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タイにおける政治の不安定化を考える

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タイにおける政治の不安定化を考える
川中豪編『発展途上国における民主主義の危機』調査研究報告書
アジア経済研究所 2016 年
第2章
政治参加と民主主義の崩壊
―タイにおける政治の不安定化を考える―
重冨真一
要約:
タイは民主主義が後退した事例としてしばしば引き合いに出される。確かに過去
10 年ほどの間に、タイは 2 回の軍事クーデタを経験し、選挙や議会といった民主主
義制度が機能不全に陥っている。こうした民主主義の後退は、じつは国民の政治参加
の拡大によってもたらされた面がある。本稿は民主主義の基本的要素であるはずの国
民の政治参加が、なぜタイにおいて民主主義の後退という結果を生んだのかを考察し
た。タイでは 1990 年代に都市中間層が直接的な政治参加の経験を蓄積し、2000 年代
に農村や都市下層の人々が選挙を通じた政治参加の効果を実感した。両者の間には経
済的社会的に大きなギャップがあり、2000 年代以降、経済的格差が政治の対立軸に
なった。しかもどちらが政治的影響力を持つかは、政治参加の方法によって決まるた
め、政治的意思決定方法の選択が対立軸と重なった。こうしてタイでは国民間の合意
形成が難しくなり、軍部の介入を招いた。本稿では以上のような推論と関わる事実の
提示をおこなった。
キーワード:
タイ 民主主義 選挙 クーデタ 社会運動 集合行為
はじめに
民主主義の後退についての近年の論考の中で、かならずといってよいほど例示されるの
がタイである。民主主義の世界的後退を主張する Diamond(2015)はもちろん、それに反論
する Levitsky and Way(2015, 48)すら、民主主義を後退させた事例としてタイを名指しす
る。たしかにタイは 1990 年代以降 3 回の軍事クーデタを経験し、そのたびに議会も選挙
もなくなった。当然、Freedom House、Polity IV などの民主主義指標は、クーデタのた
15
びに大きく悪化する。とりわけ過去 10 年間における政治の不安定化は目に余る。国民の
間での政治対立が激化し、
「話し合いで合意点を見いだす」という民主主義の基礎の基礎す
ら確保されていない。1990 年代、タイは民主化を目指して政治改革を行い、1997 年憲法
をもって民主主義の制度化を果たしたと思われただけに、その後の惨状は、まさに民主主
義の「崩壊」あるいは「後退」と呼ぶにふさわしい。
過去 10 年、タイでは民衆の大規模な集合行為の結果、政治が混乱して、それが軍事介
入を招いて民主主義が崩壊する、というパターンを繰り返している。つまり民衆の直接的
政治参加が、民主主義の崩壊・後退という帰結をもたらしている。しかし本来、民衆の政
治参加自体は、民主主義の重要な要素のはずである。競争的な選挙をもって民主主義を定
義する「ミニマリスト」の立場をとるにしても(Schumpeter 1976,269; Przeworski 1999,
23)、選挙という「参加」が保証されていることが「民主主義」の指標であった。タイでも、
クーデタ後の一時的中断はあったにせよ、選挙はおこなわれ、それへの参加者は増えてき
た。むしろこの 10 年は、民衆の選挙への関心は高まったのである。
こうしたタイの状況は、
「参加」だけでは民主主義を安定的に機能させるには不十分で
あることを示唆している。参加の度合いが高まったことが、民主主義を崩壊・後退させた
のであれば、民主主義の制度自体にそれを不安定化させるメカニズムがあるということで
はないだろうか。だとすれば、そうしたメカニズムを明らかにすることは、民主主義の安
定化のためにきわめて重要な課題である。
なぜタイにおいて民衆の政治参加が民主主義の崩壊に結びついたのであろうか。本稿で
はこの問いに答えるための準備作業として、過去 10 年の政治的イベントをもとに、政治
参加と民主主義崩壊の因果関係を推論するとともに、それに関係すると思われる資料を提
示する。
第1節
タイにおける政治参加の拡大
タイが近代的な議会制民主主義の政体をとるようになったのは、1932 年の立憲革命後で
ある。この革命は、絶対王政下の若手・中堅官僚や軍人の一部が「人民党」という結社を
作り、武力によって憲法の制定と立憲君主制への政体移行を果たしたものであった。絶対
王政のもとでは、
国家運営の意思決定は国王とその親族に集中していた。
内閣はあったが、
その閣僚のほとんどは国王の親族であった。立憲革命の際に人民党が発表した人民党宣言
には、
「議会を作らねばならない。ひとつだけの考えで決めるのではなく、いろいろな考え
を検討していかねばならない」との一節がある。立憲革命自体が政治への参加者拡大を求
めたものであった。
しかし立憲革命を成功させた人民党は、その掲げた理念とは相反する政治運営をおこな
った。議会を作り選挙もおこなうが、人民党員が自動的に半数を占めるようにした上、残
16
りの議員も人民党の承認により認定されるものとした(村嶋 1996)。その後、人民党員のひ
とりであった若手将校のピブーンソンクラームがクーデタによって権力を掌握し、軍とい
う暴力装置をバックにした政治が始まった。国王とその親族以外も政治に参加するように
