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原抱一庵訳﹁ジヤンバルジアン﹂の底本について

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原抱一庵訳﹁ジヤンバルジアン﹂の底本について
梁 艶
原抱一庵訳﹁ジヤンバルジアン﹂の底本について
はじめに
原抱一庵︵一八六六∼一九〇四︶は明治期におけるユゴー小説
﹃レ・ミゼラブル﹄の重要な訳者である。彼が使った底本は英語
訳であると指摘されている︵注1︶。抱一庵訳を検討するに当たり、
その底本を確定することは大前提であろう。しかし、﹃レ・ミゼラ
ブル﹄の英語訳も何種類かあり、抱一庵はいったいどの版本に基
づいて訳したのか、まだ判明していない。原抱一庵訳﹁ジヤンバ
ルジアン﹂は﹃レ・ミゼラブル﹄の部分訳であり、申には英語の
ウォタくスも アンドヘシュド ハママ 単語や英語発音に当たる振り仮名などが散在している。特に訳文
﹁﹃水、 冥 ﹄篇﹂の最後の一段落には英語の原文がつ
けられている。これは底本を確定するための糸口だろう。本稿で
は英語の原文及び振り仮名を手掛かりとして、﹁ジヤンバルジア
ン﹂の底本を検討していきたいと思う。
一 明治期における﹃レ・ミゼラブル﹄の翻訳・翻案
近代日本とユゴーとの出会いは自由民権運動家の板垣退助のユ
ゴー訪問が最初とされる。明治十六︵一八八三︶年、板垣はフラ
ンスから日本に帰るとき、西洋の政治小説、ユゴーの小説や英語
の小説をたくさん持ち帰った。そして、ユゴーの忠告に従って、
国民に広く自由民権の思想を普及するために、日本の自由民権系
の新聞にユゴーの﹃九十三年﹄をはじめとする作品を翻訳・掲載
させた。つまり、ユゴーとユゴー作品は最初は極めて政治色の濃
いものとなった︵注2︶。明治二十年代に入ると、これがかなり文
学のほうに傾くことになる。徳富蘇峰を中心とする﹃国民之友﹄
一派のユゴー受容は文学と政治の両面にわたっていた︵注3︶。こ
の時期になって初めて日本語に翻訳された﹃レ・ミゼラブル﹄も
稲垣直樹が指摘しているように、一方で文学作品として高く評価
されたが、他方でユゴーが﹃レ・ミゼラブル﹄の中で刑罰軽減要
求の根拠とした﹁個人に対する社会の罪﹂という概念が﹁弱者保
護の律法﹂を目指す運動に利用された。﹁翻訳王﹂の森田思軒はヨ
本の文学界に初めてヴィクトル・ユゴーの人道主義を紹介した功
労者であり、ユゴーが生涯訴え続けた死刑廃止という重いテーマ
を扱った作晶を紹介した。森田思軒はユゴー作品を精力的に翻訳
紹介し、﹃レ・ミゼラブル﹄にも早くから関心を寄せ、四十歳にな
ったら翻訳に手をつけたいと周囲に漏らしていた。しかし、それ
を果たさぬまま病を得て、三十六歳という若さで逝去した。明治
三十年代には政治的傾向が弱まり、もっぱらユゴーの文学的側面
が衆目を集めるに至る。明治三十五年十月人日から明治三十六年
八月二十二日にかけて黒岩涙香が﹃レ・ミゼラブル﹄を﹃臆無情﹄
と題し、﹃萬学報﹄に掲載している。これを象徴として、明治期日
本におけるユゴー作品翻訳は絶頂期を迎えたと言える。
明治期における﹃レ・ミゼラブル﹄︵卜題ミ慰ミミ舞一。。$︶の日
一 27 一
本語訳や翻案は、以下の通りである。
・眉墨山撫︵井上勤︶訳﹁寸断分裂/美人之腸﹂︵﹃文学煮花﹄明
治二十年十二月︶
・滲荘居士︵長沢別天︶訳﹁落醜﹂︵﹃筆之力﹄明治二十二年六月︶
・採菊散人補綴﹁配所の月﹂︵﹃やまと新聞﹄明治二十四年四月∼
六月〃十⊥二日︶
・古桐軒主人︵田山花櫛︶翻案﹁山水家﹂︵﹃千紫万紅﹄第八号、
明治二十五年三月二十五日︶
・原抱一庵訳﹁ジヤンバルジアン﹂︵﹃国民新聞﹄明治二十五年五
