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信仰と此岸の生 - 関西学院大学

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信仰と此岸の生 - 関西学院大学
October 2
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5
5―
信仰と此岸の生*
―― パスカルとモンテーニュの幸福観 ――
山
上
浩
嗣**
現世利益と信仰の関係については、一面的な見
厳格な教義的認識を背景に、『キリスト教護教論』
方を拒む多様な側面があることはたしかである
を企図した(その草稿を含む遺稿集が『パンセ』
が、世界的な宗教において、両者は一般に、少な
である)。この二人の現世観は図らずも、キリス
からず対立的なものとして捉えられる1)。このよ
ト教思想の両極に位置づけられるほど著しい対照
うな特徴は、罪の贖いこそが真の救済であるとの
をなしている。
考えをその中心的な教義の一部とするキリスト教
モンテーニュは、
「自然」なるものを道徳的な
においてとりわけ顕著である。罪や情欲(とりわ
指針とみなし、それによって正当化される肉体の
け肉体的なそれ)は、神の掟に反して物質的・地
快楽を肯定することで、教義の臨界へと踏み込
上的なものに向かうのであるが、現世的幸福はこ
む。一方パスカルは、モンテーニュの思想と表現
れらと切り離しては考えにくい。
から多大な影響を受けつつも、邪欲や情念を徹底
本論では、キリスト教において信仰と現世的幸
的に忌避することで、信仰を現世的幸福そのもの
福とはどのような関係にあるのか、両者は両立可
と同一視した。結局のところいずれも、真の意味
能か、そうであればそれはどのような形で実現さ
で信仰と此岸の生の両立には成功したとはいえな
れうるのか、という問いについて、時代、地域、
い。この二人の思想をテクストに基づいて考察す
党派別の各論には立ち入らずに、モンテーニュと
ることで、此岸と彼岸、幸福と救済との緊張と、
パスカルの思想を見ていくことによって考えるこ
その緩和の可能性について見ていくことにした
とを目的とする。
い。
前者はフランス1
6世紀の宗教的争乱のさなか
に、信仰の名のもとに行われる残虐と卑劣を目に
!.モンテーニュ
し、『エセー』において、人間の本来ありうべき
姿を、ときには宗教そのものへの批判を含む根本
1.現世と来世の非連続性
的な思索によって探求した。後者は、同じくフラ
モンテーニュは、
『エセー』において、折りに
ンスで、カトリック宗教改革の直後、イエズス会
ふれて自分が敬虔なカトリック教徒であること
主導による教会の近代化推進の動きに反発するか
を表明している。
「祈りについて」の章で、自分
たちで発生したジャンセニスムにおいて中心的な
は「この教会の中で死ぬ、またその中で生まれた
働きを果たし、アウグスティヌス主義に基づいた
人間」なのであって、自分の書くことが「カト
*
キーワード:パスカル、モンテーニュ、幸福
本論は、第1
9回国際宗教学宗教史会議世界大会(2
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5年3月2
4∼3
1日、高輪プリンスホテル)のシンポジウム
「臨床宗教学の可能性:幸福と冥福のジレンマ」
(関西学院大学2
1世紀 COE プログラム主催、大村英昭コンビーナ)
における同題の発表原稿に、大幅な加筆訂正を施したものである。
**
関西学院大学社会学部助教授
1)宗教における現世利益の捉えかたとその原理的な背反性、および両者が複雑多様なかたちで和合する現実につ
いて、次の論考を参照のこと。池上良正、「現世利益と世界宗教」
、『岩波講座・宗教2:宗教への視座』
、岩波
9
2.また、なぜ宗教が来世を要請するのかという問いについて、ひとつの説得的な解釈
書店、2
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4、pp.1
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を提示する次の論考も、本論で扱う問題に大きな示唆を与えてくれる。宇都宮輝夫、「死と宗教」
、『岩波講座・
宗教3:宗教史の可能性』
、岩波書店、2
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4、pp.2
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社 会 学 部 紀 要 第9
9号
リックの使徒承伝の、ローマ教会の神聖な掟に反
の混同である。もしそうだとすれば、来世が無限
することがあってはいけない」と宣言している2)
なものではなくなってしまうからだ10)。ここで
し、宗教戦争に関する記述においては、つねにカ
モンテーニュは、有限者たる人間と、無限の神と
トリック側を「われわれ」と表現している。信仰
の存在論的差異を想起している。このようにして
が説く死後の「不滅の栄光の状態」よりも、
「不
彼は、現世と死後の生との間に、質的な不連続性
徳な快楽の対象」を重視する態度を「冒涜」と断
を帰結するのである。
じ3)、「好奇心」を「高慢」につながる悪である
しかし、モンテーニュにおいて特徴的なのは、
として戒める4)彼の態度も、教義への忠実さに発
このことから、地上の生と死後の生の間の因 果
しているものとみなすことができる。彼にとっ
関 係 をも否定する点にある。彼は、次のように
て、現世的な快楽や欲望の成就のために神の助力
言う。
#
#
#
#
を求めることは、端的に「間違い」である5)。モ
ンテーニュにおいて、宗教と現世利益は、直接結
精神(âme)の力と行為が問題にされるの
びつけられるべきものではない。
は、ほかならぬ現世の、われわれのもとにお
このことは、彼の来世観からもうかがえる。
いてでなければならない。それ以外の完全さ
「レーモン・スボンの弁護」の章によると、まず、
などは、精神にとってはすべてが空しく、無
霊魂不滅の当否、すなわち来世が存在するか否か
益である。精神の永遠不滅が報いられ、認め
は、自然や人間の理性によっては知ることのでき
られるのは現在の状態に対してでなければな
ない神秘であって、厚い信仰によってはじめて神
らないし、精神が責任をもつのは、人間の生
から与えられる真理にほかならない。宗教の真理
の期間についてのみである。それなのに、精
が人間にはうかがい知ることのできないものであ
神からその手段と力を取り除き、武器を奪っ
る以上、それを詮索し、ましてや「広間や台所で
ておいて、精神がとらわれて監禁され、衰弱
ぺちゃくちゃ論議する」のは間違った態度であ
と病気にあえぎ、拘束と束縛を受けていると
る6)、と彼は言う。そもそも信仰は、「人間的な
きを狙って、永遠無限につづく判決と刑罰を
手 段」によっ て で は な く、
「超 常 的 な 浸 透」に
下すのは不当であろう。また、ごく短い時
よってわれわれの中に入ってくるものである7)。
間、おそらく一、二時間か、せいぜい一世紀
にもかかわらず人間はたいてい、
「信ずるとはど
くらいで、永遠からすれば一瞬にすらも相当
ういうことかも見通せずに、信じていると自分自
しないような短い時間に基づいて、精神の全
身に思わせている8)」。
存在を決定的に規定しようとするのは不当で
また、人間にあって、
「死と現世の匂いのしな
あろう。こんなに短い生涯の結果として永遠
い能力は、ひとつとしてない」のであるから、死
の報いを導き出すのは、とんでもない不公平
後の生が存在したとしても、それがいかなるもの
であろう11)。
かは人間には不可知である9)。したがって、来世
においても「世俗的な快楽や幸福をともなった地
来世があるとして、そのあり方が地上の生の過ご
上的、現世的な生活」があると考えるのは、秩序
し方によって決定されるとの考えは、彼には受け
2)V ―S,pp.3
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入れられない。それは、現世の短さと来世の無限
果的な連続性を否定し、現世的快楽、とりわけ肉
の長さが不均衡(disproportion)であることによ
体的な欲望の追求を選択する。このような態度
る。また彼は、そもそも人間の行為はすべて神の
は、はたして信仰の枠組みのなかで正当化される
意のままにあるのだから、神が、自身がもたらし
のだろうか。次に、肉体的な快楽についての彼の
た結果に報いるなどとは考えられない、とも述べ
考えを見てみよう。
ている12)。モンテーニュがここで直接念頭に置い
ているのはプラトンの来世観であるが、ここで断
2.地上的快楽の享受
罪されているのは、知りえないことをまるで知っ
『エセー』第3巻第5章「ウェルギリウスの詩
ているように語る人間の理性一般であり、その意
句について」は、性愛称賛論として名高い。性的
味で当然、プラトン流の因果論を漠然と信じなが
快楽を肯定する根拠としてモンテーニュが再三に
らも、来世における救済のためにさしたる努力を
わたって取り上げるのは、肉体と精神の和合とい
行うのではない多くの一般的なキリスト教徒も批
う命題である。たとえば、彼は次のように言う。
判をまぬかれない。ここで問われているのは、信
仰の強さとそれを示す実践の度合いである。
われわれは、次のように言うことができない
モンテーニュの批判を逃れるのは、キリスト教
だろうか。「われわれがこの地上の牢獄にい
の教義に則って、孤独のうちに「来世における神
る間は、われわれのなかには、純粋に肉体的
の約束への確信を心の励みとしている人々」のみ
なもの、純粋に精神的なものはなにもない。
である。このような人々にとって、
「来世におけ
だから生きたままの人間を、
[肉体と精神の
る幸福な永遠の生命を得るという唯一の目的のた
二つに]引き裂くのは正しくない。また、快
めには、現世の幸福と快楽を捨てることはなんで
楽の享受に対しても、少なくとも苦痛に対す
もない」とモンテーニュは言う13)。彼自身は、現
るのと同じ好意をもって当たるべきだという
世と来世の間に質的にも因果論的にも連続性を認
のが正しいように思われる」と16)。
められないが、そのことを確信し、救済のために
努力を怠らない人々には称賛を惜しまないのであ
肉体は精神(esprit)を損なってまでおのれの
る14)。
欲望に従ってはならぬと人が言うのは、きわ
だからといって、モンテーニュ自身は、このよ
めてもっともではあるが、それなら精神は肉
うな人々に追随するわけではない。それどころ
体を損なってまでおのれの欲望に従ってはな
か、彼らが避けようと努力する「肉体的な幸福」
らぬということも正しくないわけがなかろう17)。
を、積極的に求めることを宣言している。普通の
精神しかもたない自分は、彼ら「強くたくましい
われわれは現世にいるかぎり、身体と精神(魂)
精神」をもつ人々のまねはできない、というわけ
という二つの実質の調和を尊重すべきなのであっ
だ15)。
て、身体が健康なときに、精神の欲望を抑制し、
モンテーニュの教義に対する姿勢は両義的であ
身体を精神に従属させることが必要なのは当然で
る。一方で現世的欲望を断罪し、来世における永
あるが、身体の健康を損なうほどまでの禁欲も正
遠の幸福のために努力する誠実な信徒を称賛しな
しくない。したがって、老年に達した自分はむし
がら、他方で自分自身は、現世と来世の質的・因
ろ、「精神(âme)をみだらな、若々しい考えに
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2)V ―S,p.5
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2、三、p.1
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3)V ―S,p.2
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2―6
3.