なったが、参加者はまだごく一部の、軍を掌握したエリートに限られたのだった。
そうした政治に揺らぎが生じたのは、1970 年代であった。学生など国家権力機構の外に
いるアクターが、政治の民主化を求めて大規模な集合行為をおこなった。いわば非制度的
な政治参加である。その結果、軍による政治の独占が崩れて、政党政治家が国家運営の中
枢に入るようになった。それは選挙を通じた政治参加の道が開かれたことを意味する。ま
もなく軍は再びクーデタで権力を取り戻し、批判的勢力を弾圧したが、その結果、むしろ
政情は不安定化した。排除されたものの一部は、ゲリラ活動という形で対抗したからであ
る。
1980 年代に入って、元軍トップのプレーム・ティンスラーノンが、軍以外の勢力を政治
に参加させる体制を作ったのは、こうした状況を受けてのことであった。プレーム時代の
政体は、しばしば「半分の民主主義」と呼ばれる。政党が認められ、選挙がおこなわれ、
議会も存在するが、首相のプレームは選挙に出ず、連立与党の推薦によって首相に選ばれ
た。内閣も、政党政治家と軍人1、その他(元官僚や知識人など)の混合であった。議会制
民主主義の形がとられたことで、選挙を通じた民衆の政治参加が可能になったと言える。
またプレーム政権は非営利開発組織(NGO)の活動を容認したので、開発や貧困問題に限
定されたとはいえ、
一部の国民が公共性のあることがらに直接参加するスペースもあった。
こうして政治への参加者は広まったのである。
しかし「選挙が民意を反映しているか」という点については、疑問符が付いていた。立
候補者は地域の名望家に金を渡して集票を依頼し、名望家はその金を配って票を集めた。
こうした集票行動は人間関係の作りやすい農村でとくに顕著に見られた。候補者は当選し
たあと選挙での「出費」を取り戻すために、できれば与党に入り、さらに内閣に入って行
政権限を梃子にして、
自分の懐に金が入るようにする。
そしてその金で次の選挙に備える。
一方、当時の選挙制度は中選挙区制で、多くの中小規模政党が議席をえた。また有力者が
自分の地盤選挙区で、仲間を連れて立候補し当選させることが可能であった。複数の議席
を動かせる有力者は、それをもって政党に圧力をかけて、自分を上述のような再選サイク
ルに乗せようとする。要するに金を得るために徒党を組む、というのがステレオタイプ化
された政党政治家のイメージであった。
プレームによる「半分の民主主義」は、1988 年にプレームが政界を引退したことで幕を
閉じる。そして選挙第 1 党の党首が首相を務めるという、議会制民主主義の十全な形が現
れた。内閣の顔ぶれも、すべて政党政治家になった。一般国民が選挙によって議会と執政
1
軍での役職を退いた形になるので、正確には「元軍人」である。
17
府の代表を選ぶ制度が完成したといえよう。ところがわずか 3 年後の 1991 年に、軍部が
クーデタによりその政府を倒してしまう。クーデタの正当化に使われたのは、政党政治家
による汚職の蔓延であった。そしてこの口実を、少なくとも当初、国民は受け入れた。
軍部が暫定内閣の首相に据えたのは、元官僚で民間企業幹部でもあったアーナン・パン
ヤーラチュンであった。
当然ながら、
アーナン政権には選挙を通じて選ばれた者はいない。
閣僚のほとんどが元官僚であった。このアーナン政権は、アーナン本人の清潔なイメージ
と、クーデタ政権であることによる意思決定の速さとで、少なくともバンコクの新中間層
には人気が高かった。当時、バンコクを走る車のリアガラスに「We love Anand」という
ステッカーを貼った車をよく見かけたものである。政党政治家の悪いイメージと対象に、
非政党政治家の良いイメージがここでできあがった。
暫定政権の後、クーデタ首謀者であったスチンダー・クラープラユーン陸軍司令官が首
相になると、市民はこれを黙認しなかった。政権打倒の大規模な集会が組織され、鎮圧に
入った軍との衝突事件(1992 年 5 月事件)が起きて、
軍は政治から少なくとも一時撤退した。
自己の利権を優先する政党政治家の政治も、軍部による政治でもない政治のあり方を目指
すべきという世論がここから作られた。その方向に向けて、政治改革が始まる。
その政治改革を主導したのは政党でも軍でもなく、
「市民」であった。すなわち政治改
革のプランを作った政治改革委員会の委員は、国家権力の外にいた人々であった。政治改
革の総仕上げたる憲法の起草もやはり国家権力の外にいる人々の代表によっておこなわれ
た。市民が、選挙という形ではなく、政治に参加したのである。この「市民」は後で詳し
く見るように、階層的には都市の新中間層であった。
政治改革の成果であった 1997 年憲法に基づいておこなわれた最初の選挙(2001 年)で
政権をとったのが、タクシン・チナワットであった。後で詳しく見るようにタクシンは、
人々が自ら投票することによって首相を選ぶことができ、ひいては政策を選択する機会と
なっていること知らしめることで、
票を集めることができた。
有権者は選挙による参加が、
政治的な効果を持つものと理解した。投票が政治参加の手段として実質的な意味を持つも
のとなったのである。タクシンは社会の下層に裨益する具体的な政策を打ち出したため、
投票の政治的意味がそれまでと大きく変わったのは、そうした人々であった。こうして政
治への参加者は、さらに広まったのである。
第2節
因果推論と関連情報
1.
