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男の娘の誕生とその意味について
経験社会学Ⅰ 期末小論文 男の娘の誕生とその意味について 1. はじめに 近年、オタク文化の中で「男の娘」という表現がしばしば見受けられる1。これは、ノベルゲームや漫画の 中に登場する、生物的には男性だが総合的に女性としての性を持つトランスジェンダーを指す。私が今回注目 したいのは、このトランスジェンダーである「男の娘」がオタク文化の中で比較的広く受け入れられている点 にある。 男の娘は多くの場合サブキャラクターではなくヒロインとして描かれる2。男の娘専門誌の存在3や男の娘の みがヒロインとなるゲームの存在4はその好例である。一方男の娘は生物的に女性がヒロインとなる通常のギ ャルゲにおいてもしばしばヒロインとして登場するのだが、このように四人の女性ヒロインに混じり一人の男 の娘が女性ヒロインと対等な立場を獲得している様子は一見して奇異なように思われるのである。 本小論ではこのような現象が何故男の娘で起こったのか、この現象が何を示唆するのかを考察する。具体的 には第 2 節で男の娘が日本文化の中で培われてきた女装文化と関連していることを示し、第 3 節で男の娘の 誕生・その意味をポストモダン文化としてのオタク文化という側面から考えることとする。 2. 日本の女装文化 男の娘というジャンルが現代のオタク文化から生まれた以上、私達は男の娘の大元をたどる為、間接的に女 装少年の歴史を紐解くしかない。日本の中で女装少年はどのように存在し、どのような役割を果たしていたの か。女装する少年の起源は神話時代におけるヤマトタケルの逸話に始まり、古代から近世にかけて女装少年は 性欲の対象、もしくは両性具有的な聖性を持つ存在として歴史の中に現れた。江戸から明治にかけて西洋的な 恋愛観が流入することを契機に近代夫婦愛が確立しトランスジェンダーは「変態」として抑圧されることもあ ったが、戦後もセックスワーカーとしての男娼の活躍・女装芸者の登場などで女装少年は存続し、20 世紀後 半には新宿に女装者コミュニティが作られるに至り現在に至る。歴史を通し「彼女」たちには宗教的職能・芸 能的職能・飲食接客的職能・性的サービス的職能・男女の仲介者的職能が見受けられる[三橋 2008]。 一方日本的な感性として、佐伯順子は江戸時代の「美人」像に着目している。江戸時代において人間美の把 握は着衣とともにあり、男女の性差は裸体においてさえ抹殺されていた。必ずしも美人は女性に使われる表現 ではなく、寧ろここでも両性具有的聖性として「女のような男」、 「浮世」からのスピリチュアルな脱出願望と しての「男色」が重視されていたという[佐伯 2008]。 これら日本の女装文化・美的感覚に照らし合わせると、男の娘は日本文化の中でその登場を準備されていた ということができるのではないだろうか。男の娘はヒロインとして登場する以上主人公の恋愛対象であり、そ の先には芸能的職能や性的サービス的職能が想像される。一方スーパーフラットな空間で描かれる男の娘は、 「男の娘」の一例:chococo「どうして抱いてくれないのっ!?」柊蓮 (http://chococo.jp/products/dodakure/character.html) など。 一方主人公が「女装少年」として振舞う場合も存在するが、ここではヒロインとして存在する男の娘のみを考える。 3一迅社「わぁい!」(http://www2.ichijinsha.co.jp/waai/) など。 1 2 4 数は少ないが、存在はする。脳内彼女「女装山脈」(http://www.noukano.com/3myaku/introduction.htm) など。 裸体を晒さない限り明確に男と判断することは出来ない。美しい男の娘は少女と同じく女子用の制服を身を纏 い男女の区別を越え「美人」としての立場を持ち得、少なくとも日常生活において彼は女装者としてではなく 美人としてヒロイン足り得るのである。 3. データベースとしての男の娘 前節の説明を受けるならば、私達は、男の娘は日本文化と連続した処にあると考えることとなるだろう。こ の考え方はポストモダン論の中でも、オタク文化と伝統文化の連なりを主張する村上隆などの議論とよく馴染 む。しかし一方、こうしたオタク文化と伝統文化の直接的な連なりは東浩紀が「アメリカ産の材料で作られた 疑似日本」批判している処でもあるのだ[東 2001, p.32]。彼の議論に則ると、男の娘はどのように解釈される のだろう。 東が描いた構図は、現代は最早大きな物語を捏造しようとする「虚構の時代」の先にある「動物の時代」で あり、 「シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物 語への欲望」に駆動され」る人々によって成立しているということだ[東 2001, p.140]。彼のこの主張を素直 に受け入れるなら、男の娘とは「萌え要素」(データベース)であり、データベース消費の過程で生産されるシ ナリオがシミュラークルとなる。