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報告書PDF② - アジア保健研修所

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報告書PDF② - アジア保健研修所
第3章
コミュニティが管理する保健サービス
■地域住民の参加によって、町保健課はよりよい保健サービスを提供できる
住民が参加すると、仕事はスムーズに運び、保健サービスの提供が全うできる。
■地元で作られた薬草茶が地域保健を進展させる
新しくコンクリートで建設されたバランガイ保健センターのガラスケースには、セロファン袋に入
った、lagundi、tsaanggubat、sambong,luyangdilaw等の薬草茶などが大量に収められ
ている。
■住民の要望に応えるため健康保険を創設
健康保険は必要になったときの出費に備える方法であるが、その仕組みによって、貧困層の
人たちはその費用が支払えるようになる。
地域住民の参加によって、町保健課はよりよい保健サービスを
提供できる
ナンシー・カカヨリン医師によれば、地域の住民が参加すると、あとの仕事はスムーズになり、行政の
保健サービス提供が全うでき、住民の健康が確かなものになるという。
これは彼女の確固たる見解である。彼女は、この方向をニューコレリアで推進してきた。結果、住民の
参加による予防や衛生的な環境整備は、住民の生活の一部になっている。
課題はなお残るが、SIADはニューコレリアで広く住民に健康意識を広め、住民自身が管理する保健
システムを作り出すのに大きく貢献した。
健康意識を高める活動の成果として、保健に大きな予算が配分されるようになった
IPHCが積極的に保健教育やプライマリへルスケアプログラムを推進したおかげで、町行政の意識が
大きく変わったと、カカヨリン医師は語る。「今では、町は定常的にIRA(国からの交付金)の9%を保健
に割り当てている」と彼女は加えて言う。
この数字は、他の町では7%、更にたった4∼5%というところもある中で高い数字である。
IRAは、国の歳収から地方政府に割り当てられる予算で、開発事業への予算配分という形で交付さ
31
れる°IRAは各地方政府の予算の一部を成している。
2011年、ニユーコレリアの総予算のうち保健の占める総割合は6.8パーセントだと、カカヨリン医師は
言った。これは2012年の6.7%よりわずかに高い。
9%という数字は、保健省がうたっている理想的な数字よりは低いものではあるが、国内のどの町より
もはるかによいと彼女は言う。予算として配分される割合が固定化していければ、その割合は確保され
るし、固定化されていない場合のように簡単には削減されない。多くの場合、保健予算は、災害が起き
たときや政府が他の項目を優先させるときに減らされる恐れがある。
予算配分によってよりよい保健サービスが促進される
2007年、住民がタグム市の病院で緊急治療を必要とする場合に備えて、町行政は自動車1台と無
線通信機能を備えた救急車を取得した。2011年に可決された町条例によって、さらに20のバランガイ
全てに無線通信用のラジオが配布された。
この動きは、フィリピン全土の多くの農村を悩ませている緊急母子医療サービス、特に遠方のバラン
ガイから緊急処置が必要な妊婦を搬送することに取り組ませることになった。
簡単な通信装置と搬送用車両を取得する必要‘性が、町の治安・安全委員会で確認された。住民が保
健医療への関心が高まったことによる影響で、もう一つ注目すべきことは、バランガイヘルスワーカーの
固定給と手当てについてであった。実際、彼らは町の地域保健プログラムのもう一つの中心的な担い手
である。
以前は、500ペソというほんのわずかな額であったが、バランガイヘルスワーカーは今や年額1200
ペソを町からもらっている。これに加えてバランガイから固定的に手当が出されている。
町からの予算措置について重要なことは、この額を定める条例の存在である。カカヨリン医師は
「2010年にこの条例ができたことで、バランガイヘルスワーカーの報酬が制度化されたのです」と言う。
バランガイヘルスワーカーは退職時にも報奨金をもらう。「彼らは手ぶらで家庭に戻ることはありませ
ん。2005年以来、500ペソに働いた年数を乗じた額が支払われています」と彼女は言う。
保健に関して継続したアドボカシーが必要
しかしながら、町保健局長である同医師は、ニューコレリアで数十年前によく見られた住血吸虫症
のような水に関連した病気や衛生問題の再発に関して、監視を緩めてはならないと警鐘を鳴らす。
32
幸運にも最近4年間はマラリアと住血吸虫症の症例は報告されていないが、下痢や結核の発症は
続いていると彼女は言う。
基礎的なサービスや環境が改善において、前進したにもかかわらず、「全ての住民を教育するため、
教育とアドボカシーは依然必要です」と、彼女は主張する。
保健の訓練・研修を受けた多くのバランガイヘルスワーカーやコミュニティリーダーたちが退職した
り、よりよい労働環境を求めて他の地域に移っていき、十分な知識を持っていない次の世代が残され
てしまう、と彼女は指摘する。予防や衛生的な環境整備を一つの暮らし方として受け入れるためには
彼らにも同じように集中的に教育を与えなければならない。
ニューコレリアは依然として感染症と闘わなければならないが、同時に住民の生活様式の変化に
伴い、高血圧などの生活習‘慣病やがんという新しい難題にも直面している。町保健局には2011年に
すでに子宮がん、悪‘性骨腫傷、肝臓がんの3例の記録がある。
このような課題をかかえつつ、ニューコレリアは継続してプライマリへルスケアを提唱し、実践してい
くことが必要だ、と彼女は強調する。
コミュニティによる保健活動推進のために部門を超えて参加を促す
草の根からより多くのキーパーソンが運営チームに入り、彼らが保健計画を評価、提案、実行に携
わるとき、しっかりした計画ができるとカカヨリン医師はいう。
地域で実際の状況を直接知っている人々から信頼できる'情報を得て、それをしっかりと共有するこ
と、ある事業が実情に合わないときはいつでもどこでもすぐに変更することができると彼女は言う。
「それは、地域の実’情や住民を知る人々と共に働き、そこで働くリーダーたちに参加してもらってい
るからです」と彼女は言う。何年間か、町の保健委員会はIPHCCプライマリへルスケア研修所)のほ
か、中央省庁の出先機関(教育局、社会福祉開発局、栄養関係の部局)の関係者の参加も得ていた‘
しかし現在は、町保健委員会は保健関連議員たちという従来の顔ぶれによって構成され、町長が議
長を務めている。
「私は、幅広いメンバーによって保健委員会が構成されるのが好ましいと思っています。なぜなら、
たとえば検証やモニタリングが容易に速やかにできるからです」
それでもなお、保健に関するアドボカシーは、健康意識を広げるのに役立っており、バランガイ開
発委員会をはじめ多くの行政の組織が幅広い分野の人々で構成されているおかげで、バランガイは
保健プログラムの回数を増やしたと彼女は語る。
カカヨリン医師が言うように、ビジネスセクター、特にプランテーション会社も企業の社会貢献活動
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の一環として、種々の保健活動でいくつかのバランガイに協力している。
例えばプランテーション会社はリンバアン、スアウォン、サントニーニョ、マッグム、サンロケ、サムボッ
ク、サンタクルス等のバランガイに、バランガイヘルスセンターを建設し、献血キャンペーン、栄養講座
や、定期的に無料診療も実施した。
カカヨリン医師は言う。「多様な関係者が参加する保健委員会は、私たちをあらゆる緊急事態にうま
く対処できるようにしてくれるでしょう。とりわけ、バランガイでの住民集会や多様な人たちが参加して
開かれる拡大開発委員会は、自分たち自身の保健状況を管理し、コントロールする力を住民に与え
てきました。これこそが、地方行政にとって最も大事なことなのです」
「各家庭が家族の健康についての課題を重要と考えるのは嬉しいことです。今では容易に報告書
が閲覧できるようになっています。バランガイの人々は関連した課題を知りたがっています」
彼女は、説明責任や透明‘性を伴う政治を進展させる他のプログラムも評価している。「SIADのプロ
セスが、集会を持ち話し合うプロセスや住民参加の形を生み出し、今も見られることが嬉しい。それは、
リーダーたちに大きな影響を与えています」と言う。
彼女は、バランガイヘルスワーカーの継続的な実践と研修を提言し、「(ニューコレリア町内には病
院はなく)隣の市にしか病院はありません。特に一番遠いバランガイは20kmも離れているので、私た
ちの戦略をなくしてはいけないのです」と言う。
ベテランのバランガイヘルスワーカーたちは知っている。特に専門的な医療サービスを手に入れに
くいところでは、住民が自らを組織化し、自分たちの保健活動を運営することによって、自分たちの健
康を改善することができるということを。
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地元で作られた薬草茶が地域保健を進展させる
一般的な病気に効果がある治療法を、住民による保健組織が作っている
新しくコンクリートで建設されたバランガイヘルスセンターのガラスケースには、セロファン袋に入っ
た
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sambong(Blumeabalsamifera)、luyangdilaw(CorcumadomesticaValet)等の薬草茶が大量
