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研究ノート

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研究ノート
研究ノート
カラヴァッジョの︽PastOr賢sO︵sic︶︾のために
高 橋 健
れはかならずしも伝統的な図像のコードにしたがわない。ラクダの
つ荒野で修行する旧約世界最後の預言者をこそ想起させるのだが、
典拠のなかのカピトリーノ美術館作品
現在ローマのカピトリーノ美術館にあるカラヴァツジョ作品 ︵図
いっぼうで十字架状の杖あるいは洗礼用の椀などの必要不可欠なア
115
毛皮らしきものと赤いマントをしたに敷いて座るその少年は、じじ
1︶ がいったいなにをあらわしているのかについては、いまなお議
トリビュートを欠いており、さらに仔羊ではなく牡羊をともない、
らく一六二五年ごろにマッティ家において作品をみたジョヴァン
に一六二七年のデル・モンテ家のそれでも扱いはかわらない。おそ
目録でのことであり、一六二三年そして一六二四年のそれ、さら
にジョヴァン二・バッティスタ・マッティのもとで作成された財産
た。図像がはじめて﹁洗礼者ヨハネ﹂と同定されたのは一六一六年
なされたさいにカルロ・エマヌエーレ・ピオ枢機卿により購入され
の有名なかつてのカラヴァツジョ庇護者の財産が一六二八年にてば
フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿のもとにわたり、そ
子のジョヴアン二・バッティスタから一六二三−一六二四年ごろに
ている。作品はチリアコ・マッティ侯爵のために制作されたが、息
また衣服をいっさい身につけずにしかも怪しげな微笑をすらたたえ
論がつづいている。一般的にはやはり﹁洗礼者ヨハネ﹂とみなさ
れているらしいのだが、しかしたびたび指摘されてきたように、そ
図1 カラヴァッジョ ≪微笑む牧人≫
1601年、ローマ、
カピトリーノ美術館所蔵
られている。
にもとづいておなじ美術館ではいまなお公式にキャプションに掲げ
ジ・ランツィにいたるまで使用されつづけており、いわばその権威
れにしても、その題名はフランチェスコ・スカネッリからルイー
わかりやすく説明されなければならないと思われたのだろう。いず
境になじんだものたちには、絵画のあらわす物語内容はできるだけ
おなじように記述している。そもそも同時代のローマの美術的環
なかでこれに注目したジョヴァン・ピエトロ・ベッローリもまた、
二・バリオーネ、そして一六六四年のみずからのローマ・ガイドの
とあるのだが、これについては後でふたたび論じていきたい。
ル・モンテのもとで作成された目録には ﹁コリドーネCOridOne﹂
ちなみに一六二八年にフランチェスコのおいのアレッサンドロ・デ
た、いまの美術史家とおなじように慎重であろうとしたのだろうか。
いる。あるいはローマの宮廷でこれらを担当した管財係たちもま
呼んでいたもののすぐに ﹁牡羊をともなうはだかの若者﹂ とかえて
なかで再発見したデニス・マーンは、はじめは ﹁洗礼者ヨハネ﹂と
ない。一九五三年にこの絵画をカピトリーノ宮殿のローマ市長室の
に結果としてあまり的確でないようにみえることすらもすくなくは
う。調度品のたぐいを同時にたくさん記録しなければならない財産
世紀はじめの時代においては現実的にはほとんどありえないだろ
年のヌードそのものとして受容されるべく描いたというのは、一七
史=物語もいっさい参照することなく少年のヌードをあきらかに少
しての美しさをこそ強調しょうとしたのだとしても、なんらの歴
されていた。しかしいかにカラヴァツジョがその少年のヌードと
一年のローマ・ガイドなどにしばしば﹁はだかの若者﹂として紹介
ーノに展示されてからも、それはたとえば一七六六年そして一七七
四九年にベネディクト十四世のもとに譲渡されて最終的にカピトリ
のものにもまたほとんどおなじようにして読める。同家より一七
右手で仔羊をしっかりと抱きかかえている﹂と、そして一七二四年
ちの絵画について﹁なかば横たわりながら座るはだかの若者[中略]
味からもまたさらに説明できる。画面内部にアブラハムがいない
みえるその微笑みは、イサクという語のもつ ﹁神の笑み﹂という意
使によりちょうど解放されたところなのだろう。安堵した表情とも
ルにもとづいて描かれたこのはだかの少年は、父親のもつ刃から天
フィツツィ美術館にあるカラヴァツジョの同主題作品とおなじモデ
た動物であり、たしかに ︵イサクの犠牲︶ の主題にふさわしい。ウ
わしているようにみえる。その牡羊はイサクのかわりに犠牲にされ
しいずれにしても、おなじ部分じたいはいまだにやはり祭壇をあら
なおし︶ から露出したものだと結論づけられているのだが、しか
はこの色がもとの衣服のうえにほどこされたペンティメント ︵措き
ほのめかす赤がきわだつ。一九八〇年代後半におこなわれた調査で
察すると左下には積み木のようなものがあり、そのまわりには火を
これを ﹁イサク﹂ とするつぎのような意見である。画面をよく観
そして近年にカラヴアツジストたちの共感をあつめているのが、
目録のような媒体にはそもそも、なによりも素朴なインデックス的
のだとすれば、コンラド・ルドルフとスティーヴン・F・オストロ
いっほうで一六四一年のピオ家による目録のなかには、わたした
機能こそがもとめられていたし、当時つけられた作品名がじっさい
一116−
でにおおきな逸脱をあえて犯すことなどいったいありえただろう
はまったく存在しない。いかに革新的美術家とはいえ、これほどま
点がある。そもそもイサクだけを単独であらわす図像はその伝統に
例のひとつなのだ、と。しかし、この場合にもやはりいくつかの難
とされる ﹁不在効果﹂あるいは ﹁体験転化﹂ のもっともすぐれた事
らであるにちがいない。それはカラヴアツジョ作品の普遍的特質
ウもいうように、鑑賞者がその役割をはたすべく仕組まれているか
術館のものであるだろう ︵図2︶。いままでこれはイタリア語とし
れた作品は、まずまちがいなくわたしたちの論じるカピトリーノ美
ナショナル・ギャラリー︶ とともにカラヴァツジョの手になるとさ
ランド国立美術館︶ そして︽エマオ ︵の晩餐︶ ︾ ︵現在ロンドン、
い宮殿にある絵画﹂という項目で︽キリストの拉致︾ ︵現在アイル
ろに書かれていた。その一三四1一三五頁の ﹁マッティ侯爵の古
が、その献呈辞から知られるところではじっさいには一六二〇年ご
図2 ガスパレ・チェーリオ『ローマのいくつ
かの教会、ファサードそして宮殿にある
絵画の制作者たちの名前について:キリ
スト者ガスパレ・チエ−リオ氏により作
成された報告書』ナポリ、シピオーネ・
ボニーノ刊、1636年、134頁
て一般的に ﹁PastOr守isO﹂ と書きあらわされてきた。チリアコの
tlali⊂r
か。マッティ家の関係者どころかほかの同時代の著述家たちもこの
datietauall摘dolio壷lCか
弟にあたるアスドウルバーレ・マッティの宮殿のために一六〇七年
;;窓監恩恵
意図にいっさい気づいた様子がない、というのもまたおかしい。し
q画iedelユapre克diChふ
魚ome拉e毎ure.q野Hadu
五mau$.q少lladelpa企or
駄i払,adolio}ぷMichelangek
にみずから装飾をてがけていた作者のチェーリオは、おなじ時点
C寧rj.
