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Instructions for use Title ロイド・ジョージとヨーロッパの再建
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(3)
吉川, 宏
北大法学論集, 14(1): 66-157
1963-08-31
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/16025
Right
Type
bulletin
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Information
File
Information
14(1)_p66-157.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
同国
ロイド・ジョージとヨi ロ
ッ パの再建
はしがき
第二節人民外交と干渉政策
第一節和睦の諸前提
第四章ヨーロッパの安定とロシア
第二節保障条約(以上本誌第一三巻第三・四合併号﹀
第一節﹁カルタゴ式講和﹂との対立
第三意図家的インセキ品リテイの極小化
第二節軍縮案の基本目標
第一節国際連盟と現実政策
第二章現実主義的平和構組
第三節﹁実際問題﹂の解決(以上本誌第一三巻第二号)
第二節人民的統制の諸様相
第一節象徴の遺産
第一章ロイド・ジョージ外交の条件と課題
次
説
論
(三)
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l
l
宏
北法 1
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)
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6
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建同
第一節ムlド対政策
第五章賠償問題をめぐる世論と外交
ヨーロッパの安定とロνア
第三節﹁政治のプロテウス﹂
第二節﹁戦費﹂対﹁損害賠償金﹂(以上本号)
むすぴ
第四章
和睦の諸前提
際に存したであろうか。資本主義諸国の大多数の政府指導者達は、革命の失敗という﹁一個の偶然﹂をこそ期待して
れまで目撃しまた経験した最大要因の一つとなるであら引。﹂一九一九年に、かかる認識に達した西欧の指導者達が実
よって決せられよう。 ロシアが平和を維持すれば、 ロシア革命は、あらゆる国の大衆の運命を形づくる上で人類がこ
的発展の道をたどらせうるか、あるいはそのェ、不ルギーが消耗されて、 その目的が戦争によってそ=りされるか否かに
民に及ぼすかどうかは、﹁一個の偶然﹂ によって決せられるのである。 その問題は、﹁革命の指導者がその運動に平和
あげている。彼の説くととろによれば、 ロシア革命が、 フランス革命の及ぼしたような大きな影響をあらゆる国の人
今日既に人類の事件の進路に明瞭な影響を及ぼし、年を経ると共にますます影響を及ぼし続ける二つのもの﹂として
ロイド・ジョージは、﹁犬戦回顧録﹂の中で、国際連盟とロシア革命とを、﹁戦争の直接的な結果として生じたもので、
節
3
いた。彼らは干渉戦争をしかけ乙そすれ、 ロシアの革命運動 K平和的発展の道をたど り せ よ う と は し な か っ た の で
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第
ある。
第一次大戦中に始まったロシアへの軍事干渉は、対独講和の段階でなお続行されていた。連合国の政府が戦争中に
表明したととろに従えば、干渉は主として軍事的な理由によるものだった。ドイツとの休戦は、弁明の余地なき不当
な乙の干渉理由をさえ失わせていた。だが、資本主義諸国支配層は、 な に よ り も ボ ル シ エ グ ィ キ 政 権 の 崩 壊 を 希 求 し
ていた。干渉の大義名分のないととは彼らにとって問題でなかった。 ボ ル シ エ グ イ ズ ム の 掃 滅 は 、 現 実 に 、 資 本 主 義
ロシアに対するそれまでの巨額な
列強の統一行動のための共通目標たりえた。戦争による旧来の価値体系の動揺あるいは崩壊の中で、諸国支配階級は
革命運動がロシアに根を下ろす乙とを恐れ、革命のインパクトを恐れた。彼らは、
投資から、ボルシエグイキによる外債不払宣言に大いに憤り、またロシアが世界資本主義の環から脱することに不安
を感じ、資本主義世界の損失をみた。 か く て 、 資 本 主 義 列 強 の 支 配 階 級 は ロ シ ア に 平 和 を 与 え よ う と は し な か っ た の
ベイカ 1は書いている。 ﹁パリはモスコーを除いては理解されえな
である。 ロシアの革命運動への対処が、資本主義列強全体にとっての重大問題であった以上、 ロシア問題がパりにお
ける諸決定に影響を及ぼしたのは当然であった。
ぃ。パリに全然代表を出す乙となしに、 ボルシエグィキとボルシエグイズムは至る所で強力な構成分子であった。
ロシア革命によるツア Iリズムの崩壊は、資本主義列強の権力拡張への欲求を刺激するものであった。
ロ
か
く
シアはパリでプロシアよりも重要な役を演じた!﹂と。
さ
点か旨りすれば、権力は無限に拡張しようとすると考えられるから、権力の闘争場裡で、
一つの権力の弱体化は他の権
とのことは共産主義政権の打倒という資本主義列強の統一目標を頓挫させる重要な要因の一つとなる。権力政治の観
て、ボルシエグィキ政権の打倒という目標は、外交政策の上で、権力の増大という目標と重複して現われる。そして
て
説
論
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ロイド・グョージとヨーロッパの再建伺
力の拡張性向を誘発せずにはおかない。 ボルシエグイキ革命は、
ツア 1 リ ズ ム の も っ て い た 膨 張 主 義 の 内 側 か ら の 崩
壊であり、またそれはロシア軍事力の崩壊をもたらしたと観取された。 かくて、 ヨーロッパ国家体系のみならず世界
の勢力関係において、 ロシア膨張主義の後退は、西方での英仏、東方での日米の進出を誘発していたのである。純粋
に権力政策の観点からみれば、 ロシアへの進出はロシアの抵抗力と干渉列強の攻撃力との均衡点まで可能であると考
一九一九年一月末、 ソグエ
えられるのであり、また拡張のためのチャンスである一国の弱体化あるいは後退を扶手傍観する乙とは、拡張政策を
とろうとする者によって、 そ乙へ他の列強の進出を認める乙ととみなされるのであった。
ト政府と連合国との話し合いが試みられようとしていた時、 チ ャ ー チ ル は 英 仏 米 義 勇 軍 に よ っ て で も 軍 事 干 渉 を 続 行
すべき乙とをリッデルに示唆した。 リッデルが、 イギリスの世論はそれに同意しまいと述べたのに対し、彼は国民の
考えの変わることに期待を寄せて、次のように語っている。﹁戦争は終った。これは共通目標へ向けられていた共同の
統一行動の時期が終ったことだと思う。統一行動は決して再現しないだろう。今やわれわれはすべて再度互いに闘争
している。私は共に戦ってきた勇士等とともに国家を盛り立てたい。偉大な国民的成果の基礎の形成を彼らに求めた
い。より大なるイギリスにするために彼らの一致団結を私は欲していがにと。乙の言葉からも明らかなように、ボル
ロシアに対する軍事干渉に関す
シエヴィキ政権の打倒を共通目標に軍事干渉を行ないながら、資本主義列強は彼ら自身の聞で新たに権力闘争を開始
していたのである。
資本主義列強閣の権力闘争は乙れらの国の統一行動を強く制約せざるをえないが、
る限り、干渉政策の抑制にはもう一つ重要な要因が働いていた。それは干渉政策に対する民衆の側からの統制である。
その具体的内容については後述するが、 かかる統制が働いていたため、 ボルシエヴイズムの脅威を等しく口にしなが
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説
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一方のグル
らも、列強の指導者達は、権力闘争における思惑や状況認識の違いから、対露政策あるいはボルシエグイキ政権への
対処方法について、基本的とはいえぬが、明らかに意見を異にしていた。彼らの意見を大別してみると、
ープは、安定の撹乱要因としてのボルシエグイズムの絶滅に体制安定の方策を求めようとした。 乙れに対し、他方の
グループは、体制の安定を体制自体の内側からの強化によって確保しようとし、革命のインパクトに備える乙とを重
視した、 と特徴づけうるであろう。前の、グループは、もつばら力の政策を主張した政治家や軍人からなり、 チ ャ ー チ
ル、クレマンソ lおよびフオツシユによって代表される。彼らは、 ボルシエグイキ政権とロシア人民の関係を殆ど間
題にしないか、あるいはボルシエグィキの統治を野蜜な支配関係と規定し、 ボ ル シ エ グ イ ズ ム の 拡 大 を 、 革 命 運 動 の
技及としてよりも、赤軍による侵略として把握し、また﹁疫病﹂としての革命の阻止は、病家の清掃あるいは﹁防疫
線﹂をはりめぐらすことによってなさるべきだと主張した。ロイド・ジョージは数少ない後のグループに属した指導者
の一人であった。彼らは、状況把握やソグエト政府との和睦への接近方法における弾力性において、前者のグループ
の態度に対し顕著な相違を示した。パリ平和会議でなされた多くの決定の中で、対露政策の決定くらい、政策の一般
目標において一致しながら、連合国の統一意見を導き出せなかった決定はない。 ボ ル シ エ グ イ キ 政 権 の 崩 壊 を 望 み ま
たそのための政策を積極的に作成しようとしながら、連合国指導者達は平和会議の最終段階に至るまで、明確な政策
の決定作成をなしえないでいた。政策の遂行のためには目標の定立とともに権力手段による裏づけが必要であった。
一定の目標に固執する場合に、固定さ
あるいは目標と手段との衡量が必要であった。 しかるに、連合国の指導者達の多くは、対露政策の決定作成において
権力の諸与件や実行可能性を無視したメロドラマを演じようとしたのである。
S自由昨4
れた目標達成のための行動に移る乙とが急務とされて、、政策立案に際し選択対象(同日2
)の提起がおろそかにさ
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れざるをえない。 ロシア問題についての決定作成で、指導者達は治のような状態にあった。ところで、ロイド・ジヨ 1
ジとウィルソンとは当初軍事干渉に反対した点でパリにおける特異な存在であった。殊に、前者は状況の正確な把握
を求め、選択対象の提起によって政策を決定しようとした例外的存在であった。 以下、まずイギリスに対するロシア
革命の影響に彼がどのように対処していたかから始めて、彼がいかなる観点からソヴェト政府との話し合い、あるい
は交渉を押し進めようとしたかを、順次考察してみることとする。
さて、ロイド・ジョージは、帝国主義段階における資本主義国の内政改革に新機軸をもた胃りした政治家であった。ロ
ジア革命への対応において、内政改革一般の必要性への理解は、 ツア lリ ズ ム の よ う な 腐 敗 ・ 堕 落 し た 体 制 に 対 す る
社会革命の必要を認める素地となる。彼は、 チャーチルやカ 10
ソンのようにツア 1リ ズ ム の 崩 壊 に 不 安 を 感 じ 、 ボ ル
シエグイズムの平等主義に生理的嫌悪を感ずることがなかったであろう。かかる心理的余硲はまた、ボルシヱグイズ
ムの脅威の実際を本観的に判断することを可能にするのである。﹁革命への恐怖﹂が強ければ強いほど、ボルシエグイ
ズ ム の ︽ 渉 透 ︾ と ︽ 侵 入 ︾ と の 区 別 が つ か な く な る の で あ る が 、 右 の 区 別 を な し え た 政 治 家 に と っ て 、 ボルシエグイ
ズムの当面の脅威が赤軍による侵略の脅威にあるのではないとの判断は容易になされえたであろう。政治体制の安定
にとっての当面の問題は、 ロ シ ア 革 命 の イ ン パ ク ト に あ り 、 革 命 の 波 及 は 園 内 に 危 険 な 爆 発 物 が 堆 積 し て い る こ と を
条件とすると認識されていたであろう。休戦後の状況を考えるに、兵士の叛乱や労働運動の昂揚等、従来の社会秩序
の動揺を示す諸事件が勃発していた。従って、ロイド・ジョージのような政治家といえども、イギリスのボルシエグイ
キ化の危険が全くありえないと楽観視しえなかったであろう。彼は、総選挙投票日前夜に行なった演説で、労働党が
極端な平和主義ボルシエグィキの一派によって引きずりまわされようとしていると述べている。﹁政府から労働党を引
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っぱり出したのはこの一派だ。・::::何故か。彼らが実際に信じていることはボルシエグイズムであった。 乙の連中
は誰か。 それはあの党の大立て者達である。彼らの一人二人を名指してみると 111ラムゼ I・マクドナルド氏、スノー
J 乙れはまさにロシアで起った
ζとである﹂と。
デン氏そしてスミリ l氏その他である。::::・労働党が勝ったことを想像してもみたまえ。政権につくや政府を動か
すのはこれらのひとびとなのだ
乙のように、ロイド・ジョージは労働党の勢力拡大に対してさえ、革命への危険のあることを吹いている。旧秩序に
対する反抗の風潮の一般化と、新しい社会秩序への展望の聞けなかった当時の情勢からも、﹁近代的煽動政治家のはし
り﹂といわれる彼がこのような煽動を行なったのは当然であろう。 し か し 、 彼 は イ ギ リ ス で の 社 会 主 義 革 命 の 勃 発 を
現実の問題として考えていたであろうか。労働党とボルシエグィキとの結びつきを喧伝した右の演説の数日前に、彼
のブレーンとの談合で、たまたま共産主義者の議員候補が話題にのぼった際、﹁私は彼らの幾人かが下院に現われるの
はょいと思う。議会が彼らの意見開陳の場になる。彼らは議会の外にいるより、中にいる方がよい﹂と彼は語ってい
る。乙の言葉に窺いうるところの自信の方が、当時の彼の実際の心を伝えているように思われる。当時の世界は、全
体として、動揺と混乱の中にあったが、戦勝国の場合には、戦勝それ自体が体制の安定にとって重要な要因たりえた。
それは、最小限、 旧来の支配層の存立を保障するものであった。全面戦争を遂行しえたということは、とりもなおさ
ず、支配関係の維持に成功しえたことの証左にほかならなかった。戦後政策の基本目標は、醸成された改革のムード
の中で、戦争で疲弊し、弛緩した支配秩序を維持するととであった。 ロイド・ジョージは、彼が手がけてきた政治体制
における、改革の諸方策の弾力的採用の可能性に充分な信頼をよせていたといえよう。 そして、 園内政治の課題とし
ての ﹁改造﹂が革命に対処する道だとすれば、国外の革命運動に対処する道も、改造や復興との関連で構想されざる
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をえない。 イギリスの政治体制にとっても、 ヨ ー ロ ッ パ の 同 民 間 家 体 制 に と っ て も 、 安 定 へ の 道 は そ れ ら 自 体 の 強 化
に求められることとなるのであった。
休戦後、ロイド・ジョージの対露政策が初めて明らかにされたのは、一九一八年一二月初めロンドンで開かれた連合
国会議においてであった。後年、彼は平和条約作成当時の情勢を回想して、西欧およびアメリカの住民の大多数がボ
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ルシエグイズムの粉砕されるのを望んでいたであろう乙とは疑いえないが、治もこの課題にとりかかる用意はしてな
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からの反対運動が予怨された。
かかる
かったと書いている。既に考察したように、軍事行動一般を制約する同内の諸条件は強化されていたし、またロシア
の反ボルシェヴイキ勢力に対する大規模な援助についても、 同 内 の 労 働 諸 勢
情勢をとらえて、ロイド・ジョージはロシアとの和睦の可能性を採ることに連合同の採るべき追を見出そうとした。一
九一八年末の時期に、和睦への道を探ろうとした者は、主要政府指導者の中ではウィルソンと彼のみであったといえ
ょう。連合国会議で、彼はロシアの革命派と反革命派いずれの側の代表をもパリに招泊することを提案し、彼らの間
の 謝 停 に よ っ て ロ シ ア の 政 治 的 安 定 を 図 る と い う 政 策 を 提 案 し た の で あ っ た 。 パ ル フ ォ ア や カ 1ゾ ン は 平 和 会 議 に ソ
ヴェト・ロシアの代表の出席することに反対したし、またクレマンソーも両者の立見を強く支持して、戦争中に連合国
とれに対し、
ロイド・ジョージは、
ロシア問題について決定を下すほど機が熟してはいないと述べながらも、
聞の協約を裏切って単独講和を行なったロシアに代表権を与えることには、全力を傾けて反対すると述べたのであ
った。
ロシアが存在しないかのごとく手続きすることはできな
ロ シ ア が 他 の 連 合 国 に 劣 ら ず 戦 争 の 惨 禍 を 支 っ て い る こ と 、 そしてロシア
左にあげる理由からロシア代表の出席を主張した。第一に、
いこと。彼は、大戦がロシアから始まり、
がヨーロッパの三分のニほどとアジアの大部分に相当する乙とを指摘した。次に、 ボルシエヴィキをどのように考え
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ょうと、彼らがロシアの人口の大多数に対する支配権を掌握しているように思われることである。このことは﹁事実、
円四
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疑いない不吉な事実である、がしかし好ましくない事実だからといってそれを否定することはできない﹂と彼は主張
ー
、 ロシア問
の対露政策を打開する好機であった。 それは彼が提示していた方針の推進を刺激したと考えられる。 :
みれカ
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した。彼はまたロシアに対し固定した態度を取ることに反対した。
右の発言からも、この問題でロイド・ジョージが事実の認容から出発して、弾力的な態度を採ろうとしていることは
明らかである。彼はボルシエヴイズムを認めたわけでもないし、また理解しようとしたわけでもない。 しかし、
一一一月の連合
ノ
レ
のより公式な交渉を進めることの可能性を示唆した。ソグェト政府の提案は、ロイド・ジョージにとって、手詰り状態
イド・ジョージとの会談で取り上げられ、その際後者は、リトグイノフ提案の真意を探るためにボルシエグイキ政権と
復と外交関係の正常化を中心に講和を提案した。(↑山口凶作↑仁川一一一泊一M1一町⋮γ
)この提案は当時訪英中のウィルソンとロ
連合国政府が干渉戦争の強化か和平への道を採るかについて決しえないでいた乙の時に、ソグェト政府は平和の回
同意するにとどまった。
国会議では、結局、 アメリカ政府の意見の確認なしには、 ロシア政策に関しいかなる結論も出しえないということに
永続的平和にとって乙の問題がきわめて重要であることを認識していたことから出されたといえよう。
ヴィキ政権の代表をも招請しようとする政策は、彼がロシア問題の早期解決を求めていたことの現われであり、また
とは、 ロシアが国際政治で占めている比重の大きさからも、現実を加問﹃侃した方策と考えられるのであった。 ボルシエ
の事実を認めるべきなのであった。従って、連合国を裏切って戦線を離脱したという理由でロシア代表を除外するこ
シェヴィキがロシアの権力を殆ど掌握していることは認められざるをえないと考えた、否、政策をたてるためにはこ
ボ
説
論
ロイド・グヨークとヨーロッパの再建伺
題 の 決 定 作 成 で 、 厳 密 に は 、 多 く の 政 府 指 導 者 は 選 択 を 含 む 政 策 を 検 討 し て い た の で は な い 。 彼 ら に と っ て 、 ボルシ
エグイキ政権は事実上もその存在を認めらるべき政権でなく、交渉の対象とさるべきでなかった。
一二月三一日、パリ平和会議を直前にして英帝国戦時内閣が開催され、 そ 乙 で 他 の 諸 問 題 と 共 に ロ シ ア 問 題 も 論 ぜ
られた。ロイド・ジョージの意見は一二月初めの連合国会議において明らかであり、ロシア関係の正常化を彼は目標と
していた。 し か し 、 政 府 内 部 に は 対 露 干 渉 政 策 に ﹁熱狂的で倦むことを知らぬ﹂二人の強力な主張者が存した。
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汀
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欠如しているにせよ、﹁ともかく政策を有しないこと以上に誤ったことはないのであり、誤った仮定で断固として進ん
由がロシアからの諸々の情報の聞にみられる絶対的矛盾にあり、またその故に確同とした事実関係についての認識が
であるととに同意し、また彼のロシア政策が確定する乙となく左右に動揺していることを認めた。 そして、動揺の理
主張したのである。乙れに答えて、ロイド・ジョージは、ロシア問題が他のいずれの問題よりも先に決定さるべき問題
選挙によって一拐されるがごとき勢力でしかないのであった。また、彼はロシア問題に関する決定が緊急を要すると
ロシアのボルシエグイズムは人口の単なる一小部分を代表しているにすぎず、連合同の賛助の下で行なわれる総
は事態を回復しまた民主的政府を樹立するために武力を行使するであろうというととである﹂と述べた。彼の意見で
﹁われわれがロシア人K言 う べ き こ と は 、 彼 ら が つ い て 来 る な ら わ れ わ れ は 助 け る し 、 ま た 彼 ら が 拒 む な ら 、 わ れ わ れ
ら、残りの諸国による統一的な干渉を主張し、対ボルシエグイキ交渉が満足すべき結果を生まぬことを暗示して、
はカ Iゾ ン と チ ャ ー チ ル で あ っ た 。 チ ャ ー チ ル は 帝 国 戦 時 内 閣 の 会 議 で も 、 五 列 強 、 あ る い は ア メ リ カ が 拒 否 す る な
そ
だ方が、連合国がこれまでしてきたような蒔踏を続けるよりも良い﹂と述べた。彼の仮定したことは何であったか。
彼 は ロ シ ア に 対 す る 軍 事 干 渉 の 不 可 能 で あ る こ と や 非 実 際 的 な る こ と を 指 摘 し て い る 。 その第一にあげた理由は、
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れ
ド
l
ま
イツが戦争中にロシアのほんの一部分しか占領できなかったことであり、また赤軍と連合国干渉軍との兵力の差の大
きさである。 乙の事実を克服するためには大規模な動員を必要とする。 しかし、新しい干渉軍の組織化はイギリスに
いかなる事態を招来せしめるか。それから予想される事態について彼は次のように述べている。﹁いかなるイギリス軍
もこのためには徴兵なくして得られないのであり、またもし議会がそのために徴兵を認めたにしても、軍隊が行くか
どうか疑問である。わが国の市民兵は自由のためならどこへでも行く用意があるが、ボルシエグイズムの抑圧が自由
のための戦いだと彼らが十分に信ずる乙となどありえない﹂と。そして、干渉軍組織化の困難に、彼は、干渉政策が
ロシア内部にロシア民衆の軍事的結集を招くだけであることをつけ加えたのである。
彼の考えた最善の方策は、 ボ ル シ エ グ イ ズ ム そ れ 自 体 の 内 部 崩 壊 を 期 待 す る 乙 と で あ っ た 。 も し チ ャ ー チ ル の 主 張
するように、 ボルシエグイズムがロシア人の感情を現わしているものでないのなら、 そうなる可能性も十分あるとい
うわけである。ともかく、彼はいかなる軍事干渉の鼓舞をも拒絶する態度を明らかにし、 ま た ロ シ ア の す べ て の 勢 力
帝国戦時内閣は、
ロシアに関するロイド・ジョージの一般政策を認めたので
の代表をパリ平和会議に招請する彼の政策を承認・支持するよう閣僚達に要請した。閣僚達の間ではボルシエグイキ
についてなお論ぜられたが
対ソ交渉を提案しえた。 乙の場合、状況整理のための重要な基準になっているのは、人民の同意である。 ロジアに対
に関係する諸情報から、彼の判断によって得られた一定の状況規定を、仮定の乙ととして提示する乙とにより、彼は
ある。決定作成において、彼は、﹁背後に仮説を設けながら﹂ ロシアをめぐる現実の状況に処していた。﹁不吉な事実﹂
さて、対露政策の決定作成におけるロイド・ジョージの方針で、重要な点は、彼が仮定した事実あるいは事実関係に
あの
るg「
侵
略
説
論
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ロイド・ジヨ戸ジとヨーロッパの再建的
する軍事千渉の不可能は、干渉政策に対する国民の支持の疑わしいこと、そしてロシア民衆のボルシェヴイキ政権文
持 を 理 由 K仮 定 さ れ た 。 彼 が こ と さ ら 仮 定 と し て 説 い た 乙 と も 、 実 際 に は 、 彼 に よ っ て 政 策 作 成 の 条 件 と 考 え ら れ て
いたであろう。﹁イギリスの軍隊が行くかどうか﹂という疑問は、民衆が早期動員解除を求め、兵士の叛乱の発生して
いた乙とを考えれば、当然出される疑問であった。人民の支持を問題にすればするほど、彼の仮説は現実にそのよう
に進行する諸関係と考えられざるをえないのであった。干渉主義者、 チ ャ ー チ ル も 事 実 を 全 く 無 視 し よ う と し た わ け
ではない。だが、軍事干渉の生む効果、内政に与える影響、 そ し て ロ シ ア の 状 況 等 に つ い て の 二 人 の 認 識 に は 大 き な
隔りがあった。後述するように乙の隔りは平和会議中により明確なものとなってゆくのである。
一九一九年一月三目、 イギリス政府はロシア政策についての連合同の決定を求めた。すなわち、 イギリス政府は、
平和会議における連合同の当初の課題の一つが、 ロ シ ア に 平 和 を も た ら し 、 戦 闘 し て い る 諸 勢 力 安 和 睦 さ せ る べ く 努
め る と と に あ る と し 、 ま た ロ シ ア 同 内 の 戦 闘 停 止 を 条 件 K、 連 合 国 政 府 が 革 命 ・ 反 革 命 両 派 代 表 と パ リ で ﹁恒久的取
り決めの条件﹂ に つ い て 討 議 す る 用 意 が あ る 旨 を 両 派 に 伝 え る と と を 提 案 し た 。 こ の 提 案 は 対 露 干 渉 に 最 も 積 極 的 で
あったフランス支配属の聞に激しい抗議の声を湧き立たせた。 フランス外相ピシヨンは、 イ ギ リ ス 案 は そ れ ま で 連 合
国 が 失 う の を 惜 ん で き た も の の 悉 く を 完 全 に 廃 棄 し よ う と す る も の で あ る と 非 難 し 、 ま た ﹁フランス政府は
このような考えに、
ロシアの﹁農民は、 フ
フ
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・
犯罪人と相談しはしないであろう﹂と述べた。フランス政府は、会議へのロシア代表として、パリ滞在中の反革命派
υ
lleを考慮したのである。
││﹁ロシアにおける健全で、誠実で、 五直な要素﹂(ピシヨンの言葉)
イド・ジョージは強硬な反論を加えている。一月一二日の十人会議で彼は次のように述べた
ンス革命の際に農民達が受け入れたと同じ理由で、 ボルシエグイズムを受け入れている。すなわち、 ボルシエヴイズ
ロ
説
論
ムは彼らに土地を与えている。 ボルシエヴイストは事実上の(号pa。)政府である。:::・:われわれはドン(巴。ロ)
政府、 アルハンゲル(﹀H
n
r
g
m
m
)政府、 オムスク (CgmF)政府を、 それらのどれもが良くはないけれども、承認して
BEE-
いるが、 ポルシエグイストの承認を拒んでいる。・::::ボルシエグイストがロシアを代表していないということはあ
りうる。しかし、代表していないというなら、 ルヴオフ(
F
g
g 公もそうだし、善人ではあるがサグインコフ
}88もそうである。﹂彼は乙のように述べて事実上の政府という点では革命政権も反革命政権も同一であるとみなし
たのみならず、 ボルシエグイキ政権に対する農民の支持という﹁事実﹂を認めることに臨時しなかった。 そして、連
合国がロシアの代表を選択するなどということは、連合国がそのために戦ってきたあらゆる原則に以するとまで述べ
たのであった。次いで一月一六日の十人会議で、 ロイド・ジョージは、﹁ロシアの各政府代表に、休戦を実現してパリ