1
4)モンテーニュは、このような人々の考えを « imagination » という語で表現している。この語は、「思いこみ」と
いうような意味である。このことからも、彼らの考えをモンテーニュは正当であるとは考えていないことを見
て取ることができる。
1
5)V ―S,p.2
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6)V ―S,pp.8
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7)V ―S,p.8
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没頭させ、そこで休ませる18)」、と彼は言う。健
は快楽である」と明言する。「なんなりと目前
康を維持するために、性的欲望を利用するのがよ
の、知っている快楽にしがみつこうではないか。
いというわけだ。
私は断食の掟を守り続けたくはない23)」。欲望の
モンテーニュは、このような身体と精神との和
節制が求められるとしても、それは彼にとって、
合の命題を、キリスト教の教義によって正当化し
のちにより大きな快楽を享受するためにすぎな
うると考えているようだ。
い24)。これは、別の箇所で彼が言うような「神か
ら気前よく与えられた幸福を穏やかに享受する」
キリスト教徒はこの結合については特別に教
態度25)からは、もはや大きく逸脱している。
えられている。というのは彼らは、神の裁き
モンテーニュは、地上的な快楽を進んで享受す
がこの肉体と精神(âme)の連関とつながり
ると言うとき、しばしば宗教によって自らを正当
とを祝し、肉体にも永遠の報いを可能にする
化するが、その試みには無理がある。彼の道徳原
ことを知っているし、また、神が霊肉をそな
理は、彼が奉じると言明するカトリシズムである
えた一体としての人間の行動を見守り、人間
とは言い難い。モンテーニュの本意はどこにある
が全体として、功績に応じてあるいは罰を受
のか。彼の道徳観について簡単に見ておく必要が
け、あるいは報いを受けるのを望んでいると
ある。
知っているからである19)。
3.道徳的原理としての「自然」
たしかに、モンテーニュが引用するアウグスティ
ヌスの文章20)からも、キリスト教の思想のなか
に、肉体の蔑視を戒める考えが認められる。だ
モンテーニュは、自己を導く原理として、しば
しば「自然」をもちだす。
%
%
が、アウグスティヌスは、肉体への愛を神や精神
自然はわれわれに歩くための脚を与えてくれ
に対する愛の下位に置き、肉体を「使用 す る」
たように、人生に処してゆくための知恵を与
(utui)のはよいが、それを「享受する」
(frui)こ
えてくれた。もっとも、それは哲学者が考え
「感覚欲」とりわ
とは禁じている21)のであって、
出したような巧妙な、頑丈な、大げさなもの
け性欲は、きわめて危険な欲望であると警告して
ではなくて、分相応の、平易な、健康な知恵
いる22)。モンテーニュはここで、明らかに正統な
である。純朴に正しく生きることを、つまり
教義とその伝承の拡大解釈を行っている。
は自然に生きることを幸いにも知っている人
%
%
『エセー』最終章(第3巻第13章)の「経験に
にとっては、哲学者の知恵が言うことを、立
ついて」でモンテーニュは、
「健康の究極の成果
派に果たす知恵である。もっとも単純に自然
%
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0)「精神の性質を最高善のように讃え、肉体の性質を悪としてけなす者は、実は精神を肉的に求め、肉体を肉的に
避けている。なぜなら、この考えは神の真理からではなく、人間のむなしさから生じるからである」
(アウグス
ティヌス『神の国』XIV,5;『エセー』#―1
3、六、p.2
0
5に引用)
。
« Qui velut summum bonum laudat animae naturam, et tanquam malum naturam canis accusat, profecto et animam
carnaliter appetit et carnem carnaliter fugit, quoniam id vanitate sentit humana, non veritate divina. »(V ―S,p.1
1
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4)
2
1)Cf.『アウグスティヌス著作集6:キリスト教の教え』
、加藤武訳、教文館、1
9
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8;!,4,p.3
1:「享受とはある
ものにひたすらそれ自身のために愛をもってよりすがることである。ところが使用とは、役立つものを、愛す
るものを獲得するということに関わらせることである。この場合愛するものとは、それに値するものでなけれ
ばならない。ところが誤った使用は濫用、あるいはむしろ悪用と呼ばれなければならない。
」
2
2)アウグスティヌスにおける「感覚欲」
(libido sentiendi)は、身体の感覚に起源をもつ欲望のことである。彼
は、「この世の、目に優しい光の輝き」「いなかる調べであれ、甘やかな旋律をもつ俗歌」「花々、香水、芳香の
甘美な匂い」「マナや蜜」
、とりわけ「肉体の抱擁」を危険なものとして挙げている(
『告白』$,6)
。
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3)V ―S,p.1
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に身を任せるのが、もっとも賢明な任せ方で
自然に任せて死を受け入れる態度は、正しいばか
ある。ああ、無知と無頓着とは、よくできた
りか幸福でもある、という。初期の『エセー』に
頭を休めるには何とやわらかく、快い、健康
おいて、モンテーニュは死の訪れに対して早くか
な枕であろう26)。
ら準備をし、死の考えに慣れ、さらには死を軽視
することを勧めたり29)、死の恐ろしさを「想像」
これは、学問や知識が、しばしば正しく生きるこ
によって快楽に転ずることがわれわれの幸福につ
との妨げになることを指摘する一節である。ここ
ながると論じたりしていた30)。今や彼は、「自然」
で「自然」は、「哲学」と対置さ せ ら れ て い る。
を道徳原理にまで高めることによって、究極の瞬
また、次の一節は、医術への依存を批判している。
間を、いかなる準備もせずに受け入れることを提
案するのである。のちに述べるように、まさにこ
病気には通路を開けてやらなければならな
の点によって、モンテーニュはパスカルと大きく
い。私は、病気に好きなようにさせるから、
袂を分かっている。
私のところにはあまり長くとどまらないよう
このような「自然」の捉え方は、おそらく正統
に思われる。また、しつこくて頑固なものと
なキリスト教の立場からすれば受容しがたいであ
考えられている病気をも、病気自身の衰弱に
ろう。第一に、自然は被造物であり、造物主であ
よって、医術の助けを借りずに、医術の規則
る神と精神をそなえた人間よりは存在論的に下位
に逆らって治してきた。少し自然のなすがま
に置かれるのだし、第二に、自然を善なるものと
まに任せておこうではないか。自然はわれわ
する思想を、彼はギリシアの思想(とりわけアリ
れよりも自分の仕事をよく知っている27)。
ストテレスの哲学)から得ている31)。
しかし、モンテーニュ自身は、「自然」と「神」
このような学問や理論に対する警戒と、自然への
とを区別していないように思われる。次の文章で
随順の思想は、彼にあって、死の受容の仕方に結
は、両者は明らかに同義で用いられている32)。
びついている。
#
そこで私は、神がくださったままの人生を愛
私は近所の百姓たちが、どんな態度と確信を
し耕すのである。
[...]私は心から、感謝し
もって最後の時を過ごしたらよいかなどと
ながら、自然が私のために作ってくれたもの
考え込むのを一度も見たことがない。自然
を受け取り、そして自分がそうすることを、
は彼らに、死にかけたときでなければ死を考
喜び、誇りとする。この偉大な全能の贈与者
えるなと教えている。そしてそのときでも、
のたまものをこばみ、破壊し、歪曲するの
彼らは、死そのものと長期にわたる死の予想
は、恩を仇で返すことである。彼はすべての
とで二重に急き立てられているアリストテレ
点で善であるから、彼の作ったものもすべて
スより、多くの恵みを受けている28)。
善である33)。
#
#
2
6)V ―S,p.1
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3、六、p.1
3
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7)V ―S,p.1
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1.