因果推論
タイの政治混乱と民主主義の「崩壊」は、1990 年代に政治参加した社会集団と 2000 年
代にタクシンの登場とともに政治参加した社会集団との対立によって引き起こされた。前
18
節で概観したように、1990 年代に、都市中間層を中心とする市民が、2000 年代には農村
や都市の下層が、政治に関心を持って参加するようになった。
タイの場合、参加者の増加は、より多様な国民が政治に関わるようになったことを意味
した。しかも新規参加者(農村と都市の下層)と既存の参加者(都市中間層)との違いは
大きい。その違いは、経済的かつ社会的な違いであった。
新規の参加は、政権による資源分配のターゲット化によって導かれたものであった。政
策のターゲット化によって、ふたつの変化が起きた。ひとつは資源配分における変化であ
る。当然のことながらターゲット化された社会階層に配分される資源が増えた。もうひと
つは政治的影響力の変化である。ターゲット化された社会階層の要求がより政策に反映し
やすいということは、彼らの政治的影響力が高まったということである。これら二つの変
化のうち、どちらがその後の政治現象に影響を与えたかについては、今のところ判断が付
きかねる。ここではこれら二つの可能性を残しておく。
上述の変化は、ターゲット化されなかった社会階層への資源配分が相対的に減り、ある
いはその階層の政治的影響力が減じるということである。タイの場合、この社会階層は投
票という点では少数派であったため、彼らは集合行為によって政治的な影響力を発揮する
しか参加の方法がなかった。そうした方法をとることの正当化が必要となり、政治的意思
決定の方法についての批判を前面に打ち出した。
少数派の集合行為は社会に混乱をもたらすに十分なほど激しいものであった。それが軍
の介入を呼び、選挙という方法での多数派の政権は崩壊した。すでに意識的な参加者にな
っていた多数派は、奪われた政治的影響力を取り戻すため集合行為に訴えた。そのとき彼
らは、少数派との違いを明確化するため、集合的アイデンティティを形成した。
こうして多数派と少数派の国民は、集合的アイデンティティをもった社会集団として現
れた。そしてその対立軸は、政治的意思決定の方法に収斂した。動員構造と自己意識をも
った社会集団が、政治的意思決定の方法自体をめぐって対立したことで、民主主義の意思
決定メカニズム自体が機能しなくなった。こうしてタイの民主主義制度は自壊した。
2.
推論に関わる資料
(1) 民衆の政治参加の拡大
1990 年代の市民の直接的政治参加を語るには、
その前史について触れておかねばならな
い。タイでは 1980 年代に NGO が活動を活発化させ、多くの社会問題に意識的な若者を
引きつけた。当初彼らは、コミュニティ開発に重点を置いて活動していたが、経済成長と
ともに環境面での問題が噴出するようになると、活動分野を環境問題にシフトさせてきた
(重冨 2001)。コミュニティ開発であれば NGO の向き合う相手は地域住民であるが、環境
問題の場合は取り組む相手が問題を起こしている企業であったり、政府であったりする。
19
必然的に運動は政治的な側面が強くなる。またコミュニティ開発をおこなっていた NGO
も 1980 年代の末頃になると、住民の活動のネットワーク化をおこなうようになった。こ
こでもまた国レベルの政策と関わる度合いが高まった。こうして 1990 年代の NGO は、
政治的な活動体としての色彩を強めていたのである(重冨 2009)。これは社会運動の組織者
が準備されていたことを意味する。
環境問題のように政府と対決的になりがちな分野とは別に、1990 年代にはフォーマルな
政治システムの中に市民の直接参加の仕組みを入れ込もうとする社会運動が活発化した
(ibid.)。そうした運動のリーダー的存在であったプラウェート・ワシーは、コミュニティ
を基盤としてその代表者によって社会全体が統治されていくシステムを構想していた
(Prawase and Chuchai 1997)。第 1 図はそれを筆者なりに図示したものである。
第 1 図 プラウェートの市民社会モデル
良い政府
プラチャーコム
(市民社会)
代表
コミュニティ
(出所)筆者作成。
一番下の三角は基礎的な社会集団(コミュニティ)である。その代表が集まって作る集
団は、コミュニティよりも参加者の範囲が広いのでプラチャーコム(市民社会)と呼ばれ
る。こうしたプラチャーコムが階層を作ることで、国家の運営にコミュニティの意見が反
映される。一見荒唐無稽な、ユートピア的な構想であるが、1990 年代から 2000 年代にか
けてのタイでは、これを実践に応用したような試みがなされた。例えばいくつもの県で、
「プラチャーコム・チャンワット(県市民社会)
」なるものが作られて、フォーマルな行政
ラインとは別に行政への提言や公共分野での実践がなされた(Shigetomi 2009)。1997 年の
経済危機後に世界銀行から融資された社会開発資金は行政ラインとは別の運営機構を市民
参加によって作ることで、草の根に流し込まれた(Shigetomi 2010)。
20
ここで参加した「市民」とはどういう人たちであったのか。アーナン政権時に取り組ま
れた選挙監視活動のケースを見よう。
この活動は市民からボランティアを募って組織され、
政府公認のもとでおこなわれた。第 1 表はボランティアの中でもコーディネーターと呼ば
れた、いわば現場のまとめ役の人たちを職業別に分けたものである。圧倒的に多いのは公
務員とそれに準ずる国営企業職員で、それに教師・大学教官・研究者、弁護士・医師など
が続く。人口比で 40%以上を占める農民はごくわずかである。このように、1990 年代に
参加した「市民」とは、都市中間層、知識人、専門職の人々であった。
では農村の人々はどうしていたのか。彼らは別の形での「参加」を経験していた。1994
年に地方行政の仕組みが変更になり、
