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2-1 自然・国土

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2-1 自然・国土
エヌケーケー物流
若築建設
水谷建設
奥村組土木興行
第2章
株式会社
株式会社
株式会社
株式会社
天谷
北沢
杉江
中野
裕
幸雄
信孝
拓治
ミクロネシア国事情
2−1自然、国土
(1)国土
ミクロネシア連邦
ミクロネシア連邦は、ギリシャ語で mikros(ミクロス)
(Federated States of Micronesia)
が「小」nesos(ネソス)が「島」を意味するように面積の
小さな島々からなる太平洋の赤道の北半球側に沿って点在
する 607 の島と環礁で成っており、土地の総面積は約 700km
で、日本の奄美大島とほぼ同じである。
その範囲は、
北緯 1°
∼10°、東経 131°∼164°で、マリアナ、カロリン、マー
シャル、ギルバートの各諸島とナウル島からなっている。
マリアナ諸島のグアム、サイパン、トラック、ポナペ、
クサイエ等のような火山性の隆起した島々を除けばミクロ
ネシアの島々の多くは、低い珊瑚礁からなる。これら珊瑚
礁からなる島の数は、2000 を超えるが、その面積はミクロ
ネシア全体の 20%にすぎない。
面積 701 km2
2
人口 107,000 人
首都 パリキール(Palikir)
民族 ミクロネシア系
主要言語 英語及び現地の8言語
宗教 キリスト教
政体 大統領制
1 人当り GDP 1,973 米ドル
通貨 米ドル
電話の国番号 (691)+(相手先番号)
(2)気候
ポナペの月別気温と降水量
島々の平均気温はおよそ 27℃で、季節的変化は殆どみられ
800
ない。高度や緯度の違いが降水量の地域的差異の要因となっ
700
りにあう。
500
25
(℃)
600
(mm)
ており、赤道付近の島々では時として極めて長期に亘る日照
大きな災害をもたらす台風は、周期的に西方の島々を襲う
30
400
300
が熱帯にみられるマラリアなどの病気はこれらの島々では
200
見られない。
100
20
0
15
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10 11 12
月
降水量
2−2経済、社会
気温
(1)経済
殆どの島民は、タロイモ、パンノキ、ココヤシ、サツマイ
主要産業
農業(ココナツ、タロイモ、バナナ等)
、水産業
モの耕作と礁湖(ラグーン)や沖合での漁によって毎日の生
GDP
237.2 百万ドル(2001 年、世銀アトラス)
計を立てている。他に経済的資源がない為、それら伝統的生
1 人当り GDP
1,973 ドル(2001 年、世銀アトラス)
業の維持が図られている。ココヤシの実を乾燥したコプラは、
物価上昇率
-0.5%(1998 年、ミクロネシア政府統計)
総貿易額
(1)輸出
石鹸やマーガリンの原料として主要な輸出品となっている。
手芸品や、貝殻のボタンの生産もあるが、市場性は少ない。
一方、食料、衣類、金属器具、建築材料などの輸入は輸出を
貿易品目
貿易相手国
遥かに超えている。
いくつかの島では賃金労働や、小規模の企業が島民の主要
主要援助国
な現金収入源となっており、数千の原住民(熟練労働者は僅
8,248 万米ドル(97 年)
(1)輸出
魚類、バナナ、コプラ、ココナッツ製品
(2)輸入
食料品、機械・車輌、製造品、石油製品
(1)輸出
日本(78.9%)
、米(18.3%)
(2)輸入
米(72.1%)、日本(12.0%)
、豪(3.5%)
米国
94.6 百万㌦(DAC ベース、99 年)
日本
6.8 百万㌦
豪州
0.6 百万㌦
2 国間 ODA 合計 103.3 百万㌦
かである)は、行政機関、貿易会社、小規模のサービス業な
どで働いている。しかし、グアム島は例外で広範囲な軍事施
803 万米ドル(97 年)
(2)輸入
日本からの
援助
<00 年度実績>
