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市ー制
140 ポ-ル・レオト- 、あるいは内面の都市 ou)a ville interieure 洋一 UMEMOTO 介しようと言う。ユイスマンスは確かに文壇で大きな権勢を誇ってお り、多-の尊敬を集めているから、彼の知己を得、好印象を与えれば 彼の受賞の日は近いかもしれない。ヴァレリ-はポ-ルを何度もユイ とを話しておいたから」とヴァレ--はポ-ルを説得しようとするが、 『恋愛』 への寄り道 逸したことは、確かにポ-ルにとって大きな痛手にちがいなかった。 や描写の数々をその原因として挙げることができるだろうが、自伝的 合だったならば、その小説の中に広がる当時は卑猿とされていた表現 彼もまた友人たちにその理由を尋ねようとする。それが『情人』の場 ポ-ル本人ならずとも、その原因を追究したいと考えるのは当然だ。 たからだ。ポ-ルがゴンク-ル賞を逃したのはいったいなぜなのか。 ルは、コンデ街の「メルキュ-ル」誌の編集部に毎日通い、ヴァレッ はないのだ。ポ-ルならずともそう思うのは自然なことだろう.ポー ことが原因なのだ。あれほど自分自身を悩ませた才能の欠如が問題で の言葉がポ-ルの耳に収まらないわけがない。つまり、量が足りない 冊分の分量があれば、明日にでも選考委員会に推挙しようと言う。こ モリアム』は一冊の書物としては薄すぎるのが原因だ、と伝える。l グ-ルモンといった「メルキュ-ル」誌の実力者たちに、『イン・メ この賞の選考委員の一人デスカ-ヴは、ヴァレットやレ-・ドゥ・ な色彩の濃い 『イン・メモリアム』が賞を逃したのはいったいどんな トやドゥ・グ-ルモンと対話する中で、新たな企画を思いつく。それ 、あるいは内面の都市-㈲ レリ-はポ-ルをゴンク-ル賞の選者の一人であるユイスマンスに紹 ポ-ル・レオト- 梅本 原因なのか。たとえばポールの数少ない親しい友人であるポール・ヴァ とって、ゴンク-ル革は明らかに彼の望んだ文学への道を開く扉だっ ポ-ルから積極的な返事は返らなかった。 スマンス家に誘うが、ポ-ルは生返事をするばかりだ。「もう君のこ Pau)Leautaud 本 Yoichi 梅 『情人』、そして『イン・メモリアム』が相次いでゴンク-ル賞を 文学から演劇の方へ 垂 文字の列を記し続けることを生活に結びつけようとしてきたポ-ルに 湖 139 ポ-ル・レオー-、あるいは内面の都市-㈲ して十一月上旬号の三度に分けて、『恋愛』を適する小品を「メルキュ- いことばなかろう。ポ-ルは、一九〇六年の十月上旬号と下旬号、そ れば、分量からいっても、それがゴンク-ル賞の候補作に推挙されな 『もう定かではない過去』というタイトルで1冊の書物として出版す 『イン・メモリアム』と『恋愛』を一冊にするという欲望に、ポ-ル ために記されたといっても過言ではないだろう。だが、もちろん、 の作品は、単にゴンク-ル賞を獲得するための分量の問題を解消する れているだけで、大した興味をそそられるものではない。つまり、こ れる主人公ジャンヌの描写も、「輝くような金髪で背が高い」と記さ 部分はあるが、おそらくジャンヌ・マ-エの名前から着想したと思わ ル」誌に連載する。それは、当然その題名が示唆するとおり、彼の初 が一九〇六年の間、かなり長-執着している。当時の彼は、スタンダ- 『恋愛』を、たとえば 恋を語る中編だが、『情人』や『イン・メモリアム』といった極度に 『日記』の中からまった-姿を消して ルの撰文集を編纂する作業も並行して進めており、パリの街の記述や、 かつての思い出の記述は、彼の 僕の初恋は一八八八年のことだった。それはその年の終わりでク- モンは、ポ-ルにアンベ-ルの描写は面白いと語りはするが、決して、 ゴンク-ル賞への欲望の大きさが窺えるだけだ。レ-・ドゥ・グ-ル しまう。ユイスマンス、デスカ-ヴといった固有名詞が頻出し、彼の ルブザォワでのことだ。それは僕がパリで仕事を始めてから1年ほ これを至急一冊の書物に仕上げようとは言わない.ときにデスカ-ヴ から、小説はどうなっているのか、と催促めいた言葉は聞かれるが、 その言葉とは裏腹にポ-ルと「メルキュ-ル」との関係は微妙な変化 を見せ始める。 ユイスマンスの死 活は、「文学」中心のものに変容する。『日記』に記されているのは、 この時期、つまり一九〇六年から一九〇七年にかけて、ポ-ルの生 のこと、彼の父のことや義母のこと、そして友人のヴァン・ペグェ- 『恋愛』の執筆、文壇の人々との交友、「メルキュ-ル」の人たちとの ル撰文集』の編集のためにビブリオチ-ク・ナショナルに通うこと、 会話、その中でもレ-・ドゥ・グ-ルモンから依頼された『スタンダ- ものではな-、単に列車の線路の脇にあると記されているだけで、 執着が中心になる。