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ASEAN 憲章—共同体形成の礎として - 防衛省防衛研究所
ブリーフィング・メモ ASEAN 憲章――共同体形成の礎として 研究部第 3 研究室教官 庄司智孝 1967 年に発足した東南アジア諸国連合(ASEAN)は、40 周年にあたる 2007 年に、組織に 法人格を与えると同時にその目標と原則を提示する憲章(ASEAN 憲章)を制定した。制定の プロセスは 2004 年にさかのぼる。同年 6 月の ASEAN 外相会議において、加盟国外相は憲 章の制定に合意した。そして翌 2005 年 7 月の外相会議は、憲章の内容について助言を行う 賢人会議(Eminent Persons Group, EPG)を設立することで合意した。EPG は憲章に盛り込 むべき条項に関する話し合いを重ね、「ASEAN 憲章に関する賢人会議のレポート」(EPG 報告書)を 2007 年 1 月にフィリピンのセブ島で開催された ASEAN 首脳会議(以下サミッ ト)に提出した。同サミットで ASEAN 首脳は EPG 報告書を承認の上、憲章草案を起草す る特別委員会を設置した。起草委員会は 2007 年 11 月 20 日のシンガポール・サミットに草 案を提出し、加盟国首脳の調印によって憲章の制定は完了した。現在各メンバーは国内の 批准手続に入っている。2008 年 1 月 7 日、現議長国シンガポールは憲章を批准した最初の 加盟国となった。 元 ASEAN 事務総長であるロドルフォ・セヴェリーノは憲章制定の背景として、東南ア ジアを取り巻く環境に関する大きな 2 つの変化を挙げている。第 1 に、経済のグローバル 化の進行と、めざましい経済成長を遂げている中国とインドの台頭である。そして第 2 に 安全保障の観点から、環境、国境を越える犯罪、国際テロ、伝染病など非伝統的脅威の問 題が深刻化している点である。ASEAN はこうした環境の変化に適応するため、経済・政治・ 社会文化面で効果的かつダイナミックな、より統合された地域機構を目指し、共同体の形 成を進めている。そして共同体の基礎をなすものとして、憲章の制定が位置づけられてい る。 憲章制定プロセスの第 1 段階としての EPG 報告書は 3 部構成になっており、うち第 3 部 が ASEAN 憲章に盛り込むべき提言を列挙している。ここで EPG は従来の ASEAN の主要 原則を再検討するよう提言した。まず、内政不干渉原則の見直しに通じる制裁条項の導入 1 である。第 3 部第 3 章は加盟国の資格に関する規定の提言であるが、ここで EPG は ASEAN の宣言、協定、条約にある目的、原則、取り決めや規範、価値について重大な違反を侵し た加盟国に対し、権利や特権の一時停止を考慮するよう求めた。 こうした議論の背景にはミャンマー問題があった(ミャンマー問題と憲章制定プロセス の関係については、松浦吉秀「ミャンマー情勢と ASEAN」(防研ブリーフィングメモ)を 参照のこと) 。軍事政権の下、民主化が遅々として進まず、人権抑圧の事例が疑われる同国 に対し、欧米諸国は強い批判を続けてきた。そしてミャンマー軍事政権に対する非難の高 まりが、ミャンマーを加盟国の 1 つとする ASEAN に対する国際的な信頼性にまで波及し かねない状況となった。そのため報告書では、ASEAN は加盟国の内政問題に対しその解決 を迫り、不履行の場合には制裁措置を科すという意味での内政不干渉原則の変更が示唆さ れた。 内政不干渉原則の見直しに加え、コンセンサスに基づく意思決定方法も再検討された。 EPG 報告書第 3 部第 5 章は、意思決定過程に関して新たな提言を行っている。それは一般 的なルールとして、特に安全保障や外交といった微妙な領域の問題に関しては協議とコン センサスに基づき意思決定が行われるべきであるが、他の問題については、もしコンセン サスが成立しない場合は、単純な多数決、あるいは 3 分の 2 や 4 分の 3 の賛成票に基づく 投票方式により意思決定を行うというものである。 