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町刷 - 法然上人鑽仰会

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町刷 - 法然上人鑽仰会
浄土
第73~器 5 号 (毎月 1
I
B1 日発行) 平成19年 6 1! 18 発行 稲和 10年 5 月初日第 3 禍艶便物路司
m
q
n
t
h
l
y
JユOO
制町四
町刷
出
内凶山V
蹴
ilei
- -'
/メー
-
来迎を待つべし
。
たぜすべからく称名につきたるの
わが心にとかくせんと思うは自力な
hら
往生は偽のおんカにでせしめ給うものを、
念体はわが品川作な
h ~ 往生は悌の品川作な
h~
ゐ
(
三心料 簡 および御法語 )
割問"/6月号目次
巻頭特別インタビュー
法然を演じる …… H ・ H ・-….. .
.
.
.
.
.・. .
.… H ・ H ・-…..... .・ H ・. .. .. . . . 中村梅之助
2
蓮台 の半座を 空 けて待つ … H・H ・-… H ・ H・-… H ・ H ・-…H ・ H ・... 古井戸秀夫
表紙 の言葉 …… H ・ H ・.....・ H ・..…... .・H ・....・ H・-…H ・ H ・-…....・ H ・... .桜弁良夫
1
3
1
9
江戸 を歩 く
20
第七回 … H・H・-… H ・ H・.....・ H ・ H ・ H ・...・ H ・... .・H・..... 事清鑑
響流十方 …H ・ H ・-…-… H ・ H ・. .…・…・・… H・H・-… H ・ H ・-…H ・ H ・-…H・ H ・- 袖山蜂輝
28
会い たい 人山間太ー さ ん① …… H ・ H ・....・ H ・. .
.
.
.・H ・.. ... .・ H・- 関
容子
30
仏教コ ラ ム ……. .
•. ・ H ・-…… H ・ H ・.....・ H ・-………… … …- 大童 T 唾
42
総会告知 …・… H ・ H ・-…… H ・ H・-…・… H ・ H・. .
.・ H ・....・ H・-… H ・ H ・-…. .
.
.・ H ・. ••.・H・-…
4
3
浄土誌上句会 ・…・…H・ H ・-…・…… H ・ H・-… H ・ H ・...・H・-・・遺書・唱団河郎子
44
47
48
マンガ
さ っちゃん はね つ …-…...・ H ・.......・ H ・-…… かまちよしろう
‘集後記 ・・ H ・ H ・..……・・…………...・ H ・…………. .
••.
.
.
.
.
.…...・ H ・.....・ H ・. •.…
~3
教 えと 法訴 ・….. . ・ H ・....・ H ・-….... .・ H ・. .
.
.・ H ・-…....・H・ . .
.
.
.
.
.
.・ H・-…・ 生野普鹿
表紙題字 = 前浄土門主
中 村康隆続下
アート テ' ィ レク シ ョ ン =近藤十四郎
偏カ = 迦陵頻伽 合
-
‘圃
•
法然 を aii じる
四年後の 平 成 二 十 三 (2011
土宗、浄土
)年という年は、浄土宗では法然上人人百年大迫忌、浄
土真宗で は親鴛聖人七 百五十四 御遠忌にあたるということで、このところ、浄
。
)』と題
真宗本願 寺派、真宗大谷派の 三宗派で は、お待ち受けの事業等が活発に行われている
その盛り上がりのなか、前進座は 『
法然と親鴛 (
田島栄"作橋本英治"演出
。
する大作の特別公演上演を決定、今夏七月の京都南座を皮切に平 成 二 十 二年まで全国各地
で計 三百四の上演を行うと発表した
元気のいい時代 だったと 思います
ルの 休館 の目だ
。
。
八二
った
ですか
でして、亡くな
ったのです
。
「お誕生八百五十年 」の 頃でしたか
ったこ
前進座は昭和 六年の創立で
。
かつて、前進座 『
法然』劇において、法然上人を熱演し大喝采を浴ぴ、このたびもまた
。
上人を演じることとなった、前進座、中村梅之助丈にお話をうかがうことができた
。
私どもの雑能 『
浄土』 も仏教ルネッサンスとい
、
口 昭和の初年、さまざまな分野で革新的な運動が起りました
すので 、そ れには遅れるのですが
とを標帯して昭和十年、創刊されました
l
大河の 「峠の群像 」 での近松門 左衛
いろいろな意味で、 『
法然 』 の公演は私 に
NHK
競売ホ
。
った年
私が五十 二歳のときでした 。一 九八 一年から八 二年にかけてでしたね
。
ところで、梅之助さんが法然上人を演じられたのは
。
ら、昭和五十七年ということになりますか
そうです
。
った父、翫右衛門が亡くな
った
ただ夜は
った記憶があります
。
一目だけお芝居が無か
年は、前進座創 立 者のひとりでもあ
ちょうどその日
って、仕事に行
らきちんと看 取ること ができました
門役があ
3
と って忘れられないものです
口劇にするにあた って、 当時
。
問題はなか ったので すか
、
。
。
ったのですから、それ
。
前進座の
二 O 四回公演したのです
それを舞台にし て しま
ったのです
ったと思いましてね
しかし、結果からいうと、それを舞台で
。
法然上人という御方は、小説にするのもなかなか難しい、ドラマにするのも難しいとこ
。
ろがあると 言 われてきた御上人なのですね
はそれは冒険でした
。
私も悩みました
。
ったことは
幸 せでした
。
法然
。
大河ドラマの「花神」の主役、村田蔵六、 つまり大村益次郎の当たり役
。
そういう役者がどうして法然上人を演ずることができるのだ、
「遠 山 の金さん 」 や 「
伝七捕物帳 」 の人だと思
ったときには、これはエラいことにな
二十三 万人のお客さまが観てくださ
はじめてお話を承
。
舞台はともかくとして、世間ではテレビの
われていたわけですから
NHK
と言 われでも仕方ないのですよ
口 しかし、
があったのでは
蔵 六 は 一年間 一緒に成長していく役 (
笑 )。あの役にぶつか
。
それから知恩院の、 当
とてもこの役は私には
。
それで増 上寺 の、当時は、中村御前、中村
お会 いしたときに励ましていただいたのです
。
。
上人の役は別種に難しいことだと思いました
康隆御法 主 ですね
お 会 いいたしました
それで申し 上 げました
。
。
時は藤井実応視下
4
法然を泌 じ る
昭和57年の舞 台
5
難しい
す、と
。
しかし、お話を受けた以上、引き受けた以上、なんとしてでも頑張ろうと思いま
私だ
。
それ
ってとてもとても法然上人になることはできな
った
法然上人の御衣の裾にでも少しでも近づきたいというようなつもりで、なんとか
。
。
ってみたいと思います、と申し上げましたらね、藤井貌下はこうお っ しゃ
っても同じことなのですよ
頑張
は私にと
。
。
。
。
っ
ドを
っ しゃ
ー
っ ていると
たとえば法然上人は 一日七万回の念仏
数珠を繰
っ ていら
。
何処までい
ったか、
っしゃるように見えます
房を目印にしましてね
。
なるほど誰にとっても法然上人への臣離はあまりにも遣いとい
。
いかにも藤井先生らしいおっしゃりようです よいエピソ
ったく同じ場所にいるのです、とこうお
しかし、どれだけ近づくことができるだろうか、ということで毎日毎日努力し
いのです
。
。
ているのですよ、いま、あなたも私もま
たのです
口感動的なお話ですね
。
聞かせていただきました
うことなのですね
。
けれど、法然 上 人の絵を拝見いたしますとね、いつ
っしゃる
。
人と話しているときもあるでしょうし、食事をと
それを聞いてある確信のようなものを得ました
。
っていら
それでも七万因
を申された、といいますね
。
って数珠を手に持
きもあるでしょう
もこうや
それで私は数珠で数え方を工夫したのです
。
次は何処からはじまるか計算しましてね、房 の動きで各場面ごとに自分でお念仏の数がわ
かるようにしたのです
6
法然を演 じ る
って
。
って
き っと蓮い数にな
それぞれ各場面があ
、
ったのでしょうね
ロ ニO 四回の公演があ
仏をお称えにな
。
つであるのですね
。
、
ょう
ね
。
生寺 さまに御
舞台の上 だけ でも、ずい ぶ んお念
っているでし
そのお数珠を、 つ まり 二 O 四回の舞台で私が使
の かと思 っておりました
ら 、本
堂 の入
藤井現下がご自分でそ の謂れを色紙に 書 いてくだ
。
っ ておく
ってくださいましてね
。
った数珠ということで、御参詣の皆さんにすぐ分かる
宝物殿にでもしま
やろう 」 とお
っ し ゃっ
てくださ
ったのは大田秀
多 いのですが
。
もう
一
そのなかで最後まで
三 上 人 でした
。
金 さんとか伝七とかのイメー ジ がありまし
っと無理で
できるだけ沢山の人に身近に見せてあげたいというお考
私の写真も飾
。
ったお数珠を誕