0
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2/"―1
2、六、p.9
5.
2
8)V ―S,p.1
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9)V ―S,p.8
6/!―2
0、一、pp.1
5
8―1
5
9.
3
0)V ―S,pp.5
0―5
1/!―1
4、一、pp.9
0―9
1.
8を参照。
3
1)関根秀雄、『モンテーニュ逍遙』
、白水社、1
9
8
0、pp.9
7―9
3
2)次の一節におけるように、両者が明白に対立的に用いられている場合もある。「だが話を前に戻すと、われわれ
がかくも気高い信仰の真理[霊魂不滅]を知りうるのは、ただひとえに神と神の恩寵のおかげであるという考
え方はまったく正しい。なぜなら、われわれは神の慈悲によってのみ不死の果実を受けるからであり、その果
・・・・・・・・・ ・
実は永遠の至福を享受することに存するからである。/正直に白状しようではないか。神のみが、そして信仰
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・・・ ・
のみが、このことをわれわれに告げてくれたのだ、と。なぜなら、この教えは自然からのものでもなく、われ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
われの理性からのものでもないからだ。
」
(V ―S,p.5
5
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2、三、pp.2
1
0―2
1
1)
.
3
3)V ―S,p.1
1
1
3/"―1
3、六、p.2
0
3.
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6
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9号
われわれはむなしい思い上がりから、自分の
のように守ってくれた。そしてわれわれを理
才能を、自然の恵みよりも自分の力のおかげ
性ばかりでなく、欲望によってもそこに誘っ
だと考えたがる。そして生まれつきの才能を
てくれる。この自然の原則を損なうのは不正
他の動物たちに気前よく譲って、後天的な才
である37)。
能で自分を尊くし、高貴にしようとする。私
には実に愚かな考えとしか思えない。私な
肉体的な欲望の発露、そのことによる快楽の享
ら、自分に特有な生まれつきの長所をも、修
受という、宗教が戒める行為は、「神」と「自然」
練によって得ようと思った長所と同じように
との同一視によって正当化される。モンテーニュ
ありがたがるところだ。われわれには神と自
は、地上的な幸福と信仰との間に、自然という媒
然に好まれること以上にすばらしい長所を獲
介者を置くことで、現世の生から禁欲を排除し
得することはできないのである34)。
た。そればかりではない。
「無知と無頓着」を哲
#
#
#
学や知恵よりも重要視する彼は、宗教的真理の探
このことをもって、モンテーニュの信仰が異端
究を回避し、はては死の想念一般をも排除するよ
的であったと断ずるのは早計である(現に、教皇
うになる。来世の幸福を求める努力は、彼にとっ
庁の図書検閲官は、いくつかの重大ではない異議
ては重要な意味をもたない。このような彼のきわ
を付したものの、
『エセー』に出版許可を与えて
めて現世志向的な幸福観は、もはや神ではない
いる35))し、そもそも、そのことの判断は本稿の
「自然」という道徳原理によって支えられている
目的ではない。重要なのは、カトリシズムを奉じ
のである38)。
るモンテーニュの信仰が、このような自然観と両
立しえたという事実である。
!.パスカル
モンテーニュは、肉体の適正な使用を推奨する
際にも、「自然」を導き手としていた。
1.「愛」と「邪欲」
パスカルにおいて、
「神を愛すること」――彼
自然から与えられた肉体を正しく用いること
は こ れ を 単 に「愛」
(charité)と い う 語 で 指 示
は、われわれ自身にとって大事であるばかり
し て い る――、そ し て そ れ を 妨 げ る「邪 欲」
でなく、神と他人への奉仕のためにも大事な
(concupiscence)を逃れることは、
「義務」すな
ことである36)。
わち掟である。人間にとっての幸福は、このこと
以外にはないという39)。この掟の根拠は、原罪に
私は踊るときには踊る。眠るときには眠る。
よる人間の堕落の教義に求められる。パスカルの
いや、一人で美しい果樹園を散歩するとき
説明は、おおむね次のようである。
も、いくらかの時間はほかの出来事のことを
神は人間を罪のない完全な状態に創ったが、人
考えるとしても、ほかの時間は、私の思索を
間は、その思い上がりによって、神の支配から逃
散歩と、果樹園と、一人でいることの楽しさ
れた。その結果、人間の感覚は理性から独立し
と、私自身のことに連れ戻す。自然は、われ
て、理性を快楽の追求へと駆り立てた。人間は今
われの必要のために命じた行為を、われわれ
や、獣と等しい地位にまで堕落した。かくて邪欲
にとって快適なものにするという原則を慈母
は人間の第二の本性となり、被造物の魅惑に苦し
3
4)V ―S,p.4
6
0/!―1
2、三、p.4
7.
3
5)ピーター・バーク、『モンテーニュ』
、小笠原弘親・宇羽野明子訳、晃洋書房、2
0
0
1、pp.4
2―4
3を参照。
3
6)V ―S,p.5
2
2.!―1
2、三、p.1
5
6.
1
0
7―1
1
0
8/"―1
3、六、p.1
9
4.
3
7)V ―S,pp.1
3
8)ここで立ち入る余裕はないが、モンテーニュにおける「自然」
(nature)は、きわめて広範な領域を覆う多義的
な観念である。その簡潔な概要について、Dictionnaire de Michel de Montaigne, publié sous la direction de Ph.
0
7―7
1
1を参照のこと。
Desan, Paris, Honoré Champion,2
0
0
4 ; N. Panichi, « nature―naturarisme »,pp.7
3
9)S1
8
2―L1
4
9―B4
3
0.
October 2
0
0
5
み、必然的に罪を犯す悲惨な状態にある40)。
このような厳格な原罪観は、パスカルが終生加
―1
6
1―
われる。彼の現世に対する否定的な態度は明らか
である。
担したジャンセニスムの中心的な教義を構成して
こうして、パスカルにとって、地上にいる人間
いた。
「ジャンセニスト」たち(ただし、これは
には真の幸福はない。にもかかわらず、彼らは
論争相手によって付された呼び名であって、彼ら
そこに幸福を見つけようとする。パスカルに言
自身は「アウグスティヌスの弟子」と自称してい
わせれば、そうした行いはすべて「気晴 ら し」
た)は、カトリック宗教改革の主要な担い手で
(divertissement)にすぎない43)。かりそめの気晴
あったイエズス会のなかから生まれたモリニスム
らしに身をやつして、真の幸福――すなわち神と、
――救済に際して人間の自由意志の働きを重視す
来世における永遠の至福――を求めようとしない
る説――に対抗して、原罪による人間の堕落、自
人間は、不幸であるばかりか、不正である。彼は
由意志に対する恩寵の絶対的優位性に基づく復古
言う。
的で悲観的な人間観を提示したのであった。
「愛」を 妨 げ る「邪 欲」は、狭 義 で は、身 体
三種類の人々があるだけである。第一に、神
(肉体)を起源とする欲望、すなわち「感覚欲」
を見いだして、これに仕えている人々、第二
(libido sentiendi)を指すが、パスカルにおいて、
に、神を見いだしていないので、これを求め
しばしばこれはもっと広義で用いられていて、
ることに専心している人々。そして第三に、
福音者ヨハネが定式化し、アウグスティヌスに
神を見いだしてもいず、求めもしないで生き
よって明確に定義された「三つの邪欲」――「感
ている人々である。第一の人々は、理にか
覚 欲」
、「知 識 欲」
(libido sciendi)、「支 配 欲」
なっており幸福である。第三の人々は、愚か
(libido dominandi)――のすべてを含んでいる41)。
であり不幸である。中間の人々は、不幸であ
このような関係から、しばしばパスカルは、
「邪
るが理にかなっている44)。
欲」一般、すなわち地上的な欲望全体を、提喩的
に「身 体」
(corps)あ る い は「肉 体」
(chair)と
神を見つけていない者は、少なくとも求める努
いう語で表現する42)。このような連関は、人間が
力をするのが正しい態度だという。パスカルは、
身体をもつ間、現世にいる間は、邪欲にとらわれ
そのような心構えのない仮想論敵の心情を、次の
続けるという彼の思想を背景にしているように思
ように描写している。
4
0)S1
8
2―L1
4
9―B4
3
0.