新たに Tambon Administrative Organization (TAO)
という自治体がタンボンレベルに作られた(橋本 1999a; 1999b)。タンボンとは一村当たり
100~200 戸程度の行政村(ムーバーン)を 10 ほどまとめた行政単位で、1994 年までそ
の長は住民の直接選挙で選ばれていた。しかしその自治機能はきわめて弱く、中央政府の
出先である郡役場と行政村長をつなぐ役割がほとんどで、恒常的な執行予算もオフィスも
なかった。これに対して新しいタンボン自治体は執政体と議会とから成り、議会はタンボ
ンを構成する各行政村から住民の直接選挙によって選ばれた議員によって構成される。執
政体にはやはり住民によって直接選挙された長と、その下に政府公務員が配置される(第
2 図)
。そしてタンボン自治体には地域の開発予算が割り当てられた。タンボン自治体を住
民に説明するためのパンフレットの表紙には選挙活動をする住民の絵が描かれ、パンフレ
ットの中には、タンボン自治体に資金や資源が流れ込んでくる絵がある(Kowit and Pridi
1996)。
「選挙によって良い代表を選べば、あなたの地域は発展する」というのがこのパン
21
フレットのメッセージである。
第 2 図 タイの地方行政機構とタンボン自治体の組織構造
地方行政単位
中央政府
県(チャ
ンワット)
郡(アン
プー)
行政区
(タンボ
ン)
行政村
(ムー
バーン)
各単位の長
政
府
の
行
政
体
1994年以降、加わった部分
内務大臣
県知事
郡長(ナー
イアンプー)
タンボン自
治体(TAO)
住
民
の
自
治
体
行政体
TAO長(公選)
職員(助役、会
計、土木などを
担当する国家
公務員と地元
採用職員)
村長(プーヤ
イバーン)
(公選)
議会
議長、副議
長、書記
(議員互選)
議員(各村
で住民の直
接選挙)
(出所)橋本(1999a; 1999b)をもとに、筆者作成。
議会の議員が各村の代表としての役割を負ったことから、人々が議員に期待することは
タンボンのプロジェクトを我が村に「引っ張って」くることである。たとえば筆者が観察
を続けている東北タイ、
コンケン県トン村の所属するタンボン自治体
(ノントン区自治体)
の場合、1997 年時点でタンボン内各村から 2 人の議員(合計 16 人)が選ばれていた。議
会は年に 4 回開催され、それぞれ 15 日以内の開催期間となっている。この年の予算案議
案書を見ると(Non Thon TAO 1997)、ノントン区自治体は、区内第 2 村のコンクリート道
路(30 万バーツ=約 100 万円)
、同村内の砂利道補修(25 万バーツ)
、第 8 村内の砂利道補
修(25 万バーツ)などのインフラ整備をおこなった。社会開発面では村の役員会、学校、
保健所、タンボン農業センター、職業振興のための回転資金を各村の役員会に渡した。そ
の他にも社会保障予算、高齢者手当(内務省予算)
、障害者子ども手当(労働省予算)など
の支給事務をおこなっている。前掲のパンフレットが示したとおり、タンボン自治体には
22
かなりの資金が割り当てられ、それが地域のために使われている。
その配分方法については、タンボン自治体の議会で決定されねばならない。予算案議案
書には、道路補修についての追加予算に関する審議の様子が記録されていた。それによれ
ば、道路補修に 16 万バーツを追給するが、4 村分の予算しかないので、どの村に下ろすか
を協議している。各村の議員は自村の必要性を説明する。ある議員は、小学校前の道が雨
季に泥道になって子供達が歩きにくいので是非整備をして欲しいと訴えている。そして最
終的には投票をおこない、票数の多い順に 4 か村を選んだ。農村住民からすれば、自分た
ちの身近にいる代表が頑張れば、自分たちの生活環境が多少とも改善される、ということ
になる。タンボン自治体ができたことによって、農村の人々は選挙によって代表を送り込
む、という参加の効果を今までよりも実感できるようになっていた。
このように 1990 年代から 2000 年代にかけて、タイの人々はそれまでよりも多くの参加
経験をしたのである。しかしその仕方は、都市部の「市民」と農村住民ではずいぶんと異
なったものであった。
(2) 格差と亀裂の状況
新たに政治に参加した都市中間層と農村住民との間には、大きな経済的社会的格差があ
った。まず所得についてみると、第 3 図に示したように、1980 年代後半から 2000 年代前
半にかけて、自作農世帯員の1人当たり平均家計費は、専門職・技術職・管理職の 3 分の
1 以下、事務職・セールス・サービス業勤務者と比べても半分程度である。職業の差が大
きな所得格差を生んでいる。後者の職種に就いている人が都市在住であることは明らかな
ので、これは農村と都市の格差でもある。
また筆者の計算によると、2000 年時点で農業経営によって得られる時間当たり所得は、
工場労働者の賃金とほぼ等しい(重冨 2015, 88)。農家の人々は、都市に出て得られる最低
賃金の水準を農業で得ているということである。都市部の工場労働者と農民は、同じ経済
階層に属している。これは工場労働者の供給源が、農家であることからしても当然のこと
である。
第 2 表は学歴面の格差をみたものである。1990 年時点で農村住民の後期中等教育修了
者比率は都市住民の半分以下、大学レベルでは 5 分の 1 以下であった。2000 年にはかな
りの改善がみられるが、それでも農村住民の大卒比率は都市住民の 3 分の 1 である。
社会開発の面でも農村と都市の格差は大きい。2000 年時点で、医師一人あたり人口は、
バンコクの場合 793 人なのに対して、
東北地方では 8311 人であり(MOPH 2000, Table 8)、
医療サービスのアクセスに 10 倍の格差が出ている。2005-06 年で 60 歳人口の平均余命は
バンコクが男 22.21 年、女 26.15 年であるのに対し、東北地方はそれぞれ 18.57 年、20.54
