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PDFダウンロード - 日本体育学会第65回大会
哲
史
E24
[教育]
8 月 27 日
9:00
史 27 − 001
幕末期の薩摩藩における軍事改革と伝統武芸
島津斉興・斉彬治世期を中心に
○竹下 幸佑(筑波大学大学院)
幕末期における諸外国からの外圧に対する軍事改革の中で、西洋式の火器を合理的に操る洋式砲術・調練を導入して徹
社
底した訓練を行うことは、当時の幕府及び諸藩の軍事上喫緊の課題であった。なかでも、薩摩藩は佐賀藩と共にその先進
性が知られており、両藩における高島流砲術の導入は幕府に先んじていた(佐藤昌介『洋学史論考』)。ここで問題となる
のが、軍事改革が行われる中で藩の方針として伝統武芸がどのように扱われ、軍事政策にどのように位置付いていたのか
心
生
ということである。いち早く洋式砲術や調練が導入されたのであれば、当然それまでの軍事政策の中心であった伝統武芸
への影響もあったはずである。本研究では、この辺りの問題を明らかにする。今村は、こうした洋式砲術・調練の導入が
最終的に伝統武芸を圧倒したこと、伝統武芸が諸藩藩校の教育課程から漸次脱落していったことを指摘しているが、諸藩
における詳細な事例は検討されていない(今村嘉雄『19 世紀に於ける日本体育の研究』
)
。薩摩藩では軍事政策の中に伝
統武芸が応用された形跡を窺うことができ、必ずしも軍事改革の西洋化即伝統武芸の衰退ではなかったことが示唆される
可能性がある。
バ
経
発
E24
[教育]
8 月 27 日
9:20
史 27 − 002
幕末長崎の絵図面史料にみる競馬場設置構想の推移
競馬場設置構想の終息から遊歩道設置への転換
○田端 真弓(大分大学)
幕末期の外国人居留地では競馬場や公園などが設置され、明治期にかけてさまざまなスポーツが実施された。横浜では
競馬が盛んに行われたことに対し、長崎ではレガッタが著名なスポーツであった。しかし、すでに明らかにされているよ
測
うに設置には至らなかったものの、長崎に滞在した外国人は彼ら自身の「運動」の場として競馬場の設置を求めていた。
これらについての交渉や議論は、当時の長崎奉行と英国公使ならびに英国の長崎領事を中心に展開され、この過程におい
て複数枚の絵図面史料が残されたのである。これらの絵図面史料は交渉の際に提示された資料とみられ、わが国における
方
保
教
人
近代スポーツ萌芽期の居留外国人のスポーツをめぐる交渉内容と施設設置構想を如実に示している。そこで本研究は、こ
れらの絵図面とこれらの関連史料を精査することによって、競馬場設置の構想とその議論の推移について考察した。また、
新たに発掘された「此度英国公使申立候競馬場并遊歩所築造入用凡積麁絵図」がいかなる時期の構想を描いたものである
かについて特定した。競馬場設置構想から遊歩道設置への転換期を明らかにした。
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[教育]
8 月 27 日
9:40
史 27 − 003
明治天皇巡幸と体操指導について
○藤坂 由美子(鹿屋体育大学)
明治天皇の巡幸は明治年間を通じて 97 回挙行され、地方への巡幸は 60 回を数えるという。1872 年から 1885 年に
ア
かけて、地方を中心に行われた巡幸を六大巡幸とも呼ぶ。明治天皇が臨幸した対象は、主として地方行政関係施設、軍関
係施設、産業施設、学校であった。学校においては、師範学校や外国語学校、小・中学校が対象となり、臨幸の日時に合
わせて多数の児童生徒が動員され、天皇は学校の授業や体操を天覧した。学校での授業や体操の天覧は、天皇巡幸行事の
介
通例となっていく。1876 年の東北地方巡幸の際にも、官立宮城師範学校において、体操が小学校の教員や生徒によって
披露された。この体操法は当時東京師範学校において実践されていた体操法である。しかし、体操は天覧のために師範学
校教員が俄か指導を行ったのであり、体操が日頃から小学校に定着して実施されていたのではなかったことが明らかと
なった。
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01 体育史
E24
[教育]
8 月 27 日
10:05
史 27 − 004
『少年世界』(1895 年)に見られる古代オリンピックの理解
日本の近代体育・スポーツとの接点に注目して
○和田 浩一(フェリス女学院大学)
哲
史
日本が古代オリンピックを知ったのは、明治以降のことであった。ヨーロッパよりも後れてオリンピックを知ったこの
国は、2020 年に 4 回目の大会を開くことになった。このような日本によるオリンピックの受容過程を解明できれは、西
洋中心主義を克服する新しいオリンピズム構築のきっかけをつかむことが期待できる。1896 年のアテネ大会前年に出版
社
された『少年世界』には、古代オリンピックを紹介する「運動会の歴史及種類」という記事が掲載されている。本研究は
この記事を再検討し、古代オリンピックと日本の体育・スポーツとの一つの接点を明らかにする。4 編からなるこの記事
は、古代オリンピックと中世・近代の欧米における「運動会」
、運動の種類について述べている。著者の北水生は、日本
古来の武芸には古代オリンピックをルーツにもつ古代ギリシャの運動の「訓練的」な性格があると指摘し、当時の日本で
行われている運動は、日本古来の精神と古代ギリシャの精神、イギリスの「娯楽的」な精神とを「折衷して其粹を集めた」
ものだと評した。これは、単なる欧米の模倣ではないスポーツの自国化を認識する中で古代オリンピックを理解しようと
した言説だと言える。
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[教育]
8 月 27 日