かも、ラクダの毛皮らしきものと赤いマントという洗礼者ヨハネを
q画kd vna以eはd h
ですでに問題のはだかの少年をみていたはずであり、だとすればこ
pra)diTadeo&Federico加C−
こそほのめかすアトリビュートが、わたしたち鑑賞者にもっとも近
企elユ0.
れはさきの財産目録よりも時期的にはやいばかりか、ほんらいの所
詫㌫籍慧這言霊豊
いところにはっきりと認められている。あるいは宮下規久朗のいう
q野lki vn応拍VOko
有者テリアコの生前におけるただひとつの記録だということにな
ア慧憲惣霹ゐ
動〟んん
ように、キリストの予型としての洗礼者ヨハネとイサクをともに想
134
起させるために、敬度なカラヴアツジョはいくつかのイメージをあ
えてあいまいなままに重ねあわせたのかもしれないのだが、この
間題についてはまたあらためて検討しなければならないだろう。
﹁牧人﹂を説明するもの
この絵画については同時代にもうひとつだいじな典拠がある。画
家のガスパレ・チエーリオによる ﹃ローマのいくつかの教会、ファ
サードそして宮殿にある絵画の制作者たちの名前について︰キリス
ト者ガスパレ・チエーリオ氏により作成された報告書﹄ は、一六三
六年にナポリの出版業者シピオーネ・ボニーノにより公刊された
toPdazzodiconodelliSan_
一一一一117−一一
ければならないのだろうか。
がみられる。では、わたしたちはこれをいったいどのように読まな
ため彼らの議論にはとりわけ基本的なところでおおきな食いちがい
語そのものは残念ながらいかなる辞書にも記載されておらず、その
積極的に意味をみいだそうと試みてきた。しかし ﹁PisO﹂という
新しい解釈をもくろむ意欲あるものたちは、しばしばおなじ記述に
りかたを教えてくれるものと期待できるにちがいない。じつさい、
ージにたいする当時のひとびとのもっとも標準的といえる反応のあ
る。しかもその書物のいわゆるガイドという性格からすれば、イメ
代彫刻にもまた認められるのだが、これは審判から略奪までのあい
によれば、はだかで似たようなポーズをするパリスはいくつかの古
されてきたというパリスとして理解しょうとした。おなじ研究者
リジアの牧人PastOr賢乳O﹂として、さらにはそのように呼び習わ
﹁賢乳O﹂と読みかえられるのだとし、﹁PastOr貿sO﹂を新しく﹁フ
のルネサンス期における互換性からすれば ﹁守isO﹂ が最終的には
レイトン・E・ギルバートは、賢.siそして守e乳などのいくつかの語
クの美術史的文脈からしてもやはり無理がある。いっぼうで近年ク
くつかの要素がじゅうぶん説明できるとしたのだが、初期バロッ
いる。しかし ﹁賢sO﹂を ﹁Phry舛uS﹂と読みかえることが妥当かど
ぶじに到着して王にその羊を捧げた、とおなじ物語では伝えられて
ルキスに逃亡するのだが、ヘレは途中で海に落ちて死に、彼だけが
り殺されると知ったフィリクスは、姉のヘレとともに黄金の羊でコ
Phry舛uS﹂ ではないかとほのめかした。継母のイオーの画策によ
に控えめにではあるものの、これがギリシア神話の ﹁フィリクス
ーである。﹃カラヴァツジョ研究﹄ の作品解説のなかで、彼はじつ
〇〇頁にもおよぶ書物のすべてをかけたくわしい論証にもかかわら
とは変化せずに、通常どおりそのまま使用されているらしい。三
た限りでは、それはギルバートの紹介する規則にしたがって守esiO
﹁守egiO﹂という語がみられるのだが、しかしわたしたちの確認し
題はすくなくはない。そもそも、おなじチエーリオのテクストでは
を単独であらわす図像がその伝統にまったくないなど、ここにも問
要不可欠なアトリビュートが欠けているばかりか、さらにはパリス
アツジョの少年には杖、リンゴ、犬そして ︵フリジア帽︶ などの必
だにへレネを待つさいの歓喜のすがたなのだという。しかしカラヴ
うかはまたべつの問題としても、カラヴァツジョの絵画では牡羊は
ず、じつさいにその主張はほとんど支持されていないようである。
この記述にはじめて注目したのは、ヴアルター・フリードレンダ
やはり黄金にはみえず、しかも主人公をおもに落下するヘレととも
羊がともに農耕期のはじめの山羊座の三月をしめし、つまりは春、
い。さらには後にこの示唆をうけたとある研究者は、フィリクスと
タリアの版本においては、︵SV をしめすために へr︶ を変形させ
﹁PastOr賢sO﹂と書きあらわされてよいのだろうか。一七世紀のイ
うにみえるのだが、そもそもチェーリオのつけた題名はほんとうに
しかしこれらの研究者たちはほとんど暗黙のまま前提しているよ
若さ、大気そして ﹁多血質﹂ などを象徴することから、ブドウ、烏
たような文字がおもに使用されている。これはつまり︵r︶ の中間
にとらえた同主題のわずかな先行作例にそれはほとんど似ていな
︵じっさいには存在しない︶ そして少年の微笑などの画面内部のい
118−−一一一・
ーノの仕事はとにかく粗悪なものであり、Sとーばかりか、たとえ
ふさわしいだろう。後でもくわしく説明するように、出版業者ボニ
たしかに へfV よりは ︵SV であるほうがすくなくとも文脈的には
なのかもしれないのだが、わたしたちがすぐに理由をあげるように、
︵S︶ にかぎりなく近づいている。あるいはこれは へS︶そのもの
ストのほかのものに比較して短い棒の右半分があきらかに薄く、
しくない。問題のチェーリオの箇所についても、その ︵−︶ はテク
の関係しだいでは、じつさいに ︵SV にみえてしまうこともめずら
いのインクののり、圧力のかかりかた、あるいは原版そのものなど
にある短い棒の右半分のない状態のものなのだが、しかし印刷のさ
とをしめす前置詞を暗にもちあわせているものとして読むこともで
へPastOrinsOrrisOVというように、︵微笑み︶という状態にあるこ
は意味すみ。あるいは仮にそれが名詞だとして、たとえば