4
1)S7
6
1―L9
3
3―B4
6
0.
4
2)パスカルにおける「身体」と邪欲一般との結びつきについて、もう少し説明しよう。まず第一に、パスカルの
い わ ば コ ス モ ロ ジ ー を 端 的 に 示 す「三 つ の 秩 序」――「身 体(corps)の 秩 序」「精 神(esprit)の 秩 序」「愛
(charité)の秩序」――の断章(S3
3
9―L3
0
8―B7
9
3)によると、「身体の秩序」には、「王」「富者」「将軍」が分類
されている。これらは、本来の意味での「感覚欲」
(視覚、嗅覚、聴覚等、五感に発する欲望、とりわけ性欲)
にとどまらず、「支配欲」にとらわれた人々である。第二に、同じ断章によると、三つの秩序のうち、「精神」
から「愛」への距離は、「身体」と「精神」の距離の「無限倍」であり、「愛」だけが「超自然」
、他の二つは
「自然」の領域に属する。このような区分は、別の断章では、「霊」
(esprit)と「肉」
(chair)の二分法として表
現される。言うまでもなく、前者は神やキリスト、天上(「神の国」
)の原理一般を、後者はそれと対立する地
上的原理一般を、それぞれ指示する観念である。そしてさらに、「霊」を求める行為が「愛」
、「肉」を求める態
度一般が「邪欲」
(あるいは「情欲」passions)と、それぞれ呼ばれるのである(S3
0
1―L2
7
0―B6
7
0)
。こうして
「身体」は、「邪欲」のいわば提喩となる。ちなみに、「愛」と「邪欲」はたがいに象徴関係にある。パスカルに
よると、「情欲」にとらわれて聖書の意味を「肉的」にしか解釈できなかったユダヤ人は、
「霊的」な幸福をも
たらすために到来したイエスを救世主であると認識できなかった(ユダヤ民族一証人説)
。ユダヤ人は、聖書の
象徴的な意味――すなわち「霊的」意味――を理解しなかったからだという。「愛」と「邪欲」は、可視的な水準
においては見分けることができない。生来憎み合う人間は、自己の邪欲のために、公共の福祉を作り上げた。
1
0―B4
5
1)
。
パスカルによれば、これは「愛の虚像」
(fausse image de la charité)にすぎない(S2
4
3―L2
3
6―B1
3
9.
4
3)Voir S1
6
8―L1
4
4)S1
9
2―L1
6
0―B2
5
7.
―1
6
2―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
これが私の置かれた状態である。弱さと不確
助けを求めるだろうか。[...]
実に満ちている。このことから私は、次のよ
実際、これほど理性を逸脱した連中が敵だと
うに結論する。私は自分にどんなことが起こ
いうのは、宗教にとっては光栄なことだ(彼
るかということなどに気を取られることな
らの言うことに一理はあるとしても、これは
く、毎日を過ごしていくべきである。こうし
真理と い う よ り は む し ろ 絶 望 の 材 料 に な
た疑いのなかに、もしかするとなんらかの手
る)。彼らの反対など宗教にはまったく害に
がかりが見つかるかもしれない。だが、そん
ならないのであり、それどころか、かえって
な手間をかけたくもないし、探求の一歩を踏
宗教の正しさを確立するのに役立つというも
み出すこともごめんだ。そして、こんなこと
のだ47)。
に思い悩んでいる連中を軽蔑してやり、私自
身は、なんの心の準備もなく、恐怖もなし
原罪に対する悲観的な認識、地上的快楽の忌避
に、あの一大事に向かって行こう。そして、
と強い彼岸的志向、これがパスカルをして、モン
自分の未来の状態が永遠なのかどうかという
テーニュに反発させる主要な要素である。パスカ
ことは不確実なのだから、このままのんびり
ルにおいて、現世にはいかにしても幸福は見いだ
と死まで運ばれていくことにしよう45)。
せないのだろうか。見いだせるとすればそれはい
かなる幸福か。この点を、彼の有名な「賭け」の
現世の生活に満足を求め、死に対してはいかな
思想によって検討しよう。
る準備も行わないこの人物は、モンテーニュを思
わせる。事実パスカルは、モンテーニュについ
2.「賭け」
て、「彼の死についての考え方は許すことができ
1)「賭け」の条件
ない。
[...]彼は自分の本全体を通じて、穏やか
パスカルは、身体の死後の生、すなわち彼岸の
に、やんわりと死ぬことしか考えていない46)」と
生が存在するかしないかは――少なくとも形而上
述べている。パスカルは上のような人物の発言を
学的な論証によっては――判断できないものとし
受けて、相手に「宗教の敵」として強い非難を浴
ている。彼によれば、彼岸の生の存在は、神の存
びせるのである。
在が前提になる。その神の存在は、人間には決し
て知ることができない48)。
こんな風に語る者を、だれが友だちとしても
しかし彼は、このような状況にあっても、人間
ちたいと考えるだろうか。だれがほかならぬ
が神の存在と性質を知る手がかりがあることを示
この者に、重大事をうち明けようと思うだろ
唆する。「信仰によってわれわれは神の存在を知
うか。心配事があったとき、だれがこの者に
り、栄光(gloire)によってその性質を知るであ
4
5)S6
8
1―L4
2
7―B1
9
4,p.4
7
2.
4
6)S5
5―L6
8
0―B6
3.
4
7)S6
8
1―L4
2
7―B1
9
4,p.4
7
3.
4
8)その理由をパスカルは、人間と神との存在論的差違によって説明している。大きさにおいて「無限大」と「無
限小」との中間である有限的な存在であるわれわれは、「ものごとの中間」しか認識できないと彼は言う。一
方、神は「無限小」
(
「虚無」
)から「無限大」
(
「全体」
)までを包摂する「無限」の存在であると規定されている
(S2
3
0―L1
9
9―B7
2)
。このことは言わば数学的公理のように、無前提に真とされている。『パンセ』のいわゆる
「賭け」の断章には、「無限 無」という示唆的な題が付されている。「有限は無限の前では消え失せ、純粋な無
となる」
(S6
8
0―L4
1
8―B2
3
3)ことからすれば、「無限」と「無」はそれぞれ、神と人間の換喩的表現にほかなら
ない(そしてまた同時に、「無限」と「無」は、後に見るように、「神あり」に賭けた場合と「神なし」に賭け
た場合に、死後に得られる利益[幸福]の量をそれぞれ端的に表現したものでもある)
。こうして、「われわれ
には、神が何であるかも、神が存在するかどうかも知ることができない」
(同)
。パスカルは続けて言う。「そう
だとすれば、だれがいったいこの問題の解決をあえて企てようとするだろうか。それは神と何の関係も持たな
いわれわれではない」
(同)
。ここで「関係」
(rapport)とは、パスカルにおいて存在論的な同質性を意味する語
である。
October 2
0
0
5
ろう49)」。ここで「栄光」とは死後に与えられる
恩恵であるから、現世にあって問題になるのは
「信仰」であるし、それによって知られる可能性
があるのは神の存否という一点に限られる。
「賭け」の議論は、以上を前提に導入される。
―1
6
3―
参加料
場合
勝つ運 勝った場合の儲け 負けた場合の儲け 数学的期待値
∞
神あり 1!2
(「無限に幸福な
(表)
[1!
n]
一つの生命
無限の生命」)
(有限なもの)
神なし 1!2
0
(裏)[1―1!n]
0
∞
0
0
n:1より大きい有限の数
「信仰」が「神の存在」に賭けることに喩えられ、
それがいかに大きな利得をもたらす行為かが説か
れ る の だ。こ の 議 論 は、信 仰 を た め ら う 人 物
初、「表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度
(A)と、その人物に神の存在に賭けることを勧
は同じとしても、両者とも誤っていることに変わ
める友人(B)との仮想的対話によって構成され
りはない。正しいのは賭けないことだ」と言う。
ている。B の主張から「賭け」の条件を抽出して
生涯全体を賭するような危険なゲームを提案され
みよう。
た際の、これが一般的で賢明な反応だろう。だ
第一に、B はこの賭けを、コイン投げの賭博と
が、これに対して B は、「だが賭けなければなら
同一視している。このとき、表(神の存在)
、裏
ない。それは随意のものではない」
「君はもう船
(神の不在)が出る確率は、両者とも 1!