われわれの興味の中心にあった同時代のパリの街 そして『情人』のある程度の成功に端を発するゴンク-ル賞への強い くない。もちろん前二作にはとんど含まれていないユ-モアを感じる 『情人』や『イン・メモ-アム』が持っている土地の喚起力はまった ク-ルブヴォワのアンベ-ル姉弟の住むスタシオン街の描写も詳細な ルのことを除いて、この恋愛物語にはモデルは存在していないことだ。 品が成立していることであり、この作品にも頻出するク-ルプヴォワ う一歳年長のアンベ-ルの姉を愛するひとつの物語によって、この作 が、少な-とも異なっているのは、このパリ行きの列車の中で知り合 この作品においてもポ-ルが一人称で語ることには変化がない。だ り、夕食を食べに戻っていた。僕は、もう若男になっていた。(-) ど経ったころのことだった。僕はパリへ通勤するのに毎日列車に乗 品と大き-異なっている。それは次のように開始される。 自伝的な色彩が濃-、物語を語る力よりも描写のみに重点を置いた作 が『恋愛』である。『イン・メモ-アム』と 梅本 138 の変容や、彼の私生活に関する記述は、ジョルジェットとリエクサン 彼の書物を読み返すことで。(2) とりが彼だった。今晩は、彼のために過ごそう。私がかつて読んだ その翌翌日、ユイスマンスの葬儀が行われる。 プ-ル公園の脇で偶然出会い、彼女を尾行したこと、そして彼の引っ 越しのみである。当時のポ-ルは、パ-の七区ルースレ街にある、か ってパルベ-・ド-ルゲィイが住んでいたアパルトマンにプランカと 共に暮らしていた。ポ-ルは、そこに帰ってからも、プランカと共に、 司法書類の事務所に移り、ポ-ルはそうした仕事で生活の糧を一応は のために動員されたことは述べるまでもない。不動産業の事務所から ルに、そうした金銭の準備があるわけではなく、プランカの資金がそ 住んだというアパルトマンへ引っ越しの準備をしていた。もちろんポ- 近-のトゥ-ルヌフォ-ル街にある、かつてジュ-ル・ラフオルグが 事で手狭になったルースレ街のアパルトマンから、五区のパンテオン ふりをしたのだろうか。一度や二度は目を合わせたように感じたが。 デミ-の人々と話していたのでかなわなかった。私に気がつかない しさ。デスカ-ヴに話しかけようとしたが、彼はゴンク-ル・アカ ばよいか分からなかったのだ。私自身の気の弱さ、馬鹿げた奥ゆか 私のことを話した、と言う。私は、ユイスマンスに何をどう伝えれ は11ヶ月前だったという。ヴァレリ-は、そのときユイスマンスに 儀。そこでヴァレリ-に会う.彼が最後にユイスマンスに会ったの ユイスマンスの葬儀。雨の中の葬送。自然主義者にふさわしい葬 得ていたが、「文学」が生活の中心を占めるようになった今、ポ-ル 彼も私の方を振り返ったようにも思えたが。否、彼は私に気づかな 『スタンダール撰文集』の校正をした。そして多くの書物や校正の仕 の生活には変化が訪れようとしていた。官庁街と商店街の間にあるル- 私は、ユイスマンスの秘書であるカルダンの言葉を聞いていた。 かったのだ。 転は、ポ-ルにとって、そうした生活上の変化を明確に示したものだっ まだ書物が1冊出版されるという。まだ文学上の遺言が残っている。 スレ衝から、カルティエ・ラタンの奥のトゥ-ルヌフォ-ル街への移 たろう。執筆が生活の中心に位置することになる。そのために住居は、 カルダンはこう言っていた。「彼は平穏の中にいました。彼は平 ることば重要なことだったろうが、ユイスマンスの死によって、それ もちろん彼がゴンク-ル賞を得るためには、-ユイスマンスの知己を得 穏の中にいました」。(3) 彼自身の生活を支える本質的な場所になり、その場所も「メルキュル」社から遠くないほうがよいに決まっていた。 「文学」生活を左右しかねない重大なニュ-スを聞く。 そうした折り、1九〇七年の五月十三日、ポールは「メルキュール」 で、彼の も実現できないことになる。一週間はどして、レ-・ドゥ・グ-ルモ ンの家で、ポ-ルは、グールモンとユイスマンスについて語り合う。 「メルキュ-ル」にいた。ユイスマンスの死のニュ-スを聞いた。 それは昨日の日曜日の朝八時のことで、静かに息をひきとったのだ、 ポ-ルの希望を知っているグ-ルモンは、ポ-ルに「いつかあなたが 、あるいは内面の都市-㈲ という。書物のためだけに、書物の中だけに生きた最後の文人のひ ポ-ル・レオト- 梅本 137 理解しているポ-ルは、グ-ルモンのこの言葉に大笑いし、もっと自 ユイスマンスの後継者になりなさい」と言うが、自らの仕事の現実を 『恋愛』の執筆を続行しても、それがゴンク-ル賞を獲得するかどう 影響を及ぼしている。カルティエ-ラタンの奥深-で机に向かい、 ボ-ル・レオト-、あるいは内面の都市-㈲ 分には才能が必要だ、と語り、自らの生活上の困難をグ-ルモンに告 いてしまったポ-ルにとって、この時靭は、自らの方向性についての 聞かせる。