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Babel - タテ書き小説ネット

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Babel - タテ書き小説ネット
Babel
藤村 由紀
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
Babel
︻Nコード︼
N4660BI
︻作者名︼
藤村 由紀
︻あらすじ︼
ミナセ
シズク
★ 電撃文庫より2巻まで発売中。
大学1年生の水瀬 雫は大学からの帰り道、ある日おかしな穴に遭
う。
穴に吸い込まれ放り出された先は、見たこともない異世界だった。
魔法が当たり前の世界に困惑と共に降り立った彼女は、帰る方法を
探す為旅に出る。
隠された大陸の真実。言語と変革にまつわる物語。
1
1960∼1961年︾
歴史に残らぬ少女と魔法士の旅路が、今始まる。
︽memoriae
※自サイト転載。
2
はじまりの言葉 000
始まりは穴だった。
何の脈絡も無く、彼女の眼前に開いた穴。
どちらから開いたのかなど分かるはずも無いが、周囲には何の人
影もなかったことは確かだ。
後にあの穴を思い出す時、彼女は首を捻らざるを得ない。
果たして二つの世界を繋げた虫食い穴は、﹁彼女﹂を選んだのだ
ろうか、ということを。
水瀬 雫は重い鞄を肩に負い直した。無意識に息をつく。
太陽からの光は明確な圧力を以って彼女に押し寄せてくる。
もうあと数日で八月に入るのだ。今、彼女が住んでいるこの地域
は九月末まではたっぷり熱気に見舞われるだろう。
﹁重い重い﹂
ぼそっと呟いた雫は、こんなことを言ったら余計重く感じるかな、
と思いなおす。頭の中で﹁軽い﹂と呟いてみた。
彼女の持つ鞄の中には二冊の辞書を始め、本が六、七冊入ってい
る。試験が終わり夏休みに入った大学からレポートの為の資料を借
り出したのだ。特に英和と独和の辞書が心理的にも重みを担ってい
る気がするが、この二冊がなくては何も出来ない。
大学に入学して初めての夏休み、雫はいくつか出ているレポート
の予定と友人との約束を反芻しながら熱されたアスファルトの上、
歩を進めた。
3
ふと顔を上げると車がいない道路の先は熱気で歪んでいる。灰色
の道の上、キラキラと光る逃げ水が目を引いた。
それに気づいたのは、顔から手をどけたその時だった。
雫は左手で額の汗を拭う。
︱︱︱︱
いつの間にか目の前に穴が開いている。
何の支えも、現実味もなく、まるでドアが突然現れたかのように
真っ黒な楕円形の穴が空中に浮いていた。
﹁何これ﹂
雫は足を止める。このまま進んでしまっては穴にぶつかるのだか
ら当然だ。彼女は顔をしかめて黒い姿見のような穴を睨んだ。
熱射病にでもなってしまったのだろうか。それで幻覚が見えるの
かもしれない。
だとしたら倒れて往来の迷惑になる前に自分で日陰に移動すべき
だ。
そう思って穴の横を通り過ぎようとした彼女は、横から見ると穴
は一本の線に見える、つまり平面であることに気づいて目を丸くし
た。
何だというのだろう。まるで古い映画に開いた虫食い穴だ。
恐れと好奇心が同時に生まれた。
少しだけ、そう思って彼女は手を伸ばす。穴に触れるギリギリに
手をかざした。
何の温度も圧力もない。
雫は唾を飲み込む。
だがその時、急に風が吹いた。
世界に吹いたのではない。彼女を吸い込むように穴が急激に周囲
の空気を引き寄せ始めたのだ。
﹁ちょっ⋮⋮と!﹂
雫は慌てて足を踏みしめる。何か捕まることのできるものはない
4
かと後ろを振り返った。
何もない。誰も居ない。
誰も彼女に気づいていない。
頭の中が真っ白になる。
逃げなければ。
彼女は必死で手を伸ばす。
悲鳴が喉につかえた。
あれだけ重かった鞄が穴に吸い込まれる。左手が、半身が黒い穴
に没した。
﹁誰かっ⋮⋮﹂
必死の声が熱気に掻き消える。
伸ばした手が空を掴む。
何の叫びもなく
何の痕跡もなく
そうして水瀬雫は世界から忽然と姿を消した。
広がっているのはただ闇だ。
何も見えない。目を開けられない。
濃密な何かの中に漂っているような感覚。
全てがそこにあり、黙している。
それは無遠慮な力。冷たい視点だ。
彼女が小さく震えたのを皮切りに、何かは彼女の中に入ってくる。
忍び込み、沈殿する。
まるで圧倒的な転換。歪められる存在。
彼女はその瞬間全てを理解し、そして全てを忘れた。
5
記憶は連続していたようにも、断裂していたようにも思える。
気が遠くなる熱気に雫は目を細めた。
空を仰ぐと何かが上空を飛んでいる。鳥というにはおかしな形の、
飛行機ほどに大きなそれはゆっくりと羽ばたきながら遥か遠くへ消
えていった。
﹁ドラゴン?﹂
自分の呟きに自分で馬鹿馬鹿しさを覚えて彼女はかぶりを振る。
とても暑い。今まで以上に。左手の鞄を持ち直した。
そこでようやく彼女は周囲を見回す。
気づいていなかったわけではない。気づきたくなかったのだ。
踏みしめているのはアスファルトではなく白砂。
漂う空気は湿り気のない乾ききった風。
広がる砂漠に一人立ち尽くす雫は、あまりにも非現実的な光景に
今度こそ本当に倒れそうになって、そして、日陰などどこにもない
ことにようやく気づいたのだった。
6
001
風が巻き上げる砂が顔にあたって、雫は腕で顔を覆った。
まったく意味が分からない事態である。ただ言えることは日差し
がきつすぎて目が回るということだけだった。
着ているものはノースリーブの白いシャツにサブリナパンツ。ア
ウトドアの経験がほとんどない彼女にはこの服装が砂漠の中、命取
りなのかそうでないのか分からない。
夢ならばそれでいいが、違うならばここに立ち尽くしていては不
味いだろう。
360度辺りを見回して雫は地平ぎりぎりに砂漠の境界があるこ
とに気づいた。そこから先は黒い影がちらほら見える。背の低い草
も。砂地から草原に移り変わっているのかもしれない。雫は短い間
に決心した。
﹁ペットボトルが一本⋮⋮間に合うかな﹂
鞄の中には飲みかけの水のペットボトルが入っている。
白昼夢などの経験は雫にはない。これが現実だと断じることも出
来ない。
だが幻覚であることを期待して動かなければ、そうでなかった時
命に関わることは確かだ。
﹁現実では道路に歩き出したりしている、なんてことになりません
ように﹂
彼女は鞄から長袖の上着を取り出すと頭に被った。冷房が効いて
7
いる場所の為にいつも持ち歩いているのだ。
重い鞄を肩に負う。本を置いて行こうかとも一瞬思ったが、図書
館の本を捨てていっては帰った時に困るだろう。
念のため携帯を取り出してみると圏外だった。雫は溜息をつきな
がら苦笑する。
﹁よし、行く﹂
意外と冷静でいられる自分に心の中で賛辞を送りながら、彼女は
この世界初めての一歩を踏み出した。
例えば立っていた場所が砂漠でなかったら、動転し困惑の叫びを
あげていたかもしれない。
しかし実際は、命に関わるかもしれないという静かな恐れが動揺
を押し込めた。
一歩一歩が砂に埋まり、スニーカーの中がざらざらになっていく
中、雫は歯を食いしばって歩いていく。
草原は歩いても歩いても一向に近づいてこない気がした。時折口
に含む水は生温かったが、ひどく貴重なものに思える。呼吸をする
度に鼻の奥に砂塵が入る気がして憂鬱になった。
家族が心配するかな、という不安がふと彼女の頭の中を過ぎる。
雫は三人姉妹の真ん中で、おっとりとしていて優しい姉と、しっ
かり者で厳しい妹に挟まれ、可も不可もなく育った。
姉よりは現実的で妹よりは穏やかだと思っているが、自分個人で
見た時にどういう人間なのかと問われてもよく分からない。姉や妹
とは同じ小中高に通い、ずっと比較される中で生きてきたのだ。自
分というのもまず姉妹と比しての自分しか思い浮かばなかった。
このまま自己というものが曖昧なままではよくないかもしれない
と思った雫は、意を決すると大学では親に懇願して学生会館に住み、
8
県外の女子大に通い始めた。
大学ではまず教養科目をやっているが、好きな科目を選んで授業
を受けられるということは思いの外楽しい。サークルには入ってい
なかったが、これからでも間に合うであろうし、バイトもしてみた
い。
期待と可能性が詰まっている夏休み、だが現実に今、彼女がいる
のは砂漠だった。
﹁夜の点呼の時にいないって気づいてもらえて⋮⋮捜索とか警察と
かに連絡がいって⋮⋮そもそもここどこ﹂
雫が思いつく中で日本にある砂漠と言えば鳥取砂丘だ。
何故数百キロ離れた鳥取に出てしまうのかは分からないが、もし
ここが鳥取砂丘だとしたら、まあ帰れる範囲と言っていいだろう。
そうではないとしたら⋮⋮と思いかけて、雫はひとまずその考え
を棚に上げた。ただでさえ過酷な状況にあるのに嫌な想像をするこ
とはない。向き合うべきは目の前の砂漠だ。
くらくらと視界が歪む。
体が重い。
もう一度あの穴が現れたのなら、今度は自分から飛び込んでやる
のだ、そう思って彼女はただ歩き続けた。
街道という程大きくはない道を荷馬車が走っていく。
馬車には、街で仕入れた物を小さな町に持ち帰る商人ら数人が乗
り合わせていた。
﹁綿織物が少し値上がりしていたな﹂
﹁最近アンネリの情勢が不安だからじゃないか? あそこに何かあ
ると綿毛は大打撃だ﹂
﹁違いない。少し多めに買っておいた。どうせ女たちが欲しがる﹂
﹁そういえば最近、西の方の国では奇病が流行っているらしいぞ﹂
9
﹁奇病? 伝染するのか?﹂
﹁いや、子供たちだけだそうだ﹂
情報と噂話の間に位置する雑談に花を咲かせていた商人たちは、
馬車が急に速度を緩め止まったことで会話を中断した。一人が幌を
めくり外を見てみるが、まだ町には着いていない。別の男が御者に
声を掛けた。
﹁どうしたんだ﹂
﹁人が倒れている﹂
簡潔な答に商人たちは顔を見合わせた。
二人が荷台から下り外を見回すと、確かに前方の草原に人が倒れ
ている。
駆け寄ってみるとそれは若い女だった。一人が女の脈を取る。
﹁生きてるぞ﹂
﹁こんなところで何しているんだ。行き倒れか?﹂
﹁砂だらけだ。砂漠越えをしたんじゃないか﹂
﹁まさか。こんな服装で越えられるわけがない﹂
女は見たことのない変わった格好をしている。
少し茶色がかった黒い髪。顔立ちからしても異国の人間だろう。
そのせいか若いということは分かるが、年齢もよく分からなかった。
﹁ともかく馬車に運び込もう。熱射病だとしたら不味いぞ﹂
﹁誰か水持って来い!﹂
慌しく男たちが動き出し、彼女は荷台に運び込まれる。
中で待っていた商人の妻が布を水で塗らして女の顔を拭った。熱
された黒髪に少しずつ水をかける。
乾いた唇に水を含ませ、湿した布で服の上から腋の下を冷やした。
商人たちの視線を受けて、様子を窺っていた妻は頷く。
﹁多分大丈夫だわ。町についたら休ませてやれば﹂
﹁ならよかった。にしても随分重い荷物を持っているな、何だろう
これは﹂
﹁一緒に持っていってやればいい。大事なものが入っているかもし
10
れないだろう﹂
予想外な荷物を増やしながら馬車は再び走り出す。
彼らの町に辿りつき、商人の家で寝かされていた雫がようやく意
識を取り戻すのは、すっかり夜になってからのことだった。
目が覚めたら知らない場所だった、という事態は余り経験したい
出来事ではないに違いない。
雫は見覚えの無い天井をまじまじと見つめる。
ここはどこだろう。少なくとも部屋は暗く、明かりは窓から差し
込む月光だけだということは分かった。
体を起こして小さな部屋を見回す。何とも言いがたい違和感が彼
女を襲った。
その理由はすぐに判明する。
彼女のいるこの部屋は、日本を感じさせないのだ。
木の張られた床。簡素な寝台。家具は小さな洋箪笥が一つあるだ
けだ。
よくある洋室のように綺麗でも整ってもいない。粗末で古い部屋
だが手入れは行き届いていた。
むしろこれが畳の部屋であったら雫も納得できただろう。何十年
も庶民が暮らしてきた家という雰囲気がここには漂っている。
そこまで考えて、彼女はようやく昼間のことを思い出した。
熱砂の中ひたすらに歩き続けた記憶。
夢なのかとも思ったが、何気なく髪を指で梳くとざらざらとした
感触が纏わりついてきた。
雫は白砂がついた手に目を落とす。
﹁意味わかんない﹂
ぽつりと洩れた呟き。
自分自身の言葉を聞いた彼女の心に急に恐れが湧き上がってきた。
11
一体自分は今、どこにいるのか。
何があったというのか。
指先が震える。
鼻の奥がつんと熱くなった。
泣き出しそうになって唇を噛み締める。
その時、部屋の扉がノックされて雫は顔を上げた。
﹁はい!﹂
﹁あ、起きたんだね。よかった﹂
入ってきたのは三十歳前後の女だった。人のよさそうな穏やかな
笑顔が雫に向けられる。
彼女は手に持っていた蝋燭の火で部屋の燭台に明かりを灯した。
部屋の中に暖色の光が満ちる。雫は温かさに僅かばかり安堵した。
﹁あの、私⋮⋮﹂
﹁あんたは行き倒れてたんだよ。まさかその格好でスイト砂漠を渡
ろうとしたんじゃないよね? まず死ぬよ。あんな何もないところ﹂
﹁スイト砂漠⋮⋮﹂
聞いたことのない地名だ。自然と心が冷える。
だが驚いてばかりもいられないだろう。その前に礼だ。雫は女に
向かって深く頭を下げた。
﹁助けてくださったんですね。ありがとうございます﹂
﹁いいよいいよ。若い女の子なんて放っておけないからね。あんた
どこの子だい? どこに行くつもりだったの?﹂
﹁ど、こ⋮⋮かと言いますと﹂
それを問いたいのは雫の方だ。あの砂漠は、ここは、どこなのか。
少なくとも雫が通っていた大学の周りには砂漠などない。なのに
何故肌が酷く日焼けしたかのようにヒリヒリ痛むのか。
喉が埃っぽく乾いている。
黒い穴。熱砂を歩いた記憶。もしこの全てが夢ではないのだとし
たら。
12
雫は女の顔を見つめた。明らかに日本人の顔立ちではない。どち
らかと言えば西洋人の顔だ。
緊張に彼女は唾を飲む。意を決して問うた。
﹁日本語お上手ですね﹂
﹁ニホンゴ? ニホンゴって?﹂
心臓に杭を打ち込まれたかのようだった。
目の前が暗くなった気がする。
精神の九割は混乱に走り回りながら残りの一割が何とか口を開い
た。
﹁いま⋮⋮話している言葉です。私の国の⋮⋮日本の﹂
﹁ニホン? 聞いたことないね。他の大陸の国かい?﹂
ああ、やっぱり、と思ったのは何故か。雫は片手で顔を覆う。
眩暈が襲ってくる。崩れそうになりながら震える唇を動かした。
﹁ここは、どこですか?﹂
決定的な問い。
初めに聞かなかったのは怖かったからだ。
顔を覆う手を外し、雫は真っ直ぐ女を見上げる。
女は笑った。何の裏もない善意の笑顔で。
﹁ワノープって町だよ。タリスの西にある﹂
﹁⋮⋮タリス?﹂
﹁この国の名さ。あんた本当に何も知らないんだね。大陸の東にあ
る小さな国だよ﹂
﹁何大陸ですか? ユーラシア?﹂
﹁大陸は大陸だよ。名前なんてない﹂
雫の上体はよろめく。
言葉は通じる。意思の疎通は出来る。
しかし、自分の今いる場所はどこだか分からない、少なくとも日
本ではないことを彼女はようやく正面から考えざるを得なくなって
いた。
13
彼女は息を切らせて夜の町を走る。
変わった服装と彼女の形相に、店仕舞いをしていた商人がぎょっ
とした顔をしたが、それにも気づかない。ひたすら前を見たまま南
北に町を貫く通りを駆け抜け、北の突き当たりにある大きな建物に
飛び込んだ。
中は真っ暗だ。
雫はポケットから携帯を取り出し、その明かりを頼りに歩を進め
る。
町の図書館、その玄関ホールの壁に彼女の望むものはかかってい
た。
この大陸の全図だという大きな地図を、雫はかぼそい電気の光を
かざして見上げる。
四方を海に囲まれた大陸。
強いて言えば横長の長方形に近い形。
雫が知る地球のどこにも該当するものがないその形に彼女は愕然
と立ち尽くした。
﹁嘘⋮⋮⋮⋮﹂
彼女は携帯を取り落とす。耳障りな音を立てて小さな携帯は木の
床に転がった。そのまま自分も床に座り込みたくなる。
だが代わりに雫は、自分でもよく分からぬ衝動に駆られてきつく
拳を作った。感情のままそれを壁に叩きつける。
﹁嘘ッ! 嘘だ! ここどこ!? 意味わかんない!﹂
何かを殴ったことなどない手がずきりと痛む。
しかしそれでも雫は何度も拳を壁に打ち込んだ。
﹁お姉ちゃん! 澪! 起こしてよ! 起こして!﹂
激情が体の中を荒れ狂う。今まで押し込んできた混乱が一度に噴
14
き出し、雫を支配した。
信じられない。受け入れられない。
けれどこれが現実なのだ。
心からの叫びが喉を突く。
﹁帰り⋮⋮たいっ!!﹂
﹁うるさいな﹂
呆れたような男の声。
雫は驚いて身を震わせる。
今まで他に誰も人はいないと思っていたのだ。慌てて周囲を見回
す。
彼は暗い影の中から音も無く現れた。手に持った蝋燭に火を灯す
と、落ちている携帯を拾い上げる。
﹁何これ。魔法具?﹂
﹁まほう⋮⋮?﹂
追い討ちをかけられた気分で雫は聞き返す。
訳の分からない場所というだけではなく訳の分からない世界でも
あるのだろうか。
彼は雫に歩み寄ると、彼女に向かって携帯を差し出した。
﹁変わった服。どこの国の人間か知らないけど図書館で騒ぐのはよ
くない。分かった?﹂
子供に言い聞かせるような言葉に雫は反射的に頷いた。携帯を受
け取って男を見上げる。
染めたのではない透き通る金色がかった茶色の髪。藍色の瞳は不
思議と誠実さを感じさせた。
中性的な整った顔立ちを彼女は綺麗だな、とぼんやり思う。
彼は雫が涙を浮かべていることに気づいて顔をしかめた。
﹁何。迷子?﹂
﹁迷子⋮⋮かも﹂
﹁どこから来たの﹂
﹁日本。⋮⋮知ってる?﹂
15
﹁知らない﹂
覚悟はしていた答に雫は肩を落とす。
この状態を迷子とするなら、これ以上絶望的な迷子はない。
何しろ十八にもなって、どこへ行けば帰れるのかさっぱり分から
ないのだから。
そもそも本当に帰れるのだろうか、浮かび上がる疑問に悪寒が走
る。再び混乱に陥りかける思考を、雫は慌てて振り払った。
叫んでも、泣いても仕方ない。
自分はあの砂漠から抜け出して来られたのだ。
あの時はもっと冷静で、もっと強くいられた。
ならばどうして今、立てないことがあろう。
彼女は思い出す。
生きる為に一度は研ぎ澄ませた意志を。
ぎゅっと携帯を握り締め、顔を上げた。
﹁はじめまして。私は水瀬雫。十八歳、文系の大学一年生で二十一
世紀の日本出身です! あなたは?﹂
突然の自己紹介に気圧されたのか、彼は半歩後ずさった。
だが気を取り直したのか涼やかな声で答える。
﹁僕はエリク。二十二歳でタリスの魔法士。専門は魔法文字⋮⋮か
な﹂
やっぱり訳の分からない世界だった。
叫んでも仕方ないと思ったばかりなのに、雫は思わず大声を上げ
る。
﹁魔法士!? 魔法使い?﹂
﹁うるさいって。何でそんな驚くかな。魔法士なんてファルサスに
行けばいっぱいいる。⋮⋮まぁ僕は研究専門で魔法士としての力は
あんまりないけど﹂
そう言うと彼はおかしな女への対応に困ったのかこめかみを掻く。
16
雫はただ食い入るように彼の藍色の瞳を見つめた。
異世界から来た女と一人の魔法士。
この時の彼らはまだ知らない。
始まりつつある大陸の変革に、これからの自分たちの意志が深く
関わっていくということに。
ただ彼らにとっての物語の始まりは、今この時の出会いと共に幕
を開ける。
不条理で不可思議な、謎の数々を飲み込んで。
17
002
﹁違う世界?﹂
エリクの訝しげな声に雫は頷く。
自己紹介を済ませた雫は、我に返ると荷物を置いてきてしまった
こともあり、自分を助けてくれた商人の家に戻ろうとした。
だが、生憎家のはっきりした場所を覚えていない。そこで彼が送
ってくれることになったのだ。
ほとんど皆が顔見知りだという小さな町はすっかり人通りも余り
ない夜の中に包まれていた。これでは道が分かっていたとしても一
人で帰ることは躊躇われただろう。
大陸の地図を見たいと行って図書館の場所を聞き、居ても立って
もいられず夜の中来てしまった自分はつくづく無謀だと彼女は思う。
もう少し気をつけねばならない。どうやらこの世界は彼女の常識
が通用しない場所のようなのだから。
その﹁常識が通用しない﹂代表の職業を名乗った男は、何を非常
識なことを言っているのだというような顔で彼女を見ている。呆れ
たっぷりの声が頭の上に降ってきた。
﹁違う大陸なら分かるけどな。世界って何﹂
﹁私が聞きたい、です。魔法で移動したり出来ないんですか?﹂
溜息混じりの返答を雫は途中から丁寧語に直した。親しい人間で
もないし、何より相手は年上だ。友人などからは気にしすぎと言わ
れることもあるが、初対面の年上相手にぞんざいに話すことは彼女
にとって妙な抵抗があった。
18
﹁大陸内ならば座標が分かれば跳べる。けど、違う世界なんて初耳
だ。妄想じゃなくて?﹂
﹁違います! ほら、この携帯。私の世界では普通なんですよ。写
真も取れます﹂
﹁シャシン?﹂
﹁風景を静止画として機械で写し取るんです。絵の精密なもの⋮⋮
と言ったら語弊がありますが﹂
言いながら雫は携帯を取り出し、フラッシュをたいて自分の手を
撮った。
画面を見せられたエリクは目を瞠る。
﹁面白い。どういう法則?﹂
﹁⋮⋮さぁ﹂
訊かれても文系の雫にはさっぱり分からない。
充電も期待できないこの世界では余り使わない方がいいだろうと
判断し、彼女は携帯の電源を切った。
﹁そういう訳で! 帰りたいんです﹂
﹁別の世界に?﹂
﹁そう﹂
﹁おかしな話だな。文献でも見た事がない。うーん⋮⋮でもミナセ
シズクなんて変わった名前、確かに別世界という気もする﹂
﹁水瀬は苗字です。名前は雫だけ。水滴の雫﹂
名前がミナセシズクなら元の世界でも充分おかしい。
水瀬家の三人姉妹は苗字に由来して、それぞれ水に纏わる名前が
つけられているのだ。
姉は海、そして妹は澪。苗字と相まってすぐに姉妹だと気づかれ
る。
進学したばかりの高校で﹁海の妹か!﹂と見知らぬ上級生に言い
当てられた思い出が甦って、雫は苦笑した。
一方、詳しく説明されたエリクは苦いだけの表情をして彼女を見
19
返す。
﹁何だ、雫か。最初からそう言おう﹂
﹁言ってたじゃないですか﹂
﹁言ってなかった﹂
断言に雫は頬を膨らましかけたが、言葉が通じるだけありがたい
ことだろう。
しかも相手が魔法使いというならこの状況の助けになってくれる
かもしれない。些細なことで口論は避けたかった。
彼女は不満を押し込んで話題を転じる。
﹁エリクさんは苗字はないんですか?﹂
﹁家名を持っているのは貴族とか由緒ある家の人間だけだ。だから
王族なんかは長い名前を持ってる。でも僕はただのエリク。それが
普通﹂
﹁じゃあ私もただの雫でいいかな⋮⋮﹂
苗字を名乗って今みたいに変に誤解されても困る。
頷く女にエリクは変わったものを見るような不思議そうな目を向
けたのだった。
商人の家に戻ると飛び出した雫を心配していたのか、先程の女性
が温かく迎えてくれた。
送ってくれたエリクに礼を言って別れると、雫は女性が用意して
くれていた風呂に入り、この世界に来て初めての食事を取る。
服を借りた彼女は鏡を見たいと思ったが、どうやらこの家には姿
見はないらしい。
家の中を見るだに他にも電気製品などの機械文明的なものは何も
なかった。
強いて言えば中世ヨーロッパの平民の暮らしに近いのかもしれな
いが、世界文化史に詳しくない雫にはよくは分からない。
20
ただ彼女の世界とこの世界を大きく隔てるものは一つある。
それは既に今までの邂逅の中で明らかになったことだ。
食事の後片付けを手伝いながら雫は、シセアと名乗った女性から
この世界の大体について教えてもらった。
つまり、魔法が当然のものとして在る一つの大陸について。
まず大陸には四つの大国があるのだという。
一つは北部に広がるメディアル。二つ目は中央東部にあるガンド
ナ。三つ目は南部にあるキスク。
そして最後の一つが大陸中央から西部にかけて広大な領地を持つ
魔法大国ファルサスだ。
ファルサス、という国名に聞き覚えを感じた雫は、すぐそれがエ
リクが言っていた国だと思い出す。
他にも今いるタリスを始め多くの中小国がひしめいているらしい
が、どうやらファルサスという国の魔法技術が一番優れているらし
い。
ならばファルサスに行けば或いは帰る手段が見つかるかもしれな
い。雫は頭の中に国名を強くインプットした。
﹁その国って遠いんですか?﹂
﹁乗合馬車を乗り継いでも三ヵ月近くかかるよ。魔法の転移陣を使
えれば早いけど、平民にはなかなか許可が下りないしね﹂
何だったらエリクに訊くといいよ、とシセアは続ける。
この町にいる魔法士は決して多くはないが、中でも彼は魔法士と
いうよりは学者のような人間らしく、一日中図書館に詰めている変
わり者なのだという。
﹁外見だけ見れば娘たちに人気が出そうなのに、そっけないからね、
エリクは﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
21
それ程そっけないとは思わなかった。むしろ親切にしてくれた。
だが確かにほとんど笑わず、世辞も慰めも言わないその態度はと
っつきにくいと言えばそうなのかもしれない。どこか彼の姿勢に、
時折見かける大学院の院生を思い出させるものがある気がして雫は
微苦笑した。
ただ何をするにしてもひとまずはこの世界で生きていけなくては
仕方がない。
雫はシセアに自分がどうやってここに来たのか分からず、帰るあ
ても分からないことをまず説明する。
そして助けてもらった礼として明日は仕事の手伝いをすることと、
他にどこかアルバイトが出来ないかと相談した。
﹁働きたいの? そうか⋮⋮行く当てがないんだもんね。いいよ、
知り合いの店に紹介してあげる﹂
﹁いいんですか!?﹂
﹁うん。ちょうど人の入れ替わる時期で人手が足りないみたいだし。
寝るところはうちに住み込むといいよ﹂
﹁あ、ありがとうございます!﹂
思いもかけない助力に彼女は素直に感謝した。
そもそも人の善意がなければ今頃彼女はのたれ死んでいたかもし
れないのだ。
それを命を助けてもらったばかりか職と住まで何とかなりそうで、
雫はほっと息をつく。
これで当初の、夏休みにバイトがしたかったという望みは叶うこ
とになったのだが、こんな切羽詰った状況でなくてもよかった、と
彼女は少しだけ思った。
だが全ては明日からだ。
足掻いて、食らいついて、何としても元の世界に戻ってやる。
その晩彼女は、起きた時いつもの自分のベッドにいるよう心から
願いつつも疲労の為あらがえない眠りについた。
22
あっという間の一日目はこうして終わりを告げたのである。
もっと主張をすればいいのに、と言われた事がある。
その時は何故そんなことを言われるのかと思った。
思っていることを飲み込んでいた自覚はない。何か伝える必要が
あれば口に出し、黙っているのはその方がいいと思っているだけだ。
だがしばらくしてようやくその意味に気づいた。
穏やかに微笑みながら人にねだることを身につけている姉と、き
っぱりと何でも断定し自分の意志を言葉にする妹。
彼女たち二人に比べ、自分は主張をしていないように見えるのだ
と。
三人一緒に居る時は彼女たちがほとんど全てを口に出すので雫は
相槌を打つことが多くなる。
姉の主張に近いならば姉に、妹の主張に近いならば妹に、﹁そう
だね、私もそう思うかな﹂と言うくらいだ。
けれど、それを見られて雫には主張がないと思われても、それは
決して事実ではないのだ。
二人のどちらとも意見が合わない時は、雫は静かに自分の意見を
述べる。
相対的には控えめなのかもしれないが、自分を押し殺していると
思ったことはない。
そもそも﹁自分﹂とはどんな人間なのかよく分からないのである。
雫のそれはまだ不定形で、如何様にも動かせる。まだきっとどん
な人間にもなれる。
だから姉妹と離れたところで、それを作ってみたいと思った。
一人になってみたい、そう思ったからこそこんな世界に来てしま
ったのかもしれない。
どこまで自分一人が異邦人な、この魔法の大陸に。
23
朝起きた時、残念ながら雫は学生会館の自分のベッドにはいなか
った。
軽い溜息を一つついて気持ちを切り替えると身支度をする。
シセアの夫の商人は、日頃仕入れや売り込みでほとんど家を空け
ているのだという。
その為昨日も拾った雫を妻に預けると、仕入れたものを売りにま
た別の町に出かけていったらしい。
とりあえず何の仕事を手伝おうかと思い帳簿を覗き込んだ雫は、
そこでもう一つのことに気づく。
﹁⋮⋮読めない﹂
何が書かれているのかさっぱり読めない。日本語でもアルファベ
ットでもない。数字も分からない。会話が通じるだけに少し期待し
ていたのだが、当然と言えば当然な現実に雫は肩を落とした。
これでは書類仕事は手伝えないだろう。代わりに倉庫の整理を手
伝うことにする。
﹁凄いですね﹂
倉庫に通された雫は雑然とそこに置かれた品物に感嘆の声を上げ
た。
ロールになった生地がところ狭しと置かれている。作り付けの棚
には畳まれた生地が積まれ、色とりどりの糸が並べられていた。
﹁生地問屋さんですか﹂
﹁そうなのよ。昨日も仕入れて戻ってきたところ。この手前にある
箱の⋮⋮これがそうだから、奥の同じもののところにに並べて欲し
いのね、分かる?﹂
﹁大体は﹂
﹁分からないことがあったら訊きにきて﹂
﹁はい﹂
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セミロングの髪を纏めた雫は黙々と倉庫整理に励んだ。
体を動かしていると不安も少しは紛れる。午後からはシセアが紹
介してくれる店に売り子として手伝いに行くことになっていた。そ
の前に数字だけでも覚えた方がいいだろう。昼食の時にシセアに聞
こうと、また頭にメモを取る。
一時はあまりに非現実的な事態に錯乱しかけた雫だが、またこう
して生きる為に考えを巡らせている、そのことが少し可笑しかった。
もしかして本当の自分は意外と強かなのかもしれない。
そう思ってしかし、昨晩恥ずかしいところを人に見られてしまっ
たことを急に思い出す。
藍色の目の無愛想な魔法使い。
﹁異世界から来た﹂という言葉を彼はどう受け止めたのだろうか。
少しおかしい女と思われたかもしれない。
ただ、彼ならば誠実を尽くして話せば信じてくれるような気もし
た。
図書館にいつも詰めているということなら、図書館に行けば会え
るということだろう。
今はまだ何もかもが手探りだ。
本音を言うなら怖くて仕方がない。
だが自分を動かせるのが自分しかいない状況なれば、雫は恐怖を
押し込めて前を向く。
これが果たして長い旅路になるのだろうかと、心のどこかで考え
ながら。
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003
数字を知らないと言った雫にシセアは驚きの目を向けたが、苦笑
すると文字を教えてくれた。
縦棒と横棒を組み合わせて作られた文字はローマ数字に似ており、
規則性もあって覚えやすい。何より十進法だということに雫は安心
した。ついでにお金の単位や貨幣の数え方も教えてもらう。
﹁あんた本当に何も知らないんだねぇ。どんなところから来たんだ
い?﹂
﹁鉄の塊が空を飛ぶ世界です﹂
シセアは目を丸くしたが冗談と思ったのか笑い出した。
雫は少しほろ苦くも微笑む。
この世界からすれば元の世界も充分﹁魔法の世界﹂なのかもしれ
ない。ただ雫には元の世界の文明をこちらに持ち込む技術も知識も
なかった。
あるのは携帯と、大学の図書館から借りた文献に辞書、筆記用具
や音楽プレイヤー、その他小物など、普段持ち歩いているものしか
ない。
文明の機器も混ざってはいるが、その仕組みを説明することはで
きないのだ。せめて理系だったらよかったのに、と彼女は思う。
だが今となってはそれらも自分の身分を証明する為に重要なもの
だろう。大事にしなければならない。
初めて食べる料理、けれど温かく美味しい昼食を綺麗に食してし
まうと、雫はシセアに連れられてアルバイトをする為に家を出た。
案内された店は小さなパン屋だった。
焼きたてのいい匂い漂う店に、この世界にもパンはあるのだなと
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雫は感心する。
ただ雫の知っているパン屋ほど種類は多くない。角パンと丸パン、
棒状のものなどせいぜい十種類ほどだ。
菓子パンも置けばいいのにと思うのだが需要がないのだろうか。
﹁こんな感じで売り子して。いい?﹂
﹁分かりました。頑張ります﹂
四十代程に見える男の店主がパンを作る為に厨房に引っ込んでし
まうと、彼女は小さく﹁よし!﹂と呟いて気合をいれた。
それを見計らったかのように中年の女性が二人入ってくる。
﹁あら、新しい子じゃない。見ない顔ね﹂
﹁雫と言います。よろしくお願いします!﹂
﹁元気がいいわ。若い子がいると華やぐわね﹂
彼女たちはくすくすと笑いあうと角パンを買っていく。雫は覚え
たばかりのことをフル回転させて会計にあたり商品を紙で包んだ。
やってくる客は皆彼女を見てはじめ驚き、次に笑顔で歓迎してく
れる。
中には﹁いつもこれを買うから覚えて﹂と言ってくる客も居て、
雫は大学受験以来久しぶりに必死で記憶力を働かせることとなった。
約束の時間はあっという間に過ぎ去った。
半ば高揚の中にあった彼女はほぼ全てのパンが売れきった店内を
見回して息をつく。
町の生活に密着したパン屋は、毎日皆がどれくらいパンを買って
いくのか経験で分かっているのだろう。
厨房から出てきた主人はまだ温かいパンを雫に差し出した。
﹁はい、ご苦労様。シセアと食べな﹂
﹁ありがとうございます!﹂
﹁あと今日の給金。明日もよろしくね﹂
主人は雫の手に五枚の硬貨を落とす。青銅色の硬貨の一枚が十セ
ラということを雫は覚えたが、これが現代日本でどれくらいの金額
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に相当するかは分からなかった。礼を言って夕暮れの中帰路につき
ながらぶつぶつと呟いて考えを纏める。
﹁ファーストフードで時給七百五十円で働いたとして⋮⋮今日は五
時間くらい働いたから、一時間十セラ。七百五十円が十セラだと、
七十五円が一セラ⋮⋮か、な? ⋮⋮⋮⋮よく分かんない﹂
そもそもファーストフード店の時給を基準にすることが間違って
いる気がする。
ただ手の平より一回り大きいくらいの丸パンが一つ三セラだ。
一時間働けば丸パンが三個買える、と結論づけると雫はそこで計
算を切り上げた。細かいことまで日本に照らし合わせていてはきり
がない。郷に入っては郷に従えばいいのだ。
家に戻った雫は、シセアに宿代と食費を合わせて一日二十セラを
支払うことを申し出たが、彼女はそんなに要らない! と断ってき
た。
だが口ぶりから言ってもシセアの性格から言っても、それが相場
より高すぎるからというわけではなく好意の為であることは雫には
よく分かる。家を空けがちな夫の帰りを待って一人暮らすシセアか
らすると、突然の居候は妹が出来たみたいで嬉しいのだろう。
二人の押し問答と相談の結果、結局雫は一日十セラを払い、代わ
りに家事も手伝うことになった。
夕食後、並んで洗い物をしながらシセアは皿を拭く雫に笑いかけ
る。
﹁仕事はどうだった?﹂
﹁忙しかったけれど、楽しかったです。皆さんいい人ですね﹂
﹁田舎町だからね。あんたもゆっくりしながら帰るあてを探すとい
いよ。気だけ急いてもよくないからね﹂
﹁はい﹂
見知らぬ場所に放り出された雫の気持ちを温かく包んでくれよう
とするシセアの優しさが嬉しかった。
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だから、こんな夏休みもいいかもしれないと、少し思う。
帰る頃にはどんな自分になれているのか。姉や妹に沢山の土産話
をしてやろうと思った。
それから二週間、雫は毎日アルバイトと家事に明け暮れる。
ようやくこの生活や世界にも慣れてきた、そう思った頃、転機は
訪れたのだ。
﹁元気そうだ、異世界人﹂
いらっしゃいませ! と声を上げかけた雫は久しぶりに見る魔法
士の男に口を開けたまま止まってしまった。
その隙に彼から返って来た挨拶は、事実ではあるがあんまりなも
のである。彼女は口をとがらせた。
﹁異世界人です。いらっしゃいませ。何をお求めですか﹂
﹁パンを。パン以外あるのか?﹂
﹁スマイル零円です﹂
そう言って雫はわざとらしい笑顔を作ったが、エリクには当然な
がら通じなかったらしい。
軽く無視され、彼女は笑顔のままこめかみを引き攣らせる羽目に
なった。
エリクは迷いもせず丸パンを二つ指し示す。無言で紙袋にパンを
詰める雫に、男は感情の読めない声をかけた。
﹁君は元の世界に帰りたいんじゃなかったのか?﹂
﹁帰りたいですよ。でも今のところ方法が分かりませんし、何をす
るにしても軍資金と基礎知識は必要ですから﹂
﹁無謀なのか現実的なのか分からないな﹂
﹁やることやってりゃ気も紛れます﹂
少しだけ本音が滲み出た言葉にエリクは片眉を上げた。藍色の目
が不透明な思考を孕む。
彼はふっと息を吐くと、懐から硬貨を取り出しながら、教授がテ
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キストを読み上げるような淡々とした声で続けた。
﹁あたれるだけの文献にあたったが、異世界からこの大陸に来訪者
が来たという記録は残っていない。せいぜい違う位階の⋮⋮上位魔
族などが現出するくらいだ。ただ、御伽噺の範疇のようなものだが、
この世界の法則に反するような事例はいくつか過去に記されている。
もしかしたらそれが、君を帰す鍵になるかもしれない﹂
雫はパンを入れた袋を握ったまま顔を上げた。
大きな、驚愕に満ちた目がエリクを見上げる。
﹁⋮⋮⋮⋮信じてくれてたの?﹂
﹁信じないとでも思ってたの? あんな泣き方をしていたのに﹂
触れて欲しくないところに触れられた、と彼女は思った。
知らない世界で弱いところを見せたくなかった。
それでも嫌な気はしない。
こんな見も知らぬ人間の戯言を、荒唐無稽な話を、彼は信じて調
べてくれていたのだ。
︱︱︱︱
それを吐き出すと、本当の笑顔
胸が温かくなる。まるで小さな蝋燭を灯したかのように。
雫は深く息を吸って
で笑った。
﹁ありがとう。エリクさん﹂
﹁エリクでいい﹂
人が優しいばかりではないと、大人になりきっていない雫でも知
っている。
だが彼女はまた、人は優しい生き物でもあると分かっていた。
そうでなければもっと世界は哀しく、無彩色だ。
もし帰ることが出来たなら文章を書こう。雫は何とな
鮮やかな世界に自分が立っていることを彼女は嬉しく思う。
︱︱︱︱
くこの時そう思った。
新しいノートの白いページに、この世界の物語を。
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小説など書いたこともない。作文も人並みだ。
だが自分で考えて、全てを記そうと彼女は決意した。
そうすれば将来どれ程過去の記憶が薄れようとも、彼女の旅は色
のある言葉として残り続ける。
ページを捲れば世界が甦る。
それはとても、素敵なことに思えたのだ。
エリクとパン屋で再会してから三日後、雫はバイトが休みの日に
自分のバッグを持って図書館を訪れていた。
昼でも薄暗い中を足音を忍ばせて進む。入り口にはちらほらいた
人も奥にいくほど姿を見なくなった。静寂が存在感を持って沈殿し
ている。
待ち合わせをしていた男は、図書館のもっとも北の部分、日の差
し込まぬ一角で彼女を待っていた。広い机には青白い光を放つカン
テラが置かれている。
重いバッグを隣の席に置いて座りながら雫は眉をしかめた。
﹁目が悪くなりますよ。もっと明かりを取らないと﹂
﹁強い光は本を傷める﹂
自分の視力よりも本を優先する男に彼女はあきれを隠せない。
﹁エリクの目が悪くなる分にはいいけれど、私は悪くなりたくない
です。コンタクトとかしたくない﹂
﹁コンタクトって何? 眼鏡に破壊力がついたもの?﹂
﹁何で破壊力が必要⋮⋮目の中にいれるレンズ。眼鏡の代わり﹂
﹁目の中に? 凄いな。埋め込むの?﹂
﹁埋め込みません﹂
そんなコンタクトレンズは一生したくない。雫はそこで会話を打
ち切るとカンテラに手を伸ばした。
どこかで光量が調整できないかと思ったからなのだが、生憎それ
らしいものは見つからない。
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その時、エリクが無造作に手を伸ばすと口の中で小さく詠唱した。
途端に光が一度消え、より明るい光がつきなおす。
﹁⋮⋮す、ごい。どうやったの?﹂
﹁だから魔法。魔法士なら初歩の初歩だ﹂
﹁他に何が出来るの?﹂
﹁人のことより自分のこと﹂
的確な注意を受けて雫は口をとがらす。
折角生まれて初めて魔法を見たのだ。もっと見たいと気になるの
は仕方ないだろう。
だがエリクはもう何もする気はないようだった。手元にあった厚
い本を雫の目の前に差し出してくる。
﹁ほら、ここの話だ。約二百四十年ほど前、ヤルダという国でおか
しな事件が頻発した。限られた範囲内の空間のみだが、まったく違
う場所や時間が現出する。幻ではなく実体を伴ったもので、現出し
たものは物だけではなく生物もだった。死者も出ている。百四十六
人﹂
﹁な、なるほど?﹂
そう説明されても雫にはどこがどうおかしいのか分からない。魔
法自体が彼女にとってはおかしなことなのだ。どこまでがこの世界
の常識でどこからが違うのか判断がつかなかった。
エリクは挙動不審な女の様子に補足の必要を感じたのか最初から
付け足すつもりだったのか、説明を続ける。
﹁先に言っておくと魔法にも法則がある。法則外のことはどれほど
強い魔法士でも不可能だ。で、この事件はその法則に反している﹂
﹁単に発見されていない法則ってわけじゃなくて?﹂
﹁違う。魔法は無から有を作ることは出来ないんだ。手元に物を転
移させたり、自然の成分を呼んだり作り変えて、炎や氷を作ること
はできるけれど⋮⋮例えば何もないところから林檎を作ったりは出
来ない﹂
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﹁うーん? つまりシルクハットからウサギを出したりはできない
わけですか﹂
﹁何それ﹂
どうにもエリクの性格のせいか共通常識がないせいか、話が上手
く転がらない。
なら雫も余計な合いの手を入れなければいいのだが、黙っている
のも息苦しいのでつい口を挟んでしまう。
彼は白い目で彼女を一瞥しただけで、話題を戻した。
﹁もう一つ、魔法では時間遡行が出来ない。他にも色々あるが、こ
の二つの点でヤルダの事件は異常だとされている﹂
﹁過去にタイムスリップはできないってことですね⋮⋮その事件で
は出来た人がいたの?﹂
何だかさっぱり飲み込めない。もっと具体例を上げて話して欲し
いと雫が思った時、エリクは本を指でなぞりながら読み上げた。
﹁⋮⋮この日、カドス砦周辺に突然軍隊が現れた。おおよそ十五万
人ほどの軍勢はまるで今までずっと戦い続けていたかのように二軍
に分かれて争い始めた。砦もまた攻められ応戦したが、彼らは確か
に存在する人間であったと魔法士も含め複数の証言がされている。
百人を越える死者を出した突然の戦争はしかし、彼らが現れてから
三時間程が経過した時、急に終わりを迎えた。彼らは現れた時と同
様何の痕跡も残さず消え去ったのだ。ただカドス砦周辺には彼らと
の戦いで戦死したヤルダ兵の死体が残るのみである。皆が困惑する
中、カドス砦に駐留していた一人の老兵、旧の大国タァイーリから
亡命してきた人間が証言した。あの軍勢、あの戦いは、自分が十年
前に経験した、タァイーリとメディアルの興亡をかけた戦いの光景
とまったく同じであったと﹂
﹁ミ、ミステリー⋮⋮?﹂
ビクビクする雫にエリクは軽く頷く。今度は別の箇所を指差した。
﹁他にも一連の事件について研究を行った当時のファルサスの魔法
士が出した仮定は、限定された空間内に人の過去の記憶を現実のも
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のとして存在させる何らかの力が働いたのではないかと、結論づけ
ている﹂
﹁すみません、分かりやすく言ってください﹂
﹁つまり、人の記憶が現実になるんだ。例えば君が鍵だったら、君
が昨日パン屋で働いていた、その光景が突然ここに現れる。パン屋
の建物も客も勿論君も、現実のものとして﹂
﹁何それ! ミステリーすぎる!﹂
理解は出来たが怪奇事件そのものだ。
そういえば元の世界にも未だに原因が分からない不思議な事件が
いくつもある。雫は何となくそれらを思い出した。
ようやく腑に落ちた彼女はしかし、納得すると同時に首を傾げた。
﹁それが私とどう関係するの?﹂
﹁⋮⋮このカドス砦の件、実は行方不明者が出ている。砦を離れ敵
軍の中に切り込んでいた将軍と兵五十三人、魔法士五人だ。 彼ら
は一週間後、タァイーリとメディアルが本当に戦った平野、つまり
遠く離れた過去の本当の戦場で発見された。 魔法士たちは転移の
構成などは何も働いていなかったと証言している。気がついたらそ
の場所にいたのだと﹂
﹁あー⋮⋮私と、似てます、ね﹂
﹁大陸内での移動だからまったく同じではないが、解明できない移
動という点では一緒だな。だからこの件をつきつめて調べれば何か
糸口があるかもしれない﹂
エリクはそこで言葉を切るとじっと雫を見つめた。
彼女は思わず息を呑む。
急に自分の手の中に抱えきれないほどの謎を乗せられた、そんな
気がしていた。
﹁頻発したってことは、そういう事件が他にもあったってことです
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か?﹂
ようやく全てを飲み込みきった雫にエリクは頷く。
﹁この事件と前後して三ヵ月に渡り、二十件程記録されている。全
てがヤルダ国内でのことで、共通しているのは誰かしら鍵となる人
間の記憶が使われることと、現出した過去の中心点に居た人間は、
現象が収められた時に、﹃今のその場所﹄に飛ばされる、というこ
とだ﹂
言い回しが難しくて分かりにくいが、要するに異常事態が発生し
ということだろ
ている場所の中央にいた人間は、事が終わった時、記憶によって呼
び出されていた場所に瞬間移動させられてしまう
う。過去のその場所に飛ばないだけましだが、それでも充分迷惑な
話である。
雫は自分を吸い込んだ黒い穴を頭の中に描く。あれがもしかして
﹁中心点﹂だったのだろうか。
そんな気もするし違う気もするが、今は僅かな手がかりにでも縋
りたい。雫は机の上に乗り出して手を広げた。
﹁じゃあ、それについて調べるとして⋮⋮どうすればいいんでしょ
う。二百年以上も前の話なわけですよね﹂
﹁そう。ほとんど御伽噺だな。ただこれについては少しおかしな後
日談がある﹂
﹁後日談?﹂
エリクは頷くと開いていた本を指で叩いた。
﹁この事件についての証言とファルサスが出した考察が載っている
本⋮⋮この本だけど、実は発行後一ヵ月で改訂されている。今世界
に残されているのはほとんど改訂後の本の方だ。改訂前の本の中に
は、ファルサスから人が来て新しいものと交換していったという話
もあるらしい﹂
﹁え? また何で。何が違うんですか﹂
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誤植でもあったのだろうか。何気なく問う雫に対し、彼は眉を寄
せて考え込むような表情になった。一旦本を閉じ、一番後ろのペー
ジを開き直す。
﹁この本は、数少ない改訂前の本だ。ある魔法士が持っていたもの
を数十年前に司書が譲り受けた。二つを見比べると違っているのは、
一番最後に起きた事件についての証言だ﹂
﹁証言?﹂
﹁そう。改訂前の本には﹃魔女を見た﹄という証言があったんだよ﹂
男の声は深刻な重みを持って響く。
しかしこの時彼女は、そのことが何を意味しているのか、表層的
な意味も隠された真実についてもまったく分かっていなかったのだ。
魔女、と聞いて雫が思い浮かべるのはよく子供向けアニメに出て
くるような、箒に乗って三角帽子をかぶった魔女である。
もっと頑張って記憶を探って、せいぜい﹁オズの魔法使い﹂であ
ろうか。もっともこちらは子供の頃読んだきりなのでほとんど記憶
に残っていない。
彼女は二、三度首を傾げ、聞き返した。
﹁つまり、魔法使いが関係していることが問題?﹂
﹁違う、魔女。魔女は魔法士だけど魔法士は必ずしも魔女じゃない。
非常に強力な魔力を持っている魔法士の女を過去、大陸ではそう呼
んでたんだ。今では御伽噺くらいにしか話されないけどね﹂
﹁じゃあ、その魔女に会いに行けば帰れるかもしれない、と?﹂
確かオズの魔法使いもそんな話だった気がする。
雫も一応一生懸命考えて質問しているのだが、エリクは芳しい表
情をしなかった。何かおかしなことを言ってしまっただろうか、と
彼女は沈黙する。
しかし、彼はややあって頷いた。
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﹁そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ魔女が大陸
にいたのは三百年も前の話だ。今もどこかにいるのかもしれないし、
いないかもしれない。いたとしても本来的には魔法士である彼女た
ちに、法則に反する力が扱えるのかは分からない﹂
﹁うう。方針が定まらないですね⋮⋮﹂
﹁まぁ最後まで聞いて。僕が言いたいのはね、ファルサスが本を改
訂してまで魔女の関与を隠蔽したということだ。そしてその時期フ
ァルサスには一人魔女がいた。王姉フィストリアがその人だ。目撃
された魔女が彼女かどうかは分からないが、わざわざ隠蔽するくら
いだ、その可能性は高いだろう。つまりファルサスはこれらの事件
について、本当はもっと多くのことが分かっていたんじゃないかと、
僕は思っている﹂
﹁ファルサス⋮⋮﹂
この世界に来て初めての夜、魔法大国であるファルサスに行けば
何か掴めるかもしれないと思っていた記憶が不意に雫の中に甦る。
馬車で三ヶ月もかかるという遠い国。しかし今やその国は彼女の中
で確実な存在感を持って鎮座し始めていた。
飽和しそうな思考の中、たゆたっていた彼女はハッと我に返ると
慌ててバッグの中からノートを取り出す。
﹁ちょっと待ってくださいね。メモしちゃいますから﹂
﹁いいよ。ゆっくりで﹂
雫は今聞いたことを思い出しながらノートに書き出し始める。
大学に入って真っ先に学んだのはノートの取り方だ。それはただ
板書されたものを書き写せばいいというわけではない。どれだけ重
要なポイントを分かりやすく押さえられるか、後から読み返しても
理解しやすいかが重要なのだ。
シャープペンを使ってドイツ語のノートの続きにメモを取り始め
た雫をエリクはまじまじと見つめた。正確には彼女ではなく、彼女
が書いているものに見入っている。
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ファルサスを中心にいくつかのキーワードを書き出してしまうと
彼女は顔を上げた。
﹁何ですか﹂
﹁いや、面白いね。それ君の独自文字?﹂
﹁どんだけ変な子なんですか、私。私の国の文字です﹂
﹁こっちと全然違うけど﹂
エリクはそういうと見開きのページの左右を指差した。左にはド
イツ語の基礎構文が書かれている。一方、今右に雫が書いたのは日
本語だ。
﹁ああ、こっちは外国語。今勉強中なんです﹂
﹁外国語? 国が違うだけでこんなに変わるのか﹂
﹁そりゃ海を隔ててますから﹂
変なことを言うな、と思ったが、どうやらこの大陸は他の大陸と
の交流がまったくないわけではないが、ほとんどないに等しいらし
い。東の大陸とだけ限られた国が交易をしているのだと、確かシセ
アが言っていた。
﹁こっちも東の大陸とかとは文字が違うでしょ?﹂
﹁少しだけ。あの大陸は暗黒時代にこっちの大陸から移民した人間
が開拓したものらしいから﹂
﹁ああ、イギリスとアメリカみたいな感じですか﹂
雫は怪訝な顔になったエリクを置き去りに、一人だけ納得すると、
またシャープペンを走らす。大陸地図も書き写そうか、と思った時、
エリクが今書いたばかりの単語の中から一つを指差した。
﹁これ何?﹂
﹁ファルサス⋮⋮多分﹂
固有名詞は一応それっぽく書いてある。
この世界の人間の話し言葉は雫には日本語に聞こえるが、固有名
詞は外国語の発音に近いのだ。その為他の単語と区別がつきやすい
と言えばつきやすいが、文字に起こす時は少し自信がない。
だがエリクは感心したように頷くと別の単語を指差した。
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﹁これは?﹂
﹁魔女﹂
﹁ファルサスと大分違う﹂
﹁カタカナと漢字だからです。私の国の文字ってすっごく多いんで
すよ。多分あわせて何万字﹂
彼女がそう言うとエリクは目を丸くした。
彼のそんな表情を見るのは初めてかもしれない。何だかおかしく
なって雫は笑ってしまう。
﹁それ本当? 君の独自文字が何万字もあるんじゃなくて?﹂
﹁私はどんな変人か! 本当ですよ!﹂
自分だけの文字を何万字も作っていたら本当に変な人間である。
血管が切れそうになったが、漢字を知らない文化圏の人間からす
るとこの文字数は驚くものなのかもしれない。
エリクは彼女の気合のこもった抗弁に﹁へぇ﹂と軽く言っただけ
で、分かったのかどうか表情からは窺えなかった。これ以上文字に
ついて会話していても腹が立つだけのような気がしたので雫はノー
トを閉じる。
シャープペンをしまう彼女を、つかみ所のない魔法士は顔を斜め
にして眺めていた。
﹁今日はありがとうございました。参考になりました﹂と頭を下げ
る雫に、彼は﹁うん﹂と言っただけだったが、彼女が踵を返すとそ
の背に声をかけてきた。
﹁君はこれからどうするつもりなの?﹂
﹁お金貯めてファルサスに行きます﹂
それ以外何があるのか、という声音で返す雫にエリクは頷く。
﹁君は根性もあるようだし、現実的なところもあるみたいけど、フ
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ァルサスまでいくらかかるか分かってる? それでもし着いたとし
てどうするの。まさか城に異世界人です! って言いに行くの?﹂
﹁結構かかるんだろうなぁとは思ってますが、いざとなったらヒッ
チハイクでも。城もまぁ、その場で臨機応変に考えます﹂
折角手がかりを貰って意気込んでいるのに速攻で水を差さないで
欲しい。そう思った雫は自然と皮肉な笑顔を浮かべることになった。
しかし、エリクは悪気のないいつも通りの目で彼女を見ている。
そしてそのまま彼は再び頷いた。
﹁僕も行こうか﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁異世界人一人よりましだと思う。一応魔法士だし、君だけよりも
ファルサスで動きやすいだろう﹂
雫は絶句した。
突然何を言い出すのか。
こうして調べてくれただけでも充分親切だと思っているのに、ど
うして付き添おうなどと言うのだろう。
彼女は随分前に見たきりの鏡の中の自分を思い出す。
セミロングの茶色がかった黒い髪。目は大きいが、とりたてて美
人というわけではない。
﹁可愛い﹂と言われたこともあるが、むしろ誰から見ても愛らしい
妹の付け合せのような誉め言葉だ。雫は少なくとも自分の容姿にそ
れ程の面倒と引き換えに出来るほどの魅力はないと分かっていた。
ならエリクの方が誰にでも親切で、それが度を過ぎるほどの人間
なのかと言ったら、それほど彼のことを知っているわけではないが、
やはり違う気がする。
困惑が如実に表情に出てしまった彼女に、男は軽く手を振った。
﹁君は自分がどれだけ特殊な存在なのか分かってる? 千五百年近
い大陸の歴史の中で、今まで一度も前例がない事態であるというこ
とが。ファルサスが何を隠したのかも気になるし、僕は真相に興味
40
がある﹂
﹁それは⋮⋮﹂
そうなのかもしれない。
雫自身も知りたいと思っているのだ。
何故こうなったのか、何が起きたのか。
穴に吸い込まれ、気がついたら砂漠の真ん中に立っていた。そこ
には何が隠されているのだろうか。意味は、あったのか。
不意に彼女は自分の立っている床に穴があいたかのような錯覚に
捕らわれた。
どこにいるのか分からない。そしてどうやって来たのかも。
そのことがこれ程怖いと思ったのは、最初の夜以来のことだった。
異邦人である彼女の存在は、魔法が当たり前なこの世界においてさ
え在り得ないことなのだ。
帰れるかどうか誰も分からないのではないか、という今まで目を
そむけていた疑いを、実感としてようやく得て雫は一歩よろめいた。
﹁大丈夫?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
かけられる声に彼女は反射的に返事をする。震える指を固く握っ
た。
エリクはそんな雫の様子に顔をしかめる。
﹁ああ、僕を警戒してる? 安心して。人間にあまり興味がないか
ら﹂
﹁うわ﹂
さらっと言われたドライな言葉に、彼女は急に現実に引き戻され
た。慌ててかぶりを振って彼の問いを否定する。
﹁違います。ただ途方もないな、ってちょっと思っただけ﹂
﹁それは仕方がない。限られた中での幸運を喜ぶべき﹂
雫は頷く。
41
結局そうなのだ。幸運でなければ今頃自分は砂漠で死んでいただ
ろう。
それが住むところも、職も、食べ物も得られている今、これ以上
ないくらい恵まれている。
感謝以外に何を思えばいいというのか。彼女はややあって微笑を
浮かべた。
﹁本当にそうですよね⋮⋮ありがとうございます﹂
﹁別にいいよ。不安なのも無理もない。で、どうする?﹂
答は、一つしかないだろう。
よく分からない男だが、誠実な人間なのではないかとは薄々感じ
ている。
そしてこの世界の人間で、魔法士だ。
唐突に始まった雫の不思議な旅を助けてくれる相手として、彼は
とても自然な存在に思えた。
彼女は意を決めると姿勢を正し、両手を体の前で揃え深く頭を下
げる。
﹁是非ともお願いします。私を助けてください﹂
﹁分かった﹂
返って来た声は、温かくはなかったが矢張り誠実なものに思えた。
雫はバッグを握る指に力を込める。
旅を始めるのだ。
不可思議な世界を渡る旅を。
先は見えない。何が待っているのかも。
だが進まないわけにはいかないだろう。雫がかつての日常に帰り
たいと思う限り。
﹁僕も準備があるし、君も何かあるだろう? 出発は一週間後でい
いかな﹂
﹁はい﹂
ようやく慣れてきたこの町を離れるのは淋しいし怖い。シセアや
42
パン屋の主人、他にも顔を覚え始めた町の人とも別れなければなら
ないのだ。
だが雫は既に踏み出す決心をしていた。あの日砂漠の中、第一歩
を踏み出したように。
強い意志を目に宿した彼女を見て、エリクは微笑した。
﹁あと、一つお願いがある。これも僕が同伴する目的だと思って欲
しい﹂
﹁何でしょう﹂
﹁僕に、君の国の文字を教えてくれ﹂
少なからず驚く彼女と、どこか静かな情熱を秘めた男の視線がぶ
つかる。
二人の間には分けあえるものは何もない。
ただ異なるものばかりを抱いて、彼らは立っていた。
遥か後に彼女は思い出す。
彼女にとっての転換は、あの砂漠に立った時だった。
彼女の物語の幕開けは、彼と出会った時だった。
そして、彼らの旅のはじまりは、彼のこの言葉だったと。
運命などは所詮人が左右するものだ。
だから雫は自ら選んでこの道を進み始める。
優しいはじまりの町から、優しくないただ在るだけの世界へと。
それはしかし、この大陸の根底を覆す変革の嚆矢であるのだと、
まだこの時二人ともが知らなかったのだ。
43
転がる水滴 001
エリクは出発を一週間後としたが、雫は結局それを三週間後まで
延ばしてもらった。
それだけあれば手元のお金も千セラになるし、パン屋の主人も予
定していた新しい売り子にちょうど引継ぎができるという。
シセアははじめ雫がこの町を出ると聞いた時淋しそうな顔になっ
たが、気持ちを切り替えると彼女の為に旅の支度を整えてくれた。
平服を何枚か貰ってお礼を言う彼女にシセアは心配そうに問う。
﹁お金も持っていく? 何があるか分からないし﹂
﹁大丈夫です! 必要経費はバイトしながら行きますし!﹂
エリクは旅の資金の足りない分は自分が出すと言って来た。
そこまでは甘えられないとつっぱねる雫に﹁教授料。気になるな
らそっちの文字も教えて﹂とドイツ語を指して提案してきたのだ。
幸い彼女は英和と独和の辞典を持ってきている。文法までは難し
いが単語くらいなら可能かもしれない。
﹁何でそんなこと知りたいんですか? こっちでは役にたたないの
に﹂
と彼女が当然な疑問を呈したところ
﹁僕は魔法文字が専門だから。まったく違う文字に興味がある﹂
とエリクは言ったものである。
そういうところを見ると確かに彼は学者肌なのだろう。雫は納得
するとその﹁バイト﹂を引き受けた。
44
出発の日まではあっという間だった。
雫はこの世界では普通の、綿の半袖に長いスカートという女性の
格好に着替えるとエリクと共に町の入り口に立った。
見送りに来たシセアが名残惜しそうに彼女の肩を抱く。
﹁エリクがついてるから大丈夫だとは思うけど⋮⋮気をつけて。困
った事があったら戻っておいで﹂
﹁ありがとうございます。頑張ります﹂
もしかしたら、これがシセアを見る最後なのかもしれない。雫は
忘れないよう優しかった彼女の瞳を見返すと頷いた。
こんな時にでもならないと人との出会いの貴重さに気づけないの
だから、自分は今までどれだけ無頓着に生きてきたのだろう、と思
う。
会えないかもしれないと思った時、雫ははじめて家族が恋しくな
った。
卒業と共に別れて行く友人たちには、もう会わないのかもしれな
いと思いながらも、未来への期待以上のものを持たなかったという
のに。
シセアについても、今が本当の別れかもと思うと胸が詰まる。
けれど雫は、涙もそれ以上の言葉も飲み込むと、笑った。
﹁いってきます!﹂
﹁いっておいで。気をつけて﹂
一ヶ月と少し前、単なる女子大生であった雫は、今や何の変哲も
ない旅人として大きく手を振ると、待っていた男と共に乗合馬車に
乗り込む。
揺れながらゆっくりと走り出す馬車の最後部で、彼女は幌の隙間
から顔を出すと強く手を振った。徐々に町の景色が小さく遠ざかり
始める。
こんな絵に描いたような旅立ちは初めてだ。
数ヶ月前、学生会館に移り住む為に家を出た日のことを思い出す。
45
あの時はもっと笑っていられた。別れが悲しくはなかった。
だから、雫はその時の気持ちを思い出して今も笑顔を作る。
泣きながらの旅立ちは、なりたい自分には多分似合わないと、そ
う心に言い聞かせて。
馬車は一番早い便の為か、他には三人の商人と一人の男の旅人だ
けで、充分余裕があった。
エリクは膝の上に地図を広げると、それを雫に示す。
﹁まずは西隣の町、イルマスに行く。で、そこで転移陣の使用許可
を取る﹂
﹁転移陣?﹂
﹁魔法を使った移動装置だ。ファルサス直通のものが使えれば早い
んだが、平民にはまず許可がおりない。だから一旦アンネリかナド
ラスの町に出て、そこからまた移動して次の転移陣へと向かう﹂
﹁移動って瞬間移動できるの?﹂
﹁時間がかかる移動なら馬車と変わらないじゃないか。まさか君は
三ヵ月馬車に乗り続けるつもりだったのか?﹂
﹁つもりでした﹂
しれっと言いながらも雫は胸の中では驚きでいっぱいである。
瞬間移動など元の世界でもありえない。一体どういう仕組みなの
か気になったが、それよりも便利さに彼女は目を輝かせていた。早
く見てみたいと期待に浮き立ってしまう。その時彼女はふと、ある
ことに気づいてエリクを見上げた。
﹁そういえば、魔法士の人は魔法で移動できるんですか?﹂
﹁嫌なことに気づいたな﹂
間近に見える藍色の目が、いつもより幼く見えるのは彼の苦い表
情のせいだろうか。
彼は自分のこめかみを数度指で叩いた。
﹁転移は個人用であっても上級魔法だ。これを使えるのは宮仕えの
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魔法士の約半分と言ったところ。ましてや他人も運べる転移門を開
いたり、転移陣の書き込みを一人で出来るのは、かなり限られた人
間だけなんだよ﹂
雫は大きな目をまたたかせる。
つまり、﹁一応﹂魔法士というエリクには出来ないことなのだろ
う。彼女は慌てて問いを打ち切った。
﹁な、なるほど。分かりました。ごめんなさい﹂
﹁謝るな﹂
﹁謝ってごめんなさい﹂
下げた頭を上げてみると彼は少し笑っているようにも見える。雫
は自分も微笑んだ。
この旅に出るにあたって、図書館の顧問魔法士をしていたという
エリクは一旦職を辞めている。そこまでしてもらっていることに申
し訳なさを感じるが、彼の興味は既にファルサスと、雫の世界の文
字に移行しているらしい。折角の長い移動中、まずはひらがなから
⋮⋮と五十音を書いた紙を差し出すとエリクは少し怪訝な顔をした。
﹁丸いね﹂
﹁丸いですね。私の字のせいもありますが﹂
﹁こんなのが何万字もあって見分けがつくの?﹂
﹁これは五十個しかありません。カタカナもありますが﹂
﹁見せて﹂
彼の言葉に応えて雫はノートを一枚破ると、しっかりした装丁の
本を下敷きに、カタカナの五十音表を書き始めた。
エリクは記されていく字と、手元のひらがな表を見比べながら眉
をしかめる。
﹁そっちはカクカクしてるね﹂
﹁してますね。読みは同じですが﹂
﹁同じなのに何で二種類あるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮さぁ﹂
何でだろう。ひらがなもカタカナも漢字の形を元に作られたこと
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は知っているが、何故二種類あるのか雫は知らない。
文系なのに携帯カメラの仕組みについて聞かれた時と同じ反応を
それ以上追及はしてこなかった。
返さねばならないことを、彼女は少し不甲斐なく感じたが、エリク
は聞いても無駄だと思ったのか
出来上がった五十音表を受け取ると二つを並べて眺める。
﹁似てるのもあるな。カクカクしてるものの方が全体的に記号的だ。
読み方教えて﹂
﹁はい﹂
雫は横からペンで一文字一文字指しながら読みを伝えていく。エ
リクは彼女から借りたシャープペンでその度に字の傍に何かを書き
込んだ。
おそらくこれがこの世界の文字なのだろう。雫にも見覚えがある。
滑らかな曲線と直線を組み合わせて描かれる文字はアルファベット
の筆記体にも似ていた。
﹁こっちの文字は全部でいくつあるんですか?﹂
﹁共通文字は三十四。魔法共通文字は二百五十六だな。あとは国や
時代によって若干他の字が加わったり、字体が変わる﹂
﹁魔法文字?﹂
﹁構成や紋様に使う。表意文字だ﹂
よく分からないが彼女はそれ以上問うことをやめた。馬車の揺れ
が思ったより激しく、字を覗き込んだり難しいことを考えていては
気持ちが悪くなってしまうような気がしたからだ。
雫は読みを全部伝えてしまうとエリクに断って目を閉じ、休憩し
た。
そして気づいた時、彼女は既に目的地イルマスに到着していたの
だ。
﹁よく寝てた。なかなか豪胆だな﹂
﹁起こしてくれてありがとうございます﹂
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首を押さえながら馬車を降りた雫は営業スマイルで礼を言う。
自分でもよく寝られたと思うが、張っていた気がもう限界だった
のかもしれない。少しぼんやりしているが気分は悪くなかった。
ただその代わり、何だか首筋が痛いのは変に傾いでいた為であろ
う。彼女は指で痛む箇所をさすりながらエリクの後に続く。
イルマスは、雫が今まで暮らしていたワノープの町と比べて格段
に大きい町だった。往来は人通りが激しく、店々も活気に溢れてい
る。
ワノープにはなかった耳につく喧騒の中、雫はきょろきょろと辺
りを見回していた。
何だか言葉の通じる外国に来たみたいで少し楽しい。果物売りの
露店やアクセサリーらしきものを並べている商人に目が引かれた。
だが彼女は不意にエリクに腕を引かれてバランスを崩す。
驚いて何とか転ばないよう足を踏みしめた時、今まで彼女の居た
場所をガラの悪い男たちが早足で通り過ぎていった。片手で半ば抱
き寄せるようにして彼女を移動させた男は、顔をしかめて囁く。
﹁余所見はよくない。この町には危ない奴らも多い﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
雫は謝ると慌てて彼の手の中から脱した。
いくら相手が人間に興味がないと公言していても、近すぎるこの
距離は落ち着かない。意識していると相手に思われるのも嫌だった。
少し紅くなってしまった頬に手を添えた彼女に対して、しかしエリ
クは微塵も気にした風ではない。涼しい声が町の喧騒を縫って雫に
届いた。
﹁転移陣の使用許可を取るには審査が必要だ。大体三日くらいかな。
その間宿を取るから観光はその時にすればいい﹂
﹁何を審査するんですか﹂
﹁大したことじゃない。他国に出るから簡単な身分証明と前歴くら
いだ﹂
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﹁身分証明って⋮⋮⋮⋮まずいじゃないですか!﹂
この世界の人間ではない雫には証明できる身分がない。
勿論大学の学生証なら持っているが、これを出しても怪しさが証
明できるくらいである。
一体どうするつもりなのか、おもわず大きな声を出してしまった
雫は我に返ると慌てて周囲を見回したが、もともと騒がしいせいか
誰も彼女に目を留めている人間はいなかった。隣にいたエリクでさ
えもまったく動じていない。
﹁別にまずくないよ。僕の妹ってことにして書類は偽造しといた﹂
﹁こ、公文書偽造は、犯罪?﹂
﹁それ程たいした罪じゃない。タリスは民の出生をきっちり管理し
ているわけじゃないから﹂
﹁罪なんじゃないですか!﹂
﹁うるさいな。そこで拘ってたら君、一生タリスから出られないよ﹂
﹁うっ。それは困る﹂
もしかしなくてもこの男は結構いい性格をしているのかもしれな
い。
雫は生まれて初めての犯罪を異世界で犯すことに思わず天を仰ぎ
かけたが、先程余所見を注意されたことを思い出すと途中で視線を
前に戻した。
行き交う人の波。それはしかし雫の世界とはまるで違う色合いに
見える。ともすれば再び湧き上がってきそうな不安を彼女は心の中
大丈夫。いつだって次を踏み出せる。
で打ち消した。
︱︱︱︱
意志は人を強くし内側から人を形作るのだ。
無意識のうちに強く頷く彼女を、隣を行く男は横目で一瞥する。
それは単なる視線であったが、奥に本当に妹を見るような穏やか
な光があったことに、この時の雫はまだ気づきもしなかった。
エリクが選んだ宿は町の西にある小さいが手入れが行き届いた感
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じのよい宿だった。一人用の部屋を隣り合わせで二つ取ると、彼は
﹁ここにいて﹂と行ってすぐ出かけていく。
三十分程で帰って来た彼は若草色のスカーフを手にしていた。そ
れを雫に渡してくる。
﹁髪を覆った方がいい。君のそれは少し目立つ﹂
﹁髪? 色が?﹂
雫は自分の髪に手を差し入れる。染めてはいない茶色がかった黒
髪。日本人としてはごく一般的な髪色だ。
これがそれ程目立つものなのだろうか。ワノープではただシセア
をはじめ何人かの女性に﹁綺麗な髪だねぇ﹂と言われただけである。
しかしエリクは首を振って彼女の疑問を否定した。
﹁色はそうでもない。髪と目、両方黒の人間は珍しいが全くいない
わけじゃないからな。それより長さ。こっちの世界では普通女性の
髪は長いんだ﹂
﹁え?﹂
言われて雫は今まで出会った女性たちを思い浮かべる。
そう言えば髪をまとめあげていた人が多かったから気づかなかっ
た。が、長いと言われれば長かった気もした。
彼女は自分の肩につくくらいのセミロングの髪に指を通す。
﹁気づかなくて悪かった。君は顔立ちも変わってるし、何人か通り
すがりに君を見ている人間がいたんだ。ワノープの町の人間は皆、
君がどこか遠くから来たと知っていたから思っても何も言わなかっ
たんだろう﹂
﹁し、知らなかった。ありがとう﹂
彼女は髪ゴムで簡単に髪をまとめるとその上からスカーフをかぶ
った。顎の下で縛って、部屋に鏡はなく確認できないが、多分童話
に出てくる女の子みたいになっただろう。エリクはそれを見て頷く。
﹁申請書類はもう出してきた。どこか外に行きたいなら付き合うよ﹂
﹁外⋮⋮﹂
ついさっき通ってきた人通りの多いにぎやかな町を彼女は思い出
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す。
三日もあるのだ。確かに興味はあった。
﹁じゃあ、お願いしていいですか。町を一回りして感じを掴みたい
です。道を覚えれば一人でも行き来できますし﹂
﹁そう言うと思った。この町の地図も貰ってきた﹂
藁半紙に似た紙をエリクは差し出してくる。礼を言って受け取る
と町は大体円状になっていた。中央にある大きな建物から放射状に
大通りが広がっている。エリクが書き込んだのか、二人がいる宿の
部分には丸がついていた。
﹁これ真ん中の建物は何なんですか?﹂
﹁転移陣の管理局。イルマスはタリス西部の転移網の要所なんだ。
だから色んな人間が集まってくる﹂
﹁ああ、この辺の玄関口なんですね﹂
﹁そう。その分揉め事も多いと言えば多いから気をつけて﹂
雫は大きく頷く。ただでさえ異世界だ。危ないことは避けて通り
たい。それでエリクに迷惑をかけるのも嫌だった。
ふと彼女は部屋に一つだけある窓を見やる。
藍を水で薄めたような薄青さを湛える空はどこまで続いているの
か、見当もつかなかった。
反時計回りにイルマスを一時間かけて半周した二人は、ちょうど
中心をはさんで宿と反対側にある広場で、ひとまずの休憩をとるこ
とになった。
ここまで歩いてきてわかったことだが、人通りが激しいのは放射
状に広がる大通りだけで、それらを結ぶ横の通路はそれ程混雑して
いるわけでもない。もっと時間がかかるかと思った雫は安心したが、
代わりに途中の道には露店などはほとんど出ていなかった。
広場にあった露店でクレープに似た菓子を買った彼女は、何だか
分からない果物を挟んだ、いまいち甘みの足りないそれを食べなが
ら地図を指でなぞる。
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﹁ここをこうして来た訳ですね﹂
﹁あたり。君、結構方向感覚いいね﹂
﹁十八年間一度も迷子になったことはありません﹂
それだけは胸を張って言える。雫は天性のものなのか方向感覚が
優れているのだ。
知らない道でも、大体の方角を選んで目的地に到達する事が出来
集合地点に戻って来るので、
る。修学旅行の自由時間などでは、彼女の班はどれほど細いわき道
に入り込んでも、別の近道を通って
話を聞いた教師たちが驚いたほどだ。
雫は持ってきたバッグからシャープペンを出すと、地図にいくつ
か気になる店を書き込んだ。エリクはそれを面白そうに眺める。
﹁エリクはこの町に来たことがあるんですか? 随分詳しいけれど﹂
﹁あるよ。昔ファルサスに行った事がある。その時に通った﹂
﹁あるんですか!?﹂
﹁なきゃ案内するの大変だよ。あそこ広いから﹂
当然のように言ってのける男に、雫は大きな目を瞠ってテーブル
の上に半ば乗り出す。
﹁どんな国でした? 人が空を飛んでたり、ドラゴンがうろうろし
てたり?﹂
﹁⋮⋮それが君のファルサスの想像? やだよ、そんな国﹂
エリクは呆れた顔を隠そうともせず溜息をつく。
そんなことを言われても魔法大国など上手く想像できない。雫は
頬を膨らませた。
﹁じゃあ教えてくださいよ。気になるじゃないですか﹂
﹁いくらファルサスと言っても飛べる魔法士もそう多くはないし、
普段から飛んでる人間なんか皆無だ。ドラゴンはそもそも人里には
いない。僕も実物は見たことない﹂
﹁え。私見たことありますよ﹂
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﹁本当!? どこで!﹂
先程までの呆れ顔はどこへやら、途端に彼は目を丸くする。
興味があるのだろう。エリクは日本語の文字について聞いた時と
同じ、どこか少年のような表情をしていた。
雫はこみあげてくる笑いを堪えて教えてやる。
﹁はじめてこの世界に来た時に、砂漠で。遠目だったけど大きさか
ら言って多分そうじゃないかな﹂
﹁スイト砂漠か⋮⋮凄いな。南の山脈にはまだいるらしいけど、砂
漠になんて普通いないよ。僕も見たかった﹂
自然と声に熱がこもっていた彼は、しかし雫の視線に気づくと我
に返る。少しばつの悪い顔で椅子の背もたれによりかかった。
﹁ファルサスはね、活気のある国だな。文化の水準も高い。民も富
んでいて魔法がよく浸透している﹂
﹁日常的に魔法が使われているんですか?﹂
﹁そうだね。例えば君はパン屋で働いていたけど、釜の調節なんか
をファルサスは魔法で自動化している。城都では街の中を移動する
為の転移陣がいくつも設置されているし、他にも魔法を込めた魔法
具が当然の生活用品になっている﹂
﹁わぁ、おもしろそう﹂
素直な感嘆の声。
だがエリクは無邪気に顔を明るくする雫とは対照的に芳しい表情
をしなかった。
苦さが見える整った男の顔に彼女は少し不安になる。
﹁何か不味い国なんですか?﹂
僕はファルサスは怖い国だと思っている﹂
﹁うーん⋮⋮これは君に言っていいことがどうか分からないけどね。
︱︱︱︱
﹁怖い国?﹂
それはいまいち雫には理解できない言葉だった。
魔法士である彼が魔法大国を何故﹁怖い﹂と言うのだろう。彼女
の疑問を当然と思ったのかエリクは藍色の瞳を伏せて笑う。
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﹁ファルサスは四つの大国の中でも突出した力を持った国だ。そし
てそれは魔法大国であるという為だけではない。もともとファルサ
スはね、武力の国だったんだよ。魔法大国となったのはここ百年の
ことだ﹂
﹁百年⋮⋮﹂
それが国を変えるのに決して短い期間ではないと、戦後の高度経
済成長を経た国に生まれた雫は知っている。
神妙な表情になった彼女に、男は微笑というには棘のある表情を
見せた。
﹁今のファルサスは武力と魔力の両方を兼ね備えていて、比肩する
国がない。ここ数百年小競り合いを含めてもあの国に勝てた国はな
いんだ。でも僕が怖いと思うのはそれだけじゃなくて、そんな国の
決定権が王一人にあること。あの国の王はただの王じゃない。魔法
士を殺すことに特化した人間が代々王を務めている。だからもし⋮
⋮王が狂ったとしても、それを止めることは周囲の人間には困難だ。
現に六十年ほど前にそれで他国が一つ滅ぼされ、ファルサス内には
王族同士の争いが起きている。ファルサスはそういう⋮⋮個人の性
格に頼る危うさを持った国なんだよ﹂
雫はすぐには何も言えなかった。
彼女は王制には馴染みがない。だが彼の言わんとするところは分
かる。
ファルサスという魔法大国、強大な力を持つ国をどう動かすかは
全て王の意思のままに左右されることなのだ。
人は人である以上完全ではいられない。
もし、王自身が強力な力を持ち、意見する他者を退けられるなら、
そしてその王が道を誤るのなら、その時国の歯車は狂いだすのだろ
う。
重い唾を飲み込む雫に、エリクは少しの申し訳なさを漂わせて微
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笑した。
﹁まぁ君はそれ程怖がる必要はない。今のファルサス王は比較的寛
大な王だと有名だからね。あくまで僕の意見だ。先入観を与えてし
まったならすまない﹂
﹁いえ、ありがとうございます﹂
聞かなければよかったとは彼女は思わない。
エリクがそういうのなら、それもまたファルサスの一面なのだろ
う。
人も国もまるで複雑な多面体だ。どの面を見るか、どの距離から
見るかで全く異なってくる。そして、彼女自身の前にファルサスは
一体どんな姿を以って現れるのかはまだ分からないのだ。
雫は七十パーセントの不安と二十パーセントの期待、そして残り
のよく分からない十パーセントを抱いて目を閉じる。
穏やかな陽光が沈黙する二人に変わらぬ光を注いでいた。
残り半周、帰りは地図を手に雫が道を選ぶことになった。
蛇行するように角を曲がりながら、雫は時折小さな店に入ってみ
る。
何だか分からないものから元の世界でも見覚えがあるものまで、
聞けばエリクが教えてくれた。
﹁ここは魔法具の店。そう強力なものはないが、あまり触らない方
がいい﹂
﹁まじっくあいてむ! 胸躍る響きですね﹂
﹁いや全然﹂
冷水というほどではないが、水をさす彼の突っ込みにもそろそろ
慣れてきた。雫はまったくへこたれず狭く薄暗い店内をきょろきょ
ろと見回す。
どこかアンティークショップに似た雑然さ。ところ狭しと置かれ
たアクセサリーや武器に目が引かれた。
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エリクはエリクで時折彼女の挙動を確認しながら自分は陳列棚を
眺めている。
店の中央のテーブルの上、深い紅色の布に並べられた指輪の一つ
を、雫はどうしても手にとってみたくなった。
複雑な銀細工の指輪。中心には小さな青い宝石が嵌められている。
彼女は間近で美しい指輪をじっと見つめた。振り返り彼に尋ねる。
﹁これ触っていいですか?﹂
﹁どれ? ⋮⋮ああ守護の指輪か。平気だよ。でもそれよりこれ﹂
言いながら彼は棒状の物を差し出してくる。雫は怪訝に思いなが
らもそれを受け取った。皮の鞘につつまれた先から鈍い銀色の持ち
柄が出ている。
恐る恐る抜いてみると、それは刃渡り三十センチ程の短剣だった。
雫は思わず息を止める。
﹁何ですか、これ﹂
﹁買ってあげるから持って行くといい﹂
﹁何で。要りません。私、刃物なんて﹂
それは人を傷つける為のものだ。雫のいた小さな世界では不要と
されるもの。
彼女は、出来れば武器を手に取りたくなかった。出発の時もシセ
アに聞かれたが、要らないと言って笑って出てきたのだ。
なぜなら、もし武器を手にとれば、そしてそれで人を傷つけるこ
とを考えてしまえば、まだ作りかけの柔らかい自分が変質してしま
うような気がしていたからだ。
自分はこの世界にあっても言葉が通じる。人と話が出来る。
ならば言葉を使えばいいのだ。力を以って人と相対する必要など
ない。
徒に刃物を振りかざす人間は好きではない。それで人が言うこと
を聞くと思っている人間も。
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だから彼女は自分がそうはなりたくなかった。唇をきゅっと結ん
でエリクを見据える。
彼は雫の拒絶に少し驚いたようだったが、彼女がつき返している
短剣を受け取ろうとはしなかった。
﹁君がどういう世界から来たのか、僕はよく知らない。だけどね、
もし君がどうしても元の世界に帰りたいのだと、そう思うのなら持
って行くんだ。この世界の人間は決して優しい人間ばかりではない﹂
﹁優しくなければ武器を向けてもいいというんですか?﹂
﹁彼らが先に君に武器を向けたらどうする。僕は無抵抗を美徳と思
わない﹂
﹁美徳だとは思っていません。ただ嫌なんです。人を傷つける可能
性を当然と思ってしまうのが⋮⋮﹂
雫はそのまま沈黙する。
自分の中でも何だかもやもやと形にならない。甘えているのかも
しれないし、覚悟が足りないのかもしれない。
けれど彼女はまだ、そこを踏み越えることができなかった。そし
て踏み越えていいとも思えなかったのだ。
人の為に自分が犠牲になってもいいと思っているわけではない。
多分不当に殴られたなら殴り返すくらいのことはするだろう。
ただそれと、刃物とは違う。
一度武器を持てば、逆に自分の為に人を犠牲にしようと思ってし
まうのではないか。
その欲求を避けられるのか、暴力に触れた事のない彼女には自信
がなかった。
頑なに短剣を差し出しままの彼女をエリクは静かな目で見つめる。
怒っているのかいないのか分からない目を雫は微動だにせず見返
した。
ややあって彼は腕を伸ばすと、短剣に手を添える。
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﹁⋮⋮剣は武器であるが、武器は道具だ。そして人間は道具を統御
けど
し使うことが出来る生き物だ。そこを履き違える人間はままいるが、
君はそうならないんじゃないかと僕は思っている。︱︱︱︱
まぁ嫌ならいい。代わりに僕が持っているよ。必要になったら言っ
て﹂
﹁なりたくないと、思っています﹂
﹁どうだろう。果物の皮を剥きたくなる時がくるかもしれない﹂
雫は意表を突かれて目を丸くする。だが既に彼女に背を向けたエ
リクは、受け取った短剣を店の主人に差し出すと代価を払うところ
だった。
何と言っていいのか分からない。どんな顔をすればいいのだろう。
ただ振り返った彼は、いつも通り少しだけ笑うと、﹁帰ろうか﹂
と優しく声をかけてきてくれた。
雫は頷く。
まるで自分がずっと昔、幼い子供だった頃に戻ったような、そん
な気がした。
59
002
宿の部屋には窓が一つしかない。
雫は深呼吸をする為、その窓を押し開けて外に顔を出した。息を
深く吸いながら辺りを見回す。時間はまだ朝と言っていい時間だ。
遥か遠くに見える大通りも、人気はあまり多くない。
幼い子供の笑い声が聞こえて、彼女は視線を宿のすぐ近くへと移
下の子は身長や歩き方から言
動させる。ちょうど建物の裏にあたる路地では、兄弟なのか二人の
子供が遊んでいた。
上の子の方は五、六歳だろうか。
って二歳くらいに見える。石蹴りをしていた彼らは、不意に細い道
の真ん中にしゃがみこむと、地面に何かを描いて遊び始めた。兄が
絵を描いては弟がそれを指して﹁花﹂や﹁うさぎ﹂など意気揚々と
答える。実に微笑ましい光景だ。
雫はふと思い立つと身支度をする。念のためエリクの部屋のドア
に置手紙をはさむと、そのまま外に出て行った。
イルマスについてから二日目の朝は、澄み切った空気の中、白い
日の光が道に差し込みつつあった。
髪をスカーフで覆った雫は、宿を出ると迷いなくその裏に回る。
二度角を曲がり、路地裏にしゃがみこんでいる幼い兄弟に声をかけ
た。
﹁おはよう﹂
兄の方は突然現れた女に少し警戒した顔を見せたが、彼女がにっ
こり笑って目線を低くすると﹁おはよう﹂と返してくる。弟もそれ
60
にならった。
雫は彼らが座っている地面を覗き込む。路地の上に薄く積もった
砂には石で絵が描かれていた。
﹁お絵かき? 私もまぜて﹂
﹁いいけど、お姉ちゃん、よその人? 怖い?﹂
母親に余所者と遊ぶなと言われているのかもしれない。家の近く
といってもあまり治安がよくない町がゆえだろう。
若干用心したような子供に雫は笑顔で手を横に振った。
﹁怖くないよー。一緒に遊ぼう。お姉ちゃん、絵上手いよ﹂
言いながら石を取って絵を描き始めると、二人は食い入るように
これは何かな﹂
それを見つめた。出来上がりかけたところで下の子が﹁ねこ!﹂と
叫ぶ。
﹁あたり。じゃあ︱︱︱︱
﹁きつね!﹂
﹁うんうん。これは?﹂
﹁しか!﹂
﹁ヤギだよ﹂
デフォルメ絵が得意で、よくノートの隅などに小さな絵を書いて
いる雫は、いわゆる子供に人気なキャラクターものもいくつか描け
るのだが、それは当然通じないだろう。代わりに動物の絵をいくつ
か描いていく。上の子は当然ながら、そして下の子も言葉が早い子
供らしく、特徴を捉えた絵は次々とあてられていった。
だが三十分もそんな遊びをしていると、色々面白い事が分かって
くる。
彼らはどうやら﹁しまうま﹂や﹁キリン﹂を知らないようなのだ。
なら象やライオンはどうかと思うと、それは知っている。
まだ子供である二人が知らないだけという可能性もあるが、或い
は雫の世界とは生態系が微妙に異なっているのかもしれない。
覚えていたら後でエリクに聞いてみよう、そう頭の中のメモに書
61
き込んだ時、ふと三人で囲んでいる地面が翳った。
雫は何気なく空を見上げる。
白い雲が水色の上空を流れていた。太陽は遮られていない。少な
くとも雲によっては。
彼女は、何が影を作っているのか気づくとぎょっとして立ち上が
った。反射的に子供たちを庇いながら振り返る。
そこには長身の、よく鍛えられた体を持つ男が、面白がっている
ような表情で三人を眺めていた。
﹁ど、どちらさまですか﹂
思わず声に緊張が滲んでしまったのは、エリクに揉め事が多い町
だと注意を受けていた為でもあり、また何より相手の男が剣を帯び
ていた為でもある。
彼は雫を、頭の上から足の先まで眺めて、曖昧な笑顔を浮かべた。
﹁何歳? 十四、五?﹂
﹁⋮⋮十八です﹂
これは人種差というものだろうか。雫は警戒も忘れ、むすっとし
た顔になった。男は少し驚いたようだったが、すぐに笑い出す。
﹁そっかそっか。悪いな。滅多に見ない顔してたから。お嬢さんは
どこの国の出身?﹂
不味い。
雫は一瞬言葉に詰まった。
異世界から来たなどと誰にでも言えるはずがない。ましてや初対
面の怪しい男なら尚更だ。
だが嘘をつくとしても、雫はこの世界の国名などほとんど知らな
いし、その中から選んだとしても自分の顔立ちで嘘が通るとは思え
なかった。
迷った末、沈黙しすぎて怪しまれないよう彼女は口を開く。
﹁東の国から﹂
62
﹁東? 東の大陸?﹂
﹁もっとずっと東の⋮⋮島国です﹂
﹁へぇ。遠くからよく来たな﹂
何とか誤魔化せただろうか、と疑いながらも雫は頷いた。背後に
いる子供たちも立ち上がり、不安そうに彼女を見上げている。
雫は顔半分だけ振り返ると彼らに﹁楽しかったよ。またね﹂と帰
ることを促した。弟の方の肩を軽く押し、兄に寄せる。
二人はどこか釈然としていない顔をしていたが、結局軽く手を振
ると﹁またね﹂と近くの家の戸口に吸い込まれていった。
﹁何だ。姉弟じゃなかったのか﹂
﹁違います。どう見てもあの子たち、町の子じゃないですか﹂
﹁そうだな。顔立ちが違う﹂
男は言うと同時に手を伸ばしてきた。
勿論雫は彼の一連の動作を目にしていたのだが、何の反応も出来
ない。よく分からない事態に緊張して身が竦んでいたというのもあ
るが、それ以上に男の動きは速く、隙がなかった。
顎を捕まれ上を向かされる。生まれて初めて味わう男のぞんざい
な力に雫は怒りと恐怖が混濁した表情になった。
緑の瞳の精悍な顔立ちの男は、いささか不躾に彼女の顔を見つめ
る。
﹁少し日に焼けてる。惜しい。本当はもっと肌が白そうだな﹂
確かに彼女の顔は大分、日に焼けてしまっていた。
最低限の日焼け止めしか塗っていない状況で一日目から砂漠に放
り出されたのだから無理もない。
だがそれにしても、男の言葉は彼女の中の怒りと恐怖の比率を変
えるに充分な、失礼なものだった。
雫は唇の両端を上げて笑う。口元だけで。
﹁初対面の人間に日焼けをどうこう言われる筋合いはないので、と
っとと離して下さい﹂
63
男は目を丸くする。
まさか子供に見える彼女が喧嘩腰に切り返してくるとは思ってい
なかったのだろう。緑色の瞳に興味が弾けた。
彼はそれでも手を離さないまま皮肉に笑ってみせる。
﹁あいにく初対面じゃない。覚えていないか?﹂
﹁まったく。全然﹂
きっぱり否定しながらも雫は一応記憶を探ってみた。が、本当に
覚えがない。
多くの人と顔を合わせたのはパン屋で働いていた時のことだが、
あの時は客の顔を覚えようと必死だったのだ。こんな目立つ男と会
っていたなら忘れるはずがない。
一向に離す気がないらしき男の手に雫は自分の両手をかける。だ
がそれ程力を込めているようは見えないのに彼の手はぴくりとも動
かなかった。
再び彼女の中に恐れが湧き上がってくる。
このまま顎ではなく首を捻り潰されてしまうのではないか、そん
な錯覚を雫は抱いた。
だがそう蒼ざめた時、男はようやく手を離す。雫は慌てて数歩下
がり距離を取ると、解放された箇所を触って確かめた。
彼はそんな彼女の様子を検分するかのように眺める。
﹁確かにお前はあの魔法士しか見てなかったな。としてもまったく
俺が目に入っていなかったとは思わなかった﹂
﹁キャッチセールスならお断りです。手相も勘弁﹂
﹁何だそれは﹂
雫は徐々に後ずさりながらわき道を確認する。
きっと大丈夫だ。この男が立ちふさがっている、来た道を通らな
くても宿には帰れる。
しかしそれは、彼女の足でこの男を振り切れなければ不可能なこ
とでもあった。
64
だから武器を持っていればよかったんじゃないの? と頭の中で
誰かが囁く。けれど彼女はそれを否定した。
まだ何とでもなる。男が本当に彼女をどうにかするつもりなら悲
鳴をあげたっていいのだ。
警戒心をむき出しにした雫に、彼は広い肩をわざとらしく竦めて
見せた。
﹁そう嫌がるな。いい話がある。お前、俺とファルサスに行かない
か?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁行きたいんだろう? いい伝手がある。直通でファルサスに門を
開ける魔法士を知ってる﹂
﹁何で私がファルサスに行くって知ってるんです?﹂
﹁そう話していたからだ﹂
こいつはストーカーかもしれない。雫はその可能性に思い当たっ
た。
彼女にスカーフをくれた時、エリクは何人かが彼女の変わった顔
立ちに目を留めていたと言っていたのだ。この男はその一人で、彼
らの話を盗み聞いていたのかもしれない。
雫はまた一歩、後ろに下がった。
﹁何でだからって私を誘うんです? 一人で行けばいいじゃないで
すか﹂
﹁女の子が困ってるなら助けるのはそう不自然じゃない、とは思わ
ないか?﹂
﹁今、困ってますので放っておいてください﹂
名前は? あの魔法士はお前の名を一度も呼
にべもない言葉に男は笑う。
﹁結構気が強いな。
ばなかった﹂
男は徐々に離れていく雫に気づいていないはずがないが、開いて
いく距離を埋めようとはしない。
65
それとも多少のハンデがあっても簡単に彼女を捕まえられると思
っているのだろうか。
﹁名前を知らない人に名乗る名前はありません﹂
﹂
﹁ああ。俺はターキスという。で、お前は?﹂
﹁私は︱︱︱︱
雫はそこで言葉を切った。身を翻してわき道に飛び込む。後ろを
振り返らぬままスピードを上げ、でたらめに角を曲がった。
急に走り出したので呼吸が喉をつきやぶりそうだ。それ以上に鼓
動が速い。しかし彼女はもつれそうになる足を止めなかった。
あの男が追いかけてきているかは分からない。確認しようとして
速度を落としたくはない。
ただひたすら全力で走って、曲がって、そうして元の場所から遠
く離れた場所で、ようやく足を緩めた彼女は振り返る。
人通りが増え始めた路地の途中。雫の背後には誰も追って来てい
る人間はいなかった。
エリクは宿の一階にある休憩所でなにやら書類を読んでいるよう
だった。
人の気配に気づくと彼は顔をあげ、雫を手招きする。
﹁ようやく戻ってきたな。もう少し遅かったら探しに行こうかと思
ってた﹂
﹁ごめんなさい。ちょっと運動してて﹂
﹁君は変なところで健康的だな。それより問題が発生した。緊急事
態だ﹂
﹁問題?﹂
首を傾げる雫にエリクは持っていた紙を差し出してくる。彼女は
反射的に受け取ったものの、文だけの書類は何が書いてあるのかさ
っぱり分からなかった。
エリクの声が紙の上を滑る。
66
﹁これから行こうと思っていた国⋮⋮アンネリが攻め落とされた。
戦争の余波で出国の転移陣は全て封鎖される﹂
雫は呆然として彼の言葉を反芻する。
彼女がその意味を理解するには、もうあと数十秒が必要だった。
﹁⋮⋮攻め落とされた、って何ですか﹂
ようやくそう聞き返した雫にエリクは少し眉をしかめた。足を組
みながら彼女に向き直る。
﹁君の世界にはもしかして戦争がなかった? 隣国のロズサークが
アンネリを征服したんだ。今いるタリスはアンネリともロズサーク
とも国境を面しているし、一時的に他国への出入りが制限されてい
る。こういう時は、間諜や傭兵の行き来が増えて怪しい人間が入り
込みかねないからね﹂
﹁え、そ、それって、つまりこの町から移動できないってこと⋮⋮﹂
﹁あたり。今、転移陣の管理局は完全封鎖だ。タリスの軍が来てい
る﹂
雫は口を開けたまま自失しかけた。
そう言えばシセアが確か﹁アンネリの情勢が不安で綿が高くなっ
た﹂と言っていたのだ。
その国が滅んでしまったとあっては彼女も今頃困っているかもし
れない。雫は溜息をつきながらエリクの向かいに座った。
﹁封鎖ってどれくらいで解除されるんですか?﹂
﹁情勢による。短くて一ヵ月、長くて数ヶ月だ。ただあまり封鎖し
ては流通に滞りが出る。身元の確かな商人たちから規制は解除され
るだろう﹂
﹁じゃあ、それに紛れ込むことってできます?﹂
﹁君も結構言うね﹂
エリクは呆れながらも笑って返す。その表情は彼も同じことを考
えていたらしきことを窺わせた。
﹁ただそういう限定解除は身元の審査が通常より厳しくなる。新参
67
の商人ではまず通してもらえないから、古参の商人を抱きこんで同
行させてもらわないといけない﹂
﹁なるほど。お金か、伝手か、が必要なのかな⋮⋮﹂
膝の上に頬杖をついて考えこんだ彼女はふと、﹁伝手﹂という言
葉に先程の怪しい男のことを思い出した。戻ってきてすぐ驚くこと
を言われて、忘れていたのだ。雫は頬杖をはずすと両手を広げてみ
せる。
﹁もし、ファルサスに直通で移動させてくれる魔法士がいるって言
われたら、どうします?﹂
﹁何それ。怪しいよ。ここからファルサスに門を開けるなんてかな
りの魔法士だ。そんな人間が地方都市に埋もれていることは珍しい
し、嘘じゃないかな﹂
﹁うわ。嘘ですか﹂
﹁本当の可能性は低いってこと﹂
その二つは大して意味の違いがないように思える。エリクの一刀
両断に雫は腕組みした。
綺麗な顔立ちをした男は眉を上げて問い返す。
﹁何故急にそんなこと聞くんだ。町で勧誘でもしてた?﹂
﹁それが、変なストーカーに声をかけられたんですよ﹂
﹁ストーカー?﹂
雫は、宿の裏路地で出会ったターキスという男について説明する。
初対面ではないと言い張った男に見覚えがないことも付け加えて。
一人で外出し変な人間に出くわしたことでエリクに怒られるかも
しれないとは思ったが、黙っているよりいいだろうと彼女は判断し
たのだ。
男は彼女が話している間ずっと黙って聞いていたが、話が一段落
すると口を開いた。
﹁初対面ではないと、そう言ってたんだね。僕のことも知っていた
と﹂
﹁そう。絶対ストーカーですよね﹂
68
﹁多分違うよ。心当たりがある﹂
﹁ええ!?﹂
あの男はエリクと知り合いではないようだった。なのにお互いに
相手を認識しているとはどういうことなのだろう。
まったく分からない、と表情に出す雫に彼はさすがに呆れた顔に
なる。
﹁覚えてない? まぁ君は寝てたからな⋮⋮。ここに来るまでの乗
合馬車に商人じゃない男が一人乗っていただろう? 多分そいつだ。
風貌が一致してる﹂
﹁ああああ! そう言えば何かいた!﹂
﹁君、興味ないものは本当見ても見えてないんだね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そう言われても馬車に乗ってから少し文字の話をして、その後は
寝ていたのだから仕方ない。雫は、日本人特有と言われる曖昧な笑
顔を見せただけで沈黙を守った。
だがエリクの方は男の正体が分かってそれで終わり、ではないら
しい。
彼は藍色の目にいささかの力を込めて二人の間にあるテーブルを
睨んでいる。
不意に顔を上げるとその目がそのまま雫を射抜いた。
﹁君は、ひょっとして出身がどこかを聞かれなかった?﹂
﹁あ、聞かれた。だから東の島国だって⋮⋮答えました、けど﹂
﹁どこの東。東の大陸?﹂
﹁東の大陸より⋮⋮もっと向こう﹂
答える言葉がぶつぎりになってしまったのは、彼女がエリクの目
に緊張した為である。
こんな風に人から強い視線で見られることなどほとんどない。怒
られる子供に似て歯切れが悪くなった返事の最後に、彼の溜息が重
なった。
69
エリクは立ち上がるとテーブルの脇を回って雫の隣に立つ。彼は
右手に作った拳で、ノックをするように彼女の頭を二度軽く叩いた。
﹁支度して。今すぐこの町を出よう﹂
﹁え?﹂
﹁その男は多分君が普通じゃないことを分かっている。分かってい
て接触してきたんだ。捕まる前にここを離れよう。あの手の人間は
信用できない﹂
雫は慌てて立ち上がった。
何だかよく分からない。それでも不味い事態だということは理解
できたのだ。
エリクは一度振り返って、宿の入り口に誰も居ないことを確認す
ると﹁ほら、部屋に行こう﹂と彼女を押し出す。
いつになく険しい彼の声に彼女は何度も頷くと、宿の隅にある自
分の部屋に向かって駆け出した。
宿代は前払いしてあったので二人はまるで普通に外出するかのよ
うに宿を出た。人通りが少ない路地と大通りを縫いながら町の北へ
と向かう。
早足で行くエリクから、はぐれまいとして小走りでついてくる雫
に、魔法士の男は振り返って尋ねた。
﹁君、馬は乗れる?﹂
﹁馬⋮⋮は、乗ったことないです﹂
﹁なるほど。まぁ長い距離でなければ平気かな﹂
彼は独り言のようにそう言うと、また前を向いてしまった。歩く
速度が若干速まる。雫は慌てて自分も駆け出した。
もしかして馬に乗ることになるのだろうか。どうすればいいのか、
どんなものなのかまったく想像がつかない。
他にも考えたいことはいっぱいあったが、とにかくそれだけを心
70
配しながら雫はエリクの後を追った。
やがて十五分後、二人は町の北はずれに到着する。そこにある厩
舎にエリクは入っていった。
﹁待ってて﹂と言われた雫は何となく不安に駆られて来た道を振り
返ったが、彼女を見ている人間も、ターキスと名乗った男の姿も見
えない。少なからず安心しながらも、通りから身を隠すように厩舎
の壁に寄った時、エリクが戻ってきた。
彼は右手に手綱を引いており、その綱は一頭の馬に繋がっている。
雫は初めて間近に見る馬に目を丸くした。テレビや写真で見る競
馬の馬よりも若干小さく、その分がっしりとしている。
ぼうっと馬を見つめる彼女をよそにエリクは先に自分が騎乗する
と彼女に向かって手を伸ばした。
﹁ほら、行くよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁馬に乗ったことないんだろう? 後で教えてあげるから今は前に
乗るんだ﹂
﹁え、ふ、二人乗りして平気なんですか!?﹂
﹁平気な馬を選んだ。君は小さくてそう重くもなさそうだしね﹂
言われて雫は思わず自分の体を見下ろす。身長は確かに百六十セ
ンチない。体重も元々普通体型だったが、この世界に来てから少し
痩せた気もした。バッグが重いのも気になったが、拘泥していられ
る場合ではないだろう。彼女は意を決するとエリクの手を取る。
﹁そこに足をかけて。荷物はこっちに。よし、上げるよ﹂
彼は意外にも軽々と、雫の体を馬上へと引き上げた。自分の前に
彼女を座らせると手綱を取り直す。
初めての鞍の上は思っていたより高く、雫は思わず身を竦めたが、
高所恐怖症でなかったのがせめてもの救いかもしれない。
﹁落ちないようにね﹂
﹁は、はい﹂
71
ゆっくりと歩き出し、町の外へと方向を変える馬の上で雫はもう
一度振り返る。
彼女の視界の中イルマスは、初めて訪れた昨日と大差ない喧騒を
風の中に染み出させていた。
徐々にスピードを上げる馬の上でびくびくと様子を窺っていた雫
も、しばらくすると若干慣れてきた。
カーブする時など危ない時はエリクが片手で体を支えてくれるし、
気をつけていれば危なくはないと分かったからだ。
異性とこんな近くで接しているという彼女にとっての異常事態は、
馬に乗っているという緊張でどうやら相殺されているようだった。
彼女は後ろを見上げるようにして、馬を操る男に話しかける。
﹁あの、何でストーカーは私の出身が変わってるって分かったんで
しょう﹂
﹁そりゃ分かるよ。君は馬車の中で僕に文字を教えてくれていただ
ろう? あれを聞いていればこの大陸の人間じゃないとすぐ分かる﹂
﹁あー⋮⋮確かに﹂
あの時雫はひらがなとカタカナを読み上げていたのだ。その上エ
リクに﹁この世界の文字について﹂聞いていたのだから怪しいこと
この上ない。
今更ながら自分の無用心が身に染みて彼女は項垂れた。だが男は
彼女のそんな様子に気づいたのかすぐ後ろで苦笑する。
﹁まぁ、僕の不注意だ。今後は気をつけよう﹂
﹁はい。ごめんなさい﹂
﹁あと出身の話も。タリス出身って言っていいよ。東の大陸の更に
東には何もないんだ﹂
﹁え! ないんですか!?﹂
﹁多分ね。正確には何かあるという話は伝わってきていない。この
大陸と東の大陸以外の大陸については何も分からないから。触れな
72
い方が無難だよ﹂
﹁は、はい﹂
まさかターキスとのあの短い会話の間に、これ程大きな失態をし
ていたとは思わなかった。つくづく大事にならなくてよかったと安
堵する。
無事帰る為にはまず、もっと自分はこの世界のことを知らなけれ
ばならないのだ。雫は溜息を飲み込んで前を見つめた。
馬は人気のない草原をひたすら町から遠くへと走っていく。
速度に伴う風を感じさせない程、いつも通り涼やかな男の声が続
けた。
﹁あの男はワノープより東から馬車に乗り合わせていて・・・・・・
⋮多分生業は傭兵だ。そういう人間は横の繋がりが広い。下手に町
に留まっていると実力行使されかねないからな﹂
﹁実力行使!?﹂
﹁君も王侯貴族に売られたりしたくないだろう? 異世界から来た
変わった人間としてとか﹂
﹁か、勘弁してください。人権を主張しますよ﹂
﹁貴族の欲の前には人権なんて無意味だ﹂
エリクは何の感情もこもっていない声でそう言うと手綱をしなら
せる。
馬はタリス北西の国境、そこに聳える山々に向かって真っ直ぐ針
路を取っていた。
73
失われた王妃 001
イルマスを出て北西に向かった二人は途中の小さな農村で休憩を
取った。
馬を休ませ食料や野外泊に必要なものを買い込む。雫はエリクが
選んだ保存食の数々を興味深げに見やった。
﹁これ、ひょっとしてパスタ?﹂
﹁パスタ、って何﹂
﹁小麦粉を水なんかとこねて作るんですよ。で、乾燥させて後から
茹でて食べたりする﹂
﹁あー⋮⋮多分、大体あってる。セタンっていうんだけど。君のと
ころはパスタって呼ぶのか﹂
﹁この説明だったら饂飩も該当しちゃうって今気づいたんですが、
見かけはマカロニに似てますね﹂
雫は言いながらマカロニよりも短く、穴のあいていない平たい乾
燥食材が詰められた袋を手に取った。中を開けて覗き込む。
﹁⋮⋮イタリア軍は砂漠でもパスタを茹でて食べたらしいですよ﹂
﹁それ笑いどころ? 前提知識が必要な冗談は注釈を入れて欲しい﹂
﹁冗談に注釈を入れるって果てしなく虚しいですから﹂
買出しを終えた二人は、最後に村で馬をもう一頭買うと再び国境
に向かって出発した。びくびくと馬を歩かせる雫に付き添って、エ
リクが半馬身先を行きながら口を出し、のんびりと街道を歩いてい
く。
まだ日は高い。彼の話では夜には国境となっている山道にさしか
かるということだった。
74
﹁私、インドア派なんで、キャンプなんて子供の時以来ですよ﹂
﹁今でも子供に見える。少なくとも十八歳には見えない﹂
﹁それ外見のことですか⋮⋮結構凹む﹂
若く見える、と言えば聞こえはいいが、子供に見えると言われて
は嬉しくない。同じ事を指しているのでも物は言い様なのである。
はじめエリクの操る馬に乗っていた為か、揺れと高さに馴れてい
た雫は、思っていたより早く乗馬自体にも馴れつつあった。ただこ
のまま何時間も乗り続けては、おしりが擦りむけるような予感もす
る。その辺りは自己管理が必要だろう。
雫は遥か前方に見える山々を仰いだ。
﹁山道って険しいんですか﹂
﹁場所により。普段人がほとんど通らないし﹂
﹁わぁ。山賊でもいるとか?﹂
﹁人がいなければ山賊も商売にならない。単に国境を越えたい人間
は転移陣を使うからだよ﹂
﹁あ、そっか﹂
確かに現代日本でも高速有料道路を使う人間の方が、曲がりくね
った山道を選ぶ人間よりずっと多い。納得しかけた雫はしかし、な
らば転移陣が封鎖された今、同様のルートを選ぶ旅人も多いのでは
ないのかと気づいた。つい後ろを振り返ってしまう。イルマスを慌
てて出立する原因となった男が追ってきているかもしれないと思っ
たのだ。
しかし街道には見渡す限り二人以外誰もいない。彼女はほっと息
をついた。
﹁転移陣を使わずにタリスを出ようと思う人間は南西に向かうんだ。
わざわざ山を越えようと思う人間はいない﹂
﹁な、るほど﹂
雫はもう一度向かう先である山を見つめる。
森で覆われているらしく青く見える山は、まるで高い壁のように
75
そこに立ち塞がっていた。
﹁全部で二十六文字。英語もドイツ語も共通です。ただドイツ語に
E
I
O
Uだね。何が変わるの?﹂
はウムラウトが母音についたりします﹂
﹁この点々か。母音はA
﹁発音が。英語よりドイツ語の方が発音規則が分かりやすいと思い
ます﹂
エリクは一瞬怪訝な顔をしたが﹁訛ってるのか﹂というと手元の
紙にメモを取った。訛っているなどと言われるとおかしな感じがす
るが、英語もドイツ語も同じゲルマン語派である。
似ている単語も多く、二千年程前は同じ言語だったことを考えれ
ば、異世界人からそういう感想を抱かれるものなのかもしれない。
﹁西洋はこのアルファベット文字を使う国が多いです。私が勉強し
ているのは英語と⋮⋮ドイツ語は始めたばっかり﹂
そこまで言って雫は顔を上げた。辺りを見回す。
二人がいるのは国境に聳える山に入ってしばらくの森の中だ。山
を上り始めてすぐ日が落ち始めた為、彼らは道から少しそれた場所
で夜を明かすことにしたのである。
エリクは少し開けた場所を選ぶと十分くらい時間をかけてそこに
何やら魔法をかけた。何箇所かの地面に木の枝で紋様を描き、詠唱
を重ねて﹁比較的安全地帯﹂を作ったのだというが、彼女には当然
ながら分からない。
火を起こし簡単な料理を作って食べた二人は、今は本を開いて勉
強の時間に入っている。
雫の母国語は当然ながら日本語であるが、教える立場としては英
語の方が容易い。何故なら彼女にとって日本語はいつの間にか身に
ついていたものであるが、英語の方は﹁学んだ﹂言語だからである。
自分が教わったように教えればよい、そう思っていた雫はしかし
76
エリクと話していて不思議な違和感を否めなかった。
だがそれが何であるのか、彼女自身もよく分からない。エリクの
方も同じことを感じ取っているらしく、時折何かを考え込んでいる
ようだった。
ist
Shizu
Shizuku
雫はシャープペンを使って、ノートに三つの文章を書く。
is
name
name
Mein
My
一つは日本語で﹁私の名前は雫です﹂
もう一つは英語
最後にドイツ語で
ku
私の名前は雫です
﹂
彼女はそれぞれ対応する単語を線で結ぶと、エリクに見せた。
﹁これ全部同じ意味です。
﹁あとの二つはともかく、一番最初だけ違いすぎる﹂
﹁海を隔ててるから仕方ないんですよ!﹂
﹁つまりニホンゴは、単語の間に空白を取らない代わりに、ヒラガ
ナや点などを一定規則で挿入することで、 視覚的に単語の区切り
を判断しやすくしているのか﹂
﹁そ、そうなのか、な。そうかも?﹂
﹁分かった﹂
何が分かったのかエリクはまた手元の紙になにやら書き込んでい
る。
薄々気づいていたことだが、どうやら彼は雫より頭の回転が速い
らしい。﹁こんな説明で分かるんだろうか﹂と自分でも思っている
ことでも、彼はどんどん納得していく。時には言葉足らずな彼女の
説明を問い返すことで補ってくれるくらいだ。
彼が黙々と自分のノートらしきものに何かを書き足していくのを
見ていると、レポートの手伝いをしてくれないだろうかと不埒な考
えが浮かんでしまう。
そもそも今、雫の世界では何日ほど経過しているのか。彼女はふ
とその疑問に気づいて沈黙する。
77
こちらと同じ時間の流れならもう夏休みはあと二週間もない。そ
して当然ながらレポートは一本も書いていない。さすがに雫は少し
蒼ざめた。
彼女の顔が引き攣ったことに気配で気づいたのか、エリクが顔を
上げる。
﹁どうかした?﹂
﹁い、いえ何でも﹂
慌てて顔の前で手を振る彼女に、男は違うことを思ったらしい。
暗い夜の森を見回した。
﹁平気だよ。結界を張ってあるから低位魔族は近寄れない﹂
﹁そうですよね。 ⋮⋮って魔族って何ですか!﹂
﹁何ですかって魔族は魔族。人や動植物とは違う傾向の︱︱︱︱
破壊や汚染を望む存在だ﹂
﹁うわぁ! そういう世界だったのか!﹂
﹁何を今更。ひょっとして君の世界にはいないの?﹂
﹁⋮⋮いませんでした⋮⋮﹂
思っていたよりずっとよく分からない世界だ。ただ魔法があって
ドラゴンがいるくらいであるから、魔族程度は驚いてはいけないの
かもしれない。
膝をかかえてがっくりと項垂れる彼女にエリクは呆れた視線を送
った。
﹁君、一ヵ月以上もこっちで暮らしててまだそんなことを知らない
のか﹂
﹁重ね重ねご迷惑をおかけします。できれば見捨てないで下さい﹂
﹁僕はそんな薄情じゃないつもりだけどね﹂
苦笑した彼の貌は赤い火に照らされて、一瞬ぞっとする程綺麗だ
った。様々な知識や辛苦を詰め込んで人の形に成したかのような深
さがそこには垣間見える。
彼女より四歳だけ年上だというこの男は、一体今までどういう人
生を経てどんな人間になったというのだろう。この世界のことさえ
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よく分からない彼女には、彼の過去を想像することもできない。
雫は彼に対し初めて一歩踏み込んだ興味と、そして少しの淋しさ
を覚えて頭を下げたのだった。
二人は灯したままの火を挟んで厚布にくるまる。
順調に行けば明日は野外泊をしなくていいらしいが、雫はそれは
別にどちらでもよかった。
もともと自分のミスで招いた事態なのだ。エリクを巻き込んでし
まったことの方が申し訳ない。
だが謝った彼女に対し、淡白な魔法士の男は﹁次から気をつけれ
ばいい﹂と言っただけでまったく気にしていないようだ。
思えば彼はいつも何を考えているのかよく分からない。少なくと
も雫は、彼が本気で怒ったところを見たことがなかったし、満面の
笑顔というものも当然ながら知らなかった。
彼女は小さく欠伸をすると、両手を天に向かって伸ばす。
夜空に溢れる星がとても近い。月も見えるが、この世界も地球の
上にあるのだろうか。
﹁眠れないの?﹂
唐突な男の声は同行者のものだったが、それでも彼女は少し驚い
た。しばらく無言であったから、彼は先に寝ていたのだとばかり思
っていたのだ。
雫は腕を下ろすと彼の方を見る。だが炎に照らされた男の目はち
ゃんと閉じられていた。
一瞬幻聴かとも疑ったがそうではないらしい。単にエリクは目を
瞑ったまま起きているというだけだ。
その証拠に彼は雫の動く気配を感じ取ったのか言葉を続けた。
面白いですね。御伽噺を交換でもしてみましょうか﹂
﹁なら何か話でもする? 昔話とか﹂
﹁︱︱︱︱
雫は彼に、自分の世界について文字以外のことをほとんど話して
いない。初めて会った時に携帯を見せたくらいだ。
79
向こうも尋ねてこないので何となくそのままにしていたが、現代
最先端技術などと違って御伽噺なら雫でも過不足なく伝えられるだ
ろう。この世界の御伽噺というのも気になるし、彼女は男の提案に
乗り気になった。まずは自分から話し始める。
﹁昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。お
じいさんは山へ芝刈りに⋮⋮﹂
﹁芝を刈ってどうするの?﹂
﹁薪を取りに行ってるんです。⋮⋮おばあさんは川へ洗濯にいきま
した。その時川の上流から大きな桃がどんぶらこっこどんぶらこっ
こと⋮⋮﹂
﹁その変な詠唱は呪いでもかけてるの?﹂
﹁擬音ですよ!﹂
日本の昔話の代表﹁桃太郎﹂。この話を終えるまでに雫はエリク
の冷静なつっこみを山のように浴びた。昔話なのだからちょっとの
おかしさは大目に見て欲しいと思うのだが、異世界人のせいか彼の
る。最後には﹁ああ、力で財宝を勝ち取る話か﹂と言われて
性格のせいか、まるで物心がつき始めた子供のように遠慮なく問う
てく
彼女は何とも言えない脱力感に襲われた。
男は相変わらず目を閉じたまま頷く。
﹁君の世界の鬼ってそういう感じなのか。へぇ面白いね﹂
﹁今度はエリクですよ。昔話!﹂
﹁いいよ。じゃあ魔族にまつわる話でもしようか。ネビス湖の水神
のお話﹂
彼はそういうと涼やかな声で語りだした。
この山を越えた先にある国カンデラに古くから伝わる御伽噺を。
ネビス湖はタリスとカンデラの国境となる山々を越えた先、カン
デラ側の山麓に広がる青い湖である。
山あいに沿って緩く曲線を描く湖には、千年を遥かに越える昔、
80
一人の水神がいたという。
近くにある三つの村は水神を祀り、彼の加護を得て日々を穏やか
に暮らしていた。
といっても水神は人に干渉をするのではなく、ただ湖を恙無く護
り、人間はその恩恵を間接的に得ていたに過ぎない。まるで時が止
まったかのように安穏とした生活はしかし、大陸が暗黒期に入るに
あたって急激な変化を迎えた。三つの村のうち二つが、山を越えて
きた隣国の支配下に置かれ、その間に軍の宿営地が築かれることに
なったのだ。
今ではもう国名も伝わっていないその軍は、当然のように湖に水
や魚を求め、長年の間水神と村人たちの間にあった暗黙の境界を踏
み越えて水場を荒らした。そしてそれ故に水神の怒りを買い、一夜
にして多くの兵士が湖に引きずり込まれ、軍の半数が溺死したので
ある。
﹁当時、軍を率いていた王子は事態を重く見て宿営地を引き払おう
とした。けれどそこに水神はある要求をつきつけたんだ﹂
﹁謝罪を求めたんですか?﹂
﹁謝罪と言えば謝罪かな﹂
エリクは少しだけ苦笑混じりの声で答える。
だがそれでも充分穏やかな声は、夜気に染み入るように心地よく
聞こえた。
﹁水神はね、王子が連れていた妹⋮⋮王女を詫びとして差し出すよ
うに言ったんだよ。さもなければ軍の残りの半分も殺してしまうと
ね﹂
﹁うわぁ。人身御供だ﹂
雫は日本神話の弟橘姫を思い出す。
あの話では女性は妹ではなくヤマトタケルの妃であったが、海神
の怒りを買った男の為に入水したという点では一緒だ。
自然と胸を痛める雫をよそに話は続く。
81
﹁王子はそれを躊躇った。けど王女は国の為に犠牲になるのも自分
水神は彼女を殺さなかった。彼女を妻として迎えたんだよ﹂
の義務と考えて水神のところに向かったんだね。結果として︱︱︱
︱
﹁異類婚姻譚ですか﹂
﹁そう。ただ話はこれで終わりじゃない。残り半分の軍を国に帰し
た王子は妹を救う為に、少数の供と共に水神のところに向かった。
そして苦闘の末に水神を殺すと、幸せに暮らしていた妹を連れて帰
る。ただ水神を失って湖は以後魚の棲めぬ湖になってしまった。⋮
⋮というお話だよ。めでたしめでたし﹂
﹁ちょっと待ってください! あんまりめでたくなくない!?﹂
何だか﹁幸せに暮らしていた﹂とか聞こえた気がした。だとした
ら兄の行いは王女にとっては裏目に出たのではないか。
雫の疑問にエリクは目を閉じたまま頷いた。
﹁うん。そもそも水神が王女を要求したのも、彼女に恋をしたから
だという話だ。それを知った彼女は水神を愛するようになったんだ
な。だからこの話は悲恋の話として大陸に広まっている﹂
﹁⋮⋮そこを省いたら全然話が違っちゃうじゃないですか﹂
おまけに湖に魚が棲めなくなったのなら、まったくめでたくない。
雫は呆れて口をとがらせた。
しかしエリクは平然と続ける。
﹁でもまぁ無難な話じゃない? どちらに問題があったかは分から
ないが水神は軍の半数を殺しているわけだ。そこを好きな女性と結
婚して幸せに暮らした、では話の収まりが悪い。女性が殺した人間
の国の王族なら尚更﹂
﹁そ、そうかもしれませんけど﹂
何だか誰も幸福になれない、釈然としない話に雫は眉根を寄せる。
だが彼女はふとあることを思い出して聞き返した。
﹁それのどこが魔族のお話なんですか?﹂
﹁だから、水神が魔族なんだよ。上位魔族。この世界には神と呼ば
れる存在は厳密には実在を確認されていないし、人によってはいな
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いと思われている。暗黒期なんかには地方に実在し、信仰されてい
た神々もいるけど、それらは皆上位魔族だ﹂
﹁わぁ⋮⋮なるほど﹂
少し驚きはしたが雫はそれ程意外には思わない。もとの世界で悪
魔とされる存在の中にも、一神教によって否定された旧来の神が混
ざっていると知っていたからだ。
この世界においても強力な力を持つ存在は、人にとって善悪紙一
重ということだろう。
﹁ただ元々上位魔族は人間には興味がないからね。こうして伝わる
話もそう多くはない。人間界に現存している上位魔族は⋮⋮もうフ
ァルサスの精霊くらいしかいないね﹂
﹁ファルサス!? に魔族がいるんですか?﹂
目的地である魔法大国の名に雫は思わず飛び起きそうになる。ド
ラゴンがうろうろしているわけではないそうだが、神と言われるく
らいの魔族はいるらしい。怖いような興味があるような、不思議な
気分に彼女はなった。
﹁いるよ。昔魔女が連れて来た。今は代々王族の魔法士に使役され
てる﹂
﹁魔女⋮⋮﹂
また、魔女だ。
元の世界に帰る手がかりになるかもしれない事件。それに関わっ
ていたかもしれない魔女。
﹁かもしれない﹂の謎ばかりが積み重なる話に彼女は自然と息を深
く吐く。いつか読んだ推理小説のように、全ての謎が明かされ元の
世界に戻れる日は来るのだろうか。家族も友達も知らないこの旅の
終わりはどこにあるのだろう。
訪れた静寂にエリクは小さく苦笑したようだった。彼の表情は見
ていないがそんな気がする。優しい声が彼女の耳に響いた。
83
﹁ファルサスの王と魔女の話はまた別の御伽噺だ。気になるなら今
度話すよ。今日はもうお休み﹂
男の言葉に雫は頷く。﹁ありがとう﹂と呟く。
そして彼女は降り注ぐような星の下、疲れ果てた体を抱えて眠り
についた。
その晩雫は不思議な夢を見た。
がらんとした広い空間、壁のない白い床だけが続く空間に彼女は
立っている。目の前には一つ机が置かれていて、それも白い。
机の上には三冊の大きな本が乗っていた。その内の一冊、紺色の
カバーの本に雫はそっと手を伸ばし触れてみる。
紙ではない。皮でできているのだろうか。滑らかな手触りは不思
議とひんやりとしていた。
表紙を縁取る銀の装飾を指でなぞると、雫は本を開く。
少し黄色がかったページに書かれていた文字は見覚えのないもの
であった。日本語でもアルファベットでもない、見たことのない文
字。強いて言えばアルファベットの筆記体に似ている気もする。
だが彼女はそれをすらすらと読む事が出来た。立ったまま紙に指
を伸ばし横書きの文章をなぞっていく。
﹁⋮⋮レイリアは湖底の城に到着した時、己が死を予感していた。
けれどそれに勝るのは王女としての矜持と決意である。彼女は自国
の兵の為に命を捧げるのだと、それだけを繰り返し自らに言い聞か
せた。王女が歩みし長い廊下の果て、ついに扉が開く。そこに水の
神と呼ばれる男は待っていた。自らが望んだ花嫁を迎えるために⋮
⋮﹂
どこかで聞いたような話だ。
それは、聞いたばかりのようにも、もっとずっと初めから知って
いたかのようにも思える。
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だが何故その話に既視感を覚えるのか彼女は思い出せない。
雫はただその本を読んでいく。
不思議な紺色の本は、捲っても捲ってもちっともページが進まな
いように思えた。
翌日、日が昇り明るくなってから二人は出発した。
人はほとんど通らないという山道はしかし、幸いなことに緩やか
にくねる道が出来ている。二人はのんびり馬を歩かせ、道が細く険
しい部分は下りて手綱を引きながら山を登っていった。
雫は小学生の頃、遠足で山を登ったことを思い出す。
あの時は途中までバスで行き、峠を越えただけにも拘らずひどく
疲れた。多分体力がまだあまりない年齢だったからだろう。今も息
が上がっていると言えば上がっているが、せいぜいジョギングくら
いだ。それも度を過ぎそうになるとエリクがすぐに気づいて休憩を
入れてくれるので、今のところ不安はない。
振り返ると二人はいつの間にか、随分高いところまで上ってきて
いた。遥か下の山の麓から昨日通ってきた街道が、地平の向こうま
で伸びているのが見える。見晴らしのよさに思わず高らかに叫びた
くなったが、そんなことをすれば同行者から冷ややかな突っ込みが
くることは明らかだったので、雫は黙って歩を進めた。
﹁順調にいけばあと三時間も歩けば山を下りる。休憩を差し引いて
も夜にはカンデラの村に着けるかな﹂
﹁頑張ります﹂
彼女はただ一歩一歩前を見据える。石の転がる坂道が今は自分の
道らしく思える。
疲労が溜まっていく足を奮い立たせた彼女が、山道の峠に到着し
たのはそれから二時間弱後のことだった。
85
﹁ぜ、絶景ですね。写真撮っていいですか﹂
﹁シャシンって? ⋮⋮ああ、あれか﹂
雫は頷いて馬の背にくくったバッグから携帯を取り出す。
眼下に広がるのは青い山の連なりと、その中を縫うようにして横
たわる、より深い青の湖だ。透明度が高いのだろう。まるでトルコ
石のようだ、と彼女は思った。
ずっと切ってあった電源をいれると、ディスプレイに明かりが灯
る。雫はそれをひどく懐かしい思いで見やった。
何だかもうずっとこういう機械から離れたところで暮らしていた
のだ。彼女に元の世界を思い出させるものは、エリクに教えている
文字だけで、それは本とノートとペンさえあればできてしまうこと
である。
携帯カメラを構えて風景をその中に入れた雫は、シャッターボタ
ンに指を置いたまま茫洋と携帯を動かした。何とか湖の全貌を入れ
何だか違和感を覚える。
ようと角度を変える。
︱︱︱︱
雫は目を凝らしてディスプレイに映る風景を見つめた。
元の世界にいた時は、少し目を引くものを携帯で撮っておくこと
は普通だった。後から友達と回し見することも出来るし、気に入っ
たものは印刷したりパソコンに移して取っておくことができる。と
ても便利だし、これなら些細な思いも写真と共に保存できるような
気がしていたのだ。
しかし今、彼女は妙な落ち着かなさを覚えてシャッターを切れな
いでいる。
風景のせいではない。こんな美しい景色は滅多に見れないと思っ
たからこそ、写真を撮ろうと思った。それは間違いない。
ならば何故以前していたように出来ないのか。彼女はディスプレ
イではなく手の中の機械そのものに目を落とした。
真っ白な四角い機体。異世界に迷い込んだ雫にとって、とても大
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事な自分の存在を証明する一欠けら。手に馴染んでいるはずの道具
を、だが雫はこの時、自分でも不思議なほど異物として認識してい
た。
シャッターを押さないまま携帯を下ろした雫は、隣に立つ男を見
た。
彼は広がる湖よりも沈んだ藍の目で彼女を見返す。雫はその色を
また綺麗だな、と思った。
﹁シャシン終わったの?﹂
﹁うーん⋮⋮何と言うか。適応能力が高いんでしょうか、私﹂
﹁図太いとは思う。何、急に﹂
﹁ものは言い様だと早く分かってください﹂
彼女は男の失礼な発言にあっさりと返すと携帯をバッグに戻した。
馬の背を撫でながら手綱を軽く引いて笑う。
﹁よし! 行きましょうか!﹂
﹁はいはい﹂
二人は再び馬上の人となると、ゆっくりと山道を下りていった。
実質山が国境とされている為、もうタリス隣国のカンデラに入って
いるのだが、他には誰の姿もない。
こんな無用心に入国が出来ていいのだろうかとも彼女は思うが、
戸籍をしっかり管理していない国もあるくらいだ、その辺りは鷹揚
なのだろう。青い湖に向かって緩やかに蛇行しながら近づいていく
ことに、雫は子供のように胸が躍るのを感じた。
﹁泳げるかな。ちょっと楽しみですね﹂
﹁泳ぐの?﹂
﹁結構得意なんですよ。子供の頃は祖父に河童って呼ばれてたくら
い﹂
﹁カッパって何﹂
鬼なら通じたのに河童は通じなかった。ライオンなら通じるのに
シマウマは通じないようなものだろうか。雫は﹁水の中にいる伝説
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上の怪物です。手が百本あるのが魅力的﹂と真っ赤な嘘を教えてお
いた。手綱をしっかりと握り直す。
トルコ石の湖は日の光の下、神秘的な輝きを見せていた。雫は思
わず自然のその色に見惚れる。
﹁シャシン﹂は今は要らない。
形として残さずとも、自分はきっとこの景色を忘れないだろうと
彼女はこの時確信していたのだ。
ネビス湖の悲恋の御伽噺は大陸中に広まってはいるが、それらは
皆少しずつ異なっている。
姫の髪や瞳の色から始まって、水神と王子の勝敗や姫の愛情の有
無など、元は一つの話なのだろうが、今や様々な差異を含んで枝分
かれし人口に膾炙していた。
その中でもエリクが雫に教えたものはもっとも一般的とされる内
容だ。
水神は死に、姫は束の間の夫に想いを残しながらも国へと帰る。
湖は以後生き物の棲めぬ場所となり、ただ澄んだ空だけを映し出
すという結末。物悲しさを感じさせる御伽噺は人の心を惹くものな
のであろう。この話を元にした本なども何冊か書かれており、人気
は高かった。
そして今、千年以上昔の物語の舞台に雫は立っている。感嘆の声
が冴えた空気に響いた。
﹁すごい! 澄んでる! 泳いでいいですか!﹂
﹁何がいるか分からないから推奨しない﹂
﹁河童とか?﹂
﹁手が千本あるんだっけ。そんなのどこにもいないよ﹂
﹁手の数、十倍になってます﹂
どこの千手観音だ、と言いたくなったが余計脱線しそうなので彼
女は黙った。湖水を覗き込んでいた顔を上げ、数歩後ろに立つエリ
クの元へと戻る。
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緩くカーブしている湖の水際は小さな丸みを帯びた小石でいっぱ
いだった。澄んだ水は大分先まで湖底が見渡せる。それ以上遠くの
水面は空の色と同じ、泣きたいくらいの青だ。神秘的な景色に雫は
陳腐な感想の言葉さえ持ち得なかった。
去り難さを如実に表情に出す彼女の額を、男は握った指で軽く叩
く。
﹁そろそろ行くよ。湖畔の町に宿を取ろう﹂
﹁はーい﹂
二人は近くの木に繋いでいた馬に乗ると、水際に沿って進んでい
く。山から続く一本道は湖の外周を回っているようだった。平坦に
なった道は馬も大分歩きやすいようである。上下の揺れも弱くなり
雫にとってはありがたい。
その時ふと、風が背後から彼女の耳をかすめる。
いえ、何でもないです﹂
雫は振り返って波紋一つない鏡のような湖を眺めた。
﹁どうかした?﹂
﹁⋮⋮今何か︱︱︱︱
彼女は軽くかぶりを振ると前を向きなおす。
何だか誰かに声をかけられた気がしたのだ。
だがきっと気のせいだろう。ここには彼ら二人以外いないのだし、
風の音に違いない。
彼女は一旦頭に巻いていたスカーフを解くと髪を整え巻き直す。
湖に沿って続く道の先に、町の建物の姿が見え始めていた。
ネビス湖の畔にあるコルワの町は、千年以上の昔から名前を変え、
所属する国の名を変えながらも変わらず在り続けた、珍しい町であ
る。
その起源は件の悲恋話の舞台となった時代、水神を祀っていた三
つの村のうち、隣国に支配されなかったただ一つの村にまで遡る。
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残ったその村は暗黒期、他の二つの村がなくなってまもなく一度場
所を移動したのみで、あとは徐々に人を増やして、大きくはないが
平和な田舎町となった。
二人は町の入り口近くにあった厩舎に馬を預けると、宿を取りに
町に入る。
この町はカンデラの中でも山間部にあり、決して人通りが多い地
域ではないのだが、ネビス湖を見に訪れる旅人は後を絶たないらし
い。エリクがいくつかある中から宿を選ぶと、二人はひとまずの休
憩を取ることになった。
﹁ここから更に北西に向かってカンデラの城都を目指す。そこにつ
いたら転移陣を使うか、西に伸びる街道を使うか決めよう﹂
﹁了解です。城都って遠いんですか?﹂
﹁まぁまぁ遠いと思う。僕も行ったことないけど。順調に行って二
週間くらいかな﹂
雫は広げられた大陸地図を指でなぞった。まだ出発して間もない
のだから仕方ないが、ほんの少し西に移動しただけで、ファルサス
まではまだまだある。何だか西遊記を連想するが、妖怪と戦う予定
役者が足りないな、などとぼんやり考えた。
テーブルを挟
はまったくない。雫は、自分が沙悟浄でエリクが三蔵法師だとして
も、
んで向かいに座る男が不審そうに彼女を見やる。
﹁何、にやにや笑ってるの。何か企んでる?﹂
﹁そんなまさか! 何も考えていませんよ。エリクの髪を全部剃っ
たらどうなるかとか﹂
﹁ここに置いて帰っていいかな?﹂
﹁すみませんでした。私が悪うございました﹂
彼はもっともらしく頷いた。何故そんな想像をしていたかは聞く
気も起こらないらしい。
雫はなおも、綺麗な顔立ちなのだから人種の違いに目を瞑れば三
蔵法師が似合いそうなのに、と思ったが、人種の違いが最大のネッ
クだろう。
90
二人は夕食までをそれぞれの自由時間としてお互いの部屋に戻っ
た。ちょうどお湯が使える時間だというので雫は風呂に入る。それ
程広いわけではないが宿の浴場は彼女一人しかおらず、のんびりと
手足を伸ばすことが出来た。
﹁つ、疲れた⋮⋮﹂
それ程体は疲労してはいないと思ってはいるのだが、神経を張っ
ているのか矢張り山登りは堪えたのか、お湯の中で落ち着くと同時
に疲れが押し寄せてくる。吸い込む湯気が肺の中にしっとりと沈殿
していくのを感じて、雫は深呼吸した。
両肩を順番にもみほぐし、ふくらはぎにも手をやった。少し筋肉
が張っているかもしれない。湿り気を帯びた前髪から水滴がぽたり
と落ちた。彼女は髪をかき上げ水面を覗き込む。一瞬ぼんやりと映
りこんだ自分の顔に、雫は呟いた。
﹁⋮⋮帰りたいな﹂
この世界では彼女の他にまったく見ない日本人の顔立ち。以前は
家族の誰とも余り似ていないように思えていた容姿に、この時はし
かし不思議と家族の顔が重なった。
随分と彼らに会っていない気がする。もともと家を出て暮らし始
その時から雫の体感も合わせて既に五ヶ月
近くが経過して
めていたのだ。最後に家族と共に過ごしたのはゴールデンウィーク
で、
しまっていた。今頃皆が自分を探して奔走しているのかもしれない
と思うと、何だか泣きたくなる。
今の自分は充分幸運なのだと、恵まれているのだと分かっている。
そうでなければ勝手の分からない世界で、とっくに野垂れ死んで
いたり、もっと酷い目に遭っていただろう。
だがそれでも異世界に迷い込むことなく夏休みを過ごしたであろ
う友人たちや姉妹と比べて、果たして自分は幸運と言えるのだろう
か。何故、自分だけがこんなところで異邦人となっているのだろう。
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︱︱︱︱
そんなことを考えかけて慌てて雫は生まれかけた思考
を打ち消した。
マイナス思考に囚われることはよくない。自分にとっても、そし
てこの旅につきあってくれているエリクにも。本当にファルサスに
到着すれば帰れるのか、不安を抱いていた彼女に彼は言ってくれた
のだ。
﹃もしあの二百四十年前の不可解な事件の原因をファルサスが知っ
ているなら、それを使って君を帰せるかもしれない。つまり⋮⋮君
の過去の記憶を現出させればいいんだ。元の世界のね。それでその
中央にいることができれば現象が収まった時、その場所に飛ばされ
るだろう? 君の世界に﹄
雫はそれを聞いて、﹁ああ! なるほど!﹂と手を叩いた。具体
的な帰還の可能性に心から安堵したのだ。
だから、まだ落ち込む時ではない。蹲る必要はない。前を向いて
歩いていけるのだ。
もしこの世界に来たのが姉ならば、もっと多くの人に頼り、支え
られ、難なくファルサスについたかもしれない。逆に妹ならば自ら
率先して事態を切り回し、最善を見出したような気がする。
ならば自分はどうだろう。
水瀬雫はどうやって現状を乗り越えていくのか。
雫は湯気にけぶる天井を見上げる。伸ばした四肢に血の流れを感
じた。
たとえ要領を得なくても、無様に足掻こうとも、諦めないで踏み
出し続ければきっとこの旅は自分にとってプラスになる。いつかは
過ぎ去った貴重な思い出の一つとして振り返ることが出来るだろう。
そう信じて雫は微笑んだ。
﹁⋮⋮大丈夫。私は、私を作ることができる⋮⋮﹂
彼女は湯気に溶け入る息を吐き出す。
白い靄の中、一瞬不確定な未来が、輪郭だけ浮かんだ気がした。
92
002
コルワの町はそう大きくはなかった。雫の旅の出発地点であるワ
ノープの町と同じくらいだ。
一晩宿に泊まった次の日、彼女はエリクの許可を得て一人外に散
歩に出ていた。転移陣が集中し賑わっていたイルマスと違い、治安
も悪くないようだし、何よりもう一度あの青い湖が見たかったのだ。
湖畔に立つ町のはずれは、そのまま湖に面していた。水辺へと向
かう石畳の先は緩やかな下り坂となっており、玉石が敷き詰められ
ている。そこに風のせいか時折水が打ち寄せて白い石を濡らした。
雫は大きく胸を反らして澄んだ空気を吸い込みながら、景色を見
回す。
ネビス湖は今日も空の青をより深く映し出していた。掛け値なし
の絶景だ。元の世界でこれだけの景色を見たいと思ったら、それな
りに遠くへ、下手したら国外まで行かなければお目にかかれないだ
ろう。わざわざ湖を見るためだけにこの山間部に旅してくるという
観光客の気持ちもよくわかる。
雫は砂利を鳴らして、水に触れるすぐ傍にまで歩を進めた。
生き物が棲めなくなったという湖。だがそれも不思議と納得でき
るくらい水の青は冴えている。まるで生そのものを、あらゆる変化
を拒絶するかのように、水面は寂寞とした姿を横たえていた。
しゃがみこんで水に指を入れてみようとした彼女はしかし、ふと
誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。辺りを見回すが近くに
は誰もいない。同じく散歩に来ていると思しき人間が、少し遠くを
歩いているだけだ。
﹁⋮⋮何だろう﹂
93
耳元で囁かれたような声だった。
とても近くて、けれど小さすぎてよく聞き取れなかった声。風の
音を聞き間違えでもしたのだろうか。
雫は立ち上がるときょろきょろと周囲を窺う。その視線が少し離
れた場所の水際に立っている小さな石碑を捉えた。綺麗に整えられ
ているのではない白い石。遠目だが何かの文字が彫られているよう
にも見える。
興味の移った彼女は足元に気をつけながら石碑の元へ歩み寄った。
石碑は近寄ってみれば意外に小さく、彼女の腰程までしかない。
碑は玉石の中に立てられており水も打ち寄せているのだが、苔の
気配もないのは誰かが手入れでもしているのだろうか。
雫は表面に彫られた大き目の文字に手を触れさせた。当然ながら
読めない。そう長くはない文なので余計に残念に思えた。後でエリ
クを連れてきて読んでもらおうか⋮⋮そう考えていた雫は、唐突に
背後から声をかけられ飛び上がる。
﹁それ、姫の石碑だよ。水神に嫁いだ姫の﹂
今度は幻聴ではなかった。振り返るとそこには雫より少し年下に
見える少年が立っている。
町の子なのだろう。あっさりした平服に、手には野菜の詰まった
袋を持っていた。
﹁あんた旅人だよね。湖見に来たんだろ?﹂
﹁湖を見にというか、ファルサスに行こうとしてるの﹂
﹁は? ファルサスに? 何でまたこんなところ通ってるんだよ﹂
﹁色々あってね!﹂
乾いた笑いを洩らす彼女を、少年は怪しむように見やる。何だか
彼にはこのまま引かれて逃げられそうだったので、その前に雫は聞
きたいことを聞いた。
﹁ね。これ何て書いてあるの?﹂
﹁何てって⋮⋮あんた読めないの?﹂
94
﹁読めません。読んでください﹂
少年は怪しむを通り越して非人間を見るような目で雫を見た。い
くらなんでも酷い。
だがここでうろたえては負けだと思い、彼女は平然と肩を竦めて
みせる。やがて彼は色々割り切ったのか、石碑を指差すと書かれて
いる文字を読み上げた。
﹁ここより王女フェデリカは湖底の城に招かれん、だよ﹂
﹁王女? 御伽噺の?﹂
﹁そう。この町の名所だし﹂
﹁そっか⋮⋮そうだよね。ありがとう﹂
礼を言うと少年は訝しみながらも去っていく。一人になった雫は
改めて石碑に向き直った。教えられた名前を反芻する。
﹁王女フェデリカ⋮⋮?﹂
エリクは御伽噺に出てくる王女の名前を言わなかった。
そして、少年がこんなことで嘘をつく理由も見当たらないから、
きっと石碑にはその通り書かれているのだろう。別に何もおかしな
ところはない。
だが、雫は何故かその名を﹁違う﹂と思った。
何が違うというのか。何を知っているのか。
ただ違和感が熱を帯びた棘のように頭の中を焼く。
雫は目を閉じた。覚えているはずのない光景が甦る。
白い
本
厚い本
文字が
物語が
連なり
記録が
囁きかける
95
それは︱︱︱︱
風が問う。﹁名は何であるか﹂と。
聞き取れないほどささやかに。けれど消えない妄執を以って。
雫は口を開く。
レイリア﹂
半ば無意識に、その名を言葉に乗せた。
﹁︱︱︱︱
途端に世界が変わる。
突風が巻き起こる。
鏡の如くあった水面が大きく波打ち、押し寄せる水が石碑を浸す。
あっという間に湖が彼女のふくらはぎまでその手を伸ばし、飛沫
が彼女の頬を濡らした。
﹁ちょっ、何!?﹂
雫は顔にかかる水を防ごうと両腕で頭を庇う。水につかった足で
数歩後ずさった。
しかしそれでも逃れられない。何かが彼女を捕らえようと蠢く。
彼女は体を駆け上る水を両手でかいた。黒い穴に吸い込まれた時
のことが脳裏に浮かぶ。
︱︱︱︱
エリ⋮⋮﹂
必死に腕を伸ばす。晴れた空に向かって。半ば息の叫びが喉につ
かえた。
﹁たすけ⋮⋮ッ
視界が暗転する。
水に引きずり込まれる。
最後まで呼ぶ事ができなかった男の名を胸に抱いて、そうして雫
は湖の畔から姿を消した。
宿に残って自分の研究を整理したり、雫の教えてくれた文字を確
96
認したりしていたエリクは、昼過ぎになっても彼女が帰ってこない
ことにさすがに不審を覚えた。
迷子になるほど広い町ではない。第一彼女は方向感覚が非常に優
れているのだ。初めての町だからといって戻る道が分からないわけ
ではないだろう。
そしてまた長いとは言いきれない付き合いであるが、エリクは雫
が時間をきちんと守る人間であることも知っていた。決して無断で
一時間も遅れるような性格の持ち主ではない。﹁昼までには戻って
くる﹂と言って出て行った彼女がまだ姿を現さないということは、
おそらく戻ってこられない理由ができたのだ。
﹁まずいか⋮⋮?﹂
エリクは険しい表情になると立ち上がる。
誰かに見張られたり追われている気配
まさかイルマスで彼女に接触したという傭兵が、追ってきている
ということはないだろう。
は感じなかった。ならば可能性として考えられるのは、この町で何
らかの揉め事に巻き込まれたということだ。
彼は雫と入れ違いになった時の為、宿の主人に伝言を残すと町の
無用心だっただろうか。
中へと出て行く。小さな町を湖の方に向かって駆け出した。
︱︱︱︱
ここは湖の他に何もない田舎町だ。それに彼女はその湖を非常に
気に入ったようだった。
たった一、二時間のことだ。子供ではあるまいし、彼女はそれな
りにしっかりしている。だから気晴らしに一人で出かけさせても問
題ないと思ったのだ。出会って間もない男と四六時中一緒にいては
気分転換もできないだろうと。
彼女は特別なところは何もない、ただの少女だ。少女という年で
はないと本人は嫌な顔をするかもしれないが、彼からするとどうし
てもまだ大人になりきっていない少女のように見える。
しかし、彼女という人間が﹁ただの少女﹂でいるには、他の人間
と違って少なくない本人の意志が必要であるということもまた、エ
97
リクは分かっていた。
突然異世界に飛ばされたのだ。帰る方法もはっきりとしていない。
勝手の分からない世界で一人、精神にかかる負荷は尋常ではないだ
ろう。
それでも彼女は、ただの少女のように笑う。
不安に囚われないように、前向きでいようと努力している。
自然に振舞う彼女の姿勢が意識した結果のものであることは、初
めて会った時の狂乱を見ている彼には容易に推察できた。
決して強い人間ではない。けれど強く在ろうと努めている。
だからこそエリクは彼女の意志を尊重し、一人の対等な人間とし
て応えようと思っていたのだ。もし、それが今回裏目にでてしまっ
たのだとしたら⋮⋮
﹁引きがいいにも程があるな﹂
エリクは嘯くと走る速度を速める。
少し戸惑いながらも自分を保とうとする彼女の、多種の感情が混
じり合う複雑な笑顔を思い出しながら。
目が覚めたら死んでいた、という話はよく聞くが何やら矛盾を内
包している気もする。
雫はうっすらと開いた目に白い天井を映し出して、天国には天井
があるのかとぼんやりと思った。
頭が痛い。ここがどこだか分からない。彼女は手を何度か握った
り開いたりしてちゃんと動くことを確認すると、上体を起こした。
﹁ゆ、夢オチ希望⋮⋮﹂
自分でも馬鹿なことを言っていると思いながら雫は状況を確認す
る。
少なくとも今彼女がいるのは知っている場所ではなかった。床も
壁も天井も白い石で作られている。まるでどこかの神殿のようだ。
98
だだっぴろい部屋には他に誰もいない。彼女はずぶ濡れのまま冷
たい床の上に寝ていた。
﹁風邪引きそう。この世界って風邪薬あるのかな⋮⋮﹂
雫はたちあがると長いスカートを絞った。半ば体温であたためら
れていたのか温い水が床に滴る。次にスカーフを取って髪の先も水
気を切った。できれば着替えたいのだが今は何の荷物も持っていな
い。
もっとも自分のバッグを持っていたなら中の本が濡れてひどいこ
とになっていただろうし、確実に携帯も壊れたはずだ。ある意味身
一つでよかったのかもしれない。雫は犬のように頭を振って水を飛
ばした。
緊張に強張る腕を石の戸に向かって伸ばした。
窓のない部屋。あるのは一つの扉だけだ。彼女は用心しながらも
扉に近づく。
だがその時扉は勝手に向こう側に開く。
﹁わっ!﹂
雫は突然のことに思わず手を引いて後ずさった。
扉の向こうには十二、三歳に見える一人の少女が立っている。緑
の髪に緑の瞳の少女は、映画や写真でしか見た事がないような綺麗
な顔立ちをしていた。
まるで若葉のように鮮やな緑色をした少女の髪を、雫は感
惜しむらくは無表情なところが作り物のように見えるくらいだろ
うか。
もっとも、もしそれをエリクが聞いたなら﹁いるわ
心して眺める。さすが異世界、こんな髪色の人間もいるのだなと暢
気に思った。
けない。人外に決まってる﹂と言われることは確実であろう。
雫は少し屈んで少女の目線に合わせると、どう現状を説明したら
いいのか悩みながら口を開いた。
﹁あの、私はネビス湖の前にいたんですけど、気づいたら突然ずぶ
ぬれでこちらにお邪魔していたようで。今頃連れが宿で待っている
と思うんですが、えーと、つまり⋮⋮⋮⋮ここどこですか﹂
99
明らかに相手は年下に見えるのに丁寧語になってしまったのは、
少女が何だか気軽に話しかけることを躊躇わせる雰囲気を纏ってい
たからだ。
エメラルドを嵌めこんだような瞳が雫を見つめる。何だか猫みた
いだ、と彼女は思った。
返事をしばらく待ってみたものの少女はぴくりとも動かない。雫
は困惑してもう一度挨拶をやり直そうとした。
しかしそれより一瞬早く、不意に少女は深く頭を下げる。そして、
意外にも恭しい流麗な声が雫に向かって零れた。
﹁お帰りをお待ちしておりました。お妃様﹂
言葉の意味を理解して雫は凍りつく。
濡れた体に嫌な汗が混じる気がする。
ここはどこで何がどうなって自分は誰なのか。何もかも分からな
いまま彼女はただ﹁これが夢だったらいいのに﹂と心の中で唱えた。
雫は﹁どなたかとお間違えではございませんか﹂と自分でも動転
しているとよく分かる言葉を繰り返したが、少女はそれについては
何も言わなかった。ただ﹁着替えられた方がよろしいでしょう。ご
案内します﹂と言うとさっさと踵を返してしまう。
雫は少なからず躊躇したが結局少女の後を追った。とにかくまず
は着替えをしたかったのだ。
通された部屋は窓のない矢張り白一色の広々とした部屋だった。
大きな寝台には天蓋がついており、楕円形の姿見や凝った装飾の
家具など、絵に描いたような﹁お姫様の部屋﹂である。
あちこちにそれまで見なかった百合を形どった紋章が入っている
のは、この部屋の主人に関係しているのかもしれない。思わずぼけ
ーっと立ち尽くして部屋の中を見回していた雫は、少女に﹁こちら
でございます﹂と声をかけられ我に返った。そのまま隣接する浴室
に招かれる。そこにはいつ湯を張ったのか、広くて浅い円状の湯船
100
を中心に湯気が立ち込めていた。
再び呆気に取られる雫はしかし、今度はすぐに正気に戻った。少
女が彼女の濡れた服を脱がそうと手をかけたからだ。慌てて彼女の
小さな手から逃れると、雫は両手を胸の前で激しく振った。
﹁じ、自分で出来ます!﹂
﹁ですが御髪や御背中などお一人では大変でございましょう﹂
﹁平気です! いつも自分でやってますから!﹂
現代日本人で平民である雫は、人に髪や体を洗ってもらった記憶
など、美容室を除き小学生時代まで遡らなければ存在しない。まし
てやこのわけの分からない状況で、目を瞑った上、他人に背後に立
たれるのは落ち着かなかった。
頑なに拒否する彼女に、少女は無表情ながらも困惑したようだっ
たが、やがて﹁お着替えは外に用意しておきます﹂と引き下がる。
雫はほっと安堵すると濡れてずっしりと重くなった服を脱ぎ、冷
え切った体をお湯に沈めた。一息つくと同時に思考が回り始める。
﹁さて⋮⋮ここはどこでしょうね﹂
石碑の前で湖に飲まれたことは覚えている。
まるで彼女を絡め取るように水が跳ね上がり押し寄せてきたのだ。
思い返すと充分怖い。一体なんだというのか。地震も起きていない
のに津波のように水が迫ってくるなど充分異常現象だろう。とりあ
えず飲み込まれて溺死しなかっただけましというものだ。
雫は自分の全身を見やって安堵する。大丈夫だ、怪我はない。
確か、それだけではなかったはずだ。その前にも何か
だがその時、緊張に緩みかけた思考にふと翳がさした。
︱︱︱︱
あった。
彼女は腕組みをして眉を寄せる。ところどころ断裂した記憶を手
繰り寄せた。
多分⋮⋮何かを、聞かれたのだ。誰か分からぬものに。そして彼
女はそれに答えた。その後波が起きた。
101
けれど全てはつい先程のことのように思えるのに、何を聞かれ何
を答えたのかよく思い出せない。まるで記憶が思い出せるすれすれ
を漂っているかのように、どうしてもすっきり形にならないのだ。
﹁うーん。私、こんなに物覚え悪かったかな⋮⋮﹂
雫は首を右に左に傾けながら考える。
だが結局答は得られず、彼女は旅の同行者が心配しているであろ
うことに罪悪感を覚えながら浴室を出た。
用意されていた服は一人では着られない代物だった。というか雫
には着方が分からなかった。
その為、当然のように手伝おうとする少女を拒否することもでき
ず、彼女はコルセットのようなものをはじめ、なにやら時代がかっ
た下着を一通りつけられることになる。それが済むと一旦ゆったり
とした部屋着を着せられ、髪を乾かされることになった。
この世界にはそもそもドライヤーがない。雫はこの点では乾きや
すい自分の髪の長さに感謝していたものだが、鏡台の前に雫を座ら
せた少女は何も持っていないにもかかわらず、指だけでどんどん彼
女の髪を乾かしていった。
一体何をしているのか、少女の指が髪を梳くと同時に、まるで熱
されたかのように水気が飛んでいく。ほんのりと温かい自分の髪に
触れ、雫は感嘆の声を上げた。
﹁どうやってるんですか? これ﹂
﹁魔力を使っています﹂
﹁魔法! そんなことも出来るんですか⋮⋮﹂
瞬間移動が出来ることといい、そう聞くと魔法はひょっとしたら
雫の知る文明より凄いのかもしれない。
こんなことが身一つで出来るなら機械も要らないだろうな、と彼
女は素朴な感想を抱いた。
102
少女はあっという間に彼女の髪を乾かす。セミロングの髪に多少
の違和感を抱いたのかもしれないが、何箇所かピンで留め、花飾り
をつけると彼女の顔に薄く化粧を施した。
まったく迷いなく手を動かす少女に気圧されて、されるがままに
なっている間にヘアメイクは完成したらしく、雫は最後に白いドレ
スを着せられ、これでどこに行くのかと言わんばかりの姫君に仕立
て上げられてしまう。ただそれでも彼女の顔立ちは日本人のものな
ので、雫は﹁お綺麗です﹂と言われてもどこか自分がちぐはぐな存
在である印象を拭えなかった。
﹁では、王のもとへと参りましょうか﹂
床に引きずるドレスの裾や履きなれない高い靴に気を取られてい
た彼女は、驚愕に顔を上げる。
﹁お、王!?﹂
﹁さようでございます﹂
﹁王って⋮⋮誰ですか⋮⋮ここどこです﹂
非常に嫌な予感がする。少女は雫を﹁お妃様﹂と呼んでいるのだ。
それは一般的に王の配偶者を指す言葉で、だとするとつまり⋮⋮。
少女は振り返って雫を見つめると、清々しいくらいあっさりと答
える。
﹁ここは貴女様の住まう城です。王はこの城のご主人で貴女様が嫁
がれた方でいらっしゃいます﹂
﹁あああ、やっぱり! 激しく人違いです!!﹂
予感通りの展開に雫は全力で叫んだ。
まだ十八歳で、彼氏がいたこともないのに何故顔も知らない相手
に嫁いだことになっているのか。
異世界に飛ばされた上にこの仕打ちに、さすがに彼女の許容量も
ぎりぎりとなった。雫は自分の顔を指差して少女に詰め寄る。
﹁よっく見てください! 日本人! 日本人の顔! この城のお妃
様なんかじゃありません!﹂
103
少女の表情は変わらない。しかし少しだけ戸惑ったような間があ
いた。ややあって少女は雫から目を逸らし顔を伏せる。
﹁申し訳ありません。私には人の顔の区別をつけることができない
のです。ですが、貴女様は確かにお妃様でいらっしゃいます。私は
この城で一人、ずっと長い間貴女様をお待ちしておりました。隠さ
レイリア様、貴女様はもう我が王
れた名を名乗り、身の証を立てられたお妃様が、城に戻られ王を目
覚めさせる日のことを︱︱︱︱
のことをお忘れになったというのですか?﹂
﹁⋮⋮レイリア?﹂
自分のものではない名。しかし確かにどこかで聞いた記憶がある
名に雫はこめかみを押さえる。
夢の道筋を彷徨うような手順。それらをレイリアという名によっ
自
て辿る彼女は、とても長い混乱の果てに、ようやくその名が御伽噺
の水神に嫁いだ王女の名であると思い出した。そして︱︱︱︱
分が何故かそれを﹁知っている﹂ということも。
湖に下りられる町のはずれについたエリクは、そこで何人かが集
まって騒いでいることに気づき眉をしかめた。視線を走らせるがほ
とんどが町の住人らしく中に雫はいない。
心中に苦いものを感じつつ、彼は彼らの後ろで足を止めた。中央
にいる少年がなにやら﹁本当だよ!﹂と声を荒げている。別の男が
呆れたように言った。
﹁そんなわけあるか。海でもないし地震も起きていない﹂
﹁だから、その子の周りだけ波が起きたんだって! それであっと
いう間に飲み込まれちゃったの! あれやばいって! 探した方が
いいよ﹂
﹁溺れたのか? 捜索を出してもいいが、それならもう手遅れじゃ
ないか?﹂
104
エリクは彼らの会話に絶句する。苦いものがずっしりと重い何か
へと変じていった。彼は軽く手を上げて町人たちの会話に割り込む。
﹁すまないが、旅の連れを探している。十八歳だがもっと幼く見え
る黒い瞳の少女だ。異国の顔立ちをしている。誰か知らないか?﹂
その問いに中央にいた少年が表情を変えた。
﹁多分その子だよ! 石碑の字が読めないから読んでくれって言わ
れたんだ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ずっしりと重い何かが、胸の中で石に変わって呼吸を阻害してい
るような、そんな気分にエリクはなった。
言っても仕方ない後悔がいくつか脳裏をよぎる。だが彼はそれを
一瞬で振り切ると少年に向き直った。
﹁で、波に飲まれたと?﹂
﹁そう! 石碑の前にぼーっと立ってて、俺が遠くから見てたら急
に水がその子に向かって⋮⋮﹂
﹁何分前?﹂
﹁えーと、もう一時間半くらい前? 俺があちこち人呼んで言って
るのに誰も聞かねぇんだもんな!﹂
それは確かに、普通に溺れていたとしたらもう手遅れな時間であ
ろう。そもそもエリクは彼女が一時間も遅れて戻らないから探しに
きたのだ。
彼は厳しい表情のままその場の全員に問うた。
﹁この湖には水妖がいる? こういうことはよく起きるのか?﹂
﹁い、いや。そんな話は聞かない。ここ数百年記録にもないと思う﹂
ようやく事態の深刻さを認識したらしき男たちは慌てて言い繕っ
た。何しろ観光地なのだ。そんな話が前からあればもっと早く手を
打っていただろう。
蒼ざめる彼らの中、一人注目を浴びるエリクはしかしそれにも気
づかず、喉に張り付く息苦しさに顔を歪めた。
105
突然波が起こって飲み込まれるなど尋常な事態ではない。まず間
違いなく魔法か人外が絡んでいる。
そして多くの場合それは﹁打つ手がない﹂と同義だった。
この町にも魔法士はいるだろうが、果たしてこの手の事態に対処
できる人間が、こんな田舎にいるのか分からない。
かといってカンデラの城に応援を申請しても何日もかかるであろ
うし、そもそも他国の人間である彼らの為に人員を割いてくれるか
も怪しいのだ。
エリクはざわつく内心を抑えて思考をめぐらせた。
もう彼女は失われてしまったのかもしれない。その考えは真っ先
に浮かんだが、彼はあえてそれを避けた。
異世界から来た少女。何も持たぬまま、ただ自身だけを支えて帰
る為に歩き出した彼女が、こんなすぐにその道を断たれたとは思い
たくなかった。
それは甘い希望だろう。現実は少しも優しくないと、彼はよく知
っている。彼女がどれ程懸命に生きても他人がそれを汲み取るとは
限らない。
ただそれでも、不条理と残酷さに嘆いて諦めてしまうよりは、可
能性を探してみようと思った。
彼女もそうやって優しい町を旅立ったのだ。元の世界に帰る手が
かりを得る為に守られる巣を出た。
だから、この旅は初めからそういう旅だったのだろう。可能性を
最後まで諦めない道行きだ。
今はもう鏡のように凪いでいる湖をエリクは見渡す。その視線が
ふと、水際に立っている小さな白い石碑の上で止まった。
﹁あの石碑? 彼女が前に立ってたのって﹂
﹁そ、そう﹂
﹁何の石碑?﹂
106
﹁湖の御伽噺の⋮⋮姫の石碑だよ。﹃ここより王女フェデリカは湖
底の城に招かれん﹄って書いてある﹂
﹁王女フェデリカ﹂
そんな名前だったのか、とエリクは軽く頷いた。
水神に見初められ湖底の城に嫁いだ王女。束の間の魔族との生活
を経て、迎えに来た兄によって夫を殺され連れ戻された悲劇の姫。
その石碑の前でいなくなった彼女は一体今、どこにいるのであろ
う。
エリクは黙し考え込む。
広がる青い湖水はまるで何ものをも拒むかのように、鮮やかに輝
いていた。
何と言っていいのか分からない雫は、しばらく逡巡した挙句
﹁レイリアってずーっと昔の人ですよね?﹂
とだけ言った。エリクは確か千年以上も前の話だと言っていたの
だ。御伽噺の登場人物がまだ存命しているなど信じられない。
強張った表情の彼女の疑問に少女は首を傾げた。
﹁どれくらい前か、という感覚も私にはありません。ただ⋮⋮そう
ですね、私はとても長い間、お妃様のお帰りを待っておりました﹂
﹁あの、それってもうとっくに亡くなられてるんじゃないですか?
人間ですよね、その人﹂
少女は答えない。緑玉の瞳がじっと雫を見つめた。
何もかも分かっているような、何も分かっていないような目だ。
雫は思わず怯んで言葉を失う。緑の少女は、何も問われていないか
のように平然と彼女に背を向けると歩き出した。雫は慌ててその後
を追う。
﹁すみません、この城ってどこにあるんですか? 私、レイリアさ
んじゃないですし、コルワの町の宿に連れがいるんです。早く戻ら
ないと⋮⋮﹂
107
少女には言葉は通じるのだが、話が通じない気がする。
雫はそれでも必死で誤解を解こうとした。早く戻ってエリクに謝
らなければ、また面倒をかけてしまう。いくら彼が薄情ではないと
言ってくれても、それに甘えて迷惑を重ねたくはなかった。伸ばし
た手が少女の肩を掴む。
緑の髪の少女はゆっくりと振り返ると、少しだけ自嘲気味に、笑
った。
﹁この城は湖底の城。貴女様にはここ以外どこに帰る場所があると
いうのです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
雫は愕然と立ち尽くす。
途方もない光景を思い浮かべて、彼女
窓のない城。湖底にあるというなら、その外に広がっているので
あろうものは何か︱︱︱︱
は眩暈のする感覚を味わったのだった。
一時間半前に雫が立っていた石碑の前に、今は彼女の連れである
男が立っていた。
エリクはまじまじと白い石を見回す。おかしなところは何もない。
ただの碑に見えた。彼は先だって彼女に教えた御伽噺を思い出す。
水妖もおらず、他に失踪事件も起きていないというのなら、この
湖で不可思議な話はあの御伽噺以外ない。何しろこの場所はまさに
王女が湖に消えた場所であり、雫は湖の景色にいたく感じ入ってい
たのだ。
ただそれでも腑に落ちないところもある。件の話は暗黒期初期、
千三百年以上前の話だ。
それだけの期間何も起こらなかったにもかかわらず、何故今、何
故彼女なのか。原因は湖ではなく何か他の揉め事、或いは異世界人
である彼女自身に関わる別のところにあるのではないか。
108
だとしたら湖に拘泥することは、誤った判断に時間を浪費するこ
とになる。
エリクは石碑に手をついて悩んだ。
どこをどうやって探るべきか、決め手が得られない。もし彼がも
っと魔力がある魔法士で、彼女もまた魔法士であったなら魔法で連
絡もとれただろうが、彼女には魔力がなく彼にはその分を補える程
の力はない。こんな時の為に、離れても安否や居場所が分かる魔法
具でも探しておけばよかったと後悔したが、とりあえずその後悔が
有用に働くのは雫を無事取り戻してからのことだ。
彼はいくつかの可能性と対応を頭の中に並べる。湖の近くに来て
あれは確か、まだこの町に来る前、初めて湖の畔に着
からの雫の様子を順に思い出し、その中でふと止まった。
︱︱︱︱
いた時だった。
感動して湖を眺めていた後、彼女は町に向かおうとして不意に誰
かに呼ばれたかのように振り返ったのだ。
それを彼が覚えていたのも、彼女が意識して弱音や疲労を表に出
さないようにしていると思えた為である。だから彼は彼女の様子に
注意して、疲れているようだったら休憩を入れたり、何か変わった
ところがないか気をつけるようにしていたのだ。
エリクは浮かび上がる記憶をより鮮明にしようと集中した。
あの時、彼女は何故湖を振り返ったのか。
彼には何も聞こえなかった。何も感じ取れなかった。
それでも﹁何か﹂があったとしたら、それが彼女と呼応したのだ
としたら、彼女はやはり湖に囚われてしまっているのかもしれない。
御伽噺ではネビス湖の底には水神の城があり、王女はそこに招か
れたのだという。とんでもない話ではあるが、確かに上位魔族であ
れば湖底に城を作るくらいできるであろうし、魔族の城ならば千年
を越えても現存しているかもしれない。
だが、おそらく周囲に結界が張られていることは確実である。
109
上位魔族は人間と同じ作りの肉体を纏わねば人間界に現出できな
いのだから、当然水を防ぎ空気を保つ為の措置がしてあるだろう。
その結界を破れるかどうかは甚だ疑問でもあり、また湖にどれくら
いの深さがあるか分からないが、その結界までたどり着けるかどう
かも分からない。とりあえず探ってみたいとは思うのだが、とりあ
えずにしては難関すぎる問題にエリクは眉間の皺を深くした。
﹁あの子、姫様と同じに城に攫われたのかな﹂
唐突な呟きに振り返ると、雫と会ったという少年が不安げな目で
エリクを見上げていた。少年はエリクの隣まで歩いてくると少し肩
を落とす。
﹁ごめんな。あの子が水に飲み込まれるの見てたのに、怖くて動け
なかった﹂
﹁それは、無理もない。動けても行方不明者が二人になるだけだっ
たかもしれない﹂
あっさりとしたエリクの言葉に、怒られると思っていたのだろう
少年は瞬間安堵の表情を見せた。だがすぐに悔恨の色が濃くなると
俯く。
﹁でも、あの子を取り戻すのが大変になっちゃっただろ? 御伽噺
とおんなじだ﹂
その言葉にエリクは虚を突かれた。藍色の目を瞠って少年を見返
す。
男の反応に驚いたらしく、少年は自分も目を丸くしてしまった。
﹁何? 何か変なこと言った?﹂
﹁いや、御伽噺と同じだと言っただろう?﹂
︱︱︱︱
それこそが可能性かもしれない。
﹁うん。だって同じだろ? 妹を取り戻しに行った王子と⋮⋮﹂
もしかしたら
エリクは顎に指をかけて頷く。
御伽噺を踏襲しているのは湖に消えた女だけではない。その女を
取り戻せたという話が続いているのだ。
ならばかつての王子はどうやって妹を取り戻したのか。
110
﹃湖底の城に辿りつき、水神との戦いの果てに相手を討ち取った﹄
ということしか知らないエリクは少年に聞き返した。
﹁あの話で、どうやって王子が湖底の城に行ったか知っている?﹂
﹁え⋮⋮知らない。泳いで行ったんじゃ﹂
﹁そんな馬鹿な。当時の簡素なものとは言え鎧を着て、どこにある
のか分からない城を探して潜るなんて無謀だ。何か方法があったは
ずだ﹂
きっぱりと言い放つ男に気圧されて少年は視線を泳がせた。彼は
戸惑いながらも町を振り返ると、建物の一つを指差す。
﹁あそこ、昔の資料とかいっぱいある。だから何かあるかも⋮⋮﹂
﹁分かった。ありがとう﹂
エリクはさっさと教えられた建物に向かって歩き出す。少年は慌
ててその後を追った。
昼過ぎの太陽はまだ緩やかな存在感を以って、空を青く浮かび上
がらせている。湖水の上を飛ぶ渡り鳥は、澄んだ水に羽を休めるこ
となく、山の彼方へと飛び去っていった。
妹は幼い頃から何でも出来る人間だった。
勉強も運動も人並み以上。性格もきっぱりと現実的で時には三人
姉妹の中で一番年上のように振舞うこともあった。
ただ人間何か弱点があるもので、彼女の弱点と言えば未だに﹁泳
げないこと﹂である。
と
その点雫は泳ぐのは比較的得意で水遊びも好きであり、よく海な
どで妹の澪を浮き輪に乗せ、それを引っ張って泳いだ︱︱︱︱
いうこともあった。
﹁ここって水面までどれくらいですか?﹂
硬直から解放された雫は少女に問うたが、彼女は何を聞かれてい
るのか分からないといった仕草で首を横に振っただけだ。そのまま
111
少女は前に向き直ると、再び廊下の奥へと歩き出してしまう。雫は
仕方なく後についていった。
海と違って湖ならばそう深くはないだろうから泳いで帰れるので
はないかと一瞬思ったが、窓もないこの城でどこから外に出ればい
いのか分からない。そもそもいざ出て行ってとても深かったりした
ら多分死んでしまう。確か日本の湖には最深部が水深四百メートル
を越えるものもあったはずだ。
雫はドレスの裾を踏んだり蹴ったりしながら少女の背を追う。か
なりもたついているにもかかわらず距離が変わって見えないのは彼
女が速度を加減してくれているからだろう。
やがて不透明な沈黙の中進む廊下にも、終わりが見えてくる。
廊下の突き当たりに両開きの大きな白い扉を見つけて、雫は緊張
に唾を飲み込んだ。
資料庫は町の役場の離れにあった。
エリクはまずは役場にずかずかと立ち入ると、資料の閲覧を希望
する。
突然見知らぬ魔法士に古い貴重な資料を見たいと要求されて役人
は嫌な顔をしたが、エリクはそれを﹁旅の連れが湖で魔法的な異常
事態により行方不明になった。ここで協力してもらえないなら、カ
ンデラの城なり他の大きな町に事を明らかにして、協力を要請する
が構わないか﹂と一刀両断し、町の悪い評判が広がることを恐れた
相手から了承をもぎ取ることに成功した。
彼は何となくついてきてしまったらしい少年と共に、滅多に人が
踏み入らないのではないかと思しき埃っぽい資料庫に入る。紙を束
ねて紐を通して縛っただけで、劣化防止の処置もされていない資料
の数々を少年は呆けたような目で見回した。
エリクは棚の全てをざっと見て歩き、年代のあたりをつけるとそ
112
こからごっそりと資料を持ち出し、机の上に横に重ねて積む。古い
資料はさすがに半分以上が劣化防止の魔法がかけられているようだ
った。彼は無言でその中から一冊取り出すと目を通し始める。
﹁あ、お、俺も手伝うよ﹂
﹁うん。助かる﹂
二人は黙々と資料の紙を捲っていく。
閲覧済みの資料を積み上げながらエリクはふと、もし雫と今の彼
の立場が逆だったら大変だったろうな、と思って苦笑した。何しろ
彼女はこの世界の文字が読めないのだ。解決法を探すにも誰かに頼
まねばここから自力で見つけ出すことはできないだろう。
それとも泳ぎが得意だと言っていた彼女は自ら湖に潜りでもする
だろうか。あの少女ならそれくらいのことはやりかねない。少なく
とも彼女はそう簡単にエリクのことを諦めたりはしないように思え
た。
目は文字を追いながらも頬杖をついて茫洋とした考えに耽ってい
た男に、少年は顔を上げて怪訝そうな顔をする。
﹁何か見つかったの?﹂
﹁いやまだ﹂
﹁何だよ。楽しそうな顔してるからあったのかと思った﹂
﹁⋮⋮そんな表情してたかな。ごめん﹂
彼は気を引き締めると再び紙の上に視線を落とす。
かじりつくようにして文字を追っていた少年が目的の記述を見つ
けたのは、それから約二十分後のことだった。
113
003
﹁なあ、これがその王子じゃない?﹂
少年が指差した箇所をエリクは覗き込む。そこには確かに問題の
御伽噺についての記述と思しき文章があった。黄ばんだ紙の上に指
をなぞらせ、少年は古い装飾の文字をたどたどしく読み上げる。
﹁王子は⋮⋮祭壇⋮⋮捧げ物、を⋮⋮村の⋮⋮水神を呼ぶ﹂
﹁王子は水神の祭壇に捧げ物を供す。支配せし村の祭壇は村の南西
にあり、湖の畔にて村人は水神を呼ぶ、だよ﹂
すらすらと読み上げた男に少年は尊敬の眼差しを送ったが、ふと
首を傾げる。
﹁どういう意味?﹂
﹁つまり⋮⋮おそらく当時あった三つの村は水神を祀る祭壇をそれ
ぞれ持っていたんだろう。そこに捧げ物をしていたんじゃないか?
王子はそれを利用して、支配下に置いた村の村人に捧げ物をさせ
た。で、捧げ物を取りに来た水神を捕まえたんだよ﹂
﹁ああ、そっか!﹂
理解した少年は解決の糸口に喜色を浮かべる。
エリクは資料を手元に引き取ると更に記述を目で追った。祭壇の
場所と捧げ物の内容など必要そうなものを拾い上げる。作業に集中
している彼に、少年の呟きが届いた。
﹁でもこれって水神さんからしたら腹立っただろうな⋮⋮﹂
﹁まぁそうだろうね﹂
何しろ突然やってきた人間の軍勢に、自らを祀っていた村を支配
され湖を荒らされたのだ。
114
それを兵を殺し姫を貰うことで痛みわけにしようとしたところ、
こともあろうに村の住人に儀式を装わせて、軍を率いていた男が自
分を殺しに来た。こうなっては水神の怒りの程は想像に難くない。
だが王子や王女からすれば違った物の見方があるのだろうし、これ
はそういう話だとエリクは思っている。種族間に渡る悲恋の話など
ではなく、誰しもが望みを絶たれる喪失の話だと。
﹁当時はみんな言い分があったと思うけど⋮⋮今回はこっちは何も
していないと思うしね。遠慮なく取れる手段を取らせて貰うよ﹂
必要な部分を手持ちの紙に書き写したエリクは立ち上がる。
望みが衝突し、争わなければならないとしたら譲る気はない。そ
れを卑怯と謗られることがあろうとも必要ならば踏み入っていく。
度し難いことにそれもまた人間の本質の一つであると、彼はよく知
っているのだから。
白い扉は、少女がその前に立つと音もなく奥へと開いていった。
雫は自分が緊張していることに気づいて、震える指を軽く拳に握
る。ドレスの裾をつまみあげると少女に続いて一歩を踏み出した。
扉の向こうはやはり目が覚めるような白一色で、体育館を奥に二
つ並べたくらいの大きな広間になっていた。雫は扉の正面のずっと
向こう、数段高くなっている場所を見やる。
そこに今は誰もいない。ただ大きな石の祭壇のようなものがある
だけだった。
迷いなく奥に向かって進み始める少女に、彼女は恐る恐る声をか
ける。
﹁あの、王って⋮⋮﹂
﹁この先におわします﹂
言われて彼女はもう一度奥を見たが、そこには誰もいない。
ひょっとして馬鹿には見えない王様だろうか⋮⋮などと現実逃避
115
をしている間に、二人は既に広間の半分までさしかかっていた。雫
は自分より大分背の低い少女の緑の髪を見下ろす。
﹁あなたの名前って、聞いてもいいですか?﹂
歩みが止まる。雫はぶつかりそうになって慌てて重心を反らした。
少女は首だけで振り返る。
私は⋮⋮⋮⋮メアと申します。レイリア様﹂
人形のように作り物めいた表情。緑玉の瞳が雫を見上げる。
﹁︱︱︱︱
感情を感じさせない硬質の声。
けれどそれを聞いた雫は何故か、少しの罪悪感と胸が痛くなる思
いに打たれ、何の言葉も返せなかったのだ。
遥か昔に祭壇があったという場所のうち最も近い一つは、町から
山の方に向かって三十分程引き返したところにあった。そこはかつ
てコルワの町の前身たる村があった場所のすぐ近くである。御伽噺
の王子が使った祭壇は、彼が支配した二つの村のうちの一つである
から、もっと北西にあるのだろう。
だが今はそこまで行っている時間が惜しかった。エリクは水際の
林を、低い木々をかき分けながら立ち入っていく。後ろには二人の
男と一人の少年が続いた。彼らに共通するものは緊張の表情であり、
特に役場からの要請を受けて同行することとなった二人の魔法士は、
訝しさと煩わしさを微妙に加えて混ぜ合わせた顔をしていた。
林に入ってまもなく、先頭を歩いていたエリクが﹁あった﹂と呟
く。
そこには、草に埋もれ朽ちた白い石が円状にいくつか転がってい
た。少年が石の一つにこわごわと触れる。
﹁これが祭壇? 壊れてるよ﹂
﹁崩れてるのは石だけだよ。敷かれた構成は残っている。さすが上
位魔族に繋がるものだな﹂
116
上位魔族、と言う言葉に町の魔法士二人は僅かに蒼ざめた。もと
もと彼らも戦闘が出来るような魔法士ではない。一人は医者として
町にいるのであり、もう一人は魔法具の修理調整を生業としている
男だ。それが﹁魔法士を連れて行きたい﹂などとエリクが主張した
ばっかりに、役場に頼まれてこんなところまで来る羽目になってし
まった。
男の一人が白い石を見回してかぶりを振る。
﹁随分古い構成だ⋮⋮私には読み解けんよ﹂
﹁僕が修復するよ。魔力だけ使わせて欲しい﹂
エリクは平然と言うと二人の魔法士を手招きした。もう一人の男
が顔を引き攣らせる。
﹁上位魔族などと戦えないぞ!﹂
﹁死んでるんじゃないの? そういう話だったじゃないか﹂
﹁じゃあお前は何をしようとしているんだ!﹂
少年は険悪な雰囲気にどうすべきか視線を彷徨わせ、落ち着き払
った旅の魔法士を見つめた。エリクは一瞬林の木々の向こうに見え
る水面に目をやる。間を置いて、よく通る平坦な声で答えた。
﹁女の子を一人取り戻す。その為に道を開くだけだよ﹂
二人の魔法士は信じられないものを見る目でエリクを見据える。
その﹁取り戻すだけ﹂の為に、かつて王子は側近たちを率いて分の
悪い戦いに挑んだのだ。まるでそれを再現するような状況に彼らは
凍りつく。
この先に何が待っていると言うのか、分かる者は誰もいなかった。
レイリア、と呼ばれる度に違和感が雫を襲う。人違いなのだから
当然のことだ。雫は重い足取りと、本当に重いドレスを引きずって
メアという名の少女に続く。祭壇はもうすぐだ。彼女は大きな目を
伏せた。
117
︱︱︱︱
何故、この世界に来てしまったのだろうと考えた。何
故自分なのだと。
ただ、自分が本来知っているはずのないことを知っているのなら、
そしてメアが自分のことをレイリアだと言うのなら⋮⋮。それがこ
の世界に来てしまった原因なのかもしれない。雫は紅く塗られた唇
を開く。
﹁私、が⋮⋮そのレイリアさんの、生まれ変わりだとか、そういう
話ですか?﹂
メアはまた足を止めた。
不味いことを聞いてしまったか、と雫は思ったが、単にもう祭壇
の前についただけのことだった。メアは一歩左に避けると雫を見つ
める。
﹁生まれ変わりなど御座いません﹂
﹁え?﹂
﹁人が死ねば、肉体は朽ち精神は消え去り、魂は世界に広がる力場
にただの力となって溶け入ります。死後は何も残りません﹂
﹁え⋮⋮﹂
人は死ねば何も残らない。
雫は呆然と立ち尽くした。今聞いたことが頭の中をぐるぐると回
る。
︱︱︱︱
それは、元の世界でも多く主張される意見だ。無理もない、ある
意味当然の考えである。
一方そうではない別の意見、つまり魂の不滅や死後の世界、生ま
れ変わりの話などもよく聞くが、それらは宗教的もしくはオカルテ
ィックな思想だと言われており、雫も半信半疑だ。
死後のことについて議論したとしても結論は出ない。何しろ誰も
死の先に何が待っているのか分からず、あることもないことも証明
できていないのだから。
ただそれでも、﹁何も残らない﹂と断言されると少なくない衝撃
118
があった。雫はメアに聞き返す。
﹁それは、この世界ではそう言われているんですか? それとも証
明されている、とか?﹂
﹁そうですね。魔族や魔法士ならば皆知っているでしょう。魂とは
力の在り方であり、肉体が死ねば、それが宙に混じり溶け去ってい
くのが分かるのですから﹂
だから、何も残らない。人は死ねばそれまでである。
そう続いた気がして雫は思わず息を止めた。
人は、誰かが死ぬと天国での幸福を願ったりする。
幽霊でもいいから会いに来て欲しいと思う。
生まれ変わった先に希望があるのではないかと夢想する。
埒もない慰めだと言う人もいるだろう。
だがその慰めがこれ程までに広く、そして長きに渡って語られて
いるのは、人がそう信じたいからだ。死の果てにも救済はあるのだ
と、失われるばかりではないと思いたいのだろう。
それくらい人の死とは切実たる終わりだ。ここまでが目に見える、
けれどこの世界にはその先は何もないのだという。痛みを
如何ともしがたい制限なのだ。
︱︱
和らげる願いさえ拒絶する。
魔法がある世界だ。雫の世界とは違うのかもしれない。
そうは思っていても彼女は、泣きたいようなやるせなさを感じざ
るをえなかった。
魔法士であるエリクを思い出す。
死の先に何もないと知っている人たちは、どうやって誰しもを待
っている粛然とした現実を受け止め、絶望を乗り越えていくのか。
彼女には分からない。まだ、想像もつかない。
それくらい死も、そしてこの世界も、自分からは遠いのだ⋮⋮。
119
目を閉じた雫をメアは首を傾けて見やる。彼女が何故辛そうなの
か分からない。
﹁どうか、なさったのですか﹂
雫の体が微かに震えた。睫毛の下から黒い瞳がメアを捉える。
﹁私は⋮⋮レイリアさんじゃありません。別の世界の人間です﹂
彼女の声は、今までで一番きっぱりとしたものだった。漆黒の双
眸に悲しそうな光が灯っている。
メアは、目の前に立つ人間の女を見つめた。
王が作ったこの城にいることを許された人間の女は一人しかいな
い。
彼が愛した人間の姫。幸せそうに微笑みながらもいつもどこか淋
しそうだった儚げな女性。
同族を主人とするメアには人間の個体の区別がほとんどできない。
彼女にとってこの城にいる人間の女性はすなわちレイリアで、他
にはいないのだからその必要も感じなかった。
だから、この黒髪の少女もまたレイリアだ。
例え王のことが分からなくても、あれほど親しげに呼んでくれた
自分の名を忘れていたとしても、彼女こそがレイリアなのだ。
あの人がもう、死んでしまったなどということには。
彼女は他の誰でもない。そうでなければ、耐えられない。
︱︱︱︱
王は上位魔族としては大分変わった性格をしていた。
何しろ人間界の湖底に棲んでいるのだ。この時点で既に異例なこ
とである。上位魔族は普通人間に興味を持たない。召喚でもされな
い限り人間界に現出することもないのだ。
120
にもかかわらず彼は自らの意思で人間界に来て、湖に城を構えた。
そして自然の魔力が濃いため生き物が住めなかった湖を、自分の領
域として清め、箱庭を作るかのようにそこに水の生き物を放し、周
囲の村々に感謝され神として祀られる日々を送っていたのである。
何故そんなことをするのか、メアは主に尋ねたことはない。主の
することに疑問を持つ程の自由意志が彼女にはなかったからだ。た
だ彼女は城での穏やかな暮らしに心地よさを感じていた。好きだっ
たと言ってもいいだろう。
いつまでも続くように思われた時間の果て、しかしある日一人の
女性が現れる。
壊れ物のように儚い美しさを持つ彼女は、王にメアを紹介された
時﹁初めまして。これからよろしくお願いいたします﹂と微笑んだ。
まるで湖と同じ透き通った微笑。
そう思ったのだ。
メアはその時初めて、人間とはこんなに綺麗な生き物だったのか
と︱︱︱︱
﹁貴女様はレイリア様です﹂
強く断言され雫は困惑した。
だがそうは言われても違うものは違うのだ。自分はこの世界の人
間ですらない。何としても誤解を解いて地上に戻らねばならなかっ
た。雫はメアから視線をはずさぬまま、再度口を開く。
﹁私は生まれてから十八年しか経ってないんです。でもレイリアっ
て人がいたのは千年以上も前のことなんでしょう? 人違いです。
私は水瀬雫。レイリアという名前ではありません!﹂
﹁なら何故、その名を知っておられるのです﹂
鋭い声音の切り返しに雫は言葉に詰まった。何故知っているのか
と問われても自分でも分からない。ただ知っているだけなのだ。だ
がここで押されては自分がレイリアということにされてしまう。彼
121
女は迷ったが婉曲に答えた。
﹁水神と王女の話は御伽噺として広まってます。私が王女の名前を
知っててもおかしくないです﹂
﹁違う!﹂
突然の叫びに雫は目を瞠る。
メアは初めて感情を顕わにして彼女を見上げていた。怒りか、悲
しみか、戸惑いか、それともそれら全てか。渾然とした狂乱が少女
の造作に立ち込めている。雫はインクの染みが白い布へ落ちるよう
に、危機感が自分の意識に影を落とすのを感じた。
少女の緑の瞳は鮮やかに輝いている。それがもう人のものではな
いことは明らかだ。異様な空気が張り詰める広間に少女の声が響く。
﹁レイリア様の名を他の人間が知るはずがないのです。あの方の名
は、隠されてしまったのだから﹂
逃げたほうがいいのかもしれない、と雫は思う。
だがここは湖底の城だ。どこへ逃げても限界はある。
それに⋮⋮何だかメアはひどく不安げな頼りない様子にも見えた
のだ。彼女は逡巡を一瞬で押し切ると聞き返す。
﹁隠されたのは何故?﹂
﹁あの方は⋮⋮王を愛されていた。だから人間に、裏切り者と罵ら
れて⋮⋮それで⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それで?﹂
メアは沈黙する。石像のように動かなくなる。
時間と空間までもが凍りついてしまった如き錯覚。
雫が緊張のままゆっくりと息を吐いた時、少女は今までの問答自
体がなかったかのように滑らかな動作で頭を下げた。
﹁お帰りをお待ちしておりました。お妃様。王がお待ちです。さぁ﹂
﹁⋮⋮メア﹂
これは悪い夢に似ている。雫は背筋を滑り落ちる悪寒に身を震わ
せた。
122
越えても越えてもまた同じところに戻ってくる夢。覚めたくとも
覚めない夢。
だがこれは、彼女の夢ではない。
もしかしてこの夢は⋮⋮⋮⋮
雫は祭壇を見やる。王は一体どこにいるのか。王ならば彼女が自
分の妃ではないと分かるはずだ。
しかし奥には大きな石の祭壇以外は何もない。メアは頭を下げた
ままだ。彼女は焦りそうになる精神の手綱を引いて辺りを見回した。
何度目かに祭壇を見て、不意に少女の言葉を思い出す。
確か彼女は﹁妃が王を目覚めさせる日を待っていた﹂と言ってい
たのだ。雫はある疑いを持って祭壇に歩み寄った。
大きな石の祭壇は横にぐるりと一周彫刻が施されており、中央に
見覚えのある紋章が刻まれている。よく見るとその下に切れ目の線
が入っていた。雫は自分の推察が正しかったことを知って、途端に
心臓の鼓動が早くなる。
つまりこれは祭壇ではなく、大きな石の箱なのだ。そうまるで棺
のような⋮⋮。
棺に入れられ眠っていたのは、眠り姫だったろうか白雪姫だった
ろうか。緊張に混濁する思考を抱えて、彼女は石の蓋に両手をかけ
た。力を込めようとした瞬間、背後から伸びてきた腕が手にかけら
れる。
﹁いけません!﹂
体格にそぐわない腕力で雫を引き剥がしたのは、つい一瞬前まで
頭を下げていたはずのメアだ。少女の指は雫の腕にぐいぐいと食い
込んでいく。まともな意思の感じられない空虚な貌に、雫は悲鳴を
上げそうになった。
﹁だ、だって王がこの中にいるんでしょう?﹂
﹁これは違います。王は⋮⋮﹂
﹁どこにいるんですか?﹂
﹁王は⋮⋮⋮⋮あの時⋮⋮⋮⋮﹂
123
メアの指が緩む。雫が慌てて腕を引き抜くと、少女は両手で自分
の顔を覆った。判然としない呟きが両手の指の間から零れる。
雫は何が何だかよく分からなかったが、動くならこの隙しかない
とも思った。彼女は再び石の蓋に飛びつく。この中にはおそらく何
かがあるのだ。それが解決の糸口になるかもしれない。精一杯の力
を込めて蓋を押す。重い石は少しだけ向こう側にずれた。足に力を
込めて踏みとどまるともう一度力を込める。
次の瞬間雫は、自分の体がふわりと宙に浮くような感覚を味わっ
ていた。押していた蓋が急に遠ざかる。
まるでスローモーションのように感じられる時間。
何か見えない力によって、自分が跳ね飛ばされているのだという
ことを雫は直感した。
正気を失ったメアの瞳。緑の髪が波打っている。雫の白いドレス
これは、不味いかもしれない。ちゃんと受身を取れる
の裾が空気を孕んだ。
︱︱︱︱
だろうか。
床に叩きつけられる衝撃に備えて雫は身を硬くする。頭を庇おう
と両手を上げようとした。
そして濡れた何かだった。
だが、落下した彼女が実際感じたのは石の床の硬さではなく、も
っと弾力のある︱︱︱︱
固く目をつぶっていた彼女に、さらりと声がかけられる。
﹁間に合った。大丈夫?﹂
雫は目を開けた。信じられない思いで背後を見上げる。
床に叩きつけられる彼女を受け止めたのは、何故か全身ずぶ濡れ
になっている旅の連れの魔法士だった。
雫は自分が心から安心するのを感じた。張っていた気が解れてい
く。
124
両腕で背後から彼女を抱きとめたエリクは、髪から水を滴らせな
がら彼女を見下ろしていた。藍色の瞳には呆れと、ほんの少しの安
堵が内包されている。
彼女は礼を言うべきか謝罪を言うべきか迷って、結局全然違うこ
とを口にした。
﹁あの、何でずぶ濡れ﹂
﹁君だって何その格好﹂
﹁いやこれは着せられて⋮⋮﹂
事情を説明しようとした時、雫は急に男の背後に回されて目を丸
くした。彼の背中越しに前を覗くとメアが二人を睨んでいる。エメ
ラルドを嵌めこんだような双眸が、蛍光を帯びて異彩を放っており、
彼女は無意識に男の服を強く掴んだ。
エリクの表情は角度的に見えないが、いつもと大して変わらぬ声
が降ってくる。
﹁中位魔族か。参ったね﹂
﹁た、戦うんですか?﹂
﹁無理。僕、そういう魔法士じゃないし、勝てないよ。転移陣を動
かしてきたから逃げよう﹂
見ると彼は一人である。その上ずぶ濡れということは、まさか泳
いでここまで来たのだろうか。
雫は背後を振り返る。扉まではあと十数メートルといったところ
だ。彼女は自分を庇う男をもう一度見上げて、祭壇の前にいるメア
に視線を戻した。まったく魔法の分からぬ彼女でも、少女の周囲に
異様な空気が渦巻いているのが分かる。
エリクは少女を見たまま雫を一歩下がらせた。
﹁僕が時間稼ぐから。合図したら走って。廊下の突き当たりを右﹂
﹁ちょっと待ってください! 危ないじゃないですか﹂
﹁一応防御系の魔法具は持ってきてるから。何とかなると思う﹂
そう言いながら更に後ろに彼女を押しやろうとする男に雫が異議
を唱えかけた時、低い少女の声が広間に響いた。
125
﹁人間、レイリア様から離れなさい﹂
殺気混じりの宣告と共に広間に風が吹き始める。だがその風以上
に、呼ばれた名にエリクはきょとんとした。背後の雫をつい振り返
る。
﹁何がどうなってるの?﹂
﹁それが、人違いされてるんですよ。御伽噺の王女と⋮⋮﹂
﹁何でまた﹂
それが雫にも明確には分からないのだから説明しにくい。
ただ、今の彼女には一つの推論があった。握ったままのエリクの
服を引っ張って囁く。
﹁腹案があります。聞いてください﹂
﹁うん。言ってみて﹂
雫はメアの様子を窺いながら、手短に自分の考えを説明した。彼
は黙ってそれを聞いていたが、最後に顔をしかめる。
﹁それ大丈夫? 火に油を注ぐことにならない?﹂
﹁絶対、とは言えませんが⋮⋮可能性はあるんじゃないかなーと。
彼女も本当はきっと分かっているんですよ﹂
﹁ふむ。なら、君に任せる﹂
短く了承を出すと、エリクは両手に持った二つの水晶球を発動さ
せた。二人の眼前に結界が張られる。結界はメアから沸き起こる魔
力の風を遮断し、左右に受け流した。彼は懐からまた別のものを取
り出す。
﹁手、出して﹂
﹁はい﹂
雫が素直に両手の平を揃えて前に出すと、エリクは無造作に左手
の中指に指輪を嵌めた。彼女は装飾部が内側にきてしまっている指
輪を見て目を丸くする。それはイルマスの魔法具屋で彼女が手にと
ってみたいと思った、あの指輪だった。
﹁これ⋮⋮﹂
﹁欲しがってたみたいだし、守護の魔法具だから丁度いい。ただあ
126
んまり強い力は防ぎきれないから気をつけて﹂
﹁あ、ありがとうございます!﹂
雫は指輪を回すと左手を一度軽く握った。
大丈夫だ。きっと上手くいく。そう思えば何かはプラスに働くの
だ。
意を決して彼女は微笑む。顔を上げるとメアと目が合った。
﹁レイリア様、こちらにいらしてください。人間は貴女様を謗り、
害そうとしているのです。所詮人間は、自分の許容できるものしか
見ようとしない。その為にそぐわぬものを排除し、言葉で正しさを
装うのです﹂
﹁耳が痛いね﹂
エリクは腰の短剣を引き抜く。いつか彼女に渡そうとしていた剣
だ。それを携えて彼がメアに向かって踏み出すと、少女の顔が怒り
に歪んだ。
﹁おのれ⋮⋮またお前たちは⋮⋮﹂
﹁一応訂正しておくけど初対面。僕も彼女もね。君の知っている王
女がいた時から、世は既に千年以上が経過している。もうこの辺り
には当時の国は一つも残っていないよ﹂
﹁黙れ!﹂
風が急激に強まる。結界ごと押されてエリクは足を踏みしめた。
その時、打ち合わせ通り、彼の背後から雫が駆け出す。メアは彼
女を巻き込むことを恐れて慌てて風を退かせた。
魔族の少女は、出口へでも祭壇へでもなく広間の右端へと走る雫
と、祭壇に向かって真っ直ぐ歩いてくる男に視線を走らせる。
対応を迷ったのはほんの数秒。
メアは男を排除しようと手の中に光球を生んだ。躊躇なくエリク
へと光を打ち出す。
広間の壁に着きそうだった雫が、方向を変え祭壇に向かって走り
出したのは、その直後だ。彼女の意図が分からず混乱するメアに、
エリクは短剣を掲げると剣の平で光球を受ける。弾かれた球が床に
127
落ちて小さな破裂音を立てると同時に、彼は剣の煌く切っ先を少女
へと向けた。
﹁射て﹂
命を受けて魔法具が発動する。
切っ先から小さな不可視の矢が数本放たれた。メアは左に跳んで
矢を避ける。矢は移動した少女を追って僅かに弧を描いたが、射程
距離を行過ぎたのか単なる魔力となって空気中に無霧散した。
エリクは剣の方向を変えると、メア目がけてもう一度矢を放つ。
少女は更に左後方へと跳び退る。彼の間断ない牽制は、いつの間に
か徐々にメアを祭壇から引き離していた。
その時︱︱︱︱反対側からドレスを引いて走ってきた雫が祭壇に
到達する。
彼女は少しずれている蓋に両手をかけた。全身の力を使って蓋を
押しやる。それに気づいたメアが顔色を変えた。
﹁動け⋮⋮っ!!﹂
﹁開けるな!﹂
二人の叫びが交差する。
雫に向かって光球が放たれた。
彼女は思わず目を閉じそうになる。
しかし光が彼女にぶつかる直前エリクがぎりぎりで割って入った。
剣で攻撃を弾く。
男に感謝しながら雫はもう一度、精一杯百合の紋章が彫られた蓋
を押した。
蓋が奥へと動く。中に光が差し込む。
﹁見ないで!﹂
少女の悲鳴が停滞した時を切り裂く。
元は何色だったのだろう、茶色に風化しぼろぼろにな
僅かに出来た隙間から中を覗き込んだ雫が見たものは︱︱︱︱
︱︱︱︱
ったドレスと、ほぼ崩れ去って形を留めていない人の骨だった。
128
それがまだかろうじて人の骨だと分かったのは、劣化防止の魔法
が幾許かかけられていた為なのかもしれない。
だがそれでも千年以上もの風化に耐え切れなかったのだろう、雫
は朽ちた亡骸を哀切の目で見下ろした。棺の中から目を離せないで
いる雫の耳を、少女の壊れかけた声が打つ。
﹁レイリア様⋮⋮⋮⋮レイリア様は⋮⋮﹂
その名が最早雫を呼んでいるのではないことは明らかだった。
雫は棺の蓋に掘られていた百合の紋章に目をやる。彼女が最初に
通された部屋にもあった紋章。これがおそらくレイリアの紋章なの
だろう。祭壇に実は中があるのだと気づいた時、紋章の意味を考え
た時、彼女はここに本当のレイリアが眠っているのではないかと思
いついたのだ。
すぐ傍で男の溜息が聞こえる。
エリクは、床にへたり込んだメアに攻撃の意思がないと判断した
のか、短剣を鞘に戻しているところだった。藍色の瞳が雫を捉える。
﹁これが真実か﹂
率直な、しかしどこか憐憫を感じさせる声音。
雫は頷こうとして、伏せた顔を上げられなかった。
御伽噺で国に帰ったことになっていた姫は、湖底の城で死んでい
た。
何があったのか、何故彼女の遺骸がここにあるのかは分からない。
それでもメアの言葉の数々を思い返すと、雫は当時の出来事がいく
らか分かるような気がした。
妹を取り戻しに来た王子か彼に付き従ってきた者たちは、おそら
︱︱︱︱
故意か事故かは分からないが、姫は彼らによ
く姫が水神を愛していることを知って、裏切り者と罵ったのだ。そ
して多分
って殺されてしまったのだろう。
水神を愛した彼女の名はその死と共に隠され、代わりにフェデリ
129
カという女が国に戻された。妃を喪った湖の王もまた、伝承通り殺
されたのか違うのかは不明だが、もうこの城にいないことだけは確
かだ。
ただメアだけがここに居て、死んだはずの妃が戻ってくるのを待
っていた。
人は死ねば何も残らないのだと、そのことに耐えられなかった魔
族の少女は、妃の死そのものを否定し続けたのだ。
メアは床の上に座り込んで泣いていた。
涙は流れていない。嗚咽も零れない。
けれど空虚な目で天井を見上げる少女は確かに泣いていた。
分かってはいたのだ。レイリアはとうに亡くなり戻ってこないと。
王が彼女の亡骸を棺に入れ、冷え切った頬に触れながら泣いていた
のをメアは見ていたのだから。
妃が来たことで温かく穏やかな世界となったこの城は、束の間の
幸福を経て彼女が死んだ時、修復も不可能な程凍りついた時の中に
閉ざされた。
王妃が失われ、王が消えた城に、一人残った少女。
彼女はただ、二人の笑顔をもう一度見たいと願った。かつてレイ
リアがこの城に来た時のように、彼女が戻って来さえすれば、あの
時間もまた戻ってくるのではないかと思っていたのだ。
だが千年に渡り作られてきた虚構の時も今や動き出した。失われ
たものはもう決して戻らないのだという、厳然とした事実だけが眼
前に開けていく。
メアは棺の蓋を元通り閉める二人の人間をぼんやりと眺めた。
彼らのせいだとは、あの人間の少女のせいだとは思わない。彼女
の存在を欲したのは誰よりも自分だからだ。
130
誰も耳に留めない呼びかけが彼女に届いた時、彼女が隠された名
を言葉に乗せた時、メアは狂いそうなばかりに喜んだ。これで永き
に渡る孤独が拭われるのだと、ようやく分かち合えるのだと思った
のだ。
とても疲れた。
だが、それも今は、何を分かち合えると思ったのかよく分からな
い。
︱︱︱︱
このまま意識が、自分を留める概念が流れ出してしまうような気
がする。
それでもいいと、思った。
本当は自分の役目はもうずっと前に終わっていたのだ。それを受
け入れられないでいただけ。
だからもう、壊れてしまってもいい。
誰も帰って来ない、待っても仕方ないのだから。
メアは目を閉じる。
石の床に横になる。
彼女の諦観と呼応して、城の奥底が微かに振動した。少女は体に
伝わる振動に全てを委ねる。
だがその時、すぐ近くで女の声がした。
﹁メア﹂
少女を呼ぶ声。
温かな人の響き。
メアは目を開ける。
そこにはしゃがみこんで、心配そうに彼女を見つめている雫の姿
があった。彼女は少し淋しそうに微笑みながら手を差し伸べてくる。
メアはそれを何だかよく分からないもののように見上げた。
一体何だというのか。
これ以上何が続くというのか。
全てはもう形にも残らない昔に終わってしまっているというのに。
メアは差し出された手と、彼女の顔を見上げる。
131
何も反応が返ってこないことに、けれど人間の少女は戸惑いなが
らも手を引っ込めようとはしない。雫はそして少しはにかむと、メ
アに向かって
﹁一人が嫌なら、一緒に行こうか?﹂
と言ったのだった。
﹁私もね、一人と言えば一人なの。ここじゃない別の世界から来た
から。でもって今は彼に付き合ってもらってファルサスに向かって
いるところ。帰る方法を探しに﹂
だから、一緒に外に出てみない? と彼女は問う。
何だかおかしな人間だ。
レイリアとも、彼女を迎えに来た人間たちとも違う。
ごく普通の感情を、普通ではない自分に向かって示している。
どうしてそんなことができるのか。
まるで無知なのか、人がよいのか、それとも強い人間なのかメア
には判別がつかない。
一人きりであることを思い出した魔族の少女は、自分よりももし
かしたらずっと異質なのかもしれない少女を見つめた。黒く大きな
瞳が躊躇いがちな光を宿している。それでも彼女はメアから視線を
はずさなかった。薄紅の唇が微笑みを湛えている。
メアは自分でもよく分からぬ感慨が内に息づくのを感じた。長い
沈黙の後に、彼女は震える手を伸ばす。
とても綺麗だと、思ったのだ。
同様に緊張に固い手でメアの手を取った雫は、何故だか一瞬泣い
ているような顔で笑った。
そしてメアはその表情を︱︱︱︱
自分がメアを連れて行きたいということは、子供が子供を連れて
行きたいというようなものだとは分かっていた。異世界人としてこ
132
の世界のこともまだよく分からないのに、更に人間のこと自体がよ
く分からない魔族の少女をカバーしきれるはずがない。
だから雫は駄目もとでエリクに聞いてみた。
メアを外に誘っては駄目かと。
男はそれを聞いて目を瞠った。そしてすぐに難しい顔になる。
﹁君は、魔族が怖くないの? 傷つけられるかもしれないよ﹂
﹁それは怖いですけど。でもよく分からないと言ったら私もおんな
じ、だし。それに⋮⋮あの子、ずっと淋しそうだったんですよ﹂
﹁言わんとしているところは分かる。けど君はやはり人間で、彼女
は違う。僕は賛成しないよ﹂
﹁う。やっぱり﹂
雫は消沈する気持ちを苦笑に変えた。
きっと種族間のことは、単なる同情でどうこうできる問題ではな
いのだ。失われた王妃の存在がそれを象徴している。ただ雫は割り
切れなかっただけだ。御伽噺の真実が、そしてメアの孤独がひどく
やるせなかった。何とかなればいいのにと思っても過去はもう変え
られない。だがメアにならまだ手が届くのだ。
ほろ苦い表情になった雫にエリクは頷く。
﹁君のそういうところは美点かもしれないけど命取りにもなる。僕
は可能な限りなら君に手を貸すけれど、最終的に君の命運を左右す
るのは君の決断で、君自身だ﹂
﹁はい﹂
﹁それが分かっているなら好きにすればいい﹂
﹁え?﹂
彼の言葉はそっけなくも突き放すようでもなかった。﹁好きな料
理を選べば?﹂というくらいの重さ。しかしそれは決して軽いわけ
ではなく、本当に彼はそう思っているのだというだけのことだ。
雫は目を瞠る。言われたことを咀嚼した。
自分は弱い。そして無知だ。自分一人さえ上手く守ることができ
ていない。
133
︱︱︱︱
危機感が足りないと思う。そして無責任だ。
でも
彼女は自分の両手を見る。
この体は、自分の自由になるものだ。今の彼女の唯一と言ってい
い財産だ。
出来ることは余りにも少なくて、ままならないこの世界。それで
だから、その可能性を貴んでいた
も誰かの手を握ることはできる。言葉を交わすことも。
とても些細な可能性︱︱︱︱
かった。
いずれ自分の決断によって、自分が危機にさらされることがある
かもしれない。けれど、まだ絶対ではない未来を恐れて踏み出さな
いより、やってみたいことを選ぶ。何よりも自分がそうしてみたい
のだ。これから造形される自分の為にも。
雫は手を何度か握ってみる。
エリクを見上げて、そして笑った。
﹁じゃあ、声をかけたいです﹂
﹁うん、いいよ﹂
﹁ご迷惑をおかけします。よろしくお願いします﹂
深く頭を下げ、再び彼女は顔を上げる。
見えるのは過去と共に消えていこうと伏している少女。
雫は彼女に向かって歩き出す。
まだ彼女にも可能性が残っているのだと、そう強く意識しながら。
まるで赤子のような目で、雫に手を引かれて戻ってきた少女の全
身を男は見回した。顎に指をかけて頷く。
﹁本当は使い魔として契約した方が安心なんだけど、君は魔力がな
いしね。やるとしても仲介できる魔法士が要るな。まぁおいおい決
めよう。とりあえずその外見は不味いから⋮⋮⋮⋮変えられる?﹂
134
メアはこくりと頷く。
次の瞬間彼女は、まるで緑の絵の具をつけた筆を空中で一閃した
ように形を変えた。小さな緑玉色の鳥となって雫の肩の上にとまる。
﹁す、すごい﹂
﹁上位魔族じゃかえってこういうことは出来ないけど、幸い中位だ
しね。あの髪色で人間の姿をされてると目立つ﹂
﹁え。緑の髪の人間っていないんですか?﹂
魔法がある世界だからそれくらい居てもおかしくないと思ってい
た雫は、この質問でエリクの心底呆れたような視線を浴びる羽目に
なった。彼は広間の出口に向かって歩き出しながら肩をすくめる。
﹁もしかして君の世界にはあんな髪色の人間がいたとか? すごい
な﹂
﹁ちょっ⋮⋮待ってください。行き違いがあると思います﹂
﹁髪が逆立ってる人間とかもいたりして﹂
﹁それはたまにいるけど決して自然法則に逆らっているわけではな
く⋮⋮﹂
他愛無い会話を交わしながら、男を追って広間を出て行く少女。
彼女の肩の上で小鳥は棺を振り返る。
その緑の目には瞬間透明な感情が溢れ、そして一滴の涙となって
石畳の上に落ちたのだった。
転移陣は城の隅の部屋、ほぼ水中に没したところにあった。雫は
何故エリクがずぶ濡れだったのかを理解して頭を抱える。床は坂状
に徐々に水中へと下っており、肝心なところはおよそ水深二メート
ルといったところだろうか。澄んだ水底に円状の模様が描かれてい
るのが見えた。
﹁君、その格好で溺れない? 大丈夫?﹂
﹁あはははは⋮⋮多分、ちょっとなら大丈夫です。水中でしばらく
静止とかないですよね﹂
135
﹁入った瞬間発動するから﹂
エリクは言いながら躊躇いもなく水中へと踏み込んでいく。雫は
肩の上の小鳥に﹁鳥で大丈夫?﹂と聞いたが小鳥は二度頷いて返し
てきた。
意を決すると、雫はドレスのまま水へと足を差し入れた。最初は
空気を含んで水面に浮かび上がったスカート部も、彼女が押し込む
と水の中にたなびく。完全に潜って目を開けると、エリクが転移陣
の前で雫に向かって手を伸ばしているところだった。彼女もまた手
を伸ばす。腕を強く引かれ、体を抱き取られる。
目の裏を白く焼かれるような衝撃。
世界がたわむような違和感。
閉じていた目を開いた時、雫は全身ずぶ濡れで湖畔の林の中に立
っていた。
﹁も、戻ってきた!﹂
初めての転移で半ば放心していた雫の耳に、聞きなれない声が飛
び込んでくる。見ると二人の男と一人の少年が、転移してきた男女
を驚愕の目で見つめていた。雫は少年の顔に既視感を覚えて﹁あ⋮
⋮﹂と呟く。
確か石碑の前で会った子だ。表情からすると心配してくれていた
のだろう。雫は彼らにお礼言おうと頭を下げかけた。その時湖の方
から鈍い振動音が聞こえる。
﹁何だ!?﹂
エリクを除いて全員が湖を振り返る中、遥か遠くの水面で大きな
波が立った。波は湖面を乱し、波紋として広がりながら徐々にその
高さを減じていく。白い泡を立てて水際に打ち寄せ、それが何度か
続いた頃にはいつの間にか振動もやみ、水は元の静寂を取り戻そう
としているようだった。
きょとんとしている雫に、エリクは彼女だけにしか聞こえない程
の声で囁く。
﹁彼女がね、あの城の要そのものだったんだ。連れ出したから城が
136
崩れたんだよ﹂
﹁え、嘘、それって⋮⋮まずいですよね﹂
﹁別に構わないんじゃない? どうせ誰も入れない城だし﹂
男は嘯くと穏やかな目で笑った。嘘のない、安心できる笑顔。 雫はまだ繋いだままの彼の手に視線を落とす。自分に自由をくれる
ありがとう﹂
彼に自然な思いが零れ、
﹁︱︱︱︱
と呟いたのだった。
失われた王妃の記憶は城と共に湖底に眠る。
もはや魂も残っていない彼女のお話に、死後の慰めを乗せること
はできない。生者はただ受け止め、飲み込んでいくだけだ。
作られた御伽噺は今日も世界のどこかで語られるのだろう。親か
ら子に子から孫に、眠る為の物悲しいお話として。それが残酷か、
それとも救いなのかは、死した存在には関係のない話だ。
だから雫は割り切れない思いを今は飲み込む。死の無情を嘆かな
い。
そうやって知った上に立つことで、もっとこの世界に近づきたい
と、彼女は思い始めていた。
137
天にそびゆ 001
雫は自分が立っている床の周囲を見回す。
そこには白墨のようなもので直径二メートルくらいの円が描かれ
ていた。それだけではなく円の内側には、様々な文字や記号が一定
の規則を持って書き込まれている。
雫は目の前に立っているメアと、隣にいるエリクを順に見やった。
彼は魔法陣の外にいる魔法士に頷いてみせる。
﹁いいよ。始めてくれ﹂
彼の要請に応えて詠唱が始められた。雫は辺りを失礼にならない
程度にきょろきょろと見回しながら、びりっときたりしませんよう
に、と願う。
所定の魔法契約手順を経て、メアが正式に雫の使い魔となったの
はこの二十分後のことだった。
二人は一週間かけてコルワの町からカンデラの城都を目指して街
道を移動した。
そして途中にあった比較的大きな町で、運良く契約を仲介できる
魔法士を見つけ、雫はメアと契約を交わしたのだ。
本当は雫自身、そう言った主従のような関係ではなく、メアとは
、メアもそれを望んだ。どの道
もっと友人のような仲間のような間柄でいたかったのだが、エリク
は安全性の面から契約を強く勧め
このままではメアは魔力の性質でエリクを他の人間から見分けるこ
138
とはできるが、魔力を持たない雫は判別がつかないのだという。そ
れを聞いては契約をしないわけにはいかない。
雫はメアの主人となり、エリクもまた雫に次いで非常時にはメア
への命令権限を持つ人間として契約に書き入れられた。依頼を引き
受けた魔法士は﹁近頃、中位魔族を使役する人間なんて珍しいよ﹂
と驚いていたが、無事仕事は済ませてくれたようである。
二人は同じ町の食堂に移動すると昼食を取リ始めた。
﹁君が主人であることに馴れれば、自然と人の顔も判別できるよう
になるよ。魔族はその辺柔軟だから環境に適応する﹂
﹁そうなんですか﹂
雫はテーブルの隅で水の入った皿をつつくメアを見やる。緑色の
瞳が雫を見上げた。こうしていると元が少女の姿であったことを忘
れそうにさえなる。彼女は指を伸ばしてメアの頭から背をそっと撫
でた。
﹁カンデラの城都についたら一度情報を集めたほうがいいね。アン
ネリとロズサークがどうなっているかも気になる﹂
雫は広げられた地図を見つめる。そこには彼女自身の字でカタカ
ナで国名が書き込まれていた。今いるカンデラより南にあるアンネ
リは、隣国ロズサークによって攻め落とされ、その影響で転移陣の
封鎖が行われたのだ。ファルサスまでどの国を通っていくか決める
為にも、その後の情勢がどうなっているか確認することは必要だろ
う。
雫はペンでカンデラの西隣の国名を叩いた。
﹁このまま西に行くと、えーと、これ何て読むんですか﹂
﹁ベブルス、その更に西がガンドナだ﹂
﹁ありがとうございます。その二つを越えればファルサスですよね﹂
﹁そう。だけど大国は出入国の審査が厳しいからね。ちょっと迷う
ところだよ﹂
エリクは雫のペンケースから赤ペンを取り出すと、地図に四つ丸
139
を書いた。
一つはファルサス、もう一つはガンドナ、そしてガンドナの南と
大陸北に一つずつ。
﹁この四つの国が四大国と言われる国だ。さすがにこれらの国の転
移陣を使うのはちょっと準備がいるだろうね﹂
準備とは書類偽造の準備だろうか。雫は首を捻る。
エリクは少し考えると、ガンドナの南の大国をペンでつついた。
﹁まぁこの国⋮⋮キスクっていうんだけど、ここはちょっと危ない
国だ。だから出来れば避けて通りたい﹂
﹁治安でも悪いんですか?﹂
﹁治安はそうでもないんだけど、今の王族がちょっとおかしくてね。
乱を好んで面倒ごとを起こす。気まぐれに民を使い、命を奪うこと
もざらだ。特に王妹オルティアは色んな物騒な話が付きまとってる
人間で、苦言を呈した文官の目を抉り取ったなんて噂もある﹂
﹁うっわー。お近づきになりたくないなぁ、その人﹂
﹁うん。君なんか特に素性がばれたら、えらい目にあうかもね、人
体実験とかで﹂
﹁嫌ああああああ﹂
そんな血生臭い評判の人とは絶対出会いたくない。雫は身震いす
ると温かいお茶を手に取った。口をつけて一口飲む。紅茶に似てい
るが、風味がちょっと違う気もする。もっとも紅茶にも色々あるの
だから、あまり詳しくない雫には本当に別物なのか分からなかった。
﹁たまーに、無性にファーストフードが食べたくなる現代人です﹂
﹁ファーストフードって何﹂
﹁栄養価が高いけど体にいいものが余り含まれていない、塩気の濃
い食べ物と、私は認識しています﹂
﹁作れば﹂
﹁手作りしちゃったらそれはもうファーストフードじゃないんです
よ!﹂
﹁ごめん、全然分からない﹂
140
雫はそこで不毛な会話を打ち切った。基本的に野菜や穀物などは
元の世界と共通しているものも多いようだ。精々異国に来たという
感じだろうか。ただ肉類に関しては、食べて﹁ああ、牛だな﹂と分
かるものもあれば、何だか分からない、怖くて聞けないものもあっ
た。﹁豚はいないんですか?﹂と聞いたところ﹁大陸西部にはいる
よ﹂と返ってきたからちょっと楽しみにしている。逆に海際の国で
はない為か、町の食堂などでは海魚は全然食べられない。それは島
国に育った雫には残念なことだった。
彼女はシャープペンで大陸地図の海にあたるところにファンシー
な巨大イカの絵を描きこむ。エリクはそれを見て﹁クラーケンでも
見たいの?﹂と呆れたように尋ねたのだった。
食堂から宿屋の部屋へと戻った二人は、さほど広くはないテーブ
ルに本やノートを広げた。
雫は薄いドイツ語の教科書を開きながらノートに動詞の表を書き
出す。
﹁英語もそういうところは少し残っているんですが、ドイツ語は語
尾変化が激しいです。人称ごと⋮⋮って分かりますか?﹂
﹁分かる﹂
﹁その人称ごとと複数単数の別があるので、動詞は現在を示す場合
で全部で六種、変化します。英語は三人称単数だけ﹂
﹁なるほど。合理的だね﹂
メモを取りながらの男の感想を雫は怪訝に思った。彼女からする
と面倒としか思えないのに何故だろう。
﹁合理的なんですか?﹂
﹁複雑な文章を書いても主語が分かりやすいじゃないか。単語一つ
の持つ情報量が増えれば読み解きやすい﹂
﹁単語一つの持つ情報量を覚えなければならないのが大変なんです
よ! まだこれに時制とか色々あるんですよ﹂
141
﹁そうかもね。でもニホンゴの方も充分覚えること多いと思うけど﹂
﹁母国語でよかった!﹂
エリクはどうやら言葉を読み書きできるようになりたい、という
わけではなく言葉の仕組みや法則がどうなっているのか知りたいら
しい。
文法の説明を求められて一番困るのは実は日本語だ。あまりにも
言葉自体が多様すぎる上に、日本語の文法について習ったことをよ
く覚えていない雫は、彼に質問されると五回のうち三回は﹁⋮⋮そ
ういうものらしいです﹂と言う羽目になっていた。
だがエリクはこれに関しては彼女に呆れた視線を送らない。むし
ろ彼女の上手く説明できない﹁何となく感じている﹂雰囲気を含め
てメモをとっているようだった。
雫は動詞の基本変化の例を一つ挙げると、説明を続ける。
﹁で、変化にはある程度規則がありますが、不規則なのはかなり不
規則ですね。特にbe動詞とか⋮⋮主語と補語を結んで主語は何で
あるかを表す動詞は、英語もドイツ語も凄い変化になります﹂
雫は言いながらさりげなくテーブルの下に手を伸ばし、バッグか
ら独和辞典を取り出した。不規則動詞の変化がぱっと思い出せなか
ったからなのだが、エリクはむしろ辞書自体を見て目を丸くする。
﹁何その本。凶器?﹂
まさかこの世界には辞書がない
﹁凶器にもなりそうですけど違います。辞書ですよ。ドイツ語を日
本語に対応させる辞書。︱︱︱︱
ってことないですよね﹂
﹁ある。けど、見せて﹂
差し出された手に雫は独和辞典を乗せた。エリクは受け取った辞
書をパラパラと捲り始める。ページに差し入れられる長い指が綺麗
だな、とぼんやり思っていた雫は彼が急に顔を上げたことでぎょっ
と引いてしまった。
藍色の瞳には探るような色が浮かんでいる。彼は辞書を開いたま
142
ま押し出すと、大き目の文字で書かれている項目を指差した。
﹁これ、最初ドイツ語だよね。l,e,r,n,e,n﹂
﹁ですね。英語のlearnかな。学ぶって意味です﹂
﹁これは? 変な形してるけど﹂
﹁発音記号です。どう発音するかっていうのを表してます﹂
エリクは眉を寄せた。考えを纏めているかのように何度か首を傾
けると、今度は辞書の例文を指し示す。
﹁ちょっとこれ読んでみて﹂
﹁発音って苦手なんですけど⋮⋮いっひ れるね やぱーにっしゅ
!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
静寂が訪れる。
さすがに酷い発音だったか、と雫は項垂れた。こてこての日本語
的発音だが、彼女自身にはもう如何ともしがたい。自分の発音が酷
いという自覚はあったので、エリクに文法を教えるにあたっても訳
文の方を読み上げるだけで、例文自体はほとんど紙に書き示し発音
してこなかったのだが、ついにはっきりばれてしまった。
雫は虚しさを味わいながら浮上しようと顔を上げた。しかし、彼
女を待っていたのは真剣そのもののエリクの目である。彼は珍しく
も少し迷っているようだったが、彼女がきょとんとしているのを見
て口を開いた。
﹁前からちょっとおかしいと思ってたんだけど、英語とドイツ語っ
て発音が全然違うね。訛っているで済まされないくらい﹂
﹁そ、そうですね。一応違う言語ですから﹂
﹁しかも僕には何だか分からない未知の呪文みたいに聞こえること
がよくある﹂
﹁私の発音が大問題って気もしますが、私も聞き取りは苦手です﹂
﹁⋮⋮ちょっと確認させてもらっていい?﹂
﹁はい﹂
143
何をそんな真剣になる必要があるのだろう、と思ったが、余計な
質問をしては墓穴を掘るだけになりそうなので雫はただ頷いた。
エリクはペンの先で規則的にテーブルを叩きながら問うてくる。
﹁ドイツ語とか英語を使う人たちは、この言語で会話をしている?﹂
﹁そりゃしてますよ。ドイツ人はドイツ語で会話します﹂
﹁ドイツ語のうち何割が、未知の呪文みたいな発音なの?﹂
随分酷い言われようだ。自覚はあってもさすがに凹む。しかし、
。
雫は肩を落としながら﹁全部ですよ。本場の人の発音はもっとずっ
と滑らかですけどね!﹂と返した
エリクはきわめて真面目な顔で頷く。
﹁じゃ、君はそれらを聞いて理解できるんだよね?﹂
﹁いやだから、聞き取りは苦手って言ったじゃないですか。未知の
呪文に聞こえますって﹂
男の目が驚愕に見開く。雫は何が会話の問題点なのか分からず眉
をしかめてしまった。
意味のある沈黙。
聞いて理解できない言語が存在している世界なのか?﹂
その果てに、彼は硬質の声で呟く。
﹁︱︱︱︱
まるで未知の事実を発見したような言葉。
そしてようやく、彼と自分では言葉に対する認識がずれてい
それをぶつけられた雫は彼の驚嘆を頭の中で何度か反芻して︱︱
︱︱
るのだと、そのことに気づいたのだった。
﹁え、ってことは、聞いて理解できない言語がないんですか?﹂
﹁ない。というか皆、口にする言語は共通だ。多少の訛りがあって
も聞けば分かる﹂
﹁うっわぁ⋮⋮﹂
ずっと感じていた違和感、その原因たる食い違いが分かった雫は
144
感嘆の声を上げた。
言われてみればエリクは発音についてまったく今まで問わなかっ
た。時折雫が単語を読み上げると変な顔をしただけだ。だがそれも
彼にとっては、aをエイ、bをビー、と読むようなものだと思って
いたのだろう。何かの用語かと思っていたのかもしれない。雫が発
音に引け目を感じてほとんど読みを口にしなかったが為に、二人は
それぞれの思い込みを引きずったままここまで来てしまったのだ。
エリクは大きく息を吐くと、ペンでこの世界の字をノートの余白
に数個書いた。
﹁この世界はね、異国語って言ったら文字のことだけを指すんだ。
発音は全部一緒だけど、文字や記述の文法は多少差異がある。だか
ら君の世界もそうだと思ってたんだが⋮⋮﹂
﹁他国は文字も、発音も全然違います。知識がない限り言葉は通じ
ません﹂
雫は初めてこの世界に来た時のことを思い出す。
彼女自身は周囲の人間と言葉が通じることに驚いたが、他の人間
は変わった顔立ちの彼女と会話ができることを、何も不思議に思っ
ていないようだった。異世界人であることを打ち明けたエリクでさ
え気にも留めなかったのだ。
つまり、この世界の人間にとっては﹁聞いて分からない言語﹂自
体が存在しておらず、その為まったく違う発音の言語など想像もつ
かないものだったのだろう。人間であれば誰もが言葉が通じると彼
らは思っているのだ。
﹁それ、ずっと昔からそうなんですか? 千年前は発音が違ったと
か﹂
﹁ないない。同じ。文字は変化しても音声言語はずっと同じだった
んだ。聞いて分からないのなんて固有名詞くらいだ﹂
﹁便利そうだ⋮⋮いいな﹂
145
それだったら雫も発音に悩まなくて済む。羨ましいことこの上な
い。
エリクはしかし難しい顔をしたままだった。
﹁むしろ君の世界の方が不思議だ。何で音声言語まで分かれるんだ
? 遺伝が影響してる?﹂
﹁それは遠いからですし⋮⋮でも遺伝じゃないですよ。日本人でも
ドイツで育てばドイツ語ペラペラになりますんで﹂
雫は半ば上の空で答えながら、全部の言語が統一されているとい
う大陸に思いを馳せた。
よくは分からないが凄いことのような気がする。本当にここは異
世界なのだ。何だか心が浮き立つような気分だった。彼女は両手の
指を組んで天井を見上げる。自然と笑みが零れた。
﹁この世界にはバベルの塔がなかったんですね﹂
﹁バベル?﹂
ずーっと昔はまだ言葉がみんな同じだったんですけど、あ
﹁そういうお話があるんです、私の世界では。神話ですけどね。︱
︱︱︱
る時人が集まって高ーい塔を建て始めたんです。天まで届けーって。
でもそれを見た神様が、こういうことしちゃうのは言葉が同じだか
らだ! って言って、みんなの言葉を乱したんですよ。違う言葉に
なるように。それで人々は世界各地に散らばって⋮⋮今に至る、と
いうお話﹂
それは人間の高慢を諌める話なのかもしれない。或いは人間の限
界を示しているのかも。
だがこの世界にはそれがない。
大陸がどれくらいの広さなのか、東の大陸までも全部そうなのか
は分からないが、言葉は乱れていないのだ。言葉が分かれるという
概念さえない。
人の魂は死後残らないと聞いた時と似た種類の、しかし反対の感
慨が雫の中に溢れてくる。この世界の違っているところが面白い。
146
機嫌よく笑顔になる雫に対して、エリクはまだ何か考えているよ
うだったが、やがて彼女につられたのか苦笑した。
二人の間で緑の小鳥が小さく鳴く。
それはまるで、伝わらないことを楽しんでいるような、澄んだ声
だった。
メアを使い魔として契約した三日後、二人は買出しを済ませると
町を出た。ほどよく晴れた空の下、街道をのんびりと馬で移動して
いく。町からすぐは人通りが多かった道も、二時間も行くと引き離
されたのか引き離したのか、他に人影が見えなくなっていた。
エリクはまるでその時を待っていたかのように、雫に質問を始め
る。それは言語に関して昨日の話の続きのようだ。
﹁君は異国語の聞き取りや発音が苦手みたいだけど、それは遺伝じ
ゃないの?﹂
﹁遺伝的に駄目って思われるくらい私の発音がひどいことは伝わっ
てきました。でも違います﹂
雫は風で乱れた髪を耳にかけなおした。そのままスカーフの中に
ねじこむ。
﹁日本語は母音も子音も西洋の⋮⋮ドイツ語や英語に比べて種類が
少ないんです。かなりの母音過多ですし。で、子供の頃、言葉が身
についてくるにしたがって、使わない部分はわかんなくなっちゃう
んですね。聞き取りも発音も。だから日本人の大半は、外国語の発
音の区別ができなくなるという。それでも後から学んで出来るよう
になる人は出来るみたいですけど⋮⋮私は今のところ全く駄目です
ね!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮僕には聞いても分からないけど、君が自分の発音に非常
に問題を感じていることは伝わってきた﹂
﹁ありがとうございます﹂
舌を出して答えた彼女は、肩の上の小鳥と目が合って笑顔になる。
147
心地よい風を肺の中に吸い込んだ。
ころころと表情を変える少女をエリクは、未だ思考の中にいるよ
うな視線で見やる。
だが結局彼は
﹁君は⋮⋮今の話を含めて、君の世界の言語について他の人間に言
わない方がいい﹂
とだけ言うと、その理由も、そしてそれ以上のことも何も口にし
なかったのだった。
次に二人が立ち寄ったのは、街道から少し山の麓に分け入ったと
ころにある小さな村だった。二人は夕方近くなってようやくこの村
に着いたのだが、森の中にある村に迷わず辿りつけたのは地図があ
る為だけではなく、街道からも見える塔が、村にはそびえていたせ
いである。雫は太い煙突のような塔を遠目から見て﹁ラプンツェル
でもいるのかな﹂と呟いた。
﹁ラプンツェルって何?﹂
﹁姫の名前です。あの、これ話し始めたら私また、山ほど突っ込ま
れないといけないんですか?﹂
﹁納得できる話なら突っ込まない﹂
﹁ならやめときます。姫は幸せになりました! 終わり!﹂
強く断言すると男は呆れ顔になる。何だかこういう表情をされる
ことが多すぎて慣れてしまったくらいだ。
﹁君って結構、豪快な性格してるよね﹂
﹁桃を割ったような性格です﹂
﹁あれは中の子供は無事ではすまないと思う﹂
それについては雫も同感だったが、そもそも桃に子供が入ってい
るところからおかしいので気にしないことにしている。
細く曲がりくねった道を馬で三十分程行くと村の入り口が見えて
148
きた。旅人が迷わないようにとの配慮なのだろう。入り口には宿屋
の看板があり、厩舎が併設されている。こんな小さな村でも宿屋が
あるのは街道から近い為だろうか。二人は無事馬を預け部屋を取る
ことができた。
﹁あ、このスープ美味しい! どうやって味つけてるんだろう﹂
﹁郷土料理ぽいから厨房に行けば多分教えてくれるよ﹂
時間がずれているのか、宿屋の一階にある食堂には今は彼らだけ
である。雫は薄紅色のスープに匙を差し入れながら、暗い窓の外に
視線を移した。
﹁あの塔なんでしょうね。気になるなぁ﹂
﹁気になるなら明日明るくなってから見に行けばいい。観光名所か
もしれない。⋮⋮ああでも僕も行くよ。君を一人にするとよくない
ようだ﹂
﹁否定のしようもございません﹂
単独行動で今まで二度面倒ごとに巻き込まれているのだから、何
も言えない。雫はテーブルの上にいる小鳥が、自分を見上げている
のに気づいて笑った。
終わりよければ全てよしではないが、彼女自身は今のこの状態で
よかったと思っている。回り道も時にはプラスに働くのだ。
だが、だからと言って進んでエリクの迷惑になりそうな事態に直
面するのは避けたかった。
雫はもう一匙スープを口に運ぶ。馴染みのない味。だが美味しい
いずれこの旅が終わる時も、これでよかったと言える
と素直に思えた。
︱︱︱︱
のだろうか。
そうなればいいと、思う。
彼女は向かいに座る男をそっと盗み見る。
彼と別れる時、どんな挨拶を自分はするのだろう。
それはまだ、想像もつかない先の話に思えたのだ。
149
昼に見る塔は、何だか地面に刺さった棒のように異様だった。
雫は少し離れた場所から石塔を眺める。どうやら観光名所という
わけではないらしい。それにしては少し薄汚れたイメージを抱かせ
るのだ。
﹁物見塔か何かですかね﹂
﹁いや、それには窓が小さすぎるよ。どちらかというと幽閉という
か⋮⋮﹂
﹁あれは産所だよ。ノイ家の産所﹂
突然後ろからかけられた女の声に雫は驚いて振り返ったが、エリ
クは塔を見上げたまま﹁そうなんですか﹂と相槌を打っている。
そこに立っていたのは雫の母親と同じくらいの年に見える中年の
女だった。忌々しげな表情の女は雫を見て、少し驚いた顔になる。
﹁あんた変わった顔立ちだねぇ。どこから来たの?﹂
﹁タリスからです﹂
﹁へぇ。ゆっくりしてきなよ﹂
ゆっくりと言われても、村には何か他にあるようには見えない。
せいぜい﹁産所﹂という塔があるだけだ。
それにしても塔が産所とは変わっている。この世界の風習なのだ
ろうか。そのことを問おうと口を開きかけた時、しかし女は振り返
ったエリクの格好を見て表情を変えた。
﹁ひょっとして魔法士かい?﹂
﹁一応﹂
﹁ちょうどよかった! うちの魔法具の調子をちょっとみてくれな
いかい? 半年前に村の魔法士が亡くなってね。旅人でも魔法士で
ここに立ち寄る人間は少ないし、困ってたんだ﹂
﹁構いませんけど、直せるかどうかは分かりません﹂
﹁いいよいいよ、駄目もとで﹂
女はそう言うと顎をしゃくりあげながら踵を返した。ついて来い
150
ということだろう。二人は顔を一瞬見合わせると塔を背に歩き出す。
けれど、遠ざかる彼らの姿を塔の小窓から見ていた人影がいたこ
とに、この時二人のどちらもが気づいていなかったのだ。
女は古い木の家に二人を招くと、小さな部屋に彼らを案内した。
窓のない小さな部屋には何の家具もない。ただよく見ると木の床
に人が一人座れそうな大きさの銀板がはめ込まれていた。円状の紋
様を見るだに、どうやら魔法陣のようである。雫は身を屈めて複雑
な紋様を目で追った。エリクは彼女の後ろから覗き込む。
﹁言送陣ですか。かなり古い魔法具ですね﹂
﹁そうなんだよ。そのせいか行商に来た職人に聞いたら、城の魔法
士とかに頼まないと直せないって言われてさ。値段も手間もかかる
し困ってたんだ。どうだい? 直せそうか?﹂
﹁時間を頂ければ。結構かかりそうです﹂
﹁頼むよ。礼はするから﹂
エリクは雫に代わって前に出ると、彼女の肩に乗っていた小鳥を
呼んだ。
﹁メア。魔力貸して﹂
小鳥は小さく鳴くと男の肩に乗り移った。何をしているべきか迷
う雫に、女は﹁あんたはこっちで待ってな。お菓子あげるから﹂と
手招く。一体自分は何歳に思われているのか、釈然としないものが
あったが、エリクが﹁頂いてて﹂と言うので彼女は素直についてい
く。
雫は食卓らしきテーブルで、クッキーとお茶を出されると、女に
尋ねた。
﹁あの塔って産所にしか使わないんですか? お産をするところで
すよね﹂
﹁そうだよ。あそこはノイ家の持ち物だ。他の人間は近くに寄るこ
ともできない。なんせ呪われた家の塔だからね。見られちゃ不味い
ものがあるんだよ﹂
151
忌々しげに吐き捨てられた言葉に、雫はクッキーが喉につかえそ
うになった。かろうじて﹁呪い?﹂と聞き返したが、物騒な話この
上ない。
中年の女は自分のカップにお茶を注ぎながら、雫の問いに応えて
説明しようとした。しかしそれを別の男の声がたしなめる。
﹁母さん、やめてくれ。よその家の悪口なんて恥ずかしい﹂
いつの間にか戸口に立っていたのは若い男だった。おそらく雫よ
りは年上であろう。母さん、と呼ばれた女は﹁本当のことを言って
何が悪いのさ﹂と開き直る。険悪な雰囲気に雫は所在無さを感じた
が、男と目が合うと﹁お邪魔してます﹂と頭を下げた。男もまた会
釈で返してくる。
﹁君、旅の人?﹂
﹁魔法士の人に言送陣の修理を頼んでるのさ。その間、連れの子が
暇だろうと思って﹂
﹁なるほど。ごめんね、時間取らせて﹂
まるで子供に言うようにそう言われて、雫は本当に自分は何歳に
見えるのだろうと悩みかけた。しかし、母子間に漂う何だか微妙な
空気に、彼女は﹁そんなことありません﹂と言っただけで後は沈黙
を保つ。
男が自室に戻る為いなくなった後、母親は誰にともなく、しかし
本当は雫に聞かせたいのだろう、刺々しい言葉を漏らした。
﹁まったくろくでもないよ⋮⋮ノイ家の女にたぶらかされて⋮⋮﹂
雫は驚いて顔を上げる。しかし当然ながら男の姿はもう見えない。
ただ廊下を挟んで向こうの窓に細い塔がそびえているだけだった。
﹃愛している﹄
思い出す真剣な言葉がどこか絵空事のように聞こえるのは何故な
のだろう。
152
クレアは激しい耳鳴りを感じて両耳を押さえた。
大陸は広い。それを越える世界はもっと。
けれど彼女の﹁世界﹂はこの小さな村でしかないのだ。もっとい
うならばこの細長い塔だけがそうなのかもしれない。
塔の中は空気が上手く流れない。淀んだ暗い匂いがする。
暗闇の中から彼女を捕らえようと忍び寄ってくる匂いに、古い血
臭が混ざっている気がしてクレアは口元を押さえた。
耳鳴りがひどい。
視界が傾く。
彼女はどこにも逃げられない。
クレアは小さな窓から外を眺む。
冷たい窓。石の枠。
細身の彼女であっても体全ては通り抜けられないその﹁出口﹂か
ら、クレアはふと、このまま身を投げてしまいたい、と思った。
﹁言送陣って何ですか?﹂
宿屋に戻った雫は、若干疲れているらしいエリクに尋ねた。
結局今日一日では修理は終わらなかったのだ。彼は休憩を入れな
がら三時間かけて魔法具を調整し、あとは﹁頭が痛くなってきたか
らまた明日﹂となった。
どの道昼過ぎに村を出ては真夜中にならなければ次の町には着け
ないのだし、それを避けるためには出発日を延ばさねばならない。
余分な宿代は、修理を依頼したオルヤという女が持ってくれるとい
うことで、二人はもう一泊することに決めたのだ。
﹁言送陣ってのは基本的に対で使われるものだ。離れた場所にそれ
ぞれ置いて、中に入ると他の言送陣に声を繋いでくれる。通信魔法
が使えない魔法士が使うというか⋮⋮基本的には城や役場とか、多
数の人間がいて遠距離と連絡を頻繁に取る必要がある施設で使われ
153
るね。
普通、平民の家であれを置いてるところはそうはないよ﹂
﹁あー、電話みたいなものかぁ。こっちはみんな個人で持ってます
よ。あのシャシン取るやつがそう﹂
﹁本当に? すごいな、あの大きさだし。ここでも使える?﹂
﹁無理です。アンテナないですから﹂
おまけに電話の相手もいない。今の雫の携帯電話はその名称にも
なった機能を微塵も使えないのだ。雫はバッグにしまったきりの携
帯と、そのメモリにある人々の顔を一瞬思い浮かべた。まるでもう
何年もあっていないような懐かしさが胸を灼く。
だがその感情はそれとしてそっとしまいこむと、彼女は﹁この世
界﹂の通信について考えを巡らせ始めた。
知り合いであり、なおかつそれなりの魔法士同士であれば、身一
つでも通信が出来るというのは実に魅力的だ。携帯と違って写真は
送れないが、充電は不要である。だが、代わりに魔法士でないと、
家に電話のようなものを置くことさえままならないというのはかな
りの不便に思えた。これでは携帯のように各個人が遠隔通信ツール
を持つなど、先の先の話かもしれない。第一雫の世界でもこれ程ま
でに携帯が普及したのはここ数年のことなのだ。
雫は、寝てはいないのだが目を閉じたまま椅子の背もたれに寄り
かかっている男に、そう思ったことを話した。彼は口元だけで苦笑
する。
﹁生活に即した効果を持った魔法具が流通するようになったのは、
ここ二百年ほどのことだ。それだって国や城、貴族や豪商などの富
裕層にだけ手に入るようなもので、平民でも買えるものとなると本
当に少ない。魔法技術は徐々に進歩してるけど、それは平民には還
元されないんだ。だから、それこそ暗黒時代から文明全体は大して
代わり映えがない﹂
154
﹁魔法具を作るのが大変で、大量に生産できないとか?﹂
﹁それもある。まずね、普通魔法ってのは術者がその場にいないと
駄目なんだ。けど、魔法具とか陣とかは紋様を物に焼き付けること
で、術者の手を離れても効果を持ちうるようにしてある。で、強力
な魔法士なら魔力だけでその焼き付けが出来るんだけど、そういう
ことが出来る人間は少ないから、昔は魔法具なんて城に所蔵されて
るものくらいだったよ﹂
﹁うわぁ。貴重品だったんですね﹂
雫は自分が嵌めている指輪を見やる。複雑な模様はどうやら魔法
的な意味があるらしい。
だがこれも、そして他にエリクが持っているものもあまり大きな
効力はないし、ある程度使えば魔力を失ってただの道具になってし
まうのだという。ただそうではない強力な魔法具も大陸には山ほど
あると雫は聞いた事があり、おそらくは城に所蔵されているような
ものもその一種なのだろう。
男の涼やかな声が説明を続ける。
﹁ただ三百年前にガンドナでちょっとした構成が作られた。それは
魔法で作ったのではない紋様や形と、魔法の構成を連結させる為の
ものでね。それによって紋様部分は職人に、魔法構成は魔法士にっ
て分担が可能になったんだ。で、一気に色んな魔法具が作られた﹂
﹁それで普通の人でも買えるようになったんですか?﹂
雫の質問に、しかしエリクは首を振った。
﹁いや。まず作られたのは魔法兵器の類だった。各国は城の魔法士
を総動員して、魔法具で軍備を増強し⋮⋮結構大きな戦争がいくつ
も起こった。それまでの国のほとんどが十年あまりの戦乱の間に入
れ替わったよ。一時は暗黒時代の再来とまで言われたほどだ﹂
少しだけ苦々しげな声を、彼はそこで切る。お茶のカップを手に
取って、喉を湿らせた。
﹁生活用品と言える魔法具が作られだしたのはようやくその後から
で、まだ歴史が浅いせいか平民には高価だね。日用品って兵器と違
155
って、大きな威力よりも安定してて細かく調整できるものが求めら
れて難しいし⋮⋮。そもそも城に仕える女官とかの為に開発された
ものだから、材料からして魔法と馴染みやすい貴重なものを使って
るんだ﹂
﹁なるほど﹂
何だか社会科の授業を受けているような気分だ。雫はついノート
を取りたくなって、バッグを開けるべきか迷う。
つまり、元の世界の機械技術がこちらでは魔法技術に相当すると
いうことだろう。そしてそれは、機械技術の発展と比べれば、まだ
途上の過程を辿っているように思えた。
﹁色々あるんですね。これからの技術の進歩に期待ってとこですか﹂
﹁どうだろ。日用品の研究をしてる魔法士は多くはないと思う﹂
﹁え。何でですか。需要があるのに行き届いてないんだから、儲け
どころじゃないですか﹂
雫の素朴な疑問にエリクは素朴な回答で答える。
﹁魔法士は自分の魔法があるからそういう魔法具は要らない。なお
かつ、あまり便利な魔法具が安価で流通し始めると魔法士の存在意
日用品の
義が薄くなる。最後に、研究開発に才のある魔法士は大抵城に所属
してるから、まず軍備や国の保全の仕事を優先して︱︱
研究なんかには携わらない。こういうわけで平民の生活はほとんど
代わり映えがしないんだ。⋮⋮あまり面白い話じゃないね﹂
﹁あー⋮⋮納得しました﹂
要するに魔法士は技能的な特権階級なのだろう。そして強力な魔
法士ほど上流の人間の為に働き、平民にはその力が届かない。魔法
士たちは自身の特権を維持したいだろうし、それは結果的に魔法士
を擁せるところと擁せないところで格差を生む。
エリクが今のこういった状態をよく思っていないことは不機嫌そ
うな声音からもありありと伝わってきた。
彼は目の上に手を置くと眉間をほぐす。疲れているのだろう、彼
156
には珍しい仕草だ。
﹁だから、平民にまで魔法具が浸透しているファルサスは特殊だ。
けどファルサスがそうなのは単に平民にも魔法を使える人間が多い
からってのもあるだろうな。今はあの国でも、日用品の研究は需要
がないのかほとんど進められていないようだし。加えてファルサス
は、魔法大国という特殊な地位を守りたいのか、あまり魔法具を輸
出したがっていないからね。⋮⋮他国の民の生活まで変わるのはず
っと先になるだろう﹂
この世界にも色々あるのだ。雫は黙って頷いた。
彼女はふと思いついて部屋にあった水差しから水を円器に注いで
布を浸すと、よく絞ってエリクの額に乗せる。彼は少し驚いたよう
だったが礼を言って手をその上に乗せた。
おそらく誰もが幸福で富んだ世界などないのだろう。人が人の本
質を持ち続ける限り。
雫には何となくそれが分かっている。彼女の世界も似た煩悶に足
掻き続けてきたのだから。
魔法は便利で、本当に夢のようで、感心することしきりだ。けれ
どそれは確かに人の技能の一つであり⋮⋮しかも魔力を持てるかど
うかは生まれた時に決定され、努力ではどうしようもないのだ。
その事実が生み出すひずみを、この世界はどう消化していくのか。
もし魔力が持てるか否かを自分の意思で選べたとしたら、彼は
ぼんやりと思いを馳せた雫はふと旅の連れの魔法士を見て︱︱︱
︱
どちらを選んだのだろう、と埒もない空想を抱いたのだった。
オルヤが﹁他の人間には近づくこともできない﹂と言った通り、
塔の下がどうなって
雫はどこか切れ目がないかと
確かに塔の周辺は高い生垣が築かれており、
いるかは見ることもできなかった。
生垣に沿って一周してきたが、一箇所鉄の扉があっただけであとは
彼女の背より遥かに高い、尖った葉の植木が茂っているだけである。
157
扉は私有地ということもあり確認しなかったが、鍵でもかかって
いるに違いない。彼女はもう一度塔を見上げた。
エリクは今はオルヤの家に行っている。
今年五十歳になるという彼女は実に世間話が好きで、おそらく雫
がエリクについていっても嫌な顔はしないだろう。しかし率直に賛
同することがためらわれる、棘のある会話が混じってくることもあ
り、雫は抵抗を感じてもいた。エリクはそれを敏感に察したらしく、
﹁何かあったらメアを呼べばいい﹂と言って彼女が村を出ないこと
を条件に、一人でオルヤの家に向ったのだ。
雫は最初の二時間は本を読み、レポートの為のメモを作っていた
が、どうしても気になって今は息抜きがてら塔を見に来ている。
塔は、おかしなことに最上階と思しき高さのところに一箇所、人
の頭より少し大きいくらいの窓があるだけで、他には灰色の石壁が
続いているだけだった。まるで本当に塔というより煙突だ。ここが
産所とは何か特別な理由でもあるのだろうか。
昨日オルヤが﹁呪われた家の塔﹂などと言っていたのを思い出し、
雫は思わず身震いする。人の死後に魂は残らないということはまた、
幽霊は存在しないということをも意味しているのだろうが、それで
も呪いとはいい思いはしなかった。
一通り好奇心も満たし、なおかつ怖くなったことだし宿屋に戻る
ことにする。塔を背に歩き出し、数十歩行ったところで雫は、木の
軋む音に視線を右に転じた。
近くにある家の扉が開かれている。ちょうど中から老いた男が出
てきたところだった。彼は雫と目が合うと少し驚いた後に笑う。
﹁嬢ちゃん、よその町からお使いかい?﹂
﹁⋮⋮いえ、城都に向って旅をしてます﹂
できるだけ大人っぽく聞こえるよう、かしこまった声音で雫は答
えた。しかし老人は﹁そうかそうか。大変だねぇ﹂と言っただけで、
何だか分かってくれたようには思えない。
158
もう精神衛生的にもこの辺は諦めた方がよさそうだ。雫は﹁一人
じゃないので、平気です﹂と普通に返す。
﹁塔を見てたのかい?﹂
﹁そうなんです。目立ちますよね、これ﹂
﹁ノイ家の負の財産だからね。取り壊しちまえばいいと思うんだが、
呪いが怖いらしくてな﹂
﹁呪い⋮⋮﹂
またこれだ。
ひょっとしてこの塔が村のどこからも見えるように、呪いもこの
村のみなが知っていることなのだろうか。
好奇心が表情に出たのか、老人は雫を見て目を細める。
そして彼は一度、塔を見上げると、ずっと昔のことを手繰り寄せ
るような目で
﹁別に怖い話じゃない。ただの人間の話さ﹂
と呪いと塔に纏わる話を始めたのだった。
159
002
この村に塔が作られた切っ掛けは百二十年ほど前に遡る。
当時、村にはデトスという男がいた。彼は若い時からしょっちゅ
う出稼ぎに村を出ていたのだが、ある日かなりの大金を持って帰っ
てきた。何でも出稼ぎ先で友人になった男が病死して、何もない土
ツ
地を譲り受けたのだが、そこに良質の水晶窟が発見された為、土地
ごと国に売って報酬を得たのだという。
デトスはその金で村に新しく家を建て城都から妻を貰った。
ィツェア・ノイという家名を持つ女は由緒ある家の出身ということ
だったが、彼女の他には兄弟もいなかったのでノイの名は以後デト
スの家系に継がれることとなる。
問題の塔が建てられたのは、デトスがデトス・ノイとなった一年
後のことだった。ツィツェアは城都にいた時からおかしな宗教にか
ぶれていたらしく﹁塔を建てて家を守護せねば不幸が訪れる﹂と突
然言い出したのだ。
デトスが内心どう思ったかは誰にも分からないが、結局彼は塔を
建てるため城都から職人を数人呼んだ。その中にはミルセアという
女がいた。彼女は若く美しい魔法士で、塔の出来上がった部分に劣
化防止を掛ける為に呼ばれたのだが、ツィツェアは日が経つにつれ
夫と彼女の間を疑ったらしい。塔の完成目前で、ミルセアが夫の子
を孕んだのではないかと思ったツィツェアは、彼女に密かに毒を盛
った。
だが魔法士であるミルセアは魔法で作られた薬に耐性があり、す
ぐには死ななかったのだ。
彼女は吐血しながらもツィツェアに詰め寄り、デトスは妻を連れ
160
て怒りに狂う女から逃げると塔に立てこもった。
ミルセアは絶命するまでの数時間、ずっと塔の扉を叩いていたと
いう。
デトスは途切れ途切れに聞こえる呪いの言葉に慄き、ミルセアを
助けることなど考えもせずただ時が過ぎるのを待った。一晩経って
静かになった扉を開けてみると、そこには事切れた女の遺骸と﹁呪
い﹂が残されていたのである。
血で扉に描かれた﹁お前の血を継ぐ息子は奪われるだろう﹂とい
う言葉。
ツィツェアがその時身篭っていた子供を生み、そして男児だった
赤子が生まれてすぐ死亡したのは八ヵ月後のことだった。
﹁結局、死んだ魔法士の女はデトスの愛人でも何でもなかったのさ。
勿論孕んでもいなかった。おかしな女に濡れ衣を着せられ殺された
だけだ﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
災難というか何と言うか、それで殺されては呪いたくもなるだろ
うな、と雫は思った。もうちょっと夫は何とかできなかったのだろ
うか。はた迷惑にも程がある。
しかしこの話だけなら確かに酷い話だが、何故塔が産所となった
のか分からない。それを問うと老人は苦笑を浮かべた。
﹁その時ツィツェアが身篭っていた男児は出産後まもなく死んだ。
けど二人目の子供をツィツェアは塔の中で産んだのさ。ここならミ
ルセアの呪いが届かないからといって。そしてその通り無事子は産
まれた。ただその子は女の子だったから本当に塔に呪いが届かない
のかどうかは分からない。それでも呪いを受けるよりましだろうっ
てことで、あの塔は以後ノイ家の産所となったんだ﹂
﹁他に男の子は生まれなかったんですか?﹂
﹁それが生まれてないんだな。ノイ家はそれ以来女系の家になって
161
る﹂
﹁うっわぁ⋮⋮﹂
それはつまり、呪いが効力を持っているということの表れなのか
もしれないし、違うのかもしれない。ただ確信は得られずとも塔で
あれば無事に生まれるということなら、わざわざ塔以外で出産をし
て危険な橋を渡ることもしたくないだろう。
雫は納得の息を漏らすと振り返って塔を見上げる。
曇天の中、黒々とした塔は世界全てを呪うかのように異様な姿を
曝していた。
雫が宿に戻りレポートを書き出してしばらく、エリクはメアを連
れて昨日よりも疲れた顔で帰ってきた。単なる疲労ではない嫌そう
な連れの顔に、雫は少なからず驚く。
﹁修理⋮⋮どうでした?﹂
﹁ほぼ終わった。けど三日後にならないと言送陣の向こう側に人が
こないらしい。だから直ったかどうかはそれまで確かめられないん
だ﹂
﹁なるほど。それまでこの村ですか?﹂
﹁うん。時間かかってごめん﹂
﹁あ、別にそういう意味では。ゆっくり休んでください﹂
慌てて顔の前で手を振るとエリクは苦笑する。彼は椅子を引いて
座りながら﹁今日はずっと勉強してたの?﹂と聞いてきた。雫は聞
かれて塔の話を思い出す。ついでというわけではないが話しておい
た方がいいだろう。いくつか要点を整理しながら彼女は﹁ノイ家の
呪い﹂の話をエリクに伝えた。
彼は、書きかけのレポートを眺めながら話を聞いていたが、最後
に彼女が﹁こういう話よく聞きますけどね﹂としめると顔を上げる。
﹁よくあるって君の世界で?﹂
﹁そうですよ。勿論実際に直面したことはないですけど、死んだ人
162
の恨みを買って子孫代々祟られるってのはよくあるお話です﹂
﹁へぇ。魔法がないのに面白いね﹂
﹁あー﹂
雫は一人納得する。この世界には幽霊がいないのだ。死んだ人間
が生きている人間に怨念を持って影響するという意識がないのだろ
う。
彼女は簡単に、自分の世界では死後の世界について何も分かって
いないことと、死者が幽霊や怨霊になって生者に害をなすという考
えもあることを説明した。
エリクは大して驚いた様子もなく相槌を打っているが、彼は大抵
こういう表情なので本当に驚いていないのか、表面に出ていないだ
けなのか分からない。彼は一息つくと、雫が適当に淹れたお茶を手
に取った。
﹁昔はね、こっちの世界でもあんまり知られてはいなかったんだ。
魂が残らないって﹂
﹁あ、そうだったんですか?﹂
﹁うん。そういうのって精霊術士⋮⋮非常に珍しい魔法士の種類だ
けど、彼らだけが分かっていたことだった。精霊術士はそういうの
に接する能力が敏感だからね。それが徐々に魔法士に広まって、更
に知識人に伝わった。今でも普通の人は知らない人が多いんじゃな
いかな﹂
だから田舎では今でも幽霊は信じられていたりする、とエリクは
続ける。雫は納得の面持ちでそれを聞いた。
ならばノイ家の呪いもまたそういう種のものなのだろうか。
しかし彼はまた雫の表情から疑問を見て取ったらしく、彼女の思
考に訂正を加える。
﹁いや。僕も聞いたけど件の呪いは生きた魔法士が魔力を使ってか
けたものだと思うよ。あくまで人の話を信じれば、だけどね﹂
﹁え! 聞いたんですか!?﹂
163
﹁聞いたというか聞かされたというか⋮⋮散々だった﹂
彼は深い深い溜息をつく。
一拍置いての散々な話を総合すると、つまり彼は修理に行った先
で修羅場に出くわしてしまったのだ。疲れているのは修理の為とい
うより、どうやらそれをやむを得ず止める羽目になった為らしい。
﹁あそこの家の息子はどうやらクレア・ノイ⋮⋮つまり塔の家の女
性だけど、彼女と結婚したいらしいんだ。でも当然ながら母親は大
反対。子殺しの家の女なんか娶れるかってね﹂
﹁子殺し!?﹂
何故そんな一足飛びに話が飛ぶのか。
思わず口をぽかんと開けてしまった雫にエリクは苦々しい笑いを
見せた。
﹁男の子が生まれないんじゃなくて、生まれちゃったら殺してるん
だろうってことなんだよね、つまり。オルヤは呪いそのものは信じ
ていないみたいだ。嬰児を塔から投げ捨ててるから塔の傍に近寄ら
せないんだと言ってた﹂
﹁えええええ⋮⋮。いくらなんでもそんな﹂
﹁でも僕もちょっとそう思った﹂
﹁え﹂
今度こそ雫は目が点になってしまう。
血の繋がった赤ん坊を塔から投げ捨てるとはどういう発想なのだ
ろう。
エリクは確かに冷めたところはあるが、無闇に人にそんな疑いを
かける人間ではないと思う。それとも何か理由があるのだろうか。
男は彼女の内心に応えるかのように、白紙の紙にシャープペンで
丸を描いた。中に二つの目と口を足す。どうやら赤ん坊をイメージ
した絵のようだが、下手すぎて断言できない。話よりもむしろ絵に
気を取られてしまった雫に、彼は自分の考えを捕捉した。
﹁たまたま男児が生まれないっていうなら分かるけど、呪いで女児
しか生まれなくするなんてことは出来ないから。殺してるとまでは
164
思わないけど、男児が死んでしまってもそれを伏せてるだけじゃな
いかなとは思った﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
決して共感できる文化ではないが、雫は自分の世界の一部に﹁嬰
児殺し﹂と言われる風習が存在していることを知っている。双子の
片方や望まれなかった性別の赤子を、生まれてすぐ殺し、死産だっ
たことにする。理由はあるのだろうがいたたまれない行いだ。
オルヤはノイ家にそれを疑っており、一方エリクはノイ家が意図
的に呪いの効果を隠蔽しているのではないかと考えているのだ。
百二十年前から今まで何人の女の子が生まれ、何人の男の子が生
まれなかったのか。それは、村人に不審を抱かせるに充分なものだ
ったのだろう。雫は人の心に不安を与える塔の姿を思い出す。
﹁ああもう。何か落ち着かないなー﹂
﹁気にしないのが一番だ。その土地にはその土地の、人には人の事
情がある﹂
﹁よし! 勉強に集中します!﹂
﹁それがいいよ﹂
エリクはお茶を飲み干すとレポートの紙を手に取った。机の端に
置いてある辞書に目を留める。彼は少し考えた素振りで、だが結局
辞書を指差した。
﹁それ、僕も作ろうかな﹂
﹁え?﹂
﹁辞書。こっちの世界の単語と君の世界の単語を対応させる。そう
すれば僕も、君の書くものがちょっと読めるかもしれないし、君も
この世界の文字に馴れるだろ?﹂
﹁あー⋮⋮﹂
実はちょっと彼女も欲しいと思っていたのだ。この世界の文字の
辞書が。
語尾変化などを考えればそう簡単にはいかないかもしれないが、
165
出来るならやってみるだけやってみたい。何よりエリクは文字が専
門の人間である。元の世界の文字は辞書があることだし、分からな
いことは彼に聞けばいいのだ。
雫は力強く頷いた。
﹁作りましょう! すっごく欲しいです!﹂
﹁じゃあ紙に書き溜めて、普段は紐で束ねて溜まったら製本しても
らおうか。順番は⋮⋮どちらに合わせようかな。とりあえずよく使
う単語から並べて、あとで調節しようか﹂
﹁分かりました! ルーズリーフ使いますね﹂
﹁君の世界の紙ってかなりすべすべだよね﹂
雫はレポートの為の本を端に寄せると、バッグからルーズリーフ
をファイルと合わせて取り出した。エリクは淡いピンク色のファイ
ルをぱらぱらとめくる。中には二、三枚だけ授業のノートが挟まれ
ていた。はじっこに描かれた教授のデフォルメの似顔絵を見て彼は
眉を寄せる。
﹁何この絵﹂
﹁私の先生です。口癖は﹃そうなんだけどね?﹄﹂
﹁君、学校で何学んでるの?﹂
﹁うーん⋮⋮考えることそのもの、かな﹂
彼は僅かに目を瞠る。その表情に雫は苦笑して返した。
とても硬い。見た目からいって硬いのだろうとは思っ
雫は手に持ったスティック状のものを齧る。
︱︱︱︱
ていたが予想以上だった。
彼女は噛み切るのを諦めて歯をはずす。何だか歯茎が痛いくらい
だ。ちなみに虫歯は一本もない。
﹁予想を外されるってそれだけで結構威力が大きいものですね﹂
﹁初めて食べるものを、そんな勢いこんで噛みつけるのが凄いと思
166
うよ﹂
﹁勢いって大事じゃないですか。助走をつけた方がたくさん跳べる
というか﹂
﹁歯、痛くない?﹂
その疑問には答えたくなかったので雫は黙殺した。
塔のある村に到着してから四日目。明日には言送陣の動作テスト
ができるという。それまでの時間、勉強をして過ごしていた二人は
ちょっとは外に出て気分転換しようということで、今散歩にきてい
る。
村の真ん中にある小さな店で、雫は﹁甘いもの下さい﹂と言って
この狐色のスティック菓子を買ったのだが、揚げ物だろうという予
想を裏切って飴のように硬かった。これはもしかしたら噛むもので
はなく舐めるものなのかもしれない。彼女はほんのり甘い菓子を舐
めながら塔を指差す。
﹁どうせなら窓を増やすとか拡張するとかすればいいと思うんです
けどねー﹂
﹁出来ない理由があるのかもしれない。手をいれると塔全部が崩れ
てしまうとか﹂
﹁どんな建て方してるんですか、それ。積み木じゃないんですから﹂
﹁だって窓が小さいのはわざとじゃないか? あれはおかしいだろ
う﹂
﹁赤ん坊が通せて大人は通れない、そういう大きさになってるのよ﹂
突然割り込んできた声は、若い女のものだった。
つい最近そうやってオルヤに背後を取られたばかりの雫は、やっ
ぱり飛び上がって驚き、エリクは平静に﹁そうなんですか﹂と答え
る。女はくすんだ灰色の瞳に、微かに自虐的な表情を浮かべて微笑
していた。綺麗な顔立ちの女性なのだが、何故か薄ら寒さを感じて
雫は硬直する。
﹁あなたたち旅の人でしょう? 塔が気になるの?﹂
167
﹁気になるという程では。ただ目立ちますから﹂
﹁そうよね。街道からも見えると聞いた事があるわ﹂
不思議な物言いだ。
ここから街道までは一時間もかからないのに、彼女はそこまで出
た事がないのだろうか。
雫は何となく後ろに下がりたくなったが、さすがにそれは失礼だ
と思いとどまる。だがエリクの方がその気配を感じ取ったのか、雫
より一歩前にでて女性に相対した。
﹁あなたがクレアさんですか﹂
﹁ああ⋮⋮誰かに私のことを聞いたのかしら。皆噂話が好きですも
のね﹂
穏やかに笑う女は、しかし少しも雫を安心させはしなかった。一
まさしく彼女こそ
見普通に見えるのに、どこか歪んでいる印象を受ける。そしてそれ
はあの塔から受ける印象と同じもので︱︱︱︱
がノイ家の女性なのだと、雫はまず空気で感じ取ったのだった。
クレアは表面上はにこにこと愛想よくしていたが、エリクが﹁あ
なたのことはダルスさんに聞きました﹂と言うと途端に表情を消し
た。張り付いていた笑顔が剥がれ落ち、暗く穴が開いたかのような
中身が露わになる。
雫はぎょっとして自分も表情を凍りつかせたが、クレアはまた最
初の自虐的な目に戻ると笑顔を作り直した。
﹁あの人が何を言ったのかしら。あまり鵜呑みにしないでちょうだ
い﹂
そう言うクレアが何故か傷ついているように見えるのは何故なの
か。雫は﹁ダルスさんって誰ですか?﹂と小声でエリクに問う。返
ってきた答は﹁オルヤの息子だよ﹂というものだった。
つまり結婚を反対されている恋人同士ということだろうか⋮⋮。
多少違和感もあるが、彼女はそう納得した。
﹁この村で暮らしていれば嫌でも塔が目に付くわ⋮⋮。だから皆好
168
きなことを噂するの。別にどんな話でもいいのだけれど﹂
﹁偽りの話が広まってもいいと?﹂
﹁見る人が異なれば真実も異なるものでしょう? 目くじらをたて
ていてはきりがないわ。私はこの村で一生暮らさねばならないのだ
し⋮⋮﹂
その一瞬、クレアはまるで生きることにくたびれた老女のように
見えた。
閉鎖されたこの村で、呪われた家の女として彼女がどんな日々を
過ごしてきたのか。わずかながら想像できる気がして、雫は溜息を
喉元で押し殺す。
他人からの評価とはどうしても少なからず、自分からのものとは
乖離してしまう。
クレアとは比べ物にならないだろうが、雫自身もずっと姉妹との
比較のもと評価されてきたのだ。他人からの悪意のない感想に、そ
れは違う、と言いたいことも何度かあったが、彼女はその抗弁を大
体は諦めた。いちいち気にしていては本当にきりがないのだ。そし
て別に雫は姉妹が嫌いではないのだから、気にするべきではないと
言い聞かせた。
ただそれでも両親まで、まず姉を、そして妹を見て、最後に雫を
見てくれるという順番が固定していることに一抹の淋しさは拭えな
かったのだが。
その感情を思い出した雫はクレアに頭を下げたくなる。先入観が
辛いものだとよく知っているにもかかわらず彼女を恐れた自分を恥
じたのだ。
クレアはおそらく疲れきっているのだろう。今までの偏見に、そ
してこれからもその中で生きていかなければならないことに。
雫は唇をきゅっと結んで姿勢を正す。出来るだけ塔のイメージを
排して彼女を見ようと意識した。一歩前にいるエリクは首を僅かに
169
傾けてクレアを見つめている。
﹁先ほどあの窓は子供が通る大きさだと言いましたね﹂
﹁そうね。まるで計ったみたいにそうだわ﹂
﹁それはあなたが間違った噂を許容しているという意味ですか? それともあなた自身がそう思っていると?﹂
﹁どちらかしら⋮⋮。ねぇ、興味があるなら塔を見にいらっしゃる
? 鍵を持っているわ﹂
降ってわいた誘いに雫は目を丸くした。だが、同時にエリクは断
るだろうとも思った。
彼は根本的には人がいいのか、請われれば頼みごとなど引き受け
ることもあるが、自分からはあまり余所事に首をつっこまないよう
に見える。それは彼が﹁人間に興味がない﹂からなのかもしれない
が、特に冷たいとは思っていなかった。多分、単に現実的なだけだ。
そんなことを思っていた雫はだから、彼が﹁では見せてもらって
いいですか﹂と答えた時に、あやうく意外の声を上げてしまいそう
になる。何とか口を押さえて叫びを飲み込んだ彼女に、エリクは振
り返ると苦笑した。
﹁宿に先帰っててもいいよ﹂
もし怖かったら、という彼の意を感じ取って、雫は口を押さえた
まま慌てて首を左右に振る。そこまで色々言われる塔を見てみたい
という気持ちは、確かにあるのだ。幽霊がいるならば怖いが、いな
いなら多分大丈夫、だと思う。
クレアは自らが誘ったにもかかわらず、それを受けた二人にぽか
んとした顔をしたが、雫と目が合うと困ったような笑顔になった。
﹁じゃあ⋮⋮案内するわ﹂
彼女は一瞬自分の塔を仰ぎ、そして歩き始める。
直前に見た苦笑は今までで一番普通の女性らしいもので、それだ
けに雫はほっと安堵する思いと共に複雑な思いもまた味わうことに
なった。エリクについて歩きながら彼女は囁く。
170
﹁どうしたんですか? 塔が気になるんですか?﹂
﹁いや、どっちかというと呪い。百年を過ぎても効いているような
呪いを見たことないから、ちょっと興味があって﹂
雫は、自分とは違った意味で、エリクも好奇心が命取りになるの
ではないか、と思ったが口には出さない。買った時からちっとも減
っていない菓子の場違いさに彼女は悩んだが、まさかその辺に捨て
ていくわけにもいかない。かといってもう口にする気にもなれず、
雫はそれを右手に提げた。黙って男の後を追う。
クレアは持っていた鍵でまず、生垣の中にある鉄扉を開けた。
恐る恐る入った塔の周囲の庭は、雫が予想していたより狭く、塔
を中心にドーナツ状の幅広い通路があるという感じだ。整えられた
植木もなく、枯れかけた芝が斑点のようにところどころ土を覆って
いて、荒れた印象を与える。
塔の入り口は入ってきた鉄扉とはちょうど逆側にあった。三人は
庭を半周して扉の前に立つ。
﹁この場所でかつて女が殺されたと伝わっているわ﹂
淡々とした女の言葉。
あらかじめ呪いについて聞いていなければ、雫は飛び退いてしま
っただろう。だが実際は周囲を見回すに留まった。そして当然なが
ら目に付くようなものは何もない。
それはエリクも同様のようだった。彼はあちこちに視線を移動さ
せていたが、探すものが見つからなかったのか﹁ないな﹂と呟く。
﹁何がないと言うのかしら?﹂
﹁呪いが。術者の死亡した場所にあるんだと思っていたけど。何の
構成もないね﹂
﹁呪いって魔法なんですか!?﹂
割り込んできた雫の疑問と似たものを、クレアも感じたらしい。
二人の女の問う気配を受けてエリクは肩を竦めた。
﹁魔法と言えば魔法。魔力を使うから。ただ法則に則る魔法と違っ
171
て、呪いは術者が好きな言葉を選んで自分だけの意味を込めてかけ
る。だから気になったんだけど、塔の中の方かな﹂
﹁え。塔の中は呪いが届かないから産所なんじゃないですか?﹂
﹁とは言うけど、もともと宗教がらみで建てられた塔なんだろう?
何かあるかもしれない﹂
彼の言葉に答えられる人間はこの場にはいない。おそらくこの世
のどこにも。
クレアは少し緊張に強張った顔を隠すように踵を返すと、塔の入
り口へと向う。
﹁⋮⋮百二十年前の扉には、血の跡と呪いの文字があったらしいけ
れど、扉はその後まもなく変えられてしまったわ﹂
女の手が木の扉を押す。
軋む音を立てて開かれたその先から、まるでドライアイスの煙が
漏れ出すように、積もり積もった何かが流れ出てくる気がして雫は
息を飲んだ。クレアは入り口にあった燭台に火を灯して掲げると、
中に入っていく。エリクがその後に続いた。
中は薄暗かった。窓がないのだから当然だ。
それでも雫が思っていたより暗くはないのは、唯一の窓から差し
込む光をいくつもの鏡で反射拡散させ最低限の明かりをとっている
為らしい。
三人は壁に沿う螺旋階段をゆっくりと上り始めた。
細い塔の中は空洞で、部屋があるのは最上階だけなのだとクレア
は説明する。螺旋の為、何階分に相当するのか雫にはよくわからな
かったが、こわごわ下を見下ろすと四、五階くらいの高さなのでは
ないかと思われた。彼女はすぐ前を行くエリクの服の裾を、掴みた
い衝動を覚えて堪える。
到着した部屋は、本当に小さな部屋だった。今、二人が泊まって
いる宿屋の一室と同じくらいか少し手狭なくらいの広さで、中央に
寝台が置かれている。真っ白いシーツが敷かれているにもかかわら
172
ず、そこは何故か薄汚れて見えて、雫は息苦しさに小さな窓に寄っ
た。
窓は小柄な彼女でも頭と肩の片方は出そうだが、両方は無理な大
きさで、見下ろすとちょうど塔の扉が真下にある。顔を上げて遠く
を見ると、見晴らしはよいのだが、肩に触れる石の窮屈さは拭いが
たいものだった。
頭をひっこめた雫と交代でエリクが窓の外を覗く。彼はまず真下
を見て﹁ふむ﹂と頷いた。
﹁何か面白いものでも見つかって?﹂
﹁特には。魔法的な仕掛けも呪いも見つからない。やっぱり話だけ
だと思うよ。別に意味はないからこの塔は壊した方がいい﹂
﹁そう⋮⋮﹂
クレアは唇だけで薄く笑う。
ずっとのしかかっていたのだろう呪いの存在が否定されたにもか
虚ろな目を小さな窓に向けたのだった。
かわらず、彼女は何故か聞きたくなかったことを聞いてしまったか
のように、
173
003
﹁忘れ物ない?﹂
そう聞かれて雫は部屋を見回した。大丈夫だ。何も忘れていない。
自分のバッグを持ち直す。
彼女は、廊下で待っていたエリクに続いて五日間を過ごした宿の
部屋を後にした。今日、これから言送陣のテストに立ち会って、そ
のまま城都に向って出発するのだ。雫は廊下の窓から見える塔に、
つい気を取られる。
塔には何もないから壊すよう勧めたエリクに対し、結局クレアは
自嘲を浮かべただけだった。老齢の母親がいるという彼女は、塔を
壊すようなお金も、村を出て新しい土地で暮らす気もないのだとい
う。あまり明るい未来が待っているように見えない彼女のこれから
に、唯一救いがあるとしたら偏見に囚われていない恋人の存在であ
ろうか。
自然と物憂げな顔になってしまった雫は、前を行くエリクが﹁後
と目を丸くした。だがすぐにそ
でクレアのところにも挨拶に行こうか﹂と突然言ったので、考えて
いたことを読まれてしまったのか
んなはずはないと我に返る。
﹁いいですね、それ。行きましょう﹂
﹁うん﹂
前を見たまま頷くエリクは、どうも塔の件に関していつになく積
極的になっているように見えた。一体何が原因なのだろう。少なく
ともオルヤの家で親子喧嘩の仲裁をさせられた時までは、ひどく嫌
そうに見えた。
174
順を追って考えると、彼が自ら動いたのはクレアに会った時から
もしかして彼女が美人だからだろうか。
だろうか。雫はわずかに眉を寄せる。
︱︱︱︱
ついそんなことを考えてしまって、雫は不快に口を曲げた。自分
がつまらない勘繰りをしたことに苛立ちが生まれたのだ。
けれどそれだけではなく、素直に言えばその考え自体が、彼女を
落ち着かなくさせたのもまた確かだった。雫は無意識のうちに髪を
まとめるスカーフに手をやる。零れた髪に指を絡めた。元の世界に
戻れば、クローゼットにもっと可愛い服が入っている。アクセサリ
も、髪留めも。大学に通い始めたばかりの頃、姿見の中で見た自分
の姿を思い出し、彼女は我知らず溜息をついた。
だが物思いに沈み込みかけていた彼女の思考は、突然の衝撃に中
断させられる。
﹁ぐぅ﹂
急に足を止め振り返ったエリクに衝突した雫は、情けないうめき
声をあげて鼻を抑えた。上から男の呆れた声が降ってくる。
﹁何してるんだか﹂
﹁止まる時は止まるって言ってくれるとお互い幸せになれます﹂
﹁止まった﹂
﹁遅いです﹂
エリクは軽く作った拳で雫の頭をコンコンと叩いた。
﹁顔上げて。君は人の気分が伝染しやすいみたいだ﹂
﹁あ⋮⋮はい﹂
彼は再び踵を返して歩き出す。叩かれた頭を押さえた雫は、思わ
ず姿勢のよい男の姿に気を取られた。
多分⋮⋮エリクには彼女の溜息が聞こえたのだろう。だから彼女
の様子を確認してくれたのだ。
雫は妙な歯がゆさを覚えてかぶりを振る。今、彼女の心の中に残
っているのは不思議な温かさで、つい先ほど感じたばかりの苛立ち
は、何故か日の下の雪のように綺麗に溶け去ってしまっていた。
175
テストにはオルヤと、息子のダルス、そしてエリクと雫が立ち会
うことになった。
中は狭い為、雫はすぐ外の廊下で壁によりかかりながらエリクを
待つ。興味はあったが、自分がしゃしゃり出でも邪魔になるだけで
あろう。そう思ったのはダルスも同様だったのか、彼は雫の正面の
壁によりかかって言送陣の方を見やるに留まっていた。彼女は失礼
にならないよう意識しながらも、改めて男を眺める。
彼は一見生真面目そうに見えた。雫にも気を使って笑顔を見せて
くれる。だが、その笑顔という表層の下には、何か思い込みが激し
そうな性質が隠れているように思えるのだが、彼女の気のせいだろ
うか。
それは彼が小声で﹁クレアに会ったんだってね。いい娘だろう?