の ︵SOrridente︶とおなじく︵微笑んでいる︶を、この ︵sOrrisO︶
合、牧人が︶ 微笑みをたたえた︶、形容詞としてはジェルンディオ
ではないのだろうか。︵sOrridere︶ の過去分詞としては ︵︵この場
い。結論からいえば、それはおそらく︵sOrrisOV のたんなる誤植
という語はいかなるイタリア語の辞書にもいっさい記載されていな
た、と仮にかんがえてみる。しかしいずれにしても、︵srisOVなど
マの画家のほんらいの意図に反して 八才isOV と印刷されてしまっ
とi、iと2、0とu、aと2、aと0あるいはaとuなどのよう
たとえばberrettaをberettaあるいはschiccherareをscFicherar
人は、たしかに微笑んでいるのである。とりわけ北イタリアでは、
ば p と r 、 Ⅴ と r 、 t と r 、 u と n 、 C と e 、 r と e 、 m と n 、 1 きるだろう。いずれにしても、牡羊をともなうカラヴァツジョの牧
に文字のかたちや発音がいくらかでも似ている場合、seguentiを
PassignanOを ﹁訂ssegnanO﹂、NOくaraを ﹁NOrara﹂、
リオの版本では、たとえば ﹁CaraくaggiO﹂と ﹁CaraくagiO﹂、
しばしば悉意的に − 省略するという傾向があるのだが、チエー
﹁feguenti﹂、secOロdaを ﹁fecOnda﹂、rrescOを ﹁SreSCO﹂、と す る な ど 、 お な じ ふ た つ の 文 字 が つ づ く 場 合 に そ の ひ と つ を −
presentaZiOneを ﹁presenraziOne﹂、quandOを ﹁qnandO﹂、
﹁CapeEa﹂と ﹁CappeEa﹂などがともにあり、不規則にふたつの
CuriOSeを ﹁euriOSe﹂、rrate〓○を ﹁feate〓O﹂、Sa−imbeniを﹁CupO−a﹂ と ﹁CuppO−a﹂、﹁TaddeO﹂ と ﹁TadeO﹂ あるいは
﹁Sa−inbeni﹂、CappeEaを﹁Cappei−a﹂、pi−astriを﹁pe−astri﹂、
COperteを ﹁Cuperte﹂、giOくaneを ﹁giOくene﹂、trOくarO
方n
法O
がを
どちらもとられているらしい。ちなみにトロniba−e Carracci
いに ︵S︶ が置かれなければならなかったのかもしれないと、とり
いる。だとすれば、ここにも ︵r︶ のかわりにはじめからじっさ
とするなどの状態が、ほとんど各頁にひとつぐらいずつ認められて
がたいようでもあるのだが、しかし不注意きわまりないそのナポリ
たのだろう。そしてさらに ︵0︶まであわせて消去されたとは信じ
ている。このようにして ︵rV のひとつは当然のように無視され
﹁Mada−ena﹂そしてEmmausは﹁Emaus﹂と、それぞれに綴られ
﹁trOくOrOnO﹂、Carracciを﹁CattON旦あるいはcapeneを﹁CupeEe﹂ は ﹁Aniba−i CarazNi﹂、seppe−ireは ﹁Sepe−ire﹂、Madda−enaは
あえずは推測してみることもまた許されるだろう。︵srisOV はロー
−119−
け避けられたのにちがいない。
うな ﹁PastOr守isO﹂ などというあいまいないいかたは、できるだ
ろ ﹁フリジアの牧人﹂ にしろ、美術史家たちの謎解きをうながすよ
ガイド・ブックとして構想されたものであり、﹁フィリクス﹂ にし
もある。いずれにしても、そもそもチエーリオの書物はいわゆる
になにを指示しているのかわからなくなってしまっていることすら
反対にまったく必要のない文字をいれることで、それらがじっさい
を﹁GuidOireni﹂そしてSくiNZeriを﹁S等iNZari﹂ ︵=︰︶とするなど、
﹁句iOrennO﹂とするなどのおなじような事例ばかりか、GuidOReni
では、たとえばde−を ﹁d亡、−﹀a−traを コ︶atra﹂ そしてFiOrentinOを
人のことだからやはりありえないわけではない。わたしたちの版本
ては出版業者のせいだとしたいのですが、しかしチェーリオ自身にもまたど
ることがわかり、私はただただがっかりしています。私はその大部分につい
かく膨大にあるほかのあらゆる文献とかわりがなく、ひどい誤りばかりであ
かかわらず、それが過去の世紀、あるいは今世紀そしてまさに今日にもとに
なおのこと情報はより確実であるにちがいないとかんがえていました。にも
した。またさらに、同書は一三〇年あるいはそれ以上前につくられたので、
私はこの彼の小品をたいへんに信頼し、はなから好意的な目で読みはじめま
すが、目録のようなもので、またとても薄いものです。[中略] そのため、
この小品は、当時いくらか知られた画家のチェーリオにより作成されたので
タ聖堂参事会員のパウオーロ∴ンヨルダーノ氏に﹄ たいし献口壬しています。
題されたもので、そのボニーノは同書を ﹃サンタ・マリア・インヴィオラー
うしても多くが帰されなければなりません。たとえばその献口王辞には、すで
に筏一一一一口とみなされているアペレスの言葉が引用されているのですが、﹃皮わ
にも認識されてきた。たとえば、博識きわまりない一八世紀の文献
この版本がまさに誤植だらけであることは、すでに美術史家たち
これは印刷のまちがいでしょう。たとえば一四頁には ﹃マルチェッロ・ヴエ
u−tracrepidam﹄ といわなければならないでしょう。さてほかにも、つぎの
んっ 思うにそれは ﹃皮わらじを越えてはならぬNOn SOpra−apianeua︰Ne
ふたたびガスパレ・チエ−リオの信憑性について
学者ジョヴァン二・ボツタリは、当時もはや希少なものとされてい
ヌスティMarce〓○くenusti﹄ が ﹃マルチェッロ・ヴエトウストMarce〓○