ポ-ルは、それを聞きながら、「理念、明瞭さ、音色、す 語ることで『情人』を記し、自らの生地に関する記述に埋め尽-され えられる希望は、非常に小さ-なった。情熱的にパリと女性について 転換期といってもよい頃だろう。つまり、彼に将来ゴンクール賞が与 べてが完壁だ」と思う。(4)ユイスマンスの次にグ-ルモンが読ん た『イン・メモリアム』を書き上げ、自らの初恋について『恋愛』を ユイスマンスの死は、ポ-ルの文学的な人生を別の方向に向ける機会 なかった自らの臆病さ、そして、それに正反対の自らの文学的野心。 ない。だが、グ-ルモンからポ-ルへの「メルキュール」に関するポ は、グールモンからの書店回りの仕事の依頼を受け入れることはでき なってしまったのである。もちろん文学への止みがたい欲望を持つ彼 書き上げても、それらの作品が彼自身の将来を保証するものではな- になるだろうOポ-ルが帰り際にグ-ルモンはポールに、「メルキュー ストの提出は、営業の仕事に留まるものではない。 そのものもその目標のために設定し始めていた矢先、ポ-ルは、将来 『日記』にポ-ルはそう記している。文学を志し、次第に自らの生活 生きていけばよいか分からな-なるだろう」。(5)五月二十日付けの の最初のポストを依頼されてから、l週間後に当たる日曜日の、五月 知ってから二週間後、そして、グ-ルモンから「メルキュール」社で モン家を訪問することを習慣としていたようだ。ユイスマンスの死を には、「メルキュ-ル」の中心面メンバ-であるレ-・ドゥ・グ-ル このころポ-ルは、日常的に「メルキュ-ル」に通う他、毎日曜日 の彼を支えて-れることになるかもしれない重大な後ろ盾を失い、そ の変化に大きな がその欄を受け持つことになっているらしかった。(6) ル」誌の劇評欄をやってみないか、と言った。その後、デユ-ユ-ル グ-ルモン家にいた。彼は、エロルドに代わって、1年間「メルキュ- 二十六日にもポ-ルはグ-ルモン家を訪れる。 だった事実は、「文学」を志したポ-ルの「その後」 -フランセ-ズという場の重大さは、彼にとって掛け替えのないもの たことを見てきた。彼の父や母の劇場との深い関わり、そしてコメディ- われわれは、ポ-ルの出自に関して、それが劇場と深い関係にあっ 連載演劇批評 の事実は、彼の方向性を少しばかり変化させることになるだろう。 などの仕事だった。私の今の原稿料だけでは、近い将来、どうやって ル」誌に就職しないか、と勧める。それは、「広告や書店回りの営業 したポ-ルは、耳を塞ごうとする。ヴァレリ-の親切を受け入れられ で聞かせるのは、ロシアの卑損な物語だったが、ユイスマンスに感動 ンスついて自らが書いた「エビロ-グ」という文章をポ-ルに読んで か分からず、さらに、ユイスマンスという未知の後ろ盾を決定的に欠 雪雲 げる。グ-ルモンは、「メルキュ-ル」誌の次号に掲載するユイスマ 梅本 136 る。 そうした要請に対して、ポ-ルがどう応じたのか、『日記』 切記されていない。だが、それからかなり日付が経てから、同じ話題 ルというのは私の名付け親のビアンカの本当の苗字だ。私は、その ポ-ルの劇評はそのような偶然から始められた。劇評欄とは、「メル には1 返事をしなかったのだろう、と思われる。五月二十六日付けの『日記』 キュ-ル」のような総合文芸誌にあって、定期的なコラムに類するも 名前を使って年寄りのふりをしようと思う。(7) は、ポ-ルのアパルトマンの管理人との対話について簡潔に記されて ので、当時の雑誌にも現在の雑誌にも掲載されている。だが、ヴァレッ トやグ-ルモンはなぜ劇評欄の担当者にポ-ルを思いついたのだろう が『日記』の中で繰り返されていることから、その時点でポ-ルは、 いるだけであり、わずか三行ばかりの記述で、劇評欄についての全.貌 ヴァレットとグールモンに会い、正式に劇評欄を記すことを了承し、 ルは、それから二週間した六月六日の木曜日、「メルキュール」社で も亙って、関わり続けることになることを理解している。つまり、ポ- われは、このわずか三行ばかりの記述が、その後のポ-ルと何十年に タイトルは確かに「コメディ=フランセ-ズについて」なのだが、そ ズについて書いたことがあるだけである。だが、それも劇評ではない。 誌に1度だけ、モ-リス・ボワサ-ルの名前でコメディ=フランセ- わけではない。彼自身が『日記』に書いている通り、「メルキュ-ル」 か.ポール自身は、それまで1度たりとも、劇評の類を発表している を知ることはできないだろう。だが、その後の経緯を知っているわれ 約束通り、それから一年間続行された劇評は、数年後に再開され、ま の内答は、このフランス演劇の中心地にして最大の場所についての解 のオマージュである。