で会合するよう求める﹂案をあらためて提出した。 この案は、 ロシアについての彼の状況規定を明らかにしていたと
同時に、状況規定の基礎となっている評価基準を示すものであった。彼はパリの決定作成者注が向かれている状況と、
彼らの得ている情報を以下のごとく繋理し説明している。 蜘ロシアの状況に関する情報は多様かっ一小確実である。従
って、決定作成者がE確な判断を下す状況に置かれていないことは明らかである。 倒 ロ シ ア は 川 政 府 的 ・ 餓 餓 的 状 態
にある。 これについては完全な同志がえられている。 乙の極度に悪い状態の中で、 いかなる党派が優勢になりつつあ
るかを知る乙とは不可能であるが、 ボ ル シ エ グ イ キ 政 権 が 崩 壊 す る で あ ろ う と い う 希 盟 は 確 か に 失 わ れ た 。 彼 の 得 て
いる情報では、 ポルシエヴイズムは数カ月前よりも強力になっている。農民は、反革命派の勝利が旧体制を復活し、
革命によって彼らにもたらされた土地をまた彼らから奪うことを恐れている。 判例ウクライナの反革命勢力は、連合国
諸政府で考えられているほどポルシエグイズムに対抗しうる勢力ではない。
北法 1
4
(
1・
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)
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同
もともと、革命状況の把握において、ロイド・ジョージは革命の動向の予測困難性を前提としていい問。従って、この
段階で彼が、 ポルシエヴイキ政権の内部的崩壊についての希望は失われたと観察したことは、 ロシアにおける革命の
動乱が終りつつあるとみてとっていた乙とを意味する。 多 様 か つ 不 確 実 な 情 報 の 中 か ら 、 彼 は ボ ル シ エ グ イ キ の 勝 利
がもはや揺がないものと考え、 乙 の 考 え を 前 提 と し て 政 策 の 立 案 を 急 い だ と 考 え ら れ る 。 状 況 の 規 定 が ﹁多様かつ不
確実な情報﹂に依拠するものである以上、情報の選択によってはロイド・ジョージと全く別の状況規定がなされたとと
はいうまでもない。例えば参謀総長ウィルソンは、丁度乙の時期に、 ロシアにいる英軍からの情報をもと K ロシアへ
の勢力拡張に熱意を示している。だが、軍事力によってポルシエヴイズムの粉砕を図ることは、ロイド・ジョージから
みれば、﹁単純な考え﹂でありまた﹁狂気のさた﹂でしかないのであった。決定作成 K際し必要なのは、 ボルシエグイ
ズ ム の 激 減 を 叫 ぶ こ と よ り も 、 現 に 戦 争 状 態 に あ る 彼 我 の 勢 力 関 係 に つ い て 合 理 的 K計 算 す る こ と で あ っ た 。 彼 は 対
露政策について考えられる三つの選択対象を提示し、 これに検討を加えている。
)
-1 ポルシエヴイズムはドイツ軍同主義がそうであったと同様花、文明に対する危険な運動であり、 それ故粉砕さ
(
れねばならぬものであるが、 こ の 政 策 の 実 行 者 を 見 出 だ す こ と は で き な い 。 連 合 諸 国 は ロ シ ア へ 百 万 の 軍 隊 を 派 遣 し
うるか。現にロジアへ派遣されている軍隊内部に厭戦気分が生じている。﹁武力によるロシアの平定は、私もイギリス
が企図するように導く気のない課題であり、いかなる他の列強がそれを企てようとするか疑わしい。﹂このように述べ
ロイド・ジョージは、 乙の包囲政策が飢鰻に苦しん
ロイド・ジョージは干渉政策の実行可能性の少ないことを指摘して、第一の選択対象を否定する。
(
g止。ロ回gF田町立政策として知られる隔離政策。
1 ﹁防疫線﹂
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でいるロシアの一般住民を死に追いやるものと考え、 それを支持しえないとする。 そして、次の疑問をなげかける。
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北法
て、
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と。彼は率直に、
で
あ
ろ
へ招請する案である。
際的効果を狙っていたととは疑いえないであろう。
ζれ を 消 極 的 な 面 か ら 検 討 し て み る と 、 第 二 に 、 彼 は 、 ボ ル シ エ
にも、彼はただボルシエグイキの主張を聞くために彼の招請案を出したともみられている。だが、彼がなんらかの実
全過程からみれば、結果として彼の態度は暖昧なものだったということになる。 とのことから、招請案を出した場合
派の聞に休戦についての合意の成立の可能性が仮定されていなければならない。 ところが、平和会議における審議の
ろう。第一に、彼がロシアの諸勢力代表招請案になんらかの成果を期待していたとしたら、 そ乙には革命・反革命両
さて、ロイド・ジョージの提示した三つの選択対象について検討してみるに、われわれは次の諸点を指摘しうるであ
把握が、他の代表達に比して、きわめて現実主義的であった乙とは明らかである。
僅かばかりの臼シア使節の訪問の結果ではあるまい﹂と述べて、彼らの言う脅威を一笑に付したのである。彼の状況
だろうというフランス代表の主張に対しては、﹁これらの国がボルシエグイキ化されることがあったとしても、それは
なる﹂と。また、 ボ ル シ エ グ イ キ 代 表 が 招 請 さ れ れ ば 、 彼 ら は イ ギ リ ス や フ ラ ン ス の 国 民 を ﹁ 改 宗 ﹂ さ せ よ う と す る
として焔の中にあるとするなら、 わ れ わ れ は よ り よ き 世 界 を 建 設 し た と 慶 賀 し 合 い な が ら パ リ を 去 る わ け に ゆ か な く
右の状況分析と提案に彼は次の言葉を続けている。﹁平和会議の終幕に当たって、ヨーロッパとアジアの半分が依然
ロシアの ﹁ 諸 政 府 ﹂ 聞 の 休 戦 の 後 に そ れ ら の 諸 政 府 代 表 を パ リ
ロシアの反革命諸派にかけうる望みは少ないと指摘する。
か か る 包 囲 政 策 の 継 続 は ボ ル シ エ グ イ キ の 転 覆 を 導 く と 考 え ら れ る か も し れ ぬ が 、 ロシア内部において誰がボルシエ
打
倒
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残されている唯一の道は、彼が提案してきた、
キ
グイズムは近隣諸国への ﹁侵略﹂を停止しても内部からの崩壊を起しはしない、と仮定していたことをあげうる。封
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北法
グ
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説
論
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
じ込めによる崩壊の可能性のないととは彼の表明しているところであり、また彼がボルシエグイキ政権を事実上の政
府として-認めるととにやぶさかでなかったととはとのような観察に見合っている。この仮定に立つと、 ロシアにおけ
るポルシエグイズムの勢威を認めねばならないが、実際に彼はロシアからの情報の不完全さを指摘しつつも、干渉主
張者の観察とは逆に、 ボルシエグイキは腐敗・堕落したロジア支配階級の打倒によって、 ロシア農民の支持を獲得し
ている勢力だと判断していた。第三一に、対露政策の決定において最も重要な要因となるものであるが、干渉政策ある
いは間隔離政策をとるにせよ、連合国はその遂行に充分な軍隊を徴募あるいは派遣しえないと考えていたこと。パリで
ロイド・ジョージほど干渉軍組織化の困難、あるいは干渉に対する民衆の反抗を問題にした政治家はいなかった。軍事
労働争議の激化、アイルランドの不穏な
一つは国内情勢の不安から、もう一つはロシアの情勢が連合国にとって不利である
ζとから導き出されている。休戦以来の、軍隊内部で発生した混乱、
干渉が困難であるという判断は、
という
情勢、 これらは大規模な戦争の組織化を不可能視させるに充分な要因であっ問。そして、彼は、民衆が戦争のための
勇ましい言葉よりも低家賃の住宅や高賃金の方を求めていることを充分知っていた。民衆の側のかかる状態はイギリ
スだけのものではなかった。フランスの主張する干渉政策は、連合国とロシアとの戦争を意味したが、フランス自体
が派兵の意士山をもっていないのであった。おしなべて諸政府の代表は自国軍の派兵に否定的であった。ロイド・ジョー
ジはどこの国がどれだけの軍隊を派遣しようというのかと色々の機会をとらえて問いただしている。また、赤軍の力
についても、赤軍は八O万ないし九O 万の兵を擁し、 か っ そ の 規 律 は 回 復 さ れ て い る と い う イ ギ リ ス 陸 軍 省 の 報 告 書
にもられた情報を彼は会議で明らかにした。 乙の情報から判断すると、白露軍の当時の状態││一月の段階で、彼は白
露軍に期待しうるところは少ないとみていた!ーーからも、軍事干渉が成果をあげうるとは考ええなくなるのであった。
北球 14(1 ・ 8~)8~
説
論
確に、 フ ラ ン ス 代 表 の 出 席 す る 十 人 会 議 に お い て は ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は ポ ル シ エ グ イ キ と の ﹁ 交 渉 ﹂ の 実 際 的 価 値
を明らかにしようとはしなかった。 しかし、 ポルシエヴイキとの接触には﹁交渉﹂ へ の 道 が 想 定 さ れ 、 ま た 戦 前 に 資
本主義諸国がロシアで保持していた諸権益を認めることに対する、ポルシエヴィキ政権の譲歩が仮定されていたので
EER当・国・)に示されたフィリップ・カ
ある。 乙の乙とは、 一 月 末 、 ア メ リ カ の 駐 英 大 使 館 付 特 別 補 佐 官 パ ク ラ 1(回
ーの情報に照らして明らかである。 パクラ 1が 、 外 国 権 益 そ の 他 に つ い て ソ グ ェ ト 側 に 譲 歩 す る 意 向 が あ る と い う リ
Hイ ギ リ ス は で き る だ
ト グ イ ノ フ か ら 得 た 情 報 を 伝 え た 時 、 ヵ ー は イ ギ リ ス 政 府 の 意 向 を 次 の よ う に 伝 え た の で あ るo
け早くアルハングルから軍隊を撤退させようとしており、 五月一日頃には軍隊を引き揚げてしまう志向であること。
PEE句。)むあるいはその他の所で、 た と え ポ ル シ エ グ イ キ 以 外 の ロ シ ア 代 表 が 平 和 会 議 へ
同門イギリスはプリンキポ(
の 招 請 案 を 受 け 入 れ な か っ た と し て も 、 ソグェト代表と会う準備のあること。 同 イ ギ リ ス は プ リ ン キ ポ 会 談 の 主 要 国
的が、 ロシアの内戦の中止と、 こ の 目 的 の た め に 全 ロ ジ ア 会 議 と い っ た も の へ 代 表 を 送 る よ う 各 ロ シ ア 政 府 に 勧 誘 す
るとととにあると考えていること。ヵーによって示されたこの方針は、イギリス政府がポルシエグイキ代表との単な
る接触以上のものを求めようとしていたことを暗示している。外交的策略の問題を別として、当時ロイド・ジョージは
まず休戦を求めていたといえよう。
ロイド・ジョージが対露交渉の開始にいかに熱心であっても、フランス代表、さらにはチャーチルやイギリス軍廿脳
が軍事干渉の強化に積極的であった以上、﹁交渉﹂ は も と よ り 、 単 な る 話 し 合 い の 案 す ら な か な か 承 認 さ れ な か っ た 。
ζの 場 合 、 提 案 の 成 立 に 働 い た 最 も 大 き な 力 は ウ ィ ル ソ ン 大 統 領 の 支 持
消極的理由から和睦交渉への持近が試みられていた以上、招請案の成立はロイド・ジョージの状況認識が他の代表速に
よっても共有される乙とを前提としていた。
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同
であった。
κ述べた。﹁ボル
一月一六日の会議で、ウィルソンは、ロイド・ジョージの明らかにしたロシアについての情報は、アメリカ
l
と
ボルシェグイズの挑戦に対して連合国指導者は民衆の希望を満たすような理念で
たえざる討論とゆったりとした過程での改革である。 だ が 殆 ど の 人 は 遅 延 に 我 慢 で き
こ
一般の献悪をもよおさしめるような獣的な面と共に、 共 感 を 呼 ぶ 力 が 潜 ん で い る 。 全 世 界
政 府 の 得 て い る 情 報 と 付 会 す る と 述 べ 、 さ ら K干 渉 を 制 約 す る 国 際 的 ・ 国 内 的 条 件 に つ い て 次 の よ う
田
こ乙には、
つ
の
シエヴイズムの背後には、
しす
まる
つ道
たG は
を通じて、経済および政治の両領域で刊界に支配力を及ぼしている大特権層に対する叛逆の感情が存している。
つ目
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一 月 一 二 日 の 十 人 会 議 で 、 彼 は パ ク ラ 1と リ ト ヴ イ ノ フ と の 間 で 行 な わ れ た 内 密 の
ロシア諸勢力代表と連合同の代表とが ﹁協定成立の基礎となるプログラムの作成を試みる﹂た
を拡大させよよノとしていた干渉主義者逮は、招請案に積極的に反論すべきなんらの根拠も見出せなかった。かくて、
フの確約として明らかにしていた。 ウィルソンはロシア代表招請案を積極的に提唱した。 理 由 に な ら な い 理 由 で 干 渉
ロ シ ア に お け る 新 た な 利 権 の 容 認 、 お よ び ロ シ ア の 債 務 を 含 む あ ら ゆ る 点 で 譲 歩 す る 準 備 の あ る 乙 と を 、 リトグィノ
交 渉 の 結 果 を 明 ら か に し た 。 パ ク ラ I の報告書は、 ソ グ ェ ト 政 府 は 平 和 を 望 ん で い る 乙 と 、 園 内 の 外 国 企 業 の 保 護 、
イキの態度に探りを入れている。
政 権 の 側 か ら 交 渉 相 手 と し て 期 待 さ れ た だ け で な く 、 彼 の 側 か ら 非 公 式 の 使 節 ( リ パ ク ラ 1) を 派 遣 し て ボ ル シ エ グ
ウィルソンは状況認識の多くの点でロイド・ジョージと同一の結論に達していただけではない。彼はボルシエグイキ
革によってロシア民衆の支持を得ている乙とを彼も認めた。従ってまた、干渉政策の逆効果も一応認識されていた。
イズムの﹁社会的危険﹂ に 対 処 す る 良 策 で あ る か を 疑 っ た 。 ま た 、 ボ ル シ エ グ イ キ は ロ シ ア の 腐 敗 し た 社 会 体 制 の 変
もって防戦せねばならぬという考えが表わされている。ウィルソンも、ロイド・ジョージ同様、軍事干渉がボルシエグ
て正
ロシア代表招請案は、
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説
論
めに、パリ以外の場所で会合するという内容でもって承認された。 そ の 草 案 は ウ ィ ル ソ ン に よ っ て 作 成 さ れ 、 そ し て
。だが、以上の
一月二二日の会議で、 マルマラ海のプリンキポ島へ、二月一五日までに代表を送るべきことを訴えた招請状が採択さ
れた。
プリンキポ案はボルジエグィ弁政権の応諾を得ながら反革命派主要政権の拒絶で結局失敗に終つは
考察から、ロイド・ジョージが﹁ロシア﹂との和睦を求め、またボルシエグイキとの ﹁交渉﹂をも辞さない態度に出て
いたととは明らかであろう。 プリンキポ会議案そのものは、最終案では、 ボルシエグイキとの ﹁交渉﹂を否定し、
ジアの全代表を一カ所に集めるという単なる ﹁試み﹂と化していたのであるから、十人会議で提案が採択された時、
ζと に 決 し た 。 英 米 代 表 部 聞 に は 秘 密 が 実 際 上 存 し な か っ た の で 、 ブ リ ッ ト は ロ
ロシアとの正常な関係を回復するための諸条件をあげた。
ナ'f'1L
e-w'-J
、 それらの諸条件は、公式的なものでなく刊彼自,身
求めた。 乙れについて、ブリットはカーから二月二一日付の私信を受け取った。 カーは乙の手紙の中で、 ソヴェト・
シアへの出発をカ I K伝え、ロシアとの講和に関するイギリスの方針についてロイド・ジョージとパルフォアの指示を
トBEEF当・)をロジアに派遣する
プリンキポ会議案が行き詰まった際、 アメリカはロシアの情勢を正確に把握するため、代表部の情報専門家ブリッ
そ明らかにしている。
した休戦の諸条件は、ロイド・ジョージなどが、ボルシェグイキ代表との話し合いでなにを得ょうとしていたかをおよ
ていた以上、ロイド・ジョージが実際的解決の案を全然持っていなかったとは考えられない。ヵーがアメリカ側に提示
ない。また、現在のと乙ろまだ、 それを明らかにするような資料は明らかにされていない。しかし、和睦が仮定され
それはその実際的意義を殆ど失っていた。従って、 その提案
κ和践に仮定された条件が明らかにされているとはいえ
ロ
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建制
(刊
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の立見を示唆するものであると付け加えている。しかし、乙の点についてブリットは、ヵーが彼にロイド・ジョージお
よびパルフォアとその全問題について討議したと既に述べていたと託一行している。ヵーの書簡の内容は左のごときも
のである。
ω全戦線にわたっての戦闘行為の中止。印すべての事実上の政府は現に占領している領土について完全な支配権を保持すること。
問ソヴェ卜・ロシアと海との聞の輸送に必要な鉄道および港は、ヨーロッパの他の地にある国際鉄道および港と同様な規則に従うべき
こと。凶連合同民は、彼らが政治に介入しない場合、ソヴエト・ロシアに入国し、その事業に取り掛かりうるような、入国の自由権お
よび完全な保障を与えらるべきこと。間双方の側における、すべての政治犯に対する特赦、連合国と共に闘ったすべてのロシア人へ
の完全な自由。附貿易関係は次の条件においてソヴェト・ロシアと外国との聞に回復さるべきこと。すなわち、ソヴエト・ロシアの主
権が尊重され、他万連合国の供給品はロシア国民のすべての諸階級に平等な条件で使用されるように保障されねばならぬ。間連合国
からのロシアの借款に関連した他のすべての問題は、講和達成の後別箇に審議さるべきこと。附定められる数以上のロシア軍が解除
され、余分な武器の引き渡しないし破壊の行なわれると同時に、連合国軍はすべて撤退すべきこと。
ω と凶であろう。冬季戦における連合国干渉軍の後退、
ヵーのあげたこれら諸条件のうち、最も木質的な条件は、
軍隊の士気の低下、白露軍の期待以下の活動等から考えて、戦線の固定は連合国の望むところであった。第三番目の
条件は、 ボ ル シ エ グ イ キ 政 権 の 支 配 権 を 認 め る と 同 時 に 、 連 合 国 の 支 援 す る 、 も は や 正 統 的 で な い 反 革 命 派 の 支 配 権
をボルシエヴイキに認めさせるものだった。彼らの支配権の存続は、対ソ包囲政策、 さらには軍事干渉の足がかりを
一人や二人
ロ シ ア 内 部 に 保 持 す る こ と へ の 期 待 を 、 連 合 同 に 抱 か せ う る も の で あ っ た と い え よ う 。 休 戦 の 条 件 が ﹁現状の凍結﹂
で あ っ た が 故 に 、 凍 結 が ゆ る ん だ 時 、 連 合 国 の 政 策 は 本 来 の 目 標 に 向 け ら れ る の で あ っ た 。 その運動は、
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説
論
の政治指導者の現実主義的な、場当たり的な行動を押し流してしまうのであった。
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ロ シ ア 革 命 に よ っ て 、 対 露 投 資 一 億 ポ ン ド 以 上 を 喪 失 し た 。 原 国 三 郎 ﹃ イ ギ リ ス 資 本 主 義 の 研 究 ﹄ 一 O 七頁。ケイ
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ンズの算定によれば、連合諸国に対するロシアの債務は七億六千六百万ポンドにのぼる。同ハm
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させぬとは保証しえぬのであった。かかる手段に訴えることは、君主制に愛着を感ずるもののよくなしうるところでなかったであ
日ロイド・ジョージは、休戦の前後に、ドイツ皇帝の裁判を主張した。ドイツ寝帝の裁判は、ヨーロッパの君主制全体の威信を低下
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w 匂・日・チャーチルは、一九一八年総選挙の演説(本稿、第二章第
刷。・円、.宮司君F F 5 5 Z 2 2ロ円﹁目当R
一節に引用)で、﹁ジョン・マクリーン﹂を叫ぶ聴衆に、彼の声を消されながら、政治理念の勝利を謡歌して、﹁私はデモクラシーに
ζの国がジョン・マクリーンの輩で満ちていたら、われわれはフン族によって征服されていただろう﹂と述べている。
ついて話しているのであって、ボルシエヴイズムについて述べているのではない。諸君はジョン・マクリーンについて話している。
もし
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ョ!ジの方法ではない。懐柔乙そ彼の政治指導を特徴づけるものである。それが巧妙なるが故に、本命に目標を置く社会主義者は
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-ぶFtgmSUEH旬、古品・労働者階級との聞に距離を置き、彼らの運動に抑圧や滞圧で抗しようとするのは、ロイド・ジ
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彼 を ペ テ ン 師 と し て 非 難 す る こ と と な る 。 ( レ l ニンのいう﹁ロイド・ジョージ主義﹂。)例えば、大戦中に彼は、労働争議の増大に
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に は 、 君 ら の 中 へ 戻 る だ ろ う ﹂ と 。 言 。ω
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直面した際、労働者に次のように吹き乙んでいる。﹁諸君、私は君らの誰しもと同様に熱心な社会主義者であって、戦争がすんだ時
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側乙の電報で、リトヴイノフは、ウィルソンの諸原則の多くと、ロシアの労働者や農民の要望が合致している乙とを伝え、ソヴエ
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ロシアを軍事化するととを強いられているのであり、所謂﹁赤の恐怖﹂は、原因ではないにしても、連合国の干渉の直接的な結果
トの主要目的が、ロシアの大多数労働者の経済的自由の獲得にあると唱えた。連合国の侵入によって、ソヴェトはその意に反して
であり、所産である、と説いた。リトヴィノフは、連合国政治指導者には二つの道が開かれていると指摘する。第一の道は、公然
あるいは偽装された形の干渉の継続である。これは、戦争の長期化、激昂した大衆によるロシア・ブルジョアジーの全面的な根絶、
軍事的独裁への不可避的な移行等をもたらす。第二の道は、ソヴェト・ロシアに対する一方的な非難を公正に熟考・調査して、﹁ソ
ヴェト政府との協調をばかり、外国軍隊をロシア領土から撤退させ、経済封鎖を中止して﹂食糧と原料不足に悩んでいるすべての
ンの﹁正義感と公平な判断﹂に訴え、いかなる行動をとるかを決する前に、﹁他方の側もきかるべきなり﹂の要求に公正な判断を下
国家の利益となるように、ロシア自身の供給源を得れるように援助し、技術的な援助を与える乙とである。最後に、彼はウィルソ
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とソヴエト・ロシアとの外交折衝については、次の論文参照。細谷千博﹁ヴエルサイユ平和会議とロシア問題﹂(一橋大学、法学研
52)LuH活 路 - な お 、 こ の 電 報 を 契 機 に 始 ま っ た 、 連 合 国
すよう望んだ。﹄・己目間同向♂ ω2500258ZD口町08仲間口司C口口可(
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EP 一河口EE55w伊 一 月 一 一 一 日 、 ウ ィ ル ソ ン 将 軍 は 、 ロ シ ア 問 題 に つ い て ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ と 話 し 合 っ た 。 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は
ボルシエヴイズムの打倒に反対であり、ドイツにいるロシアの捕虜を武装させようとするウィルソン将軍の案に対してもよい返事
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をしなかった。﹁ボルシェグイズムとのこの陪歎の折り合いは危険なことだ﹂と、ウィルソンは日記に書いている。(い白]}者叩}}二位門
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両方にのっているロイド・ジョージの発一同の,X言 は 少 々 異 な っ て い
本節の始めに引用したチャーチルの言葉も、このような状況の下
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ン 将 軍 は 、 一 月 二O 日 の 日 記 に 、 そ の 日 の 朝 、 ロ シ ア 戦 線 の 英 軍 指 揮 官 か ら 、 ﹁ 優 秀
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ージがかくも馬鹿だとは理解できない﹂と書いている
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イキ化されたとしても、それは僅かばかりのボルシエヴイキ代表のイギリス訪問を許した乙とによるものではなかろう。他方、ボ
る。後者の方に記載されている、彼の発言の最後のと乙ろは、次のような興味ある文句になっている。﹁もしイギリスがボルシエヴ
ルシエヴィキに対する軍事行動が開始されたら、それによってイギリスはボルシエヴィキ化されるだろうし、ロンドンにソヴエト
ができることになろう。訓練されたデモクラシーはボルシエヴイズムを拒絶すると信ずるに足るものがあると思う。﹂ロア巴戸
4ヴ ィ キ 政 権 と の 話 し 合 い を 恒 絶 し て ゆ け
国戦時内閣で、リ lデイング卿は、ボルシエグイズムは、もともと国際主義の形態をとるから、封じ込めれば消滅すると述べてい
側現代的用語でいえば、﹁封じ込め﹂によって、その内部崩壊を待つという意見は、当時いろいろの人によって述べられている。帝
るoE 申句仏CEm
円 pF誌 ∞ フ ラ ン ス や イ タ リ ア 政 府 代 表 も 、 白 露 軍 を 援 助 し 、 ボ ル シ
ばそれは自壊するという考えであった。
とベルファーストで、労働時間の問題から重大な産業紛争が怠起された。これはゼネスト寛一一員にまで発展し、クライドの争議を抑
側軍隊内部で発生した混乱については既に述べたので、ここでは労働不安について指摘する。一九一九年一月には、クライド河畔
えるため、政府は軍隊の大規模な出動を命ぜねばならなかった。争議は、石炭業九進展し、一月中旬に始まった坑夫遥の闘争は、
ならば、兵士の聞に紛争が起る機会、更には革命的騒乱すら起りかねない機会が、著しく増大せしめられたであろうことは明らか
他産業労働組合の支持を得て、二月末まで続けられたのである。もし兵士達の不穏な動きと同時に、﹁労働者の大きな級動が起った
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間 ウ ィ ル ソ ン の 諸 原 則 は 、 そ の 出 発 点 か ら 、 戦 争 目 的 政 治 で 、 ヨ ー ロ ッ パ の 大 衆 の 中 へ 浸 潤 し つ つ あ っ た レ l ニン的テ I ゼ に 対 坑