もうすぐ結婚する約束をしているんだ﹂と言った為かもしれない。
少なくとも昨日会ったクレアは、結婚を楽しみにしているようには
見えなかった。彼のことについて触れた時も、まるで傷ついたよう
な目をしていたのだ。
二人の間には本当に相互理解が成り立っているのだろうか、そん
なことを考えて雫は馬鹿馬鹿しさに唇を曲げる。ろくに彼らのこと
を知りもしない若輩の自分が、心配できるようなことだろうか、と
気づいたからだ。
いかんせんお節介にも度が過ぎている。彼女は生まれかけた疑惑
を振り払うとダルスに笑って返した。
﹁結婚式って見てみたかったです。クレアさんはドレスが似合うで
しょうね﹂
﹁僕もそう思うよ。君たちは今日出発するんだろう? 近くに来る
事があったらまた寄ってみて﹂
﹁はい﹂
返事はしてみたものの、再会の可能性はあまり高いとは思えなか
176
った。雫はこれからファルサスに行き、そして元の世界に戻ること
を望んでいる。どうやってこの世界に来たのかは分からないが、帰
ってしまえば自由に戻って来られるとはあまり期待していなかった。
これから先、何人の人と出会うのか。そして何人に別れを告げな
ければならないのか。雫は溜息未満の息を嚥下する。
その時、場の転換を促す声が廊下まで洩れ聞こえた。彼女は思わ
ず体を捻って部屋を覗き込む。今いる四人の誰のものでもない男の
声は、エリクが直した言送陣から響くものだった。
﹁オルヤ? 聞こえるか﹂
﹁聞こえるよ。ちゃんと直ってる﹂
﹁それはよかった八ヶ月ぶりだな。これで仕事も元通り流れる﹂
声だけが聞こえる男は、城都に住む親戚で、城の出入り職人なの
だとダルスが説明してくれた。時折オルヤに、この辺りで取れる木
材の調達を頼んでいたのだと言う。
雫は重なるダルスの話とオルヤの声、両方を聞きながらも、ただ
エリクの修理が無事終わったことに安堵していた。彼は普段魔法具
を使わない魔法を見せてくれることはほとんどないし、自分は魔法
士としては落ちこぼれなのだと言って憚らない。
けれど雫にとっては充分、エリクは頼りになるすごい魔法使いな
のだ。難しいと言われた修理もやってのけることができる。彼女は
ほっと微笑んで肩の上のメアの頭を撫でた。
これで後はクレアに挨拶して出発するだけだろうか。
だがそう思ってエリクの隣に歩み寄ろうとした矢先、事態は急変
した。雫は予想だにしない方向から軽く押されてよろめく。それに
気づいたエリクが、表情を変えて彼女に手を伸ばした。雫を押しの
けて部屋に入ったダルスは母親の肩に手をかける。
﹁母さん! 何だ今の話は!﹂
﹁うるさい子だね。聞いただろう。お前の妻になる女の紹介を前か
177
ら頼んでいたんだよ。お前もそろそろ結婚しどきだろう﹂
﹁僕にはクレアがいる!﹂
﹁何言ってんだい、馬鹿な子だね⋮⋮。ノイ家の女なんか迎えるも
んじゃないよ!﹂
﹁母さんに彼女の何が分かるんだ! 呪いなんて馬鹿馬鹿しい!﹂
危うく転びそうになったところを、エリクの手によって事なきを
得た雫は、親子喧嘩はどこの世界も一緒だな、とぼんやりと思って
いた。
だがそれがのんきな感想で済まなくなったのは、ダルスが
﹁もういい。話しても分からないなら僕はこの家を出る!﹂
と叫んで駆け出した時である。
止める間もなく、雫たちがいるのとは逆方向へと廊下を走り去っ
た男に、エリクは顔をしかめて呟いた。
﹁不味いな。追った方がいい﹂
﹁え﹂
﹁行くよ﹂
言うなり彼は雫の手を引いて走り出す。荷物は食卓に置いたまま
だが取りに行っている暇はないらしい。彼女は目を白黒させながら
も、自分の足を動かしてエリクと二人でダルスを追った。
向う先は塔。おそらくはクレアのいる場所だ。
頭の中がぐちゃぐちゃになりながらも走ることに集中しようとし
ている雫に、エリクの苦々しい声が届く。
﹁僕は昨日、嘘をついた﹂
﹁ど、んな、うそを、ですか﹂
全力疾走しながらの途切れ途切れな相槌に、彼は走っていること
の影響をまったく受けていない声で答えた。
え?﹂
﹁呪いはあるんだ。あの塔でクレアと今の彼を会わせては不味い﹂
﹁︱︱︱︱
呪いが、ある。
雫は彼の言葉を頭の中で繰り返し、意味を把握しようとした。
178
誤解で殺された女がかけた呪い。生まれた男児は奪われるという
呪詛。
それが本当に存在していると、彼は言っているのだろうか。
息が切れる。わき腹が痛くなってくる。だがそれでも雫は足を動
かし続ける。
曇天の中そびえたつ塔はもうすぐそこに迫っていた。
二人が塔の下に到着した時、扉は乱暴に開け放たれたままだった。
雫は上を見上げるが、小窓からは誰の姿も覗いていない。エリクが
階段を上る足音に気づいて意識を戻すと、彼女は息を整え再び走り
始めた。何とか一段抜かしで彼の後ろに追いつく。
﹁呪い、って、いつから、それに、気づいて、たんですか﹂
﹁ここに入ったときから。正確には上に上った時から。だけど僕に
は何とかできるような代物じゃなかった。だから⋮⋮﹂
﹁だから、壊せって﹂
﹁そう﹂
思えば﹁何でもないから塔を壊した方がいい﹂などと彼にしては
随分乱暴なことを言うな、と感じたのだ。何でもないのなら放って
おけばいい。それが出来ないのは⋮⋮⋮⋮呪いが本当だったからだ。
雫は緊張に生唾を飲みかけたが、呼吸が上がっていてそんなこと
はできなかった。だが出来ていてもむせてしまっただけだろう。今
はただ階段を上ることに集中する。やがて男女の言い争う声が聞こ
えてきた。エリクの上る速度が上がる。
あっという間に置いていかれた雫が、言うことを聞かない足の膝
を押さえて最上階に到達した時、エリクはちょうどダルスの腕を押
さえてねじ上げているところだった。一見、力があるように見えな
い魔法士に押さえ込まれたダルスは、憎憎しげな表情でエリクを睨
む。
179
﹁何だ! 邪魔しないでくれ!﹂
﹁彼女にあたっても仕方がない。話し合いなら外に出てすればいい﹂
﹁放っておいてくれ! 君には関係ない﹂
クレアは窓の前で腕を押さえて立ち尽くしている。細い手首には
赤い手形が浮き上がっていた。おそらくダルスに手を掴まれていた
ところをエリクが割って入ったのだろう。
雫は呼吸を整えると、クレアを庇うように前に立った。肩の上で
メアが小さく鳴く。
何をするべきか、彼女が困ってエリクを見ると彼は顎で階段を指
し示した。クレアを連れて外に出ろということらしい。
雫は振り返ってクレアに向き直る。
﹁あ、あの。ここから、出ましょう⋮⋮﹂
﹁どうして? ここが私の生まれた場所なのに﹂
彼女の様子に気圧されて雫は絶句する。
いつの間にか⋮⋮クレアは楽しそうに笑っていた。
いびつで、恐ろしかった。
まるで場違いな、あでやかな笑顔。
それはとても︱︱︱︱
﹁みんなみんなこの塔を嫌がるの。何でかしら﹂
クレアは口元に手をあてておかしそうに笑う。手首に赤い手形が
何かがおかしい。あるいは何もかもか。
ついているのと相まって、彼女を取り巻く光景は実に奇怪な絵とな
っていた。
︱︱︱︱
雫は、走ってきた為だけではない息苦しさに喉を押さえる。だが
一歩後ずさりたい気持ちを堪えて、彼女は逆に踏み出した。
﹁下りましょう。外で、お茶でも飲みながら話しましょう。その方
がきっといいはずです﹂
決して怖くないわけではない。
呪いがあると聞いてからはなおさらだ。
180
クレアの瞳を飲まれそうになりながらも見つ
けれど雫は、ここで負けてしまってはいけないような気がして、
意識を強く保った。
め返す。
雫が人であるように、クレアも、ダルスもただの人だ。
そして呪いが魔法であるならば、それもまた単なる生きた人間の
技だ。
だから、気持ちでは負けない。初めから諦めたりはしない。まだ
諦めるような時ではないのだ。
クレアは雫の真っ直ぐな目に、笑顔のまま顔を歪める。
怒っているようにも泣いているようにも見えるその表情は、彼女
が精神的に瀬戸際に追い詰められているのではないか、という疑い
を雫にもたらした。
呪いが本当にあるというのなら、彼女にとってどのような効果を
与えているのだろう。エリクにそれを聞きたいような、今聞いては
不味いような不安が雫の心中を占めている。振り返りたい気持ちを
抑えて、彼女はまたもう一歩前に出た。
﹁クレアさん、下りましょう﹂
﹁駄目よ。だって私、ここの子なんですもの﹂
﹁空気が悪いです。気分に影響しますから﹂
再三の誘いに、しかしクレアは首を縦に振らない。背後からはま
だダルスの罵り声が聞こえてきていた。
﹁ねぇ、あなたたちは昨日、ここには呪いがないって言ったわよね
?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁ならここにあるのは人の罪だわ。そうでしょう? 私たちの家の
女は、男の子が生まれたらこの塔の窓から投げ捨てていたんだから﹂
雫は思わず顔色と、言葉を失くす。
沈黙がゆっくりと波打つ中、クレアの軽い笑い声だけが塔の中に
響いていた。
181
まるで現実味のない悪夢のような数瞬。それを打ち破ったのは意
外にも落ち着いたダルスの声だった。
﹁僕の母が何か言ったのか? 君まで噂を真に受けてどうするんだ﹂
﹁噂じゃないわ。本当だもの﹂
クレアはそこで言葉を切ると振り返った。塔の窓から外を眺める。
﹁私にはね? 兄がいたのよ。私が生まれる三年前に身篭った母は、
この塔の中に引きこもった⋮⋮だから村のみんなは知っているの。
でもその子は産声だけを塔から響かせて、いなくなった。この窓か
ら投げ捨てられて、殺されてしまったのよ。ダルス、あなたは知ら
なかったの?﹂
可笑しそうに笑いながら、クレアは窓から下を覗き込む。
ダルスは、彼女の言うとおり知らなかったのだろう。雫が振り返
るとエリクの手を離れ、信じられないといった表情でクレアを見つ
めていた。
嘘か真実か、しかし衝撃の告白にエリクは少し眉をしかめて何か
を考えている。雫は恐れよりも困惑が勝って、もう一度クレアを振
り返った。
﹁ノイ家はね、自分で自分を呪っているのよ。呪いを恐れて塔の中
に逃げ込んで、男の子が生まれると、呪いを呼び込んでしまうから
って殺すの。その行為こそが呪いそのものなのだと、何故分からな
いのかしら⋮⋮。まったく度し難いわ﹂
クレアは言いながらも窓から身を乗り出す。左肩が外に出た。彼
彼女を苛んでいるのが呪いではなく、兄の死であり積
女は石の窓枠にもたれかかるように体を預ける。
︱︱︱︱
み重ねられた罪そのものであるのなら、どうやってそれを拭えばい
いのか。
気にするなと、彼女には関係ないと、いくつもの言葉が雫の中に
182
浮かんでは消える。どんな言葉なら今の彼女に届くのか。雫は道を
探して声もなく喘いだ。代わりにダルスの苦い声が洩れ聞こえる。
﹁だとしても君の罪じゃない。気に病んでも仕方ないだろう⋮⋮﹂
﹁仕方ない!?﹂
金属的な叫びと共に、クレアは塔の中に残る右手で石壁に爪を立
てた。爪は石壁の溝に引っかかって見る間に血が滲む。だが彼女は、
痛みをまるで感じていないかのようにそのまま壁をかきむしった。
全身で拒否を表しながら天に向って哄笑する。
﹁なら生まれてすぐ殺された子の無念はどうなるの? 最初に殺さ
れた女の呪詛は? 全てなかったことにして忘れてしまえばそれで
いいの? 誰も罪を背負わないと言うの!?﹂
異様な様子に誰も何も言うことが出来ない。
彼女は人間に背を向けて、塔の中から外へ向かって強く手を伸ば
していた。
﹁私は塔で生まれた子。生まれながら罪によって呪われた子なのよ。
罪が、私を見つめている。ここが私の世界で⋮⋮⋮⋮ここから何
処へも行くことは赦されない!﹂
クレアはまだ塔の中にあった右手をも窓の外に出そうと身を捩る。
石枠につかえた肩は加えられる力に限界を越えてよじれ︱︱︱︱
少しの間の後に関節のはずれる嫌な音がした。
ぶらさがった腕をそれでも彼女は窓へと押し込む。
両肩が歪み、腕が石枠にこすれて血が滲みながらもクレアはその
行為をやめようとはしなかった。
床を何度も蹴り、声を上げて笑いながらただ前へとのめっていく。
雫は理解を越えたいびつさに愕然とした。
不味い事態だということは分かるのだが、あまりの光景にただ彼
女から目が離せない。
奇妙にねじれながら窓の外に全身を出そうと足掻く女の姿は、塔
から逃げられないと言いながらもまるで、卵から外界へ孵ろうとす
る雛のようだった。
183
果たしてこれもまた呪いなのだろうか。
小さな窓から這い出そうとする女の凄絶な光景に、雫は束の間自
失する。
けれど彼女がそうしていたのは、本人が思っていたよりずっと短
い時間でしかなかった。雫はクレアに駆け寄ると、まだ塔の中にあ
る彼女の腰を掴む。
﹁駄目です⋮⋮っ! 落ちちゃうから!﹂
実際にこの窓から外に出ることが可能かどうかは分からない。け
れど雫はクレアの望むのとは逆に彼女の体を押さ込んだ。本当は塔
の中へと引っ張りたかったが、それをしては今以上に彼女の体を傷
つけてしまうようで躊躇われたのだ。
雫は必死でクレアの体を抱きしめながら、後ろの男二人に助けを
求めようと口を開きかける。しかしそれより早く、誰かが後ろから
彼女の襟首をつかんだ。
﹁雫、メアを使え﹂
彼女の名を呼ぶ声。
強い、澄んだ言葉。
雫はほんの刹那、全身を高揚が駆け巡るのを感じる。
胸が熱い。迷いを全て灼く程に。
真っ白になりかけた頭で、それでも彼女は最善を求めた。
メア、お願い⋮⋮⋮⋮窓を、壊して!﹂
肩の上にいる小鳥に向って叫ぶ。
﹁︱︱︱︱
力が、溢れ出す。
雫はクレアの背中へと飛びついた。しっかりと抱きしめ、そのま
ま誰かによって彼女ごと後ろに引っ張られる。目を閉じた顔に砂嵐
がぶつかり、小さな痛みがあちこちに生まれた。
声が出せない。何がどうなったかも分からない。ただクレアを抱
きしめる手だけに力を込める。けれど、ひどく長く感じられた時間
の後、﹁もういいよ﹂と耳元で囁かれた彼女が恐る恐る目を開ける
184
と⋮⋮⋮⋮
辺りは、外からの風が部屋に立ち込めていた空気を押し流し、日
の光が余すことなく小さな部屋全てを照らしている、そんな状態だ
ったのだ。
﹁君の命令が大雑把だということはよく分かった﹂
エリクはもはや部屋の様相を呈していない周囲を見回す。
雫は何の反論もできなかったので、とりあえず誤魔化そうと笑い
出した。﹁窓を壊して﹂と頼んだのは、クレアの体をこれ以上傷つ
その命令を十全に遂行した
けないようにだ。あの時は、咄嗟にそれ以上のことが思い浮かばな
かった。
そして使い魔であるメアは︱︱︱︱
のだ。
かくして窓は粉々に破壊され、ついでに壁と天井も半分ほど吹き
飛んだ。本当に物見台のようになってしまった見晴らしのよい塔に、
ダルスは腰をぬかしているくらいである。
雫はやらかしてしまった証拠である外の景色から目を逸らすと、
すぐ前に倒れこんでいたクレアを覗き込んだ。捻じ曲がった腕の痛
ましさに彼女は顔を曇らせる。
﹁メア、ええと⋮⋮治せるのかな?﹂
﹁無理。彼女は治癒を使えないみたいだ。僕がやるから魔力を貸し
て﹂
エリクは片膝をつくとクレアの上に手をかざす。彼の肩にメアが
飛び移った。けれど治療を始めようと詠唱が為されたその時、弾か
れたようにクレアは顔を上げると、エリクの手を振り払う。
﹁構わないで! それよりあなたたちは何てことを⋮⋮﹂
﹁確かに乱暴だとは思うけど、この塔は壊すべき塔だ﹂
﹁この塔がなければ皆が忘れてしまうのよ! 私たちの罪も、殺さ
れた人のこともみんな⋮⋮﹂
﹁でもこの塔があり続ければ、また罪が重ねられるかもしれない。
185
君は自分が何故この塔を守ろうと思うのか、その真の理由を考えて
はみないのか? 本当は君は誰よりも、塔から逃げ出したいと思っ
ているのに﹂
エリクはそれだけ言うと詠唱を再開した。
謎の疑問を投げかけられたクレアは、理解不能な言語を聞いたか
のように唇を震わせる。
彼女はそのまましばらく何かを堪えるように歯を食いしばってい
たが、血の滲む自分の爪に目を落とし、そして広がる空を見上げた。
眩しそうに細められた両眼にうっすら涙が滲む。
﹁私は⋮⋮けれど、兄は⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何だ何だ。急に塔が吹き飛んだが、どうかしたのか?﹂
新たなる声に、全員が入り口を振り返る。
開け放たれたままの扉。雫はそこに現れた男を見てあんぐりと口
を開けた。いつ塔に入ってきたのか、帯剣した長身の男は、腕組み
をしたままおもしろがっているような目で四人を見回す。特に彼は
雫を見つけて口笛を吹きたそうな顔になったが、何も言わずにクレ
アに視線を固定するとにやりと笑った。
﹁よう。初めましてか? 俺の妹﹂
﹁⋮⋮え?﹂
事態を把握しきれない何人かの声が重なる。
なかでも雫は、今すぐこの場からダッシュして逃げ出したい気分
に強く支配されていた。
暗茶色の髪に緑の瞳。鍛えられた体から隙の無い雰囲気をかもし
だしているこの男は、ある意味彼女がもっとも会いたくなかった男
︱︱︱︱
こともあろうにイルマスの町で雫に声を掛けてきた、ターキスと
名乗る傭兵だったのである。
186
上手く撒いたと思ったのにまさかこんなところで再会してしまう
とは思っても見なかった。
しかもあろうことか、男はクレアの兄だと自称しているのである。
雫は顔を引き攣らせてエリクを見たが、彼は既に治癒の魔法に専
念しているようでターキスにはまったく興味がないのか見てもいな
い。ターキスの方も雫を認識しているらしく、嫌な笑顔を一瞬見せ
たが、今はクレアに向き直っていた。
﹁妹って⋮⋮どういうこと?﹂
﹁そのままの意味しかないだろう。俺はお前の兄ってこと。近くま
で来たから顔だけでも見ようと思ったんだが﹂
少なくともエリクを除いた三人は、見知らぬ男の言うことに困惑
をあらわにしていた。特にクレアは目を大きく見開いて男の顔を凝
視している。ターキスは苦笑して手を振った。
﹁疑ってるだろう? でもほら、これがある﹂
彼は言いながら自分の首の後ろに両手を回した。つけていたペン
ダントをはずし、クレアに差し出す。それが何であるか雫には分か
らない。だが、クレアにとっては意味があるもののようだった。目
に見えて彼女の表情が変わる。
﹁これ⋮⋮本当に⋮⋮?﹂
﹁本当。俺が母から託されたものだ﹂
﹁⋮⋮殺されたんじゃ、なかったの?﹂
﹁違う。生まれてすぐ養子に出された。ノイ家にいるままでは呪い
で死んでしまうからってな。お袋もきっとお前に説明するつもりだ
ったんだろうが、その前にちょっとおかしくなっちまったようだ﹂
ここに来る前に会って来たけど話は半分も通じなかった、という
ターキスにクレアは表情を曇らせた。彼女に老齢の母親がいるとは
聞いていたが、色々状態は難しいのかもしれない。雫は部外者とし
ての沈黙を守る。
クレアは希望と苦渋が入り混じった複雑な目を、誰にともなくさ
まよわせた。
187
︱︱︱︱
もしターキスが本当に彼女の兄であるなら、彼女の苦
悩もまた薄らぐはずだろう。
呪いの象徴である兄の死はずっと彼女を苛んできたのだろうから。
けれど、彼女はまだすぐには飲み込めないようだった。目を伏せ
て視線を膝の上に落とすと小さくかぶりを振る。そしてその反応は
男の予想の範囲内だったらしい。ターキスは苦笑してクレアの傍ま
で歩み寄ると、彼女の頭に大きな手を置いた。
﹁俺は仕事があるし、ノイ家の人間じゃないってことになってるか
らこの村には残れない。だが、あんまり気に病むな。お前はお前で
好きに生きればいいんだ。鬱陶しい塔のことなんか放っておいてな﹂
男は顔を上げて、広がる空を仰ぐ。
クレアはしばらくためらっていたが、やがてゆっくりと視線を上
げ男にならった。
柔らかな風が吹いていく。
緑の香を孕む風は、百二十年に渡る暗闇を洗い流していくようだ
った。
﹁よし! 逃げましょう!﹂
﹁前向きな笑顔で言われると、ちょっと面白い﹂
﹁だから、あいつがストーカーなんですって!﹂
ターキスの登場によって、ひとまずの落ち着きを得た一同は、塔
を下りクレアの家へと移った。彼女の母はやはり年を取って記憶が
薄らいできているのか、受け答えもぼんやりとしたものだったが、
ターキスが手を取って支えてやると嬉しそうに微笑む。それを見た
クレアもまた彼を兄だと信じるつもりになったようだった。エリク
と雫に﹁取り乱してごめんなさい﹂と頭を下げた。
ただ彼女とダルスとの間には見ればまだわだかまりが残っている
らしい。それはこれから埋められるものなのかもしれないし、そう
188
ではないのかもしれなかった。
隙を見てエリクを廊下に引きずり出し、ターキスのことを説明し
た雫は、部屋の中を窺いながら声を潜める。
﹁きっと捕まったら貴族に売られて生皮剥がれますよ。逆さづりに
して油絞られますよ﹂
﹁君のその貴族観ってひょっとして僕のせい? だとしたらちょっ
と反省する﹂
﹁ともかく荷物取りに行きましょう。いつでも夜逃げできるように﹂
﹁まだ昼にもなってないよ﹂
馬鹿馬鹿しい会話ではあったが、結局二人はクレアたちには何も
言わずにオルヤの家へと戻った。おきっぱなしになっていた荷物を
取り、何があったか聞きたそうなオルヤに挨拶だけを述べると、馬
を預けた厩舎へと向う。
その途中、足早に村を横断しながら、雫は気になっていたことを
尋ねた。
﹁あの、呪いってそのままでいいんですか? クレアさんとかに言
わなくて⋮⋮﹂
﹁いいよ。大体君が塔を壊しちゃったしね﹂
﹁私ですか、あれ!?﹂
﹁何言ってんの。使い魔のやったことは主人のやったことだ。気に
なるなら命令の仕方を考えればいい。⋮⋮まぁもっとも今回は上手
くいったと思うけどね﹂
﹁あれで?﹂
﹁あれで﹂
エリクは首だけで塔を振り返る。最上階はここから見ても分かる
ほど崩れかけていた。彼は小さく笑う。
﹁呪いってのは殺されかけた魔法士の女性がかけたものじゃないよ。
いや、実際にはそうかもしれないけど伝えられているものとは違う。
あの塔の最上階はね、塔の構造そのものに魔法陣が含まれてたんだ﹂
﹁え。それってどういう⋮⋮﹂
189
﹁つまり建築段階で魔法がかけられてたってこと。怪しいとしたら
建てた職人か⋮⋮塔を建てさせた奥方がかぶれていたっていう宗教
かな。大して強い魔法じゃないから気づかれにくいが、徐々にあそ
こにいる人間の精神を蝕み、あの部屋に執着するよう呪縛する。特
に産前産後の女性なんかはもともと精神的に不安定だから、如実に
影響を受けてしまうだろうな。クレアが少しおかしかったのも多分
そのせいだ。もしかしたら彼女の母親もね﹂
呪いの真相を聞いた雫は呆気に取られた。
つまり、だからこそエリクは興奮したダルスに塔を登らせたくな
かったのだ。あの場所は、人を狂気に導く場所であったのだから。
雫は嘆息ともつかない溜息を吐き出す。
﹁うっわぁ⋮⋮。じゃあ殺された魔法士の女性って本当に何にも関
係なかったんですね﹂
﹁関係ないってことはないだろう。多分あの魔法陣の構築に関わっ
ていただろうしね。だから、自分が絶命するまで塔の外に居続けた
のは彼女なりの復讐なのかもしれない。呪いのかかった塔の内部こ
そ安全と思わせて⋮⋮彼らを狂わせてやろうという考えがあったと
かね﹂
まぁ僕の考えすぎかも、とエリクは言ったが、雫はぞっと背筋が
凍るのを抑え切れなかった。
呪詛を吐きながら塔の扉に爪を立てる女。そして、その女を最上
階の小窓から見下ろし、死ぬのを待っている女。二人の女のうちど
ちらがどれだけ相手の破滅を望み、狂っていたのか、陰惨な光景を
想像してしまったのだ。
彼女は脳裏に描き出された情景を、首を振って打ち消す。
﹁でも、だったらクレアさんにそう言えばよかったじゃないですか。
かなりぎりぎりでしたよ﹂
﹁あの彼女に﹃君は魔法のせいで少しずつ頭がおかしくなってます﹄
なんて言ったら火に油だ。だから当たり障りなく塔を壊させたかっ
たんだけど、結局君がやったしね。乱暴だけどあれでよかったと思
190
うよ﹂
彼はそう言うと荷物を肩に背負い直す。目指す厩舎はすぐそこに
見え始めていた。
二人は馬に乗って村を離れた。
街道まで戻ると城都に向って馬を進める。左手の森の向こうに塔
の先端が小さく見えた。
ここからでは最上階が崩れているところまでは見えない。だが、
少なくともクレアはあの塔から解放されるであろうことは確かだっ
た。
雫は開けた空を見上げていた彼女の顔を思い出す。
塔そのものが人の心を狂わせてきたのだとしたら、百二十年もの
長き間、本当に子を投げ捨ててしまった女もいたのかもしれない。
もしくはターキスのように、養子に出された子が他にいたかも分か
らないだろう。
けれど、ひとまず過去からの連鎖はここで終わりと相成ったのだ。
これからは死した人間の遺したものではなく、今生きる人間の作り
出すものが系譜を織り上げていく。
そう思えば、少しは救われる気もした。
雫は深く息を吸うと前を向きなおす。
たとえもう二度と彼らに会えなくとも、出来ればその行く末が穏
やかなものであるように、ただ願って。
191
禁じられた夢想 001
街道に出てからしばらく、雫は隣を行くエリクが急に顔をしかめ
たのに気づいた。
肩の上にいる小鳥が背後に向って小さく鳴く。振り返ると遥か向
こうから馬に乗った人影が一騎、近づいてくるのが見えた。
﹁え、あれ、まさか⋮⋮﹂
﹁そのまさかだと思う﹂
﹁に、逃げましょう!﹂
雫は慌てて手綱を引き絞る。しかしエリクは片手を挙げてそれを
留めた。
﹁危ないよ。君、馬で走ったことないだろう﹂
﹁だって⋮⋮﹂
﹁まぁ何とかなる、多分。生皮は剥がれないようにするから﹂
﹁そんな限定した状況についてだけ約束しないでください!﹂
﹁それが一番嫌なのかと思ってた﹂
﹁嫌は嫌だけど他にも色々嫌はあるんですって!﹂
くだらない言い争いを二人がしている間に、追って来る馬は誰が
ターキスを見やる。
操っているのか、その顔をはっきりと視認できる距離になっていた。
雫は蒼ざめてその男︱︱︱︱
ターキスは手綱を鳴らしてあっという間に二人を追い越すと、進
路を塞ぐように道の前を行きながら速度を緩めた。彼は雫に、人の
悪い笑顔で声をかける。
﹁挨拶もなしに出発するとはつれないな、雫﹂
﹁呼び捨てすんな! 鳥肌立つ!﹂
192
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
何とも言えない気分の悪さにそう叫んでしまった雫は、エリクの
呆れた視線に気づいて慌てて顔の前で手を振った。
﹁あ、エリクはいいんですよ。気持ち悪くないから﹂
﹁⋮⋮今のは俺に喧嘩売ってるととっていいのか?﹂
﹁君は時々豪胆を通り越して意味が分からない﹂
毒気を抜かれたようなターキスと、もう真顔に戻っているエリク
のそれぞれの感想に、雫は乾いた笑顔を作る。
あいにくと雫は、親しくも世話にもなっていない人間に下
こちらの世界では人の名を呼び捨てするのが普通なのかもしれな
いが、
の名前を呼び捨てされるという感覚には馴染んでいない。それもあ
る程度は気にしないように我慢できるが、正体不明のストーカーか
らはさすがに嫌だった。
エリクは、ターキスの全身を一瞥する。その視線は好意的とは到
底言い難い、温度のないものだった。
﹁折角妹が出来たのに、こっちに来てしまっていいのか?﹂
﹁妹が、出来た?﹂
聞き返したのは雫である。エリクの持って回った言い方に何か含
むものを感じ取ったのだ。
ターキスは片眉を上げて笑った。
﹁あまり長くいるとぼろが出るからな。それに折角お前たちを見つ
けたのに逃がす手はない﹂
﹁ボロって⋮⋮え、じゃあ﹂
﹁うん。この男はクレアの実の兄じゃないんだろう。顔立ちも似て
ないし、登場の間がよすぎる﹂
雫は唖然としてターキスを見つめた。彼がにやにやと笑っている
のはエリクの言葉が正しいからなのだろう。彼女は驚きから覚める
と、人を食ったような男の態度に、無性に苛立ちが沸き起こってく
193
クレアは表情こそ乏しかったが、確かに兄が生きてい
るのを感じる。
︱︱︱︱
たということで救われたに違いないのだ。
にもかかわらず、それは全てこの男の虚言だったというのか。喉
をせりあがる怒りが言葉になった。
﹁クレアを騙したの!?﹂
﹁嘘をついたのは確かだな。ただ一応言っとくが、あの女に兄がい
たのは本当だ。先日病で死んだだけでな。その男の依頼を受けて俺
は来た。⋮⋮それともあそこで、あの女を放って置いた方がよかっ
たか?﹂
白々とそう言う男の首にはもうペンダントはかかっていない。ク
レアに渡してきたのか、それとも本当の持ち主のところにいずれ返
すつもりなのか、雫には見当もつかなかった。ただ男の言葉に納得
する理性と、不愉快さを燻らせる感情が彼女の中で渦巻く。これで
もう少しこの男が神妙な態度だったのなら、こうまで腹は立たない
のに、と雫は心中で罵った。
けれどエリクの方は、そういったことをうんぬん言う気も最初か
らないらしい。ターキスを見やって﹁それで何の用?﹂と軽く尋ね
た。
﹁何って、察しはついてるんじゃないか? お前も雫から俺のこと
を聞いたんだろう?﹂
あれだけ率直に罵倒したにもかかわらず、この男は呼び捨てを貫
く気らしい。雫はこれ以上ないくらいターキスを睨んでやったが、
彼は顔の筋肉一つ動かさなかった。
会話は当事者である雫を置き去りにして続いていく。
﹁ファルサスに連れて行ってくれるって? 折角だけどそれを鵜呑
みにして喜ぶ程、世間知らずじゃないな﹂
﹁だが、こうしてちんたら旅をしていくより余程早い。まさか山越
えをしてカンデラに入っているとは思わなかったが⋮⋮。かえって
194
南のアンネリやナドラスには行かなくてよかったかもな。あの辺は
アンネリが滅ぼされた余波で今はきなくさくなってる。ナドラスに
キスクが介入して戦争になるかもしれんというところだ﹂
立て続けに国の名前を出されて雫は一瞬混乱したが、すぐにアン
ネリは本来行くはずだった戦争にて滅んだ国で、ナドラスはその隣
国、キスクはなにやらお近づきになりたくない王族がいる大国であ
るということを思い出した。頭の中に大陸地図を思い浮かべて確認
する。
一方エリクは不穏な情勢について聞いても、変わらぬ口調で言い
放った。
﹁ならそっちに行けばいいんじゃない? 傭兵には稼ぎ時だろう﹂
﹁勝ち負けが明らかな戦には関わらないことにしてるんだ。勝国に
つけば軽んじられるし、敗国につけば命が危ない。キスクが介入し
たとあっては小国には勝ち目がないからな﹂
﹁彼女に関わって君に何の利が?﹂
﹁まだ分からない。けど嗅覚が疼く。何かを為すのに二度とない機
会だという勘がするのさ。⋮⋮お前もそうじゃないのか? 魔法士﹂
話に置いていかれた雫は、対応に困ってエリクを見やり︱︱︱︱
そして呆然となった。
彼女の視界の中エリクは、今まで一度も見たことの無い、全てを
凍りつかせるような冷ややかな目を、ターキスに向けていたのだ。
﹁エリク⋮⋮?﹂
戸惑いが濃い雫の言葉は口の中で僅かに呟かれたのみで、呼ばれ
た当人には届いていないようだった。もっとも普段の、雫のことを
常に気遣ってくれているエリクであれば、気づいたのかもしれない。
けれど今の彼はただ、射竦めるような視線を目の前の男に向けて
いるだけで、纏う雰囲気さえ色を変えているように思えた。
﹁何かを為すだって? 人が一人で何が出来ると思っているんだ。
195
名でも上げたいだけなら彼女に関わるのは見当違いだ﹂
言われたターキスは片目を細める。そこには若干の失望が含まれ
ているようだった。
﹁随分冷めたことを言うやつだな⋮⋮。一人であってもやろうと思
えば色々出来るものだろう﹂
﹁そう思い込んでいるだけだ。自分一人で何かが出来ると信じ込ん
でいる時ほど人間は危うい方向に走り出す﹂
ばっさりと切り捨てる氷の如き声に、ターキスは不愉快そうな表
情を浮かべた。改めて会話についていけていない雫を一瞥する。
﹁どうだ? こんなつまらない男より俺と来た方が楽しいと思わな
いか?﹂
雫がその誘いを即座に拒絶できなかったのは、ターキスのさしの
べる手に魅力を感じたというより、彼女がただ驚いていたからに他
ならなかった。
彼女の知るエリクとは、学ぶことに貪欲で、意外と行動力があり、
人間に興味がないと言いながらも人を見捨てることはしない、翳り
の無い自分のスタイルを持っている人間だった。彼は彼女の意を汲
んで背中を押してくれる。その彼と、人の努力の限界を冷然に言い
放つ今の彼がどうしても結びつかないのだ。
答を口にしない雫にエリクは振り返る。
普段誠実を感じさせる藍色の瞳が、何故か苦渋に満ちている気が
っ﹂
して、雫は思わず口を開いた。
﹁︱︱︱︱
だが彼女の口からは、どうしても言葉が続かない。何を言えばい
いのか見つからない。ただ空を食むように唇をわななかせる雫に、
エリクはひどく冷めた⋮⋮諦観の漂う微笑を浮かべた。
﹁別にいいよ。君がこの男と﹂
﹁ああああ! ストップ!!﹂
今度はすんなりと声が出た。雫はそのことに安堵する。
代わりに半分裏返って、自分でもおかしく思う声になってしまっ
196
たが、そこは目をつむるべきところだろう。両手を前に押しとどめ
る彼女に向かって、エリクは目を丸くした。
﹁そういうのは言わないで下さい。悲しくなっちゃいますから。私
を見捨てないで下さい。そりゃ物知らずだし、甘いところあるし、
使い魔のこともよくわかってない問題児ですけど⋮⋮。最後まで付
き合ってください。お願いします﹂
雫は言い終わると深く頭を下げた。
本当に頼みたいことについては、態度からして分かるよう誠意を
尽くすべきだと、かつて祖母から聞いた事がある。そしてその教え
を彼女は今までずっと守ってきたのだ。
純朴とも言える雫の態度を、腰が低いと苦笑する友人もいたが、
だからといって間違っているとは彼女自身思っていなかった。
時間としては決して長い期間ではないだろうが、彼女は今までず
っとエリクに助けられてきたのだ。そもそもこの旅も彼の言葉がな
かったら始まらなかった。
その彼がたとえ今、少しの翳を見せていたとしても、理由の分か
らぬそれだけで別の人間と共に行こうとは思わない。雫にとってエ
リクとは既に代わりのきく人間ではないのである。
だから彼女は誠意を尽くす。どうか変わらず共に旅を続けてくれ
るようにと。
それはごく自然な、当たり前の行動だと彼女は思っていた。
下げたままの頭の上に、男の嘆息が聞こえる。
それは、彼女と旅路を共にする魔法士のものだった。
﹁ごめん。僕が悪かった。頭を上げて﹂
﹁エリク⋮⋮﹂
﹁どうも調子が狂ったみたいだ。気を使わせちゃったね。いつもと
逆だ﹂
﹁とんでもない! 私も私で頑張りますし、よかったら頼っちゃっ
197
てください﹂
﹁うん。ありがとう﹂
元通りの空気に雫はほっと微笑む。エリクもまた少し笑って⋮⋮
そして、真顔に戻るとターキスを見た。
﹁そういうわけだから。彼女は君とは行かない﹂
ターキスは顔を斜めにして人の悪い笑みを浮かべている。その腰
に長剣があることを意識して雫は緊張に唇を噛んだ。彼はおそらく
職業的に戦いなれている男なのだろう。自分に自信がある表情が小
憎らしいほどだ。
彼女は肩の上の小鳥を意識する。
雫一人であれば戦力外も甚だしい。むしろ足手まといだ。その上
エリクは戦うことは不得手な魔法士である。二対一など形だけのこ
とで、ターキスがその気になれば力で彼らに勝利することも充分可
能と思えた。
けれど彼女にはメアがいる。彼女の意のままに動く使い魔がいる
後から怖くな
のだ⋮⋮。その力の程はつい先ほど思い知った。半壊した塔の最上
階。散々な光景を見た時、雫ははじめ驚き︱︱︱︱
った。これ程の力が自分の意志で揮えるということ。それは武器を
持つことを拒否した彼女にとって、短剣以上の戦慄をもたらしたの
だ。
力の使いどころを誤ってはならない。ましてや人に対してこの力
を揮うことなどあってはならないことだ。たとえ得体の知れない、
何となく好きになれない男に対してもそれは例外ではない。頼るべ
きは争いを避ける頭であり言葉である。彼女は他人に道を譲らせる
為にメアの力を使うことはしたくなかった。
雫は腰が引けそうになる自分を、意志の力で奮い立たせながらタ
ーキスを睨み返す。何を言おうか、そう考えた時、しかし男は肩を
竦めた。
﹁分かった分かった。今は退こう。だが、気が変わったら声をかけ
198
るといい。適材適所とは言うが、いずれ俺のような力を必要とする
日が来るかもしれないからな﹂
ターキスは雫に向って軽く手を振ると手綱を鳴らす。彼を乗せた
馬はあっという間に速度を上げ、緩やかに曲がる街道の向こうに消
え去った。
雫は息を飲んで馬影を見送っていたが、それが完全に見えなくな
ると、ほっと安堵して隣にいる男を見る。
﹁よ、よかった﹂
﹁うん。けどまぁ行き先は同じだろうし、また会うかもね﹂
﹁二度と御免です!﹂
力強く力説するとエリクは苦笑した。その笑顔がいつもよりほろ
苦いものに見えるのは雫の気のせいなのだろう。
四歳年上の彼は、彼女とは違う世界、違う道のりを生きてきた。
本来交わるはずのない生を行く二人が、今ここで同じ道を歩んでい
ることこそが、奇跡のようなものなのかもしれない。
雫は少しだけ、あの黒い穴に感謝する。
エリクに出会えてよかったと、この時彼女は確かに思えているの
だから。
二人がカンデラの城都についたのは、それから十二日後のことだ
った。
いくつかの村を過ぎ、宿を取りながら着いた都は雫が今まで見た
どの町よりも大きく、活気に溢れている。洗練された高い建物と様
々な服装の人の波。商人たちの掛け声や微かな音楽の音など空に響
き渡る喧騒は都の規模を惜しむことなく伝えてきた。遥か向こうに
見える灰色の城に、雫は意味もなく両手を上げて驚きを示す。それ
は昔絵本で見たような、本当のお城だった。
そのまま固まっている彼女に当然ながらエリクは真顔で問うてく
199
る。
﹁何やってるの﹂
﹁感動を形に﹂
﹁君の世界にはそういう慣習があったんだ﹂
﹁あったかもしれないけど、多分ないです﹂
﹁つまり君が変なのか﹂
﹁だから物は言い様ですって!﹂
定番になりつつある掛け合いを済ますと、二人は馬を預け、宿を
選ぶ。
ここから城都を出て更に北西へと街道を移動するか、もしくは城
都の転移陣を使うかを決めねばならない。転移陣を使えれば早いが、
近くの国で戦争があったばかりで情勢は不安定であり、それでなく
とも城都から他国への移動は審査が厳しい。ならば引き続き北西へ
街道を進むという手もあるが、エリクによるとこの先は少し治安が
悪くなるのだという。
その為彼らはとりあえず城都の様子を窺いながら、審査に通れそ
うかどうかを探ることにしたのだ。
﹁漢字って面白いね﹂
二つの世界の単語を対応させる辞書を作っている現在、エリクは
単語の成り立ちに興味を持っているらしい。ドイツ語と英語の類似
点や、接頭・接尾辞・語源などを含む単語の構成、そして漢字の意
味を雫に尋ねては辞書とは別にメモを取っている。
今、彼は雫に頼んでさんずいの漢字をノートに並べてもらい、感
心の声を上げているところだった。
﹁へぇ。﹃注﹄は注ぐから、水系の漢字なのか。これって表意文字
なの?﹂
﹁その辺はよく分かりませんが、一概に表意文字とは言えないみた
いです。音だけを重視した当て字とかも結構ありますし﹂
﹁なるほどね。でも一つの目安にはなるわけか﹂
200
彼はペンの背でこめかみを押しながら漢字を眺める。その中の一
つを指して雫は笑った。
﹁これ、私の姉の名前です。﹃海﹄﹂
﹁ああ。お姉さんがいるんだっけね。共通性のある名前をつけてる
のか﹂
﹁うちは苗字⋮⋮家名も﹃水瀬﹄で水系ですから。妹は﹃澪﹄で水
路って意味です﹂
﹁雫は?﹂
突然名前を呼ばれて彼女は一瞬ぎょっとしたが、漢字のことを聞
かれているのだと気づき苦笑する。エリクは普段彼女を名前で呼ぶ
ことがほとんどないので、何だか動揺してしまったのだ。
雫は二つの漢字を手元の紙に記し、それを彼の方に押しやった。
片方をシャープペンでつつく。
﹁単語自体は﹃滴﹄とも書きますが、私の名前はこっち。﹃雫﹄で
す﹂
﹁さんずいじゃないんだ﹂
﹁雨の下って書くんですよ﹂
実はこれは、雫が自分の名前の漢字を覚えたての頃、密かに気に
していたことでもあったのだ。姉と妹はさんずいのつく漢字なのに
自分にはそれがない。何故両親は﹃滴﹄の方にしてくれなかったの
だと思ったほどである。
けれど今となってはこの字でよかったと思うし、自分の名前を気
に入っている。ただ姉や妹とつい比較してしまう時、何となく自分
の色々なことについて、気持ちがぼやけてしまうことがあるだけだ。
エリクは二つの漢字を見比べると﹃雫﹄の字を見て頷く。
え﹂
﹁うん。いいね。綺麗だね﹂
﹁︱︱︱︱
雫は思わず固まった。
名前の字のことを言われているのだと、分かっていてもさらりと
した誉め言葉に、心が浮くような気恥ずかしさを感じたのだ。動揺
201
を表したくないという意思に反して、熱を帯びる頬を押さえると彼
女はうつむく。
﹁そんなこと言われたことないから驚きますよ﹂
﹁そうかな? 普通の感想だと思うけど﹂
﹁普通の基準が違うんです﹂
﹁なるほど﹂
雫はそういうことにして気を取り直すと、頬を軽く叩き文字を並
べる作業へと戻る。少し照れの残る彼女の顔をエリクはじっと見つ
めていたが、やがて我に返ったかのようにかぶりを振ると彼も作業
に手を出し始めた。
それはカンデラの城都について一日目の、夕方のことである。
﹁とにかく人手が足りぬ。優秀な魔法士が必要だ﹂
重々しい言葉はしかし、よく注意して聞けば焦りが混じっている
ことに気づく者もいただろう。革張りの椅子に座る男は、周囲に跪
く臣下たちを見回す。
﹁アンネリを攻め落としたロズサークが、諸国に攻められるだけな
らば自業自得だが、あの国はこの辺りの武器の製造を一手に背負っ
ておる。万が一キスクが介入して、ロズサークを支配下に入れでも
したら大国東部の勢力図は一変するであろう。その前に我が国も自
衛の手段を手に入れればならぬ﹂
一つ一つ言い聞かせるような言は、この場にいる全ての人間たち
に共通の認識を持たせる為のものである。部屋には神妙な空気が漂
い、何人かが頷く気配がした。
﹁ことは魔法士長イドスに一任してある。速やかに準備にあたれ。
⋮⋮ないとは思うが、ファルサスには知られぬよう気をつけよ﹂
場を支配する主は、おもむろに立ち上がると踵を返す。頭を垂れ
る者たち見回し部屋を出て行った。残された人間たちは扉が閉まる
202
音がしてもしばらくはそのままの姿勢で動かない。
そのことをずっと知らぬま
そしてだからこそ彼らは、隣にいる人間がどんな表情をして主が
立ち去るのを待っていたのか︱︱︱︱
までいたのだ。
カンデラの建国は二百二十年前、かつての大国メンサンの属国で
あったデラスを母体として為された。
当時デラスを治めていた王は、過保護な母親の影響下から抜け出
すことが出来ず、また母と大貴族たちとの板ばさみにあい次第に心
を病んでいったとカンデラ史には記録されている。その王の精神の
傾斜が側近たちの度重なる処刑という形で現れ始めてからしばらく、
ある時爵位を持たない下級貴族から一人の男が現れた。
彼は先々代王の庶子の血を引いていると主張し、王に見切りをつ
けはじめていた貴族たちの支持を得て、また平民からも未来の改革
を約束することによってまたたくまに人気を獲得した。人懐こい容
ついにデラスを落としカンデラを建国するに至った
姿と巧みな弁舌を持っていたとされる男はそれから三年を経て兵を
挙げ︱︱︱︱
のだ。
彼の血は現在まで脈々と受け継がれ、第七代カンデラ王オーラウ
もまたその一人である。
今年六十三歳を迎えたオーラウは、少々頑なで偏狭なところがあ
るものの、大きな事件もなく三十年間カンデラを治めてきた。
人々が平穏に慣れきった時代。
何ら問題もなく見えるこの国はしかし、二百二十年の時を経て、
今ゆっくりと変化を迎えつつあった。
﹁本当にお城なんですね。感動感動﹂
203
﹁君の世界にはなかったの? ってことはないか。城って単語があ
るんだから﹂
﹁あるんですけどね。私の国はもっとこう日本ーって感じの城で。
屋根に金色の魚乗ってたりしたんですよ﹂
﹁何で魚﹂
﹁さぁ? 可愛いからじゃないですか﹂
適当なことを言って雫はもう一度城を見上げた。カンデラに着い
て二日目の昼、二人は雫の﹁お城を近くで見てみたい﹂という要望
のもと、城門付近まで散歩に来ていたのだ。
さすがに城門には見張りの兵士が常時立っているし、門は閉じら
れていて中には入れない。
それでも間近で見る城は、雫の感嘆を引き出すに充分なものだっ
た。
この大陸の文化はみな中世西洋に似ているのかと思っていたが、
あながちそうとも言えないらしい。カンデラの城の屋根は、一つを
除いていずれも尖っているのではなく半球状で、そのほとんどがガ
ラス張りになっているようだった。
その為遠くから見ると﹁お城﹂のシルエットに見えるのだが、近
くで見るとむしろ現代建築を思わせる。ただ雫の知るビル群と違う
のは、この建物は主に石を使って作られているらしいというところ
であろう。
時代の蓄積を感じさせる壁と現代的な形に、おそらくこの大陸で
写
ただ一人ちぐはぐさを感じるのであろう雫は、ここのところ存在さ
え忘れかけていた自分の携帯電話を思い出す。そして︱︱︱︱
真を撮りたいと、また少しだけ思った。
実際に撮ろうと思ったわけではない。それには宿までバッグを取
りに戻らねばならないし、何よりこんなところで携帯をかざしてい
ては不審人物扱いされるに違いないのだ。現に今でも先ほどから城
門の兵士がちらちらと二人の方を窺っている。
204
ぼうっと城を見上げていた雫はふと思いついて腰につけた皮のポ
ーチからメモ帳を取り出した。数歩下がって城門から距離を取ると、
彼女はシャープペンでざっと城の外観をスケッチし始める。
エリクが後から無言で近寄ってきてそれを覗き込んだ。
﹁君って実は結構、絵が得意?﹂
﹁得意って程でもないですが。簡単な模写とか、こういう実物を写
すだけなら比較的さっと出来ますね﹂
﹁凄いな。よく形を捉えてる﹂
﹁旅の記念になるかと思って。裸の大将ですね﹂
﹁裸?﹂
そこは詳しく説明するのが面倒なところだったので、雫はスケッ
チに集中した。やがて十分後、ちょっとした城のラフスケッチが出
来上がる。雫はそれを興味津々といったエリクに手渡した。自分は
両腕を上げて伸びをする。
絵をまじまじと見つめた彼は感心したように口を開いた。
﹁面白い。構成図を描いてもらいたいくらいだな﹂
﹁構成図? 魔法のですか﹂
﹁うん。魔法士じゃない学者とかに、どういう魔法なのか仕組みを
見せて説明したりするのに描き出すんだよ。僕は凄く苦手だけど。
描いてもまったく意味が分からないってよく言われてたよ﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
何と言ったらいいのだろう。雫は曖昧な苦笑を浮かべて固まる。
人間どこに得手不得手があるか分からない。
彼女自身胸を張って特技と言えるのは方向感覚のよさくらいで、
絵についてなどは他にいくらでも上手い人間がいることを知ってい
た。その辺りは姉妹の影に隠れがちな彼女の性格ゆえか違うのか、
どれくらいのレベルから特技と言っていいのかどうか分からないの
だ。たまに﹁上手いね﹂と言われることがあっても、つい煮え切ら
ない愛想の言葉を述べてしまう。
逆に不得意なことは割合はっきりしていて、まず思い浮かぶのは
205
長距離走と球技が苦手ということだろうか。これのおかげで雫の小
中高時代の体育の時間は、散々な思い出ばかりが残っている。大学
に入って体育がなくなるのではないかと期待していたところ、ちゃ
んとテニスとバレーをやらされ恥を晒したことは言うまでも無い。
他にも蜘蛛や爬虫類が苦手など色々あるのだが、細かいことを上
げていったらきりがない状態だ。
雫は整った顔立ちのエリクを見上げる。
苦手なことなどあまりなさそうに見えるのだが、それは彼の飄々
とした性格から彼女が抱いた勝手なイメージに過ぎないのだろう。
何だかいつになく彼が身近に感じられて雫は自然と微笑を浮かべる。
その時鉄の軋む音がして、二人は振り返った。
見ると城門がゆっくりと中から開かれつつある。
そこから数人の兵士と役人らしき人間が出てきて頷きあうと、彼
らは思い思いの方角へと散っていった。その内の一人が二人を見つ
けて近づいてくる。
雫は真っ直ぐ向ってくる兵士が自分たちを見ていると気づき、蒼
ざめた。
﹁に、逃げますか﹂
﹁何で。何もしてないよ﹂
﹁だってこっち来ますよ! 生皮剥がれて⋮⋮﹂
﹁それはもういいから﹂
ちっともよくない、と心の中で反論している内に、既に兵士は逃
げても間に合わなそうな距離にまで近づいてきていた。眉の太い、
いかにも怖そうな顔立ちの男は、緊張している雫には目もくれずエ
リクの前で足を止める。
﹁お前、魔法士だな?﹂
﹁一応は﹂
﹁ならこれを持て。城からの知らせがある﹂
男は尊大にそう言って手に持っていた数十枚の紙のうち、一枚を
エリクに押し付けるとさっさと立ち去っていく。あっさりとしたそ
206
の態度に雫は拍子抜けして、小さくなる兵士の姿を呆然と見送った。
けれど隣から連れの男の声が聞こえてハッと我に返る。
﹁何だ。変わった知らせだな﹂
﹁何て書いてあるんですか?﹂
﹁城での短期の仕事に携わる魔法士を募集しているらしい。構成力
が必要だからそれで審査をして⋮⋮数日間の仕事の後に褒美をくれ
るらしいよ﹂
﹁へー。バイト募集ですか。お城もそういうことするんですね﹂
事の次第が分かった彼女は緊張を解いて感想を述べた。
どうも彼女にはよく分からないのだが、エリクの格好は誰から見
ても﹁魔法士﹂と分かるものらしい。別にずるずるのローブを着て
いるわけでもマントを羽織っているわけでもないのだが、どうして
なのだろう。
ちょっと聞いてみようかとも思ったのだが、この時は彼が﹁これ、
使えるかもな﹂と言い出したので、結局雫は自分の疑問を脇に置く
ことになった。彼女は首を左右に傾けて男の言葉を繰り返す。
﹁使えるって何にですか?﹂
転移陣の使用許可が取
﹁褒美は金品に限らないらしい。カンデラ国内での優遇も含まれる
みたいだ。 だから上手くすれば︱︱︱︱
れるかもしれない﹂
そう言うとエリクは、目を丸くした彼女に向かって悪戯っぽく肩
を竦めて見せた。
﹁え、それはチャンスかもしれませんけど⋮⋮だ、大丈夫なんです
か?﹂
言葉に迷いながら雫が聞いたのは、エリク本人が常々﹁自分は魔
法士としては力が足りない﹂と口にしていた為である。そんな彼が、
城で募集するような魔法士の審査に受かることができるのかどうか、
彼女は当然の疑問を抱いたのだ。
相手によっては失礼とも取られかねないその不安に、エリクは苦
207
笑して返す。彼は紙の一点を彼女に向けて指し示した。
﹁ここ⋮⋮ああ、君はまだ読めないか。ここに書いてあることを読
むとね、どうやら今回重視されているのは構成力らしい。それなら
僕にも何とかなるんじゃないかな。魔族と戦えって言われたら諦め
るけど﹂
﹁なるほど!﹂
構成というものが魔法においてどういう役割を果たしているのか、
雫は直接説明されたことはなかったが、どうやら魔力をどう組み立
てて魔法を実行させるかを決める、仕組み部分に当たるらしい。雰
囲気から言ってコンピュータのプログラムのようなものではないか
と感じていたが、それなら学者肌であるエリクも決して不得意では
ないということなのだろう。現にこの間も難しい魔法具の修理など
をこなしていたところを見ると、それなりに出来る方なのかもしれ
ない。
納得した雫にエリクは腕組みをして空を見上げる。
﹁本当はこういうの苦手で今まで敬遠してたんだけど﹂
﹁駄目じゃないですか!﹂
﹁いや、構成は苦手じゃなくて。構成図を描くのが苦手なんだ。で
も今は⋮⋮﹂
彼は視線を空から戻すと雫を見て微苦笑する。その意図するとこ
ろを悟って彼女はぽかんと口を開けてしまった。
﹁あ、ひょっとして⋮⋮私?﹂
﹁そう。君が描いてくれればいい﹂
思わぬ役目を振られた雫は黒く大きな目を猫のように瞠る。
驚きがもたらす空白。
けれどそれは、自分でも不思議なほどに期待に似た何かが湧き出
してくる、心地よい瞬間だった。
208
002
反射的に角に隠れてしまったのは、自分の苗字が話の中に出てき
ていたからだ。恐らくかなりの挙動不審で、隠れている側の廊下に
人がいたらぎょっと引かれてしまっていただろう。
けれど幸い他には人がいない。彼女は息を殺してその場に留まっ
た。死角になる角の向こうから聞き覚えのある男子のさざめく声が
響く。
﹁水瀬? どっちの水瀬?﹂
﹁姉の方だろ、普通。クラスメートなんだから﹂
﹁って言われてもなぁ。妹のがインパクトあるじゃん﹂
﹁水瀬妹きっついもんな。顔は可愛いんだけど﹂
﹁この前三年をやりこめてたぜ。怖ええの何のって﹂
﹁兄貴が言うには水瀬の一番上の姉さんは天然系の美人らしいよ﹂
﹁何だ。じゃあ真ん中が一番ぱっとしないんだな﹂
聞き慣れた会話。
それでも慣れきらない鈍痛。
俯いた彼女は唇をわななかせると︱︱︱︱
﹁勝手なことばっかり言ってんなっての!!﹂
叫びながら顔を上げた雫は、呆気に取られている男と至近で目が
合い硬直した。
日本人にはない藍の瞳、金色がかった茶色の髪。中性的な顔立ち
が、今は驚いている為かいつもより若く見える。
おそらくは転寝をしている彼女を覗き込んでいたのであろう男︱
209
︱︱︱
エリクは一歩退くと神妙な顔で頷いた。
﹁勝手なことを言っているかもしれない。すまない﹂
﹁ち、ちがっ! 夢です、夢! 昔の夢を見てたんですよ!﹂
﹁ああ、なるほど。誰かに勝手なことばかり言われたことがあるの
か﹂
﹁正解﹂
変な起き方をしたせいか眠気はすっかり覚めている。雫は乱れた
前髪をかきあげて、眠気の残滓を振り払った。周囲を見回して、そ
こがカンデラ城都にとった宿屋の部屋であることを確認する。彼女
は一息つきながら左だけ肩を竦めた。
﹁私は姉も妹も目立つ人間ですんで。比較してよく好き勝手言われ
ました﹂
﹁へぇ。それに食ってかかってたわけか﹂
﹁かかってません。きりがないですし、放置してましたよ﹂
﹁夢に見るくらい悔しかったのなら、言えばよかったのに﹂
清々しいくらいあっさりとした切り返しだ。雫はつい眉を寄せて
言い返すかどうかは別として悔
言葉に詰まってしまった。エリクの言うことは他人事のきらいはあ
るが、真実と言えば真実である。
しかったのは本当なのだ。
けれどかつての雫は沈黙することを選んだ。親しくもない人間の
前に直接出て行ってまで、文句を言おうとはしなかった。そんなこ
とをして何かが変わるとも思えなかったし、何より彼女以外の他の
人間から見たら、あれもまた本当のことだと思っていたからだ。
雫はふてくされた顔で頬杖をつく。
あの時よりは今の方が遥かに、他人の前で素直に感情を出せてい
るという自覚はあったが、異世界にいるという訳の分からぬ非常事
態であるからかもしれない。彼女の対面に座ったエリクは、机の上
に散乱した紙を整理しながら呟いた。
﹁大体、君より目立つってどんな人間なの。想像つかないな﹂
210
﹁私に対して誤解がありませんか? こんな地味な人間なのに﹂
﹁地味? どこが?﹂
この世界では自分が変わった顔立ち
雫としてはきわめて正直に言ったにもかかわらず、不思議そうに
聞き返されてしまった。
彼女は答に困って︱︱︱︱
をしていることを思い出す。空いている方の手で自分の顔を指差し
た。
﹁顔とか。姉とか妹と違って美人でも可愛くもないし。中身も突出
したところがなく普通です。平凡のきわみですよ﹂
﹁そうなのか。僕は人の顔の美醜がよく分からないからな﹂
﹁わぁ﹂
突き抜けたことを言われてしまった。雫は頬杖から顔が半分ずり
落ちかけて、慌てて直す
はたして人間に興味がないとここまでいってしまうものなのだろ
うか。
この世界の美醜の感覚自体が、雫のものと異なっているわけでは
ないらしいということは、これまでの旅の中で大体分かっている。
けれど言われてみれば、エリクは美人でもそうでなくても態度には
まったく変わりがない。本当に相手が見えているのかと疑ってしま
うくらいだ。
自身はかなり整った顔立ちをしている男は、空中に視線をさまよ
わせる。
﹁そりゃ目鼻の均整がどうなっているかとかは分かるけど、そこま
でだな。むしろ人の顔って人間の性格が滲み出てると思わない? そっちの方が気になる﹂
﹁確かにそういう人もいますけど⋮⋮美人なのに性格悪い! って
女性とかいません?﹂
﹁だから、性格が透けて見えて美人に見えない﹂
﹁あー﹂
分かるような分からないような感覚だ。むしろ二十二歳にしては
211
達観しすぎている気もする。
雫は彼と出会ったワノープの町で、世話になったシセアが彼のこ
とを﹁そっけなくて娘たちに人気が出ない﹂と評していたことを思
それは場
い出した。どんなに髪を弄り化粧をして外見を装ったとしても、彼
が見ているものは皮膚の上のものではなく中身なのだ。
合によっては確かにそっけなくとられるのかもしれない。飾り甲斐
がないにも程があるだろう。
そこまでぼんやり考えて⋮⋮ふと顔を上げた雫は、エリクが自分
をじっと見ていることに気づいた。思わず逃げたくなって腰を浮か
しかける。
﹁な、なんですか﹂
﹁別に。人形みたいに小さな顔をしているな、と思って﹂
﹁博多人形!?﹂
﹁何それ﹂
何と聞かれても説明しようがない。雫は椅子に座りなおすと、冷
め切ってしまったお茶のカップを手に取った。
エリクは居心地の悪いことに、まだ彼女を見つめている。何だか
冷めたお茶の味が余計わからなくなるような落ち着かなさだ。雫は
つい視線をそらす。
結局話はそれきりになったのだった。
彼は最後に﹁君は自分が思っているより普通じゃないよ﹂と反応
に困ることを言って︱︱︱︱
﹁魔法士を集めているだと?﹂
女は放り投げられた紙くずを手元で開くと、紅い唇を曲げた。美
しい容姿が禍々しく翳を帯びる。魔法着からはみ出た白い足が乱暴
に組まれるのを見て、紙くずを投げた老人は鼻で笑った。
﹁城も何を考えているやら。亡国の二の舞でもしようというのであ
ろう。そのようなことをしても、長い時間をかけて傾いた柱は戻ら
212
ないというのにな﹂
老人の含んだような物言いは無知を嘲笑っているようにも聞こえ
る。陰謀を当然のものとして身に纏う気配がそこには漂っていた。
女は赤みを帯びた茶色の目を細める。
﹁構成に重きを置いているということは、大勢で大規模構成を組ま
せるつもりなのかもしれんな﹂
﹁つまり﹃あの構成﹄を動かそうということか﹂
静寂がいっとき、空間を満たした。
どろりとした思考が床に染みこんでいくような間。
その忌まわしさを照らすことに、何の抵抗もない気軽さで女が指
を弾くと、紙は赤い炎を上げて燃え始める。フードの中に顔を包み
込んだ老人は、しわがれた声を上げて笑った。
﹁いずれにせよ、こちらにとっても好機だ。潜ませておいたあれを
使う﹂
﹁分かった﹂
短い返事と共に女は立ち上がる。隠された部屋を出て行く彼女の
顔には、善悪に拘泥せずただ何もかもを愉しむような笑みが浮かん
でいた。
構成図は雫が描く。
それは既に二人の間で合意をみたところであったが、まず構成自
体を考えるのに時間がかかるらしい。幸い期限までにはまだあと一
週間以上あるということで、エリクが構成を練る間、雫は辞書を作
ったりレポートの為の文献に目を通したりしていた。
既にこの世界にきてから二ヶ月以上が経っている。もし元の世界
と時間の流れが同じだとしたら夏休みはとうに終わっているだろう。
にもかかわらず、まだレポートに手をつけようとするのは、それが
携帯などよりこの世界で違和感を覚えない、それでいて元の世界に
213
所属するものだからなのかもしれない。
要点をルーズリーフに書き出しながら勉強していた雫は、部屋に
入ってきたエリクに気づいて顔を上げる。構成が決まったのかとも
思ったがそうではないらしい。彼は無言で軽く手を上げ挨拶すると、
自分の分と雫の分、お茶を淹れ始めた。
﹁お疲れですか?﹂
﹁行き詰ったから。ちょっと気分転換﹂
﹁眉間に皺がよってますね﹂
言われてエリクは苦笑し表情を崩した。今まで気分転換というわ
りには、何かを考え込んでいるような顔つきをしていたのだ。
彼は、適当に淹れた為か若干色の薄いお茶を二つのカップに注ぐ
と、片方を雫に向って差し出した。彼女は礼を言ってそれを受け取
る。
二人はしばらくそれぞれお茶の味を楽しんだ。温かい飲み物とは
それだけで心身の緊張をほぐしてくれる気がする。エリクは、雫が
書き込みを加えている本とルーズリーフを興味深そうに眺めた。
﹁今、何をやってるの?﹂
﹁二千年以上前のテキストについてレポートを。⋮⋮ここは、文字
批判のくだりですね﹂
﹁文字批判﹂
その言葉は文字を専門とするエリクの好奇心を煽ったらしい。目
で続きを促してくる男に雫は苦笑した。
﹁ここでは要約すると文字についてこう批判されてます。︱︱︱︱
文字を勉強すると、人は書かれたものに頼って忘れっぽくなって
しまう。それは、自分の中の記憶を思い出そうとしないで、外の書
かれたものに触れて思い出そうとするからなんだそうです﹂
雫はルーズリーフの上をペン先で叩いた。
﹁書かれた言葉は、読む人にいつでも同じものしか返さないし、誤
読された時は書き手の助けが必要になる。だから書かれた言葉って
214
いうのは、人が語る、魂を持った言葉の影にしかすぎない、という
話です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど。一理ある﹂
エリクの機嫌を損ねてしまうのではないかと少しだけ雫は思って
いたのだが、彼は感心したように頷いただけだった。彼は雫の開い
ている文庫本を指差す。
﹁で、その言葉は本によって今まで残されたと﹂
﹁です﹂
二人は視線を合わせて苦笑する。文字を批判する内容が、文字に
よって伝えられたという部分に皮肉を感じ取ったのだ。
けれどそんなことは、二千年以上前に批判を書いた当人も分かっ
ていたことに違いない。エリクはお茶のカップを置いた。
﹁言葉というのはつまり、よくも悪くも認識者である人の思惟を表
す道具に過ぎないということだね。個人の記憶については仰る通り
だとも思うけど、大きな目で見ればその本の言う﹃語る言葉﹄も﹃
だから、道具に依存しすぎ
書かれた言葉﹄も使いようとしか言いようがない。口伝で知識を伝
えるには限界があるからね。︱︱︱︱
ず自らの研鑽を怠るなという意味も、それは含んでいるんじゃない
かな﹂
﹁道具⋮⋮ですか﹂
﹁うん。文字については、いつでも同じものしか返さないというこ
とが、有用に働くこともある。その代わり語る言葉より永く広く、
そして変わらず残る。語り言葉は大体その逆かな。でもね、誤解さ
れる可能性っていったら語り言葉もそうだし⋮⋮言葉っていうのは
本来不自由なものなんだ﹂
エリクの言うことは難しくて頭がこんがらがる。
それでも雫は折角彼がつきあってくれているのだからと、授業に
臨むような気分で、メモを取りながら返した。
﹁不自由なんですか? 便利じゃないですか﹂
215
﹁便利だよ。でも限界はある。それを忘れちゃいけない﹂
彼はそう言うと、机の上にあった消しゴムを手に取った。白く小
さな消しゴムはまだ使い始めたばかりである。エリクはそれを摘ん
で雫に見せる。
﹁これ、何色?﹂
﹁白です﹂
﹁うん、僕も白に見える。でもこれって、本当に同じ色に見えてる
ってことなのかな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どういうことですか?﹂
さすがについていけない雫が眉を寄せてしまうと、エリクは可笑
しそうに笑った。笑いながらもしかし、彼は丁寧に説明してくれる。
﹁つまり、仮にだけど僕の目にこれは﹃赤﹄に見えるとしよう。け
れど僕は﹃赤﹄を﹃白﹄という言葉で表現するものと思っている。
この場合君の目には、この小さいのは﹃白﹄、僕の目には﹃赤﹄に
見えるけれど、言葉にされたものは二人とも同じ﹃白﹄だ﹂
例を上げられた雫は、一拍置いてぽんと手を打った。もやもやと
した疑問に答が出る。
﹁あああー、なるほど! 言葉の意味が、それぞれの人で食い違っ
てる可能性があるってことですか﹂
﹁そう。でも僕たちは相手の心の中を直接覗き込むことができない
食い違い
以上、食い違ってるかどうか確かめたくても言葉を使うしかない。
そして言葉を使って確かめようとしている限り︱︱︱︱
の存在は完全には否定できないんだよ。語るにせよ書くにせよ、言
葉が他人に少しの齟齬もなく完全に伝わるってことは、だからあり
えないんだ﹂
少しのほろ苦さと冷徹さを絡み合わせた彼の意見。
例えば誰かから﹁愛しい﹂と言われても、相手の﹁愛
雫はその内容を理解して⋮⋮瞬間途方もなさに愕然とした。
︱︱︱︱
しい﹂が自分の﹁愛しい﹂と同じとは限らない。
216
ならば﹁愛しい﹂とは何なのか。
無数の言葉を尽くして相手の気持ちを知ろうとしても、尽くす言
葉のそこかしこに食い違いがあれば、二人の抱く意味はいつまで経
っても同じ場所にはたどり着けない。
まるで無限の迷路をさまようような孤独。
人が人である以上逃れられない限界。
それを知った彼女は今⋮⋮⋮⋮とても、不安になった。
この世界に来てもっとも安堵したのは、言葉が通じるということ
だ。けれどそれは、通じていると安心していて本当によかったのだ
ろうか。同じ言語を繰っていても食い違いが否定できない以上、世
界が違う彼らとの間に食い違いがないはずがない。
雫は何だか久しぶりに、自分が異邦人である心細さを思い出して
肩を落とした。エリクはその様子に気づいて、表情は変わらないな
らがも幾分慌てたように片手を振る。
﹁極論を言えば、という話だよ。世の中には完全に否定でき得るも
のってそう多くはないし、何にでも限界はある。実際には、名詞と
かの平易な言葉は意図通り通じていると思っていいだろう﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁だから、言葉という道具を使う時には、そのことを知っていなけ
ればならないってだけだよ。限界を知っていればこそ、言葉は強力
に働くんだ﹂
エリクはそう結ぶと、雫の少しほっとしたような微笑を見て自分
も安心したらしい。
﹁じゃ、僕はもうちょっと作業してくる﹂と席を立つ。
休憩に来たのか議論に来たのか分からないが、彼としては満足そ
うな顔をしていたから気分転換にはなったのだろう。
雫は彼が残していった空のカップを見やり、言葉にならない思い
を巡らす。それは彼女の他に誰も触れることのできない、彼女だけ
の世界なのだ。
217
雫は自分の手元にある二本のペンを見やる。
一本はシャープペン、もう一本はボールペンだ。それらを自分で
紐を使って縛り、繋いだものを彼女はじっと眺めた。
﹁あの、コンパスってないですか﹂
﹁コンパス?﹂
問われたエリクも、手元の紙になにやら絵だか図だか分からない
ものを描いているのだが、よく言ってそれは前衛芸術、実際は幼稚
園児の落書きである。見ないようにしていたその落書きをつい直視
してしまい、雫は凍りついた。
﹁コンパスって何﹂
﹁それ、何描いてるんですか﹂
重なった二つの質問にエリクは自分が譲ってくれた。﹁だから構
成図﹂と返してくる。
これが構成図であったら魔法は本当に違う意味で凄い。何だか分
からない。とりあえず異様な迫力だけは伝わってくる。こんなもの
を描けと頼まれても絶対無理だ、と考えながら雫は質問に答えた。
﹁円を描く道具です。支柱になる部分と、ペン部分が根元で繋がっ
てて角度つけて開けます﹂
﹁へー、なるほど。それと似た円を描く道具はこっちにもあるよ。
でもそうだな。構成図を描くんだから専用の魔法具の方がいいか。
街に出れば買えると思うよ。ちょうどいいから休憩にしよう﹂
エリクはそう言うとペンを置き立ち上がった。今まで自分が描い
ていた紙は小さく畳んでゴミ箱に捨ててしまう。葬られた紙片に何
が書かれていたのか、雫は間近でよく見たい気もしたが、気にしな
いほうがいいだろうと思いなおした。
城へ提出する審査用の構成が出来上がった、とエリクが言ったの
218
は昨日の夕方だった。
提出期限まではあと四日。まだ充分余裕がある。
まずは構成図の描き方に慣れる為に、簡単な構成から描き出しを
始めようとして、二人は早くも難航した。何しろ雫には魔法の構成
が見えないのだ。見えないものをどうやって描けばいいのか。一度
はエリクが自分で描いて説明しようとしたが、それがもう致命的に
意味が分からなかった。
そこで、絵より遥かに分かりやすい彼の口頭の説明で構成図を書
き出すことになったのだが、いかんせん製図用の道具が足りない。
シャープペンとボールペン、消しゴムとホッチキスとカッターしか
入っていない筆箱を見て、雫は唸り声を上げたばかりだったのであ
る。
カンデラの城都は広い上に栄えている。
元の世界で言う首都なのだから当然なのだが、雫は外出する度に
あちこち目移りして仕方が無かった。今も店の外壁に飾られている
何かの像に気を取られ、エリクに腕を引かれる。
通行人にぶつかりそうになった彼女を腕の中に庇いながら、彼は
真面目くさった顔で注意した。
﹁前だけを見ろとは言わないけど、人にぶつからないように﹂
﹁ご、ごめんなさい。変なものがあるなーと思ってつい。あれ何で
すか? この世界の信楽焼の狸みたいなものですか?﹂
﹁シガラキヤキ。言いにくいね﹂
雫が指差したのは、近くの店の前、壁にかけられている何かのオ
ブジェだ。よく分からない黒い螺旋状のものなのだが、改めて意識
して見ると街のあちこちの建物にそれは飾られている。昔ながらの
蚊取り線香を黒く塗って、真ん中から持ち上げて伸ばしたらああな
るかな、と彼女は適当な感想を抱いた。
﹁何だろうな。あちこちにあるね﹂
﹁あれ、エリクにも分からないんですか?﹂
219
﹁まったく。強いて言えば蛇に見える﹂
﹁あー、見える見える﹂
言われてみれば、ということで雫は頭の中のイメージを、蚊取り
線香からとぐろを巻いた蛇に直してみた。長い体を巻き、首をもた
げている姿は気持ちのよいものではないが、日本伝統の虫除け香よ
りは異世界の町並みに合っている。
﹁流行りものなんですかね。今までの街では見ませんでしたけど﹂
﹁何らかの姿勢を主張しているのかもしれない。客がそれを見て分
かるように﹂
﹁セールスお断り?﹂
二人は顔を見合わせたが、結局答は出ないまま路地裏の小さな魔
法具店に入っていく。
その店にはオブジェはかかっておらず、色褪せた看板がかかって
いるのみだった。
﹁これで円が描ける﹂
エリクが差し出したのは、元の世界で子供が遊びに使うような、
丸く円が切り抜かれた定規だった。銀色の定規は非常に薄く、中央
には彼女の手の平ほどの真円が開いている。隅には何か短い目盛り
のようなものが数本ついており、それぞれに小さな石がはめ込まれ
ていた。今はどの石も目盛りの真ん中に位置している。
雫は受け取った定規を裏返してみるが、何も変わったところは見
つけられなかった。
﹁え、でもこれだとこの大きさの円しか描けなくないですか?﹂
﹁石、動かしてみて﹂
言われるまま雫は並んでいる目盛りのうち、一つの石を右に動か
してみた。
すると、銀板の中央に開いていた円空がみるみる縮む。彼女はあ
まりのことに唖然とした。
220
﹁な、何これ﹂
今度は同じ目盛りを逆側へと石を移動させてみる。するとそれに
応じて円は広がり、目盛りの端までいくと定規ぎりぎりの大きさに
なった。他の石を動かしてみると、どれも斜めに歪んだり湾曲した
りを調整するもので、少し動かす度に円は形を変えていった。
雫は目を輝かせて石をあちこちに動かしてみる。
﹁すっごい! すごいですよこれ! 面白い! 欲しい!﹂
﹁うん、買うから貸して﹂
エリクが勘定をしている間も、雫は興奮覚めやらぬ目で店の中を
見回した。察するに魔法の定規なのだろう。銀色の金属がまるで液
体のように動く機能に、感動することしきりである。戻ってきたエ
リクが定規を手渡すと雫は子供のように歓声を上げて喜んだ。
﹁魔法ってすごいんですね! 他にもあるんですか? アナログで
CGが描けそうなもの﹂
﹁何のことを言ってるか分からないけど、まぁ色々ある。この手の
ものは小さいし生成時に銀に魔法をかけるだけだから、そう高くは
ない。製図をする人間には必需品だな﹂
﹁いいなぁ。私の世界だとこういうのはパソコン⋮⋮あのシャシン
取る奴に似たもっとでっかいのとかでしか出来ませんよ﹂
﹁へぇ。大きいのがいるのか。大変そうだな﹂
二人は店を出ると、途中で夜の分の食事を買い込んで宿に戻った。
さっそく買ってきた定規を色々動かしてみる雫を、エリクは頬杖を
ついて向かいから眺めている。
彼はしばらく何か考え込んでいるようだったが、軽く手を上げる
と雫の視線をひきつけた。
﹁ちょっと聞いてもいいかな﹂
﹁はい、どうぞ﹂
﹁君の世界の文明ってどうなってるの? 例えばこちらと比べて﹂
﹁あー⋮⋮﹂
221
それは彼女も気になっているところである。
元の世界とこの世界で、決定的に異なるものはやはり魔法だ。魔
法がある分、元の世界には出来ないことも出来るし、逆にそれ以外
の文明はあまり発達していないようである。
雫は少し悩んで、頭の中で答を整理した。
﹁そうですね。魔法を差し引けば、私の世界の方が文明は進んでい
るかもしれません。機械技術というものが発達していて⋮⋮鉄で出
来た船が空を飛んで、何百人も人を運んだり出来ます﹂
﹁凄いな。それは、限られた人間しか使えないもの?﹂
﹁うーん⋮⋮ある意味そうですが、こちらの魔力の有無みたいのと
はだいぶ違います。高等な技術知識が必要で、専門が細分化されて
ます。多分、最先端の技術なら何年も勉強しないと駄目なんじゃな
いかな。なので、専門が違う私なんかには、元の世界の機械技術を
こちらに持ち込むことは出来ません﹂
雫などは一応豊かな国に生まれた人間の為、文明の利器を享受で
きるが、どういう仕組みでそれらが動いているかはさっぱり分から
ない。おそらく文系の人間の多くがそうではないかと彼女は思って
いた。
エリクは指で自分のこめかみを軽く叩く。
﹁つまり、勉強の結果、知識があれば誰でも作れ、使えるというわ
けか。こちらの世界の人間でも﹂
﹁多分⋮⋮。機械っていうのは言っちゃうと精密な作りの便利道具
ですから。魔法を動力源としていない魔法具みたいなものですかね。
科学法則自体が二世界で共通なら、こっちでも使えるはずです。元
の世界と同水準のものとまで言うと、材料をそろえるのが大変そう
ですが﹂
機械の動力は大体が電気だ。こちらの世界にも雷や静電気はある
のだから、その辺の自然法則は同じだろうと雫は踏んでいる。なら
ば充分な知識と技術がある人間がここに来ていたのなら、何らかの
機械を作る事もできていたのかもしれない。
222
そう考えると急に自分が役立たずに思えて彼女は浮かない顔にな
った。考え事をしていたらしいエリクはそれに気づいて首を傾げる。
﹁どうかした?﹂
﹁いえ⋮⋮どうして急にそんなこと聞くのかな、と思って﹂
﹁ああ。君自身にどれだけの付加価値があるのか気になったから﹂
﹁へ?﹂
それはどういうことだろう。もし彼女が機械の仕組みに詳しかっ
たら、それだけ価値があるということだろうか。
だとしたら期待に反しているにも程がある。彼女にある知識と言
えば、いわゆる人文科学についての広く浅い知識ばかりなのだ。
﹁うわー、私って役立たず、ですよね? それ言うと﹂
﹁え。何でそうなるの。専門じゃなくてよかったじゃないか。身の
危険が減る﹂
その発言が嘘でないことを示すように、エリクは藍色の目を丸く
して彼女を見ていた。まったくどこにも残念さが見られない表情は、
むしろすっきりしているようでさえある。彼は一本指を立てて、上
を指し示した。
﹁もし君がそういった技術に精通しているとしよう。で、誰かに異
で、もし君が、魔法具ではない
世界人だってばれて捕まるとする﹂
﹁いきなり不吉な仮定ですね﹂
﹁うん。ありえるから。︱︱︱︱
別の法則で動く高度な技術について知識を持っていたら、そいつら
はどうすると思う?﹂
﹁えーと。き、聞き出す、と思います﹂
﹁そう。知識さえあれば誰にでも使えるなら尚更だ。そして画期的
な技術の発見が大抵そうであるように、それは武器などへの転用を
模索されることになるだろう。結果、君は戦争の道具を作る為に、
油ならぬその頭の中を散々搾り取られることになる﹂
﹁文系でよかった!﹂
心からの叫びにエリクは苦笑する。彼は机の上に置かれていた定
223
個人的な意見を言わせて貰うなら、君に
規の魔法具を手に取った。
﹁そもそも僕は︱︱︱︱
たとえそれら知識があったとしても、こちらの世界にその知識を伝
えることには反対だ。君の世界の方が魔法を差し引けば進んでいる
んだろう?﹂
﹁そうですね⋮⋮似ている部分だけ考えれば、おそらく数百年くら
いは文化に差がありそうです﹂
﹁なら余計にそうだ。君の世界の技術は数百年分の歴史と付随する
議論を経て、おそらく今に至っている。それをすっとばして結果だ
け持ち込むのはよくないことに思えるんだよね。ましてや異世界の
知識なら、こちらの世界の本来の行く先を歪めかねない﹂
﹁あー⋮⋮﹂
エリクの言うことは、おそらく一つの正しさを持っている。
新たな技術の発見はそれ自体のみではなく、それの使用について
の是非を問う議論を伴って発展してきたのだ。
そしてそれら議論が雫の世界の社会、歴史、文化に基づいて交わ
されたものならば、そのままこの世界に持ち込んでしまうことは不
適切だろう。元の世界ではよしとされた意見がこちらで同じ結論を
得られるとは限らない。逆もまた然りだ。雫は手元のペンを一回し
すると頷いた。
﹁つまり、本来違う場所に住んでいる生き物を持ち込んで、生態系
が荒らされるみたいなものですか?﹂
﹁近いと言えば近い。いい? もし君の世界の技術がこちらでも実
践可能ということならば、こちらの世界にもそれら技術が生まれる
可能性はあるはずなんだ。でも今のところ、それらは君の世界に追
いついているとは言い難い。そこには君の世界と比べてこの世界な
りの理由があるんだろう。⋮⋮まぁ魔法だと思うけど﹂
魔法士であるエリクは、そこで少し苦笑した。だがすぐに真顔に
戻ると続ける。
224
﹁だから、それら技術をこの世界の人間が発見し、発展させていく
のなら問題ないし、むしろ歓迎すべきことだ。けどたまたま何らか
の事故で辿りついた異世界人が、いきなりかなり先の技術を持ち込
んでくるってのは正直怖いよ。その人間がいなければ、或いはこの
世界はそこまでの技術に辿りつかなかったかもしれないんだ。ある
べき道を曲げられたに等しい﹂
﹁⋮⋮そう、ですね﹂
それはまるで世界の突然変異だ。
もし雫が、武器の作り方に精通した人間だったら。
彼女を捕らえその仕組みを聞き出した者は、それだけで他者から
優位性を持ち得るだろう。そして、本来あるはずのない道具が、こ
の世界を徐々に変質させてしまうかもしれない。そうなった結果が
この世界にとってよいことなのか悪いことなのか、雫にはとても見
当がつかなかった。
彼女はバッグの中にしまったままの携帯を思い出す。
元の世界では毎日見ていたそれを今はもう何週間も手にしていな
い。何故そんな気分になれないのか、自分でも少し分かったような
気がして、雫は最後に問うた。
﹁もし、異世界の知識ですごく便利になったり⋮⋮それで人が助け
られるようになったら、どうします? それでも知識の流入には反
対ですか?﹂
︱︱︱︱
微苦笑を浮かべる。
魔法士の青年は、予想外だったのか彼女の質問に軽く目を瞠った。
だがすぐに表情を崩し
﹁そうだね、それはありがたいことかもしれない。治療法の分から
ない病気に手立てがあるのなら喜ぶ人も多いだろう。ただ線引きが
難しいとは思うけれど⋮⋮単に便利になるだけのものなら、僕は欲
しくない。もし本当に必要とされるものならば、それはいずれこの
僕は混入された便利さより、あるべき
世界の中から生まれるだろう。だから、どれ程世界の現状が不自由
なものであっても︱︱︱︱
225
不自由を望むよ﹂
澄んだ藍色の瞳。
迷いのない声。
すっと通った背筋に雫は感嘆の息を押し殺した。
彼は、頑なだ。融通がきかない人間だ。
きっと利点も欠点もあるだろうに、それを与えられるべきもので
はないからと言って拒絶する。解き方ではなく答だけを教えようと
する教師を相手にするように、不要だと言ってのける。
必ずしもこの世界の人間全てが、こう思っているわけではないだ
ろう。むしろ、医療や交通、通信などの技術を欲しがる人間は多い
はずだ。
けれど雫は、一人自分の意志を示す彼の姿を気高いと思って⋮⋮
⋮⋮自分もそうなりたいと強く意識する。自分の考えを真っ直ぐに
持ち、示せる男の姿勢が、彼女のなりたい自分のイメージと似てい
るように感じたのだ。
ただ、ずっと後に彼のこの時の言葉を思い出すことになるとは、
今の彼女はまだ思いもしていなかった。
それは彼女が世界に隠された大きな違和感に直面した、その後の
ことであるのだ。
226
003
全体的に球状であることを除けば、3Dで描いた非常に複雑な建
築物の骨組み図のように、それは見えた。雫は自分で描いた図を何
度も見返し、感嘆の息をつく。
﹁これでどうでしょう﹂
五度目の清書となった紙をエリクに手渡すと、彼は軽く眉を上げ
て驚いたようにその図に見入った。
﹁⋮⋮凄いね。申し分ない﹂
﹁あってるかどうか私には分からないんですけど﹂
﹁あってる。あとは各系列の説明を僕が書き込めば完成だ﹂
事実上の終了宣言に、雫は両手を上げた。万歳をしようとして、
そのまま力尽きて机に突っ伏す。
この四日間、二人は提出用の構成図にかかりきりになっていた。
まずは一般に解放されている図書館から、魔法を知らない雫の為に、
構成図を集めた魔法書を借りてきて感じを掴むことから始めたのだ
が、それはもう実に厄介そうな代物だった。
構成図は、立体的な魔法構成を真上から見た図、真横から見た図、
そして俯瞰図の三つが必要とされる。中でも俯瞰図は、立体設計図
のような分かりやすさと緻密さが要求され、雫などはどちらかとい
うと建築学科の人間がやった方がよいのではないかと思ったくらい
だ。
そしてエリクが彼女に要求したものは、それら本に載っていたど
の構成図よりも、複雑な作りをしたものだった。絵で説明するには
227
あまりにも絵が不得意な彼の口頭説明を受けて、本当に出来上がる
のかと何度も思ったものだが、ラフ画を何十枚も経た挙句、何とか
ぎりぎり完成へと至った。
必要事項を書き込み終わったらしきエリクは、立ち上がると書類
をまとめる。
﹁お疲れ様。僕は城にこれを提出してくるけど、お礼に何か欲しい
ものとかある?﹂
﹁お構いなく。旅に付き合って頂けてるだけでも嬉しいですから。
これくらいやらせてください﹂
それは彼女の偽りない本音だ。
雫は今まで、色々な場面で自分が足手まといであり、旅をするの
にさえ無力だということを思い知ってきている。そんな中、自分が
今回彼の役に立てたということは、思っていた以上に嬉しかった。
苦労して描き上げた構成図は、何だかこの世界にも自分の居場所が
あるような気にさせてくれたのだ。
﹁あ、私もちょっと散歩に行って来ていいですか?﹂
﹁いいよ。メアも一緒にね﹂
顔を上げた雫の頭の上で、小鳥が鳴く。メアの反応に頷いたエリ
クが部屋を出て行くと、雫は大きく伸びをして出かける支度を始め
たのだった。
外は清々しい程の快晴だった。
ここ四日間宿にこもりきりだっただけに、午後の日差しが実に気
持ちよく感じられる。人のざわめきが街に活気をもたらし、店の呼
び込みの声に混じって微かに弾むような音楽も聞こえた。子供たち
が人込みをすり抜けるようにして、何人も駆けて行くのを見ると、
雫もつい顔をほころばせてしまう。
元の世界なら近くの公園でテイクアウトのコーヒーを飲みながら
228
本を読むといったところだが、この世界にはコーヒーがない。彼女
は道を行く人々の流れに乗って、あちこちの店先を覗きながら歩き
回っていた。
ショーウィンドウのある店は多くないが、その分表にまで品物を
並べている店は多い。中に色水の入った硝子球など、何に使うのか
分からないものから、どことなくアンティークなランプまで、雑貨
を見て回るだけで少しも飽きがこなかった。
雫は、手にとって見ていた人形を台の上に戻すと、隣の店の前へ
と移動する。そこには硝子の大きな窓越しに、少し凝った作りのド
レスが飾られていた。
煌びやかな色でも生地でもない。生地はどっしりとした厚手のも
腰には幅広い漆黒の
広がったスカート部は中にクリノリンでも
ので、ベージュ色を元にしてゴブラン織りのように精巧な花の模様
が織り込まれている。
入れているのか、綺麗な曲線を描いていた。
帯が巻かれており、後ろで大きなリボンに結われている。胸元は四
角く開いており、下にもっと薄いベージュの立て襟のブラウスが着
せられていた。
良家の子女が普段着として着るようなドレスに、雫は足を止めつ
い見惚れる。
﹁こういうのってやっぱり私、似合わないのかな﹂
溜息と共に疑問を吐き出すと、頭の上で小鳥が小さくさえずった。
少し前に湖底では一度豪奢な白いドレスを着たが、その時は衣裳
が凄すぎて何だか日本人である自分の顔立ちに合わないような気が
していたのだ。今は町娘のような飾り気のないブラウスとスカート
姿だが、これはこれで見慣れてきている。ここに飾られているよう
な地味な色のドレスなら、少しは似合って見えないかと雫は悩んだ。
勿論馬に乗るような旅だ。こんなドレスを着ては満足に進めない
だろう。それでもたまには、綺麗な服を着てみたいという欲求もあ
229
るのだ。
﹁元の世界ではね、夏はもっと薄着だったの。腕とか足とか背中と
か出して。こっちの世界はそんな蒸してないせいか、さすがに背中
は出さないよね﹂
はたから見たら鳥に話しかけている変な人間に見えるのかもしれ
ないが、雫にとってはメアは鳥ではなく友人である。幸い人通りは
それなりに多いせいか、わざわざ彼女に奇異な目を向けてくる人間
もいなかった。
じっとドレスを見上げていた雫は、けれど苦笑してかぶりを振る。
﹁次行こっか﹂
諦めることは決して苦手ではない。物事には優先順位というもの
があるのだから。
雫はドレス屋の看板の下をくぐって次の店へと視線を移す。
花と衣裳が描かれたその看板の隣には、黒い蛇のオブジェがかか
っていた。
最後に入ったのは、先日エリクと一緒に来た魔法具の店だった。
あの時は買うものが決まっていたので、あまり他のものが見られな
かったが、雫は矢張り魔法の品物が気になって仕方ないのだ。
薄暗い店内は、占い屋の雑貨コーナーのようでもある。同じもの
が二つとない小さな店内を、彼女はきょろきょろと見て回った。
手にとって見たいアクセサリや不思議な形の道具も多いが、魔法
士でない彼女には触っていいものかどうか分からない。身を屈めて
一つ一つをじっくりと見るだけに留めていた雫は、その中に黒い二
重円のペンダントトップを見つけて、動きを止めた。例の蛇に似た
オブジェのことを思い出し、店の奥の店主に声をかける。
﹁あの。あれって売ってないんですか? あちこちの軒先にかかっ
てる蛇っぽい黒の⋮⋮﹂
﹁シューラ像かい。あれはないよ。魔法具じゃないから﹂
230
﹁あれ。じゃあ何なんでしょう? 流行の置物とか?﹂
﹁違う違う。宗教だよ。おまじないみたいなもんだ﹂
﹁宗教?﹂
頓狂な声を出してしまって、雫は思わず自分の口元を押さえる。
だが言われて見れば、そう変わった話でもないだろう。元の世界
でも田舎にいけば、玄関に御札を貼ってある家も多くあるくらいだ。
彼女は納得すると、振り返って窓越しに店の外を見た。
﹁あちこちにかかってますけど、この店にはないですよね﹂
﹁ああ。魔法士は基本的に無神論者ばかりだからね。俺は魔法士じ
ゃないけど、こういう店やってるせいか信仰ないんだ﹂
﹁なるほど。ありがとうございます﹂
雫が返答の礼を言うと、店主は軽く手を上げて笑う。店の雰囲気
とは逆に、明るく気さくなおじさんだな、と彼女も微笑んで会釈し
た。
これくらいのささやかな挨拶で、人は気が軽くなれるのだから不
思議だ。更に色々見た後、雫は店を辞す。
よい気分転換になったと思えたのはしかし、店を出てすぐまでの
ことで⋮⋮まるで待ち伏せていたように道に立つ男に気づいて、彼
女はキャッチセールスに話しかけられた時の顔になってしまった。
﹁よう、雫。偶然だな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ストーカー﹂
ターキスは、にやにやと笑いなが
冷ややかな切り返しにも怯みもしない。
剣を佩いた長身の男︱︱︱︱
ら仏頂面の雫を見下ろしたのだった。
﹁そのストーカーって何だ? 誉め言葉か?﹂
﹁そう。あなたみたいな人を誉めてストーカーって言うんです﹂
﹁つまりまた俺に会えて嬉しいと﹂
﹁嬉しそうに見える? この顔が﹂
231
﹁嫌そうに見えて実は⋮⋮ってやつだろ﹂
﹁全然違うっての!﹂
雫は力の限り隣の男を殴りたくなったが、彼女の腕力で体を鍛え
ている男に痛手を与えられるとは到底思えない。心の中で﹁暴力は
よくない、暴力はよくない﹂と唱えて、何とか強い誘惑を退けた。
一体どこからつけられていたのか。彼女はターキスの﹁偶然﹂な
どという申告をまったく信じていない。これだけの人出だ。気配に
うとい雫の後を追って来るくらい、造作もないことだったろう。
二人で連れ立って、というより帰る彼女に勝手について来ている
男は、一軒の店の前に差し掛かると突然足を止めた。そのまま立ち
止まらず歩いていこうとする雫の腕を、ご丁寧に取って引き寄せる。
﹁何? 離してよ﹂
﹁まぁまぁ。ほらこれ﹂
ターキスが指し示したのは、先ほど雫が見惚れていたドレスだっ
た。虚をつかれて軽く驚く彼女に、男は顔を寄せて笑いながら囁く。
﹁買ってやろうか? きっと似合うぞ﹂
﹁み、見てたな﹂
﹁見てない見てない。それより欲しくないか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いらない﹂
それだけ言って歩き出そうとする雫を、ターキスは再び引き寄せ
る。肩に腕を回して逃げ出せないように抱え込んだ。体格差の激し
い相手にべったり拘束され、彼女は嫌悪も顕に手をばたつかせて暴
れたが、ターキスはそれを難なく抑えると楽しそうに笑った。
﹁離してってば!﹂
﹁正直に言った方が得をするぞ。着てみたいと思ってただろう? 似合わないなんてことはない。少し頬と唇に紅を差して、髪に香油
を塗ればいい。黒絹のように艶が出て映えるだろう。瞳も同じ色だ
しな﹂
232
品定めをするような無遠慮な視線で見つめられて、雫は顔をしか
める。そう言えば初めて会った時も、日焼けをしてると言われて不
愉快な思いをしたのだ。
この場にバッグを持っていたらぶつけてやっただろうが、何も持
っていなかったので雫はただ男を睨んだ。
﹁物で釣ろうったっていらないの! 大体、得体の知らない男の着
せ替え人形になったって嬉しくないから!﹂
ぴしゃりと返すと、ターキスはいささか驚いたようだった。雫の
肩に回していた腕を上げ、頭を掻く。
﹁欲がないというか⋮⋮固いな。あの男の影響か?﹂
﹁もともとこういう人間! 何の取り得もないただの旅人ですから
! もうほっといてよ﹂
この男とは、話をすればするほど不快が増していく気がして仕方
ない。雫は腕が離れた隙に男の傍から駆け出した。しかしすぐに肩
をつかまれる。
﹁と、言われても気になって仕方ない。本当はお前はどこから来た
んだ? 東の大陸じゃないだろ。何故ファルサスを目指している?
魔法のこともよく知らなかったようだし魔法士じゃないみたいだ
が、あの国で何をしようというんだ?﹂
﹁知らないって!﹂
﹁教えないとこのまま攫ってくぞ﹂
エリクはこの男について何と言っていたか。
軽い声。しかし奥底に響く本気に雫はぞっとした。思わず体が強
張る。
︱︱︱︱
ああいう輩は実力行使をしかねないから、貴族に売られるかもし
れないから、気をつけろと言わなかったか。
ようやく自分の状況を感じ取って恐怖を瞳に宿した彼女に、ター
キスは顔を近づけると口元だけで笑った。
﹁お前には何か秘密があるんじゃないか? 文字を知らない魔法も
233
お前からは異質を
知らない。かといって記憶がないわけでもない。なら⋮⋮代わりに
何を知っている?﹂
﹁⋮⋮何も﹂
﹁そうかな。俺は結構鼻が利くんだ。︱︱︱︱
感じる。それと、何かの予感が。何か力があるなら俺と一緒に来な
いか? 二人で協力すれば名でも財でも手にはいるかもしれない﹂
誘惑とは、毒のような力があるものなのかもしれない。
目の前の男には確かにそういった力があった。人の心をくすぐり、
その気にさせる力が。まるでメフィストフェレスのようだ、と雫は
思う。
だが彼女はファウストではない。まだ自分の生に絶望していなけ
れば、優れた才など持ち合わせてもいないのだ。
雫は深く溜息をつく。
それは自分と彼の両方に、現実を思い知らせようとしているかの
ようだった。
﹁⋮⋮勘違いだって。私は何も出来ない小娘です。自分一人じゃ旅
だって出来ない﹂
だから、彼に助けられているのだ。
ただ一人彼女の素性を知り、信じてくれた魔法士の男に。
特別な力などない。たとえ知識があっても伝える気にはならない
だろう。
世界を動かしたいわけではない。
彼女が望むのはただ、元の世界に帰る事。そして、他の誰とも比
べない自分を創る事の二つだけなのだから。
全身を襲う疲労感。落とされた肩の上で小鳥が鳴く。普段より幾
分鋭いその声は、威嚇と警戒を兼ねているようだった。主人である
雫の命令があれば、いつでも目の前の男を排除するつまりなのだろ
234
う。雫はそれを留める為、手を上げてメアの背を撫でる。
﹁分かってくれたのなら、私は帰りますから﹂
自分でも棘があると分かる声で彼女が返すと、ターキスは少し眉
を上げた。怒っているわけでも驚いているわけでもない、真面目な
表情になる。
この男がこんな顔をしたところなど見たことがない。立ち去りか
また捕まえられるのかと身を竦めかけた彼女の頭に、ぽん
けた雫はつい男に目を留めてしまった。ターキスは腕を伸ばすと︱
︱︱︱
と大きな手を置いた。
﹁あのな、雫。あー⋮⋮まぁ俺の言い方が悪いんだろうが、そう卑
下する必要はないぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮別に卑下はしてない、けど﹂
口ではそう言ったが、雫には本当に自分が自分を卑下していない
かどうか自信はなかった。
諦めることには慣れている。それは﹁拘泥するべきではない﹂と
思っていることを切り捨てられるだけで、何もかも諦めてしまうと
いう意味ではない。
けれど、諦めるか否かの判断を、彼女がすぐに決する人間である
のもまた確かだった。
自分は特別な人間ではない。姉とも妹とも違う。あんな風にはな
れない。だから、わだかまりを抱え込むことは避けて、別の道を探
それは果たして、前向きな判断であるのだろうか。
そうとする。そのままの自分を認識する。
︱︱︱︱
男は雫の頭に手を置いたまま、身を屈めて彼女を覗き込む。
﹁はったりでも何でも言ってみると面白いぞ。出来るって思えば案
外出来るようになったりするし、自分を高く売ることも時に必要だ﹂
乗せられた手を振り払えなかったのは、ターキスの言葉が普段の
からかうような口調ではなく、真面目に諭すものであったからだろ
235
う。近くに見える男の瞳は、その色が緑がかった灰であるのだと初
めて気づかせる。雫は居心地の悪さを感じて目を逸らした。
﹁そんなはったり吹かして、後で話が違うってなったらどうすんの
よ﹂
﹁だから努力するんだろ。限界は高く持つもんだぞ?﹂ ﹁持って届かなかったら?﹂
﹁その時はその時さ﹂
一体、この男は何歳なのだろう。
ただ少なくとも、元の世界で平穏に暮らしていた雫よりは何かし
らの苦労をしてきているのだは分かった。少し苦味のある声から彼
の経験の厚みが感じ取れる。
ターキスはスカーフごしに、まるで子供にするように雫の頭をわ
しわしと撫でた。
﹁だから、もっと自信持て。お前は頑張ってるよ﹂
少しだ
何故そんなことを言うのか。何を分かっているというのか。
ただ、男の言葉に偽りはないと感じる分それは︱︱︱︱
け、嬉しかった。
﹁もう帰る﹂と言うと、ターキスは意外なほどすんなりと雫を解放
した。
ストーカーまがいの押しは何だったのかと拍子抜けもしたが、彼
女が男に対しほんの僅か印象を変えたように、向こうもそうだった
のかもしれない。また会いたいとまではまったく思わないが、ター
キスの方は﹁またな﹂と言って去っていった。
男の長身の頭が人込みの中見えなくなると、雫はようやく張って
いた気を緩める。
﹁頑張って⋮⋮るのかな。私﹂
この旅はまるで、子供の頃の登山遠足のようだ。
236
先が見えなくて少し息苦しくて、でも隣り合う友達と話しながら
黙々と足を動かし続ける。そうしていればいつか必ず終わりには着
くはずなのだ。そして後には元通りの日常が待っている。
もしちゃんと戻れたのなら。違う世界で旅をしてきたのだと言っ
たなら。
それでももし誰かが﹁頑張ったね﹂と思ってくれるの
家族は、友人たちは笑うだろうか。正気を疑うのだろうか。
︱︱︱︱
なら。
雫は、違う世界、見知らぬ人々の間を小走りで帰っていく。この
旅を意味あるものとする次の一歩を、踏み出す為に。
﹁揃った﹂
唐突な声はだが、待ち望まれていた声でもある。立ち並ぶ人間た
ちは、緊張に居住いを正した。
彼らの前を硬質な足音を立てて往復する男は、ある一点で足を止
めると、壁にかけられた紙を指し示す。劣化防止の魔法がかけられ
ている為、長年の経過にも色褪せないそれは、巨大な一つの構成を
描き出した構成図だった。
﹁キスクはひとまずロズサークとナドラスへの介入をやめたようだ
が、いつ次があるか分からぬ。大国の咳払い一つを恐れていては、
遅かれ早かれ我らに未来はないだろう。ならば今、やらねばならぬ﹂
男の指は、複雑な構成図の外枠をゆっくりとなぞっていく。まる
で恋焦がれているかのように執拗に。
﹁集まった魔法士たちは五つの組に分け、構成の各部位を担当させ
よ。全体を掴ませないよう監視は怠るな﹂
了承の声が複数上がる。男はそれでも構成図を見たままだ。
﹁完成の後、魔法士たちは障りがあるなら好きに処分せよ。取り込
もうが殺そうが構わん。後顧の憂いだけはなくしておけ﹂
237
人を道具と見ることに慣れきった言葉に、けれど異を唱える者は
いない。
集まった人間たちは暗黙のうちに頭を垂れ、それぞれの思惑のま
ま為すべきことへと向って散っていった。
審査の結果は一両日中に張り出されるということだった。
ひとまず書類の提出を終え、宿に帰ってきたエリクは、雫と二人、
本を広げこまごまとした文字の勉強に取り掛かり始める。その中の
薄い一冊、ドイツ語で書かれたテキストを読んでいた彼は、おもむ
ろに顔を上げると、日常単語の辞書を作っている雫に声をかけた。
﹁このドイツ語ってさ、エーゴと同じ傾向だっていうけど、エーゴ
に比べて妙に長い単語が混じってない?﹂
﹁ああ。ドイツ語って合成語を作るんですよ。日本語もそうなんで
すけど。単語をどんどん繋げて新しい単語を作るっていう⋮⋮﹂
雫はシャープペンを手に取ると、ノートに﹁東京特許許可局﹂と
書いた。﹁東京﹂と﹁特許﹂と﹁許可﹂と﹁局﹂の間に線を入れる。
﹁こういう風に⋮⋮複数の単語をそのまま並べて一つの単語にする
んです﹂
﹁へぇ。これで分かるの?﹂
﹁もう慣れてるんで。さすがに限度はありますけど⋮⋮﹂
あまり画数の多い漢字がずらっと連なっていると、さすがに身構
えてしまう。だが、大抵のものは見ればすぐ判断がつくといってい
いだろう。
雫はエリクが読んでいるドイツ語の副読本を指差した。
﹁それなんかは語学の教科書ですから平易ですけど、勉強で使って
いる専門書の原書とか、もっと酷いですよ。ドイツ語は単語だけじ
ゃなく文も延々と繋げたりしますからね。ぎっちり十行くらい書か
れてても一文とかあります﹂
238
やっぱり日本語もそうですけど、と付け足すとエリクは何故か笑
い出す。珍しく声を上げて笑っている彼に、雫はきょとんとした。
﹁何ですか一体。私おもしろいこと言いました?﹂
﹁いや⋮⋮苦労してる、って顔してたから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮してますよ﹂
原書読解は教授か上級生、院生が主に担当しているが、だからと
言ってただ漫然と聞いていていいものでもない。最初から投げてい
る一年生も多いが、雫は辞書を片手に毎回テキストにかじりついて
いっているのだ。
単語の意味を拾うだけでも、やらないよりはましだ。頻繁に出て
くるテクニカルタームはもう覚えてきた。いずれ自分の力で訳せな
ければいけなくなるなら、今から努力しておいて損はないと彼女は
思ってはいるが、大変なことは確かだった。
思っている。
︱︱︱︱
﹁そういう原書⋮⋮は、持ってきていませんけど、それと比べれば
教科書は読みやすいです。題材も皆が知っているようなものですし
ね﹂
﹁これは何について書いてあるの?﹂
﹁ハーメルンの笛吹きっていう童話についてです。私の世界ではメ
ジャーなんですけど﹂
雫は簡単に童話についてエリクに説明してやる。町にはびこるネ
ズミを笛でおびき出した男が、約束された報酬をもらえず、代わり
に町中の子供を笛の音で操って連れ去ってしまったというお話。彼
はずっと興味深げな顔で話を聞いていたが、話が終わるとパラパラ
と薄い本をめくって挿絵を見た。
﹁なるほど。これは童話なのか﹂
﹁それがテーマではありますが、本の内容自体はその事件の真相は
この事件自体は、日付まで記録と
どうなのか? って話なんです。八百年くらい前に子供がこの町で
百三十人いなくなった︱︱︱︱
239
してちゃんと残っているんですよね﹂
﹁原因は残っていないの?﹂
﹁謎のままです。諸説あるんですけどね。実はいなくなったのは子
供じゃなくて移民だったとか。⋮⋮この本では子供たちは山に遊び
に行って、次々と底なし沼に落ち込んでしまったんじゃないかとか
書かれてました﹂
﹁ぞっとしない話だね﹂
彼の感想には雫も同感だ。一体何があったのか、それは今でも様
々な説が飛び交うミステリーと言っていいだろう。だが、八百年も
昔のことの真相が、今更明らかになるとは思えない。人の世の長い
ちょうど彼らをファルサスへと向かわせる切っ掛けと
歴史には少なからず、こういった怪奇事件が含まれているものなの
だ。
︱︱︱︱
なった、二百四十年前の怪奇事件が、その真実を明らかにしていな
いように。
ほとんど表情の変わらないエリクもまた、同じ事を考えていたら
しい。雫の視線に気づくと﹁八百年前に比べれば調べやすい﹂と苦
笑する。確かに、事件の魔女についての記述を消したファルサスは、
何かを知っているはずなのだ。
もし、人の記憶を現実化させるメカニズムをファルサスが掴んで
いるのなら、雫は自分の記憶を使って元の世界へと戻れる⋮⋮とい
う可能性もあるだろう。
不確かな、けれど縋るしかない期待に息を詰めた雫は、お茶と共
に重苦しさを嚥下した。真向かいに座る男に向かって笑ってみせる。
﹁あの事件では行方不明者は別の場所で発見されましたけど⋮⋮見
つからなかった事件とか、あったりするんですか?﹂
﹁あるよ。そういう事件はいっぱい。原因が分かっているものも分
からないものもある﹂
﹁分かっているものって何だったんですか!﹂
240
つい好奇心に目を輝かせた少女に、エリクは苦笑した。ドイツ語
の本を閉じ、一本指を立てて空中を指差す。
﹁他国の陰謀とか自然現象とか色々あるけどね。ああ、禁呪もある
な﹂
﹁禁呪?﹂
﹁使っちゃいけない魔法の総称だよ。魔法の製作過程に問題があっ
たり、効果に問題があったりするものをまとめてそう呼ぶんだ。な
かでも人の血肉や魂を触媒として使う類のものは、非常に忌まれて
いる﹂
﹁うわぁ。黒魔術って感じですね﹂
エリクは﹁黒魔術﹂という単語が可笑しかったのか口元を緩めか
けたが、すぐに真顔に戻った。
﹁昔の暗黒期⋮⋮戦争の時代は頻繁に研究されてたとも聞くんだけ
どね。暴発したり損害が大きすぎて大変だったらしいよ。それで国
一つ滅びたって話もいくつか残ってる。今は、禁呪って聞くだけで
魔法士は皆嫌な顔をするな。邪法も邪法、禁忌そのものだからね﹂
そう言うエリクの表情もどこか翳を帯び、陰惨なものを思い起こ
すような貌である。何事にも裏の面はあるのだ。よいことばかりな
はずがない。この世界を支える魔法に、禁呪と呼ばれるものがある
ように。
その一端を垣間見てしまった雫は、自分の意志とは関係なく悪寒
が背を走るのを感じたが、今はまだ彼女にとってそれは関係のない
ところの出来事に思えていた。
彼女はエリクが読んでいた副読本を手に取る。何気なく捲ったペ
ージには、笛を片手に持った男が三日月型に口を開いて笑っていた
のだった。
いつの間にか、椅子に座っている。
241
雫はそれを疑問に思いながらも、疑問に思わなかった。
まるで自分が自分ではないかのように、何の驚きも躊躇もなく一
つの椅子に座っている。それを何処かでおかしいと思う自分が存在
しているだけだ。
周囲には他に何もない。白い床がどこまでも四方に広がっている。
誰もいない。雫の他には。
前にも、こんなことがあった。
﹁彼女﹂は手を伸ばす。目の前にある机に。そこに置かれた三冊の
本に。
︱︱︱︱
微かな疑問はしかし、一瞬で泡沫のように消え去る。
女の指は迷いなく紅色の表紙を捲り、ページに目を落とした。
﹁⋮⋮それは、針の穴ほどの小さな綻びであった。人の魂の最下部
の生まれし処、世界の深層へと繋がる綻び。開くはずのない小さな
穴は、まるで間違いのように、そして必然として生まれた﹂
その声を聞く者はいない。﹁彼女﹂以外には。
﹁穴を覗いた最初の男は取り込まれ、二番目の男は狂った。三番目
の男はこれこそ魂の源泉、人の真であるとして、穴から這い出ずる
ものを神と呼んだ⋮⋮﹂
文字はどこまでも続いていく。
﹁彼女﹂はそれを追い、ただ辿っていく。
始まりも終わりもない夢は、円環のように閉ざされていた。
﹁起きて﹂
﹁うひゃあ!﹂
男の声はごくごく耳元で囁かれた。突然の呼びかけに、机に突っ
伏して転寝していた雫は飛び起きる。反射的に耳を押さえながら辺
りを見回すと、そこは宿屋のエリクの部屋だった。
確か、午前中から勉強に来ていて⋮⋮彼が審査結果を見に行くと
242
行って出て行ったところまでは記憶があるから、その後居眠りをし
てしまったのだろう。
﹁疲れてるの? 結構何度も起こしたんだけど﹂
﹁す、すみません。何か変な夢見てたみたいで⋮⋮﹂
続けて﹁審査の結果はどうでしたか﹂と聞こうとして、彼女は自
分からそれを聞いていいものかどうか躊躇った。この世界ではどう
だか知らないが、元の世界では受験結果などなかなかデリケートな
ものだったのだ。
エリクがそういったデリケートさを持っているようには到底思え
なかったが、相手から言い出すのを待つ方が無難だろうと雫は判断
した。案の定彼は、数枚の書類を無造作に机の上に置いてくる。
﹁受かった。二時間後に荷物まとめて城内に来いだって﹂
﹁え! よかったです!﹂
﹁半分は君の力﹂
軽くノックをするように男の手が雫の額を二度叩く。何だかくす
ぐったさに雫は気恥ずかしくも笑ってしまった。
確かに自分には見えない構成の図を描くのは大変だったが、同時
にこんな美しいものなら一度くらい見てみたいなとも思ったのだ。
その構成が城に評価されたことは、やはり嬉しい。これで転移陣の
使用許可も取れれば、諸手を上げて喜べる結果だろう。
雫は乱れた前髪に指を通す。いつの間にか随分長くなっている髪
を、普段はピンで留めているのだが、そろそろ切るか伸ばすか決め
なければならないだろう。この世界にいつまでいるのか分からない
が、長い髪が一般的というのなら伸ばした方がいいのかもしれない。
彼女は机の上に転がっていたピンで再び前髪を留めると、顔を上げ
た。
﹁どれくらいかかるんですか?﹂
﹁二、三日かな。多分、終わるまでは城の外には出られないと思う。
その間君は一人になっちゃうけど、大丈夫?﹂
243
﹁あ、平気です。大人しくしてますから。果報は寝て待て、ですよ﹂
﹁まさか三日間寝続けるつもりなの?﹂
そう言えば、ターキスと再会したことを彼には言って
﹁三年ならさすがに無理ですが﹂
︱︱︱︱
いなかった。単に言い忘れていただけなのだが、このタイミングで
口にしてはエリクに心配をかけるだけだろう。寝るのはともかく三
日くらい宿に篭っていればいいのだ。軽く手を振る雫を、エリクは
じっと見つめていたが、問題なしと納得したのか頷いた。
﹁終わったら迎えに来るから、次は何処に行くのかその時教えるよ。
ファルサス直通が無理でも、出来るだけ都合がいい場所に行けるよ
うにするから﹂
﹁お世話になります﹂
﹁メアと離れないようにね﹂
念を押す言葉に、先ほどのものとは別のくすぐったさを感じて雫
ははにかむ。
まるで小さな子供になったかのようだ。もっとも世界自体の迷子
である彼女なのだから、それはあながち間違っていないのかもしれ
ない。エリクがいなければ、もっと辛苦を舐めていたか、帰還を断
念する羽目になっていたかもしれないのだ。これでは手を引かれて
いる子供と大差がないと言われても、仕方ないだろう。
それでも、出来る範囲で足掻いてみることが必要には違いない。
彼女は本当の子供ではなく、自分の力で歩きたいと思っている人間
なのだから。
二人は宿の食堂で早めの夕食を共にすると、束の間の別行動へと
別れていく。
城へと向うエリクを見送った雫は、ここが異世界であるというだ
けではない心細さに瞬間気を取られたが、それを表に出すことはし
なかった。
244
﹁よし、留守番頑張ろうね、メア﹂
主人の声に使い魔は応える。
意識して明るく保たれた声はしかし、この国に生まれつつある不
穏に対して、あまりにもささやかな灯火でしかなかったと、後に彼
女は知るのだ。
城が臨時で魔法士を集めるということは極めて珍しい事態だが、
まったくないことでもない。宮仕えとなる魔法士を選別するのでは
ない、構成力に重点を置いた審査からして、エリクは複数人で大規
模構成を組ませる事がその目的ではないかと踏んでいた。
大規模構成であれば、他の魔法士と構成を繋いで揃える技術が求
められるし、何より人数自体が大前提として必要になるのだ。着手
するものが城都の結界の張り直しなどであれば、構成に使う魔力自
体は既にあるものを基にするであろうし、そのあたりは既に調整済
みなのであろう。
ともかく審査に通ったのなら、与えられた仕事をさっさと済ませ
てしまった方がいい。彼は、魔法士たちが集められた部屋の隅で欠
伸をかみ殺しながら、読み上げられる合格者名簿を聞いていた。二
諸君にはこれから大規模構成
人を除いて全ての採用者が集まっていると確認されると、責任者ら
しい男が代わって前に出てくる。
﹁よくぞ集まった、諸君。︱︱︱︱
の施術に取り掛かってもらう。作業は五班に分けて行い、城の魔法
士がそれぞれ監督としてつく。分からないことがあったらそれぞれ
の責任者に尋ねるように﹂
男は他にも、作業終了までは城に泊り込みになることと、外への
情報流出を禁じるなど、いくつかの注意事項を伝達したが、そのど
れもがエリクの予想範囲内だった。
最後に﹁報酬については作業終了後に各自と相談の上、決する﹂
245
と男が締めくくると、集められた魔法士たちは、五人の宮廷魔法士
たちに先導され別々の場所に連れられていく。そのことに少し訝し
さを感じた者もいるようで、彼らはきょろきょろと周囲を見回して
いた。
大規模構成を担当ごとに班分けするとしても、まさか場所までそ
れぞれ変えて行うとは考えていなかったのだろう。エリクも城の用
心深さに何も感じないわけではなかったが、王族や貴族の間にはそ
う言った徹底した秘密主義があることも知っている。
そして、エリクたちの班が案内されたのは、城の地下にある広間
の一つだった。
薄暗い広間は壁に灯された燭台の火によってぼんやりと照らされ
ている。
広さは城下町の店が四、五軒入るくらいだろう。石畳の床には既
にうっすらと平面の構成図が描かれていた。これを基線として構成
を形成しろということらしい。
おおよそ広間いっぱいに広がる円になっている構成図は、その中
央の床に五つの水晶球がはめこまれていた。そこからは巨大な魔力
が感じ取れる。
十人の魔法士を引率していた男は、彼らを円状に線の上、等間隔
で要所に立つよう指示すると持っていた書類を広げ配り始めた。
﹁これが今回諸君らに組んでもらう構成図だ。それぞれ担当部分だ
けの記載になるが、第三から第二十五系列までは左右と、第七と第
三十一系列は対角と繋がるようになっている。位置関係を把握しな
がら構成を組むように﹂
エリクは渡された構成図の断片に緊張を覚える。構成が難しいと
いうわけではない。大役に気が引き締まるというわけでも。ただ、
246
予想以上の徹底振りに不穏を感じ取ったのだ。
全体の構成図を渡さないのは機密上当然としても、一人一人違う
断片を渡すというのは相当な用心だ。これはもしかして、構成完成
後にその秘密を洩らさせない為というより、﹁組んでいる最中に、
何の構成であるか悟らせない﹂為のものではないか。
一体何の構成を形作ろうとしているのか、彼は薄ら寒さを背筋に
感じる。だがエリクの懸念などお構い無しに、引率者は全員に構成
図を渡してしまうと、部屋の中央に立った。
﹁魔力は中央の水晶球に蓄えられているから、そこから汲み出して
使えばよい。席を外したい場合は兵士をつけるから申告するように。
何か質問はあるか?﹂
声を上げる者はいない。
男は全員を見回すと軽く手を挙げ、それを下ろす。
複数の詠唱の声が響き始めた広間で、エリクはもう一度与えられ
た構成に目を通した。中性的に整った顔立ちが僅かに顰められる。
だが彼はひとまず己の懸念をよそにやると、自分もまた構成を組
む為に詠唱を始めたのだった。
魔法着を着た女が一人、街の物見塔の上に立っている。
纏め上げていない長い髪が、風に煽られ蛇のようにうねった。妖
艶な唇が愉悦の形に湾曲する。広がる城都の街並みを高所から睥睨
する彼女は、都の中央にある城に視線を合わせると笑みを浮かべた。
﹁動き出したか。長くて三日で完成⋮⋮というところか?﹂
城の地下、密やかにゆっくりと動きつつある魔力から、彼女はそ
う計算する。長い指が髪をかき上げた。
彼女の居る塔の屋根のすぐ下には、黒尽くめの男が一人、片膝を
ついて控えていたが、男は彼女の問いかけにも無言のままである。
女の方も、もともと返答を求めていないようで、気を悪くすること
247
もなく楽しげに小首を傾げた。
﹁さて、この街の何人が無事に己を保てるか見ものだな。全員が飲
まれてしまうならそれはそれで一興だが﹂
女は片手に抱え込んだ厚い本を持ち直す。皮で出来た深い赤の表
紙は金の装飾で縁取られており、まるで城の蔵書のような貴書の体
裁を備えていた。
それが何であるか、知っている者はほとんどいない。今の所有者
である彼女さえ完全には掴みかねているのだ。だが、それをどう使
うかはもう決めていた。彼女は題名の書かれていない背表紙に目を
落とすと、喉を鳴らして笑い始める。
その果てにこそこの大陸は生まれ変わる。
﹁⋮⋮暴けばいいのだ。記録にない歴史も、起こっていないことで
さえも全て。︱︱︱︱
磨かれぬ石などに価値はない。あらゆる可能性を乗り越えた者のみ
が、次代を担う資格を得る。これは、その始まりだ﹂
女は白い両手で本を抱き直す。赤みがかった茶色の瞳が煌き、妖
しい光を帯びた。
風が城に向って吹いていく。それは女の言葉を空気に溶け込ませ
たが、受け取ることの出来るものは誰もいなかった。
248
004
日が急速に暮れていく。
朱が空の片端を染めたと思ったのはほんのいっときで、すぐに世
界は透明な黒へと色を変えつつあった。宿の自室に戻った雫は、窓
から外に視線を転じる。遠くには半ば影となった城の姿が、街の灯
に照らされ浮かび上がっているのが見えた。
そう言えば、この世界に来てから一人で夜を過ごすのは初めてか
もしれない。勿論寝室に戻れば一人なのだが、同じ屋根の下に知っ
ている人間がいないということは今までなかった。
そんなことを考えながらお茶を啜りかけた雫はしかし、すぐに自
分の勘違いに気づく。
一人ではない。メアがいるのだ。ここのところずっと小鳥の姿の
ままだったので、何だか本当は少女の姿であったことを忘れそうに
なっていた。
﹁部屋の中だし、他に誰もいないから戻ってもらってもいいかな⋮
⋮駄目かな﹂
けれど、メアに異変が
そんなことをつい尋ねてしまったのは心細さの為だろう。テーブ
ルの上に佇む小鳥は首を傾げる。
穏やかに二人過ごすはずの夜。︱︱︱︱
見られたのはその時だった。彼女は小鳥の姿のまま、窓辺に飛び移
ると鋭く鳴いた。緑の両眼がぼんやりと光を帯びる。普段は見られ
ない様子に雫もまた慌てて立ち上がった。
﹁ど、どうしたの。怒った?﹂
しかしメアは鳥の姿のまま首を左右に振る。雫は困惑しながらも
249
床に両膝をつくと、使い魔と目線を合わせた。緑の双眸が睨む方向
を自らもまた目で追ってみる。そこにあったのは︱︱︱︱
﹁あ⋮⋮お城?﹂
小鳥は肯定するように小さく鳴く。その体を両手で抱き上げて、
雫は困惑に立ち尽くした。城には勿論エリクがいるはずだ。なのに
メアはその場所に向けて警戒を働かせている。
何が起き始めているのかまったく分からない現在、けれどカンデ
。
ラの城都に生まれつつある混沌は着実に彼女をも巻き込もうと、
見えない手を伸ばしつつあった
多人数で同時に魔力を汲み出し、それを慎重に構成と為していく
作業は、まるで糸を紡いでレースを編む作業のように慎重さを必要
とした。エリクは自分の担当部分を組みながら、周囲の魔法士にも
注意を向ける。彼らが作る構成から全体構成の効果を推察できない
かと思っているのだ。
しかしおおよそ五十人で分担して組んでいる構成は、今のところ
よく全体像が掴めない。やはり完成に三日ほどかかるという代物を、
始まってから数時間で読み解こうというのは無理があるだろう。彼
は見張りの宮廷魔法士に不審に思われないよう、詠唱を途切れさせ
ぬまま内心溜息をついた。
害のない構成ならば構わない。むしろ探ろうとする行為自体が不
要なものだろう。それで宮廷魔法士に目をつけられたらたまったも
のではない。
ただもし、この大規模構成が、いわゆる﹁禁呪﹂と呼ばれるもの
に属するのならば⋮⋮その時は何としても、完成を妨げねばならな
い。
禁呪とは魔法の負の側面そのもの、あってはならない存在だ。
250
かつて戦乱が大陸に蔓延していた暗黒時代には、禁呪を生み出し、
その取り扱いを誤って自ら滅びる国も少なくなかった。それも全て、
力が何事にも優先するという意識が、触れてはならぬ領域に人の手
を伸ばさせていたのだろう。その歴史を知るエリクは、これ以上愚
かしい繰り返しをすべきではないと思っていた。
自分一人何が出来るのか、そう囁く冷静な部分も彼にはある。
だが、普段は理性の声に従うことができても、禁呪についてだけ
は無視することが出来なかった。ましてや今彼は、その構成自体に
関わっているのだ。
エリクは場に満ちる魔力を手繰って形と為していく。
今、自分の不安を形作っているものが全て杞憂で、三日後には宿
で彼を待つ少女の元に戻れればいいのにと、思いながら。
﹁話が違う!﹂
城都のとある一室、焦り混じりの怒鳴り声が壁を揺るがしていた。
拳を叩きつけられたテーブルの上では、黒い蛇の像が振動の余韻で
カタカタと震えている。
だがしかし、怒鳴られた側の女は表情も変えずに、軽くそれを受
け流しただけであった。
﹁違うとは? 何が違うというのか﹂
﹁あの構成だ! あれは精神支配の禁呪ではなかったのか!?﹂
﹁さぁ⋮⋮。私がいつそう言ったか、主教に聞いてみてはどうだ?
お前の望む答を返してくるとは限らんが﹂
白々と言い放つ女に男の顔色はますます赤黒くなった。憎しみも
顕な目で女を睨む。女は長く伸びた爪を一本一歩磨きながら、銀粉
をまぶした睫毛を上げた。
﹁精神支配⋮⋮精神支配ね。確かにそれもあるから間違ってはいな
い。お前たちの希望通りではないか﹂
251
﹁我らの希望はシューラ神によるこの国の啓蒙だ! この国を滅ぼ
すことではない!﹂
﹁啓蒙? 精神支配をいつから啓蒙と言うようになったのだ。奇異
なことを言う﹂
揶揄を隠そうともしない声には、艶以上に嘲りが溢れていた。そ
してそれは女の嫣然とした微笑により磨きをかけていく。彼女を花
と例えるなら、それを見た人間は花弁よりも棘の方が遥かに魅力的
であると気づくであろう。もしその忌まわしさを無視できるのであ
れば、だが。
﹁お前の戯言などどうでもいい、アヴィエラ! 一体あの構成は何
なのだ! 何が起こる!﹂
再三の怒鳴り声に、アヴィエラと呼ばれた女は爪を磨く手を止め
た。布を放り出すと長い十指を伸ばし、卓上の蛇像を手に取る。
︻あれ︼がこちらに侵蝕する。そ
﹁大したことではない。お前たちの望み通り精神支配も行われる。
それ以上の望みもな。︱︱︱︱
れだけのことだ﹂
男は絶句した。
その答を予想していなかったわけではない。だが、そんなことは
今まで一度も﹁起こらなかった﹂のだ。はなから不可能なことだと
思っていた。にもかかわらず、それが現実となりつつあるのか。
信仰では抑えられぬ震えが彼の足を伝う。男はかすれた声で問う
た。
﹁現出が起これば⋮⋮この国はどうなる﹂
﹁分かっているのだろう? ︽三番目︾の子らよ。あれと接触した
者がどうなるのか、お前たちはよく知っているはずだ﹂
アヴィエラの声は死を宣告するものによく似ている。その意味す
るところをよく知っているからこそ、男は顔色を失った。
﹁まさか⋮⋮︽一番目︾や︽二番目︾になるというのか⋮⋮﹂
軽い笑い声が男の言葉を肯定した。彼女はシューラ像をテーブル
252
の上に放り投げる。鉄で出来た像は、耳障りな音を立てて卓上を転
がった。だが男は最早それを不信心とは咎めない。彼は女につめよ
った。
﹁馬鹿な! それでは本当にこの国は滅ぶぞ!﹂
﹁だが一人くらいは残るかもしれない。︻あれ︼に精神を侵されな
い人間がな﹂
﹁それがお前だとでもいうのか!﹂
﹁いいや?﹂
彼女は首だけで後ろを振り返る。そこには黒衣の男が彫像のよう
に壁際に立って控えていた。アヴィエラの他に誰もその正体を知ら
ない、彼女に付き従う男。見たところ武器の類は持っていないが、
ただならぬ雰囲気は、彼女に何かあればいつでも動き出すことを無
形の圧力だけで示唆してきている。
怒りと困惑に熱くなっていた男は、その気配に気圧されて口をつ
ぐんだ。よろめくように二歩下がると、しかし諦めきれず口を開く。
﹁私は、止めるぞ⋮⋮﹂
﹁好きにすればいい。その足で駆けていって城門を叩くか? 王は
信じぬであろうな、あの構成がこの国を滅ぼすなどと﹂
むしろ王は、何故構成のことを知っているのか、男を捕らえて詰
問するに違いない。もっと言えば口封じに殺してしまう可能性の方
が高いだろう。
だが男は険しい目を崩さぬまま、無言で身を翻すと部屋から出て
行った。後には二人の男女だけが残される。乱暴に閉められた扉の
余韻が止み、静寂が部屋中に広がると、ようやく黒衣の男は口を開
いた。
﹁いいのか、アヴィエラ﹂
﹁構わん。どうせ何もできない﹂
﹁ならお前ももうこの国を離れた方がいい。結果は離れた場所から
でも分かるだろう﹂
女は黙って微笑んだだけで動こうとはしなかった。妖艶な視線が
253
テーブルの上の蛇の像を絡め取る。
黒い蛇は、何もはまっていない眼窩を部屋の片隅に向けて、沈黙
を保ったままだった。
荷物をまとめる。本は丁寧に揃えてバッグの最下部に詰め、その
上に大して量のない服を押し込んだ。小物の類はサイドポケットに。
旅をしている以上、荷物は多くならないよう努めていた。雫は指輪
を確認して窓際の小鳥に頷く。
﹁いいよ。ちょっと行ってみようか﹂
エリクの荷物は宿にはない。彼の部屋は城に向かう時点で引き払
っており、荷物は本人が持っていっている。だから、雫が自分の荷
物さえ準備できればいつでも出発できる状態ではあったのだ。
このまま街を出ようという程の気持ちがあるわけではない。ただ、
城で何か起こっているなら様子を見に行ってみようと思った。荷物
をまとめたのは﹁もしかしたら﹂と思っただけに過ぎない。メアが
あまりにも注意を促すものだから。そしてそれが結果的には幸運に
働いた。
雫はメアを肩に乗せると宿の部屋を出る。階段を駆け下り、入り
口へと向った。しかし、角を曲がりかけたところで彼女は思わず足
を止める。そのまま後ずさると慌てて廊下の影に隠れた。
宿の入り口、大きく開かれたそこにはちょうど、剣を帯びた険し
い顔の兵士たちが五人程、辺りを窺いながら入ってくるところだっ
た。
何故、兵士がここに来ているのか。
雫は早くなる鼓動を自覚しながらも、自分には関係のないことだ
と思い込もうとした。何の心当たりもないのだ。堂々としていれば
きっと通り過ぎられる。それでも息を殺して様子を窺っていた彼女
254
は、兵士たちが中に入ってくる気配に身を竦めた。見つからないよ
うもう一歩下がる。
宿屋の主人だろうか、慌てて誰かが出て行く物音が、夜の宿に不
思議な程大きく響いた。
﹁これは⋮⋮どういったご用件でしょう﹂
﹁人を探している。黒い瞳の若い娘だ。魔法士の男と一緒に行動し
ていたはずだが﹂
つい声を上げそうになった雫は、慌てて自分の口を手で塞いだ。
肩に止まる鳥と目を合わせる。黒い瞳で魔法士の男の連れである娘
など、この宿には他にいない。雫を探しに来たのだ。
自分だと出て行くべきか否か、彼女は動転しながらも必死で考え
を纏めるため意識を集中した。バッグの持ち手を握る指に汗が滲む。
﹁その娘がどうかしましたか?﹂
﹁別に問題があるわけではない。ただ連れのことで少し聞きたいこ
とがあるだけだ﹂
やはり城で何かがあったのだ。そしてエリクはそれに関係してい
る。詳しいことを知りたい気持ちが雫には沸いたが、それだけで飛
び出して行くほど彼女は無謀でもなかった。気配を殺したまま壁に
身を寄せる。
﹁揉め事ですか? 困りますよ、そういうのは﹂
﹁大したことではない。それに城からの正式な命だ。隠し立てすれ
ばお前にも咎は及ぶぞ﹂
それを聞いた瞬間、雫は踵を返すと入り口とは逆方向に向って歩
き出した。本当は走り出したかったのだが、足音でばれてしまって
は元も子もない。震えそうになる足を内心叱咤して、彼女は静かに
裏口へと向かう。彼らの前に出て行っては不味い。そう思わせる険
が兵士の口調にはあったのだ。
決して善意や義務感だけではない、威圧と棘のある気配は、まる
で犯罪者を探しているかのようである。自分の気のせいかもしれな
いとも思ったが、雫は反射的に名乗り出ないことを選んだ。宿の裏
255
口に辿りつき、掛け金をはずすと暗い外に出る。
無言のまま小走りに手近な角二つを曲がると、雫は閉まっている
店の壁によりかかって空を見上げた。建物と建物のほんの細い隙間
に城が見える。硝子のドームが内側からの淡い光で神秘的に輝いて
いた。
﹁どうしよ⋮⋮﹂
ぽつりと零れた言葉に不安を覚えたのは、誰よりも彼女自身であ
る。雫は肩の小鳥を両手の中に抱き取ると目の前に持ってきた。
﹁ね、メア。どうすればいいかな。エリクがどこにいるか分からな
い?﹂
雫には無理だが、メアは本来魔族であり、使い魔の契約にはエリ
クの名も刻まれているはずだ。なればこそ彼の居場所を魔力を辿っ
て判別することも、可能かもしれない。彼女は切なる希望を込めて
自らの使い魔を見つめる。
メアは軽く首を傾げると、主人の﹁お願い﹂を受けて浮かび上が
った。それは鳥として飛ぶのではない﹁浮遊﹂だ。雫が慌てて支え
気がつくとそこには緑の髪の
ていた手を引くと同時に、小鳥の輪郭が歪む。鮮やかな緑色が空間
に染み出した。
目を丸くしたのは一瞬。︱︱︱︱
少女が佇んでいた。
﹁メア!﹂
﹁ご注意を、マスター。この街の城近くには今現在、異様な魔力が
うずまいております﹂
﹁異様な? それって⋮⋮エリクは?﹂
﹁魔力を感じ取れません﹂
﹁え?﹂
端的な返答に雫は戦慄を覚える。生まれてからずっと彼にあるは
ずの魔力が感じ取れない。つまりそれの意味するところは⋮⋮
﹁ご安心下さい。城の魔力が強力すぎて、探知できていない可能性
256
があります。私はそれ程強力な魔族では御座いませんので﹂
蒼白な顔色になってしまった雫は、付け加えられた言葉を聞くと、
気が抜けて座り込みそうになった。微かに震える片手で顔を覆う。
﹁無事ってことかな⋮⋮﹂
﹁確証がないことは申し上げられません。ですが、彼の方が生きて
らっしゃるなら城にいらっしゃるとしか思えません﹂
﹁城で何かがあった?﹂
﹁強大な魔力が蠢いています。ゆっくりと成形されつつある⋮⋮何
か⋮⋮⋮⋮よく、分かりません﹂
エリクは﹁何かの仕事﹂をする為に城に行った。おそらくそれが、
今の事態と関係しているのだろう。雫はもう一度遠くの城に視線を
送る。
彼はきっとあそこにいるのだ。何かが起きつつある城に。もしか
したらそこで危機に陥り、助けが必要なのかもしれない。
ただ⋮⋮先ほどの兵士たちが、本当に城の命令で彼女のところに
来たのだとしたら、城に近づいては捕まってしまう可能性も高いだ
ろう。そうなっては彼を助けるどころか足手まといになりかねない。
自分の身を最優先にするなら、どこかで隠れていた方が無難と言え
ば無難だ。
だがそれでも。
もし﹁何か﹂が起きているのだとしたら、彼女にはエリクを見捨
てるという選択肢はなかった。世界の存亡を賭けて旅をしているわ
けでも、大事な人を救う為の旅でもない。恩人を、旅の連れを踏み
台にしてまで先に進むほどの理由を、雫は持っていないのだ。
そんなことをしなければならないくらいなら、最初から旅になど
出なかった。元の世界に帰れぬままあの小さな町で一生を終えるこ
とさえ彼女は選べたのだ。
しかし彼女は旅立つことを選んだ。人の好意を助けに可能性を追
257
だから、﹁見捨てる﹂などということは、諦めること
い求めることを望んだ。
︱︱︱︱
は最初から思いつかない。
捨てたくないものを捨てるつもりは、毛頭ないのである。
雫は深く息を吸う。緊張に波打ちそうになる精神を、ゆっくりと
吐く息と共に整えた。初めてこの世界に来た時、そうして砂漠を越
えたように、自らの意志を静かに、けれど強く保つ。
重いバッグを支える指を握り直して、こちこちに固まっていた手
に気づくと、彼女は少しだけ苦笑した。
﹁よし、行ってみよう。どこかから忍び込めるかも﹂
主人の声に応えてメアは再び小鳥へと戻る。使い魔に左手を差し
伸べて雫は歩き出す。
そして、誰からも予想外である異質、無力なジョーカーは、夜に
溶け入って消えていったのだ。
﹁それ﹂が何であるか、エリクが気づいたのは奇跡的な早さであっ
たろう。少なくとも集められた五十人の中で、﹁それ﹂が何だか分
かったのは彼だけだった。
しかしそのことは、必ずしも彼が構成解読能力に秀でているとい
う結論を導くわけではない。なぜならエリクは﹁それ﹂が何だか分
小さな村の呪いの塔の構成を。
かる下地を持っていた唯一の人間だったのだ。つまり、彼は前にも
似た構成を見ていた。︱︱︱︱
二つの構成の類似に気づけば、そこから読み解くのは早かった。
おおよそを把握すると同時に、エリクは己の迂闊さに舌打ちしかけ
る。百二十年前に作られたというノイ家の塔は、城都にいた女がか
ぶれていた宗教の教えで作られたものなのだ。
ならばその宗教の母体は城都にあったということで⋮⋮百二十年
258
が経過した今も、城都に何かしらの影響を残していたのだろう。
何故その可能性に今まで思い至らなかったのか。旅には関係ないか
ら仕方ないのだとしても、気づかぬまま事態が悪化してしまったこ
とは確かである。
あの塔には、人の精神を気づかれないうちに侵蝕する構成が組み
込まれていた。
そして、今彼が関わっているこの構成は︱︱︱︱
﹁正気じゃない﹂
エリクは口の中のみで消え去る呟きを零す。
そんなことは未だかつて﹁起きた事がない﹂のだ。
千年を越える大陸の記録にさえない。未遂と思われる事件が何回
か起きただけで。
そしてその事件のどれもが、未遂にもかかわらず少なくない人命
を消費することとなった。
紛うことなき禁呪。
それが今、彼の触れている構成だ。
これを完成などさせてはならない。だが、どうすれば食い止めら
奇異なのは、これが城によって組まれている構成とい
れるのか。彼は考えながら更に二時間、構成を繰る。
︱︱︱︱
うことだ。
過去起こった未遂事件はどれも、決して人数が多くない集団が密
かに準備をし、狂信的な理由のもとに実行に移したものだった。城
や国が率先してこういった構成を組ませたことなどない。それはそ
うだろう。この構成が発動すればまず、周囲一帯にあるものは滅び
てしまうのだから。
だからおそらく、城の人間の中にもこの構成がどういうものなの
か真実を知らない人間は多いはずだ。兵士か、魔法士か、あるいは
王か。彼らを説得して味方を増やすことができれば、この構成を止
められる可能性は格段に上がる。
259
エリクは長い詠唱を経て、構成の第二十から第二十五系列までを
組んだ。広がる系列は左右の同じものと繋がり絡み合う。
次は第七と第三一系列。これも慎重に詠唱を重ねて彼は対角の構
重要なのは人を見る目。誰が構成について誤った情報
成と繋げた。
︱︱︱︱
を持っているのか。誰が話を信じてくれるのか。
危ない橋だ。誤れば即、殺されかねない。
詠唱を重ね、ひたすらに構成を組み上げながらエリクは周囲を窺
う。
今、この部屋にいる城の魔法士は二人。壮年の男と、エリクと同
年代くらいの若い男の二人だ。壮年の男の方が、服装からいっても
権力がありそうだが、気難しそうな顔立ちは、部外者の彼が提言し
ても容易くは信じてくれないのではないかと思わせる。
話をするなら若い男の方だろうか⋮⋮。動く為の機を見ていたエ
リクだが、それは意外にも早くやってきた。別の魔法士が外から入
ってくると、壮年の魔法士を呼び出して二人で何処かへと出かけて
いったのだ。
これで兵士を除けば、部屋にいる見張りは若い魔法士のみとなっ
た。エリクは短く決断する。きりのいいところまで構成を組んでし
まうと片手を挙げた。
﹁すみません。少し休憩で外に出たいのですが﹂
﹁ああ、いいよ。私も付き添うがいいか?﹂
﹁お願いします﹂
もしここで、自分が殺されたのなら。雫はどうなるのだろう。
出来れば考えたくはないが、考えなければならない疑問が彼の中
に沸き起こる。
彼女は割合しっかりしている人間だ。メアもいることだし自力で
最初の街に戻ることもできるかもしれない。あるいは別の同伴者を
260
見つけることもできるかも。絶対に代わりがきかないという程の存
だが⋮⋮彼女はきっと悲しむだろう。あの性格なら、
在ではないのだ。彼女にとって自分とは。
︱︱︱︱
帰って来ない彼を真摯に待ち続けるかもしれない。
それはちょっと嫌だな、とエリクは思う。何故かはよく分からな
いが、あまり彼女に悲しい顔をさせたくない。ファルサスまではま
だ遠い。彼女は元の世界に帰らなければならないのだ。
エリクは平静を保ったまま城の魔法士と連れ立って階段を上って
いく。その果てに見える小さな空は、残照が薄青く染めていた。
﹁あの構成が何なのか、あなたはご存知ですか﹂
エリクが正面からそう尋ねたのは、若い魔法士の性格が、休憩に
付き添われた短時間でも明らかな程に﹁人のよい﹂ものだと判断し
たからだ。案の定男は少し困ったような顔になって彼に答える。
﹁一応魔法士長から聞いてはいるが。機密だから教えられない。結
構昔から城に伝わっていたものらしいよ﹂
﹁宗教がらみでですか﹂
﹁いや? 違うと思う。我が国は特定の宗教には肩入れしていない﹂
その表情は嘘を言っているようには思えない。つまり、この男は
例の構成が何であるかを知らないのだろう。
流れの魔法士を偏見の目で見ることもない男の素直さに、彼は安
堵する。こういった人間には本当のことを言うのが一番効果的なの
だ。エリクは周囲に人がいないことを確認すると、深刻な表情を作
って若干声を潜めた。
﹁私は同じ構成を見た事があります。七年前にファルサスの記録庫
で⋮⋮。数百年前に狂信者数人が、ファルサスの城都を壊滅させる
為に街で展開した禁呪です。その時は未然に防がれましたが五十七
人が死亡しています﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
261
現状を変えようとする一滴。それは彼の望み通り、目に見えて分
かる効果を相手にもたらした。唖然とした表情が続いた後に、疑い
と恐れ、何とか笑い飛ばそうとしてしきれない困惑が男の両眼に揺
れる。
﹁そんな馬鹿な。あれは⋮⋮﹂
﹁すぐには信じてくださらないでしょうが本当のことです。私の勝
実際は第十九系列までは基礎
手な推察ですが、あの構成は間違った効果と共に、城に伝わってい
たのではないでしょうか。︱︱︱︱
を築きつつ周辺から魔力を集めるようになっていますが、第二十七
と第四十二で構成に直接触れたものの血肉と魂を吸い取ります。そ
して発動後は第二十から第三十、そして第五十代の系列が交差して
円を描き、その場に概念的に穴をあけるという代物です﹂
﹁概念的に、穴?﹂
﹁世界の外⋮⋮底に沈殿しているという負の海に向けて穴が開かれ
ます。それが実在しているものなのかどうかは証明されていません
が、ファルサス以外の類似した事件では、濃い瘴気がその場に生み
出され、多くの死者行方不明者、また精神に異常をきたしてしまっ
た人間がいたと記録されています。調べればおおまかにですが、魔
法歴史年鑑に記述が残っているはずです。勿論ファルサスに問い合
わせれば、もっと詳しいことも分かります﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それは⋮⋮いや⋮⋮﹂
はったりは必要だ。まず大事なのは﹁今﹂を乗り切ること。
その為には多少の誇張を混ぜることも仕方ない。エリクはあの構
成の正体が、自分の想像通りであるという自信があった。
根本となるものが事実であるならば、その他の証明は自然と後か
らついてくる。仮にそれが為されないとしても、あの構成が歴史に
何度か現れかけた禁呪であるという疑いを持って接すれば、真実を
読み解ける人間はいずれ出てくるであろう。
262
現に目の前の男は揺らぎつつある。知っている構成を思い出し、
言われたことを元に判別しようとしていることは表情から明らかだ
った。
エリクはたっぷりと間を取ると、もう一押しする。
﹁あの構成は完成させてはならないものだと私は思いますが、国王
陛下のお望みは城都の壊滅でしょうか﹂
﹁そんなはずはない! 陛下はこの国を守られる為に⋮⋮﹂
﹁ならばなおさら、構成を中断させるべきです。完成しては取り返
しのつかないことになります﹂
もし完成してしまったら、まず間違いなく歴史に残る惨事となる
だろう。多くの死者が生み出されて城都が滅ぶ上、その後開いてし
まった穴を塞げるかどうかも定かではない。
城に所属する魔法士は、すっかり蒼ざめてしまった顔で考え込む
と、やがて躊躇を漂わせながらも呟く。
﹁⋮⋮⋮⋮だとしても、すぐには止められるか保証できない。ただ
相談の上、お前の言う事が正しいと分かれば構成は中断されるだろ
う﹂
﹁はい。よろしくご判断お願いします﹂
ひとまずはこれでいい。
誰の横槍も入らなければ。
構成の完成にはもともとあと二日はかかるのだ。それまでには真
偽は明らかになるはずだ。︱︱︱︱
エリクは魔法士に、話す相手は慎重に選ぶよう念を押して、ひと
まず地下へと戻る。
既に地下の広間いっぱいに張り巡らされつつある構成は、まるで
人の無知を嘲笑うかのように圧倒的な様相を呈し始めていた。
カンデラの副魔法士長ベントはその報告を受けた時、舌打ちを禁
じえなかった。満を持して構成を始めた﹁禁呪﹂は、王直々の命に
263
よってのものなのだ。
百年ほど前に城に持ち込まれたというあの構成は、街一つ軽く焼
ける程の﹁魔法弾﹂を作り上げる為のものと聞いている。特に触媒
などを必要とするわけではないが、大規模破壊魔法である為﹁禁呪﹂
とされた魔法だ。
あれさえ完成すれば、守るにせよ攻めるにせよカンデラは強大な
力を持つことになる。近隣国家の興亡に押されて慌しく手をつける
だがその構成が、実際はまったく別の
ことにはなったが、あの禁呪はもともとカンデラの切り札と言って
いいものなのだ。︱︱︱︱
効果を持つものではないかという報告が入ってきた。
まさに水を差されたとしか言いようのない事態に、ベントは渋面
を禁じえない。
同様の思いを感じているのか、目の前に立つ二人の魔法士は戸惑
いの表情を浮かべてはいたが、そのまま報告を続けていく。
﹁確かに調べたところ魔法歴史年鑑には、百二十年前と四百十年前
に、狂信者の禁呪により瘴気が染み出すという事件が起こっていま
す。 四百十年前は術が不完全だった為に、百二十年前はファルサ
スの介入により途中で構成は破綻しておりますが、死者の数はかな
りのものです。三百年前のファルサス城都での事件についても、瘴
気の発生に関しての簡単な記述ならば残っておりました。構成はお
そらくファルサスに問い合わせれば分かるかと⋮⋮﹂
﹁問い合わせられるか! 禁呪なのだぞ!﹂
そんなことをすれば間違いなく魔法大国の介入を呼び込む。魔法
の管理者よろしく大陸に威を打ち立てているファルサスは、カンデ
ラが禁呪に手をつけたと知れば、何らかの制裁を加えてくるだろう。
それだけは避けなければいけない事態だ。ベントは忌々しさに目の
前の机を何度も指で叩いた。
﹁ですが、あの構成は複雑すぎて、解析には時間がかかります。極
秘裏に調査するとしても三日ではとても足りないかと⋮⋮﹂
264
﹁今まで厳重にしまいこまれていたからな⋮⋮仕方ない﹂
百年もの間、あの構成図を見ることが出来たのは、歴代の王と魔
法士長のみに限られていたのだ。ベントも今回初めて構成図を見て
その複雑さに驚嘆した。禁呪とはかくあるものかと思ったくらいな
のだ。とてもではないが、短時間でその真の効果を判断することな
どできそうにない。
だが放置して万が一があってはことだ。彼はこれ以上ないくらい
顔をしかめた。
﹁陛下へご注進に及ぶか⋮⋮?﹂
﹁何をだ、ベント﹂
一瞬で場を凍りつかせる声は、部屋の戸口からもたらされた。室
内で相談をしていた三人は、驚愕に体を硬直させる。
そこには、いつから部屋の前にいたのか魔法士長のイドスが、冷
え切った視線を部下たちに向けて立っていた。イドスの背後にはし
かめつらの魔法士が一人、控えている。おそらくはこの男が彼らの
相談を漏れ聞いて密告でもしたのであろう。
肌に突き刺さるような緊迫感に、内心怯みながらもベントは立ち
上がった。
﹁れ、例の構成は別の効果を持つ禁呪の可能性があると⋮⋮﹂
﹁誰が言った?﹂
この時、後から考えるならベントは正直に答えるべきではなかっ
た。むしろ適当なことを言って時間を稼ぎつつ、イドスを出し抜く
手段を考えるべきだったのだ。
構成を見る事が許されていた魔法士長にもかかわらず、イドスは
長年の間その効果について何も言ってこなかった。そのことを僅か
ながら危ぶんだからこそ、若い魔法士たちはイドスではなく副魔法
士長のベントに相談してきたのだから。
しかし、ベントは魔法士長の圧力に耐えられなかった。責任転嫁
をするように﹁今回採用された魔法士の一人が言い出した﹂と言い
265
訳し、エリクの名を教えてしまう。イドスはエリクの審査書類を持
ってこさせると、一通り目を通して頷いた。
﹁流れの魔法士がくだらぬ戯言を⋮⋮。お前たちはさっさと持ち場
に戻れ﹂
反論を許さぬ静かな声に、ベントたちが慌てて退出すると、魔法
士長は兵士を数人呼ぶ。手に持った書類を彼らの前に投げた。
﹁この男を隔離しろ。抵抗するなら殺してもよい。どうせ旅の人間
だ。知人もおらぬだろうし消息を断っても問題あるまい﹂
﹁いえ、確か連れの娘がいたはずです。御触れを出した時、一緒に
いたところを見ております﹂
﹁ならばその娘も確保せよ﹂
問題の男は、ファルサスの一般に公表されていない記録について
、連れを放置しておいて、
も言及したという。それが本当なら、少なからずファルサスに関係
した魔法士なのだろう。嘘だとしても
その娘にファルサスにでもたれこまれては全てが水泡になりかねな
、兵士たちを全て自分の前から下がらせた。深く息を吐いて
い。イドスは書類に記されている宿に娘を捕らえに行くよう手配す
ると
椅子に座る。
﹁主教様、今しばらくお待ちくださいませ。まもなくこの国に住む
者の精神は我らが神の支配下におかれますれば⋮⋮﹂
百年以上前から、城に絶えず送り込まれてきた狂信者の一人であ
る男は、愉悦の笑みを浮かべる。
だが、彼もまた知らない。禁呪について主教から聞かされていた
ことよりも、旅の魔法士が看破した効果の方がより真であるという
ことに。そして、同じくその真に気づいた同志が構成を止めるべく、
城に向って実働部隊を突入させようとしていることについても。
後に﹁無言の三日間﹂と呼ばれ、口に出すことさえ禁じられる混
沌が、今ゆっくりと幕を開けつつあった。
266
動物じみた方向感覚のよさ。自分のこの特技に、今夜程感謝した
ことは今までなかったかもしれない。
雫はカンデラの広い城都を細い路地を縫って走りながら、時折見
える城を窺った。少しずつ、その壮麗な建物は視界の中大きくなっ
てきている。あまり大通りに出すぎると兵士たちに見つかってしま
うのではないかと思い、真っ直ぐ城にむかうのではなく円を描くよ
うに慎重に距離を詰めているのだ。
﹁塀が高いからね⋮⋮﹂
間近で見た塀は確か、三メートルはゆうにあった。勿論ただの人
間である彼女にはそれを乗り越えることなど出来ない。裏口か何か
を探して忍び込めれば重畳だと思っている。もし、城に何かしらの
混乱が起こっているのなら、それに乗じることも出来るだろうが、
この距離からではまだよく分からない。雫は角を左に曲がった。
兵士たちは彼女を﹁黒い瞳の娘﹂として探していた。ならばサン
グラスでもかけてしまえば誤魔化せるだろうか、と少し思案する。
だが問題なのは、この世界でサングラスをしている人間など見たこ
とがないことだろう。たまに眼鏡をかけている人間を見るくらいだ。
﹁大体夜かけたら、何も見えないじゃん! 馬鹿か私は!﹂
突然の主人の独り言にメアは何も言わなかった。もっとも忠言す
るにあたってわざわざ人の姿に戻るくらいであるから、鳥の姿だと
言葉が話せないのかもしれない。
雫は自分の思いつきを五秒で却下すると、次の角を右へと曲がる。
また城が近づいた。
﹁こんなことならあらかじめもっと探検しとけばよかったかも﹂
城には間近で見学に行って以来近づいていない。その為どこに裏
門があるのかも分からないのだ。ただ何となく正門の真裏にあるの
ではないかと、見当をつけて走っている。
消して長くはない走るだけの時間。近づきつつある城から鈍い爆
267
発音が響いたのは、雫が行き止まりを避けて夜空を仰いだその時の
ことだった。
268
005
至極平凡な人生を送ってきた雫は、元の世界において爆発音を聞
いたことなど一度もなかった。火事に出くわしたことさえないくら
いだ。しばらく前にメアが塔を破壊した時は音がしたのかもしれな
いが、必死だったせいかよく覚えていない。
その為彼女は、打ち上げ花火を十発程まとめて上げたような重い
音に、思わずびくっと身を竦めてしまった。
﹁⋮⋮どーん?﹂
いささか間抜けに言い直してみたところで事態は変わらない。雫
は肩の小鳥と顔を見合わせると、恐る恐る建物の影から城の方角を
覗き込んだ。
暗い上に遠いせいかよく分からない。煙も上がっていないし、火
はついていないようだ。ただ静まり返っているかといったらそうで
はない。爆発を聞いた人間が他にもいるのか、街は徐々に喧騒を帯
びつつあった。
﹁い、行ってみようか﹂
雫は真っ直ぐ城の方へ爪先を向けると、様子を見ながら走り出す。
時折建物の影に身を隠すようにしながら、着実に距離を縮めていっ
た。夜でも薄明るく照らされている城が、徐々に大きくなる。微か
に聞こえる金属を打ち鳴らすような高い音に、彼女は首を傾げた。
窓から顔を出している人間はいるが、外にまで出て様子を窺おう
という人間は多くない。雫はそんな人間たちの間を縫い、窓の下を
通り過ぎる。城壁はもう目前だ。周囲には爆発の痕も、兵士もいな
269
い。彼女は高い壁を通りの向こうに確認しながら、正門の裏に向っ
て壁と平行に走り出した。微かにしか聞こえなかった金属音が次第
に明瞭になる。
﹁きんきん?﹂
どうにも雫が言い直すと、間の抜けた効果音になってしまう。
だが、本当に何の音なのか分からないのだ。彼女は頭の中で、刀
鍛冶が金槌で熱された鉄を叩く様を連想した。緩やかにカーブする
城壁に沿って足を進める。飛ぶようにとまでは行かないが、彼女の
本気の八十パーセントくらいだ。
しかし、のってきた勢いのまま走り続けようとした雫は、耳元に
鋭い鳥の鳴き声を聞いて慌ててブレーキをかける止まりきらない足
で三、四歩進んだ。
戦場だった。
たったそれだけの距離だ。
だがそこはもう︱︱︱︱
鋼が光を反射して白く煌く。
宙を切るそれと共に、またもや金属音が鳴り響いた。
雫は唖然と立ち尽くして目の前の光景を見つめる。現実を認識す
る為の数秒間を経て、彼女はようやく今まで聞いていたものが、剣
戟の音だと理解した。
先ほどの爆発音はこれだろうという崩れかけた城壁。そこから走
り出てきた兵士たちが、黒尽くめの男たちと戦っている。怪我を負
い膝をついた者の頭部に、容赦なく振り下ろされる長剣を見て、雫
は思わず両目を瞑った。短い悲鳴だけが耳に残る。
数秒経って薄目を開けてみると⋮⋮男は既に倒れ伏していた。割
れた頭から何かが流れて出て地に広がっていく。その体を別の男が
踏みつけていった。
初めて見た光景。それは、暗さに覆われていても充分凄惨なもの
だ。耳のすぐ傍で唾を飲む音が聞こえる。それが自分のものだと気
づくのに時間がかかった。
270
棒のようになった足が震える。
熱かったはずの体が一瞬で冷え切った。
ここは、どこなのか。
なにが、おきているのか。
友達は、家族は、どこにいて、自分はどこにいて、なぜ、こんな、
こわい、おかしな
頭の中に言葉が溢れる。
断裂した単語が連なる。
目を見開いた雫は、恐怖から踵を返そうとした。何かを考えてい
たわけではない。そうするしかなかった。だがその時、目の前に逃
げ出した男が倒れこんでくる。
暗くてよく見えない。だが血の臭いと助けを求めるうめき声だけ
は否定出来ぬ程、現実だった。雫は男と目が合う。そこには苦痛以
ああ⋮⋮⋮⋮人だ。
外の感情が浮かんでいた。
︱︱︱︱
雫は男のすぐ傍にしゃがみこむ。考えるより先に体が動いた。
﹁た、たすけるから﹂
逃げ出したいと思うのが人間の本能なら、助けたいと思うのは人
の本能なのかもしれない。
彼女はハンカチを取り出すと、男の脇腹にある傷を探して押し当
てる。鼻をつく生臭い血にこみ上げてくる吐き気を堪えながら、力
を込めた。
汗が額から滑り落ちていく。
このまま、どうすればいいのか。
救急車などない。医者なら治せるのか? 分からない。
魔法は使えない。エリクがいないから。彼は無事でいる? それ
271
も、分からない。
怖い。
何も、出来ない。
逃げ出すことも、できなかった。
誰かがゆっくりと近づいてくる。剣を手に、恐ろしい形相で雫と
その傍の男を睨みながら。雫は気配に気づいて顔を上げる。兵士の
格好をした男は、緩慢な動作で剣を振り上げた。
まるでスローモーションだ。
自分の体も、とても重い。
庇おうか、と思った。
自分は怪我がなくて、目の前の男は重傷なのだから。
覆いかぶさればいい。そうすれば、きっと。
けど。思ったのに。手が動かない。足も、頭だけが空回りして。
メアを。ああでも、こんなことは︱︱︱︱
強い衝撃を受けて雫は後ろに転んだ。
今まで呻きながら地にはいつくばっていた男が、彼女を思い切り
突き飛ばしたのだ。
彼女の黒い目を一瞬だけ見返して、そして男は目を閉じた。間断
待っ⋮⋮!﹂
おかず、その背に追いついてきた兵士の剣が突き立てられる。
﹁︱︱︱︱
何も止まらない。スローでも何でもない。
時は平等に進んでいく。
人間
背を貫通して胸を串刺された男は、陸に打ち上げられた魚のよう
に一度大きく痙攣して⋮⋮⋮⋮動かなくなった。
雫はしりもちをついたまま、男を殺した兵を見上げる。
まだ若い兵士の顔は、苦渋と興奮の入り混じった︱︱︱︱
の顔だった。
後から思えば、一つのチャンスだったのかもしれない。高い壁は
272
壊され、場は混乱に満ちていたのだから。戦闘を縫って城内に忍び
込むこともできただろう。死と戦いに慣れた者であったなら。
しかし雫はその対極にある人間だった。地面に座り込んだまま、
ここで、死ぬかも。
ただ目の前に立つ兵士を見つめている。
︱︱︱︱
そう思ったのは、若い兵士が逡巡しながらも彼女に向かって剣を
構えた時だ。今まで、自分が不意に死ぬかもしれないと思ったこと
はあったが、﹁殺されるかもしれない﹂と考えたことは一度もなか
った。
縁がないことだったのだ。どんな悲惨なニュースを見ても、意識
は遠さを拭えなかった。
だが今、それはとても近い。
目の前だ。人の形をとって彼女に現れた。
けれど雫は全てを飲み込めないままで⋮⋮この現実を理不尽だと
さえ思わない。ただ、﹁大学に本を返せなくなったな﹂ということ
が少し申し訳なかった。
雫は目を閉じる。
怖かったから。
それだけしか出来なかった。
声も出ない。
怖いから、待った。
金属の打ち合う高い音。
それはすぐ近くで炸裂した。
雫は反射的に耳を押さえる。
目を開けた。まだ夜。暗い。けれどそれははっきりと見える。
兵士の驚愕の顔。
彼女の眼前ではその時、二本の剣が交差していた。
273
﹁女の子を問答無用で切りつけようってのは、衛兵のすることじゃ
ないな﹂
余裕に満ちた軽口は、聞き覚えのある男の声で作られている。雫
はその声に我に返ると、慌てて後ろに下がり立ち上がった。自らの
剣を以って、兵士の剣を防いだ男は首だけで振り返る。どこか胡散
くささの否めない、けれど親しみが持てなくもない笑顔がそこには
あった。
﹁さて、雫。夜遊びはほどほどに、だ﹂
ターキスは言いながら剣ごと兵士の体を押し戻す。
バランスを崩した兵士がよろめくと、彼は追い討ちをかけるよう
に大振りで剣を揮った。兵士は慌てて飛びのく。
けれど、追撃を警戒したのであろう若い兵は、直後ぽかんと口を
開けて立ち尽くす羽目になった。突然現れた男は、庇った少女の手
を引いて笑いながら、城とは逆方向に走り出したのだ。みるみる遠
ざかる城を、走りながら振り返って雫は顔色を変える。
﹁え、ちょっと、ちょっと﹂
﹁戦略的撤退。話はお茶でも飲みながら聞くから、今は真剣に走れ﹂
頭の中はこんがらがっていたが、ともかく助けてくれた男の言葉
である。雫はひとまず足を動かすことに専念した。
二人を追って来る者はいない。剣戟の響きは遠ざかっていく。
しかしそれでも暗い夜の中にはそこかしこに死が転がっている気
がして、彼女はやりきれない思いを堪えたのだった。
宿屋に少女を確保しに行った兵が空振りで返ってきたと報告を受
けた時、イドスはもっと腹立たしい報告に眉を歪めているところで
あった。問題の禁呪について指摘をしたという魔法士が、いずこと
もなく消えてしまったというのだ。
イドスが兵を手配し、男を捕らえようとした時、既に男はいるべ
274
き地下の広間にはいなかった。﹁忘れ物がある﹂とふらっと出て行
ったきり行方が知れないらしい。
このまま問題の魔法士を逃がして、王の耳にでも話が入っては不
味い。イドスは慌てて城中を捜索するよう兵士たちに命じた。
しかし、その命もまたすぐに覆さざるを得なくなる。
魔法による爆発と共に城壁が破られ、何者かが城に攻撃をしかけ
てきたという報告が入ってきたのだ。
﹁忌々しい⋮⋮っ! さっさと片付けろ! 城には一歩も入れるな
!﹂
もしこの時イドスが最前線まで行って状況を見極めようとしたの
なら、侵入を試みる者たちが自分の同志であると分かったかもしれ
ない。けれどこの時彼は、侵入者のことを﹁逃げ出した魔法士の男
が、禁呪を止める為に手配したのだ﹂と思い込んでしまった。
﹁禁呪を止める為﹂という目的は確かに一致していたのだが、実情
にはほど遠い。
これによってイドスは、襲撃者を﹁敵﹂と認識し、城内から指揮
を取り続けることとなる。
全てを知るのはほんの数人。しかし彼はその中に入らなかった。
﹁なかなか混迷しているな﹂
アヴィエラは窓の傍に立って街を見下ろしていた。火は上がって
いないが、弾ける魔力に何が起こっているのか容易に推察できる。
予想通りと言っていい戦闘に彼女は美しい微笑を見せた。椅子に座
ったままの老人はくぐもった笑い声を上げる。
﹁セルーを炊きつけたか。妖女はげに恐ろしいものだ﹂
﹁争いがあった方がいいだろう? 私は力で自分を通す機会を与え
てやっただけだ﹂
﹁何もなければ安寧のまま狂えたというに。残酷な遊びをしおる﹂
フードの中に体を埋没させた主教は、言葉を煙のように燻らせた。
275
女は片眉を上げてわざとらしく驚いてみせる。
﹁どちらが残酷なのやら。信者たちをも欺いて禁呪を組ませたのは
お前だろう?﹂
﹁かつての信者ならば皆、喜んで神の為に身を捧げたものだ。だが
今はどうだ? 信仰は街に広がったがその分浅くなってしまった。
儂は皆に原点に戻れと、そう教えるだけだ﹂
アヴィエラの背後に控える黒衣の男は、主教の言葉に僅かに目を
細めた。しかし彼は何も言わない。代わりに女が艶のある唇に言を
含む。
﹁原点と言えば原点であろうな。﹃負の海﹄は﹂
﹁切り離せぬものを見てみぬふりなどできまい﹂
﹁だから皆が、自分と同じものを見るべきだとでも言うのか?﹂
訪れた沈黙は、泥濘にも似て部屋に沈殿しているようだった。
老人は目を閉じている。女は本を手に笑っていた。白い指が表紙
の金細工をなぞる。
お前はも
﹁終幕はもうすぐだ。主教様はそれまで隠れているのか?﹂
﹁最後になれば出る。儂の神を迎える為にな。︱︱︱︱
う行くのだろう? アヴィエラ﹂
﹁ああ﹂
﹁世話になった、と言うべきか。お前のその本がなければ、精神を
操るだけの禁呪を真の禁呪とすることはできなかった﹂
長い時間をかけて、代々の主教たちは陰謀の根を張り巡らせてき
た。人々の間に信仰を浸透させ、城に人を送り込み、徐々にこの国
を支配下に置こうと狙っていた。現に城が長年慎重に所蔵していた
禁呪は、百年前彼らが持ち込んだものだ。発動すれば街の人間の精
神はみな、術者の支配下に落ちるという類のもの。
だがその構成は土壇場で﹁書き換えられた﹂。アヴィエラの深紅
の本をもとに、主教はイドスに命じて構成を改竄させたのだ。
﹁最後に聞いておこうか⋮⋮。その本は、一体何だ﹂
かつて起こった事が、そして﹁起こらなかった﹂事が書かれてい
276
る本。人知を越えた禁呪さえ、そこにはいくつも記されている。得
体の知れない女の本を主教は怪しんでいたが、今までその正体を問
うたことはなかった。
アヴィエラは自分が持つ本に視線を落とす。問いに応えたのか違
うのか、本が微かに震えたような気がしたのだ。窓の外に動くもの
を感じて彼女が硝子の先を見下ろすと、そこには男と、手を引かれ
る少女の二人が走っていた。
さして興味もない光景だったことに苦笑して、アヴィエラは主教
を見返す。手の中の本を掲げ、声を出さず嗤った。
﹁さぁ? きっとただの⋮⋮人の記録さ﹂
城を襲う混乱から逃れでた雫は、ターキスに連れられるまま一軒
の店に入った。
薄暗い店内はそれなりに混雑している。密やかな囁きがあちこち
で交わされ、まるで波音のようだ。
テーブルに置かれた蝋燭に照らされる客の顔は様々である。大人
しそうな男、翳のある女、顔に傷があるごろつき。煙草の煙とは違
う甘い香が立ち込め、酒の匂いと相まって渾然とした空気を作り出
していた。
場の雰囲気に飲まれそうになった雫は、一歩前を行く男に尋ねる。
﹁ここは⋮⋮?﹂
﹁ん? 俺みたいな奴らの隠れ家だ。城の人間なんかはまず来ない﹂
ターキスは奥まった場所に空きテーブルを見つけると、まず雫を
座らせ自分はその向かいに座った。注文も何もしていないにもかか
わらず二個のグラスが運ばれてくる。
﹁ほら、飲めばいい﹂
﹁何これ。お酒?﹂
﹁当然﹂
277
﹁未成年なんだけど⋮⋮﹂
﹁もう十八だろ﹂
言いながら男は、水でも飲むように琥珀色の液体を喉に注ぎ込む。
雫は得体の知れない飲み物を覗き込んだが、結局鼻の奥が焼けるよ
うな強い匂いに、口をつけることはしなかった。
これが紅茶かコーヒーであったなら迷いなく飲んでいただろう。
ともかく気を落ち着けたいとは思っていたのだから。暗い店内を見
回す彼女の脳裏に、先ほどの光景が甦る。
苦しみ、死んでいった男。殺した兵士。今まで見たことのない、
けれど明らかに人間の姿。
泣くというほどには形にならない、けれど忘れることもできない
倦んだ感情が、酒よりも熱く彼女の中を焼いた。
﹁落ち込んでるのか?﹂
﹁落ち込んでる?﹂
そうなのだろうか。このもやもやとした気分を﹁落ち込んでいる﹂
と言っていいものなのか。雫はテーブルの上に置いた自分の手をじ
っと見る。見慣れた十指は微かに震えていた。
容赦なくもたらされる死。
つい先ほどまでは彼女もまた死の縁に立っていた。何も出来ずに
ただ立ち尽くして、それを見つめていたのだ。これもまたこの世界
の一つの姿なのだろうか。魔法が当然のように、殺意もまた当然だ
というのか。
目の前の男はああいう場面に慣れきっているらしく、いつもとま
ったく変わりがない。ターキスは俯いたままの彼女に気がつくと、
口のつけられていないグラスを少女の眼前へと押しやった。
﹁飲めよ。顔色が悪い﹂
﹁要らない。悪いけど、お酒は飲まないの﹂
﹁美味いのに勿体無い﹂
男は彼女のグラスを手に取ると、無造作にあおる。豪胆な仕草に、
自分との違いが如実に見て取れて雫は表情を曇らせた。
278
自分一人では何も出来ないのだとは分かっていたが、これ程まで
とは思わなかった。ターキスが現れなかったら、自衛さえせずにあ
のままあそこで死んでいただろう。エリクに会うことも、もとの世
界に戻ることも出来ぬまま。
雫は顔の角度を変えると、肩の上に止まったままの小鳥に視線を
送る。あの時、メアに頼めば死なずに済んだはずだ。力によってあ
の場を切り抜ける事も可能だっただろう。
けれど、土壇場で雫は躊躇ってしまった。半壊した呪いの塔を思
い出し、そして自分を殺そうとする兵士の興奮と恐怖の顔を見て、
何も言えなくなってしまったのだ。
死にたかったわけではない。ただ臆病だっただけだ。怖くて選べ
なかった。
自分で進むことも出来ず、うずくまっていた。
﹁⋮⋮助けてくれて、ありがとう﹂
﹁どういたしまして。大したことじゃない﹂
﹁大したことある﹂
雫はテーブルに両肘をついて頭を抱える。混乱し乱れたままの精
神を何とか落ち着けようと深呼吸した。
今更目頭が熱くなってくる。だが、生まれかけた涙を雫は堪えた。
閉じた瞼の裏に、また白く光る剣がよみがえる。
それは感傷を差し挟めない、単なる現実だった。
怖かった。
助けて欲しかった。
けれどそんな自分が厭だと思ったのもまた本当。泣き
だから、彼が現れた時に安堵した。
︱︱︱︱
たくなるのは自分の不甲斐なさのせいだ。
死は、全ての人を待つ結末だと知っている。人間は皆、死を待つ
存在なのだ。
279
それを目の当たりにしたのは初めてのことで⋮⋮だが、それは決
してこの世界だけの常識ではない。自分が、自分の住む周囲が幸福
だっただけで、流された血の量は無数の本の中にも記されている。
見たくなかったこと、いたたまれない現実であるのは、それが競
無力なことを自覚する。
争し生きていく人間の﹁当然﹂だということなのだ。
︱︱︱︱
まずはそこからだ。そして、今度は心構えをする。少なくともあ
んな風にうずくまってしまわないように。
長い沈黙の果て、雫はテーブルを睨んでいた視線を上げた。興味
津々の目をしている男に向かって上半身を乗り出し、遠くにあるで
あろう城の方角を指す。
﹁私、城の中に入りたいんだけど、あの壁が壊れたところから入れ
るかな﹂
﹁無理だな。あんななってちゃ一番あそこが警戒されてる。まずお
前には無理だよ﹂
﹁そっか﹂
ならば別の場所か手段を考えなければならない。自分でも出来そ
うな、実現可能性の高い作戦を。
下働きの少女の振りをして入り込めないだろうか。頬杖をついて
真剣に考え始める雫に、ターキスは人の悪い笑いを見せた。
﹁俺に頼まないのか? 手伝ってくれって﹂
﹁頼みたいけど、あなたって怪しいし、あなたには割りにあわなそ
うだから。何もお礼できないよ﹂
﹁色々お前について聞きたいことがある。それに答えてくれれば充
分だが?﹂
雫は反射的に﹁答えられない﹂と突っぱねかけて止めると、男の
要求をよくよく反芻してみた。
280
質問に答えるということはおそらく、自分の出自を明らかにする
ということだろう。いまだかつて前例のない﹁異世界﹂から来た自
分のことを、この男に教える。何か変わったことがないかと目を光
らせているらしき彼に。
それはどういう未来を導くことになるのか。今この状況よりもも
っと厄介なことになるのか。雫は一つ一つ落ち着いて考えてみよう
と意識した。
自分は所詮無力だ。それは裏を返せば、彼女が何者か知ったとし
ても利用のしようがないということではないのか。
ターキスは、繕おうとはしないにやにや笑いで彼女を見ていた。
雫は少し考えると男を見上げる。
﹁質問は、いくつ?﹂
﹁言うなぁ、お前。⋮⋮そうだな⋮⋮三つもすれば充分じゃないか﹂
﹁三つか﹂
アラビアのランプの魔人も、呼び出されて﹁三つの願いを﹂と尋
ねる時はドキドキするのだろうか。
もっともお話の中に出てくる魔人は雫とは違って極めて万能だ。
だからきっと駆け引きを楽しめるのだろう。こんな風に不安いっぱ
いにではなく。
﹁あなたに頼んだら本当に城に入れるの?﹂
﹁何とかするさ。俺は幅が広い傭兵だ﹂
﹁何でも屋?﹂
﹁はっきり言うな。それより早く決めなくていいのか? あの魔法
士が心配なんだろう?﹂
何故知っているのか。雫は顔を顰めたが、そもそも彼女一人で死
に掛けていたということからして分かりきったことなのだろう。そ
れより今、優先したいことは、エリクの安否を知ること。そして彼
と合流し直すことだ。
ならば借りられる手は借りよう。雫は決心をつけると頷いた。
281
﹁分かった。その条件を飲むよ。だからお願いする﹂
﹁確かに。契約主殿﹂
男はもっともらしく答える。だが表情に稚気がありすぎて、雫は
いささかむすっとしてしまった。対等な取引だと思っているのに、
まるで騙されているような気分になってしまうのだ。
そしてその不満は、半分は的を射ている。ターキスは自分の正面、
そして雫の背後に向って笑ったまま手を差し伸べた。
﹁さて、こちらの話はついたが⋮⋮あんたたちの依頼はなんだ? 大体見当はついているが、詳しい話を聞かないとな﹂
﹁え?﹂
雫は予期せぬ言葉に慌てて振り返り、そして驚愕に口をぽかんと
開いてしまった。いつの間にかすぐ後ろには四人の男たちが立って
いたのだ。黒尽くめの男たちが三人、そして苦渋にまみれた顔をし
た壮年の男が一人、いずれも険しい表情でターキスを見据えている。
その服装はまさに、先ほど雫たち二人が﹁撤退してきた﹂戦場で見
たものであり、兵士たちと戦っていた正体不明の集団と同じものだ
った。
﹁傭兵。お前なら厄介な仕事も引き受けてくれると聞いてきた。我
らの依頼を受けるか?﹂
﹁話によるね。面白かったら考えるが﹂
夜は次第に更けていく。
前哨戦の終わりは密やかに。そして、より苛烈な混乱がカンデラ
の街の中、次第に頭をもたげつつあった。
ターキスは黒尽くめの男たちと共に、更に店の奥にある個室へと
移動した。勿論雫も一緒である。彼は彼女に﹁待っててもいいぞ﹂
と言ったが、雫自身が話を聞きたいと同席を希望したのだ。
ターキスを除いた男たちは、明らかに戦闘とは無縁に見える少女
に物言いたげな視線を送ってきたが、雫はそれを無視した。何と思
282
われようともこちらにも事情があるのだ。彼らの話がこれからに関
わってくるなら、聞かないという選択肢はなかった。
それぞれの席に落ち着くと、壮年の男はテーブルの上で指を組む。
彼が黒尽くめの男たちの上司のようなものにあたるらしい。男はセ
ルーと名乗った。
﹁お前は横の繋がりも広いらしいから他の人間への口利きも早いと
聞いたのだ、傭兵﹂
﹁仕事を頼むつもりなら名前で呼んでくれよ。確かに知り合いは多
いがね﹂
﹁ならばターキス、我らの依頼は一つだ。城への攻撃を仕掛けたい。
明日中にだ。その為に人を集められるか?﹂
雫は声を上げそうになって唇を噛む。やはりこの男たちはあの戦
闘に加わっていた者たちなのだ。そしていまだ諦める気配はない。
それは一体何の為だというのか。
ターキスは横目でちらりと雫を見た。口の片側だけ僅かに笑って
いる。
﹁傭兵を雇って国相手に戦争しようっていうのは稀にある話だが、
規模と期間が普通じゃないな。明日中にこの辺にいる奴らだけなん
て無謀だろう?﹂
﹁だがやらねばならん﹂
﹁何の為に?﹂
﹁国が滅ぶ﹂
端的な答にさすがのターキスも絶句した。隣で雫が口を押さえる。
城に渦巻いているという異様な魔力。それは国をも滅ぼすものだ
ったというのか。雫はまだ城にいるであろうエリクが今どうなって
いるのかを考えて、不安に血の気が引いていく自分に気づいた。今
すぐ城に戻りたい。飛び込んで彼の名を呼びたい衝動に駆られる。
だが焦燥に気分さえ悪くなりかけた雫は、次のターキスの声で我
に返った。
﹁何で滅びるんだ。さすがにありえないだろ﹂
283
﹁禁呪だ。完成すればこの街を飲み込んで人が皆狂う。だから、そ
禁呪﹂
の完成を止めたい﹂
﹁︱︱︱︱
それは、聞いたばかりの単語だ。まだ宿にいたエリクが教えてく
れた言葉。使ってはいけない魔法。かつてもそれによって滅びた国
がいくつもあるという。
あってはならないものが間近で蠢いているという事実がすぐには
信じられなくて、雫は何度もまばたきをした。
﹁禁呪? また物騒な単語が出てきたな。情報源はどこだ﹂
﹁言うことはできない﹂
﹁じゃあこの話はなしだ﹂
拍子抜けするほどあっさりとターキスが言い放つと、セルーと名
乗った男は顔色を変えた。立ち上がりかけた傭兵を慌てて留める。
情報源は我らそのものだ!﹂
﹁待ってくれ! 言う! 言うから最後まで聞いてくれ! ︱︱︱
︱
﹁何だそりゃ。分かりにくいぞ﹂
﹁だから⋮⋮⋮⋮その禁呪を城に組ませようと画策したのが我らな
のだ﹂
ターキスと雫は顔を見合わせる。
お互いの目を見ながら言われたことを咀嚼して⋮⋮元通りセルー
を見ると、二人揃って
﹁馬鹿?﹂
と言った。
﹁馬鹿とは何だ! あれがあんなものだと分かっていたら私も止め
ていた!﹂
﹁あー、まー、はい。分かったから。声大きいぞ﹂
やる気なく手を振られて、セルーは状況に気づくと、浮き上がっ
ていた腰を落とした。幾分冷静になったらしく今度は声を潜めて問
う。
284
﹁そういうわけで⋮⋮納得してくれたか? 受けてくれるか?﹂
﹁いやー⋮⋮理解はしたが。つまりは組ませようと思っていた禁呪
と、実際組まれている禁呪が違ったってことか?﹂
﹁ああ﹂
﹁自業自得だろ、それ。他の人間に尻拭いを押し付けるなよ﹂
ターキスのそっけない言葉は、男の痛いところをついたらしい。
セルーは喉に物が詰まったような顔で黙り込んだ。
﹁もとはどんな禁呪を使うつもりだったかは知らんが、禁呪ってと
ころからして駄目だろ。ファルサスにばれたらどの道国ごと滅ぶぞ﹂
﹁⋮⋮分かっている﹂
歯切れの悪い返事に、ターキスはまったく感銘を受けた様子はな
い。彼は手を首にあて、軽く横に揺らすと鼻を鳴らした。
﹁大方あんたら宗教絡みだろ? その格好と感じからして、この街
に蔓延しているシューラ信仰の一派か?﹂
セルーはこれには答えなかったが、沈黙が肯定であることは誰か
ら見ても明らかである。
街のあちこちで像を見かけるほど浸透している宗教が、禁呪の黒
幕であるという事実に、雫は唖然とした。魔法士が基本的には無信
仰だというのも、こういうことがあるからなのだろうか。彼女自身
もまた無信仰であるが、人の信仰を尊重する気持ちは持っている。
ただ、今後街中であの神像を見かけても、無心でいられるかどうか
自信はなかった。
セルーは苦虫を噛み潰し味わっているような顔で黙していたが、
深く息を吐き出すと共に口を開いた。
﹁それで⋮⋮やってくれるのか? それともこの国から逃げるか?﹂
﹁先に聞かせろよ。どうすれば止められる? 城の全破壊とかはさ
すがに無理だぞ﹂
﹁城の魔法士長は我らが送り込んだ同志であった。もし奴がまだ事
実を知らないだけならば、説得で止められるかもしれない。そうで
285
なければ構成を組んでいる臨時の魔法士たちを端から殺せば済む﹂
﹁ちょっ⋮⋮!﹂
叫びかけた雫はすかさず伸びてきたターキスの手に口を押さえら
れた。もがもがと暴れるがまったく離してくれない。大きな手はが
っちりと顔の下半分を覆っており、両手をかけてもはずれそうにな
かった。
﹁厄介だな。しかも時間制限つきか。流れ者に頼むような仕事じゃ
ない﹂
﹁なら、別の者にあたる。時間は惜しい﹂
﹁そう言うな。やるさ。面白いからな﹂
さらりと返ってきた返答に、セルーは自分が依頼を申し出たにも
かかわらず瞬間ぽかんとした。半分くらいは断られると予想してい
たのだろう。残る三人の黒尽くめたちも目を瞠る。
ターキスは、口を押さえたままの少女を一瞥すると人の悪い笑み
になった。何もかもを楽しむような飄々とした笑顔の仮面だ。
﹁それに、こいつからも依頼を受けている。城にいれてくれとな﹂
雫は男の手を噛もうとしていた歯を止める。見上げるとターキス
は片目を瞑って返してきた。
雫は何だか釈然としない気持ちを味
彼女が視線を漂わせると、セルーはまるで馬鹿を見るような目で
彼女を見つめており︱︱︱︱
わう羽目になったのだった。
話がまとまると、雫は近くの宿屋の一室に放り込まれた。
彼女をここに連れて来たターキスは﹁色々下準備がある。動くの
は明け方になるから仮眠しとけ﹂と言ってどこかに行ってしまった
のだ。
このまま置き去りにされるのではないかとも怪しんだが、深夜で
あり疲れていることも確かである。窓からは城も見えることだし、
騒ぎが大きくなれば気づくだろう。寝不足で足手まといになっては
286
よくないと、雫は服のままベッドの上に丸くなった。メアは
見張
りをするつもりなのか窓辺に飛び移って小さく鳴く。彼女は使い魔
に﹁おやすみ﹂とだけ返した。
今まで神経を張っていたせいか、彼女はあっという間に深い眠り
の中落ちていく。
断続的に見た夢は、元の世界で家族と一緒に笑いながら食事を取
っている夢で⋮⋮それが現実ではないと自覚がある雫は、姉や妹に
向って笑いかけながらも⋮⋮⋮⋮一人だけ少し泣きたかった。
起こされたのは翌朝という程の時間ではなかった。窓から見える
夜明け前の空は真っ暗であり、街は静まり返っている。
雫はぼんやりする頭を振るとベッドから立ち上がった。戸口のと
ころに立つターキスが呆れた目でその様を眺める。
﹁乗合馬車でも思ったが、お前本当にどこででも寝るんだな﹂
﹁ベッドで寝て何が悪いか。起こしてくれてありがとう﹂
﹁はいはい。どういたしまして。その重い荷物は持ってくのか?﹂
﹁当然。これで殴られると結構痛いよ﹂
自分のバッグを肩にかけ、雫は歩き出す。男の前に立つと、彼は
棒状のものを彼女に差し出してきた。
﹁これも持ってけ。何があるか分からないから﹂
﹁⋮⋮剣?﹂
﹁お前みたいなやつでも何とか扱える。長すぎず重くない﹂
目の前に出された無骨な黒い柄を、彼女はじっと見つめる。かつ
てエリクに短剣を勧められ、つき返した時のことが嫌でも脳裏に甦
った。
﹁武装したら戦意ありって取られるんじゃない?﹂
﹁何を今更。侵入する時点で叛意ありだろ﹂
これだけのやり取りで、そして雫が手を出そうとしないことで、
男は彼女が武器を持ちたがっていないことを看破したようだった。
287
ターキスは長身を屈めると雫の顔を覗き込んでくる。
﹁持っていけ。いざと言う時なくて困っても知らないぞ﹂
﹁人に向ける為に?﹂
﹁自分を守る為にだ﹂
雫は決して徹底した平和主義者でも何でもない。ただ、自信がな
いだけなのだ。人を傷つける道具に自分が惑わされないという自信
が。道具を道具として御せる自信がない。だから一度は断った。力
を持つことで気を大きくしたくなかった。
あの時の短剣は、エリクが持っている。今は城で揉め事に巻き込
まれているのであろう彼が。そしてあの剣は、本来彼女の為のもの
だった。
﹁使いたくないよ。人を斬りたくはない﹂
雫は言いながら手を伸ばす。硬い柄をしっかりと握ると、そのま
ま剣を受け取った。
男は可笑しそうに笑う。何もかも見透かすようなその笑いにはい
つも腹が立つのだ。
﹁なら努力しろ。武器よりも怖いものはたくさんある﹂
バッグのファスナーを半分ほど開けると、雫は短剣より少し長め
の剣を鞘ごと斜めに押し込んだ。柄の部分だけ外に突き出させ、そ
れが前にくるように左手でバッグを持ち直す。
テニスラケットが持ち手だけスポーツバッグから出てるのに似て
るかな、などと彼女は思ったのだが、ターキスはあからさまに眉を
寄せた。
﹁何だそりゃ⋮⋮格好悪いぞ﹂
﹁うっさいな! 格好は二の次でしょ!﹂
﹁別に俺は構わんが。⋮⋮間抜けだな﹂
﹁うるさいって!﹂
﹁ま、悪くはないか﹂
ターキスはさっさと背を向けると歩き出す。その後を黙って雫は
追った。
288
この世界では、人は死ぬとそれきりなのだという。
それはとても怖い。本当に、生とは一度だけで後には何もないと
いうのだから。
重い、とこれ程までに実感を以って感じたのは初めてだ。人の当
たり前の生が奇跡に思えるほど、死は冷たい。
だから誰かの命を押し退けてまで進みたくはなかった。自分の為
に誰かを終わりにしたくない。
けれど雫のその感情は理想の領域に属するもので⋮⋮彼女はだか
らと言って、誰かの為に自分やエリクを終わりにさせてしまう気も
またないのである。
﹁メア、力を貸してね﹂
主人の声に小鳥は頷く。
日が昇り始めぬ早朝。こうして静寂の中、二日目は静かに幕を開
けたのだった。
大きな木箱がいくつも積まれ狭い室内は、あまり使われていない
のか埃臭さが漂っていた。
喧騒からも遠い場所、窓のない部屋をエリクは見回す。作業の手
を途中で止めると、立ち上がり、それを眺めた。床の上に描いた白
い魔法陣は、理想から言えば精度が足りないが、今の状況ではこれ
以上は望めないとも分かっている。
エリクは白円をざっと見渡すと、再び膝をついて書き足し始めた。
感じ始めている疲労が、体の中に沈殿していくのが分かる。意識せ
ずついた溜息が言葉になった。
﹁また禁呪にまみえることになるとはね⋮⋮。これも報いか、カテ
ィリアーナ﹂
遠い過去に向っての呟きは扉にあたって落ちて行く。
エリクは一瞬ひどく疲れた目をしたが、長いまばたきと共にそれ
289
を押し流すと、改めて魔法陣へ向かい手を伸ばした。
290
006
カンデラ城都に広く浸透しているシューラ信仰。その基本概念は
﹃今を思え﹄である。
人の世は儚い。常に流動し、いつ何が失われ変わっていくか分か
らない。だからこそ定かではない明日に期待を抱くより、現在を貴
び最大限の努力をしろと、この信仰は人々に教えているのだ。
黒い蛇の神像は、信仰対象であり人の世を監視するというシュー
ラ神をかたどったものだが、それが数百年前の暗黒時代に実在して
いた邪神、世界の底にあいてしまった穴から侵蝕してきた﹁負﹂と、
同一の存在を示していることを知る人間はほとんどいない。シュー
ラ信仰の真実を知っている、僅かな信徒たちを除いては。
﹃絶望を知
時折、歴史の上に飛沫のように現れる邪教。数々の忌まわしい事
件を起こしてきた信仰の、その本当の理念は︱︱︱︱
れ﹄なのである。
夜明け前の路地には明かりさえない。
ターキスの後について外に出た雫は、彼が突然足を止めたのに対
し、思わず背中にぶつかりそうになってしまった。咄嗟に両手をつ
いて、顔から衝突するのは免れる。だがその分彼は突き飛ばされて
一歩前によろめいた。振り返って白眼を注いでくる。
﹁⋮⋮何するんだ﹂
﹁止まる時は止まるって言ってよ﹂
﹁いちいち言ってられるか。よし、止まったぞ﹂
291
﹁遅っ﹂
﹁その娘は誰だ﹂
突然の声はごく近くから響いた。地を這うような低い声に、雫は
身を震わせる。しかしターキスは全く動じず、いつもと同じ調子で
笑って返した。
﹁俺の別口の依頼人だ。無害だから気にするな﹂
まるで虫か何かのように言われて雫は釈然としなかったが、足手
まといである自覚はあったので、せめて無害でいようと心の中で念
じる。それをしながらターキスの体越しに暗い路地を窺うと、道の
先は行き止まりになっており、何人かの人間が集まっているようだ
った。
雫は何人がそこにいるのか、目を凝らして確かめようとしたが、
奥に行けば行くほど闇が深く、よく分からない。
しかしターキスはまるで全員を分かっているように、平然と続け
た。
﹁手はずは連絡した通りだ。三十分後に決行。夜明け後に第二手が
動く﹂
﹁それまで生きていられればよいのだがな﹂
﹁城は広い。入ってしまえば何とかなるさ﹂
﹁だが、あの城は魔力的に異様な状態だ。中に入れば真っ先に食わ
れるかもしれぬぞ﹂
姿の見えぬ人間から呈された可能性に、雫は分かっていたことだ
が深刻さを一層深める。エリクは最初からその中にいるのだ。どう
か無事でいてくれますように、と口の中で呟いた。
﹁中に入って食われるなら、城の人間も食われてるってことじゃな
いか? 禁呪ってのは﹃そういうもの﹄だと聞いてるぜ。人の制御
のままならぬものだとな。それともこの国から逃げ出して、本当に
ファルサスに助けを求めにでも行くか?﹂
揶揄というより稚気に満ちた問いかけに、返答する者はいない。
292
先ほど懸念を口にした人間も、単に事態をこの場にいる人間に確
認させただけなのであろう。これからの戦いを前にして立ち去ろう
とする人間は一人もいなかった。
滅多にない機会だ。楽し
ターキスは笑う。低い声には芯のように鋭いものが通っていた。
﹁異論がないなら各自位置に。︱︱︱︱
ませて貰おう﹂
男の言葉に浮かび上がる高揚。雫は遅ればせながら、その時理解
する。
この男は、こういう多くのものがかかった急場がおそらく好きな
のだ。一戦の勝敗で何もかもが変わってしまうような転換点に、喜
びを見出すタイプだ。
そして今は、この依頼な
好戦的で挑戦的。常に自分が飛び込める﹁何か﹂がないかと探し
ている。その一つが雫の存在で︱︱︱︱
のだろう。危険な男だ。とりあえず味方になってくれてはいるが、
油断できない人間であることは確かである。
雫はターキスに貰った剣の柄を見つめる。一度も抜いてみていな
いこの柄の先は一体どうなっているのだろうと、まるで悪寒に似た
疑問が思考の表面を過ぎっていった。
城への侵入はいくつかの陽動と共に行われる。
それだけを雫は聞いていたが、実際にどんな陽動がいくつ行われ
るのかは知らなかった。動員される人数も、先ほど路地にいた人間
が全てではなく、彼らはそれぞれの集団のリーダーなのだという。
何だか怖気づきそうな程、大掛かりな話になってきているが、城へ
攻撃をしかけるというのだから、これでもまだ心もとないくらいな
のかもしれない。
雫は城から二本離れた道の路地裏にしゃがみこんで、空を見上げ
ながら﹁その時﹂を待っていた。周囲には武装した男たちがいる。
兵士などにはないくだけた印象は、彼らがみな金で動く傭兵だから
293
だろうか。ばらばらの服装を彼女はぼんやりと見やった。
一番奥には一人の女が座している。剣を持っていない彼女は魔法
士であり、今回の侵入の最重要人物だ。詳しいことは分からないが、
陽動が城の結界に圧力をかけた後、彼女が結界を強引に破って中へ
と転移門を開くことになっている。
それはなかなか大変なことらしく、一見清楚な聖職者のように見
えるこの彼女は
﹁実はめちゃくちゃ怖いんだよ﹂
ということらしい。ターキスの知り合いだという彼女︱︱︱︱
リディアは、早朝からこの街に呼び寄せられた為か、機嫌が悪そう
な顔で両目を閉じていた。
雫は息を整える。彼女の目的は彼らとは違う。エリクに会うこと
だ。
禁呪を止めることだけが目的の彼らは、状況によっては魔法士を
殺すことも考えている。だからこそ雫はその前に、エリクを見つけ
出さなければならない。彼と合流できたらその後でどう動くのか。
出来るなら彼女もまた禁呪を止めたいと思っているのだが、具体的
に何をするかはまだ決めていなかった。
﹁あと五分﹂
リディアの声が響くと空気が変わった。雫もまた立ち上がる。
携帯電話以外に時間の分かるものを持ってこなかった雫は、この
た。エリクに詳し
世界の五分と元の世界の五分が厳密に同じかどうかはわからない。
だが、体感的にはあまり変わらないように思え
く聞いたこともあるが、この世界では法則的に十二の数字が安定と
されているらしく、時間にも十二の倍数が多く使われているのだと
いう。
元の世界の時間の単位も、天体の動きを元に作られたものだとい
294
うし、この世界でも太陽や月はあるのだから、その辺りは似通って
いるのかもしれない。彼女は断続的な思考を抱えながらバッグを持
ち直した。以前は重くて仕方なかったバッグも、今はあまりそれが
気にならない。旅をしているうちに筋肉でもついたのだろうか。
リディアが大きく両手を広げる。呪文の詠唱が始まるのだ。緊張
に唾を飲んだ雫の背を、後ろから誰かが叩いた。
﹁怖いか?﹂
そこにはさっきまでいなかったはずのターキスが立っている。こ
の計画の統括者である彼は、あちこちを駆け回っていたのだ。雫と
違って寝ていないであろうに、まったくその疲れを表に出していな
い彼は、彼女の肩に手をかけたまま笑っている。
彼女は嫌味でも何でもなく、多忙な彼がわざわざ戻ってきたこと
を不思議に思って尋ねた。
﹁あれ、あなたは別のところから行くと思った﹂
﹁お前も俺の契約主だからな。城に入るまではちゃんと守るさ﹂
﹁途中で私が死んじゃったら、質問が出来ないから?﹂
﹁そう言えばそうだな﹂
ターキスはこめかみを掻く。男の視線がリディアの姿を一瞬捉え
た。緑がかった灰色の瞳が戦いを楽しむ不敵さに染まる。
﹁折角だから手付けとして一つくらい教えといてくれ。俺の方が死
ぬかもしれないしな﹂
お前は一体何者だ?﹂
﹁あなた死にそうにないけど﹂
﹁そう言うな、雫。︱︱︱︱
どこか離れたところで爆発音が鳴り響く。雫は首を傾げて天を見
上げた。続けざまにいくつもの破裂音が薄暗い空に響き渡る。
詠唱が終わる。
リディアの前に、水で出来たカーテンのような歪みが現れた。武
装した男たちが無言でその中に飛び込んでいく。
雫は振り返ってターキスを見上げた。緊張は思ったほどない。多
295
分、もう麻痺しているのだろう。鼓動だけが早い自分の体を感じ、
彼女は小さく舌を出して笑う。
﹁私は単なる文系女子大生だよ﹂
男の怪訝な顔をそれ以上見ずに、雫は走り出した。みなが消えて
いった空間の歪みに向って足を踏み出す。
目を閉じて、世界が変わる瞬間。
それは、この世界に初めて放り出された時よりもずっと、あっさ
りとしたものだった。
自分がどこにいるのか分からなかったのは、ほんの一瞬だった。
城壁のすぐ内側、外庭に出た雫は、素早く空を見上げると走り出す。
これだけで大体の方向は把握できた。その為にさっきから何度も空
を見ていたのだから。
先に庭に到着した男たちは、既に武器を抜いている。明かりの洩
れだす建物に向って駆け出す彼らを、驚愕の顔をした兵士たちが迎
え撃った。
﹁見んな﹂
後ろから伸びてきた手が、無理矢理雫の顔の方向を変える。凄惨
な戦闘を見ることで彼女の足が止まってしまうとでも思ったのだろ
う。けれど雫はそのまま走り続ける。兵士たちが駆け出してくる至
近の建物入り口を避け、庭を大きく仕切る庭木の林へと飛び込んだ。
鬱蒼とした木々しか遮るもののない暗がりを、彼女は枝を掻き分
け低木を踏み越え進んでいく。体のあちこちを枝が傷つけていく痛
みが走った。
﹁かがめ﹂
短い命令。雫は答えるより早くその場にしゃがみこむ。頭の上で
何かが空を斬る音がした。
目だけで見上げると、斜め左前方から兵士が剣を突き出してきて
いる。それを自らの剣で受けたターキスが、力を込めて返すと同時
に雫との間に割って入った。
296
雫は体を低くしたまま一歩前に出る。幸い他の兵士は追いついて
来ていない。向こうの戦闘にひきつけられているのだろう。持って
いたバッグを肩から下ろすと、彼女はそれを思い切り地面と平行に
振り回した。
辞書含め厚い本を数冊詰め込んだバッグは、ターキスと渡り合っ
ていた兵士の膝裏に思い切りぶつかる。鈍い音と苦痛の呻きがして
男は両膝をついた。雫は素早く立ち上がると今度は肩の上にバッグ
を振りかぶる。
﹁えい﹂
軽い掛け声とは裏腹に、バッグは固い音を立てて兵士の頭上に命
中した。上から激しく打ち下ろされ、彼は崩れ落ちる。追い討ちを
かけるように、ターキスの剣の背が男の首後ろを強打した。
﹁お前、それ何入ってんの?﹂
﹁本だよ。歪んだらどうしよう﹂
非常事態とは言え、大学の本を鈍器として扱ってしまったのだ。
背表紙などが痛んでいないか、雫は不安を抱いた。けれどターキス
は理解できないというように、かぶりを振っただけである。彼は雫
を追い越して茂みをかき分け始めた。
﹁ほら、いくぞ﹂
﹁うん﹂
雫はバッグとメアを確認すると、男の背を追って進みだす。
その時、遠くで何かが激しく爆ぜるような音がした。男の悲鳴が
いくつか重なる。
まるで爆竹のようなすさまじい音に雫は振り返ったが、鬱蒼とし
た庭木があるだけの林には何も見えない。前を行くターキスが笑っ
た。
﹁リディアが暴れてやがんな﹂
﹁リディアさんが?﹂
﹁あいつの力は宮廷魔法士並だ。おまけに実戦経験は並じゃないし。
297
まず敵に回したくない人間だな﹂
﹁へー﹂
ひょっとして、ターキスが言っていた﹁ファルサスに直通で門を
開ける魔法士﹂とは、彼女のことだろうか。考え事に気を取られそ
うになりながらも、雫は目の前の植え込みを飛び越えた。前を行く
男に声をかける。
﹁もうちょっと右。方向ずれてるよ﹂
﹁そうか? 真っ直ぐ来てると思うが﹂
﹁ずれてる﹂
断言すると男は訝しさを拭いきれない表情をしたものの、従って
くれるらしい。二人は枝を掻き分ける音を立てながら、前へと進ん
だ。先程までは真っ暗だった周囲が、次第に白み始めている。夜が
明けるのだ。
そしてそれは、禁呪を止める為のタイムリミットが迫りつつある
ということでもある。術は三日目に完成する。それを止める為に、
これから苛烈な戦いが繰り広げられることになるだろう。
﹁大体さ、セルーだっけ、あのおじさん。城の魔法士と仲間なら連
絡取れないのかな﹂
﹁取れないんだと。もともと教団と城との繋がりは極秘で、連絡も
主教を通してしか出来なかったらしい。だがその主教が今行方不明
だ。セルーははっきり言わなかったが、主教が禁呪の本当の効果を
知ってて教徒を騙してた可能性がある﹂
﹁あちゃー。そりゃ駄目か﹂
二人は建物に真っ直ぐ向うのではなく、城の外周にある林を建物
と平行に進んでいる。陽動や侵入した一団に兵士たちがひきつけら
れている間、離れた入り口から侵入しようとしているのだ。
雫は足を止めぬまま、徐々に遠ざかる戦闘の音に耳を傾ける。
﹁じゃあさ、お城の人に片端から実はあの禁呪は国が滅んじゃうん
だよ、って言ったら?﹂
298
﹁何で禁呪のことを知ってるんだ、ってなってやっぱり戦闘だ。だ
が、そんなことより自分のことだけ考えてろ、雫﹂
ターキスの言うことには一理あったので、雫は口を噤んだ。今は
とにかく目の前のことに集中すべきだ。この作戦には百人以上の人
間が関わっているという。ならば自分が思いつくようなことは既に
議論済みのことなのだろう。
﹃国が滅ぶ﹄
何度思い返してもそれは非現実的な言葉だ。
どうしたら国がそんな簡単になくなってしまうのか。
もし、この作戦が失敗したら、一体何が起きてしまうというのだ
ろう。
林の終わりが見え始める。すぐ左手には白い塔状の建物。右には
城壁だ。
幸い視界内には人影はない。二人は頷き合うと林の外へと飛び出
した。建物の隅にある小さな扉へと向う。ターキスはナイフを取り
出すと、刃を隙間に捻じ込んで掛け金を外した。周囲を警戒しなが
ら、まず中に誰もいないことを確認し、雫を先に押し込む。
城の一番北東にあるこの建物は、事前調査で女官たちが出入りす
る備品倉庫だとかっていた。明け方のせいか、騒ぎが起こっている
せいか、人の気配はない。二人は手近な扉から開けていき、三番目
の扉で目的の部屋につきあたった。
城の使用人が着る服を保管している部屋。備え付けの棚には何種
類もの衣類が畳まれ並べられている。雫は無言で棚に駆け寄ると、
その中から自分が着れそうな女物の服を探し出した。手に取ったも
のを広げてみると、灰色のシンプルなワンピースだ。足首まである
スリムなデザインの服は召使か何かのものであろう。
﹁これでいいか。ちょっと着替えるから出てってよ﹂
﹁無茶言うな。廊下にいて誰かに見つかったらどうする﹂
﹁じゃあせめて後ろ向いて﹂
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﹁見られても減らないと思うぞ﹂
﹁減るよ? あなたの髪の毛の量とか﹂
言いながら手をわきわきさせて﹁引き抜いてやるぞ﹂とアピール
すると、ターキスは形容しがたい渋面で後ろを向いた。遺伝的に髪
を大事にしなければいけない心当たりでもあるのだろうか。他人事
な感想を抱きながら、雫は急いで着替えを始める。
戸棚に飛び移ったメアは、興味深そうにあちこち首を動かした。
それを時折見上げながら、雫は上から下まで二十個近いボタンを全
て止める。ワンピースを着てしまうと、髪を覆う布ははずすべきか
そのままにしておくべきか、どちらが目立たないだろうかと少し悩
んでしまった。
こんなことなら元の世界にいた時に、茶色にでも染めておくべき
だったかもしれない。エリクが今まで何も言わなかったところをみ
ると、この世界では髪を染めるという行為はそれ程一般的ではない
のだろう。
悩む雫の頭にぽんと白い布が乗せられる。
﹁棚に並んでた。これもつけるんだろ?﹂
﹁何勝手に振り返ってんの﹂
﹁もう着替え終わってるだろ。裸を見たわけでもあるまいし﹂
﹁見てたらモヒカンにしてやるからね﹂
﹁モヒカンって何だ﹂
その質問は見事に無視して、雫は白い布を広げる。二枚あるうち
片方は頭に被るものらしい。もう一つはエプロンのようなものだろ
うか。彼女はその両方を身につけた。
﹁何だかメイドみたいだな﹂
﹁メイドって何だ﹂
﹁あの世のこと﹂
日本人にしか通じない冗談を言うと、ターキスは訝しげな顔にな
る。だがそれには構っていられない。雫は今まで着ていた服を詰め
300
込んで、バッグを持ち直した。結局、髪がどうであろうとこれを持
っている時点で怪しさが極まっているのだが、取りに戻れるか分か
らない場所に置いておくわけにはいかないだろう。
彼女は自分の格好を確認すると、傍で面白そうにしているターキ
スを見返す。
﹁うん。ありがとう﹂
﹁本当に一人で大丈夫か?﹂
﹁何とかするよ。あなたはあなたでやることあるんだし﹂
男は何か言いたげに片眉を上げたが、結局﹁気をつけろよ﹂とだ
けしか言わなかった。彼は剣を手に踵を返すと扉に手をかける。雫
を振り返ると、いつもの人の悪い笑顔を見せた。
﹁では報酬として二つ目の質問だ、契約主殿。お前はどこの国の出
身だ?﹂
﹁日本。東の島国﹂
嘘は言っていないけれど、全てを説明してもいない。
この駆け引きは彼を騙すものではなく、自衛の為のものだ。異世
界から来た人間だと知られればどうなるか分からない。自分の命運
は自分が握るものなのだ。雫は緊張して最後の質問を待つ。
向こうも二つの質問では全貌を掴めていないはずだ。残り一つで
もしここで自分の本当の素性がばれたらどうなるのか。
どう切り込もうかと考えているだろう。
︱︱︱︱
雫は乾いた喉で息を飲み込んだ。男は顔を傾けて彼女を注視して
いる。
﹁なるほど。聞いた事のない国だな。なら最後の一つだが⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁また後で。全部終わったら聞こう﹂
﹁へ!?﹂
予想外な答に雫は意表を突かれた。事態はまだ始まったばかりで、
これから更に苛烈になっていくはずなのだ。雫もターキスも無事で
済むかは分からない。なのに報酬を先延ばしにしてしまっていいの
301
だろうか。構えていた気を崩されてぽかんとしてしまう。
だが彼は、雫のそんな顔を見て軽く吹き出した。
﹁お前、リスザルみたいな顔してるぞ﹂
﹁リスザル!?﹂
﹁まぁそれは置いといて。お前が何者か分かっても、死なれちゃ仕
方ないからな。最後の質問は終わってからだ。だから、それまで頑
張って生きてろよ﹂
男が向けてきたのは普段のものとは違う、暗さもからかいもない
もしかしたら彼はただ単に、好奇心が強すぎて好戦的
笑顔だった。
︱︱︱︱
すぎるだけの、人のいい男なのかもしれない。
でなければこんなよく分からない人間に手を貸し、その安否を気
遣ったりしないのではないか。そんな思いに雫は一瞬気を取られた
が、すぐに我に返ると頷いた。
﹁分かった。そっちも気をつけて﹂
﹁平気平気。後でな、雫﹂
まるで堂から出て行くような気軽さを以って、ターキスは扉の向
こうに消える。そして本当に一人になった彼女は、もう一度服装を
確認すると何度か深呼吸して決心をつけた。
行かなければならない。できるだけ早く。彼女の行動には見えな
いタイムリミットが課せられているのだ。
﹁メア、行くよ﹂
肩に戻った小鳥と共に、彼女は扉を開ける。
日は既に空を白く染め上げ、喧騒と混乱が城内に広がる時間の中
に、こうして雫もまた踏み込んでいったのである。
一人の少女が城の中を歩き始めた頃、カンデラの魔法士長イドス
302
は肉付きの少ない顔を引き攣らせ、守護結界の監督に回っていた。
深夜の襲撃は何とか退けたものの、夜明け直前に第二陣が襲撃をし
かけてきたのだ。
闇雲に壁を魔法で破り攻め込んできた第一陣と違い、第二陣は相
当数の人員を動かして陽動を使い城に巧妙な攻撃をかけてきている。
その上、手練の魔法士が混ざっているのか、城の外周結界を破って
中に転移門が開かれてしまった。
門から入り込んだ襲撃者たちはある程度は撃退したものの、半分
以上は城の内部に散り散りに隠れこんでしまい、思わぬところで小
規模な戦闘が行われている。だが、それら襲撃者たちを始末するよ
う命じたイドスの指示は、いまいち精彩を欠くものだった。
数時間前から彼の頭の中に巣くい、疼き続けているのは、第一陣
の襲撃時に捕らえた男の言葉だ。地下牢に収監された黒衣の男は、
尋問に来たイドスを見るなり、﹁シューラの使徒が警告する! 禁
じられた構成は違えられた!﹂と叫んだのだ。
その時は他の人間たちの目も考え、反射的に男を殴って黙らせた
が、あの男がイドスが属する教団の私兵であることは間違いない。
主教からは何の連絡もないというのに、外では何か問題でも起こっ
ているのだろうか。
真実を知りたい気持ちと、禁呪を完成させねばという使命感が彼
を板ばさみにする。いらいらと落ち着かなさを味わって、イドスは
城内を歩き回っていた。
﹁いかがなさいましたか、魔法士長殿﹂
﹁いや⋮⋮結界に変わりはないか﹂
﹁今のところは。ただ、裏門での戦闘は押されぎみとのことです。
陛下は正規軍の使用を許可されましたが⋮⋮﹂
﹁軍を用いて城で戦闘するなど、不審極まりないわ! もう夜も明
けた! 人が集まってくる!﹂
城都での事件など、下手をすればすぐに他国にも知れ渡る。そし
303
てその中にもしファルサスが入っていたのなら。魔法大国である彼
の国は即刻転移を使って事態を調査にくるかもしれない。それでな
くとも民衆にいらぬ不安を抱かせることは確かだ。
イドスは傍に控える魔法士を、そんなことも分からないのかと睨
みつけた。だが、相手は萎縮しながらも苦言を呈してくる。
﹁ですがこのままでは、どの道人目を集めざるを得ないかと。昨晩
の騒ぎもありますし、裏門は既に戦場です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮仕方ない。最外周の結界を解け。中に奴らを引き入れて、
将軍たちに迎撃にあたらせる﹂
普段ならば魔法士長のイドスには将軍たちへの命令権などないが、
今は禁呪の構成中である。それを取り仕切る彼には、ある程度軍を
動かす権利をも与えられていた。
その彼の命令に、魔法士は慌てて伝達の為走り去る。イドスは他
やはりもう一度詳しい事情を聞こう。
の側近たちに﹁少し席をはずす﹂とだけ言うと地下牢へと向った。
︱︱︱︱
捕らえた男への尋問は禁止したままである。他者が尋問して余計
なことになるのを、イドスは嫌ったのだ。
だが、主教に連絡の取れない今、もう少し詳しい情報が欲しい。
確かに彼は直前で禁呪の構成を﹁書き換えた﹂。だがそれは主教
の命に従ってのことだったのだ。ならばあの男の言っていた﹁違え
られた﹂とは何を意味するのであろう。
イドスは足早に城内を移動すると、地下牢に足を踏み入れる。魔
強い血の匂いがする。
法の灯火を灯そうとして、だが彼は硬直した。
︱︱︱︱
そんなものは数時間前にはなかった。牢である以上、ある程度古
い血の匂いと腐臭はするが、これほど鼻につく新しい匂いではなか
ったはずだ。
第一いるはずの見張りの兵がいないのだ。何かがあったに違いな
304
い。彼は声を殺して防御の構成を組んだ。しかしその時、暗闇の奥
から聞き慣れた声が響いてくる。
﹁イドスか?﹂
地の底から響くようなしゃがれた老人の声。魂を凍らせる響きに、
イドスは反射的に片膝をついた。頭を垂れながら言葉を返す。
﹁主教様。何故こちらに⋮⋮﹂
﹁セルーが裏切った。襲撃を手引きしているのも奴だ﹂
﹁セルーが!? 何故⋮⋮﹂
﹁奴には奴の野心があったのだろう。だが、惑わされるでない。長
年の悲願が叶う時はもうまもなくに迫っている。お前はお前のすべ
きことをするのだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮我が神の御心のままに﹂
イドスが定型とも言える信仰の意を口にすると、満足げな笑いと
共に相手の気配は消える。
同時に無形の圧力のようなものも消え去って、彼は周囲の気配を
窺いながら、恐る恐る立ち上がった。
﹁セルーが⋮⋮?﹂
つい零れた疑念に答える者はもういない。
躊躇いながらもイドスが火をつけて血臭の元を辿ると、最奥の牢
の中にはずたずたに切り裂かれ血まみれになった捕虜が、死骸とし
て転がっていたのだった。
城に仕掛けられた陽動の内、もっとも戦力が割かれたのが裏門へ
の攻撃である。それは城の衛兵の主戦力を引きつけつつ、隙あらば
城内に踏み込もうと、門を境に熾烈な戦闘を展開させていた。
兵同士の戦いならば、決して引けを取らなかったであろうカンデ
ラ兵たちも、相手が﹁何でもあり﹂で数多の戦場を渡ってきた傭兵
たちなれば、いまいち勝手が掴めないようである。剣戟の隙間から
巧みに射掛けられる近矢や、体の動きを重くさせる魔法などに翻弄
305
され、苦戦を強いられていた。
﹁城門を閉めろ!﹂
﹁そ、それが駆動部を破壊され、門の開閉が出来ない状態に⋮⋮﹂
﹁何だと!?﹂
門が閉められないのでは、後は魔法士の結界に頼るしかない。城
の外周結界の強化を指示しようとした魔法士はしかし、逆に﹁結界
を解いて城内に敵を引き入れろ﹂との命令に、思わず激しく舌打ち
した。
作戦としてその意図は分かる。すっかり明るくなりつつある今、
城門付近で戦闘をしていては騒ぎが大きくなってしまうから、いっ
そ中に入れたほうがいいとのことなのだろう。ただでさえ昨晩も深
夜に爆発音などが響いた為、付近の住民は不安に思っているはずな
のだ。この上朝から城で戦闘が起こっていれば、その知らせは他国
にまで届く可能性も高い。
だから上からの指示の理由はもっともと言えばもっともなのだが、
それを実行するとなると、細心の注意を払わねばならないことは明
らかだった。
門という狭い場所に布陣して、結界の助けを借りて戦っているか
らこそ両者は拮抗しているのであって、実際に中に入れたらそう広
くはない裏庭で乱戦になってしまう。こちらの方が地の利も数の利
もあるのだから、いずれは鎮圧が可能だろうが、城内からの狙撃準
備や連絡の徹底など相応の準備を以ってあたりたい変更には違いな
かった。
魔法士は準備不足の現状に、眉を顰める。だが︱︱︱︱
﹁⋮⋮結界を解くぞ。一旦兵を下げるように伝達を﹂
上からの指示は絶対である。
指揮にあたっていた魔法士は、倒れている者を回収し、前線を徐
々に下げるよう将軍に連絡した。味方の周知を待って最外周の結界
を解く。と同時に、それまで結界によって遮られた魔法攻撃が、城
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の内部にまで降り注ぎ始めた。小さな火の玉や光球がいくつも飛び
込んで来て、城の魔法士たちはその相殺に追われる。
じりじり内部へと移動しつつある戦闘。襲撃者たちを全て城内に
引き入れてしまえば、後はどうにでもなると、城の人間は皆思って
いただろう。
しかし、事態はそれだけでは済まなかった。
﹁何の騒ぎだ?﹂
﹁城で何かが起きてるらしいぞ﹂
通りに出て顔を見合わせる人々。そんな光景がそこかしこで見ら
れる早朝、変化はゆっくりと訪れつつあった。困惑を表情に出して
いる人たちに向かって、現れた男は声を潜め囁く。
﹁それが⋮⋮城で怪しい魔法の実験が行われているらしい。このま
まだと街にかなりの被害が出るって話だ﹂
﹁はぁ!? 何の冗談だそれは﹂
﹁冗談じゃないみたいだぞ。シューラ教の司祭がそう仰ってた。司
祭はそれを食い止める為に、今あちこち走り回っているらしい﹂
真偽を確かめようとする視線が、路上に何本も交差する。
それは街に散らばった扇動者たちの情報操作を受けて、やがて大
きな波となっていった。様子を見に城に詰め掛ける人間と、街から
城外での大きな騒ぎは、こうして意図的に作られた。
避難しようとする人間が相次ぎ増えていく。
︱︱︱︱
空気の隅々までざわめきに満ちている城都全体と違い、雫の行く
廊下は静まり返っていた。
彼女は緊張にからからに乾いた口内を気持ち悪く感じながら、慎
重に廊下を進んでいく。誰かと出会ったらどう言い訳しようか、考
えながら階段を探して、彼女はあちこちを覗き込んだ。
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禁呪を構成しているのは、地下の部屋らしいとは聞いている。だ
からそのどこかにエリクはいるはずだ。だが、広い城の中あてどな
く探していく行為に、心細さがないとは言えない。雫は遠くから聞
こえる喧騒に耳を澄ます。
今、城に攻撃を仕掛けている彼らが負けるということは、この国
が危地に陥るということだ。けれど彼らが城に押し寄せて、禁呪に
関わる魔法士を殺し始めれば、今度はエリクに危険が及ぶ。
雫に出来ることは、出来うる限り早く彼と合流すること、そして
事情を話して判断を仰ぐことの二つだけだ。
﹁荷が重い⋮⋮。緊張するよ﹂
小鳥しか聞く者のいない呟きを零して、雫は廊下の角を曲がった。
直後、向こうからやってきた女性とぶつかりそうになる。女は三十
代後半だろうか。雫と同じ服装の、険しい顔をした女官だった。体
勢を崩した雫を物凄い目で睨みつけてくる。メアはその視線を避け
て、肩から雫の背中へと滑り落ちた。
﹁あなた! こんなところで何をしているの!﹂
﹁す、すみません﹂
﹁城に狼藉者が侵入してきているから、女官は皆、魔法士たちと一
緒にいるよう命じられたでしょう! 聞いていなかったの!﹂
﹁倉庫を整理していて⋮⋮﹂
咄嗟に言い繕いながらも、雫は﹁これはチャンスだ﹂と思い至っ
た。女がちょうど雫のバッグに目を留めたところで、先手を打って
手を上げる。
﹁あの! これ魔法士の人に荷物を持ってくるよう頼まれたんです
!﹂
﹁魔法士に? おかしな荷物ね﹂
﹁それが、臨時で採用された魔法士のものでして。ですが、その人
がどこにいるのか分からなくなってしまったんです⋮⋮﹂
﹁まったく、愚図ね。臨時の魔法士は地下研究所の第一から第五を
308
使っているらしいから、一つずつ行ってみなさい﹂
地下研究所、と雫は心の中で繰り返した。半歩前進した気もする
が、五つもあるのでは先が思いやられる。一番最初に行ける場所に
彼がいればいいのだが。自分の籤運の強さを祈るしかなかった。
﹁ありがとうございます。ここからだとどこが一番近いでしょうか
⋮⋮。第三ですか?﹂
﹁あなた、方向音痴なの? 第二に決まっているでしょう。ここを
真っ直ぐいって最初の角を右なんだから﹂
﹁あ、そ、そうですよね。すみません﹂
﹁手早くなさいよ﹂
苛立った視線を背に受けながら、雫は言われた方向に向って歩き
出した。女が角の向こうに見えなくなると、人目のない廊下を走り
出す。
地下への階段はすぐに見つかった。雫はほっと表情を緩めたが、
すぐに気を引き締めると、足音をさせないよう暗い階段を下りてい
った。
女は短い詠唱を終えると、魔力の矢を撃ち出した。
矢は向かってきた二人の兵士に当たり、火花の炸裂と共に彼らは
倒れる。三人目の兵士はぎょっと怯んだが、その僅かな隙に女は建
物の影に飛び込み見えなくなった。彼が剣を片手に慌てて覗き込む
と、そこには既に誰の姿もない。
きょろきょろと辺りを見回す兵士を二階の回廊から見下ろし、リ
ディアは息をついた。顔にかかる金髪を手で払いのける。
﹁面倒くさい﹂
﹁そうか? 面白いじゃん﹂
まったく気配を感じさせなかったにもかかわらず背後からかけら
れた声に、しかし彼女は軽く眉をしかめただけだった。馴染みの男
309
を振り返ってねめつける。
﹁そりゃアンタは楽しいかもしれないけどね。私はこういうのかっ
たるいだけ。ターキスがうるさく頼むんでなきゃ来なかった﹂
﹁存分に動いていい機会なんてほとんどないよ。特にこういう特殊
な乱戦はね。楽しくて仕方ない﹂
﹁アンタが楽しいのは人殺すのがじゃないの、カイト﹂
十代後半の少年にしか見えない男は、肩を竦めて笑った。その笑
顔はリディアの指摘をむしろ喜んで肯定するものである。
まさに﹁人を殺すことが好き﹂過ぎて、傭兵の中でも扱いづらい
とされる彼は、血がべったりこびり付いた手袋を嵌めなおした。彼
女と並んで窓の下を見下ろすと、なおもいなくなった女を捜す兵士
に向かって、短剣を投擲する。ギャッと悲鳴を上げて倒れた男に、
カイトは嬉しそうに口元を緩めた。リディアは知己である彼に、侮
蔑の目を向ける。
﹁本当、アンタって性格最悪﹂
﹁見逃して後で襲われたら困んない?﹂
﹁そしたらその時何とかする。いいから仕事の方に集中しろって﹂
アンタといると気分悪くなってくる、と吐き捨てて立ち去る女に、
カイトはひらひらと手を振った。新しい短剣を抜くと、回廊の遥か
向こうから走ってくる魔法士たちに焦点を合わせる。詠唱を開始す
る三人の魔法士を確認して、彼は懐から防御用の魔法具を取り出し
た。大きな水晶をはめ込んだ腕輪はうっすらと青白い。
﹁仕事ね。魔法士を皆殺しにすればいいんでしょ? ちゃんと分か
ってるよ﹂
彼の通る場所には鮮血と悲鳴が量産されていく。
そしてそれは、城の内部に弧を描いて、第四地下研究室と呼ばれ
る場所に少しずつ近づいていったのである。
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311
007
暗い階段をそっと駆け下りていく雫は、だがその先に灯る松明の
下に兵士の姿を見出して、飛び上がりそうになってしまった。武装
している男二人は狭い階段に立ち塞がるように向かい合っている。
何事かを話しているようだが、彼女のところまで内容は聞こえなか
った。
雫は一旦は動転してしまったものの、すぐに不審に思われないよ
う姿勢を正して階段を下り始める。兵士たちも彼女に気づいたらし
く話をやめ、じっと近づいてくる女官姿の少女を見上げた。彼女は
心の中で﹁冷静に冷静に﹂と唱える。
﹁どうした? 何かあったか﹂
﹁狼藉者が侵入してきているので、魔法士の方々と一緒にいるよう
に命じられまして⋮⋮﹂
﹁それは聞いているが、ここにいる魔法士はほとんど外部の人間だ。
あてにならぬぞ﹂
﹁城の魔法士の方々は、襲撃者への対応に追われて人手が足りない
のだそうです﹂
二人の兵士は顔を見合わせて苦い表情になる。迎撃に人員のほと
んどが割かれている情報は、彼らも知っているのだろう。雫は更に
一押しした。
﹁本当は、後で城の魔法士の方のところに行くつもりなんです。け
ど、一人で仕事をしていたら怒られてしまって。とりあえずでいい
のでいさせて頂けませんか? ちゃんと言いつけを聞いたんだって
ことで⋮⋮ちょっとだけ﹂
顔の前で両手を合わせて頼む少女の姿は、男二人に﹁仕方ないな﹂
312
と思わせるだけの愛嬌があったらしい。﹁俺たちがいるからまぁい
いだろう﹂と彼らは苦笑混じりに雫を通してくれた。礼を言って階
段を下り始めると、すれ違いざまに﹁あんまり不注意をするなよ﹂
と声を掛けられる。
そんなに自分は鈍く見えるのだろうか、と頭の上に漬物石を乗せ
られた気分になったが、上手く切り抜けられたことは確かだ。雫は
安心して階段を駆け下りた。
等間隔で灯る松明が、暗い階段を照らし出す。
そして行き着いた木の扉を押し開けると、その先は異様な空気漂
う石の広間になっていた。
地下にある広間は薄暗く、微かにかび臭い。
だがそれだけではなく押し寄せてくるような﹁何か﹂に、雫はつ
い足を止めてしまった。匂いでも温度でもないが、そこには何かが
満ちている。まるでサウナに入った瞬間のように、空気が変わった
ことが肌に感じられた。
その中を、男たちの呟きが石床を這うように重なり滑っていく。
聞き取りにくいそれらの言葉はどうやら魔法詠唱のようだ。よくよ
く目を凝らすと、広間の奥に十人程の男たちが円になって立ってい
るのが分かる。
﹁エリク⋮⋮?﹂
小さな問いかけは彼らのところまでは届かない。雫は作業に集中
している男たちに向って、少しずつ足を進めた。円陣の中央にあた
る床にはぼんやりと白く光る球が埋め込まれており、その光は空気
中に少しずつ染み出しているように見える。
服装も背格好もそれぞればらばらな魔法士たちを、彼女は目を細
めて見回したが、十人の中に彼女の探している男の姿はなかった。
落胆の溜息が我知らず零れてしまう。それに気づいて一番近くにい
た男が振り返った。
﹁何だ?﹂
313
率直な問いかけに彼女は躊躇する。
今この国を飲み込もうとしている災いが、ここで作られつつある
のだ。
けれど自分がその前に本当のことを彼らに告げたのなら⋮⋮⋮⋮
それを食い止めることはできないだろうか。
雫は視線を泳がせる。彼女に気づいているのは今のところこの男
のみだ。彼女は躊躇いながらも震える唇を動かした。
﹁あの、実は⋮⋮﹂
﹁誰だ! 何をしている!﹂
淀んだ空気を裂く厳しい誰何に、雫は身を震わす。いつの間にか
広間の入り口には、暗褐色のローブを纏った初老の魔法士が立って
いた。彼は怨念でも抱いているように、不吉な目で雫を見据えてい
る。
﹁女官か? 何故こんなところにいる﹂
﹁あ、あの⋮⋮魔法士の方のところに避難するように命じられて⋮
⋮﹂
﹁避難? ここにいても仕方あるまい。邪魔をするな﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
魔法士の声音には、眼光とは別に疲労が滲んでいるように思えた。
あまり寝ていないのかもしれない。そう考えると少し気の毒にも思
える。
だが、今この魔法が完成してしまったら、少なくとも城にいる人
間は皆、もう眠る必要がなくなってしまうのだ。それを思うと多少
の睡眠不足くらい気にすることではないだろう。雫は近づいてくる
魔法士を、失礼にならないよう見返した。
ターキスにこの依頼を持ち込んできたセルーは、魔法士長を説得
できればこの構成は止められるかもしれないと言っていたのだ。な
らば城の人間らしいこの魔法士に頼んで、魔法士長に真実を伝えて
もらうことはできないだろうか。雫は迷いもあったが意を決して口
314
を開く。
﹁あの、この禁呪のことなんですが﹂
﹁禁呪!?﹂
叫び声を上げたのは目の前の魔法士ではなく、後ろで構成に携わ
っていた男の一人だった。その大声は広間中に響き渡り、全員の視
線が雫と初老の魔法士に集中する。それは﹁信じられない﹂といっ
たものや単に訝しさを孕んだもの、忌まわしいものを見る嫌悪など
それぞれの混沌に満ちていた。
突如広間を覆った緊迫感に雫は息を飲む。背に突き刺さるプレッ
シャーは、魔法士にとって﹁禁呪﹂とはこれほどの禁忌なのかと彼
女が思い知るに充分なものだった。
初老の魔法士は驚愕というより怒りに顔を歪ませている。射殺さ
れそうな眼光に、雫はつい怯みそうになって自分を奮い立たせた。
しかし何か言おうとする前に魔法士は右手を振り上げる。
﹁この⋮⋮痴れ者が! 根拠のない戯言に惑わされおって!﹂
﹁でも、城を襲っている人たちはそう言っているそうです! この
禁呪は国を滅ぼすって⋮⋮だから魔法士長に﹂
﹁私に、何だと言うのだ﹂
その一言に、雫は理解より先に絶望を覚えた。
今目の前にいるこの男こそが、事態の鍵を握る魔法士長だという
のだ。
彼を説得できれば道が拓ける。皆が捜していた人物だ。だが、そ
れにもかかわらず彼女がショックを受けたのは、既にこの男が片足
を狂気の中に踏み込んでいるように見えたからだ。
魔法士長イドスは、手を振り上げたまま今にも雫を絞め殺しそう
な目で睨みつけた。
失敗したかもしれない。
﹁何だというのだ、小娘。言ってみろ﹂
︱︱︱︱
雫はバッグに入れたままの短剣と、そのバッグの後ろに止まって
315
いるメアの存在を意識した。この二つの存在が今の彼女を守るもの
だ。そしてもう一つ︱︱︱︱
﹁魔法士長に、この構成を止めるよう進言を。この構成の本当の効
果はシューラ教に伝わっているものとは違います。街が飲み込まれ
人が狂う。完成させてはいけないものです﹂
もう一つ力を持つものは、真実を伝える言葉だ。
たとえこの男にそれが届かなくとも、禁呪に嫌悪感を抱く他の魔
法士たちには意味があるだろう。
現に雫は、背後に動揺が波のように広がるのを感じ取っていた。
真偽を問う視線を浴びたのか、魔法士長の顔はますます歪む。
﹁よくも偽りばかりのくだらぬ⋮⋮﹂
﹁本当のことです。セルーという人が﹂
﹁お前は気狂いだ!﹂
イドスは詠唱を始める。雫はその瞬間を待っていたように前へと
駆け出した。男に向かって肩から思い切り体当たりする。まだ魔法
の構成が終わっていなかった魔法士長は、それで石畳の上に尻餅を
ついた。彼女はうめき声を上げる男を避けると、素早く階段へと向
う。足を止めず狭い石段を一段抜かしで上がっていった。
あの男は到底人の話を聞いてくれるようには見えない。
それだけではなく、彼もまた何かに恐怖しているように、雫の目
には映っていた。
禁呪が怖いのか、襲撃が怖いのか。それを断する余裕は彼女には
ない。
ただ種は蒔いた。後は芽が出ることを祈るだけだ。
駆け上がって来る雫を、見張りの兵士二人が唖然として見つめる。
彼女は階段の下を指差して叫んだ。
﹁大変です! 魔法士長が!﹂
﹁何だと!?﹂
兵士たちは慌てて彼女を押し退け地下へと降りていく。そして雫
316
は再び、一人城の廊下へ躍り出ると先の見えない道を走り始めた。
出来うる限り騒ぎを広げず事態を処理したいと思っていた城は、
だがその希望とは真逆に動いていく現状に、苛立ち以上の困惑を感
じずにはいられなかった。
いつの間にか城門の外には人だかりが出来ており、その中から城
の魔法実験の真偽を問う声が上がっている。それらを更に煽るシュ
ーラ教徒の扇動が重なると、明らかな戦闘の気配のせいもあって、
民衆は様子を窺いに城へと詰め寄せ始めた。
勿論、魔法実験を恐れて街から逃げ出そうとする民もいれば、そ
んなものは流言だと信じない人間もいる。だが閉められない裏門か
ら、血気盛んな人間たちが説明を求めて侵入してくるにいたって、
カンデラ城都はかつてない程の混乱に見舞われることになったので
ある。
﹁どんな手段を使っても、ってことだったからな。急場の寄せ集め
で城に戦争しかける程、俺たちは無謀じゃない﹂
ターキスはとりあえずで身を潜めた小部屋の窓から、押し寄せる
人の波を見物していた。
計画の大筋としては夜明け前を狙って陽動と侵入を行い、夜明け
と共に目覚めた人々に、シューラ教側から真実を流布させる。勿論
話を聞いて街から避難する人間が出るならそれでよし、逆に城に民
衆が集まってくるならそれ自体が城への圧力になる。
二種の反応のうちどちらに人の流れが多く割かれるかは、蓋を開
けてみなければ分からなかったが、どちらにしても悪くない結果が
もたらされる。あとは城内部隊次第だと彼らは踏んでいた。
﹁さて後は魔法士長を捕まえるか、直接魔法士を止めるかか﹂
既に城の中には、棘が入り込むように彼らのうち何人かが侵入を
果たしている。
317
侵入後、それぞれがどのような判断でどのような手段を取るかは、
各個人に任されているが、彼ら全員が上手く功を奏せるとは限らな
いだろう。ターキスは、性質は違えど全員が手強いと言える知己の
顔を順に思い浮かべた。最後にその中でももっとも無力でもっとも
不可思議な少女のことを思い出す。
何も出来ないくせに、知り合いの魔法士を助ける為だけに自ら揉
め事の中に飛び込んだ彼女。武器を持つことにさえ逡巡を見せた少
女が、はたして血と怒りが交錯するこの戦場で、目的を果たすこと
は出来るのだろうか。
﹁ただの小娘か、未知の切り札か⋮⋮。死ぬなよ、雫﹂
ターキスは血に濡れた剣を携えると再びの戦場へ戻っていく。
それは二日目の日の出から一時間が経過した時のことだった。
長い廊下をただひたすら走っていく。
途中何人もの兵士たちとすれ違い奇異の目を向けられたが、女官
の格好をしているせいか誰も呼び止めようとまではしなかった。城
はとても広いし複雑な作りである。だが雫にとってそれは、エリク
が作った構成の図案よりは単純であり、複雑で知られる都会の駅よ
りは整然として感じられた。
全部で五つあるという地下の広間。先ほど行った場所が第二とい
うなら、残りの研究室はまた、共通の中心を持って円状に配置され
ているのかもしれない。何故そう思うのかと言えば単に、エリクが
﹁魔法陣ってのは基本円形が多いんだよ﹂と教えてくれたことを覚
えていたからだ。
街における城の領域とその方角、自分が移動した場所をあわせて
考えれば怪しい場所の見当はつく。複雑な廊下を行ったり来たりさ
まよった挙句、狙い通り先ほどと似た下り階段を見つけた雫は、勢
い込んでその石段を下り始めた。
318
息はとっくに切れている。だが不思議と気分は昂揚しており、そ
れほど苦しさは感じなかった。脳内物質が出ているとはこういう状
態をいうのだろうか。だが、脇腹が痛んでいるのは事実であったし、
明日はきっと筋肉疲労で倒れているだろう。ただ、そんなもので済
むのならいくらでも筋肉痛になってやる、というのが彼女の正直な
気持ちだ。
階段はまるで真の闇の中へと続いているようだ。
第二地下研究室の時とは違い、見張りの兵士もいなければ階段に
は松明も灯っていない。そのことに訝しさを感じつつ、だが雫は暗
い石段を手探りで下りていった。前の階段の三倍以上の時間をかけ
て扉の前に立つと、ゆっくりとそれを押す。
しかし、扉の向こうから中の空気が漏れ出した時、雫は反射的に
生臭い、血の匂い。
逃げ出したくなってしまった。
︱︱︱︱
またたく間に鼻腔から肺の中へと侵入を果たした臭気に、彼女は
吐き気を覚えて顔を手で押さえた。
鼻を覆ってもなおかつ感じ取れるその匂いは、明らかに部屋の中
が尋常ではないことを示してきている。﹃引き返した方がいい﹄と
頭の中で自分の声が警告を放った。ここはとても危険だ。よくない
ものが満ちている。
だけど︱︱︱︱
雫は扉に背を向けて一度深呼吸すると、息を止め広間の中に足を
踏み入れる。恐怖を﹁エリクを探し出さなければならない﹂という
意思の力で捻じ伏せたのだ。
ホラー映画で三番目くらいに殺される人間みたいだ、とふっと考
えかけて、彼女は自分の想像に身震いする。先程足を踏み入れた場
所と同じ作りの広間。けれど頼りない明かり一つしか見えないそこ
で、彼女を待っていたものは、凄惨としか言いようのない光景だっ
319
た。
濃すぎる血の臭いは、それだけで吐き気を催させるのだと雫はこ
の時知った。彼女はスカーフを取り出すと、鼻と口を押さえる。
物音はしない。ぼんやりとした明かりの周囲には動く人影も見え
ない。がくがくと震えそうになる足を叱咤しながら、雫はゆっくり
と広間の中心に向って距離をつめた。
暗闇に目が慣れるにしたがって、床にいくつもの何かが転がって
いるのが分かる。横たわる影。それが何であるのか予想がついた時、
人の体だ。それもおそらく死んでいる。
雫は部屋が薄暗かったことに心から感謝した。
︱︱︱︱
よく見えない為、死因が何だかは分からない。だがそれは部屋中
に立ち込めるこの臭いと無関係ではないだろう。雫は一定の距離を
保ちながらもいくつかの死体の体格を確認して、それがエリクのも
のではないことを確認した。安心すると共に目元が潤んでくる。悲
哀の涙か恐怖の涙かは分からないが、雫は深く息を吸ってまばたき
をした。
落ち着こう。ただそれだけを何度も心の中で繰り返す。
だが、意識する度に昨晩彼女の前で死んだ男の姿が甦ってきて、
雫は歯をかみ締めた。せめて今だけでも慣れなければならない。そ
の考えは、発想の酷薄さに自己嫌悪を覚えさせたが、彼女は溜息ご
早く全部を見回って、この部屋を出た方がいい。エリ
と引っかかる抵抗感を飲み込んだ。バッグを背負ったままの肩を落
とす。
︱︱︱︱
クはきっとここにはいないのだから。
雫はもう一度目を凝らす。闇の向こうに転がっている死体。ぎり
ぎり明かりが届く領域に入っているその男の顔は、驚愕の表情のま
ま固まっていた。琥珀色の瞳がまるでプラスチックのように薄白く
320
濁りつつ、空虚な反射を為している。そこには生の残滓はない。た
だ﹁空っぽなのだ﹂という言葉が雫の中で響いた。
ただ一つの明かりは石畳の上に落ちているランプからのものだっ
た。その発光源は火ではなく、中に暖色の球体がはめ込まれて光を
発している。
魔法で出来た電球だろうか。雫は死体の間を通ってそろそろと明
るい場所に歩み出ると、倒れたランプを拾い上げようとした。それ
を持って更に奥を調べようとしたのだ。だがその時、雫は闇が動く
のを﹁感じた﹂。
鳥の声。空気。
それらを認知するより早く彼女は腰を落とし尻餅をつく。
同時に頭の上を、何かが恐ろしいスピードで通り過ぎていった。
﹁え﹂
驚愕は遅れてやってくる。
頭と体がまるで別々のように上手く連動しない。
体は既に、攻撃手の存在を察して動き出そうとしているのだが、
頭はまだよく状況を理解できないでいた。腰の後ろについた両手に
かろうじて力を込める。
立ち上がろうか後ずさろうか、それさえも瞬間迷って時間を消費
する雫に届いたのは、だが人間が吹く感嘆の口笛だった。
けど、その後が台無しだ。それじゃ何も出来ない。殺さ
﹁やるね。ド素人かと思ってたけど、避けられるとは思わなかった。
︱︱︱︱
れちゃうよ﹂
﹁だ、誰?﹂
﹁さっき一緒にいたじゃん。忘れちゃった?﹂
まるで友人に話しかけるように気軽な口調で返してきた男は、無
造作に闇の中から光の届く輪の中に現れた。小柄で華奢な少年と言
っていい体つき。短い茶色の髪の下にある顔は妙に綺麗だった。造
321
作が整っているというわけではない。顔立ちだけ取れば十人並と言
っていい容姿だろう。
だが、彼は綺麗だ。
そこには、余分なものが何もない。嘘のようなすっきりさがそう
思わせている。苦味も迷いもないのだ。時に人を醜くさえ見せる感
代わりにそこに貼り付いているものは﹁楽し
情が、少年からはほとんど削ぎ落とされていた。
︱︱︱︱︱︱︱︱
み﹂だろうか。
愉悦と言うほど強くもなく、かと言ってまったくの無感情でもな
い。さらっとした楽しみが、彼からは感じ取れる。雫は強張る声で
聞き返した。
﹁さっき、一緒にいた?﹂
﹁リディアが開いた門で一緒に入ってきただろ? 注意力散漫だね、
君﹂
相手
言われて見ればいたかもしれない。だがあの時は自分のことで精
一杯だったのだ。雫は忘れていたことを謝りかけて︱︱︱︱
が自分に攻撃をしかけたことを思い出した。
﹁何で私を⋮⋮﹂
﹁ターキスが連れ歩いてたからどんな人間なのかと思って。軽く耳
でも削いでみようかと思ったけど上手く避けられた。君、何者? やっぱり勘がいいだけのド素人?﹂
﹁ドしろうと、です。というか依頼人⋮⋮﹂
﹁何だ。つまんない﹂
そんな勘違いで耳を削がないで欲しい。雫は脱力して崩れ落ちそ
うになった。
だが少年はあっさりそう言うと本当に興味をなくしたのか、座り
込んだままの雫の横を通り過ぎる。再び闇の中に消えていこうとし
た彼を、雫は慌てて振り返った。
﹁待って!﹂
﹁何?﹂
322
﹁こ⋮⋮ど、どこに行くの?﹂
本当は﹁この部屋の惨状は全てあなたがやったのか﹂と問いたか
ったが、自分でもそれは愚問に思えて、雫は質問を変えたのだ。
セルーはターキスへの依頼にあたって﹁禁呪を組んでいる魔法士
を殺していけば止まる﹂と言っていた。
そして彼は⋮⋮⋮⋮それをそのまま果たしただけのことなのだろ
眩暈がする。動悸が激しくて、気持ちが悪い。このま
う。分かりきったことだ。
︱︱︱︱
まここで気を失ってしまえたら楽かもしれない。人があっさりと命
を断たれて転がる、そんな現実など嘘なのだと叫びたい。
けれど、そうしてしまうには雫はもはや﹁踏み込んで﹂しまって
いる。そうすることを選んだのだ。何も知らない振りをして声を上
げる事は出来ない。
だから代わりに、雫はこれから先のことを問う。
まだ起こっていないことを変えられないかと、口を開くのだ。
﹁どこって、別の部屋に。ここが第四研究室って言うらしいから、
第二か第三に﹂
﹁第二には私が行って来た。禁呪だって言ったらみんな驚いてたか
ら、もう構成をやめたかもしれない﹂
﹁へー。でも念の為殺しとくよ。その方が早い﹂
返ってきた言葉は彼の顔と同じくすっきりとしたものだった。雫
は一瞬その躊躇いのなさに愕然として、けれど慌てて反論する。
﹁殺すことないと思う。話せば通じそうだったし。魔法士長はちょ
っとおかしかったけど⋮⋮﹂
﹁何だ。魔法士長も駄目なんだ? まぁまだるっこしくなくていい
や。目標に追加しとく﹂
﹁待ってってば!﹂
さっさと立ち去ろうとした少年の背に、雫は声をぶつけた。二人
323
の他には誰もいない広間に、叫びの残響が広がる。床の上のランプ
が、切れかけた蛍光灯の如くまたたいた。
その目の中には何もないのだ。まるで彼が作り出し
彼はようやく振り返ると、硝子球のように澄んだ目で雫を見つめ
る。︱︱︱︱
た死体と同じように。
﹁何? 何が言いたいの?﹂
﹁こ、殺すことはないって⋮⋮﹂
﹁ふーん? なるほどー。君はそういう素人なわけか﹂
偽善か無知か甘さか、彼が口に含んだ﹁そういう﹂はそれらのう
ちのどれかだろう。雫は自分でもそのことを感じていたのだから。
だが、彼女は先程魔法士長の前で﹁禁呪﹂と口にした時の魔法士
たちの驚愕を既に知っていた。魔法士は禁呪を忌み嫌っている。そ
れは彼女がエリクと話した時から、分かっていたはずのことなのだ。
﹁禁呪を作ってる人に話せばいいだけだよ。あとは気絶させるとか﹂
﹁あー⋮⋮それで、またそいつらが気が変わったり、目が覚めたり
して禁呪を組んだらどうすんの。それでこの街が滅んだら? 百人
殺して数万人が助かるならその方がよくない?﹂
情味のない少年の言葉は、一つ一つが彼女に圧し掛かろうとと重
なってくる。雫は息苦しさを感じて喉を掻いた。
彼の言いたいことは分かるのだ。安易な気持ちで隙を作るなとい
うことも。しかし彼女は震えそうになる心を留めると、かぶりを振
る。
﹁少数を犠牲に多数を生かすかどうかなんて仮定に意味はないでし
ょ。そうやって端的に圧縮した極論なんて、どんな状況でも通用す
るわけじゃないよ。だから、今だって他に道がある。彼らは知らな
いで禁呪を組まされてる。本当のことを教えればいいだけで、それ
で、組ませた人を捕まえればもう起こらない﹂
324
もし本当に少数を犠牲にするしか他に道がないのなら。
その時は雫もまた罪悪感に苦しみつつも、彼の行動を是とするか
もしれない。
けれど今はその時ではない。いつかの時に正しかった選択が、今
も同じように正しいわけではないのだ。
何も知らぬまま利用されて殺されて、それで﹁本当に終わり﹂な
んてあんまりだ。雫は今自分がいる場所を意識する。冷たい石の上
に転がされた命の抜け殻が周囲にあることを。
ここにあるのが正義かと言ったらそれは分からない。ただ確実に
震えるほど虚
言えるのは、何の装飾も施されない剥きだしの死がその姿を曝して
いるというだけだ。
それは悲しくもあり怖くもあり、そして︱︱︱︱
しかった。
人の命は、思考は、精神はもっと貴いものだと彼女は思う。それ
が理想論に過ぎなくとも、そう思っていたいのだ。
雫は無表情になった少年を見つめる。思っていたよりずっと自分
が冷静でいられるのは、今が命のかかった時だと感じているからな
のかもしれない。
初めてこの世界に来た時の砂漠と同じように。だがあの場所とは
僕は、そういう奇麗事の説教が嫌い。何の力もない人
正反対にひんやりと冷たい石床が今は彼女の体を支えていた。
﹁︱︱︱︱
間からされるのは特に﹂
﹁すみません。でも﹂
﹁でもは無し。はっきり言うけど、僕は人を殺すのが楽しいんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
少年は目を細めて雫を見下ろす。それは彼女を﹁殺していいか﹂
吟味する視線で、それ以外の何ものでもない。﹁説教が嫌いだ﹂と
いうわりに不愉快ささえなかった。
とてもとても空っぽだ。恐怖や驚愕が残る死体たちよりもずっと。
325
向き合ってお互いを見つめているにもかかわらず、相手に自分が
見えていないような、自分も相手が見えていないような隔絶感が雫
の周りを覆う。理解不能という言葉をそのまま表情に貼り付けて、
彼女は少年を見上げた。
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁別に。動いているものが動かなくなると楽しい﹂
﹁死んじゃったらそれまでだよ﹂
﹁知ってる。でも人間ってすごくいっぱいいるじゃん﹂
﹁同じ人間がいっぱいいるわけじゃないんだよ﹂
雫は言葉を紡ぎながらも同時に﹁きっと伝わらないだろう﹂とい
う予感を抱いている。
きっと伝わらない。言葉は届いても、思いは届かない。そう思っ
てしまうくらい彼には何も響かない。
少年は涼しい顔で肩をすくめた。
遠すぎる。
﹁分かってるって。でも、人間なんてみんな似たり寄ったりじゃな
い?﹂
︱︱︱︱
雫は確かにこの時、絶望に似た気持ちを味わった。
言葉を尽くしても通じ合えない。あまりにも遠くて、光の当たら
ない先に向って呼びかけているかのようだ。
﹁違うよ﹂
﹁僕にとってはおんなじだな。君も文句があるなら力で止めなよ。
こういうの鬱陶しくて仕方ないし。殺しちゃうよ﹂
﹁私は死にたくない﹂
﹁あっそ。じゃーね﹂
実際惜しい
少年は闇の中
時間が惜しいとでも言うようにあっさりと︱︱︱︱
のだ。こんな問答をしている場合ではない︱︱︱︱
に消えた。
無言の死体が転がる中、雫は両目を閉じる。かつてないほどの虚
脱感が、彼女の足を絡めとり地の底へと引きずり込むようだった。
326
雫はのろのろと立ち上がるとランプを手に取る。残りの死体の中
にエリクがいないことを確認して、明かりを置くと階段に戻った。
自分は力など持っていない。人を容易く殺す彼を止められるよう
な力はないのだ。
ただ目的はある。あの少年が全ての魔法士を殺してしまう前に何
としてもエリクを見つけるという目的が。
一段一段階段を上る度に、雫は唇を噛みながらも少しずつ気持ち
を切り替えていく。どんなに重くても今は前を向くのだ。走り出さ
ないと間に合わない。
すっかり明るくなった日の光が届く最後の一段を前に、彼女は深
い地下へと続く階段を振り返る。
雫を無力感の淀む淵へと突き落とした男、カイト・ディシスとの
これが初めての出会いだった。
327
008
城の最上階、中央に位置する場所に、一つの部屋がある。
その部屋の中心に今は複雑な魔法陣が描かれ、陣の外周には燭台
が等間隔に十二本配されていた。燭台には火ではなく魔法の明かり
が灯っている。薄紫に発光する光は、時折魔法陣が光を帯びるのに
呼応して、その光量を強めていた。
奥に据えられた玉座には、豪奢な服を纏った初老の男がふんぞり
返っている。眉間に深い皺を刻んだ国王オーラウは、何度目かに鼻
を鳴らすと傍に控える大臣を呼びつけた。
﹁どうなっている? 順調なのか?﹂
﹁それは⋮⋮⋮⋮多少の遅れは出ておりますが、順調は順調とのこ
とで。ですが、城門には民が詰めかけ、外は大変な騒ぎになってお
ります。このまま沈黙していては暴徒が出る可能性も⋮⋮﹂
﹁ふん。卑近しか見えぬ愚か者どもが。どちらが国の為になるかな
ど分かりきったことであろう﹂
己の民を煩わしげに語る言葉に、大臣は眉を寄せたが、王はそれ
には気づかない。そもそも禁呪の形成に、重臣の全員が心から賛同
しているわけではないのだ。だが、面と向って王に批判を向けた一
人は既に任を解かれていた。結果、他の者は賛同か沈黙を余儀なく
され、今日を迎えているのである。
﹁おそれながら、陛下が一言民にお言葉を賜れば混乱は収まるかと﹂
﹁まずは襲撃者を排除しきってからだ。そうすれば余が出て民を落
ち着かせる﹂
オーラウの反論を許さぬ言葉に、大臣は口を噤んだ。それでは手
328
遅れになるかもしれない、と本当は言いたかったのだが、実際に口
にしては襲撃対応の不味さをあげつらわれるので、忠言を諦めたの
だ。
それに事実、城に入り込んでしまった襲撃者たちは、巧みにあち
こちに分かれ潜みながら魔法士や兵士を狙って攻撃をしかけてきて
いる。この状況で王が表に出ては、暗殺される危険性も高いだろう。
大臣は深い溜息をつきたくなってそれを堪えた。
部屋の中央に描かれた魔法陣。禁呪が完成すれば、そこに炎を纏
った光球が生まれると、構成図は伝えている。そうしたら城の魔法
勿論魔砲の話は、シューラ信者の手が入った偽りの記
士たちでそれを水晶に封じ込め、魔砲とするのだ。
︱︱︱︱
述だ。
だが、それに気づいている者はこの部屋にはいない。
﹁禁呪に溺れし者は禁呪に滅びる﹂と千年を越えて言われる不文律
が、今まさに進行しつつあった。
惨劇の場であった第四地下研究室を出た雫は、第五を探すべきか、
あの少年が向ったであろう第三へと追いかけるべきか逡巡した。
そのどちらかにエリクがいるのかもしれないのだ。彼が殺される
などという事態は、なんとしても回避しなければならない。
かといって、彼でなければ殺されてもいいのかと言ったら否だが、
悔しいながらもこの非常事態では優先順位をつけざるをえない。な
らば、確実を期して第三だろうか。しかしそう思って歩き出した雫
は、すぐに方向転換を余儀なくされた。
廊下の向こうから現れた魔法士二人が、彼女を指して何事か言葉
を交し合ったのだ。
二人のうち一人が呪文詠唱をしだし、もう一人が彼女に向かって
329
走ってくる。それを見た雫は素早く踵を返した。彼女は一番手近に
あった角を右に飛び込む。何かの魔法が背後を真っ直ぐ通りすぎて
いくのが分かった。
﹁まずいまずい! ばれたっぽい!﹂
先程の魔法士長が彼女の容貌を指示して手配をかけたのだろうか。
雫は追っ手が曲がってくる前に、すぐ次の角を曲がる。そのまま
彼女は後ろを見ることなくジグザグに逃走を開始した。
記憶にある限りもとの世界で最後に全力で走ったのは⋮⋮高校二
年の時のスポーツテストの測定でだろうか。人数が多い高校だった
為、雫は体育祭では応援しかしていなかったし、三年生になってか
らは受験勉強ばかりだった。
大学に入ってからは、バレーやテニスなどの球技しかしていない。
寝坊して慌ててダッシュなどということもなかった為、自然と走ら
ない生活が当然のものとなっていた。
にもかかわらず。
この世界に来てからは走ってばっかりだ。何だか段々体力がつい
てきた気さえしている。
どちらかと言えば頭脳労働派な文系大学生だった雫は、ここに来
て﹁体が資本﹂という言葉の意味を実感する羽目になっていた。
﹁そ、そろそろ死ぬかも⋮⋮﹂
酸欠による眩暈に、雫は柱の影にへたりこむ。喉と脇腹と足が痛
い。体中が熱くて仕方ない。全力で走りきったおかげか追っ手は何
とか撒いたが、研究室が位置しているであろう場所からは大分中心
部へと突っ込んでしまった。あんな無茶苦茶なルート選択をしては、
雫以外の人間ならまず迷子になってしまっただろう。まるで家猫が
家から逃げ出した後、あちこちで追われて家から遠ざかってしまっ
たかのようだ。
雫は現在位置を何とか頭の中で確認しつつ、呼吸を整える。いく
330
らなんでも廊下にいつまでも座り込んでいては怪しい。彼女は近く
に小部屋を見つけると、その中に滑り込んだ。中は空き部屋なのか
家具の一つもなくがらんとしている。
﹁ちょっと確認しよう﹂
雫はバッグの中からルーズリーフとシャープペンを取り出すと、
走り回った一階部分の地図を大雑把に書き始めた。あたりを取って
からスタート地点の塔を書き込み、第二研究室と第四研究室も書き
込む。その上で今いる場所に×をつけると、そこは彼女の予想通り
城の中心に程近い場所だった。
普段はもっと厳重な警備が敷かれているのかもしれないが、今は
人手が足りないに違いない。何度か兵士の姿も見かけて避けたが、
彼らもどこかへ移動する途中のようだった。
﹁中心⋮⋮穴?﹂
これは仮定ではあるがおそ
これがまず仮定の一つ。第二と第四は少なくともその通り
五つの研究室は城の中央を中心として、円状に位置している。︱
︱︱︱
になっている。
今いる場所は中心に近い。︱︱︱︱
らく正しいだろう。今自分は、大分城の真ん中近いところまで近づ
いてきている。
ならばこの推測は果た
禁呪の魔法陣は、五つの研究室を結んで巨大な円形を成している。
そしてその中央に﹁穴﹂が開く。︱︱︱︱
して、正しいのだろうか。
﹁穴って塞げないかな。まだ開いてないのかな﹂
禁呪が完成すれば人を狂わせる﹁負の穴﹂が開くとは、セルーが
契約後に説明してくれたことだが、それがどのようなものなのか、
魔法に通じていない雫には想像しにくい。
﹁穴﹂とは本当に穴なのだろうか。黄泉比良坂でイザナギが黄泉路
に通じる道を大岩で塞いだという日本神話があるが、はたしてそれ
に似たものなのかもしれない。禁呪の穴も岩で塞いでしまえるなら
331
塞ぎたいが、きっとあれは神様だから出来たことなのだろう。第一
雫にはそんな大岩を動かす腕力もないし、大岩自体が見当たらない。
折角中心近くまで来たのだから、何か出来るならしないと勿体無
いという思いがあるのだが、具体的に何をしていいか分からないの
は致命的だった。
雫は諦めて地図とシャープペンをしまうと、ここから一番近いの
ではないかと思える第一研究室に向うことにする。だが立ち上がっ
て扉を開けた時、それまで沈黙していた小鳥が急に自分で飛び始め
た。
メアは、彼女の少し前に来て羽ばたくと小さく鳴く。そのまま廊
下の右奥へ向って空中を進みだした。
﹁あ、あれ。道案内?﹂
主人の問いに、小鳥はまた鳴いて肯定を示す。進んでいく先は第
一研究室とはまったく違う方角だが、使い魔を信用している雫は頷
くとその後をついて歩き出した。何度か角を曲がっていく。その方
間違いなく中心へと近づいている。
角を確認する度に、彼女の緊張は増していった。
︱︱︱︱
途中で階段を下り、半地下の階に足を踏み入れながらもメアはひ
たすら中心へと近づいていった。
他に人影を見ないのはこの階自体が倉庫扱いだからなのだろうか。
先程までいた一階とは違って、装飾もほとんどない。無骨な石の廊
下は研究室の石広間と似通ったものがあった。
やがてメアは一つの扉の前で空中に止まる。
左右にいくつも並んでいる扉と同じ、何の変哲もない一枚だ。雫
ここはほとんど城の中心だ。
は僅かに震える手をかけた。
︱︱︱︱
ならば、もしかしたらこの部屋の中には穴があいているのかもし
れない。それを今、塞いでしまえとメアは言いたいのだろうか。
332
雫は扉を開く前に廊下を見渡す。そこにはあちこち大きな木箱が
置かれており、これならば彼女でも何とか動かせるのではないかと
いうものも混ざっていた。
﹁箱で塞げるかな⋮⋮﹂
穴の方が大きくて落っこちてしまったら、それはどこにいくのだ
ろう。
自分でもよく分からない疑問に真剣に悩みながら、けれど雫はつ
いに扉を開けた。
開けてすぐに見えたのは大きな木箱だった。
雫の身長より遥かに高い位置まで積み上げられている箱を、彼女
は唖然として見上げる。いくら倉庫だって、何もこんな扉間近まで
箱を積まなくてもいいだろう。これでは中のものが取り出せないで
はないか。
そんな憤慨を覚えながら、けれど雫はすぐ箱が全てを塞いでしま
っているのではないことに気づいた。よく見ると右側に、すり抜け
られそうな隙間がある。その奥にはまだ空間がありそうだ。雫は体
を横にしてそこを通り抜けようとする。
直後、雫は箱の陰から現れた短剣に静止を余儀なくされた。
この日何度目かのメアの警告が聞こえたのはその時のことで︱︱
︱︱
﹁⋮⋮っ﹂
進路を塞ぐバーのように横に突き出された剣は、彼女の首とほぼ
同じ高さにある。
誰がその剣を持っているのかは、箱の陰になって見えない。雫は
思ってもみなかった﹁誰か﹂の存在に自分も剣を抜くべきかどうか
迷った。
だが彼女が迷っている間に、メアは剣の上を飛び越えてふらふら
と中に入ってしまう。雫は慌てて手を伸ばした。
333
﹁待って! メア!﹂
﹁え?﹂
虚を突かれた男の声。少し遅れて短剣が引かれる。その声に雫は
分からないはずがない。ずっと一緒だった男の声なの
覚えがあった。
︱︱︱︱
だから。
彼女は急いで隙間をもどかしくも抜け出る。奥はやはり開けてお
り、そこには一人の魔法士が立っていた。
﹁エリク!!﹂
﹁あれ。何で君ここにいるの﹂
驚いたような藍色の瞳。あまり緊張感の感じられないいつも通り
の口調。
だがそれは雫の胸を懐かしさでいっぱいにさせた。たった一日が
どれほど長く遠かっただろう。けれどようやく彼に会う事ができた
のだ。
今まで溜め込んで押し付けてきたものの箍が緩む。自然と零れ落
ちる涙に彼女は慌てて顔を拭った。何かを言おうとしたが声になら
ない。嗚咽を出さないようにするので精一杯だった。
エリクは目を丸くして女官姿の少女を見下ろしていたが、短剣を
鞘に戻すと苦笑する。そして彼は時々するように、拳の背で彼女の
頭をこつんと叩いた。
﹁うん。頑張ったね。ありがとう﹂
何故彼は、言葉足らずでも色んなことを分かってくれるのか。
けれどそんな疑問よりもたった一言で全てが報われた気がして、
雫は涙に濡れたまま笑顔になると頷いたのだった。
四畳半ほどの小さな倉庫で、雫とエリクは並んで弁当を食べてい
た。
朝起こされた時、ターキスに﹁長丁場になるかもしれないから朝
334
くらい食っとけ﹂と言われたのだが、その時宿屋の台所を借りて簡
単な昼食も二人分作っていたのだ。
ペットボトルに入れたお茶とおにぎりと玉子焼き、保存用の干し
肉だけだが、走り回っていた雫と昨日から不眠不休だったというエ
リクにはありがたいものだった。彼は塩で味付けされたおにぎりを
手に、まじまじと眺める。
﹁面白い形してる﹂
﹁私の国ではこれが普通なんですよ。海苔も鮭もないから塩だけで
すけど﹂
﹁ノリって何﹂
﹁海草です。集めて乾燥させて紙状にしたものが多いですね。美味
しいですよ﹂
﹁へー。僕は海草って食べたことないな﹂
﹁将来禿げますね﹂
﹁何で﹂
ワカメと頭髪の迷信を知らない男は、当然ながら即聞き返してき
たが、雫はそれを無視した。代わりに目の前の床を指差す。
﹁これ何ですか。魔法陣ですよね﹂
﹁うん。僕が描いた﹂
三重円を外周として描かれた複雑な紋様。
見るとそれは確かにチョークに似た白い何かで線が引かれていた。
周囲に長い棒や紐が落ちているのはこれを描く為に使ったのだろう。
魔法具もない上、直径一メートル以上はゆうにあるこの魔法陣を描
く為に、エリクは試行錯誤したに違いない。
二人は騒ぎの只中にある城のど真中の地下で、おにぎりを食べな
がら一通りの情報を交換することになった。
宿屋に兵士が来たことを聞いたエリクは、苦い顔になると﹁君の
ところまで行くとは思わなかった。ごめん﹂と返してくる。何でも
彼は雫が報告するまでもなく禁呪のことを見破って、それを城の魔
335
法士に報告した結果、逃げ出す羽目になっていたというのだ。
兵士の中で、エリクと一緒にいた彼女のことを覚えていた人間が
いるというのも驚きだが、結局は彼女も逃れられたのだしエリクを
責める気はまったくない。むしろ自力で禁呪を読み解いた彼に、た
だただ感動するばかりである。
﹁ほら、クレアの塔。あれと構成が似てたんだよ。じゃなきゃいく
らなんでも分からなかった﹂
﹁じゃああれもシューラ教が建てさせたんでしょうね。今の禁呪は
また違う構成みたいですけど﹂
﹁違うね。負の穴を開けて﹃向こう側﹄をこっちに呼び込む構成だ﹂
﹁負の穴⋮⋮﹂
またその言葉だ。雫はいまいち意味の掴み切れない単語に自然と
眉を寄せてしまうが、もしかしたらエリクならそれが何なのか教え
てくれるかもしれない。
彼女はお茶を一口飲むと、隣に座る魔法士に﹁負の穴﹂とは何な
のか尋ねてみた。エリクは﹁うーん﹂と考え込んだ挙句、口を開く。
﹁まずこの世界において、人間とは魂・精神・肉体の三つから成る
と考えられている﹂
﹁はい﹂
こういう話は苦手ではない。普段学校でも教養として似たような
人文科学の講義を受けるからだ。エリクも雫の表情からそれを了解
したのだろう。いつもの言語についての話と同様、軽く続けた。
﹁肉体は説明しなくても分かるね? 感覚知覚と生命維持、生殖を
担当する人間の物質的な部分だ。で、精神は肉体と密接にくっつい
て知的認識や思考や感情、記憶を司っている。最後が魂だけど、こ
れは無生物と生物を分けるものだ。生物の中に宿り、生物を生かし
ている力そのもので、死後は拡散して自然の中に還る﹂
﹁なるほど﹂
﹁ついていけてる?﹂
336
﹁今のところ﹂
雫は先程地図を書いたルーズリーフの裏にメモを取ってみたが、
何だかそれは西洋古代哲学のノートと大差ないようにも見える。そ
の分馴染みやすいと言えば馴染みやすく、彼女はシャープペンで﹁
魂﹂と書いた箇所をつついた。
人は死後には何も残らないというこの世界における事実は、この
魂が拡散してしまうところから来ているのだ。精神は肉体と共に滅
び、魂は消え去る。それが人の死の現実なのだろう。
つい先程見た﹁終わってしまった﹂死体に意識が飛びかけた雫は、
慌ててそれを引き戻す。
﹁魂は死後拡散してしまう。では、どうやって生物の中に生まれる
と思う?﹂
﹁あ。あれ? えーと⋮⋮肉体と共に生まれるんですか?﹂
﹁部分正解。実は魂についてはまだよく分かっていない部分が多い
んだ。ただそれは、魔法士の間では研究の結果﹃あらゆるものから
成り、あらゆるものに繋がり、肉体によって形成される﹄と言われ
ている。つまりあちこちにある自然的な力をこういう風に⋮⋮﹂
エリクはお茶の入ったペットボトルを持ち上げる。透明なプラス
チックの向こうで澄んだ茶色のお茶が揺れた。
﹁肉体が閉じ込めて、魂として他と分かち、一つのものとしている﹂
﹁液体が魂で、容器が肉体ですか﹂
﹁そう。だから肉体が死ぬと魂もこぼれちゃうんだな﹂
彼は中を軽く振ると、キャップを開けて口をつけた。このペット
ボトルは雫が元の世界から持ってきたものであり、最初は水が入っ
ていたのだが、色々便利なので捨てないで持ち歩いているのだ。さ
すがにコップまでは持って来ていない為、二人で飲んでいるのだが、
エリクは当然気にもしていないし、雫もそんなことを気にしてはい
られない。
337
﹁しかしここで問題なのは魂が﹃あらゆるものから成り、あらゆる
ものと繋がっている﹄という点だ。容器に閉じ込められたお茶と異
なり、魂は肉体の中にあっても様々なものと繋がっている。人間が
みな共通して、根源的な感情や基本的な思考の働き、言語などを持
っているのは、全ての魂が同じ﹃何か﹄に繋がっていることが原因
だとされているし、魔法士が本来違う位階に存在しているはずの魔
法法則に触れられるのも、魂がその位階に繋がっている為だという
わけ﹂
﹁うう、難しくなってきましたよ﹂
﹁うん。とりあえず魂は外界へ繋がる人間の内的な窓と思ってれば
いい﹂
﹁了解です﹂
﹁この窓はそれはもうあちこちに繋がってる。天上の美徳と言われ
るものから最下部までね。その繋がっている最下部と言われている
のが負の海だ﹂
﹁負?﹂
﹁負﹂
穴ではなく海。ただでさえ観念的な話だったのに、更に途方もな
く広がった気がする。雫はメモを取っていたルーズリースの下に何
となく海面を書いて、更にイルカの絵を描いてみた。
﹁負の海、混沌の海とも呼ばれる世界の床下に広がる概念上の海だ。
知性や美徳、魔法構成や上位魔族の位階が、階層的にこの世界より
上層に位置するとするなら、負の海は最下層。諦観、悲嘆、怨嗟な
どがひしめき、そこには人の感情として成形される以前の負が満ち
ているという﹂
﹁うぇ﹂
イルカの絵にまったく似つかわしくない不吉な海だった。雫はイ
ルカを黒く塗りつぶそうかと考えて、その発想を一瞬で放棄した。
手の中でシャープペンを回すと男に聞き返す。
﹁ひょっとして、人間が妬んだり恨んだりするのは、その海に繋が
338
ってるのが原因ってことですか?﹂
﹁と、言われている。実際にはそれだけじゃないと思うけどね﹂
﹁なーるーほどー﹂
美徳は上に、悪徳は下に、繋がっているというのはそう不自然な
発想ではない。人間は魂によって負と繋がっている、なればこそそ
こからの上昇を目指す、と教えの宗教など、いかにもありそうだ。
﹁でもそれって宗教的なたとえ話ですよね? シューラ教がそうい
う教えだとか?﹂
﹁だったらいいんだけど。実は過去に実際、この負の海に向って穴
が開いた事があるんだよ﹂
﹁へ?﹂
黒い目をまんまるにして雫は男を見つめる。おにぎりを食べ終わ
ったエリクは﹁ごちそうさま﹂と呟いてから、彼女の視線に応えて
苦笑したのだった。
﹁八百年ほど前かな。大陸中央部にね、自然の洞窟があってその地
下奥に深い穴が開いてたらしいんだよ﹂
﹁そ、それが負の穴!?﹂
﹁違う。ただの穴﹂
肩透かしを食らって雫はがっくりと項垂れる。何だか話は一進一
退している気がするが、途中をすっ飛ばしても余計理解が追いつか
ないだろう。
エリクは自分で描いた魔法陣を指差す。まるでそこに深い穴が開
いているかのように彼の視線は下を向いた。
﹁ただの穴だったんだけど、そこは位置的に瘴気が溜まりやすい穴
だったらしくてね。それだけならともかく、ある時戦乱があった際
つい
に、その中に死体が投げ捨てられていったそうなんだ。結果、溜ま
っていた瘴気の穴に更に死体を次々に放り込まれて︱︱︱︱
に世界に綻びが出来た。負の海に向って穴が開いてしまったんだ﹂
339
男の長い指が、ぱちんと音を鳴らす。その軽い音に雫は思わず体
を震わせた。
﹁伝承では穴に気づいた最初の男は負の海に引きずりこまれ、二番
目の男は狂った。そうして誰も何も出来ないうちに、穴からは留め
どこかで、聞いたことのある話だ。
られない﹃負﹄そのものが染み出してきて、三番目の男はそれを神
と呼んだ﹂
︱︱︱︱
雫はわずかに痛んだ頭を押さえる。シューラ教徒からではない。
もっと、深い、どこかで。
だが、どこで聞いたのか考えようとする度に頭は痛み、記憶は遠
ざかる。求めればそのまま自分ごと落ちてしまいそうな果てのなさ
に、雫は途中で諦めると意識を引き戻した。
﹁現出したその負は﹃シミラ﹄と呼ばれ、三番目の男は教祖となっ
て、穴の周りに信者を住まわせる小さな村を作った。多分これが⋮
⋮シューラと同じなんだろう。百年もの間その村は少しずつ信者を
増やし大きくなっていった。当時シミラは邪神と呼ばれ、その村は
周囲から邪教集団と呼ばれてたらしいけどね﹂
﹁じゃ、邪神!? それでどうなったんですか? その後﹂
﹁うん。滅んだ﹂
﹁世界が!?﹂
ひっくり返ったような雫の声が、小さな倉庫にこだまする。
その余韻が消え去って生まれた空白に、しばらくしてエリクの何
とも形容しがたい声が響いた。
﹁ちょっと落ち着いて。世界滅んでたら今なんで僕たちここにいる
の﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そですね⋮⋮⋮⋮﹂
突拍子もない話に驚いて突拍子もない発想をしてしまった。赤面
しながら雫は再び項垂れる。
エリクはだが、彼女の発想をさほど問題視していないらしい。変
340
わらぬ調子でその問いに答えた。
﹁滅んだのは邪神と村。巨大な魔法の一撃で吹き飛ばされたんだ。
たまたまの事故で、吹き飛ばした方も禁呪だったんだけど﹂
﹁うっわ。何だか怪獣大戦争みたいですね﹂
﹁何それ﹂
﹁説明は省略させてください﹂
怪獣を知るはずもない男は怪訝な顔をしたが、突き詰めても脱線
になるだけと分かったのだろう。何も聞かなかったかのようにそれ
以上は尋ねなかった。
﹁シミラが滅んだ後も、歴史上何度か狂信者が禁呪を用いて穴を開
けどね、失敗しててもそれぞれ百人近い人間が死んだり
こうとしたらしいけど、記録ではそれら事件のどれもが失敗してる。
︱︱︱︱
狂ったりしてるんだ。実際に開いちゃったらどんな惨事になるのか、
さすがに想像したくないね﹂
普段は大概のことでも平然としている男の、今まで聞いたことも
ない溜息混じりの苦々しい声に、雫は慄然とする。今二人が座って
いる石床の、更に下の下、世界をはみ出た底には何がたゆたってい
るのか。
彼女はまるで、自分が暗い夜の海に浮かぶ薄板の上に座している
ような気がして、知らぬうちに身震いしていたのだった。
﹁それで⋮⋮どうしましょうか﹂
雫が口にしたのは単なる確認である。
今が危機的状況であるということはよく分かった。
だが元々それをよく分かっているはずのエリクが、こんなところ
で魔法陣を描いているということは、何か心積もりがあるのだろう。
だから彼女は、自分もまた彼の意図を確認したいと思ったのだ。
彼はこめかみに指をあてて何事か考え込んでいるようだったが、
反対側の手で魔法陣を指差した。その後同じ指で天井を指す。
341
﹁禁呪の中心部はここの上⋮⋮二階か三階に設定されていると思う。
君は城の中心を探してここに来たの?﹂
﹁あー、いえ、メアが﹂
﹁なるほど。近くまで来て僕の魔力が分かったのか﹂
小鳥は肯定の囀りを上げる。エリクは軽く頷くと、立てた膝の上
に頬杖をついて天井を見上げた。
﹁僕が今やってるのは時間稼ぎ。最初禁呪だって気づいた時に、組
んでいた構成を少し組み替えてきた。だからこの魔法陣は、実は禁
呪に繋がってる。大幅に干渉できるわけじゃないが、多少の遅延と
軽減はできるんだ﹂
さらりと説明された言葉に雫は目を瞠った。
魔法具を直したり、城の審査に受かったりした時から思っていた
のだが、実は彼は魔法士としてかなり技術がある人間ではないだろ
うか。禁呪を見破っただけに留まらず、対抗策まで事前に組み入れ
てきているとは、城の人間も一本取られただろう。彼女は感嘆の声
を洩らす。
﹁わぁ⋮⋮すごい﹂
﹁これが僕の限界だけどね。幸い今この城には魔力が満ちているか
ら、多少は融通が利く。ただ、禁呪を完全に止められるわけじゃな
い。どこかに禁呪を纏める核があるんだろうが、この魔法陣じゃそ
こまでは届かないんだ。時間を稼いでいる間に手を打たなきゃいけ
ない﹂
﹁あ、でもそれなら上で﹂
そこまで言って雫は言葉を見失った。惨劇が起きた第四研究室と、
それを為した少年のことを思い出したのだ。
禁呪は止まるのかもしれない。数十人の命と引き換え
彼があの調子で他の研究室をも掃討していたのなら。
︱︱︱︱
に。
息苦しさが、視界が狭まるような圧迫感が甦ってくる。喉元に何
342
かが沸き起こる。彼女はそれを留めようと口を押さえた。
だが、気分の悪さがそのまま心身両方に歪みを生み出しそうに思
えた時、彼女の様子に気づいたエリクが手を伸ばした。顔の前で大
きな手をひらひらと振る。
﹁大丈夫? 顔色悪い﹂
﹁⋮⋮平気、です﹂
雫は目を閉じた。
ゆっくりと、深く、息を吸う。
肺の奥まで空間が広がるよう意識して息を止め、その後長く時間
をかけて吐き出す。
今は彼が隣にいるのだ。一人ではない。だから、落ち着くことも
出来るはずだ。
精神と肉体が共に絡み合って存しているというのなら、そのどち
らもを支配することは可能だろう。それが出来てこそようやく、人
は完全に自分の主人となり得るのだから。
全ての空気を細く吐ききった時、雫は感情の抑圧を試みた結果で
はあったが、ほぼいつも通りの平静を取り戻していた。淡々とした
口調で城の中に襲撃者がいることと、その中の一人が魔法士を殺し
て回っていることを話す。
エリクは眉を顰めて彼女の報告に聞き入っていたが、これは彼と
しては険しい表情の部類に入る。現に彼が発したのは苦い声だった。
﹁それでか。不味いな。道理で禁呪の進行速度が早まりだしたと思
った﹂
﹁早まった? 停滞したんじゃなくてですか?﹂
﹁早まってる。禁呪を組む為に用意されたのは五十人だ。その人数
何故、八百年前穴が開いたかだ﹂
は伊達じゃないんだよ。基本の構成はとっくに出来ていた。後は︱
︱︱︱
343
﹁あ⋮⋮⋮⋮﹂
瘴気が溜まりやすかった穴。そこに死体が投げ込まれて世界は綻
んだ。ならば今この状況で、構成に携わる魔法士が殺されていくと
いう状況はまさしく、その綻びを再現するものなのではないか。
雫は今度こそ血の気が引く思いがして唇をわななかせた。だがそ
うしていたのはほんの数秒で、すぐに彼女は立ち上がる。
﹁ちょ、ちょっと上行って言ってきます!﹂
﹁待って。それも問題なんだけど、話が通じなそうな相手だ。君が
行って殺されちゃ意味がない﹂
﹁でも!﹂
﹁気持ちは分かるけど、今は結構不味い状況だ。ここから先は失敗
が許されない﹂
有無を言わさぬ強い力が彼の言葉にはあった。エリクは床の上に
置かれていた城の地図を拾い上げる。彼は雫を手招きすると、地図
上のある一点を指差して言った。
﹁僕はここから離れられない。でも、これだけじゃ駄目なんだ。状
況を引っくり返すだけの一手が要る。本当は君に頼むのは悪いと思
っているが⋮⋮﹂
藍色の瞳が一瞬揺らぐ。雫はその揺らぎに気を取られて男の顔を
覗き込んだ。
﹁君が一番適任なんだ。ファルサスに行って、王妹にこの事実を伝
えてくれ﹂
﹁え?﹂
世界が少しだけ傾いた気がする。
そう思ったのはけれど雫の錯覚で⋮⋮彼女は少し首を傾げて、言
われた言葉を咀嚼しようと頭を空回りさせていた。
エリクが指したのは城の北西の端にあたる一部で、そこはどうや
344
ら転移陣が複数設置された広間だということらしい。ならば中には、
大国の一つであるファルサスのどこかに出る陣が存在するはずだと
彼は言うのだ。
﹁転移陣は大抵床に行き先が記されている。慌てる必要はないから
見つからないよう慎重に移動して⋮⋮今なら混乱していて見張りも
手薄だろうから、メアに頼んで中に入るんだ。ファルサスの誰かに、
禁呪のことで王妹を呼んで欲しいと言えば話が伝わるはずだから﹂
﹁ま、待ってください! それで何とかなるんですか!?﹂
﹁可能性は一番高い。彼女は精霊、つまり上位魔族を従える王家の
魔法士だ。現在大陸でも屈指の術者で、禁呪に対抗できる可能性の
ある人間を僕は他に知らない。君はうまくファルサスについたら、
そのままそこにいればいいから。後は王妹が何とかするはずだ﹂
﹁でもそれは⋮⋮!﹂
雫は言っていいのか悪いのか分からない思いに、言葉を切った。
彼女を城の混乱の只中に追いやるとも取れる、いつになく強引な
彼の提案。それはもしかして、この禁呪を止められるかどうか分か
らないからではないのか。だからこそ、その前に彼女をこの国から、
目的地であるファルサスへ逃がそうとして言っているのではないか。
だが、それだけだとしたら﹁慌てる必要はないから慎
勿論魔法大国の助けが欲しいというのも本当だろう。
︱︱︱︱
重に﹂などと言うだろうか。
雫は彼の真意を掴みかねて答を躊躇する。寝ていないのか、疲れ
た男の顔に胸が詰まった。
﹁エリクを置いていくのが怖いです。行くなら一緒に行きましょう﹂
﹁僕がここを離れたら禁呪の速度が一層早まる。そうしたらもう取
り返しがつかなくなるよ﹂
﹁取り返しがついても、あなたに何かあったらやですよ!﹂
危険から逃れたいだけなら、禁呪のことを知った時にさっさとこ
345
の街から逃げていただろう。けれど雫はそれを選ばなかった。武器
さえ持って、ここまで来たのだ。
全てはただ彼が心配だったからだ。今まで助けられた分を返した
いと思ったから。なのにここまで来てその目的を忘れることは、彼
女には出来なかった。
雫は非難の五歩手前の目でエリクを見つめる。何が最善なのか分
からなくて、それでもこの国の最善より今は、彼の方が大事に思え
た。
さほど長い時間、沈黙があったわけではない。ほんの二、三秒だ。
彼は溜息さえつかなかった。彼女から目を逸らさなかった。ただ
真っ直ぐに、伝わる言葉を生み出す。
﹁君には可能性がある﹂
﹁可能性?﹂
それは、大人が子供に抱くような茫洋とした希望だろうか。だと
したら不確かにも程があると雫は言いたかった。そんなものは誰に
だってある。可能性と言うだけならいくらでも期待の持たせようが
あるのだ。誰かの代わりに誰かを優先させる程のものではない。
だからもしエリクがそういう意味で﹁可能性﹂と言うのなら、彼
しかし彼が示したのは、もっと具体的な﹁彼女にしか
女は彼と共に行動する別の道を模索しただろう。
︱︱︱︱
ない可能性﹂だった。
﹁さっき負の海について説明しただろう? 僕たちは例外なく魂が
﹃それ﹄に繋がっている。過去の禁呪の事件のいくつかで、発狂者
が出たのもそのせいだ。このまま食い止めたとしても、負の海への
境界が薄らげば薄らぐ程、周囲にいる人間の精神は傾く。もうあと
けれど、君には可能性がある﹂
一時間もしないうちに最初の変化は始まるだろう。人によってはも
っと早いかもしれない。︱︱︱︱
藍色の瞳は雫を捉えたままだ。とても綺麗な、決然とした意志の
346
目。
﹁君は、異世界の人間だ。だから君の魂は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ひょっとして⋮⋮⋮⋮負の海に⋮⋮繋がって、いない?﹂
何故、この世界に来て、迷って、走り回って、そんなことを繰り
返しているのだろう。
少しずつ前進したいと思っているのに、足掻いても届く何かがあ
るのか分からない。
だけど、それに疲れてしまったら、足を止めてしまったら、他に
誰かが彼女を救ってくれるわけではないのだ。手を伸ばさなければ
何も与えられない。
雫は、今はひどく遠く思える家族の姿を思い出す。
そして改めて、この世界にいる自分を振り返った。
ずっと、自分一人だけ異邦人であるという現実が苦しかった。だ
からこの世界について知りたいと思った。少しでも馴染めれば楽に
なるかと思っていたのだ。
でも今は⋮⋮自分の﹁異質﹂がありがたい。言葉だけではなく本
当に自分には可能性があるのだ。
﹁私も一応人間です。妬みも恨みもありますし、ってことは負の海
に繋がってるかもしれませんよ﹂
﹁勿論その可能性もある。だけど、君の世界には魔法がないんだろ
う? それはとりもなおさず世界の位階構造自体がこちらとは違う
ってことじゃないかな﹂
﹁確かに私の世界では魂や負について、今の時代そういうアプロー
チはほとんど実用性がないと思われてます﹂
できる? 雫﹂
﹁うん。僕はそっちの世界のことをほとんど知らないからただの推
測だ。でも今はそれに賭けたい。︱︱︱︱
﹁出来ます﹂
347
人を殺さずとも解決できるはずだと、あの少年に言ったのは他で
もない自分なのだ。
ならば、それを証明しなければならない。座り込んだまま理想を
語っても彼どころか誰にも伝わらないだろう。
雫はエリクから地図を受け取る。彼は紙の片隅に﹁ファルサス﹂
の字を書いてくれた。転移陣を見分ける時に必要となるだろう。雫
は目を凝らしてそれを頭の中に刻み込む。そして、もはや体の一部
にも思えるバッグを持ち上げて、肩にかけた。まだ半分以上中身が
最初から分かっていたことだ。
残っているペットボトルは彼の傍へ置いていく。
︱︱︱︱
彼が、禁呪をこのままにして逃げるような人間ではないことは分
かっていた。その上で彼の考えに従おうと思っていたことも。出来
れば一緒に行動したかった。彼の存在を隣に感じていれば安心でき
るから。
だが、それよりも今は出来ることを優先すべきであろう。それが
彼の計算した一手だというのなら雫は従うことを選ぶ。
﹁ダッシュで行ってきます。で、絶対戻ってきますからね!﹂
反論を聞かない口調できっぱり断言すると、エリクの目は丸くな
った。
驚愕が仕方ないな、という苦笑に変わるまでの数秒、雫は目を逸
らさずに待つ。ここでどうしても戻ってくるなと言われたら、何と
返してやろうかと思っていた。
だが彼は少しだけ穏やかな、いつもの表情になると微苦笑する。
﹁自分の身の安全が第一。戻ってくるなら、ちゃんと他の人間と一
緒に来るんだよ﹂
﹁勿論です。私が死んだら幽霊になりますからね! 祟りますよ!﹂
﹁幽霊ってちょっと興味あるな。どんな感じになるの?﹂
﹁足がなくて半透明、って嫌ですよ!﹂
こっちの世界とは違う意味だが、やっぱり﹁死んじゃったらおし
まい﹂は雫にとっても同じなのだ。ちょっとの興味では試せないし
348
試したくはない。
だが、助けを呼んで戻ってくるということは既に雫にとっては決
定事項だった。彼女は万感の思いを込めて旅の同伴者を見つめる。
﹁死なないで待っててくださいね。あと、狂っちゃわないでくださ
い﹂
﹁僕は魔法士だからそうじゃない人間よりは耐性がある。でもあん
まり期待はしないで﹂
﹁別れ際に不吉な発言はやめてくださいよ!﹂
まったく彼は、人の気持ちが分かっていないのだろうか。
けれどそんなところが如何にも彼らしくて雫の心は軽くなる。
彼女は箱の上にいたメアを呼ぶと、すり抜けて入ってきた箱の前
に立った。最後にもう一度、彼を振り返る。
﹁じゃ、行ってきますね﹂
﹁気をつけて﹂
僅か三十分ほどの再会。次に会う時は、全てが終わった後だろう
か。雫は想像も出来ない未来に瞬間思いを馳せた。
この世界に来てから何度、人との別れに﹁もう会えないのだな﹂
と思っただろう。だが、エリクとはきっともう一度会えるはずだ。
また旅が出来る。そしてそれを実現するのは自分の力なのだ。
雫は彼に手を振ると、箱の間を縫って扉を開ける。
﹁ああ、ファルサス王妹に会っても僕の名前は出さない方がいい﹂
﹁はい? 分かりました﹂
雫は決意も固く後ろ手に扉を閉めたのだった。
箱越しにかけられた男の声に、怪訝に思いながらも返事をして︱
︱︱︱
349
009
扉が閉まる音が止むとエリクは深い溜息をついた。ペットボトル
を片手に詠唱を開始する。
いるはずのない彼女が目の前に現れた時は、さすがに驚いて二の
句が継げなかった。行動力のある人間だとは思っていたが、まさか
女官に化けて城に忍び込んでくるとは思ってもみなかったのだ。
最初は災いの渦中に彼女を巻き込んでしまったことに苦いものを
感じたが、すぐにそれは好機だと判った。街の宿にいては連絡も取
れないし、逃がすこともできない。途中でメアが気づくとしても確
実に助かるかどうかは保証できないだろう。
だが、ここにいるのなら話は別だ。転移陣を使えば国外に逃げる
ことさえ出来る。行く先をファルサスと指定したのは、勿論助けが
欲しいという理由もあるが、そういう明確な目的を示さねば彼女は
動かないだろうと思ったからだ。
﹁気がついたら怒るかな。それとももう気づいているか⋮⋮﹂
ファルサスについて王妹に連絡が取れたとしても、雫がここに引
き返してくることはできないだろう。事情を知る人間を確保する為
にも、ファルサスは彼女を自国に留める。それでいいのだ。
禁呪構成の中央にいる彼はこれから先、尋常ではない負荷を受け
ることになる。仮に穴が開く前にファルサスが間に合ったとしても、
自分が正気を保っていられるかエリクには自信がなかった。
﹁元の世界か⋮⋮。上手く帰れるといいね﹂
もう彼女と話をすることもないだろう。まだ色々文字について聞
きたいこともあったが仕方ない。充分面白かったし楽しかったのだ。
350
ここ数年の鬱屈を綺麗に押し流してしまう程に。
エリクは目を閉じると魔力を手繰り、詠唱を紡いでいく。
閉ざされた視界の中に浮かぶ彼女は、少し涙の滲む目で嬉しそう
に微笑んでいた。
カンデラ城には全部で五つの地下研究室が存在している。それら
は城内に大きく円状に配置されており、北東の第一研究室から時計
回りに北西の第五研究室までが等間隔で並んでいる。
五つの研究室が作られたのは百年前。禁呪の構成が城に持ち込ま
れた直後に、必要とあれば城で禁呪が組めるよう建築されたものだ。
だが作ってはみたものの、実際に禁呪を使うような事態は訪れず、
百年もの間研究室はただの研究室として魔法士たちによって使われ
てきた。
そして、今日。
本来の目的に使われた研究室には瘴気が満ち始めている。
それらは人の死と混じりあって圧力を増し、ゆっくりと巨大な円
を描きつつあった。
城の北西。転移陣のあるという広間は、城の中心からはほどほど
に距離がある。だが初めに雫が行った第二研究室などは南東にあっ
た為、そこから向うよりは、城中央はよほど目的地に近いと言える
だろう。
エリクはこの中央部を見つけるまでに、追っ手を避けながら三時
間ほど城内を彷徨ったらしいが、その点雫は方向感覚に自信がある。
適任と言ったら適任には違いない。急がば回れということで、ひと
まず彼女は来た道を戻り一階に出ると、北西目指して廊下を何度も
351
曲がっていった。
元の世界に戻る為にずっと目指していた目的の国、ファルサス。
その国にもうすぐ行き着けるのかもしれないと思っても、今の彼女
に嬉しさは沸いてこない。ただ、なんとしても間に合わなければと
気ばかりが急いて、心が体を追い越していってしまいそうだった。
時折、人の気配を感じて柱に隠れる。目の前の扉から出てきた兵
士と鉢合わせになって、メアに気絶させるよう頼んだりもした。
逃げ回っていては間に合わなくなる。早く早く転移陣に着かなけ
ればならない。
自分の為すべきこと。それだけを思って、彼女は城の廊下を走っ
ていく。
歪み始める空気。
不可視ながらも漂う瘴気は着実に、その濃さを増しつつあった。
﹁これは偶然か必然か﹂などと考えることは、急場の最中にあって
は意味がないと雫は思っている。起こったことは起こったこと、起
こらなかったことは起こらなかったこと、でしかない。まだ事は終
わっていないのに、そんなことに思考を割くなど余計な労力だ。
だから、彼女がそこに出くわしてしまったのも、偶然か必然かな
どどうでもよい話だった。
﹁結界を張った。これでその刺客とやらも入ってはこれぬ。もっと
も中から出ることも叶わんが﹂
﹁お手を煩わせて申し訳御座いません﹂
老人の声と、それより幾分若いがやはり老いの見え始めた声。二
人の男の声を角の向こうに聞きつけ、雫は慌てて足を止めた。壁に
張り付いて息を潜める。
これが既に見つかってしまった後ならメアに頼んで実力行使もす
352
るが、見つかっていないならそれにこしたことはない。彼女はあが
ってしまった息の音が聞こえないよう、必死で呼吸を整えた。
﹁死んでしまった魔法士は城の魔法士で補充いたしましょうか﹂
﹁その必要はない。ここまで構成が出来ていれば、あとは死そのも
のが残りの役目を果たすであろう﹂
﹁さ、左様で⋮⋮﹂
男の声のうち、比較的若い方には聞き覚えがある。今日出会った
ばかりの、どこか落ち着かなさと歪みを宿していた魔法士長のもの
だ。その魔法士長がへりくだって話しているということは、相手は
もっと目上の人間なのだろうか。雫は角から顔を出して様子を窺い
たい誘惑に襲われたが、それを我慢した。代わりに地図上の現在地
を頭の中に描き出す。
北西方角、転移陣の広間の少し手前くらいだ。位置と会話からし
て、もしかして研究室の近くだろうか。
﹁刺客も好きにさせておけばよい。血が流れれば流れるだけ禁呪は
完成に近づく。むしろ混乱は歓迎すべきことだ。核の陣さえ壊され
ぬようにしておけばそれでよい﹂
﹁核は王のいる中心部にありますれば。警備はもっとも厚くなって
おります﹂
﹁真に守られているのは王ではなく陣か。滑稽なことだ﹂
罅割れた笑い声に追従の笑いが重なる。雫はその異様さにぞっと
して首をすくめた。まるでそこに滲む悪意が、諸悪の根源のように
思えたのだ。
だがそうしたのも束の間、足音が近づいてくることに彼女は気づ
く。雫は慌てて半ば壁に寄りかかっていた体を起こした。身を隠さ
なければと思うのだが、運が悪いことに近くには柱の出っ張りも曲
がり角もない。つい気になって聞き入ってしまった自分の迂闊さを、
彼女は呪った。とりあえず逆方向に向って走り出す。しかし予想通
りすぐに背後から﹁何者だ!﹂という声がかかった。
353
ここで﹁待てー﹂とか言われたらちょっと面白いかも、と戯言を
考えていられたのもほんの一瞬で、二人分の声で呪文詠唱が始まっ
たのを聞き取って雫は蒼ざめる。
﹁死ね! 小娘!﹂
﹁メア、防いで!﹂
相反する声が交差する。
何も起こらない、と思いかけた時、けれど彼女の体は前方に向っ
て弾き飛ばされた。横倒しになって床に叩きつけらる。衝撃に頭の
中が真っ白になった。遅れて痺れるような痛みが襲ってくる。
﹁メア⋮⋮!﹂
雫の横には、魔法に競り負けたのかメアが小鳥のまま叩きつけら
れていた。雫はずきずきと痛む全身を揮って体を起こすと、使い魔
を手の中に拾い上げる。幸い肩から落ちたせいか、足はそれ程痛ん
でいない。まだ走れる。彼女は爪先に力を込めると立ち上がった。
後ろを見ぬまま走り出す。
二度目の詠唱の声は、どちらの魔法士のものか分からない。雫は
嵌めていた指輪を抜き取り、それを背後に向って投げつけた。エリ
クに貰った魔法具の指輪で、気に入っていたものだが仕方ない。守
護の指輪は押し寄せる炎の中心を貫くと、澄んだ音を立てて砕け散
った。その代わりに炎もまた動きを止める。
﹁くそっ! 待て、小娘!﹂
ようやく定番の罵りを聞けたものの、定番の礼儀として雫は待た
ない。間近に迫った角を曲がった。
﹁メア、大丈夫?﹂
小声で手の中に囁くと弱弱しいながらも返事が返ってくる。彼女
は使い魔を大事に胸の中に抱え込んだ。
まだ追っ手は角を曲がってきていない。時間はある。雫は次の角
を目指して走る。だが、その角を曲がった時、彼女は己の失敗に足
354
を止めた。先はすぐに行き止まりになっていたのだ。右に一つの扉
しかない。
背後にあたる死角からは足音が近づいてきている。一つしか聞こ
えないのは、もう一人はどこかに行ったということだろうか。
雫は右の扉に飛びついた。けれど鍵がかかっているのかびくとも
しない。焦りに彼女の手は震えた。
﹁どこに行った。もはやこの城に逃げ場などないぞ﹂
聞こえてくる声は魔法士長のもの。もう間近に迫っている。雫は
やるしかない。
手の中の使い魔と、自分のバッグを瞬間で見比べた。
︱︱︱︱
決断に時間をかけてはいられない。彼女は床に置いたバッグの一
番上にメアを乗せると、代わりに短剣の柄に右手をかけた。
吐く息と共に
奥歯を噛み締める。形にならない痛みが精神を走った。
だが⋮⋮
今は自分を信じよう。
こんなものは何でもない。
雫は柄にかけた指に力を込める。そして︱︱︱︱
短剣を抜き放った。銀の片刃がぞっとする程研ぎ澄まされた印象を
与える。心配そうなメアに頷くと、彼女は顔を上げた。
﹁よし、行く﹂
雫は近づいてくる足音に向って走り出す。この時だけは何も考え
ず、ただ自分の体のみに意識を集中させて。
地下研究室にて逃がした少女を再び見つけたイドスは、怒気に顔
を歪めながら彼女を追って廊下を歩いていた。神出鬼没の主教は﹁
核の様子を見に行く﹂と言って転移して消えたが、その後を追う気
には到底なれない。正直なところイドスは怖かったのだ。次第にあ
355
ちこちから感じ取れる瘴気が、そしてそれを楽しむ主教が。
だが、部下の前でも主教の前でもその恐怖を出すことの出来ない
彼は、標的たる少女が現れたことで恐れを怒りへと変えた。彼女の
血肉を撒き散らし、あの体を踏みにじることでせめてもの溜飲が下
がる思いを味わいたい。血に酔っていなければ、とても迫り来る未
知の圧迫感に耐えられそうになかった。
﹁どこに行った。もはやこの城に逃げ場などないぞ﹂
少女の声は返ってこない。
だが、真っ直ぐに伸びる廊下には彼女の姿は見えないのだ。なら
ばすぐそこの角を曲がったに違いない。その先は行き止まりだ。
イドスは詠唱と共に手の中に構成を生みながら角へと近づく。
一撃では殺さない。軽く痺れさせ、身動きを取れなくしてから嬲
ってやる。
彼は右手を前に上げながら、角を曲がった。
まず見えたのは、視界に広がる白い布だった。
女官が服の上から着るエプロン、それを顔にぶつけられてイドス
はたじろぐ。だが彼はそのまま退くことをせず、構成を帯びた右手
に力を込めた。電光がいくつも枝分かれしながら辺りに放たれる。
﹁痛ッ﹂
反射的な少女の声。けれど女の声はそれ以上洩れなかった。代わ
りにイドスは右膝をしたたかに蹴られ、短い叫びを上げながらうず
くまる。
思いもかけない反撃。動転して、魔力が集中できない。構成が組
めない。
既に、目の前には短剣がつきつけられてい
溺れた者がもがくようにして、彼がようやく顔に貼りついた布を
取り去った時︱︱︱︱
た。
名も知らぬ少女が黒い目で彼を見つめている。
356
﹁魔法を使わないで。使ったら刺す﹂
﹁貴様⋮⋮﹂
﹁口をきくのも禁止。私が質問した時だけ許可﹂
刃先が一層近づく。
それは僅かに震えていたが、彼の眼前から離れる気配は感じられ
なかった。
イドスは、今の電光で左脇腹を初め、全身に何箇所か火傷を作っ
たらしい少女を見上げる。黒く服が焼け落ちた下からは象牙色の肌
が見え、めくれかけた皮と滲む血が見えたが、彼女は己の怪我に少
しも拘泥している様子はなかった。見慣れぬ顔立ちが厳粛さえ漂わ
せて彼を見下ろす。
﹁もう一度言うよ。あの禁呪は負の海に穴をあけるもの。完成した
らこの城の人間はみんな狂うか死ぬかしかない。あなたはそれを知
っていて進めているの?﹂
はい、答えて、と少女に言われてイドスは渋々口を開く。
﹁あの禁呪は⋮⋮この城都一帯に精神支配をかけるものだ。負の穴
を開けるものではない﹂
﹁ブー。それは嘘です。騙されないで﹂
最初に会った時と同じ会話。だが、この時イドスは少女の言うこ
との方に真があるのではないかと思い始めていた。
何かがおかしい。彼もまた宮廷において魔法士長となれるだけの
実力を持っているのだ。力を発揮しつつある構成の気配が、精神支
配の術が持つものとは一線を画しているのではないかという疑いが
生まれてきている。
そして、だからこそ彼は恐怖を感じ、それを誰に言うこともでき
ずにいた。言えばきっと主教に殺される。もはや後戻りはきかぬの
だ。
﹁人の死が禁呪を加速させてるの。もう時間があまりない。それは
知ってる?﹂
﹁⋮⋮知らない。だが、瘴気が漂い始めている﹂
357
﹁さっき核の陣って言ってたよね。もしかして、それを壊せば禁呪
は止まる?﹂
雫は知らなかった。
ずっと一緒にいた魔法士のエリクは、滅多に魔法を使わなかった
のだ。だから彼女は﹁人間が魔法を使うところ﹂をほとんど見たこ
とがない。
そして、目撃した数少ない場合において、魔法士は全員が詠唱と
共に魔法を使っていた。だから彼女は知らなかった。腕の立つ魔法
⋮⋮っ!!﹂
士ならば無詠唱で魔法を使えるのだということを。
﹁︱︱︱︱
脇腹に激しい痛みを覚えて雫は短剣を取り落とす。見るとそこに
は、いつの間にか氷で出来た杭のようなものが刺さっていた。
まるでそれ自体に意志があるかのように、なおも体の中に向って
進もうとする杭を、彼女は慌てて掴むと抜きさる。途端に血が指の
間から溢れ出し、雫はその量にくらりと眩暈を覚えた。
じくじくとした深い痛みは今まで経験したことのないものだ。
立っていられず膝をついて体を二つに折る。全身を走り回る悪寒に、
苦痛の呻き声を我慢することができない。
﹁⋮⋮くっ⋮⋮あ⋮⋮っ﹂
涙が滲む。一体傷がどこまで深いのか。ただ傷口を押さえる手を
離してはいけない気がして雫は全身の力を振り絞った。
﹁もう止まれぬのだ、小娘。お前も禁呪の礎となるがいい﹂
きつく目をつぶった頭に男の手が触れる。自嘲にも聞こえる言葉
の半分は意味が分からなかった。
上を向けない。気が遠くなる。逃げることも出来ない。
ああここで死ぬのだなと、途切れ途切れに思った。
358
だが、雫はそれでも震える唇を動かす。
﹁教え、て、よ⋮⋮陣を、壊⋮⋮﹂
哀願でも恨み言でもない少女の言葉。それを聞いた瞬間イドスの
目には傷に似た何かが生まれた。初老の魔法士は形容しがたい感情
核の陣を壊せば、城に溜まっている魔力は拡散してい
を湛えて黒髪の少女を見つめる。小さな頭に手をあてたまま彼は口
を開いた。
﹁︱︱︱︱
く⋮⋮。禁呪も構成を失って散り散りになるだろう。だが、お前は
ここで死ぬのだ﹂
﹁あな、たが、こわせば、いい﹂
﹁私は⋮⋮﹂
死にたくない。死にたくなかったのだ。だからイドスは主教に逆
らえない。
なのに何故この少女は死の淵にあって自分の命を請わないのか。
別のことを望めるのか。
愚鈍か、蛮勇か、それとももっと別のものか。
彼女は体を支えていられなくなったのか横になって倒れる。小さ
な頭が彼の手から離れて床の上に転がった。
先程まで彼を支配していた怒りはもうどこにもない。かといって
代わりに恐怖があるわけでもなかった。無表情のまま、ややあって
イドスは詠唱を開始する。
どれほど高潔であっても、真摯であっても、人は死ぬ時はみな死
ぬのだ。そこから逃れることは決して出来ない。だからシューラは
﹁絶望を知れ﹂と教える。束の間の生の安楽に溺れて怠惰となるな
と訴えかけるのだ。
早いか遅いかの問題だ。いずれ自分も死ぬ。皆、死ぬ。それだけ
のことだ。たったそれだけの︱︱︱︱
その魔法を、打ち出した。
彼は構成が出来上がった手の平を、倒れた少女に向ける。
そして溜息を一つついて︱︱︱︱
359
目が覚めた時、そこはベッドの上だった。雫は薄目を開けて見慣
れた天井を見つめる。白い壁紙。大きな花の模様は十年以上見続け
てきたものだ。
彼女はぼんやりとした頭を押さえて起き上がる。カーテン越しで
も外は既に充分明るいと分かった。手を伸ばし大きく伸びをする。
雫は身に染み付いた動作でパジャマを履いた足を下ろし、スリッ
パに差し入れた。無意識に脇腹を手で探るがどうにもなってない。
﹁⋮⋮⋮⋮夢オチ?﹂
呟きは水玉のカーペットに落ちて弾ける。
そこは、雫が十八年を過ごした自宅の部屋だった。
雫はパジャマ姿で欠伸をしながら階下に下りていった。キッチン
から聞こえてくる物音に、自然と足はそちらを向く。ドアを開ける
と流しの前に少し年上の、髪の長い女が雫に背を向けて立っていた。
﹁雫ちゃん、起きた?﹂
﹁お姉ちゃん﹂
﹁休みだからって寝坊しすぎじゃないかな。みんなもう出かけちゃ
ったよ﹂
﹁うん﹂
﹁ついでだからブランチ作ってあげる﹂
雫は﹁ありがとう﹂と返事をして椅子に座った。まだ体は半分眠
っているようだ。頭の中に紗がかかってうまく動かない。彼女はテ
ーブルの上にあった麦茶のボトルを引き寄せてグラスに注ぐ。ひん
やりとした味は妙に懐かしさを覚えさせた。
﹁ねぇ、お姉ちゃん﹂
﹁何?﹂
360
﹁エリクを知らない?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁私、エリクのところに帰らないといけないんだ。ねぇお姉ちゃん、
彼を知らない?﹂
姉は答えない。ただ黙々とコンロの上でフライパンを動かし続け
ている。
雫はグラスについた水滴を指で弾いた。
﹁お姉ちゃん、ありがとう。でも私、もう行くね。もうちょっと頑
張ってみる﹂
姉は答えない。本当は姉ではないのだ。雫にはもうそのことが分
かっている。彼女は実際、料理が苦手で、自分から作るなどと言い
出さない。
だが雫はまるで本物の姉にするように話しかける。いなくなった
雫を心配しているだろう家族への思いを込めて、そっと囁いた。
﹁お姉ちゃん、ごめん。行ってくるよ﹂
雫は立ち上がるとキッチンのドアに向う。背中に姉と同じ声がか
かった。
﹁雫ちゃん。答は全部、あなたの中にあるのよ﹂
ドアノブに手をかける。それを押し開く。
次の瞬間雫は眩い白い光に包まれ、何も見えない視界にきつく目
をつぶったのだった。
まず目に入ったのは自分を覗き込んでいる女の顔だ。金髪に緑の
目の女。聖職者を思わせるような、整ってはいるが堅さが印象的な
顔立ち。雫はどこかで見たはずの女の名前がすぐには出てこなくて
目を擦った。
﹁あ、起きた起きた。生きてるみたいね﹂
361
﹁おおむね生きてます⋮⋮﹂
﹁生きてるってよ! ターキス!﹂
﹁そりゃよかった﹂
より聞き覚えのある男の声に雫は跳ね起きる。見ると男は部屋の
片隅で、頭の後ろに両手を置いて屈伸運動を繰り返していた。あま
りの光景に雫は色んなことを忘れ口を開く。
﹁何でスクワット﹂
﹁空気が悪くなってきててな。体動かしてないとイライラすんだよ﹂
﹁それで瘴気の影響が抑えられるっていうんだから、ほんと頭が筋
肉な男だよね、アンタって﹂
﹁充分気持ち悪いぞ。勘弁して欲しい﹂
瘴気、という言葉は雫の意識を現在に引き戻すに充分な力を持っ
ていた。彼女は自分の体を確認する。
灰色のワンピースはあちこちが焼け焦げ、破れている。脇腹付近
などはたっぷり血が染み込んでおり、焼けたのとは別の黒い染みが
広がっていた。
だが、傷は一つもない。雫は剥き出しになっている自分の肌を撫
でて呆然と呟いた。
﹁怪我がない⋮⋮﹂
﹁治しといた。血が随分出ちゃってたからさ。怪我塞いでも失血死
するかと思ったけど﹂
平然と言う女の名を雫はようやく思い出す。直接話をしたのは初
めてだが、名前はターキスから聞いていたのだ。
﹁ありがとうございます、リディアさん﹂
﹁いいよ。ターキスに貸しが増えただけだから﹂
﹁借りが増えた。雫、出世払いしてくれ﹂
﹁悪いけど出世する見込みはない﹂
雫がきっぱりと返すと、筋トレ中の男はまるで正答を聞いたかの
ように、にやりと笑った。
362
あの時、雫はイドスに敗北して殺されるところだったのだ。脇腹
を刺されてからの記憶がない。もしかして二人が通りがかって助け
てくれたのだろうか。
しかし、そう思って尋ねてみると、リディアは﹁使い魔に呼ばれ
て瀕死のアンタを見つけた。他に誰もいなかった﹂と返してくる。
どうせ大怪我をしたのだからすぐに死ぬと思ってイドスは立ち去っ
たのだろうか。雫は怪訝に思いながらも幸運を感謝した。
心配そうに近くで主人を見上げていたメアを拾い上げ、礼を言う。
けれどその時彼女は、小さな部屋に一つだけある窓に気づいて愕然
とした。メアを乗せたままの手が震える。その震えは喉にまで伝わ
った。
﹁あの、今何時くらいなんですか?﹂
あれからどれくらい経ってしまったのだろう。急いで転移陣にた
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
どり着かなければ、エリクのところに戻らなければ、と思っていた
のに
︱︱︱︱
雫は月の光もないただ暗いだけの外を見上げる。気を失っている
間に真夜中にでもなってしまったのか。取り返しのつかない時間の
経過に彼女は蒼白になった。
しかし、そこに深刻とはかけ離れた男の声がかかる。
﹁あー、雫。心配すんな。そんな時間は経ってない。昼の三時過ぎ
ってとこだ﹂
﹁え? で、あれ。まっくら!﹂
﹁瘴気が城を覆ったみたいなんだよね。やばいわ、これ﹂
それで外は日蝕のようになってしまっているというのか。
雫は一度傷を負ったせいか、違和感の残る体を動かして窓の前に
立った。硝子の向こうは暗くてほとんど何も見えない。だがそれは、
363
夜のように暗いというより黒くて厚い布をすっぽりと被せられたか
のような暗さだった。
﹁﹃禁呪﹄の名は伊達じゃないっていうか、まったくターキスの持
ってくる話ってろくなもんがないんだよね。転移して逃げようかと
思ったら、外への座標指定が効かなくなってるし。思いっきり閉じ
込められた。ここで死ぬ羽目になったら、アンタ、貸しを返してか
ら死になさいよ﹂
﹁何すりゃいいんだよ。何も持ってきてないぞ﹂
﹁腹踊りでもしといて。ちょっと気が晴れる﹂
﹁そんな死に様は嫌だ⋮⋮﹂
絶体絶命の状況なのかもしれないが、少なくとも二人の掛け合い
に緊張感は微塵も見られない。緊張感はないのだが、そこに聞き逃
せないものを感じて雫は窓際から振り返った。
﹁転移、できない?﹂
﹁そそ。この城の周りが魔法的に遮断されてて、出るも入るもでき
ないのよ﹂
﹁城門ら辺にいた奴らどうなってんのかね。無事かな﹂
﹁て、転移陣も使えない!?﹂
悲鳴に近い叫び声にターキスとリディアは顔を見合わせる。ター
キスはようやくスクワットをやめると、両手を軽く広げて見せた。
﹁使えないみたいだな。城の魔法士がそう言って慌てているのを聞
いた﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
それでは助けを呼べない。エリクに頼まれた役目を果たすことが
できないではないか。
雫は目の前が外と同様、真っ暗になった気がしてよろめいた。今
まで極限状態において彼女を支えていた﹁やらなければ﹂という気
持ちが抜け落ちて、窓枠を掴んだまま床にへたりこんでしまう。
﹁どうした、雫﹂
﹁⋮⋮私、ファルサスに行こうと思ってた。助けを呼ぼうと思った
364
の﹂
﹁あ、連絡ならしてあるぞ。そのうち来るだろ﹂
﹁へ!?﹂
何だか目が覚めてから驚いてばかりいる。
ぼんやりとした頭を動かして事態を咀嚼しようとする雫を前に、
ターキスは﹁駄目だ、やっぱイライラするわ﹂とスクワットを再開
したのだった。
スクワットをしながらターキスが教えてくれたことによると、フ
ァルサスへの連絡は、もとから計画のうちに含まれていたらしい。
夜明けと共に民衆に禁呪の情報を流し、昼を過ぎても事態が解決し
ていなければ数人の魔法士からファルサスに連絡が入れられること
になっていた。
その真偽についてファルサスが確認を取り、動くまでに多少の時
間差はあるだろうが、三日目までには魔法大国の手が入るだろうと
見積もられていたのだ。
﹁ここで俺たちだけで何とか出来てれば、一気に名もあがったんだ
ろうけどな。残念残念﹂
﹁っつーか、どう考えても無理だっての! 最初から連絡しといて
よ!﹂
﹁それじゃ丸投げでつまらんだろ。傭兵失格じゃないか﹂
一体、二人はどういう関係なのか。スクワットをするターキスに
向ってリディアは近くに転がっていた紙の箱を投げつけた。だが男
はそれを難なく避ける。放っておけばいつまでも舌戦を繰り広げそ
うな彼らに、雫は気を取り直すと割って入った。
﹁あ、あの、じゃあ本当にファルサスは来るの?﹂
﹁多分﹂
﹁来ると思うわよ。あの国禁呪って聞くとおっかないし﹂
ならばまだ間に合うかもしれない。ほっと息をついた雫に、けれ
365
どリディアは澄ました顔で
﹁ただファルサスが何とかするまで、私たちが生きてられるかは分
からないけどね﹂
と皮肉に現状を指摘した。
そして内部
雫が意識を失っていた約二時間の間、城は内外ともに禁呪によっ
て一変していた。
外は瘴気の厚い膜によって外部と遮断され︱︱︱︱
では城の三階中央部が禁呪に飲まれ、瘴気に閉ざされた。中央部に
近づいたものは正気を失って暴れ狂い、苛烈な同士討ちが繰り広げ
られた結果、王を含め生存者はほぼ残っていないらしい。
一方、何とかそれらを免れた人間は、瘴気を避けて城の外周部に
逃げたものの、当然ながら城壁の外には逃げられない。ターキスた
ちを初め、生き残った人間は皆、同士討ちを避けながら城の中を右
往左往する羽目になった。
その上、禁呪の中央部は徐々にその支配領域を広げつつあるのだ
という。
結果、三日目で完成するという禁呪を待たずに、彼らは今危機に
瀕していた。
﹁うげ。じゃ、人が死ぬと禁呪の進行速度が増しちゃうの? 最悪
だよ。カイトなんかに声かけて逆効果じゃない。そういうのあらか
じめ言っといてよね! ターキス!﹂
﹁え。俺も依頼主から魔法士を殺せば止まるって言われたんだが⋮
⋮。むしろお前が教えてくれよ。魔法士だろ﹂
﹁知るか! 禁呪の知識なんて普通の魔法士にあるわけないっしょ
! 資料化されてるものでも城とかで厳重に封印されてるってのに﹂
禁呪について雫が自分の知っていることを伝えると、二人はある
意味予想通りの口論を開始した。
366
どうやらリディアに頭が上がらないらしいターキスと、遠慮なく
彼に非難をぶつける彼女の会話は聞いていて清々しいくらいの勢い
があるのだが、今はのんびりそれを聞いていられる余裕はない。雫
は手を握ったり開いたりして問題なく動くことを確認すると、立ち
上がった。
﹁あの、助けてくれてありがとうございます﹂
﹁いいよ、別に。これから死ぬかもしれないし﹂
﹁俺は腹踊りは嫌だ﹂
﹁ターキスの腹踊りはともかく、私、もう行きますね﹂
雫は一緒に回収してもらったらしいバッグを手に取った。一つだ
けある扉の前に立つと、意味が分からずきょとんとしている二人を
振り返り、頭を下げる。
﹁少し待っていてください。何とかしてきます﹂
﹁ちょっ⋮⋮ちょっと待ってよ。どこ行こうっての?﹂
留めようとするリディアに雫は穏やかに微笑む。そこには少なく
ない緊張もあったものの、既にこれからを決めた者の静かな決意が
見て取れた。今は指輪をしていない手が、真っ直ぐにある方角を指
差す。
﹁中央部、核の陣のところへ﹂
異世界の少女はそう言ってドアを開ける。それは、まさに城一つ
滅ぼそうとする忌まわしい魔法への、ささやかな宣戦布告であった
のだ。
中心部の核の陣を壊せば、禁呪は止まる。
それはどこで聞いたかは分からないが、雫の中に確信として刻ま
れていた言葉だった。
だが目覚めてからすぐに自分が行こうと思い立ったわけではない。
ターキスやリディアと情報を交換して﹁行けそうだ﹂と思ったから
だ。
367
ファルサスに連絡が既に行っているというなら、自分が出来るこ
とはこの城の中にしかない。地下室に戻ってエリクを迫り来る禁呪
の前から動かそうかとも思ったが、それはリスクとリターンが不均
衡な行為だ。彼を動かせば禁呪の速度が更に増してしまう。うまく
その場を逃げられても、城内に閉じ込められている以上遅かれ早か
れ限界は来るだろう。
それよりも、禁呪自体を止めることができたなら。
核がある中央部は同士討ちによって生存者はいないのだという。
そして雫は、瘴気の影響を受けない。なら誰もが近づけない場所に
彼女が入って、核を壊してくればいいのではないか。
そのことに気づくと同時に心は決まった。
難しいことでも何でもない。むしろ、やらなければならないこと
だ。
時間はない。すぐに行けばまだ間に合う。
そうすればきっと、彼と旅を続ける日常に帰れるはずなのだ。
雫は扉を出ると走りだす。背後でリディアが﹁待ちなって!﹂と
叫ぶ声が聞こえたが、足を止めなかった。
ターキスが追ってくるかもと用心したが、その気配はない。雫は
人が逃げてしまった後なのか、静まり返った廊下を城の中央に向っ
て走り続けた。
窓がなくなり、何度か角を曲がっているうちに空気が悪くなって
くる。だがそれは瘴気を感じ取っているというより、血の臭いであ
るようだった。雫は壁に飛び散った血飛沫を見つけて眉を曇らせる。
これは夢だと、泣き叫んでしまえたなら楽になれるだろうか。
けれど彼女はもう何度もそう言った場面を経験してきた。そして、
その全てを乗り越えてきたのだ。
この世界に生きる人も、彼女が知る﹁人﹂も、同じ人間だ。そし
てこの世界は人によって千年以上もの歴史を積み重ねてきた。
368
ならば自分がその一端を担うこともできるはずだ。
狂わされて殺されるのは嫌だと、こんな魔法などあってはならな
いと、彼女もまた思っているのだから。
﹁カンデラの城都で騒ぎが起こっているらしいな﹂
﹁騒ぎ?﹂
突然呼び出されていささか機嫌の悪い女は、男の言葉に顔を顰め
た。見る者全てに感嘆の溜息をつかせる美貌が途端に険を帯び、同
じ部屋にいた文官が顔を引き攣らせる。
﹁騒ぎとは一体何でございましょう﹂
﹁さぁ。よく分からない﹂
﹁分からないことで私を呼び出さないで下さいますか? 兄上﹂
﹁分からないからお前を呼んだんだ。カンデラが禁呪に手を出した
のではないかという情報が入ってきている﹂
禁呪、というその一言で部屋の空気は一変した。女の青い瞳に剣
呑な光が生まれる。
﹁確かなのでしょうか? 禁呪とは﹂
﹁騒ぎを起こしている民衆はそう言っているようだ。後は城都に居
合わせた魔法士数人からも異様な魔力が立ち込めているとの密告が
入ってきている。が、城で何が起きているのかはまだ分からない。
困ったものだ﹂
男は回りくどい言い方を好んでいるかのように、はっきりと答を
ているからだ。
出さない。それは彼がこういった魔法の揉め事に対し、妹の方に決
定権があるという姿勢をとっ
彼は魔法士ではなく、彼女は魔法士である。魔法大国であるこの
国において、国の頂点は彼であっても魔法士の頂点に立つのは彼女
の方なのだ。
369
﹁私に様子を見に行けと、そういうことでしょうか﹂
﹁行ってくれたら嬉しいと思ったりしなくもない﹂
﹁棒読みなさらないでください。余計腹が立ちます﹂
﹁怒ると皺になるぞ﹂
﹁そういうところだけ真剣に仰られると、吹き飛ばしたくなってし
まいます﹂
﹁無視するわけにもいかんから、精霊だけでも出してくれ。現状を
把握したい﹂
ようやく真面目な要請をする兄に、彼女は澄ました顔で了承を示
す。白い右手を何もない空間に差し伸べ、使い魔たる﹁精霊﹂の名
を呼んだ。
﹁シルファ。おいで﹂
﹁参りました﹂
何もない空間に一人の少女が現れる。真白い髪に銀の目。人間と
レウティシア様﹂
してはまず見ない色彩を纏った上位魔族は主君である女に優美な仕
草で膝を折った。
﹁何なりとご用命ください。
﹁カンデラの城都に様子を見に行って頂戴。何が起こっているのか
私に報告するように﹂
﹁かしこまりました﹂
何の詠唱もなく精霊の姿が消えると、女は兄を振り返って目だけ
で﹁これでよろしいですか?﹂と尋ねる。
その問いに若きファルサス国王は満足そうに頷いたのだった。
あっという間に角を曲がって見えなくなった少女に呆然としてし
まったリディアはだが、すぐに振り返るとスクワットを続ける知己
に駆け寄ってその足を蹴りつけた。ターキスは﹁いてぇ﹂と言いな
がら筋トレをやめて立ち上がる。
370
﹁さっさと行って連れ戻して来なさいよ、このぼんくら!﹂
﹁ぼんくらって⋮⋮。本人が行くっていうんだからいいだろ﹂
﹁いいわけあるか! あんなただの女の子に何が出来るんだっての
!﹂
﹁俺もそれを知りたい﹂
男の言葉は揶揄でもなく言い訳でもなく、本当にそれだけの意味
しか持っていなかった。リディアは眉をひそめて沈黙する。
﹁お前も見ただろ、雫の持ってた本﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
廊下に血まみれになって倒れていた少女。
彼女にリディアが治癒をかけ始めた時、ターキスは離れた場所に
落ちていたバッグを拾い上げた。そしてそこから零れ落ちてしまっ
た小さな本を何気なく手に取った時、彼は訝しさという枠には収ま
りきれない衝撃を受けたのである。
本の小ささにもかかわらず中にびっちりと並んでいた細かい文字
列は、共通言語を使うこの大陸のどの文字ともまったく似ていない
ものだった。勿論祖先を同じくする東の大陸とも違うだろう。それ
に彼女は出身地を﹁東の島国﹂と言ったのだ。
つまり彼女はこの大陸でも東の大陸でもない、ほとんど交流もな
く情報もない未知の場所から来たということだ。世界にまだいくつ
かあるという大陸やそこに属する島のどれかか、それとももっと︱
︱︱︱
何故、どうやって、そんなところからこの大陸に来たのか。何故
ファルサスを目指して旅をしているのか。それは彼女が何者かとい
う疑問と結びついているように思える。
﹁それにお前の言う通りなら、あいつは少し変わった体をしてるっ
てことになる﹂
﹁⋮⋮血が多い体質なのかもしれないじゃない﹂
﹁一命を取り留めたのはともかく、あの出血量じゃ普通はすぐには
動けないだろ﹂
371
雫を手当てした時﹁これだけ血が流れてるんじゃもう助からない
と思って﹂と自分で言ってしまった手前、リディアは忌々しげに唇
を噛む。魔法では傷は塞げても、失われた血を補充することは出来
ないのだ。だがあの少女は傷を治しただけで元通りになってしまっ
た。
少しおかしいなとは思う。だがそれだけだ。細く小さな体からは
魔力も感じ取れず、戦い慣れた動きでもない。誰もが手をつけられ
ないでいる禁呪に立ち向かえるほどの人間とは全く思えないのだ。
リディアは舌打ちすると、﹁イライラするから﹂と筋トレを再開
した男を睨みつける。
﹁それがアンタの勘違いで、あの子が死んだら家族には謝っときな
さいよね﹂
﹁あの顔でもう十八だそうだぞ。自分の責任だろ。それにその時は
それまでの人間だったってことで⋮⋮腹踊りでもして謝ってやるさ﹂
﹁それ謝ってない! 最悪だ、アンタ!﹂
﹁普通に謝るより俺は嫌だ﹂
﹁相手も嫌だよ!﹂
かつて四つの国から宮廷に仕えるよう勧誘を受けながら、その全
てを蹴り倒した女は不機嫌そうな顔で押し黙る。
禁呪が組まれ始めてから二日目。既に瘴気に堕ちつつある城は、
一人の少女を除いてその動きを止めようとしていた。
廊下の先に重なり合う二つの死体が見えた時、雫はさすがにぎょ
