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Column 01 自 動車 安 全と技 術 の 歴 史 はじめに 現 在 の 自 動 車 の 祖 先 に あ た る、 人 工 動 力 で 走 る 世 界 最 初 の 移 動 機 械 は、 試 運 転 で 事 故 を 起 こ し、 自 動 車 事 故 第 一 号 と い う 不 名 誉 な 記 録 を 残 し て い る。 こ の コ ラ ム で は、 自 動 車 の「 は し る 」 と い う こ と を、 こ の 事 故 の 原 因 を 探 る こ と を 手 始 め に、 速 く 走 る た め の 努 力 や、 安 全 で 運 転 し や す く す る 技 術 な ど、 さ ま ざ ま な 面 に 光 を あ て て、 走 る こ と を 支 配 し て い る 物 理 法 則 に 基 づ い て、 わ かりやすく説明していきたい。 第一章 自動車事故第一号 馬車と自動車の走行原理 P.4 自動車で、何が一番大事か P.6 馬車馬を喜ばしても・・・ P.8 馬車から自動車レースへ P.10 自動車には使えない P.12 タイヤは何故黒いか P.14 P.16 自動車事故第1号 図1 図2 キュニョーの砲車:1771 年修復後の 2 号車:パリ工芸博物館展示 出典:own work. Avec l'aimable permission du Musee des Arts et Metiers, Paris. 作者:Photo et photographisme © Roby. Grand format sur demande 壁への衝突の絵。人間と比べた車両の大きさがわかる。 最初の「自動車」は ( の蒸気三輪車 ) の三輪車だった。(図1) 。 する、 前一輪駆動のフロントエンジン・フロントドライブ ニョーが1769年に開発した、蒸気機関を動力と 搬 するために、 フランスの軍 事 技 術 者ニコラス・キュ 史 上 初の事 故 を 起こした 移 動 機 械 は、大 砲 を 運 F F の無念さを思うと、 同情の念を禁じえない。 戦し、 その奮 闘が成 果に結びつかなかったキュニョー 以上昔に、 蒸気機関車に先駆けてトラック作りに挑 車 技 術の開 発 を仕 事にしてきた筆 者は、 200年 い試練だと言ってしまえばそれまでだが、 長年自動 識に欠けていたのだ。これは、 先駆者には避けられな ことと「止まれる」ことが同様に大切であるとの認 「走れる」だけでは十分でなく、自在に「曲がれる」 たものと想像できる。クルマを実用に使うためには ようにする事だけに頭がー杯であったために起こっ この出来事は、 製作者が、 クルマを自前の力で走れる している。(図2) 。 しきレバーを、体 重をかけて引いている図 版が流布 操作をしており、 車の脇から助手がブレーキとおぼ にして、 運転手がハンドルに相当するレバーを必死に 石畳の上を走っているクルマの上で、 石作りの塀を前 てしまったと伝えられている。 はじめての試運転で事故を起こし、結局廃車になっ しかし、 構想は優れていたが、 キュニョーの蒸気車は、 はじめての試運転での事故 F F 図 1:ロンドンで火災現場に駆け付ける消防馬車 (出典)講談社発行「世界の博物館 8 ロンドン科学博物館」 30 ページ(部分) 図 2:キュニョーの蒸気車の車輪の構造 木製車輪に鉄板が巻かれていた (出典)Jupiter Books(London)LTD. “Powered Vehicles” pp.145(部 馬車は実用になっていた 自動車が実用になるずっと以前から、 人々はクルマを 馬に引かせて使っていた (図1) 。この馬車は、 スピード が遅かったとはいえ、 十分に実用になっていたのだから 「曲がる」 「止まる」性能には問題がなかった。 それでは、 馬車より早い速度が出たとは思えないキュ ニョーの蒸 気三輪 車は、 なぜ「 曲がる」 「 止 まる」の性 能が十分でなかったのだろうか。