10:25
史 27 − 005
明治中期三重県における小学校教材としての打球戯
伝統打球戯の復興・継承と学校教育プログラム
○山田 理恵(鹿屋体育大学)
桑名藩藩校・立教館の思想を継承した桑名義塾(明治 5 年創設の励精義塾から改称。同 34 年頃閉鎖)では、白河藩の
心
生
バ
経
発
打毬の系譜をひくと考えられる遊戯「打毬戯」が行われていた。発表者は、さらにその史料収集を進めるなかで、明治中
期三重県内にこの桑名義塾の「打毬戯」と同種の遊戯が存在していたことを示す史料を披見し得た。それは、養正高等
小学校(現三重県津市立養正小学校)訓導・近藤憲夫編『小學遊戯書』(河島文化堂:津市、明治 25 年)の叙述である。
測
編者凡例によると、
「本書ハ小學校生徒ノ身體教練ヲ計ル為此ニ適當ナル遊戯法ヲ蒐集シ傍編者ノ實歴セル所ヲ註シタル
モノ」 で、「遊戯ノ種類ハ可成新奇ノモノ」が選ばれている。114 頁から成る本書には、「男之部」 「女之部」 「男女之部」
に分けて 156 の遊戯が掲載されており、その「男之部 第三十四」が「打球」である。そこでは、この遊戯の特性と意義、
用具と遊戯法 3 種が、図を示しながら解説されている。
本研究では、当時大人数で行える小学校男子児童の最も活発な遊戯と考えられていた「打球」の形態と文化的特徴、教
材としての意義について、桑名義塾の「打毬戯」との比較も含め考察を行うこととする。
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[教育]
8 月 27 日
10:45
史 27 − 006
石川県に見る教師たちの「軽体操」理解
○大久保 英哲(金沢大学)
明治 13(1880)年の「鳳至・珠洲二郡教育協議会日誌」は当時の教師たちが初めて直面した「体操」科に対する困惑
や疑問を伝えている。では翌明治 14 年以後、石川県に順次導入されていった体操伝習所の「軽体操」は、そうした教師
方
保
教
人
ア
たちの困惑や疑問を解消し、期待に応えるものであったのか。こうした視点から「軽体操」の内容を点検すると共に、石
川県教育会議事録(明治 18 年、19 年、24 年)に見られる教師たちによる体操科についての議論内容を分析し、石川県
においてどのような「軽体操」理解がなされたのかを明らかにする。このことを通して、日本体育史における「軽体操」
介
の位置づけを再検討することを試みる。
75
哲
史
E24
[教育]
8 月 27 日
11:10
史 27 − 007
唱歌遊戯の成立過程に関する研究(Ⅵ)
伊澤修二の嬉戯(遊戯観)を中心として
○曽我 芳枝(東京女子大学)
これまで筆者は、体育の教材である唱歌遊戯の成立過程について『雅楽録』『芝家日記集』『豊原喜秋日記』を手がか
社
りとして主に保育唱歌遊戯の作成過程の経緯を検討してきた。周知のように保育唱歌遊戯の作成以前の明治 7 年愛知師
範学校の校長であった伊澤修二は唱歌遊戯を実践し、明治 8 年に「唱歌嬉戯ヲ興スノ件」として文部省に建議した。そ
こでは児童における唱歌遊戯の有用性について報告しており、わが国の唱歌遊戯の始まりとされている。また愛知師範
心
生
学校の『小学教則書』でも下等小学校では体操を嬉戯にかえて実施するよう教科として設けていた。こうした伊澤の唱歌
遊戯の取り組みをさらに深めるため、本研究で『雅楽録』にみられる伊澤の保育唱歌遊戯に対する意見を取り上げ検討し
た。そして留学前の児童観・遊戯観をおさえた上で帰国後の唱歌遊戯に対する変化を考察した。その結果、伊澤はクリー
ゲの『The Child』やロンゲ夫妻の『A Practical Guide to the English Kindergarten』ピーボディとマンの『Kindergarten
Guide』に影響を受けていたことが確認され、さらに明治 13 年 4 月の楽舞大演習参観の後、保育唱歌の遊戯の方向が変
化していったことが明らかになった。
バ
経
発
E24
[教育]
8 月 27 日
11:30
史 27 − 008
なぜ投手のアンダースローは今日まで受け継がれてきたのか
プロ野球創立前年(昭和 10 年)までを考察の範囲として
○鈴木 直樹(福島県南会津郡下郷町立下郷中学校)
今日、野球における投手の投球方法はオーバースロー、サイドスロー、アンダースローの三種類に分けられるのが一般
的である。ところが、伝来した当時では、投手がオーバースローで投球することは許されず、肘を伸ばして振り子のよう
測
にして下から投げなければならなかった。このころ米国では頻繁に競技規則の改正が行われ、オーバースローが認められ
たのは 1884 年のことであった。我が国でも、明治 28 年(1895 年)に第一高等学校野球部によって米国の野球規則が
初めて翻訳されたのを機に、投手がオーバースローで投球するようになっている。本研究の目的は、なぜ、投手のオーバー
方
保
教
人
スローが容認されたにも関わらず、その一方で、アンダースローという投球方法が用いられ、また、今日まで受け継がれ
てきたのかを明らかにすることである。アンダースローは容易に習得できるとは言い難く、また、窮屈な姿勢を強いられ
る投球方法でもあるため、それだけの理由がなければ今日まで受け継がれることもなかったはずである。野球が伝来した
明治のはじめからプロ野球創立の前年となる昭和 10 年(1935 年)までを考察の範囲として、その理由を明らかにしたい。
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[教育]
8 月 27 日
11:50
史 27 − 009
日本におけるエアロビックダンスの導入過程に関する研究
ジャッキー・ソーレンセンによる活動に着目して
○張 巧鳳(日本体育大学)
日本のスポーツの歴史を遡ってみると、健康づくりの必要性が訴えられはじめた 1980 年代前半には、アメリカで考案