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側 招 請 状 そ の も の が 、 フ ラ ン ス 政 府 の 妨 害 で 送 ら れ な か っ た し 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ と ウ ィ ル ソ ン を 別 と し て v連 合 国 の 主 要 指 導 者 達
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山︿・細谷、前掲論文、八二│三頁。
聞との関の事情については、細谷、前掲論文、九四八頁参照。
人民外交と干渉政策
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第二節
ロシア
﹁プりンキポ案﹂が失敗に終った場合にも、イギリス政府さらには連合国諸政府には、ボルシエグイキ政権のみとの
交渉という道が残されていた。 ここで再度、 イギリス政府の対露政策における混乱が惹起されるのであった。
代表招請案の推進者であったロイド・ジョージは、一九一九年二月八日から一月ほどの問、激発していた労働争議収拾
北法 1
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説
論
のため帰英した。彼に代わって、パリでロシア問題の処理に当たったのは干渉派のチャーチルであった。前者が軍事
二月一二日、下院での演説で、ロイド・ジョージはロシア問題について概略次のように述べている。まず第一に強調
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Q
ロシア問題解決の重要性を次のように指摘した。
ζ の時にも彼は平和会
ロシアを自壊させる政策と
ロシアの復興をなしうるひとびとと調
を、ロイド・ジョージ自身が持ち合わせていないことを示唆した。次いでチャーチルは、指導者の直面している条件や
他方、パリのチャーチルは、二月一四日の十人会議で、先のロイド・ジョージ提案が失敗した場合にそれに代わる案
段階でも、彼は干渉に対しまだ消極的であった。
はロシアの中道諸派までボルシエグイズムの手中へと追いやりつつある﹂と付け加えざるをえないのであった。乙の
ハ4V
た。彼はボルシエグイキ政権承認の考えの全然ないことを繰り返しながらも、演説を終えるに当たって、﹁干渉の脅威
整を図ることが可能かどうかを知るために、彼らを招請する実験を試みようと考えた、ときわめて暖昧な答を彼はし
は違ったなにものかを政府が試みているのではないかという質疑に対しては、
議その他で述べてきた理由をあげて乙れら三つの方法の実行可能性を疑問とした。また、
して第三の案は﹁火を燃えきらせる﹂という、彼自身の目からみても、野蛮な政策であった。
とです﹂と。次いで、彼は乙の問題に対処する方法を提示した。第一が干渉、次が反革命に対する諸列強の支援、そ
して﹁世界平和がなしとげられました﹄と言ったところで、実際には達成されてないのだから、むだであるというこ
﹁すべての議員ならびにイギリスの国民に銘記してもらいたい第一の乙とは、ロシアに平和なくして、平和会議が散会
ロイド・ジョージはボルシエグイキ支配の恐怖について述べた後、
干渉反対の態度をひるがえさぬ限り、 イギリスの政策が矛盾を露呈させることになるのは明らかであった。
された乙とは、政府がボルシエグィキ政権の﹁承認﹂を進めるようないかなる提案もしなかったという乙とであった。
北法
ロイド・タョージとヨーロッパの再建伺
対露干渉の目的を国民の前に明らかにしなければ、出征兵士の家族の不満を収拾しえないと述べた。 ロシア戦線にお
ける連合国軍の条件の悪化、 そしてかかる不満足な状態収拾のめどの不明確さをあげて、彼はボルシエグイキ政権に
対し連合国が確固たる政策を即時立案することを求めたのであった。しかし、軍事干渉やボルシエグイズムの殻滅を
かかる重要問題の決定を短期間の、 しかも突然の会合ではなしえないと述べた。また、 乙の日パリを出発して
望んでいた代表達といえども、彼らの明確な政策を提示しえないのであった。チャーチルの提案に対し、クレマンソ
YB 斗﹂阜、
帰米する乙とになっていたウィルソンは、彼の留守中に干渉派が策動する乙とを警戒して、次の点を明確にし、干渉
政策を進めようとすることに釘をさした。第一に、連合諸国の軍隊はためにならぬような乙とをしているので、連合
ヲプロジユマシ
諸国はその軍隊をロシア領から撤退させるべきである。第二に、プリンキポ会談に連合諸国が期待していたことは、
ボルシエグイキとの和睦ではなくて、適確な情報の取得である乙と。従って、ボルシエグイキ以外のロシア代表
がプリンキポへ来ないからといって、連合国が ﹁マホメットをまねて出かけて﹂悪いという乙とはない。 ウィルソン
のこのような見解に反論して、 チャーチルは、 ロシアにいる連合国軍隊の完全な撤退はロシアのすべての ﹁非ボルシ
エグイキ軍隊﹂の潰滅をもたらすと主張した。乙の考えを批判して、ウィルソンは、﹁連合国の現に駐留する勢力はボ
ルシエグイキを阻止しえないし、また連合国のどの一国といえどもその軍隊を強佑する準備はない﹂と述べたのであ
った。
ζと の 不 可 能 な 乙 と を 認 め な か っ た わ
乙のように、プリンキポ案の失致を契機とした、対露政策の再検討は、干渉政策に対する連合国内部の意見の対立
を明らかにしただけであった。 チャーチルも徴兵軍をそれまで以上に派遣する
けでない。だが、彼は軍事干渉を断念するととなく、志願兵、技術専門家、武器、弾薬、 タンク、飛行機等の提供に
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論
よる反ボルシエグイキ勢力の援助を示唆した。 そして、 チャーチルは最後的問題を提起した。もしもプリンキポ会議
ハ7V
が失敗に終った乙とが明らかとなった場合、十人会議はロシアにおける反ボルシエグイキ軍を組織するかどうかと。
ウィルソンは乙の聞に対する明確な意見の表明を障躍し、彼自身の意見を明らかにしなかった。
チャーチルが対露政策の早急な決定を求めたのは、 ロシアにおける軍事情勢がおもわしくなく、また従来の肱策の
継続ではロシアの反ボルシエグィキ勢力の勢威を皆無にしてしまうという心配からであった。彼は二月一五日の十人
会議で動議を提出した。その中で、 ロイド・ジョージの提案から出たプリンキポ会議計画の意義を、﹁どのような会議
がもたれるかとか、、あるいは交戦中の各ロシア軍代表が共通のテーブルを囲んで会合するとかはプリンキポ案にとっ
て重要ではない。 しかし緊急を要することは戦闘が中止される乙と、直ちに中止されることである﹂と述べた。押さ
れ気味の軍事情勢下での休戦ということを計算に入れて、彼は次の提案をした。すなわち、二月一五日より十日以内
に全戦線にわたりボルシエグイキは戦闘を中止し、反革命軍の前哨線から少なくとも五マイル以上の地点まで撤退す
るとと。乙の行動に移らなければ、プリンキポ会議案の効力は消滅したものとみなされる。乙の提案が、休戦を口実に
ボルシエグイキとの交渉の聞に、 反 革 命 軍 や 連 合 国 軍 の 再 組 織 の た め の 時 を 稼 ぐ こ と を 目 的 と し て い た 乙 と は 明 ら か
Eanog色
である。チャーチルは、右の提案と同時に、休戦実現の不可能を見越して、﹁ロシア問題連合国協議会﹂(﹀
問。同月
5回目田口﹀黙号印)の設立を提案していたのである。彼は協議会設立の意義を、﹁乙の方法で政策の継続、目的の統
一と統制がえられること﹂ に 求 め て い る 。 乙 の 提 案 は フ ラ ン ス と イ タ リ ア 両 国 代 表 の 強 い 支 持 を 受 け た 。 協 議 会 の 設
立によって、干渉主義者達はそれまでの連合国の政策の不統て政策の首尾一貫性の欠如を克服して、干渉のための
軍事的連携を強化しようとしたのである。
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建同
チャーチルによる﹁ロシア協議会﹂設置提案はロイド・ジョージを大いに驚かせた。﹁チャーチルは戦争を行なおう
としている。そんな乙とをしたら革命になってしまう!国民はそれを許しはしまい﹂と、二ハ自に彼は語っている。彼
は、園内の労働不安収拾のために、平和会議の途中で、帰国していたのであった。民衆からの反応を恐れる彼が、
かる状況の下で、大規模な干渉の組職化を支持しうるはずがなかった。彼は直ちにチャーチル宛の電報を送った。﹁ボ
ルシエグイキに対する戦争を計画しているとの貴下の第二電に大変驚く、内閣はかかる提案をする権限を与えたとと
はなく、 ロ シ ア の 反 ボ ル シ エ ヴ ? キ 地 域 の 軍 隊 に そ の 地 歩 を 確 保 で き る に 必 要 な 装 備 を 供 給 す る と い う こ と と 平 和 的
解決へのあらゆる努力が失敗した場合にのみとれらのロシア軍隊に物質的援助を与える最善の方法につき軍事的調査
d ﹂と。とのように、チャーチル案が内閣で決定
をするというのがすべてでそれ以上のととは決して企てられなかっ
された基本政策から離れている乙とを指摘したのに続けて、ロイド・ジョージは、干渉がボルシエグイズムを強化する
との情報の入手、対露戦争のごときは破産とボルシエグイズムへ通ずる道である乙と、 そしてフランスの意見は大多
数の小投資家によってかなり偏ったものになっている乙と等を伝え、チャーチルの注意をうながした。そして最後に、
イギリスにおける労働不安が重大な局面にある乙とを留意するよう要請した。﹁貴下が対ボルジエグイキ戦争を準備す
べくパリへ行ったと知れたら想像しうる以上に組織労働者を激昂させるだろうし、それより悪いのは、それが今はボ
ルシエヴイキの方法を嫌っている大多数の思慮あるひとびとを過激派の手に委ねるかも知れぬととであろう。﹂彼はこ
の電報をパルフォアにみせる乙とを求めた。また、乙の電報のコピーは、ロイド・ジョージの指示に従って、ヵーを通
じてアメリカ代表ハウスにも示されたのである。帰米中のウィルソンに代わって折衝に当たっていたハウスは、
ロ
ド・ジョージの意見に全く賛成であると述べたといわれる。また、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ の 電 報 を 受 け 取 っ て 聞 か れ た イ ギ
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か
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説
論
リス代表の会議で、パルフォアがロイド・ジョージの考えを説明し、代表達は干渉の積極化が非実際的であるとの結論
に達い問。十人会議における決定も彼の主張に沿ったもので、チャーチルの協議会設立案は採択されなかっ成。
パタ l y
干渉政策を強行しようとした者達は、革命運動の抑圧をその目的としていた乙とはわうまでもないが、彼らの主張
はまた、国際政治安定のために従来の安定の型を保守しようとする欲求と無関係ではなかった。そして、資本主義
一九一四年以前に、 ヨーロッパにはドイツに対する仏露の提携という同盟の型が存した。
一九一九年にも、
世界からではなく、 ヨーロッパ国際社会からのロシアの脱落を阻止するという乙とは、干渉のためのよい口実となり
えた。
ーロツパ大陸の勢力均衡にとってロシアは依然欠くべかざる国家と考えられた。 そ し て 、 勢 力 均 衡 の た め の 干 渉 が 唱
イギリス
えられたのである。チャーチルは連合国協議会の設立を提案した時に次のように述べている。﹁戦争前ロシアはヨ1ロ
(
gロロ丹市名oum) であった。今その均衡はイギリスとアメリカの大軍によって維持されている。
ツパの均勢力
J
軍は動員解除されつつあり、 アメリカ軍は帰国しつつある。私としては、 ドイツが現時点で戦争をまた始めると思わ
ないが、と乙にいる方々に考えていただきたいのは、五年ないし十年以内にそのような状態になるということである。
ドイツの人口はフランスの二倍なのである。年々徴募しうる兵員数は優にー三倍にもなろう。﹂勢力均衡の従前の型に照
ζれによって曽てよりも強力になる。﹁ロシア
には、連合国の友となることなしには、平和もなければ勝利もないであろう﹂と。
は全状況の鍵であり、 ロシアがヨーロッパの生ける部分となる乙となしには、国際連盟の強力な一員となる乙となし
ている。 ロシアがドイツの手に帰したら、植民地を喪失したドイツは、
る力を備えかっ連合国にとっての友好国であるととが不可欠である。チャーチルはとの点を強調して次のように述べ
ら し て 、 独 仏 閣 の 力 に つ い て 指 摘 さ れ る 、 右 の よ う な 懸 隔 の 増 大 を 調 整 し よ う と す る 場 合 、 ロシアがドイツを抑制す
ヨ
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
勢力均衡による安定を構想する場合、
一九一九年に、ドイツに対する均勢力の求め方には二つの道があった。
は、チャーチルの考えのように、ドイツの東方でその存在を期待される均勢力を、あくまでロシアに求める道であり、
他の一つは、当時のロシアの状態から考えて、当分の閉それを東欧の新興国ポーランドに求める道であった。平和会
υ
議の時点では、連合国の政府は実際問題として後者の道を採るより他なかった。軍事干渉に反対し、 しかも勢力均衡
の政策をとろうとする場合には、 そ の 政 策 は 後 者 の 道 に 落 ち 着 か ざ る を え な い の で あ っ た
しかし、ポーランドの力が均勢力としてはあまり期待しえぬ乙とは明らかであった。その故に乙そ、﹁ロシアがヨ l
ロッパの生ける部分となる﹂ 乙とが要求されたのである。 乙の文句の意味すると乙ろは、 ヨーロッパという秤で、
イツとフランスとの均衡のためにロシアがフランスの側の皿にのせられる分銅でなければならぬということである。
いわば、ロシアは﹁ヨーロッパ協調﹂の一員であらねばならないのであった。かかる安定構想か=りすれば、大国ロシア
が社会主義国として、西欧資本主義同との協調を期待しえぬ姿で現われた乙とは、常威であるのみならず損失なので
あった。 そして干渉は、 ロ シ ア が ヨ ー ロ ッ パ か ら 離 脱 す る こ と を 阻 止 し 、 ま た ﹁ヨーロッパ協調﹂あるいはその拡大
形としての国際連盟の中にとどめようとする努力であった。﹁協調﹂は、かくて、小国 K対 す る 大 国 の 寡 頭 体 制 の み な
らず、新しい社会体制に対する反動の体制として現われる。もともと、国際連盟と民族自決権とを中心としたウイル
ソンの ﹁新秩序﹂は、 旧 秩 序 に 挑 戦 す る ボ ル シ エ グ イ ズ ム に 対 抗 し て 構 怨 さ れ た も の で あ っ た 。 ボ ル シ エ グ イ キ が 着
々とその権力の基礎を回めてゆくのをみて、資本主義諸国の指導者達は乙のイデオロギー的武器による対抗にもはや
満足しえないのであった。国際連盟は、 ロシアを連合国の仲間 Kす る 目 的 で 、 ボ ル シ エ ヴ イ キ 政 権 に 軍 事 干 渉 す る た
めの同盟休制として利用されようとした。
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つ
ド
説
論
さて、軍事干渉に反対したロイド・ジョージは、勢力均衡政策の上でロシアをどのように考えていたであろか。これ
ヨI ロッ
まで屡々指摘してきたように、ロイド・ジョージは、その政策に原則的に反対もせず、またそれに彼の政策を依拠させ
るとも明らかにはしなかった。 ロシア問題においても、彼は均勢力としてのロシナについて語っていない。
パの勢力関係という観点から、ロシアについて彼が問題にしているのは、﹁ドイツがボルシエグイズムと運命を共にす
る か も し れ ぬ ﹂ 危 険 に つ い て で あ る 。 彼 は フ ォ ン テ ン ブ ロ 1覚 書 で 、 当 時 の 状 況 に お け る 最 大 の 危 険 を こ の よ う に み
たのである。 ドイツは、﹁その資源、その知力、その大きな組織力を、軍隊の力によるボルシエグイズムの世界支配を
ヲプロ γュマプ
夢としている革命狂信者のなすがままにまかせるかもしれぬ。との危険はもはや単なる幻想ではない﹂と。平和会議当
(回)
時彼が危険視していたのは、 ド イ ツ が ボ ル シ ェ ヴ イ ズ ム に 連 続 す る と と で あ っ て 、 疎 外 さ れ た 国 家 同 士 の 接 近 で
はなかったといえる。次に、彼はドイツに対する均勢力としての強大なポーランドの建設を望んでいたともいえぬ。
前章で考察したように、彼は、 ドイツから多くの領土を奪ってとれをポーランドに与えることに反対した。 これらの
点から考えて、 フ ラ ン ス の 構 想 し た ド イ ツ 包 囲 網 に 対 比 す れ ば 、 彼 は ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 の 複 合 的 競 合 を 構 想 し て い た と
いえる。 そ し て 、 当 面 の 政 策 と し て は 、 干 渉 に よ っ て 、 国 際 社 会 か ら の ロ シ ア の 疎 外 感 を 深 め さ せ る 乙 と が 、 疎 外 さ
れた国同志の接近への動きを強めることになる、と彼は考えていたといえよう。
われわれはと乙でロイド・ジョージの構想にみられる勢力均衡の型を問題にしようとは恩わない。彼の構想にその函
での独特なものを見出す乙とは困難であろう。問題はむしろ勢力均衡が政策決定の指導原理として機能しない点にあ
る。前節で考察したように、ロイド・ジョージは、干渉政策に対する国内的統制を常時問題にしていた。政策決定への
か か る 接 近 の 仕 方 乙 そ 、 彼 の 外 交 に お け る 勢 力 均 衡 政 策 か ら の 偏 向 を 示 す も の で あ っ た の で あ る 。 乙の偏向は伝統的
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
な政策からの意識的な離反によるものではなく、多くの場合彼のオポチユニズムと批判されていることと密接に関連
一般的な状況についていえば、勢力均衡政策が曽て
して出ている。偏向をもたらした要因は、 国 内 政 治 を 中 心 に 考 え て の 、 状 況 へ の 俊 敏 な 適 応 で あ り 、 ま た 彼 の 外 交 政
策が広範囲な人民の支持の喚起を求めていたことにある。まず、
の威光を喪失していたということは、人民的統制の強化の表現なのであり、またかかる状況は勢力均衡政策の遂行に
重大な制約を課するものであった。
勢力均衡の政策は、その作用の上で、秘密かつ迅速な決定作成、干渉の容易さ、および政策の連続性を仮定してい
る。これらの仮定は君主制の下でよりよく満たされるものであり、民主主義の下では満たされ難くなるのであった。
外 交 が 特 権 的 支 配 層 の 技 術 で あ る 場 合 に 、 迅速かつ秘密な決定作成は保証され、 国 際 的 均 衡 状 態 の 変 化 に 即 時 的 に 対
応しうる介入が可能となり、 その政策は国内の勢力関係の変化にかかわりなく継続されうるのであった。 乙れに対し
新外交の求められた歴史的段階においては、秘密な決定作成は非難されて政策の公開が要求され、また政策の実施に
一九一九年の外交はかかる諸条件によって拘束されるよう
は国民の承認が要求されていた。殊に、軍隊が国民大衆から徴募されたものからなっているため、国民を納得させえ
ない理由で戦争を行なうことは不可能に近いのであった。
になっていたのである。そ乙では国外の状況の変化に対する適応の変在自通性は制約された柔軟性に変わっている。
政府が勢力均衡の政策を進めようとしても、国外の権力関係の変化に介入する態勢ができているとは限らない。介入
一部の政策決定者の判断によって、介入が秘密かつ迅速に決定
さ れ て も 、 干 渉 行 動 の 持 続 を 保 証 す る も の は 存 し な い の で あ っ た 。 現 実 に 発 生 し て い る 勢 力 関 係 の 変 化 、 さらには介
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に反対する政党があり、労働組合があるのであった。
入を理由づける国民的利益すら、介入が戦争を賭している場合には、必ずしも一般国民や兵士に介入の必要を納得さ
北法
せる理由とはならない。 ロシアへの軍事干渉を決定したところで、﹁軍隊が行くかどうか疑わしい﹂とロイド・ジヨ 1
ジが説いた時、彼は右に考察した状況を直視し、 か つ 干 渉 の 必 要 を 国 民 に 説 明 す る 乙 と の 困 難 を 感 じ て い た と い え よ
ぅ
。 ζ の ζとを、もう少し、彼の発言と行動について採ってみよう。
AU
剖
JV
さて、 ロシアへ渡ったブリットは、一二月中旬、レ 1 ニンに会って、休戦成立のための﹁連合国条件﹂(崎市叫ん割問叫仕切
M時町一九)を彼に示し々との条件を認めることはソグェト政府にとって大きな譲歩であったが、レ 1 ニンは休戦協定
0
レ1 ニ ン の 対 案 は プ リ ッ ト に よ っ て 早 速 パ リ へ 報 告 さ
の 成 立 に 熱 意 を 示 し た 。 彼 は ブ リ ッ ト の 示 し た ﹁条件﹂に若干の修正を加えた対案を出し、またソグェト政府がこの
対案に従って休戦協定を結ぶ用意のある乙とを明らかにした
1た
。
ブ リ ッ ト の 非 公 式 交 渉 は ウ ィ ル ソ ン と の 連 絡 を 欠 い た 独 走 気 味 の も の で は あ っ た 。 し か し 、 ソヴェトの提議がイギ
リス代表のカ 1 の 覚 書 を 骨 子 と し て い た 以 上 、 真 に 連 合 国 が ソ ヴ ェ ト と の 和 控 の 意 志 を 有 し て い た ら 、 その提議に応
じて休戦を実現させようとする動きを示したであろう。だが、現'笑には四巨頭は﹁ソグェトの平和提議﹂をなんら審
この殆ど完全な秘密会で彼らがソグェト政府の提議を討議した形跡はないのである。彼
議しようとはしていない。三月下旬ロシア問題について、 四人会議で彼らが論じていたことは、 オ デ ッ サ か ら の 撤 退
とルーマニアの援助であり
らが討議したのは三月二一自に勃発したハンガリア革命に対処する方法であった。 し か も 、 会 議 で ウ ィ ル ソ ン が 慨 歎
したように、彼らの討議は、 ポ ル シ エ グ イ ズ ム に 対 す る ﹁ 抵 抗 軍 ﹂ を 組 織 す る こ と が 可 能 か ど う か を め ぐ っ て 堂 々 巡
りしていたのである。一二月二五日、 四 人 会 議 は オ デ ッ サ と ル ー マ ニ ア の 状 況 を 討 議 し 、 軍 指 導 者 に オ デ ッ サ 撤 兵 と ル
ーマニア援助の具体策の提出を求めた。二七日、 フオツシュは、 ポーランドとルーマニアに防疫線を張りめぐらし、
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論
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
そ し て ル ー マ ニ ア 軍 を フ ラ ン ス の 将 軍 の 指 揮 下 に ボ ル シ エ グ イ ズ ム の ﹁清掃﹂ に当たらせ、 ま た ア メ リ カ 将 軍 の 指 揮
下に連合国軍がウィーンを占領する乙とを提案した。 これに対しウィルソン大統領は、 ルーマニア援助とオデッサか
らの撤退について四人会議は意見の一致をみていると述べる一方、会議は軍事干渉を考えるべきでないという結論に
ζで軍指導者は障陪なく﹁防疫線﹂の名の下に軍事干渉の案を提出する。
これに対し政治指導者
達していると述べて、軍事干渉やウィーン占領に反対した。政治指導者がポルシエヴイズム阻止の具体策の作成を軍
指導者に求め、 そ
は、軍事干渉は採りえないとして彼らに再考を求める。 四 巨 頭 は 明 ら か に 政 策 を 欠 い て い た 。 二 七 日 の 四 人 会 議 で イ
ギリスのウィルソン将軍が述べた次の言葉は、 ポ ル シ エ グ イ ズ ム に 対 処 す る 方 策 を め ぐ る 四 人 会 議 の 決 定 作 成 の 右 の
ような状態を簡潔に言い現わしている。 ﹁ ポ ル シ ェ グ イ ズ ム に 対 し て 軍 事 行 動 を 取 る の が 望 ま し い か 否 か を 決 す る
のは政治家の任務です。もし ζ の決定がなされたらフオツシユ元帥によって提出された計画は最善を尽して開始され
る。われわれが時間持すればするほど問題の解決は困難となるでしょう。﹂軍指導者がまず行動に出るべきととを求めた
のに対し、政治指導者、殊にウィルソンとロイド・ジョージは軍事行動の高価な代償を予測してその手段に訴えること
に障措するのであった。 ウィルソン大統領は、﹁私の考えでは、兵列によって革命運動を阻止しようとする乙とは、大
きな潮汐を阻止するためにほうきを使うようなものである﹂と述べて、軍事干渉の価値を否認し、また彼は、﹁ボルシ
エ グ イ ズ ム を 滅 ぼ す 唯 一 の 手 段 は 、 国 境 を 確 定 し て す べ て の 港 を 貿 易 に 開 放 す る こ と で あ る ﹂ と 説 い た 。 このような
ポルシエグイズム問題に関し、 ロイド・ジョージは積
彼の主張から考えて、彼が、 ソ ヴ ェ ト 政 府 の 平 和 提 議 の 審 議 を 求 め て な ん ら の 不 思 議 も な い の で あ る が 、 彼 は そ れ の
二七両日の四人会議で、
一月の会議 Kおけるようには、軍事干渉に反対する態度を一不さなくなった。 しかし
検討を求めることがなかった。 二五、
極的発言をしてはいない。彼は、
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説
論
なお干渉に踏み切ろうとしえないのであった。
三月二八日、ロシアから帰還したばかりのブリットは、ロイド・ジョージに会ってソグェト政府の平和提議の公式文
を手渡した。ブリットの証一一一目したところに従えば、 そ の 際 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は ソ グ ェ ト の 提 議 を 一 読 し て 、 ﹁ 乙 れ は 私
ロイド・ジョージは、
ロシアについて私が分かりの
イギリスの世論をどのようにしたものかわからないと述べ
が 既 に 読 ん だ の と 同 一 の も の だ ﹂ と 述 べ 、 それを同席していたスマツツ将軍に一供した。 スマツツはそれを読んで、
の機を逸すべきでないと言ったが、
た 。 彼 は デ 1リ 1 ・メールを手にして、﹁イギリスの新聞が乙んなことをやってる限り、
ロシアへ渡った者がもたらす情報の多くが、本同では単
員によるこの記事は、 さ ら に 、 攻 撃 の 矛 先 を 政 府 の 対 即 時 政 策 に も 向 け て 、 政 府 が ソ グ ェ ト 政 府 か ら の 経 ー 済 ・ 商 業 お よ
てボルシエグイズムは多くのドイツ将校やドイツの回し者によって組織され、指揮されているのであった。パリ特派
る。民主的ではなく、 反 民 主 的 で あ る 。 社 会 改 革 で は な く て 、 武 装 し た 無 政 府 、 社 会 破 域 の 無 政 府 状 態 で あ る よ そ し
ているとか報ぜられた。四月三日のタイムズによれば、ボルシエグイズムは、﹁社会主義ではなくて、反社会主義であ
シ エ グ イ キ の 主 要 指 導 者 の 大 部 分 は ユ ダ ヤ 人 で あ る と か 、 ペ ト ロ グ ラ 1ド で 反 ポ ル シ エ グ イ キ の ス ト ラ イ キ が 勃 発 し
タイムズはポルシエグイキ攻撃のキヤンペインを行なっている。その報道は虚偽と悪意に満ちたものであった。ポル
当時、新聞はロイド・ジョージを﹁ポルシエグイキびいき﹂と攻撃するようになっていた。三月末から四月にかけて
めた。
のような保守主義者をロシアに派遣することの必要を語り、 ま た ロ シ ア 問 題 に 関 す る ブ リ ッ ト の 報 告 書 の 公 表 を す す
純に急進的な一一-一日動と受け取られているが、 そ れ ら の 情 報 が 事 実 で あ る 乙 と を 世 界 に 知 ら し め る た め に 、 ラ ン ズ 、 ダ ウ ン
よ い 態 度 を と れ る と 思 い ま す か ﹂ と 述 べ た 。 さらに、彼は、
乙
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
び金融上の譲歩を得るととと引き換えに、 ボ ル シ エ グ イ キ 政 権 に 連 合 国 お よ び ア メ リ カ に よ る あ る 種 の 形 で の 承 認 を
