、名誉、財産、あるいは自分自身の人格などをいわゆる神とするようなことは、神の御 旨に反することである。御旨以外の一切の物事を、御旨より優先させてはならないのである。 また、自分の願望や考えで神の概念を作り出すことも、第一の戒めに反することである。 第一の戒めが訴えていることは、愛の神を称え、自己啓示される神を受け入れよ、というこ とである。これは神を崇めること、神に従順であること、神を畏れることによって実行できる。 そうするならば「御力をわたしたちの神に帰せよ」という言葉を実現させることができるので ある ( 申 32:3)。 たぐい 絵画、マーク、彫像の類は、新使徒教会において何の宗教的機能も持たない。崇拝の対象と はならないのである。霊的な力も癒しの力ももたらさない。 180 5.3 十戒 まとめ 「わたしはあなたの主なる神である」とは、神が無条件に最上位のお方であることを表している。神は御自身が語 る御言葉を通して、従うべき律法をお定めになった。 (5.3.2.1 ) 神は崇拝すべき唯一のお方である。他の生物、自然現象、物体、或いは実物・想像に関係なく霊に関する物事を崇 拝の対象にすることは罪となる。 (5.3.2.3;5.3.2.4) 人は神の象徴を造ってはならず、イエス・キリストとして自己啓示された神を受け入れなくてはならない。 (5.3.2.5) 神を崇拝するとは、神を崇め、従い、畏れることである。 (5.3.2.6) 5.3.3 第二の戒め あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずに はおかれない。 5.3.3.1 神の御名 神は燃える芝の中からモーセをお呼びになり、御自身がどのような名であるかを仰せになっ た ( 出 3:14)。そして神はこの時に御自身を啓示されたのである。神はこの時に御自身を「ヤ ハウェ」と名乗られた。これは「わたしはある」と訳出される。神は、唯一、不変、永遠のお 方として御自身を啓示しておられる。 ユダヤ人は、畏敬の思いから、ヤハウェの名を語ることを回避している。こんにちに至るまで、 旧約聖書で神の名に言及する場合は、 「アドナイ 「(」ינדא主」) という語を用いている。これは、 たとえ意図せずとも神の御名をみだりに唱えることの危険性を回避しようとするものである。 旧約聖書には、神を表す他の表現もいくつか見られる。例えば「アブラハム、イサク、ヤコ ブの神」や「あなたたちの先祖の神」である。これらの名称は、 族長の時代にイスラエルの人々 が天来の働きかけに与ったことを示している。また「万軍の主」という呼称もある。この「万軍」 とは天使を表している。 「父」と呼ばれることもある(イザ 63:16) 。イエスは弟子たちに祈りを教える際、 「天にお 181 5. 神の戒め られるわたしたちの父よ」と呼びかけなさい、 と教えられた ( マタ 6:9)。 「父」 と呼びかけるのは、 すべてにおいて幼子のように愛の神に信頼してついて行くことを明確にするためである。 使徒に与えられた大宣教令(マタ 28:19)とコリントの信徒への手紙二 13 章 14 節に書か れている祝福の言葉の中では、神を「父、御子、聖霊」と表現している。これは、天にいます お方を、それまでに無く極めて明解に表現している。つまり、神が三位一体であり、父、御子、 聖霊なる神に呼びかけ、父、御子、聖霊なる神を拝するということである。神の三位格につい つつし て不適切な発言をすることは慎まねばならない。 5.3.3.2 神の御名をみだりに唱えるとは具体的にどういうことか 神の御名を唱える場合は、必ずその責任が伴うことを意識すべきである。 ちょうしょう おとし 神を意図的に中傷したり、嘲笑したり、貶めたりして、神の名を非常に軽々しく用いることは、 ぼうとく 神への冒涜である。全能の神に嘘の祈りを捧げることも神の御名をみだりに唱える行為に相当 する。 歴史の中で、人は、自分の経済力を良くする、戦争を始める、ほかの人たちを差別する、あ さつりく るいは拷問や殺戮を行う目的で、みだりに神の名を唱える行為を繰り返してきた。 第二の戒めに対する違反行為は、日常生活の中でも見受けられる。「神」「キリスト」「聖霊」 という名称を不用意に語ることは罪である。俗語としてであっても神やイエスの名を使って呪 いを表現したり、神、父、イエス・キリスト、聖霊を引き合いに出して冗談などを言ったりす ることも同様である。こうした言葉を使うことは、神の威厳や神の行為の持つ聖なる品位を下 げることになる。これはエフェソの信徒への手紙 5 章 4 節に書かれているように「下品な冗談」 とみなされるのである。 いかく 5.3.3.3 罰による威嚇 第二の戒めには「[…] みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と定めてい る。これは神の戒めを真剣に捉えなければならないということを言おうとしているのである。 では具体的にどのような罰を受けることになるのかについては、聖書に書かれていない。神の 182 5.3 十戒 名をみだりに唱えたことを自覚し、その行為の過ちを悔いるならば、 赦しに与れる可能性もある。 神を愛し神を畏れること――刑罰を恐れるのではなく――が第二の戒めに従うための基本姿 勢である。 5.3.3.4 神の名を崇める――生活の中の祈りとふるまい 第二の戒めでは、神とその御名に関わる一つ一つを聖別せよと命じている。これはこんにち の生活行動にも言えることである。信徒は天の御名について、キリスト教徒としての特別な責 任を負っているのである。神の御名によって召された者が不名誉な生き方をすれば、神の御名 の名誉を汚すことになる。 神の子は、天の父との関係によって、神の御名を聖なるものとし続ける高度な責任を負って いる。なぜなら神の子は天の父と御子の名を帯びているからである ( 黙 14:1)。 5.3.3.5 宣誓――誓い 神の御名によって誓いを立てることが認められるかどうかについては、第二の戒めと関係す る。誓うことはイスラエルで認められているが ( 申 6:13;10:20)、山上の説教では禁止さ れている ( マタ 5:33 - 37)。 新約聖書では、誓いを立てることの是非を定めた内容に矛盾がある ( ヤコ 5:12;ロマ 1:9; 二コリ 1:23;フィリ 1:8 など )。このことから、当時は誓いを立てることが一般的な行動規 範とみなされていなかった、と結論付けることができる。従って、イエス・キリストが誓うこ とを禁止されたのは、日常生活の中で安易な気持ちで誓うことを禁じたのであり、例えば法廷 における宣誓はこの限りではない、というのがキリスト教におけるこれまでの見解である。そ れゆえ、義務上の宣誓の言葉の中で神に証しを申しあげる場合は (「神に誓います」)――永遠 なるお方に誠実であることを義務として宣言するために――全知全能の神への信仰を公に告白 する。このような誓いは罪に該当しないとみなされる。 183 5. 神の戒め まとめ 「ヤハウェ」――「わたしはある」の意――という名称を用いることにより、神は御自身が唯一、不変、永遠であ ることをお示しになっておられる。 (5.3.3.1) 神の御名を乱用することは、神への冒涜である。 (5.3.3.2) 第二の戒めは、十戒の中で唯一、罰による威嚇が含まれている。 (5.3.3.3) 第二の戒めは、生活における行動も含め、神の名を聖とすることを命じている。 (5.3.3.4) 神の名を出して安易な誓いを立てることは、第二の戒めに反する行為である。 (5.3.3.5) 5.3.4 第三の戒め 安息日を覚えて、これを聖とせよ。 第三の戒めは、週のうちの一日を設定して、神を崇め、その御業と救いを感謝しつつ覚え、 御言葉に集中する日にしなさい、というものである。 5.3.4.1 イスラエルで第三の戒めが制定された理由 安息日が創造の御業の一部として聖なるものとされたのは、神が創造の業を行って七日目に 休まれて、この日を聖別されたためである ( 創 2:2 - 3;出 20:8 - 11)。このように休日は、 全人類に益をもたらす創造の御業を記念するために与えられたものである。 安息日を聖別するもう一つの理由は申命記 5 章 15 節に書かれている「あなたはかつてエジ プトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出さ れたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じら れたのである」。 このようなわけで休日は、創造主を称えイスラエルが奴隷から解放されことを思い起こすた めにある。そして、神が人類とりわけ御自分がお選びになった民にして下さった働きを記念す る日でもある。 184 5.3 十戒 5.3.4.2 イスラエルにおける安息日 神はシナイ山で律法を発布される以前から安息日を特別に位置づけておられた ( 出 16:4 - 30)。神は安息日を賜物としてお与えになった。そしてイスラエルの人々は仕事を休み、気を散 らすことなく神に向かう日として、この日をお与えになった――安息日は休日であると同時に、 聖なる日でもあったのである。安息日には特別にいけにえの奉納による礼拝が行われていた ( 民 28:9 - 10)。安息日を称え個人的な取引や意味もなく歩き回ることを慎む者は ( イザ 58:13 - 14)、祝福を約束された。 5.3.4.3 イエス・キリストと安息日 安息日に対するイエスの考え方は、律法に固執していたユダヤ人と根本的に異なっていた。 安息日に対する律法のとらえ方と福音のとらえ方が異なることを、御子は御自身の活動を通し て明らかにしておられる。確かにイエスも安息日にシナゴーグに行かれたが ( ルカ 4:16)、そ こで病気の人たちを癒やされたのである ( ルカ 6:6 - 11)。この行為を律法学者は仕事と判断 し、第三の戒めに抵触すると考えた。しかしイエスにとって病人の癒しは天からの施しを表現 したものであり、安息日におけるこうした行為に問題はない。 イエス・キリストには、休日について厳格な律法主義による束縛から解放する権限がある「安 息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」( マコ 2:27)。 5.3.4.4 安息日から日曜日へ 「人の子は安息日の主なのである」( マタ 12:8)――イエスはこのように仰せになって、御 自分が律法の上に立つ権威者であることをお示しになった。これにより安息日は、ほぼすべて のキリスト教徒が聖別すべき一日へと変化した。イスラエルではユダヤ暦の七日目に当たる安 息日が聖なる日とされる一方で、キリスト教徒にとって日曜日は礼拝などを執り行う日となっ た。それは、イエスが死者を復活されたのは日曜日であることが、四福音書のすべてで証しさ れているためである ( マタ 28:1;マコ 16:2;ルカ 24:1;ヨハ 20:1)。それゆえ、キリス ト教徒にとって日曜日を聖別することは、キリストの復活を公に言い広めることであり、イー スター < 復活祭 > を記念することでもある。 185 5. 神の戒め キリストが天に昇られた後も、初期のキリスト教徒たちはユダヤの伝統を保持し、安息日を も聖別していた。これに変化をもたらしたのは、異邦人への宣教活動であった。その後数十年 の時を経て、日曜日はキリスト教の休日へと発展した。日曜日の重要性について最初に触れて いるのは、使徒言行録 20 章 7 節とコリントの信徒への手紙一 16 章 2 節である。 紀元 321 年、コンスタンティヌス 1 世は日曜日をローマ帝国全土で休日とする法令を発布 した。キリスト教国ではこんにちに至るまで、この法令は有効である。 5.3.4.5 日曜日を聖別する――礼拝において 信徒が日曜日を聖別する方法としては、まず礼拝において神を崇め、御言葉を信じて受け入 サクラメント れ、悔い改めの姿勢で罪の赦しに与り、聖餐という聖礼典を通してキリストの体と血にふさわ しく与ることである。そうすることによって、キリストの犠牲と贖いの業、そして主の復活を 記念し、主の再臨に目を向けるのである。信徒は礼拝に出席することによって、イエスによる サクラメント 救いの業への感謝と、神の御言葉と聖礼典への渇望の思いを表すことになる。 仕事、病気、健康上の問題や、加齢によって礼拝に出席できない場合は、祈りを通して神や 会衆とのつながりを持とうとするなど、可能の限りを尽くして、日曜日を聖別する。そのよう な人たちにの所に、神は近づき、平和と慰めと、力を与えて下さる (12.4.3 参照 )。 日曜日以外でも、教会暦の休日 (12.5 参照 ) の場合は礼拝が行われる。 また安息日は、神から約束されている安息の一形態でもある。この「安息の日」と第三の戒 めとの関係は、ヘブライ人への手紙 4 章 4 - 11 節にまとめられている。この安息に与るため サクラメント には、 「こんにち」を活用し、神の御言葉や礼拝で行われる聖礼典を信じて受け入れる必要があ る ( ヘブ 3:7)。 5.3.4.6 日曜日の労働――義務と聖別とのはざまで あが 心の中でイエス・キリストを崇める場合は ( 一ペト 3:15)、可能な限り礼拝の中でキリスト と交わりを持とうとするのである。しかし日曜日に仕事をしなければならない時は、祈りを通 して、神や会衆とつながろうとすべきである。 186 5.3 十戒 5.3.4.7 日曜日のあり方 日曜日はできるだけ安息の日そして福音を思い起こす日とすべきである。日曜日は魂にとっ て特別な日である――魂にとって何よりも必要な日である。平和や交わりといったものは、神 からもたらされるありがたいものであり、聖化に寄与するものである。 日曜日を聖とせよという戒めは、信徒の活動が主に捧げられる日曜日としての目的にどの程 度適っているかを考えさせるものである。信徒が優先して配慮すべきことは、礼拝が一層の効 果をもたらすようにし、その効果を大切することである。 日曜日を聖とせよ、という戒めは、日曜日の目的に矛盾しない範囲の活動を信徒に求めるも のであり、日曜日は主に捧げられる日である。このように日曜日を活用するならば、信仰に忠 実となり、 「こんにちこそ主の御業の日。こんにちを喜び祝い、喜び躍ろう」という詩編 118 編 24 節の勧めに適った生活を送ることができる。 まとめ 安息日は、創造主を称え、イスラエルが奴隷状態から解放されたことを思い起こすためにある。神の人類や選民に 対する御業を記念する日である。 (5.3.4.1) キリスト教徒は、イエス・キリストが復活された日である日曜日を、安息日とする。 (5.3.4.4) 礼拝に出席することによって、信徒はキリストによる救いの御業に感謝を表すことができる。 (5.3.4.5) 休息の日としての安息日は、約束されている神との安息を前もって示している。 (5.3.4.5) 5.3.5 第四の戒め あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きるこ とができる。 十戒の中で、人間関係に関する戒めの最初が、第四の戒めである。この戒めには禁止事項が 一切ない一方で、どうすれば神に喜ばれるかが示されている。すべての世代の人々に向けた戒 めであり、父母を尊敬し感謝しなければならないと言っている。この戒めの持つ特有の意味は、 年代、社会環境、社会規範、習慣によって異なる。 187 5. 神の戒め 5.3.5.1 旧約時代の認識による第四の戒め モーセの律法全体と同様に、第四の戒めも、イスラエルの人々による移住を目的とした砂漠 の旅を前提にしている ( 申 5:16)。こうした歴史的状況から、この戒めの持つ本来の意味を知 ることができる。つまりこの戒めが適用されたのは、まずは解放されたイスラエルの人々だと いうことである ( 当時の考え方によれば、女性、外国人、奴隷は除外されていた )。困難な旅を するイスラエルの人々は、家族の年長者を援助することによって、年長者への尊敬を表してい た。この戒めに書かれている約束もイスラエルの人々に対するものである。約束とは、まだ占 領されていないカナンの地で長く生きる――つまりイスラエルの人々にとって物事がうまくい く――というものである。ここではっきりしているのは、旧約の人々にとって「長く」とはこ の世の人生と関連しているということである。後にカナンの地に定住したイスラエルの人々は、 えきびょう 疫病が発生すると、高齢の両親を養ったり世話したりすることで、その両親に尊敬を示したの である。 旧約聖書には、第四の戒めの解釈について記述している箇所がいくつかある。例えばシラ書 <集会の書 >3 章 12 節では、年老いた両親と第四の戒めとの関係について次のように論じて いる「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない」。箴言 1 章 8 節では、父と母への従順を説き、トビト記 10 章 12 節では、たとえ義理の親であっても 尊敬しなければならない、と説いている「また娘サラにも言った。 『お前の新しい父親のところ に行きなさい。お前を産んだわたしたちと同じように、これからは彼らがお前の両親なのだ。 …お前については良いうわさだけを聞かせておくれ。 』ラグエルは彼らに別れを告げて、旅立た せた。…」 。 5.3.5.2 イエス・キリストと第四の戒め ルカによる福音書 2 章 51 節に、イエス・キリストは母マリアと父ヨセフに仕えてお暮らし になった、と書かれている。イエスが母マリアにどれほど献身しておられたのかについては、 はりつけ ゴルゴタの丘で御自身が十字架に磔にされながら、マリアの世話を使徒ヨハネに託されたこと からも、知ることができる ( ヨハ 19:27)。 御子イエスは金持ちの青年との会話で、永遠に命を得るための重要項目として、第四の戒め を挙げておられる ( マコ 10:17 - 19)。また宣教活動の際には、第四の戒めで述べている両 おきて ないがし 親扶養の掟が律法の教師たちによって蔑ろにされていることを非難しておられる ( マコ 7:9 - 13)。 188 5.3 十戒 5.3.5.3 パウロ書簡に見る第四の戒め ことさら パウロ書簡では殊更に第四の戒めを取り上げている。子供に対して自分の両親に従いなさい、 と説いている ( エフェ 6:1 - 3;コロ 3:20)。子供が自分の父母に従わないことは、 いわゆる「悪 徳」の一つとされる ( ロマ 1:30;二テモ 3:2)。一方、父親に対しては自分の子への思いや さと りを諭し ( エフェ 6:4)、母親に対しては自分の子を愛しなさいと諭している ( テト 2:4)。こ こでは第四の戒めによって生じる、子の果たすべき義務に加えて、両親が子のために果たすべ き義務も明らかにしている。 5.3.5.4 キリスト教の歴史的経過の中で拡大解釈された第四の戒め 歴史の経過と共に、第四の戒めは拡大解釈されるようになった。文言の上では両親への尊敬 しか述べていないが、キリスト教においては当初から、この戒めの意味するところを、あらゆ る権威への是認を義務付けるものと捉えてきた。そもそも第四戒めが言わんとしていることは、 先祖に対する行為のあり方なのである。 いかなる服従の義務であれ――たとえ両親への服従の義務であっても―――「人間に従うよ りも、 神に従うべき」という基準が定着している ( 使 5:29)。 5.3.5.5 現代生活における第四の戒め 子は、年齢に関係なく、自分の両親を尊敬しなければならない。 親子関係が愛情と信頼によって結びついているならば、子は両親に従うのである。思春期に ある者は、自分が幼少の時から両親にあらゆる世話を受けてきたことを自覚すべきである。そ うするならば、感謝の気持ちを抱くことができる。自分の両親には、尊敬の念をもって接する べきである。それは両親と会話をする時や、両親を話題にする時も同様である。 第四の戒めから発生する義務事項は、両親にも課されている。つまり、両親には自分の子を 養育するという大きな責任がある。さらに両親は―――神に喜んでいただくようにふるまうこ とにより―――子がきちんと自分たちを尊敬できるような環境を整備する。親は、自分自身の 両親や自分自身の義理の両親との接し方や話し方、そして自分自身の両親や自分自身の義理の 両親を話題にする際の姿勢を通して、子の模範となるべきである。親子が愛情をもって接し合 189 5. 神の戒め むつ うことで、信頼関係を築きそれを維持するならば、睦まじい家族を構築することができるので ある。 第四の戒めを実行することは、たとえ自分が高齢であろうと自分の両親を愛して受け入れる ことでもある。感謝、愛情、信頼をもって行動するならば、 第四の戒めを実行していることになり、 神の祝福をいただくことができる。旧約では、 「長く生きること」が神の祝福の表れであったが、 新約においては、基本的に様々な霊的な賜物を表すようになった。 まとめ 第四の戒め以降は、対人関係における戒めである。第四の戒めは禁止事項ではなく、神に喜ばれるためにどう行動 すべきかを示している。 (5.3.5 ) 親への尊敬は子の義務であるが、親にも義務事項が定められている。それは子を養い、子の模範となることである。 (5.3.5.5) 第四の戒めを実行するならば、神の祝福を引き寄せることができる。 (5.3.5.5) 5.3.6 第五の戒め 殺してはならない。 5.3.6.1 旧約聖書に見る殺人の禁止 第五の戒めを原典のヘブライ語から逐語訳すると「あなたたちは人を殺さないように」とな る。この第五の戒めは元々、共同体に損害を与えようと、統治者によらず非合法に罪の無い人 物の血を流すことを禁止するものであり、軍事上の手段や死刑を指すものではなかった。 モーセの律法では、故意によらない不注意による殺人と計画的殺人とよって、刑罰を分けて いる ( 出 21:12 - 14)。 一般的にイスラエルで殺人は刑罰の対象となっていた。しかし上述のように、殺人の内容に よっては刑罰を回避する選択肢が与えられていた。刑罰の回避とは、もし「逃れの町」の一つ に行くことができれば、殺人によって流れた血の復讐をする者から安全に守られる、というも 190 5.3 十戒 のであった ( 民 35:6 - 34)。一方、計画的殺人に対しては、 死刑を回避することはできなかった。 旧約聖書では、殺人に関して、いくつかの事象に分けて取り上げている。例えばカナンの地 を征服する場合や、イスラエルの民がペリシテ人と戦う場合である。戦争も、偶像崇拝からイ スラエルを守るといった合法的手段と考えられたのである。 5.3.6.2 新約聖書に見る殺人の禁止 イエスは第五の戒めに関して、元々の意味よりもはるかに踏み込んだ解釈しておられた「あ なたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられ ている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に 『ば か』と言う者は、最高法院に引き渡され、 『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」( マ タ 5:21 - 22)。このようにイエスはこの戒めに書かれていることを守るだけでなく、一人ひ とりにある内面の姿勢を考慮されたのである。それゆえ、ヨハネの手紙一 3 章 15 節では次の ように言っているのである「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」 。 5.3.6.3 こんにちにおいて第五の戒めが持つ意義 生命は神によって与えられたものである。生死の主は神お一人であるから、人の生命に終 止符を打つ資格は、人類にはないのである。現代社会においては、生命が危険にさらされたり ないがし 蔑 ろにされたりして、第五の戒めを相対的に捉えるようなことがあってはならないのである。 殺してはならないという戒めは、人の生命を守る義務があるということでもある。 5.3.6.4 第五の戒めが持つ特有の問題点 特有の問題点に対しては、神があらゆる生命の源泉であるという基本原理に照らして、答え を導き出すべきである。神は権威者であり、 人の生命を始めるのも終えるのも、 神の御手にある。 この神の秩序を犯す資格は、人類に無い。 死刑制度 新使徒教会は、死刑制度が適切な抑止力であるとみなしていない。それゆえ、死刑が共同体 191 5. 神の戒め を保護するための適切な手段ではないと考える。さらに新使徒教会は、死刑制度が加害者被害 者の双方にとって効果をもたらすものではないと考える。 戦争 戦争による殺人は第五の戒めに背く行為である。たとえ個々人による戦争全体への影響がほ とんど無くても同様である。ともかく、たとえ戦争という例外的状況であっても、より軽微な 悪を選択したり、殺人を回避するために最善を尽くしたりすることは、個人の責任としては可 能である。より深刻な害をもたらさないようにするとか、自己防衛のために、暴力の行使が正 当と考え得る場合であっても、殺人は第五の戒めに抵触する。 正当とみなされたり罪責を免除されたりする前提 自己防衛による殺人であっても、第五の戒めには抵触するが、法的な刑罰とは関係なく、神 の御前で受ける罪責は、自己防衛によるものやそれに準ずるものである場合については、最小 限にとどまる可能性もある。 だたい 堕胎 胎児の生命はこれを尊重し保護しなければならない。すでに受胎の瞬間から人の生命が神に よって与えられている、と考えなければならないからである。そういうことから新使徒教会は 堕胎――意図的に生成された人の生命を中絶したり破壊したりすること――を認めていない。 しかしながら母体の生命への危険が医学上予測される場合は、母親の生命を助けるべきである。 こうした場合によって第五の戒めに抵触しても、これによる罪責が最小のものとなる可能性は 大であろう。 自殺 自殺は第五の戒めに抵触する行為である。 ほうじょ 自殺幇助 これは、治癒の見込みがなく、その苦痛を和らげることもできないような末期患者に適用さ れる問題である。 能動的自殺幇助 積極的に自殺を幇助することは第五の戒めに抵触する。( 末期患者でない ) 人物の自殺を幇 助するのと同じ扱いである。 192 5.3 十戒 受動的自殺幇助 延命措置を施すかどうかの判断は、第一に患者自身が決めることである。第二に患者が意思 表示できない場合は、必ず医師や親類による協議によって、患者にとって最高の利益となるよ うに責任ある判断が下された後、措置が決定される。両者の場合も、第五の戒めに抵触しない と考えられる。 安楽死 体が不自由であったり四肢などが欠損していたりする人物を死なせることは、第五の戒めに 抵触する。 せっしょう 人以外に対する殺生 動物への殺生は、第五の戒めの範囲外である。創世記 9 章 1 - 3 節によれば、動物が人の ための食糧となることをはっきりと認めている。とはいえ、物言わぬ被造物についても、その 生命を尊重しなければならない。このことは、人類が被造物保護の責任を共有していることに よる考え方である。すべての被造物を尊重することが、 一人ひとりに課せられている義務である。 まとめ 生命は神から与えられたものである。生死の主は神お一人である。それゆえだれ一人として、人の生命を終わらせ ることは認められていない。 (5.3.6.3) 第五の戒めの持つ本来の意味によれば、恣 ( し ) 意的に非合法に共同体へ損害を与えるような流血行為を禁止して いる。 (5.3.6.1) イエスは第五の戒めに書かれている文言のみを実行することに限定することなく、個々人の内面的姿勢を考慮され たのである。 (5.3.6.2) 殺してはならないというこの第五の戒めは、人の生命を守り大切にせよという命令でもある。 (5.3.6.3) 193 5. 神の戒め 5.3.7 第六の戒め かんいん 姦淫してはならない。 5.3.7.1 結婚 結婚とは、神の望まれる通りに男女が生涯一つに結ばれることであり、忠誠の誓いを公に表 明する、自由意志による行為に基づいている ( マタ 19:4 - 5)。 聖書では、結婚における様々な形態について述べている。旧約聖書では一夫多妻制について の記述が散見されるものの、イエス・キリストは――そしてキリストに関わる新約聖書の記述 によれば――男女が結婚して共同生活を送ることが神のお望みであり信心深いキリスト教徒と してふさわしいあり方であるとして、一夫一婦制をはっきりと支持しておられる ( マタ 19:5 - 6;一テモ 3:2,12;5:9)。 すでに旧約時代から結婚は、神によって保護された契約であると考えており ( 箴 2:17;マ ラ 2:13 - 16)、祈りを通して祝福されていた「人々は二人の部屋を出て戸を閉めた。トビア は寝床から起き上がり、さらに言った。『愛する者よ、起きなさい。二人で主に祈り、主がわた したちを憐れんで救ってくださるように願い求めよう。』トビアは祈って言った。『わたしたち の先祖の神よ、/あなたとあなたの御名は/代々限りなくたたえられますように。天とあなた の造られたすべてのものは/あなたをとこしえにほめたたえますように』 」( トビ 8:4 - 5)。 一般的に、結婚する二人のうちどちらかが新使徒教会員ならば、要望に応じて、新使徒教会 で結婚の祝福を受けることができる。神の祝福には、御心に適う生活をこれから夫婦一緒に形 成していくための力がある。御心に適う生活を形成するとは、結婚した二人が共に神を愛し神 を畏れる生き方をするように、二人で真剣に努力することでもある。 神の御旨に適う結婚は、キリストが御自分の教会と親しく交わることにおける一つの表象 であるから、聖なるものである。結婚する二人は称え合い愛し合わねばならない ( エフェ:5: 25,28-33)。結婚は死ぬまで解消できないものとされている。「だから、二人はもはや別々で はなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」( マ タ 19:6)。このことから夫婦関係を守り、育んでいくことが望ましい。 194 5.3 十戒 かんいん 5.3.7.2 姦淫 ないし 一般的における姦淫とは、既婚者と自分の夫乃至妻以外の者との性行為、あるいは未婚者と 既婚者との性行為を意味する。イエスは次のように仰せになっておられる 「しかし、 わたしは言っ ておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」 ( マタ 5:28)。「心の中で姦淫をする」ことは、生活において表向きには責められることの無い 行為である。この戒めに抵触するのは、実際の淫行だけでなくそのことについて思い巡らすこ とも含まれるのである ( マコ 7:20 - 23)。 5.3.7.3 離婚 新約聖書によれば、離婚は罪になる「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離 してはならない」( マコ 10:9)。離婚が認められる唯一の例外は、夫または妻が姦淫を行った 場合である ( マタ 19:9)。 マルコによる福音書によれば、離婚した人が再婚することは姦淫に当たるとしている ( マコ 10:11 - 12)。新約聖書の記述によれば、離婚を経験した者が生涯において離婚や再婚をする ことは、第六の戒めに抵触することになる。離婚をした後で再婚をすることは――一部の例外 を除いて――初期キリスト教において認められていなかった ( 一コリ 7:10 - 11,39;ロマ 7: 2 - 3)。 離婚に関する新約聖書の記述については、古代世界という歴史的及び社会的背景を考慮する 必要がある。 こうしたことが書かれたのは、 何より女性の置かれた状況を改善するためであった。 ないがし 当時の女性は極めて限られた権利しか有していなかったのである。男性によって蔑ろにされる ようなことがないように女性を保護する必要があったのである。 聖書にこうした記述があるものの、離婚した人の扱いに関する問題は残る。これについては、 全体の環境を総合的に考えなければならない。福音の精神に合致した判断をすることが難しい ことも考えられるのである。留意すべきことは、イエスが旧約の律法によることなく愛と恵み の精神で人と接してこられたことである ( ヨハ 8:2 - 11)。 姦淫も離婚も、他の罪と同様に赦していただかなければならない。離婚によって結婚生活に ピリオドが打たれたなら、そこに至る問題は双方にあるのが一般的である。離婚に伴って負う べき罪責は一人ひとりによって様々であろう。例えば暴力が原因の場合もあれば、単に結婚生 活を続けたくないという場合もある。そこで、夫婦双方が自分自身を真剣に見つめて、離婚に 至るまでに自分が取ってきた特有の行動に問題がなかったか、どのようなふるまいをしてきた のかをもう一度評価し直すことが望ましい。 195 5. 神の戒め サクラメント 別居中の人や離婚した人が聖礼典から排除されることはない。会衆の中では彼らもれっきと した一員であり、教役者もこのような人たちに偏見を持つことなく牧会を行うのである。 離婚した人が再婚を希望したり結婚の祝福を要望したりする場合は、それを妨げられること はない。彼らにとって再出発のチャンスとなる。 5.3.7.4 夫婦間における聖なる振る舞い 結婚は尊ばれるべきであり、夫婦の関係を「汚してはならない」( ヘブ 13:4)。再生した人 の体に神が宿り、さらにそれがいと高きお方の財産である、ということは、夫婦が聖なる生き 方をしなければならない、ということになる ( 一コリ 6:19 - 20)。このことは特に、結婚生 活におけるふるまいのあり方に言えることである ( 一テサ 4:3 - 4;さらに 13.3 参照 )。 まとめ 結婚とは、男女が神の望まれる形で一つに結ばれることである。キリストが御自分の教会と親しく交わるのと同様 に、結婚も解消することができないのが前提である。こうした観点から、結婚生活については、それを大切にし、 育んでいくことが望ましい。(5.3.7.1) 既婚者が自分の夫乃至 ( ないし ) 妻以外の人物と性交渉をしたり、未婚者が既婚者と性行為に及ぶことを姦淫とい う。 (5.3.7.2) 姦淫について心に思うだけで、この戒めに背くことになる。 (5.3.7.2) 5.3.8 第七の戒め 盗んではならない。 5.3.8.1 一般的法体系における窃盗 他人の所有物を持ち去ることは禁止されている。窃盗を禁じる戒めは、その根源が神にあり、 人間社会における基本的法体系の一つである。この戒めがあることによって、財産が保護・尊 196 5.3 十戒 重される。 隣人を愛しなさいという戒めも、財産を自分勝手に使い放題にすべきではない、ということ を表している。所有するということは、責任も伴うのである。 一般的に「窃盗」とは他人の財産を不法に着服する行為とされている。これは実物にも知的 財産にも適用されている。他人の所有物を非合法に手に入れたり損害を与えたりすることを禁 じている。 さらに、他人をだましてその人の所有物を不当な対価で手に入れることも禁じている。 権力欲や利欲を抑えて、他人の品位と福祉を尊重することが必要である。 5.3.8.2 旧約聖書に見る窃盗の禁止について そもそも盗みを禁じる戒めは、誘拐を意図するものであった。というのは、人が誘拐された り、売られたり、奴隷にされたりすることから解放することを目的としていたのである。イス ラエルにおいて誘拐は死罪であった。財産に関する罪が物を賠償することで償うことができた のとは対照的である「人を誘拐する者は、 彼を売った場合も、 自分の手もとに置いていた場合も、 必ず死刑に処せられる」( 出 21:16)。誘拐行為に対しては、処することのできるあらゆる刑 罰の中で最も厳しいものが与えられたのである。 さらに、他人の所有物を盗むことも処罰の対象であった。モーセの律法によれば、物を盗ん だ場合は弁償を要求された。盗品価値の二倍を弁償するのが一般的だが、より厳しい時は四、 五倍を弁償することもあった ( 出 22: 1,4,7,9< 新共同訳 21:37;22:3,6,8>)。 5.3.8.3 新約聖書に見る窃盗の禁止について イエスは金持ちの青年と話されている時 ( マタ 19:16 - 23)、第七の戒めを引用された。 マルコによる福音書 7 章 20 - 23 節によれば、主は窃盗を罪と定められ、盗みの根本は人の 心にあり、盗みは人を汚すと仰せになった。このことから、第七の戒めは旧約の時代と同様の 解釈がされていたことがわかる。 ヨハネによる福音書 10 章 1 節では、第七の戒めが霊という高い次元にまで拡大されている 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、 盗人であり、強盗である」。これは、偽りの教えに導こうとする者たちのことを言っている。こ のような者たちは狼のようにふるまい、信徒たちの中で餌食を探し、その信徒をキリストの群 れから連れ去ろうとする強盗だ、と述べている ( 使 20:29)。 197 5. 神の戒め 5.3.8.4 様々な形態の窃盗 辞書的意味における窃盗とは物的あるいは知的財産を他者から持ち去ることであるが、ほか にも様々な形態の窃盗がある。例えば、詐欺も、第七の戒めの意味するところによる窃盗に該 当し得る。 これについては、ルカによる福音書 19 章 1 - 10 節の記事で明示されている。徴税人のザ アカイという人物は、詐欺行為によってかなりの財を得ていた。イエスがザアカイの家におい でになると、彼は次のようなことを約束した「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施し ます。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」( ルカ 19:8)。 これは、窃盗の概念が人間関係のあり方にまで踏み込んでいる事例である。つまり窃盗とは、 高利貸や、他人の不幸につけ込むことや、横領や、使い込みも含まれるのである。詐欺、税金 逃れ、贈収賄、預った金の使いこみも、窃盗の一部となる。 このように、第七の戒めは、隣人の所有物に手を触れたり、権利も無いのに財産に損害を与 えたり、他人の名誉や名声や尊厳を損なったりしてはならないということを言おうとしている のである。 まとめ どのような手段であれ、隣人が所有しているものを横領する行為は禁止されている。 (5.3.8.1) 第七の戒めは、隣人の名誉、名声、尊厳を冒すことも禁じている。 (5.3.8.4) 5.3.9 第八の戒め 隣人に関して偽証してはならない。 5.3.9.1 本来の意味 当初、第八の戒めは裁判で虚偽の証言をすることを意図したものであった。イスラエルの人々 にとって「隣人」(5.2.2 参照 ) とは、日常生活の中でやり取りをするすべての人を表すのが一 般的だった。虚偽の告発をしたり真実でない証言をしたりすることは 「偽証」 とされたのである。 198 5.3 十戒 5.3.9.2 旧約聖書に見る偽証の事例 旧約時代のイスラエルでは、死刑に関わる事件を扱う場合、少なくとも二名の証人を出廷さ せなければならなかった ( 民 35:30)。この二名の証人が偽証をして被告人を告発した場合、 その被告人は実際には無罪であっても評決通りの刑を受けたのである ( 王上 21 章 )。 しかし、一人の証人が偽証をしたと裁判で判断された場合、元々被告人に下されたはずの刑 罰と同一の刑罰を、この証人が受けたのである ( 申 19:18 - 19)。 知恵文学では、偽証は嘘と同様に扱うのが一般的だった「うそをつく証人は罰を免れること はない。欺きの発言をする者は滅びる」( 箴 19:9)。 5.3.9.3 新約聖書に見る偽証の事例 イエス・キリストは第八の戒めを繰り返し引用された ( 一例としてマタ 19:18)。イエスは、 この戒めを破ることは不適切な態度を示すことになり汚れた者となってしまうことを指摘され たのである ( マタ 15:18 - 19)。 また御子イエスは、偽証による告発を受けることでどういうことになるのかを、身をもっ て体験することになる。イエスが受けた死刑判決は、偽証の結果もたらされたのである ( マタ 26:57 - 66;ルカ 23:2)。イエスが復活された後も、祭司長と長老たちはまた別の嘘を流 布した ( マタ 28:11 - 15)。 「誠実で真実な証人」( 黙 3:14) であるイエス・キリストは、王 の威厳によって偽証に忍耐されたのである。 5.3.9.4 こんにちにおける偽証――嘘や詐欺行為の禁止 偽証はすべて嘘である。第八の戒めを広義に捉えれば、不正直なふるまいの禁止ということ にもなる ( レビ 19:11)。元々人類は不完全なため、真実のみを語るということができない。 勤勉な姿勢でキリストに服従すればするほど、真実を語り、真実によってふるまうことができ るようになる。 使徒パウロはこう忠告をしている「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語り なさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」 ( エフェ 4:25)。とはいえ真実だからといって、 喜ばしくない事柄を、状況をわきまえずに話して相手を非難して良いわけではないし、そうす 199 5. 神の戒め べきでもない。周囲の人の過ちを容赦なく糾弾することは、大悪であろう。たとえ第八の戒め であっても、隣人愛が前提である。他人に話しかける――あるいは他人のことを話す――時は、 十分な配慮をすべきである。そのため箴言 6 章 19 節には、 「うそをつく証人」は神に憎しみを 抱かれる、と書かれている。「兄弟の間にいさかいを起こさせる者」も同様である。 5.3.9.5 第八の戒めに抵触するその他の行為 すべての人が真剣さと誠実さを目指すべきである。社会や職場におけるふるまいも、第八の 戒めを基本とすべきである。 法廷で偽証したり、露骨に嘘をついたりする以外に、たわいもない嘘をついたり、真実を一 部しか語らなかったり、事実を隠すために適当なことを言ったり、誹謗中傷したりすることも、 第八の戒めに抵触する。同様に、自慢、誇張、二枚舌、偽善、風評の流布、名誉毀損、へつら いも不誠実の表れである。 5.3.9.6 霊的意味において偽りを証しすることと真実を証しすること 三位一体の神は真理の典型であるの対し ( ヨハ 17:17;14:6;16:13)、悪魔は偽りの父 である ( ヨハ 8:44)。聖霊について真理を証しすることの対極は、偽証である。 キリスト教徒は、福音を信じ、福音を宣べ伝え、福音に従って行動することが必要である。 まとめ 当初、第八の戒めは法廷で嘘の証言をした場合に適用された。事実に反した告発も真実でない証言も、共に偽証に 相当する行為であった。 (5.3.9.1) あらゆる偽証は嘘に相当する。第八の戒めを拡大して捉えると、不誠実なふるまいの禁止と解釈することができる。 (5.3.9.4) キリスト教徒は福音を信じ、福音を宣べ伝え、福音に適った生き方をすることが求められている。 (5.3.9.6) 200 5.3 十戒 5.3.10 第九の戒めと第十の戒め 隣人の家を欲してはならない。 隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 5.3.10.1 項目の分け方や付番の違い 十戒のうち最後の二つの戒めは、内容的に密接に関係し合っている。この二つを、例えばユ ダヤ教のように、一つの戒めとして扱うところもある一方で、キリスト教では二つの戒めに分 けている宗派が多数である。 この二つの戒めには二つの種類がある。出エジプト記 20 章 17 節では隣人の家を最初に取 り上げているのに対し、申命記 5 章 21 節では隣人の妻を最初に取り上げている。 むさぼ 5.3.10.2 貪る――罪の原因 第九と第十の戒めが言おうとしているのは「…を欲してはならない」ということである。と はいえ、いかなる願望も抱いてはならない、といっているわけではなく、隣人の妻や財産を欲 しがることが罪だ、といっているだけである。このような貪欲な行為は――他の戒めの違反と 同様に――隣人愛の戒めに抵触することになる ( ロマ 13:9)。 か 時の初めから、サタンは、禁じられているものへの欲望を掻き立てることで、戒めを違反さ せて罪に導こうとしている ( 創 3:6)。この欲望にアダムとエバは屈して、 神の戒めに従わなかっ たために、彼らは罪に堕ちてしまったのである。その結果、ヤコブの手紙 1 章 15 節にあるよ うに「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」ことになったのである。 貪り――ここでは罪深い欲望という意味で用いる――は元々、人の内面にある。貪りは不純 な考えを起こさせる。貪る思いを封じないと、これが行動に変化する。このことは御子がわか りやすく述べておられる「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心か ら出て来る」( マタ 15:19)。 第九と第十の戒めが人に求めているのは、自身の心が純粋かどうかを点検せよ、ということ である。これは、罪をもたらすあらゆる誘惑を拒絶するように努めることでもある。 201 5. 神の戒め 5.3.10.3 隣人の配偶者との関係を欲する 旧約聖書には、隣人の妻を欲したために、姦淫、うそ、そして殺人に至った端的な出来事と して、ダビデとバト・シェバの例を挙げている ( サム下 11 章 )。御子も、隣人の妻を欲するこ とと姦淫とが互いに関連していることを指摘しておられる ( マタ 5:27 - 28)。隣人の妻を欲 してはならないという戒めは、隣人の夫を欲してはならないという戒めでもある、というのが キリスト教の見解である。他人の配偶者を貪ることは、神の戒めに背くものである。そのよう な意味で、ヨハネの手紙一 2 章 16 - 17 節の言葉も、こうした欲望を抱くことへの警告と捉 えられる「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出な いで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行 う人は永遠に生き続けます」。 5.3.10.4 隣人の財産を欲する モーセの律法が成立した頃は、家、畑、家畜、それに妻、男女の使用人が財産とされた。こ ねた の戒めでは、隣人の財産を欲することを禁じている。隣人の財産を欲することはたいてい妬み から来ることが多く、さらにこれが貪りにつながることがある。 貪りが高じると、欲張りな人間は、相手のことを何も考えずにその人の財産を持ち去ってい く。貧しい者が権力のある強欲な自由民から搾取されることは昔からよくある事実である。こ れが無数の戦争をも引き起こしてきたのである。 コヘレトの言葉 5 章 9 節 < 口語訳~伝道の書 5 章 10 節 > によれば、金銭を愛する人のよう な欲張り者は、金に飽きることなく、満足することができない。このような欲張り者を、使徒 パウロは「偶像崇拝者」と呼び ( エフェ 5:5)、金を愛する人のことを「すべての悪の根」と 呼んでいる ( 一テモ 6:10 - 11)。 5.3.10.5 罪深い欲望に打ち勝つ ガラテヤの信徒への手紙 5 章 19 - 25 節では、罪深い欲望は「肉の業」という罪深い行い として現れる、といっており、これを生々しく表現している。そしてキリスト教徒は、このよ うな罪の業を回避すべきである、と述べている「キリスト・イエスのものとなった人たちは、 202 5.3 十戒 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」 。使徒パウロは次のようなことを奨励 している「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しま しょう」 。 「霊の導きによって前進する」とは、聖霊の実を結ぶことを意味する。聖霊の実とは 「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」である。このうち自制という のは具体的に節制と禁欲を表している。こうした徳目を実践することによって、欲望が芽生え て貪りに発展することがなくなるのである。 キリスト教徒は、自らに与えられた召命に従って人生を歩み、罪深い欲望に対抗していくこ とが求められているのである「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子と なり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる 者となりなさい」( 一ペト 1:14 - 15)。 まとめ 十戒のうち最後の二つは、内容的に非常に密接に関係し合っており、二つをまとめて第十の戒めとして扱われるこ ともある。この二つの戒めは共通して、 他人の妻や所有物への罪深い欲望について述べている。(5.3.10.1;5.3.10.2) 第九と第十の戒めは、心の純粋な状態を保護しなさい、ということを人類に求めている。(5.3.10.5) 203 6.2 聖書に基づく設立 6 イエス・キリストの教会 イエス・キリストの教会は、主御自身が地上に設立されたものである。教会において、人は あが たた 救いに近づくことができる。教会で、人は神を崇め、称えるのである。 6.1「教会」という用語について 「教会」( ドイツ語「キルヒェ kirche」 、英語「チャーチ church」) という用語は、ギリシア語 の「キュリアケー κυριακή」(「主に属す者たち」) に由来している。新約聖書では「エクレシア εκκλησία」(「主に召し出された者たち」) という語を用いている。 「エクレシア」という語は「集 まり」「会衆」「教会」と訳すことができる。 一般的に言う英語の「チャーチ」には様々な意味がある。信徒が集まる場所としての、キリ スト教の神の家という意味もあれば、キリスト教を信じる人々の集まりである会衆という意味 もある。他にもキリスト教の教派を表す場合もある。ただ、ここでいう「教会」とは、信仰の 対象を指すものとする。 キリスト教会に属している人は、神と永遠に親しく交わりをするために父、御子、御霊なる 神から召された者たちである。教会生活の中心は礼拝である。教会の真ん中には、イエス・キ リストがおられ、差し迫る御自身の再臨と「天の婚姻」のために、使徒を介して花嫁の会衆を 備えておられる。 6.2 聖書に基づく教会の設立 イエス・キリストが教会を設立された目的は、一つは、人類に救いをもたらし、三位一体の 神と永遠に親しく交われるようにすることである。もう一つは、神を崇め、称えるためである。 6.2.1 旧約聖書に見るイエス・キリストの教会 だざい 人類は、堕罪の後、神と直接交わりを保つことができなくなった。神が与えて下さった、神 と出会える環境から離れることになってしまったのである。罪によって人類は死の餌食となっ 205 6 イエス・キリストの教会 たのである。しかし神は、このように人類が堕落して死に至るような状況から贖い出し、救い をもたらし、永遠の交わりを得させて下さる。 当初より神は人類が生きるのに必要なものを提供された。エデンの園を追放されてからも、 神は人類に身につけるものを与え、女の子孫が悪魔に勝利することを約束された ( 創 3:15)。 旧約聖書では、人類が根本的に神に依存していることへの認識を、再三にわたって促してい る。このことは、祭壇の建立や犠牲の捧げ物の奉納という形で表されている。 時代が経過する中で、罪は圧倒的な力を持つようになり、人類は神からますます離れるよう になった。このため神は、天から審判を下す形で、人類を大洪水によって滅ぼされた。神はノ アとその家族に恵みをお与えになった。彼らは箱舟を通して救われた。神は彼らと契約を結ば かしず れた。これは人類の子孫すべてに約束された契約であり、神が子孫を守り傅いて下さることを 約束するものであった。神はこの契約のしるしとして、虹をお示しになった。 ノアの箱舟に関するこうした一連の出来事は、後にキリスト教会として実現することになる 救いの働きをすでに表していた。神は人類を傅き、 養い、 守り、 御自身との契約を結ばせて下さる。 箱舟による救出は、ペトロの手紙一 3 章 20 - 21 節の中で、バプテスマの原型とされている。 新約においてはこのバプテスマによって救いがもたらされる。このようなわけで、キリスト教 では当初からキリスト教会が箱舟に喩えられてきたのである。 ノアとの契約は、全人類との契約でもあった。さらに、神によるアブラハムの選びを通して、 新たな契約が結ばれた。この契約は、アブラハムとその子孫に対して神と特別な関係を結ばせ るものであった。つまり、神の選民となったのである。このことを具象的に表しているのが割 礼である。この契約はイサクとヤコブにおいて再確認された。 モーセがシナイ山上で神から十戒を受け取り、神の委託によってそれをイスラエルの民に発 布した。この時神は、律法という形で御自身の意思をお示しになったのである。この神の御旨は、 特別な集会すなわち会衆に向けて宣べ伝えられた。 律法は人間関係だけでなく、人類と神との関係のあり方についても定めており、正しい礼拝 の行い方についての規則を定めていた。そして律法の後半部には、祈り、告白、服従を通して 神を崇め、自らを捧げることに加え、神殿において祭司が犠牲の捧げ物を奉納する儀式の方法 を定めていた。イスラエルは、神の選民としてこの礼拝を執り行わねばならなかったのである。 旧約におけるこれらの要素は、イエス・キリストや教会の設立を暗示している。つまり旧約 は新約を、旧約のしるしである割礼はバプテスマを、御旨の宣告は御言葉の伝道を、祭司によ るいけにえの奉納による礼拝は聖餐と権威を受けた教役者の職務とを、そして祈りと告白はキ 206 6.2 聖書に基づく設立 リスト教の礼拝において行われる三位一体なる神への崇拝を暗示しているのである。 おごそ 旧約の礼拝はエルサレムの神殿を中心にして、厳かに執り行われた。エルサレムの神殿には、 もう 主の家があり、神を称えるために人々が詣で ( 詩 122 編 )、神に犠牲を捧げたのである。こう した状況が変化したのは、神殿が破壊され、ユダヤの人々がバビロニアの捕囚となった時であ る。この時からユダヤ人は礼拝のためにシナゴーグに集まるようになった。ここで神の御言葉 ――律法――が朗読され講釈が行われたが、いけにえの奉納は行われなくなった。そういう点 で礼拝としては不十分であった。バビロン捕囚からの帰還後、エルサレム神殿が一度再建され、 いけにえの奉納が可能となったものの、信徒はシナゴーグでの礼拝を継続した。これにより礼 拝における中心的要素は御言葉の宣教となった。 御言葉の宣教は、新約の教会を表すものとしての機能を果たすことになる。教会の中心には、 人となられた御言葉であるイエス・キリストがおられる ( ヨハ 1:1)。ヘブライの信徒への手 紙では、律法、いけにえの奉納、割礼、新約の「影」としての牧会――つまり新約を見据える もの――という観点で、旧約を解釈している ( ヘブ 8:5;10:1)。影は目標ではない――目標 とはほとんど関係ない。神が完全な形で救いを構築されるのは旧約ではなく、イエス・キリス トが構築された新約だけである。 そこで旧約の選民は、新約における神の民、キリスト教会の原型をすでに前もって示してい たわけである。 6.2.2 発足当初のイエス・キリストの教会 教会そのもの、そして教会の基本はすべて、人としてのイエス・キリストやイエス・キリス トの活動が源流にある。人としてのイエス・キリストもイエス・キリストの活動も、救いをも たらすものであり、救いそのものである。 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、 しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を 贖い出して、わたしたちを神の子となさる < 私たちが神の子となる > ためでした」( ガラ 4:4 - 5)。神の御子であるイエスは、旧約における神の選民の中でひとりの人としてお生まれになっ たのである。神が人となった < 神の擬人化 >――人の歴史の一部となったのである。 神は御自分に従うように人々に呼びかけ、弟子を集め、御国を宣べ伝えられた。また立法者 として――例えば山上の説教を通して――御自身を啓示された。さらに病人を癒し、空腹の者 に食べさせ、死者を蘇らせ、聖霊が遣わされることを約束し、実際に聖霊をお遣わしになった 207 6 イエス・キリストの教会 のである。 神がイエス・キリストという人となられたことは、教会が成立するためになくてはならない 条件である。この他に教会の基礎となる他のあらゆる出来事には、使徒の任命 ( ルカ 6:12 - 16)、ペトロの職位設置 ( マタ 16:18)、聖餐の執行 ( マタ 26:20 - 29)、イエス・キリスト の死と復活、それに大宣教令 ( マタ 28:19 - 20) がある。これらは神が人となられたことに 基づき、神が人となられたことから生じてきたものである。 キリスト教会がはじめて歴史の表舞台に登場するのは、聖霊が注がれたペンテコステの時で ある。 使徒ペトロはこの聖霊の力によって伝道を行った。 そして最初の会衆が誕生したのである。 洗礼、罪の赦し、聖霊に与ることは、贖いの道において救いをもたらすための要素である ( 使 2: 38)。初期のキリスト教徒は「使徒の教え、 相互の交わり、 パンを裂くこと、 祈ることに熱心であっ た」( 使 2:42)。こうした状況はキリスト教会にとって決定的に重要なことであった。 まとめ イエス・キリストの教会は、主御自身が地上に設立されたものである。 (6) 教会を意味する英語の「チャーチ church」とは、崇拝の場所、地域宣教施設あるいはキリスト教の宗派を意味する。 一方、神学的視点から見た教会とは、イエス・キリストを指す。 (6.1) イエス・キリストの教会に属している人たちは、神と永遠に親しく交われるように召された者たちである。 (6.1) イエス・キリストの教会が設立された目的は、人々が救いを得、神と永遠に親しく交われるためであることと、人々 が神を崇め称えるためである。 (6.2) 旧約聖書には、すでにイエス・キリストの教会を指し示す記述が多く見られる。 (6.2.1) ヘブライの信徒への手紙には、旧約――律法、いけにえの奉納、割礼、祭司による牧会――が新約の「影」である と解説している。ここでいう影とは新約の予兆を表している。このように旧約は、新約においてイエス・キリスト の教会が誕生することを、すでに示唆していたのである。 (6.2.1) 教会のすべて、そして教会の基本となっているすべてのものは、イエス・キリストの人格と行動が源流にある。イ エス・キリストという形で神が人となられたことは、教会の存在に欠くことのできない前提である。 (6.2.2) キリスト教会が歴史上初めて登場したのは、聖霊が注がれたペンテコステの時である。 (6.2.2) 初期のキリスト教徒は、使徒の教え、交わり、パンを裂くこと、祈ることを絶えず実行していた。 (6.2.2) 208 6.2 聖書に基づく設立 たと 6.2.3 新約聖書でイエス・キリストの教会を喩えた表現 新約聖書には、教会に関する教義を独立して提示している箇所はないが、教会の持つ性質を、 多くの喩えを用いて示している。こうした喩えの一つ一つが、教会の持つ様々な側面を表して いる。喩えは様々に解釈されることもある。聖書の喩えでも矛盾した使われ方をしている。 6.2.3.1 キリストの体 教会がキリストの体のようなものであるという喩えは、教会を喩える表現の中でも、最もよ く使われる。 この喩えは、洗礼を受け、信じて、告白することでイエス・キリストに属している者たちを 指す場合もある。ローマの信徒への手紙 12 章 4 - 5 節では、信徒はキリストの体における「部 したい である、といっている。この喩えは当時の人々にもよくわかる事柄に基づいている。 分<肢体>」 この喩えを用いることで、キリスト教会の状態を人の身体とし、会衆一人ひとりを一つ一つの 器官に見立てているのである。会衆の人たちはそれぞれ異なる賜物を与えられていて、めいめ いの職務を行っている。しかし彼らは皆相互に連携し合っていて、仕え合っている。従って教 会は一つの生命体のようなものであり、そこにつながるすべての器官はたがいに依存し合って いるのである。 それぞれの部分は様々でも、それらが一つのものを構成している。キリストの体の一部とし て互いに気遣い、一つになる「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです」( 一コリ 12:20)。 かしら エフェソの信徒への手紙 1 章 22 - 23 節によれば、キリストは教会の頭であり万物の支配 者である、と述べている。このことはコロサイの信徒へ宛てた書簡の中で賛美の歌として書か れている「御子はその体である教会の頭です」( コロ 1:18)。この比喩表現において、キリス ト教会は「キリストの体」と同じである。教会はその設立者である主と同様に完全である。 体という比喩は、地方の教会に対しても用いられている。その教会の中で不完全な人類は「神 の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあ ふれる豊かさになるまで成長するのです」( エフェ 4:13)。 キリストの体――それぞれの会衆や信徒一人ひとりだけでなく教会そのものも表す――は神 の働きを通して成長する ( コロ 2:19)。キリストを目指して成長するのである。キリストは教 会の頭として、模範であり目標である ( エフェ 4:15)。キリストの体を成長させるために、神 は教役者をお遣わしになり、職務をお与えになったのである。 209 6 イエス・キリストの教会 6.2.3.2 神の民 神の民という喩えは、神があらゆる民の中から一つの民をお選びになったことを表している 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中 からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あ なたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱 であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られ たゆえに、…」( 申 7:6 - 8)。 イスラエルの歴史は神による贖いの働きが基本にある。神はイスラエルの民をエジプトの捕 囚状態から解放され、約束の地に導かれた。このイスラエルの民に、 神は御子をお遣わしになり、 この民の中で、神は人となられた。しかしイスラエルはイエスをメシアとして受け入れようと せず、イエスを信じなかったのである――旧約の民にとって御子はつまずきの石であり妨げの 岩となったのである。 対照的に、新約の民としてイエスを信じた人たちもいた「しかし、あなたがたは、選ばれた民、 王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。…あなたがたは、/『かつては 神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受 けている』のです」( 一ペト 2:9 - 10)。 ここでは現在だけでなく未来のキリスト教会の状態も表している。未来において完全となる 教会の姿を示しているのである。 6.2.3.3 神の都 神の都という喩えは、神に属すすべての人々の間に神が宿る場所が教会であることを表して いる。地上において教会は、仲介者であるイエス・キリストが様々な方法で救いを得させ神と あが と 親しく交わりを持たせて下さる場所である。そういう点で教会は、神を崇め礼拝を執り行う場 所だけでなく、神との出会いの場所でもある。 キリスト教会は人類の想像力を超越するものである。教会は、この世にも、そしてこれから じげん おとずれる世にも属す。教会は現在であり未来である。現在と未来とを示現している。ヘブラ イの信徒への手紙 12 章 22 - 24 節では、教会が究極的に完全な姿となったすばらしさを表現 している。 「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」とは、 完全に成熟した教会の姿を表現している。その点において教会の持つ聖なる側面は世俗的側面 と混在している。教会には天使がおり、「天に登録されている長子たちの集会」があり、完全な 210 6.2 聖書に基づく設立 ものとされた正しい人たちの霊がおり、新しい契約の仲介者イエスがおられる。 天においては、天にいる被造物が神を崇め称える ( 詩 29:1;黙 4 章 )。そしてこの世では、 つまり教会の世俗的側面においては、信徒が神を崇め称える。 やがて、神の都である天のエルサレムには、神が人類と共に住まわれるのである ( 黙 21:3)。 6.2.3.4 神の御国 おさ 神の御国という喩えは、神が御自身の教会を治めておられるということである。イエスは神 の御国を、 多くの比喩を用いて、様々にわかりやすく説明しておられる ( マタ 13 章 )。例えば 「神 の御国」は以下のように喩えることができる: • イエス・キリスト。つまりその場におられる主御自身 ( ルカ 17:21)。 • キリストの教会。つまりこんにち地上にある教会。 • 天の婚宴で啓示される王国 ( 黙 19:6 - 7)。 • やがて再臨される主イエス・キリストがこの世にお建てになる平和の御国。 • 新天新地における、神による永遠の王国。 • 永遠の生命を抱く者たちの領域 ヨハネによる福音書 3 章 3 節及び 5 節によれば、神から生まれた者でなければ神の国に近 づくことができない、としている「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の 国を見ることはできない。[…] はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、 神の国に入ることはできない」。「神の国を見ること」とは、神をありのままに見ることである。 初穂となった者たちは、主の日に神をありのままに見ることになる ( 一ヨハ 3:2)。この者た ちは永遠の命に与った者たちのいる領域を見ることになる。 6.2.3.5 神の羊たち 神の羊たちという喩えの中では、イエス・キリストが良い羊飼いであることを説いている。 イエス・キリストは御自分の民を御存じであり、彼らのために御自分の命を捧げて下さる。イ エス・キリストは他の所から来た羊たちを御自身の所に召される――つまり御自分や御自分の 教会を信じるように、人々に呼びかけておられるのである。そして最終的に、一つの群れと御 一人の羊飼いが成立するのである ( ヨハ 10:11 - 16)。イエスは聖霊を通して御自分の民に 語りかける。イエスを信じイエスについて行く者たちは、イエスから永遠の命を授かるのであ 211 6 イエス・キリストの教会 る ( ヨハ 10:25 - 28)。 キリストは、天に昇られる前に、御自分の羊たちの世話を使徒ペトロに委ねられた ( ヨハ 21:15 - 17)。ペトロは、キリスト教会に属す者たちを世話する責任を負うことになったので ある。とはいえ信仰に忠実な者たちは、イエス・キリストに属す羊であり続けた。 ペトロの手紙一 5 章 2 - 4 節によれば、教会の教役者に対して「神の羊の群れ」である会 ぼく しょうめい 会衆の支配者のようにふるまうのではなく、 衆を牧する召命が与えられている。その際教役者は、 模範としての役割を担うことが要求されている。教役者は「大牧者」であるイエス・キリスト の再臨を見据えつつ職務を遂行するのである。 羊の群れという比喩によって、教会がキリストに従う集団であることを表している。教会は 良い羊飼いであるイエス・キリストによる世話、保護、指導を受ける、ということである。 たと 6.2.3.6 教会を喩える他の表現 教会の持つ特徴は先述した事柄の他にもいくつかあるが、新約聖書ではそれらについても比 喩を用いて説明している。その比喩の中には、神の建物、神の家、神の宿る場所、神の神殿、 太陽を着た女、男の子、花嫁といったものがある ( 一コリ 3:9;一テモ 3:15;一コリ 3:16 - 17;黙 12 章;黙 21:2)。これらの比喩をどう解釈するかについては、それぞれが書かれ ている聖句の文脈による。文脈によるため、同一の比喩が異なった趣旨で使われていることも ある。聖句によっていくつかの比喩が関連し合う箇所があるのは興味深いことである。 このように、それぞれの比喩表現を独立させて考えるべきではない。統合的に考えることに より、教会が唯一、使徒的、公同――つまり普遍的であるということ――そして聖なるもので あることが理解できるのである。 212 6.3 イエス・キリストの教会――神秘 まとめ 新約聖書には、教会の特質を表している比喩表現が数多く描かれている。 (6.2.3) 教会を表すのに用いられるキリストの体という比喩は、バプテスマ、信仰、信仰告白によってイエス・キリストに 属す者となった者たちにも用いられる。この喩えは、教会が、体の器官がすべてたがいに依存し合っている状況と 類似していることに由来している。教会という体は、キリストを目指して成長していく。キリストはその体の頭で あり、主であり、模範であり、目標である。 (6.2.3.1) 神は様々な国民の中からイスラエルの民をお選びになったように、新約においてはある一つの民をお選びになった。 それが神の教会である。 (6.2.3.2) 神の都という比喩は、教会が神の民のいる中に神が宿る場所という意味で用いられている。 (6.2.3.3) 神の御国という比喩は、教会が神の統治を受けていることを表している。 (6.2.3.4) 神の羊たちという比喩は、教会が良い羊飼いであるイエス・キリストに従う集団であることを表している。(6.2.3.5) 教会を意味する比喩としては他に、神の家、神の神殿、太陽を着た女、男の子、花嫁といったものがある。 (6.2.3.6) 6.3 イエス・キリストの教会――神秘 教会の土台となっているのは専らイエスの御言葉、御業、御性質であり、このことは現在に おいても未来においても同じである。イエス・キリストは真の神であり真の人である。つまり イエス・キリストは二つの性質を帯びている (3.4.3 参照 )。この神秘は解明されないままである。 同じようにキリストの教会についてもその性質を解明することはできない。やはり神秘である。 キリストの教会にも二つの性質が備わっている。こうしたことは、信仰によってはじめて理解 することができる。 神と人類との仲介者であられるイエス・キリストによって、人類は救いを得ることができる。 この良きおとずれを宣べ伝えるのは、使徒である ( 一テモ 2:5 - 7)。キリストの御言葉は聖霊 の働きによって説教の中で様々な方法で表現される。この御言葉を聞くことによって信仰は始 まる ( ロマ 10:16 - 17)。教会はその能力において福音宣教によるキリストの仲介の職務を行う。 キリストの教会はその性質において、イエス・キリストの持つ二つの性質を反映している。 キリストにある、神としての性質は秘められており目で見ることはできないが、人としての性 質は目で見ることができ、具象化されている。人としての性質においてイエスは他の人々と同 213 6 イエス・キリストの教会 様に齢を重ねた。痛みも恐れも感じ、飢えも渇きも覚えられた。それゆえに、キリストは全人 類と運命を共にしたのである。