ア
されたエアロビックダンスが日本へと導入された。体力づくり、健康づくりのプログラムとして画期的とみなされたエア
ロビックダンスはしだいに有酸素理論という科学的理論から離れていき、ファッション性と激しさを求める方向へと進ん
でいった。その導入過程において 1980(昭和 55)年にエアロビックダンス考案者であるジャッキー・ソーレンセンが
介
ADI 社(Aerobic Dancing.Inc)の日本支社を創設した。しかしながら、日本国内で、ジャッキー・ソーレンセンによる普
及活動に関する史料記載がほとんどされなく、
当初の様子について明らかにすることはできないままである。したがって、
本研究では、日本におけるエアロビックダンスの導入過程の一環として、1980 年代にエアロビックダンスの考案者ジャッ
キー・ソーレンセンがどの様にエアロビックダンスを日本へ紹介したかを明らかにし、そして日本におけるジャッキー・
76
01 体育史
ソーレンセンの活動がなぜ注目されていなかったのかについて検討し、外来スポーツに対する日本国内的な受容の一側面
を明らかにしようとする。
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[教育]
8 月 27 日
13:00
史 27 − 010
アイルランドにおけるラグビーのはじまり
トリニティ・カレッジのフットボールクラブ誕生(1854 年)から IRFU の設立(1879 年)まで
○榎本 雅之(滋賀大学)
アイルランドのラグビーは国家の枠組みを超えて一つの代表チームを作り出してきた。ただし、実情は中産階級内部に
おける水平的統合であり、階級や宗派を縦断する形の垂直的統合が図られているわけではないと言われている。アイルラ
哲
史
社
心
ンドにおけるラグビーの草創期は、ダブリン大学のトリニティ・カレッジでフットボールクラブが誕生(1854 年)し、
その関係者が各地にフットボールを広め、そしてインターナショナル・マッチ開催のために、全アイルランドを統括する
組織、アイルランド・ラグビー連盟(Irish Rugby Football Union)が設立(1879 年)される期間である。本研究では、
ここに焦点を当て、Handbook of Cricket in Ireland、全国紙 Freeman’s Journal、トリニティ・カレッジのフットボール
クラブ 150 年史などを用い、アイルランドでラグビーがどのように伝播し、普及していくのかを明らかにし、近代スポー
ツ発祥の地イングランドに地理的に隣接し、19 世紀を通じて帝国の一部であったアイランドにおけるラグビーのはじま
りについて検討する。
E24
[教育]
8 月 27 日
13:20
史 27 − 011
日本のバスケットボールにおけるゾーンディフェンスの採用過程(1930 年代~ 1940 年
代初期)
○小谷 究(日本体育大学)
本研究では、1930 年代〜 1940 年代初期の日本におけるバスケットボール競技のディフェンス戦術に着目し、1930
生
バ
経
発
測
年代にほとんど採用されることがなかったゾーンディフェンスが、1940 年代初期に採用されるようになった経緯につい
て明らかにしたい。1930 年代の日本では、ディフェンス戦術としてマンツーマンディフェンスが多くのチームに採用さ
れ、ゾーンディフェンスを採用するチームはほとんどなかった。そのため、当時のプレイヤーはゾーンディフェンスを打
方
ち破るためのオフェンス戦術であるゾーンアタックの経験を持っておらず、また、オフェンス戦術としてスクリーンプレ
イが用いられたことは、ゾーンディフェンスの有効性を発揮しやすくするものであった。さらに、1930 年代後半の日本
ではファストブレイクが多くのチームに採用されており、ゾーンディフェンスの必要性が高まっていた。このような状況
を背景として、1930 年代末頃からゾーンディフェンスを採用するチームが現れ出し、1940 年代初期にはゾーンディフェ
ンスが主要なディフェンス戦術のひとつとなった。
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[教育]
8 月 27 日
13:40
史 27 − 012
アメリカ人宣教師マリアナ・ヤング女史とバスケットボールの接点
○柿山 哲治(福岡大学スポーツ科学部)
保
教
人
ア
明治 35 年に撮影された活水女學校屋外体操場にバスケットゴールが設置されている史実は確認されているものの、ヤ
ング女史とバスケットボールの接点については明らかにされていない。本研究では、ヤング女史の出身校であるオハイオ
ウェスレヤン大学と卒業後4年間勤めたアレガニーカレッジにおけるバスケットボール史について調査を行った。その
介
結果、オハイオウェスレヤン大学の体育授業でバスケットボールが導入されたのは明治 30 年であり、ヤング女史は明治
26 年 6 月に当大学を卒業しているため、ここでバスケットボールと接した可能性は低いと考えられた。また、ヤング女
77
哲
史
社
心
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バ
経
史は明治 27 年 9 月から明治 30 年 7 月までアレガニーカレッジでラテン語およびギリシャ語を担当しながら、当カレッ
ジのヒューリングスホールで教務助手を兼任していた史実が発掘された。しかも、当カレッジに体育館が設置されたのは
明治 29 年であり、それ以前は、ヒューリングスホールでバスケットボールを含めた女子の体育授業が行われていた。し
たがって、ヤング女史は、活水女學校着任直前に勤めていたアレガニーカレッジでバスケットボールと接した可能性が示
唆された。
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[教育]