年である(MOPH 2011, Table1.4)。東北タイの人たちは、バンコクに人たちよりも 4~6
年早く死ぬということである。
23
第 3 図 タイの農家と勤労者世帯の世帯員一人あたり月平均家計費(実質)の推移
(2007 年の消費者物価指数を 100)
(出所)National Statistical Office (NSO), Household and Socio-economic Survey 各年
版 (Bangkok: NSO)より筆者作成。
生活スタイルにおいても、都市と農村の違いは大きい。第 4 図は、2000 年の家計調査
をもとに、バンコク住民と東北タイ農村住民の居住環境を比較したものである。図中のA
24
~Cはそれぞれ飲用水、トイレ、調理用燃料について設備や方法の種類ごとに割合(%)
をみたもので、Dはいくつかの耐久財の所有率をパーセントでみたものである。A~Cにつ
いては自作農家のみを取り出している2。ここからうかがえるのは、東北タイの農民は雨水
を飲み、しみ込み式トイレを使って、薪炭で食事を作るが、バンコクの人々は蛇口からあ
るいはペットボトルからの水を飲み、水流式のトイレを使って、ガスで料理をする、とい
う姿である。耐久消費財についていうと、テレビと冷蔵庫は農村でもかなり普及してきて
いるが、洗濯機、エアコン、自動車を所有する農村世帯はまだ少ない。
第 4 図 2000 年時点の東北タイ農村とバンコク住民の生活様式比較
A: 飲用水を得る方法別割合(%)
B: トイレの方式別割合(%)
水流式
雨水
80.0
60.0
40.0
20.0
ボトル入り
飲用水
水流式+し
み込み式
井戸、共用
蛇口
0.0
は東北地方農村部世帯(1)
はバンコクの世帯
D: 耐久消費財の所有率(%)
冷蔵庫
C: 調理用燃料の種類別割合(%)
木炭
100.0
80.0
80.0
60.0
60.0
40.0
薪
20.0
自動車
0.0
電気
しみ込み式
近くになし
専用水道
管
調理せず
100
80
60
40
20
0
40.0
20.0
テレビ
0.0
ガス
空調機
洗濯機
( 出 所 ) National Statistical Office (NSO), “Report of the 2000 Household
Socio-economic Survey” (CD-ROM, NSO, 2000)の Northeastern Region 版、および
Bangkok Metropolis, Nonthaburi, Pathum Thani and Samut Prakan 版より筆者作成。
D については、家計調査に社会属性別のデータが示されていないため、農村世帯の合計
値をとった。
2
25
A~D にみられる違いは、多分に生活環境の違いを反映したものである。たとえば東北
タイの農家が飲み水を雨水に頼っているということが、即、清潔な飲み水へのアクセスが
ないということではない。トイレについてもしみ込み式は手桶で水を汲んで流すものであ
って、汚物は土中のタンクに流されるため、トイレ内は清潔である。薪や木炭を使うこと
を単純に貧困の表れとは言えないだろう。しかし、生活様式の変化が雨水から水道管へ、
しみ込み式トイレから水流式へ、薪炭からガス・電気へと進んだことは事実であるため、
農村の生活様式は「遅れた」ものと見なされてしまうのである。
このようにタイの農村住民は都市住民とはずいぶんと違った経済的、社会的状況におか
れている。かつて ngo chon chep(馬鹿で貧しく不健康)という農村住民を蔑む言葉があ
ったほどである。農民と都市中間層、農村住民と都市住民の違いは、日本人の我々には想
像できないほど大きい。
さらに問題なのは、第 3 図からもみてとれるように、格差が容易に縮まりそうもないこ
とである。これは 1970 年頃に農家世帯の1人当たり家計費が勤労者世帯のそれを逆転し
た日本と大きく異なる (重冨 2015, 85)。タイでは、高度経済成長期の日本同様、農村か
ら都市へと大量の労働力が流出しているが、日本のように所得分配の平等化が起きていな
い。
この状況は、社会下層の人々にいらだちを募らせる。農家の実質所得は上昇してきてい
るし、その生活スタイルも次第に都会のそれに近づく方向で変化している。学歴も間違い
なく上昇してきている。バンコクなど都会に出れば、先進国と同じような風景が広がる。
にもかかわらず、自分たちは相対的貧困状況から抜け出せない。
この格差は、都市中間層からすれば安い賃金でサービスを購入できることを意味する。
専門職・技術職・管理職世帯の1人当たり所得が農家世帯の1人当たり所得の 3 倍以上で
あるということは、前者は後者の所得を賃金として払って家事労働というサービスを購入
できる、ということである。家事労働に限らず、所得の格差は都市中間層がその生活スタ
イルを維持できる前提条件なのである。
(3) タクシン政権による政策のターゲット化
タクシンは 2001 年に首相になると、最初の所信表明演説で、9 つの緊急課題を発表し
た。それらは、①農民負債の返済猶予、②村落基金と1タンボン1品運動の推進、③庶民
銀行の設立、④中小企業銀行の設立、⑤不良債権処理のための資産管理会社設立、⑥公企
業改革、⑦30 バーツ健康保険制度、⑧覚醒剤、麻薬対策、⑨汚職の追放、である。そして
就任後半年までに、上記のうち①②③⑤⑦を実施した(重冨・松浦 2002, 269)。9 課題の中
で①は農家の負債返済を猶予することで、農家経済の立て直しを図らせるというもの。②
は行政村や行政区を対象に資金を提供したり農村工業を奨励するなどして住民の所得増加
を図るもの。③は都市部のインフォーマルセクターでの事業者に低利無担保融資をおこな
26
うもの。⑦は社会保障制度から除外されてきた人々に、30 バーツの料金で医療サービスを
供給するもの、である。このように 9 課題のうち 4 課題は、農村住民や都市下層の人々が