笑) 。
笑) 数珠繰りで臆鞘炎になりましたよ (
百 二十万八 千 八十八回です (
。
口お数珠が少しおおぶりに作
そうです
。
梅之助の使
。
奉 納 しようということになりましてね
さ って、ですからどこか
った
り口に置かれましてね
ようにしてくださ
。
口応援ということなのでしょう
えだ ったのでしょう
っきお話しましたように、遠山の
応援といえばね、私が法然上人を演ずるということは、大方の見方ではちょ
はないか、さ
。
たから、どうかなあ出来るのかなあ、と思われた方が
「大丈夫、出来る
7
人小口先生とお
。
。
大田先生
こ ろで、まあ倉庫
二 人 が最後まで推してくださった
稽古場が掘 っ立 て小屋みたいなと
っしゃる、諏訪のお上人とお
は舞台稽古を見にいらっしゃってね
ってやっていたのですが、稽古を見終わって、大田先生、何と言っ たと思
ンでは、あまりの力強さ
。
、
。
そして最後の最後、
月の
こ とがあるのですが、大
。
。
立派さに思わず胸が熱くなりました まず七
私はその舞台のヴィ デ オを拝見した
だ、 と涙を流して、梅之助さんを
「ああ、法難に遭わないで積んだ(笑こそうおっしゃって、涙を流されましてね
。
みたいな中に作
います
そこでまた強く確信を持ったのです
l
。
口当時、観客は、まるで本当の法然上人を見ているよう
シ
拝んで合掌したと聞きます
原問答の
京都公演、そして八月九月の東京公演、いずれも大好評でしたね
それから大阪、名古屋、いろいろ地方巡業、各地を回ったのです
ニ O 四回目の公演を終えまして地方から帰って参りましたらね、なんと駅のフォ ー ムに大
。
。
。
あれは嬉しかったですねえ
。
主 が、私だけのために食事会の席を作ってく
って
閏秀 三先生と高橋良和先生が、立ってお出迎えしてくださいましてね。「長い こ と、ごく
い思い出です
したときに、中村康隆御法
ろうさまでした、おつかれさまでした」とおっしゃ
よ
しま
ったのも、
静岡で公演
ださ
日清水の実相寺から出られた御方ですからね
。
8
法然を演じる
昭和57~の舞台
9
ね
。
御店に請われて 二 人で 一枚の色紙に書くとい
っしゃる
っしゃって
。
ったようなこと
・
になりまして
そのとき私は「泥池に蓮の花
と 。「
私の
。
そうしたら「ううむ、これ
。
「私にもくれないか」
。
大僧正と 一緒なんて、冗談じゃない、畏れ多いと、そこで別々に書くことになった
そうです
。
そしたら中村御法主がちょ っと見せてくれ、とお
」 とお
あり」と書いたのですが、仕方なくその色紙を見せたのです
だけのものを書くには十年はかかるな
。
も差し上げるから」とおっしゃるのです そのときは、とんでもない、畏れ多いと辞退し
たのですが、自宅 に中村先生はすぐにご自分の書を額にして送 って来られてしまって(笑)、
っ て、まあ
仕方なく 一時間半、墨を摺りまして、四時聞かけて十枚くらい書いて、書をたしなむ家内
に見せたら「しょうがないわねえ、じゃ、これにしたら」(
笑)一枚選んでもら
これでいいだろうみたいに送 ったのです。ずっと 後で鎌倉の 大仏様にお嫁に来られたご息
っしゃっておられました
。
。
ったときは、入院なさ
。
いや実に
っておられて、
ああ、えらいことだ、有難いことだと思
「
ああ、あれ書いたのはあなたでしたか、父の自室に大事そうに飾つ
」 とお
女にお会いしたとき
。
でありましたよ
いましたよ
口 この度、もう一度、法然上人を演ずるわけですが
ずっと後に中村狽下にお会いしようと知恩院に行
実は病院も主治医も私と同じ先生だったので、御見舞いすることが出来ました
。
ご挨拶すると 「どうぞ、宜しくお願いします 」 とおっしゃ
った
不思議なことでございました 。二 OO 六年のお正月に知思院に参りましたら、車椅 子 で廊
下に出て来られましてね
1
0
法然を減 じ る
のです
十
。
。
っ しゃ
。
い
前 の とき
っ し ゃ って
。
中村御前には今回の 上 演が決定したことを、
。
しかし、私はもう七 十 七議 です
「もう 一度、法然上人を演れ 」 とお
ったのです
。
さて今
ら なければならないところもありま
っ
今 度 の劇は法然と親鴛、 主 人公が 二
。
先日知恵院にはご報告いたしましたが:::ああ、
った
ったいどういうことになりますか
。
。
削
。
浄土宗とはずいぶん深い御縁で結ぼれていますね
、
の です
た び上演が決定にな
きて、い
これは何度もお
どういうことか、開きなおすと
。
二説
るのです
は五
しかし、この
。
だ 正 式にご報告していない
いしたいなあ
日中村御前との経緯も含めて
。
回の 『
法然と親鷺』、見所というとどういう場面になるでしょう
黒谷の時代からが私の演ずる法然 上 人になります
人になるため、どうしても時間の制約があります
したが、大原談義の場面、熊谷蓮生房入門の場面、土佐遠流を毅然として受け入れる場面
。
。
口思えば法然上人の土佐遺流は上人七十五歳のときでした 泣いて 止める弟子遣に向か
など、見せ場はたくさんありますよ
会 ま
。
そのことすら重な
。
期待しています
。
。
く
(了)
るよ う、
長丁場、巡業
。
有雛う ござ いました
法然上人の像を焼き付けてく ださ
って 来るお話ですね
て「むしろ地方に念仏を弘める ことは、かつてからの願いであった」と莞爾として赴かれ
たのでした
、
って、ま ことに
私たちの目に
、
本日は長時間にわた
。
1
1
れ ぐ れもお体にお気をつけて
お願いいたします
吉祥寺前進座にて . 飽 き手・佐山哲郎
お
AAA
この世からあの世を
少女たち
巳
る
古井戸
夫
12
~台の 半鹿 を 空けて 待つ
歌舞伎には、この世からあの世、すなわち
が紀ノ川に流れ落ちる
。
、
ま
そのところに妹背 山
せ や
背山は兄山とも書く男山です
はありました
ん な てい島ん
現世から来世を夢見て死んでゆく女性たちが
ま必
女山の妹山と 吉 野川の 急 流を挟んで並んでい
いも せや
山 が畿内に編入され
妹背 山 婦女庭訓 』「
吉野 川」の雛鳥、
います 。『
。
いました
。
っ て定 められました
。
雛鳥
。
大判事という職制は、大化の改新の
。
久我之助の父は、紀伊の国の領主 大判事清
澄です
のち大宝律令によ
によ
大 判事は裁判を 司
しかし、九 州 の太 宰 府
。
の亡き父、太宰の少 弐 の職責も閉じ律 令
。
っ て生 まれたものでした
る刑部省の 長 官です
奈 良の都と九州の太 宰 府、 二 つに
にも 大 判事が置かれ、その副長官が 太 宰の少
。
。
吉 野 川を挟んで紀伊の固
太宰の少 弐家は領地の境目を巡り激しく対 立
と大和の圏、隣同 士 に領地を持つ大判事家と
ったのでしょうか
分 かれて設置された閣僚の確執が背景にはあ
弐 でした
、
妹背山婦女庭訓 』 は、
歌舞伎の 「
妹背の山は紀伊の固と大和の国に別れてしま
大 化の改新で背
ました
。
現在
トに嘗えられま
ッ
「御股」 のお 三 輪、 二人の少女たちも来世を
夢見ながら死んでいきました
雛鳥は、日本のジユリエ
に はち
。
大化の改新の古代ロマンに題材を取 った作品
年齢は 「二八」 と呼ばれる十六歳
。
。
吉野 川
。
す
。
でした
っていた少女です
トの悲劇は、イタリア
簾
家とキ
1
。
。
の満年齢でいうと十四、五歳の春、名前に因
トは、 十 三歳
ッ
む雛の節句の夜に首を斬られて死にました
シ ェイクスピアのジュリエ
オと ジ ユリエ
ッ
二週間後、八月 一日の収穫祭に満十四歳の誕
ミ
生日を迎えることにな
ロ
ナの名門貴族モンタギュ
i
ロ
のヴ エ
ッ
ト家の確執から生まれました
ャピ ユ レ
(奈
良 ) の太宰の少 弐
(
和歌山 )
の大判事家と大和の国
。
、紀
烏と作動か駅の悲
劇伊も
の国
家の対 立 が原因でした
。
大和の国吉野山の麓から流れる吉野川は、
紀伊の固に入り紀ノ川と合流します
1
3
•
する家だ
ったのです
。
そ
ト家で開かれた仮面舞踏会で
そこで出逢
ったのが、ジユリエ
ッ ト
憧れの人、ロザラインにひと目逢いた
ッ
ロミオがジュリエットを見初めたのは、仇
。
敵キャピュレ
した
。
くて、ロミオは危険を顧みずに敵の家に潜入
します
。
ッ
唇 に接吻をしまし
ットは
ットがキャ
ト家の娘だと聞き、ジユリエ
その直後、ロミオはジユリエ
ッ トの
酒落た会話の応答のなかで、すばやく
ッ
トに忍び寄り、手に接吻を求めま
その 美 しさに心を奪われたロミオは、
でした
。
ジユリエ
した
。
ロミオはジユリエ
た
ピユレ
。
ジユリエ
ットは、初
。
ロミオが仇敵モンタギュ 1家のひとり息子だ
ということを聞きます
めての恋の喜びと、皮肉な運命を嘆きます
っ たと
私のただひとつの恋が、ただひとつの憎
ったのが早すぎて、知
しみから 生 まれたなんて!
知らずに会
きにはもう手遅れ!