8 月 28 日
9:00
方
1920-30 年代の学校体育における「技術」をめぐる問題
大谷武一と二宮文右衛門の著書を手がかりとして
○藤川 和俊(東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科)
学校体育史研究では、1913 年の「学校体操教授要目」作成以後、
「技術の末に走る」ことが繰返し戒められていたに
もかかわらず、実際には、1936 年の要目改正に至るまで「技術」中心の授業が行われることが多かったとされている。
このような問題について検討することは、学校体育の中心に「技術」が定着していく過程を明らかにすることにつながる
と思われるが、なぜ「技術」中心に傾倒していったのかということはこれまでほとんど明らかにされてこなかった。
そこで、本発表では、1920-30 年代の学校体育に焦点を当て、「技術」中心の授業が行われていた要因を明らかにする
ことを目的とした。そのために、当時の体育界における中心的な人物であり、二度の要目改正に携わった、大谷武一と二
宮文右衛門の著書を主な史料として検討、考察した。その結果、両者ともに「技術」が児童・生徒の運動への興味を高め
ると考えていたことが明らかとなった。つまり、このような要因に支えられ、「技術」中心の授業が定着していったと考
えられる。
発
測
史 28 − 013
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8 月 28 日
9:20
史 28 − 014
戦前の北九州における小学校体育
昭和 9 ~ 14 年の北九州体育指導者協会の活動を中心として
○大熊 廣明
北九州体育指導者協会は昭和 4(1929)年に北九州 5 市(門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市)の小学校およ
び中等学校の教員によって設立された。その主な事業の一つに同協会が主催した学校体育研究会があった。本研究では、
保
教
人
ア
介
第 1 回~第 5 回(昭和 9 ~ 14 年)の学校体育研究会に関する資料を用いて、同協会の小学校体育に関する活動内容を
明らかにする。学校体育研究会では、会場校の体育紹介(学級体操の実演、課外体育の実演)
、協会指定学級の実演、体
育問題研究発表、会員座談会、講師による講評などが行われた。各研究会の要録には実演学級の体操科指導案が残されて
おり、当時の小学校の体育授業の様子を知ることができる。また、課外体育の記録からは当時の小学校における課外体育
の種目を知ることができる。さらに、体育問題研究発表の題目からは当時の教師が関心を寄せていた事柄を知ることが可
能である。そのほか、同協会会員は昭和 11 年に改正された学校体操教授要目や体育館に関する研究にも取り組み、研究
物を残している。これらの北九州体育指導者協会の活動を通して、戦前の北九州地区における小学校体育の一端を明らか
にしたい。
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8 月 28 日
9:40
史 28 − 015
昭和戦前期における高等女学校・実科高等女学校体操科受持ち教員について
『中等教育諸學校職員録』
(1930年、1934年)、
『高等女學校女子實業學校職員録』
(1939年)を手懸かりに
○掛水 通子(東京女子体育大学)
本研究の目的は、昭和戦前期における高等女学校・実科高等女学校体操科受持ち教員の実態を明らかにすることである。
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01 体育史
1930(昭和 5)年、1934(昭和 9)年発行『中等教育諸學校職員録』
、1939(昭和 14)年発行『高等女學校女子實業
學校職員録』を用いて、全国の高女・実科高女体操科受持ち男女教員配置学校数、男女別教員数、受持ち教科数、受持ち
教科名等を明らかにすることにより、女子体育教師の確立過程を検討する。
高等女学校では、体操科受持ち女子教員配置学校の割合は、昭和 5 年、9 年の 7 割 6 分から昭和 14 年には 8 割 1 分
に増加した。体操科受持ち教員中女子教員の割合は、昭和 5 年の 4 割 8 分から昭和 14 年には 5 割 5 厘となり半数を超
えた。体操科 1 科のみの受持ち女子教員の割合は、昭和 5 年の 6 割 8 分から昭和 14 年には 7 割 2 分に増加した。第二
哲
史
次改正学校体操教授要目(昭和 11 年)で、高女にも弓道、薙刀を加えても良いこととなり、昭和 14 年には弓道、薙刀
受持ち教師が増加し、弓道は男子、薙刀は女子教師が圧倒的に多かった。昭和 14 年には高女体操科受持ち男子教員中
34 人が応召中であり、女子体育教師がさらに必要とされたと考察される。
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8 月 28 日
10:05
史 28 − 016
関東大震災(1923 年)後の東京市における「復興公園」の設置について
錦糸、浜町、隅田の三大公園を中心に
社
心
生
○大林 太朗(筑波大学大学院)
関東大震災(1923 年)からの帝都復興事業を通して、東京市には 55 の「復興公園」が新設された。それらは公園史
において「日本における近代的公園の先駆け」と評価され、都市計画の分野では江戸時代からの原風景を一変させた大都
市建設事業の一部として位置付けられている。
本研究はその中で、とくに運動施設(プール、競技場、野球場、テニスコート等)が整備された三大公園:隅田、浜町、
錦糸に焦点を当て、被災地の中心ともいえる東京市にスポーツ公園が設置された経緯とその展開を検討した。史料には復
興局や東京市公文書(