2 である
に乗り込んでしまっているのだ」という謎めいた
が、A に譲歩して、前者を選んだ場合に「無数の
断言をくり返すばかりである。
運のうちの一つが君のもの」
(「勝つ運が一つであ
なぜいずれにも賭けないという選択が認められ
るのに対して負ける運が有限の数」
)であるとも
ないかという問題については、すでに研究者に
言う。
よって有力な解釈がいくつか提示されている。な
第二に、このゲー ム へ の 参 加 料(mise)は、
かでも、ここには『パンセ』のほかの断章にうか
「真と幸福」「君の理性と君の意志、すなわち君の
がえる事実認識、すなわち、人間はそもそもつね
知識と君の至福」であると説明される。これは別
に未来の不確実な希望のために働いているのだと
の言い方では、「一つの生命」である。つまり、
いう認識が反映しているとの解釈50)には、大きな
現世における生涯全体であると理解される。
説得力がある。たとえば、われわれはなにかの目
第三に、表と裏のそれぞれに賭けて、勝った場
標を設定するとき、ある期間、その達成の障害に
合の儲けはどうか。B によれば、表(「神在り」)
なる欲望を自覚的に制限したり、ときに辛い心身
が出た場合、勝者には「無限に幸福な無限の生
の鍛練を自らに課す。ところがその目標が達成で
命」が与えられるという。裏(「神なし」)が出た
きるかどうかは確実ではない。そうした努力が報
場合の勝者への配当については、明確に言及され
われないという可能性に加えて、想定している未
ていない。しかし、ここでの配当とは、賭けの結
来が突然の死によって根こそぎ奪われる可能性も
果(勝敗)が判明した時点、つまりは参加者の死
あるからだ。このようなとき、人は一定の時間と
の時点で約束される生命なのであるから、その結
努力を差し出して、
「賭け」を行っているのと同
果が「神なし」であれば配当も当然ゼロである。
じであると言える、というわけだ。人間はこのよ
また、表に賭けて裏が出た場合と、裏に賭けて表
うに、不断に大小の賭けを行い続けている。
「人
が出た場合の儲けは、双方ともに「無」[ゼロ]
が明日のため、そして不確実なことのために働
であることは明らかである。
くとき、人は理にかなって行動しているのであ
以上を表で示せば、下のようになる。
る51)。」
ところで、B が提示するこのゲームの条件の第
もっとも、以上をもって、とくにこのゲーム
四に、表と裏のいずれにも賭けないという選択は
――神の存否を当てるゲーム――への参加が強制さ
許されない、という重要な項目がある。A は当
れているということの直接の説明にはならないか
4
9)S6
8
0―L4
1
8―B2
3
3.以下、断りのないかぎり、同じ断章からの引用とする。
4
5を参照。
5
0)とりわけ、塩川徹也、『パスカル「パンセ」を読む』
、岩波書店、2
0
0
1年、pp.2
3
8―2
5
1)S4
8
0―L5
7
7―B2
3
4.
―1
6
4―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
もしれない。しかし、次のように考えればどう
の余地がないように思える。B は自分の演説に勝
か。死後の生命が神によって与えられるか否かと
ち誇ったようなそぶりを見せる。
「これには証明
いう、このゲームの結果は、現世での生涯のあり
力がある。もし人間がなんらかの真理をつかむこ
方全体に関わっている。この場合、「神あり」に
とができるとすれば、これがまさにそれである」
も「神なし」にも賭けないという事態が存在する
と。しかし、それにもかかわらず、このような説
として、その事態は結局、「神なし」に賭けてい
得が即座に効果をもたらすわけではないのは明ら
るのと同じ事態を指示している。両者はいずれ
かである。なぜならまず、この議論には、すでに
も、信仰が課すさまざまな精神的・身体的規律に
信仰という行為によってはじめて正当化される内
従わずに、生涯をみずからの裁量のもとに送るこ
容が含まれているからだ。言うまでもなくそれ
とにほかならないからだ。現時点で神の存在・非
は、「神が存在していれば、無限の生命と幸福も
在のいずれかに賭けているという自覚のない者
存在する」という命題である。賭けの議論は、神
も、これまでの人生の時間をすでに宗教と離反し
を信じることのできない人を信仰に導くためのも
た生活に充ててしまっている。賭博への不参加と
のであった。その人を相手に、その信仰を前提と
「神なし」への賭けとを区別するのは、その主体
してこそ受け入れられる内容をこのゲームの条件
の意志のあり方のみである。B は、このゲームに
として認めさせることには無理がある。「神あり」
際して「賭けるべきもの」は、「君の理性と君の
に賭けるためにはすでに信仰をもっている必要が
意志」であると語っていた。彼はここで、神の存
あるし、逆に、信じられない者には賭けることが
否という問題に立ち向かわない不信仰者に、その
できない。対話者 A が次のように嘆くのももっ
ような態度はまさに「神なし」に賭けるという、
ともである。
「ぼくの手は縛られ、口はふさがれ
これまでの条件からすればきわめて不利な、そし
ている。賭けをしろと強制され、自由の身ではな
てきわめて恐ろしい選択を行っているのと同じで
い。ぼくは放してもらえない。しかも、ぼくは信
あることを知らしめようとしているのではない
じられないようにできている。君はいったいどう
か。不信仰者は――いかに消極的な意味でのそれ
しろというのだ。」
であっても――、好むと好まざるとにかかわらず、
たしかに、このように困惑する対話者に対し
すでに「神なし」を選んでいる。ならばここで
て、それならばまず「信じているかのようにすべ
「理性と意志」をもってそのことの当否を判断せ
てを行う」ことを勧めるという B の戦術は可能
よ――B は対話者 A に、このように迫っているの
である。彼が言うように、すでに「持ち物すべて
である。
を賭けている人たち」に倣い、
「聖水を受け、ミ
さて、以上四つの条件を認める限りにおいて、
サを唱えてもらう」などの実践を取り入れること
「表」に賭ける以外の選択はありえない。なにも
で、「おのずから信じるようにされるし、愚かに
B が導入する利益の数学的計算(
「期待値」の計
される」ということもありうるだろう。しかし、
算を思わせる)を考慮するまでもない。
「神なし」
このような信仰の自動化作用が有効だとすれば、
に賭けた場合は勝っても負けても配当はゼロであ
なにも賭けを勧める必要もないはずではないか。
るのに対して、
「神あり」に賭けた場合は、勝て
どのようにであれ正しい信仰を得た者であれば、
ば無限の幸福が得られるのだし、たとえ負けたと
その者は当然「神あり」に賭けているのと同じこ
しても、「神なし」の選択と同じ結果になる、と
とだからだ。少なくとも論理的な次元にとどまる
いうのだから。「表」に賭けるのと「裏」に賭け
限り、賭けの議論は破綻している。
る の と で は、そ の 有 利 さ に お い て「無 限」と
だが、ここで問題にしたいのはそのことではな
「無」の懸隔がある。B の言う通り、
「ぐずぐずし
い。賭けの議論には、上のような論点先取の誤謬
ないで、すべてを出すべきだ」。
以外にも、もうひとつ決定的な瑕疵が含まれてい
る。ここで、「神が存在するならば、無限の生命
2)「賭け」の議論の問題点
以上のような護教論者 B の論理は、一見反論
と幸福が存在する」という上に挙げた命題を証明
済みのものだと仮定し、B が提示する条件をすべ
October 2
0
0
5
―1
6
5―
て受け入れよう。それでもなおゲームの参加者
あと十年の生涯を賭けたつもりが、やはり自己愛
は、表に賭けるか、裏に賭けるかを躊躇する余地
を完全に捨て去ることができないばかりに、ゲー
がある。なぜなら、このゲームがこの世の生のす
ムの配当がもたらされないかもしれないことを、
べての期間にわたって持続する以上、表に賭ける
この人物は恐れている。「神あり」に賭けると
場合と裏に賭ける場合のそれぞれにおいて、死後
は、このような危険を冒すことに合意するという