らじを知らないだろうNOnSapr㌢−apiane−−a﹄ ではなんの意味にもなりませ
たこの書物をみずからに勧めてくれた友人のニコラ・パリアリー二
<etust皇 とありますが、それは二七頁でもくり返されていて、さらに一九
より作成された報告書、ナポリ、シピオーネ・ボニーノ刊、一六三八年﹄と
る絵画の制作者たちの名前について、キリスト者ガスパレ・チェーリオ氏に
読みはじめました。﹃ローマのいくつかの教会、ファサードそして宮殿にあ
﹁この前にあなたが親切にも教えてくれた小冊子を、私はすぐに貪るように
da FassegnanO﹄ と、三〇、五五そして六九頁には ﹃ロンカッリROnCa−−i﹄
ノDOmenicO PassignanO﹄ が ﹃ドメニコ・ダ・ファッセこヤーノDOmenicO
ノヴァータBatista da NOくata﹄ と、二一頁には ﹃ドメニコ・パッシニヤー
なじように一五頁では ﹃ダ・ノヴァーラda NOくara﹄ が ﹃パティスタ・ダ・
百では ﹃モネソロ・ヴエトウストMOneEOくetustO﹄ と変形しています。お
にたいして、つぎのように記していを。
−120−
とありますが、おそらくあまり知られていない名前です。五四頁には ﹃ダニ
﹃カラッチCaracci﹄ が ﹃アンニーバレ・カットッツィAnniba−e CattOZZi﹄
はカヴァリュールの ﹃ラッカッリRacca〓i﹄ となっています。四三頁には
が ﹃クリストファノ︰フンチェッリCristO許nORanceEi﹄ とあり、三六百で
期に、これはほとんど唯一のローマ美術ガイドとしてすでに出版以
など宗教施設・行事ガイドをかねた最初期のものすらいまだない時
ルティネッリの ﹃当地において調査されたローマ﹄ ︵一六四四年︶
﹃新旧のローマの記述﹄ ︵一六四三年︶ そしてフィオラヴァンテ・マ
ーリGiOr乳○くasari﹄ が ﹃グレゴリオ・ヴァザーリGregOriOくasari﹄ と、八
ニオ・ソンガツラAntOniO SOngaEa﹄ と、七八頁には ﹃ジョルジョ・ヴアザ
六頁には ﹃アントニオ・ダ・サンガソロAntOniO da SangauO﹄ が ﹃アント
daく0−terra﹄ などと呼んでべつのかたちにまちがって綴られています。五
それが一五頁では ﹃ダニエッロ・リッチ・ダ・ヴオルテッラDanieEO Ricci
<0−terra﹄ が ﹃ダニエッロ・ヴァルテッラDanieE○くa−terra﹄とありますが、
業ばかりか企画そのものにもまったく関係することのないままに、
オ自身は一六四〇年まで生きていたにもかかわらず、校正などの作
八年の版本につけた献口王辞のなかで書いていた。つまりチエーリ
で踏みこんだとしても最終的には許しがえられるだろう、と一六三
﹁偶然にも手にはいった﹂ のだが、作者から同意をえずに公刊にま
て調査していたところ、手から手へと伝えられていたその手稿が
られている。さきの出版業者ボニーノは、ローマの美術作品につい
前から人気で、愛好家たちに筆写されて広く普及していたことが知
九頁には ﹃マリオット・アルベルティネッリMariOttOA−bertineui﹄ が ﹃マ
そのテクストは活字におこされていたということになる。じじつそ
da
リエット・フィオレンティーノMariettOFiOrentinO﹄ と、九二頁には ﹃リヴ
の内容はといえば作者本人ではなく、医者のセバスティアーノ・ヴ
Riccere〓i
ィオ・ダ・フォッリLi5.0da FOr−i﹄ が ﹃リヴィオ・ダ・フラツリLiくiO da
アンニーニなる人物から送られた情報をもとに更新されていた。
エッロ・リッチェレッリ・ダ・ヴオルテッラDanie〓O
FraEi﹄ とあり、この誤りは一〇四頁でもくり返されています [以下略]﹂。
行﹄ ︵未刊、一六二四年ごろ︶、ボンピリオ・トツティの ﹃現代のロ
︵一六六四年︶ はもとより、ジューリオ・マンチーこの ﹃ローマ旅
物館、図書館、画廊そして絵画と彫刻の装飾についての覚え書き﹄
年︶ そしてベッローリの ﹃ローマの宮殿、邸宅そして庭園にある博
の教会における絵画、彫刻そして建築についての研究﹄ ︵一六七四
よそ十五年以上後にだされた。フィリッポ︰アィーティの ﹃ローマ
さきにも記したように、チエーリオの書物はじっさいの執筆のお
である。校正のさいに作者みずからが直接によくみないとまちがい
ガイドの出版された当時にはすでにピオ家のもとに置かれていたの
も﹁マッティ侯爵の古い宮殿にある﹂とされたわたしたちの絵画は、
ら、このような過去における予定など消去したことだろう。そもそ
いない。もしすこしでも見直しのための機会があたえられていたな
その後じっさいに公刊された形跡はなく、また原稿なども現存して
てのテルツァ・リーマがもうすぐ完成するはずだというのだが、
ーマの画家は ﹃詩的ヴィジョン﹄ と題された ﹁絵画の勝利﹂ につい
一六二〇年四月十一日の日付のあるみずからの献口王辞のなかで、ロ
ーマ﹄ ︵一六三八年︶、ジョヴァン二・ドメニコ・フランツィー二の
121
だらけの活字ができあがるというのはわたしたち著述家にいまでも
よく起こることだが、すでにくり返してコピーされたテクストをも
とに第三者だけで編集されたというこの状況からすれば、ある程度
までは誤植がおきてもむしろ当然ではないだろうか。
ながらそれについて検証する手だてはいまのところない。
もうひとつの読みとして
伝える内容そのものの誤りについてもまたいくつか指摘していた。
ボツタリはさきに引用した書簡において、たしかにチエーリオの
らしく、チェーリオのガイドはその公刊後にもさらに筆写されつづ
じじっ、いまでは信じがたいことに、かつてサンティ・アポストリ
ちなみに、せっかくの版本もまた当時たくさんは刷られていない
けていたという。ゾツカはそうした手稿のうちローマに残るふたつ