『公報』含む)
、新聞や『都市問題』等の雑誌を用い、①建設を主導した復興局公園課長:折下吉延
のスポーツに関する認識、②各公園の特徴と市民による利用状況の分析を試みた。
その結果、折下は「積極的なリクリエーションの場」として各公園を整備したこと、そしてそこでは学生スポーツとと
バ
経
発
もに市民対象のラジオ体操やプール解放、また「俳優野球リーグ戦」等の興行的イベントが催されていたことが判明し、
三大公園が戦前東京市における大衆スポーツの舞台として機能していたことが示唆された。
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8 月 28 日
10:25
史 28 − 017
1920-30 年代の「(大日本)体育学会」について
事典用解説を念頭に
○木下 秀明
文科と理科の新大学設立に取り残された東京高等師範学校体育関係教官が「体育ノ改善進歩ヲ計ル」目的で設立したの
が、あえて「学会」と称した 1922(大正 11)年の「体育学会」である。「定款抄録」は事業の 1、2 項を「略」しているから、
主要事業は、3 項の目黑書店発行市販月刊誌『体育と競技』
(1922 年 3 月- 1940 年 12 月)編輯と、4 項「体育ニ関ス
ル講習会並ニ講演会」の一部である文部省講習会を模した夏冬休暇中の体操教員対象の講習会で、学会「会員」の参加を
優先優遇した。本会は「学会」とは名ばかりの体操教員対象の啓蒙普及団体に過ぎなかったのである。1928 年に「大日
本体育学会」と改称したのは、1924 年から体育書出版に着手した「日本体育学会」(代表真行寺吉太郎/朗生-日体卒)
を意識したからである。毎学期会員配布のパンフレット発行は、開始時期は不明だが、重荷だったようで、「大日本体育
学会パンフレット」は 1935 年の 25 号を終刊とした。初期の『体育と競技』には研究欄の確立を志向した時期もあるが、
「学会」らしい事業の「研究発表会」は、
文理科大学開学の 1929 年夏期体育講習会時の第 1 回と翌年の第 2 回だけである。
測
方
保
教
人
ア
介
79
哲
史
E24
[教育]
8 月 28 日
10:45
史 28 − 018
第 10 回極東選手権競技大会における満洲国参加問題の一考察
新聞報道を手がかりとして
○冨田 幸祐(一橋大学大学院)
極東選手権競技大会(以下極東大会)は、1934 年 5 月に行われた第 10 回大会を以て、その 20 年余りの歴史に幕を
社
閉じることとなる。その要因となったのは「満洲国」(以下「」を省略)の参加をめぐる日本と中国の相容れることのな
い対立であった。満洲国が極東大会に参加を希望して以降、日本は満洲国からの激しい要望を受けて参加を推進する一方、
中国はその参加を真っ向から反対した。大会前に開かれた上海会議では満洲国の参加は認められず、大会中に開催される
心
生
バ
経
発
総会において、今度は憲法改正問題として議論されるに至るが、解決点を見出すことは出来ずに中国が総会を途中退席し、
その行動を非難した日本がフィリピンと共に、新たに東洋選手権大会を創設することとなる。これまで満洲国の参加問題
に対する日本国内における体協以外の動きについては、わずかな団体しか明らかにされてこなかった。本報告では、これ
まで明らかにされてこなかった点、すなわち新聞各社の参加問題に対する社説や、各種団体(競技団体、右翼団体、学生
等)の動きに関して、日本と満洲国において発行されていた新聞を主な手がかりとして、明らかにし考察する。
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[教育]
8 月 28 日
11:10
史 28 − 019
戦時中及び戦後初期の中等学校体操科教員免許取得者について
○古川 修(東洋大学文学部)
戦前の教員検定制度は 1908(明治 41)年の「教員検定に関する規程」改正によって、ほぼ確立された。この規程は
1949(昭和 24)年 5 月、
「教育職員免許法」が公布されるまで続いた。免許制度のスタート以来、
「教員免許台帳」に
記載された体操科教員免許取得者は 2 万人をはるかに超えている。官立の養成校出身者は 7 千人を超え、無試験検定合
測
格者は 1 万 2 千人を超え、文検体操科合格者は 3 千人弱である。
「文部省年報」では 1941(昭和 16)年度から、1946
(昭和 21)年度までの 5 年間、中等学校教員免許取得者数の公表が見られない。新制度に移行する以前の体操科教員養
成に関わる全体像を掴むためには、
終戦を挟んだこの数年間の免許取得者の把握は不可欠である。そこで、
「教員免許台帳」
方
保
教
人
に記載されている 1941(昭和 16)年 4 月以降から 1950(昭和 25)年 3 月までに体操科に関わる免許取得者を抜き出し、
取得事由別に整理しようと試みた。その結果、7 千名余りの体操科教員免許取得者を明らかにできた。
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[教育]
8 月 28 日
11:30
史 28 − 020
戦時下における労務動員を目的とした小学校児童の結核対策
○三井 登(名寄市立大学短期大学部)
本報告は、戦時下における労務動員を目的とした小学校卒業予定者に対する結核対策(身体検査)について、文部省、
厚生省の施策に着目し、施策の成立の背景と具体的施策を明らかにすることを目的とする。小学校新卒者(以下新卒者)
に対する労務動員計画の具体化は、1939 年 9 月の職業紹介に関する通牒(厚生省職業局長より各地方長官宛)による。
ア
動員計画は新卒者を「新規重要給源」に位置づけ、厚生省は軍需工場等への就職を求めた。以後新卒者は「毎年度の労務
介
「“ 産業豆戦士 ” の中に最近結核により退職する者が少なくないので、厚生省職業局では来春学窓を巣立つ全国約五十万の