っとして足を止めた。
互いに切りあい息絶えたのか、広がっている血溜りと投げ出され
た長剣。まるで映画の一場面のような光景は、現実だと認識すれば
普通の少女には正視に堪えない程、壮絶なものだった。
372
だが自失しかけた雫は、すぐに冷静になれと自分を叱咤する。中
央に近づけば近づくほどこういった死体は増えていくはずなのだ。
既にもう自分は﹁普通の女子大生﹂ではない。普通の女子大生は
魔法のある世界を旅したりしない。だから吐きたいような泣きたい
ような現実も、その場にうずくまるのではなく、そうなってしまっ
たものとして捉えられるはずだ。
﹁メア、ここで待ってて﹂
雫は重いバッグを柱の影に置くと、その上にメアを乗せる。彼女
が例外的に瘴気の影響を受けない存在でも、使い魔はその例外に含
と付け足されると一声鳴いて彼女の命令を受け
まれないのだ。メアは心配そうに主人を見上げたが、﹁すぐに戻る
から、待ってて﹂
入れた。
雫はこの城に来て初めて手ぶらになると、倒れている二人の遺体
の傍に歩み寄る。
﹁お借りします﹂
手に取ったのは血に濡れた剣。だが彼女は躊躇いもなくそれを拾
い上げた。目を開けたまま死んでいる兵士に歩み寄り、強張った手
城都についてすぐの頃、エリクと死後の概念について
を伸ばして男の両眼を閉じさせる。
︱︱︱︱
話をしたことがあった。
その時、この世界での死の無情さを憂いた雫に対し、彼は
﹁仮に死後の世界があるのだとしてもそれを知る事が出来ない以上、
彼岸へのあらゆる夢想は生きている人間の為のものだ。 だから君
は信じていてもいいんじゃないかな。死した後も救われる可能性が
あるんだって﹂
と別の見方を示したのである。
聞いた時は承服できなかった。気休めと分かっているのに自分の
心の平安だけ買うことなど出来るわけがないと。
だが、間近にいくつもの死を見た今なら分かる。
373
悲しんで、祈ってもいいのだと。
それが死者を救えばいいと夢想しながら、死後の安寧を期待すれ
ばいい。起こってしまったことに哀惜を抱きながらも、もう手が届
かない無力さに苛まれながらも、自分が前に歩き出す為に、それは
きっと必要な儀式なのだ。
雫は自分の身長には少し長い剣をもてあましながら、だがそれを
携えると走り出す。
積み重ねられた死を越えて、血と瘴気に染まった空気の中を黙し
て踏みしめ、静寂に包まれた長い道のりの果てに︱︱︱︱
そして彼女はついに﹁絶望﹂の前に立った。
374
010
あちこちに立てられた燭台が照らす以外、薄闇の中に埋もれてい
る部屋は、見える限りでは壁までもが赤黒く塗装され、その飛沫は
天井にまで到っていた。
雫はお化け屋敷もここまで陰惨ではないだろうという部屋に、一
歩踏み入って口元を押さえる。先程から大分慣れてきてはいるが、
どうもふとした瞬間に吐き気が喉の奥を突き上げてくるのだ。その
都度彼女は生理的に浮かび上がってくる涙と共に、逆流してきた胃
液を苦くも飲み込まなければならなかった。
気を逸らさねばならない。それとも集中か。
ともかく、精神を挫かれていてはここから先に進めないのだ。
元は何色だったのか分からぬ絨毯を踏み、雫はゆっくりと奥へ向
う。闇の中、輪郭だけが窺える死屍を避けながら彼女は前に進んだ。
暗がりの向こうに、蝋燭の灯とは異なる色の光がちらついている。
まず頭に浮かんだのは﹁紅い鬼火﹂という単語だ。
小さな鬼火は床の上に複数灯り、辺りを禍々しく染め上げていた。
近づくにつれそれらは円形に配されているのが分かる。
﹁これが⋮⋮核の陣?﹂
鬼火たちの目の前までたどり着いた雫は、息を飲んで床に浮かび
上がる魔法陣を見下ろした。直径は二メートル程だろうか。要所要
所で揺れている火とは別に、線自体もうっすら赤く発光している。
複雑に書き込まれた魔法陣は、足を踏み入れることを躊躇わせる圧
375
力を、如実に醸し出していた。
﹁うー。どうやって壊そう﹂
試しに剣の先で目の前にある鬼火を切ってみたが、まったく何の
影響もないようだ。だとするとやはり石の床に描かれている線その
ものを崩すしかないだろうか。雫はツルハシか何かがないかと辺り
を見回した。
その視線がふと、魔法陣から少し離れた場所で倒れている男の上
で止まる。
魔法士のローブを着て、陣に向って手を伸ばしながら伏している
男。雫はその姿に既視感を覚えて、吸い寄せられるように男の傍に
歩み寄った。半ば床と一体化している死体の顔を覗き込む。
﹁その魔法士は裏切り、抗ったのだ﹂
突然の声は魔法陣よりも更に奥から響いた。彼女は弾かれたよう
に体を起こすと、剣を意識する。
誰かがまだ残っていたのだろうか。陣を壊そうとする自分を攻撃
するつもりか。そう思って用心したものの、誰も近づいて来る気配
はない。よくよく目を凝らしてみると、部屋の奥に玉座が据えられ
ており、そこに誰か人間が座っているのがぼんやりと見て取れた。
その男もまた魔法士のローブを着ているようだが顔は見えない。
けれど、声は先程聞いたばかりのものだった。
﹁裏切りは人の常だ。だから私はそれを責めぬ。だがその魔法士は
死んだ。陣を壊そうとして流れ込む力に耐え切れず、器が壊れたの
だ﹂
﹁⋮⋮壊そうとして﹂
苦悶の表情のまま死んでいた男。
禁呪を破壊しようとして命を絶たれた男は、つい二時間ほど前に
雫を重傷に追い込んだカンデラの魔法士長その人だったのである。
名前も知らなかった魔法士長がどのような懊悩を経て禁呪の破壊
376
を試み、そして死したのかは雫の想像し得る領域外のことだ。
だが彼女の目的でもある陣の破壊は、命の危険を伴っているとい
うことだけはよく分かった。あとはその危険が﹁この世界の人間﹂
だけに起こるものなのか、彼女にも影響するものなのか⋮⋮。
そしてもう一つの危険。玉座に座っている老人のことも無視はで
きない。
魔法士長がへりくだっていた男、その意味するところは︱︱︱︱
﹁⋮⋮あなたがシューラ教の主教ですか﹂
彼が、この事件のそもそもの発端である男ではないのか。
禁呪を組むと決定したのは王らしいが、その禁呪を今のものに書
き換えさせたのはシューラ教の主教ではないかと言われている。そ
して、先程漏れ聞いた会話から察するに、その推察は間違いとは言
えないようだった。
硬質な雫の問いに、凄惨な部屋と比してただ静かな声は答える。
これはやばい。
﹁主教と、呼ばれていた。この体にまだ個の意思があった時には﹂
︱︱︱︱
雫は反射的に心中でそう呟いた。
トランス状態にあるのか本当に憑依されたのか、とにかく非常に
不味い気がする。唯一幸いと言えるのは、主教が一度遭遇した時と
は違って、すぐに雫を攻撃する気はないらしいということだった。
雫は、長すぎて石床についている剣を、気づかれないよう少しず
つ前へと動かす。核の陣に向って刃を慎重に近づけながら、相手の
気を逸らす為に声をかけた。
﹁では、あなたは誰ですか﹂
﹁名前はない。いつも、どこにでも在るものだ﹂
﹁シューラですか﹂
﹁そう呼ばれていたこともある﹂
﹁シミラと同じ?﹂
﹁いつかの時には﹂
377
﹁あなたは何ですか﹂
男は少し沈黙する。
まるで電気がついたり切れたりするようだ、と雫は思った。
そこにいる存在は能動性を感じさせない。問えば答える。定義す
ればそれとなる。だが自分からは何にもならない、それだけの不定
な何かに思えた。
男は沈黙する。電池が切れてしまったのだろうか。動かないのか。
そう思えた少しばかりの空白の後に、﹁それ﹂は
﹁私は絶望である﹂
と囁いた。
もし、今の自分の双肩に色々と譲れないものがかかっているので
はないとしたら、雫はすぐさま回れ右をしてその場から逃げ去って
いただろう。本音を言うと今でも逃げ出したい。が、彼女は意志の
男でさえないのだろう、﹁それ﹂は間違いなく
力を振り絞ってその場に留まった。
この男︱︱︱︱
不味いものだ。
こんな風に人が向き合っていいものではない。本能的な予感がそ
う告げると同時に、彼女の全身を悪寒が走った。対話を繰り返すこ
とが唯一、この状況を破滅の一歩手前で留める手段な気がして、雫
は緊張に狂いそうになりながらも質問を探す。
﹁あなたは、負ですか﹂
﹁私は人に成る以前の人の負だ﹂
﹁負の海に棲むものですね﹂
﹁怨嗟、諦観、悲嘆。その全てであり、より根源のものだ。そして
私は絶望とされる﹂
﹁人によって定義されたら、ということですか﹂
﹁人にしかこの私は意識されない﹂
﹁劣等か優越か﹂
378
﹁どちらでもある。私を意識し得るということは優越ではあるが、
私そのものは最下層に位置している﹂
﹁ならばあなたは、何を望みますか﹂
ここで世界の破滅とか言われたらどうしよう、と思いながら雫は
問答を定義より一歩先に進める。鋼の剣先が石畳に擦れて嫌な音が
した。陣を構成している最外周まであと数センチ。触れたら電流が
走って感電するかもしれない、と嫌な想像が頭をかすめる。
心身ともに身構える雫に、だが﹁絶望﹂は何かを読み上げるよう
な平坦な口調で応えた。
﹁私は何も望んではいない﹂
﹁ですが、あなたはここにいる﹂
﹁招かれたからだ﹂
手違いです、帰ってくださいと言いそうになって雫は口をつぐむ。
帰って欲しい、と頼んで帰ってくれるのだとしても、そう確信が持
てるまでは動かない方がいいだろう。今は相手の出方を探ることと、
時間を稼ぐことの方が大事だ。だがそう思った雫は、あまり時間の
猶予がないことを思い出す。
彼女は変わらず揺れている鬼火に視線を移した。
﹁穴はまだ開いていませんか?﹂
﹁未だ。ただとても近くにはある。もとより私は人の中に在り得る
ものなのだから﹂
まだ二日目の昼だ。決定的なところまでは至っていない。その答
は彼女を安堵させたが、それだけでしかなかった。
今、止めねばならないのだ。雫は剣をまた少し動かす。
冷静に。とにかく、冷静に。
恐怖に走り出しそうな精神の手綱を取り、何度も自分を落ち着か
せる。
携える両刃の煌きが赤い火を映し出した。息苦しさが頭の内部を
締め付け、徐々に視界が閉じていくような錯覚。夜の中、何もない
379
場所に一人、立っているのではないかと思える途方もなさ。だがそ
れは、他でもない自分が見た世界でしかない。そして自分によって
いくらでも塗り替えられる。
大丈夫。やれるはず。
雫は深く息を吸った。
︱︱︱︱
彼女は、かつてな
彼女は目を閉じ、世界に溶け込むような息を吐き出す。
剣を握る指に力を込める。
ただ真っ直ぐに、自分を保って。
そうして雫がもう一度目を開いた時︱︱︱︱
いほど静かに研ぎ澄まされた世界の中へと立っていた。
﹁あなたが人の魂に近しい存在なのだとしても、今は近すぎます。
人が狂ってしまう﹂
﹁仕方がない。人とはそうしたものだ。初めから私に繋がっている﹂
何故人は怒るのか。恨むのか、悲しむのか。
その答の一つは負の海に由来するものなのかもしれない。魂は負
に向っていつでも開いているのだから。
だが、それだけではないと雫は思う。
世界を異にする彼女もまた怒り、嘆く。それは人間である以上、
生来から染み付いた当然のことだ。批判することは出来ても否定す
ることは出来ない。
だからきっと、負の海が全てではないのだ。
そして、時に自分の中で暴れだそうとする負を抑える術をも、人
はまた知っている。
﹁人は理性を持つ生き物です﹂
﹁そう。正にも繋がっている。人は何にでも繋がっている﹂
﹁あなたの言うように魂が何にでも繋がっているのだとしたら、何
に従い何を選ぶのか、それは個々人の意志に委ねられています。誰
であろうとも他者がそれを侵すことはあってはならない。私は精神
380
の自由を望みます﹂
﹁望んで、何と為す?﹂
﹁あなたに人を明け渡すことはできない﹂
それが、人としての彼女の結論だ。
彼女が信じる人の尊さだ。
雫は両手で掴んだ剣を振り上げる。
鏡面のように磨かれた刃に、自分の黒い瞳が映った。
迷いはない。
死の恐怖もない。考えない。
彼女は魔法陣を構成する一番太い外周に、狙いを定める。剣の向
こうに鎮座する﹁何か﹂の存在を強く感じた。
﹁お前がそれを言うのか。世界に迷い込んだ棘よ﹂
何も聞こえない。止まらない。
雫は言葉にならない叫びを上げる。
意志と根源がぶつかりあう一瞬。
彼女は全身の力を込めると、紅い線の上、長剣を突き立てた。
押し寄せる力に、雫の体は容易く跳ね飛ばされた。いつかメアに
されたように、彼女は軽々と宙を飛び離れた場所に落下する。咄嗟
に腕を出して受身の真似事をした為、致命的な怪我はしなかったが、
痺れに似た痛みが左半身を襲った。
﹁っ⋮⋮痛⋮⋮⋮⋮⋮⋮いたくない!﹂
雫は気合を入れて顔を上げる。
このままここで痛みが行過ぎるまで耐えていたいが、そんな状況
ではない。魔法陣がどうなったのか、確認せねばならなかった。
ぼやける視界に焦点をあわせる。
赤い鬼火が揺れている。
だがそれは、先程までのようにゆらゆらと光を放っているのでは
381
なく、今にも吹き消されそうなほど強い風を受けて揺れているのだ
った。彼女はあまりのことに目を瞠る。
﹁た、竜巻?﹂
魔法陣の上に小さな竜巻が生まれている。何がどうなっているの
か、中央に向って捻れる風は大きく鬼火をあおり、周囲のものを吸
い上げ始めていた。
雫は慌てて立ち上がる。まだここまでは影響はないが、巻き込ま
逃げるべきか、留まるべきか。
れてしまったらたまらない。振り返って広間の出口を確認した。
︱︱︱︱
咄嗟に判断がつかない。出来うる限り状況を見極めようと雫は竜
巻を凝視する。
部屋中の空気が吸い寄せられる。
立ち込めていたものが晴れ、漂っていた淀みが徐々に薄まってい
く。
刻一刻と肌に感じる変化に、雫は乱れる髪を押さえながら息を飲
んだ。
吹き荒れる風の向こうにローブを着た男が立ったのはその時のこ
とだ。
人ならざる何か。今まで会話をしていた男の顔が、吹き消されそ
うな鬼火によって照らされる。露わになったローブの下の顔に彼女
は慄然とした。
人間としての意志がない黒いだけの瞳。虚ろな暗い海そのものが
竜巻を見つめている。それはまさしく目を合わせてはいけないもの
で、雫は本能的な悲鳴を上げそうになるのをかろうじて堪えた。
﹁何か﹂の視線が彼女を捉える。
﹁外から来し者よ。お前は何を望む﹂
﹁わ、私は⋮⋮﹂
雫は気圧されて言葉に詰まる。あの﹁何か﹂がいるということは、
まだ終わっていない。そして、問われているのは彼女の他にいない
382
のだ。震える唇を彼女は動かす。
﹁私は⋮⋮もとの⋮⋮﹂
﹃元の世界に帰りたい﹄
そう答えようとした。その為に、旅をしてきたのだと。
その、はずなのに。
望みなど他にない。これが一番大切なことで、叶えたいことだ。
︱︱︱︱
言葉が途切れる。
何故、今そんなことを聞かれるのか。
雫を﹁別の世界から来た﹂人間として認識している存在は、それ
を聞いてどうしようというのか。
もし答えて、そして元の世界に戻れるなら。
雫は息を飲む。それだけの力が、現出した根源にあるのなら。
出来るなら、もう少しだけ待って欲しい。せめて彼が無事だと分
かるまで。
ほんの少しでいいのだ。もう一度会って、礼を言う。それだけの
時間で構わない。
だが、それだけの時間が⋮⋮⋮⋮今の雫の、一番欲しいものだっ
た。
﹁答がないのか。異質な棘よ﹂
﹁ま、待って﹂
﹁いるはずのない存在。あるべきではない意志よ。ならばお前は、
え?﹂
人の望みによって排除されるのだ﹂
﹁︱︱︱︱
聞き逃せない不吉な言葉に雫は目を見開く。その時、男は何の前
触れもなく床の上に崩れ落ちた。虚ろな眼窩から、口から、﹁何か﹂
383
が竜巻に向って吸い出される。風がより一層勢いを強めた。
陣のもっとも近くに転がっていた魔法士長の死体が、まるで人形
のように竜巻の只中に吸い込まれる。それだけではなく部屋中に転
がっていたのであろういくつもの遺骸が暗闇の中から現れ、陣の中
に引き寄せられていった。
﹁な、何!?﹂
単純に風の力が為しているのではない。だとしたら鎧を来た大柄
な兵士の遺体が軽々と風に引き込まれることはないだろう。現に雫
は吹き荒れる強風の中立っていられるのだ。近くにある椅子もまた
動いていない。
死体が、吸われている。
そう理解した彼女は耐え切れない戦慄に体を震わせた。
何かが起こる。
おそらくはよくない何かが。
雫は竜巻から目を離さぬまま、扉に向って後ずさり始めた。
瘴気は晴れた気がする。空気の中に混ざりこんでいた圧力が今は
感じられないのだ。だが、その代わりに目の前の竜巻は、まるで城
中の負が集められていくかのように黒く濁りつつあった。
﹁ま⋮⋮ずいよね。これ﹂
剣は手放してしまった。メアはいない。今の雫には自分を守る力
さえない。扉まであとほんの数歩というところまで彼女は後退する。
うそ⋮⋮﹂
その時、不意に風は止んだ。
﹁︱︱︱︱
雫は自分で見たものが信じられず凍りつく。
紅い両眼で雫を見据えている、
十を越える死体が吸い込まれたはずなのに、そこには人の体の影
も形もない。
代わりにそこに居たのは︱︱︱︱
体長十メートルはあるであろう漆黒の大蛇だった。
384
真っ黒な大蛇。
これが動物園などで厚いガラス越しに対面したのであれば、雫は
恐怖を覚えながらもこれほど戦慄はしなかったであろう。だが、こ
の血塗られた部屋において彼女と大蛇の間には何もない。ただ十五
メートル程の空間があるだけだ。
血のように赤い眼が雫を見つめる。そこから感じられる威圧に、
彼女はカエルと同じく凍りつくのではなく⋮⋮素早く踵を返した。
半開きの扉を押し開け廊下に駆け出す。走り始めたばかりなのに心
臓が激しく揺れ動き、そのまま口から飛び出してしまいそうだった。
﹁まずいまずい! 何あれ!﹂
たとえ剣を持っていたとしても戦えるような相手には思えない。
そもそも彼女は蛇が嫌いなのだ。雫は走りながら首だけで後ろを振
り返って︱︱︱︱
﹁ぎゃあ!﹂
逃げ出した彼女を追う為にか、蛇もまた魔法陣の上から動き出し
ていた。廊下に出て迷うことなく距離を詰めてくる。
映像でしか見られないような大蛇が蛇行して前に進む速度は、目
を瞠る程早いわけではないが、逃げる雫と大して変わらない。追い
つかれたら丸飲みだろうか。そんな思考を一瞬でして雫は走る速度
を速めた。自分でも限界と思われる体を酷使して廊下を駆けて行く。
﹁やだっ! 蛇やだ!﹂
死ぬのは嫌だが、蛇に食われて死ぬのは中でも上位三つに入るく
らい嫌だ。雫は恐慌に陥るぎりぎりの境界をさまよいながら、血に
汚れた廊下を蹴って走る。背後から聞こえてくる蛇が床を滑る音に
悪寒がとまらない。もはやあの蛇が雫を狙って動いていることは明
らかだった。
途中で幾つかの死体の隣を駆け抜ける。そのまま二十メートル程
385
走って、彼女は嫌な予感に振り返った。
﹁ああああああっ! 最悪!﹂
大蛇は先程より一回り大きくなっている。転がる死体を吸い込ん
だのだ。その為移動速度も若干増していた。このままではおそかれ
はやかれ追いつかれそうだ。逃げ惑って遺体がなくなってしまうの
は申し訳ないのだが、今はそれより自分の命を優先させて欲しい。
雫は廊下の先に、見覚えのある小さな人影を見出して片手を上げ
た。
﹁メア! 逃げるよ! 走って!﹂
少女の姿に戻っていたメアはそれだけで事態を把握したらしい。
雫のバッグを拾い上げると主人を待って走り出す。もっとも詳しい
説明をしている時間はなかったし、せずとも背後から巨大な蛇が追
ってくるのだから説明の必要もないだろう。
二人は角を曲がって階段をもどかしく下りると、今度は一階の廊
下を駆け始める。
死角に入り、見える範囲からいなくなった少女。
だが城中の瘴気を凝り固めた蛇は、まるで目標がどこにいるのか
分かっているかのように、違えることなくその後を追っていった。
廊下の奥に見える窓からは翳り始めた日の光が差し込んでいる。
城を覆っていた瘴気が晴れたということは喜ばしいことではあっ
たが、現在の雫にはそれを喜んでいる余裕はなかった。余所見も許
されず、ひたすらに廊下を北西方角に向って移動中である。
つかずはなれずの距離で追って来る気配は、死体が辺りになくな
ったせいか最後に見た時の大きさのままだったが、直線が続くと距
離を縮めてくる。その度に雫は絶叫しながら角を曲がり、差を広げ
る努力をせねばならなかった。
どこまで逃げれば解決するのかは分からない。分からないが、あ
んなものを何とかできるのはまず魔法しかないだろうと、魔法の限
386
界をよく知らない彼女は思っている。そして、居場所が分かってい
て腕の立つ魔法士と言えば、彼女はリディアしか知らなかった。
あまり面識がない上、命の恩人である魔法士を怪獣退治に巻き込
むのは心苦しいのだが、ターキスもいることだし何とかなるかもし
れない。
いささか強引に結論を出して雫は彼らのいた部屋に向う。
走っていく廊下の先、不意に前方でドアが開く。中から一人の兵
士がきょろきょろと辺りを窺いつつ出てくるのを見て、雫は﹁あっ﹂
と口を開いた。
﹁危ない!﹂
蛇に気づいたのだ
ぎょっと硬直する。そして、無理からぬことだが、その
突然の少女の声に兵士は彼女の方を見て︱︱
ろう︱︱
まま中に逃げ込んで扉を閉めてしまった。
見事に見捨てられた雫は、安堵したような泣きたいような気分で
ドアの前を通り過ぎる。遅れて追って来る蛇も、逃げた兵士には興
味もないのか部屋の前を素通りしていった。
﹁メ、メア。私が食われちゃったら逃げていいからね!﹂
﹁私はマスターに最後までお仕えいたします﹂
そう言ってくれるのは嬉しいのだが、出来ればメアも自分も死な
せたくない。雫は見覚えのある角を曲がりながら、痛む肺を酷使し
て声を張り上げた。
﹁ターキス! ターキスちょっと! 助けて!﹂
﹁お、戻ってきたのか、雫﹂
のん気な声を上げながらドアを開けた男は、さすがに廊下の向こ
うから走ってくる少女と、大蛇を視界に入れて瞬間沈黙する。だが
彼はすぐに我に返ると、部屋に逃げ戻ることはせずに抜剣しながら
鋭い声を掛けた。
﹁リディア来い! 敵が来た!﹂
﹁敵?﹂
387
﹁蛇だ蛇! 早く来い!﹂
﹁へび?﹂
首を傾げながら廊下に出てきた女は、やはり接近しつつある大蛇
を視界に入れて硬直する。整った顔が見る間に蒼ざめた。
﹁しょ、瘴気の塊!?﹂
﹁いいから結界張れ! 雫が食われる!﹂
男に叱咤された彼女は眉を上げたが、反駁することなく詠唱を開
始する。そのまま雫がターキスの元にたどり着くと同時に、蛇の眼
前に不可視の結界が張られた。メアがそれを補強する。
初めての抵抗に蛇は動きを止め、赤い舌を出して雫を睨んだ。し
かし、本能的な恐怖を呼び起こす大蛇の圧力も、心臓が破裂しそう
な雫には本来の半分ほどの効果しか与えない。彼女は膝に両手をつ
いて必死に呼吸を整えた。
﹁何だあれは。雫﹂
﹁瘴気、と、死体。あと負。たぶん﹂
﹁禁呪を凝縮したのか。シューラ偶像と同じ姿だな﹂
﹁倒せる?﹂
﹁分からん。リディアどうだ?﹂
﹁核と瘴気を切り離せれば。けど、これは自信ないわ⋮⋮﹂
禁呪を何とかすると言って出て行ったのに、その禁呪を連れ帰っ
てきてしまったのだから申し訳ないとしか言えない。荒い息をかろ
うじて復調させると、雫は体を起こして蛇を見返した。血色の双眸
黒い瘴気の塊は彼女しか見ない。彼女しか追って来な
が雫を射抜く。
︱︱︱︱
い。
その疑いを確認する為に雫は左右に数歩動いて見たが、蛇の視線
は彼女から逸れなかった。むしろ距離を縮めようとして結界を押し
て来る。途端、かけられる圧力にリディアの顔が苦しげに歪んだ。
それを見てターキスが結界の前に出ようとする。
388
だが、単なる鋼で出来た剣が負の結集である蛇に効果をあげられ
るようには思えない。雫はメアからバッグを受け取ると背後の廊下
を確認した。
昼過ぎに連絡が行ったというファルサス。彼の国は今頃調査に乗
り出しているのだろうか。城を隔離していた瘴気は晴れた。ならば
内外の出入りは自由になっただろう。調査隊が来るかもしれない。
雫は蛇を見上げたまま後ずさり始める。圧してくる蛇を、魔力を
振り絞って留めるリディアに声をかけた。
﹁リディアさん、私が距離を取ったら結界解いてくれますか?﹂
﹁へ? 何で!﹂
﹁私を狙ってきてるみたいなんで、どこか遠くに捨ててこようかと
⋮⋮。時間稼げばファルサスが来ますよね﹂
﹁そりゃ来るだろうけど、って、食われたらどうすんのよ!﹂
﹁ここまで走って来れたから、もう少しくらい平気ですよ。きっと﹂
﹁待て待て雫! 勝てねぇならやめとけ!﹂
ターキスが振り返って留めたが、その時既に雫は走り出していた。
メアが半歩遅れて主人の後を追う。
標的が逃げ出したことに気づくと大蛇はいっそう前へ前へと結界
を押し始めた。黒い頭がリディアの結界を捻じ曲げ、少しずつ前進
してくる。結界を通じてその重みを全身に受ける彼女は、額に脂汗
を浮かべて苦痛の声を洩らした。
﹁ちょっ⋮⋮と、もう!﹂
﹁解いてください!﹂
﹁解け、リディア!﹂
二人の叫びと、限界を越えたリディアが倒れこんだのはほぼ同時
だった。結界は消え、留めるもののなくなった廊下を、蛇は遠く離
れた雫に向っておもむろに蛇行し始める。
無造作にうねる黒い体に弾き飛ばされそうになったリディアを、
ターキスがすんでで拾い上げた。彼は気を失った女を背後に押しや
389
ると、目の前を通り過ぎようとする蛇の尾に向って斬りかかる。
返って来たのは泥濘を斬るような感触。
手で内臓をかき回すに似た音に、彼は顔をしかめた。かなりの力
を込めて振り下ろした剣は、まったく弾力を感じられない蛇の中、
ずぶずぶと沈みこみ床に達する。
だが大蛇はターキスの攻撃を受けても、彼を見ることもせず止ま
りもしなかった。ただ逃げる少女めがけて進んでいく。斬られたは
ずの尾も刃が過ぎた箇所から元通り繋がり、それを見て普段あっけ
らかんとしている彼も息を飲んだ。
﹁雫!﹂
蛇に追われる少女の姿は既に見えない。その使い魔の少女も見当
けれ
たらない。だが蛇の目には二人の姿が見えているのか、迷いもせず
に廊下の奥へ向って蛇行していく。
その異形の姿は絶望を覚えるにふさわしいもので︱︱︱︱
どターキスは気を失ったリディアを部屋に戻すと、蛇の後を追って
走り出した。
束の間ではあったが、息を整え距離を取ることは出来た。そして
今はそれ以上望むことはできない。雫は前を見てひたすら走ってい
く。
彼女が履いているのは、この世界に来た時に履いていたスニーカ
ーだが、これは幸いと言っていいだろう。サンダルなどではとっく
に足がもつれて蛇の餌食となっていたはずだ。雫は一歩一歩に力を
込めて床を蹴る。
何故自分だけを追って来るのかは分からない。あの時質問に答え
られなかったのが不味いのだろうか。
勢いを出来るだけ保ったままブレーキをきかせて角を曲がる。窓
が並ぶ廊下は、日が落ち始めたのか赤みのある光が差し込んできて
390
いた。様子を窺う兵士たちがちらほらと見える中を雫は﹁逃げて!﹂
と叫びながら走り抜ける。最初は不審な二人組に眉をしかめた兵士
たちも、彼女たちの背後に大蛇を見出だすと、その異様さに恐怖を
覚えるのか慌てて逃げ出していった。
無用な犠牲者を出さなくていいのだから、雫は彼らの反応にほっ
とするところもあるのだが、同時に誰も何ともしようがない現実に
ともかくファルサスが来るまで城内をぐるぐる逃げ回
心胆冷えるものがある。
︱︱︱︱
ってさえいればいいのだ。
それだけのことなのだが、今日一日走りづめだったせいか、雫の
足や膝には既に意思に反した震えが出始めていた。彼女はすぐ横に
並んで走っている使い魔を見やる。
﹁メア﹂
﹁何でしょう、マスター﹂
﹁逃げ、れる、かな﹂
﹁ご自分をお信じください﹂
﹁うん﹂
信じるしかない。
雫は酷使しすぎて自分のものではないような足を動かし、次の角
を曲がる。
だが、次の瞬間彼女は、曲がったすぐ先にいた女官の一人と衝突
して派手に転んでしまった。あっという間に天地が逆さになるほど
勢いよく引っくり返る。
﹁マスター!﹂
﹁⋮⋮っ、だいじょぶ﹂
床に両手をついて体を起こす。しかし雫が顔を上げた時、すぐそ
こには既に彼女を見下ろす赤い両眼が光を放っていた。蛇は頭をも
たげゆっくりと空中を揺らぎながら獲物に向って狙いを定める。
﹁きゃあああッ!!﹂
悲鳴を上げたのは雫ではなく、彼女とぶつかった女官の方だ。雫
391
は半ば無意識で女官を廊下の端へと突き飛ばした。そのまま自分は
逆方向に転がる。
この判断は正解だった。
彼女が避けたのに僅かに遅れて、蛇の頭が恐ろしい俊敏さで雫の
そう思うと全身が寒くなっ
居た場所に突っ込む。白く光る牙が床を抉った。
もしあれを食らっていたら︱︱︱︱
たが、想像に費やす時間さえ今は惜しい。雫は何とか立ち上がる。
逃げられない。
だがその時はもう蛇が、再び彼女を狙って目と同じ色の舌を震わせ
ていた。
︱︱︱︱
背を見せたらきっと食いつかれる。けれどこうして睨みあってい
ても、待つものはただの死だ。
選択肢のない極限で、雫は永遠にも等しい数秒立ち尽くす。
何も考えられない。誰のことも思い出さなかった。
これは敗北なのだろうかと、そんなことだけが頭をよぎる。
﹁マスター!﹂
メアの声。
続く誰かの怒声が時間を動かす。
蛇が苦悶の声を上げて身をよじる。
﹁突っ立ってんな、雫!﹂
いつになく厳しい声。その声に押されて雫は意識を引き戻した。
蛇の後ろにいる男を見やる。
どうやって追いついたのか、そこにはターキスが険しい顔で短剣
を黒い尾に突き立てていた。普段彼が持っているものとは違う剣は、
刺さった箇所から燻るように黒煙を上げさせている。
蛇が憎悪に満ちた目で彼を振り返ると、ターキスは短剣を引き抜
いて跳び退った。不敵な笑いを浮かべながら構えを取る。
﹁こっちなら効くだろ? 精霊術士が鍛えた剣だ﹂
初めて傷をつけられたせいか、男の敵対姿勢が気に入らないのか、
392
蛇はターキスに向って首をもたげた。
﹁ターキス!﹂
﹁さっさと行っとけ! 時間稼いでやる!﹂
そう言われても雫は咄嗟には動けない。彼を身代わりにして逃げ
ていいものか、それで本当にいいのか、判断がつかず立ち竦んだ。
だが男の声は更に彼女を打ち据える。
﹁行け! お前が逃げたら俺も撒いてくる!﹂
﹁⋮⋮ごめん! 恩に着る!﹂
雫は踵を返すと走り出した。その後を使い魔が追って行く。
遠ざかる少女の背を見送ってターキスは苦笑した。だがそれもほ
んの一瞬のことで、彼は蛇の尾を避けて大きく右に跳ぶ。
人ならざるもの、魔物でさえない相手に嫌でも緊張せざるを得な
い。城に忍び込んだ時よりも慎重に意識を研ぎ澄ませながら、ター
キスは相手の様子を窺った。蛇は何を思っているのか、赤い目がた
だ彼を睨むばかりである。
変わらず剣を構える男を排除すべき邪魔者と決定したのか、大蛇
は続けざまに彼の立っている場所めがけて、丸太ほどの黒い尾をし
ならせた。
けれど彼は鍛えられたバネを使ってその攻撃に空を切らせる。そ
んなことを間断なく二、三度繰り返した。
決して長い時間ではない。だが、その間に雫は廊下の遥か向こう
にまで距離を稼いでいた。それを確認してターキスはにやりと笑う。
しかし、彼の会心の笑みは長くは続かない。
蛇の輪郭が不意に歪む。
黒い大蛇自身は微動だにせぬまま、だが表皮がぼやけ黒い瘴気が
黒豹に似た一匹の獣に。
宙に染み出し始めた。そしてそれはゆっくりと床の上に集まると一
つの形を成す。︱︱︱︱
﹁⋮⋮まじかよ﹂
393
黒豹はターキスを一瞥することもなく、雫が去った方向へ走り出
共に大蛇の牙を避けた。
した。その後を反射的に追おうとした彼はしかし、蛇の巨体に遮ら
れ、たたらを踏む。激しい舌打ちと
自分の命さえもかかった急場だ。
判断の過ちは死に繋がる。
ならばどうすべきか。
彼は短く息をつく。
そして⋮⋮ターキスは豹に追いつくことを諦めた。
今は焦りを消す。目の前の敵に集中する。
静かに閉じていく視界と比例して、戦いの高揚が湧き上がってく
る。男は短剣を油断なく構えた。禁呪の結晶たる蛇を傲岸な目で見
上げる。
﹁来い﹂
蛇はゆらりと首を動かしながら獲物に焦点を定めた。空気が張り
詰めていく。
一つの城が道を踏み外した、その取り返しのつかない罪の清算が
今、ゆっくりと幕を下ろしつつあった。
苦しい時にある最中は、それが終わった時のことを想像すれば気
が紛れると聞いた。だから大学受験の為に昼夜机に向っていた時は、
大学に入学してから何をしようかとよく考えを巡らせていたものだ。
だが、異世界にあってよく分からない揉め事に巻き込まれて、よ
く分からない怪物に追われている現在、苦しいと言ったら過去最高
に苦しいのだが、何を想像すれば気が紛れるのかさっぱり分からな
い。少なくとも元の世界にいたころ思い描いていた﹁楽しい夏休み﹂
はどこかに行ってしまったし、家族も、友人も、肺と心臓が壊れそ
うな今は遠すぎてよく想像できなかった。
何ならば鮮明に描けるのかと言えば、それは宿屋の部屋でお茶を
394
これが終わったら、彼と何の話をしよう。
飲みながら本を読み、時折彼と会話を交わす、そんな光景だ。
︱︱︱︱
答の出ない問いだけを呟きながら雫は角を曲がる。その背後へと
黒い影が迫っていることも知らずに。
豹は、蛇だった頃より軽やかに逃げた少女の後を追い、確実にそ
の距離を縮めていった。角を曲がり廊下の先に標的の背を捉える。
音をほとんどさせぬまま、まるで本当の豹のように俊敏な動きで
彼女に向っていった豹は、けれど当の少女が急に振り向いたことで
速度を緩めた。
彼女は黒い瞳に驚愕と恐怖を混ぜ合わせて、突然現れた黒豹を見
つめる。
﹁な、何あれ!﹂
﹁禁呪です。形を変えて追ってきたようです﹂
﹁しつっこい! でも蛇よりまし!﹂
大蛇よりは大分小さくなった黒豹は、もう一度速度を上げて少女
へと向う。それを見て何の武器も持っていない彼女は無謀にも、敵
に向き直ると持っていたバッグを振り上げた。
無防備な喉笛を食いちぎろうと豹は床を蹴る。
﹁メア! 止めて!﹂
主人の命を受けて使い魔が放った力は、ほんの一瞬豹を拘束する。
だが、彼女が狙ったのはその一瞬だった。
間髪置かず勢いをつけたバッグが豹の頭めがけて打ち下ろされる。
バッグは黒い頭部を靄を散らすように霧散せしめた。頭を失って豹
は床の上に落下する。
本物の生き物ではないので声は上げない。血も流れない。ただ散
ってしまった瘴気を集め、頭を再生する為に時間がかかることは確
かだった。
395
豹がすぐには起き上がれないでいる間に、少女は再び逃げ始める。
それは、見えない結末をすぐそこに控えた奇怪な逃走劇だった。
苦手な蛇ではないことだし、かなり走る速度が速いので試しに攻
撃してみたが、普通の攻撃は禁呪の塊である豹には効かないらしい。
あっという間に元通りの姿になって追いかけてきた敵に、雫は走っ
ているせいもあるのだが、何も言えなかった。
おそらくすぐに追いつかれる。だが、迎撃するにしても先程と同
じ方法では読まれてしまうだろう。雫は悩みながらも背中に食いつ
かれる前に足を止め、振り返った。どう対応しようか、メアに何と
命じようか、バッグを持ちながらも悩みかけた時、豹は急激にその
スピードを速める。
反射的に頭と心臓をバッグで庇う雫の、逃げられない足に向って
黒い獣は飛び掛った。
﹁っああ⋮⋮っ!!﹂
予想外の箇所に来た攻撃に、彼女の判断は一瞬遅れる。牙が左の
ふくらはぎに深々と突き刺ささり、雫は絶叫を上げた。
﹁メアっ! 剥がしてぇ!﹂
使い魔の攻撃が豹の頭を薙ぐ。黒い頭部はまたあっけなくかき消
されたが、傷は消えることはなかった。丸く開けられたいくつもの
穴から血が零れだす。雫は長いスカートを捲り上げてそれを確認し
た。
﹁いたい⋮⋮﹂
﹁痛みを消します﹂
メアの声は平坦ではあったが悔しそうな色が滲んでいた。主人に
怪我をさせてしまったことを悔やんでいるのだろう。おまけに彼女
は治癒を使えないのだ。
麻酔のような魔法をかけてもらい雫は再び走り出す。だが、攻撃
を受けた衝撃が彼女の精神に影を落とし、息苦しさは一層増してい
396
った。
いつまで、どこまで、逃げればいいのか。
本当に終わりはあるのか。助かる道はあるのか。
ファルサスがどんな国か、彼女は知らない。
来てくれるかも分からない。何も分からない。
何も感じない。足の感覚がない。
傷口から徐々に絶望が染み込んで来る。
思考が絡め取られ、うまく前に進まない。
雫はもつれる両足を動かす。
追いつかれる。
自分がどうやって走っているのか、もうそれさえも分からなかっ
た。
︱︱︱︱
曲がり角にさしかかろうとしたその時、音も気配もないのに分か
ったのは、これまでの短い間に幾度となくそれを体験した為であろ
う。足を止めようとして雫は、自分の体が言うことをきかないこと
に気づいた。
怖い。振り向きたくない。襲われるのは嫌だ。そんな思いが頭の
中を交差し体を束縛する。
迷いによって動きが鈍ったのはほんの数秒。
けれどそれは雫の明暗を左右する数秒だった。
﹁マスター!﹂
もう振り返れない。そんな猶予はない。豹の爪がメアの結界に突
き刺さる。だが、禁呪の結晶たる豹はそれを容易く切り裂いた。
白く光る爪がそのまま雫の背に振り下ろされる。
ひやりと背筋に冷たいものが走った。
怖くて仕方ない。
397
もうきっと限界だ。
誰か助けて。
終わらせて。
終わりにして、欲しい。
手を掴まれる。
雫はそのまま前に引き摺られた。豹の爪は空を切る。
詠唱が聞こえる。男の声。低い、心地のよい声。
陣の上にしばりつけられたかのよ
床に魔法陣が浮かび上がる。赤い魔法陣。豹はそこに吸い寄せら
れる。そしてそのまま︱︱︱︱
うに動かなくなった。
男はそれを確認すると、腕の中に抱き取った少女を廊下の先へ押
し出す。藍色の目が窓の外を見上げた。
﹁もう終わる。精霊が来た﹂
﹁エリク!﹂
それ以上は言葉が続かない。何も言えない。
雫は崩れ落ちそうになって男の手に支えられる。
ずっとずっと帰りたかった日常。
その半分が確かに今、彼女の元に戻ってきたのだ。
疲労の為か緊張が解けた為か座り込みそうになる雫を、だが険し
い表情のエリクは半ば持ち上げるように立たせる。その上で彼は廊
下の奥を指した。
﹁行くよ。あまり長くは持たない﹂
慌てて彼女が振り返ると、豹は魔法陣のくびきから逃れようと体
を捩り始めている。自分を見上げる赤い瞳に、雫はぞっとして息を
飲んだ。
連れの少女の手を引いてエリクは走り出す。
﹁エリク、ど、うやって、ここに﹂
﹁走ってきた﹂
﹁⋮⋮それは、分か、る﹂
398
息が切れてうまく喋れないというのに噛みあわない会話はやめて
欲しい。
無言の非難が伝わったのか、彼は続けて口を開いた。
﹁禁呪の圧力が消えた。から、様子を見に来たんだ。そしたら君が
豹に食われてた﹂
﹁まだ、食われて、ません﹂
相変わらずの物言いに言いたいことはいっぱいあったものの、雫
はそれとは別に不思議なほど気が軽くなる思いを味わっていた。
彼が来て、そして﹁終わる﹂と言った。ならば確かに自分たちは
終わりに向って走っているのだろう。
もう少しだ。きっとうまくいく。そこには言葉にならない信頼が
あるのだ。
エリクは雫の手を引きながら後ろを振り返る。
﹁あ、もう逃れてきたか﹂
﹁えええ⋮⋮﹂
﹁大丈夫。着いたから﹂
一つの扉の前、彼は唐突に立ち止まると大きなドアを乱暴に押し
開けた。雫を先に中に入れる。そこはだだっ広いだけの部屋だ。床
には壁に沿っていくつもの魔法陣が書き込まれている。雫は自分の
現在地と地図上の点を思い出し、ここが何の部屋なのか思い至った。
﹁転移陣の⋮⋮﹂
﹁そう。ここから外へ逃げるよ﹂
﹁でも、私がいなくなったら﹂
﹁平気。後はもうすぐ来る人間が何とかする﹂
エリクは自分も部屋に入ると、床にはめ込まれたプレートを近い
場所から走って確認していく。行く先を選んでいるのだ。
雫は自分も手伝おうと別の転移陣に向いかけた。だが、次の瞬間
扉を振り返って凍りつく。
もはや豹の形を留めていない瘴気。それが空中を漂いながら雫め
がけて押し寄せようとしていたのだ。絶叫が喉につかえる。
399
﹁マスター!﹂
メアが雫の服を掴んで引っ張った。彼女は慌てて使い魔の手を取
ると、部屋の奥まで踏み込んでいたエリクの前に駆け寄る。彼もま
どうなってしまうのだろう。
た瘴気に気づくと舌打ちして詠唱を開始した。
︱︱︱︱
想像のつかない決着に雫の頭は真っ白になりかける。彼女は何を
すればいいのか分からず、ただ動転して辺りを見回した。
けれどその時、広間の奥、一つの転移陣が発光し始める。青白い
光と共に陣の上の空間が歪み、雫の視線はそちらに吸い寄せられた。
ふと背後のエリクを見上げると、彼もまた詠唱をやめそちらを凝視
している。
一体何が起きるのか。彼女が固唾を呑んだ瞬間、だが不意にエリ
クが彼女を引き寄せ、自分の後ろに突き飛ばした。余所見をしてい
た僅かな隙に、瘴気がすぐ傍にまで迫ってきていたのだ。
雫はバランスを崩しながら、すぐ後ろにあった転移陣の中に倒れ
込む。
奥の転移陣の上に現れた長い黒髪の美女だった。
たちまち青白い光に包まれた彼女が最後に見たもの、それは︱︱
︱︱
※ ※ ※
400
ざっぱーん、としか言い表しようのない光景に彼女は立ち尽くす。
大岩の上に佇む女官姿の少女は、目の前の岩場に打ち寄せる白波
を呆然と見下ろした。すぐ後ろでは使い魔が沈黙したまま佇んでい
る。
岩だらけの浜辺の背後は緩やかな坂になっており、その上は森に
繋がっているようだった。鬱蒼とした木々は、明るい空とは対照的
な色合いで坂の向こうに広がっている。少し木々の間に隙間がある
彼女の目の前は果てしなく海。
ように見えるのは道でもあるのかもしれない。
そして︱︱︱︱
正真正銘、疑いようもない水平線が遥か向こうに見えていた。
それは見えているのだが、すぐには理解しがたい景色に彼女は何
も言えない。しばらくしてようやく隣に立つ男に話しかける。
﹁こういう日本海! って場所に立つと、演歌を歌いたくなります
ね﹂
﹁何それ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
禁呪からは逃げ出せた。致命傷はないし、三人とも無事だ。
だが適当な転移陣に入った彼らの飛ばされた場所は、内陸部にあ
るカンデラから遠く離れた、どことも知れない海辺だったのである。
﹁多分、禁呪が城内を汚染した時に転移陣の構成が歪んじゃったん
だと思う。普通城はこんなところに転移陣書かないから﹂
﹁どこですか、ここ⋮⋮﹂
﹁さぁ。上に道があるみたいだし、あとで町を探して聞こう﹂
小鳥に戻ったメアを肩に乗せ、岩で出来た坂を苦心して登りなが
ら雫は空を仰いだ。
カンデラでは赤みを帯びていた空がまだ青々と晴れているのだか
ら、大分西に来てしまったのかもしれない。
二人は坂を上りきると、森の中に入って適当な木の陰に腰を下ろ
401
す。エリクはメアの力を借りて雫の傷を治してしまうと、大きく欠
伸をした。
﹁ごめん、少し寝かせて。何かあったら起こしていいから﹂
﹁あ、お疲れ様です﹂
彼女の声が聞こえたのかどうか怪しいタイミングで、すぐに規則
的な寝息が聞こえてくる。二日間ほとんど寝ていなかったのだろう。
雫は疲れが見える彼の寝顔に同情した。
そういう彼女は何だか気が抜けてしまって、自分の足をじっと見
下ろす。そこに傷はなく、ただ血があちこちにこびりついているだ
けだ。
今までのことは本当に現実だったのだろうか。今となってはそれ
さえもあやふやである。
ターキスは、リディアは無事なのか。禁呪の塊はどうなったのか。
転移してしまった雫にそれを確かめる術はない。できることはた
だ祈るだけだ。
彼女は疲れ果てた体を木の幹に寄りかからせる。
そして束の間の休息に、雫もまた落ちて行くのだ。
※ ※ ※
﹁戻りました。兄上﹂
﹁どうだった?﹂
﹁どうもこうも。禁呪の後始末をさせられました﹂
女は黒髪を鬱陶しげに束ねながら、忌々しさを隠さない口調で報
402
告する。
すなわち、カンデラ城内は禁呪に侵され、王を初め高官や将軍た
ちがほとんど死に絶えたことと、禁呪の結晶となっていた二匹の獣
を彼女が消滅させてきたこと。
そして禁呪を妨害する為、城に侵入していたという人間たちは、
死者を除いて全員がいつの間にか逃走していたということを。
﹁城都は数十人ですが民にも死者が出ており、今も城に人が詰め掛
けています。が、それらに対処できる人間はおらず、当然ながら城
は沈黙したままです﹂
﹁それは大変そうだ﹂
﹁他人事のように仰らないで下さい。いかがなされるおつもりです
か﹂
突き刺さる妹の詰問に、しかし王は人の悪い笑みを見せただけだ
った。処理している書類から顔を上げぬまま肩を竦める。
﹁どうもしようがないだろう? 所詮、他国の話だ﹂
﹁カンデラは瓦解しますよ﹂
﹁自業自得だな。愚かな王を持つと下は大変だ。いい教訓になる﹂
﹁私も面倒ごとが嫌いな兄を持って苦労しております﹂
即座に切り返されて彼は沈黙する。何だかんだ言って、彼はこの
妹に弱いのだ。しばしの間を置いて、王は一枚の書類を書き上げる
と妹に差し出した。
﹁これを持ってカンデラを緊急統治してくれ。人間は好きに連れて
行って構わん。混乱を最小限に抑えるように﹂
﹁禁呪のことは明るみに出してよろしいので?﹂
﹁構わん。そうでなければファルサスの大義名分が立たぬからな。
生き残ったカンデラの人間から証人を選んでおけ。後はこちらから
の侵略と取られぬよう、中立の第三国に協力を要請する﹂
女は受け取った書類に目を通していたが、兄の言葉を聞いて怪訝
そうな顔になる。
﹁第三国? 適任がいますか? 禁呪がらみですよ﹂
403
﹁いなくもない。場合によってはカンデラの統治を当分代行しても
らうことになるかも知れんから、切れる王を選ぼう。ちょうどすぐ
南のアンネリをロズサークが攻め落としたばかりだろう? ロズサ
ークの王は俺の⋮⋮﹂
﹁兄上! 滅多なことを仰らないで下さい!﹂
﹁すまん﹂
男はけろりとした顔で舌を出す。その表情に彼女は脱力感を覚え
たが、時間が惜しいのか、未だ混乱の只中にあるカンデラの政治的
な収拾をつけるために執務室を出て行った。一人になった男は書類
処理で凝ってしまった肩をほぐす。
﹁城に侵入して暴れまわった連中か⋮⋮。面白い人間がいるものだ。
どんな奴らか見てみたいくらいだな﹂
カンデラ城を中心とした突然の凶事は、それを収めたファルサス
によって禁呪が原因だと明らかにされ、近隣諸国をざわめかせた。
最初の襲撃が起きた夜から、城がファルサスの指示の下まともに
機能するまでの三日間、混乱が城都を覆っていた時のことは、後に
﹁無言の三日間﹂と呼ばれ、大陸の歴史に忌まわしい痕を残すこと
となる。
その渦中にいた一人の少女について、記録には何もない。名前を
聞いた人間も残っていない。ただ、彼女を目撃したという何人かが
残るのみだ。
異世界の少女は今は遠く離れた地で深い眠りの中にある。
無力ながら根源によって﹁異質な棘﹂と呼ばれた彼女が、再び歴
史の混沌の中に現れるまでには、もうしばらくの時間が必要とされ
ていたのだ。
404
Act.1
−
End
−
405
の あらすじ。
これまでのあらすじ&登場人物
Act.1
大学生の雫は、これから夏休みが始まる、というところで怪しい
穴に吸い込まれ、異世界に飛ばされてしまった。
そこでローテンションな魔法士エリクと出会った彼女は、文字研
究が専門の彼に、元の世界の言語について教授するのと引き換えに、
帰る為の旅へ同行してもらう。
手がかりは、ずっと昔不思議な事件についてもみ消したという魔
法大国ファルサスにあるのではないか。遠いファルサスを目指して
ついにファルサスをすっとばして、どこかの海辺
勉強しながら進んでいた彼らは、いくつかの事件に巻き込まれつつ
移動し︱︱︱︱
に到着した。
ごく普通、かつ若干頑固な女子大生と、淡々と動じない魔法士の
行く末はいかに。
★これまでの登場人物
異世界人:本作の主人公。18歳で文系女子大生。ある
水瀬 雫
魔法士:雫と共に旅をすることになる魔法士。魔法文字
日異世界に飛ばされてしまう。
エリク
が専門で魔法士としての力は弱い。何考えてるか分からない淡白人
間。
406
メア
魔族:中位魔族。緑の色をまとっている。
傭兵:陽気な野心家。雫に何かあるのではないかと怪し
ターキス
んでいる。
魔法士:深紅の本の所持者。何やら陰謀を練っているよ
アヴィエラ
うだが⋮⋮。
傭兵:ターキスの知り合い。人を殺すことを趣味として
魔法士:ターキスの知り合い。腕の立つ無所属の魔法士。
リディア
カイト
いる。
★大陸地図
http://unnamed.main.jp/words/
img/map6.gif URLコピペでご覧ください。
Act.2開始時点で二人は、青い星の若干左上の町にいます。
407
足りない破片
この世界に来て魔法があると聞いた時もまず驚いたものだが、そ
の中で一番凄い! と思ったのは、瞬間移動が出来るということだ。
一瞬で遠く離れた場所に移動できるなど、まるで漫画に描かれた
未来のようである。そんなことができるならさぞ色々便利だろう。
そう思っていたことは確かなのだが、まさか目的地で
いつか自分もずっと遠くへ魔法で移動するような体験がしてみたい。
︱︱︱︱
あるファルサスを飛び越えて大陸西岸に出てしまうとは思ってもみ
なかった。
たどり着いた町の宿で一息つきながら、雫は大陸地図の上に打た
れた現在地を見て息をつく。
﹁めちゃめちゃ移動しましたね。ほぼ大陸横断じゃないですか﹂
﹁もうちょっと西にずれてたら海中だったね。海岸でよかった﹂
﹁嫌なこと言わないでくださいよ!﹂
緯度があるとして見れば、彼らがいるのはカンデラより小国二個
分くらい北に行った西岸である。勿論今まで西にあったファルサス
は、二人が西岸に移動してしまったことにより東になった。これか
らはファルサスに行く為には東に向って旅をすることになるのだ。
﹁あー⋮⋮東遊記になっちゃいましたね﹂
﹁何なのそれ﹂
﹁仙人の話らしいですが、詳しくは知りません﹂
少し睡眠を取って回復したらしい男は、テーブルに頬杖をついて
地図を眺めている。一方雫はそんな彼の顔の方をまじまじと見つめ
ていた。
408
改めて見るとやはり整った顔立ちだと思うのだが、最近は見慣れ
てきてしまった気さえする。数時間前に間近で見た寝顔は状況のせ
いもあるのだろうが、思わず﹁すみません﹂と頭を下げたくなるく
らい、疲れが窺えるものだった。
勿論カンデラでの騒動は雫のせいではないのだが、そもそも旅を
始めた理由は彼女の方にある以上、まったく何も感じないわけでは
ない。雫は自然と重い頭を垂れる、というかテーブルに額をべった
りつけてしまった。
﹁色々すみません。こんなところまで⋮⋮﹂
﹁何で。ここに飛んだのは不可抗力だし、気にすることじゃない。
それにファルサスには前より近づいてるよ﹂
﹁確かにカンデラからよりは近くなりましたけど。ファルサスって
やっぱり大きいんですね﹂
ファルサスは、大陸中央部から西部に広大な領地を有する国であ
る。
その為、西に移動した彼らはファルサスの北西国境には近くなっ
たが、国境を越えてからはまだ城までかなりの距離があるのだ。
目で測った分には、東から入国するより大分遠いだろう。早くて
馬で一ヶ月以上というところだろうか。だが雫の心配を読み取った
のかエリクは微苦笑した。
﹁一度入国しちゃえば国内の移動は転移陣が多いから。楽になるよ﹂
﹁あ、なるほど﹂
転移陣でここに飛ばされたばかりなのに、自分がそれを使うとい
う発想がなかった雫は、両手を叩く。ならば今もそう困った事態で
そういえば、あの転移陣の部屋から飛ばされる時、誰
はないのかもしれない。彼女は地図の上を指でなぞった。
﹁︱︱︱︱
か外から来ましたよね。あの人は平気だったんでしょうか﹂
確かに消えかける視界の中で、雫は黒髪の女が現れたのを見たの
だ。そしてあの時あの部屋には瘴気がいた。ずっと追っていた雫が
409
いなくなった後、瘴気は別の人間に襲い掛かったのではないだろう
か。
﹁多分、平気だと思うよ。彼女がファルサスの王妹だから﹂
﹁え!?﹂
さらりと投げ返された答に雫は呆気にとられてしまう。エリクは
地図から視線を離さぬまま口を開いた。
﹁彼女には精霊もついてる。禁呪と言っても陣から切り離された状
態なら余裕で打ち勝てただろう﹂
﹁え、え。じゃああの時、ファルサスの人とニアミスしてたんです
か!﹂
﹁ニアミス?﹂
﹁すれちがってた?﹂
﹁うん。惜しかった。けどまぁ、あそこで彼女と合流してても不審
者扱いは免れなかっただろうからね。これはこれでいいのかも﹂
﹁あー⋮⋮﹂
審査に受かって城に入ったエリクはともかく、雫などは魔法で結
界を越えて中に侵入したのだ。捕まったら確かに色々不味い気がす
る。彼女は複雑な思いで腕組みをすると、言葉未満の唸り声をあげ
た。
﹁明日になったら東に街道があるらしいからもっと大きい街を目指
そう。きっとカンデラがどうなったのか大体の情報も手に入る﹂
﹁ですね。今日はもう疲れましたし、早寝しますか﹂
少し転寝したとは言え、疲れは鉛のように体の中に残っている。
雫は隣にとった自分の部屋に帰る為に立ち上がった。彼に挨拶をし
て部屋を出ようとして、ふと振り返る。
﹁エリクってファルサスの王妹さんの顔、知ってたんですか?﹂
遠目にちらっとしか見えなかった状態で、彼は黒髪の女が誰であ
るか分かったのだ。一度ファルサスに行ったことがあるという彼は
その時にでも彼女の顔を見たのだろうか。
聞いてみただけの軽い疑問。けれどそれは、答が返ってくるまで
410
に数秒の間があった。雫が怪訝に思うと同時にエリクは苦笑する。
﹁彼女は大陸屈指の美女だと言われているからね。ちょっと見ただ
けでも忘れられない顔ではある﹂
﹁へー。そんな美人なら私もちゃんと見たかったです﹂
納得のような、それでいてすっきりしないような気分で彼女は頷
く。何か引っかかるような気がしたが、疲れのせいだと片付けて、
部屋に戻ると深い眠りについた。
そして翌朝目が覚めた時、彼女は旅の準備で気が急いており、そ
の全てを綺麗に頭の隅に押しやってしまっていたのである。
あれだけのゴタゴタを乗り越えてきたのに、全部ではないとはい
えちゃんと荷物を持ってきている辺り、エリクは冷静というかマイ
ペースなのだと、雫は思う。
彼女も勿論自分のバッグを持ってきているが、中身は大学から借
りた本やこの世界には存在しない道具だ。失くしたり盗られたりし
ないよう無理してでも持ち歩かなければならない。
そんな自分と比べると、彼は荷物が大事だというより、単に余裕
があるから持ってきたという程度のことに見える。もっともこの感
想は、雫がいつも平然としている彼の表情から勝手に推察したイメ
ージの為、実情に即しているかどうかは分からないのだが。
買い直した馬で街道を旅し、二週間近くかけてファルサス国境近
くの街に到着した二人は、宿を取るとまずカンデラの事件について
情報を集めた。
﹁まぁ予想通りと言えば予想通り。ファルサスに城を緊急制圧され
たって感じか﹂
﹁あー、王様死んじゃってたんですね。やっぱり﹂
雫は禁呪の核の陣があった暗い部屋を思い出す。あの時玉座には
主教が座っていたのだ。ならば雫が行く前に、王は命を絶たれてい
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たのだろう。禁呪に手をつけた人間の末路と言えば因果応報なのか
もしれないが、巻き添えになった人間の方はたまったものではない。
﹁死者や行方不明者がどれくらいでたかは、後の記録にならないと
分からないだろうな。今はカンデラを立て直すことが最優先だろう
し﹂
﹁死体が消えちゃったりしましたからね。ちょっと申し訳ないです﹂
核の陣を壊しに行って禁呪に追いかけられたということは、エリ
クに話してある。彼はそれを聞いた時さすがに唖然として﹁君は結
構思い切りがいいよね⋮⋮﹂と洩らしたものだが、﹁助かった。あ
りがとう﹂とも言ってくれた。
せいぜい初めて出会
無謀を怒られるかとも覚悟していた雫だが、よくよく考えてみれ
ばエリクに怒られたことは一度もないのだ。
った時、図書館で騒いでいたところを注意されたくらいである。多
分それは、雫が怒られるようなことをしていないというより彼の性
格の為だろう。
だがそんな彼相手であっても、雫はあの時、負そのものであった
主教とどんな会話をしたのかについては伝えていない。
負と向かい合っていた時は、高揚状態にあったせいか気にもして
いなかったのだが、改めて後から思い返すと、自分が﹁異世界から
来た人間﹂と見抜かれたことが異様に恐ろしくなってしまったのだ。
雫だけを執拗に追ってきた禁呪の塊。あれは、彼女が異世界の人
間だから狙ってきたというのだろうか。逃げおおせたはずの闇を思
みんな無事なのかなぁ﹂
い返して、彼女はぞっと身を震わせた。
﹁︱︱︱︱
﹁分からない。けど、侵入者で捕まった人間はいないみたいだね﹂
雫はターキスとリディアの顔を思い浮かべる。今頃彼らがどこで
何をしているのか、想像もつかなかった。
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国境を前に二人が落ち着いた街は、カンデラの城都ほど大きくは
なかったが、充分に賑やかで多くの店が軒を並べていた。
なくしてしまった魔法具を買い足すというエリクについて外に出
た雫だが、どちらかというと彼女の方が夢中になってあちこちの店
を覗いている。ガラス窓越しに花飾りが並ぶ店内を見やって、彼女
は軽い歓声を上げた。
﹁いいなぁ。綺麗ですね!﹂
﹁欲しいの?﹂
﹁それほどでは。持っていけないですしね﹂
自分の家も部屋もない彼女には、必要以上の荷物を持っていくこ
とはできない。こんな時少しだけ、学生会館の小さな部屋が懐かし
いと思う。あそこならば色々小物を飾ることも出来るだろう。この
世界でしか売っていないような魔法仕掛けの置物も。
雫は、広い机の隅に魔法で動く陶器の人形を置き、遠い世界の出
来事について書き留める自分を想像した。
それは不思議と、物悲しさを感じさせる空想だった。
その小さな店は街の中央近く、奥まった細い路地に面していた。
たまたま路地に足を踏み入れた雫は、ウィンドウに飾られたドレ
スに気づいて思わず足を止める。
﹁すっごい! ウェディングドレスのお店ですよ!﹂
質のいい生成りのレースをふんだんに使った衣裳は、デザインこ
そ素朴なものであったが、彼女の目をひきつけるに充分な存在感を
放っていた。雫は年相応の憧れが詰まった目でドレスを見つめる。
﹁こっちの世界も結婚式は白いドレスなんですか?﹂
﹁ずっと昔は色々だったらしいけど。最近は白が多いと言えば多い
らしい﹂
﹁へぇ⋮⋮。いいなあ﹂
413
﹁欲しいの?﹂
﹁どこに着てけばいいんですか、こんなの﹂
元の世界にいたとしても、﹁単に欲しくなったから﹂でウェディ
ングドレスを買う気にはなれない。大体婚礼衣裳は飛びぬけて高価
なものなのだ。
雫はひとしきりドレスを眺めて満足してしまうと、店の奥に視線
を移して、ふとそこに何人か人がいることに気づく。一人の少女と
彼女の体に布をあてている女、持っている紙に何かを書き込んでい
る初老の男など、察するに婚礼衣裳の注文を出しているところらし
い。
だが、雫はその光景にぽかんと気を取られてしまった。
それと言うのも大人たちの中心に立っている少女、その少女は雫
が今までに見たこともない程、圧倒的な美貌の持ち主だったのであ
る。
﹁うっわぁ⋮⋮美人﹂
初めてメアに会った時にも、映画や写真でしか見ないような綺麗
な顔だと思ったが、今、店の中にいる少女は彼女を遥かに上回る。
長い漆黒の髪に大きな黒い瞳。白い肌にすっと通った鼻筋、小さ
な紅い唇は見た者の心を捕らえるであろう繊細な造作を保っていた。
まるで彼女自身が一つの芸術品だ。こんな人間が実在していること
が嘘みたいだと、雫は感心してしまう。
少女はよくできた人形に似て表情に乏しかったが、純白の絹を肩
からかけて少し嬉しそうにも見えた。見ている雫の顔も自然にほこ
ろぶ。
﹁幸せそうですよ。可愛いなぁ﹂
﹁へー﹂
﹁何でそんな無感動なんですか。美少女ですよ美少女!﹂
﹁ごめん。よく分からない﹂
そう言えば、エリクは人の顔の美醜が分からないのだと雫はよう
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やく思い出した。感動をわかちあえる相手がいないことについがっ
かりしてしまう。
﹁うぐぐ。もっと感激してくださいよ。勿体無い﹂
﹁感激はしてないけどちょっと驚いてる。多分あの子はかなり強力
な魔法士だよ﹂
﹁え?﹂
彼の表情はまったく驚いているようには見えなかったが、本人が
そう申告しているのだからそうなのだろう。雫はあらためて、店の
奥にいる少女に視線を戻そうとした。その時、すぐ隣にあった扉が
開いて中から男が出てくる。
﹁おっと﹂
﹁あ﹂
窓の向こうに夢中になっていた雫は、反射的に避けようとしてよ
ろめいた。その背をエリクが支える。
﹁危ないよ﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
﹁すまない。人がいるとは思わなかった﹂
上からかけられた声。雫は背の高い男を見上げた。
初めて会う男。見覚えのない顔。だがその顔立ちはどこかで見た
ような既視感を覚えさせる。エリクが中性的な顔立ちで綺麗だと思
うのに対し、この男は男性的な秀麗さを持っている人間だ。鍛えら
れた体は戦うことを生業としている人間なのか、カンデラで見た傭
夜空の色に近い瞳が雫を妙に落ち着か
兵や剣士たちを思い出させた。
ただそれよりも︱︱︱︱
なくさせる。逃げ出したいような悪寒が背筋を走った。
⋮⋮何故なんだろう。初めて会うのに。
そう思ったと同時に、突如眩暈が襲ってくる。彼女は耐え切れず
石畳の上にうずくまった。
﹁雫?﹂
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くらい。こわい。きもちがわるい。
﹁どうした。具合でも悪いのか?﹂
︱︱︱︱
不安によく似た、けれどもっと強い感情。
だがそれを口にすることさえ雫にはもうできなかった。
ぐるぐると天地が回る。意識が遠のく。自分がどこにいるのかも
分からない。
永遠に続く暗闇。
その中へと彼女は一人、足場を失くして落ちていったのである。
腹を抱えるようにして石畳の上に倒れてしまった雫を見て、エリ
クは険しい表情になると膝をついた。意識を失った彼女の額に手を
あて、喉にも触れると脈を取る。たまたま出くわした男も真っ青な
雫の顔色を見て眉をしかめた。
﹁大丈夫か? 魔法士に診させよう﹂
﹁いえ。疲労で熱が出ているようですから。宿に戻って休ませます﹂
エリクは連れの少女を軽々と抱き上げる。そのまま軽く男に頭を
下げると、踵を返して立ち去った。入れ違いで店の中から少女が出
てくる。彼女は、庇うように雫を抱いたまま角を曲がっていくエリ
クを見て、首を傾げた。
﹁どうかしたの?﹂
﹁いや。具合が悪かったらしい﹂
﹁あの女の子、変わってるね﹂
﹁変わってる?﹂
﹁何か﹃違う﹄﹂
何が違うのか、その意味を問おうとした男はしかし、少女の表情
を見てそれを諦めた。多分言った彼女もよく分かっていないのだ。
少し違和感を抱いたというだけで。
男は自分の花嫁となる少女を促して店の中に戻す。
雫が彼ら二人と、思いもよらぬ形で再会するのはもっとずっと先
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のことなのだ。
夢の中で彼女は一人だ。
他の誰もいない。誰も入って来れない。
彼女は一人、三冊の本の前に立っている。それは全てが書かれた
本だ。
おかしいのだと、こわいのだと、どこかで嫌がる自分がいる。
けれど彼女は動けない。彼女は一人だ。
何が怖いというのだろう。何も怖いことなどない。
これが当たり前だ。これが彼女だ。
そして彼女は一冊の本に手を伸ばす。
そこには、むかしむかしの王と魔女の物語が書かれていた。
﹁⋮⋮きもち⋮⋮わるい⋮⋮⋮⋮﹂
雫が目を開けた時、滲む視界に映ったのは宿の天井だった。彼女
は乾く喉を鳴らして喘ぐ。
﹁くるし⋮⋮﹂
﹁大丈夫﹂
聞き慣れた男の声と共に、額を冷たい布が拭っていく。藍色の瞳
が床にある彼女を覗き込んだ。
﹁少し熱が出てるだけだ。疲れが出たんだろう。ゆっくり寝ててい
いよ﹂
夢の中に落ちていった。
水のように心地よく染み込んで来る声。雫は朦朧としたまま頷く。
そして再び彼女は目を閉じ︱︱︱︱
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苦しそうに歪んでいた少女の顔が少し落ち着いたことを確認する
と、エリクは息をついて立ち上がる。
路上で突然倒れられた時は驚いたが、考えて見れば見知らぬ世界
に飛ばされた彼女は、緩やかな日程とは言え二ヶ月もの間転々と旅
をしてきたのだ。出会った頃よりも痩せてしまった彼女にはそれな
りの心労がかかっていただろうし、加えてカンデラでの事件である。
明るく振舞っていても疲れは蓄積していたのだろう。それがふとし
たことで限界を越えてしまったに違いない。
期限がある旅ではないのだ。彼女の体が第一である。少し長くこ
の街に逗留しようと決めると、エリクは汗で濡れた少女の髪を、邪
魔にならないよう指で梳いた。もう一度少女の額と耳の後ろをよく
絞った布で拭いてしまうと、宿の主人に薬を頼む為、部屋を出て行
く。
半覚醒と眠りを繰り返す雫がようやく起き上がって目を覚ました
のは、この三日後のことだった。
﹁何か⋮⋮夢をいっぱい見た気が﹂
﹁いっぱい寝てたからじゃないかな﹂
彼女の部屋で書き物をしていた男は、雫が目を覚ましたことに気
づくと立ち上がって、彼女の顔を覗き込んだ。三日間寝続けた為か
少しやつれてしまっているが、顔色は悪くない。エリクはコップに
入れた水と薬を彼女に手渡す。
﹁体調を整える魔法薬。飲んどくといい﹂
﹁お腹からっぽでも大丈夫ですか?﹂
﹁何で? 関係ない﹂
変なことを聞くなと思ったが、彼女の世界に魔法はないのだ。な
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らば薬も大分作りを異にしているのだろう。雫は頷くと素直に薬を
口に入れた。
彼女は汗で濡れた体が気持ち悪いのか、自分の服を引っ張って中
を覗き込む。三日の間にメアが何度か体を拭いたり着替えさせたり
していたのだが、雫本人はほとんど記憶がないらしい。彼女はぼん
やりとした声で呟いた。
﹁エリク、シューラって昔本当に出現したことあったんですね。と
ってもでっかい蛇で﹂
﹁え?﹂
﹁それで凄い人数の死体を動かして⋮⋮ファルサスと戦ってました﹂
﹁⋮⋮それも、夢?﹂
少女は少し首を傾げて頷く。黒い瞳がまるで底のない負と繋がっ
ているように見えて、エリクは瞬間ぞっとした。
彼女は眠り続けた間にどんな夢を見たと言うのか。シューラが蛇
の実体を持ってファルサスと戦ったことなど一度もない。そんな記
録はどこにも残っていないのだ。隠されているわけではなく存在し
ない。ファルサスの記録庫でも見たことはない。
禁呪と対面したことで、彼女の精神はそんな夢を作ってしまうほ
ど、いまだに恐怖を覚えているのだろうか。
雫は薬を飲んだ後のコップをじっと見つめている。だが彼がそれ
を取り上げると、彼女はひどく不安げな目で男を見上げた。
﹁エリク、私、怖いよ﹂
﹁何が?﹂
﹁わからない﹂
彼女はその後着替えを済ますとまたすぐに寝てしまった。そして
翌日目覚めた時は既に、この時の会話を一つも覚えていなかったの
である。
※ ※ ※
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目が覚めたら四日も経っていたという事実は雫を唖然とさせた。
彼女は腕組みをして眉を寄せると、目の前にいる男に聞き返す。
﹁えーと、それって本当に私の話ですか?﹂
﹁他に誰がいるの。とりあえずいい加減食べた方がいいよ﹂
﹁まずお風呂入ってきていいですか﹂
﹁うん﹂
熱を出していたという体はだるさがあちこちに絡み付いており、
いまいち感覚もはっきりしない。一度お湯に浸かって倦怠感をさっ
ぱり落としてしまいたかった。
雫は午前中の為か、誰もいない宿の風呂に入る。めずらしく浴室
内に姿見が置かれており、何気なくそれを見て彼女はぎょっとした。
鏡の中に映る裸身はまるで自分の体ではないかのように痩せてしま
っている。四日食べなかっただけでここまで変わってしまうものだ
ろうか。
﹁か、過労死寸前、とか? そんな馬鹿な﹂
エリクは疲労の為だと言っていたが、強がりではなくそれ程疲れ
ているとは思っていなかったのだ。カンデラの城都につくまでも彼
は雫の体調に注意を払っていて、少しでも疲れが見えれば町での滞
在日程を伸ばしてくれたりしていた。
大体禁呪の事件が大変だったと言っても、それからもう二週間以
上経っているのだ。今更何日も寝込むほど影響があるとは思えない。
それとも自分で気づいていないだけで、本当は徐々に疲労が溜まり
こんでいたというのか。雫は悩みながらも、時間をかけて汗とだる
さを流していく。
元の世界にいた頃はよく﹁痩せたい﹂と思っていたものだが、今
はもうちょっと体重を戻さなければならないだろう。脱衣所に戻る
とメアが待っていて、大分伸びた雫の髪を乾かしてくれた。﹁お目
420
覚めになってよかったです﹂という使い魔に﹁心配させてごめんね﹂
と返す。
﹁四日かぁ。ちょっとした浦島太郎の気分﹂
﹁何ですかそれは﹂
﹁何だろう。今の私みたいなものなのかな﹂
今、元の世界に戻ったとしたらまさしく似た気分を味わえるに違
いない。せめてこっちの世界と比べて元の世界は時間の流れが早く
ありませんように、と雫は念じた。帰ったら五十年後だった、とか
はさすがに嫌である。
雫は、彼女の髪を整えている魔族の少女を見上げた。
﹁メアはさ、私が元の世界に戻る時どうする?﹂
﹁お許しが頂けるのならお供させて頂きます﹂
﹁うん。⋮⋮ありがと﹂
何もかもなくしてしまうのは嫌だ。人も自分も思い出も。
元の世界にいたころはあれほど姉妹の影に隠れ、自分でも輪郭が
掴めなかった﹁自分﹂が、今は一人の人間として結実しつつある気
がする。はたしてあのまま普通に夏休みを過ごしていたなら、自分
は﹁こう﹂なれていただろうか。もしこの旅の果てに無事帰還でき
たとしたら、その時は自分はどんな人間になっているのだろう。
雫は、十八歳には見えないらしい自分の顔を鏡越しに睨む。
少し頬のこけた少女は﹁未来のことなどその時にならなければ分
からない﹂と、そう言っているように見えたのだった。
風呂から上がってすぐはそうでもなかったが、食堂で待っている
エリクのところに戻った時、雫は自分の空腹をようやく自覚した。
お腹がすき過ぎて胃が痛いくらいである。既に何品か並べられたテ
ーブルの前に座ると、彼女は皿のない場所につっぷした。
﹁うううう。おなかすいた﹂
﹁そりゃそうでしょ。でも君は消化しやすいものからだよ﹂
421
﹁や、やっぱり﹂
雫が顔を上げたタイミングを見計らったかのように、前にスープ
が運ばれてくる。具の入っていないスープを飲む彼女の顔を、エリ
クはじっと見つめた。
﹁どう? 一応医者に見てもらう?﹂
﹁あー、平気ですよ。多分﹂
﹁本当? 医者は今混んでるらしいけど、予約を取れば時間はかか
らないらしいよ﹂
﹁混んでるって、風邪でも流行ってるんですか?﹂
スプーンを片手に何気なく聞いた雫は、けれどすぐ答が返ってこ
ないことに訝しさを感じた。見るとエリクは僅かに眉を寄せている。
彼がこういう表情をしているということは、何か問題があるのだろ
う。
﹁流行り病がこの街にも発生してるらしい﹂
﹁え。空気感染するとかですか?﹂
﹁いや、僕たちは平気だよ。子供しかかからない病気だし。一歳か
ら二歳くらいまでの子がかかる﹂
﹁うっわぁ⋮⋮。それは嫌ですね﹂
それくらいの子供がいる親は、さぞかし気が気ではないだろう。
雫は他人事ながら心配になった。向かいの男に向かって身を乗り出
す。
﹁どういう病気なんですか? 命に関わるとか?﹂
﹁命には関わらない。ただ言語障害が出るらしいんだ﹂
﹁言語障害?﹂
﹁そう。実は今、大陸西部でかなり広まっている病気なんだよ。ど
の国も対策を講じようとしているが今のところ原因も治療方法も不
明だ。ファルサスでさえ現在どうにも出来てなくて、かなり問題に
なってる。感染するのかどうかも分からないみたいなんだよね。爆
発的に広がり出したのは三ヵ月以上前のことだし、東部はまだ発症
している子供が少なかったみたいだけど﹂
422
実に物騒な話題だ。雫もまた眉をしかめてしまう。
そう言えば最初の町で世話になったシセアも、そんな話をしてい
たのだ。少し前から大陸西部で子供しかかからない原因不明の病が
流行っていると。
だがここより医学が発達した世界から来た雫でも、言語障害を引
き起こす病気と聞いてこれという原因には思い至らない。もともと
彼女はそれほど病気に詳しいわけでもないのだ。特に医学について
の知識はゼロに近いと言っていいだろう。
それともこれは、この世界特有の病なのだろうか。彼女はしきり
に首を捻る。
﹁そんなだから医者は混んでるんだよ。医者に診せてもどうにもな
らないらしいんだけど﹂
﹁それは⋮⋮親なら診せたくもなるでしょうね。駄目元でも﹂
﹁うん﹂
雫は何とも言えない気分で食事を再開する。ずっと前、イルマス
の宿屋裏で会った幼い兄弟を思い出し、今頃彼らはどうしているの
だろうと心配になったのだった。
目覚めてから更に二週間、雫は街に留まって体を休めた。
三日もすると細くこけていた手足の肉も若干戻り、一週間後には
おおよそ不健康に見えない程度にまで回復する。浴室の鏡を日に一
度は確かめながら、雫はターキスではないが簡単な筋トレもして体
調を整えることに専念した。このまま同じところで生活していくな
ら、筋肉が落ちていようが息があがりやすかろうが何とかなるだろ
うが、彼女はこれからまた旅に出なければならないのだ。
異世界であるこの世界では何が起こるか分からないのだし、最後
に物を言うのは自分の体力という気もする。その為、朝は少しジョ
ギングをして、午前午後と勉強をし、寝る前に腹筋などして基礎体
423
力をつけていくという、まるで絵に描いたようなよい子の夏休みを、
彼女は送っていた。
﹁もっとも時間の流れが二つの世界で同じなら、もうとっくに夏休
みは終わってるんですけどね⋮⋮﹂
﹁何で夏に長期休暇があるの?﹂
﹁暑くて勉強が捗らないからとか、家の農業を手伝うからとかでし
ょうか。大学は、教員の研究の為にって側面もありますけど。普段
は授業や雑務で自分の研究があまり進みませんから﹂
﹁なるほどね﹂
広い机の上には、本やノートがところ狭しと広げられている。
雫は、この世界の単語と元の世界の単語を並べて作った手書きの
辞書をチェックしながら、重要単語を書き取りしていた。一方エリ
クはエリクで自作のメモを見ながら、雫の初心者用ドイツ語教本を
読み解こうとしている。彼は発音こそ気にしていないものの、言語
の規則性を一通り要点として押さえてしまうと、早々に読解へと挑
戦し始めたのだ。
独和辞書が読めないというハンデはあるものの、時折される質問
の様子を窺うだに、既にドイツ語では雫と大差ないレベルまで近づ
いてきている。この分では半年過ぎる頃には英語でさえも彼に抜か
れてしまうかもしれない。
そう思うと雫は言葉にならない危機感を覚えて、つい書き取りを
する手に力がこもってしまう。受験生として同年代の人間たちと争
っていたのはもう数ヶ月も前の話だが、まだ当時の感覚が抜けきっ
ていないのだろうか。
﹁やっぱりニホンゴが一番難しいよ﹂
﹁あーそうでしょうね。元の世界でもよく言われます﹂
﹁語順に融通がきいてるよね。多少のことは助詞を見て判別するん
だろうけど﹂
エリクが指し示した日本語の﹁明日には私は図書館へ行きます﹂
424
という一文を見やって、雫は苦笑した。一度この文を﹁何で﹃私は
明日図書館に行きます﹄じゃないの?﹂と書き変えながら聞かれた
時、数秒答に詰まって困ってしまったことがあるのだ。
助詞の使い分けによる微妙なニュアンスを、日本人ではない人間
に教えることは難しい。﹁明日﹂でも伝わるのに何故﹁明日には﹂
と言うのか、﹁図書館に﹂ではなく﹁図書館へ﹂と書いてあるのは
どうしてなのか。もう一方に置き換えても意味は伝わるが、受ける
印象はささやかにだが違ってきてしまう。
そのささやかさを伝える為に、雫は助詞の数千倍の文字数を費や
してエリクとやりとりしなければならなかった。
﹁君は品詞の格変化を嫌がるけどさ、ニホンゴはその分助詞の使い
分けが難しいよね﹂
﹁そ、そうですね﹂
ラテン語などは品詞の変化が多くて覚えることが多いと上級生か
ら伝え聞くが、語順の方は比較的自由だ。そして同じく語順に融通
がきく日本語は、形容詞や名詞の変化が少ない分、﹁てにをは﹂が
文中の構成を補っているのだろう。
こうやって客観的に見てしまうと、格変化もそれなりにあり、な
おかつ語順に規則性があって前置詞なども多い英語ドイツ語は、言
語を一から学ぶ人間になかなか親切な作りではないかとさえ思えて
くる。
とりあえず日本人でよかった、と強引に結論づけて雫は伸びをし
た。
﹁あー⋮⋮頭が凝りますよ﹂
﹁糖分取って目を休めればいい﹂
まるで受験勉強中のような会話に彼女は笑い出す。
こうして彼と向かい合いのんびり勉強に時間を費やせる﹁今﹂が、
自分でも不思議なほどに楽しいと思えていた。
425
出歩けるようになってから何度か雫は、あの路地裏のウェディン
グドレス屋に行ってみたものの、ドレスを頼んでいた少女と再会す
ることはなかった。この街は近隣で最も大きい街であるらしいから、
彼女もどこか遠くから衣裳を作りに来ていたのかもしれない。
もう一度会ってみたかったな、と少し残念に思ったが、店の中に
入ってまで彼女のことを聞くほどの興味もない。雫はやがて街を旅
立つ頃にはすっかり、小さな店で見かけた少女のことなど忘れてし
まっていたのである。
﹁よし! 大変お待たせいたしました!﹂
﹁急がなくていいよ。忘れ物はない?﹂
﹁大丈夫です﹂
雫はバッグを先に馬の鞍に乗せると、自分も鐙に足をかけ馬上に
あがった。最初は非常に高く思えた鞍上も、今は慣れてしまって何
とも思わない。彼女は細縄を使ってバッグを落ちないように固定す
る。
自分も馬に乗ったエリクは、雫の準備が出来たことを確認すると、
軽く馬の腹を蹴った。これから二人はファルサス北西国境に向うの
だ。順調に行けば明後日にはファルサス内の町に到着するという。
ようやく間近に迫った魔法の国に、雫の心は自然と浮き立つ。そ
れは、元の世界に帰れるかもしれないという期待とはまた別のもの
だった。
﹁私、人が空飛ぶところまだ見たことないんですよね。箒とか使う
んですか?﹂
﹁何で箒。掃除でもするの?﹂
﹁またがって飛んだり⋮⋮﹂
﹁何で。動きにくそうだよ﹂
426
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
正面から冷静に聞かれると、確かに非常にシュールな光景だ。雫
は自分の先入観の奇妙さを自覚すると、それ以上箒に触れることを
やめた。代わりに﹁どうやって飛ぶんですか﹂とエリクに聞いてみ
る。
﹁浮遊構成を組んで空中で体を支える。腕のいい人間はそのまま空
中で移動できるけど限度があるな﹂
﹁あー、超能力みたいに飛べるんですね﹂
﹁超能力?﹂
﹁私の世界では魔法みたいなのをそう言うことが多いんですよ。作
り物の話がほとんどで実在は不確かですけど﹂
﹁そこで箒が使われるの?﹂
﹁すみません。箒から離れてください﹂
エリクのこの手の追及をかわすには強引に話題を中断するしかな
い。雫が語尾に力を入れてきっぱり断ると、ひとまず話はそこでお
しまいになった。
街道を行く二頭の馬は緩やかな速度で走っている。草原が続く周
囲は見晴らしがよく、時折正面から吹き付けてくる風が心地よかっ
た。なだらかな丘陵が街道の左右に続き、青々と茂る草がゆったり
と波打つ様は、まるで緑の海に見える。
初めて見る広大な景色に、雫は姉や妹にもこの風景を見せてやり
たいと、二人のことを思い出した。
彼女がこの世界に迷い込んでから約三ヵ月半。今頃家族はどんな
思いでいるのだろう。姉は泣いているかもしれない。妹は気丈にも
家族を支えながらあちこちに情報を求めている、そんな情景が容易
く想像できた。
もし叶うなら、﹁大丈夫だよ﹂とそれだけでも伝えたい。
分からないことだらけのこの世界でも、自分は人に恵まれて助け
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られて、元気でいるのだと。
雫は目を細めて長く続く道を見つめる。溜息ともつかぬ息が、自
然と鞍の上に零れ落ちた。
﹁どうしたの﹂
﹁いやー⋮⋮家族のことをちょっと。⋮⋮エリクには兄弟っていな
いんですか?﹂
﹁妹がいる。もうずっと会ってないけど﹂
彼が自分の家族について教えてくれたのは初めてである。雫は自
分で聞いたにもかかわらず、驚いて手綱を取り落としそうになった。
すぐには家族と一緒にいる彼を想像できない。妹というと彼に似て
いるのだろうか。
雫は少し躊躇ったが、結局本人に聞いてみることにした。
﹁どんなご家族か聞いていいですか?﹂
﹁うん。別に普通だよ。両親と妹。もう十年くらい前に会ったきり
だけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
十年間家族と会っていないということは普通なのだろうか。雫は
微妙にそこで悩んでしまったが、まさか﹁普通ですか?﹂などとは
聞けない。大体十年前、彼はまだ十二歳だったはずだ。
雫の戸惑いを感じ取ったのか、彼は微苦笑と共に自分から口を開
いた。
﹁魔法士として勉強する為に家を出たのが十二の時だ。僕が生まれ
たのは小さな村だったからね。それ以来あちこちを転々として講義
を受けたり研究したりで、一度も村には帰ってないな﹂
﹁エリクってワノープの町が故郷じゃなかったんですか!﹂
﹁違うよ。あそこには三年前から住んでただけ﹂
﹁わー。私、そうだとばっかり思ってました﹂
それなりに長く一緒にいたつもりだが、彼の基本的な経歴さえ雫
は知らない。自分のことは随分いっぱい話してしまった気がするが、
428
それは異世界から来た彼女に、基盤たるものが何もなかったからだ
ろう。
家族のことや自分のこと、学校の話に文字の話に御伽噺。ふとし
た時に彼にそれらを話し、頷いてもらうだけで、ともすれば陥って
戻れなくなりそうな底なしの閉塞感から、雫はずっと解放されてき
ていたのだ。押し入ってくるわけでも突き放すわけでもない距離感
は、きっと彼が相手だったからこそ得られたものだろう。
﹁色々ありがとうございます﹂
﹁何、急に﹂
エリクは藍色の瞳を丸くして彼女を見やる。そんな表情が妙にお
かしくて雫は笑ってしまった。
﹁お礼は言いたい時に言う主義です﹂
﹁君の思考って結構飛び石だよね﹂
﹁水面下でバタ足してるんですよ﹂
﹁石が?﹂
それは、箒で飛ぶ人間以上にシュールな空想だ。彼女は堪えきれ
ずに声を上げて笑い出す。
エリクは連れの少女の反応に呆れた視線を送っていたが、理解不
能と判断したのか前を向き直したのだった。
ファルサスへの入国審査は草原の真ん中、街道上にぽつんとある
石造りの門にて行われていた。大きな門の他には左右に塀が伸びて
いるわけでも何でもない。茫洋とした光景に雫は虚を突かれる。
﹁これ、門避けて横走ってちゃったりする人いないんですか?﹂
﹁結界に引っかかるよ。大きな国はたいてい国境に感知結界を引い
てある。この検問を受けなくても感知に引っかかれば監視されて、
最寄の町についたらそこで手続きするように言われるだけだ﹂
﹁うっわー。無形の壁ですね﹂
429
﹁国境全部に塀を建てたりあちこちに門を置くより、結界張る方が
楽なんだ。君の世界では全部に壁張ってあったの?﹂
﹁私は島国出身なんで、国境は海なんですが⋮⋮。大陸は壁があっ
たりなかったり色々みたいですね﹂
国境を区切る壁として一番に思いつくのはベルリンの壁だが、あ
れは雫の中では物心ついた時から既に壊れていたものである。
第二次世界大戦後、東西に分割されたドイツにあった壁を、彼女
は最初東西ドイツの境界上にあるものだと思い込んでいたのだが、
高校で世界史の授業を受けた時にその誤解は払拭された。本当は
﹁東ドイツの中に内包されたベルリンが更に東西に分割されており、
その西ベルリンを囲んでいたもの﹂が﹁ベルリンの壁﹂なのである。
かつてあったベルリンの壁では、亡命の為に監視の目をかいくぐ
ってそれを越えようとした人間も多数いたらしいが、魔法の壁が相
手では雫などはお手上げである。ここは素直にエリクに任せた方が
いいだろう。門について馬を下りると、雫は彼の後ろについて審査
を待つ。
槍を携えた兵士はエリクから二人分の書類を受け取ると、書面と
照らし合わせて彼らを一瞥した。いつも通り平然としているエリク
とは逆に、雫はつい緊張に顔が強張ってしまう。
大体大陸西部に来たのも予期せぬ事故なのだ。彼はそれをどう取
り繕っているのだろう。
﹁魔法士とその妹か。城都に留学希望と﹂
﹁はい。開放されている図書館に閲覧したい資料がございまして﹂
﹁似ていないな﹂
唐突な指摘は雫の顔を見ながら言われたものだった。彼女はその
一言に、息を止められてしまったかのように硬直する。兄妹にして
は顔立ちが似ていないのだと、そう言われているのだ。実際、兄妹
ではないのだから当然だろう。背筋がひやりと冷たくなる。
430
けれどエリクは平然と﹁母が違いますので﹂と付け足すと、軽く
作った拳で雫の頭を二、三度小突いた。時折される仕草。その時に
よって嗜めるようにも元気づけるようにも思える振動に、今の雫は
安心する。
大丈夫だ。きっと何も問題ない。そう信じて彼と一緒にいる限り。
兵士は、困ったように微笑む彼女を見て﹁そうか﹂とだけ返した。
書類に印を押すとそれをエリクに返す。
﹁城都に行くなら、南東に下ってラオブの街に行くといい。魔法士
なら転移陣の許可が取れるだろうし、ちょうどもうすぐ祭りが始ま
る﹂
﹁ありがとうございます﹂
終わってしまえば拍子抜けする程の短い時間だった。
再び馬上の人となった二人はファルサスの街道を南東に向って駆
けて行く。
この先何が雫を待っているのか、まだ二人は知らない。
だが後から思えば確かに、これは大陸に影ながら一つの変革をも
たらす前例のない旅であったのだ。
431
無言の花嫁 001
﹁そ、それでサルの上に臼が落ちてきてですね⋮⋮﹂
﹁うん。ウスって自分で移動できるんだね﹂
﹁本当は出来ませんし喋りませんけど昔話なので大目に見てくださ
い、っていうか話の選択を誤った!﹂
馬上にいる雫は思わず頭を抱えたくなる。ファルサスに入国して
から二日目、街道を旅する二人は、暇だからという理由でお互いの
世界の御伽噺を交代で話すことにしたのだ。
生物無
迂闊にも雫が選んでしまったのは、日本昔話の﹁サルカニ合戦﹂。
親の仇討ちをテーマとしたこの話はサルやカニをはじめ、
﹁何故サルとカニ
生物関係なく話して動き回るという、昔話としては珍しくもない形
式なのだが、いかんせん話す相手が悪かった。
で話が出来ているのか﹂から始まり、﹁カキはそんな早く実をつけ
る植物なの?﹂と聞かれ、少し話すごとに入る素朴な質問に、結局
雫はよれよれになってしまったのである。
﹁こっちの世界って寓話ってないんですか? 動物が喋ったり⋮⋮﹂
﹁人口に膾炙しているような話の中にはほとんどない。話の中で喋
れる生き物はもともと喋れる生き物なんだよ。大体こっちでは御伽
噺って実話を元にしたものがほとんどだ﹂
﹁うー。さすが魔法のある世界﹂
カルチャーショックに項垂れる雫の肩で、メアが小さく鳴く。こ
の使い魔もまさに﹁御伽話のもとになった実話﹂を間近で見てきた
存在なのだから、途方もないとしか言いようがない。諦めかけた雫
はふと、もう一つの可能性を思い出して顔を上げた。
432
﹁神話ってないんですか?﹂
﹁あるよ。古いものは口承されてきたものしかないけど﹂
﹁それ! それ教えてくださいよ!﹂
神話ならば、荒唐無稽具合が通じ合えるかもしれない。この世界
では﹁神﹂と呼ばれる存在も実在した上位魔族だったりするらしい
のだが、それが全てではないだろう。
期待に目を輝かす彼女を一瞥すると、エリクは﹁うーん﹂と首を
捻った。
﹁同じ話でも微妙に違うのがいっぱいある。どれがいい?﹂
﹁そうそうそうそう。神話ってそういうものなんですよね! 一番
有名なの教えてください!﹂
﹁じゃあアイテア神の話にしようか。少し前まで一番大陸で信仰さ
れてた神だ﹂
﹁少し前って今は違うんですか?﹂
﹁どうだろう。今は無宗教の人間が一番多いかも。信仰を退けるわ
けではないけれど、頭から信じている人間も多くない。人それぞれ
だね﹂
エリクはそう前置きすると、大陸最古の神話の一つを語りだす。
それは、この大陸自体の成立に関わる話だった。
かつてこの世界に大陸は一つだった。
海の果てまで広がる大陸には多くの人種が住み、多少のいざこざ
を起こしながらも平和に暮らしていたという。当時はまだ国という
ものはなく、人々は神である五人の兄弟を崇め、彼らが協力して大
陸を統治していた。
だがある時、増え続ける人間を見て、五人の中でこれからの統治
の仕方について意見が分かれる。
完全に人間を管理し、出生や死亡まで統制すべきだと言った一番
433
上の兄。
人間の中から王を選び出し、代理統治をさせながら互いに争わせ
ればいいと言った二番目の兄。
人間にこれ以上の干渉をせず、もし人数が一定を越えるようであ
れば種ごと滅ぼせばいいと言った三番目の兄。
人間は守られるべき生き物であるからして、次々につがわせ増や
せるだけ増やしてみればいいと言った四番目の兄。
そして、末弟たるアイテアは、人は人として知性がある生き物だ
から彼らのことは彼らに決めさせるべきと主張した。
五人の神は自らの意見が一番として譲らず、やがて彼らは決裂の
時を迎える。留めようとするアイテアを置いて、四人の兄は大陸を
それぞれ分割し、海の向こうに去っていった。
五分の一となった大陸に一人残ったアイテアは、失意の後に人間
の妻を迎える。二人の間に生まれた子たちは、長じると神々となっ
て大陸に散って行き、人が自分たちの力で生きていく為の自然をも
たらしたという。
﹁あー、それで交流がないはずなのに、他の大陸があるって言われ
てるんですか﹂
﹁そういうこと。実際あるらしいんだけどね。漁船が遭難した異大
陸の人間を拾ったって記録もある﹂
雫は男の注釈に頷く。彼の選択ということで、非常に現実的な神
話をされたらどうしようかと思ったが、元の世界でも充分通じるく
らいの神話らしい神話だった。安心すると同時に詳しい事が聞きた
くなる。
﹁東の大陸にも同じ話があるんですか?﹂
﹁それがあるらしいんだよね。東の大陸は二番目の神が作った大陸
だと言われている。だからってわけじゃないんだけど、暗黒時代の
この大陸と比べても向こうは戦乱が多いし、不思議なことに向こう
434
には精霊術士が生まれないんだ﹂
﹁精霊術士って魔法士の一種でしたっけ﹂
﹁うん。天性の素質が必要で、人数はかなり少ない。自然物を操る
のに長けているね﹂
人間の尊厳を重んじる神が残った大陸。東の大陸にはいない精霊
術士が生まれるのは、この大陸に散っていったという神々の祝福の
おかげなのだろうか。
﹁実際の神話は、地方によって色々細かい差異がある。それぞれの
神々の主張とか、アイテアが妻を選んだ時の話とかね。暗黒時代の
始まる更に百年程前には、ほとんどの話は明文化されていて統一さ
れているけれど、それ以前の話はまったく文として残っていないん
だ﹂
﹁なるほど。でも神話ってそういうものですよね。口伝でしか伝わ
っていないものも多いっていう﹂
日本神話は雫の記憶では確か古事記、日本書紀、風土記に多くを
負っていたはずであるが、古事記は口伝を編纂したものだった気が
する。神話についてその発祥を厳密に確定することは困難だが、そ
れはつまり、古代神話とは多くが口承で成り立ってきたものだとい
うことに他ならない。
それを後に人々が、文字として纏めたりして今に到っているのだ。
遡れば神話についての記述がなかった時期があっても少しも不思議
ではない。
だが、雫の相槌にエリクは浮かない顔で﹁うん﹂と言っただけだ
った。
そのことを彼女は少し不思議に思ったが、結局会話はそこで途切
れると、二人は街道脇に見えてきた森の木陰で、ひとまずの休憩を
取ることにしたのである。
手綱を近くの木に結わえてしまうと、雫は鞍からバッグを下ろし
435
て草の上に座る。天気のよい日である為、若干暑さに頭がぼうっと
しているのだ。伸び始めた髪は、そろそろスカーフで誤魔化さなく
ても違和感ないくらいの長さになっていたが、今は日光を遮る為に
頭を布で覆っていた。その布をはずして彼女は息をつく。
﹁あっついですよ。紫外線攻撃をふんだんに浴びてます﹂
﹁シガイセン? ファルサスは城都に行くともっと暑いよ。この辺
はまだ北部だから﹂
﹁うー。直射日光がなくて風が吹いてればもっと涼しいんでしょう
けどね﹂
﹁熱で倒れないように。ゆっくり休んでいくといいよ。街はもうす
ぐだから急がない﹂
二人は荷物からお茶を出すと水分を補給した。雫は木の幹により
かかりながらノートを広げる。シャープペンを取り出したのは、先
ほど聞いた神話の話を書き留めておこうと思ったからだ。彼女は二、
三エリクに確認しながら、白いノートの上にペンを滑らせた。
﹁エリクはアイテア神が実在したって思ってます?﹂
﹁思ってない。上位魔族には血縁が存在しないから兄弟というもの
はないし、人間の魔法士にしては力が強大すぎる。結局ほとんどは
作り話だろう。何かもとになった出来事があったのかもしれないけ
ど⋮⋮﹂
﹁まぁそうですよね。私の国にも国産みの神話がありますけど、実
話じゃないですから﹂
雫が隣を見下ろすと、そこには小さなコップにいれたお茶を啄ば
むメアがいる。魔法を使える緑の小鳥など、少し前までの彼女の常
識では、御伽噺の中にしか出てこない。けれど今は、その小鳥も大
事な友人だった。
彼女はシャープペンを筆箱にしまうと、ノートを閉じようとする。
だがその時、不意に強い風が吹いてきてページを激しくめくった。
﹁あ⋮⋮っ!﹂
436
後ろのページに挟んであったメモが、風に乗って舞い上がる。雫
の伸ばした手をすりぬけて、白い紙はひらひらと揺れながら森の奥
へと飛んでいってしまった。
﹁あれ何?﹂
﹁スケッチです。ちょっと取ってきます﹂
カンデラ城の外観を描いたメモ。それを追って雫は立ち上がる。
目を凝らすと鬱蒼と茂る木々の向こうに白いものがちらついて見え
た。
大して遠くではない。すぐに取ってこられるだろう。彼女は太い
木の根を避けて森の中に踏み込む。辺りを見回しながら進んでいく
と、思ったより木々が多いのか、振り返っても森の切れ目は見える
が、エリクの姿は影になって見えなくなっていた。
思わず富士の樹海を連想してしまうが、雫には迷子にならないと
いう自信がある。転ばないよう気をつけながらメモの飛んでいった
方向に歩いていくと、まもなく低い木の枝に引っかかっているスケ
ッチを見つけた。
﹁あったあった﹂
自分の書いたものだが、大事な思い出の一つだ。彼女はそれを畳
んで手の中に収める。踵を返そうとした時、だが遠くから女の怒鳴
り声のようなものが聞こえて、雫は足を止めた。
﹁⋮⋮何だろ。こんなとこで﹂
道もない森の中に一体誰がいるというのだろう。
彼女は好奇心と、誰かが困っているのかもしれないという懸念に
囚われて、声の方へと歩を進めた。方向は間違っていないのだろう。
単なる音でしかなかった女の声が、近づくにつれ徐々に聞き取れる
ようになってくる。
﹁⋮⋮っきょく⋮⋮は! ⋮⋮⋮⋮でしょう!﹂
﹁⋮⋮だと! しょせん⋮⋮﹂
どうやら人は男女の二人いるらしい。男の声の方が低く、聞こえ
にくかっただけだ。どうオブラートに包んでも仲がよいとは思えな
437
い言い争いに、嫌な予感を覚えながら、それでも今更引き返す気に
もなれず、雫はそっと距離を詰めた。十メートル以上先の木の陰に、
白いドレスを着た女の姿が見える。
﹁どうせあなたは私がいなければ何にもなれないのよ! 分かった
らさっさと跪きなさい!﹂
怒っているのは女王様だろうか。事情は分からないが随分無茶な
ことを言っている。
雫は他人事ながらげっそりして、木の陰に隠れた。ちらりと見え
た女の髪は雫のものよりも深い黒。綺麗に結い上げて櫛のようなも
のを挿している。
対する男の姿は、雫のいる場所からは完全に死角になっており見
えないが、声を聞くだに若い男であるようだった。
﹁何故、私が貴女に跪かねばならない! 私が! 妻となる女に!﹂
﹁私があなたの妻になるのではないのよ。あなたを私の夫にしてや
るというだけじゃない。どこの出かも分からぬ野良犬の癖に!﹂
﹁何だと?﹂
こんなどうしようもない喧嘩をしている二人は、どうやらもうす
ぐ結婚するらしい。が、この調子では結婚前に破談か、出来ても即
離婚だろうなと雫は冷静に見積もった。そろそろ帰ろうと一歩を踏
みしめる。
﹁⋮⋮ぐ⋮⋮っ﹂
女の声にならない呻き声が聞こえたのはその時だった。
それまでの金切り声とは違う、喉が詰まったような声に雫は思わ
ず振り返る。
そして彼女は硬直した。
女が、首を絞められている。
見開いた目は驚愕に満ちており、白魚のような指が自分の首にか
かる男の手をかきむしった。だがそれでも力は少しも緩まない。雫
は自分に背を向けている、今にも殺人を犯そうとしている男を唖然
438
として見やった。
状況がまったく飲み込めない。そんな彼女の視線が、殺されよう
としている女のものと交差する。女は雫に気づくと助けを求めるよ
うに震える手を伸ばした。その指先の細さに彼女は我に返る。
﹁ちょ、ちょっと! 何してるの!﹂
雫は半ば反射的に、草をかきわけながら二人に向って駆け出した。
男の肩に手をかけようと腕を上げる。
女の目が見開く。
骨の折られる音。
断末魔の呻き。
それらは全て、雫の手が届く一瞬前に重なった。
止まらない。
男の肩に触れる。
ひどく硬い感触。
彼はゆっくり振り返った。
﹁お前は誰だ﹂
その目。
狂気を孕んだ目。
雫は戦慄する。
﹁見たな﹂
逃げなければ。
身を翻す。
だが、左手を掴まれた。
雫の体は引き摺られる。
大きな手が後ろから口を塞ぐ。
誰の名も呼べない。
息が出来ない。
目の前が暗くなる。
439
そして彼女は、殺人者の手に落ちた。
ちっとも帰ってこない雫に、エリクがおかしいと思い始めたのは、
彼女が森の中に消えてから十数分経った頃だ。すぐに戻ってくると
思ったのに、まったくその姿を現さない。まさかあの彼女が迷子に
なっているということもないだろう。
エリクは簡単に荷物を纏めると、メアを拾い上げ森の中に踏み入
る。大体の方角に向って雫の名を呼びながら探し回った。
﹁おかしいな﹂
結構奥まで探しに来たにもかかわらず、彼女は見つからない。一
体どこに行ってしまったというのか。足を止め、考え込む彼にメア
は何かを見つけたのか鋭く鳴く。使い魔の示したものを見てエリク
は顔をしかめた。
踏み荒らされた草の上に落ちていたもの、それは彼女が探しに行
ったはずのスケッチ画のメモだったのである。
※ ※ ※
電車の振動は、眠気を誘う心地よさを持っている。
学校からの帰り、雫は電車で本を読みながらいつの間にか転寝し
てしまっていた。
﹁⋮⋮せ﹂
高校に入ってから半年、ようやく生活リズムも掴めて来た。友人
もいるし、勉強で困っているということもない。ただ少し、想像し
ていた高校生活より現実は起伏がないものなのだな、と思っている
くらいだ。同じ高校に通っている姉は、入学当初から家族に学校が
どれほど楽しいところか、よく話してくれていたので。
440
﹁水瀬!﹂
﹁うわっ﹂
突然大声で苗字を呼ばれて、雫は飛び起きた。見るといつの間に
か目の前に男子高校生が立っている。同じ高校の制服、見知った顔。
クラスメートなのだから当然だ。
﹁⋮⋮杉田君。どうしたの﹂
杉田秀二。話をするのは初めてだが、雫は彼のことをよく知って
いる。
入学してすぐ、知らない人間ばかりの教室に戸惑っていた彼女が、
筆箱の中身を床にばらまいてしまった時、彼は無言で拾うのを手伝
ってくれたのだ。たったそれだけのこと。けれど雫はとても嬉しか
った。だからその後も何とはなしに彼の姿を目で追っていたのであ
る。
その彼が自分にどんな用があるというのか。雫は六割の困惑と、
残りの何と言っていいのか分からない落ち着かなさに少年を見上げ
た。
彼は言い出しにくい用件でもあるのか、彼女を見たり目を逸らし
たり数秒間不審な挙動を取っていたが、やがて無言で小さなメモを
差し出す。ぶっきらぼうなその仕草に、あの日シャープペンを拾っ
てくれた彼の姿が重なって、雫は息を止めた。
﹁何?﹂
﹁これ、俺のメルアド。⋮⋮海さんに渡して﹂
自分で渡せよ、と雫は反射的に思ったが、黙ってそれを受け取る。
こういうことは初めてではない。あて先は姉であることも妹であ
ることもあったが、中学時代からよくあることなのだ。
だから、姉と彼の間に何があったのかも聞こうとは思わなかった。
使い走りのようなことは嫌だと断ることも多いが、相手は彼だ。雫
はあの日の礼の気分で、メモを受け取るとバッグにしまう。
﹁ありがと。じゃあ頼むな、水瀬﹂
441
杉田はそそくさと手を振ると立ち去ろうとする。その背に雫は声
をかけた。
﹁杉田君、私の名前知ってる?﹂
ちょっとした悪戯心だ。﹁覚えてない﹂と言われたら笑い飛ばす
つもりだった。
だが彼は目に見えて罪悪感の濃い、戸惑った顔で雫を振り返る。
その表情を見て彼女は﹁ああ、馬鹿なことを聞いてしまった﹂と思
ったのだった。
※ ※ ※
電車だと思ったのは馬車の揺れだったらしい。
雫は電車よりも遥かに激しい振動に目を覚ました。床につけてい
た頭を上げる。
﹁起きたか﹂
頭上から降ってきたのは冷ややかな男の声だ。殺気さえ孕む声に、
彼女は身を竦める。遅れて流れ込むように、気を失う前の記憶が戻
ってきた。
﹁ひ、人殺し?﹂
見回すと馬車の中には彼女の他に二人の男が座っている。一人は
あの時女の首を絞めていた身なりのいい男。そしてもう一人は彼に
仕えているらしい浅黒い肌をした従者だった。
男たちは、床の上に転がっていた雫を氷のような視線で射抜く。
その視線に彼女は己の末路を想像して蒼白になった。人が人を殺す
ところを見てしまったのだ。まず間違いなくこのまま解放はありえ
ない。行き着くところは口封じの他に何も思い浮かばなかった。
殺人者である男は、雫の顔をじろじろと睨む。
﹁変わった顔をしてるな。どこの出身だ﹂
﹁⋮⋮タリス﹂
442
﹁東の国の人間か。髪も⋮⋮少し茶がかっているが黒髪で通るな﹂
﹁な、に?﹂
﹁アマベルを殺してしまったのは不味かった。人気のないところで
置き去りにすると言えば言うことを聞くと思ったが⋮⋮。あの高慢
め。だが結果としてはこれでいいだろう。言うことを聞かぬ妻など
私には不要だ﹂
不要、という言葉にぞっとして雫は馬車の隅へと後ずさる。何の
躊躇もなく女の首を折った男が、自分に何をしてくるのか恐怖で全
身が強張った。今はエリクも、メアもいない。彼女は何も持ってい
ない。おまけに走っている馬車の中で逃げることもできないのだ。
馬車の扉に背を張り付かせた少女を、男は値踏みするように眺め
ていたが、不意に立ち上がると彼女の腕を掴んで自分の手元に引き
寄せた。顎に手をかけ、上を向かせる。
﹁名前は何だ﹂
﹁し、雫﹂
﹁そうか、シズク。ならその名は今日で捨てろ。お前の新しい名は
アマベル・リシュカリーザ。殺されたくなければお前はアマベルと
して私の妻になるのだ﹂
﹁⋮⋮な⋮⋮っ﹂
反射的に反論しようとした雫はしかし、男の手が顎から首に移動
したことにより何も言えなくなった。大きな手が喉を締め上げる。
彼女はその手を掻きむしったが、万力のようにがっちりと首に食い
込み、はずれそうにない。息苦しさの向こうに、殺された女の壮絶
殺される。
な形相が甦る。必死に雫に手を伸ばしていた、彼女の顔が。
︱︱︱︱
恐慌に陥りかけた時、だが男は雫から手を離した。解放された彼
女は床に四つんばいになって咳き込む。
﹁分かったな。余計なことを言えば殺す。言った相手も殺す。大人
しくしていれば裕福な暮らしをさせてやる﹂
443
何も言えない。味わった恐怖に加えての脅しに、雫はただ咳き込
み続けた。男はそれで満足したのか、座りなおすと窓の外を眺める。
﹁もうすぐラオブの街につく。ああ⋮⋮私の名はデイタスだ。婚約
者だからな。よく覚えておけ﹂
これが夢だったらいい。雫はそう切に願った。或いはスケッチを
探しに森に入る、あの時まで戻る事ができたらいいと。
けれど現実は変わらない。喉にいまだ残る指の感触に彼女はそれ
を思い知って、きつく自分の膝を抱えたのである。
街に入る直前に、雫は馬車の中で着替えさせられた。旅人の軽装
では貴族の女であるアマベルには見えないとのことで、どこに用意
してあったのか白いドレスを着ることになったのだ。
怪しい真似が出来ないよう、男二人の眼前で下着になって着替え
をするのは、雫にとっては恐怖と恥辱以外の何ものでもなかった。
だが逆らうことは許されない。デイタスはじろじろと遠慮ない目
で彼女を見たが、従者らしき男は、彼女など存在していないかのよ
うに無視してくれたのがせめてもの救いだった。
﹁まぁまぁだな。屋敷に戻ったら化粧をしろ。今はこれでも被って
おけ﹂
そう言ってデイタスは紗のヴェールを放ってくる。薄い上質な生
地を握り締めながら、彼女は震える声で反駁した。
﹁顔、隠さなくていいの? 全然違うよ﹂
﹁アマベルは南部の海際の出身だ。今日、輿入りの為にこちらに来
て、私が迎えに行っただけで、誰も彼女の顔を知らない。ただリシ
ュカリーザの娘の髪色は黒だと、皆が知っているだけだ﹂
それで自分が選ばれたのかと雫は得心する。真っ黒というほどで
もないが日本人として一般的な、染めていない黒髪。もし彼女の髪
がこの色でなかったら、あの時あの森で殺されていたかもしれない。
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雫はヴェールを被りながら危うかった自分の立場にぞっとした。
だが今も、決して助かっているというわけではないのだ。この男の
妻として生きていく人生など御免こうむりたい。何とかエリクかメ
アに連絡を取って状況を知らせたいが、デイタスたちに連れの存在
が知られれば、彼らはエリクたちの口を封じようとするだろう。唯
一光明が見えるとしたら、目的地であるラオブの街は、もともと雫
たちが向かっていた街だということだろうか。上手くすればエリク
と街で落ち合えるかもしれない。
馬車はやがて街中に入ったのか振動が少なくなった。数分後、ゆ
っくりと停車し扉は外から開かれる。
﹁お帰りなさいませ。デイタス様﹂
﹁ああ﹂
使用人らしき中年の男が頭を下げると、デイタスは堂々とした態
度で馬車から降りた。彼は振り返って馬車の奥に手を差し伸べる。
だが、男に手を向けられた雫は、咄嗟にそれが何だか分からなか
った。上流階級の人間の所作などほとんど知らないのだ。
﹁手を取るんだ﹂
囁いたのは今までずっと黙っていた従者の男だ。言われたことの
意味を悟ると、雫は慌ててデイタスの手に自分の手を乗せる。彼は
満足したように笑って、偽の花嫁の手を引くと馬車から降ろした。
﹁アマベルだ。式の日まで丁重にもてなすように﹂
﹁かしこまりました。離れに部屋を用意してございます﹂
女中らしき女は雫の前に立つと頭を下げる。母親ほどの年齢の彼
女は﹁オーナと申します。アマベル様のお世話をさせて頂きます﹂
と挨拶すると、花嫁の居館である離れに案内しようとした。ようや
くデイタスから離れられると安堵した雫の耳元で、だが彼は囁く。
﹁分かっているだろうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
味方はいない。誰にも本当のことを言うことはできない。言えば
445
雫も、その相手も殺されるのだ。
彼女はヴェールに隠れて項垂れながら、オーナの後について歩き
出す。名前を隠された人間として一人きりであることが、とてつも
なく不安だった。
雫が通されたのは、離れにあたるという一軒の広い屋敷だった。
彼女はまずそこで入浴し、着替えをして化粧をさせられた。オー
ナは若い女中に入浴を手伝わせようとしたが雫はそれを断る。今は
ドレスの高い襟で隠れているが、彼女の喉にはデイタスの指の痕が
残っているのだ。消えるまで誰にも見せることはできない。
オーナは肩より少し下まで伸びた雫の髪を梳って、感嘆の声を上
げた。
﹁本当に綺麗な黒でらっしゃいますね。少し荒れているのは潮風の
せいでしょうか﹂
﹁あ、そ、そうなんです﹂
﹁後で毛先を揃えましょう。今は香油を塗っておきます﹂
会話が途切れると、雫は内心ほっと胸を撫で下ろす。この調子で
はいつ襤褸が出てしまうか分からなかった。彼女は貴族の娘でもな
ければこの世界の人間でさえないのだ。とてもではないが、長期間
周囲の人間を誤魔化せる自信はない。
﹁式は五日後の、アイテア祝祭の最終日ですから。それまでにお肌
の調子を整えてしまいましょう﹂
﹁い、五日後?﹂
﹁ええ。遠くから到着されたばかりでお疲れでしょうが、それまで
よくお休みになってください﹂
そんな至近な日程だとは思わなかった。雫は目の前が暗くなって、
椅子の背によりかかる。
﹁きっと素敵なお式になりますわ。街の聖堂はとても賑わいますか
ら。デイタス様はご結婚後、街の議員になられますので、貴族様た
446
ちも多く列席なさいます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そ、うですか﹂
雫は表情を読まれたくなくて深く俯いた。
エリクのところに戻りたい。それが無理ならせめて、一人きりに
なりたい。
だがそのどちらも叶わないことをまた、彼女はよく分かっていた
のだ。
貴族令嬢として迎えられた雫は、何とか気持ちを落ち着かせると、
女中のオーナから情報を集めることにした。
幸いアマベルはラオブの街のことをまったく知らないようだ。だ
からこそ街や屋敷について聞いても、さほど不自然にはならないだ
ろうと彼女は思ったのだ。
気のいい女中が教えてくれたところによると、この街はファルサ
ス北西部にある主要都市の一つで、長い歴史を持つファルサスの中
その城都から遠いという事
では比較的新しい街なのだという。当時城都から移住した貴族が私
財をはたいて整備したということと、
情もあって、王国の中でも比較的自治の度合いが強い街らしい。
﹁ラオブは、貴族様たちと議員様たちのお力でつつがなく平和に治
められているのです﹂
﹁議員、様は選挙で選ぶのですか?﹂
ぎりぎりの質問かな、とも思ったが、雫はつい気になって口を挟
んでしまう。だがオーナは笑顔で彼女の質問に答えてくれた。
﹁民の支持によって選ばれますが、貴族様たちの意向も重要です。
貴族様と議員様は協力しあわなければならない立場におありですか
ら。デイタス様も、ディセウア侯爵のご紹介で貴女様を娶られるこ
とになったのですし⋮⋮あら、こんなことはご存知ですわよね﹂
最後の言葉に雫はぎくりとしたが、平静を装うと﹁ええ﹂と相槌
を打った。
447
その後も話好きなオーナから色々聞き出したことを総合すると、
南部の貴族令嬢を妻にすることを条件に、まもなく議員にな
要するにデイタスはこの街で一番力のある貴族、ディセウアの紹介
で、
れるらしいのだ。
アマベルの生家であるリシュカリーザは、古くから商船交易で財
婚礼後にはラオブと、
を築いてきた一族らしく、その一族と縁を結ぶことでラオブの街そ
のものにも益がもたらされるのだという。
アマベルの出身地であるニスレとの間に、直通の転移陣を設置する
計画も出てきているらしく、実現すれば街の流通は一変すると見積
もられている。
そこまで聞けば、何故殺された本物のアマベルがあれほど強気に
振舞っていたのかも分かるというものだ。彼ら二人の婚姻には、彼
の出世だけではなくラオブの発展もまたかかっていたのである。
そんな大事な相手をかっとなったからで殺してしまうとはカルシ
ウムが足りないんじゃないだろうか、と雫は素直な感想を抱いたが、
他人事ではないところが頭痛を通り越して憂鬱だ。もしアマベルを
知っている人間が彼女を訪ねてきたなら、デイタスはどうするつも
りなのだろう。
﹁とりあえず、脱出路を探すしかないか⋮⋮﹂
凹んでいても仕方ない。
自分の命が最優先なら、デイタスの言うことを聞いて大人しくし
ているのもありだろうが、情報を集めるだにどうも自分が長く生か
されるようには思えない。下手をしたら結婚後、本物ではないとい
うことを隠す為に殺されてしまう可能性もあるのだ。
雫はようやく一人になると、手近にあった紙にオーナから聞き出
した屋敷のおおまかな配置図を描き出す。それを見ながら眉を寄せ
て考え始めた。
彼女のいるこの離れは、屋敷全体の敷地の西側に位置している。
448
デイタスは数年前にふらりとこの街にやって来ると、鋭い商才に
よってあっという間に財を築いたというが、三十前に見える若さで
これだけの屋敷を持てるとは、かなりのやり手なのだろう。その才
能は悪巧みではなくもっと別の方向に向けて欲しいのだが、とりあ
えずは言っても詮無いことだ。
デイタスの屋敷自体は街の西、郊外にあるらしい。上手く屋敷を
逃げ出して街の中に逃げ込めれば、エリクを待って合流することも
できるかもしれない。
雫は異様に裾の長い自分のドレスを見下ろす。できればもっと動
きやすい服装をしたいのだが、それをオーナに頼んでは不審なだけ
だ。彼女は部屋を出ると﹁屋敷の中を見て回りたい﹂と言って現状
把握を進めることにした。離れと言っても充分広い建物を、雫は頭
の中に地図を描きながら、ゆっくり見定めていく。
西側に面した二階の窓からは、屋敷の外周である塀とその向こう
の街並みが見て取れた。塀の高さは二メートルくらいだろうか。
自力で越えられるかどうかは近くで見てみなければ分からない。付
き従っていた若い女中が、窓の外を見つめる雫に声をかける。
﹁明日には街の仕立て屋が来て、ご婚礼衣裳の最終合わせがござい
ます﹂
﹁⋮⋮衣裳って⋮⋮ちゃんと合うんですか?﹂
﹁あら。アマベル様のご生家から贈られたものですから。ご心配な
さらなくてもお似合いになりますわ﹂
これは不味い質問だったかもしれない。雫は背中に冷や汗をかい
たが﹁慣れない環境で少し痩せたかもしれないから﹂と誤魔化すと
部屋に戻る。
そこには、デイタスの従者の男が待っていた。
449
﹁逃げようなどと思わぬ方がいい﹂
二人きりになってから開口一番でそう言われて、雫は思わず閉口
した。
ネイと名乗った男は雫の監視に来たらしい。二人で取ることにな
った夕食は、豪勢ではあったが重苦しい雰囲気に満ちていた。彼女
はやたらと厚い牛肉をナイフで切りつつ、男からの圧力に耐える。
﹁大人しくしてなきゃ殺されるんでしょ? 私だって命は惜しいよ。
でも、本当に誤魔化せるの?﹂
﹁式までの辛抱だ。それくらい何とかなるだろう﹂
式まで、ということはその後は監禁されるのか殺されるのか。雫
は思わず食欲を失くすと、口に運びかけた肉を皿に戻してしまった。
だがネイはそれを見て﹁きちんと食べろ﹂と注意する。
﹁お前は細い。出された分くらいの食事はしておけ﹂
﹁と言われても。五日で太るのとかは無理だと思う﹂
﹁そうではない。心配する必要はないと言っているんだ。お前はこ
の街の人間でも貴族でもない。式が終われば解放されるはずだ﹂
それは雫にとっては初めて聞くとも言える希望的な言葉だった。
だが聞いてもすぐに喜べなかったのは、デイタスがアマベルを殺
し、その後彼女自身の首に手をかけたという忘れられない出来事の
為である。人を人とも思わぬあの狂気を目の当たりにしては、とて
もではないが無事に解放すると言っても信じられない。
雫は口を開いて返事をする代わりに、訝しげな目でネイを見返し
た。だが男はそれ以上何も言う気がないようで、ただ黙々と食事を
続けている。
こうしてラオブに着いた一日目はあっという間に過ぎ去った。
だがこれは、単なる恐怖では割り切ることのできない歪んだ事件
の始まりだったのである。
450
中位魔族を使い魔としている人間は決して多くない。
上位魔族などは人間を卑小な存在とみなして興味を持たない為、
人間界に姿を現すこと自体ほとんどないのだが、それほどまでとは
いかなくとも中位魔族にとって人間は、自分たちの上に立つような
存在として認識されていないのだ。彼らはよくて人間を見下してい
るか、悪くて単なる獲物としてしか見ていない。
だからこそ魔法士でもなく何の力もない雫がメアを使い魔として
いるのは例外中の例外であり、本来ならば彼女が雫を守る切り札に
なるはずだった。
だがしかし、現在メアは主人と行動を共にしていない。ちょっと
した別行動から完全にお互いの居場所が分からない状態にまで引き
離されてしまっている。
﹁せめて彼女が魔法士なら、君を呼ぶことができたんだろうけどね﹂
魔法士であれば、使い魔の名前に魔力を乗せて相手に居場所を知
らせることができる。だが、雫には魔力がない為メアを呼んでも届
かないし、エリクは正規の主人ではない為、やはりメアを呼び出す
ことはできない。
森に入ったまま忽然と消えてしまった少女。エリクは近くの状況
からそれを、何者かが彼女を連れ去ったのではないかと判断してい
た。雫の性格から言って自発的に移動したのなら、その前に彼のと
ころに一旦戻ってきたはずだ。それがない上、探しに行ったはずの
メモを落としていったのだから、おそらく誰かに拉致されてしまっ
たのだろう。
﹁多分、この街のどこかにいるんじゃないかと思うんだけど。馬車
の跡がこっちに向ってたし﹂
肩の上の小鳥に話しかけながら、エリクは街の雑踏に視線を送る。
もし本当に雫が拉致されたのだとしたら、こんな目につくところ
にはいないだろう。大体馬車を所有しているような人間は上流階級
の人間だ。そんな人間が森の中で何をしていたのかは分からないが、
平民よりよほど限られた人数だろう。探しやすいと言えば探しやす
451
い。
﹁もうすぐアイテア祝祭か⋮⋮彼女なら喜ぶだろうね。折角だから
それまでに見つけよう﹂
祭りを前に賑わう通りを、魔法士の男は縫うように歩いていく。
平然とした表情で辺りを見回す整った顔立ちの男。だがその藍色
の瞳には見た者を射抜くような威が潜んでいると、彼と目が合った
人間だけが気づくことになったのだ。
翌日、雫はデイタス立会いのもと、屋敷に来た仕立て屋によって
花嫁衣裳の試着をさせられた。着ているだけでずっしりと重量を感
じる布は、非常に質のいいものだと分かるのだが、だからと言って
嬉しいわけではない。雫は大きな鏡の中、清楚な花嫁として佇む自
分を作り笑いで眺める。
﹁まぁまぁ。こんな可憐な花嫁様は滅多にいらっしゃらないわ。如
何です? デイタス様﹂
﹁ああ。私は幸せものだな﹂
白々しい、と内心だけで突っ込みを入れて雫は彼らを振り返った。
仕立て屋が寸法を確かめて首を傾げる。
﹁少しお痩せになりましたか? ニスレの仕立て屋から送られた寸
法より、全体的に細くなっていらっしゃるようです﹂
﹁マ、マリッジブルーで﹂
彼女自身は何とか切り抜けたと思ったが、その場にいた人間たち
は、全員が全員怪訝な顔になってしまった。それに気づいた雫は慌
てて﹁緊張して痩せたのかもしれないの﹂と言い直す。
言動一つとってももっと注意深くならなければならない。彼女は
にっこりと笑顔を作って、採寸しなおす仕立て屋に礼を言った。仕
立て屋は数歩下がって雫の姿を眺めると、軽く首を傾ぐ。
452
﹁もう少し長いヴェールの方がよいでしょうか。店に戻ればいくつ
これは、チャンスかもしれない。
か在庫があるのですが﹂
︱︱︱︱
雫は躊躇う。ちらりとデイタスを振り返って、短い間に決断する
と口を開いた。
﹁なら、自分の目で見て選んでみたいです。駄目でしょうか﹂
﹁勿論構いませんとも! 他の仕事を早めに切り上げて、午後にも
う一度参ります﹂
﹁あの⋮⋮今、一緒についていってすぐ見て決める⋮⋮では駄目?
お時間は取らせませんから﹂
屋敷から出て、街に行ってみたい。
デイタスは彼女の意図に気づいて怒るかもしれないが、式を控え
て彼女の顔が他の人間たちにアマベルとして知られた以上、すぐに
どうこうは出来ないだろう。せいぜい監禁されて脅されるくらいだ。
逆に言えば、式を挙げてしまう前にしかチャンスはない。雫は僅か
な可能性に賭けて、そう要求した。
ドレスの下の足は微かに震えている。殺気混じりのあの目で見ら
れたらどうしようかと思った。だが、デイタスは意外な程あっさり
と、﹁本人がそう言うのならその方がいいだろう﹂と許可を出す。
その答に雫の方が驚いてしまったくらいだ。屋敷の主人たる男は、
そのまま何か言いたげな目で彼女を一瞥すると、ネイを残して部屋
を立ち去る。
去り際に少しだけ見えた瞳。脅すわけでも睨むわけでもない、ま
るで荒野を孕んでいるような空虚な双眸。その目にあてはまる言葉
を知っていてるような、けれどどうしても取り出せないようなもど
かしさを覚えて、雫は結局オーナが声をかけてくるまで、その場に
立ち尽くしてしまったのだった。
453
002
目を閉じると今でも甦る光景がいくつかある。
街の子供が笑いながら石を投げてくる光景。大人たちが汚らわし
いものを見るように侮蔑の視線を送ってくる光景。
自分を抱きしめる母親の手。幼い少女の冷ややかな目。
そんなものを、覚えていても少しも幸せになれない光景を、何故
か片時たりとも忘れることができなかった。記憶を捨ててしまえば
いいとさえ思わなかったのだ。ずっとその中に囚われていた。そう、
今この時においてさえ。
結局、ここからは抜け出せないのだろう。永遠に乾いた荒野にい
るままだ。
だから結局、自分を待っている道というのは︱︱︱︱
※ ※ ※
馬車から降り立った場所は、大通りに面した店の前だった。大き
な窓には純白の婚礼衣裳がいくつも飾られ、その店構えからして富
裕層が出入りする高級店なのだと分かる。
雫はネイに手を取られ店の中に入ったが、一歩足を踏み入れた瞬
間、居並ぶ店員たちに一斉に頭を下げられ硬直してしまった。その
彼女を護衛という名目で監視している男は、さりげなく背を押して
奥へと歩かせる。
広い店の中は、脅迫され偽の花嫁となっている雫に、その状況を
454
一瞬忘れさせるくらい、白一色の華やいだ空間だった。彼女は口の
中で感嘆の声を上げながら、飾られている衣裳の数々を眺める。
﹁綺麗⋮⋮﹂
﹁ありがとうございます。ヴェールはこちらです、アマベル様﹂
自分の名ではない名前で呼ばれて雫は我に返った。ここでぼうっ
としていては危ない橋を渡った意味がないのだ。彼女は三人の店員
が示していくヴェールを見ながら、不自然にならない程度に窓の外
に視線を送る。
確かにとても栄えている街だ。地方都市でありながらカンデラの
城都と同じくらいかもしれない。絶えない人通りの中を、時折派手
な服を着て駆け抜けていく人間がいるのは、もうすぐあるという祭
りの準備の為だろうか。
雫は並べられたヴェールのうち、手織りのレースで縁取られた絹
のロングヴェールを選んだ。それが一番顔が見えにくいと思ったの
だ。他にも小物を見たいと言って店内をうろうろしながら、雫はふ
と壁にかけられた地図に気づいた。
絵画としても価値があるらしい精巧な地図は、この街を真上から
描いたもののようである。街全体が中央広場を除いて、碁盤の目の
ように整然とした作りをしているのは、貴族が私財を以って整えた
為だろう。
雫はネイを振り返る。
﹁聖堂って、どこにあるんですか?﹂
﹁街の中央。広場にある﹂
半分ほどは予想していた答に雫は頷く。この店からも建物が見え
ないだろうかと彼女は窓の外を見上げた。だが、通りのすぐ向こう
その時、彼女は店の外を行く男に気づいて息を止めた。
に高い建物があってよく見えない。雫は諦めて視線を戻そうとする。
︱︱︱︱
見覚えのある顔立ち。藍色の瞳。肩には緑の小鳥が乗っている。
﹁エ⋮⋮﹂
455
咄嗟に彼の名を呼びかけて、けれど雫は自分が置かれている状況
を思い出した。背にネイの冷たい視線が突き刺さっている気がする。
彼女は顔半分だけで恐る恐る振り返った。
こんな場所でも剣を佩いている男は、心の奥底まで冷やしめる目
をもって雫を見ている。その威に気圧されて彼女は蒼ざめた。
もし、今この店を飛び出してエリクのところに駆け寄ったら。
果たして逃げ切れるだろうか。少なくとも人通りの多い場所で雫
を切り捨てることはできまい。
が、考えてみればエリクは単なる旅人で、ネイは街の権力者の従
者だ。下手をしたら権力を盾に二人とも拉致されてしまうかもしれ
ない。雫の動揺を嗅ぎ取ったのか、ネイは一歩近づくと彼女の耳元
で囁いた。
﹁今逃げようとするなら、お前の代わりにこの店の店員を殺す﹂
﹁な⋮⋮﹂
﹁嘘だと思うか? 試してみるか?﹂
からかうような声音では一切ない平坦な口調に、雫はそれが脅し
ではないことを悟った。彼女はぎこちなくも微笑んで頷く。
﹁何でもないの。ごめんなさい﹂
﹁ああ﹂
雫はネイから離れると店の中央に戻った。いくつか並べられてい
る小物の中から、純白の羽ペンを見つけるとそれを手に取ってみる。
﹁これ、本当に書ける?﹂
﹁勿論ですよ。宣誓書を書くためのものですから﹂
へぇ、と相槌を打つと彼女は手触りのいい羽を指で撫でる。近く
にある試し書きの紙にくるくるとペンを走らせ、インクのつき具合
を確かめた。ネイが後ろからそれを覗き込む。
﹁アマベル様、そろそろ帰りましょう﹂
﹁ええ。ありがとう﹂
再び頭を下げる店員たちの間を抜けて、雫は店の外に出る。だが
456
彼女は外に出てすぐ石畳につまづいて転びそうになってしまった。
悲鳴を上げる少女をネイは後ろから支えて立たせてやる。甲高い声
に、通りの注目が彼女に集まった。
﹁ご、ごめんなさい﹂
﹁気をつけろ﹂
来た時と同様馬車に押し込まれると、雫は窓から僅かに見える景
色に目を凝らす。
彼が来ている、それだけでも事態が好転しているはずだと、自分
にそう言い聞かせて。
上客が去った後、ドレスの最終調整にかかろうとしていた衣裳店
は、若い男の来客を受けて首を傾げた。旅人の服装をしている魔法
士は、女性を連れているわけでもなく一人である。その藍色の目に
幾許かの険しさを感じ取って、対応に出たお針子はたじろいだ。
﹁今、ここに女の子がいなかった? 黒髪で十代の⋮⋮少し変わっ
た顔立ちの娘。声が聞こえたんだけど﹂
﹁ああ、アマベル様でしょうか。先ほどまでヴェールを見にいらし
てました﹂
彼女がつい答えてしまったのは、男の迫力に気圧されたのと彼が
綺麗な顔立ちをしていた為の両方である。店の主人に睨まれて若い
お針子がそそくさと引っ込んでしまうと、エリクは店内を見回した。
﹁アマベル? 似ているだけか?﹂
雫によく似た声で悲鳴が聞こえた。だから近くの店を片端から当
たっているだけで、肝心の少女の顔は見ていないのだ。
だが彼が上げた特徴に該当する人間は、この店に来ていたという。
何か判断材料がないものか、エリクは白色ばかりの店のあちこちに
視線を泳がせる。ふとその時、彼はテーブルの上の紙に目を留めた。
インクの乗り具合を確かめたのか、そこには柔らかな曲線がくるく
457
ると描かれている。
﹁⋮⋮⋮⋮なるほどね﹂
雫を監視していたネイは気づかなかった。彼はその曲線を文字だ
とは思わなかったのだ。
bride
だがエリクには分かる。文字を専門とする魔法士はそれを旅の間
︱︱︱︱
true
に彼女自身から教えてもらっていたのだから。
バラバラに書かれた三つの単語、
本当の花嫁は殺された
killed
︱︱︱︱
筆記体で書かれた雫からのメッセージにエリクは眉を寄せる。
彼はその紙を破りとって懐にしまうと、無言のまま店を出たのだ
った。
屋敷に戻ればネイと離れられるかと思った雫は、見事に予想を裏
切られ、昼食とその後まで彼と二人で過ごすことになった。ほとん
ど沈黙に包まれた食事の後、彼女はネイから直接、式当日の流れと
やるべきことを教えられる。デイタスと彼以外には雫が偽者だと知
る人間はいないのだから、ある意味当然のことだろう。細かいタイ
ムスケジュールだけでなく、いざ聖堂に入ったら、どこからどう入
場してどこでお辞儀をするかなどと詰め込まれて、彼女の頭は破裂
しかけていた。
﹁これ、もっと他に女性の協力者に頼めないの? あんまり自信な
いんだけど⋮⋮﹂
﹁時間がない。人が増えれば面倒も多くなる。お前が失敗しなけれ
ばいいだけだ﹂
雫は反論できずに口を噤む。そもそも彼女は要求など出来る立場
ではないのだ。苦い顔になりつつも頭の中でもう一度習ったことを
思い起こした。
458
まずは一人で入場し、聖堂の奥にいる五人の花嫁と共に並ぶ。そ
の後にデイタスが入場。
彼は五人の花嫁それぞれの手を取り﹁あなたの名は何であるか﹂
と問う。だが彼女たちはそれには答えず彼を無視するだけだ。
最後にデイタスは雫の手を取り、雫が﹁アマベル・リシュカリー
ザ﹂と答える。そして二人は結婚の宣誓書にサインするというのが
おおまかな段取りだった。
﹁あの⋮⋮この辺の結婚式ってみんなこうなの?﹂
何故五人の花嫁が別にいるのか。彼女たちが主役であるデイタス
を無視することといい、色々不可解である。
それともこれがこの世界の標準的な結婚式なのだろうか。前もっ
て婚姻の風習についてエリクに聞いておけばよかったと、雫は今更
ながらに後悔した。
ネイはちらりと彼女を見下ろす。針に似た視線に雫は後ずさりた
くなった。
﹁⋮⋮デイタス様の式は特別だ。アイテアの伝説を模して行われる。
祝祭の最中だからな﹂
﹁アイテアの伝説?﹂
﹁知らないのか?﹂
即座に聞き返されて、雫は﹁うっ﹂と言葉に詰まった。かつて大
陸でもっとも信仰されていた神の伝説など、皆が知っていて当然の
ことなのだろう。だがここで知ったかぶりをしても傷口が大きくな
るだけだ。
﹁し、知らない﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ネイは呆れるでも怒るでも疑うでもなかった。ただ淡々と件の伝
説について教えてくれる。
それは昨日エリクから聞いた、アイテアの神話の続きと言ってい
いものだった。
459
兄弟たちが皆去り、一人になったアイテアは失意の中、残された
大陸を回る旅に出た。神であることを隠し、単なる人として﹁人間﹂
を目の当たりにしようと思ったのだ。
力を封じての長い旅にはさまざまな困難がつきまとった。そして
その旅の終わりにアイテアは大陸西部、ちょうどこのラオブのある
辺りの森にさしかかったのだ。
当時は辺り一帯に広がっていたという森は深く、そこを越えよう
としていたアイテアは疲れ果てていた。それでも彼は神の力を使お
うとはせず、乾く喉を葉々の滴で癒しながら更に森の中へと進んで
いく。
やがて彼は森の奥で一つの集落に出くわした。
外界と隔絶した暮らしを送っていた村は突然の旅人に驚き、村人
たちは一晩の宿を請うアイテアを遠巻きに避けていく。困り果てた
彼の前に、好奇心に溢れた五人の娘が現れたのは、彼が仕方なく村
を立ち去ろうとしていたその時のことだった。
アイテアは娘たちに水を求めたが、彼女たちはある者は困惑し、
ある者はただ笑っているだけで、名前を聞いても答えようとさえし
ない。五人は彼を囲むように周りを走り回ると、最後にはやはりア
イテアを置いて村の中に逃げ帰っていった。
だが、そんな娘たちと入れ違いになるようにして一人の少女が現
れたのだ。
もっとも若く、もっとも無垢であった少女は黙ってアイテアに水
甕を渡した。
彼が礼を言うと少女は恥ずかしそうに俯いていたが、重ねて名前
を問われると﹁ルーディア﹂と名乗ったという。
後にアイテアの妻となる女である。
﹁理解できた。ありがとう﹂
この伝説を模しているからこそ、五人の花嫁が別に必要なのかと
460
雫は納得した。納得すると同時にプレッシャーが襲い掛かってくる。
神話に模した式で、神の妻になった娘に相当する役割など非常に
辞退したい。何かの嫌がらせかと思えるくらいだ。五人の花嫁のう
ち誰かが代わってくれないだろうか、と実現しない希望を彼女はつ
い抱いてしまった。
﹁その五人分の花嫁の衣裳も用意したの?﹂
﹁いや。彼女たちはそれぞれこの街の貴族の娘だ。やりたいと名乗
り出たのも彼らであるし、衣裳も自分たちで用意している。親娘の
虚栄心を剥き出しにして着飾って来るだろうな﹂
﹁う⋮⋮それはそれで嫌だ﹂
まるでどちらが引き立て役か分からない。
本物のアマベルならあの気の強さで他の五人とやりあえただろう
が、雫はそういった自己顕示欲とは無縁の人間なのだ。話を聞いた
だけで、彼女たちに出会う前からげっそり疲れてしまっていた。
雫は肩で息を吐き出すと、ふとあることに気づいて顔を上げる。
いつも感情味のないネイが、彼女たちについて触れた時にだけまる
で嫌悪感を抱いているような口ぶりだったのだ。
無表情なデイタスの従者を、彼女は顔を斜めにして見上げた。
﹁ひょっとして、貴族が嫌い?﹂
ネイの瞳に漣が走る。
それは、まったく似てはいなかったにもかかわらず、何故かデイ
タスの荒野のような目を思い出させた。
乾いて、何もない、飢えた世界。何もかもを拒む茫洋。
ネイは質問に驚いたのか、思わず雫がたじろいでしまうほど彼女
を凝視してきたが、ふっと目を逸らす。返答の代わりに事務的な言
葉を口にした。
﹁式が終わったら聖堂を出してやる。すぐにこの街から離れるとい
い﹂
それきり彼は無言になってしまった。
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本当に言いたかったことは何なのか、彼女には分からない。
だがそこに幾許かの空虚を感じ取って、雫は沈黙を保ったのだっ
た。
﹁やるべきことは覚えたか﹂
﹁八割方﹂
夕食の席でデイタスの正面に座った雫は簡潔に返した。長々話す
ようなことでも相手でもない。求められているのは結果だけで、た
ちの悪いことにそこには彼女の命がかかっている。
自分を脅迫する男に、必要以上に卑屈になる気はなかったが、無
謀に喧嘩を売る気にも雫はなれなかった。
﹁しくじるなよ。お前の挙動は注目の的だ﹂
﹁努力する。完璧を目指す﹂
﹁それでいい﹂
どこの世界にこんな会話をする婚約者同士がいるのか。
彼らの真の事情を知らない人間がその場に居合わせたなら眉を顰
めただろうが、部屋には二人の他には従者のネイしかいない。彼の
給仕で食事をしながら雫は、デイタスの視線が逸れる時を狙って逆
に彼の瞳を注視していた。何が気にかかるのか分からないが、彼ら
二人の目には時折違和感を覚えるのだ。
まるでずっと遠くを見据えているような、定義されることを拒ん
でいるような虚ろがそこにはある。その空虚を読み解こうとするこ
とに意味はないのかもしれない。殺人者を理解することで何が得ら
れようか。
にもかかわらず雫がデイタスの目を覗き込もうとするのは、単に
他に考えることがないからだった。何もしないでいれば不安の海に
沈みこんでいく。だからせめて、自由になる思考を動かしていたか
った。雫は探る目でデイタスに視線を送る。
462
﹁何だ?﹂
目を逸らすまもなく男の視線に射抜かれて、彼女はぎょっと硬直
した。手に持っていたグラスを取り落としそうになる。
﹁な、何も﹂
﹁嘘をつくな、わざとらしい﹂
何もないわけではないのだが、説明できるようなことでもない。
雫はうろたえて言葉を探すと、結局別の気になっていたことを口に
した。
﹁式が終わったら、私どうなるの?﹂
ネイは街から出て行けばいいと言ったが、彼女にとってあれはあ
くまでネイの言葉でしかないのだ。主人であるデイタスが﹁駄目だ﹂
と言ったら覆されるものでしかない。だから、聞くこと自体が危険
なのかもしれないが、デイタス自身がどういう心積もりなのか一度
確認したいと雫は思っていた。
男はかすめるように彼女を一瞥する。そこにまた、乾いた風が吹
いていくような気がするのは彼女だけだろうか。雫の目線は思わず
彼に吸い寄せられた。
﹁式が終わったなら何処にでも行けばいい。この街以外の何処かへ
な﹂
﹁⋮⋮⋮⋮逃げていいの?﹂
﹁終わったら、だ。それとも本当に俺の妻になりたいのか?﹂
﹁いえ、全然﹂
つい本音が出て即答してしまった。言ってから不味かったかな、
と彼女は顔を強張らせる。
だがデイタスは鼻で笑っただけで怒りはしなかった。
﹁ただし式が終わるまでに襤褸を出して怪しまれるようならば、そ
の分は命で支払ってもらう。いいな﹂
﹁分かった。けど⋮⋮﹂
﹁けど何だ﹂
463
こんなことを聞いていいのか、雫は迷う。だがそれでも好奇心が
勝った。知らなければ落ち着かなくて仕方ないのだ。
﹁私が別の街に行って、あなたのこと殺人犯だって言っちゃったら
どうするの。困らないの?﹂
デイタスはアマベルを殺している。雫はそれを見ていた。
これが、覆すことのできない大前提なのだ。だからこそ雫は容易
く解放されるとは思っていなかった。
この男は式の後、その問題をどう消化するつもりなのだろう。得
雫を監禁する
体の知れない小娘一人の戯言など、議員になれば捻じ伏せられると
思っているのだろうか。それよりはよほど︱︱︱︱
か殺すかする方が確実ではないか。
問われた男は温度のない視線で雫の顔を撫でて行く。何もないそ
の視線を受ける度、彼女の中では違和感が募っていった。
﹁別に困らない。式の後、お前が何処で何をしようと、もはや俺に
は関係ないことだ﹂
デイタスはそう言って、食事を終えたらしく部屋を出て行く。
後に残された雫はぼんやり天井を仰いで⋮⋮不思議とそこに描か
れている模様が歪んでいるように見えたのだった。
﹁アマベル・リシュカリーザ。南部の貴族の娘か﹂
エリクは宿の机の上にメモ書きを投げ出す。これらは彼が午後の
間街を歩き回って聞き込んだものだった。もうすぐ結婚する﹁アマ
ベル﹂。彼女が何者であるかはすぐに分かった。彼女の式はアイテ
ア祝祭の一部として組み込まれていたからだ。
議員になる男と遠く離れた街の貴族の娘。二人の結婚はラオブの
貴族たちと有力商人によって盛大に祝われる。その肝心の主役に雫
が﹁嵌めこまれて﹂しまっているのは最早確定のことだろう。﹁真
の花嫁﹂という言い方がなされるなら、裏を返せば﹁偽物の花嫁﹂
464
﹁
﹂
killed
か⋮⋮過去じゃなく、受動だろうな。
がいるということなのだ。
た
エリクは雫の辞書とメモを見ながら嘆息する。
殺され
彼女は自分で思っているより語学が苦手ではないようだ。もし時
間があったなら詳しい事情を文章にすることはできただろう。だが
それを、最小限の単語に絞ってきたということは、常に監視を受け
ている状況に置かれているに違いない。
﹁ディセウア侯爵の紹介で嫁ぐことになった娘。だが、誰もその顔
を知らない、か﹂
まさに入れ替わりに打ってつけの状況だ。けれど、これが計画的
な入れ替わりなら雫を使うことはまずない。何か計算外のことが起
こってしまったからこそ、たまたまそこにいた雫を攫った。その計
算外とは﹁花嫁が殺されたこと﹂だろうか。
﹁花婿はもともとディセウア侯爵の娘の恋人だったらしいけど。わ
ざわざ遠くの娘を連れてきて結婚させるってのは何かあったのか?﹂
思考を纏める為の呟きに、テーブルの上にいる小鳥が首を傾げる。
エリクは小鳥の頭を指で撫でた。
ともかく有力者の屋敷だ。簡単に忍び込むことも攻撃をしかける
こともできない。相手に後ろ暗いところがあるなら尚更用心してい
るだろう。式はあと四日後。一番つけこめるとしたらその式の前後
だろうか。
エリクは頭の後ろで手を組むと天井を見上げる。そして彼はそこ
に、頭の中で街の地図を描いたのだった。
雫がヴァローラと出会ったのは、偶然でも何でもなく彼女が雫を
訪ねてきたからだ。ヴェールを選びに言った翌日、式の練習をして
いた彼女のところに、ディセウア侯爵令嬢ヴァローラが供も連れず
465
に突然現れた。
彼女は気位の高さを窺わせる態度で、薄く微笑んで自己紹介をし
てきた。その高慢とも言える態度に、雫は﹁これが貴族か﹂とむし
ろ感動してしまう。
﹁アマベル様には是非お会いしておきたかったのですわ。式当日は
私も﹃花嫁﹄としてお世話になりますれば﹂
﹁あ、こちらこそよろしくお願いします﹂
美辞麗句を返そうとしても不可能なことは分かっているので、雫
は自分の言葉で頭を下げた。途端にヴァローラはきょとんとした顔
になる。本当の花嫁である﹁アマベル﹂は、自分と同等かそれ以上
の態度で返してくると思っていたのだろう。裏のない率直な礼を返
されて毒気を抜かれてしまったようだ。
﹁あなた、貴族らしくないのね﹂
﹁よくそう言われます﹂
背伸びをするより﹁貴族らしくない貴族の娘﹂として振舞った方
がいい。そう判断した雫は一応部屋にいるネイを一瞥したが、彼は
表情を変えないままである。ということは問題がないと思っていい
だろう。彼女は背筋を伸ばすことだけを意識した。
﹁ヴァローラ様はわざわざご挨拶の為にいらして下さったのですか﹂
﹁ええ。あなたがどのような方なのか拝見しに。でも予想を裏切ら
れたわ﹂
﹁それは失礼いたしました﹂
偽者です、すみません、と心の中で付け足して雫は苦笑する。も
っとも彼女自身も好きで偽者をやっているわけではない。可能なら
さっさと逃げ出したいくらいだ。表皮の下で自嘲する雫にしかし、
ヴァローラは不透明な瞳を向けた。
﹁あなた、デイタスには会ったのでしょう?﹂
﹁はい﹂
短気な殺人犯だと思います。やっていけません。
﹁彼のこと、どう思う? うまくやっていけそうかしら﹂
︱︱︱︱
466
などと言ったらネイに口封じをされかねない。そもそも何故そん
なことを聞いてくるのか。怪訝に思った雫は、ヴァローラの父が﹁
アマベル﹂を彼に紹介したと思い出した。ならば彼女は父に命じら
れて様子を窺いに来たのかもしれない。納得すると同時に雫は口を
開く。
﹁よくして頂いております。お気遣いありがとうございます﹂
﹁⋮⋮そう﹂
ヴァローラの返答は沈み込んでいくようなものだった。雫は僅か
に眉をひそめる。何だか自分だけが知らない何かが、足の下に広が
っている気がしたのだ。
だが、それだけで訪ねてきた用件は済んだらしい。ヴァローラは
華やかなドレスの裾を引くと優美に笑った。大きな瞳に安堵と寂寥
が光る。
では
﹁そうね。あなたのような方がデイタスの傍にいるということは、
彼にとって幸運なのかもしれないわ﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁ええ。彼にはきっとそういうものが必要なのよ。︱︱︱︱
また、式でお会いしましょう﹂
そう言って彼女は来た時と同じように去っていった。取り残され
た雫はネイを振り返って、首を傾げる。
﹁そういうものってなんだろ﹂
﹁さぁ﹂
答えた彼は雫に背を向けた。窓の外から屋敷の門前を見やる。そ
こにヴァローラが乗ってきた馬車が止まっているのだ。
﹁持っている者は当たり前すぎて分からない。きっとそういうもの
だろう﹂
男の声は、自分もまたそれを持っていないのだ、と言っているよ
うにも聞こえた。雫は今度はあからさまに眉を寄せる。
467
結局、雫は最後まで何も分からないままだった。彼女が現れた時
既に事件は始まっており、そして彼女の退場の後に幕は下りたのだ
から。
渦中にありながら通り過ぎるだけの偽者であった彼女は知らぬま
ま終わる。
デイタスが何を考えていたのか、そしてヴァローラが何を望んで
いたのか、雫はこの街を去るまで何一つ言葉としては聞かなかった
のである。
﹁まぁ! ヴァローラ様がいらしていたんですか?﹂
貴族令嬢と丁度入れ違いに現れたオーナは、女中のエプロンを握
って驚きを表した。雫は怪訝に思いながらも頷く。
﹁少し挨拶しただけだけど⋮⋮。彼女を知ってるんですか?﹂
そうとしか思えないオーナの態度に雫が問うと、彼女はあからさ
まに気まずい顔になってしまった。不味いことを聞いたかな、教え
てくれないかな、と雫は思ったのだが、オーナはきょろきょろと辺
りを見回すと声を潜めて囁く。
﹁実は⋮⋮ヴァローラ様は、少し前までデイタス様と親しくされて
らっしゃったのですわ。だからアマベル様のことをお気になさった
のでしょう。何か仰ってました?﹂
﹁特には。それより親しくって、恋人だったんですか?﹂
率直に聞くとオーナはうろたえた。単に好奇心から尋ねたのだが、
聞きとがめたように思われたのかもしれない。別に不快じゃないか
ら、と再三念を押して、雫はようやく詳しい話を聞きだすことに成
功した。
デイタスは五年前この街に、ネイを伴って現れたのだという。
当時二十歳になったばかりの彼は、少ない元手で卸売商を始める
468
と、目利きのよさと機を見るに敏な動きで、あっという間に顧客を
増やし財を築いた。卓越した手腕は街でも有数の商売人として彼の
名を押し上げ、やがて彼は貴族とも懇意になり、彼らの屋敷に直接
出入りも許されるようになったらしい。
デイタスがヴァローラと出会ったのは、そんな時のことだ。
華やかな侯爵令嬢と切れ者の男。どちらかというと、初めに言い
寄ったのはデイタスの方だったそうだ。
やがて二人は親しく付き合うようになり、父のディセウア侯爵も
それを認めていた。
が、ある日二人は何の前触れもなく別れると、デイタスには代わ
りとでも言うように遠くの街の貴族の娘が婚約者として紹介された
のである。
﹁これって普通、花嫁に言うことじゃないよね⋮⋮﹂
雫は僅かに与えられた休憩時間、珍しく一人になった隙にそう呟
いた。机の上にあった便箋に日本語で分かったことを書きとめる。
オーナは話好きな女性らしく、最初こそ主人の前の恋人について
話すことを躊躇ったものの、雫が興味を示したと分かると堰を切っ
たように全て教えてくれた。その内容はやはり、これから結婚する
であろう花嫁が聞いていて気分がいいものでは少しもなく︱︱︱︱
もし本当のアマベルが聞いたなら、どの道デイタスと大喧嘩にな
ってしまっただろう。
﹁そしてデッドエンド⋮⋮って駄目じゃん﹂
こう考えると、デイタスとアマベルは本当に相性が悪かったとし
か言いようがない。殺人という悲劇を回避するには、かなり事前の
準備が必要だったように思えて、雫は額を押さえた。
﹁でも、ヴァローラさんはデイタスが嫌いには見えないんだよね﹂
むしろもうすぐ結婚する彼を心配しているようにさえ見えた。彼
女は彼女なりに何か気になることがあってアマベルに会いに来ただ
469
けで、恨んでいるようも蔑んでいるようにも思えなかったのだ。な
らば二人が別れたのはデイタスの方に原因があったのだろうか。雫
は手の中でペンをくるくる回す。
ただそれにしても、デイタスが誰かに言い寄るなどという姿はま
ったく想像できない。あの短気で傲岸な男でも、好きな女性の前で
は態度を改めるのだろうか。
不思議ではあったが、見てみたいかと言ったらまったく見たくな
い。他人の色恋沙汰など首を突っ込んでよいことがあるとは思えな
かった。
﹁エリクはあれ、見つけてくれたかな﹂
雫は一人でいることをいいことにぽつりと呟く。彼だけに宛てた
伝言。それに気づいてくれる可能性に賭けて、店を出てからわざと
悲鳴を上げたのだ。
エリクならばあれを見て、単語の意味を理解してくれるはずだ。
そして雫が今どういう状況に置かれているか、おおよそを推察でき
るに違いない。上手く行けばエリクは式場に来てくれて、式が終わ
って解放されたなら彼と合流することができる。その後デイタスを
告発するかどうかは、エリクと相談して決めればいい。いささか楽
観が過ぎる気もするが、雫はそう結論付けて目を閉じた。
転寝に落ちる前の一瞬、暗く落ちていく意識にヴァローラの微苦
笑が甦る。
デイタスのことを口にする彼女の微笑みは、雫のよく知る誰かに
似ているような気がしたが、それが誰かは曖昧にぼやけるばかりで、
少しも思い出せなかった。
いよいよ明後日が式というところまで来た日、雫はほぼ完璧に教
えられたことを身につけていた。もともと物覚えが悪いわけではな
470
い。とりあえず身の安全の為に必要なことと腹を括ってしまえば、
面倒な手順の数々が自然と頭の中に入ってきたくらいだ。
練習の一環として、デイタスの参加のもと式の流れをおさらいし
た雫は、彼の﹁悪くない﹂という感想を受けてほっと息をついた。
男は練習用のドレスを着た彼女を上から下まで眺めて呟く。
﹁もう少し気品が欲しいが、まぁいいだろう﹂
﹁平民育ちだから諦めて。澪だったらもうちょっとそれっぽく出来
たかもしれないけど﹂
﹁ミオ? 誰だそれは﹂
﹁妹﹂
もしこれが元の世界の殺人者相手であったら、妹の存在など教え
なかっただろうが、ここは異世界である。デイタスがどれ程短気で
乱暴な男でも、彼には雫の家族をどうすることもできない。だから
こそ彼女は何の抵抗もなく妹の名を教えたのだ。
﹁妹などいたのか﹂
﹁上もいるよ。姉が。私は三人姉妹の真ん中﹂
何故そんなことが気になるのか分からないが、姉妹の話はデイタ
スの興味を誘ったらしい。彼は少しだけ視線を辺りに彷徨わせると、
ぶっきらぼうに﹁どんな姉妹だ?﹂と聞いてきた。
﹁どんなって⋮⋮普通。お姉ちゃんは天然入ってるけど、美人だし
優しい。みんなに好かれてる。妹は何でも出来て、いつも堂々とし
てる。頭もいいし、うるさいとこあるけど可愛い﹂
﹁随分持ち上げるものだな。それに比べて自分は⋮⋮という奴か?﹂
﹁そう思わなくもないけど。今はあんまり﹂
何でもそつなくこなせる妹なら、きっと高貴ささえ纏って花嫁を
演じることが出来ただろう。姉ならそのままで何とかこなせたかも
しれない。雫から見ると彼女たちは、自分と比べてあまりにも﹁特
別﹂で、自然と人の注目を集める存在なのだ。
以前はそれが苦しかった。何故自分だけぱっとしない人間なのだ
ろうとよく思ったものだ。だから家を出て学生会館に住んだ。
471
けれど今は、いつの間にか彼女たちと比しても自分のことがさほ
ど気にならなくなっている。それは、二人から遠く離れた場所にい
る為か、それとも彼女自身が変わったからか、どちらなのかはよく
分からなかった。
デイタスは鼻で笑うとソファに腰掛ける。尊大な仕草で足を組む
と、眉を寄せる雫を見上げた。
﹁自分にはないものを持っている兄弟に、劣等感を抱かずにいられ
るとは図太いことだ﹂
﹁⋮⋮感じないわけじゃないけど、仲いいし﹂
﹁そうだろうな。だからお前はそういう目をしていられる﹂
吐き捨てる言葉に含まれていた嘲り。デイタスはそれを一体誰に
向けていたのだろう。
私の妹は、私を兄と知るや嫌悪も露
﹁だがな、お前たちのように皆が馴れ合っているわけではない。私
などがその好例だ。︱︱︱︱
わに石を投げてきたのだからな﹂
﹁⋮⋮え? 石って⋮⋮悪口?﹂
﹁いいや、比喩などではない。本物の石だ。別に珍しくもない話だ
ろう。私は父親が外の女に産ませた子供だったのさ。父親の分から
ぬ子供を産んだ母を皆は蔑み、事情を漏れ聞いた妹は私を化け物の
ように追い立てた。父はそれを見ていながら止めようともしなかっ
たな。つまりは血の繋がりなど所詮⋮⋮その程度のものだ﹂
デイタスは激しているようには見えなかった。ただ淡々と自分の
身に起こったことを並べただけだ。
そしてだからこそ雫は何も返すことが出来ない。自分が知ってい
る家族とはあまりにも違う彼の過去に唖然とその場に立ち尽くすの
みだった。
男の視線が彼女の顔の表面を撫でて行く。乾いた風をまた感じて、
雫はふと喉の奥が熱くなった。
472
もし、彼の罪が購われるならば。
今彼に必要なのは、彼のことを本当に思い支えられる人間なのか
もしれない。彼の為に不毛の地に水を撒くことを厭わぬ人間がいた
ならば、或いはいつかには救いが訪れるかもしれないだろう。
けれど、自分はそうはなれない。そうできるような思いがない。
もしかしたらヴァローラの方ではなか
雫はやるせなさを覚えて目を伏せる。そして、本当に花嫁としてふ
さわしかったのは︱︱︱︱
ったのかと、その時彼女はぼんやり思ったのだった。
昨日から始まった祝祭は、大きな街を隅々まで喧騒で満たしてい
た。中央にある広場のあちこちでは旅芸人たちが芸を競い、その度
ごとに大きな歓声があがっている。
子供も大人も浮き立っているような最中、エリクは人の間を縫っ
て大聖堂へと向っていた。明日には祝祭の一部である婚礼が行われ
る聖堂は、最後の準備に忙しいらしく職人たちが中を慌しく走り回
っている。
花の飾りつけから大きな作り物までが並べられている廊下をはじ
め、聖堂内は様々な道具と人間たちが入り混じって混沌とした状況
だ。複数の工房に発注しているのか全体の統制を取る人間はおらず、
少々混乱している為、部外者である彼も見咎められずに内部の作り
をゆうゆうと見て回ることができる。
エリクは中の経路と出入り口、当日関係者が使うのであろう奥の
部屋を確かめると、最後に招待客が集まるであろう聖堂に足を踏み
入れた。高い天井と規則的に並ぶ備え付けの椅子を彼は一瞥する。
ふとその時、背後で金属音がしてエリクは振り返った。
見ると大人の背丈くらいはある金色の燭台が一本、床に倒れこん
でいる。見習い職人の格好をした少年が、それを慌てて拾い上げよ
うと身を屈めた。少年は急いで燭台を手に取ると、元あった場所、
473
等間隔で式場全体を囲んでいる柱の前に設置する。
﹁それ⋮⋮何?﹂
﹁え?﹂
突然見知らぬ魔法士に話しかけられて、少年は目を丸くした。男
が指差しているものが自分が触れている燭台だと分かると首を傾げ
る。
﹁燭台だけど⋮⋮何で?﹂
﹁いや。そうなんだけど床も。床に発火の魔法陣が描かれているだ
ろう?﹂
﹁そうなの? 俺には見えないや。でもこの燭台は魔法仕掛けで一
斉に点くんだってさ﹂
忙しいらしい少年は問いに答えるとさっさと駆け去っていった。
エリクは燭台の傍に歩み寄ると床を見下ろす。
確かに発火の魔法陣だ。それほど強力なものではないが、発動す
れば陣の上には火と熱が生じる。よく見ると柱ごとに同じ魔法陣が
描かれており、その全ては一本の魔法線で繋がれ連動しているよう
だった。
置かれている職台はその火を吸い上げて上に灯す魔法具らしいが、
そうと分かっても彼は訝しさを拭うことは出来ない。一斉に燭台に
火を灯したいのなら、もともと発火機能が含まれている燭台を用意
して構成に手を加えればいいのだ。わざわざ回りくどいことをして
魔法陣を描く必要はない。
内装の指示をしたという花婿はこういう面倒な仕掛けが好きなの
だろうか。エリクは冷めた目で広い聖堂を見回すとその場を後にし
た。
474
003
たとえば誰かの過去を知り、同情し、いたたまれない気持ちにな
ったとして
それを相手に伝えるということは何かを変えるだろうか。
力になりたいと、相手を変えたいと思う心が純粋であったとして
それはどうすれば変質せずに相手に届くのだろう。
人は、自分という狭い檻を出られない。伝えるも受け取るも格子
越しのやり取りでしかない。
だから千の言葉を発して、百が届いて、十が理解され︱︱︱︱
そして受け入れられるのは、一か零か。
不自由な自由。その絶望を、いつか誰もが知ることになるのだ。
結婚前日の花嫁というと、座敷の間に正座をして両親に﹁今まで
大変お世話になりました﹂と頭を下げるイメージが雫にはある。だ
がこの世界には畳が存在しないし、彼女の両親もいない。おまけに
結婚といっても偽装だ。
だから雫はそんなしんみりした気分には微塵もならなかったし、
むしろ別種の緊張で食欲が失せたくらいである。
﹁今日はお早くお休みになられてください。お肌に障りますから﹂
そんな風にオーナに言われて、雫は早々と床についた。だが目を
閉じて羊を数えても一向に眠気は訪れない。寝ようと思えば思うほ
ど眠れないものなのだ。
475
羊の頭数が八千を越えた時、彼女は喉の渇きを覚えて寝台から立
ち上がった。水差しから水を汲んで乾きを潤す。部屋の中はどこか
蒸し暑く、雫は換気の為に窓を開けた。束の間の涼しい夜風にほっ
と息をつく。
そのまましばらく風にあたり⋮⋮閉めようとした窓を、だが彼女
は逆に大きく開いた。雫は外に身を乗り出して庭を覗き込む。何か
が月光を反射して光ったような気がしたのだ。きょろきょろと首を
回して辺りを窺った彼女は、それが何だったのかようやく見つけ出
した。
植え込みの中、まるで隠されているかのように数十の白い花の鉢
植えが置かれている。その花のどこかが光をちらちらと辺りに振り
まいているのだ。
﹁何だろ⋮⋮綺麗﹂
目を凝らしてみるが何が光っているかまではよく分からない。雫
は少し考えると、窓を閉め上着を羽織り部屋を出た。このまま眠れ
ずに鬱屈としているより、気晴らしに散歩でもした方がいいかと思
ったのだ。
人気のない廊下を抜け、一階の扉から庭へと出る。方角を掴むの
に一瞬だけ迷ったが、すぐに目的の植え込みへとたどり着くことが
出来た。鉢植えは、上から見ると容易に見出すことが出来たが、地
上からは高い垣根ですぐには窺えない場所にあるらしい。
彼女はうろうろと迷った挙句、ようやく垣根の切れ目を見つけて
体を滑り込ませた。途中、枝葉が髪にひっかかりそうになって慌て
て取り除く。何とか雫が細い隙間を抜けて植え込みの角を曲がると、
その先には白い鉢に植えられた白い花が一面に置かれていた。
﹁わあ。凄い﹂
見ると鉢植えの一つ一つはセロファンのように光る紙で飾られ、
やはり白のリボンが結わえられている。この感じでは明日の式場で
使われる花なのかもしれない。雫はしゃがみこむと月光を受けて様
476
々な色に光る紙をつついた。
小さな白い花が集まっている様子はとても可憐だ。手触りのよい
花びらに触れて雫は自然と微笑む。香りを嗅ごうと顔を寄せて、し
かし彼女は怪訝な顔になった。何だか花の香ではない別の臭いが鼻
をついたのだ。
だが雫は頭部に衝撃を受けて草の上に叩き
記憶の中で何度か嗅いだことのある刺激的な臭い。何だろうと首
を捻った瞬間︱︱︱︱
つけられた。
何が起こったのか分からない。目の前が真っ白になって彼女はた
だ地面に伏す。頭上から冷ややかな男の声が響いた。
﹁ここで何をしている﹂
デイタスの声だ。だがそれが分かっても雫は答えることが出来な
い。頭を横から殴られた為か、激しい眩暈に声が出せなかったのだ。
口の中で血と草の味が混じり合う。うつ伏せになったままかろう
じて動かした右手を、しかし男は苛立ちと共に無造作に踏みにじっ
た。新たな痛みに雫は声にならない悲鳴を上げる。
﹁何をしていると聞いているんだ。脱走でもするつもりか?﹂
弁解をしなければ、殺されるかもしれない。
﹁⋮⋮⋮⋮ち、が⋮⋮﹂
︱︱︱︱
だがそうは思っても、手は踏みつけられたままであり、容易には
起き上がることが出来なかった。彼女はかろうじて反対側の手で頭
を支えると口を開く。
﹁⋮⋮違う⋮⋮散歩、に⋮⋮﹂
﹁散歩でわざわざこんなところにか?﹂
﹁窓から、花が、見えたから⋮⋮﹂
舌打ちと共に男の足がどけられた。雫は震える両手で体を起こす
と口元を押さえる。血の味がするということは、どこか切ったよう
だ。だがこの暗がりではよく分からない。
デイタスを見上げることは怖かった。だから彼女は自分を庇うよ
うに抱きしめると視線を草むらに固定する。視界の端に白い花が見
477
えた。
こういう男だったと、忘れかけていた。
初対面の時に散々な目に合わされたにもかかわらず、ほんの数日
暴力を振るわれなかっただけで、逃がしてくれると言っただけで、
雫は少し油断をしていたのだ。或いはそれは、彼が時折見せる目
彼女は再び自分がこんな目に合うとは思って
と、聞いてしまった過去のせいかもしれない。少なくとも実際に殴
られる今の今まで、
いなかった。
恐怖が背筋を走り、言葉が思いつかない。最初に与えられた痛み
が重苦しく精神を支配している。
﹁命が惜しいなら無闇に部屋を出るな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わ、かった﹂
﹁なら部屋に戻れ﹂
男の手が伸びてくる。雫は反射的に体を震わせて後ずさった。デ
イタスはそれを見て刹那、自嘲を顔に浮かべる。
だが彼は手を引くことはせずに、彼女の髪についた草を払った。
汚れてしまった顔を指で拭う。それは優しい手つきではなかったが、
先ほど彼女を殴った手と同じとはとても思えない仕草だった。男は
最後に彼女の手を引いて立たせる。
﹁一人で戻れるか?﹂
﹁平気⋮⋮﹂
雫は彼の気が変わらないうちにそそくさとその場を立ち去る。垣
根を曲がる時にデイタスを振り返ると、彼はまだ鉢植えの前に立っ
て花を見下ろしていた。
どんな表情をしているのか、それは見えない。暗くて分からない。
だが雫は不思議とそれが分かってしまう気がして、身を翻すとも
はや一度も振り返らずに自分の部屋へと戻ったのだった。
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密かに心配していたが、殴られた箇所は目立つような痕にはなっ
ていなかった。雫は起きて浴してからそのことを確認すると、安堵
でいっぱいになる。
何しろ今日を問題なく乗り越えられれば自由になれるのだ。不安
要素は少しでも減らしたい。頭の中で式の手順を確認すると、雫は
慌しく身支度をし、女中たちによって馬車に乗せられた。ネイがい
つものように同行する。
馬車の中で二人になると、ネイは小さな皮袋を彼女に差し出して
きた。
﹁何これ﹂
﹁報酬だ。持っていけばいい﹂
その意味するところを理解して雫は眉を寄せた。手を振って皮袋
を避ける。
﹁要らないよ。それ貰ったら共犯になっちゃうし﹂
﹁せめてもの得を取ろうとは思わないのか? 割に合わないだろう﹂
﹁損得の問題じゃないよ。私はそれを貰いたくないってだけ﹂
雫は溜息をついてかぶりを振る。こういったものは伝わるかもし
れないし伝わらないかもしれない。子供じみた拘りとも言えるだろ
う。
だが彼女は、アマベルを殺したデイタスをやはり肯定することは
できないのだ。
この世界に来て今まで少なからず死を見てきた雫だが、あんな風
に感情で人を殺すことは許されるべきではないと思う。たとえ二人
の間に何があったとしても、一方的な死を以ってそれを終わらせる
ことがいいことだと雫には思えなかった。
彼女は馬車の窓から外を見やる。目に入る街並みは祝いの空気で
賑わっていた。子供たちが笑いながらお互いの頭に花飾りを乗せあ
っている。
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自然と気分が浮き立つような温かい景色に、けれど雫は沈痛さを
覚えて目を閉じた。
貴族や議員が出席する式は厳重な警備が敷かれ、聖堂内部には関
係者以外の部外者は入ることは出来ない。その代わり式が終われば
結婚した二人は馬車に乗って、街を一周してお披露目をすることに
なっていた。
雫はけれど、お披露目には出ない。それ以前に聖堂の裏口から抜
け出るようネイに言われている。花嫁不在でデイタスはお披露目を
どう切り抜けるのか気にはなったが、彼女が気遣うような筋合いで
もないだろう。
聖堂の控え室に到着した雫は、そこでまず徹底的に化粧をされた。
ここまで時間をかけて何重にも化粧をされるのは初めての経験だ。
大体元の世界にいた時も、彼女は外出する際に目元や唇に軽いメイ
クをするだけで、ファンデーションを塗ったことさえない。大学に
入る際に姉が化粧の仕方を一通り教えてくれたが、その時に﹁雫ち
ゃんは肌、綺麗だし当分そのままでもいいんじゃないかな﹂と言わ
れたので、せいぜい日焼け止めを塗るくらいに留めていたのである。
あっちをむいて、こっちをむいて、目を閉じて、上を向いて、と
絶えず指示を繰り出されていた雫は、途中から意識を半分明後日の
方向に離脱させていた。椅子に座ったまま一歩も動いていないのに、
何だか次第に疲労していく気がする。本物の花嫁でもこれはぐった
り疲れてしまうのではないかと思われた。
だが、﹁これで出来上がりですわ﹂と言われ鏡を見た雫は絶句す
る。長すぎると思った、それだけの時間をかけた結果は、確かにそ
こにあったのだ。
もともと大きめだった目は今は綺麗に入れられたラインと白金で、
480
少し荒れてしまっ
華やかに彩られている。艶を増した黒い睫毛は、瞳と相まって愛ら
しいながらも蠱惑的な印象を醸し出していた。
た肌は、丁寧に塗られているにもかかわらず透き通るように白い。
あちこちにそっと入れられた真珠色の光と薔薇色の翳が鼻梁を高く
見せ、薄紅色の頬は実に幸福そうな印象を持っていた。
顔立ちの違いはあっても、これなら或いは貴族令嬢と言って通る
かもしれない。雫は自分であって自分でない鏡の中の少女に、感嘆
の声を上げた。
﹁うわぁ、化粧って凄い。これは騙されるかも﹂
満足げに微笑んでいた介添えの女は、花嫁のあんまりな感想に肩
を落としたが、雫自身は興味津々で鏡を覗き込んでいる。だがいつ
までもそうしている時間はない。式の予定は分刻みで動いているの
だ。
﹁アマベル様、次は着替えをなさってください﹂
﹁あ、はい﹂
雫は慌ててドレスを準備する邪魔にならないよう部屋の隅に避け
る。そこにいると、傍にある窓から聖堂の裏口付近が目に入った。
彼女は何とはなしに開かれた出入り口を眺める。
止められた馬車から次々運び込まれる鉢植え。あれは昨晩彼女が
庭で見つけたものだ。やはり式場を飾るものだったのか⋮⋮と納得
しかけて、雫はふとあることに思い当たった。
白い花に顔を寄せ、嗅いだ香。それは火薬の臭いに、よく似てい
たのだ。
式を挙げた後、二人がどのルートを通ってお披露目をするかは既
にエリクの知るところであった。だがその途中でどうにか出来るか
といったら難しい。走っている馬車を止めるのもそれなりに手間が
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いるのだ。
だから彼はもっと前を狙った。関係者以外は入れない聖堂。そこ
に入るために、別の人間にまず接触したのだ。
二人の侍女を伴ってヴァローラが聖堂に到着したのは、予定時刻
ぎりぎりのことである。
化粧越しでも分かる青い顔色。口元を押さえて中に入ろうとした
彼女はしかし、馬車を降りてすぐに一人の男に声を掛けられた。魔
法士の格好をした男は﹁ディセウア侯爵令嬢ですね﹂と確認を取る
と彼女に歩み寄る。彼は声を潜めて囁いた。
今日結婚する花嫁のことでお話があり
﹁本来はお父上にお話しすることなのですが、屋敷にはいらっしゃ
らなかったので。︱︱︱︱
ます﹂
﹁アマベル様のことかしら。あの方がどうかして?﹂
﹁今の彼女は偽者です。攫われてアマベルを演じさせられているた
だの娘だ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁本物は⋮⋮ほら﹂
指輪の裏にはリシュカリー
男は手を差し出した。そこには高価な装身具がいくつか乗せられ
ている。そしてその内の一つ︱︱︱︱
ザの名が刻まれていた。彼女は信じられない目でそれを見つめる。
﹁探すのに時間がかかってしまいましたが、森の奥に埋められてい
たのをようやく見つけました。お疑いなら後でご案内しましょう。
本当のアマベル・リシュカリーザは殺されている。今、花嫁にされ
かけている娘は僕の連れです﹂
ヴァローラは目を見開く。
その目を真っ直ぐ見据えて、エリクは﹁協力をお願いしたい﹂と
冷ややかな声で告げたのだった。
482
花嫁衣裳を身につけ、ヴェールを被った雫は所在なく控え室に座
っていた。時間を見るとあと三十分程で式である。今頃は別の﹁花
嫁﹂も支度をしているのだろうか。雫は他に五人いるはずの女性た
ちにぼんやりと想像を働かせた。
未婚の女性が婚約者以外の男と二人きり
彼女は部屋で一人見張りをしているネイを窺う。彼はほとんどの
場合雫と一緒にいるが、
デイタスの片腕である彼
でいても、よくないとは思われないらしい。身分差のせいか、よほ
ど信用されているのかは分からないが、
は得体の知れない男だった。雫は沈黙が居心地悪くなって口を開く。
﹁アイテアの神話って酷いよね﹂
﹁そうか?﹂
﹁だって神様なのに無視されるなんてあんまりじゃない? 奥さん
になる子だけが唯一口をきいてくれるとか﹂
﹁理解する気がなかったんだろう﹂
端的な答に雫は首を傾げた。神話への理解力が足りないというこ
とだろうか。だがネイは彼女の様子に気づいて補足する。
﹁村人を含め他の娘たちには、神の言葉を理解しようという意思が
なかった。唯一神妃ルーディアだけが純真であった為にその真摯を
持っていたんだ﹂
意外とも言える真面目な返答に雫は虚を突かれた。
なるほど、そう考えれば納得できる。神の言葉とはしばしば難解
で、解釈の余地を多く持っているものだ。
アイテアに呼びかけられた他の人間たちはそれを理解しようと試
みることさえしなかった。そして、一人真面目に神に向き合った少
女だけが彼の妻となりえたのだ。神妃とは神託を伝える巫女のよう
なものでもあったのかもしれない。雫は納得の息を吐き出す。
﹁⋮⋮プ、プレッシャー﹂
神話の意味は分かったが、余計プレッシャーが増してしまった。
483
ならば本来この式は、花嫁である彼女だけがデイタスの意に耳を傾
けることが出来るという繋がりを暗示しているのだろう。
だが、現実はそれとは乖離している。雫にデイタスは理解できな
いし、彼も彼女に理解してもらおうなどとはまったく思っていない。
神と人との例に及ばず、人間同士の間でも会話において、単語の意
味は分かっても話の意を正しく理解できるとは限らないのだ。
雫はいつかエリクに聞いたことを思い出す。
﹁白い﹂という単語が会話の中で同じでも、相手と自分が本当に同
じ﹁白﹂を指しているのかは、完全には確かめられないのだと。
途方もない気分になった彼女は、凝ってしまいそうな肩をほぐす
為、両手を上げ伸びをした。袖についた花飾りがヴェールをくすぐ
る。
控え室の扉がノックされたのはその時だった。扉近くに座ってい
たネイが立ち上がって応対に出る。そこに立っていたのは小間使い
らしい服装の少女だ。彼女はネイに何事かを囁く。彼は頷くと雫を
振り返った。
﹁ディセウア侯爵に呼ばれた。少し席をはずすがそのままで待って
いろ﹂
﹁分かった﹂
男は少女の案内で足早に出て行った。雫は一人きりになって欠伸
をする。だが、ほっとしたのも束の間、すぐに扉は叩かれた。彼女
は慌てて立ち上がるが、ドレスが広がっていて上手く歩けそうにな
い。外にも聞こえるよう大声で対応しようとした時、けれどドアは
勝手に開かれた。
そこから一人の男が入ってくる。
﹁や、久しぶり﹂
﹁ひ、ひさしぶり、です﹂
﹁うん。無事で何より。じゃ、脱いで﹂
﹁⋮⋮その発言、あなたじゃなかったらセクハラですよ﹂
484
気が抜けた雫は、涙を堪えながら笑
聞きなれぬ単語を聞いたエリクは怪訝な顔になった。その表情に
﹁日常﹂を思い出し︱︱︱︱
い出したのである。
部屋に入ってきたのはエリクだけではなかった。ヴァローラが侍
女の一人を伴って入ってくると雫に向って深く頭を下げたのだ。
﹁御免なさい。私、あなたがアマベルではないと知らなかったの⋮
⋮﹂
﹁こ、こちらこそ騙していてすみませんでした﹂
頭を下げ返すとヴァローラは美しい顔を歪めて微笑する。何故か
その目は雫に痛ましさを覚えさせた。青い顔をしている彼女は、傍
に控える侍女に目だけで指示を出す。侍女は雫の後ろに回ってヴェ
ールに手をかけた。
﹁御免なさいね。こんなことに巻き込んでしまって。花嫁は私が代
わるわ。だからあなたはすぐにここから逃げなさい﹂
﹁え? でも、ヴァローラさんも⋮⋮﹂
式の前に逃げ出す。そんなことが出来るのだろうか。
﹁私の衣裳は侍女が着るわ。大丈夫。ヴェールと化粧で分からなく
なるから﹂
︱︱︱︱
放っておいても式が終われば解放されるのだ。こんなことをして
無闇にデイタスの怒りを煽ることにならないか。
雫は不安の目でエリクを見やる。だが彼は﹁急いで﹂というと部
屋を出て行ってしまった。着替えをする彼女達への配慮だろう。ヴ
ェールを固定するピンをはずされながら、雫は服を脱ぎだしたヴァ
ローラを見やる。
﹁デイタスは⋮⋮怖い人です。それに、終わったら逃がしてくれる
って言ってたし、ヴァローラさんに迷惑をかけては⋮⋮﹂
﹁違うの。私たちが、あなたに迷惑をかけたのよ。それ以外ではあ
りえないの。だから、これ以上関わるのはよくないわ。あとは私が
485
終わらせるから︱︱︱︱
﹂
ヴァローラの貌はその時、まるで病みつかれた人間のように見え
た。それでいて瞳だけが強い意志を帯びている。
雫は一瞬息を飲んだが、彼女の意の強さを感じると躊躇いながら
も頷いた。それ以上は何も言わずにドレスを脱いで着替える。
あれほど着るのに苦労したドレスをヴァローラはさっさと身に着
けてしまった。最後に顔を隠すようにヴェールをつける。それを平
服に着替えた雫はぼんやりと見つめた。
﹁あの、大丈夫なんですか? 他にお父さんとかもついてますよね
?﹂
﹁ええ。私は貴族の娘だから何もされないわ。心配しないで。ちゃ
んとあなたが逃げ切るだけの時間を稼ぐから﹂
ヴェールの下の表情はよく分からない。雫は促されてドアに手を
かけながら、それでも心配になって振り返った。もう一度ヴァロー
ラの方を見る。
﹁⋮⋮あなたがデイタスの恋人だったって、本当ですか?﹂
少しの間。乾いた大地のように広がる空虚。
取り戻せない罅割れた時間をそこに置いて⋮⋮⋮⋮ヴァローラは
笑った。
﹁本当はね。あなたなら彼を少しずつ変えていけるんじゃないかっ
て思っていたの。彼を理解しようとしてくれるのではないかと。で
もそれは甘えだったのね。デイタスの言葉を聞くことができるのは
最初から私しかいかなかった。私にはもうその資格はないのかもし
れないけれど⋮⋮﹂
それは、遠い過去が含まれている言葉だ。届かないものを想う言
葉。期せずして人の深奥に触れる答を聞いてしまった雫は、感情を
選びかねて沈黙する。
多分、何かがあったのだろう。かつて恋人であり、そして突然別
たれた二人には。だがそれは部外者である雫が踏み込んでよいもの
486
には思えなかったし、彼女にはその気もなかった。
雫はただ﹁ありがとうございます﹂と言って部屋を出る。そこに
は壁に寄りかかったエリクが待っていた。
﹁よし、行こう﹂
﹁はい﹂
そうして二人は、慌しく人の行き来する廊下を歩き始める。
式の始まりまで時刻はあと十五分に迫っていた。
﹁ディセウア侯爵が来ていない﹂
あっさりとした報告にデイタスは顔を上げた。その表情が見る見
る険しいものになる。他の使用人には決して見せない顔、だがネイ
は平然と男の威圧溢れる視線を受け止めた。﹁どういうことだ﹂と
いう詰問に順序だてて答える。
﹁先ほどディセウア侯爵の使いの者に呼び出された。だが、指定の
場所に行っても侯爵はいなかった。おまけに会場のどこにもだ。屋
敷には既にいないという話もある。ヴァローラは来ているようだが
⋮⋮﹂
﹁逃げたか?﹂
﹁分からない。情報が洩れているとは考えにくい﹂
従者という立場にもかかわらず、ぞんざいな口調で報告する男を
デイタスは睨んだ。だがそれは、ネイに不満があるというより思考
を巡らしているが為の表情である。デイタスはしばらく考え込むと
口を開いた。
﹁ぎりぎりまで会場内を探せ。やつがいなければ意味がない﹂
﹁分かった。見つからない時は延期するのか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いや、できない。あの娘を拘束したままにするとしても、
お披露目に出せばアマベルではないと知れるかもしれん。それに、
お前との契約は今日までだ﹂
487
﹁ああ。そうだったな﹂
よく分かっていることを、まるで今思い出したかのようにネイは
頷く。デイタスは皮肉げに唇を歪めた。部屋を出て行こうとする従
者に花婿は声をかける。
﹁お前は、明日からどうする。国にでも帰るのか?﹂
浅黒い肌の男は足を止めた。振り返らぬまま答を返す。
﹁まさか。俺はお前程過去を引き摺っているわけではないが、それ
でもあの国に帰る気はない。あそこに俺の居場所はないからな﹂
足音をさせぬままネイは部屋から出て行く。扉の閉まる音だけが
部屋に響き、後には表情のないデイタスだけが残された。
雫は顔を隠す為に、俯きながらエリクの後についていった。入っ
てきた時も思ったのだが、通路は上ったり下りたり妙に入り組んで
いる。それでも彼は道が分かっているのか、人の少ない通路を選ん
で出口に向かっているようだった。普通の招待客は立ち入らない、
吹き抜けで式場部分を見下ろせる通用路に差し掛かると、雫は階下
の光景に気を取られる。
﹁す、すっごい人⋮⋮。でなくてよかった⋮⋮﹂
﹁街の有力者がほぼ全員集まってるらしいよ。でも君、婚礼衣裳着
たがってなかった?﹂
﹁脅迫されて着るのはちょっと⋮⋮。他人事なら飾りつけとか綺麗
なんですけどね﹂
あちこちが白い花と布で飾られた聖堂内を彼女は一瞥する。その
視線はだが、ある一点で止まった。見覚えのある鉢植えが目に入る。
﹁あ、あの花⋮⋮﹂
﹁ん? どれ?﹂
﹁燭台の下に置かれてるやつです。あれって﹂
しかし雫は最後まで言い切ることが出来なかった。突如死角であ
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る廊下から現れた男にぶつかってよろめく。
﹁ご、ごめんなさい﹂
反射的に謝り、顔を上げて雫は凍りついた。相手の男もさすがに
唖然とした目で彼女を見下ろす。
﹁お前⋮⋮どうしてこんなところに⋮⋮﹂
いち早く動いたのはエリクだった。彼は男に向かって何かを投げ
つける。男がそれを避けて体勢を崩した隙を狙って、彼は雫の手を
引くと走り出した。素早く角を曲がると後ろを窺いながら尋ねる。
﹁誰?﹂
﹁デ、デイタスの従者。私の見張り﹂
﹁それは不味いね﹂
雫は振り返れない。足音も聞こえない。
だが、誰かが追ってくることは分かる。嫌な圧力を背後に感じる。
先が見えない恐怖。けれど外に向って走る彼らとは別に、終わり
の時は確かに近づきつつあった。
細い廊下は、片端に婚礼の為に用意された飾りの余りや道具が積
み重ねられ、余計に狭くなっていた。その中を雫はエリクと二人ひ
たすら走っていく。
だが無言での逃走も長くは続かなかった。雫はすぐ背後に迫る気
配にぞっと恐怖する。彼女の手を引いて走っていたエリクが、彼女
を前に押しやると﹁走って﹂とだけ言った。
彼はそのまま追ってくるネイに相対する。
﹁エリク!﹂
一瞬、彼が切り伏せられる未来を想像して雫は青くなった。すぐ
には止まれない勢いのまま数歩を行って振り返る。
けれどちらっと見えた光景はそうではなかった。床に浮かび上が
った魔法陣、その中に踏み込んだネイは無数の白い糸に絡みつかれ、
それに剣を鞘ごと掴み取られていたのだ。まるで繭の中のような有
489
様に雫を目を丸くする。
ネイは右腕に巻きつく白い糸を振り上げながら、詠唱するエリク
を睨んだ。
﹁罠か。魔法士め﹂
﹁前もっての準備は魔法士の常套。連れを返してもらうだけだから
怒られる筋合いはない﹂
どうすればいいのか、雫は二人の男を数歩離れたところから見や
った。その袖を誰かが引く。
﹁行きましょう、マスター﹂
﹁メア﹂
いつの間に現れたのか、少女の姿の使い魔はもう一度雫の手を引
いた。確かにエリクも先に行くよう促して手を放したのだ。彼女は
躊躇いながらも足を踏み出す。だがその時、視界の隅にネイが腕を
振り上げる姿が映った。
白い糸を膂力によって引きちぎりながら、男は剣の柄を握るとそ
れを引き抜いたのだ。鋭い刃で糸を両断しながら、そのまま剣をエ
リクへと振り下ろす。
しかし、本来の速度を糸によって殺されていた斬撃は、エリクが
一歩後ろに下がったことにより空を切った。蒼白になった雫は、彼
が無事だったことに安堵する。だが、ネイはそのまま糸を振り切る
と魔法陣から一歩を踏み出した。
微塵の容赦もない剣が、再度エリクを襲う。
雫は目を閉じなかった。ただ、突き飛ばされるようにして走り出
す。離れてしまった距離を埋めようと手を伸ばした。聞こえてきた
のは金属の鳴る高い音。思わず彼女が目を瞠ったその先で、ネイは
不敵な笑みを見せる。
﹁面白い。剣を使うか﹂
﹁実は得意じゃない﹂
真顔の為本気か冗談かは分からない。けれど現実としてあるのは、
490
エリクは短剣よりも少し長い突剣で相手の剣を受けているというこ
とだった。
魔法士の男は、僅かに剣の軸を捻りながらネイを押し返し後ろに
距離を取る。だがそれは彼の力が強いというよりも、ネイが自ら剣
を引いたように雫の目には映った。
長剣を振り上げると、ネイは三撃目を打ち込もうとする。それが、
今までとは比べ物にならない威力を込めたものであることは気配で
分かった。
エリクは僅かに顔を歪め、半歩下がりながら突剣を上げる。それ
雫は間に合ったのだ。
は彼にとっては分の悪い賭けであっただろう。
しかしそこに︱︱︱︱
受けきれないかもしれない剣を受けようとしたエリクの判断が賭
けならば、雫の判断もまた賭けだった。彼女は、ネイが自分を追っ
てくるということはヴァローラが身代わりになったことを知らない
のだと、あくまで﹁花嫁﹂が必要な為だと考えたのだ。
だから、彼はできれば雫を殺したくないはずだ。侵入者であるエ
リクに対してよりも、彼女には剣を振るうことを躊躇うに違いない。
後から整理してみれば、そんな思考の結果だったのだと思う。け
れど実際には彼女はただ夢中でエリクの前に飛び込んだだけだった。
雫をみとめて剣の勢いが鈍る。エリクは顔色を変えると彼女を庇
って抱きしめた。その腕の中で、雫は叫ぶ。
﹁メア! 花籠取って!﹂
主人からの命。それを受けて廊下に積まれていた箱の上から花籠
が落ちた。中に詰まっていた色とりどりの花びらが、剣を引きかけ
たネイの視界を遮る。
そしてその隙に、雫は箱の中に差し込まれていた棒を抜き取った。
それを見たエリクの腕が緩む。
﹁ごめんね!﹂
491
ネイに殴られたことはなかった。親切にされたこともあった。だ
からそんなことを叫びながら、雫は木の棒を振り被って︱︱︱︱
棒を受けようとする剣ではなく、男の手首に向って打ち下ろす。
一瞬の差でその意図を見抜いたネイの動きを、しかし後ろから伸
びてきた白い糸が再び遮った。エリクが目を細めて詠唱を再開して
いる。
木の棒はほぼ正確に男の手首のくるぶしを打ち抜く。直接骨に響
く衝撃は、雫の力であってもネイの手を瞬間しびれさせた。
ほんの僅かな隙。だが指が緩んだその間に白い糸が剣を抜き取っ
ていく。反射的に柄を掴み直そうとした指を、雫がまた棒で打った。
自分が痛そうに顔を顰めて、彼女は白いリボンが巻きつけられた棒
を構えている。
その隣で魔法士の男がネイのものであった長剣を手に取った。エ
リクの方は冷淡さが滲み出る容赦のない視線をネイに注いでいる。
武器を失った男は二人を見て皮肉げに笑った。
﹁面白い﹂
男はそれだけしか言わなかった。そして素手のまま半歩を踏み出
す。
ただの半歩、だが雫は何故かそこに強い恐怖を感じずにはいられ
なかった。硬直しかけた体をエリクが後ろに押しやる。
﹁エ、エリク!﹂
﹁大丈夫。逃げてて﹂
﹁逃げてもすぐに捕まえる。その男を死体にしたくなかったら戻っ
て来い﹂
ネイは顔と同じ肌の色の指を上げた。そこには古びた剣のように
彼らの遥か背後で大きな歓声があがる。
正体の分からぬ忌まわしさが漂う。雫はメアの名を呼びかけた。
だがその時︱︱︱︱
式場から聞こえる花嫁たちを称える声。それは、祝祭の一部でも
ある式の始まりを表すものだった。
492
ネイは目を細めて聞こえてくる歓声に聞き入った。エリクの後ろ
にいる雫に視線を移す。
﹁ドレスはどうした。身代わりを立てたのか?﹂
﹁あ、ヴァローラさんが⋮⋮﹂
つい答えてしまったのは、男の声音が一瞬前とは違い、数日間一
緒にいた時と同じ平坦なものだったからだ。ネイはそれを聞いて少
しだけ眉を寄せる。だがすぐに男は笑った。
﹁そういうことか、あの女⋮⋮﹂
その笑いは楽しげというにはどこか歪な昏さを拭えないものであ
った。雫は顔を歪めて、初めて見る男の笑い顔を見つめる。ネイは
彼女の視線に気づくと追いやるように手を振った。
﹁ならば行くがいい。折角助かった命だ。その男と一緒にまっとう
しろ﹂
唖然として何も言えない雫の前で踵を返し、そうして男は去って
いった。狭い廊下には二人と、メアだけが残される。
しばらくしてようやく雫は、取り上げた剣を適当な箱に押し込む
エリクを見上げた。
﹁助かった?﹂
﹁みたいだね。今のうちに行こう﹂
廊下の先を示すエリクの後について、雫は何度も振り返りながら
廊下を歩いていく。通用口と続く細い道は確かに、舞台の外へと彼
女を導くものであったのだ。
※ ※ ※
ディセウア侯爵がいたという報告は入ってこない。あれからネイ
は戻ってこない。膨れ上がる苛立ちを抱えながら、だがデイタスは
493
背筋を伸ばすと堂々たる姿で式場内に足を踏み入れた。
既に六人の花嫁は祭壇の後ろに並んでいる。その一番右端が、妻
たる女の場所だ。列席する上流階級の人間たちが、ある者は尊大に、
ある者は感心したように若く才能ある男を見つめている。そんな中、
デイタスは傲然と頭を上げ、真っ直ぐに伸びる通路を歩いていった。
それは子供の頃彼が描いた、数多くの想像の一つに近しいものだ。
﹃いつか奴らが無視できないようなところまで行ってやる。自分の
力でのし上がって、奴らの前に立ってやる﹄
まだ幼かった彼がそう言った時、病床にあった母親が悲しそうな
顔になったのは、彼の言葉が子供らしい野心というには、余りにも
妄執に似た響きを帯びていたからだろう。
だがその母もあれからまもなく亡くなった。そして彼は今までず
っと独りで生きてきたのだ。
暗く淀む憎悪を何故忘れられなかったのか分からない。もっと陰
惨な生を送る人間も広い大陸にはいくらでもいただろう。しかし、
彼には彼の人生しかない。そしてそれは、別の誰かと比べて溜飲を
下ろせるようなものではなかった。
デイタスは祭壇の後ろに立つ白いドレスの女たちを見やる。
男の言葉を聞かない五人の女と、向かい合う一人の娘。けれどそ
れは単なる神話でしかない。彼の言葉を聞こうとした人間など今ま
で一人もいなかったのだ。似た淀みを抱える従者であった男を除い
ては。
どうせ言っても伝わらないのなら、それを口にする必要などある
のだろうか。
馬鹿馬鹿しい。全ては欺瞞だ。皆が皆、適当なところで折り合い
をつけて他人を嘲笑っている。そんな些細なことで幸福になれるの
だ。だが、デイタスは自分がそうなることに我慢できなかった。
祭壇の前に立った彼は、振り返ると参列者に一礼する。
そして、再び踵を返すと左端の女の前に立った。手袋をしている
494
手を取り、﹁あなたの名は何であるか﹂と問う。
しかし女は答えない。そのことに心地よささえ覚えてデイタスは
次の花嫁の手を取った。
ヴァローラを初めて見た時のことは忘れられない。
それは侯爵邸の裏庭でのことだった。そこにデイタスは迷い込み、
そして彼女に出会ったのだ。
こんなに綺麗な生き物が世の中にはいるのかと思った。それくら
い彼女は完璧で、手の届かない存在に思えた。それでも、彼女と話
をしてみたいと思ったのだ。だからこそ、彼は散々迷ったけれど緊
張に震えながらも話しかけた。
ヴァローラは不思議そうに彼を見上げて、微笑んでくれた。彼の
名前を尋ねて、自分の名も名乗った。それから二人はお互いの手を
取った。そうすることが自然に思えた。
だが、砂糖菓子のように幸福に似た時は、あっという間に終わり
を告げたのだ。
別の人間と結婚すると言った時、彼女は﹁そう﹂としか言わなか
った。おそらく父親の介入のことを知っていたのだろう。
それきり一度も会っていない。けれど彼女は今彼のすぐ傍に立っ
ているのだ。彼の言葉を聞かない数多の人間の一人として。
デイタスは五人目の女の手を取った。それがヴァローラの位置で
あることを彼は知っている。
けれど彼はお決まりの問いを口にしながらも、あることに気づい
て表情を変えた。違和感を覚えた手から視線を上げ、厚いヴェール
の向こうに目を凝らす。よくは見えない顔。だが微かに見える口元
から彼女がヴァローラでないことは分かった。デイタスは怒りに顔
を引き攣らせる。
495
︱︱︱︱
結局、また彼女は彼を拒絶したのだ。そうして逃げた。
父ともども。
最後まで彼の前に立とうとはしなかった。そんな女なのだ。
許しがたい傲慢。しかしそれは、最初から期待を抱いた自分が悪
かったのだろう。何かを返してくれると思っていた自分が愚かだっ
た。
デイタスはヴァローラのドレスを着た女を鼻で笑うと最後の一人
の前に立った。
出会ったばかりの、不思議な少女。
弱くて、だが芯を持っている。彼を恐れながら、時折透き通るよ
うな目で彼を覗き込んでくる。おそらく真っ直ぐに育った娘なのだ
ろう。苦労を知らないという程世間知らずなわけではない。
ただきっと、愛情を受けて育った彼女は人を信じたがっている。
お人よしなのだ。森で会った時にも最初から逃げていればよいのに
アマベルを助ける為に飛び込んできた。そして、あれだけの目にあ
ったにもかかわらず、どこかで彼のことを心配そうに思っている。
あんなではとても大人になって生きていけないだろう。さっさと
家族のところに戻ればいいのだ。騙され傷つけられて変わってしま
う前に。
デイタスは最後の女の手を取る。白い手袋ごしの手は少しだけ震
えていた。彼はヴェール越しに女を見つめる。
﹁あなたの名は何であるか﹂
少しの空白があった。
何だか懐かしい時間。だが、それは失われたものそのものではあ
りえない。
女の手が、彼の手をそっと握る。温かな感触はお互いの手袋を越
えて不思議なほど染みいった。よく知る感触。その意味することを
悟ってデイタスは愕然とした。女は口を開き、囁く。
﹁私の名は、ヴァローラ・ディセウア﹂
その声はかつて清んでいた。世の何よりも美しく聞こえた。
496
まるで硝子細工のように、どこまでも煌いて、純粋な存在。
デイタスは最後の女をただ見つめる。それはあの時よりもずっと
緊張をもたらす、悲しい時間だった。
ネイから逃れた二人は残り僅かな廊下を走っていた。雫はエリク
の指示通りに角を曲がって、だが次の瞬間、危うく転びそうになる。
﹁うわっと!﹂
バランスを崩したのは、廊下の隅に置かれていた空の鉢植えに躓
きそうになったからだ。彼女は壁に手をついて体を支えると、咄嗟
にそれを飛び越える。
﹁あ、危ない﹂
﹁気をつけたほうがいい。君は時々そそっかしい﹂
﹁ご忠告痛み入ります﹂
後ろを振り返るが他に人間はいない。雫は蹴倒しそうになったさ
っきの鉢植えから、ふと白い花のことを思い出した。直線の廊下を
駆け抜けながらエリクを見上げる。
﹁そういえば、昨日デイタスに殴られた時⋮⋮﹂
﹁殴られた?﹂
﹁な、なぐられた﹂
静電気のように空気がぴりっとしたのは気のせいだろうか。雫は
何となく首をすくめながら続きを口にする。
﹁その時にいっぱい白い花の鉢植えがあったんですよ。式場の飾り
﹂
用みたいだったんですけど。今思うと何となく火薬の臭いがした気
がして︱︱︱︱
何故、今この時になって抱いていた微かな懸念を口にしたのかと
言えば、それは雫が無意識のうちにずっとデイタスの目的について
訝しんでいたからだろう。
初めは誤って殺してしまった娘の穴を埋め、滞りなく議員になる
497
為かと思っていた。
だがそれにしてはあまりにも不安要素が多い。もし本物のアマベ
ルを知る人間が来たならどうするのか。それよりも街を回るお披露
目はどうするのか。いつもぴりぴりとしている彼は、式を乗り越え
ればそれで済むと考えているほど楽観的な人間には見えない。まる
。
でもっと他に大事なことが彼にはあるように思えるのだ。そう、例
えば、この式を開くこと自体が目的のような︱︱︱︱
だから火薬の臭いが気になった。鼻につくというよりもちらちら
と脳裏を、嫌な予感が行き来している気がするのだ。
﹁そういうことか﹂
返って来たのはあっさりとした答だった。雫は思わず足を止めそ
うになる。その背をすかさずエリクが押した。
﹁そ、そういうことってどういう⋮⋮﹂
﹁火薬を偽装して持ち込んだということだろう? ならこの式場で
爆発を起こすつもりだ。燭台の下に不自然に発火構成が引かれてい
たんだ。あの上にでも火薬を置いて着火させるつもりだと思う﹂
﹁ば、爆発!? テロ!? 何で!﹂
﹁理由は知らない﹂
二人は角を曲がる。廊下の先に外へと繋がる扉が見えた。だが、
雫はかえって足を緩めてしまう。彼女は緊張が隠せない目でエリク
を見上げた。
﹁なら止めないと⋮⋮。まだ間に合いますよね﹂
﹁さぁ。どうだろう。式の終わりまで燭台をつけないということは
不自然だ。だから、もう猶予はほとんどないと言っていいだろう﹂
エリクは止まりそうになった雫の手を強く引く。だがその意味す
ることが分かっていても、彼女はそれ以上走れなかった。
﹁私、行って来ます。だってヴァローラさんもいるし⋮⋮﹂
﹁駄目。とにかく逃げることが最優先。それは僕が行って来るから﹂
扉に向って、彼は雫の背を軽く叩いた。そのまま微塵の迷いもな
498
く踵を返す。彼女は一瞬唖然としてその背を見つめて︱︱︱︱
かしすぐに男の後を追った。
﹁私も行きます!﹂
し
﹁何言ってんの。君は顔が割れてるし、魔法陣が見えないじゃない
か﹂
﹁うっ。その通り。でも﹂
来た道を彼女は引き返す。そこに恐れはあっても、後悔はない。
﹁でも、一人より二人のがましですって! さっと行ってぱっと消
しちゃいましょう!﹂
デイタスは、雫の目に何を見たのだろう。ヴァローラは何を望ん
だのだろう。
もし雫自身が本当にアマベルであったのなら、今よりももっとこ
の意味の分からぬ事態に関われたはずだ。そして、そのことで何か
が変わったのかもしれない。ほんの些細な変化でも。
だが、雫は雫でしかない。言葉を聞けない部外者で、通り過ぎる
だけの旅人。まるで一人外部に立っているようなものだ。
けれどそれでも何もできないわけではないだろう。荒野に水を撒
くことができずとも、それが壊れてしまわないように手助けするく
らいはできるはずだ。
エリクは珍しく険しい表情を作ったが、何も言わずに彼女を連れ
て元来た道を走り出す。
いつの間にか歓声はやんでいた。
ただ静寂だけが聖堂全体を浸しており、まるで海に浮かぶ孤島の
ように、この場所が周囲から隔絶されている幻想を雫は抱いたのだ
った。
﹁何故ここにいる﹂
デイタスはカラカラに乾いた喉でようやくそれだけ口にした。ヴ
499
ァローラは微笑む。
﹁私が、あなたの前に立つべきだと思ったから。それだけだわ﹂
二人の会話はヴァローラの名乗りも含めて、列席する人間までは
届かない。ただ出席者は一向に動かない二人を少し怪訝そうに見や
っているだけだった。
﹁父親はどうした。来ていないと聞いたぞ﹂
﹁もういないの﹂
﹁いない⋮⋮?﹂
ヴェール越しに見えるか見えないかの瞳。デイタスは視界を遮る
絹を取り去りたいと思ったが、それは出来ずにいた。見たいと思っ
ている気持ちと同じくらい、彼女に見られたくなかった。宝石のよ
うな瞳が蔑みに染まるところを目の当たりにしたくなかったのだ。
ヴァローラの指に力がこもる。重いものなど持ったこともないの
だろう細い指が、彼の手を握った。
﹁私、この結婚であなたが幸せになれると思っていたわ。もしかし
たらそれで、自分の罪悪感が薄れることを期待していたのかもしれ
ない。でも父はそうではなかった。昨日やっぱりあなたを議員に取
り立てるのはやめると言い出して⋮⋮それでは駄目だと思ったの﹂
デイタスは黙って聞いていた。反論することがないわけではなか
ったが、彼女の言葉を聞きたい思いが勝った。
偽りでも本物でもない花嫁は少しだけ首を傾げる。彼女は男の肩
越しに式場を見回した。
﹁だから、私、お父様を殺してしまった。言い争いになってそのま
ま﹂
ぽつりと呟かれた言葉。その意味を認識して彼は目を見開く。も
殺した、のか? お前が?﹂
う片方の手で彼女の肩を掴んだ。
﹁︱︱︱︱
ヴァローラは答えない。ただふっと微笑んだだけだ。
﹁私、あなたが幸せになれると思ってたの。だから何かを贈りたか
った。あなたはずっと父を憎んでいたでしょう? 父を殺してしま
500
ったのだと気づいた時、とんでもないことをしたと思ったけど、こ
れであなたが解放されると思ったら嬉しかった。でも⋮⋮あなたも
アマベルを殺していたのね。デイタス﹂
その言葉で彼は全てが露呈したことを悟った。だから彼女はここ
にいるのだ。別の少女が着るはずだったドレスを着て。
彼女の手は初めて出会ったあの日のように彼の手を握っている。
だが、もはや大人のものになってしまった手は、触れていてもど
こかが遠い。あの時のように無邪気ではいられない。
﹁デイタス。何も関係ない子まで巻き込んであなたが式を開いたの
あなたに石を投げた私を﹂
は復讐の為? 恨んでいるのでしょう? あなたたち母子を追い出
したこの街を。︱︱︱︱
式場は静寂に満ちている。静謐よりも重い何かが広がっていく。
その中で二人はただ、お互いだけを見つめていた。
式が進行している最中、入場口近くで裏方をしていた職人の一人
は、小窓から式場を見渡してふと首を傾げる。彼は近くに居た雇わ
れの魔法士に話しかけた。
﹁あの燭台はつけなくていいのかい?﹂
﹁式が終わって花嫁が衣裳換えしてる時に花婿が挨拶するから、そ
の時につけるらしい﹂
﹁へぇ。今つければいいのにな。勿体無い﹂
﹁お偉いさんの考えることは色々あるのさ﹂
魔法士はそう言って欠伸を一つする。予定では構成に魔力を通す
時刻まではあと五分ほどだ。だが、式場の様子は予定よりも進んで
いない。何故か花婿が花嫁の前から動かないのだ。
本当ならもう二人は祭壇の前に立ち、宣誓書に署名をしている段
階だ。一体何があったのだろう。
501
﹁参ったな⋮⋮﹂
規則正しく進む上流階級の式で、こんな滞りが出るとは思わなか
った。だからこそ彼は時間通りに終わることを予想して、次の街に
陣を使って転移する許可を直後の時間に取り付けてしまってあった
のだ。
次の街でも既に仕事は入っている。これよりももっと手間がかか
って重大な仕事が。魔法士の男は時計を見て眉を寄せた。
ここで請け負った仕事は、決まった時刻になったら構成に魔力を
通すというだけのことだ。そして、式が遅れているのは向こうの責
任だ。どうせ燭台がついていた方が綺麗なのだから、時間になった
ら始めてしまおう。
そう思って彼はまた一つ欠伸をしたのだった。
デイタスは大きな驚愕を覚えながらも、心のどこかで安堵する自
分を感じていた。震える声でヴァローラに問う。
﹁いつから知っていた? 父親に聞いたか?﹂
﹁違うわ。私の方が先に気づいたの。名前を変えたあなたが屋敷に
訪ねて来たその時から⋮⋮。今更こんなことを言っても信じてくれ
ないかもしれないけれど、私はずっとあのことを後悔していた。あ
の時はあなたのお母様のことで苦しむ母を見ていたからあんなこと
をしてしまったけれど、あなたがいなくなってから後悔した。だか
ら、あなたを見た時は戻ってきてくれたのだと嬉しかった。あなた
に謝りたいと思っていたから⋮⋮﹂
﹁私がお前に近づいたのは復讐の為だ﹂
﹁そう。すぐに分かったわ﹂
背後で列席者がざわめく気配がする。動かない二人を不審に思っ
ているのだ。
数日前までは、デイタスは彼らをも焼き尽くすつもりでいた。上
502
流面をした彼らが母と自分をどう悪し様に罵ったか、彼はつぶさに
覚えていたからだ。
だが、今の彼にはそれも全てどうでもよいことにさえ思える。何
かが洗い流されていくような感覚。ただヴァローラの声だけが体の
中に響いた。
デイタスはしばらく黙していたが、不意に手袋を取る。そして彼
女の手袋も取り、直にその手を握った。
﹁あの男は、私が誰であるか分かった時、私を野良犬と罵った。卑
しい犬だからこそお前に手を出すような真似をするのだと﹂
﹁父は何も見えていなかったわ。あなたのことも私のことも。でも
それは私も同じ﹂
彼女の言葉にデイタスは心の中で頷く。
自分も、彼女のことが分かっていなかった。分かってくれないの
だと思い込んでいた。何も通い合うものがないのだと。深い断絶だ
けが横たわっているのだと。だがそれは、形こそ違えど彼女も同じ
だったのだろう。
そんな沢山の孤独が積み重なって、彼らは今この時に至っている。
﹁幸せになって欲しかったわ。自由になって欲しかった。でも私た
ち⋮⋮二人とも人を殺してしまったのね﹂
女の声が震える。泣いているのだと、デイタスは分かった。ヴェ
ールを上げ、久しぶりに見る彼女の貌を見つめる。頬を落ちていく
確かに復讐の為に近づいたのだ。
涙は、それだけが不思議なほど透明だった。彼は白い頬に触れてそ
れを拭う。
︱︱︱︱
傷つけてやろうと思った。顔だけは優しげに微笑み愛を囁きなが
ら、内心ではいつも彼女を引き裂いてしまいたかった。
だが、身を焼くほどに燃え上がっていた妄執が、何故か今は消え
ている。彼は初めて彼女に出会った時と同じ、何の飾り気もない純
503
粋な思いで彼女を見つめていた。
ヴェールを取り去られた花嫁の顔を、他の花嫁姿の令嬢たちが目
を見開いて凝視している。ざわめきが大きくなる。
ヴァローラは立ち上がり始める列席者を見やって、ほろ苦く微笑
んだ。
お前は私に付き合う必要はなかった﹂
﹁デイタス、私たちもう、どこにも行けないのね﹂
﹁︱︱︱︱
しかし彼女は黙って首を横に振る。そこに込められた思いを汲み
取ってデイタスは沈黙した。
あの時、一度二人の手は離れてしまった。決定的なまでに別たれ
た。
だがもし、彼らが子供の矜持を以ってその手を掴んだままであっ
たら、もっと別の未来が訪れていたのだろうか。
デイタスは腕の中に彼女の体を抱きしめる。彼女はそれに抗わず、
彼の胸の中ですすり泣いた。その髪に口付けて彼は祭壇を振り返る。
怒りに顔色を染め始めた出席者たちを眺めた。
まるで愚かな彼ら。権力と財力があれば思い通りにならないこと
は何もないと思っているのだろう。
つけてしまった傷の
けれどそれに力での清算を試みた彼も、また同類なのだ。自嘲が
男の口元に浮かぶ。
全てが虚しい。乾いて何も実らない。
だがそれでも腕の中の彼女だけは︱︱︱︱
分だけ、いびつに輝いて美しかった。
エリクと雫は、連鎖する構成の元となっているであろう入場口目
指して走っていた。途中何人かの警備兵とすれ違う。その内の一人
が雫を見咎めて声を上げた。
504
﹁アマベル様でいらっしゃいますか!?﹂
﹁違います!﹂
そのまま振りきったが追ってくる気配はない。二人は角を曲がる
と階段を駆け下りた。
デイタスが雫を逃がしてくれると言っていたのが本当のことなら、
彼が火をつけようとするのは花嫁が退場した後のことだろう。
だが時間はもうあまり残っていない。花嫁が出席する儀式部分は
全部で十五分ほどしかないのだ。あとはデイタスが挨拶をして、二
人はお披露目に出る。どちらかと言ったら多くの人目に触れるお披
露目の方に時間は長く割かれていた。
彼らは一階の廊下に出ると、入り口に向って走り始める。新たな
警備兵が廊下の先から二人をみとめて顔を顰めた。
﹁何だお前らは!﹂
この男は幸か不幸か雫の顔を知らないらしい。エリクは速度を緩
めないまま、半歩後ろを行く雫に囁いた。
﹁僕が時間稼ぐから、先行って止めて。入り口のすぐ横に扉があっ
て、裏方が出入りする小部屋がある。多分そこに魔法士がいるから﹂
﹁分かりました! あ、でも﹂
﹁何?﹂
﹁私、魔法士の人の見分けつきませんよ﹂
もし人がいっぱいいたならどう対処すればいいのだろう。魔法陣
も彼女には見えないのだ。
だがそう思って危機的に問うた質問に、エリクはあっさり返して
きた。
﹁え。そうだっけ? 見て分からない? 魔法着着てるのが魔法士﹂
﹁魔法着ってどんなんですか﹂
﹁端的に言うと、上下が繋がってる﹂
﹁あー!﹂
言われて見ればそうかもしれない。雫は横目でエリクを見た。
505
確かにいつも彼は、上と下が繋がった服を着ていて腰帯を締めて
いる。だが彼女自身、他人のファッションにあまり注意を払う方で
はないし、﹁魔法使いのローブ﹂と言ったら、だぼっとしていてず
るっとしているという偏見を抱いていたので気づかなかったのだ。
現にカンデラの城に仕える魔法士はみんなだぼだぼしたローブを
着ていた。その為、どちらかというと細身の体に沿う服を着ていた
彼を、魔法士特有の格好をしていると疑ってみたことはなかったの
である。
ネタばらしをされてしまうと、今まで何で気づかなかったのだろ
う、というくらいだ。
だが今はそんなことを感じ入っている場合ではない。雫は﹁分か
りました!﹂と返事をすると、入り口に向って速度を速めた。腕を
広げて彼女の進行を留めようとする警備兵の足元に、エリクが何か
を投げる。
それだけで何かが変わったようには見えなかったのに、男は足元
を見やると﹁うわっ!﹂と叫び声を上げて尻餅をついた。その間に
雫は男の横をすり抜ける。
入り口はもうすぐだ。彼女は受付を片付ける女性たちの前に走り
こみ、そこで急ブレーキをかける。辺りを見回すと小さな扉があっ
た。何やら注意書きの張り紙がしてあるそこを迷わず押し開ける。
﹁許可なく入ります!﹂
突然の声に、部屋の中にいた五人の男たちは振り返った。
その中の一人、上下の繋がった服を着た男は雫を見て目を丸くし
ながら、だが自分の右手を床に向けようとする。そこに雫は飛びつ
いた。
﹁魔法使っちゃ駄目! 爆発する!﹂
﹁爆発!? 馬鹿言うな、もう前金は貰ってるんだ!﹂
﹁駄目だってば! 危ないって!﹂
﹁離れろ! 邪魔をするな!﹂
506
もみ合う二人に他の四人の男は対応に困る。だがその時、魔法士
の男が大きく雫を振り払った。彼女はバランスを崩して床の上に倒
れる。
男は再び詠唱をしながら手を床に向けた。それを見た雫は声を張
り上げる。
﹁やめて! あの白い鉢が火薬なんだよ!﹂
デイタスはヴァローラを抱いたまま、他の花嫁に手振りだけで壇
上から下りるように指示した。彼女たちは困惑しながらも後ずさり
退場する。
そして、祭壇の後ろに二人だけになると彼は女に囁いた。
﹁今ならまだ戻れる。お前は幸せになれるかもしれない﹂
だが彼女は小さく首を振って答える。デイタスは深い溜息をつい
た。
アイテア神も、神妃を腕の中に抱いた時こんな思いを抱いたのだ
ろうか。
世界に、二人だけしかいない。理解しあえるのも何かを分かちあ
えるのも。
しかし、もう孤独は感じない。今この時を、彼はどこかで幸福と
さえ思っていた。
逃げ出した少女のことが一瞬頭を掠める。彼女はもう遠くへ逃げ
られただろうか。そうであればいいな、と少し思う。
彼は微苦笑しながら花嫁を抱き上げた。ヴァローラの両腕がしっ
魔法士の手を
かりとデイタスの首に回される。彼は祭壇に向って手を伸ばした。
構成に魔力が注がれる、まさにその瞬間︱︱︱︱
507
留めたのは部屋にいた職人の男だった。筋肉質の職人は魔法士の手
を掴みながら小窓に視線を送る。魔法士の男は目を白黒させながら
叫んだ。
﹁何だ! その小娘の戯言を信じるのか!﹂
﹁予定では花嫁が退いた後のはずだ。何故今つけようとする?﹂
﹁もう予定時間だからだ﹂
﹁いい加減なことをするな。爆弾かどうかはともかくとして⋮⋮﹂
他の職人たちも魔法士に非難の目を送っている。彼はうろたえて
辺りをきょろきょろと見回した。その間に雫は﹁待ってて!﹂と小
部屋を飛び出す。
これで時間が稼げる。その間にデイタスを説得して命令を撤回さ
せればいいのだ。今度は殴られようとも退く気はない。
雫は入り口に戻ると今度は入場扉を押し開いた。花嫁として入場
するはずだった青い絨毯の上に踏み込む。
真っ直ぐに伸びる通路の先、祭壇の後ろでデイタスはヴァローラ
を抱き上げていた。彼は祭壇に向って手を伸ばす。その上から火の
点いた小さな燭台を手に取った。そして二人は観客に背を向ける。
祭壇の奥に敷き詰められていた白い花。その中に彼は足を踏み入
れた。困惑する人々の前で燭台を持った手を高々と掲げる。何をす
るつもりなのか、この場でただ一人悟った雫は悲鳴に近い怒声を上
げた。
﹁デイタス!!﹂
そして、燭台を足元に
男は振り返る。ヴァローラが雫を見る。彼らは驚いた顔になる。
まるで時が止まったかのような一瞬。
デイタスは皮肉な目で苦笑して︱︱︱︱
投げた。
508
造花であったのか白い花々が紙のように燃え上がる。長いドレス
の裾に火がついた。ヴァローラはそれを見て微笑む。
突然の光景に人々が愕然として硬直する中、雫は二人に向って駆
け出そうとした。だがその手を後ろから捕まれる。振り返ると、エ
リクが厳しい表情で彼女と、祭壇の向こうの二人を睨んでいた。
﹁行くな﹂
﹁だって、まだ﹂
間に合うから、と言おうとした雫の耳を、だが次の瞬間つんざく
ような爆発音が打ち据える。何かの破片を含んだ爆風が彼女の体に
ぶつかった。
それが何であるか理解はできない。
雫は振り返ると煙でほとんど見えない祭壇奥を見やる。
﹁⋮⋮⋮⋮何で?﹂
会場内でいくつも悲鳴が上がる。人々は逃げ出そうと一斉に入り
口に押し寄せる。
だが雫は目の前に迫る人の波にもかかわらず、その場に呆然と立
ち尽くしていた。エリクが彼女の体を抱えるようにして外へと引き
摺る。
﹁逃げるよ。この状況は不味い﹂
﹁でも、ヴァローラさんが、デイタスが﹂
﹁あれは助からない。もう死んでる﹂
﹁どうして?﹂
聖堂の奥を見たままの雫に、逃げる男がぶつかる。エリクはよろ
めく彼女に苦い顔をすると﹁ごめん﹂とだけ呟いた。どこからか出
した薬を彼女の喉の奥に押し込むと、人を避けて彼女の体を抱き上
げる。すぐに意識を失った雫を抱えて彼は一度だけ祭壇を振り返っ
た。
もはや誰も顧みない式場。
そこは外の喧騒とは別に、ただ静謐を湛えているように見えたの
である。
509
※ ※ ※
祝祭の最終日に起きた爆発事故は、犠牲者二人の心中として片付
けられた。
後の調査でディセウア侯爵とアマベル・リシュカリーザの死体が
なおかつ犯行の露呈を恐れて心中するに至
見つかったことで、結婚を反対されたデイタスとヴァローラが示し
合わせて二人を殺し、
ったのだという結論が、大勢を占めたのである。
殺されたアマベルの身代わりとなっていた少女を、間一髪で難を
逃れた貴族たちは手を尽くして探した。アマベルの生家との関係悪
化を恐れた彼らは、その少女こそアマベルを殺した真犯人というこ
とにしてしまいたかったのだ。
だが少女の顔を知る者がほとんどいないせいか彼女はついに捕ま
らず、またアマベルの死体の首についていた手形が男のものであっ
たことから、少女の捜索も打ち切られた。
デイタスの従者もまた事件を境に行方知れずになり、犯人ではな
いかと捜索がなされたが、少女と同様足跡はつかめていない。
全てはデイタスとヴァローラのせいとして事件はそそくさと片付
けられ、街は元通りの平穏を取り戻した。
雫がそのことを知ったのは二週間後、ラオブの街から三つ離れた
街の宿屋で、エリクに張り出された記事を読んでもらった時のこと
である。
彼女は全てを聞くと、沈痛な感情を湛える目を伏せた。
﹁何か⋮⋮もっとどうにか出来なかったかな、と思うんですけど、
それって増長ですよね﹂
510
﹁どうだろう。悪いとは思わないけれど、あまり悩まない方がいい。
君は人の気持ちを背負いがちだ﹂
雫はエリクの言葉に頷きながら目を閉じる。
最後の一瞬、幸せそうに笑っていたヴァローラの姿がそこには思
い浮かんで消えたのだった。
511
異質と罪人 001
卵を三個、ボール状の食器の中に割り入れる。そのまましばらく
かき混ぜると雫は陶器の壷から牛乳を注いだ。更に中身をよく混ぜ
あわせると、それは柔らかいひよこ色になる。
彼女はその様子を見て、中にたっぷりの砂糖を追加した。最後に
バターを塗ってちぎったパンを石の皿に並べ、上から混ぜあわせた
液体を満遍なく注ぐと、パンによく染み渡らせる。ひたひたになっ
た皿を確認して、雫は﹁お願いします﹂と厨房の男に渡した。彼は
それを開けられた窯の中に入れる。
﹁ちょっと待っててくださいね! すぐ出来ますから﹂
﹁うん﹂
宿屋の食堂に勉強道具を広げているエリクは、カウンター越しに
雫を見返して頷いた。もっともこのおやつはどちらかというと雫が
食べたくて作り出したものであり、彼が期待して待っているかとい
ったら分からない。雫は焼きあがるまでの僅かな時間、彼の向かい
に戻って本を広げた。
この文庫本は図書館からの借り物ではなく雫本人のものだ。その
為あちこちに線が引かれ書き込みが為されている。大学に上がるま
では、本に直接書き込むことに抵抗があったのだが、教授は一年生
の彼女たちに対し、むしろ﹁自分の本にはどんどん書き込みなさい﹂
と教えたのだ。その方が読み返すごとに問題点を取り出すことが容
易になり、調べものもしやすいからだと。
先生を尊敬する真面目な学生であり、また本を絶対汚したくない
というほどの潔癖さもなかった雫はすぐにそれを実行に移した。
512
結果、上下巻の上巻しかまだ買っていないこの文庫本は、既に前
半のページはめくられすぎていてよれているし、ページの隅に鉛筆
書きが細々とされていて買った時の面影は微塵もない。
雫は自分の書き込みを手がかりとしてレポートの草稿を纏めだし
た。ふと向いを見やるとエリクは漢字の書き取りをしている。
﹁鮪﹂という漢字を真面目な顔をして幾つも書いている大の男を見
て、彼女は思わず吹き出した。そのまま堪えきれずテーブルに突っ
伏す。
﹁何か違ってる?﹂
﹁い、いえ⋮⋮何で鮪なんですか?﹂
﹁魚に有なんて面白いから﹂
﹁でも、エリクは鮪知らないですよね?﹂
﹁見たことも食べたこともないな﹂
それを聞くと余計におかしい。何故もっと実用的な漢字を選ばな
いのだろう。
肩を震わせて笑う少女を、エリクは呆れる風でもなく見下ろした。
鮪美味しいですよ﹂
﹁何がおかしいの?﹂
﹁︱︱︱︱
ようやく笑いを飲み込むと、彼女はそう返した。
焼きあがった皿は、厨房の男が二人のいるテーブルまで持ってき
てくれた。そのまま男を加えた三人は、雫が適当に作ったおやつを
自分の皿に取り分ける。
食堂中に漂う甘い匂い。淡い黄色の柔らかい生地の中には、こん
がり狐色がついたパンがいくつも埋もれていた。雫は懐かしい香り
に満悦して、パンを一口大に切り分けると口に運ぶ。
﹁そうそう。こういう味なんですよ﹂
﹁甘い。美味しい。これ何?﹂
﹁フレンチトーストのようなパンプディングのような﹂
513
﹁ふーん?﹂
厨房を貸してくれた男も﹁子供や女の子が好きそうな味だな﹂と
感想を述べながらまんざらではないらしい。﹁子供にもらってく﹂
と言って、小さな皿に取り分けて食堂を出て行った。
雫は柑橘類のジャムをたっぷりと柔らかいパンの上に落とすと、
もう一切れを口に入れる。熱いお茶の風味とフレンチトーストの懐
かしい甘さが、染み入るほど心地よかった。
二人がラオブの街で揉め事に巻き込まれてから二週間。
貴族の追っ手を逃れて更に街道をファルサス城都方角へと移動し
た二人は、三日前からこの街に滞在している。この街にも一般に開
放されている転移陣があり、その使用許可を取るために書類審査を
受けているところだ。
﹁っていうか暑いですよ。何ですかこの陽気は。エリクよく長袖で
平気ですね﹂
﹁暑いかな。別にそうは感じないけど﹂
﹁じめじめしてないだけましだとは思うんですけどね。暑い﹂
そういう雫は半袖のブラウスに膝丈のスカートを履いている。本
当はもっと薄着になりたいのだが、度を越しては奇異の目で見られ
てしまうだろう。一方エリクは首が詰まった長袖の魔法着とやらを
着ているが、まったく暑そうにはしていない。見ている雫の方が暑
がっているくらいだ。
文字を専門に研究する魔法士は﹁鮪﹂に飽きたのか﹁鮎﹂を書き
始めている。一応漢字に見えるのだが、どちらかというと幾何学的
な印象を受けるのは、彼が﹁とめ﹂﹁はね﹂﹁はらい﹂をまったく
意識していないからに違いない。雫はフレンチトーストをお代わり
しながら、まるで寿司屋の湯のみのようになりつつある彼のノート
を眺めた。
﹁面白いですか?﹂
514
﹁うん﹂
﹁鮎って食べたことあります?﹂
﹁存在自体知らない﹂
予想通りの言葉に雫は笑いを堪える。鮎は川魚だが、この世界に
いるかどうかも定かではない。彼女はハーブティに似た風味のお茶
を一口含む。
﹁鮎も美味しいですよ﹂
﹁君って魚好きだね﹂
﹁魚偏の漢字ばっかり練習している人に言われたくないです﹂
その時、食堂の入り口が開いて旅人らしい男たちが何人か入って
きた。時計を見ると昼時である。たちまち周囲のテーブルが埋まり
始め、小さな食堂は喧騒でいっぱいになった。厨房に戻っていた男
も対応に追われている。
雫は席を空けたほうがいいだろうかと辺りを見回した。見上げた
視線が、近くに来た男のものと合う。男は愛想良く笑って二人のテ
ーブルの隣に立った。
﹁お嬢ちゃん、お使いか?﹂
﹁⋮⋮一応、旅を﹂
本当に自分は何歳に見えるのだろう。面倒だからそろそろ十六歳
ということにでもしてしまおうか、などと考えた時、男はテーブル
を覗き込んで軽い歓声を上げた。
﹁何だそれ、面白いな﹂
男が指しているのはエリクの魚偏だらけのノートだ。雫はまた吹
き出しそうになって口元を押さえた。だがエリクは平然と答える。
﹁これ? 東の方の国の文字だよ﹂
﹁へぇ。格好いいな。ちょっと何か書いてくれよ﹂
﹁彼女の方が上手い﹂
﹁え﹂
示されて雫は突然のことにうろたえた。だが男は期待に満ちた目
515
を彼女に移すと、エリクから小さなメモ用紙を受け取って﹁ここに
書いて﹂と差し出してくる。
﹁な、何を書くんですか﹂
﹁何がいいだろ。あ、風がいいな。俺好きだから﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
何だか外国人がおかしな漢字Tシャツを着ているところを連想し
てしまったのだが、気のせいだと思いたい。雫は緊張しながらも、
習字の時間のように丁寧にメモ帳に﹁風﹂と書いて渡した。男はそ
れを見て喜ぶ。
﹁これいいな! ありがと、お嬢ちゃん﹂
あまりに無邪気に喜ばれて雫もつい笑ってしまった。その声に引
かれたのか他の客たちも集まってくる。
﹁何だ何だ。何があるんだ?﹂
﹁お、これ俺も書いて欲しいかも﹂
﹁待て、俺が先に選ぶから﹂
﹁あ、あの⋮⋮⋮⋮?﹂
何故こんなことになってしまったのか。雫は妙に楽しそうな客た
ちに囲まれて、助けを求めるようにエリクを見たが、彼は﹁鱒﹂の
書き取りに集中しているらしく、まったく彼女の方を見ていない。
そして彼女は、客たちが食事が終わって食堂を出て行くまでの小一
時間、彼らに漢字を書いて書いてとせがまれる羽目になったのだっ
た。
これ程字を書くことに気を使ったのは小学生の習字の時間以来か
もしれない。再び食堂に二人だけになると雫は机に突っ伏した。緊
張に硬くなった右手を伸ばす。
﹁つ、疲れました⋮⋮﹂
﹁お疲れ様﹂
テーブルの上には銅貨や小さな装飾具などが積み上げられていた。
これは雫に漢字を書いてもらった男たちが礼として置いていったも
516
のだ。中から小さな花のブローチを手に取って雫は息をつく。
﹁⋮⋮またバイトしようかなぁ﹂
﹁バイトってアルバイトのことだっけ? 何か欲しいものでもある
の?﹂
﹁そういうわけじゃないんですけど。旅の費用も含めてエリクに頼
りきりなので、少しでも返したいなーと思いまして﹂
ただでさえ変な揉め事に巻き込まれてたりして迷惑もかけている
のだ。それこそ外見通り子供でもないのに申し訳なくて仕方ない。
だが、彼女の意図を聞いた彼は、少し眉を寄せただけで頷かなか
った。
﹁この旅の費用その他を僕が持ってるのは、君の知識を教えてもら
うことへの正当な報酬ってことになってるはずだけど。何故そこに
引け目を感じるのか分からないな﹂
﹁だって大して私、それほど知識があるわけじゃありませんし⋮⋮。
それに色々してもらってますよ。こないだだって下手したら大怪我
じゃないですか﹂
﹁あれは君のせいじゃないよ﹂
彼は軽く肩をすくめるとペンを置く。そのまま数秒の間思案顔に
なったエリクは、急に全然違うことを聞き返してきた。
﹁君の世界の教育の状況ってどうなってるの?﹂
﹁教育って大学ですか、子供ですか﹂
﹁両方﹂
何が気になるのだろう、と雫は思ったが、﹁私の国の話ですけど﹂
と限定して説明を始めた。
﹁十五歳までは義務教育です。国が費用を負担して全員に多分野に
わたる学問を詰め込みます。そんなんで識字率は十割近いですが、
これは世界全体でも高い方です﹂
﹁すごいな。他にも生活に即したものを教えるの?﹂
﹁いえ。それもあるんですが、どちらかというと生活とは直接関係
ないことをやります。文学の他には歴史とか複雑な数学とか。一般
517
教養の他に、各専門分野に分かれた時の基礎知識⋮⋮土台を作る為
に色々やらせるって感じでしょうか。十五歳以降はみな、それぞれ
の分野に徐々に分かれていきますが、その前に自分の向き不向きや
興味分野を見分けるのに役立つと思います。私も高校で化学とかや
りましたけど、向いてなかったんでそれきりです﹂
﹁贅沢なことするね。十五からはお金を出して教育を受けるの?﹂
﹁ですね。これが結構かかります。大学なんかは完全専門ですから、
学校によって値段も大分違いますし﹂
おまけに雫の所属は文系人文教養であり、そこで得られるものは
社会に出て即戦力となるようなものはほとんどない。こういった虚
学の知識に時間とお金をかけられるということ自体、まさに贅沢以
外の何ものでもないだろう。彼女は今は遠い両親に心の中で感謝し
た。
エリクは﹁なるほど﹂と頷くと正面から雫を見据え、話題を戻す。
﹁あのね、前にも言ったと思うけど、君の存在は本当に特殊なんだ。
前例のない来訪者で、まったく違う世界の知識を持ってる。それを
僕は一部教授されてるわけだけど、出している費用以上のものは充
分にもらっていると思うよ。気に病む必要はまったくない﹂
﹁だって、大したことじゃないんですよ。私の知識だって学生だか
らたかがしれてますし﹂
﹁君にとっては大したことじゃなくても、この世界では君しか知ら
どうしても納得できないというならこう考えて
ないことだ。それだけで価値があるし⋮⋮僕も色々気づくことがあ
る。ただ︱︱︱︱
みればいい。君は今まで国やご両親の費用によって、充分なほどの
教育を受けてきた。それを今、切り売りして自分の身を助けている
のだと。僕は君の知識の一部に対価を払っている。でもそれは、ご
両親が君を育てた時間や費用と比べて、そんなに法外なものなのか
な﹂
雫は虚を突かれて沈黙する。
518
不自由なく教育を受けさせてもらった自分に、親が出した学費は
軽く数百万に及ぶだろう。大学は私立である為、下手したら一千万
近いかもしれない。
下手をしたらそこまでの援助をしてくれ
そうやって今に至った雫が、ここであまりにも自分の知識を低く
見積もるということは、
た親の思いを低く見るということに繋がってしまうのだ。エリクか
ら思っても見なかった指摘をされて、雫はそのことにようやく思い
当たった。
元の世界では未熟者でしかない彼女も、この世界では希少な知識
彼女は必要以上の引け目を持つのではなく、その価値を高く
者である。そしてそれが自分だけの力で身についたものではない以
上、
評価してくれる彼に感謝すべきなのだ。雫は深く息を吐き出すと改
めてエリクに向って頭を下げた。
﹁ありがとうございます。頑張ります﹂
﹁うん。とりあえず他に魚偏の漢字あったら教えて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮もう魚偏やめませんか?﹂
何故そんなことを言うのか、という目をする男に雫は﹁鯨﹂と﹁
鰯﹂を書いて渡す。
﹁クジラってこう書くのか﹂と少し驚く彼を見やって、雫は笑った。
少し目を伏せて苦笑し直す。
﹁でも、私よりも自分の身を優先してくださいね。命は大事です﹂
﹁どうだろう。君の命も大事だから気分次第だ﹂
感情の分からない魔法士はそう返すと、書き取りを再開したのだ
った。
国内間の移動は、先が城都であっても審査は厳しくない。
問題なく下りた転移陣の使用許可に雫はほっと安心した。もしか
したらラオブの街からの手配がまだ残っていて、人相で引っかかる
519
かもしれないと思っていたのだ。
荷造りをしてしまうと彼女はエリクを待つ間、宿の食堂で最後の
お茶を飲むことにした。空き時間のせいか他に誰もいないので、自
分でお湯を沸かしお茶を淹れる。
軽い足音と共に小さな子供が食堂に入ってきたのは、雫がカップ
を持ってテーブルに移動した時のことだ。二、三歳くらいの男の子
は、親から離れて迷い込んでしまったのか大きな目で雫を見上げる。
﹁あれ、どこから来たの? 一人?﹂
﹁ひとーり?﹂
﹁お母さんは?﹂
﹁かーさんは?﹂
オウムのような応答に彼女は笑い出す。これくらいの子供にはよ
くあることだ。去年家に遊びに来た従兄弟の子供がちょうどこんな
感じで、始終大人たちにちやほやされていた。
雫は自然とその時のことを思い出しながら、子供を抱き上げ隣に
座らせる。机の上にいた小鳥のメアを見て、子供の目は好奇心に輝
いた。
﹁ここで待ってればいいよ。あんまりお母さん来なかったら一緒に
捜しに行くから﹂
﹁うん﹂
﹁お絵かきしようか?﹂
﹁おえかき!﹂
喜色を浮かべる子供に、雫はにっこり笑ってバッグの中からルー
ズリーフとペンケースを取り出す。そして彼女はいつか路地裏で小
さな兄弟に書いてやったように動物の絵を描き始めた。
﹁ほら、これは?﹂
﹁うまー﹂
﹁当たり! これは?﹂
﹁いぬ﹂
﹁猫だよ。ほら、お目目が三日月﹂
520
その後もいくつか絵を描いてやりながら、子供が自分も書きたい
というのでペンケースから蛍光マーカーを何本か出してやる。書か
れた絵の上から色を塗りつぶし始める小さな手を見ながら、雫はぼ
んやりとこれからのことに思いを馳せた。
ようやくファルサス城都に到着するのだ。今までのことが長かっ
たようにも短かったようにも思える。何度も危険な目にあったのが
嘘のようだ。
だが着いたら終わりではない。二百四十年前の不可思議な事件を
手がかりとして、元の世界に帰る方法を解き明かさなければならな
いのだ。件の事件について魔女の目撃証言を本から消したファルサ
スには、何かしらの情報が隠されている。それを城から引き出すこ
とこそ当面の目的になるだろう。
雫は黄色のマーカーを﹁みどり!﹂と指差す子供に﹁黄色だよ﹂
もし出来るなら、帰る前までにはこの世界の言葉と雫
と訂正しながら蓋を開けて渡してやった。
︱︱︱︱
の世界の言葉を対応させる辞書を作ってしまいたい。
他にエリクに返せるものなど、彼女には何もないのだから。
﹁英和も独和も買い直せばいいし⋮⋮教科書もか﹂
彼が必要とするものは置いていこう。図書館に返す本さえあれば、
雫は問題ないのだ。それよりもこの恩に報いる方が大事だ。彼は雫
の知識を高く買ってくれるけれど、彼女の伝える言語などこの世界
では使いようがないのもまた事実だ。それでもエリクは面白いのだ
と言ってくれる。そうしてずっと、彼女を支えて手を引いてくれて
いたのだ。
どこか物寂しさを感じながら彼女はメアを撫でようとする。だが
その時、食堂の入り口に困り顔の女が現れて、雫はその手を止めた。
﹁あ、お母さん?﹂
﹁かーさん!﹂
521
﹁こんなところにいたのね! もう!﹂
母親は走ってきて子供を抱きしめる。雫は軽く頭を下げた。
﹁すみません。私がここで待っていようって⋮⋮﹂
﹁いえ、いいんです。あの、この子がご迷惑をおかけしました。本
当に⋮⋮﹂
テーブルの上の落書きを見た女は、やたらとうろたえながら何度
も謝って子供を抱き上げると、一度も雫と目を合わせぬまま食堂を
出て行った。そっけない態度に、幼児略取犯に見られてしまったか
と雫はテーブルを片付けながら反省する。
書類の束を持ったエリクがやって来たのはその直後のことだった。
転移陣が設置されている建物を、雫は入ってすぐ﹁体育館みたい﹂
と称した。
がらんとした大きな空間。板張りの床は綺麗に磨かれている。仕
切りの壁などはなく、あちこちに机が並べられている光景は、学校
の身体測定や体力測定を連想させた。雫は遠くに見える転移陣を見
たまま囁く。
﹁カンデラのお城と大分違うんですね﹂
﹁石に転移陣を焼きつかせるのは手間がかかるんだよ。木にやる方
が楽だ。石よりは長持ちしないけど﹂
﹁あーなるほど。かまぼこ板に焼印押すみたいなものですか﹂
﹁カマボコ?﹂
﹁材料は魚です﹂
二人は一番行列が長く出来ている机の前に並んだ。列は身体測定
よりも余程早い速度で進んでいく。最後尾であった二人の順番が回
って来るまでには一分もかからなかった。エリクは書類の一枚を係
員に提出し、通行を許可される。
﹁おいで﹂
522
振り返って伸ばされた彼の手。それを見て初めて雫は自分が緊張
これから先、一体何が自分を待っているのだろう。
しているのだと気づいた。黙って頷くと男の手を取る。
︱︱︱︱
だがそんな不安はいつだって抱いているものなのだ。幾度となく
繰り返す旅立ち。その一つでしかない。
だから雫は少し微笑んで、一歩を踏み出す。そこに待っているも
のは紛れもなく自らの意志による未来の自分なのだと信じて。
﹁ドラゴンが飛んでない!﹂
﹁そんな街、大陸中どこにもないよ﹂
﹁ぐう﹂
分かっていたことだが現実を目の当たりにして雫は肩を落とす。
二人が出たのは城都の南西、転移陣の管理所だ。そこを出た雫は、
想像していたのとは違う一般的な、けれど栄えている街並みを見て
歓声を上げた。
﹁外国旅行が出来た気分ですよ!﹂
﹁よその国と言えばよその国だ﹂
ファルサス城都の街並みは、カンデラやラオブと比べて明らかに
様相が異なるというわけではない。
ただ、千年を越える昔からここにあるというこの街のあちこちに
は、石造りの歴史を感じる建物が並んでおり、凝った彫刻を施され
た柱やアンティークな細工時計が嵌め込まれた壁、ところどころに
ある魔法陣らしき紋様など、一つ一つが美しく雫の目を引いた。
かといって通りにまで古めかしさが漂うわけでもなく、どちらか
というと石畳の上を流れる空気は洗練そのものだ。彼女は物珍しげ
にあちこちを見回す。
﹁すごいすごい。広そうですね!﹂
﹁カンデラ城都の二倍近いな。君は大丈夫だとは思うけど、一応迷
523
子にならないよう気をつけて﹂
﹁迷子になったら迷子センターですか﹂
﹁何を意図しているか分からないけど、多分ない﹂
二人は人通りの多い中を移動して、一軒の宿屋の前に到着する。
エリクが扉に手をかけた時、だが戸は勝手に奥へと開いた。中から
若い男が出てくる。
﹁お、本当に来たか、久しぶり!﹂
﹁うん。元気そうで何より﹂
﹁それはこっちの台詞だよ。どうしてるか心配だったからな。⋮⋮
っと﹂
明るく笑いかける男は、そこでようやく雫の存在に気づいた。目
が合った彼女は慌てて頭を下げる。
﹁は、初めまして﹂
﹁はじめまして。エリクから連絡は受けてるよ、雫さん﹂
﹁え?﹂
呆気に取られる彼女に、男は笑顔のまま﹁俺はハーヴ。一応宮廷
魔法士だね﹂と名乗ったのだった。
この宿屋はハーヴの実家がやっているものなのだという。
雫は彼に挨拶をして案内された部屋に荷物を置くと、寝台の上に
体を投げ出した。部屋の中を飛んでいたメアが窓際に降り立つ。エ
リクとハーヴは二人で話があるらしく、雫は﹁夕食まで休んでると
いいよ﹂と言われたのだ。
彼女は緊張に固くなっていた体を伸ばす。自然と長い息がシーツ
の上に零れた。
どれくらい長いのだろう。
ようやくここまで来た。とてもとても長かった。
ではこれからは︱︱︱︱
雫は体を起こすと三階の窓から街並を眺める。
青く広がった空の下、美しく大きな白亜の城が遥か向こうに堂々
たる姿を見せていた。
524
﹁四年ぶりか? 随分経ったな﹂
﹁そうかな。それ程長くは感じなかったよ﹂
ハーヴは苦笑すると旧友に酒盃を差し出した。エリクは黙ってそ
れを受け取る。二人が酒に口をつける間、微妙に質感の違う沈黙が
その場にはたゆたった。
﹁⋮⋮もうお前には会えないかと思ったよ。ファルサスへは戻って
こないと思った﹂
﹁機会があれば来るよ。今まではそれがなかっただけ﹂
﹁あの子の為にか。素直でいい子そうだな﹂
﹁あれで結構頑固﹂
エリクの表情はまったく変わらなかったが、旧知である男はそこ
から何かを読み取ったのか苦笑する。ハーヴは暗い緑の瞳を扉へ向
けると僅かに細めた。
﹁お前があれくらいの娘を連れていると⋮⋮⋮⋮少し、カティリア
ーナ様を思い出す﹂
﹁全然違うよ﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
多くを語らない言葉はだが、その回りくどさこそが伝え難い感情
をより多く担っているように思える。ゆっくりと嚥下される酒は寝
かされた年月そのものの味がした。
ハーヴは軽く息を吐き出すと、気分を変える為にかぶりを振る。
﹁頼まれた件だが、やっぱり駄目だったよ。閲覧できる場所には例
の事件についての資料はない。回収された第一版もだ﹂
﹁そうか。僕も記憶になかったから、そうじゃないかと思ったけど﹂
﹁禁呪の資料の中にはなかったのか? お前は一級限定まで閲覧資
格があっただろう﹂
﹁なかった、と思う。もっと上の封印資料なのかもしれない﹂
525
﹁なら王族の許可なしじゃ無理だ﹂
それは、分かっていたことだが改めて聞くと、重みを持ってエリ
クの中に響いた。沈黙してしまった男にハーヴは肩を竦める。
ま
﹁レウティシア様は今、留守がちだ。カンデラで禁呪絡みの事件が
あってな。その後始末でロズサークの王とやりあってる﹂
﹁知ってるよ﹂
﹁本当か? 公にはされてない情報なんだが凄いな。︱︱︱︱
ぁ、そんなわけで頼むとしたら陛下だ。俺が頼んでもいいけど⋮⋮
やっぱ怪しいだろ? 専門外にも程がある上に、多分重要機密だ。
だったらお前があの娘を連れていって、正面から事情を話して頼む
方が可能性は高いんじゃないか?﹂
半ば予想していた答。にもかかわらずエリクは眉を寄せると、ま
だ中身が入っている酒盃を置いた。テーブルに陶器の触れ合う音が
やけにはっきりと響く。
﹁僕が一緒だと、彼女の立場が悪くなるよ﹂
その返答もまた、ハーヴには予想されていたのだろう。彼は動じ
ることなく、エリクの盃に穏やかなほどゆっくりと酒を注ぎ足した。
﹁そんなこともないだろう。陛下はお前の顔をご存じないし、覚え
てらしても今更どうこうはされない。そういう方だ。それよりお前
は⋮⋮あの娘についててやった方がいいんじゃないか? 身寄りが
ない娘なんだろう?﹂
事前に手紙にて説明を受けていたハーヴは、だが雫が﹁どこから
来たか﹂までは知らない。ただずっと遠くの国から、謎の転移で迷
い込んでしまったのだとだけ伝えてある。そして帰る為に過去の事
件を調べているのだと。
エリクは顔を顰めたまま答えない。
彼の脳裏には一瞬、雫の真っ直ぐな目が浮かんだ。彼を信頼し、
本当のことを知った時、彼女はどんな顔をするのだろ
努力を拒まない、実直な意志を持った目が。
︱︱︱︱
う。それでも彼女は変わらぬ目を自分に向けてくるのだろうか。
526
答は出ない。おそらく、分かっているからこそ出したくないのだ。
ハーヴは苦笑して空になった瓶を手に取る。
﹁まぁゆっくり考えてみてくれ。俺も出来ることはするから﹂
﹁うん。ありがとう﹂
それだけの応答はまるで時の浸食を受けていないかのように、二
人には思える。
ハーヴはほろ苦い微笑を浮かべると﹁戻ってきてくれて嬉しいよ﹂
とだけ結んだのだった。
ファルサスの建国は遠く暗黒時代にまで遡る。
戦乱と裏切りが満ち溢れていた混沌の時代。日毎に情勢が移り変
わり、国境が書き換えられていた絶望の時代において、現在の強国
は生まれた。
無残にも蹂躙され、打ち滅ぼされた小国はこの時代後を絶たなか
った。しかしその内の一つに、ある時一人の男が現れたのだ。彼は
寄る辺ない人々を集め、知恵を使って外敵と渡り合いながら徐々に
その才を以って強力な軍隊を、そして国を作り上げたという。
建国を為したその王の名はしかし、何故かファルサスの記録には
残っていない。ただ、彼にはいつも付き従う美しい妃がいたことと、
そして謎の人外から﹁魔を断つ剣﹂アカーシアを与えられていたと
いう逸話が伝わるのみだ。
世界に一振りしか存在しない、魔法の効かない剣。
その力は未だ解明されぬまま、しかしファルサス王の象徴として、
現在も第三十代ファルサス国王ラルス・ザン・グラヴィオール・ラ
ス・ファルサスの手にある。
﹁二十七歳! わっかい王様ですねー。こっちの世界ってみんなこ
うなんですか?﹂ 527
﹁いや、ファルサスが特別なんだよ﹂
城都についてから三日後、﹁城に行って直接王に頼むことになっ
た﹂と言うエリクに、雫は緊張しながらも頷いた。
まさか自分が王様なる人間と直に会う日が来るとは思ってもみな
かったのだ。まったくとんだ展開である。約束を取り付けてくれた
のは宮廷魔法士のハーヴらしいが、それにしても驚きだ。粗相をし
て王を怒らせてしまわないか雫は今から心配だった。
﹁ファルサスの王は、王剣アカーシアの主人であることが暗黙の条
件なんだ。でもアカーシアは単なる飾り物の剣じゃなくて、魔法士
に対抗する最強の武器の一つだからね。当然主人には相応の技量が
求められる﹂
﹁あ、だから若い人が継ぐんですか﹂
﹁そう。ここ数百年、大体王は五十歳になる前には後継者にアカー
シアを継がせてる﹂
王様と言えば白い髭があって恰幅がよくて金の王冠を被っている、
という子供のようなイメージを持っていた雫は、少々驚いたものの
エリクの説明に納得する。
つまりファルサスの王とはイコール王剣を扱う剣士でもあるのだ。
魔法大国を治める王にしては意外な気もするが、ファルサスの魔
法が突出したのはここ百年のことらしい。一方アカーシアは建国時
からあったというのだから、そちらの方が優先するのももっともだ
ろう。
﹁それにしても千年以上も持つ剣って一体何で出来てるんでしょう
ね﹂
﹁さぁ。他国はそれを解き明かしたいと思ってそうだけどね﹂
魔法に詳しくない雫などにはよく分からないが、﹁魔法がまった
く効かない﹂という存在はファルサスの国宝以外に何処にもないら
しいのだ。
もしその理由が解明できれば魔法技術研究にも役立てられる、と
多くの人間が考えてはいるらしいが、ファルサスの王族は、他国は
528
勿論自国の魔法士にもその研究をさせていないらしい。
雫は国宝
なんだしそんなものか、と感想を抱いたのみで、あとは王の性格の
方に関心を移した。
﹁どんな人なんですか。前エリクは寛大だって言ってましたっけ﹂
﹁寛大だよ。政を見る分には。僕は直接会ったことはないけれど﹂
﹁うう、失礼しないか不安ですよ。無礼討ちとかされませんよね?﹂
﹁何それ。何となく不吉な言葉に聞こえる﹂
﹁正解です﹂
エリクはお茶のポットから自分のカップにもう一杯注ぎ足す。藍
色の瞳を雫から転じて、彼は窓の外を見た。遠くに白い城が見える。
﹁今の国王は寛大だ。だけどそれは、自分の力に自信があるってこ
一筋縄ではいかない人間だ﹂
との裏返しでもある。個人的な人となりを言うなら、王はおそらく
︱︱︱︱
雫は緊張に息を飲んだ。想像もつかない王の存在に落ち着かない
ことこの上ない。
けれど、ここまで苦労してやって来たのは、ファルサスの秘密か
ら元の世界に帰る手がかりを掴む為なのだ。怯んで立ち止まっては
いられない。
雫はその後、ハーヴの母親に服装を見てもらって、当日無礼にな
らない程度に整えてもらった。陽気は暑いことこの上ないのだが、
腕も足も出してはよくないとのことで、彼女は長袖のシャツに足首
まであるフレアスカートを見繕ってもらう。
別の世界から来たことを証明しろと言われた時の為に、バッグを
整理するとずっと切ってあった携帯電話の電源を入れてみた。元の
世界にいた時はまめに充電を心がけていた携帯は、まだ充分電池が
残っている。何となくボタンを操作して、雫は着信履歴を見てみた。
雫はその晩少し、泣いたのだった。
ずらっと並ぶ友人の名前、その最後に姉の名前を見出して︱︱︱
︱
529
謁見の日はあっという間にやってきた。
巨大な城門の前にエリクと二人立った雫は、荘厳な城の姿に感嘆
の溜息をつく。それは写真でしか見たことのない西洋の城によく似
ていて、窓の多さがそのまま建物の大きさを表しているような気が
した。
雫は城壁のすぐ内側、四方に立っている高い尖塔を見上げる。
﹁すごいですね⋮⋮﹂
﹁あんまり上を向いてると首がもげるよ﹂
﹁もげっ!?﹂
﹁ほら、行こう﹂
エリクは城門に立っている兵士に何かの書類を渡した。兵士は二
人を見て頷くと、城門脇の通用扉を開けて中に入れてくれる。あち
こちを見回す雫にエリクは﹁はぐれないようにね﹂と念を押すと、
まるで勝手を知った場所のように歩き出した。建物の中に入り長い
廊下を行きながら、彼は雫に声をかける。
﹁王にお会いする前に、一つ約束をしよう﹂
﹁はい。何ですか﹂
﹁君に不利益は出したくない。だから、もし僕が僕のせいで咎めを
は?﹂
負うようなことがあったら、その時は僕を切り捨ててくれ﹂
﹁︱︱︱︱
言われた意味がよく分からない。
雫は大きな目を瞠って彼を見た。だが、エリクは冗談を言ってい
るようにはまったく見えない。むしろいつになく張り詰めた空気を
かもし出している気がして、彼女はうろたえた。
﹁な、何ですかそれ。何があるんですか?﹂
﹁何もないかもしれない。その可能性の方が高い﹂
﹂
﹁でも、何かある可能性もあるってことですよね。それなら︱︱︱
︱
530
それなら、一人で行く、或いは王のところになど行かなくていい
と、雫は言おうとした。
彼と雫は、本来的には対等な取引の上での関係なのだ。ただ彼が
ましてや自分が元の世界に戻
右も左も分からない雫の為に色々譲ってくれているだけで、それさ
えも彼女は申し訳なく思っている。
る為に、エリクに何らかの危険を負ってもらう、などということは
念頭にもなかった。
帰る為に誰かを犠牲にしようとは思わない。それをするくらいな
ら帰還を諦められる。苦しい選択ではあるが、雫にとってそれは既
に自分の中で決した優先順位であるのだ。
だが彼女が留める言葉を口にする前に、エリクは﹁ここだよ﹂と
言って立ち止まる。そこは、兵士たちが左右に控える大きな扉の前
だった。
動揺する雫の前で、しかし扉はゆっくりと奥に開きだす。白い大
理石の上に敷かれた紅い絨毯が目に入った。
彼女はエリクを見上げる。だが、彼はいつもとまったく変わらぬ
目で前を見ていた。
﹁気にすることはない。僕は⋮⋮﹂
そこから先は聞こえない。
代わりに奥から朗々とした男の声で﹁入るがいい﹂と言われて、
雫は理由の分からぬ焦燥に身を震わせた。
王の前に、武器や叛意を示す存在を伴っての入室は許可されない。
その為メアは宿屋に置いてきており、雫の持っていたバッグも一
応兵士によってチェックされた。そしてその上で、二人は王の前に
立つ。
今年二十七歳だと言う国王ラルスは、外見だけ言えばむしろ年よ
りも若く見える端整な顔立ちをした男だった。黒茶の髪に薄青の瞳。
531
穏やかに微笑む男はしかし、鍛えられた体躯に消せない威と鋭さを
纏っている。その姿は紛れもなく王のものであり、底知れない光を
湛える双眸とあいまって、三十にもなっていない彼に老獪な印象さ
え抱かせた。
雫はエリクに半歩遅れて、椅子に座ったままの王の前に立つ。王
族に対しての礼儀などよく分からなかったので、彼女は深く頭を下
げると﹁雫と申します﹂と名乗った。ラルスは物珍しげに彼女の全
身を眺める。
﹁雫?﹂
﹁はい。あの、ご無礼があったらすみません。王様への礼儀を知ら
ないもので﹂
﹁構わない。それより、何故お前は二百四十年も前の事件を知りた
がる?﹂
無形の力を伴う上からの声に、心臓を突かれたような緊張が走っ
た。雫は息を止めそうになる。
何から話せばいいのか、どうすれば信じてくれるのか。
昨晩ベッドであれ程反復したはずなのに、いざ王を目の前にする
と言葉が霧散してしまったかのように上手く出てこない。雫は空気
を求めるかのように何度か口を開く。
﹁どうした? 早く言ってみろ。俺もそれ程暇ではない﹂
答えなければならない。雫の理性はそう叫んでいる。
だが、何を答えればいいのか。まるで眩暈がする寸前のように彼
女は全てに躊躇した。
﹁雫﹂
その時、水のように澄んだ声が彼女の耳を打つ。
聞きなれた声。雫はその響きに我を取り戻した。
支えてくれる意志。その存在。いつだって彼がいてくれたからこ
雫
そ、彼女はここまで来れたのだ。混乱に乱れ散った精神が集まって
くる。この部屋に入った時よりも、もっと気分が凪いでいく。
532
彼女は王を見上げた。僅かに固さの残
は自分の手に視線を落とす。
そしてもう一度︱︱︱︱
る唇を動かす。
﹁王様、信じてくださらないかもしれないけれど、私は⋮⋮とても
遠い場所から、この世界に迷い込んだんです﹂
そして雫は、暑い夏の帰り道、あの黒い穴と出遭ってしまったと
ころから、自分の話を語り始めた。
時にたどたどしく絡みそうになる話。けれど雫は冷静に冷静に、
と自分に言い聞かせて何とか慌てずに説明をすることができた。何
故昔の事件について知りたいのかはエリクが補足してくれる。ラル
スはそれをじっと雫を見つめながら聞いていた。
話が終わると、王は別段驚いている風もなく問いかけてくる。
﹁本当に別の世界から来たと、証明できるか?﹂
﹁少しですが、元の世界から持って来たものがあります﹂
雫はバッグから携帯電話と音楽プレイヤーを取り出すと、それを
王の前で操作して見せた。ラルスは目を細めてそれを見やる。
携帯で写真を撮ってみせると、さすがに彼は少しだけ驚いた顔に
なった。
﹁どこまで遠くが映せる?﹂
﹁これは簡易なので遠くに行くほど不鮮明になりますが、元の世界
では肉眼では見えないものも、目の前にあるかのように撮れたりし
ます﹂
﹁面白いな。他にもこの世界にはない技術が沢山あるのか?﹂
何気ないその問いに、だが雫は緊張を覚えた。以前エリクが注意
してくれたことを彼女は思い出したのだ。﹁強力な武器を作れそう
な知識を、雫から聞き出そうとする人間もいるかもしれない﹂と。
かと言って答えなければ、王は雫の言い分を信じてはくれないだ
ろう。彼女は考えて、慎重に答を選んだ。
533
﹁私の世界には魔法がありません。その代わり文明はここより栄え
ています。そして確かに⋮⋮もっと多くの技術があります。ですが
私はそれを再現することはできないのです。そういった技術を学ん
でおりませんでしたので⋮⋮﹂
ラルスは黙ったまま頷く。一体王はどう思ったのだろう。何を考
えているのか読めない相手だ。雫は萎縮しそうになる意識を留める。
男はさっきからずっと雫を見たままで視線を逸らさない。その視
線の強さが居心地悪かった。何だか冷や汗をかきそうである。
﹁この世界ではできないこともできると、そういうことか﹂
﹁多分、そうです﹂
﹁なるほど。まったく、困ったものだ﹂
それがどういう意味か、雫には分からなかった。ただラルスの声
は本当に、少し困ったような煩わしげなものに聞こえただけだ。
彼女は王の青い瞳を見返す。
﹁口承では聞いていたが、まさか俺の前に現れるとは思わなかった。
実は真実かどうか疑ってもいたのだがな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮王様?﹂
﹁何故ファルサスに⋮⋮俺の前に来た? あれが本当に壊されたか
どうか探りに来たのか?﹂
その問いに、答える言葉を雫は持たない。何を聞かれているのか
も分からなかった。代わりに言いようのない気分の悪さが魂の奥底
から這い上がってくる。
王は立ち上がった。均整の取れた長身を彼女は見上げる。どこか
既視感を覚える光景。
﹁女子供として現れるとはやりにくい。だが、これが俺の務めでも
ある﹂
大きな手が腰に佩いた剣の柄にかかる。あれが話に聞く王剣アカ
ーシアだろうか、そんなことを雫は考えた。
ラルスは彼女を見たまま長剣を抜き、そして典雅な程ゆっくりと
534
立ち去るがよい、外部者よ﹂
構える。雫は黙ってそれを見上げた。
﹁︱︱︱︱
鏡のように美しく光る刃。
その切っ先が自分に向って振り下ろされるのを、彼女はただ呆然
としたまま見つめていた。
535
002
振り下ろされる剣をじっと見つめていた。
そこには何かしらの意味があるのだろうと雫は思っていたのだ。
或いは唐突過ぎて恐怖することさえできなかったのかもしれない。
だが現実としては、刃は何の遠慮もなく彼女を殺す為に降ってき
た。
そう理解したのは、雫の体がエリクによって後ろに引き摺られ、
剣の切っ先が長いスカートの裾を掠めていった時のことである。エ
リクはそのまま彼女を後ろへ突き飛ばした。雫は呆然としたまま数
どういうおつもりでしょう﹂
歩よろめいて下がる。
﹁︱︱︱︱
彼女を庇うように王との間に立った男は、怒気を明らかなほど声
に滲ませていた。しかしラルスは軽く肩を竦めただけで平然として
いる。
﹁どうもこうも。その娘は人間ではない。排除すべき鑑賞者だ﹂
﹁彼女は人間です。この世界にいる人間と何ら変わりがない﹂
﹁どうかな。腹の中がどうなっているか裂いてみたことはないだろ
う? 皮の上などいくらでも取り繕える。そうやってあれらは長い
年月を大陸に紛れ込んできているんだ。あり得ない異質は排除して
しかるべきだ﹂
﹃異質﹄と。
そう言われて雫は震えた。
自分は異邦人だと思っていたのだ。この世界に紛れ込んで一人だ
と知った時に。
536
だが、その思いはいつしか徐々に薄らいでいった。足掻いて苦労
して一歩を踏み出す、その度に少しずつこの世界に馴染んでいって
いる気がしていたのだ。
けれど再びその事実は彼女の前に現れる。排除という、冷徹な意
志を伴って。
﹁彼女を殺して、ただの人間であったらどうされるのです﹂
﹁殺さずにいて、大陸が縛され続けたらどうする?﹂
﹁彼女にそんな力はない!﹂
彼ら二人が何を話しているのかよく分からない。ただ分かること
は、王は雫を殺そうとしている、それだけであった。
ラルスの青い瞳が彼女を捉える。そこに、今まで見たどの目より
も鋭利な意を感じ取って雫は戦慄した。全身が急速に冷えていく。
王は剣を手に踏み出した。それをエリクが遮る。振り向かぬまま
の彼の声が雫を叩いた。
﹁雫、行け﹂
﹁エ、エリク⋮⋮﹂
﹁行け。僕は平気だから﹂
反論を許さぬ口調に雫は唇を噛む。もう一度王を見やると、彼は
雫を人ならざるものを見る目で見据えていた。言いようのない気分
の悪さがこみ上げてくる。
﹁王は僕には手をかけない。いいから行け﹂
三度目の命に雫はようやく動いた。
この場で﹁人ではない﹂と思われているのは、異質なのは彼女だ
けなのだ。信じられなくともそれが事実だ。だから、逃げなければ
ならない。死にたくなければ王の手の届くところから離れなければ
いけない。彼女は躊躇いながらも踵を返す。
雫はエリクを振り返りながら扉に向って駆け出した。ラルスは焦
る様子もなく彼女を見やって、そして自分の目の前に立つ魔法士を
見下ろす。
537
﹁情に惑わされ真実を見誤るな。そこを退け﹂
﹁退けません。誤っているのは貴方の方だ﹂
彼女は扉に手をかけ、力いっぱい手前に引く。外にいた兵士は中
の話が聞こえていなかったのだろう。怪訝な目で雫を一瞥した。隙
間をすり抜ける彼女の背に、王の声が届く。
﹁退け。そうしてまた罪を重ねる気か? かつて禁呪に与せし魔法
士よ﹂
雫はもう振り返らない。長い廊下を走り出す。
来た道を戻って、遠くへ。何処かへ。
壮麗な城。磨かれた床。
だが彼女にとってそれは、まるで捩れた廊下を逃げているかのよ
うに思えた。
ファルサスに着いたら道が開けるのではないかと思っていた。
だが、実際に待っていたのは意味の分からぬ死だけだ。雫はエリ
クとも離れ、一人真っ暗な中に放り出されてしまったかのような激
しい動揺を味わう。
このまま何処へ逃げればいいのだろう。城を出て、ファルサスを
出て、何処かへ? そうしてそのままこの世界の片隅で怯えながら
ひっそりと暮らすのか。命だけを守って、他のものを捨てて。
廊下の向こうに兵士が見える。彼らは雫を見て表情を変えた。進
路を遮ろうと手を広げる。だが彼女はその腕を避けて廊下を曲がっ
た。誰何の声を無視して走り続ける。
早く城を出なければならない。王が追っ手をかける前に。門が閉
ざされる前に。雫は廊下の曲がり角に出る。そこには大きな窓があ
って、硝子の向こうに城壁が見えた。城壁に上る為の階段が敷地内
へと続いている。
高い壁は綺麗に作られた箱庭を連想させた。それは彼女などちっ
ぽけな虫であるかのように嘲って見える。
538
︱︱︱︱
逃げて、何処へ行けるというのか。
雫は足を止める。背後を振り返る。そこには未だ追っ手の姿はな
い。
﹁⋮⋮どこ行くっての⋮⋮﹂
エリクは王に会う前、もしもの時は自分を切り捨てるように言っ
た。だがそれはあくまで、彼が原因である場合のことだったのだ。
今、王の標的となっているのは自分だ。
雫はそう理解した。だがそれでも飲み込めていなかったのだ。
そして︱︱︱︱
なのに、何処へ行くのか。
このまま逃げて、何が得られるのか。
雫はややあって深い溜息をつく。
その数秒には、長い長い時が詰め込まれている気がした。
﹁逃げられた?﹂
少女の捕縛を指示したラルスはしかし、すぐに入ってきた﹁彼女
は一足先に城門を出て行った﹂という報告に眉を軽く上げた。
だが恐縮する兵士を彼は叱責するわけでもない。むしろのんびり
とした口調で述懐する。
﹁遠くに行ったということならそれでいいのか⋮⋮いや、やっぱり
不味いか? まったく面倒なことだ。どうせ現れるのならもっと斬
りやすい姿で現れてくれればよかったものを﹂
王は意味不明な呟きを洩らすと﹁ハーヴを呼べ﹂と命ずる。だが
その命が伝わる前に、既にハーヴは事態を知って謁見室の前にやっ
て来ていた。彼は入室を許可されるなり王に向って深く頭を垂れる。
﹁陛下、この度は⋮⋮﹂
﹁ああ。気にするな。お前に責はない。それよりあの娘はお前の実
家に泊まっているという話だったか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
539
﹁なら兵士をつけてやるから行って捕らえろ。どんな力を持ってい
るか分からんから、抵抗されたら無理に戦うな﹂
その命令を聞いてハーヴは愕然とした。一体謁見の間に何があっ
たというのか。少なくともただの少女に向けての手配ではない。何
か誤解があるのではないか、彼はそんな期待を込めて口を開いた。
﹁彼女には魔力がありません。剣も使えませんし、普通の⋮⋮女の
子です。それ程危険な存在では⋮⋮﹂
﹁確かにそう見えるな﹂
﹁では﹂
﹁反論はなしだ。お前が追えないのならば別の人間を使う﹂
ハーヴは主君の放つ威に限界を悟った。もう一度頭を下げて命令
を受諾する。だが彼は退出する前に、もっとも気になっていたこと
を問うた。
﹁陛下、エリクのことですが﹂
﹁ああ。譲らんから拘束した。俺にあそこまで正面から噛み付いて
きた人間はレティ以外では久しぶりだ。カティリアーナが気に入っ
ていたのも分かる﹂
王の口調は決して不快なものではない。むしろ微かな笑みさえ浮
かべていた。そのことにまずハーヴは安堵する。これならばすぐに
処罰などはされないだろう。エリクについてはその間に王妹に頼み
込んで寛恕を願える。
だが、そうは思いながらもハーヴは重苦しいものを拭えなかった。
あの時、失意の後にファルサスを去った友人。
いやがおうでも四年前の事件が甦る。
︱︱︱︱
その彼が、今度は雫を見捨てることをはたして許容できるのだろ
うか、と。
階段を、上っていく。
540
石段は塔の中、螺旋を描いて何処までも伸びていく。
いや、終わりがないはずはない。そこには明確に限界がある。だ
から、その終わりに向って雫は階段を上る。
かつて天にまで届くよう築かれ、神の怒りに触れた塔。
そこに詰まっていたのは絶望でも希望でもなく、ただ卑小なる人
間の、ささやかな意思であったのだろうと思いながら。
雫の捕縛を指示したラルスのもとに、次の報告が入ってきたのは
僅か二十分後のことだった。だがそれはあまりにも予想外な内容で、
さすがの冷静な王も目を丸くする。
﹁見張り塔を? 凄いな。どうやられたんだ?﹂
﹁そ、それが使い魔らしき魔族に叩き出されまして⋮⋮単なる娘に
見えたので兵は油断したと﹂
﹁外見に騙されてどうする。油断したやつらは減給だな﹂
王のもっともな指摘に、報告に来た兵士はうなだれた。まったく
もってその通りなのだ。つい普通の少女に見えて彼らは気を抜いて
しまった。そしてその一瞬の隙に、彼女は見張り塔にいた兵士を追
い出し、内側からバリケードを築いて逆に彼らを閉め出してしまっ
た。
﹁で、その後どうなった? あの娘は何をするつもりだ﹂
﹁それが⋮⋮娘は立てこもって、上から陛下をお呼びするようにと
要求しております⋮⋮﹂
﹁俺を?﹂
ラルスは青い瞳を瞠った。そのまま彼は執務室の後ろにある窓を
振り返ったが、ここからでは少女が立てこもったという塔は見えな
い。若き王は興味深げに中庭を見下ろした。兵士は王の背に向って
頭を下げる。
﹁いえ、勿論こちらで始末をつけます。恐れながら狙撃の許可を頂
541
きたく︱︱︱︱
﹁俺が行こう﹂
﹂
﹁へ、陛下!?﹂
﹁指名されたのは俺だ。王が怖気づいては仕方あるまい?﹂
既にそれは彼の中では決定事項らしく、ラルスはアカーシアを手
に立ち上がった。
その姿に、部屋にいた文官武官はそろって苦い顔をする。だが、
彼は臣下たちの反応を黙殺すると、少女の待つという塔に向ったの
だった。
雫は風に乱れる髪を押さえた。頭上に広がる空がとても近く感じ
られる。
階段は螺旋状であった為よく分からないが、今いる塔の屋上は、
おおよそ四、五階建ての建物と同じくらいの高さだろうか。城には
四方の尖塔を始めもっと高い建物も幾つかあるが、あまり高すぎて
も地上と話が出来ない。
雫は狙撃を恐れてしゃがみこみながら、相手が来るのを待った。
﹁メア、つき合わせてごめんね﹂
王の前から逃げ出した雫は、追っ手がかかる前に一旦宿に戻った
のだ。そしてメアを連れまた全速で城に戻ってきた。驚く兵士たち
を使い魔の力を借りて退けた彼女は、手近な見張り塔を見つけると
迷わずそこに立てこもった。そして集まってきた兵士たちに王を呼
ぶように叫んで、今に至っているというわけだ。
肩に止まる使い魔は主人の意図が分からないのか小首を傾げる。
だが緑の目には雫を非難するような色は浮かばなかった。そのこと
が逆に心苦しい。雫は緊張に鳴りそうになる歯を食いしばって空を
見上げた。
542
思考は恐ろしい程の速度で回っているにもかかわらず、意識の上
には何一つ残らない。
俺を呼んだか﹂
むしろそうやって動揺が少しずつ均されていくような気がした。
﹁︱︱︱︱
忘れようのない声が響く。
男の声は遠く離れた地上からだというのに、はっきりと雫の耳に
も聞き取れた。彼女は思わず身震いする。
呼んだのだから来てくれないと困る。だが、半分くらいは無視さ
れるのではないかと思っていたのだ。雫は、王が自分の要請に応じ
たその理由を考えかけて、しかし勢いよくかぶりを振った。立ち上
がり、塔の縁から地上を見下ろす。
男は塔の真下から傲然と彼女を見上げていた。
﹁王様、話があります﹂
﹁言ってみろ﹂
﹁何故、私を殺そうとするんですか﹂
少女の率直な問いに、王の周囲にいた人間たちは表情を強張らせ
る。
彼らも皆それを知らないのだ。普段は鷹揚な王が、何故何の変哲
もない少女を捕らえようとしているのか分からない。そしてそれを
当の彼女も分かっていないということに、彼らは少なくない衝撃を
受けた。臣下たちは真意を求めて無礼にならない程度に王の様子を
窺う。
﹁何故、俺に聞く? お前が一番分かっていることだろう﹂
﹁分かりません。あなたは何か勘違いをしてらっしゃる。私は本当
に、ただの人間です﹂
﹁だがお前は﹃違う﹄﹂
力のある断言。
それは雫が異世界から来たことを意味しているのだろう。確かに
その通りだ。彼女はこの世界の人間ではない。
だが、雫にはどうしてもラルスがそれだけの理由で自分を殺そう
543
としているとは思えないのだ。彼はエリクに﹃あれらは長い年月を
大陸に紛れ込んできている﹄と言った。だが、雫がこの世界に来て
からまだ半年も経っていない。
この食い違いに彼女には無視できぬ、明暗を分かつ何かを感じた。
もしかしたら彼の思う﹃あれ﹄とはまったく違うもので、彼女はそ
れと誤認されているだけではないのか。
﹁王様、私にはちゃんと家族があります。そして生まれてから十八
年しか経っていない。ただここに迷い込んでしまっただけです。こ
の世界のことは私の世界ではまったく知られてません。どうやって
来たかも分からない。だから私、家に、帰りたいだけなんです﹂
﹁それが擬態ではないと、どう証明できる? 外から来し者とは、
つまりお前は﹃あれ﹄の一つということではないか﹂
﹁私はそれを知りません﹂
﹁知らぬ振りなど誰でも出来る﹂
話し合う気もない態度に雫は歯噛みした。
こうなるのではないかと思ってはいたのだ。何も好転しない。今
立っている場所を踏み越えでもしなければ。
雫はメアを肩から下ろして石の縁に移した。視界の隅に、彼女に
向かって弓を番える何人かの兵士が見える。
怖いという感情には、はたして限界があるのではないだろうか。
少なくとも今彼女は抱える恐怖を怖いとは思えない。むしろそれを
上回る感情に支配されている。彼女を立たせるそれら感情のうちの
一つは、言うなれば理不尽さへの怒りだった。
﹁エリクをどうしましたか、王様﹂
﹁牢に繋いだ。ここに引き立て剣を突きつければお前は下りてくる
か?﹂
﹁彼を放してください﹂
﹁断る﹂
544
ラルスに譲る気がまったくないことは雫にも分かった。それは予
想できていたことだ。だから、彼女はここにいる。彼の剣の届かぬ
場所から、彼と戦って傷をつけることを、結局雫は選んだのだ。
﹁王様、もう一度お願いします。エリクを放してください。私はた
だの人間で、彼は私を助けてくれたんです﹂
﹁ならばあの男も同罪だ。共に葬ってやれば満足するか?﹂
﹁⋮⋮ふざけんな﹂
石の縁の上によじ登った。
雫の罵倒は呟きでしかなかった。だからラルスまでは届かない。
そして代わりに彼女は︱︱︱︱
何も支えるものがない塔の上から僅かに瞠目する男を雫は冷やや
かに見下ろす。
﹁王よ。あなたは仰いましたよね? ﹃腹の中がどうなっているの
か分からない。皮の上など取り繕える﹄と。だから、証明してさし
あげます。私が本当に人間だってことを。その代わり、あなたは汚
名を負ってください。あなたはこれで、武器も何も持たないただの
小娘を殺した王になるんです﹂
何処にも逃げ場がない。
そう思った彼女が出した結論は戦うことだった。
だが、彼女には何の力もない。まず正面からかかっていってもあ
の王には勝てないであろうし、ましてや知で勝負してどうこうでき
るとは思えなかった。
しかも彼女は急がなければならない。エリクはおそらく王のとこ
自分の命を、武器として使
ろにいるのだから。間に合ううちに決着をつけなければ。
そうして雫が出した結論は︱︱︱︱
うことだった。
﹁そこから飛び降りるというのか? 面白いことを言う﹂
ラルスは何の動揺もなく、むしろ楽しむかのような目で雫を見上
げた。彼女はその視線に対極の目を以って返す。
545
怖いと言ったら怖い。
悔しいと言ったら悔しいのだ。
だが、不思議と心の中は今、とても静かだ。
ただ少し泣きたいだけ。
だがそれも、瑣末でしかない。
今彼女を支えているものは、もっと根源的で人間的な何かだ。
そして、不理解への怒り。そんなものでしかない。
けれどそれで充分だった。
それだけで、人は時に命さえ賭けられる。
﹁王様、私は死にたくないです。⋮⋮⋮⋮でも、それ以上に怒って
います。
あなたは私を何だか訳の分からないものだと言う。そうやって私
を殺して闇に葬る気ですか? もしそれで私が人であったら、あな
たが間違っていたならどうするのです﹂
﹁可能性があるならそれを無視はできない。それに、お前はとても
疑わしい存在だ。それくらいは自分でも分かるだろう?﹂
﹁ええ。分かります﹂
王として、おそらく彼の判断は間違っていないのだろう。彼の思
う﹃あれ﹄が何らかの脅威であるならば。
だが、雫にしか分からないこともある。
彼女が本当にただの人間でしかないという事実は、厳然として確
かに存在しているのだ。
雫は王を真っ直ぐに見下ろす。少女の落ち着いた貌は人形のよう
に彼の目には映った。ただ、双眸だけが挑むように燃えている。そ
の瞳に心地よささえ覚えてラルスは笑みを浮かべた。彼女の声は鈴
のように距離を貫いて下まで届く。
﹁ですから、気の済むまで調べてください。飛び散った血も肉も好
きに集めてください。そうして私が何であるか最後まで調べて、本
546
当に人間であったなら⋮⋮あなたは負けを認めてエリクを放してく
ださい﹂
王にとっては、彼女一人の死など何の痛痒も感じないほどに軽い
ものであるのかもしれない。たとえ無実の少女を死に至らしめたと
しても、それがよくないことであろうと、彼はより多くの民の生と
死を常に負っているのだ。
けれど雫は、自分の命が数百万のうちの一でしかなくとも、それ
は零では決してないとまた思う。
無数の傷の中の一つで構わない。
そこに全てを賭けていい。
負けて死にたくないのだ。何もできぬまま終わりたくない。
だからこそ彼女は矜持によって命を使う。
そこには常に後悔がつきまとうのだと分かっていても、最早迷い
はなかった。
﹁俺の負けと?﹂
﹁ええ。私の勝ちです﹂
﹁それで死んでもか?﹂
﹁私が死んでも﹂
﹁面白い﹂
王は笑う。
強者の笑みだ、と雫は思った。人の弱さを見抜く瞳。だからこそ
怯むことはできない。屈することはしたくなかった。
﹁まるで人間のようなことを言う﹂
﹁人間ですから﹂
﹁ならば証明してみろ﹂
揺るがない言葉。
雫は目を閉じる。
547
そう言うだろうと思った。
口先だけの抗弁に動く相手ではないと。
彼女は微笑む。
人の本質は、彼女にとってはいつも最後には精神なのだ。
怖い、けれど、怖くない。
悔しい、けど、悔しくない。
泣きたくて泣きたくなくて、生きたくて死にたくなくて。
けれどいつかは死ななければならないのなら。
それを選び取るもまた人の自由だ。
死ぬために死ぬのではない。勝つための一手。
雫は王を見つめる。
他のことは考えない。今は彼だけを思う。
有限の世界。
捩れた視界。
人は終わりには独り。
生まれた時に分かたれた。
けれどそれは︱︱︱︱
雫は思考を打ち切る。
そして、少し苦笑して⋮⋮⋮⋮王から目を逸らさぬまま塔を蹴っ
た。
※ ※ ※
ばらばらになった。
その破片は、人の中に。そうしてまだどこまでも広がっている。
548
気づかれないのだ。
この世界にとっては、とても当たり前のことだから。
だから、逃げられなくて、戦えなくて、なんて不自由な自由。
でもそれは、そんなものは、結局人を
﹁飛び降り自殺は嫌だなぁ。痛そうじゃん﹂
﹁ある程度の高さがあれば途中で気絶したりするらしいよ。お姉ち
ゃんは絶叫系乗らないし、気絶できるんじゃない?﹂
﹁何で、私が飛び降りすること前提になってんの!?﹂
雫の叫びに、妹の澪は読んでいた本から顔を上げぬまま﹁だって
自分で痛そうって言ったじゃん﹂ともっともな答を返してきた。年
の割りにドライな妹に雫は顔を顰める。
二人でぼんやり過ごす休日、何となく﹁どの死に方が一番苦しく
ないか﹂などという物騒な話題になったのは、テレビで似た話題が
出ていたからだ。
本を読んでいる澪と並んでソファに座っている雫は﹁首吊りって
苦しいんだね﹂から始めて、ぼんやりと画面の中の芸能人の言葉を
なぞっていた。それに端から妹が現実的な相槌を打っていく。これ
に、今は不在の姉の的を外した感想が加わると、水瀬家ではいつも
の光景になるのだ。
﹁いやー、死ぬの怖いよ。私は安楽死希望﹂
﹁お姉ちゃん、安楽死と自然死を間違ってない? 字面だけで判断
してるでしょ﹂
﹁え?﹂
何か間違っているのだろうか。改めて澪に聞こうとした雫は、け
れど妹が本を閉じて急に自分を見返してきたことでその言葉を飲み
込んだ。澪の、それだけは姉妹でよく似ている大きな瞳が雫を見つ
める。
﹁お姉ちゃんは自殺しないから、無用な心配だよ﹂
549
﹁そ、そう?﹂
﹁だって死にたくないんでしょ﹂
そう、言っていたのに。
﹁死にたくないさ!﹂
︱︱︱︱
体が、痺れる。
指を少し動かしただけで激痛が走った。雫は声にならない叫び声
を上げる。
痛い。苦しい。怖い。
腕があげられない。足が動かない。
痛い。
血の臭いがする。気のせいだろうか。
分からない。
痛い。
苦しい。
入ってこないで。
気持ち悪い。
助けて。
助けて。
﹁⋮⋮⋮⋮お、かあ、さん﹂
﹁大丈夫﹂
女の声。
誰かの手が、額に触れる。
優しく髪を撫でる。
それだけのことが、とても嬉しくて。
そして彼女の意識は再び闇に沈んだ。
550
※ ※ ※
﹁⋮⋮⋮⋮とうに、貴方は! 悪趣味です!﹂
﹁疑わしきはとことん疑うのが俺の趣味だ﹂
﹁趣味であのように普通の娘を殺そうとしたのですか!? 正気を
疑います!﹂
﹁これが正気。ちゃんと助けたじゃないか。中身は人間みたいに見
えたからな﹂
﹁正真正銘人間でしたよ! 血も骨も内臓も調べました!﹂
﹁あまり怒ると皺になるぞ﹂
雫が目を覚ましたのは、訳の分からぬ言い争いがすぐ傍から聞こ
えてきた為だ。
のらくらとかわす男に、女が厳しい声を上げる度に頭が痛む。雫
はうっすら目を開けると若草色の天井を見つめた。最近の病院は目
に優しい壁紙を採用しているのだろうか。それにしては随分華やか
な装飾が施されている気がする。彼女は首を動かして声のする方を
見やった。
そこにいるのは若い男女だ。男の方は椅子に座って雫を眺めてい
る。その彼に食って掛かっているのは長い黒髪の女だった。寝台に
背を向けている女を、何処かで見た事がある気がして雫は記憶の中
を探る。けれどその答を見つけるより先に、男が雫を指して﹁起き
たぞ﹂と言った。
女は慌てて枕元に駆け寄ってくる。振り返ったその容姿は、同性
でも思わず見惚れてしまうくらい美しいものだった。たとえて言う
なら月下に咲く白い華のような静謐な美貌。宝石のような青い瞳を
雫は見上げる。
551
﹁ええと⋮⋮雫、だったかしら。具合はどう?﹂
﹁⋮⋮ぼんやりします⋮⋮﹂
﹁血が足りないのかもしれないわ。怪我は治してあるけれど、今日
一日は安静にしていて﹂
﹁はい⋮⋮﹂
ちっとも頭がはっきりしない。雫は顔にかかる髪をよけようとし
て違和感に気づいた。目を丸くして、自分で自分の体を確かめる。
白い布が掛けられた下の体は、何も着ていない裸だったのだ。思わ
ず彼女は硬直する。
﹁どうかした? どこか痛むのかしら﹂
﹁いえ、そうではなくて、服は⋮⋮﹂
服を着たいです、と言おうとした雫を、いつの間に隣に来ていた
のか上から男が覗き込む。それが誰だか分かった雫は表情を変えた。
ラルスは感情の読めない笑みで彼女を見据える。雫は起き上がり
たかったが、服を着ていないのと体の節々が痛む為、それを諦めて
男を睨んだ。
﹁私が生きてるってことは⋮⋮負けを認めたんですか、王様﹂
﹁さて? とりあえずは留保期間だ。お前の思い切りがいいせいで
皆に顰蹙を買ったからな﹂
﹁当然ですわ、兄上。少しは頭をお冷やしになってください﹂
女の冷ややかな相槌に、雫はようやく彼女を何処で見たのか思い
出した。
カンデラの転移陣の広間。そこですれちがったファルサス王妹が
彼女なのだ。雫は王族二人を前に息を飲む。王は彼女の態度に薄く
笑った。
﹁が、俺は疑り深くて仕方ない人間だ。毎日出される料理にこっそ
り人参が混入されていないかいつも疑っているくらいだ﹂
﹁そういうことを他言なさらないでください。恥ずかしい﹂
﹁というわけで、まだ信じていない﹂
﹁そうですか。私と人参を同列に語らないでください﹂
552
﹁だからお前は⋮⋮⋮⋮俺の愛妾になるか?﹂
レウティシアと雫、それぞれの突っ込みを無視して続けられた言
葉に、女二人は沈黙する。
そして意味の分からない言葉をゆっくり咀嚼した後、彼女たち二
人は揃って
﹁このド変態!﹂
﹁あ、阿呆か!﹂
と叫び声を上げたのだった。
見張り塔から飛び降りた雫を受け止めたのは、王に無言での指図
を受けた魔法士だった。
だがそれでもせいぜい落下の衝撃を和らげ頭部を庇う程度のもの
で、雫は命に関わるほどではないが、地面に打ち付けられあちこち
骨を砕く大怪我をしたらしい。﹁広範囲に血が飛び散っていた﹂と
いう話を後から聞いて、まったく記憶のない雫はぞっと青くなった
ほどだ。
重傷を負った彼女はその後、丁度城に戻った王妹レウティシアの
彼女は﹁ただの人間﹂とい
手によって治療された。その際に体を隅々まで調べられたのだとい
う。
そして出された結論は勿論︱︱︱︱
うものであった。
入浴をして簡易なワンピースに着替えた雫は、深く息を吐き出し
た。椅子に座ると髪を乾かす為にメアが飛んでくる。濡れた髪を梳
く使い魔の少女に礼を言いながら、雫は疲労感の濃い体から力を抜
いた。
この城において、彼女は見つかったらすぐに殺されるという立場
からは何とか逃れでたが、今のところ被疑者扱いである。もっとも
553
疑っているのはどうやら王一人らしいのだが、最高権力者に疑われ
ていてはどうにもできない。
彼女はその為、この城に軟禁されながら見張られ続けるという状
況を負うことになった。王仕えの女官として。
ラルスはそれを初め、愛妾として、と言い出したのだが、雫は断
固拒否した。そしてレウティシアも兄を怒った。女二人から徹底的
な反発にあった王は﹁子を産ませてみれば分かりやすいと思ったん
だが﹂と白々と言うと、代案として雫に側仕えをすることを命じた
のだ。
﹁エリクはどうしているんでしょう。会えませんか﹂
王が去ってからそう尋ねた時、レウティシアは何とも言えない苦
笑を浮かべた。
﹁別の場所に軟禁中。実はね、貴女よりも彼の方が表向きは罪が重
いのよ。叛逆の一歩手前だったそうだから﹂
﹁⋮⋮え﹂
﹁でも兄の方が悪いってのも皆知ってるから。今のところ行動は制
限されてるけれど不自由はないはず。心配しないで﹂
それでもやはりエリクには会えないらしい。
雫は安堵と落胆の入り混じった思いを抱えて、一日の休息を手に
入れた。
﹁禁呪って⋮⋮言ってたよね、王様﹂
あの時、雫を逃がすために立ちはだかったエリクに向って、ラル
スは﹁禁呪に与した魔法士﹂と言ったのだ。その場にいなかったメ
アには分からない。だが、雫はその言葉をちゃんと覚えていた。
カンデラではあれ程禁呪に対し嫌悪感を示していた彼が、かつて
禁呪に関わったというのは本当のことなのだろうか。考えてはみた
もののどうも上手く想像できない。そもそも雫は彼の過去について
まったく知らないままなのだ。どうやらエリクはレウティシアとも
面識があったようだが、それについても本人のいないところで知り
554
気になることは他にも多々ある。
たがるのは失礼に思えて、彼女は何も聞かなかった。
そして︱︱︱︱
ラルスの言う﹃あれ﹄とは何なのか。二百四十年前の事件の真相
はどうなっているのか。
何だか謎がいっぱいだ。考え始めると気が遠くなる。雫は目を閉
じて溜息をついた。
だが全てはまだこれからだろう。折角生きていられたのだ。しか
も王に少しだけ妥協をさせた。だから足掻いていけばいつか手が届
くかもしれない。欲しかったもの、帰りたい場所へと。
彼女は髪を乾かしてもらうと、疲れきった体を再び寝台に横たえ
る。
きっと今夜は夢も見ない。そんな予感がした。
ハーヴは見張りの兵士に軽く手を振って、部屋の扉を叩いた。遅
れて中から返事が聞こえる。彼は苦笑混じりに扉を開けた。
﹁あの子、助かったらしいぞ﹂
開口一番に相手が聞きたかったであろうことを教えてやると、窓
辺に座っていた男は﹁そう﹂とだけ答えた。
﹁お前も無茶だがあの子も無茶だ。王に啖呵切って塔から飛び降り
た人間なんて初めて見たよ﹂
﹁そういうところが頑固なんだ。怒らせると何するか分からなくて
怖いよ﹂
エリクの声は平坦ではあったが、大分落ち着いたものである。
雫が塔から飛び降りたと伝えた時は、射竦めるような眼で見られ
てぎょっとしたものだが、それも一瞬の波のように今は消え去って
いた。
﹁とりあえずは陛下の側仕えだと。ていのいい監視だな。あの子の
何がおかしいのか、俺にはわからないよ﹂
﹁僕にも分からない。けど⋮⋮⋮⋮﹃外部者﹄って何か知ってる?﹂
555
﹁外部者? 部外者ってことか?﹂
やっぱり知らないらしきハーヴの反応にエリクは眉を寄せる。
どうにも真相が掴めない。ということは王族のみが知っている機
密の一つなのだろうか。
ファルサスは歴史も長く王族自身に力があるせいか、公にされて
いない資料が他国と比べても多い。特に六十年前の王族同士の内紛
に関わる出来事については、ほとんどが封印資料だ。
これら封印資料を閲覧するには王族の許可か同伴が必要となる。
そして今、直系のファルサス王族とされているのは王と王妹の二人
しかいなかった。
こんなことなら、もっと彼女に頼んで調べ物をしておけばよかっ
た、そう思いかけてエリクは自嘲を浮かべる。
馬鹿げた空想だ。もし時が戻るのだとしても、一介の魔法士が封
カティリアーナ・ティル・ロサ・ファルサスは死んだ。
印資料を見ることなど出来うるはずがないし、第一彼女はもういな
いのだ。
︱︱︱︱
誰よりも彼はそのことをよく知っている人間なのだから。
この世界には緑茶がない。
一般的にお茶と言われるものは紅茶に似た色合いをしているが、
風味はハーブティに近い。
一度どんな植物から作っているものか聞いたものの、エリクはそ
れを知らなかったので、雫は未だに原料を知らないでいる。
﹁はい、お茶ですよ。王様﹂
﹁こんなにぞんざいに茶を出されたのは初めてだ﹂
﹁正座して泡立てればいいんですか?﹂
﹁お茶を泡立ててどうする。嫌がらせか﹂
556
﹁文化の違いが⋮⋮﹂
盆を持ったまま雫は苦い顔で執務机の前から下がった。
不満を示されても不満なのはこちらも同じなのだ。丁寧語を使っ
ているだけで彼女としては譲歩である。半袖のブラウスに膝丈のス
カートというウェイトレスのような格好をした彼女は、机から去り
際、後頭部に紙くずをぶつけられて顔を顰めた。
勿論誰がぶつけたかなどよく分かっている。この部屋の主人一人
しかいない。
﹁何するんですか、王様﹂
﹁正体を現せ﹂
﹁いい加減しつっこいなぁ!﹂
雫はつい持っているお盆をラルスめがけてぶつけたくなったが、
何とかそれを堪えて部屋を退出したのだった。
ファルサスの城都は暑い。湿度は低いが、温度は高い。
にもかかわらず城の人間は皆、長袖を着て平気な顔をして仕事を
している。
例外はただ一人、国の頂点に立つ男で、彼だけは半袖の簡素な服
を着て仕事をしていた。ラルスは暑いからというより動きやすいか
らという理由で、人に会う用事もない時は軽装らしいのだが、それ
を知らなかった雫が
﹁王様だけ涼しそうですね﹂
と言ったところ
﹁お前も好きな格好をすればいい。甲冑でも裸でもな﹂
と返されたので、﹁ありがとうございます。ド変態﹂と言って彼
女は宿から持ってきた私服に着替えたのだ。
出会ってすぐに問答無用で殺されかけた雫は、最早無礼という域
もっとも彼女は厳密には王の臣下では
を通り越すチクチクした態度で王にあたっているのだが、彼自身は
まったく気にしていない。
ないのだから、そこを口うるさく言う必要もないということなのだ
557
ろう。ラルスの性格なら臣下がこうでも気にしない気もするが。
﹁私、いつまでこの生活すればいいんでしょうか﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
雫の問いに苦笑したのは、兄より数千倍常識人のレウティシアだ。
ただこの言い方を通用させるにはラルスの常識が零ではいけない
という前提が必要なのだが、公人としては彼はほとんど欠点のない
王であるらしい。その欠点のなさを少しでも性格に分けて欲しかっ
た、などと雫は思うが、それは王に近しい人間全員が思っているこ
とであるようだった。
﹁王様って二十七歳ですよね。二十七歳になっても人参を根深く嫌
ってるってことは、私もあと二十七年くらい疑われるんですか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それはちょっと⋮⋮御免なさい﹂
﹁謝らないで否定して頂きたいんですが﹂
現在十八歳の雫は、あと二十七年経ったら今の親の年齢と同じく
ましてやあの王と小競り合いを続けているなどとは
らいになってしまう。そんなになるまでこの国にいるとは思いたく
なかったし、
もっと想像したくなかった。雫は精神的疲労に項垂れる。
﹁そもそも私、一体何と間違われてるんですか?﹂
それが分からなくては反論もしにくい。当然の疑問にレウティシ
アはまた﹁うーん﹂と唸った。
﹁これはファルサス直系だけの秘密だから。本当は兄でなければ他
言はできないのだけれど、さわりだけ﹂
﹁はい﹂
﹁貴女は別の世界から来たと言ったでしょう? それで、この世界
には貴女の他にやっぱり外から来たものがあるのよ﹂
その答は雫にとっては目から鱗が落ちるようなものだった。レウ
ティシアと並んで回廊の手すりによりかかっていた雫は、思わず体
を起こす。
﹁いるんですか!? じゃあどうやって⋮⋮﹂
558
﹁分からない。けれどそれらは干渉者だから。ファルサス王家には
それを排除するようにと口伝が継がれているの﹂
﹃干渉者﹄とはどういうことだろうか。雫にはこの世界に干渉して
いるという自覚はない。もっとちっぽけな存在だ。ただ﹁外から来
た﹂という一点でひとくくりにされてしまっているのだとしたら、
人の誇り
迷惑にも程がある。雫は何だか分からぬものを内心恨んだ。
﹁何で排除するんですか? 外から来たから?﹂
﹁違う。弄られて鑑賞されるから。私たちには︱︱︱︱
がある﹂
レウティシアの言うことはよく分からない。分かるように説明は
できないのだろう。それは本来ならラルスの許可がなければできな
いことだ。
だが彼女の言いたいことは少しだけ分かった気がした。
人には人の矜持がある。
だからこそ雫も、巡り巡って今ここでこうしているのだから。
おおよ
王仕えの女官となった雫の仕事は、朝起きて執務室の掃除をし、
王に時々お茶を出して小間使いのように注文を聞きつつ、
そ夕方にさしかかるという頃に終わる。他国から城にやってきて塔
から飛び降りた挙句女官に任じられた少女を、他の女官たちは困惑
と共に迎えたが、王のお気に入りと認識している為か腫れ物に触れ
るように扱って必要以上に接触してこない。実際はお気に入りとい
うより、天敵のように思われているのだが、面倒なので雫はその事
実を黙っていた。
﹁エリクはどうしてるんですか、王様﹂
その質問にラルスは書類を処理していた目だけを上げて雫を見る。
﹁働かせてるぞ、書庫で。最近レティが忙しくて人手が足りないら
しいから丁度いい﹂
﹁書庫って何処にあるんですか﹂
﹁おしえなーい﹂
559
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹃すっげぇ殴りたい﹄という言葉が喉元まで出かかったのを飲み込
んで、彼女は沈黙を保った。殴りかかりでもしたなら、それこそ﹁
正体を現したな!﹂と喜ばれかねない。この男の物言いはまったく
隙なく腹が立つが、それ以上に思惑に乗るのは嫌だった。
﹁あの男はお前に甘いから駄目だ。折角俺がボロを出すまで苛めよ
うとしているのに﹂
﹁ド変態の王様はサドですか。サド王ですね﹂
﹁サドとは何だ﹂
﹁私の世界の文豪マルキ・ド・サドと性癖を同じくする方々を称え
てそう言います﹂
微妙に明言を避けて説明すると、ラルスは﹁ふぅん﹂と気のない
相槌を打つ。薄青の瞳は相変わらず感情が読めない。元来の性格で
感情が読めないエリクとは違う、﹁見せない﹂瞳。表層的なものが
全て擬態なのはどちらかというと彼の方ではないのだろうか。
﹁お前の世界はどんな世界だ?﹂
﹁ここと変わりませんよ。魔法と文明以外は﹂
﹁国があって王がいて争っているのか?﹂
﹁いえ⋮⋮今は民主国家です。私の国は﹂
﹁なるほど。責と利を分散させているのか﹂
大陸でもっとも大きい国家。その責を一身に担う男は平然と感想
を述べる。だが制度の違う国への言葉には驕りも妬みも感じられな
かった。
手持ち無沙汰なので執務室内のテーブルを磨き始めた雫は、机に
頬杖をつく男を一瞥する。
レウティシアは﹃あれ﹄を排除することを﹁人の矜持によって﹂
と言っていたが、兄の方は今現在とてもそうは見えない。むしろ﹁
紛れもなく﹁人の王﹂た
何となく﹂でやっている気さえする。ただ、初めて雫と会った時、
彼女に向かって剣を向けた男は︱︱︱︱
560
る威を帯びていた。その姿は雫に忌まわしい印象と共に記憶されて
いる。
外見だけを言えば申し分ない、秀麗な男だ。しかしその中身を知
っている雫にとっては、優れた見栄えに何の意味も覚えなかった。
まったく人間は﹁中身が重要﹂なのだ。
﹁お前の世界には人参があるのか?﹂
﹁ありますよ。ありまくります。重要なカロテン源です﹂
﹁それは残念だ。やっぱりお前を処断するしかないな﹂
﹁人参の有無で人の生死を決めないで下さい。こっそり人参食べさ
せますよ﹂
﹁どれ程誤魔化しても気づくからいつでもかかってこい﹂
本当に人参を食べさせてやろうか、と、人参嫌いの子供にこっそ
り食べさせるレシピを雫はいくつか思い描き始める。彼女などは甘
いと感じる人参の何が嫌なのだろう。他人の食べ物の好き嫌いはえ
てして理解しにくいものだ。
雫は床にしゃがみこむとテーブルの足を拭き始める。一本しかな
い足はこんなところまで見る人間は滅多にいないだろうに綺麗な彫
刻が施されていた。
﹁今の境遇が嫌か?﹂
見えない角度から男の声が振ってくる。雫は考える間もなく即答
した。
﹁嫌です。不愉快です。衣食住を見てくださるのは嬉しいですが、
それより人として見てください﹂
﹁なら時を戻せばいい﹂
﹁そんなことできたら大変ですよ。魔法使いじゃないんですから﹂
時間とはこの世界の魔法によってさえも戻せないのだ
王は沈黙する。
︱︱︱︱
と彼女が思い出したのは、夜になってからのことだった。
561
※ ※ ※
密談は、暗い部屋でしなければならないというわけではない。
その為、彼ら二人は燭台によって煌々と照らされた部屋に、向き
合って座っていた。質のよい平服を着た男はおどおどと辺りを窺い
ながら、目の前の魔法士に視線を送る。
﹁本当にこちらの条件を飲んでくれるんだろうな﹂
﹁貴殿がそれを為し得れば。姫は願いを叶えると仰っていた。地位
でも財でも好きに与えてやるとな﹂
男は異国の魔法士の言葉に、一瞬期待のこもった目を向けた。だ
がすぐに我に返るとかぶりを振る。
﹁確証が欲しい。命を賭けるのだぞ﹂
﹁命を賭けるのはそちらの勝手だ。為したか、為さぬかのみが判断
される﹂
まるで書類を読み上げているような情味のない答に男は表情を曇
らせた。心中で危険と報酬が天秤に賭けられる。成功すれば、輝か
しい未来が保証されていると言っていいのだ。このままこの国で燻
っているよりも。
自分の野心を見透かしたようにかけられた誘い。それを前に男は
落ち着きなくあちこちを見回していた。
﹁やらないというのならそれでも構わない。貴殿のことをファルサ
ス国王に密告して、それでしまいだ﹂
﹁待ってくれ!﹂
交渉から脅迫に、場が一転しかけるのを男は慌てて留めた。異国
の魔法士に向って両手を上げる。
﹁やる。やろう⋮⋮。今は絶好の機会だ。王妹は不在がちで、城に
は不審者がいる﹂
﹁先日騒ぎを起こしたという娘か? 王のお気に入りなのだと﹂
562
と男は結んだ。異国の魔法士は笑みもせ
﹁それと、四年前の事件に関わった魔法士だ。何かあればまずやつ
らから疑われるだろう﹂
だから、やる︱︱︱︱
ず頷く。
こんなものは、ただの遊びだ。姫を退屈させないように繰り返さ
れるただの遊び。
だがそれもいずれは趣きを変えるであろう。数ある遊びが全て打
ち落とされようとも、姫の手には今、新しい幕を開ける種が育ちつ
つあるのだから。
563
003
夢の中でのことは外には持ち出せない。
そしてもっと深くに在るものは夢の中でさえ疑えない。
気づいてはいけないと、それは絶えず彼女を支配する。
気づいてしまえば最早、守れなくなってしまうのだからと。
脇腹がねじ切れそうに痛い。雫は左手を腹にあてながら、感覚の
あまりない両足を意思だけで前に動かした。喉がカラカラと乾いて
苦しい。息が上手く出来ない。心臓が破裂しそうな程叫びを上げて、
その痛みにもう崩れ落ちてしまいたかった。
両側に木の植えられた細い道を、雫は曲がる。角の日陰に差し掛
かった時、限界を感じた彼女は一本の木の影にふらふらと歩み寄っ
た。幹に手をつくと屈みこむ。言葉もなく胃の中の物を吐く雫に、
彼女がいないことに気づいたのか、戻ってきた男が声をかけた。
﹁もう限界か? 体力ないな﹂
呆れるわけでも冷ややかでもない、ラルスの淡々とした言葉。雫
はかろうじて残った意識で口には出さず﹁ふざけんな﹂と反論した。
その日の朝、いつも通り王の執務室に出勤した彼女は王に﹁走る
ぞ﹂と言われて目を丸くした。何が何だか分からなかったが、言わ
れた通り若い兵士が着るような麻の上下に着替えて、ラルスの後に
ついていく。
564
そしてそのまま彼女は、何故か城の内周をランニングで三十周す
る羽目になったのだった。
﹁そろそろ、死にます⋮⋮﹂
この世界に来てやたらと走り回っているせいか、自分でもジョギ
ングをして体力をつけるようにはしていたが、それにもさすがに限
界がある。元々長距離走は非常に苦手だったのだ。加えてラルスの
異常に速いペースにつきあっていては持つはずもない。
倒れる二歩手前くらいの体調に、本当は地面に転がってしまいた
かったが、さすがにそれは堪えた。代わりに力なくしゃがみこんだ
雫はすぐ傍に立つ王を見上げる。
﹁女官ってこういうこともするんですか﹂
本当に殴りたい。
﹁しない。単にお前の体力を測ってみようとしているだけだ﹂
︱︱︱︱
それは雫の心からの思いであったが、殴れるような力は残ってい
ない。肩で息をつきながら足元の草を見つめた。背筋を生温い汗が
何筋も伝っていく。前髪を濡らして滴ったそれが青い草の先に落ち
る様は、雫に沸々と理不尽を感じさせた。
沈黙する彼女の頭をラルスは軽く叩く。
﹁俺にも仕事がある。あと一周で終わりにするか﹂
﹁まだ走るんですか⋮⋮﹂
﹁お前が嘘をついていないという保証はない﹂
疑り深い王の背中に、心の中で蹴りを入れながら雫はぼろぼろの
体を引き摺って走り出す。
ファルサスの上空は今日もよく晴れた青空が広がっていた。
最後の一周と言いながら、しかし到底走れる状態ではない雫は、
歩くような速度で足を動かしていた。その彼女を振りきってしまっ
ては見張りにならないと思ったのか、ラルスは一歩前を歩いていく。
565
不愉快は不愉快であるが、今更言っても始まらない。大体彼は雫
の不愉快を何とも思わない人間なのだ。ならば徹底的に振りかかっ
てくる﹁苛め﹂とやらを受けて立つしかない。こうして彼女は日々
悪態をつきながらも、気まぐれにしか見えない王につきあって、脈
絡のないテストに絶えず直面し続けていた。
二人は無言のまま城の裏手にさしかかる。
城壁と雑木林の間の小道を黙々と進みながら、ふと視界の左方向、
林の中にある白い建物を指差して雫は口を開いた。
﹁あれ、何ですか﹂
先ほどからずっと気になっていたのだ。倉庫というよりは神殿を
彷彿とさせる壮麗な建物。大して大きくはない。ちょっとした小屋
くらいだろうか。真四角の建物には窓がなく、扉があるとしたら反
対側であろう。
ラルスは雫の指先を追って、その建物に視線を移した。
﹁王家の霊廟だ。代々の王と妃の棺が安置されている﹂
﹁骨壷じゃないんですね。土葬ですか?﹂
﹁正確には土に埋めるわけではないが、遺体をどうこうはしない。
綺麗にして棺に入れるだけだ﹂
息が大分落ち着いてきた雫は、ラルスの返答に頷いた。ほとんど
力の入らない足をそれでも前に出す。
確かラルスは第三十代の王だったはずだ。ならば単純に考えて安
置されている棺は五十八個以下だろう。あの大きさの建物に骨壷な
らともかく棺が五十八個も入るとは思えないから、おそらく安置所
は地下にでも広がっているに違いない。
この世界に幽霊はいないと知っているせいか、雫は何の恐れもな
く白い建物を見つめた。
﹁王様もその内あそこに安置ですか﹂
﹁そうだろうな。そろそろ中を広げなければ、棺が場所を取って仕
方ない﹂
﹁燃やして骨だけ安置すれば省スペースですよ。うちはそうです﹂
566
﹁火葬を通例にすれば、毒殺された時に証拠隠滅される恐れがある
から無理だ﹂
ラルスの返答はさらっとしたものであったので、瞬間雫は聞き逃
しそうになった。だがすぐに物騒な内容に躓いて、彼女は一歩先を
王とはつまり、そういった危険にさらされ続けて生き
行く男を見上げる。
︱︱︱︱
ていく人間のことなのだろう。
彼女にとっては遠く現実味のない話。だがこの男にとってはそれ
が当たり前の世界でしかないのだ。
雫は自然と眉根を寄せてしまう。ラルスのことはまったく好きに
なれないが、彼を取り巻く常識はそれを差し引いても、何だか腑に
落ちない窮屈なものに思えた。無意識のうちに深く溜息をつくと、
その気配で気づいたのか王は少女を振り返る。
﹁どうした。話す余裕があるなら走れ﹂
﹁走りますとも、サド王﹂
だがまずは自分のことだろう。ラルスに対して何かを思っている
余裕などはない。それは彼にも雫にも必要のないものだ。
彼女は両手を軽く握るとゆっくり走り出す。走り終えた後の昼食
は、限界まで体を酷使したせいかとても食べる気にはなれなかった。
﹁ド変態のドサド﹂
ぼそっと呟かれた言葉は手元のパンケーキ生地に溶け込んで消え
ていく。左腕に抱きかかえたボウルの中身を、彼女は親の仇によう
に力を込めてかき混ぜていた。
雫が誰に対して腹を立てているのか、勿論城の人間なら誰でも知
っている。今日もランニングをする二人とすれ違った武官が、気の
毒そうな目で彼女を見ていたくらいだ。何処から見てもただの少女
にしか見えない雫を﹁何だかよく分からない敵﹂と思っているらし
いラルスの仕打ちは、女官になってから二週間、未だ止む事がない。
567
先日などは無理矢理剣で手合わせをさせられて、あちこちに打撲
が出来てしまった。それら打ち身は話を聞いたレウティシアが治し
てくれたものの、赤黒い痣はまだまだ消えないでいる。
一体いつまでやれば気が済むのか。とりあえず彼が納得するまで
自分が無事でいられるか、雫はいまいち自信がなかった。何とか状
況を変えたいとは思っているのだが、王の攻勢に追われて有効打を
思いつかない。
それにしてもファルサス王は王剣の剣士と言うだけあって、身体
的にはかなり鍛えられているようである。雫に鬼のしごきをしてい
る間、ラルスも大抵同じことをしているのだが、彼の息が上がって
いるところなど見たことがない。もっとも運動が得意でない文系女
子大生と剣士である王が同程度の身体能力であったら甚だ問題であ
ろう。いつか仕返しをしてやりたいとは思っているのだが、この様
そういう訳で、今彼女は﹁これ﹂を作っているのだ。
子では肉体的に痛い目を見せるのは無理かもしれない。
︱︱︱︱
狐色に焼きあがったパンケーキは甘い香を漂わせている。
雫はその上に満遍なくバターを塗った。本当はメープルシロップ
でもかけたいのだが、この世界では見かけないのだから仕方ない。
冷めないうちにと盆に乗せて、彼女は王の執務室へと向かう。﹁入
りますよ、王様﹂と声をかけて、扉を押し開けた。
﹁何だそれは﹂
﹁おやつです﹂
愛想のかけらもない態度で雫はラルスの前に皿を押し出した。真
円に近いパンケーキを、王は目を細めて見やる。
﹁お前が作ったのか?﹂
﹁そうです。恨みしか入っていないんで、安心して食べてください﹂
﹁どう見ても小麦粉は入っているだろう﹂
ラルスは言いながらもナイフを手に取った。ふんわりと膨らんだ
パンケーキを切り取って口に運ぶ。その様を雫はじっと見つめた。
568
あまり見ては不自然さに気づかれるだろうと思い、いつも通りを強
く意識する。
王は単なるパンケーキを品のある所作で咀嚼し、嚥下した。一拍
置いて顔を上げる。
﹁人参を入れたな?﹂
﹁何で分かったの!?﹂
﹁丸分かりだ。人参の味がする﹂
﹁小指くらいのをすりおろして入れたのに!﹂
﹁甘い。それくらいで誤魔化せると思ったか﹂
一口で看破された雫は唸り声を上げた。まさかここまであっさり
と人参を嗅ぎつけるとは思わなかったのだ。ほどほどに食べ進んで
から暴露してやろうと思っていた彼女は、早くも仕返しが失敗して
がっくり肩を落とす。
﹁大体、日頃あれだけ俺を睨んでおいて、料理を作ってくるとは疑
えと言っているようなものだ。意趣返しをするつもりならもう少し
捻りを入れろ﹂
﹁分かりやすくてすみませんね!﹂
﹁まったくだ。次は改善しろ﹂
ラルスは言い捨てると次の一切れを口に運んだ。その光景に雫は
唖然としてしまう。何故人参が入っていると分かっているのに食べ
るのか。彼は平然とした表情のまま食べ進み、パンケーキは半円に
なった。
そこでようやく彼はナイフを置くと皿を前に押し出す。
﹁もう限界だ。あとはお前が食べろ﹂
﹁人参、そんなに嫌いじゃないの?﹂
﹁嫌いだが、七年ぶりに食べたからな⋮⋮。食べられるかと思った
がやっぱり嫌いだ﹂
﹁リタイアしてよかったのに﹂
少なくとも彼女の方は、皿を投げられることさえ念頭に置いてい
たのだ。拍子抜けして皿を受け取ると、雫は執務室の隅のテーブル
569
に移って自作のパンケーキを食べ始めた。口の中に広がる味は甘く
ふんわりしたもので、少なくとも彼女には人参の味はまったく感じ
られない。昼食を食べていないこともあって、雫は残りのパンケー
キを問題なく胃に収めた。
机に頬杖をついてその様子を眺めていたラルスは、雫が皿を盆に
戻すと口を開く。
﹁お前の世界では人の精神を何と考える?﹂
﹁精神? 何ですか、また急に﹂
﹁いいから答えろ。明日も走らせるぞ﹂
﹁ちょっと待ってください! 答えますから﹂
あれが日課になるのは御免だ。雫は慌てて意識を切り替えると少
し考え込んだ。逆にラルスに問う。
﹁この世界では、人間は肉体、精神、魂から成ると考えられている
んですよね? そういう意味での話ですか?﹂
﹁よく知っているな。そんなことを知っているのは一部の学者や魔
法士だけだぞ﹂
﹁エリクに聞きました﹂
王は納得したのか頷いた。﹁そういう意味での話だが、こちらの
常識に囚われなくていい﹂と返してくる。雫の世界において⋮⋮と
尋ねられたのなら元の世界特有のことを期待して聞かれているのだ
ろう。
彼女は、大学でもされたことのない端的で、だからこそ難しい問
題に頭を捻った。しばらく悩んだ後に、ようやく自分の思考を整理
しつつ答え始める。
﹁私の世界では、大雑把に分けて学問は文系と理系に分けられるん
です。ですからその二つで精神へのアプローチは異なってきます﹂
﹁アプローチ? それはどう違う?﹂
﹁私は文系の上、若輩なんで話半分で聞いてくださいね⋮⋮。理系
は主に精神を肉体との関係において解明しようとしています。脳⋮
570
⋮って分かりますか?﹂
﹁ああ。頭に入っているやつだろう? 思考の器官だな﹂
﹁そうです。私の世界では、肉体の一部である脳を研究することで、
感情が発生するメカニズム︱︱︱︱ つまり脳内にどのような物質
が生まれると、人にどのような感情や気分が生じるのか。こういっ
た仕組みを解き明かし、投薬などによりその物質をコントロールす
ることで精神病の治療を試みています﹂
その話を聞いた時のラルスの顔は中々見物であった。目を丸くし
た男を雫は苦笑を浮かべて見やる。
﹁感情が、物質で生じているのか?﹂
﹁そうです。でも、不思議なことではないでしょう? 血も肉も物
質ですし、人間はそもそも物質によって形成されているんですから﹂
それは、覆しようのない大前提だ。
ラルスは一瞬飲み込めなそうな顔をしたが、雫の視線に気づいた
のか表情を押し隠した。﹁続けろ﹂とだけ口にする。
雫はまた少し沈黙し、考えをまとめると話を再開した。
﹁ただ、そういった物質的な仕組みが判明したのは最近のことで、
まだまだ分からないことがいっぱいです。一方、文系のアプローチ
は宗教や哲学などから始まり、二千年を越える歴史があります。私
の専門はこっちですね。この世界の思想と通じあえそうなのはこっ
ちで、魂を論じるのもこっちです﹂
﹁魂は物質ではないのか?﹂
﹁分かりません。該当する物質が見つかっていないだけなのかもし
れませんが、魂とは概念でしかないという考え方の方が主流だと思
います﹂
﹁魂は在るぞ。禁呪の中には人の魂を消費して強大な力を得るもの
があるからな﹂
再び耳にした﹁禁呪﹂の単語に雫は息を止める。その単語はカン
デラでの忌まわしい記憶と共に、エリクについての不安を抱かせる
571
からだ。
彼の過去には何があるのか。それは本当に禁呪と関係しているの
か。靄のように広がる落ち着かなさに雫は表情を曇らせる。
考えても出るはずのない答を、彼女はしかしラルスに聞こうとは
思わなかった。
俯き加減になった少女に気づいた王は、その理由が何であるか分
かったらしい。﹁気になるなら本人に聞け﹂と何ということのない
ように言ってきた。
﹁本人に聞いていいものかどうか分かりませんし。大体強制労働で
会わせてくれないの王様じゃないですか﹂
﹁ちゃんと給金は払ってるぞ。あいつもお前もな﹂
﹁私にも出てるんですか!?﹂
それは初耳である。大体雫の手元には何も支払われていないのだ。
だから彼女は今まで、労働と苛めは衣食住と相殺されているのだろ
うと思っていた。
もっとも給金についてはまだ一月も経っていないのだから、彼が
そう言うのなら単に支払日になっていないだけであろう。呆気に取
られた彼女に、ラルスは当然のような態度で﹁働かせている代価を
払うのは当たり前だ﹂と返してくる。
﹁王様、暴君なのにきっちりしてるんですね⋮⋮﹂
﹁俺を暴君と言った人間はお前が初めてだ﹂
﹁私に対しては充分過ぎるくらい暴君です﹂
﹁まっとうに苛めているだけだ﹂
﹁開き直らないで下さい﹂
苛めているという自覚があるなら改善して欲しいが、彼の中では
彼女は﹁人ではない﹂と疑われているのだからどうしようもない。
喉まで悪態が出かかった雫はけれど、王に無言で話の続行を促され、
それを飲み込んだ。
﹁⋮⋮私が勉強している分野では、精神とは時代や人によって多様
572
な定義がされています。その全部なんて覚えてませんし、説明も出
来ませんよ﹂
﹁ならお前自身はどう思っている?﹂
﹁人を人たらしめる本質だと思っています﹂
即答にラルスは驚きはしなかったが、僅かに表情を変えた。男は
何もかもを見透かすような強い目でじっと雫を注視してくる。だが
その視線に気圧されたりはしない。彼女は茶色がかった黒い瞳を軽
く伏せただけで、それは王に怯んだからではなかった。
﹁人間を単なる動物から人として分け隔てるものこそが精神だと、
私は思います。知性、理性、感情、意思、こういったものを持ち得
るということが何よりも人間に与えられた可能性であり、現にそれ
を働かせているという状態が人であると⋮⋮違いますか?﹂
﹁動物にも感情や意思はあるのではないか?﹂
﹁でも、理性はありません。理性に従うか否かはともかく、理性の
有無によって感情や意思も影響を受けます。理性と感情の間で煩悶
を抱き、意思に矜持を持つ。これもまた人の姿だと思います﹂
﹁理性を持たない人間は動物か?﹂
﹁自ら理性を退けるのなら。少なくとも、人ではありませんね﹂
辛辣とも言える少女の断言に、ラルスは楽しそうに笑った。何が
気に入ったのかは分からないが実に機嫌がよく見える。何故この男
とこんな問答をしなければならないのか。雫は胡散臭げな目で王を
見やった。
﹁王様、こういう話がしたいなら私の本取って来ていいですか。色
々持ってきてるんで﹂
﹁駄目だ。お前がお前の言葉で話すんだ﹂
﹁口頭試問!?﹂
﹁宮廷魔法士は一応こういう審査もするらしい。俺はレティに任せ
きりだから分からんが﹂
﹁私のことも放っておいて下さると、とっても嬉しいです﹂
573
雫は盆を手に立ち上がる。これ以上ここに留まっていても何かい
いことがあるとは思えない。議論は決して嫌いではないが、この男
は嫌いだ。しかし、﹁皿を片付けてきますね﹂と扉に手をかけた彼
女の背にはラルスの問いが投げられた。
﹁だがその精神もお前の言うことが本当ならば、物質によって作ら
れるものに過ぎないのだろう? なのにお前はそのままのやり方で
学んでいて、何かが得られると思っているのか?﹂
決して揶揄するわけではない、だが無視もできぬ言葉。その質問
は、彼女が常に浴び続けるものだ。﹁学んで、何になるのか﹂と。
答の出ない議論を繰り返して何になるのかと、人の神秘は生化学に
よって明確に解き明かされつつあるではないかと、問う人もいる。
だから雫は振り返って真っ直ぐにラルスを見つめた。そこに好悪
の感情はない。
﹁王様、﹃原因﹄って複数あるじゃないですか。感情が物質によっ
て作られるのだとしても、それは体内での原因の一つであって、人
が何によって何を感じ何を考えたのかは、また別の問題です。だか
ら⋮⋮人ってまだまだ不思議でいっぱいですよ。勉強も楽しいです
しやめる気はありません。それに、役に立たないことって面白くな
いですか?﹂
無駄で終わるのだとしても面白いのだ。その在り方が綺麗だと思
う。人の思考とはこんなにも複雑で、ひたむきで、そして美しく広
がるものなのかと、一つを知る度に彼女はその果てしなさを思い知
る。雫自身、まだ学問のほんの入り口に立っているに過ぎない。け
れど、今でも充分過ぎるくらい楽しいのだ。
舌を出して退出していった少女を、ラルスは引きとめもせず見送
る。
そして彼は一人になると、しばらく顎に手をかけたまま何事かを
考え込んでいたのだった。
574
※ ※ ※
最後の一冊は異様に薄かった。彼はそれを書棚から引き抜き、そ
の場でぱらぱらと捲ってみる。細かい単語まで追う必要はない。必
要なことが書いてあるか否かを調べているだけなのだから、章題だ
け分かればいい。
だが、半ば予想していた通り、その冊子にも彼の求めていた記述
はなかった。エリクは少しだけ苦い顔で本を棚に戻す。
﹁なかったでしょう?﹂
唐突にかけられた声はよく通る女のものだ。それが誰であるか振
り向かずとも分かる。彼は黙って首肯した。
﹁貴方は自分の目で見なければ納得しないだろうから。兄の気が済
めば教えてくれると思うわ﹂
﹁どうだか。期待はできません﹂
﹁嘘をついているつもりはないのだけれど﹂
﹁あの方の気はいつ済むか分からない﹂
