...

紛争とNGO

by user

on
Category: Documents
3

views

Report

Comments

Transcript

紛争とNGO
21 世紀社会デザイン研究 2002
No.1
紛争とNGO
伊勢崎 賢治
ISEZAKI Kenji
人道援助要員の死ほど悲しいものはない。世界の中の最貧国、それも内戦等暴力の脅威に
晒された最も過酷な時期に、その国の社会の底辺に暮らす人々のための救済に、身を粉にし
て働くNGO 職員などの彼ら。その死は、ただでさえ脆弱な環境で生きる人々への大きな打
撃であり、人道援助要員だと知っていて敢えて命を奪う輩たちの存在は、国際人道主義への
挑戦である。
別に命をかけているわけではない。プロ意識のある人道援助要員は、そんな言葉は口には
しない。しかし、その使命感がそこに留まらせ、時として使命感の離脱の判断を誤らせる。
生き長らえている者にとって最大の自責の念に囚われるのは、自分が上司として統括する
援助活動の中でそれが起こってしまった時だ。たとえその死が、紛争など“不可抗力”な原
因で起こったものであっても。
あの襲撃は、予測できなかったのだろうか?
ゲリラの侵攻が伝わってきていたのに、なぜ、撤退しろと言えなかったのか?
残された家族はどうしているだろう?
そして、自分の“ええカッコしい”が、弱い立場の部下を犠牲にしたのでは?
1.民間人道援助要員の殉職
人道援助要員といっても、その所属団体によって様相は異なる。まず大きく分けて、国連、
2 国間援助など国連以外の公的機関(例えばUSAID)
、そして民間組織であるNGO がある。
人道援助業務に伴う傷害や殉職事件の記録・分析や対応は、国連機関ではかなりしっかりし
たものになっている。国連といっても、WFP、UNICEF やUNHCR など人道援助専門の国
連機関のためには、The Office for the UN Security Coordinator(UNSECOOD)が国連
職員全般の保安体制を統括しており、この本部の長であるUN Security Coordinator には
国連事務次長のポストが与えられている。国連の中には、もう一つ、つまり国連安全保障理
事会の発動による国連平和維持活動(UN Peacekeeping Operation :PKO)などのいわゆ
、国連文民警察
る国連ミッションがあり、通常、国連平和維持軍(UN Peacekeeping Force)
官(UN Civilian Police)や国連軍事監視団(UN Military Observers)を主体に紛争処理に
あたるが、政務官や人道援助専門家などシビリアン職員を含むことが多い。これらへの保安
― 21 ―
体 制 は、UNSECOOD と提 携 をとりながら直 接 国 連 PKO 本 部 The Department of
Peacekeeping Operation が管理するなどの体制がある。
NGO というのは、非常に総括しにくい存在である。まず、国際NGO と現地NGO がある。
組織規模や保安体制の有無によっても、非常なばらつきがあり、殉職者が出ていても、それ
が表に出ず、社会に認識されないという可能性が大きい。筆者は、大手の国際NGO の現場
責任者として、内戦下のアフリカ、シエラレオーネ共和国での人道援助の経験があるが、そ
の時、現地職員の殉職者を出してしまった。もちろん、その事件は私のNGO 内で記録・処
理されたが、組織の外の公的機関、例えばUNSECOOD などの保安専門機関には至らず、そ
のような事件を報告するフォーマルな繋がりさえも無かった。
このように、実際に起きているNGO 職員の殉職の中には、公的機関によって把握されて
いないものが非常に多くあると予想され、人道援助要員全般の殉職に関わる事故について全
体的に把握するのは難しい。しかし、この限られた状況の中で、UNOCHA: UN Office for
Coordination of Humanitarian Affairs が、1997 年から2001 年の間に起こった、NGO を含
む人道援助要員の殉職者数を調査した。下記の表は、その統計結果である。
