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オールド上海を読む - Seesaa ブログ

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オールド上海を読む - Seesaa ブログ
 献呈
オールド上海を読む
幕末から大東亜戦争終結までの時期、日本人が西洋に触れ肌身で国際体験
をした場所は上海だった。
然らば、その日本人が体験した上海とはどのような場所だったのか。
我がブログ「りてらセレクト」に書き溜めたものを集成してみた。
りてらセレクトには此処に収録した以外の数多くのビデオクリップがあったのだが、今や
その多くが削除されているので、再録不能だった。
《目次》
#1オールド上海を読む:『上海狂騒曲』
#2オールド上海を読む:上海県城
#3オールド上海を読む:租界の成立
#4オールド上海を読む:尾崎秀実が聞いた羽仁五郎の言葉
#5オールド上海を読む:尾崎とゾルゲが知り合ったのは上海だった
#6オールド上海を読む:サムライの見た上海
#7オールド上海を読む:於上海の朝鮮独立運動
#8オールド上海を読む:中国映画「 新・上海灘」
#9オールド上海を読む:伝説の舞姫マヌエラ
#10オールド上海:和平飯店が革命飯店に変った日(片山通夫)
#11オールド上海:横光利一『上海』の描いた裏町点景
#12オールド上海:芥川龍之介の見た支那の現実(『上海游記』)
#13オールド上海:黄包車(ホァンパオチャ)
#14オールド上海:金子光晴「支那浪人の頃」
#15オールド上海:昭和14、5年 上海北站(停車場)点景
#16オールド上海:堀田善衛『上海にて』その1
#17ールド上海:堀田善衛『上海にて』その2
#18オールド上海:堀田善衛『上海にて』その3
#19オールド上海:堀田善衛『上海にて』その4
#20オールド上海:堀田善衛『上海にて』その5
発行:2012年12月10日
63歳記念としてバンコクの茅屋にて
栃木政夫
#1オールド上海を読む:『上海狂騒曲』
幕末に始まり日本人が世界を認識した場所は上海だった。そこは世界の縮図であり、中
国現代史を動かす人物が呼吸する都市だった。フランス租界、共同租界の他に通称「日本
租界」(正式には租借地に形成された租界ではなく、事実上の日本人集積地)が形成され、
長崎から船で一昼夜、パスポートなしで渡航可能なこともあって、日本から様々な人士が
流れ込んだ。邦画『上海ヴァンスキング』はその中のジャズメンを描いたものだ。
私はこのオールド上海に心惹かれて長い。現代上海について主としてビジネスや都市開
発の観点で興味をお持ちの方は多いだろう。私も十数年前に仕事の関係で訪れたことがあ
るが、奇抜な摩天楼や金融センター、貿易港としての有望性の囃し立てにさ程興味はない。
寧ろ、諸外国の野望、新中国建設を模索する中国人革命家などの思惑がぶつかり合い、政
治的陰謀や暗殺が実際に行われたオールド上海の方が遥かに面白い。中国にとっては迷惑
だったが、日本人の外国関与として貴重な体験だったのではないか、と思う。魔都上海、
それは心を引きつける。多くの小説家が上海を舞台に選んだのは宜なるかなだ。
今回採上げる本は高崎隆治著『上海狂騒曲』(文春新書)だ。時は主として昭和12年、
日中戦争突入前後だ。以下に目次を掲げる、内容を推察してもらいたい。
はじめに 日本人と上海
1 国際都市シャンハイ
2 八月十三日・金曜日
3 特派員 木村毅
4 特派員作家・林房雄と榊山潤
5 上海のスパイ
6 女流作家 吉屋信子の上海
7 十一月五日 ガーデン・ブリッジ
エピローグ
この本はフィクションでないから、面白さは(意外な)事実の発見にある。日本人の
「目」を代行したジャーナリストや作家の行状描写もリアルだ。タイトルは幻想を倍加さ
せるのでなく、寧ろ幻想を打破する為のように思える。
1からその幾つかをピックアップしよう。
先ずガーデンブリッジだ。何やら優美なものを幻想するかも知れないが、「ただ頑丈な
鉄骨を組んだだけの橋だ」。
「上海へ行けば大もうけができる」なんて大嘘だ。「女でも男でも、日本で食いはぐれ
た者が、身一つで上海くんだりまで出稼ぎにきて、莫大な金をつかんで帰って来られるほ
ど世の中は甘くない」。
「戦後の一時、流行した『上海帰りのリル』などという歌の女も、純情とは無縁のした
たかな女のはずである」。
日本人が言う「日本租界」などというものは存在しない。それは「蘇州河の北東側にあ
る虹口(ホンキュウ)地区の、日本人が集まっている街のことで、それは共同租界の一部
なのだ。いや、もっと正確にいえば、共同租界の一部に加え。租界の外にはみ出した越境
地区(エキステンション)と呼ばれる部分なのである」。
多くはないが、各章に挿入された写真が楽しい。東洋一の高層を誇ったブロードウエ
イ・マンションの写真なぞ貴重品かも知れない。(2007年03月06日)
#2オールド上海を読む:上海県城
オールド上海は二つの異質な空間から成っていた。ひとつは700年以上の歴史を有す
る旧県城を中心とする上海、もうひとつがその北側にアヘン戦争後形成された租界の上海
だ。此処では前者の歴史を簡単に振り返っておきたい。
上海の略称は滬(こ)(竹で作られた柵のような漁具)で、古称の滬涜(ことく)から
由来する。斯く上海は元々純然たる漁村だった。ただ上海郊外にある龍華寺は三国時代に
建立されたと伝えられるから、歴史のある漁村でもあった。
1267(南宋・咸淳3)年
市舶司(通関業務を行う)の分司設置、上海鎮になる。
1277(元・至元14)年
市舶司設置
1292(元・至元29)年
上海県に昇格。
1553(明・嘉靖32)年
4∼6月 倭冦の来襲5回 9月 倭冦の再来防止のため城壁築造
斯く倭冦来襲を契機として県城が出来上がり、城壁に囲まれた都市空間が成立した。こ
の頃既に上海には綿紡績業者が集積し、全国的な綿製品市場の中心だったらしい。また内
陸水路利用の貿易が賑わったと言う。
一地方都市上海が決定的に飛躍するのは、清の康煕23(1684)年、台湾の鄭成功
一族が投降し反乱が終わったことを受けた、海禁政策の廃止、展海令の公布だった。積極
的な海外貿易への転換だ。翌年の康煕24には上海に内外貿易を管理する江海関が設置さ
れた。中国の沿海地方で海関が置かれたのは広州、厦門、寧波の三つしかなかったから、
それに上海が加わるのは内外貿易の中枢の一つとなったことだった。
斯様にして、租界設置前に上海県城が既に大きな貿易都市だったことが分かる。
(以上の参照文献:劉建輝『魔都上海』講談社選書メチエ)(2007年03月07日)
#3オールド上海を読む:租界の成立
上海県城が伝統的中国を代表すれば、アヘン戦争を契機として生まれた租界こそ独特の
国際都市魔都上海を築き上げる要因となった。
1845年
イギリス租界。上海道台(どうだい、地方長官)宮慕久が初代イギリス領事バルフォア
と協議の結果、イギリス商人居留地として黄浦江のほとりに0.56平方キロの土地の租借を
認めた。「土地章程」(第一次)頒布。→目的は華洋分居=隔離政策
1848年
アメリカ租界。
1849年
フランス租界。
だが、これら租界は根本的には中国側の管轄下にあった。10年経たないうちにそれが