その答はレウティシアの痛いところをついたらしく、彼女は美し
い顔を顰める。
ファルサスにおいて唯一王を正面から叱り飛ばせるのは血縁であ
る彼女だけだが、﹁叱り飛ばせる﹂ということと﹁言うことをきい
てくれる﹂ということは決して同じではないのだ。エリクはかつて
それをある少女からよく聞いていたのだが、実際に会ってみてラル
スの厄介さに唖然とした。
世に出ている評判や、行き届いた内政からは想像しにくい冷淡な
果断。塔の上に立った雫に、彼が直接にではないが跳ぶよう促した
という話を聞いた時は、さすがに忌々しさに何も言えなかった。
王家の封印資料の閲覧資格を与えられた代わりに、この書庫の整
575
理を命じられた男は深く溜息をつく。
﹁教える気がないのなら早くそう言って欲しい。そうしたら彼女を
連れてこの国を出て行きますから﹂
﹁それは出来ないわ﹂
﹁この資料を見たことが問題になると言うのなら、あなたが僕の記
憶を消せばいいでしょう﹂
﹁簡単に言うのね。記憶操作は大変なのだけれど﹂
﹁だがあなたなら可能なはずだ﹂
遠慮ない切り替えしにレウティシアは苦笑して両手を軽く上げた。
狭い部屋、だがびっしりと壁を埋め尽くす資料の数々を見回して彼
女は苦笑を収める。
﹁閲覧許可を出したのは他にも理由があるわ。貴方はあの時のこと
について納得していないと思ったから⋮⋮少しは疑問が解消された
かしら﹂
﹁僕の疑問が解消されて今更意味がありますか?﹂
﹁特には。貴方の中で意味がないのなら無意味なのでしょうね﹂
レウティシアの微笑みには一瞬断裂が生まれ、その先に冷え切っ
た夜に似たものが窺えた。
しかしそれを見てもエリクは表情を変えない。彼は書庫を整理す
る為に棚に向き直る。優美な強者の声が狭い部屋に響いた。
﹁ここの仕事が終わったら、次はカンデラの禁呪事件について調査
書を纏めて頂戴﹂
﹁何故僕が? 事後処理に行ってもいないのに﹂
﹁貴方、あそこにいたのでしょう? 採用書類が残っていたし、何
より地下に魔法陣が残っていたわ。誰が描いたかすぐに分かるもの
がね﹂
予想はしていたがお見通しの答に、エリクは軽く手を挙げて了承
を示した。しかし、口に出してはまったく別のことを問う。
﹁そう言えば六十年前の事件⋮⋮記録を見るとそこに端を発した王
族の闘争には、二十五年に渡って断続的にある男が関わっています
576
つまりは、ファル
ね。その男の名前や素性については記載されていませんが、彼は一
時的にせよ王家の精霊を使役していた︱︱︱︱
サス直系ですね? ⋮⋮この男は誰ですか﹂
それが、彼の知りたい何かしらに関係していると思ったわけでは
ない。ただ不自然だと思ったから口にした。
ファルサス直系と呼ばれるのは歴代の王から五親等以内の人間た
ちのみであるが、この男だけは系譜の何処にもそれらしい存在はな
いのだ。にもかかわらず、直系しか使役が出来ないとされる王家の
精霊が二体、記録では彼の命令を遂行している。
この隠された王族は誰であるのか。それは、魔女についての記述
を隠蔽したと同じ、書物には記されないファルサスの暗部の一つで
はないのか。
手探りでの調査で得られたこの引っ掛かりに、ファルサスに残る
ただ二人の直系のうち、一人はしばし沈黙した。そのまま書庫を出
﹁それは、貴方が知りたがっていることと多分
て行ってしまうのではないかとエリクは思ったが、彼女は一言だけ
答を返す。
つまり︱︱︱︱
同じ﹂と。
※ ※ ※
﹁つ、疲れる⋮⋮﹂
﹁そうだよね﹂
欄干にだらりと寄りかかる雫に相槌を打ったハーヴは、それ以上
励ましも慰めもかけることができなかった。せめてもの代わりと言
っては何だが、もっていた水の瓶を彼女に差し出す。雫は礼を言っ
てそれを受け取った。
577
エリクの友人でもある彼は、不在がちなレウティシアに命じられ
て頻繁にこの少女の様子を見に来ているのだが、彼女が疲れていな
いことなどまずない。本当は﹁音を上げたら連れ出してやって﹂と
エリクにもレウティシアにも頼まれているのだが、未だに彼女は不
平を零しながらも王の苛めを受けて立っていた。
手すりの向こうに上半身を投げ出しながら、雫は中庭を見下ろし
てぼそりと呟く。
﹁これって頑張っても結果的には﹃やっぱ駄目﹄とか言われて処刑
されたりしそうですよね﹂
﹁そ、そうかな﹂
﹁そしたら私のこときっちり記録に残して下さいね。隠蔽しないで
ください﹂
﹁俺の専門は歴史だけど、さすがに隠蔽されると思う﹂
﹁うわあああ! 身分制度ってむかつく!﹂
クーデターを起こしたい、と言い出すくらい苛められている少女
だが、王は公人として問題ないというのが最大のネックだ。雫はよ
うやく疲れきった体を起こした。
少女の何処か据わった目に見返されてハーヴはつい視線を逸らし
てしまう。
﹁あー⋮⋮そろそろ度を越してるし、逃げるっていうのなら相談に
乗れなくもない、と思う。レウティシア様が多分取り成してくれる
だろうし﹂
﹁逃げても今のところ他に手がかりがないんですよね。だからエリ
クはここに残っていると思うんですが﹂
誰が言ったはずもないのに真実を見抜いている雫に、ハーヴは咄
嗟に口ごもった。
罰則も兼ねて彼女と引き離され、別の場所で別の仕事についてい
る男は、今は王家の封印資料に関わっている。レウティシアからそ
の閲覧許可が下りたと聞いた時には正直耳を疑ったが、王妹も王妹
578
で色々思うところがあるのだろう。四年前、エリクがファルサスを
去った時、彼女もその喪失を惜しんだ一人であったのだから。
﹁レウティシアさんが教えてくれましたよ。エリク、今書庫を調べ
てるんですよね。なのに当の本人が逃げ出すって、それはないです
よ。そんなこと出来ません。私の出来ることって限られてますから
⋮⋮これをやるだけです﹂
子供にも見えるこの少女は、おそらく見た目よりはずっと強い。
そのことに気づいているのはエリクか、王か、レウティシアか。
ハーヴもそれは分かっていたはずなのだ。彼女が王に啖呵を切っ
て塔から飛び降りた、その時に。だがやはり目の当たりにすると辛
いものがある。つい庇ってやった方がいいのではないかと思ってし
まうが、彼女はそれをよしとしないのだろう。
雫は大きく伸びをすると、ハーヴに向ってほろ苦く笑った。
﹁へたばってたってエリクには言わないでくださいね。まだまだや
れますから﹂
﹁俺はいいけど⋮⋮それでいいの?﹂
﹁当ったり前です! いい加減図太くなってきましたから。その代
わり私が殺されたらエリクには害がないようお願いします﹂
聞いた男を絶句させた彼女は、疲れきった表情のまま深々と頭を
下げる。
まるで小さなその体。けれど、その時の少女は少しも憐れには見
えなかったのだ。
時折、弱い方に傾きそうな自分が厭になる。
逃げたいと、楽になりたいと確かに思う自分に気づいた時など。
元の世界に帰る為に、これ程理不尽な目に遭わなければならない
のなら、ワノープの町でずっと生きていた方がよかったのではない
579
かと思うことがある。
そんな風に折れてしまいそうな自分は好きではない。最初から覚
悟はしていたはずなのだ。その上で自分が旅に出ることを選択した。
だから、試されている今、逃げ出すことは出来ない。彼女の為に
苦労をしているのは、いまや彼女一人ではないのだから。
そのエリクの話は、レウティシアやハーヴが定期的に伝えてくれ
る。それは彼女の知りたいことではあったが、知っていいのか分か
彼がかつて王族の少女と共にいたこと。
らないこともまた付随していた。
一つには︱︱︱︱
そして、その少女はもう生きてはいないということと、彼は彼女
の死後、自分でファルサスを出て行ったということ。
カティリアーナという名の少女は、ハーヴ曰く﹁生きてらっしゃ
ったら君より少し年上﹂ということらしい。雫は自分から彼の過去
について、別の人間に問うということをしないので、実際その少女
とエリクがどのような関係であったのかは知らない。だが過去に何
かがあった土地へ、自分の為に彼を付き合わせて来てしまったとい
もしかして、彼が自分の面倒を細かく見てくれていた
う事実は、彼女の内心負っている責任をいや増した。
︱︱︱︱
のは、同じくらいの年の自分に、その彼女と重なるところがあった
からだろうか。
根拠のない想像は彼に失礼だとは分かっていたが、意図しない内
にふっと頭を過ぎるのを、抑えることは出来なかった。
禁呪については、レウティシアもハーヴも口にすることはなかっ
た。勿論雫も問わない。
ただ、エリクは非常に特殊で、優秀な人間なのだということは何
度かの会話で伝わってきた。ハーヴは彼女に対し、自分のせいでは
ない罪悪感に囚われているのか、よくエリクのことをぽつぽつと零
していくので。
580
﹁あいつはね、本来魔法士になれるような人間じゃないんだよ。魔
力が全然足りない。でも実際簡単なものとはいえ魔法が使えてる。
これってどういうことだと思う?﹂
﹁え、気合ですか?﹂
﹁それはない。第一あいつ気合が心底似合わないし。単にね、あい
つの構成力ってずば抜けてるんだよ。少ない魔力を徹底的に効率よ
く使って複雑な構成を組む。他の魔法士ならぱっと出来ちゃうもの
でも、あいつは複雑な構成を必要とするんだ。でもそれが出来るん
だから、やっぱ勿体無いよな﹂
﹁勿体無いですか? 凄いんですよね?﹂
﹁凄いから勿体無いって思っちゃうよ。最低でも俺くらいの魔力が
あったらもっと上に行けたんじゃないかって思ったりね。でも⋮⋮
こういう発想がよくないんだろうな。悪い誘惑だ﹂
何が悪い誘惑なのか、全てを知らない雫には分からない。
だがそれは好奇心で踏み込んでいいものには思えなくて、彼女は
ただ相槌を打つだけに留めた。
既にあの日から二週間も経っている。彼と話がしたいと確かに思
う。
しかし、彼と自分の間にはいつの間にか、出所も正体も分からぬ
影が揺らいでいる気がして、それは雫に何とも言えない不安を覚え
させるのだ。
雫の立場はこれ以上悪くはなりようがない。だが、エリクはどう
なのか。
自分が処分されるのか否か、きっぱりと結果が出てしまえばすっ
きりするのに、と雫は思う。それは、逃げ出したいと思う誘惑より
も遥かに甘く、彼女の心の底にゆっくりと沈殿し始めていた。
※ ※ ※
581
逃げ出してしまえばいいよ、とそれは囁く。
ここにいては死が待つだけだからと。
逃げられないよ、と彼女は言う。
逃げても何処にも行けないから、ここで戦うのだと。
でも、逃げたら、逃げないと、死んだら、どうして、追ってくる、
死んでしまったら、ここに来た意味はないのに。
あれが、いつも、どこまでも
だって
︱︱︱︱
だが、そんな夢も思い出せはしない。
だから彼女はいつまでも逃げないままなのだ。あれの、傍から。
※ ※ ※
﹁お前は俺を騙す気があるのか?﹂
﹁ありません。発想を転換してみました﹂
思い切り人参色をしたケーキを前にラルスは唸りだしそうな顔に
なる。雫はそれを切り分けると王の執務机に差し出した。申し訳程
度にクリームを添える。
﹁人参の味を誤魔化すより、人参の美味しさを分かって頂く方針に
変えました。さ、食べてください﹂
﹁思い切り余計な発想だ。正面切って仕返しをする気だな﹂
﹁昨日、いきなり濠に突き落とされた時はさすがに殺意が沸きまし
た﹂
﹁水の中で生きられるかどうか確かめてみるつもりだったんだがな﹂
582
﹁どう考えても無理です。やる前に気づいてください﹂
ラルスは思い切り苦い表情をしたものの、大人しくケーキを一口
口に運ぶ。こういうところは律儀なのか何なのか分からない。だが、
そこで﹁食べなくてもいいですよ﹂と言える程、雫は達観していな
かったので、冷ややかな目でそれを見守った。
王は食べるというより飲み込むと言った感じで、口の中のものを
胃に運ぶ。
﹁⋮⋮人参の味がする﹂
﹁一本丸々入れましたからね。味がしなかったら大変です。醤油が
あったら煮物にでもしてやろうと思ったんですが﹂
﹁ショウユとは何だ﹂
﹁私の国の調味料です。この世界には味噌も鰹節もないですよね。
残念﹂
そもそも彼女は、魚をもとにした保存食品を今まで燻製以外見た
ことがない。出汁が取れて醤油があれば大抵のことは何とかなる気
がするのだが、そのどちらもないのでは自然と出来るものも限られ
てくる。
結果、雫は厨房にいる料理人に一つ一つの材料を尋ねながらうろ
覚えのレシピを再現しているのだが、ラルスに食べさせることが目
的なので生焼けだろうと何だろうとまったく胸は痛まない。妙に堂
々とケーキを作る少女を周囲の人間は奇異な目で見ていたくらいで
ある。
王は味については一切触れずに、一口だけ食べたケーキの皿を押
しやった。
﹁調味料も欲しいのなら作ってみればいい。ショウユの材料は何だ﹂
﹁多分、大豆⋮⋮﹂
﹁それならある。ミソは﹂
﹁大豆﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
583
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
形容し難い目で見てくるラルスが何を言いたいのかはよく分かる。
彼女も今少しおかしさを感じたのだ。だからこそ雫は先手を打って、
自国を代表する二つの調味料について説明しだした。
﹁いえ、全然違う味。多分作り方が違うんです﹂
﹁どう違うんだ﹂
﹁そこまでは知りません⋮⋮。出来上がったものを買ってたので﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁発酵食品なんですよ! 学生が自分で作るようなものじゃありま
せん!﹂
そう言い訳しながらも、無事帰れたら醤油と味噌と豆腐がどうや
って出来るのか調べておこうと、雫は心に刻む。何だか日本人であ
り現代人であるのに、説明できないことが多すぎて時々自分が情け
なくなってしまうのだ。
一方、王はそれ以上突き詰める気はないらしい。書類仕事に戻り
ながら口を開いた。
﹁お前は今の状況を不満に思っているのだったな。俺のいいように
翻弄されているのが嫌なのだと﹂
﹁非常に不満です。確かめるまでもないと思いますが﹂
﹁だがそれも俺がやっていると分かるからこそ不満に思えるだけだ。
現に今、気づかぬうちに何かに支配され鑑賞されていたらどうする
? 自分がいつの間にか実験対象となり、何者かに記録されている
のだとしたら﹂
おかしなことを問うと、雫は思った。だが男の話には何処かで聞
いたような違和感もまた覚える。違和感の正体を掴めぬまま、彼女
は唇を曲げると決まりきった答を返した。
﹁そりゃ腹立ちますよ。何様だって思いますね﹂
﹁そうか﹂
彼は唐突な質問を補足する気はないらしい。仕事を処理していく
584
男を怪訝そうに見やって、雫は首を傾げた。
﹁何なんですか、一体﹂
﹁別に。そうだな⋮⋮明日話してやる。今日はレティもあの男もい
ないからな﹂
あの男とはエリクのことだろうか。他に思いつく人間もいないの
で雫はそう受け止める。彼がいないとは初耳だが、強制労働の一端
でレウティシアから仕事を割り振られていることは知っていた。お
そらくその関係で外出しているのだろう。
その面子を集めて何を話すつもりなのか、彼女はいまいち掴みか
ねて眉を寄せる。
﹁何ですか、反省会ですか?﹂
﹁反省はしない。今でもお前を殺した方が憂いがないと思っている﹂
予想通りの返答に雫は皮肉な笑みを見せた。もう今更これくらい
のことでは動揺もしない。むしろ温情をかけられる方が怖い程だ。
﹁⋮⋮が、レティがいい加減本気で怒っているからな。俺はあいつ
に弱い﹂
ラルスはそう言って署名をした書類を投げ出す。聞いたことのな
い男の声音に、雫はまじまじと王の顔を見つめた。
それは、もしかしたら彼が雫に初めて見せた本心なのかもしれな
い。玉座にただ一人在る男は、やはりただ一人の妹から受けたので
あろう説教に、少しふてくされたような表情をしていた。雫は王の
意外な反応に不快も忘れ、色々と口にしかけたが、結局﹁⋮⋮シス
コン?﹂とだけ呟く。
﹁シスコンとは何だ﹂
﹁何でもないです。妹さんが大好きなんですね﹂
﹁大好きと言われると違う気もするが。俺の家族はあれだけだから
な﹂
投げ返されたその言葉は、雫にもやはり姉妹のことを思い出させ
るものだった。彼女は自然と目を細める。
今ここで、このような目にあっていると彼女たちが知れば、姉は
585
泣いてしまうだろう。妹は怒るかもしれない。二人のそんな顔を想
像することは、実際に自分が苛められている時よりもずっと辛く、
胸が痛んだ。雫はラルスと目を合わせることを嫌って踵を返す。
﹁明日呼ぶまで休んでいていい﹂と言われて雫がほっとしたのは、
単に一人になりたいからかもしれなかった。
特にやることもなく割り当てられた部屋へと向っていた雫は、ち
ょうど外庭に面した回廊に差し掛かった時、向かいからやって来る
男に気づいて足を止めた。
本を脇に抱えたハーヴは、彼女の傍まで来ると笑いかける。
﹁休憩時間?﹂
﹁もう休みみたいです。人参ケーキ出してやったのがきいたんでし
ょうか﹂
﹁⋮⋮そんなことしたんだ。すごいね﹂
﹁たまには仕返ししないと気が狂いそうなので。苦い顔で食べてま
したよ。ざまみろです﹂
多少の溜飲を下ろした顔で彼女が舌を出すと、ハーヴは目を丸く
した。だが彼が何か口にするより先に、雫は外庭を見下ろして﹁あ、
あの人﹂と呟く。
﹁何? どの人﹂
﹁あの人、何か挙動不審ですね﹂
二人は三階部分の回廊から並んで、雫が指差した男を見やった。
魔法着を着た男はしきりに周囲を見回しながら林の中に分け入って
いく。ハーヴはそれが誰であるか分かったらしく﹁ああ﹂と相槌を
打った。
﹁ディルギュイだ。宮廷魔法士の一人﹂
﹁同僚の方ですか﹂
﹁いやー、名目上はそうだけど、俺みたいに研究型の魔法士とはあ
586
んまり縁がない。ディルギュイは次期魔法士長を狙ってるって噂だ
し﹂
﹁お城も色々あるんですね﹂
﹁色々あるんだよ﹂
ぼんやりと見つめる視線の先で、魔法士の男は林の中へと見えな
くなる。そのままの姿勢で雫は空を見上げた。
﹁あー、いい天気。暑いですが⋮⋮﹂
﹁暑いかな﹂
﹁この国の人たちって暑さに馴れてますよね。エリクも平気みたい
だし﹂
﹁あいつは何処行っても平気な顔してるよ﹂
﹁確かに﹂
彼は雪山に行っても大して変わらないような気さえする。ほとん
ど感情を見せることもないが、子供の頃からああだったのだろうか。
エリクの子供時代を想像しようとして失敗した雫は、気の抜けた息
を吐いた。
﹁そう言えば、エリクって今城にいないんですか? 王様が言って
ましたけど﹂
﹁ああ、レウティシア様とカンデラに行ってるよ。あいつ、あの事
件に関わってたんだって?﹂
﹁ぐげ﹂
思わず蛙のような声を上げてしまった雫に、ハーヴは目を丸くし
た。動揺と心配を混ぜ合わせた表情の彼女を見やる。
﹁ひょっとして、君もいた? 何人か城に乱入して暴れまわった人
間がいたらしいけど﹂
﹁い、いました。でも別に暴れては⋮⋮。それで、エリクはお咎め
受けてるんですか?﹂
﹁いや。単に調査書纏めに行ってるだけだけど。禁呪の構成につい
てなんて普通の魔法士には取り扱えないし。明日には帰ってくると
思う﹂
587
この時雫は、﹁禁呪なんて普通の魔法士には﹂という彼の言葉に
引っかかりを覚えもしたが、それ以上に強烈な記憶を呼び起こされ
沈黙した。カンデラの城において彼女を追ってきた黒い蛇。あれは
﹁異質な棘であるお前は人の望みによって排除される﹂と言ってい
たのだ。
そして今、言われた通り雫は﹁人によって排除されそうに﹂なっ
ている。これは偶然か、それとも何か繋がりがあることなのだろう
か。
口に出さない彼女の疑問に答える者はいない。
温かい空気を運ぶ風が一筋、雫のスカートをはためかせていった。
﹁丑三つ時﹂という言葉を知ったのは小学校高学年の時だろうか。
当時の雫はそれを﹁お化けが出やすい時間﹂と認識しており、た
まに夜中の二時三時に目が覚めてしまうと慌てて布団の中に潜り込
んだものだ。
この世界でも時間は、夜中から昼までの十二時間と残りの十二時
間に区切られているが、元の世界と比べて一時間が同じ長さなのか、
また十二時が同じ十二時に位置しているのかは分からない。大体元
の世界でも国によって日照時間は異なるのだ。雫は二つの世界の時
間について、厳密に照らし合わせようとすることを最初から諦め、
郷に入っては郷に従っていた。
そして、まもなく夜中の二時になろうとする時間。既に眠ってい
た彼女の目を覚まさせたのは、開いたままの窓から入り込む風であ
る。生温いその風は、丁度眠りの浅かった雫の鼻先をくすぐってい
き、ややあって彼女は顔を上げた。
﹁⋮⋮なに?﹂
寝惚けながらも窺うような声を上げてしまったのは、部屋中に生
588
臭い匂いが満ちていたせいである。雫はベッドの上に体を起こした。
本来三人部屋である彼女の部屋は、雫が要注意人物であるせいか
今は彼女しか使っていない。雫は裸足で木の床に下りると、開いた
窓から外を覗きこむ。
月明かりの他には何も照らすものがない庭は、黒々と埋没する木
々の輪郭だけが見渡せた。何ら変わったところのない夜の景色。だ
が吐き気をもよおさせる臭気は外の方が遥かに強い。血臭のような、
肉の腐ったような匂い、いくつもの悪臭が混じった臭気に雫は口と
鼻を押さえた。そのまま窓を閉めようとする。
しかし、窓を完全に閉めてしまう前に、彼女は何か光る物が庭を
移動していることに気づいた。よくよく目を凝らしてみる。
月光を跳ね返す白銀。ゆっくりと上下に揺れながら動いていく物
白い鎧に剣を佩い
が何であるか分かった時、雫は思わず絶句する。
木々の中を抜け月の下を行くそれは︱︱︱︱
て歩いている、一体の骸骨だったのだ。
589
004
月下を行く一体の骸骨。それを見た雫は恐怖よりも驚きが勝った。
目を擦り、食い入るようにして骸骨を確かめた後、嘆息する。
﹁さ、さすが魔法大国。アンデットが歩いてる﹂
エリクがその発言を聞いたなら﹁そんな訳ないよ﹂と言ったに違
いないが、彼女はむしろ感動さえ覚えて骸骨を目で追った。
遠目ではあるが、鎧から言っておそらく男の骸骨だろう。骨だけ
でよく重そうな鎧を動かせているものだが、魔法の力を使っている
のかもしれない。
雫は現実味のないその姿をのん気に眺めていたが、月光とは別の
明かりが庭に現れたことに気づいて視線を動かした。赤い松明の光。
それを片手に持った兵士は、誰何の声を上げながら骸骨に近寄って
いく。まだ眠気が残っていた彼女はその光景を不思議に思った。
今まで骸骨が歩いていたとしても、ファルサスの人間が見張りか
何かとして動かしているのだろうと雫は思い込んでいたのだ。でな
ければそれは、あまりにもおかしな存在だろう。ある意味雫以上に
だが、実際それは﹁おかしな存在﹂でよかったのだ。
違和感がある。
︱︱︱︱
本当なら、もっと早くに気づくべきだった。部屋にまで入り込ん
だ臭気が既におかしいのだということに。
しかし雫がはっきりと異常を認識したのは、松明を持った兵士が
骸骨の剣によって切り伏せられた、ようやくその時のことだったの
である。
590
﹁⋮⋮え、ちょ、ちょっと! 何!﹂
地面に落ちた松明の明かりが小さくなる。思わず叫び声を上げた
雫に、部屋の隅で眠っていた小鳥が目を開けた。魔族である彼女は、
主人よりも早く状況を認識したのか、雫の肩に飛び移って高い声を
上げる。
﹁メア! 骸骨が! 人が!﹂
自分でもよく分からない言葉だったが、雫はそれで冷静になった。
素早く靴を履き、上着を羽織ると部屋を飛び出す。何人がこの異変
に気づいているのかは分からないが、まだ知らない人間がいるとし
たら大変だ。斬られた兵士も息があるかもしれない。
雫は燭台が照らす暗い廊下を駆けていく。そして、その後をまる
で追うように、腐った血の匂いは城内に広がっていったのだった。
城内に異変が起きている、という知らせは王の寝室にもまもなく
届けられた。
ラルスは簡単に武装を整えながら、側近の報告を耳に入れる。
﹁それが、死体が庭を歩き回っているようなのです。それも生きた
人間を標的にしているようで⋮⋮﹂
﹁眠いな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁レティは戻っていないのか?﹂
いまいち緊迫感のない王に、武官の男は不安を覚えながらも﹁今
夜はカンデラにお泊まりになっています﹂と付け足した。ラルスは
軽く頷く。
﹁一応連絡⋮⋮しとくか? やめとくか? 起こしたら可哀想だし
いいか﹂
591
﹁そ、それは﹂
連絡して欲しい、と男は思ったものの王がそう決定したのでは主
君の意に反して連絡することは出来ない。彼は黙って頭を下げた。
二人が廊下に出てすぐ、別の武官が駆けてくる。
﹁へ、陛下!﹂
﹁どうした。死体が生き返りでもしたか﹂
﹁いえ、その、攻撃をしていいものかどうか伺いたく⋮⋮﹂
﹁聞くまでもなかろう。何を聞きにきているんだ。時間を無駄にす
るな﹂
﹁それが、その、相手は、先代王ではないのかと、そう言う者が⋮
⋮﹂
しどろもどろの説明にラルスと側近は顔を見合わせる。王は臣下
の顔に自分と同じ飲み込めなさを見出すと、ようやく
﹁びっくり事件か?﹂
と感想を洩らしたのだった。
雫は庭に駆け出る前に、見張りをしていた兵士に事情を説明した
のだが、男は臭気に訝しげな顔をしながらも﹁夢でも見たのだろう﹂
と取り合ってくれなかった。夢で済ませられるならそうしてしまい
たいのは彼女も同感なのだが、被害者が出ている以上確かめないわ
けにはいかない。前進しない押し問答を打ち切って外へと飛び出し
た雫は、暗闇の中、月光だけを頼りに先程の場所へと向った。
本当ならばあるのであろう血の匂いも、強烈な臭気にかき消され
てちっとも感じ取れない。吸い込んだ空気が体内から徐々に精神を
侵していくような気がして、彼女は息を止めた。
雫は半ば林の中に分け入り、庭木をかきわけていく。生温い風が
辺りにそよいだが、空気は少しもよくならなかった。月の光は艶や
かな草の表面を銀に彩る。細かい照り返しの数々を頼りに、彼女は
592
ついに草の上、倒れたままの兵士を見つけた。
駆け寄り脈を取ると、微弱ではあるがまだ鼓動が感じられる。
﹁よ、よかった。メア運べる?﹂
﹁引き摺ってもよいのなら﹂
少女の姿に戻ったメアが背後から答えるが、それには肯定を返せ
ない。大体うつ伏せになっているだけでどんな怪我をしているのか
も分からないのだ。
雫は悩んだ結果、使い魔に頼んで誰か人を呼んできてもらうこと
にした。幸い城の建物もすぐ近くにある。先程の兵士も怪我人がい
ると言えば来てくれるだろう。
メアが主人の命を受けて林の中に消えると、雫は倒れた兵士を苦
心して仰向けに引っくり返した。男は気を失ってはいたが、小さく
呻き声を上げる。
暗がりでは傷の深さはよく分からない。彼女は自分の上着を脱い
で傷口にそっと押し当てた。
﹁ちょっと待っててくださいね⋮⋮。すぐ魔法士の人が来ると思い
ますから﹂
銀光が翳ったのはその時である。
頭上にさしかかる長い人の影に雫は顔を上げた。影の主を目で追
うと、林から抜け出た草の上、白いドレスを着た一人の女が立って
いる。女は長い黒髪を垂らしてじっと雫を見つめていた。何処か幼
さを感じさせる美しい貌は誰かに似ている気もする。
だが、この時の雫はそんなことに構ってはいられなかった。傷を
抑えたまま助けを請う。
﹁あの! 魔法士の方なら傷を治して欲しいんです! この人怪我
をしてて⋮⋮﹂
女は雫が言い終わる前に動き出した。ゆっくりと一歩一歩近づい
てくる。
まるで雲の上を歩むような足取りで、彼女はついに雫の前に立っ
593
た。白い両手を伸ばしてくる。手袋を嵌めた形のよい手。静謐を感
え?﹂
何故か躊躇い
じさせるその手に、雫は一瞬見惚れた。だが次の瞬間彼女は目を丸
くする。
﹁︱︱︱︱
雫は女の手に触れた。
女は青い瞳で雫を見下ろしている。
手袋に覆われた両手、その細い十の指は︱︱︱︱
もなく雫の首へとかかると、ぎりぎりと彼女の喉を絞め上げ始めた
のだった。
首を絞められることは初めてではない。だが、だからと言って苦
しさが変わるわけでは少しもなかった。雫は喉に食い込む指を引き
剥がそうと掻き毟る。しかしその力は女性のものとは思えない程強
く、ますます気管を圧して雫から息を奪っていった。助けを呼ぼう
としても声を出すことができない。
﹁⋮⋮⋮⋮っ!!﹂
目の前が白くなっていく。真っ暗な中なのに不思議だと、彼女は
このままでは死んでしまう。
頭の隅で思った。
︱︱︱︱
雫は判断と同時に両手を地面についた。首を絞める手を引き剥が
すことをやめ、短距離走のスタートのように思い切り草を蹴る。そ
のまま女に激しく体当たりをした。
計算ではない生きる為の動き。それは、彼女にとって少しだけプ
ラスに働いた。二人の女はもつれあって地面に転がる。呼吸を阻害
していた手が外れ、雫は喉を押さえて激しく咳き込んだ。生理的な
涙が滲んで視界をぼやけさせる。
しかし、危険はそれだけでは終わらなかった。
まるで表情を変えない女はゆっくりと起き上がると、拾った石を
594
手に持ち、倒れたままの雫に向って振り被ったのだ。それに気づい
た雫は咄嗟に頭を両腕で庇う。石は真っ直ぐ彼女の顔目掛けて打ち
下ろされた。気が遠くなるような痛みが腕に走る。
けれど殴られた雫はそのままではいなかった。女がもう一度石を
振り被った時を狙って、彼女はその手目掛けて飛びつく。
﹁痛いってば! 暴力反対!﹂
雫は殴られないよう手首をきつく握って女を押し倒した。
そのまま馬乗りになろうとした時、だが女は彼女の腹をしたたか
に蹴り上げる。雫は衝撃によろめいて尻餅をついた。
何故、意味も分からぬままこんな目に合っているのか。
逆流してくる胃液を飲み込みながらも、雫は立ち上がろうとする。
だが足首を何処かで捻ってしまったのだろう、彼女は短い叫びを上
げて蹲った。
月光に照らされた庭。静寂と臭気が不気味な彩りを成す世界に、
女の影がゆらりと差す。
陶器人形のように表情がない女の貌は、乱れていてもやはり美し
かった。
立ち上がった女は雫に向って石を振り上げる。雫は攻撃を覚悟し
て頭を庇った。目をきつく閉じる。
痛いのは嫌だ。殺されるのはもっと。
本当は逃げたくて仕方ないのだ。でも、今まで何とか耐えてきた。
だから、こんなところでは負けない。雫は歯を食いしばる。
けれど⋮⋮覚悟していた石はいつまで経っても雫を打ち据えるこ
とはなかった。代わりに面倒そうな男の声が響く。
﹁母上、お気持ちは分かるが、この娘を殺すのは俺の仕事だ﹂
予想だにしていなかった人物の登場に雫は顔を上げた。驚いて周
囲を見回す。
そこにはいつの間に到着したのか、王と彼に仕える人間たちが数
人、それぞれの武装した姿で立ち並んでいたのだ。
595
﹁お、お母さん?﹂
﹁俺の母親だ﹂
ラルスは雫の襟首を掴んで手元に引き寄せると、白いドレスの女
誰かに似ていると思ったのも当然だ。彼女は、レウテ
に対し平然と首肯した。その言葉に雫はもう一度女の顔をよく見る。
︱︱︱︱
ィシアに似ているのだ。
だが年齢はせいぜい娘と同じくらいにしか見えない。まだ襟首を
掴まれたままの雫は王を見上げた。
﹁若いお母さんですね⋮⋮﹂
﹁二十四歳の時に死んでいるからな。死人が年を取ったら更にびっ
くりだ﹂
﹁そりゃ吃驚ですね。って、何それ!﹂
﹁つまり、あれは単なる死体だ﹂
ラルスは雫の体を軽々と背後に投げ捨てる。もう一度転ぶ羽目に
なった彼女のもとに、魔法士が一人駆け寄ってきた。よく見ると男
はハーヴである。彼は﹁大丈夫?﹂と言いながら治癒をかけてくれ
た。倒れたままの兵士の傍にも二人の魔法士が添っている。
﹁ハーヴさん、死体って⋮⋮そう言えばさっき骸骨が⋮⋮﹂
﹁今、城のあちこちを死体が歩き回っている。どうやら王家の霊廟
がいくつか破られたらしい﹂
﹁うわっ。何ですかそれ﹂
すっとんきょうな声を上げる彼女を無視して、他の人間たちはか
つての王妃をゆっくりと包囲していく。その最たる人間であるラル
スは、月光にアカーシアの刃を煌かせながら、母親に向って距離を
詰めた。冷ややかな声が夜風に乗る。
﹁さて、少々胸も痛むが、人を殺して回られても困る。大人しく棺
に戻られるとよい﹂
女は緩慢な動作で周囲を見回した。その上で、逃げられないと分
596
かったのかラルスに向き直る。王の背中越しに見える女の目は、少
なくとも子供を見るそれではなかった。
あまりにも空虚。その﹁何もなさ﹂に雫は我知らず唇を噛む。
幽霊などない。人の死後、魂は残らない。ならば今の彼女は、ラ
ルスが言うように単なる死体でしかないのだろう。だがその体だけ
が動いて人を殺すという姿は、やり切れない痛ましさを雫に覚えさ
せた。彼女は女を見やって小さくかぶりを振る。
この夜は、きっと悪夢の一部だ。雫はラルスの持つ剣が、夜気の
温度をひどく下げている気がして身震いした。
そして彼女は、王が剣を振るい母親の遺骸を貫くまで、目を逸ら
さぬままじっとその光景を見つめていたのである。
前王妃の体は心臓をアカーシアの刃に貫かれ崩れ落ちた。ラルス
は剣を収めると母の体を抱き上げる。胸元からは血ではなく、黒く
どろりとした液体が染み出していた。それは周囲にたち込める臭気
をさらに凝縮させたような匂いを放っている。
王は眉を顰めてその液体を睨んだ。
﹁禁呪の類か?﹂
﹁おそらくは。どこかに元があるかと思われます﹂
﹁死体の能力は? 生前の能力を持っていたらさすがにどうにも出
来んぞ。魔女が出てきたらお手上げだ﹂
﹁魔力は消えておりますので。その代わり筋力が発達しているよう
です﹂
男たちの分かるような分からないようなやり取りを、雫は目を丸
くして聞いていた。王家の霊廟が暴かれたということは、先程の骸
骨も含め、歩き回っている死体は皆かつての王族ということなのだ
ろうか。だとしたら相手をする兵士もやりにくいに違いない。彼女
は隣で苦笑いをするハーヴを見やる。
ラルスは母の遺体を魔法士たちが用意した布の真ん中に置き包ん
597
でしまうと、彼らに預けて立ち上がった。
﹁禁呪の元と言われても探すの面倒だな。死人を全員捕らえて、明
日レティに探させるか﹂
それはあんまりにも⋮⋮とその場の何人が思ったかは分からない。
少なくとも雫は﹁放っておいていいの!?﹂と内心で叫んだ。
だがその時、場に一人の魔法士が駆け込んで来る。魔法士は王の
傍に寄ると素早く耳打ちした。それを聞いたラルスの顔がみるみる
うちに苦いものとなる。王は周囲を見回して口を開いた。
﹁兵士たちを下がらせる。魔法士もだ。城に戻って外に出るな。死
人については俺の他にトゥルースとアズリアに掃討の指揮を取らせ
る。古い人間たちを使え﹂
王命が何を意味するのか、理解したらしい者はその場の半数ほど
だった。彼らは総じて顔色を変えるとそれぞれ駆け出す。残った者
たちは困惑しながらも、建物内に戻る為に動き出した。ハーヴが雫
の肩を軽く叩く。
﹁行こう。送ってく﹂
﹁あ、はい﹂
雫は彼に連れられ夜の庭を歩き出した。戻りながら夜着一枚だっ
た彼女にハーヴは上着をかけてくれる。彼女自身の上着は兵士にか
けたままだったのだ。けれど礼を言ってそれを受け取った彼女は、
不意に説明できない悪寒に襲われ空を見上げる。
黒く広がる空、そこに在る月に、いつの間にか薄い雲がかかって
いた。
﹁何なんでしょうね﹂
ぽつりと呟いた雫の言葉に、ハーヴは首を軽く捻った。それは彼
にも分からないということなのだろう。二人は先に見える建物へと
歩いていく。
﹁霊廟っていくつかあるんですか?﹂
﹁三つある。王と妃の為の霊廟と、それ以外の王族を納めるところ
598
が﹂
﹁最後の一つは?﹂
﹁罪を犯した王族が納められる。場所は知らされていない﹂
二人は少し押し黙る。その頭の中に浮かぶことが同じであるか否
か、どちらも自信が持てなかった。したがって彼らはそのことを口
にしない。雫が口を開いたのは、もっと別のことを思い出したから
だ。彼女は指を一本立ててハーヴを覗き込む。
﹁そう言えば! あの人覚えてますか? 何か難しい名前の人﹂
﹁誰?﹂
﹁挙動不審で権勢欲がある魔法士の人です﹂
﹁ああ、ディルギュイか﹂
そんな説明で分かってしまうのもどうかと思うが、数少ない二人
共通の記憶をハーヴは呼び起こした。頷いて聞き返す。
﹁ディルギュイがどうかした?﹂
﹁いえ。あの人あの時何処に向ってたんだろうって。あの先の建物
って霊廟しかないですよね﹂
ラルスに無駄なランニングをさせられた雫は、城の建物配置を大
体把握してきているのだ。そして彼女の言うとおり、あの時ディル
ギュイが分け入っていった林の先には霊廟と、外周の城壁しかない。
雫が何を言いたいのか分かったハーヴはさすがに絶句する。だが彼
は驚きを数秒で乗り越えると、眉を寄せた。
﹁いや、でも⋮⋮禁呪だ。さすがにそんなことをするとは思えない﹂
﹁出来ないんですか?﹂
﹁魔力的には出来なくは、ない⋮⋮と、思うが⋮⋮知識がないと思
う。この城では禁呪の知識は完全に統制されてるから。可能性があ
るとしたら他国からの情報だ﹂
いくら縁が薄いと言っても同僚が禁忌に手を出し、このような騒
動を起こしたとは思えないのだろう。ハーヴの反応に雫はそれ以上
押すことをしなかった。
599
沈黙したまま二人は建物に到着する。見張りの兵士が開けた戸を
雫だけがくぐった。振り返るとハーヴは難しい顔で彼女を見ている。
﹁ちょっと⋮⋮それでも一応陛下に申し上げてくる。君は部屋から
出ないように﹂
﹁分かりました。送ってくださってありがとうございます﹂
雫は頭を下げて﹁おやすみなさい﹂と言うと、その場でハーヴと
別れた。飛び出してきた時と同じ暗い廊下、だが何処か外の騒ぎが
伝染しているような落ち着かない空気の中を戻っていく。
﹁あ、上着返すの忘れた﹂
自分の肩に手をやって、雫はハーヴの上着を借りたままだったこ
とを思い出した。だが、今更夜の中に追いかけていくわけにもいか
ない。明日返せばいいだろう。
そう思った彼女はしかし、もう一つ、もっと大事なことに気づく。
﹁⋮⋮メア?﹂
人を呼びに行ったはずの使い魔が戻ってきていない。最初はメア
がラルスたちを呼んできてくれたのかと思ったが、ならば何故彼女
自身は戻ってこないのだろう。目立つことを嫌って先に部屋へと戻
っているのだろうか。
雫は少し不安になって歩く速度を速める。まもなく自室に到着し、
鍵のかかっていない扉を開けた。
﹁メア、戻ってる?﹂
次の瞬間彼女は、
窺う声に返事はない。彼女はメアが寝ていた部屋の隅へと歩み寄
る。
けれどそこには矢張り小鳥の姿はなく︱︱︱︱
物陰から伸びてきた腕に頭を絡め取られ、声もなく意識を失ったの
であった。
※ ※ ※
600
彼女は、不思議な少女だった。
愛らしい顔立ちをしていたと思う。よくは分からないが、皆はそ
う言っていた。
柔らかい笑顔を浮かべる少女だった。時折、まるで空っぽになっ
てしまったかのように何もないところを見つめている時以外は。強
大な魔力はファルサス直系のゆえだろう。だが、構成はあまり得意
ではないようだった。
だから少しだけ手を貸した。それだけだ。
けれど彼女は、そのことがとても⋮⋮嬉しかったらしい。
よく彼の後をついて歩くようになった。彼を雇い上げると、自分
なりに考えて便宜を払ってくれるようになった。城への出入りをは
じめ、王妹への紹介からついには禁呪の閲覧資格まで。彼女は当然
のように彼に知識をもたらしていった。
それを知った人々は、彼のことを幸運だと噂する。中には実力に
見合わない寵をどうやって受けているのかと妬む者もあった。
だが、あれが本当に幸運であったのなら⋮⋮何故彼は、最後に冷
え切った彼女の手を握り締めることになったのだろう。
その答の半分は彼の中にある。
彼は結局、彼女に応えたのか違うのか、未だに自分でも分からな
いままなのだ。
※ ※ ※
ディルギュイが怪しいのではないかと遠回しに示されたハーヴは、
確かに怪しいかもしれない。あの男は禁呪への抵抗心
夜の庭を足早に歩いていた。
︱︱︱︱
が薄い魔法士だった。
601
だが、そうだとしてもこの事件を引き起こして何の得になるのだ
ろう。魔法士長になる為に邪魔な者を殺してしまうのなら分かるが、
無差別に死者を放つなど意味が分からないにも程がある。万が一王
が死んでしまったら、この国自体が危うくなってしまう可能性もあ
るのだ。
しかし、王妹が不在の時を狙って霊廟を暴いたとすれば、やはり
内情を知っている人間の可能性が高い。そしてその条件に一番合致
するのは、宮廷魔法士の誰かではないのか。
ハーヴは天秤を揺らすように肯定と否定の間を彷徨う。肯定に傾
けば否定が、否定に傾けば肯定が湧きあがり、一向に結論が出そう
になかった。
﹁参った⋮⋮﹂
小さなぼやきが零れ落ちる。けれどそれは、すぐ近くで何者かが
草を分ける音によってかき消された。ハーヴは瞬時に臨戦態勢を取
る。王族の遺骸に攻撃するのは抵抗があるが、それで自分が殺され
てしまったら仕方ない。彼は簡単な炎の魔法を詠唱する。
だが草を踏む音と共に暗闇の中から現れでたのは、彼のよく知る
男であった。ハーヴは驚いて友人を見返す。
﹁エリク! カンデラに行ってたんじゃなかったのか?﹂
﹁戻ってきた。禁呪について呼び出しを受けたから﹂
﹁呼び出し? 王からか?﹂
﹁いや﹂
エリクは言葉を切ってかぶりを振った。
その様子が何処か、普段と違っているように見えるのは暗がりの
せいなのだろうか。ハーヴは僅かに不安を覚えたが、尋ねてみるこ
とはしなかった。
﹁ってことはレウティシア様も戻っておられるのか?﹂
﹁戻ってない。彼女はカンデラだ﹂
エリクの答はハーヴの眉を顰めさせる。
現在、レウティシアこそがエリクの直接の上官扱いとなっている
602
のだ。そして彼女はこのような事件の話を聞いて戻ってこない人間
ではない。ならばエリクはレウティシアには何も伝えぬまま、無断
でファルサスに帰ってきたのだろう。おそらく後で罰則を受けるに
違いない。
﹁何やってんだ。立場が悪くなるぞ﹂
﹁分かってるよ。今更という気もするけど﹂
﹁馬鹿言うな。お前個人に罪はないだろ﹂
ハーヴが自分でも胡散臭いと思う程に力を込めて言うと、エリク
は少し苦笑したようにも見えた。藍色の瞳が暗闇の中、黒に見える。
﹁雫は?﹂
﹁部屋にいるはず。送ってきた﹂
﹁そうか。ありがとう﹂
まるで空々しい夜だ。ハーヴは寒くはないというのに、肌寒さを
背筋に覚える。死体が歩いているということも、友人がこんな時に
一人でこんな場所を歩いているということも、何もかもが意味不明
で得体が知れない。エリクは一体誰から呼び出しを受けて、何をし
ているのだろう。
それをもう一度聞こうとした時、だが当の相手は闇の中に向って
歩き出した。再び暗い林の中に入っていこうとする。
﹁何処行くんだ﹂
﹁ちょっと探し物﹂
﹁探し物? 何してるんだ? 今は危ないぞ﹂
﹁分かってる﹂
短い返答はハーヴを少しも安心させない。真意の見えない友人に
彼は小さく息を飲んだ。
何故王は、一部を除いて部下たちを建物の中に戻したのか。
三つある霊廟のうち、第一と第二は既に破られている。前王妃の
ように劣化防止の魔法が効いたままの遺骸や、数百年を経て白骨に
なってしまった遺骸もほとんどが棺を這い出ているのだ。
603
︱︱︱︱
なら、第三霊廟は未だ無事であるのだろうか。王家の
罪人ばかりを埋葬した知られざる墓は。
罪人は葬儀も行われず何処にあるともしれぬ墓に葬られる。そし
て、そこへと最後に葬られたのは⋮⋮
﹁⋮⋮⋮⋮お前、まさかカティリアーナ様を⋮⋮﹂
ディルギュイには魔力があっても禁呪の知識はない。
この城の誰もがそんな知識を持ってはいない。例外的に資料の閲
覧資格を持っていた、ただ一人を除いて。
﹁お前が、カティリアーナ様を甦らせたのか?﹂
震えるハーヴの問いにエリクは足を止める。
振り返り彼を見返した瞳は、氷よりも冷たく沈みきった色をして
いた。
恐る恐る硝子に爪を立てるようなハーヴの問い。
﹁禁呪を使ったのか﹂と間接的に問われたエリクは溜息をついた。
両手を広げて肩をすくめる。
﹁何で僕が。遺体を動かしても意味がないよ﹂
﹁そ、そうだよな。すまない﹂
﹁別にいい﹂
エリクは不快になった風もない。そう言えば、こういう人間だっ
たのだとハーヴは思い出した。ここのところすっかり忘れてしまっ
ていたが、エリクは魂がもうないと分かっていて体だけ蘇生させる
ようなことはしない。
仮に魂が取り戻せるのだとしても、一度起こった死をくつがえそ
うとはしないだろう。彼はそういう感情的な欲をほとんど持たない
人間なのだ。
﹁じゃあ何を探してるんだよ。誰に呼び出されて来た?﹂
﹁カティリアーナ﹂
604
禁忌とも言える名。彼の方からその名を口にしたということに、
ハーヴは雷撃を受けたかのように硬直した。みるみる蒼ざめる友人
を見やってエリクは苦笑する。
﹁正確には探しているのはカティリアーナの体。僕を呼び出したの
は彼女の名前を騙った誰か﹂
﹁第三霊廟が破られているのか!?﹂
﹁死体たちに破らせたみたいだね。あそこの場所を知っている人間
は少ないから。さっきディスラル廃王らしき死体を見かけたよ﹂
何気なく出されたかつての王の名前に、ハーヴは愕然とした。歴
史を専門にする魔法士として、そしてファルサスの人間として、知
らぬはずがない狂王。歴史に黒い染みを残した彼の遺骸までもが今、
城に解き放たれているというのだ。その事実はハーヴに震える程の
戦慄をもたらした。
﹁お、お前、それ⋮⋮﹂
﹁避けてきた。武装してたし。その内ラルス王が捕まえるんじゃな
いか?﹂
﹁いや、やばいだろ。あの狂王だぞ? 陛下に何かあったらどうす
るんだ﹂
﹁大丈夫だよ。所詮死体は死体だ。本人と戦うわけじゃないから﹂
エリクはどうでもいいとしか思っていないらしく、軽く返すと再
び歩き出す。ハーヴは慌ててその後を追った。
目的地があるのかないのか、彼は林の中を無造作に歩いていく。
時折あちこちを見回すのは、かつて喪った少女を探しているのだろ
うか。時が巻き戻ったかのような友人の姿は、ハーヴを不安にしか
させなかった。しばらく呆然とエリクの後を歩いていた彼は、我に
返ると激しく首を振る。
﹁駄目だ。お前、カティリアーナ様のご遺体を捜してどうするんだ。
それよりも早くカンデラに戻れ。こんなところにいると見つかった
ら⋮⋮﹂
605
ハーヴは言いかけたまま固まってしまった。
﹃見つかったらどうなるのか﹄
エリクがこの事件を引き起こしたのではないかと。
そんなことは分かりきっている。彼自身そう思ったのだから。つ
まり︱︱︱︱
禁呪の閲覧資格を持っていた彼には知識と、そして動機がある。
おまけにファルサスの正式な魔法士ではない。この状況では違うと
言い張ってもそのまま投獄されかねないだろう。ハーヴは陸に上げ
られた魚のように口をぱくぱくと開閉させた。
だがエリク本人は分かっていないはずがないだろうに、少しも動
揺しているようには見えない。彼は他人事のように平然と返した。
﹁多分、僕を呼び戻した人間もそれが狙いだろうね。僕は前科持ち
だから犯人としてはうってつけだ﹂
﹁なら何で戻って⋮⋮﹂
﹁いい機会だと思ったから。僕は彼女の埋葬には立ち会わなかった﹂
﹁立ち会えなかった、だろ! 今更何を言ってるんだ﹂
﹁本当に今更で無意味だ。だが無知ではなくなっただけましなのか
な﹂
エリクの言葉に感情は窺えない。だがそれは、感情がないという
ことと同義ではないだろう。ハーヴは他の人間よりもそれをよく知
っている。
七年前、初めて出会った時から四年前に分かたれるまで、二人は
多くの時間を分かち合った友人であったのだから。
十五歳のエリクは色々な意味で目立つ少年だった。中性的に綺麗
な顔立ちもその理由の一つだったが、滅多に笑わない無愛想な人間
だった為という点で。
そして、何よりも彼の存在を際立たせていたのは、いつも隣にい
る一人の少女だった。
606
カティリアーナ・ティル・ロサ・ファルサス。
この国の名を末尾に冠した王族の一人。
現王ラルスのまたいとこに当たる少女は、卓越した魔法士であっ
たとされる二代前の王妹クレステアの孫として、ある日突然城に現
れた。記録では独身であったクレステアが誰の子を産んで、更にそ
の子が誰と結婚してカティリアーナを産んだのかはまったく明らか
にされていない。ただ空白の数十年をおいてカティリアーナは、唐
突に王族の一人として城の人間に紹介されたのだ。
彼女を何処からか連れて来た当時の王は、その後城に近い屋敷を
カティリアーナに与え、世間知らずの少女が一人で暮らすのに不自
由ないよう便宜をはかった。話だけを聞いて彼女のことを訝しんだ
人間も、カティリアーナを直に見れば皆納得したという。何しろ彼
女はファルサス直系の人間が多くそうであるように強大な魔力をそ
の身に宿し、なおかつクレステアによく似た顔立ちをしていたので。
カティリアーナは年の割りに幼い精神を持っていた。
そのせいか自分の魔力も上手く使えず、構成も上手く組めない彼
女は魔法士としてはかなり不安定だった。
だが、ある時彼女は自分と正反対の少年に出会う。遠く東の国か
ら魔法を学ぶ為にファルサスに来た少年。彼は、勉学の賜物か類を
見ない構成力を持ちながらも、生来の魔力が足りない為中位以上の
魔法が使えない、そんな不自由な魔法士だった。
﹁お前、ファルサスの人間じゃないんだって?﹂
図書館でたまたま一人でいた少年にハーヴが話しかけたのは、純
粋な好奇心の為である。
異国の人間であり、また宮廷魔法士でないにもかかわらず、異例
な特権の数々を得た少年。多くの人間は王族に気に入られた彼を遠
607
巻きにしながらも、やっかみを込めて無責任な噂話に花を咲かせて
いた。
だが、ハーヴは真偽の分からぬことをまことしやかに語る心根を
嫌って、直接本人に尋ねることを選んだのだ。
それでも王族と一緒にいる時に話しかける程の勇気はない。だか
ら、こうして少年が一人でいるところを見つけられたのは幸運と言
ってよかった。
少年は本から顔を上げてハーヴを一瞥する。藍色の目には話しか
けられたことを歓迎する意思は見えなかったが、不快もまたなかっ
た。
﹁ファルサス出身じゃないよ。ナテラの人間﹂
﹁ああ、タリスの北か﹂
﹁そう﹂
それで話は終わりと思ったのか、少年はまた本に視線を落とそう
とした。ハーヴは慌ててそれを留める。
﹁ちょっと待って﹂
﹁何?﹂
﹁お前って禁呪の閲覧資格があるの?﹂
彼が一番聞きたかったことはそれだ。この少年がカティリアーナ
やレウティシアとどういう関係なのかなどはどうでもいい。
ただ、歴代の魔法士長の中でも、特別に許可を得た者でなければ
入ることの出来ない禁呪資料室、そこに少年が本当に出入りしてい
るのかどうかが気になっていたのだ。
少年は軽く顔を斜めにしてハーヴを見上げる。綺麗な顔立ちだが
少女に見えないのは、彼が何処か硬質な雰囲気を醸し出しているか
らだろう。彼は好奇心に目を輝かせる少し年上の少年に、当然のよ
うに頷いて見せた。
﹁あるよ。五級限定までだけど﹂
﹁まじか! 凄いな! やっぱ構成とか複雑なのか?﹂
608
﹁そうでもない。五級くらいは触媒に問題があるだけで構成は普通
だから。宮廷魔法士なら出来るんじゃないかな﹂
﹁ああ、生贄使ったりするやつか﹂
﹁そう。人の血を使ったりね﹂
あっさりと返ってきた答は、ハーヴに更なる興味を抱かせる。も
っと詳しく質問をしようと思った彼はしかし、他の人間ならば一番
に引っかかるであろう疑問に気づいて首を傾げた。
﹁なぁ、聞いていいかどうか分からないけど、何で資格もらえたの
?﹂
その資格を喉から手が出る程欲しい人間も今までいただろう。だ
が、彼らではなく異国の少年にそれは与えられたのだ。
はたして王族の姫に気に入られているからと言ってそこまで優遇
されるものなのだろうか。
噂ではそう言われているが、ハーヴはどうしてもそれだけが理由
とは思えなかった。率直な質問に少年は初めて微苦笑する。
﹁禁呪を整理したかったらしいから。僕が丁度よかったみたいだよ﹂
﹁丁度よかった?﹂
﹁魔力がないから。構成を知っても自分では組めない。知識はある
けど力がないってやつだね。厄介な資料を扱わせるのに適任だ﹂
﹁でも構成図を描いたら⋮⋮﹂
﹁僕の構成図ってみんな意味が分からないらしくてね。初歩のもの
を描いても伝わらない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
胡散臭げな目でハーヴは少年を見たが、後日見せてもらった構成
図は本当に酷かった。子供の落書きでももう少し気が利いていると
思えたくらいだ。
﹁それに他国の人間なら失っても痛くないだろう? そういう訳で
利害が一致して、働かせてもらってる﹂
﹁失ってって⋮⋮口封じとかされたらどうすんだよ﹂
﹁別にどうも。人間一度は死ぬものだ﹂
609
ハーヴは少年の妙にからりとした意見を聞いて呆気に取られる。
しばらくして彼はようやく自分がまだ名乗っていないことを思い
出し、﹁あ、俺ハーヴ。魔法士見習い。お前は?﹂と遅い挨拶をし
たのだった。
それから彼らは友人のような関係になった。
もっとも最初は一方的にハーヴが質問を重ね、エリクがそれに応
えるだけであったが、次第にエリクも苦笑しながら話題を振るよう
になったのだ。
そしてこの友人のことを知るにつけ、ハーヴは何故彼が禁呪資料
の司書のようなことを任せられているのか納得する。
確かに彼にはほとんど魔力がなく、また構成図が破滅的に下手だ。
だがそれら欠点よりもむしろ、多岐に渡る知識と抜きん出た構成
理解力、純粋な学究心と理性、権勢欲や功名心のなさこそ、禁呪を
管理するにふさわしい資質と評価されているのだ。若くして魔法士
の頂点に立つレウティシアは、人の能力と性向をよく見抜く。そし
て彼女の采配はいつも適切だった。
エリクはファルサスにいた三年間、魔法士たちの主流にいたこと
はなく、どちらかというといつも孤立していたが、人々が向ける異
端の目とは別に、レウティシアは彼に信を置いていた。だからまさ
か、ハーヴは彼があんな風にファルサスを去ることになるとは思っ
てもみなかったのだ。
城都内における禁呪の
四年前のある日、唐突にもたらされた知らせは城の人間たちを驚
愕させた。
あってはならない事件、それは︱︱︱︱
施行。
城の外の屋敷で起こったその事件において、犠牲になった人間は
四人。
610
その内一人はカティリアーナであり⋮⋮⋮⋮禁呪の構成案を作成
したのは、エリクであった。
611
005
﹁嬉しい?﹂
彼女はよくそう聞いてきた。
初めてその言葉を聞いたのは、単なる留学生だった彼を、彼女が
自分付きの魔法士として正式に雇い上げた、その後のことだった。
祖国ナテラでの勉強を経てファルサスへと留学したエリクははじ
め、住み込みで働きながら一般に開放されている図書館に通ってい
た。そこで城が過去に発行した学術誌や研究書を読み漁る毎日を送
っていたのだが、ある時研究書を選んでいた彼の前に、一人の少女
が現れたのだ。
彼女は恥ずかしそうにはにかみながら挨拶すると、﹁わ、私のと
ころで、働かない?﹂と聞いてきた。
﹁働く? 何故?﹂
﹁魔法を教えて、欲しいから⋮⋮﹂
﹁なら人選を間違ってる。僕には魔法士としての力がほとんどない﹂
﹁でも! この間、助けてくれたでしょう⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
そこでようやくエリクは目の前の彼女と自分が初対面ではないこ
とを思い出した。確か数日前、城都のはずれを歩いていた時に、や
たら身なりのよい少女と出会ったのだ。彼女は外見からして上流階
級の人間だとすぐに分かったが、そういう人種にしては珍しいこと
に供も連れず、高い木に向って必死に手を伸ばしていた。
エリクがその少女に目を留めたのは挙動不審なことに加え、制御
612
訓練が完全ではないのか体内の魔力が周囲に染み出していたからだ。
一度は彼女を横目にその場を通り過ぎたものの、二時間後同じ道を
戻ってきた時にもまだ彼女が同じように手を伸ばしているのを見て
は、さすがに無視することはできなかった。彼は本を抱えたまま困
り顔の少女の隣に歩み寄る。
﹁何してるの﹂
彼女は、話しかけられたことにひどく驚いたようだった。緑の瞳
を大きく瞠る。
答える言葉が分からないのか、少女は二、三度辺りを見回した後、
エリクに再度同じことを聞かれてようやく口を開いた。
﹁ヴェールが、とれないの⋮⋮﹂
言われて初めて彼は、木の葉々に隠れるようにして白いヴェール
が枝にひっかかっていることに気づく。彼女の身長を遥かに越えた
高さにあるそれには、確かに手は届きそうにないし、彼女に木登り
など出来ないだろう。
けれどエリクは少し眉を顰めただけで即答した。
﹁魔法を使えばいい﹂
﹁使い方が分からないわ﹂
﹁大したことじゃない。ヴェールを少し浮かせればいいんだ﹂
エリクはそれでも浮かない表情のままの少女に、基礎から構成の
組み方を教えてやる。
飲み込みの悪い彼女は、一時間程かかってようやくヴェールを浮
レースには穴があいてしまっていた。拾い上げて穴を見つ
かせて落とすことに成功したが、その時には既に何度も失敗したせ
いか、
けたエリクは﹁残念だったね﹂とヴェールを彼女に手渡す。
貴族の娘であれば駄目になってしまったヴェールに腹を立てただ
ろう。むしろその前に諦めて帰ってしまう人間がほとんどだ。だが
彼女はその時、本当に嬉しそうに両手を伸ばして白いレースを受け
取ると﹁ありがとう﹂と微笑したのだ。
随分変わった人間だとエリクは思ったのだが、問題はないようだ
613
ったのでそれきり忘れてしまっていた。
﹁思い出した? 私ね、ああいう風にまた、魔法を教えてほしいの﹂
あの時よりは簡略なドレスを着ている少女は、彼に向って頬を赤
く染めながら笑顔を見せる。
﹁魔法を教えてと言われても。もっと優れた魔法士はいっぱいいる
よ。貴族なら宮廷魔法士に頼むことも出来るだろう﹂
﹁習ったこと、ある。でも駄目だったの⋮⋮。あなたが教えてくれ
たことが、一番分かりやすかった﹂
﹁うーん⋮⋮。正直、貴族にはあまり関わり合いになりたくない﹂
貴族と平民の間では常識が通じないことが多い。そして優先され
るのは大抵が貴族だ。そのことをよく知っているエリクは少女の申
し出を断ろうとした。だが彼女はぱっと顔を輝かせてかぶりを振る。
﹁私、貴族じゃないの。それならいいかしら?﹂
よくない、とは何故か言えなかった。
それは彼女が緑の瞳の奥に、寄る辺ない迷子のような不安を宿し
ていたからだ。
あれだけ要領の悪い娘だ。今まで何人にも匙を投げられた経験が
この国に
エリクは溜
あるのかもしれない。そんな中、時間がかかったとは言え、自分で
魔法を成功させたことがとても嬉しかったのだろう。
息を一つついて﹁いいよ﹂と答えた。
彼が自分の選択を後悔するのはすぐ翌日のことだ。
彼女は確かに貴族ではなかった。もっと上の︱︱︱︱
は四人しかいない直系王族の一人であったのだ。
﹁うん。嬉しい﹂
情味のこもっていない返事は嘘ではなかった。エリクは書面に書
き起こされた待遇に目を通して頷く。その中には城の蔵書の閲覧権
利と講義の聴講が含まれていたのだ。
本来ならば宮廷魔法士かその見習いしか得ることの出来ない権利。
614
ほんの一握りの人間しか手にすることの出来ない特権に、まさか自
分が恵まれる機会が来るなど今まで思ってもみなかった。
カティリアーナは彼の返事を聞いて、彼よりも百倍は嬉しそうな
笑顔になる。
﹁本当? ならこれからよろしくね﹂
﹁うん。ただこんなにお金は要らない。三分の一でいいよ﹂
﹁どうして? 宮廷魔法士の給金を聞いてきたのに﹂
﹁僕は宮廷魔法士じゃない﹂
﹁でも、私の魔法士だわ﹂
彼女は幼子がよくするように﹁不思議だ﹂という目で彼を見たが、
何度か話し合った結果エリクの言う通りに金額を下げてくれた。
しかし実際のところ、カティリアーナはその差額分を彼への報酬
として毎月取り分けてあったのだ。エリクは彼女の死後、三年分の
大金をレウティシアから受け取って、初めてそれを知ることになる。
カティリアーナはよく彼の後を小鳥の雛のようについて回った。
初めて出会った時から三年以上の時が流れ、すっかり青年になっ
た彼と、ほとんど外見に変化を感じさせない彼女の間に様々な噂が
立とうとも、それは変わらなかった。
城で禁呪の管理に携わるようになったエリクは、三年の間に欲し
かった知識も要らなかった知識も身につけた。後になって思い返せ
ば、あの時の自分は慢心していたのだろうとエリクは思う。本来の
研究分野と異なるとは言え、禁呪の構成を読み解くことを、彼は確
禁呪を使いし者は禁呪に滅びる。
かに面白いと感じていたのだから。
︱︱︱︱
その不文律の例外に、彼もまたなり得ることは出来なかった。
少しずつ禁呪を当然の存在と感じ始めていた彼は、カティリアー
ナの死によってそれを思い知ったのだ。
615
男はそこで言葉を切ると、相手の反応を窺う。雫は冷え切った目
で相手を見返した。
﹁で。私はいつまでここで聞きたくない話を聞かなければならない
のか、教えて欲しいんだけど﹂
﹁聞きたくないのか? お前の連れが過去この城で何をしていたの
か、本当は知りたいのだろう?﹂
﹁聞きたきゃ本人に聞くよ。あんたからは聞かない﹂
気味のいい返事ではあったが、ディルギュイは目に見えて不愉快
になる。
男は、椅子ごと縛り上げて床に転がしている雫を見下ろした。だ
かすぐに視線を戻すと、彼女の言葉を聞かなかったかのように話を
続ける。
﹁カティリアーナは、今の王からはまるでいない者として扱われて
いた。レウティシアの方はよく面倒を見ていたがな。城の者たちも
愚かな娘を腫れ物に触るように扱っていたし、その分あの娘は自分
を見てくれる魔法士に執着していった。そしてあの娘は自分の魔法
士に思いつく限りの恩恵を与えようとし、ついには禁呪へと手を出
したのだ﹂
雫は耳を閉じてしまいたかったが、生憎自分の意思で耳を動かす
ことは出来ない。せめてもの反抗として目を閉じて相槌を打たなか
った。
このまま寝てしまえたらいいな、と思うのだがそれはさせてくれ
ないだろう。先に捕らえられたメアは籠の中で眠らされているのだ
が。
﹁カティリアーナは自分の魔法士から禁呪の構成を聞き出した。奴
もまさかろくな構成を組めない娘が、本当に禁呪を施行できるとは
思わなかったんだろう。資料にあるものそのままの構成を伝えては
カテ
問題があると思ったのか、自分で考案した構成を教えた。その時に
気づかなかったのが愚かとしか言いようがないな。︱︱︱︱
ィリアーナは、巨大な魔力を召喚してそれを人に与える構成を知り
616
たがったのだから﹂
﹁⋮⋮っ﹂
反応しないようにしようと思っていたにもかかわらず、雫はつい
声を上げてしまいそうになった。それが何を意味するのか、事情を
全ては知らない彼女にも分かってしまったからだ。
構成力はあるけれど魔力を持たない魔法士。その彼に、おそらく
カティリアーナは魔力を贈ろうとしたのだ。彼の才と魔力の不均衡
について、ハーヴが洩らした﹁悪い誘惑だ﹂という苦い言葉が甦る。
どうしようもないことを、道理を捻じ曲げてでもくつがえそうと
する誘惑。カティリアーナはその誘惑に負け、道を踏み外した。エ
リクの為に禁を犯し、そして失敗したのだ。
﹁場所はカティリアーナの屋敷だった。あの娘は自分の屋敷の使用
人三人を殺して触媒としたんだ。だが奴が作ったものとは言え、禁
呪の構成に耐えられなかったのだろう。術は失敗してあの娘も死ん
だ。カティリアーナは禁呪に手をつけた罪人として葬られたよ。そ
して奴はファルサスから追放された﹂
﹁追放された?﹂
今度は疑問の声を抑えることは出来なかった。言ってしまってか
ら雫は思わず舌打ちをしてしまう。一方反応が得られたディルギュ
イは、してやったりという笑みを浮かべた。彼女は心中で﹁小物顔
め﹂と毒づく。
だが、ディルギュイとのつまらない心理戦はさておき、雫の知る
限りエリクは﹁追放された﹂のではなく﹁自分で出て行った﹂のだ。
ハーヴもレウティシアも確かにそう言っていた。この食い違いは、
一体何を意味しているのだろう。
﹁奴ものうのうと戻ってきて何がしたいのやら。しかし丁度いいか
ら、あの娘に会わせてやろうと思ったのさ。まだたった四年だ。死
体も変わりないだろう。元のままの姿の娘に出会って、詫びでも言
617
えれば満足に違いない﹂
雫は口には出さず﹁そういうの大きなお世話っていうんだよ﹂と
返して目を閉じる。
ディルギュイが何を考えて雫をこのような目に合わせているのか
も分からなければ、エリクについても何も分からない。ただエリク
本人以外の人間が、自分の視点からの情報を部分部分雫の前で口に
していくだけだ。それは決してかみ合わないジグソーパズルを見て
いるようで、彼女を落ち着かない気分にさせてばかりいる。
もし足の届くところにディルギュイが近づいてきたら蹴ってやろ
う、そう思いながら彼女は長く話をしていない彼を思い返し、深く
溜息をついたのだった。
切りかかってくる男の死体は、紫色の斑点が目元に現れていた。
ラルスはその剣を弾いて逸らすと、次の一撃で鎧の上から死体の
首を切り落とす。
重い音を立てて倒れた体はしばらくもぞもぞと動いていたが、切
り口から黒い液体が零れだしてしまうとその動きもなくなった。王
は転がった生首を拾い上げて背後の魔法士に放る。魔法士は慌てて
それを皮袋に入れた。
﹁あと何体だ?﹂
﹁二十四、五だと⋮⋮﹂
﹁面倒面倒。だが第三霊廟の遺体だけでも回収せねばな﹂
王家の罪人ばかりが収められた霊廟。そこにある死体の半数は﹁
見られてはいけない﹂様相を呈している。それらはほとんどが、六
十年前から続いていた政争に関わった者たちであるのだが、彼らの
中には禁呪に手を出し体を侵された者や、毒による粛清を受けた者
も多く混ざっているのだ。
そういった事件についての記録は王家の封印資料に記されている
618
が、一般には口外されていないこともまた事実だ。要らぬ詮索や不
安を呼び込まぬ為にも異常な遺体は衆目に晒さない方がいい。ラル
スは持っていた布で軽く刃を拭う。
﹁魔力がなくなっているから女の死体の方が捕まえやすいな。男は
逃げ出すと追いきれない﹂
﹁腕力と脚力が強化されているようですね。判断力が落ちてはいま
すが。遺体を動かしている術は複雑なものではないのでしょう﹂
﹁まるで泥人形だな。これが終わったら火葬にして壷にでも詰め直
すか﹂
王に従っていた魔法士は、﹁壷?﹂と問いたそうな表情になった
が、ラルスはそれには構わず歩き出した。夜の庭の中、慎重に気配
を探っていく。
見られてはいけない死体。
﹁さて、俺が見つけられるに越したことはないが﹂
︱︱︱︱
だがそれでも古参の武官や魔法士たちの中には、数十年に渡る秘
された歴史を知っている者たちがいる。今、外に出て掃討を行って
いるのも彼らだ。
けれどそれ以上にラルスには﹁自分とレウティシア以外には見ら
れたくない﹂死体が一体あることを分かっていた。
ファルサスの王族たちによる罪責の中でも例外中の例外であり、
そして決して許してはならないと彼が思っている事例の一つ。その
死体だけは出来れば自分の手で回収したい。ラルスはアカーシアの
柄を握り直した。
﹁一体何処にいる? カティリアーナ﹂
その名を呼ぶ声に返事はない。
王は一瞬嘲りを口元に浮かべると、だがすぐにいつもの面倒そう
な表情に戻って夜の中に踏み込んでいった。
619
草を踏む二人の足音だけが夜の中、響いている。
ハーヴは恐怖よりも緊張が、そして緊張よりも心配が勝って友人
の後ろを離れられないでいた。もう何度目になるのか分からない忠
告を口にする。
﹁エリク、戻ろう。広い上にこの闇だ。上手くカティリアーナ様に
出会えるかどうかも分からないし、もう誰かが見つけてるかもしれ
ない﹂
﹁どちらかというと君の方が戻らないと不味いよ。今、外にいるの
は古参の人間だけなんだろう? ばれたら君も罰則だ﹂
﹁お前はどうなんだよ﹂
﹁僕は知ってるからね﹂
投げ返された答は、ハーヴに何故ほとんどの人間が建物内に下げ
させられたのか、そのおおまかな理由を確信させるに等しいものだ
った。
やはりそれには第三霊廟の遺体と、王家の封印された歴史が関係
しているのだ。
つい先日王族の許可のもと封印資料を見たエリクは、知識的には
古参の臣下たちと同じ立場にあるということだろう。歴史を専攻す
るハーヴは、自分が仕える王家について人並み以上の探究心を持っ
てはいるが、それ以上に自分の立場を弁えている。だから外に残っ
ているのも友人を放っておくのが心配だっただけで、出来ればどの
遺体とも対面しないに越したことはないと思っていた。
﹁俺を気遣ってくれるなら一緒に戻ろう。お前に何かあったらあの
子はどうなる﹂
﹁彼女はあれでたくましいからな。それに僕も死ぬつもりは別にな
いよ﹂
﹁なら何でカティリアーナ様に拘るんだ。いい加減ふっ切れよ﹂
﹁そういうのとはまた違う﹂
エリクは不意に足を止めた。つられてハーヴも立ち止まる。
月光の下、少し離れた場所を女の骸骨がゆっくりと歩いていた。
620
白いドレスが風になびき、歪で幻想的な空気をかもし出している。
二人は息を潜めて死体が離れていくのを待った。ドレスの裾が木の
向こうに見えなくなると、エリクは口を開く。
﹁中に戻って欲しい。君にはカティリアーナを見せたくないんだ﹂
﹁何でだよ。そんな酷い状態だったのか?﹂
﹁違う。綺麗なものだったよ。殺した僕が言うんだから間違いない﹂
自嘲でも自虐でもない事実だけの言葉に、ハーヴは深く息を吐い
た。何処か疲れた目でかぶりを振る。
﹁そういうことを言うのはやめろ。また変な噂話が流行る﹂
﹁本当のことだけどな。それより僕の忠告の方を聞いて欲しい。多
分今のカティリアーナを見たら、君の立場は非常に不味くなる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何だそれ﹂
それだけではないのだろうか。知っていると思っていたことが、
カティリアーナは禁呪の構成に失敗した後、死を迎えた。︱︱︱
︱
途端に闇の中に没し始めた気がしてハーヴは顔を歪めた。
﹁何知ってるんだ、お前。俺に話してくれたことが全部じゃなかっ
たのか?﹂
﹁全部だった。あの時僕はそれだけしか知らなかった﹂
だが、今は違うのだとエリクは言外に続ける。それは王家の封印
確かに当時も、色々なことがおかしいと思ったのだ。
資料を見たことと関係あるのかどうか、ハーヴには判断がつかなか
った。
︱︱︱︱
エリクがまったく処分を受けないことも嬉しくはあったが不思議
けれど当時はそれを深く追及する気にな
ではあったし、何よりも何故カティリアーナが禁呪の構成を組めた
のかが分からなかった。
れなかったし、多少無理を感じはしたが、そういうこともあるのだ
ろうと心の中で片付けていたのである。
﹁何なんだよ⋮⋮今更﹂
折角友人が戻ってきたというのに、甦らなくてよいことまでゆっ
くりと頭をもたげつつある。銀の光の中をかつてのカティリアーナ
621
が一人歩いている光景を思い浮かべて、ハーヴは溜息をついた。
この異常な夜はもしかして、四年前の事件の真実に触れるものに
なるのかもしれない。真実など呼び起こさずともいいという自分と、
歴史の真相を知りたいと思う自分の間で彼は瞬間、煩悶した。
しかし結論を出したのはどちらでもない、エリクの友人としての
自分だ。ハーヴは苦い顔で友の肩を叩く。
﹁分かった。でも戻らない。見ちまったらレウティシア様に記憶を
消してもらうよ﹂
﹁記憶操作は大変らしいよ。多分面倒がられると思う﹂
﹁陛下じゃあるまいし。やってくださるさ。それより強い死体と出
会ったら俺の魔力使っていいから何とかしてくれ﹂
﹁まず自分で何とかしてみよう。駄目だったら逃げよう﹂
﹁死体恐怖症になりそうだ⋮⋮﹂
二人の魔法士はぶつぶつと言葉を交わしながら広い城の庭を歩い
ていく。
それは四年前の過去には到底届かない、今を行く道筋だった。
頭の中には罵詈雑言が積み重なってピサの斜塔を形成しているも
のの、それを口にして逆上されても困るということで、雫は沈黙を
保っていた。そもそも転がされているのは石畳の上なのだ。いくら
暑い国と言っても、そろそろ内臓が冷えてきた気がする。腹痛にな
る前に起き上がりたい。
﹁聞いていたか、小娘﹂
﹁残念ながら大体は﹂
聞いてはいたが、だからどうしたという印象でしかない。
エリクの過去がどうであれ、それは彼女と旅をしてきた彼を否定
するものではないだろう。大きなお世話にも程がある。むしろハー
ヴから聞いて曖昧に想像していたより、エリクが特殊な仕事につい
622
ていた人間だったと分かってすっきりしたくらいだ。雫には魔法士
の相対評価など出来ないので、今まで彼の力量を魔法士として計っ
たことはないし、それでも充分凄い人間だと思っていた。
その為ディルギュイの話もいくつか気になるところはあったが、
総じて﹁だからどうした﹂で済ませられる話なのである。
﹁それで、えーと⋮⋮。死体起こして私を転がして、おしまい? だったらそろそろ放して欲しいんだけど﹂
本当ならばディルギュイの意図通りショックな顔をして見せた方
がいいのかもしれないが、馬鹿馬鹿しさと腹立たしさが先に立ち、
毒づかないでいるのが精一杯だった。男は額に青筋を浮かべかけた
が、なけなしの矜持によって踏みとどまったらしい。雫を見下ろし
ながら冷静な声を作る。
﹁お前は、最後の仕上げだ。お前もあの魔法士も単なる駒でしかな
い﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
間の抜けた返事に、ディルギュイは明らかに落胆の顔になった。
だがそんな顔をされても抽象的なことしか言われていないのでは反
応しにくい。雫は半眼になって、続くのであろう話を待った。男は
忌々しげな目で彼女を見下ろしながら顔の傍に屈みこむ。
﹁精神魔法というものを知っているか?﹂
﹁初耳。名前から想像がつく気もするけど﹂
﹁想像の通り、人の精神を操る魔法だ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
先程と同じ相槌。しかし雫の内心には冷や汗がふき出しはじめて
いた。
魔法によって精神を操るというのなら、まさしくこの男は自分を
﹁駒﹂にするつもりなのだろう。具体的に何をさせるつもりかまで
は分からないが、石で殴られるより余程嫌だ。雫は男と目を合わせ
ないようにすぐ傍の石床を見つめた。
﹁お前が一番うってつけだ。おかしな動きをしていてもさして怪し
623
まれない。おまけに元の感情があって弄りやすい﹂
﹁元の感情?﹂
聞き返した雫に対し、頭上から聞こえてきたのは魔法の詠唱だ。
彼女はぞっと戦慄すると、縛られていない足を素早く動かす。右足
を真っ直ぐに蹴り上げ、しゃがみこんでいたディルギュイの足首を
打った。いいところに当たったのか男は叫び声を上げて横倒しに転
ぶ。
その間に雫は後ろ手に縛られた両手に力を込めた。
しかし、椅子自体に縛られているせいかどうしても立ち上がるこ
とは出来ない。焦っているうちに起き上がったディルギュイが片手
で雫の髪を掴んだ。痛みに彼女は唇を噛み締める。
﹁この野良猫が! 大人しくしていろ!﹂
﹁今まで黙ってたけど言ってやる! この小悪党! 魔法士長にな
りたいなら実力でなれっての!﹂
﹁お前⋮⋮っ﹂
変な術をかけられるより逆上された方がましだ。
雫はそう思ったものの、ディルギュイはそれ以上何も言わなけれ
ば暴力を揮うこともしなかった。ぎりぎりと音が聞こえてきそうな
程に歯を食い縛って彼女を睨むと、震える声で返してくる。
﹁⋮⋮もう魔法士長になどならなくともよい﹂
﹁何でよ。負け惜しみ?﹂
﹁違う! お前になど分からんだろうが、いつまでもファルサスだ
けが魔法大国でいられるわけではないのだ! つい先日も東の小国
が画期的な魔法具を売り始めたのだぞ? ろくな魔法士がいないと
思われていたちっぽけな国が! ファルサスのように自国だけに技
術を囲い込んでいては、いずれ他の国々に追い抜かれる。その前に
私はこの国を出るのだ!﹂
彼には彼の考えがあるのだと窺える弁論に、しかし雫は一片の関
心も抱かなかった。氷片を散りばめた目で男を射抜く。
﹁じゃあ出てってください。レウティシアさんには私から言っとく
624
から﹂
﹁ああ、出て行くさ﹂
ディルギュイは吐き捨てると詠唱を再開した。雫は息を飲む。動
揺は見せたくなかったが、これから起きる事態が非常に不味いもの
そし
であることは彼女にも分かっていた。雫は部屋の隅に置かれた鳥籠
に向って叫ぶ。
﹁メア! 起きて!﹂
﹁起きんよ。あの籠は封印具だ﹂
﹁起きて! お願い!﹂
男の目が雫の瞳を至近から覗き込む。
合わせ鏡の如くそれらはお互いの顔を映し出して︱︱︱︱
て何かが﹁入って﹂来た。
生温かいものが脳に直接触れているかのような感覚。無遠慮に指
をずぶずぶと埋め込まれるような気持ち悪さに、髪を掴まれたまま
の雫はえずいた。
思考を侵されて行く。
意識が歪められる。
全身を震えが走りぬけ、彼女は椅子に縛られたままの体を跳ねさ
せた。
﹁嫌だっ! 放して! 放せ! 出て行け!﹂
﹁抵抗すれば苦しいぞ﹂
男の声もよく聞こえない。
自分の鼓動だけがやけに響く。
時間の感覚も、天地でさえも判らない。
拒否と否定が呪のように繰り返された。
入り込んでくる力
無遠慮な
625
粗雑な
気づいてはいけない
それはもっと稚拙な
変質を
精神に
魂に
変えて
潜んで
言葉を
記憶を
︱︱︱︱
雫は負荷に耐え切れず気を失う。
意識が暗転する直前、最後に聞こえたものは石畳に跳ね返る男の
絶叫だった。
※ ※ ※
﹃納得していないと思ったから﹄
レウティシアは確かそんな風に言っていた。彼に王家の封印資料
を見せた、その後に。
彼女はおそらく、当時の王家の不審な対応についてエリクが不満
を抱いているとでも思っていたのだろう。例の事件後彼は真っ直ぐ
城に出頭し、起こったことを全て述べた後で処分を願ったのだから。
しかし彼には叱責どころか何の処罰も与えられなかった。それど
626
ころか城における権利の数々さえ剥奪されなかったのだ。その処置
にいくらかレウティシアが絡んでいたことは明らかだったが、彼は
結局全ての権利を捨て、ファルサスを後にした。
城への怒りがあったわけでも失望があったわけでもない。
ただもういいと、思っただけだ。もうこの国に残る意味もないと。
あの事件には果たして本当に﹁納得﹂など存在してい
けれど今、もう一つの真実を知った彼は思う。
︱︱︱︱
たのだろうか、と。
※ ※ ※
生温かい風が林を鳴らす。
臭気は少しずつ薄まっているような気もするが、既に鼻が麻痺し
ているようでよく分からない。ラルスは左手をかざして天を仰いだ。
﹁うちの王家は美女が多いらしいが、骨になってたり崩れていたり
では分からんな。まったくつまらない﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
不謹慎な主君の発言に、随従の魔法士は何とも言えない顔になっ
たが、それ以上諌める言葉も思いつかなかったらしい。ただ口を噤
んで目を逸らすに留めた。
初めこそラルスは十人程の部下を連れて掃討にあたっていたのだ
が、次第に捕獲した遺体の運搬に人手が取られ、また﹁別にそんな
人数いらない﹂と本人が言ったことで、一番王と付き合いが長い魔
法士が一人、連絡係として残ることになったのだ。
﹁そろそろ疲れてきたし、気分を変えたいところだ。そうだな⋮⋮
627
この事件の名称でも考えるか﹂
﹁後になさった方が⋮⋮﹂
﹁事件の名称はそれを聞いただけで大体の内容が分かりやすいもの
の方がいいと思わないか?﹂
﹁字数が多くなっても問題がございます﹂
﹁そうか。最小限に絞るのはなかなか難しいな。﹃死体﹄は入れた
方がいいかな﹂
足を止め、真剣に考え始めた王に、魔法士は更に何か言いたげな
視線を送ったが、ここで言って思い直してくれるような主君ではな
いと皆が知っている。﹁年代は含めるべきかどうか﹂を悩むラルス
の代わりに、彼は周囲に注意を払った。
既に第一霊廟の調査は済んでいる。そこに禁呪の元は見つからな
かったが、犯人はほぼ内部の魔法士で決まりではないかという結論
は王にも報告されていた。犯人が逃げ出したかまだ城に留まってい
るかは分かっていないが、目的がよく掴めないこともありそちらの
捜索は進んでいない。
まずは放たれた遺体の回収が最優先だが、最初の報告が入ってか
ら二時間、第一霊廟と第二霊廟に安置されていた遺体は既に、八割
方回収に成功していた。
﹁ディスラル廃王は未だ目撃されていないようですが⋮⋮﹂
﹁俺は相手したくない。トゥルースかアズリアのところに行って欲
しいぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
数十年に及んだ政争の発端となった事件、その張本人である廃王
の名はファルサスの人間ならば誰でも知っているだろう。玉座にあ
りながら狂気に堕ち、軍を率いて一国を滅ぼした挙句、血族の中に
猜疑の種を振り撒いた王。
諫言した臣下たちを手ずから斬り捨て、最後には大広間で武官や
魔法士、他の王族と相対しての殺戮を繰り広げた狂王は、実の弟で
628
あったロディウスの手によって殺害されたと言われている。その後
即位したロディウスも僅か一年で謎の死を遂げているのだが⋮⋮。
﹁だってディスラルってあの事件の時、一人で六十三人を殺したら
しいぞ。もうそれ人間じゃないだろ﹂
﹁今アカーシアをお持ちでらっしゃるのは陛下ではありませぬか。
何とかなります、何とか﹂
﹁落とし穴でも掘った方がいいんじゃないか?﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
気持ちは分かるがそこは強気になって欲しい、と臣下たちなどは
思うのだが、相手をしたくないものはしたくない。大体死体なのだ
から正面から向き合わずとも捕獲する方法はあるはずだ。ラルスは
考えながら辺りを見回す。
庭先を行く二人の人影を先に見つけたのは、王ではなく随従の魔
法士の方だった。
黒い輪郭しか見えない二人は、しかし暗がりから月光の差す場所
へ歩き出てきたことにより、顔の判別がつくようになった。それを
魔法士は見咎めたのだ。
﹁待て、お前たち!﹂
厳しい声と共に彼は走り出す。ラルスは﹁あれ?﹂と首を傾げな
がらのんびり歩いてその後を追った。呼び止められた二人組は足を
止める。
﹁ここで何をしている!﹂
言われた二人は顔を見合わせたが、どちらに言われているかなど
考えるまでもないだろう。両方に言われているのだ。しかし男はど
ちらかというと、詰問の比重を異国の魔法士に置いているらしい。
真っ直ぐエリクに向って詰め寄った。
﹁お前、何故ここにいる! レウティシア様はどうされた﹂
﹁カンデラにおられると思います﹂
629
﹁ならお前は何故来たのだ! さてはお前が⋮⋮﹂
予想通りの展開に顔色を変えたのは一緒にいたハーヴの方だ。彼
は﹁待ってください﹂と言いながら慌てて二人の間に入ろうとする。
エリクに掴みかかろうとする魔法士とそれを留めるハーヴの間で、
静寂の中にあった夜が一転して騒々しいものとなりかけた。
だがその時、責められている当の魔法士は何かに気づいたのか、
ふっと背後を振り返る。
藍色の双眸の軌跡を追って、ラルスは月の照らす庭を見やった。
黒いレースのドレス。長い銀髪が鈍い輝きを放っている。俯きぎ
みの横顔は影になって見えない。だが、細い首に巻かれた赤い紐が
髪と同様おだやかになびいており、それだけは少ない色彩の中で不
思議なほど鮮やかに映えていた。
ラルスは手を伸ばすと、今まさにエリクを怒鳴りつけようとして
いた魔法士の肩に手を置く。王は慌てて振り返った部下にではなく、
視線を戻した異国の魔法士に向けて問うた。
﹁お前がやったのか?﹂
﹁違います﹂
﹁そうか﹂
それだけで終わると思っていなかったハーヴはけれど、ラルスが
ついてきた魔法士に﹁先に戻ってろ﹂と言ったことで目を丸くして
しまった。魔法士が驚愕しながらも王命に従ってその場を離れると、
王は次にハーヴを見やる。
﹁お前も命令違反だな。減給ものだぞ﹂
﹁も、申し訳御座いません﹂
﹁まぁいい。仲間はずれも可哀想だから来ればいい﹂
エリクはその決定に僅かに眉を顰めたが何も言わなかった。彼は
踵を返すと一人歩き出す。
それは何の感情も感じさせない足取りだ。後悔も嫌悪も何もない。
630
躊躇でさえもそこにはなかった。
だが立ち止まることも彼は決してしない。
草を踏む微かな音の向う先、月の光が翳を作る庭には、黒衣の女
が月下に佇み、緑の瞳でじっとエリクを見つめていた。
﹁ねね、こんな術ってある?﹂
そんなことを唐突に聞かれたのは、彼がカティリアーナの屋敷で
借り出した図書を整理していた時のことだ。
少女からの拙い説明を聞いてエリクは首を傾げる。
﹁ある。けど禁呪の類だ。そんなの何で知りたいの?﹂
﹁ちょっと興味があって。だって、魔力って先天的なものなんでし
ょ? それを増やせるってどうしてかな﹂
その疑問は素朴と言えば素朴なものだ。エリクは少し考えた後に
答えた。
﹁多分、術者の魂を変質させて許容量を増やす工程が含まれてるん
だと思う。魔力を召喚して、それを術者に取り込ませる。その取り
込みの過程で無理矢理容量を拡張してるんだ。記録にはないけど、
実際は肉体的にも結構痛いんじゃないかな。だから増やせるってい
っても限界があるし、変質に失敗したら精神崩壊するか死ぬと思う。
そういう例はいっぱいあるし﹂
﹁死んじゃうの!?﹂
﹁死ぬよ。そんな危険がない術だったら、暗黒時代にはもっと強力
な魔法士が沢山出てるはず﹂
しかしそうはならなかった。
多くの者が力を求め、種々の禁呪に手を出した時代。残ったのは
﹁禁呪に触れてはならない﹂という、歴史に実証された戒めだけだ
ったのである。
カティリアーナは困り顔で悩んだが、しばらくして﹁やっぱりど
んなのか構成教えて﹂と言い出した。随分妙なことに興味を持つと
631
エリクは思ったものの、彼女も一応王族の一人だ。何か自国の歴史
に気になる点があるのかもしれない。﹁実際の構成はもっと複雑だ
けど﹂と付け加えて、その場で考えた簡単な構成を口頭で教えてや
った。
構成図を描いてもどうせ伝わらないであろうし、むしろ真剣に伝
える気もなかった。どうせすぐに忘れてしまうだろうと彼は思った
のである。
だから数日後、城から屋敷に戻ってきた時、彼は﹁それ﹂を見て
愕然とした。
中庭に描かれた複雑極まりない構成と、その中央に重ねられた三
つの死体と、そして血生臭い光景の前に、一人立っている女の笑顔
を見て。
﹁カティリアーナ﹂
魂のもうない体を、エリクは生前と同じ名で呼ぶ。
それがおかしかったのか女は首を僅かに傾けた。罪人の証である
赤い紐が揺れる。
緑の瞳は、それだけが今でも変わらない。幼子のように透き通っ
てじっと彼を見返す。
そこに、どれだけの真実があったのだろう。
今はもう分からない。彼女の魂が失われた今となっては。
エリクは過去に属する瞳を見つめる。
そしてあの時と同じく言葉なきままに、彼は深く溜息をついたの
だった。
友人の後ろにいたハーヴは大きく口を開けたまま硬直する。彼に
は、一体自分は何を見ているのか判断がつかなかった。動転した挙
632
句、ハーヴは話しかけづらい友人よりも、隣にいた王を見上げる。
声を潜めて囁いた。
﹁へ、陛下。あれは本当に⋮⋮﹂
﹁ああ。カティリアーナだ。同じ服を着ているしな﹂
﹁ですが、まったく姿が⋮⋮⋮⋮劣化防止をかけなかったのですか
?﹂
ならば何故、彼女はあのような姿なのか。
﹁かけた。一応慣例だったから﹂
︱︱︱︱
余計混乱してハーヴはもう一度女の死体を見つめた。
濃い茶色であった髪は透き通るような銀になっている。白く瑞々
しい肌は罅割れて皺だらけの皮と化していた。痩せこけた頬。肉の
ない骨ばかりの手がエリクに向って伸ばされる。
﹁あ、あれではまるで⋮⋮老いてしまった、ような﹂
﹁老いたわけじゃない。本当の姿に戻ったんだ﹂
ラルスはアカーシアを抜く。エリクの首へと手を伸ばしかけてい
た彼女は、気配に気づいて顔を動かした。その目を王は真っ直ぐに
睨む。
﹁さて、いつまでもその男に絡んでいないで棺に戻るがいい、カテ
ィリアーナ。それとも⋮⋮⋮⋮クレステアと呼んだ方がいいか? 大叔母上よ﹂
ラルスは罪人の真の名と共に剣を構える。
突如持ち出された真実にハーヴは凍りついた。
エリクはただ彼女を見つめる。
かつてと同じ緑色の瞳は、生前もそうであったように何処か空虚
を湛え、世界を映し出していた。
633
006
クレステア
それはディスラルの姪の名であり先々王の妹の名。
ここ数十年の歴史の中でもファルサス屈指の魔法士と謳われた、
カティリアーナの祖母。
⋮⋮だったはずだ。少なくともハーヴはそう思っていた。今、こ
の時までは。
﹁⋮⋮え? カティリアーナ様⋮⋮クレステア様?﹂
﹁だから、同一人物だ。クレステアは子供など産んでいない。孫だ
というのは俺の父が便宜上そうしただけだ﹂
面倒そうな王の説明に驚いたのはハーヴだけで、エリクはいつも
の平然とした様子を崩していなかった。もっとも彼の感情が表に出
ないのはいつものことである。ハーヴは息を止めて友人の横顔を見
やった。
かつての少女と同じ、だが変わり果てた姿。
そこには何も見えない。忌まわしく捻じ曲げられた命以外には。
これが彼女の真実だと言うのなら、﹁カティリアーナ﹂とは何で
あったのだろう。
ハーヴは喉に重い何かが詰まる気がして首元に手を触れさせた。
ラルスはそんな臣下を一瞥して淡々と続ける。
﹁クレステアはな、ディスラルに傾倒していたらしい。奴の死後も
影から王族や重臣たちの疑心暗鬼を煽っていた。何人かは自分の手
を下したようだが証拠は掴ませていない。けどある時、それを兄⋮
634
⋮俺の祖父に勘付かれたんだな。アカーシアを手に詰問しに来た兄
を見て、クレステアはどうやって逃げようとしたと思う?﹂
﹁ど、どうやってと言われましても⋮⋮﹂
﹁簡単なことだ。クレステアは言質を取られ処刑される前に自分を
捨てたんだよ。記憶と人格を封じて、まったく無知な人格を表に出
した。そうして別人になったクレステアは、結局黒に限りなく近い
灰色ということで幽閉されるに留まったんだ﹂
王がハーヴへと説明してやる間、エリクは微動だにしなかった。
その藍色の瞳が注視しているのはカティリアーナなのかクレステア
なのか、誰にも判らない。判ることと言えば、目の前に立つ亡骸は
まさしく王家の暗部の一つで、既にただの少女のものではないとい
うことだけだ。
﹁いつか戻るかと思って幽閉されてたが、まったく戻らないどころ
か精神に合わせて外見年齢も幼くなって固定された。このままじゃ
いつまで生きているか分からない、そう思った俺の父親が別の名を
与えて牢から出してやったんだ。俺は処断を主張したんだが、記憶
がなく精神が別人のものなら罪を負わせることはできないと言って
突如王族として現れた少女。彼女の面倒をレウティシ
な。まったく甘い考えだ。記憶があろうがなかろうが同じ人間だと
いうのに﹂
︱︱︱︱
アはよく見ていたが、ラルスはいない者として扱った。
﹁では⋮⋮カティリアーナ様が禁呪を組めたのは⋮⋮﹂
﹁組めて当然だ。クレステアは元々禁呪の使い手だった。だから俺
はこの男を無罪にするよう主張したんだぞ? 禁呪を教えた罪はあ
るが、教えようが教えまいがあの女は使えた。それに加え、あの女
を処分した功績を買ったんだ﹂
ハーヴは頭を抱えて座り込みたい虚脱感に襲われる。そんなこと
は知らなかったのだ。勿論エリクもそうであろう。カティリアーナ
は王族ではあったが、愛らしく不器用な普通の少女だと思っていた。
不安げにエリクの後を追う姿も幼子のような笑顔も、作られたもの
635
には到底見えなかったのだ。
目の前の彼女が老婆の姿をしていることもあり、ハーヴは未だ何
処か別の棺にカティリアーナが眠り続けている気がしてこめかみを
押さえる。言いようのない気分の悪さが心中に広がり、躯に繋がる
空気を吸うことにさえ抵抗を覚えた。
顔色の悪いハーヴから視線を外して、ラルスはクレステアに意識
を戻す。
彼女の亡骸はまるで道化回しのように優雅な仕草で、目の前の男
に向かって枯れた腕を伸ばそうとしていた。
小さな手をよく引いてやったことがあった。
城の中でさえ、彼女は居づらそうにおどおどと辺りを窺うばかり
だったので。
実際、彼女は何処にいてもいつも落ちつかなそうに見えた。時折、
何もない場所をじっと見つめていることがあった。
過去から己を切り離した彼女は、はたして自分のことをどう思っ
ていたのだろう。
記憶がないという記憶さえ失って一人彷徨っていた彼女は。
エリクは伸ばされた腕の手首を逆に掴む。それは、腕力を強化さ
れてはいても老女の力で抗えるものではなかった。クレステアはも
う一方の手を使って男の手をはずそうとしたが、エリクはそれを許
さない。彼女が手をはずすことを諦め、彼の目へと爪を伸ばした瞬
間、その手を避けて彼女の腕を捻り上げた。半ば動きを奪われたク
レステアは奇怪な呻き声を上げる。エリクは彼女の体を押さえたま
ま王を見やった。
﹁傷をつけていいですか? 瘴気を抜けば動かなくなります﹂
﹁構わんぞ。その死体は見られても困るから燃やそうか悩んでいる
636
くらいだ﹂
﹁ならその方がいいかと。見る人間が見れば禁呪の痕跡が分かりま
すから﹂
﹁そうなのか? なら今燃やすか。ハーヴ、頼む﹂
﹁私ですか!?﹂
淡々と会話を交わす二人に呆気に取られていたハーヴは、突然話
を振られて悲鳴を上げた。いくら死体で罪人であっても王家の女性
に火をつけろなどという命は勘弁して欲しい。彼は助けを求めて辺
りを見回した。クレステアを拘束したままのエリクと目が合う。
﹁僕がやるよ。魔力貸して﹂
﹁⋮⋮お前﹂
﹁平気だよ。彼女はもう死んでる﹂
死体は、ただの物体だ。魔法士ならば皆そのことを知っている。
それでも彼女に会う為に今夜戻ってきて、自ら彼女の体を燃やそ
うとしている友人が無心でいるはずはないと、ハーヴは思っていた。
声をかけようとしても、肝心の言葉が思いつかない。﹁それなら
おそらく彼が選んだ決別なのだ。
ば俺がやる﹂といっそ言ってしまいたかった。
だがこれは︱︱︱︱
ハーヴは力なく肩を落とすと友人の隣に歩み寄る。小さく詠唱し
ながらエリクの肩に触れ、構成を持たない魔力を注いだ。
まるで四年前に戻ったかのように悲しい。それは、カティリアー
ナがカティリアーナではなかったと分かっても同じだ。
目を閉じたハーヴの耳に友人の詠唱の声が聞こえる。
それは確かに、かつて妹のように彼女を慈しんでいた時と同じ、
ひどく穏やかな声音だった。
彼女が何を求めていたのか、それに応えてやれたのか、今となっ
ては分からずじまいだ。
ただ彼女の笑顔だけは今でも忘れることが出来ない。初めて出会
637
った時、嬉しそうにヴェールを受け取った笑顔と、最後の時淋しそ
うに笑った顔だけは。
そして、今の彼女の姿も自分は生涯忘れることはないのだろう。
これは、自分の届かなかった真実。触れることのできなかった彼
女の残滓なのだ。
エリクはクレステアの体内を中心として、魔力を注ぎ構成を組み
上げる。生きた魔法士にこのような魔法をかけても生来の魔力が反
発してうまくいかないが、今の彼女には本人の魔力がない。むしろ
内部に淀む禁呪の澱を対象として、彼は火を伴う昇華の構成を仕掛
けた。
暴れる彼女の腕と肩を掴んで押さえつける。これ以上力を込めて
は折ってしまうかもしれない。それは少しだけ嫌だった。
構成を完成させるとエリクは軽く息をつく。あとは魔力を通せば
だがその時、新たな声が庭に響いた。
終わりだ。ラルスを見やると王は頷く。
︱︱︱︱
﹁あれ、エリク?﹂
場の誰もが予想していなかったであろう声。その声に三人の視線
が集中した。
いつの間にこんなところまで来たのか、そこには雫がハーヴの上
着を抱えて立っている。クレステアを捕らえたままのエリクはさす
がに目を丸くした。
﹁やぁ、久しぶり﹂
﹁久しぶりです! 元気そうでよかった⋮⋮って何か不味いところ
に来ちゃいましたか﹂
﹁どうだろう。でも危ないから中にいて欲しかったな﹂
雫はクレステアを見てそれが死体だと分かったのだろう。顔を少
し強張らせた後﹁すみません﹂と頭を下げた。
﹁あの、ハーヴさんに上着を返そうと思って﹂
638
﹁いつでもよかったのに﹂
男物の上着を綺麗に畳んで持つ雫は、夜着の上に魔法士のローブ
を羽織っていた。何処かで転んだのかローブの裾は薄汚れて擦り切
れている。
彼女は少し躊躇したものの、エリクの隣にいるハーヴに駆け寄っ
た。上着を渡そうとして、しかし襟首を後ろから掴まれる。
﹁邪魔をするな。ちょっと離れてろ﹂
﹁放してください、王様!﹂
﹁邪魔娘が騒ぐな。目を閉じて耳を塞いでろ。むしろ気絶しろ﹂
﹁無茶なこと言うな!﹂
ラルスが手を放すと雫は畳んだ上着の中に手を差し入れた。何気
なく彼女を見やったエリクは、黒い瞳と目が合う。
それは、月光を映さない沈むような目だ。意思のない人形の目。
彼女のものでありながら彼女のものでは決してない目を見て、彼
は瞬時におおよそを悟った。クレステアを掴んでいた手を放す。
雫は上着の中から手を抜いた。小さな手は鈍く光る短剣を握って
いる。ラルスには死角になっていて見えない。彼女は舞うように振
り返った。
﹁雫!﹂
彼女の望みは、何であったのか。
応えてやれたのか、拒絶したのか。
罪を選んだのは、誰だったのか。
けれど全てはもう、終わってしまったこと。
短剣が突き出される。
ラルスはだが、それをすんでのところで払った。短剣を叩き落さ
れ雫はよろめく。
王の手が剣の柄にかかる。エリクは彼女の肩を掴んだ。クレステ
アが逆方向に走り出す。
639
混乱が支配した一瞬。
それを終わらせる斬撃が雫の頭上に振りかかる。
容赦ない一撃に、しかしエリクは彼女の体を押し退けた。白刃の
下に割り込む。
アカーシアは止まらない。ハーヴは王に向って踏み出す。だが、
それも間に合わない。
鮮血が予想された結末。
しかし、明るい夜空に響いたのは⋮⋮剣同士がぶつかりあう金属
音だった。
﹁やるな﹂
ラルスは短く言って剣を構え直した。護身用の突剣で王の攻撃を
受けた魔法士を見下ろす。
エリクは剣を持つ自分の手に一瞬目を落としたが、それを収める
ことはせず改めて柄を握り直した。
﹁だが、次は斬り捨てるぞ。退け﹂
﹁お断りします﹂
﹁罪人に殉じるか? そしてお前はまた自分を捨てるのか﹂
﹁自分を捨てたことはありませんし、自分に罪がないと思ったこと
もありません。今の彼女は精神魔法をかけられている。治療をしま
す﹂
クレステアの姿は既に見えない。何処かへ逃げ出してしまったの
だろう。
草の上に座り込んだ雫が、光のない目でエリクを見上げた。
﹁いいよ、殺して﹂
操られた少女の言葉にエリクは顔を歪める。苦痛を思わせる友の
表情にハーヴは息を飲んだ。王は冷然と二人を見据える。
けれどまだ今は、終わってしまってはいないことだ。いくらでも
640
変えられる道行きだ。
雫は頭が痛むのか両手でこめかみを押さえた。その体を、剣を手
離したエリクが抱き上げる。
﹁エリク、私、殺して、って﹂
﹁殺さない﹂
少女は苦しそうにかぶりを振った。小さな頭に彼は自分の額を触
れさせる。
﹁大丈夫。少し眠って﹂
ハーヴからもらった魔力がまだ少し残っている。それを使ってエ
リクは眠りの術をかけた。雫の瞼がゆっくりと下り始める。彼女は
最後に小さく囁いた。
﹁死にたくないよ﹂
それが本当の言葉だと、彼は分かる。言われなくとも分かってい
る。
だからエリクは少女の体を抱き直すと、﹁知ってるよ﹂とだけ呟
いた。
遠くで何かがあったのか、静寂を破り人々の叫ぶ声が聞こえる。
ラルスは一瞬視線をその方角に彷徨わせたが、すぐにエリクの上
へと戻した。意識を失った少女を抱き上げる魔法士に、王は冷徹な
視線を向ける。彼は王剣を抜いたまま一歩を踏み出した。
﹁それを殺させるか共に死ぬか、好きな方を選べ﹂
﹁どちらもお断りします。先日お約束したはずですよ。僕にも納得
出来る理由を示さなければ、彼女は殺させないと﹂
雫を塔から飛び降りさせたことを非難したエリクに、それがラル
スの出した譲歩だったのだ。正確にはレウティシアが譲歩させたの
だが。
641
そして王がその条件を飲んだことでエリクは城に雫を預け、自分
は調査に取り掛かった。ファルサスの城が彼女にとって危険とは言
っても、ここがもっとも魔法的な情報の集まっている場所であるこ
とは間違いない。雫が元の世界に戻りたいと思う以上、ファルサス
は避けては通れない要素だろう。
だが、閲覧できる資料は一通り目を通したが、二百四十年前の事
件の真相については掴めず、他に手がかりになりそうなことは何も
なかった。そろそろ本当にこの国を出た方がいいかもしれない、彼
がそう思い始めた矢先の事件が今夜だったのである。
﹁その娘は俺を殺そうとした。これ以上の理由があるか?﹂
﹁散々恨みを買うようなことをしていてよく仰いますね。ですが彼
女はそれくらいで人を殺そうとしたりはしませんよ。精神を弄られ
てあなたを殺すよう命令されたんでしょう。彼女自身の罪ではない﹂
﹁だが危険分子であることは確かだ。処分した方が俺の寝覚めもい
い﹂
﹁彼女をここで殺せば今夜の犯人が分からなくなりますよ﹂
エリクの一言に、王は初めて殺気を僅かに緩めた。顔を斜めにし
て異国の魔法士を見やる。
﹁その娘に術をかけたのが今夜の犯人と同一人物ということか?﹂
﹁まず間違いなく。死体だけ呼び起こしても大した意味はありませ
ん。せいぜい城内が混乱するくらいだ。その間に彼女を操って、あ
なたを殺させることの方が主目的でしょう。彼女に対する日頃のあ
なたの仕打ちは皆が知っていますし、彼女ならば比較的あなたに近
づける﹂
﹁そして死体の方はお前に罪を押し付ければいいと、そういうこと
か﹂
﹁左様で﹂
エリクは腕の中の少女に一瞬視線を落とした。
こんなことなら最初から彼女を置いて自分だけ城に来ればよかっ
642
た、と後悔が頭を過ぎる。そうすれば少なくとも暗殺の道具になど
はされなかった。
権力に近づけば近づく程、人の意志は混沌として絡み合う。それ
を彼は歴史からも己の経験からも知っていたはずなのだ。
しかし、もし本当にそう提案していたとしても雫は首を縦には振
らなかっただろう。彼女は自分の重荷を人に預けることに抵抗を持
つ人間だ。たとえこの世界に来てしまったことが彼女の責ではない
としても、困惑しながらやり場のない荷を自分の背に負う。そうし
て迷いつつも次を模索していくのが雫という人間なのだ。
ラルスは月に冴える剣を手元で軽く返す。刃の鋭さを確かめる視
線のままエリクに問うた。
﹁だがお前が言うのも可能性の一つでしかないのではないか? 例
えばそう思わせてお前とその娘が首謀者ということもあり得るしな。
それならば全ての可能性を潰した方がすっきりするだろう﹂
﹁そして、行き着くところは粛清の嵐ですか?﹂
苛烈とも言える返答。しかしラルスはそれを鼻で笑った。二人に
向けて剣を構えようと腕を上げる。
だが、次の瞬間王は後ろから激しく蹴られて体勢を崩した。たた
らを踏んで振り返る。
そこにはいつの間にか、転移によってやってきた魔法士の女が立
っていた。
﹁⋮⋮何するんだ、レティ﹂
﹁何するんだはこちらの台詞ですよ、馬鹿兄上! 死体の回収放り
出して何をなさっているのですか? 何故その娘をまた苛めている
のです!﹂
﹁あっちが悪い。俺悪くない﹂
子供のような返しに、王妹はまた細い脚を蹴り上げる。ラルスは
643
それを手で受け止めた。
﹁大体何でここにいるんだレティ。夜更かしは肌に悪いぞ﹂
﹁ディスラル廃王がどうにも出来ない上に兄上が戻って来ないって、
アズリアが泣きついてきたのですよ! いつの間にかエリクもいな
いし慌てて来てみれば⋮⋮その娘についてはもういいって仰ったで
しょう!﹂
﹁言ったというかお前に言わされたというか﹂
﹁仕事なさい!﹂
畳み掛けるように怒る妹にラルスはどう見てもふてくされた顔に
なった。剣を収めるとエリクに向って手を振る。
﹁仕方ない。今日のところはこれくらいにしといてやる。それより、
クレステアはきちんと処理してこい。それが見逃す条件だ﹂
﹁分かりました﹂
エリクは雫の体をハーヴに預ける。同時にラルスも妹に引っ張ら
れその場から姿を消した。
途端に静けさが戻る夜の下、エリクは草の上に光る短い突剣を拾
い上げる。今まで息を飲んで事態の推移を見守っていたハーヴは、
気遣わしげな声を友人にかけた。
﹁大丈夫か?﹂
﹁平気。先戻ってて﹂
闇の中に消えていった女の亡骸を追って、男の姿もまた庭の影に
没する。
何度も振り返りながら城の中に戻ったハーヴは十五分後、廊下の
窓から庭に上がる火を見つけて、やりきれなさに両目を閉じたのだ
った。
※ ※ ※
644
夢の中で眠る。
本を枕にして彼女は眠る。
今はどの本も開かない。隠された歴史を覗かない。
夢の中で彼女は眠る。
それは忘却の忘却を促す閉ざされた檻だった。
雫が目覚めた時、枕元では膝にメアを乗せたエリクが本を読んで
いた。よくよく目を擦って彼の存在を確かめた後、彼女は慌てて飛
び起きる。
﹁エリク! 久しぶりです!﹂
﹁⋮⋮やっぱり覚えてないんだ﹂
﹁え、何が?﹂
疑問符を浮かべて首を傾げる少女に、男は苦笑して﹁久しぶり﹂
と返した。その表情がとても懐かしいものに思えて彼女は心から安
堵する。
今までずっと気を張り続けて疲れていたのだ。弱みを見せないよ
う、疑われないように必死だった。だがそれも、彼が隣にいる今で
は不思議と遠いものに思える。ようやく得られた安心出来る空気に、
雫はほっと息を吐いた。
﹁労働は終わったんですか⋮⋮ってあれ、ここ何処ですか。ひょっ
として今までのことって夢?﹂
﹁何処までが今までを指しているのかは分からないけど、ここは城
の治療室﹂
﹁治療?﹂
﹁治療。君、精神魔法の侵蝕を受けてたんだよ。誰にやられたか覚
えてる?﹂
エリクの問いは答を知りたがっているというよりは、単なる確認
645
のように聞こえた。
聞きなれぬ単語を受けて雫は眉を寄せる。何だかすっきりしない
が、彼がそう言うなら何かがあったのだろう。眠りに落ちる前の記
憶を手繰り寄せようと目を閉じた彼女は、しばらくしてようやく昨
晩の記憶に思い当たった。
﹁あれ⋮⋮そう言えば⋮⋮庭を骸骨が歩いてて﹂
﹁そうそう﹂
﹁で⋮⋮王様のお母さんと会って、部屋に戻って⋮⋮。︱︱︱︱
ああああああああ! あの小悪党!﹂
拉致されたことを思い出した雫は、寝台の上に立ち上がらんばか
りの勢いで拳を握った。そう言えば確かに﹁精神魔法をかけてやる
ぞ﹂とか何とか言われていたのだ。腹立たしさに体温までもが上が
ってくる。
﹁む、むかつく! むかつく! あいつ今何処ですか! ディルギ
ュイ!﹂
﹁はい正解。ディルギュイなら今軟禁中だ。調書が取れなくて困っ
てるらしいけど﹂
エリクは本の上に紙を置いて何事かをメモした。筆記体に似た走
り書きの為、雫には単語も分からない。
だがそれよりも彼女は、自分の精神を捻じ曲げようとした魔法士
への怒りに突き動かされていた。掛布を跳ね除け寝台を下りる。
﹁おのれ、言い逃れでもしてるんですか、あのおでこ禿げ! ちょ
っと行って文句言ってきます!﹂
﹁言っても聞こえないよ。ディルギュイは精神崩壊してる﹂
﹁勝手に崩壊!? ⋮⋮⋮⋮って何でですか﹂
いつでも低温なエリクの補足に、扉に向けて走り出しかけていた
雫は足を止めた。ようやく冷静になって彼を振り返る。椅子の背も
たれによりかかった彼は少し疲れているようにも見えた。整った顔
に差す翳を雫は注視する。記憶がない間に何が起こっていたのだろ
う。窓の外はすっかり明るくなっていた。
646
﹁ディルギュイは、多分君に術をかけた時に失敗したんじゃないか
な。逆に自分の精神が崩壊したみたいだ。今回の犯人の有力候補だ
けどまったく証言が取れない。だから、君が起きたら代わりに証言
が欲しいんだって﹂
きょとんとしている彼女にエリクは肩を竦めると、よく雫がやる
ように手の中のペンをくるくると回して見せたのだった。
城の人間が死体を全て回収し終わった頃には、すっかり空は白み
始めていた。
彼が自分の
そしてその処理に王が追われている間、レウティシアはハーヴの
報告のもと雫を治療しながらディルギュイを探させ、
研究室で座り込んでいるところを発見したのだ。その時には既に精
神崩壊を起こしていたディルギュイは、一人ぶつぶつと何事かを呟
いていたが、それはもはや意味のある単語ではなかった。けれど彼
の部屋に雫の使い魔が捕らえられていたことと、雫にかけられた構
成の癖から、少なくとも彼女を拉致したのはディルギュイであると
レウティシアは断じたのである。
﹁でもね、死体を起こした禁呪の方は、知識的にディルギュイの単
独ではないと考えているの。彼は禁呪の閲覧資格を持っていなかっ
たし、ファルサスの城都から出たことのない人間だから。最近ディ
ルギュイは頻繁に城下町に出かけていたようだし、誰か他国の人間
が彼を使嗾したのではないかと疑ってるわ﹂
﹁あ、そう言えばファルサスを出てくって言ってましたよ﹂
連絡を受けてやって来たレウティシアは、エリクと交代で彼女の
体調を診た後、簡単に事件の説明をしてしまうと雫からの情報を求
めた。
まだ何処か痛む頭を引っくり返して雫はそれに応える。
﹁出て、何処に行くか言っていた?﹂
647
﹁それは⋮⋮言ってなかったと、思います。でも様子からいって、
もっと自分の力を生かせるところに行くとか、出世出来るところに
行くとか、そんな感じでした﹂
﹁そう⋮⋮。ありがとう﹂
レウティシアは難しい顔で考え込みながら、後ろで調書を取って
いた魔法士を振り返る。雫の知らぬその魔法士は、調書を王妹に差
し出した。彼女は一通り目を通すと頷く。
﹁また聞きに来るかもしれないわ。何度も面倒をかけるけれど﹂
﹁とんでもない! 私も治してもらったりしてますし、協力させて
ください。むしろ記憶が曖昧ですみません。どうやって部屋を出た
か覚えてなくて⋮⋮﹂
﹁それは仕方ないわ。精神魔法ってそういうものだから。こちらこ
そうちの馬鹿兄がしつこくて、本当に御免なさい﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
まさか身内が﹁馬鹿﹂と言ったからと言って、家族の前でその尻
馬に乗って悪言を並べ立てるわけにはいかない。雫は色々思うとこ
ろはあったものの、昨晩の記憶がないこともあって視線と共に話題
を逸らした。
﹁カンデラのお仕事は終わったんですか?﹂
﹁大体ね。これからはもっとこちらにいられるから、何かあったら
言ってね﹂
レウティシアは美しい笑顔を見せながら部下を伴って部屋を出て
行く。その後姿を彼女はすっきりしない頭を振って見送ったのだっ
た。
王妹がいなくなってまもなく、入れ違いになるようにしてエリク
が戻ってきた。
彼は出て行った時とは違い今は本を持っていない。代わりにお茶
のポットと菓子袋を手に持っていた。
648
﹁終わった?﹂
﹁とりあえずは。また何か聞くかもって言ってましたけど﹂
﹁しばらくはごたつくだろうね。遺体の復元もあるし大変そうだ﹂
二人はテーブルを簡単に片付けるとエリクの持ってきたお茶を飲
み始めた。何だか食欲のない雫は、温かい飲み物に人心地をつける
とエリクに向って頭を下げる。
﹁何ていうか⋮⋮私を連れてきてくださったばっかりに面倒ごとに
巻き込んですみません﹂
昨夜のことはよく分からないが、エリクは無断で動いたとのこと
でそれなりに怒られたらしい。他にもディルギュイに罪状を押し付
けられそうになったことや強制労働のこと、そもそも過去に何かあ
ったらしい場所に彼をつきあわせてしまったこともあり、まさに雫
は彼に対して頭の上がらない思いを抱いていた。
しかし、テーブルに額をつけて謝る少女に、当の本人は苦笑した
だけった。彼女の顔を上げさせると焼き菓子を勧める。
﹁別に僕が選んだことだし不平はないけどな。それに、君にはここ
に来る切っ掛けをもらってありがたいと思ってる。多分あのままだ
ったら僕は一生この国に戻ってこなかっただろうしね﹂
﹁そ⋮⋮うなんですか?﹂
﹁うん。僕の昔の話って誰かから聞いた?﹂
答えにくい問いに雫は﹁ぐ﹂と詰まった。それは明らかな肯定で
あり、エリクは驚く風もない。
﹁気にすることないよ。ほとんどの人間が知ってることだから。む
しろ今まで黙ってて悪かった﹂
﹁そ、そんなことは。私だって昔のこと全部話してるわけじゃない
ですし﹂
興味があるからと言って、何処までも踏み込んでいいわけではな
いことを雫は知っている。
ディルギュイには﹁聞きたかったら自分で聞く﹂と言ったが、あ
れはあの場だからそう返しただけで、実際エリクから本当のことを
649
聞きだそうとは彼女は思っていなかった。
もそもそと焼き菓子を口にし始める雫を魔法士の男は眺める。
何処か落ちつかなそうな不安を表情に漂わせる少女の貌は、彼に
四年の年月が過ぎ去ったことを実感させるものだった。
久しぶりに会ったエリクは、普段と変わらないながらも何処かい
つもとは違うようにも感じられた。その﹁何処か﹂分からなくて、
雫は彼の横顔を見つめたまま首を傾ぐ。
窓の外を見ていた男は彼女の視線に気づいたのか、急に視線を動
かした。目が合ってしまったことにより雫は居心地の悪さでむせそ
うになる。
﹁どうしたの﹂
﹁な、何でも﹂
まさか﹁何か変なので凝視してました﹂などとは言えない。咳き
込みながら誤魔化す雫にエリクはしばらく呆れた目を送っていたが、
気分を切り替えるように指でテーブルを叩いた。
彼女の注意を引いてしまうと、彼は微苦笑に似た表情を作る。
﹁ちょっと⋮⋮君には本当のことを話しておこうかな﹂
﹁何の、ですか﹂
﹁昔、僕を雇っていた子のこと﹂
その彼女の名を雫は知っている。カティリアーナと呼ばれていた
王族の少女。今はもういない人間の名だ。
雫はエリクの藍色の目を見返すと黙って頷いた。彼は少しだけ微
笑む。
﹁彼女はね、一言で言えば危なっかしい子だった。要領が悪くて、
そのくせ人に上手く頼ることも出来ない。いつもそわそわと不安そ
うにしてた。人の気持ちを読み取ろうとして挙動不審になったりね﹂
何だか半分くらいは耳が痛い気もする。雫はそう思ったものの声
に出しては相槌を打たなかった。黙ってエリクの話に耳を傾ける。
650
﹁彼女が僕を雇ったのもほんの偶然だったと思う。当時は年が同じ
くらいだったから、気安かったんだろう。僕は僕で、彼女が便宜を
はかってくれたことで勉強の幅がかなり広がって、それが嬉しかっ
た。彼女のことも家に残してきた妹がいたらこんな感じかなって思
ってたな﹂
エリクとカティリアーナの間には当時色々と下卑た噂が立ってい
たという。雫はディルギュイからそれを聞いていたが、何だか彼の
イメージと合わないなと思っただけだった。
﹁ファルサスでは三年ちょっと勉強した。それは本当に身になるも
のだったし、僕には自信もついた。けど、勉強や特殊な仕事に夢中
になっているうちに、僕は少しずつ必要以上には彼女に構わなくな
っていったんだ。他に親しい人間も多くなかった彼女は、それが淋
しかったらしい。でもその時僕は彼女の気持ちに気づいていなかっ
たし、彼女もはっきりとは言えなかった﹂
それが家族間の愛情がゆえだとしたら、雫にも少し気持ちが分か
る。姉が高校に入ったばかりの頃、彼女の興味の対象が家から学校
へと移り、淋しい思いをしたことがあるのだ。
雫が頷くと、エリクは微笑したまま目を細めた。彼は見えないも
のを見るかのように、部屋の中、視線を彷徨わせる。
﹁カティリアーナ⋮⋮彼女は、次第に城に来なくなって、代わりに
屋敷に閉じこもるようになった。僕について来ると護衛をさせなき
ゃいけなかったり、馬鹿な質問をして勉強の邪魔になるからって言
ってたね﹂
﹁護衛、ですか?﹂
何だかそぐわない言葉に雫が聞き返すと、エリクはばつの悪い顔
になる。
﹁カティリアーナは王族だったし、人見知りだったからね。自然と
いつも一緒にいる僕が護衛を兼ねなきゃいけなかったんだよ。でも
戦闘系の魔法はほとんど使えないから剣を習った。当時魔法に関係
651
ないことをやったのはそれくらいかな﹂
﹁うわぁ。それで、剣使えるんですか?﹂
﹁かなり苦手だけど。護身程度だ﹂
﹁なるほど⋮⋮知りませんでした﹂
確かに雫が偽の花嫁として拉致され、追って来たネイと相対する
羽目になった時に彼は似たようなことを言っていたのだ。普段は剣
を持ち出さないことからして、自己申告通り苦手なのだろう。
余計な相槌で話を脱線させてしまった雫は、我に返ると﹁すみま
せん、続けてください﹂と付け足す。エリクは首肯するとテーブル
の上に置かれたお茶のカップを眺めた。薄紅色のお茶には今は波紋
の一つもない。
﹁事件が起きたのは三年が過ぎて少し経った頃のことだ。ある日カ
ティリアーナは僕に、魔力量を増やす術があるかどうか聞いてきた
んだ。でもそれは禁呪の一種で、僕はそう説明した。場合によって
は術者が死ぬこともあるってね。でも彼女は具体的な構成を聞いて
きた﹂
雫は緊張に唾を飲む。ディルギュイの話が正しければ、その問い
が悲劇の引き金となったのだ。
﹁何でそんなことを聞くのかって思ったけど、妙に真剣だったから
僕は構成を教えてやった。彼女でも出来そうなくらい簡単なものを
考えて﹂
﹁って、簡単なの教えちゃったんですか!?﹂
へ?﹂
﹁うん。ちょうどその時作ってた薬草を育てる構成をね﹂
﹁︱︱︱︱
間の抜けた声を上げる雫にエリクは笑ってみせる。だがそれは、
見た者に喪失を連想させる微苦笑であった。藍色の瞳は方向を転じ
て窓硝子の向こうを眺める。薄青に広がる空を淡い雲がゆっくりと
流れていった。
﹁禁呪と偽って、花を育てる構成を教えた。もし本当にそれをやっ
たのならきつく叱って、その後出来たことを誉めようと思った。怒
652
られても花が咲いたのなら彼女の気も紛れるだろうと思ったんだ。
でも⋮⋮﹂
悲劇の結末を雫は知っている。彼女はその先を思って唇を噛んだ。
﹁でも、彼女が組んだ構成は、本当の禁呪だった。城から帰ってき
た僕はその場に出くわして、驚いた。庭は花が咲くどころか酷い有
様だった。でも彼女は笑って僕に﹃嬉しい?﹄って聞いたんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁その頃の僕は身につけた知識に自信があったこともあって、自分
一人で何でも出来ると思っていた。だから、禁呪によってかなりの
魔力が庭に溢れ出そうとしているのを見ても、何とか出来ると思っ
たんだ。けど、人を犠牲に出来上がった魔法はそんなに甘いものじ
ゃなかった。僕は迂闊にも構成に干渉して、引きずり込まれそうに
なった﹂
今語られているこの話が、彼の見た真実なのだろう。雫は四年の
歳月を置いてそれに触れている。かつての自分をエリクは取り除く
ことの出来ない苦さと共に思い返す。常に自らの後をついて回る影
を、彼は時に振り返って見つめるのだ。
﹁禁呪に飲まれそうになった僕を留めたのはカティリアーナだった。
彼女は生まれた魔力を一つに集めながら、もう一度僕に﹃嬉しい?﹄
と聞いたんだ。僕はそれに﹃嬉しくない﹄と答えた。そうしたら彼
女は、その魔力を自分の身の内に取り込んだ。⋮⋮そして僕に、﹃
殺して﹄と笑った﹂
エリクは細く息を吐き出した。
それだけの間に言葉にはならない複雑な思いが潜んでいる気がし
て、雫の胸はひそやかに痛む。淡々とした主観には、後悔という言
葉だけには留まらない感情がたゆたっていた。それらは話の表面に
いくつも浮かんでは消えていく。
﹁僕はその後、禁呪を取り込んだ彼女を殺して何とか暴走を抑えた。
そして城に行ってあったことを報告したんだ。彼女を殺したと報告
653
して、﹃禁呪を教えたのはお前か?﹄と聞かれたから﹃はい﹄と答
えた﹂
それは雫の知らない話だ。彼女は虚を突かれて口を開く。
﹁本当のことを言わなかったんですか?﹂
﹁うん。正直その時は自分に失望していたから。客観的に見ても王
族を殺したんだ。処刑されるのが妥当だと思った﹂
﹁でもエリクは⋮⋮﹂
﹁そう。罪には問われなかった。でもそれは⋮⋮この城の都合が働
いただけだ。僕にはやっぱり罪があったし、彼女に雇われてこの城
にいたのに、彼女を拒絶してここに居残るのはおかしいと思った。
だから僕はファルサスを出て、元の専門の勉強に戻った。さっきも
言ったけど、君がいなかったらここを訪ねることもなかっただろう﹂
エリクはお茶のカップを手に取る。
半分以上残っている中身は、既に冷めてしまっているようだった。
本当のことを人に話したのは初めて
けれど彼は構わず口をつける。
﹁これでおしまい。︱︱︱︱
だから、何か変な感じだ﹂
そう言ってエリクは笑う。
嬉しそうにはまったく見えないその貌は、けれどほんの少しだけ、
軽くなったように雫には見えたのだった。
﹁人を殺した﹂という告白を聞いても恐怖や嫌悪が沸かないのは、
その時の二人の思いを雫が知り得ないからだろう。
きっと永久に辿りつかない。悲しみにも怒りにも届かない。
傷が塞がった後の感傷を、伝え聞く記憶を頼りになぞっていくだ
けだ。
本当のことなど、世界中についた足跡のように人の数だけ溢れて
いる。
654
その一端に触れた彼女は少し先を行く彼の背を見て、また自分の
足で歩き出すのだ。
長い沈黙があったようにも思える。
しかし雫はまるでそれがなかったかのように、透き通った目を男
に向けた。思ったままを口にする。
﹁あの⋮⋮話してくれてありがとうございます﹂
﹁うん。余計なことで御免ね。でも君には知っておいて欲しい気も
したから。僕は罪人で、それは一生拭われることはない。でもこう
多分、この国の色んな人がカティリアーナのことをそれぞれ
なったのは全て僕の責で、今はこの結果に納得してる。そして︱︱
︱︱
違う風に言うと思う。けど、僕からすると今の僕があるのは彼女の
おかげで、それにはずっと感謝してる﹂
﹁はい﹂
それが、彼の本音なのだと雫は分かっている。終わってしまった
ことだからこそ、振り返ることしか出来ないからこそ、記憶を留め、
感謝を忘れないのだと。
神妙に頷く少女を見やってエリクは微笑した。彼は小さなテーブ
ル越しに手を伸ばすと彼女の額を軽く叩く。
﹁あとはまぁ⋮⋮あんまり無理を溜め込まないように。辛かったら
言ってくれると嬉しい﹂
雫は軽く目を瞠った。言葉に詰まると困ったように笑い出す。
エリクはけれど、彼女の反応に苦笑しただけでそれ以上は何も言
わなかった。
柔らかなお茶の香と少女の笑い声は、風に乗って窓の隙間から外
へ出て行く。それは日の光の下散り散りになると、庭に咲く花々の
上へ穏やかに舞い落ちていった。
655
※ ※ ※
広い部屋には焚かれた香の匂いが立ちこめ、一呼吸するごとに頭
の奥が朧になっていくような酩酊を来訪者にもたらす。紅色で統一
された家具、柱や壁に施された装飾は、優美でありながら何処か毒
気を感じさせるものだった。
だがそれら全ては主人である姫の好みに合わせたものであり、彼
女の纏う妖艶で棘のある空気とこの上なく似合っている。
薄絹を肢体に巻きつけ、寝台の上に寝そべる女は、話を聞き終わ
ると扇の下で欠伸をした。彼女は横目で跪く男を見やる。
﹁つまらぬ。失敗した話など聞きたくもない。お前はいつまで経っ
ても愚図だのう?﹂
﹁申し訳ないことでございます。わたくしもいくらか手を貸しはし
たのでございますが⋮⋮﹂
﹁容易にたぶらかされる者は器量もたかが知れている。遊びには時
間をかけねばならぬということであろう﹂
失敗を責めはしたものの、今日の彼女は機嫌がよい。面倒を見て
いる女の腹が順調に膨らみつつあるのが楽しいのだろう。他に妊婦
を知らない彼女はその経過を報告させては子供のようにはしゃいで
いるのだ。
﹁つまらぬつまらぬ。やはりあの子供が生まれねばファルサスは崩
れなかろうて﹂
﹁仰るとおりでございます。ですが、まだそれまで時間があります
れば⋮⋮かの国で面白い者たちを見つけました﹂
﹁どのような?﹂
興味のなさそうな姫の声に、男はファルサスで見つけた二人の人
656
間︱︱︱︱
禁呪の管理者であった男と、王の傍にいる少女につい
て語り始める。
悪意を散りばめたそれらの会話はけれど、この部屋においては他
愛もない遊びの始まりでしかない。そしてまた歴史の記録に残らぬ
一幕は、人々の望む望まないとにかかわらず箱庭を舞台として、ゆ
っくりと開かれていくのだ。
657
隠された手々 001
﹁この城を出ようか﹂
エリクが雫にそう言ったのは、件の事件から一週間後、ようやく
調書が完成した時のことだった。することもなくなったし仕事でも
しようかと思っていた雫は目を丸くする。
﹁出るんですか?﹂
﹁うん。資料はあらかた調べ終わったけどなかったし、ここは危険
だからね﹂
彼は﹁遠くまで連れて来たのにごめん。次はガンドナに行ってみ
よう﹂と隣国である大国の名を挙げた。何でも二百四十年前の事件
が起こった土地は、今はガンドナの領地になっているのだという。
それでなくともこの大陸ではファルサスと並ぶ程歴史のある国だ。
魔法技術も発展しており、資料も多い。次の可能性としては充分だ
ろうと説明を受けた雫は頷いた。
﹁了解しました。⋮⋮けど、出られるでしょうか。レウティシアさ
んはともかく王様が﹂
﹁何とかなるんじゃないかな。あの人もそうそう暇じゃないだろう
し﹂
むしろそうであって欲しい、と思いながら雫は簡単に荷造りをす
る。この世界に来てから幾度となく急な出立をしているので、荷物
はいつでも最小限だ。
だが、二人は準備が終わってもこの日城を出ることはなかった。
その前にラルスとレウティシアの二人から唐突な呼び出しを受けた
のだ。
658
二人が案内された部屋は、城の奥宮にある王族の私的な広間の一
つだった。
そこには既に王族の兄妹が待っており、それぞれが離れて座って
いる。レウティシアは二人に椅子を示して座るよう勧めた。
﹁突然御免なさいね。本当はもっと早くこの場を設けるつもりだっ
たのだけれど、あのような事件があったもので﹂
王妹の苦笑混じりの説明に、雫は事件の起こった日の昼間、ラル
スが﹁明日話がある﹂と言っていたことを思い出す。思えばあの時
の話についてはそれきりになってしまっていた。事件の処理が済ん
で今日ようやくその機会が回ってきたのだろう。
妹から視線で促されたラルスは二人に視線を送る。それは、初め
て謁見した時と同じ、温度を感じさせない王の目であった。
あれが、異世界へ戻
﹁長引かせるのは面倒だ。結論から言おう。お前たちが知りたがっ
ている二百四十年前の事件について︱︱︱︱
る手段として使えるかと言ったら、無理だ﹂
﹁え?﹂
つい声を上げてしまったのは雫の方だが、隣を見るとエリクも目
を丸くしていた。
今までずっと雫を処断したがっていた王は、驚く彼女をじっと凝
視している。まるで見張られているような居心地の悪さは、信用が
得られたわけではないことを彼女にプレッシャーとして伝えてきて
いた。
﹁無理だというのはどういう意味ですか。ファルサスは事件につい
て何処まで知っているのです﹂
﹁ほぼ全部だな。知っているから無理だと分かる﹂
ラルスはエリクの質問に答えると、一旦雫から視線を外した。い
つもの面倒そうな表情に戻ると足を組みなおす。
﹁例の事件はある強力な呪具が原因となって引き起こされていた。
659
そしてそれはあの時壊されている﹂
﹁連続した事件が突然止んだのはそのせいですか﹂
﹁そうだ。それは二つとない呪具だったから、もう使えない﹂
あっさりと出された結論に、力が抜けてしまった雫は椅子の背も
たれによりかかった。
前例のない彼女の来訪、その帰還手段として、やはり前例のない
その事件だけが手がかりだったのだ。にもかかわらず事件の原因と
なった呪具は今はもうないのだという。
これから一体、何を目当てにして何処に行けばいいのか、彼女は
道を見失って目の前が暗くなりかけた。
だが、彼女の同伴者は彼女よりも遥かに冷静だった。エリクは整
った顔を思案に染めながら質問を重ねる。
﹁その呪具の出所は分かりますか?﹂
﹁分かる。が、ファルサスが作ったわけではない﹂
﹁他に類似のものはないのですか﹂
﹁あるらしい。何処にあるのかどんな効果のものなのかは分かって
いないが﹂
何だか霧の中に手を差し込むような問答だ。雫はエリクの横顔を
見ながら息を飲んだ。何処にあるか分からないという他の呪具に、
まだ希望を持ってもいいのだろうか。魔法には世界を渡る法則など
ない。それはエリクから最初に聞いていたことだ。だから彼女は解
明されていない事例に頼るしかなかった。
その謎が明らかになりつつあある今、まだ諦めなくていいのか、
それとも無理なのか判断が出来ない。不安とも期待ともつかぬ思い
が広がっていく。エリクは困った顔をしている雫を一瞬見やって、
王に続けた。
﹁その出所を教えてください﹂
ラルスは青い瞳を細める。すぐに答えないのは答える気がないか
らだろうか。エリクもそう思ったのか質問を変えた。
660
﹁魔女についての記述を改訂したのは何故ですか﹂
﹁容赦ないな﹂
﹁あなたと同じくらいには﹂
分かりきった嫌味にラルスは唇を曲げて笑う。けれど気分を害し
たようには見えなかった。その間にもエリクは追及の手を緩めない。
かつて雫にも語った推測を口にした。
﹁その魔女は、当時のファルサス王姉フィストリアでしたか﹂
﹁違う。だったら途中で改訂などしないさ。最初から書かなかった
はずだ﹂
ラルスの言うことはもっともだ。しかしそれでは﹁何故改訂した
のか﹂が分からない。
不審を拭えない雫が眉を寄せると、王はまた彼女を見据えた。威
何故かは分からない。だが、﹁分からない﹂という不
を伴う視線に雫は気圧される。
︱︱︱︱
安以上に何かが怖い。
今すぐ逃げ出したいような、だが何から逃げればいいのか、まず
それが分からないのだ。
彼女は震える内心を抑え、意思だけで自分を支えると王を睨み返
した。ラルスは軽く眉を上げると彼女に向かって問う。
﹁前にお前に聞いたことがあったな。﹃もし自分が気づかぬうちに
何かに支配され鑑賞されていたらどうする?﹄と﹂
﹁⋮⋮ありましたね﹂
聞かれたのは確か禁呪の事件が起こる直前のことだ。雫は記憶を
なぞりながら頷いた。妙な話だが腹立たしいと、その時は返したの
だ。
﹁今、その通りのことが大陸で起きている、と言ったら信じるか?﹂
﹁え?﹂
﹁今というかもうずっと昔からだな﹂
ラルスは指を組んで膝の上に置く。聞こえない溜息が、そこに零
661
れた気がした。
﹁俺の言ったことはつまり、本当の話だ。この大陸は、誰かの手に
外部者
よって実験場とされている。そして実験用の呪具を送り込み、人間
を弄って記録している世界外の存在たちを称して︱︱︱︱
と呼ぶんだ﹂
王の声は淡々と響く。
しかしその内容は、聞いていた二人の中にすぐには答えられない
衝撃を与え、その場に痺れるような沈黙をもたらしたのだった。
エリクは当然ながら﹁はい、分かりました﹂とは納得しなかった。
詳しい説明を求めてラルスに問う。
﹁世界外存在? 何ですかそれは﹂
﹁世界外は世界外だ。この世界の存在じゃない。その証拠に外部者
の呪具は法則に逆らう力を行使してくる﹂
﹁法則に逆らうとは?﹂
﹁人の複製を作る力、精神を肉体から切り離す力、時間干渉、そし
て人の記憶を現出させる力。どれも人間には実現不可能な、魔法法
則に反する力だ﹂
何だかどれも魔法みたいだ、と雫は思ったが、エリクの険しい表
情を見るだに、この世界でもそれらは異常な力なのだろう。大体二
百四十年前のことも﹁魔法では不可能な事件﹂として教えられたの
だ。魔法では時間を巻き戻すこともできないし、ましてや人の過去
を現実のものにすることなどできないと。
そしてラルスの言う﹁人の記憶を現出させる力﹂があの事件に相
当しているのだとしたら⋮⋮。
﹁では二百四十年前の事件は世界外の存在が関与していたというこ
とですか?﹂
﹁そう。だからその呪具がない今、俺たちにはもうどうにも出来な
い。人が使う魔法ってのは法則ありきのものだからな。⋮⋮だよな
662
?﹂
﹁ええ﹂
兄に話を振られてレウティシアは頷く。魔法士の頂点にいる彼女
がそう言うのだ。世界外存在の揮う力とは余程異質なものなのだろ
う。
頭の半分で納得しながら、けれど雫は同時にもう一つのことに気
づいていた。
何故ラルスが自分を疑い、殺そうとするのか、答はとっくに揃っ
ている。レウティシアはそれを既に教えてくれていたのだ。ただ雫
がその時は理解できなかっただけで。
﹃貴女と同じ、外の世界から来た干渉者がこの世界には存在してい
る。ファルサス王家にはそれらを排除しろという口伝がある﹄
干渉者とは鑑賞者だ。
人の誇りを踏みにじり、世界を箱庭とする観察者。この世界に混
他に異質なものはこの世界には存在していなか
じりこんだ異質な異物。
そして︱︱︱︱
ったのだろう。前例のない来訪者⋮⋮雫が来るまでは、きっと。
﹁つまり私は⋮⋮異世界から来て、おかしな力でこの世界を実験場
にしている存在ではないかと、思われてるんですね?﹂
震える声で彼女は問う。
集まった三人の視線のうちの一つ、静かな戦意を隠そうともしな
い王の目は、何よりも強く彼女の言葉が真であると示していたのだ
った。
とんだ誤解だ、と言いたかったが、自分が難しい立場にあること
は雫にも分かった。この場合﹁そうである﹂という証明よりも﹁そ
うではない﹂と証明することの方が遥かに難しいのだ。
雫は実際この世界においても無力な人間であるが、それを﹁擬態
663
している﹂と言われればそれまでだ。だからこそラルスは今まで、
彼女を肉体的にも精神的にも試そうとしていたのだろう。
だが、﹁おかしなところは何処にもない﹂という結果に彼が納得
していないのは明らかだ。これは一体どうやって切り返せばいいの
か。分からず悩む彼女の肩をエリクは軽く叩いた。彼はラルスに向
かって冷ややかな視線を注ぐ。
﹁馬鹿馬鹿しい。彼女にそのような力がないことはすぐに分かるの
ではないですか? 第一本当にそうだとしたらわざわざこの城に来
る理由がないでしょう。自分の力を使って帰ればよいのですから﹂
﹁と、私も兄上に主張したのだけれど﹂
﹁アカーシアを標的にしてきたということもあり得る。この剣は外
部者の持ち込んだ呪具に唯一対抗出来る剣だからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮だったら濠に突き落とされる前に剣取ろうとしましたけ
ど﹂
ぼそりと呟かれた雫の言葉に、部屋の温度は一気に下がった。主
に、エリクとレウティシアの空気が。
一週間前に彼女を城の濠に突き落とし、﹁何だ、浮いてくるのか﹂
とつまらなそうに言いながら引き上げた男は、その一件を妹には教
えていなかったらしい。おまけに雫の方も誰かに愚痴を吐いては負
けるような気がして黙っていたのだ。
無言で立ち上がろうとするエリクを雫は慌てて引き止める。その
間にレウティシアは兄に対して思い切り怒鳴りつけた。
﹁貴方は! 何を考えてらっしゃるのです!﹂
﹁ちゃんと助けたぞ。生きてるじゃないか﹂
﹁死ななかったからと言って全てが許されるわけではないのですよ
! 人の命を何とお考えですか!﹂
﹁平等ではないと思っているだけだ﹂
ラルスは軽く手を振って妹を抑える。レウティシアが黙ったのは
彼が冗談や言い逃れをしているのではないと分かったからだろう。
不信の目を向ける妹や、氷の視線で睨むエリクではなく、ただ溜息
664
をつきたそうに座している雫に向って、王は口を開いた。
﹁他人よりも家族の方が大事だ。俺は立場上そう公言も出来ないし、
必ずしも行動を伴えるわけではないが、個人としてはそう思ってい
る。そして王としては⋮⋮同程度の能力、性向の人間であれば異国
人よりも自国の人間の方を優先している﹂
兄であり王である彼は、人を平等とは思っていない。平等に扱い
もしない。
雫はラルスが今の話で何を言いたいのかよく分かる。溜息の代わ
りに代弁した。
﹁それは、怪しい異世界の人間よりも、この世界の人間の方を大切
にするということですよね﹂
﹁そうだ。間違っているか?﹂
﹁いいえ﹂
それを間違っていると、彼女には言えない。王として、また﹁異
質を排除する者﹂として当然のことだ。彼にも彼の立場がある。守
るべき者も、見逃せない敵もそこに含まれているのだ。
だが、雫もまた自分を譲ることはできない。
疑わしいからと言って覚えのないことで殺される気はさらさらな
いのだ。つまり、彼と雫はずっと平行線なのだということだろう。
薄々分かってはいたが、のしかかる疲労感に雫は顔を顰めた。帰る
そんな始
為の手がかりが消えたということもあり、これ以上どうすることも
できない行き詰まりに肩が落ちる。
何故自分はこの世界に来てしまったのだろう︱︱︱︱
まりの疑問が今更ながらに脳裏をよぎった。
沈黙を打ち破ったのは、先程までにも増して冷ややかなエリクの
声だった。彼は王族二人に向けて話を戻す。
﹁それで﹃外部者﹄なる世界外存在がいるとして、その呪具が壊さ
れた二百四十年前の事件の情報を隠しているのは何故ですか? 何
665
故魔女の記述を消したのか、先程の質問にお答え頂いていませんが﹂
﹁お前も結構しつこい男だなー。一応ファルサス王家の最重要機密
を話したんだから少しは誤魔化されろ。これじゃ妻になる女は苦労
するだろうな﹂
﹁陛下の妃になられる方ほどではないと思います﹂
何とも言えない嫌味の応酬にレウティシアは頭を抱え、雫は唖然
とした。どうも雫とラルスとは違った意味で、彼ら二人もそりがあ
わないらしい。﹁あうわけないよね⋮⋮﹂と内心で呟く雫をよそに、
今の返しを聞かなかったことにしたらしいラルスは軽く手を振った。
﹁俺はその娘を信用したわけではない。が、まぁ逃げ出さなかった
ことは買っている。だからおまけして教えてやろう。世界外の存在
⋮⋮外部者の呪具に対抗するものが、この世界には二つあるんだ﹂
﹁ファルサス王家を加えて二つ、ですか?﹂
﹁そう。一つはこのアカーシア。で、もう一つが﹃この世界の呪具﹄
だ﹂
また新しいものが出てきた。雫は習性でノートを取りたくなった
が、あいにく何も持ってきていない。後でエリクと議論しながら書
き出そう、そう思って彼女は聞き取りに集中した。
王との応酬を引き受けるエリクは、新たな単語の出現に顔を険し
くする。
﹁この世界の呪具? 何ですかそれは﹂
﹁干渉を拒絶する為に、この世界で生まれた対外部者用の呪具だ。
二百四十年前に外部者の呪具を破壊したのもこれで、やはり法則外
の力を持っている。魔女に関する記述を消したのは、この呪具の使
い手が城に来て事情を伝えていったからだ。それで城は使い手に関
する記述を消した﹂
﹁当時は女性が使い手だったということですね﹂
﹁そんな感じ﹂
﹁六十年前のファルサス内乱に関わった男も、その呪具の使い手で
666
すか?﹂
エリクが王家の封印資料を見た時に疑問に思った存在。それがレ
ウティシアの言うように﹁二百四十年前の事件に関わった存在と同
じ﹂だとしたら、つまり同じ呪具の使い手だという意味だろう。
彼の質問に王妹は微苦笑したが、兄の方は一瞬驚くと、すぐに苦
い顔になった。
﹁お前⋮⋮本当にうるさいな。結婚できないぞ﹂
﹁構いませんよ。それより僕の言っていることは間違っていますか
? アカーシアが王家に継がれているように、その呪具も王家に縁
深い人間が使っている。だから彼らは城に現れるのではないですか
?﹂
﹂
﹁どうだろうな? でも俺は会ったことはないぞ。何処にいるかも
分からなければ連絡の取りようもない。ただ︱︱︱︱
ラルスは雫を見る。
青い瞳にはこの一瞬だけ、敵意も何も見えなかった。
雫が瞠目すると彼は両目を閉じる。
﹁ただ、その呪具の使い手は法則外の力を使える。ということは、
彼らならばお前を何処だか知らんが元の世界に戻せるかもしれんな﹂
﹁え⋮⋮﹂
唐突に自分の上へと戻ってきた話に、雫は虚を突かれた。問う形
に口を開いて王を見つめる。
それはまだ、可能性が残っているということだろうか。諦めずと
もいいということなのか。分かるような分からないような話に、頭
はただ混乱するばかりで、感情を素直に選べない。
戸惑う雫の前でラルスは立ち上がった。仕事に戻る時間なのか、
彼は飾り戸棚に置かれた時計を確認する。
﹁もっとも⋮⋮彼らを見つけられても、外部者と思われて殺害され
る可能性の方が高いと、俺は思うが﹂
静かなだけの声に、しかし浮き足立ちかけていた雫はぞっと背筋
667
を震わせる。自分の目の前にいつの間にか深い底なしの淵が広がっ
ているような、そんな思いに囚われたのだ。
彼女は何も言えずに強張る自分の両手を見下ろす。
それは広い大陸に僅かしかない可能性を掴み取る為には、あまり
にも小さなものに思えたのだった。
レウティシアから﹁今の話は口外無用で﹂と念を押された二人は、
城の部屋に戻るとテーブル越しに向かい合った。
どちらも難しい顔をしているのは聞いた話の内容からして無理も
ないことだろう。お茶を淹れた雫は、エリクにカップを差し出しな
がら口火を切る。
﹁あれって本当に本当の話ですかね⋮⋮﹂
﹁信じ難い。荒唐無稽だよ﹂
彼はお茶に口をつけると、皺が出来た眉間を指でほぐした。
﹁大体僕は、例の事件を調べはじめた時も、何か未発見の法則が絡
んでいるんじゃないかって疑っていたんだよ。だから本当に法則外
の事態だとは思っていなかったし、ましてや世界外存在って何だ﹂
﹁ですよね。私も突然異星人が、とか言われたら驚きますし﹂
雫のたとえ話に男は怪訝な顔をしたが、具体的なことを問うては
こない。彼女はテーブルの上に座るメアに菓子をちぎってあげなが
ら嘆息した。
﹁でもレウティシアさんは嘘ついてるように見えなかったんですよ
ね﹂
﹁まぁね。だから嘘だとしたらあの人ごと騙されてるってことだな﹂
﹁うわ。そうきますか﹂
﹁当然。それに僕は法則外の力っていうものを見てないから半信半
疑だ。でも⋮⋮﹂
二人は目を合わせて微妙な表情になる。彼が何を言いたいのか、
668
勿論雫も分かっているのだ。
﹁でも、私が﹂
﹁そう。君がいる。世界外存在﹂
﹁あっははははは﹂
壊れかけた笑いをもらす雫に彼はこめかみを押さえた。エリクが
悩んでいることをここまで表に出すことは珍しい。珍しいのだが仕
方ないことではあるので、雫は精神を立て直すとバッグからノート
を出して開いた。
﹁ちょっと整理しましょう。まず本当に私が世界外存在かどうか﹂
﹁自分から言い出すとは思わなかった。僕もちょっと思ったけど﹂
﹁いや、私の記憶がおかしくて単なる妄想ってのが、一番すっきり
するオチじゃないですか。なので一応今はここから﹂
納得できないのなら可能性を潰していくしかない。雫は自分につ
いて、という項目をノートに書き出す。
ただこの仮説には大きな問題点が一つあることも分かっていた。
彼女の持ち物のことだ。エリクもそのことに気づいているのか、彼
女のノートを見やりながら指摘する。
﹁記憶だけなら改竄できるけど、文化技術の違う持ち物だしね。本
もみんな印刷物だし﹂
﹁そうなんですよね。百歩譲って本は私の独自文字だとしても、携
帯とか音楽プレイヤーありますから﹂
机の上に置いた機械二つの電源は、今はどちらも切られている。
雫はピアノ曲しか入れていないプレイヤーを指で弾いた。
﹁それってこっちの世界でも作ろうと思えば作れるんだよね? そ
れとも法則外?﹂
﹁多分作れますよ。技術と材料があれば。機械ってみんなそういう
ものですから﹂
しかしこの大陸の何処にもそんなものはない。技術水準が進んで
いるどころではなく、飛びぬけているのだ。
669
雫は次の菓子をメアと半分に分けて口に入れた。
﹁他の可能性としては、君は実は別大陸の人間だった、というもの
がある﹂
﹁わぁ。それいいですね。無難です。交流のない別大陸では実は科
学技術が発展していて、そこからこの大陸を調査する為に、記憶を
改竄した私を送り込んだんですね﹂
﹁僕には充分それも荒唐無稽に聞こえるけど﹂
﹁ファンタジーを楽しんでくださいよ﹂
﹁何それ﹂
棒読みの要求にエリクは苦笑した。先程から雫は目が据わってい
るのだが、それには触れずに彼は自らの仮説の問題点を挙げる。
﹁ただそれだとしたら、あまりにも不自然な箇所が多い。記憶の改
竄が意図的なものだとしたら、この大陸に送り込むには適切な記憶
とは思えないし、事故で迷い込んだのだとしても、そもそも君の記
憶を異世界のものとして作り変えることに何の目的があるのか分か
らない﹂
﹁誰かが改竄したんじゃなくて私が思い込んだのかもしれませんよ。
まさに脳内世界﹂
﹁そうかな。その状態で持ち物と記憶と知識を整合させるのは結構
大変な気がするんだけど。君の持っている本には君の世界について
記述されてるじゃないか﹂
﹁あー⋮⋮そう、言われれば﹂
英語の辞書には勿論、科学技術に関しての単語がかなりの数記さ
れているのだ。それだけではなく歴史や地理についても書かれてい
る。これがそのまま別の大陸の辞書であったとは、それらの点から
考えられない。この仮説を真とするには、雫の記憶も持ち物も全て
意図的な捏造を含んだものでなければ、何処かで綻びがでてしまう
だろう。
しかし、そうだとしてもその意図が分からないのだ。
670
手間をかけて﹁異世界の少女﹂を捏造する目的にはどのようなも
のが考えられるか、悩んでいた雫は段々眩暈がしてきた。
﹁何と言うか⋮⋮これつきつめると頭がおかしくなりそうなんです
けど﹂
﹁自分の全てを疑うという試行は精神力を消耗する。だから、否定
してあげよう。多分この仮定は間違ってる﹂
﹁何でですか?﹂
﹁君、カンデラで負に影響を受けなかったんだろう? 大陸が変わ
っても世界の位階構造まで変わるわけじゃない。世界は共通で、人
間も共通だ。東の大陸の先住民を見ればそれが分かる。だから⋮⋮
別大陸の文化や文明がこちらとまったく異なっていて、なおかつ魔
力を持たない人間ばかりで魔法が存在しない場所だとしても、そこ
の人間が負からまったく影響を受けないということはないんだ。あ
れはこの世界では人間の構成要素の一つだからね﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁だから君は本当に世界外存在なんだと思う。とりあえず自分の記
憶に自信持ってていいんじゃないかな﹂
雫は言われてようやく思い出す。
カンデラにてあの禁呪と相対した時、世界の最下層たる負は彼女
を﹃世界に迷い込んだ棘﹄﹃外から来し者﹄と呼んだのだ。それこ
そが間違いなく彼女の異質を証明する言葉であっただろう。負はこ
の世界全ての床下に広がっているのだから。
彼女は肺の中、淀んでいた空気を吐き出す。両手で前髪をかき上
げ天井を見上げた。
﹁じゃあ、私は本当に異世界人ってことで、いいんですよね﹂
﹁多分。じゃ、次は君と外部者が同じ世界の存在かについて詰めて
みよう﹂
﹁ああああううううううう﹂
次から次へと問題が沸いてくる。
671
結局二人が、﹁雫の世界では、現時点において外部者の呪具のよ
うな技術を実現することは難しい﹂という結論に落ち着き、﹁雫と
外部者は別世界の存在だろう﹂という帰結に至るまでは、それから
一時間もの議論を要したのだった。
﹁頭痛いです﹂
﹁じゃあ小休止﹂
すっかり冷めてしまったお茶を、少女の姿に戻ったメアが淹れ直
してくれる。普段は入れない砂糖球を二つ、お茶の中に入れながら
雫は溜息をついた。
﹁もし外部者の話が本当だとして⋮⋮エリクはどう思います? い
つの間にか実験動物にされてるって﹂
﹁論外だね。虫唾が走る。ラルス王についてはまったく好意的な評
価が出来ないが、ファルサスの口伝で排除を指示されているのも頷
ける﹂
﹁わ、私じゃないですよ!﹂
彼が珍しく感情を露わにして吐き捨てたので、雫は慌てて顔の前
で手を振った。だがエリクは﹁何言ってるの。もう一回最初から詰
めなおす?﹂と言っただけだったので、彼女はありがたく遠慮した。
以前異世界からの技術流入について話した時も、それを嫌がった
彼のことだ。実際のところ、より酷い干渉が起きているという外部
者の話はまさに論外でしかないのだろう。エリクは若干伸びた自分
の髪を苦々しく手でまとめた。
﹁論外ではあるが、外部者が本当に異世界から積極的な干渉をして
いるなら、君にとっては助けになるかもしれない﹂
﹁え。そうなんですか?﹂
﹁だって意図的に世界を渡れるんだろう? 実験の為にこっちに呪
具を送り込んできたっていうなら。それを応用すれば元の世界に帰
672
れるかも﹂
﹁あ、そっか﹂
﹁ただし、彼らの世界に連れて行かれる可能性もある﹂
﹁嫌だああああああああああ﹂
何だかもう泣きたくなってきた。テーブルの上で萎れる雫をメア
は困ったように見上げる。
エリクはよれよれしている彼女のことは放置して、自分のメモ書
きを一瞥した。
﹁とりあえず⋮⋮さっきの話を信じるなら、これからの道は二つか
な﹂
﹁二つ、ですか?﹂
﹁うん。他にあるっていう外部者の呪具を探すか、外部者に対抗す
る呪具の使い手を捜すかのどっちかだ﹂
それは難しい二択だ。
どちらも場所も分からなければどんなものかも分からない。
おまけに前者は効果自体が分からないし、後者は殺される可能性
があるのだ。﹁前門の虎、後門の狼﹂と呟きかけた雫は、何だか違
う気がしてその言葉を飲み込んだ。
﹁どっちがいいんでしょうね。外部者の呪具って見つかっても全然
違う効果だったらどうしようもありませんし。外部者自体はこっち
の世界にいないんですかね﹂
﹁分からない。けど話の感じからして呪具だけを送り込んできてい
るって印象を受けたな﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
雫は手の中でペンをくるくると回してみる。ふと素朴な疑問が浮
かんで、向かいの男を見上げた。
﹁呪具って魔法具とはどう違うんですか?﹂
﹁魔法で作られていない道具が呪具。呪詛が術者の独自定義でかけ
られるところから来てるんだけど、実際は仕組みが何だかよく分か
673
らない道具をまとめてそう言うんだ。ほとんどが何の力もない偽物
だけどね﹂
﹁マジックアイテムより更によく分からないものって凄いですね﹂
﹁魔法は法則があるから﹂
結局何だかよく分からない事態は、何だかよく分からないものに
頼るしかないのだ。雫は腕を組んで考えこむ。
﹁何か途方もないですよね⋮⋮﹂
このまま足掻き続けていていいのだろうか。そんな不安が頭を過
ぎる。
自分一人のことならそれでも構わない。だが、彼女が諦めないと
いうことはエリクにもまた苦労を強いることになるのだ。それより
も諦めて、平穏の中に居場所を求めた方がいいのではないか。
きっと自分はこの世界でも生きていけるだろう。旅をして、少し
ずつ違う場所に馴染んできたのだ。面倒ごとを経て自信もついた。
以前は常にちらついていた、姉妹の間で希薄な自分というものも、
いつの間にかほとんど思い出さなくなっている。
誰かと比べられ続けるというのも苦痛だが、誰とも比べようがな
い異質というのもやはり苦しいものだ。ここまで両極端じゃなくて
もいいのに、とぼやきたくもなるが、折れないよう踏み留まり続け
てきたことは、確実に彼女の中で支えとなっていた。
考えても考えても自分一人では答が出ない。
そんな時、二人であってよかったと安堵する。
でも時に、二人は二人だからこそ言い出せないのではないだろう
か。相手に遠慮して、﹁もうやめよう﹂とは。
﹁やめたい?﹂
﹁うわっ﹂
674
まるで心の中を見透かされたようなタイミングでの声に、雫は飛
び上がった。慌てて取り繕うとエリクを見る。
﹁な、何がですか﹂
﹁いや。もう諦めたいかってこと。それもありだと思うよ。君は充
分頑張ってきたし﹂
彼は決して、根拠のない慰めをかけない。本当のことを言ってく
れるから嬉しくて申し訳ない。
呆れるわけでもなく、気遣うほどでもなく、単に﹁やめるかどう
か﹂だけを尋ねる声。その淡白さがかえって雫を落ち着かせた。彼
女は男の藍色の目を見つめる。
﹁エリクは、これが終わったら何をするつもりなんですか?﹂
﹁別にこれといって予定はないけれど。多分研究﹂
彼は、そうやって時間を費やしていくのだろう。何だかこの先何
十年も本に向っている光景しか想像できなくて、雫は微笑した。
その時間を、少し分けて欲しいと思うのは自分の我侭だ。彼の道
行きは彼だけのものだ。
だから、少なくない罪悪感を抱きながらも彼女は望みを口にする。
﹁もう少し私に付き合ってもらうことって⋮⋮出来ますか?﹂
﹁いいよ。最初からそのつもりだし。君といると色んなことが分か
って面白い﹂
彼は当然のように即答する。
その答を温かい、と思いながら雫は、﹁もし今から一年経っても
結果が出ないのなら、その時は諦めよう﹂と決心したのだった。
675
002
城都の片隅にあるその小さな建物は、内部の大半が、大陸全土の
歴史に関する一般論文を所蔵した書庫となっていた。
歴史を専攻する学者のうち、優秀な人間のほとんどは宮仕えをし
ているが、能力的に、或いは性向的にそうではない人間も割合的に
は半数以上を占めている。そういった無所属の学者たちを含め、多
くの学者が寄稿した論文を編纂し、紀要として発行しているのがこ
の﹁大陸歴史文化研究所﹂なのだ。
大きな国の城都には例外なく支部がある研究所の一室、談話室と
いうにはあまりにも狭い部屋で、ハーヴはお茶を飲みながら野に下
った師の話に相槌を打っていた。
先月諸国を巡る旅から戻ってきたという初老の男は、温められた
息を天井に向けて吐き出す。
﹁それでな、その女が言ったのだ。﹃今はもうない歴史を知りたく
はないか?﹄と﹂
﹁今はもうない歴史? 資料が散逸してしまった暗黒期のことです
か?﹂
﹁私もそう思った。が、どうやら違うらしい。﹃もう起こってもい
ない歴史﹄の話なのだと﹂
何だか雲を掴むような話だ。まるで子供の戯言のような言葉に若
い魔法士は眉を顰める。
﹁起こっていない歴史など歴史ではないでしょう。それは単なる空
想か創作では?﹂
676
﹁と言ったらな、彼女は笑ったのだよ。﹃この大陸は実験場で、私
はその記録が全て記された本を持っている﹄と。 その中には今は
怖くな
もうない⋮⋮消された試行の記録もあると言うんだ。馬鹿馬鹿しい
と私は笑い返したよ。 でも酒が抜けると後から︱︱︱︱
った。彼女はファルサスを含めいくつかの大国の、禁呪に纏わる門
外不出の歴史も知っていたんだ。これが妄想でなかったらどういう
ことだ? 本当にそのような怪しげな本が存在しているのか?﹂
ハーヴは師が差し出した紙片を受け取る。そこには紙いっぱいに
癖の強い走り書きがされており、最後には﹁終わったら処分のこと﹂
と書かれていた。
十年に渡って彼に師事していたハーヴだからこそ読める文字。
それが構成する文章は、過去に起きたファルサスの禁呪の絡みの
事件について、いくつかの真相を事細かに述べていた。宮廷に仕え
る者たちでさえも知るはずがない、はるか昔の事件に関して、彼は
紙片にざっと目を通して息を飲む。
その一連の記述は﹁ありうるかもしれない﹂という内容ではあっ
たが、彼一人では真偽の判断は出来ない。ハーヴは紙片を﹁友人と
相談してみます﹂と言って懐にしまった。
﹁その問題の本とやらはご覧になったのですか?﹂
﹁外だけだがな。中は見せてくれなかった。革張りの深紅の本で、
金の縁取りがされていた。年代がかっているようにも見えたが、古
さは感じさせない。表紙に触れると何だか息づいているような感触
で、それがひどく⋮⋮気味が悪かった﹂
師はそこでまたお茶のカップを手に取る。
何気なくその手元を見たハーヴは、この時になって初めて、豪胆
で知られていた師の指が小刻みに震えていることに気づき︱︱︱︱
得体の知れないその本に強い興味を抱いたのだった。
外部者の呪具と、外部者に対抗する呪具の使い手、これからどち
677
らを探すかは、話し合いの結果とりあえず保留ということになった。
何も手がかりがない上に、大陸は広い。探す対象を選んでいられ
ないというのがその理由だが、それでもエリクはいくつかのことに
気づいたらしい。
﹁対抗呪具の使い手だけどね。多分複数人いるんじゃないかと思う﹂
﹁複数ですか? それって呪具も複数あるってことでしょうか﹂
﹁そこまでは分からないけど。ラルス王との会話を覚えてる? 僕は呪具の使い手が二百四十年前の人間と六十年前の人間の二人い
ることを指して﹃彼ら﹄と言ったけれど、王はそれに返して﹃彼ら
ならば元の世界に戻せるかも﹄って言ったんだ。ってことはつまり
現時点、そうじゃなくても同時に使い手が二人以上存在することを
彼は知っている。明言を避けたのはやっぱり、過去に王家と繋がり
があったからじゃないかな﹂
出立の日を何となく延期してしまった二人は、それぞれに割り振
られた仕事を終えて、雫の部屋で夕食を共にしていた。女官や兵士
たちが使う大食堂に行かなかったのは話の内容が内容だからである。
持ち込んだ食事を口に運びながら雫は感嘆の声を上げた。
﹁うっわぁ⋮⋮よくそんなことに気づきましたね﹂
﹁違和感を覚えたからね。あと多分、呪具の使い手はそれなりに魔
力が大きい人間じゃないかと思う。二百六十年前の一件では魔女と
誤認されてるくらいだし、六十年前のことにしても王家の精霊を使
役するにはかなりの魔力が必要だ﹂
﹁王家の精霊を使役しているのに王家の人間じゃないんですか?﹂
﹁精霊を使役できるのは本来、直系の魔法士だけなんだけど、その
中に該当する人間がいない。表の資料を見ただけなら隠された出自
の人間じゃないかって思うけど、封印資料にも記載がなかったから
ね。あの時代は王族同士、内部の政争で殺し合いがひどかったし、
二十五年間で死んだ人間は何十人もいるから、その中の誰かってい
う可能性もあるけど。名前まで伏せられているのは異例だ。単に非
678
常事態だったから、誰か直系を媒介にして間接使役という形で精霊
を与えられたんじゃないかな﹂
﹁⋮⋮難しいです﹂
話についていけなそうになった雫は、肉を切る手を止めて相槌を
打った。
エリクはほとんどのことを分かりやすく丁寧に説明してくれるの
だが、たまに一聞くと十返ってくることがある。ゆっくりと議論を
経て進んでいくのなら、それでも何とかついて行けるのだが、知識
の下地がほとんどない事柄について急に情報を与えられても、飲み
込めぬまま思考の海に溺れそうになってしまうのだ。
雫の様子に気づいたエリクは苦笑すると、﹁王家とは縁があるみ
たいだけど、王家から探るのは難しいってこと﹂とまとめる。
その意見は残念だが、動かしがたい事実でもあるだろう。過去の
記録はどうであれ、ラルスもレウティシアも肝心の対抗呪具の使い
手には会ったことがないというのだから。
雫は温かいスープを飲みながら、今までに分かったことを頭の中
で整理した。カップを下ろすと小首を傾ぐ。
﹁つまり、呪具の使い手は凄い魔法士って可能性が高いんですよね。
そういう人を探せばいいということですか?﹂
﹁ご名答﹂
それならばまだ、何だか分からない呪具を探すより探しやすいか
もしれない。雫は何となくリディアの顔を思い浮かべたが、はっき
りしないまま頭を振った。
﹁凄い魔法士ってどうやって分かるんですか? ステータスポイン
トでも見るんですか?﹂
﹁何それ。ある程度なら魔法士同士見れば分かるけど、一定以上に
なるとちょっと僕じゃ分からないな。ましてや封印してあったりし
たらお手上げだ﹂
679
﹁なるほど。でもそれくらいの魔法士ならどっかのお城に勤めたり
してるんじゃないですか?﹂
﹁その可能性も高いとは思う﹂
エリクの返事を聞きながら、けれど雫は何かが記憶の片隅に引っ
かかった気がして眉を寄せた。だがそれが何であるのかは、どうし
ても思い出せない。すっきりしなさに彼女は食事の手を止める。
﹁どうかした?﹂
﹁いえ、何か⋮⋮﹂
何を言えばいいのか、それでもこの思い出せなさを口にしようと
した雫は、だが扉が外から叩かれたことで言葉を切った。
彼女は﹁開いてますよ﹂と声を掛けて待ってみる。すぐに入って
きたのは、やはりすっきりしない表情をしたハーヴだった。
雫がお茶を淹れる為に立ち上がると、彼は﹁邪魔してごめん﹂と
言いつつ、エリクに何かの紙片を差し出す。エリクは紙片を一目見
て顔を顰めた。
﹁何これ。汚い字だね。読みにくい﹂
﹁簡単に読まれちゃ困るんだよ。ちょっとおかしな話で悪いんだが、
ここに書いてあることが本当にあったことか教えて欲しい﹂
﹁うん。分かったから読んで﹂
何か込み入った話なのだろうか。雫は怪訝に思いつつもお湯をも
らいに外へ出る。宿舎となっている建物の端には給湯室があって、
魔法で保温されているお湯がいつでも手に入るのだ。
彼女は中でも熱湯に近い温度で保たれているお湯を選び、自分の
持ってきたポットへと中身を移した。減ってしまった分は水道から
水を注ぎ足しておく。
そして五分後彼女が部屋に戻った時、何故かすっきりしない表情
はハーヴだけではなくついにはエリクにまで伝染していた。
﹁これ、一応上に報告した方がいいと思うよ﹂
680
﹁上って何処に。魔法士長にか?﹂
﹁もっと上。王か王妹に﹂
﹁げ⋮⋮ってことは封印資料なのか?﹂
ハーヴの顔はこれ以上ないくらい引き攣る。それが何故なのか彼
女には分からないが、面倒ごとでも起きたのだろう。雫は黙ってお
茶を出した。
蒼ざめていた魔法士は、彼女に気づいて礼を言う。
﹁封印資料かどうか僕は明言できない。けど、報告した方がいいっ
てことだけは言っとくよ﹂
エリクは立場上、真偽を口にすることはできないのだ。だが報告
を促す言葉こそがまぎれもなくこの情報が真であることを物語って
いる。
ハーヴは信じられないといった面持ちで返された紙片を見た。手
元でそれを元通り畳み掛けて、しかし最後の一項目で引っかかる。
彼は再びメモを開くとエリクにその部分を示した。
﹁でもこれはないだろう? ファルサスとセザルが戦争になったこ
となんてない。おまけに禁呪による負の実体化つきだ。この間のカ
ンデラでの実体化でさえ城の廊下に収まるほどの大きさだったんだ
ろ? 荒野に巨大な負の蛇が現出して死体の軍勢を操ったなんて話、
あったとしたらさすがに隠蔽しきれるはずがない﹂
何だか分からぬハーヴの話ではあったが、雫はカンデラで遭った
蛇を思い出してぞっと身を竦めた。エリクを横目で見やると苦い顔
彼は何故そんな目をして彼女を見てくるのだろう。
をした彼と目が合う。
︱︱︱︱
藍色の瞳に割り切れぬ困惑を見出して、雫はまばたきをした。理
由が分からないまま、しかし彼はふっと視線を逸らす。
﹁僕の知る限りは起こっていないことだ。が、まぁ他のこともある。
681
報告しておくに越したことはないよ﹂
﹁そうか⋮⋮そうだよな。時間取らせて悪かった﹂
﹁いいよ。差し障りがなかったら結果を教えてくれると嬉しい﹂
﹁分かった﹂
ハーヴはお茶を飲み干すと立ち上がる。彼はもう一度雫に礼と詫
びを言うとドアへと向った。ノブに手をかけて二人を振り返る。
﹁一応はっきりするまでこのことは内緒にしておいてくれ。先生に
迷惑がかかりそうだ﹂
﹁平気だよ。言う相手もいないし﹂
﹁悪い。それにしてもぞっとしない話だよな。その女曰く、この大
陸は実験場だってさ?﹂
軽く笑いながら廊下に出て行く男の言葉を、雫とエリクの二人は
顔を見合わせて反芻した。
そのままつい先日聞いたばかりの話と照らし合わせる︱︱︱︱
までもない一致に顔色を変える。
﹁ちょ、ちょっとハーヴさん待って!﹂
﹁え?﹂
廊下を既に十数歩進んでいたハーヴは、追いついたエリクに肩を
掴まれて足を止めた。そして再び有無を言わさぬ勢いで部屋の中へ
と引き摺り戻された彼は、師である学者が何処でその問題の女に会
ったのかを、二人に向って詳しく説明する羽目になったのである。
ハーヴからの伝聞だと、問題の女はファルサスの北、北方大国メ
ディアルの南にある小国ピアザで、彼の師に話しかけてきたらしい。
酒場にいた師の顔を何処で知っていたのか、高名な学者であるこ
とを見抜いた彼女は、彼と一時間程質問や議論を交わした後、問題
の本について切り出してきたという。
﹁本当にそのような本があるとしたら問題ね⋮⋮﹂
682
話を聞き終わったレウティシアは深い溜息をついた。物憂げな青
い瞳がハーヴ、エリク、雫の順で立ち並ぶ一同の上を通り過ぎてい
く。
彼女の背後では執務机に座る王が、まったく顔を上げず手も止め
ないまま書類を処理しているのだが、既にその存在は妹の眼中から
外されているらしい。
レウティシアは長い髪をかき上げてもう一度溜息をつくと、ハー
ヴに師を城に呼んでくるよう命じた。彼が恐縮して出て行くと残る
二人を見やる。
﹁で、貴方たちはどうするのかしら﹂
﹁先にあなたのご意見を伺いたい。その本こそが外部者の呪具であ
るとお考えですか?﹂
エリクに聞き返され、彼女は苦い表情になった。レウティシアは
背後の兄を軽く振り返ったが、まったく反応のない様子に諦めると
口を開く。
﹁断言はできないけれど可能性は高いと思うわ。外部者の呪具は大
抵が実験か記録の性格を持っているというし。ただ私も実際それら
に相対したことがないから、実物を見ても判断できないかもしれな
い。けれど、違うとしても封印資料の中身が洩れていることは大問
題。その本は回収したいと思っています﹂
ハーヴが持ち込んだ紙片に書かれていた内容は、封印資料と禁呪
資料の両方に渡るいくつかの情報だった。
それが一つだけならレウティシアも眉を顰めつつ看過出来たかも
本を持っていたという
しれないが、﹁起こっていないこと﹂である最後の項目を除いて、
全てが極秘情報ではさすがに問題がある。
女が口頭で語った内容は、禁呪についての内容を含めて、そのまま
放置しておくには危険すぎるものだったのだ。
エリクは王妹の答に若干目を細める。そこには普段雫には見せな
683
い鋭さが垣間見えた。
﹁書かれている内容はファルサスに限定されないようですが﹂
﹁悪用するつもりはない、と今言っても仕方ないわね。何を以って
悪用とするかも違うでしょうし。でもそれが外部者の呪具と思える
ものなら破壊するわ。それに⋮⋮その女には別口で聞きたいことも
あるの﹂
﹁別口?﹂
レウティシアは頷きながら執務机に寄りかかる。二人には座るよ
う勧めると、彼女はエリクに視線を送った。
﹁カンデラの禁呪事件⋮⋮貴方に処理をお願いしたのは実際の構成
部分だけだから知らないでしょうけど、あの事件を画策した教祖に
は一人の女がついていたという情報が入ってきているのよ。で、そ
の女は何故か紅い本を肌身離さず持っていた。これって偶然だと思
う?﹂
試すような彼女の視線に雫は息を飲む。
あの一件にも同じ女が関わっていたのだとしたら、それは本当に
ファルサスとしては放置できないところだろう。顔も名前も知らな
い女の意図を掴みかねて、雫は難しい表情になった。その隣でエリ
クが答える。
﹁ですがカンデラの構成と同じものは禁呪資料の中にもありません
でしたよ。似たものならありますが﹂
﹁その二人が同じ女で、彼女の言う本の性質を信じるのなら、問題
の構成は他国の禁呪資料か、或いは今はもう散逸した資料⋮⋮それ
か、もしかしたら﹃消された試行﹄から借用したのかもしれないわ﹂
消された試行、と言った時、レウティシアの表情は不愉快げに歪
んだ。それを聞いたエリクの顔も同様である。
もし本当にそんな試みが存在したのなら、それはこの大陸に生き
る人間にとって屈辱以外の何ものでもないだろう。雫も元の世界に
いた頃は時々、﹁人類はかつて今以上に高度な文明を持っていたが、
684
という風説を聞くことがあった。
何かによって滅亡してしまった後、もう一度ここまでやりなおした
のだ﹂
外部の何者かが実
だがそれも人類が自らのミスや自然災害によって滅んだとされる
からこそ興味深い仮説だと思えたのであって、
験を繰り返すかのように世界を弄ったのだとしたら、やはり彼女も
不快に思っただろう。雫は我知らず両手を強く握った。
﹁ファルサスはその女と本を捕捉するわ。結果が出るまで貴方たち
はこの城にいてもいいけれど﹂
﹁いえ。自分たちで探しに行きます﹂
きっぱりとしたエリクの返事はファルサスを信用していないこと
を意味するのか、頼りたくないと思っているのかのどちらかだろう。
そしてそれは雫も同感だった。
待っていた方が結果的にはいいのだとしても、それでは誰かの手
によって本が自分の手元に届くまで、どうすることもできないのだ。
届けられてから、或いは遠くで損なわれてしまってから﹁違う﹂と
不平を叫んでも仕方ない。であれば自分で行くのが筋というものだ
ろう。
頷く雫を目にしてレウティシアは苦笑した。
﹁なら貴方たちをファルサスからの使者にして、権限を与えましょ
うか﹂
制限資料に関する貴方
﹁不要です。僕たちはファルサスの人間ではありませんから。出国
の許可だけを頂きたい﹂
﹁分かったわ。手配しましょう。︱︱︱︱
の記憶も、今回の捜索が終わるまでは貴方のものとしておくわ。全
てが終わったら一度城に戻って来なさい﹂
王妹の声には、普段は感じ取れない傲岸さがありありと表れてい
た。雫はそのことに少し驚いて、釈然としなさに眉を曇らせる。
エリクに機密書類を整理させたのは彼女なのだ。なのにその記憶
685
を操作することを当然のことと思っている態度には釈然としない。
たとえ王家の情報を洩らさぬことが第一なのだと言っても、それは
行き過ぎた傲慢にしか思えないのだ。
王家の秘密がどれ程のものか、と表情で語りかけた雫はけれど、
エリクに膝を軽く叩かれ、慌てて目を伏せた。
﹁一般資料の整理が途中ですから、それを終えてから⋮⋮明後日に
は城を出ます﹂
﹁相変わらず変なところで律儀ね。分かったわ﹂
雫とエリクは王妹に軽く礼をして執務室を立ち去りかける。その
時背後からこの日初めて王の声がかかった。
﹁見つけたならその本の在り処は教えろ。壊しに行く﹂
﹁彼女の帰還に関して用済みになった時、でよろしいのなら﹂
﹁構わん。むしろさっさと帰れ。ぐずぐずしていて俺が追いついた
ら殺してしまうぞ﹂
エリクは冷ややかな目をしただけで答えず、ただ雫の背を廊下へ
と押し出した。扉を閉める直前、ラルスの声が雫に届く。
﹁お前の給金はその男に渡しておくからな。無駄遣いするなよ﹂
無駄遣いなんかしたことない、という反論は雫の心中でのみ為さ
れ、結局その後も言う機会は訪れなかった。
扉が音もなく閉まってからしばらく、きりのいいところまで仕事
を終えたラルスは顔を上げた。机によりかかる妹を頬杖をついて見
上げる。
﹁⋮⋮つまらん﹂
﹁残って欲しいのなら優しくすればよかったのですよ。今更どの口
が不満を言うのです﹂
﹁別に残って欲しいわけじゃないぞ﹂
雫が来て以来、長らく食べていなかった人参を幾度となく口にす
686
ることになった男は白々と言い捨てた。逆に嫌味を言ってきた妹を
揶揄する。
﹁お前もまた優秀な魔法士を逃がしたな﹂
﹁才ある者には己の居場所を選ぶ権利がありますから。そんなこと
より兄上も遊んでばかりいないで、いい加減ご結婚なさってくださ
いね。私が他国に嫁いだらどうするのです。一人ぼっちですよ﹂
﹁そうしたらその国を併呑するさ。ばっちり﹂
﹁怒りますよ。この駄目兄上﹂
レウティシアの非難にも顔色を変えず王は再びペンを取る。
それは多忙の中に落とされた、束の間の空白だった。
﹁ピアザってどんな国なんですか? 北ってことは涼しいですか?﹂
﹁ファルサスよりは涼しいと思う。僕は行ったことないけど﹂
執務室を辞して中庭の芝の上に座り込んだ二人は、広げた地図を
見ながら数日後の旅の計画を立てていた。ようやくこの暑さから逃
れられるらしいと分かった雫は、小さくガッツポーズをする。エリ
クはそれに気づかない振りをして、地図上を指差した。
﹁今回は転移陣の許可を取れると思うから、直接ピアザに行けるよ。
ハーヴが戻ってきたら詳しい場所を確認しよう﹂
﹁了解です﹂
雫は髪を上げていたスカーフを一旦解く。大分伸びた黒髪はそろ
そろ背の半ばに届こうかという長さだ。この世界に来てから半年近
く、一度も髪を切っていないのだから仕方ない。雫は紐を使って髪
を束ね直すとスカーフを戻そうとした。
だが、不意に強い風が吹き、彼女の手元から薄布は舞い上がる。
慌てて掴もうとした雫の手をすり抜けてスカーフは飛んでいくと、
植え込みの向こうに消え去った。数秒遅れて火のついたような泣き
687
声が聞こえる。
﹁あれ?﹂
﹁何だろ。子供の声だね﹂
二人は地図を畳みながら立ち上がると植え込みの裏側を覗き込ん
だ。見るとそこには草の上、三歳くらいの女の子が転がって泣いて
いる。
顔にスカーフを張り付かせばたばたと暴れる子供に、雫は血相を
変えると植え込みを飛び越えた。スカーフを取り払うと子供を抱き
上げる。
﹁ご、ごめんね。お姉ちゃんが悪い﹂
一応謝ってはみたものの子供が泣き止む気配はない。むしろ大き
くなってしまった泣き声に雫は困り果てた。片手でポケットを探っ
てみる。
だが、中から出てきたのはペンと何も書いていないメモ用紙の束
くらいだ。
雫はしゃくりあげる女の子を下ろすと﹁ほら、これ見て﹂と小さ
なメモ用紙を一枚取って折り始める。彼女の指が何度かメモ用紙を
折り、小さな鶴を作り上げた頃ようやく女の子は泣き止んだ。むし
ろ興味津々といった目で鶴に手を伸ばしてくる。
雫は小さな手に折鶴を渡してしまうと、涙に濡れた顔をハンカチ
で拭いてやった。それを見てエリクが感心したように呟く。
﹁君、面白いもの作れるんだね。紙で鳥を模してるの?﹂
﹁折鶴ですよ。鶴っていないんですか? こっち﹂
﹁ツル? 知らない。鳥の名前か﹂
どうやらこの世界には鶴はいないらしい。雫は﹁そうなんです﹂
と言いながら、他にも何かが欲しいと催促してくる女の子の前に座
り込んだ。折り紙はそれほど種類を知らないので、代わりとしてメ
モ帳に絵を描き始める。
﹁そう言えばこの世界ってシマウマとかキリンっていないんですか
688
?﹂
それは旅を始めてまもなく、出会った子供との遊びの中で疑問に
思ったことだ。雫の隣に座ったエリクは首を傾げる。
﹁何それ。それも鳥?﹂
﹁違います。縞がある馬と斑点がある首長動物です﹂
﹁縞がある馬? 凄いな。見てみたい﹂
﹁こーんなですよ、こんな﹂
雫が馬の絵に縞を書き込むと、エリクと女の子の二人はそれぞれ
目を丸くした。女の子は少し間を置いて﹁ねこ!﹂と声を上げる。
﹁あー、トラネコに見えるのかな。違うよ、シマウマ﹂
存在しない動物を教えていいのだろうか、とも思ったが、子供は
絵を気に入ったようだった。シマウマを指差してしきりに﹁ねこ、
ねこ﹂と騒ぐ。
雫は笑いを堪えながら試しに縞のない馬の絵を描いてやった。﹁
これは?﹂と聞くとやはり﹁ねこ!﹂と返ってくる。
半分くらいは予想していたが、雫は間違ったすりこみを見て堪え
きれず爆笑してしまった。腹を抱えて笑いながらエリクを見やる。
﹁あっはは。可愛いですよ、ほら﹂
﹁何でそんなに笑えるのか分からない﹂
﹁素直なところが可愛いじゃないですか。あー⋮⋮ごめんね。猫は
こっち﹂
新しく猫の絵を描いてやると、女の子は首を傾げて﹁ねこ?﹂と
聞いてきた。雫は笑って首肯する。
﹁こっちは馬、これが猫﹂
﹁ねこ?﹂
﹁おうま、と、ねこ。おうまは首が長いでしょ?﹂
﹁うま!﹂
﹁そうそう。よく出来ました!﹂
誤解を解いて満足すると雫は大きく伸びをした。改めて周囲に母
親か誰かがいないか見回してみるが、他に人の姿は見えない。
689
﹁あれ、迷子ですかね。誰かの子供でしょうか﹂
﹁多分違うよ。病気の調査の為に城に集められた子供の一人だと思
う﹂
﹁病気の調査?﹂
ぱっと見たところ何処も悪いところは無いように見えるが、この
子供は何かの病気を患っているのだろうか。心配げに眉を顰めた雫
にエリクは補足してやった。
﹁ほら、前に話しただろう? 子供の流行り病。原因不明だってや
つ﹂
﹁ああ。言語障害が出るってやつですか⋮⋮。って、この子もそう
なんですか?﹂
﹁見れば分かるじゃないか﹂
呆れたようなエリクの言葉に雫はもう一度女の子に注意を移す。
だが、健康的に肉がついた外見も少し舌たらずな言葉も年相応で、
何がおかしいのか分からない。
彼女は、両手に折鶴と動物の絵を掴んでご機嫌な女の子と目を合
わせた。雫が首を傾げると、子供も真似をして首を傾げる。
﹁あの⋮⋮何処が悪いんですか?﹂
見てもちっとも分からなかった雫が聞き返すと、エリクは僅かに
目を瞠った。そのまま二人は沈黙する。
これが確かに﹁異常﹂であると彼ら二人ともが知ったのは、雫が
魔法のある世界に来訪してから約半年、この時が初めてのことだっ
たのである。
690
003
何がおかしいのか、おかしくないのか分からない。
それが共通して二人の抱いた疑問だ。怪訝な顔の雫を見て、どち
らかと言えば険しい表情になったエリクは口を開く。
﹁今さっき、君はこの子に猫と馬の絵を描いてやっただろう?﹂
﹁はい。ちょっと可愛くしてありますけど通用してますね﹂
﹁うん。僕にも猫と馬に見える。でも、その子は馬を指して﹃猫﹄
と言った﹂
﹁言いましたね﹂
﹁おかしいだろう?﹂
﹁おかしくないですよ﹂
二人はそこでまた沈黙してしまった。雫は眉間の皺を深くする。
何がおかしいというのか、説明されても本当に分からない。これ
くらいの子供なら猫と馬を間違えるくらい普通のことだろう。ひょ
っとしてエリクが子供に要求する知識水準は、非常に高いのではな
いか。そんなことを疑った雫が彼を見やると、エリクは真剣な顔で
何事かを考え込んでいた。彼はしばらくしてまた確認を再開する。
﹁この流行病は大陸西部から徐々に広がりつつある。発症は一歳か
ら二歳くらいの子供を中心として起こり、症状は言語に障害が出る
というものだ﹂
﹁はい﹂
﹁で、この子もそうだ。障害が出ているのが分かるよね?﹂
雫は女の子をもう一度見たが、おかしなところは何も見つからな
691
い。一体何だというのか。彼女は若干むきになって反論した。
﹁分かりません。物の名前を取り違えて覚えるのくらい普通じゃな
いですか﹂
え?﹂
﹁普通じゃないよ。言語ってのは基本、生得的なものじゃないか﹂
﹁︱︱︱︱
何だか聞き逃せないことを聞いた気がした。雫は目の前の男を凝
視する。
生得的とは﹁生まれつき持っているもの﹂という意味なのだ。
勿論、人は能力的に言語コミュニケーションを取れる要素を兼ね
備えているが、聞いた文脈的にそれだけの意味ではない、何だか強
い違和感を覚える。雫は自分が緊張していることを意識しないまま、
逆に聞き返した。
﹁えーと、言葉って子供の時に覚えるものですよね? 生得的って
聞いたり話したりの能力の方ですか?﹂
﹁覚える? 違うよ。基本単語と文法はあらかじめ人の知識として
備わっているじゃないか。覚えるも何もない。思い出すかどうかっ
てだけだろう?﹂
何か決定的な食い違いがある。
﹁え、え? そんな馬鹿な﹂
︱︱︱︱
そのことに気づいた二人は愕然とした。雫はエリクを見たまま強
張った手をそっと上げる。
﹁あの、先に質問していいですか?﹂
﹁⋮⋮いいよ﹂
﹁もし言語障害がなかった場合、この子はさっきの絵を見てどうい
う反応をしたんですか?﹂
﹁馬を認識したなら馬と言う。猫と間違えることはない﹂
﹁でもそれは、馬は﹃馬﹄っていう名前だって、大人の反応を見聞
692
きして覚えたからですよね?﹂
そうやって子供は周囲から言葉を覚えていくのだ。だからこそ生
まれ育った環境によって、母国語が分かたれる。いくら言語が大陸
内で共通のこの世界でも、それは変わらないはずだ。
しかし、そう思っていた雫の常識は、返ってきたエリクの言葉に
よって覆されることとなる。藍色の瞳の魔法士は雫の問いを聞くと、
厳しい表情でかぶりを振った。
﹁違うって。初めて見たものでも、それを認識すれば自然と対応す
る名が出てくる。誰に習わなくてもそうなるのが当然だ。赤子は泣
き方を教わったりしないだろう? それと同じだよ﹂
雫は瞬間、眩暈を覚えてくらりと傾く。
ずっと気づかなかった二つの世界の差異、それは魔法よりもはる
かに身近ではるかに人の基盤に根ざしたところにあるのだと、彼女
はようやくこの時知ったのだった。
足元が揺らぐかのような錯覚に、気が遠くなった雫を引き戻した
のはエリクの声だった。彼はすぐ隣にしゃがみこんだ女の子の頭を
撫でると、声だけは真剣に雫に問い返す。
﹁ちょっと整理させて。君の世界だと言語って学習で身につけるも
のなの?﹂
﹁⋮⋮そうですよ。だから何ヶ国語もあるんです。小さい時に周り
で使われてた言葉を聞いて覚えますから﹂
﹁僕はそれ、遺伝で分かれてるんだと思ってた﹂
そう言われてみれば昔、音声言語が分かれている分かれていない
の話になった時、﹁遺伝のせいで外国語が分からないのか﹂と聞か
れたのだ。その時はエリクの言うことだからと気にもしなかったが、
よくよく考えてみればおかしな質問だ。
つまりはこの世界では、本当に音声言語までもが﹁生まれつき持
693
っているはずの知識﹂なのだろう。だから広い大陸内で話し言葉が
分かれておらず、時代によっても変化がないのだ。
ちょっとだけ羨ましい、と現実逃避しかけて雫はその考えを振り
きった。改めて現実に向かい合う。
﹁あの、話し言葉って全部が生得知識なんですか? たとえばこれ
くらいの小さな子でも﹃寂寥﹄とか分かりますか?﹂
﹁分からないよ。それは基礎単語じゃないから。人間が生まれつき
知っている単語は全ての品詞を合わせて約二千六百。それ以上の単
語は基礎単語の組み合わせによって作られている﹂
﹁その組み合わせは学習で身につけるんですね﹂
﹁そう。君のところは基礎単語ってないの?﹂
﹁基礎単語の意味が違いますよ⋮⋮。生得単語なんて存在しません﹂
元の世界での基礎単語とは、あくまでよく使われる単語でしかな
いのだ。習っていなくても知っている単語などない。
雫は痛み出した頭を押さえて気になることを尋ねた。
﹁生まれつきの知識ってことは対象物を知らない単語はどうなるん
です? 猫を見聞きしたことない子供でも猫ってものを元々知って
るんですか?﹂
﹁知らないものは知らないままだよ。生得知識なのは言葉そのもの
であって、その指し示す対象じゃない。だから対象物を認識しなけ
れば単語は出てこないんだ。知っていても思い出せないっていうの
かな。対象やそれに類するもの⋮⋮例えば絵とかでも、それと認識
できれば自然と単語が出てくる﹂
つまり﹃猫﹄という単語は基礎単語であり、その言葉をこの世界
の人間が生まれつき備え持っていたとしても、猫がいない場所で育
ち、猫を知らないままならその単語は人の中で眠ったままなのだ。
雫はひとまず理解すると次の質問を重ねる。
694
﹁じゃあ対象物を知らない人間に、その単語を言って説明した場合
はどうなるんですか? 猫を知らない子に猫を説明したりした場合
も、﹃ああ、猫か!﹄って言葉を思い出すんですか?﹂
﹁それは説明の仕方が決めるというより、対象物を確固として認識
させられるか否かが重要なんだよね。君なんかは絵が上手いから、
知らない子供にも大体上手く認識させられると思う。そういう時は
子供から単語が出てくるよ。でも口頭で知らないものを説明するの
は難しいな。聡い子はそれでも単語と対象がすぐに結びついたりす
るけど。上手くいかない場合は単なる音の並びから成る単語を﹃そ
ういう意味だ﹄と記憶するに留まる。で、年齢が上がると経験が増
えるから分かったりするんだ﹂
﹁いやいやいやいや。普通言葉の学習ってそうじゃないですか! この言葉はこういう意味だよ、って教えるんですよ﹂
﹁ありえない﹂
﹁こっちの台詞です!﹂
つい叫んでしまった雫は、女の子がびっくりしていることに気づ
いて笑顔を作った。新しいメモ帳の一枚に若干写実的なタコの絵を
描いてやる。
彼女はまずそれをエリクに見せて、何だか分かることを確認した。
ついで期待しているらしき女の子に示す。
だが子供は絵が何だか分からなかったらしい、見入ったまま黙り
込んでしまったので﹁タコだよ﹂と教えてやると、嬉しそうに﹁タ
コ!﹂と笑った。
雫とエリクの二人は微妙な表情を見合わせる。
﹁タコって生得単語なんですか?﹂
﹁本来なら。だからこの子はこの時点で病の発症者だと認定される﹂
﹁めっちゃめちゃ普通ですって。健康そのものですよ﹂
手の中でペンをくるくると回しながら、彼女は常識の食い違いに
憮然としてしまった。
695
一方、エリクは腕組みをして考え込む。
﹁言葉が学習でしか覚えられないのだとしたら、学習がなされない
場合はどうなるんだ?﹂
﹁言葉が話せません。唸ったり身振りで感情を示したりするくらい
ですね。そういう例がいくつかあります。あと⋮⋮実際古代にはそ
ういう実験がされたという逸話が残っているんですよ。王様が世界
最古の言葉を知りたくて、子供の前でまったく言葉を話さずに育て
ろって命令したって話が﹂
﹁うん。それでどうなったの?﹂
エリクは興味があるらしく少し身を乗り出させた。この世界では
発想もされない実験なのだろう。雫は苦笑して続ける。
﹁それで、しばらくして子供はある単語を話すようになったんです。
それを聞いた王様はその言語を最古の言葉とみなした。でも現代で
すとこれは、単語が生得的なわけじゃなくて、子供がその言葉を何
処かで聞いたか、誰かが教えたんだろうと思われてます。もしくは
その単語自体が子供独自の創造ではないかと﹂
﹁言葉を創造? 基礎から?﹂
﹁そういうものなんですよ。だから私の世界では言語が時代や場所
で全然違ってくるんです﹂
雫にとってはそれが当然だ。言語は人間が作ったもので、もとも
と持っていたものでは決してない。人は一から新しい言語を作る能
力は持ってはいても、生まれつき多くの人間に通じる共通言語を兼
ね備えているわけではないのだ。
雫の説明にエリクはますます眉を寄せる。遠慮のない視線が頭の
上から足先までを辿った。
﹁うーん⋮⋮。君って人間に見えるけど、人間に似た違う種族じゃ
ないの?﹂
﹁うわ! 酷いこと言われた! 先に言おうと思ったのに!﹂
696
﹁言おうと思ってるんじゃないか﹂
二人がそれぞれの常識を突き崩されそうになっていたその時、庭
の向こうから小走りで一人の女官が現れた。彼女はいなくなった女
の子を捜していたらしい。駆け寄ってきて子供が色々握っているこ
とに気づくと、しきりに頭を下げて女の子を連れていった。
雫は手を振りながら去っていく子供のその姿に、言いようのない
落ち着かなさを覚える。彼女にとっては普通のことも、この世界で
は病気とみなされ、特別な目で見られるようなことなのだ。何だか
思い切り立ち上がって﹁病気じゃないですよ!﹂と叫びたくなった
が、それを堪えて今はエリクに向き直った。彼女は膝を揃えて詰め
寄る。
﹁生得単語の中には名詞以外もあるんですか? 抽象的な言葉とか
実在が確認できないものとか﹂
﹁あるよ。勿論形容詞や動詞もあるし、接続詞や助動詞もある﹂
﹁じゃあそういうので対象が実在しない言葉とか抽象的な言葉って
どうやって思い出すんです? 絵でかけないものもあるし、地道に
教えるしかないでしょう?﹂
﹁うーん、教えることもできるけど、教えなくても分かれば思い出
すから普通は教えないよ。大体通常なら三歳で生活に不自由ない単
語は揃うし、十歳までには生得単語の六割を思い出す。あとは個人
差だね﹂
それを聞いた雫は正座のまま﹁飲み込めない﹂という顔になった。
不服がそのまま声になる。
﹁えぇ⋮⋮そんなんで本当に単語と意味が合うんですか?﹂
﹁人々が問題を感じないくらいには合ってる。結局、突き詰めてし
まえば、単語と結びついているものは実物よりもまず、その対応す
る概念ではないかという話になるんだ。抽象的な単語でも概念を限
定する、或いは意味を理解することができれば単語はついてくるし、
697
そこに対象が実在するかどうか、または実在を信じるかどうかの問
題は関係ない。﹃可愛い﹄と思えば﹃可愛い﹄という単語が出てく
る。子供は痛い、と思うと泣くだろう?﹂
﹁そ、それとこれとは違いますよ﹂
﹁違わない、と思われてる﹂
エリクの答は端的ではあったが、彼自身何かを深く考え込んでい
るようだった。
彼は視線をあてどなく周囲に彷徨わせる。だがそれが景色を見る
為ではないことは明らかだ。
ファルサスの強い日差しも今は気にならない。それよりも気にな
ることがありすぎて、雫はともすれば空回りしそうな思考を必死に
回転させた。
この世界では言葉は、その指し示す意味と密接にくっついている
そういうものなのだという。生まれつきそうなの
ものらしい。知れば、分かれば、教わらなくても対応する言葉が出
てくる︱︱︱︱
だと。
意味に合わせて言葉が作られたのではない。言葉はあらかじめ人
の中にあるというのだ。
訳が分からない、そう思いながらも雫はあることを思い出し、そ
こに引っかかりを覚えた。それはエリク自身が彼女に教えてくれた
ことである。
﹁前に、言ってましたよね。﹃白﹄が同じ白を指しているか分から
ないって。でもそれを言うなら、単語と意味にずれがあるかもって
可能性自体が、生まれつきってことと相反してませんか? 生まれ
つき持っていたものならみんな一緒が普通だと思うんですけど﹂
﹁いや。あの仮説自体が極論だし、僕が示した可能性とは実際のと
ころ個々人における単語の意味の揺れ幅って話でしかないよ。他に
感覚自体を疑うって側面もあるけど、言葉が生得的なのはまず大前
提だ。話が問題なく通じているように見えても、その意味が完全に
698
人の間で一致しているかは証明しがたい。同じ単語でも思い出し方
は人それぞれなんだ。むしろ単語の意味とは蓋然的であると思って
いた方がいいくらいだろう﹂
エリクはそこで一息つくと、雫を見た。
﹁それにね、生まれつきだからと言って、全員に共通するものが備
わっていると頭から信用しない方がいい。 たとえば君にも僕にも
生まれつき視力はあるけど同じものが見えているかは分からないだ
ろう?﹂
﹁同じものじゃないんですか?﹂
﹁多分違う。僕には魔力が見えるから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ﹂
つまりは、それがあるのだ。
魔法という決定的な差異がまず一つ存在している。
だからこの言葉に関する差異もそういうものなのだと、違和感を
﹁原因不明の流行り病﹂が今ここに存在していないの
押さえ込み納得しようと思えばできるだろう。
︱︱︱︱
ならば。
黙り込んだ雫を、エリクは思考に集中していると如実に窺わせる
表情で見つめる。その藍色の瞳に昏い翳が差していくのを、彼女は
どこかぼんやりと眺めた。
かつて人々はみな同じ言葉を使い、同じように話していたという。
今は遠い昔の話。神話の中の物語だ。
言葉とは、神の御業か人の技か。
思考の道具か伝達の手段か。
重ねられていく記述と歴史。
人知れず隠された答は凡て︱︱︱︱
699
雫は混乱してしまった頭を押さえる。
思考の中で話を整理しても、﹁何だそれ﹂としか思えない。生ま
れつき知っている単語があるなどありえないだろう。とりあえず二
千六百あるという生得単語のリストを見たい。本当は見聞きして覚
えているだけなのを、生得的だと誤解しているのではないか。
だがそう思ってはみても、雫から見て普通の子供が﹁病気の子供﹂
と考えられていることを思い出すと、そこで思考が詰まってしまう。
何故そんな事態になっているのか。雫は苦虫を噛み潰してもここ
まで苦い表情にならないだろう、というほど眉を顰めてエリクを見
やった。
そのエリクもいつもより険しい顔で考え込んでいる。しばらくし
て、彼は小さく溜息をついた。
﹁実は君と出会って⋮⋮というか、君から言語の話を聞いて以来、
疑ってることがある﹂
﹁私が人間かどうかですか?﹂
﹁違う。何でラルス王みたいな発想になってるんだ。毒されてるよ、
君﹂
﹁ぐえ﹂
どうやら一ヶ月の間に暴君とのやり取りに慣れてしまっていたら
しい。雫はエリクの指摘に慌てて軌道修正した。足が痺れそうにな
ったので、正座を崩すと聞き返す。
﹁何を疑ってるんですか? 単語が本当に生得的かどうかですか?﹂
﹁それは疑ってなかったって。こっちの世界では散々実験もされて
るし、今、かなりびっくりしてる。⋮⋮そうじゃなくてね。言語の
生得性は何処に由来するんだろうって思ってたんだ﹂
おそらく、エリク自身の考えは口にする話よりずっと先を進んで
いるのだろう。言葉だけが少し遅れて雫の手元に届く。彼女はそれ
を拾い上げて自分の思考に透かし見るのだ。
雫は綺麗に整った男の顔立ちよりも、その言葉に注意のほとんど
700
を払って耳を傾けた。
﹁生得単語についての記録は、遡れば千四百年程前に﹃神から賜り
しもの﹄として記されているのが最初だ。といってもこれ以前の記
録は、言語に関してだけではなく全てにおいて消失してしまってい
る。せいぜい口伝が残るだけだね﹂
﹁ああ。神話とかもそうだって言ってましたね﹂
﹁うん。生得単語は長らく神が人に与えたものだと信じられていた。
そしてそれはその中に人工物の名詞も多く含まれているからという
理由が大きい。たとえば﹃時計﹄﹃船﹄﹃錠前﹄。これらは人が作
ったものだが生得単語として生まれつき人の中に在る﹂
雫は大きな違和感を内心差し挟みながらも話を追う。
確かに生得言語が人の生理的な部分だけに由来すると仮定した場
合、そこに人工物の名詞が含まれていることはおかしなことだろう。
この世界に原始人という存在があったのかどうかは分からないが、
人は古代から技術発展を経てここまで来たことはおそらく間違いな
いであろうし、その出発点から全ての人工物と共に在ったわけでは
ないはずなのだ。
﹃時計﹄が作られる以前もその言葉は人の中に在ったのか、それと
も﹃時計﹄が生み出されたからこそ単語が人の中に植えつけられた
のか。
言葉が先か意味が先か。上手く噛みあいすぎている状態を説明づ
けるには、神の思惟がそこに働いていたと考える方が納得できたに
違いない。
﹁つまり道具が発明されたから、神様がそれに合わせて言葉を与え
た、っていう考え方ですか﹂
﹁うん。神話によってはこれらの発明も神々が与えたものとされて
いるけどね﹂
﹁ああ、なるほど。でも今は神様を信じていない人も多いんですよ
701
ね? その場合どう解釈するんです?﹂
大体魔法士は皆、無神論者だというのだ。エリク自身もアイテア
神の存在を信じていないと言っていた。ならば彼らは生得言語の不
自然さをどう解決しているのだろう。真剣な表情の彼女にエリクは
微苦笑する。
﹁現在では、魔法士をはじめとして多くの学者は、共通言語階層と
いう階層が世界に存在していて、そこに人の魂が繋がっていること
こそが、言語が生得的である原因ではないかと考えている。その階
層の実在は証明されていないし、実際どんなものなのかって議論は
まだまだ為されてるけど、負と同様言葉自体が、魂に含まれる人間
の構成要素であり基盤の一つということで落ち着いてるんだ﹂
何処か矛盾点が見えたら突っ込んでやろうと待ち構えていた雫は、
話を聞いてもすぐにはそれが見つけられずに詰まってしまった。
魂などと言われては異世界人である彼女には容易く踏み込めない。
大体世界構造自体が二つの世界ではまったく異なるようなのだ。
﹁じゃあ、その階層に二千六百の単語や文法があるってことですか
?﹂
﹁本当はもっと数があるのかもしれないけど、分かっているのはそ
れだけだね。ただ僕は君と出会う少し前から⋮⋮本当にそれが生得
単語の原因なのかなって疑ってたんだ﹂
静かな声音に雫は軽く緊張を覚える。
人の思考の限界とは何処にあるのだろう。
染み付いた常識を打破しようとしたその先に待っているものは、
真の太陽なのか更なる牢獄なのか。彼女は何故か沸き起こってくる
動悸に胸を押さえた。表面だけはいつも通り、﹁何で疑ってるんで
すか?﹂と聞き返す。
エリクは、もし黒板があったのならそこに向ったであろう態度で
702
指を一本立てた。
﹁本当に生得単語が人の魂に由来しているのなら、何でその単語を
得られない病が流行ったりするんだろう。こんなことは今まで一度
もなかった。生まれながらに魂を損なわれた人間が続出するなんて
ことは、記録を見る限りまったくなかったんだよ﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
雫は先程の女の子を﹁魂を損なわれた子﹂と言うことは出来ない。
むしろ彼女こそが普通の子供だと思っている。
だがこの世界においてはそれは見過ごせない異常なのだ。溜息を
飲み込む雫に、エリクは手を振って見せた。
﹁だから僕は一つの仮説を立ててみた。生得言語とは魂ではなく、
何らかの遺伝によって人の中に継がれているものじゃないかと。こ
う考えると流行り病は魂の異常ではなく遺伝異常だ。原因は不明の
ままだけど、前者よりはよっぽど起こりうることじゃないかと思っ
たんだ﹂
﹁あ、それで私にも遺伝かって聞いたんですか?﹂
﹁うん。特に君の世界では音声言語が分かれているって聞いてから
ますますこの可能性を疑った。まさかあの時はそっちに生得単語が
ないとは思わなかったしね。君は遺伝じゃないって言ったけど、そ
こは世界構造自体の違いもあるし、そっちはそっちで何か別の要素
が影響してるんだろうと思ったんだ﹂
真偽の程を雫は知らないが、巻き舌が出来るかどうかは遺伝だと
何処かで読んだことがある。それが言葉の発音に関係したりもする
のだから、遺伝と言語はまったく無関係というわけではないのかも
しれない。
が、エリクが考える程までには関係していないだろう。ましてや
あそこで開拓前にどうい
遺伝で単語が受け継がれるはずもない。突拍子もなく思える仮説を
雫が反芻する間にも、彼の話は続いた。
﹁たとえば東の大陸の話だけど︱︱︱︱
703
う言語が使われていたのかは、戦乱のせいで記録が残ってない。で
もこっち出身の移民が大量に入植してからは皆同じ言語を話してる
し、人種を問わずにやっぱり生得言語もあるんだ。ただ向こうの大
陸にはこっちの大陸より訛りが強い地域が多くて⋮⋮それは遺伝の
影響じゃないかなと考えてみた﹂
﹁あー、混血によって言語の浸透が進んだから、不完全な場所も残
ってるってことですか?﹂
﹁そう。ただ全てを遺伝で片付けようとしても説明できないことが
多々残るんだ。東の大陸の例でいうなら、移民たちがこちらの大陸
を出発してからしばらくして、こっちでも今までなかった訛りが僅
かに出始めた。でも別に混血があったわけじゃないし、それについ
て研究はされたが今でも原因は定まっていない﹂
﹁うーん、謎ですね。じゃあやっぱり遺伝ではないんですか?﹂
﹁断言は出来ない。仮に遺伝が関係しているとしてもそれだけじゃ
ないな。第一、君がいるんだし﹂
﹁私?﹂
雫は自分の顔を指差して首を傾げる。
服に隠された背を理由の分からぬ冷や汗が伝っていった。
かつてその構成技術と知識を評価され、魔法大国にて異例な位置
にいた魔法士は、そこで話を切ると背後の城を仰ぎ見た。他に誰も
いないことを確認するとエリクは話を再開する。
﹁君は、自分の世界の言語のことを誰かに説明した? 一応口止め
してあったとは思うんだけど﹂
﹁あ、してない、です。王様やレウティシアさんに本を見せたりは
しましたけど﹂
﹁うん。特に音声言語が分かれてることや生得単語がないことは言
わない方がいい。場合によっては命に関わる﹂
﹁え﹂
急におかしな方へと話が転んだことで雫は目を丸くした。その意
704
味を確かめようと向かい合う男を凝視する。
エリクは視線を受けると、冗談ではないことを窺わせる目で説明
を補足した。
﹁例の流行り病が発生し始めたのは、時期的に君がこの世界に来る
少し前のことだ。大陸中がやっきになって原因と治療法を探してる
中に、﹃私のところではそれが普通ですよ﹄なんて人間が現れたら
どうなる?﹂
物騒な結果しか連想できない問い。雫はそれを聞いて一気に自分
の置かれた状況を把握した。
﹁⋮⋮げ⋮⋮ひょっとして、私が原因って思われたり、しますか?﹂
﹁するだろうね。少なくともまったく言語について常識が違う世界
の人間だ。徹底的に調べられると思う﹂
﹁うわあ﹂
雫の脳裏にラルスの嫌な笑顔が浮かんだ。あの男がこのことを知
ったら調べるなどまどろっこしいことはしないだろう。﹁殺してみ
れば分かる﹂などと言いながら率先して彼女を仕留めに来るに違い
ない。
血の気が引きつつある彼女の考えが分かったのか、エリクは苦い
顔を見せた。
﹁まぁ、これに関しては前々から気になって調べていた問題だし、
もうちょっと調べてみるよ。君は関係ないと上手く証明できればい
いんだろうけど⋮⋮まったく自信はない﹂
﹁いえ、ありがとうございます﹂
出来ないことを安請け合いするエリクなど想像できない。雫は心
から厚意に頭を下げた。
だがそれでも妙な不安が収まらないのは何故なのだろう。
落ち着かなさに辺りを見回す彼女を元気づけるよう、立ち上がっ
たエリクは手を差し出した。
﹁あんまり怖がらなくてもいい、とは思う。君の存在が病への対抗
705
手段になるかもしれないから﹂
﹁え? 私が? 何でですか。幼稚園でも開くんですか?﹂
言葉の教え方を知らない世界で、子供たちに言葉を教えればいい
のだろうか。エプロンをして幼児を相手にする自分を雫は思い浮か
べる。
しかしエリクは苦笑するとその考えを訂正した。
﹁違う。君は、どうやってか生得単語の恩恵を受けているだろう?
怖い、と思う。
その理由が分かれば子供たちへも対処ができる﹂
︱︱︱︱
気づきたくないのだと、気づいてはいけないと。
でもどうして? 彼女は問う。
気づけば、気づかれれば、きっと
﹁生得単語の? そんなのないですよ。私、どちらかと言えば言葉
が遅い子でしたし﹂
言いながら雫は、自分の言葉が表面を滑っていくような空々しさ
を覚えていた。本当は知っていること、既に自分の中にあることを
思い出せない。思い出したくない気がして背筋が凍る。
エリクは心配を瞳に浮かべた。彼女を立たせてやりながら額を軽
く叩く。
﹁君は気づいてない? 不安にさせるかなって思ったから、おかし
いと思っても指摘しなかったんだけど。僕は君と出会って旅をする
うちに、生得単語が魂に依拠するという考えを捨てざるを得なくな
った﹂
目の前にいるはずの彼が、何故かひどく遠い。
706
孤独の中に似た焦燥に、雫の体は小刻みに震えだす。
﹁君の世界では言葉が分かれているんだろう? その上生得単語が
存在しないのなら、そうでないと話が合わないんだ。言葉は魂に由
来するわけではない﹂
何が普通か分からないのだ。
自分が異常なのか、この世界が異常なのか分からない。
雫は彼の何処かに触れていたい衝動に駆られる。
手を握って欲しい。怖くて仕方ないのだ。
どうか気づかないで。
言わないで。
異質にしないで。
忘れて。
見ないで。
教えないで、欲しい。
君と僕は、言葉が通じているんだ?﹂
﹁君は負に影響を受けなかったんだ。この世界の人間とは魂自体が
違う。では何故︱︱︱︱
707
004
言葉が通じてよかった、と思う。
それさえも叶わないのなら、どうやって見知らぬ世界で一歩を踏
み出すことができただろう。分からないことだらけの転機の中、言
でも、何故そうなのか、彼女は考え
葉が、そしてそれに耳を傾けてくれる人々が彼女を救ったのだ。
とてつもない幸運︱︱︱︱
たことがない。
何故。
どうして、おかしいと、おもわなかったの。
﹁な、何でって⋮⋮わ、分かりません⋮⋮﹂
﹁うん。僕も最初は﹃言葉が通じない﹄っていう概念そのものがな
かったから気づかなかったけど。君の世界では音声言語が分かれて
るって聞いた時、少しおかしいなと思った。でも今まで生得言語の
種類が偶然一致してるから通じてるんだろうなって考えてたんだよ﹂
エリクは雫の瞳を上から覗き込んだ。まるでその奥を見据えよう
とするが如き視線に、彼女は息が詰まる。
﹁ただ言語の生得性もないのなら、やっぱりおかしい。君が言うに
は言語は土地や時代で変わってくるものなんだろう? この世界は
君のところとは文化も歴史もまったく違うんだ。なのに君の世界で
作られた一言語と同じになってるなんて、さすがにありえないよ﹂
言葉が同じであるわけではない。
708
何故なら彼らの発する固有名詞だけは、雫に外国語の発音として
聞こえるからだ。
雫はそのことに気づいていた。けれど、何故そうなっているのか
を考えたことはない。
﹁君はこの世界に来てから、生得言語の影響を何らかの形で受けて
るんじゃないかな? いつから言葉が通じるのか覚えている? 何
か心当たりはない?﹂
頭が痛む。まるで内側から激しく金槌で叩かれているかのように。
雫はこめかみを押さえてよろめいた。その腕をエリクが支える。
彼は倒れそうになった雫の体を抱きとめると元通り草の上に座らせ
た。黒い前髪の下、額に冷や汗が浮かんでいるのに気づいて表情を
変える。
﹁具合が悪そうだ。中に入ろう。熱射病かもしれない﹂
﹁いえ、平気、です。少し⋮⋮気持ち悪いだけ﹂
﹁中に。君は暑さに弱い。気づかなくて悪かった﹂
エリクは彼女を軽々と抱き上げた。
いつもなら﹁自分で歩ける﹂と言うところだが、今は四肢に力が
入らない。雫は彼の好意に甘えて目を閉じる。
どうしてこんなに気分が悪いのか。彼女は小学校の頃、朝礼の最
中に日射病で倒れてしまった時のことを思い出した。あの時も不意
に世界が傾いて、気づいた時には先生に抱え上げられていたのだ。
それから子供時代はずっと、夏に外出する時は気をつけるようにし
ていた。
散歩をする時必ず被っていた帽子を被らなくなったのはいつから
だろう。姉が日傘を差して歩く姿に見惚れた、あの頃からだろうか。
大きなつばで顔を隠した自分がまるで、世界から一人取り残され
てしまったような気がして、雫は姉の後を歩きながら一人俯いたの
だ。
劣等感というよりは孤独に似た思いを、けれど彼女は家族に訴え
709
今更そんなことを思い出した。
たことはない。
︱︱︱︱
雫は流れ落ちる汗を手で拭った。靄がかかったような息を肩を揺
らして吐き出す。エリクの顔を見上げないまま、彼女は乾いた唇を
動かした。
﹁私、覚えがないです⋮⋮。砂漠に出て、気づいた時には言葉が通
じてましたから﹂
﹁そうか。別に気にすることはないよ。結果的には助かってるわけ
だし﹂
﹁はい﹂
二人は城の影の中に入る。それでもエリクが彼女を下ろさないの
は、何処か休めるところに連れて行ってくれるつもりなのだろう。
彼女はぐるぐると回り始めた視界を留めようと、手で力なく額を押
さえた。意識が落ちそうになる寸前、疑問が口の端から滑り落ちる。
﹁エリクは、どうして言葉が通じるんだと、思いますか?﹂
彼だけが気づいたのだ。
ならば彼だけが辿りつけるだろう。
だから問う。
その声に、男は凪いだ目で答えた。
﹁僕は、神話の時代以降、この大陸自体に何か言葉を生得的にする
要素が備わったんじゃないかと、今考えている。それは或いは⋮⋮
人に感染して言葉を伝えるようなものなのかもしれない﹂
穏やかな声。温かい腕。
雫は彼の言葉に安堵して息を吐く。
そのまま深い眠りに落ちていくまでの数秒間。彼女はあの砂塵と
共に何かが肺の中に忍び込み、そっと体の奥底に降り積もっていく
ような、そんな刹那の夢を見たのだった。
710
眠りが全てを押し流す。
傾きかけた世界も壊れかけた記憶も、全てが波にさらわれ、後は
何事もなく整えられる。そうやって最低限のことだけを取り出して、
皆、ささやかなる日々を送っていくのだ。
人が全てのことを覚えていられないのは、そこに無言の選別が存
在しているからだろう。
肉体でさえも日々死に、新しくなっていく。
そうして人の記憶もまた、ほんの僅かな分だけ小さな手の中に残
されるのだ。
雫が眠っていたのはほんの二時間程だったらしい。起きた時彼女
は自分の部屋にいて、隣ではメアが濡れた白い布を絞っていた。汗
を拭く為の布を礼を言って受け取りながら、雫はまだ日の高い外を
見やる。
﹁あ、仕事⋮⋮﹂
﹁半休ということになっております。まだ体の中に熱がこもってい
るようですから、休んでいらしてください﹂
﹁うう。ごめんなさい﹂
熱射病で倒れるなど子供みたいなことをしてしまった。雫は濡れ
た布を顔に押し当てる。
ひんやりとした感触が気持ちいい。鈍重になっている頭から気だ
るさが抜け出るようだ。彼女は一息つくとほとんど荷物のない部屋
を見回す。何しろ一度荷造りをしたままで、また明後日には北の国
に向って出立する予定なのだ。
そのことを改めてメアに告げると、使い魔の彼女は﹁エリク様か
711
ら伺いました﹂と返してきた。何だか慌しさに﹁いつもすまないね
ぇ﹂などと言いたくなったが、真剣に受け取られることは確実だっ
たので、雫は﹁ごめんね﹂とだけ口にする。
彼女は水を一杯飲み干すと寝台から起き上がろうとした。だがメ
アがすかさずそれを留める。
﹁駄目です、マスター。疲労も溜まっているようですから﹂
﹁大丈夫大丈夫。もう平気だよ﹂
﹁駄目です。前に一度それで寝込まれたではないですか。今、魔法
薬をもらってきます。ここでお待ちください﹂
そんなに体が弱い自覚はないのだが、前例を指摘されたこともあ
って雫は苦笑と共に頷いた。緑の髪の少女はお辞儀して部屋を出て
行く。魔法大国の城の為か、中位魔族の彼女も際立って珍しい存在
ではないようだ。単独でお使いに出しても誰も何も言わない。
一人になった雫は、枕元から水差しを取るともう一杯水を飲もう
とする。だが、グラスに口をつけるより早く、不意に部屋の扉が叩
かれた。
﹁はい?﹂
メアが戻ってくるにしては早い。エリクかハーヴだろうか、と雫
は返事をする。
しかし、ドアを開けて入ってきたのは、彼女が今まで会ったこと
もない男だった。
兵士の姿をした逞しい体躯の男は、無言のまま仮面に似た無愛想
さで彼女を眺める。その視線に不躾なものを感じて雫は内心眉を寄
せた。
﹁あの、何の用事ですか?﹂
﹁貴女を迎えに来た﹂
﹁は?﹂
人間違いではないだろうか。そう言いかけた雫の口をだが男は大
712
きな手で押さえる。その事態に彼女は唖然とし、遅れて慄然とした。
つい一瞬前まで彼は扉の前に立っていたのだ。にもかかわらず二
メートル程の距離をほんの二歩で詰めると男は彼女の前に立った。
これは普通の用事ではない。本能が激しく警鐘を鳴らす。だが咄嗟
に何か身を守るものを探しかけた彼女の顎を、男は口を塞いだまま
の手で固定した。
﹁悪いようにはしない。昼間貴女は話していただろう? 子供の流
あれを聞かれていたのか。
行り病は貴女にとって普通のことなのだと﹂
︱︱︱︱
雫は体に残る熱が全て引くかのような錯覚に身を震わせた。
誰もいないと思っていたのだ。事実庭には誰の姿も見えなかった。
だが、この男は何処かでそれを聞いていたのだろう。
雫の中、鳴り続ける警鐘に重なって﹁命に関わる﹂と言ったエリ
クの言葉が蘇る。
男は硬質な目で彼女を見下ろした。雫に向って声だけは優しげに
告げる。
﹁このままこの国にいては貴女は危うくなる。王は貴女を捕らえ、
殺してしまうかもしれない。だからそうなる前に迎えに来たのだ﹂
そんな迎えは要らないと、もうこの国は出るのだからと、雫は激
しく首を横に振ろうとした。だがそれだけの仕草でさえ男の手に阻
まれ為すことが出来ない。大きな両眼に恐怖と否定を浮かべる少女
を見下ろし、男は哂った。唐突に彼女の軽い体を使われていない寝
台に突き飛ばすと、背に負っていた小さな弓を手に取る。
﹁貴女はこの国を出て、私の国に来る。これは決定事項で貴女の意
志でもある。そうであろう?﹂
﹁わ、私の意志って⋮⋮﹂
そんなはずはない。これは脅迫ではないのか。雫は弓に矢を番え
る男を見ながら扉への距離を測った。しかし抑揚のない男の声が、
逃げようとする彼女の耳を叩く。
713
﹁貴女は来る気になる﹂
男は弓を構え狙いを定めた。
雫に向かってではなく︱︱︱︱
﹁ちょ⋮⋮っ!﹂
窓の外、庭に佇む人影に向って。
それが誰なのか遠目にも分かる。彼女がもっともよく知る後姿な
のだ。間違うはずがない。
雫は両手で口を押さえた。彼の名を叫びそうになって、男の一睨
みで沈黙する。
彼はちらりと扉を一瞥した。雫が一人である時を見計らってきた
のだろう。紫がかった青い瞳には状況を見渡す冷静さが窺える。反
論を許さぬ声だけが、彼女を正面から打ち据えた。
﹁さて、貴女の意見を聞こうか。時間はない。私と一緒に来るか来
ないか⋮⋮早く決めるといい﹂
鋭い矢じりが向く先、兵士と何やら話をしているエリクの背を、
雫は絶望的な思いを以って見つめる。
どうしてこんなことになっているのか、そして、人と人が別れる
時とは何と突然で呆気ないものなのかと、震える唇を強く噛み締め
ながら。
魔法薬とお茶のポットを盆に乗せて、メアは扉を叩いた。
だが中からは何の返事もない。不思議に思いつつ使い魔は扉を開
ける。
﹁マスター? いらっしゃいますか?﹂
部屋の中には誰の姿もなかった。それだけではなく主人の少ない
荷物もない。メアは盆を置くとあちこちを見回す。
小さなテーブルには水差しとグラス、そして白いメモ帳が一枚だ
け置かれていた。彼女はそれを取り上げる。メモ帳にはこの世界の
714
﹃ありがとう﹄と。
文字で一言だけ書かれていた。
︱︱︱︱
﹁マスター?﹂
窓の外の日は暮れていく。
静寂が夜と共に忍び込んでくる。
メアは刻々と暗くなる部屋を見渡す。
だがそのままいつまで待とうとも、雫がドアを開けて帰って来る
−
End
−
ことは、ついにはなかったのだった。
Act.2
715
の あらすじ。
これまでのあらすじ&登場人物
Act.2
トラブルホイホイな雫も、エリクの助けを経てついにファルサス
に到着した。
しかし、彼の伝手を借りて王に謁見し、手がかりを探す許可を求
めた雫は、いきなり王に殺されそうになってしまう。なんでもファ
ルサス王家には、﹁世界外から来てる奴は殺せ︵意訳︶﹂という口
伝が伝わっており、雫はずっと昔からこの世界に干渉している何者
かと間違えられてしまったのだ。
衝突の結果、とりあえず命の危機だけは去ったものの、人の嫌が
る顔が大好きと言う王に苛められ続ける雫。細々と反撃しながらフ
ァルサスで暮らしていた彼女はついに、世界外からもたらされたの
ではないかという呪具の情報を手に入れた。
その呪具を探しに旅立とうとした雫とエリクは、けれどお互いの
常識のある食い違いに気づく。この世界では言語は生得的なもので
あり、学習によって身につけるものではないのだという。
最近流行り始めた子供の病は﹁生得言語が現れない﹂というもの
であり、雫はそれをおかしいことではないと憤慨する。だがそんな
彼女にエリクは﹁ならどうして僕たちは言葉が通じているのか﹂と
指摘した。
自分でも原因が分からない事態に困惑する雫は、しかし謎を解く
前に、突然現れた男に脅迫され、一人ファルサスを離れることにな
る。
716
大分体力と根性がついてきた、やさぐれ女子大生の行く末はいか
に。
★これまでの登場人物
王:ファルサスの現王。シスコンのドサド。
Act.2
ラルス
王妹:ラルスの妹。精霊を従える大陸屈指の魔法士。兄
レウティシア
魔法士:ファルサス所属の宮廷魔法士。歴史専攻でエリ
よりは常識人。
ハーヴ
クの友人。
王族:エリクの昔の知り合い。
カティリアーナ
717
孵らない願い 001
ここまで来たら、もう安心?
わからない。
けど、遠くなった。ありがとう、優しいゆりかご。
窓から見える景色はファルサスのものと大差ない。雫は硝子から
顔を離すと、つけてしまった指紋に気づき眉を顰める。何か拭くも
のはないかと部屋を見回したがそんなものはない。思わずこめかみ
を掻いた時、ドアを開けて男が戻ってきた。
﹁仕度は出来たか? 姫は時間にうるさくないが、もう出た方がい
い﹂
﹁うん。時間は守ろう﹂
﹁あの方の部屋には時計がないんだ﹂
どれだけ自由に生きてるんだ、と雫は一瞬呆れたが、その自由さ
が面白いと少しだけ思う。ラルスもそうであったが、王族という人
種はやはり何処かずれているのだろう。
彼女は出発を促す男に従って踵を返す。部屋から出て行く前にも
う一度窓を振り返ったが、よく磨かれた硝子の上にはもう指紋の痕
は見えなかった。
※ ※ ※
718
﹁さて、貴女の意見を聞こうか。時間はない。私と一緒に来るか来
ないか⋮⋮早く決めるといい﹂
その言葉を聞いた時、雫が意識を払ったのは矢が狙うエリクまで
の距離と、そして男の持つ弓それ自体だった。
メアは薬を取りに行くと行って出て行ったのだ。その隙を男が狙
ってきたのなら、彼女が戻るまで時間を稼げれば活路は拓ける。逆
に言えば男はそれまでに雫の口から同意を引き出したいのであろう。
張り詰めた弦は本気を容易に感じさせるものだった。
彼女は寝台についた手に力を込める。ゆっくりと立ち上がりなが
ら男を睨んだ。
﹁一緒に行くかどうかって、行き先も知らなければ決められないよ﹂
﹁ああ、そうだな。行き先はキスク。この国の東にある大国だ﹂
しばらく前にエリクから聞いた国名。確かその名は、﹁物騒な王
族の姫がいるから近寄りたくない国﹂として説明されたのだ。
雫は嫌な予感に思わず拳を握る。だが彼女はそれ以上表には何も
出さなかった。男に一歩踏み出しながら問い返す。
﹁そこに行って何をするの? 私を調べるの? もう充分ここで色
々やられたんだけど﹂
﹁知っている。ファルサス王が貴女を執拗に責めぬいていたことも
な﹂
﹁その表現はとっても訂正して欲しいよ!﹂
つい素になって彼女は叫んでしまったが、男は眉を僅かに上げた
だけで弓を構える手までは動かなかった。
雫は彼の背に負われたままの残り二本の矢と、腰に佩かれた長剣
を確認する。男に向かってもう一歩近づいた。
﹁キスクに来て欲しいっていうなら理由と待遇を教えて。それで決
めるから﹂
719
﹁やって欲しいことは姫の遊び相手だ。待遇は⋮⋮貴女次第だが不
自由しないことを保証しよう﹂
﹁姫の遊び相手? 小さい子なの?﹂
﹁今年十九歳になられる﹂
同い年の相手。だが﹁遊び相手﹂という表現に訝しさを感じて、
雫は怪訝な顔を見せた。エリクの言っていた物騒な姫とは何歳なの
だろう。同一人物か否か、彼女には判断がつかない。
雫はだが、少し考えた振りをすると、あっさりとした態度で頷い
た。
﹁分かった。行く﹂
﹁ならば仕度を。仲間の魔法士が城都に来ている﹂
﹁荷物少ないから平気﹂
彼女は男の横をすり抜け自分のバッグに手を伸ばす。はみ出た私
物を押し込み、代わりに男に気づかれないよう中から小さなナイフ
を引き出した。バッグを肩に背負いながら振り返る。ちょうど男は
上手く行くだろうか。
弓を下ろしかけていたところだった。
︱︱︱︱
そんな不安を、だが雫は一蹴した。駄目なら駄目でその時はその
時だ。
彼女は男に向かって勢いよく踏みこむ。右手に隠し持っていたナ
イフを弧を描くように薙いだ。弓の、弦を狙って。
﹁な⋮⋮っ﹂
相手は彼女の武器に気づいて、手首を掴み上げようとする。けれ
ど雫はその手を左手で防いだ。ナイフが弦に食い込む。
成功した、と思ったのは一瞬だった。彼女は男の手に弾き飛ばさ
れ、寝台の端に背を打ちつける。衝撃で落としてしまったナイフを、
相手は雫よりも早く拾い上げた。冷ややかな目で彼女を見下ろす。
﹁こういうことをしては、お互いの信用を損ねると思わないか?﹂
﹁信用して欲しい態度じゃないよ。最初っから﹂
720
男は自嘲ぎみに笑うと弦の切れた弓を元通り背に戻す。雫はそれ
を見て安堵した。ナイフは奪われてしまったが、ともかく彼女の目
論見は成功したのだ。
これでエリクを人質として脅迫することは出来ない。そして男の
目的が雫自身にあるのなら命を奪われることまではないだろう。あ
とはメアの帰りを待つだけだ。快哉を叫びたいくらいの気分で彼女
は男を見上げる。
﹁私は行かない。お姫様の相手はあなたがすればいい﹂
﹁姫の相手はいつだって誰かがしている。貴女が来なければ禁呪の
魔法士か⋮⋮不具の子供がそれを担うだけだ﹂
﹁⋮⋮子供?﹂
男は武器を持たない手を座り込んだままの雫に差し伸べる。その
大きな手に薄気味の悪さを感じて彼女は後ずさりたくなった。けれ
どすぐ後ろは寝台であり、今以上に下がることはできない。雫は扉
を見やったがメアの戻る気配はまだなかった。
﹁姫の機嫌を上手く取れねば、子供は殺される。あと三ヶ月で城に
は赤子が生まれるが⋮⋮病が出たと判断されればその子は闇に葬ら
れるだろう。しかし貴女ならばどうだ? 例の病が病ではないと言
うのなら、姫の期待に応えて子を育てられるのではないか?﹂
﹁子を⋮⋮って、私が⋮⋮赤ちゃんを?﹂
想像もつかない提案に雫は呆然となった。親戚の子供を見たこと
はあるが、赤ん坊の世話などしたことはない。
だが、﹁無理だ﹂と思いつつ、彼女は咄嗟に拒否を口にすること
もまた出来なかった。昼に会った女の子の姿が甦る。病気ではない
子供が病気とされる世界。それが故に殺される子供がいるというの
は本当なのだろうか。
ちゃんと、教えればいいのだ。たったそれだけだ。
それだけで、彼らは言葉を覚える。
721
変わりなく、成長していけるのに。
男は丁重な仕草で膝をついた。動かない雫に向ってただ己の手を
示す。
姫の前に立つ気はないか?﹂
﹁先程のことが不満なら謝罪しよう。だがどうかもう一度考えて欲
しい。貴女は幼子の代わりに︱︱︱︱
雫は異物を見るように男の手に目を落とした。そしてふと半年間
の記憶を振り返る。
はたして自分は何の為にこの世界に来てしまったのか。
彼女はあまりにも少ない手がかりの中、その意味を改めてじっと
考えたのだった。
※ ※ ※
子供を引き合いに出され迷った雫は、エリクに相談したいと要求
したが、その願いは却下された。
男が言うには、姫は雫よりもどちらかというと、ファルサスの禁
呪の管理者であったエリクに興味を持っており、二人共を連れてく
るよう命じたというのだ。だが二人の様子を窺っていた男は雫の秘
密を聞き、彼女だけを連れてくることを選んだ。
エリクに話すことを諦めた。
男のこの判断にどんな理由があるのか、彼女は知らない。だがそ
れを聞いた雫は︱︱︱︱
彼がこの話を聞けば、反対するか自分もついて行くと言うかのど
ちらかであろう。そしてそのどちらも彼女は選べなかった。急き立
てられ腕を引かれながら、雫は部屋を出る。
722
走り書きの挨拶は﹁ごめんなさい﹂と書くか﹁ありがとう﹂と書
くか迷ったが、彼女は後者を選んだ。
彼はあれを見てどう思うだろうか。怒るだろうか心配するだろう
か。
もし叶うのなら、彼女はもう平気なのだと、そう思って欲しい。
自分で選んで自分で立ち去ったのだから、もう大丈夫なのだと。
メアも雫と共に厄介な姫の国に来るよりは、エリクについて行っ
た方がずっと安心だろう。彼らは彼らで自分たちの時間を取り戻す。
それでいいのだ。
雫は泣きたくなるような喪失感を抱えながらも同時に、自分でも
不思議なほど割り切った気持ちでファルサスを後にする。
だが色々と理由をつけてこの別れに納得しようとする自分は、結
局のところ彼らを自分の事情に巻き込む罪悪感から逃れたかっただ
けではないのかと、そんな自己嫌悪をまた彼女は抱いていたのだ。
﹁遅い﹂
魔法士の男に開口一番そう言われて、雫はむっと顔を顰めた。黒
衣を着た男をじろじろと睨み返す。
彼女の部屋に来た兵士の男は名をファニート、そして二人で城を
抜け出た後、彼らを転移門でキスクに移動させた魔法士はニケとい
うらしい。ファニートは無愛想ながらも最初とはうって変わり、そ
れなりの丁重さで雫を遇したが、ニケの方は初対面から彼女を物の
ように見てくる。おまけに彼女やエリクの情報を姫に教えたのも、
ニケなのだと聞いた時は、雫は思わず男の足を蹴りたくなった。
﹁こないだの事件もあんたが何かしたんじゃないの?﹂と彼女は男
に嫌味を言ってみたが鼻で笑われただけである。
キスクの城の一室で謁見の為に着替えた雫を、ニケは品定めする
ように眺めた。おまけのように﹁童顔﹂と付け加えられて彼女は顔
を引き攣らせる。
723
﹁煩いよ、サモトラケ﹂
﹁何? 何を言っている? 馬鹿かお前は﹂
﹁知らないことを言われたからって、すぐに相手を見下してちゃ進
歩が見込めないよ﹂
﹁知る気もないことに自尊心を保つ必要は感じないな﹂
生産性のない応酬を続けようとする二人を、しかしファニートが
遮った。
﹁礼儀を弁えろニケ。姫の客人だ﹂
﹁客人? 玩具の間違いだろう。分を弁え無礼を働くなよ﹂
﹁それはこっちの台詞だって﹂
毒を込めて返した雫はけれど、いざ姫の居るという部屋の前に立
った時、驚いて思わず顎がはずれそうになった。何故ならそれまで
散々彼女に対し、粗雑な態度を示していたニケが、まるで人が変わ
ったかのように落ち着いて丁寧な物腰へと変貌したのだ。
雫の傍にファニートを残し、一人先に奥の部屋へと歩み行った彼
は、声だけ聞いても黒子を思わせる従順さを主君に向って示してい
た。言いがかりに聞こえる姫の非難にも彼は諾々と謝罪を述べる。
雫はつい扉の向こうを覗き込んで、本当に同一人物かどうかを確か
めたくなったくらいだ。
だがそれよりも気になったのはやはり、姫の性格を窺わせる高圧
な発言の数々である。
﹁お前はまったく愚図だ﹂﹁雑用一つできぬのでは飼ってやってい
る意味がない﹂﹁妾に仕えているつもりなら命如きを惜しむな﹂と
重ねられる暴言の数々に、ある程度は覚悟していた雫もさすがに唖
然としてしまった。
ファニートを見上げると、彼は小声で﹁大丈夫だ﹂と返してくる。
何処が大丈夫なのか真剣に問い質したくなったが、彼女は軽くか
ぶりを振っただけで覚悟を決め直した。
724
雫も今更どうこう言うつもりはないのだ。姫の性格が苛烈だとい
うからこそ、彼女は一人でここまで来た。他の誰でもなく自分が姫
の前に立つ為に。
ファルサスでは駄目だ。あの国にはラルスがいて、彼は決して雫
を許容しない。だが別の大国からなら、或いは雫は流行り病への懸
念を払拭できるかもしれないだろう。
少しずつでも認められればいいのだ。生まれながらの言葉を持た
ないということは、決して子供にとって致命的なわけではないと。
もしかしたらこれこそ自分がこの世界に迷い込んだ理
そうすれば病を恐れることも、子供の将来を嘆くことも人はしなく
なる。
︱︱︱︱
由なのかもしれない。
そんな誇大妄想のような発想が脳裏をよぎって、謁見を待つ雫は
つい微苦笑した。
ファニートと目が合うと彼は低く囁いてくる。
﹁発言に気をつけろ。ここから先貴女を守れるのは貴女しかいない﹂
﹁分かってる﹂
彼は、雫が同行する見返りとして、彼女が異世界人であることを
自分だけの秘密にすると約束した。単なる病への対抗者として彼女
を紹介し、雫が姫の相手をしている間、自分なりに帰還の方法も調
べてやると条件を付け加えてきたのだ。
ファニートはファニートで何かの優先順位があるのだろう。彼は
とにかく雫が無事にキスクの城で立ち回ることを望んでいるらしい。
そして雫はその条件を飲んだ。
彼女はファルサス王家の機密である外部者については話さなかっ
たが、代わりに謎の女が持っている紅い本が欲しいとファニートに
要求したのだ。
725
︱︱︱︱
ここから先、自分の道を拓けるのは自分だけ。
雫は緊張に震える足を踏みしめて扉の前に立つ。
大きな善意で彼女を助けてくれた魔法士はもういない。
だから彼の厚意に背くことになった今、せめて弱音は吐かないで
いようと思った。
元の世界に戻れるその時まで、足掻いてもがいてやれることをや
る。その先に後悔が待つのだとしても、どうせ人は皆、先の見えぬ
道を一人歩き出さなければならないのだから。
部屋の中はむせ返る程の香の匂いに満ちていた。
雫は淡く色づいているような気さえする空気に、刹那息を止めた
が、平常心を言い聞かせて歩を進める。
姫は部屋の中央に置かれた長椅子に寝そべり、しどけない姿を見
せていた。顔を半ば扇で隠し、物珍しげに雫を見つめる。
しかし雫は彼女を直接見返すことはせず、軽く目を伏せたまま姫
の前に膝をついた。そうしろとファニートに教えられたのだ。足元
の床を見たまま名乗りを上げる。
﹁初めまして。雫と申します﹂
﹁お前があの男の気に入っていた娘か﹂
雫は黙したまま姫の視線を受けた。
面識がないエリクのことを﹁あの男﹂とは普通呼ばないのだから、
姫が言うのはまず間違いなくラルスのことだろう。
一体どういう誤解がはびこっているのか。雫は自分に関しての風
評を、地引網でも使って全てさらいたい欲求に駆られたが、過ぎて
しまったことを言っても詮無い。第一、今はどれだけ自分の価値を
高く見せられるかが重要なのだ。
姫は濡れて見える琥珀色の瞳を揺らした。雫に向って﹁顔を上げ
726
よ﹂と命じる。
キスク王妹オルティアは雫と同い年、だが見かけは年齢の読み取
れぬ妖艶さを帯びていた。角度によって色を変える珠のように、彼
女は童女にも成熟した女にも見える。妖女というのが一番しっくり
くるだろうか。
淡い色の薄絹を何枚も重ねて纏い、紅布の帯を緩く巻いている。
むき出しになった象牙色の二の腕は同性の雫から見ても忌まわしい
魅力を放っていた。
レウティシアが絶世の美女と言われ、毅然とした水晶に似たイメ
ージを抱かせる女なら、オルティアは黒曜石のように鋭く得体の知
れない引力を持っている。造作の妙こそレウティシアに譲るが不思
議と目が離せない。それを禍々しいと思うか蠱惑的と思うかは人そ
れぞれだろう。
オルティアは雫を見て目を細める。扇の裏から弦を弾くような声
が零れた。
﹁男も連れて来いと命じたのだが。ファニートめ、仕方のない奴だ﹂
雫は射竦められたかのように内心硬直する。
だがここで、﹁やっぱりエリクも連れてくるように﹂と言わせて
はいけないのだ。彼への興味をなくさせ、雫に関心を持たせなけれ
ばならない。彼女は深く息を吸うと、ここに来るまで何度も反芻し
ていた言葉を口にした。
﹁恐れながら、彼はファルサス王妹によって機密の記憶を消されて
おります。もはや姫のご期待に応えられる知識はございません﹂
﹁期待に応えられるかどうかは妾が判断する﹂
鞭のようにしなる言葉が、雫を打ち据える。彼女は反射的に肝を
冷やしたが、オルティアは釘を刺す以上の意味をそこに込めていな
かったようだ。扇を畳みながら﹁あの女は無粋なことばかりする﹂
と続ける。
あの女とはレウティシアのことだろう。ファルサスとキスクはあ
727
まり関係がよくないとは時折耳に入る話であったが、どうやら実情
を伴う噂らしい。
雫は不安を主として様々な感情を瞬間で抱いたが、出来るだけ表
情を変えないよう自分を律した。
オルティアの瞳が心を見抜くかのように彼女を見つめる。
この質問を、雫は待っていた。
﹁それで? お前は何が出来る? 自らの口で言うてみよ﹂
︱︱︱︱
本当は彼女の名も連れてこられた理由も、姫は既に報告を受けて
いるはずなのだ。
その上で、本人の口から改めて聞こうとしている。
雫の器量を測ろうとしているのだろう。姫の意図が分かるからこ
そ彼女は意を決すると、あえて自信に満ちた微笑を作った。背筋を
伸ばしオルティアを見上げる。
﹁姫。わたくしは此度、大陸に広く蔓延しつつある子供たちの病に
ついて、対処法を持ってまいりました﹂
﹁対処法とは? 防ぐのか? 治すのか?﹂
﹁治療を行います。実はわたくしは以前から似た症状の子供たちと
接しておりました﹂
全てが嘘ではない。だが本当でもない答を彼女は返す。
欲しいものは時間と機会だ。それさえ認められれば食らいついて
みせる。
だから出来るだけ興味を抱かせねばならない。援助するに足ると、
この人間に任せてもいいと、姫に思わせねばならないのだ。
﹃本当はこういうのは澪の方が得意なんだけどね﹄
雫は、自分よりずっとしっかりしていた妹のことを思い出す。二
歳年下の彼女は非常に弁が立ち、相手が誰でも怯まず、いつも堂々
と己の主張を言葉に乗せていた。それを煙たがる人間もいないわけ
728
ではなかったが、雫はそんな妹のことを尊敬していたし、格好いい
とも思っていたのだ。
周囲から常に一目置かれる妹にも、弱いところがないわけではな
い。家族なのだからそれは知っている。だが澪ならば、ここで弱さ
時々、自分が長女として、或いは末の妹として生まれ
は見せないだろう。毅然として自分の意志を通したはずだ。
︱︱︱︱
ていたならどうなっていたのか、考えることがある。
もしそうなっていたなら。それでも自分は今と変わらなかったの
だろうか。或いは姉や妹のようになっていたのか。
しかし想像すればする程、答は曖昧になるだけだ。姉妹と同じ可
能性を持っていたようにも思えるし、何番目に生まれても自分だけ
の道があったようにも思える。
けれど雫は、生まれてからずっと彼女たちと共にいたのだ。おそ
らく親よりもお互いを知っている。
だから、彼女は逸らしたくなる視線を一度のまばたきで縫いとめ
た。心の中で呟く。
﹃澪、お姉ちゃんにちょっと力を貸してね﹄
甘い香の匂い。
感覚さえ侵されそうな淀み。
オルティアの目が続きを話せと促す。
雫は気を抜けば震えが出そうになる声を低く保った。意識をクリ
アに、精神を統御し落ち着かせる。
﹁姫様。あの病は防ぐことは困難なれど、対処が出来ぬものではご
ざいません。ただ彼らは従来よりも単語を取り出しにくくなってい
るだけなのです。ほんの数年、僅かながら人が手を加えれば、子供
らは通常通りに言葉を取り戻すでしょう﹂
﹁数年とは。随分気の長い話であるな﹂
﹁今までの子も成長には時間が必要でございました。それに言葉の
729
習得が少し加わるだけです﹂
落ち着いた雫の返答にオルティアは目を細める。姫は閉じた扇を
手の中で鳴らした。
﹁どのように手を加えるのだ? 魔法でも使うのか?﹂
﹁言葉によって言葉を引き出します﹂
雫は、将来得るであろう確信を現在に手繰り寄せて述べる。
元の世界とは違うかもしれない、上手く教えられないかもしれな
いなどと、今は思わない。必ず出来ると信じるのだ。それが雫と子
供たち、両方の未来を作る。
﹁既に言語を習得した人間の言葉が、子供たちの持つ単語への呼び
水となります。魔力も魔法も必要ありません。ただ言葉を知る先達
が手を加えることで、子供らはやがて本来通り支障のない会話をこ
なせるようになるでしょう﹂
﹁ふん⋮⋮誰であっても出来るものなのか? お前でなくてもか﹂
﹁未だ誰もが掴めていない方法を確立できれば、でございますが﹂
ここから先はハッタリを混ぜた駆け引きになるだろう。
言語の教育とは、将来的には誰でも出来るものと思われなければ
ならない。けれど今、雫が不要だと思われては困る。
要らない人間だと思われれば悪くて処分されかねない。だから雫
はあえてもったいぶってオルティアを見返した。
何を考えているのか分からない姫は、嘲弄にも見える笑みを浮か
べた。華やかではあるが毒のある笑顔。雫は内心冷や汗をかく。
﹁お前ならばそれが確立出来るというのか?﹂
﹁姫がお許しくださいますのなら、わたくしは己の案を元にこの国
にて成果をお見せいたしましょう。他国は皆、原因の究明にばかり
目をやり、治療も魔法で試みるだけでございます。ですが魂の何た
るかなどと議論を重ねても、まったく徒労にしか過ぎぬでしょう。
損なわれた子供がそうでなくなれば済むだけのことです﹂
﹁ファルサス王にも、そう弄したのか?﹂
730
鋭い切り返しは、あらかじめ予想していたのでなければひやりと
したに違いない。だが雫はそう言われることも分かっていたし、事
実ラルスは何も知らないのだ。
﹁彼の王には何も。聞き入れられぬと分かっていながら口にする気
はございません﹂
﹁ならば何故お前はあの男の傍に留め置かれていたのだ?﹂
﹁ファルサス王はわたくしが何か得体のしれないものではないかと
疑っておりました。何故そう思われたのかは分かりません﹂
オルティアは喉を鳴らして笑う。笑われたのはラルスか雫か、ま
たはその両方なのかもしれない。
雫にとって幸運なのは、この病はまだ発生し始めてまもないとい
うことだろう。
彼女がやらずともいずれは誰かが、教育によって言語は取り戻せ
るのだと、そのことを確信し大陸中に示すに違いない。
だがその論拠や教育の方法を発表できるまで、そして発表された
内容が広く人々に受け入れられるまでには、おそらく実験や論証を
含め最低でも数年の年月が必要となるはずだ。それと比べれば元の
世界の常識と知識がある雫は、予想できる結論に向って他者に先ん
じたスタートを切れる。
初めから優位にある雫だからこそ、手を伸ばせる子供もいるだろ
う。それらの子供の手を取ることが、今の雫の目的の一つなのだ。
オルティアは再び扇を広げた。琥珀色の瞳だけが雫を嬲るように
凝視する。
﹁結果を出せるか?﹂
﹁必ずや﹂
澪ならばここできっと笑えるだろう。僅かも欠けない信念を持っ
731
て、そう振舞ってみせる。
だから雫もまた誇りに満ちた笑顔を浮かべるのだ。過剰なくらい
の自信を見せて権力者の関心を買う。
ファニートの言うことが真実で、この城にまもなく赤子が生まれ
るのだとしたら、オルティアにとってこの申し出は興を引くもので
そ
あるはずだ。最善が病にかからないことであれば、次善はかかって
しまった病の痕跡をなくすこと。
それが出来るという雫を保険として留めたいと思う︱︱︱︱
の選択に彼女は賭けていた。
いつの間にか強い香に嗅覚が麻痺してしまったらしい。
少しの息苦しさを感じながら待つ雫に、オルティアはふっと笑っ
た。扇を持っていない方の手が、彼女を指差す。
﹁よかろう。そこまで言うならやらせてやろう﹂
数年待って失敗を告げられても迷惑だ。その前
﹁ありがとうございます﹂
﹁ただし︱︱︱︱
に結果を見せてもらう﹂
首筋に水を落とされたかのように、雫は緊張を覚えた。
こう言われるのではないかとも思っていたのだ。無条件で認めら
れるはずがない。何らかのテストを課せられる可能性は十二分にあ
った。
オルティアは扇を投げ捨てると頬杖をつく。肉食獣に似た目が、
隣に控えるニケを見上げた。
﹁この娘に、城内の部屋と捕らえてあった子供を一人与えよ﹂
﹁すぐに手配いたします﹂
姫の命が何を意味するのか、雫は瞬時に理解する。
現キスク王ベエルハースの妹であり、この国の影の支配者とも噂
される女は、優しさの対極にある笑顔で雫を見下ろした。棘という
よりは湾曲した刃の美しさが、そこには見て取れる。
732
﹁そういうことだ。一月やろう。その間に最低でも年相応にまで言
葉を戻せ。出来ぬ時はお前も子供も⋮⋮ああ、言わずとも分かるで
あろうな?﹂
﹁⋮⋮かしこまりました﹂
実地での試験。
覚悟は出来ていたものの、雫は期待とも恐怖ともつかぬ塊がこみ
あげてくるのを抑えることはできなかった。血が滲むほどに拳を握
りこんで頭を下げる。
﹁この身を尽くして、ご期待に応えてみせましょう。姫様﹂
﹁精々妾を楽しませてくれ﹂
雫は深く礼をして立ち上がった。気力を振り絞り退出する彼女の
後姿を、全てお見通しと言わんばかりの笑い声が叩く。
艶めいた女の声はまるで、それ自体がいつまでも背にまとわりつ
き圧し掛かってくるような幻視を、唇を噛む雫にもたらしたのだっ
た。
控えの間を出て廊下にまでたどり着いた雫は、遅れてその場にし
ゃがみこみたい疲労感に襲われた。膝に手をつき、深く息を吐く。
突然足を止めた彼女に、付き添っていたファニートは訝しげに顔
を覗き込んだ。
﹁どうした?﹂
﹁き、緊張した⋮⋮﹂
まったく柄にもないことをしてしまった。
物騒な評判が後を絶たない王妹の前でハッタリ混じりの啖呵を切
るなど、自分でもどうかしていると思う。何を暴走しているのかと
今はこれをやるしかないとも思った。
我ながら呆れるし、後先顧みないにも程があるとは思うのだが︱︱
︱︱
733
雫は上げていた前髪を手で崩すと体を起こす。綺麗に結い上げた
後ろ髪も解きたいのだが、女官がやってくれた為、数も分からぬ程
あちこちにピンが刺さっていた。雫は二本抜いた時点で諦めて手を
下ろす。
﹁あー⋮⋮あんな感じでよかったのかなぁ。見透かされてた気もす
るけど﹂
﹁問題ない。姫は自信家を好むからな﹂
﹁そ、そうなんだ?﹂
﹁大口叩いた後に、失敗した奴を処刑するのがお好きなのさ﹂
物騒な発言は背後から唐突にかけられた。と同時に雫は後ろから
頭を叩かれる。
決して軽くはない衝撃に後頭部を押さえた彼女が振り返ると、そ
こには皮肉な目をしたニケが立っていた。姫の前にいた時とはやは
り別人のような乱暴さに、彼女はむっと眉を顰める。
﹁何すんの。痛いよ﹂
﹁こんなところで突っ立ってるな。さっさと来い。選ばせてやる﹂
﹁選ぶって何を﹂
オルティアがニケに命じていたのは部屋と子供の手配だ。なら部
屋でも選びに行くのだろうか。どんな部屋でも正直どうでもいい、
そう思いかけた雫はしかし、ニケの返答を聞いて唖然とする。
﹁子供に決まっているだろう、馬鹿が。お前が心中する子供だ。実
験室に案内してやるから好きに選べ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
一瞬のうちに聞き捨てならないことを複数言われた。
言われたのだが自分に関することはとりあえず脇に置き、雫は一
番引っかかったことについて眉を上げる。
﹁実験室って何よ﹂
﹁言葉を与えると言った割には、実験室の意味も分からないのか?
まず自分の頭の不自由さを何とかしたらどうだ﹂
﹁はぁ?﹂
734
︱︱︱︱
これは殴りたい。
何故どの国に行っても殴りたくなるような人間がいるのか。
雫は額に青筋を浮かべつつ笑顔を作った。わざとらしい外面で聞
き返す。
﹁実験室の意味は分かります。何故そこに子供がいるのかを尋ねた
いんですが。文脈を読み取れない魔法士さん﹂
﹁何だと?﹂
﹁待て、二人とも﹂
一触即発となりかけた雫とニケの間に割って入ったファニートは、
同僚の肩を押さえ、雫に向かって軽く手を振った。両者の間に充分
な距離を取ると、彼は雫に向き直る。
﹁病気の研究の為に三ヶ月程前から子供たちが極秘で城に集められ
ている。貧民街のみなし子や犯罪者の子が主だが、彼らは今、原因
究明や治療の為の実験台となっているのだ﹂
﹁何それ⋮⋮実験台って⋮⋮﹂
﹁いいから来い。童顔女﹂
ニケは言い捨てると、雫が反撃に出る前にさっさと廊下を歩き出
した。その後を彼女は慌てて追う。
大陸中何処でも言葉が通じるのだ。同じ大国なら何処もさして変
わりはないだろうと思っていた。
だが⋮⋮それぞれの国にはそれぞれの闇があるのかもしれない。
雫は胸の悪くなる思いを予感しながら足早に長い廊下を歩いてい
く。そして彼女は﹁実験室﹂にて、その暗部の一端に触れることと
なったのだ。
まず聞こえてきたのは金属的な泣き声だった。それも一つではな
い。いくつかの泣き声が重なっている。
雫は子供の泣き声に気づいてすぐ隣を歩くファニートを見上げた
735
が、彼は黙ってかぶりを振るだけだった。
少し先を行くニケは突き当たりの扉の前で足を止める。彼がドア
に手を触れさせると、両開きの扉が重い音を立てて奥へと開いた。
途端に大きなものとなる声の激しさに、彼女の足は一瞬止まりかけ
たが、それよりも早くニケが振り返って奥を指す。
﹁ほら、さっさと来い。いちいちとろい女だな﹂
そ
男の嫌味にも腹は立ったが、尋常ではない泣き声に今は答える気
になれない。
黙って中に入った雫は広い部屋の様子を視界に入れ︱︱︱︱
して言葉を失くした。
他に何も聞こえなくなる程の大きな泣き声は、部屋の中央に描か
れた魔法陣から響いている。そこには粗末な服を着た二、三歳の子
供たちが五人、陣の中心に集められていた。
彼らの小さな足には例外なく枷がつけられており、石床から伸び
る鎖がその枷を繋ぎとめ、逃げられないように拘束している。子供
たちは、ある者は大声で泣きながら両手をばたばたと暴れさせてお
り、ある者は虚ろな目でひたすら枷のつけられた足を掻き毟ってい
た。
それだけではなく部屋のあちこちではやはり同じくらいの年の子
供たちが、他の魔法陣や魔法具に縛り付けられ泣き声を上げており
、中には体を押さえられ採血をされている子供や、平手を上げた
魔法士の前で、頭を抱え蹲っている子もいた。
雫が呆然と自失してしまったのは、それが彼女の抱く常識からあ
まりにもかけ離れた光景だったからだ。
魔法陣に縛られた子供が彼女たちに気づいて伸ばす手の方向を変
えた時、そして陣を調整していた男がその手を打った時、雫はよう
やく我に返った。考えるよりも早く言葉が口をつく。
﹁何してんの!?﹂
736
怒りと驚きが入り混じった悲鳴。
けれどそれは、部屋中に鳴り渡る泣き声にかき消され、ほとんど
の魔法士には気づかれなかった。ただ一人、比較的近くにいた男だ
けが振り返って眉を顰める。
﹁何だ? 部外者か?﹂
﹁違う。姫の客人だ。実験体を一人もらいにきた﹂
ニケがぶっきらぼうに答えると、男は明らかに不快な表情になっ
た。手元の書類に目を落としながらぼやく。
﹁またか⋮⋮。子供らも際限なくいるわけではないんだがな﹂
﹁文句があるなら姫に直接言うといい﹂
切り返された男は瞬間で顔を紅くした。侮蔑の目でニケを睨むと
小さく文句を吐き捨てて踵を返す。雫にはそれが﹁犬め⋮⋮﹂と言
ったように聞こえたが、部屋中がうるさいので自信はなかった。ニ
ケの顔も見上げたが男は眉一つ動かしていない。
彼は雫の視線に気づくと顎で魔法陣を示す。
﹁どれでも好きな子供を選べ。早くしろ﹂
﹁早くしろって⋮⋮何これ。一体何なの?﹂
﹁見たままだ。病についての実験をしている。体内に魔力を通して
反応を記録したり、構成を精神に埋め込んで魂に変化を及ぼそうと
したりな﹂
﹁実験って、泣いてるよ!?﹂
﹁そうだな。気も散るし精神魔法をかけて黙らせられればいいんだ
が。余計な魔法がかかっていると正しい測定が出来ない﹂
意図的にはぐらかしているのか違うのか。
雫は自分の頭に瞬時で血が上るのを自覚した。平静なニケの胸倉
を掴み上げようと手を伸ばす。
だがその手が男の服にかかるより早く、背後からファニートが彼
女の肩を叩いた。男は平坦ではあるが溜息混じりの声で雫を宥める。
﹁はじめはここまで酷くなかった。が、一向に成果も出ずにいると
737
貴族たちがうるさくてな。ファルサスより早く結果を出せとせっつ
いてくる。魔法士たちも不興を買えば命に関わる。実験は苛烈にな
らざるを得ず、事態は悪くなる一方だ﹂
﹁だからって⋮⋮﹂
それ以上の言葉は続かない。雫は自分に向って必死に手を伸ばす
人権など、貴族の欲の前には無意味だ。
子供を見つめた。
︱︱︱︱
いつか彼女にそう言ったのはエリクであったが、この部屋の有様
もその一つの例なのかもしれない。親のいない貧しい子や罪人の子
には守られる権利が与えられない。ひたすらに泣き叫んで、疲れて
壊れていくだけだ。
何度も殴られたのだろう、痣だらけの体を抱えて部屋の隅に蹲る
子と、その前でひたすら書類に何かを書き込む女を、雫は眺める。
悲痛な泣き声を誰もが顧みない。大人も子供も自分のことで手一
杯のまま、部屋の中は僅かの光明も見えず停滞していた。
雫は中央の魔法陣に歩み入る。
小さな体で鎖を引き摺り手を伸ばす女の子の前に、彼女は膝をつ
いた。両腕を伸ばし痩せた体を抱きしめる。温かく柔らかい体。だ
が、血と汗の匂いしかしない命に涙が滲んだ。彼女は子供の肩口に
顔を埋める。
この国に来ることを選んでよかったと、
同情かもしれない。偽善とも言えるだろう。
だがこの時雫は︱︱︱︱
本心からそう思ったのだ。
子供は驚いたのか怖いのか彼女の腕の中でもがく。その体をそっ
と包みながら雫は囁いた。
﹁大丈夫⋮⋮怖くないよ﹂
738
﹁そいつにするのか?﹂
頭上から降りかかる冷ややかな声に子供は震えた。雫は沸き起こ
る怒気に、奥歯を軋むほど噛み締める。何処まで厚顔であれば気が
済むのか。顔を上げると、鍵束を手にニケが二人を見下ろしていた。
傲然としたこの男の何もかもが腹立たしい。彼女は怒鳴り声をあ
この子にする。だから、他の実験はやめさせて﹂
げそうになるのをかろうじて堪えた。
﹁︱︱︱︱
﹁それは出来ない。この実験は王の命令だ。仮に姫が止めろと言っ
ても止められない﹂
﹁こんなことをする必要はないって言っても?﹂
﹁誰がそれを証明する﹂
情味のない宣告。
だがそれは紛れもなくこの世界の事実なのだ。
現時点では誰も証明出来ない。踏み出そうにも確信が持てないで
あろう。ただ一人、雫を除いて。
彼女は歯軋りして押し黙った。ニケは隣に膝をつくと子供の足枷
をはずす。それを見て、自分もと思ったのだろう。蹲って足首を掻
き毟っていた子が目を見開いた。雫に向って手を伸ばそうとする。
けれど小さな手が届く寸前、ニケはそれを無造作に払った。子供
は後ろに尻餅をつき、驚きの後に大声で泣きだす。
﹁何すんの!?﹂
﹁一人だ。それ以上連れて行ってどうする。道連れを増やす気か?﹂
人間じゃない、と、声を荒げかけた雫を男は暗く沈ん
﹁あんたは⋮⋮﹂
︱︱︱︱
だ目で見返した。
真っ直ぐに向けられる視線。
それは一瞬ではあったが、彼女と同じくらい強く、また息を飲む
程に凍りついている。
時が止まったかのように言葉を切る雫を、ニケは睨んだ。
739
誰が、何を思って、こうなっているのだろう。
ファルサスでは少なくともこうではなかった。中庭で出会った子
供は健康そうな体と、人に甘え笑える心を持っていたのだ。
誰も止められないのか。反対を述べられないのか。怒りと失望が
入り混じった目で雫はニケを見返す。
男は正面からその視線に応えたが、すぐに目を逸らすと大きな手
を転んだ子供の足首に伸ばした。唾棄するように言い捨てる。
﹁腹が立つならやり遂げろ。逃げるな﹂
男の手の平に淡い光が見えた。光は子供の足首に絡みつき、皮膚
に刻まれた傷跡を消していく。雫は信じられない思いでその光景を
出来ることをするだけだ。
見やった。何も言えぬまま、選んだ子供を腕の中に抱きしめる。
︱︱︱︱
今までも何度も、そう思ってきた。事実その通りに足掻いてきた。
それでも⋮⋮今ほどに自らの選んだ重みを感じたことはない。
雫の腕の中には、自分で自分を守ることも出来ない命がかかって
いるのだ。そして誰もこの責を代わることはできない。
彼女は胸に届く体温を感じながら目を伏せる。沢山の吐き出した
いことを苦味と共に飲み込むと、僅かにだけ震える声を紡いだ。
﹁⋮⋮一月後を、待ってなさいよ﹂
﹁ああ。逃げたくなったらいつでも言え。殺してやるから﹂
それ以上、雫は一言も返す気になれなかった。
沈黙する彼女の手からファニートが子供を抱き上げ、部屋を出る
ように促す。
やまない泣き声は扉が閉まる音と共に小さくなった。だがそれは
いつまでも彼女の頭の中で響いて、消えないままだったのである。
740
002
城の隅にある小屋は、もとは庭師の為の物置だったのだという。
そこに手を入れて人が住めるようにしたという離れは、小さな場
所ではあったが子供と二人暮らすには充分過ぎるものに、雫には思
えた。少し埃っぽい室内を見回す彼女に、男が紙を差し出す。
﹁これが必要単語だ﹂
﹁多い! っていうか分からないのが混ざってる!﹂
ファニートが差し出したリストには、細かい字で単語がぎっしり
と書き込まれていた。その中には見覚えがある単語も勿論多いが、
そうではないものも三割程は見て取れる。
雫が異世界人であることを知っている男は﹁分からないのはどれ
だ?﹂と聞いてきた。読み方を教えてくれるつもりなのだろう。だ
が彼女は首を横に振ると、一旦そのメモをポケットへと仕舞いこん
だ。
﹁ちょっと待ってて。明日までにメモしちゃうから。そしたら教え
て﹂
﹁明日でいいのか?﹂
期限は一月しかない。そしてそれには彼女と子供、二人分の命が
かかっているのだ。急がなくていいのかと彼が聞くのも無理ないだ
ろう。
雫は苦笑すると、足元にいる女の子を見下ろす。淡い茶の瞳には
恐怖と期待のどちらともつかぬ感情が揺らいでいた。
﹁明日でいいよ。今日はちょっと掃除したいし。分かる単語からや
っててもいいわけだから﹂
741
﹁そうか。必要なものがあったら言うといい。厨房にも話は通って
る﹂
﹁分かった。ありがとう﹂
ファニートはまったく感情を見せぬまま小屋を出て行く。そう言
えば、﹁彼﹂もファニート程ではないがあまり表情が変わらなかっ
たな、と雫はほんの数日前のことを懐かしく思い出した。
けれど今は今。これからのことを考えるべきだろう。雫はしゃが
みこむと、女の子と目線を合わせる。
﹁これからよろしくね。名前言えるかな?﹂
ゆっくり話しかけると、子供は何を言われているのか分からない、
といった表情になった。言葉が分からないのか、それとも今までの
仕打ちにより上手くコミュニケーションが出来ないのか。雫は少し
考えたが、相手が不安に思うよりも早く笑いかけた。自分の顔を指
差す。
﹁雫。シズク、だよ。シズク﹂
﹁⋮⋮シズ、ク?﹂
﹁そう。シズク。あなたは?﹂
今度は子供の顔を手で示した。再びの間。だが雫は目を逸らさず、
信頼が欲しいのなら、まず自分から誠意を見せなけれ
笑顔も崩さない。
︱︱︱︱
ばならないだろう。それは相手が誰であっても同じことだ。
ここから新しく二人の関係を築いていく。だからお互いの名前を
確認してその第一歩を踏み出すのだ。
子供はしばらく困惑を顕にしていたが、雫を指差し﹁シズク?﹂
と尋ねて頷き返されると、自分を指して小さく﹁リオ﹂と答えた。
咳一つすれば消えてしまいそうな返事に、けれど雫は穏やかな微笑
を向ける。
﹁じゃあリオ、これから一緒に頑張ろう﹂
両手を差し伸べるとリオは不安そうな目を見せた。だが、それで
も彼女はおずおずと歩み寄り、雫の腕の中に収まる。
742
小さな温かい体。
この温度が彼女に人の命を思わせる。走らなければという気にさ
せる。
綺麗事で結構だ。綺麗事を望む人の心は綺麗なばかりではないと、
皆が知っている。
だがそれでも手を伸ばしたいと思うなら、それもまた人の性なの
だろう。
時には幻想も人の心を支えるには必要なものなのだから。
﹁頑張ろう﹂
返事のない呼びかけを雫は繰り返す。痩せた体を抱く腕を意識す
る。
そしてこの日を一日目として、彼女の新たな生活は始まったので
ある。
最初の日は小屋を掃除して簡単な食事を作り、リオに食べさせる
うちにあっという間に終わってしまった。疲れているのか早々と寝
入ってしまった彼女に掛布を掛けた後、雫はあらためて﹁テスト範
囲﹂に向き合う。一つ一つの単語と、自作の辞書ノートをつきあわ
せながら、彼女は単語の横に英語で意味を書き加えていった。
予想はしていたが、思っていたより数が多い。
ほとんどは名詞と動詞であるが、その数はざっと数えてゆうに六
百以上はあるようだった。
だが、その全部を覚えなければいけないわけではない。リオが生
得単語を思い出せなくなったのは約五ヶ月前。それ以前は彼女も従
来通り言葉を身につけていたのだ。テスト対象外であるそれらの単
語には、軽くチェックが入れられている。両者を差し引きすると、
覚えさせなければならない単語はほぼ四百語弱と見て取れた。
743
雫はあまりにも多いその数に、さすがに瞬間気の遠くなる思いを
味わう。
﹁まだ三歳だもんね⋮⋮いけるかな﹂
しかし無理とは言っていられない。今考えなければならないのは
可能かどうかではなく、どうやるかの問題なのだ。
彼女はすぐに気を切り替えると、分かる単語の中から動物を示す
単語を抜き出す作業に取り掛かった。手持ちのルーズリーフを使っ
て一枚一枚イラストつきの単語カードを作っていく。
文字は教えなくてもいい。必要なのは対象と名称の関連だけだ。
ただ、本来生得的であったものを教育によって覚えさせるという
ことは、どれだけ汎用性を持たせられるかという問題も関わってく
るだろう。絵の猫を見て﹁猫﹂と言えても、実物を見て分からない
ようでは駄目なのだ。それは難しい点ではあるが、実際にリオと向
き合いながら対策していくしかない。
カードを作りながら雫は同時に、分からない単語の抜き出しも行
う。
読めない単語の数々。これがただ自作の辞書に載っていないだけ
ならともかく、雫が存在自体知らないようなものだったら厄介この
上ない。詳しいことをファニートに確認しなければならないし、そ
れでなくともこのテストにおいて彼の協力は不可欠だろう。
雫は五十枚のカードを作り、単語の抜き出しを終えるとリオと並
んで眠りにつく。
疲れて夢も見ないだろうと思ったが、うとうとと浅い眠りについ
た彼女はその晩、妹がまだ小さかった頃の夢を見たのだった。
﹁走っちゃダメよ﹂
小さな手をぎゅっと握ると澪は頷く。こうして確認しながら行か
ないと、すぐ彼女は興味を持ったものに引き寄せられてしまうのだ。
744
雫は横断歩道に辿りつくと何度も左右を確認して、妹の手を引く。
あの時、二人だけで一体何処に向っていたのだろう。
﹁ほら、行こう。青になった﹂
︱︱︱︱
そのことは少しも思い出せない。ただ慎重に慎重に二歳の妹と歩
いていく光景が思い浮かぶだけだ。もしかしたら、これは記憶では
なく夢なのかもしれない。作られた記憶。澪と出かけたというだけ
の夢。
浮かび上がってくる光景はいつも、金木犀の花を二人で見上げた
ところで終わる。
﹁きれいね﹂というどちらかの言葉を合図として︱︱︱︱
翌日朝からやって来たファニートは、リオが遊んでいるカードを
見て驚いたようだった。一枚を手に取り注視する。
﹁器用なものだな﹂
﹁絵と単語が結びつけばと思って。こういうの得意なんだ﹂
﹁本職は何だったのだ? 職人か?﹂
﹁学徒だよ﹂
男が納得の声を上げたのは、雫の年齢のことも大きく影響してい
るだろう。この世界では童顔もあいまって彼女はおおむね﹁少女﹂
に見えるのだ。
いい加減こちらに迷い込んでから半年が経過している。そろそろ
十九歳と言っていいのかもしれないが、正確な暦が分からないので
断言できない。もっとも﹁十八歳﹂と言っても胡散臭げな目で見ら
れるのだから、十九歳と言ったらどうなるのか、考えると頭が痛か
った。
﹁それよりこれ。分からない単語を教えて欲しいんだけど﹂
﹁ああ、分かった﹂
雫は隣に座るリオに細かく話しかけ、描かれた動物の名前を当て
745
ると﹁そうそう﹂﹁えらいね﹂と誉めながら、片方でファニートの
説明を聞き、メモを書き取っていく。三歳児の覚える単語とあって、
そう難しいものはないのだが、中には雫の知らない生き物も混ざっ
ていた。﹁ネタイ﹂という動物の名に彼女は眉を顰める。
﹁それって何? 絵に描ける?﹂
﹁無理だ。私は絵が得意ではない。妖精と動物の間くらいの生き物
なのだが⋮⋮絵が描かれている本を探してこよう﹂
﹁お願い﹂
確認が終わると雫はリストを見て頷いた。リオには見せない疲れ
が、瞬間男を見上げる瞳に過ぎる。
﹁試験ってどんな形式になるのかな。これ全部試されるの?﹂
﹁いや。中から百語を選ぶ。絵を示して名を問うか、実物を示すか
だが、実際どうなるかは分からない﹂
﹁姫が問題を決めるの?﹂
﹁ニケだ。前回も奴が担当した﹂
﹁前回?﹂
その言葉は雫の心胆を寒からしめた。
今までこんなテストを受けるのは、自分の他にないと思っていた
のだ。ファニートの言うことが何を意味するのか、分かっていなが
らも尋ねずにはいられない。雫は躊躇いながらもそれを問う。
﹁前があったの?﹂
﹁あった。それぞれ別の主張をした人間が四人﹂
﹁⋮⋮成功した?﹂
﹁していたら私は貴女を連れて来なかった。実験室で魔法士が﹃ま
たか﹄と言っただろう?﹂
雫はそれ以上の追究をやめた。形容し難い気分の悪さを、リオの
前で言葉にしたくなかったのだ。
評判に違わずオルティアのやることは容赦がないらしい。現在そ
の俎上に乗っている彼女は前髪をかき上げながら目を閉じる。
746
﹁貴女にだから言うが、このような試みは馬鹿げている。結果を出
せない者に任せていてはいずれ取り返しのつかないことになるだろ
う﹂
男の声は彼の心情とは別に空々しく雫に響いた。
﹁取り返しのつかないことになるかも﹂というのは、彼が先を見て
いる人間だからこそ言える台詞なのだ。ファニートにとって、既に
失敗しまった人間はその中には入っていない。そして或いは、今が
そんな皮肉を考えてしまったのは、少し気がささくれ
全てとなる雫でさえも。
︱︱︱︱
ているからだろうか。
雫は鋭く息を吐いて気分を切り替えた。心配そうに見てくるリオ
に微笑み返す。
男は静かな諦観に似た空気を面に漂わせた。
﹁貴女にならば、出来るのだろう?﹂
﹁出来るよ﹂
可能性がないのなら最初から引き受けない。
彼女が言い捨てると、ファニートは微苦笑した。出されたお茶に
彼はようやく口をつける。
﹁それにしても⋮⋮ニケか。私、あいつ苦手なんだけど﹂
﹁仕方ない。奴は姫のお気に入りだ﹂
﹁え。あの二重人格が?﹂
﹁だからだ﹂
ファニートの返事の意味は、雫にはいまいち理解できなかった。
だが男の声音には好意的なものは感じられない。むしろ真逆の微粒
子が含まれているような気がした。
彼が立ち去ると、雫はリオとの会話に本腰を入れ始める。
林檎の皮をくるくると剥いていく。ナイフが果実を白くするに従
747
って、リボンのように皮が伸びていくのをリオは期待の目で見やっ
た。
雫は大体を剥き終わると林檎を更に食べやすいよう切り分ける。
こういったナイフ使いは、いつの間にか元の世界にいた時より大分
上手くなっていた。
﹁ほら、林檎﹂
﹁りんご﹂
﹁そう。いい子ね。林檎どうぞ﹂
小さな欠片にして摘み上げると、リオは大きく口を開いた。その
中に雫はそっと一片を差し入れる。雫は自分の分に歯を立てると﹁
美味しいね﹂と笑いかけた。子供は﹁おいしーね﹂と返してくる。
﹁皮は、﹃赤い﹄。中は﹃白い﹄。⋮⋮分かる?﹂
﹁あかーい?﹂
﹁うん。これが赤﹂
﹁しろ﹂
剥いた皮の表面を指差しながらそう言う子供に雫は苦笑した。だ
が上手く理解されなかったからといって、凹んでも投げ出してもい
られない。彼女はもう何十回目になるか分からない訂正を口にする。
﹁白。これも白、あれも⋮⋮白。白い、色﹂
﹁しろ?﹂
﹁白﹂
リオと暮らし始めてから二週間近くが過ぎたが、彼女は充分に飲
み込みの早い子だった。
もっとも幼児期は爆発的に成長するものだとも聞くのだから、彼
女だけが突出しているわけではないのかもしれない。既に遊びで使
う動物のカードはあらかた覚え、日に何度かは散歩に出て実物があ
るものを確認している。
実験室での日々の為か、リオは怯えることも癇癪を起こすことも
日に何度かはあったが、雫はそれを何とか収めていた。子と共に暮
らし、遊びを兼ねた勉強に時間を費やす日々は、やがて待つ試験を
748
考えなければ穏やかとも言えただろう。
﹁あか﹂
﹁白だよ﹂
飲み込みは確かによいのだ。花の名前など、写実的に描いたカー
ドを作ったせいもあるのだろうが、絵でも実物でも名を当てられた。
ただどうしても、間違って覚えているらしい単語はいくつか存在
する。雫はそれについて丁寧に何度も何度も訂正を入れているのだ
が、中々直ってくれないのが現状だった。
リオは雫の困った気配に気づいたのか自分も心配そうな顔になる。
くすんだ金髪の小さな頭を雫はそっと撫でてやった。
焦ってはいけない。不安にさせてはいけない。
﹁いいよ。これはゆっくり覚えればいいから。おやつ食べたら外に
行こう﹂
︱︱︱︱
度々雫はそう自分に言い聞かせているのだが、やはり未修得単語
の数と残りの期日を考えるだに、嫌な緊張も高まってくる。失敗し
た時に待っているのは追試などではなく、ただの死なのだ。それも
自分とリオ二人分の。
あの時の雫に﹁挑まない﹂という選択肢はなかった。だがそれで
も壁の高さを意識するだに、後悔に苛まれそうな時もある。そんな
切迫感を感じている時などにリオが間違えると﹁どうして分からな
いの?﹂という非難がつい口をついて出そうになり、咄嗟に唇を噛
むことになるのだ。
雫は甘く煮た林檎を残りのおやつとしてリオに出すと、彼女が時
間をかけて食べ終わるのを待った。汚れた手と口を拭いてやり、服
を調える。
﹁よし。お外行こう﹂
城の庭は広い。あまり表の方には行かないようファニートに言わ
れていたが、裏庭を回るだけでも充分過ぎる程だった。ついでに食
749
材を貰いに行こうと、厨房に通じる裏口に向う途中で、雫は甕を抱
えた女官二人と出会う。
﹁あら、雫さん。リオも﹂
笑顔で声をかけてきたのはユーラという雫と同い年の女官で、非
常に人懐こい愛想のよい女性だ。雫が小屋に暮らし始めてから、何
かと気にかけて入用のものがないか尋ねに来てくれており、リオも
彼女を知り合いと認識している。
﹁こんにちは! ユーラ、ウィレット﹂
﹁こ、こんにちは﹂
ユーラの影に隠れるようにして頭を下げた少女はウィレット。彼
女はまだ十五歳で、今年から行儀見習いも兼ねて城で働きはじめた
のだという。ウィレットは人見知りらしく、出会っても大声で挨拶
をしてくることはないが、近くを通った時は真っ赤になって頭を下
げてくる。
この国に来て、強烈なオルティアの他に、鉄面皮のファニートや
意地の悪いニケなどとしか話したことのない雫は、﹁普通﹂である
二人を好ましく思っていた。
﹁雫さんお散歩ですか?﹂
﹁です。厩舎に行って馬を見ようと思って﹂
﹁あら、いいですわね。そう言えば厨房にいいデウゴが入りました
から。少し取り分けて置きますわ。帰りに声を掛けてください﹂
﹁ありがとうございます!﹂
雫が両手を鳴らしてお礼を言うと、隣のリオも﹁ありがとーざい
ます﹂と復唱する。その様子が可愛らしくて雫は彼女の頭を撫でた。
デウゴは雫の知らないこの世界の果物だ。ファルサスなどではよ
く見た柑橘類だが、この単語もテスト範囲に入っている為、実物が
もらえるのはありがたい。
二人にもう一度礼を言うと、雫はリオの手を引いて厩舎へと向う。
750
馬は離れた場所から見ても、充分に大きく迫力があった。
興奮するリオが近づいていかないよう充分に注意しながら、雫は
近くにあるものの名称を確認していく。﹁馬﹂﹁草﹂﹁車輪﹂など
一つ一つを指し示し﹁あれ、なーんだ?﹂と聞くと、リオは気が
散るのか煩わしげにかぶりを振ったが、何度も聞くとぽつぽつと答
えていった。正答が二十を越えたところで雫は休憩を入れ、遊びた
がるリオの好きにさせてやる。
﹁あと二週間か⋮⋮それにしても二千六百って少ないよね﹂
期間中に覚えさせなければならない四百単語自体は多いと感じた
が、それとは別に考えると全部で二千六百という生得単語の数はむ
しろ少ないのだ。それは、人の思考や会話で用いられる単語全てに
は遠く及ばない数だろう。生得単語の組み合わせによって作られる
という合成語の方が、遥かに多いはずだ。
﹁合成語は教育で覚えるっていうんだから⋮⋮生得単語も教育出来
るって発想にならないのかな﹂
厩舎の周囲を囲う柵に頬杖をついて雫は嘆息する。
全ての単語が教育によって得られる世界出身の彼女からすると、
この世界では生得単語と文法の
そう思わないことこそが不自然に感じるのだが、それはこの世界の
考え方とは異なものなのだろう。
理解があらかじめ備わっているからこそ、先も得られると思われて
仮に元の世界で、急に子供たちが泣けなくなったとし
いるのだから。
︱︱︱︱
たら。
それを教育によって取り戻そうと思う人間はまず当分は現れない
に違いない。
更には﹁生得的に人は泣くことが出来ない世界﹂があったとして、
その世界の人間に﹁教育を受ければ泣くことも感情を抑えることも
出来るのだから、まず教育すればいい﹂などと言われても、皆、ぽ
かんとしてしまうはずだ。それよりは何らかの異常を真っ先に疑い、
751
原因究明しようとする様がありありと想像できる。
有史以来染み付いてきた常識を覆すことは困難だ。コペルニクス
的転回は誰もが到達できるものではない。
雫はそのことを理解しながらも、頭の痛い思いに襲われて溜息を
ついた。少し離れたところで草をむしるリオを見やる。
﹁壁は高い⋮⋮。というか、私が教えてもいいのかな﹂
何でか言葉は通じているようだが、どういう仕組みで通じている
のかは分からない。この状態で異世界人である彼女が言語を教えて
も支障はでないのだろうか。
同じ文章を翻訳しても、訳者によって大きな違いが出てしまうこ
とはしばしばある。ましてや雫には、日本語と大陸言語の差異が感
じ取れないのだ。せめてそれが分かれば慎重に訳語を選べるのだが、
果たしてリオに雫の言葉は齟齬なく通じているのか。
風に溶け込む彼女の呟きはいたしかたない悩みではあったが、そ
れはすぐに棘を持って返された。﹁気が挫けたのか? 根性のない
女だな﹂という声が背中に突き刺さったのだ。
発言の主が誰であるかなどと考えるまでもない。数少ない会話で
も、男の嫌味と声はよく記憶に残っている。雫はあからさまに舌打
ちしながら振り返った。いつの間にか背後に立っている男を睨む。
﹁何の用? 喧嘩なら他に売って欲しいんだけど﹂
﹁随分暇そうに見えるな﹂
﹁考えごとしてるの。子供の集中力は長く持たないし、計画的にや
らないと﹂
﹁もうあと二週間だ﹂
﹁分かってるって﹂
鼻を鳴らしながらのニケの言葉に、雫はぶっきらぼうに言い捨て
た。
期限が迫っていることなど、誰よりも彼女がよく分かっている。
752
期間は半分を過ぎた。だが、覚えていない単語はまだ二百以上残っ
ているのだ。
毎晩覚えられた単語と、いつも間違う単語、そして残っている単
語を数えて悩んでいるというのに、いちいち分かりきったことを言
わないで欲しい。これでニケがわざわざ彼女を揶揄しに来たのだと
したら趣味がいいにも程があるだろう。
早く帰れと言わんばかりの目で、雫は自分より少し背が高いだけ
の男を見返した。
﹁あんたこそ暇そう。仕事すれば? 姫様のところに行くといいよ﹂
﹁呼ばれてもいないのに行ったら不興を買うからな﹂
﹁ならぎりぎりのところで潜んでなよ。忍みたいに﹂
﹁シノビ?﹂
ニケは眉を顰めたが、聞き返してくるまではしなかった。雫はこ
れ以上嫌味を言われる前に、﹁もう帰るよ﹂とリオを手招きする。
リオは雫の声に振り返ったが、ニケのことを覚えているのか、そ
れとも魔法士が皆が着ている魔法着のせいか硬直して戻って来よう
とはしなかった。一歩でも男が踏み出せば逃げ出してしまいそうな
子供の様子に、雫は顔を顰める。
﹁さっさと帰ってよ。リオが怖がってる﹂
﹁俺を怖がっていては試験すら出来ないだろうな﹂
﹁⋮⋮あんたが担当したんだってね、前も。前も試験にならなかっ
たの?﹂
痛いところを突かれた彼女は、矛先を微妙に逸らしてつき返した。
確かにこれでは試験どころではない。リオにはよく言い聞かせね
ばならないだろう。雫は帰ってからやることに一つ付け加える。だ
がそれはリオのせいではないのだ。皮肉をぶつけられたニケは、怯
える子供の方を向いたまま横目で雫を一瞥した。
﹁試験以前の話だ。奴らは子供を教育しようなどとは思わなかった﹂
﹁じゃあ、何を?﹂
753
﹁魂の欠損を禁呪で埋めようとした奴や精神魔法で成人の知識を移
行させようとした奴。
肉体的な病だと言って魔法薬を投与し続けた奴もいたな。子供は
途中で死亡したが。ああ⋮⋮神の力に頼る奴もいた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
聞かなければよかった。
雫は陰惨な内容にまずそう思ったが、それとは別に最後の人間に
ついて疑問を持った。不快を押し込めて聞き返す。
﹁神の力? そんなものないんじゃないの?﹂
﹁と、皆が思っているし俺も思っている。けどそいつは熱心なアイ
テア信徒だった。奴が言うには、かつては生得単語は固定されてい
馬鹿馬鹿しい﹂
なかったらしい。それが固定されたのは神代以降だからと言って、
単語を取り戻すべく祈りに頼ったんだ。︱︱︱︱
今の話の何かが引っかかる。
﹁え、ちょっと待って﹂
︱︱︱︱
その違和感を確かめるべく、雫は慌てて口を挟んだ。ニケは眉を
寄せて彼女を睨む。
﹁何だ?﹂
﹁かつては生得単語が固定されてなかったって⋮⋮本当?﹂
﹁知るか。そんな記録は残ってない。ただの妄言だろう﹂
﹁だって、その人がそう思ったからには何か根拠があったんじゃな
いの? 聖典とかないの?﹂
﹁おかしなことを聞く奴だな。アイテア神教に聖典なんかない。何
処の田舎の人間だ?﹂
雫は反射的に口をつぐんだ。出身を怪しまれては不味いのだ。彼
女は無言のまま頷く。
だが、慎重になると同時に掴みかけていた疑問も霧散してしまっ
た。何がおかしいと思ったのか、それももう思い出せない。第一そ
の主張をした本人に聞こうにも、失敗した人間は既に処刑されてし
754
まっているのだ。雫は自分の立場を思い出し陰鬱な気分になった。
草の上にしゃがみこ
ニケは彼女を睨んだまましばらく黙っていたが、それ以上雫が口
を開かないと分かるとリオに視線を戻した。
み子供を手招く。
﹁ほら、来い﹂
﹁リオに何するの﹂
﹁何もしない。童顔は黙ってろ﹂
雫はつい作ってしまった拳を男の後頭部に向かって振るいたくな
った。しかし、その前にニケはポケットから何かを取り出す。
﹁来い。これをやるから﹂
彼がリオに向って差し出したのは、色取り取りの紙につつまれた
菓子のようだった。硬直していた子供の目の色が変わる。赤や黄色
の紙は彼女の好奇心を激しく刺激したらしい。リオはニケと雫の上
に視線を往復させる。
ニケは一体何をしたいのか。疑問に思いつつも雫が笑顔を作って
頷くと、リオは恐る恐る足を踏み出した。菓子を差し出したまま動
かない男に向かってそろそろと近づき、ついには飴の一つを手に取
る。
﹁全部持っていっていいぞ。そっちの手も出せ﹂
もう一つを取ろうとしていたリオは困った目で雫を見上げた。彼
女が両手で器を作る仕草をしてみせると、同じように小さな手を揃
えて上を向ける。ニケはその中に持っていた菓子を全て注いだ。目
を輝かせる子供に微笑する。それを見た雫は、意外さに思わず絶句
してしまった。
﹁あんたって⋮⋮﹂
﹁何だ?﹂
﹁⋮⋮何でもない﹂
突然立ち上がった男にリオは瞬間びくっと驚いたものの、すぐに
菓子へと注意を戻す。
755
そしてその様子を背に雫を振り返ったニケは、既にいつも通りの、
人を小馬鹿にした目をしていた。侮蔑の視線が雫に刺さる。
﹁子供と遊んでいる暇があったら、もう少し苦労するんだな。童顔
がますます幼くなる﹂
﹁余計なお世話だよ!﹂
やっぱりこの男の言動全てが癪に障ることに変わりない。
雫は﹁帰れ﹂と言う代わりにリオを抱き上げると、彼を置き去り
に自分からさっさとその場を後にしたのだった。
中高校生時代には、友人の中に必ず一人は﹁保育士になりたい﹂
と希望する子がいた気がする。子供が好きだから、というのがその
理由だったと思うが、雫自身は保育士になりたいと思ったことは一
度もない。
別に子供が嫌いなわけではなく、むしろ好きな方だ。親戚の子供
が遊びに来た時などは進んで遊んでいる。
ただ、それ以上となるとやはり怖いのだ。
小さな命を預かることが怖い。他人の子についての責を負う自信
がない。
幼子とは、多くの可能性を脆弱な体に詰めた生き物だ。何にでも
なれるし、どうにでも出来てしまう。無意識に接している、それだ
けのことにおいてでさえ彼らは容易く変わるだろう。
だから触れたくない。関わりを持つことに抵抗がある。
親でもない彼女がその一線を越える覚悟を持つことは、非常に敷
居の高い決断に思えていたのだ。
か弱い命を掌中に
だがつい半年前までそう思っていた雫は今、血の繋がらない幼児
と共に暮らしている。
寝食を共にし、言葉を教え、そして︱︱︱︱
して。
756
雫は濡れた布をよく絞ると、それでまだ目を擦っているリオの顔
を拭いた。服を着替えさせ、朝食を用意するとリオは自分から席に
つく。
﹁シズク、おはよう﹂
﹁おはよう、リオ。ジュースは林檎とデウゴ、どっち?﹂
﹁デウゴがいい!﹂
勢いのある返事に雫は笑いを堪えながら台所へと向った。デウゴ
の皮を剥き、生ジュースを作る。
教育に重点を置いているせいも勿論あるのだが、日に日に話が通
じるようになっていくリオと暮らしていると、毎日が発見の思いだ。
元の世界にいた頃、家庭教師のアルバイトをしている友人が﹁教
えることはすごく勉強になる﹂と言っていたが、この世界に来てか
ら雫は身をもってその意味を実感することとなった。エリクに教え
るにしてもリオに教えるにしても、教えるという行為は雫の中に蓄
積されていた知識を、改めて理解し整理させる効果を伴っていたの
である。
﹁いただきます、は?﹂
﹁いたーきます!﹂
雫は微笑むと自分も﹁いただきます﹂と答えて朝食に手をつけ始
めた。もっとも緊張から逃れられない生活の為か、彼女は最近それ
程量が食べられない。軽い食事を取ると、雫は最後にリオにだけお
手製のプリンを出してやった。それは卵と牛乳だけで作った素朴な
味のものだが、子供受けは非常によいのだ。
例えば将来誰かと結婚して子供を産んだとしたら。
途端にぱっと笑顔になるリオを雫は微笑ましく見つめる。
︱︱︱︱
こんな風に子供と過ごす日常が当たり前のものとなるのだろうか。
具体的な光景がまったく浮かばない想像に意識を巡らせていた雫
は、ふと目の前に何かが押し出されたことに気づいて視線を動かし
た。見るとリオが半分中身が残ったプリンのカップを差し出してい
757
る。雫は目を丸くして中身を見やった。
﹁あれ、美味しくなかった?﹂
﹁おいしいよ﹂
﹁じゃ、何か入ってた?﹂
﹁はんぶん。シズクに﹂
リオは早口でそう言うと片笑窪を作る。
美味しかったから、半分個にしようと言うのだ。思いもかけない
言葉を理解すると同時に、雫の胸は熱くなる。抱きしめたくなる気
分とは、こういうことを言うのだろうか。雫は両手を伸ばすとそっ
とリオの髪を梳いた。
﹁ありがとう、リオ。でも全部食べていいよ。私はお腹いっぱいだ
から﹂
﹁いいの?﹂
﹁うん。召し上がれ﹂
カップを抱え込んだリオは、戸惑いながらもやはり嬉しそうだっ
た。匙ごとプリンを頬張る彼女を、雫は苦悩を押し隠した目で眺め
る。
残り期限はあと一週間。未修得単語は百二十前後が残っていた。
※ ※ ※
この生活を始めてから、母親と姉に改めて感謝するようになった。
幼い雫の面倒を見てくれたのは主にこの二人であったのだから。
これ程までに不安定な、幼児というものに。
よく忍耐強く付き合ってくれたものだと思う。
︱︱︱︱
758
派手な音を立ててグラスが倒れる。
雫はその音に顔を顰めたが、リオ本人の方が﹁やってしまった﹂
という目になったので、感情的な言葉は何も言わなかった。黙って
グラスを戻し零れた水を拭く。無言の行動にリオを責める態度が滲
んでいないかどうか、今の雫には自信がなかった。
彼女は片付けを済ますと、縮こまる子供を見下ろす。
﹁物に当たらないで。大丈夫だからもう一度やろう﹂
午前中の勉強を終わらせた後、雫は昼食後にどうしても間違う単
語ばかりを集めて、リオに復習させようとしたのだ。だが彼女は何
度も同じ単語をやらされた為か、今日は最初から嫌がって椅子にも
座ってくれなかった。
呼んでも一向に近寄ってこないリオを、雫はついに捕まえて椅子
に座らせようとした。けれどそこで暴れたリオにグラスを倒されて
しまったのだ。
﹁リオ、これは何色?﹂
椅子に座らせた子供の肩に背後から手を置いて、雫は白い丸を指
差す。しかしリオはぎゅっと口を噤んで答えなかった。苛立ちとも
悲しみともつかぬ感情が雫の足首を捕らえる。
﹁答えて、リオ﹂
﹁⋮⋮やだ﹂
﹁リオ﹂
﹁やだ!﹂
椅子から下りようとする子供の両肩を雫は掴んだ。背もたれに押
さえつけながら茶色い瞳を覗き込む。
﹁よく聞いて、リオ。あと一週間、一生懸命勉強するの。終わった
ら遊んでいいから⋮⋮﹂
﹁やだ! はなして!﹂
﹁もう少しだから。お願い﹂
﹁いやなの!﹂
759
何故分かってくれないのか。この一週間で、全ては決
﹁テストがあるんだよ。やらなきゃ駄目なの!﹂
︱︱︱︱
まってしまうのに。
命がかかっているから、とはとても言えない。教えたくはないし、
言ってもリオには理解できないだろう。だがそれは口に出せないだ
けで、紛れもない事実なのだ。
雫はリオを殺す為に選んだ訳ではない。やれると思ったからこそ
選んだのだ。たとえそれが、先の見えない一歩だったとしても。
小さな肩を押さえていた手を離すと、雫は床に膝をついた。下か
らリオを見上げる。
若干三歳の子供は、癇癪寸前の目で雫をねめつけていた。
﹁お願い、リオ。勉強しよう。今頑張ればきっと間違えなくなるよ﹂
﹁いや!﹂
子供の手。
真っ直ぐ、それは目に向って振り下ろされる。
突然のことに、避けることさえ雫は出来なかった。
歪む視界。痛み。
リオ!﹂
脳裏が染め上げたように赤くなる。
﹁︱︱︱︱
まるで自分のものではないような怒声。雫の冷静な部分が今を後
悔する。
止めたい力。止まらない時間。
声にならない悲鳴が生まれかける。
だが、雫の怒声にその時、ドアを叩くノックが重なった。
硬直し息を飲む彼女の背後で、軋みながら扉が開く。その向こう
に立つファニートは二人の様子に気づいて眉を寄せた。
﹁どうした﹂
入り込む外の空気。
760
力のこもった右手が震えだす。
両足が竦む。
カッとなり立ち上がっていた雫は、振り上げたままの己の手に気
づくと、五指をきつく握り締めた。
ここも実験室と何ら変わ
両手で頭を庇い震えるリオを見下ろす。
助けたいから連れて来たのだ。
こんなことをする為では決してない。
新しい痣など作りたくもない。
もしそうなってしまうのなら︱︱︱︱
らないのだ。
﹁⋮⋮ごめん、リオ﹂
リオは震えたまま顔を上げない。雫は戸口に立つファニートを振
り返った。
﹁ごめん。助かったよ﹂
﹁血が出ている﹂
﹁うん。顔洗ってくる﹂
男は不可解そうな顔をしたが、それ以上何も問わなかった。部屋
を出て行く彼女に代わってリオの傍に歩み寄る。
雫は小屋の裏に回り水道を捻った。冷たい水で何度も顔を洗う。
リオの振り回した手が瞼に当たり、彼女の目の上に浅い傷を作って
いたが、今は沁みるとさえ思わなかった。
ただ、あんな小さな子を感情のままに叩こうとした後悔だけが彼
女を打ちのめす。
伝わらないのだ。
言葉だけでは、きっと全ては。
だから人は、態度で示す。
761
愛したいのなら愛していると、お互いが分かるように相手を慈し
んで心を示すのだ。
雫は両の手に透明な水を掬い取った。
水の飛沫が服の裾を濡らす。腕を伝う水滴が袖の中に入り込んだ。
けれどそれら一切に拘泥せず、雫は顔を洗い続ける。
水はまるで、彼女の未熟さをたしなめるように止まらない涙をも
さらっていった。
顔を洗っているうちか拭いているうちには、傷の血も止まってい
た。
雫は簡単に着替えて髪を結び直すと、二人の待つ部屋へと戻る。
彼女がドアを開けた時、リオはファニートの指す絵を覗き込んで
ぽつぽつと単語を答えていた。一拍置いて四つの目が雫に向く。
﹁ごめん、二人とも。大丈夫だった?﹂
﹁ああ﹂
いつもの鉄面皮で答えるファニートとは別に、リオは慌てて彼の
背中に隠れた。やはり信用を失ってしまったか、とほろ苦く微笑ん
おどおどと男の後ろに隠れながら﹁ごめんなさ
だ雫はけれど、次の瞬間耳を疑う。
リオは︱︱︱︱
い﹂と小さく呟いたのだ。
﹁⋮⋮リオ﹂
﹁ごめんなさい﹂
茶色の瞳には、捨てられるのではないかと怯える不安が、ありあ
りと見て取れる。いじらしくも痛ましくもある彼女の目に、雫は再
び熱くなる目頭を押さえた。
まだ期限は残っている。
だから、まだ可能性はいくらでもあるのだ。
雫は笑顔を作るとリオを見つめる。
762
﹁私も、ごめんね﹂
﹁リオべんきょうする﹂
﹁うん﹂
テーブルに戻ると彼女はリオに並んで座った。小さな頭を、柔ら
かな髪を、雫は慈しんで撫でる。
辛いことがあっても、今はある意味幸福なのだろう。こうして声
をかけ、笑顔を向け、隣り合えるのだから。
雫はリオに顔を近づけながら単語の勉強を再開する。
小さな手と幼い声、頬の柔らかさや寄り添う体の温かさを、雫が
幸せの象徴として想起するのはしかし、最早リオに触れられなくな
った、その後のことだったのである。
﹁少し疲れているのだろう﹂
勉強を終え、リオに昼寝をさせて戻ってきた雫に、残っていたフ
ァニートは平坦な声をかけた。お茶を入れようとしていた彼女は苦
笑する。
﹁だよね。まだ三歳なのに、英才教育だってここまで詰め込まない
よ﹂
﹁違う。貴女だ﹂
﹁私?﹂
雫が自分の顔を指差すとファニートは頷いた。男の無骨な視線が
雫の上で止まる。
﹁慣れない環境だ。ただ子供と暮らすだけでも大変なのだろう。疲
れているから感情が揺れやすくなる﹂
﹁そ、そうなのかな﹂
﹁限界だと思ったら半日くらい休むといい。やり方を伝えてくれれ
ばその間は私がやる﹂
ファニートは﹁お茶はいい﹂と言うと立ち上がった。どうやら様
子を見に来ただけらしい。そのままドアへと向う。
763
無愛想な男は見送りに出た雫を振り返った。溜息にはあと少し届
かない表情で彼女を見下ろす。
﹁連れてきて悪かった、とは言わない﹂
﹁うん、いいよ。私が選んだんだし﹂
﹁だが貴女は⋮⋮充分努力していると思う﹂
ファニートは、軽く驚いた雫が何か答えるより先に、長身を翻し
小屋から立ち去った。
一人になった雫は言われた言葉を反芻し、思わず苦笑する。
この半年間、今までにも何人かが言ってくれたのだ。﹁あなたは、
頑張っているよ﹂と。それらの言葉は優しかった。足掻く自分を認
められたようで嬉しく響いた。
だが今は、彼の言葉を同じように嬉しいと思いながらも、それ以
上に﹁結果が欲しい﹂と思う。
結果さえ得られるのなら、どれ程疲労しても構わない。こんなも
のはきっと、後になれば笑える苦労話になるだろう。
雫は深く息を吐き出すと、自作の教材を整理しにテーブルに戻る。
少しだけ眠りたいとも思ったが、ただただ今は時間が惜しくて仕
方がなかったのだ。
764
003
﹁シズク、だいじょうぶ?﹂
幼い女の子の声。
その声を聞いて、思考に集中していた雫は慌てて顔を上げた。笑
顔でリオを振り返る。
﹁大丈夫だよ。ありがとう﹂
﹁いたくない?﹂
﹁ううん。平気﹂
何故、﹁痛くない?﹂と聞くのか。
それは先日リオがつけた傷のせいかもしれない。だが、元々浅か
った傷は既に僅かな痕を残すのみである。ならば彼女の具合が悪そ
うに見えたから、リオはそう気遣ったのだろう。
疲れ果てた顔を子供に見せてしまったことに、雫は苦笑しか零れ
確かに、参ってはいるのだ。
なかった。隣の椅子によじ登るリオを、手を出して支えてやる。
︱︱︱︱
問題のテストは三日後。何とか駆け足で全ての単語は教えてはみ
たものの、その内の五十以上はまだ安定して正答を出せない。
元々教えるにしても、出来るだけテストに出しにくいであろう動
詞や形容詞を選んで後回しにしてみたのだが、このように﹁山を張
る﹂行為に果たして意味があるのか、彼女はそれさえも不安だった。
何しろ相手は姫とニケである。わざわざ弱いところを突こうとし
てくる可能性は十二分にあるだろう。半分くらいは雫の失敗を期待
しているのではないかと勘ぐってしまうくらいだ。事情を知ってい
765
る人間で、雫たちの味方をしてくれるのはファニートしかいない。
女官のユーラやウィレットも親しくはあるし、リオを可愛がって
くれてはいるのだが、彼女たちは何故城の敷地内にある小屋に二人
が住んでいるのか、そこまでは知らなかった。
﹁べんきょうする?﹂
﹁しようか。カードやろう﹂
雫はテーブルの上に常備されている箱を開けると、中からカード
を取り出した。正答率の低い二十枚と、ほぼ正解を当てられる二十
枚を混ぜて切る。
あの日からリオは、嫌がるそぶりを見せつつも自分から勉強に取
り組むようになっていた。雫に怪我をさせたことを後悔しているの
か、それともぶたれそうになったことが怖かったのか、彼女はそれ
まで以上に聞き分けのよい子になったのだ。
だが、リオがいい子であればある程、雫はここ数日喜ぶよりも気
鬱が湧き上がってくることを否定できない。若干三歳の彼女がここ
まで努力しても、間近に迫ったテストに合格できなければ、リオは
それは雫がいつも自身に課してい
そこから先の未来を断たれてしまうのだ。
ぎりぎりまで足掻く︱︱︱︱
る姿勢ではあるが、リオにもそれを強制していいとはとても思えな
い。
このままで彼女に未来を保障出来るのか、雫は薄らいでいく自信
に苦悩する時間が増えてきていた。
﹁シズク、どうしたの?﹂
あどけない視線が心配そうに見上げてくる。
また不安が表に出ていたのだろうか。雫は苦笑した。
そうでなくとも、子供は大人が思っているよりずっと聡いのだ。
いつも傍にいる大人が翳れば、すぐにそれに気づいてくる。愛らし
い瞳に雫は破顔すると、﹁大丈夫だよ﹂と返した。健康的な生活で
766
艶の出てきた髪を撫でる。
あと十数年も経てば、リオは可愛らしい少女へと成長するだろう。
人を気遣える心と笑顔を以って、友人たちや恋人に恵まれながら大
人になっていくに違いない。
だがそれも、三日後を上手く越えられれば、の話である。
失敗すればリオはこの小さな体のまま全てを断たれ、冷たい躯へ
と変わらなければならないのだ。
﹁あと三日か⋮⋮﹂
﹁しけんする? がんばる﹂
真っ直ぐな言葉が、今は胸に痛く突き刺さる。
掠れた声で﹁頑張ろうね﹂と返した雫は、泣き出したい気分に駆
られて両目をきつく閉じたのだった。
考えてもどうすればいいのか分からない。
ただ出来ることと言えば、勉強を進め単語を教え続けることだけ
だ。何度も反復練習をさせ、絵と音を結びつける。似たもの同士の
グループを作り、動物なら動物、果物なら果物と関連づけもした。
そして何よりも雫は、当初から覚えて欲しい単語はふんだんに使
って、リオに話しかけるようにしている。奇しくもオルティアに﹁
言葉を呼び水にして言葉を得させる﹂と啖呵を切ったように、会話
を重ねることは学習の中でも大きな効果を果たしていた。
だがそれでも、まだ完璧には遠く届かない。
あともう一月欲しいとまでは言わないのだ。せめてもう一週間あ
ったなら。雫は荒れた唇を噛み締める。
彼女はここに来てから、日記代わりにリオの様子を記していたノ
ートを閉じた。そのまま席を立つと、子供の眠る寝室を見に行く。
時刻は既に真夜中である。簡素なベッドの上で、リオは掛布を蹴
って眠り込んでいた。雫は音をさせないよう近寄ってそれを元通り
掛け直す。
767
﹁シズク⋮⋮﹂
小さな寝言で自分の名が呼ばれたことに、彼女は微苦笑した。
たった一月、けれど二人で寄り添うように暮らしてきたのだ。初
めて会った時よりも情はずっと深いものになっている。
勿論雫はリオを、試験の為だけの要員として見たことは一度もな
い。だからこそ合格する可能性が百パーセントではないことを悟っ
て、彼女は私情と理想の間で揺らぎ始めていた。
﹁リオ﹂
掛布からはみ出た手は本当に小さなものだ。
本来ならば大人によって守られ引かれるはずの手を、雫はそっと
握り締める。伝わる柔らかな温度に彼女は表情を歪めた。誰にも、
何もかもを曝け出して相談できはしない。ファニートにも言えない
のだ。﹁リオを救いたい﹂などということは。
雫はリオの寝顔をじっと見下ろす。規則的に聞こえる寝息に耳を
傾けながら、彼女は、エリクは今頃何をしているのだろうかと、そ
んな物思いにしばし耽っていた。
※ ※ ※
月が青い。
雫は煌々と輝く大きな球体を見上げて、溜息を飲み込んだ。腕の
中の毛布を抱き直す。夜の庭には人影は見えない。ただ時折見回り
の兵士が持つ松明が揺れているだけだ。
雫は息を潜めて暗闇を移動していく。そのまま厨房に通じる裏口
へと向って、草を踏みしめた。時折彼女は毛布に向って﹁もう少し﹂
と囁く。
768
やがて木々の向こうに厨房の裏口が見えた。その戸口に立ってい
たユーラは、雫の姿に気づくと無言で手招く。雫は頷いて扉に駆け
寄ると、木の扉の向こうに毛布ごと自分の体を滑り込ませた。室内
にユーラとウィレットの二人しかいないことを確認すると、彼女は
そっと毛布を石床へと下ろす。
毛布は一人でにもぞもぞと解けた。中から眠そうな目をしたリオ
リオの試験はもう明後日にまで迫っていた。
が出てくる。彼女は﹁しゃべっていいの?﹂と聞くと大きく欠伸を
した。
︱︱︱︱
しかし、彼女の正答率は未だ九割を越えない。
雫は、どうしても出てこない単語や間違って覚えている単語、数
十個を前に、ここ二日食事も喉を通らぬ程悩みぬいた。
だが考えれば考えるだけ、思考は袋小路に踏み込んでいく気がす
る。
﹃テストを受け、合格すればいい﹄
それが最上の結果だろう。当然分かっている。
けれどそれは結果であって方法ではないのだ。合格出来るかどう
かは定かではない。
そして雫は⋮⋮どちらに傾くか分からぬ天秤に、リオの命を乗せ
ることは出来なかった。自分の命であれば構わない。選択に命を添
わせる覚悟は必要とあればいつでも出来る。しかし、守らなければ
ならない子供が自分と同じ土俵に立つことを、疲れ果てた雫はつい
に耐えられないと感じてしまったのだ。
﹁朝一番で仕入れの荷馬車が来ますから。その帰りに紛れ込めば城
を出られます。帰りの馬車はほとんど調べられませんから﹂
﹁うん⋮⋮よろしくお願いします﹂
雫の手からユーラへと渡されたリオは、不安げな目で雫を振り返
る。一体自分が何処に連れて行かれるのか、怖がっているのだろう。
769
小さな手を雫へ伸ばそうとするリオに、彼女は﹁大人しくしてて、
しゃべらないでね﹂と囁いた。ユーラが毛布で小さな体を包み直す。
ウィレットはしきりに城の中へと通じる扉を振り返っていたが、
落ち着かないのか﹁見張ってます﹂と言うと廊下に出て行った。
﹁大丈夫だからね。ユーラの言うことをよく聞いて﹂
雫はリオの体を隠す毛布を慎重に巻きながら微笑みかける。リオ
は雫と離れることに気づいたのか、泣き出しそうに顔を歪めた。だ
がその声が洩れ出る前に、雫は静かにするよう口の前に指を立てて
示す。ユーラは小さな頭を撫でてリオを抱き直した。
﹁よろしいんですね、雫さん﹂
﹁はい﹂
二人がこの計画を立てたのは今日の夕方のことである。
いつも通り厨房に顔を出した雫を、この日のユーラは見咎めて何
があったか問い質したのだ。それは雫の様子があまりにもおかしか
ったからなのだが、ユーラに尋ねられた彼女は悩んだ挙句、﹁リオ
を城から逃がしたい﹂と答えた。
雫はそれ以上詳しいことを説明しなかったが、他国にまで響くオ
ルティアの評判でユーラも薄々察したのだろう。﹁夜にリオを連れ
て厨房に来てくれれば、外に出す手筈を整える﹂と即座に返して、
協力を約束してくれたのだ。
﹁本当に雫さんは来ないんですか? リオがいなくなったと分かっ
たら⋮⋮﹂
﹁平気です。この子だけお願いします﹂
リオを逃がしたと知れたら、オルティアは雫を許すまい。
それでいいと、雫は
だが二人とも逃げてしまっては、その責はおそらくファニートに
まで及ぶだろう。
自分の未熟さのつけは自分で払う︱︱︱︱
既に決心をつけていた。一度ファルサスで捨てた命だ。ここで捨て
770
るのも悪くはない。リオまでもが殺されてしまうよりその方がずっ
といいと、彼女は諦観混じりにだが思っていたのだ。
﹁これは大事だから。失くさないでね﹂
雫はリオの手に小さな封書を握らせる。そこにはレウティシア宛
他にもキスクで行われてい
ての嘆願書が入っており、拙い文章で雫の世界では言葉は生得能力
ではないことと、その教育の可能性、
る子供たちへの実験の現状などが記してあった。
キスクの城を出れば、ユーラの手配によってリオはファルサスへ
リオの未来は拓けるだろう。後はレウティシアが何と
向う乗合馬車に乗せられる。城都に到着し、レウティシアの手に封
書が渡れば
かしてくれるはずだ。
雫は心の中で多くの人たちに詫びながらリオの手を握る。小さな
﹂
指が手の中でもどかしげに動いた。
﹁元気でね、リオ﹂
﹁シズクは?﹂
﹁私は行かない。だから︱︱︱︱
その時、廊下から女の小さい悲鳴が聞こえた。
雫とユーラは顔を見合わせる。
次の瞬間二人は無言のまま動いた。ユーラはリオを調理台の影に
隠そうとし、雫は悲鳴の聞こえた扉に向って走る。
だが、雫がドアを開けるより先に、戸は向こうから開いた。空気
と、ウィレットの呻き声が厨房内に入り込んでくる。
そこには、黒の魔法着を着た一人の魔法士が立っていた。男は片
手で少女の腕をきつく捻り上げながら、鋭い視線で雫を睨む。常夜
灯が照らし出す彼の顔は、凶相と言える程に険しい。雫はその目を
見返して、思わず驚きの声を洩らした。
﹁ニケ⋮⋮どうして﹂
﹁面白いことをしようとしているな、童顔女。子供を何処へ連れて
771
行くつもりだ?﹂
﹁何処へって⋮⋮﹂
雫は背後を振り向かぬまま一歩後ずさる。
ユーラとリオは隠れているだろう。ならば何とか誤魔化さなけれ
ば。
そう思った雫は圧されかけた足で踏みとどまると、男に向き直っ
た。
﹁何のこと? ウィレットを放してよ﹂
﹁とぼけるな馬鹿が。小屋には誰もいなかったぞ﹂
ニケは空いている方の手を上げる。詠唱がその動作に続くと雫は
顔色を変えた。上げられた男の手に飛びつく。
﹁やめてよ!﹂
﹁放せ、女。今死にたいのか?﹂
﹁死なせたくないの! やめてよ!﹂
雫は魔法を打たせないよう夢中で男の手にしがみついた。
だが次の瞬間、舌打ちと共に衝撃が彼女の顔を打ち据える。
何が起きたのか、分かったが咄嗟に理解できなかった。
雫は息を飲むと、手を離しニケを見上げる。
ウィレットを放し、その手で雫の頬を打った男は、冷え切らない
苛立ちの視線を彼女に注いでいた。
﹁死なせたくない? それでお前はそいつだけを助けて他の子供を
見捨てるのか。まったくくだらない﹂
﹁見捨てるって⋮⋮私は⋮⋮﹂
﹁情がわいた人間だけ助かればいいのか? 目の前の人間だけ何と
かなればいいのか。大した綺麗事だ。お前も結局姫と同じなのだろ
う。気まぐれで人の生死を左右して楽しんでいる﹂
助けたかった。
﹁違う! 私は!﹂ ︱︱︱︱
ただそれだけなのだ。
彼女が知る他の子供たちのように、愛されて守られていて欲しい。
772
幸せを当然と思って欲しい。笑って泣いて、温かい生を送っていて
欲しいのだ。
子供たちには、大人になるまでの長い猶予が与えられている。そ
れなのに何故、生まれてからたった数年でその道を断たれなければ
ならないのか。この世界でも言葉を教えることは確かに出来る。リ
オはそうして雫から、砂が水を吸うように知識を得ていったのだ。
だから、あんな実験は全て無意味だ。そのことを示して、彼女は
リオ個人への愛着に、目が眩んでしまわなければ。
他の子供たちをも救うことが出来るだろう。
︱︱︱︱
﹁たまたまお前がそいつを選んだだけだ。仮にあの時別の子供を選
んでいたらどうなる? お前はその子供を逃がして、そいつを見殺
しにしていただろう。お前のやろうとしていることはあさはかな感
傷だ﹂
ニケの言葉に反論できないのは、彼の言うことが一つの真実であ
るからだろう。
雫のやろうとしていることは、きっと視野の狭い自己満足でしか
ない。それではリオしか救えず、そしてキスクを逃げ出す彼女の安
全も、必ずしも保障されているとは言えないのだ。
雫は打たれた頬を押さえたまま俯いた。背後から子供のすすり泣
く声が聞こえ始める。
どうやって足を踏み出せばいいのだろう。
以前はいつも出来ていたそれが、今は思い出せない。
決断出来ない。未来が見えない。何処へ踏み出しても大切なもの
だがその時支えたのは、
を失くしそうで、雫は立ち尽くしたまま一人沈黙する。
崩れ落ちてしまいそうな彼女を︱︱︱︱
小さな子供の手であった。
773
﹁シズク﹂
リオの手が服の裾を引く。
振り返ると彼女は、短い指に力を込めてしっかりと雫の服を掴ん
でいた。涙で洗われた目が雫を見上げる。
﹁シズク、なかないで﹂
﹁リオ﹂
幼い時、自分が何を考えていたのか彼女は思い出せない。
覚えているのは家族が大好きだったということ。母親の笑顔や父
の手の温かさ。断片的ないくつもの思い出。思えば貰うばかりでい
た幼少期だった。だがその間に両親も、こんな思いを味わったのだ
ろうか。
﹁がんばろう、シズク﹂
愛するように愛されている。
助けたいと思う程に助けられる。
どうして今まで自分は一人だと、思ってしまっていた
お互いがお互いを支えて、そうしてゆっくりと歩き始める。
︱︱︱︱
のだろう。
しゃがみこんでリオを抱きしめる雫を、男は感情を閉ざした目で
見下ろした。
隣で壁に張り付いて震えるウィレットと、雫の背後から彼を睨ん
でくるユーラを、ニケは冷めた目で確認する。
﹁くだらぬ手出しをしたら、お前らも処分だ。弁えておけ﹂
﹁申し訳御座いません﹂
﹁で、女﹂
﹁⋮⋮何?﹂
名前を呼ばれずとも自分のことだと分かる。雫は顔を上げて魔法
士を見つめた。立場の異なる二つの視線が交差する。
男の双眸はこの時、まるで雪夜のように見えた。
774
全ての音を吸い込む程に静かで、冷たく、それでいて何処か懐か
しい。
いつの間にか相手にも自分にもどちらにも怒りがないことに気づ
いて、雫は一息を零した。ニケは顔を顰めて彼女の泣き顔を注視す
る。
﹁努力を強いておいて裏切るな。お前の命は子供の尻拭いに使われ
るものだろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それも分からんようなら今、ここで殺してやる﹂
男は彼女の答を待たず詠唱を始めた。手袋を嵌めた右手に炎の球
が現れる。
リオは怯えて身を竦めた。だが逃げ出そうとはせず、むしろ雫を
庇うように彼女の前に回って抱きつく。
しがみついてくる体は僅かに震えて、だがとても⋮⋮強かった。
雫は言葉にならぬ思いにゆっくりとまばたきをする。黒い睫毛を
涙が一粒伝い、リオの髪の上へと滴っていった。
ここまで頑張ったのだ。その努力を、時間を、信じてやればいい。
命を使うのはその後だ。それは、ずっと支えてくれていた彼女の
為に。
雫はリオを胸の中にかかえこむ。
﹁ごめんね﹂
返事はない。だが、握り返してくる小さな手を感じて彼女は微笑
んだ。そっと幼い体を抱き上げる。
まだ少しも終わりではないだろう。それを決めていいのは自分だ
けではないのだから。あとたった一日。けれどその間にも進むこと
は出来る。得られるものは、残っているはずなのだ。
雫は沈黙する三人に向って深く頭を下げる。
そうして彼女はリオを抱いたまま小屋へと戻ると、その晩は小さ
775
な寝台で二人手を繋ぎ、眠りについたのだった。
※ ※ ※
抱きしめる体は柔らかく、甘い香がする。雫は目を閉じてリオの
肩に顔を乗せた。まだ眠気が残っているらしい幼い声が囁く。
﹁しけんおわったら、あそんでいい?﹂
﹁いいよ。いっぱい遊んで﹂
﹁シズクも、あそぶ?﹂
﹁そうだね⋮⋮。遊ぼう。色んなことして﹂
小さな声には万感の思いがこもっていた。雫は腕を解くと代わり
にリオの手を引く。
向う先は城の奥。そこには恐ろしい姫君が二人を待っているのだ。
オルティアの部屋に足を踏み入れるのは一月ぶりだ。
あの時雫は一人で、姫に挑戦を申し入れた。
そして今、結果を出す為に彼女はリオと二人、オルティアの前に
跪いている。
相変わらず香がきつい部屋には、しかし前来た時にはなかった白
い紗幕が張られ、姫の姿はその向こうに隠れて見えなかった。ただ
麗しい声だけが雫の頭上に掛けられる。
﹁娘、息災であったか?﹂
﹁はい。姫様のおかげでございます﹂
一瞬、ニケが一昨日の晩のことを報告していたらどうしようかと
も思ったが、オルティアはそれを知らないようだった。
雫は安堵して深く頭を下げる。同席する二人の男もまた、主君に
776
向かって頭を垂れていた。
﹁では成果を見せてもらおう。準備はよいか?﹂
﹁いつでも﹂
彼女は平然とした表情とは別に、緊張に縮こまるリオを力づける
よう小さな手を握る。繕った態度と相反するようなその仕草に、正
面にいるのであろうオルティアは気づいているのかもしれないが、
雫は別にそれでも構わないと思っていた。
二人は一旦ニケの指示によって数歩下がる。中央に置かれた椅子
にリオは腰掛け、雫は更にその少し後ろに立たされた。リオの視界
内に雫を置かないのは不正を防ぐ為だろう。ニケがリオに歩み寄り、
簡単に身体検査をする。
軽く服を確かめられている
前の夜のことのせいか、リオは男を見て身を震わせたが、彼の指
示によって腕を上げたり下ろしたり、
うちに不思議と緊張も解けたようだった。少し笑顔を浮かべている
ようにも見えるが、雫の場所からははっきり分からない。
やがてニケは紗幕の前に戻ると、用意されていた大きな箱からカ
どうか受かって欲しい。
ードを取り出した。それを見ただけで雫の心臓は跳ね上がる。
︱︱︱︱
それだけが今、彼女の望むことだった。保身の為ではなく、誰よ
りもリオの為に。
雫は試験の合格基準がどうなっているのかは知らない。ニケに聞
いても教えてもらえなかったのだ。一問でも間違えれば失敗なのか
もしれないし、高確率を取れればいいのかもしれない。後者だった
らいいのにと、彼女は願う。
ただここから先、試されるのはリオだけだ。
初めから終わりまでリオが一人で答え、結果を出さなければなら
ない。
それはおよそ幼児が背負う重圧ではないだろう。代わってやるこ
777
とが出来たらどんなにいいか。雫は両手をきつく握る。
だからもし、この試験が失敗で終わったのなら。
その時は自分の命と引き換えにリオの助命を請おうと、雫は既に
覚悟を決めていた。
カードには写実的な絵が描かれていた。雫が作っていた子供向け
の絵柄のカードとは大分違う。彼女はそのことにまず不安を覚えた
が、心配をよそに、リオは示されるカードを見てぽつぽつと答え始
めた。
次々に捲られるカードを、彼女は迷ったり考え込んだりしながら
も言い当てていく。まず間違いなく正答が出せる単語からテストが
始まったことに、雫は無意識の内に息を浅く吐いていた。
百という数は多い。雫は心の中で問題数をカウントしながら改め
てそのことを実感する。それは答えても答えても終わらないように
さえ思えた。
普段なら、一問正解するごとに誉める言葉をかけていたのだ。だ
が無言のまま捲られるカードに、リオはよくついていく。
やがて試験は三十問を越えた。まだ誤答は出ていない。雫は握っ
たままの両手の平がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。リオ
の集中力は何処まで続くのか、何処まで覚えているのか、考えたく
ない不安ばかりが思い浮かんでくる。
隣のファニートを見上げると、彼は雫の視線に気づいて頷いた。
どういう意図のものかは分からないが、表情はいつも通りの無愛想
である。
だが彼女はすぐカードを捲る音に顔を戻した。新しい一枚は﹁時
計﹂。リオはそれを難なく答える。
紗幕の向こうにいるのであろう姫もまた、テストが始まってから
一言も発していない。本当にそこにいるのかさえ分からない程だ。
778
もっともニケは紗幕に半ば背を向けて立っているのだから、姫から
はカードが見えていないのかもしれなかった。
ニケは黙々とカードを捲る。問いはようやく五十問にさしかかろ
うとしていた。
もし、この世界に来てしまったことに何か意味があるのだとした
ら。
それは雫自身にとって、或いはこの世界の誰かにとって、プラス
に働くようなものだったのだろうか。雫は今までに出会い、別れて
きた人々のことを思い出す。
彼らを助けたと思ったことは、今まで一度もない。むしろ彼女こ
。
そが助けられてきたのだ。きっと彼女がいなくても、彼らは彼らの
未来を歩んだだろう。
ならばリオは︱︱︱︱
リオは、雫と出会って⋮⋮果たして救われるのだろうか?