与えるという、恥ずべき﹁取り引き﹂をしようとしているととが、パリでは一般に知られていると報じ、またロシア
から帰還した英軍将校からの情報として、早急な対露政策の決定が必要でありまたそれなくしては勝利の成果を失う
ことになると伝えた。攻撃はロイド・ジョージ個人に対しても加えられた。﹁会議の指導者達および特にイギリス首相
の態度で最も嘆かわしい乙との一つは、 な に か 大 問 題 を そ の 真 価 に よ っ て で は な く 、 も っ ぱ ら あ る い は 主 と し て 、 彼
自身についてうわさされてる国内的利害の観点から言及する傾向である。彼らは口にこそ出さないが心の中では、平
和会議の指導者逮の方で、 勝利の果実獲得の唯一の方法でその果実を獲得しようという、決定を一寸でも示すと、戦争
中に不変の愛国的な挙動で連合国の勝利に大いに寄与した男女労働者は、 ボ ル シ エ グ イ ス ト へ 転 ず る 覚 悟 な の だ と 仮
定しているように思われる﹂と。タイムズの記事はこれに続けて、ロイド・ジョージはマクドナルドのような社会主義
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者へ親近性を示して、 ロシアへの干渉政策に反対しておるのであり、 こ の こ と は 結 局 、 勝 利 に よ っ て 得 る べ き も の を
失うことになると彼を批判したのである。
タイムズの論調に現わされている、保守主義者の反ボルシエグイキ感情が、 ボルシエグイキ政権との和睦に向う乙
と を 阻 止 す る 要 因 と し て 働 い て い た の K対 し 他 方 、 独 立 労 働 党 を 中 心 と し た 対 露 干 渉 へ の 抗 議 の 芦 が 、 干 渉 政 策 へ の
抑制要因として働いていた。休戦は、労働党が戦争中に﹁自ら課した沈黙﹂を破る時であった。ロシアからの撤退要求
一九一八年末の総選挙後も議会労働党はなお
は一九一八年末の総選挙における労働党の綱領の一つであったし、 また労働党は、 ロ シ ア の 国 内 問 題 に 加 え て い る 連
合国のあらゆる干渉を即時中止するよう政府に圧力をかけた。 しかし、
労働組合のクラブに似た存在で、政府の干渉政策に対する議会での抗議は﹁生気も目的﹂も共に欠いていた。干渉反対
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説
論
一九一九年初頭にイギリスを襲った労働不安であろう。 こ の 時 の 争 議 は 、 軍 隊 の 大 規 模 な 出 動 に よ
は主として独立労働党の主張するところであった。抗議の目標のはっきりとした彼らの圧力よりも、政府の政策に抑
制を加えたのは、
って抑圧せねば収拾しえぬまでに激しかった。政府の山方いかんによっては、それは兵士の反乱と合体して﹁革命的騒
乱﹂を引き起しかねなかった。 チ ャ ー チ ル へ の 電 報 で ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ が 問 題 に し た の は か か る 国 内 の 状 況 で あ っ た 。
ロシア問題の解決には、右に考察したような真向うから対立する圧力が加えられていたのである。和睦と干渉のう
H英 常 国
ちのいずれを選ぶにしろ、 そ乙には国内からの激しい反援が予怨された。 チ ャ ー チ ル に よ っ て 国 民 的 利 益 (
の拡大﹀として述べられたことが、労働者・兵士の求めるところではなかった。干渉を積極化しようにも、干渉主義
者達はポルシエグイズムについての恐怖以外に、干渉の大義名分を発見しえないのであった。ロイド・ジョージは、四
月初旬、前年末の総選挙における戦費要求に関する公約の実現を迫る保守党議員大多数からの電報を受け取ったのに
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私的L T ポ ル シ エ グ イ キ と の 協 定 に 抗 議 す る 電 報 を つ き つ け ら れ た 。 三 月 初 旬 に お け る コ ミ ン テ ル ン 成 立 、 下 旬 に 勃
,
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発したハンガリアの革命、 そして四月五日、革命の波はパバリアへ押し寄せていた。彼は、 四 月 一 回 目 、 保 守 党 員 の
不満を収拾すべく急速帰国したのであった。
四月一六日、彼は講和の諸問題について下院で演説した。﹁ロシアの争いを静める一般的な計画ヘボルシエグイキを
導き入れようとしたわれわれの努力によって、保守党員の感情があまりにもいらだっていたので、私は演説の大半を
乙の爆発的トピックにさかねばならなかった﹂、とロイド・ジョージは書いている。この演説において、彼は国内世論の
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。
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乙れは容易でない。 ロ シ ア 問 題 は 曽 て い か な る 集 団 に よ っ て も 放 わ れ た こ と の な い よ う な 、 最 も 複 雑 な 問 題
分裂による決定作成の困難を卒直に表明して、﹁あるひとは﹁武力を行使せよ!﹂と言う。あるひとは﹁講和を結べ!﹄
とい
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同
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ロシアに安定をもたらすため、 イ ギ リ ス は ロ シ ア へ 介 入 し て な ん ら か の 政 治 形 態 を ロ シ ア 国 民 に 課 す べ き
の一つなのであります﹂、と述べている。そして、問題解決の困難は、いかなるロシアも存しないととにあるとされる。
それでは、
か。この時になって、彼は軍事干渉反対の理由に、内政不干渉がイギリスのすべての外交政策の基本原則であると説
Ah
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いたのであった。﹁ロシアがメンシエグイキであろうがポルシエグィキであろうが、反動的であろうが革命的であろう
が、:・::::::それはロシア国民自身の問題であります﹂と。大戦遂行の大義であり、また戦後世界についてのグイ
ジョンの中心にあった民族自決の原則が、自国の反動的勢力の追求しようとする目的を矯正するためにあらためて提
唱されねばならなかったのである。もとより、 民 族 自 決 は 原 則 と し て 提 示 さ れ て い る と い う よ り 、 説 得 の 方 便 と し て
出された性格の強い乙とは、干渉反対についての説得の重点が、干渉の戦略的側面における困難に置かれていること
からも否めない。﹁ロシアは侵入するには非常に容易であるが、征服するには非常に困難であります﹂と彼は述べ、ま
た 前 大 戦 に お け る ド イ ツ 軍 の 経 験 か ら 推 測 し て も 、 たとえロシア領土の一部を占領したにせよ、 そ れ を 維 持 し て ゆ く
だけで大軍を必要とすると説明した。彼にとって軍事干渉は﹁きわめて愚かな行為﹂であった。二者択一において彼が
選択した道は干渉を使える道であった。﹁私はすべてのポルシエグイキの教義についての恐怖を共にするものですが、
私 は イ ギ リ ス が 破 産 す る の を 見 る よ り も 、 む し ろ ロ シ ア が ポ ル シ エ グ イ キ か ら 脱 す る 方 法 を 見 出 す ま で 、 ロシアをボ
ルシエグイキに任せる方をとるのであります﹂と彼は述べている。右のように軍事干渉の愚行なることを強調した場
合にも、 ポルシエグイズムの脅威に対処する方策が一不されねばならなかった。保守党員の多くは、︽侵略︾と︽渉透︾
とを区別する余裕もなく、ボルシエグイズムを恐怖していた。ロイド・ジョージは、東欧には反ポルシエグイキの風潮
が強いこと、 そしてもしポルシエグイズムが連合国のいずれかを攻撃した場合、 そ れ ら の 国 を 守 護 す る の は 連 合 国 の
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、
、
仕事であるとして次のように述べた。﹁乙の理由から、われわれはこれらすべての国に、軍隊の力による侵略に対する
真 の 障 壁 を 築 く た め に 必 要 な 兵 器 を 供 給 し て い る の で あ り ま す 。 ポ ル シ ェ ヴ イ キ は 脅 迫 す る か も し れ な い し 、 しない
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かもしれぬ。彼らがそうしようとしまいと、 わ れ わ れ は 、 武 力 に よ っ て ヨ ー ロ ッ パ を 探 踊 し よ う と す る い か な る 企 て
にも備えるべきでありましょう。 そ の 事 が わ れ わ れ の 政 策 で あ り ま す ﹂ と
ロ シ ア へ の 出 兵 や そ ζ で の 駐 留 に 対 す る 国 内 民 衆 の 大 部 分 の 反 対 、 主 に ζれ ら の 理 由 か ら 、 彼 は ロ シ ア の 問 題 は
この下院演説においても、ロイド・ジョージは軍事干渉に消極的な態度を明らかにしたといえる。ロシアの地理的条
件
、
ロシア人に任せ、ポルシエグイズムの脅威については、ロシアの外へのその侵略に対しては武力でもって阻止するが、
ボ ル シ エ グ イ ズ ム そ の も の を 直 接 に 軍 事 的 に 滅 ぼ そ う と す る 政 策 の 非 現 実 的 な こ と を 説 い た の で あ っ た 。 乙の政策は
しかし、保守党員の最も欲していた、 ボ ル シ エ グ イ ズ ム 激 減 と い う と と に 対 す る 解 決 策 を な ん ら 含 ん で い な い 。 彼 ら
一方ボルシエヴイズム自体は急速に衰微して
ロイド・ジョージは、政府が得た﹁信ずべき
の欲する干渉政策に対するロイド・ジョージの反対理由は、彼らからみて、あまりに消極的なものでしかない。ボルシ
エグイズムの死滅についての展望が与えられねば、彼らは満足しえない。
情報﹂として、 ポ ル シ エ グ イ キ の 軍 隊 は 明 ら か に 強 化 さ れ つ つ あ る が 、
ロシア問題においても、
いるということを述べている。彼は、その発言通りに近い将来におけるポルシエグイズムの衰微ということを信じて
いたであろうか。 そ れ は 保 守 党 員 を 満 足 さ せ る た め の 言 葉 で し か な か っ た か 。 三 月 末 以 降 、
彼の態度は増々日和見的なものとなっている。ロシア問題についての演説を結ぶに当たって、ロイド・ジョージは、﹁ロ
ロシア国民のすべてが受け容れ、 連 合 国 が 承 認 し う る 政 府 の 樹 立 に 努 力 し た が 、 失 敗 に 帰 し
シアが内戦によって引き裂かれ分裂している限り、世界は平和にならない﹂とし、戦闘しているロシアの諸勢力を招
請して休戦を成立させ、
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 伺
たと述べている。 そこには、三カ月前にみられた、 ソグェト政府との交渉を試みる態度は影をひそめていた。
五月に入って、 ロシアでは、 コルチャック軍の活動が開始され、 それはある程度軍事的成功を収めた。 イギリスに
おける労働不安も治まっていた。 そして、 五月二六日、連合国の方針は、 そ れ ま で と ら れ て き た 、 ボ ル シ エ グ イ キ 政
権との交渉の可能性を探る乙とから、白露軍への軍事援助へと決定的な展開をみた。状況の変化に直面して、
た
。
一九一九年の講和において、充分機能しえたわけではなかった。 しかし、
早期動員解除の必要、
﹁改造﹂ の 諸 政 策 推 進 と い っ た 諸 要 因 を 問 題 に し
ζのような諸要因を重視し、園内政治の延長線上に対露干渉政策を立てようとする限り、干渉政策は園内諸政策
は干渉政策 K対するイギリス労働者の反対、
衡を指標として要請された干渉行動を抑制していた。ロイド・ジョージはソグエト政府への軍事干渉に反対した時、彼
れまでの考察から明らかなように、 ロシア問題における決定作成には、 経 済 的 ・ 政 治 的 な 種 々 の 動 機 が 介 入 し て 、 均
干 渉 政 策 K対する国内からの統制は、
招来しない道を消極的に選んだのであった。
手にしなければならぬ政府であるとなお考えていたであろう。 だ が 、 彼 は 結 局 、 彼 の 権 力 維 持 に 重 大 な 政 治 的 結 果 を
渉戦争の終結まで継続した。ロイド・ジョージは、ボルシエグイキ政権が事実上の政府であること、将来イギリスが相
かりの外国軍と多大の外国貨幣、軍需品、 そ し て 助 言 ﹂ を も っ て す る 、 ﹁ 新 し い 政 策 ﹂ を 支 持 し て い た 。 乙 の 政 策 は 干
ド・ジョージはあっさりそれまでの和睦への試みを放棄した。彼も、資本主義諸国政府の単なる一員として、﹁僅かば
ロ
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との矛盾を深めるばかりであった。制約された小規模の軍事干渉はソヴェト・ロシアを崩壊させえず、他方ボルシエグ
イズムの掃滅は、 ど 乙 ま で い っ て も 、 大 衆 に よ っ て ﹁国民的利益﹂として受け容れられないのであった
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乙 の 段 階 で 、 ハ ウ ス 、 ク レ マ ン ソ l、 お よ び ソ ニ ノ は 、 夫 々 、 も と も と ロ シ 7代 表 招 請 案 に は 反 対 で あ っ た が 、 連 合
国 の 意 見 一 致 の た め に 、 不 本 意 な が ら そ れ に 賛 成 し た と 述 べ て い る 。 EW 河口EESH由、缶、2 ・
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における最強の勢力、最も侵略的な勢力、最も支配的な勢力に対抗する乙とであった。﹂﹁イギリスの政策はどの国が欧州の支配権
m p広 チ ャ ー チ ル は 後 年 、 勢 力 均 衡 の 政 策 に つ い て 次 の よ う に 演 説 し て い る 。 ﹁ 四 百 年 に わ た り 、 イ ギ リ ス の 外 交 政 策 は 、 大 陸
を求めているか、というととなどは考慮しないというととに注意せよ。問題はただ、だれにせよ最も強力なもの、将来支配者たる
可能性ある暴君だけである。:::・:われわれが実践しているのは国策の原別であって、決して偶然の事情や好き嫌い、その他の感
I の考えもチ
情によって支配される便法ではないよチャーチル﹃第二次大戦回顧録﹄(毎日新聞都訳委員会訳)②、五、七頁。右の原則に照ら
7 ンソ
ャーチルに近い。彼はチャーチルのロシア問題協議会設立案に賛成して、﹁ロシア問題の処理をロシアの独力でやらせる政策には賛
して、一九一九年の場合の対露干渉を考えると、﹁暴君﹂はあくまでドイツと考えられていたことになる。クレ
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同
成 で き な い 。 な ぜ な ら 、 ロ シ ア は 急 速 に ド イ ツ の 生 犠 に な る か ら で あ る ﹂ と 述 べ て い る 。 問HYMNE2255u 定 ま た 、 ハ ウ ス も
安定構想としては同様の型を想定していたが、干渉政策の効果については、彼らと了度逆の結果を予想した。すなわち、フランス
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の 反 ボ ル シ エ ヴ イ キ 政 策 は 独 露 提 携 の 危 険 を 求 め る よ う な も の で あ る と 。 巴c
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側ウィルソンは、平和会議出席のため渡欧する際、﹁新秩序﹂にたいする世界の民衆の欲求を問題にして、回秩序に対する浄化処置
なら﹁それは人類が乙れまで採ってきた方法に対する抗議だから﹂と語り、新秩序のために闘う乙とが平和会議における彼らの仕
を採る乙とによってのみ、世界は再生すると彼の随員に語った。そして、ボルシエヴイズムの毒はたやすく受け容れられた。なぜ
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事であると述べている。国内凶}内巾円W
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側独露接近を阻むことは、両国の政治体制がその基礎を固めるにつれ、ロイド・ジョージ自身の政策にもなっていた。例えば、一九
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二 二 年 に 独 露 聞 に ラ ッ パ ロ 条 約 が 成 立 し た 時 、 彼 は 乙 の 接 近 を 成 立 さ せ て し ま っ た 乙 と を 悔 ん だ の で あ っ た 。 。h
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凶ロイド・ジョージが将来へのいかなる展望をもっていたかを考える上で、次の発言はきわめて興味深いものがある。一九一九年六
ζ の 民 族 は 独 裁 者 の 命 令 に 従 う ζと も 、 ボ ル シ エ ヴ イ キ に な
月 六 日 の 十 人 会 議 で 、 彼 は 次 の よ う に 述 べ て い る 。 ﹁ フ ラ ン ス は チ ユ 1 ト ン 民 族 を 最 も 恐 れ て い る が 、 私 の 考 え で は 、 チ ュ l トン民
ることもできる、予測のたたぬ因子です﹂と。ロシアの人口、一億六千万に比すれば、チュ l トン民族はたかだか七千万にすぎな
族は大いにやっつけられた。私が恐れている民族はスラヴ民族です。
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因子であるということは、彼の実感していたところであろう。一九一九年においては勿論、そ
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の後においても、ロシアの力に対する評価は高いものではなかった。 E ・
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にした際、ソヴエト・ロシアがドイツに対する均勢力として機能する乙とに否定的な見解を表明しているのである。
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附 乙 の 問 の 事 情 に つ い て は 、 細 谷 、 前 掲 論 文 、 九 八 │ 九 、 一 O 三頁参照。
に述べている。﹁これは、強奪者どものする略奪に国富をくれてやる乙とを意味すると言う人がいる。
ζれ に た い し て 私 は 、 乙 乙 で
凶 三 月 一 二 日 、 ベ ト ロ グ ラ l ド・ソヴェト会議で、レ l ニ ン は 、 ﹁ 北 部 大 鉄 道 ﹂ の 利 権 を 外 国 資 本 に 与 え る こ と を 論 じ て 、 次 の よ う
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は問題はブルジョア専門家および世界帝国主義の問題と大いに関連がある、と乙たえる
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・・・-・:いま世界帝国主義を打倒する乙と
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は、他の国々がソヴエト的多数派の存在しないような時期にあり、多くの国でソヴエトがいまやっと生まれはじめたばかりである
﹂﹃レ 1 ニン全集﹄
うちは、わが国一国だけでは不可能である。だから帝国主義に譲歩しなければならないのである o
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l ニ ン 主 義 研 究 所 訳 ) 第 二 九 巻 、 一 五l 六 頁 。 こ の 演 説 か ら も 窺 わ れ る よ う に 、 レ l ニ ン は 連 合 国 の 干 渉 を 中 止 さ せ る た め に 、 ソ
ヴエトの側のなんらかの譲歩を考えていた。
間 細 谷 、 前 掲 論 文 、 一 O O頁。
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﹁名誉ある講和﹂であるとしている。彼は、それを書くに至った背景について次のように書いている。三月二六日に、彼は、アメリ
側 ス テ ィ l ド に よ れ ば 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ が 問 題 に し て い る デ l リ1 ・メールの記事は、スティ 1 ド が そ の 二 八 日 の 社 説 に 書 い た
カ 人 の 友 人 か ら 、 プ リ ン キ ポ 提 案 の 復 活 の 空 気 が た だ よ っ て い る と 注 意 さ れ た 。 そ 乙 で 、 彼 は 二 七 日 の デ 1 リl ・
メ l ルで、ボル
シエヴイキという、文明の基礎を破壊する﹁兇漢﹂を承認することに反対する記事を掲げた。同日、彼はハウスから彼を訪問する
よう乞われた。彼はハウスを訪問して、ウィルソンが商業上の該歩からボルシエヴイズムを承認したら、彼が全く信頼を失ってし
まうだけでなく、国際連盟がだめになると述べた。乙れに対し、ハウスはボルシエヴイキと若干の関係をもってないと、ロシアの
完全な滅亡を阻止するととは不可能だと述べた。ハウスと別れた後、彼は、翌朝ウィルソンとロイド・ジョージとが、ブリットの提
を奮いた。その社説の要旨は、ボルシエヴィキからの経済的該歩や債務の保証のために、彼らを信任したら、アングロサクソン的
案に従って、ボルシエヴイキを﹁承認﹂することに同意するかも知れぬという情報をえた。そ乙で彼は、早速二八日の問題の社説
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細谷、
理想主議の誠意への信頼が死滅してしまう。連合国諸政府は家門を清くしておくべきであり、名誉ある真の講和でない、いかなる
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講 和 も 結 ば な い と 決 す べ き で あ る 、 と い っ た 内 容 の も の で あ っ た 。 宮 内 包 ¥ 吋rzm
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ブリ yト の 報 告 書 は 、 ソ ヴ ェ ト 形 態 の 政 府 が 確 立 さ れ た こ と 、 レ l ニンの
前掲論文によれば、その頃ハウスはブリットの報告に満悦し、﹁レ l ニ ン 提 案 ﹂ を 受 け 入 れ る よ う 各 国 政 府 に 働 き か け て い た 。 同 論
文、一 O 七頁。
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
である乙と、等を説いている
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明 戸 刀C2555・ ∞ 日 申 ・ 彼 の 報 告 書 は 公 表 さ れ な か っ た 。 プ リ ッ ト に よ れ ば 、 そ れ は ウ ィ ル ソ ン
威信はきわめて高い乙と、ソヴェトの休戦提案は、﹁公正で理性的な根拠にもとづいて革命と講和を結ぶための好機﹂を与えるもの
が そ れ を 欲 し な か っ た か ら で あ る 。 回 三 一E
WCMynFWHUHM・。晶 ∞
l ・ウィルソンはドイツとの講和問題で頭をいためていて、ロシア問
をハウス Kま か せ た 。 か く し て 、 彼 の 報 告 書 及 び 提 案 は 、 パ リ 平 和 会 議 の 議 題 に 正 式 に 取 り 上 げ ら れ な か っ た 。 HELua-SUE・
題を考える余裕がないと述べ、また彼はプリットの作成した休戦提議について話し合うととを約束しながら、実行せず、その処理
7 ィッシャ l は、レ 1-一 ン の 休 戦 案 が な ん ら の 成 果 も 生 ま な か っ た 乙 と に つ い て 、 多 く の 首 脳 は そ れ に 賛 成 し た が い ず れ も イ ニ シ
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ア チ ブ を 取 っ て 、 責 任 を か ぶ る 乙 と を 恐 れ 、 休 戦 の 機 会 を 逸 し て し ま っ た と 書 い て い る 。 ﹁ 明 , 田町
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ロイド・ジョージについて考えても、彼の記述は的を射ているといえるであろう。
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批判した。特に、労働党大会では、干渉反対のために﹁直接行動﹂をも辞すべきでないという議論が展開されるまでになった。一
侃一九一九年七月の労働党大会、周年九月の労働組合会議大会は、対露干渉反対に議会労働党が活溌な動きを一不さなかったことを
方、独立労働党系の指導者逮はヘラルドを通じて、干渉が債権所有者や石油資本の利益のための政策であると攻撃し、連合国の干
と
ζろ で あ る が 、 石 油 資 本 そ の も の の 動 き に つ い て は 殆 ど 調 べ え な か っ た 。 た だ 、 干 渉 政 策 と 資 本 の 関 係 に つ い て 、 ス テ ィ 1 ド
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渉 呂 的 は 、 ﹁ 連 合 国 と ロ シ ア 資 本 家 の 利 益 に 仕 え る 反 動 的 政 府 の 再 興 で あ る ﹂ と 批 判 し て い た 。 。gzEEv 切 w
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・ 81∞ ﹁ 干 渉 政 策 が 、 イ ギ リ ス の 石 油 資 本 の 圧 力 と な ん ら か の 関 連 を も っ て い た 乙 と は 廻 像 し う る
は、ヘラルドの論調とは了度逆に把握している。すなわち、有力な国際金融資本!│ユダヤ人の銀行家を彼はあげているーーーがボ
ル シ ェ ヴ ィ キ の 即 時 承 認 に 働 き か け て い た と 彼 は み て い るo g白色"C℃
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わちボルシエヴイ牛への﹁接近﹂を試みたことは全くないと否定し、﹁他のだれかが、信ずべき筋からきたと彼らが思っている提案を
得た、という報告を聞いているだけであるが、これらの提案は平和会議の構成閣によって会議に出されたことは決してなかった﹂と
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れらの伝言の価値を判断するのは私の仕事でない﹂と答えた。旬。、 n
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ブリットは、ロイド・ジョージがボルシェヴイキの
述べた。そしてロシアから帰ってきたアメリカ人がいると言われているが、それについてロイド・ジョージの言いうる乙とは、﹁こ
﹁公式提案﹂を全然知らないかのどとく答えたのは、彼の生涯で未だかつて経験した乙とのない鉄面皮ぷりだったと書いている。ま
い う 。 帰 芙 の 際 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 、 ロ シ ア と の 講 和 に 賛 成 す る 声 明 を 出 そ う と し て い た が 、 帰 っ て み る と 、 ノ 1 スクリップ、ステ
た、ロイド・ジョージがそのような答え方をした乙とについて、ブリットを訪れた様々のイギリス随員遼は、次のように弁解したと