その理由は、 自動車 と馬 車 とでは、走るための基 本 原 理が異なるからで ある。 走行の基本原理 馬 車では、馬が路 面を蹄で蹴ったり、踏ん張ったりし て、 クルマを行 きたい方向へ引っ張ったり、止めたりす る。馬車の車輪は、 ただクルマの重量を支えて、 馬の動 きにつれて転がればよかった。ところが、 蒸気三輪車の 車 輪は、重 量を支 えるほかに、車 輪 と路 面 との接 触 部分で、 前輪ではクルマを引っ張る力を、 後輪ではクル マを止める力を作り出さなければならなかった。 すべりやすい木製車輪 ところが、外 周に鉄 板を張りつけただけの木 製 車 輪 タイヤの出現を待たねばならなかった。 自動車が馬車を凌ぐ走行性能を獲得するのは、 ゴム かった。キュニョーは、 これに気付かなかったのだろう。 が引く軽量な馬車には、 俊敏さでは、 はるかに及ばな は、 地面に引っ掛かりやすい蹄鉄をつけた四本脚の馬 めの力 を、すべりやすい車 輪に頼る重い蒸 気 自 動 車 の操縦は不可能であった。クルマの運動を制御するた 作れないので、 クルマの運動は極度に緩慢になり、 自在 ( 図2)は、 石 畳では特にすべりやす く、十 分な力 を 分)) 馬車と自動車の走行原理 図1 図2 自動車では最大級の 4450 馬力のエンジンを搭載している。 p.27 自動車で、何が一番大事か 図1 図2 図 2:走行後の CN7 のタイヤ 時速 403.13 マイルの速度記録樹立後、きわどいところで大惨事を免れた、身の毛のよだつ タイヤ 図 1:速度の世界記録に挑戦したブルーバード CN7 号(1964 年) の状態に驚くドナルド・キャンベル(左から 2 人目) 出典:R. M. Clarke compiled “The Land Speed Record” BROOKLANDS BOOKS LTD. Part5 ネズミの嫁入り 話はそれるが、「ネズミの嫁入り」という昔話をご存 じのことと思う。ネズミの親が、 大事な娘の婿に、 世 の中で一番 強いものを探 す 話である。最 初の候 補の 太陽は雲に遮られ、 雲は風で押し流され、 風を阻む 壁はネズミに食い破られるので、結 局 ネズミの嫁に なるという、 楽しいが、 どこか教訓的な話である。 こんな話を持ち出したのは、 これを真似て、 自動車で 一番大事なものは何かを考えてみたいからだ。 エンジン すぐに思いつくのはエンジンだろう。文字通り自分で 動くクルマができたのは、 エンジン (広い意味での原動 機) が実用化されたからであり、 自動車が速く走れ るようになったのも、 エンジンの性能が向上したから だ。だから、「エンジンが一番大事だ」と考える人が多 いだろう(図1) 。 ブレーキ しかし、自 動 車を安 全に走らせるには、突っ走るだ けではだめで、速度を落としたり、短い距離で止ま ることが必要なことに気づいた人は、「ブレーキの方 が重要だ」と主張するだろう。事実、 レーシングカー では、 ブレーキの性能が不十分では、 馬力の大きなエ ンジンを積んでも、 その能力を十分に生かすことは できない。 タイヤ だが、 そ う 結 論づけるのは、ちょっと待ってもらいた い。 エンジンも、 ブレーキも、その力が確 実に路 面に 伝 わらなければ、どんなに高 性 能でも 役に立たな い。その役割を担うタイヤの性能こそが、 エンジンや ブレーキはおろか、 乗員の生殺与奪の権限を握って、 自動車の走行性能とその安全性を支配しているのだ (図2) 。タイヤが一番大事なのだ。 図2 tyre.gif 図3 典: http://www.mearns.org.uk/stonehaven/images/ 出 1898 年世界初の速度記録、時速 63 キロを樹立 ソリッドではあるが、ゴムタイヤならではの成果である 図 3:ダンロップが最初に試作した空気入りタイヤを再現した 図 2:トムソンの空気入りタイヤ特許の図 実用化できなかった理由は、チューブ用の薄いゴムの生産が できなかったこと、と考えられている。 