<00 年度まで累計>
(1)有償資金協力
なし
なし
設とそれに付随した合衆国本国人の地域社会が、島民の労働
(2)無償資金協力
5.29 億円
125.93 億円
力を大部分吸収している。尚、グアム島や信託統治領では、
(3)技術協力
3.90 億円
41.17 億円
観光事業が近年著しく成長しつつある。
日本との
日本の対ミクロネシア貿易(2001 年財務省)
経済関係
(1)貿易額
ミクロネシアの最も価値のある輸出品はなんいっても燐
輸出
8.87 百万円
鉱石があるが、これはナウル島とオーシャン島だけである。
輸入
20.99 百万円
(2)主要品目(%)
輸出
自動車、機械類、食料品
輸入
魚介類
(3)進出日系企業
在留邦人数
12 社(2002 年 7 月現在)
137 名(2001 年 10 月現在)
スーパーマーケット(ポンペイにて)
店の中は米国から輸入された食品、衣類、雑貨などで埋め尽くさ
れており、日本で見かける生活用品は殆ど何でも手に入る。
タロイモ
(2)社会
一般に、ミクロネシアに人間が居住するようになったのは、
先史時代でもそれ程古い事では無いと云われている。アウトリ
ガー(舷外浮材)を取り付けたカヌーのような運搬船が無くて
は長距離の航行は不可能であったし、タロイモ、ココヤシの実、
パンノキの実のような食料を持ってこなくては、航行出来ても
小島で生存する事は出来なかったと思われるからである。この
ような条件が整ってミクロネシア西部では、東アジアやインド
ネシアから既に紀元前 3000 年頃移住者が渡って来たと思われる。
彼ら流浪民は、人種的にインドネシア=モンゴロイド系で、
ニューギニアからのピグミーネグロイドといくらか混血してお
り、現在も広くオセアニアで話されているマレーポリネシア語
ポンペイ国際空港にて
が話されていた。ミクロネシア東部では、ニューヘブリディー
島民が空港の待合所に集う。人々は浅黒くて背丈が低い
ズ諸島やフィジー諸島から、そして後にはポリネシア西部から
東南アジア系の容姿をしている。人口の分布はピラミッ
ド型をしており、高齢者が少なく若年層が多い。タロイ
移住民渡って来た先史時代におけるミクロネシア人の移動は、
モが主食の偏った食生活をしており、医療も発達してい
考古学的発掘調査や比較言語学によって次第に明らかになりつ
ないため、平均寿命が 55 歳と非常に短命で、子供たちの
生存率も低い。
つある。
地域社会は小さく 20 人から 30 人の集落か、多くても数百人
の村落で、交通に便利な川や礁湖、海岸の傍らに立地している。
航海は特に環礁地域に住む人々が巧みで、位置を知る為の星の
移動や、風、波の性質なでについて驚くほど熟知している。社
会関係では、血縁による結びつきが強く、社会的、経済的、政
治的な活動もそれを中心に行われてきた。
ポンペイ・メインストリートにて
ポンペイ島の北端にある都市コロニアを南北に割るよう
にメイン道路が延びている。コロニアは最も栄えている
都市で、公共施設、商店、レストランなどが立ち並ぶ。
ポンペイ村落(カピンガマランキ村)
カピンガマランキ村はカピンガマランギ環礁から移住し
てきたポリネシア人の集落で木彫りや手編みの工房があ
る。ミクロネシアの島々の至るところでタロイモやココ
ヤシが生茂っているのを見ることができる。敷地の周り
には壁や塀など無いので勝手に採れそうだが、夫々の土
地には所有権が決められている。
ポンペイ周回道路
ポンペイ島のコロニアを中心として東回りと南回りに1
周する道路がある。アスファルト舗装はコロニアを中心
に両側に島を約半周したところまでで、その殆どが外国
ココヤシの実
援助で作られたものである。南側に行くに従って凹凸が
酷く、車高の高い 4 輪駆動車で無ければ走行は難しい。
2−3ポンペイ事情
(1)ポナペ
ポナペ(Ponape)は元々ポンペイ(Ponhpei)であったのが、1899 年のドイツ統治以来戦後アメリカが統治する
信託領地時代にもポナペと呼ばれていた。1979 年にヤップ、トラック(チューク)
、コスラエと共にミクロネシア