に得られる幸福の量的比較(∞対0)だけではな
ことでもある。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
く、現世で得られる幸福の質的比較をも行わない
このように考えると、このゲームはもはやコイ
限りは、前者を選択する絶対的な基準は提供でき
ン投げとは同一視できない。それはむしろ、きわ
ないからである。
めて選抜が厳しい試験に似ている。合格すれば輝
このゲームに参加するためには、「一つの生命」
かしい未来が保証されてはいるが、そのためには
すなわちみずからの生涯全体を差し出す必要が
多大な犠牲と長期にわたる努力が必要となる。は
あった。これを有限な数 n と置きかえることに
じめからそんな試験に挑まない選択もあるのと同
よって、「神あり」を選んだ場合と「神なし」を
様に、ゲームに参加しない、すなわち「神なし」
選んだ場合の期待値には無限の懸隔が現れる。だ
に賭けることも、愚かな選択として切り捨てるわ
が、ゲームの実態を考えると、このような置きか
けにはいかない。
えは受容しがたい。すでに述べたことから明らか
なように、「表」を期待して送る生涯と、「裏」を
3)「君はこの世にいる間にその賭けに勝つだろう」
期待して送る生涯には、質的な差がある。前者は
護教論者 B の目的は、相手にこのゲームに参
信仰が求めるおそらくは禁欲的な人生であり、後
加すること、すなわち「表」が出ることに賭けて
者はなにものにもとらわれる必要のないいわば自
生涯を送ることこそが正しい選択であると示すこ
由な人生である。「神あり」に賭けるとは、自己
とであった。そのためには、そのことによっても
本意の気ままな生涯に代えて、みずから教義の拘
たらされる(かもしれない)恩恵の大きさだけで
束を受けると決意することにほかならない。
はなく、そのような生涯そのものが、
「裏」に賭
そればかりではない。少なくともパスカルが奉
じる教義によれば、
「神あり」を選択した者が、
みずからの生涯を正しく神にゆだねているつもり
でも、そのような生活態度が当の神から見て正し
けて過ごす生涯と比べてより幸福であることを論
証する必要もあったはずだ。
実は、「賭け」の断章の末尾には、B がそのよ
うに確信していることを示唆する一節がある。
いかど う か は つ ね に 不 可 知 な まま で あ り 続 け
る52)。実 の と こ ろ、「神 あ り」に 賭 け た と し て
ところで、こちらに賭けることによって、君
も、それが救済へとつながり、
「無限に幸福な無
にどんな不都合が生じるというのか。君は忠
限の生命」が得られるのかどうかはわからないの
実で、正直で、謙虚で、感謝を知り、親切
である。次の一節は、「賭けの断章」には含まれ
で、友情にあつく、まじめで、誠実な人間に
ていないが、不信仰者 A の心配であると解釈で
なるだろう。たしかに、君は有害な快楽や、
きるように思われる。
栄誉や、逸楽とは縁がなくなるだろう。しか
し、君はほかのものを得ることになるのでは
確率計算によれば十年ということだから、君
なかろうか。
がぼくに約束してくれるものは、確実な苦痛
言っておくが、君はこの世にいる間にその賭
に加えて、
[神に]喜ばれようと努力して失
けに勝つだろう。そして、君がこの道で一歩
敗する自愛の十年間以外の何があるというの
を踏み出すごとに、儲けの確実さと賭けたも
だ53)。
のが無に等しいこととをあまりにもよく悟る
5
2)Cf. S7
6
2―L9
3
5―B4
9
0;S5
9
0―L7
1
2―B53
0.
5
3)S1
8
6―L1
5
3―B2
3
8.
―1
6
6―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
あまり、ついには、君は確実であって無限な
ンセ』の次の一節に解決の手掛かりがあるように
ものに賭けたのであって、そのために君は何
思われる。
も手放しはしなかったのだということを知る
だろう54)。
この世に真の堅固な満足はなく、われわれの
あらゆる楽しみは空しいものにすぎず、われ
「正直」「謙虚」「親切」などの、前半で挙げら
われの不幸は無限であり、そしてついに、わ
れる美徳は、その内実が詳しく明らかにされない
れわれを一刻一刻脅かしている死が、わずか
かぎり、世俗の美徳との区別ができない。
「神あ
の歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは
り」に賭ける生き方のみがこのような恩恵をもた
無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろ
らすとは言えないだろう。「有害な快楽や、栄誉
しい必然のなかへ誤りなく置くのであるとい
や、逸楽」とは、パスカルが別の箇所で「邪欲」
うことは、そんなに気高い心を持たなくとも
のもっとも典型的な具体例として挙げているもの
理解できるはずである。
だと理解される。これらは、「精神の秩序」から
これ以上現実であり、これ以上恐ろしいこと
無限の距離を、
「愛の秩序」からはその無限倍の
はない。したい放題強がりをするがいい。こ
距離を、それぞれ隔てて下位にあるとされる「身
れがこの世でもっとも美しい生涯を待ってい
「有
体の秩序」に属する諸価値である55)。だが、
る結末である。このことについてよく考えて
害」という規定は、宗教の教義的認識に基づいて
もらいたい。そして、この世においては来世
なされたものであることを考えれば、こうした欲
を望むこと以外に幸福はなく、人はそれに近
望と「縁がなくなる」ことをよしとする見地は、
づくにしたがってのみ幸福であり、そしてそ
そもそも「神なし」を選択しようとする者に共有
の永遠について完全な確信を持っている人々
されるとは限らない。いや、護教論者 B 本人も
にとってはもはやなんの不幸も存在しないの
認めているように、賭けることを拒む、あるいは
と同様に、それについていかなる光も持って
ためらう最大の原因こそまさにこれらの「情欲」
いない人々にとってはなんの幸福も存在しな
なのである(「神の証拠を増すことによってでは
いということが、はたして疑う余地のあるこ
なく、君の情欲 « passions » を減らすことによっ
とであるかどうかを言ってもらいたい56)。
て、自分を納得させるように努めたまえ」
)。「栄
誉や逸楽」を至上の価値と認め、自分には神が
この世の享楽はすべて、それ自体空しいもので
あったとしても救われることができないと考える
あると同時に、今この瞬間にも訪れる可能性のあ
不信仰者は、まさにそれらを捨て去る生涯を拒む
る死によって消え去ってしまうはかないものであ
がゆえに「神なし」を選ぼうとするのではない
るにすぎない。にもかかわらず、人間はそのよう
か。B の言うように、情欲の放棄が宗教的実践の
な慎ましい楽しみに興じて日々を送っている。人
先取り(つまり「神あり」に賭けているかのよう
間は自己の置かれた本来的に悲惨な状況を幸福で
にふるまうこと)によって可能であるとしても、
あると取り違えている。人間はささいな喜びに
ここでも、ゲームの規則そのものからは「神あ
よって満足し、真の幸福とは何かという問題につ
り」に賭けるという論理的帰結は導き出せない。
いて探求を怠る、二重の意味で空しい存在であ
注目すべきは、後半の「君はこの世にいる間
る。――このような認識は、『パンセ』の「気晴ら
にその賭けに勝つだろう」« vous y gagnerez en
し」を主題にした諸断章に親しい。
「人間という
cette vie » という発言である。なぜそのように言
ものは、どんなに悲しみで満ちていても、もし人
えるのだろうか。また、そうして得られる善はい
が彼をなにか気を紛らわせることにうまく引き込
かなるものなのだろうか。これについては、
『パ
みさえすれば、その間だけは幸福になれるもので
5
4)S6
8
0―L4
1
8―B2
3
3.
0
8―B7
9
3.
5
5)Voir S3
3
9―L3
5
6)S6
8
1―L4
2
7―B1
9
4.