ただし例外として、キリストは罪に隷属することが無かった。 同様にキリストの教会にも秘められた面――目に見えない面――がある。キリストの教会が 持つこの二つの面は、イエス・キリストの持つ二つの性質と同じように、不可分である。両者 は異なるものでありながら、分離し得ないものである。 イエス・キリストの持つ神としての性質と同じように、教会の持つ隠れた側面について説明 サクラメント することは、極論すれば不可能である。ただし教会に隠れた側面が存在することは、聖礼典が もたらす効果や神の御言葉において実感することができる。適切な洗礼を受け、純粋に信じ、 主を告白する者たちで構成される教会の、隠れた側面には、四つの大きな特徴 ( 唯一、聖なる、 公同、使徒的 ) が完璧な形で存在する。このような教会の側面については、新使徒信条第三条 に明記されている。 キリストの教会が持つ見える側面については、人としてのイエス同様に、人類の歴史にも刻 まれている。イエスと異なり、教会の中で人が行うことは罪に隷属している。それゆえ人が持 つ間違い、逸脱、過失は教会にもある。しかし教会が持つそうした不完全な見える部分は、真 の信徒たちや選ばれた者たち (4.5 参照 ) が属す目に見えない完全な教会に、損害を与えたり破 壊したりすることはできない。 このように教会に見える部分と見えない部分があって、それらが相互に関係し合い且つ同時 に存在することを理解することを可能にするのは、ひとえに信仰である。見える形の教会―― 歴史として具体化されているキリストの教会――は信仰の対象ではなく、現在において救いと 神の近さを体験できる機関なのである。 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる 救いに近づくことができるのは、イエス・キリスト教会においてである。教会は主御自身が 地上で設立されたものである。教会に属す人たちは、父、御子、御霊なる神と永遠に親しく交 わるという召しに与っている。教会では神を崇める。教会生活の中心は礼拝である。 キリスト教会における霊的性質や完全性は、秘められた状態にあり、これを理解するために は信仰によるしかない。しかしこれは、歴史的に明らかなように、認識・体験できるものである。 新使徒信条第三条で「私は、聖霊と、唯一で聖なる公同の使徒的教会 […] を信じます」と告白 するように、教会が信仰の対象なのである。 新使徒信条における最初の三箇条では、父、御子、御霊なる神への信仰を告白する。同様に キリスト教徒も時代を通じて教会への信仰を告白してきた。このことから明らかなのは、教会 が外見だけのあるいは平凡な存在ではなく、キリスト教信仰に基本要素の一つである、という ことである。教会がなければキリスト教徒は存在し得ないのである。 214 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる まとめ こんにちにおいても未来においても、教会の根本はキリストの御言葉、御業、御性質だけである。(6.3) 教会はその性質において、イエス・キリストに備わる二重の特質を反映している。キリストにおける天来の特質は 秘められているが、人としての特質は目で見ることができる。これと同様に教会にも見えない側面と見える側面が あり、この二つは密接につながっている。(6.3) 教会の持つ見えない側面は、聖礼典 ( サクラメント ) のもたらす救いの効果や神の御言葉によって認識することが できる。(6.3) 人としてのイエスと同様に、教会における見える側面も、人の歴史と共に歩んできた。しかしキリストと異なり、 教会で働く人も罪に従属している。そのため、人につきものの過ち、欠陥、失敗が教会にも見られる。(6.3) 教会では三位一体の神を崇める。教会生活の中心は礼拝である。教会なくしてはキリスト教徒は存在し得ない。(6.4) 6.4.1 教会であることを示す特徴 ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、教会が唯一、聖なる、公同、使徒的である、と 告白している。この基本的特徴を「教会のしるし ( ラテン語 notae ecclesiae)」という。 6.4.1.1 教会は「唯一」である 教会が唯一であるという告白は、神が唯一であるという信仰に由来している。父なる神が御 かしら 子をお遣わしになり、御子なる神が――体の頭として――忍耐をもって会衆を一つに結ばせ、 聖霊なる神がキリスト教会で活動することによって、三位一体なる神が唯一の教会を設立し、 維持しておられる。 イエスは、互いに一つとなり愛し合うことが、御自分に属しそして従う者たちの特質である、 と言われた ( ヨハ 13:34;17:20 - 23)。そのため教会員間における相違は無意味となり、 一致が生まれる。キリストの体における共存互助は、愛に基づいている。愛は「すべてを完成 させるきずな」である ( コロ 3:14)。 215 6 イエス・キリストの教会 このように神の本質は教会において示される「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にと どまり、神もその人の内にとどまってくださいます」( 一ヨハ 4:16)。 6.4.1.2 教会は「聖なるもの」である サクラメント キリスト教会が聖なるものである理由は、キリストが犠牲となられ、聖霊が御言葉と聖礼典 を通して活動されることによる、神の聖別行為によるものである。神によるこの聖別行為は、 礼拝の中で信徒に効果をもたらす。 キリスト教会は、そこに属す者たちではなく、もっぱら三位一体の神によって、聖なるもの となる。主イエスは、執り成しの祈りにおいて、 使徒たちのために御自身を聖別しておられるが、 それは「彼らが真理によって聖別される」ためである ( ヨハ 17:19 口語訳 )。さらに聖別され る中で、主は教会も聖別しておられる ( ヨハ 17:20)。 ヘブライ人への手紙 10 章 10 節で、イエスの犠牲によるこの聖別について次のように述べ ている「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わた したちは聖なる者とされたのです」。 使徒ペトロは信徒を聖なる国民と呼んでいる ( 一ペト 2:9 - 10)。信徒とはいえ人であるから、 その不完全さに悩まされることになるが、ペトロは彼らをそう呼んでいる。信徒が罪深いから といって、教会の神聖が無になることはない。 6.4.1.3 教会は「公同」である 歴史的経緯から、「公同」(「普遍」) とは、福音伝道に一切の制限がないことを意味する。 このことは、主が昇天されてから使徒たちに職務を与えられた時に、御自身が表明されたこと である ( マタ 28:19;マコ 16:15;使 1:8)。すべての国民のために、生きている者にも死 んでいる者のために、イエス・キリストがおられ、教会が存在する ( ロマ 14:9)。それゆえ教 会の中では、救おうとする神の普遍的な御旨を直接感じ取ることができる。 イエス・キリストの教会は普遍的であり公同である。この世にあり来たるべき世にある。現 在にあり将来にある。教会は、現在において、救いを与え神と交わりをする場であることを認 識できる一方、秘められている特質については、教会が完全となった時に明らかにされるであ ろう。つまり教会は、救いが完成し、神と直接交わりができるようになった時に、新たな始ま りを迎えるのである。 216 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる 6.4.1.4 教会は「使徒的」である キリスト教会が持つ使徒性には二つの点がある。一つは、使徒の教えが宣べ伝えられる点。 もう一つは、使徒職が活動している点である。 使徒の教えは死、復活、キリストの再臨を、初代使徒たちの教えに従って、新約聖書に証し されている通りに、そして初期キリスト教徒が信じて実践してきた通りに ( 使 2:42)、純粋に 伝えている。 使徒職は、キリストから賜り聖霊の導きを受けている使徒が担う職務である。その職務とは、 サクラメント あらゆる権威を持って、福音を宣べ伝え、聖礼典を執り行い、罪を赦すことである ( マタ 28: 19;ヨハ 20:23)。 このように、教会の使徒性は、聖書で証ししているように、教会が使徒の教えの宣教を継続し、 使徒職がキリスト再臨の時まで歴史上の事実として教会に存在していることによって成り立っ ているのである。 まとめ ニカイア・コンスタンティのポリス信条が定めるところによれば、キリスト教会は唯一、聖なる、公同、使徒的教 会である (6.4.1) 教会は唯一である。教会の唯一性を告白していることは、神が唯一であることを信じることに由来している。教会 は、父、御子、聖霊による唯一性を証ししている。 (6.4.1.1) 教会は聖なるものである。その根拠は、神による聖別の働きである。教会が聖なるものである根拠はひとえに神に あり、教会に属す人たちではない。教会に属す人たちが罪深いとはいえ、それが教会の神聖を汚すことにはならな い。 (6.4.1.2) 教会は公同である。教会は普遍的であり公同であるということである。教会はこの世に属すと同時に来世にも属す。 こんにち的であり未来的である。 (6.4.1.3) 教会は使徒的である。教会において使徒の教えが宣べ伝えられる。使徒の教えとはキリストの死、復活、再臨を告 げ知らせるものである。イエス・キリストによって制定された使徒職は、歴史上の事実として、キリスト再臨まで 教会で具体化されている。 (6.4.1.4) 217 6 イエス・キリストの教会 6.4.2 歴史に見るキリスト教会の出現 教会の存在が歴史的事実であることは、イエス・キリストの存在が歴史的事実であることに 基づいている。イエス・キリストは真の人として人類の中で生活をされた 「初めからあったもの、 わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。 […] あなた がたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子 イエス・キリストとの交わりです」( 一ヨハ 1:1 - 3)。 人類はイエス・キリストの存在を五感で認知できたように、キリスト教会を体験できる。キ リスト教会は歴史上の事実として、特に洗礼を受け、キリストを信じ、キリストを告白する人 たちの交わりの中で存在している。 新約聖書の使徒書簡では、福音活動の必要性と会衆の現実との間に生じていた矛盾を表して いる。この矛盾は歴史を通じて残ったままで、こんにちにおいても解消できていない。キリス ト教会は本質的に完全ではあるものの、歴史上の形態から見ると不完全であることがわかる。 教会は神によって設立された完全なものであるものの、教会で活動したり「霊的な家に造り上 げられる…生きた石」( 一ペト 2:5) として仕えたりするのが、人であるために欠点が露呈し てしまう。 6.4.2.1 初代使徒たちの時代におけるイエス・キリストの教会 イエス・キリストが人としておいでになったこと、イエス・キリスト歩まれた生涯、イエス・ キリストによる活動は、イエス・キリストによって設立された教会がこれまで存在し続けてき た土台を成している「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほ かの土台を据えることはできません」( 一コリ 3:11)。キリスト教会はこの土台の上に成立し、 ペンテコステの時に聖霊が注がれてさらに発展した。 サクラメント 会衆が組織され、そこで使徒や教役者が活動し、福音が宣べ伝えられ、聖礼典が執り行われた。 そして大宣教令に従い、使徒がユダヤ人の所へも異邦人の所へも出かけて行き、キリストによ る救いの訪れを宣べ伝えたのである。 218 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる 6.4.2.2 初代使徒たちが途絶えた後のイエス・キリストの教会 サクラメント 状況に変化が生じたのは、初代使徒たちが亡くなった後である。聖礼典の執行、罪の赦し、 福音の伝道をイエスから委ねられていた職務を持つ者がその数を減らし、一人もいなくなった のである。そのため聖霊の賜物を分け与えることが不可能となった。一方聖餐は、記念の食事、 告白の食事、交わりの食事、感謝の食事として存続した (8.2.8 以下参照 )。権威をもって罪の 赦しを宣言することもできなくなった。ただし――たとえこのような時であっても――信じる 者たちに対して、神が恵みとして赦しをお示しになったことは考えられる。 キリストを公に言い広めた人々は、引き続き洗礼を受けて、キリストの体に組み入れられた。 御言葉の宣教が行われる中で、キリストの再臨が近いことへの期待意識も、次第に薄れてい き、影を潜めていった。しかし神の御子の生涯、その活動、その死と復活への信仰は薄れるこ とがなかった。信仰の厚い人々は福音やキリスト教の価値体系を絶えず継承し宣べ伝えていっ た。そして聖霊の覚醒運動で、キリスト教の根本教義が初代教会の信条文に定義された。その 後数百年を通じて、宣教活動によりイエス・キリストがこの世に証しされていった。ついに 19 世紀になって、預言の賜物がある人々に覚醒され、この人々が、神の御旨に従って、使徒に選 出されたのである。 初代使徒たちが途絶えた後も、完全に元通りではなかったにせよ、聖霊の活動は継続してい たのである。 6.4.2.3 使徒職が再興された後のイエス・キリストの教会 1832 年、使徒宣教職が再興されたことにより、主は御自分の教会に不可欠なものを改めて お与えになった。具体的には、この世で私たちが見ることのできる教会において、使徒が完全 に再興されたということである。新たに召された使徒が活動することになったとはいえ、別の キリスト教宗派を組織しようと意図したものではない。使徒が活動することになったのは、キ リスト教全体を主の再臨に備えさせることが目的であった。使徒宣教職が再興されたことによ サクラメント り、聖礼典の適切な執行が復活した。加えて御言葉も、その特徴において、キリストの大使と しての権限に拘束されるようになった。特に、キリスト再臨がなおも迫っていることへの確信 を改めてはっきりと訴えるようになった。同様に、使徒による罪の赦しを宣べ伝えることも再 び可能となった。 このように、使徒職の再興に伴って、適切な御言葉の宣教に加えて、使徒の職務や適切な サクラメント 聖礼典の執行が、こんにちあるキリスト教会に不可欠な要素として、 完全に復元されたのである。 219 6 イエス・キリストの教会 まとめ 教会の歴史的事実は、イエス・キリストに関する歴史的事実に根ざしている。イエス・キリストは真の人として人 間社会において生涯を過ごされた。 (6.4.2) 人類はイエス・キリストの存在を五感で認識できたように、イエス・キリストの教会の存在も認知することができ る。教会はこんにちに至るまで見える形で明示されている。特に洗礼を受け、キリストを信じ、キリストを公に言 い広める人たちの交わりとして、教会を認知してきた。 (6.4.2) 本質的に教会は完全であるが、歴史的にはこんにちに至るまで不完全さを露呈している。 (6.4.2) ペンテコステの時に聖霊が注がれてから、キリスト教会の発展が始まった。キリスト教会では、使徒をはじめ教役 者が活動し、福音が宣べ伝えられ、聖礼典 ( サクラメント ) が執り行われた。 (6.4.2.1) 初代の使徒たちが途絶えた後、使徒宣教職を担う人がいなくなった。使徒職が存在しない間も、不十分ながら聖霊 が活動していた。一方、信仰の厚い人たちは、福音やキリスト教の基準体系の普及を欠かさなかった。しかしキリ スト再臨への期待意識は薄れていった。 (6.4.2.2) 19 世紀、使徒宣教職が再興し、この世で私たちが見ることのできる教会の中で使徒職は完全に回復した。そのため、 こんにちある教会において、御言葉が宣教されるだけでなく、使徒の職務や聖礼典 ( サクラメント ) の執行が完全 な形で実現したのである。 (6.4.2.3) 6.4.3 イエス・キリストの教会と牧会宣教職 新使徒信条第四条では、教会と使徒宣教職との一致性を指摘している「私は、主イエスが御 おさ 自身の教会をお治めになること、そのために使徒をお遣わしになったことを信じます。そして 御自身が再びおいでになるまで、教え、イエスの御名によって罪を赦し、水と聖霊とによるバ プテスマを授ける職務を、使徒にお委ねになったことを信じます」 。 イエス・キリストは御自分の教会をお治めになる。キリストは――キリストの花嫁を再臨に 備える時期として――教会を設立される際に、使徒をお遣わしになった。この使徒を通じて、 キリストの統治を感じることができるようにするためである。使徒職はキリスト教会全体に与 えられているものである。使徒職には、彼らによる救いを教会のあらゆる部分に浸透させてい く任務がある。 あらゆる国民に使徒が遣わされているのは、彼らを教え、バプテスマを授けるためである。 220 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる キリスト教徒でない人々も、イエス・キリストを信じキリストが主であることを告白する人々も、 つまりすべての人々の所に、使徒たちが出向いて行って、聖霊のバプテスマを授け、キリスト 再臨に備えさせるのである。 使徒は、イエス・キリストがかつておられこれからおいでになるお方であることを証しして いる。そして救いに関して将来起こる出来事を明らかにしている。キリスト教会の本質におけ る重要な要素は、将来において神と直接に親しく交わることの一点に集中される。キリスト再 臨が迫っていることを宣べ伝え、花嫁を主に導くことが、使徒たちにとって最も重要な任務で ある (10.1.2 参照 )。 主の花嫁とは――狭い意味ではいわゆる「聖なる者たちの集まり」――水と霊とによる再生 を果たした信心深い者たちである。この者たちはイエス・キリストから遣わされた使徒たちに よって主の日のための準備を受け、主に受け入れていただくのである。 牧会宣教職とはそもそも使徒職のことである。イエス御自身が制定された唯一の職位である。 その他の職位は使徒職からもたらされたものである。このことについては、新使徒信条第五条 の中で次のように定めている「私は、神によって定められた教役者が使徒によってのみ任命さ れること、 牧会宣教職に与えられる権能、 祝福、 聖別は使徒職からもたらされることを信じます」 。 まとめ イエス・キリストは御自身の教会をお治めになる。教会を設立する時と、主の花嫁を再臨に向けて準備させる時に 際して、キリストは使徒をお遣わしになった。使徒たちが担う本来の任務は、キリストの再臨が近いことを宣べ伝 え、キリストの花嫁をキリストに導くことである。 (6.4.3) 使徒職は、 使徒による救いの手段が教会のすべての部分に浸透する任務を担い、教会全般に与えられている。 (6.4.3 ) 教会における本来の牧会宣教職が使徒職である。これ以外の職位はすべて使徒職からもたらされたものである。 (6.4.3) サクラメント 6.4.4 イエス・キリストの教会と聖礼典 信心深い魂が正しい形で洗礼が受けられる所であれば――つまり父、御子、御霊なる神の御 名によって洗礼が受けられる所であれば――神の恵みによってどこでもキリストの体に組み入 れられることが可能である。洗礼は教会全般に委ねられてきたものである。このことは新使徒 221 6 イエス・キリストの教会 信条第六条に定められている「私は、水のバプテスマが聖霊による人の新生に至る第一段階で あること、水のバプテスマを受けた者が、イエス・キリストを信じイエス・キリストが主であ ることを公に宣べ伝える者たちの仲間に加わることを信じます」 。 サクラメント 使徒職は、聖 礼典——洗礼、聖餐、御霊の証印——の執行全体を委託されている。この サクラメント 聖礼典を、使徒は故人にも執り行う。 サクラメント 聖礼典の一つである聖餐は、主の体と血だけでなくキリストの犠牲による食卓の交わりとし て、使徒を伴った適切な方法で執り行われる。新使徒信条第七条では次のように定められてい る「私は、キリストが完全に有効な犠牲としてただ一度捧げられ、断腸の苦しみを受けた末に 死なれたことを記念して、キリスト御自身により聖餐が制定されたことを信じます。聖餐にふ さわしく与ることにより、私たちの主であられるイエス・キリストとの交わりが築かれます。 聖餐は、種入れぬパンとぶどう酒によって、執り行われます。このパンとぶどう酒は、必ず使 徒から任職を受けた教役者が聖別して、これを施します」 。 御霊の証印は、新使徒信条第八条に定めてあるように、使徒だけが執り行うことのできる サクラメント 聖礼典である「私は、水のバプテスマを受けた者が、神の子としての身分を受け、初穂となる 要件を獲得するために、使徒によって聖霊に与らなければならないことを信じます」 。 まとめ バプテスマが適切に行われるならば、キリストの体の一部に組み入れられる。洗礼は、一般的な教会すべてにその 執行を委ねられている。 (6.4.4) 聖礼典 ( サクラメント ) の執行は、包括的に使徒の職務である。三つの聖礼典 ( サクラメント ) は、使徒によって 故人にも執行される。 (6.4.4) 聖餐は、使徒職が関わる適切な形で、食卓の交わりとして執り行われる。その交わりには主の体と血をはじめとす るキリストの犠牲が存在する。 (6.4.4) 御霊の証印だけは、使徒しか執り行うことができない。 (6.4.4) 6.4.5 イエス・キリストの教会と未来 救いに関して今後予定されている計画を信じることについて、新使徒信条第九条で次のよう に告白している「私は、主が昇天されたのと同様に必ずまたおいでになり、主の来臨に希望を 222 6.4 唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じる みもと 託しそのために自らを整えてきた故人や存命者たちを、初穂として御許に引き寄せて下さるこ とを信じます。また、天における婚姻の後、主がその初穂と共に地上にまたおいでになり、平 和の御国をお建てになることを信じます。そして、初穂たちが王の祭司として主と共に御国を 治めることを信じます。平和の御国の終結後、主は最後の審判を下されます。そして神は新し い天と新しい地をお創りになり、御自分の民と共に、永遠に住まわれます」 。 教会には現在だけでなく未来の要素もある。教会は未来志向であり、信条文の告白通りイエ ス・キリストを待望している。絶えず神を称え、 神の威厳を崇める。神の僕たちは 「世々限りなく」 神に仕えるのである ( 黙 22:3 - 5)。 キリストが再臨された時、教会は、救いにおいても不完全性においても、すべてありのまま を現すことになる。教会の中で二つの生き方がはっきりと示される。一つはキリストの花嫁と しての生き方で、もう一つは「太陽を着た女」( 黙 12 章 ) としての生き方である。キリスト教 会の中には、地上から引き上げられるものもあれば、この世に残されて反キリストに苦しむ中、 自らを証ししなければならないものもある。 教会の未来がどのような姿になるのかについても明らかとなる。つまり、キリストと共に御 国を治めることになる王の血統を継ぐ祭司として初穂が選ばれる、と約束されている。平和の 御国において、この初穂は救いを直接与える職務に従事して ( 黙 20:6)、この世に存在してき た全人類にとってキリストの大使となる。 ひ ゆ 新しいエルサレムという比喩がヨハネの黙示録 21 章と 22 章に書かれているが、これは神 の救いの働きや新しい被造物によってすべての点で完全となった教会を表している。この新し あが たた いエルサレムで、永遠に神を崇め、称えるのである。 まとめ 教会にはこんにち的要素と未来的要素とがある。 (6.4.5) キリストが再臨される時、教会はその救いにおいて、またその不完全性においてすべてが明らかとなる。教会の中 で、神の御許に引き上げられる部分もあれば、地上に残って反キリストの苦しい時代に自らの証しをすることにな る部分もある。 (6.4.5) 教会が今後どのような姿になるのかについては、初穂に関する約束の中で明らかにされている。それは、王の血統 を継ぐ祭司として選ばれた初穂が平和の御国において救いをもたらす職務に就くという約束である。この初穂は、 今までこの世で生涯を送ったすべての人類にキリストを宣べ伝える者となる。 (6.4.5) 223 6 イエス・キリストの教会 6.5 イエス・キリストの教会と宗教団体としての教会 イエス・キリストの教会が、唯一、神聖、公同、使徒的であれという戒めに対して、それを 完全に実現できずにいることは、歴史の示すところである。その主な理由としては、使徒宣教 職の全く活動しなかった時期が長く、19 世紀から復興した使徒宣教職がまだ限られた効果しか 上げられていないことである。「キリスト教の教会」は、文化的、社会的、歴史的相違もさるこ とながら、同じ一つの福音、同じ一つの聖書を巡って、人間の行う解釈に実に様々な違いがあ ることによって、多くの教派が存在している。こうした相違があっても、キリスト教会は謎の 存在ではなく、近寄りづらい存在でもない。キリスト教会であることが最も明確にわかるのは、 サクラメント 使徒職がおり、生きている者にも故人にも三つの聖礼典が執り行われていて、御言葉の宣教が 適切に行われていることである。主による贖いの御業1が構築されているのは、このキリスト 教会である。キリスト教会では、天の婚宴に備えて、キリストの花嫁の準備が行われている。 キリスト教の教会2である要件は、聖書の証しする通り、洗礼、イエス・キリストに関する 一般的告白、それにイエス・キリストが唯一の主であり贖い主であることを信じることである。 キリスト教で伝統的に言われていることによれば、バプテスマを受けてもイエスを信じずイエ スが主であることも告白しない人たちと違い、真の信徒だけが見えない秘められた教会に近づ くことができる ( 黙 3:1)。 そもそも教会――信仰、希望、愛を共にする場としての教会――を体験できるのは、バプテ スマを受け、信仰に適った生き方をし、イエスが主であることを公に言い広めている人たちだ けである。それゆえキリスト教会では、花嫁の準備のために使徒職が活動している、つまり主 による贖いの御業が行われているだけではない。隣人を積極的に愛し、イエス・キリストをはっ きりと告白し、キリストについて行こうと真剣に努力しているのは、他宗派の教会でも行われ ていることである。礼拝の中で三位一体の神を崇め称えている他宗派の教会もあるし、形式や 程度は様々でも、唯一、神聖、行動、使徒的という点は、他宗派にも見られる。 こんにち遣わされている新使徒教会の使徒たちが、主の再臨に備えてキリストの花嫁を整え ている所では、不完全ながらも、必要なあらゆる手段を行使することができる。主による贖い の御業は、イエス・キリストの教会で完成されるのである。 1「主による贖いの御業」とは、 すでに過去において行われた、イエスによる救いの働きを意味するのが一般的である。 しかしここでは、教会の中でも使徒が活動している部分を指す。使徒は、初穂であるイエス・キリストの花嫁を整え るために役立つ救いの賜物を与える者たちである。 2 世界教会協議会では、教会であることの共通要件として、「聖書に書かれていることに従い、イエス・キリストを 神であり救い主であることを公に言い広めるため、父、御子、御霊なる唯一の神の栄光に向かって共に召されている ことを実現させようと取り組んでいること」と定めている。 224 6.5 イエス・キリストの教会と宗教団体としての教会 まとめ キリスト教会が一致、神聖、公同、使徒的を完成できたことはこれまで一度もない。 (6.5) キリスト教会であることが最もはっきりわかる条件は、使徒職がおり、生きている者にも死んだ者にも聖礼典 ( サ クラメント ) が執り行われ、御言葉が正しく宣べ伝えられていることである。キリストを天の婚宴に備えさせるた めに、主による贖いの業が行われているのも、このキリスト教会においてである。 (6.5) キリスト教の教会であることの要件は、洗礼が行われていることと、イエス・キリストを公に告白されていること と、イエス・キリストが信仰されていることである。教会が信仰と希望と愛によって集う場所であることは、洗礼 を受け、信仰に適う生き方をしている者たちがいることによってわかる。それゆえ他宗派でも、形式や程度はとも かく、一致、神聖、公同、使徒的であれば、キリスト教会といえる。 (6.5) 225 7.1 牧会宣教職と任務 7 牧会宣教職 「職務」を意味する英語の Ministry には、 「公職」 「( 政府の ) 省」 「( 大臣の ) 職務」 「牧師の職 務」という一般的な意味があるが、ある特定の責任分野を担う職務もしくはそれとして正式に 認められた立場を指すものと考えることができる。これを広義に捉えれば、ある集団を代表し、 先導し、秩序をもたらすために与えられた権威である。牧会宣教職1の職務を行使するという ことは、運営上と職務と権威としての職務の両方を行うことになる。 日本語の「牧会宣教職」は「教役者」と同義であり、魂への配慮と福音宣教とを任務とする 職位の総称である。ここでは基本的に、霊的職務 を表すものとする。 7.1 牧会宣教職と任務 霊的職務の執行とは、キリスト教会における奉仕の任命を通して権能を与え、祝福し、聖化 することである。これは聖霊の力によって行われる。 霊的職務は、上役の立場にある者、つまり遣わす者がこれを執り行う。遣わされる側の者は、 与えられた職務命令の遂行に関して責任を負い、遣わした者に対して報告義務を負う。牧会宣 つな 教職は常にイエス・キリストとイエス・キリストに遣わされた使徒たちと繋がっている (7.6 参 照 )。 1 「牧会宣教職」とは霊的且つ任命による職位及び職務である、というのが新使徒教会の考え方である。そのため 牧会宣教職は使徒の任命を通じて権威が与えられ、祝福を受け、聖別を受ける ( 新使徒信条第五条: 「私は、神によっ て定められた教役者が使徒によってのみ任命されること、牧会宣教職に与えられる権能、祝福、聖別は使徒職からも たらされることを信じます。 」) 実際新使徒教会では、すべての教会員に対して、めいめいの能力や才能を活用し、様々な活動に従事することを奨励 している。それは「一人一人に “ 霊 " の働きが現れるのは、 全体の益となるため」である ( 一コリ 12:1 - 11)。そ して私たちは「それぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生 かして互いに仕え」るべきである ( 一ペト 4:10)。 「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストの からだを建てさせ」るためである ( エフェ 4:12)。 宗派によっては奉仕、任務、儀式、技能、能力の行使を「聖職者の職務」としているようだが、新使徒教会の考え方 においては、これらの職務と、任命による霊的職務とを、区別しなければならない、と考える(7.1 第 3 段落及び礼 拝指針 2012 年 3 月特別号を参照 )。 例えば青年への奉仕を行う者は青年に対しての職務を行っていることは確かだが、新使徒信条第五条の趣旨による 「牧会宣教」ではない。新使徒教会における様々な集まりの中で行われている職務は、奉仕である。 227 7 牧会宣教職 キリスト教会においては、牧会宣教職と、福音宣教や信徒の利益に資する様々な任務とを、 区別する必要がある。こうした任務は牧会宣教職と違い、叙任を受けずに行うことができる。 さらに、すべての信徒に与えられている召命すなわち主に従うことによる主への奉仕との区 別をすることが重要である ( ヨハ 12:26;一ペト 2:5,9)。使徒たちが言動によって福音を 証ししているように、再生を果たしたキリスト教徒も使徒との交わりを通して、 福音を証しして、 大宣教令によって働く使徒たちを補佐しているのである。 まとめ 牧会宣教職を意味する英語の Ministry とは元々、特定の責任分野に与えられる職位もしくは立場や、集団を代表し、 集団を先導し、集団に秩序をもたらすために与えられる権威のことである。 (7) 霊的職務とは、キリスト教会で奉仕をするために、叙任を通じて執り行われる権威授与、祝福、聖別である。 (7.1) 霊的職務と、福音宣教や信徒の利益に資する他の様々な職務とは、区別しなければならない。霊的職務以外の様々 な職務は、叙任を受けずに行うことも可能である。 (7.1) さらに、霊的職務と、服従することによって主に仕えることをすべての信徒に呼びかける行為とは、区別すること が重要である。 (7.1) 7.2 教会の牧会宣教職の起源 霊的職務は天の父によってイエス・キリストが遣わされたことを根拠としている。イエスは あがな 王であり、祭司であり、預言者である (3.4.7 参照 )。人類を贖うために、天の父から遣わされ たお方として、権威を受け、祝福を受け、聖別を受けられたのである。 すでに旧約の頃から、教会の牧会宣教職に先駆けるものが存在していた。しかし旧約の職務 と新約の職務との間にはかなりの違いがあった。これについてヘブライ人への手紙 8 章 6 節で は次のように述べている「しかし、今、わたしたちの大祭司 [ イエス ] は、それよりはるかに 優れた務めを得ておられます。さらにまさった約束に基づいて制定された、さらにまさった契 約の仲介者になられたからです」。 イエスは、使徒をお遣わしになり、御自分の教会のために牧会宣教職を制定されたのである。 イエス・キリストの教会はペンテコステの日に歴史的登場を果たしたことにより神から啓示 された。この時に、霊的職務としての牧会宣教職も教会内で機能し始めたのである。牧会宣教 228 7.3 牧会宣教職制定に関する聖書の記述 職そのものはすでにイエス・キリストによって使徒たちに与えられていた。その牧会宣教職に 対して、イエス・キリストは、その職位に権威を与え、祝福を与え、聖別をされ、聖霊の賜物 をお与えになったのである ( ヨハ 20:21 - 23)。使徒はイエスによって遣わされてきた者た ちである。 7.3 牧会宣教職制定に関する聖書の記述 聖書には「牧会宣教職 < 教役者 >」に対して統一した定義づけがなく、牧会宣教職に関する 教義の解説も一切ない。しかし牧会宣教職の内容や性質について取り上げている箇所はいくつ か見られる。 7.3.1 旧約聖書の記述 新約聖書の観点からすると、牧会宣教職――こんにち的意味における――はイエス・キリス トによってしか制定されていないが、新約聖書にある牧会宣教職についてはすでに旧約聖書で も、王、祭司、預言者として取り上げられていた。ただしイスラエルのすべての王が霊的職務 を担ったということではない。救いの歴史において活躍した人物を、霊的職務を担った事例と して取り上げることができるということである。 • ダビデは、選ばれて油を注がれた王として描かれている――救いの歴史におけるダビデ の存在意義は、イエスが「ダビデの子」と言われていることからも明らかである ( マタ 21:9)。 • メルキゼデクは神の祝福を与える祭司として描かれている ( 創 14:18 - 19)。 • モーセは神の指示に従って人々に律法を発布することにより御旨を伝える預言者として 描かれている ( 申 18:15)。 新約聖書に照らして考えると、これらの職務は、イエス・キリストに与えられている「より 高貴な職務」の前兆と捉えることができる。 旧約聖書において中心となっている職務は祭司の職務である。祭司の奉仕や大祭司の職務の 原型となったのがメルキゼデクである。メルキゼデクはアブラハムを祝福し、アブラハムから 捧げ物を受け取った ( 詩 110:4)。メルキゼデクは祝福を与える者として、祝福を受ける者た ちの上に立つ――彼の職位としては、信仰における部族長の頂点に君臨する。 229 7 牧会宣教職 イスラエル全土を、神は「祭司の王国」として召し出された ( 出 19:6)。ただし、一つの部 族だけを――つまりレビの部族だけを――神殿での奉仕を行う者たちとして別に扱われた。さ らに、レビ族の一部だけ――すなわち祭司職に就くアロン家の者たち――は、いけにえの奉納 による礼拝の執行を任ぜられた。 ヘブライ書簡の記述から見た祭司職を検証すると、祭司職には、真の大祭司であるメシアの 来臨すなわちイエス・キリストの来臨に人々を備えることが、職務の一つとされていたことが わかる (3.4.7.2 参照 )。 7.3.2 新約聖書に見る牧会宣教職の制定 旧約時代における牧会宣教職は、すでにイエス・キリストの証しを行っていた。旧約時代に おける牧会宣教職に与えられていたすべてのことが、王であり祭司であり預言者であったイエ ス・キリストを反映していたのである。 イエス・キリストは神の権威によって神の選民である十二使徒をお選びになった。イエス は彼らに権威を与え、彼らを祝福し、彼らを聖別し、福音の奉仕任務に当たらせた。さらに サクラメント 聖礼典の執行もお委ねになった。これにより、イエスによる贖いの業を、人類も享受すること が可能となったのである ( マタ 28:19 - 20)。 イエス・キリストによってもたらされた使徒としての重要な意義は、御自分が苦しみと死に 臨まれる直前における行動にみることができる。イエスは彼らに語りかけ、再びにおいでにな ることを約束され、彼らのために執り成しの祈りを捧げられたのである「わたしを世にお遣わ しになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」 ( ヨハ 17:18)。キリストは復活された後、 使徒たちに罪を赦す権威を与え、御自身が遣わされたことと御自身がお遣わしになった彼らと の関連づけをされたのである「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを 遣わす」( ヨハ 20:21 - 23)。 イエス・キリストが遣わされたのは、死と復活を通して罪を贖うためであったが、使徒が遣 わされたのは、このキリストの徳と救いの完成を人類に得させるためである。 旧約の牧会宣教職の任務が、約束されているメシアの来臨に人々を備えさせることであった ように、新約の牧会宣教職の任務は、主の再臨に信徒を備えさせることが主要な任務である。 230 7.4 使徒職 まとめ 霊的職務は、天の父によってイエス・キリストが遣わされたことに基づいている。 (7.2) イエスは、使徒を召し出してお遣わしになったことにより、御自身の教会に必要な職務を制定された。 (7.2) 聖書には、牧会宣教職の内容や性質について多くのことが書かれている。旧約の牧会宣教職は王、祭司、預言者で あった。旧約時代の牧会宣教職で定められていたすべてのことは、イエス・キリストを反映したものであった。つ まりイエス・キリストは王であり祭司であり預言者である。 (7.3.1) イエスは神の権威によって、使徒を十二人お選びになり、権威を授け、祝福し、聖別して、福音の奉仕任務に当た らせた。使徒が遣わされたのは、人類がイエス・キリストによる救いに完全な形で与ることができるようになるた めである。(7.3.2) 7.4 使徒職 「使徒」を意味する英語の "apostle" には「大使」という意味がある。この語は、新約聖書に 対応する意味を持つ、ギリシア語の「アポストロス ἀπόστολος」が語源である。 イエス・キリストが御自身の教会に与えられた牧会宣教職は一つだけである。それが使徒職 である。使徒職は、イエス・キリストの代理として、キリストから委託を受けた者である。使 徒の職務とは、教会を建てて、救いを待ち望んでいる人類がイエス・キリストによる贖いに与 れるようにすることである。さらに、イエス・キリスト再臨のために信徒を整える職務が、使 徒に与えられている。 使徒職の意義については、新使徒信条第四条で次のように述べている「私は、主イエスが御 おさ 自身の教会をお治めになること、そのために使徒をお遣わしになったことを信じます。そして 御自身が再びおいでになるまで、教え、イエスの御名によって罪を赦し、水と聖霊とによるバ プテスマを授ける職務を、使徒にお委ねになったことを信じます」 。 7.4.1 使徒職の特徴 イエス・キリストは使徒職に広範な権力をお与えになった。使徒はイエス・キリストの大使 であり、彼らはキリストの御名によって活動する。使徒職に付されている特徴や職能は、キリ 231 7 牧会宣教職 ストが担っておられた職務――王、祭司、預言者――を根源としている (3.4.7 参照 )。そのた め使徒職はイエス・キリストからすべての権限を受けており、無条件にキリストに従属してい るのである。 使徒パウロは初代使徒のうち、ただ一人自分の職務について言明している。パウロはコリン トの信徒への手紙二の中で、使徒職の重要性について、本質面から論じている。内容としては 教理的というより、コリントをはじめ他の教会から受けていた批判に対する対応である。ここ で述べていることは、パウロが自分の職位をどう理解していたかを明確にしている。ここから、 使徒職の一般的特徴を知ることができる。 新約の牧会宣教職 パウロがここで論じていることは、旧約の牧会宣教職との違いを表している。新約と 旧約が根本的に異なるということは、コリントの信徒への手紙二 3 章 6 節で明確にして いる「…文字は殺しますが、霊は生かします」 。ここでいう「文字」とはモーセの律法の ことであり、「霊」とは福音のことである。福音のもたらす救いの効果は神の恵みの上に 成り立っている。 イエス・キリストは、御自分を犠牲として捧げられた、新約における永遠の大祭司で ある ( ヘブ 4:14 - 15;7:23 - 27)。キリストが獲得された救いを人類に提供できる ようにすることは、キリストが天に昇られて以来、使徒の職務となっている。イエス・キ リストが獲得された救いの手段は、地上で執り行われ、与えられる (9.6.3 参照 )。神が人 としてこの世においでになったこと < 神の擬人化 > により、地上は救いが与えられる場 所となったのである。 旧約の牧会宣教職と対照的に、新約の牧会宣教職には制約がない。旧約の牧会宣教職 はイスラエルの人々しか対象としていなかったが、新約の牧会宣教職はあらゆる国民の中 で活動している。 御霊の牧会宣教職 使徒職は「御霊の牧会宣教職」である ( 二コリ 3:8;使 8:14 - 17)。水のバプテス マ < 洗礼 > を受けた人は、聖霊の賜物に与ることにより、神の子となり、初穂となる要 件が整う。 義の牧会宣教職 旧約が「罪を宣告する務め」であるのに対し、 使徒職は「義を宣告する努め」である ( 二 コリ 3:9)。使徒パウロは次のように書いている「ところで、石に刻まれた文字に基づい て死に仕える務めさえ栄光を帯びて、[…] 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びてい るはずではありませんか」( 二コリ 3:7 - 8)。ここでパウロはモーセの律法とキリスト 232 7.4 使徒職 の律法とが大きく異なることをわかりやすく説明しているのである。 人類は罪を犯す存在であるため、神の恵みを受けねばならない。イエス・キリストを 信じることと、キリストの犠牲を受け入れることによて、神の御前で有効な義に導かれる。 使徒職はこうした事実に着目している。 和解の牧会宣教職 「和解の牧会宣教職」( 二コリ 5:18 - 19) でもある使徒職は、悔い改めを勧め、イエ ス・キリストが完成された神の贖いの働きへと導く。使徒はイエスの死と復活を宣べ伝え、 罪の赦しと聖餐の執行を通してキリストの満ち溢れた徳を信徒に分け与えられるようにし ている。「和解」とは人類と神との関係や人間関係が問題の無い形に修復することである。 神の子の栄光が現れて「神の子たち」が主に似た者となる時、完全な和解が果たされるの である ( 一ヨハ 3:2)。 キリストの大使 使徒パウロは「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの 使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします…」と述べているが ( 二コ リ 5:20)、これは、イエス・キリストが使徒を通して教会の中で働いておられることを言 サクラメント おうとしている。使徒は聖霊の力によって活動し、福音を宣べ伝え、聖礼典を執り行って いる。使徒の活動によって、贖いを必要としている人類に救いをもたらしているのである。 使徒職の特徴は他にもあるが、それらについては、以下に挙げるように、コリントの信徒へ の手紙一や使徒言行録に書かれている: 神の奥義の管理者 パウロは「使徒は管理者である」と言っているが ( 一コリ 4:1)、大正訳文語聖書では 「家司」( いえつかさ・かし ) と訳されている。家司とは家族もしくは家における衣食住や 家内労働の管理責任者である。つまり使徒は教会の管理者ということになる。使徒は教会 サクラメント において、福音の適切な宣教と聖礼典の執行を保証する。また使徒は牧会宣教職を任命し、 教会の秩序を維持する。 パウロはこの「管理者」という表現を「神の秘められた計画」と結び付けて用いている。 「秘められた計画」つまり神の啓示をもたらしたり明らかにしたりする任務が使徒職に与 えられているということである。神の秘められた計画の中には、例えば異邦人――つまり ユダヤ人以外の人々――をも選びの対象としたり、キリスト再臨の時に花嫁の会衆を御許 に引き上げたりすることがある ( 一コリ 15:51;コロ 1:26 - 28)。 233 7 牧会宣教職 御言葉による牧会宣教 ことば ヨハネによる福音書の冒頭部では、神の御子を、すべてを創造した「言」( ロゴス ) で あると表現している。主は使徒職に対して教えを説くことも委託された。そのため彼らに は牧会宣教能力においてこうした言葉による能力も与えられている。 このような意味で 「わ たしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」という使徒言行録 6 章 4 節 に書かれていることを理解すべきである。使徒たちは福音を宣べ伝えるのも、聖書を解釈 するのも、適切な方法に従って行っているのである ( ガラ 1:11 - 12)。 主の日への導き 使徒職の持つもう一つの重要な特徴は、主の日への導きである。使徒パウロはコリン トの教会に向けて次のように書き送っている「あなたがたに対して、神が抱いておられる 熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一 人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです」( 二コリ 11:2)。 「純潔な処女」 とはイエス・キリストに選ばれた花嫁の会衆を喩えた表現である。使徒はこの会衆をキリ スト再臨に備えさせている。 まとめ 「使徒」( ギリシア語「アポストロス ἀπόστολος」という用語は「大使」という意味である。(7.4) イエス・キリスト御自身がお定めになった牧会宣教職は、使徒職だけである。使徒職はイエスからすべての権限を 与えられており、彼らは無条件にイエス・キリストに従っている。(7.4) 使徒は「新約の牧会宣教職」 「御霊の牧会宣教職」 「義の牧会宣教職」 「和解の牧会宣教職」である。さらに「キリ ストの大使」 「神の秘められた計画の管理者」とも称されている。(7.4.1) キリスト再臨への導きも、使徒の持つ重要な職務の一つである。(7.4.1) 7.4.2 使徒の養成と派遣 イエス・キリストは、弟子たちの中から十二人をお選びになり、使徒とされた ( マコ 3:13 - 19;ルカ 6:13 - 16)。聖書では、使徒が二度にわたって遣わされたことを示している: 234 7.4 使徒職 まず、主は「イスラエルの家の失われた羊のところ」に使徒をお遣わしになったが、サマリ ア人や異邦人の所へ行くことは禁止された。主は使徒たちに、神の国を宣べ伝える他に、病人 いや よみがえ 死者を蘇らせたり、悪霊を追い出したり、 平安をもたらしたりする力をお与えになっ を癒したり、 た。主は次のように仰せになり、このような職務を行うための基礎を据えられた「あなたがた を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受 け入れるのである」( マタ 10:40)。 二度目に使徒が遣わされたのは、キリストが復活された後で、主はさらに新しく、より高度 な、そしてはるかに大きなことをお委ねになったのである「だから、あなたがたは行って、す べての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたが たに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあな たがたと共にいる」( マタ 28:19 - 20)。主は、ここで約束された通り、この世の終わりまで ( ギリシア語:アイオーン αἰών「この世における時代」)、使徒たちと共にいて下さるのである。 一方マタイによる福音書 10 章 2 - 4 節には、十二名の使徒の氏名が記録されている。その 十二名とは、ペトロ、アンデレ、<ゼベダイの子の>ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、 トマス、マタイ、<アルファイの子の>ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユ ダである。 この人たちに加えて、新約聖書には別の使徒たちの氏名も掲載されている。マティア ( 使 1: 15 - 26)、バルナバ ( 使 13:1 - 4;14:4,14)、パウロ ( 一コリ 9:1 - 16;二コリ 11 章 )、 主の兄弟のヤコブ ( ガラ 1:19;2:9) である。マティアが使徒職に召された時だけ、その選 出はイエスの生涯を直接見ていた者に限られていた ( 使 1:21 - 22)。さらに、シルワノとテ モテ ( 一テサ 1:1;2:6< 新共同訳 7>)、アンドロニコとユニアス ( ロマ 16:7) も、使徒とし て名を連ねている。 かしら 7.4.3 ペトロ――初代使徒の頭 使徒たちの中で、主はペトロに特別な権限を授けられた。主が昇天された後、ペトロは使徒 たちを指導する立場についたが、主の昇天前から彼がこのような役割を担うことは暗示されて いた: • ペトロは「岩」という別称をつけられ、 鍵としての役割を与えられた「わたしも言っておく。 あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗で きない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でも つながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」( マタ 16:18 - 19)。 235 7 牧会宣教職 • 主が犠牲の死を遂げられるに先立ち、ペトロに対して、主は次のように言われた「シモン、 シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れ られた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、 あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」( ルカ 22:31 - 32)。 • ペトロは十二人の使徒を代表して発言していた。多くの弟子がイエスから離れた後、あな たがたも離れて行きたいか、と主から問われた時に、ペトロは次のように返答している「主 よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておら れます。あなたこそ神の聖者<生ける神の御子キリスト>であると、わたしたちは信じ、 また知っています」( ヨハ 6:68 - 69)。 • ペトロはイエスから「わたしを愛しているか」と問いかけを受け、この問いかけにペトロ は「はい」と答えた。この問答は三度繰り返され、三度ともパウロは、主を愛していると いう返事をしている。そこで主は御自分の羊の世話をペトロにお委ねになったのである ( ヨ ハ 21:15 - 17)。 • イスカリオテのユダに代わる新たな人物を使徒団に加えたのも、ペトロが最初である ( 使 1: 15 - 26)。さらにペトロはペンテコステの時に説教を行っている ( 使 2:14)。そして主は ペトロに対して、異邦人もキリストの救いに与れることをお示しになったのである ( 使 10 章 )。 7.4.4 新約聖書における使徒の活動に関する記事 使徒たちの活動を、ルカが使徒言行録として記録している。例えば、使徒言行録 11 章 1 - 18 節及び 15 章 1 - 29 節では、使徒たちが集まって、異邦人が新約に与れるかどうかという 問題――その他当時起こっていた諸問題も含め――を解決したことが記録されている。これは、 非常に大きな影響力を持つ決定が当時の使徒たちによってなされたことを明確に示している。 また使徒言行録は、聖霊の賜物を施す職務が使徒に限定されていることを証ししている。フィ リポがサマリアに出かけて宣教し、そこで洗礼を授けた。そして使徒団はがこれを聞き、ペト ロとヨハネをサマリアに派遣したのである。ペトロとヨハネは 「聖霊を受けるようにとその人々 のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上 にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受 けた」( 使 8:15 - 17)。19 章 6 節には、使徒パウロも同様の働きをした、と書かれている。 使徒たちにとって最も必要な職務は、イエス・キリストの死と復活を宣べ伝えることであっ 236 7.5 使徒職から派生し発達した牧会宣教職 た ( 使 13:26 - 41;17:1 - 4)。使徒たちは、異端の教えを信じていた人々と対立した。彼 らはそもそも、イエスが真の人であり復活されたお方であることを、信じようとしなかったの である ( 一コリ 15:3 - 8;一ヨハ 4:1 - 6)。 当時の使徒たちは自分たちの存命中に主が再臨されると考えていて、そのための準備を信徒 に施していた ( 一テサ 4:14 - 18)。この事実は、使徒の職務とキリスト再臨の宣教とが密接 に結びついていたことを表している。 まとめ イエス・キリストが任命された使徒の数は十二名だが、十二名以上の使徒がいたことは、新約聖書の記述が証明し ている。 (7.4.2) イエスは、シモン・ペトロに天の国の鍵を授け、教会の指導的役割を委託された。 (7.4.3) 主に使徒の活動を記録したものが使徒言行録である。そこには、聖霊の賜物の授与は専ら使徒によって行われるこ とが証しされている。使徒は福音を宣教し、異端の教えと対決した。 (7.4.4) 7.5 使徒職から派生し発達した牧会宣教職 イエス・キリストが制定した牧会宣教職は、 使徒職だけである。使徒たちはペンテコステ以後、 会衆が成長の一途を辿る中で福音宣教の任務遂行に着手し始めた。程なくして、職務の増大に けんざいか 対処するために補佐役の必要性が顕在化した。そこで教会は七名の人物を選んだ。使徒はこの 七名に按手と祈りを行い、職務に必要な霊的準備を施した ( 使 6:6)。この七名が最初の執事 となった。このこと――使徒が按手を行い祈りを捧げたこと――をきっかけとして、その後に おける任職のあり方が定められたのである。 使徒団や信徒たちは霊的配慮を必要とする新しい教会を設立していった。そのため使徒は、 「監督」( ギリシア語の「エピスコポイ ἐπίσκοποi」) あるいは「長老」( ギリシア語の「プレスビ テロイ πρεσβυτεροi」と呼ばれる、教会を代表する立場の者を任命した。「長老」も「監督」も 同一の牧会宣教職であったことは、テトスへの手紙 1 章 5,7 節から明らかである。さらに初 237 7 牧会宣教職 期キリスト教会では、預言者、福音伝道者、牧者、教師も活動していた ( エフェ 4:11)。 牧会書簡やディダケー 2によれば、教会の発達に伴って、教会生活が霊的であることを保証 するために、職階制度が、聖霊の鼓舞によって導入された。 しかし初代使徒たちの死亡によりその職務が途絶えると、委任されていた霊的職務は、様々 な任務や方向性へと発展していった。 まとめ 使徒たちは、任務の遂行に伴うあらゆる職務に対処するために、補佐役を必要としていた。そこで補佐役とすべき 人物に対して、按手と祈りとを行うことにより、補佐役としての任務を遂行できるための素養を身に着けさせた。 このことが基本となって、後の任職制度へと繋がっていく。(7.5) さらに、使徒の委任によって、監督もしくは長老、預言者、福音伝道者、牧者、教師が初期キリスト教会を補佐し た。教会の発展に伴って、聖霊の鼓舞により、牧会宣教のための職階制度が発達した。(7.5) 7.5.1 使徒職の継承 使徒職は、主が御自身の教会のために制定された職制である。使徒は地の果てに至るまで主 の証人となるべき者たちである ( 使 1:8)。この壮大な任務を遂行するために、イエスはこん にちにおいても使徒を遣わしておられる。この世において使徒職を担う人物が存在しなかった 期間があったが、主によって制定された使徒職は存続していた ( 二コリ 3:11)。 7.5.2 使徒職の活動休止 新約聖書には使徒ヤコブの死について書かれているが ( 使 12:2)、ヤコブ以外の使徒たちに ついては記録がない。聖書以外の文献によれば、聖書に記述がある最後の初代使徒であるヨハ ネについては、紀元 1 世紀の終わりに死亡したことが記録されている。その後 1832 年に使徒 2 紀元 100 年頃に成立したと考えられている、十二使徒の教えをまとめたもの。 238 7.5 使徒職から派生し発達した牧会宣教職 職が再興されるまで (11.3 参照 )、主が制定された唯一の職位による活動は休止することとなる。 このようにして使徒職を担う人物がいなくなったことは、神の御旨に基づくものである。結 局、神による至上の支配は、人類にとってまさに神秘なのである。とはいえ、初代使徒職が途 絶えた後も、聖霊は活動していた (11.2 参照 )。それは福音の保護とその発展を確実にするため である。 7.5.3 使徒職の再興 キリストの花嫁を集めて彼らに準備を施す時期がやって来た時、神の御旨に従って使徒職が 再興された。こうして、( 花嫁の準備が整って主が再臨される前である ) 初めの時と、神による 贖いの御業が終わる時<終末時代>とに、人が使徒職を担うこととなったのである。 初期キリスト教における使徒職と終末時代の使徒職とは、その任務や職能に違いはないが、 実際の職務遂行面において重点項目の違いがある。歴史的に継承されているわけではないが、 霊的には継承されているのである。 使徒職が再興されたことに伴い、牧会宣教職も再組織された。カトリック使徒教会の時代に、 独自の教役者が組織された。歴史的経過の中で、新使徒教会でも様々な職務を持った牧会宣教 職が組織されていった。 まとめ 使徒への職務委任は、初期キリスト教の時代に限定されるものではない。 (7.5.1) 紀元 1 世紀の終わりに、使徒がいなくなった。その後 1832 年に再興されるまで、イエス・キリストが唯一制定さ れた牧会宣教職は存在しなかった。使徒職がいなくなったことは神の御旨に基づくことであった。神の御旨は人類 にとって神秘である。 (7.5.2) 神の御旨によって、使徒職が再興された。初代の使徒たちと終末時代の使徒たちとの間には、歴史的継承性はない ものの、霊的に継承されていることは確かである。 (7.5.3) 使徒職の再興に伴い、教役者も組織され、独自の牧会宣教職が生まれた。 (7.5.3) 239 7 牧会宣教職 7.6 新使徒教会の牧会宣教職 新使徒教会は、その設立当初より、牧会宣教職の教会であると考えている。使徒職によって 導かれる教会である。 すべての牧会宣教職は使徒職から生まれる。これについては新使徒信条第五条で次のように 定めている: 「私は、神によって定められた教役者が使徒によってのみ任命されること、牧会宣教職に与 えられる権能、祝福、聖別は使徒職からもたらされることを信じます。 」 現在、 新使徒教会の牧会宣教職には三つの職階があり、 それぞれが異なる霊的権限を担っている: 使徒職 主使徒、教区使徒、使徒 司祭職 監督、教区長老、教区伝道師、牧者、伝道師、牧師 執事職 執事、執事補 7.6.1 使徒職 使徒職とは、主使徒、教区使徒、使徒を指す。 主使徒は、使徒たちと共に教会を指導する。教区使徒はそれぞれの教会が属す教区を管轄す る。一つの教区を管轄する場合もあれば、複数の教区を管轄する場合もある。 カトリック使徒教会の時代から「主席使徒」という職位があり「使徒の柱」と位置付けられ ていた。教会末期は他の使徒と変わらぬ権限や権威しか有していなかったが、使徒団の中で第 一位に位置付けられており、使徒たちの組織する学会において、主席使徒の発言は特に重みを 持った。 新秩序 (11.3.1 参照 ) のもとにおける使徒たちは当初、それぞれ割り当てられた区域で、ほ ぼ独自の方法で活動していた。ただし彼らは一致を促進するために相互に連携を維持した。19 世紀の終わり、新使徒教会においてペトロの職務を実行する者の名称として「主使徒3」とい う用語が使われ始めた。 3 20 世紀初めまで、それぞれの使徒の活動区域を指す呼称として、イスラエル十二部族の一つを表す言葉 ( ドイツ語 の Stamm) が使われていた。ここから “Stammapostel( ドイツ語で「主使徒」の意 )“ という語が生まれた。 240 7.6 新使徒教会の牧会宣教職 7.6.2 使徒職の役割 使徒の仕事に関する最も重要な事柄は、イエスの言動から知ることができる: • キリストは使徒たちに「繋いだり解いたりする」権限 ( マタ 18:18) を授けられた。繋 いだり解いたり、という表現は使徒が主使徒と共に教会において霊的な指導を行ったり、 会衆生活に関する方針を決定したりする立場にあることを表している。 • 御子が聖餐を制定されたのは、使徒を一堂に会してであり、この御子の手本に従って使 徒たちは聖餐を執り行うこととなった ( ルカ 22:14,19 - 20)。 • 使徒はイエス・キリストの大使である ( ヨハ 13:20;20:21)。 • 使徒は聖霊を通して職務遂行に必要となる重要な知識を会得する ( ヨハ 14:26)。 • 使徒は主との直接的関係に依存している。 「わたしを離れては、あなたがたは何もできな いからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて 枯れる」( ヨハ 15:5 - 6)。 • イエスは使徒たちに、御自身の名において罪を赦す権限を授けられた ( ヨハ 20:23)。 7.6.3 使徒の自己像 使徒はイエス・キリストから職務や委託を受け、御旨の通りに働き、御子に完全に依存して いる。使徒はイエスの模範通り、すべての人たちの僕である ( ヨハ 13:15)。会衆の信仰の支 配者ではなく、会衆を喜ばせる協力者である ( 二コリ 1:24)。つまり、使徒の活動を通して、 信徒が基本的に神に喜びと感謝が示せるような姿勢を身につけるということである。そのため に、必要ならば説諭や命令を行うこともある ( ヤコ 1:21)。 使徒は自らが教会において模範として奉仕しなければならないという思いを持って、率先し てキリストに従うのである ( 一コリ 11:1)。 7.6.4 使徒職の権威 使徒職には、イエス・キリストから使徒として召し出されて、主によって使徒職としての能 力が据えられたことによって、権威が与えられている。使徒職が重要な職務であることは、イ エスによる執り成しの祈りからも明らかである「わたしを世にお遣わしになったように、わた 241 7 牧会宣教職 しも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理 によってささげられた者となるためです」( ヨハ 17:18 - 19)。 7.6.5 イエス・キリストの教会における使徒 使徒が働いているのは、主による贖いの御業を啓発し、その御業を完成に導くためである。 慈しみをこめて配慮し、愛に溢れた理解をしながら、信徒と親しく交わりを持つのである。 使徒職はキリスト教会全体のために与えられてきたものである。使徒の任務は、イエス・キ リストの救いを人類に提供することである ( 使 13:47)。救いは御子によってはじめて可能と サクラメント なる ( 使 4:12)。キリスト再臨の時まで、救いは使徒の言葉と聖礼典によって、つまり福音の 宣教、罪の赦しの宣言、水と聖霊とによるバプテスマ、それに聖餐を通して与えられる。 まとめ 新使徒教会は牧会宣教の教会である。 (7.6) 牧会宣教職には三つの職階があり、それぞれ別々の霊的能力を有している。その三つとは使徒職、司祭職、それに 執事職である。 (7.6) 使徒職には主使徒職、教区使徒職、使徒職がある。主使徒は使徒たちと一緒になって教会を指導する。 (7.6.1) イエス・キリストは使徒たちに「繋いだり解いたり」する力をお与えになった。つまり、使徒たちが主使徒と共に、 教会を霊の面と組織の面で指導し、会衆生活のあり方を決定しているということである。キリストは使徒たちが一 堂に会している中で聖餐を制定され、これを手本として聖餐を執り行うように仰せになった。さらに彼らに、御自 身の名において罪の赦しの宣言できる権限をお与えになった。 (7.6.2) 使徒は自分をお遣わしになったお方であるイエス・キリストの御旨によって活動し、完全に御子に依存している。 使徒は教会の模範として奉仕しようと努め、率先してキリストに服従する。 (7.6.3) 使徒職はイエス・キリストから召し出されたことによって、使徒としての権威が与えられている。 (7.6.4) 242 7.6 新使徒教会の牧会宣教職 7.6.6 主使徒職 かしら 神の御子イエス・キリストは教会の頭である。イエスの御言葉に従ってペトロの職務を果た すことが主使徒の仕事である「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に わたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解 かれる」( マタ 16:18 - 19)。 イエスは御自身の教会の設立について、使徒ペトロにお与えになった特別な立場と関連させ て述べておられる。ペトロは「岩」であり、その上にイエスは御自身の教会をお建てになる。こ れにより御子は、岩としての職務と教会との堅固な関係を構築されたのである。イエス・キリ ストによる救いをもたらすために、岩としての職とキリスト教会が人類に与えられたのである。 主が使徒ペトロに委託された職位や任務はこんにち、主使徒が担っている。それゆえ主使徒 も、主がお命じになった通り ( ヨハ 17:20 - 23)、兄弟たちつまり使徒たちを力づけて ( ルカ 22:32)、 使徒たちの一致を維持している。そしてキリストの「羊や子羊」の世話をしている ( ヨ ハ 21:15 - 17)。 主使徒の職務は、教えを純粋に保ちながら、それをさらに発展させ、より新しく考察し、信 仰の証しを統一して広めていくためにある。そして教会内の秩序をもたらすことも主使徒の職 務である。 これら主使徒の職務は「鍵としての権威」によって成り立っている。 主使徒は最高の霊的職務である。主使徒は使徒団において指導的立場にある。 主使徒は使徒を任命する。使徒は主使徒との一致を維持しなければならない。そうすること によってはじめて、使徒に課されている職務全体を遂行する、すなわち人類を救いに近づける ことができるのである。 7.6.7 教区使徒職 教区使徒は、各使徒に課されている職務の他に、教区使徒自身の活動地域 ( 活動教区 ) にお ける牧会、会衆への配慮、教役者への霊的育成を統一した形で行う責務を担っている。さらに、 教会事業において重要視すべき事柄の決定、 教役者任命の判断、 使徒団一致の維持の促進を図る。 教区使徒は活動地域内で故人のための聖餐を執り行うのが一般的である。また教区内での活動 以外の職務として、教区使徒会議がある。教区使徒会議は、教会の指導を行う際に主使徒を補 佐したり進言したりする。また教区使徒は、教区本部教会の代表者でもある。 243 7 牧会宣教職 まとめ ペトロの職務を引き継ぐのは、主使徒である。主使徒は最高の霊的権威者である。主使徒には、使徒団を指導する 役割が与えられている。 (7.6.6) 主使徒は鍵としての権威を行使する。 (7.6.6) 教区使徒は、活動教区内で統一した牧会を行い、会衆を配慮し、教役者の霊的育成を図る。 (7.6.7) 7.7 任命 牧会宣教職は、会衆で働けるようになるために、使徒職から権威を与えられ、祝福を受け、 聖別される。 霊的職務への任命は、使徒が三位一体なる神の名によって、按手と祈りを通して執り行う (12.1.12 参照 )。牧会宣教職は自分の職務行使に当たって、使徒職に説明責任があり、使徒職 もと の判断の下にある。 任命を受ける中で、教役者としての能力が与えられ、それに応じた権威が使徒職から与えら れる。これは執事職、祭司職、使徒職すべて同様である。これを土台にして、牧会宣教職は課 せられた職責を全うすることができる。 牧会宣教職は、任命を受けることによって、自分の仕事に対する祝福と聖別とを受ける。必 要な能力が引き出され、それが職務の行使に生かされるのである。 サクラメント 任命は聖礼典ではなく、祝福行為である。祝福行為が聖なるものであり、牧会宣教職が奉仕 の職務であることは、その職務を与えられるときに膝をつくことから理解することができる。 牧会宣教職に任命される者は、絶えず神に忠実であり、キリストに従って行くことを誓い、使 徒職への信仰に従順であることを約束する。 原則として、牧会宣教職に就くことは人の意思ではなく天の御旨に基づいている。神の御旨 を理解し、それに従って行動することは、使徒の任務である。 あずか 任命を受ける際には、天からの祝福が与えられる。この祝福により、天使による加護に与る だけでなく、聖霊が強め支えて下さることも保証される。 もっぱ 牧会宣教職が任務を行う場合、自分自身の能力ではなく、専ら使徒との一致と聖霊の力に基 づく。使徒職は、教義についての権威者であり、他の牧会宣教職が神の御言葉を宣べ伝える際 の模範である。 244 7.9 牧会宣教職の任務 7.8 牧会宣教職の職務行使 牧会宣教職はそのふるまいや霊的権能において、一定の要求を満たした生き方をしなければ ならない。つまり、任命を通して受けた聖別を実践して、牧会宣教職に与えられた賜物が会衆 の祝福として開花されるようにしなければならないのである ( 一テモ 3:2 - 3,8 - 9)。 牧会宣教職に召された者は、神を愛し隣人を愛する思いから奉仕をする。イエスを手本とし て、自分が神の指示で動く者であることを自覚する。 教会員と牧会宣教職との信頼関係は、会衆が祝福された発展を遂げるための必須要件である。 こうした信頼関係を構築・維持するためには、牧会宣教職と使徒とが一つになることが不可欠 である。 牧会宣教職は、与えられた権威の範囲内で職務を行う。そのために使徒から委託を受けてい る。使徒は牧会宣教職に、彼らが行う分野の仕事を割り当てる。 