に収められている。デング熱に対処するための調合薬、tawatawa(EuphorbiahirtaL)までもあ
る
。
バランガイヘルスワーカー連盟によって生産された薬草茶も、村の薬局で普通に売られるものとな
っている。それは、プライマリへルスケアを推進する取り組みのひとつであるが、それと同時に、安全
な飲み水の確保や適切な栄養の提供、保健サービスを住民の手に届きやすい仕組みにすること、僻
地の貧しい住民に対して生計を助けることなども取り組まれている。
10種の薬草が保健省に認証され、少なくとも、咳の治療に使われるlagundi、利尿作用があり尿路
感染症に使われるsambongの2種の薬は商業ベースで生産され広く一般に供されている。
他にも、下痢の子どもに一般的に使われるtsaanggubat、抗酸化作用とウコンの働きのある
luyangdilawがある。
かつてダバオメディカルセンター(現在の南フィリピンメディカルセンター)でテストされていた
tawatawaは、現在、マニラ首都圏アラバンの保健省熱帯医学地域研究所で治験中である。
Lagundi、banaba、sambongの葉は15分間茄でた後冷まして裏ごしする。ショウガ科のluyang
dilawの球根はすりおろしてしぼった後沸騰させ、水差し1杯のしぼり汁に対して1kgの砂糖を加え
る
。
2007年に始めたとき、バランガイヘルスワーカーたちは1袋の服用で異なった病気を治すため3
種混合の薬を作った。Banabaとampalaya-lagundiミックス、banaba、ampalaya、luyangdilaw
の混合であり、前者は尿路感染症と咳、後者は尿路感染症に広く使われる。
これら二つの混合薬は当時、それぞれ60gパックが10ペソであったとジュリアナ・パウサナは言う。
2007年にプライマリへルスケア研修所(IPHC)で最初のインタビューが行われたとき、彼女はバラン
ガイヘルスワーカーのバランガイレベルの連盟の代表であった。その時、バランガイ行政から初期資
金として600ペソを借り、道具と調理用の窯を買ったと彼女は言った。
こうした薬草のパックは、地域でよく見られる病気のための後発薬(ジエネリック薬)と隣り合わせで
売られている。
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IPHCは、保健ボランティアに「裸足の健康委員」の訓練の一環として、薬草の適正な調合や適用
を教えた。彼らの受けた訓練は、プライマリへルスケアの基本要件として、衛生、適切な栄養、母子保
健、予防接種、飲料水、環境保全についての教えで、同時にそれを広めることについても研修を受け
た
。
「薬草に関しては何の問題もありません。町で、たくさん育てています」と町の助産師、アナリサ・ベ
ロッサは言う。
ニューコレリアのバランガイヘルスワーカーたちは、バランガイ庁舎の敷地内の小さな一角に、
sambong,tsaanggubat、ヘルペス・白癖のような皮層病と回虫や旋毛虫の寄生虫の治療に使われ
る薬草であるakapulko(asunting、cassiaalata)を植えている。
2007年、ポブラシオンバランガイ(町の中心に位置するバランガイ)のバランガイヘルスワーカーは、
薬草を植えて加工した形にすることをスタートさせた。
バランガイヘルスワーカーの薬草づくりは大きな注目を集めている
北ダバオ州の内陸部にあるニューコレリア町のバランガイヘルスワーカー連盟は、一般的な病気の
代替薬を供給しようという構想を持った。この小さな取り組みは今、フィリピン中部セブ市のような遠く
の市場に売り出そうと奮闘中であるが、こんなことをだれが想像したであろうか。
バランガイヘルスワーカーたちが、ポブラシオンでこのプロジェクトを立ち上げて2年後の2009年、
セブ市はlagundi、salabat,luyangdilawの粉薬250バックを購入した。そしてそれ以来の常連客
である。
立ち上げた時は、250gの詰め合わせ袋を14バック製造しただけであったので、注文を受けて活
気づいたとバランガイヘルスワーカーのチャルビン・リムパグは思い起こす。
交代制でいかに働いたかについてリムパグは顔を輝かせて語る。「深夜遅くまで、薬草の葉を煮出
し、砂糖も買い足さねばならなかったんです。薬草の効能を認めるお客さんたちのために心躍らせて
作りました」
個人客が、親せきや、香港・日本・ドバイの友人にまでも買っていくので、今では1週間に一つの種
類のバックを59kg製造している。
バランガイヘルスワーカー連盟は、ニューコレリアの薬局、北ダバオの州都タグムにある姉妹店の
デリル薬局にも定期的に供給し、また同市のプレンシー薬局にも月に2度供給している。「以前は、
村々を回って売薬の代わりにこれを使うよう説得しなければなりませんでした。あの14パックがはける
のに、1か月くらいはかかりました」とリムパグは言う。この調合粉薬は、薬草以外の成分は、飲みやす
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くするために甘味のためのブラウンシュガーのみである。
この調合薬は最初、250入りのバックを14袋作るために1kgの砂糖に薬草を混ぜていた。何種類
かの茄でた薬草と砂糖の割合はおよそ1:2であったが、常連客から甘すぎると言われてからは1:1
にしたとリムパグは言う。
「まだ甘いと言われるし、糖尿病を患う人々の懸念を和らげるため、今では1:0.75です。2007年に
は3週間ほどで1kgの砂糖を使っていましたが、製造量が増えた今では1週間に大袋1袋の砂糖
を使います」
バランガイヘルスワーカー連盟の銀行通帳を見ると、すでに薬草の調合薬で16,000ペソの利益を
得ていることがわかる。作業に加わった個々のバランガイヘルスワーカーには現金を支給している。
バランガイ議会は薬草事業の拡大を支援する
バランガイ議会は当初からバランガイヘルスワーカーの薬草の調合役の製造と販売促進を支援し
てきたが、今ではバランガイヘルスワーカーがこの事業を改善、発展させるのを支援している。
需要の高まりに応え、生産が適切かつ衛生的に取り扱われていることを保証するため、バランガイ
ヘルスワーカーたちは、食品薬事局による証明書を申請中である。科学技術局は、彼らが法律に定
められたいくつかの基準を守っていることを確認中である。
ポブラシオンのバランガイヘルスワーカーと村落薬局(町の調剤師の指導の下、保健ボランティア
が運営する、簡単な薬を売る店)のマネージャーは、食品薬事局の要件に合致するように、バランガ
イ庁舎の前庭にある木造の建物を増築し、またラベル表示についても、改善要求に応じようとしてい
る
。
要は製造場所で、器材や道具がきちんと衛生的に置かれているか、建物の内部は滅菌が保たれ
ているかの問題だとリムパグは言う。ポブラシオンのバランガイ議会は、その建物の維持管理の費用
を支援している。
地元での薬草調合薬の製造とその使用促進によって、バランガイヘルスワーカーたちは健康を自
分たちの地域の手につかもうとしているのだ。
住民の要望に応えるために健康保険を創設
ポブラシオンにおける健康管理プログラム(PoblacionHealthmaintenanceProgramPHEMP)は、
地域での健康保険の先駆けとなる。
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病気や‘怪我は誰にとっても、急な経済的負担を生み出すもので、貧困層の人びとには大きな重荷と
なる。このような出費に備える典型的な方法が健康保険であり、それによって貧困層の人びともそういっ
た事態が発生しても対応できるようになる。
政府が保険に資金を提供することが理想的である。フィリピン健康保険公社の保険(フィルヘルス)は、
公務員、民間セクター従業員、海外出稼ぎ労働者、自営業者とその家族にも適用される。無職であって
も、月額100ペソの保険料を払い続ける限り、プログラムの恩恵を受けることができる。2012年、政府は
その保険料を200ペソに引き上げた。
ニューコレリアのバランガイは、限定的なフィルヘルスの適用範囲を補うような健康保険プランを作り出
そうとした。2002年ポブラシオンバランガイは、これは特に緊急な病気などのときのための地域開発事
業のひとつであるとIPHCに勧められ、互助的な仕組みとして、健康管理と保険の基金を設立した。
農村へルスケアと健康保険の取り組みは、最初に南コタバト州タンパカン町サンイシドロ・バランガイで
成功をみた。また、同じ南コタバト州タンパカン町のダンラグ・バランガイでも採用された。
ニューコレリアでは、PHEMPの加入者には診察や入院のための資金がすぐに提供され、ポブラシオ
ンの予算から毎年資金が提供されている。このプログラムは誰でも加入できる。
しかしながら、貧困層の人たちにはなかなか加入が広がらない。現在の会員は、一人の教師を除いて、
ポブラシオンの行政関係者で、保険料は給料や諸手当から自動的に差し引かれる。
この仕組みがより多くの会員を引きつけられない理由のひとつは、貧困層の人びとは無料のサービス
を期待してしまうということにあるのかもしれない。さらには、地域に深く根ざした政治文化が関係してい
ると考えられる。政治家たちは不道徳にも、有権者に言い寄るために、選挙期間中に無料のフィルヘル
ス・カードを配ってきた。そのカードが更新されることはないだろう。
加入者を増やすため、ニューコレリア行政は、2007年に救急車を取得しポブラシオンに常駐させた。
救急車の運転手を非公式に任されているアーニエル・オメガ町会議員によると、真夜中に起こされた
ことが何度もあったと言う。あるケースでは、子どもを南東に19キロも離れたタグム市のダバオ・リージョ
ナル病院まで急いで搬送しなくてはならなかった。