六十問を越えると、問いにカード以外のものが混じるようになっ
た。
ニケは箱から実物を取り出してその名を問うたり、部分や色形を
示して尋ねたりする。
リオは特に部分を答える問いには時間をかけて迷ったが、躓きそ
うになりながらも何とか答を出していた。雫がずっと心配していた
﹁白﹂も、むしろ堂々とクリアする。正しい答を聞いた時、雫は座
り込みそうな程に安堵して嘆息した。
試験が始まってからどれだけの時間が過ぎたのか。確かめたくと
もこの部屋には時計がない。だが、いつもなら十分も経てば飽き出
してしまうリオは、それよりずっと長い時間が経過してもきちんと
779
椅子に座ったままだった。分かる単語などは示されてすぐ食らいつ
くようにして答える。
そのリオが止まったのは、八十九問目のことだった。
動詞﹁読む﹂を問うカード。雫はそれを見た瞬間、不味い、と思
う。
何ということのない言葉だが、リオはずっとこれを間違って覚え
ていたのだ。今まで何度訂正してもそれは直らなかった。雫は息を
﹁読む﹂だよ、リオ。
止めて答を待つ。
︱︱︱︱
心の声は前に座る彼女には届かない。雫は人が本を広げた絵を凝
視する。
﹁歌って﹂と。
リオはいつも、本を読んで欲しい時は彼女にこう頼んできたのだ。
︱︱︱︱
椅子に座る子供はもじもじと体を揺らした。雫の方を振り返りた
そうに頭を動かして、だが振り返れないでいる。
助けてやりたいのに出来ない。雫が己の無力さに歯を噛み締めた
時、だが男の﹁あ﹂という声が耳に滑り込んだ。紙の落ちる音がそ
れに続く。
雫が音のした方を覗き込むと、床に何十枚も広がっていたのは試
験用のカードだった。手を滑らせたらしく、それらを落としてしま
ったニケは、紗幕の向こうに頭を下げると急いでカードを拾い集め
る。
そして彼がそれらを整えて新しく示した一枚は、リオの知ってい
る単語﹁眠る﹂であった。
雫は黒い瞳を瞠って、試験を続ける男を見つめる。
百問目は﹁デウゴ﹂だった。
ニケがそれを箱から取り出した時、雫はつい笑ってしまいそうに
780
なった程である。
リオは難なくそれに答え︱︱︱︱
ついに試験は終わった。
泣き出しそうな胸の熱さと虚脱感に、雫は肺の中の空気を全て吐
き出す。一人で頑張ったリオを抱きしめたくなった。
今日まで毎日何時間勉強を重ねてきただろう。遊びを兼ねている
こともあったが、それは決して楽しいだけではなかったはずなのだ。
けれどリオは努力の結果、たった一月で約四百語に追いついた。病
の影響のない他の子らと比べても、遜色ないところまで並び立った
のだ。
この覚えの早さは二人の苦心もあるだろうが、もしかしたら思い
出せないだけで生得単語が彼女の中に刻まれている為なのかもしれ
ない。雫はそんなことをぼんやり考えながらもリオのもとに駆け寄
りたくて仕方なかったが、オルティアの前であることを弁え動かな
かった。
カードをしまったニケが紗幕に向って頭を下げてからしばらく、
艶やかな女の声が響く。
﹁見事であった。娘﹂
雫は黙って頭を下げた。彼女へ言ったのかリオに言ったのか分か
らなかったから、返事はしない。
だがすぐにこの賞賛は雫にかけられたものだったと、彼女は知る
ことになる。賞賛は、雫にしかかけられなかったのだ。
﹁一月でよく応えてみせた。お前は妾の下で働いて貰おう。⋮⋮魔
法士どもがこれを聞いてどのような顔をするのか楽しみだな? ニ
ケ﹂
﹁左様で。己の無能を恥らう心が残っていればよいのですが﹂
﹁そのようなもの、とうに擦り切れたであろうな。そうでなければ
宮廷になどいられまい。それよりニケ、この娘をセイレネの側仕え
にさせよ﹂
聞いたことのない名に雫は内心首を傾げたが、隣のファニートが
僅かに揺らいだ気配をさせたことで、その名の主に思い当たった。
781
確かこの城にはもうすぐ赤ん坊が生まれると、彼は言っていたの
だ。
オルティアはまったくその兆候のない体つきであったのだから、
﹁セイレネ﹂が身篭っている女の方なのかもしれない。
姿勢を正す雫を置き去りに、紗幕の向こうの主人はいくつかの指
示をニケに出していった。最後にまるで忘れていたかのように声を
上げる。
﹁ああ、その子供はもう不用だ。処分しておけ﹂
﹁え?﹂
反射的に聞き返した雫の他に、答える者はいない。
リオは自分のことを言われたと分からないのか、まだ椅子の上に
行儀よく座っていた。雫は彼女の後頭部ごしに白い紗幕を凝視する。
﹁姫様、試験は合格したのでは⋮⋮﹂
﹁見事であったぞ。そう言っただろう。褒美としてお前には仕事を
与える﹂
﹃処分しろ﹄と、あなたは言ったのか。
﹁私のことはいいです。リオを﹂
︱︱︱︱
そう大陸中で恐れられるキスク
愕然とした雫の声に、女の鼻で笑う音が重なる。
愉しみの為に人を害す︱︱︱︱
王妹オルティアは、見えない幕の向こうで喉を鳴らして笑っていた。
無知を嘲笑う声は、鈴よりも軽く鳴って空気を伝う。
﹁どうした、娘? 情でも移ったか? だがその子供はもうお前に
は不要な存在だろう﹂
﹁姫様⋮⋮彼女は、私の教えによくついてきました。彼女自身の努
力がなければ、この結果は出せなかったのです﹂
﹁生きる為に努力する。それは人としては当然のことであろう? その努力が正しく報われるとは限らぬのも、また当然のことだ﹂
782
雫と年の変わらぬ女の声は、獲物を嬲るような棘に溢れていた。
彼女は気の遠くなる思いに襲われ顔を傾ける。
努力が報われるとは限らない。それもまた本当のことだろう。
だが今ここでリオに報いようとしないのは、そう揶揄したオルテ
ィア自身なのだ。
努力の必然を言葉に乗せながら同時にその虚しさを示す女は、自
分の与える結末が余程楽しいのかくすくすと笑っている。その笑い
声はまるで脳を侵すように雫の耳の中を転がっていった。震え始め
た足を、彼女は踏みしめる。
﹁⋮⋮⋮⋮訂正を、お願いします﹂
﹁何をだ? 妾は何を訂正すればよい?﹂
﹁リオを処分するというご決定を。訂正なさってください﹂
怒りに満ちた双眸が紗幕を射抜く。留めようと手を出したファニ
ートを振り払って、雫はリオの前に立った。事態が飲み込めず辺り
を見回すだけの子供を庇って、幕の向こうを睨む。
﹁私は姫様の為に働きます。でも、それはリオを助けてくださった
らのお話です﹂
﹁随分甘いことを言うな? お前は人を使うということが分かって
おらぬのか?﹂
﹁リオを処分なさるなら、あなたは功に報いない主君ということで
す。そんな方には従えない。訂正なさってください﹂
視線を吸い込む白い布。その布を、雫は引き裂いて怒鳴りつけて
やりたかった。
今まで、どれ程二人で苦労してきたのか。それは、テストに合格
し重圧から開放されるこの日の為ではなかったのか。
失敗したとしても、リオだけは助けてもらおうと思っていたのだ。
にもかかわらず成功した今、待っていたのは雫を認めリオを処分す
るという決定である。
783
幼子を道具のように扱い始末を命ずるオルティアの指示は、雫に
とって到底承服し得るものではなかった。
雫はわななく拳を握りこむ。先ほどまで汗の滲んでいた手の平は、
今は血の熱さしか感じさせなかった。だが吐き気のするような香の
立ち込める室内は、彼女だけが一人浮き立っているかのように冷た
い。
そのことさえも腹立たしくて、雫は前にいるニケを睨んだ。オル
ティアの声が男の背にかかる。
﹁ニケ、子供を連れて行け﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁待ってよ!﹂
リオに向って歩み寄る魔法士を止めようと、雫は両手を広げた。
だがニケは手を出して彼女を後方へと突き飛ばす。バランスを崩し
よろめいた雫をファニートが受け止めた。その間に男はリオを抱き
上げる。
﹁待って! やめて!﹂
﹁ファニート、娘を捕らえておけ﹂
﹁ですが姫⋮⋮﹂
﹁ファニート﹂
反論を認めぬ声に続く溜息と共に、背後から雫の両腕に男の手が
かかる。ニケに向って駆け出しかけていた彼女の足は行き場を失い、
半ば浮くようにして床を蹴った。雫は全身で拘束に抗いながら叫ぶ。
﹁放して! リオを返してよ!﹂
ニケは小さな体を抱き上げて別の扉から外に出て行く。扉が閉ま
る直前、男の肩越しに不安げな茶色の瞳が雫を見た。リオは小さく
﹁シズク?﹂と呼ぶ。
遠ざかるその姿に向って、羽交い絞めにされた雫は絶叫した。
﹁待って! 連れて行かないで! リオ!﹂ 名を呼ぶ最後の声は、閉じていく扉に当たって跳ね返る。
784
食い入るように見えなくなったリオの姿を追う雫に、幕の裏から
オルティアの優しい声が投げられた。
﹁可愛がっていた生き物が死ねば人は悲しむ。だがそれもいつかは
薄らぎ忘れられるだろう﹂
穏やかな声音。
しかし、温かいのはただ見せ掛けだけだ。
表層だけの言葉と事実は虚しく響き、そこには何も続かない。
オルティアはそれを知っていて、それさえも愉しんでいるのだろ
う。雫は血が滲む程に唇を噛む。
まるで血が全て何処かに流れ出てしまったかのようだ。頭も、体
も、気づけば深奥まで冷え切っている。嵐の前の海に似た思惟。静
か過ぎてひどく冷静にも錯覚する思考に従って、彼女はゆっくりと
許しませんよ。姫﹂
振り返った。女の姿を隠す紗布を見据える。
﹁︱︱︱︱
床を這う宣告。
波の下、沈んでいく怒りに清んだ笑い声が応えた。優美な響きが
室内の香を一層濃くする。
けれどかつては気圧されたその声を、雫はもう忌まわしいとは思
わなかったのだ。
一度は離れたファニートの手が、雫を制止しようと肩にかかる。
だが彼女はそれを振り払った。紗幕に向って歩み寄ると薄布を掴ん
で思い切り手元に引く。天井の金具に吊られていた紗布は高い音を
立てて裂かれ、オルティアの姿が曝け出された。
大きな椅子に片膝を立てて座っていた女は、まるで恋人に向ける
ような艶かしい目で雫を見上げる。
﹁このようなことをされたのは初めてだ﹂
﹁私も初めてです。ですが、その必要があると判断致しました。姫、
785
リオへの処分をお取り消しください﹂
﹁それを要求する力が、お前にはあるのか?﹂
﹁要求を飲んで下さらねば、あなたへの協力を今後一切お断り致し
ます﹂
雫の両眼には、今まで生まれたこともない冷たい威圧が漂ってい
た。
オルティアを目の前にしてもそれは揺らぐ事がない。むしろ増し
て行く迫力に姫は見惚れるような笑みを刻む。彼女は象牙色の指で
雫を示した。
﹁だが、お前のやったことは誰にでも出来ることなのであろう? 例えば今回のやり方を見ていたファニートであれば、お前の教えが
なくとも同じことが出来るのではないか?﹂
﹁本当にそうお思いですか? 私が手の内を全て見せたとでも?﹂
オルティアは声を上げて笑う。怒りに研ぎ澄まされた雫とのやり
取りも、彼女にとっては娯楽に過ぎないのだろう。
それを雫は察したが、引き下がろうとは思わなかった。彼女は目
を細めて美しく歪な女を見据える。
﹁私は過去にも現在にも二人とない異質。この世界の人間とは違う
魂を持つ人間です﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁待て﹂
ファニートは雫の話を遮ろうと声を上げかけた。だが彼女はそれ
を黙殺し、オルティアが手振りで臣下を留める。心配してくれる彼
の気持ちは有難かったが、今は保身をしていられる時ではない。雫
は感情を抑えた声で自らを語る。
﹁私はこの世界の人間ではありません。だからこそファルサス王は
私を傍に置き、特異性を洗い出そうとしていたのです。子供に言葉
を教えられると申し出たのは、私の世界ではそれが普通のことだか
ですが、姫よ。リオを処分なさるなら私
らです。私の中にはまったく違う世界で培われた言語習得について
の知識がある。︱︱︱︱
786
はそれらを抱えたまま死にますよ?﹂
これは駆け引きだ。
雫は﹁代わりのいない﹂自分を使って、リオの命を買う。
決してつりあいの取れない取引ではないだろう。
﹁自分がどれ程特異な人間か分かっていないのか﹂と、エリクは再
三教えてくれていたのだから。
オルティアは突然の告白を聞いてさすがに軽く目を瞠った。
だがすぐに元の表情に戻ると、顔を傾けて雫を見上げる。
﹁大した妄言だ、と言って欲しいのか?﹂
﹁真実です。嘘だとお思いなら私を失ってから後悔なさればよい﹂
﹁どうやってそれを証明出来る。体の作りが違うのか? 引き裂い
て中を見てみようか﹂
﹁お好きに。ですが体は何も変わりませんよ。ファルサスで重傷を
負った時に一度調べられましたから。私が特殊なのはこの魂と知識
のみ。ただ、リオについて処分を訂正されなければ、この知識は何
一つ差し上げられません﹂
まるで綱渡りのような交渉だ。
けれど分が悪いからと言って、戦わないという選択肢ははなから
ない。
オルティアにとっては虫にも等しいのであろう子供の命。だが軽
いということはまた、認めるも容易いということだ。だから雫は残
酷さを第一に語られる王妹に、自らの価値を売り込む。
オルティアはいつの間にか笑うことをやめ、考え込むような表情
を見せていた。紅い唇が片端だけ吊りあがる。
﹁精神魔法を使って無理矢理引き出すことも出来るぞ﹂
787
﹁そうお思いなら試されては如何でしょう。先日のファルサスでの
事件⋮⋮姫は何処までご存知ですか? 例えば私に精神魔法をかけ
ようとした男の精神が、逆に崩壊したことなどはお聞きで?﹂
何であろうと利用する。食い下がってやる。
それが偶然でも誤解でも、乗ってくればいいのだ。﹁この人間の
協力を買った方がいい﹂と。
﹁姫が相応の対応を約束して下さるのなら、私は姫の為にこの知識
を使いましょう。幼子に言葉を与え病を払い、それまでと変わらぬ
知を取り戻させます。ただそれをお望みでないのなら交渉は決裂で
す。私の中にあるものは言葉一つもあなたにはお渡しできない﹂
臆することなく堂々と言い切る雫に、オルティアは探る視線を向
ける。上目遣いのその双眸には、初めて年相応の迷いが一滴見て取
れた。
姫はしばらくの時間をかけて考え込むと、ようやく口を開く。
﹁あの子供を助命すればよいと?﹂
﹁他にも実験に参加させられていた子供は全て。今までのことに見
合う厚遇をお与えください﹂
雫が、オルティアに懇願するのではない。
この部屋からリオが出される前であれば、或いはそうなっていた
だろう。だが今は違う。
彼女はもはや、王妹と対等な人間としてその前に立っているのだ。
先程までとは違い冷徹な威を宿す雫に、オルティアは両目を細め
る。からかいのない鋭い声がとんだ。
﹁本当に言うだけのことが出来るのであろうな?﹂
﹁確かに。お約束致しましょう﹂
﹁分かった。その条件でお前を買ってやる﹂
オルティアはファニートに目配せする。男は無言で頭を下げると、
ニケが出て行った扉から退出していった。
残された雫は温かさとは無縁の視線でオルティアを見つめていた
788
が、すぐに傲然とも言える態度で一礼すると踵を返す。髪を結い上
げたうなじに、針の如き声が突き立った。
別にこことまったく変わりませんよ。生得言語以外は﹂
﹁お前の世界は、どのようなところなのだ?﹂
﹁︱︱︱︱
雫は振り返らないままオルティアの部屋を出て行く。
そしてこの日から雫は、女官でありながら文官待遇を受けて、正
式にキスクの宮廷へと迎え入れられることになったのだ。
※ ※ ※
結局雫は、リオに再び会うことは叶わなかった。
それは彼女の出した条件には入っていないとして、城に突っぱね
られたのだ。
だが、親のいないリオが宮仕えをやめる魔法士の一人に引き取ら
れたと聞いて、雫はこの結果を受け入れた。壮年を過ぎかけたその
魔法士は再三の実験に疲れ、以前から辞めたいと申し出ていたのだ
という。リオを連れて故郷の村に戻り、共に暮らしていくという魔
法士に、雫は餞別として自分が作ったカード類を全て委ねた。
代わりに貰ったのはリオが渡して欲しいと言った落書きのような
絵で、彼女はそれを本に挟んで大事に取ってある。
実験室に捕らえられていた他の子供たちも皆、養い親を紹介され
たり預かり院に引き取られたりして、それぞれの居場所を得た。
五十人に及ぶ全ての子供の行く末を書いたリストを﹁お前は知る
権利がある﹂と言って渡してきたのはニケで、全ての手配は彼が行
ったらしい。﹁全部は読めないんだけど﹂と思いながらも雫は書類
789
をありがたく受け取り、寝る前などにふと眺めてみたりもする。
リオと別れてからの一月は、あっという間だった。
雫は現在ファニートと共に、セイレネという女につけられている。
貴族らしい美しさを持つ女は、出産まであと一ヶ月という腹を庇
いながら生活しており、その生活の細々した部分を雫は女官に代わ
って助けているのだ。
やがて腹の子が生まれれば、その後こそが雫の本来の仕事となる
だろう。その時に向けて彼女は日々勉強も重ねている。
初めてこの国に連れられて来た時から二ヶ月。
いつの間にかキスクでの日々は、ファルサスの城で過ごした時間
より長いものとなっていた。
※ ※ ※
﹁泣いているのか?﹂
背後からかけられた声に雫は苦笑する。風で乱れた前髪をかき上
げながら振り返った。
﹁泣いてないよ。何で?﹂
﹁そのように見えたのだ﹂
誰も住んでいない小屋の前に立ち、開いた扉から中を見ていた彼
女は、ファニートの気遣いを嬉しく思う。
だが同時に、そんなものは不要だとも感じていた。
甘やかして欲しいわけではないのだ。優しい言葉はもういらない。
彼女は子供ではないのだから。
男は持っていたショールを雫の肩に掛ける。薄着のまま夕方の庭
790
に出ていた彼女に持ってきてくれたのだろう。雫は礼を言ってそれ
を受け取った。
﹁リオは元気でやっているそうだ﹂
﹁そっか。ならよかった﹂
﹁淋しいか?﹂
雫はその問いには答えない。ただ穏やかに微笑して小屋に背を向
けた。男の脇をすり抜けながら﹁休憩時間が終わるよ﹂と言うと、
彼も隣を歩き出す。
日が落ちていく空は朱い。少し肌寒く感じる風に雫は目を閉じた。
ずり落ちそうなショールを掛け直す。
﹁ね、ファニート﹂
﹁何だ?﹂
﹁この国に連れてきてくれて、ありがとう﹂
彼女の声音には真意が読み取れない紗のようなものがかかってい
た。男は眉を顰めると呟く。
﹁⋮⋮礼を言われるようなことではないと思うが﹂
﹁そうかもね﹂
笑い出す雫の声は軽く、芝の上を何処までも転がっていく。
それはそのまま小屋の中に滑り込むと、誰の気配もないかつての
家を少しだけ、以前のように温めたのである。
791
日蔭の蕾 001
キスクは現在大陸に四つある大国の中でも、もっとも歴史が浅い
国家である。
起源を遡れば約二百五十年程前、大陸中央南部を舞台に数国が錯
綜する戦があった。その中で生まれた三つの国は、長い間お互いを
睨んで断続的に戦争を繰り返していたが、百年前唐突に併合して一
つの国となる。そして国名をキスクと改めるとまもなく、北の隣国
であるガンドナに攻め込みその領土を削り取ったのだ。
誕生してすぐに好戦的と恐れられた国家。だが勢いに乗るこの国
の出鼻を挫いたのは西に位置するファルサスである。
六十年前、ファルサス王ディスラル率いる軍は突如その矛先を隣
国であるカソラに向けた。
カソラはファルサスとキスクに挟まれた海際の小国であり、他国
は知らぬことであったが、キスクが圧力をかけて併呑を要求してい
た国でもあった。
だがその小国をディスラルは突然の出兵の後、僅か二週間で攻め
落としてしまう。
ディスラル自身はその後まもなく狂気の為廃され、続く王ロディ
ウスは廃王の所業を謝罪すると旧カソラの土地を返還し復興を援助
したが、この一連の出来事でファルサスの手が入ったカソラにキス
クが手を出すことは出来なくなった。
それまでもキスクは、隣にある歴史の長い大国をよくは思ってい
なかったのだが、この一件を境にファルサスに対し、更なる一方的
792
な敵意を向けるようになったのだ。
周囲の国から文化や技術を取り入れて今に至るキスクの敵意に、
ファルサス・キスク両国と国境を接するガンドナなどは﹁子供の逆
恨み﹂という評価を与えているのだが、当のキスクはそれを意に介
していない。
むしろ現在では、﹁他国のことなど気にもしていない。既に我が
表向きには。
国は大国なのだから﹂という傲岸さを堂々と周辺に示している。︱
︱︱︱
※ ※ ※
﹁ファルサスとかどうでもいいじゃん⋮⋮﹂
表向きのキスクの姿勢、だがそれがファルサスを敵視しているこ
との裏返しでもあることを知った雫は、正直な感想を洩らす。
思い切り問題発言で、誰かが聞いていたなら咎められたことは確
実であったろうが、幸い彼女がお茶を飲んでいる小さな休憩室には
誰もいなかった。雫は図書館から借り出してきた本を開き、分かる
部分を自分のノートに書き写していく。ここに来てから﹁基本的な
文法をエリクに習っておいてよかった﹂としみじみ思うのだが、そ
れでも完全なる文章読解には遠く及ばない。まるで中学一年生の知
識で大学の英論文を読んでいるようだ。けれど雫はそこでめげずに、
キスクの歴史書に目を通していた。
念のため時計を確認するがまだまだ休憩時間である。今の雫は妊
婦であるセイレネの側仕えの他に、城に提出する幼児向けのカード
教材の見本を作ったり、自分の勉強で何かと忙しい。その為、お茶
793
を飲みながら本を捲るのんびりとした時間は、彼女にとって非常に
貴重な休息の時なのだ。
もっともウィレットなどに見つかれば﹁歴史書を読んでいるのに
休まるんですか⋮⋮?﹂と呆れられてしまうことは確実なのだが。
菓子を摘みながらぼんやりそんなことを思っていると、偶然か扉
が開いてウィレットが入ってきた。彼女は挨拶の後、予想通り雫の
読んでいる本を見つけて、嫌いなものを食べてしまった時のような
顔になる。
﹁雫さんはまたそんな本ですかー﹂
﹁そんなって。重いよ。厚いよ﹂
﹁だからそんな、なんですって﹂
知り合ったばかりの頃は恥ずかしがってまともに口を聞いてくれ
なかった彼女だが、最近は友人に話すように雫に話しかけてくる。
どうやら十五歳のウィレットにとって、童顔の雫は年が近く親しみ
の持てる相手らしい。ただそれでも文官待遇を受ける雫の方が目上
なので、彼女はいつも最低限の丁寧語を使ってくるのだ。
﹁それよりウィレット、これ何て読むか教えてよ﹂
﹁またですか? 雫さんって頭のいい方なのに何で単語が読めない
んですか﹂
﹁別に頭よくないよ。だから読めないの。教えてくれたら覚える﹂
彼女の素性を知らぬ他の人間に読みを尋ねたなら、雫の持つ知識
のアンバランスさを不審がられただろうが、ウィレットはそんなこ
とは気にせず教えてくれる。今も﹁傾斜って読むんですよう﹂とす
ぐに返ってきた答に、雫は﹁ありがと﹂と礼を述べた。ノートの隅
に単語メモとして書き込む。
﹁そんなことより、もうすぐ花雨の日ですよ。雫さんはどなたに花
を贈っちゃうんですか?﹂
﹁へ? 何故私が花を贈るの。世界平和の為?﹂
794
﹁ちがいますって。花雨の日知らないんですか?﹂
﹁さっぱり﹂
淡白な雫の答に少女は妙な闘志を燃やしたようだった。俄然はり
きって﹁花雨の日﹂とやらについて教えてくれる。
年に一度あるこの日は、どうやらキスク独自のものらしく、意中
の異性に花を贈って好意を示すというものらしい。その起源はキス
ク建国時に遡るそうで、この国の母体となった三国がいざ併合とな
った時、一国の女王に対し残り二国の王子が雨のように花を降らせ
て求婚した、という逸話から来ているのだという。
﹁後で拾い集めるの大変そうだね⋮⋮それ﹂
﹁そういう話じゃないですよう!﹂
ウィレットの突っ込みに我に返った雫は、何だか自分の感想がい
かにもエリクの言いそうなことに思えて頭を抱えた。あそこまで淡
白にはなりたくないと思っていたのだが、いつの間にか似てきてし
まったのだろうか。
﹁つまり、バレンタインデー?﹂
﹁何ですかー、それ﹂
﹁こっちの話。なるほどなるほど﹂
元の世界でのバレンタインデーは、雫にとってはどちらかという
と日頃お世話になっている人間にチョコレートと粗品を贈る日なの
だが、﹁花雨の日﹂もそういう理解の仕方でいいのだろうか。世話
になっている男性というとファニートだが、何だか花がまったく似
合わない気がする。貰った方も多分困るだろう。
雫は、期待の目て見てくるウィレットに﹁多分、贈らない﹂と付
け加えた。途端に少女はがっかりした表情になる。
﹁これを逃したら次は来年ですよう!? いいんですか!﹂
﹁まったく構わないのです。どうでもいいです﹂
﹁そんなぁ⋮⋮ファニートさまとかニケさまとか格好いいじゃない
ですか!﹂
795
﹁そう?﹂
畳み掛けてくる攻勢に、雫は歴史書の解読を諦めて本を閉じた。
頬杖をついてお茶を啜る。
ウィレットが挙げた二人の男は外見的には一般男性の範疇に入る、
と思われる。が、実際のところ雫は、男性の容姿の良し悪しが最近
よく分からないのだ。エリクやラルスを見慣れてしまったせいかも
しれないし、﹁内面が滲み出てて外見がよく分からない﹂というエ
リクに感化されてしまったのかもしれない。
ともかくファニートは親切で頼りになると思っているし、ニケは
本当にむかつく、と思っているのだが、格好いいかと聞かれるとさ
っぱり分からなかった。
﹁あのお二方は城内でも人気あるんですよう。姫様の臣下の方々で
すから、みんな近づけませんけど﹂
﹁あー、怖がられてそうだもんね。姫﹂
﹁だから同じ姫様直属の雫さんに、ぜひ﹂
﹁⋮⋮人身御供?﹂
何だか地雷原に放り込まれるダミー人形を連想して雫はげっそり
してしまった。どういう理由だ⋮⋮と思ったが、少女にとっては恋
愛イベントこそが日々の一大事なのだろう。四歳年上の雫をきらき
らした目で見ている。
﹁えーと⋮⋮あの二人、好みじゃないし﹂
そうだなぁ、尊敬出来る人
﹁ええ!? ならどういう男性が好みなんですか﹂
﹁急に聞かれても困るけど。︱︱︱︱
がいいかな。頭よくて、人を自然に気遣える人とか﹂
そう口に出しながらも、何だか曖昧な好みだ、と雫は半眼になっ
てしまった。定義を言葉にしても実体が伴ってこない。どう考えて
みても具体的な人物像が想像できなくて、彼女は唸った。一方ウィ
レットは怪訝な顔になってしまう。
﹁何だか、むずかしいんですね。雫さんの好みって﹂
﹁多分ないんだと思うよ。よく分かんない﹂
796
﹁じゃ、とりあえず当日のお花はわたしが用意しときます。全力で﹂
﹁おおっと変化球! 何の罠?﹂
﹁念のため念のため﹂
ウィレットはポケットから取り出した紙に雫のペンで何かを書き
込む。花の予約票か何かなのだろう。面倒なので雫は止めずにそれ
を見ていた。当日誰かにあげてもいいし、自分で飾ってもいいだろ
うと思ったのだ。
雫は時計を確認すると広げたノートをまとめ始める。あとお茶を
一杯飲んだら、また仕事の時間だ。その気配を察して自分からお茶
を淹れてくれるウィレットに礼を言うと、雫はついでのように尋ね
た。
﹁その、一人の女王に求婚した二人の王子って、結局どっちが選ば
れたの?﹂
﹁雫さん知らないんですかー? 女王様は両方とご結婚されたんで
すよう。三人で夫婦になっちゃったんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ドロドロ﹂
一夫一妻を常識とする雫は率直な感想を零す。
それを聞いた少女はまた呆れた顔になったが、一瞬で笑顔になる
と﹁甘くしちゃおっと﹂と蜂蜜の壷を手に取ったのだった。
男の指が駒をつつく。白い石を彫り上げて作られた駒は軽く動い
たが、倒れてしまうことはなかった。彼はその駒を手の中に取る。
反応を探るように向かいに座る対戦者を見やった。
﹁戦がしたいのかい? オルティア﹂
﹁そうは申しておりませぬ﹂
﹁でも目がそう言ってる。私は別に構わないが。ファルサスを何と
かしたいとは思っているからね﹂
797
茫洋とした兄の言葉に、女は自嘲ぎみな笑みを刻む。彼女の言う
ことは大抵聞いてくれる兄だが、さすがに戦争となると腰が重い。
だがそれは戦いが嫌だというより、ファルサスの軍事力の強大さ
をよく把握している為だろう。キスク現王ベエルハースは秀でて賢
くもないが、愚鈍という程物が分かっていないわけでもないのだ。
彼は大陸において一国だけ突出したファルサスに対し危機感を持
っており、また過去の遺恨のことも忌々しく思ってはいるのだが、
正面切って宣戦はしたがらない。むしろオルティアが擁する﹁切り
札﹂の存在を聞いて、﹁暗殺に頼った方がいいのでは?﹂と返して
くるくらいだ。
その兄をどう動かしてやろうかと駒を弄びながら思案するオルテ
ィアに、王はまったく違うことを切り出す。
﹁そう言えばお前の管轄にある娘⋮⋮何と言ったかな、あの実験を
終わらせた娘﹂
﹁雫、でございますか?﹂
﹁そう。どのような娘だ? 一度見てみたい﹂
﹁差し上げられませぬよ。あれは妾の買ったものです﹂
ベエルハースは決して好色ではないのだが、興味自体がふらふら
と彷徨い落ち着かない。十全に人を使えぬ兄に異質な手駒を渡すこ
とを嫌って、オルティアは釘を刺した。同時に盤上の駒を進める。
﹁欲しいとは言っていない。見てみたいだけだ。その娘、お前に喧
嘩を売ったそうじゃないか﹂
﹁取引です。妾が臣と争うわけがありませぬ﹂
あの時雫は真正面からオルティアに相対してきた。
確かに今までいなかったのだ。そのような人間は一人も。正確に
は数年前であれば僅かにいたが、皆処刑された。雫が未だに生きて
いるのは例外中の例外であり、それはオルティアが﹁異世界出身﹂
という彼女の申告を訝しみながらも否定しきれない為だろう。
苦い顔になった妹の駒を、ベエルハースは自分の手駒で弾きなが
ら微笑する。
798
﹁だが、私が目をかければその娘への風当たりも弱まるよ。件の娘
は実験の件で魔法士たちからうとまれているようだからね﹂
﹁あれはそれくらいでは負けませぬ。妾の臣でございますから﹂
自分に負けなかった人間が、宮廷魔法士如きに負けるはずがない。
オルティアが自尊も込めて返すと王は肩を竦める。
それきり二人は盤上に意識を戻し、雫についての話は萎んで消え
てしまった。
セイレネには夫がいない。
身篭っている以上、相手がいたのだろうとは思うが、少なくとも
彼女の周りにそれらしい人間はおらず、彼女自身も話題にしない。
何か事情があるのだろう。第一彼女の存在は秘されていて、城内で
も知る人間はほとんどいないのだ。
雫自身も勿論そのことを承知しておりセイレネについて他の人間
それが彼女であり、彼女がまもなく産むであろう子供は何らか
に何かを話すことはまずない。オルティアが密かに匿っている女︱
︱
の重要な役割を果たすのだと、雫はそれだけを理解していた。
﹁そこの紅を取って頂戴﹂
溜息混じりの女のお願いに、雫は言われたとおりのものを渡した。
この世界の口紅は主に小さな硝子の平皿に入れられている。テー
他の若い女官ならそれらを羨望の目で見つめたであろう。
ブルの上に広げられた化粧道具の数々は一つ一つが高価なものであ
り、
だが、雫はセイレネの動きを見ながら﹁こっちの世界はああいう
手順で化粧をするのか﹂と言う感想を持ったのみだった。
そういう彼女は眉を引いて口紅を薄く塗っているだけである。長
くなった髪をきつく結い上げているせいもあって女官というよりも
教師のような固い姿だが、自分がこれくらい地味でいた方がセイレ
799
ネの気も収まるだろうと雫は思っていた。
﹁本当に体が重くてままならないわ⋮⋮早く自由になりたい﹂
﹁あと一月もないですから。それまで我慢なさってください﹂
﹁産んだ後、体は戻るのかしら⋮⋮﹂
﹁下着で補正しておいて、復調したら軽く運動すれば戻ると、私の
従姉妹は申しておりました﹂
現実的な受け答えに、セイレネは雫を見返した後、軽く溜息をつ
いた。﹁あなたは若くていいわね⋮⋮﹂と呟く。
そういうセイレネも二十代前半にしか見えないのだが、一体雫は
何歳に思われているのだろう。女の豊かな金髪をブラシを使って結
い上げながら、しかし雫は自分の年齢を口にすることはしなかった。
代わりに手際よくピンを刺していく。
人の髪をセットすることなど、たまに姉のデートの時にやってあ
げていたくらいでそう得意でもなかったのだが、セイレネに付けら
れてからユーラが一通りやり方を教えてくれた。その為複雑な髪型
などは作れないが、単純なまとめ髪なら綺麗に出来るようになった
のだ。
人目に触れられない生活をしているセイレネは、臨月である自分
の体が煩わしくて仕方ないらしい。﹁動きやすい服を選んで欲しい﹂
と言う割りに、動きにくいのは服のせいではないので、いつも溜息
ばかりをついていた。
雫は彼女の髪を高く結い上げてしまうと、香りのよい茶葉を選ん
でお茶を淹れ始める。漏れ出す湯気に顔をくすぐられていると、気
だるげな声が背後から飛んできた。
﹁どうも気が滅入って仕方ないわ。本でも読んでもらおうかしら﹂
﹁ぐ⋮⋮﹂
一番の苦手分野を言われて雫は返事に詰まる。
子供向けの絵本ぐらいなら何とか読めるが、普通の本となるとま
ず無理だ。どうやって断ろうか、そんなことを考えている間にセイ
800
レネは細い指で部屋の隅にある本棚を指した。
﹁あそこにある本から適当に選んで。どれでも構わないから﹂
﹁はぁ﹂
雫はお茶を蒸らす間手を放して、本棚に歩み寄ってみる。絵本が
最後
入っていればいいなと思いつつも、入っていたのはやはり分厚い本
ばかりだった。小難しげな背表紙を次々見ていって︱︱︱︱
に、背に何も書かれていない一冊に目を留める。
﹁あれ?﹂
それは古い本のようだった。雫は背表紙の上に指をかけて紺色の
本を引き出す。
指先が触れた瞬間、まるで静電気が走ったかのように軽く痺れを
感じたが、雫は指が何でもないことを確かめると気にせず本を取り
出した。
革張りの厚い本には銀の装飾が施されている。表紙にもやはり題
名は書かれていなかったが、裏表紙には何かの紋様が描かれていた。
表紙の感触が妙に手に馴染む。それはまるで親しんだ人肌のようだ
何処かで、これと同じものを見たことがある。
った。雫は題名のない本を見つめる。
︱︱︱︱
拭いようのない既視感。記憶の底で何かが蠢いた。雫は表紙に指
をかける。
だがその時、セイレネの訝しげな声が彼女の手を留めた。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮え? あれ? あ、この本題名ないなって⋮⋮﹂
﹁ああ。それはやめて。他のにして頂戴﹂
セイレネは幾分慌てたかのようにそう言う。雫は﹁はぁ﹂と生返
事をしながらも紺色の本を棚に戻した。まるで白昼夢を見ていたか
のようにぼんやりする頭を振る。
﹁雫、お茶はいつまでそのままなの?﹂
﹁あ、忘れてました。すみません。まだ間に合うと思います﹂
801
雫は慌ててティーポットに戻ると、程よく蒸らされた香茶をカッ
プに注ぐ。薄紅のお茶をセイレネに出しながら﹁花雨の日ってご存
知ですか?﹂と試しに聞いてみると、彼女は軽く首を傾げて﹁何か
しら﹂と答えたのだった。
セイレネの部屋を離れてオルティアのもとへ定例報告に向うと、
姫は長椅子に寝そべりながらサイドテーブルに石の球を積み上げる
遊びをしていた。
ビー球くらいの黒い球を、彼女はゆっくりとピラミッド状に積み
上げている。なかなかに忍耐力と繊細さを必要とする遊びに思える
のだが、完成はもう間近に見えた。雫はそれを少し意外に思いなが
らも報告を始める。
﹁セイレネさんはお変わりないですよ。体が思うようにならなくて
鬱屈としているみたいですが﹂
﹁そうか﹂
﹁体の方はちゃんと医者に診てもらってください。私は分からない
ので﹂
﹁もういつ生まれても構わぬのであろう?﹂
﹁存じません。素人判断とかやめた方がよろしいのでは?﹂
棘のある切り返しにオルティアは小さく笑う。雫の態度はいつも
不敬の半歩手前を行き来しているのだが、彼女はそれを咎めないの
だ。
姫は手の中に黒い球を一粒握る。何かを掴み取るその仕草は美し
くはあったが、何故か欠損を思わせた。雫は我知らず眉を顰める。
﹁ともかく出産時の人の手配と乳母の手配はなさって下さいね。私
にはその知識がありませんし、セイレネさんは自分で育てたくない
みたいなので﹂
﹁分かった。やっておこう﹂
802
オルティアは細い指を伸ばし、積み上げた頂上に球を置こうとす
る。だが寝そべっている彼女からはその位置は微妙に高く、中々場
所が定まらなかった。
起き上がればいいのに、と思いながら雫はしばらくそれを眺めて
いたが、オルティアの指が違う球に触れ、ぐらりと揺れかけたのを
見て一歩進み出る。
﹁失礼します﹂
彼女は落ちかけた球を押さえて留めると、オルティアの手の中か
ら黒い球を取り上げた。そのまま最後の一つを迷いなく頂上に鎮座
させる。
目を丸くする王妹に、雫は子供を諌める意地悪な教師の如き笑顔
を向けた。
﹁不精をすると他人に美味しいところをさらわれますよ﹂
﹁⋮⋮妾の手の者が為したならば、それは妾の為したと同じことだ﹂
﹁今ちょっとがっかりなさってませんか? 違うのならばよろしい
のですが﹂
作り物の笑顔を崩さない雫に、オルティアは一瞬顔を顰めかけた。
が、すぐにつんとした無表情になると視線を逸らす。
﹁もう下がれ﹂
﹁おおせのままに﹂
雫は慇懃に一礼すると姫の部屋を退出した。音も無く閉まるドア
を背に、あることを思い出す。
﹁あ、姫は誰に花を贈るのか聞き損ねた﹂
オルティアが誰かに花を贈るなど想像もつかないが、王族である
彼女が自国の風習を知らないということはないだろう。
そのため雫は一般的な質問をしながら間接的に﹁花雨の日﹂の実
情について聞き出してみようと思っていたのだ。ウィレットの言う
ことを疑うわけではないが、どうもあの年頃の少女には偏ったフィ
803
ルターがかかっているようである。だからもう二、三人に話を聞い
てみたかったのだが、優先順位が限りなく低い話題なのですっかり
忘れてしまっていた。
﹁まいっか。ユーラにでも聞こう﹂
軽く諦めると、雫は欠伸をしながら廊下を去っていく。
数分後、その彼女とすれ違った女官は﹁チョコレート食べたいな
ぁ﹂という呟きを聞いた気がしたのだが、何のことだかさっぱり分
からなかった。
そう納
ユーラに聞こうと思いながら当日までド忘れしていたのは、やは
り優先順位が低かったからに違いない。
雫はウィレットに白い花束を差し出されながら︱︱︱︱
得しようと努力していた。
﹁え、大きくない? これ﹂
﹁だから全力で用意するって言ったじゃないですかー。張り切りま
したよ、わたし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
腕の中に抱えなければいけない程の花束を受け取って、雫はそれ
を見下ろす。
こんなに大きくてはもう義理では済まない気がするのだが気のせ
いだろうか。仮に本命だとしても大きすぎて引かれそうだ。
溜息とか苦言とか愚痴とかそう言った苦そうなものをまとめて飲
み込んで、彼女は何とか﹁ありがとう﹂と返す。ウィレットはその
様子に気づかなかったらしく、小さな花束を手に﹁どういたしまし
て!﹂と笑うと子犬のように駆けていった。
休憩室に一人取り残された雫はしみじみと自分の花束を眺める。
多くの花弁を持つ白い花は小さな牡丹によく似ていた。それらを
中心に作られた花束は非常に美しく華やかではあるのだが、いかん
804
せん状況が悪い。これはもう自分の部屋に飾るしかないだろう。幸
い今日は偶然か嫌がらせか午後から休みであるし、引きこもって過
ごせばいい。
彼女は片手で頭をかきながら自室に向って廊下を歩き出した。
﹁エリクがいればね﹂
イベントごとに疎そうで、なおかつ恋愛沙汰にも興味がない彼な
ら﹁日頃の感謝﹂と言って渡せば何の疑問もなく受け取ってくれた
だろう。もしそうであれば少し手の込んだ食事と菓子も作っただろ
うな、と考える雫は、ふと窓の外に視線を動かして、そこに奇妙な
ものを見つけた。
﹁何あれ﹂
庭木の陰から服の裾らしきものが少しはみ出ている。
まさか死体があるのだろうか、と雫は一瞬考えかけたが、咄嗟の
発想がそれとは我ながらさすがにどうかしている。彼女は慌ててそ
の考えを打ち消した。
実際は誰かがそこにいるか、或いは服を干してあるかのどちらか
なのだろう。あんな日蔭に干していて乾くかは疑問だが、外は充分
暖かい。
雫は足を止めると腕の中の花束と、空白の予定について思考を巡
らせる。やがて彼女は﹁まぁいいか﹂と呟くと、その爪先を外へと
向けた。
﹁何だ、あんたか﹂
好意のまったく感じられない声が降ってきたことに、植え込みの
中で魔法書を読んでいた男は顔を顰めた。顔を上げぬままぶっきら
ぼうな声を返す。
﹁何の用だ、童顔女﹂
﹁死体かと思って見に来た﹂
﹁生憎生きてる。残念だったな﹂
805
ニケが追い払うように手を振ると、その手は何か別の物に当たっ
た。違和感のある感触に顔を上げると、同僚の女は大きな花束で彼
の手を受けている。どういうつもりか分からぬ持ち物に、彼はしば
し沈黙した。魔法書のページに指をかけながらつい尋ねてしまう。
﹁それは何だ﹂
﹁気に入らない人間を成敗する成敗棒﹂
﹁⋮⋮お前の頭の中身はどうなっている? 常識が入っているのか
?﹂
﹁こんなところで何やってんの?﹂
微妙に話の矛先をずらされ流されたことにニケは青筋を立てそう
になったが、ここで口喧嘩をしても周囲を通りがかった人間に怪し
まれるだけだ。﹁本を読んでる﹂と正直に答えると雫は﹁見れば分
かるって﹂と呆れた顔になった。彼女は花束を抱えたまま彼の隣に
しゃがみこむ。
﹁何? 借金取りから逃げてるとか? 隠れてるんでしょ﹂
﹁借金などあるか! 街に出ようと思ったら日が悪いことに気づい
ただけだ!﹂
﹁あ、花雨の日?﹂
他国人である彼女の口からその言葉が出たことにニケは驚いたが、
どうせ周りの女官が騒ぎ立ててでもしていたのだろうと納得した。
成敗棒はともかく花束もどう見てもそれ用のものだ。あげるものか
貰ったものかは分からないが、大きさから言って思い入れの強さが
窺える。
﹁今日は街も騒々しいからな。髪を切りに行こうと思ったがやめた﹂
﹁あー、そうなんだ。大変だね、休み少ないのに﹂
そういう彼女もほとんど休みはないはずなのだが、実に平然とし
ている。
もっともこの国に来てから、更には共に暮らしていた子供と引き
離されてから、彼女はほとんど弱さを見せようとはしない。ファル
サスで魔法士の男と共にいるところを一度見た時は、もっと可愛げ
806
のある笑顔だったのに、とつい思い出しそうになってニケは舌打ち
した。
何のつもりか雫は隣に座りこんでしげしげと彼を見ている。その
視線に自分でもよく分からぬ居心地の悪さを感じて彼は魔法書を閉
じた。場所を移動しようと立ち上がりかける。が、しかし、その時
妙に明るい女の声がかけられた。
﹁じゃ、私が切ってあげようか﹂
﹁⋮⋮は?﹂
腰を浮かしかけたままニケは雫を見下ろす。大きな黒い瞳は稚気
に富んで、薄気味悪いくらいに彼の意識を惹いたのだ。
花束をその場に置いて城の中に駆け戻った雫は、ユーラを見つけ
ると髪きり鋏を借りることに成功した。﹁自分で切るんですか?﹂
と怪訝そうな彼女に﹁違う違う﹂と笑って手を振る。
﹁いやー、一度人の髪切ってみたかったんですよね。トリマーみた
いに﹂
﹁何ですか、それ﹂
一抹の怪しさを感じ取ったらしきユーラを後に雫は庭へと戻った。
逃げ出しているかもな、とも思ったがニケは先程と同じ場所に座っ
ている。男は彼女の持つ鋏を見てあからさまに嫌な顔になった。
﹁お前、本気か﹂
﹁勿論。向こうむいてよ﹂
﹁やったことあるんだろうな?﹂
﹁あるある。私、上手いよ?﹂
最初から失敗すると思ってやる人間はいない。そんなことを心中
で嘯きながら雫は男の灰色の髪に軽く櫛を通した。もっとも、失敗
してもこの男ならさして胸も痛まない、という計算があったのもま
た事実なのだが。
今までペットの美容室でシャキシャキと犬の毛を整えていくトリ
807
マーを見る度に面白そうだなと思っていたのだ。上手く行けばいい
ストレス解消になるかもしれない。雫は切れ味のよさそうな鋏を手
に取った。
﹁で、どうすんの? かりあげ君?﹂
﹁殺すぞお前。少し短くなればいいだけだ﹂
﹁全体的に縮めればいいのね。了解﹂
それくらいなら初めてでも楽勝だ。ニケの髪は現在後ろが肩につ
くかつかないかくらいになっているので、ここから始めてさっぱり
させればいいだろう。
雫は鼻歌さえ歌いだしそうな気分で男の髪に鋏を入れ始める。
ざっくりと、そんな音がいきなりしたことにニケは思わず絶句し
たが、彼女の自信を買って何も言わなかった。最初だけは。
ざく、という音と沈黙が交代になってきた。その沈黙に恐ろしさ
少しおかしなくらいの量の髪が落ちているのは気のせ
を感じて彼は自分の周囲を見下ろす。
︱︱︱︱
いだろうか。気のせいと思いたい。
だが首の後ろが妙に涼しいのは事実で、鏡もないニケはついに口
を開いた。
﹁おい﹂
﹁何﹂
﹁どうなってるんだ﹂
﹁え、何が?﹂
何が、はないと思うのだが、また鋏が入る感触がしたのでニケは
動くのをやめた。頭上から﹁うーん﹂という思案の声が聞こえる。
﹁あんたってさ、レウティシアさん見たことある?﹂
﹁ファルサス王妹か? 勿論ある﹂
﹁美人だよね﹂
﹁お前とはえらい違いだな﹂
808
﹁エリク⋮⋮私の保護者だった人が言うには、レウティシアさんの
顔って左右対称なんだって。実はそういう人って結構珍しいらしい
んだよ﹂
自分の容姿に関する嫌味は見事に流した彼女だが、何を言いたい
のかは見えてこない。ニケは眉を軽く上げた。
﹁それがどうした﹂
﹁いや、左右対称って難しいもんなんだなぁと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮殺すぞ?﹂
それをやっていっては非常に不味い気がする。
﹁ちょっと待って。左を右に合わせてみるから﹂
︱︱︱︱
ニケは激しい危機感に襲われたが、雫の声がやたらと真剣である
ことと後ろで断続的に鋏の音がするせいで身動きが出来ない。﹁あ、
切りすぎた﹂﹁今度は右﹂など不吉な言葉が次々と降ってきて、彼
は両耳を押さえたくなった。今更ながら何故彼女に髪を切らせてし
まったのか、激しく後悔する。
そうして彼が解放されたのは⋮⋮もう取り返しがつかない状態に
なってからのことだった。
﹁あっはははははっはははははっははっ!﹂
鋏を置き、正面に回った雫が一番にしたこと。それは、腹を抱え
て大笑することであった。
ニケは途中から予想できた反応を目の当たりにして震える拳を握
る。が、一応自制心が働いたのか、彼はそれを雫に向かって揮うこ
とはしなかった。笑いすぎて涙を浮かべている女に、今にも射殺し
そうな視線を向ける。
﹁上手いと言っていたよな!?﹂
﹁ごめん、嘘だった。初めて﹂
﹁もう死ね、お前﹂
﹁待って待って⋮⋮そんなに変じゃないって。若くなっただけ﹂
809
雫は片手で腹筋を押さえながら手鏡を差し出した。ひったくるよ
うにそれを奪い取ったニケは、鏡の中の自分を見て言葉を失くす。
少し短くしてくれ、と言っただけなのに彼の灰の髪は元の半分近
くの長さまで鋏を入れられていた。それはもう二十歳前の少年と見
間違う程に。髪型だけ見ればすっきり爽やかと言えなくもないが、
何よりも彼自身の表情がそれを裏切っている。
額に浮かぶ青筋を確認する彼に、ようやく笑いが止まった雫はに
っこりと、今度は意図的な笑顔を見せた。
﹁ごめんね? 童顔﹂
﹁お前⋮⋮﹂
﹁で、本当は何歳?﹂
﹁二十一だぞ? 何だこれは。仕返しか?﹂
﹁あ、二十一なら別にいいじゃん。若い若い。許容範囲だよ﹂
﹁こんな頭で人前に出られるか!﹂
当初口論を避けようと思っていたことなど綺麗に忘れて、ニケは
目の前の女を怒鳴りつける。だが彼女は﹁慣れるよ﹂と言っただけ
でまったく悪びれない。傲岸な言葉につい﹁誰のせいだ!﹂と叫び
たくなった。
雫はむしろ堂々とした態度で頷いてくる。
﹁いやもうこれで痛み分けってことでいいんじゃない? あんたか
らは散々むかつくこと言われたし﹂
﹁割に合うか! お前は言い返してる!﹂
﹁あ、じゃあこの花束つけるよ﹂
拾い上げられた白い花束をニケは唖然としながらつい受け取って
しまう。けれどまったく他意のない様子で渡してきたということは、
この日に白い花束を異性に贈るということは求愛を意
おそらく彼女は﹁花雨の日﹂の意味を知らないのだろう。
︱︱︱︱
味しているのだということを。
﹁⋮⋮お前、これ誰に貰った﹂
﹁え? ウィレットに貰ったよ。綺麗でしょ﹂
810
﹁そうか﹂
何となく安心してしまったのは何故なのか。ニケは突き詰めて考
えたくなくて、魔法書を拾い上げると花束と一緒に小脇に抱えた。
せめて誰かに見られる前に部屋に帰ろうと踵を返す。だがその時、
ぞっとする程穏やかな女の声がかけられた。
何のことだ?﹂
﹁あんたさ、試験の時リオを庇ってくれたでしょ﹂
﹁︱︱︱︱
﹁違うなら別にいいけど。ありがと﹂
振り返ると雫は背中越しに手を振りながら既に庭の向こうへと歩
き出している。
小さな背にはこの時、孤高が負われているように、彼には見えた。
もっと愛らしく笑う女だったのだ。隣にいる男の存在に安心しき
って、会話の一つ一つを楽しむかのように。
だが今の彼女にその名残はない。周囲の急激な変化が、そして常
に緊張を強いる環境が彼女を変えた。
そしてその原因の一端は彼にあるのだろう。彼がオルティアに彼
女のことを﹁ファルサス王のお気に入り﹂として教えたのだから。
子供と共に暮らした一月と更にその子を奪われてからの一ヶ月間、
ニケは彼女がどれ程足掻いて苦労して悩みぬいたのか、変わらざる
彼女が来たことで忌まわしい実験は終わり、
を得なかった彼女の実情をよく知っている。
それでも︱︱︱︱
誰かは救われたのだ。
﹁俺は謝らないからな⋮⋮童顔女﹂
男は短くされた髪に手を差し入れると憮然とした表情になる。だ
がすぐに溜息をついて城の自室へと戻っていった。
誰もいなくなった庭を遠く四階の窓から見下ろしていた王は、頬
杖をつきながら嘯く。
﹁可愛らしい娘じゃないか。オルティアの支えとなればよいが﹂
811
年の離れた妹の名を出すその言葉には善意しか聞こえない。
ベエルハースはしばらくそのまま窓枠によりかかっていたが、や
がて飽いたのか体を起こすと部屋の中に消えた。
高い城壁の向こう、街の方からは軽快な音楽が微かに聞こえてく
る。
人の喜びを乗せてそよぐ風は緩やかに花の香を漂わせながら、だ
がそれが永遠ではないこともまた移り変わっていく空の色と共に知
らしめていたのだった。
812
002
その部屋は、敵が占拠していた建物の最奥にあった。
とても小さな、窓もなく明かりもない真っ暗な部屋。開けて一番
に漂ってきたのは黴臭さだった。
彼女は、光が差し込んだことが分かっただろうに初め何も言わな
かった。泣き声もしなかったので部屋を間違えたのかと思ったくら
いだ。だが、明るさに目が慣れてきたのであろう。彼女の姿を見つ
けて跪いた彼に、幼い少女は乾いた声をかける。
﹁わたしを殺しにきたの?﹂
予想外すぎる言葉。思わず詰まった彼が気を取り直し否定を口に
するより早く、だが彼女は嗤い出す。
暗く限られた部屋に哄笑は軽く響いた。彼女は小さな手で口元を
押さえ笑い続ける。
その傾いた音の中に浸されながら彼は、自分は本当には間に合わ
今はもう、遠い昔の話である。
なかったのではないかと、硬い絶望を抱いて凍りついたのだ。
︱︱︱︱
※ ※ ※
女の足取りは非常にゆっくりしたものである。目の前の段差にフ
813
ァニートは何も言わず手を差し伸べた。彼女は微笑みながらその手
を取る。
人目に触れない小さな中庭には、色とりどりの花が咲き誇ってい
る。その中を散歩するセイレネは、風になびく髪を手で梳きながら
深呼吸した。
﹁ありがとう。気が晴れるわ﹂
﹁これくらいならばいつでもお申し付けください﹂
彼が答えると女は美貌に穏やかな笑みを浮かべる。そうしている
とまるで夫婦のように見えるな、と離れた場所から二人の様子を眺
めていた雫は感想を抱いた。
ファニートの仏頂面も気のせいかいつもよりは柔らかいものに思
える。ごく自然にセイレネを気遣う様は壊れ物を扱うかのように丁
寧だった。
オルティアの側近として挙げられるのはニケとファニートの二人
であるが、姫はどちらかというとニケの方を重用している。ニケは
腕の立つ魔法士らしく転移も出来る為、他国の様子を探るにも使い
やすいのであろう。
一方ファニートは彼女とは古くからの付き合いらしいが、剣士で
あり性格もいささか融通がきかない。雫はまだほとんどそういった
場面には出くわしていないのだが、姫がとんでもないことを言い出
した時にまず止めるのはファニートで、ニケの方は即答で受諾する
のだという。特にファニートはセイレネとその腹の子に関しては非
常に気を配っており、退屈で待ちきれないらしき姫を再三諌めてい
た。
﹁ひょっとしてファニートってセイレネさんが好きなのかな﹂
雫がぽつりと呟いたのは、風向きが変わると同時に彼が無言で立
ち位置を入れ替え、セイレネに直接風が当たらないように遮ったの
を見たからなのだが、それはあながち間違っていないようにも思え
た。
814
何故ならファルサスに雫を迎えに来た時、彼は﹁もうすぐ生まれ
る赤ん坊を助けてやって欲しい﹂と切り出してきたのだ。当初エリ
クも連れてくるよう命じた姫の希望を曲げてまで雫を連れて来たの
例えば、セイレネの子供を助けたいとか、そういった
は、ファニートがそこに譲れない何かを抱いていた為なのかもしれ
ない。
︱︱︱︱
願いを。
だがこれはあくまで妄想の域を出ない推測だ。考えても答が出る
わけではない。
雫はかぶりを振ると、まもなく部屋に戻るであろうセイレネの為
に、お湯を取りにその場を離れた。建物へと入る前に何気なく二人
を振り返ると、彼らは並んで花の中を散策している。
その姿に雫は、お似合いと言えばお似合いだろうな、という他人
事でしかない感想を抱いたのだった。
﹁生得単語がなくて、どうやって言葉を教えられるのだ﹂
﹁繰り返し実物と単語を照らし合わせるんですよ。それに人には身
振り手振りがありますから。これも一つの言語です﹂
異世界人であると明らかにした雫だが、オルティアは半信半疑と
いうか七割は疑っているらしい。だがそれでも三割を否定しきれな
いのは、雫が持っていた本の一冊を見せてやったことが大きく影響
しているだろう。
印刷物にも関わらず大陸のどの文字でもない本に、姫はさすがに
表情を変えた。口では﹁こんなもの作ろうと思えば作れる﹂と強気
を示して本を突き返してきたが、それで彼女の常識が揺らいだこと
は確かだったのだ。
おまけに雫がやり方を伝えて同様に子供の教育を試みた何人かが、
それなりに成果を上げながらも雫自身がやるにはどうしても及ばな
815
いでいる、ということもオルティアが迷う一因となっている。
雫は別にノウハウの出し惜しみをしているつもりはないのだが、
言葉の通じない子供に言葉を教えるということ自体に大人たちが戸
惑っているせいであろう、彼女が直接教えるとすぐに飲み込んでく
れるようなものも、他の大人がやると数時間かかることもあるのだ。
﹁身振りで伝えられることなど限度があるではないか。間違って覚
えたらどうなるのだ﹂
﹁根気強く訂正するだけです。いずれ分かってくれますよ﹂
﹁迂遠に思える﹂
﹁そんなの言葉に限った話じゃないじゃないですか。回りくどくて
も前進はしているんですから大丈夫ですよ﹂
もしオルティアがエリク程に鋭い人間であったなら、﹁生得言語
がない﹂というそれだけで雫が何故大陸言語を話せているのかを疑
問視しただろう。
だが実際彼女は雫の申告を額面通りに受け取っただけだった。
元の世界のことも、この大陸とさして変わりがないと言った嘘を
信じているようなので、意外とオルティアはあまりにも常識を逸脱
した事態に対し、そこから更におかしな点を疑ってみるという思考
が苦手なのかもしれない。
もっとも異世界の様相についてはともかく、﹁言葉が通じない﹂
という概念自体がないこの世界の人間に、雫のおかしさを見抜けと
いう方がハードルの高い要求なのかもしれないのだが。
大陸全土で音声言語が変わらないという事実は、雫が思うに生得
言語がその主原因に違いないのだが、千年以上に渡りそれが当たり
前のこととなっている人々にとっては﹁生得言語がないならば、同
じ人間でも違う言語を使うようになるのではないか﹂という推論は
容易に到達し得ないものらしい。
雫は一度ファニートに、エリクとの話を何処まで聞いていたのか、
816
彼自身はどう思っているのか尋ねてみたいと思っていたが、気軽に
口にしていい話題ではないため実行に移さないままでいた。
外部者の呪具かもしれない紅い本に関しては、ファニートは手を
尽くして情報を探してくれているものの、本は持ち主の女ごと行方
知れずなのだという。
ファルサスの調査隊も捕捉できていないそうだと聞いて、雫は思
わず天を仰いだ。
オルティアの会話相手を務めながら半分は物思いに耽っていた雫
は、姫の沈黙に気づいて視線を動かす。
王妹はそれ以上質問を思いつかないのか、雫の顔を射竦めるよう
に睨んでいた。だが雫は内心舌を出しただけである。
﹁お前がこの世界に来たことが病の発生の原因ではないのか?﹂
﹁私が来る少し前から発生していたみたいですけどね。第一私にそ
ういう変な力はありませんよ。お調べになったでしょう﹂
城に仕えだしてからすぐ、雫は一通りの身体検査をされている。
それは本来仕官試験の一端としてあるものらしいが、彼女は己の申
告のせいもあって通常よりも徹底的に行われたのだ。
だが出された結論はファルサスの時と同じく﹁普通の人間﹂とい
うものである。
その時報告書を受け取ったオルティアは目の前にいた雫に﹁血を
見せてみよ﹂と命じたが、その通り雫が手を切り裂いて赤い血が流
れたのを見ても、軽く眉を顰めただけで何も言わなかった。
或いは体が普通であれば興味を失うのかもと雫は恐れたのだが、
その後も生かされ、臣下として遇されているのだから姫も結論を出
しかねているのだろう。こうして時折思い出したかのように質問を
してくること自体その表れと思える。
﹁お前を殺したら、発症が押さえられる⋮⋮ということは?﹂
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﹁分かりません。多分関係ないとは思いますけど。私がこの世界に
来た時に出たのはタリスのスイト砂漠ですが、病はずっと西から広
がっていったのでしょう?﹂
﹁そうらしいな﹂
これがもしラルスであったら、彼は雫を殺すことを躊躇わなかっ
たかもしれない。
だがオルティアはこれから生まれる子供を十全に育てたいと思っ
ているのだ。
だから彼女にとっては、雫を殺すことは割に合わない賭けだ。そ
の賭けに踏み切る時が来るとしたら、それは雫がいなくても大丈夫
そうなる前にはこの城を逃げ出そうと、雫は思ってい
と彼女が確信できた時のことであろう。
︱︱︱︱
るのだが。
﹁あの男は、お前をどう使った?﹂
オルティアが名を出さず﹁あの男﹂と言う時、それはラルスを指
している。雫は目を閉じて苦笑した。
﹁殺そうとしましたよ。妹姫に怒られていましたが﹂
閉ざした視界に女の鼻で笑う音が聞こえる。
それがいかなる感情のもたらしたものか雫は分からない。
ただ雫にとって二人は、王族として理解できない歪みを持ってい
るという点で、ほとんど変わりのない存在に思えていたのだ。
※ ※ ※
雫が仕事の為に退出すると、オルティアは代わってニケを呼び出
した。命じていたことの報告を受け取る。彼女は一通りの内容を聞
くと、目の前に跪く男に向かって呆れの表情を隠さず言い捨てた。
818
﹁やはり無理か﹂
﹁申し訳ないことで御座います﹂
﹁愚図め。いつまで経ってもお前はよい知らせを持って来ぬ。だが
⋮⋮まぁいい。兄上がどうしてもと仰っていただけであるからな。
成功したら成功したでつまらぬことには変わりない﹂
オルティアは薄紅に塗られた爪を弾く。小さい音が妙に耳障りな
響きで二人の耳を打った。ニケはより一層頭を下げる。
﹁ロスタ地方はどうなっている?﹂
﹁相も変わらずでございます。小競り合いは絶えず起こっておりま
すが、今は領主のティゴールが何とか抑えているという状況です﹂
﹁ティゴールを城に召喚せよ。ロスタは息子に治めさせる﹂
即下された命に、ニケは﹁かしこまりました﹂とだけ答える。オ
ルティアの狙いはロスタと聞いただけで分かるのだ。ここでそれを
詳しく聞こうとしたり、﹁どういう理由で召喚するか﹂などと伺い
を立てては叱責を受ける。
彼はさっそく命令を実行する為に姫の私室を辞した。長い廊下を
歩きながら乾いた笑いを洩らす。
﹁これで戦か。均衡を崩すのは一瞬だな﹂
だがそれさえも彼女にとっては道具の一つでしかないのだろう。
玩具とさして変わらぬ、束の間の退屈を癒す一手。
それが分かっていながら彼女の手足となり続ける男は、陰惨な笑
みを押し殺す。
薄暗い城の廊下にはそこかしこに、自分と似た人生を送った者た
ちの怨嗟がこびりついているような気がした。
﹁二度失敗したらやめればいいのに﹂
あっけらかんとした兄の感想にレウティシアは肩を竦める。
その意見にはまったく同感なのだが、そこまで軽く考えているの
819
もどうかと思う。
そもそも王族には絶えず暗殺の危険がつきまとうものだが、最近
は禁呪を伴った霊廟破りから始まって短い間に五度も間近にまでそ
の刃が迫ったのだ。さすがにもう少し危機感を持って欲しいと思う
のだが、言っても無駄だと分かるから言わない。
それこそ二度言ったら分かるくらいになって欲しいと彼女は思っ
ていた。
﹁兄上は後継者がいらっしゃらないから狙いやすいと思われるので
すよ。ただでさえ直系はもう私たちしかいないということになって
いるのですから﹂
﹁後継者を作ったとしても子供を守る方が大変じゃないか? すぐ
死にそうな生き物だし﹂
﹁だからと言って必要であるのは確かです﹂
正論にラルスは視線を逸らし天井を眺める。
妹のこの手の説教は極端に長いか、すぐ終わるかに二極化されて
いるのだが、今回はどちらなのか判断がつかない。前者であったら
嫌だな、と思いつつも待ってみたが、幸い彼女の苦言はそれ以上続
かないようだった。王は視線を戻す。
﹁で、誰の仕業だと思う?﹂
﹁さぁ。巧みに仲介者を使っていますからね。調査は出しておりま
すが。ただ知識や行動範囲から言って魔法士である可能性が非常に
高いです﹂
﹁ああ。じゃあガンドナかキスクか﹂
﹁何故そう思われるのです? 山勘ですか?﹂
﹁ファルサス以外でそれなりの腕の魔法士を擁しているのは主にそ
の二つだからな。メディアルは俺を殺しても利益が少ない﹂
﹁勘ですね。つまり﹂
﹁そう。あてずっぽ﹂
ラルスは次の瞬間飛来した木彫りの猫を片手で受け止めた。正確
820
な狙いで兄の顔目掛けて置物を投げつけた王妹は白けた目でそれを
見やる。
﹁二人だけでなら構いませんが、そのようなことを他言なさらない
でくださいよ。問題になります﹂
﹁分かった分かった。気をつける。それにしてももう少し掴みやす
い尻尾を出してくれればいいんだがな﹂
﹁次は捕らえます﹂
レウティシアは言い切ると花弁のような唇を酷薄に曲げた。そこ
に垣間見えた怒りに王は目を細める。
﹁勝てるのか?﹂
﹁勿論。誰であろうとこの手で千々に引き裂いてやりましょう﹂
大陸屈指の魔法士である妹の、その宣言にラルスは苦笑して頷く。
水面下でゆっくりと蠢く淀みはいつのまにか、その頭を歴史の表
面に向かってもたげ始めていた。
※ ※ ※
キスクの城内は建物自体が迷路の壁のように建ち並び、庭と混じ
って入り組んでいる。
何故このような作りなのか、雫は道を覚えながら悩んだが、どう
やら三国の併合による建国時に、元々あった城に対して他の二国か
らの大掛かりな増築がされた為らしい。ユーラからそれを聞いた彼
女は﹁新しく建てればいいのに﹂と割り切った感想を口にしたが、
返ってきたのは﹁女王陛下がこの城を離れたくないと仰ったんです
よ﹂という苦笑混じりの補足だった。どうやら二人の王子と結婚し
た女王は、なかなかうるさい拘りを持っていたようだ。
821
数冊の本を抱えて雫は建物の角を曲がる。建物内の回廊を使うよ
り、いくつかある中庭を横切った方が図書室へは近いのだ。
だが二つ目の角を曲がった時、不意に背後で風を切る音と物の割
れる音がして彼女は振り返った。見るとそこには粉々になった花瓶
らしきものが散らばっている。上階から落ちてきたのだろう。花も
水もない陶器だけの破片を雫は屈んで拾い上げた。
﹁危ないじゃん﹂
直撃したら死んでしまっていたかもしれない。彼女は自分の運の
よさに感謝しながらも上を見上げた。
三階の開いている窓には人影は見えない。しかし、そこにはまだ
これは離れた方がいいかもしれない。
誰かがいる気配がした。雫は眉を顰める。
︱︱︱︱
だがそう思った時、窓の内側から人の手が伸びてきて⋮⋮そこに
はまた、小さな花瓶が握られていた。雫は瞬間で戦慄する。
押し殺した笑い声。それを合図として花瓶を掴む手が離された。
雫は重い本を手放し後ろに飛び退く。落下していく凶器が鼻先を掠
めた気がした。
﹁あ、あぶな!﹂
非難混じりの叫びに、けれど謝罪の声はない。わざとやっている
のだから当然だろう。
心当たりがある雫は窓の真下から逃れながら、破片に混ざって落
としてしまった本をどう拾おうかと思案した。
こうした姿の見えない相手からの嫌がらせを受けるのは別に初め
てのことではない。それは雫がオルティア直属として仕官してから
断続的に起きているものなのだ。
ファニート曰く﹁成果の出ぬまま実験を中断させられた魔法士た
ちが、貴女を逆恨みしている﹂ということらしい。それを聞いた雫
は思わず﹁ちっちゃいな!﹂と叫んでしまったが、もしその感想を
822
聞かれていたなら嫌がらせは激化していたであろう。
試験後のリオを雫に会わせないよう主張したのも、彼ら雫に反感
を持つ魔法士たちと聞いた時には、怒りよりも呆れが勝ったくらい
だ。さすがにここまで直接的な攻撃を仕掛けてこられたのは初めて
だが、部屋に怪しげなものを届けられたり、おかしな風評を広めら
れたりは今までも散々あった。
ニケなどは﹁俺もしょっちゅうだぞ。やり返すけどな﹂と平気な
顔をしているのだから、姫付きの人間には当たり前のことなのだろ
う。⋮⋮と、思いたい。まさかオルティア直属という理由以外でニ
ケと一くくりにされているのなら激しく心外なのだから。
﹁これ破片拾うのも私なのかな。腹立つんだけど﹂
雫は開けられたままの窓を見上げてぼやいたが、犯人がまだ居残
っていて聞いているかは分からない。とりあえず安全に本を拾うこ
とが第一と思われた。
彼女は用心しながら砕け散った花瓶の中央に向って歩き出そうと
する。けれどその時、背後から雫を留める声がかかった。
﹁危ないよ。私が拾おう﹂
言うと同時に彼女を追い越した男は、地面に屈みこみ散乱した本
を集め始める。
予想外な救いの手に雫は呆気に取られたが、我に返ると慌てて傍
に駆け寄り残りの本を拾い上げた。男は手に取った本をまとめて彼
女に返す。
﹁はい。これでいいかな﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
正面から見ると、彼は実に身なりのいい人間だった。年は三十代
半ば過ぎであろう。穏やかで上品な、おそらく身分のある人間だ。
そんな人間が助けてくれたことに雫は感謝しながらも驚愕と用心
を覚える。エリクの刷り込みのせいか彼女は貴族が苦手なのだ。出
来れば関わり合いになりたくない。
823
男は、本を渡した後も雫がきょろきょろと辺りを見回して去って
いかないことに気づくと首を傾げた。
﹁どうしたのかな。本が足りないとか﹂
﹁あ、いえ、箒か何かがないかと思って⋮⋮﹂
﹁ああ。片付けるつもりなのか。だけど、これらを割ったのは君で
はないのだろう?﹂
﹁そうなんですけど、でも﹂
﹁放っておきなさい。その内清掃の人間が来る﹂
妙に力強く断言されてしまった。雫は居心地の悪さに曖昧な表情
になる。
そう言われてもこのままにしておくのは非常に落ち着かないのだ
がいいのだろうか。
男は彼女の考えを読み取ったのか、開いたままの窓を見上げて苦
笑した。
﹁自分で何でも片付けることはない。掃除の人間はそれが仕事なの
だからね。ここに不審な破片があると分かれば彼らは上に報告する。
その後何処の窓で、誰が何を落としたのか調査が為されるだろう。
もしこれが城の備品であれば怪しい人間には注意もされる。時には
そういった処理が必要なこともあるのだよ。分かるね?﹂
誰だか分からぬこの男は、まるで雫が嫌がらせを受けていること
を知っているかのようだった。その上で隠すな、と言ってくる。
雫は犯人とは別に、自分もまた注意をされている気がして、少し
考えると頭を下げた。
﹁⋮⋮すみませんでした﹂
﹁構わないよ。ほら、近道をするくらい急いでいるならもう行きな
さい﹂
図書室の方角を指差す男に、彼女は何度か頭を下げながらもその
場を後にする。
嫌がらせなど、騒ぎ立てれば余計相手を喜ばせるだけだと思って
824
いたのだ。だから今まで無視していた。けれどそれは城からすると、
あまりいい対応ではなかったのかもしれない。
この日この時を
大分エスカレートしてきたことだし、次は上に訴えようと建物内
に入りながら彼女は反省した。
だが、結局その必要はなかったのだ。︱︱︱︱
境に、何故か嫌がらせはぴたりと止んだ。
それは有難いより不気味だと、雫が思ってしまう程唐突でささい
な変化だったのである。
ユーラが仕事に不真面目であると口にする人間は、この城では誰
一人いない。
本来の仕事から偶然気づいたことまで、何処でも常に忙しく動き
回っているのが彼女なのだ。
だから雫が彼女に出会うのも、大抵彼女が何かの仕事をしている
最中に行き当たるのであり、この日のように休憩室で出会うことは
珍しかった。軽く驚く雫に、ユーラは挨拶もそこそこに切り出して
くる。
﹁雫さん、あの鋏ってもしかして⋮⋮﹂
﹁ああ、あの時はありがとうございました。助かりました﹂
﹁いえ、それはいいのですけど、あの鋏って⋮⋮﹂
﹁ニケの髪を切りました﹂
﹁⋮⋮やっぱり﹂
件の腹立たしい魔法士が髪型を変えたという噂は、女官の間では
あっという間に広まったらしい。彼はオルティアの命で不在が多く、
城内にいることの方が珍しいくらいなのだが、女性の話というもの
は風の速度を持つものなのだろう。
雫は本人の顔を引き攣らせる彼女たちからの評判の数々に、実に
溜飲の下がる思いを堪能していた。
﹁私は似合うと思うんですけどね。陰険が誤魔化されてよくないで
825
すか? あれくらい爽やかな方が﹂
﹁雫さん⋮⋮怒られませんでした?﹂
﹁本人には勿論。姫には全然でしたが。笑ってましたよ、姫﹂
一度報告に上がった時、雫はオルティアに﹃お前がやつの髪を切
ったのか?﹄と聞かれたので﹃はい﹄と答えた。その結果雫は、扇
で顔を隠して笑い転げる姫という珍しい光景を目の当たりすること
となったのである。
それにしてもニケの髪型については、他の女性からの評判もおお
むねよく聞こえるのだが、ユーラは気に入らなかったのだろうか。
難しい顔で雫を見てくる。
ニケ本人はどうでもいいが、普段世話になっているユーラには一
応謝った方がいいかもしれない。使った鋏も彼女のものであるし、
雫は﹁ごめんなさい﹂と言いかけた。だがその前に、ユーラは重い
口を開く。
﹁雫さん、もっと気をつけて下さい。あの方には何度か酷い目に遭
わされたでしょう﹂
﹁ひ、酷い目?﹂
﹁そうですよ! 魔法士は危ないんですからね! 迂闊に近寄った
り二人きりになったりしちゃ駄目ですよ!﹂
﹁多分同僚なんじゃないかなぁと⋮⋮﹂
﹁甘い!﹂
﹁ごめんなさい!﹂
勢いで謝ってしまった。何だかまだよく分かっていないながらも
気圧される雫に、ユーラは畳み掛ける。
﹁ファニートさんもそうです。お仕事なら仕方ありませんが、必要
以上に気を許しては駄目ですよ。何があるか分かりませんからね﹂
﹁う、ううう?﹂
﹁困ったことがあったらいつでも仰ってくださいね。私がその相手
をギッタギタに叩きのめして差し上げますから⋮⋮いいですね?﹂
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﹁わ、分かりました﹂
雫が姿勢を正して答えると、ユーラは満足げに微笑んで﹁では失
礼します﹂と休憩室を出て行った。
いつもの穏やかな彼女とは違う、嵐のような会話に雫は呆然と立
ち尽くしたまま動けない。ややあって金縛りから逃れでた彼女はぽ
つりと呟く。
﹁ギッタギタにって⋮⋮どうやるの、ユーラ⋮⋮﹂
ニケもファニートも一応腕利きの人間なのだ。
彼ら相手に女官である彼女が何をするのか。まったく想像つかな
いが、迫力からして何だか本当にやりそうで怖い気がする。雫は肉
きり包丁を片手に微笑むユーラを思い浮かべると、ぞっと首を竦め
てその想像を打ち消した。
彼に声をかけられた時、心の中で﹁ギッタギタ⋮⋮﹂と述懐して
しまったのは、そんな会話のせいである。
雫は差し出された書類の束を見下ろしながら、渡してきた男に﹁
これ何?﹂と尋ねた。魔法着を着た男は途端に嫌な顔になる。
﹁見て分からんのか。お前、子供の実験の時にアイテア信徒の主張
を知りたがっていただろう。その男が提出した論文だ﹂
﹁あー! こんなのあったんだ﹂
﹁姫への第一嘆願に混ざっていたらしい。俺もざっと見ただけだが。
書類を整理していたら出てきただけだ﹂
すっかり忘れてしまっていたが、そう言えばちらっと聞いた﹁昔
は生得単語が固定されていなかった﹂という仮説が気になってはい
けど、これ難しそうなんですけど﹂
たのだ。雫は素直に礼を言った。
﹁ありがとう。︱︱︱︱
﹁はぁ? 分からないのか?﹂
﹁ほ、ほとんど⋮⋮。あんた分かる?﹂
正確には﹁分からない﹂のではなく﹁読めない﹂のだが、雫の出
827
自を知らない男に余計なことは言えない。見ればかなり量のある論
文であるし、ファニートに読んでもらうのも申し訳ないのだ。ニケ
がざっと読んだというのなら要点を教えてくれないだろうか。
雫がどう頼もうか悩みながら男を見上げると、彼は苦々しげな目
で彼女を睨んでいた。
﹁本当にお前は頭の中身がお粗末だな。帰って来たら説明してやる
から、それまで分かるところにだけ目を通しておけ﹂
﹁え、どっか出かけるの?﹂
﹁少し城を空ける﹂
彼がそう言っていなくなるのはむしろいつものことだ。雫はそれ
以上は聞かずに頷く。どうせろくでもないことなのだろうが、それ
はニケに言っても始まらないし、主人である姫を問い詰めたとして
も雫には教えてはくれないだろう。
彼女は﹁ギッタギタにされないようにね﹂と不吉な挨拶で同僚を
見送った。
その晩雫は、魔法の光の下で貰った論文と辞書を照らし合わせた。
だが膨大な量の論述から分かる単語を抜き出してもその内容が理
解できるわけではなく、雫は頭から読むことを途中で諦めると、中
から太字で書かれた幾つかの単語を拾い出してみた。
﹁神⋮⋮アイテア。ルーディア、神妃、言葉、本、記録、移民、天
賦、神秘、大陸、訛り、理解⋮⋮﹂
まるでパズルのような言葉は一向に結びつかない。
雫はその後真夜中まで辞書を片手に悩んでいたが、結局は諦めて
床に入った。
※ ※ ※
828
夢の中で彼女は、久しぶりに三冊の本の前に立つ。
手に取った紺色の本に記されていたのは、キスクという国の成立
に関わる一人の女の話。
嘘と頑なさに彩られた女王の生涯は、複雑な構造を持つようにな
った城よりももっと絡み合った複数人の情念に束縛され︱︱︱︱
雫にはとても孤独なものに思えたのだった。
※ ※ ※
キスク国内でもロスタ地方と言えば、争いの絶えぬ問題の多い地
域で有名である。
その原因は約六十年前、当時の隣国であったカソラがファルサス
に攻め落とされた際に、キスクがカソラの難民を受け入れたことに
端を発している。
当時のキスク国王は、カソラの領地を手中にする大義名分が得ら
れないかと思い、国境を越えて逃げてきた人々を厚遇しロスタ地方
へと住まわせた。だが、結局カソラは一年も経たぬうちにファルサ
ス自身の手によって復興援助の手を入れられてしまい、キスクは介
入する切っ掛けを失ったのだ。
当初の目論見が外れたキスクは、ロスタ地方に入植した難民を持
て余し帰国を勧めたが、戦火の中を隣国までたどり着いた彼らはそ
れを拒否した。
話が違う、と怒ったのは元々ロスタ地方に住んでいた領民である。
829
彼らはおおっぴらにではないが、国から﹁近い将来カソラを属領
とし、そこでの特権を優先的にロスタ領に与える﹂と約束されてい
たのだ。しかし特権どころか元の土地さえも他国から来た民に分け
与えなければならないとあって、彼らの怒りはまず国へと向かった。
ただロスタ地方
だが直訴を受けた王は、結局ファルサスからの更なる干渉が起こ
る可能性を嫌って難民を追放することも出来ず、
の国境近くに旧カソラ民の為の街を作り、彼らを半ば隔離すること
で手を引いてしまったのだ。
国境間近に住まわせれば、いずれ本来の土地へと帰ってくれるだ
ろうという期待もあったのかもしれない。
けれど彼らは六十年経った今も帰国することはなく、復興しファ
ルサスの属領となることを選んだ祖国と、与えられた街を拠点に密
接な交易を行っている。
そしてその彼らを本来のロスタ領民がよく思っていないこともま
た、年月に磨耗しない事実であったのだ。
﹁ティゴールは後継者に恵まれなかったな﹂
ニケは情報屋から買い取った複数の情報と、自身の調査をつき合
わせて笑う。
ここ二十数年間巧みな手腕でもって対立する領民を抑えていた領
主ティゴールが、突如城に召喚されてから一週間が経った。
彼が不在の間、領主代理となっているのは二十一歳になったばか
りの息子ベダンだが、この息子はしかし、父親の能力の一割も受け
継がなかったらしく、これだけの短い期間で既に問題が複数あがり
始めている。
ベダンには火種抱える領地を任されたという自覚がないのだろう。
煩い父親がいなくなったことに喜び、領民の苦情も聞かずただ羽を
伸ばすだけだった。同年齢の男の、自分の足元さえ見えぬ無能ぶり
にニケは嘲笑を顕にする。
830
﹁だが無能でなければ困る。火種から上がる火こそが姫のお望みな
のだから﹂
ニケは情報を取捨選択すると、更なる対立を煽る為にそれらを操
作し始める。
ロスタ地方での領民の対立が、ファルサス属領に住む旧カソラ人
とキスク人の争いにまで発展するのは、そう遠くない未来のことと
なりつつあった。
雫がその男に呼び止められたのは、少し眠るというセイレネの部
屋から辞した、その帰りのことだった。遠くから﹁そこの娘!﹂と
大声で叫ばれた雫は、目を丸くして男を見やる。
彼女の父親と同じくらいの年であろう、茶色の髪に白髪が混じり
始めた男は、見るからに貴族と分かる豪奢な服装をしていた。だが
その服装とは似合わぬ慌てた素振りで雫の前まで走ってくると、お
もむろに彼女の両肩を掴む。
﹁お前が殿下の側近だというのは本当のことか?﹂
﹁側近かは分かりませんが、オルティア様にお仕えしております﹂
﹁ならば姫にお目通り願いたい! ティゴールと言えば分かる。早
急に話を通してくれ!﹂
分かる、と言われても勝手に客人を連れて行くような権限は雫に
はない。
オルティアはどうやら兄王よりも政務に長けた人間らしく、国政
のほとんどは彼女の手が入っているらしいのだが、彼女自身は私室
から滅多に出てこない。日に何度か文官が書類と共に姫の元を訪れ、
報告をしながら重要事に目を通してもらうだけであり、それらは全
て雫の関与しないところで行われていた。
﹁私が言っても無理だと思いますが﹂
﹁それでもお前は姫に直接口添えが出来るのだろう? 文官たちは
831
取り次ぐと言って取り次いでくれぬのだ。頼む! 我が領民の命が
かかっている! 下手をすれば戦が起きてしまうのだ。ティゴール
がお会いしたがっていると、姫に伝えてくれないか?﹂
がっしりと掴まれた肩と、訴えかけられる内容の重さに雫は言葉
を失くす。
一体何だというのか。困惑しながらも結局彼女は﹁申し伝えるだ
けでいいなら﹂と前置いて、男の頼みを引き受けた。
﹁と、言うわけでティゴールさんて方がお会いしたがっています﹂
﹁会わぬ﹂
即答に雫は﹁やっぱり﹂と言いたくなったが、いつものように肩
を竦めたくならなかったのはオルティアの表情にひっかかるものを
感じたからだろう。普段姫は都合の悪いことには僅かに苦そうな表
情を浮かべて拒否するのだが、今日はそうではなく嘲笑うかのよう
また何か意地の悪いことをしているのかもしれない。
に口の端を上げて答えたのだ。
︱︱︱︱
それは雫の勘でしかなかったが、簡単に引き下がってしまうには
ティゴールの目は真剣そのものだった。彼女は眉を寄せて苦言を呈
す。
﹁少しだけでも会われたら如何ですか。領民の命がかかっているら
しいですよ﹂
﹁会わぬ、と言ったのが聞こえなかったのか?﹂
﹁聞こえました。でも戦争になったら困るでしょう?﹂
言い聞かせるような雫の言葉にオルティアはふっと笑った。そこ
に確信的な意思が過ぎったのを見て雫は瞠目する。
﹁もしかして⋮⋮わざとですか?﹂
﹁何がだ?﹂
﹁戦になるかもしれないことを、知っていてティゴールさんに会わ
ないんですか?﹂
832
何故そう思ったのか、自分でも分からない。だが推論を一足飛び
にして雫は確信した。
知っていて、オルティアは会わないのだ。文官たちも﹁命がかか
っている﹂とまで言われて無視するはずはない。彼の嘆願は姫に届
いていたのだ。
届いていたが、聞き入れてはいない。そこにどんな意図があるの
か、捉えかねて雫は表情を険しくした。
﹁何とかならないんですか? 戦争なんていいことないでしょう﹂
﹁お前の世界には戦がなかったのか?﹂
﹁ありましたよ。私は経験ありませんけど﹂
﹁ならば楽しめばいい。人の知らぬ一面が見られる﹂
﹁は?﹂
雫からすると不謹慎としか言いようのない発言を、けれどオルテ
ィアは当然のように言ってのける。そこに消せない反感を抱いてし
まったのは性格の相違だけが原因ではない。雫の声は僅かに低くな
る。
﹁人が徒に死ぬことが楽しいですか? 趣味が悪いですね﹂
﹁争いは避けられぬものだ。小さな戦で全てが解決することもある﹂
﹁ならそうティゴールさんに直接仰ったらどうです。大きな利益の
為にあなたの領民を犠牲にすると﹂
言い終わると同時に、雫は赤い飛沫を感じて目を瞑った。冷たい
ものが頬を滑り落ちていく。手で顔を拭うと、甘い酒の香りが鼻腔
を侵した。雫は自分に向けて酒盃の中身をぶちまけた主君を見据え
る。
﹁お酒が勿体無いです。こういうことをなさる前に言葉で反論なさ
ってください﹂
﹁増長するなよ、小娘﹂
﹁弁えております。ただ忠言も仕える者の役目でしょう。気に入ら
ないのなら聞き入れなければいい﹂
833
雫は自分が不機嫌になっているという自覚があったが、すぐには
感情を抑えることが出来なかった。同じく不快を示すオルティアの
怒気を正面から受ける。
支配者の考えや苦労など分からない。戦争が不可避であることも
あるだろう。
だが虚勢でも偽詐でもなく、真実それを楽しむというのならその
人間の精神は劣悪だ。雫は生理的とも錯覚する気分の悪さに支配さ
れ、憤然とオルティアを見下ろす。
﹁大局の為というのならそう説明したらいいでしょう。黙って国民
を犠牲にするなんて不信を招きます。同じことを繰り返してはやが
て足場たる信頼が崩れ落ちますよ﹂
その諫言は年長者がする説教のように堅苦しいものであり、それ
でいて学生がぶつける不満のように理想に寄っていた。
オルティアは口元を皮肉な形に曲げる。棘のある声が紅い唇から
這い出した。
﹁説明しても理解されぬ。お前のように煩く喚きたてるのが落ちだ。
それに、お前は誤解しているようだがな? 民と王家とは別に信頼
関係にあるわけではない。互いに都合がいいから寄生しあっている
だけだ。民は自らの利益の為に国を裏切る。勿論国もそうだ。皆、
持って生まれた役割を窺いながらいかに自分が得をするかを考えて
いる。そのような関係の相手に何を言おうとも無意味だ。無言で圧
してやった方が余程早い﹂
﹁姫﹂
﹁雫、お前がどれ程温い国から来たかは知らぬ。だが、妾に向って
勝手な幻想を振りかざすな。目障りだ﹂
オルティアは早口でそれだけ言うと長椅子から立ち上がり、奥の
寝室へと消える。
自重を以って閉ざされた扉は、普段よりも遠くで沈黙した。雫は
紅色ばかりの調度品の中、そこだけ薄灰に塗られたドアを見つめる。
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断絶は何も贖わない。不理解は埋められ得るものではない。
それでも最後に見たオルティアの後姿は、毅然とした誇り高さの
中に一抹の悄然があった気がして、彼女は後味の悪さを噛み締めた
のだ。
姫の部屋を辞した雫は、中庭を通って自室へと向った。顔から浴
びせられた酒の匂いが思ったよりきつくて、他の人間も通るであろ
う廊下を歩くことが躊躇われたのだ。
﹁派手にやられたね﹂
聞き覚えのある声にそう苦笑されたのは、中庭をつっきりながら
酒の染みこんだ髪を解いていた、その時だった。
雫は足を止めると、少し離れた場所でベンチに座る男を見つける。
彼は先日雫に本を拾ってくれた男だった。
﹁これくらいは別に。姫のなさることですし﹂
﹁オルティアは気性が荒い。苦労をかけるだろう﹂
労わるような優しい言葉。だが雫はその内容よりも、男が敬称な
しで姫を呼んだことに戦慄した。
この城では人々は彼女の名を呼ぶことさえ忌避する。結果、皆﹁
姫様﹂と呼ぶのだが、その彼女を呼び捨てに出来る人間といったら
一人しか思い浮かばない。
雫は驚愕に半ば強張った体を動かし、男に向き直った。
﹁ひょっとして国王陛下⋮⋮でらっしゃいますか﹂
﹁そうだ。ベエルハースと言う﹂
それは紛れもなくこの国の王の名だ。オルティアの十六歳年上の、
腹違いの兄。
雫はキスクに仕える末端の一人として慌てて草の上に跪いた。
﹁申し訳御座いません。今までご無礼を⋮⋮﹂
オルティア
﹁構わない。私の顔を皆が知っているわけではないからね。それに
出来れば君とは並んで話がしてみたかった。︱︱︱︱
835
の兄として﹂
目を丸くした彼女に、穏やかな表情で王は笑いかける。
彼はベンチの隣を示し、﹁とりあえずここに座るといい﹂と言う
とますます雫を吃驚させたのだった。
本当なら酒の匂いが完全に染みこむ前に風呂に入りたかったのだ
が、王が話をしたいというなら聞かないわけにはいかない。雫は言
われたとおり彼の隣に座りながら、匂いがきつくないだろうかと気
になって髪を一つに縛り直した。
だがベエルハース自身はまったく気にしていないらしく、彼女を
相手にのんびりとした声音で話し続ける。
﹁同い年の娘がオルティアに仕えるようになったと聞いてね。どの
ような娘なのか気になっていた。あの妹に食って掛かれるような人
間はもう最近はいないからね﹂
﹁⋮⋮恐縮です﹂
﹁どうだい妹は? 理解しがたいだろう。もう愛想をつかしたか?﹂
肉親の口から﹁理解しがたいか﹂と問われたことに雫は刹那、嫌
な気分を味わったが、軽く息を吸うとかぶりを振った。
﹁いえ。私は若輩ですから。姫には姫のご意見がおありでしょう。
立場の違いがあることは分かります﹂
異邦人でありろくな知識も手腕もない雫には分からないことも、
オルティアは王族として判断を下さねばならない。そこに意見の相
違が出ることは実際当然のことだろう。
雫の言うことは一種の理想だ。何処の世界でもいつの時代でも、
人はそうあればいいというただの理想。それがこの国この時代には
適していないということも、世界さえ違う以上当たり前のことなの
だ。
だがそれを分かっていながらも、言わずにはいられなかった。
出すぎた真似であることは承知で苦言を呈してしまったのは、雫
836
がまだ若いせいもあるだろうし、単に性格のせいかもしれない。
そして或いは、オルティアが何処かで雫に反抗を求めているよう
な、そんな気がしたせいかもしれなかった。
ファニートは融通がきかないといっても姫が重ねて命じれば渋々
承諾するが、雫はその点聞けないものは聞けないと突っぱねる。オ
ルティア直属の部下で彼女に従わないことがあるのは雫だけなのだ。
姫はそれを楽しんでいるように見えることもあれば、苛立たしく
黙らせることもある。
だが彼女が怒って背を向ける時、雫を無視して手遊びを始める時、
そこには時折何かの欠落が垣間見えるのだ。
そんな時、まるで幼児が膝を抱えて蹲るような無言の感情を、雫
は読み取りたいと思っている自分に気づく。口に出せばそれ自体﹁
出すぎている﹂といわれるであろうが、それは喉に引っかかる小骨
と同じく、不意に疼いて存在を主張していた。
﹁オルティアは、自分がされてもいいことは相手にしてもいいと思
っている。裏切られてもいいと思っているから裏切るんだ。度し難
何があったのか教えて欲しい、と請われて、躊躇いな
いことにね﹂
︱︱︱︱
がらもティゴールの訴えについて王に伝えた雫は、そんな感想を貰
って首を傾げた。
﹁でも、相手もそう思っているとは限りません。身分差や力量差が
あるならやり返せるかも定かではありませんし﹂
﹁そうだね。何の気構えもなく打ちのめされて、そこから這い上が
れる人間は決して多くはない﹂
ベエルハースは笑って雫を見つめる。穏健さを思わせる瞳は、オ
ルティアとまったく似ていないようにも見えるし、少し似ているよ
うにも思えた。
王は緑の絹服の上で指を組むと、城の真白い壁を見上げる。
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﹁ロスタの件は⋮⋮一応私からオルティアに確認してみよう。もっ
とも私はそれ程才のある王ではないからね。妹に助けられてばかり
だから上手くいかないかもしれない﹂
﹁充分です。恐れ入ります﹂
﹁その代わり君は、これからもオルティアの傍にいてやってほしい﹂
﹁私が?﹂
呆気に取られて雫が聞き返すとベエルハースは頷いた。遥か年上
の彼は、何だか兄というよりももっと別の存在に感じる。
自分はどういう役割を求められているのか。理解できない雫に王
は微笑した。
﹁傍にいて、支えてやって欲しい。そして出来れば時々私に教えて
欲しいな。あれが何をして何を考えているのかね。普通に聞いても
頼りない兄だ。いつもはぐらかされてしまう﹂
﹁それくらいでよろしければ⋮⋮﹂
﹁お願いするよ。君はいい子だね﹂
ベエルハースは長衣を引いて立ち上がった。慌てて立ち上がる雫
の目を、王は身を屈めて覗き込む。
﹁どうか裏切らないでやっておくれ。オルティアには君のような友
人が必要だ﹂
間近で合わされた視線に、瞬間息を飲む程の力がこもったのは気
のせいではないだろう。
オルティアが、ラルスやレウティシアが持つような王族の威。
それを予期せぬ時にぶつけられて雫はたじろいだ。一歩下がりな
がらも頭を下げる彼女に、王は﹁ありがとう﹂と言うと踵を返す。
彼の引き摺る衣が、植え込みの向こうに見えなくなってからしば
らく、ようやく雫は動いた。力の抜ける体をベンチの上に戻すと、
大きく息を吐く。
﹁何ていうか⋮⋮兄妹のどっちかがぶっ飛んでると、どっちかはま
838
ともになるのかな﹂
不敬極まりない発言を聞きとがめる者はいない。雫はいつの間に
か乾いてしまった前髪を引くと、顔を顰めた。
小さな中庭を囲う白い石壁は少しずつ捻れて絡み合いながら、広
い城の敷地を歪な迷路とする。
その中に閉じ込められた駒である雫は、己の配された位置さえも
分からず、ただ壁の届かない空を見上げて嘆息したのだった。
839
鉄鎖の鳥籠 001
大学に進学した時、生まれて初めて家族と離れた生活の始まりに
﹁やっていけるのだろうか﹂という不安が過ぎったことを覚えてい
る。
だがその不安も一月経つ頃には薄らいだ。一人で起きて料理を作
り授業を受けて帰ってくるという生活も、そういうものとして馴染
んできたのだ。
そして今、キスクに来てからまもなく三ヶ月が経とうとしている
時、雫は自分がこの国での暮らしに慣れてきたことを実感している。
目覚ましがなくとも無意識に起きて顔を洗っている時など、ふとそ
のことに気づき自分の順応能力に苦笑してしまうのだ。
広い部屋は全てが淡い緑色の調度品で統一されている。
初めてこの部屋に足を踏み入れた時、緑を選んだのは目に優しい
からだろうか、と雫は考えたがおそらく関係はないだろう。
広い窓の前に椅子を置いて本を読んでいる女に、雫は後ろから﹁
失礼します﹂声をかけた。持ってきたショールを彼女の大きな腹に
かける。
﹁ありがとう、雫﹂
﹁いえ。他に御用はございませんか?﹂
﹁ないわ。最近なんだか時間が妙にゆっくり流れている気がするの
よ﹂
セイレネの表情は漠然とした穏やかさが漂っていた。
840
一月前に顔をあわせた時は、自尊心の高さがことあるごとに現れ
ていた彼女だが、最近は嘘のようにそれらがなりを潜めている。漂
白されたかのように変化のない時間を過ごす彼女はまるで、羊水の
中に眠る赤子と一体化してしまったかのようだった。
セイレネは白く美しい指で半球状に膨らんだ腹部を撫でる。焦点
の定まりきらぬ目が窓の外に向って泳いだ。
﹁ねえ。この子が生まれたらあなたにお願いしていいかしら﹂
﹁乳母も手配しておりますが、私の出来ることでしたら是非﹂
﹁ありがとう。少し⋮⋮安心したわ﹂
彼女は深く息を吐き出すと、沈み込むようにして背もたれにより
かかる。
もうまもなくの出産を前に何かしらが不安なのだろう。ファニー
トと交代した方が落ち着いてくれるかもしれない。雫は黙って一礼
すると、時間を確かめる為に時計を振り返った。そこにセイレネの
声がかかる。
﹁雫、私がここを離れたら、あの本を何処かに隠して欲しいの﹂
﹁本、ですか?﹂
﹁題名のない本。あったでしょう?﹂
﹁ああ﹂
そう言えばそんな本があったことを雫は思い出した。革張りの⋮
⋮確か紺色の本だ。納得の声を上げた彼女にセイレネは淡々と続け
る。
﹁お願いね。あれはとても貴重な本だから⋮⋮決してファルサスに
は渡さないで﹂
﹁ファルサスに? 何故ですか?﹂
随分おかしなことを言う。念を押されずとも彼女の私物をファル
サスに引き渡すことなどないと思うのだが、何故だろう。
だが、雫がセイレネの真意を確かめようと椅子の向こうを覗き込
んだとき、彼女は既に両目を閉じて眠っていた。安らかな寝息が聞
841
こえ始める。
﹁本か﹂
呟いてみても答える者はいない。彼女はショールをもう一枚セイ
レネの肩にかけると、そっと傍を離れた。
ドアに手をかけた時、眠ったままのセイレネが小さな寝言を呟い
たような気がする。だが雫は﹁陛下⋮⋮﹂と聞こえたその声を大し
て気に留めず、すぐに記憶の隅へと押しやってそのまま部屋を後に
したのだった。
セイレネの出産予定日が近づいてからというものの、雫は空き時
間のほとんどを彼女の部屋近くの中庭で過ごすようになっていた。
何かあったらすぐ駆けつけられるように、というのがその理由だ
が、間に合うことを優先にずっと隣の控え室にいてもセイレネが落
ち着かないらしい。その為雫は﹁何かあったらこれを鳴らしてくだ
さい﹂とナースコールのようなものを片方セイレネに渡すと、もう
片方を自分で持ち歩くようにして、咄嗟の時に備えている。
簡単な魔法仕掛けで動いているナースコールもどきは、雫が﹁こ
ういうの欲しい﹂とニケに無理矢理頼んで作ってもらったものだが、
ちょっとした呼び出しなどにも非常に重宝していた。これを応用し
て携帯電話が作れないだろうか、などとも思ってみたのだが、彼女
に魔法法則は分からないし、製作者は﹁ちょっと城を空ける﹂と言
った日以来戻って来ない。もう二週間以上になるが、何処かでギッ
タギタにされたのかもしれなかった。
﹁論文も読めないし⋮⋮ファニートに頼もうかな﹂
彼は彼で忙しいのだろうが、たまに空き時間などが一緒になるこ
ともある。
その時にでも抜き出した文を訳してもらえれば読解が進むかもし
れない。雫は寝る前に要点を抜き出す作業をしようと、頭のメモに
書き込んだ。
842
ベエルハースと話をして以来、城内でティゴールの姿を見かける
ことはなくなった。
一体どうなったのか気にならないわけではなかったが、それを聞
こうとすると姫はすぐに話を遮る。
あれから一度だけベエルハースにもオルティアの様子を聞かれた
が、その時は一方的に質問されるだけでティゴールのことは聞けな
かった。
ただ雫がそれを知りたがっていると察したらしい王が﹁大丈夫だ
よ﹂と付け加えてくれたのみである。
ふと己を顧みると、この国に来てから慣れたと言えば慣れたのだ
が、その分鳥籠の中にいるような隔絶感があり、欲しい情報がちっ
とも手に入らない気がする。ただ目の前に示されたドアを開けるだ
けの繰り返し。この先が何処に繋がっているのか、気を抜くと不安
に思ってしまいそうだった。
雫は開いていた本を閉じると、口に手を当て大きく欠伸をする。
まだ充分に高い日は、しかし城の建物に遮られ直接庭までは降り注
いでこない。
その時、ポケットの中の魔法具が鐘に
彼女は両手を上げて伸びをすると同時に、長いスカートの下の足
を組みなおした。︱︱︱︱
似た音を鳴らし始める。
﹁あ﹂
これが鳴るということはセイレネが目を覚ましたということだ。
雫は本を小脇に抱えると彼女の部屋に向って走り出す。
一般の女官が入れない場所であることをいいことに、彼女はスカ
ートをたくし上げて全力疾走した。すぐに目的の部屋の前にたどり
着く。
﹁失礼します﹂
いつもの挨拶。いつもの扉を抜けて雫は部屋の奥へと向った。だ
843
がそこでいつもとは違う光景を目の当たりにして彼女は瞠目する。
部屋の主人であるセイレネは、腹を両手で庇いながら床に蹲って
いた。苦悶の声が床に敷かれた毛皮に零れだす。美しい顔は激しく
歪み、救いを求める目が雫を捉えた。その双眸に雫は、ついに来た
のだ、と確信する。
﹁少し待っててください。人呼んできますから!﹂
彼女はセイレネに駆け寄って近くにあった毛布を肩にかけると、
再び部屋を飛び出した。
これから生まれるであろう子がオルティアの望む遊戯の最終的な
引き金になると知らぬまま、こうして雫は次のドア目掛けて走り出
したのである。
陣痛は断続的に二日続いた。
波が来る度にセイレネは身を捩って苦しみ、それは出産を目の当
たりにしたことのない雫に異様な迫力を以って映ったが、彼女は逃
げ出すことなく寝食を忘れてセイレネに付き添った。痛がる彼女の
腰をさすり、励ます言葉をかけながら共にその時を待つ。
だがそれも三日目の朝、やって来た女性の魔法士が﹁そろそろ限
界だ﹂と言ったことで終わりを告げた。魔法士はセイレネの体力が
限界であることを指摘すると、魔法による施術で赤子を取り出すと
主張したのだ。
事前にこの世界の出産技術について学んでいた雫は、赤子に魔力
がなければ危険な可能性があると言われるその方法に反対しかけた
が、セイレネが衰弱しきっていることは最早否定できぬ事実だった。
不安を抱きつつも魔法士たちに任せて産室を離れた雫に、控えの間
にいたファニートは温かいお茶を差し出す。
﹁心配することはない。赤子は大丈夫だ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁この隙に貴女も少し休んだ方がいい﹂
844
﹁あー⋮⋮ファニートは?﹂
﹁私は残る﹂
男の返答はきっぱりと力強いものだった。彼は産室には入れない
が、陣痛が始まってからほとんど休みなしに隣の部屋に控え続けて
いるのだ。出産が無事終わるか余程気にかけているのだろう。雫は
揺ぎ無い彼の声音に安堵して微笑む。
﹁じゃあ少しだけ寝ていい? 何かあったら起こして﹂
﹁分かった﹂
雫は欠伸を噛み殺しながらその場を離れると、城の奥にある自室
へと戻った。
元の世界で六畳くらいのその部屋は、余分な物がない為一見質素
な印象を受けるが、備え付けの調度品自体は粗末なわけではなくむ
しろ質のよいものばかりである。
彼女は隣接する小さな浴室で汗を流すと、生乾きの髪を厚布でく
るんでベッドの中に入った。蓄積していた疲労のせいか、眠りに落
ちるのは一瞬である。
深い眠りの中で、彼女はいくつもの夢を見た。
彼と旅をしていた時の夢。
家族の夢、友人の夢、家にいる夢、大学にいる夢、そして︱︱︱
︱
もはや過ぎ去った時の夢は、一つ一つがショーケースにいれられ
た記憶であるかのように、切り出され輝く。
その中の雫は、今自分がいる世界が夢であることを知っていて⋮
⋮それだけが少し悲しかった。
疲労しきった雫を眠りの中から叩き出したのは、体の上に圧し掛
かってきた何かの重みだった。正確には﹁圧し掛かってきた﹂とい
うよりは﹁落下してきた﹂と言っていい衝撃に、彼女は息を詰まら
せる。
845
﹁ぐ⋮⋮っ。何なんだよ!﹂
部屋の中はいつの間にか暗くなっている。少し仮眠を取るつもり
だったのだが、夕方過ぎまで眠ってしまっていたのだろう。
だがそれを反省する意識もこの時の雫にはなかった。彼女は自分
の寝台の上を見て唖然とする。
﹁何。何してんの。嫌がらせ?﹂
掛布の上にうつ伏せになっている男。久しぶりに会う魔法士の突
然の登場に、寝起きの雫は思い切り顔を顰めた。
まるで夢の続きかと思うくらい非常識だ。本当はまだ夢なのかも
しれない。彼女は枕元にあった上着を羽織ながらぼやけた頭を軽く
振る。
﹁ちょっと、ニケ。何でいきなり部屋の中にいるの。ノックは常識
だよ﹂
彼女は欠伸を噛み殺しながら手を伸ばして、髪の短くなった男の
後頭部を叩いた。だが何の反応も返ってこない。
白い掛布が、男の体の下から徐々に赤く染まっていく。
思わず眉を顰めかけて、しかし雫はその時ようやく異変に気づく。
︱︱︱︱
意識すれば分かる血臭に雫は一瞬で覚醒した。ニケの体の下から
自分の足を引き抜くと慌てて男に飛びつく。
﹁何これ! ニケ! 馬鹿!﹂
返事はない。彼女はきつく目を閉じた男の頭を抱える。まだ感じ
取れる体温に人を呼ぼうと口を開きかけた。
鋭い先端から血を
だがその時、頭上で虫の羽音のような異音が聞こえて雫は天井を
見上げる。
薄暗い部屋の中、宙に浮かぶそれは︱︱︱︱
滴らせた、金色の小さな矢だったのである。
846
※ ※ ※
必要なのは複数の可能性である。
罠は周到な計画と共に広げなければならない。
もしオルティアが本気でファルサスを乗っ取りたいと思っている
のなら、
だが、おそらく彼女の望むものはただの混乱だろうとニケは踏ん
でいた。
大陸最強の国家と言われるファルサスを、制御しきれぬ混沌の淵
に陥れてやりたい。せいぜいその程度のことなのだ。彼女が楽しめ
るような未来とは。
結果キスクまでもが巻き込まれ戦乱が吹き荒れても、オルティア
は気にしないに違いない。だから、綿密な計画は必要ないのだ。た
だ複数の火種があればよい。
ニケはそれを実現する為にロスタ地方の対立を影から煽りつつ、
ファルサスにも赴いた。城から疎略に扱われた貴族や不満を持つ領
主たちを選んで彼は接触し、甘い餌をちらつかせながら巧みに叛乱
の種を蒔いていったのだ。
転移を重ね各地を暗躍する彼が﹁彼女﹂を見かけたのは偶然では
なかっただろう。
彼女はロスタ地方で初めての暴動が起きた、その日の晩に現れた
のだから。
ティゴールがいなくなったロスタでは留める者を失って領民の不
満が蓄積していった。そしてそれは影から油を注がれ続け、ある晩
ついに旧カソラ人の街における大規模な略奪という形で爆発したの
だ。
ファルサスからの商人も多く訪れていた街を、踊らされた暴徒た
847
ちは手に武器をとって襲い、街は一瞬で戦場と化した。襲われたカ
ソラ人も事前に不穏を感じ取っていたらしく、応戦する者と逃げる
者とで国境間近の街は渾然となる。
悲鳴や怒号が入り混じって血が流れる中に、だが駆けつけてくる
警備兵はほとんどいない。彼らはカソラを嫌う領民たちに買収され、
沈黙を決め込んだのだ。
燃やされる店々は、街外れの見張り塔からは鮮やかに咲き乱れる
花のようにも見える。
事態の推移をその場から傍観していたニケはだが、今にも焼け落
ちそうな店の一つがまたたく間に消火されたことに気づいて表情を
変えた。
目を凝らすと店の前には一人の女が立っている。下ろされた長い
黒髪が別の火に照らされ赤く光っていた。彫刻のように整った小さ
な横顔に、ニケはそれが誰であるか分かって息を止める。
﹁あれは⋮⋮ファルサス王妹か!﹂
本来このような場所にいるはずのない女。大陸屈指の魔法士。
彼女が国境付近とは言え、他国であるこの街にいるということは
何らかの情報を掴んでいたのだろう。
ニケは緊張に唇を舐めた。辺りの暴徒を無力化しながら消火を続
この段階で対立を収められては不味い。
ける女を見つめる。
︱︱︱︱
最終的にはカソラを踏み台にファルサスとの開戦まで至るよう姫
は考えているのだから。
だが、逆に考えれば今は好機でもある。
ここはキスク国内であり、ファルサス王妹がここにいることの方
がおかしいのだ。ましてや今は暴動の真っ最中。何があってもおか
しくないだろう。
元々ファルサス直系の兄妹はどちらもが目障りな存在なのだ。あ
の二人が容易く暗殺できていたのなら、このような手段を取るまで
848
もなかった。
ニケは短い間に計算を済ますと構成を組み始める。
彼女の魔法防壁を考慮の上、それを貫通できるだけの威力を一撃
に込めた。道に立つ女に向って狙いを定める。
この距離では気づかれない。そして、外しもしないだろう。彼女
は消火に集中しているのか防壁が薄い。
ニケは自分の力を知り尽くしていた。その力が、こういった使い
道において一番効力を発揮することも。
﹁ここで退場だ⋮⋮ファルサスの姫君よ﹂
凝縮し、小さな球と成した力をニケは指を弾いて打ち出す。
銀の球は緩やかに弧を描きながら、迷わず彼女の頭部へと向った。
狂いのない軌跡に彼は成功を確信する。
闇の中を飛び彼女のこめかみを貫くはずの球。
だがそれは、黒髪に触れる直前で不意に弾け飛んだ。驚愕するニ
ケに向って、彼女は顔の角度を変える。
美しい女の視線はかなりの距離があるにもかかわらず、彼をはっ
嵌められた。
きり捉えているかのように容赦のないものだった。畏れがニケの背
筋を走る。
︱︱︱︱
防壁が薄くなっていたのはわざとだったのだ。
殺せるかもしれないと思わせるだけの隙を作って、彼女は待ち構
えていた。ここ最近幾度となく自分たちを襲った暗殺者の手を。
今までの暗殺は全てニケ自身の手によるものではなかった。仲介
者を置いて雇った職業的暗殺者たちを使っていた。
しかしここに来て彼は、絶好の機会を前に目が眩んでしまったの
だ。ニケの攻撃を打ち落とした彼女は口の中で何かを呟く。
﹁まじかよ⋮⋮!﹂
正面から戦って勝てる相手ではない。ニケは転移の構成を素早く
組む。
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だがその時には既に⋮⋮彼女によって作られた反撃の﹁矢﹂は、
彼の魔力の波動をしっかりと記憶してしまっていたのだ。
※ ※ ※
部屋の中央に浮かぶ金の矢は、微かに震えながら標的を倒れ伏し
たニケへと定める。
そうと気づいた雫は咄嗟に男の上に覆いかぶさった。襲ってくる
であろう痛みを覚悟して歯を食いしばる。
けれど、その痛みは一向にやってこなかった。代わりに体の下か
らくぐもった男の声が聞こえる。
﹁重い⋮⋮馬鹿女⋮⋮﹂
﹁うるさいよ! って生きてるの!?﹂
﹁勝手に⋮⋮殺すな⋮⋮それより聞け⋮⋮矢は、止まっているだろ
う⋮⋮?﹂
言われて雫が頭だけ振り返ると、確かに矢は標的を見失ったかの
ようにくるくると回っていた。雫は緊張に唾を飲む。
﹁止まってる。けどどうすればいいの?﹂
﹁あれは、俺を追ってくる⋮⋮。だが⋮⋮術者から離れて、今、精
度が甘い⋮⋮お前で見えなく⋮⋮﹂
﹁あ、私がくっついてるから分からないのか!﹂
魔法で出来ているらしき矢は、ニケを追尾し攻撃するようプログ
ラムされているのだろう。だが術者から遠くなったせいか機能が弱
まっている。雫が彼を庇っていることで、目標を半ば見失い、次の
行動を決めかねているのだ。
﹁でもどうすんの。ずっとこのままとか無理なんだけど﹂
850
﹁五秒、食い止める⋮⋮その間に、お前が、あれを折れ﹂
﹁手で?﹂
触ったらいかにも感電しそうだ。雫は自分の両手を見つめる。
だが、迷っている時間はないだろう。ニケは怪我をしているのだ。
彼女は小さく頷いた。
﹁分かった。行くよ!﹂
金色の矢に向って飛びついた。
雫は男の体を指で叩いてカウントを取る。そして合図と共に︱︱
︱︱
緊張に震える一瞬。
しかし矢は、恐ろしい速度で彼女の手の中をすり抜けニケの背へ
と向う。
﹁ちょ⋮⋮っ!﹂
食い止めるんじゃなかったのか! と心中で叫びながら、寝台の
上で雫は身を翻した。突き刺さろうとする矢に向って手を伸ばす。
これは、間に合わないかもしれない。
形容し難い悪寒が彼女の心臓を掴む。
それでも彼女は硬直することなく踏み出した。矢の軌跡だけを追
って身を乗り出す。視界の隅に赤い血の染みが見えた。
ほんの短い間。あの間にどちらもが覚悟を決めていたのかもしれ
ない。
けれど血の滴る鏃は⋮⋮ニケの背に食い込む直前で制止したのだ。
固定され震える矢に、雫の指がかかる。
感じたのは痺れというよりも焼けつくような激痛だった。彼女は
反射的に悲鳴を上げ、手を離しそうになる。
だが雫は意志で肉体を捻じ伏せると矢を握りこんだ。力を込め、
二つに折り曲げる。
気が遠くなるような痛みに﹁もう駄目かもしれない﹂と思った時、
851
けれど魔法の矢は彼女の手の中で雪のように溶け去った。
痛みの余韻に呆然となった雫は、指に纏わりつく金色の粒子に気
づくとそれを慌てて払い落とす。
﹁うわ、いったいよ⋮⋮⋮⋮これでいいの? ニケ﹂
怪我をしているはずの
明確な答はない。苦痛の唸り声だけが彼女の問いに応える。
その時になってようやく彼女は︱︱︱︱
ニケの後頭部を、思い切り踏みつけていることに気づいたのだった。
※ ※ ※
整った眉が跳ね上がる。向かいにいる女の、その僅かな変化に気
づいて男は顔を上げた。視線だけで何があったのかを問う。
女もまた彼の視線に気づくと、小さく舌打ちした。
﹁壊されたわ。仕留められると思ったのだけれど⋮⋮。何度も転移
してたみたいだから座標が捉えにくいし﹂
半ば自省の言葉である苦味の詰まった返答に、彼は慰めも叱咤も
かけない。ただ無言で頷いて天井を見上げる。
﹁まぁ誰がやっているのか大体は掴めた、というところかしらね。
面白いことも少し分かったわ﹂
﹁面白いこと?﹂
﹁そう⋮⋮ヴィヴィアのこととか。これは期待に添えないかもしれ
ないわね﹂
曖昧に微笑む女の言葉に男は答えない。
ただ苛立たしげな溜息を一つついて、彼は机上の書類を広げ始め
た。
852
※ ※ ※
何度転移しても追ってくる矢。それに死を覚悟したのは割合早い
段階でのことだ。
何しろ相手はあのファルサス王族だ。逃げ切れるはずがない。防
ごうとする彼の体に傷をつけながらの攻撃は死ぬまで止まることは
ないだろう。
遠く逃れて威力を弱められたとしても、矢の破壊は一人では到底
無理だ。魔力の追跡に長けた金の矢は、構成を組めばそれに反応し
て速度を上げる。魔法士を殺す為に特化されているのだ。
だから破壊出来る可能性があるとしたら、魔法士以外の仲間に助
けを求めることだけだろう。
一体誰が助けてくれるというのか。
しかしそこまで考えて、ニケは自嘲を浮かべる。
︱︱︱︱
城に仕える武官や魔法士はオルティアの手足である彼を忌み嫌っ
ている。また同じ彼女に仕えるファニートはニケをよく思っていな
いのだ。
味方など何処にもいない。孤独に、惨めに殺される。
それはとうに分かっていたことだろう。
オルティアに屈服し、尊厳と意志を彼女に譲り渡したあの時から、
彼にはまともに死ぬ権利さえなくなったのだから。
たった四年前のことだ。彼は師である魔法士と共に、オルティア
の横暴な処置について直訴に向っていた。
ある魔法士の処刑命令への反対それ自体は、今から思えば大した
853
問題ではなかった、と思う。姫の性向をよく知った後からなら﹁そ
れくらい何だ﹂と言いたくなるようなものだった。
目の前で師の両眼を抉ら
だが当時の彼にはその処断は看過できない傲慢に思えたのだ。彼
は義憤に駆られて姫の前に立ち︱︱︱︱
れた。
何が恐ろしかったかと聞かれたら、全てとしか言いようがない。
そして十五歳の少
﹁不快になったから目を差し出せ﹂と言われて躊躇わず跪いた師も、
その師を背後から押さえつけたファニートも、
女が自ら初老の魔法士の両眼に指をつきたてたことも、何もかもが
異様すぎて恐ろしかった。
暴れることも騒ぐこともなく淡々と﹁それ﹂を為していく彼らは、
自分とは違う世界の生き物ではないかと思えた程だ。
そして、空洞になった眼窩を押さえて蹲る師を目の当たりにした
時、彼の恐怖は限界点に達した。厳しく正しく実直な教師であった
男は、﹁気分はどうだ﹂と聞くオルティアに血の流れ出る顔を曝け
出すと﹁ありがとうございます﹂と笑ったのだ。
理解できない。
その思いがニケを恐れで支配し、その場に釘付けた。
入室した時には確かにあった憤りだけでなく、常識や意志までも
を彼はその数分で粉微塵に砕かれたのである。
自らの意見を翻し、許しを請うた。震える両手をつ
そして歪な圧力に飲まれ立ち尽くすニケは﹁次はお前だ﹂と言わ
れて︱︱︱︱
いて這いつくばり、床にこすりつけた額の感触を今でもはっきりと
覚えている。彼の名を呼ぶ師の声と降り注ぐオルティアの嘲笑も。
それは十七歳の彼が経験した、拭いようのない敗北の記憶だ。あ
の日から人生が百八十度転換した。
以来四年間、彼は仲間であった魔法士たちに﹁犬﹂と侮蔑されな
がらも、オルティアに反することなく仕えている。
従順さの下に畏怖と嫌悪を抱え、両眼を失い城を去った師と本来
854
通り処刑された魔法士に、沈黙を以って背を向けながら。
死を覚悟しながらも、思い浮かんだのは一人の女だ。
彼とは違う、﹁負けなかった﹂女。
彼女ならばあの日あの時、己を曲げないでいられたのだろうか。
もっと早く出会いたかったと、少しだけ思ってしまったのが癪だ
った。
※ ※ ※
﹁あ、生きてる﹂
間が抜けて聞こえる声は、彼のすぐ傍からかけられた。ニケは眩
しさに腕で目を覆う。
だが、彼女はそれを許さず男の手をどけると、あろうことか指で
瞼を押し上げた。魔法の明かりを近づけながら彼の右目を覗き込む。
﹁おーい、生きてるよね?﹂
﹁眩しいわ! 何のつもりだ!﹂
﹁瞳孔が開いてないか見てみた﹂
﹁他の確かめ方をしろ!﹂
反射的に怒鳴りつけたニケは、体から痛みが消えている事に気づ
いて起き上がった。見ると服は血みどろのままだが傷は既に塞がっ
ている。
魔法着に染みこんだ血が乾いているところからして、それなりに
時間が経過しているのだろう。部屋は暗かったが彼女は平気な顔を
して起きていた。
﹁魔法士の人捕まえて治療だけしてもらったよ。本当はあんたの部
855
屋に運ぼうかと思ったけど、私眠くないし﹂
﹁⋮⋮お前の部屋か﹂
﹁あんたがここに来たんだよ。シーツの血、落とすの大変だったん
だからね﹂
洗濯籠を足元に置いた雫は、﹁起きたならそれ脱いで。染み抜き
するから﹂と彼の服を指差す。そう言われても魔法着というのは上
下が繋がっているものなのだ。それを知らないのか、彼を男と思っ
ていないのか、世話焼きな女にニケは舌打ちした。
﹁ここで脱ぐくらいなら自分の部屋に帰る﹂
﹁別にいいけど。血はお湯で洗うと落ちにくくなるから、冷水で洗
いなよ﹂
﹁捨てるからいい﹂
立ち上がると眩暈が襲ってくる。出血しすぎてしまったのだろう。
だが彼は心配げな顔になる雫を追い払うように手を振るとドアに
手をかけた。暗い廊下に足を踏み出す。
﹁平気なの?﹂
﹁当然だ。お前も寝とけ﹂
﹁眠くないんだけど﹂
帰ろうと歩き出した隣に、女の手が魔法の燭台を差し出した。﹁
持ってけば﹂という声が後に続く。
本当なら彼は自分の魔法で明かりが作れる。こういったものは元
々魔法の使えない女官の為のものなのだ。だが︱︱︱︱
﹁⋮⋮後で返す﹂
﹁はいはい。気をつけてね﹂
﹁悪かったな﹂
雫は意外な言葉に目を丸くしたが、ニケはそれ以上かまわなかっ
た。今度こそ自室に向って歩き出す。
自分はいつ死んでも仕方ない人間だと思う。それだけのことをし
てきた。今もしている。
856
だが、そう思いながらも諦めなくてよかったと感じているのは何
故なのか。
考えても明確な答は出ないだろう。出てもきっと重荷にしかなら
ない。
ただそれは、或いは今手の中にあるこの明かりが温かいから⋮⋮
そんなささいな理由が全てなのかもしれなかった。
857
002
ニケが出て行ってしまうと雫は部屋を簡単に片付けた。時計を見
ると時刻はまだ夜明け前である。一度セイレネの様子も見に行った
のだが、﹁まだ施術中だから﹂と言われ産室に入れてもらえなかっ
たのだ。もう少ししたらまた行ってみようと雫は考えながら、こん
な時間に食堂は開いていないのでお茶を淹れてパンを齧る。
子供が生まれる、ということは自分ごとではなくとも妙にそわそ
わして落ち着かないものだ。その子の教育係が自分であると決定し
ているなら尚更だろう。
雫は簡素な朝食を済ますと本を開いたが、一向に内容が頭の中に
入ってこないので身支度を整え産室へと向った。
城の奥にひっそりとあるその部屋。
つい二時間程前に訪れた時には近くの廊下からして既に空気がざ
わめいていたが、今はその廊下もしんと静まり返っている。
出産は終わったのだろうか。嫌な予感に苛まれて雫の足取りは自
セイレネさんは? 生まれたの?﹂
然と重くなった。だが、その時背後から男の声がかかる。
﹁もう起きたのか﹂
﹁ファニート。︱︱︱︱
﹁ああ。来るといい。こちらだ﹂
長身の男の後ろについて雫は小走りに方向を転換する。案内され
たのは今まで使われていなかった王族の為の部屋の一つだ。白と淡
い青を基調に整えられた広い部屋を彼女は見回す。
大きな窓と凝った彫刻の施された石柱、繊細な人形が並べられた
858
白木の飾り棚など目を引く調度品が点在するそこは、子供部屋とい
う感じはあまりしない。
ただ明らかに今までセイレネがいた部屋よりも豪奢で、中産階層
で育った雫には感嘆の溜息を禁じえないものだった。
﹁あいかわらず凄いよね。慣れてきたけど驚く﹂
﹁何がだ?﹂
﹁ずっと王宮にいる人には分からないと思う﹂
テレビなどで高級ホテルのスイートルームを見た時は、姉妹で﹁
一度泊まってみたくない?﹂と話をしたものだが、実際に王宮の部
屋に立ち入ると﹁落ち着かなくて眠れないだろうな﹂というのが正
直な感想だった。雫は庶民的な感覚が分からないらしいファニート
を置き去りに、寝室への扉を指差す。
﹁あっち?﹂
﹁ああ。今はお眠りになってる﹂
﹁分かった﹂
ファニートの姿を見ると、扉の前に立っていた衛兵が一礼し横に
どいた。普段は部屋の中にまで兵士が立ち入ることはないが、今は
特別なのだろう。
雫は会釈して彼らの間をすり抜けると、音をさせないようドアを
押し開ける。
まず目に入ったのは天井の金具から吊るされた白い紗布だった。
寝台を守るように覆い隠すそれを、彼女はファニートの許可を得て
慎重にかきわける。
何故こんなにも緊張しているのか、自問しながら中を覗き込んだ
雫は、広い寝台の中央に眠る赤ん坊を見つけて息を止めた。
思っていたよりもずっと小さい。精巧に出来た人形かと思ってし
まうほどだ。
だが、その真白い肌は非常に柔らかく蕩けそうであり、長い睫毛
は夢でも見ているのか時折ぴくぴくと動く。外国人の赤ん坊は皆こ
859
うなのか、整った美しい顔立ちを雫は感動を以ってまじまじと見つ
めた。
﹁男の子? 女の子?﹂
﹁男児だ﹂
﹁うわぁ。美少年になりそうだね﹂
起こしては不味いと思い、雫はそこで天蓋の外に出る。
緊張を解いた彼女は、部屋には赤子の他に彼ら二人しかいないら
しいことに気づいて首を傾いだ。
﹁セイレネさんは?﹂
﹁彼女は城を出て東部の離宮に移った。そこでしばらく静養する﹂
﹁もう? 産んでから何時間も経ってないじゃん﹂
﹁転移陣を使った。私も付き添ったが大丈夫そうだ。貴女によろし
く言っておいてくれと頼まれた﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
たった一ヶ月仕事で一緒にいただけだが、こうも突然別れが来る
とは思ってもみなかったのだ。雫は最後の挨拶が出来なかったこと
に申し訳なさと落胆を抱く。
だがそこで彼女は一つ、セイレネに頼まれていたことを思い出し
た。
﹁ね、セイレネさんの私物で私一つ預かる予定になってるものがあ
るんだけど、聞いてる?﹂
﹁いや? 宝石か何かか?﹂
﹁違う、本。まだあるかな﹂
﹁あると思う。午前中には掃除が入るらしいから女官に頼むといい﹂
﹁ありがと﹂
女官に頼むとしても題名がなく分かりにくい本だ。帰りにそのま
ま部屋に寄って取っていった方が早いだろう。そう思った雫は寝室
を出ようとして、ふとドアを開ける前に振り返った。寝台の傍に立
つファニートを見やる。
﹁実はさ⋮⋮セイレネさんのお腹の子の父親ってファニートかなっ
860
てちょっと思ってた﹂
﹁まったく違う。私の子なら姫が気に掛けるはずがないだろう﹂
﹁かもね。で、結局父親って誰だったの?﹂
それは、答が返ってくることを期待していたわけではない、冗談
の範疇にある質問だった。
軽く聞いてみただけの問い。だがファニートはいつもの平坦な声
で答える。
﹁さぁ。ファルサス国王かもしれぬな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮へ?﹂
よく知っている男。そして、冗談にしては笑えない火種そのもの
の可能性に雫は絶句する。
けれどいくらファニートの目を見返しても、今の答の真偽は分か
らず⋮⋮結局彼女は不安に似た蟠りを宿したまま、その部屋を後に
したのだった。
雫はすっきりしない気分のままセイレネが使っていた部屋へと向
った。合鍵を使って中に入り、誰もいない部屋の本棚から紺色の本
を取り出す。三日前までとまったく変わらぬ室内。しかし、微かな
違和感が彼女の思考の隅をちらつく気がした。
けれど立て続けに色々なことに直面した雫は、違和感を明確な猜
疑と変えることが出来ない。首を捻りながらも部屋を出て自室へと
ドレスも装飾具も、本も小物も化粧道具も、持ち主が
戻り始める。
︱︱︱︱
いなくなったにもかかわらず変わりなく残っていた。
そのこと自体が不自然だということを、彼女は全てが終わった後
他の人間から指摘されるまで、ついに気づけぬままでいたのである。
861
※ ※ ※
城でひっそりと赤子が取り上げられてから一週間後、キスクの城
都の片隅にある食堂は、旅人や傭兵など雑多な職種の人間でごった
返していた。その中に普段よりも屈強な体つきの男が多く見られる
のは、ロスタ地方で続く暴動と関係あることは明らかである。
窓が小さいせいか薄暗い印象が拭えぬ店内の隅で、鍛えられた体
躯を持つ男は、肉の塊をナイフで切り分けながらぼやく。
﹁やっぱり駄目だな。ろくな仕事がない。ロスタまでいけば何かは
あるんだろうが﹂
﹁アンタがキスクにするって言ったんじゃない。ファルサスは傭兵
を使わないからって⋮⋮﹂
﹁そうなんだが、城は動いていないし貴族は右往左往しているばっ
かりでな。思ってたよりキスクのやりたいことが見えてこない。こ
のままじゃぐだぐだな争いが始まりそうだぞ﹂
﹁どうでもいいよ﹂
リディアは肉の一切れを手で摘みながら事実興味がなさそうに言
う。
彼女は上位の宮廷魔法士にも匹敵する腕の持ち主なのだが、魔法
彼女自身も﹁気に入らない人間
士の傭兵は集団戦闘の経験が乏しく扱いづらい為、戦争などでは雇
用を避けられる傾向があるのだ。
には命令されたくない﹂とのことで宮仕えを拒んでいるので、わざ
わざ戦争絡みの仕事は請けたがらない。
今現在キスクには、不穏を察知した貴族が私兵を編成する為に傭
兵を募集するという仕事ならいくつかあるのだが、リディアはそれ
も﹁待機するばっかりで気に入らない﹂と言って一顧だにしていな
かった。
862
ターキスが切り分ける肉を当然のように自分の取り皿に移しなが
ら、彼女は果実酒を口にする。
﹁それより北部にいかない? 北の大国メディアルの西部で最近や
たら魔物が出るらしいってさ。討伐隊とかいって大量に傭兵を集め
てる人間もいるらしいし、単独でも仕事に困らなそう﹂
﹁魔物退治かぁ。俺あんま得意じゃないんだが﹂
﹁てっとりばやいし私は好き。別にいいよ、一人で行くから﹂
﹁お前と離れると移動が面倒なんだよ。俺も行こうかな⋮⋮﹂
定まりきらない目的に二人は会話を打ち切ると、しばし食事に集
中し出した。だが生まれた沈黙もしばらくして、一人の男がテーブ
ル脇に立ったことにより中断させられることとなる。
占い師が着るようなローブを目深に被り顔を隠した男は、二人か
ら見ると上流階級に仕える者の品のよさが感じ取れた。押し殺した
作り声が絞り出される。
﹁単独で潜入行動が出来る腕のいい傭兵を探している﹂
﹁魔法士か剣士か? 目的は何だ﹂
﹁殺しだ。実力があるなら種別は問わない﹂
﹁生憎と暗殺は畑違いだ。その筋に行けよ﹂
ターキスはそっけなく結論づけると軽く手を振る。けれどローブ
の男は引き下がらなかった。声音に苦さを滲ませながら食い下がっ
てくる。
﹁相手方は暗殺者をよく使う。手練を動かせば気づかれる恐れがあ
るのだ。別筋の人間を使いたい﹂
﹁暗殺者ってのはそんな口が軽いもんじゃないけどね﹂
何だかきな臭い話だ。
暗殺者を使おうというのだから元々きな臭いと言われればそれま
でだが、身分のありそうな依頼人といい今のキスクの情勢といい、
嫌な予感がする。
だが何度断ろうとしても男は渋るだけだったので、仕方なくター
863
キスは傭兵がよく集まる小さな酒場を教えてやった。一般の人間は
ほとんど出入りしないその酒場は、彼の知り合いもよく顔を出して
おり腕の立つ人間は多いが、その大半が気分屋である。彼らはどれ
程報酬を積まれてもやりたくないと思ったら引き受けないだろう。
隣にいる女がそうであるように。
酒場の場所を口頭で説明された男は、礼を言うと銀貨を三枚テー
ブルに残していった。今の食事代を払って軽く釣りが来る金額に、
リディアは男がいなくなると呆れ混じりの声を上げる。
﹁あーやだやだ、胡散臭い。ああいう人間って自分の素性が分から
ないとでも思ってるのかな﹂
﹁さぁな。自分のことは自分じゃ分からないのかもしれん﹂
ターキスは適当に結論づけると、店員を手招きで呼び寄せて肉の
追加注文をする。
彼が最初に頼んだ肉をほとんど横から取ってしまった女はそれを
聞いて舌を出すと、自分は新しい酒を頼んだのだった。
※ ※ ※
キスクの建国にかかわった女王、トライフィナは二国の王子を共
に娶り、五人の子を産んだとされる。
三国の血が混じりあって生まれた国は、勢いに乗って周囲の国々
を圧し大国として確固たる地位を築き上げた。
しかし、その始まりにまったく影がなかったわけではない。
初代女王の三十三歳での事故死の他に、当時は秘せられた事件が
複数起きている。
そのいくつかは捻れた感情が産んだ悲劇だと、知る者は最早ほと
んどいないのだが。
864
﹁子供は好かぬ。何の為にお前がいると思っているのだ﹂
﹁そう仰ると思いました﹂
予想通りのオルティアの切り返しに雫はあっさりと答えた。手に
持った急須をカップに向けて傾ける。
オルティアの部屋は、雫が知る限り城内でもっとも混沌としてい
る部屋だ。本来広いはずの部屋には、姫の趣味で集められた何だか
よく分からぬ家具や雑貨がところ狭しと置かれている。その中から
急須に似た道具を見つけ出した雫は、挿さって枯れていた花を捨て
るとそれを洗い、報告を兼ねながらお茶を淹れ始めたのだ。
キスクに来てからの日々は、それまで以上にやるべきことに追わ
れ、気がつくとあっという間に時間が経っていたものだが、赤子が
生まれてからはそれが激化している。雫などは休憩を挟みながら一
日約十時間を赤子と一緒に過ごしているだけだが、昼夜なくついて
いる乳母はどれだけ体力を使っているのか、考えるだに頭が下がる
思いだ。
まもなく生後二週間になろうという子供の経過報告をしながら﹁
一度お会いしてみますか?﹂と聞いて拒絶された雫は、紅色のお茶
を姫に差し出す。
﹁大人しい子ですよ。ご不快にさせるようなことはないと思います
が﹂
﹁お前は一度言われたら諦めるということを覚えぬか? くどい﹂
﹁情報を補足したら気が変わられるかと思いました﹂
この国で働くうちに変わってきたもう一つのことと言えば、オル
ティアの嫌味に動じなくなったことだろうか。主たる側近の男二人
とはまた違った受け流し方を、雫は身につけたのであり、それはも
っとも姫を喜ばせる可能性と不興を買う可能性の両方を兼ね備えて
いる。
865
ある意味﹁殺されにくい﹂という優位を持っていなければ出来な
いことだろう。だが雫はその優位性を利用することを躊躇わなかっ
た。そういう人間でもいなければ、姫には誰も率直な苦情を言うこ
とが出来ないのだ。そして彼女の真意を問うことも。
雫は音を立てぬよう深く息を吸い込む。
今日はどうしても確かめたいこともあるのだ。それをぶつけるタ
イミングを見計らって彼女は椅子に胡坐をかくオルティアを見下ろ
した。
細められた黒い瞳の視線に気づいて、お茶に口をつけていた姫は
顔を上げる。
﹁何だ﹂
﹁お伺いしたいことがあります﹂
﹁申せ﹂
﹁ヴィエドの親は誰ですか?﹂
この二週間、ずっとそれが引っかかっていたのだ。何の力もない
赤ん坊を何故オルティアは丁重に育てようとしているのか。
答はヴィエドと名づけられた赤子の親にあるとしか思えない。オ
ルティアは問いを聞いてつまらなそうに唇を曲げた。
﹁セイレネに決まっている。お前も知っているだろう﹂
﹁父親をお聞きしているに決まってます。セイレネさんはキスクの
人間ではありませんよね? どこの国の方で誰の奥方だったんです
か?﹂
セイレネはキスク人なら皆知っているらしい﹁花雨の日﹂を知ら
なかった。つまりは他国人であるのだろう。そして予想ではヴィエ
ドの父親も。
オルティアは湯気のたつカップを優美な仕草でテーブルに戻した。
絹を合わせただけの衣から覗く脚を解いて組みなおす。
866
﹁それを知ってどうする。腹の子の父親が誰であったかなど、本人
しか分からぬものではないのか?﹂
﹁でも姫はご存知だから匿ってらしたんでしょう? ヴィエドの父
親は本当にファルサス国王なんですか?﹂
二人の女の視線が交差した。付随する沈黙に雫は疲労感を覚える。
もし肯定が返ってきたならそれは、明らかな国家間闘争の中心に
生まれて間もない子供がいるということを意味するのだ。
父親はラルスかもしれない。
※ ※ ※
︱︱︱︱
ファニートから呈されたその可能性を、雫は結局無視することが
できなかった。
そう考えれば考える程、オルティアがどうしてセイレネを庇護し
ていたのかのつじつまが合ってくるのだ。
今現在ラルスもレウティシアも独身であり、彼らには子供がいな
い。そしてファルサスは六十年前から続く政争で彼ら以外の直系は
残っていないのだ。
そこにオルティアがラルスの子を擁して現れたなら。
王位継承順位がどうなるのか具体的なことを雫は知らないが、オ
ルティアにファルサスの中枢へ食い込む可能性が生まれるというこ
とは分かる。ましてやラルスやレウティシアに不慮の事故があった
なら尚更、二人の死と共に王位はオルティアの下に転がりこんでく
るであろう。
たちの悪い冗談に思考を誘導され、他の可能性が見えなくなって
いるのかもしれない。
867
けれどどうしても確かめたかったのだ。
オルティアはファルサス直系の子を手中におき、現王を退ける為
戦争を起こそうとしているのではないかと。
一日のほとんどをヴィエドについている雫は、改めてファニート
に問い質そうにも時間があわずに焦燥だけが積もっていた。
しかし代わりに昨晩ニケを捕まえることが出来たのだ。いつか貸
した燭台を律儀にも返しに来た男は﹁ちょうどよかった!﹂と室内
に引きずり込まれて嫌な顔になる。
﹁父親? 知るか。知ってても言えるか﹂
﹁﹃はい﹄か﹃いいえ﹄かだけで答えてくれればいいから﹂
﹁尋問をするな! 馬鹿女! そんなの勝手に答えたら俺の首が飛
ぶ!﹂
そこまで言われて雫は唸った。この場合﹁首が飛ぶ﹂とは﹁辞め
させられる﹂ではなく文字通り斬首を意味するのだ。いくら気に入
らない男とは言え、自分のせいで殺されては寝覚めも悪い。彼女は
質問を変えることにした。
﹁ね、親子の証明って魔法で出来るの?﹂
﹁出来ない。魔法士の親から魔法士の子が生まれれば魔力の類似が
見られることもあるが﹂
﹁じゃあ本当に親子でも、﹃違う﹄って言われたら終わりなわけだ﹂
﹁普通はな。ファルサス王家は違うが﹂
﹁え?﹂
目を丸くする雫に、ニケは諦めたのか﹁紙と書くもの貸せ﹂と指
示する。その通りノートとペンを渡すと、彼は一枚丸々使ってそこ
に家系図を書き始めた。
﹁いいか? ファルサス直系と言われる人間にはある条件がある。
それは﹃自分から遡って五代前までに王が存在すること﹄だ﹂
868
﹁あれ。王家の血を継いでるならみんな直系じゃないの?﹂
﹁あほかお前。それで言ったら今頃千人以上直系が残ってるぞ。あ
の国がどれだけ歴史が古いと思ってるんだ﹂
﹁ぐう﹂
あほ呼ばわりされたが、雫は教えてもらう立場として反撃を控え
る。彼女はニケの隣に座るとノートを横から覗き込んだ。
家系図の末端に描かれている名前は、おそらくラルスとレウティ
シア。ラルスの上には星が書き込まれているが、これが王を意味す
るのだろう。
﹁ラルスは勿論自身が王だから直系だ。そしてレウティシアは一代
前、つまり父親が王だった為直系とされる。ただレウティシアの血
を継ぐ子供が全員王にならないと仮定した場合、直系とみなされる
のはあの女の孫の孫までだ。その次の子は王が六代前になるからな﹂
﹁あ、なるほど。五親等が限界なんだ﹂
﹁そう。ちなみに姻戚は直系に含まれない。血を継いでいなくても
直系扱いを受けるのは王の正配偶者だけだ﹂
ニケはレウティシアの下に棒を引いて四つの丸を書き足す。ここ
までが直系の資格を持つ人間だということなのだろう。それ以上血
が薄まると直系とはみなされなくなる。ただもし、この中に王とな
る人間がいたならまた計算は違ってくるのだろうが。
﹁で、ファルサス王家は魔力を拡散させたくないのか、血族結婚も
他の王家よりは多いんだ。結果、直系の人数自体はいつも百人を越
えない。おまけに今は数十年も身内で争ってたせいで王族が激減し
て、王と妹の二人しかいないと言われている﹂
雫は男の解説に頷く。その話自体はファルサスにいる時にも何度
か聞いていたのだ。エリクは﹁二十五年間の政争で王族が何十人も
死んだ﹂と言っていた。
遠い世界と思える出来事に彼女は溜息をつく。
﹁大変そうだよね。二人は若くてよかった﹂
869
﹁キスクからするとよくないがな。⋮⋮まぁそれは置いといてだ。
ファルサス王家にはアカーシアや精霊が受け継がれているが、これ
らを継承する条件は﹃直系であること﹄だ。 逆に言えばこれらに
受け入れられればその人間は直系であることが証明される⋮⋮俺の
言ってることが分かるか?﹂
﹁あ、ひょっとしてアカーシアに認められれば、王様かレウティシ
アさんの血を継いでるって証明されるってこと?﹂
﹁意外にも分かったか。しかも王妹が身篭ってなかったことは皆が
知ってるから自然と一人に絞られる﹂
﹁うわぁ⋮⋮王様も逃げ場ないね⋮⋮⋮⋮﹂
二人しかいない直系に加え、﹁生まれたばかりの直系﹂が出てき
たのならどちらかの子に決まっている。雫は何となく﹁隠し子に慰
謝料を請求されるラルス﹂を連想して大きく息を吐いた。隣に座る
男を見上げる。
﹁ってことは、ヴィエドは直系の自信があるってことでいいの?﹂
﹁俺に聞くなと言っただろう! 誰だお前にそんな入れ知恵した奴
は!﹂
﹁じゃあヒント頂戴。﹃はい﹄か﹃いいえ﹄かだけで答えてくれれ
ばいいから﹂
﹁圧し掛かってくるな! 重い!﹂
折角真相を知っていそうな人間だ。ヴィエドのことだけではなく
ティゴールについてなどもっと聞き出そうと思ったのだが、逃がす
まいと拘束しかけたところニケは雫を放り出して部屋から出て行っ
てしまった。肝心のところが聞けずじまいで終わった雫は唸り声を
上げる。
もうこれは直接姫に聞くしかないだろう。彼女がファニートやニ
ケの上に立つ人間であるのだから。
雫は断片的な情報を揃えてオルティアの前に立つ。
それが吊り橋を渡るような危険な問いだと分かっていても、真実
がヴィエドと自分の両方に大きく影響してくる以上、聞かずにはい
870
られなかったのだ。
※ ※ ※
雫から赤子の父親をファルサス国王かと問い質されたオルティア
は、冷笑を浮かべると﹁そうかもしれぬな﹂と言い捨てた。知って
いながらはぐらかすような口ぶりに雫は眉を寄せる。
誰に聞いた?﹂
﹁ティゴールさんはファルサス国境近くの領地の領主さんなんです
よね?﹂
﹁元だが。今は息子が治めている。︱︱︱︱
﹁文官の人たちが話しているのを聞きました。今そこで酷い暴動が
多発していて、ファルサスへ亡命者が出ているということも﹂
﹁亡命というとおかしな響きだな。奴らはほんの数代前まではカソ
ラ⋮⋮ファルサス属領の人間であったのに﹂
﹁暴動によって逃げ出した人たちは、ファルサスに住む同胞に頼り、
共にキスクへの対立感情を膨らませているとも耳に入れましたが﹂
オルティアは扇で口元を隠した。化粧によって綺麗に縁取られた
瞳だけが雫を見返す。
それはまるで闇夜に光る猫の目だ。
姿を隠し、真意を隠し、右往左往する獲物を愉悦を以って見下ろ
す目。
悪意で身を飾り立てるが如き高慢に、雫は不快が胃に沈殿してい
くのを止めることはできなかった。答えない主君に向かい、最後の
質問を口にする。
﹁姫の狙いは戦争を起こし、その渦中でファルサス王を殺すことで
871
すか?﹂
アカーシアによって直系か否かを判断できるなら、父親が生きて
いる必要はない。むしろ今玉座に在る男は邪魔な存在でしかないだ
ろう。ヴィエドを擁するオルティアにとって、ラルスが生きていて
いいことは一つもない。
ならば彼が﹁死ぬかもしれない状況﹂を作り出すことで、彼女は
自分が望む未来を引き寄せようとしているのではないか。
もしファルサス王の息子を手中にしたのがオルティアではなかっ
たら。
その人物はおそらくもっと慎重で確実な手段を取ったのではない
か、と雫は思っている。
まずは赤子に自分の存在を刷り込んで育てながら確実に後見とな
り、その後で正面から彼こそが長子であり王位継承権があると主張
して、ファルサスとの交渉に入る。その方がずっと安全な方策では
ないのか。
勿論赤子を育てる時間を置く間にラルスやレウティシアに別の子
供が出来ては困る、という懸念は分かる。けれどだからといって今
無理矢理戦争を起こしてまで二人を殺そうとするのは暴挙としか思
えない。仮にその中で彼らを討ち取ることに成功したとしても、王
族を殺した敵国が擁する子など反感を持たれるに違いないのだ。
泥臭く後先を考えない手段は、得られる利点もあるだろうが不確
定要素が多くデメリットも大きい。何しろ相手は大陸最強と言われ
る国家だ。どんな人間でももっと慎重になり確実性の高い一手を模
しかしオルティアは、常に飽いている。
索するだろう。
︱︱︱︱
待てないのだ。彼女はきっと。子供を育てる数年に耐えられない。
セイレネが臨月になった頃、﹁腹を割いて取り出せるか?﹂とま
で尋ねた彼女だ。ヴィエドに物心がつくまで待てるかも怪しい。
872
ファルサスへの干渉が彼女にとって﹁執務﹂ではなく﹁娯楽﹂で
ある以上、望まれているのはより速やかな変化であり混乱でしかな
いのだ。
オルティアはじっと雫を見つめる。
猫の目は見る角度によって、あてる光によって形が変わる。それ
と同じように、彼女の瞳にもまったく異なるいくつかの感情が浮か
んでいるように見えた。
子供のような老女のような。酷薄のような無垢のような。
理解を拒みながら孤独を嫌う。傷を好んで痛みを恐れる。
少しも定まらない、纏められていないままの思惟。それが彼女を
優秀な政務者でありながら、残虐な支配者と成している。はたして
オルティア自身は不安定な自身の精神を自覚しているのか、雫は歪
な硝子細工を前にしたかのように息苦しさを味わった。幾許かの静
寂の後に、姫はころころと笑いだす。
﹁雫、お前はあの男から聞いたか? ファルサスは直系の血脈を非
常に重んじているのだと﹂
﹁存じません。アカーシアがあるからですか?﹂
﹁そうだ。アカーシアも精霊も、ファルサスに与えられた過去の遺
産だ。奴らはそれにしがみつき、血を保つことに必死になっている﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
少なくとも雫にはそうは見えなかった。ラルスもレウティシアも
好きに生きていたように思える。
だがキスクから見たファルサスとは、また違う姿で描かれるのだ
ろう。それが時代や環境によって作られた先入観なのだとしても。
﹁妾はな? 退屈なのだ。所詮一生をこの城に繋ぎとめられるつま
らぬ王族の人間だ。城には無能が多い故、気晴らしに外に出られた
としても長くは空けられぬ。この部屋に戻ってくる他はない。籠の
中の鳥だ﹂
873
閉ざされた窓。立ち込める香り。鬱屈と淀んだ部屋には少しの光
もない。
﹁ならばせめて⋮⋮面白い話が聞きたいではないか。少し弄ってや
ればそれが可能になる。あのファルサスが慌てふためくところなど
オルティアは、どうやって自分を自分として納得させ
滅多に見れぬ見世物だぞ?﹂
︱︱︱︱
ているのだろう。
今の発言の中にさえ矛盾があることを、彼女は知っているのか見
ぬ振りをしているのか。
自分にさえも嘘をつくその姿は一人の女王に重なって見える。こ
の国の始まりにいた孤独な女に。
雫は溜息を言葉に変える。薄々と感じる諦観を押し殺すと口を開
いた。
﹁姫、あなたは鳥籠の中になんかいませんよ。出たければお出にな
ればいいのです﹂
﹁妾がいなくなれば皆が困るぞ? 数日で国が立ち行かぬようにな
る﹂
﹁あなたがなさる悪戯のせいで、負ければ国が傾きます﹂
オルティアの存在は、キスクにとって薬であり毒薬だ。
彼女がいればこそ確かに上手く動く部分もあるのだろう。だが、
だからといって国を私物化して損なうことが許されるとは思えない。
城に縛られるのが嫌なら出て行けばいいのだ。彼女がいなくなって
も、誰かが何とか国を回していくだろう。
そ
雫は自分でも残酷と思える極論を彼女の前に示す。雫でなければ
言わないことをあえて言う。きっと不興を買うだろう︱︱︱︱
の予想の通り、オルティアは氷の目の奥に嬲るような光を宿して雫
874
をねめつけた。
﹁妾がこの国にとって害だと、そう申すのか?﹂
﹁このままではそう言わざるを得ません。もっと他のやり方を選ば
れてください﹂
﹁お前に何が分かる? 物知らずな小娘が﹂
﹁ならば他の方々にも聞いてみましょうか。本格的な戦争になれば
キスクの敗北する可能性は高いと、思われている方は多いようです
が⋮⋮﹂
そう言った時オルティアの顔に浮かんだのは、暗い喜びとしか言
えない陰惨な微笑だった。
自国の滅亡を目の当たりにして咲き誇るであろう花の蕾。子供の
快哉に似た光に雫はぞっとする。
彼女は、おそらくそういう人間なのだ。
支離滅裂な精神。
オルティアの不安定さはきっと﹁城を離れられない﹂という固定
観念と、﹁城を出たい﹂という願望の中で揺れている。自分は国に
とって必要な人間なのだと思いたいにもかかわらず、その国が煩わ
しくて仕方ない。
落ち着いていられないのだ。だから孤独で、そして残酷になる。
楽しいことを見たいと言いながら、その実彼女は何を見ても満た
されないのではないか。
雫はこの時、同い年でありながらあまりにも違う女の在り方に空
虚を見た。
オルティアは声を上げて笑いだすと不意に手に持っていた扇を投
げた。雫の顔を掠めて後方に、それは軽い音を立てて落ちる。誰に
向けるともつかぬ嗜虐を顕にして姫は嗤った。
﹁滅びるなら、それも悪くはない。構わぬではないか。滅びぬ国な
875
ど何処にもない﹂
﹁⋮⋮国はあなたの玩具ではありません。壊してしまうのなら手放
した方が余程ましです﹂
﹁煩い、雫。お前はあまりにも増長がすぎる。仕置きとして耳を削
いでやろうか。後は髪で隠せばよいだろう﹂
軽くかけられた言葉。
言われた意味を理解した時、その軽さにこそ雫は恐怖を感じた。
初めて姫に対面した時の緊張が甦る。
これ以上食い下がっては不味い。
そのことは分かる。オルティアは雫の耳を削ぐくらい平気でやっ
てのけるだろうと。
だがきっと。
ここで引けば、また代わり映えのない日々が始まるのだ。
﹃きっとず
雫にとっても彼女にとっても何も変わらない﹁異常﹂が。
まだどちらも、二十年も生きていない。
それなのに同じままの日々が、続いてしまう。
誰が教えてくれるのだろう、そこにある欠落を。
気づかないまま、生きていく、でもそれは︱︱︱︱
っと苦しいのに﹄
すれ違う意思が交差する数秒間。
雫はオルティアの言葉に慄きながらもまた、凪ぐように静まって
いく自身の部分をも感じていた。
今そこに怒りはない。ただ虚しいだけだ。
彼女は震える指をそっと握ると、姫にもわかる程に深く息をつく。
﹁痛みは好きではありません。だから、それを為されるというのな
ら私はあなたに許しを請うでしょう。ですがそれは、痛みに屈した
だけです。あなたの仰ることに納得したわけではありません﹂
876
伝わらないことは伝わらない。
けれど、言葉を放棄したくはないのだ。
自分は自分の意志を口にする。
それに返ってくるものが刃なのだとしても、今ならきっと諦めら
れるだろう。
ずっと自分が分からずに苦しかったのは、彼女もまた同じなのだ
から。
雫の答にオルティアは細い眉を曲げる。苛立たしげな感情が声音
に滲んだ。異物を見るような視線が彼女に向けられる。
﹁賢しい。どれほど言い繕おうとも屈すれば同じことではないか﹂
﹁違いますよ。それでは変えられないんです﹂
﹁妾は変えてきた﹂
﹁変わりません。変わりたくないと、思っていますから﹂
雫はテーブルの上に置かれていた小さな短剣を手に取ると、オル
ティアの眼前に回った。敷物に両膝をついて座ると短剣の柄を彼女
に向かって差し出す。
﹁どうぞ﹂
自らを傷つけるという相手に差し出した剣。
それを、オルティアは目を見開いて見つめる。
断絶を恐れているのはどちらなのか。
ただ、両目を閉じて刃を待つ雫の貌は、オルティアの作る影のせ
いかひどく悲しげなものに見えた。
差し出された短剣にオルティアが驚いたのはほんの数秒だった。
上から真っ直ぐに振り下ろした。
すぐに彼女は柄を掴むと鞘を取り去る。むき出しになった剣を跪
く雫の左耳目掛けて︱︱︱︱
鈍い刃が耳を掠め、肩へと食い込む。
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﹁っああっ!﹂
目から火が出るような衝撃に、雫は肩を押さえて蹲った。痛みに
生理的な涙が溢れる。
﹁⋮⋮身に染みろ。愚か者が﹂
オルティアの声はいつもとは違い抑揚のないものであった。身を
捩って縮こまる雫の背に、短剣そのものが放られる。
乾いた音を立てて敷物の上に転がったのは、刃の潰された装飾用
の剣だった。鉄の鈍器に打たれたと同じ激痛に雫は唇を噛んで嗚咽
を堪える。
あまりの痛みに出来れば気を失いたいくらいだ。だがそうならな
いことは分かっていたので、雫は気力を振り絞って体を起こすとオ
ルティアを見つめた。
けれどいつまで経っても姫が自分を見ようとしないと分かると、
そのまま深く一礼する。震えて崩れ落ちそうになる足を引き摺るよ
うにして部屋を辞した。
一人残るオルティアは顔を上げない。去っていく雫の背を見ない。
ただ彼女は床の上に落ちた短剣を注視すると、ややあって子供の
ように己の両膝を抱いたのだった。
﹁お前の頭の中身は本当にどうなってるんだ? 被虐趣味があるの
か?﹂
﹁全然。痛いのやだ。グロいのも駄目﹂
雫は魔法で治癒された肩を服越しにさする。まだ激痛の余韻があ
る気がしてならないが、痛み自体は残ってなかった。
廊下の角にしゃがみ込んで悶絶していた彼女を気づかず蹴り飛ば
しそうになったニケは、それを聞いて呆れというより、意味の分か
らない生き物を見るような表情になる。
﹁他の人間のことも考えろ。お前が訳の分からん癇癪を起こしたな
ら、姫の機嫌が悪くなるだろう﹂
878
﹁あー、ごめん。ひょっとしてこれから報告?﹂
﹁察しろ﹂
﹁ごめん﹂
謝ってはみたが後の祭りである。雫はこの上なく嫌そうな顔をし
ている男に頭を下げると、立ち上がった。
﹁何ていうか⋮⋮無力感に凹む﹂
﹁姫に正面から食って掛かるな。通じるわけがない。むしろ俺の方
が凹む﹂
﹁まことに申し訳御座いません﹂
怒っているというよりはげっそりしている男に重ねて謝ると、雫
少しだけ、通じるような気がしたのだ。
はその場を立ち去った。一人の廊下を歩きながら項垂れる。
︱︱︱︱
オルティアの瞳の中に忘れられた子供の姿が垣間見えた時、彼女
は自分の欠落に気づいているのではないかと思った。口に出さない
だけで、気づいて、嫌がっているのではないかと。
だから、真っ直ぐに向き合えば届くのではないか、何かが変わる
のではないかと思ったのだ。
その考えが甘かったことは痛みと共に思い知ったが、いずれは何
処かで同じことを言っただろう。これくらいで済んだなら僥倖だ。
﹁持っている者は当たり前すぎて分からない﹂とは、デイタスの従
者であったネイに言われた言葉だが、今ならその意味が少しだけ分
かる気がする。
オルティアはおそらく当たり前のものが得られなかった人間で、
雫は彼女の姿に自分ではない自分と損なわれた子供の、両方の姿を
見たのだから。
ヴィエドのいる子供部屋に向うと、寝室の扉の前にはファニート
がいた。
879
会いたい時には会えないのに、気まずい時には顔を合わせてしま
うのがかえっておかしい。苦笑した雫に気づくと男は怪訝な顔にな
る。
﹁どうかしたのか?﹂
﹁いや、何でもないよ﹂
﹁泣いた痕がある﹂
﹁あー⋮⋮﹂
言われて見れば顔は洗ってこなかった。泣いたのはどちらかとい
うと痛みの為なのだが、悲しいと言われれば悲しかった気もする。
雫が﹁姫に文句言って怒られた﹂と簡潔に説明するとファニート
は難しい表情になった。
﹁言っても聞いてはくださらないが、言いたくなる気持ちは分かる﹂
﹁まぁ、はい。私も率直すぎたと思う﹂
﹁程々にした方がいい。怪我で済まなくなったら大変だ﹂
﹁肝に銘じます。⋮⋮にしても姫って子供の頃はどんな子だったの
?﹂
今の彼女は子供時代を飛ばしてきてしまったような、未だに子供
時代に囚われているかのような、どちらにせよ不均衡な印象を受け
る。
なら実際子供であった時はどんなだったのか。霧の中を探るよう
な疑問に、古くから姫に仕える男は沈黙した。
だがそれも一瞬のことで、すぐに乾いた答が返ってくる。
﹁幼い頃から聡明な方であった。少々我が強いところもあったが、
王女として自身に誇りを持つのは普通のことだろう﹂
﹁想像つくね﹂
雫は小さなオルティアが女王然として我儘を言っているところを
想像し、小さく吹き出す。
いかにもな姫だ。だが高慢さも子供ならば愛らしく見えたのであ
ろう。ファニートの目にはいつになく穏やかな色が見えた。
﹁姫ってさ⋮⋮トライフィナ女王に似てるよね﹂
880
﹁トライフィナ? 初代女王にか? そのようなことを聞いたのは
初めてだ﹂
﹁そりゃ全然違うところもあるけど、あの、国が嫌いだけど離れら
れないところとか﹂
﹁国が嫌い?﹂
﹁あれ?﹂
二人はお互いに﹁意味が分からない﹂と言った表情で顔を見合わ
せる。
トライフィナは皆に愛され、自身も慈愛に満ちた穏やかな女王で
あったと言われているのだ。他国にまで恐れられるオルティアとは
まったく違う。誰に聞いても似たところなどないと言われるだろう。
雫は片手で前髪をかき上げると、そのまま頭を押さえた。
﹁あれ⋮⋮トライフィナって⋮⋮弟に言われて⋮⋮あれ?﹂
若くして死した、けれど幸福な生涯を送ったとされる女王の﹁真
相﹂を、雫はおぼろげに知っている。
だがそれはいつの間にか知識の中に入っていたもので、それが人
口に膾炙しているものとまったく異なっているとは今この時まで気
づかなかった。むしろ何処で知ったのか、自分が覚えていないこと
に気づいて彼女は言葉を失くす。
ファニートはそんな表情の変化を、的外れな発言を自覚した為と
思ったらしい。口元だけで苦笑すると雫の肩を叩いた。
﹁そうだな。姫もかつてはお優しい方であった﹂
﹁姫が?﹂
雫は大声をあげてから慌てて口を噤む。フォローのつもりで言っ
てくれたのであろう言葉に素っ頓狂に返してしまったのだ。下手を
したら寝室のヴィエドにまで聞こえたかもしれない。雫は息を止め
て泣き声が聞こえてこないことを確認するとファニートに謝罪する。
﹁ごめん。ちょっと吃驚した﹂
﹁いや﹂
881
﹁に、しても、優しかったって⋮⋮﹂
本当なのか? とつい目で問う雫に男は微笑しているようにも見
える表情で軽く手を振ると踵を返した。もう別の仕事の時間なのだ
ろう。複数の消化不良な疑問を抱えたまま雫は一人になる。
本当のことは誰が知っているのだろう。それともそれは人によっ
てまったく異なる真実なのか。雫は袋小路に陥りそうな思考を振り
切ると、寝室のドアを開けヴィエドの元へと向う。
ヴィエドは広い寝台で目を開けてぼんやりと天井を見ていた。
まだ自分ではろくに動けない赤子に、雫は笑いかけて枕元に座る。
備え付けの絵本を取り出すと、ゆっくりと読み上げ始めた。
外見では性別の分からぬ子供は、セイレネに似ているかと聞かれ
ればそんな気もするが、ラルスに似ているかといったら分からない。
雫はじたばたと手を動かす赤子に指を差し出し握らせた。柔らか
な感触に安堵を覚える。
生まれてすぐどちらの親も不在となった彼は、これからどのよう
な人生を送っていくのだろう。
数奇な運命を辿るのかもしれない。血を分けた親と相争うような
生涯を送るのかも。
だがそれが可能性に過ぎないことを、雫はただ祈る。
彼女は複雑に捻れつつある感情を隠してヴィエドの髪を撫でると、
いつものように幸福な終わりを迎える童話を安穏な寝台に降らせて
いったのだ。
※ ※ ※
882
準備は整った。
それは部屋にいる全員が分かっていることだ。中央にて皆の視線
を集める男は、手に持った書類の束を文官へと返す。そこにはここ
最近不穏な動きをする貴族や領主たちの動向が記されていた。
隣国での暴動とは別に動きだしていたそれらは、彼らの能力を反
映してか児戯にも見える稚拙なものである。面倒くさげに一括での
監視処分を指示した王は、居並ぶ臣下たちを見回すと不敵な笑みを
浮かべた。
﹁さて、いい加減カソラからの嘆願も溜まってきた。近頃は国境を
越えての追撃も起きていることだし、これ以上騒ぎが大きくなる前
に腰を上げようかと思う﹂
兄の言葉に、傍に立つ女は﹁好んで騒ぎを大きくしようとしてる
のでは﹂と思ったが、粛々とした場にならって口には出さない。青
い瞳を伏せ床を見つめる。
﹁羽虫を放つ人間の出所も分かったことだ。悪戯が過ぎる女にはき
つく仕置きをしてやらんとな﹂
軽く言う主君の言葉に何人かは緊張を浮かべる。このままこじれ
て大国同士の全面的な戦争になれば、それはここ数百年例のないこ
となのだ。勿論そうなっても負けるつもりは微塵もないが、自分た
ちが歴史の変わり目に立っているのではないかという疑いは拭えな
い。
臣下たちの表情とは別に、緊張の欠片も見えない王は壁にかけら
れた大陸地図を振り返る。その視線がある一点を捉えた。
﹁廃王の尻拭いがここまで来るとは遺憾だが、蒸し返したのはあち
らだ。一つロスタでももぎ取ってやろう﹂
実質的な命に、その場にいた人間たちは一斉に頭を下げる。
長年血族内に向けられ続けていた王剣が敵意を滲ませる隣国に切
っ先を動かす、その初めの日が徐々に近づきつつあった。
883
003
薄紅の光が広い部屋の隅を丸く照らしている。
部屋の主人からの返事はなく姿も見えないが、彼女がそこにいる
であろうことは気配で分かった。入り口に控えるファニートは何度
目かの呼びかけを口にする。
﹁姫﹂
答はない。彼は両目を閉じた。すぐ傍で焚かれている香をかき消
す。
﹁オルティア様﹂
変わらない声。
だがその呼び名に静寂が波立ったのは気のせいではないだろう。
光の中に象牙色の手が差し出される。細い指が動くと光量が僅かに
増した。
機嫌が悪いのとはまた違う、どちらかと言えば気鬱を思わせる貌
が明かりの中に浮かび上がる。
﹁なに?﹂
﹁ご気分がよろしくないようで﹂
﹁そのようなことはない﹂
﹁ならばいいのですが﹂
﹁雫は?﹂
間髪置かぬ言葉にファニートは口元を緩めた。
二人の間に何かあったのだろうということは分かる。雫は今まで
も時折オルティアの機嫌を悪くする諫言を行っていたのだから。
884
オルティアは、雫が物知らずで視野の狭い発言をしたり、逆に想
像の範囲内で鋭い指摘をすると喜ぶが、人を玩具として見る嗜虐性
を批判されると途端に不機嫌になる。それは、今まで皆が思ってい
てもはっきりとは言えなかったところを雫が突いてくる為であり、
また年若いせいか潔癖なところもある彼女がその点に関しては容赦
のない言説をぶつけてくる為でもあった。
ファニートは主君の問いに抑えた声で答える。
﹁ヴィエドのところにおります。お呼びになりますか?﹂
﹁要らぬ﹂
﹁左様でございますか﹂
オルティアはそれきりまた黙り込んでしまった。他にも聞きたい
ことがあるのに、聞くことを拒んでいるような沈黙が流れる。
主君が同い年の臣下に何を見ているのか、ファニートには判らな
い。
立場も来歴もまったく異なる二人は、重なる部分をほとんど持ち
合わせていないのだ。衝突も無理のないことだろう。或いは埋めら
れない相違がよくない結末をもたらす前に、姫の近くから雫を引き
離した方がいいのかもしれない。
それはいつからか彼の考えていることではあるが、ヴィエドが生
まれたことで進言する機会を逸したまま、ここまできてしまってい
た。
小さな窓の隙間から風が吹き込む。
置物の間をすり抜ける風は香の残滓を押し流し、徐々に部屋の空
気を変えていった。ゆっくりと醒めていく夢のように微かに雨の匂
いが混じりこむ。
ファニートはそれに気づくと黙って窓に歩み寄り、音をさせぬよ
う閉めると鍵をかけた。姫に向って振り返る。
﹁雫はいつもと変わりなくおりました。姫の不興を買ったと申して
885
おりましたが﹂
何気ない補足に、だがオルティアは少し揺らいだように思えた。
光の中にある手が指を握りこむ。
﹁⋮⋮あれは口が過ぎるのだ﹂
﹁姫のことをトライフィナ女王のようだと﹂
﹁トライフィナ?﹂
訝しげな声音。
けれどそれはすぐに笑い声に取って代わられた。鈴よりも割れか
けた鐘に似て黙然とした部屋に響き渡る。
﹁トライフィナか⋮⋮なるほどな。言いえて妙だ﹂
﹁姫?﹂
似ているとは言えぬ女王と並べられて気分を害したのだろうか。
彼女なら一笑に付すであろうと思って何気なく口にしたにもかか
わらず、その笑い声は多分に自嘲が含まれているようだった。
やがてオルティアは吹き消された明かりのように再び黙り込む。
幾千と流れたであろう代わり映えのしない時。気づいた時には既
に永遠を思わせるほど沈殿していた澱が、けれどその時ゆらりと動
いた。乏しい明かりが女の目の下に翳を作る。
﹁ファニート⋮⋮妾はこの城にいなくともよいのか?﹂
光を映さぬ目。暗がりに座り込む彼女の視線が男に寄せられる。
彼女は何を思って、何を問うのか。
それは誰にも判らない。少なくとも彼に分かったことはない。
だから男は静かな目で主人を見つめると︱︱︱︱
﹁この城こそが貴女のおられる場所です。どうかそのようなことを
お気になさりませぬよう﹂と答えたのだった。
朝から降り出していた雨は、時間と共に本格的なものとなりつつ
あった。
886
ヴィエドの部屋から退出した雫は、回廊にある欄干によりかかり
中庭を見下ろす。最近持ち歩いている手提げ袋から裁縫道具を取り
出すと、彼女はそのまま手作業を始めた。赤子用のおもちゃを縫い
始める。視力がはっきりしていない頃はカラフルなものの方が目に
付くというから、何か手に握りこめるような玩具でも用意してみよ
うと思ったのだ。
ユーラに﹁針と糸が欲しい﹂と言ったところ﹁魔法具ですか?﹂
と聞かれたが、雫は裁縫用の魔法具の使い方など分からない。その
為ごくごく普通の針と糸で、赤い布をひょうたん型の袋状に縫い合
わせていた。一通り出来上がったところで目鼻を刺繍し中に軽く綿
をつめる。
﹁あ、結構可愛い﹂
中々愛嬌のあるおもちゃに仕上がった。雫は出来栄えに満足する
と、手すりに置いていた裁縫道具をしまい始める。
だがその時、後ろから伸びてきた手が、赤い人形をひょいと持ち
上げた。
﹁これは何を模しているのかな? ネタイ?﹂
﹁陛下﹂
突然横から声をかけられて、雫は袋を中庭に落下させそうになっ
たが、当の相手は彼女の作ったおもちゃをまじまじと眺めている。
雫は姿勢を正すと臣下の礼を取った。
﹁赤子でも握れるように玩具を⋮⋮。目がついていた方が可愛いか
と思ったのですが﹂
﹁面白い﹂
ベエルハースは穏やかに笑うとそれを返した。
彼は雫と並んで欄干によりかかると、いつものようにオルティア
について聞き始める。
起こったことをありのままには話せないので、そのほとんどは他
愛のない話であったが、彼女は受け答えをしながらふとオルティア
887
について知るいい機会ではないかと思い当たった。話の区切りを窺
うと﹁恐れながら﹂と王に問う。
﹁あの、姫様はかつてはどういうお方だったんでしょう﹂
﹁ふむ? 面白いことを聞くね﹂
﹁差し出がましいことを申し上げ⋮⋮﹂
﹁構わないよ﹂
ベエルハースとオルティアは母親が違う。ベエルハースを産んだ
王妃はその後十二年程で病死し、代わりにオルティアの母親が王妃
として迎えられたのだ。
オルティアが産まれた時ベエルハースは既に十六歳。それくらい
年の差があるならば、彼女の子供時代もよく覚えているだろう。
王は少し考えるとふっと表情を和らげる。温かい瞳に追憶が流れ
た。
﹁可愛らしい子だったよ。利発で、自信家で、少し我儘で⋮⋮﹂
それは雫の想像するオルティアの子供時代と同じものだ。彼女は
王の言葉に任せて頷く。
﹁気位が高いせいか素直になれないところがあった。でも根は優し
くて、癇癪を起こした後はよく気まずそうに謝ってきた﹂
オルティアが﹁そう﹂なのは血を分けた兄が相手だからなのだろ
うか。雫はレウティシアだけには甘いラルスのことを思い出す。
だが、彼女が記憶を掘り起こすような目をしたのを、ベエルハー
昔ある国
スは話を怪訝に感じた為だと思ったらしい。軽く肩を竦めると息を
ついた。
﹁そうだね⋮⋮ちょっと御伽噺をしようか﹂
﹁御伽噺?﹂
﹁ああ。架空の話だ。そう思って聞くといい。︱︱︱︱
に幼い王女がいた。彼女は何不自由なく生まれ育った姫でね、容姿
にも恵まれ頭のよい子で皆から愛されていた﹂
これは何の話なのだろう。雫は軽い緊張を覚える自分に気づくと、
888
両手の指を組み合わせた。じっとベエルハースを見上げる。
﹁彼女は幸福だった。守られて過ごし、ままならないことなど何も
知らなかった。けれどある時、彼女に転機が訪れる。彼女の国のあ
る地方には、数十年前に他国から逃げ出してきた人々が集まる街が
あるのだけれどね。それをよく思わない人間たちの中でも、手段を
選ばない一派が彼女を攫って、返して欲しければその街を焼くよう
城に要求したんだ﹂
雫はつい声をあげそうになって慌てて口を押さえた。王を見やる
と彼は悲しそうな目で微笑む。
その街のことならば知っていると、言っていいのかどうか分から
ない。第一これは、架空の話なのだ。雫は聞きたいことを嚥下して
しまうと、代わりに続きを問うた。
﹁それで⋮⋮どうなったんですか?﹂
﹁ああ。要求を出された王とその妃は迷わなかった。二人は﹃王族
ならばいつでも民の犠牲になる覚悟はある﹄と言って、娘の命がか
かった要求を拒絶したのだよ。その後一派は軍に強襲され、王女は
幸運にも無事救出されたが⋮⋮彼女は両親の返答を攫った人間たち
から聞いたらしい。それ以来性格も変わって、親たちと口をきかな
くなった。憐れなことだ﹂
無音の雷に打たれるような衝撃が雫の中を走り抜ける。
これが誰の話なのか、ベエルハースは勿論知っている。そして、
もしかしたら雫も。
幼くして王族としての死を望まれた姫は、親の意思を裏切りとと
っただろうか。それとも自らの生まれを疎んだだろうか。
答はきっと、手の届くところにある。﹁彼女﹂の足跡はそこかし
こに残っているのだ。
雫は感情の詰まった目を伏せる。脳裏に子供の影を引き摺ったま
889
まの主君の横顔が思い浮かんだ。
﹁お話は、それでおしまいですか?﹂
﹁終わりだよ。ああ、そう言えば君はオルティアについて聞いてい
たのだったね﹂
王の横顔は異母妹にはあまり似ていない。子供の欠損はそこには
ない。
ベエルハースは目を閉じて微笑する。
﹁うん。あの子は優しい子だった。だけど父上とお妃のことは嫌っ
ているようでね。私も繰り返し言ったがついに歩み寄ることはなか
った。そして両親が亡くなってからは、オルティアはますます歯止
めがきかなくなったんだ。あの子はよく言っていたよ。﹃王族が多
くの民の為に犠牲となるのが当然ならば、少数の民が王族の意図の
為に犠牲になることもあるだろう﹄と﹂
﹁私は⋮⋮王族と民はお互い寄生しあっているのだと、伺ったこと
があります﹂
﹁あの子にとってはそうなのだろうね。それも国の一つの側面だ。
その時は皆も黙ってはいないだろう﹂
ただ何事にも限度がある。あの子が気まぐれにもたらす害が益を上
回ることがあれば︱︱︱︱
あまりにも落ち着いた声は、けれど雫には焦燥をもたらした。
ベエルハースはもしかして、今まさに起きつつある変化について
釘を刺しているのではないか。
﹁御伽噺﹂がオルティアの話でもあるのなら、彼女はロスタを憎ん
でいるのかもしれない。或いは城や国自体までも。けれど、だから
と言ってそれらを踏みつけようとするならば、その行いは彼女に相
応の報いを求めるだろう。
ならばこれから、どうすればいいのか。
主君を見捨てるのか、運命を共にするのか。
逆らうのか、従うのか、変えられるのか。
いつのまにか選択が再びすぐそこにまで来ている。
このドアを開けたなら次は何処へ繋がっているのだろう。
890
黙り込んだ雫に王は微苦笑してみせる。それは降り続ける雨に似
合う寂しげな表情だった。表皮を捲れば取り戻せない年月がこめら
れている。
﹁前にも言ったが、出来れば君はオルティアの傍にいてやってほし
い。周りがどう言おうともあの子は私の大事な妹だ。年の近い友人
がいてくれたならと、ずっと思っていたのだからね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
体の中が妙に重いのは、きっと精神が疲れているせいだ。
そう思いながら雫は去っていく王を見送る。
出来ることなど些細なことでしかないだろう。その些細ささえ意
味があるのか分からない。
けれどもし今、この国に一人でなかったのなら︱︱︱︱
雫は押し込めていた心細さに湿り気を帯びた体を抱く。
呼びたい名前を、しかし喉の奥で飲み込んで、そうして彼女は雨
に濡れる城を見上げたのだった。
※ ※ ※
月光をぼやけさせる薄雲が絶えず空を流れ続けていく夜更け。森
沿いに伸びる街道の上を小さな荷馬車が走っていく。
荷馬車が目指す先にあるものは国境。そこまで行けば縁者が迎え
に来てくれることになっていた。御者台に座る男は無言で手綱を取
る。
彼が生まれたのは三十八年前、カリパラの街が作られてから二十
891
年程経った頃であり、その街の小さな商家の息子として誕生した。
かつての祖国を離れ異国の土地に店を構える祖父母の姿を、彼が
不思議に思ったのは物心ついてすぐの頃である。昔話として祖父た
ちを襲った戦争について聞いた少年は、話が終わると﹁平和が取り
戻された後も何故祖国に戻らないのか﹂と、素朴な疑問を口にした。
返ってきた答もまた素朴なもの。
﹁ファルサスが怖いから﹂と弱弱しい微笑を浮かべた
戦時においてもっとも苛烈な被害を受けた街から逃げ延びた祖父
は︱︱︱︱
のだ。
そのファルサスに孫である自分が逃げ込もうというのだから、つ
くづく運命とは皮肉なものであると彼は思う。男は荷台にいる妻と
倉庫から何とか持ち出してきた積荷の数々を振り返った。
これだけあれば土地を移ってもまた商売を始められる。国境を越
えさえすれば、また日常を取り戻せるのだ。最初の頃は店々が燃や
され武器を持った男たちが暴れまわった暴動だが、最近はその傾向
も大分変わりつつある。放火や殺人などが減った代わりに、街から
は人や物がどんどん消えていくのだ。
勿論カリパラの街を見限って逃げ出していく人間もいるのだろう。
だがそれだけではないこともまた確かだ。
このまま居残っていてはいつか自分たちがそうなるかもしれない
⋮⋮。
消せない懸念を抱いた男は決心すると夜陰に乗じて街を出た。幸
い追ってくる者は誰もいない。男は酒瓶を取り出すと、緊張と喉の
渇きを潤す。
今夜は空が暗い。
何もかもが影の中に没し、息を潜めている気がする。
このまま国境を越えたら少し馬を休憩させてやろう。そう思って
男は手綱を引き締めた。だが息をつきかけた彼の耳にその時、新た
892
な馬蹄の音が聞こえる。
﹁馬車を止めろ!﹂という怒声が後方から飛んできて、男は首を竦
めた。後ろを窺い見るとそこには五つの騎影が猛然と追いすがって
くる。
街道の先を目
およそ平和的な用件ではありえないだろう。男はひしひしと背に
突き刺さる殺気に意を決すると手綱をしならせた。
指して馬車の速度を上げる。
国境の門まで行けば、そこにはファルサスの兵が駐留している。
街道上に存在する境門は近くの砦から直接兵が送られており、最近
の亡命の多さに配備される人数も増えているとは聞いていた。
六十年前祖父母が逃げ出してきた土地を目指して、男は限界まで
速度を上げる。
しかし、追走劇は長くは続かなかった。荷を引いた馬が速さで普
通の馬に敵うわけがない。
遠くに門の影が見えたところで、馬車の両脇には馬を駆る二人の
男が現れ、束の間彼らは並走することとなった。野卑た顔立ちの一
ここまでか。
人が、御者台の男に向かって剣を振り上げる。
︱︱︱︱
そう思いながらも護身用の短剣に手をかけた男は、だが自分に向
かって切りつけようとした人間が声も無く落馬したのを見て唖然と
した。次いで反対側の一人ももんどりうって地面に叩きつけられる。
何が起きているのか分からない男は、けれど馬車を止める愚は犯
さなかった。そのまま境門に向けて馬を酷使し疾走させる。
﹁相変わらずいい腕ですね。アズリア殿﹂
﹁そうでもない。危うく馬に当たりそうだった。馬は悪くないのに﹂
境門の上に座っていた女は呆れる魔法士に﹁まったく馬は可愛い
よ﹂と言いながら夜視用の魔法具をはずした。愛弓を手に塀から飛
び降りる。長い金髪が僅かな月光を受けて揺らめいた。きつめの顔
893
立ちは今年三十二歳になる彼女を青年のようにも見せている。
彼女は近くに控える部下に死体と馬を回収するよう命じると、境
門に一部屋だけある会議室へと戻った。そこには砦との連絡を司る
魔法士と文官が待機している。
﹁準備はどうなっている?﹂
﹁ほぼ完了しております。陣の配備も出来、夜明けと同時には動け
るかと﹂
﹁そうか。レウティシア様は?﹂
﹁城に戻られました。代わりに陛下が指揮を取られるそうで﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮まじで?﹂
古くはラルスの護衛であった女の呆然とした言葉に、文官は溜息
をつきたそうな顔で頷く。
これで勝利はほぼ確定された。が、心労も確約された気がする。
アズリアは色々なことを言いかけてけれど結局かぶりを振ると、
﹁寝れるうちに寝とく﹂と言ってその場を後にしたのだった。
※ ※ ※
風が変わった。
そう感じたのは開いた窓から冷たいものが吹き込んできた時だ。
机の明かりで本を読んでいた雫は部屋着の上に一枚羽織り直す。
ここ数日続いていた雨はいつの間にか止んでいた。空には薄雲に
覆われた月が窺える。
彼女は冷えてきた体に気づくと窓を閉め、空のポットを手に取っ
た。眠る前にお茶をもう一杯飲もうと思ったのだ。
部屋から給湯室へはそう遠くない。キスクの給湯はファルサスと
894
違い、常にお湯が用意されているのではなく自分で沸かさなければ
ならないものであったが、沸かすための板自体は魔法具でありさほ
また、
ど時間はかからない。雫はそれくらいの間ならいいだろうと着替え
ぬまま部屋を出た。
角を二度曲がり給湯室の扉に手をかける、その時︱︱︱︱
風が吹いた。
冷たい空気に少しだけ混じる﹁何か﹂。とても覚えのあるそれに
彼女は眉を寄せる。
息を止めてあたりの様子を窺うと、何処からか物の倒れる音がし
た。あまり大きな音ではない、布袋を落としたような物音に雫は不
審を覚える。
﹁何だろ。おばけ⋮⋮はいないんだった﹂
このままお湯を沸かして部屋に戻った方がいいのかもしれない。
しかしそれをしては、いつまでも気になってしまいそうで彼女は
躊躇った。結局、専用の鍋に水を注いで魔法板にかけると音のした
方を見に行く。
雫の疑問は角を曲がってすぐに解消された。
長い廊下の途中、誰かが壁によりかかるようにして座り込んでい
たのだ。体格からいって見回りの兵士であろう。彼女は駆け寄って
男の顔を覗き込んだ。
﹁あの、大丈夫です⋮⋮か⋮⋮﹂
問うている途中で、意味のない質問だと分かった。雫は口を開い
たまま凍りつく。
床に座り込んでいる兵士の胸からは棒のようなものが生えていた。
まるで唐突で不自然な柄。それは肉に突き刺された刃に続いている。
よく知っている匂いが濃くなった。疑いようもない血臭。兵士の
胸元が徐々に黒く染まっていく。
﹁⋮⋮⋮⋮死んでる?﹂
895
己の発言に戦慄すると、雫は死体から飛び退いた。そのままバラ
ンスを崩して尻餅をつく。
けれど後から思えばそれでよかったのだ。転んだ雫の頭上を、一
本のナイフが音も無く横切っていったのだから。
﹁ちょっ⋮⋮!﹂
避けたナイフが床に落ちるより早く、彼女は自分が危地にあるこ
とを悟った。まったくもって戦闘能力がない雫だが、危ない場面に
は今まで何度も遭遇しているのだ。
空気がおかしい。死体がある。それだけで彼女は大体を察すると
跳ね起きた。姿の見えない誰かから身を隠すように柱の陰に逃げ込
む。
どうやってこの場を切り抜ければいいのか。手には何も持ってい
ない上に服装はただの部屋着だ。雫は血の気が急速に下がっていく
のを自覚して息を殺す。
相手が立ち去ってくれればいいが、近くまで来られたらお手上げ
だ。
彼女は廊下の反対側の角までの距離を目測して、自分の膝を軽く
叩いた。走り出すタイミングを見計らう。
だがその機を得るより早く、何の前触れもなしに暗闇から剣の切
っ先が突き出された。
それはぎょっとした雫の顔の横をかすめ、後ろの壁に触れる直前
で止まる。
﹁聞きたいことがあるんだけれど﹂
涼やかな声。明らかな脅しとして配された刃に彼女は硬直した。
恐る恐る目線を上げ、相手の姿を確認する。相手も雫の顔が分かっ
たのだろう。二人はお互いを見て、気の抜けた声を上げた。
﹁え﹂
﹁あれ﹂
896
仮面のようにすっきりとした顔立ちの少年。会ったのは一度だけ
のことだが、忘れられるはずもない。彼の存在は禁呪が迫るカンデ
ラ城の中、複数の死体と不理解を伴って雫の記憶に焼き付けられた
のだから。
﹁あなたは⋮⋮﹂
﹁君、ターキスの依頼人だっけ? こんなところで何してるの?﹂
少年は剣を動かさぬまま硝子のような目で彼女を凝視する。
お互い名前も知らない二人はこうして、初めて出会った時とは別
の国の城で顔をあわせることになったのだ。
少年は雫が城内にいることに怪訝そうな目をしたが、それを知っ
ても仕方ないと思ったらしい。すぐに本題を切り出してきた。背後
を一瞥して他に人がいないことを確認すると口を開く。
﹁あのね、王のいる建物を教えて欲しい。思ったより複雑な城で困
ってるんだ﹂
﹁王のって⋮⋮何で﹂
﹁仕事だから。何処か知ってる?﹂
雫は答を飲み込んで彼を見返した。ベエルハースのいる建物はこ
こより三棟北西だが、そんなことを正直に言えるはずがない。見張
りの兵士を殺して侵入しているところからして物騒な仕事なのだろ
う。雫は顔のすぐ横に留められたままの刃が血に濡れていることを
確認した。
改めて目の前の少年を見上げる。
﹁し、知らない﹂
﹁嘘。隠してもいいことないよ﹂
彼はすっと目を細める。それはまるで雫の嘘を見透かすかのよう
な冷たい視線だった。彼女は恐怖を感じると共に慌てて話題を逸ら
す。
﹁あの、仕事って何するの?﹂
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﹁秘密。君が教えてくれるなら教えてもいいけど?﹂
﹁また禁呪⋮⋮とか?﹂
﹁違うね﹂
彼がここに侵入してきているということはターキスも何処かにい
るのだろうか。
雫は助けを求めて辺りを見回したい衝動に駆られたが、余計な動
きをしては斬られそうで出来なかった。髪に触れる剣を意識して浅
く息を吸う。
﹁陛下のとこ、警備厳しいよ。近づいたら捕まると思う﹂
﹁知ってるけど仕事請けちゃったし。それより何処だか知ってるん
でしょ? 教えてよ﹂
﹁いやちょっと⋮⋮﹂
煮え切らない否定に彼は少し気分を害したようだった。片眉を顰
め剣を持つ手首を返す。
﹁教えてくれるなら殺さないでいてあげるけど。ターキスの依頼人
だった人間殺したら睨まれそうだし﹂
﹁⋮⋮危ないよ。行かない方がいい﹂
﹁そういうことを聞いてるんじゃないって。面倒だなぁ﹂
少年は剣を持った手を動かした。雫は反射的にぎゅっと両目を瞑
る。
だがそれは、単に手が疲れたから下ろしただけのことだったらし
い。剣は彼女を傷つけることなく顔の傍からどけられた。少年は反
対側の手でうっとうしげに髪をあげる。
﹁ここでぐだぐだ話してる時間はないんだよね。そうだな⋮⋮君っ
て甘い人間だったよね。ならこう言えばいいのかな? ︱︱︱︱
王を生かしておけば国が蝕まれるんだって。今のうちに手を打たな
いと大変なことになるって⋮⋮分かる?﹂
﹁え?﹂
まるでオルティアに向けられたような、けれど確かに﹁王﹂と言
われた言葉に、雫は目を丸くする。少年は苛立たしげに彼女を見や
898
った。
夜の廊下は風と共に徐々に血の臭いが流れていく。
対する陣営に属する人間たちとして二人が陥ったのは、ただ不理
解を目前にした沈黙だった。
明かりも届かない暗い廊下の隅で二人は顔を見合わせる。
事態を飲み込みきれないでいるのは雫の方で、短い沈黙を破った
のも彼女の疑問であった。
﹁王を⋮⋮生かしておけば?﹂
﹁そう聞こえなかった? 耳が悪いのか頭が悪いのか﹂
﹁ひ⋮⋮﹂
姫じゃなくて? と言いかけて雫は咄嗟に口を噤んだ。不審の目
カイト・ディシスという名を持つ彼は、雫が理解
を向ける少年に首を横に振る。
少年︱︱︱︱
していないと察すると舌打ちした。手元の剣を苛立ちのまま何度か
返す。
﹁王が生きているとよくないんだってさ。だから排除しろってのが
僕の仕事。他に誰もやらないっていうし試しに請けてみた﹂
﹁だって、陛下何もしてないよ!?﹂
﹁大声出さない。殺すよ﹂
間髪置かない注意に彼女は唇を噛む。
だが、理解出来ないものは出来ないのだ。何故ベエルハースに暗
殺の手が向くのか分からない。事態を混迷させているのはオルティ
アであり、どちらかと言えば排除されるのは彼女の方だ。雫自身が
オルティアを排除したいかと言ったら即答できないが、客観的に見
て王族の兄妹のどちらに責があるかは明らかだった。
それとも、そうであっても許されざるは、国の頂点に立つ王の方
なのだろうか。
899
困惑する雫は、鼻の先に短剣を突き出されて絶句した。
﹁時間がないって言わなかったっけ? さっさと教えて﹂
﹁いやだって、教えたら暗殺に行くんでしょ?﹂
﹁そういう仕事だから。君は前にさ、多数の為に少数を犠牲にする
かどうかなんて、仮定で論じてもしょうがないって言ってたけど、
今はどうなの? 仮定じゃないよ。王を生かしておけば国が傾いて
沢山人が死ぬって言うんだから﹂
﹁や、待って、本当にそうなのか分からないよ。言いがかりかも⋮
⋮﹂
畳み掛けられて雫は顔の前で手を振る。ぐちゃぐちゃになりかけ
た思考を整理しなければ何にも答えられないのだ。
だが目の前の少年は悩むこと自体が無意味だとでも言うように呆
れた顔をした。
﹁君さ、念のために言っとくけどこんなことに絶対的な善悪なんて
ないよ。損得と敵対関係があるだけだ。でも君が馬鹿だから、分か
りやすいように犠牲者数で話をしてる。ロスタにはまもなくファル
サスが侵攻するんだ﹂
﹁あ⋮⋮﹂
ついに、そこまで来てしまったのだ。
外界の情報から隔絶された彼女は、理解と同時にその場に立ち尽
くす。
キスクとファルサス、大国同士の戦力差がどうなっているのかは
分からない。だが、オルティアはもともとロスタを犠牲にするつも
りで事態を動かしたのだ。
ファルサスの侵攻を知って姫が満足するのか、そしてロスタから
始まる戦の続きがどうなるのか、雫は想像の及ばぬ範囲を思ってぞ
っとした。滑り出る声が自然と震える。
﹁陛下が亡くなったら⋮⋮それで意味があるの?﹂
﹁城が一時的に混乱する。その間に支配が弱まればロスタ自体がフ
900
ァルサスに降伏を申し出る。カリパラだっけ? 国境の街は向こう
に取られるかもしれないけど、もともとあそこはロスタであってロ
スタでないから構わないんじゃないの?﹂
それが、混迷を最小限で抑える決着なのだと、少年の向こうにい
る依頼人は告げてくる。
城はロスタを顧みない。ならばその城を突き放してロスタを守ろ
うと、誰かが考えているのだ。
雫は深く息を吐き出した。誰に向けるともつかない、落胆に似た
悲しみが肺の中に淀む。
﹁依頼人は、ティゴールさん?﹂
ベエルハースが﹁私から言っておく﹂とティゴールの件を請合っ
て以来、彼の姿は城内から消えた。有能な領主であった彼は、その
後己の民を守る為に王に背くことを選んだのではないか。
それは単なる思いつきではあったが、他に可能性のある人間を雫
は思いつかなかった。カイトは眉を顰める。
﹁そこまでは言えない。言ってもいいけど知らない。僕のところに
来たのは使いの人間だから﹂
﹁やめようよ﹂
﹁ん?﹂
﹁やめなよ。こういう手段で大局を何とかしようってのよくないよ。
ちょっと待ってて。私が掛け合ってくるから⋮⋮﹂
ファルサスへと向う長い旅の途中で、エリクから﹁暗黒時代﹂の
話を聞いたことがある。
かつてこの大陸全土を何百年もに渡って覆っていた戦乱と裏切り。
。
暗殺はその時代において事態を混迷させる卑劣な一手であったとい
う︱︱︱︱
今はもう遠い時代だ。なのに何故今、それを呼び起こそうとする
のか。
雫は顔を両手で覆ってしまいたい気持ちに駆られる。
901
結局、個々人が抱くままならなさとは何とも溶け合うことがなく、
こうしてただ伝染していくのみなのだ。
雫は視線を動かす。給湯室へは傍の角を曲がればすぐだ。今頃放
っておいたお湯が煮えたぎっていることだろう。それくらいしか反
撃の手段は思いつかない。可能性としては低いが、他に賭けるもの
は何もないのだ。
カイトの透き通る目には何もない。人を殺すことへの抵抗感が何
も。
だから彼はやはり、雫を殺すつもりでいるのだろう。そのつもり
で教えてくれた。本来は話さないであろう色々なことを。
少年は雫の鼻先に突きつけた短剣を見ない。ただ彼女だけを見て
いる。物を見るように、そこに何もいないかのように。
﹁君に何が出来るの? 掛け合って駄目だった時、僕の代わりに王
を殺せるの?﹂
﹁私は殺さない。でも⋮⋮﹂
﹁君の言うようなことはみんな無意味だ。何も変えられっこない﹂
﹁でも、あなたは人を殺すことを愉しむ﹂
突き放す強さもない声は、二人の間にある剣の刃を滑っていった。
カイトは零れ落ちたそれを鼻で笑う。
﹁だから? 肝要なのは何が為されたかだ。悩みながら殺したら許
されるって? その方が腹立たない? 僕は面白いから人を殺す。
それが金になるから仕事も請ける。仕事の出来についてとやかく言
われるならともかく、嗜好で文句を言われる筋合いはないね﹂
﹁文句は言ってないよ。協力したくないってだけ﹂
これは変えられない彼女の
文句を言われたくないのは、雫も同じだ。
人の死を愉しむことが嫌い︱︱︱︱
感情だ。
オルティアであってもこの少年であっても、大義があろうが結果
902
がどうあろうが、その愉悦に賛同する気は微塵もない。
他者の死に淫する者は容易く他者を犠牲にする。
事の善悪を論じたいわけではなく、雫は単にそれが嫌いなのだ。
人の可能性を見もせずに切り捨てるような拒絶が。
カイトは短剣をそのまま突き出しはしなかった。少し引いて︱︱
だがそれは前触れでしかないだろう︱︱雫を狙う。
﹁協力したくないから、馬鹿正直にそのまま言うって? 君は本当
に馬鹿だね。見てて苛々する。本当に滑稽だよ。自分の命を軽んじ
る人間が﹃殺すな﹄って、矛盾してない?﹂
雫は冷ややかな指摘を最後まで聞かなかった。腰を落とし、剣の
切っ先から逃れる。直後、床を蹴って走り出した。背後でまた舌打
ちが聞こえる。
背中に剣を投擲されたら避けられない。
すぐそこにある角が遠く感じられた。だがその時、残されたまま
の死体の方から誰何の声があがる。
﹁誰だ! 何があった!﹂
見回りの兵士の声。雫が首だけで振り返ると、カイトは柱の影か
ら、新たに現れた男に向かって短剣を投げようとしていた。
﹁危ない!﹂
雫の声に兵士は咄嗟にしゃがみ込む。その上をまた短剣が通り過
ぎていった。新たにナイフを抜くカイトに、彼女は肩から体当たり
する。
少年は一歩よろめいたが、手を伸ばして雫の髪を掴むと彼女が悲
鳴を上げるほど強く下に引いた。むき出しになった喉にナイフがあ
てられる。
﹁まったく⋮⋮﹂
その時カイトの目には怒りさえ見られた。それは彼が雫に見せた
初めての強い感情だったろう。殺意よりも敵意に近い空気が彼女の
903
肌に刺さる。
﹁僕は君が嫌いだよ﹂
その断言に答える言葉を雫は持たない。ただ死を覚悟して目を瞑
った。
今までに何度もこんなことがあったのだ。
意志を曲げるか、命を明け渡すかの選択が。
そしていつも後者を選んできた気がする。ある時は怒りの為に、
ある時は悲しみの為に、彼女は精神にこそ優位を与えてきた。
﹃自分の命を軽んじる人間が、殺すなと?﹄
少年が突き刺した冷たい言葉が耳の奥で反響する。
自分の死には何かの意味があるのかと、そんなことをふと考
雫は終わりを待つまでの一瞬、短い自分の人生を振り返って︱︱
︱︱
えた。
痛いのは嫌だ。
だが恐怖に強張りながらもそれを待つ彼女は、痛みではない別の
力を加えられ転びそうになった。目を開けると少年が彼女の腕を半
ば持ち上げている。彼はそのまま廊下の奥へと雫を引き摺っていく
ところであった。
背後側からは複数の人間たちの声が響いてきており、それは徐々
に二人の方へと近づいてきている。先程の兵士が人を呼んだのだろ
う。
カイトは焦りを浮かべた表情になると彼女を引いて角を曲がった。
だが連絡が行き渡ったのか、その先からも人の声が聞こえてくる。
﹁くそ⋮⋮っ﹂
前後を挟まれる形になった少年は迷わず近くにあった扉を開けた。
普段は倉庫となっている小さな部屋は中に窓が一つあるのみである。
人質にでもするつもりなのか、カイトは苦い顔で雫の腕を引こう
904
とした。
けれどその時、雫は少年の手の中からするりと脱け出た。掴む力
が緩んだ隙に、上着を脱ぎ捨て拘束をすり抜けたのだ。
予想外の抵抗に一瞬呆気に取られたらしい彼は、だが素早く距離
を取る彼女を見ると冷笑を浮かべる。
後で悔いるとい
﹁まったく散々だよ。さっさと君を殺しておけばよかった﹂
﹁⋮⋮逃げた方がいいよ﹂
﹁言われなくても。時間を使いすぎた。︱︱︱︱
いよ﹂
カイトは鳥のように身を翻して部屋に飛び込むと、窓を押し開け
外に飛び出した。たちまち闇の中に見えなくなるその姿を雫は呆然
と見送る。
駆け寄ってくる兵士たちの気配に彼女はようやく安堵を覚えると、
そのまま床にへたりこんだ。しかし息をつく間もなく、今度は兵士
の一人に腕を押さえられる。
﹁どうした! 何があった!﹂
﹁え、あ、侵入者が⋮⋮﹂
﹁どっちへ行った!﹂
雫は殺気立つ兵士たちを見回すと、開いたままのドアを指差した。
途端に彼らは小さな部屋に殺到していく。
その光景はまるで遥か遠くの出来事のようだった。昂ぶった神経
が元に戻らない彼女は床に座ったままぼんやりと頭を振る。拾って
くれた上着を手に険しい表情の兵士が声をかけてきた。
﹁賊の顔は見たか? どのような奴だった?﹂
答えなければいけない問い。
だがその時、雫は何故か言葉に詰まってしまった。名前を知らな
い少年とのやり取りが甦る。
何を重んじて、何を軽んじるのか。
何故止めるのか、庇うのか、否定するのか。
905
彼女は大きな目を瞠って兵士を見上げる。
夜の暗がりに潜む猫
のような双眸に答を見出そうと男は顔を近づけた。
迷うはずもない瞬間。けれど彼女の思考はそこで断絶する。
雫は血の気をなくした顔で目を伏せると、掠れた声で﹁分かりま
せん⋮⋮﹂と答えたのだった。
906
004
広い部屋は薄ら寒かった。
雫は夜着のままの体を震わせたが、あからさまに寒がるようなこ
とは出来ない。石床についた両膝からしんしんと冷えが染み渡って
風邪を引きそうな気がしたが、彼女は出来るだけ表情に出さないよ
うそれを堪えた。紗幕の向こうにいるであろう主君に向って頭を垂
れる。
﹁侵入者は七人を殺害している。にもかかわらず君だけは無事だ。
これはどういうことなのかな﹂
﹁賊は⋮⋮陛下の部屋を聞いてきました。それに分からないと答え
ただけです﹂
﹁ふむ? そして顔も分からないと﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ベエルハースの声は重い。雫は眠気と寒気が混じりあって傾きそ
うになる体を何とか保った。
侵入し逃げ出した少年。かつて一度会っただけの彼について雫は
証言を濁してしまった。
何故なのかは自分でもよく分からない。後から思えばターキスや
リディアに迷惑がかかるからと思ったのかもしれないが断言は出来
なかった。
だが、そんな雫の様子を兵士たちは不審に思ったらしい。彼女こ
そが賊を手引きしたのではないかと疑う者が出て、雫はそのまま王
の部屋へと引き立てられたのだ。
907
寝所にいるままのベエルハースは、臣下たちからの報告を一通り
聞いてしまうと雫からも話を聞く。しかしそれに答える彼女の声は
いつになく不明瞭なものだった。様子のおかしい女に王は溜息をつ
く。
﹁雫、君はお湯を沸かしてから怪しい物音を聞いて見に行ったと言
ったね﹂
﹁はい﹂
﹁その後見回りの兵士が君を見かけて確保するまでの時間、これは
ちょっと長すぎないかな? お湯は大分減っていたというよ。私の
部屋を聞かれてそれに答えるだけで、そこまでの時間がかかるかな﹂
﹁何度も聞かれましたから⋮⋮。それに、そんなに長くは話してい
ません﹂
事実あの少年と会話を交わしていたのはせいぜい五分程だろう。
誘導尋問をされているのかもしれない。雫はぼやけがちな意識を引
き締めた。
王の質問は少しの沈黙を置いて続けられる。
﹁賊は他に何を言っていた?﹂
﹁何も。王の部屋は何処だとだけです﹂
﹁嘘をついていないかい? 雫。出来れば君に強引な聞き方をする
ことはしたくないんだが﹂
優しく、だが諭すようなベエルハースの声に雫は眉を曇らせた。
何処まで話せばいいのだろう。話していいかも分からない。この
暗殺未遂はティゴールの手によるものなのかもしれないなどという
ことを。
少年は依頼人の名を知らないと言ったが、王を暗殺しようとする
目的を伝えれば、ティゴールが疑われる可能性は高いのだ。本当か
どうかも分からないそれを、果たしてベエルハースに伝えてもいい
のだろうか。
雫はもう何度目かも分からない迷いを抱き⋮⋮けれど不意にある
908
ことを思い出した。王を殺すという少年に、彼女は﹁自分が掛け合
それを実行するチャンスではないのだろう
うから﹂と言ったのだ。
ならば今は︱︱︱︱
か。
雫は意を決すると顔を上げた。ベエルハースの姿を隠す紗幕を真
っ直ぐに見つめる。
﹁陛下。そう言えば賊は、ファルサスがまもなくロスタに侵攻する
と言っておりました﹂
﹁ファルサスが?﹂
﹁はい﹂
同席する臣下たちにざわめきが広がっていく。雫はその反応にほ
っと胸を撫で下ろした。
これを聞いてベエルハースが何らかの手を打ってくれるのなら、
それで全てが収まるかもしれないのだ。ロスタが城によって救われ
るのなら王を暗殺する必要はなくなる。後の問題はオルティアだけ
だが、そちらは駄目元でも自分が何とかしてみようと思っていた。
雫は王の次の言葉を期待して紗幕を凝視する。
だが、ややあってベエルハースが口にしたのは人払いの命だった。
雫と、二人の側近らしき男だけが部屋の中に残される。その内の一
人、魔法士らしき壮年の男は先程から夜着一枚の彼女に粘着質な視
線を絡めていた。何ともいえない気分の悪さに、雫はその男と目を
合わせることを嫌って前だけを見つめる。
何故人払いの後、自分が残されるのか。
彼女は理由を予想しながらもそうでなければいいと願った。紗幕
が引かれ、寝台の奥に座るベエルハースの姿が顕になる。
暗殺を手配したのはティゴールか?﹂
﹁さて雫。これで話しやすくなったかな? 今度こそ素直に話して
欲しい。︱︱︱︱
核心を突く言葉に雫は戦慄した。喉の奥で息を飲み込む。
動転する彼女を前に王は、いつかと同じく穏やかさの奥に威圧を
909
こめた微笑を浮かべていた。
﹁雫﹂
﹁は、はい!﹂
問われた内容に思わず自失してしまった雫は、重ねて名前を呼ば
れ飛び上がった。
ベエルハースはそんな彼女を表情だけは優しく眺める。
﹁私を裏切らないで欲しい。正直に言ってくれればいいのだよ。君
はティゴールに頼まれて賊を中に引き入れたのか?﹂
﹁ちが⋮⋮っ、違います! 本当にたまたま出くわしただけで⋮⋮﹂
﹁なら何故ロスタの話を? 脈絡がなさすぎるだろう。君は城内で
ティゴールとも顔をあわせている。その縁でよく知らずに怪しい人
間を入れてしまったのではないか?﹂
不味い流れだ。雫は王以外の男二人から突き刺さる視線に背筋を
冷やす。
このままでは彼女のものではない罪まで負わされかねない。彼女
は苦渋を浮かべると短い間に判断を下した。ベエルハースを信じて
可能な限り、聞いたことをありのまま話すという判断を。
﹁私が賊を引き入れたのでは誓ってありません。ただ、他にもいく
何を言っていたのか
つかのことを聞いたことは確かです。真偽の分からぬことで領主の
方に疑惑をかけていいものか迷い⋮⋮﹂
﹁いいよ。君は優しい子だからね。︱︱︱︱
教えておくれ﹂
雫は頷くと内容を選んで話し始める。
賊が王の暗殺を目的に侵入してきたこと。暗殺の理由は王が国に
よくない影響を与えるからだということ。
他にはファルサスがロスタに侵攻する予定だということ。王が死
ねばその混乱の間にロスタはファルサスに降伏するということ。
910
それらのことを彼女は要点を押さえて王に説明した。相手が既知
の人間であったことは伏せたが、これは伏せても問題ないところだ
ろう。
全てを聞き終わるとベエルハースは納得したのか大きく頷く。
﹁なるほど。怖い目にあわせてしまったね﹂
﹁滅相もございません。陛下﹂
﹁構わないから今日はもう下がってゆっくり休みなさい﹂
温情ある言葉に雫は深々と頭を下げた。冷え切った膝を伸ばして
立ち上がる。
犯人がティゴールかそうでないかは分からない。だがこれで、事
態はよい方へと動くのではないか。
雫は王の対処に一縷の望みをかけて踵を返した。退出しようと扉
へ向う彼女の耳に、けれど魔法士の男の潜めた声が届く。
﹁陛下、このようなことになるならば、予定よりは早いですがオル
ティア様をファルサスに⋮⋮﹂
﹁ジレド﹂
発言を遮る声。だが、その時雫は既に足を止めていた。ゆっくり
と王を振り返る。
﹁⋮⋮陛下?﹂
オルティアを、妹をどうするつもりなのか。雫は疑惑になりきれ
ない疑問を抱いてベエルハースを見やる。
ふとその時﹁王によって国が蝕まれる﹂という少年
普段と同じように微笑む王。しかしその瞳の奥に﹁何か﹂を見た
雫は︱︱︱︱
の言葉を思い出したのだ。
思えば、あの少年が言っていたように﹁王の死によって城に混乱
を及ぼす﹂ことが主目的なら、何故﹁王が生きていると国が傾く﹂
などとも主張したのだろう。
それは普通なら、オルティアに対して言われる言葉だ。もし犯人
911
がティゴールであるのなら尚更、彼は当初オルティアにこそ面会を
求めていたのだから。
だが、ティゴールはおそらくベエルハースと対面して、その後に
﹁王が国を傾ける﹂と判断した。ロスタを犠牲にする姫ではなく、
その兄を。
これは何を意味しているのか。雫は理解する未来をすぐ先のこと
と予感しながら王を見つめる。
﹁陛下、姫をどうされるのです﹂
﹁どうとは? どうかしたのかい、雫﹂
﹁今、そちらの方が仰っていましたよね。姫をファルサスにどうこ
うする予定だったと﹂
ベエルハースは笑顔だ。
けれどそれは今、貼り付けたような表情にも見えた。第一この会
話で彼が笑っているということ自体、既に違和感を覚える。
雫は冷えた体温が戻らない体を震わせた。
何だかおかしな空気だ。
だが聞かなかった振りをして立ち去ることはどうしても出来なか
った。聞き逃せないことが、すぐ手の届くところにある気がするの
だ。
﹁雫? 怖い顔をしているよ﹂
﹁仰ってください。陛下、妹姫をどうなさるおつもりなのです﹂
﹁オルティアを? さぁ、どうしてやろう﹂
王は残る側近二人に顎で軽く彼女の方を示す。それを合図に二人
は雫に向った。瞬時に不穏を察した彼女は身を翻す。
しかし、短い魔法詠唱と共に足に何かが絡みついてきた。転びそ
うになる雫の腕を文官らしきもう一人が捕らえる。
﹁何を⋮⋮﹂
﹁黙れ小娘。大人しくしていろ﹂
魔法士の男が薄ら笑いを浮かべながらもう片方の腕を掴んだ。両
912
脇を二人の男に固められ、雫は再び王の眼前に引き出される。
罪人のような扱いを受ける彼女をベエルハースは目を細めて見下
ろした。
﹁君はオルティアに忠実だ。裏切らないで欲しいと言った私の言葉
をよく守ってくれている﹂
﹁陛下、これはどういうことなのです﹂
いつから
﹁だから次は、私を裏切らないでいて欲しい。あの子にはもう先が
ないのだから﹂
﹁は?﹂
動揺も同情も感じさせない王の目。
それを見て、雫は遅ればせながら直感する。︱︱︱︱
か自分が欺かれていたのだということを。
今のベエルハースの貌は妹を慈しむ兄のものではない。子供の欠
落を持つオルティアとも違う、﹁自ら捨てた﹂者の顔だ。
並べた駒のどれを切ろうか眺める嗜虐。それが自分にもオルティ
アにも向いていることを悟って雫は唖然とした。微笑のままの男を
注視する。
﹁あなたは姫を⋮⋮﹂
﹁大事には思っているよ。あれは私の考えた通りに育ってくれた。
私の大切なお人形だ﹂
﹁何を仰っているのです。私に教えてくださったことも嘘だったん
ですか!?﹂
オルティアの過去のこと、両親との確執を解きほぐそうとしたこ
と、幼い頃の彼女にかけていた愛情はどうしてしまったのか。
限界まで目を見開いた雫の叫びに、しかし王は軽く首を傾いだ。
﹁架空の話だと言っておいただろう? ちゃんと聞いていなかった
つまり、オルティアを攫わせたのは私で、犠牲にするよう両親
のかい? 結局あれはただの御伽噺だ。現実はもっと単純で︱︱︱
︱
を説き伏せたのも私だ。私があれを裏切って、それを親たちの判断
913
だと喧伝した。そうして戻ってきたオルティアに繰り返し不信を吹
き込んだのだよ﹂
人が人の精神を歪める。
それは、時に言葉のみで容易く行われるのだ。
十六歳も年の差があるベエルハースには容易かったのだろう。傷
心の妹の思考を誘導し、己の望むように仕立て上げることは。
雫は唇を戦慄かせる。まるで胃の中に焼けた穴が開いたようだ。
脳裏に残るオルティアの横顔が疼く。
﹁あなたは⋮⋮何をなさっているのです⋮⋮!﹂
﹁当然のことをしただけだ。利害が一致したというのかな。私はあ
の子を何とかしたかったし、ティゴールは領地内の対立をどうにか
収めたかった。だから王女を攫わせその犯人を城が一断することで、
私たちはロスタの現状に不満を持つ者たちを黙らせたのだよ。ティ
ゴールが名領主だと信じている者たちは愚かだ。奴は己の手を汚さ
ず見せしめを行ったに過ぎない。もっとも最近はオルティアが暴れ
ているせいか、奴も真実をあの子に打ち明けると煩かったのだがね﹂
あんまり煩いから、牢に入れてやったがいつの間にか逃げ出して
いた、と肩を竦めてぼやく王に、雫は愕然とした思いを味わう。
ティゴールが領内を何とかしたいが為にオルティアを罠にかけた
のなら、それは許されないことであろう。領民も国をも全て欺く策
略だ。目的の為とは言え正当化出来るものとは思えない。
だが何故、兄である彼はそれに協力したのか。妹を守らなかった
のか。
黒い両眼でそれを問う彼女にベエルハースは口元だけで笑う。
﹁私はただ、あの子を親から切り離したかっただけだ。当時はあの
子を今のファルサス国王の婚約者にするという案が二人から出てい
てね。だが、私はそれ程才のある人間ではなかった。これから王に
なろうというのに、あの子を手放すわけにはいかなかったのだよ﹂
914
﹁ならそう仰ればよかった! 何故姫を偽りで傷つけられたのです
!﹂
﹁あの子が妬ましかったからだ﹂
さらりとした言葉。
そこにあるのは何なのだろう。
ベエルハースは笑うのをやめ、何処か虚脱した目で雫を見ていた。
或いはその目は彼女を通して妹の影を見ていたのかもしれない。唇
が僅かに歪む。
﹁政略結婚で娶られた母から生まれた私と違い、あの子は愛された
王妃から生まれた。美しく、利発で、そこにいるだけで自然と皆の
気を引いた。誉める言葉も嗜める言葉も全てがあの子に向く。それ
に比べて私には何もない。王族というだけの⋮⋮ただの凡庸な男だ。
だから、妬ましかったのだよ。あの子がずっと﹂
淡々とした彼の声は、けれど一つ一つが雫に重いものをもたらす。
姉妹に劣等感を覚えていたのは彼女も一緒だ。そして自分だけが
何もないような孤独を覚えていたのも。
だが彼女は踏み外さなかった。自分を形成する為に姉妹から離れ
ることを選んだのだ。それは、妬ましいと思う以上に彼女たちを愛
していたからだろう。
やりきれない思いが喉に詰まって、雫はベエルハースを睨む。
﹁何もないなどということが、どうしてありましょう⋮⋮。少なく
ともあなたはよき王として、そして優しい兄として在ることが出来
た。ご自分を貶められたのは、誰よりもあなたご自身ではないです
か﹂
昏い誘惑に流されたのは、誰でもない自身の意思だ。歪められた
オルティアがその歪みを周囲に振り撒いたことも。
彼らは止まれなかった。収められなかった。膨らんでいく感情を
持て余し、それらを別の人間へと注いでしまったのだ。
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雫の弾劾にベエルハースは顔色を変えなかった。むしろ元通り微
笑を浮かべて彼女を見下ろす。
﹁違う。これがキスク王族の在り方なのだよ。血族を愛しながら相
争うことがファルサスの性なら、欺き操りあうのがキスクだ﹂
﹁それはあなたがトライフィナの末裔である為ですか?﹂
﹁⋮⋮驚いたな。あの子はそんなことまで君に話したのか。余程君
が気に入ったらしい﹂
正確には雫がそれを知ったのはオルティアが教えた為ではないの
だが、彼女は話を脱線させることを嫌って沈黙を保った。側近二人
が怪訝な顔になる。
彼女
その様子からしておそらくこれは王族だけの秘密なのだろう。
三国の併合にあたって二国の王子を夫とした女王︱︱︱︱
がどちらの夫の子も産まなかったという真実は。
トライフィナ、それは美しく慈愛に満ちたキスク初代女王の名だ。
そしてキスクの元となった三国のうちの一つ、キアーフの王女でも
ある。
併合の条件として彼女を求めてきた二国に対し、キアーフはトラ
イフィナを差し出すことを承諾した。名目上は女王、だが求められ
ていたものは美貌と従順さであっただろう。
だが結局トライフィナは、実弟の指示によって自らを所有しよう
とした二人の夫を欺いた。彼女が産んだ五人の子はいずれも親族で
あるキアーフ王族の男の子供。キアーフは一人の女を犠牲に、労せ
ずして二国を乗っ取ることに成功したのだ。
だが、心優しい王女であったトライフィナ自身はこの謀略により、
短い生涯を人知れず苦しみぬくこととなった。キアーフへの愛情、
キスクへの義務感、夫たちへの罪悪感、弟への反感と信頼、そして
自由への渇望。それら全てが彼女の精神を引き裂き、五人目の子供
916
を産み落とした後、トライフィナは全ての秘密を持ったまま自殺し
た。
秘された彼女の遺書に残されていたのは﹁もうここから出て行く﹂
という一文のみだったのである。
国への脅迫的な義務感とそれへの反感。王族であることを疎む思
いと消せない誇り。それはオルティアにもまた通じるものだと、雫
は思っていた。
だがオルティアのそれは、半ばベエルハースによって作られたも
のだったのだ。
形容し難い忌々しさに雫は唇を噛む。だが、揺らぐ怒気を向けら
れた王は穏やかにも見える笑顔を浮かべていた。
﹁あの子は今まで私の望み通り役に立ってくれた。民への情けに揺
らぐことなく国を統治し十全に動かしたのだ。少々酷薄なところは
あるが⋮⋮あの子の悪名はあの子のものでしかない。私は精々無能
と言われるくらいだね﹂
﹁無能? 卑怯の間違いでしょう﹂
﹁そうかな? 結局みんなあの子自身の選択の結果では? 私は今
までも一応あの子のすることをたしなめてきたのだからね﹂
厚顔な反論を男は当然のものとして繰る。
たしなめただけで、当然強く止めることはしなかったのだろう。
むしろ踊らされやすい兄を装って、ベエルハースはオルティアを﹁
使って﹂きた。
雫は眩暈さえ覚える程の不快感に眉を顰める。それを眺めていた
魔法士の男が、雫の腕を掴んだまま半歩前に歩み出た。
﹁陛下、この娘の処分は私めに﹂
﹁駄目だ。彼女はオルティアの友人であの子供の教育係だからね。
子供に使い道がある以上、彼女も残しておかないと不味い﹂
917
思えば、﹁オルティアのことを教えて欲しい﹂とは兄が妹を心配
する為ではなく、妹を監視する為の言葉だったのだろう。雫はそれ
に騙され、姫のことをベエルハースに伝えてきた。全てを話してい
たわけではないとはいえ、知らぬ内に彼の手駒の一つだったのだ。
だが事実を知ってなお、彼に協力する気はない。
叛意を両眼に浮かべる雫の全身をベエルハースはまじまじと見や
った。
﹁そうだね⋮⋮、ちょうどトライフィナの話が出たところだ。彼女
の名を抱く術でも一つかけておこうか。ジレド﹂
﹁は!﹂
﹁彼女に﹃トラスフィ﹄を﹂
その命を聞いて魔法士の男は陰湿な喜びを顕にする。反対に雫は
嫌悪に駆られて身じろぎした。
しかし逃げ出そうとする間もなく、文官の男が後ろに回って彼女
を羽交い絞めにする。
前に回ったジレドという名の魔法士は嫌らしい笑いを浮かべなが
ら雫を見下ろした。骨ばった手を薄い夜着越しの腹部に伸ばす。
﹁ちょっ、やだ! 触んないで!﹂
暴れる彼女の抵抗も虚しく、男の手の平が臍の下辺りに触れてき
た。魔法の詠唱が始まる。
﹁少しの我慢だよ、雫。これはいわば約束のようなものだ。本来な
ら後宮の女にかけられる術でね。女の内腑を媒介として﹃命令﹄を
﹃命令﹄が破られた時には女を死に
刻み込む。たとえば﹃不貞をするな﹄とかね。普段はただ腹の中に
潜んでいるだけだが︱︱︱︱
いたらしめる﹂
﹁はぁ!?﹂
﹁君への﹃命令﹄はそうだな⋮⋮﹃この部屋で知ったことを誰にも
教えない﹄と﹃今後私の質問には正直に答える﹄にしようか﹂
﹁待っ⋮⋮﹂
﹁陛下、二つは入りませぬ。どちらに致しましょう﹂
918
﹁じゃあ仕方ない。﹃誰にも教えるな﹄と入れておけ﹂
﹁かしこまりました﹂
彼女自身の意志を置き去りに進められる会話。雫は大声で何もか
もを罵倒したい衝動に駆られる。
だが怒鳴り声を上げようと口を開きかけた時、その力は彼女の体
内に﹁入って﹂きたのだ。
﹁っあああああああああぁぁあっっ!!﹂
腹の中が灼ける。
それはどろりと体内を蠢き、彼女の内臓に激痛をもたらした。
拘束を解かれた雫は体を折って倒れこむ。腹を抱えて悲鳴を上げ
る彼女を、ジレドはにやにやと笑って見下ろした。
﹁陛下、この娘は生娘のようですが﹂
﹁おや、そうだったのか。てっきりファルサス王の手がついている
と思ったが⋮⋮運が悪かったね、雫﹂
何を言われているのか分からない。あまりの痛みに考えられない。
雫は床に這いつくばりながら小さくなって嗚咽をもらしていた。
﹁この術は後宮の女の為のものだからね。純潔の女とは相性が悪い。
術が馴染めば少しはましになるが⋮⋮それでも断続的にやってくる
激痛の波に苛まれることになる﹂
ベエルハースの言葉を裏付けるように痛みが僅かに引いていく。
それは雫に思考の余地を取り戻させたが、痛みは完全に消え去るわ
けではなかった。
内側から焼けた針で刺されるような疼痛が、枷の如く彼女にまと
わりついてくる。雫は上体を少しだけ起こし、けれどまた鋭い痛み
が走って声もなく喘いだ。魔法士か文官か、どちらかの男の忍び笑
いが聞こえる。
雫は自分が腹を立てている
涙が滲んで前が見えない。全てを捨てて逃げ出したい。
だが、その笑い声を聞いて︱︱︱︱
919
ことを思い出したのだ。
彼女は拳を固く握りこんで王を見仰ぐ。
ベエルハースは憐れみさえ帯びて雫を見ていた。穏やかな微笑み
を薄い唇に浮かべる。
﹁さて雫⋮⋮どうするかい? オルティアに話して死ぬか、何処か
へ逃げ出すか。それとも痛いのが嫌なだけなら、ここで私のものに
なるかい?﹂
優しい優しい声。伸ばされた手。
それに対する答など既に決まっている。考えるまでもない。
雫は全ての痛みを飲み込む。
涙で濡れた目で、血が滲む唇で、王に向って可憐に笑いかけると
﹁死んでも御免です﹂
と、躊躇なく吐き捨てたのだった。
屈することを拒絶した雫に、ベエルハースは楽しげに﹁なら帰る
といい﹂とだけ命じた。魔法により言論を封じた時点で、彼女のや
れることなどたかが知れていると思ったのだろう。
それは腹立たしい余裕ではあったが、今はどうすることも出来な
い。
雫は苦痛と屈辱と怒りを抱えたまま王の部屋を出ると、ままなら
ない体を引き摺って自室へと向った。気を抜けば指先が震えだしそ
うな程、体が痛みを恐れている。腹の中でゆっくりと蠢く何かがい
つまた暴れだすのか、やって来るであろう波が怖くて仕方なかった。
今はただ、ベッドに入って丸くなりたい。
眠れなくとも何処かに落ち着き休みたいのだ。
だが、彼女のささやかなる願いを無視するように後方から足音が
近づいてくる。
壁に手をつきながら歩いている雫には到底振りきれない速度で駆
920
け寄ってきた男は、先程彼女に術を掛けた魔法士本人だった。
ジレドは額に脂汗を浮かべた雫をじろじろと遠慮のない視線で眺
める。
﹁相当苦しいようだな、娘﹂
﹁何? 土下座以外の用件なら聞きたくないんだけど﹂
﹁楽にしてやろうか﹂
辛辣な返答を完全に無視しての誘いに、雫は苦痛だけの為ではな
く顔を顰めた。
普通ならこう言われた時は死を意味するのが大半だろうが、好色
さが隠せない男の視線から言ってそうではないだろう。第一ベエル
ハースは彼女を﹁殺すな﹂と指示したのだ。雫は一瞬激しくなった
痛みを息を止めて乗り切ると、軽蔑の視線を返した。
﹁要らない⋮⋮触るな﹂
﹁ふん。強がりもほどほどにしろ。そのままでは普通に生活するこ
とも困難だろう﹂
ジレドは言うなり壁についていた雫の手を掴む。そのまま強く腕
を引かれて、彼女は男の腕の中に転がり込んだ。耳元にかかる息に
瞬間で鳥肌が立つ。
﹁放せ⋮⋮!﹂
﹁従順になればすぐに痛みは引くぞ?﹂
嬲る言葉に雫は歯噛みした。左足を思い切り引いて男の脛を蹴り
つける。
直接的な反撃を予測していなかったのか、ジレドは苦痛の悲鳴を
上げてよろめいた。無様な姿に多少の溜飲が下りた雫は嘲笑を浮か
べる。
﹁反省すれば? 変態﹂
﹁この小娘!﹂
﹁何をしている﹂
怒りに顔を赤くしながら雫に掴みかかろうとした男は、その声に
動きを止めた。
921
見ると闇に覆われた廊下の奥に、若い男が一人立っている。指先
に明かりを灯して二人を見やるその男は、雫とジレドのどちらとも
面識がある人間だった。
闇の中から歩み出たニケは明らかに揉みあっていたと思しき二人
に冷ややかな目を向ける。
﹁なにやら侵入者があってこの女が証言に連れて行かれたというか
ら、姫に確認を命じられたが⋮⋮面白いことをしているな。ジレド
殿、その女が姫の所有物だと知っての行いか?﹂
淡々とした指摘にジレドは雫から一歩離れた。代わりに二十歳以
上は年下の魔法士を睨みつける。
﹁⋮⋮犬め、大きな口を叩きおって⋮⋮﹂
﹁口ではなく実力で思い知らせて欲しいというのなら考えなくもな
い﹂
平静さを崩さないニケの挑発に、ジレドは憎憎しげに口を何度か
開閉させたが、結局は﹁今に後悔するぞ﹂と月並みな台詞を吐いて
立ち去った。
生理的嫌悪を呼び起こす視線から逃れられた雫は、ジレドの姿が
見えなくなると腹を抱えて床に座り込む。
﹁助かった⋮⋮ありがと⋮⋮﹂
﹁何やらかしたんだ、お前。夜中に姫に呼びつけられて眠い﹂
﹁ごめん、けど、おなか⋮⋮いたい﹂
﹁拾い食いでもしたのか?﹂
ニケは悪くない。何も知らない上、窮地を助けてくれたのだから
それは認めるべきだ。
だがそう思いながらも雫はこの時、彼を心底﹁殴りたい﹂と思っ
たのだった。
ニケはオルティアから、事態を確認した後、雫を部屋に連れてく
るよう命じられたらしい。﹁さっさと来い﹂と彼女の腕を引いたが、
922
雫が﹁姫の部屋までは歩けない﹂と洩らすと渋々その場からオルテ
ィアの部屋前まで転移門を開いてくれた。
入室した雫は、寝台に胡坐をかく姫の前に跪いて、痛みを表情に
出さないよう気力を振り絞った。侵入者についてベエルハースにし
たのと同じ報告を呈する。
﹁暗殺⋮⋮ティゴールか? また随分と思い切ったことをしたもの
だ。どうせなら妾のところに来させればよいものを﹂
何も知らないオルティアの不敵な態度に雫は表情を曇らせたが、
ただ沈黙を保つ。
犯人が真実ティゴールであるのなら、殺したいのはベエルハース
でしかない。かつての共犯者で、全ての原因となった男。今は酷薄
な政務者となったオルティアに刺客を放つことは、彼には出来なか
ったのだろう。たとえそれが実を得ない足掻きに終わろうとも。
﹁それにしてもついに戦か。あちらから来てくれるというなら申し
分ない。丁重に迎えてやらねばな﹂
﹁姫﹂
﹁何だ? 雫﹂
術の制約がある。迂闊なことは言えない。
だが、裏のことを知っている以上、発言に気をつければ事態の向
う方向を変えることは出来るはずだ。
雫は体内を蠢く熱に怯えながら、ファルサスとの停戦を勧めよう
と口を開きかける。
けれど言葉が滑り出す直前、堪えきれない激痛が下腹を突いた。
﹁っああ⋮⋮っ!﹂
痛みの波に襲われ倒れこんだ彼女を、オルティアとニケは唖然と
して見つめる。
それまで気だるげに座っていた姫は、起き上がると寝台の下を覗
き込んだ。
﹁どうした、雫﹂
923
﹁ひ、め⋮⋮﹂
﹁怪我をしているのか? 何故黙っていた﹂
痛みの理由を答えることは出来ない。雫は涙の薄い膜越しにオル
ティアを見上げた。
姫は美しい顔立ちに困惑と苛立ちと、少しの心配を入り混ぜてい
誰が悪いのかとはもう、言えないのかもしれない。
る。初めて見るそんな表情はオルティアを幼い子供のように見せて
いた。
︱︱︱︱
オルティアも既に加害者だ。彼女の掌には取り戻せない多くの悲
劇が乗せられている。
それをなかったことにすることは出来ぬし、元に戻すことも完全
には出来ないだろう。
けれどそれでも、憐れだと思う。思ってしまう。
本当ならば彼女はもっと、別の人生を歩んでいたのではないかと。
この国はとてもいびつで、腹立たしく、そして悲しい。
誰もが拠り所を持っていないのだ。一人でここに来てしまった彼
女自身がそうであるように。
体の中が気持ち悪い。とても、痛い。
だがそれ以上に苦しくて⋮⋮⋮⋮雫は黙って涙を零した。
部下の突然の変調にオルティアは表情を険しくする。それは、廊
下で彼女の異常に出くわしたニケも同様だった。
姫は寝台の下に足を下ろすと雫の顔を覗き込む。苛立たしげに上
から問うた。
﹁雫? どうした。泣いていないで話せ。怪我は何処だ﹂
﹁怪我は⋮⋮ない、です。姫、それより⋮⋮﹂
﹁ないわけがあるか。腹を見せてみよ﹂
伸ばされた手を雫は止めようとしたが、背後から来たニケが雫の
肩を掴んで留めた。その間にオルティアは襟元から雫の肌を覗き込
924
む。
伝わってきたのは絶句の気配。
次の瞬間オルティアは、くるぶしまでの夜着の裾に手をかけ、そ
れを乱暴にたくしあげていた。顕になった白い腹部、そこには胸の
すぐ下から下腹部に届くまで、青い複雑な円を中心とした紋様が刻
み込まれている。
傷などではない明らかに魔法の形跡に姫は呆然とそれを見下ろし
た。
﹁⋮⋮何だこれは﹂
﹁姫⋮⋮平気、ですから﹂
﹁何だと聞いておるのだ! ニケ!﹂
鋭い声に、礼儀として顔を背けていた男は雫の体を見下ろした。
やはり愕然とする気配が背後から伝わってきて、雫は苦々しい思い
を味わう。
﹁これは⋮⋮トラスフィ⋮⋮か?﹂
﹁馬鹿な。雫は後宮の女ではないぞ⋮⋮﹂
魔法士であるニケと王族であるオルティアは、どちらもその術の
存在を知っているのだろう。雫は力なくかぶりを振って驚愕の最中
にある二人から逃れると、また床の上に縮こまった。目を閉じて上
がってしまった息を整える。
まるで陣痛に耐えるようにしばらくそうしていると、やがて痛み
誰にやられた。⋮⋮兄上か?﹂
は薄らいだ。ほっとして顔を上げるとオルティアと目が合う。
﹁︱︱︱︱
後宮の女にしかかけられない術。その使用許可が出せる人間は国
に一人しかいない。
問うまでもない答にオルティアの顔は見る見る赤く染まっていっ
た。音が聞こえてくる程に歯噛みして姫は立ち上がる。
﹁どういうつもりか聞いてくる。少し待て﹂
﹁駄目です⋮⋮姫﹂
925
目の前を過ぎようとする衣の裾を、雫はかろうじて掴んだ。
オルティアを、ベエルハースに会わせたくない。
雫に対してこれ程までに直接的な手段に出てきた王だ。ジレドの
不吉な言葉から考えても、ベエルハースは最早オルティアを﹁用済
み﹂と見ている可能性が高い。
行けば何をされるか分からないのだ。行った先で彼女が殺された
としても﹁オルティアの気が狂った﹂と言えば日頃の印象から皆は
納得する。
むしろ雫は、ベエルハースからオルティアに送られた絶縁状のよ
うな存在なのだろう。
そしてだからこそ、彼女は姫をここで行かせたくはないのだ。
衣を掴まれたオルティアは溢れ出す怒気と共に雫を見下ろした。
強い感情に声がわななく。
﹁放せ、雫﹂
﹁駄目です。私のことは、見なかったことに⋮⋮﹂
﹁お前は妾のものだ! お前に傷をつけられるということは妾が傷
つけられたも同じだ! 兄上であっても許せぬ!﹂
﹁違います⋮⋮これをかけられたのは私で、姫じゃありません﹂
弱弱しい声。だが、言葉自体は明瞭で、きっぱりとしたものだっ
た。オルティアは水のような雫の声に少しの冷静さを取り戻す。
確かに暗殺者の侵入から何がどうなって、雫に拘束用の術がかけ
られたのか分からないのだ。兄に抗議をするにしてもまずそれを確
かめてからでなくてはならない。
姫は雫の手の中から衣を引くと、寝台に戻って乱暴に腰掛けた。
怒気に落ち着かない目で雫を見下ろす。
﹁何があった﹂
﹁申し上げられません﹂
﹁雫!﹂
﹁言えないように、なっているのです﹂
926
遠回しなその言葉にオルティアはすぐにそれが雫にかけられた術
と関係あるのだと気づいた。側近の魔法士に視線を移す。
﹁トラスフィにあのような痕が浮き出る効果などあったか? 何故
痛みがあるのだ﹂
問われた男は理由を知っているらしい。言いたくなさそうな視線
を雫に向けたが、雫自身自分で説明するのも男に説明されるのも嫌
だった。一瞬妙な間が空き、だがオルティアの機嫌を損ねるわけに
はいかないということでニケが説明を引き受ける。
﹁おそらく彼女が純潔だからです。本来魂に馴染んで潜むはずの術
が反発して浮き上がり、痛みをもたらしているのでしょう﹂
﹁言えないということは⋮⋮緘口を刻まれでもしたのか? ニケ、
お前はこの術を解けるか?﹂
﹁不可能です。もともと解法のない術ですから。ファルサス王妹で
あれば解けるかも分かりませんが﹂
﹁純潔でなくなれば痛みはなくなるのか?﹂
﹁消えるのは痛みと痕だけですが。命令に逆らえば死ぬのは同じで
す﹂
現状を確認していく二人の会話を頭上に聞きながら、雫は思考を
整理する。
今やらなければならないのは何か、これからどうすればいいのか。
だが、至近のことはいくつか思いつくものの、疲労と痛みのせい
か一向に考えがその先まで広がっていかない。それでも朦朧とする
頭を振って意識を保とうとする雫の耳に、主君の苦々しい声が聞こ
える。
﹁ならばニケ。妾が許可する。雫を犯せ﹂
﹁あ、阿呆か!﹂
余りに予想外な命令に、つい雫は素直な叫びを上げてしまった。
オルティアはオルティアで色々考えてくれているつもりかもしれ
ないが、まったく方向性が間違っている。振り返るとさすがにニケ
も見たことがない微妙な表情で言葉を失っていた。返事をしない部
927
下へ叱責が飛ぶ。
﹁出来ぬのか、腑抜け! ならばファニートを呼ぶ!﹂
﹁ちょっと待ってください!﹂
雫は痛みを理不尽さへの怒りで振り切ると、両手を床について立
ち上がる。反論されて憤慨しかけるオルティアに向き直った。
﹁何故嫌がる! 普通にしていられぬ程痛いのであろう! それく
らいのことは我慢しろ!﹂
﹁痛いのは私です! 私の意志を尊重なさってください!﹂
﹁危急時くらい妾に意志を譲れ!﹂
雫の頬を打とうとした手を、彼女は逆に掴み取る。
そのまま揉みあいになる二人を、ニケはしばらく感情を隠した目
で見ていたが、子供の喧嘩にしか見えない応酬がいつまで経っても
終わらないと悟ると割って入った。オルティアは手を振り上げ、雫
とニケの両方を怒鳴りつけようとする。
だがその怒声は雫が再び床に崩れ落ちたことで姫の唇につかえる
こととなった。苦痛に押し殺した呻きを上げる臣下を、オルティア
は何処か傷ついた目で見下ろす。
﹁⋮⋮お前を見ていると腹立たしい。何故、これ程までに意地を張
るのだ﹂
何だかあの少年にも似たようなことを言われた。雫はひどく遠く
思える時間を思い出して苦笑する。
一晩に二人から率直な否定の言葉をもらうのだから、自分の頑固
は相当な域まできているのだろう。彼女は、気勢が削がれ沈んでし
まったように聞こえるオルティアの声を、心中で反芻した。
﹁お前はいつもそうだ。何故譲れない? 折れた振りでもすればい
い。頑固を通して死んだら何も残らぬではないか﹂
死ぬことに何の意味があるのか、と思ってしまったばかりだ。意
志を通して命を捨てることでどうなるのかと。
それよりは嘘をついてでも、敵に従ってでも生き延びて、別の道
928
を探した方がいいのではないか。命を惜しむことで続く可能性に賭
そう出来ていた時もあった。出来る時も、ある。ただ、
ければいいのではないか。
︱︱︱︱
譲りたくない時があるだけで︱︱︱︱
﹁姫﹂
痛みが収まる。雫は息をついてオルティアを見上げた。彼女は憮
もし別の時、別の世界で出会っていたなら友人になれ
然とした表情をしており、そのせいか幼くも見える。
︱︱︱︱
ただろうか。
雫は刹那、ありえない空想を抱いてほろ苦く微笑した。オルティ
アはそれを見て眉をつり上げる。
﹁何だ、雫。言い訳か?﹂
﹁言い訳です。姫、私だっていつも命を賭けてるわけじゃありませ
ん。死にたくないですから。でも時々⋮⋮来てしまうんです。ここ
で逃げたら、きっともう取り返しがつかないだろうって時が﹂
﹁馬鹿か。どの道死んだら取り返しはつかぬぞ﹂
﹁そうなんですけど。でも逃げても取り返しがつかない、なくして
しまって、きっと一生それを後悔するだろうって⋮⋮そういう時が
あるんです﹂
いつでも死のうとしている訳ではない。そこまで厭世的ではまっ
たくない。
ただ時折、避けられない選択が﹁来る﹂。
そこで譲ってしまったら自分の精神そのものが変質してしまうよ
うな、そんな決断を目の前に呈されることが。
所詮、自分は無力な人間だ。
あるかないか分からない可能性に賭けて逃げ出したとしても、そ
の可能性を得られるのか分からない。たとえ得られたとしても、失
ったものを取り戻せるかは分からないのだ。
そして、取り戻せても、きっとそれはもう失う前と同じものでは
929
ないのだろう。
だから退かない。
人の本質は精神に在り、その尊厳は容易く踏みにじられるもので
はないと示す為に。
﹁だから姫、それに比べたら今のことくらい大したことありません。
痛いだけで死ぬわけじゃないですから﹂
青白い顔で笑ってみせる雫に、オルティアは何も言わない。
真夜中の部屋にはそうして、誰のものともつかぬ溜息だけが零れ
落ちていったのだった。
※ ※ ※
扉を叩く。
前にこうした時は二、三度で返事があったが、今は何度叩いても
反応がない。時間が時間だからという可能性もあるが、それはこの
際さほど問題ではないだろう。
男は少し考えると扉の向こう、室内を対象座標として魔法で短距
離転移を行った。中に入ると部屋の隅にある寝台を見やる。
かすかに聞こえてくるのは女のすすり泣く声。彼が来たことに気
づいていないのか、眠っているのか、寝台の中にいる女は起き上が
る気配もなかった。
音をさせないよう近づくと、泣き声に混じって女の呟きが聞こえ
る。
﹁⋮⋮お姉ちゃん⋮⋮ミオ⋮⋮いたいよ⋮⋮⋮⋮﹂
掛布からはみ出た黒髪が震えている。中で胎児のように縮こまっ
930
ているのだろう。
男は泣き声に顔を顰めると寝台に腰掛けた。半ば伏せられた寝顔
を覗き込む。
造作だけは幼く見える彼女は、けれど起きている時は常にある程
度気を張った、可愛げのない表情をしている。
だが今は苦痛に眉を寄せながら、まるで頼りない顔で浅い眠りを
彷徨っているようだった。小さな唇が嗚咽と共にわななく。
﹁エリク、たすけて⋮⋮﹂
この場にはいない男。その名を呼ばれて彼は途端に不機嫌になっ
た。
じっと彼女を見つめていた顔を離すと、その耳を強く引っ張る。
﹁起きろ、馬鹿女﹂
﹁⋮⋮っいたたた!﹂
本当に転寝のような危うい眠りだったのだろう。女は飛び起きて
彼に気づくと、目を丸くした。
﹁あれ⋮⋮ニケ? 何で部屋の中にいるの?﹂
突然の侵入者に用心するわけでもなくただ聞いてくるだけの女。
その疑問に男は﹁お前が起きないからだ﹂と答えると小さく舌打
ちした。
﹁魔法士ってずるくない? こんなのがいたら密室事件が成り立た
ないと思うんだけど﹂
﹁密室って何だ。物が詰まってるのか?﹂
痛みでまったく眠れないと思っていたが、いつの間にか少し眠り
に落ちていたらしい。
そこを同僚に起こされた雫は、下ろしていた髪を一つにまとめな
おした。ぼんやりと熱を帯びた頭を振る。
腹が痛いと言っても、それを上回る疲労が溜まっているのだ。雫
は腹部に片手をあてたまま欠伸を噛み殺した。
931
﹁大体転移が出来る魔法士はそう多くない。この城に所属してる奴
らの中でも二割くらいが出来るだけだ﹂
﹁じゃああっという間に容疑者が絞り込めるね。ところで何の用?﹂
王の指示で術を埋め込まれ、オルティアの癇癪を受けた雫は、そ
の主君に﹁これ以上話があるなら明日聞く﹂と言って追い返されて
しまったのだ。
時刻はその時既に真夜中であったから、姫が眠くなったのかもし
れないし、雫の体調を気遣ってくれたのかもしれない。だがどちら
にせよ体力が限界であることは事実だったので、彼女は部屋に戻っ
て寝台に上がった。つい四時間程前に。
それをわざわざ訪ねてくるとは何かあったのだろうか。雫は朦朧
とする頭を押さえたまま隣に座る男を見やった。
﹁痛いか﹂
﹁痛い。非常に痛いよ。多分今日ほど女に生まれたことを後悔した
日はないと思う﹂
﹁男だったら殺されてたかもしれんな﹂
ニケもオルティアも、雫と王の間に何かがあったのだということ
は分かっている。その原因が王の方にあるのではないかということ
も。
これは妹の部下である女にするような仕打ちではない。凡庸で、
だが穏やかな人間だったベエルハースと今の雫の現状は簡単には結
びつかないものなのだ。
にもかかわらず王ではなく雫の方を二人は信用してくれたような
のである。これは今まで苦労した甲斐があると、少し喜んでもいい
ところなのだろうか。
雫は物騒な仮定を返す男をねめつけた。
﹁で。痛いかどうかを聞きにきたの?﹂
﹁いや。抱いてやろうか﹂
﹁絶対やだ﹂
932
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
間をおかず返答すると、ニケは笑える程苦い顔になる。思わず雫
は指を差して笑いたくなったが、さすがに失礼だ。それをしては怒
られることも確実だろう。
彼女は二、三度深呼吸して小さい痛みの波を乗り越えると真面目
に返した。
﹁あんたが変なところで優しいのは知ってるけどさ。これに関して
は気遣い無用。大丈夫だよ﹂
﹁阿呆はお前だ。満足に歩くこともできない癖に。すぐジレドに捕
まるぞ﹂
﹁うわぁ⋮⋮﹂
確かにオルティアの部屋から出た後も、雫は自力で部屋までは戻
れず転移を使ってニケに送ってもらったのだ。同じ城内ということ
で魔力の無駄使いに思えて申し訳なかったのだが、彼にとっては雫
を抱え上げるより魔法を使う方が楽らしい。
王の側近であるジレドの粘着質な視線を思い出して、彼女は思い
切り憂鬱な気分になった。
﹁い、いやでも、いいです。負けた気がして悔しい﹂
﹁そういう問題なのか? お前は痛いとか怖いとかないのか﹂
﹁あるよ。暴力が怖くて人のいいなりになったこともある﹂
﹁なら何でだ。俺が不満か﹂
あんまりにも不機嫌そうに言われたので、雫はすぐには意味が分
からなかった。一拍置いて、理解を得ると彼女は笑いだす。
腹を抱えているのは先程までと一緒なのだが、声を出して笑って
いるのでは意味が大分異なる。白い眼で見やるニケに雫は笑いを収
めると﹁ごめん﹂と謝った。
﹁いや、確かにあんたはそういう対象じゃないけど、そうじゃなく
てさ。誰が相手でも痛みに屈したとは思われたくない。それくらい
には怒ってる﹂
﹁⋮⋮馬鹿だな﹂
933
﹁煩いよ﹂
﹁口開けろ﹂
何だか分からないが言われたので雫は口を開けてみる。虫歯の検
査でもするのだろうかと思った時、口内に指を捻じ込まれた。奥ま
で入れられた異物にえづきそうになった時、だがニケはすっと指を
引き抜く。雫は喉を押さえ目を瞠った。
﹁何か飲ませた?﹂
﹁魔法薬だ﹂
男は彼女の手に小さな瓶を乗せてくる。そこにはビー球より一回
り小さいくらいの白い粒が詰まっていた。
﹁痛みを感じにくくする。効果はきっちり三時間。ただ、切れそう
だからといって重ねて飲むな。痛覚以外の感覚にまで影響が出る。
あと腹の痛みに限らないからな。その薬を飲んでいて痛いと感じた
ら実際は激痛だ。怪我などに注意しろ﹂
﹁あ、ありがとう⋮⋮これどうしたの?﹂
﹁作ってきた。なくなりそうになったら言え﹂
ニケは言い捨てると立ち上がる。帰るつもりなのだろう、今度は
扉に向う男に雫は苦笑した。
﹁ごめん。面倒かけて﹂
作ってきたということは、別れてから今までの四時間でやってく
れたことなのだろう。すっかり自分の意地につき合わせてしまった。
雫は感謝を込めて頭を下げる。
﹁精々恩に着て足を引っ張るなよ、馬鹿女﹂
﹁了解了解。頑張る﹂
﹁あと俺は別に優しくない﹂
捨て台詞か違うのか判断に迷う言葉を残してニケは去っていった。
一人になった雫は立ち上がり、体の調子を確かめる。
何だか少し感覚がぼやけているような気がする。魔法で麻酔をか
けているのと同じだろうか。腹の痛みも完全に消えたわけではない
934
が、これくらいの鈍痛なら性別的にかろうじて我慢出来る程度だ。
彼女は何度か屈伸運動をして支障がないことを確認すると頷く。
﹁よし⋮⋮。見てろよ、あの鬼畜﹂
言葉を封じて無力化したと思ったら大きな間違いだ。これ以上あ
の男の掌上では動かない。駒を操るように人を狂わせて愉悦に浸ろ
うとも、手の届くところには必ず限界がある。
徒に人の意志を歪める人間は、それが度を越した行いであったと、
いずれ身に染みて思い知ればいいのだ。
籠の中にいる鳥全てが、従属し敗北を受け入れているとは限らな
いのだから。
935
優しい指 001
辺りの風景が薄明るさの中に照らし出される。
まだ上りきっていない日の、しかし淡い光が森や草原を照らし、
朝の訪れを生き物全てに予感させていった。
静謐な空気。鳥の囀り。何億と繰り返された変わらぬ時。
だが、それら何の変哲もない要素で構成された世界に、突如異変
が現れる。
キスク南西部ロスタ領。その国境付近の草原に何の前触れもなく
三万の軍勢が出現したのだ。他の追随を許さない魔法技術を以って、
隣国領地への的確な転移を為した軍は朝日と共に迅速に動き始める。
全ての発端たるカリパラの街、そのすぐ北を通り、より北東に位置
する辺境城砦を目指して。
﹁街へは軽く威圧しておくだけでいい。萎縮させてしまえばアズリ
アが行った時に統制が楽だろうからな。それより砦だ。落とす必要
はないから少し叩いて黙らせておく﹂
今回の進軍行路を決定したラルスは、会議において将たちにそう
告げて、ワイスズの砦を示した。城都から続く街道沿いにあるこの
砦は、キスクの国軍が駐留する南西の要所であり、ファルサスが動
暴徒や小悪党しかいないカリパラの街に大軍は必要な
いた時に真っ先に対抗する戦力でもある。
︱︱︱︱
い。むしろ制裁を加えたいのは国や城そのものに対してだ。
大国同士の戦の先駆けにしては少数の軍勢を動かしての幕開けは、
936
こうしてファルサス王の気まぐれのような決定により、事態の焦点
と思われていたカリパラを通り越してワイスズ城砦への威嚇という
形で始まった。
ファルサス侵攻の連絡を受けて、砦を預かる将軍ドルファは若干
の焦りを表情に滲ませる。
﹁転移で来るとは思ったが街を無視したか⋮⋮。防御構成は間に合
いそうか?﹂
﹁あと五時間はかかります。その間にファルサス軍が到達してしま
うかと⋮⋮﹂
﹁ならば時間を稼ごう。一戦して持たせる間に構成を引け﹂
ドルファは短く決断すると、出軍を指示した。
あらかじめ準備がなされていたこの対応はけれど、表向きにはあ
くまで﹁ファルサス侵攻を知ってから対策した﹂ということにしな
ければならない。ワイスズ砦は王の命令で﹁こちらから周到に待ち
構えて戦闘を呼び起こしたのではない﹂という意思をファルサスに
示さねばならないのだ。
これがどういう意味を持っているのか、王から明言されはしなか
ったが、要は腰をすえて魔法大国と戦争をする気はないということ
なのだろう。
かと言って手を抜いてやりあえる相手でもない。ドルファは砦周
辺の地図を前に自軍四万の布陣を決定すると自身も鎧を着込み剣を
取った。
﹁ファルサスの軍もたった三万だ。防御に徹すれば砦を越えロスタ
を出るまではしないだろう﹂
怖じ気ずく兵たちの背をそんな言葉で叩きながらドルファは自ら
が先陣に立つ。
中央部を街道が貫く丘陵地帯。その丘に隠れるようにしてキスク
軍が布陣を完了したのは、ファルサスが到着するほんの三十分前の
937
ことだった。
穏やかな風が前方から吹いてくる。その風に髪をくすぐられなが
らラルスは偵察からの報告を受けていた。目の前に伸びる街道を行
けばやがてワイスズ砦へと到達することは知っている。だが、どう
やらその前で足止めをくらいそうだ。
青々とした草が茂る丘を見上げて王は暢気な声を上げる。
﹁さて、どうするか。キスク軍を飛び越えて城砦前まで転移するか
? トゥルース﹂
﹁簡単に仰らないでください。さすがにそこまで他国の領土内です
と大規模転移門の座標が取れません。砦周辺でしたら無許可転移禁
止の処置が施されている可能性もございますし﹂
﹁まぁ前後から挟撃されても面倒だ。正面を突破していくか﹂
街道自体は丘を切り分けて敷かれたのだろう、緩やかに弧を描き
ながらも平らな土地を前方へと伸びている。だが広い街道の左右は
大きな丘が連なり、奥に待ち構えているのであろうキスク軍の姿を
その向こうに上手く覆い隠していた。
ラルスは少し考えると、大きく二つある丘のうち、西側の丘の上
を進軍していくよう命じる。その通り動き始める自軍を見やって彼
は人の悪い笑みを浮かべた。
﹁さて⋮⋮軽く遊んでやろう。久々の戦だ﹂
風に揺れる草々を馬蹄が次々踏みにじっていく。張り詰めた空気
に、鳥の囀りはもはや聞こえない。
やがて日の出からしばらく、最初の戦闘が開始され
鉄の鳴る音、詠唱のさざめき、そんなものだけが丘陵に広がって
行き︱︱︱︱
たのだった。
938
丘の上に姿を現したファルサス軍を、布陣していたキスク軍はま
ず弓で狙い打った。
高低差はあるとは言え風の利はキスクにある。
先制に不利な状況ではないとドルファは判断したのだが、半ば予
想していた通りそれらの攻撃の大半は魔法によって防がれた。彼は
たくわえた髭を撫でつけながら、自軍にも魔法防壁の展開を指示す
る。
﹁しかし魔法士を最前線に出すとは、ファルサスは何を考えている
のだ﹂
丘に布陣を始めるファルサスの前線、その半数以上はどうやら魔
法士で構成されているようなのだ。鎧を纏わず結界によって防御を
行う魔法士たちは、遠目でも服装で見分けがつく。
だが本来彼らは最前線ではなく、その少し後ろに置かれて防御や
治癒を司ることが多いのだ。そこをあえて先陣に立たせているのは、
魔法の火力を重用しようという狙いなのだろうか。
ファルサスから自軍に向かい降り注ぎ始める火の雨を、ドルファ
は顰め面で睨んだ。近くにいた部下の一人イサル将軍に現況を報告
させる。
﹁どうだ? 防げそうか?﹂
﹁この程度であれば問題ありません。魔法大国と言ってもさほどで
はないようで﹂
まだ若い部下の面には過剰な自信が見て取れたが、弱気になられ
るよりは余程いい。ドルファはイサルに迎撃を命じて自分は後方へ
と下がった。
砦に連絡を取ると、防御構成はあと三時間程で完成するという。
それを聞いて彼は安堵の表情になった。
﹁よし⋮⋮何とか切り抜けられればいいが﹂
慎重な性格を持つドルファは、ファルサス軍を打ち破って勇名を
得たいとまでは思っていない。ただ王の命令通りワイスズ砦で敵の
939
進軍を留め、むしろその意識をカリパラの街へと向けさせればいい
と考えていた。
ファルサスがキスクに進軍して来たのもカソラの民の嘆願による
ところが大きいのだろう。
ならばカソラの民のほとんどが住むカリパラを明け渡してしまえ
ばいい。どの道あの街に生粋のキスク人はほとんど住んでいないの
だ。
城砦が落とせないと分かればファルサスは来た方へと引き返して
いく。
ベエルハースから持たせるよう指示された期間は﹁二週間﹂。そ
れは決して長すぎる時間ではないと、彼は思っていた。
※ ※ ※
﹁イサルは何をしている!﹂
怒声を上げたドルファは前方の丘を憎憎しげに見やったが、その
声は肝心の人物までは届かない。指揮を任せたイサルは、徐々に後
方へと下がり始めたファルサスの魔法士を追って、自ら馬を駆りキ
スクの前線を突出させていた。
慌てふためきながら馬首を翻す魔法士たちに向けて、彼は自軍か
ら魔法攻撃を放たせる。
だがそれは結界に相殺され思うような効果を得られなかった。に
もかかわらず後退していくファルサスをキスクは勢いのままに追っ
ていく。
強い引力が発生しているかのように飛び出たキスク軍の先端は、
やがて敵を求めて丘を反対側へと下り始めた。