図 1:ジャントーの電気自動車(仏) 夫婦喧嘩がゴム質を改良? コロンブス一行がゴムをヨーロッパに紹介し、産業革命 になると、さまざまなゴム製 品が作られるように ” から “ ” なった。ゴムが鉛筆の字消しに使えることから、そ の擦る動作の “ r u b b e r 、 悪路では れることはなかった。 た。 程度になると主張した。し すべての自 転 車 を空 気 入 りタイヤに替 えてしまっ 空気入りタイヤの製造を本格的に始め、 間もなく、 とが縁 となって、 ダンロップは、兄 弟の父 親の出 資で ドタイヤで無敵を誇っていたデュクロ兄弟を破ったこ た。無 名の選 手が、空 気 入りタイヤで、当 時、 ソリッ ころがり抵抗が少ないことを宣伝する努力を続け 彼は、自 転 車レースを利 用して空 気 入 りタイヤの 良くするために、空気入りタイヤを作った (図3)。 が、 息子のソリッドタイヤ付き三輪車の乗り心地を その40年ほど後、 やはり英国で、獣医のダンロップ ダンロップの 戦略 なかった」と書いているように、 この発明は実用化さ の発 明のすばらしさを世の中に広めることは出 来 は馬車を引く馬だったので、 口がきけない馬では、 そ かし、或る歴 史 研 究 者が、「この改 良を最 も喜ぶの 2 / 3 イヤを使 えば、 ころがり抵抗が、 なめらかな路面で フランスと米国でも認められた (図2) 。彼は、 このタ 思いついた。彼の特許は1845年に英国で、続いて り心地を改良する狙いで空気入りタイヤの使用を 英国のトムソンが馬車の牽引力を減らし、 同時に乗 馬車馬を喜ばしても・・・ るようになった(図1) 。 熱することで、ゴムの物性が安定してタイヤに使え きっかけだった、という話もある。 硫黄を入れて加 嘩で、投げたゴム片がストーブで過熱されたことが 幾つか流布しているが、研究熱 心が原因の夫婦 喧 が、偶然、この改良に成功した。 そのエピソードは 安定な物性だった。1839年、 米国のグッドイヤー 当時のゴムは、高温でべとつき、低温で硬化する不 という名前が生まれた、と言われている。 しかし、 r u b 1 / 4 P R 出典:R. M. Clarke compiled "The Land Speed Record"BROOKLANDS BOOKS LTD. Part1 p.15 もの 馬車馬を喜ばしても・・・ 図1 出典:馬庭孝司「タイヤ―自動車用タイヤの知識と特性」山 海堂 17 ページ 馬車から自動車レースへ 図2 図1 図 2:1899 年史上初めて時速 100 キロの壁を破った電気自動車 “ 決して満足しない ” 号(ベルギー) 図 1:空気入りタイヤを付けたプジョー車とミシュラン兄弟 この世界記録樹立には、ミシュランの空気入りタイヤの貢献が大きい。 二人は空気入りタイヤの宣伝のため 1 2 0 0 キロのレースに挑戦した 出典: R. M. Clarke compiled “The Land Speed Record”BROOKLANDS BOOKS LTD. Part1 p.16 出典:日本放送出版協会発行「自動車―人間は何を作ってきたか (2) 交通博物館の世界―」 103 頁 3時間でも修理が終わらない 祖 父の始めたベルトやホースの製 造 会 社の経 営 危機を救うため、 ゴムの知識がほとんど無かった兄 が、画家を志していた弟を説得して、 二人で会社を 引き継いだミシュラン兄弟は、 ビジネスの新しい方向 を模索していた。 パンクした自 転 車が そんな1889年のある日、 牛車で工場に運び込まれてきた。そのタイヤはダン ロップの考案した空気入りだった。自転車乗りを助 けようと、 新しいタイヤに興味を持った工員が3時 間奮闘したが、 タイヤが接着剤でリムに貼りつけら れていたため、 修理は終わらなかった。 2分で修理可能に やっと 修 理を終 えた自 転 車を試 乗して、 弟が、 空気入りタイヤの快適さ、 操縦のし易さ、 速さに驚 嘆した。彼はその将来性に気づき、 修理が容易なタ イヤを開発する決心をした。 