年
待ち伏せ
地上攻撃
対空攻撃
空爆
地雷
交通事故
計
2001
10
8
1
4
4
12
39
2000
29
12
─
2
5
─
48
1999
15
12
9
1
─
27
64
1998
13
11
14
3
1
8
50
1997
14
12
─
─
─
22
48
81
55
24
10
10
69
249
15 January 2002 UNOCHA
1.全てのケースが、緊急援助活動中もしくは緊急フェーズ終了直後に起こったもの
2.全てのケースが、故意的な暴力(待ち伏せ、武装攻撃、対空攻撃)
、と職務遂行中の事故が原因の
もの
3.全てのケースは、現地スタッフを含む人道援助要員のもの。PKO 要員(シビリアンを含む)を含
まず
4.故意的な暴力が原因で起こったケースの内、74 %が現地スタッフのもの。
5.故意的な暴力が原因で起こったケースの内、59 %がNGO、残りが国連援助機関もしくはそれらの
契約下のNGO のもの
6.現地スタッフとNGO の死亡ケースは、現実にはもっと多いと予想される
総数 249 という数字を、低いと見るか高いと見るかは、議論の分かれるところだと思う。
同じ時期に発生した紛争による一般市民への被害に比べれば、なんだ、こんなものか、と思
う向きもあるだろう。しかし、人道援助要員の死ひとつひとつは、シンボリックなものであ
り、特に人道援助要員だと知っての故意の攻撃は、国際人道主義への挑戦であることは冒頭
で述べた。最も基本的な世界共通のモラルへの冒涜であるから、たとえそれが一人の殉職で
あっても、重いのである。このケーススタディでは、待ち伏せ(Ambush :人道援助物資輸
送コンボイなどへの待ち伏せ攻撃)
、地上攻撃(Stationary Attack :職員宿舎などへの襲
― 22 ―
21 世紀社会デザイン研究 2002
No.1
撃)
、対空攻撃(Anti-aircraft Attack :援助機関チャーターヘリなどへの攻撃)を、人道援
助要員だと明確に意識しての故意的な暴力とカテゴライズし、その殉職者の総数は160 人に
及ぶと指摘している。
更に、故意的な暴力による160 人の内、現地スタッフのものが74 %に及ぶという指摘は、
人道援助組織でさえも内部に暗部を抱えていることを示唆している。やはり、どんな組織で
も、弱い立場の者が、一番割りの会わない目に会うということなのか。ちなみに、私の前職
の国際NGO でも、創立60 年余の歴史で国際スタッフの殉職者はまだ皆無であるが、現地ス
タッフのそれは、私のケースの2 人が含まれるはずであるが、その総数を把握するという全
組織的なコミットメントさえまだ無い。
同じく160 人の内、59 %がNGO であるということも特記に値する。時として、国連平和
維持軍などの武力を背景に平和介入する国連は、武装勢力にとっては中立には映らず、攻撃
の対象になることは容易に想像できる。しかし、基本的に最も中立な存在であるはずである、
人道援助NGO が故意の暴力の対象になるということは、紛争特有の不条理さを物語っている。
その59 %の残りは、国連機関、もしくはその契約下のNGO のもの、とある。昨今、ほと
んどの国連機関において、主要業務のNGO へのサブ・コントラクト化は主流であり、難民
専門機関であるUNHCR でさえも、一番危険で遠隔地の難民キャンプの設営・運営はNGO
任せで、UNHCR 職員はろくに視察もしない、との批判もある。紛争等の混乱期というのは、
何が起こるか予測不可能で、だからこそ、目まぐるしく変わる情況に柔軟に対応する組織の
機動性が求められる。しかし、所詮、国連は国連、機動性とはかけ離れた巨大なる官僚組織
であり、人道援助のデリバリー機関としては、NGO に絶対的に頼らなければならないのである。
2.国連と人道援助NGO
イン・コンフリクト(紛争が継続中)とポスト・コンフリクト(紛争直後からの復興期)
においては、和平への介入はPKF などの中立的な武力を背景にした平和強制・平和維持、
そして和平交渉や暫定政府運営など、国連を主体とした政治的なものがアップ・ストリーム
