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夫を国に捧げた 戦後の苦難
第一大隊長は味方の斉射を浴びて戦死した。米軍は六 の第一線を突破して、後方の砲兵陣地まで突入した。 進んで、主力は米歩兵第一〇五連隊、第一、第二大隊 死体を乗り越え、乗り越えて何十波という集団で突き しかし、この日の日本軍は絶対に引き返さなかった。 防があり、川幅四四メートル位の立派な川で、海へ流 れ、六メートルの高さの立派な護岸工事がしてある堤 村合併で町が多くなっています。町の真ん中に川が流 馬は、一つの町と三十位の村が一緒になり、現在は町 で、高い山と海に囲まれた静かな城下町です。当時対 郷里は、県の出先機関も多く官庁や商店が多い町 てゆく姿は悲壮なものでした。私も主人が長崎市生ま 夫を失い、幼児を抱いて、若い妻が生活とたたかっ そうです。 ほんとうに寂しくなりました。平均年齢も八十五歳だ が、未亡人も高齢になり、十年前の半数近くになり、 ち着いた生活ができるようにたった頃かと思います 終戦後五十八年になり、私たち未亡人も少しずつ落 ても故郷は忘れられない、懐かしいところです。 ル、旅館、病院などがある大通りです。いつまで経っ は広い道で、八幡宮、銀行、電話局、郵便局、ホテ 川には手摺のついた立派な橋があります。特に県道 れています。 五〇人以上の死傷者を出し逃げまどった。 日本人はこの ﹁ バ ン ザ イ 突 撃 ﹂ を 最 後 に し て 散 っ て いった。﹁悲劇のサイパン﹂であった。 夫を国に捧げた 戦後の苦難 神奈川県 橋本喜美子 私は、長崎県対馬厳原町の生まれです。故郷で定年 六十歳まで勤めて、長男が東京の大学卒業後、厚木で 勤務していますので、九州は遠いから近くに住んで欲 しいということで、厚木市に住むようになり五年にな ります。 り可愛いい盛りでしたので、その時は、二年半の誠に た。子供もその留守に生まれて一年三カ月にたってお 方に征きまして、二年余りで元気に復員してきまし れで、長崎県庁勤務の時結婚し、半年で召集で中支の 残るかと思います。 た戦死の場所が詳しく書いてあります。子々孫々まで を戴き、仏壇に飾っています。これには先程記しまし 会 に 入 会 致 し て 、 遺 族 会 の 方 か ら 立 派 な﹃ 祭 神 之 記 ﹄ 昭和十九年八月ごろ戦死の公報を受け、十一月ごろ 福岡での海軍葬で遺骨を戴きましたが、中には名刺判 楽しい日々を送りました。 夫は復員してすぐ海軍の建築課の方に転職致し、二 家を出る時、二人の子供を交代で抱いて、頬ずりし の写真だけでした。目的地に着かなくて、ほんとうに 家 を 出 た の は 昭 和 十 八︵一九四三︶年十二月二十日 て頭を撫でて、言葉もたく手を振った姿が思い出され 年半は佐世保で暮らしましたが、この度は軍属で、設 ご ろ で し た が 、 昭 和 十 九 年 一 月 二 十 三 日 付 け で﹁ 最 後 ます。私には、ただ ﹁ 子 供 を 頼 む ﹂ と い う 言 葉 の み で 本人も残念だったと思います。 の便りになるかも﹂との手紙が横須賀から来ました。 した。暗闇の海中のどこにいるかと思うと、手を合わ 営隊を引率して行く途中での戦死でした。 戦死の日時は、公報によると同年一月三十一日ですか す度に亡き主人のことを思い出します。 一家の柱を失った遺族、特に子供を失った老親、夫 ら、横須賀を出発してから一週間で戦死しています。 戦死の場所は内南洋方面、北緯九度一五分、東経一四 七度、所属部隊は第二二二設営隊、乗船した船は﹁ 靖 を失って幼児を抱えての若い妻の生活と戦ってゆく姿 心 、 両 面 の 苦 痛 に 、 皆頑 張 っ て 生 き 抜 い て き ま し た 。 国丸﹂でした。 戸籍謄本には、こんたに詳しくは記載してありませ 一人息子さんの帰りを待って引揚船の着く舞鶴に立っ は言葉に言いつくせないようた悲壮なものでした。