1891年には、 15分で修 早速研究に着手し、 理ができる取り外し可能な空気入りタイヤを考案 し、 翌年には、 パンク修理に2分しかかからないタイ ヤを開 発した。1200キロの自 転 車レースでは、 ミシュランタイヤのライダーは5回パンクしたが、 そ れでも2位に8時間の差をつけて優勝した。 馬車から自動車レースへ ミシュランの空気入りタイヤはパリの 1894年、 辻 馬 車に採 用される。試 験 的に使った5台の馬 車 が、 改善された乗り心地で、 他の御者から嫌がらせ を受 けるほど多 くの客 を獲 得したので、間 もなく 600台のパリの辻 馬 車にミシュランタイヤが取 り 付けられた。 兄弟(図1)自ら、 空 気 入り 1895年6月には、 タイヤを付けた“稲妻 ”号を運 転してパリ―ボル ドー往復1200キロのレースに出場した。このレー スでは、出 走22台 中フィニッシュしたのは9台だっ た。稲妻号は、 100時間の所要時間制限を超えて しまったが、 これが、 ミシュランタイヤのその後の自動 車での成功(図2) の出発点とな っ た 。 図2 自動車には使えない 図1 図 2:ウエルチが発明したビードワイヤーと U 字形リムの組合せ 出典:馬庭孝司「タイヤ―自動車用タイヤの知識と特性」山海堂 18 ページ 図3 図 3:現在の乗用車で使われているビードワイヤータイヤのド 図 1:ミシュラン兄弟の稲妻号 ロップセンターリムへの組み付け方法 ミシュラン兄弟はプジョー車を改造して、空気入りタイヤを付けた競走車エクレール(稲妻)を作った ビードの反対側をドロップセンターに落とすと、手前のビード 出典:エリック・エッカーマン著 松本廉平訳 「自動車の世界史」グランプリ出版 56 頁 はフランジを乗り越えられる。 両方のビードを嵌めて、空気を入れるとビードが定位置に収 まって、組み付け作業は完了する 稲妻は稲妻でも 1895年のパリ―ボルドー往 復1200キロの レースは、自 動 車の歴 史 上、最 初の本 格 的なレース だった。ミシュラン兄弟が雷光のように速い稲妻号で それに挑戦した、と考 えるのは早合点で、 その呼び 名は、 ハンドルがふらふらして真っ直ぐに走れず、稲 妻のようにジグザグに走るところから名付けられた そうだ (図1) 。 そのためか、誰 もドライバーのなり 手がなかった ので、兄 弟は、自 分たちで乗らざるを 得 なかった。 チューブを22本用意した備 えはよかったが、 パンク は予想以上の100回近くを数えた。 自動車には使えない いくらパンク修理が簡単にできると言っ これでは、 ても、 レースにならなかった。しかし、 兄弟は、 制限の 100時 間は超 えてしまったが、意 地を見せてゴー ルにたどり着いた。 ミシュラン兄弟の所要時間の半分以下の49時間弱 で優勝したドライバーが「空気入りタイヤは自動車 には使えないだろう」と言ったそうだ。しかし、 ミシュ ラン兄弟は「10年もすれば、 みんな空気入りタイ ヤになる」と反論している。 この予言は誤りだった。気が付いてみれ ところが、 ば、 5年 後には大 多 数の自 動 車が空 気 入りタイヤ を使っていた。 のびないタイヤを嵌める 空 気 入りタイヤの問 題 点であるリムへの取り 付 けで、 金具とネジでリムに止めるミシュランタイヤの 方法より、 さらに優れたアイデアが現れた。それは、 タイヤの縁に鋼 線(ビードワイヤ)を埋め込 むこと で、余分な部品を無くしてしまったのだ。鋼線は伸 びないので、 それまでのリムでは嵌めることはできな い。この問 題は、 リム断 面の中 央 を凹ませる工夫で 解決された (図2) 。 このウエルチによる発明でタイヤの基本構造が完 成し、 この組み付け方法は、 現在、 すべての乗用車用 タイヤで使われている (図3) 。 図2 タイヤは何故黒いか 図1 図 2:米国でのタイヤ断面の変化 1920 年代後半に、“ バルーンタイヤ ” と呼ばれる低圧・大断面タイヤが普 及して、自動車の高性能化を推進した。 