原則として、引退した段階で職務遂行の任は解かれるが、職位は残る。一方解職や免職の場 合は、職位も失う。 7.9 牧会宣教職の任務 使徒パウロは次のように書いている「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるの は同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きには いろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に “ 霊 ” の働きが現れるのは、全体の益となるためです」( 一コリ 12:4 - 7)。このように、牧会宣教 わいきょく ようご 職は、一人ひとりがキリストの福音を歪曲せずに宣べ伝えたり擁護したりする任務を与えられ た、神の僕である。牧会宣教職は自分に委託されている教会の教会員を配慮し、教会員の信仰 と知恵の成長を促す。魂の世話をする時は、その魂が個人的に抱えている問題に理解を示し、 その魂と共に祈り、日常生活で負っている重荷を共に担うのである。牧会宣教職は会衆の模範 である。牧会宣教職は、次の事柄を実践すべきである「何事も利己心や虚栄心からするのでは なく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」( フィリ 2:3)。 各牧会宣教職に与えられている様々な種類の賜物を以下に示す。これらの賜物はすべての牧 会宣教職に与えられているが、具体的な表れ方は様々である。 245 7 牧会宣教職 まとめ 牧会宣教職の任命は、神の御名において、使徒の按手と祈りによって行われる。任命を通して、必要な職務実行能 力が使徒職から与えられる。 (7.7) 牧会宣教職は、使徒職と連携し聖霊の力を受けて、職務を行う。 (7.7) 牧会宣教職は自身が任命された時に受けた聖別を、自らが実行しなければならない。牧会宣教職は自身に与えられ た権威の範囲内で職務を行う。 (7.8) 牧会宣教職は一人ひとりが神の僕である。牧会宣教職は自分に委託されている会衆の教会員の牧会を行う。 (7.9) 7.9.1 司祭職 監督から牧師までの牧会宣教職をまとめて「司祭職」と呼ぶ。司祭職は使徒を通して、水の 洗礼 < バプテスマ > を授け、罪の赦しを宣言し、 聖餐を執り行う任務と権限とを与えられている。 司祭職に一番求められていることは、マラキ書 2 章 7 節に基づいている「祭司の唇は知識を 守り/人々は彼の口から教え < 口語訳「律法」> を求める。彼こそ万軍の主の使者である」 。 また司祭職の任務には、礼拝の司式、祝福行為や葬儀の執行、御言葉の宣教、会衆への牧会 がある。 監督 「監督」( ギリシア語の「エピスコポス Επίσκοπος」) という用語は「見渡す者」という意 味である。監督は使徒と一緒に働く同僚である。監督は使徒と一体になって牧会宣教職に指 示を出し、彼らを配慮し、牧会活動としての特別な任務を管理する。 教区長老 4 一般的に教区長老は教区の主任的立場にあるため、霊的及び組織的の両面でいくつかの会 衆の責任を持ち、福音が確実に純粋な形で会衆に宣べ伝えられるようにする。教区長老は会 4 初期においては「地域社会長老」という職位も存在した。 246 7.9 牧会宣教職の任務 衆の中でゲストが会員となれるような育成をしたり、会衆の中で必要される職務上の技能を サクラメント 養成したりする。また聖礼典の一つである御霊の証印を予定している人たちと準備のための 議論を主導する。さらに教区長老は、会衆主任者とその家族に向けた牧会を行う。 教区伝道師 教区伝道師は教区長老を補佐し、その職務遂行を援助する。 牧者 会衆への配慮及びその保護が主な職務である。指導的役割も担っている。牧者職は会衆の 主任役を務めるのが一般的である。 伝道師 伝道師 ( ギリシア語「エヴァンゲリステース ευαγγελιστής =「喜びを伝える人」 」) の職務 の中でも特有な職務は、御言葉を明確に、理解できるように宣べ伝えることである。伝道師 も牧者同様に指導的役割を担うのが一般的である。 牧師 牧師は会衆において神の言葉を宣べ伝え、会衆の魂を配慮することである。具体的には会 員とのつながりを密にする、定期的な会員宅訪問、会員の信仰強化、会員の知識養成の促進、 というものである。牧師は会員の近くによりそい、会員と共に祈る。体調の良くない教会員 宅を定期的に訪問し、彼らに聖餐を執り行う。会衆とのつながりが弱まりつつある人の事情 を把握する。牧師が会衆の主任的役割を果たしている教会は数多くある。 7.9.2 執事職 執事職は執事及び執事補が担当する。 しもべ 「執事」を表す英語の Deacon という用語はギリシア語の「僕」に由来している。執事は会衆 を様々な方面から補佐する。 牧会を行う牧師の補佐もする。 こんにちでは執事補職の任命が行われることはない。執事補は本質的に執事と同じである。 247 7 牧会宣教職 7.10 指名 指名とは、ごく限られた職務の担当を配置することである。これは任命とは異なり、職務の 期間も場所も限定されている。 牧会宣教との結びつきにおいて、「指名」は、会衆主任者や教区主任者、教区使徒補佐、主 使徒補佐への指名をいう。通常は教会で指導的役割を果たす牧会宣教職によって、礼拝の中で 指名が行われる。これは、一般的な牧会宣教職の任期を適用せず、その活動の終了が任期の終 了となる。 会衆や教区における様々な職務を遂行するための指名は、兄弟姉妹双方に対して、牧会宣教 とは別に行われる。 このようにしてある職責の指名を受けた者は、牧会宣教職と同様に、ボランティアによる教 会奉仕をするのが一般的である。 まとめ 監督から牧師までの牧会宣教職をまとめて「司祭職」と呼ぶ。司祭職には洗礼、罪の赦し、及び聖餐の聖別とその 執行について、使徒から委託と権能が与えられている。その他の職務としては、礼拝や葬儀の司式、祝福の執行、 御言葉の宣教、教会員及び会衆への牧会がある。 (7.9.1) 「執事」という用語は「僕 ( しもべ )」を表すギリシア語に由来する。執事は様々な方面で会衆を補佐する。 (7.9.2) 指名とは、ごく限られた職務の遂行を指示することであり、任命とは扱いが異なる。指名の場合は、任期や活動地 域が限定されることがある。 (7.10) 248 サクラメント 8 聖礼典 サクラメント サクラメント 聖礼典は、神の恵みによる基本的行為である。聖礼典は、救いを獲得させたり、神との交わ りに加わらせたり、それらを保持したりするために、人に対して行われる聖なる行為である。 サクラメント 三つの聖礼典を受けることによって、キリスト再臨時に、主と一つになる可能性が出てくる。 サクラメント 聖礼典による救いは、イエス・キリストが人としておいでになり、犠牲の死を遂げられ、復 活され、聖霊が遣わされたことを基本としている。 サクラメント 「 聖 礼 典 」 と い う 用 語 は 新 約 聖 書 に 見 ら れ な い。 古 ラ テ ン 語 聖 書 で「 サ ク ラ メ ン タ ム サクラメント sacratentum」の意味で使われている「ミステリオン mysterion」という語は元々、後に「聖礼典」 とされる行為と関係が無かった。古代において「ミステリオン」は、限られた者だけが知り得 る奥義を表す語であった。 ローマでは「忠誠を誓うこと」 「聖別」 「忠誠」の意味で「サクラメント」という語が使われた。 紀元 2、 3 世紀になると、 「ミステリオン」 「サクラメンタム」 という語は儀礼行為を指すようになっ た。例えばテルトゥリアヌス (160? - 220?) は、受洗時に行われる宣誓文や信条文を――洗礼 行為そのものではなく――軍事に関する宣誓を基に作成した。 教会指導者であったアウグスティ サクラメント サクラメント ヌス (354 - 430) は聖礼典において最も重要な貢献をしている。つまり、聖礼典は言葉を伴っ た見える要素とその言葉に込められている実体とが一つになることによって現実化する、とい サクラメント うこんにちにおける聖礼典の考え方を、古代後期に確立したのである。 サクラメント 聖礼典が正しく実現するのは、以下に示す四つの異なる要素が相互に関係し合うためである: ・しるし (「シグナム」「マテリア」)。つまり礼典もしくは見える形。 ・内容 (「レス」「フォルマ」)。つまり提示される救い。 サクラメント ・施与する者 ( 聖礼典における仲介者 )。 サクラメント ・救いのために受けるものであるという ( 聖礼典を受ける側の ) 信仰。 サクラメント 聖礼典が有効であるかどうかは、それについての人の解釈や理解のしかたではなく、先述の 四つの要素によって決定する。しるし (「シグナム」) と内容 ( レス」) は、執行の際に施与する 者から発せられる言葉 (「ヴェルブム ) や行われる聖別によって、互いに関係し合う。 サクラメント これは魔術でもなければ自動的に実現するものでもない。聖礼典が十分に救いの効果を上げ サクラメント るためには、受ける側の信仰が前提要件である。とはいえ、信仰の欠如によって、聖礼典が無 効となるわけではない。神によって成されたことが受ける側の不信心によって取り消されるこ とはあり得ないからである。 サクラメント サクラメント 適切な聖礼典の執行は、使徒職の義務である。聖礼典が正しく行えるようにする任務をキリ サクラメント ストから受けているのである。どの聖礼典も、使徒や使徒から任を受けている者が執り行わね サクラメント ばならない、ということではないが、使徒との関係において、聖礼典は存在している。 249 8 聖礼典 ( サクラメント ) サクラメント 聖礼典には、洗礼、御霊の証印、聖餐の三つがある ( 一ヨハ 5:6 - 8)。これらはイエス・ キリストによって制定されたものである1 。 洗礼によって、まず神と密接な関係を持つことになる――キリスト教徒となって、キリスト への信仰と告白を通して、教会員となる (8.1 参照 )。御霊の証印によって、受洗者に対して神 が賜物である聖霊をお与えになる。水の洗礼 ( バプテスマ ) と御霊の証印の両者によって、水 と霊とによる再生を実現するのである。この再生によって、神の子となり、キリスト再臨時に 初穂の一人として召されるのである (8.3 参照 )。聖餐はイエス・キリストと、緊密な、命の交 わりを保証する。そのためには、信仰によって繰り返しこの聖餐に与らねばならない (8.2 参照 )。 サクラメント なお、聖礼典は小児にも与えられる ( マタ 19:14)。 まとめ 聖礼典 ( サクラメント ) は、神の恵みの根本を成す行為である。 (8) 聖礼典 ( サクラメント ) は、イエス・キリストが人としておいでになり、犠牲の死を遂げられ、復活され、聖霊が 遣わされたことに基づいている。聖礼典 ( サクラメント ) を正しく施与することは、キリストから遣わされた使徒 の責任である。 (8) 聖礼典 ( サクラメント ) は、言葉を伴った見える要素と、その言葉に込められている実体とが一つになることによっ て現実化する。 (8) 聖礼典 ( サクラメント ) は、 四つの異なる要素である、しるし、内容、施与する者、信仰が相互に関係し合うことによっ て現実化する。 (8) 聖礼典 ( サクラメント ) が十分に効果を上げるようにするためには、信仰が前提要件である。 (8) 聖礼典 ( サクラメント ) は、イエス・キリストによって三つ制定された。それは洗礼、御霊の証印、聖餐である。 (8) 1 マタ 28:19 - 20 参照;ヨハ 3:5;ルカ 22:19 - 20;ヨハ 6:53 - 58;一コリ 11:23 - 26。水のバプテ スマと御霊の証印との違いについては使 8:14 - 17;19:1 - 6 を参照。 250 8.1 洗礼 8.1 洗礼 三位一体の神による恵みにおいて、イエス・キリストを信じる人たちに与えられる、最初の 根本的行為が、洗礼である。この洗礼によって、生まれながらの罪が洗い流されて、信徒は神 から遠く離れた状態から打開されることになる。ただし罪を犯しやすい傾向 ( 世俗欲 ) が解消 されるわけではない。 洗礼を受けた人たちは、イエス・キリストが犠牲の死を通して人類のために獲得した徳を共 有する。これにより人は初めて神と密接な交わりを得ることになる――キリスト教徒になると いうことである。教会員となる。つまりイエス・キリストを信じ、キリストが主であることを 告白する人たちの仲間となるということである。 従って、新使徒信条第六条で、次のように宣言している: 「私は、水のバプテスマが聖霊による人の新生に至る第一段階であること、水のバプテスマ を受けた者が、イエス・キリストを信じイエス・キリストが主であることを公に宣べ伝える者 たちの仲間に加わることを信じます。」 8.1.1 用語の定義 洗礼 < バプテスマ > という用語は、ギリシア語の「バプティゼイン βαπτίζειν =バプテスマ を施す」 の訳語である。キリスト教初期においては、 水の中に浸ることによって洗礼が行われた。 8.1.2 洗礼が行われる根拠に関する聖書の記述 モーセの律法には、水を用いた儀礼上の浄化に関する記述が各所に見られる。これが洗礼の 予示とされ、身体的状況により不浄と考えられている人を儀礼的に清める行為へと発展した。 しかしこれら儀礼上の浄化行為には契約としての特徴を持ち合わせているわけではなかった。 8.1.2.1 洗礼に関する旧約聖書の記述 サクラメント 旧約聖書には他の聖礼典と同様に洗礼に触れている箇所がある。 ペトロの手紙一 3 章 20 - 21 節では、ノアとその家族の箱舟による救出を「洗礼の対型」 251 8 聖礼典 ( サクラメント ) として論じ、将来における救いと関連付けている。イスラエルの民による紅海の横断――エジ プト捕囚からの解放――も、洗礼による救いに関連するものであると考えられている。 モーセと律法では「清潔」と「不潔」とを厳格に区別している。水は、儀礼を通して純粋 性を実現させるのに用いる手段の一つである。宗教的意味において不潔な人は、浄化のための もくよく 沐浴をしなければならなかった ( レビ 13 - 15 章 )。 エゼキエル書 16 章 9 節に、水で洗って油を塗った、との記述がある。こうした油注ぎが行 われたことによって、エルサレムに対して救いの契約が結ばれたのである。これも洗礼と御霊 の証印を表していると理解することができる。 同様にシリア人隊長ナアマンの状況も、洗礼と関連づけられている。皮膚病を患っていたナ アマンは預言者エリシャの指示に従い、ヨルダン川に七度にわたって体を浸すと、皮膚病が改 善されたのである ( 王下 5:1 - 14)。このことは、洗礼を受けることによって生まれながらの 罪が洗い流されることを喩えている、と解釈することができる。 8.1.2.2 洗礼に関する新約聖書の記述 新約聖書において「バプテスマ」の解釈には二つの部分がある。一つは水のバプテスマでも う一つは聖霊のバプテスマ < 御霊のバプテスマ > である ( 使 8:14 以下;10:47;19:1 - 6; テト 3:5)。そのため水のバプテスマと聖霊のバプテスマは相互依存の関係にある。 イエス・キリストは、神の御前で義とされるためにどうすべきかをお示しになるため、自ら へりくだってバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた ( マタ 3:15)。そのため悔い改めのバ プテスマが、ヨハネによって行われていた洗礼となったのである。御子はへりくだり、罪人と 同じ立場にまで御自身を低くされた ( フィリ 2:7)。このようにしてイエス・キリストは罪に 堕落した人類の模範となられたのである。 同時に、イエスが洗礼を受けられたことによって、神の御子であることの真実性が明確に示 された。これにより、三位一体の神――父、御子、聖霊――が啓示されたのである。神が三位 一体であるという奥義そのものが明確になり始めたのである。イエスが神の御子であるという 事実が宣べ伝えられたためである ( マタ 3:17;マコ 1:10 - 11)。 イエス・キリストも、御自身による犠牲の死を「洗礼」と言っておられる。十字架上の死と 洗礼とを関連付けているのである ( ルカ 12:50)。 イエスが天に昇られてから下された大宣教令は、バプテスマを――水と御霊とによるバプテ スマという形で――授けることが使徒に課された職務の一つであることを明らかにしている 「だ から、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名 252 8.1 洗礼 によって洗礼を授け (…なさい )」( マタ 28:19)。そのためバプテスマは三位一体の神から発 せられたものである。バプテスマは人の働きではなく、人類に対する神の救いの行為である。 ペンテコステにおける説教の後、信じた者たちに使徒たちはこう呼び掛けている「悔い改め なさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます」 ( 使 2:38)。このような方法で、 信徒は会衆の一員となっ ていったのである ( 使 2:41)。 8.1.3 救いを得るために洗礼が必要であること 洗礼に与ることは救いを得るのに欠かすことのできないものであり、贖いを完成させる第一 段階である。三位一体の神と永遠に交わるための道は、洗礼から始まる。 8.1.3.1 神の行為である洗礼 あふ 神の行為である洗礼は象徴的行為ではなく、愛に溢れた神が実際に働きかける行為である。 これを通して、神と人類との関係は根本から変わる。洗礼は人類をあらゆる側面でその効果を もたらすのである。 まとめ 洗礼は、イエス・キリストを信じる人に対して、三位一体の神が、最初であり根本を成す聖礼典 ( サクラメント ) としてお与えになる恵みである。 (8.1) 洗礼を通して、初めて神と密接な関係を持つことになる――つまりキリスト教徒として教会員となる。 (8.1) 新約聖書において「バプテスマ」という表現には水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマという二つの捉え方 がある。この二つのバプテスマは相互依存の関係にある。 (8.1.2.2) イエス・キリストは、神の御前で義とされるためにはどうすべきかを示すために、自らへりくだってバプテスマの ヨハネから洗礼を受けられた。 (8.1.2.2) イエスが昇天された後に発布された大宣教令では、バプテスマを――水のバプテスマと御霊のバプテスマという形 253 8 聖礼典 ( サクラメント ) で――施与することが使徒に課されている職務であることを明らかにしている。 (8.1.2.2) 救いを得るために、洗礼が必要である。 (8.1.3) 洗礼は象徴的な行為ではなく、神と人との関係を根本的に変える、愛に溢れた神の配慮による行為である。 (8.1.3.1) 8.1.3.2 原罪を洗い清める 「原罪」2とは人が神と離ればなれになっている状態、つまり堕罪が引き起こした神と人との 疎遠な関係を指す。人類は自らの不従順によって、自分たちを創造されたお方との永遠且つ直 接の交わりを不可能にしたのである。 だざい そえん 堕罪以来、罪深い状態と神との疎遠な状態が、全人類に重くのしかかっている ( 創 3:23 - 24;詩 51:5< 新共同訳 7 節 >;ロマ 5:18 - 19)。これはつまり、人類は皆、最初から―― つまり行動したり考えたりする前から――罪人だということである。具体的に罪を犯す以前か ら罪人なのである。しかし洗礼によるならば、原罪は洗い清められる。洗い清めるとは、神と 恒久的な距離が生じたり関係が疎遠になったりしている状態を、神御自身が解決して下さるこ とを比喩的に表現したものである。つまり神は、人が御自身との交わりを得る機会もさること ながら、御自身と人との密接な関係をもたらして下さるということである。しかし洗礼を受け た後も、人が罪を犯しやすい傾向に変わりはない。 罪に堕ちた結果は思いのほか根深いのである。 まとめ 「原罪」とは神から離れている状態、 つまり神と疎遠になっている状態をいう。これは堕罪の結果生じたものである。 堕罪以来、根本的に罪深い状態と神と疎遠になっている状態が、全人類に重くのしかかっている。 (8.1.3.2) 洗礼によって原罪は洗い清められ、神との疎遠な関係を打開することができる。とはいえ罪を犯しやすい傾向に変 わりはない。 (8.1.3.2) 2 原罪に関する教理は、アウグスティヌスが聖書の証しに基づいて確立したもので、原罪の起源はアダムとエバであ るとしている。この原罪という教理に関する根拠となっている聖書の記述は、詩編 51 編 5 節 < 新共同訳 7 節 > 及びロー マの信徒への手紙 5 章 12 節である。 254 8.1 洗礼 8.1.4 洗礼を正しく施与する 三つの聖礼典を構成する要素は神によって定められた。洗礼にとって不可欠な要素は二つあ る。一つは水、もう一つは三位一体の祭文である。三位一体の祭文とは「父、御子、御霊なる 神の御名によって、あなたに洗礼を授ける」というものである。この祭文によって洗礼が執り 行われるならば、信徒に対して効力を持つ洗礼となる。 内面の清めを表す表象である水を、汚れた世俗から神聖な領域に移行するためには、聖別し なければならない。そのため洗礼を執り行う前に、三位一体の名によって水を聖別する。そし てこの聖別された水を用いて、洗礼の執行者は受洗者の額に三回十字を切り、そして――按手 をしながら――父、御子、聖霊なる神の名において洗礼を授けるのである。十字を切るのは、 キリストにある救いと、キリストが犠牲としての死なれたことによってもたらされた贖いとを 表している。受洗者の額に三回十字を切ることは、三位一体の神を表している。 8.1.5 洗礼を受けるための要件 洗礼は誰でも受けることができる。新使徒教会では、大人でも子供でも受けることができ、 使徒職もしくは司祭職がこれを執り行う。洗礼を受けるためには、イエス・キリストとその福 音への信仰を告白することが要件である。 幼児洗礼を施す際、受洗する幼児の宗教的養育に責任を持つ両親もしくは保護者は、イエス・ キリストへの信仰を公に告白し、受洗する幼児を福音に従って養育することを誓約しなければ ならない。幼児洗礼が行われるのは、神の祝福が子供たちにも与えられるべきという考え方に 根拠に基づいている。幼児も、主の恵みを求めることができ、神の御国は幼児にも開かれてい るのである ( マコ 10:14)。 255 8 聖礼典 ( サクラメント ) まとめ 洗礼には不可欠な要素が二つある。一つは水であり、もう一つは三位一体の祭文にある言葉である。水は三位一体 なる神の御名によって聖別される。次に施行者は聖別された水を用いて、受洗者の額に三回十字を切り、父、御子、 聖霊の名において洗礼を授ける。 (8.1.4) いかなる人も洗礼を受けることができる。そのためには、イエス・キリストとその福音への信仰を告白することが 必要条件である。 (8.1.5) 幼児が洗礼を受ける場合、その幼児に宗教的養育の責任を持つ人物が、イエス・キリストへの信仰を自ら告白し、 幼児を福音に従って養育する誓約をしなければならない。 (8.1.5) 8.1.6 洗礼がもたらす効果 イエス・キリストを信じイエス・キリストへの信仰を告白する者たちは、洗礼を受けること によって、キリスト教会の一員となり、イエス・キリストと親しく交わることができるように なる。三位一体なる神の名によって行われる洗礼は、キリスト教徒となるために不可欠な要素 の一つである。 洗礼――旧約では割礼に相当するもの――は契約のしるしである。洗礼を通して、人は新し く契約を結び、さらなる契約のしるしである御霊の証印を受ける。洗礼を受けた者はこの御霊 の証印を受けることができる。新使徒教会で洗礼を受けた者は、定期的に聖餐を受ける資格が 与えられる。 洗礼を受けた者はイエス・キリストの死とその新しい命を共有する。霊的な観点でいえば、 イエス・キリストと体験を共にするということである。キリストが人類の罪のために十字架上 で死なれたように、洗礼を受けた者たちも罪を放棄することによって「罪に対して死ぬ」こと になる。洗礼を受けることによって、キリストによる贖いの働きに参画し、その結果として、 キリストがゴルゴタの丘で死なれたように、洗礼を受けた者も「死ぬ」こととなる。ここでい う「死」は、神と疎遠な生き方の終わりとキリストによる生き方の始まりを表している。洗礼 によって罪と戦う力が与えられるのである ( ロマ 6:3 - 8;コロ 2:12 - 13)。 洗礼とは「キリストを着ること」である。「キリストを着る」とは、内なる人の再生に至る 道を歩み始めたということである「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリス トを着ているからです」( ガラ 3:27)。これは、古い生き方をやめ、キリストの徳を「着る」 256 8.1 洗礼 ための基礎を表現している。つまり「悔い改め」であり、古い性質から方向転換して、主に向 かうことである。これは、神の御旨に従って生きるために懸命な努力をしなければならない、 ということを意味する。受洗の際は、キリストの支配において行動し生きていく誓いを立てる。 こうして「キリストにおいて」新しくされるのである。 8.1.7 洗礼と信仰 サクラメント せ よ サクラメント 他の聖礼典と同様に洗礼も信仰に基づいて施与される。聖礼典と信仰は一つである「信じて サクラメント 洗礼を受ける者は救われる」( マコ 16:16)。信仰は、神の働きである聖礼典への対応の在り サクラメント 方だけでなく、聖礼典を受けるための要件でもある。 洗礼を受けた者に信仰が無ければ、洗礼そのものが無効となる恐れがある。有効な形で洗礼 を施与することは、一度しかできない。 8.1.8 洗礼と御霊の証印 サクラメント 洗礼と御霊の証印は相互依存の関係にあるものの、それぞれ別々の聖礼典である。使徒言行 録には水のバプテスマと聖霊のバプテスマがそれぞれ別々の行為として執り行われることが記 されている ( 使 2:38 - 39;8:12 - 17;10:44 - 48;19:5 - 6)。 サクラメント この二つの聖礼典を受けた時、つまり洗礼と御霊の証印を受けた時に、水と御霊とによる再 生が果たされる ( ヨハ 3:5)。 8.1.9 洗礼とキリストへの服従 信徒は洗礼を受けている間、罪を回避してキリストに従う生き方をすることを誓う。受洗者 に求められる服従とは、イエスの生き方やイエスの本質に倣うことである。 「わたしについて来 たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスが言われた 通りにすることである(マタ 16:24)。 257 8 聖礼典 ( サクラメント ) 8.1.10 洗礼と使徒職 マタイによる福音書 28 章 18 - 20 節の記述の中で、イエスは復活され天に昇られて以降、 サクラメント 洗礼を授ける職務を使徒たちに委託しておられる。聖礼典の執行は使徒の職務と不可分の関係 にある。御霊の証印は――聖書の証ししているところによれば――使徒だけが施与するもので ある。しかし洗礼は使徒だけが行うものではないことを示唆する記述が聖書に少なからずある ( 使 8:38)。新使徒教会の司祭職も、洗礼を授ける権能が与えられている。 ただし、使徒や使徒から任命された教役者によって執行された洗礼だけが有効というわけで はない。つまり、洗礼は教会全体にその執行が委託されているため、他教派で行われた洗礼も 有効である (6.4.4 参照 )。 まとめ 三位一体の神の名において執り行われる洗礼は、キリスト教徒にとって必須の要素である。 (8.1.6) 洗礼は契約のしるしである。これにより人は新約に組み入れられるためである。洗礼は内面の再生に至る第一段階 である。 (8.1.6) 適切に施与される洗礼は一度しか行われない。 (8.1.7) 洗礼と御霊の証印は 相互依存の関係にあるが、聖礼典 ( サクラメント ) としては別個のものである。この二つを受 けることにより、水と御霊とによる再生が果たされる。(8.1.8) イエスは復活の後、使徒たちに洗礼授与の職務を与えた。新使徒教会では使徒にその権能を与えられているが、洗 礼の授与を使徒が司祭職に委ねることもできる。 (8.1.10) 洗礼は教会全体にその執行が委ねられているため、他教派で受けた洗礼も有効である。 (8.1.10) 8.2 聖餐 新使徒信条第七条は次のように告白している: 「私は、キリストが完全に有効な犠牲としてただ一度捧げられ、断腸の苦しみを受けた末に 死なれたことを記念して、キリスト御自身により聖餐が制定されたことを信じます。聖餐にふ 258 8.2 聖餐 さわしく与ることにより、私たちの主であられるイエス・キリストとの交わりが築かれます。 聖餐は、種入れぬパンとぶどう酒によって、執り行われます。このパンとぶどう酒は、必ず使 徒から任職を受けた教役者が聖別して、これを施します。 」 サクラメント 聖餐は、三つの聖礼典の中で、唯一繰り返し施与されるものである。聖餐の趣旨や意義を論 理的教義的に理解し尽すことは不可能である。聖餐はイエス・キリストのが持つ位格の奥義と、 深く関連しているのである。 この聖餐によって、神の実在と、人類に対する神の慈愛深さとを、体験することができる。 聖餐は礼拝で行われるものの中で中心的存在である。また聖餐は、信仰に忠実な者たちの意識 や生活の中で、重要な位置を占めるものでもある。 8.2.1 聖餐に対する呼称について サクラメント キリストの体と血に関するこの聖礼典については様々な呼称があり、それらの表現によって 強調している点が異なっている: • 「聖餐」とはイエス・キリストが十字架の刑に処せられる前夜に使徒たちと交わりを持た サクラメント れた中で制定された聖礼典という、時間を軸とした表現である。 • 聖餐 < 式 > を意味する英語の「ユーカリスト Eucharist」とはギリシア語で「感謝を捧げる」 という意味の「ユーカリステイン εὐχαριστεῖν」から来ている。イエス・キリストは、聖 餐を制定する際に、神に感謝を捧げられた ( ルカ 22:19)。聖餐の感謝では、特にイエス・ キリストが犠牲となられ、それによって徳を得られ、さらに贖いとなられ、清くなられ たことについて、心を尽くして感謝することが信徒に求められている。 • 「主の晩餐」とは、イエスが主であることと (3.4.6.2)、主の立場で聖餐を制定し執り行わ れたことに注目させるための表現である。 • 「パンを裂く」とは、過越祭の食事を指している。イエス・キリストはこの過越祭の食事 をしている時に、聖餐を制定されたのである ( マタ 26:26)。パンを裂くというのがイ エスを特定する特徴の一つであることは、エマオへ向かっていた二人の弟子が復活され たイエスに気付く過程の出来事からわかる ( ルカ 24:13 - 31)。初期のキリスト教徒は、 食事の交わりのことを「パンを裂く」と言っていた。この交わりを通して彼らの一致と 親交を表現していたのである ( 使 2:42,46)。 259 8 聖礼典 ( サクラメント ) 8.2.2 聖餐に関する旧約聖書の記述 旧約聖書には、御子についてや、御子の苦しみ、犠牲の業に関する記述が多くあるだけでな く、 聖餐に関連する出来事も多く書かれている。こうした出来事は、 こんにちの視点に照らすと、 サクラメント イエス・キリストによって制定されたこの聖礼典を表したものと理解できる。このことから明 らかなのは、旧約と新約との関係が非常に緊密であるということである。 創世記 14 章 18 - 20 節には、アブラムがいと高き神の祭司メルキゼデクと出会ったことに ついて書かれている。それによれば、メルキゼデク――ヘブライ書簡では彼がイエス・キリス トを表していると論じている――は、アブラムを祝福しパンとぶどう酒を持って来た (18 節 )。 この「パンとぶどう酒」は聖餐のパンとぶどう酒に通じる。このことはヘブライ人への手紙 5 章 10 節で、イエス・キリストは「メルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれた」と、もっと 明確に表現している。 聖餐に関する旧約聖書の記述としてもう一つ重要なものとしては、砂漠を放浪していたイス ラエルの民にマナが与えられたという記事がある ( 出 16:4 - 36)。マナとは「天からのパン」 を意味する (4 節 )。ヨハネによる福音書 6 章 35 節によれば、イエス・キリストは御自身を「命 のパン」と呼んでおられる。マナという言葉には、もっと大きな約束を包含していた。つまり、 人の身体を強めるだけでなく、人の存在そのものを強め、救いに与らせる糧がマナだったので ある。 8.2.3 食べ物を与えることに関するイエスの奇跡と聖餐 福音書によれば、イエスは罪人らと飲み食いをされた。ファリサイ派の人々や律法学者たち とは対照的に、イエスは、モーセの律法によって不浄との扱いを受けて義とされる人々から排 除されていた人たちと、食事を共にされたのである ( マコ 2:13 - 17)。 イエスは人々と食事をされただけでなく人々に食べ物をお与えになったことが、福音書群 の中に書かれている。イエスによって食べ物が与えられた奇跡――例えば、五千人の食事を用 意したこと ( ヨハ 6: 1 - 15)、四千人の食事を用意したこと ( マタ 15:32 - 38)、カナの婚 礼で水をぶどう酒に変えたこと ( ヨハ 2:1 - 11)――はすべて神の御国がイエス・キリストに よって人類に近くなったことのしるしである。ここに書かれているこの世的な食べ物は、身体 的空腹を満たすものだけでなく、キリストによる救いのことでもある。このことが明確になる のは、主が五千人に食べ物をお与えになった時に言われた次の御言葉である「わたしが命のパ ンである」( ヨハ 6:26 - 51)。 260 8.2 聖餐 8.2.4 過越祭の食事 イスラエルの人々は、主が命じられた通り、エジプト脱出前夜に最初の過越祭を祝った。そ ほふ の時に汚れていない子羊を屠って調理した。子羊と一緒に種入れぬパンも用意した。子羊の血 かもい ういご は家の鴨居に塗りつけた。それは、エジプトを襲うことになる十の疫病いわゆる初子の死から、 イスラエルの人々を守る ( 過ぎ越させる ) ためのしるしであった ( 出 12 章 )。 神はこのエジプトからの解放を記念するために、毎年過越祭を祝うようイスラエルの人々に 命じられたのである。 この過越祭と聖餐はよく似ている。というのは両方とも記念の食事であってその食事にパン さかずき が欠かせぬ存在となっている。過越祭の食事の最後に杯に入れたぶどう酒を飲むが、これはイ スラエルの人々がエジプトから解放されたことによる喜びを象徴するものである。過越祭で流 される子羊の血は、イスラエルの人々の長子を救出する効果をもたらした。このことは清めら れた「神の子羊」であるイエス・キリストを表している「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」 ( ヨハ 1:29;一ペト 1:19 参照 )。 過越の食事はイスラエルの人々がエジプト捕囚から救出されたことを記念するものである が、聖餐はそれよりはるかに広い意味での救出、つまりキリストの犠牲を通して人類を罪の束 縛から贖い出し、永遠の死から救出することを指しているのである。 8.2.5 イエス・キリストによる聖餐の制定 イエス・キリストは、使徒たちを前にして聖餐を制定される以前から、 こう述べておられる「… はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」 ( ヨハ 6:53)。「肉と血」とは聖餐を指している。聖餐は、主も強調されたように、救いに不可 欠なものである。ここで主はもう一つ重要なことを言われた「わたしの肉を食べ、わたしの血 を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。…わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」( ヨ ハ 6:54,56)。 共観福音書によれば、イエス・キリストは過越祭の食事を使徒たちと共にされた、とある。 そしてマタイによる福音書 26 章 26 - 29 節では、主が聖餐を制定される様子をこう描いてい る「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟 子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。 』 また、 杯を取り、 感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。 『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦され 261 8 聖礼典 ( サクラメント ) るように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの 父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むこと は決してあるまい。』」( マコ 14:22 - 25;ルカ 22:14 - 20)。聖餐が制定された状況について、 おおむ マルコによる福音書とマタイによる福音書は、概ね一致した記述内容である。ただしルカによ る福音書のほうには「わたしの記念としてこのように行いなさい」及び「この杯はわたしの血 による新しい契約である」という文言がある ( ルカ 22:19 - 20)。 主は「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたことにより、御自身がなさっ たのと同じ方法で聖餐を執り行うための委任と権限とを、使徒たちにお与えになったのである。 8.2.6 コリント書簡に見る聖餐 コリントの信徒への手紙一 11 章 17 - 32 節には、聖餐を執り行う根拠とイエスが聖餐を制 定の宣言する際の御言葉が書かれている。まず、聖餐の執行が初期キリスト教会で行われた宗 教的実践の一つであったことを指摘している。ここで使徒パウロは、コリントの教会で実際に 聖餐を執り行うに際して、聖餐が制定された時の言葉を引用している。ここで明らかなのは「わ たしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです…」と書かれているよ うに、事前に決められていた内容が伝達されていることである。続けてパウロは聖餐制定に際 してこう述べている「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれ を裂き、 『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行い なさい』と言われました。また、食事の後で、 杯も同じようにして、 『この杯は、 わたしの血によっ て立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言 われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるとき まで、主の死を告げ知らせるのです」( 一コリ 11:23 - 26)。 この聖句では、聖餐が制定された状況と、イエスによって伝えられた言葉の内容について説 明している。救いの歴史の中でも無類のこの出来事を記念する文言は、聖餐制定の言葉にも盛 り込まれている。聖餐を祝う場合はいつも、主が連行される前夜のことも記念される。 パンを裂くことと神に感謝 ( ギリシア語「ユーカリステイン εὐχαριστεῖν」) をすることが同 一であることにも言及している。パンとぶどう酒に関するイエスの解説も繰り返されている。 つまりパンは単なる過越祭の食事ではなく「あなたがたのために裂かれたわたしの体」である、 ということである。同様に、ぶどう酒を杯に入れて飲むことも単なる過越の習慣としてではな く「わたしの血によって立てられる新しい契約」と言っている。聖餐を執り行う中で回って来 て勧められる一杯のぶどう酒によって、新しい契約が成立する土台となったイエスの死を記念 262 8.2 聖餐 するのである。この杯を飲む者は誰でもイエス・キリストの血つまり主御自身の血を受けたこ とになる。そしてこの聖句の結びでは、キリスト再臨だけでなくキリストの死という無類の出 来事を伝えることの重要性を強調している。主と共に命の交わりをするために行われる聖餐の 意義についても次のように強く指摘している「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリス トの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることで はないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて 食べるからです」( 一コリ 10:16 - 17)。 8.2.7 パンとぶどう酒の持つ意味 サクラメント 聖餐という聖礼典の構成要素であるパンとぶどう酒には、生活の糧、式の執行、それにイス ラエルの人々が行っていた礼拝といった側面がある。 パンは一般的に生活の糧を象徴している。パンの食事とそれに関連した奇跡として旧新約聖 書に書かれている記事は、神が人類を部分的にではなく――つまり人類の体だけ、あるいは魂 だけではなく――全面的に思いを寄せておられることを示している。イスラエルの人々が行っ ていた礼拝の中でも、パンとぶどう酒はモーセの律法によって重要な役割を担っていた。すな わち、奉納するためのパン (「供えのパン」) を十二個用意して、至聖所の幕の前にある台座に 供えたのである。安息日ごとに、そのパンを祭司らが食べ、新しいパンを供えたのである ( 出 25:30)。 古代イスラエルでは、ぶどう酒も生活の必需品であり、祝祭で飲まれるものの一つだった。 イスラエルでは、ぶどう酒は喜びと未来の救いを象徴するものでもあったのである ( イザ 55:1)。 263 8 聖礼典 ( サクラメント ) まとめ 聖餐は人類に繰り返し施与される聖礼典 ( サクラメント ) であり、礼拝の中核を成す行事である。 (8.2) 聖餐は「ユーカリスト ( 感謝すること )」 「主の晩餐」「パンを裂くこと」としても知られるものである。 (8.2.1) 旧約聖書には聖餐に言及する記事がある。 (8.2.2) 過越祭の食事も聖餐も、パンを必須とする記念の食事である。しかし過越祭の食事はイスラエルの人々がエジプト 捕囚から解放されたことを記念するものであるのに対し、聖餐はそれよりはるかに包括的な意味での解放を表して いる。つまり、罪という奴隷である人類を贖い出すという意味を持つのである。 (8.2.4) イエス・キリストは過越祭に使徒たちと食事を共にされた。その中でイエスは聖餐を制定された。 (8.2.5) 聖餐を執り行う根拠とイエスが聖餐を制定の宣言する際の御言葉を示す最古の記述が、コリントの信徒への手紙一 11 章にある。この箇所は、聖餐が制定された状況を再認識させる内容も含む。 (8.2.6) 聖餐はパンとぶどう酒を用いて執り行われる。 (8.2.7) パンは生活を支える糧を象徴している。ぶどう酒も同様だが、その他に喜びと未来の救いの象徴でもある。 (8.2.7) 8.2.8 記念の食事としての聖餐 聖餐はまずイエスの死という、いつの時代においても有効である無類の出来事を記念するも のであることから、記念の食事と言える。イエスの死を覚えることは重要である。というのは 記念することによって、イエス・キリストが真の人として実際の死を体験したお方であること を強く認識することができるからである。また記念によって、使徒を囲んだ中で聖餐が制定さ れた時の状況を再認識できることから、聖餐の適切な執行にとって使徒の存在が重要であるこ とを浮き彫りにする。さらにイエスの死を記念することにはもっとはるかに深い意味がある。 それは主の復活であり ( それゆえ聖餐はイースター < 復活祭 > の食事でもある )、昇天である。 聖餐を祝う者は皆、イエス再臨の時まで、このことを記念し、宣べ伝えるのである。 聖餐は過去を記念するだけではない。こんにちにおけるキリストの臨在と、未来における御 国の到来を改めて確信する食事でもある。 264 8.2 聖餐 8.2.9 告白の食事としての聖餐 聖餐は「…、主の死を告げ知らせるのです」という聖書の言葉から明らかなように、告白の 食事である ( 一コリ 11:26)。イエス・キリストの死と復活と再臨を告白する < 告げ知らせる > ことは、キリスト教の信仰告白における基本の一つである。救いを得るために聖餐に与りた いと願う者は誰でもこのことを告白しなければならない。 定期的に聖餐を受けている者は、自分がこんにちいる使徒の活動と権威において自らの信仰 を公に言い広めているという自覚を持つべきである (2.4 及び 8.2.21 参照 )。 サクラメント 聖餐に告白の食事としての性質があることを強く認識することによって、この聖礼典を軽率 な姿勢で受けたり、あたかも決まりきった行事であるかのごとく受けたりするのを防止するこ とになる。 8.2.10 交わりの食事としての聖餐 聖餐が交わりの食事であることについては、以下のように三つの意味がある: • 一つ目として、人となられ栄光に満ちた神の御子が、聖餐を執り行う中で、御自分の使 徒たちと共に交わりを持たれる。 • 二つ目として、聖餐を執り行う中で、復活された御子が、ふさわしい姿勢で主の晩餐に 与る者たちと交わりを持たれる。 • 三つ目として、礼拝のために集まった会衆が、聖餐の中で互いに交わりを持つ。 8.2.11 終末時代の食事としての聖餐 聖餐が終末時代――時の終わり――としての特徴を備えているのは、聖餐が天の婚宴と密接 に関係しているためである。イエス・キリストにより神の御国は近づいた。 「神の国が来るまで、 わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とイエス・キリストは 仰せになった ( ルカ 22:18)。この言葉に従って、聖餐に集う会衆は、聖餐の交わりにおいて 告げられる約束の成就を待つのである。将来最終的に花嫁が花婿と一つに結ばれる時まで (10.2 参照 )、会衆は聖餐を通して主と密接な交わりを体験することになる。 265 8 聖礼典 ( サクラメント ) まとめ 聖餐は記念の食事である:イエスの死を、いつの時代も有効な無類の出来事として記念する。これは主の復活や昇 天だけでなく、やがておとずれる御国やこんにちにおけるキリストの臨在も含む。 (8.2.8) 聖餐はイエス・キリストの死と復活と再臨を告白することである。聖餐に与ることを願う者はこのことを告白しな ければならない。 (8.2.9) 新使徒教会で定期的に聖餐を受けている者は、イエスの使徒たちがこんにち活動していることを公に言い広めてい るという認識を持つべきである。 (8.2.9) 聖餐が執り行われる中で、イエス・キリストは使徒たちと交わりを持ち、次に信徒と交わりを持たれる。そして、 礼拝に参集した会衆も聖餐の中で互いに交わりを持つ。 (8.2.10) 聖餐には終末的特徴も備えている。天の婚宴と密接に関連しているからである。最終的に花嫁が花婿と一つに結ば れる時まで、会衆は聖餐の中で花婿と密接な交わりを持つ。 (8.2.11) 8.2.12 聖餐におけるイエス・キリストの体と血の実在 聖餐執行に当たり、パンとぶどう酒を聖別し聖餐制定の言葉を宣言するが、これによってパ ンとぶどう酒の成分が変化するわけではない。キリストの体と血の成分が、パンとぶどう酒の かたい 成分と一つに合わさるのであって ( 両体 [ 実体 ] 共存 )、成分が変化するわけではない ( 化体 )。 聖餐は、イエス・キリストが人と神の両方の性質を兼ね備えていることと、密接に関係して いる。イエス・キリストの中には、人と神の両方の性質が完全かつ不可視の形で存在している のである (3.4 参照 )。このような意味において、パン・ぶどう酒とキリストの体・キリストの 血との関係を理解すべきである。聖別が行われると、 「パンとぶどう酒」――これはキリストに おける人の性質に相当する――と「体と血」――これはキリストにおける神の性質に相当する ――という並列した関係が生じるのである。 聖餐において、パンとぶどう酒は、キリストの人の性質に相当する。一方、体と血は、キリ ストの神としての性質に相当する。従って、パンとぶどう酒の化体はあり得ないのである。た とえ聖別しても、パンとぶどう酒そのものの成分はそのままである。しかしパンとぶどう酒は 単にキリストの体と血を喩えたり象徴したりするような存在ではない。実際にキリストの体と 血そのものなのである ( キリストの現存 )。使徒や使徒から委託を受けた司祭職によって聖別が 266 8.2 聖餐 宣言されることによって、キリストの体と血の成分が、パンとぶどう酒の成分と一つに合わさ るのである。 この過程で、聖餐のパンとぶどう酒が見える形で変化することはない。人としてのイエスが 地上で生涯を送られていた時はその姿を見ることができたように、聖餐の中ではパンとぶどう 酒を目で見ることができる。しかし聖別が行われると、聖餐のパンとぶどう酒は――イエス・ キリストが二つの性質を兼ね備えていたように――二つの成分、つまりパンとぶどう酒の成分 とキリストの体と血の成分を含有するのである。 すると神の御子が、 神と人の性質を備えた形で、 聖餐のパンとぶどう酒の中に実在することとなる。 一方、聖餐のパンとぶどう酒については、パンがキリストの体でぶどう酒がキリストの血で あるというわけではない。キリストの体と血は、パン及びぶどう酒の両方にしっかりと存在し ている。 キリストの体と血は、それを受け取るために指定を受けた者の手に届けられるまで、聖別さ れたウェファーの中に存在し続ける。 礼拝後、施与されなかったウェファーは丁寧且つ慎重に処理される。 8.2.13 聖餐におけるイエス・キリストの犠牲の実在 聖餐の中で実在するのは、キリストの体と血だけではなく、キリストの犠牲も実在する。た だし犠牲として差し出されたのは一度だけであって、聖餐の中でその犠牲が繰り返されるわけ ではない。聖餐は犠牲を思い起こすだけではない。聖餐が執り行われる中で、イエス・キリス はりつけ よみがえ トは十字架に磔にされ、蘇り、再臨される主なるお方として、会衆の真ん中に立たれるのであ る。従って、一人ひとりが救いに近づく効果をもたらすという点で、一度のみ捧げられた犠牲 も聖餐の中に存在する。このようにして、聖餐が執り行われることによって、それに与る者は、 主による犠牲の死を再現することができ、自信をもってその死を告げ知らせることができるの である ( 一コリ 11:26)。 267 8 聖礼典 ( サクラメント ) まとめ パンとぶどう酒は、聖別して聖餐制定を宣言しても、その成分が変わるわけではない。イエスの体と血の成分がパ ンとぶどう酒の成分と一つに合わさるのである ( 両体 [ 実体 ] 共存 )。(8.2.12) 聖餐において、パンとぶどう酒はキリストの人としての性質に相当し、体と血はキリストの神の性質に相当する。 (8.2.12) パンとぶどう酒は単なるキリストの体と血を喩えたり象徴したりする存在だけではない。キリストの体と血は実在 するのである ( キリストの現存 )。 (8.2.12) イエス・キリストの犠牲は聖餐の中にも存在するが、犠牲が捧げられたのはただ一度だけで、犠牲が繰り返される わけではない。 (8.2.13) 8.2.14 罪の赦しと聖餐との関係 罪の赦しと聖餐とは密接に関係している。罪の赦しも聖餐も、その土台はキリストの犠牲で ある ( 使 13:37 - 38)。イエス・キリストは御自身の犠牲を基礎に据えて、聖餐を制定した のである「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血で ある」( マタ 26:28)。また、主はこのように仰せになったことで、御自分が犠牲として捧げ られるのは人類を罪から贖い出すためであることを明らかにしておられる。 キリストは使徒たちに、罪の赦しを宣言する権限と (7.6.2 参照 )、御自身が使徒たちになさっ たことと同じ聖餐を執り行う権限とを ( ルカ 22:19)、お与えになった。 聖餐の中でキリストの犠牲は実在するものの、聖餐自体に罪を赦す効力は無い。罪の赦しが 宣言された後で、聖餐のパンとぶどう酒が聖別されることにより、信徒はふさわしい姿勢で聖 餐に与ることができる。 8.2.15 聖餐と使徒職との関係 イエス・キリストは使徒たちを一堂に会して聖餐を制定し、聖餐の執行を使徒たちに委任し た。イエスは福音の宣教と聖餐の施与を彼らに委ねられたのである。イエス・キリストは御自 268 8.2 聖餐 身を犠牲として捧げられた真の大祭司である、とヘブライ人への手紙の中に書かれている。イ エス・キリストから委任を受けている使徒職や祭司職が聖別を行う時は、必ずイエス・キリス トから受けた委任と権限によって行う。このような意味において、聖餐の執行中に、神の御子 すなわちその体と血が実際に存在することとなる。また同様の意味において、イエスの使徒た ちは「キリストに仕える者」( 一コリ 4:1) となる。 イエス・キリストによって設けられ権限を受けた教役者を通して、聖霊が活動するところに おいては、聖餐は必ず現実化するのである。 まとめ 罪の赦しと聖餐は密接に関係している。両方ともイエス・キリストの犠牲の上に成り立っている。キリストの犠牲 は聖餐の中で存在するが、この時に罪が赦されるわけではない。 (8.2.14) 罪が赦されることで、聖餐にもふさわしく与ることができる。 (8.2.14) イエス・キリストは使徒たちを一堂に会した中で聖餐を制定され、その執行を彼らに委ねられた。 (8.2.15) イエス・キリストによって設けられ権限を受けた教役者を通して聖霊が活動しているところでは、聖餐は必ず現実 化する。 (8.2.15) 8.2.16 聖餐における聖別の言葉 権限を受けた教役者は、聖餐執行の際に、コリントの信徒への手紙一 11 章 23 節以降及び マタイによる福音書 26 章 26 節以降に記されている文言に基づいて、次のように定められた聖 別の典礼文を伝達する: 「父、御子、御霊なる神の御名によって、聖餐のために、パンとぶどう酒を聖別いたします。 と わ そしてこのパンとぶどう酒にひとたび捧げられた、永久に有効なるイエス・キリストの犠牲を 据えます。主はパンとぶどう酒を手に取られ、感謝を捧げてこう言われました『これはあなた がたのために与えられる、私の体、これは多くの人の罪の赦しのために流される私の血、新し い契約の血です。私を記念してこれを食べ ( て )、飲みなさい。このパンを食べ、この杯さかず きを飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。アーメン』 。 」 269 8 聖礼典 ( サクラメント ) 8.2.17 聖餐の執行と聖餐を受けること サクラメント 聖礼典の一つである聖餐の執行とは、聖別されたウェファーを通して「これはあなたに与え られたイエスの体と血です」と宣言して、イエス・キリストの体と血を施与することである。 サクラメント 従って「聖餐」という表現は聖別及び施与された聖餐のウェファー ( 聖礼典上のパンとぶどう酒 ) を指すのが基本である。 サクラメント しかし、聖餐のウェファーを聖別するのもそれを施与するのも、聖礼典の一部であるため、 もっと広い意味で、つまり聖別と施与の両方を完全に行うこと ( 典礼行為 ) という意味で「聖餐」 という表現が用いられている。 聖餐は、極めて重要なので、イエス・キリストへの敬意、信仰、全面的献身の姿勢で臨むこ とが求められる。 8.2.18 聖餐に与るための要件 聖餐にふさわしい姿勢で与る基本要件は、救いへの渇望に溢れた、信心と悔い改めの気持ち を持っていることである。不信心であることによって聖餐が無効になるわけではないが、聖餐 が祝福や救いをもたらすためには、信仰が前提要件となる。不信心な姿勢で聖餐を受けること については、コリントの信徒への手紙一 11 章 29 節に次のように書いてある「主の体のことを わきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」 。 キリストの死に無関心であったり、聖餐を単なる習慣的行為としてしか聖餐を捉えなかった サクラメント りする人は、この聖礼典にふさわしくない姿勢で聖餐に臨んでいる恐れがある。 8.2.19 聖餐を受ける方法 聖餐は、教役者も会衆も、パン及びぶどう酒という同じ形式で受けることになる。 1917 年以降新使徒教会では、聖餐のパンとぶどう酒を、ぶどう酒のかかったウェファーの形 で一緒に施与する。 270 8.2 聖餐 8.2.20 聖餐のもたらす効果 ふさわしい姿勢で聖餐に与る者たちは、イエス・キリストの犠牲によって獲得された御自身 の徳を分け合う。聖餐に与ることによって、イエス・キリストの徳や新しい契約――これらは 洗礼を土台として築かれる――を絶えず積むことになる。 さらに聖餐によって、神の御子と命の交わりを持つことが保証される。この命の交わりは目 に見える形で表されるものであり、この交わりによってイエス・キリストとさらに緊密な人生 を歩むことができる。キリストは御自身の体と血を通して、信じる者たちに御自身の本質―― 勝利をもたらす究極の強さを特徴とする本質――を分け与え、これによって信徒はキリストに よって生きることができる。 キリストの体と血は実在しているため、ふさわしい姿勢で聖餐に与るならば、主と真の交わ りを構築でき、この世に存命中の者たちも故人となった者たちも、信じる者たちすべてが、一 つになることができる ( ヨハ 17:20 - 21)。またこのことは、コリント信徒への手紙一 10 章 17 節に次のように書かれている「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆 が一つのパンを分けて食べるからです」。聖餐によってもたらされる、信仰に忠実な者たちのこ の一致は、イエス・キリストと、イエス・キリストから遣わされた使徒たちと、水と御霊とによっ て再生した者たちとの一致である。主の晩餐における交わりの中で、キリスト教会の真の本質 と真の姿がはっきりと具現化するのである (6.5 参照 )。 それと同時に、聖餐はキリスト再臨の日に備えるために欠くことのできない手段なのである。 まとめ 聖餐を聖別する時、権限を与えられた教役者がコリントの信徒への手紙一 11 章 23 節以下、マタイによる福音書 26 章 26 節以下に基づいた典礼文を伝達する。 (8.2.16) イエス・キリストの体と血は聖別されたウェファーの形で施与される。 (8.2.17) 聖餐にふさわしく与るための基本要件は、救いを渇望することと、自ら進んで悔い改めようとする姿勢と、信仰で ある。 (8.2.18) 新使徒教会では、ウェファーにぶどう酒を数滴染み込ませたものをパンとぶどう酒として施与する。 (8.2.19) 聖餐に与ることによって、信徒は皆でキリストの徳――水のバプテスマを土台にして築かれるもの――を継続的に 積み上げることができる。聖餐は神の御子と命の交わりができることを保証し、信徒同士の一致を図ることができ る。 (8.2.20) 聖餐はキリスト再臨の準備をするために欠かせない手段である。 (8.2.20) 271 8 聖礼典 ( サクラメント ) 8.2.21 聖餐に与る資格 新使徒教会での受洗者、新使徒教会以外で受洗しそれを有効と認められた者、御霊の証印を 受けた者は皆、定期的に聖餐を受ける資格を有する。この者たちは新使徒信条 (2.4) の内容を 告白する。 聖餐を受けるためには、洗礼を受けていることが絶対要件である。受洗者だけが聖餐を受け られることは、当然である。 通常、聖餐を受けるのは新使徒教会員だけであるが、他宗派のキリスト教徒でも、適切に受 洗していれば (8.1.4)、ゲストとして聖餐に与ることは可能である。このような者に対しては、 聖餐が、死なれ、死から復活され、まだおいでになる神の御子を告白する食事であることを、 明確にすべきである。 新使徒教会を脱会したり除名されたりした場合、聖餐への参加資格も停止する。しかし再加 入、つまり再度新使徒教会員となった場合、聖餐への参加資格は復帰する。 8.2.22 他宗派の聖餐について 聖餐においては、権限を有する使徒職の働きによって、イエスの体と血がパンとぶどう酒に 合わさって一つになる。他宗派で執行する場合も、聖餐のパンとぶどう酒は重要である。その 宗派でもイエス・キリストの死と復活は信仰と感謝をもって記念する。 新使徒教会員が心に留めておくべきことは、他宗派の教会で定期的に聖餐を受けることは、 原則的にその教派の教義を告白していることになるということである。 まとめ 新使徒教会で受洗した者、受洗の承認を受けた者、御霊の証印を受けた者は、皆定期的に聖餐に与る資格を持って いる。聖餐を受けるためには水のバプテスマを受けていることが不可欠要件である。適切な方法で受洗したキリス ト教徒であれば、ゲストとして聖餐を受けることが認められる。 (8.2.21) 新使徒教会を脱会したり除名されたりした場合、聖餐に与る権利を失う。(8.2.21) 他宗派で執り行われる聖餐もパンとぶどう酒は重要である。その宗派でも、信仰と感謝をもってイエス・キリスト の死と復活を記念する。 (8.2.21) 272 8.3 御霊の証印 8.3 御霊の証印 御霊の証印は、使徒の祈りと按手によって、信徒が聖霊の賜物を受け、神の子となり初穂と サクラメント 新使徒信条第八条では次のように定めている: 「私は、 して召されるための聖礼典である。従って、 水のバプテスマを受けた者が、神の子としての身分を受け、初穂となる要件を獲得するために、 使徒によって聖霊に与らなければならないことを信じます。 」 8.3.1「証印」という表現について 「証印」とは、重要文書の内容を保証したり権限を持たせたりする時に用いる手段である。 証印があることによって公式に認められたものであることが証明される。機密文書には封をし て証印を押す。所有者は所有物に証印を押して、自分のものであることを証明する。証印は、 内容物の保護と健全性が権威者によって保証されていることを証明するものである。 証印という表現に様々な意味があることは、聖霊のバプテスマを表す際にも反映されている。 さらに新約聖書書簡に書かれている「証印を押される」という表現は聖霊の賜物を受けること を意味すると考えられる。 • 「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、 わたしたちに油を注いでくださっ たのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に “ 霊 ” を与えてくださいました」( 二コリ 1:21 - 22)。 • 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そし て信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」( エフェ 1:13)。 • 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保 証されているのです」( エフェ 4:30)。 • ヨハネの黙示録にも所有者であることを示す印あるいは終末時代における救いの印 < 徴 > として、証印という表現が使われている ( 黙 7:3;22:4)。 8.3.2 旧約聖書に書かれている聖霊の約束 旧約の時代、聖霊は特定の任務遂行のために神から選ばれた人物の中で活動していた。その ため天来の権威や指示を証しするために、預言者たちは「主は言われる」という表現を用いた。 273 8 聖礼典 ( サクラメント ) 神の御霊によって、裁きと救いの宣教に基づく思考が、預言者たちの内に覚醒されたのである。 預言者たちは神の委託を受けて、選民を統治する王に油を注いだ。例えばダビデが王になる 時に預言者サムエルから油注ぎを受けている ( サム上 16:12 - 13)。この行為によってダビ デは王として、いわば「証印を押された」のである。しかも、神の御霊がダビデの上に降り注 いだとも書かれている。詩編 51 編 11< 新共同訳 13> 節によれば、ダビデは――罪を犯した後 で――主が聖霊を取り上げないで下さい、と祈っている。 また旧約聖書では未来の事柄についても言及している。つまり神の御霊が注がれる――しか も特定の人物だけでなく多くの人に注がれる――ということである「その後/わたしはすべて の人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その 日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」( ヨエ 2:28 - 29< 新共同訳 3:1 - 2>)。これと同様の約束を他の預言書でも確認することができる。例えばエゼキエル書 36 章 27 節には「また、わたしの霊をお前たちの中に置き、…」とある。使徒ペトロはペンテコステ の時の説教で、預言者ヨエルの約束がすでに成就したことを指摘している ( 使 2:15 以下 )。 8.3.3 イエス、聖霊による油注ぎを受ける サクラメント 御霊の証印も他の聖礼典同様、イエス・キリストの生涯とその活動を土台としている。イエス・ キリスト――人の子――について、ヨハネによる福音書 6 章 27 節では「父である神が認証さ れた」と書いてある。 イエスがヨルダン川で受洗された後、バプテスマのヨハネも次のように証ししている「わた しは、“ 霊 ” が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」。これは、神がバプ テスマのヨハネに約束しておられたしるしであった。このしるしは、イエス・キリストが「聖 霊によって洗礼を授ける…神の子である」ことを ( ヨハ 1:29 - 34)、ヨハネに知らせるため のものであった。 この出来事はマタイによる福音書 3 章 16 節にも書かれている「イエスは洗礼を受けると、 すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩 のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。聖霊がイエスに降ったのは、イエスの 受洗が完了した後である。つまり洗礼の執行と聖霊の降臨はそれぞれ別個に行われたことなの である。聖霊と神の声は、イエスが神の御子であることを宣べ伝えておられる。イエスに聖霊 が注がれたということは、イエスのメシアとしての正当性を表すと同時に、後に制定される サクラメント 聖礼典を予示するものである。 洗礼と御霊の証印との関係を理解する前提は――何よりも――この二つの出来事すなわち水 274 8.3 御霊の証印 のバプテスマと聖霊の油注ぎとがそれぞれ別々の出来事であるということである。洗礼と御霊 サクラメント の証印とは不可分であるものの、それぞれ別々の聖礼典である。 御霊の証印はイエスが聖霊による油注ぎを受けたことを手本としている。このことは使徒言 行録 10 章 37 - 38 節でも次のように明らかにされている「あなたがたはご存じでしょう。ヨ ハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、 ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました…」 。 8.3.4 ペンテコステの時に聖霊が注がれる イエス・キリストは使徒たちとの別れのあいさつで、彼らに聖霊をお遣わしになることを、 繰り返し約束しておられる。例えばヨハネによる福音書 15 章 26 節には次のように書かれてい る「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから 出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」 。この約束はペン テコステの時に成就し、使徒や弟子たちは聖霊に満たされたのである ( 使 2:1 - 4)。 神は、二つの極めて重要な出来事において、直接手を下された。このことは御霊の証印とい サクラメント う聖礼典を象徴的に予示している。その二つの出来事の一つ目は、神がイエスに聖霊によって 証印を施し、イエスが神の御子であることを証しされたことであり、二つ目は、神が使徒たち ――及び彼らと交わりをしていた信徒たち――に聖霊による証印を施されたことである。 ペンテコステの説教が終わり、キリストを信じるようになった人たちは、ペトロに向かって、 自分たちが何をすべきかを尋ねた。するとペトロは次のように答えた「悔い改めなさい。めい めい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、 賜物として聖霊を受けます」( 使 2:38)。これにより、洗礼が御霊の証印を受けるための前提 要件であることは明らかである。 しかし百人隊長であったコルネリウスについては例外であった。つまり神は、彼のような洗 礼を受けていない魂に直接聖霊をお与えになったのである。それは、異邦人も救いに近づける ことを使徒ペトロに示すためであった。このような特別な事情に限って、聖霊が施与された後 で洗礼が執り行われた ( 使 10 章 )。 8.3.5 新約聖書における御霊の証印に関するその他の証し 聖書の証しするところによれば、御霊の証印の執行は使徒職に限定されている。フィリポは サマリアで伝道し、福音を信じる人たちに洗礼を授けた「エルサレムにいた使徒たちは、サマ リアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリ 275 8 聖礼典 ( サクラメント ) アに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によっ て洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロと ヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」( 使 8:12 以下 )。シモンという名の魔 術師は「使徒たちが手を置くことで、“ 霊 ” が与えられるのを見」た ( 使 8:18)。この出来事 において、御霊の証印――つまり聖霊の賜物を受けること――は洗礼とはっきりと区別されて いるのである。 洗礼と御霊の証印が別々であることを立証する出来事がもう一つある。エフェソにヨハネか ら洗礼を受けた弟子たちがいた。彼らはその後主イエスの名によって洗礼を受けたのである 「パ ウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降」った。( 使 19:1 - 6)。 これらの出来事からわかることは、いくつかの例外を除いて、聖霊の賜物の施与は使徒職に よって行われているということである。さらに明らかなことは、聖霊の賜物が洗礼を受けた後 で与えられているということである。 8.3.6 御霊の証印の適切な施与 洗礼が水であり、聖餐がパンとぶどう酒であるように、御霊の証印の場合は使徒の按手―― 新約聖書の証しするところによれば――が目に見える要素である。