産声をあげた時から不 吉 な恋
ちくま 学 芸文庫
・
「シェイ
忌まわしい敵を愛するしかないのだから
松岡和 子 訳
(
クスピア全集 」 2)
日
見初めたのは、
。
山の小松原で時雨の雨の晴
雛鳥と久我之助の出逢いも、束の間の恋で
した 。奈 良の春
。
侍女の機転で久我之助の
れ間に 二人は出逢いました
。
瞬き
久我之助も吹
っている小鳥狩りの吹矢筒を借り、雛鳥は
雛鳥のほうでした
持
。
。
。
ってし
その直後に、雛鳥と久我之助は
ったり抱き付 」 く仲にな
「口と口
当 てて瞬きます
久我之助の耳元で瞬きました
矢の筒先を雛鳥の耳に
。
竹を通して 二 人は寄り添い、すぐに
とを鴛驚のひ
まいました
敵同士の娘と息子であることを知りました
久我之助にひと目
。
「
吉野川 」 の場面は、それから数ヵ月後、弥
生の節句の日になります
逢いたいと思う雛鳥は、母の定高に願い吉野
1
4
llli台の半E監を 窓 けて待つ
。
生 に来まし
吉 野川の向こう側に久我之助の姿を見つ
川の 下 館に仮座敷を設えて出養
た
会ぴ
けると、春風に振袖を焼かせながら川辺へと
認めてきた恋文に小石を
でした
。
。
雛鳥は 喜 びながらも、未来の再 会 を
夢見ながら死んでいきます
雛鳥の最後の 言 葉は、 「千 年 も万年も、ご
無事で長生きあそばして、未来で添うてくだ
。
降りていきました
。
ただし、
この世、すな
さりませ 」 というものでした
。
添えて 吉 野川に投げ入れると、その音 に気が
吉
わち現世では長 生 きをしてください
。
二
ってください
ってゆく雛鳥の背景には、夫婦は
。
付いて久我之助も川端に降りてきました
潔く散
ませ、という願いでした
あの世では仲睦まじく夫婦にな
トが、
ッ
久我之助は 「雛鳥、ぶじで」と
バルコニーのジユリエ
、
野川を挟んで再 会 した雛鳥は、「久我さまか」
。
と呼び掛け
答えます
世の契りだとする江 戸 の庶民の 信 仰がありま
」 と恋人の名前を呼
「ああ、ロミオ、ロミオ
それゆえ、現世であるこの世だ
ったか
見ず知らずの男と女が 夫
。
「親 子 は 一世、夫婦は 二 世、 主 従は 三
。
けの関係ではなく、来世にまでつながる深い
らであろう
婦になるということは、深い因縁があ
世」ともいいます
。
した
。
ぶように、雛鳥も久我之助も 互 いの名前を呼
び 合 うのでした
蘇我入鹿大臣に入内せよと迫られた雛鳥
吉野 川 の向こう側では、久我之助が
。
は、久我之助に操を 立 てて死ぬことを許され
ました
。二
縁があるのだろうという考え方になりまし
雛鳥も久我
。
。
l
は、夫
とキャピュレ
モンタギュ
l
幼くして死んだロミオとジユリエ
。
人の死骸を見て、モンタギュ
ツトは和解をしました
ッ ト
忠義のために切腹をしています
雛鳥を安心さ
た
。
。
之助も相 手 の無 事 を願いつつ、自分ひとり死
のうと決意をしていたのです
せるために、吉野川に桜の枝が流されました
この桜は、久我之助の命が助かるしるしの枝
1
5
ロミオに忠実貞節であったジュリエットを称
キャ
人形の首をみると、その首が自分の似顔絵に
。
雛鳥の最後には、琴の
なっていたという経験を語り伝えています
。
上で再会したのです
えて純金の像を建てたいと 言 いました
おなじように息子と娘を失った大
雛鳥を演じた若き日の記念の小道具に舞台の
。
ピユレットも、ロミオの像を建てたいと申し
出ました
定高は、雛鳥の
。
調べと満開の桜に象徴される、幻想的でロマ
。
た
。
ロミオがヴエロ
l
ナを追放されて、 「で
に自分たちの意思で秘密の結婚式を挙げまし
ロミオとジユリエットは、生きているうち
。
判事と定 高も和 解をします
琴の音色とともに、吉野
ンチックな雰囲気が満ち溢れています
。
。
死体を雛祭の雛の道具とともに川向こうへと
嫁入りをさせます
川の水がくるくると流れ始める 「滝車 」 とい
う大道具の仕掛け物を使った華やかな場面
この
も処女の私は、処女のまま未亡人として死ぬ
。
雛人形の長持や小袖箪 笥とともに流される 雛
夜にはロミオと契りを交わしています
んだわ」と嘆いたジユリエットも、その日の
。
鳥の死体は、婚礼の輿入れの行列であるとと
もに、死体を川に流す水葬礼でもありました
ットの唇に口付けをしながら自害しました
。
世の最後でも、ロミオは仮死状態のジユリエ
雛の顔を雛鳥に扮する役者の似顔で作る演出
ジユリエットもロミオの死体に 覆いかぶさる
明治時代までの歌舞伎では、雛人形の内裏
雛人形の首がころりと落
。
があったそうです
とジュリエットに対して、久我之助と雛鳥は
束の間とはいえ、この世で結ぼれたロミオ
。
ようにして死んでいきました
。
この人形の首のように、
ち、母の定高が拾って見ると娘の顔にそのま
まの首があります
娘の首を斬って操を守らせてあげようという
。
離れ離れのままで死んでいきます 吉野 川の
。
母の決意を見せるところです
急流に隔てられながら、互いの無事を祈りつ
近代の名女形、
六代目尾上梅幸は定高に扮して転げ落ちた雛
1
6
蓮台の半磁 を ~Iすて待つ
ま
つ純潔のままでこの世を 去っ た雛鳥の夢見た
極楽浄土に 生
らっ
ょう ζうてん
た乞巧 英 の願いのことを思い出しまし
七夕の夜、男には白い糸、女には赤い糸、
。
れるという俗
信 でした 。「恋わたる思いは
た
。
「
蓮台の半
ものは来世での契りでした
。
苧環に針を付けて結ぶと、その男と女は結ぼ
って暮らしたい
れ変わることが出来たならば、おなじ蓮の葉
の上で夫婦にな
」 というフレーズは、
千 々に結ぼれて、いく夜ねがいの恋の苧環 」
っ ている
座を空けて待
。
っていきます
。
裏切られたお 三 輪は、
追いかけて、蘇我入鹿の御殿に迷い込んでし
求女の裾に苧環の白い糸を付けて求女の跡を
付けて追
しかし、求女は構姫の裾に 苧 環の赤い糸を
した
という歌とともに、求女と七夕の恋を普いま
。
っても、この世での純潔
未来での契りを果たすた
。
この世では結ばれることの難しい男と女に共
通する願いでした
めに、たとえ命を失
を守り通さなければならなか ったのです
奈 良の杉酒 屋 の娘お
。
『
妹背山婦女庭訓』 には、もうひとり若い娘
の恋が描かれています
三輪は、疑着の
まいました
ったお
まだ 寺子屋 に通う、振袖姿の幼い娘で
相と呼ばれる恐ろしい形相になります
嫉妬に狂
。
鮮やかな萌黄色の縮緬地の振袖には、
。
三輪
。
蘇我
した
入鹿を滅ぼすためには、疑着 の相の女の生血
お 三輪は、漁師の鱗七こと金
。
裾に 子供たちの遊戯道具 「十六武蔵 」 の模様
。
が必要でした
この幼い娘が、藤原鎌足
が捕かれています
輪の 五 郎今 回という藤原家の忠臣により刺し
。
の御曹司淡海公の忍び姿だとも知らず、
烏帽
殺されてしまいます 今 わの際に、求女こと
。
子折の求女という 青年 とこの世の契りを交わ
。
いかな
ったのだと聞かされたお
淡海 公 のおためにな
逆臣蘇我入鹿を滅ぼすために、入
。
ったいなや
る縁で賎の 女 が、そうしたお方としばしでも、
しました
お 三輪は寺 子屋 のお師 匠 さまに教えても
三輪は、 「冥加なや、も
。
鹿の妹橘姫に接近しようとする 烏帽子折の求
女
1
7
お傍にいたる身の果報、あなたのおためにな
いつつも、 「とは 言 うものの今
一度、ど
ることなら、死んでも嬉しい、かたじけない 」
と言
。
」
歌舞伎座の 「六月大歌舞伎 」 では、「小松原
「花渡し 」「吉野川」の 三幕が松本幸四郎の大
判事、坂田藤十郎の定高、中村梅 玉 の久我之
いる
助、中村魁春の雛鳥という配役で上演されて
お
新橋演舞場「五月大歌舞伎 」 でも、中村福助
(
ふるいどひでお)
東京大学大学院教授
吉井戸秀夫
殿」が上演されたばかりである
。
のお 三輪、中村 吉 右衛門の鱗七の配役で「御
。
」
うぞお顔が拝みたい、たとえこの世は縁部く
とも、未来は添うて給われ」と願います
三輪は、「もう目が見えぬか、なつかしゃ
と苦しい息を付きながら、求女との恋の思い
。
三輪も、純潔
出の苧環を握り締め息を引き取るのでした
この世での契りを果たしたお
。
を守った雛鳥も、幼い娘が死に際に夢見たの
は、あの世での再会でした
。主 たる研究テlマは、