図 1:平織りからすだれ織へ 織らない並行な繊維だけの布では、バラバラで取り扱えないので、実際は、 図3 出典:樋口健治「自動車技術の事典」朝倉書店 301 頁(部分に加筆) ところどころ細い横糸で織ってあり、すだれのような外観から “ すだれ織 ” と名付けられている。 (出典)http://www.ryomomaruzen.co.jp/tire07.htm 図 3:バルーンタイヤ装着のクライスラー(1925) バルーンタイヤを付けたクルマは「世界で最も安全」の キャッチフレーズで宣伝された。 出典:折口透「自動車はじめて物語」立風書房 120 頁 タイヤが黒い理由 それまで、強 度を増し摩 耗を減 タイヤのゴムは、 らすために、増 量 を兼 ねて炭 酸カルシュームやタル ク、酸 化 亜 鉛などの、白い充 填 剤・添 加 剤が加 えら れていた。 イギリスのゴム会 社で、種 類を識 別 する ある時、 ためにカーボンブラック ( 煤 )を混ぜてゴムを黒 くし たところ、 その強度と耐摩耗性能が10倍にもなっ ていることを、偶然に発見した。 それは1912年 のことで、それ以 来 、 タイヤはすべて黒 く なってし まった。ゴムには、必ず、 カーボンブラックが充填され るからである。 織らない織物? チューブの圧力に耐 える強度が必要 タイヤには、 である。その強 度は、 カバーの芯 となる粗 く 織った 麻や綿の帆布、 キャンバスが受け持っていた。しかし、 キャンバスは、 縦糸と横糸が互い違いに交差している 平 織りなので、伸 縮 すると擦れて切れやす く、 ゴム の摩 耗が少なくなっても、 タイヤの寿 命は2000 ~3000キロだった。 これを改善する画期的な発想が1920年頃に 現れた。それは、縦 糸と横 糸を織らずに、 そのまま 重 ねて、 ゴムで接 着 するという、糸 同 士が擦れない “ すだれ織 ”( 図1) の構 造である。これが適 用さ れて、 タイヤの寿命は飛躍的に向上した。 自転車の呪縛 自 動 車に空 気 入りタイヤが使われるようになっ ても、 タイヤは、依 然 として細いままだったので、空 気圧が高く、 接地面積は自動車の重量に対して不 十 分だった。 タイヤを太 く すれば、空 気 圧を下 げ て接地面積が大 きくできる (図2)。そうすればグ リップが向上して、 ブレーキ性能とコーナリング性能 がともに高まり、 しかも乗り心地は良くなる。この コロンブスの卵のような発想が実行に移されるのは、 1920年代後半の“バルーンタイヤ”の出現まで 待たなければならなかった (図3) 。 自動車は、 やっと この自転車の呪縛からの解放で、 安心して高速で走れるようになった。 著者 : 佐野彰一(東京電機大学理工学部 客員教授・自動車技術会 名誉会員) 1937年東京に生まれる。東京大学航空学科を卒業して僅か4年目、 26歳の時、 突然、 F1のボディ設計を命じら れる。Hondaは、 1964年に始まる第一期F1を、 ロータスにエンジンを供給するエンジンサプライヤーとして戦う予 定だったが、 そのシーズンが始まる1964年1月に、 ロータスから“エンジンは他社製を使う。悪しからず”との電報 が届き、 急遽、 自社製シャシーを作らなければならなくなった。 急ごしらえで仕上げたRA271は、 重く、 整備性も悪かったが、 徐々に熟成を進め、 翌1965年の最終戦、 1,500cc 最後のメキシコGPで念願の初勝利を飾った。 その経験を生かし、1967年にはイタリアGPでデビュー優勝を飾るRA300の足周りを設計、 さらに1968年には、 先進的なアイデアを盛り込んだ空冷のRA302のテクニカルディレクターを務めた。1968年までF1を戦った後は、 1300クーペのプロジェクトリーダー、 4WSやASV(先進安全自動車) の研究開発を行なう。 Hondaを退社した現在は、東京電機大学で自動車工学の教鞭をとっている。Hondaの第二期F1時代、 ウイリ アムズにアドバイスして、 リヤサスペンションの問題を解決、 連勝への足がかりとしたことも。 温和な人柄とは裏腹に、 毅然とした自信を持つ生粋のエンジニアである。