東は触れていないが、この説明の中においては、男の娘というトランスジェ ンダーがわざわざ出現した直接的原因は資本主義に求められるだろう。現在、オタク文化はメディアの報道な ども後押しして市場を拡大させている。その中で各メーカーはあらゆる消費者ニーズに合わせる為にデータベ ースを拡充する動きを見せ、その中に男の娘が生まれたと考えるのが妥当だろう。ただこの説明だとわざわざ トランスジェンダーを女性ヒロインの中に交えるのはリスキーなことに他ならず、ここにも暗に日本的美人観 (脱がなければ男と分からない)という要素は作用しているように思われる。 東の説明だと男の娘は資本主義の子とでもいうべき、無数のデータベースの一つと言うことになる。そして シナリオはデータベースをまとめあげるシミュラークルである。大枠はそれで良いように思われるが、私は男 の娘がただのデータベース的価値しか有しないという結論には疑問なしとしない。というのも、男の娘と言う データベースはそれ自身、シミュラークルの中で半ば自発的に小さな物語を生産するからである。 ギャルゲのシナリオは基本的に主人公とヒロインの出会い(または関係の確認)から始まり、恋愛関係の成立 後訪れる危機の克服を以てエンディングを迎える。完成したシミュラークルとして機能するためには、原則恋 愛小説と同様この構造を守らなくてはならない。ギャルゲの中にはポルノグラフィックな描写ばかりを重視す るものもあるものの、シナリオを重視するのならばただ漠然と関係が結ばれ性交が描写されるという訳にはい かないのである。そしてそのシナリオは現実と一定の整合性を持つ必要がある5。その為余程過激な設定を付 加しない限り、男の娘がヒロインとして登場すると「彼女」は必然自らのホモ・セクシュアルな主人公への思 いや自らの女性的容姿に苦悩せざるを得ない6のだ。そしてこうした苦悩は、西洋的「変態」観導入後トラン スジェンダーが感じた苦悩でもあるだろう。 また、東のデータベース消費は萌え要素の組み合わせでシミュラークルが生産されるという側面と萌え要素 が組み合わされた「キャラクター」を基にシミュラークルが再生産されるという側面の二つを併せ持っている。 前者についてはシミュラークル間の関係が多様なので指摘できないが、後者について私達は次のことが言える のではないか。つまり男の娘は一シミュラークルであるギャルゲによって、設定としてほぼ必然的にトランス ジェンダーの持つ苦しみを抱く。そしてそれは背景設定としてその後のシミュラークルに引き継がれる。大塚 5 「アニメ・まんが的リアリズム」とは別に、ここではシナリオの妥当性が問題となる。物語の設定を基に、シナリオが我々の経験則・論理に 適うかどうかが評価される。 6 最初に男の娘をトランスジェンダーと説明したが、総体的に女性的であるものの必ずしも昔から女性性としての自分を認めているわけではな い場合がある。MARMALADE「キスと魔王と紅茶~Kiss×Lord×Darjeeling」三条寺忍など。 http://www.web-marmalade.com/products/kiss/character/sub.html#char_shinobu は「萌えは歴史も地勢図も必要としない」と述べているが[大塚 2004]、ここで男の娘は半ば自然発生的に歴 史性を内に含むようになるのではないか。彼女は自ら、日本における女装少年の魅力と歴史を体現するのであ る。この時、男の娘は東の言うようなデータベースを脱し、江戸までの日本的な美人性と明治以降のトランス ジェンダーの苦悩を内包するタイムカプセルとなるのではないか。 4. 結論 男の娘という一見して奇異な萌え要素は、日本の女装文化・美人観を基に成立したと考えられる。男の娘は 萌え要素として東のデータベース消費で一応説明されるものの、決してそれだけで全てが説明される訳ではな いようだ。 「萌え要素そのものが小さな物語の枠組みを作る」という現象が起こったのは、取り上げた萌え要 素が男の娘という異端児だったからだろうか。2010 年にはギャルゲを原作とするアニメ「ヨスガノソラ」で 主人公と実妹(双子の妹)の実質的な性行為が放送され、ネットでは大きな話題となった。これまでギャルゲの 世界では、多くの場合主人公と性交する妹は義理の妹だった。実妹と言う萌え要素がインセスト・タブーに結 びついたことは、丁度男の娘が主人公と結ばれることとアナロジカルな関係にあるように思う。 今回男の娘という萌え要素を通じて分かったのは、萌え要素は東の言うような動物的に消費されるだけの受 け身なデータベースとは限らず、未だにその歴史性・文化性から小さな物語に影響する力、そして公共圏にお いて能動性を発揮する力を残しているということではないだろうか。 【参考文献】 東浩紀 2001 『動物化するポストモダン』 講談社 大塚英志 2004 『物語消滅論』 角川書店 佐伯順子 2008 『「愛」と「性」の文化史』 角川学芸出版 三橋順子 2008 『女装と日本人』 講談社