...

1.私たちは、止まっていても走り続けている

by user

on
Category: Documents
0

views

Report

Comments

Transcript

1.私たちは、止まっていても走り続けている
9
プロローグ(第 1篇 )
私 たちは、止 まっていても走 り続 けている
次 に、私 が、講 義 で〈定 常 〉状 態 を説 明 するのに、
「走 っても、走 っても、前 に進 めないランニングマシー
ン」の比 喩 を用 いていることを話 した。
10
ひょんなきっかけで、公 共 放 送 の教 育 番 組 を制 作 している小 さなプロダクショ
ンから、テレビ番 組 で「経 済 成 長 」について語 ってほしいと打 診 された。私 は、「テ
レビカメラの前 で私 が一 人 でしゃべっても、まったくさまにならないですよ」と暗 に断 っ
た。すると、先 方 は、「いやいや、若 手 コメディアンとチャットしてくれるだけで…」とい
う。「それじゃ、いっそう駄 目 だ。ボケも、ツッコミも、僕 には無 理 だなぁ…」と、今 度
はあからさまに断 った。そういうところまでは覚 えているのだが、そのあと、結 局 、番
組 出 演 を引 き受 けた経 緯 をどうしても思 い出 せない。なんだかわからないままに、
「経 済 成 長 」について、30 分 番 組 で 2 回 分 、テレビカメラの前 で話 すことになっ
た。
番 組 収 録 までに数 回 打 ち合 わせがあったと思 う。
最 初 の打 ち合 わせでは、当 然 のことながら、「何 を基 軸 に経 済 成 長 を論 じる
のがよいのか」が話 し合 われた。私 は、昨 日 に考 えたことだが、さも、長 い期 間 、
温 めてきたアイディアかのように、「この番 組 のお話 があってからずっと考 えてきたの
ですが、人 口 一 人 当 たり名 目 GDP ではどうでしょうか」と切 り出 した。「世 界 各 国
との比 較 からも、過 去 半 世 紀 の推 移 からも、分 析 を切 り込 みやすいから」という
のが、私 が主 張 した根 拠 だった。
スタッフたちを前 に自 分 がどのように説 明 したのかは、正 確 には覚 えていないが、
まずは、
478,368,300, 000, 000円
= 3, 757,862円/人
127,298,000人
と、机 の上 のレポート用 紙 に書 いたと思 う。左 辺 の分 子 が、2013 年 の日 本 の
名 目 GDP で、478 兆 円 あまり。その分 母 は、2013 年 10 月 時 点 の日 本 の人
口 で1億 3千 人 弱 。右 辺 は、その計 算 結 果 である人 口 一 人 当 たりの名 目 GDP
11
で、約 376 万 円 。
この 1 本 の数 式 を書 いた後 に、次 のような講 釈 を垂 れたと思 う。
2013 年 における一 人 当 たり名 目 GDP、376 万 円 は、2013 年 の平 均 円 /ド
ルレートで換 算 すると、約
3.8 万 ドルとなる。この値 が、世 界 の文 脈 で見 て高 い
か、低 いか。
まずは、名 目 GDP を日 本 と中 国 で比 較 すると、2009 年 は、日 本 が 5 兆 350
億 ドル、中 国 が 4 兆 9910 億 ドルで、日 本 が中 国 をかろうじて上 回 っていた。そ
れが、翌 年 、5.5 兆 ドル対 5.9 兆 ドルで、日 本 は中 国 にあっさりと抜 かれた。2013
年 時 点 では、日 本 が 4.9 兆 ドル、中 国 が 9.2 兆 ドルとなって、中 国 の名 目 GDP
は、日 本 の 2 倍 近 くまで膨 らんだ。
それでは、人 口 一 人 当 たりに換 算 すると、どうであろうか。2013 年 の人 口 は、
日 本 が 1.3 億 人 、中 国 が 13.6 億 人 で、日 本 の 10 倍 以 上 あった。したがって、
中 国 の名 目 GDP が高 いといっても、人 口 一 人 当 たりに計 算 し直 すと、0.7 万 ド
ル、日 本 の 3.8 万 ドルの 5 分 の 1 にも満 たない。
「他 の国 とも比 較 してみよう」といって、IMF と呼 ばれる国 際 機 関 のデータから