「子どもは下痢で苦しんでいて、すでに顔は青白く脱水症状が出ていました」。その子の家族は遠方
のデルモンテバランガイに住んでいた。
この制度を始めた時には、保険料は、月額50ペソ、75ペソ、100ペソであったが、その後、100ペソ、
200ペソ、300ペソに引き上げられた。給付金は、それぞれ掛け金に応じて、入院の場合は、1,500ペソ、
2,500ペソ、3,500ペソであり、また診察の度に150ペソの払い戻しを受ける。保健料とは別に、50ペソ
の入会金も必要である。
保険料は、給付されるのは最初の金額とほとんど同じである。
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PHEMPの創立時に議員であったバランガイキャプテンのロドルフォ・コミドイは、バランガイ村議会に
この基金への予算配分を要求した。それによって、PHEMPは2008年から1万5千ペソの予算援助
を受け取るようになり、会員が利用できる緊急用の基金は大きく拡大した。
入院の必要がある場合、会員は支払った保険料の合計金額の30%をすぐ、に受け取ることができる。
そして病院や診療所に入院すると、入院給付金の全額が給付される。
この制度のための基金を増やそうと、米の小売業に着手したが、うまくいかなかった。その失敗にも関
わらず、2010年12月の時点での資金は、8万3千ペソであった。
会員は強い意志で基金を支えている。バランガイ書記のアルミラM.ルエゴは、父親が4日間入院し
た時に基金から3,500ペソの払い戻しを受けた。
フランシスコ・マンテイカ(51才)は、父親が脳梗塞を起こした時に基金を活用した。彼はPHEMPから
6,000ペソの払い戻しを受け、さらにフイルヘルスの保険料によって病院の請求書がいくらか減額され
た
。
「そういうことが住民には分かっていないし、ちやんと評価されていない」と、先のバランガイキャプテン
のエディル・ベルメホは言う。
町行政は「健康的な生活」(ヘルシーライフスタイル)を奨励する
治療を受けることを可能にする健康保険制度に加え、町行政は緊急時の対応を改善し、同時にラジ
オ放送を通じてヘルシーライフスタイルを奨励している。
町行政は、公的なやり取りや緊急事態に連絡が取り合えるよう、20バランガイのすべてに無線通信機
の購入を指示した。
ニューコレリアでは全域で、行政が各家庭が菜園を持つことを要請している。そして、町はすべてのバ
ランガイにおけるバランガイヘルスワーカー(BHWの活発な働きを誇りに思っている。バランガイヘル
スワーカーは、担当地域で栄養とプライマリへルスケアについての集会を定期的に行い、身の回りを清
潔に保つよう促している。
町行政は、すべてのバランガイでKulob計画の実施を指示することを決議した。それは、デング熱を
媒介する蚊が繁殖する水が貯まっているかもしれない全ての容器を逆さにして、中の水を捨てましょうと
いうものである。
ポブラシオンは、すでに庁舎の構内に小さな薬草園を作ってバランガイヘルスワーカーの薬草調合薬
の製造を支援している。それは、咳、風邪、インフルエンザ、デング熱、生活習』慣病である糖尿病などの
よく見られる病気に対して使われる。
「私たちは自分の健康や保険基金の管理に努めると同時に、誰も病気にならないことを願っています。
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病気にならないでください」とコミドイは言う。
地域健康保険を促進するために継続している取組み
現在のPHEMPの加入者は、この保険制度を継続し、ポブラシオンの他の住民に加入するよう再度、
説得しようとしている。「選挙期間中に、フィルヘルスのカードを無料であげます(健康保険の保険料を
負担します)と言っていた候補者が実際には保険料を払っていないことがわかれば、もう少し加入者を
獲得できるだろう思います」
「私たちは住民への加入の呼び掛けを続けてきています。地区の住民集会や住民総会でそれをやっ
てきました」とPHEMP役員は言う。
オメガは言う。「急に病気やけがになったとき、治療を受けられるお金があるという保証に代わるものは
ありません」
B0X.4ポブラシオンの健康管理プログラム(PHEMP)
目的:
1.ポブラシオンの住民で加入者に対して適切な保健医療サービスを可能にする。
2.緊急時の金銭的な補助をする。
3.ポブラシオンの住民なら誰でも加入できる。
4.保健医療サービスを必要とする会員のために資金を積み立てる。
会員制度:
1.50ペソの入会金を払う。
2.永住者および中心地区で登録された有権者で、過去12カ月または1年間に病歴がなければ誰で
も加入できる。
3.保険料は通常払いか前払い。
料ン
険ラ
保プABC
1カ月
6カ月
1年
50.00ペソ
280.00ペソ
550.00ペソ
75.00
430.00
850.00
100.00
550.00
1,100.00
40
A
B
C
院来院来院来
入外入外入外
給付金
1,500.00ペソ1,500.00ペソ1,500.00ペソ
150.00150.00150.00
2,500.00ペソ2,500.00ペソ2,500.00ペソ
250.00250.00250.00
3,500.00ペソ3,500.00ペソ3,500.00ペソ
350.00350.00350.00
給付の対象となる人
1.加入者の配偶者
2.20歳以下の未婚の子ども
3.60歳以上の加入者の両親で、ポブラシオンに恒久的に住み、住民登録をおく者
4.未成年の合法的な養子
5.未婚の20歳以上の子どもで、合法的な扶養家族
サービスや給付金の解消
1.保険料の未払い
2.転出
会員優遇制度
1.会員は新会員10人を入会させる毎に手数料として保険料の割引がある
a.1か月-3%
b.6か月/I年-5%
2.毎年12月に計算する
3.上述は現金では支払われずに、次の保険料から差し引かれる
41
第迅j章
生計向上
■地域での小規模融資:小規模事業を起こすための利用しやすい融資
IPHC-SEEDプログラムは、貧しい人たちにとって最も理想的な融資と呼ばれている。
■日雇い農業労働者(コンボイ):組織を作り、貧困克服に取り組む農業労働者たち
状況は徐々に改善されてきているが、ニューコレリアの住民の多くは貧しい。農場で働く貧しい人たちは、
集団で植えつけの準備作業や収穫を行う。
■持続可能な農業は地域の農民を支える
農薬は経費がかさむので、ニューコレリアの一部の農民は、入手しやすい自然の資源を使うことが最善の
農法であると考えている。
■有機肥料は他の地方行政を驚かせる
北ダバオ州ニューコレリアの有機肥料混合工場の設立時を思い出すと、メルリンダ・デラ・ヴェガの顔は情
熱であふれる。
■ニューコレリアの「市場の日」は有機農家の販売を拡大する
日曜日はいつも、ニューコレリアのポブラシオンは活気にあふれる。住民たちは、遠方のバランガイの高地
および低地の農場から持ち込まれるたくさんの新鮮な野菜や果物を、品定めして目当てのものを買ってい
る
。
地域での小規模融資:小規模事業を起こすための利用しやす
い融資
IPHC-SEEDプログラムは、北ダバオ州ニューコレリアの段階的な小規模貸付で、その利用者たちか
ら、貧しい人たちにとって最も理想的な貸付と呼ばれている。
この革新的な貸付を利用できた人たちは、自分たちを受益者とみなしている。これは、バングラデシュ
の貧困層のためのマイクロクレジットのグラミンバンクに影響を受けて出来たものである。
ニューコレリアのニューコルテスバランガイに住む母親のエマ・マヒナイによると、借り手は事業を起こ
42
そうとしている貧困層として審査を受け、認定されると3%の利率で3千ペソを借り、4∼6カ月で返済す
るという。
分割返済の最後の返済がなされると、貸付可能な金額はすぐに増額されるのだと、ニューコルテスバ
ランガイに住むミラダロス・ガロは言う。その後の貸付可能額は5千ペソ、そして8千ペソ、1万ペソ、1
万5千ペソ、2万ペソと増えていく。
ガロの妹は農産物を売る小さな店のために4万ペソを借りることができた。
全員がSeldaまたはCell)と呼ばれるグループに加入し、メンバーは貸付の規則をきちんと守って定
期的に返済するように互いに強く働きかけ、誠実に返済することが求められる。
そうしなければ、他のメンバーが仲間の未返済金を負担したり、失敗したメンバーと同じ運命をたどっ
て次の貸付を断られたりする。
起業家のための金融支援
マヒナイは、借りた3千ペソのほとんどを、子どもたちの学校の費用に使った。
彼女の説明では、2006年の借り入れは起業のためには使われず、実際は、植え付け時期から収穫
期までの収入の少ないときの埋め合わせに使った。
マヒナイは、植え付けと収穫の時に契約で働く農場労働者(コンボイ)で、彼女の夫は運転手をしてい
る。SEEDからの借り入れがなければ、彼らは子どもたちの学費を払うために高利貸しを利用しなくては
ならないだろう。しかし、高利貸しではなくSEEDの貸付を利用すれば、条件無しでお金は満額で渡さ
れる。マヒナイによると、この貸付プログラムはダバオ市に本部を置くプライマリへルスケア研修所(IPH
c)によって運営されており、家庭の基本的な需要を満たすため便宜がはかられていると言う。
ガロの場合、借入金は家族で行っている米作を維持するために使われた。
借り入れの条件が厳しくなく、高利貸しに行かなくてすむので、女‘性たちはこの融資プログラムに感謝
している。
「これは私たちにとって大きな助けです。利子は高くなく、一時間で承認されます」と、ミラグロスは言っ
た
。
借入金が高額の時だけ、住民が提供できる担保が必要で、土地の権利書の写し、犯罪歴がないとい
う証明書、住民証明などが求められる。