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ィl ド そ し て チ ャ ー チ ル が 、 保 守 党 員 達 を 彼 に 反 対 す る よ う あ や つ っ て い た 。 ま た ロ シ ア 問 題 で 彼 自 身 の 意 見 を 話 そ う と し た ら 、
一
彼を倒す態勢ができていた。彼がボルシェヴイキの提案に関知してないと述べたのは右のような事情によると
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ムード対政策
賠償問題をめぐる世論と外交
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第五章
第一節
一九一九年の取り、決めで、決定の当時に国内からの圧力が最も問題にされ、 ま た 決 定 の 後 に そ の 内 容 が 最 も 大
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
次に、経済的には、大別して、連合国がドイツに課した賠償はドイツによって支払可能なものであったかということ
と、連合国の請求額が戦後のヨーロッパひいては世界の経,併・金融関係を破壊してしまう類いのものでなかったかど
う か と い う 問 題 に わ か れ る 。 ととでは、 主 と し て 平 和 会 議 に お け る 決 定 作 成 に 対 す る 世 論 の 圧 力 に つ い て 考 察 す る 。
一九一八年末の総選挙当時、ロイド・ジョージ個人は賠償問題についてどのような態度をとっていたか、総選挙におい
て彼はそれについてどのような公約をしたか、平和会議におけるその決定作成で彼は世論の圧力という乙とをどのよ
うに取り上げているか、以上の諸点を順次検討してみることとする。
の経済的帰結﹂ に ケ イ ン ズ は 次 の よ う に 書 い た 。 ﹁ も し も ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ 氏 か ウ ィ ル ソ ン 氏 が 、 彼 ら の 注 意 を 必 要 と
ヨーロッパはなんと異な
した諸問題で最も重大なものが、政治的あるいは領土的問題ではなく金融および経済に関するものであったこと、
た将来の危険が国境や主権にではなく食糧、石炭および運輸にあることを理解していたら、
った将来を予想しえたであろう﹂と。彼はこれに続けて、彼らが平和会議のあらゆる段階でそれらの問題に適切な注
ま
一ったるを疑わない。 乙 の 問 題 に つ い て は 周 知 の ケ イ ン ズ の 批 判 が あ る 。 出 版 と 同 時 に 一 大 反 響 を 惹 き 起 し た ﹁講和
ことをどれほど認識していたであろうか。乙の問題は、ロイド・ジョージの安定構想を検討する上で最も重要なものの
一九一九年の講和において、政治家達は、国際関係の安定にとって国際経済の安定ということが重要なものである
れ
きな論争をよんだ問題は賠償問題であったといえる。平和会議の決定作成に対する圏内からの圧力は、多くの場合、
賠 償 を め ぐ る ﹁世論﹂ の 非 合 理 的 要 求 の 問 題 と し て 論 ぜ ら れ る 。 ま た 取 り 決 め の 内 容 に つ い て は 、 政 治 的 に は 、
﹁戦後処理の原則﹂ に 反 し て い な か っ た か ど う か と 、 そ れ が 政 治 的 に 賢 明 な も の で あ っ た か ど う か が 問 題 に な る 。
そ
意を払わなかったし、﹁賢明かつ理性的な考察﹂を求めようとする雰囲気はイギリス代表が償金問題に足をつっこんだ
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カf
説
論
がためにぼかされてしまったと書いている。平和会議に提起された諸問題のうち、ケインズがみたように、経済や金融
の問題が最も重要であったとみることは、 そ れ 自 体 一 つ の 政 治 的 判 断 で あ っ た 。 平 和 会 議 に 投 げ 込 ま れ て い た 問 題 の
大きさや多様性から考えて、平和会議における審議が金融や経済の問題に集中されえたとは思われない。また、三巨
頭 が ケ イ ン ズ の い う 金 融 や 経 済 の 問 題ll戦債の処理、賠償、復興金融、 そ し て 食 糧 や 石 炭 等 々 の 問 題 に 過 度 に 注 立
、 そしてロシアの問題で
を払わなかったわけではない。﹁暗黒期﹂に彼らが論じていた問題は、賠償、ライン、 ず 1 ル
あった。平和会議において三巨頭がタッチした全審議に照らしていえば、問題は金融・経済問題に対する三巨頭の関
心の有無にではなく、関心の置き所にあったといえよう。
さて、賠償はイギリスの政策にとっていかなる意義あるいは価値をもっていたであろう。経済戦の性格を帯びた第
一次世界戦争は、莫大な戦費の調達、すなわち公債発行、租税徴収、海外資産の処分によって遂行されたのであった。
かくして戦後のイギリス経済には、戦債、社会改造の資金、復旧費、海外投資の喪失等が重くのしかかっていた。既に
考察したように(耕一一一間) 一九一八年総選挙におけるロイド・ジョージの選挙綱領は﹁改造﹂の諸政策やドイツからの賠
償取り立てを諮っていた。 そして、 ド イ ツ に 対 す る 強 圧 政 策 の 一 貫 と し て の 賠 償 要 求 は 、 財 政 の 資 金 獲 得 の 面 で 、 資
本家の求める復興資金政策さらには大衆の求める福祉政策とも、 イ ギ リ ス の 目 前 の 利 益 の み が 考 え ら れ て い る 限 り に
お い て 、 必 ず し も 矛 盾 し な い の で あ っ た 。 限 ら れ た 、 近 視 限 的 な 、 観 察 を 下 せ ば 、 賠 償 金 は ﹁ 改 造 ﹂ の課題達成の豆
要な補助手段にさえなりうるものであった。 し か し 、 世 界 経 済 全 体 か ら 賠 償 を み る と き 、 巨 額 な 賠 償 取 り 立 て は 大 き
な矛盾を含んでいた。 ドイツに対する賠償要求は、弱小後進国間の要求ではなく、 ま た 弱 小 後 進 国 に 対 す る 強 大 商 業
閣のそれでもなかった。 そ れ は 、 共 に 独 占 資 本 主 義 段 階 に ま で 高 度 の 発 展 を み て い た 諸 国 間 で 、 戦 勝 諸 国 が 戦 敗 因 に
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 三
(3
対してする強要であった。 乙の関係で、 ドイツによる賠償支払がその輸出貿易の拡大によって可能であるとすれば、
巨 額 な 賠 償 要 求 は 、 高 い 関 税 障 壁 と 種 々 の 経 済 的 障 壁 と が 既 に 諸 国 家 を 分 断 し て い た 世 界 に お い て 、 ドイツをドイツ
の 債 権 者 と の 激 し い 貿 易 競 争 に 追 い た て る こ と を 意 味 し た 。 ま た 、 ドイツが借款によって賠償を支払うとすれば、
の乙との長期的効果は、連合国の一員がドイツ産業の復興と強化を助けて、他の一員が最も恐れる軍事的強大化への
道を舗装することであった。
、 イギリ
賠償取り立てに内在した諸矛盾は、既に平和会議長中に、 イギリスの政策に表面化していた。 ベイカ lは
ス代表部内ではイギリスの採るべき経済政策をめぐって二つの見解の存したことを指摘している。 その一つは、戦争
によって得た獲物の保持・増大を目標とするものであり、他の一つは、イギリスの経済的回復の唯一確実な基礎が﹁ヨ
-ロッパを再出発させること﹂ にあると論ずるものであった。経済問題において、 イ ギ リ ス 代 表 は 当 初 前 者 の 見 解 に
たって折衝を進め、船舶、原料、賠償の獲得に努めた。 そして、 乙 の 獲 得 闘 争 で 、 目 標 の 分 裂 か ら く る 動 揺 を 最 も 明
ハ5)
κ、 ロシア問題における時ほど、彼自身が一方の立場を代表するということは
ム日に現わしたのは、乙こで問題にする賠償問題においてであった。 ロイド・ジョージは﹁尋常でない敏捷さ﹂でこれら
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相異なった見解を代弁した。乙の場合
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イギリスおよびフランスの求めた
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、
、ふ
ζとにあった。
平和会議における決定作成の経過からいえば、決定作成の困難が、 ロ シ ア 問 題 の 場 合 に は 、 政 策 遂 行 の た め の 手 段
の発見にあったのに対し、賠償問題においてはむしろ目的を定める
賠償は、 ﹁戦後処理の諸原則﹂ を無視するものとして、 な か な か ア メ リ カ の 同 意 を え ら れ ぬ よ う な 内 容 の も の で あ っ
た。回顧録の中で、ロイド・ジョージは、平和条約の賠償条項は休戦の条件に違反していないと主張している。しかし
そ
イギリスの出した要求案が戦後処理の諸原則に抵触する類いのものであったことは疑いえない。
ロイド・ジョージは、
一九一八年一月五日の﹁平和宣言﹂において、ドイツに対して行なっていた戦争が侵略戦争でないことを宣言した際、
戦争中に連合国が休戦の条件に掲げてきたベルギーの都市の破壊に対する賠償要求が、﹁一八七一年にドイツがフラン
ス区認したごとき戦償金の要求ではない﹂と言明したのであった。彼は、損害に対する補償が﹁国際法に違反してな
された損害に対する賠償﹂の形でなされることを要求した。戦争目的政治の過程で、彼は﹁償金﹂要求を否定し、敵
国 に 対 す る な ん ら か の 金 銭 的 要 求 に お い て ﹁ 賠 償 ﹂ と い う 象 徴 を 選 ん だ 。 し か る に 、 講 和 の 政 治 に お い て ﹁償金﹂と
インデムニアィ 1
﹁賠償と償金﹂ について話している。
乙の時、
ウィルソンは﹁償金﹂ の五間の
いう語は復活されている。彼は選挙の綱領の中でこの語を使用したし、また平和会議で賠償問題が初めて取り上げら
れた時(一月一一一一日、十人会議)にも、
省略を求めて次のように述べている。﹁位界中の労働者訴は償金に抗議してきたし、﹃賠償﹄という言い表わし
方 は 充 分K 一 切 を 含 め た も の に な る と 思 う ﹂ と 。 そ こ で 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 、 賠 償 の 語 が 最 も 広 義 に 解 さ れ る の で あ
れば、 ウ ィ ル ソ ン の 提 案 を 承 認 す る と 述 べ た 。 そ れ で は 、 広 義 の 賠 償 に お い て 何 が 合 め ら れ よ う と し 、 ま た 何 が 獲 得
されようとしたであろうか。
一 四 カ 条 に 述 べ ら れ た ﹁侵略された領土の回復﹂ によって、英仏述人口諸国は、﹁陸上、海上、お
既に、第一章第一節で考察したように、休戦交渉の段階で、英仏はウィルソンの戦後処理の原則に留保条項をつけ
た 。 賠 償K関しては、
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よ び 空 中 か ら の ド イ ツ の 攻 撃 に よ り 同 盟 国 の 普 通 人 民 お よ び そ の 財 産 に 対 し 加 え ら れ た 一 切 の 損 害 に 対 し 、 ドイツに
よって補償がなされる﹂
ra門官。同)巾同門可ゲ凶刊号巾担問∞円巾30口 止 の25田口可σ可ぽロ︻YS 由巾回目︻ご55岳町田片岡)乙とと解す、
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北法
説
論
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
保条件がつけられたのである。 乙 の 場 合 に も 、 英 仏 は ウ ィ ル ソ ン の 戦 後 処 理 の 原 則 を 承 認 し た 上 で 、 留 保 条 項 を つ け
タームズ
て い る の で あ っ て 、 新 し い 条 件 が 加 え ら れ た と は い え な い 。 当 時 の 状 況 に つ い て 、 パ 1ネットが要約しているように、
25) をなすことでなかっ時。﹂休戦交
ご九一八年一一月五日の︹ランシング︺通牒の条件で、ドイツが同意しておった││l契約上責任を負ったーーのは、
シグィリアン
不法的および﹁市民の﹄損害を償う乙とであって、﹃全面賠償﹂(SSE-B官
渉の段階においても、償金が、象徴としても、 そ の 実 質 に お い て も 否 定 さ れ て い た 乙 と は 疑 い え な い 。 休 戦 時 に お け
一九一八年一二月の総選挙を中心に、
る死滅と平和会議の初期段階における復活という事情から、償金をめぐる政治の決定的要因は、二つの時点の間に介
在している時期の政治状況に内在している乙とになる。 そこで、もう一度、
の問題が国内政治のレグエルでどのように扱われていたかを考察してみることとする。
賠償問題についての決定は経﹄済・金融に関する専門知識を必要とした。 イ ギ リ ス の 場 合 、 賠 償 案 の 作 成 に 関 与 し た
のは大蔵省・商務省の官僚、 その顧問、 お よ び 内 閣 に よ っ て 任 命 さ れ た 特 別 の 委 員 会 で あ っ た 。 専 門 家 遠 の 決 定 作 成
一九一九年の賠償は、 その総計が巨額なものであっただけに、 乙の資本計算的合理性が
には、純技術的視点にたった計画性が要請される。換言すれば、彼らの結論は合理性、すなわち資本計算的合理性に
たっていなければならない。
殊に必要であったといえる。連合国が独填同盟国側に請求すべき賠償額は、既に休戦の年の秋から、大蔵省と商務省
﹁あらゆる角度﹂││ドイツの戦前における外国貿易、 その生産、 その在外資産、 ド イ ツ が 喪 失 す る 乙 と に な る と
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乙
一九一八年一一月末、大蔵省の﹁A﹂ 課ll1乙乙でケインズが指
導 的 役 割 を 果 し て い た │ │ は 彼 ら の 調 査 結 果 を 閣 議 に 提 出 し た 。 彼 ら の 推 定 し た 賠 償 請 求 額 は 四O 億ポンドであった。
らゆる形態の損害額ーーから調査された。 そして、
思われる領土の価値ならびにドイツ植民地の価値、 お よ び 休 戦 条 約 の も と で 賠 償 を 請 求 す る 乙 と に な る と 思 わ れ る あ
で
説
論
一二月二五日
だが彼らは、﹁楽観的見通しに立てばドイツの支払能力は一二O 億 ポ ン ド と な る け れ ど も 、 い っ そ う 慎 重 に は 二O 億ポン
ドと見るべき﹂と考えた。乙乙で彼らがドイツの支払能力を既に考慮していることは注目に値いする。
に、ケインズはアメリカの専門家と会って、 ドイツの賠償支払が、 ド イ ツ 人 の 勤 労 意 欲 を 喪 失 さ せ る こ と の な い よ う
な心理的限界までを条件とし、またドイツの実際の剰余所得力に基礎づけられうるのみであるという乙とで、アメリ
カ の 専 門 家 達 と 意 見 の 一 致 を み て い た 。 以 上 で 考 察 し た よ う に 、 専 門 家 達 は 、 四O 億 は も と よ り 三O 億 の 賠 償 金 取 り
立 て に つ い て 、 支 払 の 実 際 的 根 拠 を 疑 問 と し て い た の で あ る 。 四O 億 が い か に 膨 大 な 額 で あ る か は 、 普 仏 戦 争 後 に ド
イツがフランスに課した償金額二億ポンドと比較しただけでもあまりに明らかなことだった。
一九一八年一一月二六日、 イ ギ リ ス 商 務 省 は 講 和 の 諸 条
ケインズ等の推定に比し、内閣によって任命された委員会は、彼らのそれに数倍する要求額を閣議に報告した。
の委員会報告がなされるまでの経過を以下に概略してみる。
件に関する経済的考察の覚書を内閣に提出した。 乙 の 覚 書 は 、 賠 償 と い う 項 目 で 請 求 す る 分 だ け で も 膨 大 な も の と な
るので、﹁要求される額の限度は、連合国に加えられた全損害を償うに必要な額よりも、むしろ中欧諸国の能力によっ
て定められるだろう﹂と報告した。 ま た 賠 償 推 定 額 と し て は 二O 億ポンドの線が出されたが、 こ こ で も そ れ を 強 要
することの実際的可能性は問題とされた。商務省の覚書が出されたのと同じ日の一一月二六日、 オーストラリア首相
ヒューズは、帝国戦時内閣で、完全な戦償金の強要を主張し、 その理由の一つに、 オ ー ス ト ラ リ ア だ け で も 戦 争 で
三億ポンド費したことをあげた。 ヒ ュ ー ズ の よ う な 強 硬 論 者 が 現 わ れ た こ と に よ っ て 、 こ こ に 、 独 壊 同 盟 諸 国 の 支 払
能 力 の 限 度 を 調 査 す る た め に 新 し い 独 立 の 委 員 会 が 設 立 さ れ た 。 乙の委員会の議長になったのはヒューズであった。
委 員 会 は 左 記 の ひ と び と か ら 構 成 さ れ た 。 保 守 党 の ﹁中庸な﹂意見を代表する、 ウ オ ル タ I ・ロング(ぎよ町内門戸。ロ也、
こ
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ロイド・ジョージとヨーロツパの再建伺
シ テ ィ 1 の ﹁健全な﹂意見を代
カナダ蔵相フォスター(匂SSFの・出)、経済学者ヒュ Iインズ(同町三口♂当・﹀・ ω
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・
z己出向)および大銀行家、ギッブズ
表させるために加えられた、著名な実業家で前英蘭銀行総裁のカンリフ(円。丘n
いずれも専門家と呼ばれるにふさわしいひとびとのように思える。計算にすぐれ、 理性的な。彼らの出
(の号ZWE
。
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・
した結論乙そ驚嘆すべきものであった。彼らは、 ドイツが連合国に戦費全額を支払うべきであるという見解をとり、
そ の 額 を 二 四O 億 ポ ン ド ( 日 四 八O O億 マ ル ク ) と 定 め た 。 ﹁ 無 償 金 ﹂ の 原 則 は 彼 ら の 考 え に 全 然 な か っ た よ う で あ る 。
彼らの結論は次のようなものであった。
ィ‘ヂム日一ティー
連合国に対する戦争の全費用が敵諸国により公正に支払わるべ会償金の額である。
大戦の全費用がどれだけになるかを算定することはまだ可能ではないけれども、利用しうる数字によれば連合国の直接的戦費
だけで二四、000、
OOO、
000ポンドであったし、 また委員会は、 平時の状勢に復した時に右の額の金利として年一、二0 0、
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00、
000ポンドを用意しえないと想定すべきいかなる理由も見出せない。
償金は正金、現物、債券、および資金貸付をもって支払わるべきである。
大戦の出費の払い戻しから連合諸国への経済的悪影響を恐れることは充分理由のあることではない。ところで払い戻しなしに
(日
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は、連合国諸国は │ 1憂慮すべきほどに減少した人力、麻揮しかっ巨額の債務を負った産業をもってli世界市場で成功裡に競争す
ることはできないであろう。
償金の強制は将来の侵略に対する妨げとして働き、また世界平和の強固な保障となるであろう。
委員会の報告書は、明らかに講和におけるイギリス経済政策の一方の主張を代表している。彼らの求めていること
は、勝利の果実であり、戦敗固による戦勝国の戦費の肩代わりであり、経済的にドイツを従属させるととであった。
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報告書には、労働力の喪失、産業の疲弊、 そ し て 対 外 債 務 に つ い て の 資 本 家 の 嘆 き が 映 し だ さ れ て い る 。 彼 ら の 主 張
ー
ll専門家の意見として出てきたこの主張こそ、後に、 イ ギ リ ス の 大 衆 を 支 配 し て い た 敵 対 感 情 の 現 わ れ と し て 出 て
きた、といわれる政策の基調となるものであったのだ。専門家達の理性が大衆の排外主義的な感情によって曇らせら
一一月一一六日の出m国 戦 時 内
閣で、 ロイド・ジョージは膨大な償金強要の経済的問題点についてヒューズに次のように答えている。
のであり、 こ の と と は 国 際 経 済 に 反 作 用 す る こ と は 当 然 考 え ら れ る の で あ っ た 。 先 述 の 、
的悪影響を否定した。 しかし、彼らが当然視していたように、 そ れ は ド イ ツ に 対 し 経 済 的 に 過 重 の 負 担 を 強 要 す る も
々としてそれを確信していたのは金融ならびに実業の専門家達であった。﹁専門家達﹂は、巨額な償金取り立ての経済
けである。主務官庁の顧問の進言に依拠して、巨額な賠償の取り立ての可能性を疑っていたのは政治家であって、喜
うで気まぐれな幻想﹂とみなしたと。彼に従えば、金融資本家達の方が根拠のない不合理な賠償要求を望んでいたわ
るよう働く乙とを、彼が確信していたと。また委員会の出した結論については、彼とボナ・ローはそれを﹁当てずっぽ
とギッブズを委員に加えることによって、彼らの専門的知識が金融問題で一般的知識しかない政治家の意見を抑制す
うに考えていたのか。彼は書いている。﹁最も健全なジティーの意見と密接な関係にあった﹂二人の銀行家、カンリフ
それでは、かかる結論を提出した委員会と彼らの結論について、彼らを任命した当のロイド・ジョージ自身はどのよ
よって表明された意見を代表していたことを。賠償問題は﹁資本的妖怪﹂であったのだ。
Erm同阻止のOBB22) とイギリス工業連盟(同宮町丘町E昨日。ロえ∞55rFι5豆ぬとに
工会議所連合(岳町﹀田由。己主止のE
変化を期待しながら、問題としていたのである。ロイド・ジョージは回顧録で明らかにしている。委員会の報告が、商
れたのか。委員会が設置された時、大衆はまだ興奮してはおらず、タイムズは選挙民の冷静さをこそ、彼らの感情の
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
クνグ ツ ト
﹁この︹信用の︺方法で債務を支払うためには、商品を売ることがドイツにとって必要となるでしょう。誰がその商品を買うつもり
なのか。ドイツの支払うべき金額の総額は多分二O O億ポンドにも達するでしょう。連合国にとって、ドイツはこの額を支払うこと
になったとドイツに言うことは簡単でしょうが、このことは二世代にわたってドイツの労働者をわれわれの奴隷にすることなのです。
誰かがドイツ製品を買わねばならないのですが、さし当たり、かかる商品のためのごみ捨て場をどの国が提供するのかわからない。
JV
めの唯一の方法は、他の国より安く商品を製造してそれを売ることでしょう。﹂
門出
さらに、われわれは商品製造のため原料を輸入することをドイツに許さねばならないでしょう。ドイツが巨額の償金を支払いうるた
ロイド・ジョージがこのような発言をしている以上、彼が、国際金融・経済に及ぼすであろう償金取り立ての影響を
ある程度正当に認識し、支払の合理的根拠を問題にしていたといえよう。彼が述べているように、金融・実業界の代
表 達 が 、 後 に そ の 非 合 理 性 を 問 題 に さ れ る 案 を 提 出 し た の で あ っ た 。 そ れ で は 、 膨 大 な 償 金 を 求 め る ﹁ばかげた貧
欲﹂は、 い か な る 感 情 的 雰 同 気 の 中 で 成 長 し た も の で あ ろ う か 。 こ の 点 に つ い て 、 わ れ わ れ は 彼 ら の 不 安 や 不 満 に つ
い て 指 摘 し な け れ ば な ら な い 。 戦 争 遂 行 の た め 、 イギリスは巨額の海外資産を失い、 ま た ロ シ ア や 東 欧 に お け る 革 命
勃発のため巨額の海外投資を喪失し、加えて、巨額の債務をアメリカに負うことになっていた。資本家達の置かれて
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いたかかる窮境こそが、取れるだけ取らなければ嘘だという感情を高めさせていたといえるであろう。損失資産の埋
め合わせについての願望が強ければ強いほど、膨大な償金取り立てへの希望的観測が一般化する乙とになる。後に、
一定の政策のもたらす結果についての判断が停止されている。
そ の 実 行 可 能 性 を 否 定 さ れ た 巨 額 の 償 金 は 、 実 に こ の よ う な 希 望 的 観 測 に 立 っ て 要 求 さ れ て い た の で あ る 。 そこでは
現実の経済的・政治的諸条件についての検討と、
て政策は感情の流れ (
U勝 利 に よ る 全 能 の 幻 想 ) に 左 右 さ れ る こ と に な る の で あ る 。
か
く
説
論
賠償問題を含めて、戦後の国際金融の安定化を、英仏等の対米債務の帳消しに求めたケインズは、﹁もし一九一八年
一二月の総選挙がばかげた貧欲の代わりに思慮深く寛大な方針で戦われておったなら、 ヨ ー ロ ッ パ の 金 融 の 見 通 し は
現在︹日一九一九年末︺どんなによくなっていたであろう﹂と書いている。彼は、選挙が﹁ばかげた貧欲﹂の方針で
戦われた乙との原因をもっぱらロイド・グヨ 1ジの権力維持の欲求と状況追随的な指導に求めている。しかし、これま
での考察で明らかなように、 ドイツの支払能力を無視した巨額の償金の要求は、 シティーを代表した者の要求であり
またイギリスで最も有力な新聞の要求であった。償金取り立ては、講和の政治において、政府の方針である前に政府
へ 圧 力 を か け た 集 団 の 方 針 で あ っ た 。 選 挙 戦 の 初 期 に 、 政 府 の 最 高 指 導 者 逮 は ま だ ﹁象徴の遺産﹂ の処理に苦慮して
いたといえるであろう。償金要求に対し彼らが受け身になっていたということは、彼らがなお民主的戦争目的の明確
化を実現させたェ、不ルギーを恐れていたからにほかならない。人民外交展開の状況においては、 シティ l の右のよう
な要求も、それがイギリスの対外政策となるためには、﹁世論﹂によって支持されたものとして現われねばならないの
であった。 か く て 、 右 の 要 求 を 実 現 す る た め に は 、 人 民 外 交 に お け る 政 策 形 成 過 程 の 枠 内 で 、 支 配 層 の 欲 求 を 民 衆 の
要望に転化させることが必要であった。ロイド・ジョージが支配体制の側に身を置いていた以上、彼の政治指導は、乙
の世論統合の過程との関連で、 その功罪を問われねばならないであろう。 ノ1 スクリップの煽動下にあって排外的に
なりつつある国民感情、戦争と革命に動揺している同民の感情の流れを、彼は政治的に凝結させねばならなかったの
一九一八年末の総選挙で、政府・与党は初め講和問題を選挙の争点としようと
である。以下において、 一九一八年総選挙における、賠償問題をめぐるロイド・ジョージの世論形成の指導の問題点を
検討してみる乙ととする。
第一章で既に考察したように、
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
リコンストラクション
は し て な か っ た 。 連 立 派 の 選 挙 綱 領 は イ ギ リ ス 社 会 の ﹁ 改 造 ﹂ を 中 心 に 構 成 さ れ て い た 。 そして選挙戦の過程で
講和問題についての排外主義的スローガンが改造の争点を圧倒していったのである。 か か る 状 況 の 展 開 に 新 聞 の 力 が
ζと の 不 利 な 乙 と と 、 戦 争 目 的 政 治 に よ る ︽ 象 徴 の 遺 産 ︾ を 恐 れ ず に 講 和 問 題 を 論 ず る こ と の 可 能 性 と を 見 出
重大な役割を担ったのであった。状況の変化に対して、政府・与党が選挙の争点をすり替えたことは、彼らが、﹁改造﹂
で戦う
したからにほかならない。﹁改造﹂をもって戦う限り、戦争を経て階級的自覚を高めた労働者連は労働党へ彼らの一一票
を投ずるだろう。 しかも、改造をもって戦うことは、償金取り立てに対するシティ l の要求を抑え、革命の恐怖にお
びえる富裕階級に犠牲を求めることを公約するととであった。保守党とロイド・ジョージとの連立政権が、ドイツ経済