大きく性格を変えるのは、一つに秘密結社・小刀会の武装蜂起、その農民軍の1年半にわ
たる上海県城占拠、結果発生した夥しい難民の発生、その租界への逃げ込みだった。華洋
分居が崩れ、「華洋雑居」の現実が発生した。
1854年
イギリス領事オールコックが米仏領事と協議(中国には事後通知)の上、一方的に「第
二時土地章程」を公布した。その中には三国領事による市議会に当る「祖主」(借地人)
会議の招集、執行機関として工部局の設置が含まれていた。工部局はほとんど市政府だっ
たから、ここに中国の管轄下を離れ、地区割は残るものの三租界合同で自治を行なう地区
が成立した。
これが更に展開するのは1862年の太平天国軍の上海侵攻だった。防衛強化の為の租
界合併の話と統一行政からのフランス租界離脱だ。
1862年
イギリス主導租界運営に見切りを付けたフランス租界が統一行政(工部局)からの離脱
を宣言、独自の公菫局(こうとうきょく)を設立した。
1863年
英米租界合併。外国租界へと名称変更。
太平天国の乱は更なる難民を租界に流入させたので、其の現実を処理する法的根拠の整
備を必要にした。
1869年
外国租界、裁判権に関する「洋?浜設官会審章程」、第三次土地章程公布。これは司法
に曖昧さを残しつつもほぼ完全な「独立国」の立ち上げだった。フランス租界も同様の動
きをした。
やがて19世紀末に外国租界は圏域を拡大して、公共租界へと改称した。斯くして20
世紀には我々に馴染みの所謂「上海租界」が現出することになる。
(参照:前掲『魔都上海』)(2007年03月19日)
#4オールド上海を読む:尾崎秀実が聞いた羽仁五郎の言葉
尾崎・ゾルゲ事件で知られる尾崎秀実(ほつみ)が大阪朝日本社の支那部を離れ、上海
通信部(後の上海支局)へ転勤となり、上海に渡ったのは1928年11月のことだった。
以後1932年1月上海事変勃発を機に帰国する迄3年強を上海で過ごしそこで時代の怒
濤を観察することになる。
今回採上げるのは上海行きが決まった時、「中国へ行ったらどういうふうに勉強したら
よいのか」と友人の羽仁五郎に尋ねた時の羽仁五郎の答えだ。曰く、「新聞を読むこと
だ」。しかも、「二、三ヶ月のうちによく読めるようにならなければ駄目だ」と言う。
困った尾崎がそのやり方を聞く。
<一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。…頭脳のさえている一
番良い時に、分厚い本のかわりに、新聞を机の上にひろげ、赤と青の鉛筆を使い、一字一
句考え、批判し、それが真実か嘘か見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識と
も照らしあわせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ。
<新聞を通して何が本当か、何がうそかをはっきり考えることだ。日本がどう動くか、中
国が世界がどう動いてゆくか、新聞はそれを動かそうとしているか。生きるか死ぬかの真
剣な勉強として新聞を研究するのだ。(以下略)
(上記引用は尾崎秀樹著『上海1930年』岩波新書による)
尾崎はこれを忠実に実行したばかりでなく、激動の中国史そのものへ分け入ってゆくこ
とになる。
これを引用したのは、時代を理解する上での新聞の重要さとその読解法に触れているか
らだ。新聞が一番馴染みだが、世の中の動きを知るのに特別な情報は必要でない、公表資
料の読み込みで95%以上カバー出来るとは著名な評論家やインテリジェンスに携わる
人々の共通した意見だ。実際は誰にでも公平に素材は与えられている。だが断片的な新聞
記事を漫然と読むだけでは、実は何も分からない。完成予想図がない中ジグソーパズルの
ピースを拾う(時に大きく取り落とす)からだ。様々な新聞情報を縦横に並べ、朧に浮か
ぶ完成予定図を見定め、ピースのはめ込みを模索する。そんな繰り返しの中から、真相が
顔をのぞかせて来る。
本件、羽仁五郎の言葉はそうした今の真相把握の方法として新聞読解法を教示したもの
だ。これは万人が知り置くべき事項だと思う。
その忠告を実施して尾崎がどう上海と関わったかが『上海1930年』に述べられてい
るが、その中身は追々紹介するとして、その著者が尾崎秀実の実弟であることを注記して
おく。(2007年03月27日)
#5オールド上海を読む:尾崎とゾルゲが知り合ったのは上海だった
尾崎・ゾルゲ事件を知る人は多いだろうが、その馴れ初めが何処かハッキリ知る人は意
外と少ないかも知れない。しかし勿論、現代の知の鋭機Wikipediaにはきちんと書いてあ
る。
尾崎秀実ーWikipediaには
[経歴]欄にこうある。
<1928年(昭和3年)11月、上海支局に転勤し特派記者となり、3年余、上海で過ごす。
その期間に中国共産党と交流するようになる。アグネス・スメドレーと出会い、コミンテ
ルンの諜報活動に参加するようになる。リヒャルト・ゾルゲと出会う。
リヒャルト・ゾルゲ - Wikipediaには
[スパイ活動開始]の項目にこうある。
<ゾルゲは1930年にドイツの有力新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の新聞
記者という隠れ蓑を与えられ上海に派遣される。上海では、仕事を通じて当時、毛沢東に
同行取材するなど中国で活躍していたアメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレー
や、朝日新聞記者だった尾崎秀実と知り合う。1932年1月には日中両軍の上海市街戦(上
海事変)を報道した。同年12月にモスクワに戻る。1933年9月6日に「フランクフル
ター・ツァイトゥング」紙の東京特派員として日本へ赴き、横浜に居を構える。目的は、
日本やドイツの動きをスパイすることであった。
ーーー引用終ーーー
だがこれでは何時ゾルゲが上海に到着したか、どう尾崎に接触したかが分からない。そ
こで前掲書『上海1930年』を参照すると、詳しく書いてある。以下は私の要約。
・リヒアルト・ゾルゲが上海に到着するのは1930年1月だ。前年11月にモスクワを
発ち、ベルリン、パリを経てマルセイユから日本の定期航路を利用し、スエズ、コロンボ、
香港から上海だった。ゾルゲはドイツの著述家という触れ込みだった。
・ゾルゲが中国に興味を持ち、任務を引受けた動機はこうだ。
「…1920年代前までは、革命的労働運動およびソ連の政策にとって興味のある活動舞
台は、ヨーロッパとアメリカの一部に限られていた。極東へは大した注意は向けられてい
なかった。(中略)中国革命、そしてその後におこった日本の満州にたいする動きが、大
きな影響力をもつ世界的な重要事件であることを感じていた政治的観測者は、ほんの少し
しかいなかった。…私がこの仕事を引受けようと決心したのは、一つには私の気質にも合
うように思えたからであり、一つには東洋の新しい、そしてひどく複雑な事情に心を惹か
れたからでもあった」(獄中手記)
・上海に到着したゾルゲが根拠地にしたのはニヒツキャピトル・ホテルだった。中国人メ
ンバーを組織し、さらに外国人協力者を獲得していった。