・山路愛山↑訳﹃繊悔﹄ ︵﹃民友社﹄明治一二十六年二月︹︶
・高安月郊訳﹁浮世之責﹂︵﹃文芸界﹄明治三十六年六月︶
・黒岩涙香訳﹃臆無情﹄︵単行本、二身︶︵扶桑堂、明治三十九年
一月、後編二月刊︶
・喜平訳﹁恋の魔﹂︵﹁哀史﹂より︶︵﹃文庫﹄明治三十九年四月︶
明治二十年代における﹃レ・ミゼラブル﹄の翻訳はほとんど断
片的なものである。その中で、原抱一庵訳は際立っている。原抱
一庵は師と仰ぐ森田思軒に劣らず非常に真摯な態度で﹃レ・ミゼ
ラブル﹄を翻訳し、部分訳﹁ジヤンバルジアン﹂、﹁哀史の片鱗﹂、
﹁ABC組合﹂、﹁﹃水、冥﹄篇﹂や翻案﹁暁鐘﹂を続々と発表した。
当時樋口一葉も﹁ジヤンバルジアン﹂を視野に入れており、﹁琴の
︵注5︶。﹁﹃水、冥﹄篇﹂は﹁ジヤンバルジアン﹂の中の一節であ
音﹂という作品の創作も抱一庵訳と関連があると指摘されている
一 28 一
月界昌∼八月二十八月︶
・無名氏︵原抱一庵?︶訳﹁哀史の片鱗﹂︵﹃自由新聞﹄明治二十
六年一月十五日∼二月二日︶︵注4︶
・原抱一庵訳﹁ABC組合﹂︵﹃少年園﹄明治二十七年十一月三目
く、﹁海嚇十指⋮小説﹂として明治二十九年七月二十五日﹃文芸倶楽
り、明治二十五年六月十四日﹃国民新聞﹄に掲載されただけでな
・福地桜痴翻案﹁臆浮世﹂︵﹃朝野新聞﹄明治二十八年十一月︶
部﹄の臨時増刊にも掲げられた。殊に﹁ABC組合﹂は明治三十
∼明治二十八年四月十八日︶
・原抱一庵翻案﹁暁鐘﹂︵﹃太陽﹄明治二十九年四月︶
田思軒から影響を受けたためだけでなく、福島事件の巻き添えで
原抱一庵がユゴーの﹃レ・ミゼラブル﹄に興味を持ったのは森
庵自身の感想も語っている。
人物を紹介し、ユゴーの思想や抱一庵の翻訳について述べ、抱一
史﹄を読む]という文章を寄せ、﹃レ・ミゼラブル﹄の内容や登場
﹃早稲田文学﹄︵第九十九号と第百号、明治二十八年十一月︶に﹁﹃哀
五年内外出版協会によって単行本として出版された。原抱一庵は
セ陽﹄明治三十年一月∼四月︶
・原抱一庵訳﹁﹃水、冥﹄篇﹂︵﹃文芸倶楽部﹄第二巻第九編、明治
二十九年七月二十五日︶
・福地桜痴翻案﹁あわれ浮世﹂
五年二月︶
・黒岩薫香訳﹁臆無情﹂︵﹃萬朝報﹄明治三十五年十月
九日∼明治三十六年八月二十二日︶
︵小引八日︶
・原抱一庵訳﹃ABC組合﹄︵単行本︶︵内外出版協会、明治三十
(『
未決監に入れられた経験とも関係していると思われる。抱一庵は
﹁﹃哀史﹄を読む﹂︵﹃早稲田文学﹄第百号︶の最後では以下のよう
に記している︵傍線ーー梁︶。
に
したる戸のもの
浩化が 個人
る前後八回、蓋し監獄ありてより未曾
今歳十月郷里に饒省す、郷人論げて曰く﹁今年に入りて福島
濫に於て死刑を行
有のこと﹂と
余は端なくユーゴー先生の
の句を憶ひ起し漸亡帝口
二 原抱一庵訳﹁ジヤンバルジアン﹂について
明治二十五年五月八日から八月二十八日にかけて原抱一庵はユ
ゴー原作の﹃レ・ミゼラブル﹄の抄訳﹁ジヤンバルジアン﹂︵注7︶
を﹃国民新聞﹄に連載している。これは﹁ジヤンバルジアン﹂︵明
治二十五年五月八日∼六月五日︶、﹁﹃水、冥﹄篇﹂︵六月十四日︶、
﹁白日行の闇﹂︵六月十九日∼七月二十四日︶、﹁断頭台﹂︵八月十
四日∼八月二十一日︶、﹁僧哲ミリエル﹂︵八月二十八日︶で構成さ
れたもので、﹃レニ、、ゼラブル﹄の第一部﹁ファンティーヌ﹂の中
から一部分を抜き出して訳されたものである。
はハくは拳會をして之を成就せしめよ
に背に汗するのみにあらざりき
原抱一庵は﹃レ・ミゼラブル﹄を翻訳する際、﹁﹃水、冥﹄篇の
うふうに、原文の順序を無視していた。その内容は豊島与志雄訳
行の闇﹄︵弓げ。巳cq巨oh卑創世.ψ器日犀︶を先づ織し縫く﹂︵注8︶とい
ママ 後﹃新悲哀﹄の章次て起る然れども思ふところあり遡りて﹃白日