使徒による祈りも、御霊の 証印を適切に執り行うための要素の一つである。 サクラメント 聖霊のバプテスマである御霊の証印は使徒のみによって執り行われる聖礼典である。 まとめ 御霊の証印を通して信徒は聖霊の賜物を受ける。 (8.3) イエスに御霊が降ったのは、洗礼が完了した後である。イエスに対して聖霊による油注ぎが行われたことは、イエ スが正当なメシアであるということであり、これが御霊の証印を示すものである。 (8.3.3) イエスは聖霊を遣わすことを約束されたが、この約束はペンテコステの時に成就した。 (8.3.4) 御霊の証印の執行が使徒職に限られていることは、聖書の証しするところである。 (8.3.5) 聖霊の賜物は、必ず水のバプテスマが行われた後に施与される。 (8.3.5) 御霊の証印という聖礼典 ( サクラメント ) は、使徒職のみが、按手と祈りを通して執り行うものである。 (8.3.6) 276 8.3 御霊の証印 8.3.7 御霊の証印を受けるための要件 御霊の証印を受けるためには、三位一体の神とイエス・キリストから遣わされた使徒を信じ ることが必要である。それ以前に適切な洗礼を受けていなければならない (8.1 参照 )。信仰を 告白し、 キリストに従うことを誓約しなければならない。 そうすれば主による贖いの業によって、 間近に迫るキリスト再臨の備えが整う。 御霊の証印は大人にも子供にも施与することができる。子供が御霊の証印を受ける場合、子 供の両親――または責任をもって宗教的養育を施す者――は、 必要とされる信仰を子供に代わっ て告白し、新使徒教会の信仰によって養育することを誓約しなければならない。 8.3.8 御霊の証印は神の行為 洗礼と同様に、御霊の証印も神の行為である。洗礼に始まり、御霊の証印で完了する。つま り水と御霊によって再生する。洗礼も御霊の証印も神が人類に対してなされる恵みの行為であ り、ただ一度だけ行われるものである。これらによって受けた命は、ひとえに定期的に聖餐に 与ることによって養われ守られる。 再生による新しい創造とは ( 二コリ 5:17)、聖霊なる神によって聖なる者とされ新しくされ ることである。 8.3.9 御霊の証印がもたらす効果 御霊の証印を受けることによって受洗した信徒は、神からの力を伴った聖霊に満たされる (3.5.2 参照 )。 御霊の証印を受けることによって神の御霊は人の内に永久的に宿る――神御自身が神の本質 をその人と共有されるのである「[…] わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたし たちの心に注がれている…」( ロマ 5:5)。まず洗礼を土台として神と近しい関係が築かれるこ とによって、神の子という新しい性質を帯びる。 さらに水と御霊による再生を通して、神によって初穂として召される。神の御国という観点 から見れば、再生には現在と将来の二つの側面がある ( ヨハ 3:5)。 現在において再生――つまり神の子になること――がもたらす効果は、初穂となって「王の 277 8 聖礼典 ( サクラメント ) 系統を引く祭司」 ( 一ペト 2:9) の一部となることへの、 いわば先取りである。このような意味で 「神 の子になる」ということは、すべての聖礼典に与り、正しく宣べ伝えられた福音を信じ、キリ スト再臨に照準を合わせた生き方をしている状態で、神の御前に立っていることを表している。 「神の子とする霊」が御霊の証印を通して人の内に働き始めると、 自信をもって神に「アッバ、 父よ」 と呼ぶ。聖霊を受けた者たちが神の子であることを、 聖霊が証して下さるのである ( ロマ 8: 16)。これは良心だけでなく、礼拝で宣べ伝えられる御言葉によって実現される。 御霊の証印では、信徒は三位一体の神に身を委ねる。すると神はその者を御自分の財産とし て受け入れて下さる。つまり再生した信徒が神の相続人しかもキリストと共同の相続人になる、 ということである。再生した信徒はキリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光に与ることを 約束されるのである ( ロマ 8:15 - 18)。 洗礼からキリストに身を委ね、御霊の証印をもってそれは完結する。こうして信徒は霊的に 復活し、再臨される主との交わりへと導かれることになる ( ヤコ 1:18;黙 14:4)。従って信 徒は教会の会衆の一員となる。教会では神が使徒を通してキリスト再臨と天の婚宴 ( 黙 19:7 - 8) の準備をして下さる。 聖霊が永続的に人の内に臨在されることによって、地上での人生において、奥深く大きな効 果がもたらされる。聖霊が活動できる環境を整えることによって、使徒パウロが霊の結ぶ「実」 と表現している、天来の徳が成長するのである ( ガラ 5:22 - 23)。 そして聖霊は、信徒に洞察力をもたらし天来の相互関係を悟らせる光として御自身を啓示さ れる。聖霊は弁護者である。そして、御霊の証印を受けた信徒に対して、説諭をし、良心を研 ぎ澄まさせ、信仰の目標に至る道筋を示して下さるのである。 まとめ 御霊の証印を受けるための要件は、水のバプテスマ < 洗礼 > を受け、三位一体の神を信じ、イエス・キリストから 遣わされた使徒を信じることである。 (8.3.7) 水と御霊による再生は神が水のバプテスマを通してお始めになり、御霊の証印を以て完了される。再生による新し い創造とは、聖霊なる神によって聖別され新しくされることである。 (8.3.8) 御霊の証印に受けると、聖霊が人の内に永続的に宿られる。(8.3.9) 水と御霊による再生によって神の子となり初穂として召される。御霊の証印を受けた魂が聖霊の活動できる環境を 整えることによって、天来の徳が成長する。 (8.3.9) 278 9.1 魂は永遠である 9 死後の生命 人は肉体的に死んだ後も生き続ける、というのがキリスト教の基本的信念である。死後の生 命についての考え方は聖書に書かれている。何よりも死後の生命に関する教義が基本とすると ころは聖霊の啓示である。 9.1 魂は永遠である 人の存在は肉体的であり霊的である。聖書は、人が身体、魂、霊 < 精神 > で構成されている という考え方を示している (3.3.4)。人の中で物理的存在である肉体は無常である。肉体は地上 から生じ、地上に帰る ( 創 3:19)。これに対して魂と霊は、肉体とは別に存在する ( マタ 25: 46)。それゆえ魂の不滅性や「死後の生命」を議論することができる。 魂の不滅性は聖書でいうところの「永遠の生命」と同じではない。永遠の生命とは、神との 永遠の交わりを指している。 9.2 死 「死」という言葉に対する聖書の解釈は様々である。 まず、肉体の死、つまりこの世の存在の終わりである。一度死ぬと、その肉体から魂と霊が 離れる。 次に、 「霊の死」とは人が神から離れることである。罪の人生を歩むことよって霊が死ぬこ とになる ( ロマ 6:23)。 聖書では「第二の死」についても論じている ( 黙 20:6;黙 21:8)。これは最後の審判の 後に起こる神からの分離である。 最後に、聖書では神に反発する力としての死について論じている。この力は、肉体的生命も 霊的生命も同じように破滅させようとする。この力については擬人化して表現されている箇所 がある ( 黙 6:8)。 イエス・キリストが死に勝利されたことにより、人類は永遠の生命に近づく手段を得ること ができるようになった ( 二テモ 1:9 - 10)。イエス・キリストの力は、キリストが人を復活 279 9 死後の生命 させられた時に、すでに示されている ( マタ 9:18 - 26;ルカ 7:11 - 15;ヨハ 11:1 - 45)。それだけでなく、御自身も復活されたのである ( 一コリ 15:54 - 57)。 すべてのことが終わる時、死のもたらすあらゆる力から解放されることになる ( 一コリ 15: 26;黙 20:14)。 9.3 来世における魂の生命 旧約聖書では、肉体が死んだ後も継続する魂の生命について「先祖の列に加えられ」という 表現で示している ( 民 20:23 - 24;27:12 - 13)。肉体の死後の生命について、新約聖書 ではもっと明確に証ししている ( ルカ 9:30 - 31;一ペト 3:19 - 20;黙 6:9 - 11)。 何よりも、肉体が死んでも個が維持されることについては、変貌の山で起きた出来事が明ら かにしている。陰府からモーセとエリヤがその場に現れて、その場にいた弟子たちも彼らの存 在を確認している。 「魂の眠り」あるいは「輪廻転生」( 地上の生命が繰り返されること ) という概念が成立しな いことについては、聖書に証しされている ( ヘブ 9:27)。 まとめ 人は魂が死んだ後も生き続ける。肉体は無常であるが、魂は永遠に生き続ける。魂は永遠のものである。 (9;9.1) イエス・キリストが死に勝利されたため、人類は永遠の生命を得られるようになった。すべてが終わった時、死か らすべての力が取り除かれる。 (9.2) 来世における魂の生命については旧約聖書にも新約聖書にも証しされている。肉体が死んでも人類はその個性が維 持される。 (9.3) 280 9.4 陰府 ( よみ ) よ み 9.4 陰府 「陰府 < 黄泉 >」という表現は通常、物質世界の外に存在する、領域、事象、状態全般を指すが、 狭義では故人のいる領域を指す ( ヘブライ語「シェオル 、」לואשギリシア語「ハデス Ἅιδης」)。 ここでは後者の意味で用いるものとする。そのようなわけで、陰府とか故人といった存在はこ の世にいる人々に見えないものである。しかし故人となった魂はそれぞれの状況において自ら を示すことができる。降霊術やチャネリングによって故人と連絡を取ろうとする行為は、神に よって禁じられているので罪に当たる ( 申 18:10 - 11)。 旧約聖書では陰府の領域を、闇が支配し ( ヨブ 10:21 - 22)、喜びが奪われるところ ( 詩 88:10 - 12< 新共同訳 11 - 13>;詩 115:17< 新共同訳 16>) としているが、闇から贖い出 される希望があることも指摘している ( 詩 23:4;詩 49:15< 新共同訳 16>)。 イエス・キリストは、ある金持ちと貧しいラザロの喩え話を通して、アブラハムのふところ という表現を使われた。アブラハムのふところという喩えは安心できる場所を表している ( ル カ 16:19 - 31)。しかしこの喩え話からは、もっと詳細な事柄を導き出すことができる: • 肉体が死んだ後、人の魂は死者の領域で生き続ける。魂の個性は何ら失われないのである。 • 死者の領域には苦痛を味わう場所と安心できる場所とがあり、 両者は離れたところにある。 • 死後において魂がどの領域に行くかは、神との関係で生前どのようにふるまってきたかに よって決定する。 • 故人は自分の状況を理解することができる。苦しみに打ちひしがれている魂は救いを求め ることになるだろう。 さらにこの喩え話はイエスの復活や、それにかかわる犠牲の死やその死を土台に成立した贖 いの可能性についても言及している。 これは、旧約時代に考えられていた陰府の領域の状態を比喩的に説明している。当時は、苦 しみの場所と安心の場所との間を渡ることができなかったのである。 キリストは、御自身の徳によって、復活の「初穂」として ( 一コリ 15:23)、悪魔に勝利し、 死を打ち負かされた ( 一コリ 15:55;ヘブ 2:14)。これにより陰府の魂も、それまで想像だ にしなかったほど、神に近づけるようになったのである。つまり苦しみの場所と安心の場所と の間が渡れるようになったのである。 281 9 死後の生命 9.5 陰府にいる魂の状態 陰府にいる魂の状態は、神との距離が近いか遠いかということであるため、様々である。死 が魂の状態を変えたことはない。魂の状態は生前の状態と同じとなる。 「領域」という表現は、神との距離の関係で用いられることがある。陰府にいる魂が入る領 域は、神の御旨に対してどのようにふるまってきたかによって決定する。一人ひとりが自分自 身の責任を負っているのである。例えば、生前において信心だったか不信心だったか、赦すこ とができたか不和のままか、愛していたか憎しみがあったかという特徴は、陰府の領域に引き 継がれるのである。 テサロニケの信徒への手紙一 4 章 16 節に「キリストに結ばれて死んだ人たち」という表現 がある。彼らは水と御霊によって再生し、自らの信仰に従って生きる努力をしてきた魂である。 彼らは生前、洗礼と御霊の証印によって主と交わりを持ち、聖餐を通してこの交わりを保って きた。そして死んだ後も彼らはこの交わりを続けるのである。彼らは、この世にいる信仰に忠 実な人たちと共に、主の会衆に属し、神の御前に義とされる状態となる (2.1.2 及び 4.8.2 参照 )。 このような魂にとっては、キリスト再臨の準備をすることが、生前の人生において最重要事項 であったため、陰府に入ってもキリスト再臨を渇望する思いに満たされている。生前から主に 献身し、陰府においてもそうし続け、平安を得ることができるのである。 知恵の書 3 章 1 - 3 節では、安心の状態となる可能性について次のように論じている「神 に従う人の魂は神の手で守られ、/もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの 目には彼らは死んだ者と映り、/この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見 えた。ところが彼らは平和のうちにいる 」 。 キリストに結ばれて死んだ者たちは神の言葉を求めることができる。この神の言葉と、使徒 によって執り行われる聖餐によって (12.1.9 及び 12.1.3 参照 )、彼らは永遠の生命を得るため に必要なものを得ることができるのである。 再生を果たしながら信仰に忠実な生き方をしないまま陰府の領域に入って行った魂もいる。 サクラメント このような魂が抱える不完全な部分を修正するために――地上と同様に――御言葉と聖礼典に よる恵みが必要なのである。 サクラメント 福音を聞くことなく、罪赦されず、聖礼典を全く受けずに陰府に入った魂は、神から遠く離 れた状態に置かれている。こうした状態を克服するには、イエス・キリストを信じ、キリスト の徳を受け入れ、聖霊に与るしか方法はない。 282 9.6 故人を救う まとめ 「陰府 < 黄泉 >」という表現は、物質世界の外にある領域、事象、状態全般を指す。陰府とはしばしば死者のいる領 域と同義に用いられる。(9.4) キリストが復活の「初穂」として死に勝利されたことにより、陰府にいる魂も神に近づくことが可能となった。 (9.4) 陰府にいる魂の状態は、神から近いか遠いかによって表現でき、生前の状態と同じとなる。再生を果たし主に従っ てきた者は、神の御前に義とされる。福音を聞いたことが無く、罪も赦されず、聖餐を受けたこともない魂は、神 から遠い状態に置かれることになる。この状態を克服するには、イエス・キリストを信じ、キリストの徳を受け入 れ、聖礼典 ( サクラメント ) を受けるしか方法はない。 (9.5) 9.6 故人を救う キリストが犠牲となられて以来、陰府にいる魂の状態は改善された。たとえ肉体が死んでも 救いを得ることが可能となったのである。 9.6.1 執り成し 故人のために善い行いをすることで故人の置かれている状況を緩和できる、という信仰がす でに旧約時代から存在していることは立証されている。マカバイ記二 12 章には、偶像に仕え て戦死したユダヤ人に関する記事がある。生き残ったユダヤ人は、死んだ彼らの罪を拭い去っ こ て下さるように神に乞い、贖いの捧げ物にする動物を買うために金を集めた。このようなこと をしたのは、死んだ者たちがいつか再び起き上がることを確信していたためである。 死者の復活を希望することは、キリスト教の教えにおける基本である。そしてそのために執 り成しをする必要があるということと、執り成しが死者に効果をもたらすことも信念とする。 同じことが故人のための聖礼典の施与にも当てはまる。このことはコリントの信徒への手紙 一 15 章 29 節の言葉に基づいている。コリントの教会では死者のために存命中の者が洗礼を受 けたのである。聖霊に促されたこの実践を、今日遣わされている使徒も採り入れている。この ようなことから、こんにちでは普通となっている、故人のための特別礼拝が行われるようになっ た。 283 9 死後の生命 新使徒教会のキリスト教徒は、祈りを通して、故人を執り成す。つまり、贖われない状態で 陰府に入った者たちを救って下さるように、主にお願いするのである。 9.6.2 キリストに結ばれて死んだ者たちによる協力 マカバイ記二 15 章 12 - 14 節には、陰府に入った魂も執り成しの祈りができることを次の ように論じている「ユダ [・マカバイ ] の見たものはこうであった。前大祭司オニアが、両手を 差し伸べてユダヤ人の社会全体のために祈っていた。[…] そのとき、白髪と気高さのゆえに際 立ったもう一人の人物が現れたが、彼の周りには驚嘆すべき威厳が漂っていた。 するとオニアが、 『この人こそ、深く同胞を思い、民と聖なる都のために不断に祈っている神の預言者エレミヤで す』と言った」。聖書には、さらに義なる霊と魂に対して、主を崇め称えるように告げている箇 所もある「正しい人々の霊と魂よ、主を賛美し、/代々にたたえ、あがめよ」( アザ 64< 新共 同訳 63> 節 )。 キリストに結ばれて死んだ者たちもキリストに結ばれている存命中の者たちも、同じ一つの 交わりにいる。皆共に主による贖いの業に属している。陰府の領域において――この世でも同 じように――御心のうちに働き、贖われていない者たちのために神に執り成すのである。 変貌の山で起きた出来事からも、陰府の領域で贖われた魂が活動し続けていることを確信で きる ( ルカ 9:30 - 31)。 9.6.3 故人に救いをもたらす ペトロの手紙一 3 章 18 - 20 節によれば、ノアの洪水で死んだ者たちは、イエス・キリス トから特別な愛と配慮を受けている。つまりイエス・キリストは犠牲の死を遂げられた後に死 者の領域で彼らに福音を宣べ伝えられたのである。故人も「霊において生きる」ために福音の 宣教を必要としていることについて、ペトロの手紙一 4 章 6 節で次のように論じている「死ん だ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死 んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」 。 イエス・キリストは死者にとっても存命中の者にとっても、主であられる。キリストの福音 はすべての者に対して有効である。すべての人が救われることを、神は願っておられるのであ る ( 一テモ 2:4 - 6;ヨハ 3:16)。これは、神の救おうとする御旨が普遍的であることを意 サクラメント 味する。御言葉の宣教を通して、罪の赦しを通して、聖礼典を通して、救いは提供される。こ 284 9.6 故人を救う れらはすべて故人にも提供されている。存命中の者たちと同様に、故人にとっても救いを得る もっぱ) ためにはイエス・キリストを信じることが不可欠である。贖いは専らイエス・キリストを通し て行われるのである。 サクラメント 使徒はイエスから与えられた職務――福音を宣べ伝え、罪を赦し、聖礼典を執り行うこと― ―を生きている者たちにも死んだ者たちに対しても遂行する。使徒はキリストの代理としてキ リストの御名によって行うのである。地上においてイエス・キリストが犠牲として捧げられた 場所が地上であったように、使徒を通して救いがもたらされるのもこの地上においてである。 サクラメント 聖礼典には常に見える部分があるため、見える領域でしか行えない。救いをもたらすのに不可 サクラメント 欠な要素である聖礼典は、存命中の者たちにも死んだ者たちにも同じ効果を発揮する。 洗礼、御霊の証印、聖餐は、これら見える行為をこの世にいる者たちに執り行うことによって、 陰府にいる者たちに施与することになる (8 及び 12.1.13 参照 )。ここでいう救いは存命中の者 たちのためではなく、専ら陰府にいる者たちのためにある。 洗礼と御霊の証印を通して水と御霊の再生を果たした陰府の魂は、キリストに結ばれて死ん だ者たちと同等に立場にいることになる ( 一テサ 4:16)。 まとめ キリストが犠牲となられて以来、肉体が死んだ後でも救いを獲得することが可能となった。 (9.6) 新使徒教会のキリスト教徒は祈りを通して故人を執り成す。つまり贖われていない状態に陰府に入った魂を救って 下さるように、神にお願いをするのである。 (9.6.1) キリストに結ばれて生きている者も、キリストに結ばれて死んだ者も、共に主による贖いの業に属している。彼ら は、この世においてそして陰府の領域において、贖われていない者たちのために神に執り成す。 (9.6.2) 神の救おうとする御旨は普遍的である。イエスから委託されている職務である、福音の宣教、罪の赦し、聖礼典の 施与は、生きている者たちに対しても死んだ者たちに対しても、今日遣わされている使徒が遂行する。(9.6.3) 聖礼典 ( サクラメント ) は、生きている者たちにも死んだ者たちにも同じ効果をもたらす。 (9.6.3) 285 10.1 イエス・キリストの再臨 10 未来の事柄に関する教義 神の働きは人類が救いに近づけるようにすることが目的である。神の救おうとする御旨は過 去、 現在、 未来にわたってあらゆる人々に当てはまる。 救いの歴史は神による賢明な御計画に従っ て進められる (4.4 参照 )。私たちは神が真実なお方であることを知っているので、天からいた だいた更なる約束の成就を待望することができるのである ( ヘブ 10:23)。 未来の事柄に関する教義 ( 終末論 ) は聖書に基づいている。救いの歴史における未来の出来 事は、福音や使徒書簡の中に収められている。 ヨハネの黙示録の中には、未来の事柄を、喩えを用いて伝えている箇所がいくつかある。未 来を希望する源であるこうした記述を通して、主は再臨の約束を再確認し、救いの歴史を前進 させることにより、未来における御自身の活動について識見を深めて下さる。 10.1 イエス・キリストの再臨 新使徒信条第二条は次のように告白しており、使徒信条と酷似している: 「私は、神の唯一の御子、私たちの主イエス・キリストを信じます。[…] 天に昇られたこと を信じます。そして全能の父である神の右に座し、そこから再びおいでになります。 」 この告白内容をさらに深めたのが第九条である: 「私は、主が昇天されたのと同様に必ずまたおいでになり、主の来臨に希望を託しそのため みもと 」 に自らを整えてきた故人や存命者たちを、 初穂として御許に引き寄せて下さることを信じます。 イエス・キリストは再びおいでになります――これが福音の伝える中核である。主が天に昇 られた直後から、初代及びその後に遣わされた使徒たちは、主の再臨を宣べ伝えてきた。主が 再臨された時に受け入れていただくことが、新使徒教会の信仰の目標である。 10.1.1 イエス・キリストの再臨の約束 イエス・キリストはこの地上から天に昇られる際に、次のように仰せになり、御自分が再び この地上においでになることを約束された「行ってあなたがたのために場所を用意したら、 戻っ て来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもい ることになる」( ヨハ 14:3)。主からいただいたこの約束は、主が昇天される時に、天の使によっ 287 10 未来の事柄に関する教義 て再確認されている「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあな たがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」( 使 1:11)。 イエス・キリストがおいでになる時期を、私たちは知らないし、天使も知らない。神お一人 がその時期を御存知である。そのため御子は次のように仰せになって、目を覚ましていなさい、 と繰り返し諭された「だから、目を覚ましていなさい。 いつの日、 自分の主が帰って来られるのか、 あなたがたには分からないからである」( マタ 24:42;ルカ 21:36 参照 )。 おこた 御子は喩え話を通して、信仰面で絶えず警戒を怠たらず、来臨を待たなければならないこと を明らかにされた ( マタ 24:43 - 51;マタ 25:1 - 30)。 そこで初代使徒たちの頃から、信仰に忠実な人たちに対して、主の再臨に備えるよう勧めて いる。例えば、使徒パウロはコリントの会衆に対して「マラナ・タ!」と呼びかけている。こ の呼びかけは初期キリスト教徒が唱えていた祈りの言葉である。祈りの言葉で「主は間もなく おいでになる!」「主よ、来て下さい!」という意味がある ( 一コリ 16:22)。 目を覚ましていなさいという言葉はヨハネの黙示録に書かれている。その中でイエス・キリ ストは「見よ、わたしはすぐに来る」と言っておられる ( 黙 3:11;22:7,12,20)。このよ うに、信徒はキリスト再臨を意識した生き方をする必要がある。 主の約束が成就し、一人ひとりがキリスト再臨を体験して御許に引き上げられるのを待ち望 むことも、こんにちにおける新使徒教会の信仰の中心である。このことについてヨハネの手紙 一 3 章 2 節には次のように書かれている「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、 自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た 者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」 。 10.1.2 イエス・キリスト再臨に関係する出来事 キリストが再臨される時にどのようなことが起きるのかについては、使徒パウロが書いた手 紙の中で次のように書かれている: テサロニケの信徒へ手紙一 4 章 15 - 17 節 「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、 眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がか かり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られ ます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わた したち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上 288 10.1 イエス・キリストの再臨 げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 」 コリントの信徒への手紙一 15 章 51 - 52 節 「わたしはあなたがたに神秘を告げます。 わたしたちは皆、 眠りにつくわけではありません。 わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たち まち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたした ちは変えられます。」 フィリピの信徒への手紙 3 章 20 - 21 節 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主とし て来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえ できる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくだ さるのです。」 これら聖書の記事はキリストの再臨を信じる上で最も重要である。内容をまとめると、次の ような流れでキリスト再臨が起こることになる: 主が再臨された時、まずキリストに結ばれて死んだ者たちが復活して朽ちない体を得る。次 へんぼう に来臨のための準備を受けていたこの世の人たちが死の苦しみを味わうことなく変貌する。こ うして死んだ者たちも生きている者たちも、栄光あるキリストの体と同じような体を受けるこ とになる。この者たちは一緒に主の御許へ引き上げられ、地上に降りることはない。こうして 彼らは三位一体の神と永遠に親しく交わることになる。これはヨハネの黙示録 20 章 5 - 6 節 に書かれている第一の復活の一部である (10.5 参照 )。 マタイによる福音書 24 章 40 - 41 節及びルカによる福音書 17 章 34 節によれば、キリス トが再臨された時に主は――人々が何気なく日常生活を送っている時に突然――選別という裁 きを下される。これについてコリントの信徒への手紙二 5 章 10 節では、次のように解説して いる「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めい めい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」( ロ マ 14:10 参照 )。このことを認識させるのは、信徒に恐れを抱かせるためではなく、信仰の目 標に向かって真摯に努力することを促すためである ( 一テサ 5:9)。 みもと イエス・キリストが花嫁の会衆を御許に引き上げて下さることは、新使徒教会が確信する基 本的事柄の一つである。この認識があるため、信徒は肉体の死を経験せずに変貌できることを 望んでいる「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の 幕屋にあって苦しみもだえています。[…] この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいて 289 10 未来の事柄に関する教義 おりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命 に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、 このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として “ 霊 ” を与えてくださったのです」( 二コリ 5:2,4 - 5)。キリストが再臨された時に天に引き上げ られるのは、まず水と御霊によって再生していただき、キリストを信じ、キリストに従う者た ちである。彼ら以外にも天に引き上げられる恵みに与れるかどうかについては、人が決められ ることではなく、神の御旨次第である。 10.1.3 花嫁の会衆 使徒の任務は、キリストの会衆を再臨に備えることである。これは使徒パウロが「あなたが たに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあな たがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです」と述べ ている通りである ( 二コリ 11:2)。 「純潔な処女」とは「花嫁」を表している。これは、終末 時代における聖徒の交わりを喩えている ( 黙 19:7)。 主の花嫁とされるかどうかは、キリストが再臨された時にはじめてわかる。花嫁の一人とさ れる者たちには、独特の特徴がある。それは、日々キリストの再臨を待ち続け、粘り強く「主 イエスよ、来て下さい!」と叫び続けていることである ( 黙 22:17,20)。 聖徒の交わりを指す喩えとしては、他に「十四万四千の人々」( 黙 14:1 - 5) や、 「男の子」 ( 黙 12:5) という表現がある。これらの喩えも重要な特質や状態を暗示している。 十四万四千に言及している記事は以下のとおりである「また、わたしが見ていると、見よ、 小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の 名と、小羊の父の名とが記されていた。[…] 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たち の前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちの ほかは、覚えることができなかった。彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼 らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この はつほ 者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽 りがなく、とがめられるところのない者たちである」 。十四万四千という数字は象徴で、イスラ エル十二部族に由来し、天来の完全性を表している。 子羊及びその父の名が記されているというのは、この十四万四千の者が神に属していること を意味する。この者たちは、キリストに従うことによって、言葉において行いにおいて福音に 適う生き方をしている (「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」)。 290 10.1 イエス・キリストの再臨 彼らは初穂とも称される。この初穂という表現は旧約聖書に書かれている、捧げ物に関する律 法に見られる。「初穂」は、主が再臨される時に御許に引き上げられるすべての者たちであり、 比喩表現で、主によって「刈り取」られる者たちである ( 黙 14:15)。 たと ヨハネの黙示録 12 章には、男の子を産もうとしている太陽を着た女――キリスト教会を喩 いかく えた表現 (6.4.5 参照 )――について書かれている。男の子は龍の威嚇を受けるものの、神によっ て引き上げられる ( 黙 12:5)。男の子は、キリスト再臨の時に神の御許へ引き上げられる者た ちを象徴している。龍はサタンを象徴している ( 創 3:1;黙 12:9)。サタンは花嫁の会衆が 完全なものとなるのも、天に引き上げられるのも、阻止することができないのである。 まとめ 未来の事柄 ( 終末 ) に関する教義は、聖書に基づいている。 (10) イエス・キリストの再臨は、福音が伝えていることの中核である。この時にキリストに受け入れていただくことが、 新使徒教会員にとって信仰の目標である。 (10.1) イエス・キリストは使徒たちに御自分がまたおいでになることを約束された。この約束は天使によって再確認され た。イエス・キリストがいつおいでになるのかは、人にも天使にもわからない。神お一人が御存知のことである。 信徒はめいめい、キリスト再臨を見据えながら人生を歩む必要がある。 (10.1.1) 再臨の時は、最初にキリストに結ばれて死んでいった者たちが復活する。キリスト再臨の備えをしていただいてき たこの世の人たちは、キリストの栄光の体に似た体に与る。そしてこれらすべての魂は一斉に引き上げられ、神と 永遠に交わりに入るのである。 (10.1.2) 使徒たちには、花嫁の会衆をイエス・キリストの再臨に備える任務が与えられている。 (10.1.3) だれが主の花嫁の一人になるのか――つまりだれが神の御許に引き上げられるのか――は、イエスがおいでになっ た時に、はじめて明らかとなる。この者たちは「初穂」としても知られている。花嫁の会衆を喩えた表現には「男 の子」があり、この会衆の者たちの数を象徴的に表したのが「十四万四千」である。 (10.1.3) 291 10 未来の事柄に関する教義 10.2 子羊の婚姻 花嫁が天に引き上げられた後、すぐに子羊の婚姻が行われる。終末時代における婚宴の喩え は、ヨハネの黙示録 19 章 6 - 9 節に書かれている。これは、初穂たちが主と永遠に交わり、 主の栄光に与ることを表している ( コロ 3:4;一ヨハ 3:2)。 子羊の喩えはすでにイザヤ書 53 章 4 - 7 節に見られ、神の御旨に従って、人類を贖うため に、 来臨するメシアが犠牲として捧げられることが書かれている。バプテスマのヨハネは 「見よ、 世の罪を取り除く神の小羊だ」と述べ、神の御子に言及している ( ヨハ 1:29)。 ヨハネの黙示録には、キリストを子羊と表現している箇所が数多くある。5 章 12 節では、 ほふ しいた はりつけ 屠られた子羊が勝利を獲得したと述べている。これは、神の御子が虐げられ十字架に磔にされ ても勝利されたことを意味している。十字架に磔にされたキリストが、再臨される主であり、 花婿である (10.1.3 参照 )。 子羊の婚姻が行われている時、地上に残った人々はサタンの支配による大きな苦難 < 大きな 患難・艱難 ( かんなん )> の時代を過ごすことになる。 10.3 大きな苦難 主による救いの御業が地上で行われる間、この世の被造物は、神が特別に守り続けて下さる さら ( 黙 7:3)。しかしキリスト再臨後、人類も被造物もサタンの力に晒される時代がやって来る。 すべてがサタンの力による環境下で苦しみを受けることになる。 この時代はヨハネの黙示録 3 章 10 節に書かれている「地上に住む人々を試すため全世界に 来ようとしている試練の時」であると考えられる。またこの時代を、 聖書では「大きな苦難」( 黙 7:14) と表現している。 サタンはこの大きな苦難の時代に、とてつもない力を誇示する。その力は、主が再臨される までに教会が経験してきた試練や激しい辛苦をはるかに超越する。大きな苦難が始まる前に、 花嫁の会衆は神の御許に引き上げられることになる ( 黙 3:10;12:5,12)。 太陽を来た女という喩えはキリストの会衆に属すものの――男の子を産んだ後も――御許に 引き上げられなかった者たちを表している。この者たちは「荒野」の中で引き続き神の助けと 霊的配慮に与ることとなる。「荒野」とは苦難と貧窮の状態を表している ( 黙 12:6)。 292 10.5 第一の復活 この期間、サタンとその力が支配する中で、堅固にキリストを公に広め、反キリストを拒絶 する人たちは殺害される ( 黙 13:10,15;黙 14:12 - 13 参照 )。堅固にキリストの証人で あり続けたこのような人たちは、殉教者となる。 10.4 力と大いなる栄光を帯びて主がおいでになる 天の婚宴の後、神の御子が初穂を伴ってこの世においでになる ( 黙 19:11 - 16)。これに ついて主は「力と大いなる栄光とをもって」 来ることを予告された ( マタ 24:29 - 30)。イエス・ キリストが地上ににおいでになり、天来の力を啓示されると、その力をすべての人が仰ぎ見る ことになる ( 黙 1:7)。キリストは、王の王、主の主として、サタンとそれに従う者たちによ る力を一掃し、大きな苦難の時代に終止符を打って下さる。サタンに従っていた者たちは裁か れることになる ( 黙 19:20)。これ以上国民を惑わさないようにするために、サタン自身も「千 年の間」拘束される ( 黙 20:1 - 3)。サタンが縛られて底なしの淵に投げ込まれた後、大きな 苦難の時代に殉教者たちが復活する ( 黙 20:4)。 10.5 第一の復活 聖書で「第一の復活」という表現が出てくるのは、ヨハネの黙示録 20 章 5 - 6 節である。 ここでは第一の復活を至福のものとして取り上げている 「第一の復活にあずかる者は、 幸いな者、 聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない…」 。ここで、幸いな者、聖な る者と称えられている者たち――つまりキリストが再臨された時に神の御許に引き上げられる 者たちと大きな苦難の時代に殉教者となった人たち――は、裁きを免除される。 コリントの信徒への手紙一 15 章 20,22 - 24 節で、使徒パウロは死者の復活に「順序」 があることを指摘している「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人 たちの初穂となられました。[…] つまり、 アダムによってすべての人が死ぬことになったように、 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序 があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人 たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢 力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」 。 ここでパウロは重要な点を三つ挙げている: 293 10 未来の事柄に関する教義 • キリストは復活を遂げられた最初のお方であり、御自分の後に復活するすべての者たちの 初穂である。死者が復活することへの希望は、 このイエス・キリストの復活に基づいている。 • 聖書によれば「次に」、キリストがおいでになる時にキリストに属している人たちが復活 する。すなわちキリストに結ばれて死んだ者たちが復活して、この世にいた時に変貌を遂 げた魂と一緒に、神の御許に引き上げられる (10.1.2 参照 )。キリストが力と大いなる栄 光をもっておいでになった時に、大きな苦難によって殉教した者たちの復活が約束されて いるのである。この二つの出来事が第一の復活を形成する。これに与る者は皆「神とキリ ストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する」( 黙 20:6)。 • コリントの信徒への手紙一 15 章 24 節で使徒パウロが述べている「終末」とは、最後の 審判を指している。これに先立ち、死んだ者たちはすべて復活することになる。 10.6 救いの御計画のその後 第一の復活が終わると、キリストは地上に千年の平和王国を設立される。そして王として、 何の制約もなく具体的な形でその王国を統治される。イエス・キリストは平和の君である ( イ ザ 9:6< 新共同訳 5 > )。サタンは束縛され、罪への誘惑をすることができなくなる。とはい え人類が罪人であることに変わりはなく、罪を犯しやすい傾向は阻止できない。生まれて死ぬ 存在であることに変わりはない。死期を見合わせることはできないのである ( 黙 20:14;イザ 65:20 - 21 参照 )。 死を免れるのは、神の祭司、キリストの祭司である。彼らには主の体に似た霊の体を与えら れている ( 一コリ 15:44)。 キリストの王としての統治は、王の系統を引く祭司であるキリストの民と共に行われ、 「千 年の間」続く ( 黙 20:6)。この「千年」というのは、長期ではあるが無限ではない期間を象徴 する表現である。この時に福音をいかなる障害もなく宣べ伝えることができ、救いを提供する ことができる。この世に存命する魂にも陰府にいる魂にも良い知らせ < 良きおとずれ > を伝え ることができる。このような方法によって、あらゆる時代のあらゆる人類は、千年の平和王国 の終わりまでにキリストの福音を知ることになる。 千年の平和王国が終わると、サタンは解放されて、人類を誘惑する機会が与えられる。しか せ さいな し最終的にサタンは敗北し、責め苛まれ、「火と硫黄の池に投げ込まれる」( 黙 20:7 - 10)。 この時あらゆる形で表れていた悪は、永久に力を失うのである。 294 10.6 救いの御計画のその後 その後、死んでいた者たちが裁きを受けるために復活する ( 黙 20:11 - 15)。この時にキ リストは第一の復活に加わらなかった全人類をお裁きになる 1。 最後の審判で恵みを見出した者は、神により創られる新天新地の住人となり、神と永遠に交 わりを持つことが許される。 すでに王の系統を引く祭司として、平和の御国でキリストと共に統治している者たちにとっ て「[…] 神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼ら は世々限りなく統治するからである」という約束の言葉は、新しい被造物という形で成就する ことになる ( 黙 22:3 - 5)。 そしてペトロの手紙二 3 章 13 節に書かれている期待が現実のものとなる「しかしわたし たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」( イザ 65:17)。神によって古い被造物は新しい被造物にとって代わり、「神が人と共に住み、人は神 の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」という言葉が成就するのである ( 黙 21:3)。 神の御国は永遠に続き、神がすべてにおいてすべてとなられるのである ( 一コリ 15:28)。 まとめ 花嫁の会衆は天に引き上げられ、子羊と婚姻を果たす。終末の婚宴という表現は、初穂として主と永遠に交わりを 持つことを喩えたものである。 (10.2) 子羊とは、虐 ( しいた ) げられ十字架に磔 ( はりつけ ) にされた神の御子が同時に大勝利を収めた神の御子である ことを意味している。 (10.2) キリスト再臨の後、人類や被造物がサタンの勢力に晒 ( さら ) される時代を迎えることとなる。男の子を産んだ後 の太陽を着た女という喩えは、イエス・キリストの御許に引き上げられなかったキリスト教徒を表している。彼ら は引き続き天来の助けと霊的な養育を受けることになる。 (10.3) 御子は天における婚姻の後、初穂を伴って地上に再びおいでになり、大きな苦難の時代に終止符を打たれる。この 時サタンに付いた者たちは裁かれる。 (10.4) 1「第一の復活」に対して「第二の復活」という表現は聖書に見当たらないが、それに該当すると考えられる記事が ヨハネの黙示録 20 章 13 節に書かれている「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死 者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」 。同様に「第二の死」に対する「第一の死」という表現も 英語に無いが、 「第一の死」は肉体の死を表していると考えられる。 295 10 未来の事柄に関する教義 サタンの力が排除された後、大きな苦難の時代に殉教した者たちが復活する。 (10.4) キリスト再臨の時に天に引き上げられたすべての者たちは、大きな苦難の時代に殉教した者たちと共に第一の復活 に与る。彼らは最後の審判を免除される。 (10.5) 第一の復活が終わると、キリストは地上に千年の平和王国をお建てになる。平和王国の時代の後、すべての時代の すべての人類がキリストの福音に与ることとなる。人類を誘惑する機会が最後にもう一度だけサタンに与えられた 後、サタンは永遠に敗北し裁きを受ける。この時あらゆる種類の悪は永遠に無力なものとなる。 (10.6) その後、死者が召喚されて裁きを受ける。最後の審判で恵みを見出した者は神がお創りになる新天新地に住み、神 と永遠に交わりを持つ。 (10.6) 296 11.2 初代の使徒たちが亡くなった後のキリスト教 11 キリスト教史概説 11.1 初期キリスト教会 イエス・キリストから受けた大宣教令に従い、全世界に行って福音を宣教し、全人類を弟子 とすることは、使徒に課せられた任務の一つである。 そこで使徒たちは、まずユダヤ人に注目した。そしてエルサレムに最初の会衆ができた。し かし迫害を受けたことによって、多くの信徒がエルサレムを離れた ( 使 8:1;11:19)。そして、 例えばサマリアの首都フィリポのような新しい環境の中で、主の御言葉を宣べ伝えた。 神は使徒ペトロに、異邦人にも福音を伝えるように、夢を通してお示しになった ( 使 10, 11 章 )。 異邦人への福音宣教が本格化する重要なきっかけとなったのは、サウロの回心であった ( 使 9 章 )。サウロ――後にパウロと改名――が最初に使徒として登場するのは使徒言行録 14 章 14 節で、バルナバと名を連ねている。 エルサレムで行われた使徒会議で、異邦人への宣教に対する立場と、福音からの側面で見 たモーセの律法の持つ意味という、喫緊且つ重要な問題が議論され明確にされた ( 使 15:1 - 29)。 ユダヤ人への福音宣教は基本的にペトロとヤコブによって行われた一方で、使徒パウロとバ ルナバは同様の目的で地中海周辺の異邦人国家に向かった。カイサリアのエウセビオスが自著 『教会史』の中で書いているように、他の使徒たちはアジアやアフリカの国々へ行って福音を宣 べ伝え、教会を設立した。 11.2 初代の使徒たちが亡くなった後のキリスト教 初代のキリストの使徒が亡くなった後も、聖霊の活動は継続した: • 聖霊は旧新約聖書のカノン制定を促された。 • 聖霊は使徒の時代以後において教父たちを鼓舞して、最初の公会議を行い、そこでキリ スト教の教えにおける重要な基本原理を制定された。その中には、例えば三位一体や位 格についての教義、人と神の二つの特質がイエスに備わっていること、イエスの犠牲と 復活が人類の救いや贖いに重要な意味を持つこと、がある。 297 11 キリスト教史概説 使徒職が途絶えている間、救いは洗礼を正しく施与することによってもたらされた。 その他に、キリスト教信仰が世界中に伝播し得たのも数世紀にわたる聖霊の働きのおかげである。 11.2.1 教父と宗教会議 紀元 313 年、ローマ皇帝コンスタンティヌス 1 世 (270/288 – 337) は、キリスト教徒に対 して、信教の自由を宣言した。380/381 年、キリスト教はローマ帝国の国教となった。 それまでは多くのキリスト教徒が迫害され命を落とした。ステファノに対する投石を皮切り に迫害の波が押し寄せ、多くの信徒が殉教者となった。 異邦人とユダヤ人の両方から受けていた迫害からキリストの信仰を守ることと、キリスト教 の教義の基本を定めることは、教父たちにとって重要案件であった。初期の世代の教父は「使 徒教父」として知られた。使徒教父の中にはローマのクレメンス (? – 100 頃 )、アンティオキ アのイグナティウス (? – 115 頃 )、スミルナの監督であったポリュカルポス (69 頃 – 155 頃 )、 ヒエラポリスのパピアス (70 頃 – 130/140) がいる。 後の世代におけるキリスト教信仰の擁護者 ( 護教論者 ) や使徒の活動を知る者たちは「教父」 として知られている。教父の中にはミラノのアンブロジウス ( 紀元 339 - 397)、 ソフォロニウス・ エウセビウス・ヒエロニムス (347 - 420)、ヒッポのアウグスティヌス (354 - 430) がいる。教 えについて彼らが表明した考え方は、キリスト教の教理に決定的な影響を与えた。 アタナシウス (295 - 373) も教父の一人である。彼の神学的影響力により、紀元 325 年、ニ カイア信条 < 原ニケア信条 > が成立した。新使徒教会では現在もこの信条を支持している。 キリスト教の信仰において根幹を成す要目については、数世紀にわたり何度も開かれた宗教 会議 < 公会議 > の中で議論された上で、最終決定されたものである。これらの宗教会議は、世 俗の支配者による影響を受けて召集されたものであるが、福音書に書かれている内容を――客 観的に且つ神の御旨に従って――反映している。全体的に、キリスト教の基本信条はこれらの 宗教会議によって決定している。 11.2.2 キリスト教世界――国教とその伝播 紀元 380/381 年、ローマ皇帝テオドシウスは、キリスト教を国教とし、それ以外のあらゆ る宗教を禁止した。 298 11.2 初代の使徒たちが亡くなった後のキリスト教 民族移動時代においてキリスト教はヨーロッパに勢力を伸ばし、当時人の居住していた多く の範囲に広がっていった。7 世紀に入ると、アジアやアフリカのキリスト教徒は新興のイスラ ム教と対立することになる。 修道院制度はキリスト教の布教に大きな役割を果たした。修道士は卓越した学識の習得を求 められた一方で、農業に従事し、社会問題にも取り組んだ。修道士たちが行うべき主要任務の 一つに布教活動があることを、多くの人が認識した。 歴史の経過に伴って、キリスト教はヨーロッパ人の生活や社会を形成するほどの影響力を 持った。 中世のキリスト教は、1054 年に西方教会 ( ローマ・カトリック教会 ) が東方教会 ( ギリシア 正教会 ) から分離した「東西教会の分裂 < 大シスマ >」や、 十字軍遠征 (1096 - 1270)、 ヨーロッ パ中部で起きた皇帝と教皇との権力闘争、イスラム教勢力の拡大といった、様々な危機に直面 した。 11.2.3 中世ヨーロッパのキリスト教を巡る様々な状況 教会の高僧たちは世俗の権力を得ることに専心し、福音から離れて行ったため、キリスト教 まんえん 会全体が世俗化し、倫理の低下が蔓延した。 一方で教会を改革しようとする取り組みをする人たちも増えていった。真理を探究しようと していた人たちの中には、理性的な知識によって神に奉仕しようとした人たちや ( スコラ哲学 )、 神が近くにおられることを直接体験することによる神秘主義によって神に奉仕しようとした人 たちがいた。 フランスの商人ピエール・ヴァルドー (1140 - 1218?) や、イギリスの神学者ジョン・ウィ クリフ (1320 - 1384)、プラハ大学の学長ヤン・フス (1369 頃- 1415) といった人たちは、 教会の世俗化を一貫して批判した。彼らは宗教改革の先駆的運動を起こし、これを支持した。 そしてこの運動がヨーロッパの大部分に波及し、ついには宗教改革へと繋がったのである。 11.2.4 宗教改革 福音の本来の姿や聖霊の導きを探し求めたことが「宗教改革」と呼ばれるヨーロッパにおけ る革新運動を引き起こした。この宗教改革にはマルティン・ルター (1483 - 1546) が深く関わっ 299 11 キリスト教史概説 ている。 宗教改革の先鞭をつけた主な要因は、人文主義者たちがローマ教会に対して本来の姿に回帰 することやその結果として聖書に忠実であることの必要性を訴えた以外に、ローマ教会が世俗 化したことへの批判があった。 ルターは自身の聖書解釈に基づく神学論を展開した。その中心は、信仰による義化の教えで あり、その基本にあるのは、良い行いをすれば神が報いて下さるのではなく、イエス・キリス トを信じる罪人に対して神が恵みを与えて下さる、という考え方であった。 ルターは教皇の権威を認めなかったためローマ教会と対立した。また、聖書はイエス・キリ ストを証しするものであり教義を成立させている唯一の根拠である、と主張し、聖書をドイツ 語に翻訳して一般の人々が聖書に親しめるようにした。 ドイツで宗教改革が急激に広がったのは、ルターや他の改革運動家によるだけではなく、諸 侯の政治的経済的事情もあった。 ドイツ以外では、主に北欧、オランダ、フランス、イタリアに足がかりを得た。改革運動家 ウルリヒ・ツヴィングリ (1484 - 1531) はチューリッヒで活動し、 独自の改革運動を始めたジャ ン・カルヴァン (1509 - 1564) はジュネーブで活動した。 宗教改革が掲げる究極の目標は政治の分野にも反映された。支配者も小農民も――それぞれ の事情によって――社会的政治的目標を達成させるために、宗教改革を利用した。 これらとは別に、1534 年、イングランドでは聖公会とも呼ばれるイギリス国教会が誕生した。 宗教改革に対して、トリエント宗教会議 < トレント公会議 > が行われた。その中でローマ・ カトリック教会の総括と刷新が図られ、 対抗宗教改革 < カトリック改革 > への道筋がつけられた。 11.2.5 カトリックとプロテスタントの大きな変化 宗教改革によって、それに対抗する運動も起こった ( 対抗宗教改革 )。ヨーロッパのカトリッ クは霊的側面の刷新に努め、教皇の権力を強めた。教皇はプロテスタントに改宗された地域を 再びカトリックに戻す努力をした。 これによる両者の対立は、三十年戦争へとつながった (1618 - 1648)。この戦争は国教会 というものの設立を後押しすることになり、統治する地域の支配者によって宗教が決められた。 18 世紀、合理主義的キリスト教――当時の科学的見識を取り入れたキリスト教――と啓蒙 思想という哲学概念とが融合し始めた。宗派の対立や哲学と神学との論争はプロテスタントに 危機的状況をもたらした。これに呼応した形で敬虔主義 < ピエティズム > がますます影響力を 強めることになった。 300 11.2 初代の使徒たちが亡くなった後のキリスト教 敬虔主義の特徴としては熱心な聖書研究、社会及び宣教の取り組み、贖い主としてのイエス・ キリストの活動に強く焦点を当てることなどがある。 キリスト教徒としての生活や信仰にとって情緒面の重要性を強調することは、信仰復興運 動をもたらした。こうした福音主義的運動は 18 世紀に主にイングランドとアメリカに始ま き え り、いわゆる「文化や教養としてのキリスト教」と決別し生きた信仰に帰 依しようとするも のであった。 19 世紀になると、ドイツでインナーミッションやプロテスタント系の自由教会――国教か ら独立した教会――が出現し広まっていった。その目的は外国の非キリスト教徒だけではなく、 ドイツ国内でも貧困や無学により信仰と縁遠くなっていたドイツ国内の人たちを、キリスト教 徒にすることであった。宣教団による非キリスト教国への宣教活動は、特にアフリカ諸国にお いて、信者獲得において目覚ましい発展をもたらした。 霊的体験を求めて行われた祈祷活動は 18、19 世紀のカトリックでも見られた。 伝統的な信仰を無視してこの世を解明しようとする科学的合理性を追求する思想をはじめと して、産業革命直前の状況や、フランス革命が神学的側面と対立したことは、まさにこのよう な流れにおいて理解すべきである。 11.2.6 19世紀初頭におけるキリスト教 自然科学によって物事を考えようとすることが多くなり、社会問題がキリスト教的倫理道徳 に対してその妥当性に疑義を唱えたり、国家権力が宗教を政治利用しようとしたりした時代、 改めて福音を意識しようという呼びかけは、ますます大きくなった。 15、16 世紀、宣教活動への取り組みはスペインとポルトガルから始まった。しかし、両国 が占領した地域に住む人々に対して、キリスト教信仰を強要する結果になることもあった。19 世紀になると、献身的なキリスト教徒が、特に植民地において、熱心且つ平和的な方法で宣教 活動を行うようになった。 こうしたことを歴史的背景として、神は刷新された使徒の活動を行うための準備をされたの である。 301 11 キリスト教史概説 まとめ 神から賜った大宣教令に従い、使徒たちはまずユダヤ人社会において福音宣教に着手した。その後宣教活動は地中 海周辺の異邦人国家へ拡大した。 (11.1) 初代の使徒が途絶えた後、聖霊の活動は様々な形で継続した。 (11.2) 教父たちはキリスト教の保護と教義の土台作りに従事した。 (11.2.1) 教父による教義上の宣言は、キリスト教の教理に対して何よりも決定的な影響力を持った。キリスト教の信仰に関 する要目は、様々な宗教会議 < 公会議 > で、拘束力を持つ教義として制定された。 (11.2.1) 紀元 4 世紀の終わりには、キリスト教がローマ帝国の国教となった。 (11.2.2) 修道院制度はキリスト教の伝播に大きな役割を果たした。ヨーロッパの生活や社会に最も重要な変化をもたらした のがキリスト教である。 (11.2.2) 1054 年に起きた「東西教会の分裂 < 大シスマ >」によって、西方教会 ( ローマ・カトリック教会 ) と東方教会 ( ギ リシア正教会 ) とに分裂した。 (11.2.2) 中世ヨーロッパにおいてキリスト教会の世俗化が広がったことにより、教会を改革しようとする取り組みが起こっ た。福音を本来の姿に戻そうとする模索は「宗教改革」に集約されるヨーロッパの発展をもたらした。 (11.2.3; 11.2.4) 宗教改革の後、カトリックにおいても刷新が図られたり、その他の宗教的な運動が起きたりした。 (11.2.4; 11.2.5) 15 世紀初め、宣教活動はヨーロッパ以外の国々でも行われ、19 世紀にはその活動が本格化した。 (11.2.6) このことを歴史的背景として、神は使徒による活動を新たに展開するための道を備えられた。 (11.2.6) 302 11.3 カトリック使徒教会において再興された使徒職 11.3 カトリック使徒教会において再興された使徒職 1826 年から 1829 年にかけて、銀行家であったヘンリー・ドラモンド (1786 - 1860) は、 長老派教会の教役者であったエドワード・アーヴィング (1792 - 1834) の協力を得て、いわ ゆる「預言研究会」の代表者たちを、スコットランド南部のオルベリーにある自分の屋敷に招 まんいつ 待した。そこで、本来の姿による聖霊の満溢とキリスト再臨に関する聖書の定義を明確にする ための会議を開いた。 スコットランドでも、様々な宗派の人たちが聖霊によるさらなる働きを待望していた。 1830 年、彼らの中で傷病の癒し、異言、預言といった現象が現れ、広く認知されるところとなっ た。 このように、教会の中で信仰による特別な職務を待望する流れの中で、イギリス国教会 < 聖 公会 > の会員であったジョン・ベイト・カーディル (1802 - 1877) が聖霊によって使徒職に 召され、1832 年 10 月 31 日 ( 別の資料では 1832 年 11 月 7 日 ) にロンドンにおいてヘンリー・ ドラモンドによって使徒に指名された。カーディルは 1832 年 8 月にアーヴィングの会衆に加 わっていた。1832 年のクリスマスの日に、カーディルははじめて使徒としての職務行為を執 り行い、ウイリアム・R・ケアードを伝道師に任命した。カーディルはほぼ一年間ただ一人の 使徒として、設立間近の教会において使徒職の概念の確立に決定的な影響力を持った。 サクラメント その後この動きはより明確な機構として発展した。さらに職務や聖礼典に関する理解も深め られた。 11.3.1 使徒の導きによる教会の発展 1833 年 9 月、預言によってさらに使徒が召された。その中では、預言の賜物を備えた人た ちが重要な役割を担った。 1835 年、将来の職務遂行のために、預言を通して複数の使徒が任命された。その後十二名 を数える使徒がオルベリーに集まり、一年間にわたり集中的に会議を行った。 使徒たちは、自分たちがすべてのキリスト教徒の所へ遣わされることと、そのために特別な 力が与えられることを待っていた。彼らは 1837 年ごろに発行された「大いなる証し」を携え おもむ てすべての霊的及び世俗的キリスト教指導者のところへ行こうとした。使徒たちは聖職者に赴 き、自分たちに従うように求めた。 使徒たちは、自分たちの指導の下ですべてのキリスト教徒を一つに結ばせるための準備とし て、1838 年当時存在した様々な宗派の教義や典礼を宣べ伝えた。 303 11 キリスト教史概説 当時の使徒たちの活動において、ヨハネの黙示録に書かれている「十四万四千」として知ら れる終末時代の群れを備えさせることが、彼らの職務の中心となり始めた。この群れは使徒の 按手を通して御霊の証印を受けた者たちとされた。この按手は 1847 年にイングランドにおい て約千人の信者に施された。同年御霊の証印は、フランシス・ウッドハウス使徒の按手によっ てカナダで、トマス・カーライル使徒の按手によってドイツでそれぞれ行われた。 11.3.2 使徒職の増員 トマス・カーライル使徒は 1851 年、他の使徒たちの支援を受け、使徒会議の開催を提案した。 その中で彼は、ダンカン・マッケンジーとヘンリー・ダルトンの両使徒――この二名はすでに 職務を行っていなかった――に代わる者を出すべきとする動議を、他の使徒たちから必要な支 援を受けずに提出した。 1855 年、三名の使徒が死去した。その中にはカーライル使徒もいた。使徒職の後継には「預 言者の柱」であったエドワード・オリバー・タプリン (1800 - 1862) と、預言者であったハ インリヒ・ガイヤー (1818 - 1896) が就いた。しかし彼らが召されたことは、他の使徒たち から認められなかった。 しかし、キリストの花嫁の備えを使徒職が担ってほしいという強い願いや、十分な権力を持っ た使徒職を遣わしてほしいという期待は、カーライル使徒が北ドイツでかつて任命・教示して きた教役者たちの中に残っていた。このように、使徒職の増員については、ベルリンとハンブ ルクの会衆が大きな役割を果たした。 11.3.3 新使徒教会における使徒職の継続 イギリスの使徒たちは使徒団の拡大に反対していた。つまり実質的に、使徒による教会の存 続にも反対していたことになる。これに対して、預言者のハインリヒ・ガイヤーとハンブルク の会衆の指導者であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・シュヴァルツ (1815 - 1895) は、す でにルドルフ・ロソハツキー (1818 - 1884) が天からの召命を受けていたことを強く主張し ていた。1862 年 10 月 10 日、ロソハツキーは預言者ガイヤーから使徒に召されていたからで ある。1863 年 1 月 4 日、この召命が起こった事実をハンブルクの会衆は確認している。これ が新使徒教会の始まりである。 ロソハツキーはその後まもなく使徒職を辞したものの、ガイヤー、シュヴァルツ、それにハ ンブルクの会衆は天からの召命が事実であることを主張し続けた。1863 年 1 月 27 日、 シュヴァ 304 11.3 カトリック使徒教会において再興された使徒職 ルツは自身の職務をウッドハウス使徒から剥奪され、カトリック使徒教会からも追放された。 ハンブルクの会衆もシュヴァルツに従ったことにより破門された。 それから間もなく、カール・ヴィルヘルム・ルイ・プロイス牧師 (1827 - 1878) が、その 後でフリードリヒ・ヴィルヘルム・シュヴァルツが使徒に召された。プロイスは北ドイツで活 動し、シュヴァルツはオランダを拠点に活動した。そしてさらに多くの人が使徒に召された。 新しく組織された教団は「キリスト教使徒宣教連合会」といった。この名称はオランダの分 教区が「復古使徒宣教教会」と名乗ったのと同様に、権力を持った使徒が遣わされることでキ リスト教の大半が自分たちの教派に属してほしいという願望を反映していた。 1872 年、フリードリヒ・ヴィルヘルム・メンコーフ (1826 - 1895) が使徒に召され、ヴェ ストファーレンとラインラントを担当した。 1884 年、 メ ン コ ー フ は ド イ ツ で 最 初 の 教 会 定 期 刊 行 物 を 発 行 し た。 タ イ ト ル は「Der Herold( 新使徒教会ヘラルド )、真理を愛するキリスト教徒のための月刊誌」というものであった。 シュヴァルツ使徒が自分の活動地域で最初に行ったことは、カトリック使徒教会から引き継い でいた典礼の際に着用する法衣や典礼で用いられる数多くの道具類の廃止である。1885 年に は、他のすべての会衆でも廃止された。 1881 年、ドイツ北部の都市であるブラウンシュヴァイク出身のフリードリヒ・クレプス (1832 - 1905) が使徒に召された。シュヴァルツ使徒及びメンコーフ使徒の死後、指導者の職 に就いたのが彼である。彼が最も重点的に行ったことは使徒間の一致であった。こんにちでい う主使徒職を最初に担ったのも彼である。 19 世紀の終わりになるにつれて、使徒職は包括的な力をもって教会の表舞台に立つように なった一方で、その分預言者の存在意義が失われ始めた。1920 年代初めには会衆の中で活動 する預言者はいなくなった。 新使徒教会が設立して最初の数十年間においては、何よりも教会間の一致、使徒間の一致が 図られた。1897 年初頭には、主使徒職が新使徒教会の指導的職務であることをはじめて具体 化した。主使徒職はフリードリヒ・クレプスが 1905 年に彼が亡くなるまで勤めた。その後に 主使徒の職務についた者は以下の通りである: • ヘルマン・ニーハウス (1848 - 1932、在任期間 1905 - 1930) • ヨハン・ゴットフリート・ビショッフ (1871 - 1960、在任期間 1930 - 1960) • ヴァルター・シュミット (1891 - 1981、在任期間 1960 - 1975) • エルンスト・ストレックアイゼン (1905 - 1978、在任期間 1975 - 1978) • ハンス・ウルヴィラー (1925 - 1994、在任期間 1978 - 1988) • リヒアルト・フェーア (1939 -、在任期間 1988 - 2005) • ヴィルヘルム・レーバー (1947 -、在任期間 2005 - ) 305 11 キリスト教史概説 まとめ イングランドで信心深い人々が使徒に召されたのは、教会において特殊な職務が信仰によって待ち望まれていたこ とが背景にあった。 (11.3) 1837 年使徒たちは「大いなる証し」という文書を発行し、すべての教会の聖職者が使徒の権威に従うように呼び かけた。 (11.3.1) 1863 年 1 月 4 日、ハンブルクの会衆はロソハツキーが使徒に召されたことを認めた。これが新使徒教会の始まり である。 (11.3.3) 1897 年、新使徒教会を指導する職務として、主使徒職が創設された。こんにちのような意味における初代主使徒 職はフリードリヒ・クレプスである。 (11.3.3) 306 12.1 礼拝 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1 礼拝 礼拝とは、神の人類に対する働きかけと、人類による神への働きである。 12.1.1 礼拝に関する一般概念 サクラメント 会衆は神の御言葉を聞き、聖礼典を通して祝福を受けるために、礼拝に参加する。人々は尊 敬と謙虚さをもって神を崇める。 そのため礼拝は神と人との出会いの場である。信徒が敬虔な気持ちで仕え、三位一体の神の 臨在を認識することで、会衆は神が愛によって自分たちに仕えて下さるのを実感するのである。 12.1.2 旧約時代における礼拝 旧約聖書に書かれている礼拝は、神と人との出会いに基づいている。長い時間の経過と共に、 礼拝は様々に姿を変えていった。その間に神は何度となく人々に御自身を啓示され人々に救い をもたらされた。 だざい エデンの園においては、神は最初の人類に対して言葉をかけられた。人類の堕罪後も、神は 彼らを守らずに荒野に捨て置かれたわけではない。逆に彼らを慰め、将来において救いに与れ る希望を与えられたのである。 創世記 8 章には、人が神に仕え、神を崇め、感謝の捧げものを奉納するために祭壇を設けた ことを論じている。祭壇を造りそこに感謝の捧げ物を奉納した最初の人物はノアである。主は それにお応えになり、被造物の保護を約束された。 ヤコブは神と会話した場所を聖別し、 そこをベテルすなわち「神の家」( 創 28:19) と呼んだ。 神は、律法を通してモーセに祭壇の建立を教示され「わたしの名の唱えられるすべての場所 において、 わたしはあなたに臨み、 あなたを祝福する」と仰せになった ( 出 20:24 以下 )。ま た神は御自分が七日目を聖別されたことを記念し、安息日を心に留め、これを聖別せよ」とお 命じになった ( 出 20:8)。 307 12 礼拝、祝福行為、牧会 イスラエルの人々が約束の地に向けて砂漠を旅する中で、神は祭司として御自身に仕え、い けにえの奉納による礼拝を司式する者を選び出した。彼らはある職務の委任を受けた。それは、 特別な儀式を執り行って、イスラエルの人々に神の祝福を与えることである ( 民 6:22 - 27)。 