教会後陣にあったメロッツォ・ダ・フォツリのフレスコが、ここで
ことなのだろう。宛てさきのパリアリーニなる人物はステファノ・
について紹介しているのだが、そのうちのひとつ国立美術史・考古
ロッサーは、ヴァチカン古文書館においてさらにふたつの写しを確
ティコツツィが増補改訂する以前の ﹃絵画、彫刻そして建築につい
はボツティチエツリのものなどとされている。しかしわたしたち
認している。これらは一六五〇年代以降に、しかもチェーリオの
ての書簡集﹄ の初版をてがけた出版業者であり、ボツタリはその
学研究所付属図書館のものはすでに消失しており、現在ではもうひ
テクストにもとづきつつも比較的自由に書き改められたものである
彼にたいして同時にティーティのものにかわるローマ・ガイドとヴ
のみるところ、あきらかに問題なのはおもに一六世紀前半までに制
らしく、カラヴァツジョの少年にかんする情報はほとんど期待でき
アザーリの伝記のつづきとをそれぞれ執筆したいとの意欲をあらわ
とつのアンジェリカ図書館のもののみ目にすることができる。し
そうにないものの、将来的にはやはりいちど参照されなければなら
している。その批判がいくらかでも厳しすぎるように思われるの
作された作品についての部分だけに限られており、ローマ人作者の
ないだろう。わたしたちの指摘する誤りがナポリの出版業者の仕事
だとすれば、絵画史にかんする見識をみせつけることでみずからの
かしわたしたちの調査によれば、これは明らかにナポリの版本から
ではなく、その公刊以前の過程において生じた可能性もまた想定さ
資質をアピールしようとしていたからなのだろうか。それにたいし
生きた環境における美的趣味からすれば、その時代の美術にかんす
れないわけではない。手書きで単語のはじめに記される ︵SV と
て後期マニエリスムから初期バロックにかけての画家たちについて
の写しであり、とくにきわだったちがいもなく、問題となる箇所に
︵−︶ についてもしばしばよく似ていることがあり、混同されがち
のチェーリオの記述は、サンタ・マリア・イン・ヴァリチエツラ教
る認識に多少の混乱があったのだとしても、それはおそらく当然の
である。しかしいずれにしても、じつさいの完成からおよそ十五年
会すなわちキユーザ・ヌオーヴァの主祭壇にある有名なルーベンス
ついてもそのまま﹁PastOr守isO﹂と綴られていた。ほかにもシュ
のあいだに流通した手稿についてはいっさい知られておらず、残念
122
画家は、特定のなんにんかについては意図的におとしめているの
ほどに精神的苦痛をあたえたという攻撃的性格で知られるローマ人
んどが正しいらしい。アゴスティーノ・カラッチを死に追いつめる
のタブローを﹁N・アレマンノ﹂ の作品としている以外は、ほと
能のために、同書においては主題がほかの場合にはじつに明確にし
のだとすれば、やはり注目しなければならない。ガイドとしての機
をみていたローマ人画家がそれを﹁PastOr詳sO︵sic︶﹂と記述した
チリアコ・マッティにだれよりも近いところでカラヴァツジョ作品
だ が 、 と り わ け ニ コ ロ ・ テ ル チ ニ ヤ ー こ 、 ク リ ス ト フ ォ ロ ・ ロ ン カめ さ れ て い る に も か か わ ら ず 、 そ れ に つ い て は パ ノ フ ス キ ー の 第 一
が、最良にしてとにかく希少なものでして、というのも、だいたい
ではなく、その書物もまたたいして価値のあるものではないのです
っぎのようにこたえさせている。﹁その作者はたいして有名なわけ
ッローリの問いにたいしてもうひとりの主人公カルロ・マラツタに
なその一七五四年の ﹃素描三芸術についての対話﹄ のなかで彼はベ
る仕事そのものについてはじゅうぶんに評価していたらしく、有名
世紀ローマの文献学者もまたおよそ一三〇年前のローマ人画家によ
はむしろじつにきめ細かいといわなければならない。じじつ一八
のような共同制作あるいは修復などの事実にまでもいき届いた調査
ヴイーティの参加をほのめかしたことそのものはすぐれており、こ
ていることをとがめるのだが、おなじ装飾におけるティモテオ・
﹁預言者﹂がともにラファエッロ以外のウルビーノ人画家に帰され
はたとえばサンタ・マリア・デツラ・バーチエ教会の﹁巫女﹂と
質量ともにじつに豊かな情報をあたえている。ほかにもボツタリ
ール・ダルピーノなどの同時代人たちについては、ほかのだれより
いてはすでにみた通りであり、チエーリオはいずれの解釈にも決定
かにも画面内でいくつかのアトリビュートが混乱していることにつ
描かれていたのだとすれば、気づかれて当然というべきだろう。ほ
ば不自然なのだが、おなじ部分がもともとそのようにあからさまに
に解放された直後をとらえたナラティヴの一場面のすがただとすれ
は祭壇のうえにいるわけだから、いままでの研究者たちがいうよう
て利用しながらほどこされているようでもある。いまだに﹁イサク﹂
メントとされるものも下地のほんらいの赤をうまく火などに見立て
りここでは木がいくつか積みあげられているようであり、ペンティ
ンフィーリ美術館にあるコピーでは岩肌がみえているものの、やは
ない。問題となる画面右下部分についても、たしかにドーリア・パ
ないのだが、あるいは同時に﹁イサク﹂ でもまたあったのかもしれ
時代のほかの記録からしてもそれはまず﹁洗礼者ヨハネ﹂ にちがい
にかしらの主題については想定していたのだろう。だとすれば、同
くなくともその語により一般的にほのめかされる範囲のなかで、な
し作者はこの場合におなじ﹁牧人﹂を大文字であらわしており、す
ッ リ 、 チ ユ ー ザ レ ・ ネ ッ ビ ア 、 パ リ ス ・ ノ ガ ー リ そ し て カ ヴ ア リ エ 段階と第二段階とのあいだであいまいにされているのである。しか
において唯一でありながらしかも真実の、そうした情報をふくんで