の抑圧という本来の戦争目的に返って償金取り立ての要求を掲げたのは当然であった。
ζとであり、
との時の演説で、﹁ドイツはその能力の限界まで戦費を支払わねばならぬ﹂乙と、
ロイド・ジョージが、選挙戦で賠償問題について初めて論じたのは、帝国戦時内閣でヒューズが償金の取り立てを要
求した時から三日後の
およびドイツの支払能力を調査する強力な委員会を設立したことを、彼は明らかにした。乙の演説およびこれ以後の
一一月三O 日に、彼は ﹁償金問題﹂ についてリッデルに次のよ
彼の選挙演説で問題となるのは、戦費の支払にドイツの能力の限界まで、あるいはまた ﹁われわれの産業をとわさな
いような仕方で﹂といった限定を加えた乙とである。
ζと だ 。 彼 ら は お 金 か 商 品 で の み 支 払 え る 。 わ れ わ れ は 彼 ら の 商 品 を 取 ろ う と は 思 つ て な い 。 そ れ は わ が
うに語っている。﹁ドイツは一銭一一鹿のはてまで支払わねばならぬ。しかし問題はある線以上をどのよう K支払わせう
るかという
闘の貿易を害するだろうか見﹂と。彼の演説や右の言葉は、償金取り立てについて、彼がなお﹁中庸な﹂態度を保持し
ていたかに思わせるものがある。彼は不合理な償金要求を抑えようと努力していたようにもみえる。 しかし、問題は
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説
論
彼が﹁戦費﹂補償の要求を正当と認めた乙とにあるのであって、﹁戦費﹂補償には限界のあることを明らかにしたこと
にあるのではない。﹁講和の条件﹂にいう賠償の範問が論ぜられたのではなく、戦賀補償の要求がイギリスの要求とし
て 提 示 さ れ た と と が 問 題 な の で あ る 。 彼 は 自 ら 宣 言 し た ﹁民主的﹂戦争目的に目をつぶって、 シ テ ィ ー の 代 表 の 要 求
す る 額 の 多 寡 を 問 題 に し よ う と し て い た の で あ る 。 ヒューズや/1スクリップ、 そ の 背 後 に あ る 資 本 家 階 級 の 要 求 が
選挙の公約となりつつあったのである。
﹁ドイツは支払わねばならぬ﹂が一度政府指導者の口にのぼるや、償金取り立てを要求していたタイムズが政府に追
JV
ロイド・ジョージ氏がこの処
さらに、九日の社説は次のように論じた。
一二月七日の社説で、 タ イ ム ズ は ド イ ツ の 支 払 能 力 の 調 査 は イ ギ リ ス の 仕 事 で は
(叩
﹁われわれの仕事はただ請求書を出すことである﹂と。
い打ちをかけたのは当然であった。
ないと主張した。
﹁わが悶に関する限り、緊急の課題は、請求書を準備して出すことである。われわれは、
置を完全に明らかにしおおせたのだろうと繰り返すものである。 ドイツの支払能力を決定することで考えられる唯一
門町一 v
の動機は連合同の利益であらねばならぬのであるから、﹁ドイツを軽い罰で許す﹂ことにかかわっている有力者達には
きわめて多くの疑惑がもたれている﹂と。この社説は償金要求論者逮をとりまいていた情緒的雰囲気を最もよく伝え
て い る 。 彼 ら は 連 合 同 の 要 求 は す べ て 実 現 さ れ ね ば な ら ぬ と い う ﹁ 全 能 の 幻 恕 ﹂ にとりつかれていて、内山什の合理的
か否かを問題にしていない。敗戦国を自分達の専断的決定に版させることが緊急の課題であって、持続的平和のため
仏伊は償金要求額を準備したのに、
一一一月七日、 ノ1 スク
なぜイギリスはそうしえなかったか質
一 定 の 政 策 で も プ ロ グ ラ ム で も な く て 、 ムードでしかなかった。
のヨーロッパ再建は二次的な問題であった。その当時の感情のままに流れて、将来への見通しを欠いていた。新聞が
作り出そうとしていたのは、
リッフはロイド・ジョージへの書簡で、
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ロイド・ジョージとヨ{ロッパの再建伺
︿四一 v
した。
町
一
一
肝
和 Vョ)はケンブリッジで
新 聞 が 不 合 理 な 要 求 を た き つ け て 排 外 主 義 的 ム 1ドを煽っていたのに合わせて、 政治家達もかかるム 1ドの中へ彼
一二月九日、 エリック・グッデス(肘江口の包仏宮市沼⋮議
ι
rだ し 、 ま た 私 個 人 は 、 レ モ ン
﹁私が再選されたら、 ド イ ツ に 弁 償 、 賠 償 、 そ し て 償 金 を 支 払 わ せ る つ も り
ら自身を溶け込ませていった。
演説して、
から絞れるだけ絞るように、 わ れ わ れ が ド イ ツ か ら す べ て を 取 り 上 げ る だ ろ う 乙 と を 疑 わ な い ﹂ と 、 選 挙 民 に 激 し い
﹁巨額の償金をドイツに支払わせる﹂は選挙のスローガンとなった。償金はマイナスのシンボルであ
選挙民はこの象徴に喝采を送った。 そして、 ロイド・ジョージもこのようなム 1ドの中へ突進し
υ
第二点は、われ
のであり、彼らはわれわれと連絡して提案を調べているということである。 ji---確 か に 、 連 合 国 が ま ず 第 一 に 考 え
四点は、連合諸国も多額の償金に対する請求権を得たのであるから、彼らは方にわれわれと条件を一にしている
イ γ47ムニティー
れを支払っている国に対してよりもそれを受け取る国に害にならぬ仕方で強要せねばならないということである。第
われが戦資金額の要求を提案するということである。(喝采)第三点は、 それを強要することになる場合に、諸君はそ
﹁第一に、正義が問題とされる限り、われわれはドイツから戦費全額を要求する絶対的権利を有する
体的利益にかかわる問題がまず論じられたのである。﹁償金問題﹂については、政府の方針が次のように要約された。
この時の彼の演説は、 選 挙 民 大 多 数 の 大 き な 関 心 事 で あ っ た 徴 兵 制 の 撤 廃 を 説 く こ と か ら 始 ま っ て い る 。 民 衆 の 具
一二月一一日、ブリストルにおける演説で、彼はドイツから﹁戦費全額を要求する乙とを提案する﹂と明
た
ていることは、 ド イ ツ が 戦 争 を し か け た 国 民 の 利 益 で あ っ て 、 人 類 に 対 す る 罪 を 犯 し た ド イ ツ 国 民 の 利 益 で は な い と
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乙調
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こぎつ
とで
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中、え
断、た
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る口
百て
説
論
いえよう。﹂乙のブリストル演説の問題点は大別して二つある。一つは右の文中に一不されていると乙ろの﹁戦費全額の
タームズ・才グ・ピース
一四カ条を中核とする﹁戦後処理の原則﹂は、﹁加
要求﹂ である。他の一つは、彼がドイツの支払能力の限界を問題にした時、 ヒューズの委員会の出した要求額を問題
にしたととである。戦費要求の根拠は何に求められたであろうか。
えられた損害﹂に対する補償についてしか規定していないのであるから、戦費支払要求の具体的根拠は﹁講和の条件﹂
ただ、比愉的説明を繰り返しただけである。﹁世界のあらゆる文明国の法によって、不法な行為を犯した側が
の中に見当たらないのであった。ロイド・ジョージは﹁戦後処理の原則﹂と戦費支払要求との関係を論じようとはしな
A
:。
、コ
,刀てみれ
訴訟費用を支払うのである。(喝采 ) ζ の原則には全くなんら疑問をはさむ余地もない。われわれが将来に望んでいる
乙とは、個人間の関係におけるように国際間の関係にも同様の原則を 611正邪の原則をたてようということである。
そうした場合、不法なことを行なってそれを決するため訴訟をいどんだ国民が訴訟費用を支払わねばならぬ。(喝采)﹂
説明としては陳腐といえるようなものである。彼は戦費支払の要求が復讐の問題ではなくて、正義の問題であると述
べている。論調は一九一七年夏へ逆戻りしたのだ。戦賀全額の要求が﹁貧欲な欲望﹂│!彼は数週間前に正義の基本原
則を変更するようなそれを許してはならぬと説いていた││以外のな平ものかであったろうか。
さて、問題の要求の額は、既に指摘したように、﹁ドイツはその能力の最大限まで支払うべきである﹂という彼の主
張の理由が説明された際に、持ち出されたのである。なぜ常に ﹁その能力の限界まで﹂と言わねばならぬかを彼は説
明して、まず、政府が社会に誤った期待をもたせるようにするのは正しくないということをあげた。 そして、彼は、
それまでの経過の要点を説明したのである。 これ以後平和会議中を通じて問題となる数字が出されたのは乙の時であ
る。彼が政府の ﹁財政顧問﹂ に協議したところ、彼らは﹁疑いをいだいていた﹂と述べて、彼は ﹁彼らの理由﹂を次
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のように説明した。﹁戦前ドイツの富は一五O 億と二O O億との間にあると推定された。乙れが推定として与えられた
数字である。要求額は二四O 億であるから、従つでもしこの推定が正しいなら、:・ :::ζ の富の全部を取ったところ
でi│目だがその富が得られるようにするため働かせられてきた七OOO万の国民がいるのだから、 そうすることはで
きないのだ lllそれでも足りないであろう﹂と。 乙 れ に 続 け て 、 彼 は 財 政 顧 問 達 の あ げ る 第 二 の 理 由 と し て 、 年 支 払
額一二億ポンドを問題にした。その出所ぞ明らかにしてないが、この一二億という額が二四O億の五%に当たること、
そして税金が安いとはいえぬイギリスの行政経費が、 五 な い し 六 億 ポ ン ド で あ る こ と を 聴 衆 に 説 い た 。 彼 は こ の 事 実
を胸にきざんでもらいたいと訴える。﹁われわれが、引き出しうる最後の一ペニーも、ドイツからその能力の限界まで
パブリック
取 り 立 て る と 私 が 言 っ て き た 理 由 と し て 、 こ れ ら の 事 実 を 心 K止 め て お い て も ら い た い が 、 私 は 、 ド イ ツ の 支 払 能 力
についてもっと分るまで乙の問題で一般国民を誤導しようと思わないし、また票を得るために、そうする気もない﹂
と。とう述べた後で、 その斗削十夜に、 ドイツの支払能力と全問題を調査するための ﹁強力な委員会﹂からの報告を受け
取った ζと に 触 れ た 。 彼 は こ の 委 員 会 が 政 府 の 役 人 達 よ り も 選 挙 民 を 喜 ば せ う る 推 定 を ド イ ツ の 富 に つ い て な し て い
ると述べている。 そして彼と委員会が二つの条件││イギリスは大量一の占領軍をドイツに駐留させるべきでないこと
お よ び ド イ ツ に よ る 支 払 が ﹁ 労 働 者 を 酷 使 し て 造 っ た 商 品 を 乙 の 固 に 投 げ 売 り す る こ と で ﹂ な さ れ て は な ら ぬ こ とl
で同意した、と彼は述べている。委員会報告について彼が述べているととは、 言 っ て み れ ば 、 償 金 強 要 の た め の 占 領
ζとにすぎない。
軍派遣や巨額な償金を得るためにドイツの商品を押しつけられる乙とが起りはしないという乙とに、委員会は楽観的
見解をとっているという
その他の彼の選挙演説においても、ブリストル演説で述べたとと以上のととを言った ζとはない、とロイド・ジヨ 1
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ヒj
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建
説
論
グは書いている。また、委員会の報告書はきわめて不合理なものだったので、彼はそれを公表しないことに決したと
いう。彼は当時の彼の政策を弁明するに、一九一九年に英仏の世論はドイツに支払わせる乙とに完全に賛成していた
と書いている。それでは、世論はなにをドイツに支払わせることを要求していたのか。ブリストル演説の政治的問題
は戦費支払の要求をイギリス首相が選挙で公約して、﹁地滑り的勝利﹂をおさめた点にある。まず公約の直接的効果か
らみてみると、首相が戦費支払の要求を公約したことは、与党の候補者に無責任な内容のスローガンを提供した。彼
らは、 ゲツデスにおけるように、 ロイド・ジョージが慎重に論じた取り立ての諸条件など問題にしなかった。 そして、
彼らは勝利をおさめたのである。 それでは、世論は、﹁豚がキ 1キ 1鳴 く ま で 絞 り 取 る ﹂ 乙 と を 要 求 し て い た の で あ ろ
うか。乙の選挙中に、ノ l ス ク リ ッ プ は ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ に 電 報 を 送 っ て 、 民 衆 は ド イ ツ か ら 得 る 賠 償 の 正 金 額 が 明 確
にされる ζとを期待していると伝えた。選挙後、タイムズは二回O 億 の 要 求 を 選 挙 に お け る ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ の 公 約 と
して論じ出した。平和会議最中、イギリス代表は自国民衆がそのような額の賠償を要求しているかのごとく論じたし、
さらにその後には、不合理な要求が大衆の排外主義的感情あるいは人民外交の展開によるものであるかのごとくみる
神話が成立した。民衆は、彼らの具体的利益として、税の軽減を求め、 こ の 欲 求 が 戦 争 中 に 煽 ら れ て き た 敵 対 感 情 と
円叫
V
合致して、﹁ドイツに支払わせること﹂を要求していたかもしれない。しかし、民衆が﹁二四O 億 ﹂ を 要 求 し た 乙 と は
o
二四O 億 ポ ン ド は 、 金 融 資 本 家 を 含 む 政 府 の 委 員 会 の 出 し た 数 字 で あ り 、 二O 億 ポ ン ド で は 少 な さ す ぎ る と
な い の で あ る 。 既 に 考 察 し た よ う に 、 要 求 額 に つ い て の 志 見 は 二O 億から二四O 億 に わ た る よ う な 大 き な 相 違 を 示 し
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初 め に 叫 ん だ の は ヒ ュ ー ズ で あ り ノ 1 スクリップであった。選挙の序盤戦で、 チャーチルが、 ド イ ツ は 一 八 七O 年に
フランスから多額の償金を取った、 わ れ わ れ は そ の 十 倍 も ド イ ツ に 支 払 わ せ る だ ろ う と 述 べ て 、
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建旬
を示した時、 選挙民は長い喝采でこれを迎えたのである。 選 挙 民 に 判 断 の 材 料 が 提 示 さ れ て い な い 以 上 、 二O 億 に │
彼らが償金を求めていたにしても││拍手してなんら不思議ではない。問題は、﹁償金﹂の要求を選挙民に訴え、その
額を右のような誤った単純化で提示した政治家の指導の側にある。
政治家達が問題の理性的な解決よりも、大衆の感情をかきたてようとする時、象徴操作が重要な手段となる。
ンリフおよびケインズは、 い ず れ も 平 和 会 議 の 賠 償 委 員 会 の イ ギ リ ス 側 委 員 と し て 、 賠 償 問 題 で 重 要 な 役 割 を 担 っ た
で、ケインズの考えを幾分受け入れていた。 乙の矛盾した態度は平和会議にも持ち込まれた。 しかも、 ヒューズ、
ノ1 ス ク リ ッ プ に 同 調 し な が ら 、 巨 額 な 償 金 取 り 立 て の 経 済 的 悪 影 響 を 認 識 し て 、 支 払 能 力 の 限 界 を 問 題 に す る 乙 と
以上で考察したように、ロイド・ジョージ個人は、戦費全額の支払を要求する乙とで、ヒューズ、 カンリフ、 そして
じていたのである。
よって大きくなったものである。 さヨりに、 そ れ は 本 来 支 配 層 の 貧 欲 な 欲 求 と 体 制 の 経 済 的 基 礎 の 動 揺 と の 接 触 点 で 生
イド・ジョージは ﹁世論の雑音﹂ に よ る 講 和 の 危 険 を 説 い た が 、 雑 音 自 体 は ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ 自 身 の あ や ふ や な 態 度 に
されるようになっても、政治指導者は自ら播いた種は自ら刈り取らねばならないのであった。平和会議の冒頭で、
象 徴 操 作 の 結 果 、 専 門 家 が 問 題 と し て い た 実 際 的 可 能 性 が 無 視 さ れ た 乙 と に あ る 。 そして、 そ の 実 際 的 不 可 能 が 認 識
が容易である。 そ し て 煽 動 に 頼 る 限 り 、 政 治 家 の 訴 え は 二O 億よりも二O O億 へ と 向 う こ と に な る の で あ る 。 問 題 は
な っ て い る 時 、 二O 億 要 求 へ の 喝 采 を 得 る こ と よ り 、 二O 億 へ 喝 采 す る 選 挙 民 か ら 二O O億 へ の 喝 采 を 得 る と と の 方
は事柄の存観的な分析を離れて、 そ の 時 の 感 情 の 流 れ に 働 き か け る 時 、 最 も そ の 効 果 を 発 揮 す る 。 そ の 賛 否 が 問 題 と
そ
のである。その結果、ロイド・ジョージの態度は、カンリフ等の路線とケインズの路線との聞を振幅として動揺するこ
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れ
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説
論
とになるのであった。
凶一九一九年の講和において、主要列強のうち、膨大な賠償あるいは償金を求める国内世論の圧力から免れていたのは、アメリカ
e しか
し、多くの場合同仏、批判の対象となる英仏の﹁世論﹂について、充分な検討がなされているとは思われない。本稿においては、世
代 表 の み で あ っ た 。 回E52F 忌 賠 償 問 題 の 決 定 に 、 世 論 、 殊 に 英 仏 の 世 論 が 著 し く 影 響 し て い た と い う 指 摘 は 非 常 に 多 い
論そのものの分析は必ずしも意図されていないが、ただ、不合理な決定の原因を漠然と﹁世論﹂や大衆の感情に求めるととが正し
いものであるかどうかを、幾分なりとも掘り下げて検討しようと思う。
凶阿内々口g
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E舟 一 九 一 八 年 一 一 月 二 五 日 の 覚 書 で 、 ア メ リ カ 代 表 団 の 経 済 専 門
ng-同 岳 ⑦H
w 吋ro開円。口D百円。cDE 心M
戸E
22・2・)は、ケインズが次のように語ったと書いている。﹁最も重要な問題の一つは、償金に関し休戦協定で定め
家 デ lヴィス(ロ
られた制限に基づいて決することである。乙の問題のあとで多分最も重要な問題となるのは、彼の意見では、経済および金融の
問題であろう。多くの軍事的、政治的、地理的協定は、適切に規定されぬと金融や経済的原因によって無効にされたり取消されう
ウィルソンとクレマンソ lは 、 経 済 や 金 融 の 問 題 自 体 に は 充 分 の 関 心 を 示 し て い た と は い え な い 。 例 え ば 、 ウ ィ ル ソ ン は 、 ヨ ー
る﹂と。ロロ円ロEf ロcnEB2H丹念・
ロッパへ向う途中の船上で、彼が﹁経済問題にあまり興味をもっていない﹂と随員に語っている。ロロ宮♂戸ミ?討・また、クレ
賠償問題の問題点を明らかにする意味で、﹁誘和の経済的帰結﹂で展開された批判点と、マントゥによるケインズ批判について簡
マンソ l は 、 経 済 の 問 題 を 自 ら 論 じ よ う と し た 乙 と は な く そ れ を も っ ぱ ら 産 業 再 建 相 ル シ ュ l ルに任せている。
てた損害賠償要求は支払不可能であったこと、向付ヨーロッパの経済的連帯はきわめて密接なのでその要求を強行しようとすること
単に触れておくこととする。ケインズは﹁講和の経済的帰結﹂の主内容を以下のごとく要約している。ハ円ドイツに対し連合国が企
はあらゆる国を破滅させるであろうというとと、的ドイツによってフランスとベルギーに加えられた損害の金高は過大に算定され
たこと、同連合国の要求に恩給および扶助料を含ませたことは信義を破るものであった乙と、伺ドイツに対する連合国の正当な要
p
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s え号。吋日主計四︾・ 3 ・ こ れ に 対 し 、 ? ン ト ウ は ケ イ ン ズ の 主 張 に 全
面 的 に 批 判 を 加 え 、 平 和 条 約 の 賠 償 条 項 は 正 当 で あ り か つ 実 行 可 能 で あ っ た と 論 じ た 。 ( 円 宮E
同m
ESFRO)
gzHU 吋-EhRE
求 額 は そ の 支 払 能 力 内 に あ っ た ζと 。 民3
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彼の批判はケインズ自身によって列拳された右の主要論点に対するものにとどまってはいない。乙乙では、ケインズ自身によって
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)
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同
まず、賠償問題は充分な考慮の対象となったかについて、
あげられた諸論点に対する一一、一一一の批判について紹介する。
7ン ト ウ は 、 平 和 会 議 で 賠 償 委 員 会 が 設 立 さ れ 、 そ 乙 で 問 題 が 審 議 さ
れている乙とをあげて、賠償問題はE 式に審議の対象となったと主張する。また、﹁ドイツ支払能力の科学的考察は最初から問題に
されていなかった﹂というケインズの見方を彼は否定する。(匂・ 53 ケ イ ン ズ の 本 の 最 大 の 問 題 点 、 す な わ ち 賠 償 要 求 額 は 不 可 能
したが、乙れは支払能力を不当に低く押えたものである。一九三五年までにドイツの国民所得の名目価値は、ケインズがその四年
な も の で あ っ た か ど う か に つ い て 彼 は 次 の よ う に 論 ず る 。 ケ イ ン ズ は ド イ ツ の 金 支 払 能 力 の 最 大 限 を 資 本 価 値 二O 億 ポ ン ド と 計 算
前に計算した額の四倍になっている。一九一九年、ヴエルサイユで論ぜられたドイツの﹁最大﹂年支払額八六億マルクは、一九二
五年におけるドイツ国民所得の約一四・三%の徴集を意味した。ドイツ経済が最も好条件下にあった、一九二九年についてみれば、
たる額であった。従って右のような条件の下で、ドイツが賠償支払によって困窮に陥ったであろうとは思われない。守口町)第二
右の八六億ないし、ヴエルサイユでの﹁最小﹂年支払額七三億の徴集は、夫々その年次の国民所得の一了三一%および九・六%にあ
次 大 戦 直 前 の 六 年 間 に ド イ ツ は 再 軍 備 だ け で 九O O億 マ ル ク 費 し た 。 年 額 平 均 一 五O僚 で あ る 。 こ の 数 は ヴ エ ル サ イ ユ で 出 さ れ た
と乙ろで右のようにドイツの宮の増大が明らかにされても、その乙とは直ちに﹁悶外への﹂支払能力の増大を意味しない。賠償
年支払額の低い方のそれの二倍強であり高い方のそれの二倍弱である。それはケインズが推定した額の七・五倍であった。(司・口斗)
案の実行不能性についてのケインズの議論の核心は、ドイツが連合国の要求額を輸出超過によって支払いうるかどうかという点に
)7
7ントゥは
7ン ト ウ の 議 論 が ﹁ 極
ントウは一九三一年まで、ドイツの国際収支が大体赤字であったととを明らかにしている。だが、彼は乙の問題に賠償
あった。︿トランスファー問題。同門ω口出向。門官ozo百マルクで-調達された賠償金をどのようにして国外の受取国に支払うかκ ついて
の問題。
支払の不可能性の論拠を認めようとはしない。トランスファー問題に関する彼の反論についてハロッドは、
連合国、殊にフランスとベルギーの要求額がその損害についての過度の推定によるものであったかどうかについて、
端に脆弱﹂であると評している。ハロッド﹃ケインズ伝﹄(塩野谷訳)耳、三九六頁。
統計的批判を行なっている。(フランスの要求が不当に高いものでなかったという反論において、彼自身が誤りを犯しておるという
7ッ ツ が そ れ に 同 意 し た こ と が 指
ζとは、信義にもとるものでなかったと主張する。(その論拠は、フランフ蔵相クロ
億ポン F) で あ っ た こ と か ら 、 彼 は 乙 の 決 定 額 が 恩 給 等 を 加 え た 場 合 の 賠 償 負 担 額 と し て ケ イ ン ズ の あ げ た 八O億 を 越 え な か っ た
批判については、ハロッド、前掲書、三九八頁参照。)また一九一一一年に、賠償委員会が決定した賠償額が一、三一一O億マルク(六六
ことを強調する。そして恩給や扶助料を加えた
ツツが平和会議で主張したのと同じく、休戦協定第一九条に求められる。)特に、ウィルソンやス
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)129
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説
論
摘される。
7ントウの議論は全面的に、フランスの立場を代表する。
凶
o
z。
州
E
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7ントウの観点から
1 フランスは正当な権利を主張したのであり、ドイツは正義
の原則によって種々の義務を課せられた。との義務をあくまで履行させようとすることに何の誤りがあろう。
すれば、連合国の要求額は支払不可能とみたケインズの議論は、政治的な方便に堕したものとされるのである。
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頁
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凶 ハ ロ ッ ド 、 前 掲 書 宜 、 四02一
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吉区々は、一般に戦争によって被った損害を戦敗因に補償させる以上の利得を、懲伺的な意味で収得する点で賠償と区別される。
間第一章で考察したように、﹁無償金﹂を講和の条件とすることが、戦争目的政治における最大の争点の一つであった。償金
償金は、軍事的征服に伴う掠奪回聞の形態と明確に区別されねばならぬとはいえ、その起源はそういった商にあるのである。戦争目
的政治で非難・攻撃の対象となったのはその掠容的性格であった。次に、償金が否定され、損害に対する補償要求が残った場合、損
ことから、戦費は膨大なものとなっており、それを損害に加えるだけで、損害補償要求は従来の償金賦課の懲罰的意味をもった。
害にはどの範囲までのものが含められるかという問題が生じた。特に問題となるのは戦費である。第一次大戦が全体戦争であった
従って、賠償に、戦費や人的損害、精神的損害、さらに失われた利益の損害等に対する補償の意味をもたせれば、実質的に償金賦
BEE
片山
C口
うとしていたかに拘りなく、否認された償金の語を使用する乙と自体一つの政治的意味を、状況の推移を、その語が話されている
課と同様の効果を期待しうるのであった。ただ、﹁象徴の遠・怪﹂という問題に照らして考えれば、賠償や償金の言葉に何を合ませよ
LOE巳々には﹁償金﹂を、
場の雰囲気を示し、伝えるものである。従って本稿ではその内容にかかわりなく一律に、 Z
g
uロ0252昨日・
ハウスによる同様な指摘、∞日ロ
には﹁賠償﹂の訳語をあてること'とした。
側明一
FHMRussLFEM-
一九一八年、
山岡凶E
BOFHV ∞ ・ 休 戦 の 条 件 と 成 立 し た 条 約 に お け る 賠 償 条 項 の 原 則 的 矛 盾 、 条 約 に よ る 休 戦 条 件 の 歪 曲 を い ち 早 く 問 題 に し た の
はケインズであった。問。可ロ2・0句
2
W
5
ω 汗 ﹀ 河 225ロ D同子。吋円。洋子同母国呂町 i企
・
・
。-fsu 臼1