週ごとの返済金の額は手頃な額であることが推奨される。3千ペソの借入金に対しては毎週200ペソ、
1万5千ペソに対しては毎週710ペソである。
43
小規模貸付
SIADの活動の一部として1999年に始まったSEEDプログラムは、ニューコレリアの人々が抱えてい
るであろうと推測された経済的困難に対応するための方策として設けられた。ミニマムベーシックニーズ
調査によると、65%の人々が貧困ライン以下の状態であった。
農村部の多くでは、農家も小規模事業者も借金を繰り返すか、すでに借金で首が回らない状態にな
っている。
SIADを実行に移すための素地を作り、支援体制を作り出すために、様々な分野での活動が行われ
たが、それらを通して、貧困層にとって利用しやすく返済しやすい融資が必要だということが浮上し、
IPHCはSEEDプロジェクトを考え出すに至った。
返済の落伍者が頻繁に出るようになったので、IPHCはシステムを見直して、同じグループのメンバー
から返済不能になったり遅延する者が出ても、返済優良者がより高額の借入を受けられるようにした。し
かし、返済不能になったり失敗したメンバーがSEEDプロジェクトから新たに借入を受けたいときは、他
のメンバーの承認を得なくてはならない。
融資プログラムの最初の資金は、アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)から提供されたものである。
SEEDは、資金が確実に借用者から借用者へと回転していくように努めている。
PABASAKプロジェクト:行政関係者のための小規模融資
借り入れをするのは、一般住民だけではない。
2004年、ポブラシオンバランガイの元バランガイキヤプテンのエデイル・ベルメホも、家の修理と種や
その他の農業の必要品の購入に充てるために、毎月決まった額を払って6カ月で返済するという契約
のもと、3万5千ペソを借りた。
ポブラシオンバランガイの村会議員のアーニエル・オメガも、2004年から2006年の間に1万5千ペ
ソを借りた。
このPABASAKプロジェクトと呼ばれる小規模融資は、通常の融資プログラムとは別にバランガイの
役人や住民組織の作物生産の費用の支払い援助のために設けられた。この融資の条件は、返済のた
めに報酬からの自動引落に同意することである。
高い返済率
住民とバランガイ職員のためのこれら二つの小規模融資事業は、借入者からの回収率がかなり高い。
借入金のほとんどは、子どもたちの学校教材の購入、家の修理、借金の返済、農業必需品、小売店の
仕入れなどに使われる。
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借入者たちはSEEDとPABASAKを熱心に支持
ニューコルテスバランガイで同じセンターSEEDグループの拠点)に所属するマヒナイとガロは、小規
模融資プロジェクトを近隣住民に薦め、それが継続されることを望んでいる。
バランガイの役人たちも、このプログラムの実施地域が拡大されることを望んでいて「そうなると、もっと
多くの人たちに役立ててもらえる」と言う。
彼らはこのプログラムが、高利貸しや、SIADが始まる前にずっと苦しんできた貧困から解放されるた
めの最良の選択肢だと言う。
コンボイ:組織を作り、貧困克服に取り組む農場労働者たち
状況が徐々に改善されているとはいえ、ニューコレリアの多くの家庭は貧しい。1990年代後
半でさえ、人口の65%は貧困レベル以下の生活をしていた。この農村地帯で、僅かな農地し
か持たないか全く農地を持たない世帯は、貧困層の中でも隅に追いやられ取り残されてきた。
しかし、フィリピンの伝統的な精神であるバヤニハン(相互扶助と協力)は、これらの世帯でも
根強い。この精神は、コンボイ(農場労働者を意味する)のバックボーンになっている。1970年
代以来コンボイによる組織は見られたが、最貧困層の自助組織を支援するSIADプログラムを
通してさらに発展した。
2009年以降、ニューコレリアの農地の多くが米作からバナナプランテーションに転用された
ため、農場労働者たちは、求められる労働の変化に直面している。しかし、コンボイの団体を
発展させてきた経験を通して、農場労働者たちは管理技術や地域経済の変化を乗り切るノウ
ハウを獲得してきた。
メサオイバランガイで、デイオスコロ・エステバンは息子ゲリー(40歳)を含む21人のグルー
プを率いており、村の中の土地所有者たちと米作の労働契約を結んでいる。ニューコレリアー
帯は主要な米作地帯で、町が2005年に農業機械を提供したときには仕事は不足してはいな
かった。
2005∼2009年の数年でコンボイのメンバーたちの生活水準は最終的に目に見えて改善
された。メンバーの一人エセル・タブロック(43歳)は、オートバイと安いテレビ、その他の家庭
用電化製品を購入した。彼女と、コンボイとして働く少なくとも4人の子どもたちの収入はときに
一人当たり2,500ペソになり、貯蓄が十分できるほどだった。
6人の子どもがいるナテイヴイダド・コンペデイオも似たような状況にある。彼女の家でも数種
類の安い電化製品を購入した。
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コンボイの労働のしくみ
農場の仕事は、短期間に集中的な労働を必要とする。コンボイたちは集団でやって来て、
広大な農場を有する地主たちのために田植えの準備をし、収穫をする。仕事がある限り、一家
族から農作業に加わることのできる人数に制限はない。フィリピンでは、女‘性が田畑で働くのは
昔からの伝統である。女‘性の農作業参加は、家族の収入を確実なものにすることができる。
ブロック15のエステバンは、メサオイバランガイのコンボイ組織が1979年か1980年のあ
る時期に始まったと記‘億している。「我々近隣の5家族が、バランガイを回って田植えや収穫
の仕事をした」「1ヘクタール当たり700ペソを受け取った。通常5ヘクタールの土地を耕作、
収穫した」と彼は言う。25袋収穫すると2袋の支払いを受けた。豊作時には1ヘクタールで70
袋の収穫があった。
当時の農場請負仕事は、除草、耕作、収穫を楽にする農機具もなく、時間がかかり骨の折
れるものであった。収穫時や田植え時にはコンボイのメンバーは通常の2倍の稼ぎがあったが、
収入の少ない農閑期が持ちこたえられるようにやりくりしなければならなかったとエステバンは
話す。
「収穫から次の田植えまでの間に、地主は農地の除草を頼むことはあるが、通常2∼3人を
雇うだけである」と彼は言う。そういう場合1日一人当たり150ペソが支払われた。
1986年、町行政によるコンボイ団体への支援が行われる
これら個別の農場労働者グループに、1986年、町行政は農場労働者組織を作るよう求め
た。もともとマサオイバランガイには、ダシン労働者グループというものがあったので、それは、
ダシンプロック15コンボイグループと名づけられた。
2001年にIPHCが地区のコンボイの生活実態やニーズの調査を行ったとき、仕事の生産
‘性を高めるために農業機械を導入してほしいという希望があったほか、コンボイの組織を作り
たいという希望が出された。メンバー自身も貢献し、かつメンバーの健康・公衆衛生の課題に
も対応できる組織を作りたいという要望であった。このとき、10人のコンボイの人たちが選ばれ、
彼らは後に農業機械の供与を受けた。
早い時期にできたもう一つのコンボイグループは、2001年に始まったサン・フアン・コンボイ
アソシエーションで、主に近隣の15人の農場労働者で構成されていた。IPHCは組織を作る
のを支援し、また、役員たちに組合のマネジメントの研修を施したりした。
彼らは、田植え(5月、6月)や収穫(8月∼10月)に、人力の道具だけで仕事を始めた。通
常地主の指示通りに働くと、1ヘクタール当たり15人が必要であった。パキヤワンシステム(一
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つの仕事を完壁に終えるごとに支払われるシステム)によって2,000ペソが支払われた。
2年後の2003年、町から供与されたバオバオというトラクターと脱穀機を手に入れた。また
収穫機械を購入するため35,000ペソのローンも供与された。
メサオイバランガイグループもまた、脱穀機、トレイラー、クリグリッグと呼ばれるモーターで
動くトラクターを手に入れた。「それによってもっと多くの土地で仕事ができるようになった」とエ
ステバンは言う。
取扱いが荒いと機械はときに全く動かなくなってしまい、組合は修理のために約1000ペソ
を貯蓄から取り崩さなくてはならない。「修理が必要なのは大抵ギアボックスで、24本のボルト
全部を取り換えなくてはならない。以前はボルト1本3ペソだったのが、今では10ペソもする」
メインテナンス費用は、他のコンボイへの機械の貸し出しによって積み立てられている。組
合は1,400ペソの機械使用料を課し、それは別会計で管理されている。
リーダーたちの挑戦
コンボイの団体は、地域の住民が貧困を克服しようと取り組むことを後押しするユニークな組
織であった。リーダーたちは、メンバーの福利になるような方法を常に探し、彼らを組織内に留
めておくための方策を見出してきた。
例えばメサオイには、独自の基金集めの仕組みがある。定例会で、各メンバーはそこで寄付
をするのであるが、「その額次第で最終的にその人の積立額は大きくなる」「会員は自分の積
立金からお金を借りることができるが、借りられる額は積立金の額以内である。一人の会員は
500ペソ積み立てている」とコンペンディオは言う。
彼らはまた罰金も定めている。定例会欠席は1回10ペソ、農場労働の欠席は50ペソであ
る
。
地主が稲作からバナナ栽培に変えるとき、コンボイの次の行先は?