感吟悲苦ある毎に余は轍ち﹃哀史﹄を讃む。八省半月二戸客と
絶ち親む所思だ此の一本のみ。読むこと幾たびにして感恒ねに
新たなり。舷窓孤坐思緒のゆくに任かせ漫筆書記して遥かに
﹃早稲田文學﹄記者に寄す。
を許さば既に半ばを二黒せる.﹃哀史片鱗﹄︵哀史の抄謬︶とと
ャン・ヴァルジャン﹂と第七章﹁絶望のどん底﹂に当たり、﹁﹃水、
ヤンバルジアン﹂は豊島訳の第一部の第二編﹁墜落﹂の第六章﹁ジ
﹃レ・ミゼラブル﹄︵岩波書店、一九八七年︶と対照すれば、﹁ジ
もに再び貴紙を漬さんかな。
冥﹄篇﹂は第八章﹁海洋と闇夜﹂に当たり、﹁白日行の闇﹂は第一
ユーゴー文學に就て不肖の見る所何ぞ之に蓋きむ。記者若し之
乙未十月下溝郷里福島に撃て 原 生 湿す。 ︵注6︶
﹁末末十月﹂は明治二十八年十月である。この時期は抱一庵が
の内容に当たり、﹁特掲ミリェル﹂は第一部第一編第二章﹁ミリエ
編﹁正しき人﹂の第四章﹁言葉にふさわしい行ない﹂の後半部分
章﹁終日歩き通した日の夜﹂に相当する。﹁断頭台﹂は第一部第一
貧困のどん底に陥り、福島と東京間をしばしば往復していたらし
ル氏ビヤンヴニュ閣下となる﹂の前半部分に相当する。
﹁ジヤンバルジアン﹂の掲載が始まる前に、原抱一庵は﹁題未
い。当時福島監獄の死刑執行に関心を寄せ、ユゴーの﹁社会の罪﹂
と﹁死刑廃止﹂の考え方に共鳴していたと見られる。
定﹂という文章を﹃国民新聞﹄に発表した。﹃哀史﹄の主人公ジャ
ー 29 一
も述べている。
ンバルジアンを紹介し、 自分の感想及び﹃哀史﹄を翻訳する経緯
船の人﹄の章をも軍たり。日曜日午前四時老母の枕頭に侍
後の分は日ならずして差出すべし。三章の中には彼の﹃破
に渠は囚徒となれり。
や無となれり、薙に於て渠は官許の麺包を慰めり、之が為め
九口の飢を支えんと苦しみモガくも、有らん限りの手段は今
る。原抱一庵の﹁題未定﹂は一番目に置かれている。右記の引用
う欄が設定され、翌日掲載の文章のタイトルと作者を予告してい
に掲載された。同年四月三十日置該新聞では﹁潤曜日附録﹂とい
﹁題未定﹂は明治二十五年五月一日︵日曜日︶に﹃国民新聞﹄
して。抱一庵。︵注9︶
少なくも戸数、千を有する市に住する諸君は、必らず此の一
文にある﹁同薪聞の度告﹂とはおそらく﹁日曜臼附録﹂であろう。
正直敏明なる一個の男子、有らん限りの手段をつくして一家
個の﹃渠﹄を有すべし。
﹁少年文学﹂第十一編村井弦斎著﹃紀文大尽﹄の発免を宣伝して
なお、明治二十五年四月二十九臼﹃国民新聞﹄の広告では、叢書
諸君にして若し其國に赴くことありとすれば、訴訟なる言僻
いたと同時に、﹁少年文学目次﹂も掲げられ、第十二編原抱一庵著
天外に國あり、不幸此の一個の産物を敏く。
を以て諸君は諸君の名産を彼の國人に披露し説明せんとする
しただろう。訳文を連載しているうちに、原抱一庵も絶えず読者
これは意識的にか無意識的にか、読者の注目を引く目的を果た
﹃大石良雄﹄は大文字で強調されていた。
人情の達人句勢のユゴー先生は叙して下の如く云ふ。
ヒュじマニチ や。
以下記する所の渠とは﹃哀史﹄の主人公ジヤンバルヂエン
らしき小面に接しては何事の手につくやうもなく暁まて語
て母上の上りこさる、あり思軒居士の所謂幾度見ゆるも新
夕はしめて筆を染むるの運びに立至れるに國元より久々に
意に酬へんと思ひ立ち過ぐる頃より夜なノ\反復熟閲し本
﹃哀史﹄のうちフハンテイーンの篇三章を諜しもて其位
しばノ\國民新聞社諸兄の懇騒を辱なふして辞さん様なく
是なり。
には二個人に対しての社会の罪﹂︵注11︶という表現が見える。
明治二十五年五月二十九日に掲載された﹁ジヤンバルジアン﹂
られる。
10︶という予告をつけている。読者の興味をそそるためだと考え
回より現れ出づ、僧哲ミリエル君是れ又哀史中の一巨人なり﹂︵注