この時の祝福の言葉は次の通りである「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が 御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて /あなたに平安を賜るように」( アロンの祝祷 )。 国王ダビデの時代には、神を称えるために礼拝の中で歌や音楽が用いられた ( 代上 25:6)。 国王ソロモンはエルサレムに神殿を建てさせた。この神殿において、礼拝が行われた。礼拝 ほふ もっぱ は祭司が犠牲とする動物を毎日屠ることが中心であった。この犠牲の奉納による礼拝は専らエ ルサレムの神殿で行われた。また神殿はイスラエルの人々が祝祭――例えば過越祭や仮庵祭 ( レ ビ 23 章 )――を行う場所でもあった。 神殿が破壊された後、イスラエルの人々は、もはや犠牲の奉仕を行うことができないと考え た。バビロン捕囚の時代、信徒はシナゴーグという特別に建てた家に集まった。祈りと聖書講 読を行うことが目的であった。これが後のキリスト教礼拝形式の原型である。 まとめ 礼拝は神による人類に対する働きかけと、人類による神への働きである。 (12.1) 旧約時代における礼拝は神と人類との出会いを基本としている。時代の流れと共に礼拝の形式も多様化した。 (12.1.2) エルサレム神殿が破壊された後、犠牲を奉納する形式による礼拝を行うことができなくなった。バビロン捕囚の時 代、信心深い人たちはシナゴーグに集まって、祈りや聖書購読を行った。これがキリスト教礼拝形式の原型の一つ となった。 (12.1.2) 12.1.3 新約時代における礼拝 イエス・キリストが人としておいでになったことにより、神は全く新しい次元で人類への奉 仕を開始された。神の御子イエス・キリストは真の人であり真の神としてこの世においでになっ もう た。キリストはユダヤの国民としてお生まれになり、神殿詣でをされ、シナゴーグで行われて いた礼拝に参加され、礼拝の手伝いもされた。また天来の権威を持って宣べ伝える教師として 308 12.1 礼拝 も活動された ( マタ 7:29)。洗礼も受けられた。そして聖餐を制定された。このように、イエ サクラメント スの発言や行為は、御言葉と聖礼典という、キリスト教の礼拝形式を定めることとなる事柄を すでに含んでいたのである。 イエスの働きは、礼拝の規範となった。その働きは、十字架の死によって頂点に達すること となる。つまりキリストは御自身を捧げるという究極の犠牲となられたのである。この犠牲は、 旧約時代におけるいけにえの奉納による礼拝をはるかに超越する――そして取って代わる―― ものである (3.4 参照 )。聖餐を執り行う際には、いつもこのキリストの犠牲を記念する。 イエス・キリストは、御自分が犠牲の死を遂げられる前から、キリストによる宣教活動の継 続を確実にして福音を保護するために、聖霊をお遣わしになることを約束された「…あなたが たが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わ たしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話し たことをことごとく思い起こさせてくださる」( ヨハ 14:24 - 26)。 聖霊の鼓舞によってペトロの説教がもたらされた。神の言葉が聖霊を通して啓示されると、 三千人の聴衆は「心を打たれ」、悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けた。 そして彼らはこの時に聖霊を受けた。ある意味で、ペンテコステはキリスト教会で行われた最 初の礼拝といえる。新約時代の礼拝を構成する四つの基本要素について、エルサレムにいたキ リスト教の会衆は次のように証ししている「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂く こと、祈ることに熱心であった」( 使 2:42)。 12.1.4 その後におけるキリスト教礼拝の発展 数世紀を経る中で、キリスト教の礼拝は多様化した。元々礼拝は典礼を重視したものであっ たが、宗教改革が起こり、プロテスタントにおいては、説教に重点が置かれるようになった。 カトリック使徒教会の礼拝でも典礼を明確に定めていた。新使徒教会の礼拝式次第は、伝統的 に改革派教会のものが取り入れられてきている。 12.1.5 神と出会う場としての礼拝 初代教会で確立した礼拝の四つの構成要素は、こんにちにおいても、祭壇における神と人と が出会う神秘を会衆が体験する際に現れるはっきりした特徴の一部である。 309 12 礼拝、祝福行為、牧会 しょうし 開会の宣言文――「父、御子、御霊なる神の御名によって」――は神への招詞であり神の臨 在を改めて確認する言葉である。これによってまず毎回の礼拝の中で三位一体の神と出会う。 同様にして、毎回の礼拝の中で三位一体の神による祝祷を以て礼拝は終了する。この招詞と祝 祷は、神が臨在することを礼拝出席者に明らかにするものである。 天の軍勢が天において神を称えるように ( イザ 6:3;黙 4:8 - 11)、会衆も三位一体の神 を称え、その栄光と恵みと憐れみとを称える。 礼拝は、キリスト再臨が近いことの希望を強め、信徒に主の来臨の備えをするためにある。 それゆえ礼拝は信徒のためのものである。礼拝への出席を軽視しておろそかにするならば、初 期キリスト教徒が実践した使徒の教えと交わり、パンを裂くこと、祈りをおろそかにすること になる。 サクラメント これといった理由もなく頻繁に礼拝を欠席するのは、御霊によってもたらされる聖礼典や御 はら 言葉への渇望感を失わせる危険を孕むことになる。しかも聖餐によってもたらされる力が魂に 浸透せず、神との交わりやそれに関わるあらゆる祝福を失うことになる。 礼拝や礼拝から提供される恵みを拒否したり軽んじたりすることによって、神に行うべき当 然の崇拝を拒むならば、罪の責任を自らが負うことになる――これは実際に礼拝に出席してい ようといまいと関係が無い。 12.1.5.1 使徒の教え ヘブライ人への手紙 3 章 1 節ではイエスについて「…わたしたちが公に言い表している < 告 白している > 使者…」と述べている。そのイエスはこう仰せになっている「わたしの教えは、 自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」( ヨハ 7:16)。天の父から 遣わされたお方が、今度は使徒をお遣わしになり、彼らに「あなたがたに命じておいたことを すべて守るように教え…」る職務を ( マタ 28:20) 与えられた。 使徒は、イエスの僕として、福音を宣べ伝え、信仰への従順を促進することを目的として召 され任命される ( ロマ 1:1,5)。同様に使徒から委任を受けた教役者もイエス・キリストの教 えを会衆に宣べ伝える。 聖霊によってもたらされる説教の言葉は、信仰を強め、悟りを深めるのに寄与する。説教は 慰めを与え、福音を規範として行動するように聴衆を諭し、間近に迫るキリストの再臨への希 望を生かし続ける。こうして信徒はイエスの約束が成就するのを体験することとなる「しかし、 その方、 すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、 自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げ 310 12.1 礼拝 るからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げる からである」( ヨハ 16:13 - 14)。つまり、聖霊に鼓舞される説教が持つ特徴は、救い主であ り贖い主であるキリストの栄光を称える点にある。 12.1.5.2 パンを裂く 聖餐が執り行われる際 (8.2 参照 )、会衆は聖餐が礼拝の中心に位置づけられていることを認 識する。罪の赦しに与った後、信徒は祭壇に来て、聖別されたウェファーによるパンとぶどう 酒という形でイエスの体と血を受ける。そうする中で、信仰に忠実な者たちは、聖餐を、感謝 の表現として、そしてキリストの犠牲を記念する祭礼として体験する ( ルカ 22:19)。聖餐は 交わりと告白の食事である。これには、キリストによって死んだ者たちや神の恵みによって祭 壇に集うことのできた者たちも含まれる。また聖餐は御子の来臨への希望を強くする ( 一コリ 11:26)。 聖餐にふさわしく与ることによって、再生を通して魂に与えられた命を保護することができ る。聖餐によって魂は、イエスにとどまりイエスときわめて密接な命の交わりを保てることを 確信する ( ヨハ 6:51 - 58)。このようにして受けた力によって、信徒は魂の救いに障害とな るものを克服することができ、イエスのような性質へと成長することができる。 このようにして、 イエス・キリストと命の交わりは、礼拝ごとに強まっていくのである。 12.1.5.3 交わり イエス・キリストは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもそ の中にいるのである」という約束を下さったが、信徒はこの約束が礼拝の中で実現するのを、 何度となく体験できる ( マタ 18:20)。それゆえ礼拝は、イエス・キリストとの交わりである。 イエス・キリストは御言葉によって会衆の真ん中におられ、御自身の体と血によって確実に臨 在しておられる。また礼拝は、神を崇め称えるために集まった信徒たちの交わりでもある。礼 あいつど 拝で聖餐や洗礼や御霊の証印が施与される時は、それらを受ける者と相集う教会員たちがその サクラメント 者の証人となる。さらにこれら聖礼典の際に宣べられる祝福の言葉は、会衆にいる教会員一人 ひとりにも語られている。これにより、すでに洗礼や御霊の証印を受けた経験のある者は、そ の時のことを改めて思い起こしていただきたい。そうすることによって、再生を果たしたすべ サクラメント ての魂が、聖礼典による完全な交わりのうちに、はっきりと一つに結ばれるのである。 311 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1.5.4 祈り 礼拝は祈りとの結びつきが不可分である。すでに礼拝開始前から、信仰深い者は個人的に祈 ることによって神に近くにいていただこうとする。礼拝中の祈りにおいて、司式者の発する祈 りの言葉において会衆は一つになる。この祈りの言葉によって崇拝、感謝、執り成し、嘆願を 表現する。会衆が一同で捧げる主の祈りには、特別な意味が込められる。主の祈りはマタイに よる福音書 6 章 9 - 13 節の書かれている文言に従って、聖餐の前に行われる。信徒がイエス の体と血に与った後、キリストに向かって、御自身を犠牲となったことで現在の恵みが与えら れていることに、黙祷という形でてキリストに感謝を捧げる。礼拝の終わりに際して、司式者 は言葉を発する形で祈りを捧げる。 まとめ イエス・キリストによって、人類に対して行われる天来の牧会宣教の在り方が、新しい次元で展開し始めた。キリ スト教の礼拝を特徴づけている要素――つまり御言葉と聖礼典 ( サクラメント )――は、イエスの言動を源として いる。 (12.1.3) 礼拝における四つの基本要素は新約聖書で証しされている。その四つとは使徒の教え、交わり、パンを裂くこと、 祈りである。 (12.1.3) キリスト教の礼拝形式は何世紀もの時を経る中で多様化した。近年における新使徒教会の礼拝式次第は、常に改良 を重ねてきた。 (12.1.4) 三位一体の神の名による礼拝開会の宣言は、神への招詞であり神の臨在を確信するものである。礼拝の中で三位一 体の神と出う時は、このような方法で始めて、三位一体の神の名による祝祷を以て結びとする。(12.1.5) 礼拝の目的は、間近に迫るキリストの再臨への希望を強くして、信徒に主の来臨の準備をさせることである。 (12.1.5) 使徒が召されているのは、福音の宣教のためである。委ねられた職務において活動する教役者も同様である。 (12.1.5.1) 聖餐の執行によって、会衆は礼拝の中心となる催事を体験する。 (12.1.5.2) 312 12.1 礼拝 礼拝は御言葉と聖礼典 ( サクラメント ) とを通してイエス・キリストと交わることである。また、神を崇め称える 目的で集う信徒らの交わりでもある。 (12.1.5.3) 礼拝は祈りとの結びつきが欠かせない。礼拝において、崇拝、感謝、執り成し、嘆願が表現される。 (12.1.5.4) 12.1.6 御言葉の宣教 かな 礼拝では、時宜に適った神の御旨が宣べ伝えられる。この御言葉の宣教を「説教」という。 主イエスが述べておられるように、新しく創造された者たちが生きる上で、神の御言葉は不 可欠である「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 ( マタ 4:4)。信仰は神の言葉を聞かなければ始まらない、と使徒パウロは指摘している ( ロマ 10:17)。ペトロの手紙一 1 章 24 - 25 節によれば、人類の本質がはかないものであるのに対 し、 神の言葉の本質は永遠的である「…しかし、 主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、 あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」 。 12.1.6.1「説教」という用語について 「説教」を意味する英語の "sermon" は、ラテン語で「会話」や「座談」を意味する "sermō" を語源とする。礼拝中に行われる説教は、教役者による霊的な語りかけであり、聖霊の力によっ て鼓舞され、内面化され、会衆に伝えられる。説教は聖書からの引用を基本としている。 12.1.6.2 新約時代における御言葉の宣教 旧約時代からすでに、聖霊の力によって神の御旨が、信徒らによって宣べ伝えられていたが、 神の御子がお生まれになり新しい次元による神の御言葉が登場した。イエス・キリストによっ て神の御言葉が完全な形で人類に伝えられるようになったのである。 イエスはエルサレムの神殿やシナゴーグなどで教えを説かれた。イエスによる説教内容の多 くは福音として現在の私たちに語り継がれている。その中にはキリスト教の教義における基本 原理が含まれている。イエスは伝道の際に喩えを用いたり旧約聖書の解釈をしたりされた。ま 313 12 礼拝、祝福行為、牧会 た将来の事柄についても多く触れられた。例えば御自分が苦しみを受けること、復活、昇天、 再臨の約束について説かれた。イエスによる伝道の中でも極めて特徴的な性格を持つものは、 山上の説教 < 垂訓 > の中で示されている。この中にはそれまで聞いたことの無かった八福や多 くの宣言が含まれている。この山上の説教がもたらした効果は、それを聞いた聴衆の反応から わかる「…群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者と してお教えになったからである」( マタ 7:28 - 29)。 すでに御子は御自分が地上で活動しておられた時から、使徒たちに御言葉の伝道を任務とし て課しておられたが ( マタ 10:7)、御自身が復活されてからは、全世界に行ってすべての人へ の福音伝道を彼らにお命じなった ( マコ 16:15)。 使徒ペトロはペンテコステの時に、キリスト教として初めての説教を行った ( 使 2:14 以下 )。 初代の使徒たちによる他の説教も聖書に記録されている。例えば使徒言行録 3 章 12 - 26 節 や 17 章 22 - 31 節がそうである。それ以外に、各教会の信徒が読んだ使徒書簡も、扱いは説 教と同様と考えることができる。これらの書簡はそれぞれが各教会やそれぞれの状況に合わせ サクラメント て、教会員に対して、悔い改め、神の恵みを受け入れ、聖礼典を受けるように強く促す内容であっ た。また教示的、説諭的性格もあった。神が人類を贖い、御自分の栄光のうちに永遠の命を与 えようとしておられることも、書簡の中には証しされていた。 12.1.6.3 こんにちにおける御言葉の宣教 新使徒教会の礼拝では、神の御言葉を宣べ伝えることを重要と位置付けている。使徒や使徒 から指名を受けた教役者は、会衆に神の御言葉の宣教を行うことが求められる。そのために彼 らは任命を通して祝福を受け、備えを受ける。 まず神の御言葉は、聖書を通して私たちに伝えられた事柄で構成される。どの説教も聖書を もと 基にした内容でなければならない。それゆえ一つ一つの説教の基本は指定された聖句とその解 釈に関する注解である。この注解は、主使徒が礼拝準備をする教役者に向けて発布する。 聖書解釈は自発的講話によって行われるものであるが、聖霊の促しによるものである。会衆 は、礼拝司式者が語る御言葉やそれを補佐する司式者の語る追補の御言葉を通して、この聖霊 の働きかけを受ける。数名の教役者がそれぞれの性格や才能によって神の御言葉を宣べ伝える のは、様々な視点から語られることで、説教の持ついくつかの側面を映し出したり、神の御旨 に関する理解を深めたりするためである。 314 12.1 礼拝 12.1.6.3.1 御言葉の宣教における中心的内容 御言葉の宣教における中核は、イエス・キリストの福音、すなわち良き知らせ < おとずれ > である。福音は、イエスの生涯や犠牲の業、復活、再臨、そして救いの御計画の完成について 述べている。 しかし時代を経る中で、神の栄光や神の御業を称えることも、説教の内容の一つとなってい る。さらに説教は、神の御旨に適った人生を送るための指針でもある。その際には信仰体験を 語ることが助けとなる。 その他の説教内容としては、神の恵みやイエス・キリストによる大いなる和解の働きを称え ることも説教の一部である。さらに説教では、信徒にも和解を訴える。こうしたことはすべて、 聖礼典を受けるための備えとなる。 12.1.6.3.2 御言葉を宣べ伝える目的 「イエス・キリストについての宣教」をすることによって、聴衆に対して信仰への従順を呼 びかけることになる ( ロマ 16:25,26)。説教の基本的目標は、信仰を呼び起こすことと信 仰を守ることである。このことを期待して、イエスは再臨されるのである。使徒による御言葉 の宣教も、常に会衆をイエスの来臨に備えさせることに照準を合わせて行われている ( 二コリ 11:2)。 間近に迫る主の再臨を信じることは、信徒の日常生活にも反映される。ガラテヤの信徒への 手紙 5 章 22 - 23 節によれば、聖霊の働きとは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、 節制の「実」を結ぶことである。 宣べ伝えられる御言葉は、慰めと確信を与え、知恵を促し、神への信頼を強くする。 神の御言葉によって聴衆は、いわば自分自身を映し出す鏡を見せられて、キリストの本質へ と成長するために何が必要かを理解する ( ヤコ 1:22 - 24)。その中には、キリストによって もたらされた神との和解を信仰によって受け入れ、結果として自分のほうからすべての人と和 解しようとする意志を喚起することも含まれる。 12.1.6.3.3 御言葉の宣教における基準 神の御言葉は完全であり、純粋であり、誤りは存在しない。しかしそれを宣べ伝えるのは人 であるために不完全となる。それゆえ説教に不完全な要素が含まれてしまうこともある。とは 315 12 礼拝、祝福行為、牧会 いえ神は、話し手と聞き手の双方からの強い嘆願を聞き入れ、人が語る不十分な説教の言葉に、 御自身の力を注ぎ入れて下さる。そのため説教には基準が二つある。一つは人の基準である。 つまり人が語り、人が聞く、ということである。この基準によるならば、話し手の言葉遣いの 誤りや内容の誤りもあり、一方で聞き手の誤解もある。これらは阻止できないことである。も う一つは神の基準である。委託を受けた神の僕を通して、聖霊が聞き手の魂に語りかけ、聞き 手の内面において信仰を呼び覚ます。こうして語彙や文章が不完全であっても、聞き手の内面 を神の力で満たすことができるのである。 しかし、たかが人の発言だとして説教を軽んじることの無いようにすることは、聴衆に課さ れる前提条件である。そのためには信仰が必要である。つまり、信頼する姿勢で、説教の言葉 に心を開き、それを受け入れ、生活に反映させようとしなければならない。そうすれば説教の 言葉によって、聞き手は自分の内面に自責の念を感じる。こうして自分が犯した罪を認め、そ れを悔い改め、恵みをいただきたいという強い願いを抱くようになる。 説教を聞く前に、聴衆は御言葉を通して強めていただき、平和を与えて下さるように、主に 祈り求める必要がある。神は、御言葉を強く願い求める会衆の熱意のこもった祈りを聞き、そ れに応えて下さるであろう。 説教に続いて、 聖餐が執行される。この時神の御言葉を通して聖餐に与るための備えを受ける。 まとめ 礼拝では神の御旨が宣べ伝えられる。この御言葉の宣教は「説教」として知られている。 (12.1.6) イエスはエルサレムの神殿やシナゴーグなどで教えを説かれた。イエスが御言葉を宣べ伝えた一例として、山上の 説教がある。 (12.1.6.2) キリスト教として行われた最初の説教は、ペンテコステの際にペトロが行った説教である。 (12.1.6.2) 新使徒教会の礼拝では、御言葉の宣教が重要な意味を持つ。御言葉の宣教は聖書の言葉に基づいている。原稿に よらない講話の中で行われる聖書解釈が、説教の中核を占める。言葉は聖霊によって呼び起されるものである。 (12.1.6.3) 御言葉の宣教において中心となる要素は福音である。福音はイエスの生涯、犠牲の業、復活、再臨について説いて いる。さらに説教は神の御旨に適った生き方を促すものでもある。 (12.1.6.3.1) 使徒による御言葉の宣教は、会衆がイエス・キリストの再臨に備えるような取り組みを常に証しする。 (12.1.6.3.2) 316 12.1 礼拝 宣べ伝えられた御言葉は神への信仰・信頼をより強固にし、慰めと確信を与え、知恵を増し加える。 (12.1.6.3.2) 神の言葉は完全であり誤りは存在しない。しかしそれを宣べ伝えるのは不完全な人類である。しかしだからといっ て説教が神の力で満たせないということは無い。 (12.1.6.3.3) 12.1.7 主の祈り 主の祈りはイエスが御自分を信じる者たちに与えられた貴重な遺産である。御子は主の祈り によって天の父にどのように祈るべきかを手本として教えて下さったのである。 御子によるこの祈りは、五つの嘆願を含むものと ( ルカ 11:2 - 4)、七つの嘆願を含むも のとがある ( マタ 6:9 - 13)。 12.1.7.1 礼拝中の主の祈り 礼拝の典礼において、プロテスタント 1880 年訳のものが用いられる: 「天にまします我らの父よ 願わくは 御名を崇めさせたまえ 御国を来たらせたまえ 御心の天に成る如く地にも成させたまえ 我らの日用の糧を今日も与えたまえ 我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ 我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ 国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり アーメン。」 主の祈りは、新使徒教会の典礼において不動の立場を占めている。固定した文言で信徒一同 が神に捧げる唯一の祈りである。 主の祈りは悔い改めの祈りでもあり、罪の赦しの前に捧げられる。信仰に忠実な者は主の祈 りを唱える中で、自分が罪を犯したことを神の御前に告白する。 317 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1.7.2 七つの嘆願 神への呼びかけの後、< あなたの > 御 名、< あなたの > 御 国、< あなたの > 御 心という、神 に言及した三つの嘆願を行う。次に、執り成しも含めた、我らの 日用の糧、我らの 罪、我らを < 試みに > 遭わせず、< 我らを >< 悪より > 救い出し、という四つの嘆願を行う。最後に神の偉 大さを称えて祈りを結ぶ。 12.1.7.2.1「天にまします我らの父よ」 「我らの父よ」という呼びかけ方は、主の祈りが、神の子であることを告白する者たちによる、 共同の祈りであることを表している。この祈りによる交わりにおいて、イエス・キリストは「多 くの兄弟の中で長子となられる」お方である ( ロマ 8:29)。キリストは祈りを捧げるとき、常 に父なる神に向かって祈られた ( ルカ 22:42;23:46;ヨハ 11:41;17:1)。 イエスと天の父との関係は他に類を見ないものである。キリストは人類に対して、神に「天 にまします我らの父よ」と祈りなさい、と教えられたことにより、御自分と天の父との関係に 人類を加えられた。 人類が自分の「父」として神に呼びかける場合、彼ら人類を神がお創りになり、神が人類の 主であり、神が人類を養っておられるという事実を暗に示している。神は被造物の根源であり 保護者である。人類は愛と信頼とによって恐れることなく神に向かって「父よ」と呼ぶことが できるのである。 「天にまします」という表現は、神がこの世に存在するいかなるものも超越したお方である ことを明確にしている。父なる神はすべてのものよりも偉大であり高位なるお方である。それ にもかかわらず神は、その万能さ故に、我ら人類の近くにおられるのである ( 詩 139 編;使 17:27)。 あが 12.1.7.2.2「願わくは御名を崇めさせたまえ」 すうけい 三位一体の神は聖なるお方である。信徒が神について語る時は深い崇敬の念を抱く。神に 敬意を表し、神を讃美し、神を称え、御旨に適った行動をするように努めることにより、信徒 は神の名を崇めることになる。主の祈りを唱えることで第二の戒めを思い起こし (5.3.3 参照 )、 318 12.1 礼拝 おあお こうべ た 永遠なるお方の偉大さを前にして謙虚な気持ちで神を畏れつつ頭を垂れる一方で、言葉を用い て神の名を崇めることができるのである。 新約時代になり、神は御子イエス・キリストによって御自身の名を啓示される。この名は常 に聖なるものとしなければならない。「わたしたちが救われるべき名は」この名である ( 使 4: 10,12;フィリ 2:9 - 11 参照 )。 12.1.7.2.3「御国を来らせたまえ」 神の御国はすでにキリストを通して現れ始め、キリストの教会では現れている。「御国を来 さと らせたまえ」とは、会衆の中でますます主を悟ることができますように、という意味である。 さらにこの言葉は、やがておとずれる神の御国の啓示について触れている。この御国は子羊 の婚姻を以て示されることになっている ( 黙 19:6 - 7)。この点について神の御国が来ますよ まぎ ホーム うにという嘆願は、紛れもなくキリストが再臨して御自分の花嫁を天の故郷に引き上げて下さ ることを表している。それだけではなく、この嘆願はさらに先の未来についても触れている。 つまり天において子羊の婚姻が行われた後、御子は地上に千年の平和王国をお建てになり、こ の平和王国においてすべての人類に福音が宣べ伝えられるのである。最後の審判が行われた後、 神は新天新地を創造され、神の御国は完全なる栄光に包まれて出現し、その御国は永遠に続く こととなる。 ごと 12.1.7.2.4「御心の天に成る如く地にも成させたまえ」 神は万能なお方である。神の御旨はすべてに優先する。神が支配する領域である天において は、神の御旨が至高の存在として君臨する。 神は、罪の結果として堕落した人類を助け出し、救いを与えようと願っておられる ( 一テモ 2: 4)。これを可能とするために、神は御子を遣わされた。イエス・キリストがおいでになり犠牲 となられたことにより、天の父の御旨が示されたのである ( ヘブ 10:9 - 10)。 地上のすべてのものを御旨に従って統治していただきたいという願いは「御心の <…> 地に も成させたまえ」という嘆願の言葉によって表されている。人類は、自らの罪深さとサタン― ―砕かれたとはいえ今なお活動しているのである――の力によって、この御心を規範として生 きていくことができない。しかし信徒が抱くこの嘆願は、すでにこんにちの生活においても、 御旨に従ってふるまえるようになりたいという願望をも表しているのである。 また、主の祈りにおけるこの嘆願の言葉は、すぐに贖いの御業を完成させていただきたいと いう表現でもある。 319 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1.7.2.5「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」 この嘆願をごく一般的に捉えれば、被造物の保護を指している。衣食住の他にこの世で生き ていくうえで必要なあらゆる事物を与えて下さるように、主に願い求めることでもある。 これを比喩的に捉えれば、不滅の魂に必要な「食べ物」である神の御言葉を求める嘆願とい える ( エレ 15:16)。 この嘆願の言葉の背景にあるさらに深い意味を探ると、イエスが言われた命のパン――すな わち聖餐――を表している「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べ るならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉の ことである」( ヨハ 6:48 - 51)。神は必ず、私たちのために常にこのパンを新たに用意して 下さる。 12.1.7.2.6「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」 ざいせき 人類は皆自らの罪の結果として、罪責を負っている。「我らの罪をも赦したまえ」と嘆願す こ ることで、信仰に忠実な者は自分が神の御前で罪人であることを告白し、神の恵みを乞う。こ こで明らかなのは、主の祈りが悔い改めの側面もあるということである。信徒は、キリストの 犠牲に基づいて、罪の赦しという恵みを受け、一切の罪責を消し去っていただくことができる。 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊 かな恵みによるものです」( エフェ 1:7)。 御子は、この嘆願を成就させるにあたり、まず我々に対して過ちを犯したり負い目を持った りしている者を我々が赦していることを条件とされた。我々が赦しを得るためにイエスがこの ことを条件として付されたことの重要性は、主の祈りの言葉に続く節でイエスが繰り返し確認 しておられることからも明らかである ( マタ 6:14 - 15)。悪い僕の喩え話でも明らかなように、 我々に負い目を持つ人を赦すことは我々の義務である ( マタ 18:21 - 35)。ここでイエスは、 負い目や罪から解放されるための道筋をお示しになり、平等や正義に関するあらゆる倫理概念 くつがえ を覆し、神による恵みの働きがすべてに優ることを信徒に教えておられたのである。 320 12.1 礼拝 12.1.7.2.7「我らを試みに遭わせず」 あ 試みに遭わせないで下さいと嘆願することにより、信徒は神に、自らの力を尽くして罪に対 抗できるように助けて下さい、と願う。さらに、 信仰による試みがあまり厳しくならないように、 サタンの誘惑から多くを守って下さい、と願う。しかし神は、信徒の信仰が改善されることを 目的として、試みとしての誘惑に遭わせることをお認めになる。その一例が、アブラハムに対 して自分の息子を捧げよ、と命じる残酷な試みである ( 創 22:1 - 18)。 神は御自身に対する我々の忠実な気持ちが萎えることの無いように我々を監督しておられる のである 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と 共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」( 一コリ 10:13)。 罪への誘惑について使徒ヤコブが次のように書いている「誘惑に遭うとき、だれも、『神に 誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、 御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引 かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生み ます」( ヤコ 1:13 - 15)。このことから、天の父は――聖霊を通して私たちに善い業を一つ 一つ行わせ、イエスの体と血を通して不完全を克服するだけの強さを身につけさせて下さるお 方であるから――私たちを誘惑して罪に陥れるようなことは決してなさらず、我々の信仰を証 しするために我々を試みられるのである。 12.1.7.2.8「悪より救い出したまえ」 「悪より救い出したまえ」という嘆願の言葉は、罪に至らしめるような苦しみから神が救い 出して下さることを願う表現である。またここに出てくる悪とは、サタンからもたらされるあ らゆる物事から成っている。極論すれば、この嘆願は最終的に悪そのものから解放されること を嘆願する言葉である。 キリストは御自身が犠牲となられたことによって贖いを可能とされたのである。「わたした ちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」( コロ 1:14)。贖いは 進行中であり、最終的にサタンによるあらゆる支配から完全に解放されることを目指している。 その時はじめて贖いは完成する。 321 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1.7.2.9「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」1 しょうえい 最後に神の称える表現 ( 頌栄 ) が続いている。この中でいと高きお方に相応の栄誉と栄光と が示されている。御国の王であられる主はその御力によって信徒を補佐して下さる。信徒も主 の栄光を共有きるようにするためである。キリストが再臨された時、花嫁の会衆は主の栄光に 与ることになる「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共 に栄光に包まれて現れるでしょう」( コロ 3:4)。 12.1.7.2.10「アーメン」 「アーメン」という表現はヘブライ語に由来し「そうなりますように」と訳出される。主の 祈りを結ぶ言葉であり、さらにこの祈りにおいて神に捧げられた一つ一つの嘆願や宣言を再確 認している。 まとめ 主の祈りによってイエスは神への祈り方の手本を示された。 (12.1.7) 主の祈りは、既定の文言に従って礼拝において会衆が共通して祈る唯一の祈りであり、マタイによる福音書 6 章 9 - 13 節を引用したものである。罪の赦しと聖餐執行に関連してこの祈りが捧げられる。 (12.1.7.1) 神への呼びかけに続いて、嘆願が行われ、神への讃美をもって終わる。 (12.1.7.2) 神にあらゆる栄光をを称え、御旨に従って生きる努力をすることによって、神の御名を崇める。 (12.1.7.2.2) 「御国を来たらせたまえ」という嘆願は、会衆の中でますますはっきりと主を認識できるように願うものである。 また、やがておとずれる神の御国に言及するものである。御国の始まりは天の婚姻である。 (12.1.7.2.4) 1 頌栄部分は聖書のすべての訳本に存在するわけではない。 322 12.1 礼拝 「御心の天に成る如く地にも成させたまえ」は、地上においても神が万物を御旨のままに導いて下さることを願う ものである。こうして信徒は御旨に従って行動できることを願う。 (12.1.7.2.4) 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。 」これは人類が必要とするすべての物事を与えて下さるように願う表現であ る。広義に捉えれば、被造物の保護を願う表現である。 (12.1.7.2.5) 「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く…」と願うのは、赦しを得るためである。自分に過ちを犯した者を赦すことは、 信徒にとって重要である。 「…我らの罪をも赦したまえ。 」これは、信徒が神の御前で自分が罪人であることを告白 して、恵みを願うものである。 (12.1.7.2.6) 試みに遭わせないで下さいという嘆願は、罪に対抗するために神の助けに与りたいという信徒の願望と、過度に厳 しくならない程度に信仰上の試みを信徒に与えるという神の思し召しを証ししている。 (12.1.7.2.7) 「悪より救い出したまえ」という表現は、罪に至らしめる苦難から神が解放して下さること――そして最終的に悪 から解放して下さること――を信徒が神に願うものである。 (12.1.7.2.8) 神を称える言葉において、いと高きお方への栄誉を称える。 (12.1.7.2.9) 最後に、すべての嘆願と宣言を再確認する目的で「アーメン」と唱える。これは「そうでありますように」という 意味である。 (12.1.7.2.10) 12.1.8 礼拝における罪の赦し 罪の赦しが可能となったことはひとえに神の恵みによるものである。罪深い人類に対する神 の愛は、神御自身がイエス・キリストという人となられ < 神の擬人化 > 十字架で死なれたこと から示されている。完全であり永遠に有効なこの犠牲の業が罪の赦しの土台である。 サクラメント サクラメント ( 礼拝で行われる ) 罪の赦しの宣言は聖礼典ではなく、聖礼典をふさわしく受けるための条 件である。 この宣言は会衆が一同で捧げる主の祈りの後に行われる。具体的文言は以下の通りである: 「私を遣わした使徒の委任を受け、皆さんに喜ばしいおとずれを宣言いたします:生きた 神の御子、主イエス・キリストの御名により、皆さんの罪が赦されました。天に昇られた お方の平安が、皆さん御一同の上にありますように。アーメン。 」 これに続けて会衆は「アーメン」と言い、この赦しを信じて受け入れることを確認する。 323 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1.8.1 神――赦すお方 罪を消し去って下さるのは三位一体の神である。人が自分たちの力で罪を抹消することはで きない ( マタ 16:26;ルカ 5:21 - 24;ロマ 4:8)。 永遠に有効なイエス・キリストの犠牲が罪の赦しの土台であるとはいえ、神は万能である から、罪を赦すことはいつでもおできになる。それゆえ、イエス・キリストは、御自分の罪の 無い生命を犠牲にされる以前から、すでに罪を赦す権威をお持ちだったのである ( マコ 2:5, 10)。 12.1.8.2 神の忍耐――旧約時代におけるいけにえの奉納による礼拝 神は旧約時代に、いけにえの奉納による礼拝の執行を命じられた ( レビ 19:22)。人々は、 祭司が捧げ物をすることによって、神の恵みに与ろうとしたのである。ところがこうした捧げ 物では、いかなる罪をも消し去ることができなかった。人々ができたのは、イエスが犠牲の死 を遂げられるまで、罪が抹消されるのを引き延ばすことだけだったのである。イエスによる犠 牲の時まで、旧約の罪深い人々は、神が忍耐されることによって、その罪が覆い隠されていた のである ( ロマ 3:25 - 26)。預言者たちは、罪を覆い隠すのではなく完全に消し去られる、 罪の赦しがいつか行われることを宣べ伝えていた ( イザ 1:18)。 12.1.8.3 キリストの犠牲――罪の赦しの土台 旧約時代に行われた犠牲奉納による礼拝は、キリストによる完全なる犠牲の業に取って代 わった。イエス・キリストは罪無き生涯を送られた。その命を自らの御旨によって放棄し、犠 牲として捧げられたことによって ( ヨハ 10:17 - 18)、サタンの力を砕き、悪魔とその業、 すなわち罪と死に勝利されたのである ( 二コリ 5:21)。この時以来罪の赦し――罪の抹消―― が可能となり ( ヘブ 10:18)、罪と死からの贖いも可能となったのである ( ロマ 3:24)。 324 12.1 礼拝 12.1.8.4 罪の赦しを得るための条件 罪が赦され霊の死から救出されるためには、イエス・キリストが贖い主であることを信じるこ とが、罪人たちにとって前提となる第一の条件である ( ヨハ 8:24)。キリストの使徒たちを通し て人類に罪の赦しが宣言されることを信じる以外に ( ヨハ 20:23)、以下のことが必要となる: • 自身の罪を自覚するための、しっかりした自己点検 • 罪を犯したことと恵みが必要であるという認識 • 神との和解を心から切望すること • 主の祈りを唱える中で神の御前に自らの罪を告白し、 「我らの罪を赦したまえ」と願うこと • 過ちや弱さを克服しようとする真剣に決意することにより、過ちを悔い改めたり、自責の 念を感じたりすること • 過ちを犯した人と自ら進んで和解しようとする姿勢 • 罪の赦しの宣言を、信仰をもってしっかり受け止めること。 12.1.8.5 悔い改めと自責 悔い改めは、自分自身の欠点や過ちを認識することに生じる結果である。悔い改めるとは、 自責の念に駆られる――行為によって生じた過ちや不作為が原因で苦痛を感じる――というこ とと、自身の姿勢を変えたり改善したりしようと真剣に努力するということである。赦しを得 るためにどれほど具体的な悔い改めを条件としなければならないのかについては、罪人である ことの自覚と犯した罪に対する自責の念によると考えられる。さらに、故意に犯した罪なのか 無意識に犯した罪なのかによる違いも大きい。 悔い改めに伴う自責の念を考えると、どの程度具体的な悔い改めが必要なのかについては、 人が判断するのではなく、神お一人が判断なさることである。純粋な気持ちで深い自責の念に 駆られ、自ら進んで悔い改めようとする気持ちから、自身の姿勢やふるまいを進んで変えたい という気持ちを表すならば、信徒は純粋な思いで神の恵みを希望するであろう。 罪の赦しの宣言を信仰によって受け入れても、内面の平安が得られないような、特に重大な 出来事の場合は、告白という手段を選択することも可能である (12.4.4 参照 )。 心から自責の念に駆られる気持ちと隣人と進んで和解しようとする気持ちは同じである。生 じた損失分は可能な限り回復させなければならない ( 民 5:6 - 7;ルカ 19:8)。 325 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.1.8.6 赦されない罪 ぼうとく 赦されない罪がある。それは聖霊に対する冒涜である。これに関して御子は次のように述べ ておられる「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」( マコ 3: 29)。敵意をもった卑劣な動機で、聖霊を邪悪な力とか悪に招く力などと意識的意図的に口に する者は、聖霊に対する冒涜罪の責めを負うこととなる。 12.1.8.7 宣言と権限 罪の赦しは宣言しなければならないものである。イエスは一人ひとりに罪の赦しを宣言され た ( ルカ 7:48 他 )。 罪の赦しの宣言が行われることにより、罪は赦される。この宣言は権限を与えられた教役者 がイエス・キリストの名において行うものである。一般的には礼拝の中で会衆全体に向けて行 われる。しかし、この宣言を信仰によってしっかり受け止めていて且つ相応の条件を満たして いる者にしか効果は発揮されない。 イエスの名において罪の宣言を行う権限は、和解の職務である使徒職に与えられている ( ヨ ハ 20:23)。牧会職は使徒の委託を受けて、イエスの名において罪の赦しの宣言を行う。この 宣言は、使徒が直接行うのと同様の効果を有する。 12.1.8.8 罪の赦しがもたらす効果 権限によってイエスの名において宣言される罪の赦しを、信仰によって受け止めるならば、 罪は消され ( 一ヨハ 2:12)、神に対して存在していた負い目は帳消しとなる ( マタ 6:12)。し かし罪が赦されても、罪深い行為を行ったことによって生じた物質的、倫理的、法的影響や社 会的責任にまで効果がもたらされるわけではない。 罪の赦しに与った信徒は「天に昇られたお方の平安が、皆さん御一同の上にありますように」 との言葉によってイエス・キリストの平安にも与る。この平安が臨むと、 罪の結果として生じる、 神を巡るあらゆる恐怖が取り除かれる。 326 12.1 礼拝 まとめ 罪の赦しの宣言は、イエス・キリストによる完全且つ永遠に有効な犠牲の業を土台としている。 (12.1.8) 罪の赦しは聖礼典 ( サクラメント ) ではなく、 聖礼典 ( サクラメント ) をふさわしく受けるための条件である。(12.1.8) 罪を洗い流すのは三位一体の神であり、人にはできないことである。 (12.1.8.1) 旧約時代における犠牲奉納による礼拝では、罪を抹消することはできず、キリストが犠牲の死を遂げられるまで罪 責を引き延ばす効果しかなかった。キリストが犠牲となられて以来、罪の赦し――罪の抹消と死からの贖いという 意味での――が可能となった。 (12.1.8.2;12.1.8.3) 罪の赦しを受けるための条件は、イエス・キリストが贖い主であることを信じることである。悔い改めと自責の念 の他に、自身の罪を認めそれを告白すること、さらに進んで和解しようとする気持ちを持つことが不可欠である。 (12.1.8.4) 自身の罪を認めることは悔い改めの前提である。これには自責の念や姿勢を改善したり変えたりする努力が含まれ る。自責の念に駆られて自ら進んで悔い改めようとする気持ちが純粋ならば、信徒は神の恵みに希望を抱くであろ う。 (12.1.8.5) 聖霊に対する冒涜罪は赦されない。 (12.1.8.6) 罪の赦しは宣言しなければならないものである。この宣言はイエス・キリストの名において行われ、この宣言を信 仰によってしっかり受け止めるすべての者に効果を発揮する。罪の赦しを宣言する権限を持つのは、和解の職務で ある使徒職である。 (12.1.8.7) 罪の赦しの宣言を信仰をもってしっかり受け止める者は、その罪は消され、神の御前に存在した罪責も帳消しとな る。このような者たちにはイエス・キリストの平安が保証される。(12.1.8.8) 327 12 礼拝、祝福行為、牧会 サクラメント せ よ 12.1.9 礼拝における聖礼典の施与 サクラメント サクラメント 聖礼典の施与は礼拝の中心である。聖礼典を施すことによって信徒は、救いと贖いに与るこ とができる。この救いと贖いは、神がイエス・キリストという人としてこの世においでになり、 サクラメント 犠牲の死を遂げられ、復活されたことによって (8 参照 ) 可能となったものである。聖礼典は聖 霊の力によってもたらされる聖なる行為である。 サクラメント 聖礼典の中でも、洗礼と聖餐は使徒乃至使徒の委任を受けた教役者が執り行うが、御霊の証 印は使徒が施与する。 聖餐は使徒または牧会職が司式する毎回の礼拝において執り行われる。冠婚葬祭など特別日 は聖餐無しで礼拝が行われる。 聖別されたウェファーは罪の赦しの後に施与される。イエス・キリストによってもたらされ た神の救いの行為に、ふさわしく与れるようにするためである。 サクラメント 洗礼と御霊の証印が行われる時は、礼拝参加者は聖餐を受けることにより、聖礼典による救 いの行為と、神と会衆の前で行われる信仰の誓いに対する証人となる。 サクラメント どの聖礼典も、幼児は受けることができる。可能な時はいつも、礼拝の時会衆と共に聖餐の 執行に加われる。 日曜日とキリスト教の祝日に、主使徒と教区使徒あるいは彼らから委任を受けた使徒たちは、 会衆と聖餐を執行した後、故人にも聖餐を施与する。この場合、二人の教役者が故人に代わっ てキリストの体とぶどう酒を受ける。年に三度、主使徒、教区使徒または彼らから委託された サクラメント 使徒たちが故人に対して三つの聖礼典を施すために、特別礼拝を執り行っている。この時も二 サクラメント 人の教役者が故人に代わって三つの聖礼典を受ける。 12.1.10 閉会の祝祷 礼拝の終了時、三位一体の神による祝福が出席者全員に施与される。三位一体の神によって 行われる開会の宣言と同様に「閉会の祝祷」も、礼拝行事全体にわたる枠組みの一つである。 また閉会の祝祷によって、すべてが三位一体から出て三位一体の神を中心にしていることがわ かる。会衆に向けて宣言される閉会の祝祷は、コリントの信徒への手紙二 13 章 13 節の言葉に よるものである「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共 にあるように」。 328 12.1 礼拝 12.1.11 礼拝の式次第と祝福行為 一般的に、祝福行為――出生前の祝福を除いて――は礼拝中に行われる。堅信礼は洗礼や御 霊の証印と直接関係するものであり、聖餐の直前に行われる。その他の祝福行為は聖餐の後に 行われる。 ゲストの受洗認証――他教派での受洗が正式なものであることを承認する行為――と会衆へ の編入は祝福行為の一つと考える。この行為において、認証を受ける者は新使徒教会の信仰を 告白すると、定期的に聖餐を受けることが認められる。この受洗認証は聖餐の前に三位一体の 名によって行われる。 教会または会衆のための集会所を寄進する献堂式も、広義の祝福行為として扱われる。そこ で初めて行われる礼拝の、説教の前に行われる。 12.1.12 任命、指名、復職、引退 任命とは、霊的職務の授与である。これは例外なく使徒が行う。 任命は、典礼として、聖餐など聖礼典の施与の後に行われる。受任者は、使徒から名前を呼 ばれた後に、神に忠誠を尽し、イエスの教えに忠誠を尽して、新使徒信条に従い、信徒を愛し、 イエスの使徒に服従して、職務を受け遂行する覚悟があるかどうかを尋ねられる。そして、神 の奉仕に資する者としてお召しになった神の御前と、 会衆の前に「はい」という誓いの返事をし、 膝をついて、使徒の按手と祈りを通して職務を受ける。 会衆統括者または教区統括者の指名――通常これも使徒が行う――も天からの祝福に与る保 証として行われる。これは任命と同列に扱うことはできない。 教役者が自分の担当地域外へ移動する場合、移動先でも職務を継続するためには復職の手続 きが必要となる。復職は、使徒または使徒から委任を受けた教役者が発令する。 一般的に、職務は引退をもって職務が実質的に停止する。引退式は礼拝中に使徒が行う。使 徒はキリストの愛の御霊によって成し遂げられたすべてのことに感謝し、実質的職務から解任 する。 329 12 礼拝、祝福行為、牧会 まとめ 洗礼と聖餐は使徒乃至使徒から委任された牧会職が施与する。御霊の証印は使徒のみが施与する。三つの聖礼典 ( サ クラメント ) はどれも、幼児も受けることができる。 (12.1.9) 聖餐は通常、礼拝ごとに執り行われる。特別日 ( 葬儀など ) の礼拝は聖餐無しで行われる。 (12.1.9) 礼拝の閉会時、コリントの信徒への手紙二 13 章 13 節を引用した言葉をもって、出席者全員に、三位一体の神に よる祝福が施与される。 (12.1.10) 礼拝中に行われる任命、指名、引退による退任式は聖礼典 ( サクラメント ) に続いて行われる。 (12.1.12) 12.1.13 故人のための特別礼拝 故人のための特別礼拝は、三月、七月、十一月のそれぞれ第一日曜の年三回行われる。新使 徒教会のキリスト教徒はこのことを心に留めて、贖われることなく死んでいった魂がキリスト の救いを見出せるように祈りを捧げる。 神の御旨は人類全体を贖うことである。イエス・キリストは故人及び存命者の両者を統治さ れる、主なるお方である ( ロマ 14:9)。 コリントの教会ではすでに存命者が故人に代わって洗礼を受けていた ( 一コリ 15:29)。 このことは、主使徒、教区使徒、使徒が司式する故人のための特別礼拝として継続されており、 サクラメント 二人の教役者が故人に代わって、洗礼、御霊の証印、聖餐を受ける。これら聖礼典は普段と同 しの じように執り行われる。使徒のいない会衆では、 聖餐の後、 故人を偲ぶ特別な祈りが捧げられる。 故人のための特別礼拝は新使徒教会の教会暦の中で重要な位置づけがなされている。故人の ための特別礼拝の前週の日曜日から、会衆はこの特別礼拝のために準備する。会衆は贖われな い状態で死んでいった者たちのために思いを馳せ、憐れみや同情を感じ、彼らのために執り成 すのである。 まとめ 年に三度、故人のための特別礼拝が行われている。 (12.1.13) 新使徒教会のキリスト教徒は、 贖われていない魂がキリストによる救いを見出せるように、祈りを捧げる。(12.1.13) 330 12.1 礼拝 12.1.14 礼拝中の音楽 礼拝中の音楽は神を称え崇めることが目的である ( 詩 150 編 )。礼拝における音楽の役割は 常に奉仕である。そして音楽には様々な効果がある。魂に深い感動を促し、御言葉の宣教に向 じなら けて会衆を準備させ、神の御言葉のために地均しをすることができる。歌唱――会衆で聖歌隊 であれ――や楽器演奏は勇気、強さ、確信を表現したりそれらを与えたりする。悲しい時や苦 しい時でも、音楽によって慰めを得ることができる。いずれにしても、歌や音楽を披露する者 たちもそれを聞く者たちもある種の交わりの感覚を得ることができる。 教会音楽は、礼拝中に全員が関われるように、種類、形式、難易度が多岐にわたる。教会は、 礼拝やその他の行事を通して、様々な文化を持った伝統音楽の保護に努めている。 礼拝前の音楽や黙祷によって、礼拝出席者は気持ちを集中させ、御言葉が伝わるための準備 をする。礼拝開始に際し、会衆は讃美歌を斉唱する。こうして礼拝参加者全員が積極的に礼拝 体験に加わることになる。聖餐執行の前に、会衆は悔い改めの思いを、それにふさわしい讃美 歌を歌うことによって告白する。聖餐執行中に讃美歌を歌うのは、聖餐に与ったことに応えて イエス・キリストへの愛と感謝を表現するためである。 閉会の祝祷に続いて「アーメン三唱」を会衆が斉唱し、礼拝は終了する。その後、讃美歌を 会衆一同でまたは聖歌隊が歌うか、音楽演奏を行うのが一般的である。 このように、礼拝音楽を通して礼拝体験が深められていく「キリストの言葉があなたがたの内 に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌 により、感謝して心から神をほめたたえなさい」( コロ 3:16)。 まとめ 礼拝音楽には、神を称えその栄光を崇める働きがある。奉仕の役割もある。 (12.1.14) 331 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.2 祝福行為 新使徒教会では、堅信礼、婚約、結婚、結婚記念日という信徒の生活における出来事に対して、 特別な祝福を施与する。一般的にこれらの祝福行為は礼拝中に行われる。出産前の祝福は礼拝 と別に行われる。 おんちょう 祝福を施与する中で、神は祝福を心から渇望する魂に向き合われ、その魂への恩寵をお示し になる。使徒や牧会職を通して、神は信徒に対して助け、恵み、憐れみを保証される。これに 類似した祝福は旧約時代にもあった。アロンの祝祷 < 祝福 > といい、神は祭司に施与を委任さ れた ( 民 6:24-26)。 12.2.1 出産前の祝福 妊娠や出産は両親が人生における特別な局面として体験することである。この期間中両親は 適切な牧会を受けることができる。 同時に両親にはこの新しい生命が誕生した瞬間からその生命への責任が伴う。祝福行為は母 親の求めに応じて母親に対して行われる。これによって神は胎児の成長を促進させ育んでいる 母親を信仰面で強めて下さる。祝福は未出生の魂にも益をもたらすことで、母子共に神の中で 守られていることを、母親は確信することができる。 子は、母親の胎内で成長している間は、すべてにおいて母親と繋がっている。母親が体内に 供給するものを子が吸収するだけではなく、子の魂も母親が感じたり体験したりすることによ る影響を受ける。こうして意識をもって子の成長を母親自身の信仰生活と関わらせることによっ て、子の成長に有益に寄与することができる。 出産前の祝福は、出産にかかわる問題から解放したり健康な子の出産を約束したりするもの ではない。 12.2.2 堅信礼 堅信礼 ( ラテン語 confirmatio「補強」「確認」) とは、幼少時に洗礼と御霊の証印を受けた青 年新使徒教会員が、それまで自分に代わって両親が果たしてきた義務を、自らが果たすにあたっ て受ける祝福行為である。堅信礼を受けたキリスト教徒は、この日を境に霊的な意味で成年と 332 12.2 祝福行為 おこた なり、実行している一つ一つのことや実行を怠っている一つ一つのことに対して、神の御前で 完全な責任を負うことになる。そして神に忠実であることを約束し、新使徒教会の信仰を公の 場で言い広めるのである。 12.2.2.1 堅信礼を受ける年齢と条件 堅信礼の適年齢は様々である。宗教的成長度や人生における段階によるが、一般的には見通 しをもって行動し責任をもって信仰生活の送れる思春期である。 思春期までの段階で、家庭、礼拝、宗教教育を通して、信仰面での養育を受ける。さらに― ―教会における宗教教育の仕上げとして――堅信礼準備教育を通して堅信礼に向けた準備を受 けることにより、 • 教義の根本原理、特に新使徒信条の習得 • 福音に適う生き方ができるための熱心な努力 • 信仰の目標であるキリスト再臨に照準を合わせた生き方の実践 を行う。 礼拝及び堅信礼準備教育への出席が、堅信礼を受けるための前提条件である。 12.2.2.2 堅信の宣誓及び堅信の祝福 堅信礼は礼拝の中で執り行う。まず志願者は、信仰において神に忠実であり続ける意志があ るかどうかを問われ、それに対して「はい」と答える。次に堅信の宣誓をする。この宣誓文の 元になっているのは、紀元 3 世紀から採用された洗礼の際の典礼文である。堅信の宣誓は神と 会衆の前で朗誦される。具体的には以下の内容である: 「私は悪魔とそれにつける一切の業や流儀を放棄し、三位一体の神であられる父、御子、御 霊なるあなたに私自身を捧げ、信仰と服従と固い決意とをもって、最後まであなたに忠実であ ることを誓います。アーメン。」 この宣誓文は、志願者が悪や神に適さないあらゆる物事を回避しひたすら福音の道を歩む努 むね 力をするということを旨としている。志願者は三位一体の神を信じることを告白し、神を信じ 神に従うことを基本として生きる意志があることを宣言する。 司式者による祈りが捧げられ、志願者は堅信の祝福を受ける。この祝福は志願者一人ひとり に按手をすることによって施与される。この祝福は、言葉や行動を通してイエス・キリストを 333 12 礼拝、祝福行為、牧会 公に言い広めることを誓って堅信礼を受けた者にとって、その誓いをを守る努力をする際に、 力を与えてくれる。 12.2.3 結婚式、結婚記念式、婚約式 結婚は神の望み通りに二人の異性が生涯にわたって一つに結ばれることである。これは、男 女がそれぞれの肉体的精神的側面において互いの特徴を受け入れ合う自由意思に基づくもので ある。教会の祝福は、二人が将来にわたって生活を共にする上で、非常に大きな意味を持つ。 教会での結婚式は、一般的に行われている挙式を済ませてから行わなければならない。 忠誠を公の場で誓う約束では、今後二人が共に人生を歩んでいくことを表明する。結婚式に おいて、婚礼は神の祝福の一つとして位置付けられている。 12.2.3.1 結婚の祝福 一般的に教会で行う結婚の祝福は礼拝中に行われる。結婚の祝福に先立ち、二人に対して祝 福された結婚生活を送るための教えを受ける。司式者は、神の祝福の下で、どんな環境にあっ ても互いに忠実に向き合って愛し合いつつ共に人生を歩むつもりがあるかどうかを尋ねる。二 人はこの問いかけに「はい」と答え、神と会衆の前に約束する。この約束を守るために、二人 は三位一体による祝福を受ける。 神を愛し互いに愛し合うことは、結婚を破綻させずに祝福を守り抜き、調和をもって人生を 歩む力を見出し、神の助けを受けて困難な状況を克服するための重要条件である。夫婦となっ た新使徒教会員にとってもう一つ重要な務めがある。それは、互いに支え合いながら信仰の目 標に到達することである。 12.2.3.2 結婚記念の祝福 夫婦の求めに応じ、以下の結婚記念の年に祝福を施与する。 • 銀婚式 (25 周年 ) • ルビー婚式 (40 周年 ) • 金婚式 (50 周年 ) 334 12.2 祝福行為 • ダイヤモンド婚式 (60 周年 ) • 鉄婚式 (65 周年 ) • プラチナ婚式 (70 周年 ) • ダイヤ金婚式 (75 周年 ) 12.2.3.3 婚約式 婚約は結婚を真剣に約束することである。婚約の祝福は礼拝に施与できることが望ましい。 婚約した二人によって、神に喜ばれる方法で結婚に向けた準備をする意志表明が会衆の前で公 に宣言される。これに対して二人は神の祝福を受ける。 まとめ 信徒の生活上における特定の出来事や行事に対して、教会では特別な祝福を施与する。 (12.2) 出産前の祝福は、人に対して神が初めて見える形で施与されるものである。この祝福は母子双方に益に寄与するも のである。 (12.2.1) 堅信礼では、若いキリスト教徒が神への忠実を誓約し、新使徒教会の信仰を公に告白する。堅信の宣誓は神と会衆 の前で行われる。そこで堅信礼志願者が自ら立てた誓いを守る際に、堅信の祝福が共に働き、力となってくれる。 (12.2.2;12.2.2.2) 結婚を希望する二人が神と会衆の前に、互いに忠実になって助け合うことと、愛によって人生を共に歩むことを誓 う。それに対して二人は結婚の祝福を受ける。求めに応じて、特定の結婚記念の年に新たな祝福を受けることがで きる。(12.2.3;12.2.3.1;12.2.3.2) 12.2.4 献堂式 新しく設立された教会の献堂式は、その教会の礼拝中に行われる。献堂式次第――ほとんど の場合、教区使徒または使徒が司式する――は別にして、教会献堂記念礼拝の式次第は他の礼 拝に準ずる。 教会献堂記念礼拝は、それを踏まえた聖句に基づく。司式者はまず神への感謝を表明する。 ほとんどの場合、それに加えて、教会員が進んで犠牲を捧げようとしたことによって教会が建 335 12 礼拝、祝福行為、牧会 てられたことや、すべての工事関係者に対しても、感謝が表明される。会衆の発展に至る歴史 的経過についても触れられる。 献堂の祈りを通して、神の家は三位一体なる神の御名によって、聖なる目的で奉納される。 こうして新しい教会は聖別されて聖霊の啓示される場所となる。これ以降、この場所から神の サクラメント 御言葉が宣べ伝えられ、この場所から聖礼典が施与される。ここで行われる活動は、救いを切 望する魂を完全な者とすることに寄与することと、その魂をイエス・キリスト再臨に備えさせ ることが、専らの目的となる。教会の建物とこれに集うすべての者たちは、神の守護と天使に よる奉仕とに委ねられる。 寄進された教会は神を崇める場所であり、救いを求める者たちにとって聖所である。教会は 彼らに慰めと、信仰による力と、魂の平和とを、礼拝を通して提供する。 教会として使用されていた建物が礼拝堂として使用されなくなると、その建造物を世俗化する ための礼拝を行う。この最後の礼拝で、献堂式の時に与えられていた、天来の活動が行われる 聖なる場所としての教会建造物の目的が解除される。世俗化された後は通常の建物となり、別 の目的で使用することが可能となる。 まとめ 献堂式礼拝の時に、建造物には三位一体の神の名によって聖なる目的が付与され、聖霊が啓示される場所として献 納される。 (12.2.4) 教会建造物が礼拝で使用されなくなる場合は、その建物を世俗化するための礼拝を行う。 (12.2.4) 12.3 教会葬 のこ 愛する人が亡くなることは、遺された人たちにとって苦しいことであり悲しいことである。 このような時、周囲の人たちが愛情に満ちた配慮を表すことによって、遺された人たちは慰め を感じることができる。葬儀礼拝は特別な性格を伴った礼拝であり、遺された者たちに慰めと 力を与えることに寄与するものである。しかし御言葉は故人に向けられた内容でもある。故人 となっても魂は不滅であり、彼らは神の恵みに委ねられることになる。 葬儀礼拝に集まった会葬者は、遺族にお悔やみの言葉をかけ安心感を持たせる。さらに故人 に対しては最後の尊敬の念を示す。 336 12.3 教会葬 葬儀礼拝も、他のすべての礼拝と同様に、聖霊の働きによるものである。聖霊によって鼓舞 された御言葉が、遺族にも会葬者にも天来の慰めをもたらす。この慰めとは基本的に、キリス トの再臨、それに関係してキリストによって死んだ者たちの復活、そしてその者たちと未来に おいて一つに結ばれることへの希望である ( 一テサ 4:13 - 18)。陰府の領域で故人と会うこ とができるという確信を持つことによって、遺族は慰めを得ることができるのである。 故人に対しては通常、礼拝中に適切な方法で賛辞が述べられる。 なきがら 儀式に則った言葉を述べて、魂の無い故人の亡骸は地に帰る ( 創 3:19)。魂と霊は、彼らが 復活して永遠の命を得るまで贖い主イエス・キリストが守って下さるという新たな確信の思い で、イエス・キリストの恵みと憐れみに委ねられる。 葬儀礼拝の持つ重要性もさることながら、葬儀の習慣は国によって様々である。亡骸を埋葬 すべきか、どういう方法で埋葬すべきかという問題は、故人の復活にとって何の影響もない。 まとめ 教会で行う葬儀礼拝によって、遺族に慰めと力とを与える。この慰めとはつまるところ、キリスト再臨とキリスト によって死んだ者たちの復活への希望に根差している。 (12.3) 魂の無くなった故人の亡骸 ( なきがら ) は埋葬されるが、魂と霊は神の恵みに委ねられる。 (12.3) 埋葬の是非や埋葬の方法は、復活に際して何の影響もない。 (12.3) 12.4 牧会 イエスの働きを見ると、牧会の重要性が理解できる。イエスは分け隔てなく罪人に向かわれ、 彼らが御自身の愛を感じられるようにされた。耳を傾け、助け、慰め、忠告し、諭し、力づけ、 祈り、教えられた。 イエスはすべての人のためにおいでになったが、すべての人がイエスを受け入れているわけ ではない。イエスを受け入れた神の民は天の父によりその配慮をイエス御自身に委ねられてい る。イエスは御自身が世話するすべての者への加護に取り組まれ、誰一人として失われないこ とを望んでおられる ( ヨハ 17:12)。 イエス・キリストの言動は牧会を行う上で最高の手本となるものである。教役者一人ひとり 337 12 礼拝、祝福行為、牧会 なら が、御子から与えられているこの手本に倣うべきである。 そのために、イエスは良い羊飼いの喩えを示された。良い羊飼いは自分の羊を知っており、 羊たちに語りかけ、羊たちを先導する「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために 命を捨てる。[…] わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らは わたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたし の手から奪うことはできない」( ヨハ 10:11,27 - 28)。 ぼく この言葉からわかるのは、教役者の任務はキリストの群れを「牧し」 、大牧者であるイエス・ キリストの再臨に備えて彼らを整えることである。教役者は「自ら進んで」そして「献身的に」 これを行うのである ( 一ペト 5:2 - 4)。 さらに牧会は、会衆にいるすべての人がすべきことでもある。このことは実生活における援 助にも関係している「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたと きに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいた ときに訪ねてくれたからだ」( マタ 25:35 - 36)。 新使徒教会で牧会を行うのは、罪や死から贖われてキリストに似た者となるための道を歩ん でいる隣人に支援を行うためである。イエス・キリストの犠牲は牧会の基本であり、キリスト の犠牲があってはじめて牧会が可能である。信徒がキリストのような者になろうと懸命に努力 するのを、細かなところまで行き届いた牧会が支援するのである。 マタイによる福音書 28 章 18 - 20 節によれば、イエスは御自身の徳によって罪人の介抱を して彼らを神と和解させるために、使徒たちに職務を委任された。魂の世話という使徒の職務 について、使徒パウロは二つの点を強調している「ですから、神がわたしたちを通して勧めて おられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお 願いします。神と和解させていただきなさい」( 二コリ 5:20)。 使徒や使徒から委任を受けている教役者に与えられている任務は、キリスト再臨に向けて信 徒に準備を施して再臨にふさわしい者とすることである。信徒は一人ひとりがそれぞれの環境 に置かれているわけであり、こうした一人ひとりの状況に応じた牧会を、使徒や教役者はキリ スト再臨の時まで行っていくのである。 まとめ 牧会の手本となるのが、イエスの言動である。 (12.4) 牧会の目的は、信徒を支援してキリスト再臨に備えさせることである。生活面で実に様々な環境下にある魂を、教 役者は委ねられており、こうした魂たちの世話を行うのである。 (12.4) 牧会は――実生活における援助も含まれる――会衆全体の任務でもある。 (12.4) 338 12.4 牧会 12.4.1 幼少年教育 しぎょう 子供は主からいただく嗣業であるから ( 詩 127:3)、両親は最善を尽くして養育や世話をす べきである。 すでに旧約時代から、主は親に対して御自分の行いやお告げを子に教えるよう命じておられ る。これは良心的な養育の一つである「主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教え < 口語訳「おきて」> を置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。子 らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。 子らが神に信頼をおき/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために…」( 詩 78:5 - 7; 申 6:6 - 7;11:18 - 19)。 これは子供への宗教的養育に関する神の直接的教示であり、こんにちにおいても義務事項で ある。親はこの宗教教育によって生じる責任を意識しながら、福音の持つ基本的価値に従って みずか 自ら責任ある行動がとれるように子供を育成しなければならない。また、神や隣人を愛し、自 ら模範となって祈りの生活を送り、信仰に忠実な姿勢で捧げ物をすることを教えることも幼少 年教育の一つである。 親は子を信仰に固く結ばれた新使徒教会員に育て上げる責任を負っている。こうした親を支 援するのが教役者や教師の重要な任務である。 また子供礼拝も幼少年教育支援の一つである。子供礼拝は教区で行われることが多い。こう した特別礼拝において、成長過程にある子供たちは、幼少期として適切な方法で、信仰を通し て神が近くにおられることを感じ取り、教育を受ける。 12.4.1 1 教会教育 教会教育とは、幼少年や青年が神の御前で自覚と責任をもって生きていくために指導を行う ものである。交わりを育み帰属意識を持たせることが主要な目的である。 教材は子供の年齢や発達段階に応じて用意されるが、習得目標は福音によって決定される。 教師はこのために研修を受け、活動上の支援を受ける。 