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0
0
5
―1
6
7―
ある57)」。ここでは、そこから一歩進んで、かり
あるかどうかについてはなお疑いもはらんでいる
そめではない真の幸福が明確に名指される。それ
ような状態――そのものを善と認めていることに
は、
「来世を望むこと」« l’espérance d’une autre
なる。未だ幸福を得ていないもかかわらず、その
vie » である。
「来世」そのものではない。
「この世」
ような状態を即自的に幸福であると捉える。この
にあって来世の存在は、どのような手段によって
ような倒錯がいかにして可能なのか。
"
"
"
"
も不可知である。パスカルはその上で、それに
「近づく」ことが幸福であるというのだ。しかも、
下に言われるように、この状態は、来世の存否に
4)身体の救済論的位置づけ
実のところ、これは倒錯ではない。パスカルに
おいて、此岸の生にあって呻吟しながら神を探求
ついての「疑い」を排除するものではない。
する状態は、それ自体が救済への必要な一契機で
この問題について疑いのなかにあるというこ
とは、たしかに大きな不幸である。しかし、
ある。彼は、
「キリスト者」を「世俗の人々」と
「至福者」の中間に位置づけている。
この疑いのなかにいる場合に、少なくとも必
ず果たさなければならない義務は、求めると
イエス・キリストによれば、畑のなかに宝を
いうことである。したがって、疑いながらも
見つけた者は、喜びのあまり、それを買うた
求めないという人は、全く不幸であると同時
めにすべての持ち物を売ってしまいます。世
に全く不正である58)。
俗の人々はこのような喜びを決してもつこと
はないと、イエス・キリストご自身も言って
疑いの状態にありながらも来世の存在の可能性
おられます。世俗はこれを与えることも採り
を探求すること、その可能性に賭けて、それが真
上げることもできないからです。至福者はい
実であった場合に備えて日々を送ること、これは
かなる悲しみもまじえずにこの喜びをもって
まさに、 護教論者 B が提示するゲームに参加し、
います。世俗の人々はこの喜びをもつことな
"
"
"
"
"
"
"
"
"
"
「神あり」に賭けるという事態を指示している。
く、悲しみだけをもっています。そしてキリ
上で見たように、このゲームでは、コインが投げ
ス ト 者 は、この喜びをもちますが、そこに
られて、それが落ちてくるまでの間、指をくわえ
は、他の快楽を追い求めたことによる悲しみ
て見ておくことは許されない。コインが「表」を
と、たえずわれわれを駆り立てるこうした他
示すことを祈り、そうであったときに無限の生命
の快楽に惹きつけられて、この喜びを失って
を与えられるに値するような努力を生涯怠らない
しまうのではないかという恐れが入り混じっ
こと。これが「神あり」に賭けるという実践の内
ているのです60)。
"
"
"
実である。パスカルはそのような生を、すでに幸
神を求める途上にある者、すなわちキリスト者
福であると考えている。
アリストテレスによれば、「幸福」とは「最高
は、至福への期待という喜びの一方で、これまで
善」であり、
「最高善」はなんらかの究極的な目
に没頭した邪欲や情念を悔やむことによる悲し
的であった。「それ自身として追求に値するとこ
み、さらには今後もまだ他の悦楽に惑わされると
ろのもの」は、
「他のもののゆえに追求に値する
いう恐れをもつと言われる。キリスト者は罪と恩
ごときもの」に比して、より究極的である59)。こ
寵の両方が混合した状態にある。パスカルによれ
こでパスカルは、究極の善たる来世における魂の
ば、このような価値的な中間はすなわち、時間的
生命を探求すること、すなわち目的に至る手 段
な中間でもある。彼は病床で神に訴えかける。
"
"
――しかもそれが必ずその目的をもたらす手段で
5
7)S1
6
8―L1
3
6―B1
3
9.
5
8)B1
9
4―L4
2
7―S6
8
1.
5
9)『ニコマコス倫理学』
、高田三郎訳、岩波文庫、(上)
、p.3
0ほか参照。
6
0)「ロアネーズ嬢への手紙6」
、Lettre 6 à Mlle de Roannez, MES. !, p.1
0
4
1.
―1
6
8―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
私が、慰めのない状態で苦しみを感じること
まま自己が行うべき行為を選択する生涯だ――は、
がありませんように。そうではなくて、私の
その意味において幸福であると価値づけられる。
苦しみとあなたによる慰めを一緒に感じるこ
パスカルは記す。
「恐れているならばなにも恐
とができますように。そうすればついに、
れることはない。だが、恐れていないならば恐れ
まったく苦しみのない状態で、あなたによる
よ62)。」
慰めだけを感じることができるようになるの
「神あり」への賭けをこのように解釈すること
ですから。
[...]あなたは私を第 一 の 段 階 か
が許されるならば、すでに引用した護教論者 B
ら抜け出させて下さいました。私が第三の段
の次の発言も理解できるように思われる。
"
"
"
"
"
"
"
"
"
"
"
"
"
"
階に至り着くことができるように、第二の段
"
階を通らせてください。主よ、これこそが私
ついには、君は確実であって無限なものに賭
があなたに求める恩寵です61)。
けたのであって、そのために君は何も手放し
はしなかったのだということを知るだろう。
パスカルにとって、身体の病とは、魂の病、す
なわち邪欲の象徴である。彼は自分の病気を、神
今や、ゲームへの参加者を幸福にしているのは、
が自分のうちにある邪な情念の存在を知らしめて
賭けに勝った場合に得られるかもしれない恩恵の
くれる契機であると理解する。しかし、神による
大きさであるよりもむしろ、その恩恵に与る確実
このような告知は同時に、自分がこの後邪欲を完
さの度合いである。
「神あり」への賭けは、宗教
全に放棄することによって救いに至る可能性があ
が要請する実践を通じて、その選択こそが正し
ることの証拠にほかならない。苦しみと慰めの共
かったことをその者に確信させる効果をもたらす
存という「第二段階」においてこそ、神の存在を
という。パスカルにとって、此岸における幸福
信じ、救いの恩寵を求めることができるのであ
は、彼岸の生命に向けられた信そのものにある。
り、その状態こそがキリスト者として正しいあり
方なのである。
神の認識なしには幸福はなく、神に近づくに
パスカルにおいて、まさにこのような中間の両
つれて幸福になり、究極的な幸福は神を確実
義性こそが「信仰」を特徴づけている。
「魂の不
に知ることにあり、神から遠ざかるにつれて
死」のみが生涯において探求すべき最大にして唯
不幸になり、究極的な不幸は、反対のこと
一の問題であると考える彼にとって、身体は早々
の確実さであるということは疑う余地がな
に脱すべき邪欲と苦しみの起源でしかない。しか
い63)。
し、そのような不浄な肉体を伴う生涯も、救済へ
の摂理的な過程においては不可欠なものとなる。
もっとも、それは信である以上、参加者個人に
ここで、不安や恐れの根源である身体の存在が、
よって感じ取られる主観的な確実さにとどまるだ
逆説的にキリスト者を正当な中間に位置づけてい
ろう。その限りでやはり、賭けをめぐるこの議論
る。
だけで、不信仰者を必ず信仰へと導くことはでき
こうして此岸の生は、彼岸の存在への疑い、無
ない。だが、パスカルは、賭けの結果を待つ間と
限にして永遠の生命を与えられないかもしれない
いう宙づりの時間――すなわち現世の生涯――にお
ことへの恐れを伴うことによってのみ、その究極
いてもまた、
「神あり」に賭けるほうが、
「神な
の目的へと到達する可能性を得る。救済への不安
し」を選ぶよりも幸福であるとの命題を提示して
と絶えざる探求の祈りこそが、此岸と無限の幸福
いる。そして、彼の他のテクストを参照すること
への正当な紐帯となるのだ。「神あり」に「賭け
によって、その命題は――少なくとも彼の目には
る」人生――文字通り、結果の確実さが不可知な
――証明済みのものであったと考えられるのであ
6
1)「病の善用を神に求める祈り」
、Prière pour demander à Dieu le bon usage des maladies, MES. !, p.1
0
0
8.
7
6―B7
8
5.
6
2)S6
4
5―L7
6
3)S6
6
2―L4
3
2―B1
9
4bis.