戦功に目が眩み、丘の向こうへと見えなくなった自軍を引き戻そ
うとドルファは声を張り上げる。
940
﹁魔法士に連絡をさせろ! 前線を戻すよう命じるのだ!﹂
その命令は、しかし必要のないものだった。ドルファが部下を罵
る言葉を吐いた時、イサルもまた意表を突く光景に進軍を止めてい
たのだ。
丘の向こう側に布陣していると思っていたファルサス軍。騎兵を
中心としたその本隊は、だがいつの間にか街道とは反対側の方角を
選び、丘を迂回している最中であった。
その上でラルスはキスク軍の注意を引き付ける為、魔法士を前線
に出し後退を偽装させたのだ。
現在は魔法大国の印象が強いファルサスは、けれど長い歴史のほ
とんどにおいて武力の国であった。
しかし魔法士の火力を主軸に据えるかのような布陣にイサルはフ
ァルサスの武を忘れ、魔法士を捻じ伏せることが出来ればすなわち
勝利だと短絡的に考えてしまったのである。
魔法士は距離を置いた攻撃や防御には強いが、白兵戦には弱い。
それを狙って逃げていく魔法士たちへの距離を詰めようと飛びつ
いたキスクは、結果としてファルサス軍の望むままに陣形を乱して
しまったのだ。
丘を回りこんでキスク本営の側面を突こうとしているファルサス
軍を見て、イサルはドルファにそのことを伝えようと伝令の魔法士
を振り返った。
魔
しかし口を開きかけた彼は、次の瞬間乗っていた馬ごと燃え上が
る。獣じみた絶叫が炎の中から上がった。
指揮官らしき男を狙って強力な炎を放った壮年の男︱︱︱︱
法士長であるトゥルースは、その成果を確認して軽く息を吐く。
﹁よし。反転、攻撃。焼き払え﹂
簡単な命令に、後退していた魔法士たちは足を止め、詠唱を始め
た。
941
その間を縫うようにして槍騎兵が前に出る。
突如燃え尽きた指揮官に唖然としていたキスク軍は、猛然と丘を
駆け上がってくる騎兵たちを見て、瞬間制御しがたい戦慄に囚われ
た。
キスク軍の右翼近くにある森の中、簡単な結界を周辺に巡らせて
偵察を行っていたキスクの魔法士は、その時自分が担当する区域に
何かが侵入したことに気づいて眉を上げた。意識を研ぎ澄ましなが
ら結界の上に探知用の魔力を滑らす。
魔法の伝達によって流れてくる戦況は、丘の頂上を中心としてい
ささか混戦の様相を呈しているようだ。現在はキスクも何とか持ち
こたえているようだが、もしそれが囮でファルサスが別働を動かし
ているのなら、早々に布陣を変えねばならない。彼は本営に異常を
伝えようと伝達構成を組みかけた。
とだけ認識した一瞬後、彼の首は胴体か
しかしその構成が完成する直前、視界の隅に何かが飛び込んでく
る。
大きな黒い影︱︱︱︱
ら切り離されていた。鮮血が遅れて草の上に飛び散る。
馬を自分の手足のように駆りながら、剣の一振りにて魔法士の命
を奪った男は戦場に似合わぬ優しげな微笑を見せた。驚愕の目を見
開いたままの首を見下ろす。
﹁魔法にばっかり頼ってないで、自分の目で見ないと駄目だぞ? 一つ学んだな﹂
鏡のように磨かれた長剣を携えたファルサス国王は再び手綱を引
く。そこに王の結界と伝達を担当するハーヴがようやく追いついて
きた。
﹁陛下! お一人でどんどんお行きにならないでください! 私が
レウティシア様に怒られます!﹂
﹁気にするな。怒られとくといいぞ。俺の分まで﹂
﹁監視を殺すなら弓兵か魔法士にご命令ください!﹂
942
﹁俺でもたまには動きたい。折角執務をレティに押し付けてきたの
に﹂
彼はラルスの命
今からでも交代なさってください、とは言えずにハーヴは押し黙
る。
結局言いたいことはほとんど言えずに︱︱︱︱
令で、キスク本営への攻撃開始を本軍に伝えたのだった。
※ ※ ※
一歩歩くごとに腹の中が疼く気がする。
それは半分以上気のせいだとは思うのだが、忘れてしまうにはあ
の激痛は彼女の記憶にあまりにも強烈な印象を残していた。雫は先
程着替える時に鏡の中に映った自分の体を思い出す。
﹁あれじゃさすがに嫁に行けないっていうか⋮⋮治らなきゃ帰るこ
ともできないんじゃ﹂
少なくとも魔法薬に頼って痛みを抑えている現状では、魔法のな
い世界でどうやって激痛をまぎらわせればいいのか分からない。
もっとも体に変な痕があっても構わないという配偶者なり恋人な
りを見つけられれば、それで解決する問題なのではあるが、今のと
ころさっぱり心当たりは存在しなかった。雫は溜息混じりにオルテ
ィアの部屋の前に立つ。
そこには既にファニートがいて、気遣うような視線を彼女に投げ
かけてきた。
﹁大丈夫か﹂
﹁あれ、姫に聞いたの?﹂
﹁ああ﹂
943
﹁平気だよ。それよりいくつか頼まれて欲しいことがあるんだけど﹂
﹁何だ?﹂
雫は頭の中にまとめてあったことを要点だててファニートに依頼
する。彼は最初怪訝な顔をしたもののすぐに彼女の意図を察してく
れたようで、﹁やっておく﹂と微塵の笑顔も見せず頷いた。
これで後はニケと、そしてオルティアだろう。
雫は扉を前に深く息を吸う。隣に佇むファニートが平坦な声で補
足した。
﹁ファルサスが侵攻を開始した。ドルファ将軍が迎え打ったが、一
蹴されて砦に逃げ込んだらしい﹂
﹁⋮⋮そっか。あんまり時間なさそうだね﹂
半ば分かっていたことだが、現実として突きつけられると緊張は
やむをえない。雫は強張った笑顔を見せた。
だが、逃げ出すという選択肢はもはや彼女にはないのだ。どれ程
困難な位置に在るのだとしても、ここから何とかしてやると決めて
しまったのだから。
雫は姿勢を正し、開けられた扉の奥へと踏み出す。
その横顔は異質なほど落ち着いて、まるで何年も姫に仕えてきた
人間のようにファニートの目には映ったのだった。
家族を信頼できない、とはどういう気持ちなのだろう。
それは雫には分からない、分かることの出来ない心情だ。
オルティアは知らぬ内に兄に裏切られ、それ以来家族を失った。
その後の彼女がどんな煩悶を経て今に至ったのか。想像し同情して
もそれは姫の気分を損なうだけだろう。
そしてきっと、同情に値するのはオルティアに踏みにじられた多
くの人間たちもまたそうなのだ。
だが既に事態はここまで来てしまった。
ベエルハースの、オルティアの行く末はまもなく決定し、国その
944
ものが動き出すだろう。転換点をすぐそこに控えた今の状況のきわ
どさを雫は知っている。
だから、多くは求めない。
彼女が望むのはただ、﹁こんなことはいい加減終わりにするべき﹂
というたったそれだけのことなのだ。
﹁お前が言いたいのはそれだけか?﹂
﹁はい。猶予はもうほとんどありません。今すぐこれらのことを実
行なさって下さい﹂
動じることなく返した雫をオルティアは睨みつける。
だが、雫自身は眉一つ動かさず主君からの視線を受け止めていた。
﹁出来ないのか﹂と言わんばかりの表情に姫は小さく歯軋りする。
昨晩あれほど苦痛の声を零していた人間とはとても思えない。すっ
かり肝が据わったかに見える雫の進言はどれも、オルティアに今ま
でとは違う激しい方向転換を促すものだった。同席しているニケと
ファニートも緊張の表情を浮かべている。
﹁何故、このようなことが必要なのだ? その理由も言えぬのか﹂
﹁申し上げられません。ですが、理由は姫ならばお分かりになるか
と﹂
堂々とした具申にオルティアは顔を歪める。
確かに、言われなくても分かったのだ。
謀略の類に入る複数の策、その半分以上が示す結末は︱︱︱︱
王位の簒奪なのだと。
雫はオルティアに対し、異母兄を玉座から追い落とせと、そう示
唆してきた。臣下がする進言にしては大胆すぎるその案に、けれど
さすがの姫も苦い顔を崩せない。
﹁兄上を狙うのは何故だ。お前の私怨か?﹂
﹁恨みは確かにございますが、それはささいなものでしかありませ
ん。私はただ姫に仕える人間として、これらの案が必要であると愚
945
考致しました。詳しい理由は過程にて明らかになるかと﹂
﹁絵空事だ。妾に王が務まるはずがない﹂
﹁ご自身の才覚に自信をお持ちでないので?﹂
﹁まさか。単に妾は皆に畏れられているというだけのことだ﹂
陰惨な笑みを見せるオルティアの能力を疑うものは、城内ではほ
とんどいない。だがそれ以上に彼女の名は国外にまでその残虐な行
いと共に知られているのだ。
悪名持ちとしか言いようのない彼女が王位につけば、国の内外か
ら畏怖と反感が集まる。オルティアは兄を王に抱いてこそ能力を発
揮できていたのであって、自身が旗印になれる人間ではまったくな
いのだ。
しかし雫はそれを聞いても意見を翻さなかった。冷たいというほ
どではないが熱くもない声でオルティアに返す。
﹁ですから、悪名のうち多少は王に負って頂きましょう。あとは姫
の今後の行いで。絶大な支持を得る必要はありません。高い能力と
国全体への寛大さを示せば、それで構わないと思う人々は必ず出て
きます﹂
﹁今更寛大さを示せと? それで過去のことを許して欲しいとでも
懇願すればよいのか? この妾が﹂
﹁許しが欲しいとお思いになるのなら、姫がご自身で償いをお考え
ください。私が申し上げているのはこれからのことでしかございま
せん﹂
きっと、何をしてもオルティアを許せないと思う人間は残るだろ
う。
それはけれど、心苦しくはあるものの雫にはどうしようも出来な
いことだ。仕方のない、変えられない過去のことで、今彼女までも
がそこに拘っていては全てが進まない。オルティアが本当に己の行
946
いを後悔しているのなら、それらはオルティア自身が何とかしてい
くしかないのだ。
だが、姫を心から憎む人間は、おそらく国全体の人数から言えば
そう多い数ではない。大半を占めているのは伝え聞く話で姫の行い
に眉を顰めている程度の人間ばかりであり、そういった人間たちへ
の印象を改善出来れば、オルティアは充分女王としてやっていける
と雫は踏んでいた。そしてその評価は、とりあえずは﹁相対的に﹂
高いものであれば構わないのだ。
多少の謀略を使っても今を乗り越えられれば、後はオルティアの
心構え次第だろう。雫よりも余程政に通じる彼女ならば、そのこと
に察しがつくはずだ。
だがオルティアは理解を得ても同意はしなかった。美しく整えら
れた眉を吊り上げて雫を見据える。
﹁何故妾がそのようなことをせねばならぬ﹂
子供じみた反論。
けれどそれがオルティアの正直な思いだ。
何故、正面から国の為に身を捧げなければならないのか。
今までは王族として最低限の義務と最大限の権利の上に悠々と暮
らしていた。生まれの為に幼少の頃切り捨てられた彼女からすると、
それが自分を犠牲にした国に対する唯一の在り方だったのだろう。
国の役に立たねばと思いながらも、オルティアはずっとその国自
体を疎んじていた。それをただ言われたからといって、服を着替え
るように変えられるはずもないのだ。
﹁どうして妾が折れねばならぬのだ、雫。妾はずっと兄上に頼まれ
たことはやってきた。王族たる義務は果たしてきたのだ。なのに何
故これ以上国の為に己を費やさねばならぬ⋮⋮。妾も民も、誰もそ
のようなことは望んでおらぬわ!﹂
感情が多分に入り混じった叫びに、しかし雫は一歩も退かない。
﹁姫、王の他にはあなた様しか継承権を持つ方はおられない。誰で
947
も王になれるわけではないのです﹂
﹁なら兄上でいいではないか! 妾は王になどなりたくない!﹂
﹁それでは国をお捨てになりますか?﹂
オルティアは虚を突かれて顔を上げる。
異世界の人間であるという女は、姫の癇癪に怒った風でもなく、
ただ幼子に対する母親のように落ち着いて主を見つめていた。
諭すわけでもなく叱るわけでもない、事実を読み上げるだけの声
音で雫は続ける。
﹁姫、あなたは城にも、国にも囚われていらっしゃいません。逃げ
出そうというのならそれも出来るのです。ですがもう時間はあまり
ない。城を出られるのなら早々に準備をなさってください。勿論陛
下には分からないようにです﹂
﹁雫﹂
ファニートが突然の発言を留めようと前に出る。だが雫はオルテ
ィアを見たままそれを手で遮った。姫は予想してもいなかった進言
に呆然と口を開ける。
﹁城を⋮⋮出ると? 妾が?﹂
﹁姫がそれをお望みならば。出来ぬことではございません﹂
それもまた、一つの終わりだろう。
オルティアを犠牲にしようと思っているベエルハースの手を逃れ
て、姿を消す。
王は手駒の一つを失って歯噛みするだろうが、ファルサスが侵攻
している現在であれば全精力を捜索にはかけられまい。
そして、或いは姫にとってはこちらの方が余程楽な道であるかも
しれないのだ。
彼女は全ての義務から自由になり、新しい人生を得る。まだ若い
人間だ。過去を捨ててしまえばいくらでもやり直しがきくだろう。
兄と争うという道の他にも、オルティアにはまだそんな可能性が
948
残されているのだ。
沈黙は長く続いた。
その間雫は微動だにせず、ファニートは険しい目で、ニケは感情
を殺してそれぞれの焦点を保っていた。
姫はじっと自分の膝上に視線を落とす。
それは長い間鳥籠に閉じ込められていた鳥が、ずっと籠が開いて
いたことにようやく気づいたような不安げな目に似ていた。
寄る辺ない空虚と、同量の自嘲を湛えてオルティアは笑う。
﹁妾に⋮⋮ここから逃げろというのか、雫﹂
﹁女王になる気はないと仰るのなら、今すぐお逃げ下さい﹂
﹁それがお前の希望か?﹂
まったく違う道を歩いてきた二人の女は、時折相手の姿に﹁別の
自分﹂を見る。
たとえば王族として生まれていれば、或いは地位のない平民であ
ったなら。
家族皆から愛されていれば、もしくは切り捨てられて育ったのな
ら。
どうなっていたのだろう。どうしていたのだろう。
その答えを相手の中に見る。吊りあわない鏡を覗き込む。
雫は女の瞳を見返して、刹那今までの道行きに思いを馳せた。
そして、先の分からぬこれからを思う。
決して楽ではないだろう未来。だがそこにいる彼女は多分一人で
はないのだろう。
背筋を伸ばす。主君を見つめる。
幾千の言葉を費やしても伝わらぬ思いを込めて、雫は口を開いた。
﹁私の希望を申し上げてよろしいのなら。姫、どうぞ女王におなり
949
ください。歴史上には名君で始まり暴君に終わった王もおりますれ
ば、あなた様はその逆をお辿りください。鳥籠越しではなくご自身
の目で国をご覧下されば、姫もいずれお分かりになるでしょう。人
の世は確かに理不尽が多くはありますが⋮⋮⋮⋮それでいて、意外
と優しいものですよ﹂
きっと、誰よりも自分こそが人の優しさを知っている。
その優しさに救われて、見知らぬこの世界を渡って来れたのだか
ら。
だからオルティアも知ればいい。
兄によって歪められ閉じられた鳥籠の中だけではなく、外の世界
多くの人々に、そして自分自身の中にも、人が人を思
に触れて知ればいいのだ。
︱︱︱︱
う気持ちは確かに存在しているのだということを。
※ ※ ※
﹁お前、本気で姫を女王にするつもりなのか?﹂
呆れよりも疑いが勝った言葉に雫は無言で肩を竦める。それが肯
定を意味すると分かったのだろう、ニケは嫌な顔になった。雫は彼
のカップにお茶を注ぎ足す。
小さな休憩室には今は二人以外に誰もいない。オルティアは雫の
話を一通り聞いた後、﹁少し考える﹂と言って側近たちを下がらせ
てしまったのだ。
時間の余裕がまったくない以上、早い決断が欲しかったのだが姫
自身が納得しないのでは仕方ない。その間に出来ることからやって
950
しまおうとのことで、雫はニケを呼び止めると用意していた﹁お願
い﹂を伝えた。
しかしその返答は、先程の何とも言えない問いである。彼女はお
茶菓子を広げながら首を傾げた。
﹁何で? あんたは反対?﹂
﹁お前な⋮⋮姫がどういう人間かよく分かってないぞ。あの方が気
まぐれで処刑した人間がどれくらいいると思ってるんだ﹂
﹁あー、うん﹂
こういう意見があるだろうとは思っていた。確かにオルティアの
行状について、雫がもっとも知識に乏しいのだ。
残虐な行いを重ねてきたと言われても、それを目の当たりにした
ことは一度もない。分かってないと言われたら、﹁その通りだ﹂と
しか答えようがないだろう。
姫の手足として他国に出向いて暗躍することも少なくない男を、
雫はじっと見つめる。
彼がどうしてオルティアの側近となっているのか、詳しいことを
彼女は何も知らない。彼が自分の主君を真実どう思っているかも。
だが彼が雫の前で見せる姫に対しての言動は、少なくともファニ
ートとはまた性質の異なるものに見えていた。ニケは、無言で自分
を凝視してくる雫に眉を顰めると、﹁見るな﹂と言って顔の前で手
を振る。
﹁見るなって⋮⋮まぁいいけどさ。うーん、私って結局、甘い人間
なんだよね﹂
﹁そうだろうな。よく分かる﹂
﹁うん。だから、すっごく腹立ってもその人の違う一面見ると、本
当は優しいところあるんじゃないかって思う。そう思いたいんだよ
ね、きっと。そう思った方が気が楽になるから﹂
﹁馬鹿だ⋮⋮。お前、それ騙されるぞ﹂
﹁もう騙された﹂
951
あえて明るく言うとニケはますます顔を顰める。それが彼女の体
に刻まれた紋様と関係あると分かったのだろう、彼は舌打ちまでし
てお茶に口をつけた。
すっかり人相の悪くなった同僚を雫は横目で見やって笑う。
﹁あんたとかも、第一印象最悪だけど実際優しいところあるって知
ってるし。姫も本当ならもっと違う風にもなれるんじゃないかな。
時々そう感じるよ﹂
﹁俺を例に出すな﹂
﹁自分を棚に上げないでよ。姫の重臣のくせに﹂
﹁姫が俺を使うのは、俺が忠実な人間じゃないと知っているからだ﹂
﹁へ?﹂
普通、側近を選ぶ理由としては逆じゃないだろうか。
言い間違いかと目を丸くした雫の口に、ニケは腹立たしげに茶菓
子を押し込んだ。残った包み紙を丸めて手の中で燃やす。
﹁姫は俺が内心逆らいたがっていると知っていて俺を使う。それで
も俺が絶対背かないと知っているからだ。だから時々試すような命
令をして反応を愉しむ。⋮⋮まぁ俺はそれが分かるから面には出さ
ないけどな﹂
﹁うっわぁ﹂
そう言えばこの国に来たばかりの頃、ファニートがニケを指して
﹁二重人格だからこそ姫のお気に入りだ﹂と言っていたが、その時
は意味がよく分からなかったのだ。聞いてみれば中々の屈折ぶりに
上手い感想が言えない。雫は押し込まれた菓子を食べてしまうと﹁
中間管理職の悲哀っぽいね﹂と自分でも意味不明なことを口にした。
彼は苦い顔でお茶のカップを手に取る。
﹁優しいかどうかはともかくとして、まぁそういう人だ。女王に向
いてるとは思えん﹂
﹁うーん⋮⋮。でもまだ姫若いしさ﹂
﹁普通なら結婚してる年齢だぞ。若くはない﹂
952
﹁え。そうなの?﹂
十九歳で結婚とは雫の感覚では充分早いのだが、そうではないの
だろうか。
ぽかんとした彼女にニケは﹁王族ならな﹂と補足した。それには
納得して雫は頷く。
﹁何ていうかさ、何かすっごく衝撃的な出来事があって方向性が変
わっちゃった人ってさ、逆に言えばそれがなければもっと違う人生
送ってたんじゃないかな﹂
﹁⋮⋮そうかもな﹂
﹁だから、そういう人って可能的には転換がきくんじゃないかと思
ってる。本人がやり直したいって思えればある程度は何とかなるん
じゃない?﹂
人間には、はたしてそれくらいの柔軟性があるのではないだろう
か。
誰かによって曲げられたものなら、きっかけさえあれば自分の意
志で方向性を変えることはできないか。
こんなことを考えてしまう辺り自分は本当に甘いのだろうし、人
への期待をしすぎている気もする。だが、その可能性をはなから捨
ててしまうのはやはり違うだろうと雫は思っているのだ。
雫は皺が寄ってしまった眉間を指でほぐす。
その様をニケは意識した無表情で眺めていたが、やがて盛大な溜
息と共に立ち上がった。
﹁まぁいい。どの道俺も今更普通の魔法士には戻れんからな。お前
の案に付き合ってやるさ﹂
﹁ん。ありがとう﹂
﹁それで、もし姫を玉座につけてもあの性格のままだったらどうす
る? それでもお前は姫に付き合っていくのか?﹂
953
当然考えなければならないその可能性。
それを突きつけられて雫は苦笑した。一つしかない南西の窓から
外を見やる。
雲一つない青空は絵の具を塗りたくったかのように平坦だった。
その空が続いているであろう先の戦場を思って彼女は目を閉じる。
﹁そうだね⋮⋮。その時はきっとまた揉め事になって⋮⋮キスクの
王家はおしまいになるかもしれないね﹂
トライフィナの偽りから続く王家の血筋。その最後をオルティア
は女王として担うことになるのかもしれない。今でも、その可能性
は充分に高いだろう。ファルサスの手は既に国内にまで伸びてきて
いるのだ。それを食い止めなければ彼ら全てに未来はない。
﹁あー、荷が重いよ。何で私が王族の側近やってんの?﹂
﹁知るか。さっさと動け﹂
ぶっきらぼうな返事をかけてくる男について、雫は休憩室を出る。
そうして一歩部屋を出た時、彼女の貌はもはや重圧にぼやいてい
た年若い女ではなく、姫に仕える臣として老成したものに変わって
いたのだった。
腕の中の体は小さく、頼りない。
雫は軽い赤子の体を抱き直して笑顔になった。傍に立つユーラも
同様に柔らかい表情を浮かべる。
﹁ごめんなさい、ユーラ。厄介なこと頼んでしまって﹂
﹁いえ。お力になれて嬉しいですわ﹂
同い年の女官の言葉は温かくも力強い。その強さに安堵して雫は
ヴィエドをユーラの腕の中へと戻した。小さな部屋を見回す。
ヴィエドを元の部屋から移動させたのは、雫がベエルハースの真
意を知ってから一番に行ったことだ。
954
ファルサスが侵攻している現在、生まれて間もないこの赤子の存
在にはかなりの意味がある。ベエルハースが雫を生かした大きな要
因の一つもこの子供にあるのだ。王の手にヴィエドを渡すことは何
としても避けねばならなかった。
夜中に突然移動させられた赤子は、城内で雫の信用がもっとも篤
い女性、ユーラとウィレットに託された。彼女たちによってとりあ
えずの面倒を見てもらいながら、改めて信用の置ける乳母や側仕え
を選び出す。これは面倒ではあるが用心の為に致し方ない変更だろ
う。別の乳母から理由を言わず貰ってきた母乳を、ウィレットは魔
法板で温めなおしていた。
ユーラとウィレットの二人は、ヴィエドを預けられて初めてその
存在を知ったのだが、親を問うてくることはしない。雫がこの件に
関して口止めを徹底した為、事態の重大さを感じ取ったのだろう。
年若いウィレットは意外にも﹁町でよく赤ん坊の面倒見てたんです
よ﹂と慣れた手つきでヴィエドの世話をしてくれた。今も手際よく
温めた母乳をユーラに渡すと、洗いあがった沢山の布を畳みながら
稚い笑顔を見せる。
﹁そう言えば雫さん、最近ニケさまと仲いいですよねー﹂
﹁うわっ、様づけが似合わない。別に仲悪くはないけど、よくもな
いよ。仕事の話するからじゃない?﹂
﹁ええー残念。本当雫さんってどんな人が好みなんですか? それ
教えてくれれば張り切りますから﹂
﹁何を張り切るの⋮⋮﹂
ヴィエドの世話以外に張り切って欲しいことなどまったくない。
苦い顔になった雫は、だがあることを思い出して﹁あー﹂とやる
気ない声を上げた。
﹁そうだ⋮⋮体に変な模様があっても気にしない人って項目が加わ
ったんだっけ﹂
﹁何ですかそれ﹂
955
思わず驚いてしまうほど真剣な声を上げたのは雫の背後にいたユ
ーラの方だ。彼女の表情に世間話では済まない、探るような心配を
見て取った雫は慌てて言い繕う。
﹁な、何でもないです。平気平気﹂
﹁本当ですか? 誰かに何かをされたんじゃないでしょうね﹂
﹁ないない! ギッタギタにしなくていいです!﹂
ならいいんですけど⋮⋮と引き下がったユーラの目は心なしか残
念そうだった。雫は自分がギタギタにされそうな気がして妙にうろ
たえてしまう。
もし本当のことを言えたのなら、ユーラはジレドに食って掛かる
かもしれない。そこまで想像して雫はぽんと両手を叩いた。ひたす
ら洗濯物畳みをこなしていく少女に向って手を振る。
﹁そうだ。ウィレット、私、好きな人いるんだよね﹂
﹁え! 誰ですか? 教えて下さい!﹂
途端に目を輝かせて飛びついてくるウィレットに雫はにっこりと
笑いかけた。
恋の噂話は女性の間でまたたく間に広がっていくと、そのことを
よく知りながら。
裏町の中にある小さな酒場は、数日前から徐々に客足が減りつつ
あった。この店の主な客層である傭兵たちの間で、ファルサス侵攻
についての事前情報が流されたのだ。
一時は傭兵の雇い口が増えるかと思い各地から手練が集まったの
だが、キスクの国自体が一向に動かないと分かると彼らは面倒を嫌
って別の国へと出て行った。中には私兵を雇いつつ状況を見定めよ
うとする貴族たちの下についた人間もいるのだが、そう言った人間
たちもまた雇い主のところに待機するため町の酒場には滅多に顔を
出さない。
956
大人が二十人も入ればいっぱいになるような酒場にもかかわらず
空席が目立つ店に、だが一人の客がやって来たのは昼前のことだっ
た。
ファニートは、酒場の隅にたむろす男
剣を生業とすることが明らかに分かる体つき、だが傭兵がよく持
つ野卑さがない男︱︱︱︱
たちと目が合うといつもの調子で問いかけた。
﹁ターキスという傭兵を探している。誰か知らぬか?﹂
﹁ターキス? あいつがどうしたのか?﹂
﹁人の紹介で仕事を頼みたい。居場所を知っているのなら教えて欲
しい﹂
﹁残念だが、数日前にキスクを出ちまったよ。確かメディアルに行
くといっていた﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
すれ違ってしまったのは惜しいが、仕方のないことだろう。
元々ファニートは雫に﹁顔も広いし信用できるから﹂と言ってま
ずターキスが捕まるかどうか探してみるよう頼まれたのだ。本当の
目的は最初から別のところにある。
﹁なら別の人間に頼みたい。報酬は弾むし、秘密さえ守れれば人数
は問わない﹂
﹁仕事の内容は?﹂
﹁人探しだ。ただし早急に頼む﹂
ファニートが男たちに提示した成功報酬は、尋ね人の捜索にして
は破格なものだった。男たちの表情が目に見えて変わる。
﹁凄いな。⋮⋮あんた上流階級に仕える人間だろ。こないだもそう
いう人間が来たぜ﹂
﹁こちらへの詮索は控えてくれ。秘密を守れないようならばこの話
はなしだ﹂
﹁守る守る。で、誰を探せばいいんだ?﹂
陽気に依頼内容を問うてくる男にファニートは一人の男の名前を
告げる。
957
これがはたしてオルティアの未来を変える一矢となれるのか、確
信を持てる人間はまだ誰一人として存在していなかった。
向かい合って座る男の顔はいつも通りの笑顔だ。部屋の空気も普
段と変わりない。
だがその変化がないということ自体にオルティアは不穏を感じず
にはいられなかった。象牙の駒を指でつつきながら兄の様子を窺う。
王からの突然の呼び出しを、彼女ははじめ雫絡みのことかと思っ
たが、彼が話題に上げたのは当然と言えば当然、ファルサスについ
てのことだった。侵攻が開始されておおよそ八時間。現在はワイス
ズ砦前で両軍は膠着しているらしい。援軍を出そうかというオルテ
ィアの提案にベエルハースは苦笑した。
﹁勝てる自信があるのかい、オルティア﹂
﹁自信があると断言できるのなら、その人間は信用がおけませぬ﹂
﹁だが、お前が始めた遊びであろう?﹂
王の声が意識しなければ分からない程僅かに低くなる。
それは、国の窮地にその原因となった者を非難するというよりは、
観察者のように手の中の駒の足掻きを俯瞰する者の声音に聞こえた。
オルティアはその変化に気づかぬ振りをして盤上に駒を置く。
﹁何もファルサス全軍を打ち滅ぼさねばならぬわけではありますま
い。ただ王が斃れればよい。ファルサス軍の指揮は王自身が取って
いるというのなら、数に頼って攻撃をしかければ、それだけで形成
は逆転するのではないですか?﹂
本音を言うなら、オルティアはこの争いの終着点がどうなろうと
も構わないのだ。キスクもファルサスも皆が慌てふためき、混乱が
今は何だ
深まればそれでよかった。あの男に覚えのない子供をつきつけると
ころを想像するだけで笑みが零れる。
けれどそう思えていたのは昨晩までのことで︱︱︱︱
958
か、全てが色褪せて何にも興味をそそられなかった。
オルティアが置いた駒をベエルハースの指が弾く。
﹁だがそこまでしては最早後戻りはきかぬだろう。直系の子供を擁
したからこそファルサスに戦を仕掛けたのではないかと周囲に思わ
れる﹂
﹁後戻りをなさるおつもりだったのですか? ファルサスを何とか
したいと、兄上も再三仰っていたと記憶しておりますが﹂
﹁今でも思っている。ただやはり躊躇われるものがあってね。お前
の言うことなら何でも聞いてやりたいのだが﹂
何故雫は、﹁女王にならないのなら城を逃げ出せ﹂と
まるで煮え切らない返事。変わらぬ茫洋。
︱︱︱︱
言ったのか。
オルティアはしかし、不信を表に出すようなことはしなかった。
取られた駒を眺めて赤い唇を動かす。
﹁ならば妾に兵権を下されればよろしいのです。所詮、生半可なこ
とではファルサスを抑えることなど出来ぬのですから﹂
ベエルハースには思い切った決断など出来ない。全軍を動かす指
揮権を持っていても、彼が頂点に立っていてはその使い時さえ上手
く見極められないだろう。
戦術の才という点ではオルティアもそれには疎いのだが、彼女は
強敵相手に兵力を惜しんではいけないことは知っている。いつどこ
にどれだけの軍を投入するか、それを大まかに決めれば後は将軍た
ちの仕事なのだ。
妹の具申にベエルハースは苦笑する。
﹁それは出来ない﹂
﹁手遅れになりますよ﹂
﹁大丈夫だよ。少し待っていなさい⋮⋮⋮⋮お前は待っているだけ
でいい﹂
いつになく落ち着いた兄の言葉にオルティアは反論を諦める。
しばらくして盤上の駒を動かした王は﹁そう言えば、あの娘は何
959
か言っていたかい?﹂と尋ねてきたが、姫はそれに軽く眉を顰めて
﹁どの娘でしょう﹂と返したのだった。
何故オルティアに進言する内容として簒奪を勧めたかといえば、
単にベエルハースが無能であったから、ということがその大きな理
由である。
妹の性格を歪め利用しながらいざとなったら彼女を切り捨てよう
とする行い、そして雫自身に行った仕打ちは確かに許しがたいもの
だが、もしベエルハースがラルスのように有能な為政者であったな
ら、雫は簒奪ではなく城からの逃走をまず勧めただろう。
だが、幸か不幸か彼には王としての才がない。
兄妹共に性格の歪んだ人間なら有能な方が玉座にいた方がいいの
ではないか、そんな現実的な計算も雫の中にはあったのだ。
勿論オルティアの方が兄よりも大分若い。彼女が本来持っていた
可能性を考えれば、これからよき為政者になることも出来るだろう。
下手をしたら恐ろしい暴君を生み出すことになる賭けではあったが、
その時はそれこそ本当に民が黙ってはいまい。
雫はそうならないようオルティアの側につき、姫をたしなめてい
くこともまた自分の仕事だと思っていた。
﹁お呼びとのことで、姫﹂
石床に片膝をついて雫は頭を垂れる。
オルティアに呼び出されたのは昼食を済ませてすぐのことだ。フ
ァニートもニケもそれぞれの仕事に出ている為、姫の私室には女二
人しかいない。
長椅子に寝そべるわけでもなく足を下ろして座っているオルティ
アは、臣下の黒髪を見下ろした。
﹁雫、兄上に会ってきた﹂
960
﹁左様でございますか﹂
﹁兄上は、ファルサスの侵攻を止める為に妾を差し出すつもりだ﹂
頭上に降ってきた言葉。それは、オルティア自身が決定したこと
のように冷ややかなものだった。
雫は僅かに震えて顔を上げる。宝石そのもののような琥珀色の瞳
と、茶色がかった黒の瞳がぶつかった。そこには音のないさざなみ
が立つ。
今まで雫が見た中でもっとも落ち着いて見えるオルティアの貌は、
凪いだ海が透き通るかのように美しかった。
その上には何の悲しみも、苦しみも見えない。
けれど見ている雫の胸が痛むのはどうしてなのだろう。
オルティアは紅色の唇から鈴に似た声を紡いだ。
﹁妾を、今回の原因を作った罪人としてファルサスに引き渡そうと
している。それと或いはロスタの領地幾分かを払って、奴らを退か
せようとしているのだ。邪魔な妾がいなくなれば子供を手中にして
好機を待つことが出来る。兄上は戦を嫌がっておられたからな。も
っと別の手段を取るだろう﹂
﹁⋮⋮そう陛下が仰られたのですか?﹂
﹁いや? だが分かった。軍を動かさないのなら交渉で相応の代価
を与えねばファルサスは止められまい。領地も、金も、それだけで
は不足だ。今回の責を負う人間を出さなければな﹂
﹁姫﹂
﹁仕方あるまい。妾の為したことは事実だ。遊びも度が過ぎたので
あろう。兄上は気の大きい方ではないからな﹂
平坦な声は、少しだけ沈んでいるようにも聞こえた。オルティア
は目を逸らし僅かに開けられた窓の外を眺める。
彼女にとっての兄とはどのような存在だったのだろう。
見下しながらもその関係に安堵していたのか、捨てられることを
疑っていなかったのか、二人が一緒にいるところさえ見たことのな
961
い雫には想像もつかない。
ただ、﹁仕方ない﹂と言い切るオルティアにはいつもの傲然さが
何処にもなかった。雫はそれを不安に思う。
もしこのまま気落ちして、ベエルハースの言うままにでもなられ
たら困るのだ。少なくとも雫は負けたくはないし、ヴィエドを王に
渡したくもない。
眉を顰めてオルティアの表情を読み取ろうとする雫を、姫は乾い
た目で一瞥した。
﹁雫、他に何を知っている﹂
﹁姫がお望みになるのなら、やがてそれはお分かりになることのは
ずです﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
悪いのは自分だけと、オルティアは思っているのだろうか。
彼女がそう思うことまで計算してベエルハースが今日を導いたと
いうのなら、厚顔にも程がある。
雫はつい自分が知っていることを全てぶちまけたい衝動に駆られ
た。忌々しさに内心歯軋りをする。
﹁雫﹂
﹁はい﹂
﹁お前は甘い。青臭い理想ばかり吐いて、いちいち説教臭い﹂
﹁左様で﹂
急に何を言い出すのか。だが、事実であったので雫は頭を下げて
異論を差し挟まなかった。オルティアは嘲る風でもなく淡々と続け
る。
﹁おまけに馬鹿だ。妾に殺されそうになったにもかかわらず、妾を
王にしようなどと言い出す。何も考えていないのであろう﹂
﹁⋮⋮そのようなことはございませんが﹂
﹁策も穴だらけだ。こんなものを勧めて妾を破滅させる気か﹂
﹁申し訳ございません﹂
962
一晩で考えられるだけ考えたものだが、やはり問題が多いものだ
ったらしい。時間がない為とりあえずいくつか動かし始めているの
だが、計画の付けたしが必要だろうと、雫は床を見たまま考え込ん
だ。
オルティアの硬質な声が彼女の思考を叩く。
﹁もうよい。お前の謀略になどはなから期待しておらぬ。︱︱︱︱
後は、妾がやる﹂
聞き間違えかと、一瞬思った。
雫は弾かれたように顔を上げる。
兄の裏切りによって折れてしまったかと思った主君の目。だがそ
れはいつのまにか、闇夜に潜む獣と同じく力を持って光っていた。
残酷でしなやかな、艶かしい獣。
それを人の姿に変じさせたかのような女は、淀みない声を奏でる。
﹁切り捨てられるのはその者に力がないから、そういう目に遭うの
だ。今の妾は違う。玉座になど興味はないが、兄上が妾を処分しよ
うというのなら⋮⋮これでも自国の者にさえ恐れられた人間だ。黙
って捨てられることはせぬ。あの男に引き渡されるのも癪だ。⋮⋮
少し、お前の真似をして足掻いてみよう﹂
琥珀色の瞳。
初めて見た時には自信に溢れ蠱惑的だと思った双眸は、今は微か
に揺れて見える。
それは自分の為したことの反動を目の当たりにしたせいか、兄を
敵に回すせいか、声音とは裏腹に幼子の如く惑っていた。
窓から徐々に入り込む風を追って、オルティアは部屋を見回す。
もう香の香りはしない。空気はゆっくりと変わっていく。
何人もの憎悪と怨嗟が積もっていた部屋は、今はまるで全ての虚
飾が取り払われたかのように殺風景に見えた。
その中央に座する女は、跪く臣下を視界に捉える。
963
﹁雫、これで⋮⋮よいのだな⋮⋮?﹂
オルティアは迷っている。
自分の行いが、兄にこのような決断をさせたのではないかと。知
らないがゆえに、ベエルハースに謀略を向けることを躊躇う。
だがそれでも彼女は選び取ろうというのだ。
自分を守る為に。矜持の為に。理想ばかりで自分に反してきた雫
を信じて。歪められ生まれた酷薄を兄に向け、逃げ出したかった国
を獲ろうとしている。
この変節がどれ程の重圧の始まりなのか。ただ、雫に今出来るこ
とはオルティアを後押しすることだけだった。
﹁お心のままに。迷わずお進み下さい、姫﹂
ここからの闘争は、オルティアが己の過去を知る戦いになるのか
もしれない。
明らかになるであろう事実が彼女の心を砕いてしまうか、転換を
もたらすかは、まだ雫にも判断のつかぬことだ。
だが、そこには可能性が残っている。
逃げ出さないでいるのならば、戦うことを選ぶならば、無理矢理
にでも先を切り拓く為の可能性は、この道にしか残っていないのだ。
﹁失態があればお前の命で払ってもらうぞ﹂
﹁今更でございますね。私も勿論色々と苦言を呈させて頂く予定で
すが﹂
﹁妾はお前のそれが心底鬱陶しい﹂
﹁耳に快い説教などございません﹂
少なくない欺瞞を抱えて、雫は次の扉の前に立つ。
いずれこの選択が自分を身を危うくする日が来るのかもしれない。
そのことも分かっている。
だが今は足を止めない。次の一歩の為に進んでいく。
そうすることこそが自分の望む姿だと、とうに気づいてしまって
964
いるのだから。
965
002
キスクの宮廷において王位の簒奪には、大きく分けて暴力によっ
て行う、正規の手段で行うかの二種類がある。
初めてその説明をファニートから受けた時、雫は﹁正規の簒奪?﹂
ともっともな疑問を口にしてしまったのだが、要するに三国の併合
によって出来上がったキスクには王の退位決定に関わる貴族機関が
制度上残されているらしいのだ。
﹁キスクの元となった三国、キアーフ、ティルガ、ラドマイの旧王
家筋の三家がそれぞれ筆頭となり全部で十二家。これらの家の当主
たちの審議にて過半数を得れば王を交代させることが出来る﹂
﹁え、それだけでいいの?﹂
気の抜けた相槌を打つ雫に、ファニートは無表情で頷く。
﹁それだけだ。ただこの制度を使って王を退位させたことがあるの
は歴史上ただ一度のみでな。実際城でも忘れ去られかけている制度
で、今でも行われる可能性があるのは三家の当主審議くらいだ。注
意が必要なのもこちらだな﹂
﹁注意? 何で?﹂
﹁王族の処分を決定するのが三家の当主審議だからだ。王の許可と
三人のうち二人の賛同が得られれば王族の処分が下される。もし陛
下がオルティア様をファルサスに引き渡そうというのならこの三家
審議にかけてからのことになるだろう﹂
﹁あー⋮⋮ならそれを食い止めることが先決かぁ﹂
広げられた書類を読むことは雫には出来ないが、複数進行してい
る情報操作や懐柔策の半分ほどは把握している。
966
確かにこういった仕事に関して、彼女はオルティアの足元にも及
ばないらしい。姫はベエルハースに気づかれないよう文官たちを抱
きこんで、急速に貴族たちや領主にも策を伸ばしつつあった。
ファニートは無骨な指で書類の一枚を叩く。
﹁三人の当主のうちティルガ侯の懐柔はまず不可能だ。残りの二人
を何とかしなければならない﹂
﹁何で不可能なの?﹂
﹁姫はティルガ侯の甥を処刑させたことがある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あぁ﹂
雫は思わず書類の海に突っ伏したい衝動に駆られたが、立場上そ
れを堪えた。脱力して顎が落ちかけた彼女にファニートが付け足す。
﹁もっとも、あの件は相手が悪かったのだ。その男は叔父の口利き
で文官となったにもかかわらず城の金を横領していたのだからな﹂
﹁じゃあ別に姫悪くないんじゃ﹂
﹁叔父を呼べと騒ぎ立てたのを無視してほぼ独断で処刑なさった﹂
﹁はい、駄目だね。残り二人に賭けよう﹂
こういった話が一つや二つではないのだから頭が痛い。雫は深々
と溜息をつくと、三家のうち残り二人の資料を探してもらい手に取
った。
﹁尋ね人が見つかるのが一番いいんだけどね﹂
﹁探させてはいる。が、それで本当に何とかなるのか?﹂
﹁なる、と思う。上手く行けば風向きを変えられると思うよ。とり
あえず信じてみて﹂
雫が微苦笑するとファニートは無言で頷く。
彼も色々思うところがあるのだろうが、こうして信じてくれるこ
とだけで充分ありがたい。
もっとも彼はあまり謀略には向いていないらしく、ニケが大まか
な方針だけを聞いて後は自分の裁量で事を進めているのに対し、フ
ァニートはもっぱら姫の側へとついている。ベエルハースもファル
967
サスに引き渡す前にオルティアを傷つけようとするとは思えないが、
姫自身が全ての要である以上護衛を離すわけにはいかなかった。
この辺りは適材適所と言えるのだろう。雫はオルティアのいる奥
の部屋の扉を振り返る。
﹁あとは、ファルサスもいるのか⋮⋮。本当、帰ってくれないかな﹂
﹁今はまだファルサス軍もロスタを出ていないようだ。もっともロ
スタを出て城都まで進軍するのは容易ではないがな。途中の街道沿
いにはワイスズ砦があるし、あそこは対魔法防御用の人員がいるか
らファルサスであっても簡単には落とせぬだろう。⋮⋮と言っても、
援軍を呼ばれては困る。本当ならこちらも軍を編成したいのだが、
王の許可がなければ無理だ﹂
﹁あうー。せめて王と王様、どっちか片方だったらなぁ﹂
前者はベエルハースで後者はラルスのことなのだが、ファニート
には通じなかったらしい。彼は相槌を打たなかった。
雫は書類に戻ると中の単語を拾い上げて思案顔になる。
﹁ねぇ、これ使えない?﹂
﹁どれだ?﹂
ラドマイ侯の家族構成の中に書かれていた一項目を二人は見つめ
た。ファニートは理解したのか軽く目を瞠る。
﹁使えるかもしれん﹂
短い応答で利を確認すると二人は立ち上がった。同じように書類
を前に思考を巡らせているであろうオルティアの元へと向う。
ベエルハースがファルサス侵攻についての見解をまとめ、オルテ
ィアにその原因を結論づけて三家当主審議にかけるまで、この時点
で残り三日となっていた。
※ ※ ※
968
数日前から絶えず吹いている風は、今日になってからいささか勢
いを増したようだ。
ワイスズ砦が遠く北に見える森にて陣を張っていたファルサス軍
は、早朝の薄闇を照らす明かりを炎から魔法のものへと切り替える。
キスク領内に侵攻を始めてから丸七日、緒戦を勝利で収めたファ
ルサスはけれど、キスク軍がワイスズ砦に逃げ込んでしまったこと
により一旦進軍を停止していた。
もともとキスク軍を叩くことから始めたのも、同数程度での戦に
おいて力の違いを思い知らせ、しばらく相手の動きを封じ込めると
いう意図があったのだ。ラルスは四度、砦を拠点に出撃してきたキ
スク軍をあしらうと少し本軍を後退させ、その間にアズリアに別働
を与えてカリパラの街を占領させた。同時にロスタ領内の領主貴族
の動向にも監視を入れる。
キスクが自国領であるロスタを捨て駒のように放置した以上、ロ
スタは独自で反抗する意志を持つかもしれない。だがそう思って調
査をしたにもかかわらず、ファルサス侵攻前まではカソラの民に公
然と圧力を加えていた彼らも、今は半ば死んでしまったかのように
沈黙していた。
一通りの報告を魔法士を経由して受け取ったラルスは、つまらな
そうに嘯く。
﹁折角来たのに無視か。無視できない場所にでも行ってやるか。城
都とか﹂
﹁おやめください。それをなさるなら最低でもあと十万は兵が必要
です﹂
﹁金がかかる。文官に嫌がられる﹂
969
ファルサスとしては、これ以上の兵を動員することなくキスク、
あるいはロスタからの降伏をもぎ取りたい。その上でカリパラの街
をファルサス領へと引き取ってしまえば後顧の憂いも断てるだろう。
もっともここしばらくの暗殺未遂がキスクの手によるものだと知
っているラルスは、その辺りも含めて城に制裁を加えたいとは思っ
ているのだが。
天幕の外に出て倒木に座る王は、枯れ枝で地面に何だかよく分か
らぬ絵を描いている。これが子供だったら﹁真剣に聞いているのか﹂
と怒られるところだが、皆思っていても相手が相手なので注意でき
ない。
王は足が四本ある鳥の絵を描き上げてから不意に顔を上げた。
﹁砦の方はどうだ?﹂
﹁あいかわらず強固な防御結界が一帯に敷かれております。範囲内
では許可されていない魔法士は構成を組むことが出来ません﹂
﹁外で組んでから中に入ったらどうだ﹂
﹁入った瞬間に構成が無意味化します。つまり、砦周辺では我が軍
は防御も治癒も、全ての魔法が使用できません﹂
﹁あーあ﹂
最上位の防御構成であるその魔法は、恒常的に維持するには人員
も魔力もかかりすぎる。結界が確認出来てから数日経ちつつあるが、
これからも日を追うごとに負担は増えていくだろう。
しかしファルサスが近くに布陣している以上、砦が生命線である
防御陣を容易く手放すとは思えない。
ラルスは空中で枯れ枝をくるくると振り回した。
﹁範囲外から爆撃するか?﹂
﹁それだけの距離があるとなると、防がれる可能性は高いかと。レ
ウティシア様をお呼び致しましょうか﹂
﹁駄目。俺が怒られる﹂
何が怒られるのかは重臣たちには分からないが、怒られる理由は
一つではない気もする。
970
会議というには適当な報告の場に沈黙がさしかかりそうになった
時、しかし王はふとあることを思い出した。
﹁そうだ。使えそうなものがあった。ただ待つのも暇だし、やっぱ
りあの砦は落とすか﹂
﹁え!?﹂
驚く臣下たちを尻目に王は大雑把な指示を与え始める。
途端に機嫌のよくなるラルスを何人かは不安そうに見やったが、
誰も口に出しては何も言わなかったのだった。
まったく可愛げのない娘だ。自分に従えば今よりもい
※ ※ ※
︱︱︱︱
い暮らしをさせてやれるというのに、何も分かっていない。あんな
姫に仕えて一体何になるというのか。強情を張るのもいい加減にす
ればいいのだ︱︱︱︱
壮年の男はそんな苛立ちを抱えながら、忌々しげな表情で廊下の
角を曲がる。
術までかけた雫を手に入れ損ねてから既に一週間以上が過ぎたが、
ジレドは未だ蟠る腹立たしさを忘れることが出来ないでいた。
突然姫のもとにやって来て、流行り病についての実験を終わらせ
た娘。魔法士たちの嫉妬と安堵を同時に生じさせた彼女は、気にな
って顔を見てみれば年の割りに幼さの色濃く残る顔立ちをした人間
だった。
変わった造作をしているが、顔が小さく黒目がちな大きな瞳は異
国の人形を思わせる。普段は飾り気のない姿をしているが、服をド
971
レスに変えて髪を下ろさせ、唇に紅を引けばなかなか見れるように
なるのではないか。
自分がそれを与えてやってもいい、と思ったのは単なる気まぐれ
だ。週に二、三度実験室に来て、子供たちに言葉を教えたり教材を
試したりといった仕事をしている彼女も、用済みになればやがて姫
に処分されるのだろう。
だがそれは少し勿体無い。不要になるなら自分にくれないだろう
かとジレドは思ったのだ。
しかし彼の予想に反してオルティアは雫を手放そうとする気配が
なかった。ベエルハースから彼女がある子供の教育係として決定し
ていると聞いた時は、正直幾分がっかりしてしまったものである。
それでは彼女がオルティアの下から離れる頃にはすっかり大人の
女になってしまう。今だからこそ年齢の分からぬ危うい容姿をして
いるのであって、そうでなくなった彼女には何の価値もないと、ジ
レドの目には映ったのだ。
けれど、好機は意外に早くやってきた。
オルティアは半ば自滅するようにファルサスを呼び込み、王は妹
を切り捨てると決定した。姫がいなくなるならば、あの娘を自分が
好きなようにしてもそれを咎める人間はいない。実際ベエルハース
は側近の欲望を知っていて、彼女に術を施すよう命じたのだ。
だが⋮⋮肝心のところで彼女はジレドの手の中から逃げ出してし
まった。
魔法士たちから忌み嫌われる姫の側近の男に牽制を受けたのも腹
立たしいが、それ以上に彼女が少しも少女のものではない﹁大人の
目﹂で自分を睨んだことも、ジレドにとっては怒りを増大させる原
因となっていた。
﹁あの小娘⋮⋮今に見てろよ﹂
ベエルハースは三家の審議の為、当主たちに召集をかけた。まも
972
なくオルティアは罪人として捕らえられ、ファルサスに引き渡され
ることとなるだろう。
そうなればあの娘を庇護する者は誰もいない。飛びぬけて美しい
わけでもない女だ。欲しいと言えば容易く手に入る。まずは反抗的
な目が出来ぬよう数発殴ってから鎖にでも繋いでやろうと、ジレド
は自分の想像にほくそ笑んだ。
あの晩以来見かけなかった彼女にたまたま出くわしたのは、そん
な想像が偶然を引き寄せた為なのかもしれない。ジレドが足早に歩
いていた廊下の先で扉が急に開き、中から雫が出てきたのだ。
彼女はジレドに気づいて瞬間ぎょっとした目をしたが、すぐに困
ったような笑顔になった。反抗的なところがないその表情に彼は胡
散臭げな目を向ける。
﹁このようなところで何をしている﹂
﹁ちょっと迷子。普段来ないところなんで﹂
確かにこの辺りの部屋は、貴族が歓談をする為に使う広間などが
並んでいる。姫の側近とはいえ、身分のない彼女には縁のない場所
であろう。
扉を閉めた雫は彼に会釈をして歩き出した。ジレドは素早くその
後を追う。
彼女の手首を男が掴んだのは次の角を曲がってすぐのところだっ
た。雫は目を丸くして男を見上げる。
﹁何?﹂
﹁痛みはどうした。犬にでも体をくれてやったのか﹂
﹁犬って﹂
彼女は呆れ混じりの声を洩らしたが、小さく溜息をつくと軽く手
を払った。だが、久々に彼女を見つけたジレドは掴んだ手を放そう
としない。
雫は眉を寄せると、反対側の手を自分の腰に添えた。白い上衣の
973
裾に手をかけ、それを少し捲り上げて見せる。
普段決して日に触れない細い腰。
若木を割ったかのような瑞々しい色の肌には、彼が刻んだ魔法の
紋様がくっきりと残っていた。ジレドは思わず生唾を飲み込む。
本来ならばそれは王の女にしか施されない魔法だ。
束縛を思わせる紋様と若い柔肌の絡み合う様は、秘されたものだ
けにひどくなまめかしい引力を帯びていた。
欲情を強く刺激するその眺めに、ジレドは思わず節くれだった指
を伸ばす。だが雫は服を上げていた手を放すと、肌に触れる直前の
手を掴んで留めた。
目の前の皿を取り上げられたような思いで、すぐには消しがたい
劣情にジレドは呻く。
﹁何故止める﹂
﹁これだけのことをしといて、ただで触ろうってずるいと思うな。
すっごく痛かったし﹂
女の声には棘棘しさはなく、むしろ拗ねたような甘えがあった。
それは男の自尊心をくすぐり、真っ直ぐに見てくる黒い瞳と相ま
って悪い気にさせない。
ジレドは彼女の肌に無理矢理触れるのではなく掴んだままの手首
を引いた。細身の体を腕の中に抱き寄せる。
﹁最初から素直にならぬから痛い目に遭うのだ。大人しくしていれ
ば身を飾る宝石の一つでもくれてやろうというのに﹂
﹁宝石? 本当に?﹂
彼女の声が途端に色めく。それを聞いてジレドは、こういう攻め
方をすればよかったのかと今更ながらに気づいた。本人は穏やかと
思っている、しかし卑しさが隠せない笑顔で雫の顎に指をかけ上を
向かせる。
﹁当たり前だ。それくらい何でもない。何が欲しい?﹂
﹁何が⋮⋮って言われても急には選べないけど⋮⋮⋮⋮他の人のお
974
下がりは嫌だな。ちゃんと私の為に用意してよ﹂
﹁ならお前の名を入れてやる。それでいいか?﹂
﹁あなたの名前も。陛下から貰ったりしないで、自腹切って﹂
﹁うるさい娘だ。まぁいい。その程度でいいならくれてやる﹂
ジレドは雫の腰に回した手を、名残惜しげに服の上で這わせなが
らも彼女の体を解放した。
﹁約束だよ﹂と念を押す彼女と別れると自分の屋敷へと転移する。
元々人形のように飾ってやろうと思っていたのだ。宝石の一つく
らい何でもない。むしろそれ如きで目が眩む女がおかしかった。
邪魔が入ったり彼女の気が変わらぬうちに、すぐに用
彼はさっそく屋敷にある宝石のどれかを加工させようと職人を呼
びつける。
︱︱︱︱
意してやろう。
野良猫を手懐けられたような気分のジレドは、満足感にそれまで
の苛立ちも忘れ浮き立った。
一度手痛く拒絶されたのも術の痛みのせいだったのだと都合よく
勘違いした彼は、だから落ち着いて想像することさえ出来ない。
あの後一人になった雫が、嫌悪感に満ちた目で﹁単純な好色親父﹂
と侮蔑混じりの評価を彼に下していたのだということを。
※ ※ ※
﹁ティルガ侯がいらっしゃいました﹂
文官からの報告にベエルハースは重々しく頷く。
キスクの母体となった三国。その王家筋である三家の当主がこれ
975
で全員揃ったのだ。
王が彼らを召集する手筈を整えたのはつい一週間前のことだ。
突然のファルサス侵攻の原因を王妹の悪質な独断に帰しての審議
は、一応は制度に則って行われるが、その結論は議論の余地もない
ほど明確なものに見える。
オルティアの普段の行状は、甥を処刑されたティルガ侯のみなら
ず国内のほとんどの者が知っているのだ。その為、今回彼女が徒に
ロスタ領主たるティゴールを召喚して、領内の対立やひいてはファ
あくまでベエルハースの計
ルサスを呼び込んだことは、もはや兄王であっても目に余る、庇い
きれない事実となっていた。︱︱︱︱
算においては。
王は用意していた書類に自分の名を書くと、それを文官に渡す。
全員が揃ったなら即、審議に入りたい。オルティアに
既にティルガ侯以外の二侯は内密の内に二日前から城に滞在して
いるのだ。
勘付かれても面倒であるし、何よりもファルサスを止めるには早急
な対処が必要だった。
﹁三侯を集めよ。一時間後に審議を開始する﹂
懸念事項とも言えない懸念があるのだとしたら、それは妹に仕え
る平民の娘のことである。
だが、ここ二、三日耳に入る噂では彼女は既にオルティアとは別
の庇護者を見つけたらしい。あの痛みに耐えられなかったのか、元
の主に先がないと分かったのか、ともかく彼女は王の側へと入った
のだ。
彼女が教育係となっていた赤子の行方は現在分からなくなってい
るが、それはオルティアがファルサス侵攻を知って赤子を隠したか、
あの娘が自分を守る為に隠したかのどちらかだろう。どちらにし
てもオルティアがいなくなってからゆっくり探し出せばいい。
976
長年共にいた妹を切り捨てることに、胸は痛まない。
殺して引き渡そうかとも思ったが、オルティアは若く美しい女な
のだ。生かしておいた方が価値もあがるだろう。
これが他の国相手であればもっと迷ったかもしれないが、ファル
サス国王は女の甘言に乗せられるような人間ではない。詳しい事情
までは知らぬが、かつて数年間側に置いていた寵姫を﹁国政に口を
挟もうとした﹂という理由であっさり国外追放した男だ。オルティ
アを罪人として引き渡せば罪人以上の扱いは与えないだろう。
ベエルハースは立ち上がると王の長い正装を引いた。傲然と顔を
上げ、窓の外を見つめる。
これから、作り上げていくのだ。自分だけの国を。
オルティアを失う分それは容易いものではなくなるだろうが、そ
れでも長らく彼を支配していた劣等感からはようやく逃れられる。
キスクもこれから徐々に変わっていくだろう。
国は決して誰かの玩具などではない。
ただ、人が生きる為に不可欠な道具でしかないのだから。
※ ※ ※
審議を行う部屋には、既に三侯が集められていた。
一斉に立ち上がり、礼をする三人をベエルハースは王の所作で見
やる。
トライフィナと同じキアーフの血を継ぐキアーフ侯は、五十代半
ばの落ち着いた男である。いつも柔和な笑顔を浮かべており寛大さ
を窺わせる彼だが、その判断は的確だ。若い頃は城において先代王
977
と共に政を習ったという彼を、ベエルハースは昔から実の叔父のよ
うに信用していた。
キアーフ侯も三年前までは、よく眉を顰めてオルティアに忠言し
ていたが、妻の体調が思わしくなく領地に引っ込んでからはほとん
ど城に顔を出していない。
だが、今回のことでオルティアへの愛想も尽きただろう。そろそ
ろ彼女を国政から遠ざけるべきだと、思っているに違いない。
ラドマイ侯はキアーフ侯と同年代だが、彼とは違い尊大に振舞う
態度の裏ではいつもおどおどと状況を窺っている。
今まで一度もオルティアに反したことがないラドマイ侯だが、そ
れは単に彼女が有能な執務者であり、その権力が恐ろしかった為だ。
オルティアに先がないと分かれば自然とベエルハースにつくであろ
う。よく風向きを見て強者の方につく、ある意味御しやすい男だ。
ティルガ侯は笑顔を作ることなどないのではないかと言われる程
強面の男で、三人の中では一番若い。だが怖いもの知らずというか
相手が誰であっても歯に衣を着せぬ男で、よくベエルハースもオル
ティアを自由にさせすぎていると諫言されていた。
オルティアもティルガ侯のそういうところが煩わしいらしく、甥
を処刑したのも半分程は彼へのあてつけではないかと思われている。
公私共にもっともオルティアの味方をする可能性がない人間が彼だ
った。
三人のうち二人の同意を得られればオルティアの処分は決する。
しかしベエルハースは三人とも了承を返してくるだろうと思って
いた。それくらいオルティアは薬よりも毒薬となりすぎたのである。
王が席につくと三人も座りなおす。側近の文官が一礼すると、長
い文章を広げ召集内容を読み上げ始めた。現在の状況とオルティア
978
の非を鳴らす整然とした内容に、全員が黙して耳を傾ける。
十五分間に渡る審議内容が読み上げられると、べエルハースは深
い溜息をついた。沈痛な光を両眼に湛えて三人を見回す。
﹁以上の理由により、私、ベエルハース・ネウスキス・ノイド・キ
スクは、オルティア・スティス・リン・キスクから王族としての位
制度に則り、卿らに賛否を問いたい﹂
を剥奪し、ファルサスに罪人として引き渡すことを決した。︱︱︱
︱
語尾が震えかけたのは、罪悪感の為ではなく高揚の為だ。最後の
宣言を口にした時、ベエルハースは自分がずっとオルティアを処分
したがっていたのだということに、今更気づいた。
こんなことならまだ子供だった彼女が攫われた時、遠慮なく殺害
を指示していればよかったのかもしれない。そうすれば自分はもっ
と別の人生を送れていただろう。妹に頼りながら、お飾りの王とし
て鬱屈とした思いを抱えるような生ではなく。
だが、もはや言っても詮無いことだ。ベエルハースは哀惜を口元
に浮かべる。
まるで妹を切り捨てることを悲しんでいるような王を前に、最初
に言葉を発したのは穏健なキアーフ侯だった。
﹁本当に殿下はそこまでの意図をお持ちだったのでしょうか。ファ
ルサス侵攻までは予想外のことだったのでは?﹂
﹁そうだとしたら何故ティゴールを召喚したのかが分からない。彼
を遠ざければカソラの対立が酷くなることは明らかだったろう﹂
ティルガ侯の反論にキアーフ侯は眉を寄せる。愛妻家で知られる
男は、優しげな目の中に芯のようなものを宿してベエルハースを見
た。
﹁ティゴールが不在になってロスタの情勢が崩れたというのなら、
それは後継者への教育を怠ったティゴールに責があります。ファル
サス侵攻で殿下に何の利益もない以上、殿下の故意とするには根拠
に乏しいと思われますが﹂
979
キアーフ侯の問題視している利益のなさ。
これは、ベエルハースがヴィエドの存在を三侯にも隠蔽している
ため不明瞭になってしまっているのだが、﹁ファルサス直系がいる﹂
と教えれば停戦の為にまずその子供を差し出せと言われる恐れがあ
る。ベエルハースはこれからの保険の為にも、出来ればヴィエドを
手放したくなかった。
今のところ赤子の存在は当のファルサスでさえ知らないままだ。
隠そうと思えばうまく隠すことも出来るだろう。オルティアがファ
ルサスに何を言おうともしらを切りとおせばいいのだ。︱︱︱︱
ファルサス王には本当に覚えがないのだから。
キアーフ侯の異論に、王は有用な答を返せない。
それを妹庇いたさと王の義務の間での煩悶と見て取ったティルガ
侯は、椅子に深く座りなおすと自身の結論を述べた。
﹁私は、陛下が仰る殿下の処分には賛成だ。この度の責ははっきり
しておきたい﹂
﹁私は反対する。処分はともかく、キスク王家の姫を罪人としてフ
ァルサスに引き渡すことには賛同できない。それではファルサスの
軍門に下るようなものだ﹂
真っ向から分かれたティルガ侯とキアーフ侯の意見に、ベエルハ
ースは内心嘆息した。
反対意見が出たのは残念だが、予想の範囲内と言えば範囲内だ。
むしろティルガ侯から確実な賛成を得られたことに満足するべきだ
ろう。
残るラドマイ侯は王と姫が対立するとなれば、権力者である王を
支持することは疑いない。今まではオルティアを恐れながらも王族
相手である為、仕方なく要求を聞くこともあった男だ。彼女を排斥
できる好機を見逃すはずがなかった。
980
場の視線が自然とラドマイ侯に集中する。
小太りの男はきょろきょろと部屋を見回すと、喘ぐように小さく
口を開いた。
﹁わ、私は反対だ⋮⋮﹂
﹁何だと!?﹂
思わず大声を上げそうになったベエルハースは、同様の叫びを一
早く上げたティルガ侯に感謝する。驚きを心中で整理してしまうと、
王はラドマイ侯に威のこもった視線を投げかけた。
﹁さて? 結論だけではなく意見も聞こうか﹂
﹁何の意見でございましょうか。兄上﹂
凛とした声。
あでやかなその響きが、部屋の空気を震わせる。
誰であるのか考えるまでもない。ベエルハースを兄と呼ぶ女は一
人しかいない。
王は目を見開いて開けられた扉を見つめる。
三人の大貴族が驚いて振り返った先、文官や衛兵たちの視線まで
もが集まるその場所には、審議の対象たる一人の女が立っていたの
だ。
オルティアは嫣然とした笑みを見せると、優美な足取りで部屋の
中に歩み行った。三人の座する中央を抜け王の前に立つ。
﹁何のお話を、されていたのでしょう。兄上﹂
﹁⋮⋮何故来た。誰から聞いた?﹂
﹁これはおかしなことを仰る。妾のことを決めるのでしょう。妾を
お呼びになればよろしい﹂
普段の薄い私服ではなく、薄灰のドレスを纏ったオルティアは華
やかな笑顔を見せた。その目が笑っていないと分かるのは正面にい
る王しかいない。
981
︱︱︱︱
いつから、どれだけ情報が洩れていたのか。
ともかく分かることとは、彼女は既に全てを知っているというこ
とだけだ。歯軋りするベエルハースにオルティアは目を細める。
﹁もっとも、既に結論は出ているようでございますが。妾は罪人で
はございませぬ。兄上には残念な結論でございましょうが⋮⋮﹂
王が妹の体越しにラドマイ侯を見やると、男は慌てて目を逸らす。
その挙動が示すことは一つ。つまりはこの審議には既に、彼女から
の介入が行われていたということなのだろう。
今まで妹は何も知らないと安堵しきっていたベエルハースは、飲
み込みきれない苦味を口内に感じた。舌が砂でもまとわりついたか
のようにざらつく。
﹁オルティア、何をした﹂
﹁何も? これからしようかとは、考えておりますが﹂
﹁⋮⋮何をだ﹂
美しい女だった。
国
内面の矛盾が、亀裂が、彼女に不安定な妖艶さを与えていた。
それは人に恐怖を呼び起こし、だが目を逸らさせない力だ。
を傾ける女たちが持つといういびつな美しさ。
彼女の気まぐれに死した人間たちもその美しさを否定することは
出来なかっただろう。それくらい彼女には不思議な魅力があった。
だが、今のオルティアは違う。
もっと別種の、晴れた日に咲き誇る花のような空気。自信に満ち
た微笑を見て、ベエルハースは戦慄した。
ずっと長い間、我儘で残虐な姫として彼の手元にあった女。手中
にあると思っていたはずの妹は、いまや彼の前に同等以上の存在と
して立っている。
982
琥珀色の瞳の中に﹁敵手﹂を見る昂然を感じ取った王は、薄い唇
をわななかせた。
﹁オルティア⋮⋮﹂
﹁おそれながら。妾も審議を行いとうございます。兄上﹂
オルティアは王の返事を待たなかった。ドレスの裾を翻して振り
返る。
キスクの妖姫とも謳われる彼女は、傲然と姿勢を正すと兄の肩に
手を置き、その隣に立った。挑戦者が持つような若く熱い目で三人
の当主たちを見回す。
﹁妾⋮⋮オルティア・スティス・リン・キスクは第一王位継承者と
当主の召集を﹂
して、現王ベエルハースの退位を要求する。よって古き法に則り、
十二家審議を行いたい。︱︱︱︱
信じがたい言葉。その意味することを悟った時、ベエルハースは
椅子を蹴って立ち上がっていた。半ば衝動的に振り上げそうになっ
た右手を握ると、妹の顔を見下ろす。
﹁貴様⋮⋮! 何を以って⋮⋮﹂
﹁この危急時に兄上は、軍を出すこともせず息を潜めてファルサス
が過ぎるのを待っておられる。これはとうてい大国を預かる王の姿
とは思えませぬ。使わぬ兵権ならば玉座ごと妾に頂きたい﹂
﹁何を言う! お前がファルサスを⋮⋮﹂
﹁それとも兄上が動かれぬのは、妾を排斥するこの状況こそを望ま
れていらっしゃったからですか? 兄上の命でティゴールを幽閉し
たと申す者がいるようでございますが﹂
最後の言葉に、部屋の中にいた全員が絶句した。戸惑いと疑いの
目がベエルハースに向う。
もし彼が予測外のことであっても落ち着いて対処出来る人間であ
ったなら、この場は平静さを取り戻してオルティアの発言を単なる
讒言と嗜められただろう。
だがベエルハースにはそれが出来なかった。
983
長年抱いていた劣等感が強い動揺をもたらし、結果オルティアの
持つ挑戦的な空気に飲まれてしまった彼は何の抗弁も出来なかった
のだ。
呻き声に似た呟きを噛む兄を、オルティアは瞬間憐憫の目で見や
る。
だがすぐに彼女は王から視線を外すと、呆気に取られている三人
を見据えた。王族が王族たる所以とも言える、力ある声を発する。
﹁王位継承者からの正式な召集要請だ。これより審議が完了するま
で、王と貴侯らが国の決定機関となることを承知せよ﹂
それは、キスク建国時より残された古い制度の一つだ。制度上は
存在するが、今まで動いたことのない緊急機関を自分たちが担うと
知って、三人の男は息を飲む。
オルティアはだが、そんな彼らの緊張をも飲み込む優雅さで笑っ
た。
﹁さて、まずは現在ロスタにいるファルサスについてだが⋮⋮妾は
これを軍を以って迎え撃とうと思う。キスクは自国に踏み込まれ黙
っているような臆病者の国ではない。相手が誰であろうともそれは
変わらぬ。遊び半分で伸ばされた手は払ってやらねばならぬだろう。
さぁ貴侯ら、賛否を申せ﹂
正式な王が決定するまでの空白期間。
その間も待ってはくれぬだろう敵国への反撃を自国の誇りにかけ
て問われた三家当主は、ややあって三人ともが賛同を口にしたので
ある。
※ ※ ※
984
﹁よき⋮⋮臣を持たれましたな﹂
虚脱したベエルハースを置いて審議の部屋から出る途中、キアー
フ侯に言われたのはそんな言葉だった。
オルティアはそれが誰のことを指すか分かって口ごもる。
早めに到着していた二人の当主。彼らとの交渉にあたったのはオ
ルティアの命を受けた雫であったが、﹁ベエルハースの非を鳴らす
よう﹂命じられた雫が実際何を話したのかオルティアは知らないの
だ。娘の成長を見るような目で見られて彼女は居心地の悪さを覚え
る。
﹁召集はすぐにでも申し伝えますが、実際審議が開かれるまでは早
くて一週間を要しましょう。周囲が騒々しい時でありますれば、そ
れまで御身にお気をつけ下さい﹂
﹁分かった。ありがとう﹂
自分でも驚くほど素直な返事が出来た。キアーフ侯は穏やかに微
笑むと、一礼して去っていく。﹁いい人でしたよ。正面から話した
ら分かってくれましたから﹂と雫に称された男の背をオルティアは
黙って見送った。
最初にかけられた言葉にあった少しの間。その間に彼が本当は何
と言いたかったのか、彼女には分かっている。
﹃よき友人を持たれましたな﹄と、オルティアには確かにそう聞こ
えていたのだから。
※ ※ ※
三家の当主審議が思っていたより早く行われたのには肝を冷やし
985
たが、どうやら無事切り抜けられたようだ。
ファニートから連絡を受けた雫は、安堵の深呼吸をしてヴィエド
のところへ向う。途中の廊下でウィレットと一緒になった。
﹁雫さん、いいことありましたー?﹂
﹁うん。いいことあった。無事前期の単位取れたって感じ﹂
﹁何ですかそれ﹂
本番とも言えるのはこれから召集される十二家による審議なのだ
が、とりあえず今は喜んでもいいだろう。いつになく嬉しそうな雫
にウィレットは首を傾げる。
﹁ひょっとして好きな人と何か進展があったとかですか? 私、雫
さんの趣味ってよく分からないっていうかまったく共感できないん
ですけど。あの親父、いえ、あの人って私たちくらいの年の女官に
すんごく評判悪いんですよー﹂
﹁ああ⋮⋮そんな感じだね﹂
元の世界でも即セクハラの悪評が立ちそうなジレドの目つきを思
い出して雫は苦笑する。あんな調子で立場の弱い女官に接していた
ら、さぞや影で悪口を言われていることだろう。少しは自粛してい
れば身を滅ぼさずに済んだのに、と彼女は思ったが同情はしなかっ
た。
雫から﹁好きな人﹂としてジレドの名を聞き、それを城内に広め
た少女は不満そうに口を尖らせる。
﹁雫さんはすごーく年上が好みなのかもしれませんけど、それだっ
てもっといい人いっぱいいますよー﹂
﹁うん、もういいや﹂
﹁今お城にいらしてるティルガ侯だって⋮⋮って、ええ!? いい
んですか!﹂
﹁いいの。あんまり価値観が違うから好きじゃなくなった﹂
自分でも適当すぎると思う返事だったが、見るとウィレットは﹁
そうですよね! やっぱり!﹂とうんうん頷いている。
その様子が何だか微笑ましくて、雫は﹁もうあの男はおしまいだ
986
からね﹂という本音を口にせぬまま笑ったのだった。
どこでこうなってしまったのだろう。
今はっきりしているのは、自分があの娘とオルティアに嵌められ
たのだということだけだった。三家の当主審議が失敗で終わってか
らしばく、ベエルハースに呼び出されたジレドは震えながら額を床
にこすり付ける。
﹁へ、陛下⋮⋮そのようなことはございません! 単なる噂でござ
います!﹂
﹁だが城中の者が知っている。お前があの娘に頼られそれを庇護し
ていたということはな。上手く娘を引き込んだと思ったが⋮⋮⋮⋮
おまえ自身が変節していたとは。私を裏切るとは面白いことをして
くれたな﹂
おかしいと最初に思ったのは審議が終わった直後、ラドマイ侯に
﹁殿下によろしくご挨拶申し上げてくれ﹂と言われた時のことだっ
た。
そんなことを言われてもさっぱり心当たりがない。その場にいた
ベエルハースの不審の目もそう言って逃れた。
何故自分にオルティアへの挨拶を言付けられるのか、疑問が解消
したのは三時間後。怒り狂った王から彼は、自分が何故か﹁雫を通
じてオルティアに情報を流していた人間﹂とされていることを知っ
たのだ。
聞けば少し前から雫が彼を頼っているという噂は城内に広まって
いたらしい。ベエルハースもそれを知っていたが、彼女が主君を変
えたのだと思って深く気にも留めていなかった。
だが、雫がオルティアを裏切っていないことはもはや明白だ。彼
女こそが審議を前に二侯に接触して、オルティアを処分することの
不当と不利益を訴えたというのだから。
987
そう王に指摘され
そして、肝心の二侯が入城したという情報と、どの部屋に彼らが
いるのか雫に教えたのはジレドである︱︱︱︱
た彼は青くなって否定したが、﹁そういう情報がいくつも入ってい
る。現にラドマイ侯と娘が会っていたという部屋の近くで、お前と
娘が親しげにしていたのを見た者もいる﹂と返され思わず言葉に詰
まった。
あの時雫は﹁迷子になった﹂と言っていたが、そうではなかった
のだ。彼女はあの部屋でラドマイ侯と交渉をしていた。遅ればせな
がらそのことを知ったジレドは、必死でベエルハースに向って﹁知
らなかった﹂と主張した。
しかし、審議の失敗やオルティアからの挑戦を受けてすっかり熱
くなっていた王は聞く耳を持たない。ベエルハースはもう一人の側
近に命じてある物を持ってこさせる。
﹁これが何だか分かるであろう? これでも言い逃れをする気か﹂
﹁そ、それは! そんな馬鹿な! 何故⋮⋮﹂
見覚えのある首飾り。
オルティアの名が、忠誠を誓う文句と共に刻まれ
彼の家に所蔵されているその宝石の装飾部には、贈り主である彼
の名と︱︱︱︱
ていた。
信じられないものを見る思いでジレドは食い入るようにそれを見
つめる。確かに雫の名を彫るよう命じたのだ。だが目の前にある宝
石には、何度見てもオルティアの名が刻まれていた。
﹁陛下、ち、違うのです。私は⋮⋮﹂
﹁お前自身が職人を呼んで加工させたと、屋敷の者も証言している﹂
﹁いえ! 私が彫らせたのは⋮⋮﹂
ジレドが言い終わる前にベエルハースは首飾りを取ると、部下の
顔面に向って投げつけた。
高い悲鳴を上げて這いつくばる男に王は唾棄する。
﹁出て行け。二度と私の前に顔を見せるな!﹂
988
﹁へ、陛下⋮⋮お待ちを⋮⋮﹂
哀願の声にベエルハースは答えない。王は怒り心頭のまま部屋を
出て行き、そしてジレドは一人となった。
どうなっているのかは分からない。
分からないが、何者かがジレドの注文を変更させてオルティアの
名を彫らせたことは明らかだ。職人を騙したか脅したか︱︱︱︱
いずれにせよそれが出来るのは、ジレドが宝石を用意すると知って
いた人間しかいない。
王の部屋を追い出された男は、一歩一歩に苛立ちと屈辱を込めて
城の廊下を歩いていく。考えるのはただ一人、従順な振りをして彼
を陥れた女のことだった。
﹁あの小娘、よくも⋮⋮﹂
まるでつまらない小細工。だがジレドはまんまとそれに引っかか
ってしまった。
情報を流した者はベエルハースが怒り狂い、落ち着いた判断が出
来なくなる時を狙っていたのだろう。実際彼は王の怒りを買い、排
斥されてしまったのだ。
信用を取り戻すには疑いを払拭するだけでは足りない。何かしら
別の成果を差し出さねば、疑惑は晴れても王の側には戻れないこと
は確実だった。
その為にもまず、彼を罠にかけた娘を痛めつけて全ての情報を吐
かせてやる。
だが、そう思いながら雫を探していた彼の前に現れたのは、皮肉
な笑いを見せる魔法士の男だった。全てを知っているのだろう、嘲
りを隠さないニケの態度にジレドは歯軋りする。
﹁貴様、何しに来た﹂
﹁別に。女に騙され破滅したっていう馬鹿を見に来た﹂
989
﹁おのれ⋮⋮っ﹂
反射的にジレドは攻撃構成を組みかける。だが、目の前の男が誰
であるかを思い出し、彼はそれを堪えた。
ニケは元々、飛びぬけて才能がある少年として早くから宮廷魔法
士となった男だ。途中でオルティアに引き抜かれたが、それまで見
せてきた彼の能力はジレドを上回るものであったし、姫の側近とな
ってからは暗殺に特化したという噂もある。安い挑発に乗って戦闘
にでもなれば、痛い目を見るのはジレドの方なのだ。
しかしそれでもただ引き下がることは出来ずに、彼は笑いながら
踵を返すニケの後を追った。城の尖塔へと足を踏み入れ登っていく
ニケは、追ってくるジレドを振り返って口元を歪める。
﹁あの宝石は気に入ったか?﹂
﹁貴様の仕業か!?﹂
﹁さぁ? やることが多くてどれをやったか分からん。ただあの装
飾では姫には気に入って頂けぬだろうな。あの方は凡庸を嫌う﹂
それは肯定と同義だろう。塔の螺旋階段を登っていくニケに、ジ
レドは憎悪の目を向けた。一気に駆け上がり距離を詰めると相手の
肩を掴む。
﹁貴様⋮⋮許さんぞ⋮⋮お前もあの小娘も!﹂
﹁ならどうする?﹂
突然振り返ったニケの目に、ジレドは瞬間気圧されて息を飲んだ。
自分とは違う場所を渡り歩き、違う仕事を重ねてきた男。
四十過ぎのジレドの半分程の人生しか持たぬこの男は、けれど宮
廷でぬくぬくして来た彼とは比べものにならぬくらいの場数を踏ん
できているのだ。
戦意を煽るような強い視線にジレドは半歩後ずさった。そしてそ
の時、自分たちがいつの間にか塔の大分高い場所にまで来てしまっ
ていることに気づく。
周囲には他に誰もいない。遥か真下の中庭を見下ろして硬直した
990
ジレドに、ニケは冷めた笑いを浮かべた。
﹁さて、王に捨てられ失意のうちの自殺と、女に振られやけになっ
ての自殺、どちらがいい? ⋮⋮ああ、王の怒りに触れて謀殺され
たってのもありか﹂
﹁ま、待て、お前﹂
﹁魔法士ならば魔法を使え﹂
抵抗の構成を組む間もなく、ジレドは空中に放り出された。
突然の浮遊感。
頭の中が真っ白になる。
魔法を使わねば、そう思った彼がしぼり出せたのはしかし、何の
意味も持たぬ絶叫でしかなかったのだ。
﹁え、自殺しちゃったの? 本当に?﹂
﹁らしいな。俺はどうでもいいが﹂
会議室の一つにて大きな机いっぱいに地図や書類を広げていた雫
は、ニケからジレドの死を聞いて複雑な表情になった。
まずは閑職に回してから、後々穴を掘らせてそれを埋めるだけの
単調な仕事でもやらせてやろうかと考えていたのだが、まさか自殺
をしてしまうとは思わなかった。責任を感じて彼女は眉を寄せる。
﹁うーん、同情は出来ないけど、ご冥福をお祈りします﹂
﹁何だそれは。まぁ気にしても仕方ないだろう。ああいう奴が生き
ていると、いちいちこっちの足を引っ張ろうとして鬱陶しい﹂
﹁そうかもしれないけど。飛び降りって怖いんだよね。飛び降りた
ことあるからよく分かる﹂
﹁そんなこと分かるな﹂
ニケは舌打ちすると、当然のように雫が飲もうと思っていたお茶
のカップを取り上げた。
991
彼女はそれに文句を言いかけたが、結局多忙な同僚を慮ると新し
いお茶を淹れる為に立ち上がったのである。
992
003
十二家当主の召集要請までは滞りなく漕ぎ付けた。
あとは、彼ら十二人の懐柔と平行して、ファルサスと渡り合わね
ばならない。
ワイスズ砦にはまだ三万の軍が残っている。オルティアはそこに
五万の援軍を投入することを決定すると、指揮を執る将軍三人を選
んだ。倍以上の兵力を以ってファルサスを国境線まで押し戻せとい
う命令。それはこの状況では堅実な一手であったろう。
だがその命令を下した矢先、城には﹁ワイスズ砦が落とされた﹂
という報が飛び込んできたのである。
※
ワイスズ砦を預かるドルファ将軍は、ファルサス侵攻より十一日、
魔法に頼り引きこもるしかない現状を思い、苦渋の表情を隠せない
でいた。
いい様に翻弄された緒戦から始まり砦からも何度か出撃を試みた
のだが、その都度ファルサス軍にあしらわれ相手に大きな損害を与
えることが出来ない。防御結界がある為、完全に敗北してしまうこ
とはないが、それでも逃げ込む場所もない状況で戦ったらどうなる
のか、力の差は歴然だった。
ベエルハースから切られた期限はあと三日であるが、その後どう
993
なるのかは分からない。だが、このまま何事もなければ王からの命
令は無事遂行できるだろう。そのことだけが救いと言えば救いだっ
た。
ドルファは城への定期連絡を指示してしまうと落ち着かなさに窓
の外を見る。
実によく晴れた平凡な日。しかし、ファルサス軍が砦に向って布
陣を始めたと報告が入ったのは、その一時間後のことだった。
﹁ファルサスは防御構成の範囲より後ろに布陣しております。おそ
らくは結界外に我が軍を引き出すのが目的かと﹂
﹁他にないであろうな﹂
砦の建物を中心にその二十倍近い広さを擁する防御結界の中では
ファルサス軍は魔法が使えない。それはキスクからの魔法攻撃を防
げないということであり、また攻撃を受けた傷も癒せないというか
なりの不利を意味しているのだ。
いくら強国といえどもその状況で正面からは戦えまい。今までも
ファルサスは、キスクが結界内深くに逃げ込んでしまうと深追いは
してこなかった。
ドルファはいつでも戦えるよう武官たちに指示を出しながら、け
れど出撃は見合わせ様子を窺う。だが、ファルサスは出てこないキ
彼一人殺せれば戦況が変わる。
スク軍を挑発するかのように、王自らを先頭に出してきたのだ。
︱︱︱︱
それは明らかな罠だったが、抵抗するには強い誘惑だった。ドル
ファは躊躇いながらも砦を出てファルサス軍の正面方向、しかし結
界内へ自軍を展開させた。
ファルサス軍の背後には森があり、キスク軍の背後には砦がある
が、左右は何もなくひらけた草原となっている。
緒戦時のような丘もなく、よく視線が通るその場所でファルサス
994
二万、キスク三万の軍勢は相対した。
ファルサス軍は結界の境界線に沿うように緩く弧を描いて横に広
がっているが、キスクは分断を恐れて自軍を厚く中央に固める。
だが、この場において意味を持つのは陣形よりも防御結界だろう。
キスクはまず狙撃を試して見たが、ラルス自身は結界外にいるた
め全て魔法の防壁で弾かれてしまった。眼前まで矢が到達しても涼
しい顔をしている若き敵国王に、魔法士の一人は苦虫を噛み潰した
ような顔になる。
﹁いかがいたしましょう。将軍﹂
﹁⋮⋮まだ動くな﹂
ファルサスはキスクを結界の外に出したがっている。そしてキス
クはその反対だ。
お互いそれを知っているからこそどちらも容易に動き出せない。
だが、そんな膠着状態を打ち破ったのは、ファルサスの方だった。
それまで魔法を封じられることを嫌って踏み込んで来なかった境
界線。
その一線をファルサスはまるで何の影響もないかのように越えて
軍を進め始めたのだ。
英断というべきか蛮勇というべきか、咄嗟に意表を突かれたドル
ファはしかしすぐに気を取り直した。伝令の魔法士に命じる。
﹁ファルサス国王を魔法で狙い撃て﹂
これで、勝てるかもしれない。
そんな甘い考えに囚われないわけではなかったが、ドルファは好
機を見逃さなかった。数人で構成した巨大な炎の球が、間を置かず
に放たれる。
だがこの時の彼らの意識は、防御結界に偏っていたと言わざるを
得ないだろう。ファルサス軍の魔法を封じて優位をもぎ取ったキス
クは、同じように魔法に対抗する存在がファルサスにあることをす
995
っかり失念してしまっていたのだ。
ラルスは向ってくる炎球に向って両刃の剣を一閃させる。
たったそれだけの何気ない動作。
けれど次の瞬間、まるで吹き消されたかのように炎は跡形もなく
消滅した。初めて見るその光景にドルファは瞠目する。
﹁あれは⋮⋮アカーシアか!﹂
あらゆる魔法が効かない剣。
世界に一振りしかないという王剣の力を目の当たりにしてドルフ
ァは感嘆の息を洩らした。
だが、感心などしていられない。ならば他の人間を攻撃せよ、と
馬上から地面に向っ
新しい命令を下しかけた時、遠く視界の中でラルスはアカーシアを
振り上げる。
ファルサス国王はそれをそのまま︱︱︱︱
て突き立てた。ドルファはその行動に戦慄を覚える。
﹁まさか、アカーシアで結界が消せるのか?﹂
﹁いえそんなことは⋮⋮さすがに不可能です。結界自体は広範囲で
すし、一箇所が綻びても穴を広げる前に砦の魔法士が修復できます﹂
﹁なら何故あんなことを﹂
その答はすぐに分かった。
分かったが、何故そうなったのか理解できなかった。
ドルファと魔法士はファルサス軍を見たまま凍りつく。
魔法によって作られた無数の炎矢。それらを背にしたラルスは、
突き立てた剣を引き抜きながら体を起こすと、悪童の如き目で笑っ
て見せたのだ。
アカーシア一振りでは広大な防御結界を無効化することは出来な
い。
996
それは、結界を感知した時にまずトゥルースより言われたことだ
った。湖の水を手で掬い上げるような、僅かな干渉にしかならない
と。
だが僅かな効果しか与えられないのは、アカーシアだけを用いた
場合のことだ。砦を中心に張り巡らされた結界を前にして、ラルス
は背後の魔法士を振り返る。
﹁いけるか?﹂
端的な確認に数人いる魔法士たちの内、右耳に大きな蒼玉の魔法
具をつけた男が頷いた。
﹁戦場となる範囲程度でよろしいのなら﹂
﹁充分だ﹂
決して完全ではない可能性。けれどそれを余裕として王は笑う。
大陸最強と言われる国家の頂点に立つ男は、自ら先頭を切りなが
ら結界内への進軍を指示した。自分を狙って放たれた炎球を王剣の
一振りで退ける。
狙うのは構成の要。それが湖を構成する一滴でしかなくとも小さ
な亀裂が入ればいいのだ。ラルスはアカーシアを振りかぶると、切
結界への侵蝕が始まった。
っ先を結界の構成目掛けて突き下ろす。
そして︱︱︱︱
﹁馬鹿な! 魔法は使えぬはずではないのか!?﹂
丘陵での戦闘と同じく降り注ぐ炎の矢に防御障壁を指示しながら、
ドルファは驚愕の声を上げた。
今まで魔法を封じていたからこそ、ファルサスと渡り合えていた
のだ。それがなくなってしまうのなら砦の外へと布陣しているこの
状況自体が問題となる。
退くべきか迎え撃つべきか、魔法での先制に続いて距離を詰めて
くる騎兵を睨みながらドルファは刹那逡巡した。その耳に魔法士の
997
掠れた声が聞こえる。
﹁構成が⋮⋮無意味化されつつあります。向こうの魔法士が構成に
侵入し⋮⋮﹂
﹁何だと? 戻せないのか?﹂
﹁砦に連絡をとってはみますが⋮⋮そ、速度が尋常ではありません。
無効範囲も徐々に広がりつつあり、このままでは﹂
﹁もういい!﹂
魔法についての細かいことなど武人の彼には理解できない。ドル
ファは魔法士に結界の修復を試みるよう命じると、軍の指揮に戻っ
た。全軍の攻撃を集中させファルサスの中央部、王のいる本営を狙
うよう指示する。キスクは固めて布陣させていた軍をそのままぶつ
ける形でファルサス軍に向って前進し始めた。
だが、ラルスはそれを察すると中央部の進む速度を若干遅らせ、
代わりに両翼の速度を上げる。元々弧を描いていたファルサスの陣
形はこの速度差によって凹型へと変わっていった。本営を狙うキス
ク軍を中央部に誘い込もうとする。
しかし、ドルファもその狙いに気づかない程周りが見えていない
わけではない。進軍速度を緩めかけて、けれど思い直すとむしろ速
度を上げた。
今、無理に軍を止めたり方向転換をさせては混乱が生じるだろう。
それをするよりはファルサスの誘いに乗ってでも本営を叩き、ファ
ルサス国王の首を取ることを彼は選んだのだ。
戦意に満ちた叫びを上げてキスクの軍勢が突撃を始める。それを
半包囲するようにファルサス軍の両翼が敵軍の側面に食らいついた。
剣が剣を受ける金属音がたちまち草原に溢れかえる。
後に﹁ワイスズの戦い﹂と言われる戦闘は、こうしてファルサス
側の唐突な結界侵蝕により幕を開けたのだった。
998
防御構成への侵入。それは構成を統括している砦の一室にも当然
ながら感知されていた。指揮を取っていた魔法士は蒼白になりなが
らも構成の修復を指示する。
相手がいくら魔法大国とは言え、まさかこのような技術を持って
いるとは思ってもみなかった。アカーシアによって破壊した結界の
要所から魔力を侵入させ、構成自体を次々書き換えていくその技術
に、感嘆を通り越して恐怖を覚える。
﹁侵入を食い止めろ! これ以上広げるな!﹂
無意味化されてしまった部分を戻すことはおそらくもう出来ない
だろう。
最初の攻撃でファルサ
だが、このまま好きにさせていたらキスク軍の優位は完全に失わ
れてしまう。
魔法士たちは伝わってくる戦況︱︱︱︱
を聞
スの本営を突き崩すことの出来なかったキスク軍が、敵の左翼を突
破して砦方面へと後退しようとしているという連絡︱︱︱︱
いて緊張を高めた。
結界が効力を持つ場所にまで戻ってこられれば、まだ形勢は立て
直せる。言ってしまえばキスク軍の命運そのものが彼らにかかって
いるのだ。
三十人を越える魔法士たちは皆、汗を滲ませ構成に集中した。
戦場から砦へと伝令がやって来たのはそんな時のことだ。
﹁魔法での連絡が妨害された。だが重大事が分かった﹂と開門を叫
ぶ兵士を先頭に、十人程の兵士や魔法士が砦内に転がり込んでくる。
何事かと緊迫する砦の兵士たちの間を縫って、彼らは防御結界を担
当する魔法士に面会を要求すると、制御室へと駆け込んだ。
彼らを迎えた魔法士は、怪我でぼろぼろになった兵士に焦りを散
りばめた声で問う。
﹁一体何が分かったというのだ。構成を戻す方法か?﹂
﹁そ、それが⋮⋮どうやらこのままでは防御結界全てが無効になっ
999
てしまうようなのです﹂
﹁何だと!? 何故だ。どうすればいい?﹂
﹁今からではもう⋮⋮﹂
その言葉を聞いて、制御を指揮していた魔法士は呻いた。そのま
ま床に崩れ落ちる。緊張の為だけとは思えない変化。胸を押さえて
痙攣する魔法士を、しかしやってきた兵士は笑って見下ろした。胸
につけていたキスクの紋章を指で弾き、血に濡れた短剣を上げると
共に来た部下たちに命じる。
﹁殺せ﹂
﹁貴様ら⋮⋮っ! ファルサスの⋮⋮﹂
いちはやく事態を察知して叫び声を上げた魔法士は、喉に短剣を
投擲されて絶命した。
そして、それを皮切りに一瞬で部屋は惨劇の場へと変じたのであ
る。
﹁魔法士を全滅させたそうです。結界が消滅しました﹂
前線にて自ら剣を揮っていたラルスは、ハーヴからの報告を受け
﹁そうか﹂と頷いた。狂ったような叫び声を上げ切りかかってくる
男の刃を受けると、次の一撃でその体を斬り払う。
﹁なら手筈通り、砦内を制圧しろ。中から転移門で別働を引き入れ
るようトゥルースに伝えとけ﹂
﹁かしこまりました﹂
ハーヴが連絡の為に少し下がると、ラルスは手綱を巧みに操って
前に出た。人馬がひしめく中に乗り込み、また剣を揮る。反撃の間
を与えずキスク兵の一人を斬り捨てると、側面から恐ろしい速度で
打ち込まれた戦斧に対し、アカーシアで以ってそれを受けた。
全身の力を込めた一撃を防がれたドルファは、戦意も高くラルス
を見据える。
﹁ファルサス国王、お相手願おう!﹂
1000
﹁俺はいいが、思い残すことはないのか?﹂
人を食った返答にドルファは斧を大きく横に凪いで応える。
まともに食らえば鎧越しでも内臓が破壊されたであろう斬撃を、
しかしラルスは後ろに下がって空を切らせた。相手が敵の指揮官と
見て取って不敵な笑顔になる。
一度は形勢不利を見て取って砦に下がりかけたキスク軍だが、そ
れを追うファルサスにドルファは素早く決断すると、起死回生を狙
って反撃を指示したのだ。
どうにも先程から砦内からの連絡が途切れがちであり様子がおか
しい。長年武人として第一線に立ってきた彼の勘が、﹁ここで下が
っても巻き返すことは出来ない﹂と告げてきていた。
もしもっと大局を見る将であれば砦をも捨て撤退を決めたかもし
れないが、ここ数日砦にこもっていた鬱屈とベエルハースからの期
限がドルファに逃走を選ばせなかった。彼は自ら戦斧を振るってラ
ルスに斬りかかる。
一撃一撃が重く、食らえば致命傷となることは疑いない攻撃。だ
がそれを、ラルスは愉しんでいるかのような素振りでさばいた。そ
こに死への恐怖はなく、まるで子供の遊びにつきあっているようだ。
何を考えているのか分からぬ青い瞳にドルファは軽い焦りを覚える。
けれどその時、ファルサス国王はふいと左手側に視線を逸らした。
何を見たのか。しかしそれこそが隙だとドルファは迷わない。相手
の頚部目掛けて斧を叩きつける。
だが、ドルファの斧はラルスには届かなかった。
アカーシアの主人たる男は別の方向を見たまま剣を振るうと、ド
ルファの右腕を肘から切断してのけたのだ。重い音がして斧と腕が
草原に落ちる。
﹁ぐああああっ!﹂
戦場に轟く絶叫。
1001
しかしそれはほんの一瞬のことだった。王の視線の向く先から魔
法が飛来しドルファを飲み込む。彼にかけられていた防御結界は既
にアカーシアの一閃によって破壊されていた。赤い炎が男の体を舐
めるように焼き尽くしていく。
周囲にまで赤い舌を散らす魔法。その余波を王剣で相殺しながら
ラルスはぼやいた。
﹁俺がいても遠慮なく打つのは誰だ。日頃の恨みか﹂
何をしても死にそうにない、と臣下たちから影で囁かれる国王は
血に濡れた剣を携え戦場を見やる。
血臭立ち込める草原において、戦の勝敗は誰の目にも徐々に明ら
かになりつつあった。
※ ※ ※
ワイスズ砦陥落の知らせを聞いた時、会議室にいたニケも雫もさ
すがに唖然として二の句が継げなかった。しばらくして報告を持っ
てきた文官に聞き返す。
﹁え、何でですか? 魔法防御用の人員がいるってファニートが言
ってたんですけど﹂
﹁それが⋮⋮どうやらファルサスに結界を書き換えられたようでし
て﹂
﹁本当か? 凄いことをするものだ。そんなことが可能だとは思わ
なかったぞ﹂
凄いことは凄いのかもしれないが、この場合は非常に迷惑だ。
姫にはもう報告したのか尋ねると、肯定と共に、オルティアは戦
場から逃れられた兵たちを回収することと砦周辺の偵察を命じたと
1002
返ってきた。文官が退出すると二人は顔を見合わせる。
﹁どうすんの⋮⋮。まずくない?﹂
﹁不味い。あそこは南西の要所だった。死者だけを考えても損害は
大きいぞ。おまけに砦に転移陣を描かれて補給体制を整えられたら
打つ手がなくなる﹂
﹁これもう謝った方がいいんじゃ﹂
つい雫がそう言ってしまうとニケは﹁出来るならやってる﹂とで
も言いたげな苦い顔になる。彼女などにはよく理解できないのだが、
大国同士そう簡単に譲れぬものがあるのだろう。
どちらかと言うと戦争には反対で、そう姫に苦言を呈したため口
論のすえ十二家への対応に回された雫は溜息にもならない息を吐き
出した。
ニケが地図上に飴玉を転がしながら冷めた声で問う。
﹁お前なんか知らないのか? ファルサス国王の弱点とか﹂
﹁え。人参?﹂
﹁それが何の役にたつ情報なのか言ってみろ﹂
﹁たたないね。すみません﹂
ラルスが蒼ざめるほど人参が嫌いなのは本当なのだが、戦争でそ
れが何かの役に立つとは思えない。雫は転がってきた飴玉を摘み上
げると机に頬杖をついた。
﹁だってあの人の弱点なんか知らないよ? 性格はそりゃ悪いけど。
⋮⋮ああ、レウティシアさんに弱いかな﹂
﹁王妹に? 妹に弱いのか﹂
﹁大事なんだって。頭が上がらないみたいよ﹂
もしオルティアの兄がラルスであったなら、彼女は今
そんな会話を交わした二人は、ほぼ同時に同じことを思う。
︱︱︱︱
頃どうなっていたのだろう、と。
砦の陥落は凶報であったが、それに続いて別の知らせも内密にや
1003
って来た。会議室にやって来たファニートが﹁探していた人間が見
つかった﹂と伝えてきたのだ。
﹁見つかった!? よ、よかった。間に合った﹂
﹁今、姫がお会いしている。が、貴女も来て欲しい﹂
﹁はい。何で?﹂
用件はあったが、それはオルティアが直接要請するものかと思っ
ていたのだ。雫は怪訝に思いながらも立ち上がる。
三家審議を前に行われた二侯への交渉。姫に命じられてそれらの
交渉を担ったのは雫だ。彼女は生まれたばかりの孫がいるラドマイ
侯に対し、城で作られつつある言語教育の教材を優先的に流すこと
で、まず協力を取り付けた。﹁甘い﹂﹁頑固﹂と周囲に詰られる雫
だが、相手により態度を変えるくらいの見極めは出来る。
その為キアーフ侯にはオルティアのこれからの可能性を説き、ラ
ドマイ侯には利益をちらつかせて脅しを入り混ぜたのだ。
これからは加えて十二家審議に向け早急に複数人とも交渉を行わ
なければならない。そして、その為に探していた人間は大きな役目
を果たしてくれるだろう。
そう思っていた雫は、ファニートと並んで廊下を歩きながら首を
傾げた。
﹁どうしたの? 協力してくれないって?﹂
﹁違う。協力はしてくれるだろう。だが姫がな⋮⋮﹂
﹁姫が?﹂
嫌な予感がして彼女は蒼ざめる。
そしてその予感は的中し、姫の私室に到着した時、雫は物の割れ
る音がいくつも聞こえてくることに気づいてこめかみを押さえたの
である。
普段雑然としているオルティアの部屋は、この時惨状としか言い
ようのない状態にまでなっていた。部屋の主人は怒りの形相であち
1004
こちを歩き回り、飾られていた陶磁器などを掴んでは次々床に叩き
つけている。私室ということもあって裸足でいた姫の足の裏には、
それらの破片が刺さったのだろう。血の痕が床に転々と滲んでいた。
だが怪我をしている本人はそれには構わず感情のままに物に当た
っていく。
﹁それで今更なんだというのだ! 妾に許しを請うて、だから領民
を助けて欲しいと!?﹂
﹁違うのです、殿下。私はただ私の罪を⋮⋮﹂
﹁もう遅いわ!﹂
部屋の中へと入った雫は、床に平伏すティゴールと狂乱の最中に
あるオルティアを順番に見やった。こうなると思った、という思い
ファニートに頼んでティゴールを探して貰ったのは、
と、こうなって欲しくなかった、という思いが頭の中で交錯する。
︱︱︱︱
彼の証言こそが二人の王族の風評を逆転させる為に有用だと考えた
からだ。
ティゴールは過去の事件のせいでオルティアに負い目を持ってい
る。その上、ベエルハースは彼を牢に繋いで口封じを行おうとした
のだ。
もしティゴールがオルティアについてくれるのなら、オルティア
本人が何かを言うより彼が諸侯に事実を訴える方が余程効力がある
だろう。今、オルティアや自分に必要なのは、年齢を重ね社会的に
信用を築き上げているキアーフ侯やティゴールのような人間だと、
雫は感じとっていた。
﹁お前は、全てを妾に打ち明けて楽になりたいだけだ! それで何
になる! もはや終わってしまったことではないか!﹂
﹁仰る通りでございます。私は償おうとも償えぬ罪を犯しました。
そしてずっと苛まれ続けてきていたのです。楽になりたいと思いな
がら⋮⋮﹂
1005
ティゴールが過去の事件の真実を話すことを、雫は期待しなかっ
たわけではない。それを知ればオルティアは、ベエルハースがずっ
と昔から﹁敵対者﹂であったのだと知り、最後のふんぎりがつくだ
ろう。
だが同時に、姫には知って欲しくないともまた思っていた。
それを知れば、今までいびつなりにも形成されてきたオルティア
の心が、根本から突き崩され折れてしまうかもしれないのだ。
しかし、言うか言わざるかの判断は、ティゴールこそが下すもの
であろう。過去の罪を告白するか、それを隠して今回のベエルハー
スの非だけを報告するか、彼が自分の在り方を選ぶしかなかったの
だ。
部屋に来る途中ファニートに聞いたところ、やはり王への暗殺者
を手配したのはティゴールだったらしい。彼は部下の手引きで牢を
逃れると、城都に潜伏しながらベエルハースに刺客を送ったのだ。
王と一対一で対面したティゴールは激しい口論の結果﹁あの男に
任せていては城は中から腐敗する﹂と思ったのだという。だが王が
健在である限り、ティゴールがロスタに戻ろうとしたり他の諸侯に
連絡を取れば、彼に制裁を加えようと王からの追っ手がかかる。
そのためベエルハースの死を待って暗君の排斥をすると同時に、
自身にある程度の自由を取り戻そうと彼は苦肉の策を選んだのだ。
王が死ねば混乱の間にロスタをしてファルサスに降伏させること
も、またオルティアに改めて慈悲を訴え出ることも出来るだろう。
ティゴールは城都にある小さな酒屋の倉庫に閉じこもって暮らし
ながら、どうすれば事態を打開できるのか、ひたすらに考え続けて
いたのである。
オルティアは硝子で出来た燭台を掴み上げる。
1006
それを握ったままティゴールを睨み︱︱︱︱
入ってきた二人に気づいた。
そこでようやく、
姫は、長身の男の隣で沈痛な表情をしている女に問う。
﹁雫﹂
﹁はい﹂
﹁お前は、知っていたのか?﹂
言葉に出して答えることは雫には出来ない。だがその目を見れば
返事は明らかだった。
姫は一瞬、傷つきバラバラになった瞳で黙り込む。
全てが無意味だと、そう言われたような貌で彼女は床に視線を落
とした。握り締めていた燭台を投げ捨て、何も言わずに奥の寝室へ
と戻っていく。
主人が不在となった部屋に残されたのは困惑よりも悔恨に似た何
かだ。誰に向けるとも限らない後味の悪さ。それらが空気よりも重
く破片だらけの床の上に溜まっていく。
皆が皆、責を負っている。
それはともすれば虚脱の穴に落ち込んでいくような事実の提示で
あったろう。
雫はしかし、軽くかぶりを振るとその重さを振りきった。床に座
ったままのティゴールに歩み寄り自分も隣にしゃがみこむ。
少し見ぬ間に随分やつれてしまった男は、彼女に気づくと目を瞠
った。
﹁お前は⋮⋮﹂
﹁その節はすみません。雫と申します。この度は来て下さってあり
がとうございました。部屋は今こんなですけど、少し待っててくだ
さい。姫はすぐ落ち着かれますから﹂
﹁だが﹂
﹁平気です。待っててください﹂
雫はファニートに部屋の掃除と怪我の治療についてそれぞれ人を
呼ぶよう頼むと、自分は二、三探し物をしてから姫の寝室の扉を叩
1007
いた。大きくはない声で主君を呼ぶ。
﹁姫﹂
返事はない。だが雫はもう一度扉を叩いた。伺いというよりは確
認を口にする。
﹁姫、入りますよ﹂
扉に鍵はかかっていない。
彼女が中に入ると、オルティアは寝台でうつ伏せになっていた。
まるで死んでいるかのように微動だにしないが、動きたくないだけ
なのだろう。
雫は血が流れる主君の足元に跪くと、傷口をよく見る。幸い深く
刺さっているものはないようだった。彼女は残る細かい破片を針で
取り除き始める。
本当はピンセットでもあればいいのだが、訳の分からないものが
ところ狭しと置かれている姫の部屋でも、さすがに似たものはなか
ったので仕方ない。血を拭いながら丹念に破片を取り出していくと、
寝台からくぐもった声が聞こえた。
﹁痛い﹂
﹁それは痛いと思いますよ。血がだらだら出てますから﹂
﹁何故魔法を使わぬ﹂
﹁使えないんです。魔法士の人は呼んでますよ﹂
﹁要らぬ﹂
﹁じゃあ、どうすれば﹂
雫はさらりと聞き返しながらも手を休めない。ようやく全ての破
片を抜ききり、濡らした布で血を拭き取ってしまうと、彼女は小さ
な足にきつく止血の布を巻いた。
オルティアは眠っているかのように反応しないが、そうではない
ことは雫には分かっている。無言で側に控えていると、小さな呟き
が洩れた。
1008
﹁やはり⋮⋮駄目ではないか﹂
﹁何がでございましょう﹂
﹁過去のことは変えられぬ。妾は、兄上もティゴールも許せぬのだ。
ならば⋮⋮きっと妾もそう思われるのであろう﹂
何が原因で、何が悪かったのか。
それはもう昔のことだ。どんなに足掻いても変えられない。
ただ、罪は残る。憎しみも残る。
オルティアが幼い自分を裏切った二人を憎むように、他の多くの
人間たちもオルティアを憎み続けるのだろう。つけられた傷を忘れ
ない限りずっと。
既に連鎖してしまった負を巻き戻すことは出来ない。
自分の中の憎しみが強ければ強いほど、オルティアは自分に向け
こんな自分がはたして女王となれるのか。
られる憎しみにも気づいてしまう。
︱︱︱︱
泣き言とも言えるオルティアの本音に、雫は眉を曇らせた。
同い年であるから分かる。それはきっと、まだ若い彼女には狂い
たくなる程の重圧だ。
立場を変え、自分が同じものを負ったとしても雫は変わらぬ苦渋
を抱くだろう。それが自分の罪の結果だったとしても。
膝をついたままの彼女は目を閉じる。
今まで自分が挫けそうになった時、誰がどのように声をかけてく
れたのか、刹那いくつもの顔が頭をよぎった。得難い友人であり、
家族であり、もっと違う存在であった彼らに向かって、雫は言葉も
なく感謝する。
そうやって多くの人々に助けられてきたからこそ、彼女には﹁今﹂
があるのだ。
﹁姫﹂
﹁何だ﹂
1009
自分に何が出来るのか。
連鎖するものはきっと、負だけではない。
分かっていても言葉にして聞きたいことが時にはある。
遠い世界のこの場所で、それが許されているのは何よりも幸運な
ことだろう。
﹁姫、どうぞ強く在って下さい。憎しみもまた当然であると、お受
け止めください。あなた様が彼らをお恨みになるように、あなた様
もご自分の責を負う。それはもう決まっていることです。︱︱︱︱
けれど姫が今、ティゴール卿に望んでいるのは何ですか?﹂
オルティアが過去の憎しみを復讐にしか変じられないのだとした
ら、その時はきっと彼女に女王を務めきることは出来ないだろう。
憎悪のあまり目が眩み、自分への復讐に怯え、孤独な玉座の上で遅
かれ早かれ自滅してしまう。
そうなってしまうくらいならば、逃げ出した方が余程いいのだ。
女王となるのではなくただベエルハースとティゴールに復讐をし、
自分が傷つけた国を逃げ出せばいい。
そんな終わり方もある。それを否定することは出来ない。
だが⋮⋮オルティアは、もっと別の道も選べる。雫はそのことを
知っている。
国が憎いだけなら何故ずっと国の為に執務を行ってきたのか。そ
れは彼女自身﹁王族の義務﹂を捨てたくなかったからではないのか。
やはりそれだけでは
今オルティアが望むものは、ティゴールに死を与えることでは、
きっとない。
ならば彼女自身に望まれるものも︱︱︱︱
ないはずなのだ。
1010
雫はそれ以上は言わなかった。ただ黙って主君の答を待つ。
時間が許されるのなら、いつまでもそうしているつもりだった。
空気は既に淀んではいない。
風は、部屋の中でさえも通り過ぎていく。
動かないそれだけの時がやがて永遠にも感じられ出した頃、けれ
どオルティアはゆっくり起き上がった。白い布が巻かれた両足を見
やる。
﹁⋮⋮痛い﹂
﹁痛いでしょう﹂
﹁これでは歩けぬ。ティゴールをここに呼べ﹂
﹁はい﹂
雫は微笑しながら元の部屋に戻ると、恐縮するティゴールを姫の
前へと連れ戻った。
オルティアは目前に跪き頭を垂れる男を見下ろす。
﹁ティゴール﹂
﹁殿下、私めはどのような責めをも負う覚悟で⋮⋮﹂
﹁本当にその覚悟があるのか﹂
オルティアは、先程までの狂乱が幻であったかのように沈みきっ
ていた。感情に動かされない琥珀の目が、かつて自分を裏切った人
間を注視する。
ティゴールは肉の薄い肩を震わせながら女の問いに応えた。
﹁確かにございます。ただ⋮⋮ロスタの民は全てあずかり知らぬこ
とです。私はどうなろうとも構いませぬ。どうかご慈悲を⋮⋮﹂
﹁分かった。ならばお前は、妾に仕えよ﹂
短い断定。
それは、静かではあったが戦慄する程の力に溢れていた。
ティゴールは落雷を受けたかのように顔を上げ、側で見ていた雫
王族とは、生まれによって決定するのか、育ちによっ
もまた瞠目する。
︱︱︱︱
1011
て作られるのか、彼らを知らない雫には判らない。
ただ王とは、王の精神とはおそらく意志によって選び取るものな
のだ。
オルティアは決して望んではいなかったその精神を自ら負う。
強く在れと、それだけのあまりにも残酷な言葉を彼女はこれから
ずっと体現していくのだ。
ティゴールは目を伏せる。
深く刻み込まれた悔恨が刹那、瞳の中で溶けて消えた。彼は顔を
上げると背筋を伸ばす。年月が研磨した瞳には、だが今なお強い光
があった。揺ぎ無いその視線がオルティアに真っ直ぐ注がれる。
﹁殿下⋮⋮いえ、陛下。卑小の身ではございますがこの命にかけま
して、あなた様に変わらぬ忠誠を﹂
そう言い切った彼の表情には微塵の迷いもない。名領主として誉
れ高い男の毅然だけがただ見えた。オルティアは尊大に頷く。
複雑な感情と感傷を圧縮して出来上がる瞬間。
時の流れを確かに感じる転換の時に、雫はこうして立ち会う。
否応なく全ての人間を動かしていく流れの中、彼女もまたもがい
ていく。
その終点にある変化とは何であるのか、けれどいまだ雫は知らな
いままであったのだ。
※ ※ ※
1012
高価な調度品ばかりが置かれた広い豪奢な部屋。だが室内の空気
はそれらとは程遠い荒れ果てたものだった。奥に置かれた大きな椅
子には一人の男が半ば体を埋めるようにして座っている。
精彩のない顔つきの中で、ただその両眼だけが昏い怒りに満ちて
いた。呪詛に似た呟きが誰に言うともなく洩れ落ちる。
﹁オルティア⋮⋮お前は本当に⋮⋮﹂
ジレドが自殺したとの知らせはベエルハースのもとへも当然入っ
てきていた。本当にあの男が彼を裏切っていたのかどうか、今とな
ってはもう真実は分からないだろう。
どちらにせよ王は側近の一人を失い、オルティアは彼を退位させ
ようと動き出している。このまま手をこまねいていては遅かれ早か
れ彼は玉座から追われ、一生を拭えぬ恥辱の中で過ごさねばならな
いことは確かだった。
ベエルハースは震える指を拳に握る。
﹁ただでは済まさんぞ、オルティア⋮⋮﹂
どうすれば妹に掣肘を加え、自分が元の唯一の座に戻れるのか、
彼は決して明敏ではない思考を動かし始める。
王の資格を問う十二家審議まであと六日。
それまでにどのような手段を使ってでもオルティアを引き摺り下
ろしてやると、彼は一人、陰鬱な罵言をこぼしたのだった。
1013
004
ベエルハースは﹁ティゴールを有能だと信じている者は愚かだ﹂
などと言ってはいたが、事実彼は有能だと、雫は思う。
オルティアに忠誠を誓ってから彼は現在の状況を即座に把握する
と、十二家の当主のうち面識がある者を選び出して交渉を開始した
のだ。
キスク国内において、ティゴールとオルティアでは評判に天地の
差がある。オルティアを女王にと聞いて眉を顰める者は少なくない
が、ティゴールがそれを支持しているとなると人々は改めてオルテ
ィアの有能さを再考するのだ。
更にベエルハースに能がないことと、王がティゴールを幽閉した
ことを知ると、彼らの評価はオルティアへと傾くのであり、既にテ
ィゴールと交渉の場を持った当主の一人は﹁姫を支持する﹂との意
見を表明してくれていた。
﹁そんなわけでいい調子でいってるんで、ドサドに謝りませんか﹂
﹁ドサドとは何だ﹂
﹁変態のファルサス国王のことです﹂
容赦のない中傷を真顔で言ってのける側近に、オルティアは微妙
な表情になる。が、深くは触れない方がいいと思ったらしい。姫は
手元の書類をそろえ直すと、﹁何度も言わせるな﹂と冷ややかに返
した。
﹁いくら相手が相手でも、城がろくに動かぬまま降伏しては大国の
1014
名折れだ。それを不満に思う民も貴族もいるであろう。現に将や兵
たちは自ら戦場に行くことを望んでおるぞ﹂
﹁でも死んじゃったらおしまいじゃないですか。回避できるなら回
避する手段を探した方がいいですよ﹂
﹁お前がそれを言うのか⋮⋮﹂
まるで馬鹿を見るかのような目を雫は無表情で受け流した。この
程度でむきになっていては話は永遠に進まない。他に誰も言わない
なら、自分を棚に上げてでも雫は反対を述べなければならないのだ。
﹁そりゃ勝てたらいいんでしょうけど、負けちゃったら不味いじゃ
ないですか。傷口が広がりますよ﹂
﹁簡単に負けぬよう準備をしておるではないか。何も完勝しようと
までは言っておらぬ。敵にこれ以上の交戦は不利益だと思わせるく
らい損害を与えれば、後の交渉もしやすい。今のままでは砦はおろ
かロスタまるまる払っても足りぬと言われるわ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
本当はオルティアも、ファルサスと戦場で決着をつけることは避
けたいのかもしれない。
だが今の彼女にはそれ程選択肢がないのだろう。内外共に敵があ
り自身に確かな礎があるわけでもない、紙一重の立場だ。
苦い顔になる雫に、オルティアは文官に返す書類を渡しながら淡
々と付け加える。
﹁それに、妾は戦場に出るくらいのことをせねば玉座は取れぬ。城
の奥から国政を操るだけだと思われたままではな﹂
﹁戦場へお行きになるんですか!?﹂
﹁当然だ。指揮は将のダライに任せるが、妾も行く﹂
それを聞いた瞬間、雫の頭の中には﹁危ない﹂﹁やめた方がいい﹂
といういくつかの言葉が浮かんで弾けた。
けれど彼女は結局言い出したい言葉を全て飲み込む。オルティア
は今まで行ってきた負を少しずつでも清算しなければならない。そ
れを雫も分かっているのだ。
1015
﹁ですが⋮⋮間に合うんですか? 十二家審議まで日がありません
よ﹂
審議まではあと五日しかない。この世界は魔法があるため、国内
の行軍は大して時間を要さないらしいが、それでも猶予はほとんど
ないだろう。充分な戦果をあげて審議までに戻って来られるのか、
雫は心配を隠せなかった。オルティアはふっと窓の外を見やる。
﹁戻って来られるようにする。が、間に合わなかったら⋮⋮﹂
遠い目。
その時姫は、何を思ったのだろう。
自分の過去か、これからの未来か。無残に訪れる死か、痛みに溢
れる生か。
それは僅かしか雫と触れ合わない、共有することの出来ない幻影
だ。
そんな風に誰しも自分だけの終わりを精神の根底に持っている。
生まれた最初の時からずっと。
オルティアは視線を戻し雫を見つめる。
琥珀色の美しい瞳には決然があった。雫はその鮮やかさに刹那見
惚れる。
﹁間に合わぬ時は、お前が代理だ。妾の為に玉座を獲れ﹂
ファニートはきっと姫についていく。ニケは表には出ない。
城に残るのは、おそらく交渉を務める雫だけだ。そして、ティゴ
ールよりも彼女の方が代理としてふさわしい。﹁年若い小娘﹂とし
ての不利を跳ね除けて賛同を勝ち取れねば、どのみちオルティアは
女王として認められないのだから。
雫は年の変わらぬ主君に向って深く頭を下げる。
いつから本当の信を持ってオルティアに礼を取るようになったの
かは分からない。だが、今の彼女は紛れもなく姫の臣下だった。
﹁必ずや、ご期待に応えてみせましょう。姫﹂
1016
苦境に折れたりはしない。重圧も飲み込んでみせる。
足りない部分を補って衝突して、そうして自分の形を変えてきた
二人は、いつか自分の力で自分の居場所を作り上げるのだ。
※ ※ ※
城内における雫の存在は例外そのものであり、ほとんどの者から
経歴不明の謎の多い人物として見られている。
オルティアに重用されている女。最初は流行り病について対策を
もたらし、そのせいか異国の学者と思われていた雫だが、最近はそ
れよりも姫の側近としての印象が強い。元々の側近たちよりも主君
に忠言を惜しまず、また交渉などの任も務めることから、彼女はも
っぱらオルティアに近しい代弁者として一目置かれていた。
しかし、オルティアと同性で同い年である彼女の気質は、主君と
は正反対に近い。姫ほどの威や鋭さ、知識はないが、じっくり腰を
据えて議論を交わし、最終的には相手から信を勝ち取る。顔立ちだ
何よりも誠実には誠実を返してく
けを見れば小娘であることは明らかなのだが、実際に向かい合って
話せば肝は妙に据わっており、
ることが相手を安心させた。
残虐として知られるオルティアの中和剤のような存在が雫であり、
彼女は主君からの指示やティゴールの助言を得て、着実に当主た
ちとの交渉を重ねていったのである。
﹁いや、思っていたよりずっと若い。本当に十九歳かね﹂
﹁よく言われます﹂
1017
十二家当主のうちの一人、セージ侯に面会するなりそう言われた
雫は、苦笑と共に挨拶をした。実際外見の幼さを指摘されるのはよ
くあることであり、そのせいか交渉は大抵が、良くて子供に対する
ように、悪くて侮られての始まりとなる。
だが逆に言えば、雫の外見に対する反応によって、相手にもどう
いう態度を返せばいいのか見当がつく。外見がどうであれ真摯に対
応してくれる人間には真摯を、侮ってくる人間には威圧と利益を、
雫は慎重に使い分けていた。
しかしセージ侯はオルティアやティゴール曰く、﹁食えない﹂人
物であるらしい。ティゴールは自分が交渉すると言ってくれたのだ
が、セージ侯の方が雫との面会を指定してきたことからもそれは感
じ取れていた。
雫は抱えてきた書類を広げて彼に向けると、自分は日本語で書い
たメモを手に取る。
﹁本日はお時間を頂き恐縮です、セージ侯﹂
﹁こちらこそ。屋敷にまで足を運んでもらってすまない﹂
紳士的に見える男の年齢は四十代半ば。常に崩さない笑顔は温和
よりも隙のなさを窺わせた。雫は緊張を表に出さないよう微笑みな
がら、男に向かって会釈をする。
﹁今回伺いましたのは⋮⋮お分かりでしょうが、四日後の審議につ
いて、オルティア様への支持をお願いしたく参りました。現陛下は
ティゴール卿の一件からも分かるように、オルティア様を忌避し排
斥したがってらっしゃいます。ですが、陛下に国を保つ力がおあり
でないことは明らかです。この数年間、オルティア様こそが執務を
行っていらしたのですから﹂
﹁そのようだ。だがそれが長年埃を被っていた審議を呼び起こして
まで王を交代させるだけの理由に足ると、君は思っているのかね。
王は必ずしも自身が有能である必要はない。現に言い方は悪いが、
陛下もオルティア様を使って国を治めていらしたではないか。長い
1018
大陸の歴史において名君であった王の方が少ないのだ。王たる者は
臣下たちさえよく使えればよいと、私は思うがね﹂
セージ侯はそう言うと試すような目で笑いかけてくる。最初から
挑戦的な態度を返されたことに雫は苦笑した。
﹁仰ることはごもっともだと、私も思います。ですがベエルハース
陛下は本当に、その大前提たる﹃人を使う力﹄をお持ちなのでしょ
うか。現に此度のファルサス侵攻についても陛下は、出兵を求める
オルティア様の意見を繰り返し退けられました。よき臣下が揃って
いても彼らを十全に動かし、また最後の判断を下す為には王の器が
必要でございましょう。平和が確約されている時代であれば、確か
にベエルハース陛下もよき王であらせられるでしょうが、今は⋮⋮﹂
﹁ファルサスが来ている。なるほど﹂
男は芝居がかった仕草で頷く。雫が言うことなど彼にはとっくに
お見通しのことなのだろう。彼は雫の弁舌によって何かに気づかせ
て欲しいわけではなく、姫の側近がどういう受け答えを返すのか、
それを見極めようとしているのだ。
﹁具体的にはオルティア様が女王に即位なされば何が変わるのかね
?﹂と言われ、雫は意識を切り替えた。書類を示しながらオルティ
ア即位後の政策について説明を始める。
まずは街道の整備。多方面における減税、余剰資源を各領地間で
流通させる為の体制の確立や国営での幼児教育の徹底、また東国ナ
ドラスとの交易の強化などから始まり、軍備の変更や裁判について
の法整備など一つ一つ過不足ないよう触れていく。
これらの中にはベエルハースの許可が下りなかった為、今まで手
と放っておいた懸案も混ざっていた。それ
をつけられなかった変更もあるが、オルティアが﹁わざわざ手をつ
けるのも面倒だから﹂
を聞いた時、雫は姫が勤勉でなくてよかったと、こっそり思ったの
だが、今はどうでもいいことだろう。
1019
雫は平静を装いながら、時折差し挟まれるセージ侯の質問に答え、
その反応を窺った。
だが、男はこれらの政策に関し詳細な確認をしながらも、さして
感銘を受けた風ではない。彼女は少し迷ったが、書類に記されてい
ないことにも触れることにした。それはオルティアから直接許可を
貰っていることである。
﹁なおオルティア様は、今まで城が所有していた直轄地についても、
いくつか各領へと権利を委譲することを決定しております。セージ
侯の領地側の森林もその一つです﹂
城や王族が直接所有している財産は、宝物だけに留まらず土地や
鉱山なども多く含まれている。だがそれらは今まで死蔵に等しい状
態であったし、使わない土地を大事に抱えて持っているよりは諸侯
への見返りとして譲り渡すことを姫は選んだのだ。
当主たちの中でも自分の利益が一番と思っている者たちは、大抵
、息子が
これを聞くといい顔をする。他にもオルティアが未婚の女王となる
ことに対し、配偶者の座が空白であることを示唆すると
いる当主は自分が将来大公となる想像をするのか、好感触を返して
きていた。
雫自身は女王を売り物とするこの提案にトライフィナを連想し、
どうにも気が進まないのだが、オルティア本人が﹁本当に結婚する
と約束するわけではない。女王の夫になれるかもしれないと思わせ
ればよいのだ﹂というのだから最大限利用した方がいいのだろう。
しかし、これに関してセージ侯は独り身である。
雫は一瞬、彼自身がオルティアの夫になりたがるかどうか男の表
情から読み取ろうとしたが、相手は真意を掴ませない微笑を浮かべ
ていた。
話は変わるが、少し
セージ侯は一通り説明を聞いてしまうと、顔を傾けて雫を見つめ
る。
﹁よく分かった。ありがとう。では︱︱︱︱
1020
君について聞かせてもらいたい。君はいたく普通の人間に見えるが
⋮⋮何故オルティア様に仕えているのかね?﹂
それは或いは、城の人間皆が聞きたくて聞けないでいることだっ
たのかもしれない。
雫は少し意表を突かれて、しかしすぐに微苦笑した。自分こそ何
故なのだろうと思っていたからだ。
今までその疑問に言葉で答えたことはない。
だが、意識すればきっと届くことなのだろう。今の雫は自分が望
んでオルティアの為に動いているのだ。
彼女は膝の上に置いた手を握る。そう言えばオルティアの手を握
ったことはないなと、ふとそんなことを考えた。
﹁私は⋮⋮多分巡りあわせです。姫と出会ったことも、姫に仕えて
いることも。偶然が大きく左右した結果だと思っています﹂
もし、ファニートが雫についての話を聞かなかったら、彼女がフ
ァルサスに行かなかったら、そしてこの世界に迷い込まねば、オル
ティアと出会うことはなかっただろう。勿論彼女の臣となって動く
こともなかった。だから全ては単なる偶然で⋮⋮けれど雫はこれで
よかったと思っている。
﹁ですが、偶然であろうとも私が姫のお力になりたいと思っている
ことは確かです。あの方は確かにきついところもおありですが、最
近は随分優しいところもお持ちですし。きっと聡明な女王になられ
ます﹂
ほんの少しだけ相好を崩す雫を、セージ侯は目を細めて見やった。
彼は足を組みなおすと改めて彼女に聞きなおす。
﹁忠誠に足る方であるから仕えていると、そういうことか﹂
﹁はい﹂
﹁なら君は姫の為に、君自身を支払うことが出来るか?﹂
唐突に角度を変え突きこまれた問いに、雫は軽く目を瞠った。自
分の中で何度かその言葉を反芻する。見るとセージ侯は口元だけで
1021
笑いながら、彼女をじっと注視していた。まるで雫を絡めとろうと
するかのような視線。だがそれを受けても彼女は迷うことなく頷く。
﹁命でも体でも、それが必要でしたら﹂
﹁ほう﹂
﹁ただお渡し出来るものはあくまでも私自身に限ったことです。私
を得ることによってオルティア様から優遇を受けられるかと言った
ら、申し訳ありませんがお約束しかねます﹂
オルティアは、雫自身を交渉材料にせよとは言わなかった。むし
ろ﹁気をつけろ﹂と言ってくれたのだ。だから、雫が自分を売った
と知れば怒るかもしれない。
けれどそれが体だけのことなら安いものだろう。かかっているの
は玉座で、主君の未来だ。それに比べて自分の貞操など別に惜しむ
ただそう言えば変な紋様があったのだった。
ようなものではない。
︱︱︱︱
これは一応断りを入れておかねばならないことだろう。雫が自分
の体のことについて思い出した時、しかしセージ侯は声を上げて笑
い出した。目を丸くする雫に向って右手を大きく振る。
﹁いや、冗談だ。君は可愛らしい女性だが、私に少女趣味はないの
でね。少し、あの姫が君のような人間からどれ程忠誠を得ているの
か知りたかっただけだ。失礼をした﹂
﹁⋮⋮童顔で申し訳ありません﹂
﹁だが気に入った﹂
男の声から笑いが消える。力強い視線の中はいつの間にか雫を認
める意思が見えた。彼女は思わずそれまで以上に姿勢を正す。
貴族としての優雅さを自然に体現する彼は、膝の上で組んでいた
指を解くと雫を見たまま頷いた。
﹁オルティア様の要請についてはありがたく考えておこう。期待し
てくれて構わない﹂
﹁セージ侯⋮⋮ありがとうございます﹂
1022
﹁あとは、五年経って気が向いたら、また私のところに来るといい﹂
それは冗談なのか違うのか。
雫は黒い瞳を猫のように真ん丸にする。
そういう表情をするとますます幼く見える彼女に、セージ侯は肩
を竦めると﹁いや、七年後かな﹂と笑ったのだった。
※ ※ ※
回廊から見える光景は壮観と言っていいものだった。雫は思わず
熱い息をつく。
キスク城内にある広場、そこに今は数千の兵たちが整然と立ち並
んでいた。体の急所を覆う金属の鎧が光を反射して海のように見え
る。
まるで映画のような情景だ。しかしそれが現実であることは、肌
に突き刺さる緊張感からも明らかだった。
﹁すごいなぁ⋮⋮﹂
雫の呟きは誰にも届かない。やがて転移陣の準備が出来たらしく、
兵士たちはゆっくりと動き出す。地上に大きく描かれた円状の魔法
陣に向って、完璧に統率された彼らは列を乱さず進んでいくと、次
々その中に消えていった。
非現実的で、不思議な情景。だがこれは、この世界では当然のこ
となのだろう。
オルティアの出立までもう二時間しかない。彼女は手すりにより
かかっていた体を起こすと、主君に挨拶すべくその場を離れた。
ワイスズ砦陥落の知らせから三日。
1023
オルティアは準備していた五万の兵を、予定通りワイスズ砦北の
シサ河対岸に転移させるよう命じた。
河にかかっていた橋は砦が陥落してからすぐにオルティアの指示
によって落とされている。他国の大規模転移座標はファルサスであ
その間にキス
っても知り得ていないことは確実なのだから、砦を占拠したファル
サス軍は河を越えて転移してくることは出来ない。
ク軍は対岸で戦闘準備を整え、再度砦南西に転移しなおしてからフ
ァルサス軍に攻勢をかけることになっていた。
偵察からの情報では、ワイスズ砦に駐留するファルサス軍は二万
から三万といったところらしいが、攻砦戦になれば二万以上の兵力
差も本来通りの効果は見込めないかもしれない。ましてやファルサ
スが転移を使って援軍を引き込む可能性もあれば、とてもではない
が楽観視できない状況だ。
﹁姫﹂
雫が声をかけると、鎧を纏った女が振り返る。
普段は広げたままの髪を一つに縛り、胸から腹、肩と肘、そして
膝から爪先までを白い金属鎧で覆ったオルティアは、何故か普段よ
りも愛らしかった。手甲を嵌めた手を、彼女は小動物のようにわき
わきと動かしている。下に着ている服は魔法がかかっているのだろ
う、あちこちに複雑な紋様が見て取れた。筋肉などほとんどないの
ではないかと思わせる細い体。全身鎧を纏わないのは彼女が重さに
耐えられない為だ。
実質的な指揮を取らない姫は前線に出ることはないだろうが、か
といって暗殺の可能性もないわけではない。身の回りの危険に対し
用心しておくに越したことはなかった。
﹁重いぞ、雫﹂
﹁重そうですね。代わりましょうか﹂
﹁断る﹂
実は雫は一度、影武者を務めると申し出たのだが、オルティアは
1024
それを即答で却下した。﹁前に出るわけでもないに、そんなことを
したら皆から笑われる﹂と言う主君に、雫は眉を顰めながらも引き
下がったのである。
部屋の中に控えるティゴールがオルティアに最後の報告を始める。
彼女を王位につける為に必要なのは当主七人以上の賛同。そのう
ちの四人は既に確約を取り付けることに成功し、三人は色よい返事
を返してきていた。あと三日の間にも交渉は重ねていく予定である
し、期間の短さを考えればまずまずの結果であろう。
もっともティルガ侯をはじめ、強硬的にオルティアの即位に反対
する人間やベエルハースに忠誠を誓う者たちもやはり数名存在して
いる。油断できない状況であることは依然変わりなかった。
オルティアは全て聞き終わるとティゴールに頷く。
﹁では妾が城を空ける間もよろしく頼む﹂
﹁仰せのままに﹂
﹁雫も馬鹿はするなよ﹂
﹁何ですか、この落差は。しっかりやりますが﹂
雫が頬を膨らませるとオルティアは含み笑いをする。一体自分は
どう思われているのか、楽しそうな姫に彼女は唇を片端だけ上げて
見せた。
﹁雫、お前はあの男が好きか?﹂
誰のことを指しているか確認するまでもない。雫は平然と切り返
す。
﹁いいえ、まったく﹂
﹁なら首を土産にしてやろう。楽しみに待っておれ﹂
﹁あの人の首は要らないので、ご自分の首を大事になさってくださ
い﹂
今度はオルティアがむすっとする番だった。だが彼女は臣下の無
礼な発言を咎めようとはしない。ファニートを従え、傲然と顔を上
げ部屋を出て行く。
1025
︱︱︱︱
あと三日で、全てが決まる。
それは言葉に出来ない昂揚を雫にもたらした。一年前からは予想
も出来なかった現状に苦笑が零れる。
ただもし今、元の世界に戻れるのだと言われたら。
その時はあと三日だけでも待って欲しいと、転移陣の中に消える
オルティアを見送りながら、雫は何とはなしに思ったのである。
オルティアと兵士たちが出陣してしまうと、気のせいか城はがら
んとして感じられるようになった。雫は人気のない廊下を歩きなが
ら書類をめくっていく。
ティゴールは姫を見送ってすぐ、また別の当主のところへ出て行
った。彼がオルティアに庇護されていることをベエルハースも知っ
ているのだろうが、自分が彼を幽閉したことが影で広まっているせ
いか特に何もしてこない。王は王で当主たちに接触をしているらし
いが、その動向の細かいところまでは彼女に伝わってきていなかっ
た。
手書きの書類にチェックをつけて、雫は次の一枚に目を通し始め
る。
オルティアから教えられたキスク国内の王家財産についてのメモ。
本来は禁閲覧の極秘資料なのだが、彼女はそれを日本語に書き直し
ている。これならば万が一誰かの手に渡っても解読しようがないか
らだ。
雫はどの交渉においても持ち出していない、残る財産のいくつか
に目を通していくと、ふとその中の一つで止まった。
﹁あれ、こんなのもあるんだ。見てみたいな﹂
記録ではだがそれは王家の所有となってから、まったく人の手が
入れられていないらしい。勿体無いと思いながら雫は何となくその
横に星を描いた。
1026
今日は夕方からもう一人、当主と会う約束を取り付けている。
当主たちは既に入城している者もいるが、まだ自身の領地に残っ
ている者もいるのだ。後者は魔法の助けがなければ訪ねることが出
来ない。
雫は時計を確認しようとポケットに手をいれた。だが時計を取り
出す前に、廊下の角から飛び出してきた人影にぶつかってよろめく。
﹁うわ、すみません!﹂
書類を見ながらだったので、どうも注意力散漫になっていたらし
い。雫が謝ると文官らしい服装をした相手は無言で頭を下げて走り
去っていった。彼女は改めて魔法仕掛けの時計を取り出す。
﹁うーん、一杯くらいお茶が飲めるかな。⋮⋮いてて﹂
ぶつかった時に変なところでも打ってしまったのだろうか。雫は
ちくりと痛む脇腹を捻ると休憩室に向って歩き出した。書類を全て
見終わった頃、ちょうど扉の前に差し掛かる。すると偶然廊下の向
こうからウィレットがやって来て、雫に気づいた。
足を止める少女に雫は軽く手を振る。
﹁ウィレット、お茶飲む?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮雫さん﹂
﹁何?﹂
何故だか少女はみるみるうちに蒼ざめていく。
一体どうしたのか問おうとした時、震える指が雫を指し示した。
そして彼女は、自分の脇腹が真っ赤な血で染まってい
雫は首を傾げて自分の体を見下ろす。
︱︱︱︱
ることに、ようやく気づいたのである。
﹁うおわあああっ!?﹂
自分でも間抜けと思える声を上げて、雫は脇腹を凝視した。
いつから血が出ているのか、自分ではまったく気づいていなかっ
たのだ。
1027
彼女は、痛みがほとんどなければしなかったであろうほど乱雑に、
指で血塗れた服をかきわけ傷口を見つけ出す。ぐっしょりと血に濡
れた脇腹には、見間違いではなく刃物を真っ直ぐに刺しこんだのだ
ろうと思われる傷跡があった。その光景にくらりと眩暈を覚えて雫
は倒れそうになる。
だが、実際床に崩れ落ちてしまう前に、叫びを聞きつけたユーラ
が休憩室から飛び出してくると雫の腕を掴んだ。
﹁雫さん!? 何ですか、これは!﹂
﹁さ、刺された⋮⋮みたい、です﹂
痛みは感じない。
だが、意識が朦朧とし始める。
と言うとそのま
まるで穏やかな眠りに吸い込まれていくように重くなる瞼に逆ら
いながら、雫は﹁ニケいたら、呼んできて⋮⋮﹂
ま気を失ってしまったのである。
意識を取り戻してから一番に雫が聞いたのは、﹁お前は馬鹿か﹂
という吐き捨てるようなニケの声だった。乱れてしまった前髪をか
き上げつつ、彼女は長椅子の上に半身を起こす。
小さな休憩室にはニケの他にユーラとウィレットがいて、心配そ
うに雫を覗き込んでいた。他の人間に体のことを知られずに済んで、
彼女は内心安堵する。
脇腹の傷はニケが治してくれたのだろう。新しく着せられていた
服の下を覗き込んでみたが、血も拭われおかしなところは何もなか
った。
治療をした当の本人は冷ややかな目で雫を見下ろす。
﹁痛覚が麻痺すると俺は言わなかったか? 誰もいないところで倒
れてたら今頃死んでたぞ﹂
﹁ご、ごめん。ぼけっとしてた﹂
﹁で、誰にやられた﹂
1028
﹁⋮⋮⋮⋮顔見なかった﹂
﹁本当に馬鹿だな﹂
角でぶつかった相手は、思えば不自然に顔を隠しているような素
振りだった。
だが、本職の暗殺者ではないのだろう。もしそうだったら雫の命
はとうに失われているに違いない。狙われる心当たりは充分ある。
彼女はオルティアの側近なのだ。むしろこの状況で護衛もなしに歩
き回っていることの方が無用心だった。
雫は、﹁姫に連絡する﹂というニケの手を慌てて掴む。
﹁待って待って。内緒にしてて﹂
﹁阿呆か! 俺が怒られるわ!﹂
﹁後で一緒に怒られるからお願い! 姫も今大変なんだよ⋮⋮暗殺
者に気をつけてってだけ伝えて﹂
﹁ならもっと慎重になれ! 俺だって城にいたのはたまたまだ!﹂
頭から叱られて雫は首を竦めた。
まったくニケの言う通りだろう。自分が現在渦中の人物であると
いう意識が足りなかったのだ。ここで死んでいたら誰にも顔向けが
出来ない。雫は深く息を吐き出すと改めて頭を下げた。
﹁ごめん。不注意だった。気をつける﹂
﹁⋮⋮もう一度こういうことがあったら薬はやらんぞ。自分で男を
買ってこい﹂
﹁うわ。肝に銘じます﹂
苦い顔を崩さない男は手元から何かを出すと、彼女に放ってよこ
した。受け止めるとそれは小さな指輪である。水晶がはめ込まれた
指輪を雫は不思議そうに眺めた。
﹁何これ。綺麗﹂
﹁守護の魔法具だ。あまり強力な攻撃は防げないが、この程度なら
相殺するだろう﹂
﹁あ、前にエリクに同じの貰ったことがある﹂
﹁そうかそうか﹂
1029
﹁ああああああ、何で!﹂
本当のことを言っただけなのに何故か耳を激しく引っ張られた。
痛くはないがおかしな感じがして雫は両耳を押さえる。
何か不味いことを言ったのだろうか。効果だけで﹁同じ﹂と言っ
たのが問題だったのかもしれない。雫は短い間にそう結論づけると
あやふやなフォローをいれた。
﹁うん。同じじゃなかった。水晶細工じゃなかったし﹂
﹁⋮⋮水晶はよく魔法具の材料にされる。質のよさがそのまま魔法
具の出来に直結するんだ。ただ一時期魔法具が爆発的に作られた時
代に消費されすぎて、最近は未加工の純水晶はあまり出回っていな
いがな﹂
﹁へー。あんた物知りだね﹂
﹁魔法士を何だと思ってるんだ﹂
﹁知識階級?﹂
﹁そうとは限らん。色々いる﹂
ニケは雫が指輪を嵌めたのを確認すると、﹁俺はこれから城を空
けるからな﹂と念を押して休憩室から出て行った。その背から察す
るにどうも彼を怒らせてしまったようだ。雫は改めて不注意を反省
する。
ティゴールなどはベエルハースを用心しているのか、自分の部下
と常に行動を共にしているのだ。その点大抵一人の雫が狙われたの
ももっともに思えた。
雫は椅子から立ち上がると大きく伸びをした。倒れる直前は出血
しすぎたかとも思ったが、別に気分は悪くない。心配そうに見てく
る女官二人に向って彼女は笑いかけた。
﹁ごめんなさい。おかげで助かった。ありがとう﹂
﹁雫さん! 吃驚したんですよう!﹂
﹁あはは。あれは驚くよね﹂
飛びついてくるウィレットを抱きとめながら雫は苦笑する。廊下
1030
を血まみれの人間が歩いてくるとは実にホラーな光景だっただろう。
自分が彼女だったらもっと悲鳴を上げていたかもしれない。
雫は謝って顔を上げると、ふとウィレットの肩越しにユーラを見
笑ってはいるが、目は笑っていなかった。むしろ据わ
た。彼女は無言で笑っている。
︱︱︱︱
っている。
彼女の纏う空気の険しさに雫は硬直した。今更血が足りていない
かのように顔色が青くなる。ユーラは満面の笑みで口を開いた。
﹁雫さん、大事がなくてよかったです﹂
﹁あ、ありがとうございます⋮⋮﹂
﹁ところで、失礼ながら服を替える時に体を拝見してしまったので
すが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮はい﹂
﹁あの紋様はなんでしょう。ニケさんが仰ってた﹃薬﹄って何のこ
とですか﹂
﹁な、なんでしょうね⋮⋮﹂
一番見られては不味い人間に見られてしまったのかもしれない。
雫はその後ユーラに散々絞られた挙句、﹁言えない言えない﹂と
言って何とか逃げ出すまで、ゆうに交渉五回分ほどの精神力を消耗
する羽目になったのだった。
※ ※ ※
ワイスズ砦の執務室にて、白い石壁に適当きわまりない落書きを
描いていた男は、部下の訪問を受け手を止めた。青い塗料をたっぷ
り湛えた壷を手に、ラルスは報告に耳を傾ける。
1031
﹁キスクがついに動いたか。鈍重だな﹂
﹁城では現在王と王妹が玉座を巡り争っているようでして。軍を挙
げたのは王妹の方です﹂
﹁兄妹で争ってるのか。覚悟が足りんぞ﹂
兄妹間でどういう覚悟が要ると言うのか。報告を持ってきた魔法
士は疑問に思ったが、この王にしてあの王妹ありなのだから覚悟も
必要なのかもしれない。
ラルスは﹁オルティアは戦場に出てきているのか﹂と問い、肯定
を返されると不敵に笑った。
﹁よし、なら捕まえて懲らしめてやろう。歪んだ性根を叩きなおし
てやる﹂
自分を棚に上げている、とその場にいた人間たちが思ったかは定
かでない。
ただ妙な沈黙だけが一瞬部屋を支配した。魔法士は気を取り直す
と自分の仕事を再開する。
﹁もう一つ、報告がございまして﹂
﹁何だ?﹂
これから戦うであろうキスク軍とは直接関係しない知らせを、王
は眉を顰めて聞き出した。
別件で調べさせている懸案。それを全て聞いてしまうと、彼は﹁
少し急ぐか。契約違反になりそうだ﹂と面倒くさげに呟いたのであ
る。
※ ※ ※
草原に風は吹いていなかった。オルティアは馬上から曇天を見上
1032
げる。
雲は厚いがすぐに雨が降り出すということはないだろう。ただで
さえ鎧が重くて動きにくいのに、この上雨など降られたら煩わしい
ことこの上ない。
生まれて初めて見る数万規模の行軍に彼女が気を取られていると、
隣に馬を並べるファニートが囁く。
﹁姫。まもなくワイスズ砦が見えます﹂
﹁ああ﹂
河向こうから転移したキスク軍は、カリパラの街とワイスズ砦を
結ぶ直線上、ワイスズ砦近くを進軍していた。
砦を奪ったファルサス軍は情報では二万強の兵力を保持している
というが、転移を使って援軍を引き込まないという保証はない。
そうなる前に五万の兵でファルサスを叩く。
言うは簡単であるが、相手方に砦がある以上そう上手くはいかな
いだろう。
﹁ファルサスは砦を落とすのに外に軍をおびき寄せ、その間に手勢
を我が軍の伝令と偽って中に侵入させたらしいな﹂
﹁そのようで。結界の書き換えも行われたという情報ですが。本当
だとしたら空恐ろしいことです﹂
﹁必要以上に魔法に頼ると危うくなるということだろう。魔法では
ファルサスに敵わぬ﹂
オルティアの声は暗い世界に澄んで落ちる。
ファニートは姫の言葉に一瞬息を飲んだが、何事もなかったかの
ように再び手綱を操り始めた。
かつて防御結界が敷かれていた範囲。その少し後ろに布陣したキ
スク軍は自国の砦であった建物を視界に入れる。
今はあの砦に敵国たるファルサスが駐留しているのだ。そして彼
らに相対するキスク軍は、砦を取り返しファルサスを国外に出すこ
とを目的としている。
1033
全軍の指揮を執るダライ将軍は、本営のオルティアに頭を下げ方
針を陳情した。姫は砦に強攻するという説明を一通り聞いてしまう
と、年に似合わぬ堂々とした微笑を見せる。
﹁分かった。戦場においては妾は卿の足元にも及ばぬ。よろしく頼
む﹂
若く美しい王妹にここまで言われてやる気にならないはずがない。
ダライをはじめ武官たちは意気も高く魔法防壁を展開させながら、
砦へと接近し始めた。距離を縮めていくにつれ、高い壁の上に見張
りの人間が立っているのが視認できるようになる。
その中には魔法士たちもいるのだろう。牽制程度の魔法がいくつ
かキスク軍へと打たれた。
だがそれら魔法はどれも防壁に当たって消えていく。余程大きい
魔法でもない限り、単独の魔法士が放つ攻撃は距離と威力が反比例
するのだ。
﹁よし、止まれ! 攻城火だ!﹂
南東から西の方角にかけてワイスズ砦をキスク軍が半包囲すると、
ダライは計画通り次の命令を出す。その指示に従い、兵の後ろに配
備されていた魔法士たちが詠唱を開始した。三人一組で構成される
攻城用の巨大な炎球。それらが空中に十数個生み出される光景は圧
巻としか言いようがない。軍の後部にいたオルティアは燃え盛る炎
を見やって﹁たいしたものだ﹂と感嘆の声を上げた。
本音を言えばワイスズ砦はキスクの財産だ。あまり壊すようなこ
とはしたくないのだが、そうも言っていられない。ダライは砦の巨
大な建物をきつく睨むと、攻撃を命じた。
﹁打て!﹂
炎球はその声と共に空を切って砦に向うと、壁や門に到達する。
数秒遅れてそれらは轟音と共に爆発し、黒い煙が沸き起こった。
﹁第二射、用意!﹂
再び作られる攻城火。
1034
だがそれが完成するより早く、砦の方角から何条かの光が走った。
もっとも早く事態に気づいた者が叫び声を上げる。
﹁不味い! 防げ!﹂
けれど忠告も間に合わず、それらは作りかけの攻城火に突き刺さ
った。
攻城火そのものが魔力の誘発で破裂し、キスク軍の只中で爆発が
起こる。
魔法士たちの体が軽々と吹き飛び、周囲にいた馬がいななきを上
げて崩れ落ちた。焼け焦げた肉片が草の上に飛び散る。
しかしそれで全ての攻城火が破壊されてしまったわけではない。
ダライは悲鳴を上回る怒声を張り上げた。
﹁怯むな! 打て!﹂
打ち出された炎球の一つは、狙撃者がいたのであろう見張り塔に
到達した。天に響く振動をあげてその先端を粉々に砕く。他の炎は
再び門に命中し、先程破壊して出来た穴を更に広げた。
魔法士たちは攻城火の構成、負傷者の治療、対狙撃の撃墜や結界
に追われ、広い草原は一気に騒然とする。
﹁第二次ワイスズの戦い﹂はこうして、まずは遠距離魔法の応酬か
ら始まった。
時折爆風に乗って細かい石片が顔に当たる。
オルティアは軽い痛みをもたらすそれらを腕を上げて遮った。人
馬の大軍の遥か向こうに座する砦を見上げる。
﹁静かだな⋮⋮﹂
﹁は?﹂
姫の言葉を聞いて思わず間の抜けた声を上げてしまったのは若い
護衛の兵士だった。彼はオルティアと目が合うと慌てて﹁申し訳ご
ざいません!﹂と叫ぶ。だが彼女は気にしていないことを示す為に、
軽く片手を振った。
﹁いや、確かにファルサスも応戦はしているが、魔法だけであろう
1035
?﹂
﹁それは兵数に差がございますし、篭城するつもりなのでしょう﹂
﹁そうなのか。あの男ならまだるっこしいことをするより援軍を呼
ぶと思ったが﹂
ラルスの性格については、ダライ将軍よりも余程オルティアの方
がよく知っている。彼女は国政を通じて何度か例の国王と渡り合っ
てきたのだ。
そつのない采配、広い視野、先見性、寛大な処置。
一見名君に見えるそれらの政務の影に、だが見え隠れするファル
サス国王の気質は主に気まぐれと大雑把、冷徹と子供じみたこだわ
りという矛盾に満ちたものだ。ニケなどは偵察報告を適当に省いて
伝えてくるが、たまに退屈で全てを話させると、ラルスのろくでも
ない話が混ざっていたりする。
ファルサスとキスク、両国にとって隣国であるガンドナの式典で
彼と直接顔を合わせたこともないわけではないが、よく他国の姫君
に囲まれている男と、人との会話を煩わしがってすぐに逃走してし
まうオルティアでは話をすることはほとんどない。何にせよ﹁あの﹂
雫から嫌われているのだから、どういう性格の人間なのか大体想像
もつくというものだった。
﹁これで交渉が有利になればよいのだがな﹂
向こうから降伏までさせるのは難しいだろうが、ある程度損害を
与えてしまえばラルスも交渉の要請を受諾するかもしれない。あの
男をつけあがらせずに対等の話し合いにまで至ることが出来れば、
その先は自分の仕事だ。
武人である若い兵士は、オルティアの独白に不思議そうな顔にな
る。だが今度は何も言わなかった。
王妹は徐々に破壊されつつある門を見つめる。
門が破れれば、ダライはそこから兵士たちを砦内に侵入させるつ
1036
このままどれくらい時間が経てば、決着がつくのだろ
もりだ。だが、間断なく打ち込まれる魔法がそれを妨害し続けてい
る。
︱︱︱︱
う。
そんな感想を彼女が抱いた時、だが停滞する時間をどよめきが打
ち破った。
﹁ファルサスの援軍だ!﹂
という驚愕の悲鳴。
波のように連鎖していく叫びに気づいてオルティアは背後を振り
返る。
彼女の視線の先に伸びる広い街道。森の傍を通るその道を横断し
ていく騎兵の列。
そこにはいつの間に現れたのか、キスク軍の退路を塞ぐかのよう
に布陣を開始するファルサス軍の姿があったのだ。
背後に現れた新手の軍勢。
それはキスク軍に、﹁挟撃されるかもしれない﹂という不安をも
たらした。ダライは砦と背後、どちらに攻撃を向けるか迷う。
制圧したいのはファルサス王がいるであろう砦だ。
だが、これには時間がかかる。その間に背後のファルサス軍に食
いつかれれば大きな損害を被ってしまうだろう。
彼は短い間に判断を下すと、砦を中心として右回りに、北西方向
へ急いで進軍するよう指示した。前後の敵とそれぞれ戦うよりも、
一旦移動して戦場を変え、各敵と順番に当たることを選択したのだ。
しかし、ファルサス軍は当然ながらそれを黙って見過ごすような
真似はしなかった。ファルサスの騎兵たちは速度を上げると、移動
し始めたキスク軍の背に向って攻撃をかけ始める。
それに応戦する兵士たちとの間で、草原にはまたたく間に混乱が
生まれた。
1037
﹁殿下、こちらに!﹂
ひしめく兵たちの間を縫って、オルティアと護衛の騎兵たちは、
ファルサスの攻勢から逆の方向へ逃れようとする。姫の一行は布陣
した軍の後部にいた為に、かえって現れたファルサス軍近くに位置
することになってしまったのだ。
だが、先陣を切ろうとした若い兵士の叫びは逆効果でしかなかっ
た。﹁殿下﹂の呼称を聞きつけたファルサス兵が何人か抜き身の剣
を手に馬を駆って来る。ファニートはそれに気づくと素早く手を伸
ばして姫の馬の尻を叩き、速度を上げさせた。
前方からダライが指示したのであろう、オルティアを守り逃がす
為に兵たちが走り寄ってくる。すぐ隣を並走するファニートが主君
に囁いた。
﹁姫、このまま抜けます﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
オルティアは周囲に押されるようにして前進しながら、間近に迫
る敵兵を振り返る。
だがすぐにキスクの兵たちが追ってくるファルサス騎兵の前に割
って入った。剣戟の音と、斬り捨てられた人間が落馬する音が重な
る。
そして琥珀色の瞳を見開い
その間にもオルティアたちは馬足を緩めない。
たちまち遠ざかる戦闘の場。
彼女は三度目に振り返って︱︱︱︱
た。
長剣を振るってキスクの兵を切り捨てた男と、刹那目が合う。
飾り気のない鎧。何の変哲もない馬。だが、見覚えのあるその瞳。
感覚が理解を呼び起こすまで、ものの数秒もかからなかった。オ
ルティアは全力で手綱を引く。急に止まった姫に慌てた護衛たちが
引き返すより早く、彼女は叫んだ。
﹁騙されるな! 援軍など来ておらぬ!﹂
1038
細い指がファルサス兵の一人を指差す。
﹁あの男がファルサス国王だ! 捕らえよ!﹂
キスクの人間誰もが一瞬呆気に取られた、その空白にけれど、指
された男は余裕の笑みを浮かべる。男はそれまで持っていた剣を投
げ捨てると、代わりに鞍につけていた鞘から別の剣を引き抜いた。
両刃の剣は曇りなく輝きを放つ。
ファルサス王の証たるアカーシア。
﹁よく気づいたな、オルティア﹂
︱︱︱︱
ラルスは本当の愛剣を携え手綱を取ると、自軍に改めて、息巻く
キスク軍への攻撃を命令したのだった。
﹁あの女を捕らえた者には褒美を弾むぞ﹂
若きファルサス国王は自分も狙われる立場であると分かっていな
いのか、軽く自国の兵をけしかけると自ら前に出ようとした。
だが、オルティアに鼓舞を受け、また謀られたことに気づいたキ
スク兵たちが前線に向って押し寄せる。お互いに相手の王族を手中
にしようと乗り出しぶつかりあう兵たちで、たちまちその場は混戦
となった。
ラルスは突進してくる兵たちをアカーシアでしばらく黙々と切り
捨てていたが、北西に離脱しかけていたキスク本軍が戻って来るの
に気づいて眉を顰める。
﹁まったく。ばれるのが早いぞ。嫌な女だな﹂
﹁だから陛下は後方にいらしてくださいと⋮⋮﹂
キスク軍が接近しているとの情報が入った時、ラルスは砦内の兵
のほとんどを南西の森の影に転移で移動させることを決定したのだ。
砦に残っているのは一部の魔法士のみであり、彼らが応戦するこ
とでまだ兵たちが中にいると思わせる。その上でファルサスは自軍
をあたかも本国から転移してきた援軍のように見せかけて、倍以上
1039
の兵数を持つキスクを混乱に陥れようと考えたのである。
けれど、成功しかけた策もオルティアがラルスの存在を看破した
ことにより水泡に帰してしまった。ハーヴから白い眼で見られなが
ら、王は見えなくなったオルティアの姿を探して戦場に視線を巡ら
す。
小細工が失われれば、ファルサスとキスクでは動員している人数
が違うのだ。
ラルスは前線を柔軟に指揮しながら敵の攻勢を受け止めていたが、
ふと曇天を見上げると呟いた。
﹁そろそろいいか。ハーヴ﹂
﹁かしこまりました﹂
王の命を受けてハーヴは砦内に魔法で連絡を取る。壁上にて魔法
の応酬をしていた魔法士たちとはまた違う、奥まった一室にいる男
がそれを受けて頷いた。
彼は右耳の蒼玉に触れながら、その場に集まった十人の魔法士た
ちに指示を出す。
﹁方角は北西から南。強度と範囲、許可者は変更なし﹂
魔法士たちはそれぞれが詠唱を始めると、既に用意されていた構
成を操作し出した。構成射出の核たる部分を指揮者である男が担う。
一瞬
彼は壁に閉ざされた部屋の先、広がる戦場が見えているかのよう
に目を細めた。核に向って滾々と魔力を注ぎ始める。
﹁それでは、展開を開始する﹂
布を広げるかのように砦外に向って放たれた構成。
それは不可視でありながら綺麗な扇状に広がると︱︱︱︱
で範囲内におけるキスク軍の魔法を封じたのである。
※ ※ ※
1040
雫が襲われたとの話を聞いた時、ティゴールは蒼ざめて彼女の体
を心配してくれた。
このように直接的な手段が行使されたということは、間近に控え
る十二家審議と関係があるに違いない。二人は暗殺を指示した犯人
として同じ人間を思い浮かべたが、その名を口にすることはしなか
った。何処で誰が聞いているか分からないからだ。
トラスフィの制限がかかっている雫は、自分から紋様のことは話
せない。その為﹁何故すぐ刺されたことに気づかなかったのか﹂と
いう問いに、少し戸惑ったが﹁腹痛を緩和する魔法薬を飲んでいた
から﹂と答えた。
ティゴールは苦い顔を一息吐いて和らげると雫に苦笑してみせる。
﹁ともかく気をつけなさい。これから先、誰が何をしてくるか分か
らない﹂
﹁はい﹂
﹁審議についてもこのままいけば過半数は取れそうだ。だが⋮⋮﹂
彼はそこで口ごもる。怪訝に思った雫はだが、その理由を聞こう
オルティアの勝利が確定しつつあるのに、ベエルハー
とはしなかった。自分でもすぐに思い当たったからだ。
︱︱︱︱
スがこのまま黙っているだろうか。
二人は同じ懸念を抱えたままそれぞれの仕事に戻っていく。
その懸念が杞憂で終わらず、筆頭当主の一人、ラドマイ侯の何者
かによる殺害という形で現れたのは、十二家審議が行われる前日の
ことだった。
ラドマイ侯の死について雫が報告を受けたのは、彼女が朝の仕事
を済ませて遅い食事を取っていた時のことである。
1041
よく焼かれたパンに蜂蜜を塗っていた彼女は、知らせを聞いてそ
のまま匙を蜂蜜瓶の中に落としてしまった。報告を持ってきた文官
に聞き返す。
﹁え、本当ですか?﹂
﹁はい⋮⋮。寝台で亡くなっているのをお付の方が発見致しまして。
どうやら寝酒の中に毒物が仕込まれていたようです。現在調査も行
われていますが⋮⋮﹂
﹁そ、うですか。ありがとうございます﹂
突然のことに驚く気持ちは勿論あるが、面識のある人間の死を悼
みながらも﹁困ったことになった﹂という思いは拭えない。ラドマ
イ侯は孫の教育に関わる取引にてオルティアにつくことを約束して
いたのだ。
筆頭たる三家当主のうちの一人ということもあり、彼の不穏な死
の影響は大きいだろう。
雫は食事を中断すると、ティゴールに会いたい旨を文官に連絡し
てもらう。彼も事件の話を聞いていたのか、返事はすぐに戻ってき
た。
﹁正直非常に不味い状況だ﹂
雫が訪ねていくと、ティゴールは深い溜息をついた。眉間の皺が
深くなっているのは気のせいではないだろう。
﹁ラドマイ侯の酒に誰が毒を仕込んだのかは分からないが、それが
オルティア様の命ではないかという噂が流れている﹂
﹁ええ!? だってラドマイ侯は⋮⋮﹂
﹁そう。こちら側だった。だがそれは取引によるもので、その点で
意見の相違が出たと思われているのだ。勿論逆に、オルティア様を
よく思わない人間がやったのではないかとの見方もあるが、やはり
殿下を疑う者もいる。どうも誰かが風評を操作したのだろう。レマ
侯やリヤス侯は支持を取りやめる恐れがある﹂
﹁姫は戦場にいらっしゃるんですよ! なのにそんな!﹂
1042
五万の兵と共にワイスズ砦へ向ったオルティアは、かなりの苦戦
を強いられているらしい。
砦を攻めているところで退路に現れたファルサス軍を新手の援軍
と思わされ、混乱したところに﹁構成禁止の防御結界﹂を敷かれた
らしいのだ。
以前はキスクがファルサスの魔法を封じる為に用意した構成を、
ファルサスはそのまま一帯に張り返してきた。これによりキスクは
全軍の三分の一以上を失って砦付近から敗走し、更に南西方向へ移
動しているという。
幸いオルティアは無事らしいが、ファルサスは彼女を捕らえよう
と追撃の軍も出している。
もう転移で城に戻って欲しいと雫などは思うのだが、一度打ちの
めされた軍には精神的支柱として彼女の存在が必要らしく、昨日の
夜に﹁まだ帰れない﹂という連絡を聞いたきりだった。
だがそこまでして必死になっているオルティアに、このような事
件の疑いが向くなどどうかしている。十中八九ベエルハースの手引
きによるものだろうが、厚顔にも程があると雫は怒鳴り散らしてや
りたかった。
﹁ラドマイ侯のいなくなられた分はどうなるのです?﹂
﹁息子が埋める場合もあるが、今回は急なことだ。空席のまま審議
それでは票が足りないかもしれない。
されると思う﹂
︱︱︱︱
雫は僅かに蒼ざめたが、そのまま落胆することはせずに立ち上が
った。広げた書類を胸の中にかき集める。
﹁当主の方々ってもう全員城にいらしてますよね? 私、ちょっと
話してきます﹂
﹁駄目だ﹂
﹁何でですか。まだ間に合いますよ!﹂
まだあと半日もあるのだ。それまでにオルティアへの誤解を解い
1043
て支持を頼み直せばいい。
なのにティゴールが何故それを止めるのか、彼女は理解できずに
首を傾いだ。彼は力なく首を左右に振ると、苦味だけを瞳に湛えて
雫を見上げる。
﹁今回の事件を受けて、当主への審議に関わる一切の面会が禁止さ
れた。キアーフ侯は反対したが⋮⋮陛下とティルガ侯の賛同があっ
てはそれが国の決定だ。我々は動きを封じられた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そんな﹂
視界の隅から暗闇が侵蝕してくるような錯覚。
雫は翳を帯びる世界に頭痛を覚え、こめかみを押さえた。ティゴ
ールの溜息が聞こえる。
十二家審議はもう明日。
長年キスクの城に淀んでいた因縁の、決着をつける時がすぐそこ
に迫りつつあった。
1044
005
街がみんな燃えていました。
火がそこかしこに手を伸ばし、建物も人も天も全てを焼いていま
した。
嫌な臭いがします。これは血の焼ける臭い、肉の焦げる臭い。
まるで全てが腐ったような死の臭い。慈悲などどこにもありはし
ません。
遠くで悲鳴が聞こえます。馬のひづめの音も。
嗚呼。
すぐ、すぐに逃げなければ、またあの人が来る。
あの人がやって来る。
※ ※ ※
ファルサスによって魔法を封じられたキスクは、一度はその混乱
の只中で多くの兵を失ったものの、ダライの指揮の結果、何とか結
界内から脱出することに成功した。しかし離脱した時点で当初五万
いた兵は三万にまで減らされており、また依然存在する結界によっ
て再度の攻撃をかけることが出来ない。それどころか勢いに乗った
ファルサスの追撃に、態勢を整えられないままのキスクは幾度とな
1045
く後退を重ねる羽目になっていた。
はじめ転移してきた南西の地点より更に南西方向へと下がったキ
スクは、すっかり日が落ちた暗闇の中、自軍の状況を把握する為軍
内に伝令を走らせる。
ファルサスの策と魔法技術にいい様に翻弄され、ダライをはじめ
集まったキスクの武官たちは忌々しさにすぐには何も言えなかった。
そんな彼らを見回し、オルティアは口火を切る。
﹁卿らにも後悔や反省があるとは思う。だが、今聞きたいのはこれ
からについてのことだ。短期間のうちに砦を陥落せしめる方策があ
る者は階級の上下を問わぬ、今すぐ名乗り出よ﹂
叱咤に似た王妹の言葉に一同は息を飲む。失意に片足を踏み込み
かけていた者たちは、僅かに覇気を取り戻しかけた。
だが、それでも現実は厳しい。
誰一人口を開くものがない状況に、オルティアはややあって苦笑
を浮かべた。彼女は臣下たちを咎めることはせず、中央に広げられ
た地図の一点を指差す。
﹁ならば妾の意見を聞いて欲しい。ファルサスは現在ワイスズ砦に
カリパラの街だ﹂
侵攻軍の拠点を置いているが、それとは別に軍を配した場所もある。
ここより南西に下ったところ︱︱︱︱
それは勿論全員が知っていることである。当初はカリパラの占拠
こそがファルサスの第一目的だと思っていたのだから。あの時はま
さか砦まで取られるとは考えもしなかった。男たちは現状の苦さを
思い出して顔を顰める。
オルティアは重くなる空気を無視して続けた。
﹁砦が取り戻せるならそれに越したことはないが、このままでは被
害の方が大きくなる可能性もある。それよりは、少数の軍しかおら
ぬカリパラの街を奪還すれば、それを取引材料に出来るのではない
か? ファルサスにしても援軍を呼ばないのは、これ以上侵攻の規
模を大きくしたくはないのだろう。カリパラと砦を交換するか、カ
1046
リパラを奪取しにファルサスが砦の軍を動かした隙を狙うか⋮⋮。
どちらにせよ砦に攻撃を仕掛け続けるより、別の道が拓ける﹂
戦術には疎い王妹の戦略的な意見を、武官たちは咀嚼するように
黙って聞いた。ややあってダライが発言を求める。
﹁それは、上手く働く可能性もあるでしょうが、カリパラの街は国
境近くの街です。ファルサス本国より援軍を呼ばれては⋮⋮﹂
﹁援軍を呼ばれて困るのは、いつ何処であっても一緒だ。転移があ
るのだから可能性を言ったらきりがない。だとすれば成果をあげや
すい場所を狙った方がよいだろう。ここからなら通常行軍でも一日
半あればカリパラに到着する﹂
城の奥深くに咲く妖華。
そう思われていたオルティアの顔は、今は砂埃に汚れ髪にも艶が
ない。
だが琥珀色の両眼だけはまったく輝きを失わず、強い意志が見て
取れた。
想像していたものとは大分異なる王妹の姿に、若い武官たちはつ
い視線を吸い寄せられてしまう。今の彼女は血と汗の洗礼を受けて
はいたが、宮廷の閉ざされた部屋でまどろんでいる時よりもずっと
美しかった。
ダライは改めてオルティアの貌を見つめる。
二日後には十二家審議が行われるのだ。本来ならば彼女はこんな
ところで命を危険に曝していていいはずがない。たとえこの行動が、
女王に名乗り出た彼女の意思表明そのものだとしても、もう充分過
姫自身がそれを望んでいないことは明らかだった。
ぎるくらいだろう。今すぐにでも城に戻ったほうがいい。
だが︱︱︱︱
全体の士気をその背に負うオルティアは、地図から顔を上げて一
人一人を見つめる。
﹁どうだ? 妾は戦に関しては若輩ゆえ、思うところがあるなら遠
慮なく申せ﹂
1047
意見を求める彼女の顔は気高くはあったが、高圧なところが一つ
もなかった。しばらくして一人の武官がためらいながらも口を開く。
﹁殿下のご意見は一理あると存じます。⋮⋮ですが、国内の要所た
るワイスズ砦と、カソラの街であるカリパラが同列になり得るでし
ょうか。今回のことがなくとも火種の多い街です。このままファル
サスの手に渡して置いた方がキスクとしても⋮⋮﹂
﹁カリパラはキスクの街だ﹂
きっぱりとした言葉。
オルティアの断言は明瞭ではあったが、不思議と無彩色を連想さ
せるものだった。背後に控えていたファニートが息を飲む。過去の
ことは極秘に処理された事件であったのだ。この場において、オル
ティアとカリパラの因縁を知る者はファニートを除いて誰もいない。
彼女は昏い目で地図上の街を見つめた。
﹁カソラの民が住む街であっても、カリパラはキスクの街でもある。
何の手出しをせぬままファルサスに渡すわけにはいかぬわ。それに
⋮⋮ファルサスにとってはロスタの深くにある砦よりも、あの場所
は利用価値が高いものかもしれぬ。押さえておいて損はない﹂
最後の言葉はいかにもオルティアらしかったので、発言した武官
復讐というならこれが、復讐になるのかもしれない。
もほっと息を吐いた。姫はその気配に気づいて薄く笑う。
︱︱︱︱
かつて自分を犠牲に守られた街を、今度は自分がファルサスへと
売り渡す。
国同士の交渉の駒として、カリパラは略奪され征服され引き渡さ
れる。
責のない争いに翻弄され国を変える街に対し、オルティアは何の
感情も抱けない。
どうとも思えないのだ。まるで命のない概念だけを相手にしてい
るように。
これを雫が聞いたら何と思うのだろうか。
彼女は星の見えない夜空を仰ぎ見る。
1048
次々賛同の声が上がり始める中オルティアは眉を寄せると、何も
言わずにただ両目を閉じたのだった。
※ ※ ※
砦前から敗走したキスク軍は夜陰に乗じてカリパラに向い進軍し
始めた。その知らせを受けたラルスは皮肉な目になる。
﹁いかが致しましょうか。先回りして叩きますか?﹂
﹁いや。その必要はない。向こうからすると砦の方が欲しくて仕方
ないだろうからな﹂
﹁ではアズリア殿には﹂
﹁負けそうになったら引き上げろと、伝えとけ﹂
伝令の魔法士が出て行くと、ラルスは昨日の被害に改めて目を通
し始める。
そろそろ侵攻も潮時だろう。キスクも戦では勝てないと思い知っ
たに違いない。明日開かれるという王についての審議、その結果次
国内にて貴族の不穏が相次いでい
第ではすぐにでもキスクはファルサスに交渉を持ち出してくると、
彼は踏んでいた。
彼は本国からの書類︱︱︱︱
るという妹からの報告を一瞥して微笑する。
﹁さて、オルティア。お前はどちらの国でもないあの街をどうする
? ⋮⋮正直まだファルサスの手には余るんだがな﹂
※ ※ ※
1049
転移を使い街から街へ、国から国へ渡り歩いていると、色々なこ
とが見えてくる。
今まではそれらはみな、姫を愉しませる為の一手段でしかなかっ
た。より破滅的な選択を免れる為に、小さな揉め事を伝え、油を注
いで火を広げ、彼女の退屈を拭う。そんなことを別の女に洩らした
時、女は﹁まるで千夜一夜みたいだね﹂と言ったが、どういう意味
だかは今も分かっていない。
﹁そろそろ王を呼び戻して貰いたいんだが⋮⋮﹂
何度目かの領主との密談。
それを終えて小さな町の酒場へと出たニケは、疲労に満ちた息を
ついた。他に誰も聞いていないことをいいことに盛大にぼやいてみ
る。
以前はちょっとした不穏の種を姫の娯楽の為に集めていた彼だが、
今はそれを少し変え、自らの裁量でファルサス国内の揉め事を煽っ
ていた。既に城に不満を持つ貴族の何人かを指嗾し、問題を起こさ
せているがそれでも足りていない。
何故こんなことをしているかというと、単にラルスをキスクから
呼び戻させることが目的だ。現在キスク国内にて猛威を振るってい
るファルサス国王。彼の弱点は、同僚の言葉を信じるなら﹁人参と
妹﹂らしい。
まったく阿呆らしいと思うのだが、現状王に代わって政務を行っ
ているのはレウティシアだ。ならば少しずつ彼女が処理する案件を
増やして負荷を与えてやれば、兄王は妹可愛さに帰ってくるかもし
れない。
それは半分冗談のような考えであるが、出征した軍を呼び戻す為
に国内で叛乱を起こさせるというのはよくある手だ。情報収集の合
間にそれらの策に手をつけていたニケは、溜まっていく疲労を一杯
1050
の酒で紛らわせていた。
﹁次はカリパラの街を見に行って⋮⋮一度城に戻るか﹂
明日には十二家審議が行われる。さすがに彼の主君も城に戻って
くるだろう。
先日雫が襲われたばかりだが、また似たような手段に訴えようと
する輩がいても困るのだ。
魔法士から見るそれ以外の人間が大抵そうであるように、ニケか
らするとオルティアも雫も不自由で無力な危なっかしい存在にしか
見えない。
怪我を負っても自分では治すことも出来ないのだ。あまり離れて
いるのは賢明ではないだろう。
カリパラ。
だが、それとは別に気になることもある。
問題の発端となった街︱︱︱︱
そこを占領したファルサスとカリパラの住民の間では、決して穏
やかではない空気が漂っているのだ。今まで暴徒に悩まされていた
ところをファルサスに救われたのだから、もっと歓迎されていても
いいと思うのだが、どうにも空気が重い。
もしカリパラの民がファルサスに不満を持っているなら、上手く
焚き付けて反乱を起こさせられないかと、彼は思っていた。
何故、カリパラの民がファルサスを歓迎しないのか。
それは﹁何故彼らが六十年前、戦争が終わった後も元の街に帰ら
なかったのか﹂という問いと同じ答を持っている。
今も深い
生きている限り決して消えぬ記憶。親から子へと語り継がれる絶
望。
焼き尽くされる街を見て笑う狂王への恐怖は︱︱︱︱
傷痕となって残っている。
1051
※ ※ ※
カリパラの街には城壁がない。ただ傍に街道が通っているだけで
ある。
国境間近にて両国の交易をひっそりと担っていたロスタ端の街は、
いまは大国同士の争いの焦点となっていた。
もっとも、この焦点は両国どちらからも持て余されているという
事実もまたあるのだが。
六十年前にファルサスの侵攻によって祖国カソラを追われた民に、
キスクが与えた街。
今はもうない国の記憶が、この街のそこかしこには残っていた。
キスク軍がカリパラの街を前に一旦進軍をやめたのは、日が明け
てから三時間程経ち、朝が終わりかけた時のことである。軍の中央
にいたオルティアは目を細めて遠くに見える街を眺めた。
こうしてカリパラを肉眼で見たのは初めてだ。幾千もの民が少し
前まで平穏に暮らしていたのであろう街並みに、彼女は整理しきれ
ぬ複雑な感情を抱く。もしあの一件がなかったなら、こんな風にあ
の街を見ることはなかったかもしれない。兄と玉座を巡って争うこ
とも。
十二審議まではあと二時間程。急げばまだ間に合うであろうし、
城にはティゴールや雫が残っている。オルティアは夜行軍で重くな
った瞼を擦ると、改めて顔を上げた。
転移で軍を移動させなかったのは、魔法士たちの疲労が限界に達
していたのを慮った為であるが、魔法に頼ることでまたファルサス
1052
の罠にかかるのではないかと恐れる思いもあった。そのファルサス
の別動がいるであろう街をダライ将軍は苦々しく見据える。
﹁何かが仕掛けられているということはあると思うか?﹂
﹁ここからでは分かりません。が、出来れば街中での戦闘は避けた
いですね﹂
街中に散らされての戦闘となれば有利な点である人数差が上手く
生かせなくなってしまう。
出来ればファルサスの別働には戦わずして退いてもらいたいもの
だ、と思いながらダライは進軍を指示した。街の建物が徐々に大き
く見えてくる。
向こうから兵が出てくる様子はない。既に情報が行き渡っている
のだろうか。彼は軽い緊張と共に偵察を出すべきか迷った。
突如目の前に現れた鏃。
更に前進しようとした時、軽い口笛に似た音が聞こえる。
︱︱︱︱
それに、ダライは驚いたが迷わなかった。彼に張られた防御結界
が攻撃の速度を緩める、ほんの僅かな隙に首を捻ってそれを避けた。
矢は彼の耳元を掠めると後ろにいた兵の馬の腹に食い込む。高い
悲鳴を上げて暴れる馬に兵士は耐えきれず振り落とされた。
﹁くそ! 狙撃か!﹂
結界がなければ、あるいは彼の反応がもう少しでも鈍ければ、矢
はダライの額に突き立っていたに違いない。彼は狙撃手のいるであ
ろう場所を探したが、近くにそれらしい建物はなかった。
もし遠くに見える見張り塔から射られたのだとしたらかなりの射
手だ。魔法具の助けがあったとしても恐るべき腕の持ち主だろう。
﹁用心しろ。攻撃が来るぞ。防壁を強化だ﹂
将軍の命と同時に魔法士たちが詠唱を始める。
そして、それらに誘発されるようにして、街中からもまたキスク
軍に向って攻撃が放たれ始めたのだった。
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ラルスよりカリパラの街を預かるアズリアは、指揮下に千の兵を
置いている。
暴動が続いて
それは一つの街を占領するには少なすぎる人員にも思えるが、も
ともとこの街自体には警備兵は数十人しかおらず、
いたことにより住民の数も激減していた。結果、ここ数日の占領も
特に不自由なく、街は見回りの兵士を除いてはいつもと変わらぬ平
穏を保っている。
ただそれも、カリパラの住民が向けてくる恐れと冷ややかさが混
ざり合った視線を除けば、の話であるが。
﹁あ、嘘っ! 避けられた! 馬に刺さった!﹂
見張り塔の欄干から魔法弓を構えていた女は、自身の矢が標的を
外れたことを確認すると激しく頭を抱えた。背後に控える魔法士が
溜息を噛み殺す。
これが、敵の将軍を殺し損ねたことを後悔しているのならともか
く、そうでないのだからたちが悪い。魔法士は﹁馬が! 馬が!﹂
と連呼する指揮官に出来るだけ落ち着いた声をかけた。
﹁陛下のご指示では適当なところで引き上げろとのことですが﹂
﹁馬が! よくもあの親父!﹂
﹁聞いてますか、アズリア殿﹂
﹁聞いてる﹂
ファルサス城一の射手であり、白兵技術もかなりのものである彼
女だが、戦場に伴われることはほとんどない。それはこの﹁行き過
ぎた馬好き﹂が原因であることは誰の目にも明らかだ。馬の生死に
いちいち悶絶していては戦場で何も出来ない。
アズリアは気を取り直すと迎撃の指示を出す。それはけれど、本
気の迎撃というよりは敵を牽制して退去する時間を稼ぐものだった。
命令を受けた魔法士は肩を竦める。
﹁これでこの街ともようやく離れられますか。⋮⋮正直、ここの老
1054
人連中の目が嫌だったんですよ﹂
﹁仕方がないだろうな。廃王ディスラルはカソラの街々を口にする
のも憚られる程に蹂躙したというのだから﹂
﹁今の陛下は鷹揚な方でらっしゃるんですがね。分かってもらうに
は時間がかかりそうです﹂
かつての戦争においてディスラルの手を逃れキスクに逃げ出した
人々。彼らは戦が終わり祖国が望んでファルサスの属領となった後
も、忌まわしい記憶の残る元の土地に戻ろうとはしなかった。
﹁だがカソラの民はキスクにとっても異邦人だからな。もはや何処
にも帰る場所はない。そろそろ諦めるしかないだろう﹂
﹁世代も変わって亡命した人間も多いですし。ただ老いた者はふん
ぎりをつけるのが大変なんでしょう﹂
アズリアは頷くと再び弓を構え矢を番える。﹁あの親父だけでも
殺していく﹂という指揮官に、魔法士の男は今度はちゃんと溜息を
ついたのだった。
街から打ち込まれる魔法は、キスク軍にとっては恐れるに足りぬ
ものであった。
結界を強化し攻撃を防ぎながら、兵士たちは敵の魔法士がいるで
あろう場所を探して走っていく。残っていた住民たちは突然の出来
事にぎょっとしていたが、反抗する気はないようだった。慌てて建
物の中に引っ込むと、恐る恐る様子を窺っている。
しかし、当のファルサスの魔法士や射手たちは、みな兵士たちが
近づくと攻撃をやめ消えてしまう。唯一根深く攻撃を続けてくるの
は、見張り塔にいるらしい強力な射手だけだ。いつまでもダライを
狙ってくる矢に、武官の一人が叫ぶ。
﹁しつこいぞ! ダライ将軍、この建物の影に!﹂
だがダライが見えなくなると射手は他の人間を狙い出す。結界破
1055
りの矢に変えたのか、確実に犠牲者を出し始める攻撃にダライは歯
軋りした。
﹁塔へ向かえ! この射手を殺して来い!﹂
改めて命じられずとも既に数十人は塔へと向っている。しかし、
彼らが塔に到着した時そこには強力な結界が張ってあった。侵入そ
のものを拒む結界を前にして、彼らは塔の頂上を仰ぎ見る。
とその時、ほぼ真上から飛来した矢が一人の顎を貫いた。
顎から首の後ろまでを金属の矢に貫通された男は、蛙のような声
を上げて崩れ落ちる。威嚇とも挑発とも取れる攻撃に兵士たちは怒
りを募らせた。
﹁誰か魔法士を呼んで来い! 結界を破らせる!﹂
﹁破ってやろう﹂
唐突な声。
冷静なそれは、いつの間にか彼らの中に立っていた魔法士のもの
だ。兵士の一人がその顔を見て驚く。
﹁お前、姫の⋮⋮﹂
﹁少し待て﹂
城でもっとも異質な魔法士である男、ニケは結界に手をかざし詠
唱を始める。
彼らが頭上に注意しながら息を飲んで見守っていると、数秒後何
かが破裂するような音と共に結界が解かれた。兵士たちは我先にと
中に飛び込み塔の階段を登っていく。
だがどうせ上にはもう誰もいないのだろう。先程の攻撃を最後に
撤収したに違いない。
ニケはそう思いながら詠唱すると、改めてオルティアのもとに転
移し直した。
※ ※ ※
1056
カリパラの街は、一言で言うなら閑散としていた。
初めてこの街に足を踏み入れたオルティアは、色褪せた印象の景
色を漫然と見回す。
以前はこの街も交易の商人で賑わっていたというが、今は多くの
人間がファルサスの旧カソラ領に逃げ出した為か、窓を閉ざしたま
まの家も多い。ニケの説明によるとファルサスの統治はいたって問
題のないものであったが、人々はそれを喜ぶわけでもなく鬱々とし
た日々を送っていたのだという。キスク軍によって街が取り戻され
た今、残る少ない住民たちは困惑と不安を目に、家の中から行き交
う兵たちを見つめている。
オルティアは、薄汚れた窓の向こうから騎兵の隊列を見やる老人
と目が合って、表情を固めた。
﹁そうは言っても、もうロスタにいても苦しいだけであろう。ファ
ルサスの方が元の祖国もある。余程暮らしやすいとは思うがな﹂
﹁六十年前のことを忘れられないのかもしれませぬ。今の老人たち
は親からそのことを繰り返し聞かされ育ったのでしょうから﹂
﹁廃王ディスラルか⋮⋮﹂
他国のことではあるが、あまりにも悪名高い王の名をオルティア
もまた知っている。
国を滅ぼし人を殺し、最後には血を分けた人間たちをもその手に
かけた狂王。力も気性も到底人とは思えなかったと称されるディス
自分もきっと、言うなればディスラルと変わらないの
ラルのことを思い出し、彼女はふと皮肉を感じた。
︱︱︱︱
だ。
戦を呼び起こし人を処刑し、今、兄と争おうとしているのだから。
こんな自分の行き着く先ははたして何処になるのか。
自嘲を思い出しかけた彼女の前に、けれどその時一人の兵士が走
1057
ってくる。徒歩で駆け込んできた兵士は恐縮して一礼すると、﹁街
の長老がオルティア様に面会したがっている﹂と伝えた。
﹁長老が? 何かあったのか﹂
﹁それが⋮⋮誰が軍を指揮しているのかを問われ、将軍と殿下の御
名を出しましたところ、是非殿下にお会いしたいと申しまして⋮⋮﹂
﹁分かった﹂
おそらく占領を解かれた礼でも一応言っておきたいのだろう。オ
ルティアは自身が気鬱を感じていることを自覚したが、それを表に
は出さなかった。兵士の案内に従ってファニートとニケを伴い、街
の集会場へと足を踏み入れる。
そこに待っていたのはダライや数人の武官たちと、住人であろう
七人の男だった。何事かを話し合っていたのか輪になっていた彼ら
だが、オルティアに気づくと皆次々に礼を取る。
オルティアが黙して頷くと、人の壁の奥から一人の老人が、震え
る体を少年に支えられて現れた。彼は落ち窪んだ目で彼女を見つめ
る。
﹁おお⋮⋮あなた様が⋮⋮﹂
﹁長老というのはそなたか﹂
﹁わたくしでございます⋮⋮ずっと、ずっとお会いしとうございま
した、姫﹂
感極まった声。
その言葉に違和感を覚えたのはオルティアだけではなかっただろ
う。彼女は理由の分からぬ歓迎を受けて怪訝な顔になったが、すぐ
にそれを老人がゆえの戯言だと解した。感情を見せない声音で答え
る。
﹁此度は対応が遅れて迷惑をかけた。今後どうなるかは分からぬが﹂
﹁姫、無事に、大きくなられた⋮⋮死ぬ前に一目お会いしたかった
のです⋮⋮姫﹂
1058
一体この老人は何を言っているのか。
オルティアは困惑して彼の言葉を無視すべきかどうか迷う。既に
耄碌してしまっているのか、いつもこうなのかを窺う為、彼女は男
少年は、ひどく真摯な目でオルティアを見ていた。
の体を支える少年を見やった。そしてオルティアは驚く。
︱︱︱︱
濁りのない、尊敬と感謝の目。
純粋で忠実な、それは今まで彼女が一度も向けられたことのない
視線だった。オルティアは覚えのない感情に息を飲む。
虚を突かれた彼女の顔を見て、少年は一瞬気まずい顔になった。
だが、意を決したように表情を戻すと口を開く。
澄んだ声が、言葉が、鐘のように部屋の中に響いた。
﹁姫様、僕はよく知っております。祖父から⋮⋮領主様から伺った
のです。かつてあなた様のおかげで、この街は救われたのだという
ことを﹂
とても暗かった。
怖かった。
閉じ込められたのは狭い部屋。
寒くて。不安で。逃げ出したくて。
泣いて泣いて。叫んで暴れた。
出して。
帰して。
帰して。
お願い。
老人は皺だらけの目元に涙を浮かべる。
それが何を意味するのか、オルティアはもう分かっていた。小さ
な唇がわななく。
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﹁姫様⋮⋮我々は、よそから来た人間です⋮⋮。だが王は、我々を
お見捨てにならなかった。けれどその代わりあなた様は⋮⋮どれ程
お辛かったでしょう。不安でいらしたでしょう。あなた様は幼かっ
たその身に、我々全ての命を負われた。それがどれ程の苦痛であっ
たのか⋮⋮感謝を思いながらも悔やまれてなりませぬ﹂
助け出されてすぐ、オルティアは城の自室に閉じこもった。
父にも母にも会おうとしなかった。手紙も全て捨てさせた。
ここにいるのは﹁王女﹂で、誰も﹁自分﹂のことなど思ってくれ
ない。
そのことに気づいた時、彼女は人に期待することをやめた。温か
さを蔑むようになった。
﹁お会いしたかったのです、姫様。⋮⋮ずっとあなた様にお礼を申
し上げたかった。そして、お詫びしたかった⋮⋮我々の為に、お辛
い目に遭わせてしまったことを﹂
枯れ枝のような指が彼女に向かって伸ばされる。
万感の思いがこもったその手を、オルティアは躊躇いながらもそ
っと握った。皮と骨ばかりの感触を味わう。
あの時欲しかったのは、たったこれだけのことだ。
自分を思ってくれる言葉。触れてくれる温もり。
たった一滴でも、それさえあれば、きっと自分は﹁王女﹂でいら
れた。
道を違えることなく国の為に身を尽くせただろう。
オルティアは目を瞑る。
奪われたものと、捨ててしまったものが刹那、瞳の奥で弾けて消
えた。
喉の奥に熱いものが湧き上がってくる。しかしそれを飲み込むと、
彼女は掠れた声を絞り出した。
﹁お前の言葉、ありがたく思う。だが⋮⋮妾は感謝をされるような
1060
人間ではないのだ。今までも、これからも⋮⋮。必要とあらば国の
為にこの街をファルサスに渡すこともするであろう﹂
カソラを恨んだ。ロスタを憎んだ。
だから交渉の駒とすることに抵抗はなかった。
そしてそれは、他に選択のない決断でもあるのだ。キスクは戦で
今この時、オルティアの声は苦渋に満
はファルサスに勝てない。それはもう分かっている。
しかしそれでも︱︱︱︱
ちていた。
後悔に瞳を曇らせる姫を、老人は微笑して見上げる。
﹁あなた様のご判断であれば。残る者たちは私が説得いたしましょ
う。この街はあなた様がお救いになった街です。こんな街でお役に
立てるのなら、今度は我らが⋮⋮あなた様のお力になりましょう﹂
自分の目で国を見てください、と彼女は言った。
鳥籠の中で蹲っているのではなく、外に出ろと。
青臭く押し付けがましいあの言葉は、けれど嘘ではなかった。オ
ルティアは老いた指を握りながらそれを知る。
﹁⋮⋮すまぬ﹂
小さな謝罪の言葉に、老人は笑顔で応える。罅割れた両手が彼女
の手を支えた。
人の世は残酷で不条理だ。そして人は、いつも愚かだ。
だが、もっとも愚かだったのは全てを嫌っていた自分なのだろう。
目を向けねば分からぬこともある。知ろうとせねば知り得ないこ
とも。
力ない指が消えない温もりをくれるように、時に人はとても優し
くなれるのだから。
※ ※ ※
1061
硝子瓶の蓋を開ける。
中から雫は白い粒を取り出し口に含んだ。喉を硬質の珠が滑り落
ちていく。
しっかり馴染んでしまったその感触に彼女は意識を切り替えた。
顔を上げ、鏡の中の自分を見やる。
﹁よし。いいかな﹂
おかしなところは何もない。強いて言えば顔が幼いところが難だ
ろうが、どうにもならないので放っておいて欲しい。
詰襟の白い上衣と長い灰色のスカート、髪は一つに結い上げ薄く
化粧をした雫は、最後に白の手袋を嵌めると部屋を出た。既にそこ
には文官と護衛の兵士たちが待っており、彼らの先導で審議の間へ
と歩き出す。
オルティアは、残念ながら間に合わないらしい。十五分ほど前に
﹁カリパラの奪還をしている﹂との連絡が入ってきた。
それはけれど仕方のないことだろう。むしろ雫はもともとオルテ
ィアの代理を任じられて残っているのだから、不満に思うはずもな
い。
ラドマイ侯殺害について、姫は﹁それくらいやりかねんだろう﹂
と言っただけだった。﹁何か対策を打たなくていいのか﹂とも聞い
暗
たのだが、﹁自分の身に気をつけろ﹂と返されたのみである。実際
残り半日で面会も禁じられては打つ手がないだろう。︱︱︱︱
殺などの手段でも取らない限り。
﹁そんなことやらないけどね﹂
雫は長い廊下を歩きながら口の中で呟く。
思えばベエルハースの真意を知る切っ掛けになったのは、王の暗
殺未遂だったのだ。
1062
もしあれを止めないでいたら、もっと事態は楽になっていただろ
うか。
そんなことも思わないではなかったが、やはりそういう手段に出
るのは卑怯だと、雫は思う。
オルティアは謀殺に頼らず玉座を獲る。
彼女のこれからの為にも、きっとそうでなければいけないのだ。
広間につくと衛兵が扉を開けてくれた。雫は礼を言って中に入る。
通された先は小さな応接間のようになっていた。もっとも小さい
というのは城の基準においてでおり、雫の私室がゆうに四つ程は入
りそうな程広い部屋ではあるのだが。
彼女は案内された椅子に座る。隣には既にティゴールが着席して
おり、彼は会釈してきた雫に緊張の微笑を見せた。
﹁陛下は⋮⋮﹂
﹁まだいらしていないようだ﹂
当主たちによる審議は既に始まっている。
だが王に三家当主を加えた審議とは違い、王の退位を問う審議の
前半には当事者たる王族の出席は許されていないのだ。
王族が立ち会えるのは当主たちが決定を下す最終段階の時だけで
ある。
その為、呼ばれるまではベエルハースも雫たちもこの控え室で待
機することになっていた。
雫はしばらく沈黙を保っていたが、ふと息を吐くと苦笑する。
﹁これ緊張しますね⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
どうにも受験面接を思い出してしまう。雫は硬くなった肩を上げ
たり下げたりした。
その時、扉が開き、文官とベエルハースが入室してくる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1063
いくら玉座を争う相手であり、色々思うところがあるのだとして
も現在の王はベエルハースだ。雫とティゴールは黙って立ち上がり
礼をした。王は薄ら笑いでそれに応える。
そのまま皆が着席し、どれ程静寂が続いたか分からなくなった頃、
ベエルハースは不意に雫を見つめた。かつてはよく見せた穏やかな
笑顔を浮かべる。
﹁雫、お前もそろそろオルティアに愛想が尽きた頃だろう?﹂
﹁いえ。そのようなことはございません﹂
﹁だがあれは悪い娘だ。昨日もラドマイ侯がそれで亡くなったので
はないか?﹂
﹁あれは⋮⋮!﹂
反射的に立ち上がりかけた雫を、だがティゴールが制した。振り
返ると彼は首を左右に振っている。騒ぎを起こすなということだろ
どの面下げてオルティアに疑惑をかけているのか。
う。それを見て彼女は急激に頭が冷えていくのを感じた。
︱︱︱︱
そう言いたい気持ちは喉元まで溢れかけていたが、雫は意識を切
り替えると微笑する。
﹁何のことでしょう。姫はそのようなことはなさりませんし、する
意味もございません﹂
﹁よく言うね。今まで散々その手を使ってきたのに。今更これは違
うとでも?﹂
﹁違います﹂
言い切った言葉は、ともすれば声が裏返りそうなほど怒りに溢れ
ていた。雫は表面上、笑顔を湛えたまま王を睨む。
﹁陛下、あまり証拠もない憶測を仰りませんよう。いずれご自分の
身に返ってくるやもしれませんよ﹂
﹁そのようなことはない。皆オルティアのことをよく知っているか
らね﹂
不快感が、腹の中に淀んでいく。
それはまるで体の裡で眠り続ける大蛇のようだ。
1064
雫は無意識のうちに左手で紋様の上を押さえた。彼女の発言を封
じる魔法を服越しに掻き毟る。
例えば人は、何処まで醜悪になれるのだろう。
どうやって堕ちていくのか。変わっていくのか。
雫はだが、ベエルハースが変質した過程に興味はない。
知りたくはないのだ。それを肯定してしまえば自分が変わってし
まいそうで。
彼女は目を逸らさず王に対する。自分こそが主君の代理であるの
だ。俯くことは許されない。
﹁陛下。私の主にやましいところなどございません。あの方は陛下
と違う。己の罪をよく分かってらっしゃる。あの方はあなた様より
もよき王となられるでしょう。私はそう信じております﹂
﹁⋮⋮愚かだね、雫。後悔しても知らないよ﹂
﹁その予定はまったくございませんが。仮にそうなったとしても私
の後悔など、陛下にとっては塵芥ほどの意味もございませんでしょ
う﹂
けれどその時、別の文官が部
傲岸に言い放つとベエルハースは顔をどす黒くした。
彼は更に口を開きかけて︱︱︱︱
屋に入ってくる。
﹁票決がまもなく始まります。審議の間へお越し下さい﹂
場の空気を変える伝令に雫は息をつく。横目で見やると王は苦々
しい顔で立ち上がっていた。彼女も立ち上がり姿勢を正す。
十一人によって行われる票決。
それがどちらへと傾くのか、はっきりとした自信を持っているわ
けではない。
だが負けたくない。この男には絶対負けたくないのだ。
彼女は背筋を伸ばし、審議の間へと足を踏み入れる。
たちまち集中してくる十一対の視線。
1065
それは、人が人を裁く有限の審判を雫に連想させたのだった。
当主たちは、縦に向かい合いあって並べられた二列の机を前に、
分かれて座っていた。
今まで散々議論を重ねていたのだろう。各人の前に置かれている
お茶は大分減っていた。王たちが入室した隙に女官がそれを交換し
ていく。
ベエルハースと雫は机の間を抜けて部屋の奥まで行くと、そこに
用意された椅子に座った。何だかゼミ発表をする人間みたいだな、
と雫は思ったが、それとは別種の緊張感である。
ベエルハースは彼女を見ようともしない。ただ何処を睨むわけで
もなく入ってきた扉の方を見つめている。
落ち着こう。
雫は王を横目で見やると、一度睫毛を伏せて床を見つめた。
︱︱︱︱
この時の為に今まで苦労してきたのだ。きっと切り抜けられる。
何とかなる。
見知らぬ世界に迷い込んでから、ここに至るまで何度も何度も障
害に突き当たってきた。
けれどそれら全てを自分は乗り越えられたではないか。
だから、恐れることはない。望む結果を引き寄せてみせる。
雫はゆっくりと息を吸う。
そして、顔を上げた。
長いまばたきを経て、当主一人一人の顔を見つめる。
微笑んで返してくれる男もいた。あからさまに目を逸らす人間も。
こうして全てを清算
しかし今は不安に思わない。堂々と胸を張る。
﹁それではこれより、票決を開始します﹂
捻れ果てた感情の果て。
傷ばかりが彩った暗闇の終わりに︱︱︱︱
する審判が始まった。
1066
※ ※ ※
十一人の当主。
彼らのうち六人に雫は直接面会したことがある。亡くなったラド
マイ侯を含めれば七人だ。
残りの四人はティゴールだけが交渉した。
だが、最後まで彼らと会うことを頑なに拒んだ人間もいる。甥を
オルティアに処刑されたティルガ侯だ。
そして票決は、そのティルガ侯の向かいに座すキアーフ侯から順
に表明されるようであった。
匿名での票決にしないのは、王が決した後、誰が自分に反する者
か王自身が分かるようにする為である。かつてこの票決にて王が交
代させられた後、新しく即位した王は自分に反する票を投じた人間
たちをすぐさま投獄した。
そして、それ以来十二家審議は一度も行われていない。
王族と当主たちに多大な人的被害を与えてまで、王を退位させる
ほどの出来事は今までなかったのだ。
キアーフ侯は微笑んで雫を見やると﹁オルティア様に﹂と口にし
た。
その声はしんとした部屋によく響き、皆を驚かせる。
以前行われた三家審議とは違う。オルティアを罪人とするかどう
かではなく、女王とするか否かの審議なのだ。にもかかわらず姫を
支持してくれた、その思いが嬉しかった。雫は黙って頭を下げる。
1067
そして、はじめの一人であり筆頭当主でもある男がオルティアに
票を投じたという事実は、場の空気に大きな影響をもたらした。
次の当主は迷いながらも﹁オルティア様を支持する﹂と手を上げ
る。
玉座を得る為に必要な票数は六。
中には交渉時に賛同を返してくれながらも、やはりベエルハース
に票を投じた当主もいた。だが雫は表情を変えない。落ち着いて次
を待つ。
九人目にして五票目を投じてくれたのは、セージ侯だった。
彼は﹁オルティア様に﹂と言って微笑むと雫に片目を瞑ってみせ
る。この場にはあまりにも軽薄な態度に、彼女はつい笑い出しそう
になってしまった。
これで、オルティアは五票。ベエルハースは四票。
残る二人のうち一人がオルティアを支持してくれれば勝てる。
十人目はレマ侯といって、ラドマイ侯と親しかった男だ。
雫が交渉した時は長く議論をした末﹁オルティア様に任せてみて
もいい﹂と言ってくれた。その彼が、自分の番となり手を上げる。
男は雫を見て、少し眉を曇らせた。彼女は緊張に唾を飲む。
﹁⋮⋮ベエルハース陛下に﹂
それを聞いた瞬間喜色を浮かべたのは、現王ベエルハースだ。
これで票は五対五になった。
票が足りない。
そして、残る一人はティルガ侯である。
︱︱︱︱
雫はそう認識すると蒼ざめた。頭の中でこうなった場合の対策を
呼び起こす。
1068
まずはオルティアを逃がさなければならない。
こうなっては審議に間に合わなかったのは幸運としか言いようが
ないだろう。雫が視線を送るとティゴールは頷く。
一刻も早くオルティアを国外に脱出させ、レウティシアに交渉を
申し出る。そしてベエルハースの首やキスクの領土、財産と引き換
えに、﹁正規の手段ではない簒奪﹂の為の援助をファルサスに願い
出るのだ。
雫自身は逃げられないかもしれないが、すぐに処刑などされなけ
ればニケが迎えに来てくれることになっている。勿論ヴィエドもユ
ーラやウィレットと共に脱出の算段をつけてはあるし、あとは即座
に動くだけだろう。
雫は落胆ではなく次への意志を表に出し、前を見つめた。
﹁失敗したらお前の命で贖ってもらう﹂と言っていた姫だが、雫が
処刑されてしまったらきっと非常に怒るだろう。そんな気がする。
だから出来る限り抗ってみせる。
そんな決意を抱いた時、ティルガ侯が最後の票を投じた。
﹁オルティア様を女王に﹂
場に訪れた空白は、何よりも驚愕で満ち満ちていた。全員の唖然
とした視線がティルガ侯に集中する。
だが当の本人は揺ぎ無い態度で雫を見据えた。その視線の強さに
彼女はほっとするよりも早く居住まいを正す。そうして改めて男の
視線を受け止めた。
一秒一秒が試されているような沈黙。
それを打ち破ったのは彼女の隣に座していた前王だった。
﹁な、何故だ! お前⋮⋮!﹂
﹁何故も何もございませんでしょう。私はオルティア様に票を投じ
た、それだけのことです﹂
﹁お前はあいつを恨んでいたではないか!﹂
1069
立ち上がりわめきちらすかつての主君を、ティルガ侯は厳しい目
で見やる。
﹁ベエルハース様は何か誤解していらっしゃる。今この場は王を決
める為の審議であって、誰かの私怨を晴らす為の場ではございませ
ぬ。そして王としてはあなた様よりオルティア様の方がふさわしい。
私はそう思ったまでのことです﹂
﹁わ、私が王としてあれに劣るというのか!﹂
﹁少なくともオルティア様は国の為に命をかけられる覚悟をお持ち
です。あの方が今この場にいないことが何よりの証明では?﹂
﹁そんなものは⋮⋮﹂
更にベエルハースが抗弁しようとした時、しかし閉ざされていた
扉が乱暴に開かれた。
向こうから入ってきた人間を見て、皆は驚きながらも一斉に立ち
上がる。
彼女は足を止めると軽く首を傾げた。てらいのない声で問う。
﹁すまぬ。遅れてしまった。票決はどうなった?﹂
戦場からそのまま来たのであろう。薄汚れた麻の服を纏い、埃ま
みれの髪を縛ったままのオルティアは一同を見渡した。
その視線が最後に雫へと辿りつくと、姫の側近である女は深く頭
を下げる。
﹁確かに。あなた様の命にお応えしました﹂
﹁よくやった﹂
オルティアは、屈辱に体を震わせる兄を見ようとはしなかった。
まるで既に過ぎ去った過去の象徴でしかないように彼を無視すると、
十一人の当主に向って声を張る。
﹁まずは妾に王たる機会をくれたこと、深く感謝する。ああ、皆に
言っておるのだ。誰が票を投じなかったかは構わぬ。知る必要もな
いことだ。妾はお前たち全てに己を認めさせてみせよう。︱︱︱︱
1070
だがその前に、一つ問わせて欲しい﹂
若干十九歳にして兄から王位を奪った女は、﹁女王﹂に恥じぬ威
厳を以って皆を見つめる。
そこに緊張や物怖じは見られない。ただ強い意志を持った王がい
るだけだ。
﹁此度の戦だが、これ以上武力に訴えても残念ながらファルサスに
は決定打を与えられぬようだ。カリパラの街は取り戻したが砦はと
られた。その為、これからは方策を変え、交渉に出たいと思う。勿
論可能な限りキスクの不利にならぬようにはするが⋮⋮こちらの立
場は弱い。まったく傷跡が残らないとは保証できぬ。そこでだ。改
めて貴君らに問うが、ファルサスへの交渉自体に不満を持つ者がい
るなら申し出てもらいたい。妾を女王には出来ぬというなら今のう
ちだ。遠慮なく申せ﹂
折角過半数を得たのに、何故それをふいにするようなことを聞い
てしまうのか。
雫はちらりとそう思わなくもなかったが、すぐにその考えを打ち
消した。黙ってオルティアを見つめる。
結論は、長く待つ必要もなかった。
十一人の当主たちは机を回って彼女の周囲に集まると、次々膝を
折る。
最後の一人、キアーフ侯が跪くと同時に重々しく口を開いた。
﹁女王よ。我らは貴女に従います﹂
紛れもない忠誠の言葉。
それを聞いたオルティアは満足そうに、だが少しだけほろ苦さを
持って微笑んだのだった。
こうして、歴史は作られる。
流れは変わる。より若く、強い力によって。
1071
偽りに縛られ続けた古き女王の血は、歪みを飲み込む新たな女王
を生み出す。
そうして時代は捲られ、また新しい朝が始まるのだ。
途端に慌しくなる周囲をよそに、オルティアは雫を手招きした。
彼女はそれに応えて傍に寄る。
﹁何ですか、姫﹂
﹁妾が留守の間、馬鹿はしなかったか?﹂
﹁途中何度か怒り狂いそうになりましたが、思い留まりました﹂
正直に答えるとオルティアは声を上げて笑いだす。
雫が白々とした表情で沈黙を保つと、女王は笑いを噛み殺しなが
ら﹁お前に怒られると、後からじわじわ効いてきて厭だ﹂と肩を竦
めた。
1072
006
ファルサスへと申し出た交渉は、意外にもあっさりと応じられた。
それはけれど、互いに武力による争いの限度を意識したというこ
とでもあるだろう。
ファルサスがいくら奇計を練ろうとも、援軍を呼ばなければ遅か
れ早かれキスクからの攻撃に耐えられなくなる。
両国が引き際を見出だせぬまま戦力を増強していけば、やがてこ
の争いは大陸全土に影響を与えるまでになってしまうのだ。
停戦の為の話し合いは事前協議の結果、ワイスズ砦で行われるこ
とになった。
ファルサスは三千騎を残して軍を本国へと返し、オルティアは少
数の護衛を伴ってそこを訪ねる。﹁せめて同数の軍を伴った方がい
い﹂と進言する者の方が多いくらいだったが、オルティアはその意
見を退けた。
﹁国内で行われる会談だ。必要以上に兵を伴っては臆病者と謗られ
る。そうではないか? 雫﹂
﹁どうでしょう。いっぱいいても少しでも、まったく気にしなそう
な人ではありますけど。むしろ顔をあわされない方がいいですよ﹂
﹁⋮⋮それでは交渉が出来ぬ﹂
オルティアは即位式もそこそこに交渉の為の準備にかかりきりに
なっている。ただ勿論城の人間は、派手派手しい式典がなくとも王
が代わったことを知っていた。それはベエルハースが軟禁されたこ
とからも明らかである。
1073
新しい女王の以前の評判に慄いていた者たちは、厳しくはあるけ
れど必要以上に人を責めることはしないオルティアを見て、皆驚い
たようだった。﹁姫、丸くなられたと評判ですよ﹂と雫が笑うと、
オルティアは﹁誰かが無理矢理削ったからな﹂と苦笑する。
王が代わったことに関する最低限の雑務が進められる一方、交渉
に必要な資料は三日かかって慌しくも整然と揃えられた。
そして十二家審議から五日後、その日はついにやってきたのであ
る。
砦へはキスク城から転移陣を使って移動することになった。
ファルサスに占拠されて以来封印されていた転移陣が再び動かさ
れ、まずは先遣隊がワイスズ砦へと転移する。広い砦内の北側にあ
る転移陣の間から中央部までは、ファルサスも兵を配備しない約束
となっていた。先に到着した者たちはまずそれを確かめ、続く女王
の安全を確保する。
異常無しとの報告を受けたオルティアは、側近たちと三十人程の
護衛と共に砦へと移った。小さな会議室を控え室と決め、最後の確
認を行う。
﹁交渉には三人ずつ伴ってよいことにはなっておるが⋮⋮ニケと雫
は無理だな。隠れておれ﹂
それについては二人ともまったく異論がないので黙して頭を下げ
た。ファルサス国内で暗躍していたニケと、ファルサス城から攫わ
れるようにしてキスクに連れてこられた雫は、どちらも存在がばれ
ては問題になってしまうのだ。その代わり何かあったらすぐに駆け
つけられるよう、音声を拾う為の魔法具をニケは主君に渡す。
結局オルティアにはファニートの他に魔法士と文官が一人ずつ付
き添うこととなった。女王は書類を抱えるとニケと雫を振り返る。
﹁では、行って来る﹂
﹁行ってらっしゃいませ。常識が通じない相手ですからお気をつけ
下さい﹂
1074
﹁⋮⋮それ程酷いのか?﹂
その問いにははっきりと答えたくなかったので雫は沈黙を守った。
オルティアは飲み込めないものを口にしてしまったような顔にな
ったが、気を取り直すと部屋を出て行く。
﹁ヴィエドは?﹂
﹁別室にいる。女官たちが見ている﹂
ファルサス直系である赤子の存在が吉と出るか凶と出るかは分か
らない。
二人は顔を見合わせると、待っている間とりあえずお茶でも飲む
ことにしたのだった。
ファルサスは事前の約束を全て守って待っていた。
兵士たちのいない廊下を歩き、約束の場所である執務室へと到着
したオルティアは、内心胸を撫で下ろす。
最悪ここまでの間に捕らえられ殺される可能性もあったのだ。相
手を信用させるにはまずこちらから態度を示さねばならないと思い、
護衛の人数も削った彼女だが、それが報いられたことはまずまずの
出だしだろう。
だが、その安堵も入室した瞬間に吹き飛ぶことになる。
開いた口が塞がらなくなってしまったのだ。
執務室の扉をくぐってすぐ室内の壁一杯に描かれた落書きを見
キスク女王として堂々たる態度で扉を開けたオルティアは︱︱︱
︱
て、
常識が通じないとは注意されたが、これは酷い。
オルティアは、白い壁に描かれた犬だかネズミだか分からぬ絵を
ついつい凝視してしまった。そのまま動けずにいた彼女にぞんざい
な男の声がかかる。
﹁どうした、オルティア。座らないのか?﹂
向かい合って置かれた三対の椅子。その奥側の中央に座る王。
1075
長い足を組んで背もたれに体を預け、腹が立つほど穏やかな笑み
を浮かべている彼は、先日戦場で会ったばかりのファルサス国王だ
った。造作だけは秀麗な顔立ちの、しかしたちの悪い稚気が見え隠
れする容貌に、女王は内心舌打ちしながら席に着く。
十歳近く年下の女が交渉相手として真向かいに座ると、ラルスは
﹁さて﹂と口を開いた。
お前はファルサスに何をくれる気だ?﹂
﹁面倒な前置きはいらない。今までも散々待たされたからな。それ
でオルティア︱︱︱︱
彼の言うことは、間違ってはいない。
確かに形としてはファルサスからの侵攻だが、それを誘ったのは
キスクだ。それくらいはお見通しのことであろう。その上キスクは
ファルサスに勝てず、砦も奪われた。弱い立場なのだ。条件をつけ
て帰ってもらうしかない。
だがそれら全てのことを弁えていても、オルティアは目の前の男
の言葉を聞いた瞬間、顔面に扇をぶつけてやりたくなって仕方なか
った。白い眼で聞き返す。
﹁その前に、そこの絵は何なのか聞きたいのだが﹂
﹁俺が描いた﹂
﹁何故﹂
﹁描きやすそうな壁だったから。記念になるだろ?﹂
ここでの会話は雫やニケにも聞こえている。オルティアは、側近
の二人がどんな顔をしてこのやり取りを聞いているか想像し、怒り
を紛らわせた。
しかし、それとは別に彼女の冷静な部分は、確かに砦を返してく
れるつもりがラルスにあると分かって安心する。﹁記念になる﹂と
いうことはつまり﹁ファルサスに奪われた痕になる﹂ということだ。
普通ならばそれは武官たちへの戒めになるだろうが、これ程下手な
絵であれば腹が立つだけであろう。彼女は頭の中に壁の修復を必要
事項として刻んだ。
扇は持っていないので、オルティアは代わりに書類を広げる。
1076
﹁まずはカリパラの街からだが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮想像以上だったな﹂
﹁うん。姫が切れないといいけど﹂
別室にて音声のみを拾っていた二人は、﹁あーあ﹂としか言いよ
うのない表情でお茶に口をつけていた。砂糖菓子の詰まった瓶を開
けながら雫は溜息をつく。
﹁これがレウティシアさんの方だったらよかったんだけど。王様っ
てまともな話が通じない気がするんだよね﹂
﹁お前、王妹の方が怖いぞ。出来れば俺は二度と会いたくない﹂
﹁美人なのに。眼福じゃない?﹂
﹁それで殺されるくらいなら壁の絵でも見ていた方がずっとましだ﹂
ニケは吐き捨てると書類に視線を戻した。机中央に置かれている
水晶からは、執務室内の音声が流れ出している。
カリパラ住民の同意を得た上での街の譲渡、ロスタ西にある直轄
地の鉱山をファルサスに明け渡すこと、賠償金の金額や今後五十年
キスク側からの不可侵など、停戦の条件を読み上げる女王の声に、
二人はしばし集中した。
オルティア﹂
全ての条件が提示されると緊張を禁じえない静寂が生まれる。
﹁それで全てか?
嘲笑うに似た声。
人の弱みや秘密を全て見透かしているような男の声に、雫とニケ
は硬直した。一つでは済まない心当たりが泡の如く弾ける。
﹁⋮⋮これでは足りぬと言うのか?﹂
﹁停戦の条件としては充分だな。だが、お前はまだ他に隠している
一体誰の子だ?﹂
ものがあるだろう? オルティア、お前が擁している赤子は│││
│
まだ一言も口にしていないヴィエドの存在。
それを父親かもしれぬファルサス国王に看破された雫は、驚きの
1077
あまり身震いするとそのままお茶のカップを取り落としてしまった。
オルティアの顔色は蒼白にまではならなかった。ただ美しい顔が
ほんの僅か強張っただけだ。
それとは対照的にラルスは余裕の笑みを崩さないまま彼女を眺め
る。
﹁お前のろくでもない退屈しのぎも腹立たしくはあるが、確かな証
拠はない。条件次第では見逃してやろう。ただ、子供の親は誰だ?
それを教えてもらおう﹂
セイレネの生んだ男児。オルティアは勿論その父親が誰であるか
を知っている。知らないのは側近の中でも雫だけだろう。ヴィエド
がファルサス直系であるか否か、ファルサス王族の協力があればす
ぐに判明するのだ。
その為、交渉の風向きによっては必要になるかと思い、まだろく
に動けぬ赤子も砦に伴っては来ているが、こんな風に向こうから話
題にしてくるとは思ってもみなかった。
何処から情報が洩れたのか。オルティアは意識の片隅を蝕む喉の
渇きを自覚しながらも笑ってみせる。
﹁さぁ、誰であろうな。妾の子かもしれぬ﹂
は?﹂
﹁ほう? 面白いことを言うな。ならお前は俺の妃にでもなるか?﹂
﹁││││
もしオルティアがお茶を飲んでいたなら、雫と同様、盛大に中身
をぶちまけてしまっていただろう。しかし幸い彼女が持っていたも
のは厚い書類にしか過ぎなかった。膝の上に落ちる紙の束をラルス
は面白そうに眺める。
﹁お前はその子供をファルサス直系であるからこそ内密理に育てよ
うとした。つまり俺の子としてな。俺は別に構わんぞ。むしろお前
が生んだというならお前ごとファルサスに引き取ろう。それも条件
に加えたなら今回は許してやる﹂
1078
﹁ま、待て。ヴィエドは⋮⋮﹂
﹁どうした? 父親が俺だという自信がないなら調べてやる。今す
ぐここに連れて来い﹂
本来ならば、自分が知らぬ子の存在は弱みにもなり得るものなの
だ。うろたえこそすれ、ここまで強気に出られるはずがない。
どうすればいいのか、女王はみるみるうちに蒼ざめる。
まるで強烈な一撃を頭に打ち込まれたかのようだ。混乱に思考が
ぐるぐると渦巻き、すぐには何も返せない。
絶句するオルティアを見やって、ラルスは性悪としか言い様がな
い笑顔を見せた。
﹁オルティア、俺はお前のように気の強い女が嫌いではない。退屈
はさせないから安心しろ。余計なことをする気もなくなるよう、こ
れからたっぷり躾けてやる﹂
男の青い瞳は冗談を言っているようには見えなかった。むしろ挑
発の意志があからさまに見て取れる。姫はそれを知って歯軋りした。
つまり、既にラルスは全てを知っているのだ。ヴィエドのことも、
オルティアがファルサスにいくつもの陰謀を投げかけていたことも、
全て把握している。
その上で今回の停戦と合わせて、騒動の原因である彼女自身の身
柄をもファルサスへ引き渡せと、男はそう要求しているのである。
膝の上に零してしまったお茶を拭き取っていた雫は、水晶球から
聞こえてきた声を聞いて更に布を落としてしまった。
だがそれを拾うどころではない。同じく唖然となったニケと顔を
見合わせる。
﹁想像以上と言っている場合じゃないな﹂
﹁やばい。変態だよ。どうしよう﹂
﹁変態だが、それ以上に不味いぞ。女王を連れて行かれたら玉座が
空く﹂
1079
﹁あああ、そうだった!﹂
今現在キスクの王族はオルティアと、べエルハースしかいない。
勿論遠縁の人間はまだまだ存在しているが、オルティアがファル
サスに連行されれば、自然べエルハースが玉座に戻ることになるだ
ろう。そうなっては怒り狂ったべエルハースがどのような仕返しに
出るか分かったものではない。最悪の事態を想像して雫は頭を抱え
た。
執務室から聞こえてくる会話によると、交渉は一旦休憩を挟むよ
うである。
と言ってもそれは実質オルティアに与えられた最後の猶予だろう。
雫は主君を出迎えに行こうと立ち上がった。
だがその肩を後ろからニケが掴む。
﹁待て、お前はヴィエドのところに行け。最悪でもあの子供がファ
ルサス直系と証明されなければ言い逃れがきく。ファルサスはまだ
ヴィエドが砦に来ていることを知らないはずだ﹂
﹁え、あ、そっか! 転移陣って使えるよね?﹂
﹁使える。一旦子供を連れて城に戻ってろ。後で姫の判断を仰ぐ。
護衛の人間を忘れず連れていけよ﹂
﹁分かった﹂
部屋を出ると、二人はそこに控えていた三人の護衛兵たちを伴っ
て別々に移動しかけた。
しかしその時、周囲の壁を微かな振動が走る。
何処か遠くで爆発音が聞こえた気がして、雫は足を止めた。逆方
向へ向かいかけていたニケを振り返る。
﹁なに今の﹂
﹁分からん﹂
何かがあったのだろうか。方角的に執務室の方かもしれない。
雫は部屋に戻って水晶球から音を拾い出そうか迷った。だが行く
先を変えかけた彼女は、同僚の背後を見て目を瞠る。
1080
まるで意味の分からぬ、理解しがたい光景。
足を止めた雫がその時見たものは、ニケの後ろに立っている護衛
兵が守るべき魔法士に向かって剣を抜こうとしている、そんな訳の
分からぬ姿だったのだ。
﹁危ない!﹂
雫の声は、注意を喚起するものとしては遅すぎた。あまりの予想
外な事態に声を出すのが遅れてしまったのだ。
そして、彼女が叫んだ時には既に全ては終わっていた。
ニケは前を見たまま右手だけを軽く振る。その動作と共に、剣を
抜いた兵士は痙攣しながら床に崩れ落ちた。魔法士の男は、倒れた
兵士の首と右手を踏みつけながら雫を手招く。
彼女は慌てて同僚のもとに駆け出した。すぐ背後から何かの倒れ
る音と呻き声が聞こえる。
﹁ニ、ニケ!﹂
彼の隣まで辿り付いた時、雫はようやく自分の背後を振り返り、
そして事態を認識した。
つまり、あの瞬間殺されかけていたのはニケだけでなく
剣を抜ききかけたまま同じ様に床の上で痙攣している二人の兵士。
││││
彼女もそうであったのだ。
遅ればせながら危険を認識して雫はぞっと体を震わせる。
﹁何なのこれ⋮⋮﹂
﹁今から聞き出す。そうだろう?﹂
問いかけは、足の下にいる兵士に向けてのことだった。残忍な魔
法士の言葉に男は顔を引き攣らせる。
軽くとは言え喉を踏まれているので呼吸が満足に出来ないのだろ
う。だが抵抗する力はないらしく兵士は空気を求めて喘いだだけだ
った。
ニケは爪先に込める力を調整しながら嗤う。
1081
﹁時間をかける気はない。お前が言わないなら向こうを起こして聞
く。知っていることを全て話せ﹂
﹁黙れ! 僭王の犬が!﹂
﹁あ、べエルハース元陛下か﹂
雫の相槌に兵士は顔色を変える。遅ればせながら自分の発言が間
の抜けたものであることに気づいたらしく、男は目を白黒させた。
ニケは嘲笑う目で足下を見下ろす。
﹁で、頭の悪い配下を持つべエルハースは何を企んでる?﹂
﹁い、言えるか!﹂
﹁なら死ね﹂
重ねて問うこともせずに詠唱が開始されると、兵士はもがいた。
けれど先ほどの痺れの余韻か満足に体が動かせない。
男は冷笑を浮かべるニケと、眉を寄せ複雑そうな顔をしている雫
を睨みつけた。
﹁馬鹿め! お前たちもどうせすぐに処刑される! ファルサス国
王を暗殺したのだからな!﹂
訳の分からなさの最たる捨て台詞。
それを聞いた二人は顔を見合わせると﹁ファルサス国王が死んだ
と。喜ぶべきか?﹂﹁さぁ⋮⋮﹂と微妙な会話を交わしたのだ。
﹁予想以上に不味いな﹂
ニケと雫は、倒れた兵士たちを部屋に放り込みながら水晶球を回
収した。
だが、それは既にオルティアと繋がっていないのか何の音も聞こ
えない。雫は誰も戻ってこない廊下を覗き込んで真っ青になった。
﹁ど、どうしよう。どうなってんの!?﹂
﹁おそらく⋮⋮べエルハースの狙いは﹃姫の指図と思わせてファル
サス国王を暗殺すること﹄だ。上手く行けば邪魔者が同時に二人排
除出来るし、失敗しても姫はファルサスに始末される。護衛の中に
1082
何人か裏切り者が混ざっていたんだろう。さっきお前の後ろにいた
二人のうちの一人もそうだったしな。こうなってはファルサスは勿
論、キスクの兵も敵と疑った方がいい﹂
﹁し、四面楚歌!﹂
﹁何だその呪文は。とにかくヴィエドを確保しに行くぞ﹂
転移の為の詠唱を開始する男に、だが雫は迷いながらも抗弁した。
手の中の水晶球を握り締める。
﹁姫は!? 姫の方が危ないよ!﹂
﹁姫にはファニートがついているし、一緒にいった魔法士もティゴ
ールの片腕で腕の立つ男だ。しばらくは何とかなる。だがあの赤ん
坊には女官と兵士しかいないだろう。裏切り者がいる以上そちらの
方が危険だ﹂
雫はユーラとウィレットのことを思って顔を曇らせる。こんなこ
とになってしまうのなら城に置いてくればよかった。だがそれはも
う言っても仕方がないことだろう。一刻も早く安全なところに連れ
て行くしかない。
詠唱の再開と共に空間に水鏡のようなひずみが現れる。ニケは雫
を振り返りかけて、けれど次の瞬間顔色を変えた。転移門が音もな
くかき消える。
﹁⋮⋮やられた﹂
﹁え。間違った?﹂
﹁違う。転移封じを発動された。多分ファルサスだ﹂
それは、元から砦の防御機能として備わっていた魔法構成だ。転
移陣は別として、通常詠唱による転移や転移門を阻害する機能。
ファルサスは砦を奪取していた間にその権限を書き換えていたの
だろう。魔法での移動を封じられてニケは忌々しげに床を蹴る。
﹁走るぞ。来い﹂
﹁分かった﹂
迷っている時間はない。ヴィエドを逃がし姫を助ける。やらなけ
1083
ればならないのは当面それだけだ。
雫は前だけを見て走っていく。
殺風景とも言える砦の内部はこの時、彼女の目には妙に入り組ん
だキスクの城と繋がっているように見えたのだ。
ヴィエドを置いた部屋は転移陣からそう遠くない場所にある。
雫は半ばニケを引き摺るようにして全速力で走っていたが、二つ
目の角を曲がった時、背後から停止を命じる怒声がかかった。振り
返ると剣を抜いたファルサスの兵士たちが数人、いつの間にかかな
りの勢いで追い上げてきている。
﹁待て! そこの二人!﹂
鬼気迫る声に、雫は当然ながら走る速度を上げた。
けれどその時、無理矢理彼女が引っ張っていた男が、その手を振
り解く。
﹁ニケ! ちょっと!﹂
﹁ほっとけ、体力女⋮⋮平気だから先行け﹂
上がってしまった息を整えながら男は詠唱を開始した。彼女に背
を向け兵士たちへと対峙する。
雫は刹那躊躇ったが、再び前を向くと走り出した。無駄に偉そう
な男だ。きっと何とかなるのだろう。戦えない自分はこのまま行っ
た方がいい。
彼女は頭の中で覚えている道順を正確に辿った。ヴィエドのいる
部屋の扉が見え始める。
だが、衛兵が立っていたはずのそこには誰もいない。雫は嫌な予
感を覚えながらも扉を押し開けた。
﹁ユーラ! ウィレット!﹂
殺風景だが広い部屋。けれど中に動く者は誰もいない。
ただ既に事切れているのだろう衛兵たちの遺体が二つ、剣を握っ
たまま部屋の奥に転がっていた。雫は唇を噛むと踵を返しかける。
1084
﹁⋮⋮⋮⋮さん⋮⋮﹂
すすり泣くような少女の声が耳を掠めたのは、彼女がまさに走り
出そうとしていた時だ。
雫は慌てて振り返ると部屋の奥に駆け込む。
﹁ウィレット!? 何処にいるの?﹂
﹁⋮⋮雫⋮⋮さん﹂
壁の隅にある物入れの扉。すぐ前に槍を入れる為の大きな箱が置
かれているそれは、まるで長らく使われていないかのようだった。
けれど少女の声は確かにその向こうから聞こえる。雫は槍が数本
入ったままの箱を苦労してどかすと扉を開け放った。中から転がり
出るようにして赤ん坊を抱いた少女が現れる。
﹁ウィレット!﹂
﹁雫さん⋮⋮よかった⋮⋮﹂
今まで泣いていたのであろうウィレットは、雫の肩越しに死体を
見てぎょっと硬直した。
しかし固まっている時間はない。雫はウィレットの視線を体で遮
ると聞き返す。
﹁ユーラは?﹂
﹁きゅ、急に兵士の人たちが、赤ん坊を寄越せって⋮⋮衛兵の人と
分かった﹂
もみ合いになって⋮⋮ユーラさんは、私をここに入れて隠れてろっ
て⋮⋮﹂
﹁││││
ユーラの死体がここにはないということは、連れて行かれたか逃
げたかのどちらかだろう。
雫は彼女がまだ生きているという希望にかけて、少女の腕の中か
らヴィエドを抱き取る。
﹁裏切り者が兵士に紛れてる。すぐ城に帰るよ。走れる?﹂
﹁わ、私むりです。足が、動かない﹂
ウィレットは今にも床にへたりこみそうだった。雫はがくがくと
震える少女を見て申し訳なさと焦りに迷う。
1085
転移陣はすぐそこだ。だが、何処に敵がいるかは分からないし、
この状態のウィレットを連れてはそう逃げ回れないだろう。
雫は苦渋の決断を下すと、少女に向かって頷く。
﹁分かった。じゃあウィレットはここに隠れてて。声出しちゃ駄目
だよ﹂
ファルサスとべエルハース、どちらにも渡せないのはヴィエドだ
けだ。逆に言えばこの子がいなければ、単なる少女のウィレットは
どうこうされることもないだろう。
雫は﹁すぐ戻ってくるから﹂と言ってウィレットを物入れに戻す
と、ヴィエドを抱いたままでは箱が動かせないので、代わりに椅子
を前に置いた。血に濡れた床を抜け、誰の姿も見えない廊下に出る。
腕の中の赤子はよく眠っていた。この騒ぎにも動じない無垢な寝
顔に雫はつい微笑む。
だがすぐに表情を引き締めると、彼女は再び人気のない廊下を走
り出した。
ファルサス王の暗殺が冤罪である以上、ファルサス兵を必要以上
に殺しては後に響く。
その為ニケは主に気絶用の構成を組みながら、向ってくる兵士た
ちを床に伏せさせていた。
雫の姿はとっくに見えなくなっている。彼よりはよっぽど基礎体
力があるらしい彼女は、もうヴィエドの部屋についているに違いな
い。
ニケは全ての兵士を気絶させてしまうと、新手が来る前に移動し
ようと走り出しかけた。
だが、彼は次の瞬間、自分の勘に頼ると防御構成を組む。
微かにだが魔法の気配を感じたのだ。そしてその勘が正しかった
ことはすぐに証明された。防壁に束縛用の構成が突き当たる。
強大な魔力。
1086
感じ取れるそれに、ニケはいつかの記憶を思い出しながら振り返
った。
右耳に大きな蒼玉の魔法具をつけた男がそこには立っている。無
言で複雑な構成を編み上げるファルサスの魔法士に、ニケは不愉快
さを顕にした。
﹁お前か﹂
立ち止まっている時間はない。
けれど軽くあしらえるような相手ではないこともまた、魔力と構
もしこんなところで、足を掬われて終わるのなら。
成から容易に窺い知れた。彼は自分も構成を組み始める。
││││
それは今までのつけが来たというだけのことだ。長い間自分も同
様に人を操り続けていたのだから。
だが、それでは雫までもが救われない。彼女は結局何もしてはい
ないのだ。過ってしまったものを何とか戻そうとしていただけで。
まるで無力で、けれど頑固なお人好し。彼女には本来もっと違う
場所が似合うのだろう。善意が当然であるような温かい場所の方が
ずっと。
ニケは自嘲を浮かべながら構成に魔力を通す。
新手が加わる前に逃げた方がいい。けれど分かっていてもそれは
出来なかった。彼は組み上げた構成で相手の攻撃を受け止める。
﹁お前のせいだぞ、馬鹿女﹂
人は、矜持や、どうしても譲れないものの為に命をかけることも
出来る。
彼女と出会ってニケは、ようやくそのことを身をもって理解した
のだ。
出来るだけ振動を腕の中に伝えないよう、雫は爪先だけで床を蹴
る。オルティアがそう多くの兵士を伴ってこなかったことが幸いし
ているのか、疑わしいキスク兵にはまだ出くわしていなかった。
1087
彼女は最後の角を前に急減速すると、そっと奥を覗き込む。転移
陣のある部屋の前。そこには三人の兵士が立っているのが見えた。
しかし、彼らが裏切っているのかどうか雫には分からない。
姿を現してみるべきかどうか彼女は逡巡する。だがその時、近く
の扉が開いて別の兵士が出てきた。慌てて顔を引っ込めた雫の耳に、
囁くような声が聞こえる。
﹁子供は見つかったか?﹂
﹁まだだ。女が連れて逃げたらしい﹂
敵だ。
﹁城にばれると厄介だ。急げ﹂
││││
雫は顔を見せなくてよかったと安堵したが、すぐに彼らの足音が
近づいてくるのに気づいて身を翻した。見つかる前に何処かに隠れ
てやりすごさなければならない。けれど、咄嗟に手を伸ばした扉は
鍵がかかっていた。雫は諦めて走り出す。
足音で気づかれるかもしれない。第一兵士たちが角を曲がればす
ぐに見つかってしまう。
雫はヴィエドを強く抱くと、走るスピードを上げた。先ほど自分
が曲がってきた角がやけに遠く感じられる。
しかしその前に、途中の扉が開いて彼女の進路を遮った。
﹁雫さん、こっち﹂
潜めた声での呼びかけ。けれどそれが誰であるかは間違えようも
ない。雫が中に飛び込むと、女は扉を閉め鍵をかける。
﹁ユーラ﹂
﹁無事で何よりですよ。雫さん﹂
あちこち血がついた服、床に置かれた剣に彼女の奮闘が滲んでい
る気がして雫は息を呑む。
だがユーラは、責めるところの一切ない目で雫とヴィエドを見る
と、いつもと変わらぬ温かさで微笑んで見せたのだった。
﹁とりあえず雫さん、何があったか教えて頂きたいんですけど﹂
1088
﹁そ、そうですよね﹂
二つの扉だけで窓もない部屋に座り込むと、二人は小声で相談を
開始した。雫はユーラの質問に疲れた笑いを見せる。
ヴィエドのことは極秘だが、こうなっては話しておいた方がいい
だろう。既にユーラは当事者なみに巻き込まれているのだし、一人
で対策を考えるよりは彼女の意見を聞いた方が何か案が出るかもし
れない。
雫は手短に、ヴィエドはラルスの子供であるらしいことと、べエ
ルハースがオルティアを陥れようとラルス暗殺を指示したこと、そ
して現在その誤解によってファルサスと、裏切ったキスク兵の両方
に追われていることを説明した。
四面楚歌としか言いようのない状況にユーラは眉を顰める。
﹁お城は安全だけれど、その前には見張りがいるんですよね?﹂
﹁そうみたいです。ニケも来ないし、姫も⋮⋮﹂
二人がどうなったのか、今の雫に知る術はない。彼女はポケット
の中で沈黙したままの水晶球を思って、眉を曇らせた。ユーラが怪
訝そうな声で返す。
﹁でも、その子が本当にファルサス国王の子供かどうかは、まだ分
からないわけですよね?﹂
﹁え。そう、ですけど、分かったら不味いんです﹂
﹁違うって分かれば不味くないですよ。だってファルサス国王は子
供のことを知らなかったんでしょう?﹂
﹁多分⋮⋮最初は知らなかったと思います﹂
オルティアやニケにはっきりと確認したことはないが、彼らは皆
﹁子供のことはラルスに知られていない﹂前提で動いていた。だか
らこそ先程はその存在を看破され、あんなにも驚いてしまったのだ。
しかしそれは、おそらく生まれてから﹁オルティアが赤子を匿っ
ている﹂との情報が洩れただけで、ラルスが前々から子供の存在を
知っていたわけではないだろう。もし知っていたなら、彼はもっと
早く自分の子供を取り戻す為に手を打ってきたはずだ。
1089
雫はユーラが何を言いたいのか掴みかねて首を傾げる。同い年の
女官は顔の前に一本指を立てて雫を見つめた。
﹁雫さん、いいですか? 王族の方々にとって﹃自分の知らない子
供﹄ってのはまず存在しないでしょう?﹂
﹁そ、そうなんですか? 女性はともかく男性は偶然出来ちゃった
子供とかいるんじゃ⋮⋮﹂
﹁いませんよ。普通王族の方は避妊の魔法薬常用してますから。子
供を作ろうと思っていなきゃ出来るはずがないんです﹂
﹁げ﹂
この世界の薬とは魔法薬を指すことは知っていたが、まさかそん
なものまであるとは思わなかった。雫は急いで頭の中の常識を掃除
すると、思考を整理しなおす。
﹁え、じゃあ王様がヴィエドの存在を知らないでいたってことは⋮
⋮この子、王様の子じゃないんですか!?﹂
﹁私はそう思いますけど。大体ここ一、二年はファルサスの後宮っ
て空っぽらしいですから﹂
ヴィエドがラルスの子供ではないのだとしたら、話はまったく変
わってくる。
もしこの場にニケがいたなら、雫は﹁どういうことなの!﹂と首
を絞めていただろう。だが生憎彼は戻ってきていない。
雫は疑問符だらけの頭を激しく振った。
﹁王様の子じゃないってことは、じゃあ姫も王様もきっと知ってて、
でも連れて来いって、直系が、あれ⋮⋮﹂
もう何が何だか分からない。ヴィエドを抱いてなければ、そして
隠れているのでなければ雫は絶叫していただろう。
そんな彼女を落ち着かせるようにユーラは雫の両肩に手を置いた。
正面から瞳を見つめてくる。
﹁いいですか、雫さん。多分この子はファルサス国王の子供じゃな
いんです。なら、そう証明されればこの子は安全になりますし、姫
1090
様も連れて行かれずに済みます﹂
ラルスがオルティアを連れて行こうとした口実は、姫がヴィエド
を﹁自分の子﹂だと言った戯言のせいであり、彼女がファルサス直
系の子供を隠匿しているという憶測に基づいてのことだ。
もしヴィエドがラルスとは無関係と分かれば、オルティアを連行
する理由はなくなる。雫はそこまで理解すると大きく頷いた。
﹁じゃあ、ヴィエドは⋮⋮﹂
﹁そう。ファルサス側に渡した方がいいんですよ。で、証明しても
らえばいいんです﹂
﹁そ、そっか⋮⋮﹂
ファルサスにヴィエドを渡して、親子ではない証明を
雫は肯定の相槌を打ちながら、だが一抹の不安に口ごもる。
││││
取る。本当にそれをしていいのだろうか。
王族に意図しない子供は存在しない、その常識をオルティアやニ
ケが知らぬはずがないのだ。なのに彼らは、ヴィエドがファルサス
直系であることを間違いないと確信しているようだった。
雫は腕の中の子を何処に連れて行けばいいのか頭を悩ませる。ユ
ーラはそんな彼女に向かって再び口を開きかけた。
﹁雫さん⋮⋮﹂
﹁おい! 誰かいるのか!﹂
粗野な怒鳴り声と共に扉が激しく叩かれる。
雫とユーラは跳ねるように立ち上がった。息を潜めて耳を澄ます。
扉の向こうからは﹁本当にここか?﹂﹁声が聞こえた気がする﹂
との会話が聞き取れた。転移陣の部屋前で聞いたのと同じ声に、雫
は体を固くする。
このまま諦めて行ってくれないだろうか。彼女はそう思ったが、
男たちは鍵のかかった扉をそのままにしておくつもりはないらしい。
怒声と共に向こう側から体当たりを始めた。扉が軋んで嫌な音を立
てる。
﹁参りましたね。まったく﹂
1091
呆れたような声と共に床の剣を拾ったのはユーラだ。雫は驚いて
剣を構える女官を見つめた。
﹁雫さん、そちらの扉から逃げててください。ちょっと時間稼ぎま
すから﹂
﹁ユ、ユーラ。危ないって⋮⋮﹂
聞こえてくる声からして、男たちは四、五人はいるだろう。一介
の女官に何とか出来る人数とは思えない。だがユーラは少しの恐れ
もない目で笑った。
﹁大丈夫ですって。行ってください、雫さん。言ったでしょう? ギッタギタにしてやるって﹂
激しい体当たりが一度される度に、扉の金具が歪む。もう見つか
るのは時間の問題だろう。雫はヴィエドを抱いたまま後ずさった。
﹁ユーラ﹂
﹁雫さん、信じてください﹂
ユーラの顔から笑顔が消える。彼女はひどく静かな、真面目な貌
になると剣を構えた。破られる寸前の扉に向かって対峙する。
逃げていいのか、逃げられるのか。
躊躇する雫はしかし、下から髪を引かれて目を見張った。腕の中
のヴィエドに向かって視線を移す。
いつから目を覚ましていたのか青い瞳で見上げてくる赤ん坊。そ
の小さな手は、乱れた雫の髪の一房を握っていた。
稚い笑顔は何も分かってはいないのだろう。
この子をべエルハースには渡せない。
愛されることを当然とするその存在、純真さに胸が痛む。
││││
彼は、血の繋がった妹でさえ愛せなかった男だ。そんな人間には
決して渡せない。雫は決断すると顔を上げる。
﹁ユーラ⋮⋮危なくなったら降参して﹂
﹁分かりました。また後でお会いしましょう﹂
扉の金具が悲鳴を上げた。雫はもう一つの扉から別の部屋へと駆
け出す。
1092
部屋の中を走り抜け廊下へと飛び出す刹那、背後からは男のもの
とも女のものともつかぬ、鈍い悲鳴が聞こえた気がした。
あれから時間がどれ程経ったのかよく分からない。
ほとんど経過していない気もしたし、何十分も経った気もした。
ニケは新たな構成を組みながら息を吐く。
戦闘の場数だけでいうなら自分の方が圧倒的に上を行っている。
だがそれ以上に、相手の揮う魔力は強大で、組んでくる構成は複
雑極まりないものだった。
普通の魔法士相手であれば構成を見ただけで効果を判断できる。
そうであれば攻撃がこちらへ届くよりも早く対策が打てるのだ。
けれどこの相手は一つの構成に複数の効果を乗せて打ち出してく
る。だからこそ咄嗟には判断がつかず、結果ニケは常に後手に回ら
される羽目になっていた。
彼は素早く組み上げた構成を宙に放つ。
それは相手の構成を引き寄せて相殺した。その間にニケは電撃で
相手を狙い打つ。
ファルサスの魔法士はだが、手に持った短剣で彼の攻撃を払った。
剣は魔法具であるらしく、放電し罅割れながらも魔力を吸い込んで
光る。
﹁くそ!﹂
このままでは一向に決着がつかない。他がどうなっているか、い
い加減心配だった。
ニケは方針を変えると退却の間を計る。その時、何の気配もなく
背後から肩を叩かれた。
﹁見ーつけた﹂
悪童のような笑い混じりの声。
それが誰のものであるか気づいた時、彼の目前には既に避けよう
1093
もない網状の構成が迫っていた。
真っ直ぐに転移陣の部屋へは向えない。
裏切り者がどれだけいるかは分からないが、おそらくその部屋は
見張られているだろう。
彼女は現在地を把握しながらも、闇雲に廊下
だが、だからといってヴィエドをファルサスに渡す決心も雫はつ
けられないでいた。
の角を曲がっていく。
今日ここで交渉が行われていることは、城の皆が知っている。い
つまで経っても女王が戻ってこないと分かれば、彼らは不審に思っ
て様子を見に来るだろう。それまで捕まらないよう時間を稼ぐしか
ない。雫は別れてきた人間たちの無事を祈って唇を噛んだ。遠くか
ら聞こえてくる声を避けて、角を右に曲がる。
真っ直ぐに伸びる廊下。その先は下り階段になっていた。雫は階
段の前に立つ人影を見つけて急ブレーキをかける。
たった一人、長剣を持っている男。愛想のない無表情は、姫に古
くから仕える男のものだった。彼女は味方の存在にほっと安堵する。
﹁ファニート!﹂
﹁⋮⋮貴女か﹂
﹁どうなったの、姫は⋮⋮﹂
そこまで言って、雫は彼が一人であることにようやく気づいた。
ファニートは姫と一緒であったはずなのだ。なのに何故一人でこ
こにいるのか。具体的な可能性を思いつくより早く、背筋が凍った。
男の暗い目が雫を見つめる。
﹁姫はファルサス国王に連れて行かれた﹂
﹁え⋮⋮﹂
ということはやはり、暗殺は未遂で終わっていたのだろう。雫は
満身創痍の同僚を見上げて息を呑んだ。
﹁じゃあ、姫は﹂
1094
﹁すぐには処分されない。捕らえられているうちに手を打たねば﹂
﹁分かった。一旦城に戻ろう。ティゴールさんや当主の人たちと相
談する﹂
もはや簡単には打開できない程、事態は絡み合ってしまったのだ。
一度外に出て交渉しなおすしかない。転移陣の部屋には見張りがい
るだろうが、ファニートと一緒ならばそれも何とかなるだろう。
男はけれど、その提案にすぐには頷かなかった。黙って血濡れた
剣に目を落す。
﹁そうだな。だが、その前にやっておくことがある﹂
﹁何?﹂
﹁子供を渡して欲しい﹂
差し出された大きな左手。血に汚れたその手に雫は眉を顰めた。
ヴィエドを抱き直しながら口を曲げる。
﹁受け取るなら両手にしてよ。危ない﹂
﹁構わぬ。渡してくれ﹂
﹁私が構うって! ならこのまま抱いてくよ﹂
﹁では貴女ごと斬るぞ﹂
その言葉は、冗談に聞こえた。
冗談でしかないだろう。あまりにも脈絡がない。
だが、雫の本能はそれを否定していた。大きくファニートから距
離を取って跳び退る。一瞬で警戒態勢に入った同僚を男は静かな目
で見やった。上げかけた剣を構えなおす。
﹁姫は貴女を気に入っている。出来るなら子供だけ処分したい﹂
淡々とした事務的な言葉は、彼の口から出たものとは思えなかっ
た。雫は慄然として聞き返す。
﹁何言ってるの⋮⋮。正気? 赤ちゃんだよ?﹂
﹁正気だ。その子がいては姫の立場が危うくなる﹂
ファニートは己の発言を証明するように雫に向かって歩を進め始
めた。彼女は前を向いたまま同じだけの距離を広げようとする。
﹁待って。セイレネさんの子供だよ? ずっと大事にしてたじゃな
1095
い﹂
﹁私個人が大切だと思ったことはない。姫に必要だと思ったから尊
んだだけだ。第一セイレネは私が処分した﹂
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
人の気持ちなど分かるようでいて少しも分からない。
表情から、行動から読み取ろうとしても、それはきっと完全では
ないのだろう。
雫は理解できない相手を前に、呆然とその両眼を見つめる。
よく知っていると思っていた男の顔はその時、ひどく欠落だらけ
のいびつなものと化していたのだ。
初めから、彼女を見ていた。
彼女だけを見ていた。ずっとずっと。
全霊をかけて守ろうと思っていたのだ。自分の全ては彼女のもの
と言ってよかった。
だが自分は、肝心なところで間に合わなかった。
彼女は変わってしまった。
日の下で咲き誇る花ではなく、暗闇に香る妖花になった。
喧嘩の後、気まずそうに目を逸らして謝ってくる少女は幻の如く
消え、彼女は徒に人を傷つけることで憂さを晴らすようになった。
彼女を褒め称えていた皆が声を潜め、彼女を謗る。怨嗟が城に満
ちていき、悪評は他国にまで届いた。
あまりにも変わり果てたその様を見る度、後悔に繰り返し打ちの
めされる。
何故、あの日彼女から目を離してしまったのか。どうしてもっと
早く助け出せなかったのか。消えない罪が常に頭の奥で自分を苛む。
それでも、それだからこそ彼女に仕え続けようと決意を固めた。
けれど、一人の人間によって少しずつ変わっていく彼女を見た時、
ふと気づいてしまったのだ。
1096
閉ざされていた暗い部屋。
自分と彼女だけの陰鬱な世界を││││
本当は永遠に変わらぬ
ものとして守っていたかったのだということに。
﹁セイレネさんを処分したって⋮⋮何で?﹂
﹁赤子を取ろうとしたら姫を悪し様に罵った。私に向かってだ。許
せるはずがない﹂
﹁何言って⋮⋮﹂
反論しかけて雫は男の目に沈黙する。
それは既に﹁越えてしまった﹂人間の目だ。自分の決めた道だけ
を進み続ける人間の目。
まともな話の通じる状態ではない。彼女はヴィエドを抱いて後退
した。いつ振り上げられるか分からぬ剣先に注意する。
彼は、
﹁全ては姫を守る為だ。女を殺すことも、赤子を殺すこともその為
ならば何ということはない﹂
﹁何てことあるよ。姫はきっと怒る﹂
﹁今の姫ならそうであろうな。貴女が変えた﹂
その時、ファニートの声音は苦々しいものに聞こえた。
赤子というよりも雫を見据えて距離を詰めていく。感情が窺えない
と思っていた男の両眼は、初めて見る強いやりきれなさと共に彼女
を射抜いていた。
﹁貴女が、姫を変えたのだ。本当ならば私がしたかったことを為し
た。不甲斐なくも姫を守れなかったのは私の罪だ。だから私は姫の
為に出来得ること全てをするつもりだった。だが結局、全てを動か
したのは貴女だ。それを思うと⋮⋮正直妬ましくてならない﹂
ファニートにとって特別だったのは、最初から最後までオルティ
アただ一人だ。彼女に残虐な行いをさせたくなかったからこそ、彼
は雫を庇い、セイレネを守って赤子を育てた。
しかし、いつの間にかオルティアは変わっていく。
1097
小さな昏い部屋を出て、皆の女王になっていく。
﹁何年お仕えしても私には何も出来なかった。いつまでもあの日と
同じだ。ただの無様な道化でしかない﹂
﹁⋮⋮そんなことないよ。姫はファニートを頼ってる﹂
頼っているから我儘に振舞った。甘えて詰って罵った。それは子
供の部分を残すオルティアの、確かにある一つの親愛であったろう。
雫の言葉を聞いてファニートは淋しそうな微笑を浮かべる。
そこには過去を思う哀惜と共に、通じ合わぬことを受け入れる寂
寥があった。
月の下で咲く花と陽の下で咲く花。
どちらを愛していたかと聞かれれば﹁どちらも﹂と答えただろう。
だが、独占出来たのは夜に咲く花だけだ。
﹁きっと、貴女には分からぬ﹂
最後の通告。
剣を振り上げても、雫はヴィエドを手放そうとはしなかった。よ
り一層きつく腕の中の子を抱きしめる。
﹁ファニート、やめて﹂
﹁貴女はべエルハースの配下に殺されたと、姫には伝えておこう﹂
異世界から来た彼女は、その知識でも力でもなく、ただ思いによ
ってオルティアを変えた。
自分にそれが出来なかったのは、オルティアを誰の手も届かぬ城
の一室に留め続けたいと、何処かで願ってしまった為だろう。
王族であることを疎む姫に﹁城から逃げてもいい﹂とはついに言
えなかった。
広い世界に出たなら彼女は、二度と自分を顧みてくれぬ気がして。
1098
雫は自分が泣きたいのか怒りたいのか分からなかった。ヴィエド
を落さぬようしっかりと腕に力を込める。ファニートに背を向ける
ことは出来ない。視線を外せばすぐさま切り捨てられるような気が
したのだ。
背後を確かめられぬまま彼女は一歩一歩後ろに下がり続ける。
このまま行けば、確か先は行き止まりになっていたはずだ。
それまでの間に誰かが見つけてくれないだろうか。
雫はあまりにも味方がいないこの状況でそんな希望を抱き、慌て
自分で何とかするしかない。
て打ち消した。
││││
皆が皆、大変な思いをしているのだ。誰かに期待を委ねることは
出来ない。
雫はそう決断すると、足に力を込めた。一瞬後、何の前触れもな
くファニートに向かって走り出す。
男はさすがに驚いたようだった。少し目を瞠って、けれど雫の頭
目掛けて剣を振り下ろす。
だが彼女はあらかじめ予想していた刃を斜めに跳んで避けた。避
け切れなかった攻撃を守護の指輪が逸らす。
立ち止まらない。足を止めない。
雫はファニートの脇をすり抜け、廊下の先目指して駆け出した。
背後を気にしない。何も考えない。
下り階段が見えてくると、彼女は何の迷いもなく前を睨む。
そうして息を止めると⋮⋮雫は走ってきた勢いのまま、数段下の
踊り場目掛けて踏み切った。
視界が開ける。
嫌な浮遊感が全身を包む。
彼女は空中で赤子を抱え込んだ。膝を曲げて衝撃に備える。
待っていた着地は、咄嗟のものにしては充分すぎる出来だったろ
う。
1099
﹁⋮⋮っ!﹂
雫は足を走る痺れによろめきながらも残りの階段を駆け下りた。
けれど、あと二段というところで後ろの空気が動く。彼女は転が
るようにしてそれを避けた。すぐ隣を剣の刃が過ぎていく。長いス
次は避けられない。
カートに切れ目が入った。
││││
その予感は、限りなく現実のものである。雫は恐怖に体を強張ら
せた。瞬間、足を踏み外して階段の下まで滑り落ちる。
それで足首を挫いたのか、彼女は尻餅をついた途端、激痛に短い
悲鳴を上げてしまった。そこに男の呻き声が重なる。
﹁え?﹂
今の声は誰のものであったのか。
雫はゆっくり後ろを振り返った。その視線がファニートを捉える。
﹁ファニート?﹂
つい一瞬前まで彼女を殺そうと剣を振るっていた男。
その彼が、今何故か階段に座り込んで雫を見つめていた。剣を握
っていた手が力なく落ちる。
全てが穏やかに制止していく。
長らく淀み積み重なっていたものが、溶けて晴れて消え去ってい
く。
最後に残された数秒間を、二人は相容れなさと同じだけの思いを
持って迎えた。男の唇が僅かに動く。
﹁⋮⋮姫を﹂
それだけを呟いて彼は俯いた。背中に突き立った矢が揺れる。
男の胸から突き出した鏃。
その先端を伝う赤さは白い階段に滴ると、やがて小さな血溜まり
となって静かに冷えていった。
1100
007
突然のファニートの死に、だが雫は安堵も悲しみも覚えるわけに
はいかなかった。足首を庇って後ずさりながら、階段の上を見上げ
る。
そこには短弓を手にした一人の男が立っていた。彼は見たことの
ない、だが何処かで既視感を覚える端正な顔立ちをしている。男は
そのまま階段を下り始めると、雫に向かって手を差し伸べた。
﹁その子供を渡してもらおう﹂
﹁⋮⋮ファルサスの人ですか?﹂
﹁いいや違う。俺は⋮⋮その子供の父親だ﹂
今、彼は何と言ったのか。
驚愕する彼女の目の前で男は弓を投げ捨てると、何も持っていな
い両手を差し伸べた。ヴィエドと同じ青い瞳が赤子を見つめる。
セ
戦意はなく敵意もない。むしろそこにあるのは固い何かの意思だ。
雫は男の視線に戸惑って、だがかろうじてかぶりを振る。
﹁しょ、証拠は⋮⋮?﹂
﹁その子供は、セイレネ・エアト・ソフォナの息子であろう?