しかし、EPG 報告書の野心的な提案内容はその後徐々に軌道修正された。EPG メンバー の 1 人であるインドネシアのアリ・アラタス元外相は読売新聞のインタビューで、制裁条 項や多数決方式の導入を支持しつつも、ASEAN は欧州連合のような政治統合は追求せず、 経済面での市場統合を最大の目標とすることを主張した。2007 年 3 月 2 日にはカンボジア のシエムリアップで非公式外相会議が開催され、憲章草案に関して討議が行われた。そし て憲章起草部会のフィリピン代表であるロサリオ・マナロ元外務次官は、同会議で加盟各 国は制裁条項の導入を見送ることで合意したことを明らかにした。また意思決定方法につ いては合意に至らなかった模様である。ベトナム代表のファム・ザー・キエム副首相兼外 相は、ASEAN 成功の鍵となるのは内政不干渉とコンセンサスの原則であることを憲章は特 に重ねて言明すべきであるとの見解を示した。 2007 年 7 月 29~30 日にマニラで開催された ASEAN 外相会議でも憲章の意思決定条項 と制裁条項に関する議論が続いたが、当会議で加盟各国は合意に至らず、結論は 11 月のサ ミットに持ち越された。このように新制度の導入に逆風が吹くなか、迅速な意思決定と合 2 意の確実な実行によって ASEAN の機構としての信頼性を向上させるため、制裁条項は必 要との意見も根強く残った。オン・ケンヨン ASEAN 事務局長(当時)は 8 月 24 日にマニ ラで開催された ASEAN 経済閣僚会議において、経済分野の合意事項に違反した加盟国に 対し、制裁を科す規定を導入することを主張した。 また EPG 報告書は、ASEAN が外交官と他政府関係者のみから構成されるエリート組織 というイメージを脱し、真に加盟国間の人々の共同体となる必要性を説いていた。そのた め憲章草案の策定においては、ASEAN の地域としてのアイデンティティ形成を進める一環 として企業関係者、学識者、人権擁護団体、そして一般市民から広く意見を聴取するとし ていた。ただ実際の草案起草は特別委員会によって非公開で進められ、一般市民の見解が 草案へ十分に反映されたかは定かではない。こうした「エリートの共同体」から脱しきれ ない ASEAN のあり方にも一部批判が向けられた。 2007 年 9 月、ミャンマー軍事政権が民主化を要求する僧侶と市民のデモを武力で排除し たことに国際的な非難が集まるなか、ASEAN が憲章での内政不干渉原則の扱いについてど のような結論を出すかが注目された。しかし、ミャンマーを含む ASEAN 各国首脳は、現 段階で全加盟国が合意できる憲章の制定を優先し、採択された憲章の内容は現状維持に近 いものであった。11 月 20 日にシンガポールで行われたサミットにおいて、加盟各国は憲章 に署名した。 憲章は前文と全 13 章、全 55 条からなる。憲章前文では、ASEAN 加盟国が主権、内政 不干渉、コンセンサスの基本的な重要性を尊重し、また民主主義、法の支配、人権といっ た原則を遵守し、さらに安全保障、経済、社会・文化の共同体を形成するにあたり、憲章 を通じて法的・制度的枠組を確立することを決意する旨がうたわれている。 第 1 章は ASEAN の目的と原則を列挙している。同章は、単一の市場・生産基地を創出 し、ASEAN 内の貧困と経済格差を緩和するという経済面での目的に加え、地域的強靭性、 民主主義と人権、対外関係における主要な推進力としての ASEAN の中心的・積極的役割 の維持といった政治目的に言及している。また安全保障面では、ASEAN 内の平和と安定の 維持、非核地帯としての東南アジアと同時に、環境・資源といった非伝統的安全保障をも 含む包括的安全保障を提唱している。そしてこれらの目的を追求するための原則として憲 章は、主権の尊重、紛争の平和的解決、加盟各国の国内問題への不介入、協議の推進など をうたっている。 ASEAN に多国間政府組織としての法人格を付与する旨を規定する第 2 章に加え、第 3 3 章は加盟国について定めている。