ゾルゲが最初に連絡したのはヨーロッパ時代から噂を聞き、新聞への寄稿文を目にして
いたスメドレーだった。ゾルゲはスメドレーの協力を得て、上海グループを設置し、特に
中国人協力者の選定に助力を求めた。
・尾崎・ゾルゲの出会いについては、紹介者について両者の証言が食い違っている。
ゾルゲは「私が上海で最初にこしらえた友人は尾崎であった。いまはっきりしたことは言
えないが、私はどうもスメドレーの紹介ではじめて尾崎に会ったように思う。(以下
略)」(獄中手記)
尾崎は「昭和5年10月か11月頃から私のもとに、鬼頭銀一なる者が出入し始めました。
同人はアメリカ共産党に関係していた人手、アメリカから安南経由で上海に乗込んで来て
おり諜報活動に従事していたのであります。私が鬼頭を知って間もないころ、同人からア
メリカ人の新聞記者でジョンソンという者がいるが会わないかと奨められましたが、…全
幅的に信頼を置きかねたので…アグネス・スメドレーに聞いてみたならその新聞記者の素
性が判るであろうと思い、スメドレーに会ってその話をしたところ…。其の後間もなくス
メドレーに会った際、同女はその人は非常に優れた人物であるから自分から紹介しようと
言って、私を南京路のある支那料理店へ連れて行きそこでその外人に引合わせてくれまし
た。このジョンソンと名乗っていた男が、リヒアルト・ゾルゲであったのであります」
(1942年3月5日東京拘置所第二十回尋問調書)。
・此処でちょっとビックリするのは尾崎が当時ゾルゲの本名や目的を明確に知らなかった
ことだ。それを知ったのは5年後のことだ。尾崎は「私は広くコミンテルンの活動を同人
が致して居ることに信頼し、私もそれに協力する心算で色々な活動をした」(予審尋問の
発言)だけだった。
・ゾルゲは尾崎と毎月2、3回連絡を取り顔をあわせた。場所は市内の西洋レストラン、
中華料理店、日本料亭などだったが、スメドレーが静安寺路の万国儲蓄会アパートへ移動
してからは彼女を交えて会合を持つことが多くなった。
・ゾルゲは通称ジョンソンで通したが、それは当時上海に中国通のジャーナリストで同名
のゾルゲなる人物がいたので混同を避ける為だった。もう一人のゾルゲはドイツ最大の大
衆日刊紙『ベルリーナ・ロカル・アンツァイガー』記者だった。
・こうした交際が続くのは1932年1月の上海事変勃発迄で、尾崎の帰国命令によりゾ
ルゲとの縁は一旦断ち切られることになった。
ーーー要約終ーーー
ゾルゲが一度モスクワに戻った後、「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の東京特
派員として日本へ赴くのは1933年9月6日のことだった。(2007年04月09日)
#6オールド上海を読む:サムライの見た上海
安政開国(1958年)から明治維新(1868年)の幕末10年間に渡って、幕府は
様々な外交問題解決のため7回使節団を欧米諸国に送った。相手国は米国、フランス、英
国、オランダ、ロシア等だった。また幕府、有力諸藩が英仏露蘭に留学生団を6回送った。
これら渡航の寄港地、経由地を見ると香港3回、マルセーユ1回、ジャワ1回に対し上
海が6回で圧倒的だ。その主要メンバーを香港、上海について挙げれば(数字は西暦年、
留は留学生団)ー
(香港)1860-新見正興、上野忠順、木村芥舟
1862-竹内保徳、福地源一郎、福沢諭吉
1865-五代友厚、寺島宗則、森有礼(留)
(上海)1863-井上馨、伊藤博文(留)
1864-池田長発、田沼太一、杉浦譲
1865-柴田剛中、福地源一郎
1866-中村正直、川路太郎(留)
1867-徳川昭武、杉浦譲、渋沢栄一(留)
加えて注目すべきが上海そのものの実情把握を目的とした4回の上海遣使だ。
1862-貿易船千歳丸幕府使節団 高杉晋作、中牟田倉之助、五代友厚
1863-函館附属官船健順丸幕府使節団 1865-幕府使節団3人 杉浦譲
1867-ジャーディン・マセソン商会船「ガージーズ号」浜松・佐倉両藩使節団
(以上、前掲『魔都上海』より作成)
欧州に向かった者たちが大英帝国の海を辿り、各地に軍艦とユニオンジャックの翻るの
を見たのは間違いないし、上海の租界に英米仏を垣間見たのは当然だ。それが各人の国際
情勢、世界認識に衝撃を与えた。
1862年の上海は太平天国の乱で農民軍に包囲されており、政府軍と対峙していた。そ
こには英仏から派遣された駐留軍が混じっていた。高杉晋作はそれを見て「心私かに悦
ふ」と日記に書いた。
1863年の井上馨と伊藤博文も大きな衝撃を受けた。
<日本を出発するにあたって「ますらをのはぢをしのびてゆくたびは すめらみくにのた
めとこそしれ」と歌い、また自らの洋行をやむをえない「はぢ」の旅と認識していた伊藤
が「一同先づ甲板上より港内を見渡し、各国の軍艦、汽船、帆船等の出入頻繁を極め、沿
岸には輪奐(りんかん)たる洋館櫛比する等、その繁華の光景に一驚を喫した」。と、上
海に着いた段階ですでに認識の修正の必要を悟りはじめ、また井上も「上海に来て実際の
景況を観るに及んで」「従来の迷夢は頓に覚醒し」、さっそく「攘夷の謬見」を捨て、
「開国の方針」を主張するようになったといわれる。(前掲書)
彼らはまさに西洋列強の力、植民地の実情を実感した。香港、上海を実見した者が日本
を取り巻く状況を目の当たりに実感したのだ。これらのサムライにとって上海体験がいか
に大きかったか。本ブログで以前触れた19世紀初頭の日本の軍事力の貧困を思い起こし
て貰いたい。
ちなみに上海に近い寧波は、遠く遣隋使遣唐使の時代、日本に開かれた港だった。それ
は古代日本の国際化の窓口だった。(2007年04月10日)
#7オールド上海を読む:於上海の朝鮮独立運動
前掲玉城基論文によればー
1910年の日韓併合以来、多くの独立運動の志士たちが朝鮮から国外に逃亡した。陸
続きの中国は東北地方吉林省の「間島」地域、ロシアのシベリア極東地が多かったが、ア
メリカもあった。1919年の「3・1独立運動」が鎮圧された後、亡命指導者が急増し、
有力指導者の最も多く集まったのが上海だった。
1919年4月上海フランス租界で各地の代表を集めた第1回「臨時議政院会議」が開
催され、「国号」「臨時憲章」が決まり李承晩を国務総理に戴く国務院が選出された。同
時に「地方代表会」を開き「議政院法」を採択、国内八道、中国領、シベリア、米州の1
1地方から代議員を選出して体制を整えた。そして上海での臨時政府設立を宣言した。以
後「上海臨政」と呼ばれるようになる。
だがこの政府は最初から内紛に付き纏われた。シベリア派李東輝の李承晩に対する反発、
離反だ。1921年4月には上海臨政不満派をシベリア派が結集し北京にシベリア、南北
満州、米州、ハワイ、国内八道を集め、上海政府否認を決議、李承晩弾劾文を発する。北
京派と上海派の妥協結束を図る「国民代表会議」が23年に開催されたものの却って紛糾
が拡大、集まった代表140名の内脱退者が続出、終には残存した80余名で憲法を定め
国民委員を選出し、「朝鮮共和国政府」樹立を宣言するに至った。上海臨政に対立するも
う一つの政府の成立だ。
李承晩の勝手な振舞は上海臨政内部で紛糾を引き起こし、1924年に反李承晩派が李
東寧を大統領代理に任命、25年には李承晩を罷免してしまう。その後なかなか体制が決