り﹄と云へてジヤンバルジヤンを歓ひ迎へたる出産ミリエル君次
し終わった後、﹁﹃余は御身の名を知る、御身の名は﹃吾兄弟﹄な
を意識している。明治二十五年七月二十四日﹁白日行の闇﹂を訳
ラミゼラブル
り明し青し同新冠翻を見て始めて驚き呆る、のみ。今
また、明治二十五年八月十四日掲載の章﹁断頭台﹂の直前に﹁廃
ラミゼラブル
は只た諸兄の寛恕を仰ぐより飽に詮なし
一 30 一
ひ哀史プアンテイン篇に於ても之を謂ふ︵中略︶菰に於て余は僧
死刑はユゴー先生畢生の持論より随見録クラウドに於ても之を謂
翻訳し切れず申途半端にやめてしまった。
と思っていたが、筆が立たなく翻訳能力も足りないため、全編を
粋して翻訳したものである。そもそも抱一庵は全編を翻訳しよう
原抱一庵は﹁ジヤンバルジアン﹂の﹁﹃水、冥﹄篇﹂では、最後
三 ﹁ジヤンバルジアン﹂の底本について
哲が一個の罪囚と供に断頭墓に立てる一節を繹出す著者持論の存
する所随ふてミリエル君面目の存ずる所なるべきを思へばなり﹂
︵注12︶という前書きも見える。これらの箇所から原抱一庵が注
あると窺えるだろう。
の一段落に、その部分に対応する英語の原文もつけ加え、謙虚に
目していたのはユゴーが主張した﹁社会の罪﹂と﹁死刑廃止﹂で
抱一庵は﹁ジヤンバルジアン﹂の翻訳に当たり、森田思軒の指
読者の教示を願っていた。﹁藪に原文を挿入せるは世に識者あり無
ここにある英語の原文を明治二十五︵一八九二︶年五月までに出
摘や教えを受けていた。﹁本篇に筆を進むる當初より余は吾思軒先
に改諜するの恵を吾に垂れられんことを余は豫じめ之を切に讃者
版された﹃レ・ミゼラブル﹄の英語訳と比較すれば、確定できる
力の足らざるをアワレみ示教の恵を垂れらる、の榮あるべきを思
に乞はざるを得ず﹂︵﹃国民新聞﹄明治二十五年五月二十九旧︶︵注
だろう。
生に教を乞ふもの多かりき唯だ画筆未だ足らずして教を受けたる
13︶という翻訳の後記はこのことを語っている。原抱一庵は自分
ユゴーの﹃レ・ミゼラブル﹄は全体で五部仕立てになっている。
へばなり。遺恨なり、吾の學に志す十年乱れたるのことや﹂と抱
の力の足りなさを自覚し、訳し直すことまで考えていた。彼の真
第一部は一八六二年三月三十日にブリュッセルで出版され、四ヨ
旨を誤り課せるも斜なからぬなり前々回の如き殊に得り余の懊悩
剣な翻訳態度が反映されている。更に、抱一庵は﹁思軒居士の所
遅れて四月三日にパリで出版された。第二部と第三部は同年五月
一庵は附記していた︵注15︶。抱一庵が使った底本を考察する場合、
謂力足らず興飢へ資すきものか今回は如何にしても筆端砦束して
十五旧にブリュッセルとパリで同時に出版され、第四部と第五部
実に堪ふ可らず全篇課了の後ぜめては彼の一回のみなりとも更ら
文をなし難し如かず讃者に樹する文の短きの罪を自から負ふて徐
は同年六月三十日にブリュッセルとパリで同時出版となった。
﹃レ・ミゼラブル﹄は出版と同時に誰もがびっくりするような爆
かに吾文を練磨せんには﹂︵﹃国民新聞﹄明治二十五年六月五日︶
︵注14︶という後記を通して、読者の期待に添えないことに残念
リス版が出た。抱一庵訳﹁ジヤンバルジアン﹂が出る前の英訳本
発的な売れ行きを示した︵注16︶。英語訳も同年アメリカ版とイギ
要するに、﹁ジヤンバルジアン﹂は、原抱一庵浴読者の存在を強
について、入手できた次の三種の内容を比較した︵注17︶。
の意を表した。
く意識しながら、自分なりの選択基準で﹃レニ・、ゼラブル﹄を抜
一 31 一
①翻訳者“O冨二霧函・≦ま。ξ・出版社“Zo≦ノδ爵”﹀卜.bコC宥Ψ
℃d切筥。。出宙閑出版年月二八六二年︵卜禽ミ紅ミミ塗ρロ。︿¢一9
<ざ8触頃‘oq9霞P面一舞ゆ侮⇒o月跨¢Oユα◎ぼ巴舅δづ。げげ図Oプ碧δω国.