とくに裨益する政策であった。タクシンは明確に農村住民や都市下層をターゲットとした
政策を実行したのだった。
この中でも⑦の 30 バーツ健康保険制度は農村住民から高い評価を受けた。それまで農
村の住民は、毎年 500 バーツを払って健康保険証(bat sukhaphap)を購入することでしか
家族(5 人まで)の病気に備えることができなかった。この保険金は返済されない払いき
りのもので、500 バーツというのは 2000 年当時の東北タイ農村の日雇い賃金 4~5 日分に
相当するから3、けっして安い保険料とは言えない。それでも多くの農家がこれを購入した
のは、家族が重い病気になったときのリスクがあまりに高いからである。一家の働き手が
病気の場合は、収入の一部を失いしかも治療の費用が重くのしかかる。家族の生活の存続
に直結する問題であった。30 バーツで医療が受けられる制度は、農民にとって本当にあり
がたい制度なのである。そのため、タクシン政権をクーデタで倒した後の政権も、この制
度を廃止することはできなかった。むしろ 30 バーツの徴収をやめ、無料化するというこ
とによって、タクシン時代との違いを出すしかなかった(Apiradee 2006)。
タクシンがこうした政治手法をとったのは、1997 年憲法によって刷新された選挙制度と
関係がある。2001 年の選挙は、それまでの中選挙区制に代えて、小選挙区制と比例代表制
でそれぞれ議員を選ぶ方式になった。この背景には、徒党を組み、自分の利権を政策より
も優先する政治家を、政党(党首)にコントロールさせるという政治改革の狙いがあった
(Kasian 2004, 38)。確かに小選挙区制をとったことで、政党の公認がなければ選挙区での
立候補は不可能になった。また選挙区が政党の争いになったことで、政党の違いが重要に
なった。政党を選ぶ投票は、首相を選ぶに等しくなって、ますます政策の選択が重要にな
った。そこにタクシンが政策選挙(マニフェスト選挙)を持ち込んだ理由がある。そして
それは見事に成功したのだった。
(4) 中間層の離反と決め方のルール批判
タクシン新首相は、当初、知識人や都市中間層からも好意的に迎えられた。タクシンの
ブレーンには元共産党員や NGO 活動家がいて、そのネットワークが一部の知識人、社会
活動家にも届いていた。タクシンの政策は、dual track policy とも呼ばれ、分配の一方で、
成長も目指した政策が含まれていた。たとえば投資の奨励、国営企業の株式公開を通した
民営化などは後者に属し、都市中間層にも利益をもたらすものであった。その結果、2005
年の選挙では 2001 年を上回る議席を得て、しかも民主党の地盤であったバンコクでも圧
東北タイ、コンケン県トン村では 2000 年頃に日雇い労賃は男 120 バーツ、女 100 バー
ツであった(筆者の聞き取り調査による)
。
3
27
勝した (船津 2006)。
ところがその後の変化は劇的であった。2005 年末から始まったタクシン批判集会は、
2006 年に入って急速に盛り上がり、2 月にタクシンは議会の解散総選挙で国民の信を問わ
ねばならないところまで追い詰められた(青木・重冨 2007)。結局、この解散が命取りにな
って、タクシンは政局を転換できず、9 月のクーデタで政権を追われることになる。
こうした中間層の離反がなぜ起きたのか、不明な点が多い。農村住民や都市下層への配
分政策を人気取り政策(ポピュリズム)として批判する声はタクシンの就任当初からあっ
た(Pairot and Nuannoi 2001)。国王の誕生日スピーチなどから、国王があまりタクシンを
評価していないらしいことを、国民は早くから感じていた。しかし 2005 年の選挙でバン
コクの有権者もタクシンを選んでいることから、ポピュリズムや国王との関係がこの段階
で都市中間層を離反させる要因にはなっていなかったといえよう。
むしろ政治的な経緯を見る限り、反タクシンのモメントが高まった事件は、2006 年初頭
に明らかになったタクシン一族の企業、Shin Corp 株のテマセク社への売却であった。テ
マセク社はシンガポールの国策会社で、Shin Corp は通信事業をおこなっていたから、国
家の安全に関わる事業を外国に売ったという批判が起きた。また株譲渡にともなう利益に
かかる税金を巧みに逃れていたことも明らかになって、脱税疑惑が出た。これがタクシン
の倫理性に対する強い疑念となって都市中間層を離反させる契機となったように思われる。
こうした世論の転換は、動員組織によって戦略的に導かれたものである。動員組織はみ
ずからを People's Alliance for Democracy(PAD)と名乗り、集会を繰り返すと同時にケ
ーブルテレビなどでの宣伝放送もおこなった。旗印を国王の誕生日色である黄色にして、
王室護持の愛国運動であるかのような体裁も整えた。この動員組織においてリーダーシッ
プをとった人々は、ソンティ・リムトンクン(メデイア関係者)
、スリヤサイ・カタシラー、
ピポップ・トンチャイ、ロサナー・トーシトラクン(NGO 活動家)
、ソムサック・コーサ
イスック(国営企業労組活動家)
、チュームサック・ピントーン、ソムキアット・ポンパイ
ブーン(大学教官、知識人)
、そしてチャムローン・シームアン(元軍人の保守政治家)な
どであった。彼らの属性から、どのような人々が反タクシンとなったかを推測することが
できる。すなわちタクシンのメディア規制を被った人、タクシンに下層の人々の頼る先を
奪われた人、タクシンの国営企業民営化で脅威を感じた人、得意の言論が無視された人、
そして国王というカリスマへの挑戦を感じた人、である。
これらの人々は 1990 年代の直接的政治参加の機会を捉えた人たちでもあった。ところ
が選挙で議会の多数派となったタクシン政権のもとで、彼らの政治参加の道は狭められて
しまった。動員が成功して都市中間層の意識は反タクシンに導かれたが、彼らの声は選挙