まらなかった。32年上海事変勃発とともに日本軍の上海進駐、戦線が拡大すると、上海
臨政は杭州、鎮江、長沙などを転々と逃げ回った。40年重慶に入った上海臨政は国府軍
承認のもと「光復軍総司令部」を設立するものの、国府軍自体の守勢に合わせ重慶から一
歩も出ることが出来なかった。つまり日本軍と戦わず、彼らが行なったのは教育活動、言
論活動だけだった。
結局、上海臨政は内紛に明け暮れ日本軍に圧迫されて逃げ惑っただけだった。朝鮮人民
軍同様に独立には殆ど寄与しなかったのだ。朝鮮の独立は日本の敗戦による成就に過ぎな
かった。(2007年04月19日)
#8オールド上海を読む:中国映画「 新・上海灘」
上映がどうなるか分からない。私も見ていない話で恐縮だが、チェック材料になると思
うので、言わば存在告知として此処に記しておきたい。ソースは中国国際放送局CRIの
紹介記事。
【題名】新・上海灘
【監督】高希希
【出演】黄暁明 孫(イ麗) 李雪健 黄海波 陳数
【ストーリー】1930年の上海は、欧米諸国や悪徳商会、愛国民族主義者の溜まり場で
あった。物語は、許文強という一人の若者が、北京からこの修羅場に飛び込んでくるとこ
ろから始まった。彼は偶然、上海第一商会の会長・馮敬尭の一人娘・馮程程を救い、貧乏
な男・丁力と兄弟のような仲となった。その後、元恋人の方艶雲の助けで馮敬尭に重用さ
れ、丁力と供に、この上海という戦場に人生を託した。しかし、許文強や丁力も馮程程に
一目惚れし、複雑な三角関係に陥るのであった……
詳しくはhttp://japanese.cri.cn/81/2007/05/09/[email protected]
(2007年05月10日)
参考)http://www.youtube.com/watch?v=myv3wKUvnio
#9オールド上海を読む:伝説の舞姫マヌエラ
実は「上海に咲いた一輪の花 ダンサー・和田妙子さん死去」という訃報で初めてその
存在を知った。
1928年松竹楽劇部1期生に合格後、二度の結婚・離婚を経て、37年大連、38年
から上海に渡った。<その後、国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてフランス租
界のクラブでスパニッシュを踊り、「魔都の花」として人気沸騰。市内一の繁華街、南京
路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が
飾られた>(同記事)と言う。国籍不明に念が入っているのは<開戦時には連合国側のス
パイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸
軍情報部の取り調べを受けた>(同)ことだ。
魔都上海が面白いのは男装の麗人川島芳子など不思議な女性たちが登場することだ。こ
のマヌエラもその一人だろう。彼女をモデルにした西木正明著「ルーズベルトの刺客」と
いう小説があるらしいが私は未読だ。
上海に行く事情や帰国後の事情については徹子の部屋でのインタビューが詳しい。それ
によるとー
上海に行ったのは二度目の結婚が破れた後、アメリカに行きたいと相談した友人バージ
ニアに「アメリカにはいい踊りがないんだから上海に世界中の舞踊家が来るから行きなさ
い」と言われたからだった。
スパニッシュ・ダンスを習うのは当時日本一と言われた川上スズコだった。
マヌエラという名前にし、日本人であることを秘匿したのは当時の米人マネージャーの
忠告に従ったものらしい。反日感情が激しく身分がばれると危険だったからだ。数奇な運
命と思うのは1941年、カルメン・ミランダの代りになれとハリウッド・ユニヴァーサ
ル映画との契約が纏まりアメリカ行きの荷物を船便で送った直後、真珠湾攻撃が起きて日
米戦争となったことだ。当然アメリカ行きは流れた。
余談だが上海時代、彼女の洋服を作っていたのはマレーネ・デイトリッヒお抱えの人
だったと言う。
戦後はNHKの側に喫茶店モレナを開業、黒柳徹子らも愛用し、生菓子が有名だったと
言う。それからナイトクラブ「マヌエラ」を開店。E・Hエリックが司会をし、その息子
岡田真澄その他の俳優が通い、三島由紀夫も訪れた。三島由紀夫との奇縁は自決の前日に
帝国ホテルで会ったことだった。マヌエラの名前が輝くのは戦後ジャズマンの登竜門に
なったことで、前田憲男、ジョージ川口、マーサ三宅らを育てたと評価されている。上海
仕込みの英語で進駐軍の兵士を叱り飛ばしたという痛快なおまけもある。 まあ、面白いね。オールド上海とは不思議な人物の物語が溢れていたようだ。
(2007年05月25日)
#10オールド上海:和平飯店が革命飯店に変った日(片山通夫)
ジャーナリスト・ネットの常連、写真報道家の片山通夫氏が偶々上海の和平飯店に泊
まった時、文化大革命に遭遇した模様をブログに書いていた。
酒と女と写真機と 「容易ならざる事態」
http://www.actiblog.com/coffeebreak/45780 という上中下の記事だ。
<上海に和平飯店というホテルがある。そのホテルは1930年代、国際都市として発展し
た上海のシンボル的ホテルだったようだ。あろうことかボクは上海でこんなホテルに泊
まっていた。
<通訳の女性が朝食を採っているボクの前に表われた。
< 「早く来て」
挨拶もそこそこに彼女は僕の手を引っ張ってホテルの玄関に連れて行く。
「!?何が起こった?」
「あれをみて」
彼女が指差す方向に眼を移すと「和平飯店」と漢字で書かれたホテルのプレートに上に紙
が貼ってあり、その紙には黒々と「革命飯店」とかかれてあった。
<ボクは「文化大革命」に上海で遭遇したのだ。
1966年、文化大革命の始まった年。通訳の彼女は普通の服から慌てて人民服に着替
えた。それは命をも奪われかねない中国の政治の季節に対処する防衛行動だったのだろう。
私が中国に行った時、案内してくれた女性が「此処は中国なの、日本じゃないことを忘れ
ないで」と言ったのが今でも忘れられない。 写真エッセイなので読んでもらわないと味が分らない。(2007年10月11日)
#11オールド上海:横光利一『上海』の描いた裏町点景
時は1925年、五三〇事件の起きた上海を舞台にした小説が横光利一の『上海』だ。
小説の筋立てよりも彼が魔都の細部をどう描いたか、に私は興味を惹かれた。表通りの華
やかさでなく、吹き溜まった支那人の生活の臭いが芬々とする裏町の光景だ。たとえば、
裏町に流れる泥溝(どろどぶ)だ。
泥溝の水面には真黒な泡がぷくりぷくりと上っていた。その泥溝を包んだ漆喰の剥げか
かった横腹で、青みどろが静に水面の油を舐めていた。
年中流れることなく淀み腐った水に様々な廃棄物が投げ込まれ、まるで黒いタールのよ
うだ。そこから時折吹き上げる泡(あぶく)が鼻を突く異臭を放つ。だがそんな場所にも
青みどろが生きている。漆喰は外人租界を、そして青みどろは支那人を示すかのようだ。
裏町の路地には「豚の骨や吐き出された砂糖黍の噛み粕の中から瓦斯燈が傾いて立っ
て」いる。主役参木の住むアパート前まで仕事を首になって流れ着いた湯女お杉が見た光
景だ。
彼女の見ている泥溝の上では、その間にも、泡の吹き出す黒い芥が徐々に寄り合いながら