最初の数ケ所の農場がバナナ栽培に転換した2008年に、ニューコレリアの経済状態は変わ
った。北ダバオ州は、1970年代から80年代にかけてプランテーションが作られ、フィリピンの
最初の「バナナの州」として知られていたが、同時に、州西部の主な稲作地域では米が作られ、
フィリピンの主食を提供してきた。
エステバンとメンバーたちは、稲作の土地がどんどんバナナ農園に転換されていくのを、な
すすべもなく見ていた。稲作が減るにつれ、彼らの仕事の需要も減っていく。メンバーの数人
は、バナナプランテーションで正規の働き口があったので、自らの意思でコンボイのメンバーを
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辞めて行った。「プランテーションの休みは一日しかない。私たちの仕事は数日間連続して働
かないといけないので、バナナプランテーションで働くとコンボイのメンバーではいられない」
コンボイ団体の蓄えも落ち込んできている。2009年に16,000ペソあったものが、2011年12
月にはほんの6,000ペソになった。「蓄えは減り、稲作が減るにつれてメンバーの数も減ってき
てしまった」
不定期な仕事と作物転換の拡大という難局を切り抜けるため、新しい方法を考え出さなくて
はならない。
メンバーたちは集まり、組織を存続させるための方策を検討している。「コンボイの団体が今
後も、メンバーや地域住民の生計向上にとって役立つものであるための方策を必ず見つけ出
せる」と、エステバンは言う。
町の農業の形は変わっていくが、コンボイメンバーは参加型組織作りの経験を通して、家族
や地域のために積極的に変化に対応していく力を備えている。
持続可能な農業は地域の農民を支える
昆虫を作物の害虫の駆除に、農地の不要物を肥料に
ニューコレリアの多くの農家は、農薬は経費がかさむため、穀物の生産からバナナやマンゴーなどお
金になる作物の生産に切り替えている。しかし妻を亡くした57歳のジャクテイノ・コンドーレは、入手しや
すい天然資源を利用して害虫の蔓延を防ぐことで、フィリピンの主要産物である穀物が生産でき、また
経済的で環境にも配慮された持続可能な農業ができると確信している。
バナナプランテーションは、コンドーレの周辺の住民たちにこっそり働きかけ、穀物生産を止め農地を
売るか、あるいはプランテーションで働くように迫っている。
コンドーレは農場を維持するのに大量の農薬や化学肥料を使っていないので、その話に乗ることはな
いだろう。彼は2000年から、IPM(自然に即した形での害虫対策)の知識を使った有機農業を取り入れ
ているからである。
彼は農薬や化学肥料を使用せずに米を生産しており、単純に計算して、多くの収益を得られる見込
みである。
「穀物の害虫の天敵とされる虫を上手く使う方法があるのに、なぜ農薬を使うのか?この方法は、経費
を抑える他に土壌の本来の肥沃さを保つことができる」と彼は言う。
「わらなどを食べる害虫を駆除するのに農薬を散布する必要はない。トンボやクモを利用すればいい。
それらは害虫の天敵だからだ。トンボもクモも害虫を食べてくれる」と言う。
48
他にも、地元で‘ピアンガオ‘と呼ばれるシロアリのような虫が生息し、害虫を食べる。
彼は、GKK(キリスト教基礎共同体)の後援によるIPMの研修でこの知識を得た。このトレーニングで
は、教区の社会奉仕活動に5カ月月間に渡り毎月3日ずつ出席することが求められており、農業省の技
術者から指導を受ける。
その時は、ニユーコルテスバランガイの約20人の農夫が、IPMの実施訓練を受けた。
「2001年に、私の農場が害虫にやられた時のことを覚えている。アブラムシなどの害虫にやられて農場
が真っ白になり、1カ月も元に戻らなかったと妻が言っていた。私はすぐに殺虫剤を買って来て、作物を
燃やしたのだ」
このIPM方式と有機農業は、持続可能な農業を取り入れようとする町の活動の一端を担い、地方行
政に環境保護・住民の社会福祉の促進を働きかけるSIADの活動の一部にもなっている。
コンドーレと他の農民たちが、2004年に地方行政により勧められた持続的農業を実践し始めて以来、
害虫との戦いや駆除は、もはや高額なものでも彼らの生命を脅かすものでもなくなった。
「私は腐敗した臭いピンガオをココナッツの殻の中に入れてみた。害虫は大抵それに引きつけられる
ので、燃やすのが簡単だろう」と、彼は言う。彼は、害虫がピンガオを含む臭いものに簡単に引きつけら
れることに気付いた後、この方法を用いた。隣人も、布を尿に浸しておく方法を見つけた。害虫は浸した
布に群がり、しっかりついて離れない。
「アメリカガエルも草木に穴をあける害虫の駆除に役立つことを知っているか。カエルのジャンプカは
すごい。カエルは害虫を捕らえる能力が特に高く、飛びついて捕まえる」
コンドーレは有機農業の研修を受けることができたことに感謝している。「次に田を耕す時には、稲わ
らを畑にまくだけだ」「何故ならそれで私の田は肥沃になり、化学肥料を買う必要がないからだ」
あいにく、この有機農業には欠点もある。環境自然資源省(DENR)はフィリピンの農業地域を、温室
効果ガスの原因の一つと位置付け、「収穫後に農民が稲わらともみ殻を燃やすことが主たる原因であ
る」としている。
DENRは農業地域が国士の3分の2を占めており、「農業地域が温室効果ガス排出量を増やしてい
る」とDENRの前の長官であるエリセア・グゾンは2011年3月、ダバオ市で開催された国連気候変動
サミットで述べた。
「私は田を耕した後に残っている雑草をゴールデン・クホール(カタツムリ、駆除しないでいると害虫に
なる)を利用して取り除き、手間を省いている」コンドーレは言う。
収穫量の多い品種から持続的な品種の米へ
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収穫量の高い品種を使った農場と比べると収穫量は多くはないが、コンドーレは化学肥料や農薬に
頼らない持続的な方法に感謝している。
ニューコルテスバランガイの農民は、一収穫期に1ヘクタールで65∼80袋の米を収穫するが、かつ
て1970年代から80年代にミラクル・ライスと呼ばれたC4や他の多収穫品種を使っていた頃の90
110袋の生産量からはかなり少ない。
ラグナ州のロスバノスにある国際米研究所によって開発され、短い収穫期で多く収穫できるこれらの
品種は、成長を促進し1ヘクタール当たりの高収穫量を維持するために、化学肥料を使用しなくてはな
らなかった。しかしこの数十年の間に、農民は業者に高額な肥料と殺虫剤代を支払わなくてはならず、
毎年収穫量の多さと引き換えに多額の借金をするようになった。
一方コンドーレとその周辺の農民は、行政が作った潅概設備を農民自身が管理し、収穫高を上げて
いる。ニューコルテスバランガイとニューボホールバランガイの潅概組合のメンバーとして、現在1ヘク
タールにつき米2袋分という妥当な割合で潅概施設を利用できる。この賦課金は全国潅概局
(NationalIrrigationAdministration)により設置されたインフラ維持基金として役立てられる。
このお金の一部は、まだ潅概水路が通じていない他のメンバーの田んぽへ水路をつなぐための資金
になる。ニューボホールを横切るアマナン川から取水し、横水路AとBそれぞれ300メートルをつなぐ。
この場所は1970年代までにはサルがたくさん生息するジャングルであった。彼は「その当時、田んぽ
は少しだった。そこではマニラ麻が植えられ、後にトウモロコシ、そして大豆が植えられた」と言う。
コンドーレはレイテ島のカウスワガンからやって来て、フィリピンの中央に位置するボーホール島から入
植した開拓者のグループに入った。彼は1976年に土地の女‘性と結婚して、小規模の農地の開墾を始
めた。
入植者は1980年代半ばから米を作り始め、それが北ダバオ州で、肥沃な米作地帯の一つになり、ダ
バオ地方有数の米生産地になった。
「自然農法を保持するのは素晴らしいことだ。何故なら自然は私たちがやったことに応えてくれる」
50
有機肥料は他の地方政府を驚かせる
北ダバオ州ニユーコレリアの有機肥料工場が作られたときのことを思い出すとき、メルリンダ・デラ・ベガ
の顔に情熱が溢れる。その工場は、フィリピンにおいて地方行政の主導によって作られた唯一のもので
ある。
1998年に彼女は、ニューコレリア農地改革受益者連盟(Necofarbea)から選ばれて町の有機農業プ
ログラムを導く立場になった。農業分野における環境支援を効果的にするために、町のインフラ基金を
利用して工場が建設されたときプログラムは本格的に動き始めた。
工場は町に豊富にある原料から、グアノ(烏ふん石)混合有機肥料を製造する。町にはコウモリの棲む
洞窟がいくつかあり、そのふんが肥料分に富んだグアノになる。培養したミミヌから得られる生物学的窒
素固定バクテリアと菌類の触媒とトリコデルマ(ツチアオカピ)が有機物を堆肥に変える。
2000年半ばに操業を始めたとき、工場は1,500袋を生産し、2006年から2008年の間の収穫期に
は米農家からの求めに応ずるために、それぞれ3,000袋に増産した。
「1ヘクタールにつき約5袋です」と工場長のデラ・ベガは言う。
町はこの大規模な米の産地に有機農業を導入し、米作のための融資を利用することについては、町
の有機肥料の使用を条件とした。
地方振興課の担当職員であるジョセフイン・マアンボンは、視察にやってくる他の地域の行政職員は、
どのようにこの課を設置したかだけではなく、どのように工場を操業しているのかについても関心を持っ
ていると話す。
マアンボンは町の会計課長代行であるジョエル・キナナハンから仕事の指揮を引き継いだ。町の行政
職員のキナナハンは、1999年にSIADがスタートしたとき、実践における主導者の一人であった。
工場の建物には、保管場所や倉庫以外にも、町の資金で購入したさまざまな道具が備わっている。建
物の外にはセメントで固められた乾燥場があり、その左側にはバーミカルチヤーセクション(培養したミミ
ズを使って有機物を堆肥に変える場所)がある。そこで今、新たに肥料が加工処理中である。
乾燥場の端には一般家庭から出る生物分解性の生ごみが山と積まれ、それが腐敗するのを待ってバ
ーミカルチャーボックスに入れられて肥料となる。
工場はニューコレリアのポブラシオンバランガイからおよそ2キロのところに1ヘクタールの区画で広が
