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第5回 - 京都市景観・まちづくりセンター

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第5回 - 京都市景観・まちづくりセンター
京のまちづくり史セミナー ⑤東本願寺界隈を歩く 境内・寺内・町と道の変遷を知る
平成 22 年 11月 20 日(土) 14:00~16:00
講師:岸泰子氏 (九州大学大学院芸術工学研究院准教授)
「第5回 京のまちづくり史セミナー」は、岸泰子氏をお
迎えし、「東本願寺界隈を歩く-境内・寺内・町と道の変遷
を知る」をテーマにお話しをいただきました。
中世から近代にかけて様々な変化を遂げてきた東本願寺
界隈の<境内>、<寺内>、<町>などの都市の特性を表す
概念を学び、寺院周辺の道の変化や特性についてご説明いた
だきました。
その後で、実際に岸氏と一緒に東本願寺界隈を歩き、東本
願寺界隈の町や道に残る歴史の跡に触れました。
境界(家、領域、都市、国など)の形成、③生活空間(巷所、
辻子、トイレ、井戸、店など)の創出という役割を持ってい
ます。それのみならず、防衛機能(御土居や総構えなど)や
道幅を広げることにより防火機能も有し、さらに、
「舞台」
(祇
園祭等の祭礼の場やそれを見学する場)としての機能を持っ
ています。それ以外にも、町家の「しつらい」(桟敷など)
、
町の警備の場(武家の配置)などがあり、つまり「道」は町
や集団の結束を確認する場としての多様な役割を持ってい
るということになります。
③東本願寺の事例
本願寺は、天正 19 年(1591)に大阪天満より移ってきまし
た。慶長 7 年(1602)に西本願寺と東本願寺が別れています。
さらに、寛永 18 年(1641)には、土地が寄進され、渉成園
もできました。
御影堂と渉成園の位置は現在と変わりませんが、東本願寺
を中心に寺内町が広がっています。寺内町は本願寺が大阪か
ら移ってきたときに住民も移ってきたところです。その後、
寺内町は東に広がり今の範囲となっています。
住人の仕事(西寺内の場合)は、「商業」では、仏具屋が
多くみられます。また「工業」では、大工が一番多くみられ
ました。そして、これらの集団は互いに仲間(仏具屋仲間、
数珠屋仲間など)を形成して商売を行っていました。
また、寺内の区別としては、「新寺内」と「古寺内」があ
ります。
「新寺内」は寛永 18 年に寄進した土地に新たに開か
れた町です。それ以前からある町は「古寺内」と呼ばれてい
ます。この「新寺内」と「古寺内」の区分には、実は本願寺
との関係の深さも要因となっていると考えられます。
■ 講演概要
④「寺内町」の機能と役割
①「境内」と「寺内」の概念
辞書によると、「境内」とは敷地の境界の内側のこと、特
に神社や寺院の敷地の内側のことを示すということになっ
ています。また、「寺内」とは寺の建物の中のこと、または
寺の「境内」のこととされています。
実は「境内」と「寺内」は、用語の使い方としてあまり違
いはなく、ともに空間の区切りとしての意味を持っています。
ただし、伊藤毅氏によれば、
「境内」と「町」は、中世の都
市をもっと広範囲に類型化するときに使う概念と説明され
ています。つまり、「境内」とはある一定の権力者の中心核
があって、それを中心にして武士や家臣が囲うように住む同
心円状の空間概念のことをいい、その構成に一種のヒエラル
キーが存在するとされています。一方、「町」は、線状に配
置されたある均等な集団が一体化したもので、その構成にヒ
エラルキーは存在しないものとされています。
江戸城とか二条城を考えるとわかりますが、城があってそ
の周りに武家が住み、その周りに町民が住むという空間構造
があります。これが「境内」の概念です。
②道の役割
「境内」の概念形成に「道」の存在は重要です。「道」は
①交通・流通を担う空間(街道、大路、小路、水路など)②
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寺内町の構成について、享保期には二名の「町代」がいる
ことが分かっています。また、各町は「町年寄」を中心にし
て町政運営がなされていましたが、そこに町組が置かれてい
たかどうかは不明です。
行政機能としては、町役所が設置され、京都町奉行所支配
とは別に本山が任命した町奉行が居ました。
また、東本願寺の寺内町においても「寺内」と「境内」は
あまり明確な違いはなく、ほぼ同じ空間概念であったと思わ
れます。
「寺内」の役割としては、寺務の執行を担保する役割をは
じめ、非常時において本山に駆けつける役割も果たしていま
した。また「宗学研究」の拠点ともなったり、止宿(参詣者
用の宿屋)としての役割も果たしたりしていました。
東本願寺の歴史は、火災焼失・再建の繰り返し(過去 4 回
火災に遭う)であったため、火災時の対応も「寺内」の重要
な役割で、避難所として重要な役割を果たしていました。ま
た、再建時においては、人やものの受け入れ場所としての役
割を果たすとともに、火除地としても機能していました。
この「寺内」は本山との結びつきが強く、史料には様々な
規則を記した触書が残っています。その一方で特権もあった
ようです。
⑤東本願寺における「境内」と「道」の役割
本願寺の二層の御影堂であり、視線の中心に御影堂が位置し
ていたということは、この景観は多くの人に東本願寺の存在
を示していたと思われます。
「道」は、寺・町・町人の結束の確認の場ということがで
きます。つ当時は「道」の清掃や維持は住民の役割でしたし、
また、年中行事の際に町家や道の「しつらい」を統一すると
いう触書も残されています。このように「道」は、東本願寺
の動向に即した「寺内」の多様な場を提供していた空間と言
うことができると思います。
東本願寺の「境内」における「道」の役割をみると、
「道」
は、①寺内と町を区切る役割(新町と古町を区切る)、②生
活空間としての利用(巷所、辻子に近いもの)、③防火のた
めの空間などがあります。
また、
「道」には、
「伽藍・境内」と「寺・町・町人」を結
ぶ機能、つまり、通行や流通の軸といった機能とともに、景
観・ヴィスタ(道を歩いていて立派な本山の伽藍がみえるこ
と)の視点場としての機能も有していると思います。
寺内町に「正面通」がありますが、これは、東本願寺への
正面という意味ではありません。東本願寺の門の正面に当た
る通りは「下珠数屋町通」だけです。
しかし、正面通のこのアプローチで一番目に入るのは、東
(記録:事務局)
■東本願寺界隈を歩く (まち歩きの様子)
●渉成園
●蓮光寺で説明を聞く参加者の皆さん
池泉回遊式庭園をもつ東本願寺の飛地境内地(別邸)です。
東本願寺の火災時には寺内の避難所として使われました。
寺院の門の様式から年代を知る方法を聞きました。
●正面通からみる東本願寺の御影堂
●寺内町に残る旅館
沿道には「寺内町」の特徴を残す町家や商店が多くみられ
ます。
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●御影堂門
●東本願寺の菊の門
●御影堂門の木鼻(きばな)
●東本願寺の北側の壁(花屋町通)
門の彫刻(木鼻や絵様)から、造られた年代が推定できま
す。
防火のために土壁が使われています。
●改修が終わった御影堂
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