では届かない。タクシン政権がクーデタで倒された後も、選挙があるたびにタクシン派の
政権ができる。動員組織 PAD は、政治の意思決定制度自体を変えなければ、自分たちの
政治参加はできないと考えた。そこで彼らが持ち出したのは、
「良き人による政治」という
28
アイデアである。その論理を要約すると以下のようになる(重冨 2010)。
タクシン派の政権は選挙という手続きを経て成立しているが、選挙で選ばれる人は必ず
しも良い人ではない。政党政治家の政治は汚職にまみれている。アーナン政権のような選
挙で選ばれていない政権の方がよい仕事をしたではないか。政治は良い人によっておこな
われるべきであり、選挙では良い人は選ばれてこない。したがって選挙以外の方法で選ば
れた人による政治システムを作るべきである。そのためには、まず選挙以外の方法によっ
て選挙で選ばれた悪しき人の政権を打倒しなければならない。こうして彼らは街頭行動を
組織した。
通常のデモや集会では政権を倒すに至らないので、
公共物の占拠がおこなわれ、
クーデタすら待望される4。
(5) 集合的アイデンティティの形成
タクシン政権が軍事クーデタで倒されると、クーデタを批判する人々が散発的な抵抗運
動を始めた。彼らの一部が「クーデタ政権の新憲法作りに赤信号」という意味で赤をシン
ボルに使ったことから、赤が反クーデタの旗印となり、やがて彼らはUnited Front of
Democracy Against Dictatorship (UDD) という動員組織を作る5。ここにタクシン支持派
の人々が流れ込んだ。選挙による政治参加の道を閉ざされた人々は、今度は街頭に出て行
った。
動員組織のリーダーシップをとった人々は、PAD のそれと対照をなす。そこにはこれま
で社会運動の表舞台にはあまり現れてこなかった人たちがいた。全国リーダーのチャトゥ
ポーン・プロムパンは 1992 年 5 月事件当時の学生活動家であったが、その後は目立った
社会運動をしていなかったし、ナッタウット・サイグアはテレビ番組のパーソナリティで
あった。地方に行くと動員組織の中心にはさらに新しいタイプのリーダーがいる。NGO
の活動家もいるが、彼らは既存の(社会で広く認知された)NGO やそのリーダーと一線
を画している。他に地方ラジオの DJ や地方政治家、地域コミュニティのリーダーといっ
た人々が、動員の要となっている。こうした人たちは農村住民や都市下層の人々と近いと
ころにいるので、彼らから出される情報は、比較的短いネットワークで底辺の人々まで伝
達されていく。こうして直接的政治参加の動員組織ができあがった。
動員組織はクーデタとそれを導いた反タクシンの運動によって、選挙で選ばれた政府が
倒されたと訴えた。政府を倒した勢力は、社会の中上層の豊かな、特権をもった人々で、
下層の人々が政治の主体となることを認めたくないのだ、と主張した。それをキャッチフ
レーズにしたのが「ダブル・スタンダード」という言葉である。UDD の集会で配られて
2014 年 5 月 22 日にクーデタが起きたことを知った反タクシン派の集会では、参加者が
歓声を上げ、笛を吹き、中には立ち上がって国旗を振る者がいた(Manop and King-oua
2014]。
5 UDD の活動家からの聞き取り(2011 年 9 月)
。
4
29
いたステッカーに、以下のようなフレーズがあった。
Mung tham arai ko mai phit
Ku tham arai ko pit
(おまえらは何をしても正しくて、俺たちは何をしても間違っている)
要するに、同じことをしても所属する社会階層によって適用されるルールが違う、とい
う意味である。これは農村からの出稼ぎ者が、日頃から経験していたことであった。たと
えば(金持ちが運転しているであろう)ベンツや BMW が交通違反をしても警官は見逃す
が、
(出稼ぎ者が運転しているに違いない)タクシーは捕まる。だからこの「ダブル・スタ
ンダード」という言葉は、社会下層の人々の心を捉えた。
さらにリーダーたちは、自分たちをプライ(平民)と呼び、対する人々をアムマート(特
権階級)と呼ぶ言説を作り出した。
「ダブル・スタンダード」も「プライ―アムマート」も、
我々と彼らを集団として区別するフレーミングである。こうしてタクシンとともに政治に
参加するようになった人々は、社会集団としての集合的アイデンティティを作り上げた。
しかもそのアイデンティティは、社会階層を基準に作られたものであった。
(6) ルールをめぐる階層対立
1990 年代と 2000 年代に参入した新たな政治参加者たちが、各々の集合行為を通して新
しいイデオロギーを作り出した。UDD は社会階層を指標とする集合的アイデンティティ
を作った。一方、PAD は政治参加の制度について根源的な批判をおこなった。UDD と PAD
では支持者の社会階層が異なり、経済的社会的属性の違いが大きいことはすでに見た。人
口でみると、前者は後者より圧倒的に多い。選挙をすれば、有権者数が多く、社会階層と
しての自己意識化が進んだ後者の支持する政党が確実に勝利する。そのため 2010 年に、
UDD が反タクシン派の民主党政権に対して要求したことは、
「選挙をしろ」であった(重冨
2010)。
逆にタクシン派のインラック政権に対して、PADの流れをくむPeople's Democratic
Reform Committee (PDRC)がおこなったことは、徹底した選挙の妨害であった。彼らは
武器すら用いて投票阻止をおこない、その結果選挙は無効になった。またPDRCは政府を
倒した後に人民議会なるものを設置するとした(Bangkok Post 2013a)。PDRCのリーダー
によれば、人民議会は 200 人ほどの議員を社会の様々な分野から選び、アーナン(元首相)
やプラウェートのような人を含む。政治家や政党のメンバーは絶対に含まれない(Bangkok
Post 2013b)。