乏=げ。⊆ド肉。<冨。儀9昌住9凶8位σ図聞お亀①目言吋︼≦図口。昌OOo℃9・Z①≦ノδ涛”
﹀・い扇C宥㌔⊂ゆピ冨=国四.臼=昌Φ一〇QひP︶
②翻訳者“O冨。・﹄・ぎぎ。ξ.出版社”Z⑦≦ぎ碁”O毘①8口㌔二σ扇げβ
鼻一ωゆ柵O㊤α≦輌k︵一舞0カ¢︼︶U知O︾国ピ団日OZ︶出版年月輔一八六四齢牛
︵卜巴ミ馬急ミミ翁“費冨。<④一σ図く陣90門国gαqO罫筍資巴90住陣Oヨ夢①
確定するための手がかりだと思われる。
Wヤンバルジアン﹂︼”
第一回 ﹃白日行の闇﹄︵目ゴ¢巳Gqぼ。富α曙、。・冨賦活︶
やみ ママ 第七回 ﹃絶望の多胎﹄
ゼヨテプスヘオブデスベイア 第八回﹃水、 冥﹄
ウォタ スヘアンドヘシュド ママ 第九回 ﹃薪悲哀﹄
ニュモヘグリ フス
︻Oプ震δω国幽を自σO二翻訳︵一八六二︶︼“
<自目ず① U①℃葺ωO閏 U①。・℃9﹃
一ひ月げ① Zお巨 Oh > O避、ω 月§日℃
O誌Gqぎ巴燭器昌O戸σkOず器・潮・乏自げ09●ZO≦ノδ蒔”09二90P℃‘σ=。。ゴ0
避ωu⇒δ卑α≦㊤図︵巨。即d]︶O知O>因い国↓OZ︶﹂◎oα駆●︶
<口H 弓ずO 壽縛0δ ︾旨亀 ↓げ① のけ9αO≦
℃
③翻訳者“冒菩色国=巷αQo。9出版社”Z⑦≦ノδ爵臣。巳舘メρo≦o=昏
o ≦
Qユ0涼
H×]Z①芝 月一
八回と第九回の見出しに英語発音に相当する振り仮名をつけてい
く目剛 切コ出一〇≦・ω ﹀出q ooげ騨αO≦砂
<口 ↓げ¢ 一腰@ユO吋 Oh 一︶⑦ψ℃9堅
同 目げ¢ 宙<①巳ロGqOh > UOkO恥 壽貯ぎαq
習旨σo這.匡巷α。ooα.訳︵一八八七︶︼”
甕毒’●
09出版年月”一八八七︵卜禽ミ隷議ミ恥臼ξ≦〇一霞缶‘σQ9葺9霧一9⑦傷
α) φ一望 )
中Oヨ仔¢剛δ昌◎げげkH器げ巴蜀.=9℃σqoo9プδ≦躍δ爵”↓﹃O巳曽。・
メOδ≦¢=粋OO﹂o◎◎◎刈●︶
比較の対象となる訳者はO冨触δω田・著ま。ξと一鐙σ9雪国巷αqoo色
である。圃罫σ9狽寓巷σQoo傷訳は一八入七年に出版されたが、Oプ巴$
田.妻ま。ξ訳は二つの版本浴あり、一八六二年に出版されたもの
と一八六四年に出版されたものである。
原抱一庵は﹁ジヤンバルジアン﹂では﹃レ・ミゼラブル﹄の第
Pt −
るか、あるいは英語のタイトルをつけている。このことも底本を
一部﹁ファンティーヌ﹂の第二編﹁墜落﹂の第一回、第七回、第
o
》H}〉(
一 32 一
【「
×目=同冨
密→冒冨島
≦冨① ウ宅
一× ツ嗣0ミ ↓搬〇二σ一〇の
サ ロ の の サ ロ
O匿・ヨO円巴︼︶㊦”酔ぎ圃
穿.・・器芸①轟準趣一か曇↓團垂。;§§;≦藝.・訂
コ リ
≦O怠8切
目げOo。①9︸ω博財⑦ヨ①90り9↓鉱①o自切§[一ω①恥部・