作 成 した 1 枚 の表 (表 1-1)を鞄 から取 り出 した。その表 は、2013 年 の人 口 一
人 当 たり名 目 GDP をドル換 算 したものの国 別 ランキングであった。そこには、各 国
の 2013 年 における人 口 の数 字 も並 んでいた。
「9 位 の米 国 よりも上 の国 は、人 口 規 模 から見 ると、とても小 さい。1 位 のルク
センブルクは人 口 54 万 人 、5 位 のオーストラリアでも、人 口 2321 万 人 」というよ
うなことをいったと思 う。
さらに、20-50 クラブの話 をした。「20」の方 は、twenty
thousand で人 口 一
人 当 たり名 目 GDP が 2 万 ドル以 上 、「50」の方 は、fifty
million で人 口 5 千
万 人 以 上 を、それぞれ意 味 している。20-50 クラブとは、人 口 が 5 千 万 人 以
上 で一 人 当 たり名 目 GDP が 2 万 ドル以 上 の経 済 大 国 のグループということに
なる。
12
表1-1: 一人当たり名目GDPの国別ランキング( 2013年、単位: 米ドル)
順位
国名
1位
2位
3位
4位
5位
6位
7位
8位
9位
10位
11位
12位
13位
14位
15位
16位
17位
18位
19位
20位
21位
22位
23位
24位
25位
26位
27位
28位
29位
30位
31位
32位
33位
ルクセンブルク
ノルウェー
カタール
スイス
オーストラリア
デンマーク
スウェーデン
シンガポール
アメリカ
カナダ
オーストリア
クウェート
オランダ
フィンランド
アイルランド
アイスランド
ベルギー
ドイツ
アラブ首長国連邦
フランス
ニュージーランド
ブルネイ
イギリス
日本
香港
イスラエル
イタリア
スペイン
バーレーン
オマーン
サウジアラビア
キプロス
韓国
51位
62位
84位
144位
ロシア
ブラジル
中国
インド
183位
コンゴ(旧ザイール)
一人当たり名目GDP(米
ドル)
110,423.84
100,318.32
100,260.49
81,323.96
64,863.17
59,190.75
57,909.29
54,775.53
53,101.01
51,989.51
48,956.92
47,639.04
47,633.62
47,129.30
45,620.71
45,535.58
45,384.00
44,999.50
43,875.93
42,999.97
40,481.37
39,942.52
39,567.41
38, 491. 35
37,777.19
37,035.26
34,714.70
29,150.35
27,435.15
25,288.71
24,847.16
24,761.31
24,328.98
14,818.64
11,310.88
6,747.23
1,504.54
397.96
前年からの
順位変化
1
1
-2
-
-
-
-
-
1
-1
1
-1
1
2
-
4
1
1
-2
2
3
-1
-
-11
-
1
-1
-
1
1
1
-3
1
-2
1
4
-2
1
人口(万人)
54
510
202
800
2,321
559
964
540
31,637
3,511
848
389
1,680
545
478
32
1,116
8,080
903
6,366
448
41
6,409
12,734
724
787
5,969
4,661
117
319
2,999
88
5,022
14,293
19,829
136,076
124,334
7,699
出所: IMF
13
日 本 経 済 は、バブル経 済 といわれた 80 年 代 後 半 に 2 つの基 準 を満 たして、
米 国 とほぼ同 じ時 期 に“豊 かな大 国 ”となった。現 在 の 20-50 クラブのメンバー
は、日 米 に加 えて独 、仏 、英 、伊 、韓 国 の 7 ヶ国 にすぎない。韓 国 は、2012 年
に人 口 が 5 千 万 人 を超 えて 20-50 クラブに仲 間 入 りした。
「確 かに“失 われた 20 年 ”と呼 ばれた、これまでの 20 年 間 、日 本 経 済 の成
