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a289 イスラエル2日/アッコー・十字軍の町・スーク・ハーヌル

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a289 イスラエル2日/アッコー・十字軍の町・スーク・ハーヌル
異文化の旅 イスラエルを行く1103-6
a289 イスラエル2日/アッコー・十字軍の町・スーク・ハーヌル
・ウムダーン・テンプル騎士団
アッコーでバスを降りる前にガイドブックの地図を見ると旧市街
をぐるりと囲んで城壁が描かれている 。十字軍の町との記述もある 。
その一方、ジャーマ(=モスク)の名やヴェネツィア広場なども記
入されている。地図からも攻防の歴史が予想できる。
バスを降りると、石塀の先に
ジャーマ・アル・ジャッザール
Al Jazzar Mosque の緑色のドーム
とミナレットが見えた(写真 )。
1781 年、オスマン帝国総督ジャ
ッザール・アフマド・バーシャ
ーが建てたそうだ。この頃、ナ
ポレオン( 1768-1821)は幼年学
校~士官学校で、 1799 年のアッ
コー攻略まではまだ時間があるし、実際のナポレオンによるアッコ
ー攻略はイギリスがトルコ=オスマン帝国を支援したことで失敗に
終わっているから、アッコーはナポレオン軍による影響は全くない
ようだ。
ジャーマ・アル・ジャッザー
ルは遠望するに留め、ガイドは
十 字 軍 の 町 The Underground
Crusader City と呼ばれている遺
構に案内した(写真、私のデジ
カメは光量が少なくぼんやりな
ので web から転載 )。英語名か
らも分かるように半地下部分が
十字軍時代の遺構で、上層部分
はオスマン帝国時代の建造だそうだ。がっしりした石積みの柱・壁
がリブ付きドームを支えていて、頑強さとともに質素な雰囲気を漂
わせている。前述したが、エルサレム王国の都となって以降はホス
ピタル騎士団=聖ヨハネ騎士団が実質的に統治していた。ホスピタ
ル騎士団=聖ヨハネ騎士団は騎士修道会に端を発しているそうで、
清貧が目指されたため、この建物=修道院+病院+騎士団作戦本
部?も質素な空間になったと思える。ガイドは聖ヨハネ騎士団のシ
ンボルマークであるユリの彫刻があそこここにあるでしょうと指さ
す。フランスでもよくみられたユリの図案らしいレリーフが頭上に
見える?が、風化していて分かりにくい。
広々とした半地下ホールでは夏にコンサートなどに利用されるそ
うだ。攻防の歴史を振り返りながら、涼しげな空間で、音楽を楽し
む、とは一石三鳥の活用法である。
地上に出て、石積みの建物が両側に迫っている迷路のような石畳
の通りを進むと、そのまま市場= スーク suq に入った。もちろんガ
イドは知ってて案内しているのだが、迷路状の道に店が所狭しと並
び 、品物が通りにあふれていて 、大勢の人でごった返しているから 、
品物を眺めていると置いて行かれてしまう。身の危険はないが、迷
子になったら探しようがない。ガイドはもし迷子になったらそのま
まそこを動かないこと、と何度も注意する。最近のグループツアー
のほとんどはイヤフォンを着けてガイドの説明を聞く。これはガイ
ドの説明がはっきり聞こえてとても便利だが、電波が届く限り声は
聞こえているので、うっかりするとガイドとツアーの仲間を見失っ
てしまうことがある。迷子になったと思
いあわてて急ぎ足であちこち歩いてしま
うと、本当に迷子になってしまう。言葉
が通じないから地元の人も助けようがな
い。ガイドはそんな経験をしたことがあ
るらしく、そのまま動かなければ必ず探
しに行けると繰り返す。ということで、
スークの雰囲気を味わいながら数枚の写
真を取るに留めた。アッコーは港町であ
るから魚介類が新鮮で、地中海の魚がぴ
ちぴちしていた(写真 )。いつの間にか
スークを抜け、ヴェネツィア広場を通り
過ぎ、ハーヌル・ウムダーン Khan Al Umdan に入る。
ヴェネツィアは、アドリア海の最北端に位置する歴史都市で、土