歌舞伎の美学論、表現論、演出論、人物評伝、
演劇学・舞踊学専攻
『
鎌宵山婦女鹿削」いもせやまおんなでいきん
文献研究、歌舞伎の名作の復活、失
。
作品論
われた表現技法の復元研究にも取り組む 舞
。
作者は近松半 ニ。 明利八年
。
。
、
歌舞伎の 「王 代物 」 (古
代史に取材した作品 )
を代表する名作
踊 詩劇 『
女と影 』 の復活上演と 『歌舞伎登場
。
同年八
(一七七 一)正月、人形浄瑠璃で初演
大化の改新を題材とし
人物 事典 』 の出版を終え、鶴屋南北の評伝と
。
月に歌舞伎化された
著書に
未刊全集の編集に取り掛かる予定
。
た五段続きの長編戯曲で、 三段目の 「吉野 川」
『
歌舞伎 』 など
問いかけの文学 』『新版舞踊手帖 』
岩波ジュニア新書
l
『
歌舞伎
。
御殿」は繰り返し上演される人
と四段目の 「
気狂 言 になっている
1
8
表紙 言
の 葉
月
1
・・
74
東急東繍線絡天寺駅を東へ歩くとすぐ絡天
i
『 J/、
寺があります 。 浄土宗屈指の大寺院です 。 関
山上人は 、 下総大巌寺 、 小石川伝通院 、 芝治
上寺の法主を歴任した高僧姶天上人。 彼はこ
の!t!!に常念仏堂をi1JiIすることを念願してい
J
J
ましたが果たせず 、 そのiIi~給緒海上人が実現
させたのですが 、 絡天上人を開山とし自らは
第二世とな っ たということです。 始天上人 l卓 、
五代将軍綱吉の生母 、 健昌肢の厚い帰依を受
けたことでも有名です 。 八代将軍吉宗 lま佑天
寺を特別に庇憶し 、 浄財を.絵。 大伽藍が完
成します。 しかし明治二十七年の火災で堂洛
伽震の大半を焼失。 往時の械式が残るのは地
蔵堂 、 鎗機など 。 境内に~舞伎で有名な f 察」
の嫁があります 。
一
吉田議十「
桜井良夫
え
第七回
森清鑑
江戸 を歩 く
隣が海雲寺、そして広大な面積を誇る、
叫ん曾んじ
。
品川寺江戸六地臓を拝み、東海道を南に歩
海曇寺
く
かいゐ んじ
江戸期の海曇寺は、現
盛に導いた
。
しかし、時代を経て家康が江戸
この時から曹洞 宗 の寺
道に面して
。
入府した頃には、海長寺は腐れていたのである
。
。
東海道の左右に 二棟、 一棟
ニ 帽の民
。
家肢の再建が始まる
とな った
家が並び、人馬が往来している
。
海長寺門前町に出る
構のような門から入り、中門を潜
門がある
。
在の敷地を南北東西ともに倍に伸ばした広き
。
ると左手に弁天様がある さらに行くと本堂、
南北は背物横丁、今の仙台坂まで、
である
方丈が建ち並び、背後は丘陵が迫り上がり、
。
東西は第 一京浜を突き抜けて海沿いの街道ま
建長 三 年 (一二五 こ 、鎌倉五代
周囲は嘗蒼とした木々に閉まれている自然風
。
。
当然の事ながら、海長寺から見お
海沿いの民家はいましも波に洗われるか
のようだ
。
での存在
そもそも
景
。
。
加えて
ろす品川の海景色は、絶景であ
った
の縁起は、品川沖 で捕らえられた大鮫にある
楓がふんだんに植えられていたので、十月と
長寺開祖の大覚禅師に創建を依頼
執権、北条時頼は、広大な土地を確保し、建
。
鮫の腹を割くと神々しい観音像が出現したの
この話が鎌倉にもたらされ、信心深
もなれば紅葉の名所として江戸庶民の賑わい
。
と
である
もみじ
庶民は、海曇寺を 「紅葉の寺 」
。
を見せた
。
い時頼は動いた かくて臨済宗海曇寺が誕生、
呼んだ
「あれ見ゃしゃんせ海長寺、ままよ
土地名 「
鮫洲」由来の寺となった
たったの高尾でも、及ぴないぞえ紅葉狩 」。
。
索、堅実、宗教心に厚く、御家人、民衆に対
この寺の丘上には幕末、明治の元勲岩倉具
時頼は質
った名君として今日も高く評価
。
して善政を行
っ ている
。
松
視、松平春獄、由利公正等が眠
時頼の息子、元港時の執権、北
されている
平春獄は、徳川御 三卿回安家から福井松平家
。
条時宗も阿弥陀如来像を安置し、この寺を隆
A'江声名所図会上幽官
海銀守の光 -m・
門前は東海灘
の養 子 とな
った
。
。
そしてす
。
有能な人材
っかり疲弊した楠
。
そして殖産興業の隆盛
藩医、橋本左内、熊本から
井藩財政の立て直しに取り組む
をどしどし起用
呼んだ横井小楠など
変」で直弼が暗殺されると、幕政に復帰する
。
大変な殿様である
。
この松平 高
そして激動の維新、能川家の保全と政川の収
拾に努めた
獄と雄勝、長州を背に倒幕、王政復占をひた
。
すら押し進めた岩合具視が海円安寺の丘の上で
春獄が採用し
。
によって財政再建に成功する
岩倉も当初、公家の世界で公武合体を主援し、
。
し
かし、
腐を並べて眠っているのも興味深い
。「五箇条のご替文 」
た、そうそうたる面々はやがて国家をも動か
す原動力となっていく
皇女和宮を十四代家茂に嫁がせる原動力とな
横井小
。
の起草に参加した、由利公正しかり
。
また、江戸から明治へ、と
仙台坂 から立会 川
鉄道創設の功労者でも
(
仙台披トンネルがある
。
仙台坂とは呼ばれていない 街道沿い、海円安
岐 )。舟物横 丁万而に向かう現代の仙台坂は、
期の仙台坂である
海円
安寺の南側塀沿いに迫り上がる坂が江 戸
。
もすれば瓦解しそうな明治新政府で岩合の果
れた人でもある
の朝廷への 圧 hH
により、山行合村に幽印刷させら
り、結果、佐幕派と見られ、尊 王 様束派志 士
。
楠の殖産興業策に触発され、彼のもとに学び、
立て直 しに貢献す
勝海舟は横井小楠を 「底知れぬ知識と知
。
経済調査を行い、滞財政の
る
恵の人 」 と讃え、深いつきあいをしている
たした役割は大きい
。
小楠に坂本龍馬を紹介し、会わせている 神
「安
。
ある
十四代将軍を選ぶと
ために井伊直弼の
。
。
戸軍艦操練所設立の際、龍馬は春獄に掛け合
。
い、春獄は五千両という大金を都合つけた
早くから開国論を 主 張
。
きには、慶喜擁立の急先鋒で山内容堂、品津
斉彬とともに動いた
政の大獄 」 時には、まともに影響を受けた
春獄は謹慎、橋本左内は刑死 。「桜田門外の
2
2
i
I
l; を 砂〈
。
この集部は民業 の傍ら海
を海辺沿いにどんどん歩くと 立会 川 の 河川に
急峻な岐を
寺 から坂道を挟んで泊船寺がある 。その阿側、
。
形成された浜川町
そこで伊達家仙台収
すなわち仙台坂を登る左手には仙台部 FM 般
。
架かる橋は、
って最高の海
立会 川
を
。
そ
れも その はず、
。
。
る海苔の最向級品を生み、浅草 の海苔問 屋
った
持義殖を行う家が多か
った
そして
があ
hu
・,』恥
"
'
藩庫敷名残の大木である
。
品川海持生産の中心地で、将位平家に上納され
。
夜りきると、樹齢 三百年のタプの木が 一本持
えている
「仙台味噌醸造所」
立 会川に出る
通じて流通された浅革海苔の代表品
った
いけが -h
みち
っ切 ってずん
日蓮の命日、十月
。
同じく屋敷内にあ
。
これを、大井村を突
。
池上道も古道で江 戸 時代にはこの道を
った
。
苔ができた
と目黒川の吐き出す真水が混じ
。
(八木醸造所) 仙 台坂はそのまま池上道に続
いていた
(
大森 H 塚公園近く て 次いでお
ずん備に進めば、左に dr
安時代から続く、鹿
島社があり
、
(川枝神社 ) 巨 大な松の木がそ
。
(
大海駅付近 )
手に山モ社
る
びえ 立 つ、風光明仰な八景坂
そして池上本門寺に 至
た いま つ
十 三 日のお会式には、毎年、太鼓を叩いて仙
。
台坂から本門寺まで松明の火が列を成したと
いう
。
道沿い
海川氏寺、仙台坂を布に見る
利用する人々も多か
点海道に反る
。
街道
。
2
3
坂を起点に南品川から大井村になる
の茅茸き民家の数もぐんと少なくなる
-仙台緩上、 担IIB300f手のタブの木
立会 川は、碑
「
浜川橋 」。橋を渡ると右手に神明社(天祖神
。
(
浜川中学校、現
風光明婦な
。
学芸大学駅近くの碑文谷公園 )
(
社)の欝蒼とした森が見える
文谷弁天池
や清水池などの湧き水を集めた部々たる流れ
。
であった 川
はこの浜川橋から海に流れ込む
って左手の川沿いに山内土佐
方向を転じて川を西に少し遡る
。
東側、海に向か
守の 荷揚場
った
と、立会川北側に商して土佐高知藩山内豊信
(
容堂 ) の下届敷があ
在の第 一京浜を含む立川橋から北東方向正方