われわれは、ポールがシュウォプ家のサロンに 説でもその歴史についてでもなく、単にひとりの女優モレノのついて た中断し、別の雑誌でまた始められ、結局、それから三十年後にはガ リマ-ル社から二巻本の劇評集とまとめられ、出版されることになる からである。一九〇七年六月六日の日記には、次のように記されてい 足繁く通ってしたことを指摘しておいたが、それはシュウォプの文学 に触れるためであると同時に、当時のシュウォプの妻だったマルグ-ツ い、私を親切に励ましてくれた。グ-ルモンは、私の承諾に上機嫌 てよいか分からなかった。それに彼らは、どうしても私にやれと言 分な自信が持てなかったからだ。私には、彼ら二人の要請をどう断っ 私が劇評をやることになった.最初、私は時曙していた。自分に充 メディ=フランセ-ズのプロンブタ-を務めていた父や、女優だった ても切り離せない関係にあることを理解していたためである。特にコ 人が『情人』や『イン・メモリアム』を読み、ポ-ルが演劇界と切っ レットとグールモンがポ-ルに劇評を勧めたのは、もちろん、彼ら二 小説にはシュウォプの幻想文学的な影響はまったく見られない。ヴァ ト・モレノに会うためだった。少な-ともポ-ルがそれまでに書いた だった.私は劇評にモ-リス・ボワサ-ルi)サインしようと思う. ルが、モ-リス・ボワサ-ルという老人を装うことにヴァレットとグー 母の姿を切り放して、ポ-ルの『情人』を読むことなどできない.ポ- 「メルキュール」社oヴァレットとグ-ルモンに会うO了承した. 私がコメディ=フランセ-ズについて「メルキュ-ル」に書いた記 、あるいは内面の都市-㈲ E7Eil 事と同じ名前だ。モーリスというのは、私の弟の名前で、ボワサ- ポ-ル・レオト- 梅本 135 ルモンが反対しなかったばかりか、むしろ積極的にそうした擬態を勧 の部分の朗読を始め、グ-ルモンもそれに従う。グ-ルモンは、私 レットは、アンベ-ルの紹介の部分が面白いといって声を出してそ ポ-ル・レオト-、あるいは内面の都市-㈲ めたのは、二人が充分にポ-ルの出自とその背景を理解しており、若 刷りを持って会いに来い、と言い出す始末だ。彼らの思惑は、ゴン ク-ル賞の周囲を排梱している。(-)私はと言えば、私は、すっ かり有頂天だった。これで体が軽くなったことを感じ、若返り、解 それから数日してポ-ルはデスカ-ヴを訪ねる。デスカ-ヴはゴンク- 放されて、原稿から遠い場所を散歩したい気持ちになった。(8) 諦めた。『恋愛』を支えているものがまったく気に入らないからだ0 ル賞の候補にはまだ何もあがっていないと告げる。ユイスマンスの後 だろう、という。 任には、-ルポ-はルナ-ルに一票入れるだろうが、セア-ルになる の中に注ぎ込んだようなものだったし、外に出てそのことについて その後の があったのではな-、私が書-のが好きだとだけ書いたようなもの せる回数が減る。もちろん、劇評の仕事がポ-ルに文学への道を諦め を得ること に使用した氏名であるモ-リス・ボワサ-ルを、ポ-ルが使用するの 一九〇五年に、マルグリット・モレノへのオマ-ジュを綴ったとき モ-リス・ポワサールの軌跡 『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』 長編小説を書くことはない。 させたわけではないだろう。だが、少なくとも、それ以後、ポ-ルが こともあった。ブ-ルの健康をとるか、ゴンク-ル賞をとるか、と いうものだった。また『イン・メモリアム』だけでは1冊に充分な 量は満たせていない。ゴンク-ル寛があることを認めても、私には、 それだけが心残りだが ゴンク-ル賞はどうでもよいものになった。今の私の満足が一番だ。 私が賞金の五千フラン には、私はもっと遠くに行っているはずだ。ヴァレットとグ-ルモ ンは私に賛成して-れない。だが、彼らの言葉は私を説得してもく れない。彼らの言うことを聞いていると、私の判断は誤りであり、 の文章には、必ずポ-ル・レオト-と自らを名乗る。 といっても彼が書き綴ることになるのは、『日記』以外大したも は彼が演劇についての記事を書-ときだけのことになる。それ以外 のではない - 私は自分で自分のことが判断できないということになる。彼らが面 (-) だ。その上、猪のプ-ルが重い病気にかかっている。占いをやった 『日記』には、『恋愛』も『イン・メモリアム』も姿を見 考えないようにするためでもあった。何か私に書いておきたいこと うだった。ひどい時間を過ごしたものだ。それはまるですべてをそ あまりに早-書きすぎたのだろう。まるで注文仕事でもあるかのよ りもすっかり済んだ『もう定かではない過去』の出版をきっぱりと ヴァレットとグールモンとの陰気な会話。私は、すでにペ-ジ割 それから六日後の六月十二日。『日記』にポ-ルは次のように書く。 えたからだろう。 