一つの島を築いていた。その島の真中には、雛の黄色い死骸が猫の膨れた死体と一緒に首
を寄せ、腹を見せた便器や靴や菜っ葉が、じっとり積ったまま動かなかった。
この泥溝こそ上海なる街を象徴する。きれいな漆喰の租界外観の側に、圧倒的多数の貧
しく虐げられた支那人の姿があった。それはこんな所にも人間が住めるのか、という有り
様だったろう。租界は中国内部の異界だったが、そこに流入する支那人の大群が泥溝のよ
うな生活を営んでいたのだ。だがそれは租界に流れ込んだ日本人の大半にとっても紙一重
の生活だった。横光の描く泥溝、上海を感覚的に認識せしめているのでないかと思った。
(2009年08月23日)
#12オールド上海:芥川龍之介の見た支那の現実(『上海游記』)
芥川龍之介が29歳の時、1921(大正10)年に大阪毎日新聞社海外視察員として
3月末から7月末まで上海、江南、長江、盧山に至り、武漢、洞庭湖から長沙、北京、朝
鮮を巡った。途中3週間に及ぶ乾性肋膜炎による入院を挟みながらも、その見聞を新聞連
載として寄稿し続けた。それが『上海游記 江南游記』として講談社文藝文庫に収められ
ている。
紀行文には違いないのだが、それは芥川龍之介が自己の脳髄中にある支那と現実との
ギャップを際立たせて、言わば支那のリアリティー開眼になっている。最早、90年近い
昔のことではあるが、今でも続くと思われる対支那浪漫主義への警鐘は価値を失っていな
いと思う。パック・ツアーでは寧ろ幻想に乗じ幻想を満喫させるのが商品価値だろうから
それはそれで楽しめば好いのだが、実際に支那と関わり支那と暮らす人にとってはリアル
支那を知らぬことはきっと難儀なことだろう。
『上海游記』冒頭の上海市内見物を記した六城内(上)∼八城内(下)に早々とこんな
行(くだり)が出て来る。 …現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥雑な、残酷な、食意地の
張った、小説にあるような支那である。瀬戸物の亭(ちん)だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だ
のを有難がった、安物のモック・オリエンタリズムは、西洋でも追い追い流行らなくなっ
た。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅
するが好い。
今でも古典として孔子、孟子、朱子などを尊び学ぶ人々がいるだろう。それはそれで結
構なのだが、そこに説かれたことが支那で忠実に実行されたとつい誤解し、現実の支那を
それと混同すれば議論にならない。それは世界中どこの国でも同じなのだが、歴史的に日
本と支那とは人的交流でなく貿易品や漢籍を通じた間接的交流が主体だった為に、漢籍に
描かれたイメージをリアルから識別でき難かった。それ故、日清戦争で支那の実態を知る
に及んで、憧れから侮蔑へと容易に評価が急降下する結果となった。
実際、中国の近代化は日本への留学生が齎して行き、上海の内山書店を通じた日本語書
籍が世界潮流を知る情報源になった。大陸の支那人が共産主義を学んだのも日本語版マル
クス・エンゲルス全集を通じたものだったことは知っていても好いだろう。改革開放前支
那人の意識形成はそうした流れの中にあり、簡体字への漢字改革のせいもあって繁体字で
書かれた中国古典と切断され、加えて偏狭な中共の思想政策の下教条的マルクス主義以外
は知が窒息させられた。つまり、文化的には伝統から切断されていた。されば、そうした
思想状況で生きた人々はどんな文化を形成できるか、答は自明だろう。
芥川龍之介の警鐘は90年近い前のものだが、現在を生きる支那人が漢籍浪漫主義を生
きていないのは当然だろう。改革開放が行われたとは言い条、思想に対しては依然厳重な
当局の監視下にある。興隆著しい中国と付き合わざるを得ない日本人はよりリアルなもの
に目を向け、中国を知り尽くさねばならない。それには先ず浪漫主義を卒業し等身大のあ
り姿を見極めねばならない。(2009年08月24日)
#13オールド上海:黄包車(ホァンパオチャ)
オールド上海に係る読み物にしばしば登場するのが黄包車(ホァンパオチャ)だ。黄包
車(ホァンパオチャ)と街頭の乞食が芥川や横光らの訪れた上海の代表的風景だった。で
は黄包車(ホァンパオチャ)とは何であるか。偶々だが横光『上海』の解説に唐亜明(タ
ンアミン)なる人が手頃な説明を行っていたので知識としてメモしておく。
曰くー
<「黄包車(ホァンパオチャ)」と呼ばれた人力車は、1873年に日本から導入された。
最初は「東洋車」という名前だったが、車体に黄色いペンキが塗られたので、「黄包車」
という名前になった。乗り心地がよく、安全で、貧しい男たちの生活手段となり、上海で
急速に増えた。1930年代に、上海の黄包車の車夫は10万人を越え、2万5千台しか
ない黄包車をめぐって激しく競争しあっていた。ほかに、個人専用の黄包車も数千台にの
ぼった。ところが、1940年代になると、二人乗りのできる三輪車がしだいに多くなっ
ていった。(止め)
因に人力車は日本の発明品で「1868年頃の明治初期」(ウィキペディア)に登場し、
「1870年代半ばより中国を中心として東南アジアやインドに至るアジア各地への輸出が
始まり、特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助はほろや泥除けのある現在見るような
人力車を考案し、性能を高め贅を凝らした装飾的な人力車を制作し、その多くを輸出して
大きな富を得た(同)」。特に「中国では日本製の人力車が爆発的に広まり、『黄包車』
の別名でも呼ばれていた。さらに国産の人力車工場が各地に建てられ、全土に人力車が広
まった。上海には大小100を超える人力車工場があったとされる。ただし1949年以降、中
国を統治した中国共産党により、人力車は禁止されるに至った(同)」。
人力車が英語の Rickshaw(リクショウ<日本語「リキシャ」に由来)になったのは周
知の通りだ。(2009年08月24日)
#14オールド上海:金子光晴「支那浪人の頃」
金子光晴は1926年3月、妻の森三千代を伴い上海に渡り1ヶ月程逗留したのを皮切
りに、翌1927年2月末から国木田虎雄と旅行、更には1928年11月、三千代の男
性関係整理の為に決めた二回目の欧州旅行の途次、上海に渡り4ヶ月程滞在した。表記は
その滞在期間中の断片で、初出『残酷と非情』(1968 川島書店)の一篇で、現在ちく
ま文庫金子光晴エッセイ・コレクション1『流浪』に収められている。以下引用は同書か
ら。
*
当時の上海は「風来坊にとっての天国」であって「これこそ安住の地のような気がして、
ほっとした」とある。だが同時に「上海は楽園かもしれないが、それは蛆虫にとって、糞
尿が楽園であるようなもの」だと醒めている。
金子光晴描く上海は実に数多いので、今回は別の場所の話をしたい。1928年の年末、
夫婦が旅費/生活費捻出に支那在留日本人名鑑の広告とりの仕事で、揚子江を遡り水路漢
口へ向かった折のことだ。漢口から脚を伸ばして赤壁をと望んだが無理と分かって、それ
ならせめて漢口の対岸武昌へと渡り李白の詩※で有名な「黄鶴楼(こうかくろう)」を訪