「良き人の政治」がここでもまた主張されていることがわかる6。
Asia Foundation が 2013 年 11 月にタクシン派、反タクシン派双方の集会場でおこなっ
た調査からも、前者と後者の社会的属性や民主主義に対する考え方の違いが確認できる
(Asia Foundation 2013]。
6
30
社会階層が自覚的な集団となり、しかもその主張の相違点が、決め方のルールに収斂し
ている。ここに至って、双方が合意できる地点は失われた。多くの国民を巻き込んだ力ず
くの(つまり集合行為をともなった)争いになって、軍の介入を招き、民主主義は「崩壊
した」
。
現在の軍事政権は、
議会制民主主義に戻すための制度作りを政権継続の理由としている。
上記のような対立がもとで民主主義が壊れた以上、新たな制度の要は、決め方のルールを
どうするかである。公法学者のボーウォンサック・ウアンノーが委員長になってまとめた
憲法草案では、以下のような選挙制度が考えられた。なお、この憲法草案は軍事政権が立
てた国家改革会議によって否決され、日の目を見ることがなかったが、選挙制度に限って
言えば、
現在再起草中のミーチャイ・ルーチュパン委員会案に基本線が引き継がれている。
ボーウォンサック委員会が採用するとした選挙制度は、小選挙区比例代表併用制(Mixed
member proportional representation, MMP)である。この制度では、議席を各政党の得票
数に応じて分配し、まず小選挙区で得票数第1位の候補者に議席を配分したあと、残りの
議席を各政党の比例代表名簿順に割り振っていく。仮に小選挙区で当選した議員の数が、
得票数に応じて配分した議席数を上回っている場合は、小選挙区での議席以上の配分はな
い7。逆に言えば、小選挙区ではあまり当選できなくても得票数が多ければ、比例名簿から
議員が選ばれる(Thawilawadi 2015)。この方式では、小選挙区では有力な候補がいないが、
国全体では票を集められるような政党に有利になり、逆に地盤をもって票を集める議員の
多い政党は相対的に不利になる。選挙区選出の政治家に対する不信感がここに表れている
といえよう8。
おわりに
本稿では、政治参加者の拡大がなぜ民主主義の崩壊につながったのかという問いを立て
て、その間の因果関係を推論し、関係する情報を提示した。要約するならば、政治参加者
の拡大によって、政策選択の幅や重点が変化して、それが参加者間の激しい対立を生んで
いるということである。そして選挙によってその対立が調停できないのは、タイにおける
政治参加者の分布のありかたに原因がある。Downs(1957)の議論に依拠しながらまとめて
おこう。
7
小選挙区での当選者数が全体の得票率による議席数を超えている場合、比例名簿からの
繰り入れによって全体の当選者数が増える可能性がある。このためこの制度では、選挙の
たびに議席数が変わる可能性がある。
8 2016 年 1 月現在、作成がほぼ完成したとされるミーチャイ委員会案では、比例名簿から
の当選者数を繰り入れると議席定数を上回るような場合は、各党の得票率に比例して議席
数を案分し、定数に収まるようにすることになった(Natha 2015]。
31
Downs(1957)は、選挙における政党の行動と民主主義の安定性は有権者の選好の分布に
強く規定されているとして、以下のように論じる。仮に政策の対立軸が XY という直線で
示されるとして、有権者の選好分布が第 5 図のような正規分布に近い形をとっていたとす
る。この場合、A と B という二つの政党は支持者数の多い政策を選択しようするため、両
者の立ち位置は中央に近くなる。それゆえ両党の政策が近づいて、政権交代が起きても、
政治に大きな変化が起きにくい。民主主義が機能するのは、有権者がこうした分布をして
いる場合である(ibid., 139)。
第 5 図 政策による有権者の分布と政党の立ち位置(二大政党制の場合)
(出所)Downs(1957, 118)をもとに筆者作成。
タイの場合、有権者の分布はこれと大きく異なっている。参加の拡大によって、政治参
加者の経済的社会的格差が大きくなり、しかもその格差が、タクシン時代のターゲット化
政策によってもっとも重要な政策の対立軸になってしまった。タイの有権者を所得の低い
方から高い方へと左から右に並べれば、第 6 図のような分布になるが、これがそのまま政
策選好による分布になったのである。
タクシン派の政党は政策軸上でA の位置をとるため、
選挙では常に有利となる。B に位置する最大野党の民主党は、左にシフトすれば、より票
を得られるであろうが、その場合、より右に位置する支持者に離反される可能性がある。
実際、PAD のリーダーが、2012 年の選挙では New Politics Party という政党を立ち上げ
て、選挙に参加した。Downs(ibid., 131)によればこうした新党(blackmail party)は議席
をとれなくても、B の政党を右に引っ張る効果があるという。
32
第 6 図 政策による有権者の分布と政党の立ち位置(タイの場合)
(出所)Downs(1957)をもとに筆者作成。
こうした状況の中で、タイにおいて選挙による民主主義が再び機能するようになるには、
何が必要であろうか。政策の対立軸が容易に変わらず、民主党が政策シフトに慎重になら
ざるを得ない事情があることを前提とすれば、ひとつの可能性は A と B の中間に立ち位置
を求める新たな政党が現れることである。現在考案されている新選挙制度は、より比例性
を高めたものとなるため、新党参入の条件は今までよりも広がると考えられる。そうした
第 3 党が現れることで、連立の組み合わせによって政権交代が起きる可能性が出てきたと
き、第 6 図の右側にいる人々も、選挙という政治参加の場に戻るのではないだろうか。
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