が膨れっ面をしているので、興奮し始め、明日、目を通すから校正 フ1く 手の劇評家よりは、そうした文章の方が雑誌のコラムと興味深いと考 梅本 - 白いと思うものだけを、私は出版すればよいことになる。(-)ヴァ 調 - ー 134 だが、はんの偶然、自らを呼んだモ-リス・ボワサ-ルという氏名 た完全版といってもよい。 劇評が依頼されることになるのは、一九一一年のことだ。だが、モ- て中断し、一九〇九年の九月を除けば、モ-リス・ボワサ-ルに再び 劇評欄を依頼し、それは約束通り1年続けられる。以来、長きに亙っ グ-ルモンは、一九〇七年の十月からポ-ルに「メルキュ-ル」誌の 『モ-リス・ポワサ-ルの演劇』の序文によれば、まずヴァレットと たことになる。当初、ポ-ルがモ--ス・ボワサ-ルであることを知 という人物の背後に実を隠し、文章を書-という自らの欲望を達成し しな-なり、それに代わって、年老いた劇評家モ-リス・ボワサ-ル を中心とした地域にあった『情人』の小説家ポ-ル・レオト-は存在 モ-リス・ボワサールになったのである。女たちと交遊しパ-の九医 として活躍した。ポールの三十五歳から四十三歳に至る時期、彼は、 っまりモーリス・ボワサ-ルは、十八年の長きに亙って「劇評家」 リス・ボワサールの劇評は、「メルキュール」誌でそれから十年に亙っ る人はヴァレットとグ-ルモンだけだったが、次第にポ-ルの友人ヴァ は、ポ-ルと長い間伴走することになる。マリ-・ドルモワによる て続行される。そして再び、アンドレ・ジッドの提案により、モ-リ ヴァレリ-は、モーリス・ボワサ-ルの筆致の辛殊さを評して、後に、 レリ-もモ-リス・ボワサ-ルがポ-ルであることを知るようになり、 『ル・ ス・ボワサ-ルの劇評は、一九ニー年から「ヌ-ヴュル・ルヴユ・フ ランセ-ズ」(NRF)誌に移って続けられ、ジュ-ル・ロマンの 生来の気質のためか、ポ-ルがその第l巻をまとめるのは、三年後の ガリマ-ルは、ポ-ルに、劇評を二巻本にまとめることを依頼する。 とうする。.同年末、NRF誌の発行元であるガリマ-ル社のガストン・ 同年、それは「ヌ-ヴュル・リテレ-ル」誌で続行され、その年をまっ 問題となり、1九二三年にモーリス・ボワサールの劇評は終わるが、 F誌から「ヌーヴュル・リテレ-ル」誌へと活動の拠点を移す度に、 ルの名は、ポールが「メルキュ-ル」誌からNRF誌へ、そしてNR 外、ポ-ルを知る人はいなかったはずだ。だが、モ-リス・ボワサ- ゴンク-ル賞の候補作になを連ねはしたが、文学の関係する者たち以 を使用することで、筆名をあげたわけではない。もちろん『情人』 香-ことになる。換言すれば、ポ-ルは、.自らの本名ポ-ル・レオト- 「モ-リス・ボワサ-ルの友人に対しては、その辛殊さが増した」と 1九二六年のことであり、さらにその第二巻が出版されるのは、それ 有名になる。それがポ-ルの望みだったかどうかについて、われわれ で トゥルアデック氏』についての劇評の中の数カ所を削除しないことが から十七年後の一九四三年のことになる。つまり、彼の劇評集が日の は、後に思考することになるだろうが、その前に、とりあえず、われ を読んでみることから始めねばならない。 われは、ポ-ル・レオト-の手になる『モ--ス・ボワサールの演劇』 目を見るのは、それが記されてから二十年後のことだ。 ポ-ルが劇評を書く媒体を変化させたのは、後に述べるとおり、彼 が編集側の削除要請を常に拒んだためである。われわれが、これから つまりポ-ルの死後 にマリ-・ 読もうとするのは、一九五八年 ドルモワによって再編集された版である。この版は、削除要請を受け - 梅本 た箇所を再びもとに戻し、できるかぎりポ-ルの原文通りに復元され ボール・レオト-、あるいは内面の都市-㈲ i;司 - 133 ポ-ル・レオー- 、あるいは内面の都市-㈲ 全部飲み代にしてしまったのだ。そうしたわけで、今、彼は、一文 草本にして出版してやった。それで八百から千フランに及んでいた 演劇状況はどんなものだったのか。すでにポ-ルがリユニェ-ポ-の アルフレッド・ジャリ 制作座に出入りしていたことをわれわれは述べたことがある。自然主 レットは「もう彼は帰ってこないに越したことはない。彼はもう終 無しになり、それで妹のところに引っ込むことになったのだ。ヴァ かしポ-ル、つまりモ-リス・ボワサ-ルは、演劇運動の現在を記す 物の一人ムネ=シュリを知っていたこともすでに述べたとおりだ。し 物たちを擁するプ-ルヴァ-ル演劇であり、ポ-ルその人も聖なる怪 劇の中心ではない。当時のフランス演劇の中心は、やはり、聖なる怪 わってしまった。かつて冒涜的なl語を戯曲の冒頭に書き付け、良質 年経ち、彼の人生はかつての栄光に包まれるのとは正反対のものに変 たことのある前衛的な劇作家だった。