できなかったか、あるいは決定すべきでないと判断したのではない
だろうか。後の一七四二年にピオ家のもとで作成された財産目録に
いるからです﹂と。
すでに説明したように、時間的にも距離的にもほんらいの所有者
ー123−−
ンテのもとで作成された目録には ﹁コリドーネCOrid昌e﹂とある
たのかもしれない。じじつ一六二八年にアレッサンドロ・デル・モ
ダーやギルバートのように異教的なものをみることとて許されてい
くほかの ﹁牧人﹂をもまた想起させたのかもしれず、フリードレン
いずれにしても、このイメージは当時のひとびとにもうすこし幅広
が、おなじく対応としてじつに現実的であるように思える。しかし
去して改めてうえに ﹁ひとりの牧人unpastOre﹂と書いているのだ
の作品をいちど﹁洗礼者聖ヨハネ﹂としながらも傍線でわざわざ消
おいて、それを担当した画家のアウレリオ・ミラー二はわたしたち
ものを、すなおに楽しんでみるのがよいのではないだろうか。
エール兄弟のそれにすらなぞらえられるたぐいまれなイメージその
あまり深くかかわらずに、しばしばガリレオの視覚あるいはリュミ
しても、わたしたちただのカラヴァツジョ愛好家としてはこれ以上
のコードの境界線卜で戯れていたのかもしれない。しかしいずれに
に振舞いながらもじつはわたしたちをはぐらかそうと伝統的な図像
にそのように想像してみたくもなるのだが − あえて無頓着なよう
ず、あるいはたんに無頓着なだけだったのかも、そして ー たしか
じっはなにかひとつの意図をわかり難いように隠したのかもしれ
いたのだろうか。もちろん無知なわたしたちが理解できないだけで
C弓P岩恥g軍記琶完訂C、岩∼竜馬℃雪にさQr詳記§白丸乳SanGiOくanniBattista︸
ための材料は、基本的につぎの文献からえた。anミさcnNれ○ヨ内乱軋g⊇
たしはそのような能力をもちあわせていない。この作品についてかんがえる
をもつ分野のすべての研究について確認できたわけではないし、そもそもわ
この短いノートを書くにあたり、いまやカラヴァツジョ学ともいえる奥行き
のだが、これはテオクリトスやウェルギリウスの牧歌のなかに登場
する牧人コリユドンのイタリア語名である。牛飼いのテオクリト
スのコリユドンはともかぐ、刈りかけのブドウもそのままにひと
り林のなかで愛するアレクシスへの想いを語るウェルギリウスのそ
れならば、いかにもふさわしい。あるいは一七世紀初頭のとある
牧歌劇には、﹁コリドーネ﹂という牧人がひとりの若者を刃物で処
刑しようとした瞬間にそのヴェールをみて生き別れたみずからの息
a cura di GIAMPAOLO CORREALEV<enezia﹀Mars〓iO EditOriL票勇
C電撃点望Oe訂cO患N訂莞竃已訂J cat巴OgOde〓amOStraV Mi−anO﹀E−ectaリ
子だとわかり解放したという、︵イサクの犠牲︶ によく似ている展
開をもつものもある。だとすれば、チエーリオの時代に生きた鑑
︵3︶ FRANCESCA CAPPELLETTlV LAURA TESTALQg白丸rれ軋れC彗白岩恥叱れ○莞∼訂
︵2︶ 来歴についても、註 ︵1︶ であげた文献をおなじく参照のこと。
者ヨハネ︾ の主題﹂。
聖性とヴィジョン﹄名古屋入学出版会、二〇〇四年、第七章﹁二点の︽洗礼
︽ArtHistOry︾︶MUハーく﹀N00−﹀pp.澄?宗だ宮下規久朗 ﹃カラヴ7ツジョ=
C弓等長官干害華9吏≡ぎ賀こ萱辱ヨ去喜=ゴ註きき已迂訂主ぎ註S
ー浩申cat.nO.N⋮CONRADRuDOLPH︶STEくENF.〇sTROWJsaacLaughing︰
では画家自身はといえば、この絵画についてどのように意識して
読むべきだったのかもしれない。
アこそ悪くはなかったのだが、テクストをもうすこしよく注意して
ても、まったくおかしくはないだろう。ギルバートはそのアイディ
賞者たちが、このイメージにフィリクスやパリスを認めたのだとし
124
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︵9︶DENISMAHONUC9已さ讃無二ぎArTだ乳Or訂已竜監ぎ隼づEO知采eミぎ1昌C訂仇
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︵4︶ CHR−STOPHLuITPOLDFROMMEL︶C弓きQ恕・訂53一計計SnrかS諷詠r爽打r軋ぎ巳MAHON︶DENYSSu]ON︸Ar叶訂訂訂︼ヨ涼CS言責知箋眉Cata−OgOdeEa
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︵12︶PAOLASANNUCCl︶、ヨ已雪ぎ〇m訂訂C已C白LnanミScPN訂莞乱れに3
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Cit.︶p.︺∞.
︵5︶ C.し.句ROMMELuC葛等長官琴等監室数cit.も.︺−.
m℃琵琶n莞℃已eN叶、莞∼訂ce♪m鳶、g首鼠計れ無知03P﹀ROma︶appreSSO
︵13︶RODOLFOPAPAL∼cO已軋已叶○へへ的白岩G㌻旨さ已已、、軋町CQr白CPgg㌻莞∼訂
︵11︶この見解をもっともはやく提示したのは、つぎのノートである。LILIANA
Bia乳ODenerpn﹀e﹃e−ice Cesaretti﹀ne−−astamperiade−﹃a−cOL栗谷︵cOn
七訂宍○訂C白C雇を隷書ここ至き岩註工訂二ArteDOSSier警C舛兄UハH二等∞﹀
︵6︶ GlO<ANNIBAGLlONE﹀トmu謀計ゞ註Orh究已訂﹁ha弓Cだ訂註.b已七〇已忘C已Q
pre許ziOneeCOmmentOaCuradiEM呂ANOCCAu ROmaJstitutONaziOna−e
pp.N∞・uN.