っている。
デラ・ベガは農地改革受益者連盟において、有機農業を進めるリーダーとして科学技術部門で働い
ていた。同連盟は、当時2,3のバランガイしかカバーしていなかったが、有機農業の支援強化が必要と
なったとき、町は全体のプログラムの指揮を彼女に求めることにためらいはなかった。
51
「私たちは農民を集め、有機農業に関する研修会を行った。その結果、彼らは有機農業をよい農業実
践として取り入れるようになった」と彼女は言う。有機肥料工場の製品を確実にさばくために、町はその
工場で作られた有機肥料を使用することを米作のための融資利用の条件とした。
しかしながら農家が有機農業を好み、取り入れるのに長くはかからなかった。
彼女は多くの種類の肥料を開発した。その一つは農業廃棄物を分解するために微生物のトリコデル
マを利用している。
後にトウモロコシの軸やグアノ(鳥ふん石)、石灰岩、木炭の液、ヤシの実の粉末、生物学的窒素から
他の肥料が作られた。
よく知られるように生物学的窒素は全部で13の元素を持っている。
肥料工場では、豚の飼育者のために飼育の始めから肥育を終えるまでの有機飼料も作っている。袋
入りの飼料は婦人連合によって掛売りで売られており、生産の管理も婦人連合が行っている。
飼料の製造は二つの飼料粉砕機を使い、同じ場所で行われている。
いくつかの農場はバナナの木の植え付けに転換したので、農業用肥料の製造は最近減少している。
しかし、デラ・ベガの団体ではバナナの農場主が彼らの商品を利用する可能‘性をさぐっている、と彼女
は言う。
「とにかく日本のような海外市場は、使用される化学肥料に大変厳格である。農場主たちが私たちの
製品をもっと多く使ってくれることを願っている」と彼女は言っている。
注
・有機肥料の使用は、米作融資プログラムとセット
・原料は地元の農家から持ちこまれるトウモロコシの軸、炭くず、傷んだバナナ、市場から出る分解でき
る物質、ヤシの実の繊維、など
・肥沃な土に戻し、米などの有機作物の生産のために地元で使用
・加工処理は労働集約的であるので、より多くの労働者が必要
ニューコレリアの「マーケットの日」は有機農家の販売を拡大すぞ
ニューコレリアのポブラシオン(町の中心にあるバランガイ)の公設市場周辺は、日曜にはいつも活気
にあふれている。お客さんたちが、高地や低地のバランガイから持ち込まれたたくさんの新鮮な野菜や
果物の山から品定めしたり、目当てのものを選び出したりしているからだ。
葉物野菜には空芯菜、チンゲン菜、キクラゲがあり、ニガウリ、苦いヒョウタン、ハヤトウリやカラバンソヌ
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(フィリピン特有の野菜)が山積みされている。カリフラワーやブロッコリーは都会の市場で見かけるよりも
太くてやや大きく、よい土壌で育ったことが分かる。値段はスーパーマーケットよりも安い。土地の人たち
がずっとしてきたように、売ったり、値切ったり、物々交換をしている様子が見られる。
まちの小さな市場ではサヤインゲン2∼3束で5ペソくらいする。ニユーコレリアのマーケットでは、同じ
値段で2倍、時には3倍の量が手に入る。その野菜は危険な農薬が使われず、さらに露がついている
ほど新鮮だというおまけもついている。
10年前、そこはジープニイ(乗合自動車)のターミナルの横で、フィリピンのどこにでも見られる静かな
何もない場所だった。(今では生産物であふれた巨大なスチール小屋が建てられている)
8年前の2004年、町行政が有機農法やコンボイと呼ばれる農場労働者の組合づくりを推し進めた時、
野菜栽培者が州都であるタグム市や他の町へ売りに行くより、地元で売ることができるようにと場所を提
供した。
その年に非公式な調査がなされ、ニユーコレリアの住民は、南西へ19km離れたタグム市で、ニューコ
レリアで作られた野菜を購入していることが分かった。
その調査は、地域の経済活動を活‘性化するために設立されたLEEDMO地域産業振興課)によって
行われた。LEEDMOは、町で始められたSIADプログラムを受け地域経済振興を目的として設けられ
た
。
続いて行われた調査では、ニューコレリアの野菜の生産者が直接ポブラシオンのマーケットに運び販
売することができれば、持ち込まれる野菜の値段を下げることができるとわかった。このようにして、
LEEDMOは野菜生産者のために、仕切られた販売用の棚を設け、一日10ペソという手ごろな価格で
貸し出した。
ニューコルテスバランガイのブロック6で以前バランガイヘルスワーカーをしていた、コーネリア・サブ・
アは、それまでは作った野菜をタグム市で売っていたが、ポブラシオンでマーケットが開かれるようになり、
もっと近くで販売するチャンスだと考えた。
彼女のバランガイには6人の農場所有者がいる。彼女は4ヘクタールの家族農園で栽培している。
牛産量は時にその週ごとに変わり6袋のときも4袋のときもある。ポブラシオンにある市場への搬送代
として1袋につき60ペソを支払っている。「さらにもっと多く野菜の袋を持って行く時には、なじみの運転
手にはしばしば、ニューコレリアーニューコルテス往復で500ペソでと交渉する。時にはナス1袋10
ペソにまけてくれと頼む」と彼女は言う。
ニューコルテスの農民のデイデイング・バスタサもサブ・アと同じ経験をしている。「時には、チンゲン菜
1袋につき200ペソ払う」と彼女は言う。
輸送費を節約しようと、農民たちは収穫量の少ない野菜を売り合うこともある。「皆でお金を出し合って
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運搬費にあてるんだ」
しばらくの間、売主は週ごとに,ひとつの棚には一種類の作物だけを置くように求められた。屋台が同じ
作物であふれることを防ぐためであった。
しばらくはうまくいっていたが、このやり方はなくなってしまった。去る10月のマーケットでは多量のナ
ス、カボチャそして根菜が売られていたとサブ・アは語っている。
粉をまぶし、揚げて砂糖をからめたこの士地特有のバナナキューやマルヤやタロンに使われるカルタバ
バナナ(料理用)は、このマーケットのどこにでもある。
他の野菜は、天候の変動や害虫が原因で収穫が悪かったとバスタサは言っている。
売り上げはいつもいいとは限らない。それどころかその日の売り上げを聞かれて、屋台の借り手たちは
ため息をつくこともある。「多くの家庭で裏庭に菜園が作られているから、皆が買うわけではない」これは
町条例がすべての世帯に菜園を作るよう勧めているからだ。
「お得意さんたちはもっとたくさんくれとか、まけてくれと言う」とサブ・アは言う。バランガイポブラシオン
に住む多くの住人たちもマーケットの恩恵を受けている。マーケットの棚を借りて、調理した料理やスナ
ツクを売ることができるからだ。
課題はあるものの、売り手は稼ぐことができる。土曜に売り始めて、日曜に安売りして正味1,000ペソ
近く稼ぐとサブ・アは言う。「日曜に家に帰る時、野菜が売れ残らないようにしている」
住民たちはマーケットがあって新鮮な野菜を買ったり売ったりできることに感謝している。(町は手数料
と賃貸料として、タボのたびに4,000ペソほどを集めることができる)
町にとって、このマーケットは安全で健康的な食料を供給しているだけではない。住民の多くに経済活
動と生計の機会を与えている。
そして野菜などの廃棄物は集められ、有機肥料とするように処理される。
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懲瀧
SIAD10年の振り返り
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SIADについての洞察
ジョエル・アミタ・キナナハン
アナックNC
全能の神は、地球創造期に開発の理想的状態の青写真を我々に示されたと、私は固く信じている。
100年前、ニューコレリアもまた申し分のない、バランスのとれた天国のようなところであった。自然と調和
して暮らす、士地の人々の聖地であった。現代の進化が徐々にその景観を壊すまでは。
私はニューコレリアで育ち、人々がいかに進歩という一般通念に囚われて行動したかを目の当たりに
した。小学生のとき教師が、自分の望む将来の絵を描かせたことを覚えている。私は直感的にコンクリー
ト道路、電線、高い鉄塔、大農園、自動車、立ち並ぶビル、飛行機までも描いた。
その時私が夢見たものは今、現実のものとなっている。しかし、その願望がいかに暖昧で表面的だっ
たかを今実感している。いかにも、私たちは経済にとって不可欠な進歩を大幅に遂げた。しかし、人間
尊厳への注意、命の養育、豊かな生態系、汚染されていないきれいな水と空気という、神がその創造の
とき私たちに教えられた、生活に最も重要ないくつかの要素を育むことを忘れてきてしまった。
私はSIADを、恵みであり、ニューコレリアの人々がみんなで過去の過ちを修正して明るい未来を得
ようとする機会だと思っている。全員が学び、参加し、意見を聞いてもらって決定する場所を提供し、そ
れによって自分たちの希求する未来を作る過程で権限が与えられ、それは実行される。−まさに民の声
は神の声である。(Voxpopuli,voxDei)
人々は概ねSIADを高く評価している。真実と公正に基づいて設立されているからだ。しかし善があ
るところには悪一例えば自惚れ、富への欲望、名声と権力一も潜んでいる。そして一つの必要不可欠な
集団として一致団結することができるか、我々、同志は常に試されてきた。
SIADは、よりバランスのとれた持続可能な発展遂行のための総括的戦略として私たちを導いてくれ
る光である。私たちは、徐々に地上に天国を再現するという神の執事としての役割を果たしているのだ。
その一見不可能な夢と困難な作業の中で、ときに我々の情熱は衰えることはあるが、持ちこたえている。
なぜか?それが正しい道だと信じているからだ。犠牲を払う価値があるのだ。
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ニューコレリアにおけるSIADの経験を振り返って
SIADプロジェクトチーム・IPHC運営会議メンバー
ダバオ医科大学プライマリへルスケア研修所(IPHC)は、ローカルガバナンスを向上させ、統治される