れようと相成った。ところが宿の人たちが言葉を尽くして引き止めた。武昌の町にいた日
本人は一人のこらず、漢口の日本人租界へ引揚げて来ていたからだった。
※「黄鶴楼送孟浩然之廣陵」(黄鶴楼にて孟浩然の廣陵に之(ゆ)くを送る) 李白
故人西辞黄鶴楼 故人 西のかた黄鶴楼を辞し、
煙花三月下楊州 煙花三月 楊州に下る。
孤帆遠影碧空尽 孤帆(こはん)の遠影(えんえい) 碧空(へきくう)に尽き、
唯見長江天際流 唯だ見る 長江の天際(てんさい)に流るるを。
(出典)岩波文庫『中国名詩選 中』 但し、旧字体の漢字を易しいものに置き換えた。
そうした諌止を振り切り、金子夫妻は小僕一人に小銭を掴ませ、なんとか武昌側に渡る
のだが、岸に着いた途端、路ばたに屯していた、広東から連戦して着いたばかりの蒋介石
の北上軍の兵隊に取り囲まれる羽目に陥った。
「血に飢えた豹狼のような表情をした、殺伐な連中ばかりで、ぼくらをむかえて、しき
りに唾を吐きかける」。一触即発の険しい空気だ。「ぼくらは、爆発物でもはこぶような
慎重さで、眼と眼も見合わさないようにして、そろりそろりとすり足をして通りぬけた」。
一同は「歯の根もあわず、がたがたふるえていた」。「黄鶴楼」の楼上でほっと吐いたの
は「胸のいたい、ながいため息」だった。
だがこれは金子にとって生身で感じる現実だった。こう述懐している(太字強調は私)。
うす陽がさしていた。眼の下に見おろす長江のながれは、にぶいやぶにらみの眼のよう
に光っていた。人と人、それが宿命のように背負っている国と国との確執や、利害からの、
不透明な感情に、そのときほど激しい憤りが腹の底からつきあげたことはなかった。
ながい精神の昏迷のあとで、ぼくは、そのときはじめて足先で、じぶんのふむ土をさが
しあてた気がした。憤りは、兵にたいしてではなかった。軍閥でもなかったし、為政者で
も、組織者でもなかった。むしろ、そんな機構にもたれかかっている人間の怠惰の本性と、
そういう人間を造り上げた神にむかってである。
***
「黄鶴楼」という名所旧跡に立ち寄りたい、という気楽な旅行者のルンルン気分を破壊
した兵隊たちの出現。李白を偲びたい、ゆかりの地を追体験したいーそれを血に飢えた豹
狼の眼が迎えた。肝を冷やしただけでない、実際の身の危険が迫った。無理矢理の現実覚
醒と対処法の分からぬ混迷とが訪れた。
通常の観光では自分の周りに幾重もの保護膜が張られており、何かに触っても片言の会
話をしても、それは夢の中の出来事であるかのようだ。サファリ・パークで猛獣を眺める
程の危険度さえ感じないかも知れない。金子の直観は仏教徒なら無明の闇を切り裂く僅か
な覚醒の瞬間とでも言うか。それは表面に現象した兵隊や軍閥などの被膜さえ突き抜けた
ものだった。
金子がぼそり漏らす呟きにハッとする。特殊な事態でなく我々が看過する多くの「平凡
な」事実についてだ。金子の本は金を出す甲斐があるというものだ。(2009年08月28
日)
#15オールド上海:昭和14、5年 上海北站(停車場)点景
上海と南京とを結ぶ鉄道の上海北部にある駅が北站(北停車場)だ。その鉄道線路が外
国勢力の限界線だった。線路を越えた先は閘北(通称ザ・キタ)地区で、一旦手を伸ばせ
ば中国全土を征服せざるを得なくなる土地だったらしい。上海事変に中国軍の投下した戦
力は30師団、その軍隊が戦いの基点にした北停車場は熾烈な空陸の攻撃を受けて「トタ
ン屋根がジョウロの口のように、銃弾で穴をあけられた。ホームに立って天井を見上げる
と、無数の穴は、プラネタリウムの星にみえた」(林京子著『上海 ミッシェルの口紅』
講談社文藝文庫「耕地」)。
林京子氏は1931年1歳で上海に渡ってから、途中上海事変等の戦渦を逃れて一時帰
国したものの、1945年1月末まで14年間を上海に暮らした。その後長い国交断絶状
態を経て戦後最初の上海旅行に出たのは1981年51歳になる8月のこと、6日間の
パックツアーだった。そのツアーを素材に書いたのが『上海』、幼年期少女期の有り様を
書いたのが短編7つから成る『ミッシェルの口紅』、講談社文藝文庫は両者を合本したも
のだ。特に後者の作品群は少女の目から見た実際の上海生活を書いて希有だ(父親は戦前
世界を唸らせた、日本の諜報網と称されたM物産勤務だから、或は波瀾万丈の話があった
かも知れないのだが)。意外に上海で暮らしていた普通の日本人の生活は分かり難いから
助かった。
又しても脱線してしまったが、上海北停車場の話が本題だった。戦いが中国大陸の奥へ
広がっていった昭和14、5年頃、林氏が母親について次の戦場へと向かう兵隊の見送り
に行った場面が上掲書にある。
<北停車場を通過する兵隊たちは、みんなが疲れていた。髭が伸びているせいもあるだろ
うが、兵隊たちは3、40歳にみえ、窪んだ目元には活気がなかった。(止め)
母親が北停車場に行ったのは、10分か20分か、短い停車時間を利用し、国防婦人会
員として兵隊たちに湯茶の接待をする為だった。
<ドラム缶の急拵えのかまどで湯を沸かし、濃くいれた番茶を配る。列車が着く2時間ほ
ど前から駅頭で米を炊き、塩で握ったにぎり飯を配る。母たちがにぎり飯を配って歩くと、
髭面の兵隊たちは、自分にもください、と窓から身をのり出して叫んだ。子供のようにに
ぎり飯を欲しがる兵隊の掌に一つずつ、母たちはにぎり飯を置く。兵隊は褐色の指でつか
んで、それを貪り食う。(止め)
兵隊の移動は軍事秘密で兵員の正確な数が分からない。だが母たちは経験と勘とで大方
狂いなく必要数を準備した。それでも、にぎり飯の不足の生じる場合があった。
<にぎり飯にありつけない兵隊が、発車のベルを気にしながら、おばさん、ください、と
叫ぶ。あした死ぬかもしれない兵隊たちに、純白のにぎり飯を食べさせてあげたい。おこ
げしかないんです、とたまりかねて母たちは頭をさげる。そのおこげでいいです、と兵隊
たちはいった。
釜の底からはがした半円形のおこげに塩をふり、盆にのせて母たちはホームを走った。
兵隊たちは、それをちぎって食べた。(止め)
だから日中戦争は間違いだった、と後知恵で小賢しいことを言うのはやめたい。今、
我々が全知全能を傾けて諸問題に取組み、当面アジアに戦争の危険がないとは言われるも
のの、情勢は我々の意図せざる方向へ急展開してゆくものだ。「すべきでない」と叫んだ
ところで運命の小車は勝手に回る。
かつてのような戦争のあり方はもう無さそうだが、過去の時点に身を置いて考えれば、
末端の兵士を少しでも慰めてやりたいと思った婦人たちの誠は真実だろう。疲れ切った若
い兵士たちにとって、にぎり飯はさぞ嬉しかったことだろう。肉体の飢えもさることなが
ら、それ以上に心の飢えを満たしたことと思う。兵隊たちに感情移入すると我が涙腺は緩
み勝ちだ。(2009年09月12日)
#16オールド上海:堀田善衛『上海にて』その1
堀田善衛著『上海にて』(初出1959年筑摩書房刊、現在ちくま学芸文庫)はこれ迄
採り上げて来た著作と描く時期が異なる。これは「1945年3月24日から、1946
年12月28日まで、1年9ヶ月ほど」の上海生活を描いている。そして1957年に再
度上海を訪れることでその省察を深めた。日中国交回復前の著作だ。
上海という一地点だけだが、それは日本と中国、中国と日本との関係を深く考えさせる