ここで注目されるのは、既述の通り加盟各国は加盟国と してのすべての義務を遵守し、そのためにあらゆる必要な手段を講じるとしているのに続 き、深刻な憲章違反・不遵守の場合は、その対処につきサミットに付託されると規定して いる点である(第 5 条)。今回、加盟国に対し具体的な制裁を課す条項は憲章に盛り込まれ ることはなかったが、この第 5 条に基づき、加盟国に対し憲章や地域連合のとりきめの遵 守を求め、それに違反した場合に何らかの措置を講じることは不可能ではない。第 4~6 章 は ASEAN の各組織に関して定めており、最高政策決定機関としてサミットを位置付け(第 7 条)、ASEAN の各協定・決定の履行状況を監視するという権限を ASEAN 事務局長に付 与している(第 11 条)。 第 7 章は意思決定についてである。同章の第 20 条第 1 項は、基本原則として ASEAN の 意思決定は協議とコンセンサスに基づくと規定している。そしてコンセンサスが成立しな い場合は、サミットが特定の意思決定を行う方法を決定する(同条第 2 項)。さらに第 21 条第 2 項は、経済政策に関して「ASEAN マイナス X」方式を含む柔軟な方式が加盟各国の 同意を前提として実施可能であることを明記している。従来のコンセンサスに基づく意思 決定の原則は基本的に維持されているものの、経済政策等可能な領域から迅速かつ柔軟な 意思決定を行うことが期待される。第 8 章の紛争の解決規定は、対話・協議・交渉を通じ た紛争の平和的解決を前提に、紛争の当事国は ASEAN 議長国または事務局長に対して仲 裁を依頼することができると定めている(第 23 条第 2 項)。また紛争の解決のために適切 な仲裁機関を設立することが可能であり、紛争が未解決の場合、最終的にはサミットへの 付託が可能である(第 25、26 条)。 このように ASEAN 憲章は、ASEAN の経験によって蓄積された行動原則を再確認して明 記すると同時に、より強固な共同体を形成するための新たな規定を盛り込んでいる。 ASEAN は意思の不統一や実践の遅れがたびたび指摘されてきたが、今回の憲章では従来の 原則の大幅な変更は見送られたものの、サミットを中心とする機構面の強化にその新味を 見出すことができる。今後は憲章の批准、運用とそれに基づく共同体の設立が焦点となる。 議長国シンガポールは早々と憲章を批准し、2 月にブルネイ、マレーシア、ラオス、3 月に ベトナム、そして 4 月に入るとカンボジアがそれぞれ批准手続きを完了した。たが、フィ リピンは憲章が調印されたシンガポール・サミットの時点で既に、ミャンマーの状況が改 善しない限り憲章の批准を留保する意向を表明している。またインドネシアの議会は憲章 の批准をめぐって意見が二分されており、その展望は不透明である。各国の批准が順調に 4 終了し、憲章が発効するかということ自体が、ASEAN の地域機構としての実効性を問うて いるのである。 参考文献 “Charter of the Association of Southeast Asian Nations”, Singapore, 20 November 2007. http://www.aseansec.org/asean-charter.pdf “Report on the Eminent Persons Group on the ASEAN Charter” http://www.aseansec.org/19247.pdf Rodolfo C. Severino ed., Framing the ASEAN Charter: An ISEAS Perspective (Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, 2005). 松浦吉秀「ミャンマー情勢と ASEAN」(防衛研究所ブリーフィングメモ、2007 年 12 月) http://www.nids.go.jp/dissemination/briefing/2007/pdf/briefing1225.pdf 5