。
形の土 地)。敷地約 一万六千坪 。立 会川の引
き水が邸内の中央を流れている
。
ことで容堂公が愛した麗敷である これを右
一万八
(
品涼斉彬 ) の抱
手に見て少し上流に行くと川を挟んで
千坪の広大な催摩藩白律家
立会緑道、関ケ原公園 〉。
え屋敷があった (
。
っ
明治になり、この屋敷も
つまり両 藩の下 屋敷は立会川沿いに仲良く並
んでいたのである
なくなると、山内容堂は、前述の仙台坂伊達
下巌敷に隣接し、見附らしの良い丘陵にあ
-傭より函.土佐漕下贋数万蘭
2
4
江戸 を歩く
z
hw
ベ
隠居と成し、分家の豊信と養子縁組み、藩の
ふ害やま
これには 十 四代夫人が薩摩
た、嘗ての越前節江藩、岡部下総守屋敷跡の
Lb
。
存続に成功した
っ てい
山内家は初代 一豊以
。
公武合体を
。
。
一角 (
下総山、立会小学校、大井公園 ) に眠
藩島津斉彬の妹であり、彼の裏工作もあ
。
った
りにつくことを申し出た
という
間部は、井伊大老
のもとで老中として安政の大獄を推し進めた
るにもかかわらず黙認
。
人物であり、結果、自藩の下屋敷に隠居させ
来の態川の信任を得たのである それまで予
吉田東洋を起用
。
朝廷と徳川の協調 一致体勢論
。
ともかく、徳川家は事実を知
られた容堂公が間部の下屋敷跡に墓を設ける
想もせず、突如藩主となった容堂は明断な頭
革に乗り出す
。
とは皮肉な事ではある 容堂公の墓は、大井
脳の持ち 主。 世の急激な変転を感じ、藩の改
。
って上がったとこ
(墓は立会小学校創立
公園入口左から曲がりくね
。
理念とする
ろにぽつねんとある
とともに、現在地に五十メートルほど移され
。
その死を隠して
。
。
土佐藩にあ
。
って
大政奉還を勧める坂本部馬の船中八
っては政権を朝廷に返し、徳
。
龍馬の
発案とも知らず、これを携えて上申した吉田
由を失わせる 一石 二鳥の策に思えた
川の発 言力も維持するという、薩長の倒幕理
策は、容堂にと
させる
その急先鋒、武知半平太の土佐勤 王党を壊滅
尊 皐 捜束、倒幕運動を 生 む
時代の荒波は、下士士族による革命が起きる
。
もに十 五代将軍徳川慶喜擁立 に動く し
かし、
っては、松平春獄、島常斉彬らとと
中央にあ
。
た)藩主歴代の墓が並ぶ様とは異なり、孤高、
円形状 (
土鰻顕型)のユニークな纂である
ここを墓地にと遺言したところを見ると、公
っ
品川周辺には、激変の状
は、余程、海を見下ろす、この地が気に入
。
。
ったが幕末を
っ ているのである
って、敵味方の関係にな
ていたのであろう
況によ
動かした人物が 一緒に眠
山内重信 (
容堂 )は、嘉永元年 (一
八四人 )
。
に高知土佐藩十五代藩主に就任した 十四代
・LV'u
藩主が踊子のないまま急死
2
5
東洋門下生の後藤象
奉還 を慶 喜 に建白
。
。
。
だが、時
二郎の具申をもとに大政
大政奉還なる
し、
慶応四年の
主張
容堂 一
は小御所 会議にて徳 川氏
代の波は薩長の天下となる明治新政府誕生に
向か って進む
。
を中心とする列候会議による政府を
薩長派の岩倉具視と激論になる
戊辰戦争でも 土佐滞の出兵を抑えようとした
。
また、井伊 直弼の安政の大獄では、
が、土佐藩指締 官の板垣退助は意に背いて出
兵する
。
とにかくこの時代の人間関
幕議に逆らったとして品川鮫洲下屋敷に艶居
させられている
。
係の複雑さは半端ではない 結果から見れば、
。
龍馬の脱藩は、
それもこれも新時代の幕を聞けようとする
人々の葛藤から 生じている
。
明治になって、水戸孝允から龍馬の真実
勝海舟の取りなしによって容堂はこれを許し
た
う
浅草で
っぱらいの殿様 ) と
。
を知らされ、慨嘆したという 晩年は 「鯨海
すい ζ
。
。
詩
才は相 当 なもので、
称し、酒と 詩作に明け暮 れた
酔侯 」(鯨のいる海の酔
自らを
放路 三 味の生活を送る
-山内容掌息(大弁公園}
2
6
江戸 を砂〈
激動の世にあ
。
明
治五年逝去
って決定打を打ち出し得なか
た哀感がさりげなく出ている
鈴ヶ森
。
っ
再び立会川に架かる東海道 「浜川橋 」 に廃
江戸市 中引き回しの罪人は、この橋の
七もこうして処刑された
。
もう
る 石 離は四十センチメートル角
一つ残ってい
中央に角穴
。
断首された首洗いの井
戸 もあ
水柱に向く、くくりつけられた罪人は下から
。
。
明治維新
江戸期、 ここを通るのが嫌 で池上道を迂
。
明治の御世まで横柱の上に獄門首が並ん
。
給で突かれる
る
。
だ
。
ろう
回して歩く旅人も多くいたという
坊、山内伊賀亮、赤川大勝、村井長崎、向井
までに処刑された有名人は、丸橋忠弥、天 一
たもとで、集まった大勢の民衆の聞にひそか
。
これ
に交じる親類・縁者と最後の別れを告げる
。
街道に而
。
ている
ら れた
。
向か って右隣の大
歌舞伎の舞台や 『
江戸名所図会』 にも、
。
三年 三
月
二 十九日
(一六八 三)。年僅か十 六
お七が火あぶりの刑に処せられたのが天 和
経寺は処刑人の供養のために建て
この石塔が描かれている
ある
って元禄十 一年 (一六
九八 )に建てた石塔で
池 上本門寺の貫首、日凱上人が罪人の魂を弔
さ ご一
メートルにも及ぶ供養塔が 立っ
人達である 。「南無妙法蓮事経 」 を刻んだ刊
いずれも芝府や講談でおなじみの
この世とあの世への別れの場でもある
。
。
。
権八、日本駄右衛門、白木口出お駒、そして八
鈴ケ森獄門場である
。
直
八百屋お
百屋お七
誰が
。
。
松林
。
。
から先には鈴ヶ森の刑場が待 って いる
つけたか泊橋
。
。
これは火荊に使われた
火は 天をも焦がす
。
罪人は 全くの海沿いを走る街道をひかれて
行く
して間口四十問、奥行き九間の細長い区画
(一六五こ
往来人の多い街道に見せしめのために処刑場
が設置されたのが盛安四年
。
径四十センチメートルほどの丸石盤の中央に
は鉄柱 立 ての円穴
。
柱の下に木を雌く税み、邦人はその上にくく
りつけられる
27
。
。
。
そ
お七が
って半鐘を鳴
しかし、燃え上がる火
った若い僧に恋し、再び会えるな
才 (
満十四才 )。火事に被災し寺に避難
こで知り合
らばと、火をつける
に怖くなり、自ら火の見櫓に登
結果、ぼやで済んだ
させた
。
。
っ
恋の相 手 の若い僧は、目黒行人坂下、
。
お七の墓は駒込剛乗 寺 にある
明王院 (
雅叙圃 ) の怖い坊さん、西速にな
た
。
そして正 雪
丸橋忠弥は武士で 宝 蔵院流槍術の道場を開
き、由井正 雪 の片腕といわれた
。
らしたという
ヶ森で
この計画が露見
の幕府転覆計画に参加する
。
極刑された理 由 の 一つに、撮り袖火事(明暦
こ
し、慶安四年八月十日( 一六五 二 鈴
。
の大火、一六五七年、江戸の大半を焼く
。
様処刑
鈴ヶ森最初の処刑者とされている
の時、高さ十 一メートルの石垣の上に建てら
慶安太平記 」に取り上げられ、
河竹黙阿弥の 「
。
れた、日本最大の江戸城天守閣も焼け落ち、
キセルみえ
初代 左 団次の燈管の見縛は庶民をうならせ
った ) に始まる
川 南側 寺 町 一帯にある、
二度と再建されることはなか
南品川宿、目黒
寺町は妙国寺に 至 るまで 二 十あま
妙蓮寺には丸橋忠弥の首塚と称される墓が立
。
た
っ
度々の大火があり、江戸中が神経を尖らせて
だが、奉行も十六才にな
。
妙蓮寺と
A'『
江戸名所図4E上 e
m ヶ猿縛役
•
。
っている
、
南
副
いた経緯がある
たばかりの娘子を不倒に想い 「お前はまだ十
十五才以下は
りの寺が密着して存在していたが
。
五才であろう」と言い含めた
。
左 に曲
一京浜が走る
本光寺の問を割
って妙蓮寺の角を右に曲がり、
「投げ
って今、第
罪 一等を減じるという規定があったのであ
しかし、お七は自分の宮参りの記録を持
これがいわゆる
。
込み 寺」 で、品川遊郭の身寄りのない娼妓、
に向か
。
また、
「好色五人女 」
る
この話を井原西鶴が
がると海蔵 寺 がある
。
ち出してまで正直に十六才であると 主 張した
という
。
品川牢で球死した罪人、そして鈴 ヶ森で処刑
った
で取り 上 げ、お七の名は知れ渡
された罪人の首が埋葬された (
首塚 )
。
鶴屋南北は浄瑠璃、歌舞伎のシナリオに登場
一一
副::
.
.