動員計画(国民動員計画)において、
つねに重要な動員の対象」
(西成田豊『労働力動員と強制連行』山川出版社、2009 年、
5 頁)となる。工場で働く新卒者の健康状態は早くも問題となり、1941 年 11 月 12 日付『朝日新聞(東京)』
(日刊)は、
就職学童を来月早々豫め一斉検診をしてから職場に送り出すことに決定」と報じた。学校を介して行われた健康な労働力
確保の為の身体検査だが、日本学校保健会編『学校保健百年史』
(第一法規出版、1973 年)は施策の意味や位置づけ等
検討していない。
80
01 体育史
E24
[教育]
8 月 28 日
11:50
史 28 − 021
近・現代における祭祀芸能に関する史的考察
奉納形態に着目して
哲
史
○松本 彰之(日本体育大学大学院)
「まつり」は、古代に生まれ中世に発展し近・現代にまで続いている。人びとにとって、神仏は重要な意味のある存在
である。人びとは、神仏から豊作・豊漁という大きな喜びを与えられ、また神仏に祈ることで自然災害や疫病災厄から免
れると信じて願う。多種多様な日本の「まつり」の原点は「神仏を迎え、もてなし、お送りする」ことである。「まつり」
社
は、神仏に喜んでもらうという人びとの思いを込めた「もてなし」である。
神とともにひとときをすごすときに、繰り返される人びとのさまざまな行為から生まれた祭祀芸能により、人びとは神
をもてなす喜びを得るだけでなく、その喜びを得る行為を芸能からさらに大きな価値あるものへ、自らが生きる証を確か
められる文化、
芸術へとして成長させてきた。本来「まつり」はいうまでもなく、人間の生活における宗教的な営みであっ
た。ゆえに、人びとはそれぞれの時代に、神仏を祀り芸能を奉納してきていたのだ。本研究では、主に近・現代において、
人びとが神仏を祀り、さまざまな祭祀芸能を奉納してきたことに焦点をあてて、その奉納の形態の意味を史的考察により
明らかにする。
E24
[教育]
8 月 28 日
13:00
心
生
バ
史 28 − 022
国民体育大会の「地方開催」への展開
石川県による第二回大会(1947)の招致運動に着目して
○村井 友樹(筑波大学大学院)
都道府県持回り開催により発展してきた国民体育大会(以下、国体)は、各都道府県のスポーツ施設やスポーツ指導体
経
発
制を充実させるなど日本のスポーツ振興に一定の貢献をしてきた。一方、都道府県持回りによる国体の開催は、国体の肥
大化や過度な選手強化に繋がってきたことも指摘されている。この賛否両論のある国体の都道府県持回り開催の始まりを
解明する一端として本研究では、従来の慣例を覆して「地方開催」の先陣となった石川県による第二回大会(1947)に
測
着目し、なぜ一地方都市の石川県が第二回大会の招致を成功させることができたのか、その要因を北国毎日新聞や宮崎資
料などを用いて探った。その結果、第一に非戦災都市。第二に大島鎌吉の貢献。第三に結核対策の訴え。第四に政府補助
金の獲得成功。第五に石川県経済界の支援という要因が石川県の第二回大会招致成功に大きな影響を与えていたことが明
らかになった。これら要因による石川県の第二回大会招致の成功は、その後の各都道府県による招致運動を活発化させ、
国体の都道府県持回り開催の確立を促したと考えられる。
E24
[教育]
8 月 28 日
13:20
保
史 28 − 023
人事院における日本レクリエーション協会指導者資格検定推薦委員会の設置に関する研究
1954(S29)年総理府経済審議庁原義綴(審総庶)をもとに
○岩佐 直樹(中京大学大学院)
方
來田 享子(中京大学)
教
人
1947 年に制定された国家公務員法は、翌年に大幅に改正され、人事院が設置された。人事院が同法に基づいて公務員に
レクリエーション活動を奨励していたことは、これまでの検討で指摘されている。この人事院の動向とレクリエーション
運動の普及を目指していた日本レクリエーション協会
(以下、
レク協)
との関わりについては検討されていない。本報告では、
ア
この点に着目し、レク協役員と人事院職員から構成され、1954 年に人事院内に設置された推薦委員会の目的と仕組みにつ
いて 1954 年の総理府経済審議庁原義綴(審総庶)を用いて検討する。検討の結果、委員会の目的は、制定から 3 年を経
たレクリエーション指導者資格検定規程を受験する公務員の窓口となり、彼らをレク協に推薦することであり、そこでは
介
一定の基準が設けられていた。この基準は実質的な指導者資格検定規程の合否判定の基準として機能していたが、公務員
への特段の配慮をするものではなかった。以上のことから 1954 年頃のレク協の普及活動の重点のひとつは指導者養成であ
81
哲
史
社
り、当時の法制度上、一定の制限があった公務員をターゲットに含めて、これが実施された可能性があることが示唆された。
E24
[教育]
8 月 28 日
13:40
史 28 − 024
1972年第11回オリンピック冬季競技大会(札幌大会)の開催準備期における滑降競技会場移転論争
IOC 理事会・総会議事録および IOC と札幌大会組織委員会との往復書簡の検討を中心に
○石塚 創也(中京大学大学院)
來田 享子(中京大学)
札幌大会の開催準備期には、恵庭岳滑降競技場の建設と自然保護をめぐる議論がなされた。大会後の競技施設の撤去と
心
跡地への植林は、オリンピック・ムーブメントにおける環境保護対策の最も初期の事例の一つとされる。一連の議論では、
滑降競技会場を恵庭岳から移転することも検討された(以下、移転論争)。先行研究では、北海道自然保護協会理事長が
滑降競技会場の移転を求める書簡を国際オリンピック委員会(以下、IOC)会長に送付したことが指摘されている。そこ
生
バ
で本研究では、移転論争の詳細を明らかにすることを目的とした。本研究の結果、移転論争は、先行研究で示された移