長 は鈍 化 した。しかし、一 人 当 たり名 目 GDP で見 れば、日 本 経 済 は、依 然 とし
て経 済 大 国 である」というようなことを、やや力 を込 めて話 したと思 う。
なお、日 本 経 済 の 2013 年 のランキングが、2012 年 の 13 位 から 24 位 に落
ちてしまったのは、急 激 な円 安 でドル換 算 した時 の一 人 当 たり名 目 GDP が低 下
したからである。
私 が次 に鞄 から取 り出 してスタッフたちに見 せたのは、日 本 経 済 の一 人 当 た
り名 目 GDP について 1955 年 以 降 の推 移 を示 したグラフ(図 1-1)であった。
このグラフによると、一 人 当 たり名 目 GDP は、1960 年 で 17 万 円 、1970 年 で
70 万 円 、1980 年 で 205 万 円 、1990 年 で 348 万 円 、2000 年 で 402 万 円 、
2013 年 で 376 万 円 と、1990 年 代 半 ばまで順 調 に成 長 した後 に、400 万 円
14
前 後 のところを横 ばいで推 移 してきた。最 近 の数 年 は、若 干 低 下 傾 向 にさえあ
る。実 際 の番 組 収 録 では、1960 年 生 まれの私 の年 齢 を 10 年 ごとにとって、一
人 当 たり名 目 GDP の数 字 を記 した吹 き出 し 6 個 がグラフに加 えられた。
私 は、ここまできて、「1990 年 代 半 ば以 降 の一 人 当 たり名 目 GDP の動 向 を、
どのように捉 えたらよいのかを、番 組 の中 心 テーマとしたいのです」と、たたみかける
ようにいった。スタッフたちは、キョトンとした感 じだった。「どう見 ますか」と、目 の前 の
女 性 ディレクターに聞 いた。彼 女 は、「成 長 が止 まっていますね」と述 べたと思 う。
「そこなんですよ」と私 はいって、「『止 まっている』じゃなくて、『必 死 で留 まっている』
と考 えたいんですよ。専 門 的 な用 語 でいうと、停 止 じゃなくて、〈定 常 〉と考 えたい
わけですね」と続 けた。
スタッフたちが、「まだ話 が見 えない」という風 だったので、成 熟 した経 済 におい
ては、「拡 大 させようとする力 」と「縮 小 させようとする力 」がせめぎ合 って、外 側 か
ら見 ると、あたかも静 止 しているように見 えるような状 態 、経 済 学 では、〈定 常 〉状
態 と呼 ばれている状 態 が生 じるが、内 側 に入 ってみると、反 対 方 向 の力 がガチ
でぶつかり合 って、活 発 な新 陳 代 謝 が起 きている、というような説 明 をした。
スタッフからは、二 つの相 反 する力 について例 をあげるように求 められたが、「縮
小 させようとする力 」の方 は、少 子 高 齢 化 、厳 しい国 際 競 争 、技 術 の新 旧 交
代 といくつもの具 体 例 をあげることができた。しかし、「拡 大 させようとする力 」とは、
「『縮 小 させようとする力 』に拮 抗 しようとする個 人 や組 織 の意 思 」と、抽 象 的 な
言 い回 ししかできなかった。実 は、そこが、核 心 なのだけれども…
スタッフとの打 ち合 わせは、拮 抗 する力 のイメージをどのように表 すのかという点
に話 題 が移 っていった。
まずは、この話 題 にまつわる友 人 とのエピソードを話 した。以 前 、「最 近 、高 校
生 や大 学 生 の前 で『豊 かな社 会 になって気 楽 になるどころか、豊 かさを守 るため
に結 構 しんどくなる』と語 ることにしている」と友 人 に話 したことがある。その話 を聞
いた友 人 は、「『鏡 の国 のアリス』に登 場 する赤 の女 王 が語 ったように、『同 じ場
15
所 にとどまるためには、絶 えず全 力 で走 っていなければならない』のかな、私 たちの
社 会 の若 者 は…」という感 想 めいたことを述 べた。赤 の女 王 の言 葉 は、原 文 で
It takes all the running you can do, to keep in the same place.