28
江戸 を歩く
刑場から街道をさらに南に歩くと、鈴
ヶ森
現在は第 一京浜
ケ森 」 地名の由来で
すなわち
この水を飲み、 志正 しき者は 其水で甘露と感
- 崎町ケ車刑
軸 岨咽植田
\唱
ったのか
街道際まで海波に洗われていたのだか
じ、正しからざる者は塩味に顔をしかめたと
。
。
八幡社 (
磐井神社 ) がある
神社の
いう
。
ら、この 言 い伝 えは、 存 外真 実 であ
「鈴
。
江 戸 庶民は
。
門前は荘洋として広がる海であ
神社 一帯、背後
った
に面しているが、江戸期には東海道に商し、
。
も知れない
。
った
この石を他の石で叩くと鈴の 音 がする
門の 正 面に・本殿。 この神社には鈴石があ
。
。
烏の形をした自然の文様
。
双方とも現在は屋敷内に保管
。
A'岨
竃件付の悼行戸
九 O 一 1 九 二一) には
歴史は古く延 喜 年間 (
すでに存在していたようだ
には、松をはじめとする 巨木の森があ
現在も門を入ると右手に樹齢四 百年は十分に
。
あると思われるイチョウの大木が聾えてい
る
った
。
街道を行く旅人の喉をうるおし
。
そして烏石
った
というので江 戸初期の頃にすでに庶民の問で
。
一躍有名にな
ある
が浮き出た石
されている
った
た磐井の井 戸 は、門前歩道の第 二京浜寄りに
あるが、江 戸 期には門内にあ
っていたことの証 左 である
第 一京浜の真ん中くらいまで、神社の敷地が
広が
2
9
連般
関容子
4・・~/世カオカ邦彦
会い たい人
で高座の噺家がそれをぼやくと、
「
まだ鳩パ
スいるよ」と客席から声を掛けてドッキリさ
山 田太 一さ
んに面識を得たのはまだ最近のことで、去年
せる臓人ふうの男と彼に目を留める脚本家
名シナリオライターで小説家の
の秋、向田邦子さんを記念して催された立川
映画では片岡鶴太郎と風間杜夫が演じて、し
。
談志、談春の会のとき。向田家の招待客、作
みじみさせられた
山田さんの描く浅 草 がなぜそんなにリアル
。
家、俳優、編集者などが会場のほぼ半数を占
め、普段あまり寄席とは縁の薄そうなその客
。
言 うと、生粋の
本物なのがよくわかるからだろう
の生まれだし、 山 田さんの浅草が説明抜きで
千束町の生まれで、私は隅田川を隔てた本所
で心に必みるのかと 言 えば、山田さんは浅 草
。
席の反応がズレる、と 言っ て、談春さんが因
っていたのがおかしかった
。
山田 さんにはその日、女優の加藤治子さん
から紹介していただいた
もう 一つ浅草のつながりを
浅草っ子女優の沢村貞子さんには生前何かと
『
岸辺
のアルバム』『男たちの旅路 』『シャツの店 』
親しくさせていただいたが、あるとき沢村家
テレビドラマの不朽の名作とされる
や、映画『異人たちとの夏』とその原作( 山
んだなあ、と思ったものだった
。
のを見て、やっぱり同郷のよしみでお好きな
の本棚にズラリと山 田さんの本が並んでいる
。
本周五郎賞受賞の小説)などが好きだったの
で、かねがねお逢いしたいものと願っていた
とりわけ『異人たち 』 の主人公である中年の
それからずいぶん時を経てしまったが、よ
。
脚本家が、幼いころに死別した若い父親そっ
草のことから伺ってみた
うやく 山田さんに お目にかかれて、まずは浅
ルの客席、という設定が興味深かっ
くりの男(異界の人)に出遭う場所が、浅草
i
鳩パスの団体客がゴッソリ引揚げたあと
。
演芸ホ
た
3
1
父が経営していた浅草の店のボーイさんの一人と .
3
2
会いたい人
ホテル ) すぐ近くの大衆
浅草のお客とい
コロッケとかカツ井とか、安くて
l
「父が経営していたお店はかつての国際劇場
。
(現在は浅草 ビュ
食堂です
。
も
「
小僧奉公 」 とか
「
支那ソパ 」 とか、同郷
で同世代のせいか率直な 言葉遣いなのが嬉し
、bv
。
三 男、
ところで戦前は若い人が結核で亡くなるこ
とがよくあ
たっぷりしたものぽっかり
うのは、奉公に出てきて、たまの休みにお小
五男をその病気で失くしている
ったとき、父が千葉県
ったんです
よ。これ、別に鏡花なんか父が読んでたわけ
の海神というところに別荘を作
か いじん
コニ
男の兄が病気にな
ったが、山田家でも長男、
遣い握りしめてくるような小僧さんとか、兵
隊さんとか、軽演劇の人たちが幕開に扮装の
。
ままちょっと来て食べていくとか、気楽に入
れる店でした
(
笑 )。
あのころ、浅草あたりである程度成功した人
じゃないから、酒落じゃありませんよ
出てきて、屋台を借りて引っぱって支那ソバ
が千葉に別荘を持つ、というのが流行ったら
父は愛知県の人で、まあ家出をして東京へ
を売って、夜は公園のベンチで寝て、ようや
しくて、演出家の木村光
一さんのおうちも、
く浅草までこぎつけて店を出したのが昭和三
両国だったのが千葉に別荘があったという話
さんらお令
三 河の国
それで店の名前が三 昭でした
。
。
年
です 」
そう一
昏--宮
そこでぼ
八人兄弟の七
。
。
の 三も掛けてあるようですけどね
くは昭和九年に 生 まれました
両親にお金も入ってきてて、
。
に別荘があり、長兄が肋膜炎の療養をしてい
六男です
。
番目
た
それにして
園に行かされたんですが、いい家庭の育ちの
「
ぼくには妹の子守がついて、別荘地の幼稚
。
いい時期に生まれたわけです」
。
六男なのになぜ「太 ご なのか、父の真意
は聞きもらした、ということだ
3
3
疎開する前に録後の浅草で措置った記念写実。 向かつてをから時計図
りに、 æ りん、姉房子、太一、鯨直子
いい子がいっぱいいるからいい服を、という
なりましたね
。
と思うのは、遊戯とかやってて前の男の子の
で、自分のある種の資質が形成されたな、
本当の金持ちというのは普通の恰好して来て
後ろ姿が見えたとき、半ズボンの腰のポケッ
でも
それで自分の姿がと
トがほつれて少しめくれてたんですよ
。
。
ものすごく心の傷に
んでよそいきの服を着せられたんです
て、あまり着飾らない
。
。
ああ、
っても 恥ずかしか った
3
4
会いたい人
破れてても品のいい子はいいんだなあ、と思
ないよ、って背を向けて、よく働いてました
したが、 元気 なころ、子供はお店へくんじゃ
。
いましたね (
笑) ぼくは、父ちゃん母ちゃん
。
l
ルを
そしたら父が、お客さんちょ
ごねて、ダメと 言 ったら怒って母にビ
すが、行列のお客がもう 一杯飲ませろ、って
戦時中で、配給切符でピ!ルを飲ませるんで
」
。
の世界で育ってますから、やだなあ、 早 く下
町へ帰りたい、と思いましたよ
山田さんは、浅 草 の金龍小学校に入学する
掛けたんです
っと、と 言 って裏へ連れてって、おーい、と
「
もう、次男の兄が店のコック場の中心にな
って働いてましたから、夜、少し早めに父が
そ
コック場の人たち呼んで、袋叩きにした
。
ぼくを連れて別荘へ行くことがあって、する
れ見ててぼくもミカンの皮ぶつけたりして
っこに腰
と途中の乗換え駅で降りて、駅前の屋台のお
ぼくも床凡の端
(笑)
父。
も浅草の盛り場で生きてた人だから、
。
でん屋で 一杯飲む
ちょっとそんなふ
結構タフだったんですね
。
って、その前に皿とか鍋とか店の物を安
く売ったりして、母には特にショックだった
にな
きた大事な店が栂こそぎ取りこわされること
曳くわけですね 。夫 婦でゼロから築き上げて
ぴ
襲の類焼を避けるために強制的に家を間
「空
制疎開の命令が下った
昭和十九年、戦争が激しくなってお店に強
ったですけども 」
。
掛けて、のれんが乙う頭にかぶる感じで、お
うには見えなか
病気の 三男が 亡 くなったの
。
。
ま
でん 一串もらって食べながら外を見てると、
広い路が人通りもなくシンとしてて、暗い中
」
。
を野良犬が 一匹歩いてる、という映像を憶え
てますね
まさに 山田 太 一ドラマの世界
。
しかしその海神別荘は、ほどなく売り払わ
れることになる
で、縁起が悪い、ということで
「
母も疎開先の湯河原で五十歳で亡くなりま
35
と思います。まあ、うちがこわされたせいで、
ぼくの勉強場のような六区の映画街や国際劇
や集団疎開の児童が溢れ、敗戦も間近になる
「借りた家は、元はカフェだったところで、
母
父が苦労
。
。
ピンクのタイルの丸い柱があったりする
父
場が焼け残ったのかもしれませんけどね
はこっちへ移って 一年足らず、終戦の年の 一
。
は戦前湯河原にもよく遊びに行ってて、気に
月に亡くなりました。癌でしたね
。
入ってみかん畑が貿つであったんですね。ま
。
ですが、ぼくが枕元を通るとき、母を見ない
して買ってきた峰蜜が唯 一の栄養源だったん
で、土地の小学校へ通い始めたら、さすがに
で峰蜜のピンを見たと 言っ て、母が怒ってね
。
。
農家の子が多くて、長ズボン(ぼく、半ズボ
お前はそんなにこれが食べたいのか、って
ずそこに建てであった小屋に疎開をしました
ン)の腰に手拭下げて、そうずら、とかかな
先生が国語の本をぼくに読ませて、
そんなことないよ、って 言っ て、物 干 に上が
。
り誰る
四年生くらい
って泣いたことがあります
。
東京の人はこんなふうに読むもんだ、なんて
ですから無理ない、と思うんですけど」
。
男の兄はぼくと年が離れてたんでプロペ
「五
核で苦しみながら亡くなった
昭和 二十 一年、 山 田さんのすぐ上 の兄も結
よ
手本にされたりね。ぼくは育ちが悪いと思っ
てたのに、疎開したらにわかに育ちがよくな
っちゃった(笑)。でも少したった別
ら荘人種
がどっと疎開してきで、東京の子もそれほど
寄ってたかつてなぐったらしい
。
亡くなった
土地の女を取ったというんで地元の男たちが
んわかっできたら、どうやら恋人ができて、
あ
ラを作る 工場に徴用に取られて通ってた
旅館には白衣の傷病兵
。
のことはないことがわかったし、ぼくも進ん
るときひどくなぐられて帰ってきて、だんだ
」
で方 言 を使って土地の子と仲よくなっていま
したね
。
しばらくして 山 田さん 一家は、温泉町に借
家をして引き移った
36
会い た い 人
とき、女の人が来たし、四十九日とかの区切
うのって、なんとなくぼくの原点にあります
けど、間もなく兄は亡くなりました
そうい
りのときや、その後も何年かにわたって命日
ね」
。
には必ずお線香上げにくる。父と姉が、あな
土地の娘がいつまでも忘れられないでいる
ほど、その兄さんは心優しく、きれいな若者
たもお若いんだからどうかもうお忘れくださ
い、って 言 ってましたけど、昔の人は純情だ
でも、親兄弟 一人 一人と別
だったのだろう
だろうか
。
「
いえ、使ってません
ほんとのこ
ぼくは自分の回りの
。
嘘の話だからほんとのことが書
とをそのまんま書くというのでは小説を書く
ことはほとんど使わないんです
。
場面を、 山 田さんは既に何かに使っているの
れを告げるという、普通考えつかないような
。
ったんですねえ」
その兄さんがいよいよ亡くなるという前の
。
二階の小部屋が病室で、姉が世話し
情景は、ドラマチックだ
「
裏手の
てたんですが、兄が家族の 一人 一人と話した
言 われて、
い、と 言 い出したんです。近寄って話しちゃ
いけないとか、息するなとか父に
。
甲斐がない
ああ、
。
でも、もうお線香上げに来ないでください、
兄もそれわかってて、手短かにね。貯金の中
それからお前が欲しがってた
ける、踏み込めるってことですからね
。
からいくらとかはお前に上げる、って金額を
言 うんですよ
今でも欲しければ上げるよ、と
って女の人に 言 う話は、短篇のドラマで昔 書
。
軍艦の図鑑
(つづく)
いたことがありましたね
」
かね。物価が上っててお金はいくらでもない
みんな病室
悲しかったです
。
し、戦争中の図鑑なんかもういらなかったけ
。
ど、でも、有難う、って別れて
から 一
戻ってくると泣いてね
3
7
こうるじ
ゥぽう
響涜十方
、
、
、
。
。
、
そ
恒河沙数の諸仏 各おのその国において
広長の舌相を出だして
三千大千世界を覆いて
誠実の 言 を説きたまう 汝等衆生、 歩4占
F。
にこの称讃不可思議功徳 一切諸仏所護念経を 信 ずべし
{阿弥陀経】
〔あらゆる 世界 に〕 ガンジスの 河辺 の砂 の数 ほどの 無数 の 諸仏 がましまして
の世界
「放
ら、
諸人
.