転を要求する書簡の送付に起因したことが明らかになった。また、移転論争は、恵庭岳の使用の是非について問われただ
けでなく、富良野のスキー場の改良をめぐる折衝をも包含していたことが示唆された。移転を要求する書簡を受けた IOC
会長は、恵庭岳の使用が札幌大会開催そのものに影響することを懸念し、これを考慮すべきかどうかを大会組織委員会に
書簡を通じて問い合わせた。このような書簡のやり取りが存在した一方で、IOC 理事会・総会では移転論争について触れ
られることはなかった。
経
発
測
E24
[教育]
8 月 28 日
14:05
史 28 − 025
16 世紀ドイツにおける剣士団体「羽剣士団」の成立事情
○楠戸 一彦(環太平洋大学)
15 世紀のドイツには、
「市民」身分の剣術師範たちが結成した「マルクス兄弟団」
(Marxbrüderschaft)と称する剣士
団体が存在した。この団体は、1487 年 8 月 10 日に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ 3 世より、
(1)「剣術師範」の呼称権、
方
(2)
「剣術興行」
(Fechtschule)の開催権、
(3)剣術の教授権を独占的に保証された「特権状」(Privilegierter Brief)を
与えられた。この特権状は、その後レオポルド 1 世(1669)に至るまでの各皇帝によって更新された。
しかしながら、16 世紀後半になると、
「マルクス兄弟団」に所属しない剣術師範が登場し、剣術を教え、剣術興行を開
保
教
人
ア
介
催した。彼らは「羽の自由剣士」
(Freifechter von der Feder)あるいは「羽剣士」
(Federfechter)と称し、
「マルクス兄弟団」
の剣術師範と対立し、マルクス兄弟団と同様の特権状の取得を熱望した。その結果、羽剣士は 1607 年 3 月 7 日皇帝ル
ドルフ 2 世より特権状を獲得した。
本発表は、上述のような剣士団体に焦点を当て、特に羽剣士団の成立事情について考察を加える。(本研究は、科学研
究費補助金(基盤研究(C)
)
、課題番号:25350815、に基づいている。)
E24
[教育]
8 月 28 日
14:25
史 28 − 026
Charles Caldwell の Thoughts on Physical Education(1836)にみる身体教育論
身体教育における身体と精神の検討
○榊原 浩晃(福岡教育大学)
Charles Caldwell(1772-1853)は 19 世紀のアメリカの医学者であり、1796 年にペンシルヴァニア大学医学部で医学
博士の学位を取得した。1834 年に発刊された Thought of Physical Education(1834, Boston)と題する彼の著書が確認
された。その著書は 1833 年 11 月 6 日から 7 日にケンタッキー州レキシントンの教員代表大会で「身体教育の考え方
(Thoughts onPhysical Education)
」をめぐって講演した際の記録として記述されたモノグラフである。2 年後、イギリス
82
01 体育史
のエジンバラで再版された同名の著書(1836, Edinburgh)には内容がほぼ踏襲されつつも、註と文献が加筆されている。
こうした単行本を検討しなければならないのは、Samuel Smiles の初期の単行本である Physical Education(1838)の叙
述の中で Caldwell の単行本からの引用がなされ、影響が及んでいたからである。当時の英米の医学者らの専門書や彼ら
の知見が把握できる。本研究は、特に、Caldwell が主張した身体教育における身体と精神(知性や徳性を含む)の関係や
身体教育の目的と意義及び根本的な考え方を明らかにした。
E24
[教育]
8 月 28 日
14:45
史
社
史 28 − 027
オリンピック憲章における参加資格規定関連条文の変遷に関する考察
○平見 俊之(中京大学)
來田 享子(中京大学)
IOC は設立当初より、アマチュアリズムを重視し、スポーツから物質的利益を一切得ない者がアマチュアであり、アマ
チュア競技者のみがオリンピック競技大会に参加できるというという参加資格規定を確立した。しかしながら、現在では
プロフェッショナル競技者の参加を容認している。そうした流れを受けて、従来の研究では、アマチュアリズムの生成・
崩壊過程の研究に重きを置いたものが多くなっている。本研究では、1908 年から 2011 年までに発行された全 56 版の
オリンピック憲章における参加資格規定の変遷を明らかにした上で、1894 年から 1985 年までの IOC 総会、1921 年か
ら 1975 年までの IOC 理事会の議事録を中心に、参加資格規定に関する議論を検討し、参加資格規定が変更される際に
どのような議論が行われたのかについて明らかにした。その結果、社会状況の変化、関係 IF との議論の影響などを背景
にして、条文の枝葉に変化は見られたものの、IOC が、スポーツに物質的利益以外を求める競技者を大会に参加させる、
という根幹の理想には変化は加えられていなかった。この理想はクーベルタンの理想とほぼ合致した内容となっており、
IOC が求める競技者像が一貫していることを示している。
E24
[教育]
8 月 28 日
15:10
哲
生
バ
経
発
史 28 − 028
Thomas D.Wood の学校衛生と体育論をめぐる思想形成の推移
Selections from Addresses by Thomas D. Wood(1932)の資料価値の検討
○中牟田 佳奈(福岡教育大学大学院)
心
榊原 浩晃(福岡教育大学)
測
方
Thomas D.Wood はアメリカにおける新体育の提唱者として知られる。演者らは、旧福岡学芸大学(現在の福岡教育大