となっている。
次 に、私 が、講 義 で〈定 常 〉状 態 を説 明 するのに、「走 っても、走 っても、前 に
進 めないランニングマシーン」の比 喩 を用 いていることを話 した。すると、大 学 時 代 、
弓 道 をやっていたという女 性 ディレクターが、「矢 を放 つ直 前 の静 止 状 態 でしょう
し
ゃ
し
か」とぽつりといった。確 かに、弓 自 体 の反 発 に必 死 に抗 して弓 を引 く 射 手
ゅ
が
静 止 している姿 は、まさに〈定 常 〉状 態 にふさわしい。弓 を放 つ直 前 の姿 は、「静
止 」という言 葉 のイメージとは裏 腹 に、力 が凝 縮 していくダイナミックなイメージが浮
かんでくる。
「赤 の女 王 、ランニングマシーン、射 手 の静 止 と、3 つも具 体 的 なイメージがあ
れば、十 分 ですね」というのが、その場 の雰 囲 気 になったが、私 は、何 の算 段 が
あったわけではなかったのに、「私 の相 方 を務 めてくれるコメディアンの M 君 からも、
何 か、言 葉 を引 き出 してみたいですね」と、口 を滑 らせてしまった。女 性 ディレクタ
ーは、「それでは、それは、撮 影 当 日 にでも」と、その場 を引 き取 ってくれた。
なぜ、番 組 打 ち合 わせの席 上 で「今 の日 本 経 済 を〈定 常 〉状 態 として考 え
てみよう」というような提 案 をしたのだろうかと、あらためて考 えてみた。
私 は、いろいろなところで、「『日 本 は、依 然 として経 済 大 国 である』という意
識 を持 ち続 けないと、日 本 が世 界 から孤 立 してしまう」というような趣 旨 のことを
発 言 してきたが、そのたびに、「今 の日 本 経 済 のどこが豊 かなのか!あるのは停
滞 だけではないか!」「政 府 ・日 銀 の経 済 政 策 のふがいなさを若 者 の責 任 に押
し付 けるつもりか!」と激 しい反 論 が返 ってきた。
こうした激 しい反 論 に接 するたびに、ランニングマシーンの例 になぞらえてみると、
ランニングマシーンで一 生 懸 命 に走 っている横 側 に立 って、「お前 (日 本 経 済 )
16
は、前 に進 んでいない(成 長 していない)」と、呑 気 な感 想 を述 べているにすぎな
いのでないかと思 ってしまう。そうではなくて、ランニングマシーンのベルトの上 で一 生
懸 命 に走 る側 に立 って、日 本 経 済 が停 止 状 態 (経 済 成 長 が失 われた状 態 )
に陥 ったのではなく、走 り続 けて、やっと同 位 置 に留 まることができる〈定 常 〉状 態
にあると、私 としては考 えたいのである。
少 子 高 齢 化 、厳 しい国 際 競 争 、技 術 の新 旧 交 代 の結 果 、ベルトがどんど
ん加 速 していくランニングマシーンにあって、その場 にとどまろうと思 えば、全 速 力 で
走 り続 けなくてはならない。走 るのをやめれば、たちまち、マシーンに弾 き飛 ばされて
しまう。成 熟 した日 本 経 済 において豊 かさを守 り続 けるとは、一 人 一 人 がこのよう
な競 争 に向 き合 うことでないであろうか。
そんな状 況 で競 争 する辛 さは、前 に進 んだ程 度 で自 分 の成 長 を確 かめるこ
とができないことである。時 には、走 っても、走 っても、前 に進 むことができない焦 燥
から、成 長 できていないように見 える理 由 を外 部 の要 因 に求 める誘 惑 に駆 られる
ことがあるかもしれない。
しかし、外 からみれば、その場 に立 ち止 まっているように見 えても、走 り続 けてい
る人 間 の心 肺 機 能 は向 上 し、脂 肪 が徐 々に筋 肉 に変 わっていく。一 人 一 人
が、自 分 自 身 の内 部 で起 きている新 陳 代 謝 を見 つめていけば、成 長 を確 実 に