連邦のひとつの州として独立した時に元の名称「ポンペイ」に戻された。ポンペイ語で「ポン」が石、
「ペイ」は積
むことで、「ポンペイ」は「石の祭壇の上」という意味となる。
ミクロネシア連邦でも最も標高が高い島ポンペイ島で、800m 級の山が 2 峰あって隆起が激しく、大半がジャング
ルに覆われている。年間降雨量が多く 40 以上の川が流れており、前人未到の熱帯雨林内では、湿った柔らかいスポ
ンジ状の苔で覆われた樹木が生い茂っている。水と緑に恵まれたこの島は「太平洋の花園」と呼ばれ、ミクロネシ
アの動植物の宝庫でもある。
ポンペイ州は 25 余りの島々で構成されており、その主島ポンペイ島には州都コロニアのほかに、ミクロネシア連
邦の首都パリキールがある。
航路図
航空写真
(ポンペイ中心地を望む)
(2)国土
ポンペイ州は、大半がジャングルに覆われた面積 335km2 の円形の島で、ミクロネシア連邦では最大の広さをもっ
ている。ポンペイ島の中心にあるのは海抜 791m のナナラウド山で、この北東に海抜 630m のカプソン山、南東に海
抜 778m のギネミ山がある。ポンペイ島には白砂のビーチは殆どないが、周囲の大小 25 ほどの小島には白い浜辺が
ある。ポンペイ州全体の土地面積は約 345km2 である。
ポンペイ島の北端に州都コロニアがある。コロニアから南西に 8km ほど離れてミクロネシア連邦の首都パリキール
がある。整然と並ぶ議事堂や大統領府、官庁は自然の緑と調和して美しく、ミクロネシアの首都の雰囲気が漂って
いる。
コロニアの西にあるソケース島にはソケース・ロックと呼ばれている崖があり。ホノルルのダイアモンド・ヘッド
に匹敵する明確なランドマーク。コロニアから東南にポンペイ島を半周すると高さ 15m、豊富な水量のケプロイの滝
がある。その対岸にはチャムエン島があり、石で造られた古代都市ナン・マドール遺跡がある。
ソケースロック(空港より望む)
ケプロイの滝
ナン・マドール遺跡
(3)経済・社会
ミクロネシア連邦の首都があり貨幣経済が他の州より発達しているが、一般の人々は自給経済との混合型での生
活である。中心は農業で、コショウの栽培やコプラの生産が盛んで、一部は輸出されている。ポンペイにはミクロ
ネシアで唯一の農業専門学校がある。
ポンペイ社会の殆どが、一族の長ナンマルキを頂点とする社会を構成しており、現在でも 12 階層に別れている。
ナンマルキは、その子どもが跡目を相続するのではなく、別に相続の順位が決められている。長幼の秩序は厳しい。
(4)人々と生活
ポンペイ州の人口は約 3 万 5000 人で、その 90%がポンペイ島で生活している。コロニアの西方にあるカピンガマ
ランキ村は数少ないポリネシア人の集落である。
ポンペイで通常話されるのは現地の言葉だが、公用語は英語で、英語は小学校 4 年生から教科に含まれる。年輩者
には上手な日本語を話せる人も多い。日本語の単語が現地語として使われている例もある。
ポンペイでは「バナナの木の下に寝て、鳥やその他からバナナを盗まれないようにできれば生きて行ける」とか
「金が無くても死なない」といった生活観が一般的と云われている。つまり、自生のバナナやタロイモを採り、家
畜や豚や犬を食料とすれば生きていけるし、無理をしたり、我慢をして働かずとも良い。野菜の栽培であれば、年
間 3 回の収穫が可能といわれている。しかしながら、学校や職を求める事にやる気のある若者は、グアムや米国本
土へ渡って行くそうである。
(5)施設、その他
タカチック及びコロニアの視察地(施設)を写真にて紹介する。
ポンペイ国際空港
コンチネンタル・ミクロ
ネシア航空(CO956 便)
グァム∼ホノルル間を
1基が往復している。
(ルート)グァム⇔チ
ューク⇔ポンペイ⇔コ
スラエ⇔クワジェリン
⇔マジュロ⇔ホノルル
空港滑走路
長さ 6000ft(1800m)
一部地盤沈下しており
離発着時の問題となっ
ている。政府は滑走路の
延長により大型機の乗
入れを検討していると
いうが、財政難のため実
現性は薄いようだ。
宿泊ホテル
州都コロニアには公共
施設やレストランの他、