その振り仮名の発音を英語に還元すれば、﹁ジヤンバルジアン﹂
の中の小見出しは房ρσ鉱蜀.鎖巷鯵qoo住訳のとは全然違う。それに対
円ず0ωO儲一陽誌悼一昌αQ一β一げ舞切⑦9導9翼σOOO旨0ρOO円℃ω9老くぴOω7巴一円OQ。一〇↓0犀
nげ櫛=o。。国.≦径Q‘円訳 ︵一人六二︶︸” コ
團悉︵注19︶
して、O冨二〇ω即芝ま。ξ訳のタイトルとは全く一致している。
﹁﹃水、冥﹄篇﹂にある英語原文と上記の三つの英語訳の当たる
部分を並べて比較すれば、左記のとおりである︵囲み線、傍点と
太字は筆者による︶。
?A冥﹂篇︵﹃国民新聞﹄明治二十五年六月十四日︶︼
ロ ロ
O冒矯一日b一帥O釣げ一〇]B㊤円OげO防げ奎β9目ω09魯図圃
︼︶¢ω琶g凶魯9暮口9巳。3。募§舞五お房園圏輿08β尋⑦δ融=帥=
↓げ讐一ゴ①一P≦一〇房ゆコ一〇︼β一50仁㎝90。拶℃づ①無二づ000h巴α帰
T白O村ρ一一︾O層停冒一
サ り の ロ ロ の
n巳ω目薗脱叶一口αqぱ切辱濁目口一〇〇〇9P芝げ0﹃0壁=巴一けぽ碧酔げ④冨≦δ三半=回
リ サ ロ
Oサ博ゴβ℃一90㊤σ冨︼B弩OゴOhゲニ旨聾匂oOO沖O↓絃回︶OQ駐す50↓δ昌O団巳O旨9嵩侮Oh
ロ 【
の り の つ ロ の
︻Oげ〇二Φω国・を瞭げOq円訳 ︵一八六四︶︼ “
目﹃¢器魯♂薮①冒O凶O﹃籔ぴ︸O巳鵬三ぼ8≦ぼOゲ暮Φ℃①ロ巴冨≦O器房ぱの
の コ ロ ロ ロ ロ ○ヨ一昌O⊆。。自尻魯℃℃¢O円僧昌O①Oh巴住”OヨO刷出二〇薗蘭留一
ロ ロ サ ゆ ロ ωO巳も。日母犀ぎαQぽ㎝履鍛俸巨OO㊥薗P≦ず0器貯=卑=一ず黛↓﹃¢冨≦冨房壁=凹
の ロ ロ じ
O一§6冨09δヨ簿8げ.Ohゴ⊆ヨ9昌の099k一UO◎。跨⊆9δ昌O騰ヨΦ口㊤昌傷O物
ロ
8蒔け勺︵①、電q︶
月冨の〇三島痒宣僻鼠臼9のoρ巨避σゆ8ヨ¢ρ8壱。。9≦げ。。・ケ9。=おψ8屋ぱ
く凶O昏Bo・・日ゴOψ①9♂一げ④]B¢櫛ω‘目9①o。ψヨ貯0越・
目げ①器簿一ω一ぽ0窪O図O﹃9ず一①巳oQぼヨ8≦竃Oず§¢℃③昌9一一9≦09ω↓o陰障砿
サ の コ O日一昌O仁④血一〇。9唱℃Φ9円僧⇒O⑰Oh巴ユ凹Oぽ9§O同巴O⑦9件ぎ搏
ロ の ロ ロ の 。。
○§臼昌09。。9009℃℃Φ¢同9昌O¢O栃巴住噂
サ
㊤=賢げ⑤一酔ゲ①一ρ♂<一〇↓ω貯一一煙
δ一濠勺︵②、℃・8︶
目プ⑳q。O弼一住ユ津一⇒㈹一コ↓げ讐ψ¢ρ旨塁σOOOヨ0鉾OO吋づoo9芝げOωげβ=円0ω↓O円⑦ぱ
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=宕昏βψ目﹃Ooo①9尻↓げ⑦一B④鋤ω二﹃¢一〇〇駐的ヨ凶。。0穏k.