その『ユビュ王』の上演から十 ルマン・ジュミエ主演で上演させ、大きなスキャンダルを巻き起こし もちろんアフレッド・ジャリとは世紀末に制作座で『ユビュ王』をフィ わりだ。買い物だってできやしない」と言っていた。(9) ことにも、同時代のブ-ルヴァ-ル演劇について精力的に取材する方 で快楽的なものだった商業演劇に一石を投じることで、フランス演劇 の二十世紀を予感させさえしたジャリのその後は、あまり知られてい ない。たとえばサッシャ・ギトリは、ジャリがベルギ-の何もない小 屋で一人で暮らしていた、と書いたことがあったが、今世紀に入って ジャリの境遇はますます荒んだものになった。 ジャ-が田舎に引っ込んだと書いたポ-ルは、それから九ケ月後、 協力することもできない。二三年前に「フィガロ」紙に入ったが、 やり方でも生きて行-ことができない。ポストもなく、新聞などに ているという。今日の午後、ヴァン・ペグェ-ルが私にそう言って を持って行く。貧困者用の病院でアルフレッド・ジャリが死にかけ 夕食後、散歩がてらが、リエクサンブ-ル公園に、野良犬用の餌 つまり同年十月二十八日の日記に簡潔に次のように記している。 彼は何もしなかったし、何かしたとしても彼の字はまったく解読不 いた。(1 れていた。1年はど前に「メルキュ-ル」から彼の作品を高価な豪 能な代物だった。彼には莫大な借金があったし、少しばかり気がふ スタベ-ションによって病気であり、気がふれている。彼はどんな は、もう終わりだ。完全に終わりだ。生活資金の欠如、アル中、マ 私はヴァレットとジャリについて話した。あのかわいそうなジャリ た。彼はまた田舎の妹のところに引っ込むという。二度目のことだ。 昨日の火曜日、「メルキュ-ル」誌でアルフレッド・ジャリに会っ 記』には、次のような記述さえ見られる。 法もとってはいない.たとえば、彼のl九〇七年1月二十三日の『日 演劇活動を行う劇場があったが、それらはもちろん当時のフランス演 派からの影響が色濃いリユネ-ポ-の制作座というふたつの前衛的な 義文学から影響を受けたアンドレ・アントワ-ヌの自由劇場と、象徴 彼の借金を返済することができたが、彼はその金でカフェに行って ′`ヽ ボ-ルが『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』の記し始めた頃、パ-の 梅本 0) 132 なまでの犬猫好きは有名な事実だoだからポ-ルが野良犬用の餌をリエ ポ-ルが後に犬や猫を自宅に集めたことは知られているし、彼の病的 も、人は話題にした。(ll) がないと言ったのか。その反対に、私が書いたどんなものについて とでもある。私はまだ失敗したわけではない。それに誰が私に才能 だが、翌日には、次のように書く。 クサンブ-ル公園に持って行くことは不思議なことではない。だが、 われわれは、彼が夕食後に行ったそうした行動を示す事実を記す言葉 と改行がないまま、瀕死のアルフレッド・ジャリの様子を記している 彼の筆致に驚-。そのふたつの事実の間にはもちろん何の関係性もあ 『現代の詩人たち』、それに劇評、そして「メルキュ-ル」での仕事、 舞台の仕事は大変だ。それにスタンダ-ルの校正もある。二巻本の ジャリの姿は、ポ-ルの中で一体のものなのだ。十九世紀の演劇の革 もし依頼を受ければの話だが。(12) り得ない。だが、「野良犬の餌」というイマ-ジュとアルフレッド・ 命的な寵児の姿が野良犬と重ね合わせられ、ポ-ルは、そのジャ-が の糧にするようになる。ポ-ル自身も書-ように、「大変」な時間が それから何年にも亙ってポ-ルは他人の原稿の校正の仕事をその生活 『モ-リス・ポワサールの演劇』を始める 訪れることになる。 亡-なる年に本格的な演劇批評を開始したのである。 一九〇七年はポ-ルにとって重要な年になる。それは何も彼が「メ ダ-ルの校正をし、その晩、コメディ-フランセ-ズに『それぞれの 台を見に行-のは、その翌日の夜である。午前中はブランカとスタン 『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』の連載を開始するために、初の舞 葦を承諾すると、グ-ルモンはポールに「メルキュ-ル」の別の職種 ルキュ-ル」で劇評を書き始めるからばかりではない。連載劇評の執 を提案するからでもある。 それは「メルキュ-ル」でのポストのことだった。ゲラ刷りを作り、 グ-ルモンの家に四時に行く。彼は私に何か用があると言うのだ。 るものが何もないのだ」とポ-ルは書-が、すでに時間は残されてい ている。私はあれはど劇場に通ったのに何もならなかった。残ってい いと思っていた。何か素晴らしいことが書けないのではないかと恐れ 人生』を見に行-。「私には、仕事を始める前にもう少し時間が欲し それを校正する仕事である。アルバイトではない。 それは何にもならない。