として厳然たる重要性がある。しかし、そういう混乱の時期の犠牲は、全て社会の底辺の一
般市民が被らねばならず、そこで不可避的に人道援助は、武力介入が行われている現場で同
時進行的に実施される状況ができる。前述のように、国連はその実働的な機敏性の無さから、
人道援助の殆どをNGO に委託しなければならない。NGO にとっても、緊急の援助の現場は、
言わば、
“見せ場”であり、啓蒙的にも、広報的にも、治安の悪いところに出てゆく理由があ
る。基本的に、自己資金で運営されるべきNGO は、単独で、緊急時に、国際社会に迅速に
アピールし、効果的に資金を調達することは不可能である。この理由から、平和介入が始ま
った直後の、本当の緊急の現場でのNGO は、国連を媒介とした資金を使わざるを得ない状
況がある。
国連が不可避的にNGO に業務委託しなければならない状況で、使っている資金が公的で
あるという手前、NGO との間に法的な契約関係を築かなければならない。ここで問題は、国
連の委託を受けて活動しているNGO が現場で危機に面した時、果たして国連はどこまで
NGO の安全を“保障”するかということである。つまり、ゲリラの侵攻などで緊急退避が必
― 23 ―
要な時に、同じ現場で展開しているPKF やその他の国連施設が、NGO を保護する責任が国
連にあるか。更に、その現場から完全撤退という状況において、国連要員を救出する国連機
でNGO をも脱出させる責任を国連が負うかどうか。
国連は今まで、人道援助要員の保安に関する決議を幾つかしている。その中で実働的なも
のの一つが、前述のUNSECOOD による"Memorandum of Understandings(MoU)to
establish a framework for a security relationship between UN organizations and
their NGO implementing partners, UNSECOORD 1996"であり、緊急時のための、国連と
提携関係にあるNGO とのフォーマルな覚書である。国連職員の保安体制を定めた所謂国連
セキュリティ・プランへ、NGO を組み込むものであるが、当然、緊急時には、個々の国連職
員であれば国連保安要員(Security Officer)の指示に全面的に従わなければならないよう
に、同じ条件をNGO にも課すことになる。つまり、撤退するかしないかの判断も、このプラ
ンに組み込まれている限り、NGO であっても、国連の判断・指示に従わなければならないと
いうことである。撤退するか否かの国連の判断は、往々にして政治的なものにある。例えば、
ある悪徳政権に対して政治的制裁のために、たとえそこに援助が必要な人がいても、撤退す
ることは十分ありえる。それに対して、NGO が標榜するのはあくまで人道的判断である。政
治的状況がどうあれ、そこに援助を必要としている人々がいる限り、在留するのだ。だから、
同国連MoU で、NGO の独立性はどうなるのか、という問題がある。しかし、国連にとって
みれば、緊急時にこちらの指示に従わないNGO の安全に、どうやって責任を取れるのかとい
うことでもある。
更に、このセキュリティ・プランには、現地スタッフの取り扱いは無い。殉職者の中でも
現地人のそれが国際職員をはるかに上回るという統計は上述の通り。NGO の中でさえ、現
地スタッフを区別して取り扱っている内部の実情はあるのだが、完全退避時に、現地スタッ
フを置いてゆくという行為は、教義としてNGO が標榜する「人道主義」に反する。だから、
同国連MoU は、NGO の根本原理に反する趣があるのだ。しかし、一方で、現地スタッフと
いうのは、基本的にその地から採用されるから、脱出ヘリに家族郎党まで押し寄せたら収集
がつかなくなるという懸念を国連が持つのは当然である。
同国連MoU が、NGO にとって、決定的に問題なのはもう一つ。緊急脱出のために国連が
手配した飛行機・ヘリによってNGO が救出された場合、後日、その運賃の“請求書”が届
く、というものだ。これは、国連のできない仕事をわざわざやってあげているという意識が当