ものだった。堀田氏の問題意識はこうだ。「日本と中国との、歴史的な、また未来におけ
る、そのかかわりあい方というものは、単に国際問題などというよそよそしい、外在的な
ものではなくて、それは国内問題、というより、われわれ一人一人の、内心の、内在的な
問題であると私は考えている。われわれの文化自体の歴史、いやむかしむかしからの歴史
そのものでさえあるであろう」(同書はじめに)。但し、厳密な意味での国交は1871
年の日清修好条規まで無かった(岡本英弘著『日本人のための歴史学』)から、その文化
的交流は主として漢籍を通じたものだった。だが、そのインパクトが甚大だったのは周知
の通りだ。漢籍の素養と西欧文化とが明治以降日本の文化的両輪だった。
ただし、日本が支那の現実に目覚めるのは日清戦争の勝利によってだった。以前触れた
芥川龍之介の『上海游記』には漢籍を通じて得たイメージが次々壊れてゆく様が記されて
いるといっても好い程だ。或は福沢諭吉の「脱亜入欧」論の成り立ちは朝鮮、支那の現実
に絶望したのが切っ掛けだった。
初出の1959年当時、堀田氏は「私に一つの危機の予感がある。…私が予感するもの
は、むしろ国交恢復以後について、である」と書いた。そして「双方の国民の内心の構造
の違いから来るものは、もっとも本質的」だと指摘した。「同文同種」といった表層的で
ふにゃけた誤認が今でも蔓延っているかどうか知らぬが、我々が文字の上でなく現実の交
流を通じて支那のことを知ったのはそう長いことでない。かつて私は本ブログにベトナム
が抱く対中警戒心の根深さを書いた。それは1000年の長きに及んだ植民地経験が然ら
しめたものだ。現実の支那と容易く理解し合えるものでない。だが、我々には不幸な形で
あろうとも敗戦迄の経験がある。そこに学ぶ以外、リアルな支那中国を正しく認識する術
はない。
表記『上海にて』には貴重な情報が多々含まれているように思う。(2009年09月21
日)
#17オールド上海:堀田善衛『上海にて』その2
堀田氏体験の注目点は日本の敗戦を跨ぎながら上海にいたことにある。1946年の秋、
彼は中国国民党の宣伝部に留用されていた。この年、国共停戦が1月に成り、国民政府は
南京に遷都したものの、国共間では再び内戦が始まった。
前掲書の「回想・特務機関」なる章は、同じ宣伝部の同僚たる中国人青年がマラリアと
思しき高熱に苦しむのを見て、堀田氏が接収された元日本人経営の笠松大薬房に薬を取り
に行ったときの話だ。当時上海の町は戒厳状態だった。しかも戒厳機関があり過ぎて、逆
に恐怖状態がつくり出されていた。そうした状況下、夜半やっとこ目的地にたどり着くと
そこには見知らぬ先客がいた。それは国民党調査統計局の人間だった。
「泣く子も黙る戴笠(蒋介石の腹心)」の統括するのが調査統計局だった。それは
「もっとも恐ろしい政治警察、数ある秘密警察のなかでももっとも怖るべき存在」で、戴
笠に「調査統計」されてしまったら、殺されるか死ぬかしかないとされ、特務中の特務、
テロ中のテロだった。しかも戴笠は「同時に中美合作社というアメリカの特務機関OSS
との合作機関の主要メンバーでもあったから、調査統計局は二つの特務権力を一手に握っ
て」いた。「私自身、いまにしてもなお背筋が寒くなり脇腹が冷たくなって来るようなも
の」と堀田氏は回想する。特務こそ戦中戦後の国民党を語るに不可欠だ、と言う。
無事になんとか切り抜けて、薬倉庫に入れたのだが、やはり動顛していたのだろう、堀
田氏が持ち帰った薬はマラリア用でなかった。その薬を見るや患者の青年が怒り出した。
それはなんと性病用の薬だったからだ。
共産党対策ほか政敵を倒す為の特務機関が上海には沢山あった。結果を一度も公表した
ことのない調査統計局もその一つだった。堀田氏は言わば「血の凍るような」怖ろしい特
務機関と直接対面したのだった。(2009年09月22日)
#18オールド上海:堀田善衛『上にて』その3
まだ敗戦にならない1945年の春、堀田善衛は武田泰淳と二人で上海から南京まで旅
行した。南京城壁の上で、真実に紫金の色に映えた紫金山を眺め、また眼路はるかにどこ
までいってもほんとにつきせぬ江南の野を見渡した時、彼がこんなことを考えた。
「…中国戦線は、点と線だというけれど、点と線どころか、こりゃ日本は、とにかく根
本的にぜーんぶ間違っているんじゃないかな。この広い、無限永遠な中国とその人民を、
とにもかくにも日本から海を越えてやって来て、あの天皇なんてものでもって支配出来る
などと考えるというのは、そもそも哲学的に、第一間違いではないかな。それは、根本か
らして、哲学的に間違っている。…天皇と中国大陸とのかかりあいを、哲学として考えて
くれたかな。…ここで最終的に勝つ、なんということは、これは絶対不可能だということ
は、中国人民のことは別としても、この大陸の面を見ただけでも、なにかの哲学の心得が
あったら、それだけでピンと来るようなことではないかな…」(同書「戦争と哲学」)
哲学という言葉の当否はあるかも知れないが、所謂中国大陸を治めるのは並大抵でなく、
漢族にとってさえそうだった。万里の長城が匈奴対策に築かれたのはよく知られたことだ
が、清帝国の時代、漢族は長城以北に立ち入り出来なかった。モンゴル人の元帝国を持ち
出すまでもなく、実は版図を大きく広げたのは異民族王朝だった。栄華を誇った唐帝国が
鮮卑族系だったことも余り知られていない。漢族が中国を代表するならば、漢族の王朝、
版図はいかばかりだったか。中華民国が国内統一出来なかったのは知っての通りだ。それ
を日本軍が遂行出来ると考えたとしたら、確かに正気の沙汰でなかったろう。精々、ごく
限られた地域をスライスする位が関の山だったろう。堀田氏の考える中国大陸なるものと
私のそれとは一致していないだろうが、支配できると考えない点では合意する。
「紫金山の美しさ加減、また長江という、河とはまったく申せぬ大河の猛烈さ加減、華
北の曠野の非人間的なまでの広がり、そういうものは、もしそれを表現したいと思うなら
ば、人間とその歴史の怖ろしさ、徹底的な激烈さ、残虐さ、とにかく人間という人間の、
徹底的な何物かを通じてでなければ到底表現出来るものじゃないという観念を、私はあの
城壁の上で得た」と堀田氏は言う。それは1956年のインド訪問で得たものと合わされ
てゆく。日本とは大違いの自然の面構え、何事も苛酷な迄に徹底する土地。それに関わり、
支配することとは何を意味するのか。恐らく日本は考え抜く前に中国大陸に進出しただろ
う。勿論、事前に哲学を準備出来た侵略国など世界史上にあった試しはないから、已むを
得ないことだったとも言える。他国の国情を理解する様々な学問が植民地経営に根源を持
つ通りだ。
秀吉の誇大妄想以来のことかも知れないが、確かに中国大陸ひとつとっても大難事だっ
た。大東亜共栄圏なる後付け思想が堀田氏の言う哲学でなかったことは間違いあるまい。
今回採り上げた箇所が面白いのは中国大陸の面構えから立論されていることだろう。
(2009年09月23日)
#19オールド上海:堀田善衛『上海にて』その4
日本が敗戦して上海が国民党の統治に移った混乱期の経済状況を堀田氏が記している。
町歩きが好きだった、いやそれ以外なかった堀田氏は危険地帯と言われていた工場街へも