現実的なものにはならないのだ。私は才能 間題はポ-ルから離れて-れない。戯曲をいったいどう扱うべきなの をポ-ルは解決できず、その日、「メルキュ-ル」に赴いても、その ない。いったいどのように演劇批評を書くのか、という根本的な問題 のない老いた作家のような感じがする。(-)すでに寂しい気持ち か。戯曲は舞台にとって大切なものなのか。彼はコンデ街の「メルキュ- このニュ-スに私は喜びを感じることばない。馬鹿げたことだ。 さえする。自分の書物をあれはど夢見たというのに、他人の原稿を ル」から、オデオン座の脇を抜け、パンテオンを通って、その裏にあ 、あるいは内面の都市-㈲ ⊆a 校正する仕事など-。それにこれは馬鹿げたことだ。信じがたいこ ポ-ル・レオー- 梅本 131 ポール・レオト- 、あるいは内面の都市-㈲ 『モーリス・ポワサールの演劇』第一回 まりに楽しんでしまったのか、それとも、単に戯曲が素晴らしいも だ。シ-ンには感情が込められ、簡潔なものだ。だが、私自身があ コメディ-フランセ-ズで『それぞれの人生』を見る。美しい戯曲 がなくても了承して欲しい旨が述べられる。こうしたものは単に形式 任として演劇表を担当すること、もしエロルドのような卓越した文章 のは、演劇人である連帯感から記された文章なのであり、さらに私、 ることだ。つまり、エロルドは若い劇作家であり、彼の筆から漏れる えていないのだ。私は最初から戯曲について語る困難に直面してい つまりモ-リス・ボワサ-ルは、エロルドのように若-はないという だった。ルイ-ズのことをもっと聞きたかったし、もし可能なら、 と悪いのだ、と答えた。ノルマン夫人との会話を中断したのか失敗 「彼女は病気だったのですか」。彼女は、ルイ-ズの顔色が最近はちょっ 私の義母が、もう元気になったのかと尋ねた。私は驚いてしまった。 間ではない。エキストラを統括するノルマン夫人に会った。彼女は、 が演劇好きの私がノ-トを書き続けていたことを知っていたことが ンセ-ズについての文章が掲載されたことがあり、それはある友人 れて人目に触れるなどと思ったことだろう。一度、コメディ=フラ ものではない。もし三年前でもあったなら、誰が私の文章が印刷さ の学識は、私がしばしば外出し、印象を書き綴ったノ-トを越える 私、モ-リス・ボワサールは、年老いたブルジョワの独身者で、私 ことだ。l体モ-リス・ボワサ-ルとは何者であるのだろう。 彼女にこの美しい舞台を見せたいと思ったからだ。一二時単に帰宅。 原因だった。そのノ-トを一生懸命に書いていると友人は、それを 私は今もその事実 出版してみないかと言ったのだった。(-)友人はそれを「メルキュ- ル」の編集長に持って行き、驚いたことに 私に回ってくるというのだ。最初、私は蹄侍した。私の理性が、そ 私の文章が出版されてしまったのだ。(-) を疑っているのだが て増えて行くことは述べるまでもないだろう。 ポ-ルは、このように『モーリス・ボワサ-ルの演劇』の始める。彼 - 三日前、私が田舎から戻ると、エロルド氏が劇評をやめ、その職が ー の『日記』には、この日以来、舞台に関するに記述が他のものを圧し ため、すぐに眠る。(13) 帰り道を歩きながら、すでに劇評に書く内容を考えていた。疲労の 劇場の廊下をゆっ-りと歩いた。新顔が多い。ここはもう私の空 批評したらよいのか。 る。戯曲の物語を語る必要はないとは言われているが、それをどう 的なものと読める。だがわれわれの関心を引-のは、次に記されてい ボワサ-ルによる簡単な挨拶がある。フェルディナン・エロルドの後 セ-ズの『それぞれの人生』についてのものである。冒頭にモ-リス・ ス・ボワサ-ルの演劇』は、すでに述べたとおり、コメディ=フラン 一九〇七年十月号の「メルキュ-ル」に掲載が開始された『モ-リ ⊂:::⊃ のだったのか。各幕が終了すると、私が聞いたはずの台詞を何も覚 始まった証拠だ。 配が濃-なったパリの街はもう暗-なっている。秋の演劇シ-ズンが を済ませ、身支度をして、コメディ=フランセ-ズに向かう。秋の気 るトゥ-ルヌフォール街の自宅まで歩いて戻り、それから急いで夕食 梅本 130 何と言うだろうか。彼はまた芝居から私が夜遅く戻り、服を着替え ら早-ねる習慣を身につけている私の忠実な執事、オ-ギエストが ウマチを患って私の歳で外出ははばかられる。すでに、何年も前か サ-ルとは、ポ-ルと多-の面に共通性を有しながらも、外見的には、 リス・ボワサ-ルの姿は、正反対でもある。つまり、モ-リス・ボワ 念に代えることで、かろうじて劇評を書くことを決めたポ-ルと、モ- ちろん、ポ-ルの真の姿ではない。生活に追われ、文学への欲望を諦 ガス灯がともったパリの街中を馬車に乗って深夜帰宅する様は、も るのを手伝わねばならないのだから。