確 認 していけるであろう。
私 が番 組 を通 じて若 い人 に語 ってみたかったことは、今 の日 本 の状 況 で豊 か
さを守 っていくことは、競 争 から逃 げるわけでもなく、成 長 をあきらめるわけでもないと
いう点 である。逆 に、今 の日 本 の状 況 で生 き抜 くことは、個 々人 が真 摯 に競 争
に向 き合 って、個 人 の成 長 を成 し遂 げていくことなのだと思 う。
ただ、辛 いことばかりでもない。どのように競 えばよいのか、先 輩 から教 わることも
多 い。同 輩 と切 磋 琢 磨 して走 り続 けることは案 外 に楽 しい。そうやって競 争 で培
ってきたことを後 輩 に伝 えることにも、必 ずや意 味 を見 出 せるであろう。利 己 主 義
の代 名 詞 のように受 け止 められている“競 争 ”も、“切 磋 琢 磨 ”する人 間 関 係 や
17
師 弟 関 係 と考 えれば、前 方 に違 う風 景 をながめられるであろう。
ベルトの回 転 速 度 が速 すぎるのは、もしかすると政 府 の失 政 に起 因 するのかも
しれない。しかし、政 府 が「ベルトの回 転 を止 めることができる」といえば、それは嘘
である。仮 に、ベルトの速 度 を遅 くしたいと思 えば、経 済 の流 れから遅 れることを覚
悟 して、自 分 の意 思 でベルトの速 度 を遅 めに設 定 するべきであろう。
仮 に、ベルトを停 止 させて立 ち止 まりたいと思 えば、経 済 の流 れからおいてきぼ
りにされることを覚 悟 して、自 分 の意 思 でランニングマシーンのスイッチを、しばらくの
間 、オフにするかもしれない。いずれにしても、ランニングマシーンのベルトの上 でどの
ように走 るのかは、結 局 は自 分 で決 めることなのだと思 う。
・・・というような感 想 が、講 義 や研 究 の合 間 に、ほんのときたまであるが、頭 を
よぎった。
そうこうしていると、撮 影 日 がやってきた。
「M 君 から言 葉 を引 き出 す」と、えらそうにいった私 の言 葉 を、スタッフは誰 も信
じていなかった。しかし、スタッフが気 を利 かしてくれたのか、M 君 と私 だけで、昼 食
のお弁 当 を食 べる時 間 を設 けてくれた。
最 後 のチャンスであった。
私 は、「昔 の漫 才 とは大 分 違 っていますか」と切 り出 した。M 君 がいうには、喋
くりのテンポが速 くなって、ネタの賞 味 期 限 も短 くなって、1 日 でも相 方 との練 習 を
さぼると、ライバルたちとの競 争 から振 り落 とされてしまう。それでいながら、M 君 が
所 属 する会 社 は、劇 場 の前 座 やら、商 店 街 での仕 事 やら、ドサ回 りの仕 事 や
らを次 から次 に振 ってくるから、家 に帰 るのは、いつも午 前 様 、それでも、眠 いのを
我 慢 して、練 習 に取 り組 むそうだ。
「そうだと、師 匠 の家 に住 み込 みで『まずは、雑 巾 がけから』というわけにはいき
ませんね」と聞 いた。M 君 は、今 の若 手 コメディアンには、師 匠 と呼 ばれる指 導 者
がいなくて、録 画 した映 像 から、人 の仕 事 を盗 んで、技 量 を磨 くというようなことを
18
いった。「そうですか、そうであると、今 の若 いコメディアンの方 が、先 輩 たちよりも、
う
技 量 が
上
え
ってことはないですか」とさらに聞 くと、「それはもう」とはっきりいったよう
にも思 った。しかし、M 君 は、すかさず、「いやいや、○○兄 さんには、かないません」
と、私 でも知 っている有 名 な芸 人 の名 前 をあげて、○○兄 さんの芸 のスゴミを語
ってくれた。
昼 食 の終 わりぎわに、「昼 からの収 録 では、今 しがたチャットしたような話 題 も少