ランシング通牒でドイツに伝えられた習保条項が論ぜられた段階では、ロイド・ジョージも戦償金を否定していた。
北法 1
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)
1
3
0
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建同
一一月三日、連合国最高会議で、ベルギー外相が、留保条項として加えられる字句について、﹁単に﹃普通人民に加えられた損害﹄
ζれに対しロイド・ジョージ
κ入 れ る こ と は 誤 り だ と 思 う ﹂ と 述 べ て い
UEECCロ)よりももっと広い意味の言葉とすべきだ﹂と主張した。
定由自由問。門出gEjSF022Eロ司C
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は、﹁われわれが戦償金を欲しているかのごとくドイツに思わせるようなものを休戦条件
cZ のgapF 白血!日・ケインズは、﹁講和の経済的帰結﹂の中で、連合国の要
三一真。(以・巴
求す吋き損害賠償額を二一億二千万ポンドと計算し、また休戦前の協約(すなわち本稿にいう戦後処理の諸原則)に基づいた要求
問 ハ ロ ッ ド 、 前 掲 書E、 三 三O
ンズから、イギリスは敵によって不法に破壊された船舶の損失を除き、その他の償金を要求する意図のないこと、および償金に対
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額 は 、 工 ハ 億 ポ ン ド を 越 え る が 三O 億 ポ ン ド に は 達 せ ぬ と み て い る 。 同 ミ ロgwDHY2了匂す る 過 度 の 要 求 K反 対 し よ う と し て い る と 開 い て い る 。 回 目 口 忠PUCnEBOEke-
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同一九二八年価格による、一九一三年におけるドイツの輸出額は、一四九億マルク、すなわち七億四千五百万ポンドであった。ュ
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ルゲン・クチンスキ l ﹃ ド イ ツ 経 済 史 ﹄ ( 高 橋 、 中 内 共 訳 ) 統 計 表 九 頁 。 乙 の 数 字 だ け か ら も 四O 億 ポ ン ド の 支 払 を 要 求 さ れ る こ と
が、ドイツにとって莫大な負担となることはあまりにも明瞭な乙とであった。
償 金 取 り 立 て の 経 済 的 効 果 の 調 査 に つ い て は 、 一 九 一 六 年 の 末 に 命 ぜ ら れ て い るoHEF 怠 仏 乙 の こ と は 償 金 に 対 し イ ギ リ ス が
回 口 o互 のg 門出P T 怠由!日 H・ 商 務 省 の 覚 書 は そ の 作 成 を 一 九 一 八 年 一 O 月 一 七 日 に 命 ぜ ら れ て い る 。 さ ら に 終 戦 の 場 合 に お け る 、
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いかに強い関心をもっていたかを示している。
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脚 本 誌 、 一 三 巻 二 号 、 一 O O頁参照。
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凶 有 沢 広 巳 ・ 阿 部 勇 ﹃ 世 界 恐 慌 と 国 際 政 治 の 危 機 ﹄ 八O頁。
EL--ι2・ ヒ ュ ー ズ の 委 員 会 の 出 し た 償 金 額 に つ い て 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 内 閣 で そ れ を 審 議 し た 際 、 そ の よ う な 額 が 手 に 入 れ
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﹁戦費﹂対﹁損害賠償金﹂
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第二節
一九一九年には同群の経済問題が存した。付巾欧諸同、 お よ び 戦 争 巾 こ れ ら の 同 に よ っ て 占 領 さ れ た 国 に 対 す
る緊急の援助の必要、同ヨーロッパの生産力回復および東欧新興同のための経済発展計画の立案における困難、出非
ヨーロッパ圏諸問経済の拡大に伴う国際経済の中心の移行、回戦勝同と戦敗因との聞の金融取り決めの困難。賠償問
題は第四の問題群に属したが、 その他の問題とも深く関係していた。殊日仏、第三群の問題と不可分な関係にあった。
所泊、述人口問聞の戦債問題とは一蹴しえぬ問題であった。すなわち、戦争中、交戦各同は莫大な戦費の調達に苦慮し、
する
その一部を外債に料ったのであり、 かくて戦争が終結した時、戦争の経済的遺産として、 アメリカを除く連合諸国に
は巨額の債務が残されたのである。英仏連合同が、平和会議における経済問題として、殆ど賠償だけを問題としたの
てドイツが支払を求められる額、二、連合国聞におけるその配分
は、彼らが巨額な戦債をかかえていたことと不可分に結びついている。
賠償問題の解決には次の三つの争点があった。
一月二三日、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 、 委 員 会 の 設 立 お よ び 当 該 委 員 会 に よ る 独 填 同 盟 諸 国 の 支 払 う
率、三、世界の経済・金融体制を破壊しないような支払方法。平和会議における賠償問題の審議はまず賠償委員会の
設立から始まった。
ベき賠償総額、支払可能額、 および支払形式についての調査・報令を求める決議案を提出し、十人会議の承認をえた。
賠償委員会は、ロイド・ジョージの決議案に従って、三つの小委員会から構成された。第一小委員会は損堂一一京 ω評価ある
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いは賠償のカテゴリーの問題を扱った。第二小委員会は支払能力を、第三小委員会は支払を履行させるための制裁あ
るいは保証を審議した。委員会の審議は、 まず第一小委員会の仕事に集中されたといえるであろう。 一一月三日、賠償
委員会はその第一回の会合を聞き、賠償の原則を審議することに決した。各国は夫々の原則を提示することになった。
しかし当初、賠償についてなんらかの明確な基本線を出したのはアメリカ代表のみであった。彼らの主張点は、ドイ
ζとにあった。
ツの課せられる賠償義務は休戦前に宣言された講和の条件に公正に従って定められること、すなわち損害の賠償のみ
が徴収さるべきであり、戦費を含まないという
を送っていた。イギリス側委員の選定におけるこの決定は、彼が、
ロイド・ジョージはこの賠償委員会にイギリス代表としてオーストラリア首相ヒューズ、 カ ン リ フ お よ び サ ム ナ 1
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賠償を﹁獲物﹂ の 取 得 と い う 観 点 か ら 処 理 し よ う と す る 政 策 に 組 み し て い た こ と を な 味 す る 。 彼 ら 三 人 は い ず れ も 巨
、 ヒューズは委員会で彼の立見を表明した。彼の泌説は
額な償金を要求する乙とにおいて強硬であった。二月一 O 目
賠償要求についてのイギリス的観点を明らかにしている。彼はまず、﹁賠償の権利﹂についての原則を論じた。﹁賠償
コyペyセ
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の権利の基礎となっているところの正義の原則は、不法(当円。ロぬ)がなされ損害を蒙った時、不法をなした者は、その
力 の 限 り 、 不 法 を 矯 正 す べ き で あ る と い う こ と で あ る 。 それは補償の問題であって、懲罰のそれではない。-困
乙の原則はあらゆる法制度において普遍的に承認されている。﹂補償の場合、不法の性質は問題にならない。すなわち、
ヒューズは、市民とその財産に対し加えられた損害ではなくて、﹁不法﹂一般を問題とする乙とによって、補償の対象
K、 財 産 の み な ら ず 、 ﹁ 生 命 、 四 肢 、 健 康 、 自 由 、 あ る い は 他 の な ん ら か の 権 利 ﹂ に 加 え ら れ た 損 害 を 加 え が 戸 原 則 の
次に、彼は原則の適用を論じ、大戦の侵略者はドイツと他の敵諸国であり、大戦は彼らのみがそれに責任を負う﹁途
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方もない不法﹂だったとした。 こ の 不 法 に 伴 う 央 大 な 人 的 ・ 物 的 損 失lia多くの人間の死傷、都市の破壊、貿易と産業
の破壊、莫大な縞の軍事支出等llは、不法な行為による被害国の国民の上に税金としてかぶさってくる。﹁人間性は
破壊された地域の回復に対する要求と全而補償
かかる不公平を椛忌する。賠償の原則は、乙の出資の全部が、敵諸国民の支払能力の限り、彼らに負わせらるべきこと
を要求する。﹂ 彼のいう原則の適用から導かれた結論の強調点は、
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5HVB印伊丹芯ロ)との聞には絶対になんらの区別もないということにあった。直接領土を破壊されなかった園、
イギリスやオーストラリア等は、 フランスやペルギ 1とは異なった形でではあるが、災害を蒙ったのである。彼は、
イギリスが英大な債務を負い、貿易をめちゃくちゃにされ、 何百万トンという船舶を破壊されたことを指摘する。
ルギ l人の担失とイギリス人の損失との聞にいかなる違いがあるか。 イギリス人の損失は﹁直接的にドイツの侵略の
結果であると同時に、現実のものであり、大きなものである。﹂従って、賠償の原則の適用は完全なものであらねばな
らず、 また不公平であってはならない。
(恒三巴同日仏国包括巾)に限定して戦費を除外しようとするアメリ
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化させようとしていたことは明らかである。
乙の論争の最中に、 アメリカ側委員は、 その解決について帰米途上のウィルソン K指示を求めた。 とれに対し、
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ヒューズはこのように述べて、賠償を﹁実際の損害﹂
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カ代表の主張に反対したのであった。彼の反対は、要するに、 ア メ リ カ 代 表 の 提 示 し た 原 則 に 従 う 限 り 、 英 本 国 に 対
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する空襲による損害位しか英帝国の取り分がないという乙とについての不満から出ていた。
すなわち﹁損害賠償金﹂ (仏曲目品開)対﹁戦費﹂(円SZえ名曲同)の闘争において、
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て、論争は激化していった。 イギリス代表逮が、 ウィルソンの ﹁戦後処理の原則﹂に挑戦し、﹁賠償﹂を﹁償金﹂に転
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ロイド・ジョージとヨーロッパの再建
イルゾンは、アメリカ代表は賠償の中に戦費を含ませる乙とを拒否すべきであるとして、﹁われわれはそのことの本質
的な不正を理由にしてでなく、 それは、われわれが慎重に敵に期待させた乙とと矛盾し、また単にわれわれが権力を
もっているからといって正しく変えうるものでないという理由で、もし必要なら公に異議を唱えるべきである﹂と、
回答した。(二月二十三日。)乙のへウィルソンからの電報に力づけられて、アメリカ代表は既定の方針を押し進め、遂に
非公式会議で、戦費を計上しない乙とについての暗黙の承認を獲得したのであった。そして、三月の第一週の終りま
でに、英仏連合国からの戦費要求の圧力は存しなくなったようにみえていたといわれ的。
一定の解釈の背後には明確に、
一定の意図が働いていた。
さて、賠償のカテゴリーに関する委員会の論争は、主として ﹁講和の条件﹂に関する解釈論であった。既に、賠償
委員会におけるヒューズの演説について指摘したように、
アメリカ代表が賠償に戦費を含ませないように努力したのは、経済的には、彼らが国際経済の安定を求めたとと、換
言すれば、 ドイツに膨大な賠償金を課するととによって、戦争の結果として形成されたアメリカ中心の国際金融体制
が不安定なものにならないようにしようという彼らの期待と深く関連している。 このことは賠償支払年限を条約に定
めないという英仏の主張が現われた時より明確なものとなる。他方、英仏にとって賠償の獲得は圏内経済の再建や戦
債支払の問題であった。前節において、われわれは、排外主義的なマス・ム 1ドの中から出てきたように言われる償金
要求が、実は金融資本の要求に深く根をおろしていた乙とを検討してきた。戦費要求は大衆の心理を充足するため以
上に、経済的に必要と考えられ、欲求されてたのである。英仏にとって、国内再建の当面の財政的基礎が必要であっ
アメリカに償金の取り立てを反対される時、英仏代表の脳裏を去来したのは戦時債務の帳消しであったろう。
九一八年一二月末の帝国戦時内閣で、英米の利害の対立が論議の的となった際に、 チ ャ ー チ ル は 発 言 し て 、 合 衆 国 に
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対するイギリスの債務を帳消しにするのなら、イギリスは償金問題でいくらかウィルソンの意向に応じうるかもしれ
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ぬ と 述 べ て い る 。 戦 債 問 題 こ そ は 賠 償 問 題 ひ い て は 戦 後 の ヨ ー ロ ッ パ 経 討・金融問題の核心であった。﹁ヨーロッパは
難局を乗り越えて生きてゆくためには、アメリカからの非常に多くの寛大な行為を必要と﹂していた。だが、英仏が
ドイツに寛大でなかったように、 ア メ リ カ は 英 仏 に 寛 大 で な か っ た 。 戦 費 論 争 に 一 つ の 段 落 が 既 に つ け ら れ て い た 、
三月一目、平和条約財政条項起草委員会は、財政委員会に付託された第一の主題は、﹁戦時債務の整理、再割り当て、
再引き受けに関する連合国の協定﹂であると記した報告書を提出した。だが、三月八日にワシントンで示されたアメ
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あるいは再割り当てに関するどのような計画や取り決めについてのいかなる相談
乙の回答が明らかにされた数日後から、再度﹁世論﹂を満足させるような額の賠償が、
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リカ財務省の回答ほ冷淡であった。﹁財務省は:::・:平和会議その他いずれの場所でも、合衆国によって保持されてい
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接答申する乙とを目的とした、三人の専門家からなる委員会の設置を決定し、 ま た そ の 委 員 に は 、 夫 々 英 仏 米 を 代 表
ソーは、ウィルソンの帰米中アメリカ首席代表であったハウス大佐と会談し、賠償問題について最高会議へ報告書を直
れ る こ と と な り 、 賠 償 問 題 の 解 決 も 三 月 下 旬 に 山 場 を 迎 え る こ と と な っ た 。 三 月 一 O 日、ロイド・ジョージとクレマン
一九一九年二月後半から三月初めにかけての三巨頭不在の時期を過ぎると、﹁実際問題﹂の審議が急速に進めら
今度は英仏首相らによって直接に要求されるととになるのであった。
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ルシュ 1 ルおよびデ Iグイス(ロ2FZ・)をあてることにした。 との会談で、
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イド・ジョージとクレマンソ 1は 英 仏 夫 々 の 議 会 の 状 態 を 理 由 に 多 額 の 賠 償 の 取 り 決 め ら れ る 乙 と を 望 み 、 ま た 賠 償 と
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称するに足る額を欲していると述ぺた。ところで、その数日後にロイド・ジョージは、﹁償金問題﹂が連合国のトラブ
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ルの原因となっていること、 フランスの諸要求は不合顕であること、 そ し て 彼 は フ ラ ン ス の 諸 要 求 に 同 む し な い で あ
と、 いかなる国が榎先権をもつことにも反対すること、 そして要求は理性的なものであらねばならぬ、とリツ
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デルに語っている。彼は賠償についての彼の態度を説明して、 ま ず 初 め に 損 害 が 見 積 ら れ 、 次 に 加 害 者 の 支 払 能 力 の
確認がなされるのであるとし、﹁配当として手に入る資産のより大きな分け前を得ようとして、その要求を水増ししよ
うとするような債権者達の態度﹂に彼は反対すると語っている。乙のような、﹁破産財産に対して要求する際の古いや
り口﹂が、賠償問題でフランスのとっている方法であると彼は見ていたようである。 この段階で、 ロイド・ジョージが
要求の合理的たるべきことを主張したのは、巨額の賠償要求の不合理性を説いたものであろうか。彼が優先権を認め
ることに反対していたことから考えて、 フ ラ ン ス の 要 求 の 不 合 理 を 批 判 し た 時 、 彼 が 問 題 と し て い た の は 賠 償 総 額 よ
りも賠償配分の割合ではなかったであろうか。
前述の三人からなる委員会で、 アメリカ側委員デ 1ヴイスは、 経済の観点からの一梓価額についての結論を得るため
﹁政治的考慮﹂を除外することをルシュ I ルに強く訴えた。 かくてルシュ l ルは個人的立見として、 ドイツの文払
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て の 彼 ら の 検 討 を 反 映 し て い た 。 彼 ら は 一 、 二O O億マルク
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(H六O 億 ポ ン ド ) の 要 求 を 勧 告 し 、 そ の う ち の 半 分 は
彼らの報告書は政治的に実行可能であるようなものにされたが、それでもその全体の調子は賠償支払の可能性につい
命ぜられると、 モンタギュ lとルシュ 1 ルは右のような低い額を報告することに ﹁幾分神経質﹂
モンタギユ 1 に英仏夫々全額の五五%、二五%の案を支け容れさせることに成功した。だが二二巨頭への報令書提出が
し、また既にそンタギュ 1 の 支 持 を 得 て い た と い わ れ る 。 ま た 賠 償 金 の 配 分 率 に つ い て 、 デ lグ イ ス は ル ジ ュ ー ル と
可能額が二O 億ポンドほどであることを認めた。 この額はそれ以前にケインズやデ Iグ イ ス に よ っ て 同 意 さ れ て い た
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ロイド・:;ョージとヨーロッパの再建伺
(目)
正金で、他の半分はドイツ通貨で支払わるべきことを提案した。乙のドイツ通貨分は諸条件が好転した時に初めて他
国通貨に見換さるべきものとされた。一二月一五日、三人の委員達はウィルソン、ロイド・ジョージおよびクレマンソ 1
に会って彼らの結論を説明した。まず、ロイド・ジョージは、カンリフやクロッツがもっと高い額の勧告を市にしてき
た と 述 べ て 抗 議 し た 。 だ が デ Iグ イ ス が 、 連 合 国 は そ の 市 場 を ド イ ツ 商 品 で 充 満 さ せ る 余 裕 は な い と 説 い て カ ン リ フ
ら の 意 見 を 採 り 得 ぬ こ と を 明 ら か に し た 。 ロ イ ド ・ ジ ヨ ジ と ク レ マ ン ソ 1は 共 に 最 後 的 に 事 実 を 直 視 し A口頭的な額に同
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意 し た 方 が よ い と い う 結 論 に 達 し た 。 パーネットは、 こ の 結 論 で 交 渉 が 転 機 に 到 達 し た よ う に 思 わ れ た 、 │ │ 政 治 的
渇 望 が 経 済 の 論 議 に 遂 に 道 を 譲 っ た か の ご と く み え た 、 と室閏いている。
ロイド・ジョージはモンタギユ 1 の 代 理 に サ ム ナ Iと ケ イ ン ズ を 据 え た ! 乙 の 選 択 は
だが、乙の時点はロイド・ジョージの方向転換運動の開始点であった。方向転換の一つの契機は個人的な開由による
モンタギュ l の帰同であった。
乙 れ 以 後 の 彼 の 賠 伯 政 策 の 性 格 を 決 定 づ け る も の で あ っ た 。 彼 の 態 度 は サ ム ナ lと ケ イ ン ズ と の 聞 を 振 幅 と し て 動 揺
することになるのである。三月一七日、ロイド・ジョージはヒューズ、カンリフおよびサムナーから、最初の一年半な
いし二年以内に一 O 億 ポ ン ド 、 そ し て そ れ 以 後 支 払 額 を 増 し て 一 九 二 六 年 に は 年 六 億 ポ ン ド を 計 上 し 、 以 後 約 三 十 五 年
間 の 支 払 継 続 を 捉 案 し た 覚 書 を 受 け 取 っ た 。 ま た 、 サ ム ナ Iは 一 八 日 の 会 議 で こ の 資 本 額 一 一 O 億 ポ ン ド に の ぼ る 重
い賠償を求める議論を展開した。ロイド・ジョージは、一五日の結論を無視したこの要求に対するウィルソンの批判を
一九二O 年に
一九五一 l 六O 年 に は 年 額 四 億 ポ ン ド に 達 す る 計 岡 を 作 成 し
かわす一方、 ケ イ ン ズ と 協 議 し て よ り 穏 健 な 要 求 案 の 作 成 を 彼 に 依 頼 し た 。 三 月 二 二 日 、 ケ イ ン ズ は 、
年額五千万ポンドで年々支払額を増加させていって、
た。乙の計阿は、領土の割譲の外に、総額一一 O億 ポ ン ド の 支 払 を 含 む も の で あ っ た が 、 五分の利不では現在値は
北法 14(
1・
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)139
三八億ポンド、 四分の利率では四五億ポンドにすぎなかった。 しかし、 この計画がサムナ Iやカンリフ、 さらにその
背後にある保守党勢力を満足させないことは明らかであった。ケインズの案の提出された日に、ロイド・ジョージはデ
ヘ 。 己HE 4﹃・平和会議におけるアメリ J
1グイスとラモント宗側財政問題専・門家、モルガン財閥を代表、
)にもし彼ら1
カサムナ 1と カ ン リ フ を 同 意 さ せ え た ら 、 五O 億
ポンドは彼の全く受け容れうるところとなるであろうと述べたといわれる。また、二六日の四人会議で、﹁私の方の専
門家連は有能ではあるが、頑固だ。在は、 サムナ I卿
、 この著名な判事できわめて立派な人に、もしわれわれが余り
に無理強いすると、 ドイツのボルシエグイズム化の危険のあることについて話したところ、 サムナ 1卿は、 ﹁ドイツ
人 が 彼 ら 自 身 殺 し あ う の な ら 、 私 の 全 く 望 む と と ろ だ ﹄ と 答 え た 。 こんな精神状態にある人と論ずるのは無駄です﹂
と彼は述べている。
アメリカ案は最小限一、
000億、最大限一、四O O億 マ ル ク を 計 上 し て い た の に 対 し 、 サ ム ナ 1
一月二六日に、英米仏政府夫々の賠償案が提出された。 フランス案は最小限一、 二四O 億マルク、最大限一、
JjAHN
こ
寺
、
"
。
総選挙の時のム Iド が 乙 の 時 期 に は な く な っ て い た の に 、 依 然 と し て 総 選 挙 の 時 の 公 約 な る も の の 実 現 を 求 い て い
園内の大衆は満足しまいと考えて、彼らの案を出したのであろうか。確に、 ノ1 スクリップ系紙と保守党議員達は、
フであったことをわれわれは見出だす。 サムナ1 Hカンリフは、彼らが提案したような巨額の賠償要求でなければ、
たのだ。平和会議においていわゆる排外主義的世論を代弁した者が、ロイド・ジョージではなくて、サムナIHカンリ
ク(リ六億ポンド)は大戦前のドイツの平時輸出額に大体相当した。前英蘭銀行総裁が乙の案の提案者の一人であっ
によるイギリス案は唯一つ二、 二O O億 マ ル ク を 計 上 し て い た 。 こ の イ ギ リ ス 案 で 要 求 さ れ た 年 支 払 額 一 二O 億マル
O億マルクを、
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乙の覚書は、連合国
政 策 決 定 集 団 内 部 に サ ム ナ 1や カ ン リ フ と い っ た 強 硬 派 を か か え 、 外 か ら は タ イ ム ズ な ど に よ る 公 約 実 現 要 求 に 直
面しながら、一二月二三日、ロイド・ジョージは﹁フォンテンブロ 1覚 書 ﹂ の 作 成 に と り か か っ た
の蒙った損害の完全な賠償をドイツに対して課する乙とは、実際上困難であるという見地に立っていた。賠償の支払
は戦争を勃発させた世代とともに消滅すべきであると主張されたし、またその年支払績は同盟および連合諸国の閣で
しかし、
ロイド・ジョージはサムナ1Hカ ン リ フ の 線 に 明 確 な 態 度 を 示 そ う と は し な か っ た の み な ら
同意さるべきものと述べられている。かかる見地に立っている以上、アメリカ案への接近の余地はなお存していた
ようにみえる。
ず、﹁戦後処理の原則﹂を越えた賠償要求に熱立を示していた。 フォンテンブロ 1覚 書 と 時 を 同 じ く し て 、 ド イ ツ は 連
合国の戦費全額を負担すべきであると下.張したクロード・ラウザ1(QEPHOZZ円)の覚書がタイムズに絞った。
れ以後数日の新聞論調はロイド・ジョージの感情をかなり刺激している。
この時期に、最終的決定をみるのに一つの重要な方策が英仏の代表から出された。 それは、賠償義務の総額につい
ては平和条約に明記せず、総額の決定を一平和条約によって設置される常設の委員会に任せるというものであった。
かる考えは、フランス代表によって、専門家述が妥協して最終的に同意に達した要求額がどのようなものであろうと、
それはなおフランスの大衆の期待を満たすものではなかろうという観点から、明らかにされたのである。アメリカ代
表は、賠償総額を未決定のものにするという乙の考えに強く反対した。彼らの考えによれば、賠償額の固定は、国際
経済安定の展望を与える上で、 ぜ ひ と も 必 要 な の で あ っ た 。 平 和 会 議 に お け る 賠 償 問 題 の 明 確 な 取 り 決 め は 、 財 政 の
正常化にドイツからの賠償を頼みにしているフランスやベルギーに、信用の増大と財政的安定をもたらすし、支払国
ドイツピは支払の仕事についての展明を与え、 そ し て 戦 後 の 賠 償 機 構 の 明 確 な 終 期 を 約 束 す る の で あ っ た 。 こ の 主 張
北法 1
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)
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乙
か
説
論
は国際金融の安定のためという観点から、イギリスの専門家達の一部によっても支持されていた。だが、ロイド・ジヨ
ζと に よ っ て 決 定 額 に 対 す る 保 守 党 員 の 批 判 を そ ら し 、 他 方 ド イ ツ の 支 払 能 力 に 迫
ー ジ は 、 賠 償 総 額 の 決 定 額 に 対 す る ﹁刊論﹂ の憤激を予想していたので、早速クロッツの出したその妙案にとびつい.