立場にある地域住民に意思決定の権限を委譲しようとする試みであるSIADのプロセスを実践に移した、
ミンダナオにおいて限られた数のNGOのひとつである。
SIADを開始した1999年、私たちはすでにSIADプロセスを始めていた人たちの経験から学びたい
と強く希望していた。イロシン(ルソン島)とイロイロ(パナイ島)への視察は、私たちがその後SIADに深
く関わっていく契機となった。
ニューコレリアにおけるSIADの初期のころ、MTWG(町のSIAD推進チーム)のメンバーとして頻繁
に行われる会合において、関係者みんなが高揚していた。それはSIAD開始の初日から10年以上た
っても、町レベルからバランガイレベルに至るまでその活力は変っていない。
私たちは、SIADの道のりにおいていくつも軒余曲折を経験し、そのたびにニューコレリアの事情に適
応し、新たな方策を考え出すことが求められた。よく言われるように、私たちの人生とは生涯を通しての
継続的な学習である。ニューコレリアでは一つの大きな学びの機会が、SIAD推奨者にも、行政関係者
にも与えられた。
プロセスとしてのSIAD
ニューコレリアにおけるSIADの実践は、IPHCにとって参加型ローカルガバナンスを学ぶトレーニン
グの場となった。すなわち、
・IPHCに、地方行政に、より直接的に、さらに深く関わる経験をもたらした。
・地方行政がプロジェクトを計画・実施・継続するための支援を行う能力を身に付ける機会となった。
・地方行政が参加型プロセスを用いて総合的な計画を立案することを支援するために必要な知識
や能力を身に付けることができた。
当時、IPHCには、総合地域開発IADに関する十分な知識やスキルはなかったが、SIADプロセス
を学び続けた。ある現地スタッフは、「「SIADを実践することで」、自分が担当しているバランガイのため
になるやり方を学ぼうと強く決意させてくれた」と言い、また別のスタッフは「地域の人々を組織化する力
を大いに身に付けられたと思う。また、地域のさまざまな人々と付き合うことができるようになった」と言
った。
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時には現地スタッフの立場が難しくなることがあった。特に開始問もない頃、地域の人たちの中で
SIADの導入を好まない人たちに対応しなければならなかったときなどである。
SIAD以前の働きかけ、すなわち、地域開発に関する研修プログラム(私たちの「遠距離パートナー」
であるAHIによって支援を受けて実施された)や、IPHCによって行われた他の研修は、町において
また各バランガイにおいて中核となる、意識的な一群の人たちを生み出した。彼らはそれぞれのところ
において、SIADの第一線を担った。
しかしながら、IPHCが速いペースでSIADの実践を進めたため、行政がそれについて行くことが難し
いことに私たちは気づいた。一方、行政の関係者、特に町長が指導的任務を受け持つ方がよい、言い
換えればSIADはIPHCがそれまでしてきたようなNGO主導であるべきではない、といった指摘もあっ
たが、やはりSIAD推進のためにはIPHCの役割は大きく、IPHCはSIADを進めるべくさらなる努力
を重ねた。そうして私たちは、行政がSIADプロセスを自分たち自身のものとしてとらえ、さらなる政治力
を示してくれることを願った。
IPHCは、他の地域への視察や研修会などを通じて現地のリーダーの能力向上に努め、SIADプロ
セスが持続するように努めたが、何人かのリーダーは政治的な力関係からそのプロセスを継続できなか
った。私たちが達成したことは限定的なものであったが、EBDC(拡大バランガイ開発委員会)やBMT
(バランガイモニタリングチーム)、BCO(バランガイ地域調整員)などの仕組みを導入したこと、また年間
SIAD評価会を定例化し、その結果が、次年度の事業計画に反映されることとなったことは成果として挙
げることができる
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参加型ガバナンスに向けて共に歩む:
ニューコレリア町の遠距離パートナーとしてのAHIの役割
宇井志緒利
AHI国際事業コーディネーター
コミュニティープロジェクトに飛び込む
AHIのフィリピンにおける協力事業は1983年に始まった。パートナーのIPHCが保健開発ワーカー
のための研修を企画・開催した。フィリピン全土から参加者が集まり、後には、ミンダナオからの参加者
が多くなった。多数のNGOワーカーとそのパートナーがIPHCの研修に参加し、より明確なリーダーシ
ップと強いネットワークを現場に持ち帰った。
AHIの研修事業とフオローアップ活動が拡大していき、1990年代半ばに研修事業の振り返りと評価
を行った。AHIと支援者は、研修が人々の、特に周辺に追いやられた人たちの健康や生活にどのよう
なインパクトをもたらしたのか、そしてAHIの研修活動が意味あるものであるかどうかを知りたいと思って
いた。
評価によって明らかにしたかったことの一つは、日本を含めたアジア諸国での潮流となっている地方
分権化のもと参加型ガバナンスが進む中で、AHIの行っている研修が人々の健康向上により大きな影
響を及ぼせるのかかどうかということだった。1990年代の終わりは、IPHCが持続的な開発を目指した
参加型まちづくりを進めるために、SIADを活動地域に導入しようとしていた時期でもあった。そこで
AHIはSIADをIPHCと協働で進めることで、次の問いの答えを見いだそうとした。
●私たちの人材育成活動が、住民の活発な参加による参加型まちづくりにどう寄与できるのか。
●住民の活発な参加による参加型まちづくりは、どのように住民の健康と生活向上に寄与するのか。
IPHCとの話し合いの結果、ニューコレリア町がSIADの試験地として選ばれた。内部での協議を重
ねた後、AHIは特定の地域で長期間のプロジェクトに関わることを決めた。研修活動を超える活動とし
ては、初めてのことで、AHIにとってこれは画期的な決断であった。
でこぽこ道を共に歩む:遠距離パートナーとしてのAHIの役割
11年間のSIADプロセスは、同じ目的に向かう喜びと苦闘に満ちた旅だった。初期から、AHIは職員、
役員、支援者を短期間ではあるがニューコレリア町に送り、住民と会い、地域状況理解、進捗状況の把
59
握に努めた。
AHIにとって、現場プロジェクト実施におけるパートナーになるという初めての経験だった。私たちが
現場のパートナーにどのようなことができるのかを深く考えさせられた。財政支援と活動をリードする人た
ちに学びの機会を提供することの他に、地理的に離れたパートナーとしてどんなことができるのか、とい
つも考えていた。
SIADに関わるうちに、次の4つの役割が見えてきた。1)重要な問いとコメントを投げかける、2初期
の段階から計画的な行政への提言.働きかけをする、3)経験共有の機会をつくり支援する、4)日本と
フィリビンの間で人や資源をつなぐ。次項では、そのような役割に関する振り返りと今後に向けての課題
ついてまとめた。
1.継続的な対話を通して重要な問いを投げかける
AHIは通常よりも長期にそして定期的に職員を現地に送り、また重要なイベントや評価時には職員と
役員のチームを送って、定期的なモニターを行った。私たちがニューコレリア町での日常の活動から地
理的に離れていることを活かし、現場第一線にいるパートナーに重要な問いを投げかけ長期的な課題
について話題にした。例えば、周辺に追いやられた特に困難な状況にある人たちの参加、SIADプロセ
スの持続‘性とコミュニティーのリーダーと外部支援団体の職員の役割移行、健康へのインパクトを見る、
評価をSIADの学びのプロセスの一部と捉えること。
もちろん、決めるのは基本的にニューコレリア町の人たちとIPHCであるので、私たちは現地の人たち
の優先することやペースを尊重するようにした。しかし、現場の第一線で関わる者は一つ一つの活動の
より良い実施で一杯になってしまうことがよくある。私たちはそのような現場の働きを補完するために、問
いを投げかけ、私たちが共通に目指す方向に向かっているか皆で確認していこうとした。
2.初期の段階から計画的な行政への提言。働きかけをする
SIADは、スムーズに進んでいるように見えた。が、5年目に町行政が突然関与をやめてしまった。ニ
ューコレリア町でSIADに中心的に関わっていた住民から成るコアグループはIPHCと何度も話し合っ
た。AHIもSIADが道半ばで中止になってしまったらどうなるのか、とても深刻に考えた。ニューコレリア
町全20村のうち16村が、村の主体‘性でSIADを継続することを決めた時は、心から励まされた。危機
に直面して、核になる人たちが村行政レベルで新しいSIADの局面を切り開いたのである。
この予期せぬ出来事から、AHIはプロジェクトの初期段階から町や州など上部の行政リーダーや関連
団体に対して、計画的な提言活動や働きかけをもっとしてくるべきであったと振り返った。村での働きか
けは地域の人たちや支援団体がうまくやってきたが、AHIは外国の団体として、異なるレベルへの働き
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かけがもっとできたのではなかったか。行政への計画的な提言と働きかけの適切な役割を見出しそれを
行っていくことは、AHIにとって今後の努力課題である。
3.経験共有の機会をつくり、経験の記録化を促す
SIADのプロセスの中で忘れられない出来事の一つは、2006年にニユーコレリア町が参加型まちづく
りをテーマにした国際ワークショップの受け入れをしたことである。AHIはそれまでも各国で元研修生の
所属NGOと共に国際ワークショップを開催してきたが、現場のコミュニティーからの強いリーダーシップ
で協働開催となったのは初めてのことだった。また、ニューコレリア町にとっても多数の国から大勢の訪
問者を受け入れるのは初めてであった。
AHI元研修生とそのパートナーの多数がこのワークショップに応募し、スリランカ、バングラデシュ、イ
ンド、カンボジア、日本、そしてフィリピン各地から総計25名の参加型まちづくりの実践者がニューコレリ
ア町に滞在して、SIADの経験から学んだ。ニューコレリア町は刺激的な学びを提供し、訪問者から大