けれども、年老いた者は、と 表面的にはポ-ルの困窮ぶりとは反対の「独身者のブルジョワ」なの れを書いてみるという喜びに逆らったとでも言おうか。それにリユ きにもっとも気が狂った者でもある。喜びが理性を駆逐したのだ。 である。 モ-リス・ボワサ-ルの第一回の劇評が『それぞれの人生』であり、 者ではない。彼は、すでに老いているのも事実に反するとは言えない0 る」のも事実だろう。彼は、新たに演劇界のキャリアを積もうとする 「新しい時代の演劇も新しい部分よりも古い時代の演劇の模倣に見え と知己を得ていた」のも事実だし、かつての演劇ファンから見ると、 筆から漏れた文章を読む限り、この戯曲は、軽快なコメディであり、 れぞれの人生』については何の資料もない。モ-リス・ボワサ-ルの 見た芝居についての詳細な資料が共に掲載されているのに対し、『そ いない。続く第二回の『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』からは、彼が の戯曲が誰の手になるのか、あるいは、誰が演出したものなのか-それらについて『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』 は11111ロも述べて 上演の場所はコメディ-フランセ-ズだったことばすでに述べた。こ もちろんブランカ・プランと同棲しているとはいえ、正式な結婚をし 同時に表面的でもある」、と書-モ--ス・ボワサ-ルの文章から、 「いかにもパリ風」な戯曲だ、という。また「美しく、輝くようで、 『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』第 この戯曲は、いかにもブ-ルヴァ-ル的なものであり、今世紀初頭の パリにあって、流行していた種類のものであることば想像がつく。モ- この喜劇を聞いている間は楽しかったが、幕が降りると、もう何も リス・ボワサ-ルも、こう書いている。 みる。それに、正直に言えば、二十年もの間いくつもの劇場の年間 残っていないのだ。その精神は安易で、少しばかり大袈裟で、勘違 るとすれば、少しばかりの悔恨であって、それが何かを考えさせて 予約席を持っていたからといって、リラックスして見ることば不可 、あるいは内面の都市-㈲ いと駄酒落でできている。そこには真の精神など何もなく、何かあ ポ-ル・レオト- 梅本 能だ。だが、何の目的もな-芝居に行くのは心地よいことである。 間、私は、フットライトの光の中に廻る記憶やイメ-ジを反窮して 馬車で帰宅の途中、その日の最後の葉巻を楽しみながら、しばしの 7回の最初のパラグラフを次のように締めくくる。 まりモーリス・ボワサ-ルは彼の ていない彼がブルジョワで独身者であるのも事実なのだ。ポ-ル、つ だが、それは擬態だろうか。「私は若い時代に多くの演劇人たち グ-ルモンとヴァレットに周到に許可を得て後に行ったポ-ルの擬態 (14) (15) 129 ポール・レオト- 、あるいは内面の都市-㈲ ないし、その直後、これはど簡単に幸福になる人々も見たことがな ば、と思う。この戯曲の中の人物のように不幸な人々を見たことが り方は、羨ましいばかりに安易で、実人生でもそうであってくれれ 神と言った方が適切だろうか。登場人物たちが人生の組み立てるや いる。それは南仏の精神と言ってもよいだろう。それより冗談の精 梅本 い。(1 もちろんモ-リス・ボワサ-ルは、この戯曲の物語を紹介しないでは ない。引用部分の次にやや詳し-この戯曲の筋を紹介しようとはして おり、さらに、出演した俳優たちについて印象批評を越えるものでは ない感想も記している。だが、それらは批評の言葉とは言えない。彼 が、『モ-リス・ボワサ-ルの演劇』の第一回で述べたかったことば、 この戯曲はそれはど面白いものではない、ということに過ぎない。劇 ことなど、まった-垣間みることばできない。ポ-ルは、完全に、老 評を書き始める前にポ-ルが遼巡し、はとんど自信喪失に陥っていた (-)PaulLeautaud,L.Amour.MercuredeFrance.Paris.)956.p.7 )955,p.30(以下、)Lと記述) (2)Pau)Leautaud-JournalLittarairle(Ⅰ,MercuredeFrance.Paris. (3)JL.p.30 (4)JL.p.3) (LL,)JL.p13) (6)JL.p132 6)ibid.p.)6 (15)ibid.p.)5 )958.p.)4 (1)JL.p.4) (1))i.P.40 (])JL.p.32 0))i.p162J (9))i.p.)7 (8)]L.p.35 (7)lL.p.〕∽ (1 (1)Pau)Leautaud.ThaatrledeMauriceBoissaTld[.Ga))im (1 6) 人モ-リス・ボワサ-ルの背後に姿を隠してしまった。 荏