学)の岡部平太教授の関係資料からこれまで知られていない小冊子資料を発掘した。これは Wood のコロンビア大学の
退職記念論集ともみなされる。Wood 自身の発表論説のみを時系列に綴った中には、先行研究でも取り扱われなかった論
説も含まれている。Wood の思想形成過程をより精緻化するためには、この小冊子資料は欠かせない。Wood の新体育論
をめぐっては、これまで内外においても多くの先行研究が明らかにしてきた。小冊子資料の中でも初期の体育論の萌芽は
1893 年の論説にみられ、1903 年の論説では学校衛生が学校教育に位置づけられている。1910 年の『健康と教育』は
思想形成上では画期をなしている。さらに、健康(保健)と体育の関連は 1927 年の『新体育』にも継承されるのである。
1932 年にコロンビア大学を退職するまでの論説のいくつかをこの小冊子資料はカバーしている。本研究では、小冊子資
料そのものの価値を明らかにすると共に、Wood の学校衛生と体育論をめぐる思想形成の推移とその要点を看取した。
E24
[教育]
8 月 28 日
15:30
史 28 − 029
空白の日伯スポーツ交流
1933 年「南米派遣日本陸上選手団」の遠征
○曾根 幹子(広島市立大学)
保
教
人
ア
介
1933 年に日本移民渡伯 25 周年記念事業として実施された「南米派遣日本陸上選手団」の遠征は、わが国が南米に派
83
哲
史
遣した初の公式スポーツ選手団であり、日伯スポーツ交流の嚆矢となったが、わが国のスポーツ史において等閑に付され
たままとなっている。本研究は、先の遠征における選手らの動向や交流の実際を明らかにし、日伯スポーツ交流史の空白
を埋めることを目的としたものである。当該研究に関しては日本体育学会第 56 回大会において、研究経過報告をしたが
(p.170)、その際、外務省に報告された内容と、現地日系新聞(聖州新報社)との記事に齟齬があり、選手の動向に不確
かな箇所があることを課題としてあげた。しかし最近、現地調査によって選手が訪れたとされる「東山農場」(サンパウ
ロ州カンピーナス市)で新た資料を発掘したことから、先の課題が解明された。同時に、選手の動向に関しても、新しい
事実が判明した。本遠征を契機に始まった日伯スポーツ交流(陸上)は戦後も続き、ブラジルの陸上界に多大な影響を与
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発
測
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84
えた。その契機として先の遠征があったことが、調査結果から明らかになった。当日、詳細に報告する。
E24
[教育]
8 月 28 日
15:50
史 28 − 030
国際女子スポーツ連盟(FSFI)の消滅 / 解散時期と状況
国際陸上競技連盟関係史料および FSFI 事務局 G.Ganeux 発文書の検討から
○來田 享子(中京大学)
本報告の目的は、先行研究により複数の異なる見解が示されてきた国際女子スポーツ連盟(以下、FSFI)の消滅 / 解散
時期や当時の状況について、新たな一次史料を用い、追補することである。この問題の解明は、FSFI の消滅 / 解散前後
の各国内女子陸上競技統括組織の動向を歴史的に位置づけるためにも欠かせない。1921 年に設立された FSFI は、女性
スポーツを統括する世界初の組織であり、いわゆる「女子オリンピック大会」の開催とオリンピック大会への女子陸上
競技の採用をめぐる IOC および国際陸上競技連盟(以下、IAAF)との議論によって知られている。従来は、IAAF による
女子陸上競技統括に伴い、FSFI は 1936 〜 1937 年に消滅したとする見解や 1936 年 8 月の総会で自ら解散を決定した
とする見解が示されてきた。本報告では IAAF の関連史料と FSFI 事務局長 G.Gagneux による文書を用いた。検討の結果、
FSFI の消滅 / 解散の時期は㓛刀(2007)が指摘した「1937 年 1 月」説が有力とみられた。その一方で IAAF 側の史料から、
IAAF は FSFI にいくつかの条件を提示しつつ、1936 年度内の運営終了を求めていたことが明らかになった。
E24
[教育]
8 月 28 日
16:10
史 28 − 031
旧東ドイツスポーツ関係者の言説
K. フーンと I. ガイペルへのインタビュー調査を中心として
○寳學 淳郎(金沢大学)
本研究は、社会主義の模範と言われ、スポーツでも世界の注目を集めた東ドイツのスポーツ史を再構成するための基礎
的研究として、ドイツ再統一後 20 年以上を経た今、東ドイツスポーツ関係者にインタビュー調査を行い、彼らが東ドイ
ツスポーツ及びその周辺について語るものを検討するものである。調査は可能な限り様々な分野の数多くの関係者に実施
することが望ましいが、先ずは自叙伝的著作を著した関係者への可能性を探った。今までに彼らの自叙伝的著作の内容を
分析してきたので、彼らの生い立ちや関心が大筋理解されているからである。それにともない、調査の内容は自叙伝的著
作の内容が主となった。インタビューは 2009 年から 2012 年にドイツにおいて実施した。
今回は、東ドイツの著名なスポーツジャーナリストであった K. フーンと女性陸上選手であった I. ガイペルへの調査を
中心に発表する。東ドイツスポーツのポジティブな側面やネガティブな側面などについて、二人の言説には相異があった。
二人の東ドイツ及び再統一後のドイツにおける職業、地位、経験、立場などが強く反映していると考えられ、恣意的な言
説には慎重な取り扱いが必要と思われる。
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