物 んが、このたび靖国神社創立一三〇年記念事業の奉賛 ます。 かり、私も今でも時々歌って見ますが、胸が熱くなり りも聞けなくて亡くなられたそうで、歌でお気持が分 て、毎日帰りを待っておられたお母さんも、嬉しい便 顔を見ると涙に暮れる生活でした。 子供に涙を見せまいと強く生きなくてはと、子供の寝 に入る時代、当時のことを考えますと夢のようです。 と頑 張 り ま し た 。 現 在 の よ う に 物 が 豊 富 で 、 何 で も 手 きました。しかしそこでは洋裁の仕事で、いくらか収 子が二歳にたるのを待って、子供を連れて授産所で働 私も一歳と三歳の子供を抱え、働くに働けず、下の した。 た、いいえ強くならないと生きることの難しい時代で しさを感じさせまいと、ほんとうに未亡人は強くなっ でもよく 頑 張 っ た と 思 い ま す 。 子 供 に 父 親 の い た い 淋 精神的にもいろいろなことが重くのしかかり、自分 入はありましたが、三人が生活のできる収入はありま 考えると不安がいっぱいでした。家も畑の付いた家を う、平和日本を建設することこそが我々遺族に与えら た戦争の惨苦を、再びわが子々孫々に繰り返さぬよ 英霊の顕彰と慰霊に努めると同時に我が身に味わっ 借りて食料の補給にと畑仕事もし、また営林署があり れた使命と存じます。 せん。明けても暮れても、生活のこと、先々のことを まして、一月∼三月に掛けて国有林の落ち木拾いの許 牲の上にこんな平和があることを忘れないで欲しい 東京都も三月十日は大空襲があり、多くの方々の犠 の薪採りに山へ行きました。田舎の親戚がありまし と 、 三 月 十 日 を﹁平和の日﹂として設けられたと 可が下りると、歩いて二時間もかかる山でしたが、そ て、子供を預けて農繁期の時には手伝いに行き、慣れ ニュースで見ました。戦場に行かなくても国内にもた 平和な暮らしのできるよう願わずにはいられません。 くさんの犠牲者を出しました。ほんとうに世界全体が ない仕事も一人三役でこなして参りました。 昼は授産所で働き、夜は夜で洋裁の仕事を一針でも 英霊もそれを念じて亡くなったと思います。 子供達もよく 頑 張 っ て く れ ま し た 。 子 供 こ そ 大 き な 犠牲です。就職にも父親がいないと不利なことも多 かった時代でした。子供に勇気づけられ、また嬉しい で箱根で、神奈川県の婦人部研修会を実施し、遺族会 の 火 を 消 さ な い よ う に頑 張 っ て い ま す 。 そ し て 最 後 に ﹃靖国の妻﹄の歌を歌って解散しています。 私も三十一歳の折、郷里の県立高校に雇いで就職で 計と庶務の辞令を頂いて二十九年、定年まで勤めるこ きまして、二年目に公務員の試験を受けて、県より会 長男は小、中学を通して級長で頑張りまして、また とができました。残り少なくなった余生を力いっぱい こともいろいろと与えてくれました。 五年生の時、健康優良児で朝日新聞に写真入りで掲載 生き抜いていきたいと思います。 私は昭和十四 ︵一九三九︶年一月一日に姉・ 私・ 神奈川県 三橋功 戦争で父を、そして一年後に 母を病死で失って されました。これも励みになりました。次男は、勉強 には力を入れなくて、高校三年間を通して柔道、体育 に力を入れ、たくましく成長しました。二人とも優し い子供になってくれました。しかし、時には親のない 淋しさもあったと思います。 次男は近くに同じ年の子供がお父さんとおぶさって の﹂と言って、親子で抱き合って泣いたこともありま 妹・ 弟 の 兄 弟 四 人 の 長 男 と し て 生 ま れ ま し た 。 実 際 に 銭湯に行くのを見て ﹁ 僕 に は な ぜ 、 お 父 さ ん が い な い す。子供も六十二歳、五十九歳になり、親の責任は果 は、前年の十二月二十六日の生まれだそうですが、 です。その二年後の昭和十六年十二月八日、真珠湾攻 先々の徴兵検査のことなどを考えてのことだったよう たしたような気になる最近です。 私たち厚木市遺族会婦人部は、毎年二月に一泊二日