渡来者用のホテルが点
在している。住宅も密集
しており人口も多いが、
現地企業は殆どなく、働
く人々に活気を感じな
い。
商港埠頭(タカチック)
商港埠頭(タカチック)
岸壁背後地
多数の礁によって囲われた風波をよく防
岸壁長さが約 300m、水深 9m であり、
岸壁からエプロン幅約 30m 隔てた野積場
ぐ良港である。離島への輸送船が停泊し
ている。
8,000DWT クラスの船舶 2 隻の着岸が可
能である。
に数十本のコンテナが散在する。輸入物
資の中継地として外航船が来航する。
公共埠頭(タカチック)
公共埠頭(タカチック)
岸壁背後地
商港埠頭の南側に公共埠頭がある。この
埠頭の最南端に沿岸警察の船舶が停泊し
公共埠頭の背後地に港湾庁舎と沿岸警察
港へは中国船の入港が多いという。
ている。
(建設は日本企業による)
の建屋がある。
ゴミ処分場
ゴミ処分場
空港の南側にゴミ集積地があり、主にス
ゴミは何の処理もされずに放置されてお
クラップや廃タイヤ等の不燃物が処分さ
れている。
り、雨で長された汚泥水は海に流れ海洋
生物を死滅させている。
ゴミ回収車輌
ゴミ問題
島内を巡ると集積地以外にも土中や海中
にゴミをそのまま投棄している場所を見
かける。その殆どが海外からの輸入品で、
缶、瓶、ペットボトル、様々なものが捨
てられている。最も目立つのが、自動車
スクラップであり、中心都市では至ると
ころで見られる。自給生活で発生する生
ゴミは家畜の餌となって消費されてしま
うが、輸入品で生活が豊かになった一方
で、ゴミは深刻な社会問題となっている。
島民の環境に対する意識は未だ低いのが
現状である。
水力発電所
旧日本軍水力発電跡地
コロニアから南へ数 km 離れた川沿いの
水力発電所の傍に旧日本軍が建設した水
山間部に水力発電所がある。川の水量が
減ってきており現在は稼動していない。
力発電の跡地がある。第二次世界大戦中
に日本の統治下であった歴史を物語る。
エネルギー問題
島内で必要な電力は火力発電で賄ってい
るが、慢性的に不足しているのが現状で
ある。島内での電気代は非常に高く、エ
ネルギー問題の解消は政府の大きな課題
となっている。
(5)ナン・マドール遺跡 (Nan Madol Ruins)
ナン・マドール遺跡はポンペイ観光のハイライトである。我々(6名:天
谷、北沢、杉江、中野、土屋、山上)はRSO研修調査の一環としてナン・
マドール遺跡を視察した。
ナン・マドールはポンペイ島を南東に位置し、コロニアからは海上・陸上
の 2 ルートの行き方がある。我々は陸上ルートにてナン・マドールへ向かっ
た。時間的には陸上・海上ともに 1 時間弱の道程であるが遺跡は水上都市で
あるため、潮の満干によりボートが便利な場合や、徒歩が都合の良い場合も
ある。我々は他にケプロイの滝等の調査目的もあったので陸上ルートとした。
ナン・マドール入口
さて、車中で仕入れたナン・マドールに関した知識を紹介する。
ナン・マドールは謎の巨石文明として知られるが、ポンペイにはナン・マ
ドールに纏わる多くの伝承がある。
伝承の内容についてはそれぞれに食い違いがある。他方、西洋人による遺
跡の発見は 1820 年で、廃墟となったのはそれほど遠い昔ではなかったようだ
と記録されている。また、ドイツ人総督による遺跡の掘り起こしが 1907 年に
始められたが、その直後不慮の死をとげており、ポンペイ人は今でも遺跡の
祟りだと信じている。このように、ナン・マドール遺跡には不明の部分が多
いが、ポンペイの人々は多くを語らない。ポンペイの人々にとってナン・マ
ドールは聖域なのかもしれない。
陸路(チャムェン島内を徒歩で進む)
a)ナン・マドール遺跡概要
ポンペイ島南東部、チャムチェン島の浅瀬に、北東から南西にのびる石で囲まれた長方形のエリア約 1,200m×600m
(70ha)このエリアに玄武岩と珊瑚で造られた大小 92 の人工島がある。丘陵を背に周囲は浅瀬で守られ、外洋から
の入り口は 1 箇所。人工島間は水路がめぐりサウテロール王朝時代には、カヌーが行き交わった海上都市である。
エラー!