然NGO にはあるから、なんでそんな世知辛いことを、ということになり、NGO にとっては
受け入れられないものになる。
以上の理由で、1996 年に発行された同MoU 制度は、現在までそれを承諾し国連の手を煩
わせたNGO が皆無であると言う“名誉”に与っている。
3.公的資金を使う責任とNGO の独立性
アフガニスタン復興会議の開催を機に、日本の平和貢献の議論がピークに達した。憲法第
9 条に関わる歴史的な問題もあり、軍事的な平和貢献に大きな制約のある日本であるから、
非軍事的な貢献、特に人道的支援の面で外交的な面目躍如を狙いたいというのは当然の成り
― 24 ―
21 世紀社会デザイン研究 2002
No.1
行きだと言える。ジャパン・プラットフォームをはじめ、NGO が緊急援助のための公的資金
を利用する受け皿のインフラも整いつつある。しかし、公的資金を民間団体であるNGO、特
に安全対策を伴わなければならない状況下での活動へ供与するという時の日本政府の「責任」
は、果たしてどれだけ真摯に議論されているかは疑問である。
日本政府がNGO という時のNGO は、日本国籍のNGO であり、国家によるNGO の育成ま
でが国策に載るような、
「非政府」と「政府」の粘着関係があるお国柄である。日本国籍の
NGOの利用は、顔の見える援助ができない日本にとって、Show the flagできる国際平和貢献
なのである。国連でさえ、契約関係にあるNGO に対しては、全く機能していないが上記のよ
うなMoU 制度があるのだ。国策の一環として赴くNGO を抱える日本政府は、国連以上の措
置を講じる必要があるであろう。
まず補償制度の問題であるが、国家公務員や地方公務員が、国連PKO 活動等に参加する
場合における殉職時の補償制度の整備は、内閣官房下で運営されていた「国際平和協力懇談
会」が先ごろ提出した報告書の中にも織り込まれている。しかし、労災保険の適応も、そし
て高額な戦争特約障害保険に必ずしも加入する余裕のないNGO に対する補償制度は、これ
からの大きな課題であり、結局、民間の保険会社を使うにしても、その制度づくりに公的資
金の投入という選択肢も考えられるべきであろう。
緊急退避、特に武装エスコートを伴うような本当の緊急事態に、日本政府が米国海兵隊並
みに自衛隊を出動させるなどということは、憲法上の議論の整理も含めて、制度を整備する
にはまだまだ長い時間がかかるであろう。自らの「軍」を派兵するという選択肢でなくても、
例えば、国連外交の一環で、上記の機能しないMoU 制度をもう少しNGO の意向を汲み取っ
て改善するよう圧力をかけるとか、国連の中にNGO 要員安全保障信託基金を設立するとか、
日本が歴史的に抱えるセンシティブなイシューに触れなくても、即座に行動に移せる選択肢
があると思う。
更に、日本の公的資金を使って赴く日本のNGO の責任とリスクについては、他ならぬ
NGO 自身が深く認識しなくてはならない。同じ国籍の公的資金を得ることは、好むと好まざ
「国旗を背負う」ことになるという現実から決して逃避するべきではない。
るとにかかわらず、
平時では取るに足りない小さなNGO の一挙一動でも、和平交渉などの政治プロセスに重大
な影響を及ぼしかねないのが、政治的に脆弱なイン・コンフリクトもしくはポスト・コンフ
リクトの状況である。NGO だからといって勝手な行動は許されない。いやなら、自己資金で
活動するべきなのだ。NGO として公的資金に手を染めると言うことは、
「非政府」の根本原
理に関わる重大なリスクだということを、個々のNGO は改めて認識する必要がある。
4.米国イラク攻撃とNGO
米国の対イラク戦争は、ますます現実味を帯びている。空爆を中心とする米国の戦略の第
一の犠牲者は、イラクの一般市民になるはずである。
9. 11 後、アフガニスタンにおいて現在でも展開中の対アルカイダ一掃作戦は、作戦開始か
ら既に3 千人以上のアフガン一般市民の犠牲者を出している(1)といわれる。空爆を中心とし
た「臆病者の戦争(Coward War)
」に対する反米感情がアフガン国内で高まりつつ中、米
― 25 ―
国は“正義”の拳を高く振り上げた同じ愚行を、イラクでも繰り返そうとしている。