た。その奈は、賠償総額をぼかす
した A口稲川的鮪の決定を非合理的な要求のム 1ドの治まった時点にまで延期するという点できわめて魅力的であった。
三月二五けから二八日にかけて、専門家達は大きなひらきのある三国夫々の賠償要求額の制繋に回以後の努刈をかさ
ねていた。 しかし、 フランスが﹁損害﹂ に 対 す る す べ て の 賠 償 を あ く ま で 主 張 し 、 ま た 補 償 さ る べ き 額 は そ の 総 制 の
算定が困難なほどに巨額である乙とを強調した時、ロイド・ジョージは条約の中に額を規定しない方が有利であると
u
判 断 し た 。 か く て 、 三 月 二 八 日 K問定額を 決めようとする努力は中止されたのである。
﹁暗黒期﹂ における賠償審議のもう一つの軍要な決定は、﹁賠償﹂ に恩給と扶助料(凹告白色。ロ白口。岩田ロ n
m
m
)を加え
一トンには一トンだけの補償を要求する。またわれわれは恩給を文払わねばならないし
たことである。二六日の四人会議でロイド・ジョージは賠償の配分率を問題にして次のように述べている。﹁われわれ
はわが同の沈没した船には、
その正確な合計額も分っている。われわれが要求しているのは乙の額なのだ。﹂また、恩給の分を恩給水の最も何い国
(MV
の率に等しく抑えることはイギリスに対し公正とはいえないとして、﹁イギリスの民衆は、フランスの破壊された州央
の価値が全部支払われるのに、 イギリスの失われた生命のそれは支払われないということを是認しないだろう﹂と。
翌二七日、 サムナ Iは専門家の会議で ﹁賠償﹂ に 思 拾 を 含 ま せ る べ き こ と に つ い て の 立 見 を 提 出 し た 。 彼 は ウ イ ル ソ
ンによって表明された﹁戦後処理の原則﹂についての解釈論を展開し、﹁賠償﹂と﹁戦費﹂とは相互に相容れない術語
で は な い と い う 見 地 か ら 、 恩 給 の 費 用 は ﹁市民に対し加えられた損害﹂ の 一 形 態 だ と 論 じ た 、 彼 に よ れ ば 、 武 探 を 取
北法 1
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門部}
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訂
一
︾
った国民は、 ﹁正義のために動員された市民にすぎず、 軍服はなんら区別をつけるものではない﹂ のであった。
日、ロイド・ジョージは恩給や扶助料を賠償の範聞に加えた覚書を提出した。
戦後処理の原則に照らしていえば、恩給を賠償に含ませる根拠は、ランシング通牒にいう﹁普通人民に加えられた
損害﹂にしか求められえないのであったから、 イ ギ リ ス の 主 張 が ア メ リ カ 代 表 に よ っ て 反 対 さ れ た こ と は い う ま で も
、
ー
も
戸
、 0
九 PU それでは、 いかなる意図でイギリスは原則に反するような要求を出したのであろうか。ムコ貝欲な欲求の問題はと
4
もかく、 イギリスの方針には﹁配分中小の作用﹂(立回可え匂22E
) が強く加えられていたといえる。連合同の忠給
お2
並びに扶助料の資本価値は丁度一般市民の損害に等しいと推計されていた。であるから、恩給を含ませることは賠償
要求額を丁度二倍にするものであった。既に指摘したように、ロイド・ジョージは賠償の配分率 K大きな不満を拍いて
いた。﹁加えられた損害﹂について賠償を配分すれば、イギリスの取り分は全く憐れなほど少ないものになると考えら
れた。 と こ ろ が 、 恩 給 の 算 入 は 英 帝 国 に と っ て の み 相 対 的 に よ り 有 利 な 配 分 率 を 生 み 出 す の で あ っ た 。 ド イ ツ の 支 払
能力が限られたものである乙とが認識されればされるほど、 配 分 率 そ の も の は ま す ま す 重 要 な 意 義 を も つ こ と に な る
ζと が 政 治 的 に 必 要 で あ っ た 。 恩 給 等 の 算 入 は フ ラ ン ス の 取 り 分 の 比 率 を 悪 く す る の で あ っ た が 、
ドイツ
のであった。戦費の補償を要求することが失敗した以上、間接的損害の名目で恩給や扶助料を﹁加えられた損容﹂
合めさせる
抑圧のため、賠償総額の増加を望むフランス代表逮はそれをむしろ支持した。
ウィルソンは、 サ ム ナ 1 の 右 の 覚 書 を ﹁ き わ め て 法 万 能 主 義 的 ﹂ と し て 斥 け た 。 彼 は 恩 給 の 算 入 に な か な か 譲 歩 し
A
十日ゾ
なかった。 かくて、 ロイド・ジョージは、﹁乙の問題できわめてとげと。けしているウィルソンの心を変える﹂ょうスマ
ツツを説得したといわれる。ウィルソンはスマツツを非常に称賛していた。そして、この見識の高い、国際連盟役立
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九
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乙
同
ロイド・ジョ{ジとヨーロッパの再建
に大きな貢献をしていた将軍の覚書によって、 ウィルソンは思給と扶助料の算入を納得させられた。 ア メ リ カ 代 表 部
アメリカ代表団の中の一人の法律家も恩給算入に賛成しては
の専門家は、﹁恩給を承認するととは敵に対するすべての戦費要求の是認を含むといえよう﹂と進言した。しかしウイ
ζ 乙で彼の原則がい間執しようとはしなかった。
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北法
ルソンは
いず、またその算入は論理に反していると専門家達が述べた時、ウィルソンは、﹁論理!論理!論理なぞなんとも思
わん。私は恩給を含ませる!﹂と叫んだ。論理の放棄が法解釈上の論理の放棄にとどまらず、﹁戦後処理の原則﹂の放
棄であった乙とにおいて、それは明らかにウィルソンの敗北であった。それはまさに﹁大統領の道義的地位と彼の精
神の昏迷とにおける最も決定的な瞬間﹂であった。彼は、誤った前提から議論を進めて彼自身の原則の論現的帰結を
示して寸くれる英仏代表と闘う気力を喪失したのだ。
ロイド・ジョージは、フォンテンブロ l覚 書 に お い て 賠 償 支 払 の 期 間 が 一 世 代 に 限 定 さ る べ き こ と を 説 い た の で あ っ
E
E
ε 一)がますます巨額のものとなっても、 ドイツの支払能力の限界が理性
た 。 年 金 や 扶 助 料 を 加 え て ﹁賠償義務﹂(
ロイド・ジョージは、 三月二九日の覚書で、 連 合 国 の 損 失 と 損 害 は 三O O億 ポ ン ド 以 上
的に討議され、 さらに支払の ﹁期間﹂があらかじめ限定されるならば、 乙 の 二 つ の 要 素 か ら 賠 償 額 そ の も の は 無 限 な
ものたりえないのであった。
になるとと、 そして ﹁完全な補償に対する同盟および連合諸国の争うべからざる請求権﹂ の 存 在 を 明 ら か に す る と 同
55e とと、従ってまた完全
時K、連合国は、 ドイツの財政的および経済的資源が﹁無限のものではない﹂(ロ呈己ロロ
2
F
E
r
o
) であることを認める、としたのであった。
な 賠 償 を 行 な う 乙 と は ド イ ツ に と っ て ﹁実行不可能﹂(町ロ℃5
、 ドイツの支払能力を限定するものと解しうるものでもあるし、 ま た 無 意 味
している。従って、年限(江田開口SF) は
も他方、覚書は賠償額がいかに大きなものとなろうと、 ド イ ツ は 物 的 損 害 や 人 的 損 失 の 価 値 を 償 う べ き で あ る と 規 定
し
か
説
言
命
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同
な限定ともとれるのであった。平和会議における審議の実際は、﹁加えられた損害﹂の補償についてのドイツの責任を
あくまで明らかにしようという方向へ向った。同時に、年限もその実質的な意義を失うように取り決められるのすあ
った。 それについての審議において、ロイド・ジョージは自らイギリス代表部内における意見の分裂をさらけだしたの
であった。
FF
一民主長野岳連言語諸宗主主吋)が、条
四月五日の四人会議で、フランス代表クロッツは、 三月二九日のロイド・ジョージ覚書に基づく英米案の期限につい
ての規定(話題言語競馬誇記長
約による連合国賠償委員会に賠償支払を一二十年内に制限するよう求めている点を批判し、連合国の﹁政府及同民ノ被
リタル一切ノ損失乃損害﹂ についての責任がすべてドイツにある以上、右の期限をつける乙とはとの責任の原則と矛
盾すると述べた。 これに対し、 ロイド・ジョージは、﹁乙れは単に、 ドイツは三十年聞に支払いうるという意見を表明
しようとしたのにすぎない。::・::乙の条文は -ji--ドイツが三十年間に支払いうる量に支払額を制限しようとして
v
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子
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な
る
ドイツは一二十年以内に支払うべきである
われわれは総額をドイツが三十年内に支払わねばならぬ額に制限するよう拐案すベ
り、
また、﹁サムナ1卿によれば、われわれの見解は、
えの
た2で
。あ
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とも、彼は述べている。
期限についてのとの見解は、三十年という期限の意義を失わせるものであった。 ロイド・ジョージの論法でゆけば、
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いるのではない﹂と答えた。 クロツツがさらに、 イギリスの専門家はすべての処理が三十年に限られるという立見だ
づ
と追求すると、 ロイド・ジョージは、﹁ドイツが四十年間に六O O億ドルを支払えるが、三十年間では五O O億のみし
」と
とい
が、しかしもしもそうしえない場合には、︹賠償︺委員会は支払期限の延長をする権利を有すべきであるというものだ﹂
きか
で支
は払
なえ
いぬ
支払総額は、先の例では、六O O億ということになるのである。 アメリカ代表はこのような考えを批判して、﹁もしそ
のように大きな資本額をとるならドイツはそれにつく利子すらも支払いえないでしょう。ど乙からかドイツに光線を
当てるととが絶対必要です﹂と述べている。意見の対立は今や、賠償額は︽ドイツが三十年間に支払いうる金額︾な
のか、︽ドイツが支払いうる金額の総額を、できたら三十年間に支払わせること︾なのかをめぐって争われた。 五日の
会議で、ロイド・ジョージが前者の見解を採った乙とは明らかである。彼はサムナ1の影響下に立っと同時に、この期
限の問題でフランスに接近した。 アメリカ代表は、賠償額が三十年間に支払いうる金額を基礎とすべきことを主張し
た。デ1グイスは、﹁ウィルソン大統領は、一二十年の期限によって、︹賠償︺総額は思給を含ませる乙とによっても明
大せぬとと、 だが恩給を含ませることはただ配分のためより公平な基盤を作り出す、と了解していた﹂と述べたので
あった。 これに対しロイド・ジョージは、﹁私は国民に向って人命は一本の煙突よりも価値のないものだとは言いえな
ぃ。家を再建する乙とは一年か二年内にできても、有能な人聞を二十一年以内に供給することはできない﹂と反論し
た。結局、英仏の反対によって、殊にクレマンソ1の功妙な説得によって、アメリカ代表が折れて、今度は支払期間
の制限も実質的には廃されたのである。 フランス代表は、条約がいよいよ ﹁決定的なもの﹂すなわちドイツに逃げ道
を絶対日に与えぬ決定的なものになったと感じたであろう。他方、 ロイド・ジョージは、 フランスと張り合って﹁賠償﹂
の内容を償金に近づけるにつれ、﹁川論﹂を満足させうるものができたと考えていたであろう。われわれは、彼が
論﹂と考えていたものの有害な圧力を認識することができる。 阿 月 に 入 っ て 、 彼 は ま す ま す 彼 の 権 力 の 危 機 を 感 ず る
よ切つになっていた。 そして、 イギリスの問論は、膨大な賠償金を要求しているという同定観念が、彼を捉えて A1m的
な解決から彼を遠ざけたのであった。
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説
論
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建伺
三思給と扶助料の問題および年限の問題が決定された後、十人会議の賠償問題審議は、﹁賠償委員会﹂(肝忠一端的一細川
明話協⋮紅白↑ニ条)の組織と権能、賠償の取得におけるベルギーの優先権、ドイツ船舶の配分に主として向けられた。
乙 ζで は 、 戦 後 の 経 済 に か か わ る 問 題 を 取 り 上 げ る と い う い み で 、 賠 償 委 員 会 の 設 立 に 関 連 し た 二 、 三 の 問 題 を 検 討
してみることとする。
賠償委員会の設立は次のような三つの理由から必要となった。付ドイツに対する賠償要求額の最後的決定、同賠償
計画を維持すること、 問戦後のドイツの経済ならびに財政を一般的に監督すると出。これらの理由の中でも、付にあ
v ながした最大の理由であろう。既に考察したように、
げられる理由が委員会設立を つ
ドイツが支払う賠償総額は平和
条約の中に現定されないととに決せられた。 その理由としてあげられた乙とは、平和会議の時点でのその総額につい
てのいかなる決定も当時の世論を満足させえないというととであった、従って総額についての決定は、排外主義的か
つ非合理的な感情が治まった時に、専門家の手で合理的に作成されることになった。賠償委員会の権能は多岐にわた
っており、 その実際の行使はドイツの永続的支配を意味したであろう。賠償委員会が、 ド イ ツ は 条 約 に よ る 賠 償 義
務を履行していないと認めた時には、条約で規定された占領地域の再占領が可能であった。(崎町一ゴ一)このような重大決
定が、同際連盟にではなく、賠償委員会に認められていたのである。 それでは、 乙の強大な権能をもった賠償委員会
が、将来にとっての合理的解決を与えると期待されていたであろうか。既に考察したように、賠償問題の解決は、実
際にはアメリカの態度にかかわると乙ろ大きかったのである。だが、 アメリカの公式の態度は、 国際金融機構再建の
ための援助や、政治的責任を負わねばならぬような金融上の保証をする乙とに消極的であった。
四月一 O 日、ロイド・ジョージは、賠償委員会の原則的問題として、委員会へのアメリカの参加と債券発行を取り上げ
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説
論
と れ ら 二 つ の 問 題 に フ ラ ン ス 蔵 相 ク ロ ツ ツ は 賠 償 委 員 会 に お け る 採 決 の 全 会 一 致 方 式 を 加 え た 。 ウィルソンは、
ζ
ることになる庚則についての指示を与えうる。これは、私やクレ 7ンソ 1氏が置商せねばならなくなる議会操縦の閃難のいくつかを
打破するでしょう。議会でこの問題に既に直面してきたボナ・ロ!氏は私と全く同意見れ刊。﹂
いう批判が起るだろう。もし発行高がそれが定める季員会に任せられているのであれば、彼らに実際の額ではなくて、額が加は♂内応され
る。例えば、もし初回に六の億ポンドの債券が発行されるべしと相内定されたら、議会では直ちに﹃これが彼らの支払うすべてだ﹄と
って償わるべ先債券お行一向か定めるよう命ぜらるべきだ、ということである。この問題でイギリスとフランスの観点は全く同じであ
﹁私の提案は、ドイツの守、払うべき額所平和条約で定める代わりに、︹除償︺一苓員会自体が、すべての賠償要求をみた後で、敵によ
に述べている。
は﹁金融問題の専門家﹂サムナーであった。四月一 O 日 の 十 人 会 議 で ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 債 券 の 発 行 に つ い て 次 の よ う
F
町リ
田昨
日。
)を
向し
ので
あ行
る。
彼らはドイツの債務の﹁物質化
(虫﹂
色2
イ丘
ギ
ス
側ロで
こ志の
債た券
発
を考えついたの
れ膨大な摘申告に対するドイツの賠償義務を確認させようとする一方、支払能力を問題にせずに支払の保証を求めた。
払義務よりもまずドイツの支払能力を明らかにしようとするような方法に内在する﹁危険を理解﹂し、なにはともあ
E
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m
)と い う 乙 と を 最 も 問 題 に し た の は フ ラ ン ス で あ っ た 。 フ ラ ン ス 代 表 は 、 ド イ ツ の 文
問題である。乙の保証(ぬ口問B
とは債券発行の問題でより明瞭に現われている。賠償委員会による債券発行は、賠償支払の保証と関連してでてきた
議 に お い て 、 最 後 的 決 定 が 近 づ く に つ れ て 、 経 済 の 観 点 か ら 、 アメリカの意向が原則的な問題となってきた。 乙の
なら、合衆国は参加するだろう。 そ う で な け れ ば 参 加 し な い と と に な ろ う ﹂ と 付 け 加 え た 。 と の よ う に 、 賠 償 問 題 の 審
アメリカの参加は原則的なものではないが、直ちに受け容れると述べ、﹁もし委員会についての取り決めが健令なもの
T
こ
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賠償支払期限についての四月五日の発一プ一日にみられる、 サムナーへの接近といい、 ま た ホ の 発 言 に み ら れ る 議 会 へ の
影響を恐れる態度といい、乙の頃のロイド・ジョージは、イギリス国内の強硬論をうまく納得させうるような解決方法
を見出すことに汲々としていた。債券発行は、 タルデューに従えば、債務の ﹁物質化﹂を意図したものであった。
ころで、ロイド・ジョージのいうように、当面の議会操縦のため発行高についての最終的決定を賠償委員会に任せると
(リ五O 億ポンド)の債券
いうことは、将来における合理的解決への期待をもたせるものであった。彼は本当に小れのような期待を抱いていたの
000億金マルク
κ
明な乙とでないと一一白わざるをえない﹂と。 ロイド・ジョージは、﹁この問題で唯一の実際に公正な大国﹂としてのアメ
いるのではないが、もし乙の問題が多数決で決せられるというのであれば、私は乙れへの参加がアメリカにとって賢
をめちゃめちゃにしてしまうだろう。銀行家は価値の下落した証券に金を出そうとはしまい。私は妨害しようとして
の借金の若干のものはアメリカ合衆国で都合されねばならぬだろう。もし債券が過度に発行されたら、世界の信用
グ V Vット
決制を承認しえないとして、次のように述べている。﹁債券の目的は借金のために抵当を準備することであり、またこ
さて、債券発行が論ぜられた際、 ウ ィ ル ソ ン は 、 債 券 発 行 の 仕 事 に 当 た る 委 員 会 に お け る 決 議 方 法 と し て の 、 多 数
なかったことは明らかである。
彼の私的な発一一一一口から推して、ロイド・ジョージの主張が右の項を強調することにあって、五O 億ポンドに抑えぷ一乙と
(回)
務ノ承認及保証トシテ更ニ債券ノ発行ヲ要求スルコトヲ得﹂ (一一日八時一津市属)としている。当時の状況と会議の外での
発行について具体的に規定している。 そして、 その上になお、﹁︹賠償︺委員会ハ爾後尚随時其ノ決定スル所ニ依リ債
であろうか。 これはきわめて微妙な問題である。平和条約は、合計一、
と
リカの参加の古川要性を強調した。 し か し 、 賠 償 委 員 会 に お け る 多 数 決 制 の 採 用 に 対 す る ウ ィ ル ソ ン の 疑 惑 は 根 深 い も
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三
)
ロイド・ジョージとヨーロッパの再建
説
論
の が あ っ た 。 彼 は 債 券 発 行 が 国 際 金 融 に 及 ぼ す で あ ろ う 重 大 な 影 響 を 考 え た の で あ る 。 合 衆 国 も ま た ζ の金融体制の
中へ組み込まれているのであった。彼はロイド・ジョージに次の点に対する注立を喚起している。﹁フランスやイギリ
スの信用が下落させられるなどということは世界の利益になることではない。もし始まりが巨額の債券発行でもって
なされ、 そ し て イ ギ リ ス と フ ラ ン ス が 借 金 し よ う と し た ら 、 銀 行 家 達 は 、 英 仏 は 誌 発 さ れ た 抵 当 証 券 を 頼 り に し て 借
金しているのであり、従って信用の全構造が影響を蒙ることになる、と一一ワつだろう。﹂このように、賠償委員会による
債券発行の問題は、 は か ら ず も 巨 額 な 賠 償 取 り 立 て の 最 も 本 質 的 な 問 題 を 表 両 化 さ せ た の で あ る 。 賠 償 問 題 に お い で
英仏は巨額の賠償請求権を得れるように取り、決める ζとに成功した。しかし、債務同のみならず、 ヨーロッパ全体の
復興資金については、なお多くの問題が未解決のまま残されていたのである。賠償条項の大綱が決せられた後、専門
家達は、問題の重要性を考えて、戦後の国際金融に関する種々の計画を立案し、その実行を政治家達に勧告している。
イギリス側からは、﹁ヨーロッパ信用の回復と救済ならびに復興金融に関する計両﹂(通称ケインズ案)が提案された。
との案は、 一九一九年四月二三日、ロイド・ジョージの説明書をそえてウィルソンに送られた。 ケ イ ン ズ 案 は 、 賠 償 債
H
務国、 ドイツによる現在値一 O 億ポンド お よ び オ ー ス ト リ ア 等 三 国 に よ る 三 億 問 千 五 百 万 ポ ン ド の 問 分 利 付 の 債 券 発
行、それに困窮せる新興諸国による債券発行を加えた、総計一五億ポンドの債券発行に関する計画を骨子としてい
る 。 賠 償 債 務 国 の 場 合 に は 、 発 行 債 券 の う ち 五 分 の 回 は 賠 償 勘 定 の 支 払 お よ び 償 却 に あ て ら れ 、 五分の一は食料およ
び原料の購入にあてられるものとされた。敗戦国分の債券の利払は、支払準備不能の場合、共同かつ個々的に敗戦国
によって保証される。 さ ら に 発 行 全 債 券 の 利 子 は 主 要 連 合 国 お よ び 中 立 諮 問 政 府 が 連 帯 し て 再 保 証 を 引 き 受 く べ き で
あるとされた。
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ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ と ヨ ー ロ ッ パ の 再 建 宇)
ロイド・ジョージはこの計画をウィルソンに送るに際し﹁立派な﹂(ハロツド﹀説明書を書いた、
危 1彼
険 Zは
が、
あ全
ま融
(臼}
ボルシエグイズムに隣接した国であればあるほど、多分より多くの援助を必要として
乙の点について、彼は次のように
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)
で
ケインズ案の章一要な点は、
(臼 V
ヨーロッパ再建と賠償との両問題を統一的問題として取り上げたことにある。
K いかにアメリカの援助が必要であるかを示唆したのである。
v
お よ び 金 融 上 の 健 全 性 の 多 く の 要 素 を 欠 い て い る と 指 摘 し た 。 ウィルソンは、
ヨーロッパ生まれの債券に連邦政府の
簡で、 ウィルソンはまず、 ケ イ ン ズ 案 が ア メ リ カ の 観 点 か ら み て 実 行 可 能 性 の 少 な い も の で あ る の み な ら ず 、 経 済 的
さて、 ウ ィ ル ソ ン は ケ イ ン ズ 案 に 協 力 的 態 度 を 示 そ う と は し な か っ た 。 五 月 五 日 付 の 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ 宛 の 彼 の 書
つ
に
、 ボルシエグイズに対する資本主義体制の強化の必要と少なからず関連して出ていたと考えられる。
再建が世界資本主義全体の問題と認識されたことによるであろう。かかる認識は、ロイド・ジョージの説明書にあるよ
ーロッパに民そうとするものであった。そして、復興金融と賠償、さらに戦債を統一的な問題として提起したことは、
乙のような目前の問題とともに、 ケ イ ン ズ 案 は 、 戦 争 遂 行 の 過 程 で ア メ リ カ に 流 出 し た ヨ ー ロ ッ パ の 資 本 を 、 再 度 ヨ
られる。また、 ア メ リ カ が 借 款 を 提 供 せ ぬ 限 り 、 ド イ ツ は そ の 運 転 資 本 を 得 ら れ な い し 、 賠 償 を 支 払 え ぬ の で あ る 。
パ の 復 興 に は 資 金 を 必 要 と す る が 、 そ れ は ヨ ー ロ ッ パ に 見 出 さ れ え な P。 債 券 は 当 然 ア メ リ カ に 流 出 す る 乙 と が 考 え
ヨ1 ロッ
いる。 し か し そ う で あ れ ば あ る ほ ど 私 企 業 は 援 助 し よ う と は し な い ﹂ と 。 そ し て 、 彼 は ヨ ー ロ ッ パ の 信 用 機 構 の 再 建
続 け て 書 い て い る 。 ﹁疲弊し、
りに大きなこと、 似 額 が あ ま り に 大 き く 、 か つ 信 用 が あ ま り に 長 期 に わ た る 乙 と 。
面でのヨーロッパ復興の問題には私企業の手では除去しえぬ二つの主要な障害のあることを指摘した。
そ
保証を与える権限を議会から得ることは、 とうていできぬ相談だと確信していた。彼は、 ケ イ ン ズ の 提 案 し た ア メ リ
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説
論
カとヨーロッパ諸国政府との緊密な協力の必要を否定しはしなかったが、 そ れ が 債 券 に 対 す る 保 証 の 形 を と る こ と に
難色を示した。信用貸は諸政府によってよりも通常の私的径路を媒介して行なわれた方が賢明である、というのが合
衆国財務省の見解であった。 ウ ィ ル ソ ン は 、 政 府 は で き る だ け 早 く ﹁ 銀 行 業 務 ﹂ か ら 手 を 引 い た 方 が よ い と い う 見 解
を明らかにしたのに続けて、 ドイツの現状および将来についての次の諸事実に注意を喚起した。第一に、 ドイツは運
5mgHVE{)を必要としており、 そ れ な く し て 賠 償 支 払 を 進 め え な い 乙 と 。 第 二 に 、 平 和 条 約 の 賠 償 条 項
転資本(当日F
の規定はドイツのすべての運転資本の即時的な引き渡しを要求していること。第三に、 そ の こ と は 、 実 際 に は ア メ リ
カが運転資本の不足分の大部分を信用貸の形でおぎなわねばならぬことを示唆していること。﹁賠償社議を通じてアメ
リカ代表は、提案されていた計画がいかなる程度の賠償支払をなすための手段をもドイツから必ず奪うものであるこ
とを、他の代表達に一貫して指摘してきました。::::・しかし乙の点をわれわれの方の祇かが強調すると、 ドイツび
いきだといつも非難されました。わが国の代表は、 ただ賠償問題が主としてフランス、 イギリス、 ベルギー、および
他のヨーロッパ諸国の関与する問題であって、 ア メ リ カ の で は な い と い う 理 由 で 、 起 市 さ れ た よ う な 賠 償 条 項 に 最 後
的に同意を与えたのです。﹂ウィルソンは、彼を攻めたててドイツの現存資本のすべてを撤去することを取り決めなが
ら、他方ドイツの運転資本をアメリカが引き渡すよう求める計画に色よい返事を与えようとはしなかった。
掠奪的取り決めへの実際の譲歩が、今度は合理的計画への協力を拒む珂由と化した。 アメリカ的観点からすれば、
英仏がドイツの現存資本のすべてを撤去する乙とから出発させようとしながら、 ド イ ツ へ の 運 転 資 本 の 供 給 を ア メ リ
カに求めるのは、あまりに虫のよい考えであった。債権者の態度はこうである。﹁ドイツの経常資本の十分な部分をド
イツに残す﹂11ードイツによる賠償の支払可能l │英仏によるアメリカへの戦債支払。 こ の 金 融 関 係 に お い て 債 権 者
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は損失を免れうるのであった。 これに対し、 イギリスの︽理性的︾観点は、 ヨーロッパ再建金融の出発点を戦債の帳
消しに、 そしてアメリカ政府の積極的なヨーロッパ援助に求めたのである。 だが、経済・金融問題の政治的解決は、
戦債の帳消しにではなく、戦債の元である戦費を実質的には戦敗固に償還させることに求められたのであった。
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て、乙の債務者の貧欲なやり方を債権者に納得させる口実となったものは、世論がそれを要求しているということで
あったのである。
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ドを加えた)から各二名の代表によって構成された。
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v 吋VO] cgBW わC525520﹃岳町可町田口PNE口
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3 5 5・口FJ3u・ 委 員 会 は 、 五 大 国 か ら 各 三 名 、 ベ ル ギ ー 、 ギ リ シ ャ 、 ル ー マ ニ ア 、 セ ル ビ ア ( 後 に さ ら に 一 ボ l ラン
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の条件についての解釈論であった。
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新 し い 委 員 会 へ モ ン タ ギ ュ l等 を 選 ん で あ て た 乙 と は 、 右 の 困 難 を 回 避 す べ く 閃 ら れ て い た と 、 パ lネ ッ ト は み て い る 。 即 日 ロmF
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乙 と 、 す な わ ち そ の 総 計 で JOO惨 か ら - 五0 時間ドル(三O 億 ポ ン ド ) を 支 払 い う る 乙 と 。 意 見 が 分 れ て い る が 、 総 計 六O 億ポン
と い っ た 短 期 間 内 に ド イ ツ は 四O 億 ド ル か ら 五O 億 ド ル 、 さ ら に そ の 後 に 五O 億ドルから一 O O億 ド ル を 一 定 期 間 中 に 支 払 い う る
ド 支 払 の 可 能 性 は 強 い こ と 。 損 害 賠 償 額 は 多 分 三O O億 ド ル を 越 え る で あ ろ う 。 ド イ ツ に 対 す る 要 求 額 の 問 題 は 、 次 の よ う な 政 治
えることになる可能性。肋﹁巨額の債務を返済する乙とを一世代にわたり気のすすまぬ国民に強いることは、その放楽を求める煽
的・経済的考慮に影響される。同あまり大きな額を要求してドイツ代表の支払拒絶を招くことの危険。制連合国に経済的損害を与
動 に よ っ て 世 界 の 平 和 を 再 度 撹 乱 す る よ う な 不 安 の 原 因 と な る で あ ろ う ﹂ 。 そ れ 故 二 ニO O億 ド ル ( 六O 億 ポ ン ド ) が ド イ ツ に 要 求
とれ以後彼の態度は何辺となく変わるが、彼は一同よりも刷に重大な考慮を払うこととなる。
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される最大額であろう。回己門口EPUC25岳 民 民ω・ こ れ ま で の 考 察 で は 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 右 の 似 の 問 題 を 屡 々 指 摘 し て い た 。
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とによると思われる。一九日の十人会議で、連合国がドイツに巨額の償金を求める文書を提示し、かっ多くのドイツ人民をポーラ
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た よ う に 書 い て い る が ( 巴cECEH悶
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側
ではないといった。サムナ l が、意見の食い違いはロイド・ジョージの真意についてのモンタギュ l の 誤 解 か ら で て い る と 述 べ た の
る﹂と述べている。
lは、賠償委員会がドイツ支払能力を決定する権能をもつことを、受け容れえないとして、年限
をさえぎって、ロイド・ジョージは、﹁勿論、私は三十年の期間内に総額を得ることが突際に行ないうるのなら、乙の年限の方をと
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の問題について次のような案を出した。すなわち、ドイツの責任額を明らかにしえないのであれば、少なくとも補償さるべきもの
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FE- 五 日 の 会 議 で ク レ
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年内に支払われなかったら、賠償委員会はその期間を延期する権利を有すと
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成立した条約はこのフラン
7ンソ l案 は 同 意 の 基 礎 を 形 作 る か も し れ ぬ と 表 明 し た の で あ っ た 。 パ
に支払えぬものであった場合に賠償委員会が、アメリカ案のように額を引下げる権能をもっということがないようにする乙とにあ
った。アメリカ代表ハウスは、クレ
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こ の 発 言 は フ ラ ン ス の 意 図 に 対 す る 彼 の 理 解 の 欠 如 を 一 不 め す も の で あ る と し て い る 。 切 口EOF
ス案通りのものとなった。(第二三=一条第四項 V。
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二附属書、十三同)から、一国の痘否権行使によっても、債券発行は六百億マルクに押えうるという議論が成立しうるのであった
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なった十億ポンドに反対しなかったとと、そして彼の書簡で、ウィルソンがこの十億ポンドを乙そ問題にしている乙とをフイリッ
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北法 1
4
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