イレネは俺の妻だった﹂
雫の知らぬセイレネの本名。それを口にした男は、彼女が硬直し
た隙に手の中の子供を抱き取った。大きな手で、不器用に、だが宝
物のように我が子を抱き上げる。
同じ色をした二対の瞳、よく晴れた日の空に似た青が、間近で互
いを映しこんだ。
彼らの片方は不思議そうに、もう片方は愛しげにじっと相手を見
1101
つめる。
声もなくただ目だけで相手を確かめ合うその様は、不思議なほど
胸を打つ光景だった。雫は我知らず唇を噛む。
﹁⋮⋮あなたは、どなたですか﹂
ファルサスの人間でないとしたら、何故彼は今こんな場所に現れ
たのか。
素朴な疑問をぶつけてみると男は雫を見下ろした。その問いに答
えようと口を開きかける。
しかし雫は結局、その答を聞くことは叶わなかったのだ。彼が名
乗りかけたその瞬間、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちてしまったの
で。
意志を、思考を一瞬で砕ききる激痛。耐え難い苦痛を与えるそれ
は、雫の体内に潜む魔法の仕業だ。彼女は腹部を押さえて悲痛な泣
き声を上げる。
薬を切らした。
いつもならしっかりと覚えていたはずの時間を忘れてしまってい
たのだ。雫は震える手でポケットを探る。
だが、何処かで落としてしまったのかそこには何も入っていない。
彼女は涙で濁る目を開いた。覗き込んでくる男を見上げる。
ファニートは死んでしまった。
姫は、ニケはどうなったのか。ユーラやウィレットは無事でいる
のか。
答はない。自分はここで死ぬのかもしれない。
雫は激痛の中、揺さぶられる思考を閉じていく。壊れかけた感覚
を切り離す。
意識が闇の底へと散っていく最後の一瞬、けれど誰かの手が自分
を抱き上げたような、そんな気がした。
1102
※ ※ ※
指先が、そっと躰に触れていく。
とても温かく優しい指。
肌の上を滑っていくその感触に、彼女は浅い息をついた。
不安はない。痛みも何も。
伝わってくるのは穏やかな快さだけだ。
体の中をゆっくりと動かす指に、彼女は全てを委ねる。安心しき
って身を任せる。
くすぐるように体の上をなぞる優しい指に、彼女は溜息よりも柔
らかい吐息を零すと、再び浅い夢から深い眠りの中へと落ちていっ
た。
何だかよく分からない夢を見ていた気がする。
意識を取り戻して雫がまず思ったのはそんなことだった。彼女は
天井しか見えぬ視界に額を押さえる。
﹁あれ⋮⋮?﹂
﹁雫さん! お目覚めになったんですか!﹂
﹁⋮⋮ユーラ﹂
間髪淹れず目の前に飛び込んできたのは、よく見知った女官の顔
だった。雫は手を伸ばして彼女の頬に触れる。
﹁無事、でした? ユーラ﹂
﹁勿論ですよ! あんなのに負けませんから﹂
見ると彼女は着替えたのか、いつもとはまったく違う格好をして
いた。深い紅で纏めた、何処かで見覚えのある服装。雫はそれを何
1103
処で見たのか思い出そうと上体を起こした。かけられていた掛布が
体から滑り落ちる。
﹁あれ、また裸?﹂
小さな部屋の中には自分とユーラしかいない。
だからこそぼんやりとした仕草で布を引き寄せかけた雫は、しか
しあることに気づいて愕然とした。まじまじと自分の体を見下ろす。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮うそ﹂
これはもしかしたら、夢なのかもしれない。
日に焼けるはずもない白い腹部。そこに今朝まで確かにあった紋
様が、今は忽然と、跡形もなく、綺麗になくなっていたのだから。
﹁何これえええええ!! うぐっ!﹂
無理もない絶叫を上げた雫は、その途中でユーラに口を塞がれ息
を止めた。ユーラは首を激しく左右に振る。
﹁そんな大声出したら誰か来てしまうかもしれませんよ。まず服を
着てください﹂
彼女の言うことに異論はない。雫は現在全裸なのだ。慌てて頷く
とユーラの手が外される。
﹁そこに一式用意してありますから。お手伝いしましょうか?﹂
﹁あ、大丈夫です。ありがとうございます﹂
雫は寝台を飛び降りると籠の中から服を手に取った。普段着てい
るものと似た服を手早く身につけながらユーラに問う。
﹁すみません、ここ何処ですか?﹂
﹁砦ですよ。空いてる部屋を借りたんです﹂
﹁⋮⋮あの後どうなったんですか?﹂
﹁ファルサスが砦内を制圧しました。姫様とかウィレットとかみん
なは無事で、でもファルサスに拘束されてます﹂
﹁あー⋮⋮ごめんなさい、ユーラ﹂
ただの女官なら処刑まではされないかもしれない。それでも砦に
連れてきたせいでこんなことになってしまって、雫は申し訳なさに
1104
頭を垂れた。
しかしユーラは悪戯っぽい目で笑い返す。
﹁あ、私は拘束対象外ですからお気になさらず。この格好見て分か
りません?﹂
﹁うーん、どっかで見た気がするんですよね。何処だっけかなぁ﹂
﹁ファルサスの武官の服装ですよ﹂
﹁ああ、そうだったそうだった。女性の武官は珍しいから忘れてた、
って、えええええええええ!?﹂
再びの絶叫を、だが既に服を着たせいかユーラは止めない。むし
ろ楽しそうに笑い声を重ねると、彼女は﹁私ってファルサスの密偵
だったんですよ、雫さん﹂と片目を瞑ったのだった。
まったく気づかなかった。騙されていた。
雫は憮然の二歩手前の表情で腕を組む。
ユーラがファルサスの人間だったというなら、何故ラルスがヴィ
エドのことを知っていたのかも分かる。彼女が全て連絡していたの
だ。
自分が信用して選び出した人間が、まさに敵方の人間だったとい
うことを知って、雫はもう何だか小さくなって消えてしまいたかっ
た。消えたくなったついでに一番聞きたくなかったことを聞く。
﹁あのー﹂
﹁何ですか?﹂
﹁私の体の紋様、消えてますよね﹂
﹁消えてますね。綺麗になりました。雫さん綺麗な肌してますよね﹂
﹁肌はどうでもいいですから。⋮⋮誰ですか、これ消したの﹂
この紋様はジレドが死んでも消えなかったのだ。それがなくなっ
ているということはすなわち、純潔が失われたということを意味す
るのだろう。
非常に痛かった上に緊急事態だから仕方ないのかもしれないが、
1105
せめて起こして意思確認をして欲しかった。時間が戻ればいいのに、
と本気で恨み言を呟きながら雫は決定的な答を待つ。
返って来たのはまったく予想もしなかった男の名。
それを聞いた雫はあまりのことに顎を落すと、五分後には猛然と
部屋を飛び出していったのだ。
もう会えないと、思っていた。
自分から彼のもとを去ったのだ。会えるはずがない。
いつでも見捨てずに、困っている彼女に
こんな自分は恩知らずだと、本当に薄情だと思う。
それでも彼は││││
手を伸ばしてくれるのだ。
長い廊下。
その廊下が開けた先の広間に彼は立っていた。飲み物と書類を手
に周囲に指示を出している。隣に立っているのは彼の友人だろう。
ハーヴはいち早く雫に気づくと﹁あ﹂と声を上げた。その声で彼は
振り返る。
久しぶりに見るその顔。髪は切ったのか短くなっていた。右耳に
は大きな蒼い飾りをつけている。
﹁エリク!﹂
綺麗な顔立ちの、けれど表情の乏しい男の名を雫は叫んだ。彼は
片眉を上げて彼女をねめつける。
本当は、ずっとずっと会いたかった。
話をしたかった。
助けて欲しかった、けれど。
﹁申し訳ございません!!﹂
1106
目の前に走りこんできて凄い勢いで土下座した女。
その小さな後頭部をエリクとハーヴは何とも言えない表情で見つ
めた。周囲にいる人間の視線もまた否応無しに集中する。
注目を浴びないというわけにはいかないだろう。砦の魔法装置を
キスク用に修復している、その最中に彼女は飛び込んできたのだか
ら。
額を床にこすりつけるほどに、というか実際床にぶつかる音がし
た。ハーヴは頭を上げない雫を心配して声をかける。
﹁し、雫さん﹂
﹁すみませんでした!﹂
﹁いやとりあえず顔上げて⋮⋮﹂
﹁あわせる顔がありません!﹂
﹁君はそういうとこ相変わらずだよね﹂
冷ややか、というより単に熱のない声。耳に染み入る懐かしい声
に、雫はしばし聞き惚れた。自然と目頭が熱くなってくる。
離れている間どれ程この声が聞きたかったか。意識しないように
努めていた弱さと同義の本音に、彼女は嗚咽を飲み込んだ。
男の手が頭を軽く叩く。
﹁とりあえず立って。君には君の立場がある。女王の片腕がこんな
ことしてたら不味いよ﹂
﹁ああああああ、そうだった!﹂
片腕かどうかはともかく、彼女はオルティアの側近なのだ。
慌てて立ち上がった雫は、改めてエリクをまじまじと見つめる。
目の前に立っている男は記憶の中よりも気のせいか感じが変わって、
少し精悍になったように彼女には思えたのだった。
とりあえずちょうど作業にも休憩を入れたほうがいいとのことで、
エリクと雫は場所を変えて話すことにした。雫は﹁ハーヴさんにも
謝罪を!﹂と主張したのだが、彼はエリクに引き摺られるより早く
1107
﹁俺は遠慮しとく﹂と逃げ出してしまったのだ。
後始末に魔法士たちが走り回る広場を、上から見渡せる回廊。そ
こで、彼は雫にもお茶を差し出す。彼女はそれを受け取ると礼を言
って飲み始めた。
﹁エリクがファルサスに仕官したって、ユーラは言ってましたけど﹂
﹁うん。正確には契約。期限付きで王妹の直属になった。今回の戦
争に参加したのは王妹から陛下に貸し出されたから﹂
﹁貸し出しって⋮⋮すみません﹂
雫が走り書きを残してファルサスから姿を消した後、エリクは自
分から申し出てレウティシアに雇われたのだという。誰も目撃者が
いないのに結界内から消えた少女。義理堅い彼女の性格からしても、
何かがあったのは確実だ。そして行方の分からなくなった人間を探
すには、個人が闇雲に探すより国に頼った方が早い。
その為にエリクは長らく誘いを拒み続けていたファルサスへの正
規雇用を受けた。カティリアーナのはからいで城を出入りしていた
時もそうではなかった宮廷魔法士に、彼は自らなったのである。
﹁その耳につけてるのって魔法具ですか?﹂
﹁ああ。僕はこれがないと戦闘には出れないからね。王妹の魔力を
借り出してる。重いけど外すには手続きがいるから﹂
あまり城や貴族のことに関わりたがらなかった彼が戦争にまで出
たという事実は、雫の頭をより下げさせるに充分な重みを持ってい
た。凹みすぎて床にめりこんでいきそうな彼女をエリクは呆れた目
で見やる。
﹁本当にすみません。色々面倒をかけて⋮⋮﹂
﹁その点は別にいい。僕が勝手にやったことだからね。でも、君は
いい加減その無謀を治すんだ。このままじゃいつ死んでもおかしく
ない。それとも、自分の命とか家族の所に戻ることとかどうでもい
いと思っている?﹂
﹁⋮⋮思ってません﹂
いつになく厳しい声。これはひょっとしなくても怒られているの
1108
かもしれない。
初対面の時以来エリクに怒られるという経験がなかった雫は、蒼
ざめて頭を垂れた。
﹁君はどうも目の前のことに夢中になると、それしか見えなくなる
みたいだね。キスクは危ないって注意したの忘れてた?﹂
﹁覚えてました⋮⋮﹂
﹁なのに何で一人で行くかな。それに逃げようと思えば逃げる機会
もあっただろう?﹂
﹁何となく。逃げたら負ける気がして⋮⋮﹂
﹁それで死んだら馬鹿だ。僕こそ君の親にあわせる顔がないよ﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
先ほどから謝る言葉しか出てこない。何と言われても彼の言うこ
とは本当なのだ。
もっといくらでもやりようがあった。
その時の雫にはこれしか手段がないと思うことでも、誰かの助け
を借りて安全な道を選ぶこともきっと出来たはずなのだ。
何だか雫はもう一度土下座したくなって深い溜息をついた。だが
その時、エリクの指が伸びてきて彼女の額を叩く。
﹁とは言っても⋮⋮これはあくまで僕の意見だ。そして僕は、君の
思考を割合高く評価している﹂
﹁え﹂
それはどういうことなのか。
雫が顔を上げると、エリクは微苦笑していた。穏やかな藍色の目
が彼女を見つめる。
﹁君は、君の考えで最善を尽くしている。頑ななところもあるけど、
それは君のいいところだと思うよ。だから次は僕にも相談すること。
あと⋮⋮よく頑張ったね﹂
大きな手が雫の頭を撫でていく。
優しい指。飾り気のない言葉。
1109
いつだって、走り続ける彼女を見ていてくれるのは、手を伸ばし
てくれるのは彼だった。
欲しいとさえ気づかなかった言葉を、彼は彼女に添わせてくれる。
その温かさに今まで何度救われてきただろう。
確かなものを何も持たないこの世界において、彼こそがずっと彼
女のそれで在り続けてくれていたのだ。
﹁すみません。今まで⋮⋮﹂
﹁もういいよ。この十五分で充分謝罪は聞いたから﹂
エリクは肩を竦めると冷めかけたお茶に口をつけた。藍色の瞳が
階下の作業を見やる。
だが雫はそれでも足りない気分で、もう一度頭を下げた。
﹁あ、あと、魔法消してくれてありがとうございます﹂
ごふっと、喉に何かが詰まったような音がした。彼女は驚いて顔
を上げる。見るとエリクは激しくお茶にむせていた。息が出来てい
ないのではないかと思うくらい咳き込んでいる。
﹁大丈夫ですか⋮⋮?﹂
﹁な⋮⋮んで、それ、口止め⋮⋮したと⋮⋮﹂
﹁え。普通にユーラが教えてくれましたけど。解呪してくれたんで
すよね﹂
レウティシアでもなければ解けないのではないかと言われた魔法。
それをエリクは、彼女が寝ている間に体内から完全に消去してくれ
たらしい。
純潔を失って見えなくなったわけではなく、魔法自体がなくなっ
たから紋様が消えたのだ。
﹁さすがレウティシア様が直接勧誘される魔法士ですね﹂とユーラ
は感心しきりといった様子で、その時のことを教えてくれたのであ
る。
エリクはひとしきり咳をしてお茶を気管から追い出してしまうと、
1110
気まずそうな顔で手を振った。
﹁まぁ、何もしてないから安心して﹂
﹁何もって。解呪してくれたんですよね﹂
﹁したけど。それだけ﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
その場にはユーラも立ち会っていたというのだから、別に最初か
ら疑っていない。裸にされたのは紋様の範囲から言って無理もない
ことであろう。それに関しては手術のようなものだからと既に気に
しないことに決めていた。気にしだしたら多分、奇声を上げながら
砦中を走り回りたくなってしまうのだから考えない方がいい。
真剣な顔で礼を言う雫に、エリクは憮然というよりは酷く疲れた
顔になる。
彼は残り僅かなお茶を飲む気もなく見つめると、﹁もうお礼も禁
止﹂と盛大に溜息をついた。
オルティアに面会したいと、申し出た望みはあっさりと許可され
た。
エリクは﹁陛下に頼んでみる。多分会わせてくれるよ﹂と言うと、
彼女を砦内の一室に伴ったのだ。
廊下に待たされていた時間は三十秒もなかった。彼の手招きを受
けて雫は入室する。
今までラルスと険悪な会話を繰り広げていたのであろうオルティ
アは、彼女の姿を見るなり立ち上がった。喜色を浮かべて腕を広げ
る。
﹁雫! 本当に無事であったか!﹂
﹁姫﹂
﹁無事だと俺が今まで言ってたのを聞いてなかったのか﹂
﹁こちらへ来い。何もされてないか?﹂
1111
﹁無視するな、オルティア。賠償金を上げさせるぞ﹂
﹁王様、相変わらずですね⋮⋮﹂
久しぶりに会ったが、微塵も変わりがなく傲岸な男だ。
ラルスは﹁変わってたまるか﹂と嘯くとエリクと共に部屋を出て
行った。姫と二人きりにさせてくれるつもりなのだろう。
オルティアと雫は並んで座りながら、交渉後に起こった混乱につ
いて整理する。
暗殺未遂は、やはりオルティアの護衛として砦内に入り込んだベ
エルハースの配下が行ったものだった。
執務室から戻る途中、その轟音を聞いたオルティアは様子を見に
戻ろうとし、だがそこでベエルハースからの刺客に囲まれたらしい。
応戦しながらも徐々に押され始めていると、ファルサスがやって来
て、オルティアはラルスに猫の子のように引き摺られた。そのまま
何処かの部屋に放り込まれて閉じ込められている間に、砦内は元通
り制圧されたのだ。
オルティアが暗殺を仕組んだという疑いは、ユーラの証言から払
拭されたらしい。雫はユーラがファルサスの密偵であったことを報
告すると、オルティアに平謝りした。姫は﹁お前は誰でも信じすぎ
だ﹂と書類を丸めたもので雫の頭を叩きながら叱ったが、﹁密偵に
ついてはお互い様だからな。一人くらいはいると思った﹂と苦々し
げに片付けた。キスクの密偵であった男にも言及する。
﹁ニケはあの男に捕まったらしいぞ。殺さぬよう頼んではみたが﹂
﹁え。皆、殺されるような感じなんですか!?﹂
﹁あいつだけだ。色々やっているからな。だが妾の命じたことだ。
妾が責を負えばいい﹂
﹁⋮⋮姫﹂
オルティアは、やはり変わったと思う。前ならきっとこんなこと
は言わなかった。
不器用ながらも人を大切にしようとする彼女を見ると、雫の胸は
1112
ファニートは死んだらしいな﹂
鈍痛を覚える。それは彼女をずっと守ってきた男の最期を思い出さ
せるのだ。
﹁││││
雫の沈黙が伝わったのか、オルティアは低い声で呟いた。それが
掠れて弱弱しいものに聞こえるのは、きっと二人だけでいるからだ。
不透明に沈む琥珀色の瞳に、雫は黙って頷いた。
﹁最後まで抵抗して、ファルサスの兵に殺されたと聞いた。⋮⋮ま
ったく融通のきかぬ、馬鹿な奴だ﹂
おそらくそのように伝えたのはラルスなのだろう。
本当のことを言わなかった彼の気遣いに、雫は声には出さず感謝
した。オルティアは紅い唇を噛む。
﹁お前は、ファニートと一緒にいたのだろう? あれは何か言って
いたか?﹂
姫の震える声に潜んでいるものは、きっと彼女に残る最後の幼子
だ。彼に守られて育ち、彼に甘えたままの幼いオルティア。変わっ
ていった彼女の最後まで変わらなかった部分は、彼の死によって一
人になる。そして或いは、このまま彼と共に、彼女の奥底に消えて
いくのかもしれなかった。
﹁ファニートは⋮⋮姫のことを心配してましたよ⋮⋮最後まで⋮⋮﹂
それは本当のことだ。
彼はずっと彼女を大切に思っていた。
いつでも、どんな時でも、他の全てを犠牲に出来るほどに。
雫は自分の膝の上をじっと見つめたまま顔を上げない。
オルティアはおそらく泣いているところを見られたくないだろう。
だからただ待った。
たとえ全てが姫の為のものであったとしても、彼の気遣いに雫が
助けられてきたこともまた事実だ。
姫の為に助けてくれた。
姫の為に殺そうとした。
1113
それが彼の真実で、だが雫は誰にも言わない。きっと死ぬまで秘
しているだろう。
※ ※ ※
無言で彼の死を悼むだけの時間。
その終わりを告げたのは、オルティアの強く在ろうとする声だっ
た。女王であることを選んだ女は、大きくはないが明瞭な声音で未
来を描く。
﹁余計な邪魔は入ったが、交渉は何とかせねばならぬ。ファルサス
に余計な借りも出来てしまった﹂
﹁あ、ヴィエドなんですけど、父親って人が現れて⋮⋮﹂
﹁構わぬ。その男が父親だ﹂
まだほとんど話していないのに断定されてしまった。雫は目を丸
くする。
﹁確かに似てると言えば似てる気もしましたけど。誰なんですかあ
の人﹂
﹁俺の親戚﹂
あっさりとした正答と共に戻って来たのはラルスだ。
だが苦い顔になったオルティアとは反対に、雫はその答を反芻し
て呆気に取られてしまった。
﹁親戚? 親戚って⋮⋮直系ですか?﹂
﹁そういうこと。ファルサス直系は実は三人いるんだな。あの赤ん
坊も入れて四人か。秘密だから黙ってろよ﹂
﹁はぁ﹂
そういわれて見ればあの男はラルスに似ていたような気もする。
しかし納得と同時に雫は呆れた顔になった。
﹁じゃあ王様、自分の子じゃないって分かっててあんな啖呵切った
1114
んですか⋮⋮﹂
﹁別に俺の子にしても構わなかったからな。一応父親にも要らない
なら貰うぞって言ったんだが、めちゃめちゃ怒られた挙句飛んでき
た﹂
﹁そりゃ怒られますよ。猫の子あげるんじゃないんですから﹂
﹁俺のせいじゃない。オルティアが悪い﹂
それは事実であるかもしれないが、火に油を注いでいるのは間違
いなくラルスだ。雫とエリクは白い目でファルサス国王を見やる。
言い返せないオルティアはぷるぷると震えていたが、怒り出さな
いだけましだろう。雫は主君の背中をさすった。
ラルスは向かいの席に戻るとたちの悪い笑顔を見せる。
﹁で、オルティア。決心はついたか? たっぷりいびってやるから
ファルサスに来い﹂
﹁出来ぬ。妾がいなくなれば城が混乱する﹂
﹁ならキスクを併合してやればいいか?﹂
﹁さ、最悪だ⋮⋮﹂
それでは事実上の征服と同じだ。このままでは交渉は決裂、今度
は全面戦争になる可能性もある。雫は途中で持ち出してきた書類を
机に広げると、ラルスに向けてその中の一項目を指し示した。
﹁これ、足しますんで退いてくれませんか﹂
﹁何だこれ﹂
﹁キスク王家所有の水晶窟です。ロスタにあります﹂
﹁雫、それは⋮⋮﹂
オルティアが何を言おうとしているのか、雫には分かる。
これらの直轄地はもともと当主との交渉の為、雫に一任されたも
ので、ファルサスに渡してしまうことは問題ない。だがその水晶窟
は、王家に寄贈された時点で既にほとんど水晶が残っておらず、そ
の為手も入れられていないのだ。
ファルサスに渡そうにも価値がない、そう指摘しようとする主君
とラルス両方に向けて、雫は補足した。
1115
﹁もう水晶が残っていないというのは、必要以上に掘らせない為の
嘘です。当時の王が命じてそう記載させました。実際はまだほとん
どが手付かずで残っていますし、魔法具の良質な材料になります﹂
水晶は一時期爆発的に需要があった時代に消費されすぎたとニケ
は言っていたが、この水晶窟にはまだまだ天然の水晶が残っている。
将来必要な時の為にと隠されていた財産を他国に渡してしまうの
は申し訳ないが、今使わなければ国が傾いてしまうかもしれないの
だ。
現在の王族も知らない、どこにも記録がないはずの事実を、いつ
の間にか自分の知識として得ている雫は、二人の王を見つめる。
ラルスは頬杖をついて地図上の場所を眺めていたが、思案顔で頷
いた。
﹁水晶か⋮⋮。少しはレティの機嫌が治るな﹂
﹁じゃあ姫連れてかないでください﹂
﹁いいだろう。その代わりお前がこっちに来い﹂
﹁へ?﹂
どうして彼の言うことはこう矛先が読めないのか。目を丸くした
雫に代わって、オルティアが顔色を変えた。
﹁お前になどやれるか! 無茶を言うな!﹂
﹁無茶はどっちだ。水晶と小煩い小娘で女王を見逃してやるという
んだから大きな譲歩だろう﹂
﹁人から離れろ! 賠償金を上げればよかろう!﹂
再び始まる口論に雫は頭を抱える。ラルスの後ろに控えるエリク
などは、聞いているのかいないのか平然としていた。これがレウテ
ィシアであったら王を止めてくれたかもしれないが、エリクにそん
なことを求める方が無茶である。
オルティアは顔を真っ赤にしたまま立ち上がった。雫を庇って前
に立つ。
﹁大体お前は雫を連れて行ったら殺すのだろう! そういう話を聞
1116
いたぞ!﹂
﹁お前も殺そうとしたって話を聞いたけどな﹂
﹁妾はいいのだ!﹂
﹁よくないですよ⋮⋮﹂
もう誰でもいいから助けて欲しい。
どうして王同士の停戦交渉が子供の喧嘩のようになってしまうの
か。
ラルスの要求は、雫自身から見ても法外ではない。むしろその程
度で済むのなら飲むしかないだろう。雫は頭に血が上りきっている
主君を何とか説得しようと口を開きかけた、その時涼やかな声が場
に割って入る。
﹁女王陛下、あなたは彼女が本来何処にいた人間であるか、ご存知
ですか?﹂
落ち着いた心地のよい男の声。
今まで沈黙を保っていたエリクの言葉にオルティアは顔を上げた。
初対面の魔法士を見やって、次に雫を見る。
答えていいのかどうかを問う主君の視線に雫は頷いた。
﹁⋮⋮別の世界の人間だと聞いた﹂
﹁そうです。彼女は本来ならばこのような場所で国同士の揉め事に
巻き込まれたり、命を危険に曝しているような人間ではありません。
家族と共に暮らしながら学問を修めていく、そんな穏やかな生活を
していた人間なのです﹂
男の言葉に、雫は随分遠く思える過去を振り返る。淡い郷愁が胸
に沸いて、彼女は息を飲んだ。
﹁あなたが彼女を大事に思ってくださっていることは分かります。
ですが、彼女はいつまでもここにいるわけではない。元の世界に帰
る為に今まで手段を探して苦労を重ねてきたのです。彼女の性格か
ら言って、あなたがずっと傍にいろと頼めば彼女はそれに従うでし
ょう。けれどそうなれば彼女は元の世界に戻ることも、家族に再会
することも諦めなければならなくなる。それでもよいとお思いです
1117
か?﹂
淡々と問う男の声にオルティアは沈黙した。
雫からは前に立つ姫の表情は見えない。白い指が震えるのが分か
正直言えば、思ってはいたのだ。このまま姫と共に生
っただけだ。
││││
きてこの国に骨を埋めてもいいと。
帰りたいと、家族に会いたいと願いながらも、一方でオルティア
を支えたいと思った。
偽善や同情ではない。負けず嫌いでももうない。ただ、オルティ
アが徐々に心を許してくれるのが嬉しかったから、傍にいたくなっ
た。必要とされるのに応えて、身を尽くして、時間を捧げていく。
そんな生き方をしてもいいなと思ったのだ。
だが⋮⋮本当にそれでいいのだろうか。
帰る方法も分からぬまま諦めてしまっていいのか。
雫は視界を閉ざす。
分からなくなった自分を見定めようとする暗闇。所在無く座り込
む彼女に聞こえたのは、主君の小さな溜息だった。オルティアはラ
ルスに問う。
﹁殺さないだろうな?﹂
﹁今のところは。傷もつけない。契約違反になる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮分かった。雫を渡す﹂
沈んだ姫の声に、雫は弾かれて顔を上げた。琥珀色の瞳と目が合
う。
今まで何度こうして見つめあったのだろう。その多くが互いの意
志をぶつける為のものであった。
だが、今の二人は色の違う瞳に同じものを宿して相手を見ている。
オルティアの美しい顔が歪んだ。
﹁姫﹂
1118
﹁もうよい。お前は小言が多いのだ。いつもいつも煩くて敵わぬ。
妾も女王になって口うるさく言う人間が増えた。一人くらい減らさ
ねば息苦しいわ﹂
オルティアはそのまま顔を背けると、部屋から出て行ってしまっ
た。廊下にいた護衛が慌てて彼女を追いかけていくのが見える。
取り残された雫は、まるで迷子のような目を室内に彷徨わせた。
立ったままのエリクと視線があう。
何かを言わなければ、と迷ったのは一瞬だった。
その隙に雫は、テーブルを跨いだラルスにひょいと持ち上げられ
る。傍若無人な国王は、彼女を幼児のように抱えあげながら笑った。
﹁よし。これでお前は俺の﹂
﹁最悪です⋮⋮﹂
﹁で、お前にやる﹂
言うと同時に、雫は空中に放り投げられる。ぎょっとした刹那、
彼女はエリクに抱き止められた。彼は苦い顔で雫を床に下ろすと期
限付きの主に苦言を呈する。
﹁物のように扱わないで下さい﹂
﹁約束は守ったぞ。五体満足でその娘をお前に引き渡すこと。契約
通りだ﹂
﹁え?﹂
ぽいぽいとあちこちにやられて何が何だか分からない。
乱れた髪と頭を押さえる雫に、ラルスは﹁それがこいつを戦場に
出す条件だったからな。戦利品﹂と悪びれもせず言ってのけたのだ。
※ ※ ※
1119
失敗した、という連絡は入ってこなかった。
だが連絡が戻ってこないということ自体、既に失敗を意味してい
るのだろう。ベエルハースは閉ざされた暗い部屋で自身の爪を噛む。
﹁オルティア⋮⋮あの小娘⋮⋮﹂
上手くいけば、起死回生の策になるはずだった。けれど失敗した
のならまた別の手を打たねばならない。一刻も早く手を打たねばオ
ルティアによって国が傾けられると、彼は本気で信じていた。
かつての王は立ち上がると部屋の中をうろうろと歩き回る。
﹁どうすればいい⋮⋮? どうすれば⋮⋮﹂
﹁どうもしなくていいと思うよ﹂
軽い声は少年のものに聞こえた。
他に誰がいるはずもない室内をベエルハースは慌てて見回す。
﹁誰だ! 何処にいる!﹂
﹁ここにいる。この城って本当分かりにくいよね﹂
暗がりから現れた少年。その手には鈍く光る剣が握られている。
それが何を意味するか分かって男は戦慄した。
﹁ま、待て!﹂
﹁僕としてもやっぱり仕事が失敗したっていうのは落ち着かないし。
きちんとしとかないとね﹂
彼は、誰の話も聞かない。聞いても理解しない。
ただ綺麗な笑顔で、愉しんで人を殺す。
ベエルハースは凶器そのものである少年の目を見て絶叫した。そ
の刃から逃れようと鉄格子の嵌められた窓にすがりつく。
﹁誰か! 誰かおらぬか!﹂
﹁誰もいない。こんなところには誰も来ないよ﹂
﹁出してくれ! 頼む! ここから出せ!﹂
暗い部屋。閉ざされた部屋。
男の叫びはその室内へとこだまする。
暗闇にはただ、不快げな舌打ちだけが残されたの
やがて助けを求める声が悲鳴へと変わり、その声も聞こえなくな
った時││││
1120
である。
※ ※ ※
ベエルハースの不審死は、停戦後の処理に皆が奔走するキスク城
内にて、何ももたらさぬ些事として扱われた。
その死をオルティアによる報復と疑う者もいないではなかったが、
皆から彼への同情を取り去るに充分な効果を持っていた。
それ以上にベエルハースが砦内に刺客を放ち事態を混乱させたこと
は、
停戦条件はオルティアが当初提示したものとほぼ同じ条件で決し
た。
変更されたのは、雫がファルサスへ引き渡されたことと水晶窟が
追加されたこと、そして賠償金がなくなったことの三つである。
賠償金については件の水晶窟を直接視察しに行ったレウティシア
が﹁これなら損害と相殺しても充分釣りが来る﹂と判断して、その
これから三年の間、水晶窟にはファルサスの人間が入
項目を削ってきたのだ。王妹はそのまま採掘を手配すると国に戻っ
ていった。
ることになるらしい。
※ ※ ※
1121
荷物は決して多くない。
雫は一つのバッグに纏めた自分の荷物を持ち直した。自室を出て
廊下を歩きながら、初めてこの国に来た時のことを思い出す。
確かあの時はファニートと一緒だったのだ。その後ニケに出会っ
て、姫に対面した。まるでずっと昔のことのような思い出である。
この数ヶ月のことはまるで慌しい記憶に満ちている。常に走り続
けて、ほとんど休みもしなかった。疲労もあまり感じなかったのは
その時その時に夢中でいたからだろう。
雫は宿舎になっていた建物を出て、待ち合わせの場所へと向う。
城内の中央に位置する吹き抜けの広間には、既に迎えの人間が待
っていた。
﹁すみません。お待たせして﹂
﹁別にいいよ。まだ時間あるし﹂
エリクは苦笑すると雫のバッグを見て﹁持とうか?﹂と聞いてき
た。だが大して重いものも入っていない。彼女は﹁ありがとうござ
います。平気です﹂と笑うと彼の背後を見やる。
﹁で、何で王様がいるんですか⋮⋮﹂
﹁知らない。キスクの城内見てみたかったんだって﹂
出来れば絶対来て欲しくなかったファルサス国王は、かなり遠く、
広間の奥で壁画をまじまじと見上げている。余計なことをしないで
欲しいな、と願う雫の視界で、彼は近くにいた文官を呼びつけると
何かを命じているようだった。
﹁な、何かやらかす前に行きましょうか﹂
﹁そうだね﹂
エリクは頷いて詠唱を始める。
しかし、それを遮るようにして、吹き抜けの上から﹁雫!﹂とい
う女の声が響いた。
見上げるとオルティアが女王の正装で階段を駆け下りてくる。雫
はバッグをその場に手放すと階段の前に走り寄った。
ニケ一人を随従させた女王は、息を切らせて雫の前に立つ。琥珀
1122
色の瞳が去っていく臣下を睨んだ。
﹁雫、お前は妾のものだった﹂
﹁ええ﹂
﹁だから、もし帰れなかったのならいつでも戻って来い。存分に使
ってやる﹂
しなやかな両腕が伸ばされる。
温かな躰、自分を抱く女王の背に、雫はそっと手を回した。唇を
噛んで別れを惜しむ。
この国に来てよかった。彼女と出会ってよかった。
けれどそう思えば思うほど、今この瞬間に泣きたくなる。
自分の手の平はあまりにも小さくて、きっと多くのものを載せら
れない。
だがそれでも、この手があれば出来ることもあるだろう。
雫はゆっくりと体を離す。そうしてオルティアの手を取り、壊れ
物を包み込むように優しく握った。
﹁姫、覚えていてください。私はこの世界にいる限り、あなたが呼
んだらいつでも駆けつけます﹂
﹁⋮⋮慌てすぎて転ぶなよ﹂
﹁頑丈ですから﹂
そこで顔色を変え
オルティアは眉を顰めて、けれどふっと微笑む。
彼女は雫の肩越しに広間を見やって││││
た。
﹁な、何をしている! やめろ!﹂
血相を変えて走っていく女王。その先には、困惑する文官から塗
料の壷を受け取って壁に向おうとする男がいる。たちまち口論を始
める二人の王を振り返って、雫は手で顔を覆うと深く息を吐いた。
﹁何であの人たちって、ああなのかな⋮⋮﹂
﹁王族なんて程度の差こそあれ人格破綻者ばっかりだ﹂
慣れているのか動じないニケの相槌に雫はかぶりを振る。彼女は
数ヶ月の間同僚であった男を見上げた。
1123
﹁あんたも殺されないでよかったね﹂
﹁思い出させるな。負の海より酷いものを見たぞ﹂
ラルスに﹁悪戯ばかりをしていた悪い奴﹂として捕らえられたニ
ケがどんな目にあったか、雫は聞いてはいない。聞きたくないし本
人も言いたくないらしいので、ずっとこのまま触れないでおいた方
がいいだろう。
彼女は幾分やつれた男の顔を、同情を持って眺めた。
﹁あんたも一段落したら少し休めば?﹂
﹁そうさせてもらう予定だ。一度暇を貰って師匠に会ってくる﹂
﹁師匠なんかいたんだ!﹂
﹁もう何年も会ってないけどな﹂
そう答える男の声は、気のせいか以前よりも晴れているような気
がした。皮肉げな目が雫を見つめる。
﹁俺もファニートがいたなら辞めようと思っていたが⋮⋮まぁいい
だろう。のんびりやり直すさ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
変わっていく人間がいて、去っていく人間がいる。
留まり続けるのは人の中の記憶だけだ。
雫も皆も、それを知っている。分かっているからこそ時を尊ぶ。
ニケは背の低い女の頭越しに、広間の中央で彼女を待つ男を見や
った。エリクと視線が合うと目を細める。
﹁ニケ?﹂
﹁じゃあ、俺はもう行く。仕事があるからな﹂
﹁あ、元気でね。色々ありがと﹂
﹁もう戻ってくるなよ。馬鹿女﹂
どういう挨拶だ、と文句を言おうとした時、ひょいと顎を掴まれ
目は閉じなかった。
た。男の顔が近づく。
││││
1124
何をされたのか分からなかったので。
﹁じゃあな﹂
ニケは軽く手を振ると踵を返した。そのまま階段を上がっていく。
一度も振り向かない男の姿が階上に消えた頃、いつまでも動かな
い雫にエリクが声をかけた。
﹁そろそろ行くよ。忘れ物ない?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁あ?﹂
﹁あああ穴があったら入りたいいいいいいいい!!﹂
赤面する顔を押さえて絶叫する女。
その叫びを広間の隅で聞き取った王は、頭上に掲げた塗料の壷に
飛びつこうとするオルティアを真面目な顔で見下ろした。大げさに
首を傾げて見せる。
﹁ほら、墓穴が欲しいと言ってるぞ﹂
﹁そのようなことがあるか!﹂
どうしようもない王と、悶絶する連れの女。
両者のちょうど間に立つエリクは無言でバッグを拾い上げると転
移門を開き始める。
まったく騒がしい終わりと始まり。
−
End
−
だがこれはこれで平和のうちなのだろうと、軽く諦めながら。
Act.3
1125
これまでのあらすじ&登場人物
Act.3の あらすじ。
キスクに来た雫は、王妹オルティアの監視の下、子供の言語障害
について教育に乗り出すことになる。元の世界と同じように、子供
に言葉を教えようとする試みは着実に実を結び、雫は一目置かれる
ようになっていった。
しかしそれもつかのま、残虐な性向のオルティアはファルサスに
嫌がらせをして侵攻を呼び込んでしまう。一方キスクの宮廷内部で
は、オルティアの兄である王が、妹を疎んじて彼女を排そうと策略
を練っていた。
雫はオルティアと口論を重ねながら、少しずつ彼女の性格を変え
ていく。やがてオルティアの性格が、兄王の手引きによって捻じ曲
げられた結果だと知った雫は彼女の臣下として奔走し、王を排斥し
て彼女を玉座につけることに成功した。
だがその間に侵攻してきた空気読まないファルサス王が、キスク
軍をぼこぼこにしてしまったので、雫は固い友情で結ばれたオルテ
ィアと泣く泣く別れ、ファルサスに引き渡されることになったのだ
った。
現代人離れし、すっかり枯れてきた元女子大生の行く末はいかに。
Act.3
1126
王妹:キスクの姫。有能かつ残虐。
オルティア
魔法士:姫の側近。口が悪い。何となく貧乏籤。
剣士:姫の側近。気配り上手だが無表情。
ファニート
ニケ
王:キスクの現王。オルティアの異母兄。
ベエルハース
1127
神の書 001
北の国の王様は小さな蛙を持っていた。
金に光る蛙は不死。全ての歴史を知っている。
ある日、王は蛙に問う。
﹁どうすればもっと国を大きくできるのか﹂と。
蛙は答える。
﹁私の知るは過去のことのみ。それでよいのならお話ししましょう﹂
蛙は謳う。長く続いた戦乱の歴史を。秘せられた王族の運命を。
民の嘆きを。悪しき魔法を。
王は踊る。戦を起こし、王族を操り、民を酷使し禁じられた魔法
を使って。
やがて国は大きくなる。
王は喜び蛙は歌う。
新たな歌は新たな歴史。王が犯せし罪の話。
歌を聞いた王様は、小さな蛙を飲み込んだ。
その後王は突然に、湖で溺れ死んだという。
※ ※ ※
1128
﹁これでどう?﹂
差し出された紙に書かれているのは長めの英文。それを受け取っ
た雫はじっと単語の羅列に目を落とした。四度読み返して、徐々に
震えてくる指に力を込めると、紙の端を握り締める。
﹁ぬ、抜かされたっ!?﹂
愕然とした女の叫びは広すぎない部屋に響き渡った。
それを聞いたエリクは頬杖をした首を僅かに傾けると﹁それで合
ってるの? 間違ってるの?﹂とあっさりとした様子で聞いてきた
のだ。
五ヶ月近くを過ごしたキスクから雫がファルサスへと戻ってきた
時、かつて一月だけを過ごした魔法大国は以前とほとんど変わりが
ないように思えた。
強いて言うなら季節が変わり、いつ何処にいてもつきまとってき
たうだるような熱気が穏やかな暖かさに変わったくらいであろうか。
例えば人の精神などには幾許か
だが変化がないというのはあくまでも目に見える部分だけのこと
であり、もっと違う部分︱︱︱︱
の異変が訪れていたのかもしれない。例えば、彼女の保護者であっ
た男がいつの間にか、彼女に並ぶ英語理解能力を身に付けていたり
⋮⋮などということが。
﹁あ、あってます⋮⋮﹂
雫はいかんともしがたい敗北感に頭を垂れた。だがエリクは﹁そ
う﹂と言っただけでけろりとしたものである。人間得意不得意があ
るというか、言語に関しては彼の方が一枚も二枚も上手らしい。
顎が落ちそうになる
久しぶりに彼と向かい合い本を広げた雫は﹁多少自分でも勉強し
てみたけど﹂と言うエリクの勉強の成果に、
思いを味わっていた。﹁これを英文に出来ます?﹂と何気なく聞い
1129
て返ってきた答を前に溜息をつく。
﹁っていうか、文法教えただけで何でここまで読解とか作文とか出
来るんですか⋮⋮。これ、単語力を除いたら私と大差ないですよ。
私一応、英語を六年以上勉強してるんですけど﹂
﹁勉強の仕方が悪かったんじゃないかな﹂
﹁直球で言われた!﹂
それは思っていても言わないで欲しかった。異世界に落ちてしま
うまで十八年間真面目な学生のレールを歩き続けてきた女は頭を抱
える。
今まで学校のテストでは大抵いい成績を叩き出して来た雫だが、
かといって英語が身についているかと言ったらまったく自信はない。
聞き取りと発音は元から非常に苦手であるし、大学に入ってから目
にした専門の原文は、分からない単語はないのに意味が取りきれな
いという英語の奥深さを感じさせるものだった。外国語って難しい、
と改めて実感していたところにきてこれである。雫は羨む目でエリ
クを見上げた。
手続きをするのが面倒だからと耳に魔法具をつけたままの男は、
手の中でペンをくるくると回す。
﹁大体文構造の特徴を掴んでしまえば、あとは例外を覚えるくらい
かな。勿論単語が分からないって問題はあるけど⋮⋮。それは辞書
さえ出来てしまえば解決することだしね﹂
﹁言うは簡単ですけど、なかなかそうは行かないんですよ⋮⋮﹂
雫もキスクにいた間、書類などに関わる機会が多かったためこの
世界の文字を密かに独学していたのだが、とてもではないがまだす
らすらと読み書きは出来ない。書類を作成する時も、単語を箇条書
きにしてから口頭で文官に指示を出し、書き起こしてもらっていた
のだ。
特に彼女が異世界人で読み書きが不自由だという事実は、オルテ
ィアとファニートを除いて誰も知らないことであったし、彼らは多
1130
忙であったので添削なども頼めなかった。雫はいつの間にかエリク
に置いていかれたような気分を味わって机の上に突っ伏す。
﹁これ、もう私の教えることってないんじゃないですか﹂
﹁そんなことないよ。ニホンゴは正直お手上げだし。 文構造以外
で僕が興味持っているのはどちらかというとニホンゴ文字の方だか
ら。 エーゴは君がいない間とっつきやすそうだったから、ここま
でやっただけ﹂
表意文字である魔法文字を専門とする彼は、どうやら文字として
は漢字が一番興味深いらしい。そう言えばファルサスに来る前も、
英語とドイツ語の文法を一通り飲み込むと、エリクは漢字の書き取
りをよくしていたのだ。
雫はもう大分昔に思える記憶を探り当てて嘆息した。エリクは自
分が書いたメモを小さく畳んでしまうと苦笑する。
﹁とりあえず、また文字教えて。君の方の文は僕が添削するよ﹂
﹁あ、ありがとうございます!﹂
彼女は急いで気分を切り替えると、バッグからノートを取り出し
た。
この世界の言語は、形容詞も名詞も動詞もほとんど全ての品詞が
規則的な語尾変化をする。
初めてそれを知った時にはぎょっとしたものだが、今では雫もす
っかりその仕組みに慣れてしまっていた。
これら語尾変化に不規則変化というものは存在しない。全ての名
、単語
詞が第一変化から第四変化のどれかを割り振られており、その他の
品詞は結びつく名詞に合わせて変化する。
結果としてそれらは一種パズル的な規則性を持っており
の知識さえあれば主語と動詞との繋がりや、形容詞と名詞との繋が
りが、無関係な他の単語と混線せず見分けられるようになっていた。
非常に整頓された言語形態を知って、雫はすっかり感心したもの
1131
である。
そして、文構造で一番便利だと思ったのは、この世界では代名詞
が何を指しているか間違えようがないということだった。
通常の語尾変化に加え、この言語には﹁代名詞語尾﹂というもの
が存在しているのだ。
代名詞は、それが指し示すものが文章中の一単語であるなら、
、複数語であるなら複数を示す語尾
何番目の単語を示しているのかを判別できるよう数字を元にした語
尾をつけることになっており
この三角は関係節である部分を示すのにも使われ、エ
と共に、指示対象の単語群の前後には注釈記号である小さな三角が
打たれる。
リクがよく読んでいる魔法書などを見せてもらうと一頁に幾つも頻
出しているのが見て取れた。
また代名詞の指示対象が同じ文中にない場合には、それが何文前
にあるのかを示す語尾が更に加わることになる。元の世界において
は代名詞が何を指しているのかがしばしばテキストの解釈を大きく
分ける問題点となっていたのだから、これは非常に合理的な規則だ
ろう。文を書くには大変だが読む分にはかなり助かる。
もっともエリクに言わせれば、これほどまでに整然と文法を守っ
て書かれるのはある一定以上の知識階級が扱う文章のみであり、平
民の読み物や詩などの文学作品はかならずしもこれら規則を全て遵
守しているわけではないらしい。
﹁こういう代名詞語尾はもともと魔法書の為に生まれたものだから
ね。 魔法書は誤読されると思わぬ事故に繋がることもあるから徹
底したんだろう。 トゥルダール⋮⋮古代の魔法大国の文字なんか
はもっと注釈記号が多かったよ﹂
﹁へええ。凄いですね。私の世界はそういうのがないので注釈書自
体がテキストになってましたよ﹂
﹁何それ。入門書ってこと?﹂
1132
﹁いえ、入門書的なものもありますが、むしろ研究書﹂
雫は新しくお茶を淹れてそれを二つのカップに注ぐと、自分は菓
子の詰まった瓶を開けた。
﹁古代から中世の話ですけど、元となるテキストを細かく読み解き
ながら解釈して、自説を展開するんです。 そうやって書かれた本
はもうそれ自体が思想書ですから。次の研究者は原本とその解釈書
を読んで、﹃この人はここをこう解釈してるけど私はこう思う﹄っ
て新しい注釈書を書くんですね。で、それを連綿と受け継いでいっ
て、千年以上かけて真理を探究していくという感じで⋮⋮﹂
﹁凄いな。それ今でも現役なの?﹂
﹁現役ですよ。うちの教授とかやってますから﹂
湯気を吸い込みながら雫が微苦笑すると、エリクは感嘆の息を吐
き出す。藍色の瞳が彼女の顔の上をゆっくり過ぎっていった。
﹁君の世界はもっと、古いものには古いものとしての価値しか見出
してないのかと思った﹂
﹁ああ。普通はみんなそうですよ。こういう学問は現在ではかなり
の少数派ですから﹂
いわゆる虚学と言われる学問分野の中でも一部分でしかないそれ
らの研究は、けれど数千年の時を経て今なお受け継がれている。
古代の考えに端を発しているにもかかわらず、未だ精力的にそれ
を取り扱う人間たちが後を絶たないのは、そういった研究が人間そ
のものや世界など、人々と切り離せない主題を取り扱っているから
だろう。そしてそれらは、実学が重視される元の世界よりも、或い
は魔法のあるこちらの世界によく馴染む思考なのかもしれない。雫
はこれまでのエリクとの議論の中からそう感じていた。
﹁君も帰ったらそういう研究をしていくの?﹂
涼やかな声は心地良く雫の耳に入る。
だが、この時彼の言葉は珍しく溶け入って消えることなく、意識
の上にコトリと落ちただけだった。彼女は黒い瞳を瞠る。
1133
﹁さぁ⋮⋮どうでしょう。夏休みのレポートも出してませんし﹂
﹁今頃退学処分か。気の毒にね﹂
﹁だから直球で言わないでくださいって!﹂
せめて休学であって欲しい。
そんなことを思いながらいつの間にか十九歳になっていた雫は、
残りのお茶を一息で飲み干した。
ファルサスに戻ってから雫は、キスクでしていたのと同じ子供用
教材を作成する仕事を任された。これは元々彼女の引き渡しが決定
した際に、ラルスがオルティアに了承させたことなのだという。
雫の世界には生得単語がないと聞いたファルサス王は殺してみた
そうな目で彼女を見たが、雫の作った教材と伝えたノウハウが一定
の効果を出していると知ると、とりあえずは仕事をさせてみる気に
なったらしい。﹁お前を殺すとまず三人から煩く怒られるからな﹂
と言うと、彼女に研究室の一つと部下たちを与えたのだ。
﹁可愛いわね、これ。子供が喜びそう﹂
試作品のカードを手に取ったレウティシアは、感心したように次
々それらを捲っていく。少し派手な原色の縁取りは、動物なら赤、
食べ物なら青、というようにカテゴリ別に区別するためのものだ。
雫は一通りの使い方を説明してしまうと最後に方針を補足する。
﹁赤ちゃんは原色の方が目に付きますし好きですからこうしてみま
したが、もう少し大きくなったら淡い色も使って、写実的なカード
を渡してみようと思います﹂
﹁なるほどね。その辺りは貴女に任せるわ﹂
雫の身分は現在のところエリクと同じくレウティシア直属となっ
ている。王妹は教材を承認する為の書類に目を通すと、署名して雫
に返した。穏やかに見える美しい貌が笑みを形作る。
﹁エリクの契約はあと二ヶ月で終わるし、貴女もそれまでに教材が
出来上がるのならその後は好きにしていいわ。彼と相談して﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
1134
﹁まぁ彼はまず間違いなく出てくって言うでしょうけど⋮⋮ああ、
あの紅い本ね。まだ見つかってないの。ごめんなさい﹂
それは外部者の呪具ではないかと思われている、秘せられた歴史
の書かれた本だ。
ファニートに探してもらっていた時も﹁見つからないようだ﹂と
言われていたが、未だに手がかりは掴めていないらしい。怪しい女
が持っているとの情報だが、おそらくその女は一箇所には留まらず
各国を移動しているのだろう。いくつか目撃証言は得たが、北の大
国メディアルでの目撃を最後に行方が分からなくなっていると聞い
て、雫は微苦笑した。
﹁大丈夫です。きっと何とかなるって思ってますから。ありがとう
ございます﹂
﹁何か分かったら教えるわ。貴女たちがこの城を離れていても﹂
﹁はい﹂
雫がこの世界に来てから約十ヶ月半。エリクの契約期間が終わる
頃には一年が過ぎているだろう。もうそんなに経つのか、と呆然と
しかけて、それでは退学にされていても仕方ない、と彼女はほろ苦
い思いになる。
だが退学くらい大したことではないだろう。もっと学びたいのな
ら奨学金を取ってでもバイトをしてでももう一度受験しなおせばい
いのだ。
不思議と自分の想像が何
やりたいことの為にはそれくらいは苦労のうちに入らない。
けれどそう思いながらも雫は︱︱︱︱
処か地に足のついていない空想のように思えて、茫洋とした違和感
に首を傾げたのである。
忘れていたのか、と聞かれたなら、しばらくの気まずい沈黙を経
て﹁忘れていた﹂と答えるだろう。どうでもいいと思っていたわけ
1135
ではないが、急を要することが次々重なってつい頭の片隅に追いや
っていたのだ。
だが、落ち着いたならいずれ思い出しただろうし、落ち着かなく
ても必ずそれは雫の前に現れた。現にこの日、それは明確な姿を彼
女の目の前に現したのだ。使い魔の少女の小さな両手に掲げられて。
﹁マスター、これが荷物の底に入っていたのですが、開けてもよろ
しいでしょうか﹂
﹁⋮⋮あ、それ⋮⋮﹂
薄茶色の紙包み。そこに何が入っているのか、勿論雫は知ってい
る。
彼女は忘れていたそれをメアの手から受け取ると、改めて中にあ
るものを覗き込んだ。
ファルサスに戻ってきて、真っ先に雫を迎えたのは使い魔である
少女だった。
普段ほとんど表情を見せない彼女は、けれど少し泣き出しそうな
笑顔で﹁よくお帰りになりました﹂とお辞儀をしたのだ。
その笑顔に急激に時間が巻き戻るような気がして、雫は胸がいっ
ぱいになった。何度も何度も謝罪をして、小さな体を抱きしめる。
﹁キスクはね⋮⋮そんなに危なくなかったよ。今度は連れて行くか
ら。姫に紹介するよ﹂
﹁次は危ないところであればこそ私をお連れ下さい。使い魔という
ものは主人を守るためにいるのですから﹂
メアには主人に強い不満を抱くほどの感情機能はないとエリクは
言っていたが、それでも申し訳ないことに変わりはなかった。
だから雫はその晩長い時間をかけて、友人でもある少女に謝りな
がら、キスクであったことを一つ一つ話して聞かせたのである。
雫は紙包みの中から紙の束を取り出す。
彼女自身、ファルサスに着いて早々仕事にかかりきりになってい
1136
た為、荷解きも適当にしかしていなかったのだが、メアはそれをき
ちんとしてくれたらしい。枕元に積んであった本も棚に収められ、
服は衣裳箪笥にしまわれていた。
そんな中、よく分からぬ荷物が出てきたので主人に伺いを立てた
のだろう。雫はこの世界の言語で書かれた論文を机の上に広げる。
﹁しまった⋮⋮読んでもらうの忘れてた⋮⋮﹂
彼女だけでは到底読み解けないこの論文は、子供の流行り病につ
いてキスクの神学者がオルティアに提出したものである。
生得言語についてその男の主張に何か気になるものを感じた雫は、
ニケから件の論文を貰ったのだが、そのまま慌しくなったことによ
り忘れてしまっていた。﹁教えてやる﹂と言っていた彼も多分忘れ
ていたのだろう。彼女は分厚い論文を前に腕組みした。
﹁気になるけど、これはなぁ⋮⋮メア読める?﹂
﹁申し訳ありません。人間の文字はあまり得意ではないのです﹂
﹁だよね。言送陣使ってニケに聞こうかな、ってああああああああ
!!﹂
突然の叫び声にさすがのメアもぎょっとしたらしいが、必要以上
に表情を変えることはしなかった。落ち着いた声で﹁どうなさいま
したか﹂と主人を覗き込む。
﹁いやちょっと⋮⋮もうしばらく時間を置きたいというか、コンタ
クトを取りたくないというか﹂
﹁苦手な方なのですか?﹂
﹁苦手じゃないけど色々あって⋮⋮﹂
一体何を思ってニケがあんなことをしたのかは分からないが、怒
る気にも喜ぶ気にもなれないのだ。ただひたすら恥ずかしい。こう
やって精神的なダメージを与えることが彼の目的だったのなら見事
に成功していると言えよう。雫は震える拳を握って何もない空中を
殴り始めた。
﹁だああああ! もう!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1137
乱心したようにしか見えない主人の奇行。
それをメアはたっぷり五分ほど見つめると、﹁それで、これはい
かがなさいますか﹂と冷静な声をかけたのだった。
とりあえず異様に量があって申し訳ないのだが、読んでくれそう
な人間といったらエリクしか思いつかない。雫は論文を元通り紙包
みの中に戻すと、それを持って彼のいる研究室を訪ねることにした。
キスク城ほど込み入ってはいないが、ファルサスの城も充分広い。
彼女は中庭を突っ切って研究室のある棟を目指した。だが植え込み
を乗り越えようとした時、芝生の上に小さな人影が座っているのを
見つける。
見覚えのあるカードと小さな背中。草の上に雫の作った単語教材
雫は微笑しながら小さ
を広げて遊んでいるのは、いつかエリクといた時に中庭で出会った
女の子だった。
彼女は雫に気づくとぱっと笑顔になる。
く手を振った。
﹁久しぶり。こんにちは﹂
﹁こんにちは!﹂
﹁それ使ってくれてるんだ。楽しい?﹂
﹁うん﹂
女の子は一枚のカードを拾い上げると﹁たこ!﹂と示す。彼女の
言う通りそれは蛸の絵を描いたカードだった。雫は隣にしゃがみこ
むと別のカードを指差す。
﹁これは?﹂
﹁猫!﹂
﹁あたり。いい子だね。じゃあこれは?﹂
﹁デウゴ﹂
カードは試作品として城に集められた子供たちに配ったもののう
ちの一つだろう。既にあちこちよれよれになっている。もう内容を
全て覚えてしまっているのか、すらすらと答えていく子供に、雫は
1138
リオとの生活を思い出して目を細めた。
あれから一月に一度は便りが届いていたが、彼女は元気で暮らし
ているらしい。あのひたむきな笑顔を思い起こすと多忙な時でも心
が和む。
﹁また今度新しいの作ってくるね。今度は絵本にしようか﹂
﹁絵本﹂の言葉に女の子は目を見開いた。期待に満ちた視線を雫に
注ぐ。けれど彼女がねだる言葉をかけるより早く、雫に届いたのは
聞き覚えのない大人の声だった。
﹁やはり子供がお好きなんですね﹂
落ち着いた女の声。突然の呼びかけに雫は驚いて顔を上げる。
まず目に入ったのは淡い緑色の魔法着。それを着ているのは亜麻
色の髪の女だ。二十代後半と思われる彼女は、邪気のない微笑を浮
かべて雫と女の子を見下ろしていた。
女の子が﹁レラ!﹂と叫んで魔法士に駆け寄ると雫もあわせて立
ち上がる。
﹁あ、はじめまして﹂
﹁はじめまして。あなたがキスクからいらした研究者の方ですのね。
お話はよく伺っております﹂
﹁う。どのような話か気になりますが、そうです﹂
正直キスクから来たと言われると違和感を覚えなくもないのだが、
一月だけいたファルサスと四ヶ月以上いたキスク、どちらが彼女の
身分を表すのに適しているかといったらやはりキスクの方だろう。
﹁戦利品﹂として連れてこられた雫は苦笑を浮かべた。
レラと呼ばれた魔法士は、足に纏わりつく子供の頭を撫でながら
微笑む。形のよい唇には濃い紅が塗られていて、そこだけが妙に浮
き立って見えた。
﹁キスクは病の原因を調べる実験をやめてしまったとも聞きました
が、本当なのですか?﹂
﹁はい。少々乱暴な実験をしていたんで。原因も結局分かりません
1139
でしたし、今は教育の方向で研究が進められています﹂
﹁そうですか⋮⋮。でもそんな簡単に諦めてしまってよかったのか
しら。学べは症状が緩和されると言っても、やっぱり病気は病気で
しょう?﹂
﹁え⋮⋮﹂
思ってもみなかったレラの反応に雫は言葉に詰まる。
今まで雫は、何と言われてもこの流行病を病気だとは認識してい
なかったのだ。キスクにおいてもあれらの実験をやめさせられたこ
とに安心していたし、教材の作成をオルティアが支持してくれたこ
とに安堵した。
だが、ファルサスの魔法士はまったく別の意見を当然のものとし
て、心配そうな目を向けてくる。それが善意でしかないと分かるだ
けに、雫は幾許かうろたえてしまった。
﹁魂に欠損があるなんて可哀想だわ。少しでも早く原因を突き止め
てあげないと⋮⋮。私も病の原因究明に携わっているのですけど、
なかなか成果が出なくて。何か掴めれば子供たちもあなたも楽にし
てあげられるのですけど﹂
レラの声には純粋な同情が窺える。
病を憂い、子供たちを心配し、雫の負担を減らしたいと願う真っ
直ぐな思いが。
この世界において、生まれながらに言葉を持たない子供たちは﹁
異常﹂だ。
雫はそれを聞いていながらも、これまでその重大さを完全には分
かってはいなかった。彼女にとっては生得単語などないことの方が
当たり前であるのだから。
だが、子供たちにとっても親にとっても、教材を揃え一から言葉
を教えるよりは、病が治療されることの方が余程負担が少ない。教
育とはあくまで原因不明の病に対する次善の策なのだ。
大陸は広い。それに加えて、この病は徐々にその発生範囲を広げ
1140
つつある。可能であれば病の原因を取り除くことの方が、教育方法
を大陸全土に浸透させるよりも確実に多くの子供たちの助けとなれ
るだろう。
レラは女の子の手を取ると﹁お互い頑張りましょうね﹂と礼をし
て去っていった。その後姿を見送って雫は割り切れない言葉を洩ら
す。
﹁魂の欠損⋮⋮か﹂
エリクは、生得言語は魂に依拠するものではないと言っていた。
その仮説があっているのなら、この病の原因は何なのだろう。
今まで雫は病への偏見を払拭し、教育によって子供に言葉を取り
戻すことこそ、現状の最善であると思ってきた。
重い息をついて
けれど多くの人々が望む解決とは、そのようなものではないのか
もしれない。
今更ながらそのことに気づいた彼女は︱︱︱︱
かぶりを振ると、それ以上何も言わぬまま整った中庭を後にした。
エリクのいる研究室はいわゆる﹁実験室﹂というよりは﹁大学の
文系学科研究室﹂の様相に近かった。長方形の机が三つ部屋の中央
に並べられ、四方の壁は全て本棚となっている。
その机の一つで本と書類をつきあわせていた男は、雫に気づいて
顔を上げた。
﹁やあ。どうしたの?﹂
﹁すみません。ちょっとお願いが⋮⋮﹂
部屋には他に誰もいない。雫はエリクの目の前の椅子に座ると、
持ってきた論文を机に広げた。﹁生得単語がかつては固定されてい
なかったのではないか﹂という端的な説明と共にそれを彼に渡す。
﹁アイテア神徒の論文か。へえ、おもしろいね。﹃生得言語におけ
る神の力の現れについて﹄か﹂
1141
﹁自分でも見てみたんですけど、さすがに内容がさっぱりでして﹂
﹁いいよ。読んどく﹂
エリクは論文の厚さなどまるで問題ないようにその束を紙包みに
戻した。積んである本の一番上に乗せる。
用件だけを頼んでいくのは申し訳ないと思った雫は、空になって
いるエリクのカップを手に取ると部屋の隅にある茶器を使ってお茶
を淹れ始めた。﹁少し休憩する﹂という彼と向かい合って一息入れ
る。
﹁エリクは前に、生得言語の原因は何かの感染じゃないかって言っ
てましたよね﹂
﹁うん。今でもそう思ってる。人間は生まれた後に親や周囲の人間
から﹃何か﹄に感染するんじゃないかな。それで生得言語を身につ
ける﹂
まるで虫歯菌のようだな、と雫は思ったがあんまりな比喩だった
ので口にすることはしなかった。虫歯が一つもない口内に砂糖菓子
を放り込む。
﹁じゃあこの流行病はそれら感染への抗体を子供たちが持った、っ
てことになるんでしょうか﹂
﹁コウタイ? 抵抗力のことかな。僕はそう思ってるけど、今のと
ころ証明できるものがない。病気の子と健康体の子供には実験では
心身ともに違いがないそうだから﹂
﹁うーん。私の方は何故か言葉が通じているんですけどね﹂
雫自身の肉体も散々調べられたが、この世界の人間と何ら変わり
がないそうなのだ。どこで言葉の有無が分かれているのか、彼女は
大きく首を捻った。
ふと先程会ったレラとの会話が甦る。雫は半ば溜息をつくように
向かい合う男に問うた。
﹁エリクはやっぱり、この病気は根絶された方がいいと思います?﹂
1142
﹁何急に﹂
すぐには返答を返さず、そんなことを彼が聞き返してきたのは、
間違いなく彼女の表情のせいだろう。雫は苦笑になりきれない唇を
曲げた。
﹁いえ、私の世界ではこれは当たり前のことなんで。あんまり﹃異
常で可哀想﹄って思われるとちょっと⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
生得言語などなくてもいい、と雫が思ってしまうのは、彼女自身
がそういう世界で育ったからだ。こんなものは病気でも何でもない。
当たり前のことだと言ってしまいたい。
けれどこの世界においてそれが憐憫の対象なのだとしたら、雫の
ささやかな反論などやはり﹁外から来た者の傲慢﹂にしか過ぎない
のかもしれないのだ。
最近はすっかりなりを潜めていた異邦人としての孤立感に苛まれ、
彼女は澄んだお茶の表面をじっと見つめた。
だが、男の声は沈むことなく湯気の中を通り過ぎる。
﹁根絶すべきかどうかは、原因と経過がはっきりしてからかな。君
の世界では話し言葉が不自由な人っているの?﹂
﹁え? うーん⋮⋮身体的に原因があったりして言語発達に難が出
る人もいますし、言葉をまったくかけられないで育てられたりした
ら不自由になるでしょうけど。まず大抵の人は話せるようになりま
すね﹂
﹁教育の仕方によって習得できなくなるってことはない?﹂
﹁それはないと思います。私の持ってきた本の中にも、幼少期の言
語習得について少し書かれているんですが、そこでは子供は自然の
言語⋮⋮つまり身振り手振りを介して、大人たちが何を示して何と
言葉を発しているのかを徐々に覚えていく、ってあるんです。だか
ら多分今病気の子供たちも、教育をしてやれば加速度的に喋れるよ
うになるでしょうけど、しなくてもいずれ自然と身につくと思うん
ですよ﹂
1143
それは推測ではあるが、おそらく真であろうと雫は思っている。
現にリオと暮らしていた時には、試験範囲外であり教えようと意
識していなかったにもかかわらず、雫がよく使っていたから彼女が
覚えてしまった単語などもあったのだ。異世界の女の意見を聞いた
エリクは真面目な顔で頷く。
﹁なるほど。ならそれ程根絶を急がなくてもいいんじゃないかな。
このまま時代が進めば生得言語がないことの方が当たり前になるか
もしれないし﹂
﹁そうですよね⋮⋮って、すごい!﹂
﹁何が?﹂
雫だからこそ﹁生得単語などなくてもいい﹂と思えるのであって、
この世界の人間にとってみれば、それは本来受け入れ難い現象であ
るはずなのだ。
生得的なものの喪失がどれ程の衝撃なのか、雫も自分の身に置き
換えてみれば分かる。喜怒哀楽や立つこと歩くこと、それらがある
日突然訓練を要するようになったのなら、人々は慌てふためいてし
まうだろう。
先程はレラの反応につい浮かない気分になったが、それがこの世
にもかかわらず彼は﹁いつかそれが当たり前になるか
界における普通の反応なのだ。
︱︱︱︱
もしれない﹂と言う。
達観と言うだけではない冷静な視野の広さ、柔軟さに雫は感嘆し
た。
﹁エリクってそういうとこすごいですよね。もっと問題視したりし
ないんですか?﹂
﹁うーん、今のところは原因不明だし。第一他の魔法士と違って、
僕はこれって魂には関係ない問題だと思ってるから。それを明確に
示せれば彼らの姿勢も軟化すると思うんだけどね。本当に魂の欠損
1144
ならさすがに問題だ﹂
﹁あー﹂
この流行病が魂には関係ないのではないかと示すには、現状の手
札からいって雫の特異性を明らかにしなければならなくなる。それ
はさすがに容易くはできないことであろう。
あのラルスも今は雫について保留しているが、それはオルティア
から正式な交渉を経て引き取ってきたという外交上の問題が影響し
ているからで、生得単語がないことを説明した時も﹁お前が病気発
生に関係しているんじゃないか?﹂と散々絞られたのだ。
その時、雫に代わってラルスと論戦を繰り広げた男は、平然とし
た顔でお茶を飲んでいる。藍色の目が論文の包みを見やった。
﹁そもそも魂ってのはまだその全貌が分かっていない。多少魔力で
捉えられるところはあるけれど、それでもほんの上澄みだけだ﹂
﹁うー。難しいですね。肉体が死ねばその時拡散しちゃうんでした
っけ。それを捕まえてみるってことは出来ないんですか?﹂
肉体のない純粋な魂だけを確保できれば、その全貌を掴む研究に
進展が見られるかもしれない。
この時の雫の発想は普段の人道的なものではなく、研究者がよく
持っている、全ての可能性をさらい出そうとする性格が濃く現れて
いた。
エリクは彼女の指摘に少し微笑んで答える。
﹁出来るよ﹂
﹁お!﹂
﹁禁呪だけど﹂
﹁⋮⋮駄目じゃないですか﹂
さすがに禁呪と言われては手を出すわけにはいかない。少し冷静
になった雫にエリクは補足する。
﹁魂は力としては強力なものだからね。古来から人の魂を力に変換
して使う禁呪は多いんだ。ひどいものになると国一つ滅ぼした禁呪
1145
が犠牲者の魂を取り込んで膨らんだ挙句、大陸中に飛び散ったなん
て事例もある﹂
﹁うへ。力に変換って、魔力じゃ足りないんですか?﹂
﹁色んな事例があるけどそれは⋮⋮﹂
彼はそこで言葉を切った。目を丸くして雫を見やる。あまり見な
いその表情に彼女は自分も瞠目した。
それがあった。証明って程じゃないけど、いい資料に
﹁どうしたんですか?﹂
﹁︱︱︱︱
なるかも﹂
エリクはおもむろに立ち上がると、四方の本棚の一つから何冊か
の資料を選び出した。それを次々腕の中に抱えていく。
彼が何を思いついたのかはわからなかったが、雫は何となく自分
も急いで傍に駆け寄ると、あふれ出しそうな本を引き取った。彼女
が五冊、エリクが七冊の本を抱え込んで元の席へと戻る。早くもそ
の内の一冊を広げて目次を睨む男に、雫は恐る恐る声をかけた。
﹁あの、何を調べるんですか?﹂
﹁過去の事例。禁呪って程じゃないんだけどね。魔法士が魔力の不
足を補う為に自分の魂を力に変換して使ったって事例がいくつもあ
るんだ。そのうち半分以上の人間が魂がなくなって死亡してるけど、
中には生き残った人間もいる。ただ彼らは魂が欠けてしまったこと
により、総じて後遺症が残った。それらは失われた魂の部分に対応
してか種々の症状に及んでいる﹂
エリクが何を考えているのか雫はすぐに分かった。息を飲んで聞
き返す。
﹁その後遺症の中に⋮⋮言語障害が出た事例はあるんですか?﹂
﹁ない。僕はそう記憶している﹂
もし言語が魂を通じて備わったものならば、魂の対応する部分が
欠けたことにより言語もまた失われるのかもしれない。
けれどそういった事例がないのだとしたら、それは魂と言語は無
関係だということにもまたなり得ないだろうか。
1146
勿論たまたまそういう例がないだけだと反論される可能性はある
だろうが、上手くすれば一般に信じられている魂と言語の関係性に
一石を投じられるかもしれない。
雫は期待に表情を緩めかけて、だがまだ残る懸念に気づく。
﹁でもそれって大人の事例ばかりですよね。生得単語が身についた
後だから影響ないんだって言われませんか﹂
﹁言われると思う。ただね、魂の欠損については非常に有名な子供
の例があるんだ﹂
﹁有名な例?﹂
エリクは無表情に少しだけの苦さを漂わせる。
その表情を見るだにあまり面白い話ではないらしい、と雫は予感
したのだが、実際聞いてみると予想以上だった。
問題の話の舞台は古く暗黒時代にまで遡る。
戦乱が絶えず何処かで起き、毎年のように国が入れ替わっていた
混乱の時代。
当時、大陸東部では魔法士の認知度が低く、彼らは穢らわしい異
能者として裏町に追いやられていたという。
だが迫害されていた魔法士たちもやがて、その力を認められ戦争
に投入され始めた。身一つで人を殺せる彼らは一時期は暗殺者とし
ても重宝され、東部の国々はこぞって魔法士たちを囲い込み始めた
のである。
けれど当時は構成の洗練がさほど重要視されておらず、ただ魔力
の大きさだけが魔法士の優劣に繋がると思われていた。
そして魔力は先天的に決定されるものである。
いくら魔法士の人数を集めたとしても、一人の強大な魔力の持ち
歴史に残る忌まわしい実験に手をつけた。
主には敵わないと悟った小国の王は、ある時他国に勝る力を得る為
に、
その実験とは﹁人為的に強大な魔力の子供を生み出そうとする﹂
というもの。
1147
王は魔法士の女を五十人捕らえ、やはり魔法士の男をつがわせる
と子を身篭らせた。
そして臨月になった彼女たちを集めると、禁呪によって母親の血
実験は半分成功し、半分失敗した。
肉を代償に赤子の魔力を増強しようとしたのである。
結果として︱︱︱︱
禁呪は母親たちのほとんどを犠牲としたが、同時に生まれる直前
だった赤子たちの魂をもまた、代償として欠けさせてしまったのだ。
五十人の子供たちのうち、実験後すぐに死亡した者は十九人。
十三人は三歳までに死亡し、四人は十歳までに死亡した。
そして残りの十四人は⋮⋮十五歳になった時、その力によって自
分たちを生み出した国を滅ぼした。
魂の欠損を生まれた瞬間に負わされた彼らは、ある者は感情を持
たず、またある者は記憶力がないなどそれぞれの弊害を持っていた
が、総じて抜きん出た魔力の持ち主だったと記録されている。
﹁生まれてすぐ死んだ子供はともかく、残り三十一人はどういう後
遺症があったのか全て記録に残っている。その症状は多岐に渡るけ
どうしたの?﹂
ど言語障害が出た例は一つもない。他の症状はどれも別の事例なん
かと同じ症状が見られるんだけどね。︱︱︱︱
﹁い、いえ。あまりに壮絶な話なので⋮⋮。人権無視にも程があり
ますね﹂
﹁当時大陸東部では魔法士は人というよりも兵器扱いだったから。
こういう話はいっぱいあるよ﹂
蒼ざめた雫にエリクは肩を竦めて見せる。
それはもはや変えられない、大陸の負の歴史なのだろう。忌むべ
きものと讃うべきものの積み重ねを経て、世界は今に至っている。
自分の魂についてさえもよく分からない雫は、魂の欠損とはどう
いうものなのか想像も出来ない。
けれど禁呪に実験によって生み出さた一人、﹁悲哀﹂の感情がな
1148
いため泣くことが出来なかったという少女の話を聞いて︱︱︱︱
彼女は憤りよりも重いやりきれなさを覚え、そのまま沈黙してしま
ったのである。
エリクは﹁魂の欠損﹂について、禁呪による過去の症例を纏める
という。
﹁この論文も目を通しとくから﹂と言う彼に、雫は﹁いつでもいい
です。すみません﹂と笑って研究室を辞した。
暖かい風。他に誰もいない帰り道。中庭を通りながら彼女は青い
空を見上げる。
大陸中何処までへも繋がっている空は、けれど彼女の世界と、過
去には繋がっていない。
広くありながらも有限の世界。
その中に在る自分を思って、雫は白く光る日にただただ小さな両
手をかざした。
1149
002
淡い色を使って描いた挿絵の隣に、丁寧に文字を書いていく。用
意した文章は平易なもので、絵本の下書きを作り始めてから一週間、
何度か見直しもしたがこれで問題ないと思われた。
雫はあらかじめノートに書いておいた草稿を見ながら、一枚一枚
に短い文章を書き入れる。インクを乾かしながらのんびり完成を待
った。
﹁よし、こんなものかな﹂
出来上がった原稿をもう一度見返すと、彼女はそれを紙で包んだ。
小さな研究室内にいる文官に渡して製本を頼む。
これは試作品だが、子供たちの反応を見て問題ないようであれば
量産の為の手続きが取られることになっていた。今までのカード教
材もそうして作られたのである。
雫などは実際の作業を見たことはないが、この世界では書かれた
ものを量産するのに幾通りかの方法が使われるらしい。
文字だけの単色の本ならまず活版印刷が使われるが、絵本となる
とそうはいかない。絵は少数部だけなら写本職人が写し取ることも
あるが、上質になる代わりに時間もかかりコストが跳ね上がる。そ
の為大抵は職人に原本を渡し、絵柄にあわせて木版画か石版画を作
ってもらうことになっていた。
初めてそれを聞いた時、雫は﹁シルクスクリーンはないんですか﹂
と聞いて文官に怪訝な顔をさせたが、どうやらその手の布を使った
印刷は、少なくともファルサスでは行われていないらしい。平版画
1150
である石版画よりは絹版画の方がとっつきやすそうに思えるのだが、
その辺りは異世界文化ということなのだろう。
雫は試し描きとして金の蛙を描いたスケッチをかき集めた。それ
らをノートと纏めて小脇に抱える。
﹁じゃ、お昼食べてきますね﹂
﹁はい。お気をつけて﹂
少々遅い昼食だが、彼女は規定の仕事量さえ期間内に仕上げられ
れば、いつ何処にいてもいいことになっていた。
もっともそれは雫を含めて研究者たちにのみ適用される自由であ
り、文官武官は毎朝同じ時間に出仕して同じ時間に帰っていく。
魔法士たちなどはエリクに聞いたところ、大きく分けて講義に出
て魔法を学ぶ人間と、研究室に詰めて研究をする人間がいるらしく、
エリクやハーヴなどは昔、その両方に時間を割いていたが、最近は
完全に後者なのだという。
雫は一旦自室に帰るとそこでメアが用意してくれていた昼食を取
った。とろとろと柔らかく煮込まれた豚肉を切り分けながら口に運
ぶ。
﹁お仕事は一段落されたのですか?﹂
﹁うん。とりあえず一つは。また他にも手をつけるけど﹂
ジャガイモのスープが非常に美味しい。雫は匙の上に味の染みこ
んだジャガイモを掬い取ると欠片を頬張った。メアも相伴に預かり
ながら微笑む。
﹁少しはお休みになってください。マスターは最近ずっと夜遅くま
で起きられてますから﹂
﹁あれ? そうだった? 早寝してるつもりなんだけど﹂
﹁とんでもない。勉強もよろしいですが、お体を大事になさってく
ださい﹂
雫自身は夜更かししているつもりはないのだが、メアにとっては
1151
許容範囲外らしい。釘をさすような口調で言われて雫は苦笑した。
﹁分かりました。気をつけるね﹂
真面目くさって頭を下げると使い魔は困ったような顔になる。だ
がそれも雫がすぐに﹁美味しいよ﹂と言うと照れくさそうな微笑に
変わった。
﹁マスター、午後からはまた研究室ですか?﹂
﹁んー。王様のところに一度顔出す。定期的に進捗を報告しないと
いけないから﹂
雫の直接の上司はレウティシアだが、ラルスにも定期的な報告を
義務付けられている。それは半ば、彼女を野放しにする気はないと
いう王の意志を表すものなのだろう。変わらぬその姿勢に腹が立た
ないわけではないが、雫も今更文句を言う気はない。もはやそうい
うものだと思っているからだ。
﹁マスター、最近北方では魔物が多く出現しているらしいです。王
家の精霊が言っていました﹂
﹁魔物が? 何かゲームみたいね﹂
間抜けな返答を口にしてしまったのは、雫が未だ﹁魔物﹂という
ものをよく分かっていない為だ。
メアなどは勿論魔族であると承知しているのだが、どうしても魔
物とは思えない。姿形からして恐ろしいものなど禁呪の大蛇しか見
たことがなかったし、メアの話を聞いてもいまいち現実味のない感
想しか抱けなかった。
暢気さが窺える主人に、少女の姿をした使い魔は注意を促す。
﹁城内には結界がございますから、そのような低級魔物は入り込ん
できませんが、くれぐれもお気をつけください﹂
﹁そうだね。ありがとう﹂
どんな姿の存在であれ、怖いものなら対面しないにこしたことは
ない。
しかしそう思っていた雫は午後の謁見で、ラルスから似たような
1152
話を聞くことになったのだった。
﹁魔物ですか。どんなのなんですか﹂
﹁色々だ色々。何かごりっとしたやつとかな﹂
﹁全然分かりません﹂
説明する気がないのではないか、と思われる王の説明に雫はしれ
っと相槌を打った。報告済みの書類を抱き直す。
真面目に資料を用意してきたのに、報告自体は五分で終わってし
まった。その後何故か﹁走るか﹂と言われたので断ったところ、間
を取って外を散歩をする羽目になったのである。
空は曇天ではあるが、陽気は充分暖かい。雫はさわさわと揺れる
木の葉を見上げた。
﹁でも王様、暴れるの好きそうじゃないですか。お城は構わずお行
きになってください﹂
﹁この前も城を空けたばかりだ﹂
﹁レウティシア様がいらっしゃるんで平気ですよ。私も束の間の平
穏を味わえます﹂
﹁晴れ晴れとした顔だな。まだ行くと決まってないぞ﹂
ラルスは平然と返すと前を見たまま雫の頭をはたこうとした。だ
が彼女はそれを察知して一歩横に避ける。
王が言うには、何でも最近、ファルサス北部の町に魔物が出現す
るという報告が相次いでいるらしい。
夜になると現れ人を襲うというそれらは、けれどさして強い種の
魔物ではなく、今は町にいる警備兵たちで何とか対処出来ているの
だが、あまりにも出現が後を絶たない為、何処かに根城か何かがあ
るのではないかという話になっているのだ。
そして魔法や魔物に対して、ファルサスはおろか大陸中を見ても、
追随を許さぬ対抗力として知られているのは、王剣アカーシアであ
る。古くは他国からの要請で、使い手である王自らが魔女討伐にも
1153
出たというその剣は、今はラルスの手にあって彼を主人としている
のだ。
彼の性格からいって他国の要請に応えるような人間ではないが、
国内の問題とあれば必要に応じて討伐の前線に立つことは疑いない。
剣士としても名高い王は、恐れよりも面倒くささを前面に出して嘯
く。
﹁何処が根城か分かればすぐにでも行くんだがな。何処だか分から
ないのは面倒だ。お前みたいに目の前に来れば殺しやすくていいぞ﹂
﹁私は殺してもらうためにファルサスに来たわけじゃないですから﹂
﹁大体他の人間に行かせようにも、アカーシアを使えるのは俺とあ
いつしかいないというのがな。レティは魔法が使えなくなるから持
ちたがらないし﹂
﹁私の話何で聞こえない振りしてるんですか、王様。自分の仕事を
他国の人に振ろうとしないでくださいよ﹂
﹃あいつ﹄というのはおそらく先日ワイスズ砦に現れたヴィエドの
父親のことだろう。見た目はラルスより少し若く見えたが、何処の
国の誰なのかは知らない。ただファルサス直系であるからして、彼
もきっとアカーシアを使える人間なのだろう。
雫はそこまで考えて、ふと疑問を覚えた。そのまま一歩先を行く
ラルスに聞いてみる。
﹁アカーシアってファルサス直系じゃないと効果を出せないんです
か?﹂
﹁出せるぞ。誰が使っても﹂
﹁あれ。じゃあ何で直系じゃないと駄目なんですか?﹂
﹁教えてやろうか﹂
そう問うてくる王の目は、お世辞にも善良な人間のものには見え
なかった。雫は唇を曲げるとかぶりを振る。
﹁やっぱり結構です。忘れてください﹂
﹁よし、こっちに来い﹂
1154
﹁本当に人の話無視するんですね⋮⋮﹂
ラルスは雫を手招きして城の通用門の方へと歩き出した。そこに
いた衛兵たちがかしこまって敬礼すると王は﹁門を開けろ﹂と命じ
る。
正門程ではないが、黒い鉄で出来た大きな門が開かれると、二人
は外に出て濠の上にかかる石橋に立った。
﹁じゃあこれを持て﹂
﹁はい⋮⋮っていいんですか!?﹂
ラルスが差し出したのは抜き身のアカーシアである。さすがに柄
の方を向けて渡されたが、あまりのことにすぐには手が出せなかっ
た。思わず硬直した彼女に王は面倒そうに命じる。
﹁どうした? 早く取れ﹂
﹁取れと言われましても⋮⋮怖いというか緊張するというか﹂
鏡のように磨かれた両刃の長剣。
今まで夥しい血を吸ってきたにもかかわらず、まるで真新しい剣
のように輝くそれに雫は唾を飲んだ。かつて正面から刃を振るわれ
た記憶が甦る。
刃先を向けられているわけではない。
それでも彼女にとってその剣は、消せない恐怖を呼び起こすもの
だ。自分が自分でなくなったかのように体が動かない。
雫は、己の心臓が跳ねるように打ち始めたのを自覚して、息苦し
さに喘いだ。曇りない剣身を見つめる。
﹁いいから持て。早くしろ﹂
重ねての男の声は少しだけ冷ややかさが混じっていた。雫は意を
決して長剣の柄を握る。
そんな予感を彼女は一瞬抱い
不可思議な力を持つ王剣だ。直系でない者が触れたなら電気が走
ったりするのかもしれない︱︱︱︱
た。
けれど、実際伝わってきたものはただ、ずっしりとした重みだけ
1155
である。
雫は予想以上の重量に慌てて石畳につきそうになる剣先を上げる
と、左手をそっと刃の部分に添えて長剣を支えた。一つ嘆息すると
ラルスを見上げる。
﹁持ちましたよ﹂
﹁よし。ならここの結界を斬ってみろ﹂
﹁へ!?﹂
仰天する雫に、ラルスは何もない門前を指して﹁ここに結界があ
るから﹂と言う。しかし、そう言われても雫には何処にあるのか分
からない。結果として彼女は目隠しもしていないのにスイカ割りを
するような気分で、重い剣を構えることとなった。
﹁王様! これかなり重いですよ!﹂
﹁そうか? まぁ、そのまま真っ直ぐ進め﹂
﹁こっちですか?﹂
﹁もうちょっと右。そこだそこ。よし、斬ってみろ﹂
軽い指示を受けて雫は震える両腕に力を込める。そのまま苦労し
て長剣を振り上げると、一歩踏み出しながら、重さに任せて刃を振
り下ろした。一瞬、体の中を違和感がよぎる。
彼女の掌には激痛が走った。
一体これに何の意味があるのか、そうラルスに問いかけた次の瞬
間︱︱︱︱
﹁っっああっ熱っ!!﹂
反射的に剣を落としてしまったが、それどころではない。
雫はまるで燃え盛る炎の中に両手を突っ込んでしまったかの如く
飛び上がった。悲鳴混じりの叫びを上げる。
﹁熱っ! 熱い! 痛い!﹂
すぐにでも冷水で冷やしたいが、周囲にそんなものはない。涙目
になった彼女に後ろからラルスが歩み寄った。
﹁冷やしたいのか?﹂
感じたのは嫌な予感。
半ば既視感に似たその感覚に雫は慌てて振り返る。
1156
何かを考えるより先に、彼女は伸ばされた男の手に両手でしがみ
ついた。王は目を丸くする。
﹁その手は食わないって!﹂
負け惜しみとも勝利宣言ともつかない叫び。
その声に続いた大きな水音は⋮⋮それまで固唾を飲んで事態を見
守っていた衛兵たちを慌てふためかせるに充分なものだったのであ
る。
水もしたたるいい男とはよく言われるが、目の前にいる男は﹁い
い男﹂と言うより、どう贔屓目に見ても﹁悪い男﹂である。
ずぶ濡れになった上衣を脱ぎ捨てながら剣を拾ったラルスは、そ
れを鞘に戻すと同じく濡れねずみの雫を振り返った。
﹁やってくれたな。濠に落ちるなど十五年ぶりだ﹂
﹁私は五ヶ月前に経験したばかりです。どなたかに突き落とされて﹂
﹁熱いというから冷やさせてやろうと思っただけだ﹂
﹁私も王様の頭を冷やしたいと思いましたんで﹂
雫は白々と返すと、自分の両手を見つめる。つい数分前、予想だ
にしなかった熱の痛みに絶叫した彼女を、ラルスは九割の悪意と一
割の善意で濠に突き落とそうとしたのだ。
けれどその手に、以前同じような目に合わされた雫は全体重をか
けてしがみついた。
結果として、突き飛ばされた彼女と、その彼女に引き摺られた王
は、二人一緒に濠に落ちてしまったのである。
蒼ざめた衛兵たちに引き上げられた後、雫は冷えたというよりは
びっしょりと濡れた掌を見て苦い声を洩らす。
﹁火傷するかと思いましたよ⋮⋮。何やらせるんですか一体﹂
﹁話に聞くより分かりやすかっただろ? 直系以外がアカーシアを
持って魔力や魔法構成に接触すると、柄や刃が発熱するんだ﹂
1157
﹁言ってくだされば分かりました﹂
それだけの説明の為に痛い思いをして、挙句にはずぶ濡れになっ
てしまったというのか。
濡れたのはお互い様だが痛かったのは雫だけである。彼女は腹立
たしさに王をねめつけた。
だがラルスの方はやはりと言うかその視線に動じるわけもなく、
ただ髪の水気を払っている。悪びれない声が彼女を叩いた。
﹁というわけで、今日の面白謁見時間は終わりだ。次は二週間後だ
な﹂
﹁次は絶対外には出ませんからね!﹂
﹁不健康な奴だなー﹂
﹁ぐああああ! 何このパワハラ!﹂
心からの絶叫は、しかしラルスには意味の通じるものではなかっ
た。王は前を見たまま軽く手を振って歩き出す。腹立たしい程に堂
々とした後姿に雫は顔を顰めた。
﹁王様⋮⋮私を試しましたね?﹂
ラルスは何も答えなかった。振り返りもせず足も止めない。
けれど、だからこそ雫は自分の考えに確信を持つ。
何故言えば分かるようなことをわざわざ体験させたのか。
それはきっと、アカーシアを持たせてみれば彼女が何かしらの本
性を見せるかもしれないと、疑っていた為なのだろう。
雫は石畳に放りだしてあった書類袋を摘み上げる。僅かに前髪か
らしたたる水滴を払うと、溜息もなく部屋への道を辿り出した。
﹁まぁいいか。珍しく痛み分けだし﹂
この程度で憤っていては、この城ではやっていけない。それに今
回はあからさまな敵意をぶつけられたわけでも、害されかけたわけ
でもないのだ。
彼女が以前よりも図太くなってきたように、もしかしたら王も少
しは彼女のことを信じてくれる気になってきたのかもしれない。
雫は自分でも楽観が過ぎると思う考えで濡れそぼった現状を片付
1158
けると、小走りに城の外庭を走っていったのだった。
※ ※ ※
ファルサスに来てからの三週間は、キスクでの日々のように常に
何かに追われる慌しいものではなかったが、それでも充分早く感じ
られた。
雫は二冊目の絵本の原稿を手に、すっかり見慣れた長い廊下を歩
いていく。
元の世界にいた頃、ファンタジー小説など全然読んでいなかった
彼女は、いわゆる異世界を旅する物語の終わりがどうなっているの
か、ほとんど知らない。こうしている間にも元の世界では同じだけ
の時間が過ぎているのか、それともまったく時は経っていないのか、
或いは浦島太郎のように何十年も過ぎ去ってしまっているのか、見
当もつかなかった。
﹁失踪宣告って七年間だっけ⋮⋮あと六年か﹂
もし時間の流れる速度や一日の長さなどが二つの世界で同じであ
るなら、雫はもうすぐこの世界に来て一年ということになる。
一年間は決して短くはない。
彼女は家族がまだ自分のことを探してくれているのか、それとも
諦めかけてしまっているのか、どちらにせよ申し訳なさを感じて仕
方なかった。
今ではまるで夢のように遠く感じる家族。彼らのことを思う度に、
姉妹にコンプレックスを持ち、自身がどういう人間か分か
昏い濁りを帯びた不安が意識の中を流れていく。最近はかつての自
分︱︱
1159
らないと悩んでいたことも、ひどく昔のように思えていた。
大学入学を期に、そしてこの世界に来てしまった時からずっと、
なりたいようになろうとは思っていたのだ。けれど実際は、追って
いくような追われるような日々の中で、我知らず﹁自分﹂というも
のが出来上がっていっただけだ。知り合いのほぼ全てから﹁頑固﹂
と言われるようになってしまった自分を思い返し、雫は微苦笑する。
﹁私こんなんなっちゃったよ、お姉ちゃん﹂
届くはずもない呼びかけは、感傷に縁取られ白い廊下に落ちてい
った。その上を彼女は歩き、踏みしめていく。
それでも⋮⋮帰る方法の分からぬ今でも、自分は充分に恵まれた、
幸福な人間なのだろうと深く実感しながら。
レラと再び会ったのは、二冊目の絵本の試作品を忙しそうな文官
に代わって自ら研究室に届けに行った時のことだ。
子供たちを集めているファルサス城の研究室は、一見して託児所
のような様相を呈していた。柔らかい敷物が敷かれた上におもちゃ
や教材が広がっている。
そこに転がって遊んでいた子供たちを集めて、何やら聞き取りを
していたらしきレラは、雫をみとめると立ち上がった。
﹁こんにちは。どうかなさったんですか?﹂
﹁絵本の試作品を持ってきたんです﹂
雫が紙に包まれたままの本を差し出すと、彼女はそれを受け取り
ながら﹁お茶でも如何ですか﹂と微笑む。特に断る理由もなかった
ので、雫は子供たちが遊ぶすぐ横でレラと休憩を取ることになった。
白い陶器のカップを両手で支えながら広い部屋を見回す。
ここでどういう実験や研究がされているのか。少し聞いてみたい
気もしたが、聞いて理解できるのか分からない。
雫がそんなことを迷いながらも他愛もない雑談に触れていると、
1160
レラの方から実験についての話題を切り出してきた。
﹁まだ目ぼしい成果はほとんど出ていなくて⋮⋮それにエリクさん
⋮⋮あなたのお知り合いでしたっけ、あの方が新しい意見を出され
たんです。生得言語と魂は関係ないんじゃないかって。それ以来仲
間内でも意見が割れてしまって、今大変なんですよ﹂
﹁ああ﹂
エリクに論文を預けた日から二週間程が経っているが、彼は既に
魂の欠損について纏めたものを発表していたらしい。
レラは少し困惑したような目で、机の端に置かれた書類を眺めた。
﹁魂が関係ないのなら何だと言うのかしら。そんなの、事態を混乱
させるだけの暴論だと思うのだけれど﹂
生得言語は魂に依拠するものではない。
﹁でも、エリクは間違ってませんよ﹂
︱︱︱︱
それをもっともよく知っている雫が間髪入れず断言したことに、
レラは紅い唇をぽかんと開いてしまった。雫の反論がよっぽど意外
だったのだろう。しかし彼女はすぐに意識した笑みを形作る。
﹁けれど、あなたは魔法士ではないでしょう? ならやはりこうい
うことってよく分からないのではないのかしら。あの方が出された
実例についても、たまたま魂の欠損の例に言語障害が出ていなかっ
ただけなのかもしれないわ﹂
﹁その可能性もありますけど、レラさんが偶然言語障害の症状が出
てないだけって可能性を支持なさるのなら、魂と言語が無関係だっ
て可能性もまた同様に検討なさるべきじゃないでしょうか。はっき
り証明できずに可能性だけが存在するのは、どちらも同じですよね﹂
最近でこそ、キスク女王の側近であったとしてその内実を知る人
間からは一目置かれている雫だが、外見だけは相変わらず少女のよ
うな姿なのだ。
そんな女が冷静な指摘をしてきたことにレラは驚いたらしい。返
1161
す言葉に迷ったのか思いつかなかったのか、彼女はたっぷり十秒ほ
ど唖然として雫を見つめていたが、雫が苦笑すると思い出したかの
ように慌ててお茶に口をつけた。視線を逸らして子供たちを眺めな
がら話題を変える。
﹁そう言えば、こないだの絵本面白かったです。少し雰囲気が変わ
っていて⋮⋮不死の蛙とかどうやって思いつかれたの?﹂
﹁ああ。あれ実話ですよ。メディアルのお話です﹂
一冊目に作った絵本は既に量産のため原本は職人へと渡されてお
り、この場にはない。
けれど試作品を子供たちに見せた際にレラは自分も読んでいたら
しく、﹁実話﹂だと聞いて﹁知らなかった﹂と相槌を打った。
﹁最後は少し書きかえましたけど。本当は、王様は蛙を追い出した
んじゃなくて飲み込んじゃったんですよ。そしてその後、園遊会の
席で湖に浮かべた船から落ちて、溺れ死んだ。でもそんなことはさ
すがに絵本には書けませんから﹂
﹁それは⋮⋮凄いわ。よく勉強なさってるのね。どこでお知りにな
ったの?﹂
﹁何処で?﹂
おかしなことを聞く、と思った。
そんなことに﹁何処で﹂も何もない。それは、彼女の中にある知
識の一つなのだ。
しかしそれでも雫は、問われたことに違和感を覚えない違和感を
嗅ぎ取って首を傾いだ。指先で目元を押さえる。
何故、そんなことを知っているのか。
今までもこういうことが何度かあったのだ。
だがそれは、探ろうとしてもたどり着けない。意識できない。
まるでこの世界にとって、言語の存在が当たり前であるかのよう
に。
1162
﹁どうなさいました?﹂
レラの声に、雫はハッと我に返る。どれくらいの時間自失してい
たのだろう。お茶のカップは空になっていた。
彼女は心配そうなレラを前に慌てて立ち上がる。
﹁す、すみません。私もう帰りますね﹂
﹁ああ。お引止めしてごめんなさい。絵本、ありがとうございまし
た﹂
レラは廊下まで雫を見送りに出てくれた。頭を下げる雫に、自嘲
を含んだ微笑を見せる。
﹁あの⋮⋮先程はごめんなさい。私、きっと疲れているんだわ。実
験もちっとも思うような結果が出せなくて⋮⋮﹂
﹁分かります。謝られるようなことじゃないので、気になさらない
で下さい﹂
雫もリオと暮らしていた時、ままならなさに苛立ちと不安が溢れ
出しそうだったのだ。それに比べれば余程レラは落ち着いていて、
大人の対応をしてくれている。雫は自分こそ度を過ぎた態度だった
と反省した。実験調査に取り組んでいる魔法士たちには、彼らにし
か分からない苦労があるのだろう。望む結果が出ないのなら尚更に。
その気持ちはよく分かる。
去り際、レラは焦燥を窺わせる目を伏せてこう言った。
私の姉、今子供を
﹁本当は原因が魂であってもそうでなくてもいいの。ただ少しでも
早くこの病がなくなればいいなって。︱︱︱︱
身篭っているの﹂
人々には、それぞれの思いが、望みがある。
時に否応なしにぶつかりあうそれらを、けれど皆は何とか先へと
繋いでいこうとするのだ。
雫はすっきりしない思いと同時に不思議な安堵を抱え上げて、元
来た道を帰っていく。
けれど茫洋とした願いを抱く彼女はその晩、もっと別種のはっき
1163
りとした戦慄に出くわすことになったのだった。
※ ※ ※
雫から渡された厚い論文の第一部は、アイテア神と神妃ルーディ
アの出会いに関する神話考察から始まっていた。
広い森の奥深くにある村を訪ねた神が、助けを求めるも村人たち
に無視され、妃となるルーディアとのみ言葉を交わしたという物語。
一般的には、夫婦の相互理解の重要さ、もしくは神妃の真摯や特
﹁村人たちは神を無視したわけではなく、神の言葉
殊性を表すと言われるこの神話を、だが論文を書いたアイテア信徒
は考察の結果
を聞いても理解できなかったのではないか﹂と結論づけていた。
エリクが雫の話す英語やドイツ語を理解できないように、村人た
ちも神の言葉を何だか意味の分からぬものとしてしか聞き取れなか
った。そんな中、若かったルーディアだけがアイテアに辛抱強く付
き合い、ようやく意思の疎通が出来たいう結果こそが、この神話の
真実ではないかと。
﹁つまり、神話の時代にはまだ生得言語が統一されてなかった⋮⋮
ということか﹂
夕食を取り、自室に戻ったエリクは論文を広げながら眉を顰める。
それは彼が以前からおかしいと思っていることと、半ば噛み合う
この大陸には暗黒時代の始まりから更に百年ほど遡っ
ような仮説だったのだ。
︱︱︱︱
た時点より前の記録は、何故かまったく文章として残っていない。
何せ古い時代の資料である。それらが散逸してしまったのだとし
1164
ても別に不思議ではないが、書物や文書の存在自体伝わっていない
のはさすがにおかしいと思っていたのだ。
大陸は広く、特に当時は多くの小国が乱立しており、統一からは
程遠い状態だった。なのにそれらの全てがどういうわけか、足並み
を揃えたかのように文書を残していない。国になっていなかったよ
うな小さな集落でさえも。
はたしてこれらは一体、何を意味しているのか。
考えられるのは、意図的な処分が行われたという可能性。
だが特定の都合の悪い記述だけを処分するならともかく、大陸中
に渡って何者かが文書を処分したのだとしたらそれは何の為なのだ
ろう。
今までずっと、その理由が分からなかった。だからエリクはこの
考えを頭の中にのみに留めて誰にも話したことがなかったのだ。
しかしそこに、この論文の仮説が加わるのなら。
﹁言語が統一されていなかったことを隠したかったから⋮⋮文書を
処分したのか?﹂
もしそうだとしたら、大陸初期における伝承が口承しか存在しな
いことも頷ける。現在、存在が記録されている文書や現存している
書物は皆、共通言語で書かれたものなのだ。そしてそれ以前のもの
は消し去られ口承だけが許された。
結果として人々は﹁生得言語が全ての人間の中で統一されている﹂
ことを当然と思うようになる。伝わる言語が一つしかないのなら、
それが本来は分かれていたことなど疑いもしなくなるだろう。
﹁しかしこれは⋮⋮﹂
エリクは苦い顔で前髪をかき上げた。
この仮説が正しいとすれば、実際生得言語が今の形になるよう関
わった力は、尋常ではないということになる。
それは、人々の生得言語を統一させながら同時にそれまでの言語
1165
の痕跡を消したのだ。控えめに見積もってもこれは到底、人間が己
の力で出来るようなことではない。この論文が言うようにまさしく
神の力の領域だ。
問題の途方もない大きさに彼はしばし思考を漂わせた。気を取り
直すと、次の一頁を読もうと論文に手をかける。
部屋の扉が叩かれたのは、そんな時のことだ。
夜更けと言う程でもないが、仕事をしている人間は一部を除いて
ほとんど残っていないような時間。エリクは軽く﹁いるよ﹂と声を
かけた。
扉の向こうからは小さな声が返ってくる。
﹁エリク、ちょっといいですか⋮⋮?﹂
﹁君か。どうしたの?﹂
鍵を開けてやると、暗い廊下には背の低い女が立っていた。こん
な格好で違う棟まで来たのか、夜着姿の雫は蒼ざめて男を見上げる。
﹁お、お願いがあるんですけど﹂
﹁何?﹂
﹁今夜一晩⋮⋮私と一緒にいてくれませんか?﹂
微かに震える声。同様に細い肩が震えているのに気づいて男は顔
を顰める。
そのままエリクは数秒間沈黙すると、﹁何で?﹂と率直に聞き返
したのだった。
1166
003
ファルサスは一年中温暖な国ではあるが、それでも季節によって
は夜は充分肌寒い。
そんな中夜着一枚で走ってきたと思われる彼女は、けれど寒さだ
けではない震えを纏っていた。黒い瞳が夜を写し込んでエリクを見
上げる。
﹁わ、私、記憶がないんです。でも、寝てるはずなのに、メアが起
きてたって、本読んでたんだって⋮⋮﹂
﹁ちょっと待って。どうしたの﹂
雫は平素とはまったく異なる様子で、ガタガタと震えながら手を
伸ばした。エリクはその手を取ると、彼女の肩を叩いて部屋の中へ
と入れる。上着を羽織らせ椅子を勧めると、彼は改めて雫に向き直
った。
﹁落ち着いて。何があった?﹂
子供に言い聞かせるようにゆっくりと問い直す。強くはないが聞
きなれた声に、彼女は幾分冷静になったようだった。表情に理性が
戻ってくる。
﹁それ﹂がいつから始まっていたのか、雫は知らない。分からない。
ただ異常が判明したのはファルサスに来てからだった。
ファルサスの部屋でメアと生活し始めてから三週間。これまでに
も雫は何度か﹁夜更かしはやめてください﹂と注意されていたのだ
が、そんなつもりはまったくなかった。
けれども何度も言われる上、その心遣いが嬉しかったので、最近
1167
は風呂から上がってすぐ寝るようにしていたのだ。
しかし今日、ふとしたことでまた﹁夜更かし﹂の話になった。
いつものように体を案じて注意してくる使い魔に、雫が苦笑して
﹁最近はすぐに寝てる﹂と言ったところ、だがメアは予想だにしな
﹁マスターはいつも一旦お休みになられた後、またお
い苦言を返してきたのだ。
︱︱︱︱
目覚めになって何時間も本をお読みになっているではないですか﹂
と。
﹁君にはその、本を読んでいる時の記憶がないの?﹂
事情を飲み込んだエリクが問うと、雫は黙って頷く。
﹁覚えてないんです。ずっと寝てると思ってましたから⋮⋮。でも
メアが話かけたりすると、その私は普段の私とまったく変わりない
受け答えをするらしいんです。だから彼女も何がおかしいのか分か
らないらしくて⋮⋮﹂
それで雫は、エリクのところに﹁一緒にいてください﹂と頼みに
来たのだ。
彼ならば、まるで夢遊病のような雫の行動について何か原因が分
かるのではないかと期待して。
すぐには何とも判断できない話に、エリクはしばらく考え込んだ。
勿論単なる夢遊病という可能性もあるが、それにしては普段通り
の受け答えをするという点がおかしい。
ならば考えられるのは何かしらの精神魔法をかけられたという可
能性だろうか。彼は右耳の耳飾に触れてその感触を探った。
﹁メアは君の部屋?﹂
﹁はい。ちょっとエリクに相談してくるからって出てきました﹂
﹁分かった。じゃあ僕も君の部屋に行く﹂
毎晩のように雫が記憶にない行動をしているというのなら、実際
に見てみるのが一番手っ取り早い。
1168
エリクが机の上を片付けながら立ち上がると、彼女は目に見えて
ほっとした顔になった。その額を軽く叩いて彼は注意する。
﹁あと、こういうことがあった時は君が来るんじゃなくてメアに呼
びに来させて。夜一人で出歩かないこと﹂
﹁う⋮⋮。でも夜にメアを出歩かせるのは何か不安なんです。だっ
たらさっと走った方がいいかな、と﹂
﹁君よりメアのが強いよ﹂
雫にはメアが外見どおりの小鳥や少女にでも見えているのだろう
か。
男が呆れ顔で身も蓋もない事実を指摘すると、彼女はさすがに項
垂れて﹁すみません﹂と頭を下げた。
主人二人が戻ってきたことに、困惑して待っていたメアはほっと
したようだった。彼女はお茶を出してエリクを迎えると、寝台に入
った雫の枕元に座る。
﹁申し訳ありません、マスター。今まで気づきませんで⋮⋮﹂
﹁そんなことないよ﹂
普段通りの受け答えをしていたのなら、他人にはその異常さが分
からないだろう。仰臥し天井を見上げる雫の額に男は手を触れさせ
た。
﹁いい? 眠らせるよ?﹂
﹁お願いします﹂
穏やかな詠唱の声と共に力が注がれる。瞼が重くなり意識が沈み
こんでいく。
そうして規則的な寝息を立て始めた雫がメアの言う通り再び目を
覚ましたのは、エリクがお茶を飲み始めて十分程経った時のことだ
った。
小さな手が前髪をかきあげる。
彼女はそのまま天井を見つめた後、ゆっくりと体を起こした。自
1169
分の一挙一動を注視するエリクとメアを視界に入れる。
﹁あれ? どうしたんですか?﹂
いつもと変わらぬ表情、変わらぬ口調での問い。メアはどう判断
すればいいのか困り果てた顔になってしまった。
だがエリクはお茶を一口嚥下すると、自らも普段通りに返す。
﹁どうもしないよ。遊びに来てるだけ﹂
﹁はぁ。吃驚しました﹂
﹁ごめん。僕は本読んでるからいつも通りにしてていいよ﹂
彼が英和辞書を捲り始めるのを見ると、雫は首を傾げた。寝台を
下りて上着を羽織り、自分は本棚から別の本を取り出す。表紙に何
も書かれていない紺色の本は、エリクが知る限り雫が元の世界から
持ってきた本のうちのどれでもなかった。
彼女は寝台に座り、その本を開き始める。
栞も挟んでいないのに何処まで読んだかすぐ分かるらしく、雫は
迷いなく中程の頁を指で探り当てると視線を落とした。エリクは辞
書から顔を上げて、その様をじっと観察する。
定期的に聞こえる紙の動く音。
元の世界の本でないにもかかわらず、詰まることなく厚い本を読
んでいく雫は、少なくとも彼女以外の存在には見えなかった。
彼はしばらく様子を見ていたが、やがて指で軽く机を叩く。
﹁雫﹂
﹁はい?﹂
﹁何を読んでるの?﹂
﹁歴史の本です﹂
﹁読めるの?﹂
﹁はい﹂
彼女は何故そのようなことを聞くのか、と怪訝そうな顔になった。
本を閉じてエリクの前に来ようとしたのを、彼は手で留める。
﹁そのままでいて。⋮⋮その本って何処で手に入れたの?﹂
﹁さぁ、覚えていません。いつの間にか持っていましたから﹂
1170
﹁キスクに行く前はなかったよ﹂
﹁そうでしたっけ﹂
雫はしきりに首を傾げる。それはまるで頭の中に入り込んで出て
こない異物をカラカラと動かしているようだった。眠る前と同じ不
安げな瞳が彼を見返す。
﹁その本には何が書いてあるの? 今は何処を読んでる?﹂
﹁今は、六十年前ファルサスで起きた廃王の乱心について読んでい
ます﹂
﹁ディスラルを殺したのは誰だと書いてある?﹂
﹁﹃あれ﹄と。それだけしか書いてありません﹂
これは、決定的だ。
エリクは深く息をついた。
現在表に出ている記録では全て、ディスラルを殺害したのは弟の
ロディウスだということになっている。
だが王家の封印資料に書かれた真実はそれとは異なり、圧倒的な
剣の腕で大虐殺を起こした狂王を殺したのは、名を伏せられた直系
の男なのだ。
そしてその男はおそらく﹁この世界で生まれた対抗呪具﹂の使い
手だった。
王族と、封印資料を整理したエリクだけしか知るはずもない事実。
秘された歴史を記した本とは、一冊ではなかっ
それを記した本があるということは、一つの結論しか導かないだろ
う。
つまり︱︱︱︱
たのだ。
少し考えてみれば分かることだ。
大陸の歴史は千年を軽く越える。その秘された部分まで一冊の本
に収めることなど、どんなに厚い本でも出来るはずがない。探して
いた紅い本だけではなく、最初から本は何冊かあったのだろう。
1171
エリクは今までその可能性を疑ってみなかったことに舌打ちした
くなった。
外部者の呪具かもしれない本。異世界に帰る鍵として探していた
それは、けれど今、雫にどんな影響を与えているというのか。
彼女は本を膝の上に支えたまま虚ろな視線を彷徨わせた。
﹁エリク、最近私、怖いんです﹂
﹁怖い? 何故?﹂
﹁知らないはずのことを知っているから。でも、どうやって知った
のか私は覚えていないんです。私は、この本のことを思い出せない
から﹂
人格が分かれているようには見えない。先程部屋に来た彼女も、
今の彼女も、同じ﹁雫﹂に見える。
そして彼女自身、不安を訴える言葉の中でも、自分の区別をつけ
ているようには聞こえなかった。エリクは思考を落ち着かせながら
確認する。
﹁でも今は覚えている﹂
﹁今は、そうです﹂
﹁君はその本に操作されてる?﹂
﹁操作⋮⋮いえ、違うと思います。そんなことは望まれていないん
です﹂
﹁なら何を望まれている?﹂
﹁記録と保持を﹂
深く吐き出す息と共に投げ出された答は、雫を刹那疲れ果てた老
婆のように見せた。
だがそれも彼女が顔を上げたことにより掻き消える。初めて暗い
図書館で会った時と同じ、寄る辺ない瞳が彼を捉えた。
﹁エリク、怖い﹂
﹁うん﹂
伸ばされた両腕。
それに応えて男は立ち上がると、彼女を腕の中に抱き取る。震え
1172
る背中をそっと叩いた。
いつから彼女は怯えていたのだろう。
昼にはあるはずもない知識を不審に思い、夜は得体の知れない本
の支配下に置かれる。
そんな二重の生活を彼女はずっと続けてきていたのだ。記憶がな
い為、誰にも、自分にさえ気づかれることなく。
泣きじゃくる子供のように顔を押し付けてくる雫の髪を撫でると、
その耳元にエリクは囁く。
﹁この本、僕が預かってもいい?﹂
とりあえず今は、彼女と本を引き離した方がいい。これが何らか
の影響を雫に与えていることは間違いないのだから。
だがそれを聞いた雫はひどく不安そうな目になった。顔を上げる
と小さな両手を彼の頬に触れさせる。
﹁でも、エリクが⋮⋮﹂
﹁大丈夫。ちょっと目を通すだけだ。危ないと思ったら遠ざける。
それに、君はこれ以上この本を持っていない方がいい﹂
これ程至近でお互いを見つめたことは、おそらくなかっただろう。
エリクは女の瞳に何かを読み取ろうとして目を凝らした。
茶色がかった黒い瞳は、全てを溶かす坩堝のように揺らめいて彼
を見上げる。そこに流れるものは不安、喪失、恐怖、哀しみ、そん
なものに似た何かだ。
エリクは彼女の膝の上から本を抜き取ると、それを足元に置く。
雫の視線が本を追おうとするのを遮って、彼女を抱き上げ寝台に横
たえた。先程眠りの魔法をかけたのと同じように、今度は掌を両瞼
の上に置く。
﹁さぁ、ちゃんと眠るんだ。後は僕がやる﹂
﹁エリク⋮⋮﹂
再びの詠唱。だが先程よりもずっと強力な構成を組むと、エリク
1173
はそれを女の中に注いだ。雫の唇が何かを探して動く。
長くはない数秒の間。けれどそれは、追ってくる何かを振り切る
為の永遠に似た時間にも思えた。彼女の喉が動き、か細い声が洩れ
る。
きっと残るのは孤独なのだろう。
彼女が一人抱えていた真実の断片は、こうして彼の手へと渡って
いく。今まで幾人もの運命を渡り歩いていったように。
それがどういう結末をもたらすのか、今はまだ分からない。ただ
仮説を積み上げていくしかない。
緊張を手放し、すぐにまた深い眠りに落ちていった女をエリクは
﹁本は三冊ある﹂と言い残して
消せない苦さを以って見つめた。彼女の最後の言葉が耳の中でこだ
まする。
これで全てではない。
雫は意識を手放す寸前︱︱︱︱
いったのだから。
目を覚ました瞬間、驚いたということは今までも何度かあるが、
その日起きた雫はさすがに驚いた。寝惚けた頭を押さえながら、椅
子に座って本を読んでいる男に恐る恐る声をかける。
﹁エリク⋮⋮?﹂
﹁ああ。おはよう﹂
﹁あれ、あ⋮⋮って、まさか徹夜してくれたんですか!? すみま
せん!﹂
﹁別にいいよ。本読んでたし﹂
昨晩は訳の分からぬ事態を知って怖くなり、彼に助けを求めてし
まったが、まさか徹夜までさせてしまうとは思わなかった。雫は慌
てて飛び上がると頭を下げる。
1174
同室のメアは寝たのか寝ていなかったのか、エリクに朝食を出し
ているところだった。﹁マスターの分も持ってきますね﹂と言って
使い魔が部屋を出て行くと、雫は改めて男に向き直る。
﹁そ、それで、どうでした?﹂
﹁何もなかった。よく寝てたよ、君﹂
﹁あああああああ、すみません!﹂
一瞬で真っ赤になった顔を押さえて雫はしゃがみこんだ。何もな
かった挙句、一晩中寝ているところを見られていたなら非常に恥ず
かしい。空回りにも程があるだろう。思わず悶絶しながら床を転が
りたくなる。
﹁こ、この埋め合わせはいつか⋮⋮﹂
﹁別にいいよ。大したことじゃない﹂
お茶を飲みながら紺色の本を広げている男は、軽く朝食を取って
しまうと立ち上がった。
恥ずかしさで挙動不審になっている雫に歩み寄ると、苦笑してそ
の額を軽く叩く。
﹁じゃあこれ借りてく。何かあったらまた呼んで﹂
﹁あ、はい! ありがとうございます!﹂
疲労も不満もまったく窺わせず帰っていった男の姿勢のよい後姿
を、彼女は紅いままの頬を押さえて見送った。入れ違いにメアが帰
って来ると、しかし雫は怪訝そうに眉を寄せる。
﹁借りてくって⋮⋮あんな本、私持ってた?﹂
その答は既に雫の中に沈んでしまった。彼女は取り出せず、思い
出せない。
記憶が混濁しているとも取れる主人の問いにメアは哀しそうに微
笑すると、﹁さぁ、召し上がってください﹂と朝食を勧めたのだ。
1175
紺色の本の外側には、紙のカバーがつけられていた。
それはエリクが自分で適当な紙を切って作ったもので、皮の表紙
を黒い紙で綺麗に覆い隠している。
この世界には本に紙のカバーを別につけるという習慣はないが、
雫の世界の本を見て興味を持った彼は、以前から度々似たようなも
のを自作していたのだ。
誰かがいるかもしれない研究室には行かず、自室にて雫から引き
取ってきた本を読んでいるエリクは、紙に表を作って調べた箇所を
書き出していた。
とりあえずそれ以外の詳しい内容に
それは、この本に書かれている記述がそれぞれいつ何処の国での
ものなのかを纏めたもので、
ついては、彼はさらっと読み流す程度で留めている。エリクは章の
終わりで一息つくと疲れた目を閉じた。
﹁やっぱり一冊じゃないか⋮⋮﹂
書き出してみて分かったのは、この本の記述にはまるで虫食い穴
でもあるかのように触れらていない部分があるということだ。
特定の国や地域に触れていないのではなく、また特定の時代がま
るまる欠けているわけでもない。例えば﹁この時代のこの国﹂につ
いては書かれているのに、﹁同じ時代の別の国﹂については書かれ
ていない。またその﹁別の国の別の時代﹂の記述はあっても﹁この
国の別の時代﹂の記述はないといった風に、歴史書にはあるまじき
歯抜け状態で記載されているのだ。
そして、書かれていることの中では、事件や逸話は時代順に並べ
られている。
目次も索引もないがそのことは既に確認済みのことであった。
歯抜けの部分とはおそらく、別の本に書かれたものなのであろう。
エリクは書かれていない部分も同様に並べて規則性を見出そうと
したが、今のところは何も見えてこない。
ただ子供たちが皿に盛られた菓子を無作為に取り合ったように、
1176
全ての歴史がばらばらに分けられているだけだ。
しかしそれでも、明らかに気になる点が二つ見て取れた。
一つは、古い時代に関する記述の矛盾。
そこ
この本の中で一番古い記述は暗黒時代に入る百年ほど前、つまり
書物として残されているものの中では最古の部類に入るが、
から時代が下って、今から三百年ほど前までの長い期間には、何故
か同じ時代同じ国の記述が複数回書かれているのだ。
二度
それも記述ごとにその内容が違っており、一番初めに書かれてい
る記述では、次期王争いの結果、兄が順当に即位した話が、
エリ
目には弟が兄を陥れ自分が即位したことになっている。そうしてい
くつか書かれているもののうち一番最後に配された記述が、
クが﹁歴史﹂として知っているものとほぼ同じ内容であった。
このように矛盾ある重複の箇所が一つや二つではなく、本の前半
においてかなりの部分を占めている。頁数が振られていないため確
かめにくいが、見かけよりも多い頁があるのではないかと思われる
その本は、何も知らない人間が読めば歴史と仮想歴史を混ぜ合わせ
た意味の分からないものとなるだろう。だが彼はその不可解さに心
当たりがあった。
﹁これが消された試行か?﹂
何度も賽を投げ、結果を書きとめていったかのように、歴史は繰
り返され上書きされている。
その試行も三百年ほど前を最後に終わったのか、そこからの記述
は全て単一になっていたが、遠い過去のことだとしてもいい気分が
しないのは確かだ。
エリクはファルサスの記録庫にも残っていない、﹁存在しなかっ
たはず﹂の禁呪の構成図を眺めると忌々しさに息をついた。
そしてもう一つ気になる点。
1177
これは余程気をつけていなければ、試行の重複のおかしさの前に
見過ごしてしまっただろう。
だがエリクは表を作って記述の時代や場所を確かめていた為、そ
暗黒時代の初期、ある一時期を境に﹁書かれていない
れに気づいた。
︱︱︱︱
箇所﹂の量が減っているということに。
それまでの分量は、エリクが簡単に見積もったところによると、
おおよそ大陸全体の三分の一だ。これは雫の﹁本は三冊﹂という言
葉を信じるなら、記述が三つの本に均等に分けられた為と推察でき
る。
しかしそれが、ある時点から全体の約二分の一へと増えているの
だ。
何故こんなことになっているのか。エリクはこの時期に大陸で何
があったか記憶を探った。
後の魔法大国の成立、精霊術士の登場、大陸東部の混乱、武器の
発達、帆船の改良、街道の誕生、アイテア信仰の拡大、そして︱︱
︱︱
﹁⋮⋮そういうこと、か?﹂
エリクは辿りついた思考の更に先、それがもたらす推論に言葉を
失くす。
呆然にも似た空隙。真実というには信じ難い結論に指が震えた。
普通の人間なら打ちのめされたかもしれない虚の波。だが彼はそ
れを乗り越えると、片手で顔を押さえ湧き上がる感情を噛み潰す。
そしてその感情をも飲み込んだ時、エリクは意識を切り替えると
椅子を立っていた。本を棚に押し込むと持ち出されないよう結界を
張る。
そのまま男は机の上に広げていたメモをかき集めると、仮説を裏
付ける記録を探すため足早に部屋を出て行った。
1178
※ ※ ※
もともとは寝起きの悪い体質ではなかったのだが、最近は少し、
体の重さを感じるようになった。
雫は冷水で顔を洗うと、髪を梳かし始める。
エリクに相談をした日から、彼女が﹁夜更かし﹂することはなく
なったらしい。それには雫本人だけではなくメアも安堵したらしく、
毎朝﹁よくお眠りでしたね﹂と起こされることがここ数日の習慣に
なっていた。
仕事の予定を書いたメモを見ながら、雫は手早く着替えると出仕
の準備をする。
宮仕えの人間たちのうち、彼女やエリクのように城に住んでいる
者は全体の四分の一程だが、彼らの中にも遅刻をする者がいるのは、
疲労度や睡眠欲がもたらす結果なのかもしれない。
﹁よし、行ってきます! またお昼にね﹂
﹁行ってらっしゃいませ﹂
書類包みを小脇に抱えて雫は廊下を歩き出す。
本当は動きやすさの点で膝丈の服を着たいのだが、キスクにいた
時に固い格好に慣れてしまったせいか、彼女は今でも踝までの長い
スカートを履いていた。よく晴れた空を窓越しに見上げ、欠伸を噛
み殺す。
ファルサスに戻って来てからもうすぐ一月、雫は既に数種類のカ
ードセットをはじめ、絵本など複数の教材を作成している。
その大半はキスクでの成果を移行させたものだが、カード教材な
どは当初のターゲット層である幼児だけではなく、少し年上の子供
1179
たちへと
、複合単語を教える為の教材にも転用を考えられ始めて
いた。他にも音声を吹き込んだり聞いたりするような道具は出来な
いのか尋ねたところ、魔法具ならば可能であるとのことで、その種
の教材も考えている。エリクの契約期間が切れるまではあと一月な
のだから、それまでに思いつくことは全てやってしまうつもりだっ
た。
雫は未だ残る眠気に深呼吸を繰り返す。両腕を上げて伸びをして
みた時、廊下の向こうに見覚えのある人物が現れた。彼女は雫に気
づくと笑顔で手を振ってくる。
﹁おはようございます﹂
﹁ユーラ! 久しぶりです﹂
つい一月前までキスクで女官をしていた女は、今は本来の役職ど
おり武官の服装を身につけていた。細身の剣を帯びた姿を雫はまじ
まじと眺める。
﹁に、似合いますね。っていうか本当はこっちが本業なんですよね﹂
﹁そうですね。女官仕事も悪くはありませんでしたが、私としては
やはり気に入らない人間に力を行使する方が楽しいです﹂
﹁⋮⋮そ、そうですか﹂
本当はこういう性格だったのか、と雫は内心頭を抱えたが、ユー
ラは満面の笑顔を浮かべている。
﹁まぁ相手は人とは限りませんが。鍛錬するに越したことはないで
すね。私はまだまだ若輩ですから﹂
﹁人じゃないって⋮⋮ドラゴンとかですか?﹂
﹁雫さんの発想は怖いですね。ドラゴンとか無理ですよ。殺されま
す。大体探すの大変ですし﹂
﹁あ、探すの大変なんですか﹂
﹁昔は結構いたらしいんですけどね。最近は滅多に人の目につくと
ころには現れませんよ。高山とかに住んでるみたいです﹂
﹁へぇぇ。残念。ファルサスなら一匹くらいいるかと思ったんです
1180
けど﹂
雫の感想にユーラは苦笑したが、遠くから聞こえてくる鐘の音に
気づくと飛び上がった。﹁もう行きますね。ではまた﹂と会釈して
走り去る。
朝から珍しい人間に会うものだ、と思った雫はしかし、出仕した
先の研究室で更にいつもとは違う事態に出くわして目を丸くするこ
とになったのだ。
普段は文官たちの他に約束でもなければ誰も訪れない研究室。
けれどそこには、この日一人の女が早朝からやって来ていた。彼
女は雫を見ると微笑んで立ち上がる。
﹁突然お邪魔してごめんなさいね﹂
﹁レラさん⋮⋮どうしたんですか? 何か絵本に不備でもありまし
た?﹂
別の研究室にて流行り病の原因究明に携わっている彼女が、雫の
研究室に現れたのは初めてのことである。何か問題があったのかと
緊張する雫に、レラは慌てて首を横に振った。
﹁違うの。今日は嬉しいことというか⋮⋮つまりね、病の治療法ら
しきものが見つかりそうなの﹂
﹁え! 本当ですか!?﹂
ということはつまり原因が特定されたのだろうか。
詳しいことを聞きたがる雫に、レラは困ったような笑顔で説明を
してくれた。
原因の詳しいところはまだ分かっていない。
ただ、エリクが魂と言語が無関係なのではないかという趣旨の論
文を出してから、別の方向性での実験も試みられ始めたのだという。
その中の一つに、何らかの感染が原因なら既に生得言語を半数以
上習得した十歳前後の子供を集め、幼児たちと接触させてはどうか
という実験があった。
1181
発症が確認
そして実際、この実験を繰り返すうちに、子供たちの中にはある
変化が見られるようになったのだ。すなわち︱︱︱︱
されていた幼児たちに、生得単語が戻り始めたという変化が。
﹁え、それって年長の子との会話で単語を覚えたからじゃなくて、
ですか?﹂
﹁勿論そういう例もあると思うわ。でも、特定の単語を使わないよ
う年長の子たちを指導したり、或いはまったく言葉を発しないで同
じ部屋にいさせるだけっていうのも試したの。そして、そのどちら
の実験でも単語の復活が見られたわ。今は実験時に部屋に張ってい
た魔力場が関係あるのか、更に実験を詰めてるところ。でもこれだ
けでも充分進歩でしょう? 今までまったく手がかりが得られなか
ったのだから﹂
﹁それは⋮⋮おめでとうございます﹂
雫はレラが嬉しそうなのでまず祝いの言葉をかけたが、それだけ
ではなくどのような実験を行ってどのような結果が出たのか、詳細
を知りたくて仕方なかった。
何故生得単語が失われていたのか、どうやってそれが戻ってきた
のか。それは、異世界人にもかかわらず言語が通じる彼女自身にと
っても、無関係なことには思えなかったのだ。
レラは雫が実験記録に興味を持っていると察すると、後で研究室
に結果を纏めたものを届けると約束してくれた。その上で、こちら
が本来の用件であっただろうことを口にする。
﹁よかったらあなたからエリクさんにもお礼を伝えて欲しいの。本
当は直接言おうと思ってさっきも伺ったんだけど、最近あの人はあ
まり研究室に顔を出されていないみたいで﹂
﹁エリクが?﹂
彼とはあれ以来一度も会っていないわけではないが、研究室に出
てきていないとは知らなかった。何かあったのだろうか。雫は不思
1182
議に思いながらも頷く。
レラが帰っていった後、雫は机に積まれた本を振り返って顔を顰
めた。
何だか一瞬、思い出せないことが浮かび上がってきたような、形
にならない不安がよぎったような、そんな気がしたのだ。
だがそれも指の中をすり抜ける砂のように、あっという間に雫の
中に埋もれていく。
思い出せたのは砂漠の風景。
この世界に初めて来た時に見上げた空を思い出し、雫は強い熱気
に浮かされたかのように濁る頭を大きく振ったのだった。
1183
堆し塵
初めは強い好奇心が切っ掛けだった。
異世界から来たという話も非常に気になったが、それだけでなく
彼女が書いていた文字の多様さに惹かれた。どういう構造で文が出
来上がっているのか。単語の作りはどうなのか。そして文字自体に
意味はあるのか、整理し研究してみたいと思った。
だが今まで単なる取引を越えて彼女自身をも助けてきたのは、訳
の分からない状況に放り出されながらも、前を向き強く在ろうとす
るその姿勢を買ったからだ。泣いて蹲るわけでも諦めて捨ててしま
うわけでもない。ただ少しずつでも進んでいこうとする毅然。
人の善性を、精神の貴さを信じ、自らも誠実であろうとする彼女
の意志が好ましかった。
長らく会っていない妹がいたらこんな感じだろうかと思ったこと
もある。失われた少女が生きていたならこんな日々があったかもし
れないとも。
しかし、彼女は彼女だった。他の誰でもない彼女自身になった。
飲み込みのよさ。学ぶことへの真摯。他人を思う心。変わらない
温かさ。そして何よりも、可能性を諦めない、負けることをよしと
しない人間に彼女はなったのだ。
無力でありながら屈することを拒み、尊厳の為なら命を惜しまな
い彼女は、やはり頑固で、愚かだと思う。﹁夢中になると他のこと
が見えなくなる﹂といつか注意したが、本当はそうではないのだ。
彼女は全て見えていて、それでも、譲れない一つを選ぶ。
自分の体よりも、命よりも、意志を重んじて火中に手を伸ばす。
1184
その頑なさはきっと彼女を傷つけるものでもあるだろう。
世界も人も、それ程には優しくない。彼女には応えない。
だからせめて、自分だけは応えようと思った。
彼女の不安も努力もよく知っているから。それごと保ってやりた
かった。
は
共にいる時間は面白かったから、それは自分の為でもあったのだ
ろう。
けれど、そう思って彼女の手を取ってきたこの旅は︱︱︱︱
たして最後まで彼女を裏切らないものでいられるのだろうか。
※ ※ ※
﹁カカオがあるんですか!?﹂
﹁あるわよ。あの苦い豆でしょう? 粉を水に溶いて飲むっていう。
南部には少しだけあるけど、薬用よ?﹂
﹁チョ、チョコレート食べたい﹂
﹁何それ﹂
報告を終えてからの雑談に、レウティシアは怪訝そうな顔になる。
何故このような話になったかというと、この日たまたま果物の盛
られた皿がレウティシアの机にあったからだ。二人はそれを分けな
がら、何となくどういう動植物が二世界で共通なのか、試しに挙げ
始めた。そしてその中で﹁カカオ﹂の話になったのである。
﹁チョコレートって何?﹂といった表情の上司とは反対に、雫はず
っと食べたかった菓子が手に入るかもしれないという可能性にこの
1185
上なく真剣になった。だが彼女は製菓用のチョコレートを元にした
ケーキの作り方などは知っていても、チョコレート自体がどうやっ
て作られるのか知らない。﹁七十パーセントカカオだと苦いんだか
ら⋮⋮﹂とぶつぶつ呟き始めた部下を王妹は不可解の目で見やった。
﹁レウティシア様、それ、私の世界だとすんごーく美味しいお菓子
の材料なんですよ!﹂
﹁そ、そうなの?﹂
﹁だから試しに砂糖とか牛乳とかもりもり入れてみませんか!﹂
何故か仕事の報告をしている時より余程熱がこもっている。
レウティシアは結局、その迫力に押されて﹁取り寄せてみるわ⋮
⋮﹂と頷く羽目になった。ぱっと嬉しそうになった雫は、しかしす
ぐさま部下としての礼節を取り戻して一礼する。
﹁それでは次の草稿を作ってまいりますね﹂
﹁え、ええ。お願い。⋮⋮貴女の描く絵本って面白いのよね。動物
が喋ったりして。子供たちの評判もいいらしいし﹂
﹁こちらの世界では動物の擬人化ってほとんどされないようですね。
ああ、そう言え
仕事を頂いてから絵本にかなり目を通しましたけど﹂
﹁元々話せる人外が多いからかしらね。︱︱︱︱
ば、少しエリクを借りるけどいい?﹂
﹁エリクを? はい。何故私に﹂
彼の上司はレウティシアであって雫ではない。
なのに何故自分に断ってくるのか、彼女はきょとんとしながらも
頷いた。その様子に王妹は心なしか肩を落とす。
﹁貴女たちって本当に⋮⋮いえ、何でもないわ。明後日からしばら
く城都を空けるから、何かあったら今のうちにね﹂
﹁何処に行かれるんですか?﹂
﹁北部に。魔物の出現が止まないから、とりあえず全ての町や村に
結界を張ることになったのよ。一週間くらいかかりそうな上、とり
あえずの処置なのだけれど。やらないよりはましだわ﹂
1186
﹁そうですね⋮⋮﹂
魔物というものがどのようなものだかは、まだよく分からないが、
そのような仕事に向うと知って雫は少しエリクが心配になった。そ
う言えばレラからのお礼もまだ伝えていないことであるし、出発前
に一度会いに行こうと頭の中にメモする。
﹁折角北部に行くのだから、余裕があったら紅い本を持った女につ
いても少し調べてくるわ。⋮⋮ああ。私がいない間に兄に何かされ
たらトゥルースに言いつけておいて。私に連絡するように言ってお
くから﹂
業務連絡なのか違うのか意味の分からない補足。
しかし言う方も聞く方も真面目な顔でなされた注意を最後として、
その日レウティシアへの面会は終わったのだった。
雫はレウティシアの執務室を辞したその足でエリクの所属する研
究室を訪ねたのだが、そこに彼はいなかった。彼女はレラに聞いた
ことを思い出し、行く先を彼の自室へと変える。
部屋の扉を叩いてしばらく待つと、返事と共に中から鍵が開けら
れた。彼がちゃんといたことに雫は自分でもおかしなほど安堵を覚
えて扉を開ける。
﹁エリク、今いいですか?﹂
﹁やあ。どうしたの?﹂
﹁もうすぐ出張するって聞いたんで。ご挨拶に﹂
男の様子は普段と変わりがなかったが、代わりにいつもそれなり
に片付いている机の上は、ぎょっとするほど何十冊もの本やメモで
溢れかえっていた。
エリクはそれを積み重ねて整理し始める。こういったものは他人
の手が入らぬ方がいいだろうと思い、雫は一歩離れた場所で彼の作
業を見ていた。
﹁北部に行くって聞きましたけど﹂
1187
﹁うん。西部からファルサスに入国した時に通った国境門覚えてる
? あれの更に北の地方﹂
﹁めちゃめちゃ遠いじゃないですか。寒いんですか?﹂
﹁そうだね。ファルサスにしては大分標高が高い土地だし。そろそ
ろ寒いかも﹂
エリクのことを何処行っても平気な顔をしていると言ったのは確
かハーヴであったが、それは真実であるように思える。彼ならきっ
と寒い地方へ行こうとも普段と変わりなく仕事をこなしてくるだけ
だろう。その点は雫もさして心配していなかった。
﹁魔物が出るって大丈夫ですか?﹂
﹁うん。多分。王妹もいるし護衛もつくから﹂
抑揚の薄い返事には緊張も怖れも感じ取れない。雫はそのことに
気を緩めるとレラに言付かった実験結果とお礼を伝える。
エリクは少し目を瞠って聞いていたが、彼女の話が終わると﹁年
長者と幼児の間で会話があったかどうか﹂など雫と似たようなこと
を確認してきた。何だか可笑しくなりながらも彼女はレラから聞い
た同じことを返す。だが彼は何かを考え込んでいるように﹁ふぅん﹂
と相槌を打っただけだった。
エリクは自分が積み重ねたメモを一瞥すると、雫に視線を戻す。
﹁ああ、一応言っとくけど僕がいない間はこの部屋のものには触ら
ないで﹂
﹁了解しました。っていっても多分入らないですよ。部屋の人が不
在の間に立ち入るってよっぽどじゃないですか﹂
﹁うん。でも念の為。色々危ないものもあるからね﹂
危ないものとは魔法具だろうか。雫は部屋の中を見回したが特に
そういったものは見当たらない。だが彼の要求は常識の範囲内のこ
とだったので、彼女はそれ以上拘泥しなかった。﹁火事の時は持ち
出すかもしれません﹂と冗談めかして笑う。
思考が緩やかな軌跡を描く間。
1188
エリクは軽く目を伏せて僅かにいつもと同じ微苦笑を見せた。よ
く響く声が微かに憂愁を帯びる。
﹁君はさ﹂
﹁はい﹂
﹁もしこれから先、紅い本が見つかって、それがちゃんと外部者の
呪具で、でもそれを調べても帰る手がかりが得られなかったら。⋮
そして今更の問い。
⋮そうしたらどうする?﹂
突然の︱︱︱︱
それは雫を少しばかり驚かせた。何故今彼はそんなことを聞くの
かと、それだけの理由で。
だが、驚きはしたものの答はもうとっくに出ているのだ。
彼女は吸いかけた息を飲み込む。眠るように目を閉じると微笑ん
だ。
﹁そうですね⋮⋮。いつかはふんぎりをつけようと思ってますよ。
本当にどうしても駄目だと思ったら﹂
﹁この世界で生きていく?﹂
﹃大陸で生きていく﹄
それはまだ、はっきりとは頷けない未来だ。
分かっていても踏み越えられない川の向こう。
けれど雫は、いつからかその川が徐々に狭まってきていることに
気づいていた。
遠かったはずの世界に少しずつ馴染んでいく。今の﹁自分﹂が、
この旅の中で作られていったように。
﹁分かりません﹂
彼を見ぬまま首を振った女に、エリクは声に出しては何も言わな
かった。
1189
心地良いだけではない沈黙。沈痛を薄めて溶かしたかのような空
口に出してしまえばすっきりするのかもしれない。
気に雫は喉の熱さを覚える。
︱︱︱︱
まだ形になっていないようなものなどは、きっと特に。
だがそれをしては、形にした瞬間、別のものになってしまう。よ
く似ていても、連続していても違うものに。
そしてもう戻れない。取り戻すことは出来ない。
そのことが分かるからこそ、雫は何も言わなかった。
どれだけの時間が経ったのであろう。
気がついた時、エリクは雫の目の前に立っていた。手を伸ばし彼
女の額を軽く叩く。
見慣れた藍色の瞳。深く広がっていそうなその奥に雫の視線は吸
い寄せられた。
﹁まぁそうすぐに諦めることもないよ。大陸は広い。次は別の国に
でも行こう﹂
﹁それはありがたいですが⋮⋮何かそのうちガイドブック書けそう
ですね﹂
﹁何それ?﹂
共にいる時間は楽しい。
だからこのままこの時が続いてもいいな、と雫は思う。学びなが
ら国を渡り、それを本に書き出してまた次へと向うような旅も、彼
女が選び取れる可能性の一つだろう。
雫はキスクにいた時から日記としてつけ始め、更に過去へと遡っ
て書き出している自分の記録を思い出す。
新品の一冊を用意する前に旅は終わってし
一年分を記したら、新しいノートに変えようと思っていたその記
録。
けれど結局︱︱︱︱
まったのだ。
1190
それをやがて、彼女は知ることになる。
※ ※ ※
はじめに犠牲者が発見された場所は、ファルサス北端の小さな村
であった。五十年程前に近くの街から百三十人程が移民し、山での
猟の為に作った村。
暖かい季節が終わり雪がちらつき始める頃には元の街に戻る人間
も多いこの小さな村で、ある日一人の女が不可思議な状態となって
発見された。二人の子を持ち若い母親であった女は、村はずれの森
の傍、腰までが凍りついた状態で倒れているところを見つかったの
だ。
発見された時、彼女の上半身はまだ温もりがあり心臓も動いてい
た。
けれど女は、凍りついた足の治療を施されながらも村人たちの呼
びかけに一度も目を覚ますことなく、三日後そのまま息を引き取っ
たのである。
小さな村を震撼させた女の異常な死は、しかしその後まもなく人
の口の端に掛からなくなる。断続的な魔族の襲来が始まり、人々が
それどころではなくなったのだ。
村人たちは全員が元の街へと避難し、しかしそこにも魔族はやっ
て来た。そうして続く襲撃が人々の心に圧し掛かり始めた頃、女の
死は他の数多の死の中に埋もれ、見えなくなってしまったのである。
﹁ファルサスの北西部は広大だけど領土としては歴史が浅いからね。
1191
気侯も違うし、ある街は新しいものばかりだ。と言っても一番古い
町は二百年以上経っているけど﹂
﹁二百年経ってたらもう新しくないと思いますよ⋮⋮﹂
雫の相槌にハーヴは笑いだす。
暗黒時代の初期に起源を持つという魔法大国からすると、二百年
も充分新しい部類に入ってしまうらしい。彼女は手元の線画に色を
つけながら、隣に置かれた地図を一瞥した。
レウティシアがエリクを連れて城を発ったのは昨日のことである。
城に残った雫は普段通りの仕事をしながら、遊びに来たハーヴに
彼らが向かった北の街について話を聞いていた。
エリクの友人である彼は、友人が不在の間に彼女のことを気にか
けてくれるつもりらしい。雫は歴史を専門とする魔法士から、かつ
ては禁呪に閉ざされた土地であった北西部について簡単にその成り
立ちを教えてもらったのだ。
﹁じゃあファルサス北西部の更に北って、国がないんですか?﹂
﹁ないない。あの辺は高山ばっかりで住みにくいし、場所によって
は魔の瘴気が濃いんだ。昔はそれでも強力な結界でその魔を避けて
国があったんだけどね。今は多分無人だろうな﹂
何だか途方もない話だ。雫は筆を置くと首を傾げた。
﹁魔ってよく分からないんですけど。何なんですかそれ﹂
﹁うーん。一般的に﹃魔﹄って言われるものは大きく分けて二つあ
る。一つはこの世界が在る階層より下層⋮⋮負の海に近い階層から
の干渉で、瘴気が負を孕んで形になったり、動物に取り付いて異形
になったりしたもの。よく言われる魔物はこっちの方かな。下位魔
族とも言われてるけど﹂
﹁あー。何となく分かります﹂
雫はカンデラ城で遭遇した大蛇を思い出して頷く。あれは確かに
魔物と言っていいものだったのだ。出来れば二度と遭遇したくない。
﹁もう一つはここより上層で、魔法構成が組まれる階層よりもう一
1192
つ上の階層に住まう存在。これは上位魔族だね。彼らは滅多なこと
では人間界に現出しないし、干渉もしてこない﹂
﹁ああ、昔は神様として崇められてたりしていたってやつですか﹂
﹁そう。レウティシア様の精霊、シルファもそうだよ。上位魔族は
その中でも位階があるらしいけど、そこまで俺は知らないな﹂
ハーヴは机の上に転がっていた積み木を慎重に重ね始めた。次第
に高くなっていくそれを見ながら雫は嘆息する。
﹁何だか同じ魔物って言っても全然違うんですね。出所自体が違う
じゃないですか﹂
﹁そうだなぁ。基本的にはこの世界以外の階層に由来するものをひ
っくるめて﹃魔族﹄って言っちゃったりするから。中には妖精や魔
法生物の類を魔物って言う人もいるし、割と大雑把だよね﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
普通の人々にとって﹁何だかよく分からない化け物﹂はみな﹁魔
物﹂なのだろう。
だが世界構造的に整理してみればそこにはかなりの差異がある。
世界の上層にいるものと下層から来るものではまさに天地の違いだ。
雫は机の上で座り込んでいる緑の小鳥に視線を送る。
﹁じゃあ中位魔族はこの世界に由来するんでしょうか。上と下の間
だから⋮⋮﹂
﹁ああ。気持ちは分かるけど違う。中位魔族ってのは一番雑多なん
だよ。下位魔族の中で力がついたり知能がついたりして抜きん出た
ものも中位と呼ぶし、逆に上位魔族に生み出されたものも中位って
呼んだりする。この辺は何処に由来するかっていうより力量順だよ
ね。雫さんの使い魔なんかは上位魔族に生み出された中位だろう?
すごく珍しいよ﹂
﹁はー。色々あるんですね﹂
何だか現実味のない話だ。そう言えば雫はまだ一度もレウティシ
アの﹁精霊﹂とやらに会ったことはない。上位魔族は全て人間とよ
1193
く似た姿を持っているらしいのだが、実際どんな姿なのかちょっと
だけ好奇心が沸いた。
ハーヴに聞いてみようと口を開きかけた時、しかし研究室の扉を
激しく叩かれる。
﹁すみません! 緊急の怪我人です! 魔法士がいましたら協力を
要請します!﹂
﹁怪我人?﹂
不穏な言葉に二人は顔を見合わせる。だが、かけられた声の様子
から言って迷っている時間はないだろう。ハーヴは素早く立ち上が
ると部屋を駆け出した。雫もつられて後を追っていく。
ハーヴについて治療室に入った雫は、寝台に横たえられた女の姿
を見て絶句した。
運び込まれていたのはまだ若い女性である。おそらく雫とそう変
わらないであろう年の彼女は、だが既に血の気のない顔色をしてい
た。肉付きのよい体。街娘らしい平服を着た全身には、見たところ
出血などの外傷は何もない。
彼女の腰から下にはびっしりと霜
しかし、その代わり別のものがあったのだ。
一体何があったのか︱︱︱︱
が絡みついている。
まるで下半身だけ冷凍庫にでも放り込まれたかのような様は上半
身と同じ人間のものとは思えなかった。
魔法士が二人、その足に触れて詠唱をしていたが、少しずつ霜が
溶かされていくも彼女の顔色はほとんど変わりがない。緊迫に包ま
れた処置に雫は息を飲んだ。
﹁何ですか、これ⋮⋮﹂
﹁お! 女の子か。ちょうどいい。そこにお湯あるから布絞って足
さすって!﹂
部屋には他に女性はいない。雫は急いで円器に駆け寄ると、言わ
1194
れた通り布をお湯に浸して溶かされた部分の足をさすり始める。
お湯は熱かったし、女の足は氷そのもののように冷たかったが、
そんなことを気にしていられる場合ではない。彼女は必死になって
女の肌に体温を取り戻そうと力を込めた。額に汗が浮かび出す。
けれど、こすってもこすっても白い肌に温かさは戻らない。霜は
消えても芯から冷えた体はまったく変わらないのだ。布を絞る手に
焦りが震えを生み出す。その時、雫の耳に、ハーヴの﹁あ⋮⋮﹂と
いう声が聞こえた。
彼女を含め全員の視線が、女に魔力を注いでいた魔法士に集中す
る。
﹁駄目だ⋮⋮魂が抜かれている﹂
死亡宣告に似た言葉。
その指摘は一瞬で部屋そのものを凍りつかせると、彼らの行為を
まるで小さな水泡のようにゆっくりと押し流していったのである。
※ ※ ※
レウティシアが北部に連れて行ったのはエリクだけではない。他
にも二十人近い宮廷魔法士を伴っている。その為現在一時的に城に
は魔法士が少ないのだが、仮に王妹が残っていたとしても、これは
どうにも出来ないことであっただろう。
魂を奪われた生き物はそれを取り戻せねば、やがて体も死んでし
まう。そして女の魂を誰が持ち去ったのか分からぬ以上、実際どう
にも対処できない問題なのだ。
﹁で、一通りの報告は受けたが⋮⋮誰がやったと思う?﹂
中庭の芝生に逆立ちしながらのラルスの問いに、ハーヴは複雑な
1195
表情を見せた。
横で弁当を広げている雫からすると、聞かれた内容が難しいのか
王の行動に困惑しているのか判断がつけにくいが、おそらく前者で
あろう。
被害者の治療と調査に関わった魔法士は眉を寄せる。
﹁正直言って、限定しにくい状況です。人間の魔法士ですと生きた
人間から魂を抜くのは困難ですから﹂
﹁何で? すーっと抜けないのか?﹂
﹁簡単に抜けたら困ります。術もないわけではないですが当然禁呪
ですし、相手が暴れたりしたら上手く行かないのだそうです。かと
いって相手の意識がなかったり混濁していると、この術はかからな
いそうですし⋮⋮はっきりいって殺してから魂を取る方が楽です﹂
出張中のエリクと魔法で連絡を取って﹁魂を抜く禁呪﹂について
聞いたハーヴは、手間がかかりすぎて難しい、ということを王に説
明した。
ラルスはようやく逆立ちをやめると、雫の弁当箱から豚肉の野菜
巻きをつまみ出す。
﹁なら魔族か? 前例があるだろう﹂
﹁前例がある被害者は男だけです。夢魔や水妖が魂を抜いたという
やつでして⋮⋮。ただそれも極稀な事態ですし、女を標的とする魔
族は血肉ごと食らうのですよ。女の方が魔法的に安定していて魂を
抜きにくいですから﹂
﹁実は被害者は男だった﹂
﹁女性でした﹂
問題の女性は、城都の西門近くの路地裏で倒れていたところを城
に運び込まれた。
見つかった時には既に周囲には怪しい人影もなく、争った形跡も
なかったが、被害者の足は氷漬けで路上に固定されていたという。
1196
ラルスにおかずをひょいひょいと奪われていた雫は、最初こそ弁
当箱を遠ざけようと抵抗していたが、腕の長さの差に諦めて箱ごと
王に差し出す。
食事を中断した代わりに彼女は会話に加わった。
﹁足を氷漬けにして拘束してから魂を抜いたんじゃないですか?﹂
﹁とも思ったけど、あの氷で人を拘束するって結構時間かかるんだ。
普通ならその間に逃げられちゃうんじゃないかな﹂
﹁うーん。なんか釈然としませんね。そもそも魂を抜いてどうする
んでしょう﹂
根本とも言える疑問にハーヴは思案顔になる。一方雫の遅い昼食
を取り上げた男は平然と答えた。
﹁人が犯人なら禁呪だろ。殺した後の魂より、生きたままの方が得
られる力も強いらしいからな。もしくは趣味﹂
﹁うわぁ。どっちも嫌だ⋮⋮。ところで王様、お弁当欲しいなら別
に作るんで、人の取らないでください﹂
﹁お前に俺の食べるものを作らせると人参を混入させる﹂
﹁当然ですよ。好き嫌いしないでください、二十七歳﹂
﹁お前の作るものは味が面白い﹂
﹁嬉しくないなぁ!﹂
すっかり脱線してしまった話に、ハーヴは二人に分からないよう
溜息をつく。
原因不明の事件にもかかわらず彼らが動揺していないように見え
るのは、性格が図太いせいか、もしくは一週間もすれば王妹やエリ
クが帰って来るからかのどちらかだろう。
だが、ラルスも雫もさすがに翌日にはこの事態に苦い顔をしなけ
ればならなくなったのだ。
この日から翌日の昼にかけて、城都には続けて十人程の犠牲者が
同様に出てしまったのだから。
運び込まれた犠牲者は最初の一人と合わせて十一人になった。
1197
年齢も容姿もばらばらの、ただ﹁女性である﹂というだけの十一
人。
彼女たちの体は救命処置を施されて城で保護されているが、三日
以内に魂が取り戻せねばどのみち体も死んでしまう。
事件を受けて広い城都には、魔法士と兵士を四人組にした捜索隊
が十数組出されたが、犯人も、奪われた魂の行方も掴めていなかっ
た。
騒々しく落ち着かない空気が漂う城内で、雫は手がつかない気分
ながらも仕事を進める。
このような事件において自分の出来ることはない。そう思ってい
ながらも胸の悪さがやることなすこと全てに影響して仕方なかった。
筆先から滴を紙の隅に落としてしまった彼女は、盛大な溜息をつい
て筆を置く。
雫は机の上で砂糖菓子を啄ばんでいる小鳥に指を伸ばした。
﹁メア。メアだったら、人の魂を抜くって出来る?﹂
﹁出来ません。私は、魔力については多く与えられておりますが、
人の魔法士が組むような複雑な構成は知らないのです﹂
上位魔族によって魔法装置の一部として作られた小鳥は、攻撃や
防御など単純な魔法には強いが、治癒をはじめ微調整の要る手の込
んだ構成は苦手なのだ。
雫は﹁そっかぁ﹂と相槌を打つと、しばらくして﹁じゃあ魔族に
は無理だと思う?﹂と聞いてみる。
﹁分かりません。魂を抜くことを得手にしている魔族もおりますが、
彼女たちはまず女性を狙うことはしないでしょう。女性の魂は抜き
にくくて時間がかかるでしょうし、人が組む構成の方がまだ可能性
が高いと思います﹂
﹁うーん。やっぱ人間か﹂
彼女にとっては何だか分からない﹁魔族﹂の仕業より、人の悪意
の方が余程身近だ。そして﹁人が行っている禁呪﹂の可能性がある
1198
からこそ城はこんなにもざわついているのだろう。
魔法大国として名高いファルサスは、禁呪の使用を許さないとい
う点でも諸国に恐れられている。そのファルサスの城都で起きた禁
呪絡みと思しき連続事件は、国への挑戦と言っても過言ではないの
だ。
これ以上被害者が出る前に事件を解決しなければ城の威信に関わ
る。雫は奔走する魔法士たちの緊張を思って眉を曇らせた。
﹁レウティシア様が帰って来るまでまだあと五日もあるよ﹂
北部に向った王妹たちも結界を張るだけではなく、魔族との小競
り合いや住人への対応で休む暇もないらしい。一気にきな臭さが拭
えなくなった国内に、彼女はキスクの方は大丈夫なのだろうかと心
配になった。
上の空の主人に小鳥が苦言を呈す。
それが雫のこの世界での生き方だ。
﹁とりあえずマスターはお仕事をなさってらしてください﹂
﹁う。正論﹂
出来ることをやる︱︱︱︱
彼女は言われた通り一度置いた筆を取り直すと、再び慎重に彩色
を始めたのだった。
昼食を珍しく城外で食べることになったのは、遊びに来たハーヴ
が﹁実家に荷物を取りに戻るけど、一緒に行って昼食べない?﹂と
誘ってきたからだ。
宿屋を経営しているハーヴの実家には雫も泊まったことがあるの
だが、確かに料理は非常に美味しかった。﹁気になるなら作り方も
教えてくれると思う﹂というハーヴの言葉に喜んで、彼女は同行す
ることにしたのである。
﹁いつもは自分で作るか食堂に行くかしてるんですけど⋮⋮最近自
分で作ると王様に取られたりしますからね﹂
﹁あの方は雫さんが嫌がるのを楽しんでらっしゃるんだよ。適当に
流しておけばいいと思うよ﹂
1199
﹁その適当が難しい⋮⋮﹂
城都はいつもより人通りが少ない。事件の噂が広まった為だろう。
見かけるのは旅人や商人たちがほとんどで、その中でも若い女性は
少なかった。
雫は下ろした髪に指を通らせる。時折強い風が吹いてきており、
絡まってしまいそうな気がしたのだ。メモを取る為のノートだけを
抱えた彼女に、同伴する魔法士はふと緑の小鳥を思い出す。
﹁そう言えば、使い魔は一緒に来なかったの?﹂
﹁部屋の大掃除をするって言ってました。もともとメアは本当は普
通の食事が要らないらしいんで﹂
﹁ああ。あの魔族なら食事は意味がないだろうな。自然の魔力を集
めてるんだろう?﹂
﹁太陽発電みたいですね﹂
今日は薄曇りの日であり、暗くはないが太陽は見えない。雫はま
た埃を巻き上げ吹いてきた風に両目を瞑った。見知った宿屋が見え
てくると、ハーヴが首を傾げる。
﹁あれ。閉まってるな﹂
﹁ありゃ。どうしたんでしょう﹂
﹁早かったのかも。裏から開けてくるからここで待ってて﹂
男は裏口の鍵を持っているらしく、建物脇の細い道を曲がって見
えなくなった。
一人になった雫は閉まったままの扉の前で空を見上げる。
こうしていると街はいつも通りに見えるのだが、女性たちの魂を
攫った犯人は未だ何処かに潜伏しているのだろうか。
雫は中からカーテンが引かれたままの扉を振り返った。と、その
時、何処からか微かに悲鳴が聞こえた気がして彼女は動きを止める。
﹁え?﹂
辺りを見回すがそれらしい人影はない。彼女は閉まったままの扉
を軽く叩いたが、応答がないと分かると困惑を見せた。
1200
ハーヴの名を呼びかけた時、先程よりもはっきりと女の子の悲鳴
が聞こえてくる。
束の間の逡巡。
しかし、迷っている時間はないだろう。
雫はその場にノートを置くと声のした方に向って駆け出した。角
を曲がり、細い路地に入り込む。
細かく枝分かれした道を走っていくと、まるで気圧が変わったか
のような違和感が耳の中を撫でていった。
雫は顔を顰めながらも近くなる悲鳴の主を探して手当たり次第角
を覗き込む。
﹁たすけて⋮⋮!﹂
舌足らずな泣き声。
もしそれが、もっと大人のものであったなら。もしくは犯人がそ
こにいたなら、彼女はもっと用心したかもしれない。
けれどようやく見つけた行き止まりで泣いていたのは、まだ五歳
前後に見える女の子だった。長い金髪に華奢な体。赤い靴を履いた
小さな足が路上に氷漬けで固定されているのを見て、雫は顔色を変
える。
恐怖に顔を引き攣らせた子供は彼女を見つけると涙を流さずに泣
き叫んだ。
﹁いたい! いたいよ!﹂
﹁ちょっ⋮⋮子供!?﹂
雫は駆け寄って霜が覆う足元を覗き込む。試しにふくらはぎに触
れてみると最初の被害者と同じく氷のように冷たかった。
彼女は一旦女の子を見上げると、あえて安心させるよう笑顔を作
る。
﹁待ってて。助けてあげるから﹂
雫は両手を子供の足にかけ靴を脱がそうとしたが、凍りついた足
はびくともしない。
ただ路上に彼女を繋ぎとめている部分自体はそれ程強固なわけで
1201
はないらしく、少し溶かせば靴を石畳から引き剥がせそうであった。
今この場に子供を置いて助けを呼びに行っては、間に合わないか
もしれない。雫は指に息をかけると手の体温で氷を溶かそうとする。
凍りついた部分は、余りの冷たさに触れているだけで気が遠くな
ったが、その度に手を温め直して氷を擦った。寒いのか体を震わせ
た子供が彼女の様子を見つめる。
﹁お、おねえちゃん﹂
﹁大丈夫﹂
石畳そのものが冷え切っているのか、膝をついた雫自身も徐々に
体が冷えていくようだ。爪先から感覚がなくなる。
だがそんなことに弱音を吐いている場合ではない。彼女は少しず
つ動き始めてきた子供の足に希望を抱いた。
今までの犠牲者の年齢は、下は十二歳から上は五十四歳まで、ま
ったくばらばらである。
けれどこのように小さい子供はいなかった。雫はあってはならな
い事態を防ぐために真っ赤になった手をなおも氷の上に伸ばす。
くらり、と前触れのない眩暈を覚えたのは、ようやく
どれ程の時間が経ったのだろう。
︱︱︱︱
子供の右足が外れかけた、そんな時だ。
雫は揺らいだ体を片手をついて支える。
いつかも何処かで経験したような感覚。体の中を何かが蠢いた。
彼女は傾いだ視界で子供を見上げる。
幼い少女は涙を流していない。
そして今や⋮⋮彼女は恐怖も見せていなかった。人ならざる深紅
の瞳が雫を見つめる。それと同時にまた﹁中﹂を何かが動いた。
﹁そういう、こと、か﹂
雫は倒れかけた体を両手で留める。
いつの間にか石畳についていた足は、霜のレースによって何重に
1202
も覆われていた。
感覚を殺されていたのだろう。それに気づくと同時に氷の痛みが
襲ってくる。
どうやって女の魂を抜いたのか。
人が禁呪を使ったのか、魔族によるものか。
決め手のなかったその問いの答は後者だ。雫は冷やされた足に力
を込める。
女の魂が欲しくとも抜くには時間がかかる。だから﹁彼女﹂は襲
われた子供を装ってその時間を稼いだのだろう。
諦めれば?﹂
地面に縫い止められた雫は、魂を抜こうと内部を探る力に吐き気
を覚えた。痛みで麻痺しかけた足を叩く。
﹁痛いし、騙された⋮⋮っていうか︱︱︱︱
挑戦的な声。
突如変わった獲物の様子に、今まで無表情でいた魔族は目を瞠っ
た。雫は皮肉な笑みでそれを見上げる。
﹁抜きにくい? 私って魂が違うらしいんだよね。残念﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前はなに?﹂
﹁イレギュラーだよ。メア!﹂
反撃を命ずる呼び声に応えて無形の力が生まれる。それを察した
魔族は赤い目を困惑で彩り飛びのいた。雫の胸元に潜んでいた小鳥
が姿を変じて主人の前に立つ。
﹁ご命令を。マスター﹂
﹁出来れば捕獲。いけそう?﹂
﹁試みます﹂
詠唱のない力の行使。
霜の這う石畳が砕かれ、自由になった雫はよろめきながらも立ち
上がった。まだ完全には凍り付いていなかった足をさすりながら前
を向く。
1203
﹁お前、囮やれ﹂
そんな簡潔な命令を雫が受けたのは今日の昼のことだ。
魂を奪われた体はせいぜい三日しか持たない。一刻も早く犯人を
捕まえねば死者が出てしまうのだ。
ラルスは雫を囮にして城都を歩かせると同時に、巡回の人数を増
やして普通の民は出歩かせないようにするつもりだという。
短期間で解決する為の危険な策。ハーヴは失敗する可能性を危惧
して反対を示したが、彼女は考えた結果それを受諾した。
その上、魂が違う。うまくすれば犯人の意表を突ける可能
自分にはメアもいて、なおかつ魔力がないため一見無防備だ。︱
︱︱︱
性は高いだろう。決して勝算の低い賭けではないと雫は思ったのだ。
女の子が氷漬けにされているのを見た時、助けなければと思った
がそれと同じくらい﹁これは罠だ﹂とも感じていた。
だから雫はメアを隠したまま自力で子供を助けようとしたのだ。
何処かに潜んでいるかもしれない犯人に奥の手を見せないように。
﹁さぁ、降参するなら今のうちだよ。盗った魂返して﹂
堂々とした宣告に、赤い瞳の魔族は後ずさる。小さな手が服の下
に隠れていた白珠の首飾りを掴んだ。内部から薄ぼんやりと光る、
ひょっとして、あれが人の魂ではないだろうか。
濁ったような水晶に雫は目を引かれる。
︱︱︱︱
それは単なる勘であったが、メアは確信を持ったらしい。﹁取り
返します﹂と言いながら一歩を踏み出す。
だが逆に、欺かれた魔族は向ってこようとはしなかった。大きく
真上に跳躍すると屋根の上に飛び乗る。雫は人間離れしたその運動
能力に驚きつつも、間髪置かず叫んだ。
﹁メア! 屋根に上げて!﹂
ジェットコースターで落ちていく時のような浮遊感。
1204
反射的に身を竦めた時には既に、雫とメアは屋根の上に降り立っ
ていた。赤い瞳の魔族はそれに気づくと、更に隣の屋根へと飛び移
る。
このまま逃がしては不味い。雫は上手く動かない足を酷使して走
り出した。メアの補助を受けて屋根から屋根へと跳躍する。
﹁ひぃぃ、怖い! ってか待て!﹂
そんなことを言って待つ相手はいないだろう。雫は本気で敵を捕
らえるべく懐から預かっていたナイフを取り出した。
魔法具であるそれを、逃げていく魔族の背中に向って投擲する。
銀の光は魔の気配に反応して緩やかな軌跡を描いた。
刃が薄い背に刺さろうとする直前、だが魔族は横に避けてそれを
かわす。ナイフは音を立てて屋根の上に跳ね返った。
攻撃は失敗した。
しかし、逃げる魔族は無理に避けたせいか一瞬態勢を崩したのだ。
そしてその瞬間をメアは見逃さなかった。
彼女は刹那で大きく跳躍すると、少女のものに見える腕を振り被
って、敵の体を横合いから薙ぐ。メアよりも一回り小さい体を取っ
ていた魔族は、球のように弾き飛ばされ屋根に激しく叩きつけられ
た。衝撃で屋根全体が軋みをあげる。
﹁ぐあ⋮⋮っ﹂
身を捩って苦痛の声を上げる姿は、人間の子供のものと何ら変わ
りがない。
だが雫は生まれかけた同情を押さえ込むと、魔族に駆け寄り首元
に手を伸ばした。白珠の首飾りを探り当て、それを真上に引っ張る。
子供の首には大きすぎる首飾りは呆気なく雫の手元に手繰り寄せ
られた。彼女は無意識のうちの白珠の数を数えようと目を走らせる。
﹁マスター!﹂
注意を促す叫び。
1205
けれど雫はその直前に気づいてはいたのだ。首飾りを奪われた魔
族が、子供のものであった手を赤黒く巨大なものに変形させたこと
に。
気づいていて、だが避けきれそうになかった。
反射的に後ろに跳び退った雫を追って、巨大な手が凄まじい速度
で振り下ろされる。
目を瞑ってはいけない。
それでも、自分が壊されるところは見たくなかった。雫は両手で
頭を庇いながら目を閉じる。
響いたのは空気が弾ける破裂音。彼女は衝撃によろめき、したた
かに尻餅をついた。
思わず小さな悲鳴を上げた時、誰かに腕を引かれる。
﹁足止めご苦労﹂
聞こえたものはよく知る尊大な声だ。雫は自分の役目が果たされ
たことを悟って息をついた。瞼を上げると傍には二人の男が立って
いる。
﹁大丈夫?﹂
彼女を庇って結界を張ったのはハーヴ。
そして彼と共に現れた王はアカーシアを一閃させると、結界に食
い込んだ魔族の腕を、流麗とも言える動きで軽々切り落としたのだ。
肘の少し上から腕を切断された魔族は、空気をひずませる程の不
快な絶叫を上げた。
雫は思わず首飾りを持ったままの手で両耳を塞ぐ。
だが、数日は耳に残るような罅割れた叫びも、ラルスがアカーシ
アを手に一歩を進めたことでかき消えた。腕を切り落とされた魔族
は、更なる一撃を加えようとするファルサス国王を前に、踵を返し
1206
逃げ出したのだ。
﹁あ、こら、逃げるな﹂
逃げるなと言って待つ相手もやはりいない。
幼子の姿をしたそれは、片腕を失ってバランスを崩しながらも次
の屋根へと飛び移る。
ラルスは自分も魔族を追って走り出した。雫の体を支えていたハ
ーヴが慌ててその後に続く。それを皮切りに連絡を受け集まってき
たのだろう。他の魔法士や兵士たちの姿も地上に見え始めた。
犯人は分かったが、問題は何故このような真似をしていたかだ。
本来このように大きな街には現れず、また女を標的にもしない魔
族が、擬態を使ってまで短期間のうちに十人以上の人間を襲ったの
だ。
はっきりとした原因が分からなければ人心を宥めることは出来ず、
また次への対策も打てない。
ラルスはあっという間に敵への距離を詰めると、赤い靴を履いた
足を狙った。アカーシアを軽く振るう。
敵が魔族であることは分かっているが、小さな女の子に大の男が
剣を向けている様は見ていて気分のいいものではない。
雫は追撃を彼らに任せると回収した首飾りを手元で確かめた。触
るとほのかに温かい白珠は見たところ三十粒以上はある。これは城
都以外でも犠牲者が出ていたということだろうか。
自然と眉を寄せかけた彼女は、隣にやって来たメアに白珠のこと
を聞こうと振り向きかけた。
けれどその時、唐突に視界から少女の姿が消える。
﹁え?﹂
硝子の砕ける大きな音。
伸びてきたのは男の手だ。
雫は全ての事態を認識するより早く、目前に現れたその手だけを
1207
見て取った。大きな手が彼女の持っていた首飾りにかかる。
﹁返してもらおう﹂
低い声。強い力で糸を引く指に、雫は慌ててそれを引っ張り返し
た。
﹁だ、駄目っ!﹂
どうやって現れたのか、屋根の上に立っている黒衣の男は彼女の
抵抗を見て笑う。優雅な仕草で空いている左手をかざした。
本能的な危機感。
捕食者に見入られた萎縮。
しかし、それでも雫は手を離さなかった。
男は軽く指を弾く。空気が幾つもの見えない刃となった。遠くか
ら王の怒声が聞こえる。
﹁馬鹿が! 離せ!﹂
眼前に結界。
上ってきたトゥルースが雫を押し退けた。
だがファルサス魔法士長の体は、飛び散る鮮血と共に一瞬で崩れ
落ちる。
その体を引き裂いた刃が、首飾りを握ったままの雫の右手にも向
った。
時間が、やけに遅く感じる。
雫は手の中の白い珠を見つめた。
誰かの魂であろう一粒。
指を離さなかったのだ。
奪われてはならない命。
だから彼女は︱︱︱︱
そして雫の五指は、音もなく切り落とされた。
1208
﹁ああぁぁぁあああぁぁっ!﹂
城都の一角に絶叫がこだまする。
混乱と痛みに真っ白になった雫には、物のように自分から離れた
指と、糸を切られバラバラに落ちていく白珠が、まるで同じ粒のよ
うに混ざり合って見えた。
しかしその中で白珠だけは見えない力に引かれるように、黒衣の
男の手の中に引き寄せられ始める。
思考の断裂。
意識を手放しかけていた彼女は、けれどそれを見た刹那、激痛よ
りも﹁奪われる﹂という恐怖に弾かれた。
左手を上げる。
空中を逃げていく白珠。
雫はそれを掴み取ろうと腕を伸ばした。
上手く動かない体。
いくつもの珠が彼女の手に当たり、地上へと落ちていく。
﹁つまらぬ邪魔を⋮⋮﹂
男は不快げな表情になると、再び手の中に刃を生んだ。
だが、その刃を揮うことなく彼は不意に飛び退く。代わりに一瞬
前まで男がいた場所をアカーシアが通り過ぎていった。
ラルスは無言で更に一歩を踏み込むと、風を切る速度で剣を振る
う。
しかしそれも大きく後退して避けた男は、手の中に引き寄せた十
数粒に視線を落とすと不吉な笑みを見せた。
﹁これだけか。仕方ない﹂
それだけの唐突な言葉を残して、男の姿は詠唱もなくその場から
消え去る。
後に残されたのは苦痛と混乱と血臭。
こうして城都で起きた不可解な連続事件は、不可解なままその幕
を下ろすこととなったのだ。
1209
※ ※ ※
﹁それで、最終的な被害状況はどうだったのです﹂
溜息混じりの妹の問いに、執務机に頬杖をついた王は苦々しさを
隠さなかった。彼は前髪を乱雑にかき上げる。
﹁回収出来た魂は十九。ただし、その中で体を保護してあったのは
八人だ。残りの体は近辺の街を探させているが、普通の街での事件
ならまずもう死んでいるだろう﹂
﹁でしょうね。北部でもしばらく前に似た事件があったそうですが、
被害者は三日で亡くなったそうですし﹂
北部の街々を回る最中、レウティシアもまた﹁体を凍らされた女﹂
の事件を耳に挟んだのだ。
城都からの事件の連絡を受けて彼女が更に詳しく調べさせたとこ
ろ、それらの事件はファルサス北西部から城都までの範囲で起きて
おり、全て合わせて約百件程に及んでいた。
これ程までに大きな事件が今まで明るみに出なかったのは、北部
では魔族の襲撃があったことに加え、魔族が来なかった街ではせい
ぜい一人か二人しか犠牲者が出なかった為であろう。犠牲者を発見
した者たちはそれを不審に思いつつも、一、二件ならば城に報告す
るまでもないと判断してしまったのだ。
城都で十人以上が襲われたのはそれらの街と比べて人口が桁違い
に多かった為に違いない。
報告書を前に王は大きく息を吐いた。
﹁魂の粒はあの娘曰く三十程あったそうだ。残りは持ち去られた﹂
﹁水妖を何人か使役してやらせていたのでしょうね。捕らえた水妖
1210
は何と言ってました?﹂
﹁それがあんまり。魔族は尋問しにくくて困る﹂
﹁シルファにやらせましょう﹂
王家の精霊の名が出ると話はそこで一段落する。レウティシアは
大きくかぶりを振ると書類の一枚を取り上げた。
﹁それにしても⋮⋮兄上がいらしたとはいえ、上位魔族を相手にし
てこちらに犠牲者が出なかったのは幸運ですね。魂を全て取り戻せ
なかったのは、こう言っては問題ですが仕方のないことでしょう。
向こうが本気で逃げれば追いきれません﹂
﹁気を使うな。俺の失態だ﹂
珍しくぶっきらぼうな兄の声音にレウティシアは困った顔になる。
気を使ったつもりではなく、本当に﹁仕方ない﹂と思っているの
だが、彼には彼で思うところがあるのだろう。突如現れた上位魔族。
あの時あの場において、それに対抗し得たのは彼しかいなかったの
だから。
結論から言えば、ラルスは雫の傍を離れるべきではなかった。
逃げ出した魔族の捕獲は部下たちに任せて、自分こそが首飾りを
回収するべきだったのだ。
しかしまさか上位魔族の介入があるなどと思ってもいなかった彼
らはいい様に翻弄され、結果としてトゥルースとメアは重傷を負い、
雫は指を切断された。彼らの傷は治療によって大事には至らなかっ
たが、十全とは程遠い幕切れになった以上、責はやはり指揮者であ
った王にあるだろう。
ラルスは妹には滅多に見せない機嫌の悪さで机を蹴ると、背もた
れに体を預けた。普段は隠されている彼の本性が、自責と共に苦渋
の中に垣間見える。
随分久しぶりに思えるそんな時間。
レウティシアは兄に何と声をかけようか迷ったが、結局彼の隣で
沈黙するに留まった。
1211
踏み込むわけでも慰めるわけでもなく、ただ黙って待つ。
別段難しいことではない。長い時間が要るわけでも。
そうやって二十年以上もの間、彼らはお互いの間に横たわる隔絶
を無視し続けてきたのだ。
※ ※ ※
部屋にはカーテンが引かれ、昼だというのに暗いまま閉ざされて
いた。
音の無い部屋。
窓際に置かれた小さな敷布の上には緑の小鳥が眠っている。
一方、部屋の主人である女は、寝台の上に両膝を抱えて座り込ん
でいた。
瞼は閉じられているが、夢の中を彷徨っているわけではない。そ
の証拠に扉が開かれると彼女は顔を上げる。
﹁雫﹂
彼女の名を呼んで入ってきた男は、薄暗い部屋の様子にも構わず
燭台に火を灯すと寝台の前に立った。手を伸ばし、彼女の右手を取
る。
白い指には今は切断された痕もない。ただ彼女自身の意思に応じ
て微かにわなないただけだ。男はそれを確かめると手を離す。
﹁ちゃんとついたんだね。よかった﹂
﹁エリク⋮⋮﹂
﹁話は聞いたよ。無茶をしすぎ。魔族を侮っちゃ駄目だ﹂
叱る声。温かくも厳しくもない、だが思ってくれる言葉。
それを聞いた雫は、張り詰めていたものが途端に緩んでくるのを
1212
感じた。涙の滲む目を閉じ、顔を膝に埋める。
﹁わ、私、魂を取り戻そうと思ったんです﹂
﹁うん﹂
﹁でも、取れなくて、いくつも取られて⋮⋮﹂
﹁仕方ない﹂
城で保護されていた女性たちのうち、三人の魂は結局取り戻せな
かったのだ。
雫は意識を取り戻した被害者たちの姿を安堵で見やった一方、助
けられなかった犠牲者たちが家族に引き渡されるところもまた見て
しまった。徐々に冷たくなっていく母親に取り縋った少年が﹁どう
して助けてくれなかったのか!﹂と叫んだ、その声を忘れることは
きっと一生出来ないだろう。
指を切り落とされた恐怖よりも、白珠を掴み取れなかったことへ
の強い後悔が、繰り返し彼女を苛んでやまないのだ。
声を殺して泣く女の隣にエリクは座る。
彼は遠い目を伏せると、小さな頭をそっと撫でた。
﹁雫﹂
﹁はい﹂
﹁助けられなかった命を思うなら、助けられた命も思うんだ。全体
を見なければ次に生かせない﹂
励ましているのか、諭しているのか分からない言葉。
雫は彼らしい慰めに思わず唇を噛んだ。長い沈黙の後、喉の奥か
ら掠れた声を絞り出す。
﹁難しい、です﹂
﹁うん。まぁ上位魔族なんて二度と会わないに越したことはないし﹂
もし次があるとしたら、今度はどうすればいいのだろう。
その答は分からなかったが、それでも雫は少しだけ凪いだ痛みに、
一人ではないことを感謝した。
1213
※ ※ ※
肉体が、積み重なっている。
折れ曲がった腕。どす黒く変色した足。破れかけた翼。濁りきっ
た瞳。
壊れ果てた無数の肉体が雑然と絡みあい、一つの異様な姿を曝け
出している。
動くものはない。そこには個もない。
時折外から吹き付ける寒風が、誰のものとも分からぬ髪を揺らし
ていくだけだ。
伽藍の如き冷え切った空間。
誰も住まう者のいない城の吹き抜けを、女は一人見下ろしていた。
数階分にも渡る高さを持つ眼下には、人と魔族両方の死体が堆く
積まれている。
死の厳然を前に、しかし女の目には何の感傷もない。ただそれを
在るものとしてしか見ていなかった。
﹁アヴィエラ﹂
涼やかな男の声に女は振り返る。帰ってきた男は女の視線に手を
広げて見せた。そこには白珠が十数個握られている。
﹁ああ。回収したのか。手間を取らせたな﹂
﹁構わない。が、下位上がりの魔族は駄目だな。街を回るようにさ
せたのはいいが、ファルサスの城都にまで行っていた﹂
﹁そうか。ファルサス王家には勘付かれたか?﹂
﹁アカーシアの剣士に追われた﹂
端的な報告に女は声を上げて笑いだす。危機感のまったく見られ
1214
ない反応に男は肩を竦めた。
﹁随分と余裕だ。魔女に成ったせいか?﹂
揶揄と共に男は欄干の向こう、死体の山を覗き込む。
呼び出された魔族とそれを倒そうとした人間。
力に引き寄せられた魔物と攫われてきた人々。
彼らはいまや単なる残骸として乱雑に混ざり合い小高い山となっ
ている。
凄惨で厳粛な終わりの光景。
それは真の意味で種族の境界を超越した一つの現実とも言えただ
ろう。女は薄く微笑む。
﹁魔女という程ではない。お前と同程度にしか過ぎないからな。た
だ、誤解のないように言っておくが、私自身は別に魔力を欲しがっ
たわけではないぞ。お前の連れて来た女があまりにも人間を侮辱す
るから、肉体の檻に取り込んでやったのさ﹂
優雅な微笑には、慈しみはあっても憐れみはない。男は予想出来
た答に傲然と返した。
﹁あれはお前を怒らせると思った。お前に食わせる為に連れて来た
んだ﹂
上位魔族は死ねば肉体は残らない。元々が概念的な存在である為
だ。
アヴィエラは今はもう自分の力となって消えた魔族を思い出すと、
小さく鼻で笑った。
﹁ファルサスに勘付かれたとしても構わん。可能性は全て平等だ。
むしろ彼らも試されればいいのだ。継いできた力と血が、更なる時
代に必要であるか否かをな﹂
芯のある強い声は、全てを俯瞰し操る者のようにも聞こえる。男
は契約上の主人を愉しげに見やった。
﹁その試金石に、お前がなるというわけか﹂
多くの苛烈な過去を忘れ去って惰眠を貪っているに過ぎな
﹁いいや? 私はただ教えてやるだけだ。この大陸も人間たちも︱
︱︱︱
1215
いということを﹂
女は右手を眼下に向けると詠唱を始める。
複雑な構成は死体の山に降り注ぎ、腐りかけたそれらを徐々に乾
いた塵へと変えていった。
開けられたままの城の扉から吹き込む風が、端から塵を押し流し
ていく。 やがて吹き抜けに何も残らなくなった頃、上階には二人の男女の
姿もまた見えなくなっていたのだ。
1216
黄昏 001
﹁ない⋮⋮ないのだ﹂
聞き飽きた呟き。老いた父の狼狽をシロンは聞き流した。手元の
手紙を捲り、寄せられた嘆願に目を通す。
﹁ないのだ! シロン! あれを知らぬか?﹂
﹁知りませんよ。賊が何処かに売り飛ばしでもしたのでしょう﹂
﹁あれがなければ我が家は終わりだ!﹂
﹁父上がそう仰り始めてから既に一年以上が過ぎておりますが、い
まだ問題は起きておりません﹂
﹁魔物が出ているではないか! 陛下にどうお詫びすればよいのだ
⋮⋮﹂
畳み掛けるような父の反論に、シロンは鬱陶しさを隠しもせずに
顔を顰めた。まさに﹁ああ言えばこう言う﹂だ。この一年半ずっと
これを聞いていた自分の忍耐はかなりのものだと思う。
彼は国内西部からの手紙全てを確認してしまうと、次の仕事に取
り掛かり始めた。椅子に座り込み何やらまだぶつぶつと呻く父を、
本当は執務室から叩き出したいのだがそうもいかない。先代の宰相
であった父はまだ城への影響力が強く、シロンが乱暴なことをすれ
ば若輩である彼の方に非難が向いてしまうのだ。
彼は忌々しさを示す人間の見本のような表情で、提出された資料
を見ていった。その内の一つ、薄い装丁の本を手に取ったところで
動きを止める。
﹁これは⋮⋮﹂
何故このようなものが存在するのか。
1217
驚きと共に凍りついたシロンは、けれどしばらくすると現状を変
える為に、急いで書状をしたため始めた。
※ ※ ※
厚めのカップの中には、薄茶色のどろっとした液体が湛えられて
いた。泡を孕んだ表面は見た目からして怪しい。魔法薬でももう少
し普通の様相を呈しているだろう。
レウティシアは恐る恐る匂いを嗅ぐと、決心がついたのか小さな
唇をカップにつける。
口の中に広がったのは苦味とコクと甘さと脂。
王妹は美しい面を動かさぬままそれを嚥下してしまうと、一呼吸
ついて言った。
﹁微妙﹂
﹁ですよねえええ!﹂
同じものを飲んでいた雫は悶絶して机を叩く。
彼女はレウティシアに頼んで南部からカカオ豆を取り寄せてもら
ったのだが、それをどうやったらチョコレートにできるか分からず、
試行錯誤した結果訳の分からないココアもどきを作ってしまったの
だ。
﹁本当はもっと美味しいんですよ! 何が悪いのかなぁ⋮⋮﹂
﹁この脂、何とかならないの? ちょっと濾したいくらいなのだけ
れど﹂
﹁ああ⋮⋮。次はそうしてみます﹂
納得して頷いてはみたが、ココアの工程に脂を濾すなどというも
のがあっただろうか。
1218
雫は悩んだが、普段は粉末を買って練っていたので分からない。
とりあえずチョコレート作成までの道のりは遠そうだ。材料を無
駄にしないよう失敗作を全て食している彼女は、げっそりして肩を
落とすと本来の話題へと軌道を修正した。
﹁それで、生得単語が戻ってきた原因は、まだ確定できていないわ
けですか﹂
﹁そうなのよね。元々生得単語自体が何処に由来するのか、証明で
きていないのだから仕方がないのだけれど。でも魂の問題だとして
も、正直別の⋮⋮特に上位階層のことは探るのが難しいのよ。通常
あ、でも、魔法構成って上位階層らしいじゃな
は認識出来ないから別の階層なのだし﹂
﹁なるほど。︱︱
いですか。それで何とかならないんですか?﹂
﹁だから、魔法構成の階層が視認出来るのが魔法士なのよ。別の階
層も上下はあるけれど、まったく違う世界という訳ではなくて。普
通の人間には見えないだけで何重もの階層がこの世界に重なってい
るの﹂
レウティシアは言いながら、執務机に積まれていた書類の束をぱ
らぱらと捲って見せた。それを再び揃えて重ねると﹁こういう感じ。
分かる?﹂と苦笑する。雫はその比喩で大体の理解を得て頷いた。
﹁つまり全ての階層は場所的には同じって訳ですか。位階的な深度
が違うだけで﹂
﹁そうそう。でも位階が違うって大きくてね。人間にはなかなか他
の階層のことは分からないの﹂
﹁うーん⋮⋮じゃあ直接的なアプローチはやっぱり難しいんですね﹂
雫の結論にレウティシアはお手上げ、といった風に肩を竦めてみ
せる。
要するに﹁生得言語が本当に魂に依拠しているのか﹂という問題
を考えるにあたって、その原因と一般的にみなされている言語階層
自体が実在するかどうか、そこからして人間には確かめられないと
1219
いうことだろう。
逆に言えば﹁別の階層だ﹂と言ってしまえば可能的には何でもま
かり通る。魔法士の初歩の講義に似た内容を飲み込んで、雫は嘆息
した。
﹁でも今は何故だか治りつつあると﹂
﹁そうなのよね⋮⋮﹂
色々と状況を変えて実験を繰り返してはいるものの、未だ原因は
特定出来ていない。
ただ生得単語が戻ってきたのは実験のため城に連れられてきた子
供たちだけであり、城都全体までは回復が確認されていないところ
をみると、やはり実験の何かしらが影響していると思われた。雫は
何とはなしに天井を仰ぐ。
﹁そう言えば⋮⋮昔、漁船が別大陸の人間を拾ったってエリクに聞
いえ、あれは確か違ったはずよ。交流もない大
いたんですけど、それって東の大陸の人間だったんですか?﹂
﹁え? ︱︱︱︱
陸だったはずだわ﹂
﹁その人も言葉が通じたんですか?﹂
素朴な疑問に王妹は目を丸くした。
何故、雫がこのようなことを聞いたかといえば、単に交流のない
別大陸にも同じ生得言語があるかどうか気になったからだ。
もしエリクが言うように生得言語が何かしらの感染であれば、交
流のない大陸には行き渡っていないはずだろう。
異世界出身の部下の問い。その意味するところを悟ってレウティ
シアは言葉に詰まった。
﹁どう⋮⋮だったかしら。でも確かその漂流者の大陸についての記
録が残っていたから、言葉は通じたのだと思うけれど﹂
﹁うっ。そうですよね﹂
何だか堂々巡りである。
雫は抱えていた絵本の草稿を抱き直した。レウティシアはココア
1220
もどきが気になるのか、もう一口を飲むと顔を上げる。
﹁ともかく原因が分からない以上、治ったと言ってもいつまた発症
するか分からないのだし、貴女にはこのまま仕事を続けてもらうわ﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁貴女がいてくれるとエリクも残りそうだし。ねえ、一生ファルサ
スにいない?﹂
﹁そ、それはちょっとお約束は⋮⋮﹂
昔からエリクの才能を買っていたというレウティシアは、彼との
契約期限が近づいていることが残念で仕方ないらしい。最近はあま
り研究室に顔を出さずに自室で調べ物をしている彼だが、それにつ
いても﹁ああいう人間は発想からして才能だから。やりたいことを
やらせた方がいいのよ﹂と鷹揚に構えている。
ある意味理想的な上司かもしれない彼女は、けれど話の締めくく
りとして一枚の書類を差し出した。雫はそれを受け取ってみたが全
ては読み取れない。目に付いたところだけを声に出す。
﹁メディアルの⋮⋮言語の、招待、要望?﹂
﹁それがね。少し前に主だった諸国に流行り病についてファルサス
の対策、つまり貴女の仕事の状況を送ったのよ。キスクも同じ方向
で進めていることだし、これに関してはある程度情報を与えた方が
混乱が少ないと思って﹂
﹁はい﹂
﹁そうしたらメディアルが、貴女の作った教材を見て作成者から直
に説明を聞きたいって言ってきたの。それ程秘密でもないからファ
ルサスとしては構わないのだけれど⋮⋮どうする? 面倒なら断る
わ﹂
﹁うおっ、出張ですか﹂
まさか自分にそのような仕事が舞い込むとは思ってもいなかった。
雫は頭の中に大陸地図を思い浮かべる。
メディアルと言えば、大陸北部に広がる大国の一つだ。先日エリ
クが行ったファルサス北部よりももっと北。普通ならば移動にかな
1221
りの時間がかかりそうだが、大国同士であり国の仕事でもあれば転
移が使えるだろう。
雫は少し考えて、まったく別のことを聞き返した。
﹁あの紅い本って、確か持ち主の人がメディアルで消息を断ってい
るんですよね?﹂
﹁そうね。今のところ﹂
﹁じゃ、私、行ってきます﹂
ファルサスの調査隊が掴めなかった本の行方が自分に掴めるとま
では思っていない。
それでも、機会があるなら自分の目で問題の国を見てみたかった。
そもそもエリクが宮仕えを辞めたら二人でメディアルに向うのか
もしれないのだから、国の後ろ盾があるうちに様子を確認しておい
た方がいいだろう。
雫のあっさりした受諾にレウティシアは教師のように微笑む。
﹁ではお願い。ああ、護衛としてエリクをつけるわね。他にも何人
か﹂
﹁エリクを? でも彼忙しいんじゃないですか?﹂
それに、今の彼は強いわよ﹂
﹁いいのいいの。こないだのことがあるし、彼の方から行くって言
うと思うわ。︱︱︱︱
美貌でも名を知られる王妹は形のよい指で自分の右耳をつついて
みせる。
こうして雫は、ファルサス所属の研究者として、エリクと共に北
の大国を訪問することになったのである。
※ ※ ※
1222
ファルサスは温暖な国だった。キスクも暑くはなかったが暖かか
った。
勿論そんなはずはないのだが。
だからこの大陸は全土において暖かいのだと、雫が誤解していた
のも無理はない。︱︱︱︱
﹁さ、寒い⋮⋮﹂
ガタガタと震えながらの女の声に、隣にいたエリクは呆れ顔にな
った。厚手の布を羽織って凍り付いている雫の全身を眺める。
﹁随分薄着だから、そういう健康法を試しているのかと思った﹂
﹁試してないです。指摘してやってください﹂
何だか泣きたいくらいだが、泣いたら涙が凍りそうだ。雫は柱だ
けで壁のない城の広間を見渡す。
確かに見える景色は絶景だ。随分高い場所に城を建てたのだろう。
緩やかに傾斜していく土地には雪で彩られた街の建物が見て取れる。
その更に下には石の城壁と森林。左手には切り立った岩山も見え、
自然の厳しさと美しさをよく感じさせてくれた。
視界全てを占める白と黒の鮮烈なコントラストは絵葉書にしたら
さぞ人気が出るだろう。彼女は現実逃避がてらそんな評価を下す。
﹁絵葉書はともかく⋮⋮何で壁がないんですか。嫌がらせですか﹂
﹁さぁ。そこまでは知らない。この場所に城都を置いたのは攻めに
くくする為だっていうことらしいけど﹂
﹁冬将軍の前にはナポレオンも退却を考えます﹂
寒風が直に吹き込む広間には余計な装飾品はない。ただ黒い石床
と白い柱があるだけだ。
ファルサスで着ていた正装の上に一枚上着を足し、更にショール
を羽織っただけの雫は冷え切った両耳を押さえる。
普段の魔法着の上に防寒用の上着を着ているだけの、けれど少し
も寒そうな顔をしていない男を、彼女は見上げた。
﹁エ、エリク、くっついていいですか?﹂
﹁⋮⋮君はファルサスからの正式な使者兼学者としてここに来てい
1223
る﹂
﹁うわあああ! 中に入れて欲しいいいい!﹂
﹁ここが中だよ﹂
真剣なのかそうでないのか分からない二人のやり取り。それを背
後で聞いていた兵士たちは何とも言えない表情で沈黙を保った。
転移陣でやって来た彼らがとりあえずこの広間に通されてから十
五分が経過しているのだが、ずっとこの調子である。いい加減壁の
ある部屋に移動しないと、エリクはともかく雫が可哀想なことにな
りそうなのだが、メディアルの人間はまだ現れない。
雫が色々諦めてジョギングでもしようとした時、ようやく奥の扉
が開いて案内の文官が現れた。一礼して扉の向こうを示す。
﹁面会のご用意が出来ました。こちらへ﹂
見も知らぬ人間が来てこれ程までに嬉しかったことはないかもし
れない。
雫はほっと安堵すると、姿勢を正しメディアルの宮廷内部へと足
ちなみに最初の広間に壁がないのは伝統的なものであ
を踏み入れた。
︱︱︱︱
り、その由来はいざと言う時狙撃が出来るようにする為らしい。
それを文官から聞いた雫はげっそりしてしまい、﹁何故狙撃が必
要なのか﹂とは聞かなかった。
メディアル国王ヴィカスは六十過ぎの小柄な老人だった。
この世界では人間の寿命は約七十年らしいので、かなり高齢な部
類に入るのだろう。
謁見の間において数段高い玉座の前に佇む雫は、白髪が髪のほと
んどを占めている王の容貌を無礼にならない程度に見上げる。しわ
がれた声が白髭の下から響いた。
﹁よくぞいらした。ファルサスの客人よ。異国の客⋮⋮それも貴女
1224
のように若いお嬢さんに会うのは久しぶりだ﹂
﹁お目にかかれて光栄です、陛下。この度は生得言語の代わりとな
る教育について、ご質問にお答えすべく参りました﹂
﹁うむ。儂も勿論興味があるが、儂の宰相が是非とも直接話を聞き
たいと申すのでな﹂
ヴィカスはそこで、傍に控える男を示す。雫よりは一回り以上年
上に見えるその男は﹁シロンと申します﹂と名乗った。
シロンは宰相とは思えぬ柔和な顔立ちをした男であったが、その
中で灰色の両眼だけが雫を品定めするように注視してくる。
彼女はそれに気づいたものの、あまり気にしても失礼だろうと思
い、表情には出さなかった。
一通りの挨拶が済むと、一同は同じテーブルについて具体的な話
に取り掛かる。
雫は自分の話を始める前に軽く探りを入れてみたが、生得言語が
戻りつつあるのはやはりファルサス城だけのことらしい。
症状の出た子供だけを隔離して実験を行っているという話に、彼
隣を窺うとエリクは無表情であったが、
女は年長の子供たちと幼児たちを一緒にしたファルサスとの違いを
見出して一瞬考え込んだ。
彼は普段からあまり考えを表情に出さないので、このような場では
尚更変わらないだろう。
本題に入ると、雫は持参してきた教材を広げ一つ一つに説明を加
える。
それぞれの使用方法や視覚、聴覚効果、また実際の使用において
どういう効果を上げているかを彼女が要点立てて延べていくと、王
はまるで若者のように興味津々といった顔になった。自ら率先して
様々な質問を重ねてくる。
﹁この魔法具は面白い。角度によってそれぞれの絵と音を出すよう
になっているのか﹂
1225
ヴィカスが手に取ったのは小さな銀の箱だ。
見かけも美しいその箱には各面の中央に硝子窓がはめ込まれてお
り、覗くと中に絵が浮かび上がるという仕組みになっている。また
各面の隅に埋め込まれた水晶球に触れれば絵の名前が記録音声で読
み上げられるのだ。
単価は安くないが子供たちには好評だった玩具を見やりながら、
雫は苦笑を浮かべた。
﹁他の教材はまず大人が読み上げることを大前提として作ってあり
ますが、これだけは音声を組み込んで作ってみました。言葉の学習
において﹃聞く﹄ことが一番の早道ですので。魔法具で音声を補え
ば大人の手が回らない時でも学習が進みます﹂
﹁なるほど。便利なものだ﹂
﹁ただやはり最善は大人が傍にいて辛抱強く会話を試みることです。
言ってしまえばこれら教材がなくとも、会話を諦めなければいずれ
子供は言葉を身につけるのです﹂
強すぎはしないが、自信を窺わせる雫の言葉にヴィカスは考えな
がらも頷く。
かつては鋭かったのであろう眼光が、年若い女を穏やかに見つめ
た。
﹁実に面白い。それに、貴女の話を聞いているとこの病が恐れる程
のものではないような気さえしてくる。不思議なことだ﹂
それは雫が欲しかった最たる反応だろう。彼女は一瞬照れくさそ
うにはにかむと話を続ける。
﹁子供の教育において、言葉そのものを学ばせるという行為は決し
て回り道ではないと私は思っております。整然とした思考は口には
出さずとも言葉を使用して為されるものでありますし、単語によっ
ては名前を得て概念化されるからこそ、曖昧模糊とした状態から離
れ﹃それ﹄として認識され得るものもあるでしょう。言葉は思考の
道具であると同時に、思考に大きく影響を与える基盤でもあるので
す。それを子供たち自身によってその精神に築かせることは、思考
1226
の成長においても大きな手助けになると考えております﹂
雫の説明に王は満足そうに微笑んだ。
そして、この日の面会はつつがなく終わりを告げたのである。
※ ※ ※
﹁面白かった﹂
壁のある賓客用の部屋に通された後、開口一番エリクが言ったの
はそんな一言である。
今はもうさほど寒くはないのだが、つい半球型の暖炉に近寄って
いた雫は、振り返って連れの男を見やる。
﹁何がですか? 壁のない部屋がですか?﹂
﹁君の話が。言葉が対象を認識させるとか、言語が思考に影響を与
えているとか。なるほどなと思った﹂
﹁ああ⋮⋮私の世界は言葉の成り立ちからして研究されたりします
から。私も授業でそういうののさわりをやったんですよ。それに、
やっぱりエリクと議論とかしてると思いますよ。思考は言葉がない
と難しいなって﹂
何故﹁悲しみ﹂に﹃悲しみ﹄という名がついているのか。
それは決して単一の感情を示しているわけではない。
多種ある感情のいくつかを束ねて﹃悲しみ﹄と呼ぶからこそ、そ
れはあたかも﹁一つのもの﹂﹁似たもの﹂として認識されている。
胸が痛むこと、泣きたくなること、喪失、痛み、それらのいくつ
か、もしくは全て。
形のないものは名前を与えることによって﹃それ﹄となる。
1227
いわば言葉はそれ自体が思考の産物であり、同時により複雑な思
考を形成する為の重要なパーツでもあるのだ。
﹁例えば、国によって対応すると思われている単語でも意味合いに
は差異があったりしますし、外来語が輸入されることによって、そ
れの示す概念自体も持ち込まれたりします﹂
dream
という単語を書くと、男に指
雫は暖炉から離れるとメモを取り出してエリクの座る椅子の前に
戻る。そこに﹃夢﹄と
し示した。
が輸入さ
﹁例を挙げると日本語の﹃夢﹄って、昔は夜寝ている時に見る幻影
dream
に﹃夢﹄という訳語を当て嵌め
には夜見る夢と将来の希望の両方の意味が
dream
dream
だけを﹃夢﹄と言ってたんですが、英語の
れた時、
あったんです。その
て以来、﹃夢﹄にはそれまでなかった将来の希望という意味も加わ
ったんですよ﹂
﹁⋮⋮へぇ。﹃ユメ﹄は後から二つの意味を持つようになったのか﹂
﹁です。特に日本語には漢字がありますから、同じ単語でも違う漢
字を使えばニュアンスが変わります﹂
﹁その辺りは基本的な定義の中にも幅があって細かく分かれている
んだろうな。どこまでを一つの単語にまとめるかに歴史と文化が出
る⋮⋮違う?﹂
﹁多分あってます﹂
エリクは雫の走り書きを手に取ると、じっとそれを見つめている。
また漢字が気に入ったのだろうか、と雫は思ったが、彼が口にし
たのはまったく違うことだった。
﹁僕は今まで、言語の方がそこまで思考に影響を与えているとは考
えてもみなかった﹂
淡々とした言葉。綺麗な顔立ちには若干の翳が差している。
何かを考え込んでいる時の彼の表情。だがいつもより昏いそれを、
彼女は怪訝に感じながらもまずは頭を回した。
1228
﹁うーん。でもこの世界ではそれが当然なんじゃないですか? 言
語がもともとあるわけですから。いわば身振り手振りとか⋮⋮手を
動かすことが思考自体に影響を及ぼすかどうかって考えるようなも
のでしょう? さすがにそれはきついですよ。私の世界も言語の変
遷や複数言語があるからこういう問題を研究しやすいわけですし﹂
エリクは肯定も否定も返さない。ただ雫の困ったような視線に気
づくと、何処か自嘲ぎみに微苦笑しただけだ。
部屋にいくつかある窓の外は、全て白一色で覆われている。
のしかかってくるような厚い雲ばかりの空。気づくとそこからは、
舞い散るような雪が降り出していた。
※ ※ ※
メディアルでの滞在は三日間を予定している。
雫は、エリクが与えられた別室に帰っていくと、夕食までの間に
日記をつけるべくノートを取り出した。荷物の上で眠っていたメア
が石造りの机に飛び移る。
雫は新しい頁に日付を記して、ふとその数字が見覚えのあるもの
であることに気づいた。
﹁あ、もう一年か⋮⋮﹂
﹁何がですか?﹂
﹁この世界に来てから。何かすごく早かったよ﹂
この世界では一月はきっかり二十八日であるのだから、元の世界
からすれば一年に一か月分くらいは足りないのかもしれない。
それでもここでの一年が経ったことは確かだ。雫は大陸のあちこ
ちを転々とした自身の足跡を思い出し、しばし物思いに耽る。
1229
﹁新しいノート買わなきゃな⋮⋮帰ったら街にでも出てみようか﹂
﹁お供いたします﹂
使い魔の相槌に雫は破顔した。
そうして彼女は忍び込んでくる憂愁を振り切ると、白いノートの
上にペンを走らせる。
壁のない広間、雪景色、ヴィカスの問い、反応、そしてエリクと
の会話。
それらを書きとめていった雫は、宰相として紹介されたシロンの
ことを思い出した。雫と﹁是非とも直接話をしたい﹂と言ったわり
に、一度しか質問をしてこなかった影の薄い男。主君の前であるか
ら気を使ったのか、それとももともと率先して質問をするような性
﹁これらの絵本の話はどうやって考えたのか﹂と、そ
格ではないのか、判断がつかないながらも彼女は彼の質問だけを日
記に記す。
︱︱︱︱
れだけの質問を。
※ ※ ※
夕食に供された料理は煮込み料理が多かったが、その一つ一つが
非常に美味だった。
黄金色のスープに浮かんだ青葉を雫は匙で掬い上げる。キャベツ
に見えるが本当に同じだろうか。口に含むと蕩けるように柔らかく、
甘い。野菜独特の自然の甘さに彼女は顔をほころばせるともう一匙
を口に運んだ。
﹁近頃ファルサス北部では魔族が現れるという話も聞きましたが、
本当なのでしょうか﹂
1230
﹁本当です﹂
王に代わって賓客を接待するシロンの問いに、エリクは平然と答
える。
こういう質問に関してはほとんど雫の出る幕はない。その為彼女
は、牛肉を野菜と共に煮込み、溶けたチーズを上からかけたものに
夢中になっていた。香草をよく使い全体的に薄味に抑えるファルサ
スの料理と比べ、メディアルの料理は素朴だが温かく味が染みてい
る。
ナイフで切り分ける端から肉の断面をとろとろと伝っていくチー
ズは、視覚的にも実に魅力的だった。
﹁実は大分前からメディアルの西部でも魔物が多く出没しているの
です。一時は誰かしら地方の人間が雇ったらしく、撃退の為の傭兵
たちが相当数集まったのですが、彼らの大半も犠牲になったそうで
して﹂
﹁魔物の動きは予測しにくいですから。余程慣れている人間か、集
団で当たらないと撃退は難しいでしょう﹂
﹁仰る通りです。ですがこの時代、宮仕えの人間でも魔物と戦った
経験がある者などそうはおりません﹂
食事を取りながらシロンの含みある話を聞いていたエリクは、こ
こで手を止めると眉を寄せた。温められた部屋の空気よりも冷めた
視線がメディアル宰相に向けられる。
﹁もし貴君が何らかの救援をファルサスに期待されるなら、それを
本題として王に要請を送られた方がよろしいでしょう。僕には彼女
の護衛という仕事の他に今回何の権限もない。従ってお答え出来る
こともほとんどありません﹂
エリクの忠告は半分以上的を射ていたのか、シロンは慌てて﹁失
礼しました。そういう意味ではなかったのです﹂と訂正する。
それを横目で見ていた雫は、確かにラルスは﹁ついで﹂の要請を
受けるような人間ではないが、本気で要請しても受けてくれなそう
だ、としみじみ思った。
1231
が、思っても口にはしない。それはファルサス城に仕える者全て
に共通することである。ラルスに関しては前もって忠告をしようが
しまいが関係ない。駄目なものはどうあっても駄目で、やがては皆
それを思い知るのだ。
或る意味その最たる被害者である雫は、飾り切りされた果物に手
を伸ばした。どうやら素手で食べるものらしいので、滴る果汁に気
をつけながら噛りつく。
大国の学者というよりは行儀のよい少女のように食事を進める彼
女は、しかしその時、射竦めるように自分を凝視するシロンの視線
に気づいて、小さく首を傾げた。
※ ※ ※
メディアルは宰相位が世襲制である大陸唯一の国家である。
代々の王は必ず補佐として宰相を置き、その意見を訊くのだが、
かといって宰相は世襲制の上に胡坐をかいているわけではない。何
故なら宰相は結婚と子を儲けることもまた法で禁じられているので
あり、世襲制といっても実際は見込みのある子供を養子として教育
し後継者にするという私情のない繋がりが代々続いているからだ。
そして現宰相であるシロンもまた、父に特別な愛情は抱いていな
い。
勿論自分を見出し充分な教育を与えてくれた恩はあるが、それは
単純な感謝であって実の親に抱くような無二の愛情ではない。
また四十年に渡り優秀な宰相として腕を揮った父への尊敬もかつ
てはあったが、それは﹁あれ﹂の存在を聞いた時、いびつに歪んだ。
1232
その日より生まれた感情の一つは、歴史に深い造詣を持ち、また
現在においても他国のことを手に取るように理解していた父の有能
さが﹁あれ﹂に依存したものであったという失望。
もう一つは﹁そのようなものなど存在するわけはない﹂という思
いから来る、父への疑い。
相反するこれらはその時々で比率を変えながらもシロンの内心に
蟠る。
そしてそれは、一年半ほど前﹁あれ﹂が屋敷から盗まれるにあた
って決定的なものとなったのだ。
毎日のようにシロンに
﹁あれ﹂が失われたことに憤り錯乱した父には、もはや名宰相と謳
われた冷静さも思慮深さも残っておらず、
絶望を囁きかけるようになった。
抜け殻どころか有害なだけの讒言を振り回す父に対し﹁いっそ早
く死んでくれ﹂と思う自分に気づく度、彼は自身にも嫌気が差す。
そうして鬱屈とした日々を送っていたシロンは、けれど意外なと
ころで失われたものを取り戻す為の手がかりを掴んだのだ。
※ ※ ※
滞在二日目はメディアルの魔法士たちや学者が同席する前で、実
際に子供たちへ教材を与え指導を行うことになった。
と言っても相手が幼児である以上、その光景は一見遊びのように
しか見えない。
現に雫が掌に乗る大きさの動物の人形をいくつも並べて子供たち
を集めた時、魔法士の中には﹁子供が子供と遊んでいる﹂と嘲るよ
1233
うに呟いた者もいたくらいだ。
しかし彼女はその中傷が届いても何の反応も見せなかった。遊び
に見えるくらいで丁度いい。興味を引くやり方でなければ子供たち
は多くを覚えてくれないのだ。
﹁はい、これ何だか分かる?﹂
﹁うさぎ?﹂
﹁そう。うさぎ。言ってみて﹂
子供たちが口々に﹁うさぎ!﹂と復唱すると、雫はうさぎを手の
上でまるで生きているかのように動かしてみる。たちまち幼い視線
が集中し、うさぎを手に取ろうといくつかの小さな掌が彼女に向け
られた。
しかし雫は笑いながらそれを元の場所に戻すと、今度は別の人形
を手に取る。
子供
注意を引き、名前を呼ばせ、遊んだ後に次へと進む。そして時折
前の人形に戻ってみる。
そんなことを根気強く一時間も繰り返した後には︱︱︱︱
たち全員が二十種類程の動物の名前を全て当てられるようになって
いたのだ。
休憩を入れながら午前中に三時間、そして午後に二時間の実地と
質疑応答を行った雫は、さすがに全て終わると疲れ果てて寝台の上
に転がった。慣れない場所で気を張りながら振舞っていたことへの
緊張がどっと体に押し寄せてくる。
彼女の主張に対し、メディアルの学者たちは興味と関心を持って
くれたようだが、魔法士たちはやはり全ては受け入れられないらし
い。表情や言葉の端々に雫のやることを﹁浅薄なその場しのぎ﹂と
思っていることが窺えたが、彼女はそれを悠然と無視した。
何と言われても自分が間違っているとは思っていない。それに、
雫は現在ファルサスの代表としてこの場に来ているのだ。卑屈なと
1234
ころを見せればラルスには怒られ、レウティシアには謝られてしま
ただやはり、ストレスが溜まると言えば溜まる。
う。ならば堂々としているのが一番だろう。
︱︱︱︱
雫は気だるげに上体を起こすと半眼で窓の外を眺めた。
﹁うー⋮⋮エネルギーを発散したい﹂
﹁外に出て体温でも発散してくれば?﹂
﹁生命も発散しそうな気がしますよ。その案﹂
彼女の呟きにまったく熱のない相槌を打った男は、本から顔を上
げないまま少し笑ったようである。
雫はそれには構わず起き上がると、窓の前に歩み寄った。雪で覆
われた中庭を見下ろす。
﹁⋮⋮カマクラが作れそうですね﹂
﹁何それ。要塞?﹂
﹁ある意味合ってます﹂
普段は人が立ち入らないらしくかなりの雪が期待できそうな庭に、
彼女はしばらく考え込んだ。そしてその考えが纏まると、脱いだ上
着に再び袖を通す。扉に手をかけながら怪訝そうな男に笑顔で手を
振った。
﹁じゃ、遊び行って来ます!﹂
﹁待って﹂
雪遊びの為の服を借りたいと言ったところ、メディアルの女官た
ちは困惑しながらも厚手の上下と手袋を貸してくれた。途端に雪だ
るまのような重装備になった雫を、魔法着のままのエリクは呆れた
目で見やる。
﹁君の発想は時々分からない﹂
﹁だって元の世界でも私の住んでたところにはこんなに雪積もらな
いんですよ。ちょっとくらいいいじゃないですか﹂
彼女は手袋をつけた手でポスポスと隣にいる子供の頭を撫でる。
1235
子供たちを管轄する責任者に﹁遊びに連れ出していいですか?﹂
と聞いたところ、丁度今日の報告を纏めているところで大人は手が
塞がっていたらしく、無事快諾をもらったのだ。
雫はボールのように弾み始める子供たちに声を掛けながら、自分
は雪かき用のシャベルを持って雪山を作り始めた。楕円形の匙をそ
のまま大きくしたようなシャベルは少し重いが、雪がまだ固くなっ
ていないせいかさくさく掘れる。
こまめに叩いて固めながら山を作っていく彼女に、子供たちもや
がて周りに集まってくると興味津々に山に登ろうとし始めた。しか
し彼らはみな、とっかかりもない半球型の雪山を前にあえなく滑り
落ちていく。雫は汗ばんだ額を拭うと軽い声を上げて笑った。
﹁これね、中に穴をあけるの。ちょっと待ってて﹂
カマクラにしては小さいが、彼女一人ではあまり大きくは出来な
いだろう。
エリクは中庭に面した回廊で立ったまま本を読んでいるし、メア
はその肩に止まっている。
あまりはりきりすぎて筋肉痛にでもなったら目もあてられない。
雫は身を屈めると山の側面にトンネルをあけ出した。周囲の子供た
ちに気をつけながらシャベルで慎重に雪をかき出す。
そんな風に子供たちの中で夢中になっていると、体の大小がある
だけで彼女はほとんど子供と変わらない。
防御結界だけを周囲に張って、遊びについては傍観しているエリ
クは、本から顔を上げると微苦笑した。
﹁本当にじっとしていない子だよね﹂
﹁あれがマスターの本分でございましょう﹂
﹁かもね﹂
雫はかき出した雪で小さな雪だるまを作っては子供たちの前に並
べていく。あんなことをしていてはいつまで経っても穴は完成しな
いだろう。エリクはいい加減手を貸す為に、開いていた本を閉じた。
1236
中庭へと歩き出そうとした時、しかし彼は人の気配を感じて振り返
る。
そこにはたまたま通りかかったのか違うのか、書類を抱えたシロ
ンが立っていた。その視線は明らかに雫に向けられている。
﹁あの方は何をされているのです?﹂
﹁遊んでいます﹂
身も蓋もない返答を雫本人が聞いたのなら﹁言い繕ってください
よ﹂と言うところだろうが、当然エリクはそんなことはしなかった。
正直な答にメディアルの若い宰相は、だが苦笑するわけでもなく、
困惑した顔になる。
﹁まもなく暗くなりますのでお気をつけください。最近はこの辺り
にも魔物が出るという話ですので﹂
広い国土を持つメディアルの城都は、国土内でも北西寄りの高山
地帯に位置している。その為高山に遮られ日が落ちるのも早く、ま
た西部に出没するという魔物も姿を見せることがあるのだろう。
エリクは﹁分かりました﹂とだけ答えて、去っていくシロンの背
を眺める。
どうもあの宰相は何を考えているのか分からない。怪しいと言っ
てしまってもいいのだが、それはさすがに早計に思えて彼は何も言
わなかった。
エリクは本をメアに預けると、四苦八苦している雫からシャベル
を取り上げ穴を広げ始める。幼児ならば一度に三人くらいは入れる
小さなカマクラが出来あがったのはその十五分後のことだった。
﹁う、腕がぷるぷるする﹂
夕食も終わって部屋に戻った雫は、食事中から感じていた腕の疲
労にがっくりと項垂れた。
それほど無理をしていたつもりはないのだが、二時間近くシャベ
ルを持って遊んでいた影響はしっかりと出ているらしい。日記を書
こうとしてペン先が定まらないと分かると、彼女はひとまず記述を
1237
諦め横になった。枕元にいる小鳥に話しかける。
﹁それにしても、最初は極寒だったけど雪国も楽しいね。住むとな
るとまた大変なんだろうけど﹂
﹁確かに夏には涼しそうですね﹂
﹁避暑地かぁ。ファルサスは夏暑すぎるよ﹂
雫は数ヶ月前のファルサスを思い出してげっそりした顔になった。
もう風呂に入って寝てしまおうかと
疲れた両腕を真上に上げ、ぶらぶらと振ってみる。
どうにも疲労が拭えない。
彼女が思ったその時、しかし扉を乱暴に叩く音が響いた。
雫は驚いて飛び起き、扉を開ける。
﹁な、何ですか?﹂
﹁大変です! 魔物の襲撃が⋮⋮! 急いで避難なさって下さい!﹂
慌てふためく女官の叫びに彼女は瞬間硬直する。先日のファルサ
スでの一件を思い出したのだ。だが女官はそんな雫の手を取ると﹁
お早く!﹂と言って走り出した。雫は半ば引き摺られるようにして
城の廊下を駆け出す。
﹁ま、待って下さい。エリクは⋮⋮﹂
﹁すぐに他の方もいらっしゃいますから﹂
雫は走りながら振り返って宙に手を伸ばす。だがすぐにその手を
戻すと、自分の足で真剣に走り始めた。
レウティシアは﹁エリクは強い﹂と言っていたのだ。ならばまず
自分が足手まといにならないことが第一だろう。女官は五度角を曲
がると、雫を奥まった一室へと案内した。そこには既に一人の男が
彼女を待っている。
﹁ここですか?﹂
訝しさにそう聞いてしまったのは、倉庫のようにがらんとした部
屋には彼女と女官の他にその男しかいなかったからだ。
雫の問いにシロンは真面目な顔で頷く。
﹁すぐに安全な場所へと案内します。ただ、その前に教えていただ
きたい。あの絵本に書いてあった話、貴女はそれを何処で知りまし
1238
たか?﹂
﹁絵本? どれですか?﹂
何故こんな時に絵本のことなど聞くのか。雫は五冊ある自分の描
いた絵本を頭に浮かべた。
そのうちの三冊は元の世界の童話をアレンジしたものだ。そして
二冊は、この世界の話に基づいている。
一体何が聞きたいのだろう。眉を顰めた彼女に、シロンは苦々し
い顔になった。
一年
﹁とぼけないで頂きたい。あの話⋮⋮あれを知る人間は他に誰もい
ないはずなのです。貴女はご存知なのでしょう? ︱︱︱︱
半前に私の屋敷から盗み出されたあれが、今何処にあるのか﹂
問われる理由も、問いの答も分からない雫は唖然として立ち尽く
す。
窓のない部屋。冷ややかな男の視線。
意味の分からない詰問に困惑する中、背後で女官が扉に鍵をかけ
る音が、やけにはっきりと響いた気がした。
1239
002
力が巡っていく。
それは女の魂を元として、高い岩山に囲まれた荒地に円を描く。
左回りで流れていく力は土地にたちこめていた魔の濃度を高め、
人の立ち入らぬその場所を半ば異界へと変じさせていた。
凍えるような冷気と瘴気。
遮られた陽と腐れ落ちる地。
忌まわしい歴史の果てに沈黙する廃都にて、聳えたつ城はただ荘
厳な姿を佇ませている。
今は死と共に在り深く眠る城。
その巨大な塔の如き姿が衆目に曝される日が、もうまもなくに迫
っていた。
※ ※ ※
様子がおかしい。
雫は遅ればせながらそのことに気づいたが、どうすればいいのか
分からなかった。とりあえずはシロンの詰問に正直に答えてみる。
﹁私の話のどれが問題なのか分かりませんが⋮⋮盗品など知りませ
ん。何か誤解があるんじゃないですか?﹂
1240
彼女は言いながら、一番最後に描いた絵本の話を思い出す。
貧しい盲目の娘の話。元にした実話は謎が残る話であったが、雫
はそれを排して子供向けに、正直者の娘がその心根によって救われ
る話へと変えた。あれが﹁誰も知るはずのない話﹂だとしたら雫自
身は何処でそれを知ったのか。思い出そうとしても何故か分からな
い。
男は困惑する彼女に向けて一歩踏み出した。
﹁誤解のはずがない。いいですか? 私は何も貴女が盗ったと言っ
ているのでない。ただ手がかりを得たいだけなのです。けれど今ま
でどれ程父が騒ごうとも、あんなものを大っぴらに探すことは出来
なかった﹂
あれ、とは何なのだろう。
シロンは真剣そのものだが雫はそこからして分からない。彼女は
緊張する自分の胸元をそっと押さえた。
だが彼は雫の困惑そのものを無視して続ける。
﹁私自身があれを利用しようというのではありません。あんなもの
⋮⋮本当かどうかでさえ疑っているほどだ。しかしあれが戻らなけ
あの話を何処で聞いたの
れば、いつまでも私は父の讒言に悩まされなければならない。だか
ら、貴女に尋ねているのです。︱︱︱︱
です?﹂
﹁分、かりません⋮⋮﹂
雫はこの状況よりもむしろ、何故記憶が上手く取り戻せないのか、
そちらの方に恐れを抱いた。こめかみを押さえて思考を巡らすが、
どうしても思い出せない。あの話は何処から出てきたのだろう。誰
にも聞いた覚えがなく、読んだ覚えもない話の結末に彼女は喘いだ。
しかし、分からない答を探す雫を、シロンは言い逃れようとして
いると取ったらしい。彼は柔和であった顔を顰めると、声を低くし
た。
1241
﹁教えて頂けないなら、貴女を安全な場所へは移せない⋮⋮どうい
うことか、お分かりですね?﹂
間接的な脅迫に、雫もまた表情を険しくする。彼女は振り返って
扉の前に立つ女官を一瞥すると、シロンに視線を戻した。
﹁私に危害を加えれば国交に影響が出ますよ﹂
﹁危害を加えるつもりはありません。素直に言うことを聞いてくだ
さるならば﹂
﹁私は本当に分からないんです。何処で話を聞いたのかも⋮⋮﹂
言いながら雫は、自分の言い分が説得力に欠けることを自覚して
いた。
絵本にまで描いておきながら、何処で元の話を知ったのか分から
ないなどということがあるはずない。彼女は引き出しを何度も開け
て探し物をするように頭を振った。その耳に失望の溜息が聞こえる。
﹁少し、時間を置きましょう。よく思い出してください。貴女は必
ずそれを知っているはずだ﹂
目的を果たすまで雫をここから出す気はないと窺える言葉に、彼
女は記憶を探る行為をひとまず諦めた。強い視線でシロンを見返す。
﹁帰してください﹂
﹁それは出来ません﹂
﹁実力行使しますよ﹂
雫は振り返ると扉の前に立つ女官を見つめた。仮面のように表情
のない彼女を見たまま使い魔の名を呼ぶ。
﹁メア﹂
胸元に潜んでいた小鳥。緑の色を持つ魔族は主人の呼び声に応え
て姿を変える。
シロンと女官が少女を見て動揺したのが空気で分かった。
あの時、女官に引き摺られて部屋を飛び出した雫は、何もメアを
部屋に置き去りにしてきたわけではない。小鳥のまま追ってきた彼
女を、振り返り腕を伸ばして胸元に引き取ったのだ。
1242
護衛としてメディアルについて来てくれたエリクは、大抵の場合
彼女と共にいてくれるが、それも四六時中というわけにはいかない。
その代わり﹁必ずメアを連れ歩くように﹂と彼から言われていたの
である。
﹁メア、お願い﹂
﹁かしこまりました﹂
使い魔の少女は細い腕を上げる。同時に立ち塞がっていた女官の
態勢が崩れた。だが女官は半ば膝を折りながらも詠唱を開始する。
魔法士だ、と思った瞬間、雫は気配を感じて振り返った。メアに短
剣を振り下ろそうとする男に体当たりをする。
﹁扉を開けて!﹂
短い命令。メアは主人を気にしながらも放たれた魔法を相殺した。
扉を破る為の力を練る。
その間に雫は、倒れたシロンの剣を取り上げようと彼の手に飛び
子供が死にますよ﹂
ついた。両手の指が剣の柄にかかった時、けれど男は陰鬱に囁く。
﹁︱︱︱︱
脅迫とも言えないそれだけの言葉。
しかし雫は瞬間、虚を突かれて動きを止めた。男の手が白い首に
伸びる。
扉が砕け散る破壊音。
魔法士の防壁を破って命令を遂行したメアは、だがそれ以上何も
出来なかった。首に短剣を突きつけられた主人を見て息を飲む。
﹁マスター﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
後ろに捻られた腕はもう少し力を加えられれば折れてしまいそう
だ。雫は骨が軋む痛みと、喉に鋼の冷たさを感じて唇を噛んだ。苦
痛を堪えながら、うろたえるメアを見つめて口を開く。
﹁メア、エリクのところに行って﹂
﹁逃げれば彼女を殺しますよ﹂
﹁メア!﹂
1243
︱︱︱︱
どうか行って欲しい。
※ ※ ※
見かけよりも遥かに頁数のある本。それと論文をつき合わせて呼
んでいたエリクは、激しく扉を叩かれる音に眉を上げた。本を閉じ
ながら腰を上げる。
まだ夜更けには遠い時間だ。雫かメアでも呼びに来たのだろうか。
だがそれにしては叩く力が強すぎる。彼は返答をせずに鍵を開け
た。そこには真っ青な顔の女官が立っている。
﹁た、大変です。お連れ様が⋮⋮﹂
﹁雫が?﹂
後に続く説明の途中まで聞いて、エリクは部屋を駆け出した。廊
下を曲がった先にある雫の部屋へと向う。目に入ったのは兵士たち
や魔法士の姿。そして無残なまでに破壊された扉と砕け散った硝子
の破片だ。
破られた窓から吹き込む寒風を前に、彼は竜巻でも通り過ぎたよ
うな部屋の惨状を見て愕然とする。﹃お連れ様が、魔族に攫われま
した﹄という女官の信じがたい言葉を、胸中で反芻しながら。
突然の魔族の襲撃による犠牲者は雫だけではなく、メディアルの
人間も十数人死傷者行方不明者が出たという。
護衛として来たにもかかわらず、むざむざ彼女を攫わ
エリクはシロンから報告と謝罪を述べられ、しばし沈黙した。
︱︱︱︱
れたのは自分の責任だ。
1244
こんなことになるのなら他国の城だからと遠慮せずに、床に紋様
を刻んで結界を強固に張っておくべきだったろう。
しかしそれとは別に腑に落ちないこともある。
つまり、いつも主人と共にいるはずの使い魔は、何故いないのか。
死んでしまったならその痕跡が残るはずだ。なのに死体も血の跡さ
えもなく、ただ何処にいるのか分からない。魔族が魔族を攫うこと
などまずないことであるし、力を取り込む為食らおうとしたのなら、
その場でそれをしただろう。むしろ跡も残さずメアを攫えるような
力のある魔族なら、メアを食らう必要など、はなからないのだ。
エリクは無表情ながらも探る目でシロンを見返した。
﹁魔族が何処に逃げて行ったか分かりますか?﹂
﹁おそらくは西の方だと。主に出没するのは国境近くの街々ですか
ら﹂
﹁城内を調べさせてもらってよろしいでしょうか﹂
間髪入れない要求にシロンは顔を引き攣らせる。それが狂言を疑
われている為と分かったのだろう。若くして一国の宰相を務める男
は瞳に険を帯びてエリクを見据えた。だが、魔法士の男は平然とそ
れを受け止める。
二人が睨みあっていたのはほんの数秒でしかなかった。
シロンは視線を逸らしながら慇懃な声音で返す。
﹁よろしいでしょう。ご自由にどうぞ。ですが一通り探されて納得
されたのなら、以後そのような発言はご遠慮頂きたい。今回のこと
は誠に申し訳ないことで御座いますが、我が国は貴国と永くよき関
係を築きたいと思っておりますので﹂
一礼して部屋を出て行くシロンを、エリクは氷の如き目で見送る。
そして彼は一人になると、城の捜索よりも先にファルサスへと連
絡を取るため部屋へ戻ったのだった。
﹁やられたわね﹂
要点を伝えてまず返ってきたのは、レウティシアの苦々しい声だ
1245
った。
音声だけを遠隔でやり取りする魔法具はさすがに映像までは送ら
ない。だがそれでもファルサスにいる彼女がどのような顔をしてい
るのか容易に想像がついた。女の呆れた声音が後に続く。
﹁面倒ごとが起きないよう貴方をつけたのに。一緒の部屋にいなさ
い。まったく﹂
﹁そう出来る時はそうしていました。が、僕の失敗だ﹂
シロンが時折雫におかしな視線を送っているとは気づいていた。
だが、結局は不審に思っていただけのまま相手に先手を打たれてし
まったのだ。
先日の兄に続いての悔恨の言葉に、レウティシアは小さく溜息を
つく。
﹁それで? メディアルがやったと思うの?﹂
﹁可能性は高いと思います。状況に不明な点が多い﹂
﹁狙いは?﹂
﹁断定は出来ませんが、彼女が攫われたということにしてファルサ
スの対魔族出兵を促すつもりかもしれません﹂
﹁そんな無茶な﹂
雫は確かに或る意味代わりのいない人材ではあるが、彼女一人を
切っ掛けに軍を動かすことなどあり得ない。
第一兵権を握っているのはラルスなのだ。
ファルサスでの王の性格を知っている者なら誰でも、そのように
軍は動かせなくとも個人が動く可能性はある。
馬鹿な考えには至らないだろう。
ただ︱︱︱︱
たとえば現状大陸でも上位の魔法士に入るであろうエリクや、フ
ァルサス王族であるレウティシアなどが。
この二日間でエリクがつかず離れず雫を守っていたからこそ、そ
のような判断に出られたのだとしたら裏目にも程がある。エリクは
通信用の魔法具の隣にあったペンを指で弾いた。それは勢いにのっ
1246
て机から落ちていったが彼は拾おうともしない。
﹁城内はもう探した?﹂
﹁まだ。しかし探してもいいと向こうから言うくらいだ。すぐに見
つかるようなところにはいないでしょう﹂
﹁或いは本当に西に連れて行かれたってこともあるわね﹂
それが一番問題ある結末だ。ファルサスの危機感を煽る為、雫を
本当に魔族に攫わせたという事態が。
そうであるなら一刻の猶予もないだろう。エリクはメディアル西
部の街々のうち転移陣が配備されている街を記憶の中からさらい出
した。
彼女は何処にいるのか、何が正解なのか、判断を要求する声が魔
法具から響く。
﹁貴方はどうしたいの? エリク﹂
﹁西部に。代わりに城の捜索には別の人間を寄越して頂きたい﹂
迷っている時間はない。一番危険な可能性から潰していく。
エリクはレウティシアの了承を聞くと黒いカバーをかけた本だけ
を手に、転移陣を借りるべく部屋を出て行ったのである。
枷をされているわけではない。その程度には自由だ。
ただそれでも雫が軟禁されていることは歴然とした事実で、彼女
は苦々しさに自責を込めた舌打ちを禁じえなかった。高い天井から
吊るされた籠を見上げる。
﹁メア⋮⋮﹂
主人の安全を優先して捕らえられた使い魔は、魔族用の籠に入れ
られ雫の手の届かないところに置かれていた。
彼女は見張りとして扉の前に立つ魔法士の女を睨む。
﹁あれって何ですか? 私本当に知らないんですけど﹂
﹁私もよくは存じ上げません。ただ歴史書に似た類のものらしいと
1247
は伺っておりますが﹂
﹁歴史書?﹂
余計に心当たりがなくなった。
雫はこの世界の書物をまだすらすらとは読めないのだ。キスクで
も一冊厚い本に目を通していたが、ほんの数章何とか大意を取った
だけである。
そしてそれは絵本と関係するような話ではなかった。床に直接座
り込んだ彼女は、半眼で家具のない部屋を見回す。
﹁ここまでしたってことは私を無事に帰す気はないってことですよ
ね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
これはいくらなんでもファルサスから正式に遣わされた人間に対
する仕打ちではない。ラルスが雫を排除したがっていることを差し
引いても、彼は自分の国の使者を監禁されたと知ったらそれ相応の
対応を嬉々としてするだろう。
また面倒な問題を起こしてしまった。雫は頭痛がしてくるような
気がして頭を抱える。
彼女を監禁した主が部屋に戻ってきたのはその時だ。
シロンは部屋に入ってくるなり、魔法士に﹁何かあったか?﹂と
問うて否定を受け取ると雫の前に立った。体育座りをしていた彼女
は男を見上げる。
﹁貴女の連れは西部に向いましたよ﹂
﹁西部に? ⋮⋮あ﹂
その言葉で雫は自分の行方不明がどう扱われているのかを察した。
以前からメディアルを悩ませているという魔物の襲撃。それの犠牲
に彼女もまたなったと、思われているのだ。
自分の甘さでエリクを危地に追いやったことを知って雫は歯噛み
する。
だがシロンはそれを嘲笑うわけでもなく、冷めた目で彼女を見つ
1248
めた。
﹁貴女に助けは来ない。出来ることは私にあれについて教えてくだ
さることだけです﹂
﹁ヒントが足りません。あれって何ですか。歴史書?﹂
それが何を指すのか雫は知っている。
﹁⋮⋮秘された歴史を伝えるものです﹂
﹁え?﹂
︱︱︱︱
彼女は瞬間気のせいかと思うほどの軽い眩暈を覚えて目を瞠った。
男の灰色の瞳を見つめる。
﹁もしかして⋮⋮あれって﹂
謎の女が持っているという紅い本。シロンが探しているのはひょ
っとしてそれではないだろうか。
雫の反応が得られたことに男は表情を変えた。強い語気で聞き返
す。
﹁思い出しましたか?﹂
﹁多分⋮⋮私も、それを探しています。女性が持っていて、メディ
アルで消息を断ったと聞いて⋮⋮﹂
﹁女? どのような女なのです﹂
﹁詳しくは分かりません。髪は銀髪。目は赤茶だと聞いてはいます
が。レウティシア様が今も探されています﹂
それを聞くと男は目に見えて落胆の表情になった。折角手がかり
が得られたというのに、その手がかりも﹁分からない﹂と言うのだ。
新たな情報は得られたが、それだけの女など他に何人もいる。半ば
振り出しに戻ったも同様だろう。
しかし彼の落胆など雫は知ったことではない。第一その本が欲し
い理由も、ここに監禁されているという点でも深刻なのは彼女の方
なのだ。
雫は床に手をついて立ち上がると出来るだけ棘を抑えてシロンを
見やる。
﹁これでいいですか? 私を帰してください﹂
1249
﹁⋮⋮それは出来ません﹂
﹁やっぱり。行く末は魔族への人身御供ですか?﹂
半ば投げやりにそう言うと、シロンは笑いとも言えない奇妙に歪
んだ顔を見せた。自嘲のような違うような口元。後悔を匂わせる目。
だがそこに一瞬だけ、野心家のような揺らぎが走るのを雫は見逃さ
なかった。ささやかな意趣返しを込めて吐き捨てる。
﹁お父さんの為に探しているなんて口実でしょう? あなたは自分
があれを欲しいんだ﹂
﹁違う⋮⋮﹂
﹁だってそれだけの為にこんなことする? ファルサス王が知った
ら、あなた破滅ですよ。正直になったらどうですか。あなたが、あ
っ、黙れ!﹂
れを欲しいんです。秘された歴史を知って利用したがってる﹂
﹁︱︱︱︱
部屋中に突き刺さる怒鳴り声。その滅裂さに動揺したのは言われ
た方よりも言った方だった。感情も顕に肩で息をつくシロンは、平
然としたままの雫に気づくと目を逸らす。逃げ出すようにそのまま
踵を返した。
決裂が目に見える程に明らかである空気。
それ以上一言も発せずに男が部屋を出て行くと、彼女は元通り床
の上に座りながら悪びれもせず﹁図星かぁ﹂と呟いたのだった。
※ ※ ※
メディアル西部の街の一つ、ベルブは高山地帯に位置し、冬場は
徒歩や馬でたどり着くことはまず不可能と言われている。ただその
代わり国内への転移陣が充実しており、交易商人や冒険者が多く立
1250
ち寄る要所にもなっていた。
北の高山から流れてくる冷気。
大通りだけは人が多いせいかほとんど雪が積もらないが、屋根や
路地に積もったそれは固く凍り付いて当分溶けないのではないかと
思われる程だ。
往来では旅人たちがみな防寒着に身を包んでいる。その中を行く
エリクは、ファルサスより直接合流した兵士の一人から、メディア
ル西部での魔族襲撃の状況について簡単な調査結果を受け取ってい
た。
﹁ファルサスよりも頻度が高いね。人を攫うって事例はあるの?﹂
﹁女性ばかりですがかなりの人数が。中にはファルサスと同様魂を
抜かれたと思しき犠牲者もおりました﹂
﹁ああ。あれか﹂
先日の事件の際、雫の魂は抜きにくかったらしいということが分
かっているが、それでも抜けないとは限らない。
エリクは顎に指をかけて考え込んだ。肝心なことを聞き返す。
﹁何処が魔族の大本かってのは分かってるの?﹂
﹁正確には分かっておりません。ただ⋮⋮魔族が現れ始めた初期に
﹃山の中に城があった﹄と﹂
雇われた傭兵たちで、生き残った者が何人か言っているそうです。
︱︱︱︱
﹁城?﹂
それはおかしな話だ。
この辺りはメディアルの城以外、領主の城も他国の城もなかった
はずだ。第一ここより西部の高山地帯は国がない空白地帯となって
いる。西や北の海際まで行けば小国が存在するが、それらはメディ
アルと国境を接しておらず、﹁空白の向こう﹂の国なのだ。
﹁その傭兵ってまだ近くにいるの? 直接話を聞きたいんだけど﹂
兵士からいくつかの酒場や宿屋の場所を聞いて、エリクはその一
つへと足を向ける。
そしてそこで、思いもかけぬ人物と再会することになったのだ。
1251
﹁あれ、お前生きてたのか﹂
あっけらかんとした言葉に、酒場に入ってすぐのエリクはさすが
に少し面食らった。中の薄暗さに目が慣れると得心して返す。
﹁君か。生きてたのか﹂
﹁おかげさまでな﹂
カンデラ国内で一度会ったきりの相手。しかし禁呪事件の際、雫
ターキスは酒瓶を手に、
を連れてカンデラ城へ襲撃をかけたという傭兵を忘れることはさす
がに出来ない。
長身の鍛えられた体躯を持つ男︱︱︱︱
にやにやと笑いながら立ったままのエリクを見上げた。
﹁雫は? 無事なんだろう?﹂
この男と雫はカンデラ城にてお互いの安否が分からぬまま別れた
と言うが、雫が﹁やっぱり無事じゃないかな﹂と思うと同様相手も
そう思っていたらしい。今となっては皮肉な問いに、エリクは﹁昨
日まではね﹂と感情を抑えて答えた。
﹁昨日? 今は?﹂
﹁行方不明。だから情報を集めてる﹂
簡潔かつ不穏な返答。それに思わず眉を顰めた傭兵の向かいにエ
リクは座ると、﹁魔族について知っていることがあったら教えて欲
しい﹂と本題を切り出した。
※ ※ ※
勝手の分からない他国の城ではあるが、見逃しがあっては不味い。
レウティシアの命令でメディアルへと派遣されたハーヴとユーラ
1252
は、それぞれ与えられた部下に指示を出しながら広い城内に捜索を
かけていた。
一通り目ぼしい場所を調べてしまうまで約半日、だがそれでも雫
を発見することが出来なかった二人は、メディアルの人間たちの白
い目をかいくぐって小さな会議室で落ち合う。ハーヴは自分でお茶
を淹れながら年下のユーラに問うた。
﹁どうだった?﹂
﹁駄目ですね。正直、雫さんが入れられたのが隠し部屋だとしたら
見つからないと思います﹂
﹁だよなぁ。メディアル王も本当に知らないみたいだし⋮⋮﹂
西部へと向ったエリクは﹁宰相が怪しい﹂と伝言していったが、
その宰相についても決め手はない。ハーヴは自分のお茶を一口啜る
と大きな溜息を吐き出した。
﹁やっぱり西部なのかな。不味いよな﹂
﹁その可能性もありますが、やはりこの城は不審ですね﹂
﹁え、そう?﹂
きょとんとするハーヴにユーラは頷いた。捜索と平行して調査し
ていた内容を口にする。
﹁昨日の襲撃事件、証言が噛み合っていませんよ。 応戦した兵士
たちは有翼の魔族が人を攫ったと言っていますが、同時刻に外庭に
出ていた女官たちは誰もその姿を見ていません。他にも死亡者や行
方不明者は、普段戦闘になど出ない兵士や魔法士たちばかりで、そ
の中には宰相の子飼いも数名混ざっています﹂
﹁いなくなっても構わない人間を犠牲者に仕立てたってこと?﹂
﹁もしくは犠牲者に見せかけて地下に潜ませたかですね﹂
ユーラはそこまで言い切ると、新しいカップにお茶を注いで口を
つけた。笑顔を繕う気にもなれないらしく、彼女の眉の間には深い
皺が刻まれている。
疑惑は募るが、もし本当に黒だとしたら相手も本気で雫を隠して
いるだろう。ファルサス程ではないとはいえ、広い国土を持つ国だ。
1253
違う街にでも移されたら追いきれない。
﹁参ったな⋮⋮何で彼女なんだ﹂
﹁そもそも最初から雫さんを名指しで呼んだんですよね? 宰相と
やらの希望で。それって何故なんでしょう﹂
何故、雫は狙われたのか。
ユーラの疑問にハーヴは目を瞠る。
︱︱︱︱
今まで考えてもみなかった動機の分からなさに二人はしばし黙考
すると、予定通りレウティシアに報告を入れ、彼女の命令でメディ
アルを後にしたのだ。
﹁だそうですよ。兄上﹂
﹁最近舐められてないか? この国。誰のせいだまったく﹂
﹁兄上のせいだと思います﹂
﹁まぁいい。ファルサスが怖くないというのならもっと怖い奴を動
かしてやるさ﹂
※ ※ ※
暗い土地。聳える城の一室で女は目を閉じている。
外界を凍えさせる冷気も、人の精神を蝕む瘴気もここまでは入り
込まない。
灰色の石壁が囲む小さな部屋は、異界に取り越された現実のよう
だった。
雪よりも透明に光る銀髪。像のように固定された貌。
彼女は多くを語らない。彼と共にいる時は特に。
1254
白い手は紅い本の上に置かれている。彼女の人生を変えることと
なったその一冊を、男は異物のように見やった。
﹁アヴィエラ﹂
﹁何だ﹂
﹁明日には始めるぞ﹂
それが何を意味しているのか、知っているのは二人だけである。
彼女は瞼を上げると笑った。
﹁性急な奴だ。上位魔族はもっと時間に鷹揚かと思っていたが﹂
人である彼女と、概念的存在である男とは元々の寿命からして違
う。
老いもなく、決まった年月で死ぬということもない男の短気にア
ヴィエラは穏やかな目を見せた。
﹁好きにすればいいさ。いつでも意気のある者は挑んでくる﹂
﹁その中に俺を楽しませる人間がいるのか?﹂
彼が彼女に従っている理由とも言える問いに、女は歌う小鳥のよ
うに小さく息を吐き出す。
上位魔族たちの中でも﹁最上位﹂といわれる十二人のうちの一人
が、人間に傾倒した異端児であったことは、同族ならば皆よく知っ
ている。
人間とは本来、彼らにとって塵芥にも等しい存在だ。興味を持つ
ことなどはなからありえない。
だが、その男だけは違った。
人の時間にして千年近くもの間、男は人間界に下りて人に関わっ
た。権力の集まるところに紛れ込んでは、人心を操り揉め事を起こ
して楽しんでいた。
いつの間にか気紛れではなくなっていた
まったくろくでもない気紛れだ。子供の遊びにも程がある。
けれどそれは︱︱︱︱
のだ。
男は、最後に一人の非力な人間を愛した。彼女を守りその生を支
1255
えた後、彼女の死と共に人間界を去った。そしてそれ以来ずっと、
同族の前にも姿を現していない。
あれ程力のあった男が、何故人間などという存在に惹かれたのか、
彼には分からない。意味も見出せない。
ただほんの少しだけ興味を持った。
不変が満たす彼らの階層ではなく、常に揺れ動く不安定な階層に。
そこを這い回って生きる人間という存在に。それと共に在る時の感
情というものに。
だから彼は、女の召喚に応じた。彼女に力を貸して世界を巡り城
を作った。
それはまだほんの十数年のこと。未だ彼は人間の何が面白いのか
分からない。
﹁人は美しいぞ、エルザード﹂
女はよくそう言って笑うが、彼は彼女の言葉の意味が分からなか
った。
﹁エルザード、今はもうないものならばそれは一度もなかったもの
なのか? 忘れられたものなら存在しないものになるのか? 人間
がみな平穏な今のみを見るのならば、その安寧の下に積まれた屍は
どうなる。無数の可能性を無視し、小さき世界に堕していくのなら
ば、人は人たる精神を持たないただの泥塊だ﹂
﹁元々泥塊のようなものではないか。脆くて弱い塵だ﹂
エルザードの相槌にアヴィエラは唇の両端を上げた。赤みがかっ
た瞳に矜持と慈愛が浮かぶ。人について彼がその儚さ指摘する時、
何故彼女がいつもこのような目をするのかエルザードは理解できな
い。
ただ、それが分かる日が来たのなら、少しだけこの渇いた好奇心
も癒されるような気がするのだ。
1256
※ ※ ※
この状況を招いたのは自分の甘さである。
自分の失踪について、ファルサスには偽りの理由が伝えられてい
るということもあり、雫は現状を自力で何とかする為に思考を巡ら
せていた。
天井に吊られている籠は大分高い位置にある。きっと跳び上がっ
ても届かないだろう。
見張りはいつも交代で一人。おそらくは魔法士だ。
彼らは自分たちの力に自信を持っているからこそ、雫を縛り上げ
たりはしない。
それは彼女にとってはプラスとなるはずだ。雫は黙って好機を待
った。
﹁これ、風味が足りない﹂
そんな不満を雫が口にしたのは、監禁されてから三日目の昼のこ
とだ。
根菜と豚肉を煮込んだ塩味のスープを出された彼女は、それを一
口食べて唇を曲げる。食事を運んできた魔法士の男は彼女の呟きに
不愉快そうな目になった。
﹁黙って食べろ。食事を出してやってるだけでありがたいと思え﹂
﹁不満ぐらい言わせて欲しいな。もうすぐ死ぬかもしれないのに﹂
軽いながらも諦観を漂わせる女の笑いに、魔法士は沈黙する。少
女にしか見えない女に処分という結末しか待っていないことを彼も
知っているのだろう。目の奥にほんの僅かな罪悪感が見て取れた。
1257
雫はそれに気づかない振りをして笑ってみせる。
﹁シロンさんは私が魔族に殺されれば、ファルサスも少しは魔族討
伐に腰を上げるかもしれないって思ってるんじゃない? これって
一石二鳥だよね。それとも死人に口なし? 実際はそう上手く行か
ないと思うけど﹂
﹁⋮⋮お前はファルサス王に気に入られているということではない
か﹂
﹁またその噂!?﹂
もう本当に勘弁して欲しい。
雫は心中で﹁王様、さっさと結婚して﹂と強く願った。しかしそ
れとは別に、落ち込んだ顔で大きく溜息をつく。
﹁というわけで不満くらい大目に見てよ。あとチピス持ってきてく
れるともっと嬉しい﹂
﹁我儘を言うな﹂
﹁やだ﹂
チピスとはファルサスでよく用いられる香辛料の一つで、料理に
振りかければピリッと辛みを足す白い粉だ。
男は彼女の要求を一度は拒否したものの、それくらいならばと思
ったのだろう、女官を呼びつけるとチピスの瓶を持ってこさせた。
それを雫に渡す。
﹁ありがとう!﹂
﹁かけすぎるなよ。ファルサスの人間は皆それを好むらしいが﹂
国の間での味覚の違いを窺わせる言葉を吐きながら魔法士は背を
向けた。雫は受け取った瓶を逆さにしてしきりに振った後、首を傾
げる。
﹁これ、瓶詰まってるよ﹂
﹁そんな馬鹿な。見せてみろ﹂
振り返って身を屈めた男に、雫は瓶を差し出した。小さな穴が空
いている箇所を指差す。
﹁この奥に何か引っかかってるみたい﹂
1258
﹁どれ﹂
彼が目を見開いた瞬間、彼女は右手を素早く動かした。
手の中に握りこんでいたチピスの粉。それを男の目目掛けて投げ
っっ! 貴様!﹂
つける。魔法士は突然の熱い痛みに、悲鳴を上げて目を押さえた。
﹁︱︱︱︱
痛みで両眼は開けられない。
だが彼女を逃がすわけにはいかない。それくらいだったら傷つけ
た方が余程ましだ。
男は手の中に光球を生むとそれを闇雲に打ち出そうとする。
しかしその瞬間を狙って、雫は男の腕に飛びついた。下から腕を
持ち上げある方向へと向ける。打ち出された光は、そのまま天井の
鎖へと当たって高い音を立てた。落ちていく籠を雫は空中で受け止
める。
﹁ごめんね!﹂
﹁待て!﹂
扉に鍵はかかっていない。女官がチピスの瓶を持ってきた時に開
けられたままだったのだ。
雫は未だ目を開けられない男を振り切って部屋を飛び出す。
与えられた部屋への道順は覚えている。
けれどそこに向うのは命取りだろう。エリクがもうこの城にいな
いというなら尚更だ。
雫は眠るメアを閉じ込めた籠を抱えて、長い廊下を全速で走った。
こうなってはもうこの城全体が敵地だ。
途中前方から人の気配を感じて角を曲がる。
︱︱︱︱
ひとまず何処かに隠れて、メアの籠を開けるしかない。
しかしそう思っても、何処が人の来ない場所なのか一見では判断
がつかなかった。何度か角を曲がった後、倉庫と思われる部屋を見
つけて足を止めると、雫は扉に手をかける。
けれどその時、廊下の向こうから﹁いたぞ!﹂という兵士たちの
1259
怒声が響いた。早くも追っ手が出されていたのだろう。彼女は慌て
て身を翻す。
﹁本っ、当っ、に! もう!﹂
どうしてこんなことになってしまったのか。
自分の不甲斐なさにも、シロンにも腹が立って仕方ない。
徐々に上がっていく息に雫は忌々しさを覚えながら幾つもの角を
曲がった。
そして、最後の角を曲がったところで立ち尽くす。
脇腹の痛みと全身を巡る血。背を伝う汗を自覚しながら雫は走り
︱︱︱︱
﹁困ったことをしてくれたものです﹂
陰鬱な声、灰色の瞳。
真っ直ぐに伸びる廊下の中央で彼女の行く手を遮る男は、数人の
兵士たちを引き連れたこの国の宰相であった。
﹁貴女はどうやらじっとしていられない性分らしい。しかし、それ
ではこちらも迷惑なのです﹂
﹁私もあなたの野心が迷惑です﹂
間髪入れず言い返してやると、シロンは奇妙に顔を歪めた。年下
からの反論に慣れていないらしい苛立ちが揺らいで見える。憤りを
剥きだしにする彼女とは対照的に、煮え切らない激情を無自覚に抱
え込んだ男は、表面上は冷静に反論した。
﹁私に野心などない。己の職務をまっとうできればそれで満足です﹂
﹁なら、あれを探さなければいいんじゃないですか? あなたには
必要ないんでしょう?﹂
﹁あんなものが他国の手に渡れば、それも困ります﹂
﹁ファルサスは壊す気満々ですけどね﹂
さすがに五人以上の兵士を相手に突破は出来ないだろう。雫は振
り向かないまま背後の気配を探った。反転する時を見計らって息を
整える
1260
とりあえずは隙が必要だ。けれど確実な手段はない。
彼女は自分の考えている揺さぶりが吉と出るか凶とでるか、自信
のないまま意を決すると口を開いた。
﹁正直に言えばいいじゃないですか。あなたはあれが欲しいって、
秘された歴史を記したあの紅いほ⋮⋮﹂
﹁捕らえろ!﹂
明かされてはならない秘密。
それを曝け出されかけたシロンの叫びは、彼以外の全員を動かし
た。兎のように俊敏な動作で逃げ出す雫を追って、兵士たちが走り
出す。
直線ではいずれ追いつかれる、そう判断した彼女は二番目に見え
た角に飛び込んだ。すぐそこにあった両開きの扉を押し開き、そこ
で足を止める。
﹁⋮⋮ちょっ! ここか!﹂
初めてこの城に来た時に通された壁のない部屋。雪混じりの寒風
が吹きすさぶそこを前に雫は息を飲んだ。引き返そうとした瞬間、
けれど背中を強く押され部屋の中に倒れこむ。氷のように冷え切っ
た床の上に膝をついた彼女は、慌てて落としてしまった籠を拾い上
げた。体を捩って背後を振り返る。
しかしその時には既に、扉は男の手によってまさに閉められると
ころであった。細くなる隙間から灰色の目が彼女を見つめる。
﹁貴女は少し頭を冷やした方がいい﹂
﹁待っ⋮⋮!﹂
伸ばした手。そのすぐ前で扉は閉ざされた。鍵を掛ける音が聞こ
え、彼女は凍りついた部屋に取り残される。
﹁嘘でしょ⋮⋮﹂
またたく間に体温を奪っていく外気、肌を刺す冷たさに、薄い室
内着のままの雫は籠を抱えて身を震わせた。
見渡す限りの景色に人の姿はない。他に誰もいない。
ただ雪と遠い街並みだけが窺える風景を前に、閉め出された彼女
1261
は緊張の息を飲み込むと何も言えぬまま大きくかぶりを振ったので
ある。
1262
003
雫が行方不明であると聞いたターキスは詳しい事情を知りたがっ
たが、危急時ということは把握したのだろう。メディアルに来てか
らのここ二ヶ月間に得た情報を、駆け引きなしにエリクに教えると
請け負った。
代わりとして奢られた酒を自分のグラスに注ぎながら、彼は酒に
手をつけない魔法士を見やる。
﹁俺だけ飲んで悪いな﹂
﹁いいよ。それより早く教えて﹂
﹁まぁ待て。素面で話すのはきつい。あそこまで酷い仕事に参加し
たのは初めてだったからな﹂
傭兵として長くやってきたことが分かる豪胆な男が、こうまで言
うという事態に、エリクは眉を顰めた。魔族の襲来はファルサスで
も起きたことであるし、実際その対応に出向いたエリクも魔物と交
戦する機会はあったが、それは凄惨というほどの戦闘にはならなか
ったのだ。
しかし目の前の男の表情は確かに昏い。憂鬱と言ってもいい視線
が酒を湛えたグラスに落ちた。
﹁もう二ヶ月以上前のことだ。俺は魔族退治の仕事が多いと聞いて、
魔法士の女とこの国に来た。実は魔族狩りってあんまり得意じゃな
いんだが、連れの女が戦争よりもそっちの方がいいって言ったんで
な。実際、この街についてすぐ仕事は見つかった。一人の女が傭兵
を大量に雇い上げて、ここら一帯で対魔族の指揮を取ってたんだ﹂
﹁女? 城の人間か誰か?﹂
1263
﹁違う。領主や貴族筋でもない。単なる個人だ。でもかなり腕の立
つ魔法士だった。転移門をぽんぽん開いて傭兵たちを移動させてた
からな﹂
襲撃が始まった初期には実際多くの傭兵が集まり、魔物の迎撃を
行っていたのだとシロンから聞いた。
しかし彼らの多くは今や何処にもいない。
それが何を意味するのか目の当たりにしてきたのであろうターキ
スと大体を察しているエリクは、酒気よりも重く淀む気鬱を感じな
がらも、だがそれに引き摺られはしなかった。続きを求められる空
気にターキスはグラスをテーブルに置く。
﹁俺たちは、何度か街での防衛を果たした後、最後に国境を越えて
西の高山地帯へと踏み入った。そこに魔族たちの大本があるんじゃ
ないかという雇い主の推測に基づいてな。実際そこには、今までと
は比べ物にならない程の魔物がいた﹂
﹁多かったの?﹂
﹁質も量も、って奴だ。山に囲まれた荒地で戦闘になったが、ほと
んどの奴らがここで死んだ。今思い出しても酷い有様だったよ。人
も魔物もぼろぼろになって死骸が無数に積み重なってた。街から攫
われてきたらしい女の死体とかも混ざっててな。それらは半ば腐っ
て酷い匂いを放ってた﹂
男の瞳は瞬間、ここではない何処かを見やるように宙に向けられ
た。そこにどれ程の惨状が映っているのか。ターキスは目を閉じる
と笑う。
﹁で、俺を含め生き残った人間たちは何とか離れた場所まで撤退し
たんだが、その内の何人かがもう一度戦いに行くって言い出してな。
だが、奴らはすぐに
雇い主も死んだし皆はもうやめようって言ったんだが、それを振り
切って十人程が荒地に戻ったんだ。︱︱︱︱
蒼ざめて戻ってきた﹂
﹁城があったから?﹂
それが、エリクの一番気になっていたことだ。懸念よりも深刻な
1264
疑惑。出来れば否定が欲しいと思っていた確認に、けれどターキス
はあっさり頷いた。
﹁お、知ってんのか。そうだ。さっきまで何もなかった場所に城が
建っていた。それでようやく怖くなったらしい奴らを加えて、全員
で街に戻ると後は口を噤んだ。城が突然現れたなんていったら正気
を疑われるだろう?﹂
大きな溜息はどちらのものか判別がつかない。エリクは前髪の下
の額を指で押さえた。苦い声で返す。
﹁疑わないよ。上位魔族がいるならそれくらい出来る﹂
﹁上位魔族!?﹂
かつて大陸中を覆った戦乱と裏切りの暗黒時代。その時代には﹁
神﹂とも呼ばれた存在が突如持ち出されたことに、傭兵の男はあん
ぐりと口を開けた。
しかしそれについて詳しく説明する気などないエリクは、軽く指
を弾いてターキスの意識を引き付けると気になったことを問う。
﹁それより一つ聞いていい? 雇い主ってどんな人間だったの? 何で個人で魔族討伐をしようとしたのか知ってる?﹂
傭兵への報酬は基本的に全額が前払いだ。個人で大量の傭兵を集
めたと言うことは費用だけでもかなりのものになっただろう。
その女は何故、国に任せずそこまでして自分で魔族討伐を行おう
としたのか。魔族の本拠地の情報はどうやって得たのか。
あまりにも不透明で見えて来ない状況に、エリクは思考材料の不
足を感じ取った。問われたターキスは腕組みをして首を捻る。
﹁うーん、動機は知らないぞ。聞かなかった。恨みや使命感に駆ら
れてって感じでもなかったし、いつも飄々としてたな。容姿は、銀
髪の美人で二十代後半。目は赤茶だったかな。さっきも言ったとお
り魔法士だったぞ。かなり強かったが、乱戦の中いなくなっちまっ
た。若い女だったし食われたんだろうな﹂
﹁名前は?﹂
1265
ざわめく。
﹁アヴィエラ﹂
︱︱︱︱
砂に打ち寄せる波のように、予感がざわざわと音を立てる。
風の強い夜のように。月が届かぬ暗闇のように。
似たような容姿の女などいくらでもいる。
それでも積まれた思惟が彼に囁くのだ。﹃見つけた﹄と。
エリクは横に置いておいた本をテーブルに乗せた。黒いカバーを
剥ぎ取り、紺色の表紙を曝け出して示す。
﹁その女は、これの紅いやつを持っていなかった?﹂
おかしなところは何もない質問。けれど大陸の根底に関わる問い。
期待と恐れをないまぜにしたかのような間に、ターキスは題名の
ない本を覗き込む。
﹁⋮⋮ああ、言われてみれば似てるかも。革張りで装飾がしてあっ
て題名がない。俺も近くではっきり見たことはないけどな﹂
題名のない本。
その紺色の表紙は何も語らない。頁を捲らなければ何も得られな
い。
それでも、望みさえすれば膨大な知識を与える異物を見やって⋮
⋮エリクは事態の混迷に、片手で顔を覆って息をついたのである。
※ ※ ※
1266
﹁寒い﹂という言葉には収まりきらない。
むしろこれは﹁痛い﹂と言ったほうがいいだろう。雫は全身に突
き刺さる痛みを堪え、籠を抱えたまま雪の中を進んでいく。
監禁されていた部屋を何とか逃げ出したのはいいが、代わりに極
寒の外へと閉め出されてしまった。これは彼女に対する罰か、或い
は凍死でも狙っているのだろう。曇天の下、降り始めた雪を見上げ
て雫は白い息を吐く。
着ているものはとても外を歩けるような厚みのあるものではない。
このまま何時間も外にいれば風邪を引くどころか本当に死んでしま
う。
だが、彼女は開いている場所を探して城の中に戻ろうとは思わな
かった。向こうも最初からそれを警戒しているだろうし、もっと言
うなら待ち構えているかもしれない。
そうなっては何の進展もなく、また捕らえられ監禁されてしまう
だろう。むしろこうして外に出られたのはきっと幸運だ。
メディアル城都の城壁は、街と城を一緒に囲んでいるのであり、
城と街の間には何の壁もない。ただ街から伸びる一本の道に衛兵が
立っているだけで、周囲は長い雪の斜面があるだけだ。
彼女たちがファルサスから来た時は、坂の下にある転移陣に出て
そこから道を登ってきた。だから今回も坂を下りて転移陣のある建
物に侵入するか、もしくは一旦街にでも隠れてしまえば何とかなる
だろうと雫は思っていた。
狙撃や衛兵に見つかることを恐れて、道ではなく厚く積もった雪
の上を一歩一歩踏みしめながら、彼女は遥か遠くに見える街へと下
りていく。
﹁メア、ごめん⋮⋮ちょっと待ってて⋮⋮﹂
籠の中に囁くも返事はない。
試みてはみたものの、結局魔法具らしきこの鳥籠を開けることは、
雫には出来なかったのだ。とっくに感覚のなくなった指に息を吐き
1267
かけて、彼女は棒のように固くなった足を前に出す。踏み出すはし
から足はずぶずぶと沈みこみ、徐々に冷水が爪先から染みこんでき
た。
髪の上に舞い散る白。
耳が千切れそうな程に痛い。
この城都全てを閉ざすは雪は容赦なく彼女の体温と体力を奪い、
凍える空気中へと拡散させていく。
雫は真っ赤に膨らんだ十指を一瞥すると、雪から籠を庇うように
しっかりと抱き込んだ。深く沈んだ足を引き抜き、前へと動かす。
﹁さむ⋮⋮﹂
歩き出してからどれくらい経ったのか。まだ坂は終わらない。
そりでもあればよかったな、と考えた雫は笑おうとしたが、顔が
強張って動かなかった。遠い街並みを見つめる。
元々監禁されてからというものの、床の上に蹲るばかりでろくに
眠っていない。けれど疲労を自覚した瞬間、眠気が襲ってきそうで、
彼女はただ歩くことだけに意識を集中させていた。重い右足を踏み
出す。
﹁あ⋮⋮っ!﹂
唐突に揺らぐ視界。
前のめりにバランスを崩して雫は倒れこんだ。籠を抱いたまま顔
が半ば雪に突っ込む。
踏み出した場所が思ったよりも厚く積もっていた場所だったのだ
ろう。底なし沼のようにそのまま足を取られて転んでしまったのだ。
雫は無事な左膝をつくと、めり込んだ足を引き抜こうとする。
﹁あれ⋮⋮抜けな、い⋮⋮﹂
見ると右足は太腿の付け根まで雪中に入ってしまっていた。これ
を戻すにはかなりの力が要りそうである。
彼女は一旦籠を置くと両手を雪の上についた。けれど力を込めよ
うとしたそばからその手も雪の中に沈んでいく。
途端に彼女はぞっとして横に転がると腕を引き抜いた。
1268
無理な捻り方をしたせいか埋まったままの足の付け根にまで鈍い
痛みが走る。
﹁っ⋮⋮痛いな⋮⋮もう﹂
しかしそれでも、深く嵌りこんだ右足はびくとも動かない。冷た
さで感覚も薄らいで行き、もはや自分の体とは思えなかった。
見上げる空は圧し掛かってくる程に近かった。
螺旋を描いて落ちてくる雪片を彼女は横目で見つめる。
﹁あー⋮⋮最悪﹂
全身がとても痛い。目に見えない程小さな針を押し当てられてい
るかのようだ。
だがそう思ったのも束の間、すぐに眠気が逆らえない圧力となっ
て雫に押し寄せてきた。体ごと深く沈み込んでいくような重さに、
恐怖さえも不思議と薄らいでいく。
﹁ねむ⋮⋮﹂
ちょっと休憩してもいいかな、と思う。
少しだけ休んで、また歩き出せばいい。まだ時間はいくらでもあ
るのだから。
投げ出した腕が何かに当たった。けれどそれが何かを確かめる力
もない。
彼女は睡眠時間を削って勉強していた受験時代を思い出し、口元
だけで微笑んだ。凍りついた睫毛を揺らし目を閉じる。
怖いことはない。何処にもない。
ただ会いたかった人間の顔だけを思い出して、雫の意識は吸い込
まれるように落ちていった。
※ ※ ※
1269
﹁あの城に行くって!? 正気か?﹂
﹁正気だよ。場所教えて﹂
話が終わったと思えば、とんでもない要求と共に地図を広げ始め
るエリクに、ターキスは唖然と口を開いてしまった。
二百人もの傭兵が犠牲になったという今までの話を信じていない
のだろうか、そんな疑いを持ってつい藍色の瞳を凝視してしまった
がどうやらそうではないらしい。むしろ分かった上での言葉と知っ
て、ターキスはさすがに眉を顰めた。思い留まるよう声をかけよう
と口を開きかける。
だが彼は、制止を口にする前にすぐあることに思い当たった。言
葉を変え聞きなおす。
﹁ひょっとして、雫がそこにいるのか?﹂
﹁分からない。魔物に攫われたって言われたけど本当かどうかも不
明だ。だから手分けして、僕は急を要するところから当たってみて
る﹂
﹁急を要するって⋮⋮外れたらどうするんだ。お前が死ぬぞ﹂
﹁そうなる前には救援を呼ぶよ。大丈夫﹂
軽く言ってはいるが、そう簡単なことではないだろう。答えてい
いものかどうか、ターキスは苦い顔のまま髪に指を差し入ると、わ
しわしとかき回した。大きく溜息をつく。
﹁攫われたって言っても、もう手遅れかもしれないぞ?﹂
﹁その可能性もあるけど、もし君の言う女が一枚噛んでいるなら雫
を殺していないかもしれない﹂
﹁何でだ﹂
﹁あの本の持ち主にとって彼女は利用価値があるからだ﹂
それがどういうことなのか、勿論ターキスには分からない。そし
けれど、そう考えれば全てが繋がる。彼女の特異性も
てエリクもただの憶測でしかなかった。
︱︱︱︱
1270
何もかも。
紅色の本の持ち主もそれに気づいているかは分からない。だが、
可能性を諦めるべきではないだろう。エリクは強い語気で問いを重
ねた。
﹁教えて。何処?﹂
大陸北西部に焦点を当てた地図の上、ターキスはしばらく逡巡し
ていたが、やがて諦めたようにある一点を指差す。高い岩山に囲ま
れた荒地。かつて暗黒時代に一つの国があった場所を。
エリクは今は空白地帯となっているその場所を見て、約六百年前
に地図上から消えた国の名を呟いた。
﹁⋮⋮ヘルギニス、か﹂
その消失と共に暗黒時代の終焉を告げた国家。
一夜にして魔女に滅ぼされた国の跡地を、男の無骨な指は確かに
指し示していたのである。
※ ※ ※
地は雪に、空は雲に覆われた世界は昏かった。
男は陰鬱さを感じさせる景色を前に不快げな視線を鋭くする。
吸い込むだけで鼻に痛みを与える冷気は、忌まわしいことこの上
ない。彼は軽い詠唱を持って自身の周囲に結界を張ると中の気温を
上昇させた。
仕事と言えば面倒ごとばかりだが、だからと言ってやらないわけ
にもいかない。さっさと結果を出してしまえばいいだろう。
そう思って周囲を見回した男は、けれど視線の遥か先に何か光る
ものを見つけて、訝しげに眉を寄せたのである。
1271
窓の外を見やるとまた雪が降り出している。
シロンは書類を置くと机上の時計を見やった。それは雫を外に追
い出してから既に四時間が経ったことを示している。
一応見張りは巡回させているが、報告がないところをみると城に
入ろうとはしていないらしい。仮に道を降りていったとしても転移
陣がある建物は現在封鎖させている。あの薄着で街までたどり着く
ことは不可能だろう。或いは時間的にそろそろ死んでいるかもしれ
ない。
﹁運の悪い娘だ⋮⋮﹂
最初から素直に質問に答えていれば、こんなことにはならなかっ
た。きっと元通りファルサスに帰れていただろう。
言うことをきかないからこそ魔族に攫われたことにしてファルサ
スを動かすことも考えたのであって、シロンも最初からたった一人
の身柄であの魔法大国が動くとは思っていなかった。いわば効果が
あれば儲けもの程度のおまけにしか過ぎない。
だが、結局は﹁あれ﹂について、一人の少女の命を奪っても得ら
れた成果はほとんどなかった。シロンは少なくない後味の悪さを自
覚すると、それを誤魔化すようにお茶に口をつける。
あの少女は﹁父親ではなく自分の為にあれを探しているのではな
いか﹂と穿ったことを言っていたが、そのようなことは決してない。
ただ、形だけの世襲制が意味するものが、﹁あれ﹂を隠匿し受け継
いでいくだけのことだと知った今は、自分の地位に不安を覚えてい
ることもまた確かだった。
﹁全ての歴史が読める、か⋮⋮本当にそんな力があったのか?﹂
直に﹁あれ﹂と接した事のない彼にはその真偽は不明だ。しかし
実際に神がかった洞察力を見せていた父を思うと、抑えきれない焦
燥が沸き起こる。
﹁あれ﹂としか呼んではいけない宝物。
1272
代々伝えられてきた真実の歴史を持たない自分は、本当にメディ
アルの宰相たる資格を持っているのか、と。
﹁宰相閣下! 大変です!﹂
そんな叫びと共に飛び込んできた文官に、シロンは煩わしげな目
を投げかけた。いつも通りの抑揚で聞き返す。
﹁どうした。ファルサスが苦情でも寄越したのか﹂
或いは主君であるメディアル王が今回の一件に勘付いたか、その
どちらかであろうと思った彼は、しかし次の一言でペンを取り落と
した。信じられない思いで立ち上がる。
﹁それは、本当か?﹂
﹁本当です! 既に使者が⋮⋮﹂
﹁邪魔をするぞ﹂
二人の会話を遮って部屋の入り口に現れた男。皮肉げな目つきが
印象的な魔法士は、シロンを見止めると唇の片端を上げて笑った。
自ら遮った文官の言葉を引き取り用件を述べる。
﹁キスク女王オルティアの使いとして伺った。この国である女が消
息を断ったと連絡を受けてな﹂
﹁な、何故キスクが⋮⋮﹂
ファルサスの隣国であり大国の一つでもあるキスク。
先だって両国間で小規模な戦闘があったことはシロンも知ってい
るが、何故今キスクが出向いてくるのか分からない。
即位したばかりの女王の手腕と轟く悪名を思い出して彼は顔を引
き攣らせた。
魔法士の男は嬲るような目でシロンの動揺を眺める。けれど彼は
体面上、慇懃な態度で右手を広げてみせた。
﹁ああ。ご存知なかったのか。あの女は、正式な条約に基づいてキ
スクがファルサスへと引き渡した女だ。それがたった一月で行方不
明では都合が悪い。だから女王は﹃徹底的に探せ﹄と仰られたのだ﹂
1273
﹁それは⋮⋮しかし、ファルサスも既に充分に探して⋮⋮﹂
来てすぐにこんなものを見つけたのだがな﹂
﹁探し方が充分ではなかったという可能性もある。現に俺は︱︱︱
︱
一段低くなった声。
男の後ろに回していた左手が前に差し伸べられる。
そこにあるものを見て、シロンは絶句した。
断ち切られた鎖と金の鳥籠。その中には、雫と共に逃げたはずの
緑の小鳥が眠っていたのだ。
両手で包み込んだカップは確かな温かさを伝えてくる。
砂糖をたっぷり入れた牛乳に口をつけて、雫はまた体を震わせた。
毛布にくるまりながら呟く。
﹁さ、寒い⋮⋮﹂
﹁当たり前だ、馬鹿。あのままいたら死んでたぞ﹂
扉を蹴り開けるようにして戻ってきた男を雫はぼんやりした目で
見上げた。まだ血の気が戻りきらない手を上げて挨拶する。
﹁ありがとう。遭難救助隊﹂
﹁ふざけてるのか?﹂
オルティアの命を受けてやって来たニケは、見るからに嫌そうな
顔になると雫の額を指で弾く。彼女は﹁あいた!﹂と悲鳴を上げる
と寝台の隣に座った男に﹁助かりました。ありがとうございます﹂
と礼を言い直した。
雪の坂を下りていて途中はまってしまったことは覚えているが、
どうやらそのまま気を失ってしまったらしい。
気がついた時、雫は雪の上でかつて同僚であった男に顔を覗き込
まれ、ひたすら頬を打たれていたのだ。
1274
﹁馬鹿だと思っていたが何をやってる! 死ぬぞ!﹂
意識が朦朧としていた雫には、言われている意味を理解すること
はほとんど出来なかった。ただ体を支えてくれている男の腕がとて
も温かいものに感じて、これでようやくちゃんと眠れると思ったく
らいである。
しかし彼女の希望とは裏腹に、ニケは﹁寝るな阿呆!﹂と叱りな
がら彼女を麓の宿屋に運び込むと、彼自身は女王の命を果たす為に
出て行った。
その間に宿屋の女将の手を借りて着替えた雫は、体温の戻りきら
ない体で縮こまりながら男の帰りを待っていたのである。
﹁今回は本当に死んだと思った。危なかったよ﹂
﹁俺も死体だと思った。ほとんど凍ってたからな。お前は両生類か
何かか?﹂
﹁一応人間です﹂
凍傷になっていた部分は魔法で治してもらったが、長時間薄着で
外にいた寒さはそう簡単には抜けきらない。ガタガタと震えながら
雫は久しぶりに会う気がする男を見上げた。
﹁シロンさんは何だって?﹂
﹁話にならないから王に直接事情を説明してきた。が、あの王は駄
目だな。お前を監禁したことは知らなかったらしいが、宰相を疑え
ないときている。さっさとこの国を出たほうがいいぞ﹂
﹁あーう﹂
初日に面会した時は物分りのいい優しげな王に思えたのだが、自
身の臣下の暴挙を疑えないのはその優しさの為なのかもしれない。
雫は男の手から小鳥を受け取ると、その冷たい体を胸元に入れた。
彼が雫を見つけられたのは、彼女が倒れた時にメアの籠を転がし
てしまった為らしい。籠はそのまま坂の下へと落ちてゆき、ちょう
ど自身の転移を使ってメディアルを訪れたニケに拾われた。それを
雫の使い魔と知っていた彼は、籠の転がってきた方向を辿って半ば
凍りながら眠っている彼女を見つけたのだ。
1275
﹁メア、大丈夫だよね?﹂
﹁魔族はそれくらいじゃ死なん。そのうち起きるだろう﹂
﹁うん⋮⋮ありがとう﹂
礼は後でオルティアにも言わなければならないだろう。
城の捜索で雫を見つけられる可能性が低いと踏んだファルサスは、
むしろ自国の兵を下げさせることでメディアルの油断を誘った。そ
の上で、入れ違いになるようにキスクを動かして、揺さぶりをかけ
ることにしたのである。
﹁俺は寛大で通ってるけど、お前は残虐で有名だからな。お前の方
が効き目あるだろ?﹂
とラルスから要請を受けたオルティアは怒りで血管が切れそうに
なったらしい。雫はそれを聞いて心中で姫に謝罪した。
飲み干したカップをテーブルに戻すと、彼女はまだ感覚が鈍い気
がする指を動かしてみる。
﹁何だ? 違和感があるのか?﹂
﹁少し。ちゃんと動くんだけど﹂
﹁凍傷で黒くなっていたからな。適当に治したつもりだが﹂
﹁適当!?﹂
多くを問う前にニケはひょいと彼女の手を取る。自分のものより
大きな手の伝えるものに雫は目を瞠った。
﹁あったか! すんごいあったかいよ! 人間カイロ?﹂
﹁⋮⋮お前が冷えてるんだ﹂
﹁そっかー。それにしても温かい﹂
雫はひとしきりニケの手に触れて温度を取り戻すとようやく手を
離す。
しかしその時、彼女は逆に手を掴まれ体ごと引き寄せられた。急
に至近になった男に雫はぎょっと目を丸くする。以前別れ際に何を
されたのか、忘れかけていた記憶を思い出したのだ。真意の分から
ない男が腰に回してきた手を意識しながら、彼女は強張った笑顔を
1276
浮かべる。
﹁ニ、ニケ、ファルサスに連絡いれてくれた?﹂
﹁さぁ? どうだったかな﹂
それは彼に拾われてすぐ雫が頼んだことだ。自分が無事で、メデ
ィアルの城都にいると伝えなければならない。彼女は違和感の残る
両手を軽く上げると、もっとも気にかかっていることを口にする。
﹁早くしないとエリクが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
空気が凍る音が聞こえたのは幻聴だろう。
けれど雫は、まったく分かっていないながらも肌に感じる気配で
﹁しまった﹂と感じた。地雷を踏んだ、とはこういうことを言うの
お前は本当に嫌な女だ﹂
だろうか。男の目が不穏に細められる。
﹁︱︱︱︱
﹁ご、ごめ⋮⋮?﹂
何だか非常に不味い。
雫は動転しながらも顔を背けようとするが、顎を掴んで固定され
しかし彼女に聞こえたのは空を何かが
た。いつかと同じように男の顔が近づく。思わずぎゅっと目を瞑っ
てしまったその時︱︱︱︱
切る鋭い音だった。
男の手が緩んだのを感じ取って雫は体を引きながら目を開ける。
﹁うわっ!﹂
それを見た瞬間、叫び声を上げてしまったのは無理からぬことだ
ったろう。
目の前で苦い顔のまま硬直している男。そのこめかみに刺さる寸
前の空中に、小さな金色の矢が静止していたのだから。
﹁無事でよかったわ、雫﹂
﹁レウティシア様﹂
絶世の美女と皆が賞賛するファルサス王妹レウティシアは、一分
1277
の隙もない笑顔で微笑みながら部屋の中に入ってきた。上司がわざ
わざ来てくれたことに雫は慌てて立ち上がりながら、けれどやはり
動けないままの男を振り返って問うことにする。
﹁あの、この矢って⋮⋮﹂
﹁ああ。貴方が﹃あの﹄キスクの魔法士ね? 今回はどうもありが
とう。余計なことしたら殺すわよ。女王にもよろしく言っておいて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
途中にとんでもない脅しが混ざっていた気がする。
何故ニケがレウティシアを恐れているのか、その理由が垣間見え
た気がして雫はそれ以上の質問をやめた。
王妹が指を弾くと金色の矢は跡形もなく消え失せる。つきつけら
れていた刃が退かれたことで、ニケはようやく立ち上がると儀礼的
な挨拶を施した。
しかし、その挨拶が終わるか終わらないかのところで別の声が割
り込んでくる。
﹁何だお前、この娘が欲しいのか。いいぞ、くれてやる﹂
﹁兄上! 勝手にやらないでください! 卑怯ですよ!﹂
﹁レティのやることも大概だと思うけどなー﹂
﹁⋮⋮あの、私の人権は一体⋮⋮﹂
何故王までもがこんなところに来ているのか。
レウティシアの後ろに現れたラルスは、妹の頭をぽんぽんと叩き
ながら背後にある廊下の窓を指し示した。雪の汚れで見通しの悪い
硝子の向こうには、白く聳える山が見えている。
﹁ここにはまだ来ていないのか? あの宣戦布告は﹂
﹁宣戦布告?﹂
それは、歴史に刻まれる祈り。
血と絶望に彩られた試練。
1278
黄昏時にさしかかろうとしていた街。
その空はしかし、王の言葉を待っていたかのように突如闇に閉ざ
された。
日蝕時の如く全てを影が覆い、黒い靄が上空に揺れる。
明かりも少ない街は途端、異界に落ちたかと思う程に世界から切
り離された。
残り僅かな陽光を遮って宙をたなびく瘴気に、雫とニケは唖然と
して窓の外を見つめる。
﹁ほら、来たぞ﹂
ラルスは不敵に笑いながら窓を開け放った。
困惑は街の他の住民も同じらしく、あちこちの窓が同様に開けら
れ、人が空を見上げているのが分かる。
畏れと戸惑いが視線として集中した空。
天変地異としか思えぬ光景の中、けれど空中に一人の女が現れた。
見覚えのない貌。
細身の黒いドレスは首元から足先までを覆っている。
長い銀髪はそこだけ月光を受けたかのように淡い光を放っていた。
色の分からぬ瞳が眼下の街を見下ろす。
まるで現実味のない存在。
暗黒が、来たる﹂
しかし女は紅い唇を開くと、何処までも響く声を降らせた。
﹁︱︱︱︱
翻弄された幼子の結末。
埋もれた歴史の果て、失われた記憶の続きに、人は生まれ続ける。
1279
﹁暗黒が来たる。闘争がやって来る。安寧にまどろむ人間たちよ。
今再び、闇に怯え死を恐るる時代が来た﹂
朗々と紡がれる言葉。
それは何を意味するのか。ラルスは笑い、レウティシアは目を閉
じる。
﹁罪のあるなしにかかわらず、闇はお前たちを蝕み、腐らせていく
だろう。理不尽な終わりがそこかしこに溢れ、守るべきものは失わ
れていく﹂
かつて、大陸を七百年の長きに渡って支配した時代があった。
間断なく戦が人と大地を灼き、数多の国が作られ倒れる時代が。
奪いしものが奪い去られ、育てしものは蹂躙される暗黒の時代。
その再来を宣言するような言葉に、雫は息を止めて立ち尽くす。
お前たち
﹁死が降り積もる。例外は何処にもなく、絶望は等しく与えられる。
境界は薄らぎ、負が世界を浸していくだろう。︱︱︱︱
がそれに屈して敗北するのならば﹂
女の声は、淀みもなく濁りもなく、ただ意志を持って透き通って
いた。
美しいと思わせる、だが言うことを憚らせる気高さを以って彼女
は笑う。
﹁その意気があるのならば、人よ、挑め。力を見せ、喪失を退けよ。
血と怨嗟の頂に辿りつきし者こそが新たなる王として、この大陸を
手に入れるだろう﹂
1280
女は息を切るとふっと微笑んだ。
雪に覆われた世界を見回す、その一瞬だけ今までの鋭さが消え、
母が子を慈しむような光が両眼に浮かぶ。
矛盾にも思えるその光。けれど雫の視線はその一点に引き寄せら
れた。
そして彼女は最後に謳う。
﹁私の名はアヴィエラ。七番目の魔女。時代の終わりと始まりでお
前を待っている﹂
※ ※ ※
女の姿が掻き消え、闇に閉ざされていた街に黄昏の光が戻ると、
雫は隣にいたラルスを見上げた。
問う語尾が自然と震える。
﹁何ですか今の⋮⋮﹂
﹁宣戦布告だろ? 魔女の﹂
﹁ま、魔女って﹂
﹁ただの人間だ﹂
暗黒時代の次に大陸を支配したのは魔女の時代。
その魔女さえも忌んだという剣を持つ王は何と言うことのないよ
うに言ってのけた。傲岸な青い瞳が雫の頭上を越えて、廊下の先を
見やる。
﹁それで? 何処に来いって?﹂
﹁ヘルギニス跡地。新たな城が建っていました﹂
﹁エリク!﹂
返答と共に現れた魔法士は、雫を見て刹那、判別出来ない複雑な
1281
目をした。駆け寄ろうとする彼女を手で押し留める。
﹁魔物の返り血浴びてるから。寄らない方がいい﹂
﹁すみません! 私⋮⋮﹂
﹁謝るのは僕の方。無事でよかった﹂
エリクはニケに視線を移すと﹁ありがとう﹂と会釈した。言われ
た方は何故か苦い顔で﹁礼を言われる筋合いはない﹂とそっけなく
返す。
﹁城の中も少し見てきましたが、かなり広いですね。中の空間が歪
んでいて見た目以上に広くなっています﹂
﹁そこにあの﹃魔女﹄がいるのか?﹂
﹁おそらく。城都に現れた上位魔族も﹂
変革が始まる。
暗黒の再来とその打破が近づいている。
雫は自分の中が物言わずざわめくのに気づいて胸を押さえた。冷
たい使い魔の体に触れ息を殺す。
何故こんなにも不安を覚えるのか。視線を彷徨わせた先でエリク
と目が合うと、彼は眉を顰めた。珍しく迷いが男の顔に現れる。
しかしすぐに王の力ある声がその場を叩いた。
﹁まだ何かあるんだろう? 言え﹂
逡巡するのは知っているからだ。
エリクは自分に視線が集中すると表情を戻した。温度を感じさせ
ない瞳がラルスを見返す。
﹁あの女は、紅い本の所有者です﹂
探していたものの行方。
その言葉に絶句したのは雫だけだった。
レウティシアは溜息をつき、ニケは怪訝そうな顔になる。
ラルスは喉を鳴らして笑うと昏い空を見上げた。
1282
日が落ちていく。
短い黄昏が幕を下ろす。
そうして始まる長き夜は、この大陸において類を見ないものにな
るであろう。かつての闇に届く程に。
雫は眩暈にも似た揺らぎを覚えて額を押さえる。浅い息を吐いて
目を閉じる。
始まりと同じ闇。
手が届きそうで触れられないそれが、世界全てを覆っていくよう
な気がして。
1283
人の祈り 001
闇が押し寄せる。忘却によって遠い彼方に置き去りにされた闇が。
長い夜が始まる。それは人々の精神を変質させていく。
闇に怯える無力な者には、忘れえぬ戦慄がもたらされるだろう。
力なくとも戦う意志のある者には、死と賞賛が。
そして、力と意志を兼ね備えた人間には真実が与えられる。
かつて一つの時代が終わり、そして始まった廃都。
魔に堕ちた地に聳える城は、沈黙と共にその姿を曝け出していた。
※ ※ ※
何処で選択を誤ったのだろう。
シロンはそれを繰り返し自問してみるが、どうしてもこれという
答を取り出せない。そもそも今が本当に誤っているのかも分からな
いのだ。
彼は震える手で書類に署名をするとそれを文官に渡す。軍を編成
し、国境を越えた先へと動かすというその内容は王の手を経て実行
に移されるだろう。彼は昨日のことを思い出す。
1284
﹁さて嘘つきはどういう目にあいたい?﹂
逃げ出した少女を小脇に抱えて突如現れたファルサス国王は、そ
う言ってシロンを見下ろしてきたのだ。まさかこんなことになると
は思わなかった。これでは一人の少女を切っ掛けに大国二国を相手
取ることになりかねない。
遠い暗黒時代にはそうやって一人の女により三国が滅んだという
話も残っているが、その時の女は大層な美女だったと伝えられてい
る。それに比べれば彼が捕らえた少女は変わった顔立ちとは言え、
少し可愛らしいだけの平凡極まりない娘なのだ。
慄きながらも納得出来ないという空気を漂わせる彼に、ラルスは
それを実行出来れば、今回の件は見逃してやると。
辛辣な笑みを湛えると、ある情報と共に一つの案を呈した。
︱︱︱︱
書類を受け取った文官は、その内容を一瞥して苦笑する。
﹁魔女ですか。あの﹃宣戦﹄には驚きましたが、魔女などしょせん
御伽噺でしょう。これで魔物の問題も解決するとなれば、願ったり
叶ったりですな﹂
﹁⋮⋮だといいのだがな﹂
歯切れの悪いシロンに文官は不思議な顔をしたが、そのまま執務
室を出て行った。
部屋に一人になると彼は机に肘をついて頭を押さえる。
今までずっと﹁あれ﹂に頼りきりの父を蔑んでいた。失ったが最
後人格までも変わる依存を煩わしく思った。
だがその父から一年以上もの間、﹁あれ﹂についての妄言を吹き
込まれたシロン自身、いつの間にか﹁あれ﹂に並々ならぬ執着を抱
いていたのかもしれない。
度を過ぎた行いの為、崖際に立たされた男は力なく呟く。
﹁魔女か⋮⋮﹂
あの女が﹁あれ﹂を持っているというのなら取り戻すしか道はな
いだろう。既に後ろは閉ざされてしまった。前に進むしかない。
1285
仮にそれを拒否したのなら彼はこの地位を追われ、罪人として遇
されるのは確実なのだから。
老齢の王はシロンからの要請に物言いたげな目になったが、黙っ
て承認を出した。
それをもとに編成された軍が、三日後城を出てヘルギニス跡地へ
と向う。
しかし二万の軍は結局、魔女の城に到達することさえ叶わなかっ
たのだ。
魔女に勘付かれないよう秘密裏に動かされた軍は、転移を使い国
境手前に集結したちょうどその時、魔物たちの襲撃にあって全滅し
た。
前例のない被害に戦慄するメディアルの城へは、主だった将軍た
ちの首と共に﹁意志がある者のみを迎える﹂という魔女からの伝言
が届けられたのである。
※ ※ ※
﹁つまり、軍を動かさずに個人として来いってことか﹂
敵方の勢力を計る為、自身が圧力をかけて動かしたメディアル軍
の結末に、ラルスは面白くもなさそうに嘯く。
魔女の幻影が大陸全土の主要な街に現れてから一週間。
けれど未だ、城の頂に到達出来た人間がいるとの情報は入ってき
ていない。
何しろヘルギニスは高山地にある為、跡地に踏み入ることさえも
普通の人間には困難なのだ。戦いを生業にしている者であっても、
1286
その場所を知って諦めた者は少なくない。
しかしそれでも﹁大陸の王になれる﹂との言葉に野心を煽られた
者や、御伽噺にしか聞かない魔女の存在に興味を持った人間も少な
からずいた。彼らは数日の間に百人近くが転移陣を使って近隣の街
を経由し、それぞれが武装して魔女の待つという城に向ったという。
もっともその結果、城から逃げ帰ってきた者は少数いれど、戻っ
てこなかった人間の安否は不明である。
他にもヘルギニス跡地から見て北と西の小国に連絡が取れないと
いう報告に目を通して、ファルサス国王はやる気なく手を振った。
﹁これ、どう足掻いても俺に要請が来そうだな﹂
﹁来るでしょうね。魔女討伐と言えばアカーシアの剣士です﹂
﹁そんな伝統を作った先祖が憎いぞ﹂
﹁伝統というか、アカーシアの力が諸国に知れてからずっとそうで
すよ、兄上﹂
妹の冷静な指摘に王は悪童の仕草で舌を出す。執務机の椅子に寄
りかかると彼は天井を見上げた。
﹁北部の街に張った結界は持ちそうか?﹂
﹁これでは長くは持たないでしょう。時間の問題ですね。既に他国
では街ごと滅ぼされたところも出てきているようですし﹂
﹁さすがに放置は出来ないか。おまけにあの魔女は﹃あれ﹄を持っ
ているんだろう? 外部者の呪具を﹂
ラルスの視線が妹の隣にいる男を捉える。何冊かの本を小脇に抱
えたエリクは間を置かず頷いた。
﹁魔女に雇われていた傭兵たちから証言が取れています。確かにあ
の本の所持者ならヘルギニスを魔に落とすくらい出来るでしょう。
かつてのヘルギニスの浄化結界については記録が何処にも残ってい
ませんが、あの本であれば記載されているでしょうから﹂
﹁それを悪用すれば異界も作れるというわけか﹂
﹁傭兵を雇って召喚した魔族と戦わせたのは、魂や負を集めて城を
建てる為ですね。女の魂の方は魔の領域を生み出す結界にでも使わ
1287
れたのでしょう﹂
当初の被害者である傭兵たちを含め、既に現時点での犠牲者数は
相当のものである。
歴史に残るであろう大事件に、執務室にいる三人はしばし、それ
ぞれの考えを巡らせた。
※ ※ ※
研究室の机の上には絵本の原稿の代わりに地図が広げられている。
その北西の一点を指すハーヴに、雫は視線を合わせた。
﹁そもそもヘルギニスがあった場所はもともと魔が濃い場所だった
んだよ﹂
﹁魔が濃い?﹂
﹁うん。別階層への境界が薄いっていうのかな。大陸にはところど
ころそういう場所があるんだ﹂
それを聞いて雫はメアのいた湖を思い出す。あの湖も元は魔力が
濃く、魚の棲めない場所だったらしいのだ。だがメアの主人だった
上位魔族が一帯を浄化して城を建てて以来、生物が棲み漁が出来る
ようになって水神と敬われた。
ヘルギニスもそのような土地だったのだろう。ハーヴは雫の理解
が得られたと分かると説明を続ける。
﹁魔が濃くて誰も立ち入れなかった土地に、けれど千百年程前、聖
女と言われる人間が来て命と引き換えにそこを浄化した。で、彼女
に付き従っていた者たちがその死を嘆きながらも無駄にしまいと、
建国したのがヘルギニスだったんだよ﹂
﹁はぁ⋮⋮何か凄いですね﹂
1288
何故わざわざ命を犠牲にして住みにくい場所を住めるようにした
のか。雫は不思議には思ったがそれを問わない。そういうものには
それぞれの事情があると思っているからだ。
﹁ヘルギニスにはどうやら浄化を継続して為すための魔法装置があ
ったらしい。けどその詳細は残っていないんだ。ある日突然、一夜
にして滅んでしまったから﹂
﹁⋮⋮魔女ですか?﹂
雫がつい先日聞いたばかりの不吉な単語を口にすると、ハーヴは
苦笑した。人のよい容貌に薄めた翳が見て取れる。
﹁そう、魔女。ある晩街に魔女が現れ、国を焼いた。魔女は城を跡
形もなく破壊して⋮⋮その中には魔法装置も含まれていたんだろう
な、ヘルギニスは再び魔に包まれるようになった。それ以来あの場
所は何百年も人の立ち入らぬ土地のままだったんだよ。つい最近ま
でね﹂
﹁今は大陸中の注目の的ですもんね。悪い意味で﹂
現状を言葉として指摘すると、二人ともその深刻さに押し黙らざ
るを得なくなる。
雫はすっかり冷えてしまったお茶を啜ると、ここ数日のことを思
い返した。
アヴィエラの宣戦布告が大陸中に放たれて以来、人々は﹁暗黒の
再来﹂﹁魔女の再臨﹂と恐れ戦いている。実際ヘルギニスを根城と
してあちこちの町や村を魔族が襲撃し、日を追うごとにその犠牲者
は増えていっているのだ。
各国はその対応に悩み、だがメディアルの件を知って二の足を踏
んでいる。
大陸全てが闇に覆われてしまったかのように陰鬱さに包まれる一
方、けれど野心や正義感に駆られて城に向う個人がいるように、フ
ァルサスでもまた昼夜を問わずその対応が議論されていた。
実際に城まで行き、内外部を調べてきたというエリクは議論にお
1289
いて魔法士側の筆頭にいるため多忙らしく、雫は帰ってきてから彼
と顔を合わせていない。
その代わりかハーヴが様子を見に来てくれたので、ついでに彼か
らヘルギニスの歴史について教えてもらうことにしたのである。
﹁それにしても魔女か⋮⋮参るよね、本当に﹂
﹁魔女ってどれくらい強いんですか?﹂
エリクと出会ったばかりの頃も魔女について聞いたことはあった
が、雫にはそのイメージがよく掴めない。非常に強い魔法士の女を
魔女と呼ぶのだとは知っているが、﹁非常に強い﹂がどれくらいな
のか想像もつかなかった。
素朴な疑問を呈する彼女に、ハーヴは手の中のペンを回そうとし
て机の下に取り落とす。彼は身を屈めてそれを拾い上げながら苦笑
混じりの息で返した。
﹁魔女って言っても個人差はあったらしいけど。大体一人で数万の
軍隊に匹敵したって言われてるね。人間の域を越えてるよ﹂
﹁うわぁ﹂
本当にそんな人間が現実に存在しているというのか。雫はあの日
闇の中に浮かんでいた女の横顔を思い出し嘆息する。
暗黒の再来を謳い、挑戦を手招く彼女の貌はけれど、紛れもなく
人のものに見えた。雫はそう感じたのだ。自らを忌まれし﹁魔女﹂
と名乗った女は、一体何を考えてあのようなことを言ったのだろう。
﹁やっぱ魔王を倒すにはレベル五十くらいないと駄目なんですかね
⋮⋮﹂
﹁何それ﹂
まったく噛み合わない雑談。
しかしそれは、研究室に見慣れぬ兵士たちがやって来たことによ
り中断させられることになった。彼らは雫に向って﹁王がお呼びだ﹂
と用件を告げる。
突然の呼び出しに驚きはしたものの、それを拒否する権限は雫に
1290
はない。彼女は付き添ってくれるというハーヴと並んで兵士に先導
されながら王の執務室へと向った。
﹁何の用なんでしょう。人参ケーキでも食べたくなったんですかね﹂
﹁それだけはありえないと思うよ。また二時間走りこみとかじゃな
いの?﹂
﹁あれは食欲なくなるから嫌です﹂
暢気さが否めない会話を彼らが続けていられたのは執務室に入る
までのことである。兵士によって扉が開けられると同時に、室内か
ら﹁雫!﹂という鋭いエリクの声が飛んできて、彼女は目を丸くし
た。
状況を見極める間もなく、王の腕が伸びてきて雫を捕らえる。服
の上からでも鍛えられていることが分かる男の腕に拘束され、彼女
は目を白黒させた。抗議を口にしようとする前に、喉にラルスの手
がかかる。
呼吸を圧するように喉を覆った掌に、思わず息を止めた雫の耳元
で王は笑った。
﹁言え。言わなければこのまま首をへし折るぞ﹂
﹁貴様!﹂
憎憎しげな女の非難。
その時になって初めて雫は、部屋の中にオルティアがいることに
気づく。
だがラルスの視線は彼女ではなく、一人の男に向いていた。藍色
の瞳が怒気を孕んで王を見返す。
﹁彼女を放してください﹂
﹁俺の言うことが聞こえなかったのか?﹂
冗談ごとでは済まない険悪な空気。
ラルスの手に力がこもるのを感じて雫は凍りついた。意味も分か
らぬままエリクを見つめる。
けれど彼女がその時目を留めたのは、テーブルに置かれた紺色の
1291
本で︱︱︱︱
それを見た瞬間雫は、息苦しさよりも何故か眩暈を
覚えてよろめいたのだ。
※ ※ ※
それは、雫が執務室に呼び出される二時間前のお話。
﹁にしても、情報が洩れるのが早すぎるな﹂
ラルスがそう言いながら書類を捲ったのは、メディアルの一件に
ついてである。
仮にも二百年以上広大な土地を支配した大国だ。軍の編成も移動
も彼らは速やかにやってのけた。
にもかかわらず国境を出る前に彼らは魔物の大群をぶつけられ敗
北したのだ。
これは宮廷内に監視でも入り込んでいたのだろうか。面倒くさげ
な国王に対し、しかしエリクは首を横に振る。
﹁おそらく本のせいです。あの本には国や有力者の動向のうち﹃確
定したこと﹄は次々書かれていきますから。メディアルが軍を派遣
すると決まった時点で記述が加えられたのでしょう﹂
﹁加えられたって⋮⋮まさか勝手に記述が増えるってことなの?﹂
﹁はい﹂
﹁それは反則だなー。筒抜けじゃないか﹂
紅い本についてその力が事実だとしたら、国や重要人物ほど動き
にくくなる。大陸一の国家の王であり、アカーシアの剣士としても
名が知られている男はさすがに嫌そうな顔になった。腕組みをしな
がら、妹の部下である魔法士を見やる。
1292
﹁で、お前は妙に詳しいな。何故知ってる?﹂
﹁僕も同じものを持っていますから。あとファルサス国内において
は情報が洩れることはありませんね。紅い本ではなくこちらの本に
書かれます﹂
言いながら無造作に一冊の本を差し出してきた男に、ファルサス
直系である二人はさすがに唖然となった。
彼らにとっては排除すべき対象である本。外部者の呪具と思われ
る一冊が、今この場に出てきたのである。これは驚くなと言う方が
難しい。
レウティシアは自失から立ち直ると恐る恐る黒いカバーのかかっ
た本を手に取った。
﹁見ても平気?﹂
﹁おそらく。僕も読みましたが平気です﹂
彼女は兄が頷くのを一瞥すると、題名のない本をぱらぱらと捲っ
た。
膨大な大陸の歴史。
千数百年に渡る記述の最後は、第三十代ファルサス国王が前触れ
なくメディアルへと向った、という箇所で終わっている。
一週間前にあったばかりの出来事に、レウティシアは眉を顰める
とそれを兄へ渡した。ラルスは片肘をつきながら本を見やる。
﹁複数あったのか。盲点だったな﹂
﹁中を調べたところ、大陸の歴史についてはこの本と魔女の本に別
れて記載されているようです。どちらにどの国が記載されるかはそ
の時代によって異なっていると思われますが、現在こちらの本はフ
ァルサス、キスク、ガンドナをはじめとして中央部から南西部の国
々を記述範囲としています﹂
﹁それで向こうがメディアルら北部と残りの東部というわけか﹂
驚きはしたものの、口伝により呪具の異質な力を知っていた王の
順応は早い。
1293
ラルスの指摘をエリクは首肯して続けた。
﹁記述に関しては﹃何処の国の人間が為したか﹄よりも﹃何処で為
したか﹄が優先されるようです。現にこちらの本には陛下が先日メ
ディアルに向ったことは書かれていますが、メディアルで何をした
かは書かれていません﹂
ならばそれは紅い本の方に書かれたということであろう。ラルス
は舌打ちして頁を捲る。流し読むように数十頁を捲った彼は、その
中に﹁ファルサス﹂の国名と外に洩れるはずのない封印された歴史
を見出して口を曲げた。
﹁勝手に記録するな、と言いたいところだが、ファルサスについて
こちらに書かれるのは好都合だな。国内で準備を整えて、向こうに
勘付かれる前にヘルギニスを叩けばいい﹂
﹁それはそうかもしれませんが⋮⋮兄上、本当に本物だと信じてら
っしゃるんですか?﹂
レウティシアの問いはエリクを疑うというより、﹁本当にそのよ
うなものが実在するのか﹂怪しんでいるものである。
おそらく誰に説明しても避けては通れないであろう疑惑に、王は
﹁ふむ﹂と首を傾げた。
﹁じゃあ実験してみるか。何かやってみよう。アヒルの銅像建立と
か﹂
﹁⋮⋮他にないのですか?﹂
実験したいのは山々だが、そんなことの為に訳の分からない像を
建てられても困る。第一銅像など作るには時間がかかって仕方ない
だろう。妹の苦言にラルスは首を反対側に倒した。
﹁じゃあ手っ取り早く行くか。そうだなー。ああ、オルティアを呼
びつけろ﹂
隣国の女王であり休戦交渉を行ったばかりの相手。
その召喚にレウティシアは目を丸くしたが、すぐに頷くと部屋を
出て行った。その間にラルスはまた本を捲る。
1294
王が本の最後の頁を眺め出してから十分後。
何も書かれていなかったはずのそこに、不意に焼き付けたかのよ
うな文字が浮かび上がってきた。たった一文﹃ファルサスは王の命
令によりキスク女王を自国に招いた﹄との言葉。
誰の手にもよらぬその文章を見て、王は瞬間ひどく冷たい目にな
ると、黙って本を閉じたのである。
※ ※ ※
魔女の幻影は当然ながらキスクの城都にも現れていた。
折角戦が終わったばかりだというのに不穏な宣戦を受けて人々は
慄いたが、ヘルギニスとは距離があるせいか未だ魔族の襲撃はない。
オルティアはその為、いつも通りの執務といざ襲撃が来た場合の対
策の両方に手をつけていた。国境の探知結界を強化するとの書類に
目を通し、署名を加える。
﹁それにしても魔女とはな。大言にも程がある﹂
歴史上記録されている魔女は六人だが、そのいずれもが強大な力
によって恐れられながらも、表立って人と対立しようとはしなかっ
た。ヘルギニス滅亡に見られるように、時折歴史の表に現れ畏怖を
刻み付けることはあっても、彼女たちは魔族の大群を操って数万も
の人命を屠るなど、思い切った敵対行為に出ることはなかったので
ある。
新しい魔女とやらは何をしようとしているのか。オルティアはペ
ンを手にしたまま﹁宣戦﹂の言葉を反芻しようとした。
けれど記憶を探るその思考は、先日に引き続きファルサスからの
急な連絡を文官が持ってきたことで中断させられる。
1295
またあの傍若無人な王からとんでもない要請でも届いたのだろう
か。
女王は不機嫌になりながらも書き起こされた書類を受け取った。
書類に目を通すと、それは意外にも﹁魔女の一件について極秘の相
談をしたい﹂というまともなものである。
﹁相談? 妾を呼びつけるとはいい度胸だ﹂
転移を使えばすぐとは言え、何故女王である自分が出向いていか
なければならないのか。
オルティアは不満を感じたが、ここで拒否して押しかけられたら
その方が迷惑だろう。
彼女は手早く処理中の書類に署名をしてしまうと、魔法士を呼び
ファルサスへと向う。
しかしそこで彼女は、あまりにも荒唐無稽な﹁本﹂についての話
を聞くことになったのだ。
﹁秘された歴史の本? 寝惚けているのか? ついに狂ったか﹂
もっとも、もともと狂っているようなものだがな、と続けかけた
オルティアは、人の悪い笑みを浮かべた男に
﹁本気だ。何を当てて欲しい?﹂
と返されて言葉に詰まった。自国と自分自身の知られたくない過
去が頭を過ぎる。
男の手によって目の前に差し出された本は、題名がないというこ
ともあり妙に忌まわしいものに見えた。両手で受け取ると革張りの
装丁はまるで人肌を触っているかのように蠢く気がする。
触れているだけで気分が悪いのは先入観のせいだろうか。
オルティアは虫でも見るようにそれを見下ろした。栞の挟まれた
箇所を開いてみる。
そしてそのまま、若き女王は立ち竦まざるを得なくなってしまっ
たのだ。
1296
そこには︱︱︱︱
キスク王族以外は知るはずもない初代女王に
ついての真実が記されていた。
今となっては彼女しか知る者のいない事実を見つけて、オルティ
アは思わず本を取り落とす。厚い本は床にぶつかる直前、ラルスの
手によって受け止められた。
﹁これで信じたか?﹂
﹁⋮⋮馬鹿な﹂
﹁信じなくても別にいいぞ。お前の用事は済んだからな﹂
﹁何だと?﹂
オルティアはやはり傍若無人な男に詰め寄ろうとしたが、更に最
後の頁を見せられ自分が﹁実験﹂の為に呼びつけられたと分かると、
美しい顔を引き攣らせた。
﹁キスクは国境の魔法結界を強化することにした﹂というファルサ
スは知るはずもない情報も混ざっていることに、怒りと薄気味の悪
さを感じて何度もその頁を読み返す。
馬鹿馬鹿しいと一蹴出来るならそうしたい不気味な本。
けれどそれでも彼女がその場に残ったのは、いわば訳の分からな
いことへの恐怖と興味があったからだ。人形のように固まったオル
ティアを椅子の一つに座らせると、ラルスはエリクへ視線を戻す。
﹁この本を焼いたらどうなると思う?﹂
﹁僕の推論では、以降全ての記述が紅い本へと移ります﹂
﹁なるほど。今処分しても相手を利させるだけか﹂
そうでなければすぐにでも炎の中に本をくべそうな男に、ファル
サスの口伝を知らないオルティアは訝しげな目を向けた。
だがさすがにラルスもそれについて説明する気はないらしい。王
は強力な禁呪の数々までも記された本を手に思案顔になった。壁に
よりかかる妹を見やる。
﹁一度ヘルギニス領域に入ってしまえば、俺の行動は向こうに筒抜
けになるだろうしな⋮⋮。さてどうするかな﹂
1297
﹁個人の挑戦は受け付けると言っても、兄上が入り込んで他の剣士
たちと同様に扱われるかが疑問ですね。軍を動かすならどれだけ迅
速に、かつ短時間で城を落とせるかが肝になるでしょう﹂
今はとりあえず、お前だ﹂
﹁だよな。⋮⋮まぁそれについては後で考えることにしよう。︱︱
︱︱
軽い声音。
けれどそれは剣を覆う布のような軽さだ。
王の目に射抜かれたエリクは眉を寄せる。
﹁何でしょう﹂
﹁この本を何処で手に入れた?﹂
﹁一月程前に、行商人から﹂
﹁嘘をつくなよ﹂
他の人間であれば、身に覚えがなくともうろたえてしまったであ
ろうラルスの眼光。
だがそれを、エリクは平然と見返す。
そこに﹁嘘﹂を感じさせるものはない。何もなさすぎて問うこと
自体憚られるくらいだ。
しかしラルスは笑ったまま視線を逸らさなかった。険悪になって
いく空気に二人の女は戸惑いを見せる。
﹁本の機能が分からないままだと魔女に勝てないと思って情報を明
この本は、あの娘から貰
かしたんだろう? だが、俺を騙すつもりならあの娘にも徹底させ
るべきだったな。正直に言え。︱︱︱︱
ったものだろう。違うか?﹂
肯定以外は許さない確認。
エリクは目を細めて王に対する。
張り詰めた空気は目に見えそうな程だ。彼は否定を返そうと口を
開きかける。
或いはそのまま話が進んだのなら、エリクは自身の言い分によっ
て王を納得させられたかもしれない。
けれどそこに⋮⋮何も知らない雫が来てしまったのだ。
1298
※ ※ ※
息苦しい。眩暈がする。
しかしそれは、王の手による圧力の為だけではなかった。現にラ
ルスの手は雫の呼吸を阻害してはいない。顎を上げさせ、細い首に
手をかけているだけだ。
理由の分からぬ事態のせいか、彼女は一歩よろめいて王の体にぶ
つかる。ラルスは崩れ落ちそうな女の体を支え直すと、再度エリク
に問うた。
﹁言う気がないのか? そのせいでこの娘が死んだら本末転倒だな﹂
﹁彼女は何も知りません﹂
﹁だが、あの時お前もいただろう? キスクの砦でオルティアと交
渉をした時に。こいつはあの時、オルティアも知らない王家の隠し
財産を知っていた。これはどういうことだ?﹂
その言葉に表情を変えなかったのはエリクだけだ。
あの場に居合わせたオルティアも、そして雫本人も虚を突かれ目
を瞠る。特に雫は﹁知らないはずの知識﹂を揺さぶられて胸を押さ
えた。
頭が痛い。気持ちが悪い。
足場が失われるような感覚が全身を襲う。
﹁あの水晶窟については、この本にも書かれていない。つまり魔女
の方の本に書かれているんだろうな。では何故こいつはあれを知っ
ていた? こいつは内通者なのか?﹂
何故、知っているのか。
1299
それを一番知りたいのは雫だ。
いつの間にかその知識は彼女の中に入り込んでいる。
戦えないのは気づけないからだ。
まるでずっと昔からそこにあったかのように。彼女の奥底に潜む
ように。
︱︱︱︱
誰かの溜息が部屋を伝う。
それはレウティシアかオルティアのものだったろう。エリクは溜
息をつかない。ただ苦い顔で雫を見つめただけだ。
雫は生命に繋がる息を嚥下する。それはエリクが王に答えるとほ
ぼ同時だった。
﹁分かりました。説明しましょう﹂
﹁本当のことを言えよ﹂
﹁勿論。彼女は単なる被害者だ﹂
ラルスは雫の首から手を離すと、彼女を持ち上げ机に座らせる。
首を押さえた雫をはじめ、全員の視線が魔法士の男に集中した。
壁に染み込んでいくような静寂。
エリクは中央のテーブルに置かれた本に視線を走らせる。そこに
微量の侮蔑が含まれているように見えたのは雫の気のせいだろうか。
﹁この本も魔女の持つ本も、共に歴史を記す本です。だが、これら
の持っている力はそれだけではない﹂
彼が何を言うのか、雫は知っている。
知っていて思い出せない。取り出せない。
だが、思い出せなくても分かる。感じている。
彼だけが気づいたのだから。
彼だけが辿り付ける。
それを雫はずっと前から確かに分かっていたのだ。
1300
人間には元々生得言語なんてなかった。外部者の呪具が記
﹁この本が持っている力は、大陸における生得言語の植え付け。︱
︱︱︱
録を取る為に、人の言語を統一させていたんです﹂
1301
002
﹁名前を教えて欲しい﹂
彼がそう言うと少女は金の目を丸くして首を傾げた。困ったよう
な顔をした後、彼の持つ水瓶を指して何かを問う。
それが﹁水の味が気に入らないのか﹂という意を示しているらし
いと気づいた彼は、首を左右に振った。
﹁違う。名前だよ﹂
このような隠れ里では彼の使う第零言語は通じないのだろう。少
女はますます困ってしまったようで、何度も村の方を振り返った。
その小さな手を取って、彼は少女を振り向かせる。
﹁名前。分かる?﹂
彼は自分の胸を叩くとまず自身の名を告げた。続いて少女を指し
て首を傾げて見せる。
言葉の通じない同士がやる自然な仕草。
彼女はそれでようやく理解したようだった。無垢な花のように笑
って自分の胸を指す。
それは昔々のお話。
﹁ルーディア﹂
︱︱︱︱
※ ※ ※
1302
エリクの発言は無形の発火物のように執務室内に広がっていった。
その中にいる王族三人が示したのは程度の差こそあれ、常識より
も根底にあるものを否定することへの受け入れ難さであろう。
誰もが何もを言葉に出来ぬ中、雫は彼を見つめて息を飲んだ。
﹁僕は長らく彼女といて、彼女の世界の言葉について学んだ。その
結論として得た答は﹃言葉は人の作りしものだ﹄ということです。
時代や文化によって人の思考が変わるからこそ、言葉もまた移り変
わっていく。思考と言語が密接に連動する以上、それが自然な姿で
あり、当然の変動でしょう。むしろ魂と言語に繋がりがないなら、
知りもしない、必要もない単語が生まれつき備わっていることの方
が不自然だ﹂
﹁それは⋮⋮けれど﹂
レウティシアは言いながら軽く頭を振る。
エリクの上司である彼女は、﹁生得言語は魂に依拠しない﹂とい
う彼の主張を分かってはいても、それが外部者の呪具によるものだ
とは思えないのだろう。もし本当に彼の主張が正しいのだとしたら、
今まで自分たちはずっとそれの影響を受けてきたことになる。
受けてきて、気づけなかったのだ。
忌々しいというには収まりきれない嫌悪感に、王妹は言葉を飲み
込んだ。代わりにその兄が顔を斜めにする。
﹁何故そう思った? 根拠があるだろう﹂
﹁あります﹂
エリクは短く断言すると、持っていた書類の束から一枚の表を取
り出した。一見年表に見えるそれは、十年単位で紺色の本に記述が
あった国々を抜き出し一覧に纏めたものである。
もっとも彼の近くにいたレウティシアはその一覧を受け取ると、
軽く目を通して眉を寄せた。暗黒時代の初期のある時、歴史上目立
った事件があったわけでもない時を境に、記載されている国の数が
倍近くにまで増えているのだ。
1303
彼女は紙をオルティアに回しながら部下に問う。
﹁これって⋮⋮この時期に国が爆発的に増えたってことではないの
よね?﹂
ざっと数えて、当時大陸にあった全国家のうち、記述
﹁違います﹂
﹁︱︱︱︱
範囲が三分の一から二分の一にまで増えているな﹂
王族教育の一環として暗黒期の歴史も一通り修めたオルティアが
指摘すると、エリクは﹁その通りです﹂と頷いた。
彼女の手から書類を受け取ったラルスは問題の時期を見て﹁ふー
ん﹂と気のない相槌を打つ。エリクは回っていく紙を目で追いなが
ら説明を再開した。
本の数の増減です﹂
﹁暗黒期のある時期を境界線として、前後で記述量が変動している。
この変化の意味していることは︱︱︱︱
藍色の瞳が雫を捉える。
いつか、何処かで、同じ会話をした。
そんな錯覚に囚われて雫は口を開く。
﹁本は最初、三冊あったんですね﹂
﹁うん。正解。それが途中から二冊になった。だから一冊の負う量
が増えたんだ﹂
瞼を閉じれば、おぼろげな映像が浮かんでくる気がする。
白い机の上に並べられた三冊の本。それは既視感よりも更に掴み
所のない霧の中の景色だ。
ぼんやりと白昼夢の中に落ちて行きそうになった雫を、けれどそ
の時王の声が引き戻す。
﹁ということは一冊処分されたのか?﹂
﹁違います。この一冊がどうなったのかは、実は資料に残っている
んです。暗黒時代の始まりから約百三十年⋮⋮この時期に大陸で何
があったか。戦乱の激化、アイテア信仰の拡大、帆船の改良。つま
1304
り⋮⋮﹂
魔法士は答を求めるようにラルスを注視する。
当然気がつくであろうとの無言の問いかけ。そして王はそれを裏
切らなかった。望まれた回答を口にする。
﹁移民か。本は、東の大陸に移動したんだな﹂
﹁ええ。アイテア信徒の一人がそれを持ち込みました。預言が記さ
れた神の書として﹂
エリクは持っていた書類の中から論文を取り出す。それに見覚え
があった雫は﹁あ⋮⋮﹂と小さく声を上げた。
彼女に視線が集中する前にエリクは補足を口にする。
﹁これは生得言語欠損の病について、アイテア信徒が提出した論文
です。この中には﹃神話の時代における言語非統一の可能性﹄とい
う論述から始まって、東の大陸での言語について多くの興味深い記
述が見られました。非常に量があるので全てを紹介することは省き
ますが、その中には﹃東の大陸の人間とははじめ充分な意思の疎通
が出来ずにいたが、神の書に触れその理解を得ると同時に彼らは皆、
我らの話に耳を傾けてくれるようになった﹄という当時の信徒の手
記が引用されています﹂
その引用により彼が何を示したいのか、四人はすぐに理解した。
移民として別大陸でも信仰を広めようとした信徒の記録。だがそ
れは一般的に解釈されるであろう﹁アイテア信仰が相互理解に繋が
った﹂という意味ではなく、単に﹁本の力によって言葉が通じるよ
うになった﹂というそのままの意味を指し示しているのだ。
足元を掬われるような解釈の転換に、レウティシアは溜息をつく
と壁によりかかり直した。
肘掛に頬杖をついていたオルティアが眉を顰める。
﹁その論文、キスクより持ち出したものか?﹂
﹁ええ。問題がありましたか?﹂
﹁構わぬ。どうせニケが雫にでも渡したのであろう。それより、妾
はそれだけで本とその効果を特定出来るとは思えぬな。持ち込まれ
1305
たものも違う本かもしれぬし、言葉についてもたまたまではないの
か?﹂
﹁僕もそう思ったので、﹃神の書﹄に関して全ての記述にあたって
みました。別大陸でのことですので記述は量こそ少ないものでした
が、何冊かはその具体的な内容まで書いてありましたよ。暗黒時代
初期の大陸の歴史、東の大陸の歴史、そして矛盾する複数回の記述
⋮⋮。三冊目は東の大陸に移ってからはあちらの歴史を記すように
なったのでしょう。﹃消された試行﹄が記されている為か、彼らは
それを﹃未来を記した預言書﹄と崇めた。他にも﹃神の見えざる手
により歴史は記され続ける﹄とのくだりは、自動的に記述が増える
ことを意味していますね。こんな本は他にない﹂
エリクはそこで言葉を切ると息を整えた。全員の顔を見回すと話
を続ける。
﹁そして言葉について、ですが。本来三冊の本はこの大陸用にもた
らされた呪具だったのでしょう。充分な効果を出す為には三冊共が
必要だった。大陸の膨大な歴史を記す為に三冊要するわけではあり
ません。一冊なくなった後、記述が二冊に分かれたことからもそれ
は明らかだ。では何故三冊なければならなかったのか。それは、生
地方
得単語を充分に行き渡らせる為です。実際、本が二冊になってしま
った為、この大陸にはささやかな不都合が現れた。︱︱︱︱
によっては訛りが出るようになってしまったんです﹂
暗黒時代に東の大陸へと移住した人間たちがいた。
戦乱に満ちていた彼の大陸では当時の記録がほとんど残っていな
いが、少なくとも現在では向こうの大陸においても生得言語は当然
の存在となっている。
ただ違う点があるとしたら、東の大陸では訛りがきつく、それが
ある地方も多いということだろう。
一方こちらの大陸では移民が大量に出航した後、何故かある地方
1306
で訛りが出るようになったのだ。
﹁歴史の記述と言語の統一、どちらが主目的であったのか、そこま
では判断できません。ただ言語が思考そのものに影響を与える以上、
言語を統一させることによって思考の制限を行った可能性もありま
す。現に彼女、雫の世界では言語自体がその国の歴史と文化を孕む
ものであり、他国の人間がその全てを理解することは容易くない。
しかし、外部者にとってはそのような齟齬は実験に必要のないもの
だったのでしょう。言語を統一し、起こりうる問題を削った﹂
もしかしてエリクは非常に怒っているのかもしれない。
雫はいつもと変わらぬ冷静な彼の貌を見ながら、けれどそう感じ
て緊張を覚えた。
メディアルにて彼女が持論を述べた時、彼は何かを考え込んでい
るような浮かない反応だったのだ。その時から彼は、﹁言語を統一
されたことによる不自由﹂を考えていたのだろう。
異世界からの技術知識の混入を不自然だと拒むエリクにとって、
思考の基盤たる言語に外部からの手が加えられていたという結論は、
許し難いものだったに違いない。普段はあまり動くことのない彼の
感情が、平静な説明の下で大きく波立っている気がして雫は藍色の
両眼に見入った。
男は彼女の上で視線を留める。
﹁大陸において全ての文章は一度、暗黒時代に入る百年ほど前に処
分されています。今はもうないこれらの文章は、おそらく複数の言
語で書かれていたのでしょう。だからこそ処分された。外部者の呪
具が影響を及ぼし得るのは生得言語だけであり、それは音声言語に
限定されていますが、音声言語が揃えば文字もおおよそ揃えること
が出来た。以後の記録は全て統一言語でのものになったのです。そ
だからこそ外部者にとって、大陸
こまで徹底して外部者は、言語が一つであることに不審を抱かせな
いよう大陸を整えた。︱︱︱︱
1307
外からの来訪者は邪魔な存在だったのです﹂
邪魔、と言う言葉がまるで金槌のように雫を殴りつける。
ここからはきっと、自分の話になる。その確信が雫にはあった。
自分でもよく分からない自分の話。
それが彼女にもたらすものは何であるのだろう。
﹁かつて漁船が未知の大陸の遭難者を拾ったという事件がありまし
た。その男は岸についてから領主に迎えられ、その片腕となりなが
ら故郷についての手記を残していますが、それとは別に彼を助けた
漁師はこんなことを言っていたそうです。﹃助けた男ははじめ衰弱
し錯乱していたらしく、何だか分からないことを言い散らしていた
つまり最初は呪具の効力が及ばず、別の大陸の言葉
が、やがて落ち着いたのか町につくと普通の言葉を話すようになっ
た﹄︱︱︱︱
を話していた男が、岸に辿りついてから言語を変えられたのでしょ
う。呪具は巧みに来訪者を探知して、上手く懸念要素を取り除いた
のです﹂
そうして別の大陸から来た男は、この閉ざされた箱庭に馴染んで
いった。
故郷を思いながらも帰れぬまま一生を大陸で終えた。
彼は己の運命を詰っただろうか、恨んだだろうか。
﹁けれど実験が始まってから千四百年が経った頃、大陸には前例の
ない来訪者がやって来た。彼女は、別の言語を話すというだけでは
なく、言語の多様性を当然のものとして認識している異世界の人間
だったのです﹂
全員の視線が雫に集中する。
1308
彼女はそれに気まずさを感じたが、俯くことはしなかった。顔を
上げてエリクを見つめる。
男は瞬間、いつも通りの優しい目で彼女を見た。そして複雑な微
苦笑を浮かべると、与えられた言葉を紡ぐ。
﹁呪具は彼女の言語を変える為、そして﹃この大陸の違和感に気づ
かせない﹄為、かなりの力を使ったと思われます。結果としてそれ
は成功し、彼女は﹃何故言葉が通じるか﹄を疑問に思わず、ただ元
彼女には副作用が現れてしまったのです。言語について
の世界に戻るため旅をするようになった。しかしその代わりとして
︱︱︱︱
呪具からの強い影響を受けた為でしょう。彼女は無意識下で本と繋
がり、その内容を読めるようになった。はっきりと覚醒している時
は本から知識を得ていると思い出せない。けれど眠っている時など
には彼女の意識は本に近づき⋮⋮その知識を自分の中に取り込むよ
うになったのです﹂
何故、どうして、知っているのか。
あるはずのない知識が怖いと、彼に訴えたことが二度ある。
だがそれも思い出せない。
思い出せないようになっている。
はじめから彼女はずっと、檻の中に閉じ込められていた。
箱庭の中の檻に。一人で。知らぬ間に。
それは
﹁私は⋮⋮っ!﹂
頭が痛む。
記憶の底で誰かが悲鳴を上げている。
世界が歪んでいく。外も内も、等しく傾き拉げていく。
体が揺れ、床に落ちるまでの時間。
1309
雫は飲み込み続けた嗚咽を吐き出すと、短い爪で己の顔を掻き毟
った。
明かされたこと。知らなかった、思い出せなかったこと。
それらを言葉として突きつけられた思考が断裂し、精神が吐き気
しかし、それもほんの数秒のことだ。
に痙攣する。
︱︱︱︱
座っていた机から跳ね落ちた彼女を、男の手が抱き起こす。
こみあげる拒絶から顔を、頭をかきむしり続ける雫の手を留め﹁
大丈夫﹂と断言したのは、彼女からもっとも遠い場所にいたはずの
エリクだった。
王族たちを半ば圧して雫を支え上げた彼は、黒茶の双眸を開かせ
その奥を覗き込む。
そこに単なる心配だけではない、変化を探す意図を感じ取った彼
女は、溺れるように手を上げた。
﹁わ、私は、私、です﹂
﹁うん。君は君だ﹂
手を取る。
指を絡める。
そしてきつく力を込めて、握り返される感触だけが彼女をかろう
じて繋ぎとめる。
この世界には誰もいない。子供だった頃の自分を知っている人間
も、自分と血を分けた人間も。足場がない。﹁本当は人間ではない﹂
と突きつけられたとしても、それを否定しきれるほどの土台がない。
帰りたい。
元の世界に、元の生活に戻りたい。
姉に会いたい。妹の顔が見たい。
だからもう、言わないで。
もう自由になりたい。
︱︱︱︱
1310
陸に打ち上げられた魚のように苦悶する雫を、オルティアとレウ
ティシアは憐憫と困惑が入り混じった目で見つめる。
確かに時折、雫の言葉には理解出来ない単語が混ざることがあっ
たのだ。それはおそらく、この世界には馴染みの薄い﹁変えにくい﹂
言葉だったのだろう。
けれどそれら以外は全て変換させられた。捻じ曲げられた。
雫の話す言葉にも、彼女が聞いていた言葉にも、全てに呪具の力
が潜んでいたのである。
小さく首を横に振り始めた雫に、エリクは眠らせる為の構成を注
ごうと手をかざす。
しかしその手は構成が形になる前に後ろから別の男に掴まれた。
凍てついた王の目が彼女を見据える。
﹁立て﹂
﹁兄上、何を⋮⋮﹂
﹁聞こえないのか? 自分の足で立て。こちらを見ろ﹂
普段の軽さが微塵もない、重い命令。
その声に雫は体を震わせた。焦点を失いかけていた瞳がラルスを
探して彷徨う。
どうやって、証明するのか。
人であると、意志があると、尊厳があると。
それを為すのならば、矜持があるのならば、彼女は自ら立たなけ
ればならない。
血によってでも肉によってでもなく、精神によって、彼女は己を
証明するのだ。
無体とも言える厳しい叱咤に眉を顰めたのは二人の女だ。
1311
オルティアは半ば腰を浮かし、レウティシアは体を起こしながら
ラルスを留めようとした。
けれどエリクは王を止めない。構成を消し、雫の手を握る。それ
は彼女をゆっくりと落ち着かせ、理性を取り戻させる温度を持って
いた。
雫は何度か深く息をすると、彼の手を借りてよろめきながらも立
ち上がろうとする。
ラルスはそれを急かすことはせずに、ただ黙って待っていた。よ
うやく自分の前に立った女を見下ろす。
揺るがない強者の目。雫は蒼い両眼を怯まずに見据えた。そうす
る為に精神を振り絞る。
﹁あの時お前は、俺と戦う為に塔から跳んだな﹂
﹁はい﹂
﹁ならばその命をもう一度使え﹂
戦えなかったのは気づけなかったからだ。
お前は魔女の本を読め﹂
ならばこれから先はどうすればいい?
逃げるのか蹲るのか、それとも
﹁俺は魔女を殺しに行く。︱︱︱︱
全てが記される歪な本には、王の行方も書かれるだろう。魔女の
一手も書かれるはずだ。
それを読み、魔女と相対する。注がれた力を逆に使う。
この広い大陸であまりにも平凡であまりにもちっぽけな雫の軌跡
は、きっと歴史には残らない。本には記されない。
けれどだからこそ魔女の目を逃れて、雫は本を読むことが出来る。
自分だけが紅い本に触れられると思っているアヴィエラは、彼女の
存在にこそ足を掬われるだろう。
人が死んでいるのだ。
こうしている間にも犠牲は出続けている。
1312
今も魔女に反しようと剣を取る人間がいて、彼らの躯が積まれて
いる。慄きながらも逃げることさえ出来ない小さな村が壊されてい
る。
それを嘆くのも憤るのも人であるがゆえだ。
雫はテーブルの上に置かれた本を見やる。彼女を半ば支配してき
た呪具。大陸を縛し続けた一冊の本を。
恐るべき力。だがそれは単なる道具だ。誰かの実験の為の道具で、
自分がそれを使えぬはずがないだろう。道具を
それ以上のものではない。
ならば︱︱︱︱
統御し支配すればいい。
雫はテーブルに歩み寄ると本を抱き取る。そのまま振り向き王を
見上げた。
﹁やります﹂
震えを帯びた返答に、ラルスは頷く。
魔女の宣戦が行われてから一週間後、こうして無力な一人の女が
戦う意志を持ってそれに返した。
そして変革の歯車は回り始める。
※ ※ ※
出立は二日後、ヘルギニスへと向う人間たちの準備が出来次第と
いうことになった。
紅い本への干渉を確実なものとする為、本を持って王と共に現地
へ向うという雫にオルティアは唇を噛み締める。
﹁お前は馬鹿だ。死ぬかもしれぬのだぞ?﹂
1313
﹁大丈夫です。姫、帰ってきますから﹂
命の危険は今まで何度もあった。それでも彼女は、自分で戦うこ
とを選んだのだ。雫は女王の目に困ったように笑って、けれど表情
を引き締めると姿勢を正す。
﹁命じて下さい、姫。魔女を何とかして来いって。私はそれを守り
ます﹂
誰かに支えられて走り出すなら、きっと何処に在っても挫けずに
いられるだろう。
かつての臣下の願いにオルティアは顔から苦渋を消した。琥珀色
の瞳を軽く伏せ、そして再び雫を見つめ直すと芯のある声でその背
を叩く。
﹁行って来い。そして必ず帰って来るのだぞ﹂
﹁ご命令のままに。任せて下さい﹂
本当に伝えたいことは言い切ることが出来ない。
だからオルティアは女王として自分の国へと帰っていく
※ ※ ※
﹁結局あの本には、雫を元の世界へ帰す手がかりはなかったのです
ね﹂
エリクからの提出書類に目を通すとレウティシアは呟く。
そこには本の調査結果として﹁世界を渡る手段については分から
ない﹂という記述の他に﹁城で一時的に生得言語が戻ったのは本が
城に持ち込まれた為のものだろう﹂との補足も加えられていた。病
の原因についてはそれでも不明のままだが、或いはそれはもう一冊
の本に起因しているのかもしれない。
1314
ラルスは軍を編成する為の書類を調えながら、同時に﹁個人とし
て﹂城へ向い得る人間たちを選出する。魔法士、武官の中でも一定
以上の腕を持つ人間たちを選び出しての作戦は、しかし王からの命
令としては異例なことに拒否権を与える予定のものだった。
王は書き上げた一枚の書類を妹に手渡す。
﹁よし。これをお前に預ける。ちゃんとやれよ﹂
﹁え? これって⋮⋮兵権委譲ではないですか! 何故このような
ものを﹂
﹁俺が他の人間と先行して魔女を殺し本を破壊する。そしたらお前
は軍を指揮して城を落とせ﹂
全てを読み取る本を排除してからの全面攻撃。それを十全に為し
得る為には確かに王族の指揮が必要だろう。
だがレウティシアはそこに建前とは違う意図を読み取って声を荒
げた。
﹁何を仰るのです! 私も行きますよ、兄上!﹂
﹁駄目だ。お前は残ってろ。出てくるのは後からでいい﹂
﹁兄上!﹂
いくらラルスが抜きん出た剣士でありアカーシアの持ち主だとし
ても、彼が人間という枠に入る存在であることには変わりがない。
一方魔女は、半ば人外と呼ばれる程の魔法士を指して言うのだ。
その上相手にはおそらく上位魔族もついている。そんな敵を相手に、
王族の魔法士の守護を欠いて敵地に踏み入るなど、彼であっても危
険な賭けとなるだろう。
王妹は何とか兄の無謀を思い留まらせようと口を開きかけた。し
かしラルスは静かな声でそれを遮る。
﹁レウティシア﹂
本名を呼ばれるのは、何年ぶりのことだろう。
久しぶりのそれ、兄が自分へと向ける本来の感情を思い出して、
忘れたままでいられるのなら、その方がよいことも世
彼女は凍りついた。
︱︱︱︱
1315
の中には多くある。
真実は必ずしも人に解決をもたらすわけではないのだから。
﹁レウティシア。お前は王の命令が聞けないのか?﹂
彼女を打ち据えるのは王者の声。踏み込むことを許さぬ男の意。
その威の鋭さに王妹はわななく唇を噛み締める。ややあって小さ
な頭をゆっくりと垂れた。
﹁⋮⋮ございません、陛下﹂
﹁ならいい。あ、魔族召喚禁止の構成も用意しとくといいぞ。念の
為な﹂
そう言って肩を竦めるラルスは、もういつもの彼である。
レウティシアは瞬間、泣き出したい衝動に駆られて顔を伏せた。
優しくあろうとする兄の声が彼女に届く。
﹁俺に何かあったらもうお前だけだからな。そうなったら女王にな
って子を産めよ﹂
彼女はそれには答えない。書類だけを持って踵を返す。
何を恨むのも意味がないことだろう。特にどうにもならないこと
に関しては特に。
それでもレウティシアはこの時﹁何故自分たちはこの時代に生ま
れてしまったのか﹂と、そんな思いに駆られて、亡き父を呪ったの
である。
※ ※ ※
ヘルギニスへ赴くため選出された人間の中にはハーヴも入ってい
た。
彼は緊急かつ極秘の要請書を見下ろして溜息をつく。
1316
﹁どうするかな⋮⋮。お前は行くんだろ?﹂
﹁行くよ。王妹は行かないしね﹂
それに何よりも雫が行く。
ならばこの友人が行かないはずはないだろうと、ハーヴは苦笑し
た。もう一度書類を読み返すとそれを手の中で焼く。
﹁俺さ、正直怖いんだよな﹂
﹁みんなそうだと思うよ。相手は魔女だし﹂
他に誰もいない研究室。四方の壁に並べられた本からは歴史その
ものの圧力を感じる。
ハーヴはそれら文献を見回すと、お茶の表面に視線を落とした。
﹁魔女も怖いけど、それだけじゃなくてな⋮⋮﹂
ぽつぽつと滴る言葉。窺えない思惟は不透明なものだ。
エリクは書類から顔を上げると友人を見やる。
﹁どうかした?﹂
﹁いや⋮⋮何でもない﹂
再びの沈黙。
形のないそれは少しずつ部屋の中を浸していく。
やがてそれぞれのカップが空になった頃、ハーヴは何処か吹っ切
れたような顔で笑うと﹁やっぱり俺も行く﹂と立ち上がったのだっ
た。
※ ※ ※
人と人との出会いは、何処までが偶然で何処からがそうではない
のだろう。
もしこの出会いが誰かの意図によるものだとしたら皮肉がきいて
1317
いる。廊下を行くエリクはそんなことを考えてふと微苦笑した。
だが、だとしても彼女と出会ったことに後悔はない。そう思った
ことは一度もない。
彼女と会い、彼女を知ったからこそ多くのことに気づけた。それ
は偽られ続けて一生を終わるよりもずっと有意義なことだろう。そ
の結果魔女と相対し、早すぎる結末が自分を待つのだとしても。
ただ雫は⋮⋮彼女自身はこの旅によって何を得られたのか。この
世界に来たことで、自分と出会ったことで、少しでもいいことがあ
ったのだろうか。
彼は埒もない思考を自覚すると自嘲を浮かべる。
だからせめて、彼女には未来をやりたかった。
その疑問に肯定は返せない。他人のことは分からない。
︱︱︱︱
﹁エリクさん﹂
女の声に呼び止められ、彼は背後を振り返る。
そこにはレラが本を数冊抱えて立っていた。彼女は持っていた本
を男に差し出す。
﹁これ、研究室内に残ってたのを見つけたので。回収してるのです
よね?﹂
﹁ああ。ありがとう﹂
﹁これどうなさるんですか? 全てを回収したのならかなりの量で
しょうに﹂
﹁処分するよ。また何か問題が起きたら困るから﹂
﹁あら⋮⋮無理もないですけれど勿体無いですわね。子供たちなど
は気に入ってましたのに﹂
レラは名残惜しそうな目を本に向けながらも一礼して去っていく。
その姿が見えなくなると、エリクは再び歩き出した。腕の中に雫
が描いた絵本を抱えて。
精神と命、どちらを守ってどちらを損なうのか。
1318
彼女を裏切るのか、支えられるのか。
その答が出る日が来ないことを祈りながら、彼の姿は廊下の先に
消える。
※ ※ ※
魔法で眠りを操作される感覚。
はじめは慣れない気だるさがあったそれも、十数度目の試みから
は次第に﹁そういうもの﹂として馴染んできた。
雫は黒い睫毛をあげて、自分を覗き込んでくる男を見上げる。
﹁どう?﹂
﹁平気、です﹂
﹁気分は﹂
﹁比較的明瞭﹂
試しに手の指を動かしてみると思った通りに動く。彼女は寝台か
ら立ち上がって伸びをした。肺の中の空気を全て吐き出し、また深
く吸い込む。
そんな雫の様子をじっと観察したエリクは手元の本を開きながら
問いかけた。
﹁ファルサス暦四百五十五年﹂
﹁第十八代ファルサス国王レギウス・クルス・ラル・ファルサスの
治世。北の隣国ドルーザより魔法生物兵器を用いた侵攻が開始され
た﹂
﹁うん。いいね。問題ない﹂
自分の意識が遠くにある別のものと繋がっているというのは実に
不思議な感覚だ。
1319
最初こそそれに気づいた瞬間、嫌悪感と侵蝕感に錯乱してしまっ
たが、落ち着いて意識を広げればそれら情報や繋がり自体には意思
がないと分かる。無数の記述が漂う海に、自分もまた浮かんでいる
ようなものだ。
記述の海の中から望む情報を取り出すことも、最初に比べれば大
分早く出来るようになってきた。
雫は﹁もう一段階﹂と声をかけられ寝台に戻る。横になった彼女
の額に男の指が触れた。
出立が二日後と決まってから、雫は起きている時も本の情報を引
き出せるよう訓練を受けることになった。
外部者の呪具が彼女に行った操作は実に巧妙で、覚えのない知識
を持っていることは意識できても、その出所はおろか不自然さにつ
いて深く考えることも出来ない。雫が自身を不審に思わぬよう﹁元
の彼女﹂を出来るだけ維持しようとしたのだろう。暗示は奥深くに
薄く広がっていた。
しかしその欺瞞は、﹁本と繋がっている﹂と指摘された瞬間、罅
割れた皮のように剥がれ落ちたのだ。
本来個として分けられている人間の精神。
だが雫はその指摘によって、自身の精神の境界が曖昧にぼやけて
おり、また自分の中に別のものと混じりあっている部分があること
を容易く認識できてしまったのである。
まずは魔法によって深く眠り、紺色の本と接触することで呪具と
の繋がりを確立させる。その後エリクが構成を弄って段階的に覚醒
させ、緩やかに完全な覚醒へと雫を引き戻していった。
ほとんど眠っているが受け答えは出来る段階、半覚醒の段階、眠
りが僅かに残っている段階などを何度も行き来し調整を繰り返す。
途中で本との繋がりが薄らいでしまったり、記憶が曖昧になる失
1320
敗も多くあったが、丸一日かけて意識を慣らしていくうちに、雫は
起きながら紅色の本の内容を取り出すことが何とか可能になった。
エリクからの試問に全て答えてしまうと、彼女はほっと息をつく。
﹁これカンニングし放題ですよね。どんな本にも繋がってたなら科
挙とか通れるかも﹂
﹁⋮⋮大体言いたいことは分かるけど、君の変な前向きさは何処か
ら来るの﹂
﹁どんなことにも長所を見出せば楽しくなるかと﹂
雫はメアから温かいお茶を受け取って口をつけた。
体力的な消耗はないのだが、短時間に眠りと覚醒を何十往復もす
るということを繰り返したせいか妙に疲れている。
だがそれにつきあって魔法を使っていたエリクの方は普段とほと
んど変わらない。真面目な顔で花の形をした茶菓子を摘んでいた。
彼は少し考え込むと、別の本について質問する。
﹁三冊目の本って感じ取れる?﹂
﹁東の大陸に行った本ですよね。分かりますよ。まだ向こうの大陸
にあります。ただ距離があるせいか内容はあまり取れないんですよ
ね。繋がりは確かにあるんですが﹂
﹁なるほど。でもそれはやっぱり二の次だな。向こうの大陸には向
こうの事情があるだろうし﹂
﹁ですね﹂
今彼らが解決すべきは猛威を振るう魔女の方だ。
遠く離れた別の大陸については、その大陸の人間が何とかするの
かもしれないし、しないかもしれない。この土壇場にあってそちら
に気を取られていては為すべきことも揺らいでしまうだろう。雫は
砂糖菓子を一つ手に取る。
﹁もし魔女が倒せて、本を破壊したらこの大陸ってどうなっちゃう
んでしょう。みんな言葉が通じなくなるんでしょうかね﹂
﹁多分、病が病ではなく当然のものになると思う。既に言語を身に
つけた人間は変わらないだろうけど、これから生まれる子には学習
1321
が必要だ。でも君の世界ではそれが当然なんだろう?﹂
﹁です。けど﹂
雫は﹁姉にもうすぐ子供が生まれる﹂と言っていたレラのことを
思い出す。
この大陸には彼女だけではなく、真剣に子供の病を憂い、治した
いと思っている人たちが多数いて、今も奔走しているのだろう。彼
らの願いや祈りを思うと、生得言語をも排除しようとしている自分
たちの行いがまるで驕りのように思えてしまう。
だが、だからと言って本をそのままには出来なかった。
言葉が乱れ、誤解が生まれ、多くの齟齬が生まれるのだとしても、
そこにはそれだけではなくきっと自由がある。
だから今は人の可能性を信じて前に進むしかないのだ。
エリクは固い女の顔から緊張の理由を読み取ったらしい。お茶の
カップを置くと苦笑する。
﹁まぁ生得言語に関しては僕の推論が間違っているという可能性も
ある﹂
﹁それ言っちゃいますか!?﹂
﹁だからそれ程気負わなくてもいいよ。本を壊しても生得言語はな
くならないかもしれないんだから﹂
男の言葉は低く抑えられてはいたが、彼女の肩の荷を軽くする為
のものだけにしては強すぎるようにも聞こえた。
雫は僅かな引っかかりを覚えてまばたきをするが、彼の表情はい
つもと何ら変わりがない。
エリクは雫の視線に気づくと顔を傾ける。
﹁さて、今日は早寝した方がいい。明日の出立は早朝だから﹂
﹁寝た方がって⋮⋮何か眠れる気がしないんですけど﹂
今日一日寝たり起きたり半覚醒になったりを繰り返していたのだ。
とてもではないが寝付ける自信はない。翌日寝惚けてラルスに怒ら
れる自分が想像できるようで、彼女は肩を落とした。
1322
しかしエリクはおかしそうに笑うと軽く手を振る。
﹁眠らせてあげるよ。じゃないと体持たないだろうし﹂
﹁え。本当ですか? やった!﹂
それなら何も問題はない。
雫は軽食と入浴を考えて二時間後もう一度エリクに来てもらうこ
とを約束すると、慌しく翌日の準備に取り掛かった。
メアが食事を用意する間レウティシアから支給された魔法具を改
め、明日の服を用意する。普段彼女がスカートを履いているのはこ
の大陸の文化にあわせてのことだが、明日は動きやすさを考えて迷
い込んだ時に着ていたサブリナパンツを履いていくことにした。代
わりに剥き出しになる足元は頑丈なブーツにする。
自分でも変な格好かもと思うのだが、馬での移動ならともかく鎧
を着て歩き回る程の筋力はないのだから仕方ない。そうこうしてい
るうちにメアがパンケーキと野菜のスープを運んできてくれたので、
雫は食卓についた。
甘い香りがする楕円型のケーキに、金色の蜂蜜をたっぷりとかけ
る。少女の姿をした使い魔は温めた牛乳のカップだけを手に主人の
向かいへ座った。
今まで何度も繰り返した二人だけの食卓。
平凡で温かく、けれどこれで最後かもしれない夕食に、雫の脳裏
には様々な思い出が去来する。
﹁メア﹂
﹁はい﹂
﹁怖い?﹂
﹁いいえ﹂
まったく間を置かない返答に彼女は微笑んだ。ほんのり甘いスー
プを一匙口に入れる。
きっと自分は幸福で、申し訳ない程に恵まれている。生まれてか
らずっとそうであったからこそ、この大陸でも生きてこられたのだ
ろう。
1323
そしてこの異世界でも恵まれていたおかげで、胸を張って戦える
のだ。
無謀すぎる彼女の決断は、人の為、世界の為と他の人には思われ
るかもしれない。けれどそんな身の丈にあわない理由の為ではなく、
﹁人が殺されるのは嫌だ﹂という感情の為に、そして人間としての
矜持ゆえに雫は立つことを決めた。
﹁戻ってきたら次は何処に行こうか。⋮⋮雪国はもうやだな﹂
﹁南の海は青が澄んでいると聞きます﹂
﹁うわぁ。いいなぁ! 私この世界に来てからまだちゃんと泳いで
ないんだよね。濠とかばっかで﹂
﹁城都の南には湖もありますよ﹂
﹁え。知らなかった。あー、日記帳も買いに行ってないんだよね。
帰ってきたら買い物行かないと﹂
未来の話に雫は声を上げて笑う。
幸福を幸福と気づける時。
それはとても温かく、何故か少しだけ物悲しかった。
エリクは時間通りに再び雫の部屋へやってきた。湯上りの彼女に
迎えられると眉を顰める。
今までも何度か思っていたのであろう苦言が、雫の頭上に降り注
いだ。
﹁君はどうして夜着で人前に出てくるかな﹂
﹁え。だってパジャマですよ。これから寝るのに﹂
﹁そうだけど﹂
オルティアなどは肌が透けそうな格好で寝ていることもあったが、
雫は上も下も木綿の服をきっちり着ている。
運動着とさして変わりないと思うのだがそれ程問題なのだろうか。
彼女は何が不味いのか重ねて聞こうと思ったが、それより早く﹁
君の世界はそうなんだね、分かった﹂と纏められて何も言えなくな
1324
った。乾かされたばかりの髪を纏めると寝台に上がる。
﹁本は念の為今晩は僕が持っていくよ。眠らせたのに起きられちゃ
意味ないから﹂
﹁お願いします﹂
﹁じゃあ明日の集合二時間前に目が覚めるようにする。それでいい
?﹂
﹁はい﹂
聞いているだけで落ち着く詠唱。額に触れる指も最早慣れた感触
だ。
雫はゆっくりと胸を上下させながら目を閉じる。
明日起きたなら、その時は戦いの時。自分がそこでどうなるのか
予想もつかない。
彼女は落ちていく意識の中、彼の瞳をもう一度見たいと思って目
を開ける。
けれどその意思とは裏腹に眠りは深く雫を絡めとり、抗う間もな
く夢のない夜の中へと引き込んでいったのだった。
エリクは雫の寝息が聞こえ出すと、軽く黒髪を引いて眠りの深さ
を確かめた。術がちゃんと効いていると確認すると寝台の傍を離れ、
本棚へと向う。全ては埋まっていない棚のうち、彼が手を触れさせ
たのは絵本の草稿が纏められている紙袋だ。
エリクはその中から数枚の原稿と草稿を選び出すと、後は元通り
棚へと戻した。
メディアルで雫が監禁された間接的な原因とも言える絵本は、既
に彼の指示により一部回収されている。勿論公表しても問題がない
数作はそのままだが、あとは原稿が残っていても不味い。
エリクはそれらを本と重ねて小脇に抱えた。メアに鍵をかけるよ
う命じると音を立てずに部屋を出て行く。
1325
その日の夜は早く、皆が眠りについた。
全ては明日。
新しい時代はここより幕を開ける。
1326
003
鋭い鉤爪が肉の中を進んでいく。
それは内腑を掴み取り引き抜くと鮮血を散らした。男の体は声も
なく崩れ落ちる。
﹁ギル!﹂
師であった男の名を呼び駆け寄ろうとするも、少女は横合いから
の攻撃を感じ取って飛び退る。吹きかけられた酸が彼女のいた場所
を焼き、耳障りな音を立てた。
遠くから子供の泣き声が聞こえる。
肉の焼ける匂い、濃い血臭も。
けれどもう、目の届くところに動いている人間はいない。
ただ一本の剣を頼りに体を支える少女がいるだけだ。彼女は自分
を狙う魔物たちの視線に傲然と顔を上げる。
﹁わたしは、負けない﹂
少女は剣を構えた。彼女の体には大きすぎる剣。﹁お父さんを追
うのも程ほどにしなさい﹂といつか母親から言われた。
けれど今この時、彼女と共に在るべきはこの剣以外にはないだろ
う。他の誰もいない。魔女のせいで村の皆は死んでしまった。
視界の隅に捻じ曲がった男の体が見える。その上に覆いかぶさる
黒い影。何かを咀嚼する音。空を羽ばたく魔物が襲い掛かる時を見
計らう。少女の肌に爪を立て血肉を食らおうと待っている。
絶望が雨よりも優しく降り注ぐ朝。
彼女は大剣を振りかざし絶叫を上げると、脇目もふらさずただ一
人、魔物の中へと飛び込んでいったのだ。
1327
※ ※ ※
冷え切った魔女の城では死体が腐ることはない。腐敗する間もな
くそれらは魔物たちに食い荒らされ、残りは塵となって消え去る。
あちこちを雪混じりの風が吹き抜け、壁に触れれば皮膚が凍りつ
いてしまいそうな石の城が孕むものは空虚だ。生命を感じさせない
城の最上階で、玉座に座る男は目を閉じる。
この城は彼が作ったもので、だからこそ何処にいても城内のこと
は大体把握出来る。今も下層階で誰かが絶命する気配を感じて、エ
ルザードは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
﹁脆い﹂
アヴィエラは人間のことを好んでいるが、彼からするとどうにも
それは、草花と変わらぬ壊れやすい存在にしか思えない。生物とし
て、個として、そして集団で生きる種としてそれぞれの欲望を使い
分け、慌しく短い生を送っている。この階層ではもっとも複雑な作
りをした生き物だが、その他に見るべきところは特にないだろう。
寿命などないエルザードにとってこの世界での十数年は決して長
くはなかったが、既に人間の全ては理解出来た気がした。
﹁アヴィエラ﹂
飽いたことを告げる声。
けれどその声に返答はない。ただ壁に跳ね返って響くだけだ。彼
女は今頃城の何処かを歩いてでもいるのだろう。
世界に魔女と名乗った女は、よくそうやって下層階に下りて行っ
ては拾い物をしてくる。人の骨や、剣や、くたびれた装飾品などガ
ラクタを集めては自室に持ち帰り溜め込んでいるのだ。
1328
その収集癖が何を意味しているのか聞いたことはない。彼女のこ
とは理解出来ない。ただ漠然と感じるのは、アヴィエラは何かを﹁
残し﹂たいのではないかということだ。
小さな村を襲わせる時も、彼女は全ての人間を殺さない。何故か
一人二人を生かして残す。
エルザードはそれを、より大きな実を得る為に間引きをするよう
なものかと思っていたが、単に彼の知識では似た例がないからそう
思うのであって、実質はまったく異なるのかもしれなかった。
親も子も持たない上位魔族は自分以外のものを保とうとする思惟
に共感を覚えない。彼らは完全に個としてのみ在るのであり、同族
意識も薄い。
だから彼は時折考えてみるのだ。
彼女が望む﹁残す﹂とは、一体何なのであろうと。
※ ※ ※
時を告げる鳥が囀り始める。
澄んだ空気と静寂が広がる早朝。ファルサス城の中庭には武官と
魔法士合わせて約三十人程が集まっていた。
魔女に挑むにしては余りにも心もとない小隊程度の編成。しかも
今回は軍としての戦闘ではなく、個々人としての戦闘である。蓋を
開けてみなければ分からない事態に緊張が色濃い者も決して少なく
ない。
けれど彼らは不安を口にすることはなく、思い思いに自身の装備
を確認しながらその時を待っていた。
1329
ほとんどが男性である彼らの中には、けれど女性も少数混じって
いる。
その中の一人、雫は人の輪の中央近くで腰につけた二本のベルト
を調整していた。皮で出来た細ベルトの片方には魔法具である短剣
が留められており、もう片方には何種類かの魔法薬の小瓶が並んで
いる。
何処かに絡まないよう髪を後ろでみつあみにした彼女は、厚手の
ブラウスとサブリナパンツの上から防御魔法と防寒魔法を織り込ん
だケープを羽織っていた。腰の下まで届くケープは切れ込みが入っ
ており腕の動きに支障はないが、普通にしていれば彼女の手は見え
ることがない。つまり、紺色の本を持っていることは一見して分か
らないようになっている。
今回の戦闘において情報戦の鍵となるであろう彼女は、ベルトが
落ちていかないことを確かめると顔を上げた。
﹁これ、大学受験より緊張しますね﹂
﹁比較対象がおかしいのではないかしら﹂
雫の隣にいるレウティシアは白い魔法着を着ている。そう言えば
高名な魔法士である彼女の戦闘着を目にするのは初めてだ。雫は惚
れ惚れと美しい上司を見上げた。
レウティシアは今回城の中までは入らない。転移門を開いて戦闘
部隊を送り、なおかつ彼らが城内に踏み入るまで援護をするだけで
ある。
その後彼女は一旦城に戻り、軍の指揮を執りながら攻撃の機会を
見計らう手筈になっていた。直系の兄妹をそれぞれ戦闘部隊と軍の
支柱に据えての作戦は魔法大国ファルサスの本気を窺わせる。この
国において王族とは、戦場にあって他を圧する者を意味するのだ。
雫は真向かいに立つ鎧姿の王に視線を移す。
﹁王様ってちゃんとしていると格好いいんですね﹂
﹁朝から不敬罪か。いい度胸だ﹂
1330
﹁敬えるなら敬いたいとは思っているんですが﹂
アカーシアを佩いたラルスは、全身鎧ではなく胸部を始めとして
各急所を覆う銀色の部分鎧を装備している。馬上での戦闘はない上、
寒冷地であるからして全身鎧を避けたのだろう。
ただ簡略の姿であっても王剣の主人として彼の威は堂々たるもの
だった。
かつて大陸を恐怖で震え上がらせた﹁魔女﹂に僅か数十人で挑ま
なければならないという畏れに対しても、この王の存在があるから
こそみな平静を保てているのだろう。
傲岸不遜の見本のような男は、背の低い女の頭を叩きながら彼女
の後ろを見やる。
﹁俺とこいつが一緒にいると向こうに読まれるからな。中に入った
ら別行動だ。ちゃんと面倒見ろよ﹂
﹁分かりました﹂
このような時でも揺らぎのない魔法士の声に、雫は密かに安堵し
た。
彼女に求められていることは魔族との戦闘ではない。いかに死な
ずに相手の手を読むかだ。雫に護衛兼連絡の魔法士としてつくエリ
クは黒い魔法着に細身の長剣を佩いている。相変わらず薄着の彼は、
その剣以外はいつもと何ら変わりがないように見えた。
彼女はエリクの隣に移動すると姿勢を正す。もうすぐ出立の時間
だ。雫は肩の上の使い魔に笑いかけた。
﹁行こうか﹂
出来うる限り気負いを減らした言葉。それを汲み取るかのように
レウティシアが手を上げる。何の声もない合図に、しかし中庭にい
た全員の視線が王妹に集中した。自然と中央に空間が生まれる。
彼らのうち何人が生きて魔女に到達出来るのか、彼女に打ち勝て
るのか。
本も今はそれを語らない。記されるのはいつでも終わってしまっ
たことだけだ。
1331
雫は腕の中の一冊を抱きしめながら、開かれる転移門を見つめる。
それはこの世界に迷い込んだ時の穴よりもずっと、人の決然を思
わせる美しい門だった。
※ ※ ※
分かっていたことだがヘルギニスは寒い。
雫は肌を切るような寒風に、耳当ても探してくればよかったと後
悔したが後の祭りである。
だがいつぞや死に掛けた時と違って、今回は厚着というほどでは
ないが防寒用の魔法がかかったケープを羽織っているのだ。
彼女は白い息を吐き出しながら、左右に聳える切り立った岩壁を
見上げた。
﹁凄いですね⋮⋮﹂
﹁この山道を少し登ればすぐだよ﹂
彼らが転移で出た細い山道からは岩山に遮られ城の姿は見えない
が、この先の空気が淀んでいるのは雫であっても分かる。城の周囲
は魔法装置によって瘴気に満たされており、外からは転移座標の指
定がきかないほど異界と化しているのだそうだ。
一行は雪が積もる山道を速やかに移動し始める。
前にも足跡が複数ついているのは、個人で魔女討伐をしようと向
った人間がいたのだろう。
彼らが今も無事でいるのかどうか、雫はそんな考えに一瞬気を取
られた。けれどすぐに雪道を転びかけて思考を手放す。
彼女の顔が雪の中に突っ込む前に、手を伸ばして体を支えた男は
呆れた顔になった。
1332
﹁ちゃんと前と足元を見る﹂
﹁す、すみません﹂
これではまるで幼児である。雫は気を引き締めると一歩一歩に注
意を払い進んでいった。エリクの言う通り、緩やかなカーブを描く
山道を十分程登ると、一気に視界が開ける。
六百年前にはヘルギニスの国境門であった場所。岩山を縫う道の
﹂
終わりに立つと、彼らはその先を見つめた。
﹁これは︱︱︱︱
皆が皆、その異様な光景に絶句せざるを得ない。
それくらい目の前に広がる荒地は形容し難い圧力に満ちていた。
暗く閉ざされた場所。
雪の積もっていない乾いた大地は、けれど冷え切って岩のように
固い。草も木もなくただ石が転がっているだけの土地は、夜の始ま
りに似て薄暗く、陽光の欠片さえ見出せなかった。
凍えた風が雪片を巻き上げて吹きすさぶ。暗雲よりも黒い靄が一
帯を覆って蠢いた。
その中央に聳える黒い城を王は注視する。
かつてヘルギニスに建っていた城を模したのか違うのか、城はま
るで塔のように天へと突き抜ける形を取っていた。頂までどれくら
いの高さがあるのか、城の先端は上空の瘴気に埋もれて見えない。
ラルスは吹き付ける風と同じくらい冷ややかな視線で黒い靄を見
上げた。
﹁レティ、魔族召喚禁止の構成が敷けるか?﹂
﹁この瘴気では無理ですね。普通の生物でも汚染されかねません。
魔法装置を破壊することは困難ですし﹂
ヘルギニスを異界と為した魔法装置は、領域内の外周、東西南北
に一つずつ据えられた構成と城内部の核の五つより成っている。
そこまでは、雫が本から取り出した知識によって判明しているの
だが、あまりにも巨大すぎるその装置に、破壊は現状ではほぼ不可
能という結論が既に出されていた。中央の核を破壊した後であれば
1333
力の流れが弱まる為、東西南北の構成を破壊することも出来るだろ
うが、核が生きた状態で外周の構成を崩そうとすれば、均衡が崩れ
て辺り一帯吹き飛びかねない。
それがヘルギニス領内に留まらず、大陸北西部丸ごととなれば﹁
外周の構成を破壊してみよう﹂と言い出せる人間はいなかった。
人の心身を消耗させ、魔物には逆に力を与える瘴気をレウティシ
アは忌々しく見やる。
一方兄の方は特に落胆も見せず﹁残念﹂と返すと、迷いない足取
りで雪上から荒地へと踏み出していった。
その一歩に他の人間が続く。だがすぐにラルスの背後から女の声
が飛んだ。
﹁王様、気づかれました﹂
﹁そうか﹂
雫からの報告に王は剣を抜く。
城までの距離は全速で走って五分程であろうか。他に比較対象が
何もないため距離感が掴みづらい。
本をケープの下に抱え込んだ彼女は、この場にないものに集中出
来るよう片目を閉じて続けた。
﹁迎撃用の魔族が放たれます。数は五、六十。空からです﹂
﹁じゃあ一人二体でちょうどいいな。倒せなかった奴は夕飯抜き﹂
﹁王様それ私も人数に入ってませんか? 鬼ですか?﹂
﹁さー、頑張るぞー﹂
いつも通り綺麗に無視された雫が足元の小石を蹴ると同時に、城
の方角、空に数十の黒点が現れる。
みるみるうちに近づいてくる飛影。その接近に対して、次々に剣
を抜く音が鳴り、詠唱の声が重なった。人よりも一回り大きい異形
の姿を視認して雫は緊張に足を止める。本を左脇に抱え、腰に帯び
た短剣を探った。
1334
だが、短剣を抜く必要は結局なかったのだ。
魔物たちが標的目掛けて高度を下げ出したその時、王の傍から苛
烈な白光が放たれたのだから。
強い閃光は刹那で黒い一群を飲み込み、その眩しさに雫は思わず
目を瞑った。遅れて静けさが辺りに広がる。
何が起きたのか、身を竦めたまま動けない彼女の肩をエリクが叩
いた。
恐る恐る雫が目を開けると空には一つの影もない。
ラルスの暢気すぎる声が代わりに響いた。
﹁あー⋮⋮レティ、加減しろ。全員の夕飯抜きが決定したぞ﹂
﹁馬鹿仰っていないでさっさとお進みになってください﹂
魔法大国に集まる魔法士たちの更に頂点に位置する女は、絶大な
力を見せつけながらそう冷ややかに返す。長い黒髪を払う彼女は兄
よりも先を歩き出すと、﹁城に入るまで兄上にはかすり傷一つ負わ
せません﹂と続けた。
雫には魔女の思考を追うことは出来ない。細かい行動も分からな
い。
ただ魔女が魔女として決断を下し場を動かす時、本に記されるそ
れを読むだけだ。
本来であれば先手を取ることこそが有利を作る駆け引きにおいて、
けれど彼女は決して魔女の先手を取れない。その代わり魔女の下し
た判断が、また打たれた手が、実際目の前に現れるまでのタイムラ
グを利用して被害を抑える。
まるで綱渡りのような危うい試み。
。
だがそれはまた、共に戦う人間たちの命綱ともなるだろう。
そしてもう一つ︱︱︱︱
1335
﹁ここで迎撃をやめました。城内の魔法装置をいくつか動かし始め
ています﹂
﹁ん﹂
雫がそう報告したのは一行が三度目の攻撃を退け、城の入り口へ
と到着した時のことだった。斬り捨てた魔物の体を跨ぎながらラル
スは聳え立つ城を見上げる。
﹁どんな装置か分かるか?﹂
﹁転移装置と罠の類のようです。それ以上の詳細は分かりません。
あと城内に魔物が放たれています﹂
﹁罠か﹂
さすがにそれらの内容一つ一つまでは本には記されない。
雫に分かるのは﹁魔女がファルサス国王を迎えうつ為にどんな手
段を取ったか﹂の概要だけで、それ以上については用心しながら実
際に進んでみるしかないのだ。
ラルスは巨大な両開きの石扉の前に立つと、何もない空中をアカ
ーシアで払った。
だが何もないと思ったのは魔力がない人間たちだけで、そこには
何らかの魔法構成があったらしい。王が手を触れさせると、厚い石
扉は耳障りな摩擦音を立てながらも自然に奥へと開き始める。
﹁じゃ、行って来るからな、レティ。一人で帰れるか?﹂
﹁帰れます。外には転移が出来るようですから﹂
王妹はそれだけ言って足を止めた。王を始め城内に踏み入ってい
く面々を見送る。
たった一人の兄を危地へと見送る彼女の気持ちはどんなものなの
か。姉妹しかいない雫は想像がつくようなつかないような思いで外
を振り返った。
彼女と目が合うとレウティシアは微笑む。
﹁頑張って﹂
1336
短い中に込められた万感。
雫はその言葉に確かに頷くと、再びゆっくりと閉まり始める扉を
背に、前へ歩き出したのだった。
※ ※ ※
浮かび上がる文字を指でなぞる。
短い一文はファルサス王妹がこの場から去ったことを示していた。
アヴィエラは薄く微笑む。
﹁王妹を下がらせたのは王の命か? 全力で挑んでくればいいもの
を﹂
﹁手間が増えるだけだろう。あの女は精霊とやらを連れている。上
位魔族同士でやりあうのは面倒だ﹂
レウティシアが使役している精霊とエルザード、どちらが強いの
かアヴィエラは知らないが、彼もそれを明らかにする気はないらし
い。ただ平静に抑えた声音に、多少の負けん気が混ざっている気が
して彼女は唇を上げた。からかうように問いかける。
﹁随分弱気なことだ。ならばアカーシアなら勝てるのか?﹂
﹁造作もないな。使い手を狙えばいい﹂
男は言い放つと玉座の上で目を閉じた。或いは到達者が現れるま
で眠るつもりなのかもしれない。彼はアヴィエラが言えば手を貸し
てくれるが、それ以外は気紛れにしか動かないのだ。
魔女は本を閉じると玉座の後ろを振り返る。
硝子のない大きな窓。そこから見えるものはただの瘴気だ。六百
年の昔には澄んだ空気と共に居並ぶ山々の絶景が見渡せたという高
みにて、彼女はそれを少しだけ残念に思う。
1337
だがアヴィエラは表情に気だるい失望を見せることなく微笑んだ。
﹁アカーシアの剣士に殺されるのでは面白みがない。ファルサス国
王には悪いが、退場をお願いしたいところだな﹂
※ ※ ※
城の一階に廊下はなかった。
というよりも何もないと言ったほうが正しい。
扉をくぐった先は階全てを使った広間になっており、そこには家
具も装飾品もなかった。ただ氷板のように冷えた石床が敷き詰めら
れており、天井も吹き抜けになっている。
がらんどうとしか言いようのない大きな空間に、雫は天井を見上
げた。隣を歩いていたエリクがさりげなく彼女の背後に移動したの
は、上を見過ぎて転ぶとでも思ったのだろうか。
一行が警戒しながら広間を調べ出す一方、雫は立ち眩みしそうな
くらい上方にある吹き抜けの終わりを見つめる。案の定よろめきか
けエリクに支えられた彼女は、隣にやって来た王とハーヴに気づく
と目礼した。
﹁結界の核は上か﹂
﹁です。ちょうど真ん中くらいの階ですね。最上階には魔女と上位
魔族が。本は魔女が持っています﹂
﹁魔女と上位魔族か。まぁ何とかなるかな﹂
王の述懐に周囲の人間には緊張が走る。
先日不意を突かれたとは言え上位魔族の前に、熟練した魔法士で
あるトゥルースが一瞬で重傷を負わされたのだ。
その彼は今回、軍の指揮に加わっておりこの場にいないが、魔法
1338
士長である男の実力を考えるだに、嫌でも敵の強大さが感じ取れる。
押し黙る部下たちをラルスは見回した。
﹁無理するな。魔女も上位魔族も俺に回せ。そこまでの魔物を掃討
出来ればいい。ああ、魔女の持っている紅い本も破壊対象だが、破
壊できないようだったら俺のところに持ってこい﹂
外部者の呪具とは本来破壊が困難なものらしい。
だからこそアカーシアが対抗武器として意味を持っているそうな
のだが、ラルスにばかり負担が集中しそうな状況に、雫は複数の意
味で心配になった。
魔法具の類なのか珍しく嵌めている指輪を弄っていた王は、時計
を取り出すと彼女に視線を移す。
﹁もうそろそろだ。いけるか﹂
﹁やってみます﹂
雫は意識を集中させると広間を右往左往しながら場所を探した。
平面上の場所を揃えることに意味があるのか自信はなかったが、
何となくその方がいい気がして動き回る。
時間はもうあまりない。彼女はようやく中央近いある一点に立つ
と両目を閉じた。
ケープの中の本と、その遥か真上にある一冊に意識を同調させる。
※ ※ ※
同時刻。
メディアル宮殿内の一室には十一人の王が集まり、その時を待っ
ていた。
城の主であるヴィカスは勿論、キスク女王オルティアやガンドナ
1339
王ダラスなど大国の王たちを始め、有力国家の王権を持つ者たちが
一堂に会している。何もなければまず揃わない彼らが、時と場を同
じくしているのはある目的の為だ。
ファルサスから要請を受けてのこの行動によって、果たして本当
に魔女を退けられるのか、彼らは確信を持っていない。ただ一人オ
ルティアだけが要請の持つ裏の意味を知っていた。
﹁そろそろか⋮⋮﹂
ヴィカスの声に一同の視線が集中する。
隣の領地に魔女の城が出現したことにより、前例のない苦境に立
たされたメディアルの王は、けれど取り乱したところの一切ない落
ち着いた態度で机上の時計を見やった。魔法仕掛けの湾曲した針が
ゆっくりと円を描き、中央を指す。
指定された時の始まり。
老王はおもむろに口を開いた。
始まった。
﹁今この時をもって⋮⋮メディアルは魔女アヴィエラに宣戦する﹂
︱︱︱︱
その衝撃は雫の精神に濁流のように押し寄せる。
何の前触れもない唐突な宣戦布告は、しかしメディアルだけのも
のではなかった。
ガンドナ国王ダラスは軽く手を挙げて笑う。
﹁ガンドナもだ。総力をもって魔女を排除する。過去の遺物は沈黙
していろ﹂
﹁キスク女王オルティア・スティス・リン・キスクは只今より魔女
に宣戦を布告する﹂
﹁ベストルは本日、王の権限を以って魔女への戦を行うことを宣言
する﹂
1340
﹁ナドラスは魔女に屈することをよしと思わず。これより国を挙げ
て戦争に入る﹂
決められた時間。
決められた宣戦。
十一人の王によるそれらは単なる宣言に留まらない。次々に具体
的な指示が飛び、軍の編成とその布陣までもが決定されていく。
同じ部屋にいる彼ら。しかし王たちはお互い議論を交わすわけで
もない。他の王の言葉など聞かず、ただ自国の軍策を文官たちに伝
達するだけだ。異様としか言いようのない彼らの指示に、それまで
静寂に満ちていた部屋が一気に喧騒で溢れかえった。
その全てを手配した男は、冷え切った城の広間で一片の畏れもな
く笑う。
﹁勿論ファルサスも宣戦だ。首を飾ってやるから待っていろ﹂
かつて魔女の一人を屠った王剣を手に、ラルスは上階を仰いだ。
その傍らでエリクは周囲の様子に気を払いながら、雫の体を支え
ている。
大陸に残る二つの本。これらの本はそれぞれ大陸の歴史を二分し
て記している。
それは大陸の領域的に二分しての記述であり、仮に本同士を同一
の場所に置いたとしても、一帯の記述は先にその場を担当した本に
優先されるようになっていた。
雫が監禁された時に紺色の本を見て、そこに何も記されないと確
ある一箇所、ある時刻に、大陸における歴史
認したエリクは記述の優先法則を知ったが、彼はそこからまた別の
可能性をも考えた。
すなわち︱︱︱︱
の転換点を集中させたらどうなるのかと。
エリクは自分が調べた紺色の本に、明らかな歯抜けがあることを
1341
分かっていた。
そしてその中には、同じ戦場内における事件にもかかわらず五ヶ
国以上が入り乱れたせいか、一つの戦闘についてもう一冊へも記述
が分かれたという事例も混ざっていたのである。
言葉の奔流。
その只中に立つ雫は、無形の力に押し流される情報をかき分け、
自らへと引き寄せる。
二つの本を接近させた上で情報量を決壊させるというこの試みの
成否は、本と繋がる彼女がどれだけ二冊の優先順位を逆転させられ
るかにかかっていた。
紅い本が記しきれない情報を紺色の本に渡し、同時に一帯の記述
権をも徐々に奪い取る。
自分の体の外にまで精神を流出させ動かすという挑戦は、彼女の
自我に多大なる負担をかけていた。頭蓋を割るような初めの頭痛が
薄らぐと、代わりに﹁自分﹂という意識も曖昧になっていく。
﹁っ⋮⋮あ、あ⋮⋮﹂
﹁雫﹂
名を呼ぶ声と共に、肩を叩かれる。
その声で、感覚で、雫は自分に肉体があることを思い出す。自分
を思い出す。
彼女は閉じていた目を開くと、重みのない頭を振って息を吐き出
した。正面に立つエリクが顔を覗き込んでくる。
﹁大丈夫?﹂
﹁すみません。平気です﹂
呼吸をすれば体を思い出すのは何故なのだろう。
この息こそが自分の魂なのかもしれないと、彼女は少し笑った。
再び目を閉じる。
そして雫はまた見えない海へと漕ぎ出した。少しでも多くを掴み、
1342
魔女の手から奪い去る為に。
これは彼女と魔女の戦いであると同時に、彼女と本との戦いでも
あるのだ。
予定されていた時間は五分間。
それ以上は雫の精神が持たないとあらかじめ決められていた。
指定の五分が終わると、彼女はエリクの腕の中に崩れ落ちる。呼
吸は荒いが意識を失ったわけではない。その証拠に黒い瞳が王を見
上げた。ラルスは笑いもせず問う。
﹁どのくらい取れた?﹂
﹁六割。すみません﹂
﹁上等だ﹂
本当ならば完全に記述権を奪い取りたかった雫は、汗の滲む額の
下で悔しそうな苦笑を見せたが、事態は好調と言えるだろう。これ
で、以後アヴィエラが知り得る情報はそれまでの四割だけになった
のだ。
本自体に意思がない以上、二冊への振り分けは無作為なものにな
り完全な漏洩は防げないだろうが、全て筒抜けと半分以下では大分
違う。おまけに雫がいれば、ファルサスは全てを知ることが出来る
のだ。
ラルスは満足そうに頷くと、壁に沿って上階へと向う階段を見や
った。自分付きの連絡係であるハーヴを手招きする。
﹁ご苦労。お前たち二人はここにいろ。俺たちは上。行って来る﹂
﹁気をつけて下さい、王様。階段登りすぎて足がくがくにならない
ように﹂
﹁実はちょっとそれを心配している﹂
最上階に到着するまでにはどれくらい階段を登らなければならな
いのだろう。密かに雫は上に向う人間たちに同情したが、どうにも
1343
ならないことは仕方ない。
ようやく眩暈を乗り越えた彼女は、エリクの手を借りて立ち上が
ると服を調えた。腕の中の本を抱き直す。
その時、女の笑い声が聞こえた気がした。
﹁危ない!﹂
唐突な叫びに押され雫はたたらを踏んだ。
すぐにエリクが彼女の手を引き、その場を離れる。
何が起こったのか分からない。
雫に出来たことはただもつれるように走ることだけで、本に同調
することも出来なかった。
背後から重い衝撃音が響く。
床を揺るがす振動に、彼女は地震でも起きたのかと錯覚したくら
いだ。
次いで何人かの驚愕の声が重なり、一同の視線が中央に集中する。
エリクが手を離すと雫もそれにならって振り返った。
﹁⋮⋮大岩?﹂
﹁だね﹂
直径が大人の背丈二、三人分はあるであろう床にめりこんだ巨岩。
付近の高山を思わせる鋭く尖った岩は、遥か上階から落下してきた
のか広間の中央に突き刺さっている。
幸い押し潰された者はいないようだが、逃げ遅れていたならまず
命はなかっただろう。
思い思いの方向に避難した人間たちはぞっと蒼ざめてその岩を見
やった。ラルスが眉を顰めて高い吹き抜けを見上げる。
﹁これが罠か?﹂
﹁いいや? これからだ﹂
1344
割り込んできた女の声。
全員が一瞬で臨戦態勢に入りかけた。
っ!﹂
しかしそれより早く、中央の大岩が砕け散る。
﹁︱︱︱︱
向ってくる無数の石礫。
全身を打たれる予感に雫は片手で顔を覆った。彼女を庇ってエリ
クが前に立つ。
思わず愕然とした直後、彼女もまた石を胸に受け、その場
けれど次の瞬間、雫が見たものは跡形もなく消え去る男の背で︱
︱︱︱
から消え去ったのだ。
気がついた時、雫は体を二つに折って激しく咳き込んでいた。半
ば無意識のうちに小石があたった部分をさする。
怪我をした、というほどではないが気管の上に当たってしまった
らしい。何とか咳を飲み込むと彼女は涙目で辺りを見回した。そし
て思わず立ち尽くす。
﹁あれ⋮⋮﹂
灰色の冷え切った壁と床。そこには窓はなく、家具の一つもない。
いつの間にか雫がいる場所は、先程までの広間ではなく見覚えのな
い小部屋になっていた。
一見して覚えのない部屋は、けれど気温や壁の材質から考えて、
おそらくがヘルギニス城内の何処かであろう。ただし部屋の中には
誰もいない。先程まですぐ傍にいたはずのエリクもその姿が見えな
かった。
雫は呆然とした状態から我に返ると、ケープをめくり上げ内ポケ
ットに囁く。
﹁メ、メア。いる?﹂
﹁おります﹂
馴染みある声に雫は安堵の息をついた。寒い場所に来たのだから
1345
ポケットに入っていて貰おうと考えたのが幸運だったらしい。主人
の要請で肩の上に戻ったメアは、窓のない小部屋を見回した。冷静
に事態を分析する。
﹁先程の石一つ一つに転移構成が含まれていたのでしょう。当たっ
た人間は片端からバラバラに転移させられたようです﹂
﹁いきなりか! やられた!﹂
ただでさえ少なかった戦力を分散されてしまった。それも一人一
人レベルで、である。雫は他の人間が無事であるのか心配になった
が、他の人間はもっとも無力である彼女を心配しているだろう。
部屋に一つだけある扉を見ながら、雫は片目を閉じた。二冊の本
に同調する。
﹁王様は⋮⋮一人か。他のみんなも分断されたってだけしか書いて
ないな。メア、人の気配って分かる?﹂
﹁瘴気が濃すぎて今の状況では不可能です。もう少し近づけば分か
るかもしれませんが﹂
﹁ってことは至近には誰もいないのか⋮⋮﹂
ついつい肩を落としてしまったが、いつまでもそうしてはいられ
ない。はぐれた時の基本はきっと﹁はぐれた場所で待っている﹂だ
ろう。雫は下り階段を探す為、用心しながらも扉に手をかけた。
扉の隙間から見える外は、広い廊下になっていた。廊下は長く緩
やかに弧を描いており、ところどころにある窓から寒風が吹き込ん
でくる。風の中に雪片が混ざっていることからして、おそらく廊下
は城の外周部分にあたるのだろう。
広間から見上げた吹き抜けにそれらしい場所がなかったことを思
うと、今いる場所はそれなりに高い所にあるのかもしれない。
雫は大体を把握すると、音を立てないよう扉の隙間を広げた。息
を殺し気配を窺う。
薄暗さが否めない通路。
だが幸か不幸か動くものは何もない。彼女は意を決すると扉の外
1346
に踏み出した。右に行くか左に行くか迷って結局右に向う。どちら
も同じに見えるので賭けのようなものだ。
雫は何度も振り返りながら慎重に歩を進めていった。扉が見えな
くなると肩の小鳥に囁きかける。
﹁朝なのに昏いなぁ﹂
﹁瘴気がありますから。マスターは影響ないようですね﹂
﹁こういう時異世界人って便利だ﹂
カンデラでもそうだったのだが、今のところまったく息苦しさも
気分の悪さも感じない。これは実際便利だと誇っていいだろう。人
によっては瘴気に接しすぎると精神に悪影響が出るのだそうだから。
もっとも精神に悪影響というなら、雫以上に外部から影響を受け
ている人間など他にいないのかもしれない。法則を越えた呪具と繋
がり、その力を逆手に取る。言うは易いが、彼女に課せられた役目
は、いつ精神が飲み込まれるか分からぬ危険性をもまた秘めている
のだ。
﹁エリクは自分がいない時に使うなって言ってたけど⋮⋮何処にい
るんだろ﹂
﹁この近くにはいないようです﹂
﹁ぐう﹂
そして足を止めた。
彼と合流出来たらそれが一番いいのだが、中々上手くはいかない
だろう。
雫はとぼとぼと廊下を歩いて行き︱︱︱︱
廊下の先に見える黒い塊を凝視する。
﹁⋮⋮何あれ﹂
﹁マスター、注意してください﹂
馬一頭が蹲ったくらいの大きさの塊。廊下の中央に在るそれは、
会話に反応したのか気配に反応したのか、ゆっくりと動き出した。
山が崩れ落ちるように一つ一つが意思を持ってほどけていき、それ
は二十匹程の﹁何か﹂になる。
耳のない猫に似た、ぬらりとした四つ足の生き物。
1347
潰れた目とその下の牙を見て取って、雫は生理的嫌悪にぞっと蒼
ざめた。それらは彼女に向かってよろよろと動き始める。
初めて見る姿ではあるが、おそらくあれが城に放たれた魔物の一
種なのだろう。雫は背後を振り返るとついつい嘆息した。
来ます﹂
﹁⋮⋮現代日本出身者としては、ああいうのに殺されたくないな⋮
⋮﹂
﹁︱︱︱︱
殺されたくないのなら、それ相応の対処をしなければならない。
雫はメアの声を合図に身を翻すと、廊下を元来た方向に向って走
り出した。
※ ※ ※
振り下ろされる豪腕の一撃。
石床をも砕くそれに、エリクは跳び退って空を切らせた。大振り
によって生まれた隙を逃さず、短い詠唱で二本の矢を作る。炎を纏
った鏃は男の制御により曲線を描くと、寸分違わず異形の両眼に突
き刺さった。
上半身だけは人間に見えなくもないそれは苦痛に金切り声を上げ
る。ぶよぶよとした腹から突き出る六本足がのたうった。
﹁やれやれ﹂
エリクは軽く息を整えたが、相手にはそれも聞こえていないらし
い。視力を失った魔物は怒りの咆哮と共に、見当違いな場所へと太
い腕を振るう。拳は重い音を響かせながら外壁へと食い込んだ。細
かい石片が床の上に散っていく。
魔物はそこに標的がいないと分かると振り返った。
1348
﹁⋮⋮これは放置できないか﹂
あまり余計な魔力は使いたくないのだが、このままにしておいて
他の人間が通りかかっても困る。彼は改めて詠唱を開始すると空気
の槍を作った。
狙うは腹の中央。こういった形の魔物は腹の中に心臓があること
が多いのだ。エリクは槍を手に取ることなく、構成だけで狙いを定
める。
﹁撃て﹂
槍はまっすぐに膨らんだ腹部に食い込んだ。それは正確に肥大し
た心臓を貫き、先程のものとは比べ物にならない絶叫が上がる。
耳を痛める甲高い叫び。だがその声もすぐに止んだ。エリクが最
後の構成を繰ると同時に槍は魔物の体内で弾け飛び、その命を刈り
取ったのだ。
上半身しか残らなかった死体を見下ろして、男はまじまじと異形
の姿を見やる。文献などでしか見られない魔物を目の当たりに出来
るのは興味深いと言えば興味深いのだが、それどころではない。一
刻も早くはぐれてしまった女を探し、塔の一階に戻らねばならない
だろう。
﹁本を使ったりしてないといいんだけどね﹂
あの本は乱用していいものではない。特に彼女は。
今は緊急事態であるからして仕方がないが、魔女に打ち勝てたの
ならすぐさま遠ざけ、本の存在自体忘れさせる必要がある。
それを彼の欺瞞と非難する人間も当然いるだろう。彼女自身も嫌
がるかもしれない。
けれど既にエリクは、それを決定事項と考えているのだ。
﹁さて、上か下か、どっちだろう﹂
男は目にかかる髪をわずらわしげに払うと城の廊下を歩き出す。
誰のものとも同調しない足取りは、冷えて乾いた石の上に小さな
音を響かせ、何も残さずに消えていったのだ。
1349
※ ※ ※
数階分もの吹き抜けを通して見下ろす階下に人の姿はない。ただ
石床に突き刺さっていた巨岩の残骸が見えるだけだ。
ラルスは続いて左右を見回し、そこにも人影がないことを確認し
た。先程までよりずっと近くに見える天井を仰ぐ。
﹁どうせならもっと上に飛ばしてくれればよかったのに﹂
岩が砕け散った時、彼は向かってくる破片のほとんどをアカーシ
アで相殺した。しかし周囲の部下たちがその破片を受けて消えてい
くのを見て、彼は剣を引くとあえて破片を受けることを選んだのだ。
結果として転移させられた先は、それまで見上げていた吹き抜け
の上である。ここまで歩いて登らずに済んだのはよかったが、どう
せだったらもっと上層階がよかった。
部下たちについてはともかく、自分が一人になったことに対して
は何ら不安を抱いていない王は、嘯きながら階段へ向おうとする。
彼が足を止め、吹き抜けを振り返ったのは、空気が揺らぐ気配を
感じてのことだ。
アカーシアを意識しながら隙なく体を返したラルスは、吹き抜け
の真上に浮かぶ女を見て目を細めた。
アヴィエラは男に妖艶な笑みを見せる。
﹁よく来た、と言うべきか? アカーシアの剣士よ﹂
﹁寒い。もっと暖かいところに呼べ﹂
﹁ああ。ファルサスの人間にここは堪えるだろうな。だがこの地が
一番異界化させやすかったのだよ﹂
魔女は剣の届かない空中で肩を竦めてみせる。
1350
どうやら幻影ではなく実物のようだが、あの位置にいられてはラ
ルスから直接攻撃することは出来ない。
無論、無茶をするならアカーシアを投擲することも出来るのだが、
それをして避けられた時には確実な死が待っているだろう。
王は気づかれぬよう投擲用の短剣を探りながら魔女を見上げた。
﹁しかし魔女とは大見得を切ったな。それを名乗っては大陸も本気
になるしかないだろう?﹂
ファルサス直系である男の目には、魔女が内包する力の大きさも
また見えている。
彼は王剣の剣士であり魔法については妹にまかせきりなのだが、
構成や魔力を見ることだけは出来るのだ。
事実を指摘する言葉に女は微笑む。そこにたじろぎはまったく窺
えなかった。
﹁私の魔力が分かるのか。さすがはファルサス王家だな。そうだ。
こんなものがある﹂
私は魔力から言えば歴代の魔女たちの足下にも及ばないさ。ただ︱
︱︱︱
取り出された紅い本をラルスは冷淡な目で見やった。それが何で
あるのか、片方は知っていて片方は未だ知らない。
﹁王よ。秘された歴史を知りたくはないか? 起こったことも起こ
らなかったことも、忘れ去られたものも隠されたものも。過去のこ
とと侮るな。これには諸国の暗部や天才たちの策だけではなく、封
じられた魔法の数々もまた記されている﹂
魔女の言葉は、多くの人間にとっては甘美な誘惑として響いただ
ろう。
知によって力を得る為の本。
これさえあれば大陸さえ手に入ると女は弄言し、人の目を眩ませ
る。
だが、本の本質を知っている男はその誘いを一蹴した。青い瞳が
皮肉に細められる。
﹁知りたくないな。歴史については充分やった﹂
1351
﹁だがそれも単なる一側面だ。真実はもっと無数にある。忘れ去ら
れた歴史にどれ程の重みがあるか、自らの立つ足下を見下ろしてみ
ればいい﹂
千数百年をゆうに越える大陸の歴史。﹁今﹂に行き着くまでにど
れ程の積み重ねがそこにあったのか。埋もれてしまった、なくなっ
てしまった過去を振り返れと魔女は囁く。
そこに人を誑かす為だけではない熱を嗅ぎ取って、ラルスは冷笑
した。
﹁なかったと思われていることであれば、それはもうなかったこと
だ。しがみつくならば自分一人でしがみつけ。他人を巻き込むな。
鬱陶しい﹂
嬲るというよりも斬りつける言葉。
それはアヴィエラを沈黙させ、感情を閉ざさせる力を持っていた。
途端に無表情になった女を王はねめつける。
﹁出来損ないの魔女が。お前の望みは過去の顕示か?﹂
観察者の道具に踊らされた女。
その為に彼女は暗黒の再来を謳い、無数の躯を積み上げたのか。
人々を煽り本をちらつかせ、自分の望みを投射しようというのか。
肌を凍らせる空気よりも冷えた問い。
王よ、お前は自分の名を残
女は少し微笑んだ。赤みがかった瞳が宙を彷徨う。
﹁私の望みは名を残すこと。︱︱︱︱
したくはないのか?﹂
﹁御免だな。死後も語られる王など虫唾が走る﹂
﹁ならば他の者に聞くとしよう﹂
軽い笑声と共に魔女の姿は消えた。何もなくなった空中をラルス
は眺める。
王はそのまましばらく気配を探っていたが、二度と彼女が自分の
前に現れないと悟ると、踵を返し階段へと向った。
1352
1353
004
鋭い牙が右腕に突き刺さる。灼けつくような痛みに、武官の男は
奥歯を噛み締めた。食らいついている魔物の腹を思い切り蹴る。
﹁グギャッ!﹂
小さな翼を生やした猿は床に転がり悲鳴を上げた。男は苦痛を堪
え距離を詰めると猿の脳天めがけて剣を振り下ろす。飛び散る脳漿。
異形の体は頭を割られ大きく痙攣した。それも数度で止むとぴくり
とも動かなくなる。
﹁仕留めたか⋮⋮?﹂
彼の周囲には同じ猿の死体が数十転がっていた。最後の一匹の絶
命を確認すると、男は布を裂いて腕の傷を止血する。
しかし、傷を縛ってもじくじくとした痛みは強くなる一方だった。
それだけではなく牙から何か混入したのか、徐々に熱い痺れが広が
っていく。
﹁参ったな﹂
今、この状況で利き腕が使えなくなるということは、すなわち死
を意味するのだ。男は上手く握れない柄を何度も持ち直した。他に
誰もいない廊下を見回す。
死ぬつもりはない。ただそれは、死ぬ覚悟がないということと同
義ではなかった。
魔女に挑むのだ。むしろ生きて帰れる可能性の方が少ないだろう。
怖くないと言い切れば嘘になる。それでも自分はファルサスの武官
なのだ。国の為に戦い、王の為に盾となる人間。
1354
だからこそ死の危険が高い要請も迷わず引き受けた。王自ら乗り
込むというのに、同行せずして武官である意味はないと思ったのだ。
腕の立つ人間たちの中でも、独身者ばかりを選んで要請を出したの
は王のせめてもの配慮であろう。
剣の落ちる高い音。
彼はついに感覚のなくなった右手を見下ろす。
血の臭いに引かれたのか、低い唸り声が角の向こうから聞こえた。
重い足音が近づいてくる。
﹁⋮⋮運が悪いな﹂
男は苦笑しながらも左手で剣を拾い上げた。足音が聞こえる方向
に向って剣を構える。
絶望はまだない。
ただ悔しさだけがこみ上げる。
最後の瞬間、彼が目にしたものは、自分に食らいついてくる大き
な顎で︱︱︱︱
食われながらも魔物の頭蓋を貫いた男はその時、何も知らぬまま
彼の帰りを待っているであろう母親の顔を思い出していたのだった。
※ ※ ※
背後から複数の何かが追って来る気配がする。
ぴちゃぴちゃと舌なめずる音がやけにはっきり聞こえるのは、﹁
それ﹂らが足音をほとんどさせない為であろうか。雫は足を上げて
飛ぶように走りながら肩の上の小鳥に命じた。
﹁メアっ! 近いのから一個ずつ!﹂
1355
﹁かしこまりました﹂
主人の命令に応えて小鳥は力を放つ。それは先頭を走っていた魔
物に命中し、小さな頭を四散させた。次にメアは二番目の魔物を狙
う。
相手は複数だ。
雫はその間も足を止めない。廊下の先を見据えて床を蹴る。
︱︱︱︱
立ち止まって迎え打てば、すぐに死角からの攻撃を受け立ち行か
なくなってしまうだろう。
そう判断した雫は咄嗟に反転逃走を選んだ。
だがそれは逃げることが目的というよりは、走りながら追って来
る個体を撃破していく為の逃走である。そして彼女の目論見通り、
メアが力を放つにつれ雫を追う魔物の数は徐々に減っていった。
走る速度も拮抗しているのか一度に何匹もに追いつかれることは
ない。このまま走り続ければ無傷で追跡をしのげただろう。けれど
その数が残り数匹になった時、彼女の目には元いた部屋の扉が見え
てきたのだ。雫はそれに気づくと慌てて思考を働かせた。
あの扉までは何もいなかったと確認している。だが、この先は何
がいるか分からない。彼女は短い計算の結果、新手に出くわす可能
性を考えて声をあげた。
﹁止まるよ!﹂
﹁はい﹂
短剣を抜きながら雫はブレーキをかける。同時にメアは三匹をま
とめて吹き飛ばした。すかさず飛び掛ってくる一匹めがけて雫は短
剣を振るう。
剣など使ったことのない雫の動きは、どちらかというと空中を乱
雑に薙ぎ払ったようにしか見えなかったのだが、その刃は魔物の顔
に食い込み、あっけなく頭部を両断した。豆腐でも切ったような手
ごたえに彼女は嫌な顔になる。
その間にもメアは敵を減らすことをやめない。最後の一匹に雫が
1356
短剣を突き刺すと、小さな体は霧散して消えてしまった。静寂が戻
る廊下で一人と一羽は顔を見合わせる。
﹁勝った、かな?﹂
﹁死肉処理用の魔物だったようです﹂
﹁うぇ﹂
気分が悪い話だが、それならあっさり消え去ったのも納得出来る。
元から生きた人間を相手にするようには作られていないのだろう。
雫は気を取り直すと再び廊下を戻り始めた。しかしその時、背後
から獣の唸り声が聞こえてくる。
﹁⋮⋮﹂
内臓に直接響く低い声。
確かに感じ取れる気配。
今まで相手にしていた魔物とは比較にもならない圧力が、彼女の
背筋を凍らせた。雫は強張った指で短剣を握り直す。
振り返りたくはないが、確認しないわけにはいかない。
彼女は意を決すると首だけで背後を振り返った。
そして戦慄する。
﹁⋮⋮嘘でしょ﹂
白い牙。赤い瞳。
雫の体のゆうに三倍以上はありそうな巨体。
肉色の虎に似た魔物が、そこには唸り声をあげて姿を現していた
のである。
嫌なことから逃避できるのなら、今まで逃げ出したい機会は腐る
程あった。
しかし中でもこれは上位に入る状況だろう。雫は生きながら食わ
れる自分を想像して息を詰まらせた。魔獣が一歩を踏み出すと同時
に、自分も一歩後ずさる。
﹁メア、勝てるかな?﹂
1357
﹁生命力が強い種です。殺すには時間がかかるかと﹂
﹁うん⋮⋮⋮⋮⋮⋮まぁ、やってみよう﹂
巨大な敵というと、いやでも禁呪の大蛇に追われた時の記憶が甦
るが、それよりは遥かにましな相手であろう。少なくとも敵はただ
の魔物だ。
雫は短剣を一旦ベルトに戻すと、代わりに魔法薬の小瓶を手に取
った。肩の上のメアに指示を囁く。
落ち着いて、体を動かすこと。
それがもっとも重要なことだろう。
震える程怖くても、恐れに鈍れば、それは死に繋がる。
けれど冷静に動けば、まだそこには活路が残っているはずだ。
雫は紅く光る魔獣の目を見据える。
恐怖を表面には出さない。それをすれば侮られると分かっている
からだ。
そのまま彼女はゆっくりとタイミングを計った。相手が攻撃を仕
掛けてくるその時を待つ。
音はない。どちらも音をさせない。呼吸音さえも止んだかのよう
だ。
来い﹂
雫は奥歯を噛み締めて敵を見上げる。
﹁︱︱︱︱
武器を持たない女の体を引き裂こうと、魔獣がおもむろに飛び掛
かる。誰の目にもそれは、捕食者が獲物を仕留めるだけの光景とし
て映ったであろう。
しかし肉色にぬめる巨体は、雫に触れる寸前、空中で別の力に押
し止められたのだ。
メアの結界に絡め取られた虎に向って、雫は小瓶を振る。
鼻につく刺激臭。
1358
本来ならば消毒用の魔法薬であった液体は、魔獣の顔にかかると
人間でさえ顔を顰めたくなるような臭いを発した。そしてそれは、
獣にとってはより強烈な効果をもたらしたようだ。悲鳴じみた咆哮
がこだまする。
﹁メア! 目!﹂
雫は短剣を抜き直しながら叫んだ。同時に魔獣の眼球が破裂する。
一瞬で視覚と嗅覚の両方を奪われた獣は怒りの声をあげた。闇雲に
大きな爪を振るい、敵を叩き伏せようとする。
しかしその時には既に、雫は魔獣の脇をすり抜け背後に回ってい
た。暴れ狂う巨体を見ながら距離を取る。
﹁杭打ちます﹂
肩の上で小鳥が新しい力を練った。それは石の杭となり、魔獣の
四肢へと次々突き刺さる。
次第に動きが取れなくなっていく魔物を見やって、雫はようやく
息をついた。
﹁何とかなりそう、かな?﹂
言う間にもメアの攻撃は続き、床にはどろりとした血溜まりが広
がっていく。
肉色の虎がただの肉になっていく過程。それはとてもでないが正
視に堪えないグロテスクなものだった。けれど雫は唇を噛んで睨み
続ける。
今ここで目を逸らすようなら、それは覚悟が足りないということ
だ。
そして自分はそうではない。
魔女の挑戦を受けて、自らの意志でこの城へと来たのである。
初めはくびきを逃れようと猛り狂っていた魔獣も、体に刺さる杭
が増えるにつれ次第に弱まっていく。ついには足を折って床に伏し
た。血肉の生臭さが充満する中、雫は動かなくなった相手の気配を
1359
おそるおそる窺う。
﹁死んだ?﹂
﹁マスター!﹂
メアの忠告と、魔獣の半身が跳ね上がるのはほぼ同時だった。
死に掛けた獣は最後の力で体を返すと、雫に向って飛び掛ろうと
する。
空隙がもたらした刹那。
血まみれの体は彼女に届かぬまま、空
彼女は衝撃を予感しながらも後ろへ跳んだ。瞑りそうになる目を
意志によって固定する。
しかし次の瞬間︱︱︱︱
中で炎に包まれたのだ。
唖然とする雫の前で、獣は隅々まで焼き尽くされると焦げた塊と
なって床に転がる。代わりに少し息を切らせた男の声が背後から彼
女を振り向かせた。
﹁無事だった? 雫さん﹂
﹁ハーヴさん!﹂
人のよい笑顔を浮かべる魔法士の男。
分断された敵地でようやく知己と再会できた雫は、両手を上げて
喜色を浮かべるとそのままハーヴに飛びついたのだ。
﹁参ったな。みんなバラバラだもんな。俺はすぐ下の階にいたんだ
けど⋮⋮﹂
﹁この城って何階建てなんでしょうね。一フロア一人だったら途方
もないと思うんですけど﹂
逆方向からやって来たハーヴによると、この階にはもう他の人間
はいないらしい。
また外周を円状になっている廊下は、一周が繋がっているわけで
はなく、視力検査の輪のように端と端が切れており、それぞれ上り
と下りの階段になっているのだという。つまり、城を上っていくに
1360
しても下っていくにしても通る階全ての廊下をぐるりと回らなけれ
ばならない。それを聞いた雫は﹁設計のあこぎなデパートみたいで
すね﹂とずれた感想を洩らした。
彼女はハーヴと並んで下り階段に向いながら、外の景色に目をや
る。
そろそろ時間的には昼近いと思うのだが、瘴気に包まれた荒地は
薄暗いままだ。今頃他の皆はどうしているのだろう。雫は自分の力
によって分かる唯一の人間を思い出すと、隣の男を見やった。
﹁そう言えば王様って一人なんですよね。無事かどうか見てみまし
ょうか﹂
﹁陛下もお一人なのか! って駄目だよ、雫さん! 一人で使っち
ゃ危ないってエリクに言われただろ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
もともと紅い本の情報を持ち込んだ本人であるハーヴは、雫が異
世界人であることこそ知らないものの、能力を同じくする紺色の本
と彼女がそれに繋がっていることは知っているのだ。加えて友人か
らその危険性を知らされていたのだろう。諌める目で雫を見下ろす。
﹁大体、陛下がお一人って知ってるってことはもう使ったのか。駄
目だよ。気をつけなきゃ﹂
﹁す、すみません。状況が知りたくてつい⋮⋮﹂
﹁気持ちは分かるけど。これ以上はやらない方がいい﹂
﹁うう﹂
力を使わないままでいるのは勿体無いとも思う。自分は他に何も
出来ないのだから特に。
けれどこの場合はハーヴが正しい。雫は項垂れると己の軽挙を反
省した。しかしそこで、別の方法に気づく。
﹁あ! ハーヴさんがこの本読めばいいんじゃないですか?﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁そうですよ! 私が読むとどうしても繋がっちゃいますけど、ハ
ーヴさんならただ読むだけですから。六割だから上手く行けば王様
1361
の状況も載ってますよ!﹂
雫は自分でも名案と思う提案に、ケープ下の本を差し出した。ハ
ーヴはぎょっとして紺色の呪具を見下ろす。
秘された歴史までもが記されている記録書。そこには今の状況に
関しても何らかが記されているのかもしれない。
だが目の前にいる男は少し蒼ざめて、その本を手に取ろうとはし
なかった。
雫は訝りながら相手の顔を覗き込む。
﹁ハーヴさん? 多分危なくないですよ。エリクもレウティシア様
もそう言ってましたし﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
確かに得体の知れない本だが、雫以外の人間が読む分には支障が
ないだろう。ハーヴは躊躇いながらも本に手を伸ばそうとする。
しかし男の指が表紙にかかるその時⋮⋮彼らの目前で不意に空気
が歪んだのだ。
魔法士が転移で現れる際に生まれるひずみ。
それを目にして二人は咄嗟に身構える。
覚悟はある。
あるからこそ、この城を訪れた。
今、このような状況に対しても果た
本を支配し、魔女に打ち勝つ、その為だけに。
けれどその覚悟は︱︱︱︱
して有効なものだったのか。
﹁ようこそ、挑戦者よ。私の城に﹂
雫は言葉なくその場に立ち尽くす。
奥歯がカタカタと鳴る小さな音。それを、彼女はまるで自分のも
のではないかのように聞いた。
1362
※ ※ ※
七百年に渡る暗黒時代がヘルギニスの滅亡で幕を下ろした後、大
陸に訪れた次なる時代は﹁魔女の時代﹂と呼ばれている。
強大な力を持つ五人の女たちが歴史の影で沈黙していた時代。だ
がそれも三百年程前に終わりを告げ、遠い御伽噺となって久しい。
今や﹁魔女﹂は子供に語り聞かせる昔話にしか姿を見せず、その
力が誇張であったと思う者も少なくないだろう。
けれどある日、安寧を拭い去る新しい魔女が現れ、大陸中に宣戦
そして世界は再び恐怖を思い出す。
を突きつけたのだ。
︱︱︱︱
大陸を彩るは変革の時代。これは変革の物語。
※ ※ ※
七番目の魔女と名乗る女、アヴィエラは深紅の魔法着に長身を包
み、穏やかな微笑を浮かべていた。美しいというよりも艶やかな容
貌。それは彼女の内から染み出るもののゆえだろう。深淵を覗いて
いるような眼差しは、言葉に出来ぬ強烈な印象を見る者に抱かせる。
長い銀髪、赤みがかった茶色の両眼は底知れなく昏い。かつて幻
影を見た時には色の分からなかった瞳が、二人を順に捉えた。
1363
挑戦者を値踏みする視線に雫は我知らず身震いする。けれどその
震えで彼女は逆に冷静さを取り戻すと状況を把握した。
雫は持っていた本の、無い題名を隠すよう抱きかかえる。恐れ慄
きながらも様子を窺う目で魔女を見上げた。
﹁⋮⋮挑戦者?﹂
﹁そう。挑戦者だ。魔女に挑み、大陸の王にならんとする人間。お
前たちのことだ﹂
挑戦者の定義がアヴィエラの言う通りのものであるなら、彼ら二
人の答は否であろう。二人はファルサス所属の人間として魔女討伐
に参加しているのであり、それは己の野心の為ではない。
しかしその否定を素直に口にしていいものかどうか、雫もハーヴ
も判断がつかなかった。探りを入れるつもりなのか、ハーヴは彼女
を庇いながら一歩前に出る。
﹁大陸の王とは随分大げさだ。未だかつてそのようなことを為し得
た人間などいないが﹂
﹁今までは、だ。それは決して不可能なことではない﹂
﹁なら自分でやればいいだろう。何故俺たちにそれを求めるんだ?﹂
慎重に照らす範囲を広げる問いに、アヴィエラは不透明に微笑ん
だ。その微笑に雫はまた引き寄せられる。彼女の見せるその表情は、
とてもよく知っている感情のような、それでいてぴったりとそぐう
言葉を見つけられないような、そんなもどかしさを雫に与えるのだ。
魔女は困惑した来訪者を見やるといささかの稚気を表に出した。
﹁誇大妄想と思うか? 大陸の統一など不可能と? それを可能に
するものがあると言ったらどうする?﹂
挑発的な口調。
電気を受けるに似た衝撃を覚え、雫は瞠目する。
アヴィエラが何のことを言っているのか、分からないはずがない。
彼女が示そうとしているものと同じものを、雫もまた持っている
のだから。
1364
全てを記す二冊の本。
雫はそれを﹁過ぎ去ったばかりの現在﹂を知る為に使うが、この
本の真価はむしろ各国の詳細な情報や、数々の強力な魔法構成図、
暗黒時代に現れた天才たちの政策軍策の記録にこそ見られるものだ
ろう。
一冊では半分しか書かれていないとは言え、その情報力は絶大だ。
これさえあれば諸国の弱みや盲点を知ることもでき、また禁呪の構
成図を用いて大いなる混乱をもたらすことも出来る。
かつてカンデラがそうして危機に陥ったように、陰謀を繰って内
から破滅を導くことさえ、本の所持者にとってはそう難しいことで
はないのだ。
これはチャンスかもしれない、と
魔女が示す可能性を、雫は疑うわけではない。
けれど彼女はそこで︱︱︱︱
思った。
ここで紅色の本を奪えれば、魔女の有利は一気に揺るぐ。情報の
流出を止められるのなら、極端な話この戦闘を中断し、十二ヵ国を
動員した総力戦に切り替えても一向に構わないのだ。
﹁⋮⋮本当に、そんなものがあるんですか?﹂
雫は詰まった息を飲み込むと、震える声で問う。
﹁ある。詳しく知りたいか?﹂
魔女の手の中に現れた紅い本。雫とハーヴの視線は食い入るよう
に題名のない表紙に集中した。雫は自分の本を片手に抱きながら、
恐る恐る右手を伸ばす。
﹁知りたい、です﹂
もしここで紅い本を処分出来たのなら。
その後魔女にどのような目にあわされるのか、雫はそこまで考え
1365
ていなかった。正確には考えたくなかったのだろう。ただ目の前の
本を取ることだけに専心する。
アヴィエラは差し出された手が震えているのに気づいて、声を出
さずに笑った。
﹁いい覚悟だ。⋮⋮だが、これが気になっているのはお前だけでは
ないらしいぞ?﹂
魔女はその言葉と共に振り返る。そこにはいつの間に現れたのか
粗野な格好をした男が三人、野心と恐怖が渾然となった目で、彼女
たちを凝視していた。
ファルサスの人間ではない、剣を帯びた﹁挑戦者﹂に、雫はどう
対応すべきか分からずハーヴを見上げる。
誰に何をすればいいのか、アヴィエラを除いた全員が咄嗟に判断
を迷った。
だがその迷いを切り裂いて、魔女は鮮やかに笑う。
﹁ほら、王になれる本だ﹂
軽く、空中に投げられた本。
虫たちの中に砂糖を投げるように、息を飲む人間たちの中間高く
に放られたそれを見て、男の一人が素早く駆け出した。雫もまたそ
の動きに弾かれ走り出す。
何人もの思惑が錯綜した一瞬。
楽しそうに目を細めるアヴィエラの目前で、落ちてくる本を受け
止めたのは剣を佩く若い男だった。
しかしその体はすぐに、ハーヴの放った魔法により弾き飛ばされ
る。雫は男の手の中から零れ落ちる本を拾い上げた。
﹁小娘っ!﹂
﹁メア!﹂
二人目の男が雫に向って剣を振り下ろす。
その腕をだが、小鳥は不可視の力で逆に捻った。骨の折れる嫌な
音がする。奇妙な悲鳴を上げ蹲る男。しかしそれには拘泥せず、雫
1366
は本を背後に放り投げた。
ハーヴが呪具を受け取ると同時に、彼女は魔法薬の小瓶を手に取
る。緑の液体が入った瓶を怒りの形相で走ってくる最後の男に投げ
つけた。
硝子が砕ける音。激しい咳き込み。
雫は緊張に喉を震わせて叫ぶ。
燃やして、と。
﹁ハーヴさん⋮⋮!﹂
︱︱︱︱
それさえ為せば、勝利に手が届く。魔女の暴虐を食い止められる。
呆然とした目で、手の中
思いもよらず降ってきた好機に雫の心臓は跳ね上がった。掌が汗で
濡れる。
しかし名を呼ばれた当の男は︱︱︱︱
の本を見つめただけだった。
ほんの数秒の自失。
振り返った雫が何か言うより先に、白い女の手が優美な仕草で本
を取り上げる。元通り本を小脇に抱えた魔女は満足そうな笑みを二
人にのぞかせた。
﹁そうだ。そうして足掻けばいい。他者を退けろ。高みを目指せ。
意気のある者こそがこの大陸を塗り替える﹂
軽やかに転がる煽動の声。珠のような笑い声を残してアヴィエラ
はその場から消え去った。束の間沸き立った廊下は、一転して冷え
た空虚に取り残される。
雫は急速に冷えていく汗を感じ取って小さく嘆息した。
あっという間に好機は失われてしまった。ハーヴは何もなくなっ
た手の中を見下ろしてぽつりと呟く。
﹁ごめん、雫さん⋮⋮﹂
﹁ハーヴさん﹂
﹁ごめん⋮⋮﹂
重い溜息をついて男は頭を抱えた。
1367
その中に、単なる失敗を悔いるだけではない自省を見て取った彼
女は、何も言えぬまま沈黙せざるを得なかったのである。
二人は男たちを手分けして拘束すると柱の隅に寄せた。それをし
ながらハーヴは何度も溜息をつく。冷静になって振り返ると、魔女
の前で本を燃やすという行為はかなりの無茶であるし、あの一瞬に
それが出来なかったとしても無理はない。
しかしそう慰めをかけることさえ躊躇う重さで、男は首を左右に
振った。廊下を歩き出しながら、彼は困惑する雫を自嘲ぎみに見下
ろす。
﹁本当はね⋮⋮ここに来るのやめようかと思ってたんだ。こういう
失敗するんじゃないか、って気がして﹂
白状すると、俺は師匠にあの本の話を聞いてか
﹁失敗、ですか?﹂
﹁うん。︱︱︱︱
らずっと⋮⋮あれを読んでみたくて仕方なかった﹂
目を丸くする彼女にハーヴは微苦笑する。初めて見る彼のそんな
顔は、普段は隠された研究者としての貪欲が少しだけ透けて見える
ものだった。
どう相槌を打っていいのか分からない雫の前で、男は苦渋の目を
伏せる。
﹁危ない本だって陛下から聞いたのに駄目だよな⋮⋮。あれがある
から陛下も雫さんも、こんなところに来てるっていうのに。いざ本
を燃やすって場面になったら体が動かなかった。勿体無いって思っ
ちゃったんだよ。この中には貴重な真実が無数にあるだろうにって﹂
歴史を研究対象とする男は、本の存在を知った時からその禁忌を
知りつつも惹かれていたのだろう。だからこそ雫が紺色の本を差し
出した時、それをすぐには受け取れなかった。あの時蒼ざめた彼は、
本そのものではなく、本に傾倒しかねない自分こそを恐れていたの
1368
だ。
度し難さを悔いる溜息を、ハーヴはまた一つ廊下に落とす。
﹁過去のことって言えばその通りだけど、そこに知られざる記述が
あるって聞いたら、やっぱ知りたくなった。その時何があったのか。
誰が何を考えて何を為したのか。人がどうやって時代を動かしたの
か⋮⋮ごめん。そんな場合じゃないのにな﹂
﹁いえ⋮⋮分かります﹂
学究心に囚われている場合ではないと、分かっていてもその気持
ちは分かる。知りたいという欲望は時に、彼女にとっても逆らい難
い力を発揮するからだ。まるで悪魔の囁きに似た誘惑は、一方では
進歩を、もう一方では破滅を人にもたらしながら、常に付き纏い離
れていかない。それを人間らしいと思っても非難することは出来な
いだろう。少なくとも雫はそうだった。
彼女は気分を切り替える為、大きく伸びをするとハーヴに微笑み
かける。
﹁きっとあれでよかったんですよ。本を燃やしてたら私たち二人と
も殺されてたでしょうから。無茶苦茶してすみません﹂
﹁いや⋮⋮﹂
二人の背後で唐突すぎる悲鳴が上がった
苦笑と言うには苦味だけが多い表情でハーヴは否定を言いかけた。
しかしこの時︱︱︱︱
のだ。
慌てて振り返った彼らの見つめる先で、拘束されていた男が胸に
剣を受け絶命する。
﹁え⋮⋮﹂
雫は今まで生きていた人間が死体となって重なる瞬間を、呆気に
取られて見やった。
止める間もなく最後の男の首が短剣で切り裂かれる。
1369
鮮やかな手際。
動けない人間を殺すことに躊躇を見せない一連の動きに、雫は戦
慄しながらも納得した。それを為した殺人者の顔を、彼女はずっと
前からよく知っていたので。
﹁⋮⋮何でここに﹂
﹁また君?﹂
一度目の対面は血の海で。
二度目の対面は剣を突きつけられて。
言葉が通じるとしても、人は分かり合えるとは限らな
そして三度目には魔女の城にて、雫は少年に出会う。
︱︱︱︱
い。
それを誰よりも彼女に教えた人間、カイト・ディシスは血に濡れ
た剣を軽く振ると、不快げな目つきで雫を睨んだのだった。
印象が悪い、という言葉だけに収まるのなら、これ程印象が悪い
相手はお互いいないかもしれない。
雫は嫌な汗を背筋に感じながら、廊下の先に佇む少年を見やった。
カイトは長剣を鞘に戻すと短剣だけを手にゆっくりと距離を詰めて
くる。戦うべきか逃げるべきか、迷う雫にハーヴが問いかけた。
﹁知り合い?﹂
﹁顔見知りというか⋮⋮傭兵の人です。結構危険人物﹂
﹁だろうね﹂
何しろ突然現れた彼は、無表情のまま拘束してあった人間たちを
全て殺してしまったのだ。これで穏健な人物と言っても到底信じて
はもらえないだろう。
どうしてここ
雫は逡巡したが、両手を上げるとカイトを留めた。
﹁ちょっと止まって。話し合いたい﹂
﹁何を? 話すこととか何もないと思うんだけど﹂
﹁こっちには聞きたいことがあるんです。︱︱︱︱
1370
にいるの?﹂
少なくとも雫たちが城に向っていた時、前にも後ろにも他の人影
は見えなかった。ならば彼や先程の男たちは、その後からわざわざ
やって来たというのだろうか。既に多くの犠牲が出ているこの城に。
だとしたらタイミングが悪いにも程がある。せめてあと一日待っ
て欲しい、と雫は言いたくなってしまった。
少年は彼女の疑問に眉を寄せる。
﹁どうして、って。知ってるんじゃないの? つい一時間ほど前に、
いくつかの街に魔女が現れた。それで人を招いたんだよ。魔物や競
争相手を下して城の頂に到達出来れば、大陸の王になれるってね。
で、自分の腕を過信した人間たちが二百人近く転移されてきたけど、
すぐ斬り合いになったからほとんどは一階で死んだよ。あとは転移
罠を踏んだりなんだりでバラバラ﹂
﹁げ⋮⋮﹂
それは時間的に雫たちが分断されてすぐくらいのことであろう。
ファルサスの人間たちが入り込んだこの時に、魔女は何故あえて
挑戦者を招きいれたのか。
それは野心がある者もそうでない者も含め、人間同士で相争わせ
る為としか思えない。先程雫たちと招待客の闘争を煽ったように、
魔女は駒を追加してはぶつけあって楽しんでいるのだ。
もっともそれでファルサスの人間が困惑し手を緩めることを期待
しているのなら、少なくともラルスはまったく気にしないに違いな
い。前に立ち塞がる相手が魔物だろうと人間だろうと、王は気にせ
ずに斬り捨てていくだろう。
頭痛を覚える雫にカイトは冷ややかな声を投げかけた。
﹁で。君は何でいるんだよ。また意味不明な正義感?﹂
﹁仕事だよ。ってかあなたも王になりたいの?﹂
﹁別に。盛大な殺し合いになりそうだから来た﹂
﹁⋮⋮﹂
1371
予想通りの答過ぎて何も言えない。三度目ともなると相互不理解
が念頭にある為、雫もすぐには苦言を呈す気になれなかった。
困り果てた顔になってしまった女を見て、少年はますます顔を顰
める。
﹁何だよ。また何か言うつもり? 本当君は鬱陶しいんだよ。考え
れば分かることを見ない振りして、それで説教とか見苦しいよ﹂
﹁見苦しいって⋮⋮﹂
﹁その様子だとさっきの三人怪我させたのは君らなんだろ? 利き
腕折った上拘束して放り出すって、それあとは魔物に食われるしか
ないだろ。だったら殺してやった方がよっぽどましじゃない? 嫌
なところだけ手を汚さないくせに文句言わないで欲しいな﹂
畳み掛けるような少年の言は、けれどあながち的外れとは言えな
かった。雫は絶句してカイトを見つめる。
魔物たちが跳梁跋扈するこの城で、戦えない状態の人間を更に拘
束するということは、どういうことか。
考えて分からないはずがない。雫自身が力を持たない人間なのだ。
確かにそこまでは考えていなかったの
逃げられなくなったらどうなるのかよく分かる。
それでも彼女は︱︱︱︱
だ。
それどころか、メアに命じて人間を攻撃させることにも躊躇いを
持たなかった。雫はそのことに気づくと思わず自分の足下を見下ろ
す。
旅が始まったばかりの頃、武器を持たせようとしたエリクの提案
を拒否したことがある。自分の道の為に人を傷つけることはしたく
ないと思っていたからだ。
にもかかわらず、彼女の中でそれは、いつのまにか仕方のないこ
とになっていた。向こうから攻撃してきたから、自分たちには大義
があるから、そんな理由をあげて正当化しようと思えばいくらでも
1372
出来る。むしろ彼女以外の人間なら、そこで痛痒を覚えることはし
なかっただろう。
けれど雫は、無自覚の変質を指摘されて何も言えなくなった。
人の死に鈍感になったのか、争いの空気に慣れすぎたのか、とに
かく彼女は知らぬうちに、昔と変わってしまっていたのだ。
呆然とする雫の肩をハーヴが叩く。
﹁聞かない方がいい。ああしなきゃまた攻撃されてたんだ﹂
﹁そうだね。僕は別にそれを否定する気はないよ。僕だったら最初
から殺してただろうし。でも君はいつもいつも煩いんだ。君にある
のは自分が殺されてもいいってだけの気持ちで、殺すことについて
は何も考えちゃいない。けど殺されることに何の覚悟が要る? そ
んなものがあろうとなかろうと、殺される時は殺されるんだ。そん
なことは誰にだって出来る﹂
覚悟がなくとも、死ぬ時は死んでしまう。
死は誰にでも訪れる。そこに不平等はない。
では不平等を生み出す覚悟とは何か。
﹁綺麗事を振り回すのもいい加減にしなよ。君の理想じゃ何も出来
ここから出て行けよ﹂
ないし、君自身もうそれに気づいているんだ。それともまだ生温い
ままでいたいっていうなら︱︱︱︱
滔々と述べられた雫への反論は、まるでずっと長い間温めてられ
ていたもののように淀みなかった。前回の別れから、もし彼女に再
会することがあるのならこれを言ってやろうと思っていたのかもし
れない。
忌々しげに吐き捨てた少年を雫は瞠目して見つめる。
キスクで二度目に会った時も、彼には﹁自分の命を軽んじている﹂
と痛いところを突かれたのだ。そして今も、カイトの言葉は雫の固
まりきっていなかった部分に突き刺さる。水に似た冷たさが奥底へ
1373
と染み渡っていった。
彼女は黒い目に空白を宿す。
覚悟はあった。戦う為の覚悟と死ぬ覚悟。
けれどそれは本当に、自分の手を汚すことを踏まえた上でのもの
だったのか。
魔女を倒す。或いはそれを為すために妨害者を排除する。
それは実際何を意味するのか。
ずっと力を持たずにいた自分は、結局誰かに攻撃を加える覚悟を
分かっていなかったのではないか。
鈍感ではいたくない。人の命に関することなのだ。
雫は目を閉じる。
短い間。
しかしそれは決して無ではなかった。彼女は全ての息を吐き出す
と前を向く。そして相対し続けてきた少年を真っ直ぐ見つめると、
雫は深く頭を下げた。
﹁ごめん。浅薄だった﹂
﹁って雫さん!?﹂
声をあげるハーヴと似たり寄ったりの驚愕を、カイトもまた浮か
べている。まさかそう返ってくるとは思わなかったのだろう。彼は
口を開けて彼女を見やった。雫は顔を上げ、続ける。
﹁確かに分かってなかった。言ってくれてありがとう﹂
ここで言われなければ、ずっと無自覚なままだったと、彼女は思
う。知らぬまま力を揮い、少しずつ破綻していく。もしかしたらそ
んな未来を迎えたかもしれない。
そうならずに済んだのなら、この邂逅はきっと幸運なことだろう。
けれど、それでも、譲れぬものはある。
1374
﹁でもやっぱり、私は出来るなら人を殺したくない。私が武器を取
るのは戦う為で、人を殺すためじゃない。あなたのことも⋮⋮﹂
雫はカイトの後方に横たわる死骸に目をやる。重い悔恨が刹那、
彼らが死んだ責の半分は自分にあるだろう。自分が鈍
彼女の喉につかえた。
︱︱︱︱
感だったからこそ彼らは殺された。
誰が何と言おうとそれは真実の一つで、おそらく一生忘れること
は出来ない。彼女がいない戦場でも誰かが死んでいったように。魂
を抜かれた女性を救えなかった時のように。
掬い上げられなかったものの重さを雫はずっと負っていく。この
世界で出会った人たちは皆、そうして覚悟を決めながらも生きてき
ているのだ。
﹁あなたのことも肯定は出来ない。殺さないで済むなら、その方が
ずっといい﹂
﹁あっそう。それで?﹂
﹁だから⋮⋮私に協力して﹂
雫の言葉に二人は声を失くす。
まるで煮えたぎる油の中に水を落とすような発言。唐突すぎる転
換に、ハーヴはおろかカイトでさえも僅かに蒼ざめた。
だがその愕然とした空気を感じ取りながらも、雫は怯まない。目
を逸らさない。
彼女には既に、己の発言を撤回する気はさらさらなかったのであ
る。
カイトは数秒の忘我から戻ると唇を曲げた。顔を斜めにして雫を
見やる。
﹁協力って、馬鹿? 君って前から思ってたけど馬鹿でしょ﹂
﹁馬鹿はよく言われるけど煩いよ。というよりあなた傭兵なんでし
ょ? 私に雇われてよ﹂
1375
﹁⋮⋮は? 払えんの? 高いよ?﹂
﹁金額言ってみて﹂
自慢ではないがそれなりに貯蓄はある。キスクで働いていた四ヶ
月間、オルティアはかなりの高給を雫に払ってくれていたのだ。
おまけにその金額は女王の要請でファルサスにも引き継がれてい
る。宮廷に住み込んでいる彼女は食と住は保障されていて、性格上
浪費もしない雫は給料を使うことがほとんどない。せいぜいエリク
に差し入れる菓子に使う材料費くらいで、それも微々たるものなの
だ。
思いもかけない提案にカイトはむすっとした顔になったが、それ
でも一日分の金額を口にする。その額は相場を知らない雫には高い
か安いか判別出来なかったが、充分に支払い得る額だった。彼女は
ほっと安心すると笑顔になる。
﹁あ、それなら払える。じゃあ今日一日お願い﹂
﹁本気? 前金なんだけど﹂
﹁え。今は持ってない⋮⋮城戻らないと﹂
無言で長剣を抜こうとする少年に、雫は慌てて手を振った。決裂
しそうな交渉を何とか続けようとする。
﹁あああ、待って! 絶対後で払うから! 五割増しにする!﹂
﹁⋮⋮何でそんな必死なの?﹂
呆れたようなカイトの問い。理解出来ないとあからさまに蔑む視
線に、雫はほろ苦く微笑んだ。自分の言葉で自分の意志を口にする。
﹁殺されたくないし、殺したくない。でも私にはやることがあるか
ら。力を貸して欲しい﹂
理想はきっと理想でしかないのだろう。
それを現実にすることは出来ない。分かり合えない相手を望み通
り変えることは出来ないように。
けれど今だけは。
こんな時くらい少しの妥協を求めてみたい。
条件を示して、言い分を摺り合わせて。剣を取るのはその後でも
1376
いい。
たとえこのままお互いに理解できずとも、言葉は確かに通じてい
るのだから。
少年は冷ややかな目で雫を睨む。
彼女の姿勢そのものを拒絶する目に、ハーヴが無詠唱で構成を組
み始めた時、けれどカイトはぶっきらぼうに吐き捨てた。
﹁二倍。後金にするなら二倍。じゃなきゃこの話はなしだ﹂
﹁分かった。払う﹂
雫は頷くと、ハーヴに﹁私が死んだら私のお金の中から彼に報酬
を渡してください﹂と念を押す。魔法士の男は困惑を隠せない様子
ではあったが、﹁保証するよ﹂と声に出して支払いの意志を明確に
した。
不機嫌そうな少年は激しい舌打ちと共に雫の前に立つ。自分より
幾分背の高い彼を、彼女は微苦笑で見上げた。
﹁ってことで今日一日よろしく。えーと、名前聞いていい?﹂
﹁カイト。カイト・ディシス﹂
﹁よろしくカイト。あ、この人はハーヴさん。で、私は﹂
﹁雫。ターキスから聞いた﹂
相手が自分の名を知っていたということに雫は少しだけ驚いた。
けれどすぐに﹁そっか﹂と苦笑すると肩を竦める。
人を殺したくない。殺させたくない。
果たして本当に肝心な時、為すべ
でも今世界では多くの人が殺されていて、それが嫌だから自分は
戦うことを決めた。
ただそう思う自分は︱︱︱︱
きことを為すことが出来るのだろうか。ハーヴが本を燃やすことを
躊躇ったように、自分もまたその場で躊躇ってしまうのではないか?