︵ほ︶宮下前掲書、第七章﹁二点の︽洗礼者ヨハネ︾の主題﹂、とくに一八七−二
︵14︶C.RuDOLP眉S.F.〇sTROWJsaacLaughingcit.︸pp.謡い・雪や
diLだcFeO−○乳aeStOriade−−匡rteL当箪p.缶.
︵7︶ ﹃.CAPPELLEコl︶し.TESTAL二言更㌢∵已C白岩CQgg訂cit.︶p.N蓋い句.
CAPPELLE]l︶LTESTA︸知訂mrc訂軋OCgSS叶琶訂cit.らp.詔・遥二準
︵8︶ RIDOLヨNOくENUTluAcc§已きebgCぎぎ軋謡CrれN訂莞叫竜馬rPbcPe訂ざr訂む 〇二頁。
軋れ知○ヨQ30軋nr⊇PV ROmaV preSSO Car−○出arbieEniL謡のu pp∴岩戸∴︵
笥
J
6
1
︶GASPARECELiO﹀竜qSOr訂甘認白丸已訟g喜rGP5℃弓nC已訂二計た、ぎ已ご訂=S
のローマ・ガイドあるいは美術館カタログがおなじように記述しているが、
COrSOVロeEastamperiadiLOrenZOCappOniLヨー︶でLNpほかにもいくつか
ぎミO e温も革C訂30札内⊇eV ROma︶ne−−a−ibreria di﹃austO Amidei a−
︵17︶G.CELlO︶廷内SQ﹁ぎcit.﹀p.−uP
E−ectaL宗ヨp﹂−.
anastaticaLntrOduziOneeCOmmentOCriticOaCuradiE.ZOCCA﹀Mi−anOu
ずcc叶已♪屯℃已eN軋無知03やNapO−i︸perScipiOneBOnin〇二註∞︵ristampa
G−○くわZNI PIETRO ROSSINlL∼竜qrc§訂er⊇ミn計∼訂grP諸賢NNn無知OSP、Cぎ訂ぎbeS303れ軋e∼∼、聖注意Cれ軋乳訂官記§凡、C許等30訂已cg莞C已謡♪
それらの事例についてはあわせて以下参照。ROSAL−AくAROLTPIAZZA︸∼∼
−125−
︵81︶GERDAPANOFS芥Y・SO買GEL﹀N§G謡C已Cだe計的b已eNO竜P誉れ軋れG訂完
レ﹀
・マルヴァジアの美術史叙述についての覚え書き﹂ ﹃西洋美術研究﹄ 三元
︵27︶ G.CEL−○﹀旨訂ヨOr訂cit.︶ppL甲声−ヤー∞㍍?NrNPN?N00㌫︼LUL?畠︶畠・
、こ
第き
一三
︽R8misches計hrbuchPrKunstgeschichte︾︸舛−こ疫学−貨車でp.−社当
﹀号、二〇〇七年 ︵公刊予定︶。
−讃こ∞0.
G〇二いやーu∽Lu↓こい?−巴.
︵91︶WALTERFRIEDLAENDER﹀CPr白岩gg訂慧∈乱れ謡︸PrincetOn﹀Pri
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UniくerSityPressL沼騨pp.∞92.
︵29︶ G.CELlOL卒等更弓訂cit.﹀pp.Nyu00㌫Nニー応LNP
︵20︶LEONARDJ.SLATKES﹀CQr白岩gg訂、恥へbe叶O﹁﹃﹁訂〇、︸︽N︵
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KunsthistOrischJaerbOek︾︶kUハーHlL笥N︸pp.彗・↓N.
︵21︶CREIGHTONE.GILBERTVC弓§点温○喜鼓短針ゴ喜C弓軋ぎ已仇﹀Uni︵
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︵31︶ G.CELlO﹀旨訂SO﹁ぎcit.﹀pp.︺・の.
∽∽・巴︰︽∽宅hatSOrtOfShepherdisFrisO弓¥いっぼうでエンマ・ゾツカは、Mi−anO﹀perGiOくanniSi−くeStriL00NNL−H﹀pp.∽宗・∽ご.
おなじくコぎsO﹂を﹁才igiO﹂と読みかえて﹁その絵画がフリギア帽をかぶ
貿sO﹄という表記はあさらかにしめしているように思える﹂とするのだが、
︵m禦 E.ZOCCA﹀旨等○軋民訂莞LnG.CELlO︸竜mSOr訂cit.﹀p.巴.国立美術史・考古
︵33︶ G.CELlO﹀転化ヨO﹁訂cit.もニー.
3r
2︶ G.CELlO﹀旨訂SOrぎcit.﹀p.P
る若者ungiO<aneCOnberrettO守igiOをあらわしていることを、﹃past︵
O
しかし結果的には、それがわたしたちの作品とはまったくちがうものだと断
いり−.
れていない。
ィルム化されたが、ms.U∞の旧配置番号をもつこの資料については対象とさ
定している。E.ZOCCA﹀COSS害すcrh訂cOLnG.CEL−○﹀竜qSOr訂cit.︶n学.研究所付属図書館に所蔵される手稿本は一九九〇年代にすべてマイクロフ
︵22︶G.CELlO︶旨訂ヨ雪ぎcit.﹀pL宣.
む計∴2岩C彗軋㌻巳的ぎCr乳gだ書中9蒜内ユ﹁.ト︽TheBur−ingtOn
ChiesediROma﹀COmeneEiPa−azz−﹀e二がcciatiVCOna−cune﹀statue︶Ve﹀nOme
dachisOnOStatidepiロtea−cunepitture︶pr−nC−pa−i︸eChesitrqくpnOne−1e
︵23︶たとえば、つぎの書評などを参照のこと。HELENF宕GDON﹀C弓§点g訂日記軋 ︵35︶ Bib−iOteCapロge−ica﹀mSL宗00﹀C.余<.なおタイトルについては、﹁MemOria
MagaNine︾﹀C賀くHHL遥ypp.箆−・のNN.