339 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.4.1.1.1 就学前児童向け日曜学校 可能ならば、会衆にいる未就学児童向けに、就学前日曜学校を実施する。これは日曜礼拝の 前か後、あるいは礼拝と同時進行で行う。就学前児童向け日曜学校は、神やその働きに関する ことを、未就学児童のレベルに合わせて教えることが目的である。こうして神やイエス・キリ ストとの信頼関係を、幼児期のうちに育て 「神様が自分を愛して下さる。神様には何でも話せる。 神様は信頼できるお方である」という気持ちを彼らに持たせる。 就学前児童向け日曜学校の目的は知識の注入ではなく、安心感を与え、子供たちの心に信仰 の喜びを植え込むことである。 12.4.1.1.2 日曜学校 就学期の児童は日曜学校に通う。日曜学校は日曜礼拝の前後、または同時進行で行う。 日曜学校の目的は以下の通りである: • 神の子たちとの交わりや礼拝を通して、喜びを覚醒したり増し加えたりすること • 聖書の話を通して神の働きについて理解させること • 天から賜った約束への信頼を深めること サクラメント • 礼拝の順序、聖礼典や祝福行為の意味、キリスト教に関わる祝日の意味を説明すること 日曜学校の教師は、子供たちが習得する知識を、子供自身の体験と連動できるように補佐を する。 子供自身の体験の中で理解できることが人生の指針となり得るからである。 ただしこれは、 親が子に対して宗教的養育に対する責任を果たした場合にはじめて可能となる。 それゆえ、神とその働きについて子に教えることは、親と教師による共同作業である。 子供は定期的に聖餐を会衆の中で受けるが、司祭職が子供たちを囲んで聖餐を執り行う場合 もある。 12.4.1.1.3 宗教教育 宗教教育は日曜学校を基本としており、聖書の話や、キリスト教特に新使徒教会の出現とそ の伝播についての知識を年齢に応じて教える。宗教教育によって、子供たちは自分が神による 贖いの業の一部であることをより自覚し、御業の完成に向かって自ら貢献しようとする意志を 持つようになる。宗教教育を受けた子供たちは福音に基づいて「神の子に対する信仰と知識に 340 12.4 牧会 おいて一つのもの」となっていくのである ( エフェ 4:13 - 14)。 子供たちは宗教教育を受ける中で、人類が神について体験する事柄から学び取る。つまり、 昔と今の両時代における救いの歴史を、子供たちの信仰生活に関連して議論する。信仰の内容 を深め、知識を増し、神による救いの御計画においてそれらがどのように関係し合っているの かを解明する。このようにして永続的に価値あるものが与えられるのである。さらに、宗教教 育の目指すところは、公の場で自らの信仰を告白できるようになることである。 12.4.1.1.4 堅信礼教育 堅信礼教育は基本的に、新使徒信条と十戒を中心とした内容である。堅信礼に向けて準備を し、堅信礼当日には、神に忠実であることを会衆の前で誓い、生涯にわたってキリスト教徒と して自らの信仰生活に責任を果たすことになる。 12.4.2 青少年牧会 青少年兄弟姉妹に向けた牧会や支援は、新使徒教会において特に重要な位置づけをしている。 12.4.2.1 青少年を取り巻く状況 青少年は幼児期――人生のほとんどを親が決めていた時期――から脱皮して自分自身で物事 を決めていく成年へと移行する途上にある。思春期を迎える人のほとんどは人生における難し い段階でこの移行時期を迎える。彼らは自分自身の生きる方向性や基準を模索する一方で、既 存の価値観や周囲に存在する規範に対して批判的に見るようになる。そして、特に産業の発達 した地域にいる青少年信徒は、世界の至る所で社会の世俗化が進み、その中で生じる様々な宗 教観や倫理観による規範と、福音による規範とのはざまに置かれる。キリスト教信仰が社会の 中心から離されて、教会がその意義を失いつつある状況を、青少年は目の当たりにしている。 教会はますますその立場をあいまいにされ、倫理的権威としてもはや受け入れられなくなって いる。しかも、青少年は世俗の環境による圧力を受けることがある。また彼らは氾濫する情報 や多岐に渡る様々な余暇活動の中から選択しなければならない。 341 12 礼拝、祝福行為、牧会 12.4.2.2 青少年牧会の目標 新使徒教会で行われる青少年牧会の主要目標は、相互の交わりを育むことである。そして、 青少年はキリスト教の持つ価値に堅く根ざして、その価値による刺激を受け、その価値が生き 方を決める土台となるようにする。 青少年牧会の目的は、信仰の力と責任感によって、青少年の成長に寄与することである。 12.4.2.3 青少年牧会としての企画 新使徒教会の青少年は、年齢に適した牧会や支援を受けるが、会衆において独立した集団を 形成しない。堅信礼後は会衆における様々な活動に関わったり、自身の環境の中で信仰を実践 したり、公に言い広めたり、守ったりすることが奨励されているためである。 成年リーダーは教会で訓練を受けたり、教会から青年活動の支援を受けたりして、会衆や教 区の単位で青少年会員を支援する。リーダーは、信仰に関する疑問だけでなく、人生の様々な 状況の中で誰にも言えないようなことを話せるように、個人的な連係を通して青少年らと密接 に関わる。 教区教会の多くでは、教区単位で行われる青年礼拝の他に、年に一度週末に青年の集いを行っ ている。青年の集いは、情報や意見の交換のほか、信仰や普段の生活についての疑問について 話し合う機会となる。 献身的な青年兄弟姉妹は、会衆の内外で自分の才能を発揮するための様々な機会を得ること で、隣人を愛しなさいという召命を実現させることができる。 まとめ 親は自分の子供を、福音の基本的価値に従って個人の責任で行動できるように教える必要がある。そのために親を 援助することが教役者や教会教師の任務である。 (12.4.1) 子供礼拝を通して、幼少年信徒は神が近くにおられることや、子供に適した方法で信仰の援助を受けていることを 感じ取る。 (12.4.1) 様々な段階に応じた教会教育によって、子供たちは神の御前で責任を自覚して生きることを教わる。 (12.4.1.1) 342 12.4 牧会 就学年齢に達していない児童は、未就学者向け日曜学校において、子供に適した方法で、信仰の導入部分に触れる。 (12.4.1.1.1) 日曜学校では、聖書の話を通じて神の働きへの洞察を深める。その他に、礼拝式次第の順序、聖礼典 ( サクラメント ) や祝福行為の意味、キリスト教の祝日について考察する。 (12.4.1.1.2) 宗教教育では、聖書の話やキリスト教会の起源・発展・伝播についての知識を教える。子供たちの信仰生活と関連 させながら 、救いの歴史にも触れていく。(12.4.1.1.3) 堅信礼準備教育では、青年信徒が一定程度の年齢に達したキリスト教徒として、自らの信仰生活に責任を持てるよ うに、準備を施す。 (12.4.1.1.4) 青少年は特別な牧会を受ける。その目的は、彼らが持つキリスト教の信仰的価値を高めることである。青少年は神 への責任を自覚できるような性格を身に着け、信仰を実践し、信仰を告白できるような人物に成長していく必要が ある。 (12.4.2;12.4.2.1;12.4.2.2) 12.4.3 家庭訪問 新使徒教会員は、個別に牧会を受けることができる。 家庭訪問については、イエスがお示しになったことを手本としている。例えばイエスはベタ ニアに住むマリア、マルタ、ラザロの家を訪問された。この訪問によってイエスと彼らとの間 に特別な信頼関係が築かれた「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」( ヨ ハ 11:5)。さらにイエスはエリコに住むザアカイのところを訪問されたが、これはイエスによ る奉仕と援助の愛が注がれたものである「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあ なたの家に泊まりたい」( ルカ 19:5)。この訪問によって祝福がもたらされた「イエスは言わ れた。『今日、救いがこの家を訪れた。』」( ルカ 19:9)。 イエスが私たちに伝え示して下さったことにより、家庭訪問の意義とその目的を理解するこ とができる。会衆 < 教会 > に所属するすべての会員に行う個別の牧会やそのための訪問につい ては、牧師がその責任を持ち、牧師は執事による支援を受けるのが普通である。 基本的にこのような兄弟姉妹への牧会の取り組みは、兄弟姉妹が神とその御業への愛を増し 加え、信仰生活を充実させ、神の働きに関する理解を深めるための努力が、その取り組みの中 心にある。兄弟姉妹への牧会の方法としては、 信仰についての問題を議論することが基本である。 信徒はあらゆる生活環境において個別の牧会を受けることができる。悩みや疑問を抱える信 343 12 礼拝、祝福行為、牧会 徒は、教役者がの家庭訪問を行う中で支援を受けられるのである。これにより教役者と信徒と の信頼関係が強められる。兄弟姉妹が教役者の忠告をどれほど受け入れるのかについては、そ の兄弟姉妹による。個人的な責任は新使徒教会員一人ひとりに課せられており、その責任が尊 重され優先される。家庭訪問は教会員の意思に反して行われるものでないことは言うまでもな い。 一緒に祈ることも家庭訪問の重要な要素である。さらに教役者による仲裁支援を受けること によって受ける恩恵もある。 身内や愛する者などに先立たれ悲嘆にくれている人たちに対しては、特別な牧会が施される。 病気の場合は特に身体的にも精神的にも重い負担を強いられており、新使徒教会員は家庭訪問 わずら や病院訪問を通じて特別な配慮を受けることができる。担当の教役者は病気を患っている会員 を訪れ、その人が置かれている状況を思いやる。教役者はその者の信仰を強め、慰めを与え、 祈りを通してその者の悩みを主の御前に差し出す。可能ならばいっしょに聖餐を執り行う。高 しょうがい 齢や病気や身体障碍により礼拝に出席できない人たちについても、同様の訪問を定期的に行う。 例えば船員や兵士、あるいはある何らかの施設に入所しているなどにより家庭訪問を受けら れない信徒は、書簡による牧会を受けることがある。 とくに現代社会においては、独身者や独居者、あるいは社会と隔絶された人が増加しており、 新使徒教会員は日常生活において教役者からの配慮や支援を受ける。 まとめ 新使徒教会員は家庭訪問による個別に応じた牧会を受けることができる。 (12.4.3) 家庭訪問における重要な点は共に祈ることである。ただし個人の責任が尊重・優先される。 (12.4.3) 苦痛、悲しみ、困窮状態にある人に対しては、特に牧会を行う。 (12.4.3) 12.4.4 告白 宗教用語としての「告白」とは、罪を認識して聖職者の前で自らの罪責を受け入れることを 指す。これは部外秘を厳守しなければならない。 罪の赦しに対しては告白を必要としない。何か特別に重荷を感じることがあって平安を見出 344 12.4 牧会 すことができない場合に、使徒に直接会って個別に話すか進展文書を通して告白する。 例えば臨終を迎えるなどの緊急事態により、告白内容が使徒のところに届かない場合は、例 外として司祭職が告白内容を受けて罪の赦しの宣言を行うことができる。この処置を行った後 はできるだけ速やかに使徒に報告する。 まとめ 宗教用語でいう告白とは、罪を認識して、自らの罪責を牧師の面前で受け入れることを指す。 (12.4.4) こうした告白は、罪の赦しの時には必要ない。ただし内面の平安が得られない場合は、使徒の前で告白することが できる。 (12.4.4) 例外的に牧会職が告白を受けることができる。 (12.4.4) 12.4.5 死や悲しみにおける援助 身体上の死すなわちこの世の生涯の終わりは不安をもたらす。死は臨終を迎えつつある人に とって苦痛の原因となる。本人に対しても周囲の人たちに対しても、援助や慰めが必要である。 12.4.5.1 終末期や臨終を迎えつつある人たちへの配慮 多くの人は、臨終や死について敢えて考えないことで、終末期の人や死期の近い人に向けた 対処を回避する。これには様々な理由がある。例えば、本人から質問を受けることを恐れたり、 この世にいるという限られた性質による知識しかなかったりするためである。 人の死は倫理観が問われる。臨終を迎えようとしている人を愛したり配慮したりすることで 援助しようとすると、気持ちが沈みがちになる。しかしこれこそ、臨終を迎えようとする人に 最も必要なことなのである。抑えることのできない苦痛、死への辛さ、親類に強いている心理 的肉体的あるいは場合によっては経済的負担、自身が過ごしてきた人生の結末、不確実さ、こ の世から存在しなくなることを、恐れるのである。 生きている神を信じることによって、この世の人生の向こう側に広がる一つの確信が与えら 345 12 礼拝、祝福行為、牧会 れる。その確信とは、永遠の生命が保証されていることである。これによりこの世に別れを告 やす げて自分自身を完全に神の恵みに委ね易くなる。 信仰に生きている新使徒教会員は備えの無いまま死に直面することが無い。その理由の一つ 目として、魂が生き続けることを知っているからである。もう一つの理由として、死んだ者が 復活して三位一体の神と永遠の交わりを得られることを信じているからである。イエスの犠牲 による恵みを掴み取ったことで、罪から解放されたのである。水と霊とによる再生を果たした のである。永遠の命に与る約束を得ているのである ( ロマ 6:22)。 臨終を迎えるにあたり、恵みが罪の力から解放させ、さらにキリストの苦しみ、死、復活と いう視点で見ると恵みがイエス・キリスト共にある永遠の生命に向かわせるものであることを 認識していれば、大いなる慰めである ( ロマ 6:8 - 11)。 とはいえ、究極的には信徒にとっては臨終を迎えることや死ぬことは恐ろしいものである。 こうした恐怖を真剣に捉えるべきであり、信仰が不十分である証拠だ、などと考えるべきでは ない。神と共に永遠に生き続ける希望とそれによる慰めを持ち続けることが重要である。臨終 を迎える者に対して、生きることとや苦しみや死の意味に対する帰結的回答を与える必要はな い。彼らへの支援とは、まず何よりも彼らの恐怖や難局を受け入れることである。困難な道を 歩む彼らに寄り添い、恐怖や弱さを許すべきである。人の生命には必ず終わりがあるという重 大な現実を謙虚に認めることにより、臨終を迎える者が最も確実に感じることのできる、真の 支持的つながりを得ることができるのである。 我々より先に陰府に召された者たちと再び一つに結ばれるという確信を持つことは、死を目 前にしてこの世と別れようとする人に支えとなる。 聖餐を執り行うとともに、罪の赦しと天に昇られたお方の平安を宣言することも支えの一つ である。主の体と血に与ることによって、御子と共にある命の交わりを得るからである。この ようにして、臨終を迎えようとする人は、慰めと力を受けることにより、待ち受けている困難 な道が進み易くなる。 親類への配慮も重要である。彼らは愛する者を失おうとしている現実や、自分の感情や思い と向き合っているはずである。本人にしてやれることはすべてできたという認識を得られるこ とが、親類を力づけることになる。 12.4.5.2 遺族への支援 悲しみは許容されるべきものであり、教役者は遺族を支援しなければならない。遺族を訪問 し、彼らにお悔やみを申し述べ、共に祈ることが重要である。悲しんでいる人の心の奥まで入 346 12.4 牧会 り込むことはほぼ困難である。そのようなことをしても、結局遺族に共感する努力をしなけれ ばうまくいかないのである。 牧会を通じて親類が平安を得るためには、数週間から数か月を要するし、愛する家族の者が 亡くなった場合は何年もかかることがある。 遺族に対して不適切な発言をして傷口を再び広げてしまう恐れもある。大切なのは、純粋に 共感する気持ちを伝えることである。遺族と関わりの深い者――親類、 信仰上の兄弟姉妹、 友人、 教役者――は思いとどまることなく遺族に援助の手を差し伸べるべきである。 「泣く人と共に泣 き、/悲しむ人と共に悲しめ」( シラ 7:34)。 12.4.5.3 悲しみと向き合う 遺族への支援と悲しみに向き合うこととは同じである。遺族を支援することにより、遺族が 自分たちの抱える喪失感について話したり、自分の感情を表現したりすることができる。遺族 が自分の寂しさ、恐れ、怒り、神への憤り、罪責感について教役者と話ができるようになるべ きである。特にこのような時には、前向きで元気が出るような故人との体験を遺族に思い出し てもらうことが、教役者の務めである。 他の会葬者と交わりを持つ中で、遺族は自分の悲しみを理解し受け入れてもらえたと感じる ことができる。 イエス・キリストも苦しまれた末に死なれたことを、遺族に認識させることは悲しみに向き 合うのに有益である。死からの復活もイエスの復活に基づいている。キリストと同じように、 死に勝利できるのである「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ 一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬと すれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のも のです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるた めです」( ロマ 14:7 - 9)。 まとめ 死を迎えようとしている人とその愛する者たちには支援と慰めが必要である (12.4.5) 信仰は永遠の生命を確信させ、死とこの世からの別れという難局を和らげる。 (12.4.5.1) 347 12 礼拝、祝福行為、牧会 死を迎えようとしている人が死を恐れていることを真剣に捉えて、信仰の不十分さを示しているなどと考えるべき ではない。 (12.4.5.1) 死を迎えようとする者にとって特別な牧会となるのが、教役者と共に執り行う聖餐である。 (12.4.5.1) 悲しみは許容しなければならない。悲しんでいる人には個別に牧会を提供する。牧会には数年以上かかる場合があ る。重要なのは、悲しんでいる人のところを訪問し、純粋に共感する気持ちを伝えることである。 (12.4.5.2) 悲しんでいる人への牧会によって、その人が抱える喪失感や自身の感情を言葉で表現してもらうことができる。悲 しみに向き合う時、イエス・キリストも苦しんだ末に死なれたことを再認識させることも有益である。 (12.4.5.3) 12.5 教会の聖日 教会の聖日とは、神による救いの御計画の中で特別なことが行われた日である。こうした出 来事を敬意と感謝とをもって記念する。 新使徒教会では以下に挙げる聖日があり、その日には特別礼拝を行うことによって聖日とす ることの重要性を説く。地域の特性による差異は考慮される。 12.5.1 クリスマス クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝うものであり、救いの歴史における中心的出来事 である。イエス・キリストは聖霊によって受胎し、処女マリアからお生まれになった。キリス トが地上においでになったことにより、神は御自身を低くされ、イエス・キリストという一人 の人物となられたのである ( ヨハ 1:14)。メシア来臨という旧約時代の約束はこうして実現し た。 神の御子が初めておいでになったという、 知性では理解できないこの奇跡を記念することは、 間近に迫る御子の再臨をさらに強く信じることでもある。 12.5.2 棕櫚の聖日 棕櫚の聖日は受難週の第一日目である。この聖日は、ユダヤで祝われる過越祭の時にイエス がエルサレムに入られたことを記念する日である。主は、ゼカリヤ書の預言通り、ロバに乗っ 348 12.5 教会の聖日 て町に入られた ( ゼカ 9:9)。イエスは民衆から大喝采を受けた。彼らは「ダビデの子にホサナ」 と叫び ( マタ 21:9)、イエスがメシアであり救い主であることを公言した。 12.5.3 聖金曜日 聖金曜日はイエス・キリストが十字架の刑に処せられ死なれたことを記念する日である。キ リストの犠牲、苦しみ、死は救いの歴史の中でも最も重要な出来事であり、日本語も含めこの 日を「聖なる金曜日」と表現している言語もかなりある。神の御子であるキリストは、御自身 が犠牲となって死なれたことにより、サタンの力を破壊し、死に勝利された ( ヘブ 2:14)。キ リストは、罪の無いお方であるにもかかわらず、人類の罪を御自身に背負われ、御自身が血を 流されたことで、あらゆる罪と罪責による代償を償還され、徳を獲得された ( 一ヨハ 4:9 - 10)。聖金曜日に起きた一連の出来事は神による救いの御計画においていわば分岐点となった。 つまり、旧約が終わり新約が始まったのである。聖所と至聖所とを隔てていた幕は、キリスト が死なれた時に真っ二つに裂けた。これにより、神が救いと御自身との交わりとを人類にもた らして下さることが明らかとなった。 12.5.4 イースター < 復活祭 > イースターはイエス・キリストが死から復活されたことを記念する日である。キリストは週 の第一日目である日曜日に復活された。そこで初期のキリスト教徒は、毎週の第一日目に、イ エスの犠牲と復活を記念して聖餐を祝った。その後、ある特定の日曜日――欧米では春に最初 におとずれる満月の後の日曜日――に年に一度のイースターを祝うようになった。 イエスが復活される様子は誰一人として目撃していない。イエスの復活は奇跡であり神秘で ある。しかし聖書では天を昇られる様子を見た人が多数いたことを示している。イエスは復活 された後すぐにマグダラのマリアやその他の女性たちに姿を現された。その他にも使徒ペトロ とヨハネ、エマオに向かう途中の二人の弟子にも姿を現された。イエスは、御自身が復活され た日の晩、使徒たちの真ん中に立たれた。さらに、五百人以上の人たちが主の昇天を目撃した、 と使徒パウロは述べている ( 一コリ 15:3 - 7)。 イエス・キリストの復活は、福音の中心として、使徒の教えの中で最初から宣べ伝えられて きた。この復活は永遠の生命を希望する根拠である。イエス・キリストは死を無効とし、人が 神から離れた状態を修復された。「初穂であるキリスト」の死からの復活を信じることは、キリ 349 12 礼拝、祝福行為、牧会 スト再臨の時にキリストによって死んだ者たちが復活しさらに生きている者たちが変貌するこ とを信じる根拠となっている。 12.5.5 昇天日 イエス・キリストは、天の父の御許に帰られることについて、様々な方法で述べておられた ( ヨハ 3:13;16:28;20:17)。イースターから四十日後、イエスは使徒たちと一緒にオリ ブ山に登られ、使徒たちに宣教の指示を与えられた。イエスは「天に上げられたが、 雲に覆わ れて彼らの目から見えなくなった」。使徒たちは二人の天使から次のように約束を受けた「あな たがたから離れて天に上げられたイエスは、 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様 で、 またおいでになる」( 使 1:3 - 11)。この約束は「…そこから再びおいでになります」と、 新使徒信条にも反映されている。 12.5.6 ペンテコステ < 五旬節 > ペンテコステは聖霊が注がれたことを記念する日である。日本語では聖霊降臨日とも呼ばれ る。ペンテコステは、聖霊が啓示されて「キリスト教会が誕生した日」とも言われている。聖 霊が遣わされること――実際にはイエスが復活してから五十日後のことであった――はイエス が使徒たちと別れる際に彼らに約束されていた。信仰に敬虔な男女多数がエルサレムで使徒た ちと繋がっていた。聖霊の注ぎというペンテコステの奇跡については、使徒言行録 2 章 1 節以 降に記録されている。使徒たちや彼らのところに集まった人たちは、 聖霊に満たされたのである。 聖霊を注がれた後、イエスから岩の指名を受けていた使徒ペトロは、キリストが十字架に磔 にされ復活され天に昇られたことを中心に、力強い説教を宣べ伝えた。そしてその場で約三千 人が会衆に加わった。そこで、ペンテコステは御霊に鼓舞された説教と、使徒の働きによる教 会の成長にとって、一つの模範となっている。さらにペンテコステは、教会における聖霊の臨 在とその働きを喜び祝う祭日である。 350 12.5 教会の聖日 12.5.7 感謝祭 感謝祭は神による創造の業を記念する日である。一年のうちのある日曜日を感謝祭の日曜日と し、神が被造物に対して忠実でいて下さることに感謝を捧げるために、礼拝を行う。この時信 徒は特別に感謝の捧げ物を奉納する。 12.5.8 宗教上の聖日に行われる礼拝の内容 ここで取り上げた宗教上の聖日に行われる礼拝において、聖餐も含めた典礼は通常の礼拝と 同様に執り行われる。さらに、救いの歴史においてこうした聖日に関連する出来事を扱ってい る聖書の記述部分を朗読する場合もある。御言葉の宣教は、聖書に記述されている救いの歴史 における出来事や、そうした出来事がこんにちに対して、さらに人類の救いに対してもたらす 意義に関するものとなる。 まとめ キリスト教の聖日として祝われるのは、クリスマス、棕櫚の聖日、聖金曜日、イースター、 昇天日、ペンテコステ、感謝祭である。 (12.5-12.5.7) 351 13.1 祈り 13 新使徒教会のキリスト教徒と その信仰生活 13.1 祈り 多くの宗教において祈りは神のような存在への信心を示すものである。祈りは一般的に信心 深さを示すと考えられている。 キリスト教徒は祈りを、人が神と意志疎通するために神から与えられた機会であると考える。 信徒は祈りの中で、神が臨在し、耳を傾け、応えて下さるのを体験する。こうして神の偉大さ こうべ た と神の愛を前にして、謙虚な気持ちで頭を垂れるのである。祈りは聖霊と密接に関係している ( ロマ 8:26)。 旧約時代においても新約時代においても、祈りは、神が創造し、支え、贖って下さるという 信心を、口頭で表現することである。最初に神のほうから人類に語りかけられたのである。そ れゆえ、祈りとは常に、神の語りかけに人類が応えることである。 祈りの喩えとして「魂の呼吸」という表現があるが、これは祈りが信仰にとって必要なもの であることを明確に表している。祈りの無い信仰は生きた信仰ではない。祈りは神を愛し尊敬 していることの表現である。神に願いを乞うのは、神が全能なお方で、万事を益とし、永遠の 救いへと導いて下さることを知っているからである。 13.1.1 旧約の祈り 聖書の中で最初に祈りに関する記述があるのは創世記 4 章 26 節である「主の御名を呼び始 めたのは、この時代のことである」。祈りの本質となる基本的特徴はこの時以来備わったのであ る。基本的特徴とは、人が神に向かい、神が耳を傾けて下さるという信心を堅く持ち、神に呼 びかけることである。 詩編 95 編 6 節では「共にひれ伏し、伏し拝もう」と勧めている。神への崇拝については、 旧約聖書の詩歌にその例が多く示されている。その一つがモーセの讃美である「わたしは主の 御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。主は岩、その御業は完全で/その道はことご とく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方」( 申 32:3 - 4)。 353 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 詩編の著者は「ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と勧めている ( 詩 106:1)。この祈りは、永遠なる神を褒め神を称えることによって感謝を表現している。 「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたし を退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわ せ/自由の霊によって支えてください」( 詩 51:10 - 12< 新共同訳 12 - 14>)。特にこうし た嘆願は――この世の生活に関係する嘆願に加えて――信徒にとって何が重要なのかを証明し ている。 神がイスラエルの民の不平不満に対して毒蛇をお遣わしになった時「モーセは民のために主 に祈った」( 民 21:7)。隣人への憐れみや隣人愛を執り成しと言う。 詩編は、旧約の祈りが霊的な意味で豊かであることを反映している。詩編はすでに新約の祈 りを指向している。その一例がハンナの祈りである。聖書によれば、ハンナは神に子を授けて 下さるように「主の御前に心からの願いを注ぎ出し」た ( サム上 1:15)。神は恵みによって彼 女の願いを聞き入れられたが、その後彼女は神に非常に奥の深い表現で神を称えた。この賞賛 の言葉は「マニフィカト」におけるマリアの讃歌と密接に関連している ( サム上 2:1 - 10; ルカ 1:26 - 55)。 13.1.2 イエスが教える祈り 神と人との関係はイエス・キリストがおいでになったことにより根本的に変わった。このよ うに神との関係が新しくなったことに基づいて、主はそれまで知られていなかった祈りを教え られた。一つは、天におられる愛する父である神に子が語りかける祈りで ( マタ 6:9)、もう 一つは、 「霊と真理をもって」捧げる祈りである ( ヨハ 4:24)。 イエスの弟子たちは敬虔なユダヤ人で、祈りについてもよく理解していた。しかし彼らはイ エスのように祈る方法を覚えたかった。そこで弟子の一人が主に「わたしたちにも祈りを教え てください」と言うと ( ルカ 11:1)、それに応えてイエスが教えられたのが、主の祈りである (12.1.7 参照 )。 山上の説教には祈りについて教示している部分がある ( マタ 6:5 - 8)。つまり、祈る時に 人に見てもらうとしないことと、長々と祈らないことである。 「あなたがたの父は、 願う前から、 あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 」我々は心から祈るべきである。 イエスは祈りに関する重要な点を、三つの喩えを用いて説明された。真夜中に訪ねて来る しつよう 友達の喩えでは、執拗に祈れば効果があることを言おうとされた ( ルカ 11:5 - 10)。執拗に 354 13.1 祈り 裁判を依頼するやもめの喩えでは、執拗に粘り強く祈ることを勧めている ( ルカ 18:1 - 8)。 ファリサイ派との人と徴税人の喩えでは、謙虚な気持ちで祈ることの重要性を説いている ( ル カ 18:10 - 14)。 ルカによる福音書 21 章 36 節によれば、主は御自身の再臨を見据えて祈るように教示して おられる「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に 立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」 。このように、祈りはイエス・キリ ストの来臨を視野に入れながら目を覚ましていることの必要性とも関連している。 13.1.3 イエスの祈り ルカによる福音書では、特に決定的な出来事が起こる前にイエスが祈りを捧げておられるこ とを指摘している: • 聖霊がイエスに降って来る前 ( ルカ 3:21 - 22); • イエスが十二使徒をお選びになる前 ( ルカ 6:12); • 御自分の教会を建てるための土台の岩としてペトロを指名される前 ( ルカ 9:18 - 21; その関連でマタ 16:13 - 20); • 天の父が、この世からも陰府からも見える形でイエスを変貌させられる前 ( ルカ 9:28 - 36); • 受難の前 ( ルカ 22:41 - 46) • 十字架で死なれる前 ( ルカ 23:46)。 四福音書の証しするところによれば、イエスは生活の中で内容の濃い祈りを捧げておられた。 つまりイエスは天の父と会話をするために、人里を離れ目立たないようにされた ( マタ 14: 23;マコ 1:35)。イエスは祈る前から、天の父を称え ( マタ 11:25 - 27)、感謝を捧げられ たのである ( ヨハ 11:41 - 42)。 ヨハネによる福音書 17 章には主による執り成しの祈りが掲載されている。主は使徒や教会 のために執り成しの祈りを捧げられたことが描かれているが――「また、彼ら [ 使徒たち ] の ためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。すべて の人を一つにしてください。 」( ヨハ 17:20 - 21)――これはイエス・キリストが天の父に使 徒たちの弁護者として話をされたことを示している ( 一ヨハ 2:1)。 イエスは御自分が苦しみを受ける前に祈られた。膝をつき謙虚な姿勢で天の父の御旨に従わ れたのである「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの 355 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 かっとう 願いではなく、御心のままに行ってください」 。この祈りは魂の葛藤を示したものである。神は この嘆願を放置されなかった。天使が現れてイエスを力づけたのである ( ルカ 22:41 - 44)。 イエスは十字架に磔にされながらも、御自分を苦しめているその者たちのために祈られたので ある ( ルカ 23:34)。死なれる前の最後の言葉の祈りであった「父よ、わたしの霊を御手にゆ だねます」( ルカ 23:46)。 13.1.4 初期キリスト教徒の祈り 使徒言行録 4 章 23 - 31 節では、初代教会の会衆による真剣な祈りについて考察している。 初期キリスト教徒は当初より連帯して祈りを行っていた ( 使 1:14)。人々が集まって真剣に祈 りを捧げていた様子は、何か大きな出来事が起きたことと関連して記録されている。例えばマ ティアを使徒に選出したり、最初の執事として七人を任命したり (7.5 参照 ) した時に祈りを捧 げているし、危険な状況にある時は使徒も一緒になって祈った ( 使 1:24—25;6:6;12: 12)。 使徒書簡には祈りの重要性が強調して書かれている ( ヤコ 5:15 - 16)。その他にも使徒た ちが教会のために祈ったことや ( エフェ 1:16 - 23)、祈りの継続を促していることも書簡の 中に書かれている ( 一テサ 5:17)。 テモテへの手紙一 2 章 1 節では、信徒がすべての人々を念頭に祈らなければならない、と述 べている「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のた めにささげなさい」。 13.1.5 新使徒教会員の祈り 礼拝で人々が一堂に会して捧げられる祈りは重要な役割の一つである。礼拝では、三位一体 の神への招詞に続いて、開会の祈りが行われ、この祈りの中で、神を崇め、称え、御加護や御 臨在に感謝し、願い事をし、執り成しを願う。主の祈りでは会衆一同が、神の御子から教えて いただいた祈りを唱和する。聖餐を聖別する前には、 司式者が聖餐の祈りを捧げるが、 この時に、 神がキリストを犠牲として捧げられたこと、これにより罪が赦されること、使徒を遣わして下 さったこと、再臨の約束が与えられていることを感謝する。礼拝を終える時は、もう一度祈り 356 13.1 祈り を捧げ、いただいたものへの感謝、天使による御加護と臨在の嘆願、主の日への渇望を表明する。 教会員の願いやすべての人々の願いは執り成しとして扱われる。さらに捧げられた献金を受け 入れ、祝福して下さることを願う。 礼拝の中で人々が一同で捧げる祈りの他に、新使徒教会員は一人ひとりが祈りの生活を送る。 祈りをもって一日を始め、祈りをもって一日を終えるのである。一日を通じて、毎回の食事の 前にも祈り、神が近くにおられることを感じたり神の助けを求めたりするために、何度も神に 向かう。家族としても祈りを捧げ、両親は子と一緒に祈る。こうして親は子に祈りの生活を教え、 それを実践させていく。 祈りは外面的なものにとどまらない。例えば目を閉じたり、手を組んだり、膝をつくなどし て、心の中で祈ることも推奨している。こうして日常の雑踏から離れて、 気持ちを落ち着かせて、 謙虚な姿勢で神の前に頭を垂れる。 祈る際に能弁である必要はない。神は願い事をする者の心の中を御存知である。謙虚で、信 仰に忠実で、神を信頼し愛する姿勢で願い事をするならば、必ず全能なるお方の御心に適うこ とであろう。声をあげて願い事をする必要はない。静かな祈りも神に届く。 祈る内容は一般的に崇拝、感謝、嘆願、執り成しである。崇拝は、神の威厳への理解と「父 よ」と呼ぶことのできる ( ロマ 8:15) 恵みによるものである。感謝は、神の慈しみによって与 サクラメント るあらゆる良いことに関するものである。この中には神が御言葉、恵み、聖礼典を通してこれ まで人類になされ今日ももたらして下さる大いなる行為がある。それだけでなく、 衣食住といっ たこの世的賜物や天使による奉仕や御加護にも感謝する。嘆願は、例えば日常生活における信 仰の維持や神の助けといった自身のことを神に願うものである。我々にとって最も重要な嘆願 は間近に迫るキリストの再臨であり、それにふさわしくなることである。執り成しは、自分の 家族や自分の属す会衆だけではない。神の助けを必要とするすべての者であり、この世にも陰 府にもいる者たちを執り成す。 ここに挙げた崇拝、感謝、嘆願、執り成しの要素すべてを毎回祈るごとに含めなければなら ないわけではない――人生の特殊な状況における一時的な祈りにも、神は耳を傾けて下さる。 心配事、精神的苦痛、深い悲しみといった状況において、祈る内容を整理する心の余裕は無い かもしれない。そのような時でも神の助けを受けたりや近くにいていただいたりすることを願 わないわけではない。このことについてはローマの信徒への手紙 8 章 26 節に次のように書か れている「同様に、“ 霊 ” も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべき かを知りませんが、“ 霊 ” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」 。 このような時は、主の祈りや詩編の一節例えば 23 編を唱えることもできる。 357 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 祈りの最後には「アーメン」と言う。これは「そのようになりますように」という意味である。 実際に口に出して祈ったのか、それともただ心の中で祈ったのかについては、ここで問題にな ることではない。 13.1.6 祈りがもたらす効果 真剣に祈ることにより、自分の存在そのものが神に依存していることを悟る。願い事をする 者は、幼子のように主を信頼し、主の前に謙虚になり、主を畏れる。こうした姿勢が「…イエ スによって祈ります」 「イエスの御名によりこの祈りを捧げます」という言葉によって表される。 かな 祈りを通して願ったことが叶えられれば、信仰が強まり、感謝も増す。しかしすべての祈り が叶えられるわけではないということは経験からわかることである。だからと言って、このこ とが信徒の信頼を損ねる原因とはならない。神はすべての祈りを必ず聞いておられるし、御自 身を愛する者たちに対して、愛情をもって、万事を良い方向へと導いて下さるのである ( ロマ 8: 28)。 まとめ 祈りは、神から発せられた言葉に人が応えるものである。祈りを通して信徒は、神がその場におられることや、神 が祈りを聞いて下さること、そしてそれに応えて下さることを経験する。 (13.1) 旧約時代において祈りが行われていたことを示す重要な根拠は詩編にある。詩編には神への崇拝、感謝、嘆願、執 り成しが収められている。 (13.1.1) イエス・キリストは、御自分に従う者たちに、 「父よ」と呼びかける子供のように、 「霊と真理をもって」祈ること を教えられた。 (13.1.2) 四福音書は、イエスが豊かな祈りの生活を送られていたことを証ししている。 (13.1.3) 初期のキリスト教徒たちは当初より会衆が集まって祈りを捧げていた。 (13.1.4) 礼拝で人々が集まって祈りを捧げることに加えて、めいめいが祈りの生活を送ることが、新使徒教会員にとって大 切である。(13.1.5) 祈る内容は、崇拝、感謝、嘆願、執り成しである。嘆願の中で最も重要な要素は、間近に迫るキリスト再臨やその 再臨にふさわしくなることである。 (13.1.5) 358 13.2 自発的に献金や犠牲を捧げる姿勢 13.2 自発的に献金や犠牲を捧げる姿勢 「自ら進んで捧げ物 < 献金 > をし犠牲を払おうとすること」は、自己の損得を――全面的で あれ一部であれ――考えることなく、自分の持つ能力を駆使して人に役に立とうとする内面的 願望である。 「犠牲」という言葉には様々な意味がある。例えば信仰の対象になっている存在に奉納され るものや他者の利益を考えた行動を、たいていの言語において「犠牲」と称するのが一般的で ある。信仰上の目的で寄進される金銭も、宗教的意味における「犠牲」である。 すうはい 犠牲は神への崇拝、感謝、献身、服従の表れである。 13.2.1 旧約時代のいけにえの奉納による礼拝から 人命そのものが神に捧げられるまで いけにえといけにえの奉納による礼拝は、古代市民のあらゆる宗教にとって、重要な役割を 担っていたのが実情であり、イスラエルも同様であった。犠牲を捧げるのは、神の恵みに与り、 天罰を受けず、和解できることを神に願うためであった。犠牲には様々なものがあった。 な 聖書に書かれている犠牲は、アダムとエバの息子であるカインが地に生った収穫物を捧げ、 ほふ アベルが自分の所有する群れから動物を屠って捧げたのが最初である ( 創 4:3 - 4)。神は犠 牲を奉納した二人と奉納されたものをご覧になった。神はアベルが信仰によって捧げた捧げ物 を恵みによって受け入れられた。そしてカインとその捧げ物を拒否された ( ヘブ 11:4;創 4: 4 - 5)。つまり、すべての捧げものが神に喜ばれるわけではない、ということである。献金を 恵みによって神に受け入れていただけるかどうかは、献金をする者の姿勢次第である。 モーセの律法ではいけにえの奉納による礼拝について、広範囲にわたって定め、典礼も厳格 に定めた。律法の中には、焼き尽くす捧げ物、穀物の捧げ物、和解 < 平和 > の捧げ物、贖罪の 捧げ物、そして賠償の捧げ物を神に奉納する際の規定がそれぞれ定められていた ( レビ 1 - 7 章参照 )。祭司は、毎朝夕に奉納する捧げ物に加えて、ある特定の日に、人々に代わって特別 な捧げ物を奉納した。これはイスラエルの人々の罪を贖う目的で行われた。他にもイスラエル の人々は、例えば無意識で犯した罪を償うとか ( レビ 4 以下参照 )、身体を汚した処理といった ( レビ 15:14 以下 )、様々な目的で個人的に犠牲を奉納した。 のっと 神の御旨に則って決められたとはいえ、旧約時代におけるいけにえの奉納による礼拝は、た だ一度捧げられたキリストの犠牲により、すべてその意義を失った ( ヘブ 8 章- 10:18)。 359 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 新約時代になると、犠牲は新しい概念を帯びることとなる。使徒パウロはキリストに向け てこう述べている「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」( ロマ 12:1)。つまり、福音という規範に従って生活しなさい、ということである。キリスト教徒は、 自分自身や自分の財産のすべてを神に捧げるのである。 13.2.2 イエス・キリスト――自発的犠牲の手本 犠牲という概念をローマの信徒への手紙 12 章 1 節で論じているが、これはイエス・キリス トが、愛によって、賜物として、私たちの贖いとなるために、御自身の体を――つまり御自身 そのものを――犠牲として捧げられたことを背景としている、と考えるべきである ( エフェ 5: 2;ヘブ 10:10)。信徒にとってイエスの犠牲は聖なるものであり他に変えられないものである。 キリストの犠牲だけが贖いの力であることを信徒は認識する。 主の犠牲に匹敵する犠牲は無いが、自ら進んで犠牲となられたことは模範とすべきである。 キリストは、御自身が苦しみを受けて死なれる前から、自ら進んで犠牲となることをお考え になっていたが、このことはキリストが御自身を低くされていたことから明らかである ( フィ リ 2:6 - 8)。キリストの献身的な愛は、天の父の栄光を放棄してこの世においでになり、神 いや としての姿を放棄して卑しい人の姿となられたことから明らかである。こうした姿勢をキリス ト教徒一人ひとりの行動規範とすべきである、と使徒パウロは述べている「何事も利己心や虚 栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい 自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」( フィリ 2:3 - 4)。つまり、会衆 の生活においても反映させるべき捧げ物や犠牲を自ら進んで行いなさい、ということである。 13.2.3 信仰、感謝、愛に基づいて自発的に献金や犠牲を捧げる姿勢 キリスト教における犠牲は、遵守すべき義務と考えるべきではない。見返りを期待すべきで もない。自由に、信仰心によって、感謝によって、愛情によって捧げるべきである。こうした 姿勢で犠牲を捧げるならば、それほど労せずして、犠牲などといった感覚はもはや失われてい くであろう。才覚や能力を活用して神の御業に参画することが、重荷ではなくむしろ喜びと考 えるようになる。 自ら進んで献金や犠牲を捧げようとする思いは、愛情から湧くものである。 愛情によって自ら進んで献金や犠牲を捧げようとするならば、神の御旨を実行しイエスの御 360 13.2 自発的に献金や犠牲を捧げる姿勢 心によって行動していることになる。 物であれ物以外であれ、いただいた賜物を施すことによって、感謝と愛を表していることに なる。ヘブライ人への手紙 13 章 16 節では「善い行いと施しとを忘れないでください。このよ うないけにえこそ、神はお喜びになるのです」と勧めている。 自発的に献金や犠牲を捧げようとする姿勢は、様々に具体化することができる。会衆での生 活で実践されることの多くは、神やその御業を強く確信し愛情を注ぐことによってはじめて可 能となる。そのため多くの兄弟姉妹は自由な時間やエネルギーや能力の多くを、神やそれに関 わる集団に奉仕するために活用する。例えば、教会での音楽演奏や教育の支援、教会の資産や 建物の維持、祭壇の装飾など、様々な任務に従事している。ごくわずかの例外を除いて、教役 サクラメント 者は無給で職務に従事する。礼拝、聖礼典の施与、祝福行為、葬儀は無料で執り行う。家族や 傷病を患う教会員は定期的な配慮を受ける。高齢者、 身体障碍者、 独居者は特別な世話を受ける。 こうして二重の愛の戒めが実行される。 また、困っている兄弟姉妹には善を行うことが勧められている ( ガラ 6:10)。隣人愛があれ ば、困っている人への支援や ( マタ 25:34 - 46)、災禍に遭った人への援助をしようと考える。 これは、献金をしたり慈善事業を行ったりすることにより、実践することができる。教会が社 会参加の一環として支援したり世界中に救援物資を届けたりしている援助機関へは、 ボランティ アで寄付金を集めるのが一般的である。 新使徒教会員が自発的に献金や犠牲を捧げることは心の問題である。金銭か物かは関係なく、 具体的な贈り物 ( 犠牲 ) を通じて神に感謝と愛を示さなければならないことを信徒自身が感じ た上で、信徒はマラキ書 3 章 10 節にある十分の一税の記述が教えていることを理解すること ができる。礼拝や教会行事が行われる時には専用の箱が設置されてそこに献金するか、教会の 銀行口座に入金するのが一般的である。感謝祭には通常のものに加えて感謝の捧げ物を奉納す る地域も多くある。 金銭による寄付はすべて自由献金でありほぼ匿名で行われる。教会税を納めたり教会で会費 まかな を徴収したりすることなく、教会に関わるすべての費用を賄うことが可能である。信徒は献金 を通して、神に感謝し、御業の発展とその完成に貢献する。 献金については、心の姿勢が決定的に重要である。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽 銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れ るのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れ た。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生 活費を全部入れたからである。』」( ルカ 21:1 - 4)。 信徒はもっと広い意味で、犠牲を捧げることができる。つまり心を尽くした犠牲の奉納であ る。神を全面的に信頼しつつ自らの才能や能力をすべて駆使することも、心を尽くした犠牲の 奉納の一つと考えることができる。自分の考えより神の御旨を優先させることも犠牲の一つと 361 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 なる場合もある。こうした霊的犠牲を使徒パウロは勧めている ( 一ペト 2:5)。さらに、神や その御業に奉仕するために多大な時間や労力を注ぐことによって、多くの点で個人的利益を放 棄する。極論すると、神を愛する気持ちから信徒が行ったり行うのを放棄したりするすべての ことが犠牲なのである。 13.2.4 犠牲と祝福 ふさわしい姿勢で捧げ物をすることにより、神に喜んでいただくことができる。さらにその 献金に神は祝福を注いで下さる「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かな い者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不 承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与 える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのもの に十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさ せることがおできになります」( 二コリ 9:6 - 8)。このことから、献金が必ずしも有形の物的 祝福をもたらすわけではないことがわかる。純粋な心で犠牲を捧げるならば、たとえ認識でき なくても、祝福が与えられていることを、信仰をもって理解することができるのである。 礼拝の中で司式者は、捧げ物をした者だけでなく、捧げられたものにも神の祝福が与えられ るように祈る。神は献金や奉納物だけでなく、 神やその御業のために捧げられた時間、 才能、 能力、 それに個人的利益が放棄されたことについても祝福を与えて下さる。神の祝福はこの世の事物 を通して体験することもあるが、祝福は元々霊的なものである。キリストの徳による天来の救 いの賜物が与えられることも祝福である ( エフェ 1:3 - 7)。 まとめ 捧げ物や犠牲を奉納することは、神を崇め、感謝し、神に尽くし、従うことである。 (13.2) イエス・キリストに匹敵する犠牲は存在しない。しかしその自発的姿勢は、イエスに従う信徒が倣うべき模範であ る。 (13.2.2) 犠牲を捧げようとする意志は愛に促されるものである。 (13.2.3) 自己の能力を具体的に活用することにより、神への愛と感謝を表す。それは金銭であっても具体的事物であっても 同じである。 (13.2.3) 362 13.3 結婚と家族 会衆での生活において信仰上の兄弟が自身の時間や労力や技能の多くを、見返りを求めずに神や会衆への奉仕に役 立てることにより、進んで捧げ物や犠牲を行う姿勢を具体的に示すことができる。 (13.2.3) 捧げ物をするによって受ける祝福はこの世的な事物で体験することもできるが、祝福は本来霊的なものである。 (13.2.4) 13.3 結婚と家族 結婚は、神によって望まれた男女が生涯にわたって一つに結ばれることであり、この結婚に は神の祝福が臨む。結婚は家族の基礎を形成する。結婚は、両者が忠誠を尽し合うことを自由 な意思で自発的に公の場で表明することが基本である。円満な結婚には、愛し合い忠誠を尽し あうことが不可欠要素である。 神の祝福は、結婚生活や家庭生活を送る上で重要かつ貴重な土台である。 13.3.1 神から定められたものとしての結婚 一夫一婦の結婚は神から定められたものであって、専ら人が決めたものとは言えない。配偶 者が複数存在する複婚は、キリストの教えや価値観とは一致しない。 神が十戒の範囲内で結婚を明確に保護したのは、結婚の重要性や価値が神の定めであること に基づいている (5.3.7 参照 )。 神は互いを補い合うために男女を創造された。これに関しては創造の歴史の中で明確に示さ れている: • 「神は御自分にかたどって < 神の似姿 > 人を創造された。神にかたどって創造された。男 と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従 わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」( 創 1:27 - 28) ――こうして男性も女性も神にかたどって創られた。神と異なるものの神に似た者であ もと る男女は、神の御旨に従って、神の祝福の下に置かれ、統治を委ねられた被造物の一部 として、子孫をもうけ、大地を整え保護することを創造主から指示されて生活する。 • 「主なる神は言われた。 『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。 』 」 (創 363 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 2:18)。人類は互いが存在する形で創造された。男女にはそれぞれ互いを支え助け合う 配偶者を与えられている。 • 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」( 創 2:24)。男女 は結婚することにより一つとなり、生涯にわたって一つの存在となることを目指す。 またイエスは結婚の聖性について論評しておられる。離婚の是非についての質問を受けた中 で、イエスは当時すでに定められていた内容を繰り返された「 『あなたたちは読んだことがない のか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。 』そして、こうも言われた。 『それゆ え、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではな く、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない 。 』 」( マ タ 19:4 - 6)。 使徒パウロは結婚を、キリストと教会との関係に喩えた。パウロは夫と妻に、愛し合い尊敬 し合いなさい、と述べている ( エフェ 5:21 - 33)。 13.3.2 結婚と結婚の祝福 結婚式、婚姻関係それに離婚に関する法的基準は国によって異なる。こうした法的基準は絶 えず変化する社会情勢に伴って変化する。新使徒教会は結婚や家族の保護を支持している。 新使徒教会で結婚の祝福を受けることは非常に重要である (12.2.3.1 参照 )。この祝福には様々 な効力がある。つまり、長きにわたって互いを愛し忠誠を尽していくための力を与え、自ら進 んで仕え合い、助け合い、理解し合うための意志と能力を育み、互いが赦し合い、互いの相違 が調和できるように計らう。しかしこの祝福は、二人がふさわしくふるまうことによってはじ めて効果を発揮する。 夫婦が信仰の問題について意見を一致していることは望ましいことである。神の言葉や恵み をしっかり受け止め、一緒に祈り、一緒に信仰体験をすることによって、婚姻関係の基礎が堅 きずな くなり、家族の絆が強くなる。しかし相手がキリスト教徒であるというだけで、調和のとれた 結婚生活を送れる保証が得られるわけではない。 結婚をする前に――特に文化、宗教・宗派の異なる人が相手となる場合は――順調な婚姻関 係を構築していくために、二人の生活に関わるあらゆる疑問点を議論し明確にしておくべきで ある。 不倫は信頼を著しく傷つけるものであり、罪に相当するものである (5.3.7.2 参照 )。不倫が 発覚した後に結婚生活の継続を可能とするには、心からの自責の念と悔い改め、自分のほうか ら赦そうとする姿勢、そして神の恵みが必要である。教会は、婚姻関係を安定させ維持してい 364 13.3 結婚と家族 くために手を尽くすことを推奨している。 離婚という結果になった場合、危害をもたらすような言動は慎むべきである。特に、結婚の 問題と関係のない子供たちが将来にわたっても両親への尊敬と愛情を持ち続けられるような行 動を示すべきである。 13.3.3 婚姻関係における性行動と家族計画 結婚は人種の保存にも寄与する「神は彼ら [ 最初の人類 ] を祝福して言われた。『産めよ、増 えよ…。 』 」( 創 1:28)。 婚姻関係における性行動は互いを尊敬し合い、感受性を豊かにし、理解し合うことによって 決定すべきである。 互いの理解と真の愛情を優先するならば、性行動が婚姻関係における重要な絆となり、夫婦 両者にとって益となる。 家族計画は夫婦の自由裁量で決定されるものである。しかしすでに受胎した卵子の成長を阻 おおむ 止するような避妊手段に対して教会は反対している。人工授精は概ね認めるものの、人の選択 によって生命を死に導くようなことは、いかなる方法であれ認められない。 まとめ 結婚は、神によって望まれた男女が生涯にわたって一つに結ばれることである。神は互いを助け合うために男と女 をお創りになった。 (13.3;13.3.1) 婚姻関係は、キリストと教会との関係を模範とすることができる。 (13.3.1) 新使徒教会は結婚や家族の保護を提案する。 (13.3.2) 教会が行う結婚の祝福には大きな意味がある。つまり愛情と忠誠がもたらす効果を増す。ただし婚姻関係にある者 同士がめいめいの振る舞いにおいて一つとなる努力をする場合に限る。 (13.3.2) 不倫は信頼を著しく傷つけ、罪に相当する行為である。離婚の場合は、相手を傷つけるような言動を慎むべきであ る。(13.3.2) 婚姻関係における性行動は愛と尊敬と豊かな感受性によるべきである。家族計画は結婚した夫婦の自由裁量で決め るものである。 (13.3.3) 365 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 13.3.4 親の責任 子は神からの賜物である。従って親は、子や社会全般だけでなく、神への責任も果たさなけ おも ればらない。子の養育において主に責任を負うのは父親と母親である。この責任を果たしてい くためには愛と知恵が不可欠である。 子には安心感を与え愛情をもって尽くすことが必要である。そして信仰によって養育し、正 しい倫理観を教える。そのためにはかなりの時間が必要である。子供自身の利益のために、子 供が求めている物事や興味を放棄させる覚悟を、親は持つべきである。 子育てという大切な責務を果たす親は、自分自身の行動・振る舞い――特に婚姻関係につい てのあらゆること――が子にとって重要な規範になる、ということを認識すべきである。 愛情と思いやりの豊かな親は、子供の将来にとっての確実な土台作りをするために、子供の 教育的・職業的発達の手助けをする。 新使徒教会員の親は、信仰に忠実で神を畏れる人物となるようにしっかり養育するという重 要な責務を担っている。具体的には、神の御言葉や御旨を理解させること ( 申 6:6 - 7 参照 )、 家族で祈ること、家族で礼拝に出席すること、教会教育への参加を促すことなどである。こう して、新使徒教会員としてきちんとして生活を歩み、イエス・キリストの再臨に備えることが いしずえ できるように、子供に必要な礎が形成されることになる。 13.3.5 子の責任 子にも親への責任があることは、十戒中の第四の戒めに基づいている (5.3.5 参照 )。つまり、 子は親にしかるべき敬意を示さねばならない。具体的には親に感謝し、親を愛し、親を信頼し、 親に従うということである。親から独り立ちした後も、愛と献身の姿勢で接するべきである。 家族に子供が何人かいる場合は、皆が兄弟愛をもって接し合うことで家族内の和を維持すべ きである。 まとめ 子供は神の賜物であるから、親は自分の子供や社会、そして何よりも神への重い責任を担っている。(13.3.4) 親には、信仰に忠実で神を畏れる子供に育てる義務がある。 (13.3.4) 子供が親に果たすべき義務は十戒の第四の戒めに基づくものである。 (13.3.5) 366 13.5 社会の一員である新使徒教会 13.4 労働の義務及び社会的義務を果たす 自分が置かれている宗教的、社会的、職業的立場によって、取るべき行動様式が定まってくる。 キリスト教徒にとってそれは、秩序をお創りになり、構築され、維持しておられる神を信じる ことである。義務を課したり義務に従ったりすることは、モーセの律法において不可欠要素で ある。新約の時代になっても一定の義務は果たさねばならない。新約における義務の遂行とは、 福音を信じることであると考えられている。 十戒は、果たすべき義務事項を示すものである。例えば第四の戒めは、子が親に感謝と尊敬 を示さねばならないことと親が子への責任を果たさねばならないことを求めている。突き詰め れば、神に至る権威を敬い、その権威を受け入れなければならないということになる。 第三の戒めは、安息日を聖なる日とすることを定めているが、聖書ではさらに「六日の間働 いて、何であれあなたの仕事をし < なさい >」と続けている ( 出 20:9)。それゆえ、自分や家 族のため、また国家や社会のために、自分の力を活用する義務がめいめいにある ( 創 2:15; 3:17)。人類に日常の糧を与えることは神の御旨であるが、そのために人類自身も役割を果た さねばならない。キリスト教徒は、日常生活において課されている任務を、良識をもって果た さねばならない。この果たすべき任務を遂行することには一定の制限がある。自分や自分の周 囲の福利に資すること以上のことを求めてはならない。 使徒パウロは、施政者の定める法の遵守を、信徒に義務付けている ( ロマ 13:1 以下 )。し かし「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」という原則が何よりも優先される ( 使 5:29)。さらにパウロは、一人ひとりが連帯して共通の利益に対する責務を負っている、と述 べている ( ロマ 13:6)。 13.5 社会の一員である新使徒教会 新使徒教会ではキリストの福音を宣べ伝えている。福音の伝道とは、イエスとその規範への 服従、第一に神を愛すること、そして隣人を自分と同じように愛することなどを求めるもので ある ( マコ 12:30 - 31 参照 )。このことは新使徒教会員にとって、相手の社会的背景、年齢、 言語などの相違に関係なく、尊敬と寛容の姿勢で臨むべき、ということである。 新使徒教会は組織としてその能力と職務の範囲において公益の促進に寄与することで、社会 における不可欠な部分としての役割を果たす。 367 13 新使徒教会のキリスト教徒とその信仰生活 新使徒教会は普遍的平和を支持し、和解を訴えかけ、赦すことを諭していく。いかなる形の 暴力をも許容しない。 政財界で活動している新使徒教会員もいるが、そうした人たちの政治的意見や活動について、 教会として教会員に影響を与えるようなことはない。 13.5.1 国家に対する立場 新使徒教会は政府、権力、宗教団体との公開かつ建設的な関係を持つことが重要であると考 える。新使徒教会は政治的に中立の立場である。教会の活動はそれぞれの国家が定める法律を 遵守した上で行われている。このことはローマの信徒への手紙 13 章 1 節で述べている通りで ある「人は皆1、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はす べて神によって立てられたものだからです」( テト 3:1 及び一ペト 2:13 参照 )。とはいえ、 「施 政者」から発せられる命令がすべて神から発せられる、と言っているわけではない。施政者も あやま まつりごと あやま 職務執行において過ちを犯すこともあり、時には 政 の執行が過って深刻な方向へ向かう場合も ある。国家権力も神から賜った戒めに照らして検証しなければならない。 新使徒教会は、教会員が国家の律法を遵守し、市民としての義務を果たすことを求めている。 ただしそれは、天来の戒めに適っている範囲においてのことである。これについては、使徒言 行録 4 章に書かれているペトロとヨハネを巡る出来事が参考になる。イエスの名によって教え ることを禁じられていた二人は、権威者よりも神に従うべきと判断した「神に従わないであな たがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」( 使 4:18 - 19)。後にペ トロとヨハネは最高法院において自分たちの行為についてこう陳述している「人間に従うより も、神に従わなくてはなりません」( 使 5:29)。このことから明らかなのは、キリスト教徒は 原則として国家権力に従わなくてはならないが、国家権力の側も天来の律法に従わねばならな いということである。この考え方は新使徒信条第十条で次のように表現されている「私は、神 による律法が侵されない限り、この世の権力に服従する義務を負うことを信じます。」つまり、 そ ご 人によって作られた律法と神の戒めとの間には齟齬もあるということである。このような場合 は、信仰による確信と神への説明責任に基づいて、天来の律法に反する法律に対して抵抗する か否かを一人ひとりが判断しなければならない。いわゆる「法律」は高位の権威者によって規 定されたものと理解すべきである。 1 英語訳聖書では「すべての魂」と訳されている。 368 13.5 社会の一員である新使徒教会 13.5.2 他宗教や他宗派との関係 新使徒教会とその会員は、他宗教他宗派の信仰的実践を尊重しており、信仰の違い、宗教の 違い、宗派の違いに対して軽蔑的姿勢は取らず、相互に尊重し合うことを基本として、良好で 平和的な関係の構築に努め、いかなる狂信的言動も取らない。 新使徒教会は他宗教他宗派の自己像を尊重し、互いの関係を開かれたものとし、キリスト教 としての共通点を大切にしようとする (6.5 参照 )。 13.5.3 社会との関わり 新使徒教会は、福音と、キリスト教的倫理道徳に基づく規範に依拠している。そのため、性別、 年齢、皮膚の色、国籍、宗教に関係なく、人々の利益に資する、博愛主義による慈善的活動を行 うことも、新使徒教会の務めであると考え、可能な範囲で生活困難者への援助を提供している。 こうした援助活動を支援するのは、会衆内の多くの人たちによる自発的活動や物資の援助である。 新使徒教会は、可能な限り、世界中の組織や救援活動だけでなく、共通の利益のために行わ れる非営利の慈善的取り組みを計画、促進、支援している。また救援団体と共同で活動も行っ ている。 まとめ 十戒は、職場での生活や社会の中で義務を果たす際の指針を示している。(13.4) 信徒は、国家の権威者が定める規定に従う義務を負う。 ただし「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」 という使徒言行録 5 章 29 節の言葉が何よりも優先である。 (13.4) 新使徒教会は、その可能性と職務の限りにおいて、共通の利益の促進を、組織として援助している。 (13.5) 新使徒教会は政治的に中立の立場である。 (13.5.1) 他者による宗教的実践は尊重すべきである。いかなる形であれ、狂信的言動は、これを認めない。 (13.5.2) 新使徒教会は、福音と、キリスト倫理に基づく規範に依拠している。新使徒教会は可能な限り――さらに他の支援 団体との共同で――共通の利益に資する非営利の慈善的取り組みを支援している。 (13.5.3) 369 付録 付録 使 徒 信 条 ………………………………………………………………………………………………373 ニカイア・コンスタンティノポリス信条……………………………………………………………373 新 使 徒 信 条 ……………………………………………………………………………………………374 十戒 < モーセの十戒 >…………………………………………………………………………………376 主 の 祈 り ………………………………………………………………………………………………377 用 語 集 …………………………………………………………………………………………………379 聖書の書巻名と略語…………………………………………………………………………………383 用語集 ( 日本教区 ) ……………………………………………………………………………………386 371 付録 使徒信条 「天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、わたしたちの主イエス・キ リストを、私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラ トのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のう ちから復活し、天に昇られた。そして全能の父なる神の右に座し、そこから来て、生きている 人と死んだ人とを裁かれます。聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖なる者たち の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命を信じます。アーメン。 」 ニカイア・コンスタンティノポリス信条 「私たちは、唯一の神、全能の父、天地とすべての見えるものと見えないものの造り主を信じ ばんせい ます。また、万世の前に父から唯一生まれた御子、唯一の主、イエス・キリストを信じます。 主は光よりの光、神よりの神、生まれ、造られず、御父と一体であります。すべてのものは主 によって造られました。主は私たち人類のため、また私たちを救うために天から降り、聖霊に よっておとめマリアからからだを受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちの ために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえ り、天に昇り、父の右に座しておられます。また主は未来において、生きている人と死んだ人 とを裁くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主な る聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ 、父と子とともに崇められ、称えら れ、預言者によって語られた主です。また私たちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を 信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みま す。