「集団的自衛権」にかかわる自衛隊海外派兵の正
日本政府といえば、アフガン空爆以来、
義を定義する世論の迷走を背景に米国の「戦争」に同調し、艦内の居住性を盾にイージス艦
まで派遣し(別に、国家の意を受けて危険な任務を臨む個々の隊員諸君のアメニティの改善
、世界秩序のための“正義”の下に、結果的に、子供を含む罪の無
には、何の異論も無いが)
い人々の“虐殺”に加担したという戦争責任が問われる時が、必ず訪れるだろう。心して待
つが良い。
一旦、戦争が始まれば、物理的な生活施設の破壊の他に、水、医薬品、食料の供給源も絶
たれ、攻撃による直接的な死者の他に加えて、これらの第2 次的な打撃による犠牲者も多く
発生するであろう。そして、首都での戦闘を恐れて避難する人々が集まる難民キャンプが国
内、そして周辺国の国境近くに数多く発生するだろう。戦闘が長引けば、それらの難民キャ
ンプで、同様の犠牲者が出始める。
だからこそ、第2 次的な犠牲者を最小限に留めるために食料・医療などの人道援助が迅速
に展開する必要があり、関係機関は、大量難民発生など紛争が起こった最悪のケースを予測
して緊急援助物資の調達やアピールの準備を進めなければならないのである。しかし、この
イラク攻撃の場合は、大きなジレンマが一つある。
日本を含めた殆どの同盟国の世論、そして米国自身の世論も戦争回避を望んでおり、それ
を十分承知しているブッシュ政権は、開戦の口実探しに躍起になっている状況がまずある。
米国はアフガン空爆開始後、一般市民の犠牲者が報道され始めた当時から、食料援助物資の
投下などで、国際世論の批判をかわしてきた。つまり、今回、米国が、対イラク開戦の正当
性のPR に躍起になっている状況で、開戦後の人道援助の用意を語ること自体が、ブッシュ
政権にとって開戦の追い風となる可能性があるのである。だからこそ、UNHCR でさえ、イ
ラク開戦後の難民発生予測をやり始めたと報道されながら、今、予測することの政治的リス
クも同時に表明したのだ(UNHCR の最大の支援国は米国であり、それも国務省直轄の予算
。
配分を受けているので、この一国連組織にどれだけ中立性があるかは再考の余地があるが)
日本にイージス艦派遣などの後方支援しか軍事的な支援が望めないと分かっている米国は、
“占領後”の復興事業に日本に多大な資金的貢献を迫るのは当然であ
開戦後の人道支援や、
ろう。それに日本が正式に同調すれば、独裁的で非民主的なサダム・フセインを打倒し、民
主的な新国家を建設することは、虐げられてきたイラク国民が一番望んでいることだという
世論操作に効果的に利用するであろう。そして、日本の血税を使って人道援助のために出動
準備をする日本のNGO は、米国のこの戦略の大きな一翼を担うことになる。
人道援助は、ノン・ポリティカルだという幻想。つまり人道主義を掲げていれば、国際平
、要請
和介入において政治判断を問われることはないし、それは内政干渉の回避(弱腰外交)
主義(失敗した時の言い訳)を旗頭にする日本の伝統的なODA 政策にも合致する…。この
ような、日本特有の極楽思想は、日本政府も日本のNGO も、もう捨てるべきである。今回
の米国の対イラク開戦は、特にNGO にとっては、自らが根本に掲げるべき「非戦」思想と、
“非政府”としての踏み絵になるであろう。
使い古された「人道主義」の真価が問われる、
■註
(1) "A Dossier on Civilian Victims of United States' Aerial Bombing of Afghanistan: A
― 26 ―
21 世紀社会デザイン研究 2002
No.1
Comprehensive Accounting", by Professor Marc W. Herold, December 2001,
Departments of Economics and Women's Studies, McConnell Hall Whittemore School of
Business & Economics, University of New Hampshire, U.S.A.
― 27 ―
Fly UP