し話 しましょう」と M 君 にいうと、「ええ」と言 葉 を濁 した。〈定 常 〉状 態 とは若 干 ニ
ュアンスが違 うが、最 初 から非 常 に高 いレベルを要 求 される若 手 コメディアンが
日 々必 死 でもがく姿 が、1990 年 代 半 ばにすでに高 みに達 した日 本 経 済 で若
者 たちが必 死 に踏 ん張 っている姿 と重 なったからである。
番 組 の収 録 も順 調 に進 んで、前 もって準 備 した材 料 をほぼ消 化 したところで、
私 は、M 君 に向 かって、「今 の若 手 コメディアンの方 が、技 量 が上 ということはあり
ませんか」と聞 いてみた。M 君 は、昼 食 で話 題 にしたことにはいっさい触 れずに、
「なんでもかんでもしなければならないので、仕 事 の幅 が広 くなったということはある
かもしれませんね」とだけいった。諸 先 輩 への配 慮 だったのだと思 う。私 も十 分 に
そのことが分 かったので、話 題 を転 じていった。
M 君 は、収 録 の最 後 のところで、「人 生 は、リーグ戦 、不 戦 勝 ってないんです
ね」という言 葉 で、長 かった 1 日 の収 録 内 容 をまとめてくれた。
最 初 へ
19
第 1 篇 への解 題
「私 たちは、止 まっていても走 り続 けている」では、テレビ出 演 をされた戸 独
楽 先 生 がかなり饒 舌 に語 られているので、私 が屋 上 屋 を重 ねる必 要 もないで
あろう。解 題 はできるだけ簡 単 にしてみよう。
ただ、テレビ番 組 の素 材 として用 いられた「ドル表 示 の一 人 当 たり名 目
GDP」については、2013 年 時 点 の国 際 比 較 だけでなく、時 系 列 的 な推 移 も
見 ておきたいと思 う。といっても、一 枚 のグラフに数 多 くの国 をのせるわけにはい
かないので、日 本 、米 国 、中 国 の推 移 を図 1‐A1 にまとめておこう。
非 常 に興 味 深 いのは、日 本 も、米 国 も、1987 年 に一 人 当 たり名 目
GDP が 2 万 ドルを超 え、同 時 に 20-50 クラブ入 りをしているというところであ
ろう。その後 の一 人 当 たり名 目 GDP は、1990 年 代 に日 本 が勝 り、21 世
紀 に 入 る と 米 国 が 勝 っ て い た 。 日 米 の 格 差 は 、 2 0 11 年 ご ろ に い っ た ん 狭 ま っ
たものの、2013 年 は円 安 で格 差 が広 がった。
テレビ番 組 では、「拡 大 していく力 」と「縮 小 していく力 」が釣 り合 って静 止
しているようにみえる〈定 常 〉状 態 をどのように表 現 するのかをめぐって、いくつか
20
の比 喩 があげられている。たとえば、『鏡 の国 のアリス』の赤 の女 王 の言 葉 を引
いたり、ランニングマシーンを引 き合 いに出 したり、弓 を射 る直 前 の緊 張 にたと
えたりと、なかなかに多 彩 である。
戸 独 楽 先 生 は、以 前 、市 民 向 けの講 演 で〈定 常 〉状 態 の比 喩 をめぐっ
て、いろいろなたとえを話 したら、講 演 を聴 いた方 からお手 紙 で、「ヘリコプター
のホバリング」という新 たな提 案 をもらったそうである。先 生 から教 えてもらった
が、ホバリングとは、ヘリコプターが上 に浮 揚 しようとする力 と落 下 しようとする力
がちょうど釣 り合 って、空 中 で停 止 している状 態 なのだそうだ。このホバリング
は、ヘリコプターの運 転 技 術 としてももっとも高 度 なものだという点 が、この比 喩
の味 噌 なのかもしれない。
先 生 は、次 のような話 もされていた。「〈定 常 〉状 態 の説 明 は、講 義 でも苦
労 するところ。数 式 を主 軸 に説 明 していくと、どうしても、『停 止 』のイメージが