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地がなかったため海上交易に活路をみつけ、 697 年からヴェネツィ
ア共和国としてアドリア海を中心とする海上交易、海上防衛を独占
し、大いに栄えた。十字軍時代には交易とともにエルサレム巡礼者
の輸送、護衛も引き受けていて、アッコーにあるヴェネツィア広場
はその名残かも知れない。が、いまはどこにでもある特徴のない広
場だった。
ハーヌル・ウムダーン Khan Al Umdan(写真)はオスマン帝国時
代の 18 世紀につくられた隊商宿
の遺構だそうだ。アラビア半島
や西アジアの交易品が隊商によ
って運ばれ、アッコーから船積
みされた歴史の名残である。あ
るいは地中海各地から船で運ば
れてきた交易品をここで馬やら
くだに乗せ、陸路を運んでいっ
たのであろう。しかし、つくり
方はモスクに似て、石張りの大きな中庭に面して部屋が並び、ミナ
レットに似た塔まで立っている。イスラム圏ではモスクのつくり方
が研究され、建造技術が進歩した。オスマン帝国時代の 1616 年、
イスタンブルに威容を誇るスルタンアフメトモスク=ブルーモスク
が建造されている。こうした建造技術がほかの建造物に転用された
であろうから、モスクと似た建物になるのは必然かも知れない。中
庭にある井戸は、これもモスク
の集水装置と同じく、中庭に降
った雨を地下に溜める仕組みで
あろう。ただし、中庭に面した
部屋は 2 層になっていてこれは
モスクと異なり、むしろ 1598 年
から建設された現イラン・イス
ファハンのイマーム広場( 写真 )
を連想させる。隊商宿だから、 1
階に馬やらくだをつなぎ、 2 階で寝泊まりしたのかも知れない。
ハーヌル・ウムダーンを出ると、もう海である。海をみながら城
壁に沿って進むと、海底に石の
遺 構 が 見 え た ( 写 真 )。 ガ イ ド
によれば テンプル騎士団 の要塞
跡だそうだ。
テンプル騎士団も第 1 回十字
軍に参加したフランス騎士たち
で組織されていて、ホスピタル
騎士団にならいエルサレム巡礼
者の保護を目的に結成され、エ
ルサレム王ボードゥアン 2 世からエルサレムの神殿の丘を宿舎用地
として与えられたためテンプル騎士団と名のったのが始まりであ
る。エルサレム陥落と同時に、アッコーを攻め、 1191 年の第 3 次
十字軍によるアッコー占拠で、ホスピタル騎士団=聖ヨハネ騎士団
と同様にアッコーの守護についた 。この要塞跡はその当時の名残で 、
テンプル騎士団はこの要塞から中心部に向けて地下トンネルを掘削
しイスラムへの防御を高めていたそうで、最近、トンネルが発見さ
れ、公開されているそうだ。私たちは、穏やかな波の下の痕跡を確
かめた後、バスに乗り、今夜の宿であるティベリアに向かった。
テン プル 騎士 団は 第 2 次十 字軍の 際、フ ランス王・ルイ 7 世
( 1120-80)を助けて活躍したことから、パリ郊外に広大な土地が
与えられた。テンプル騎士団はここに居館を建て、教皇や外国君主
の宿舎として供与するなどし、次第に特権を得るようになり、資産
を蓄積し始めた。ついには艦隊を所有し、聖地守護、軍事のみなら
ず、商業や金融活動まで手を広げ資産を蓄積した。 13 世紀末のフ
ランス王フィリップ 4 世は慢性的な財政難を解決するための一つと
してテンプル騎士団の資産に目を付け、 14 世紀初め、無理やり異
端審問で有罪とし、主だった騎士を処刑し、資産を没収したため、
テンプル騎士団は消滅してしまう。騎士団も騎士団なら、教皇や異
端審問した高位聖職者も、フランス王も、権力と財産で狂ったとし
かいいようがない。このときテンプル騎士団がひそかに財産を隠し
たとか、テンプル騎士団の末裔がフリーメイソンであるとかの新た
な伝説が生まれたそうだ。聖地をめぐる旅は血なまぐさい話で覆わ
れている 。( 1103 現地、 1210 記)
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