足を踏み入れた。
国民党による無秩序な接収騒ぎは工場を半身不随状態に陥れた。工場労働者はそんな国
民党を毛嫌いしていた。米国からは物資不足の救済と称する物資が怒濤のように押し寄せ
た。堀田氏は「町の名の歴史」でこう書く。
<国際連合の戦災連合救済機関であったUNPRA、あるいはCNRRA名義でもって中国に
どっと流れ込んで来た、ありとあらゆる種類の米国製品、それはつまり戦争のためにつく
りすぎた品物をダンピングするといったわけあいのものであったのだが、その救済物資に
よって上海の一切の産業は叩き潰された。これが1947年になると、米華友好通商条約
によって、百品目以上のアメリカ商品の輸入税が二分の一から六分の五引き下げられ、民
族工業は破局へまっしぐらに行かざるをえなかった。産業は救済されて昇天しかねまじい
ことになっていたーそのために彼らはアメリカとアメリカ兵をひどく嫌っていた。国民党
とアメリカは、その当時からして工場労働者には人気がなかった。(止め)[原文は傍点
だが表示出来ないので太字強調に変えた]
ふらふら工場街を歩き回った堀田氏の胸には国民党宣伝部のバッジがついていたから、
如何に危険なことだったか、周辺の者が怖じ気を揮ったと言う。
戦災後の窮乏を救う救済物資が庶民の生活を支えたのは間違いなかろう。表面上、米国
の善意を疑うことは恩知らずのことだろう。だがそれは強烈な副作用を持ち、中長期的に
は自国産業を滅ぼし、米国への依存を固定化するかも知れない危険を含んでいた。
1945年9月にアメリカ人経営者が工場を接収し、それまで掲げられていた中国国旗
の代りに星条旗を掲げる「暴挙」をやって、工場労働者の猛反発を買った。仮令日本軍か
ら解放した勝者アメリカであろうとも、彼らに歓迎の気持ちはまるでなかったのだ。彼ら
は部分停電ストをやって中国国旗に復帰させた。次いで1946年1月には首切り反対ス
トが起こった。この時、アメリカ人経営者は国民党特務に依頼して殴り込みさせる乱暴を
働いた。それが正義の味方、足長おじさんたるアメリカの実態だった。
勿論、それは日本人経営時代の繊維工場でも見られたことであるのは横光利一『上海』
が描いたところだ。だが同時に労働者、労働組合弾圧が世界に広く見られることだったの
を思い出しておこう。
因にアメリカが長く支援して来た国民党を見放すのには何年もかからなかった。
(2009年09月25日)
#20オールド上海:堀田善衛『上海にて』その5
1946年の夏から秋にかけて堀田氏は時々大学生の集まりに引き出された。大学生と
は言っても「第一にその服装たるや、まことにひどいものであった。中国服をまとってい
るものも、軍服らしいものを着ているものも、ほとんど一様に襤褸という漢字がぴったり
するようなぼろをまとい、痩せこけて顔色は土色、咽喉仏がつき出ていた…彼等は、眼だ
けがぎょろぎょろしていて、奥地の桂林あたりから引揚げて来た栄養失調の日本軍の兵士
たちよりももっとひどい人もいた。みな、私の眼には三十以上に見えたが、実はまだ二十
代の若者たちだったのだ」。
そこでのやり取りを「再び忘れることと忘れられないことについて」という節で書いて
いる。その一つに「日本は米軍の庇護のもとに再び軍国主義化している」という学生の主
張に対する腹を立てて反駁した行(くだり)がある。それは長く潜在する質問となり、や
がて現実の展開に否応なく悟らされる。「日本が米国の対ソ対中国作戦基地になることが
漸くはっきりして来た1948年、5月と6月にわたる上海の学生たちによる基地化反対、
『反対美帝扶日』(アメリカ帝国主義が日本に勢力を扶植して基地化することに反対す
る)の大デモが行われることになり、そのデモではじめて、いまの中華人民共和国の国歌
である『義勇軍歌』が公然と街頭でうたわれることになった。そして、その日本の基地が、
人民共和国成立後の朝鮮戦争で、どういう働きをしたかを考えれば、彼らが何を覚えてい
て、何を忘れないでいるかは、ほぼ明らかであると思う」。
こうした事実について、「深く黙り込んでいたい」と堀田氏は書く。だが、それにもか
かわらず、「それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本なのだ。
われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる」と痛切な認識を新たにする。
***
中国人民が戦渦の記憶を長く持ち続けているのは、江沢民以来の反日教育がいまだ有効
であることからも窺える。だが、国際法上は当時の中国を代表する正統政府たる中華民国
を相手とした1952年の日華平和条約、蒋介石の「以徳報怨」によって解決済みの話だ
ろう、堀田氏の指摘と同時にそれを忘れてはならない。(
1946年の夏から秋にかけて堀田氏は時々大学生の集まりに引き出された。大学生と
は言っても「第一にその服装たるや、まことにひどいものであった。中国服をまとってい
るものも、軍服らしいものを着ているものも、ほとんど一様に襤褸という漢字がぴったり
するようなぼろをまとい、痩せこけて顔色は土色、咽喉仏がつき出ていた…彼等は、眼だ
けがぎょろぎょろしていて、奥地の桂林あたりから引揚げて来た栄養失調の日本軍の兵士
たちよりももっとひどい人もいた。みな、私の眼には三十以上に見えたが、実はまだ二十
代の若者たちだったのだ」。
そこでのやり取りを「再び忘れることと忘れられないことについて」という節で書いて
いる。その一つに「日本は米軍の庇護のもとに再び軍国主義化している」という学生の主
張に対する腹を立てて反駁した行(くだり)がある。それは長く潜在する質問となり、や
がて現実の展開に否応なく悟らされる。「日本が米国の対ソ対中国作戦基地になることが
漸くはっきりして来た1948年、5月と6月にわたる上海の学生たちによる基地化反対、
『反対美帝扶日』(アメリカ帝国主義が日本に勢力を扶植して基地化することに反対す
る)の大デモが行われることになり、そのデモではじめて、いまの中華人民共和国の国歌
である『義勇軍歌』が公然と街頭でうたわれることになった。そして、その日本の基地が、
人民共和国成立後の朝鮮戦争で、どういう働きをしたかを考えれば、彼らが何を覚えてい
て、何を忘れないでいるかは、ほぼ明らかであると思う」。
こうした事実について、「深く黙り込んでいたい」と堀田氏は書く。だが、それにもか
かわらず、「それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本なのだ。
われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる」と痛切な認識を新たにする。
***
中国人民が戦渦の記憶を長く持ち続けているのは、江沢民以来の反日教育がいまだ有効
であることからも窺える。だが、国際法上は当時の中国を代表する正統政府たる中華民国
を相手とした1952年の日華平和条約、蒋介石の「以徳報怨」によって解決済みの話だ
ろう、堀田氏の指摘と同時にそれを忘れてはならない。(2009年09月28日)
以上
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