。
この
満
『〔
阿弥陀仏 の〕 人知 を は るかに 越
ゆ る 仏 が 常 に心 にかけてお護りくださる 』
S
ら
よ
を覆 っ て嘘偽 りのないことを示して、次のような真実に
れ ぞ れ がそ れ ぞ れ の世界 で、口から 仏 の置である広く長い舌を 出 し、その舌であ
ま ね く 三 千大 干
。
と
功徳 についての 称讃』 また は 『あ
ちた 言 葉を 述 べら れ る
える
という 名 の法 門 を信ぜよ 」
タイジヨウブ、タイジヨウブだか
響流十方
•
信州信濃の善光寺は創建以来千四百年の歴史を刻み、その閥、何度も建て直
。
現本堂は国宝でもあり、また善光寺 一帯が世界遺産へ
されてきたが、今年平成十九年には、現本堂が再建されてから
三 百年という節
目の年を迎えたという
。
の登録を目指していることもあってか、この節目の年を盛り上げようと、年明
けから記念行事が次々と催されている
。
私は雅楽会の
z
一員として龍笛(横笛)を担当
て畠
aマ
。
雅楽はど
二 月 二十 一日、その口火を切って善光寺大本願雅楽会による演奏が善光寺本
堂内 陣で奉納された
。
の曲も笛 一管によるソロフレーズから始まることになっているが、当日、私は
その任を託されることになった
。
ほんの
0
コンマ何秒の
楽器を奏でれば気持ちいいほどに反響するのだが、高さ
。
東日本最大級の木造伽藍である善光寺本堂の内部は、天井が恐ろしく高く、
奥行きもかなり長い
と奥行きがある分、音の帰りが遅いという特徴がある
。
LAAq ひちり畠
感覚的なズレなのだけれども、自分が出した音を自分の耳で確認できるまで時
間差が生じてしまうのである
。
ということは、善光寺のよう
しかも笛の音は、その周波数の特質によるのだろうが、箆・纂築といった雅
楽の楽器の中でも、 一番遠くまで音が行き渡る
3
9
l
トを受
私自身、 二回目の経験となる 。一 回目は 一九
。
な巨大な建物の内部で吹いた場合、自分の音が自分の耳に帰ってくるまで 一番
、
時間がかかってしまうのが笛なのである
じつは善光寺本堂での演奏は
。
。
九八年の冬季オリンピック長野大会直後のこと その時も笛のソロパ
け持ったが、悩まされたのは音の帰りの遅きであった
l
。
不安になるか
雅楽会の仲間に本堂の隅々に立っ
。
力んだ結果、余裕で吹けるはずのフレーズに
。
スを見失ってしまったのである
。
確認できないから自信が持てず不安になる
。
自分では十分な音量を 出 しているつもりなのに、音の帰りが遅い分、自分の
音が確認できない
ら無意識のうちに強く息を出す
息が足らなくなり、自分のベ
今回は事前に音出しをさせていただいた
。
。
もちろん、心の底から阿弥陀仏の救いを信ずるということが前提
。
。
「ちゃんと響いている、ダイ
随分と軽めに吹いたつもりでも、笛の音は十分に響いていたそうである
てもらい、どの程度の息の強さで、どの程度音が響くか確認してもらったので
ある
迎えた本番当日、軽めに吹くことを意識した
ジヨウプだから」と自分に 言 い聞かせつつ、何とかソロフレーズを吹き終えた
。
浄土宗の教えによれば、南無阿弥陀仏と称えれば、西方極楽浄土への往生が
叶うという
4
0
響流十方
となる
。
。
。
我々にと
確認で
。
が、その 一方
でも、それで息
生きてるうちには確認できない
。
。
その点、たとえば 『
阿弥陀経 』 は「 一心不乱 」にお念仏を称え続けよ、
。
されば往生が叶うと説き明かす
。
釈尊は「 一心不乱 」 と説く
それでも信じたいから無闇に力む
一度切りのこと
でも 「一
心不乱 」っ て、はたしてどのような心持ちなのだろうか
って往生は死ぬとき
。
っては元も子もない
きない分、不安もよぎる
切れしてしま
で東・南・西・北・下・上のあらゆる世界のみ仏お 一人お 一人が 「阿弥陀仏の
って本心
諸仏の証誠 」 である
(
誠実の 言 葉) を明かされると説く 。「
。
救いと念仏往生を願う衆生を諸仏が護念することを説くこの経を信ぜよ」とこ
ぞ
「
釈尊 一人だけではない、あらゆるみ仏が念仏往 生の教えは真実であると証明
しよう、だから安心して信じよ」との御心の現れが諸仏の託誠とされるが、演
ダイジ
。
(
浄土宗総合研究所袖山集鱒 }
念仏を称え続けるには案外重要なことではな
。
」 という励ましに思えてきたのである
。
奏会の晩を境に、「一心不乱といえども扇の力は抜いてていいんだよ
ヨウプ、ダイジヨウプなんだから
一心不乱だけれども力まない
。
いだろ、っか
4
/
れていても
この世と
暗
大
墓参に来たのは 三十歳前後の青年だっ
だと思いませんか」
もしかするとオパアチャンが呼んだん
「
。
た
でしょうか 」
。
「どちらへお参りですか 」
。
。
。
有り難うございました いいお話しを
「
伺いました 」
ニッコリ徹笑んだ顔があとに残 った
。
鈴木のオパアチャンの所へ 」
「
。
「そうですか でも今日はご命日ではな
いですね 」
。
。
不思議
目に浮かぶでしょう 」
どうしてるか、
「そうかも知れませんね
お前に会いたいよ、という心が貴方に通
じたのかも 」
「だとすると、亡くな った後も、あの世
とこの世と離れていても心は繋が ってい
るんですかね・:・:」
「お念仏してオパアチャン来たよ、と元
気な姿を見せてあげなさい 喜ぶお顔が
近くに来たものですから」
「
近
「どうしてその気にな ったのですか
ったでしょう
くに来ることは幾度もあ
に 今日に限って」
どうしてだか分かりませんが、足が向
「
いてしまいました」
。
。
「
賞方の手を引いてよくお参りになりま
した 優しいオパアチャンでしたね 何
時もニコニコして 」
「よく可愛がってくれました 。 亡くなっ
てもう五年になります」
なぜ足が向いたのでしょうか
「
田富
ふ,、主主ふれ之主司..