変称賛された。ワークショップ開催により、ニューコレリア町におけるSIADの認知と評価が上がり、訪問
者の感想や助言により地元の人たちのやる気が高められた。IPHCとAHIはパートナーコミュニティー
のニューコレリア町をとても誇りに思った。ニューコレリアにおけるSIADは、フィリピン国内のみならず国
際的にも価値ある先駆的プロジェクトであるという確信を持った。この協働イベントの開催は、私たち3者
間の協力関係もさらに強めた。
このワークショップの協働開催から、AHIの遠距離パートナーとしての役割の一つはAHIの強み、ア
ジア各国に広がる保健開発ワーカーのネットワーク、を最大に生かし、プロジェクトから得た経験を共有
する機会をつくり支援することであると確信した。広く共有するためには、経験を記録せねばならない。
AHIは地元の人たちによるモニターと記録をより積極的に支援するべきであろう。その記録は成果・イン
パクトだけでなく、どのように変化が起こったのか、起こりうるのか、というプロセスも含めるべきである。
AHIは地理的にニューコレリア町から離れており、地元の言葉や文化の理解も限られている。しかしな
がら、私たちも外部者の視点から具体的なエピソードや私たちが見たもの感じたこと、評価したことを記
録していくことで、記録化に寄与できると思われる。
4.フィリピンと日本の間で人や資源をつなぐ
AHI支援者が多数ニューコレリアを訪れ、またニューコレリアのSIADを担う人たちがAHI国際研修
に参加するために来日した。そこで多くの人のつながりができ、AHI支援者の何名かはニューコレリア
に資金や技術支援を申し出た。例えば、一つの基金が保健ボランティアや有機農業をすすめる農民に
よる収入向上活動のために設立されたり、日本の歯科医師や医療関係者との協働で調査と口腔衛生
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教育が行われたりした。他にも日本の学生グループの訪問研修に、AHIがIPHCやニューコレリアを経
介したりした。そのようなつなぎをする際には、日本からの新たな投入やつながりがSIADプロセスと地
域住民の自立を促し強めるものであるように留意した。
AHIは意図的にフィリピンと日本の住民を参加型ガバナンスの共通課題でつなげようとした。ニューコ
レリアから研修参加者が来日するときには、同様の課題に関心を持つ日本の人たちと経験を共有する
プログラムを行った。多くの場合、日本のコミュニティーやワーカーはニューコレリアの持続的な参加型
の進め方、コミュニティー報告会や相談会合、既存の仕組みに新たな工夫を加える、広い層の人たちの
能力強化、上部行政からの支援が減っても資源を動員活用して活動を継続することなど、学ぶべきこと
がたくさんあると気付いた。「参加型ガバナンス」は、日本人とフィリピン人をつなぐ合言葉となり、AHIの
日本の中での役割を明確にするのに役立った。ニューコレリアのSIADを支援することによって、AHI
のつながりを作り足元の日本社会を強める能力を研ぐことができた。
「私たちのコミュニティー」ニューコレリア
特定のコミュニティーに長期間関わることで、特別な親密感がAHIとニューコレリア町の間に生まれた
喜びや苦闘をともにしながら、ニューコレリアは「私たちのコミュニティー」になっていった。それは、1)
私たちの他の地域での活動と比較して、いつも振り返るベースになるコミュニティーとして、2)AHIの
関係者の中で共通の理解を持ち話し合うコミュニティーとして、である。
まず、長期の特定のコミュニティーへの関わりによって、AHIはアジアの現場の第一線で働くワーカー
や住民の持つ関心や課題、困っていることなどをより理解することができた。AHIがある日進市と同様に
ニューコレリア町はAHIがいつも立ち戻り振り返り、他のコミュニティーを理解するところとなっている。ニ
ューコレリアのSIADは参加型開発とガバナンスの「私たちの生きた事例」である。また、AHIは通常の
パートナー、NGOワーカーの他に、草の根と行政の多様な人やグループと共に働く機会を得た。このよ
うな経験は、AHIの国際研修をはじめとする様々な活動の理解と向上に、かけがえのないものであっ
た
。
次に、このニューコレリアSIADは、AHIの他のどのプロジェ外よりも広く職員、支援者、役員の関わり
を生み出し、この共通の経験がAHIを組織として強めた。AHIの資源は限られていたが、ニューコレリ
アへ職員や関係者を送り出し経験の共有をすることを優先させた。ニューコレリア町に住むあの入この
人の名前や顔を、まるで私たちの親戚の町であるかの様に知っている。共有されたニューコレリアSIAD
への長期のコミットメントはAHIの関係者の私たちの当事者感を高め、組織としてのAHIを強めた。
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人材育成を通して参加型ガバナンスに寄与する
AHIの主な活動は参加型研修の実施を通して地域で健康づくりに携わる人を育てることである。地域
保健と開発へのより大きなインパクトを特に周辺化された人たちにもたらすには、研修の参加者の働き
や活動を支える参加型ガバナンスの仕組みが必要である。その仕組みについてしっかりした分析はで
きていないが、ニューコレリアSIADのプロセスはAHIの研修活動と参加型ガバナンスをつなぐ一つの
在り方を示してくれた。多様な役割や立場・分野の広い層の人たちが、自分たちの暮らしに関わる決定
にどのように声を上げるかを知った。また、健康をめぐる事柄も保健分野を超えて、活発に話し合われ、
取り組まれた。
SIADが始まってから、IPHCとAHIは人材育成を持続的な参加型ガバナンスのベースおよび核で
あると捉えてきた。私たちはフォーマルに、インフォーマルに様々な分野のコミュニティーリーダーに多
様な学びの機会を提供してきた。IPHCもAHIもフィリピン国内外での研修にニューコレリアの中核に
なる人たちを優先して参加させた。彼らはSIADプロセスと経験を他の参加者に共有し、批判的に分析
して振り返った。他の参加者からヒントを得て、地元にもどって現行の活動や方策を改善した。
研修から戻った者は、ニューコレリアで新たな学びや技術を他の者に伝え、仲間にもそのような研修に
参加することを勧めた。そうして、年々ますます多くのニューコレリアの人たちが共通の展望と必要な技
術を身に着けた。「自分はSIADの核になる人間だ。だから、SIADのプロセスで私の役割を担うために
その場にいなければ。」と考えるSIADリーダーたちが町中に現れた。ニューコレリアの人材は、苗木か
ら木へ、木から森へと成長していった。
AHIチームが2010年初めにSIADの年次評価会合に参加した際、村のリーダーの何人かが話し合
っていた。このSIADの参加型の運営プロセスを私たちの「伝統文化」にしたい、と。やらねばならぬ義
務としてではなく、日常生活の一部として自然なこととして、人々が楽しむこととして。「SIADという名前
は消えていくかもしれない。が、基本原則は続くよ。」AHIの視点から見ると、このような希望を共有す
る地元リーダーの輪の広がりが、11年間にわたるSIADへの協働から生まれた、ニューコレリアのもつと
も貴重な資源である。この長期間のコミュニティーへの関わりを通して、AHIは改めてリーダーシップ育
成の重要』性を確認した。
SIAD後のAHIの役割
システムや人材の面で、様々な持続‘性を高める仕組みが作られた。透明'性、決定への参加や草の根
のリーダーシップは、SIADを通して明らかに高まった。そして今の課題は、IPHCとAHIが投入・支援
をやめた後、このような仕組みがどう持続されさらに展開していくのかである。三者ともSIADプロジェクト
が終了した後も、何らかのモニターとフォローアップ支援が必要ではないかと感じた。
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ニューコレリア町の中心的な関わりをした人たち、IPHCとAHIの三者で相談の結果、AHIは極小栽
模なヘルスプロモーションプロジェクトを通してこのコミュニティーに関わり続けることにした。IPHC実施
の国別研修とAHIの国際研修の卒業生から成るニューコレリアの地元グループがSIADプロセスの中
で生まれていたので、今後はこのグループとAHIが直接協力関係を持つ方向で、とした。このグループ
と共に、AHIはSIADで作られた基盤がどのように維持され展開しこのヘルスプロモーションプロジェク
トで生かされるのかをモーターする予定である。来る新たな協力関係の段階において、このSIADプロ
ジェクトからの教訓をもとに、AHIは遠距離ではあるが、深い思いを持ってしっかり役割を担えるパート
ナーとしてさらに成長していきたい
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原著:
Making Participation a Tradition:
The SIAD Experience in New Corella
(Language: English and Visaya)
Copyright 2012. (Second printing with Revision 2014) Institute of Primary
Health Care-Davao Medical School Foundation and the Asian Health Institute
日本語訳:
第 1 章~第 4 章、第 6 章
2014 年 8 月
pp. 1-61、69-77.
協力:
AHI 翻訳グループ
( 加藤けい子、椎名保子、テイボーン英美子、豊田彰子、村松まさ代、薬師寺麻利子 )
編集 AHI 職員:
林かぐみ、マクレナン陽子、宇井志緒利
公益財団法人
アジア保健研修所(AHI)
〒470―0111 愛知県日進市米野木町南山 987-30
TEL::81-561-73-1950
FAX::81-561-73-1990
E-mail:[email protected]
HP:http://www.ahi-japan.jp
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