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0
5
―1
6
9―
る。このときはじめて、この賭博において「神な
る。彼にとって現世の幸福は、死後の至福を求
し」の選択は完全に排除される。
「神あり」への
め、待ち望むことにほかならない。神を信じ、宗
賭けは、此岸においても彼岸においても幸福をも
教を実践する意義は、この一点に集約されるので
たらすのだから。パスカルの提案する賭けの正当
あった。このとき、彼を幸福にしているのは無限
さは、ひとえに此岸の幸福を信仰と関連づけるこ
定かつ不確定な未来における救済へと近づいてい
とに発しているのである。
るという意識である。今の一瞬は、つぎのよりよ
"
"
"
"
"
"
い一瞬のために存在する。過去は現在に、現在は
パスカルは、人間の理性の本質的な無力さに起
未来へと供される。現在はそれ自体として、自律
因する宗教的真理の不可知性についてはモンテー
的な時間ではない。この瞬間の享楽は、未来の業
ニュに合意するが、その探求をあえて避ける態度
罰へと通じる危険があるからだ。
は、彼にはとうてい認められるべきものではな
かった。また、彼にとって、神を愛することと邪
モンテーニュが避けたのは、まさに現在を未来
に従属させるこのような生き方である。
欲を避けることは、宗教最大の掟であるし、身体
と精神(魂)の区別も、証明を要しない第一原理
われわれはけっして自分のもとにいないで、
にほかならない。
つねに自分の向かうにいる。不安や欲望や希
「賭け」の導入は、霊魂の不死については不可
望は、われわれを未来に押しやり、将来のこ
知なままで、信仰することの正当性を説くことを
とに、しかもわれわれの死後のことに、心を
目的として行われる。そして、現世と来世との連
煩わせて、われわれから現にあるものについ
続性は、神が存在するという条件下では疑われる
ての感覚や考慮を奪い去る。
「未来を思い煩
ことがない。この議論は、そのままの形では不信
64)。
う心は不幸である」[セネカ]
者に受け入れられることはないが、来世を希求す
る限りでの生活こそが現世における幸福を与える
モンテーニュは、信仰に全てを捧げ、来世の至
との結論によって、信仰と地上的幸福とを連続さ
福を恃む人々について、それを彼ら の「想 像」
せるひとつの試みとなる。
(imagination)によるふるまいにすぎないと喝破
しかし、パスカルは、現世的幸福に、
「現世的
していた65)。現世の功徳が来世において報われる
幸福の否定」とのきわめて不自然な意味を新たに
との考えは、ひとつの臆見にとどまるとの立場で
与えている。また、神の存在は、このような逆説
ある。そのような人々――パスカルもこれに含ま
的な定義を受け入れるかぎりにおいて確信される
れるであろう――の態度が称賛に値するとしても、
にすぎない。彼にあっては、信仰が現世的幸福を
モンテーニュにとっては、それはあくまでも、い
棄却させるのではなく、現世的幸福の忌避が、信
くつもある正しい現世の過ごし方のなかの一例に
仰を生み出し、育んでいくことになる。
すぎないのであった。モンテーニュは、真理を生
***
活の指針にすることはない。懐疑主義者として、
そもそも単一普遍の真理が人間に認識できるとは
パスカルはモンテーニュの、現世志向的な考え
考えていなかったからだ。このとき、彼を導く道
に、なによりも強く反発した。死後の生の存否と
徳は、「自然」と「享楽」となる。彼が自分の生
いう最大の問題から目をそらし、
「穏やかにやん
き方を選び取ったのは、それが真理と照らして正
わりと」生を終えることを至上の幸福とする態度
しかったからではなく、快適であったからにほか
を、反キリスト教的であると断じた。彼岸におい
ならない。現世と来世の因果的な関係――モン
て永遠至福の生を得られるかもしれないのに、そ
テーニュはこれを真理であるとは考えていない――
の問題について探求することを拒む者は、パスカ
もまた、それが人々の生活を享楽へと誘うかぎり
ルには「宗教の敵」としか映らなかったのであ
においてのみ、選ばれるに値する臆見となる。
6
4)V ―S,p.1
5/!―3、一、p.2
5.
6
5)!―3
9、二、pp.6
2―6
3.
―1
7
0―
社 会 学 部 紀 要 第9
9号
この熱烈な信念と希望に常に真底から心を
凡例:
燃やすことのできる人は、孤独の中に、他の
1)パスカルおよびモンテーニュからの引用は、次の
#
#
#
#
#
#
#
#
#
あらゆる生活を越えた逸 楽 的 で 甘 美 な 生 活
(une vie voluptueuse et délicate)をうち立
てるのである66)。
テクストに従う。
Pascal, Pensées, éd. G. Ferreyrolles, Paris, LGF, « Le
Livre de Poche »,2
0
0
0.
Pascal, OEuvres complètes, éd. J. Mesnard, tomes !
―", Paris, Desclée de Brouwer,1
9
6
4―1
9
9
2
パスカルから見れば、来世のために現在の情欲
を差しだそうとしないモンテーニュは、「神なし」
に賭けていることになる。ところが当の本人は、
自己の敬虔さを疑う理由はない。モンテーニュと
しては、神を現世における人間のふるまいの判定
者ではなく、造物主、あるいはそれによって創ら
[引用箇所は、略号 MES 、巻号、頁によって記
す]
.
Montaigne, Essais, éd. P. Villey, sous la direction de
V.―L. Saulnier, Paris, PUF, « Quadrige », 3 vol.,
1
9
9
2[引用箇所は、略号 V ―S と頁によって記
す]
.
2)引用の日本語訳に際し、 以下の書を参考にしたが、
れた「自然」そのものとみなし、それに随順した
適宜変更を加えた。
までなのだから。両者は、信仰者として此岸の生
パスカル、『パンセ』
、前田陽一・由木康訳、中公
をどうとらえるかという問題について、両極端
の、おそらく代表的な立場を提示している。
それにしても興味深いのは、パスカルがモン
文庫、1
9
7
3.
モンテーニュ、『エセー』
、原二郎訳、ワイド版岩
波文庫、6巻、1
9
9
1[引用箇所は、章番 号、
巻号、頁によって記す]
.
テーニュを、「許せない」と言いながらも、『エ
3)『パンセ』からの引用に際し、セリエ版、ラフュマ
セー』1652年版をたえず参照し、その主題や表現
版、ブランシュヴィック版の断章番号を、それぞ
の多くを自己の著作のなかで用いたことだ。彼
れ記号 S,L,B に続けて記す。なお、上記フェレ
は、「モンテーニュのなかで私が読みとるすべて
ロル版はセリエの配列に、前田・由木訳はブラン
のものを、彼のなかではなく、私自身のなかに見
いだす67)」とまで告白する。対してモンテーニュ
がパスカルのような生き方を、称賛に値するとし
ながらも、自分は従わないと表明するとき、その
老獪さは際立っている。神ありへの賭け以外の選
択をすべて排除しようと躍起になったパスカルに
迷いが見られ、複数の立場のそれぞれに正当さを
見いだしたモンテーニュのほうに、むしろ落ち着
きが認められるのである。一方の逡巡と、他方の
安定は、そのままそれぞれの立場がもつ困難の度
合いを示唆しているように思われる。
6
6)V ―S,p.2
4
5/Ⅰ―3
9、二、pp.6
2―6
3.
6
7)S5
6
8―L6
8
9―B6
4.
シュヴィックの配列に、それぞれ従っている。
4)引用文中における傍点による強調は、すべて筆者
による。
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0
0
5
―1
7
1―
La foi et la vie terrestre : l’idée du bonheur chez Pascal et Montaigne
RÉSUMÉ
Après avoir considéré de manière mathématique les profits réciproques que
représentent l’engagement pour l’existence de Dieu et celui pour sa non-existence, Blaise
Pascal(1623−1662), dans le fragment des Pensées sur le « pari », conclut que le premier
choix est le plus intéressant : il apporterait au joueur, s’il gagne, une vie « éternelle et
infiniment heureuse ». Or, ce joueur, qui est donc désormais un croyant, peut-il connaître
le bonheur dès cette vie terrestre qui constitue sa situation actuelle ? Et si c’est le cas, de
quel bonheur s’agit-il ? En effet, pour Pascal, les richesses, la santé ou la force, qui, selon
lui, relèvent du corps humain ― infiniment moins valorisant que l’esprit et la charité ― ne
peuvent en aucun cas constituer le véritable bien. Ce rejet absolu du bonheur terrestre ne
se retrouve en revanche pas chez Michel de Montaigne (1533―1592), qui se déclare
pourtant un vrai chrétien. Ce dernier de fait respecte voire poursuit des valeurs qualifiées
de périssables, comme la santé corporelle ou encore les plaisirs charnels. Mais comment
expliquer cette différence d’attitudes entre les deux penseurs ? Afin de répondre à cette
question, nous examinerons la relation entre la foi et les biens terrestres, en nous appuyant
sur la conception que l’un et l’autre se font du bonheur.
Mots-clefs : Blaise Pascal, Michel de Montaigne, bonheur
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