勝 ってしまう。かといって、あまり修 辞 を重 ねると、ロジックとレトリックのまた裂 き
が生 じてしまう。たとえば、講 義 で『“静 ”の中 に“動 ”をみつめないといけない』
なんていうと、経 済 学 なのか、禅 問 答 なのか区 別 がつかなくなるな」
先 生 によると、〈定 常 〉状 態 に積 極 的 な意 味 を最 初 に見 出 したのは、19
世 紀 の経 済 学 者 、ジョン・スチュアート・ミルなのだそうだ。J.S.ミルの主 著 作
の一 つである『経 済 学 原 理 』には、〈定 常 〉状 態 に関 する考 察 が展 開 されて
いるのだそうである。
先 生 がそんなことを話 されていたおりに、先 生 のお知 り合 いだという齊 藤 誠
先 生 (戸 独 楽 先 生 と齊 藤 先 生 がどの程 度 にお知 り合 いなのか、私 にはまっ
たく見 当 がつかなかったが…)が、日 本 経 済 新 聞 に「危 機 ・先 人 に学 ぶ:
J.S.ミル」という連 載 を日 本 経 済 新 聞 に寄 せられていた。2012 年 6 月 8 日
朝 刊 掲 載 分 「定 常 状 態 は停 止 状 態 ではない」は、まさに〈定 常 〉状 態 に関
するものだった。
21
第 3 回 :定 常 状 態 は停 止 状 態 ではない
『経 済 学 原 理 』の第 4 編 で Of the Stationary State と題 された第 6 章
は、日 本 の学 説 史 家 の間 で「定 常 状 態 」でなく「停 止 状 態 」と翻 訳 されて、
ずいぶんとネガティブな印 象 を読 み手 に与 えている。
ミルが理 論 面 で依 拠 したリカードたちも、資 本 の収 益 率 が低 下 し、資 本 蓄
積 が停 止 した経 済 状 態 を否 定 的 に捉 え、強 く嫌 悪 した。彼 らの間 では、(経
済 的 な望 ましさ)=(進 歩 的 な状 態 )という発 想 が支 配 的 だったからである。
しかし、ミルは、定 常 状 態 をずいぶんと肯 定 的 に捉 えていた。彼 は、経 済 的
活 力 が失 われて、経 済 全 体 が停 止 した状 態 としては捉 えていなかった。
ミルの定 常 状 態 に対 する理 解 は、現 代 のマクロ経 済 学 の理 解 とほぼ同 じ
である。すなわち、資 本 蓄 積 の定 常 状 態 は、資 本 蓄 積 が停 止 したのはなく、
資 本 を積 み上 げていく力 と、資 本 が取 り崩 されている力 がちょうど均 衡 した状
態 を指 している。ミルは、あたかも静 止 しているように見 える定 常 状 態 において、
経 済 の新 陳 代 謝 を見 出 していた。
このように理 解 したミルは、定 常 状 態 に達 した経 済 で収 益 率 の低 い生 産
資 本 に資 源 を投 じて無 理 に経 済 成 長 を図 っても、せいぜい低 賃 金 労 働 者
を養 うだけだと喝 破 した。また、資 源 が投 機 に浪 費 されやすいことも指 摘 した。
ミルは、希 少 な資 源 を非 効 率 な投 資 に浪 費 するぐらいならば、人 々にとって
必 要 な公 的 支 出 に充 当 する、あるいは、技 術 革 新 の原 資 とする方 がかえっ
て経 済 厚 生 を高 められるとさらっと書 いている。
もちろん、ミルは、人 間 の幸 福 の基 盤 となる物 質 的 な豊 かさを軽 んじたわけ
ではない。人 々が競 争 をして豊 かになる過 程 を道 徳 的 に非 難 したわけでもな
い。
22
また、ミルは、社 会 全 体 の経 済 状 態 のいかんにかかわらず、人 間 には精 神
的 に進 歩 していく十 分 な余 地 があることを指 摘 している。
ミルのしなやかな筆 致 の文 章 に接 すると、経 済 全 体 の豊 かさは、人 間 の幸