イムイム'
栄
のは
声ひ
いと
まつ
Ll I時
平成 19年6月 29 日 (愈曜 日 )
午後 3 時より 4 時半まで
会場
大本山増上寺慈雲閣
-*京都港区芝公協14 -7-4
地下鉄都営三 回線 『芝 公隊IJ 徒・歩 2 分
地ド鉄総営浅草線 ・ 大江戸線 『大 r'J J 徒歩 7 分
J
Rr 浜松町 j
会n
徒歩 10分
会 員無料
一 般千円
1 11 し込み
会日、 一 般ともに不弾 (先消防O名 )
セ骨li
法然上入額仰 会
後慣
浄上京総合研究所
ノド 年 7 J! 1 4 r1 -3 1 目、京都・四条・ l拘・峰を皮切りに、名古屋、大阪、 *J江でも
上前予定の、法然上人800 [iiJ忌、tJl. W 明人7501両1 忌を記念した、 liíJ進座 q、.~~l! 公演
『 法然と純鴛j の脚本を1!}かれた、 Ul t~栄先生にお慾 しTßき、 m~ 先生の法然上
入、税鴛!.f1人への思いを諾 っ て蔽きます。
舞台を 1il見する前に是非、お飽き戴きたいと J思います 。
問い合わせ先
法然上人由貿仰会
105・0011
東京都港区芝公園4・7・4
電話: 03-3578・6947
4
3
ファクス: 03-3578・7036
奥多摩のはなびら薄き桜かな
〈霊〉
。
。
。
との句を読んで、川合玉堂の桜の扉風を思
い浮かべた 奥多摩はハイキングや登山者に
格好の地である 乙の桜は染井吉野のような
安っぽいものではなかろう 「
はなびら薄き
」
。
増田
春
がいかにもやさしくてよい
〈
佳作〉 開け放 つ艇庫の契へ春 の風
さ
口
.
.
石原
佳
信
子
新
朝桜奥 の院までま だ速
入 江 の奥の日溜 まリに
縛
4
4
奥
鈴
熊除けの鈴音響く芽吹きかな
〈護〉
。
。
阿
形
•
•
浜
この頃民家に近く、猿や熊が出浸するよう
にな った
これも人間のせいで、それで人聞
「芽
吹き 」 とあるか
が囲 っているのである
田
狭
山
袴
、
。
。
河合 富美 綬
ら、熊は冬眠から覚める頃である 鈴を大き
く鴫らしながら行くのが聞こえてくる
〈佳作〉御和讃の鈴流れゆく御忌の空
旅屋の馬鈴薯砕す主人けリ
峡の田の水や わらかし鈴蛙
f冨
子
。
この頃の年寄りは元気だ
。
。
。
私の町には老人憩いの家というのがあっ
て、何人もがカラオケを歌いに行くという
乙の句もそういうのだろうか 新しい曲から
自分の若かった頃のものまで取り混ぜてであ
る
〈
佳作〉遅き自の墓地にのびきる舗の胴
鈴木 真 理子
E子
窓洩るる老いのカラオケ春近し
-自由題
善
也
口
山
花散、ヤす雨者のし
T ひどリなリ
保
山
一丁目美恵
東
井
村
膏
別れ霜真白に置きし瀬戸田かな
4
5
〈
特選
〉
選者=鎗田河郎子
半
自由題
〔
草笛 で u a@リ$信ん }
兼題
浄土臆土句会の
お知らせ
、
奥
逗しき笹薮旬刊の蕗の華
風かはる袖斗奥の亡母の櫛
山奥の緑のやにつつじあっ
姥一人総を飾リて奥座敷
胸奥の掃く術もなさ落椿
ひとひらの桜は靴の奥にあリ
臭の聞に止ま ったままのか吉くるま
鈴
鈴生リの夢一杯に馬鈴慈緩う
病む夫の吾呼ぷ土鈴明易 L
鈴ど鈴響かふ御忌の和識かな
拘和識の鈴流れゆく御忌の空
締切 ・二OO 七年六月二十日
発表・ 『
浄土 」 二OO 七年十月号
選者 ・増田河郎子 (南
『風 』 主宰 )
応募方法
名
1
佳作各
・
3
名
・
41714
陽炎や湖一周の馬車の鈴片桐てい女
…
中島宮士子
…老いて母鈴鳴るやうにして来たリ浜野板子
…仏壇の鈴の座繍団券系、
工総浄真
…衆、行や新雪絡みマ鈴の音飯島美徳
和田仁
金谷友江
河令官美枝
…自由題
L
片桐てい女
・蕗の基ほろにがかリ
捲く前に振リ
花散リ
常の世は工藤浄真
T音聞く種袋中村真一
土の校庭木の校舎和田仁
L
一葉桜の禁が好きどいふ人が好き浜野振子
一地虫中山ず麹あるものの光リヒぷ Lロ
T崎美和子
F 揃える畑の畔浦田らゑ
一・友も来てわけ
一葉桜や過ぎゆくものはやはらか L 十条苑を
…
…八十路きて花の通路どなリにけリ金谷友江
春めける人声すぐに風にみ氷リ寺下忠至
…露座仏の御手にさらリ薄氷河令官美枝
木の芽殺る向き矯正の道路鏡片桐てい女
摘草や野に落けさうな人の影中島宮士子
L
一新寺建つ木の苦情リ清ら体あリ飯島英穂
千四敏郎
山口束人
工藤浄真
中島宮士子
金谷友江
河令官美枝
。
明照会館内
氏名を必ずお書き下
・ いずれの題とも数の制限はありません
. 特選各
。
10011
東京都港区芝公園
薬害に俳句 (
何句でも可 )と、住所
さい
宛先
〒叩
月刊 『
浄土 」 誌上句会係
4
:
1'>' まいJ4., 3 う
I
固 有l
しきた・句
7
ぢヴ
窓口町斡
i
+⑫げzd
l
町
f円
J
14'じ
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伝 s勺定
1
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v
ゃゐ(k1S~挙@妙
句
論説ー
斗 :3
五
,
z
弘山ルぢ
Aq
AV
編集後記
古剃にもび っしりとした 膏 梅の木岱澗
たのですか、念には念を入れよ
.
です.
間違 い多いと商品として値 打ちが 半減す
友人からは、 「
正誤表を入れたからだ
。
という会で、最近通夜・葬儀剤の経本を
よ 」 といわれる。確かに発行元に権威が
る」
出版した。お除様で大変好評で既刊本を
あると、正誤表は入れない事が多い。し
友人と作っている 『ふじゅせん刊行会」
買って織いているお寺から連日のように
校正ミスのない初版本など
注文が殺到している。
.
かし我々のような会、権威など有るはず
がない。正誤表を入れるのは誠意以外何
者でもない
この世にはないのが常識の中で、これが
発行者側の論理なのだが、本など出した
そして、出版物に付き物の校正ミスと
いうものが、悲しいかな今回も上梓され
てからわかった。細かな箇所でいろいろ
意見もあったのだが、出版物が経本であ
ことのない方には、全くわからないこと
須蔵隆仙 (函館 ・ 称名寺)
高 口議行 (大阪・ 一心寺)
田中光成 (町田・後進守)
中島真成 (背山・機窓際)
中村康穂 (ì背水・実相寺)
中村珊賓 (仙台・感鈍絞)
野上智徳 (鯵閥・宝台院)
.回 得三 (鴻巣 ・ 勝願寺)
宮毒事鎗彦 (繍浜 ・ 大光院)
山田和蜂 (諏訪 ・ 貞松院)
{敏称略 ・ 五+音順}
それにしてもこうした倣慢なことを平
。
掘国車爾 (静岡 ・ 撃防院)
本多滋敬 (両国 ・ 間向院)
真野飽海 (芝 ・ 天光院)
制鱒之 (網代・教安寺)
水科普隆 (長野・覚自隆寺)
宮事事昭彦 (大本山光明寺)
編集チ 1 フ
編集スタ ッ フ
発行
長谷川岱潤
斎蕗軍俗氾
佐山哲郎
背木照憲
村田洋 一
大室了時
七十 三宅ハ nZ 剛価六百 円
年会 費 六千 円
Il--
岳詩人 I l--
霊人
印刷 Em-- 株式会 社
鎖
l
ティ 141
明開会 館 内
・
凶
シ
・七
三五ヒ八)六
九四ヒ
旬 結 O三 (
FAX O=一
(
三 五七八)ヒ O 三 六
MH
QU 一八0 ・八 ・八一ご八 t
発行高
川法然上人鎖仰 会
干 一O五 0
回 0 二
東京 都 港町陣芝公
倒閥
真野龍海
佐藤良純
昭和十 年五月 二十日第 三稲川
鄭艇物認可
印刷
平成 十九年五月 二 十 日
平 成 十 九年六 月 一 日
浄土
編集顧問
hnp:
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ホームページ
るということもあり、正誤表を入れるこ
東海事事良 . (泡~ . 祭上寺)
かも知れない。
熊谷鏑彦 (佐賀・本雄守)
粂原健久 (川 鑓 ・ 蓮聖書寺)
佐藤孝. (鎌倉・尚徳院)
佐.Ii低限 (品) 11 ・願行電子)
佐.良純 (小石 川 ・光闘寺)
とにした。すると次のような 言 葉がある
加盟事亮畿 (五反問 ・ 専修寺)
気で名乗りながら 言える厚顔な僧侶がい
ることは、残念でならない
(長)
飯田実緩 (駒ヶ根 ・ 安楽寺)
巌谷腸正 (目 黒 ・ 祐天寺 )
大江田樽導 (仙台 ・ 西方寺)
北山大趨 (焼津・光心寺)
お守から綴り込み用紙に記載されてき
た。「それにしても間違いが多過ぎる。
どうして繰り返し繰り返し校正しなかっ
雑誌 f浄土j
特別、維持 、 賛助会員の方々
策 シネマ随想はお休みさせていただきます。
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連載
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毎朝、病室を回って「おはよう
」 ヒいう若い希護婦さんの挨拶は、患
ゃないか 」 ヒ英語の先生に言われた中学生が英
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語大品川さ少年になったり、
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親子、え録、師弟、友人は、縁によるかけが・え
人間関係が できあがっているのです
るのは、自他をムロlτ 一核となった、血の通った
出会いとは、人ヒ人が結棋を合わせるだけのもの や夫に言われた蒼い女性がすてきな大和検子にな
心の糸が
しっかり結ぼれていること。
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発行人 / 奥野総海
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当会発行の由籍、総誌のお求めは、 I
当会へお申し込みください 。 なお、月 ・E
刊浄土を除き価格に送料は含まれ ・E
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電話 / 03.3578・6947
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