O謬w一襲づ冨O⇔げ 5 ヨ 9 円 O ゴ O h ﹃ ⊆ ヨ ㊤ コ の 0 9 曇 k 博
ロ コ
?A冥﹂篇︵﹃文芸倶楽部﹄明治二十九年七月︶︼“
團葎︵注18︶
日げ⑦ωO巳αほ津置αq貯一び讐の0㊤]βρ図σΦOO§[〇四〇〇憎℃の9≦﹃Oω財薗=お磐O村O騨
くδ臨円ロ。。.↓げ②ω0β一〇〇件﹃0ヨ09qa仁吋0一②oo頓巨房¢円k・
ぎ.・・9暮①隷睾脚紳婁α・冨團≦巨。;¢三巴一碧。霧泣
禽9
一 33 一
【「
【「
冒。。9σ9男国巷σQooα訳︵一八八七︶︼”
違いは入力ミスによると考えられる。宣①×o蜜三〇は正しいスペリ
ングであり、﹁﹃水、冥﹄篇﹂のぎ。首。§三〇は誤植である。つまり、
るため、その底本は一八六二年版Oげ碧色。。甲乏ま。ξ訳であると判
とOぽの違いである。﹁﹃水、冥﹄篇﹂の英語原文は○ずと書いてあ
一入六四年版と一八六二年版とは一箇所異なるところがある。Q
と確定できるだろう。しかし、同じOけ程$即≦ま。ξ訳であるが、
O戸ぎ亘89一〇ヨ舞90hげ仁§きの09魯。。・一〇戸一〇ωω$ohヨ自§q原
o抱
馬一庵が翻訳するとき使った底本はOび壁$国・乏ま。露訳である
ω〇三ω8§◎≦超一〇8きヨ8≦ぼ9富辰巴一一冨↓爵①訂≦蚕。・。。ξ圃
虫旨弩。蕩魯ω窪80hゲ①ξ博○戸ヨg巴9催吐
↓審匂・$♂岳ゆぎ。×o達三〇のoo一巴昌お窪貯8≦ぼ9一冨℃Φ銘=9≦。・虫口oq
浮。冒8⇔傷。ヨ濤α肩冨匂・oo一。・魯②一望ヨ。器詳ko馬≦樫90冨α器ω。・’
定できるだろう。
↓げ¢。。o呉GQoぎoQ像。≦口ω#⑦餌ヨぎ浮誌σQ三b§翅σ80旨。㊤8壱。。ρ≦ぎ
ω冨葛ゆω蕊。ぱ器竃く③、霧N︶
ことはほぼ否定できる。
である。原抱一庵は︼旨げ色国国巷αqooα訳に基づいて翻訳していた
同じ意味を表わす単語に非常な相違があるということは一目瞭然
いる英語の原文を通して、彼が翻訳するときに使った底本は一八
ヤンバルジアン﹂を原文に忠実に翻訳した。訳文中に付加されて
思軒の文学の影響を受け、﹃レ・ミゼラブル﹄の部分訳である﹁ジ
原抱一庵はユゴーから﹁社会の罪﹂という考え方を学び、森田
結び
﹃国民新聞﹄に掲載されている﹁﹃水、冥﹄篇﹂の英語の原文と
六二年版O冨審g。即≦ま。ξ訳であることが判明した。これは基本
﹁﹃水、冥﹄篇﹂の英語原文を尻菩9男国巷oqoo血訳と比べれば、
﹃文芸倶楽部﹄に掲載されているその英語の原文と比較すると、
的な作業であり、原抱一庵のユゴー作品翻訳については今後の課
題として残されている。
﹃国民萩聞﹄の英語原文には誤植があるということは明らかであ
る。ぎ6は巨。であるはずで、8は8の間違いである。また﹃文
芸倶楽部﹄の℃9葺は恐らく鵠夢のミスプリントであろう。要す
るに、いずれも英語の原文を入力するとき、誤植が避けられなか
った。
﹁明治翻訳文学年表 ユゴー編﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌
、明治期における﹃レ・ミゼラブル﹄の翻訳・翻案については
︹付記︺
二年版Oプ巴①。・国●≦ま。ヨ訳と比較した場合、違うところは三つし
編24︾ユゴー集1﹄︵大空社、一九九六年︶と﹁﹃レ・ミゼラ
上記の﹁﹃水、冥﹄篇﹂の英語原文の誤植を度外視して、一八六
かない。﹁?﹂と﹁!﹂、﹁O互と﹁Oげ﹂、﹁U紹魯﹂と﹁α8夢﹂の
一 34 一
ブル﹄翻訳作晶年表﹂﹃図説翻訳文学総合事典﹄第四巻︵大空
社、二〇〇九年十一月︶を参照した。
、引用文は、文意を損なわないかぎり、適宜通用の文字に改め、
ルビを省略した。
︵注−︶稲垣直樹﹁ユゴーと月本﹂﹃図説翻訳文学総合事典﹄第五