福 の必 要 条 件 にすぎず、豊 かな経 済 環 境 から幸 福 を着 実 に引 き出 していく
には人 間 としての成 熟 が必 要 であるとやんわり諭 されているように思 ってしまう。
齊 藤 先 生 の連 載 では、『経 済 学 原 理 』だけでなく、J.S.ミルのもう一 つの
主 著 作 である『自 由 論 』についても論 じられていた。特 に、6 月 14 日 朝 刊 掲
載 分 「ミル流 ・言 論 の作 法 」がとても印 象 深 かった。第 1 篇 の論 旨 とまったく
関 係 がないが、ここに引 用 しておく。経 済 政 策 であれ、他 の政 策 であれ、公 の
場 所 における政 策 論 争 の節 度 は、私 たち一 人 一 人 が身 につけなくてはなら
ない作 法 みたいなものだと思 う。
第 6 回 :ミル流 ・言 論 の作 法
『自 由 論 』の第 2 章 は、個 性 豊 かな多 くの個 人 が自 由 闊 達 に議 論 でき
る思 想 の自 由 こそ必 要 であることを語 っている。その章 を手 短 にまとめると、いさ
さか味 気 がない。
①
無 謬 な人 間 などいない。
②
人 間 は議 論 と事 実 によって自 分 の誤 りを改 めることができる。
③
言 論 の自 由 の原 則 が適 用 できない例 外 的 なケースなどない。
しかし、ミルの文 章 に直 に触 れていると、彼 のユニークさを随 所 に見 つけ出
すことができる。彼 は、やや逆 説 的 に、異 端 の意 見 でなく正 統 の意 見 にこそ、
言 論 の自 由 が必 要 であると主 張 している。
23
ミルは、経 済 の定 常 状 態 を見 つめたのと同 じ眼 差 しで、正 統 的 な議 論 が
支 配 的 な状 況 においても、異 なる意 見 が盛 んに取 り交 わされてはじめて、正
統 の意 見 が社 会 に定 着 するというダイナミズムを見 出 していた。
曰 く、「正 統 的 な意 見 を支 持 する結 論 に達 するもの以 外 の議 論 をすべて
禁 止 したとき、そのためにものごとを考 えなくなり、知 性 がとくに堕 落 するのは異
端 者 の側 ではない」と。
また、正 統 の意 見 を持 つ人 がさまざまな反 対 論 にもまれて、自 分 自 身 の意
見 に確 固 たる信 念 を抱 かないと、「反 論 ともいえないほど根 拠 薄 弱 な反 論 を
受 けただけで屈 伏 することになりやすい」と述 べている。
要 するに、活 発 な論 争 がないと、正 統 な意 見 の根 拠 も、その意 味 も忘 れ
去 られてしまうのである。
ミルは、建 設 的 な議 論 に多 数 の知 的 エリートの関 与 が必 要 不 可 欠 である
ことも指 摘 している。「手 強 い反 対 意 見 を論 破 する立 場 にある哲 学 者 や神
学 者 は、反 対 意 見 のうち、とりわけ論 破 しにくいものを熟 知 していなければなら
ない」と述 べている。
ミルの言 論 の作 法 を端 的 に表 す箇 所 を以 下 に引 用 しておこう。「どのような
意 見 を持 っている人 であっても、反 対 意 見 とそれを主 張 する相 手 の実 像 を冷
静 に判 断 して誠 実 に説 明 し、論 争 相 手 に不 利 なることは何 ひとつ誇 張 せ
ず、論 争 相 手 に有 利 な点 や有 利 だと見 られる点 は何 ひとつ隠 さないようにして
いるのであれば、その人 に相 応 しい賞 賛 を与 える。以 上 が、公 の場 での議 論
にあたって守 るべき真 の道 徳 である」
(参 考 文 献 )
ジ ョ ン ・ ス チ ュ ア ー ト ・ ミ ル 著 、 山 岡 洋 一 訳 、 2 0 11 、 『 自 由 論 』 、 日 経 B P 社 。
24
【本 篇 で用 いた図 表 】
◎ 表 1、図 1
◎ 図 A1
最 初 へ
Fly UP