アーメン。」 373 付録 新使徒信条 第一条: 私は、天地の創り主、全能の父である神を信じます。 第二条: 私は、神の唯一の御子、私たちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、お とめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで よ み よみがえ 葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから蘇り、天に昇られたことを信じます。そして全 能の父である神の右に座し、そこから再びおいでになります。 第三条: 私は、聖霊と、唯一で聖なる公同の使徒的教会と、聖徒の交わりと、罪の赦しと、死者の復活と、 永遠の命とを信じます。 第四条: おさ 私は、主イエスが御自身の教会をお治めになること、そのために使徒をお遣わしになったこと を信じます。そして御自身が再びおいでになるまで、教え、イエスの御名によって罪を赦し、 水と聖霊とによるバプテスマを授ける職務を、使徒にお委ねになったことを信じます。 第五条: 私は、神によって定められた教役者が使徒によってのみ任命されること、牧会宣教職に与えら れる権能、祝福、聖別は使徒職からもたらされることを信じます。 第六条: 私は、水のバプテスマが聖霊による人の新生に至る第一段階であること、水のバプテスマを受 けた者が、イエス・キリストを信じイエス・キリストが主であることを公に宣べ伝える者たち の仲間に加わることを信じます。 374 付録 第七条: 私は、キリストが完全に有効な犠牲としてただ一度捧げられ、断腸の苦しみを受けた末に死な れたことを記念して、キリスト御自身により聖餐が制定されたことを信じます。聖餐にふさわ しく与ることにより、私たちの主であられるイエス・キリストとの交わりが築かれます。聖餐は、 種入れぬパンとぶどう酒によって、執り行われます。このパンとぶどう酒は、必ず使徒から任 職を受けた教役者が聖別して、これを施します。 第八条: 私は、水のバプテスマを受けた者が、神の子としての身分を受け、初穂となる要件を獲得する ために、使徒によって聖霊に与らなければならないことを信じます。 第九条: 私は、主が昇天されたのと同様に必ずまたおいでになり、主の来臨に希望を託しそのために自 らを整えてきた故人や存命者たちを、初穂として御許に引き寄せて下さることを信じます。 また、 天における婚姻の後、主がその初穂と共に地上にまたおいでになり、平和の御国をお建てにな ることを信じます。そして、初穂たちが王の祭司として主と共に御国を治めることを信じます。 平和の御国の終結後、主は最後の審判を下されます。そして神は新しい天と新しい地をお創り になり、御自分の民と共に、永遠に住まわれます。 第十条: 私は、神による律法が侵されない限り、この世の権力に服従する義務を負うことを信じます。 375 付録 十戒 < モーセの十戒 > 第一の戒め わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。 第二の戒め あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずに はおかれない。 第三の戒め 安息日を覚えて、これを聖とせよ。 第四の戒め あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きるこ とができる。 第五の戒め 殺してはならない。 第六の戒め 姦淫してはならない。 第七の戒め 盗んではならない。 第八の戒め 隣人に関して偽証してはならない。 第九の戒め 隣人の家を欲してはならない。 第十の戒め 隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 376 付録 主の祈り ( マタイによる福音書 6 章 9 - 13 節による ) 「天にまします我らの父よ 願わくは 御名を崇めさせたまえ 御国を来たらせたまえ 御心の天に成る如く地にも成させたまえ 我らの日用の糧を今日も与えたまえ 我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ 我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ 国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり アーメン。 」 377 用語集 用語集 用語 アロンの祝福 ( 祝祷 ) 解説 「アロン」—初代大祭司の名より。 三部に分かれている祝祷の言葉は民数記 6:24 - 26。 位格 「設立」 「本質」を表すギリシア語より。天来のものが具現化されること。こんにち では三位一体の神における「位格」 、すなわち父 ( 第一位格 )、御子 ( 第二位格 )、聖 霊 ( 第三位格 ) の三位格を表す。 位格的結合の教え イエス・キリストが真の神であり真の人であるという教え。これは聖書に由来する 教えであり、初期教会で用いられた諸信条にも明記されている。キリスト両性論と しても知られる。 生まれながらの罪 アダムとエバが罪に堕ちたために、すべての人類は生来、神から遠く引き離された 状態になっているという教え ( ローマ 5:12 - 21 参照 )。人類は元々罪深い性質で あるため、罪を犯しやすく、欲も深くなりがちで、必然的に神から離れてしまう。 しかしこうした状態はバプテスマによって解消することができる。 化体 主の晩餐が行われる中で、パンとぶどう酒がイエス・キリストの体と血に変化する、 というカトリック教会の考え方。 カノン ギリシア語 kκανων、ラテン語 canon「基準」「指針」より。 こんにちにおいては、旧約及び新約聖書の正典をいう。 感謝の祈り 神の恵みやキリストの犠牲に感謝を捧げる祈り。礼拝の司式者が罪の赦しを宣言し ユーカリスト た後で行われる。ギリシア語 ευχαριστιών(「感謝を捧げる」) に由来。 聖餐の祈り 啓示 神が御自身 ( 性質、本質、御旨など ) を人に知らしめること。神が御自身を示され た例としては、天地創造、歴史における仲介、御子の派遣が挙げられる。神は御自 分が三位一体であること、すなわち父、御子、御霊なる神であることをお示しになる。 啓蒙思想 18 世紀にヨーロッパから広まった思想。理性による思考の普遍性を唱える考え方。 専ら人間の理性が基本とされたことにより、信仰を是とする宗教の価値が低くされた。 顕在化 ラテン語 accidere「生じる」より。「顕在化」とは、見える形で表されることをいう。 例えば、聖餐を行う際に、ウェファーは聖餐の一部として顕在化されたものである。 379 用語集 公会議 一般的には、 第 1 ニカイア公会議 (325 年 )、第 1 コンスタンティノポリス公会議 (381 年 )、カルゲドン公会議 (451 年 ) など、紀元 325 年から 787 年にかけて、主教が 一同に会し、7 度にわたって行われたキリスト教の宗教会議をいう。 降霊術 古代ギリシア語「ネクロス νεκρός 「 ( 死体」)」及び「マンテア μαντεία 「 ( 預言」 「占い」)」 より。死者の霊を呼び出したりやりとりを行ったりする、神から禁止されている行為。 告白 ラテン語「コンフェッシオ confessio(「公言」)」より。信条を自分のものとすること。 教会員 ( 元々はキリスト教宗派の会員 ) になること。 強欲 ラテン語「コンクピシェレ concupiscere(「強欲」「切望」「訴求」)」より。人が罪 を犯す性質であることを表す宗教用語。 史実性 聖書の登場人物や聖書に書かれている出来事が世界史として認められている事実に も根ざしているということ。 使徒継承性、使徒的 キリストの教会であることを示す四つの特徴 (「ノタエ・エクレズィアエ notae ecclesiae」) の一つ。使徒に関する教義があるということと、使徒が活動していると いう、二つの面を持つ。 宗派 ラテン語「デノミネーシオ denominatio(「識別」 「名称」) より。宗教集団を客観的 に表すのに用いられる用語。 終末論 物事の終わりに関する教義。人それぞれの未来を意味する場合もあれば、この世の 歴史の終わりを表す場合もある。 頌栄 神の栄光を称えること。例えば、主の祈りにおける最後の言葉である「国と力と栄 えとは…。 」は頌栄と位置づけられている。 贖罪 ラテン語「プロピリィアーレ propitiāre (「なだめる」)」より。神の寵愛を失った り神に喜ばれないような事態になったりしないように、神格者をなだめる行為。キ リスト教においては、罪のないイエスが十字架上で犠牲となられたことにより、神 の怒りを御自身が人類の代わりに背負われたのである ( ヘブライ 2: 14-18 参照 )。 実在 イエス・キリストの体と血が聖餐を通して ( 霊的存在に対して ) 実体として存在し ているという教え。 救い - のための活動 - 救いの働き。救うための行動。人類を救うために人類に対して行われる神の御業を いう。 - のもたらす効果 - 例えば聖礼典 ( サクラメント ) によってもたらされる救いの効果。 - の持つ力 - 救いをもたらす力;救うための能力もしくは手段。聖礼典や御言葉に包含する、神 による救いの力。 380 用語集 救いの歴史 過去、現在、未来にわたって神が人類に対して救いを働きかけてこられた経過。こ の世における人間の歴史経過ではなく、人間の歴史における神の働きを扱う。 世界教会協議会 (WCC) 世界最大規模のキリスト教会連合。1948 年にアムステルダムで設立され、ジュネー ブに本部がある。現在、およそ 340 のカトリック諸教会、聖公会、改革派、その他 自由教会が加盟しているが、ローマカトリック教会は加盟していない。 先在 キリストは、時が始まる前も、時が刻まれている間も、永遠に存在しておられること。 創造主 万物は父、御子、御霊なる神の共同作業で行われたことから、三位一体の神が創造 主である。 対型 新ジェームズ訳英語聖書における、ペトロの手紙一 3 章 21 節の言葉 antitype より。 ここでは、洗礼が手本あるいは予示であることを表している。 第一の幻 天から与えられる召命に関連する最初の幻。例えばイザヤは預言者として召された 時に、第一の幻を見る ( イザヤ 6:1 - 8)。 大歓喜 イエスが再臨され、花嫁を御許に引き上げられる時をいう。この時、この世にいる キリストの花嫁の会衆も、そしてキリストによって死んだ者たちも、共に神の御許 に引き上げられることになる ( 例えばテサロニケⅠ 4:15 - 17 を参照 )。 チャネリング 霊 ( しばしば死者の霊と称されるもの ) とのやりとりや霊に導いてもらおうとする ために、霊媒を通して「霊の導き」に心を委ねること。 超越 神の性質となり、物的被造物とは全く異なり、それをはるかに超越した状態になる こと。この世とまったく異なり、物的被造物としての制約がなく、永遠的な存在と なること。 ディダケー 紀元 100 年頃にシリアで発行された文書の名称。キリスト教会がどのようにして組 織されていくようすを綴った最古のもの。 人間性 人であること。人類だけでなく三位一体の神におけるそれぞれの位格にも用いられ る。 ( キリストの姿勢とし 神の御子が自らを卑下し、謙虚にふるまわれたこと ( フィリピ 2:5-11 参照 )。御 ての ) 卑下 子は人類を救うため、神の御手による栄光をお捨てになり、 「自分を無にして」、自 らを低くされ ( 卑下され )、「僕の身分」( 奴隷のこと ) になられた。こうした謙虚な 姿勢は、御子がお生まれになった時からすでに見られる ( 馬小屋の飼い葉桶の中で お生まれになった )。それにも関わらず御子は犯罪者扱いをされ、むち打たれ、あざ 笑われ、つばをかけられ、とげの冠をかぶせられるなどの仕打ちを受けた。それで も御子は死に至るまで謙虚に神に従順であり続けた。 381 用語集 弁護者 ギリシア語「パラクレートス Παράκλητος(「助けるために召された者」)」より。ヨ ハネによる福音書では、聖霊を弁護者と呼んでいる ( ヨハネ 14:16,26;15:26 参照 )。聖霊は援護者であり、仲介者であり、助け主、慰め主でもある。 ペトロの職位 シモン・ペトロがイエス・キリストから賜った特別な職位。キリストはペトロを岩 に喩えて、その岩の上に御自身の教会を建てる、と仰せになった。加えてこの特別 な職位には、権限として、天の国の鍵 ( つないだり解いたりする権限 ) が与えられ ている ( マタイ 16:18 - 19 参照 )。新使徒教会におけるこの職位は、主使徒が担う。 マニフィカト 聖母マリア讃歌。ルカによる福音書 1 章 46 - 55 節に書かれている。マニフィカト とは、この部分のラテン語訳冒頭部分である “Magnificat anima mea Dominum”(「わた しの魂は主をあがめ」) から取られたもの。 御子なる神 主イエスが神の御子であること。イエス・キリストが神の御子であるという事実。 メシア ナザレのイエスがメシア――神から遣わされた贖い主――であるということ。 救世主 両体共存 聖餐の聖別を行う中で、キリストの体と血の本質が、パンとぶどう酒の本質に共存 するという教義。 ロギア 「主の語録」 イエス・キリストの語録を意味する専門用語。 ロゴス ギリシア語の「言葉」を表す λόγος より。ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言 があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書かれている通り ( ヨハネ 1:1)、 イエス・キリストという形で御子なる神の顕現化したのがロゴスである。つまりキ リストがロゴスである。位格としてのキリスト御自身が、永遠の神の言葉である。 382 聖書の書巻名と略語 聖書の書巻名と略語 旧約聖書 略語 書巻名 略語 書巻名 創 創世記 コヘ コヘレトの言葉 出 出エジプト記 雅 雅歌 レビ レビ記 イザ イザヤ書 民 民数記 エレ エレミヤ書 申 申命記 哀 哀歌 ヨシュ ヨシュア記 エゼ エゼキエル書 士 士師記 ダニ ダニエル書 ルツ ルツ記 ホセ ホセア書 サム上 サムエル記上 ヨエ ヨエル書 サム下 サムエル記下 アモ アモス書 王上 列王記上 オバ オバデヤ書 王下 列王記下 ヨナ ヨナ書 代上 歴代誌上 ミカ ミカ書 代下 歴代誌下 ナホ ナホム書 エズ エズラ記 ハバ ハバクク書 ネヘ ネヘミヤ記 ゼファ ゼファニヤ書 エス エステル記 ハガ ハガイ書 ヨブ ヨブ記 ゼカ ゼカリヤ書 詩 詩編 マラ マラキ書 箴 箴言 383 聖書の書巻名と略語 旧約聖書続編 ( 旧約聖書外典・アポクリファ ) 略語 書巻名 トビ トビト記 ユディ ユディト記 エス・ギ エステル記 ( ギリシア語 ) 一マカ マカバイ記一 二マカ マカバイ記二 三マカ マカバイ記三 知恵 知恵の書 シラ シラ書 ( 集会の書 ) バル バルク書 エレ・手 エレミヤの手紙 アザ ダニエル書補遺 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌 スザ ダニエル書補遺 スザンナ ベル ダニエル書補遺 ベルと竜 エズ・ギ エズラ記 ( ギリシア語 ) エズ・ラ エズラ記 ( ラテン語 ) マナ マナセの祈り 384 聖書の書巻名と略語 新約聖書 略語 書巻名 略語 書巻名 マタ マタイによる福音書 一テモ テモテへの手紙一 マコ マルコによる福音書 二テモ テモテへの手紙二 ルカ ルカによる福音書 テト テトスへの手紙 ヨハ ヨハネによる福音書 フィレ フィレモンへの手紙 使徒 使徒言行録 ヘブ ヘブライ人への手紙 ロマ ローマの信徒への手紙 ヤコ ヤコブの手紙 一コリ コリントの信徒への手紙一 一ペト ペトロの手紙一 二コリ コリントの信徒への手紙二 二ペト ペトロの手紙二 ガラ ガラテヤの信徒への手紙 一ヨハ ヨハネの手紙一 エフェ エフェソの信徒への手紙 二ヨハ ヨハネの手紙二 フィリ フィリピの信徒への手紙 三ヨハ ヨハネの手紙三 コロ コロサイの信徒への手紙 ユダ ユダの手紙 一テサ テサロニケの信徒への手紙一 黙 ヨハネの黙示録 二テサ テサロニケの信徒への手紙二 385 用語集 ( 日本教区 ) 用語集 ( 日本教区 ) 用語 解説 アーヴィング →エドワード・アーヴィング アウグスティヌス (アウレリウス・アウグスティヌス Aurelius Augustinus、354 年 11 月 13 日 - 430 年 8 月 28 日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、 説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリ スト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。 与る 目上の人の好意や恩恵を受けること。分け前をもらうこと。 アタナシウス →アレクサンドリアのアタナシウス アッバ アラム語・ヘブライ語で「父」の意味。呼びかけに用いる親愛の語。 アリウス アレクサンドリアの司祭で、古代のキリスト教アリウス主義の提唱 者。子なるイエス・キリストが生まれた者であれば父なる神と同質 ではありえないとする説を唱え、神の三位一体性を否定した。 アレクサンドリアのアタナシウス (298 - 373) ギ リ シ ア 語 : Αθανάσιος, Αλεξανδρείας, ラ テ ン 語 : Athanasius)は、4 世紀のキリスト教の神学者・ギリシア教父・聖職 者である。エジプトのアレクサンドリア主教(司教、または大主教) を務めた。三位一体論の形成に寄与した。 アンティオキアのテオフィロ アンティオキアのイグナティウス (? ‐ 186 年 ) アンティオキア ( 今のシリアにある都市 ) の司教。 (35 年頃 -110 年)アンティオキアの主教(司教)、そして使徒ヨハ ネの弟子であった。正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、 ルーテル教会などで聖人とされる。 アンデレ 十二使徒の一人。シモン・ペトロの兄弟であるとされている。西方 教会、東方教会ともに聖人で記念日(聖名祝日)は 11 月 30 日。マ ルコによる福音書によると、兄ペトロと共にガリラヤ湖で漁をして いたときに初めにイエスに声をかけられ、弟子となった。弟子のリ ストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで 4 番目にあげられて いる。「アンデレは小アジアとスキタイで伝道し、黒海に沿ってヴォ ルガ川まで行った」との伝承があり、アンデレはルーマニアとロシ 386 用語集 ( 日本教区 ) アの守護聖人になった。 アンドロニコ 使徒の一人。ローマの信徒への手紙 16 章 7 節に名前があるのみ。 イグナティウス →アンティオキアのイグナティウス。 イスラエル ( 王国 ) 紀元前 1021 年頃の古代イスラエルに成立したユダヤ人王国。イス ラエルという国名は、ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与え られた名前にちなんでいる。首都はエルサレムであったが、南ユダ との分離後はシケム、ティルツァをへてサマリアに落ち着いた。尚、 本書に書かれている「イスラエル」とはすべてこれを指す。 インナーミッション 19 世紀にドイツで始まった、社会奉仕を通じてキリスト教の精神を 実現してゆく運動。福音派のキリスト教組織。 ヴァルドー →ピエール・ヴァルドー ウィクリフ →ジョン・ウィクリフ エドワード・アーヴィング (Edward Irving、1792 年 8 月 4 日 - 1834 年 12 月 7 日 ) スコットラ ンドの教役者。カトリック使徒教会の形成に重要な役割を果たした。 これはアーヴィング主義とも呼ばれる。代々スコットランド教会の 家系であった。説教者として高名。13 歳でエディンバラ大学に入学 し 1809 年にマスターを得る。使徒、預言者、伝道者(福音宣教者) 、 牧師、教師からなる 5 つの教役者の復活を主張した。 エフェソ 現在名エフェソス。トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイ ズミル県のセルチュク近郊に位置している。現在は遺跡が残ってい るのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在 は海岸から離れている。 大いなる証し 1837 年ごろにイギリスの使徒たちが世俗的指導者や聖職者に向けて 執筆した 89 ページからなる文書のタイトル。原文は英語で、ラテン 語、フランス語、ドイツ語の翻訳がある。 オルベリー イギリス南部の地域。 カトリック使徒教会 1831 年前後にイングランドで始まり、のちドイツに広がり、1848 年にはアメリカ合衆国に広がった、キリスト教の教派の一つ。日本 の秋田県湯沢市と名古屋市にある「ローマ・カトリック使徒教会」 とは無関係。 387 用語集 ( 日本教区 ) 仮庵祭 過越祭と七週の祭とともにユダヤ教三大祭の一つ。仮庵の祭、スコッ ト תוכוסともいう。スコットとはヘブライ語で「仮庵」のこと。ユダ ヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、 祭りの際は仮設の家(仮庵)を建てて住んだことにちなむ。 カルケドン 現在のトルコ共和国であるイスタンブールのアジア側にあるカドゥ キョイ地区。 カルタゴ 現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス 湖東岸にあった古代都市国家であり、現在は歴史的な遺跡のある観 光地となっている。 監督 キリスト教会における職制名の一つ。教派ごとにその位置付けは異 なる。教派によって「司教」「教父」「主教」などと呼ばれる。 教会税 公に認められた法人たるキリスト教の教会が、国家の承認により、 教会の経費を賄うために教会員に対して一律に課する税金。現代に おいては、アイスランド、オーストリア、スイス、スウェーデン、 デンマーク、ドイツ、フィンランドなどの諸国がこうした制度を保 持している。 共観福音書 キリスト教の新約聖書の四つの福音書のうち、ヨハネによる福音書 を除くマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音 書のことを指す。この 3 つには共通する記述が多く、同じような表 現もみられる。聖書学の研究の結果、本文を相互に比較し、一覧に した共観表(シノプシス synopsis)が作られたことから共観福音書 と呼ぶようになった。 教父 →「監督」を参照。 クレメンス 初代教会時代のローマ司教。のちにローマ教皇の第 4 代として列せ られている ( 在位:91 年 ? - 101 年 ?)。使徒教父の一人。カトリッ ク教会、正教会、聖公会、ルーテル教会などで聖人。 敬虔主義 特定の教理を遵守することではなく、個人の敬虔な内面的心情に信 仰の本質を見る信仰的立場。 啓蒙思想 理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。あらゆる人間が 共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、 それは理性によって認知可能であるとする考え方。 388 用語集 ( 日本教区 ) 契約の箱 旧約聖書に記されている、十戒が刻まれた石板を収めた箱のことで ある。証の箱(あかしのはこ) 、掟の箱(おきてのはこ) 、聖櫃(せ いひつ)、約櫃(やくひつ)とも呼ばれる。ただしユダヤ教・キリス ト教において、 「聖櫃 ( せいひつ )」は「契約の箱」より広義のもの をも含む語彙である。 公同 社会の全体。社会全般。公共。ただし公同の教会とは、 「教会がどこ に行っても同じ教会である」という普遍性を表す、キリスト教の概 念である。 告白 自己の信仰を公に言い表すこと。また、自己の罪を神に告げ、罪の 赦(ゆる)しを求めること。 国教 国家が保護し活動を支援する宗教のこと。国家宗教ともいう。 国教会 国家が主体となって運営を行っているキリスト教の教会の組織形態 で、おもにイギリス、ドイツ、北欧などに見られる。教会税を徴収し、 洗礼を住民登録に代え、教会での結婚式を入籍と扱う役所の行政事 務を代行している側面もある。宗教改革以後、国教会から離脱して 独自組織を形成したプロテスタント教会は自由教会と呼ばれる。 コルネリウス 新約聖書の使徒言行録 10 章に登場するローマの軍人で、百人隊長で あった。 コンスタンティヌス 1 世 ( ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティー ヌス、272 年- 337 年)ローマ帝国の皇帝(在位:306 年 - 337 年) 。 ローマ皇帝としては初めてのキリスト教徒。4 つに分割統治されて いた帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と 称される。キリスト教を公認してその後の発展の政治的社会的基盤 を築いた。 サマリア パレスチナのヨルダン川西岸地区の北部の地域名。 産業革命 18 世紀から 19 世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による 産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。市民革命 とともに近代の幕開けを告げる出来事とされるが、近年では産業革 命に代わり「工業化」という見方をする事が多い。ただしイギリス の事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化である ことと世界史的意義を踏まえ、現在でも産業革命という用語が用い られている。工業化ということも踏まえて、工業革命とも訳される。 389 用語集 ( 日本教区 ) 三十年戦争 ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに 勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618 年から 1648 年に戦わ れた国際戦争。 司教 →「監督」を参照。 士師 ヨシュア以後の王国時代の前から預言者サムエルの間まで、古代イ スラエルを裁いた人々であり、旧約聖書『士師記』に描かれる指導 者を指す。原語の意味は「治める者」あるいは「裁き人」 。 「士師」 という呼び方は中国語聖書に由来する。 至聖所 宗教的建築物の最も神聖な場所の呼称。年に一度、ユダヤ暦の第 7 の月の 10 日、贖罪日に大祭司のみが入ることを許された空間である。 使徒書簡 新約聖書の一部。初代使徒たちが各地の教会に宛てた手紙。 シナゴーグ ギリシア語のシュナゴゲー συναγωγή 集会所)に由来するユダヤ教の 会堂。 シモン < 熱心党 > 十二使徒の一人。ペトロと呼ばれたシモンとも、イエスの兄弟シモ ンとも別人(ただし、後者に関してはカトリック教会では同一人物 とされている)。新約聖書中では、共観福音書と使徒言行録に、各々 一度名が見えるだけで、それ以外に言及されることは無く、この人 物の詳細は、全くわからない。 自由教会 国教会に対し、教会の自立を確保した教会。 十字軍 中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、 聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣し た遠征軍。 主教 →「監督」を参照。 受難週 棕櫚の聖日(=枝の主日)から、復活祭の前日までの一週間を指す。 この週の金曜日は「聖金曜日」と呼ばれる。イエス・キリストがエ ルサレムで受けた苦難を記憶する事から「受難週」等の名がある。 招詞 神が礼拝に招く言葉。 召命 神の恵みによって神に呼び出されること。または神によって呼ばれ て神に献身し、教会の奉仕者としての使命を与えられること。 390 用語集 ( 日本教区 ) ジョン・ウィクリフ イングランドのヨークシャーに生まれた、宗教改革の先駆者。オッ クスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ロー マ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンと ワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤 りである等、当時イングランドにおいて絶対的権力を持っていたロー マ・カトリックを真っ向から批判した。晩年には聖書を英語に翻訳 した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し た。ウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また 100 年後の宗 教改革にも大きな影響を与えた。 シルワノ ギリシア語のシラスのラテン語形。シラスと同一人物と考えられて いる。アンティオキアに派遣された指導的な成員。預言者。ローマ 人。クリスチャンの間に割礼に関する問題が起きた時、エルサレム 教会の代表者は会合を開き決定を下した。アンティオキアの成員は その決定の手紙を歓び、シルワノは兄弟たちを励まし強めた。その 後、シルワノは使徒パウロと共に第 2 回宣教旅行に出た。彼らは旅 行中ピリピで捕らえられ、着物をはぎ取られ何度もむちで打たれ、 二人は牢獄に監禁され足かせ台に繋がれた。それでもパウロとシル ワノは神に讃美の歌を歌い祈り続けていた。すると、大地震が起こり、 牢獄の扉は開き、足かせは外れた。看守は恐れて自害しようとするが、 パウロはそれを止めると、看守は二人の傷を洗い、看守とその家族 はバプテスマを受けて信徒となった。 信仰復興運動 敬虔な信仰者の急速な増加を伴う信仰運動。イギリスとアメリカに おけるリバイバリズムを継承する教派(=福音派)においては、そ れを躊躇なく「リバイバル」として目標に掲げ、祈り求める。 過越祭 ペサハともいう。聖書に記載されているユダヤ教 (ヘブライ語 : )חַסָּפ の祭り。特に、最初の夜に儀式的なマッツァーなどのごちそうを食 べて、そのあとお祝いする祭である。イスラエル人は、エジプトに 避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられ るようになっていた。神は、当時 80 歳になっていたモーセを民の指 導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこ れを妨害しようとする。そこで神は、エジプトに対して十の災いを 臨ませる。その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプ トの「すべての初子を撃つ」というものであった。神は、戸口に印 のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、こ の名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった ( 過ぎ 越された ) ことに由来する。 391 用語集 ( 日本教区 ) 聖所 契約の箱が置かれた幕屋、または神殿。 西方教会 西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派(ローマ・カトリッ ク教会、聖公会、プロテスタント、アナバプテストなど)の総称。 1054 年に東方教会と分離。 聖礼典 救いの完結に至らせる、神の恵みの行為。サクラメント。 大宣教令 キリストが昇天される前に、弟子たちに与えられた命令で、使徒と して世界中に福音を宣べ伝えることをお命じになったこと ( マタイ 28:18 - 19 参照 )。 堕罪 罪に堕ちること。 タダイ 十二使徒の一人。マタイによる福音書、マルコによる福音書で「タ ダイ」と記された人物と、ルカによる福音書において「ヤコブの子 ユダ」と記された人物がおり、伝統的にこの二つの名前が同一人物 のものとして解釈されてきた。イエスを裏切ったイスカリオテのユ ダとは別人である。タダイと呼ばれるユダに関しては様々な伝承が あり、混乱しているが、新約聖書の記述は少ない。 知恵文学 古代イスラエルの宗教文化を始めとして、古代オリエント世界にお ける国際的な文学活動によりできた特定グループの文学である。旧 約聖書の正典の中ではヨブ記、箴言、伝道者の書、詩編がそれに属 する。 チャネリング 常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(霊的存 在・神・死者)とコミュニケーションをすること。 テモテ リュストラ(現代のトルコ南部)出身の初期キリスト教徒でパウロ の協力者、弟子。ギリシア語ではティモテオス。東方諸教会、正教会、 カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人。伝承では殉教者(致 命者)とされる。 テルトゥリアヌス (160 年 ? - 220 年 ?) カルタゴ ( 今のチュニジア ) 生まれの 2 世紀の キリスト教神学者。ラテン語で著述を行ったいわゆるラテン教父の 系統に属する最初の一人。 東西教会の分裂 キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会 ( 西方 教会 ) と、東方の正教会とに二分されたことをいう。1054 年、ロー マ教会とコンスタンディヌーポリ教会は主にローマ教皇の教皇首位 392 用語集 ( 日本教区 ) 権を巡って対立が深まっていたが、使節としてコンスタンディヌー ポリを訪れていた枢機卿フンベルトはコンスタンディヌーポリ総主 教ミハイル 1 世ケルラリオスの非礼に怒り、ミハイル 1 世ケルラリ オスとその同調者に対する破門状をアギア・ソフィア大聖堂の宝座 に叩き付けた。これに対し、ミハイル 1 世キルラリオスは枢機卿フ ンベルトとその一行を破門した。 東方教会 トーラー ギリシア正教とも呼ばれる、キリスト教の教派の一つ。 「モーセ五書」 「モーセの律法」ともいう。ヘブライ語 הרות。 旧約聖 書の最初の 5 つの書 ( 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 ) である。 トマス・カーライル (1803 年 7 月 17 日- 1855 年 1 月 28 日 ) スコットランドの弁護士。 1830 年エドワード・アーヴィングと出会い、1835 年カトリック使 徒教会の「使徒」となり、北ドイツを担当する。 トマス 十二使徒の一人。ヨハネによる福音書 11 章 16 節及び 20 章 24 - 29 節に記述があるのみ。 ニカイア ニケアともいう。現在のトルコの都市、イズニクにあたり、初期キ リスト教の教義確立に大きな影響を与えた、二つの公会議(325 年 および 785 年)の開催地である。 熱心党 イエス時代に存在したユダヤ教の政治的宗教集団である。ゼロテ派 とも呼称される。 パウロ (ギリシア語表記: Παῦλος, ラテン文字表記:Paulos, ? - 65 年 ?)は、 初期キリスト教の理論家であり、新約聖書の著者の一人。キリスト 教発展の基礎を作った。ユダヤ名でサウロとも呼ばれる。古代ロー マの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県 のタルスス)生まれのユダヤ人。職業はテント職人で生まれつきの ローマ市民権保持者でもあった。ベニヤミン族のユダヤ人でもとも とファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエ ル 1 世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。 八福 キリストが山上の説教 < 垂訓 > 中で説いた 8 種の幸福な人;心の貧 しい人々 ・ 悲しむ人々 ・ 柔和な人々 ・ 義に飢え渇く人々 ・ 憐れみ深 い人々 ・ 心の清い人々 ・ 平和を実現する人々 ・ 義のために迫害され る人々を指す。 393 用語集 ( 日本教区 ) 発現 〔今まで十分知られることが無かった事物が〕明確な形を取って認識 されるようになること。 初穂 その年初めて実った稲の穂。ここでは第一の復活の際に最初に御国 に入る魂を指す。 パピアス →ヒエラポリスのパピアス バビロン捕囚 新バビロニア ( 前 625 年 - 前 539 年に現在のイラク・クウェート地 域にあった王国 ) の王ネブカドネザル 2 世によりユダ王国のユダヤ 人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行さ れ移住させられた事件。紀元前 539 年にアケメネス朝ペルシアは軍 をバビロンへと進め、新バビロニアは滅亡した。この際、ペルシア 王キュロス 2 世の命令によって、ユダヤ人たちは解放され、故国に 戻る許可を得た。 バルナバ 使徒言行録に登場する初期キリスト教会のメンバー。正教会・非カ ルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされ ているほか、正教会では七十門徒に数えられている。使徒言行録に よれば、バルナバ(慰めの子の意味)と呼ばれていたこの人物は本 名をヨセフといい、レビ族の出身で、キプロス島生まれのユダヤ人 であった。彼は財産をすべて売り払って、その代金を使徒たちに差 し出した。迫害者だったサウロ(パウロ)が回心すると、バルナバ はすすんでこれを受け入れ、彼を保護してタルソスへ送った。パウ ロの第一回の宣教旅行の同行者となってキプロスから小アジア(現 トルコ)をめぐったが、第二回宣教旅行にあたってマルコとよばれ たヨハネの同行の是非をめぐって、パウロと議論になり、袂をわかっ てキプロスへ赴いた。 万世 バルトロマイ 「永久」の意の漢語的表現。 十二使徒の一人。共観福音書の弟子のリストではバルトロマイとし てあらわれるが、他に記述はみられない。 ピエール・ヴァルドー フランスの宗教家。ワルドー派の始祖。リヨン出身の裕福な商人だっ たが、1173 年頃に霊感を受け、全財産をなげうって巡回説教者とな り、ワルドー派を形成した。1184 年に教会から破門され、リヨンか ら追放された。 ヒエラポリスのパピアス 2 世紀初め小アジア、フリュギアのヒエラポリスの教会の主教。彼は、 もはや使徒たちとは直接つながっていない世代に属し、この点で彼 394 用語集 ( 日本教区 ) は前の時代の人々とは区別される。 ヒッポレギウス 現在名アンナバ。およそ紀元前 12 世紀頃にフェニキア人によって創 られたとされる、アルジェリア北東部に位置するチュニジアとの国 境付近の町。 必滅 必ず滅びること。 ピラト →ポンテオ・ピラト フィリポ イエスの弟子、十二使徒の一人。イスラエル北部ガリラヤ湖畔ベト サイダの出身で、イエスに直接招かれて弟子になる。フィリポは知 り合いのナタナエルにイエスを紹介し、ナタナエルも弟子になった。 福音主義 キリスト教の教派・神学分類の用語。元来、キリスト教において宗 教改革の立場を採る考え方を福音主義と呼んだ。 プシュケー (ギリシア語 : Ψυχή) 。古代ギリシアの言葉で、もともとは息(いき、 呼吸)を意味しており、転じて生きること(いのち、生命)、また心 や魂を意味するようになった言葉である。 フス →ヤン・フス フランス革命 1787 年に王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱は、89 年から全 社会層を巻き込む本格的な革命となり、絶対王政が倒れたのち、フ ランスは立憲王政から共和制へと展開する。さらに 94 年のテルミ ドール反動ののち退潮へ向かい、99 年にナポレオン・ボナパルトに よる政権掌握と帝政樹立に至る、この 87 年の貴族の反抗からナポ レオンによるクーデタまでが、一般に革命期とされている。革命に よりフランスの王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊する 過程で、封建的諸特権が撤廃され、近代的所有権が確立されるなど、 全社会層が変革へ向かった。前近代的な社会体制を変革して近代ブ ルジョア社会を樹立した革命として、世界史上、ブルジョア革命 ( 市 民革命 ) の代表的なものとされる。日本で 1890 年 ( 明治 23) に作成 された最初の民法草案 ( 旧民法 ) は、施行されずに終わったものの、 フランス革命の成果を継承したフランス民法典 ( ナポレオン法典 ) を 模範としていた。 またフランス革命の理念が中江兆民らによって伝 えられ、自由民権運動に影響を与えている。 フリードリヒ・ヴィルヘルム・シュヴァルツ (1815 年 4 月 11 日―1865 年 6 月 ) ポーランド生まれ。農夫の家に 生まれたが、宣教師として使命感を強く感じ、ベルリンへ上京する。 395 用語集 ( 日本教区 ) そこでカトリック使徒教会の人々と共に働き、交流を深める。1850 年、カーライル使徒から聖職者に、後にウッドハウス使徒から天使 ( =監督 ) に任命され、北ドイツ・ハンブルクを担当する。そこで彼 は「終末時代における使徒職は、イングランドの使徒が途絶えた後 も継続しなければならない」との主張をしたためカトリック使徒教 会から追放される (「ハンブルクのシスマ」)。1863 年 1 月 4 日は、 新使徒教会創立の日とされている。 ペトロ (生年不明 - 67 年 ?)新約聖書に登場する人物で、イエス・キリスト に従った使徒たちのリーダー。シモン・ペトロ、ペテロ、ケファと もいわれる。聖人の概念をもつ全てのキリスト教諸教派(正教会・ 東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)において聖 人とされる。弟子のリストでも常に先頭にあげられており、イエス の問いかけに弟子を代表して答えていることなどから、イエスの存 命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。 また、主イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペト ロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。イエスの 受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したことはすべての福 音書に書かれている。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエ スの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている。使徒言 行録ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説 教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ ( イエスの兄弟 ) がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめる と、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。カイ サリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長に教えを説い ている。カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなす。 これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与え られ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすか らである。 ヘロデ (紀元前 20 年?~?)古代イスラエルの領主(在位 紀元前 4 年- 39 年) 。正式にはヘロデ・アンティパス。新約聖書時代の人物でイ エスの領主。彼は終始ローマ帝国と友好関係を結んでいた父ヘロデ 大王 ( マタ 2:13 - 21 参照 ) の後をついで領主になるが、「王」と 名乗ることはゆるされず、ヘロデ大王の領土を他の兄弟と四分割し たものの 1 つ、ガリラヤとペレアを支配する「四分封領主」となった。 遍在 広く行きわたって存在すること。あまねく存在すること。どこにで も存在すること。 ペンテコステ 396 聖霊降臨(せいれいこうりん)と呼ばれる新約聖書にあるエピソー 用語集 ( 日本教区 ) ドの 1 つ。ペンテコステという名前はギリシア語で「50 番目(の日) 」 を意味するペンテーコステー(・ヘーメラ)πεντηκοστή [ἡμέρα] に由 来している。復活祭から(その日を第一日と)数えて 50 日後に祝わ れる移動祝日(年によって日付が変わる祝日)である。聖霊降臨祭(せ いれいこうりんさい)、五旬節(ごじゅんせつ)、五旬祭(ごじゅんさい) ともいう。この時にペトロはいわゆるペンテコステ説教を行った ( 使 2:14 - 36;8.3.4 参照 )。 ヘンリー・ドラモンド (1786 年 12 月 5 日- 1860 年 2 月 20 日 ) イングランドの銀行家、 政治家、作家。カトリック使徒教会の創設者として有名。イギリス・ ハンプシャー州生まれ。父親はロンドンの銀行家。母親は海軍大臣 ヘンリー・ダンダス(初代メルヴィル子爵)の娘。ハーロー校及び クライスト・チャーチ ( オックスフォード大学の最大且つ裕福なカ レッジ ) で学んだが、学位は無い。1826 年にエドワード・アーヴィ ンらが設立したカトリック使徒教会の普及に関わる。 牧会宣教職 英語の Ministry の訳語。一般的には「牧師、聖職者」 「牧師、聖職者 の職務」と訳出されるが、新使徒教会の教役者に与えられている職 務に鑑み、「牧会宣教職」とする。 ポリュカルポス 2 世紀のスミルナの主教(司教、監督)であった。彼は殉教者とし て死んだ。 ポンテオ・ピラト (生没年不詳)ローマ帝国の第 5 代ユダヤ属州総督(タキトゥスによ れば皇帝属領長官、在任:26 年 - 36 年) 。新約聖書で、イエスの処 刑に関与した総督として登場することで有名。別名ポンティウス・ ピラトゥス。 マタイ 十二使徒の一人。ローマ帝国の徴税人であったが、イエスの召命に 応えて弟子となったとされる。イエスの弟子となった時の記事を除 けば、聖書はマタイの言動を伝えていない。『使徒言行録』によれば イエスの死後も教団内にいたようであり、キリストの昇天・ペンテ コステなどの記事に名前がみえる。伝承では『マタイによる福音書』 を記したと伝えられ、エチオピアまたはペルシアのヘリオポリスで 殉教したとされる。 マティア イスカリオテのユダに代わる 12 人目の使徒。選ばれた経過を除いて 聖書に記述が無い。 マニフィカト 「我が心、主を崇め」で始まる キリスト教聖歌のひとつ。ラテン語典 礼文の第 1 語を以ってこのように呼ぶ。テキストは、ルカによる福 397 用語集 ( 日本教区 ) 音書のマリアの祈り(ルカ 1:46-55)による。 民族移動時代 西暦 300 年から 700 年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移 住の時代のことである。この移住が古代を終わらせ中世が始まった と考えてもよい。 メシア ヘブライ語のマーシアハ חישמの慣用的カナ表記で、 「 (油を)塗られ た者」の意。メサイアは、Messiah の英語発音。出エジプト記には 祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたこと が書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味する ようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。メシアに対 応するギリシア語はクリストス Χριστος で、「キリスト」はその日本 語表記である。 召す ヤコブ < アルファイの子 > 「呼び寄せる」 「招く」の意の尊敬語。 十二使徒の一人。 マルコによる福音書 3 章 18 節などの使徒リスト に「アルファイの子ヤコブ」として登場する以外に言行の記録は無い。 マルコ福音書 15 章 40 節に「小ヤコブとヨセの母マリア」が登場し、 伝統的にアルファイの子ヤコブがこの「小ヤコブ」とされる。 ヤコブ < 主の兄弟 > (? - 62)ナザレのイエスの異母兄または従兄あるいは実弟とされる 人物である。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬され ている。エルサレム使徒会議までにはペトロに代わって、教団の最 高指導者となった。同会議では、結論をまとめる役割を果たしている。 ヤコブ < ゼベダイの子 > 十二使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟である。アルファイの子ヤコ ブと区別して「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての 教派で、聖人として崇敬されている。 ヤン・フス ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。彼はジョン・ウィクリフ の考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知 られる。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは 1411 年 に破門され、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後世 俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。フスはプ ロテスタント運動の先駆者であった。その広範な書物により、彼は、 チェコ文学史における突出した立場を得た。彼は、一つの記号でそ れぞれの音を表すため、チェコ語の綴りに特殊記号(特にハーチェ ク (háček);č, š, ž, ř, ě など)を使用し始めた人でもある。 ユダ < イスカリオテ > 398 十二使徒の一人。 「イスカリオテ(イーシュ・カリッヨート) 」とは 用語集 ( 日本教区 ) ヘブライ語で「カリオテの人」を意味し、カリオテとはユダヤ地方 の村の名である。ユダは 12 番目の使徒であったが、彼が裏切りの末 死んだためにマティアが新しい 12 番目の使徒となった。 ユダ王国 紀元前 10 世紀から紀元前 6 世紀にかけて古代イスラエルに存在し た王国。もともとあった統一イスラエル王国が北(イスラエル王国) と南に分裂して出来たもの。ヤコブの子であったユダの名前に由来 している。しばしば分裂した北王国と対比して南王国と呼ばれるこ ともある。首都はエルサレムであった。 ユニアス 使徒の一人。ローマの信徒への手紙 16 章 7 節に名前があるのみ。 ヨハネ 十二使徒の一人。洗礼者ヨハネと区別するために特に「使徒ヨハネ」 と呼んだり、ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネと呼んだりする こともある。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬され ている。兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたが、ナザ レのイエスと出会い、その最初の弟子の一人となった。ペトロ、兄 弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされ、イエスの変容の場面 や、ゲッセマネにおけるイエス最後の祈りの場面では、彼ら三人だ けが伴われている。ルカによる福音書の記述によればイエスから最 後の晩餐の準備をペトロとヨハネの 2 人が仰せつかっている。古い 伝承では使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされる。イエスの母 マリアを連れエフェソスに移り住んだヨハネは、のちパトモス島に 幽閉され、そこで黙示録を記した。釈放されてエフェソスに戻り、 そこで没した。福音書を書いたのはパトモス島から釈放された後、 老年に達してからで、弟子プロクロスが口述したと伝える。 四福音書 新約聖書中の、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカに よる福音書、ヨハネによる福音書を指す。 両体共存 聖餐においてパンとぶどう酒を聖別すると、パンとぶどう酒の実体 は変わらず、パンとぶどう酒の実体と共にキリストの体と血の実体 が共に現存すること。 臨在 朗誦 ローマのクレメンス ( 神が ) その場に臨むこと。そこにおられること。 〔詩歌・文章などを〕大きな声を出して読みあげること。 →クレメンス。 399 引用聖句索引 引用聖句索引 創世記 3:17……………………… 367 1 : 1 ……………………… 78 3:17–18………………… 145 1:1–31…………………… 73, 135 3:19……………………… 279, 337 1 : 2 ……………………… 73 3:21……………………… 139 1:26……………………… 54, 73, 79 3:23–24 ………………… 138, 254 1:26 以下………………… 135 3:24……………………… 81 1:26–27………………… 83 4 : 3 – 4 …………………… 359 1:26–30………………… 82 4 : 4 – 5 …………………… 359 1:27–28………………… 363 4 : 6 – 8 …………………… 138 1:28……………………… 142, 365 4:10……………………… 147 1:28–30………………… 145, 155 4:15……………………… 139 1:31……………………… 71, 82, 145 6 : 1 – 8 …………………… 151 2 : 1 – 4 …………………… 73 6 : 5 – 7 …………………… 138 2 : 2 – 3 …………………… 184 6:17……………………… 138 2 : 7 ……………………… 83, 127 8:22……………………… 82, 155 2:7–8, 19……………… 78 9 : 1 ……………………… 155 2:15……………………… 367 9 : 1 – 3 …………………… 193 2:16–17………………… 83, 135, 137 9:11……………………… 155 2:17……………………… 138 11:1–8…………………… 138 2:18……………………… 364 12:1–4…………………… 45 2:24……………………… 364 12:2–3…………………… 156 3:1 ……………………… 291 12:3……………………… 151 3:1–7 …………………… 135 1 4 : 1 7 – 2 0 ……………… 90 3:4–5 …………………… 136 1 4 : 1 8 – 1 9 ……………… 229 3:5 ……………………… 138 1 4 : 1 8 – 2 0 ……………… 260 3:6 ……………………… 138 16:7–11………………… 73 3:7–10 ………………… 84 1 6 : 1 3 …………………… 73 3:8–10 ………………… 139 18………………………… 74 3:12 …………………… 138 22:1–18………………… 321 3:15 …………………… 85, 90, 206 2 8 : 1 3 – 1 5 ……………… 151 3:16–19 ………………… 84, 139 400 2 8 : 1 9 …………………… 307 引用聖句索引 出エジプト記 1 9 : 1 1 …………………… 199 3 : 2 – 5 …………………… 73 1 9 : 1 6 – 1 8 ……………… 168 3 : 5 ……………………… 69 1 9 : 1 8 …………………… 163 3 : 6 ……………………… 32 1 9 : 2 2 …………………… 324 3:14……………………… 68 1 9 : 3 3 – 3 4 ……………… 168 4:22–23………………… 78 25:39 以 下 ……………… 148 1 2 : 4 6 …………………… 113 民数記 1 3 : 2 1 – 2 2 ……………… 32 5 : 6 – 7 …………………… 325 1 5 : 2 6 …………………… 103 6:22–27………………… 308 16:4–30………………… 185 6:24–26………………… 332 16:4–36………………… 260 1 1 : 2 5 – 2 9 ……………… 128 19:6……………………… 230 2 0 : 2 3 – 2 4 ……………… 280 20:2–17………………… 169 21:7……………………… 354 20:3……………………… 68 21:8–9…………………… 180 20:4–5…………………… 180 2 7 : 1 2 – 1 3 ……………… 280 20:8……………………… 307 28:9–10………………… 185 20:8–11………………… 184 35:6–34………………… 191 20:9……………………… 367 3 5 : 3 0 …………………… 199 2 0 : 1 2 – 1 7 ……………… 169 申命記 2 0 : 1 7 …………………… 201 4:13……………………… 172 2 0 : 2 0 …………………… 146 5 : 2 – 3 …………………… 172 20:24 以 下 ……………… 307 5:15……………………… 184 2 1 : 1 2 – 1 4 ……………… 190 5:6–21…………………… 176 2 1 : 1 6 …………………… 197 5:16……………………… 188 2 1 : 2 8 – 3 0 ……………… 148 5:21……………………… 201 2 1 : 3 2 …………………… 108 5:22……………………… 172 21:37, 22:3, 6, 8……… 197 6 : 4 ……………………… 68 2 5 : 3 0 …………………… 263 6 : 4 – 5 …………………… 178 31:3……………………… 128 6 : 4 – 7 …………………… 49 3 4 : 2 8 …………………… 172 6 : 5 ……………………… 163 レビ記 6 : 6 – 7 …………………… 366 15:14 以 下 ……………… 359 6 : 6 – 9 …………………… 173 19:2……………………… 69 6:13……………………… 180 401 引用聖句索引 申命記 1 6 : 1 3 …………………… 73, 125, 129 6:25……………………… 158 1 6 : 1 4 …………………… 129 7 : 6 – 8 …………………… 152, 210 28 章 …………………… 81 7:7–16…………………… 173 列王記上 7 : 7 – 8 …………………… 166 8:13……………………… 132 10:20……………………… 183 列王記下 11:18-19………………… 339 5:1–14…………………… 252 11:26–28………………… 156 歴代誌上 18:10–11………………… 81, 281 25:6……………………… 308 18:15……………………… 229 ヨブ記 18:18……………………… 98 1:6 以 下 ………………… 136 19:18–19………………… 199 1 0 : 2 1 – 2 2 ……………… 281 23:23……………………… 146 詩編 < 編節はすべて新共同訳 > 26:5–9…………………… 49 2 : 7 ……………………… 88 28:3–6…………………… 156 8 : 7 ……………………… 82 3 0 : 1 4 …………………… 140 19:2……………………… 32 32:3……………………… 180 19:13……………………… 160 32:3–4…………………… 353 20:7……………………… 93 32:4……………………… 71 23:4……………………… 281 32:6……………………… 45, 78 29:1……………………… 211 ヨシュア記 31:7……………………… 112 2 4 : 2 3 …………………… 49 45:7–11………………… 93 士師記 49:16……………………… 281 3:10……………………… 129 51:6–7…………………… 162 6:11–16………………… 73 51:7……………………… 254 6:34……………………… 129 51:12–14………………… 354 1 1 : 2 9 …………………… 129 51:13……………………… 46, 274 1 3 : 2 5 …………………… 129 69:22……………………… 111 サムエル記上 78:5–7…………………… 339 1:15……………………… 354 88:11–13………………… 281 2:1–10…………………… 354 90:2……………………… 70 10:6……………………… 129 103:8……………………… 71 1 6 : 1 2 – 1 3 ……………… 274 103:20…………………… 81 402 引用聖句索引 104:24…………………… 79 53:4–6…………………… 162 106:1……………………… 354 53:4–7…………………… 292 110:4……………………… 229 53:5……………………… 101 115:17…………………… 281 53:6……………………… 113 118:24…………………… 187 5 3 : 1 2 …………………… 110 119:160…………………… 71 54:8……………………… 71 127:3……………………… 339 55:1……………………… 263 130:7–8…………………… 148 58:13–14………………… 185 135:6……………………… 69 61 章……………………… 93 139編……………………… 318 61:1……………………… 161 139:2–4…………………… 70 63:15–16………………… 45 139:8–10………………… 70 63:16……………………… 181 箴言 65:17……………………… 295 1:8………………………… 188 65:20–21………………… 294 2:17……………………… 194 エレミヤ書 6:19……………………… 200 1 5 : 1 6 …………………… 320 19:9……………………… 199 23:5……………………… 96 コヘレトの言葉 31:9……………………… 78 5:9 ……………………… 202 31:31 以下………………… 93 イザヤ書 31:31–34………………… 36 1:10–17………………… 157 31:33–34………………… 173 1:18……………………… 324 32:9……………………… 109 6:2–7……………………… 81 50:29……………………… 69 6:3………………………… 69,74,310 エゼキエル書 7:14………………………… 95 11:5……………………… 46, 129 9:5………………………… 33, 294 16:9……………………… 252 11:6–8…………………… 145 36:27…………………… 274 28:16……………………… 162 ダニエル書 42:1……………………… 95 7:13–14………………… 94 43:3……………………… 69 10:13……………………… 81 4 5 : 2 1 – 2 2 ……………… 68 12:1……………………… 81 53:3……………………… 113 ホセア書 53:4–5…………………… 6 : 2 ……………………… 117 < 口 語 訳:伝 道 の 書 > 403 付録 ホセア書 7:17……………………… 142 12:10……………………… 33 8:1………………………… 72 13:4……………………… 33 11:24–12:1……………… 79 ヨエル書 12:13……………………… 68 3:1–2……………………… 274 13:3–5…………………… 32 3 : 5 ……………………… 162 シラ書 4 : 1 – 5 …………………… 131 1:14……………………… 167 アモス書 3:12……………………… 188 5:21–22………………… 179 7:34……………………… 347 5:24……………………… 179 17:5–6…………………… 142 ミカ書 ダニエル書補遺 3 : 8 ……………………… 129 アザルヤの祈りと 5:1………………………… 33, 91, 100 三人の若者の賛歌 6 : 8 ……………………… 159 63 節 …………………… 284 ハバクク書 マカバイ記二 1:12……………………… 69 15:12–14………………… 284 ゼカリヤ書 マタイによる福音書 7:12……………………… 129 1:1………………………… 95 9:9………………………… 91, 96, 108 1:18……………………… 55, 126 11:12–13………………… 109 1:21……………………… 91 マラキ書 1:22–23…………………… 95 2:7………………………… 246 2:1–11…………………… 100 2:13–16………………… 194 2:2………………………… 96 3:1………………………… 91 3:15……………………… 252 3:10……………………… 361 3:16……………………… 274 トビト記 3:16–17…………………… 127 8:4–5……………………… 194 3:17……………………… 89, 252 10:12……………………… 188 4:1………………………… 101, 136 12:15……………………… 81 4:4………………………… 313 12:18……………………… 81 5:16……………………… 78 知恵の書 5:21–22………………… 191 2:23……………………… 151 5:27–28………………… 202 3 : 1 – 3 …………………… 282 5:28……………………… 195 404 付録 5:33–37………………… 183 14:23……………………… 355 5:44–45………………… 111 15:18–19………………… 199 5:45……………………… 155 15:19……………………… 201 5:48……………………… 111 15:32–38………………… 260 6 : 5 – 8 …………………… 354 15:32–39………………… 103 6:9………………………… 69, 78, 182, 16:13–20………………… 355 354 16:16–17………………… 144 6:9–13…………………… 312, 317 16:18……………………… 208 6:12……………………… 326 16:18–19………………… 235, 243 6:14–15………………… 320 16:24……………………… 257 7:12……………………… 159, 169, 170 16:26……………………… 324 7:28–29…………………… 314 17:5……………………… 89 7:29……………………… 309 17:9……………………… 94 8:23–27………………… 103 17:12……………………… 94 9 : 2 – 6 …………………… 94, 149 18:10……………………… 80 9:6………………………… 94 18:18……………………… 241 9:18–26…………………… 280 18:20……………………… 311 10:2 – 4 ………………… 235 18:21–35………………… 105, 320 10:7……………………… 130, 314 19:4–5…………………… 194 1 0 : 1 9 – 2 0 ……………… 91 19:4–6…………………… 364 10:40……………………… 235 19:5–6…………………… 194 11:5……………………… 91 19:6……………………… 194 11:10……………………… 78, 87 19:9……………………… 195 11:25–27………………… 355 19:14……………………… 250 11:27……………………… 78, 87 19:16–22………………… 173 94 19:16–23………………… 197 12:5……………………… 146 19:18……………………… 199 12:8……………………… 94, 173 19:18–19………………… 169 12:40……………………… 94, 114 20:18–19………………… 114 13:1 以下………………… 104 20:28……………………… 94 13:31–33………………… 105 21:9……………………… 229, 349 13:34–35………………… 199 22:36…………………… 167 13:44–46………………… 105 22:37–39………………… 168 405 引用聖句索引 22:37–40………………… 167, 169 28:19–20………………… 47, 58, 152, 22:39……………………… 169 208, 230, 235 24:29–30………………… 293 28:20……………………… 122, 130, 310 24:37–39………………… 105, 288 マルコによる福音書 24:42……………………… 105, 288 1 : 1 ……………………… 93 24:43–51………………… 105 1:10–11………………… 74, 252 24:44……………………… 105 1:13……………………… 136 25:1–13………………… 105 25:1–30………………… 288 25:14–30………………… 106 25:34–46………………… 361 25:35–36………………… 105, 338 25:46……………………… 279 26:20–29………………… 208 