位置図
詳細位置図
ナン・マドール遺跡の詳細については
別紙
ナン・マドールの島々参照
西暦、1,000∼1,600 年頃(1,100 年∼との学説もある)ポンペイはサウテロ
ール王により統治されていた。ナン・マドールは、このサウテロール王朝の
都として、政治・宗教の中心地であった。92 の島々は、王の住居、儀式の島、
聖職者の墓、ゲストハウス、召使の住まい等々、異なる使用目的で造られ、
島々間の人々の移動はカヌーが使われた。
サウテロール王朝は 500∼600 年間、16 代(発掘調査により 12 代いう説も
ある)続いたといわれる。王朝崩壊後、ポンペイは分割され各村に酋長ナン
マルキ(Nahnmarki)が出現する。このあたりマデレミウム(Madelemihm)村
の初期のナンマルキもナン・マドールに住んでいた。
(現在もポンペイは5つ
の村があり各村にナンマルキがいる。)
研修調査団(ナン・ドーワスにて)
b)ナン・マドールの建造
発掘調査結果では「石造りの島」は西暦 500 年代に始まり
建造年代(西暦)
島名(数字はナン・マドールの島々図)
1,500 年代中期まで続いたと推定されている。
(下表:代表的な
600
⑭ワサウ
島の建造年代)ただし、ナン・マドールの真ん中にタパウとい
750∼800
④ウセンダウ
う島がある。この島の建造年代は西暦 232 年という調査結果が
900∼1,000
⑮パーン・カデラ
でている。この頃から建造し始めたということも考えられる。
1,100
①ナン・ドーワス
後半
1,250
⑩パーヌウイ
c)人口島の構造
人工島の殆どは浅瀬に水面から 1∼2m の高さに玄武岩で壁を造りその中に珊瑚を敷きつめて平坦にし、大きい島
で 100m 四方の島にしている。この上にマングローブの柱にパンダナスや椰子の葉を屋根とした木造家屋だったと推
定される。さらに重要な島(墓地・儀式用)では五角又は六角の玄武岩柱を校倉造りのように「井形」に組んで外
壁を造り、高い島での外壁では 8m 程である。
構造情景
玄武岩柱はポンペイ島内で見られ、使用材料は島内で調達できたと思われる。
運搬方法について、伝承では「マジカルパワー」により空中を飛ばしたという
ことになっている。
d)最後に、ナン・マドールは誰が造ったか?
ポンペイの祖先が造ったといわれるが、真相は未知である。
伝承では西の島カチャウ・ペイデイから 2 人の兄弟がカヌーでやって来てナ
ン・マドールを築きその弟オロソーバが初代サウテロール王となり、ポンペイ
を統治した。16 代目の王サウデムオイは悪政を行ったのでポンペイの神の息
子イケソレケルと 333 人の兵士に滅ぼされた。
というようなことを聞いているうちにナン・マドール遺跡に到着した。実際、
遺跡は殆どマン・グローブに覆われており、島の外壁である玄武岩柱の石積み
は相当損傷していた。巨大な石積みを見ていると現代の技術を持ってしても修
復は相当に難しいと思われる。太古の人々がどのように輸送して、また建築し
たのかと、あれこれ思案すればするほど神秘を感じさせられる。
ナン・ドーワスにて
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