︵36︶ JuL−USScHLOSSERPFGNINO﹀ト日計等﹁已§Q§訂賢やtraduziOnediFILHPPO
︵24︶G.CELlO︸ゝ倉ヨOr訂cit.upp.N−﹀Nu㌫︺忘N・畠忘↓㌫の㌫○㌫−這Uldも
﹀A
¢r
L
ch
Oi
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とされている。
−ANLひ0.
UniOnetipO讐a芽?EditricetOrineseL等∽︸舛H〆pp.∽〇千gひ.
Se讐etOくaticanO﹀mSS.〇ttObOnianaNさの﹀N害い.
NuOくa−ta−iaL石貨ニー諾箪p.苦〇.配置番号はそれぞれ以下である。とりChiS.O
︵25︶SALくATOREBA]AGLIA︸GrQ⊇札内軋れN訂⊇弓訂計∼訂訂、登呂訂已訂苛やTRO
OS
r
S−
i
こn
er
O
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︸
ediNiOne ita−iana agg岩rnatada OTTO KURZ﹀﹃irenze︶La
︵26︶GlOくANNAPER−NlL〓打数冨諷乳≧已書鼓舞莞さ:挙ヲ苫㌻ぎご註守ぎ
チェーザレ・マルヴアジアの言語については、あわせて以下参照。高橋健一
︵39︶ G.BOコARlV知gC已叫Q軋こe託qrm岩、訂官記弓やSC巳へ弓Pa弓Cだ訂琵琶Q
︵38︶ G.CELlO﹀竃mSOr訂cit.﹀p.NN.
︽StudieprOb−emidicriticatestua−e︾︶肖−1−こ謡rpL革ま︵
た3カ
7︶
ル ロ
G・
.BOj島l読.TICONN−︶知宍CQ∼訂乱こ乳首﹁qcit.﹂Ⅰ−︶pp.設?ひコ.
﹁﹃小説のように見えるが、すべて真実であるだろう﹄︰カルロ・チェーザ
一126 【
∽Cl賢内乱Pゞれ㌢C乳註rれ℃⊇甘訟零れC訂訂軋乳首弓nbO﹁れ﹁〇、6軋已篭C.叛く已 ︵51︶ RIDOL岩CPEPEGGl﹀句軋訂﹁ヨ訂軋Q﹀B0−0叫ロa﹀preSSOg−iHeredidiGiO.ROSSiリ
た、同書の成立については以下に詳しい。G.PERINl︶ト∈隠町Cr内名こ莞注ぎ
内れ∼rg訂軋れG訂岩声已卜已gh一ざ訂乳○﹀︽L︸ArchiginnasiO︾﹀舛Cくー︶N00r pp.
トq七1町SmahN叫○已qr宅﹁謡3ぎN訂已計∼Fi−armindO註知己OL盲Ce↓ぶ痘叫札
当qL〓Hi﹀ROma﹀appreSSONicc0−0︶eMarcOPag−iariniL讃ヤーー
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この ﹁第四の牧歌劇﹂ については、以下参照。KENICHI TA只AHASHl﹀
等CarrObbiO︾﹀舛lL諾いもp.Nu?N巴.
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︵40︶G.BOTTARl︸S.TICOZZlu知gCO∼叶白丸こ乳首﹁mCit.﹂−1﹀pp.た
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∽ご.
︵41︶G.CELH○リ≧灯SOr岩.Cit.︶p.uN.
︵42︶チェーリオのひととなりについては、以下参照。G.BAGL−ONEこr∵已訂cit.︹
﹀付記︺ わたしの気まぐれな思いつきにお付き合いくだきり、寛大にも発表の機会
pp.u∃・︺∞rCARLOCESAREMALくASIA︶句已乳コ白官記r訂内.S叫m計官ま
記で
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Nえてくださった神戸大学の宮下規久朗先生に、感謝します。
g∼局莞訟軋乳cS訂CP﹁訂C謡§n旨訂訂e訂cO講義岩已♪COrreN訂已内岩訂
訂乱れ訂軋巴ヨ乱語れヨQ白ミQrn軋れG訂3℃岩等OZeS註m軋れ已守れ払Cr註Qrれ
和歌山大学教育学部専任講師
CをSFB0−Ogna︸TipOgraPaGuidiaE︶トロCOraL∞たこもp.N誤・N高
芸.
橋健一︵たかはし・けんいち︶
︵43︶E.ZOCCA﹀計等○軋宍訂莞Cit.︶で.舛−H.
︵44︶G.BO]ARl﹀S.TICOZZ−﹀知gCO∼nQ軋こ乳首﹁qcit.ユー−︸pp∴奉
専㌣
門繁
は華
イタリア美術史・美術批評史
︵45︶E.ZOCCA︶、ミ﹁○軋莞訂莞Cit.も.舛−H.
︵46︶G.BO]ARJb訂∼局だ功名﹁Q訂≠rm彗託計∼軋計量喜軋れb含ま.G訂亡.加え叶弓﹁
鴎軋れN訂莞完COさ軋P莞Cl謡C訂ぎ軋れQg已号○乳首∼長明已P丸さ岩乱れかN訂訂白
鼠等を這軋ごS注ぎ§岩空き:邑≡註註崇ご注ぎ岩已華詳註2已音註染
勺点叫hVParma︸perPietrOFiaccadOriL00缶﹀p.−宗.
︵47︶EuGENlO出ATT−STl﹀AF⋮二㌢⊇ヨ昌こ讐:導ヨ:註CPr白岩ggれQ﹀
︽COmmentari警くーこ浮びも﹂∞N.
︵48︶MIACINOTT千草已邑ぎ噂話こき罫㌫告ぎこC雪雲長官ぎ叶ミ訂訂竜mrq︸
Sagg岩CriticOdiGIANALBERTODELL︸AcQUAVBergamOVPO−igra︷訂heBO−is︸
−謡い︸p.uNN“ASGDOカW.G.POS酔Q﹀C弓︵岩︹黍叫岩白さ軋叫訂A蚤首長LOndOn﹀
AくOnB00ksL等∞﹀pp.畠ム∞.典拠については註︵10︶を参照。
︵49︶テオクリトス﹃牧歌﹄古澤ゆう子訳、京都大学学術出版会、二〇〇四年、
﹁第四歌牧人たち﹂。
︵05︶ウェルギリウス﹃牧歌・農耕詩﹄河津千代訳、未来社、一九九四年、﹁第二
歌コリユドン﹂。
−127−
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