26:26……………………… 259, 269 26:26–28………………… 108 26:26–29………………… 261 26:28……………………… 268 26:38……………………… 89 26:53……………………… 81 26:57–66………………… 199 27:1–5…………………… 109 27:9–10…………………… 109 1:15……………………… 98, 102 1:23……………………… 136 1:23–28………………… 103 1:35……………………… 355 2:1–12…………………… 103 2 : 5 ……………………… 324 2:10……………………… 00 2:13–17………………… 260 2:27……………………… 185 3:11……………………… 103 3:13–19………………… 234 3:14……………………… 107 3:29……………………… 326 6:30–44………………… 103 7:9–13…………………… 188 27:24–25………………… 110 7:20–23………………… 195, 197 27:54……………………… 112 8 : 1 – 9 …………………… 103 27:57–66………………… 112 9:30–31………………… 117 28:1……………………… 185 9:31……………………… 114 28:5–6…………………… 118 10:9……………………… 195 28:11–15………………… 118, 199 1 0 : 1 1 – 1 2 ……………… 195 28:18……………………… 136 1 0 : 1 4 …………………… 255 28:18–19………………… 74 1 0 : 1 7 – 1 9 ……………… 188 28:18–20………………… 235, 258, 338 1 0 : 1 7 – 2 1 ……………… 173 28:19……………………… 68, 182, 216, 1 0 : 2 7 …………………… 70 217, 253 406 1 0 : 3 4 …………………… 117 引用聖句索引 1 2 : 3 0 …………………… 168 4:18……………………… 127, 162 1 2 : 3 0 – 3 1 ……………… 367 4:21……………………… 127 1 2 : 3 6 …………………… 67, 129 5:1–11…………………… 104 1 3 : 2 2 …………………… 136 5:17……………………… 128 1 3 : 3 1 …………………… 98 5:21–24………………… 324 1 4 : 2 2 – 2 5 ……………… 262 6:6–11…………………… 185 1 5 : 3 4 …………………… 111 6:12……………………… 355 16:2……………………… 185 6:12–16………………… 107, 208 1 6 : 1 5 …………………… 216, 314 6:13……………………… 152 1 6 : 1 6 …………………… 46, 257 6:13–16………………… 234 1 6 : 1 9 …………………… 120 7:11–15………………… 280 ルカによる福音書 7:13–15………………… 103 1:11–12………………… 81 7:48……………………… 326 1:19……………………… 81 8:15……………………… 105 1:26–55………………… 354 9:18–21………………… 355 1:27……………………… 55 9:22……………………… 114 1:29……………………… 81 9:28–36………………… 355 1:31–33………………… 100 9:30–31………………… 280, 284 1:32–33………………… 96 1 0 : 2 5 – 3 7 ……………… 168 1:35……………………… 55,100, 126 1 0 : 3 0 – 3 5 ……………… 105 1:37……………………… 70 11:1……………………… 354 2 : 1 – 2 …………………… 33 11:2–4…………………… 317 2:9–10…………………… 81 11:5–10………………… 354 2:11……………………… 100 1 1 : 2 0 …………………… 103 2:13……………………… 81 1 2 : 4 0 …………………… 123 2:51……………………… 188 1 2 : 5 0 …………………… 252 2:52……………………… 89 15:4–32………………… 105 3:21–22………………… 355 1 6 : 1 9 – 3 1 ……………… 281 3:22……………………… 101 1 6 : 2 6 …………………… 149 4 : 1 ……………………… 127 1 7 : 2 1 …………………… 102, 211 4:14……………………… 127, 128 18:1–8…………………… 355 4:16……………………… 185 18:9–14………………… 105 4:17–21………………… 42 1 8 : 1 0 – 1 4 ……………… 355 407 引用聖句索引 19:1–10………………… 198 2 4 : 3 6 …………………… 119 ルカによる福音書 2 4 : 4 0 – 4 3 ……………… 119 19:5……………………… 343 2 4 : 4 4 …………………… 42 19:8……………………… 198, 325 2 4 : 4 6 …………………… 117 19:9……………………… 343 2 4 : 4 9 …………………… 131 1 9 : 1 0 …………………… 94 2 4 : 5 2 …………………… 90 21:1–4…………………… 361 ヨハネによる福音書 2 1 : 3 6 …………………… 288, 355 1 : 1 ……………………… 5 4 , 7 4 , 8 8 , 2 2 : 1 4 …………………… 241 207 22:14 以 下 ……………… 107 1 : 1 – 3 …………………… 79, 103 2 2 : 1 4 – 2 0 ……………… 262 1:1–18…………………… 88 2 2 : 1 8 …………………… 265 1:14……………………… 33, 54, 77, 87, 2 2 : 1 9 …………………… 259, 268, 311 2 2 : 1 9 – 2 0 ……………… 250, 262 2 2 : 3 1 – 3 2 ……………… 236 348 1:18……………………… 54, 74, 77,87, 90 2 2 : 3 2 …………………… 243 1:29……………………… 101, 113, 261, 2 2 : 4 1 – 4 4 ……………… 356 1:29–34………………… 274,292 2 2 : 4 1 – 4 6 ……………… 355 1:32–34………………… 127 2 2 : 4 2 …………………… 109, 165, 318 1:33–34………………… 101 2 2 : 5 4 – 6 2 ……………… 109 1:49……………………… 96 23:2……………………… 199 2:1–11…………………… 104, 260 2 3 : 1 2 …………………… 110 2:11……………………… 102 2 3 : 2 8 …………………… 110 2:19……………………… 114 2 3 : 3 4 …………………… 111, 356 2:21–22………………… 114 2 3 : 4 2 – 4 3 ……………… 111 3 : 3 ……………………… 211 2 3 : 4 6 …………………… 112, 318, 355, 3 : 5 ……………………… 211, 250, 257, 356 277 24:1……………………… 185 3:13……………………… 94, 350 2 4 : 1 3 – 3 1 ……………… 259 3:16……………………… 70, 87, 144, 2 4 : 2 5 – 3 5 ……………… 118 167, 284 2 4 : 2 7 …………………… 42 4:23–24………………… 179 2 4 : 3 0 …………………… 119 4:24……………………… 354 2 4 : 3 4 …………………… 49 4:42……………………… 149 408 引用聖句索引 5:21……………………… 102 1 0 : 2 5 – 2 8 ……………… 212 5:22……………………… 63 1 0 : 2 7 – 2 8 ……………… 338 5:25……………………… 116 1 0 : 3 0 …………………… 74, 90 5:26–27………………… 63 11:1–44………………… 103 5:39……………………… 42 11:1–45………………… 280 6:1–15…………………… 260 11:5……………………… 343 ヨハネによる福音書 1 1 : 1 7 – 4 4 ……………… 119 6:26–51………………… 260 1 1 : 2 5 …………………… 106 6:27……………………… 274 1 1 : 2 5 – 2 6 ……………… 103 6:35……………………… 106, 260 1 1 : 4 1 …………………… 318 6:44……………………… 89 1 1 : 4 1 – 4 2 ……………… 355 6:48–51………………… 320 12:7……………………… 108 6:51……………………… 104 1 2 : 1 3 …………………… 96 6:51–58………………… 311 1 2 : 2 6 …………………… 228 6:53……………………… 108, 261 13:4 以下………………… 107 6:53–58………………… 250 1 3 : 1 5 …………………… 241 6:54……………………… 261 1 3 : 2 0 …………………… 241 6:56……………………… 61,261 1 3 : 3 0 …………………… 108 6:68–69………………… 236 1 3 : 3 4 …………………… 215 7:16……………………… 310 1 3 : 3 4 – 3 5 ……………… 170 7:39……………………… 130 14:1……………………… 45, 144 8:2–11…………………… 195 14:3……………………… 56, 123, 287 8:12……………………… 106 14:6……………………… 89, 106, 200 8:24……………………… 144, 325 14:9……………………… 88, 180 8:44……………………… 136, 200 1 4 : 1 5 …………………… 167 8:51……………………… 46 1 4 : 1 6 …………………… 125, 130 10:1……………………… 197 1 4 : 1 6 – 1 7 ……………… 46 10:9……………………… 106 1 4 : 2 1 …………………… 167 1 0 : 1 1 …………………… 106, 338 1 4 : 2 3 …………………… 46, 167 1 0 : 1 1 – 1 6 ……………… 211 1 4 : 2 4 – 2 6 ……………… 309 1 0 : 1 1 …………………… 338 1 4 : 2 6 …………………… 46, 126, 241 1 0 : 1 7 – 1 8 ……………… 324 15:5……………………… 106 1 0 : 1 8 …………………… 117 15:5–6…………………… 241 409 引用聖句索引 1 5 : 1 0 …………………… 165 1 9 : 3 0 …………………… 111 1 5 : 2 6 …………………… 126, 130, 275 1 9 : 3 6 …………………… 113 16:7……………………… 126, 130 20:1……………………… 185 16:8……………………… 130 2 0 : 1 7 …………………… 350 16:9……………………… 146 2 0 : 1 9 …………………… 119 1 6 : 1 2 – 1 3 ……………… 125, 131 2 0 : 1 9 – 2 3 ……………… 118 1 6 : 1 2 – 1 4 ……………… 43 2 0 : 2 1 …………………… 241 1 6 : 1 3 …………………… 200 2 0 : 2 1 – 2 3 ……………… 229, 230 1 6 : 1 3 – 1 4 ……………… 311 2 0 : 2 3 …………………… 58, 217, 241, ヨハネによる福音書 325, 326 1 6 : 1 3 – 1 5 ……………… 67, 74 2 0 : 2 6 …………………… 119 1 6 : 1 4 …………………… 122, 130 2 0 : 2 8 …………………… 90, 94 1 6 : 1 4 – 1 5 ……………… 126 21:1–14………………… 118 1 6 : 2 8 …………………… 94, 120, 350 2 1 : 1 5 – 1 7 ……………… 118, 212, 236, 17:1……………………… 318 243 1 7 : 1 2 …………………… 337 2 1 : 2 5 …………………… 36 1 7 : 1 7 …………………… 200 使徒言行録 1 7 : 1 8 …………………… 46, 230 1 : 2 – 3 …………………… 107 1 7 : 1 8 – 1 9 ……………… 242 1 : 3 ……………………… 118 1 7 : 1 9 …………………… 216 1:3–11…………………… 350 1 7 : 2 0 …………………… 46, 216 1 : 4 – 5 …………………… 120 1 7 : 2 0 – 2 1 ……………… 271, 355 1 : 8 ……………………… 125, 128, 216, 1 7 : 2 0 – 2 3 ……………… 243 238 1 7 : 2 4 …………………… 120 1:9–11…………………… 56 1 8 : 1 1 …………………… 109 1:11……………………… 63, 120,123, 1 8 : 2 8 …………………… 110 288 18:28 以 下 ……………… 55 1:14……………………… 356 1 8 : 3 3 – 3 7 ……………… 96 1:15–26………………… 235, 236 1 9 : 1 2 …………………… 110 1:16……………………… 129 1 9 : 1 9 – 2 0 ……………… 96 1:21–22………………… 235 1 9 : 2 6 – 2 7 ……………… 111 1:24–25………………… 356 1 9 : 2 7 …………………… 188 2 : 1 – 4 …………………… 275 1 9 : 2 8 …………………… 111 2:14……………………… 236 410 引用聖句索引 2:14 以下………………… 314 8:18……………………… 276 2:15 以下………………… 274 8:38……………………… 258 2:36……………………… 115 9 : 3 – 6 …………………… 119 2:38……………………… 125, 128, 208, 1 0 : 3 7 – 3 8 ……………… 127, 275 253, 275 1 0 : 3 7 – 4 3 ……………… 50 2:38–39………………… 257 1 0 : 4 4 – 4 8 ……………… 257 2:41……………………… 253 1 0 : 4 7 …………………… 252 2:42……………………… 208, 217, 259, 11:1–18………………… 236 309 1 1 : 1 9 …………………… 297 2:46……………………… 259 12:2……………………… 238 3:12–26………………… 314 1 2 : 1 2 …………………… 356 3:18……………………… 129 13:1–4…………………… 235 4:10……………………… 310 13:4……………………… 126 4:12……………………… 91, 139, 149, 13:9–10………………… 130 242, 310 1 3 : 2 6 – 4 1 ……………… 237 4:18–19………………… 368 1 3 : 3 4 – 3 5 ……………… 119 使徒言行録 1 3 : 3 7 – 3 8 ……………… 268 4:23–31………………… 356 1 3 : 4 7 …………………… 149, 242 4:25……………………… 129 14:4……………………… 235 4:32……………………… 170 1 4 : 1 4 …………………… 235 5 : 3 – 4 …………………… 117 15:1–29………………… 236 5:29……………………… 64, 189, 367, 17:1–4…………………… 237 368 1 7 : 2 2 – 3 1 ……………… 314 5:30–32………………… 117 1 7 : 2 7 …………………… 318 6 : 4 ……………………… 234 19:1–6…………………… 252 6 : 6 ……………………… 237, 356 19:5–6…………………… 257 7:56……………………… 94 19:6……………………… 236 8 : 1 ……………………… 297 20:7……………………… 186 8:12 以下………………… 276 2 0 : 2 9 …………………… 197 8:12–17………………… 257 2 8 : 2 5 …………………… 129 8:14 以下………………… 252 ローマの信徒への手紙 8:14–17………………… 128, 232 1 : 1 ……………………… 310 8:15–17………………… 236 1 : 5 ……………………… 166, 310 411 引用聖句索引 1 : 9 ……………………… 183 7 : 7 ……………………… 163 1:18–20………………… 45 7 : 7 – 1 0 ………………… 160 1:19–20………………… 32 8 : 9 ……………………… 125, 133 1:20……………………… 82 8:11……………………… 117 1:30……………………… 189 8:14……………………… 132 2:14–15………………… 158 8:14–17………………… 62, 78 2:15……………………… 159 8:15……………………… 357 3:19–20………………… 160 8:15–18………………… 278 3:20……………………… 170 8:16……………………… 126, 278 3:22……………………… 46 8:17–18………………… 124 3:24……………………… 324 8:18–22………………… 135 3:24–26………………… 71 8:19–22………………… 122, 145 3:25–26………………… 324 8:21……………………… 139 3:28……………………… 164 8:26……………………… 126, 353 3:29–30………………… 46 8:28……………………… 358 3:30–31………………… 163 8:29……………………… 153, 318 ローマの信徒への手紙 8:33–34………………… 120 4 : 8 ……………………… 324 8:37–39………………… 153 4:17……………………… 78 9:10–20………………… 152 4:25……………………… 140 10:4–5…………………… 163 5 : 5 ……………………… 128, 167, 277 10:9……………………… 49, 93 5:12……………………… 138 1 0 : 1 0 – 1 3 ……………… 162 5:18……………………… 71, 163 1 0 : 1 6 – 1 7 ……………… 213 5:18–19………………… 139, 254 1 0 : 1 7 …………………… 46, 313 5:19–20………………… 160 1 1 : 3 3 …………………… 142 6 : 3 – 8 …………………… 256 1 1 : 3 6 …………………… 167 6:8–11…………………… 346 12:1……………………… 360 6 : 9 ……………………… 119 12:4–5…………………… 209 6:17……………………… 166 13:1 以下………………… 367 6:22……………………… 346 13:1–7…………………… 64 6:23……………………… 71, 138, 139, 13:6……………………… 367 279 7 : 2 – 3 …………………… 195 412 13:8–10………………… 169, 173 13:9……………………… 201 引用聖句索引 14:7–9…………………… 347 1 0 : 1 6 – 1 7 ……………… 263 14:9……………………… 149, 216 1 0 : 1 7 …………………… 271 1 4 : 1 0 …………………… 289 11:1……………………… 241 15:2……………………… 169 1 1 : 1 7 – 3 2 ……………… 262 15:7……………………… 170 1 1 : 2 3 – 2 6 ……………… 262 1 5 : 1 9 …………………… 125 1 1 : 2 4 – 2 5 ……………… 61 16:7……………………… 235 1 1 : 2 6 …………………… 265, 267, 311 1 6 : 2 5 …………………… 315 1 1 : 2 7 …………………… 71 1 6 : 2 5 – 2 6 ……………… 166 1 1 : 2 9 …………………… 270 1 6 : 2 6 …………………… 315 12:1–11………………… 227 コリントの信徒への手紙一 12:3……………………… 125, 131 1:18……………………… 115, 162 12:4–6…………………… 74 1:19–20………………… 142 12:4–7…………………… 245 1:20–21………………… 142 1 2 : 1 0 – 1 2 ……………… 42, 279 2:1–16…………………… 142 1 2 : 1 2 – 2 7 ……………… 171 2:6–16…………………… 67 1 2 : 1 3 …………………… 122 2 : 7 – 8 …………………… 94 1 2 : 2 0 …………………… 209 コリントの信徒への手紙一 14:1……………………… 168 2:10–12………………… 42 15 章……………………… 81 2:11……………………… 125 15:3–4…………………… 55, 115 3 : 9 ……………………… 212 15:3–5…………………… 49, 161 3:11……………………… 218 15:3–7…………………… 349 3:16–17………………… 212 15:3–8…………………… 237 4 : 1 ……………………… 42, 233, 269 1 5 : 1 4 …………………… 117 6:19–20………………… 196 1 5 : 2 0 …………………… 293 7:10–11………………… 195 1 5 : 2 1 – 2 2 ……………… 114 7:39……………………… 195 1 5 : 2 2 – 2 4 ……………… 293 8 : 4 ……………………… 68 1 5 : 2 3 …………………… 281 8 : 5 – 6 …………………… 179 1 5 : 2 4 …………………… 294 9:1–16…………………… 235 1 5 : 2 6 …………………… 280 10:1–4…………………… 90 1 5 : 2 8 …………………… 137, 295 10:4……………………… 67 1 5 : 2 9 …………………… 283, 330 1 0 : 1 3 …………………… 321 1 5 : 4 2 – 4 4 ……………… 58, 119 413 引用聖句索引 1 5 : 4 4 …………………… 294 10:5……………………… 143 1 5 : 4 5 …………………… 83 11 章……………………… 235 1 5 : 4 7 …………………… 83 11:2……………………… 234, 290, 315 1 5 : 5 1 …………………… 233 11:14……………………… 135 1 5 : 5 1 – 5 2 ……………… 289 13:4……………………… 119 1 5 : 5 1 – 5 7 ……………… 43 13:13……………………… 75, 328 1 5 : 5 2 …………………… 118 ガラテヤの信徒への手紙 1 5 : 5 4 – 5 7 ……………… 280 1:11–12………………… 234 1 5 : 5 5 …………………… 281 1:19……………………… 235 1 5 : 5 7 …………………… 102 2 : 9 ……………………… 235 16:2……………………… 186 3:14……………………… 156 1 6 : 2 2 …………………… 49, 124, 288 3:23–24………………… 160 コリントの信徒への手紙二 3:27……………………… 256 1:21–22………………… 273 4 : 4 – 5 …………………… 207 1:23……………………… 183 4 : 6 ……………………… 125 1:24……………………… 241 5:19–25………………… 202 3 : 7 – 8 …………………… 232 5:22–23………………… 278 3 : 8 ……………………… 232 6:10……………………… 170, 361 コリントの信徒への手紙二 エフェソの信徒への手紙 3 : 9 ……………………… 232 1 : 3 – 7 …………………… 362 3:11……………………… 238 1:3–14…………………… 156, 157 3:17……………………… 125 1 : 5 ……………………… 78 4:17–18………………… 81 1 : 7 ……………………… 91, 320 5 : 2 ……………………… 290 1:13……………………… 273 5 : 4 – 5 …………………… 290 1:16–23………………… 356 5:17……………………… 277 1:20–23………………… 122 5:17–19………………… 149 1:22–23………………… 209 5:18–19………………… 233 2:11–18………………… 46 5:19……………………… 71, 115, 162 2:22……………………… 132 5:20……………………… 98, 233, 338 3 : 1 – 7 …………………… 43 5:21……………………… 100, 324 4 : 4 – 6 …………………… 75 6:16……………………… 132 4:11……………………… 238 9 : 6 – 8 …………………… 362 4:12……………………… 227 414 引用聖句索引 4:13……………………… 209 1:15–20………………… 43, 49 4:13–14………………… 341 1:16……………………… 54, 79, 122 4:15……………………… 209 1:18……………………… 58, 122, 209 4:25……………………… 199 1:26–28………………… 233 4:30……………………… 273 1:27……………………… 124 5 : 2 ……………………… 360 2 : 9 ……………………… 90 5 : 4 ……………………… 182 2:12–13………………… 256 5 : 5 ……………………… 202 2:19……………………… 209 5:21–33………………… 364 3 : 1 ……………………… 56 5:25……………………… 194 3 : 4 ……………………… 292, 322 5:28–33………………… 194 3:12–14………………… 171 6 : 1 – 3 …………………… 189 3:14……………………… 215 6 : 4 ……………………… 189 3:16……………………… 331 フィリピの信徒への手紙 3:20……………………… 189 1 : 8 ……………………… 183 テサロニケの信徒への手紙一 1:19……………………… 125 1 : 1 ……………………… 235 2:3………………………… 245 2 : 7 ……………………… 235 2 : 3 – 4 …………………… 360 4 : 3 – 4 …………………… 196 フィリピの信徒への手紙 4:13–18………………… 124, 337 2 : 5 ……………………… 72 4:14–18………………… 237 2 : 6 – 8 …………………… 89, 360 4:15–17………………… 120, 288 2:6–11…………………… 43, 49 4:16……………………… 285 2 : 7 ……………………… 252 4:16–17………………… 63 2 : 8 ……………………… 87, 139 5 : 2 ……………………… 124 2:9–10…………………… 116 5 : 9 ……………………… 289 2:9–11…………………… 55, 94 5:17……………………… 356 3:14……………………… 72 5:23……………………… 85 3:20–21………………… 289 テサロニケの信徒への手紙二 3:21……………………… 119 2 : 3 – 4 …………………… 136 4 : 7 ……………………… 143 2 : 7 ……………………… 135 コロサイの信徒への手紙 テモテへの手紙一 1:14……………………… 321 1 : 5 ……………………… 166 1:15……………………… 83,87 2 : 1 ……………………… 356 415 引用聖句索引 2 : 4 ……………………… 319 2:17……………………… 98 2 : 4 – 6 …………………… 284 3 : 1 ……………………… 98 2 : 5 – 6 …………………… 149 3 : 7 ……………………… 67, 186 2 : 5 – 7 …………………… 213 4:4–11…………………… 186 3 : 2 ……………………… 194 4:14–15………………… 232 3 : 2 – 3 …………………… 245 4:15……………………… 89, 101 3 : 8 – 9 …………………… 245 5 : 8 – 9 …………………… 165 3:12……………………… 194 5 : 9 ……………………… 149 3:15……………………… 132, 212 5:10……………………… 260 3:16……………………… 33, 49, 90 6 : 7 ……………………… 155 5 : 9 ……………………… 194 7 章 ……………………… 90 6:10–11………………… 202 7:19……………………… 97 テモテへの手紙二 7:23–27………………… 232 1:9–10…………………… 279 7:24–25………………… 97 3 : 2 ……………………… 189 8 : 5 ……………………… 97, 207 3:15–16………………… 35 8 : 6 ……………………… 228 テトスへの手紙 8 章 –10:18……………… 359 1 : 5 ……………………… 237 9:16……………………… 112 1 : 7 ……………………… 237 9:24……………………… 120 テトスへの手紙 9:27……………………… 280 2 : 4 ……………………… 189 9:28……………………… 124 2:12–14………………… 166 10:1……………………… 207 3 : 1 ……………………… 368 10:9–10………………… 319 3 : 5 ……………………… 128, 252 1 0 : 1 0 …………………… 360 3 : 5 – 7 …………………… 78 1 0 : 1 8 …………………… 324 ヘブライ人への手紙 1 0 : 2 0 …………………… 112 1 : 2 ……………………… 79, 122 1 0 : 2 3 …………………… 287 1 : 3 ……………………… 86 1 0 : 3 7 …………………… 124 1 : 5 ……………………… 88 11:1……………………… 44, 143 1:14……………………… 80 11:3……………………… 54, 69, 78 2:14……………………… 88, 113, 281, 11:4……………………… 359 349 2:14–15………………… 116 416 11:6……………………… 45, 144 1 1 : 3 9 …………………… 144 引用聖句索引 12:1……………………… 165 3 : 9 ……………………… 157 12:2……………………… 72 3:15……………………… 186 1 2 : 2 2 – 2 4 ……………… 210 3:18–20………………… 116, 284 13:4……………………… 196 3:19……………………… 55, 81 ヤコブの手紙 3:19–20………………… 280 1:13–15………………… 321 3:20–21………………… 206, 251 1:15……………………… 201 3:21……………………… 141 1:18……………………… 278 4 : 6 ……………………… 116, 284 1:21……………………… 241 4:10……………………… 227 1:22–24………………… 315 4:14……………………… 125 2 : 1 – 9 …………………… 170 5 : 2 – 4 …………………… 338 2:10……………………… 173 ペトロの手紙二 2:15–17………………… 164 1:10–11………………… 152 4:17……………………… 146 1:20–21………………… 35 5 : 8 ……………………… 124 2 : 4 ……………………… 136 5:12……………………… 183 3 : 8 ……………………… 70 5:15–16………………… 356 3 : 9 ……………………… 124 ペトロの手紙一 3:13……………………… 295 1 : 2 ……………………… 75 ヨハネの手紙一 1 : 3 – 1 2 ………………… 117 1 : 1 – 3 …………………… 33, 88, 218 ペトロの手紙一 2 : 1 ……………………… 130, 355 1:14–15………………… 203 2:12……………………… 326 1:15–16………………… 69 2:16–17………………… 202 1:19……………………… 261 3 : 1 ……………………… 78 1:24–25………………… 313 3 : 2 ……………………… 31,123 , 211, 2 : 5 ……………………… 132, 218, 228, 362 2 : 9 ……………………… 62, 63, 152, 228 233,288 , 292 3 : 8 ……………………… 136 3:16……………………… 114 3:18……………………… 169 2:9–10…………………… 210, 216 3:19–20………………… 141 2:11–17………………… 64 4 : 1 – 6 …………………… 237 2:13……………………… 368 4 : 2 ……………………… 33, 131 2:21–24………………… 112, 114 4:7–21…………………… 170 417 引用聖句索引 4:9–10…………………… 349 1 3 : 1 5 …………………… 293 4:16……………………… 71, 166, 216 14:1……………………… 63, 183 4:19……………………… 167 14:1–5…………………… 290 5 : 2 – 3 …………………… 167 14:4……………………… 278 5 : 6 – 8 …………………… 250 1 4 : 1 2 – 1 3 ……………… 293 5:20……………………… 87, 90 1 4 : 1 5 …………………… 291 ユダの手紙 16:7……………………… 71 9 節 ……………………… 81 19:6–7…………………… 211, 319 ヨハネの黙示録 19:6–9…………………… 292 1 : 1 ……………………… 124 19:7……………………… 123, 290 1 : 5 ……………………… 97 19:7–8…………………… 278 1 : 7 ……………………… 293 1 9 : 1 1 – 1 6 ……………… 293 1 : 8 ……………………… 69 1 9 : 2 0 …………………… 293 1:18……………………… 116 20:1–3…………………… 293 3 : 1 ……………………… 224 20:4……………………… 63, 293 3:10……………………… 292 20:5–6…………………… 293 3:11……………………… 288 20:6……………………… 63, 153, 279, 3:14……………………… 199 294 4 章 ……………………… 211 20:7–10………………… 137 4:8–11…………………… 310 20:7–8…………………… 137 5:12……………………… 292 2 0 : 1 0 …………………… 294 6 : 8 ……………………… 279 2 0 : 1 1 – 1 5 ……………… 295 6:9–11…………………… 280 2 0 : 1 4 …………………… 280 ヨハネの黙示録 21:2……………………… 212 7 : 3 ……………………… 273, 292 21:3……………………… 211, 295 7:14……………………… 292 21:4……………………… 122 1 1 : 1 5 …………………… 97 21:8……………………… 279 12 章 …………………… 212 22:3–5…………………… 223, 295 12:5……………………… 290, 291, 292 22:4……………………… 273 12:6……………………… 292 22:7……………………… 288 12:9……………………… 291 2 2 : 1 2 …………………… 288 1 2 : 1 2 …………………… 292 2 2 : 1 7 …………………… 290 1 3 : 1 0 …………………… 293 2 2 : 2 0 …………………… 124, 288, 290 418 引用聖句索引 419 引用聖句索引 420 引用聖句索引 421 引用聖句索引 422 引用聖句索引 423 引用聖句索引 424 引用聖句索引 425 引用聖句索引 426 引用聖句索引 427 引用聖句索引 428 引用聖句索引 429 引用聖句索引 430 引用聖句索引 431 引用聖句索引 432 引用聖句索引 433 索引 索引 ・項目に * 印のあるものは、語尾の変化する用語も含む。例えば「登録する」 「登録された」 「登録して下さる」などはすべて「登録」という一つの項目にまとめている。 ・ページに下線のあるものは「そのページ以降も含めて参照」を意味する。 245, 265, 267, 270, 282, 288, 297, 303, 307, 309, 319, 323, あ 贖 う * 47, 57, 71, 91, 98, 112, 114, 135, 137, 139, 144, 147, 157, 326, 328, 333, 334, 336, 338, 340, 341, 342, 343, 356 160, 162, 178, 186, 208, 210, 224, 228, 230, 233, 242, 253, 会衆主任者 248 255, 259, 261, 273, 277, 281, 284, 292, 297, 319, 324, 328, 確約 157 338, 340, 360 家族 151, 188, 190, 206, 251, 347, 357, 363, 364, 365, 366, 367 崇める * 56, 68, 80, 94, 159, 179, 183, 186, 205, 210, 214, 223, 284, 307, 310, 312, 317, 331, 336, 353, 356, 359 化体 266 カトリック 51, 240, 299, 303, 305, 309 悪魔 80, 89, 91, 101, 110, 136, 200, 206, 281, 324,333 悲しみと向き合う 347 欺く * 150、199, 202 カノン 36, 38, 297 アタナシウス信条 50 神による救いの御計画 36, 150 油注ぎ 93, 127, 252, 274 神の擬人化 45, 77, 126, 147, 207, 232, 323 按手 128, 237, 244, 255, 273, 276, 304, 329, 333 神の国=神の御国 安息日 94, 146, 159, 173, 175, 184, 263, 367 神の啓示 34, 44, 233 安楽死 193 神の子になる 148, 207, 278 神の財産 63 神の定め 153, い いけにえの奉納による礼拝 112, 179, 185, 206, 230, 308, 309, 324, 359 神の自己啓示 31, 33, 42, 73, 106, 131, 180 神の姿 75, 83, 180 イースター 49, 185, 264, 349 神の似姿 142, 363 一神教 68 神の万能性 54, 69 一体 41, 55, 75, 86, 126, 神の本質 70, 216, 313 一夫一婦 194 神の御国 98, 99, 102, 104, 105, 118, 207, 211, 223, 295, 319 一夫多妻=複婚 神の御子 89, 101, 274 偽る * =欺く 神の都 210 祈り 39, (42,) 69, 83, 107, 128, 179, 186, 206, 216, 234, 237, 241, 神を畏れる * 42, 157, 179, 183, 194, 319, 366 244, 273, 276, 284, 312, 316, 317, (320,) 322, 329, 333, 336, 神を称える * 223, 311, 315, 354 339, 344, 353, 354 感謝 219, 312, 331, 361 戒め 68, 84, 104, 111, 113, 135, 158, 160, 163, 165, 168, 173, 178, 180, 182, 195, 224, 318, 361, 366 引退 301, 416 感謝祭 351 感謝の捧げ物 307, 351, 361 監督 237, 246, 298 管理者 42, 227, 233, う 嘘 ( うそ ) =欺く き 義 35 義化の教え 300 え 栄光 32, 49, 51, 58, 77,79, 81, 88, 94, 102, 119, 122, 150, 157, 170, 224, 233, 292, 293, 314, 319, 322, 360 選び 144, 151,156, 206, 233 奇術 180 偽証 174, 177, 198, 199 偽善 166, 200 欺瞞 130 旧約 97, 112, 117, 144, 152, 159, 161, 173, 188, 190, 206, 230, お 大きな苦難 292, 294 おきて=律法 奥義 68, 73, 78, 86, 95, 152, 252, 259 幼子 156 音楽 331, 361 232, 260, 324 旧約 ( の ) 時代 78, 97, 128, 144, 151, 162, 165, 188, 190, 194, 197, 207, 230, 273, 281, 307, 313, 324, 332, 339, 348, 359 旧約聖書 32, 35, 42, 45, 55, 69, 90, 93, 111, 113, 136, 140, 143, 147, 158, 161, 178, 181, 188, 194, 199, 202, 205, 229, 251, 260, 273, 280, 291, 307, 313 清い * 259 か 改革派 51 教育 333, 339, 361 会衆 教役者 59, 61, 206, 222, 259, 313, 328, 337, 344, 346 39, 50, 59, 62, 169, 186, 196, 206, 208, 212, 215, 233, 237, 434 索引 教義書 37, 40 婚礼 123, 334 教区主任者 248 教区長老 240, 246 さ 教区伝道師 240, 247 再加入 272 教師 72, 160, 308 祭司 62, 90, 95, 97, 152, 153, 206, 210, 223, 228, 229, 232, 260, 教示 354 278, 294 教父 40, 297 祭司職 114, 230 キリスト 31, 33, 39 42, 49, 67, 70, 74, 78, 83, 86, 93, 109, 111, 122, 再生 46, 78, 112, 125, 133, 250, 257, 277, 285, 290, 311 136, 139, 146, 153, 156, 169, 178, 180, 182, 185, 188, 194, 罪責 113, 141, 144, 146, 148, 192, 195, 320, 344, 347, 349 197, 199, 202, 205, 227, 233, 239, 241, 251, 255, 277, 281, 祭壇 390, 392, 394, 456 300, 308, 318, 328, 333, 336, 337, 354, 359, 362, 366 サ ク ラ メ ン ト 31, 61, 62, 133, 150, 186, 216, 219, 221, 242, 244, キリスト教的倫理道徳 301, 369 247, 249, 257, 259, 263, 265, 270, 273, 275, 282, 307, 309, キリストの体 119, 171, 209, 215, 219, 221, 266, 289 311, 323, 328, 331, サクラメントの執行 238 以降 , 242, 249, 253, 271, 279 く サタン 101, 113, 136, 201, 236, 291, 292, 294, 319, 321, 324, 349 悔い改め 100, 141, 233, 252, 316, 320, 325, 331, 364 殺人 190, 192 駆使する 361 讃歌 122, 354 クリスマス 303, 348 讃美 209 軍事上の手段 190 讃美歌 331 訓練 * 35 三位一体 31, 34, 50, 67, 73, 75, 86, 128, 252, 256, 297, け し 継承 239 死 * 39, 43, 53, 54, 57, 61, 67, 71, 81, 84, 87, 89, 91, 94, 96, 102, 契約 33, 36, 45, 71, 91, 93, 108, 112, 147, 156, 172, 194, 206, 211, 228, 251, 256, 262, 268, 271, 結婚記念 334 108, 110, 113, 115, 116, 118, 122, 130, 136, 138, 155, 158, 161, 178, 191, 193, 201, 205, 208, 217, 219, 222, 230, 232, 236, 238, 249, 251, 255, 258, 261, 264, 267, 269, 272, 279, 結婚 194, 196, 334, 363, 365 281, 283, 288, 293. 309, 321, 323, 325, 328, 337, 345, 349, 権威 44, 53, 78, 93, 102, 106, 118, 122, 127, 131, 133, 140, 158, 355, 360 189, 219, 230, 240, 243, 245, 273, 293, 300, 308, 324, 341, 367 詩歌 353 権威者 89, 158, 185, 191, 244, 273, 314, 368 死刑 109, 114, 190, 197, 199 権限 35, 84, 185, 219, 232, 235, 240, 246, 262, 265, 269, 273, 326 司祭職 255, 266, 268, 340 堅信礼 329, 332, 341 自殺 192 献堂式 329, 335 死者の領域 55, 80, 116, 281, 284 権能 59, 94, 98, 103, 136, 221, 231, 245, 258 指示 118, 229, 252, 273, 363 権力 64, 94, 96, 231, 368 シスマ=東西教会の分裂 自責 140, 316, 325, 364 自然現象に対する奇跡 103 こ 子 49, 78, 88, 110, 123, 132, 145, 167, 171, 176, 183, 189, 203, 250, 255, 277, 288, 318, 328, 339, 341, 357, 365, 367 子孫 110, 175 十戒 64, 146, 158, 160, 168, 172, 187, 201, 206, 341, 363, 367 降霊術 81, 180, 281 執行者 255 告白 53, 98, 113, 162, 310, 325, 344 実在 * 133, 267, 269, 271 心 165, 167, 170, 178 実体 75 試み 317 使徒 32, 34, 40, 43, 50, 60, 67, 71, 81, 90, 94, 98, 114, 118, 五旬節=ペンテコステ 123, 126, 128, 133, 138, 140, 142, 144, 150, 158, 160, 162, 故人 44, 63, 116, 120, 123, 169, 222, 224, 243, 271, 281, 283, 285, 169, 173, 188, 199, 202, 208, 212, 216, 236, 238, 245, 248, 287, 328, 330, 336, 347 国家 50, 64, 367 国教 298, 377,301 262, 266, 268, 272*, 274, 278, 288, 290, 293, 297, 303, 313, 321, 323, 326, 328, 330, 335, 338, 345, 349, 356, 360, 362, 364, 367 国教会 300 児童 340 子供=子 使徒職 34, 57, 59, 62, 111, 148, 150, 166, 217, 219, 222, 224, 婚姻 63, 150, 223, 292, 319, 363, 365 227, 231, 233, 235, 237, 239, 241, 243, 249, 255, 258, 272, 婚宴 57, 211, 224, 265, 278, 292 275, 303, 305 婚約 ( 式 ) 332, 334, 361 使徒信条 50, 53, 55, 57, 287 435 索引 使徒性 57, 217 信じる * 使徒宣教職=使徒職 40, 45, 52, 56, 58, 60, 154, 214, 222, 224, 233, 285, 289, 315, 325, 345, 348, 367 使徒的 56, 58, 217,224 信心 270, 282, 353 使徒の教え 310 神聖=聖なる シナゴーグ 49, 185, 308 信念 44 自発的犠牲 360 神秘 213, 239, 309, 349 指名 329 新約 354,360 社会 53, 115, 170, 191, 200, 299, 341, 344, 364, 366, 新約聖書 35, 38, 40, 46, 49, 53, 55, 67, 74, 79, 93, 95, 99, 123, 125, 主 33, 39,43,46,49, 51, 54, 56, 58, 60, 63, 68, 70, 73, 75, 79, 83, 85, 128, 132, 146, 159, 161, 173, 178, 183, 194, 199, 205, 209, 87, 90, 93, 95, 97, 100, 102, 105, 108, 110, 112, 114, 116, 118, 212, 217, 229, 231, 235, 238, 249, 252, 273, 275, 280, 308, 120, 122, 125, 128, 130, 133, 137, 148, 150, 152, 155, 159, 信頼 340 161, 165, 167, 169, 173, 178, 181, 184, 186, 191, 197, 205, 真理 31, 43, 46, 57, 71, 77, 79, 88, 96, 98, 106, 125, 130, 142, 179, 207, 209, 211, 214, 216, 219, 221, 224, 228, 230, 233, 235, 200, 216, 242, 273, 275, 311, 354, 238, 241, 243, 245, 247, 251, 255, 257, 259, 261, 264, 267, 269, 271, 273, 276, 282, 284, 287, 290, 292, 294, 297, 307, す 310, 312, 315, 317, 319, 322, 328, 330, 339, 344, 346, 348, 崇拝=崇める 353, 355, 358, 360, 363 過越祭の食事 61, 259, 261 宗教改革 299, 309 救い * 31, 34, 42, 47, 49, 51, 53, 55, 67, 69, 71, 74, 76, 80, 91, 93, 宗教的養育 255, 277, 339 97, 100, 102, 106, 112, 114, 124, 126, 128, 130, 136, 139, 141, 十字 255 十字架 54, 61, 87, 89, 96, 110, 113, 115, 147, 156, 161, 178, 188, 252, 256, 323, 355 せ 聖化=聖なる者 十字架の刑 61, 73, 109, 130, 259, 349 正義=義 修道院制度 209 聖金曜日 349 宗派 364 聖餐 59, 61, 107, 133, 167, 186, 206, 208, 219, 222, 233, 241, 243, 246, 256, 258, 260, 262, 264, 266, 268, 270, 272, 276, 282, 十分の一税 361 十四万四千 290 祝福 ( 行為 ) 59, 74, 147, 151, 154, 156, 158, 178, 182, 185, 190, 194, 196, 221, 227, 229, 244, 246, 270, 307, 311, 328, 332, 285, 309, 311, 316, 320, 328, 330, 340, 344, 346, 349, 351, 356 誠実 169 聖書 34, 36, 38, 40, 42, 45, 52, 73, 78, 80, 82, 85, 89, 92, 94, 117, 123, 125, 128, 133, 136, 138, 140, 142, 146, 150, 161, 172, 334, 340, 361, 363 174, 182, 194, 209, 217, 224, 229, 234, 238, 279, 284, 287, 受洗認証 329 289, 292, 295, 300, 308, 314, 340, 349, 351, 353, 359, 367 主の祈り 318, 323, 325, 354, 356 主の日 123, 150, 211, 221, 234, 357, 青少年牧会 342 棕櫚の聖日 348 正典→カノン 殉教者 293, 298 聖徒の交わり 56, 290 証印 273 聖なる 57, 59, 69, 182, 214, 216, 224, 244 頌栄 322 聖なる日 185 状態 56, 82, 87, 133, 135, 138, 159, 209, 210, 254, 284, 330, 聖なる者 * 42, 75, 164, 187, 277 昇天 63, 73, 90, 119, 122, 222, 235, 264, 287, 314, 350 成分 266 小児=子 聖別 * 59, 61, 133, 216, 221?, 240, 244, 249, 255, 266, 356 職務 133, 213, 219, 227, 229, 231, 235, 303, 305, 326, 329 誓約 * =誓い 処女懐胎 55, 100 聖霊 31, 34, 42, 46, 50, 52, 54, 56, 58, 60, 62, 64, 67, 73, 初代教会が採用した信条文 50, 52 75, 86, 98, 100, 107, 117, 119, 122, 125, 127, 129, 131, 133, 信仰 33, 35, 38, 41, 42, 44, 45, 46, 49, 50, 51, 52, 53, 54, 55, 56, 58, 146, 148, 152, 157, 167, 182, 200, 203, 207, 211, 213, 216, 61, 63, 67, 68, 72, 75, 76, 81, 86, 102, 103, 111, 117,135, 140, 218, 220, 222, 227, 229, 231, 233, 235, 238, 241, 244, 249, 142, 152, 155, 157, 158, 160, 162, 165, 167, 170, 183, 205, 251, 255, 257, 269, 273, 275, 277, 279, 283, 297, 299, 303, 209, 213, 215, 219, 224, 229, 236, 241, 243, 247, 255, 257, 309, 313, 315, 321, 326, 328, 336, 348, 350, 353, 355 265, 270, 272, 277, 282, 287, 298, 300, 310, 313, 315, 321, 聖霊のバプテスマ 62, 133, 276 325, 329, 332, 336, 339, 346, 353, 357, 359, 362, 364, 366, 368 聖礼典=サクラメント 人工授精 365 世俗 69, 255 新使徒信条 53, 214, 258, 272, 329 説教 41, 50, 78, 106, 128, 159, 169, 183, 207, 213, 236, 253, 274, 信条文 39, 49, 53 真実 169 436 309, 313, 315, 329, 350, 354 宣教 39, 297, 303, 350 索引 宣誓 333 天 31, 34, 45, 50, 54, 57, 63, 69, 74, 78, 82, 87, 89, 94, 101, 103, 千年の平和王国 63, 137, 150, 294, 319 104, 109, 116, 119, 122, 128, 131, 136, 138, 144, 147, 176, 洗礼 46, 52, 60, 62, 125, 141, 219, 221, 246, 251, 253, 255, 257, 179, 181, 186, 205, 210, 223, 232, 235, 243, 260, 265, 274, 271, 274, 276, 278, 282, 285, 298, 311, 328, 330 278, 287, 292, 310, 317, 319, 350, 354, 360 天使 49, 80, 87, 100, 123, 136, 181, 210, 244, 288, 236, 350 そ 天使による御加護 357 葬儀 336, 361 伝統 * 40, 53, 74, 148, 224 創造 31, 36, 45, 54, 57, 59, 63, 69, 71, 73, 75, 78, 80, 82, 84, 87, 98, 伝道師 240, 247, 303 104, 122, 125, 128, 135, 137, 150, 153, 155, 166, 184, 277, 313, 典礼 305, 309, 317, 329, 351 363 典礼文 333 族長 32, 95, 147, 181 そしり=罪責 と 東西教会の分裂 299 た トーラー 40, 158 第一の復活 150, 153, 289, 293, 取り組み 300 大患難→大きな苦難 大艱難→大きな苦難 に 大祭司 97, 120, 229, 232, 269, 284, 日曜学校 340 胎児の生命 192 日曜日 185, 187, 330, 349, 351 大宣教令 58, 107, 182, 208, 218, 252, 297 認証 274 堕罪 36, 81, 84, 90, 117, 135, 137, 139, 145, 147, 154, 205, 254 忍耐 71, 171, 324 多神教 68 任務 149 脱会 272 任命 59, 221, 227, 243, 245, 248, 314, 329, 356 魂 80, 85, 186, 263, 279, 281, 311, 331, 336, 346, 353, 356, 368 の 呪い * 84, 90, 145, 154, 156, 158 ち 小さな者たち 80 知恵 32, 72, 331, 89, 94, 115, 142,167, 331, 366 は 知恵の書 32, 39, 68, 151, 282 花嫁の会衆 62, 148, 153, 205, 233, 289, 292, 322 知恵文学 36, 199 反キリスト 136, 293 誓い 183, 194, 244, 249, 255, 277, 328, 329, 333, 341 パンを裂く 208, 259, 262, 309 誓う=誓い チャネリング 281 ひ 仲介者 112, 148, 210, 213, 228, 249 被 造 物 32, 34, .63, .71, 78, 82, 103, 122, 135, 136, 142, 145, 151, つ 羊飼い 106, 211, 239, 338 仕える 80 人の子 94, 104, 108, 114, 123, 185, 261, 274, 355 仕える者 64 秘密 104,135 罪 56, 60, 71, 84, 87, 89, 91, 97, 100, 102, 107, 112, 114, 118, 122, 病人を癒す 102 154, 193, 292, 295, 307, 320, 351 124, 130, 135, 137, 139, 142, 146, 149, 155, 158, 160, 162, 165, 170, 173, 175, 178, 195, 197, 201, 205, 214, 251, 253, ふ 256, 261, 268, 274, 279, 292, 294, 310, 319, 321, 324, 326, 福音 ( 書 ) 33, 40, 42, 46, 57, 59, 62, 73, 79, 91, 93, 95, 97, 100, 102, 338, 346, 349, 359, 364, 罪のそしり=罪責 104, 107, 115, 126 , 130, 133, 135, 143, 146, 148, 152, 157, 160, 162, 185, 187, 195, 200, 213, 216, 218, 224, 228, 230, 罪の赦しの宣言 352 以降 , 372 232, 237, 239, 242, 245, 255, 261, 268, 273, 278, 282, 284, 罪人 71, 100, 114, 116, 136, 138, 149, 156, 160, 162, 173, 260, 287, 290, 294, 297, 299, 301, 310, 313, 315, 319, 333, 339, 294, 320, 337 341, 349, 355, 367, 369 罪深さ * 57, 124, 138, 216, 254, 319 複婚 194 罪を犯しやすい傾向 251, 294 不信心 144, 152, 249, 270, 282 復活 39, 43, 50, 52, 55, 57, 63, 67, 73, 85, 93, 102, 107, 114, 117, 119, 124, 130, 141, 147, 158, 161, 185, 208, 217, 219, 230, て 弟子 42, 88, 94, 96, 102, 106, 108, 114, 117, 119, 123, 132, 146, 152, 170, 181, 207, 234, 236, 252, 259, 261, 275, 297, 349, 354 233, 235, 249, 264, 272,279, 281, 283, 293, 298, 314, 315, 328, 337, 346, 349, 350 437 索引 復活祭=イースター 黄泉=陰府 不滅性 83, 279 陰府 55, 70, 81, 86, 280, 282, 284, 337, 346, 355, 357 へ り 平安 74, 113, 235, 282, 308, 323, 325, 344, 346 離婚 195, 364 平和 91, 96, 141, 148, 162, 186, 203, 282, 294, 315, 336, 359, 368 理性 56, 83, 140, 142, 152, 変化 266, 律法 42, 64, 97, 105, 140, 146, 148, 158, 160, 162, 164, 167, 172, ペンテコステ 31, 34, 128, 130, 132, 208, 218, 228, 236, 253, 274, 178, 185, 188, 190, 197, 202, 207, 229, 232, 246, 251, 260, 309, 314, 350 変貌 * 73, 89, 114, 118, 124, 280, 284, 289, 350 297, 307, 339, 359, 367 良心 139, 166, 278 臨終 110, 158, 345 隣人愛 168, 354 ほ 法 84, 155 冒涜 102, 109, 182, 326 れ 法令 186 礼拝 49, 157, 186, 205, 210, 214, 216, 224, 248, 259, 263, 牧師 246, 305, 343 265, 267, 278, 307, 309, 311, 313, 317, 323, 326, 328, 330, 牧者 ( 教役者 [ 牧会宣教職 ]) 247 332, 334, 336, 344, 318, 351, 356 牧者 ( 羊飼い ) =羊飼い 牧会 243, 246, 307, 332, 337, 341, 343, 347 ろ 牧会宣教職 221, 227, 230, 232, 244 ロギア 39 ロゴス 88 論理 185 む 貪 ( むさぼ ) る * 183, 201 わ 和解 95, 97, 102, 149, 156, 159, 162, 233, 315, 326, 338, 359, 368 み 御国=神の御国 御言葉の宣教 41, 57, 219, 224, 284, 313, 315, 331, 351 水のバプテスマ=洗礼 御霊=聖霊 御霊の証印 46, 60, 62, 125, 133, 222, 247, 250, 252, 256, 258, 273, 275, 277, 282, 285, 304, 329 御霊のバプテスマ=聖霊のバプテスマ 御許に引き上げる * 63, 123, 233, 289, 291 め 恵み 45, 53, 71, 75, 77, 79, 88, 102, 105, 110, 140, 144, 150, 152, 155, 158, 160, 162, 195, 206, 219, 221, 227, 232, 251, 255, 277, 282, 290, 295, 300, 310, 312, 314, 316, 320, 323, 325, 328, 332, 336, 346, 357, 359, 362, 364, メシア 33, 42, 45, 54, 90, 93, 99, 111, 127, 148, 210, 230, 292, 348 メシアとしての正当性 274 も モーセ五書=トーラー モーセの十戒=十戒 ゆ 誘惑 84, 101, 201, 321 よ 幼児=子 預言者 74, 81, 95, 98, 104, 114, 131, 228, 230, 232, 252, 273, 284, 304 438 索引 439 索引 440 索引 441