巻︵大空社、二〇〇九年十一月︶、二=二∼二一四頁。
︵注2︶同右、二〇七∼二〇八頁。
︵注3︶同音、二一一頁。
︵注4︶屋木瑞穂﹁樋口一葉﹃琴の音﹄に関する一考察”ヴィクト
ル・ユゴー﹃哀史﹄との比較を通して﹂︵﹃三重大学日本語
学文学﹄10、一〇七∼一二︸頁︶。その注︵8︶では、﹁哀
史の片鱗﹂の訳者は原抱一庵だと推定されている。
︵注5︶屋木瑞穂﹁樋口一葉﹃琴の音﹄に関する一考察”ヴィク
トル・ユゴー﹃哀史﹄との比較を通して﹂︵﹃三重大学日本
1﹄︵大空社、 一九九八年︶、三七九頁。
︵注10︶﹁白日行の闇﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾24ユゴ
一重1﹄︵大空社、 一九九八年︶、四〇五頁。
︵注11︶﹁ジヤンバルジアン﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾24
ユゴー集1﹄︵大空社、一九九八年︶、三八七頁。
︵注12︶﹁断頭台﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾餌ユゴー集
1﹄︵大空社、 一九九八年︶、四〇六頁。
︵注13︶﹁ジヤンバルジアン﹂﹃明治翻⋮訳文学全集︽新閤雑誌編︾餌
ユゴー集1﹄︵大空社、一九九八年目、三八九頁。
︵注14︶﹁ジヤンバルジアン﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾鋳
ユゴー集1﹄︵大空社、 一九九八年︶、三九〇頁。
︵注15︶﹁﹃水、冥﹄篇﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾24ユゴ
一再1﹄︵大空社、一九九八年︶、三九三頁。
︵注16︶稲垣直樹﹃﹁レ・ミゼラブル﹂を読みなおす﹄︵白水社、
一九九八年七月ハ︶、八頁。
︵注17︶インターネットによると、 一八九二年以前には、上記三
種以外に、次の二種の英訳溺出版されているらしい。ただ
語学文学﹄10、一〇七∼一二一頁︶。
︵注6︶﹃早稲田文学﹄第百号、明治二八年十一月、四二∼四三頁。
︵ず言”\\g.乱吾⑩魯﹁。超≦ま\富P憲。・承。崇﹀り冬季︶
し、筆者は未見である。
エン﹂﹁ジアンバルジアン﹂、﹁ジヤンバルジアン﹂、・﹁ジヤ
*⇒きω巨aξピ器8幕。・妻B×邑.戸。巳8“寓ξ。・雷a匂ご一8冨#.
︵注7︶原抱一庵訳では冒きく呂8づの訳として、﹁ジヤンバルヂ
ンバルジヤン﹂があり、不統一である。ただし、﹁ジャン
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︵注18︶﹁﹃水、冥﹄篇﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾24ユゴ
重扇9巳匂9自8β℃鐸三誌ゲ窪。・●
*難き。。巨。村毒百。≦p匹。ず日。巳”≦お5冠一。。ひQ・℃‘σ一一旨9ξ
バルジアン﹂は最も多く使われている。
︵注8︶﹁ジヤンバルジアン﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾24
ユゴー集1﹄︵大空社、一九九八年V、三九四頁。
︵注9︶﹁題未定﹂﹃明治翻訳文学全集︽新聞雑誌編︾24ユゴー集
ー 35 一
i集1﹄︵大空社、 一九九八年︶、三九三頁。
︵注19︶﹁﹃水、冥﹄篇﹂﹃明治翻訳文学全集︽新闘雑誌編︾25ユゴ
一集H﹄︵大空社、一九九八年︶、一二二頁。
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