雫は飲み込んだ痛みを堪え、起こりうるかもしれない未来につい
1377
て考え始める。
もし魔女を殺せる⋮⋮そんな場面に出くわしたのなら自分はどう
するのかと、答の出ない問いを繰り返しながら。
※ ※ ※
瘴気で閉ざされた山間部。
遥か遠くに聳える城を視界の中央に置いていた魔法士は、次第に
濃くなっていく魔物の気配に血の気が引いていくのを止められなか
った。レウティシアの手によってヘルギニス領内の各所に置かれた
探知結界から一旦意識を引くと、彼は隣に居る同僚を見やる。
﹁これは⋮⋮不味いぞ。魔物の大群が召喚されつつある﹂
﹁大群? どれくらいだ﹂
﹁数万、もっとか? 軍を狙うつもりかもしれない。王妹殿下に連
絡を取れ﹂
彼らが慌しく連絡を取る間にも、城を中心とする気配は徐々にそ
の数を増していく。遠目にも空を飛ぶ幾つもの黒影が見え、耳障り
な鳴き声が風に乗って広がっていった。
世界の終わりさえ予感させるほの暗い光景。
そこに慈悲はなく、ただ絶望を呼ぶ意志だけが漂っている。
誰のものとも分から
昏い土地に日は差さない。異界の淀みは清浄を拒む。
しかしその中に聳え立つ城だけは︱︱︱︱
ぬ孤高を貫いているかのように、いまだ沈黙を続けていたのだった。
1378
005
窓から見下ろした地上は遥か下方である。
ここから飛び降りたら間違いなくぺったんこになるだろうな、と
首だけ外に出した雫は深刻味のない感想を抱いた。
見渡す限り辺り一帯は昏く、空気は淀んでいる。遠くに見える山
々、城の真東に位置する一点を眺めていた彼女は、けれどすぐ上で
大きな羽ばたきの音を聞き首を竦めた。おそるおそる真上を見上げ
てみると、更に上空には異形の怪物が数百と飛び交っている。奇声
を上げる魔物の大群に雫は慌てて頭を引っ込めた。
ちらりと見ただけであれだけの数がいるのなら、全部でどれくら
いの軍勢が召喚されているのか、想像するだに恐ろしい。全ての魔
物が一斉に外から攻撃を仕掛けてきたならこの城は途中でぽっきり
折れるかもしれない、そんな光景を思い浮かべて彼女はげっそりし
た。溜息をつきながら廊下に視線を戻すと、ハーヴが怪訝そうな顔
をする。
﹁何か見えた?﹂
﹁いやー⋮⋮上、凄いですよ。空真っ黒﹂
﹁ああ。瘴気のせいか﹂
﹁いえ。魔物で真っ黒﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
さすがにそれ以上説明する気になれず、雫は廊下を歩き出した。
先程からほとんど口をきかないカイトがその後に続く。
最後にハーヴが窓を振り返りながら、床に横たわる魔物の死体を
踏み越えた。大型犬ほどの大きさをしたトカゲの魔族は首を切り落
1379
とされぴくりとも動かない。石床に広がる緑色の血を彼らは踏まな
いように避けていく。
魔女により新たな招待客が多数城に招かれたと言っても、現状雫
たちの目的に変更はない。アヴィエラの打破、上位魔族の殺害、本
の処分などやらなければならないことが複数並んでいるのだ。
もっともその全てを三人でやれと言われたら不可能というしかな
いが、この城には他にも目的を同じくする人間が分散している。今
のところはその人間たちと合流し、対策を練り直すことが当面の目
標と言っていいだろう。
雫は階段に向いながらカイトを振り返った。
﹁一階って今、危険なのかな。本当はそこに行こうかと思ってたん
だけど﹂
﹁危険かどうかは知らないね。死体はいっぱいだけど。ああ、死体
を食う魔物も集まってきてたな﹂
﹁よーし。無理﹂
死体だけならともかく魔物も集まっているというのなら、それは
もう虎口であろう。ならばわざわざそこに行くよりは、別の合流地
点を探した方がいい。
幸いこの城は転移罠を除いては、何処に行くにも同じ階段、同じ
廊下を通らなければならないのだし、すれ違うということはまずな
いのだ。とりあえず近い階段に向ってから様子を窺おうということ
で、三人は廊下を黙々と進んでいく。
時折遠くから聞こえてくる爆発音と振動に雫は肩を竦めた。
﹁これって何の音ですか。さっきから砲撃でもしてるんですか﹂
﹁うーん。誰かが大きな魔法使ってるんじゃないかな﹂
﹁城折れたらどうしましょう。あっという間に建つって手抜き工事
っぽいですよね﹂
﹁さすがにそれはないと思うけど⋮⋮﹂
雫とハーヴは気の抜けた会話を交わしながら長い廊下を歩き、つ
1380
いに階段に到達する。そしてそこで爆発音の理由を知った。
﹁うっわぁ⋮⋮﹂
大人がゆうに二、三人は通れそうな大穴。階段脇の壁をぶち抜い
て作られたその穴によって、本来すぐには行き来できない上り階段
と下り階段は、強引に通行出来るよう変えられていたのである。
壁を破って近道を作るなど、まともな人間の考えることではない。
しかし雫もハーヴもそういう発想をしそうな人間に心当たりがあ
った。お互い苦めの顔を見合わせる。
﹁これって王様ですかね﹂
﹁いかにもそれっぽいけど。でも陛下は魔法を使えないよ﹂
﹁じゃあ魔法士の人にやらせたとか﹂
﹁それはありえる﹂
本来ならここはただの上り階段であったのだ。しかし今は壁の穴
越しに向こうの下り階段も見えている。ならば更に上の階はどうな
のかというと、それは雫のいる場所からは角度的に分からなかった。
一段目に足をかけた彼女をカイトが留める。
﹁僕が先に行く。人の声がする﹂
﹁え。本当? 全然聞こえない﹂
﹁耳悪いだけだろ﹂
棘のある声に、けれど雫は平然と﹁人だったら殺さないでね﹂と
釘を刺しただけだった。返ってきたのは大きな舌打ちだが反論はな
いらしい。三人は慎重に階段を上っていく。
カイトは残り二段というところで体を返すと軽く跳躍した。おそ
らくそこにも穴が開いているのであろう。彼の姿は視界から消える。
一拍置いて、頭の上から声が降ってきた。
﹁いいよ。来なよ﹂
雫も一人であったなら、階段の途中から斜め上方へ飛び上がるな
ど不可能だったに違いない。しかし今は幸いメアが補助をしてくれ
1381
る。
そのまま彼らは開けられた穴を辿って三階分を上に上った。そこ
まで来ると雫の耳にも人の言い争う声が聞こえてくる。
﹁⋮⋮って⋮⋮ら、⋮⋮⋮!﹂
﹁そんな⋮⋮⋮⋮だ!﹂
﹁お前たちは⋮⋮⋮⋮⋮⋮ろう!﹂
二人や三人ではない、十人以上もの声。楽観的に考えても衝突寸
前といった感じの口論に彼女とハーヴは顔色を変えた。慌てて階段
を上っていく。
問題の口論は、そこから更に二階上の階段前で行われていた。
穴を抜けて雫が顔を出してみたところ、剣を抜いた男たちが二手
に分かれて激しく言い争っている。
いつ斬り合いになってもおかしくない騒然とした空気。互いの態
度を非難する罵り合いは、見たところファルサスの人間とそれ以外
の人間たちに分かれての応酬となっているようだった。
他の階にまで聞こえる声に引かれて集まってきたのだろう。分断
されたはずのファルサスの武官や魔法士が十人以上居合わせている
のを見て、雫はひとまず胸を撫で下ろす。剣を手にした武官の一人
が、彼女たちに気づいて目を丸くした。
﹁無事だったか﹂
﹁おかげさまで。ところで、何がどうしたんですか?﹂
口論の断片を聞いても事情がまったく分からない。怪訝な顔の雫
に彼は簡単にあらましを説明してくれる。
元はと言えば、誰かが階段の壁を抜いたことで通路が一直線にな
ったことが間接的な原因らしい。そこを上って来た挑戦者が通路を
同じくするファルサスの武官たちと出くわし、小競り合いになりか
けてしまったのだ。
ファルサスの人間は﹁こんなところで何をしている。危険だから
1382
退去しろ﹂と彼らを押し返そうとし、魔女に弄された招待客たちは
﹁王になれる本を奪おうとしている﹂とファルサスを非難する。
一度は双方剣を抜くところまで行った言い争いはしかし、ファル
サスの魔法士が結界を張ってそれを押し留めたことと、魔女に招か
れた者たちの中でも冷静な人間が場を抑えたことでで再び口論に戻
ったのだという。かと言って現状、まったく収まる気配のない対立
を見やって雫は眉を寄せた。
﹁あー⋮⋮こんなことしてる場合じゃないのに﹂
﹁殺す? 大して手間じゃないしね﹂
﹁待って待って待って﹂
そんなことをされては彼を雇った意味がない。
頭痛薬が恋しくなる程に頭を痛めた彼女を、不穏な会話を聞き取
ったのか傭兵らしき一人が見咎めた。凄みのある目で雫を睨みつけ
る。
﹁何だって? 今何と言った﹂
﹁殺してやろうかって言ったんだよ。雑魚が煩いから﹂
﹁あああああ! 事態が加速度的に悪化!﹂
一触即発の一触どころか思い切りめりこむようなカイトの発言に、
彼女は思わず絶叫した。
これで戦闘にでもなったら責任はきっと雫に回ってくるだろう。
実際責任があるのだから仕方ない。人間同士で争わせるという魔女
の意図に面白いほど簡単に踊らされてしまっている。彼女は情けな
さに涙が滲みそうになって眉間を押さえた。
しかし相手の男は、雫の予想とは真逆に蒼ざめて沈黙する。
﹁お前⋮⋮カイト・ディシスか﹂
﹁そうだよ。だから何? 何番目に殺されたい?﹂
﹁ま、待て﹂
﹁待ってってば!﹂
同時に発せられた同じ意味の言葉。
けれどカイトは、真横で怒鳴った雫の方に舌打ちしただけだった。
1383
あまりにも場に似つかわしくない女の怒声に一同の視線までもが集
中する。
まったく、腹立たしいことこの上ないのだ。
人の命を無造作に刈り取っていくことも、人心を容易く揺るがし
操作することも。
けれどそれが魔女の業というなら、その逆をやってやるだけだろ
う。雫は落ち着いて皆を見回す。
﹁あの、誤解があるみたいですけど、あの本って王になれる本なん
かじゃないんですよ。ただの魔法具です﹂
﹁何だと? だが魔女はあれには禁呪の構成図も描かれていると言
っていたぞ﹂
カイトには怯んだ男も、年若く見える雫ならば圧しやすいと思っ
たのだろう。息荒くまくしたてる相手に彼女は首を横に振った。
﹁違います。あれは持つ人間の精神を侵蝕する魔法具です。今回の
魔女討伐でも破壊対象に入ってますよ。第一本当に王になれる本な
んてあるなら、何で魔女はそれを自分だけのものにしないで皆さん
に教えたりするんですか﹂
何故本の存在を明らかにするのか。それは単に人の戦意を煽る為
の行動だろう。
しかし言われた当の男を始め、何人かは明らかに虚を突かれた表
情になるとお互い顔を見合わせた。
雫は彼らに考える時間を与えないよう畳み掛ける。
﹁皆さんがここに招かれたのは、私たちが城に入ってからのことな
んです。おそらく魔女が皆さんを煽動して私たちを排除しようと目
論んだんでしょう。でも残念ながら王になれる本なんて話は嘘です
例えばこの城がどうやって作られたか、皆さんはご存知で
し、本を手にすれば精神を狂わされて魔女の力になるだけです。︱
︱︱︱
すか?﹂
水を打ったような沈黙が広がる。
1384
ややあってそれに答えたのは、今までずっと沈黙していた剣士の
一人だった。彼は静寂に添うような低い声で口を開く。
﹁人の命を使って作ったんだろう。傭兵たちを何百人も雇って魔物
と戦わせて﹂
﹁ええ。そうです﹂
どうして知っているのか。いささか驚いた雫に男は苦い顔を見せ
た。
﹁俺はその時の生き残りだ⋮⋮。あれは酷いものだった。古くから
の知り合いが何人も死んだ。だから今はせめても魔女に一矢報いた
くてな。正直王などはどうでもいい﹂
男の隣にいる魔法士も同様なのか小さく頷く。彼らの纏う決意は
疑いを挟む余地がまったくないもので、その重さに今までいきり立
っていた者たちも皆、口を噤んだ。煽られていた野心が冷えていく
と同時に、忘れ去っていた恐怖が甦ってくる。自分たちは今、魔女
の城にいるのだと、今更ながらその実感が彼らの足先を絡め取った。
雫は目の前で絶句している男を見つめる。
つい先程までは戦うことに酔い、怒りと我欲に沸き立っていた顔
が、今は強張り蒼ざめ始めていた。
だが彼はまだ引き下がれないのか、幾分弱くなった声で彼女に問
う。
﹁しかし⋮⋮だったら何故魔女はお前たちを自分の力で殺さない?
魔物だって何だって使えばいいだろう﹂
﹁そんな余裕がないからだよ﹂
涼やかな声は上階に続く穴から聞こえた。多くの視線がそちらへ
向くと同時に、穴から魔法着を着た男が現れる。雫は喜色を浮かべ
てその名を呼んだ。
﹁エリク!﹂
﹁うん。今、魔女は僕らを相手にしてる暇がないんじゃないかな。
十二ヵ国から宣戦されたし、それに対して魔物の大軍を召喚してる。
1385
今、外は酷いことになってるよ。全面戦争まであとちょっと、って
とこ﹂
﹁え⋮⋮﹂
まさかそこまで事態が進んでいるとは思わなかった。その場にい
た全員の顔色が変わり、何人かが窓の外を見やる。
暗い空。濃すぎる瘴気。目を逸らせない現実が背筋を冷やしめ、
諍いの狂熱を残らず奪い去って行った。雫に食って掛かった男は完
全に血の気が引いた顔になると、震える声で呟く。
﹁俺たちは⋮⋮騙されたのか?﹂
﹁だね。人を欺くのは魔女の常套だ﹂
追い討ちをかけるエリクの言葉。
それは短い口論の幕切れとも言える、唐突な終わりの言葉だった。
※ ※ ※
報告に上がっている魔物の数は既に十万を越える。
一体一体はそう強い種ではないが、魔女の城周辺に集まっている
それら大軍の存在を聞いて、軍の指揮を取る者たちは緊張を隠せな
かった。
今回の作戦に参加した国の中でも、王族自身が陣頭指揮に立つと
いう少数派の国ロズサークは、三万の軍を一旦ファルサス北部領へ
と転移させる。そこで他国の軍に合流すると、まだ若い王オルトヴ
ィーンは馬上からレウティシアを見つけ、簡単な戦術を打ち合わせ
た。
﹁相手は無限に補充されるのか? だとしたら幾らなんでもやって
いられん。対策はないのか﹂
1386
﹁ヘルギニス城内の核が破壊されたら四方の構成を切り崩すわ。そ
うしたら召喚の勢いも止まるでしょう﹂
﹁構成を切り崩すのにどれくらいかかる﹂
﹁一時間。向こうもそれをさせまいと防衛してくるでしょうけど﹂
﹁迂遠だな。城内に入り込んだ者たちが死んでいたらどうする﹂
﹁⋮⋮煩い﹂
カンデラが混乱に陥った時にその復旧で顔を付き合わせた二人は、
互いに苦々しい顔で相手を睨む。
だがそうしていても何ら事態は前進しないだろう。ファルサス王
妹は溜め込んだ息を吐き出すと、軽く手を振った。
﹁その時は私が中に入って核を壊してくるわ。代わりに指揮をお願
い。ついでにファルサスもよろしく﹂
もしこの戦闘でファルサス王族の二人が死亡しても、直系はまだ
残る。そのことを暗に示唆する言葉に、オルトヴィーンは端整な顔
を顰めた。
あの城に
﹁お前たち兄妹は人使いが荒い。ファルサスなど誰が要るか﹂
﹁ならアカーシアだけでも持ってきなさいよ﹂
﹁要らん﹂
﹁貴方にじゃないわ。貴方の息子に渡すのよ。︱︱︱︱
はヴィエドを守った子も行っているのだから﹂
一度だけ顔をあわせた頼りなげな少女。あんな子供までも魔女の
城に向ったという話を聞いて、オルトヴィーンは目を瞠った。しか
しすぐに表情を消すと、彼は手綱を引いて自軍のもとへと戻ってい
く。レウティシアは青い瞳をヘルギニスの方角に彷徨わせた。
闇はまだ来ない。けれどそれは人の心に強い不安を投げかける。
そして彼らがその不安と戦いながらも敗北し絶望した時、この大
陸には六百年の時をおいて、暗黒が再来するのだ。
1387
※ ※ ※
魔女に煽られていただけだと分かると、招かれていた者たちのほ
とんどは元の街に帰りたがった。
だが、一階に下りるにもそこは既に魔物だらけであるし、外にも
魔物がひしめき始めている。まさに孤立としか言えない状況に陥っ
た彼らに、エリクは手近な一室を使って結界を張ると﹁比較的安全
地帯﹂を作ってやった。不安げながらもそこで待つことにしたらし
い十数人を置いて、残りの者たちは城を上へ上へと上がっていく。
雫はエリクの手を借りて穴をくぐりながら、彼の耳に囁いた。
﹁この穴開けたのってエリクですか?﹂
﹁違うよ。王じゃないの?﹂
﹁あれ。王様もうそんな上まで行っちゃったんですか﹂
エリクと再会してから雫は一度ラルスの居場所を知る為に本と繋
がったが、その時は彼についての記述は何もなかった。ということ
はおそらくまだ無事でいるのだろう。そして無事でいるのなら上に
向っているに違いない。
またこの穴は、雫のいた階の更に下から開けられていたのだ。
そこから既にここまで穴が開けられているということは、穴を開
けた人物はかなりのスピードで城を上っていることになる。
もしラルスの仕業であるのならつき合わされている魔法士はさぞ
や大変だ。雫は誰かも分からぬ魔法士の苦労を思って、声には出さ
ず同情した。
階段を上りつつ、後ろに続く人間たちを見やって雫は浮かない顔
になる。
﹁他の人たちって無事なんですかね。大分減っちゃいましたけど﹂
﹁断言は出来ないけど時間が経ちすぎている。ここにいないほとん
どの人間はもう駄目だと思うよ。ただ生きていれば階段の穴に気づ
くだろうし、いずれ合流出来る﹂
1388
エリクは可能性の薄い気休めは言わない。雫は自分でも薄々疑っ
ていた答に眉を曇らせた。
皆きっと、こうなることが分かっていただろう。それでも悼まず
にはいられない。彼らは意志のない駒ではなく、紛れもない挑戦者
だった。その精神の強靭さを思って彼女は息を詰まらせる。
﹁もうすぐ全面戦争って本当ですか⋮⋮﹂
﹁本当。今外では瘴気を利用してどんどん魔物が召喚されてる。早
く魔法装置を壊さなきゃ不味いよ﹂
﹁あ、じゃあ核を⋮⋮﹂
﹁うん。そのつもり。今そこへ向ってる﹂
ヘルギニスを覆う瘴気も、城にある魔法装置の核と東西南北の構
成を崩せば少しは緩和される。そうなれば異界化は解け、ヘルギニ
スは元の﹁魔に閉ざされた土地﹂に戻るだろう。そこまで考えて雫
本当にそれでいいのだろうか。魔法装置を壊しただけ
は首を傾げた。
︱︱︱︱
で魔女に勝てるのか。
疑問に思いながらも彼女はエリクに手を引かれ、階段の穴をくぐ
っていく。
言葉少なに階段を上り続ける彼らが核のある階についたのは、そ
れからしばらくのことだった。
今までの階は円状の廊下の内側に小部屋がいくつか配されていた
が、この階には小部屋が一つもない。その代わり廊下の内側は大き
な円形の広間になっており、中央に魔法装置の核が配されていた。
床に描かれた大きな魔法陣。複雑極まる紋様を描くそれには、各
所に透明な水晶球が埋め込まれている。加えて陣の中央には直径二
メートル程の真円の窪みがあり、中には薄く水が張られていた。
まるで水鏡のようなそれを雫はつい覗き込もうとしたが、どうや
ら周囲には不可視の結界が張られているらしく踏み込めない。歩い
1389
ていった勢いのまま見えない壁に爪先と額をぶつけ、彼女は声もな
く蹲った。
周囲の人間たちが困惑の目でその姿を見やる。特にカイトは雇い
主に氷の視線を注いだ。
﹁君ってどうしようもない馬鹿だね。他の人間が何で止まったかと
か考えないの?﹂
﹁うう⋮⋮つい﹂
不注意に関してはまったく反論のしようがないので、雫は額を押
さえながら立ち上がった。魔法陣の周りには既にエリクをはじめと
して九人の魔法士が立ち、中を覗き込んでいる。
﹁これは、暴走させないよう破壊するのは大変そうだな﹂
﹁ある程度解いてから破壊するか? 時間はかかりそうだが﹂
﹁アカーシアがあった方がいいかもしれない。陛下を探してこよう﹂
﹁待て。陛下は他になさることがある。これくらいは我らで何とか
せねば⋮⋮﹂
悩みながらもとりあえず不可視の壁を解こうとする彼らを背に、
雫は窓のない部屋を見回した。壁に隔たれて見えない四方、東西南
北を順に見やる。
荒地に建つ城。それを中心とした異界。
けれどこの土地は、もともと強い魔の気の為に、人の住めぬ土地
であったのだ。
それを暗黒時代の数百年間、巨大な魔法装置が浄化していただけ
で︱︱︱︱
そんなことが可能なのか、雫には分からない。だから彼女はエリ
クを手招き、小声で問うた。
﹁エリクってキスク戦の時、魔法使用禁止の構成を書き換えたんで
すよね﹂
﹁ああ。そんなこともあったね。うん﹂
﹁じゃあ今もそれって出来ますか?﹂
1390
彼女が何を言おうとしているのか、掴みかねて男は首を傾げる。
雫はその反応に困った顔になると、戸惑いながらも続きを付け足し
た。
﹁この装置って、もともとヘルギニスを浄化する為のものを悪用し
てあるんですよね? それを元に戻すことって出来ますか? ⋮⋮
元の、浄化装置に﹂
異界化を解くだけでは有利にならない。それではヘルギニスは魔
の土地のままなのだ。
ならば、ここにある装置を逆に利用したらどうなるのか。国を建
てられる程に土地を清めたという装置に戻せば、有利は手に入るの
ではないか。
彼女の提案にエリクは目を丸くして考え込む。
﹁出来るかもしれないけど⋮⋮元の構成が分からないときつい。闇
雲に書き換えることは出来ないから⋮⋮って、まさか﹂
﹁元の構成なら私が読めます﹂
魔女の本にはそれが書かれている。そしてそれに繋がる雫であれ
ば、構成を知ることが出来るだろう。
不利を有利に転じさせる一手。彼女の提案を把握してエリクは絶
句した。
そしてそれは、決して不可能な手段ではなかったのである。
エリクは彼にしては長い沈黙を経て口を開いた。消せない苦渋が
平坦な声に浮かぶ。
﹁僕は正直、君にあまりこの本を使って欲しくない。記述権を奪っ
たことで充分すぎるくらいだ。これ以上はやりすぎだよ﹂
﹁でも出来るんですよね? なら、やらせてみてください。このま
まじゃきっと取り返しのつかないことになるんです﹂
魔物の大軍と人間の軍隊がぶつかりあうことになれば、その惨状
はこれまでで最大のものとなるだろう。
そうなる前に出来るだけの手を打ちたい。何かをしたいと思った
1391
からこそ、この城に来たのだ。
必死に訴える雫にエリクは整った顔を顰める。彼はそのまましば
らく雫を見つめていたが、小さく溜息をつくと不可視の防壁が解か
れた魔法陣を振り返った。
﹁⋮⋮分かった﹂
﹁エリク!﹂
ほっと笑顔になる彼女の頭を指で叩くと、エリクは魔法士を集め
てなにやら相談を始める。
洩れ聞こえるその内容は雫にはよく意味が分からなかったが、ど
他の魔法士たちは悩みながらも一人一人魔法陣を見下
うやらこの核が巨大な装置の効果を制御していると確認しているら
しかった。
ろす。そのうちに皆の意見が一致すると、エリクは指を上げて東の
方向を指し示した。
﹁多分、四方の構成はヘルギニス国にあったものと共通だと思う。
実際に見たけど単に核から効果を受け取りながら、一帯に力を回す
ための構成だったから。ここを書き換えてしまえばそのまま浄化装
置に使える﹂
﹁なるほど⋮⋮。それが出来れば外にいる魔族も半分以上は送り返
されるだろうな。浄化結界に耐え切れない﹂
﹁だが机上の話だろう。規模が尋常ではないし、過去の構成も分か
らない﹂
﹁その辺りは何とかするよ。書き換えも僕がやる﹂
エリクは中央の水鏡の前に立つと雫を手招く。彼女がそれに応え
て魔法陣に踏み込むと、構成技術をファルサス王妹からも賞賛され
る男は、周囲の人間全てを見回した。淡々とした声が大きな広間に
響き渡る。
﹁これからヘルギニスを異界化させている装置を浄化装置に転じさ
せる。かかる時間はどれくらいか分からないけど、成功すれば多分
魔物のほとんどは消滅するか弱体化するだろう。ただ、書き換え途
中で気づかれれば魔女か魔物が妨害に来る可能性が高い。その間君
1392
たちには攻撃を食い止めてもらいたいけど、これはかなり危険な戦
闘になると思う。居合わせたくないと思う人間は今のうちに避難し
ておいて。僕には責任とれないから﹂
熱のない宣言。
しかしそれに呆れる人間はいても、立ち去ろうとする者は一人も
いなかった。二十三人いる彼らは思い思いに無言の視線でその問い
に応える。
エリクは苦笑もせず頷くと、二十四人目である女を見下ろした。
﹁構成図の読み方って教えたよね。覚えてる?﹂
﹁覚えてます。大丈夫です﹂
それは彼に代わって構成図を描いた時、散々やったことなのだ。
少なくとも構成図に限って言うならエリクと意志を通わせる自信は
充分にある。彼は少しだけ微笑むと真下の魔法陣を見下ろした。
﹁これを見て、違う箇所を指摘して⋮⋮って、君は魔力が見えない
か。仕方ない﹂
﹁え。あれ。不味いですか﹂
ここに刻まれているものが全てではないのか。焦る彼女の額をエ
リクは指で叩く。
﹁大丈夫。表層意識を共有させよう。僕の表象が伝わるから君にも
魔力が見えるようになる﹂
彼は言いながら魔法陣の上に直接片膝を立てて座った。手を引か
れた雫はそのすぐ前に膝立ちして男と顔を見合わせる。
エリクは片手で彼女の腰を抱いて体を引き寄せた。途端に間近に
なった彼の顔に、雫はさすがに赤面しそうになる。こんな近くで彼
の顔を見るのは初めてかもしれない。だが前にもそんなことを思っ
た気がして内心首を傾いだ。
そんな混乱が伝わったのか伝わっていないのか、エリクは平然と
した顔で彼女に注意する。
﹁あんまり余計なこと考えないで。意識が濁る﹂
﹁うっ⋮⋮プライバシーは自主防衛﹂
1393
おかしなことを考えてそれが伝わりでもしたら、目もあてられな
い。
平常心を唱え始めた雫を置いて、男は複雑に張り巡らされた線を
見やると、その中の太い一本に手を乗せた。指先に耳飾から汲み出
した魔力を集中させる。
火花
﹁アカーシアがあったら侵入がしやすかったんだけど。強引に入る
しかないか﹂
エリクは集めた魔力を圧縮し、構成の一端を狙う。
雫を除いた全員の視線がその手に集中した一瞬後︱︱︱︱
が弾けるような音と共に﹁侵蝕﹂は始まったのだった。
目を閉じて、額と額を触れさせる。
意識を共有させる。浮かび上がるイメージを共にする。
雫は両手で本を抱いてそこから繋がる構成図を読み取りながら、
同時にエリクの見せる構成自体をも暗闇の中、また眺めていた。感
嘆の息をつかせるほどの複雑かつ美しい線の交差。その凄まじさに
見えている世界が違う。
彼女の意識はしばし圧倒される。
︱︱︱︱
それは、頭では分かっていても理解できないことであった。同じ
人間同士が同じ世界を見ていて、それでも見えるものが違っている
などということは。
けれどずっと、彼の目にはこの世界が見えていた。
魔力という皮層を被せた世界。
可能性の無限を伝える深遠。
違う階層を含むその光景の全てに、雫は胸の熱さを感じる。まる
で泣きたいような震えが精神を走った。
﹁いいよ。教えて﹂
落ち着いた男の声が彼女の意識を引く。
雫は触れている額と、自分の体を支える彼の片腕だけに現実を感
1394
じて、精神を動かした。どちらも手に取るように分かる二つの構成。
その差異を基礎から慎重に挙げていく。
﹁まず第三系列⋮⋮始点と終点を入れ替えて下さい﹂
﹁うん﹂
﹁第四を九十度時計回りに回転。第九まで同様にずらします﹂
﹁ちょっと待って⋮⋮いいよ﹂
﹁第十一と第三十三の交差を解除。第四十七と繋げて下さい﹂
淡々と重ねられる指示。それに応える力。
一対となって構成を書き換えていく男女の姿を、皆は固唾を飲ん
で見守る。
この一手が、戦況を転換させることを祈りながら。
※ ※ ※
最上階に戻ってきた女は、ぼろぼろに刃こぼれした長剣を一振り
抱えていた。また何処かで拾ってきたのだろう。大切そうに剣を見
下ろすアヴィエ、ラをエルザードは呆れ混じりに見やる。
﹁召喚はもういいのか﹂
﹁ああ。あとは自然発生するようにしてきた。瘴気が濃いからそれ
で充分だろう? 五十万になったら攻勢をかけるさ﹂
﹁お前の連れて来た人間たちはほとんどが脱落したぞ﹂
﹁そうか﹂
男の報告に大した感銘を受けた風でもなく魔女は返した。その様
子はとても今、大陸中を相手取って戦争をしかけている人間のもの
には見えない。余裕というよりは、全てを達観し受け入れているか
のような態度にエルザードは苛立ちを覚えた。
1395
﹁最初に来た奴らは約半数死亡した。生き残った奴らは中層階にい
るな。⋮⋮一人、凄い速度で上って来ている奴がいるが。もう近い
ぞ﹂
﹁アカーシアの剣士かな﹂
天敵の接近を楽しげに謳うアヴィエラは、しかしそこでふと目を
瞠った。目に見えぬものを探るように視線を辺りに漂わせる。女の
変化に魔族の男は軽く眉を上げた。
﹁どうした﹂
﹁誰かが装置の核に触れているな。これは⋮⋮構成を書き換えてい
るのか。面白い技術を持った人間がいるものだ﹂
﹁感心するな。殺して来よう﹂
一帯を異界化させている構成を書き換えられては、召喚そのもの
はおろか既に召喚している魔物たちにも影響が出かねない。
玉座から立ち上がりかけたエルザードを、しかしアヴィエラは手
を上げて留めた。
人間は美し
﹁いい。私が行く。どんな奴がやっているのか見てみたいからな﹂
﹁誰がやっていようと同じだ。どうせ殺す﹂
﹁違うさ。人が死んでもそれは無ではない。︱︱︱︱
いぞ、エルザード﹂
﹁⋮⋮またお前はそれか﹂
理解出来ない言葉に男が吐き捨てると、魔女は楽しそうに笑った。
彼女は持っていた長剣を玉座の脇に立てかけて踵を返す。
﹁私がいない間にアカーシアの剣士が来たら丁重にもてなしておい
てくれ﹂
﹁肉塊に変えておこう﹂
女は返事の代わりにくすくすと笑うとその場からかき消えた。綺
麗に伸びた背筋の残像がまだ辺りに残っている気がして、エルザー
ドは目を閉じる。
彼女が何を望んで戦乱を引き起こしたのか、彼は知らない。
だから男は退屈そうに欠伸を一つして、再び両瞼を閉じたのだっ
1396
た。
※ ※ ※
エリクと雫が構成を書き換え始めてから既に二十分が経過した。
その間二人は微動だにせず、ただ構成の書き換えを指示する声と
それに対する返答だけがぽつぽつ続いている。
あまりにも巨大な構成の中を、少しずつ少しずつ動かしていく魔
頬を伝っていく汗に彼は息をつくと、﹁次を教えて﹂
力はささやかなるものだが、それでもエリクにかかる負担は少なく
ないらしい。
と腕の中の女に促した。
対する彼女は目を閉じたまま、若干の間を置いて修正箇所を口に
するということをただただ繰り返している。
半分夢の中にいるような雫の貌は、けれど時々現実を見失ったか
のように薄弱としたものになり、その度に男の声が彼女の意識をゆ
るりと引き戻していた。
まるで不可思議なその光景。
始めはその様に注目していた者たちも、けれど事態を認識すると
敵襲に備え各人準備をするようになった。魔法士たちは二人を中心
に何重にも結界を張り、剣士や武官は意識を研ぎ澄ませながら己の
愛剣を簡単に磨き直す。
嵐の前の静けさに似たひととき。
その中にあってカイトは、緊張するわけでもなくただ短剣の刃を
確かめながら、時折雫の背を振り返っていた。
乱戦を期待してこの城を訪れたというのに何だか妙な成り行きに
なってしまったが、それはそれで別に構わない。むしろ魔女を殺す
1397
機会が回ってくるなら願ったり叶ったりだ。彼は笑おうとして、し
かし不機嫌そうな表情になる。
先程からいまいち気分がよくないのは、きっと自分を雇った女の
せいだ。彼女がいちいち小うるさく注文をつけるから。
或いはそれはもっと前から続いていたのかもしれない。
いつからか自分は、人を殺しても前のように面白いとは思わなく
なっていたのだから。
﹃笑えなくなった﹄
とカイトが古くからの知己に洩らした時、相手は﹃年を取ったん
だろう﹄と返してきた。
それを聞いた時は﹁そうなのか﹂という気持ちと﹁そんなはずが
ない﹂という気持ちがせめぎあったが、理由を考えても後付けでし
かないだろう。
ただ彼は、笑えなくなった。
人を殺すことに抵抗はないが、それを楽しむことはなくなった。
刃物を振るい敵を絶命させるのは仕事で、もはやただの作業だ。
面白いとも何とも思わない。相手が見苦しく命乞いをした時などは
不快でさえある。
けれどそれを認めたくないからカイトは危険な仕事も次々と引き
受けた。魔女の城にも飛び込んだ。
結果として彼はまた、彼女に出会ってしまったのだ。やたらと腹
立たしく、頑固で口うるさい愚かな小娘に。
正論や正義を振りかざす人間には今までも沢山出会ってきた。そ
して彼らは皆、偏狭な自分の視野でしか物事を見られない、幸福で
無知な人種だったのだ。彼女もまたそうであるように。
しかしその中でただ一人、彼女だけがもう一度彼の前に現れ、二
度彼の嗜好を拒絶した。
たまたま知己の依頼人であったから殺さなかっただけ。そこに何
1398
かがあったわけではない。子供じみた意見に感銘を受けたわけでも。
けれど二度目に彼に見え、なおかつ脅されてもまだ似たような非
難を述べた彼女の言葉は、彼に苛立ちとあるはずもない可能性を思
わせたのだ。
﹃もしあの人間を殺していなかったら﹄
﹃もしあの人物にもう一度会っていたのなら﹄
彼らは何と言っただろうか、どんな顔をするだろうか。
だがそこから彼は、何故か笑えなくなってしまった。
考えても仕方がない、考える意味もない仮定。
︱︱︱︱
﹁暇すぎ。苛々する﹂
カイトは手に持った短剣を何度か返してみる。よく磨かれたその
刃に、雫の小さな背が映った。鎧も何も着ていない背は、今短剣を
投擲すればそれだけで死に至るだろう。
だが相手は仮にも雇い主だ。殺してみようとは思わないし、そう
でなくても面倒臭い。ああいう人種とはさっさと別れて以後顔を合
わせないに限る。彼は思考を閉ざすと、ただ自分が必要とされる時
を待った。
そして、その時が来る。
広間の入り口近くに現れたひずみ。
それを見て、全員が刹那で臨戦態勢に入った。
時を置かずしてその場に一人の女が現れる。
深紅の魔法着。艶やかな銀髪が転移の余韻を残して揺らめいた。
赤みがかった茶色の瞳が広間を見回す。
﹁ほう⋮⋮面白い。ファルサスの魔法士か?﹂
魔女が見出したのは魔法陣の中に座する二人。その視線に気づい
た数人は、咄嗟に動くと自らの体によって二人の姿を隠した。無言
の戦意が水位を上げていく。
1399
魔物たちを、そして野心に目が眩んだ人間たちをも退け集まった
者たち。アヴィエラは恐れを越え自らに挑もうとする人間たちを一
人一人見つめた。紅い唇に笑みを刻む。
﹁いいだろう。全力でかかって来い。私を止めたいと思うのならば﹂
かつて六百年の昔、ここには一つの国があった。
聖女が清めた土地に生まれた国ヘルギニス。
戦乱溢れる暗黒時代にあっても長く平和を保っていた辺境の小国
はしかし、ある夜突然滅びさる。
街を焼き、城を破壊したのは魔女と呼ばれる女。
人にして人ではない畏れの存在。
﹁魔女か。上等だよ﹂
カイトは短剣を手に意識を集中させる。
ここしばらくどんな仕事をしても面白いと思えなかった気分が、
今確かに昂揚していた。少年は右手に長剣を抜き放つ。
恐れはない。そんなものを感じたことはない。
だから彼は息を細め、﹁獲物﹂を見つめた。
それを合図として、ヘルギニ
アヴィエラは微笑んで細い左腕を伸ばす。
長い指。しなやかな思惟。
そして魔女が指を弾いた︱︱︱︱
ス城の広間では苛烈な戦闘が開始されたのである。
※ ※ ※
城の最上階、大きな窓からは濁った風が強く吹き付けてきていた。
1400
広間に一つきりの玉座には、魔族の男が目を閉じて座している。
代わり映えのしない時。だが、永遠も一瞬も彼にとっては大差な
ならば何故、まだこの世界に残っているのか。
い。生まれては死んでいく人の生が、泡沫と等しく思えるように。
︱︱︱︱
彼とアヴィエラを繋ぐ契約は、いつでも破れるような拙いものな
のだ。彼女が紅い本に書かれた知識をもとに彼を呼び出したのはま
だ十代だった頃。当時の彼女は未熟さが残る魔法士だった。
だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。この世界の全てに飽い
てしまったのなら。
けれどエルザードは目を閉じてその場に座ったままだ。そして彼
女が帰って来るのを待っている。時の変化を感じ取れないからこそ、
未来のことなど想像もせずに。
﹁何だ、お前だけか﹂
ぞんざいな男の声がかかる。足音はしなかったがその接近は分か
っていた。エルザードは片目を開けて侵入者に対する。
世界で一振りしかない、そして上位階層にもない魔法の効かぬ剣。
それを携え一人現れた王は不敵な目で玉座を見上げた。
﹁無駄に階段を上らされて腹が立ったぞ。魔女は何処だ?﹂
﹁ここにはいない﹂
﹁ならお前を殺した後に探しに行くか。面倒だが﹂
ただの人間が、神とも呼ばれる上位魔族に向って大きな口を叩い
ている。そのことが妙におかしくてエルザードは笑った。滑らかな
仕草で立ち上がる。
﹁探しに行く必要はない。ここで待てばいいのだ。肉塊になってな﹂
明確に死を思わせる言葉に、だが王は傲岸な目で返しただけだっ
た。男は剣を下ろしたまま抵抗なく距離を詰めてくる。その態度に
エルザードは舌打ちしたくなった。
﹁一応忠告しておくが⋮⋮アヴィエラより俺の方が強い﹂
﹁だから?﹂
1401
ラルスは鼻で笑って一蹴するとアカーシアを構える。ファルサス
王家に顕著な青い瞳が挑戦的に輝いた。
﹁一番強いなら尚更、俺が相手をするのが無難だろう? ︱︱︱︱
さっさとかかってこい。死を教えてやる﹂
淀みを孕む冷えた風。
窓の外から無数の羽ばたきが重なり聞こえてくる。
だがそれら忌まわしい喧騒も玉座の間を侵せない。研ぎ澄まされ
た空気がその場を浸す。
脆弱な
エルザードは詠唱もなく構成を組み上げると、それを指先に灯し
た。青白い光越しに人の王を見やる。
未来のことなど想像できない。
変わり行く時間が分からない。
だからこそ彼は自身の敗北など微塵も考えずに︱︱︱︱
命を貫く電光を打ち出した。
1402
006
それはもう十年以上も昔のこと。
本を読むことがとても好きだった。
そこには世界の広がりがあった。
遠い異国のことも過去のことも、様々な装丁の本とそこに並ぶ文
字列に凝縮されている。人の精神と肉体は切り離せないものと魔法
理論は語るが、本を読む時確かに彼女の精神は肉体を離れ自由に世
界を渡っていた。
遠い神話の時代や暗黒の時代、魔女の時代や、その後訪れた再来
期。
無数の人々が紡いできた人の歴史は時に人の貴さを、時に愚かさ
を示しながら流れていく。
﹁何で人は何度も同じ失敗をするんだろう。前にも沢山人が死んで
いるのに。勿体無いと思わない?﹂
禁呪に関しての歴史書を読みながらの質問に、本を蒐集していた
彼女の祖父は苦笑した。
﹁自分は違うと思っているからだろう。もしかしたら忘れてしまっ
たからかもしれない﹂
﹁忘れてしまう?﹂
どうしてそんなことがあり得るのか。
本を読めばそこにはまだ鮮やかに過去のことが描かれているとい
うのに、何故忘れることが出来るのだろう。
1403
自分を基準にしか考えられない少女は、いたく怪訝そうな顔にな
る。
机を挟んで彼女と向かい合う老人は苦笑すると、顔に刻まれた皺
よりも深い溜息をついた。
﹁記憶は風化するものだ。そして記録はしばしば忘れ去られる。長
い暗黒時代が終わりを告げたのは人々が争いに疲れたからで、実際
その後二百年ほど大陸からは戦争がなくなった。けれどそれも永遠
ではないのだよ。禁呪によって国が滅べば人々はみな禁呪から遠ざ
かる。しかし記憶が薄れれば、再びそれは歴史の表に浮かび上がっ
てくるだろう。今度こそそれによって何かが得られるのではないか
との期待を負ってね﹂
﹁分からない。だっておかしいもの﹂
理解出来ないことを前面に出す孫娘に、彼は肩を竦める。老いた
男の背には少女の何倍もの月日が背負われていたが、その全てを彼
女に伝えることは不可能だろう。そうして人の記憶は、感情は、少
しずつ風化していく。人の死と共に持ち去られていく。
﹁たとえば悲しいことや辛いことがあった時、いつまでもそれを強
く覚えていては苦しいだろう? だから人は、それらを覚えていな
がら同時に忘れてもいく﹂
その変化は彼女自身も覚えのあることだった。少女は茶色の目を
大きく瞠る。老人は微笑んで続けた。
﹁そしてそれは、もっと大きな目で見てもそうだ。どんな酷い事件
があっても、戦争があっても、それらは記憶されながらも忘れ去ら
れていく。やがて世代が代わり、それを知らない人間たちが増え、
過去のことは記録の中にしか残らなくなる。そうなるとまた人々は
これはもう人の性だろう﹂
似たようなことをやってしまったりするんだ。辛かったことを知ら
ないから。︱︱︱︱
何度も何度も繰り返し同じ失敗を重ねながら、人は時折前進した
りもする。
1404
全てを俯瞰するなら、それは子供の手遊びに似たもどかしいもの
で、だが個人には変えがたい流れだ。
彼はそのことを知っていたが、まだ若い彼女には納得いかないも
のらしい。不満げな表情を読み取った老人は立ち上がると、部屋の
隅から一冊の本を出してきて孫娘に差し出した。
﹁だからもし、お前がこの人の性を度し難いと思うのなら。本を読
みなさい。本を書きなさい。そうすれば自分を律し、人の記憶に留
めることも出来るだろう。皆が忘れてしまう悲しい過去のことも⋮
⋮﹂
両手で受け取った本には、不思議なことに題名が書かれていない。
彼女はそれを怪訝に思ったが、手に馴染む紅い革の感触にすぐど
うでもよくなった。埋め込まれている装飾を指でなぞりながら少女
は祖父を見上げる。
﹁そうすれば同じ失敗も繰り返されなくなる?﹂
その返事は、結局もらえなかったのだとアヴィエラは記憶してい
る。
※ ※ ※
閉ざされている視界に白い閃光が走る。
それは彼女のいる場所までは届かなかったが、容易に窺える周囲
の異変に雫の体は震えた。焦りと、様子を知りたいという思いが彼
女の精神を傾ける。
しかしその瞬間、目の前に見えいていたはずの構成が揺らぎ、男
の声が彼女を叩いた。
1405
﹁駄目。落ち着いて。共有が解ける﹂
やるべきことをやれと、叱咤する声を聞いて、彼女は焦燥を押し
殺し意識を戻した。次の箇所を指摘する。
﹁第八百二十四系列。回転を逆に。第千四十四と三度交差﹂
﹁分かった﹂
今はこれをやる。
これをやらなければいけない。
集中が乱れれば見えるものも見えなくなってしまうだろう。雫は
溜まった息を吐き出すとまた深く吸い込む。
﹁いいよ、次﹂
﹁第八百三十二系列。南北を境界線として線対称に﹂
﹁うん﹂
彼女は唇をきつく噛む。全ての精神をつぎ込む。
他に何も見えず意識だけが彷徨う中、雫は再び構成だけが光る暗
闇へと下りていった。
無言で男が踏み込んでくる。
鋭い軌跡を描く剣先にアヴィエラは左手を向けた。そこに結界を
張って剣を受ける。詠唱さえない薄い結界は、けれどそれだけで剣
先を逸らした。たたらを踏む男を魔女は右手で突く。
掌に帯びた魔法によって、圧縮した空気を直接体に打ち込まれた
男は瞬間、血を吐いて態勢を崩した。すかさず止めを刺そうとする
アヴィエラを、しかし別方向から炎の矢が襲う。
複数の魔法士による数十もの矢の雨。逃げ場もないほどに降り注
ぐそれらに、魔女は目を細めると指を弾いた。途端、全ての炎はか
き消える。
広間に集まっていた人間たちは、一人一人がそれなりに腕の立つ
人間であるのだろう。皆が鋭い動きで次々に攻撃を仕掛けてくる。
1406
だがさすがに単独の人間相手に連携を取って戦う経験などないに
違いない。
アヴィエラは強力な結界を張ってほとんどの攻撃を打ち消しなが
ら、彼らが時折見せる戸惑いを狙って徐々に戦線を打ち崩しつつあ
った。今も内臓を破壊されながら剣を振るおうとする男に向けて、
彼女は微笑む。
﹁退かないか。いい意気だ﹂
結界を使うまでもなく精彩のなくなった刃を避けると、魔女はよ
ろめく男の脇腹に右手を突きこんだ。鎧の隙間から肉の中へと手が
捻じ込まれる。
手首まで深々と食い込んだその指先で、アヴィエラは臓腑を中か
ら破壊した。くぐもった破裂音と同時に彼女が白い手を抜きさると、
鮮血の飛沫が上がる。
男は小さな呻き声を上げて、血溜まりの中に倒れ伏した。痙攣し
動かなくなる体を見つめると、アヴィエラは遺体を踏まぬよう前へ
出る。
一人で多数を相手取る魔女の動きは、決して俊敏なものではない。
むしろ緩やかな舞のように最小限で攻撃を無効化し、合間を縫って
は強力な一撃を打ち出してきている。
彼女は抵抗自体を楽しんでいるかのように積極的な攻勢には出て
こないが、既に死亡者を含め戦闘不能者は十一人になっていた。
これでまだ彼女が現れてから十分程しか経っていないのだ。ハー
ヴはエリクたちを守る結界を強化しながら息を詰める。
先程から隙を作るべく魔法での牽制を行っているが、魔女にはま
だ傷一つついていない。一方構成の書き換えは外から見たところよ
うやく七割近いというくらいだろうか。
ハーヴは、焦りに動悸が上がってくるのを止められなかった。
彼は再び炎の矢を作ろうと詠唱を始める。と、そこへ今までは離
1407
れたところから魔女の動きを観察していたカイトがやって来た。少
年はアヴィエラから目を逸らさぬまま耳打ちする。
﹁魔女が使ってる防御結界って無効化出来る? あれさえなければ
殺せる﹂
﹁殺せるって⋮⋮本当か?﹂
﹁当然。あれは所詮魔法士の動きだよ。結界さえなきゃ魔法を使う
前に仕留められる﹂
口元に笑みさえ浮かべる少年は、けれど大言を吐いているように
は見えない。ハーヴは目を細めてアヴィエラの方を見やった。
﹁無効化か⋮⋮正直難しい。無詠唱で張られているし強力だ。ただ、
攻撃構成と結界を同じ手に組むことは出来ないみたいだから、そこ
を狙うって手はある。判断が難しいけど⋮⋮﹂
﹁分かった﹂
カイトはこれ以上は用が無いとでも言うように背を向けると、ア
ヴィエラに向って歩き出した。その背をハーヴは慌てて留める。
﹁ま、待て。向こうの攻撃を防げなきゃ仕方ないだろ﹂
﹁避ける﹂
﹁そんな無茶な。範囲魔法だったらどうするんだ﹂
肩に手をかけて忠告する魔法士を、少年は激しく舌打ちして振り
返った。顔を斜めにしてハーヴを見上げる。
﹁だったら何。弱いのは黙っててよ﹂
﹁弱いの⋮⋮俺、一応宮廷魔法士⋮⋮じゃなくて。君に結界張るよ。
ちょっと待って﹂
魔女の防御結界がない部分とはつまり、攻撃の力が灯る箇所でも
あるのだ。その攻撃を避け切れなかったとしても結界で緩和するこ
とが出来れば次に繋げられる。
自分に向って詠唱を始めた男をカイトは胡散臭げな目で見やった。
傭兵仲間からも異質視される彼は、他の人間と組んで仕事をする
ということがほとんどない。その為このように援護魔法をかけられ
た経験もないのだ。ハーヴは詠唱を終えると声を潜めて問う。
1408
﹁ところで君って魔力見えるの?﹂
﹁見えない。けど大体分かる。目線とかに注意すれば﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
見えないし分からないと言われたらどうしようかと思っていたハ
ーヴは、少しだけ安心して肩の力を抜いた。
もしそうであったならやる前から敗北は分かりきっている。
今背後にいるエリクなどは雫に魔法陣の構成を見せているが、正
確には魔力を見えるようにしたわけではなく﹁自分が見ているもの
を彼女に伝えている﹂だけなのだ。勿論それには静止していること
やお互いの身体的な接触、意識の集中が必要であるし、とてもでは
ないが白兵戦をする人間に魔力を見せることなど不可能だ。
そしてだからこそ魔力の見えない剣士たちなどは、魔女の結界が
ある場所に切り込んでいってしまう。だがそういった連携を取る訓
練をしていない彼らには、すぐにどうこうすることも出来ない問題
だろう。
ハーヴは壁に叩きつけられた武官を見やって息を飲む。その横で
カイトがそっけない声を上げた。
﹁もういい? 行くけど﹂
﹁あ、ああ。出来るだけ俺も援護する。気をつけて﹂
﹁鬱陶しいからいいよ﹂
身も蓋もない返答と共に少年は歩き出す。
その危うい自信に眉を上げたハーヴは、けれど一度だけ魔法陣の
方を振り返ると、自分もまた魔女に対する為に詠唱を開始したのだ
った。
※ ※ ※
1409
横に大きく跳んで魔法の一撃を避ける。
それは空中に激しい火花を散らしながら石床へと接触し、爆音と
共に大きな穴を開けた。激しい振動が起こり石片が飛び散る。階下
までも貫通した穴をラルスは横目で見やった。
﹁あんまり穴を開けると城が壊れるぞ。折れたらどうする﹂
﹁このような城いくらでも作れる﹂
﹁建て増しか。上に伸ばしすぎると倒れるぞ﹂
飄々とした人間の男。魔法士や魔族の天敵とも言える剣を持つ王
は、エルザードの力を見せ付けられてもまったく恐れを見せず肩を
竦めただけだった。それどころかほとんどの攻撃は王剣で無効化し、
巧みにすり抜けてしまう。
知識としては知っていたが、思っていた以上に厄介な剣の存在に、
上位魔族の男は忌々しさを覚え始めていた。今度は避けられないよ
う、エルザードは網状に広がる構成を組む。右手を上げるとそれを
ラルス目掛けて打ち放した。
しかし王は、相手の意図に気づくとむしろ構成に向って数歩踏み
込む。
﹁おっと﹂
軽い声を上げながら、ラルスは術が広がりきる前にアカーシアで
構成の要を切り裂いた。力の断裂を縫って攻撃をかいくぐった人間
に、エルザードはさざなみのような苛立ちを覚える。
ラルスは相手の表情の変化に気づいて楽しげに笑った。
﹁どうした? 怒ったか?﹂
﹁何故俺が人間などを相手に怒らねばならぬ﹂
﹁なら楽しいか?﹂
さらりと投げかけられた問い。
王は打ち消しきれなかった構成が掠めていった左腕を見やると、
1410
滲み始める自身の血に歪な笑いを見せる。
その得体の知れなさにエルザードはざらついた不快を抑えられな
かったが、動揺まではしなかった。新たな構成を組みながら吐き捨
てる。
﹁何も。つまらぬだけだ﹂
﹁そうか。残念﹂
青い瞳が皮肉に細められ、エルザードの背後を捉えた。
しばしの静止。
そこに何があるのか、魔族の男はラルスから注意を逸らさぬまま
振り返る。
空の玉座。
立てかけられた剣。
それらに意識を移したのは一秒にも満たない刹那だ。しかし次の
瞬間、エルザードは突きこまれた剣を避けて飛び退る。
﹁⋮⋮っ!﹂
気を抜いてはいなかった。
だが、あと少しでも気づくのが遅れていたなら致命傷は免れなか
っただろう。
ゆうに数歩分は開いていた距離をほんの一瞬で詰めてきた王は、
更に踏み込みながら笑う。低い声が玉座の上を滑っていった。
さぁ、楽しいと言え、魔物﹂
﹁その剣は俺の部下のものだ。まさか何の意味もなく殺したなどと
いう訳はないだろう? ︱︱︱︱
打ち込まれる王剣をエルザードは反射的に結界で防ごうとした。
けれどアカーシアは彼の力を無効化しながら至近へと食い込む。
全ての力を拒絶し拡散させる剣。かつて人外がファルサスに与え
たというその刃に、エルザードは個の意識を持って以来初めて⋮⋮
戦慄を覚えた。
自らを貫こうとする切っ先を前に、彼は単純な構成で力を打ち出
す。そしてその先を見ぬまま、剣の届かぬ空中へと飛んだ。
石床が砕け散る音が爆ぜる。
1411
たかが人間相手に逃げ出した。
遅れてやってきたその認識は、エルザードに消し難い屈辱を与え
る。
そしてそれは、舞い上がる粉塵の中から姿を見せた王が、血みど
ろになった左肩に面倒そうな溜息をついても変わらなかった。
虚勢であるのか違うのか、少なくとも苦痛を表面に出さぬ男は皮
肉な笑みでエルザードを見上げる。
﹁どうした? まさかずっと浮いている気か?﹂
﹁⋮⋮ほざくな、虫が﹂
人間に何の価値があるというのか。面白いことなど少しもない。
期待に応えてくるようなものは何も。
エルザードはラルスの挑発を無視して、その場から大規模破壊構
成を組んだ。標的もろとも広範囲を飲み込む構成を、何の宣告もな
く打ち下ろす。
一瞬の閃光。
城そのものを揺るがす轟音。
それが過ぎ去った後には、何ももたらさぬ静寂だけが壊れた
破裂した力は窓の外にまで叩きつけるような爆風をもたらし︱︱
︱︱
広間に立ち込めていった。
※ ※ ※
﹁転移門の事前設定は全て完了しました。いつでも移送出来ます﹂
魔法士長トゥルースからの報告を、レウティシアは馬上にて受け
取った。彼女は暗雲立ち込めるヘルギニスの方角を見上げる。
1412
既に二十万に届きつつあるという魔物の軍勢だが、これは何とし
ても大陸全土に拡散してしまう前に叩かなければならない。
ファルサス北部の野営地に集まっているのは、宣戦した十二ヵ国
のうち四ヵ国十五万の軍勢だが、これらの軍をいつヘルギニス山中
に転移させるかはレウティシアの采配に委ねられていた。彼女はし
なやかな指を顎にかけて考え込む。
﹁トゥルース﹂
﹁は!﹂
﹁転移門を開く作業は任せてもいいかしら﹂
﹁それは勿論⋮⋮どうかなさいましたか﹂
大軍をどれだけ速やかに目的地近くへ転移させられるかは、その
国の魔法士の能力と密接に関係している。
それは他国への遠征については大規模転移座標の取得自体が困難
だということと、また転移先が遠ければ遠いほど門を大きく開くこ
とや長く維持することが難しくなるという理由の為だ。
遠距離へ大きな門を長時間開くことは、宮廷魔法士であっても単
独ではまず不可能である。結果としてほとんどの国はあらかじめ複
数人の魔法士で分担して大きな門の構成を組むのだが、ファルサス
に限ってはレウティシアがいる時ならば彼女が門を開くことが通例
となっていた。
しかし今回はそれをしないという彼女には、何か問題でもあった
のだろうか。部下の心配そうな声に、レウティシアはかぶりを振っ
た。
﹁どうもしばらく前からエリクがかなり魔力を汲み出しているのよ
ね。彼のことだから何かしてるのではないかしら。今、私が大きな
魔法を使ったら向こうに障るかもしれないわ﹂
﹁左様で。結界の核でも破壊しようとしているのでしょうか﹂
﹁さぁ⋮⋮。とにかくぎりぎりまで任せてみるつもりよ﹂
レウティシアはトゥルースがその場を離れると、頭の中で時間を
計る。魔力が継続して汲みだされ始めてから既に四十分以上が経過
1413
しているが、これは一つの構成を組むにしてはあまりにも長すぎる
時間だ。
一体エリクが何をしているのか、それはいつ終わるのか、ファル
サス王妹は美しい眉を寄せ思考を彷徨わせる。
だが彼女はすぐに冷徹な表情に戻ると、武官を呼び各国の将軍に
進軍を開始する旨を伝えさせた。
※ ※ ※
力は単純だ、とカイトは常々思っていた。
それはとてもすっきりしていて、余計な思考を挟まない。
殺しの場においては力だけが結末を左右し、及ばぬものは死に落
ちる。
全てはそれだけで、そこには善悪など存在もしなければ、得体の
知れない煩悶も割り込むことはないのだ。
優美な女の手。
二つあるそれを、少年は注意深く見つめる。もとは白かったその
手は血塗れて不吉さを増し、相対する彼らにとって死そのものの様
相を呈していた。
既に当初いた人間たちの半数以上は床に伏し、広い部屋であるに
もかかわらず血の匂いが濃く充満している。
絶望がゆるやかに頭をもたげる時間。
そんな中、アヴィエラは自分を中心として一定の距離を保つ人間
たちを見回し、童女のように小首を傾げていた。
﹁どうした? もう降参か?﹂
1414
その答は否であるが、圧倒的としか言いようのない差を目の当た
りにした彼らも闇雲に攻撃を続けることは出来ない。どうすれば勝
機が得られるのか、見つからないものを探すかのような人間たちの
間を縫って、カイトは慎重にアヴィエラへの距離を縮めていった。
その瞬間が好きだった。
女の、両の手だけを注視する。
人が死に至る︱︱︱︱
周囲の影響によるものではない。父も母も普通の人間だったよう
に思う。もっとも彼らはカイトが幼かった頃に死んでしまった。
残されたのは僅かな財産と、曽祖父が戦場で功を挙げた際に家名
とあわせて下賜されたという一本の剣だけ。その剣を持って彼は十
一の時家を出た。やって来た親類たちの世話になる気はなかったの
で。
思えばその時既に、彼は自分が他の子供たちと違うことを自覚し
ていたのだろう。
殺すことが好きだった。
何故好きだったのかは分からない。
それはただ言葉に出来ない感情未満の嗜好としてあったのみで、
理由を言葉にしようとした途端、その何かは靄のように捉えられな
くなってしまったのだ。
だから、後からつけられる理由はきっとどれも真にはそぐわない
ものになるしかないのだろう。
﹁何故﹂と聞かれたから答えた。
けれど、それは口にした瞬間から違うものになった。
単にささいな違和感だ。
しかし彼は自分が違和感を抱いたことに気づかず⋮⋮そうして少
しだけ、変質したのである。
紅い唇の両端を上げて魔女は微笑む。
1415
彼女に相対し戦う意志を見せる人間たちは、けれど余りにも可能
性の見出せない賭けに、全てを乗せる切っ掛けが掴めずにいた。武
器を構え、詠唱をし、だがそこから先が動けない。
そんな彼らの様子を眺めたアヴィエラは、皮肉げに眉を上げてみ
せる。
﹁そちらから来ないのならば、あの二人は殺してしまおう﹂
魔女の指が示したのは、魔法陣の中にいるエリクと雫の二人。こ
の場においてもっとも失われてはならない人間が指されたことに、
全員が顔色を変えた。
血の入り込んだ魔女の爪先に構成が灯りかけた瞬間、三人の男が
戦意に満ちた声を上げ同時に斬りかかっていく。
﹁ああああぁぁッ!﹂
﹁そうだ。来い﹂
アヴィエラは謳いながら、真っ先に剣を振り下ろしてきた男の額
に構成を打ち出した。それに気づいた魔法士が咄嗟に男の前に結界
を張る。
しかし弾丸のように凝縮された魔力は結界をあっさり貫通すると、
男の眉間に穴を開けた。鈍い音と共に長身の体は仰向けに倒れる。
その間にアヴィエラの左側から斬りかかった男はけれど、結界に
阻まれ魔女の体に攻撃を届かせることが出来なかった。咄嗟に剣を
返す間に強烈な衝撃波を受け弾き飛ばされる。それは背後にいた魔
法士たちをも巻き込み、大人三人分の体が人形の如く床に叩きつけ
られた。
魔女は最後に動きを封じた三人目の男を見つめて笑う。
細い左腕一本。
だが魔力を纏ったアヴィエラの腕は、男の喉を鷲掴みそのまま呼
吸と血流を圧し続けていた。意識を失った男の手から、高い音を立
てて剣が床に落ちる。遅れて持ち主の体もその上に崩れ落ちた。
またたく間に五人が無力化された。
1416
その結果に戦慄を覚えない者はいなかっただろう。
しかし、彼らは今更止まれなかった。今、攻撃を止めてしまえば
構成を書き換えている二人が殺される。そうでなくともここまで人
数が減らされてしまったのだ。既に後はない。
﹁撃て!﹂
魔法士たちの声が重なる。
詠唱によって生み出されたニ十二個の光球たちは、各々の軌道を
描いて四方からアヴィエラに迫った。
逃げ場を作らぬ徹底的な攻撃が魔女を捉える。
しかしそれは彼女が指を弾いた途端、一箇所に引き寄せられ互い
にぶつかり合った。
全ての光球は魔女に到達せぬまま破裂し、白い火花が広間を彩る。
行き場を失った力が渦を巻いて空気を激しく揺らした。
﹁⋮⋮駄目⋮⋮か?﹂
誰のものとも分からぬ呟きが石床に跳ねた。
刃が、現れた。
アヴィエラは右手の掌を掲げ、そこに構成を組む。
現れたのは避けることさえ叶わぬ範囲構成。
それを見た魔法士たちが死を予感した時︱︱︱︱
銀の刃。
握りこまれた短剣はあまりにも唐突に、その場に現れた。人が握
っているのだということがすぐには分からぬほどに。
掲げられた掌のすぐ下、矢のような勢いで突き上げられた刃は、
アヴィエラの右手を貫通する。
﹁⋮⋮っ⋮⋮ぁ?﹂
突然自分の手の平を串刺した剣に、魔女は両眼を大きく瞠った。
細い息が喉から洩れる。痛みと衝撃が完成しかけていた構成を崩れ
させ、初めての動揺が赤みがかった両眼に揺れた。
アヴィエラは自分に傷をつけた相手を視界に入れようと、首を動
かす。
1417
しかしカイトは、そこで止まるようなことはしなかった。
事実彼は最初から一秒たりとも静止はしなかったのだ。理解出来
ぬ光景に彼以外の人間が静止したと感じただけで。
少年は短剣を突き刺したまま、腕を交差させ細身の長剣を振るう。
刃は結界のないアヴィエラの右上腕部に食い込むと、肩口までを一
魔女に手傷を負わせた。
気に切り上げた。白い頬に彼女自身の赤い血が飛び散る。
︱︱︱︱
これは戦闘始まって以来初めての勝機と誰もが思っただろう。魔
法士が怪我を負えば痛みで集中が乱れ、複雑な構成を組めなくなる
こともままあるのだ。狙うならば今しかない。
何人かが詠唱を開始する。負傷によろめきながらも剣士たちが走
り出した。
しかし彼ら全ての動きを置き去りに、カイトは抜き去った短剣を
アヴィエラの胸目掛けて突き出す。
最小の動作。最短の軌道。
幾百も繰り返した単純な力の行使。
死の結末しか残さないその道行きの最後に⋮⋮少年は何故か魔女
の目を見た。
そして彼もまた静止する。
正面から加えられた衝撃は、結界がなければ彼の体を突き破って
いただろう。
まばたき程の間の後、カイトの体は軽々と宙を飛び、石床の上に
叩きつけられた。捻じ曲がった右腕。短剣は根元から折れて刃がな
い。体を起こそうと身じろぎした瞬間、激痛が襲ってくる。
﹁がぁ⋮⋮っ! ⋮⋮く⋮⋮っ﹂
呻きは声にならない。喉の奥に血と胃液の気配を感じた。腕だけ
でなく内臓もいくつかやられている。彼はまるで他人事のようにぼ
1418
ろぼろになった自身の体を認識し舌打ちした。
これではもう戦えない。それどころか死に至るであろう重傷だ。
あまりにも呆気ない最期に笑いさえ零れてくる。
きっと殺せたのだ。
魔女の目を見なければ。或いは、変質する前の彼であったなら。
だが彼は、止まってしまった。ほんの一刹那攻撃を躊躇った。
そして僅かな希望。
彼よりもずっと多くの人間を死に至らしめて来た魔女の双眸。
慈愛と、寂寥と、傲慢と、悲愁と︱︱︱︱
もう一人の女が彼に見せたと同じ、複雑な感情が入り混じって静
かな両眼を前にして。
苦痛の絶叫が聞こえる。新たに人の倒れる音も。倒れ伏すカイト
の耳に届くものはただ、敗北の足音だ。血と皮肉にまみれた彼は目
を閉じて嘯く。
﹁だから⋮⋮⋮⋮⋮⋮僕は君が⋮⋮嫌いだ﹂
﹁ごめん、カイト﹂
細い声には沈痛さが滲んでいた。
女の手が彼の額を撫でて行く。
温かく小さく無力なその手は彼の頭を一瞬包み込むと、音をさせ
ないまま離れた。後にはささやかなる風が吹く。
誰かが自分の前に立つ気配。
それが誰であるかなどと見なくても分かる。カイトは唇を歪め掠
れた声を絞り出した。
覚悟が出来たから﹂
﹁何が、出来るんだよ⋮⋮君に⋮⋮﹂
﹁うん。でも︱︱︱︱
彼女の声には迷いがない。
その言葉だけを残して気配が遠のくと、残された少年は両目を閉
じたまま落ちていくように沈黙したのだった。
1419
※ ※ ※
﹁第千二百六十五系列を第千二百七十二系列と交換。高さを揃えて
下さい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うん﹂
構成の書き換えを始めてから五十分近く。エリクの返事には時間
がかかるようになってきていた。続きを要求する声もそうである。
それが示すことは、もう終わりが近づいているという事実だろう。
基盤においては僅かだった差異も先端に行けば行くほど広がってい
く。
雫は暗闇の中に浮かび上がる構成が、本に記されたものと既にほ
とんど同じであることを確認して息をついた。そうして待っている
と﹁次﹂という声が響く。
﹁第千二百八十三系列を点対称に。第千二百九十も同様です﹂
﹁分かった﹂
書き換えは、まもなく終わる。
それは先を見ている雫には明らかなことだったが、このままでは
間に合わないだろうということもまた、彼女には分かっていた。
先程から人の気配がどんどん減ってきている。様子がおかしい。
食い止めが限界に来ているのだ。
元々これは、魔女の気紛れのようなものだったのだろう。
真っ先に雫とエリクを殺そうと思えば、きっとアヴィエラは容易
にそれが出来た。
けれど彼女はそうはせずに、人を試すことを選んだのだ。
1420
皆、試されている。
だがそれは、何を試されているというのか。王の器か、死の覚悟
か。
近くて遠い二つは、きっとどちらもが正解でどちらもが違う。雫
は暗闇の中小さく息をついた。
魔女は何を求めているのか。
近づけばそこには鈍痛が走る。
アヴィエラは何を望んでいるのか。
︱︱︱︱
﹁⋮⋮いいよ。次は?﹂
﹁第千三百十四系列から第千三百七十六系列を削除﹂
﹁うん﹂
﹁あと他にも続けていいですか?﹂
死ぬ覚悟など誰にでも出来る。
カイトはそう雫を批判したが、それは違うだろうと、やはり彼女
は思う。
死ぬ為に覚悟するわけではない。戦う為に覚悟するのだ。その先
に死を見据えることがあろうと、それ自体が目的ではない。
死にたいと思ったことはない。死にたくはない。
ただ譲れないと思うことがあるだけで︱︱︱︱
﹁他にも? いいけど﹂
﹁じゃあ言います。第千三百八十九系列を第四、第五十八、第百三
十三、第七百四十二と接続。第千四百九十八を第八百八十二との交
差地点から分岐、第九百九十二と第千百七十四に繋げます。最後に
第千五百系列を反転⋮⋮もう一回言いましょうか?﹂
﹁大丈夫。覚えた﹂
期待通りの返事に雫は微笑んだ。全身から力を抜くと、体を支え
る男の腕に手を添える。
﹁それで全部です。お願いします﹂
1421
﹁⋮⋮っ、待って﹂
腕を掴もうとする手。
エリクの指を、けれど雫はすり抜けた。動けない男を前に立ち上
がる。
きっとこれが最後だろう。
目を開ける。
共有が解け、現実が戻ってくる。
繋がりが絶たれ、一対だった彼らは一人に戻る。
溢れる光。白い視界。
眩しさに目を細める彼女の前には世界が広がった。
血と絶望が溶け合って流れる世界。人の意思と感情が彩る光景が。
魔女に負けてしまったのなら。
そこに待つものは単なる死であろう。自分は家族から離れ、異世
界の片隅で短い一生を終える。
ただもし、運良くアヴィエラに打ち勝てたのなら。
その時はもう元の世界には戻れない。
人を殺してしまった自分は、たとえ帰路が見つかろうとも最早あ
の場所に帰ることはできないのだ。
けれどそれでも、譲れないと思った。
譲らないことを選んだ。
﹁雫!﹂
1422
﹁大丈夫です。時間を稼いできますから﹂
伸ばされた手。
その届かない範囲に立ちながら、彼女はしかしもう一度彼の手に
触れたかった。今までの旅路を思う。
ここが二人の旅の終着点なのかもしれない。
雫は更に一歩下がると、魔女の立つ方を振り返った。
この城に足を踏み入れた者は皆、挑戦者だ。それは彼女も例外で
はない。挑戦し、戦う人間。その意気を持ち力を示した者だけが大
陸を塗り替えるのだろう。魔女を殺して、彼女の屍の先に。
﹁行くよ、メア﹂
﹁かしこまりました。マスター﹂
殺したくはない。
だがそれが答だ。相手の死をも見据えた覚悟。
だから雫は重い足を踏み出す。
大陸を呪縛してきた呪具を抱き、その手に短剣を抜いて。
紅い魔法着は血が目立たない。
だがそれは、女の負傷の痕跡を相殺するには不十分なものだった。
雫は血がこびりついた銀髪と白皙の頬を見やって息を飲む。
相手は魔女だ。自分がどうこう出来る存在のはずがない。
それは当然分かっていることであったが、雫はこの場から逃げ出
そうとは思わなかった。振り返らぬまま魔法陣への距離を測る。
この段階にあってまだ動けているのはアヴィエラと雫、エリクの
他にもう魔法士が二人だけだ。そのうちの一人はハーヴであり、彼
はもう一人の魔法士が負傷者たちを治療にまわる中、それを庇って
結界と牽制を繰り返していた。
アヴィエラは彼に向けていた穏やかな目を、自分に向って歩いて
くる雫に移す。剣士でも魔法士でもないことが一目で分かる相手に、
魔女は微笑を浮かべた。
1423
﹁また会ったな、娘﹂
﹁ついさっきぶりです。おかげさまで﹂
﹁その力で私に挑むのか? 無謀だな﹂
﹁無謀は百も承知です。が、その前に要望が一つ﹂
雫はアヴィエラの数歩手前で足を止めると、自分よりも長身の魔
女を見上げる。
澄んだ茶の瞳。
あの本は何処ですか? 私た
それを見た瞬間、雫は理解よりも先に﹁やはりそうだ﹂と思った。
魔女は首を軽く傾ける。
﹁要望? 何だ? 助命嘆願か?﹂
﹁いえ。そうではなくて。︱︱︱︱
ちが勝ったならあの本を下さい﹂
挑戦的な言葉は、誰が聞いても状況を理解出来ていない増長とし
か取れなかっただろう。
集まっていた人間たちはほとんどが打ち倒され、最早動けない。
にもかかわらずその中でもっとも無力な人間が、勝利時の条件を要
求してきたのだ。
近くで聞いていたハーヴでさえ一瞬絶句し、雫を止めようと口を
開きかける。
だが彼は結局その言葉を声にする前に飲み込んだ。既に彼らはど
うしようもないところまで追い詰められている。ならばせめて彼女
の考えを尊重しようと思ったのである。
雫の目には冗談の色が微塵もない。それはアヴィエラにも分かっ
たのだろう。魔女は何も持っていない自分の両手を見下ろす。
﹁なるほど。お前はあの本が欲しいのか⋮⋮それは何の為だ? 王
になりたいか? 真実を知りたいか?﹂
甘く香る毒のような問い。
雫はしかし少しも表情を動かさなかった。既に決めていた答を反
芻する。
1424
偽りを述べてもう一度本を手にするという道もあるだろう。強欲
アヴィエラの求める答ではないのだ。
を装い油断を誘ってそれを処分するという策も。
だがそれはきっと︱︱︱︱
それでは彼女は動かせない。
何より雫も、今この場で己を曲げることはしたくなかった。小さ
く息をついて首を横に振る。
﹁私も学究の徒ですから。真実には興味があります。ですが、あの
本が欲しいのはもっと別の理由の為です﹂
﹁ほう。それは何だ?﹂
﹁あなたにも、そして王になりたい人間にも、あの本を使って欲し
くない﹂
それはたとえば、隠された王女の死。
歴史から消えた戦争の記述。明かされなかった女王の苦悩。
確かに在ったそれらは、けれど最早しまいこまれた過去の出来事
で、雫はそこに秘された知識も力も使って欲しくはない。
アヴィエラと雫が持っている二冊の本は、元々人ならざるものが
人を観察する為に記している本なのだ。魔法法則さえも越えた力に
よって、封じられた禁呪が暴き出されるなどあってはならないこと
だろう。まるで観察者の掌で踊らされているようで、ただただやる
せないだけだ。
アヴィエラは雫の言わんとすることを読み取ったのか、表情を変
えた。
微笑みを消したわけではない。からかうように試す目をやめたの
だ。魔女は静かに凪いだ瞳を少し伏せて笑う。
﹁だが、あの本が失われてしまえば完全に忘却されてしまうものも
ある。確かに在ったにもかかわらずないとされてしまうものが。お
前はそれでもいいと思うか? 苛烈な戦いにより得られたものが忘
れ去られ、無数の犠牲を支払った過ちが無とされるこの現状が。人
1425
にも、歴史にも本来ならばもっと多くの可能性があるのだろう。真
同じ石に躓かなければ﹂ っ直ぐに先を選ぶことも出来るはずだ。安穏とした今に溺れ、過去
を捨て去ってしまわなければ。︱︱︱︱
記憶は風化し、人は同じところを歩き続ける。
かつて同じ場所を誰かが血を流し歩んで行ったことを知らずに、
人は先を見ぬまま迷い惑う。
その無知を怠惰とも詰る魔女に、だが雫は悲しげにも見える表情
で溜息をついた。落ち着き定まった声で返す。
﹁それでも、全てが残らない訳ではないでしょう。何千年経っても
継がれていくものもあるんです。それを継いで来たのは人の意思で、
だからこそ私はその営みを貴いと思う。ですけどあの本は違います。
あれは無遠慮に人を観察し、書き留め、それを外へと伝えている。
そんなものの干渉を私は認めたくない。だから、私はあなたに勝っ
て、あの本を処分します﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
外部者の存在を知らないであろう魔女は、少し考え込むように視
線を彷徨わせる。
彼女が何を考えているのか、何を望んでいるのか、その答は雫に
とって影絵のように輪郭しか捉えられない。
けれどそれでも分かることもある。
彼女の宣戦を聞いた時から、そして彼女の目を見た時から、雫の
中には一つの想像が浮かんでいるのだ。
﹁記憶や記録が残っていることが、必ずしも現在への抑制になると
は思いません。生々しい記録を誰もが知っていながらも、似たこと
が繰り返された事例などいくらでもあるでしょう。あなたもきっと
それを知っている。過去の知だけでは充分な抑止にならないことを﹂
分かっていて魔女は問いかける。
過去を知りたくはないかと。積み重ねられた時に背を向けるなと。
それは歴史を知り、今を憂う少女の成れの果てだ。
1426
あまりにも繰り返された過去に、惑わされた人間の結末。
﹁知っているから、あなたは魔女になった。かつての畏れを呼び覚
まし、それを大陸中に知らしめることで。禁呪を使い宣戦を行う魔
女が現れ、かつ倒されたとなれば、人々は再び戦乱を恐れ禁呪を避
けるようになるでしょう。⋮⋮殺される為に挑戦者を募ったんです
ね?﹂
暗黒時代は遠い彼方。魔女の時代も御伽噺。
一度は暗黒の再来も退けた大陸は、けれどやがてその畏れも忘れ
てしまうだろう。
突然降り注ぐ喪失を知らなければ。禁呪の忌まわしさを思い出さ
ねば。
最初に雫が疑問を抱いたのはアヴィエラの目を見た時。
人を慈しむ視線に彼女は違和感を覚えた。
そして疑問がより明確になったのは城に足を踏み入れた時。
何故このように回りくどいことをするのか、わざわざ人を迎え入
れたりするのか、雫はそれが不思議だった。
そして今。
アヴィエラは雫とエリクを先に殺そうとはしなかった。彼らの為
そうとしていることがどれ程致命的な転換か分かっていながら。
望んでいたのは敗北だ。彼女は自らの悪名と死によって新たな恐
怖と愚かさを伝えていく。
淡々と響く雫の声。
1427
それを聞いたアヴィエラはしかし、微苦笑しただけで正答を返そ
うとはしなかった。全てを受け入れる澄んだ貌が、相対する女に向
けられている。
﹁面白いことを言う⋮⋮想像力が豊かだな。さすが机に齧りつく人
種なだけはある。だが、私はお前に殺されてやる気などないぞ?﹂
﹁勿論分かってます。私ではきっとあなたの求めている次世代には
なれない。力が足りない。あなたが選び出したいのは力と意志を持
った人間なのでしょう? 英雄と呼ばれ良き王となれるほどの﹂
﹁それも違うな﹂
アヴィエラは皮肉な稚気を見せて視線を手元に落とす。その目が
血に濡れた左手を捉えた時、そこに紅い本が現れた。
題名のない表紙。今この時へと収束した幾百もの道行きに、魔女
の目は遠くなる。
しかしそれも一瞬のことだ。目を逸らさないままの雫を見返すと、
アヴィエラは気高い笑みを見せた。
﹁さて、お望みの本だ。お前が私に打ち勝てたのなら、これはお前
のものになる。遠慮せずにかかって来い。お前の骸も他の者と共に
並べてやろう﹂
私はあなたのやり方を否定する﹂
﹁遠慮するほど力はないので全力で挑戦します。あなたの見ている
ものが何であろうと︱︱︱︱
雫は握っていた短剣を前に出す。
魔女に対するにはあまりにも心もとない一振りの刃。
こんなものを人に向けて構える日が来るとは思ってもみなかった。
だがそこに後悔はない。
息を止める。相手を見つめる。
そして彼女は心の中で数を数えると、意志と力を戦わせる為、最
初の一歩を踏み出したのである。
1428
007
﹃無詠唱での構成は手を媒介にしてしか組めないようです﹄
その指摘は雫が書き換えに関わっている間、広間での戦闘を観察
していたメアによるものである。
確かにこれまでの戦闘においてアヴィエラは一切詠唱を用いてい
ない。それは詠唱に要する時間が、近接戦闘を含むこの状況では致
命的な枷となるからであろうが、詠唱という補助がなくとも充分に
多人数と渡り合える魔女の空恐ろしさは逆に、雫には一粒の希望を
抱かせることになった。
使い魔の言葉を聞いた彼女は、数秒考え込むと頷く。
﹁うん。じゃあ⋮⋮片手になってもらおうか?﹂
そして雫は本を欲する。
まずは狙い通り、アヴィエラの左手を封じることは成功した。
雫はケープの下に持っているものと同じ、本の形をした呪具を黙
って見やる。
魔法士ではない彼女は片手が使えなくともそれ程支障はない。し
かしこの段階で二人の力にはまだ天と地程の差があるだろう。それ
を意志や気合だけで埋められると思う程、雫は楽観主義者ではなか
った。彼女は一歩を踏み出しながら肩の上のメアに囁く。
﹁⋮⋮行くよ﹂
﹁はい﹂
乾ききった口内。短剣を握る指が震える。それは自分ではどうに
もならない、半ば生理的な震えだ。雫はアヴィエラの双眸を見返す。
1429
魔女は挑戦者の無謀をどう思っているのか。少し淋しげな目で雫
を見ていた。しかし感傷は感傷にしか過ぎず、アヴィエラは右手を
上げるとそこに構成を生む。
相手の実力を計るような牽制の光弾。
真っ直ぐに心臓めがけて打ち出された弾を、メアは結界を斜めに
張って逸らした。雫の斜め後ろで石床を砕いた光弾に、アヴィエラ
は目を瞠る。
﹁なるほど。魔法具と使い魔か﹂
感心の言葉に雫はかえって表情を引き締めた。
元々戦闘員ではない彼女は、防御の為の魔法具を数多く持たされ
ているのだ。それらは範囲内に入った魔法攻撃を相殺しようとする
が、アヴィエラの攻撃は魔法具だけでは無効化できない。
だから残る攻撃をメアが結界を使って逸らすのだ。正面から受け
ないのは貫通される可能性を恐れてのことである。
﹁だが剣の構え方がなっていない。お前は前線に出てくるべき人間
ではないのだ﹂
﹁出るか出ないかは私が決めます﹂
その言葉と共に雫は床を蹴る。残り数歩の距離を一気に詰め、短
剣を振るった。
しかし剣の刃はアヴィエラに触れる寸前、雫自身の手によって引
かれる。彼女はそのままアヴィエラの攻撃を避け後ろに跳び退った。
魔女の指が下がる顎すれすれの場所を薙いでいく。
近寄ってきた雫の喉を掻っ切ろうと伸ばされた手、﹁あらかじめ
下がる気﹂でなければまず避けられないものだったろう。
自分のすぐ前を通り過ぎていった﹁死﹂に冷や汗を感じながら、
雫は慌ててもう数歩を下がった。その距離を魔女は優美な歩みで追
ってくる。
﹁どうした? 怖気づいたか?﹂
からかうような声。同時にアヴィエラの手には再びの構成が組ま
れた。一つの構成で四つの刃が同時に生み出される。
1430
雫自身の目には見えぬその攻撃は、綺麗に分散すると前後左右か
ら彼女を挟撃しようと向ってきた。メアが鋭い声を上げる。
﹁マスター! 後ろに!﹂
小鳥の指示に応えて雫は身を翻した。それまでの背後に向って駆
け出す。
前方となった方向より襲い掛かる刃。
メアはそれを再度脇に逸らした。左右の刃は雫の背後でぶつかり
合い破裂する。
﹁伏せて下さい!﹂
彼女は瞬時に屈みこんだ。頭のすぐ上を風が切っていく。
雫の首を刈り損ねた刃は広間の天井に突き刺さり、細かい石の破
片が魔法陣の中に降り注いだ。冷たい礫はエリクと彼の前にある水
盆の上に舞い散ったが、水面にささやかな揺らぎは出来ても彼は微
動だにしない。
魔法陣の外周まであと数歩。雫はひやりと身を竦めながら振り返
ろうとした。途端、体が宙に浮く。
天井に叩きつけられる。
﹁ちょ⋮⋮っ!﹂
︱︱︱︱
そう予感した彼女は、咄嗟に頭を庇って丸くなった。
しかし、視界がさかさまになったまさにその時、魔女の干渉が断
ち切られ雫の体は落下する。迫る床に彼女は受身が取れるかどうか
不安を抱いたが、メアの力に支えられて再び二本の足で降り立つこ
とが出来た。
間をおかない攻勢全てをかわされたアヴィエラは、背後を振り返
り微笑む。
﹁なかなかやるな﹂
そこには瞬時の判断でアヴィエラの攻撃を妨害したハーヴがおり、
蒼ざめた顔で魔女を睨みつけていた。
﹁だが防戦一方ではいつまでも勝てんぞ?﹂
軽やかな揶揄は、実際痛いところをついている。
1431
雫には戦闘経験がほとんどなく、ハーヴは支援型の魔法士なのだ。
メアだけではどう足掻いてもアヴィエラと戦うことは出来ないだろ
う。
勿論雫はある狙いを持って前に出てきたのだが、その策を成功さ
せる為には少なくとも魔女を魔法陣の中に引き入れなければならな
い。このまま後退を繰り返してちゃんと追ってきてくれるだろうか。
雫は思惑を表情に出さぬまま唇を噛んだ。
一方アヴィエラは、彼女の思惑を打ち砕くようにその場から巨大
な範囲構成を組む。
﹁残念だが⋮⋮娘よ、私に挑むには五年早かった﹂
それは外見年齢からの忠告なのだろうか。雫はついむっとして確
認したい衝動に駆られたが、実際に反論することはしなかった。
反論しようと口を開きかけた瞬間、別の声が広間に響いたのだ。
﹁ならその五年は俺が埋めよう﹂
窮地さえも楽しむような笑い。けれど芯には冷ややかさを秘めた
声に、全員の視線が入り口へと集中する。
開け放たれた扉の前に立つ二人の男女は、それぞれが皮肉な視線
を魔女に注いでいた。大剣を帯びた男は隙のない足取りで広間へと
踏み入ってくる。
凄惨とも言えるこの場を一瞥しても、男は動揺さえしない。意外
すぎる再会に雫は驚き、彼の名を呼んだ。
﹁ターキス!﹂
﹁よう、雫。生きてて何より。他の人間も死んでる奴以外は元気み
たいだな﹂
﹁息はあるけど瀕死って人間も多いんだけど﹂
男の後ろから入ってきたリディアは、不快げに髪を払うと魔女に
視線を戻す。
かつて自分が雇っていた二人を覚えているのか、アヴィエラは少
し驚いた貌で彼らを見つめた。
ターキスは不敵な笑いを浮かべ剣を構える。
1432
﹁久しぶりだが、すぐにお別れだな。︱︱︱︱
けろよ、アヴィエラ﹂
そろそろ報いを受
鈍く光る剣。リディアが詠唱を始め、それに気づいたハーヴもま
た構成を組み始める。
収束していく意志、力、祈り。
絡み合って反発するそれらが広間に束の間の静寂をもたらすと、
中央に立つ魔女は目を伏せ、新たな構成を手の中に生んだ。
※ ※ ※
淀む空気は音もなく人馬へと手を伸ばし、その精神を緩やかに傾
けていく。
レウティシアは前線を形成する人間たちの顔色の悪さを見やると、
瘴気避けの結界を張らせるようトゥルースに命じた。山道の向こう、
暗雲にも見える魔物の大群を見上げてファルサス王妹は小さく吐き
捨てる。
﹁気分が悪くなる光景ね。焼き払いたいわ﹂
﹁ならそうしろ。大分すっきりする﹂
﹁出来るものならやっているわ﹂
正直に返された答にオルトヴィーンは嫌な顔になった。
これから自分たちがあれと戦わなければならないのだ。ただでさ
え気が重いのに出来ないことを言わないで欲しい。
しかし彼の顰め面をレウティシアは無視すると、転移の状況を確
認し出す。まもなく﹁全軍移送完了﹂との報告を受け取ると、容姿
の整った二人は何処となく棘のある空気を漂わせながら黙って馬を
進め始めた。
布陣予定場所は山道を抜けた先、岩壁を背にした場所である。狭
1433
い場所ではかえって魔法が使いづらいが、遮蔽物のまったくない場
所では空を飛ぶ相手の攻撃に対応しきれない。その為、まずはそこ
で敵の数を減らすことになっていた。
揺れる馬上で目を閉じながら、ファルサス王妹は自分の魔力に意
識を合わせる。
エリクからの汲み出しはまだ終わっていない。
それが何を意味しているのか確信は持てないが、数時間前に兄を
送って来た時よりも周辺の瘴気が薄らいでいる気がしてレウティシ
ラルスの用意した切り札が雫なら、レウティシアの切
アは溜息を堪えた。
︱︱︱︱
り札はエリクである。
生まれつきの魔力に恵まれないという不利から、たゆまぬ勉強に
よって非凡な構成力を身につけた男。彼にレウティシアの魔力を使
わせるということは、彼女をもう一人配するに等しい効果を持って
いる。ただそれでも傾向の違いというものはあるもので、レウティ
シアに比べればエリクは遥かに後衛型の魔法士ではあるのだが。
﹁結果を出しなさいよ、エリク⋮⋮﹂
今ここでファルサスが敗れたなら、大陸にはもう魔女に対抗でき
る国はないだろう。そうなれば時代は再び暗黒の中に落ちかねない。
既に越えた闇に再び迷い込む羽目になるのだ。
﹁レウティシア、気づかれたぞ﹂
男の声が物思いに耽っていた彼女を呼び戻す。顔を上げると、城
の方角に蠢いていた暗雲が、ゆっくりと彼らめがけて動き出してい
た。レウティシアは花弁のような唇を歪める。
﹁⋮⋮いいわ。一匹残らず灰にしてやるから﹂
﹁進軍停止! 防御結界を張れ!﹂
﹁範囲型の火炎弾を作りなさい! 迎撃する!﹂
途端、騒然となる隊列の中、二人の王族はそれぞれの戦闘準備を
始める。
1434
人と魔族、大軍同士の戦い。
長い大陸の歴史においても前例がない規模の衝突が今重い幕を開
けようとしていた。
※ ※ ※
広い最上階の床は大部分が崩れ落ちている。
それだけではなく下の階までもが力の余波で破壊され、そこには
数階分に及ぶ深い瓦礫の穴が出来ていた。
冷たい風だけが吹きすさび、他には何も動かない景色をエルザー
ドは感情のない目で見下ろす。
今ここにアヴィエラが戻ってきたなら何と揶揄されることだろう。
彼は忌々しさにただ小さく舌打ちした。壊した箇所を直す為、玉
座の横に降り立つ。
﹁大言ばかりで力もない虫けらが⋮⋮ろくなことをしない﹂
﹁よく言われる﹂
あっけらかんとした返答。
それは強烈な斬撃と同時に降ってきた。エルザードは咄嗟に体を
逸らす。魔力の気配を感じていなければ、剣は彼の頭蓋に深々と食
い込んでいただろう。
間一髪で即死を免れた男は、しかし続く激痛に絶叫した。切り落
とされた右腕を押さえて広間の離れた場所へと転移する。
何が起こったか分からない。頭の中が真っ白になる。肉の体を纏
ってから数年、傷を負ったのは初めてのことだった。
滴り落ちる血を睨んで声を殺す魔族を、ラルスはにこやかに笑い
ながら見やる。
1435
﹁結構肉体の怪我とは痛いだろう? 次は即死がお勧めだ﹂
﹁貴様⋮⋮どうやって﹂
先程左肩に負った傷以外は何も変わっていない男は、どうやって
彼の攻撃から逃れたというのか。
魔法を使えないはずの王をエルザードは凝視する。
王剣を持った剣士、ラルスは魔力を持ってはいるが構成を組むこ
とが出来ない。アカーシアが主人のそれをも拡散させてしまう為だ。
しかしよくよく注意してみれば彼の体内に宿る魔力とは別に、僅
かな魔力を洩れさせているものがある。
男の指に嵌められた白い石の指輪。
それこそがこの状況を作り出した原因だと悟って、エルザードは
声を引き攣らせた。
﹁それは、魔法具か⋮⋮? 小癪な人間が⋮⋮﹂
﹁残念。魔法具じゃないな。妹からの借り物だ﹂
ラルスは躊躇いもなく指輪を引き抜くとそれを床に放った。途端
小さな装飾具は形を変え銀に光る水溜りとなる。そこから白い女の
精霊
手が這い出でてくるのを見て、エルザードは全てを理解した。
純白の髪が銀の泉から姿を現す。
細い躰。小さな顔に銀の瞳。人にはあらざる姿の︱︱︱︱
と呼ばれる少女。
人間の王家に数百年仕える上位魔族の彼女は、同族の男を見つけ
ると薄く微笑んだ。ラルスがさらりと命じる。
﹁シルファ。あれを捕まえろ。殺すから﹂
﹁かしこまりました、王よ﹂
舞うように床を蹴って飛ぶ少女。
その広がる構成を見て取ったエルザードは、傷を押さえていた手
を離すと自らも構成を組む。
激しい風を巻き起こしぶつかりあう二つの魔力。
人外が行使した力は競り合って大きく爆ぜると、天に伸びる城自
体をも大きく揺るがしたのだ。
1436
※ ※ ※
アヴィエラの放った一撃。
放電する光球をターキスは半身になって避けた。再び床を蹴ると
数歩で魔女を間合いに入れる。がっしりとした長身からは、想像も
つかない俊敏な動きだ。軽々と振るわれた厚手の長剣を、魔女は右
手の結界で受け止めた。
﹁⋮⋮やれやれ、厄介な相手が増えたものだ﹂
今、彼女の左手には紅い本があるのだ。それは雫だけを相手取る
ならともかくターキスに対してはあきらかに不利に働くだろう。
顔を顰めるアヴィエラに、三方からリディア、ハーヴ、メアの魔
法が集中した。
しかしそれらは、魔女がその場から消えたことによってターキス
のすぐ前でぶつかりあう。
﹁うおっ! リディア、止めろよ!﹂
﹁避ければ?﹂
魔法攻撃の余波に数歩後退しながら彼は、離れた壁際に転移した
魔女を見やった。
誰もが何もを言わない間。
アヴィエラは一度自分の本を見て、そして雫に目を移す。
だが魔女は、彼女の視線の強さを見て取ると苦笑した。本を手放
さないまま右手を上げる。
﹁なるほど。巡りあわせも力か﹂
彼女の言葉には苦渋という程の苦さはない。皆の意識が集中する
中、魔女の白い指に構成が生まれた。不可視の魔力弾がターキスに
向って打ち出される。
﹁ターキス! 右﹂
1437
﹁はいよ﹂
﹁後ろ! もっと左!﹂
﹁どっちだよ﹂
言いながらも男は、リディアの言葉に従って見えないはずの攻撃
をひょいひょいと避けていった。避けきれないものはリディアが結
界を張って逸らし、ターキスの体には一つも着弾しない。
つまり、長く組んで仕事をしてきた彼らは、ごく自然
その光景に雫は目を瞠り、ハーヴは唖然とする。
︱︱︱︱
に魔法攻撃に対しても連携を取ることが出来るのだ。
今まで魔女の前に敗れ去ってきた剣士たちが、魔力が見えないが
為に後手に回らされたことを思えば、彼らの技能は俄然期待を抱か
せる。
雫は意を決すると、アヴィエラとターキスの動きに注意しながら
広間を走った。途中でハーヴを引っ張りつつリディアのもとへと駆
け寄る。
﹁すみません、策があるんです。聞いてください﹂
﹁いいよ。何?﹂
﹁魔女を魔法陣の中に引き込みたいです。彼女を魔法装置に取り込
みます﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁へ?﹂
魔法士ではない女の突拍子もない提案。
それを聞いた二人の魔法士は間の抜けた声を上げると、一瞬攻撃
を避け続けるターキスを忘れ、顔を見合わせたのだった。
ヘルギニスの浄化結界。
その詳細は国の消滅と共に失われ記録さえも残っていないが、雫
は実際それがどのようなものだったのか、呪具から既に把握してい
る。
1438
聖女が自身の身と引き換えに生み出したと言われる結界︱︱︱︱
その正体は﹁女性の魂を動力にした禁呪装置﹂だ。
最初の一人は聖女と呼ばれていた魔法士自身が。それ以降は数年
に一度、強力な魔法士の女が、生贄として装置に捧げられていた。
そしてだからこそアヴィエラはヘルギニスの異界化にあたって、各
地から女の魂を集めさせていたのである。
装置の中央にある水盆は、それ自体が女の魂を抜き出し魔力を吸
い出す効力を持っている。
つまりアヴィエラをその中に落とせれば、彼女を無力化すること
も出来るだろう。
実際六百年前ヘルギニスが滅亡したのも、当時の王が野心によっ
て魔女の一人を装置に取り込んだことが原因なのだ。結局その時は
複数の魔女の介入によって装置は破壊されたが、アヴィエラだけが
相手なら充分なんとかなる。
それらのことを雫がかいつまんで説明すると、リディアは結界を
張りながら声を潜めた。
﹁でも、それはアヴィエラも知ってるんでしょ? なら水盆までは
近づいてくれなくない?﹂
﹁いえ。魔法陣の中だけで充分です。そこまで行けば水が届きます
から﹂
雫にはメアがいる。
彼女はもともと湖底の城の核となっていた使い魔で、水の操作が
巧みなのだ。魔法陣の中にまでアヴィエラを入れられれば、その時
はメアが水盆の水を操作して魔女を引きずり込める。
そこまで口にすると二人はようやく得心したようだった。
密談を始めてから三十秒程、彼らはアヴィエラの攻撃を避けなが
らじりじりと近づきつつあるターキスに意識を戻す。
﹁分かった。やってみよっか﹂
﹁お願いします﹂
リディアはターキスの補助に戻る為駆け出す。ハーヴは治療を続
1439
ける魔法士の近くに寄りながら結界を張った。
そして雫は魔法陣の前へと戻る。
書き換えはまだ終わっていない。
だがもうすぐ終わるだろう。そしてエリクが動けるようになる。
だからその前に、雫はこれをやらなければならない。
﹁メア、ターキスとリディアを助けてね。アヴィエラを魔法陣に寄
せるから﹂
﹁ご命令のままに﹂
ターキスたちの登場によって戦況は分からなくなったが、アヴィ
エラ自身は魔法陣から遠い場所へと移動してしまったのだ。
勝つ為には彼女を何としても引き寄せ、陣まで近づける必要があ
る。
雫は短剣をしまうと両手で本を抱いた。魔女と善戦する二人を見
ながら精神を本の奥底へと滑り込ませる。
ぼやけていく視界。
見えている世界が遠ざかる。
奥底にある繋がり。それを辿り、流れに乗り、より遠く深くにま
で精神を伸ばした。
自身が薄らいでしまいそうな茫洋の中、雫は紅い本に向って干渉
を始める。
二冊の本を伝っ
先程までは取れなかった手段。けれど今は、ターキスたちがアヴ
ィエラの注意を引きつけてくれているのだ。
ならば試してみる価値があるだろう。
雫が本によって精神干渉されたように︱︱︱︱
て、彼女がアヴィエラの精神に干渉出来るのかどうかを。
下りていく過程はとても暗い。
1440
光がないわけではない。ただ﹁暗い﹂と感じるのだ。
暗くて、孤独だ。
怖い。
自分だけが何ものからも切り離されている気がして仕方ない。
世界に、人に、触れたいと思うのに届かない自分は異質だ。
だから嗚咽を上げて闇の中を下りていく。
分かっていたこと。
忘れてしまったこと。
力。意志。精神。魂。
欠けた記憶が孕むものは同じだ。
希望があると思いたい祈り。
憐れで、いじらしい、懸命な人の軌跡︱︱︱︱
﹁ああ、そうか⋮⋮﹂
そして彼女は深く息を吸い込むと、それを白い光に向けそっと吹
き込んだ。
一度は転移によって開けた距離を、不敵な目をした男は仲間の補
助を受けながらも再び詰めてきた。かなりの大剣にもかかわらず、
その振りに隙がないのは彼の技量の為せるわざであろう。
右腕だけでターキスと渡り合うアヴィエラは、彼に接近されては
転移で逃れるということをもう三度も繰り返していた。手に張った
結界で剣を逸らしながら、広間の各所に散った挑戦者たちを見回す。
このままでは敗北まではしないだろうが、なかなかに時間を食っ
てしまうことは確実だ。その前に女の魔法士か、書き換えを行って
いる魔法士を狙い打つ方がいいかもしれない。
しかしそこまで考えてアヴィエラは自然と苦笑した。先程一人の
1441
少女に指摘されたばかりのことが甦る。
﹃殺される為に挑戦者を募った﹄
それは真実の一片で、だが全てではない。
むしろ今殺される気はまったくないのだ。まだちっとも足りては
いない。この後数百年大陸を呪縛する為の記憶には。
残したいのは野心によって剣を取る人間ではない。
意志に見合う力を以って魔女を倒そうとする英雄でも。
彼女が望むものは、もっとやるせない悲しみだ。どうにもならな
い理不尽さ。
取り残された人間が過去と未来へ抱く哀惜。歴史の無情を忘れ得
ぬ悔恨。
だから彼女は一部を奪い、一部を残す。
大きな亀裂が入る前に、小さな穴を穿っておく。
この傲慢を理解してもらおうなどとは思わない。自分でも理解し
たくはないだろう。
だが、長い大陸の歴史を俯瞰したアヴィエラには見えてしまった
のだ。
このまま行けば、やがて大陸は再びゆるやかに長い闇の中に分け
入り始めてしまうのだと。
空を切る刃。
それを結界で弾いたアヴィエラは、けれどターキスの力に押され
後ろによろめく。畳み掛けるように返された剣を防ぐと、彼女は頭
撃て﹂
上に数十もの炎の矢を生んだ。
﹁︱︱
﹁リディア!﹂
﹁分かってるって!﹂
大きく後ろに跳んだ男を追って矢の雨が降り注ぐ。
しかしその半数以上はリディアの放った魔法によってかき消され
1442
た。残る矢をターキスは左手に抜いた魔法剣で弾く。
だが、彼が矢に対処するその時間は、魔女に構成を組む間を与え
ただけだった。
﹁ターキス! 下!﹂
リディアの警告とほぼ同時に、彼の両足首を不可視の力が絡み取
る。細い蔦にも似たそれは、そのまま肌へと食い込み鋭い痛みをも
たらした。ターキスは舌打ちしながら魔法剣で拘束を断ち切ろうと
屈みこむ。
炎の矢が生み出されてから十秒も経過していない間。
けれどその時、歴戦を経た彼の勘に何かが触った。顔を上げ、魔
女の目を見る。
茶色の瞳に浮かぶのは去り行く者に向けた哀惜。そして空気を変
やられた。
える魔力の凝り。
︱︱︱︱
顔を顰める男に魔女は微笑む。
防御さえも許さない一撃。命を刈り取る一手。
それが敗北を悟ったターキスに向けて打ち出されようとした、ま
さにその時︱︱︱︱
だがアヴィエラの表情は、不意に凍りついた。
骨を拾う。
乾いた大地で死んだ子の骨を拾う。
小さな諍いだ。辺境の部族間での争い。
この程度のものはいつの時代何処にでも溢れている。
だから彼女は跪き、骨を集めた。
作り出した構成が歪む。アヴィエラは右手でこめかみを押さえた。
怪訝そうなターキスと目が合う。
1443
何かがおかしい。だがそれが何なのか分からないのだ。
彼女は新たに構成を組む。
歪曲した金色の刃。それを男に向かって放った。
アヴィエラは眩暈を覚えて数歩よろめく。
何故、このような時に甦ってくるのだろう。
これまでに歩いてきた足跡の一つ一つが。
﹁お前が上位魔族か。本当に人間みたいな姿をしているんだな﹂
﹁何だ、子供じゃないか。俺に何の用だ?﹂
﹁用? そうだな⋮⋮⋮⋮私は悪い魔法士だ。だからこの大陸に混
乱を起こしてやる、というのはどうだ?﹂
﹁面白いのか? それは﹂
記憶の底で誰かが泣いている。
自分ではない誰か。
小さな嗚咽が聞こえてくる。
﹁ターキス! 左から押し込みなさい!﹂
﹁はいはい﹂
強烈な斬撃。
アヴィエラはそれを直接受けることはせず、黙って横に跳んだ。
男の足を狙って不可視の蔦をしならせる。
だが先程同じ攻撃を見たリディアは、すかさず小さな魔力弾を放
つと蔦の方向を変えた。足下で石床が砕け、ターキスは僅かに後退
する。
魔女はこめかみを押さえながら次なる構成を組んだ。
1444
集められていくガラクタ。
死者の遺物を拾うようになったのはいつからか。
ただ彼女は、自分が殺した者も他人が殺した者も、分け隔てなく
その遺物を集めた。
そして小さな自室に並べ、束の間物思いに耽る。
悲しむことは出来ない。後悔も許されない。
それは彼女がとうに放棄した権利だ。大陸各地に禁呪を伝え歩く
ようになったその時から彼女は振り返ることをやめた。
構成が上手く組めない。
アヴィエラは咄嗟にただの魔力を放つと数歩下がった。
ターキスは彼女を追って跳躍する。
斬り込まれる前に迎撃しなければと思うのだが、今は結界を張る
ことで精一杯だ。
息を切らした魔女に、至近で剣を振るう男はにやりと笑う。
﹁どうした? 調子でも悪くなったか?﹂
﹁さぁな﹂
例えば人の中に人に足らない欠陥者がいるとしたら、まぎれもな
く自分もその一人だろう。
歴史という流れからしか命を見ることが出来ない。数で計って手
段を選ぶ。
まるで度し難い傲慢な思考だ。
少女の頃疎んでいた暗君と同じ。
その愚かさはとうに分かっている。
ただそれでも︱︱︱︱
1445
男の剣を防壁によって押し返す。
そうして更に後ずさったアヴィエラは、不意に何かを感じて視線
を彷徨わせた。惑う両眼が、本を抱えた少女を捉える。
何処か遠くで聞こえる嗚咽。
そして変質をもたらす息。
﹁⋮⋮⋮⋮お前、か?﹂
問いかけに応えて雫は目を開ける。
相対する二対の瞳。
慈愛と寂寥。傲慢と悲愁。ささやかな理想に希望を添わせる対称
の双眸が、刹那お互いを見つめた。
そこに消せない差異が映る。
全てを理解した。
﹁お前⋮⋮!﹂
︱︱︱︱
アヴィエラは怒りに駆られ、反射的に構成を組みかける。
雫の体を本ごと打ち抜こうとしたその時、だが水盆の水が大きく
爆ぜると彼女に襲い掛かった。
それはまるで生き物の如く女の全身を飲み込み、陣の中央へと引
きずり込んでいく。
魂を吸い出す水。魔力を取り込んでいく陣の中でアヴィエラはも
がいた。水盆に到達する前に逃れ出ようと構成を生む。
しかし、その魔法は結局放たれることはなかったのだ。
構成が完成する直前、魔女の体は強い衝撃を受け背後に倒れこむ。
水の飛沫が高く跳ね散る。アヴィエラは自分に体当たりして来た
女をきつく睨んだ。
﹁よくも、お前⋮⋮﹂
﹁私たちの勝ちです﹂
水盆の中、ずぶ濡れの雫は苦しげな笑みを浮かべる。
そして彼女は短剣を抜くと、押さえつけた魔女目掛けて真っ直ぐ
1446
刃を振り下ろした。
迷いはない。決して躊躇わない。雫は意志の力だけで腕を振り切
る。
雫の体は大きく痙攣する。そのまま水盆
鋭い切っ先は狙いを違えない。それは魔女の胸へと垂直に突き刺
さりかけた。
だが次の瞬間︱︱︱︱
の中に崩れ落ちた。
﹁雫!﹂
男の声。
それが誰のものであるか、分かるからこそ彼女はただ視界を閉ざ
す。
大丈夫なのだと、口にしたくても出来ない言葉を喉に詰まらせて。
勝った、と。
期待しかけたことが罪ならば、それはリディアにもハーヴにも言
えただろう。
作戦通り魔女を水盆の中に引き込んだ。そして、彼女の膨大な魔
力は実際装置の中に吸い上げられ始めたのだ。
しかしそれは、成功したと思った瞬間、一転して失敗と成り果て
た。
小さな魔法弾で雫の胸を射抜いたアヴィエラは、ゆっくりと立ち
上がると水盆の中から抜け出す。魔力の大半が吸い出された為、体
が重い。彼女は濡れた魔法着を引くと、水に浮き上がる女の体を見
下ろした。
緩やかに広がる黒髪。閉ざされた両眼。
穴の開いた胸からは血が水へと溶け出していた。紺色の本がその
残念だったな﹂
すぐ側に浮いている。
﹁︱︱︱︱
それ以上かける言葉はない。
1447
憐憫の一つさえ与える気はなかった。アヴィエラは踵を返そうと
して、水盆のすぐ側にいる男に気づく。
魔法陣の構成に繋がったままのエリクは、水の中に手を伸ばし雫
の体を引き上げようとしていた。彼は焦りが色濃い表情で濡れた手
を掴むと、腕の中に彼女を抱き取る。そのまま胸の傷を塞ごうと詠
唱を始める男に、アヴィエラは複雑な表情になった。行為の無意味
さを指摘しようとして、だが思い直すと残る魔力を指先に集める。
﹁お前も後を追うがいい﹂
﹁エリク!﹂
走ってきたハーヴの叫び声。雫の上を飛び回っていたメアが反撃
の刃を放つ。リディアからも浴びせられた攻撃を、しかし本を手放
したアヴィエラは全て結界で受け止めた。水盆に背を向けると、そ
れぞれ怒気を浮かべる三人に向かって唇を歪める。
﹁どうした? これくらいは分かっていたことだろう。力なき者は
死んでいく﹂
﹁ば、馬鹿げてる!﹂
声を荒げ、魔女の前に立ったのはハーヴだった。
彼は激しい混乱を目に宿しながら、それでも怒りを露にしてアヴ
ィエラに対する。
﹁お前のやってることは過去への冒涜だ! 人の伝える意志を無視
している! その努力を放棄して何が歴史だ! お前が人を同じ石
に躓かせてるんだろう! 魔女なんて避けられない石だ!﹂
﹁だが何もしないよりはましだ﹂
冷え切った声。アヴィエラは銀の髪から滴る水を見下ろした。
それは複雑な魔法陣の上、徐々に水溜りを作っていく。
﹁このままではあと数百年のうちに、大陸には再び戦乱の時代が訪
れるだろう。もはや大陸に魔女はおらず、ファルサス王家も代を重
ねるごとに魔力が薄らいでいく。そうなれば抑止力を失った大陸で
は魔法具の研究がますます進められ、各国が禁呪に手を出し始める
ことは明らかだ。再来期どころの事態ではない⋮⋮この大陸は再び
1448
闇の中に沈む﹂
ファルサスが何故魔法具を他国に売りたがらないのか。
それはかつて魔法具の新たな製法が発見され、爆発的に研究と生
産が進められた後の、再来期の記憶が残っている為だ。
その時約十年に渡って大陸に吹き荒れた戦争の嵐は、ファルサス、
ガンドナ両国の介入により何とか沈静化された。しかし、それまで
の大国タァイーリの滅亡をはじめ多くの国々が戦乱の中入れ替わっ
たという事実は、人々に﹁絶対に滅びぬ国などない﹂という認識を
植えつけたのだ。
そしてこの先、抑止力の一つであるファルサスの力が衰えればど
うなるのか。
更に言えばディスラル廃王のような人間が再び現れないとも言い
切れない。
一度均衡が失われれば大陸は再び闇の中に落ちていくだろう。
その闇がどれだけの年月続いていくのか、それは誰も知らない未
来の話なのだ。
理解を得たいわけではない。
だからアヴィエラは自嘲を浮かべながらも再び魔力を指先に集め
た。退こうとしないハーヴに向けて狙いを定める。
﹂
﹁お前たちがどう思おうと、私は、私の後に残るものを望む。そう
なれば︱︱︱︱
言葉はそこで途切れた。
アヴィエラは瞠目して自分の体を見下ろす。
水に濡れた体。
紅い魔法着。
その胸の少し下から⋮⋮何故か銀色の刃が切っ先を覗かせていた。
背後から息を切らした囁き声が聞こえる。
1449
﹁何も、残らないね。お前は僕に殺されるから⋮⋮﹂
﹁カイト!﹂
驚愕に震えるリディアの声。彼に手当を施した魔法士が息を飲ん
でいる。
ターキスが顔を顰め、ハーヴは絶句した。
雫は目を開けない。エリクは顔を上げない。
まるで時間が静止したかのような空隙。
アヴィエラは自分の体を貫通した刃を握ると、緩慢な動作で振り
返った。
そこには瀕死の少年が今にも倒れこみそうな顔色で斜めに立って
いる。彼は皮肉な目で魔女を嘲笑った。
﹁何も⋮⋮残らない⋮⋮お前を殺すのは、すぐに死ぬ人間だ⋮⋮い
い気味だよ﹂
それだけを吐き捨ててカイトは崩れ落ちた。手甲を嵌めた手が、
血の溶け出す水溜まりに跳ねて落ちる。
死に行く少年の体。
それは赤子の如く縮こまって冷えつつあった。
届かなかった手の先で死した子のように。無数に積まれてきた遺
骸と同じく。
孤独に終わろうとする一つの生。
アヴィエラは彼の姿を黙って見下ろすと、石床に両膝をついた。
少年の上に手を伸ばし、壊れかけた体に魔力全てを注いでいく。
治癒される温度にカイトが目を開けると、女は穏やかな笑顔を浮
ほら、残った﹂
かべた。彼の耳元に口を寄せ囁く。
﹁︱︱︱︱
音もなく倒れる体。
アヴィエラは深く、息を吐いた。眠りに落ちるよう目を閉じる。
そしてそれきり、魔女は何も言わない。
1450
言わないまま歴史の上から姿を消した。
※ ※ ※
感覚が震える。
それは、同族からの苛烈な攻撃を捌き続けるエルザードを刹那、
死んだ?﹂
硬直させた。彼は背後へ跳躍しながら辺りを見回す。
﹁アヴィエラが︱︱︱︱
いつも、何処にいても、感じ取れた契約者の気配。それが今、断
ち切られたようにこの城から消え失せたのだ。
何があったのか⋮⋮その答は一つしかない。
彼女は死んだ。
死んでしまったのだ。肉体は朽ち、魂は溶け出してもう戻らない。
混乱するエルザードに、ラルスの乾いた声が聞こえる。
﹁何だ。誰かが殺したのか。探す手間が省けたな﹂
鼻で笑う音。だが、エルザードにはそれも聞こえなかった。ただ
失われてしまった。
アヴィエラが気配を絶った場所を探して意識を彷徨わせる。
︱︱︱︱
それが本当ならば、確かめなければならない。
彼女が何を残したのか。どんな死に顔をしているのか。
それを確かめなければきっと、何も得られないのだ。この世界に
来た意味がない。
エルザードは核のある部屋に座標を合わせると転移の構成を組ん
だ。しかしその構成はシルファの攻撃によって打ち砕かれる。
四肢を掴み引き寄せる構成。捕らえられた先に待っているものは
王の剣だ。ラルスはアカーシアを手に笑った。
1451
﹁さて、お前もそろそろ退場だな﹂
恐ろしい速度で突き込まれる両刃。自らの体を貫くそれを、男は
呆然と見下ろす。剣の触れた箇所から、肉体が黒い靄となって霧散
していった。
己が失われていく様を彼は何の感情もなく見つめる。消えかかる
精神に澄んだ声が響いた。
﹃人間は美しいぞ、エルザード﹄
彼女の言葉はずっと理解できなかった。今、この瞬間に至っても。
だが、たった一つだけ自明のことがある。
美しく、見えたのだと。
変えられない濁流を変えようともがく彼女の姿。
その姿だけは確かに︱︱︱︱
※ ※ ※
誰もが何もを言えない。
重い呪縛が部屋中を満たしたかのような沈黙の中、真っ先に動い
たのはカイトだった。彼は自分の体を確かめながらゆっくり立ち上
がると、苦い顔でアヴィエラの死体を見下ろす。
まるで眠っているかのように安らかな死に顔。
死を以って自由になった女の顔を一瞥すると、彼は何も言わず踵
を返した。そのまま無言で広間を出て行く。
その足音で我に返ったのか、リディアはターキスを引き摺って怪
我人の治療に手をつけ始めた。
ハーヴは種々の言葉を飲み込んで友人の側へと歩み寄る。
﹁エリク⋮⋮﹂
﹁何?﹂
1452
﹁あ、あのな、雫さんは⋮⋮﹂
﹁生きてるよ。傷塞いだからちょっと見てて﹂
﹁え!?﹂
ずぶ濡れの体をハーヴは恐る恐る受け取った。よく注意して見る
と、確かに彼女の胸は微かに上下している。間違いなく魔女の一撃
で即死させられたと思っていた彼は、安堵のあまり床に座り込んで
しまった。
そのはずみで雫の頭を床にぶつけそうになり慌てて抱え込む。
﹁何で助かったんだ? 駄目かと思ったぞ﹂
﹁魔法具のおかげだと思う。色々つけさせられてたから。衝撃を緩
和したんじゃないかな﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
被害は甚大だが、ともかくこれで魔女討伐は終わったのだ。
複雑な思いながらもほっと息をつくハーヴに、エリクは軽く手を
振る。
﹁ごめん。陣の外に出てて。書き換えが終わったから発動させる﹂
﹁あ、ああ﹂
気を失ったままの雫を抱いて、ハーヴは大きな陣の外へと足を向
けた。
その途中で彼は、魔女の死体とその近くに落ちている紅い本に目
を留めたが、小さくかぶりを振っただけでそれを手に取ろうとはし
なかったのである。
※ ※ ※
上空から降下してくる鉤爪を、兵士は剣を掲げて防ぐ。
1453
強烈な力は両手でなければとても支えきれない程のものだったが、
側にいた魔法士が魔物の体を薙ぎ払ったことにより圧力は消え失せ
た。彼は息をつくと新手を探して剣を構える。
魔族の大軍と衝突してから数十分、彼らが揃って感じたことは﹁
きりがない﹂という事実だ。殺しても殺してもそれらはとめどなく
現れ、人の体を切り裂こうと襲い掛かってくる。まるで先の見えな
い戦いに、多くの者は体力よりも先に気力が尽きてしまいそうだっ
た。
兵士は吹きかけられる酸の液から頭を庇って後退する。
一体いつまでこれが続くというのか。
叫びだしたい気持ちはあったが、退けない戦いであることもまた
戦場に一陣の風が吹いたのは、その時だった。
確かだ。彼は血と汗で滑る柄を、布を使って握りなおす。
︱︱︱︱
淀んでいた空気が変わる。城の方角から強い風が吹き込んでくる。
それはまた大きな力をも帯びて、混戦が満ちる山道を吹き抜けて
いった。
思わず目を覆った彼の頭上で、魔物の叫び声がいくつも重なり、
そして遠ざかる。甲高い悲鳴を攫っていくように風がそのまま通り
過ぎると、辺りには凪いだ空気が広がった。
彼は用心しながらも顔を上げる。
﹁⋮⋮何だ?﹂
差し込む光、一変した空気に気づいて兵士は唖然となった。見れ
ば空にいた魔物の数が半減している。
それだけではなく、今まで時を黄昏と思わせる程に上空を覆って
いた暗雲が、呆気ないくらいさっぱりと消え去っていた。
兵士や魔法士たちはお互いの顔を見合わせ首を傾げる。
﹁風が雲と魔物を飛ばしていった⋮⋮とか?﹂
﹁まさか。だが⋮⋮﹂
にわかには信じがたい光景だが、これは希望以外の何ものでもな
いだろう。途端彼らは勢いづくと、残る魔物に向かって激しい攻撃
1454
を再開し出した。
その陣中にあって指揮をとっていたレウティシアは、事態を把握
して安堵の息を吐き出す。
﹁浄化したのね⋮⋮思い切ったことするじゃない﹂
賞賛の言葉はこの場にはいない男に向けられたものだ。
彼女は部下の手際に微笑すると、残る敵の掃討に向けて馬上から
新たな指揮を飛ばしていった。
1455
008
﹃雫ちゃん。答は全部、あなたの中にあるのよ﹄
雫が意識を取り戻した時、そこは魔法陣のある広間の入り口近く
だった。
壁際に寝かされていた彼女は、ゆるゆると起き上がると辺りを見
回す。辺りには先ほどまで濃密に満ちていた圧迫感は残っていない。
ただ何人かがばたばたと走り回る慌しさが、広い空間を支配してい
た。
彼女が起きたことに気づいたのか、中央近くに立っていたエリク
がやって来る。片手に二冊の本を抱えた男は、雫の前に立つとその
本を床に置いた。
﹁気分はどう?﹂
﹁平気⋮⋮です。ちょっとぼんやりするだけで﹂
﹁ならよかった。君は何処にでも飛び込んでいくから見てて寿命が
縮む﹂
﹁す、すみません﹂
攻撃を受けた胸元を見ると、服には小さな丸い穴が開いていた。
僅かに見える肌に傷がないことを確認して雫は目を伏せる。
﹁あの、魔女の人は⋮⋮﹂
﹁死んだよ。書き換えも終わった。今は転移が使えるようになった
から怪我人を外に出してるとこ﹂
エリクは彼女の隣に屈みこむと、﹁王妹にも連絡がついた。外は
掃討戦らしいよ。あとは王を回収して終わり﹂と付け足した。
1456
自然生まれる沈黙は、二冊の本へと集中して止まる。
﹁エリク、この本って﹂
﹁うん。処分しかないだろうね。誰かの手に渡っても不味いし﹂
﹁じゃあ今、燃やしちゃいますか?﹂
﹁そうしようか。持ち歩くのかさばる﹂
男は雫の目を覗き込む。彼女が黙って頷くと、重ねた本の上に手
をかざした。構成が注がれ、二冊の本はゆっくりと燃え始める。
やがて本の形をした灰だけが残ると、エリクは雫に手を差し伸べ
た。
﹁立てる?﹂
﹁はい﹂
﹁転移門を開くよ。城に戻ろう﹂
優しい声。
すっかり耳に馴染んだ声に彼女は微苦笑を浮かべた。広間に視線
を彷徨わせる。
﹁その前に⋮⋮王様ってまだこの城にいるんですか? 本のことに
ついて一応言っときたいんですけど﹂
﹁いるんじゃないかな。多分最上階だと思う﹂
﹁じゃあちょっと行ってきます﹂
雫がメアだけを連れ廊下に出ると、迷うことなくエリクもその隣
に並んだ。二人は手を取ると緩やかに曲がる通路を歩いていく。
﹁何だか終わってしまうと⋮⋮不思議な感じですね。何処か空っぽ
になったみたいで﹂
﹁気が抜けたんだよ。体は疲れてるはずだ。帰ったらゆっくり寝た
方がいい﹂
﹁起きたら筋肉痛になってそうです﹂
窓から見える外はもう昏くはない。晴れた青空を見て彼女は微笑
んだ。
エリクは何かから解放されたかのような彼女の横顔を眺める。
﹁帰ったらそろそろファルサスの契約も終了だから。別の国に行こ
1457
うか﹂
﹁あ! そう言えば南の海は澄んでいるって本当ですか? メアに
聞いたんですけど﹂
﹁らしいね。僕は見たことない。見てみたいなら次は南の国にしよ
う﹂
柔らかな風が吹いた。肩の上で小鳥が囀る。雫は指を伸ばしてメ
アの背を撫でた。
ほどけてしまった黒髪が舞い上がり、その下のケープが露になる。
魔女の攻撃を受けた時に開いてしまった背の穴をエリクは無言で見
つめた。彼女は手だけで乱れた髪を束ねて揃える。
﹁私の傷って、治してくれたのエリクですか?﹂
﹁うん﹂
﹁ありがとうございます﹂
私が外部
やがて通路の向こうに階段が見えてきた。他に誰もいない廊下。
雫は握ったままの手に力を込めると足を止めた。
振り返った男に向かって微笑む。
答は全て、彼女の中にあった。
知っていて思い出せなかった。
思い出してしまえば守れなくなるから。
﹁エリク⋮⋮いつから気づいてたんですか? ︱︱︱︱
者の呪具そのものだって﹂
だからもう、守ることは出来ないだろう。
※ ※ ※
1458
魔女が打倒されたとの連絡は、戦闘中の軍を経由してメディアル
の城内へも報告された。
歓声が沸き起こる会議室の中、オルティアは小さな息をつくと席
を立つ。張り詰めていた気を切り替える為、供を連れず廊下に出た
女王を、だが一人の男が追ってきた。
男はオルティアが振り返ると深く頭を下げる。
﹁キスク女王陛下⋮⋮いつぞやは、大変失礼を致しました﹂
﹁いつぞや? ああ、メディアルの宰相か﹂
そう言えば先日雫が姿を晦ました時に、ニケを派遣して男を締め
上げさせたのだ。シロンは冷ややかな女王の視線に、青褪めながら
も謝罪する。
﹁陛下の側近であった方とは知らず⋮⋮盗まれた我が家の宝物の行
方を知っているのではないかと思い、無体を働きました。何とお詫
びのしようも御座いませぬ。ですがどうか、この責は私のみに⋮⋮﹂
﹁もうよいわ。雫も無事であった。これ以上騒ぎ立てる気はない﹂
煩わしげにオルティアが扇を振ると、シロンは一層頭を低くした。
その後頭部を見下ろした彼女は一抹の好奇心を覚えて問い返す。
﹁宝物とは何であったのだ? まだ見つかっておらぬのか﹂
﹁それが、魔女が持っていたのではないかという話で御座いました
が⋮⋮もういいのです。歴史を語る不死の蛙など、どう考えても忌
まわしいもので御座いましょう。以後、あれのことは忘れることに
致します﹂
﹁不死の蛙?﹂
そう言えば、雫の描いた絵本に似た話があったのだ。
それは何処かで聞いた話だ。オルティアは琥珀色の目を丸くする。
︱︱︱︱
だが動物が喋る童話などこの世界には例がない。だからてっきり
異世界の御伽噺なのだと思っていた。
1459
※ ※ ※
二人の間を流れていく風。
その風に今までの凍えるような冷たさを感じさせないのは、さし
こみ始めた陽光のせいだろうか。
エリクは静かな感情を湛える女を見つめて沈黙していたが、やが
て抑揚のない声を紡ぐ。
﹁最初に気づいたのはメディアルで君の絵本を見た時。全ての歴史
を知っている蛙って話を読んで⋮⋮引っかかるものを感じた。はっ
きりと疑ったのは、君が雪に埋まっていたところを拾い上げられた
時かな。外にいた時間を計算すると君が死んでなかったこと⋮⋮そ
うでなくとも何の後遺症もなかったことはおかしい。君には何かあ
るんじゃないかと思い始めた時、レラからあの絵本がメディアルの
話であることを聞いた﹂
﹁ええ。あの蛙が私の前身なんです。呪具の核で本体⋮⋮三冊の本
は外部記録で増幅装置ですね﹂
雫は長く伸びた髪を払った。
背中に開いた服の穴。
あの時アヴィエラの攻撃は、確かに彼女の心臓を射抜いたのだ。
けれど雫は死ななかった。傷を負っても血を流しても死ぬことは
ない。彼女は﹁不死の呪具﹂なのだから。
それを知っていて傷を塞いだ男は罅割れた溜息をつく。
﹁少し考えれば分かることだった。呪具が統一したのは﹃音声言語﹄
だったんだから。記録が文字のみで残されているのは不自然だ﹂
何故、本には人間の作った文字で歴史が記録されていたのか。
答は一つ、それが呪具の全てではなかったからだ。
1460
雫はほろ苦い微笑を浮かべ、肩を竦める。
私がこの世界の言葉を話せ
﹁さすがですね⋮⋮。呪具の本体は﹃語り手﹄なんです。三冊の本
全てを読むことの出来る存在︱︱︱︱
るのも当然ですよね。私の中には呪具の核が眠っているんですから﹂
温かい胸に手をあて、彼女は目を閉じる。
自分ではない何かの存在。
それが確かに奥底に息づいていることを、今の雫は感じ取ること
が出来ていた。
エリクは彼女の黒い睫毛が揺れるのを見て顔を顰める。
﹁君はいつ思い出したの? 最初から知っていた?﹂
ああ私、この本を支配出来るんだなぁって。そ
﹁いいえ。ついさっき思い出したんです。魔女に精神操作をかけよ
うとして︱︱︱︱
れに気づいたら全部思い出しました。何故私がこの世界に連れてこ
られたのかも全て⋮⋮﹂
それは砂漠で起きた戦いだった。
盗み出された蛙は人の手を渡り、そうしてそこで﹁呪具の破壊者﹂
に発見されたのだ。
大陸を観察する為の呪具とその干渉を退ける対抗者。はじめから
相容れぬ二つの存在は、熾烈な戦闘を繰り広げながら砂漠にまで行
き着き、そして蛙はついにその場で﹁殺された﹂。
戦いの後、自身も大怪我を負った破壊者はすぐにその場を去った
が、蛙は死んでも呪具の核はまだかろうじて力を残していた。
結果核は、力を取り戻す為の休眠を得るべく、宿主を求めて﹁穴﹂
を開いたのである。
﹁どうやらこの世界の人間より異世界の人間の方が宿主として適し
てるらしいんですよ。こっちの世界の人間ですと、下手したら魂に
核が取り込まれてしまうみたいで⋮⋮その点私なら魂構造が違いま
すから。核は私の記憶を操作して同化したことを忘れさせると、力
1461
を取り戻すため眠りについたんです﹂
世界を渡る穴の途中、冷たい力が自分の中に入ってきたことを雫
は覚えている。
その時彼女は全てを理解したのだ。ただそれを忘れてしまってい
ただけで︱︱︱︱
﹁流行病が発生したのは戦闘で呪具の力が弱まった為か。逆に城で
子供たちの言葉が戻ったのは、休眠で力が回復してきたから⋮⋮あ
ってる?﹂
﹁あってます。このまま行けばやがて私の体を出ても独自で動ける
でしょうね。もっとも核は既に固着してしまってますから、引き剥
がされたら私は死んじゃうかもしれませんけど﹂
﹁呪具に殺されることはないと思うよ。出たら破壊される可能性が
高くなるし﹂
藍色の瞳が窓の外を見やる。
抱え込む感情全てを殺して静かな声が、長い廊下に響いた。
﹁人の寿命なんて呪具からすれば一瞬だ。このまま生きていくこと
だってきっと出来る﹂
可能性を示唆する言葉。
エリクは、最も早く全ての真実に到達していたのだろう。
知っていて、雫を庇った。
彼女が呪具そのものと知れれば殺されてしまうと考え、﹁本に精
神操作されているだけ﹂と偽ったのだ。
どれ程彼が自分を大事にしてくれたのか。
全てを思い出せば、その一つ一つが見えてくる。
感謝しても全てを贖うことはきっと出来ないだろう。
雫は目を閉じて微笑んだ。繋いだ手を握り返す。
﹁気にすることはない。君は君で生きていればいいんだ。呪具も直
接人に危害を及ぼすようなものじゃない。行動には制限を受けるだ
1462
ろうから、元の世界には帰れないかもしれないけど⋮⋮ここにも君
の居場所はある﹂
伸ばされた手。
大きな掌が雫の髪を撫でて行く。
その温かさに泣き出しそうになって雫は唇を引き締めた。
あの日図書館で泣いていただけの彼女。
自分の主義に反しても。
そんな偶然の出会いにもかかわらず、彼は決して雫を見捨てよう
とはしなかったのだ。
今この瞬間にあっても。︱︱︱︱
だから彼が言うなら雫はきっと、この世界でも生きていけるだろ
う。
国を渡り、何処か小さな町で穏やかな一生を送ることも出来るは
ずだ。彼女は束の間そんな未来を夢想する。
﹁本当に⋮⋮ありがとうございます﹂
こんな言葉しか返せないことがもどかしい。
雫は握っていた手を離すと深く頭を下げた。顔を上げ、男を見つ
める。
言葉はきっと不自由だ。伝えたいことが少ししか届かない。
それでも他に手段を知らないから、この言葉こそが二人を繋いで
きたのだから、雫はこれで十分満足だった。
彼女は肩に止まっていたメアに指を差し伸べると、その手を窓の
外に向ける。
﹁ありがとう、メア﹂
雫の手から離れて窓枠にとまる小鳥。小さく首を傾げるメアに微
笑みかけると、彼女は一歩下がった。何も持たない両手を広げる。
﹁待て、雫⋮⋮!﹂
彼女の意図を察してエリクが表情を変えた。広げた腕を取ろうと
手を伸ばす。
けれど彼の手が触れるより一瞬早く、雫は何の構成もなく力を使
1463
うと、その場から忽然と姿を消したのである。
※ ※ ※
かつて世界の言語は一つだった。
人が天に向かって塔を建てだし、神の怒りに触れるまでは。
神によって言葉を乱された結果がけれど人の自由であるならば、
この大陸はいまだ箱庭のままであろう。
観察される小さな庭で、そこから誰も逃れられない。この欺瞞に
気づき、それを拒絶しなければ︱︱︱︱
※ ※ ※
城の最上階に転移した雫は、崩れ落ちた壁から外の景色を眺める。
乾いて広がる大地。だが瘴気の晴れた空は青く澄んで、胸を打つ
ほどに鮮やかだった。彼女は風になびく髪を押さえながら微笑む。
こちら側からは掃討戦を行っているという軍の様子は見えないが、
きっと問題なく進んでいるのだろう。現に見える空には魔物が一匹
もいない。
雫は冷えてはいるが濁りのない空気を吸い込んだ。肺の奥が小さ
く痛む。
1464
﹁何だお前、どうやって来たんだ﹂
背後からかかる声は、彼女のよく知っている男のものだ。雫はほ
ろ苦い目を伏せると振り返った。気だるそうな王の前に立つ。
﹁あれ、王様、怪我したんですか?﹂
﹁もう治した。シルファはレティのところに戻したけどな﹂
﹁戻したって。精霊いなかったらどうやって帰るんですか、王様。
また階段下るんですか?﹂
﹁どうせレティが迎えに来るだろ。それまで景色でも眺めてるさ﹂
ラルスは崩れかけた玉座によりかかり嘯く。
城に入って以来別行動をしていた王が、今まで何をしていたのか
は知らないが、深い瓦礫の穴があいた最上階の惨状を見れば薄々察
しがついた。雫は数階下まで続く穴を見下ろすと肩を竦める。
﹁じゃあそれまでの間、ちょっとお話があるんですけどいいですか
?﹂
﹁何だ? 何かやらかしたか?﹂
いつでも揺るがなかった男。彼女を許さなかった王。
そんな彼だからこそ、雫も今向かい合うことが出来る。
それはきっとささやかな幸運だろう。彼女は青い瞳を見上げ、笑
った。
﹁王様、実は私が呪具だったんですよ﹂
もしこの世界に来たばかりの頃に真実を知っていたなら、この結
論に辿り着くことは出来なかっただろう。
泣いて、喚いて、混乱の中どうすることも出来ず蹲ったはずだ。
だが今、彼女は自分の足で立てている。
立って選ぶことが出来る。それが全てだ。
﹁⋮⋮呪具? お前が?﹂
﹁はい。私、思い出したんです。私自身が三冊の本の元になる呪具
1465
だって⋮⋮。私は呪具の揺りかごで、核を隠すため連れて来られた
人間⋮⋮今までそれを忘れていただけです。私の中には呪具の核が
固着してるんですよ﹂
すぐには理解しがたいのか、王は眉根を寄せて雫を見下ろす。
決して優しくない視線に安堵しながら、しかし彼女は震えだしそ
うな声を抑えるのに必死だった。
どうして自分なのだろう。
どうしてこんな現実に行き着いたのだろう。
あの穴に出会わないままならきっと、平凡だけれど慎ましやかな
一生が送れただろう。
魂を支配され、命をすり減らすような目には遭わなかったはずだ。
だが、それでも
﹁ならどうしたい? 呪具に取り込まれたお前は何を望む?﹂
﹁殺してください﹂
それでも、この世界に来てよかったと思う。
笑顔のままでいようと思った。
泣いてしまってはこの結末に負けるようで、それはしたくなかっ
た。
ただ胸は熱く、視界は止められず溶け出して行く。
ここで全てと別れなければならないことが、どうしても悲しかっ
た。
雫は微笑を浮かべて男を見上げる。
その黒い瞳から色のない涙が滴っていくのを見てラルスは顔を顰
めた。だが彼は溜息を一つつくと王の顔になる。
﹁それでいいんだな?﹂
1466
﹁はい﹂
不死にされた彼女は、魔女の力によっても死ななかった。
だが王剣であれば呪具を壊すことも出来るだろう。雫自身、時折
核の怯えに同調してアカーシアを恐れていたのだから。
そして、永く続いた支配もこれで終わりだ。
大陸は言葉の制限から解き放たれ、人は奪われていた可能性を取
り戻す。ここから先は記されない歴史が紡がれていくだろう。いつ
の時代も足掻きながら苦しみながら、それでも前を見据えて。
人は人の尊厳によって干渉を拒絶する。その気高さを雫は今まで
の出会いの中で知ったのだ。﹁混入された利便よりも不自由な自由
を選ぶ﹂と、あの時彼も言っていたのだから。
呪具と一つになった彼女は、もはや普通の人間には戻れない。死
ぬことも出来ぬまま大陸を彷徨い、やがて﹃語り手﹄そのものにな
るだろう。
そんな未来は、選べ
歴史を記録し、保持し、言葉を縛しながら意思なく語り継ぐ道具。
己の精神を明け渡して形骸となる︱︱︱︱
なかった。
ラルスは姿勢を正すと王剣を抜く。それを彼女に向けてゆっくり
と構えた。
沈痛さを退けた王の目が雫を見据える。
﹁王様﹂
﹁何だ?﹂
﹁私は、人間です﹂
それだけは譲れない誇りだ。
ラルスは彼女の言葉に固く頷く。
﹁ああ。お前は人間だ﹂
彼の答に満足して雫は笑った。
光を反射して輝く剣。王はそれを振り上げる。
1467
最後の一瞬。
雫は小さく息を吐いて目を閉じた。
﹁雫!﹂
絶叫は、瓦礫の底から響いた。
城を上ってきたエリクは素早く詠唱すると、階上に向けて光の矢
を打ち出す。矢は剣を振り下ろそうとしていた王に向かって、凄ま
じい速度で肉薄した。
気づくのが遅れたラルスは、咄嗟に剣を引いて矢を防ごうとする。
だがそれはアカーシアに触れる寸前で弾け飛ぶと、彼の手首にまで
着弾した。
鈍い破裂音。
ラルスの手から離れたアカーシアが床の上で回転する。王は半ば
抉れた右手を押さえて渋面になった。
﹁あいつ⋮⋮﹂
﹁何をやっているの! エリク!﹂
怒声と共に現れたレウティシアは、部下が兄を攻撃したと見ると、
激昂して白い右手を上げた。エリクの右耳にあった魔法具が砕け散
り、彼の頬に血が飛び散る。
しかしそれでも男はレウティシアを顧みようとはしなかった。
彼の両眼はただ階上にいる雫だけを見つめる。その視線の先で、
雫は滑ってきたアカーシアを身を屈めて拾い上げていた。
雫はその切っ先を、自
彼女は重い長剣を抱えて後ずさると、壁に開いた穴を背にして立
つ。
少し困ったような微苦笑。
長い剣の半ばを両手で支えると︱︱︱︱
分の胸に向けた。
黒い両眼が消えない感情を湛えてエリクを見返す。
﹁やめろ!﹂
1468
魔力はない。
だが、代わりになるものはある。
彼は瞬時に決断すると詠唱を始めた。自分の魂を力に変換する禁
呪。それに気づいたレウティシアが顔色を変える。
いつでも、何処にでも、可能性は残っている。
それを選び取るのは人の意志だ。
何かを貴いと思う心。
﹁やめなさい、馬鹿!﹂
無効化される禁呪。
跳ね返る声。
雫は一度まばたきする。
分かたれた距離。
エリクは瓦礫の坂を駆け上がった。
笑って
困って
本当に
楽しかったと
嬉しかったと
呪具を破壊する剣、鏡の両刃が、女の手によりその胸に食い込む。
魔女の拒絶をなぞるように
彼の嘘を辿るように
剣は雫の胸に刺さり、その半ばで抜き去られた。
1469
滴り落ちる血。
焼け爛れた手がアカーシアを投げる。
伸ばされた男の腕。
そのすぐ前で、彼女は微笑んだ。
﹁雫⋮⋮っ!﹂
手は届かない。
そして女は、床を蹴って空に跳んだ。
ああ
ずっと
一緒にいてくれてありがとう。
※ ※ ※
落ちていく体。
血が流れ落ちる傷口の奥で、修復を試みようと何かが蠢く。
その蠕動を感じながら雫は浅い息をついた。広がる空を眺める。
どれほど呪具が宿主を保とうとも、このまま地上に叩きつけられ
れば共に壊れるしかないだろう。人を侮った道具は人の手によって
敗北するのだ。彼女は晴れやかな気持ちで目を細める。
吹き付ける風。
荒涼とした大地。
最後に見える景色は雄大で清冽で、例えようもなく美しい。
この世界が、人の軌跡が、今この瞬間にあってたまらなく愛しか
った。
1470
だから笑って踏み出せる。
最後の息をして目を伏せる。
空は何処までも澄み切っていた。
砂漠で見たあの大きな影が羽
遠ざかる天を仰いで、雫は緩やかに両目を閉ざす。
狭まっていく視界。
薄らいでいく世界の隅で︱︱︱︱
ばたいた、気がした。
1471
おわりの言葉
﹃はじめまして。私は水瀬雫です。︱︱︱︱
とても長い夢を、見ていた気がする。
あなたは?﹄
目を覚ました時彼女が思ったのは、そんなことだった。重い腕を
上げて天井にかざしてみる。
爪を短く切り込んだ小さな手。十九年間見続けた手を見上げて彼
女は何度かまばたきした。寝台に肘をついて体を起こす。
見覚えのある広い部屋。前に一度だけ、この部屋で目を覚ました
ことがある。あれはいつのことだったろうか。彼女は随分前に思え
る記憶を探って頭を振った。
若草色の天井。広い部屋に置かれた家具は品のよいものである。
彼女は窓の外を確かめようと首を伸ばした。
その時、部屋の扉が開く。
扉を開けて顔を覗かせたのは、彼女がよく知る女性だった。首を
傾げてその名を呼ぶ。
﹁ユーラ?﹂
﹁ネア ヴィヴィア!﹂
女は彼女が起きていることに驚いたのか、抱えていた水瓶を落と
してしまった。だがそれにも構わず駆けてくると彼女の首に抱きつ
く。
耳元で聞こえる嗚咽。途切れ途切れに呟かれる言葉。心配してい
たのだと、深く伝わってくるその言葉を聞いて、しかし雫は声にな
1472
らない嘆息を洩らした。
分かっていたことだ。
もう自分には、彼らの言葉が分からないのだというこ
それでも今、淋しくて仕方ない。
︱︱︱︱
とが。
黙って泣き出した雫を、ユーラは立ち上がると困惑した目で見や
った。何度か言葉をかけ、それでも収まらないと分かると身振りで
﹁待っていて欲しい﹂と示す。そのまま彼女は水瓶を拾い上げると
部屋から駆け出していった。しばらくして扉が叩かれ、別の人間が
姿を現す。
魔法着を着た藍色の目の男。
この世界においてもっとも長く彼女と共にいた男は、穏やかに沈
んだ目で雫を見つめた。
彼女は男の名を滲む声に乗せる。
﹁⋮⋮エリク﹂
﹁ヴィヴィア﹂
聞き覚えのない単語。
雫がその響きに顔を歪めるとエリクは顔を傾けた。記憶を探る目
でしばし考え込むと、彼女の側に歩み寄る。
﹁シズク﹂
それだけの言葉。
けれど彼女は、その言葉に目を見開くとじっと男を見つめた。零
れ落ちる涙を拭いもせず呟く。
﹁⋮⋮覚えて、いて、くれたんですね。私の名前⋮⋮﹂
それ以上は続かない。
何も言えない。
エリクは真面目な顔のまま彼女の隣に座った。小さな額を長い指
1473
が叩く。
たとえ言葉が通じなくとも。
何も分からなくとも。
それでも、この温かさは変わりない。
失われなかったのだ。
失ってしまわなかった繋がり。
それはまだ彼女の手に残ってくれた。彼女を待っていてくれた。
安堵が波のように押し寄せる。堪えていたものが溢れてくる。
男
雫は殺していた声を上げると泣きながらエリクに抱きついた。
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
そのまま子供のように顔を埋めて肩を震わせる女に︱︱︱︱
は微苦笑すると、黙ってその頭を撫でたのである。
※ ※ ※
﹃ヴィヴィアって何ですか?﹄
それは紙とペンを与えられた雫が真っ先に、英語と共通文字交じ
りの文でエリクに聞いたことだ。
何故それを聞いたかは、目を覚ました彼女に会いに来た皆がその
単語を口にしていたからだが、エリクから得られた答は半ば予想し
ていたものだった。彼は紙の隅に漢字で一文字﹃雫﹄と書く。
おそらく﹁ヴィヴィア﹂とはこの世界の単語で﹁水滴﹂を意味す
る言葉なのだろう。初対面の時にエリクに﹁水瀬雫﹂と名乗った彼
女は、変わった名前だと言われて﹁水滴の雫﹂と説明しなおしたの
1474
だ。
思えばその時から彼女はずっと﹁ヴィヴィア﹂と呼ばれていたに
違いない。彼女の耳にそれが﹁雫﹂と聞こえていただけで。
だがエリクは、初めの時にだけ名乗った彼女の名を忘れてはいな
かった。
﹁シズク﹂と呼ばれる響きが無性にくすぐったく感じられて、彼女
は目を伏せて微笑む。
あと知りたいことは、どうやって助かったかだ。
言葉が分からないということはもう呪具はないのだろう。現に意
識を集中させても自分の中に気配が感じ取れない。
雫は英文を必死で組み立てて、どう尋ねようかと悩み始めた。し
かし四苦八苦する彼女の横からエリクが一枚のメモを差し出す。
英語で書かれた一文だけの短い文章。
その意味を理解した彼女は目を丸くしてしまった。思わず顔を上
げ、彼を見返す。
﹃元の世界に帰れるよ﹄と書かれていたので
長い旅の終りを指す言葉。
そこには︱︱︱︱
ある。
筆談によって雫が事情を理解するまでにはかなりの時間がかかっ
た。
元々が複雑な話なのだ。その上お互い意味の分からない単語など
があったりするとどうしても置き換えに時間がかかってしまう。
しかし何とか話が飲み込めた雫が結果として理解したことは、彼
女はあの後﹁呪具の破壊者﹂に助けられたのだということである。
外部者の呪具と並んで彼らが探していた、対抗呪具の使い手。魔
女の騒動を知ってヘルギニスの地に現れた彼らは、城から飛び降り
1475
た雫を見かけて受け止めると、その力によって呪具だけを破壊した。
それだけではなく彼らの力を使えば、呪具の核が開けたと同じ﹁
穴﹂を元の世界に向けて開くことも出来るのだという。驚きに目を
丸くする雫に、エリクは苦笑して付け足す。
﹃ただし、少し時間がかかりそうだ﹄と。
﹁逸脱者﹂と呼ぶらしい対抗呪具の使い手は本来男女一人ずつ存在
している。
だが、二人のうち主に魔法構成に長けた女性の方がまだ自分の力
に覚醒していないというのだ。
自然﹁穴﹂を開けるとしたらもう一人の男性に頼らざるを得なく
なるが、彼は剣士であり魔法構成が苦手らしい。能力的に世界を渡
る力は持っていても﹁穴の開き方なんて分からない﹂というのが正
直なところなのだそうだ。
男はその為﹁女性の覚醒を待った方が確実だ﹂と言ったのだが、
それには何年かかるか分からない。そこで話し合いの結果、かつて
の﹁逸脱者﹂が残した構成手記を頼りに、レウティシアとエリクが
男の力を元にして穴を開ける為の構成を作ることになったのである。
﹁何か⋮⋮大変そうですね。すみません﹂
雫の感想は日本語でのものだったが、エリクには大体の意味合い
が伝わったらしい。気にするな、というように頭を撫でられた。
彼が立ち上がると同時に、扉が開いて新たな人間が部屋に入って
くる。何処かで見たことがあるような長身の男と彼の影に隠れてい
る少女。その少女の顔を見て、雫は思わず﹁あ!﹂と叫び声を上げ
た。
﹁花嫁衣裳作ってた美人さんだ!﹂
いつか小さな村で見かけた少女。そう言えばあの時エリクは彼女
を指して﹁強力な魔法士だ﹂と言っていたのだ。
つまりは彼女が覚醒していない逸脱者の女性なのだろう。男の影
1476
から雫を見ていた少女は、彼女の声に吃驚したらしく飛び上がった。
雫は慌てて非礼を詫びながら立ち上がると、肩に小さなドラゴンを
乗せた男を見上げる。
砂漠の上を飛んでいたドラゴンと大きさは違うが、この紅いドラ
ゴンがあの時のドラゴンと同じ個体に違いない。呪具からの記憶を
得た雫にはそれが分かる。
長身の男は身を屈めると彼女の頭を叩いて何かを口にした。戸惑
う雫がエリクを見やると、彼は手振りで﹃謝ってるよ﹄と教えてく
れる。
雫がこの世界に来る切っ掛けとなった戦いで、呪具を相手に力を
揮った男を、彼女は目を瞠って見つめる。
何を言えばいいのか。何から言えばいいのか。
分からないまま彼女はかぶりを振ると、困ったように微笑んだ。
﹁あの私⋮⋮この世界に来て色々ありましたけど、後悔はしてませ
ん。むしろ来てよかったって思います﹂
偶然が左右した彼女の道筋。
だがあの時あの穴に出会わなかったら、初めからこの世界の人間
たちに出会うこともなかったのだ。決して優しいだけの道のりでは
なかった。痛い目にも苦しい目にも遭ってきた。ただそれでも、今
この時に辿りつけてよかったと、思う。
この世界を旅したからこそ雫は多くのことを学んだ。人に出会い、
その複雑さを知り、そして自分を知ることが出来たのだ。そこに後
悔は一片もない。
﹁それよりも助けてくださってありがとうございます。本当に⋮⋮
ありがとうございます﹂
雫は深々と頭を下げると、紙にお礼の言葉を書き綴った。
共通文字で書かれた単純な文章は、全てとは言わなくとも謝意を
伝えることは出来たらしい。男は苦笑して雫の頭をくしゃくしゃと
撫でる。
1477
二人が出て行ってしまうと、エリクもまた﹃休むといいよ﹄と書
き記して部屋を出て行った。入れ違いに戻ってきたメアが、食欲の
ない雫の為に切り分けた果物を皿に並べる。
それを手に取りながら﹁ありがとう﹂と言った雫は、意味が分か
らないらしいメアが怪訝そうな顔をするのを見て胸が痛くなった。
当たり前の挨拶さえ、今はもう通じないのだ。その現実に思わず
鈍痛を覚える。
だがそれでも彼女は、読み書きも得意ではない使い魔に伝える為
にっこりと笑って見せた。デウゴを手に取りながら嘆息する。
﹁こっちの発音も覚えないとね﹂
もうすぐ自分は元の世界に帰れるかもしれないのだ。
思わずそう呟いた雫は、けれどあることに気づいて沈黙した。
︱︱︱︱
そうなれば、この世界の言葉など使うことはない。少々面倒では
あるが簡単な筆談が出来る現状、わざわざ覚える必要もないだろう。
﹁帰れるんだ⋮⋮﹂
まだそれは、実感の沸かない事実だ。雫は自分の両手をじっと見
下ろす。
その晩彼女は久しぶりに自分の携帯電話を取り出すと、保存され
ていたメールを一通一通読み返してみたのだった。
※ ※ ※
魔法構成のことなど雫にはよく分からない。
その為エリクやレウティシアが﹁穴﹂の研究に取り掛かる間、彼
1478
女は何もせず部屋で過ごすことになった。やることもないのでとり
あえず本を読んでみる。だがその内容がちっとも頭に入ってこない
のは他に気がかりなことがあるせいだろう。
気分を切り替える為、散歩にでも出ようか迷いだした時、しかし
小さなノックと共に逸脱者の少女がふらりと訪ねて来た。リースヒ
ェンという名らしい彼女は、抱え込んだカードの束とノートを見せ
るとそれらを一緒に机に広げる。
自分が作った教材のカードを久しぶりに見た雫は、驚いてそれを
手に取った。
﹁あれ、これ⋮⋮﹂
目を丸くした彼女に、リースヒェンは子供が使うような書き取り
用のノートを手にして何かを訴える。
筆談もうまく通じない少女と苦心してやり取りしたところ、要す
るに彼女は読み書きが苦手で、雫と一緒に勉強したがっているのだ
と分かって、ぽんと両手を叩いた。
﹁あ、そっか。なるほどなるほど!﹂
発音が分からない女と、作文が苦手な少女。まるでちぐはぐな二
人はしかし、カードや絵本を広げるとお互いの知っていることを照
らし合わせ始めた。
少女は雫が絵を描くと食い入るようにそれを見つめ、名を呼ぶ。
雫が発音をメモしながら共通文字をも書き記すとリースヒェンはそ
れを書き取った。
遊び混じりながらも、勉強は交互に知識を交換しあって進んでい
く。それは夕方になって男が少女を引き取りに来るまで続いた。
男は勉強の成果が残るノートを見せられると、笑ってその片隅に
﹁また遊んでやって欲しい﹂と書いて雫に見せる。
エリクやレウティシアが未知の構成に関わっている間、それに携
わる男もまたリースヒェンを見ていられないのだろう。自分を帰す
為の研究に時間を取ってもらっているということもあり、雫は即答
で了承した。
1479
そしてその翌日から彼女たちは、一日の約半分を一緒に過ごすよ
うになる。
※ ※ ※
﹁手を抜けばいいのに﹂
呆れ混じりの王妹の声にエリクは眉を上げた。円卓の中央に嵌め
こまれた水晶球を見やる。
あの時、魔力を借り出す為の魔法具を破壊された彼は、再び元の
少ない魔力の体に戻ったのだ。しかしそれでは構成を組んで示すこ
とが出来ない上、彼が描く構成図は破滅的に意味が分からないとい
うことで、今は簡易に魔力を貯めた水晶球を使って構成の試行をし
ている。
逸脱者の手記を元に組んでいた複雑な構成を崩すと、エリクはお
茶に口をつけた。彼にしては棘のある声がレウティシアに返される。
﹁何故手を抜くんです。意味が分からない﹂
﹁だって完成したらヴィヴィアは帰ってしまうのよ? それでいい
の?﹂
﹁適当に作って世界の狭間にでも落ちたらどうするんですか﹂
﹁⋮⋮そう言われればそうね﹂
﹁分かったなら手を抜かないでください﹂
魔法技術において大陸の頂点に立つファルサスの中でも、屈指の
構成技術を持つ男女は再び構成の試行に没頭した。だがそれが三十
分も続くと、レウティシアは再び顔を上げる。
﹁引き止めないの?﹂
返事はすぐには返ってこなかった。
1480
たっぷり数十秒の間。
まだ温かかったお茶から湯気が消える程の時間を置くと、エリク
は平坦な声を紡ぐ。
﹁言葉も分からない世界にいることが幸福だとは思わない﹂
何処までが本心か分からない答だが、それは紛れもなく真実の一
端をついた言葉だろう。
王妹は溜息をこぼすと、試作した構成を書き留める為ペンを手に
取る。
何が幸福か、何を選ぶのか、それを決められるのは雫だけだ。彼
女は本来この世界に落ちるべきではなかった人間で、それを分かっ
ているからこそ二人は何も言わない。
エリクは冷めてしまったお茶に口をつけると、乾いた息をつく。
窓から見える空には、青白い月が見え始めていた。
※ ※ ※
オルティアが訪ねてきたのは雫が意識を取り戻してから四日目の
ことだ。
それまで一連の事件の残務処理に関わっていたらしい女王は、無
言で雫の部屋に入ってくるなり、慌てて立ち上がった彼女を睨む。
そしてそのまま、何も言わず平手で雫の頬を打った。
鳴り響く小気味のいい音。
オルティアを案内して来たラルスが戸口でにやにやと笑う。
﹁ひ、姫⋮⋮﹂
﹁この馬鹿者が! 己で言い出したことも守れぬのか! 帰ってく
ると言っておいて何をやっていた!﹂
1481
開口一番の怒声は何を言っているか分からなかったが、怒られて
いることはさすがに分かる。おまけにラルスが連れてきたというこ
とは一通りの話を聞きでもしたのだろう。
﹁馬鹿者﹂﹁馬鹿者﹂と連呼された雫は、おそらく﹁馬鹿﹂と言わ
れているのだと察すると頭を下げた。
﹁すみません、姫⋮⋮﹂
﹁謝って済むか、馬鹿者!﹂
たどたどしい共通語での謝罪にオルティアは美しい顔を歪める。
何度か見たことのある女王の表情。その目に雫はうろたえ困り果
てた。
突然の出来事に目を丸くしているリースヒェンを王が﹁俺が遊ん
でやるから来い来い﹂と手招く。
扉の閉まる音がして部屋に二人きりになると、しかしオルティア
はそれまでの激情が嘘のように沈黙してしまった。
何処か頼りなげな双眸が雫を見つめる。
﹁⋮⋮姫﹂
﹁帰るのか?﹂
疑問の言葉。﹁帰る﹂という単語を聞き取れた雫は息を飲んだ。
もう、帰るのだ。元の世界に。そして二度と戻って来られない。
当然のことだ。今までずっとその為に旅をしてきたのだから。
だが雫は今、頷くことが躊
家族に会いたい。友人と話をしたい。
それは今も消えない希望で︱︱︱︱
躇われて動けなかった。
黙り込んでしまった女を見つめると、オルティアは細い両腕を伸
ばす。
﹁帰るのだな⋮⋮﹂
抱き締める体が、温かければ温かい程泣きたくなるのは、きっと
彼女を好きでいるからだ。
雫はオルティアの肩に顔を埋めて目を閉じた。
たとえもう二度と彼女に会えなくなったとしても、彼女のことを
1482
忘れる日は決して来ない。
ずっと記憶の中に残り続けるだろう。それだけは自信を持って約
束できる。
﹁大好きですよ⋮⋮姫﹂
雫の言葉は通じない。
オルティアの言葉も分からない。
それでも伝わる何かがあると信じて、彼女は一粒だけ涙を零した。
※ ※ ※
逸脱者が持ち込んできた構成は、複雑という言葉だけでは足りな
い圧倒的なものだった。
世界を渡る為に試行されたのであろうそれらの手記を元に、﹁穴﹂
を開く為の構成を作り始めてから一週間。一日のほとんどの時間を
試行に費やしていたエリクはその晩、研究室からの帰り道、深夜の
回廊に女の姿を見つけて足を止めた。
青い光と影だけに塗り分けられた世界。そんな中にあって浮き立
つ白い夜着を着た雫は、手すりに腰掛け夜空を見上げている。
こんな時間に部屋の外に出て何をしているのか。
それを問うより先に、しかし彼女が何を見ているのかエリクは気
になった。黒い双眸の先を追って空を見上げる。
﹁月、きれい﹂
ぽつりと落とされた言葉。
突然の声に驚いたエリクが視線を戻すと、雫はいつの間にか彼を
見ていた。翳のある貌が穏やかに微笑む。
﹁月を見てたの? 風邪引くよ﹂
1483
﹁かぜひく?﹂
彼の言葉の後半が雫には理解できなかったらしい。
子供のように反芻する声にエリクは苦笑した。二階の回廊に座る
彼女の隣に立つと、小さな体を抱き上げる。
﹁あと、こんなところに座らない。落ちたら危ない﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
今度は注意されたと分かったようだ。頭を下げて謝る彼女にエリ
クは笑い出しそうになった。核を取り除かれ言葉が分からなくなっ
た雫が真っ先に覚えた言葉は﹁ありがとう﹂と﹁すみません﹂だ。
そのこと自体が彼女の性格を表している気がして何だか可笑しい。
思えば旅をしていた頃から彼女はよく謝っていた気がする。
﹁もう少しで帰れるのに風邪を引いたり怪我をしたら仕方ない。も
っと注意して﹂
﹁かえれる?﹂
単語を拾い上げる囁きに、覚えた感情は何なのだろう。
エリクは表情を消すと彼女を抱き上げたまま回廊を歩き出した。
黒い瞳が驚いたのか見開かれる。
﹁エリク、平気﹂
﹁君の平気は自称だ﹂
﹁じしょう﹂
その単語は難しかったらしい。眉を寄せる雫に﹁自分で言う、だ
け﹂と彼は言い直した。途端彼女は困ったような顔になる。
言葉が通じていた頃は、難解な単語を使って話をすることに慣れ
きっていたのだ。
溢れる程に在る言葉の好きな部分を積み上げ、彼女と向かい合っ
ていた。
だがそれが失われた今、一つ一つがもどかしくて多くを語ること
さえ躊躇われる。
平易な言葉に直してしまえば何かが曝け出されるようで、彼は自
1484
然と沈黙を選んだ。
廊下を二度曲がり、雫の部屋が見えてくる。
その前に立つと、彼女はポケットから鍵を取り出して扉を開けた。
エリクは彼女の体を下ろす。
﹁ありがとう﹂
﹁うん﹂
﹁おやすみなさい﹂
﹁おやすみ﹂
彼は彼女の額を叩くと踵を返した。数歩歩いた時、背に彼女の声
がかかる。
この世界の言葉ではない、小さな呼びかけ。
それにエリクが振り返ると、彼女は何か言いたげな目で彼を見て
いた。
他に動くものはなく、死に似た眠りだけが立ち込めるひととき。
今だけしか許されない時間に、けれど雫はそれ以上何も言わなか
った。
エリクは微苦笑すると再び歩き出す。
そしてこの三日後、構成は完成した。
※ ※ ※
﹁荷物少なっ!﹂
久しぶりの荷造りで自分のバッグに全てを詰め込んだ時、雫は思
わずそう叫んでしまった。隣でメアが首を傾げる。
1485
とは言っても実際この世界から元の世界へ持って帰るものなどな
いのだし、整理してみれば大学からの帰り道に持っていたものと同
じである。となれば少ないのは当たり前のことだろう。雫はバッグ
を肩に負うと部屋を出る。小鳥に戻ったメアがその肩に止まった。
雫は最初、メアを一緒に連れ帰るつもりだったが、それはエリク
とレウティシア両方から止められた。
世界構造が違う以上、魔族を連れて行って変化がないか分からぬ
ことだし、魔法がない上言葉が通じない世界では使い魔を使うこと
は困難だと注意されたのだ。
メアとも別れなければならないということは迷う雫の心に重く圧
し掛かったが、彼らの言うことはもっともだと理解すると、それを
了承した。主人である彼女がいなくなれば契約上エリクの使い魔に
なるという小鳥の背を、何度も指で撫でる。
待ち合わせの場所である執務室に向かって歩いていると、向こう
からエリクがやって来た。
﹁迎えに行くつもりだったのに﹂というようなことを口にしている
らしい彼と並んで、雫は廊下を歩き出す。
外は天気がいい。穏やかというには少し熱のある光が降り注ぎ、
緩やかな風が吹いていた。
彼女は窓の外の緑を眺めて、ふとそのまま立ち止まる。
﹁あ! そうだ!﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁写真撮りましょう! 写真!﹂
﹁シャシン﹂
記憶力のいい彼はその単語が何を示すのか覚えていたらしい。雫
が携帯電話を取り出すと苦笑した。彼女は通りがかった女官を捕ま
えてその操作を頼む。
城に仕える優秀な女官であるらしい年配の女性は、突然見たこと
1486
もない機械を手渡され、聞いたこともない言語で頼みごとをされる
と目を丸くした。だがエリクが大体を察して補足すると、頷いて小
さな画面を構える。
﹁うわー、最後だからって無茶苦茶してる感じがしますが、すみま
せん﹂
目の前の景色が写り込む機械に絶対困惑しているのだろうが、表
情にそれを出さない女官の精神力に感嘆すると、雫はエリクと並ん
で窓際に立った。
少し照れくさそうに笑ってシャッターの音を待つ。
小さな画面に残るであろう一枚。
だが、それがなくとも遠い世界のことを、人々のことを忘れるは
ずがない。
風化させたくないという思いが記憶を残す。ずっとずっと、彼女
が死ぬまで。
雫は受け取った画面の中の自分たちを見ると笑った。それをエリ
クに見せて素直な感想を洩らす。
﹁何か写真が残るってすっごい違和感!﹂
﹁どういう仕組みなんだろう。魔法じゃないことの方が不思議﹂
それぞれの言語でいまいち噛み合わない会話を交わしながら歩く
二人は、そうしてまもなく執務室に到着した。既に中には、今回の
帰還に立ち会う四人が待っている。
王族の兄妹と逸脱者の二人。
雫が異世界から来たことを知っているのはたったそれだけだ。
オルティアは居合わせたら怒り出しそうだという理由で来なかっ
た。ラルスに言わせれば﹁泣くからだろ﹂ということらしいのだが、
どちらでも彼女らしいと雫は思う。レウティシアが支度を確認する
と、その場に転移門を開いた。
一年ぶりの砂漠はやはり暑い。
1487
熱風が乾いた砂を巻き上げ、白い大地に優美な曲線を描く。
そこにいるだけでじりじりと焼けだしそうな空の下、一行は大き
くなったドラゴンに乗ると位置を微調整した。
砂の上に落ちる大きな影を見下ろしながら最初の場所を確認しよ
うとする雫は、あの時自分が見上げていた生き物に今乗っているこ
とを不思議に思う。
ここに現れた時から全ては始まったのだ。
再びここに戻ってくるまでの道のりが長かったのか短かったのか、
それは容易に判断できない。
﹁あ、多分この辺です﹂
遠くに見える低木の影から見て、雫は眼下を指し示す。
この世界の何処から﹁穴﹂を開くかで元の世界の何処に出るかが
決まってしまうというのだから、どうしても慎重にならざるを得な
い。
車道の真ん中に出たらどうしようと、いささか現実味のある不安
を抱きながら、彼女は砂の上に降り立った。辺りを見回して景色を
確認する。
﹁うん。あってると思います⋮⋮きっと﹂
﹁多少は調整が効くから。開いてから確認すればいい﹂
エリクの言葉は分からなかったが、﹁心配するな﹂というような
ことを言っているのだろう。もっとも彼は無責任な言葉はかけない
からもっと実務的なことを言っているのかもしれない。
雫は苦笑すると頷いた。彼女がその場を下がると何もない空間を
中心に四人の詠唱が始まる。
まるで不可思議なその光景。
そう言えば詠唱の言葉だけは最初から意味が分からなかった、と
雫は風に乱れる髪を押さえながらぼんやり思った。
その横に立つ王がぽつりと呟く。
﹁残ってもいいんだぞ?﹂
﹁王様?﹂
1488
人参を撲滅して来いとでも言っているのだろうか。彼女はとりあ
えず﹁無茶言わないでください﹂と返しておいた。
二人は口に砂が入るのを避けて沈黙すると、続いていく詠唱を見
つめる。
熱砂は刻一刻と風によって舞い上がり、砂漠は少しずつその姿を
変えていく。
そして同様に、この大陸の言葉もこれから徐々に移り変わってい
くのだろう。雫が塗り替えた変化が目に見えるようになるのはいつ
のことか。十年後か百年後か。それとももっと先か。彼女は言葉が
乱された大陸の未来にしばし思いを馳せた。
これでよかったのだろうか、と不安が残らないわけではない。
ただ言葉の自由を本当に知っているのは自分だけであるからこそ、
彼女は﹁これでいい﹂と思うことにしていた。
思いは言葉に。言葉は思いに。
絡みあって広がりながらも移り変わっていく。伝えたいと思う、
その感情と共に。
詠唱が終わる。
瞬間、気圧が変わるような違和感が耳の奥をくすぐった。
固唾を飲んで見守るその先で、何もない空間に﹁穴﹂が現れる。
彼女がこの世界に来た時とは違う、転移門に似た澄んだ穴。
そこに見覚えのある風景を見出して雫は息を止めた。
水のヴェールがかかったような表面。薄い皮膜の向こうに、あの
日彼女が姿を消した道路が映っている。大学に通う為、数ヶ月間毎
日歩いた道。懐かしい日本の街並みに、雫は胸が熱くなった。引き
寄せられるように一歩一歩砂の上を進み、穴の前に立つ。
1489
向こうではどれだけの時間が過ぎているのだろうか。
みな心配しているに違いない。姉は泣いているだろう。妹は弱音
帰ったらまず家に戻って、みんなに謝って、友達にも、
を飲み込んでいるかもしれない。
︱︱︱︱
大学にも、本も返さなければ⋮⋮
あっという間に溢れ出す思考。
望郷に焼かれる胸に、雫は鈍痛を堪えると深呼吸して振り返った。
この場を作ってくれた一人一人に頭を下げる。
﹁本当に、ありがとう、ございます。うれしいです﹂
たどたどしくも律儀な挨拶を述べる雫に、逸脱者の二人は笑って
手を振った。
レウティシアは残念そうな目で﹁気をつけて﹂と返す。その兄は
﹁ほどほどにな﹂と言っただけだった。
雫は最後にエリクを見上げる。
﹁頑張って﹂
額を叩いていく指。
その優しさが好きだった。いつもいつも救われた。
本当に多くを貰って⋮⋮その半分を返せたかも分からない。
雫はもう一度彼に向かって頭を下げる。メアがエリクの肩に飛び
移った。
小さな緑の鳥に彼女は﹁ありがとう﹂と囁く。
運命など所詮人が左右するものだ。
だから彼女は自分で選び、この終りに辿りついた。
雫はバッグを手に、穴に向き直った。
乾いた空気、魔法のある世界の風を深く吸い込む。
1490
この世界が、この地に生きる人々が好きだ。出会った一人一人の
雫は目を閉じる。
手を取って礼を言いたい程に。
そしてこの自分も︱︱︱︱
迷いはない。
それはあるけれど、ないものなのだ。ないと思って前を向く。
いつだってこうして踏み出してきた。旅が終わる今に至るまで。
彼女は全ての息を吐き出す。
﹁シズク﹂
よく響く声。
雫は振り返った。
多くを語らない男を見つめる。
エリクはきっともう言わない。あの時凍える城で言ってくれたの
と同じ言葉は。言えば何かが変わってしまうから、彼は最後まで言
葉にしないだろう。雫は微笑んで頭を下げた。
そして、穴に向い一歩を踏み出す。バッグを持った手をその先へ
伸ばした。
※ ※ ※
彼女がずっと持ち歩いていたバッグ。
あちこちを旅して傷だらけになった鞄が穴を通り抜けていくのを、
エリクは無言で見ていた。音の聞こえぬ向こう側で、それがアスフ
ァルトの上に着地すると口を開く。
﹁⋮⋮シズク﹂
四人で作った構成は、役目を果たしたかのようにぼやけて掻き消
えた。
1491
後には何も残らない。
強烈な熱気を注ぐ陽光に彼女は目を細めながら振り返る。
﹁親不孝とは思うんです⋮⋮でも今の私は、やっぱりこの世界の中
で作られた私ですから﹂
全部を詰め込んだ鞄だけを元の世界に投げ渡した女。困ったよう
に、けれど迷いない目ではにかむ雫は、言葉を失った男に向けてそ
の手を伸ばした。
﹁だから、わたしに、言葉をおしえて﹂
こうして二人の旅は終わる。
水瀬雫の名は、大陸の歴史の何処にも残ってはいない。
ただ生得言語が失われた変革期の初めに、一人の学者の名が残っ
ているだけだ。
ヴィヴィア・バベルという名で記される彼女は、幼児期における
言語習得の方法確立に携わった一人として、また数十冊もの絵本の
作者としてささやかに歴史の中にその名を列ねている。
伸ばされた手を取る。
ひたむきで温かな情熱の目。
でも厳しくするよ﹂
いつでも諦めなかった彼女の手を握って、エリクは微笑した。
﹁喜んで。︱︱︱︱
﹁きびしく?﹂
﹁頑張ろうってこと﹂
彼女と魔法士の旅はどのようなものであったのか。
その最後に何があったのか。
1492
歴史は語らない。人々も何も知らない。
ただ大陸を覆す変革と闘争の果て、二人は並んで平穏の中に帰っ
ていく。
言葉を交わし、思いを重ねる。
その生涯は幸福なものであったと、彼女が描いた最後の一冊は長
く子供たちに伝えていくのだ。
End
1493
手紙
﹃もし、この手紙をみんなが読んでいるのなら、その時私はこちら
に残ることを決めたのだと思う﹄
一年ぶりに届いた姉からの手紙は、そんな出だしから始まってい
た。
澪の姉である雫が大学からの帰り道、行方不明になったのは夏休
みに入ったばかりの暑い日のことだ。夜になって学生会館からもた
らされた﹁点呼に戻ってこない﹂という知らせに家中が騒然となっ
たことを覚えている。
両親からすると、三人姉妹の真ん中である雫は、海や澪と比べて
大人しめで控えめ。あまり自分の意見を言わず手のかからない子で
あったらしい。
だがずっと姉の背を見て育ってきた澪は、本当は彼女が強い芯を
持つ人間であることを知っていた。
ただその芯を滅多に見せようとしないだけで︱︱︱︱
﹁絶対何かあったんだよ! 雫姉は家出したりしない!﹂
一番早くそう訴えたのは澪であったが、他の家族はその意見に賛
同しても、では何があったのか、までは分からない。警察に相談し
捜索願も出しはしたが、それだけでは何の情報も得られなかった。
﹁捜してくれないんだよね。夏休みだしどうせ何処かに遊びに行っ
1494
たんだって⋮⋮でもありえないよ﹂
学生会館の雫の部屋から母と姉と共に荷物を引き取りに行った時、
澪は憤りも露に声を荒げていた。
けれど娘がいなくなってから少しやつれた母は悲しそうに頷いた
だけで、姉は相槌を打たない。彼女は自分だけが空回りをしている
ように感じて黙り込むと、乱雑にダンボールを組み立てた。
六畳に満たない小さな部屋には、余分な荷物はほとんどない。た
だ教科書らしき本と最低限の生活用品があるだけで、それらがきち
んと整理されているところも姉らしいと思う。
その理由に澪は一つだけ、
家出をするような人間ではないのだ。家族に何も言わず姿を晦ま
す性格ではなかった。
ならば何故帰ってこないのか︱︱︱︱
心当たりがある。
普段、家族の中でも物静かに落ち着いて一歩退いているかのよう
だった彼女。その彼女が本当はずっと何かを探しているのではない
かと、そう思う瞬間が前から何度かあったのだ。
それは例えば、両親が三人の娘のそれぞれの性格を話題に乗せる
時。
あるいは一番上の姉が夢見がちに自分の理想を語る時。
雫の視線はまるでその場にはないものを探して彷徨う。
そして彼女は澪が自分を見ていることに気づくと、困ったように
苦笑するのである。
だから雫が家を出て学生会館に住みたいと言い出した時、澪は淋
しさを覚えながらもそれに賛成した。姉が探しているものはもっと
広い場所にあるのではないかと、そう感じて。
1495
※ ※ ※
﹃どうせ信じないと思うけど﹄
そんな匿名のメールが入ったのは、雫がいなくなってから半年、
業を煮やした澪がインターネットを使って情報提供を求めだした時
のことだ。﹃女の子がいなくなるのを見た﹄と書かれていたメール
に飛びついた彼女は、渋る相手に食い下がって詳しい話を聞きたい
と求めた。
名前も性別も明かさない相手は、直接会いたいという澪の要求は
最後まで拒んだが、代わりに自分が見たという詳しい話を教えてく
れたのである。
その日彼は、二階にある自分のアパートのベランダによりかかっ
て煙草を吸っていた。
閑静な住宅街であるその場所は、少し道を登れば雫の通っていた
女子大へと通じている。けれど夏休みに入ったせいか、その日はほ
とんど人通りもなかった。そこに、一人の女子大生が通りがかった
のだ。
何の変哲もない光景。彼は歩いていく彼女を風景の一部として眺
めていた。
だが彼女は、彼の見ているその前で﹁穴に吸い込まれて消えた﹂。
まるで蜃気楼のような非現実的な出来事。暑さのせいで幻でも見
たのかと思った彼はしかし、しばらくして辺りに貼られた張り紙な
どから、本当に女の子が行方不明になっていることを知ったのであ
る。
﹁信じらんない⋮⋮﹂
詳しいメールを見た澪は正直なところそう思ったが、折角教えて
くれる気になった相手にそのままは返せない。だからその時は形式
1496
的なお礼を述べて終わった。
それきり彼女はもっと有力な情報を求めて必死になる。
しかし、澪がどれほど手を尽くしてもそれ以上の情報は得られな
い。最初は張り紙を作ってあちこちに捜索をお願いしていた両親も、
半年を過ぎると家で黙り込んでいることが多くなった。﹁神隠しに
あったのかしら⋮⋮﹂と気落ちしたように呟く母親に澪は眉を跳ね
上げる。
﹁ばっかばかしい! そんなことあるわけないじゃん!﹂
﹁だって、あまりにもおかしいでしょう? あの子は大人しかった
から、きっと⋮⋮﹂
きっと、何なのか。
澪はその場で叫びだしたくて仕方なかった。
いつまで経っても手がかりの得られぬことに、親戚などが﹁娘さ
んが一人じゃなくてよかったねぇ﹂と言っていることを彼女は知っ
ている。そして現に両親が海や澪を指して﹁あなたたちがいてよか
った﹂と口にするようになったことも。
彼らにそんなつもりがないことは分かる。彼らは彼らで雫が心配
で、同様に海や澪も可愛がっているのだろう。
そうやって雫を雫個人として見なかったからこそ、彼
だがそう思いながらも澪は納得できない激情が燻って仕方なかっ
た。
︱︱︱︱
女は帰ってこないのではないかと。
※ ※ ※
1497
﹁鞄が見つかった﹂と、警察から連絡が入ったのは、夏休みが始ま
る少し前のことだった。
澪はその連絡を受けると、母親の制止もまたず電車に飛び乗って
警察署に向かう。
自分が身分を証明するものを何も持ってこなかったと気づいたの
は、いざ警察署についた時のことだ。両親の運転する車で先につい
ていた姉は﹁澪ちゃんの気持ちも分かるけど、あんまり一人でどこ
かに行かないで﹂と涙混じりに彼女の手を引いた。
自分はいなくならない、と言いかけて澪は沈黙する。
それは確信を持っては言えない言葉だった。
鞄に入っていたのは、本と財布、筆記用具や音楽プレイヤー、細
々した小物や携帯電話などで、それは間違いなく雫の持ち物だった。
そして本の間に挟まった手紙と﹁澪へ﹂と書かれた紙袋。
確認の為、この場で読んでみて欲しいという警察の要望を受けて、
父親が封書を開封する。
﹃もし、この手紙をみんなが読んでいるのなら、その時私はこちら
に残ることを決めたのだと思う﹄
雫からの手紙は、そんな言葉で始まっていた。
ルーズリーフの端を切り落として作られた便箋。綺麗に揃った文
字はびっしりと裏表に渡って書き込まれていた。
自分はちょっとした事故で、とても遠い場所に飛ばされてしまっ
たのだということ。そこは簡単に行き来も出来ない場所で、今まで
連絡の仕方も戻り方も分からなかったのだということ。
けれど向こうで色んな人に助けられてあちこちを彷徨って、帰り
方を知った⋮⋮
そこまで読んで、澪はその場から駆け出した。
1498
帰り方が分かったのなら、何故帰ってこないのか。
どうして向こうに残ることを決めたのか。
こんなにもみんなが心配して、ずっと帰りを待っているのに、ど
三人姉妹の間に戻ることが嫌なのか。
うして戻ってきてくれないのか。
それとも︱︱︱︱
﹁雫姉の馬鹿⋮⋮﹂
﹁そんなことを言わないで﹂
車の影に蹲って泣いていた澪は顔を上げた。
そこには困ったような、けれど何処かすっきりしたような海が立
っている。少しだけ雫に似た顔。やはり自分たちは姉妹なのだと、
その時澪は思った。彼女は涙を手で拭うと姉が差し出してきたもの
を見やる。
それは、先ほどの手紙と澪に宛てられた紙袋だった。袋を開けて
みると、そこには数冊のノートが詰められている。澪は一番手前の
一冊を引き抜いて中ほどのページを開いてみた。
﹃五月十二日
報告書作成終了。レウティシア様からカカオを貰った! でもこ
れをどうすればいいのか⋮⋮。現代人の自分に凹む。チョコレート
の作り方くらい知っておけばよかった。カカオから﹄
﹁⋮⋮何これ﹂
﹁チョコレートの作り方がわからないんじゃないかな? カカオか
ら﹂
﹁普通知らないよ﹂
一日一日、詳細に書かれている日記。
見覚えのない固有名詞ばかりが並ぶノートを澪はどんどん捲って
1499
いく。その中に自分の名前を見つけて︱︱︱︱
彼女は手を止めた。
﹃お姉ちゃんに会いたい。澪に会いたい。家に帰ってお母さんの料
理が食べたい﹄
﹁帰ってくればいいのに﹂
﹁続きがあるわ﹂
﹃ここに来て分かったことは、自分が愛されていたということ。
親から、姉妹から、当たり前のように多くをもらって育ててもら
った。本当に恵まれていた。そして、そうでなければきっと、ここ
まではこれなかっただろう。
でも私は与えられた基盤を持ってこの世界に来て、そこで今の自
分になったのだ。二つの世界が私を形成した。家族と暮らした十八
もっと自由に行き来が出来たらいいのに﹄
年間とこの世界で旅をした一年、どちらが欠けてもそれは私ではな
い。
︱︱︱︱
姉の書いていることは、分かるようで分からない。
ただ⋮⋮雫は探していたものを見つけたのだと、そのことだけは
ぼんやりと感じ取れた。
澪は更にページを捲り、最後に近い一ページで手を止める。
﹃私は、この世界を変えてしまった。それがいいと思ったから。で
も私のエゴなのかもしれない。病気などではないと信じて欲しかっ
た。もっと人にも言葉にも可能性があるのだと。でもこれでいいの
だろうか。私が帰ってしまって、その後この大陸はどう変わってい
くのだろう。
言葉を乱した私にはきっと責任がある。
変わってしまった世界で可能性を示さなければならないのは、誰
1500
よりも私なんじゃないだろうか﹄
日記の最後は﹃迷っている﹄と、それだけで終わっていた。
※ ※ ※
四冊に及ぶ日記を、その晩澪は徹夜して何度も読んだ。
まるで絵空事のような御伽噺。
だがその中で姉はいつも必死になって苦労をして次へと進んでい
る。
読み進むごとに変わっていくその姿は、澪が自分しか知らないと
思っていた雫の芯の可能性そのものだった。
﹁雫姉の馬鹿﹂
机の上に並べられた手紙と携帯電話。
手紙には家族への謝罪と感謝、そして﹃愛している﹄という一言
が綴られていた。
﹁いつからそんなこと言うようになったんだっての﹂
強い意志を窺わせる真摯な文面には、大人しく見えた姉の面影は
ほとんどない。両親もそれに何かを思ったのか、溜息混じりに﹁元
気そうでよかった﹂と洩らしただけだ。
澪は姉の携帯に残されていた写真を覗きこむ。
﹁そういうことは恋人に言うもんだよ、雫姉⋮⋮⋮⋮無理か﹂
長く伸びた髪。
すっかり大人びて﹁女性﹂になってしまった姉は、写真の中穏や
1501
かに微笑んでいる。
隣り合う男に向けた信頼と愛情。そこに紛れもない幸福を見て取
った澪は﹁ちぇー、負けた﹂と小さく溜息をつくと、いつか来た匿
名の情報メールに改めてのお礼を送る為、ノートパソコンを開いた
のだった。
1502
予知夢︵100題5より︶
昔見ていた未来の夢では、いつも自分は一人であった。
何処か遠くの街で、或いは知らない国で、一人で働き、余暇を過
ごしている夢。
そこにどんな願望が込められているのかは考えたことがない。た
違う夢を見るようになったのだ。飛
だ雫にとって、夢の景色はいつもそのようなものだった。
けれどいつからか︱︱︱︱
びぬけて変わったところのない、胸が痛い程温かい夢を。
﹁ひめ、ゆめを、みました﹂
たどたどしい言葉でそう言うと、テーブルの向かいに座るオルテ
ィアはカップの湯気越しに目を細めた。ゆっくりと、雫にも聞き取
りやすい発音で返してくる。
﹁どのような夢だ?﹂
﹁みらい、の、ゆめです﹂
自分の発音が正しいか、雫は女王の表情を確かめる。
まったく一から異世界の言語を学ぶということは容易くはない。
雫はそれでも﹁言葉が通じていた時期﹂があった為、読み書きにつ
いては若干ましではあるが、聞き取りと発音は実に危ういのだ。こ
の間などはオルティアに﹁差し入れのケーキを持ってきた﹂と言う
つもりで﹁町を焼いてきました﹂と連呼して大騒ぎになったくらい
である。
雫は緊張して女王を見たが、ちゃんと通じていたらしい。オルテ
1503
ィアは﹁未来の夢か﹂と微笑んだ。
﹁おにわで、いっしょ、ひめと﹂
﹁今と変わらぬではないか﹂
﹁こどもが、いました。わたし、と、ひめの﹂
﹁ほう⋮⋮妾はお前を王配にするのか。それも面白いな﹂
返された冗談は、分からない単語があった為、雫には理解できな
かった。首を傾げる彼女に、オルティアは﹁よい﹂と笑ってみせる。
忙しい執務の合間、テーブルを挟んでお茶を飲む二人は、窓越し
に城の中庭を見下ろした。
いつから、人と一緒の未来を夢見るようになったのだろう。自ら
が知る場所で、親しい人間たちと時間を共にする夢を。
それは或いは、﹁自分は何であるか﹂と、あまり考えなくなった
頃からかもしれない。
誰と比べることもなく、誰に譲ることもなく、自分で自分の道を
選べるようになった頃、見始めた未来はいつも、この魔法のある世
界でのものだった。精神から少しずつ異世界の人間となっていった
雫は、走り抜けてきた旅路を振り返る。
穏かな空気が茶の香りと混ざり合う午後、オルティアはふっと柔
らかい目で青い草々を眺めた。
﹁そうだな。妾もそのような夢を見てみたいものだな﹂
﹁いっしょに、います。ひめと﹂
﹁ああ﹂
他愛もない約束を重ねて、未来へと繋げる。
そう出来る今は幸福だろう。雫は上手く言葉に出来ぬ思いを胸に
空を見つめる。
1504
だがその下にいる自分はもう、一人ではなかった。
かつては想像もしなかった遠い世界、広がる青は故郷の空と同じ
く︱︱︱︱
※ ※ ※
十年後
﹁陛下⋮⋮﹂
﹁どうした、ヴィヴィア?﹂
﹁私時々、自分の子育て間違ってたかな、とか思うんです⋮⋮こん
な風に城の庭におかしな植物を蔓延らせてしまった時とか⋮⋮﹂
﹁気にするな。いつものことであろう﹂
﹁それで納得してしまうのも親としてどうかと﹂
﹁知っていて止めぬ妾の子らにも問題はある。あとでまとめて説教
しておけ﹂
﹁かしこまりました﹂
1505
幸福の色︵恋愛色注意︶
焼きあがった菓子の匂いが居間にまで甘く漂ってくる。
穏やかな日の光。窓から差し込む暖色の届かぬところで本を読ん
でいた男は﹁おみゃつですよ﹂という声に顔を上げた。湯気の漂う
盆を持って入ってきた女を振り返る。
﹁おみゃつ?﹂
﹁おみゃつ﹂
﹁⋮⋮ああ、おやつか﹂
微妙な発音の差異を修正してやると雫は目を丸くした。首を傾げ
て﹁おやつ?﹂と聞き返す。彼女の持っている盆にはお茶と、卵色
のふっくらしたケーキが乗っていた。
雫がこの世界に来た
それらをテーブルに並べ始める女を手伝って、エリクは皿を手に
取る。
二人が暮らしているのはワノープの町︱︱
当初、一月を過ごした町である。
彼女がこの世界に残ることを決めてから三ヶ月程はファルサスの
宮廷で暮らしていた彼らも、宮廷内で言葉が分からないとおかしな
揉め事も避けにくいということで、ひとまず平和なこの町に戻って
きていた。
旅に出る時に図書館を辞めてしまったエリクは、レウティシアの
要請もあって月に一度ファルサスの宮廷に出向いて研究報告をする
という非常勤扱いになっている。一方雫はシセアの家に間借りしな
がら家業を手伝ったり町の子供たちの世話をして過ごしていた。
1506
一日に一度はエリクの家を訪ねて勉強している彼女は、大分聞き
取りも発音も出来るようにはなってきたが、まだかなりたどたどし
い。
子供たちの流行病が実は病気ではなく、これからの世代には当然
のことだという事実は各大国の努力で大分周知されるようになって
きていたが、その中にあって﹁言葉を失った﹂彼女は、病の対策に
関わっていたということもあり、職務中の事故か何かでこうなった
のだと周囲に思われていた。
それでも温かく迎え入れてくれた住民たちの間で徐々に言葉を覚
えている雫は、自分で作った単語カードを確認しながら問う。
﹁おみゃ、つ。おやつ?﹂
﹁おやつ﹂
﹁おやつですよー﹂
﹁正解﹂
男の微笑を見ると雫は相好を崩した。椅子を引いて座るとカップ
を手に取る。
﹁発音は、むずかしいですよ。聞き取りより﹂
﹁だろうね。身についた癖があるから。文脈を考えれば大意は取れ
るけど﹂
﹁ねおねおてろる?﹂
﹁⋮⋮取れてないな﹂
彼女の語彙は決して多くない。エリクは反省すると﹁言いそうな
ことは、分かる﹂と単純に言い直した。
途端雫は困ったような笑顔になる。
﹁お前の考えそうなことは分かる﹂と言われてむっとする人間もい
るが、彼女はどうやらその中には入らないらしい。小さな手がカッ
プを置くとケーキに伸びた。肩に乗っている小鳥の為に卵色の生地
がちぎられる。
1507
他愛無い会話を交わしながらのひととき。これが彼らの日常の光
景であった。
休憩を入れて五時間をエリクとの勉強に費やすと、雫はシセアの
家に帰った。
当初彼女は一人暮らしをしようかとも思っていたのだが﹁言葉が
分からないなら尚更うちに来なさい﹂と言われてシセアの好意に甘
えることにしたのだ。
家の中に誰の姿もないと分かると、雫は仕入れた生地が置かれて
いる倉庫に向かう。そこでは今まさに仕入れられたばかりの生地を、
シセアと夫が整理し始めているところだった。
﹁てつだいますよ﹂
﹁ああ、ヴィヴィア。お願い﹂
二年前は周辺国の情勢不安により仕入れが安定していなかった生
地も、ここ一年程は流通に滞りがない。
自分の背丈程もあるロール生地を運び終わった雫は、最後に生地
ではないものが仕入れ荷に混じっているのを見つけて目を丸くした。
﹁すごい。結婚のドレスですか?﹂
﹃花嫁衣裳﹄の単語が分からなかった彼女は、白く大きなドレスを
見て主人に問う。
男は笑いながら﹁町の娘が今度結婚するから。注文していた衣裳
を一緒に持ってきてくれって頼まれてたんだよ﹂と答えた。
用意されていた衣裳かけにドレスを吊るしてしまうと、シセアは
雫を振り返る。
﹁どう? 綺麗でしょう﹂
﹁きれいです﹂
そう言えばこの世界に来てからまだ一度も結婚式に参列したこと
はない。今後そのような機会があるのだろうかと考えて雫は悩んだ。
1508
女性の適齢期は平民であれば二十代前半、貴族や王族は十代後半
らしいのだが、彼女が知る王族の女性どちらもが未婚である。彼女
たちは既に二十代であるし、少々性格に癖のあることを考えると中
々相手が定まらないのかもしれない。雫はどちらも﹁美しい﹂と賞
賛されてやまない彼女たちの花嫁姿を頭の中で思い浮かべて憧憬の
溜息をついた。
だがその溜息を聞いて、シセアは僅かに表情を曇らせる。
﹁ヴィヴィアも、もうすぐ二十歳だっけ?﹂
﹁たぶん。あれ、もうなっているかな﹂
この世界に来てから、こちらの暦では二年が過ぎたが、元の世界
とは暦にずれがあるので確信がもてない。もう適当に誕生日を決め
た方がいいだろうか、と思う雫にシセアは早口になると何か話しか
けてきた。
﹁あ、シセア、待って﹂
興奮ぎみの時などにこうして口調が早くなる女は、雫の小さな制
止にも気づかぬように話を続けている。断片を拾うと﹁誕生日﹂﹁
大人﹂﹁周り﹂﹁エリク﹂﹁いい子﹂などが聞き取れたが、繋がり
が分かるようでやはりよく分からない。
苦笑した夫がそれを留めるとシセアは我に返った。改めて雫を見
下ろし、ゆっくり言い直す。
﹁結婚式、ひらくの、いきたい?﹂
﹁あ、行きたい!﹂
町であるという結婚式に参列させてくれるのだろうか。彼女は目
を輝かせて頷いた。だがすぐに他のことに気づく。
﹁服、ふつうでいい? ちゃんとした方がいい?﹂
この辺りをすぐに気にしてしまうのは日本人気質なのかもしれな
いが、雫は自分が礼儀に反しないか心配になった。
普段着を見下ろす女にシセアは笑顔になって頭を撫でる。
﹁作ってあげるから大丈夫﹂
1509
﹁あ、ありがとうございます﹂
子供がいないシセアは雫を娘か妹のように可愛がってくれるのだ。
その日早速採寸をしてもらった彼女は、期待に胸を膨らませて眠
りについた。
※ ※ ※ ※
﹁うわ、論文が山積みだ﹂
つい日本語でそう呟いた雫に、エリクは苦笑する。
どうやらもうすぐ城で研究発表会のようなものがあるらしく、そ
れに出席を命じられた彼は城から多くの資料を持ち帰ってきたそう
なのだ。
とりあえずお茶を出しては見たが、これはあまり邪魔をしないよ
う勉強を見てもらうのを控えた方がいいかもしれない。﹁いつです
か﹂と聞いたところ﹁一月半後﹂と返ってきたのでそれくらいなら
ば自習をしていればいいだろう。
彼女は手持ち無沙汰なのもあってエリクの家の家事をしてしまう
と﹁今日はバイト行って来ます﹂と挨拶した。
論文に埋もれかけていた男は顔を上げると﹁ちょっと待って﹂と
呼び止める。
﹁君、結婚式開くのに行きたいって本当?﹂
﹁あ、本当。楽しみです。服も、作ってもらってるし﹂
期待を膨らませて答えると、彼は判然としない微妙な表情になっ
た。しかしそれに気づく前に雫は逆に聞き返す。
﹁エリクは、行かない?﹂
﹁いや行くけど﹂
1510
﹁あ、じゃあ一緒に﹂
﹁うん﹂
この町の中なら一人でも平気ではあるが、彼と一緒ならそれ以上
に安心である。
エリクは論文を指して﹁出来るだけ早く片付けるから﹂というと
机に戻った。
その穏やかな笑顔に雫は不思議と嬉しくなると﹁頑張ってくださ
それが、一月半前のことである。
い﹂と彼の家を後にする。
︱︱︱︱
※ ※ ※ ※
ワノープの町で開かれる結婚式は、そのほとんどが町外れにある
時代がかった講堂で行われる。稀に自宅で式を行う人間もいるが、
支度が大変なのと広さの関係で、そういった式には滅多にお目にか
からない。
その為本日の式も、講堂の扉を大きく開いて付属の庭に宴席を用
意しながらのものになっていた。
シセアに連れられて会場にやって来た雫は、講堂の一室で鏡の中
の自分を見ながら絶句する。
﹁⋮⋮何故、ウェディングドレス﹂
日本語の述懐は誰にも意味が分からなかったらしい。雫の後ろで
ヴェールを調整していた女が﹁若い娘は華やかだねぇ﹂と笑った。
シセアが横から雫の化粧を直す。
小さな顔に見慣れた黒茶の瞳。大きな目を映えさせ、頬の薔薇色
を増すように施された化粧は巧みに彼女の愛らしさを引き立ててい
1511
た。長く伸びた黒髪は後ろで結い上げられ、上げられた前髪の代わ
りに耳の前に一房髪が垂らされている。そしてその一房にも白いレ
ースが編みこまれていた。
あちこちに飾られた白い生花。円形に広がる生成り色のドレスは
素朴ではあるが幼さの残る彼女の容姿によく似合っている。何処か
らどう見ても非の打ち所のない花嫁である女は、困惑の淵に漂いな
がらシセアを見上げた。
﹁あの、これってアイテアの、神話の⋮⋮まねですよね﹂
﹃模す﹄という単語が分からない雫は、四苦八苦して事態を問う。
何故こうなっているのか、確認するのが遅すぎたのかもしれない。
だが、朝早くから会場に来た雫はまず平服のまま化粧をされ、疑
問に思う間もなく髪を結い上げられたのだ。
それくらいは自分でやろうかと思っていたのだが、よってたかっ
て町の女たちに弄くられる雫は﹁人の結婚式に参列するのだからき
最後に渡されたのはどうみても花嫁
ちんとしなければ﹂と思って彼女たちの好意に任せた。
しかしそこにきて︱︱︱︱
衣裳である。
疑問に思いながらも、かつて複数の花嫁を用意しての結婚式に関
係したこともあった雫は、またそれかと思い大人しく衣裳を着た。
そしてようやく支度が整ったので詳しい段取りを聞こうとしたと
ころ、返ってきたのは﹁あんたの結婚式だよ﹂という衝撃の言葉だ
ったのである。
﹁結婚!? 私が? 誰と!﹂
﹁僕と﹂
突然背後から降ってきたのは彼女の保護者とも言える男の声だ。
雫は慌ててドレスを引くと、何とか上半身だけ振り返った。戸口
に立っている男を視界にいれる。
﹁うわ、似合ってる! とかじゃなくて何ですかこの展開は!﹂
1512
﹁ごめん。何言ってるか分からない﹂
濃紺を基調とした魔法士の正装を纏っている男は、眉を寄せなが
ら雫の日本語を留めた。あちこちに銀糸の刺繍が施された魔法着。
細身にも見える彼は、しかし線の細さは少しも感じさせない。むし
ろ姿勢のよい立ち姿は、彼の精神をよく表して静かな存在感を周囲
に与えている。
ファルサスで暮らしていた頃も滅多に見なかった正装に加え、綺
麗な顔立ちをしている彼は実に人目を引く。レウティシアと並んだ
らさぞ絵になるだろうなぁと想像しかけた雫は、しかしすぐに我に
返ると言葉を探した。
﹁な、何で、結婚!﹂
﹁結婚式開くの行くって言ってたじゃないか﹂
そこまで返したエリクは、しかし何かに気づいたらしい。支度を
手伝っていた女たちに席をはずしてくれるよう頼むと、入れ違いに
中に入って戸を閉めた。
苦い、という言葉で表現してしまうにはやるせない悔恨の表情で
彼女の前に立つ。
﹁ひょっとして⋮⋮熟語が分からなかったのか﹂
﹁え﹂
﹁結婚式を開きに行くっていうのは、つまり⋮⋮結婚するってこと
なんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
雫には聞き取れなかったシセアの言葉。
あれは要約すると
﹁あんたは誕生日も来てもう大人になるんだし、いつまでも男の家
に出入りしていては不味い。周りの目もあるのだから、エリクのと
ころに通うならちゃんとしなさい。いい子だから﹂
ということだったらしい。
1513
それに加えて彼女は雫に﹁結婚しないか?﹂と聞いたのだ。もち
ろん雫は﹁したい﹂と答えた。そう取られたはずだ。
結果、彼女を妹のように可愛がるシセアは張り切ってドレスを縫
い、エリクにも事情を説明、というか﹁責任を取れ﹂と詰め寄った。
彼はその意見に納得しつつも雫の希望を聞き、同じく肯定された
ので、そのまま式の手配をして本日に至るというわけである。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
﹁ごめん。僕が悪い。ちゃんと確認しなかった﹂
先日研究発表を終えたばかりの彼は、この一ヵ月半ずっとその準
備にかかりきりになっていたのだ。
雫も邪魔をしないようほとんど顔を出さなかったのだし、食い違
いに気づかなかったのも無理はない。むしろドレスの仮縫いで試着
した時に、気づかなかった彼女の方こそ問題があるだろう。﹁生成
り色の服を着ていってもいいのか﹂とシセアに聞いたが﹁もちろん﹂
と言われたのでそれ以上不思議に思わなかったのだ。
あまりの唐突さに呆然とする雫を前に、エリクは苦笑すると扉に
手をかける。
﹁ちょっと事情説明して取りやめてくる。待ってて﹂
﹁え、ま、待ってください﹂
自分の粗忽さは分かったが、肝心なところが分からない。
雫は慌てて振り返ろうとして、そのまま転んだ。ヴェールに絡ま
って床の上に膝をつく。
﹁ぐう﹂
情けないことこの上ないが、今は本当に自分だけでは方向転換が
出来ないのだ。
何とか立ち上がろうとしたところに、けれど手袋を嵌めた手が差
し出された。
﹁大丈夫?﹂
1514
助け起こしてくれる男の手。
その手をじっと見つめた雫は、数秒の間のあと躊躇いがちに自分
の手を添わせた。彼を見上げ、藍色の瞳を真っ直ぐに射抜く。
﹁どうして、エリクは、結婚してくれるんですか?﹂
後は式を執り行うだけ、という段階になって中止してもらうのは
申し訳ないが、それよりも彼に自分の責任を取ってもらうのは申し
訳ない。
この世界には自分の意志で残ったのだ。それは決して彼の人生を
不当に縛る為ではない。
にもかかわらず何故彼は⋮⋮唐突な話を抵抗もなく引き受けてく
れたのか。
激しい困惑と、それだけには収まらない何かを持って彼女はエリ
クを見つめた。
小さな問いに一瞬目を瞠った男は、苦笑すると彼女を抱き上げる
ようにして床に立たせる。
﹁どうしてと言われても。君が好きだからかな﹂
﹁熟語ですか!?﹂
﹁違う﹂
意味が分かっても理解出来ない言葉があるとしたら、それはこう
いうものを言うのかもしれない。
雫は頭の中では﹁分からない﹂と思いながらも、だが感情だけは
真っ先に反応していた。
顔が熱くなる。耳までもが熱い。
化粧の下の素肌が熱を持ったことを悟って、彼女は手袋を嵌めた
両手を頬に当てた。
だがエリクはそれに気づかないのか彼女の前で踵を返す。
﹁多分笑い話で済むよ。言ってくる﹂
﹁あ⋮⋮待ってください!﹂
1515
彼の服を掴もうと伸ばした手。すんでのところで届かずまた転び
そうになる雫を、しかし今度は男の手が支えた。注意しようと口を
開きかける彼を遮って、彼女は男の腕を掴む。
﹁あの、あの、私、不束者ですけど⋮⋮﹂
﹁フツツカモノ?﹂
こんなちょっとした会話でさえ上手く通じない。
それでもこの一年、苦しいと思うことよりも楽しいことや嬉しい
ことの方がずっと多かったのだ。言葉も通じず家族もいない異世界
で穏やかな暮らしをしてこられたのは、紛れもなく彼が傍にいてく
れたからだろう。
共にいると安堵する。時折照れくさくて、とても温かい。
胸の鼓動が落ち着かない速さになってきているのを自覚しながら、
雫は声に熱を込めた。
﹁もしよかったら、取りやめないでください。あの、このままで、
私﹂
﹁分かった﹂
もどかしく零れ落ちていく言葉から気持ちだけを掬い上げて男は
微笑する。
大きな手が彼女の頬に触れた。遅れて唇が触れ合う。
分かち合う時間が一生になるのなら、それは幸福以外あり得ない
だろう。
それをいつからか知っていたからこそ、彼らは寄り添って生きて
きた。お互いの隣を安らげる居場所として。
﹁ヴィヴィア! そろそろいい? 始めるよ!﹂
廊下からの声。赤面し固まっていた雫は、エリクに手を引かれる
と慌てて一歩を踏み出す。
1516
こうして彼らの平穏は少しだけ色を変え、緩やかに流れながら長
く続いていくのだ。
※ ※ ※ ※
おまけ
その1
レウティシアが満面の笑みを浮かべてやって来る時はろくなこと
がない。
ラルスは経験上それをよく知っていた。知ってはいるが気づかな
いふりをして、いつも通りの声をかける。
﹁レティ、どうした?﹂
﹁兄上、ハーヴの給金十五年分をお支払いください!﹂
突然自分の名を呼ばれたことに、報告書を持ってきていた男は青
褪める。
とうに忘れかけていた勝負。その意味することを知ってハーヴは
おそるおそる聞き返した。
﹁あの、それって⋮⋮﹂
﹁ふふふ。エリクとヴィヴィアは結婚したそうですよ! さぁ兄上、
今度は間違いありません﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ファルサスに雪が降りそうだな。ハーヴ、防寒対策を練
って来い﹂
﹁話を逸らさないでください! 本当なのですよ!﹂
畳み掛ける王妹に、王は耳を両手で塞いで﹁聞こえない﹂をやっ
ている。十五年分とはさすがにかなりの額である為気持ちも分かる
が、それでレウティシアが引っ込むような人間ではないこともまた
1517
確かだった。
耳を押さえる手を引き剥がそうとする妹にラルスは溜息をつく。
﹁分かった分かった。俺の負けだ。十五ハーヴを支払おう﹂
﹁十五ハーヴ?﹂
自分を変な単位にしないで欲しい。
そう思った彼はしかし、まだそれがましな事態であったことを知
った。王に呼びかけられて顔を上げる。
﹁よしハーヴ。お前、今から十五年レティの直属な﹂
﹁えええええええ、何ですかそれは⋮⋮陛下﹂
﹁兄上! ずるい!﹂
﹁ずるくないぞ。ちゃんとハーヴの給金は俺が払っとくから。十五
年間こき使え﹂
﹁それってもう十五年は昇給なしってことでしょうか﹂
折角親友のおめでたい話だというのに非常に心が寒い。
少しだけ泣きたくなったハーヴはラルスに﹁じゃ、これファルサ
スからの祝いの品としてあいつらに持ってけ﹂と家名授与から始ま
る手書きの目録を渡され、喜びつつも肩を落としながら執務室を出
たのだった。
※ ※ ※
﹁結婚した?﹂
その報告についペンを落としてしまったのは執務机に向かってい
たオルティアだ。
女王の前で雫は赤面する顔を押さえながら頷く。
﹁しました。三日前に﹂
﹁先に言えばよいのに。そういうことは﹂
そうすれば間に合うように祝いの品を届けてやったのに、とオル
1518
ティアはぶつぶつ洩らした。
雫がタリスの片田舎で生活したいと言い出した時、オルティアは
淋しさを覚えないわけではなかったが、それに反対しなかった。
言葉の分からない彼女は時に陰謀渦巻く宮廷においては無防備な
存在であるし、ファルサスにいて変な言葉ばかり教えられても困る。
その為女王は雫に﹁何処の転移陣からもキスク城都への転移を無
条件許可する﹂との資格を与えると、その出発を見送ったのだ。
勿論オルティアは、時々城に遊びにくる雫が保護者である男と親
しいことは知っていたが、それにしても随分突然な結婚である。何
を贈ってやろうか⋮⋮と考えながら執務室内に視線を彷徨わせ、ふ
とそこで凍り付いている臣下を見つけた。
一抹の哀れさが頭をよぎる。
男は女王の前であるということを半ば忘れているのか、たどたど
しい挨拶をしてくる雫に愕然とした視線を送った。
普段オルティアの前では絶対使わないぞんざいな言葉遣いで元同
僚の女に問う。
﹁結婚? お前ら恋人でも何でもなかっただろう﹂
﹁なかった。けど、結婚したの﹂
真っ赤な顔のまま答える雫は、嫌々結婚したようにはとても見え
ない。むしろその反対だろう。見ているだけであてられそうな空気
を漂わせてはにかむ。
そのままオルティアからの﹁後で贈り物を家に届けさせるからな﹂
という言葉に恐縮した女が帰っていくと、女王は哀れみの目で側近
を見やった。いつになく穏やかな声をかける。
﹁休暇を取りたいなら早めに言っておけ。たまには気分転換もよい
だろう﹂
﹁⋮⋮ご寛恕、感謝致します﹂
キスクは今日もそれなりに平和である。
1519
1520
盲目の魚 001
華やかな空間。
大きな広間には色とりどりのドレスが溢れ、軽い笑声と緩やかな
音楽が共に響いている。
すっかり日の落ちた窓の外からは夜の闇が影となって忍び込み、
そうとしか言いようのない各国の王族、要人
潜められた声、交わされる会話が波の如くざわめいて
曲にあわせて踊る人間たちをまるで夜の海を行く回遊魚のように見
せていた。
打ち寄せる。
虚飾の宴︱︱︱︱
たちばかりが集まる式典の中を、女は冷めた目を泳がせながら歩い
ていた。黒い絹のドレスを引いて溜息を噛み殺す。
﹁飽いた﹂
彼女の呟きに、側につく男は答えない。どのような相槌も望まれ
ていないことは明らかだからだ。
ただ彼は黙って計算をする。諸国との接触は充分だったろうか、
帰城の準備は整っているだろうか、その他主君を煩わせない為の様
々なことを。
女は長い睫を揺らし、琥珀色の双眸で揺れ動く人の動きを眺めた。
気だるげな視線が鮮やかな赤のドレスとその隣に立つ男を捉える。
お互い隣国同士の王であり、また大陸に四つしかない大国の王で
もありながら、この式典にて一度も彼女と会話を交わしていない男。
もっとも会話をしたくない相手の横顔に嫌そうな視線を投げかける
と、女は不意に踵を返した。
﹁もう充分であろう。帰る﹂
1521
﹁かしこまりました﹂
式典の類が嫌いな彼女としては思いのほか長く広間にいて諸国と
の対応に務めたのだ。既に当初の目的は果たされている。ここで帰
ってもさして問題はないだろう。男は部下に帰城の手配を確認した。
その間彼女は人のいない窓際に寄ると、壁に体をもたれさせ窓の
外を眺む。扇は持ってきていない為、欠伸を噛むことも出来ない。
代わりに小さく溜息をついた彼女の肩に、けれどその時男の手が置
かれた。
低い声が頭上から降ってくる。
﹁何だ、もう帰るのかオルティア。まだ早いだろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮遅すぎたと、今思った﹂
顔をあわせたくなかった一番の相手に捕まってしまった。オルテ
ィアは頭痛を覚えてこめかみを押さえる。
だが彼女の疲れ果てた表情とは逆に、ラルスは悪童のような笑い
を浮かべると﹁気を使うのに疲れたから少し俺に付き合え﹂と相変
わらず非常識極まりない発言をして、オルティアの血管を浮き上が
らせたのだった。
﹁疲れたのなら帰れ。妾に構うな﹂
﹁そう言うな。冷血で知られているお前と違って、俺には付き合い
がある﹂
﹁⋮⋮﹂
信じられないことではあるが、彼女の目の前にいるこの男は大陸
においては﹁寛大な王﹂で通っているのだ。﹁寛大﹂というより﹁
変態﹂だろうとオルティアなどは思うのだが、この事実を知らない
人間も存外多い。
それは男の外面のよさと王としての才覚ゆえだろうが、本性を知
っている方としてはたまったものではない。彼女はあからさまに嫌
1522
な顔になると背の高い男を睨んだ。
﹁お前と話をしていると妾が疲れる。さっさと王妃候補の中にでも
戻れ﹂
半年後には二十九歳になる彼は、この年齢の王族としては異例な
ことに妃がおらず、子供もいない。
末端の王族ならば独身主義も個人の自由として済まされるだろう
が、彼は大国の王であり、彼の国には王位継承権を持つ王族が他に
妹の一人だけしかいないのだ。したがってこのような場では大国の
妃に納まろうと野心と期待に溢れた娘が集まり、彼の周囲はまたた
くまに鮮やかな色の花々が咲く。
それを﹁疲れる﹂などと言うのは自業自得以外の何ものでもない
だろう。呆れた目で男を追い払うようにオルティアは手を振った。
﹁帰れ。一番野心家の娘でも選べ﹂
﹁王妃か。妃を置くのは面倒なんだがな﹂
﹁面倒が嫌なら死ねばいい。生きていること自体面倒であろう﹂
﹁まったくだ。子供の頃は毎日同じことを考えていた﹂
さらりと返された言葉。
その意味を遅れて理解したオルティアは軽く瞠目する。
だが虚を突かれた彼女とは対照的に、男は普段と変わらぬ人を食
った表情で広間を見回しているだけだった。真意の読めない瞳が再
び彼女の上で止まる。
﹁人のことより自分のことを心配した方がいいぞ? 流血女王の隣
に座したい男がいるかどうかを﹂
﹁妾に勝手な渾名をつけるな。お前に心配されずとも権力の座を望
む人間はいくらでもいる﹂
﹁そしてそういう男の大多数が無能なわけだな﹂
間髪おかない返しにオルティアは不快を表情に出してしまった。
肯定したくはないが、事実はまったくその通りなのだ。今まで彼
女の夫になろうと近づいてきた人間たちは皆、甘やかされた貴族の
1523
子弟ばかりでろくな人材がいなかった。
女王を踏み台にしてのし上がろうという気概さえも利用する気で
いたオルティアは、品定めの結果﹁何もせずに権力の蜜を味わいた
い﹂というだけの男たちばかりを見出して、失望と落胆を余儀なく
されたのである。
﹁多少は割り切るしかないと思うぞー。人には誰しも長短がある。
耳を自由に動かせるとかな﹂
﹁もっともらしいことと腹立たしいことを混ぜるな。お前が言うて
も説得力がないわ﹂
﹁出来るだけ無能な夫を迎えて国を傾ければいい。あとは俺が何と
かしてやる﹂
﹁奇遇だな。妾も同じことを思っていた﹂
刺々しい会話は艶のある黒いドレスを滑って行き、耳をそばだて
る周囲には届かぬまま消えていく。
この男が隣にいる以上、側近である男も﹁帰りの支度が出来た﹂
とは言い出せないだろう。
オルティアはこれ以上何の利益も得られないと判断すると、手袋
に包まれた片手を上げた。顔の前でひらひらと振ってみせる。
﹁ともかく、疲れたのならば国に帰れ。妾ももう帰る﹂
﹁つまんないぞ﹂
﹁戯言は妹に言え﹂
肉親でもないのにこの男の気まぐれには付き合えない。
そう思って彼の前をすり抜けかけた時、だがオルティアは上げた
ままの手を掴まれぎょっとした。無礼を非難しようとした時、秀麗
な男の顔が近づく。
﹁ならばもっと実務的な話をしようか、オルティア。お前が悪くな
いと思うような話を﹂
﹁⋮⋮何だと? 何の話だ﹂
そのような話があるならばさっさと言えと、目線で促す女に彼は
人の悪い笑みを見せる。
1524
つ
人の運命を変えていく強者の目。性格の悪さがありありと分かる
笑いにオルティアは反射的に顔を顰めた。
﹁簡単なことだ。損はさせない。次期ファルサス国王︱︱︱︱
まり俺の子を、産む気はないか、オルティア﹂
女王になってから一年余り。
これ程までに迷ったことはついぞなかった気もする。オルティア
は真剣にいくつかの選択肢を頭の中で比較した。
すなわち﹁狂ったか﹂と冷静に指摘するべきか、﹁馬鹿か?﹂と
憐れむべきか、﹁死ね﹂と率直に伝えるか、返答をどれにするかを。
だが結局口にした答はどれでもなかった。彼女は冷ややか、とい
うより脱力した視線を男に向ける。
﹁それで妾に何の得がある。ファルサスでもくれる気か?﹂
﹁俺の育て方が及ばなければ将来そうなるかもな。お前が母親だと
いうことを伏せるつもりはない﹂
正気とは思えない提案。
だがラルスが言うのは要するに﹁お互い婚姻を結ばぬまま血だけ
を混ぜよう﹂ということだろう。
この男と結婚する気などさらさらないオルティアはその提案の前
半部分だけには激しく賛同できるが、後半はまったく理解しがたい。
半眼になると男をねめつけた。
﹁キスクを乗っ取ろうとでもいうわけか? 妾の血を継いでいると
いう理由で﹂
﹁いや? キスクの継承権は生まれた時に放棄させる。お前自身を
縛る気もない。子が生まれたら好きな男を見繕って玉座に迎え入れ
ればいいさ。報酬が欲しいというならくれてやるぞ? 直轄地の鉱
山を返してやろうか。他に支払ってもいい。一から王妃を迎え入れ
ることに比べればたいしたことではないからな﹂
1525
実務的な話、というだけあっていささか現実味を帯びた提案に彼
女は眉を寄せる。
子を産むということは九ヶ月弱身体的に不便になることや出産時
の危険性などはあるが、それに対し正当な報酬を支払う気があると
いうのなら、判断の焦点は別のところに移るだろう。
次期ファルサス王に自分の血が入るということは決して悪いこと
子供が王になった時、愚鈍であったならば母として
ではない。むしろファルサスとの関係を安定させるには単純かつ明
快な手段だ。
圧力をかけ優位に動くことも出来る。
そうでなくとも一年程前の敗戦でキスクからはファルサスへの不
可侵が約定されたのだ。
逆にファルサスからの干渉は制限されていない以上、その可能性
を上手く抑えられるとしたらそれにこしたことはない。
オルティアは放された手を顎にかけると考え込んだ。思考を一時
停止させると、隣の男を見上げる。
﹁それで? お前には何の得がある﹂
キスクの王位継承権を放棄させる気があるのなら、何が狙いなの
か。
まさか母としての慈悲を期待されているのではないだろうなと眉
を寄せ掛けた女に、男は少しだけ傾いた微笑を見せた。蒼い両眼が
不透明な膜を下ろして広間を振り返る。
﹁ここにいるどの女よりもお前は王族として有能だ。そして俺が俺
の子の母親に求めるものはそれだけ。他はどうでもいい。損はさせ
ないぞ、オルティア。この取引を飲んでみるか?﹂
余裕を崩さない態度。
王妃を娶るのが面倒だと言って憚らない男は、相手が立場的に妻
にはなり得ない人間でも充分なのだろう。
最初からそのようなものは求めていない。悪評も関係がない。求
めるのは血の優秀さだけ。
1526
そして大陸中の王族たちの中でもっとも有能な女だと言外に言わ
自分でも意外なことに、それが不快で
しばしの沈黙を経ると、探る目で男の双眸を覗き込
れたオルティアは︱︱︱︱
はなかった。
む。
﹁そうだな⋮⋮途中、妾自身の命に関わるようなことになれば、遠
慮なく堕胎させてもらう。それでも構わぬか?﹂
﹁んー。ファルサスとしても手を尽くすが、どうしても無理なこと
になったら仕方ないだろうな。分かった﹂
﹁ならばその条件で飲んでやる﹂
一月ほど前、彼女の友人であり臣下でもあった女が結婚した。
それを聞いた時オルティアは、心から相手の幸福を喜んだが、同
時に自分には同じ幸福は一生訪れないだろうとも感じたのだ。
打算と野心、誰よりもそれに基づいて思考を巡らせているのは彼
女自身だ。とてもではないが感情を優先して夫を選ぶ気にはなれな
い。
そして今現在彼女により及第点を与えられる相手が見つかってい
ない以上、少しの寄り道をしてみても面白いだろう。
上手くすれば将来的な国の利益に繋がるかもしれないのだ。彼女
は嫣然と笑って差し伸べられた男の手を取る。
﹁まずは契約を書面に起こしてもらう。後から話を違えられてはか
なわぬからな﹂
﹁言うと思った。用意しよう﹂
退廃の空気さえ漂う広間。
そこに咲き誇る鮮やかな花々は、ただ一人選ばれた黒衣の女に困
惑の視線を送る。忌まわしいものを見るような畏れの目。血なまぐ
さい評判で知られる女王を何故﹁彼﹂が選んだのかと。
けれどオルティアは、自分こそが己の道を選んだのだという自負
を持って、傲然とその視線を受け止める。
1527
その琥珀色の瞳には目の前に立つ男ではなく、ただ自国とその先
のみが映っていた。
※ ※ ※ ※
まだ彼女が玉座になかった頃。身重の女を一人、擁していたこと
がある。
会う度に腹の大きくなっていくその様を当時は感心して見ていた
ものだが、あの頃はまさか自分が子を産むようになるとは思っても
みなかった。
一生誰とも添うつもりはなかったのだ。自分が代わりのない王と
して王冠を抱くまでは。
それが今、軍を戦わせたこともある相手の子を孕もうというのだ
から、人の道行きとは先の読めないものだろう。
ましてや生まれるであろう子は、かつて彼女が匿っていた女︱︱
臣下の一人が殺してしまった女の息子と、同じ血脈を継ぐ子にな
るのだ。
これを皮肉と言わずに何と言えばいいのか。まるでいびつに絡み
だが、この奇怪さこそが己の生きる世界と、彼女は知
合った利害と情念。
︱︱︱︱
っている。
﹁来る時はあらかじめ連絡するのだぞ﹂
自室の応接室に描かれた転移陣。円形の複雑な紋様は同様にファ
ルサスの王の部屋へと通じているらしい。
1528
王が借り出してきた精霊がそれを描く間、初めて見る上位魔族を
興味津々の目で眺めていたオルティアは、陣が出来上がると部屋の
隅にいる男にそっけない声をかけた。オルティアが趣味で集めてい
る置物の一つ、あやしげな瓶詰めの人形を手に取っていたラルスは
顔を上げると目を丸くする。
﹁何で。面倒﹂
﹁お前の顔を見るだけで疲労する。余力がない時には来るな﹂
﹁来てから断れ。そうしたらキスクの城で遊んで帰るから﹂
﹁妾の城で遊ぶな!﹂
以前壁に落書きをされた記憶が嫌でも甦る。
あのようなことをあちこちでされたなら、どうあがいても城内に
混乱が渦巻いてしまうだろう。王の奇行に慣れているファルサスと
は違うのだ。
第一男との契約は彼女の独断であり、城の中でも末端の人間はま
だほとんど知らない。彼女つきの女官たちが突然の来客に驚いてい
たくらいだ。余計な場所まで出歩かないで欲しいのは確かだった。
ラルスはオルティアの部屋にところ狭しと置かれている奇妙な収
集品が気になって仕方ないのか、一つ一つに顔を寄せて覗き込んで
いる。
それを注意するのも面倒なので彼女は男を放って寝室に戻ると、
女官に手伝わせてドレスを脱ぎ、そのまま浴室に入った。
広い円形の浴槽。淡い色の花弁が一面に浮かべられたお湯は甘い
香を漂わせている。好きではない外交で疲労した体は、微温湯に浸
かればそのまま眠りの中に落ちてしまいそうだった。
視界中に広がる湯気。女官たちが己の細い手足を洗っていく光景
をオルティアは気だるげに眺める。普段はあまり感じない体の重さ
に、矢張り男を伴って帰るのは明日以降にすればよかったかと、後
悔が一瞬頭をよぎった。
しかし日を置いて馬鹿馬鹿しさに嫌気を覚え始めるよりは、さっ
1529
さと関係に踏み切った方がいいだろう。あの男は悉く彼女の神経を
逆撫でしてくるのだ。かつて臣下であった女が﹁殴りたくなるんで
すよ﹂と言うのもよく分かる程に。
オルティアは細い肢体を磨き上げられると、髪を女官に任せて浴
槽に半身を浸す。
﹁ファルサス直系か⋮⋮﹂
普通ならば男は女の産んだ子が真実自分の子か確かめる手段がな
いものだが、あの男だけは違う。彼は、生まれたばかりの子供がフ
ァルサスの血を色濃く継ぐ子かどうか判るのだ。
そしてだからこそこのように突飛もない契約にも踏み切れるのだ
ろう。
オルティアは今まで男を寝室に招いたことはないが、仮に恋人が
いたとしても違う男の子ならばラルスはそれを見破ることが出来る。
女に愛情も誠実も求めていない男は、真実自分の子が手に入ればそ
れで充分満足なのだ。
﹁大した性格だ。もっとも⋮⋮妾も人のことは言えぬがな﹂
愛情だけで生きていけると豪語する人間は幸福だろう。煩わしい
ものを意識に入れないというその性向がゆえに。
だが、少なくとも彼女はそういった煩わしさから目を逸らせない。
国を支える女王として、誰よりもそれらに向き合わなくてはならな
い立場にあるのだ。
そこに余分な淀みは必要ない。優先されるのは公人としての自分
だけである。
オルティアは意識が疲労の為鈍重になってきていることを自覚す
ると、浴槽をあがり体から水を切らせた。
長い髪を簡単に乾かすと、幾分かの湿り気を残したまま寝室に戻
る。
そこで待っていた男は長い足を組んで椅子に腰掛け、彼女の読み
1530
かけの本を手に取っていた。かつて大陸東部にあった大国の歴史を
記した一冊。栞が挟まれていた箇所に目を通していたラルスは、オ
ルティアの気配に気づくと顔を上げる。
ファルサス王族の多くが持つ青い瞳が彼女の小さな貌に向けられ
た。
﹁俺も入ってきた方がいいか?﹂
﹁構わぬ。眠い。好きに扱え﹂
差し伸べた手は真実自分のものでありながら人形の腕にも見える。
オルティアは無関心な目をその指先に注いだ。
何も生み出さぬ手でありながら、何かを生もうとする空虚。
立ち上がった男は彼女の手を取り、細い躰を恭しく抱き上げる。
どちらもが何も言わない。
分かりきったことに言葉は不要だ。慈悲や愛情その他何もかも。
とても眠い。
オルティアは男の腕の中、目を閉じる。
そのか細い体をラルスは欺瞞であることを感じさせないほど丁寧
に寝台へと運ぶと、目を開けない女に囁いた。大きな手が彼女の顎
にかかる。
﹁手荒にはしないが、多少は我慢しろよ﹂
﹁既に充分我慢している﹂
それきりオルティアは口を噤むと、黙って男に抱かれた。
夢を見た。
水の中にいる夢。
彼女は深い海の底で何も考えずに漂っている。
見上げた視界に広がるのは鮮やかな色の魚たち。そして空にも似
た青。
澄んで静かな世界を魚はゆるりと泳ぎ回っている。
1531
水を出て生きていけないのは不便だ︱︱︱︱
彼女は思う。
だが、どうせ外に出られても窮屈なのは同じであろう。何処もか
しこも不便。命を持って生きている限り。
だから彼女は目を閉じる。暗い海の底へと体を横たえる。
そうしてまた深く眠ってしまった彼女の髪を、誰かの指がそっと
梳いていったような気がした。
オルティアが重い眠りから目覚めた時、既に男の姿は何処にもな
かった。
転移陣を使って帰ったのだろう。彼女は鈍い痛みと違和感の残る
体を引きずって浴室に向かうと、そこで血と汗を流す。
今日は早くから会議が入っている。いつまでも倦怠感を体に纏わ
りつかせていては執務に滞りが出かねない。何度も欠伸をしながら
彼女は部屋に戻ると、女官を呼び出して女王の略装を纏った。
しかし、そのまま執務室に出向こうとしたところで年老いた女官
に呼び止められる。
﹁さしでがましいようですが陛下、ご朝食を召し上がられてくださ
いませ﹂
﹁要らぬ﹂
﹁お体に障ります。御懐妊される為には日々のお食事からしてきち
んとなさって頂かなければ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
頭の中に﹁面倒﹂という言葉がよぎったのは気のせいではないだ
ろう。
だがオルティアはその単語を飲み込むと朝食を持ってこさせた。
思ったままを口にしてはしょっちゅう﹁面倒﹂とぼやいている男と
同類になってしまうような気がしたのだ。
1532
根菜のスープを口に運びながら女王は先ほどの女官に問う。
﹁子を孕むまでは大体どれくらいかかる?﹂
﹁人それぞれでございましょう。一夜のことで身篭られる方もおり
ますし、数年連れ添っても子に恵まれない夫婦もおります﹂
﹁数年か⋮⋮﹂
いくら彼女が若くとも、それ程まであの男に付き合うのは御免で
ある。契約書に期限の項目をつけ足すべきかオルティアは迷ったが、
あまりにも子供が出来なければ向こうも諦めて別の女を選ぶだろう。
王家の血は偶然と執念によって今まで受け継がれていた。
そしてその先端に生まれた彼らもまた、同じように捩れた思惑に
よって次代を生み出すという、ただそれだけの話なのである。
※ ※ ※
寝台の上に広げられた書類は現在調整中の転移陣の配備について
のものである。
オルティアはかつて即位時の公約として諸侯に﹁余剰資源を各領
地間で流通させる為の体制の確立﹂を掲げていたが、それが国内の
あちこちに配備された転移網を使用して実現されると、今度は資源
移送に限らない国内長距離間の移動、また国内外の出入りを、今よ
り円滑に出来ないかと調整し始めたのだ。
国内での移動のほとんどを転移陣に拠っているのは魔法大国ファ
だがこれを上手く実現させられれば、一般の流通にかかる
ルサスが既にそうだが、その他の国はまだそこまでは整備されてい
ない。
日数も今より格段に短くなることは明らかだ。
広い寝台に寝そべるオルティアは、地図上の転移陣管理局の分布
1533
を目を細めて見やる。
その時後ろから男の手が伸びてきて書類の一枚を取り上げた。
﹁残務か? 手伝ってやろうか﹂
﹁お前⋮⋮! 勝手に何を見ている!﹂
﹁転移陣の配備か。要所には既に置かれているだろうから、街道が
届いていないところから逆に集中させてくといいぞ﹂
﹁余計なお世話だ!﹂
言いながら飛び起きると、彼女は男の手から書類をひったくる。
そのまま他の書類もかき集めると纏めて筒状の書類入れに突っ込ん
だ。
ラルスはそれを楽しそうに見やる。
﹁遠慮せずとも見てやろうというのに。転移陣で地図上に文字を書
いてやろうか﹂
﹁自分の国でやれ﹂
そんな理由で配置を決められては大変なことになる。転移陣を置
くには場所の確保や魔法士の手配の他に、定期的な調整や通行者の
審査体制など多くの手配が絡んでくるのだ。
特に城都へ転移できる転移陣は不審者を審査で弾く為、管理局に
更なる人手が必要となる。無駄な場所に置くことは何としても避け
たかった。
だからこそ悩んでいるのに他人事も甚だしい。事実他人事なのだ
がオルティアは氷の視線で男を見上げる。
﹁妾はお前のせいで規則的な生活をさせられる羽目になっている。
これ以上煩わしいことを増やすな﹂
﹁健康を重視しているのか? 走りこみでもするか﹂
﹁⋮⋮お前は矢張り馬鹿だろう﹂
身篭りやすいよう生活を変えているというのに何故走りこみにな
るのか。
雫と違ってまったく持久力がない女は男に白眼を向けた。だがラ
ルスは軽く笑うとオルティアの髪を引く。
1534
本気なのか違うのか、表情だけでは分からない。この男には何を
言っても仕方ないのだ。
決して長くはない付き合いでもそのことをよく知っているオルテ
ィアは、自分を絡め取る腕に舌打ちするとそのまま身を任せる。
そしてそれは彼女をまるで、深い海の底にいるような息の出来な
い忘我へと引きずり込んでいくのだ。
※ ※ ※
﹁聞こうと思って忘れていたが、母体は魔法士でなくていいのか?﹂
ぼんやりとした女の問いにラルスは手を止めた。オルティアの髪
を弄っていた指を引く。それまで何が面白いのか彼は、寝台の上に
広がる髪を綺麗に梳いて広げていたのだ。
止めるのも煩わしく好きにさせていた彼女は、しなやかな肢体を
起こして伸びをした。城の奥深くで育てられた線の細い躰を男は見
上げる。
﹁構わない。ファルサス王家の魔力とは、所詮本分ではないからな。
どうせ足掻いてもいずれ薄れる。それを留めようと血族婚を繰り返
したことこそが愚かだ。結果こんなになってしまったんだからな﹂
﹁お前のような馬鹿が生まれたことか﹂
﹁当たらずとも遠からず﹂
怒るわけでも笑うわけでもなく、彼は平然と返すと寝台の下に視
線を送った。そこには脱ぎ捨てられた衣服と共に、一振りの剣が置
かれている。
ラルスは鞘に入ったままの長剣を目で示すとオルティアの腰を抱
いて引き寄せた。
1535
﹁だからあれさえあればいいのさ。今のところは﹂
王剣への言及。
男のその言い様は、単なる説明には収まらない含みを彼女に感じ
させた。オルティアは形のよい眉を軽く上げる。
﹁いずれはあれも不要になると?﹂
﹁不要になる前にきっと血が絶える﹂
投げやりとも言えない、ただの声。
それは普段飄々としている彼のものとしては意外なことに、﹁そ
うなればいい﹂との希望が入り混じっているように聞こえた。
オルティアは琥珀色の目を瞠り男の目を注視する。
子供が欲しいと言いながら、王家の血を継いでいく立場でありな
がら、その血の断絶を望んでいる。
まるで分裂した思考、姿勢、その諦観。
だがオルティ
個人としての、そして王としての、融けあわない虚しさ。
その矛盾を理解しがたいと思うより先に︱︱︱︱
アは、男の望みに共感を覚えてしまった。
それに気づくと彼女は顔を顰める。
﹁絶えるならば今、絶えろ。妾を巻き込むな﹂
﹁俺の代では絶やさないぞ。思い切り巻き込むからそのつもりでい
ろ﹂
﹁なら報酬は存分に支払え﹂
﹁分かっている﹂
ラルスはオルティアの手を取ると愛しげに口付ける。
優雅な所作。他の女であればそこに彼の思いがあると信じてしま
うだろう。
だが実際何もないことをオルティアは誰より分かっている。彼女
1536
だけはその表皮に惑わされない。
だから女王は酷く冷めた目で男の仕草を眺めると、それ以上の会
話を拒むよう横になって目を閉じたのだった。
※ ※ ※ ※
﹁おいで﹂
柔らかな女の声。
春の日差しのような優しい声に少年は導かれ歩いていく。葉々が
生い茂る林を抜け、城の奥へ。
﹁おいで。一緒に遊びましょう﹂
奥庭にはむせ返るような匂いの花々が咲き誇っている。
普段人が立ち入らぬはずの広い庭。だがそこは誰が整えているの
か荒れ果てた様子は微塵もなかった。暖かな風が草を揺らす。
﹁ここに来て。早く早く﹂
幼さの残る呼び声。無垢な響きに彼は辺りを見回した。庭木が作
る何重もの生垣の向こう、小さな石造りの建物へと目を留める。
壁に穿たれた窓。鉄格子の隙間からは白い手が覗いていた。
その手はまるで彼が見えているかのように、ゆっくり向きを変え
ると自分の方へと手招く。
少年はその動きに引き寄せられ、生垣の間を抜けていった。扉の
ない建物の壁に近づく。
﹁おいで。ねぇ、顔を見せて。私と遊びましょう﹂
白い手は彼がようやくすぐ前にまでたどり着くと、触れたいとい
う意思を顕にして伸びてきた。
少女のような女のような細い指。彼は華奢なその手を取る。
1537
しばら
﹁名前を教えて。ねぇ、貴方は誰の子? 私を助けてくれるかしら﹂
﹁⋮⋮黙れ妖女。俺を呼ぶな﹂
侮蔑に満ちた声。嫌悪に彩られた瞳。
鋭い拒絶に時が止まる。風が止む。
そうして訪れた沈黙に少年が彼女の手を払うと︱︱︱︱
くして閉ざされた奥庭には女のけたたましい哄笑が響き渡ったのだ
った。
※ ※ ※ ※
最後の書類。その草稿に訂正を入れるとオルティアはペンを置く。
傍に控えていたティゴールを呼ぶと一応の確認をさせた。
数週間懸案となっていた転移陣の配備も、この書類でようやく実
行へと移すことが出来るのだ。各予定地も決し、管理局の手配も済
んだ。あとは予算を最終調整しながらそれぞれの担当者に任せるだ
けである。
ティゴールはそれら担当者の名前に目を落とすと、その途中で表
情を微かに動かした。
﹁ヤウス卿に管理局の人事手配をお任せになるのですか﹂
﹁やりたいと本人が申し出てきたからな。まだ若いがその意気を買
ってやろう。⋮⋮それに審議の時には悪いことをした﹂
今年二十二歳になるヤウスはオルティアよりも二歳年上であるが、
その女王を除けば重大な役割を任される貴族としては充分若い。
そもそも宮廷内において十代や二十代前半で頭角を現すのは非凡
な才能を持った人間ばかりであって、そういった人間の数は決して
多くないのだ。そして彼ら数少ない例外もニケのように平民の中か
1538
ら見出された者がほとんどで、貴族出身者に若く有能な人間は少な
い。
これはもともとの母数が貴族と平民では大きく異なることや、大
抵の貴族が子弟の教育に長い年月をかけることが原因で、ヤウスも
また他の例に洩れず才能に溢れる人間というわけでは決してなかっ
た。
にもかかわらずオルティアは何故彼に任せてみようと言うのか。
﹁やりたい﹂と言ったから。それは確かに理由の一つだろうが、そ
れが全てではない。
むしろそのような理由よりも、苦みを拭えない後者の理由が影響
しているのは確実だった。
オルティアが兄から王位を奪い取った時の十二家審議。その際に
謀殺されたラドマイ侯の第三子が、ヤウスなのだから。
﹁領地は兄がうまく治めているというが、父親を失った奴には後ろ
盾がないだろう。こちらが仕事を振ってやらなければな。難しくは
あるが父が残した人脈を使えば何とかなる﹂
﹁確かに。⋮⋮ですが﹂
﹁何だ?﹂
オルティアが即位した
ヤウスは、はっきりとではないがオルティアの﹁夫候補﹂だった。
三家当主の息子で年齢も近く独身︱︱︱︱
時、彼も自身がそうであるとの自覚があったはずだ。
だが彼は数多の子弟と同じく﹁能力不足﹂として落とされた。そ
の彼を女王の傍で働かせることに抵抗を覚えるのは、ティゴールが
ヤウスにあまりいい印象を抱いていないせいだろうか。彼が時折オ
ルティアの背に向けていた、執念とも思える強い視線。計りがたい
昏さを思い出してティゴールは言葉を濁す。
しかしオルティアは臣下が答えないと分かると苦笑しただけだっ
た。書類を処理に回すよう命じると女官が持ってきたお茶のカップ
を手に取る。
1539
﹁何でもやらせてみなければ見えぬこともある。もし失敗するのな
らその時手を出してやればよいことだ。違うか?﹂
王としての度量を窺わせる言葉。
以前とはすっかり変わった女王の姿にティゴールは頭を下げつつ
しかし彼はこの時の判断を、後に強く悔いることにな
引き下がった。
︱︱︱︱
る。
苦い薬は決して好きではない。
しかし以前雫に同じことを言った時、異世界から来た女はしれっ
とした顔で﹁でも苦い方が効く気がしませんか?﹂と言ったもので
ある。
その意見にはまったく賛同できないが、出された苦い薬を飲まね
ばならないことは確かだ。
オルティアは内心激しく顔を顰めたかったがそれを表に出さず、
水と共に一口で白い粉薬を嚥下する。
女王の喉の動きを見届けた女官はもっともらしく頷くと説明を付
け足した。
﹁お体を整えますので、毎日欠かさず飲まれますよう﹂
﹁分かった﹂
デルシという名の老齢の女官は、ラルスがオルティアのところに
通うようになって以来、子供を身篭りやすくなるようにと色々な世
話を焼いてくる。食事から始まって服装や生活習慣、その他ちょっ
とした動きにまで細かく口を出すようになったのだ。
多岐にわたるそれらをオルティアは煩わしいと思わないではなか
ったが、早く契約を終わらせられるならそれに越したことはない。
その為デルシが﹁自分の地方では結婚した女はこれを飲む﹂と薬
草を煎じた粉薬を持ってきた時も、胡散臭いと思いつつ言われた通
り服用することにしたのだ。
1540
勿論毒見として同じ粉薬は二つにわけられ、一つは別の女官が飲
んでいる。だがその女官にも別状はない為、悪くて精々﹁何の効果
もない﹂だけであろう。
オルティアはお茶で後味を紛らわせると気のない息をついた。
﹁これで身篭ればますます不自由になるのであろう?﹂
﹁そういうものでございますから﹂
やっぱりおかしな契約などしなければよかったと、女王は一瞬後
悔したが、自分が玉座にある以上いつかは子を産まねばならないの
は確かである。
ただ問題は、最初の子がファルサスに取られてしまう為、別に産
まなければならないということなのだが︱︱︱︱
﹁めん⋮⋮﹂
最後まで言い切る前にオルティアはかろうじて口を閉じた。デル
シと目が合う。
だが長く宮廷に仕えてきた女官は何も聞かなかったように頭を下
げるとそのまま退出した。代わりに若い女官がやって来る。
﹁陛下、ヴィヴィア様がいらっしゃいました﹂
﹁通せ﹂
おおよそ一月に二度ほど訪ねてくる女は、オルティアの私室に現
れると﹁こんにちは、姫﹂と微笑んだ。そのまま乱雑な部屋のテー
ブルを慣れた手つきで整理すると、持ってきた手作りの菓子包みを
広げる。
﹁姫、今日はすこーんですよ﹂
﹁何だそれは﹂
意味の分からない言葉は、おそらく彼女の世界の菓子でも指して
いるのだろう。
オルティアはお茶を淹れ始める友人の背を見ながら、包みに入っ
ていた硝子瓶を手に取った。それも手作りらしい果物の甘煮を、毒
1541
見もなく匙に掬うと、さくさくとした焼き菓子にたっぷり塗りつけ
る。
外見からして非常に朴訥で、普段食べている菓子とは似ても似つ
かないが、彼女はそれを気にせず口に運んだ。
﹁なるほど。素朴な味だな。美味いが﹂
﹁ありがとうございます﹂
笑顔でお茶を出すと雫は向かいに座る。﹁ニケがいませんでした﹂
﹁長めの休暇を取っている﹂と他愛もない会話を交わしながら、二
人はしばしの安寧を共に過ごした。
同い年でありながら人種の違いのせいか、オルティアよりも随分
幼く見える雫は、けれど結婚して二ヵ月、大分落ち着いたように見
える。
何処が違うかと具体的に問われても分からないが、それまでずっ
と彼女が持っていた危なっかしさが薄らぎ、代わりにようやく地に
足を着けたかのような安らいだ目をするようになったのだ。
或いはそれは、異郷であるこの世界に帰る場所と家族を得たとい
う安堵の為かもしれない。
オルティアは自分とは全く異なる道を歩む友人の、黒い瞳をまじ
まじと凝視した。
﹁な、何ですか。姫﹂
﹁別に何でも﹂
雫はかつて言葉を失った際に、それまでオルティアを﹁姫﹂と呼
んでいたのを直されたらしく﹁陛下﹂と呼ぶようになった。だが、
女王自身はそれに違和感を覚えたので、自ら元の﹁姫﹂に戻させた
のだ。
いずれこの呼び名が似合わなくなる日も来るだろうが、その時に
は雫も言葉が不自由ないようなっているに違いない。オルティアは
彼女がほとんど話せなかった時のことを思い出す。
1542
﹁そう言えばお前には﹃姫の性悪は筋金入り﹄と言われたこともあ
ったな⋮⋮﹂
﹁わすれてください⋮⋮﹂
言葉が分からない雫は、ファルサスにいた三ヶ月間、一部の人間
にとって格好の遊び道具だったらしい。意味を取り違えて変な言葉
を覚えた挙句、それをオルティアに向かって口にすることが多々あ
った。
もっともそれら悪戯の九割方はファルサス国王によるものであり、
その度に彼はオルティアと妹から罵詈雑言を受けることになってい
たのだが。
この場にはいない男の、ろくでもない気性を思い出してオルティ
アは憮然となる。
﹁姫、どうかしましたか?﹂
﹁どうもしない﹂
﹁ならいいのですが。そういえば少し、顔色がよくなられましたね。
最近﹂
﹁健康的な生活をさせられているからな﹂
﹁姫はお忙しいですから。ちゃんとお休みになってください﹂
ぎこちなさが残る敬語で、しかしキスクで仕えていた頃と変わら
ぬように、気遣う言葉を口にする彼女をオルティアは苦笑を以って
見やった。ふと気になると、他人の妻となった女に跳ね返る質問を
投げかける。
﹁お前もいつか、子を産むのか?﹂
違う世界から来て、家族を得てその血を残していくのか。
夫と子供と共に幸福な生涯を送るのか。
異なる人生、異なる道筋にオルティアは数秒の間思いを馳せた。
いつも何処かに空虚を残す己を意識する。
簡単には変えられぬこともある。分かっていながらどうにも出来
ぬことも。
1543
だからその中にあって、変化を得られたのは幸運なことだろう。
それでも変わらぬ欠片が何処かに残されているのだとしても。
﹁わかりません﹂
雫は少し淋しそうに微笑んで答える。小さな手が冷めかけたお茶
のカップに伸ばされた。オルティアは返ってきた答を胸の中で反芻
する。
はたして彼女は、﹁言葉﹂が分からなかったのか﹁未来﹂が分か
らないのか。
女王は違うと思いつつもそれが前者であればよいと、密やかに願
ったのだった。
1544
002
暗い部屋。
小さな部屋。
どれ程叫ぼうとも届かない。
泣き続けても誰も来ない。
そう、誰も。
来るはずがない。
オルティアと、そのように彼女を呼ぶ人間は長い間一
﹁オルティア﹂
︱︱︱︱
人だけしかいなかった。
今の彼女を﹁作った﹂男。同じ父の血を引くベエルハース。
だがその兄も今はいない。彼女が殺してしまった。
正確には彼の死は、彼女によるものではなく単なる不審死だが、
彼女が簒奪をしなければ兄は死なずに済んだだろう。
﹁オルティア﹂
だからもう、彼女のことを名前で呼び捨てる人間はいない。誰も
そんなことはしない。女王となった彼女には。
﹁オルティア、起きろ﹂
大きな手が頭の下に入れられる。そのまま僅かに持ち上げられ、
むき出しになった喉に誰かが触れた。柔らかな肌を何かが滑ってい
く。
ぞっとするような感触。彼女は小さく呻き声を上げた。力が入ら
1545
ない手を動かし半ば無意識にそれを押しのける。
﹁⋮⋮やめろ、眠い﹂
﹁起きろ。折角来たというのに﹂
傲岸な声。この一月ですっかり耳馴染んだ男の声にオルティアは
目を閉じたまま眉を顰めた。抗えぬ眠りに半身を浸したまま唇を動
かす。
﹁勝手に抱け⋮⋮﹂
﹁そういうこと言うと、お前の集めてる変な木彫り人形燃やしちゃ
うぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮っ、燃やすな!﹂
怒りで強引に意識を引き戻しながらオルティアは跳ね起きた。そ
のままであれば覆いかぶさっていた男の頭に激しく衝突してしまっ
ただろうが、ラルスは彼女の頭をひょいと避けて受け流す。
見ているだけで疲労する端正な顔が、心底不思議そうな表情をし
て彼女を見つめた。
﹁お前、本当にあの子供が見たら泣き出しそうな人形が大事なのか
⋮⋮趣味おかしいぞ﹂
﹁⋮⋮黙れ変態。妾のものに文句をつけるな﹂
﹁変態的な行為をして欲しかったらいつでも言え﹂
﹁お前を殺しても問題ない時に言おう﹂
今度はしっかりと力を込めた両手で押しのけると、男は笑いなが
ら寝台の上に座った。彼が本気になればオルティアなど簡単に捻じ
伏せられるのだから、最初からさほど抱く気はなかったのだろう。
彼女のその推測を裏づけるように、男は﹁疲れているなら相手は
いい。その代わり泊めろ﹂と言ってくる。唐突な要求に、水差しと
グラスに手を伸ばしていたオルティアは顔を顰めた。
﹁何だ突然。妹に追い出されでもしたか?﹂
﹁してない。単に気分だ﹂
﹁迷惑な⋮⋮﹂
そんな理由で眠っているところを起こされてしまったのか。彼女
1546
は水差しをそのまま男に投げつけたくなったが、それをしては自分
の寝台が水浸しになってしまう。
オルティアは当初の目的通りグラスに注いだ水を一息で飲み干す
と、大きな溜息をついた。
﹁好きにしろ。燃やすな。壊すな﹂
﹁分かった﹂
本当に分かっているのかいないのか、男は寝台に寝そべると水差
しの傍にあった硝子細工の置物を手に取る。
取り寄せたばかりの置物をラルスが弄り始めたことで、オルティ
彼女は平然とした足取りで自ら女官を呼ぶと、
アは内心ひやひやと危ぶむ視線を送ったが、それを表に出してはつ
けこまれてしまう。
いつの間にかかいていた寝汗を流す為、浴室に入った。冷えてしま
った体を微温湯で温める。
記憶はないが、嫌な夢を見ていた気がする。
ほとんど意識には残らない恐怖の残滓。その最後の欠片が背筋を
滑り降りていくのを感じてオルティアは身を震わせた。
夢見が悪いなど珍しいが、ここのところ仕事が立て込み疲労して
いたせいかもしれない。彼女はお湯の中で手足を伸ばすと失われか
けた眠気を呼び戻すよう目を閉じる。
あの男が泊まっていくなどと言い
男が遊んでいる寝室に戻るのは実に億劫だ。このままここで眠っ
てしまいたい。けれど︱︱︱︱
出したのは初めてのことなのだ。
今まで通ってきていた時も、彼は必ず朝までにはいなくなってい
た。思い返せば彼女の前で眠ったことさえない。閨房においてでさ
え油断から縁遠い男は、一体何を思って今夜彼女のところに来たの
だろう。
オルティアはその疑問に突き当たると同時に胡散臭さを覚えて浴
槽から上がった。女官を下がらせ服を羽織る。考えすぎであろうと
1547
は思うが、女王である自分の部屋に他国の王を一人にしている状況
が改めて不安になったのだ。
彼女は少し逡巡したが、袖の中に短剣を隠し持つ。そのまま足音
をさせないよう男のいる寝室に戻った。
薄暗い部屋の中、彼が何をしているのか、その姿を探して息を殺
す。
男は、先ほどと同じく扉に背を向けて、寝台に横たわったままの
ようだった。何もおかしなことをしている気配はない。
やはり杞憂であったのだ。
オルティアは安堵すると短剣を傍の棚に置こうとした︱︱︱︱
その時、寝台から男の声がかかる。
﹁オルティア、どうした?﹂
低い声。
月光の他、何の明かりもない部屋に、彼の声はよく響いた。
音をさせぬよう注意していたにもかかわらずどうして戻ってきた
ことを気づかれたのか。
オルティアはさすがにぎょっとしてしまったが、動揺を一瞬で押
さえ込むといつも通りの不機嫌な声を出す。
﹁どうもせぬわ。誰かのせいで眠いくらいだ﹂
﹁そうか⋮⋮ならその剣で何をするつもりだ?﹂
続けざまに言われた言葉。
その言葉に彼女は今度こそ短剣を取り落としそうになった。琥珀
色の目を限界まで瞠って男を見つめる。
長身を横たえていたラルスは彼女の視線に応えるようゆっくりと
体を起こした。冷たい殺気を隠そうともしない双眸がオルティアを
射抜く。
﹁何をしようとしている? オルティア、自分の力を見誤るなよ。
お前は戦場の将にはなれない。剣を取る人間にもだ。つまらないこ
1548
とで死ぬ気か? それを俺に向けようとするなら⋮⋮俺はお前を殺
すぞ﹂
王の言葉には、微塵の揺らぎもなかった。
ただ思ったことを言った、それだけだ。
分かってしまったからこそオルティア
そこに躊躇はない。意志を鈍らせる感情も。
まるで空虚だと︱︱︱︱
は息を詰まらせた。一瞬で疲れ果てた目を伏せる。
﹁妾を見縊るな。お前を殺すならばもっと周到な手を使うわ。珍し
く泊まりたいなどと言い出すからよからぬことをしているのではな
いかと思っただけだ﹂
本当のことを言うと共に短剣を床に投げ捨てると、ラルスはいつ
もと変わらぬ目で肩を竦める。
﹁別に大した理由はないぞ。月が妙に明るくて寝苦しかったから、
キスクなら変わるかと思ったくらい﹂
﹁それくらいで来るな!﹂
女王の怒声を知らん顔で流す男は、数秒までの殺気が幻に思える
程あっけらかんとしている。まるで手札を裏返したかの如く刹那で
変わってしまうのだ。そこにあるものを長く見せていたくないかの
ように。
オルティアは忌々しさに舌打ちすると濡れ髪のまま寝台に戻った。
手の中に硝子の置物を抱え込んでいた男は、片手を伸ばすと濡れ
たままの髪を引く。
﹁どれ、折角だから乾かしてやる﹂
﹁何だお前、魔法を使えたのか?﹂
﹁簡単なものはな。一応魔力がある﹂
それでも魔法を使うことはやはり苦手らしく、彼は詠唱を加えな
がらオルティアの髪を乾かしていった。つい先程、彼女を殺すこと
1549
も躊躇わなかったであろう手が、壊れ物を扱うに似て優しく丁寧に
薄い色の髪を引いていく。
心地よい温かさ。愛情があるようにも見える男の手に、オルティ
アは呆れた目を向けた。魔法に専念するラルスを見上げる。
﹁お前は本当に分からぬ。殺しあうかもしれぬ妾ではなく、今から
でもお前に惚れ込む女を迎え入れた方がいいのではないか?﹂
﹁だから、それが面倒﹂
男の傍には硝子の置物が置かれたままだ。筒状のそれは、中に魔
法を施した水と硝子の魚が入っている。青い水の中をくるくると泳
ぐ魚。その光景はとても綺麗で彼女の気に入っていた。
オルティアは怪訝そうに首を傾げる。
﹁何が面倒なのだ。その方が余程面倒がないであろう。腹を探り合
わずに済む﹂
﹁本当にそう思うか、オルティア? 女が一番探りたがるのは執心
した男の心だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうかもしれぬな﹂
かつてこの男は、数年もの間、傍に置いていた寵姫を﹁国政に口
を出そうとした﹂という理由であっさり国外追放した。それを聞い
た諸国の人間はファルサス国王の厳しさに驚いたものだが、オルテ
ィアは本当の理由を知っている。
女の正体は他国からの密偵で、後宮にいる数年間ずっとファルサ
スの情報を自国に流し続けていた。だが彼女が王に本当の愛情を期
待して役目を放棄した途端、彼は女を用済みと切り捨てたのである。
﹁本当は全て知っていたのであろう? 流される情報を操作して操
っていたな﹂
﹁急に何の話だ? 心当たりがないな﹂
含み笑いをする男はオルティアが何のことを言っているのか確実
に察している。如実に分かる性格の悪さに女王は少なくない疲労感
1550
を覚えた。一応の補足を加えてみる。
﹁だがそれは特殊な例であろう。ましな女はいくらでもいる﹂
﹁だとしたら尚更、愛情を期待されて面倒だ﹂
髪を梳く手。通される指。
その全てが穏やかで優しい。まるで思いがあるかのように。
だが、そこには何もない。
何もないから、期待が煩わしい。
﹁愛などない﹂と真実を告げても返されるささやかな希望が、彼に
は面倒で仕方ないのだ。
﹁⋮⋮誤解されるようなことをしなければよいだけではないか? 冷たくあたればよいであろう﹂
﹁とは思ったが、わざと険を作るのも疲れるからな。虐待してめげ
なかった奴もいるくらいだし。お前はその点聡いから、一緒にいて
一番楽だ﹂
﹁妾は一番疲れるわ!﹂
﹁残念だなー。気安いという俺の思いが伝わらなくて﹂
ラルスはそこで手を放した。髪を乾かし終わったらしく、硝子の
置物を手に取ると下から覗き込む。
細い硝子筒に二匹入っている魚は、月光を反射してくるくると回
った。男は蒼い光に目を細める。
子供によく似て、だが子供からもっとも遠い男。
その乾いた両眼をオルティアは気だるげに見上げた。青い瞳は暗
がりの中、ぽっかりと空いた穴のように見える。
﹁オルティア、これ欲しいな﹂
﹁やらぬ﹂
﹁欲しい﹂
﹁やらぬわ!﹂
女王は跳ね起きると男の手から置物を取り上げた。そのまま部屋
1551
の隅の棚の上に置いてくる。
残念そうな男はしかし彼女が寝台に戻ってくると、細い躰を腕の
中に抱き寄せた。横になりながら乾かしたばかりの髪を梳く。
﹁先に眠れよ。じゃないと俺も寝れん﹂
﹁知るか。眠らなければよい﹂
男の声が﹁夢は見な
言いながらも目を閉じると眠気が襲ってきた。オルティアは欠伸
を噛み殺して男の腕に頭を預ける。
たちまち沈んでいく意識。
不愉快ではない温度。
深い海底に下りていく眠りの途中︱︱︱︱
い﹂と囁いた気がした。
翌朝目が覚めると、やはりラルスは既にいなかった。
オルティアは床に投げ捨てられた短剣の他に、まったくいつもと
変わりがない部屋を見回す。
だが何とはなしに棚を見やった彼女は、そこに置かれていたはず
の置物がなくなっていることに気づくと、朝から不機嫌全開で執務
を開始したのだ。
手配を指示したのは自分であるが、転移陣とは実に不
※ ※ ※ ※
︱︱︱︱
思議なものであると思う。
オルティアは城からいくつかの転移陣を経て、新たに転移網が配
備される街の一つを視察に訪れながら、ふとそんなことを考えてい
1552
た。
嵌めこまれた石版に刻まれた魔法陣。この上に乗れば誰でも瞬時
にして別の場所に移動出来るのだから、実に便がいい。商人が馬車
なども乗り入れられるよう大きめに作られた転移陣を、女王はぐる
りと一周しながら見下ろした。
がらんとして大きな石造りの空間には他にも四つの大きな転移陣
と、小さなものが五つ描かれている。
以前街の議員が講堂を作りかけ、そのまま計画が頓挫し放置され
ていた建物を、城が買い上げて設置した管理局は、今回の視察で問
題なしと判断されれば来月から稼動することになっていた。オルテ
ィアは手元の書類に書かれた確認項目を一つずつ確かめていく。
朝起きた時には置物を持ち去られたと気づいて激怒したものだが、
その怒りも執務をしているうちに諦めに変わった。
これくらいで腹を立てていてはあの男には付き合いきれない。今
度会った時に﹁返せ﹂と言えばそれで済むだろう。
﹁なるほど、問題はないようだな﹂
全ての項目を確認し終えて女王は頷く。
この場にニケが来ていれば転移陣についての詳しい説明も聞けた
だろうが、あいにく彼は休暇中だ。
以前﹁転移﹂の仕組みについて尋ねた時には、﹁出発点と到達点
の魔力位階同士を繋げてそこを通ります﹂と言っていたが、魔力の
見えないオルティアにとってはやはり実感としては理解しがたい。
彼女は歩きながら大小全ての転移陣を見てしまうと最初の一つの前
で足を止めた。
﹁事前に試験はしたのであろうな﹂
﹁勿論でございます。確かに滞りなく作動いたしました﹂
﹁今も入れば発動するのか?﹂
﹁はい﹂
1553
今回の管理局増設に大きく関わったヤウスは緊張が隠せない様子
で頷くと、隣の魔法陣を指して﹁どなたかお入りになりますか﹂と
声を上げる。
オルティアは苦笑しながらも自ら彼の指した魔法陣に向かって足
を進めた。慌てて護衛兵たちが彼女の周りを固める。
虫の羽ばたきにも似た僅かな作動音。転移陣はあっさりと発動す
ると、女王を一瞬で別の町へと運んだ。先程いた空間よりは遥かに
小さな部屋で、彼女は辺りを見回す。
石壁で囲まれたその場所には転移陣が一つしかなかった。扉だけ
が異様に大きいのは荷車なども入れるようにする為だろう。かすか
に鼻を突く潮の香りにオルティアは窓の外を眺めた。
﹁漁港か﹂
﹁然様で。この時期は脂の乗った魚が獲れますので、転移陣を使え
ば朝獲れた魚が昼には城都に届きます﹂
﹁便のよいことだ。民も喜ぶ﹂
まずこの転移網を動かして半年間記録を取った後、その記録を参
考に他の地方も配備が開始される。
順調にいって全てが完成するには三年から五年がかかるだろうが、
それは決して長すぎる期間ではないとオルティアは考えていた。
﹁こ、これは陛下! お迎えもせず大変失礼致しました﹂
女王の来訪を連絡されたのか、町の役人が慌てて扉を開け入って
くる。深く礼をする彼らに﹁気にせず仕事を続けよ﹂と手を振った
オルティアは、空気が流れたせいでより一層強くなる香りに視線を
泳がせた。滅多に見ることがない景色を探して開けられたままの扉
の先、廊下の向こうを見やる。
﹁外に出てみてもよいか?﹂
﹁取り立てて見るところのない町ではございますが﹂
﹁構わぬ﹂
オルティアは護衛兵を伴い、建物の外へと出る。
1554
暖かい風。緩やかに海に向かって傾斜していく道は、慎ましやか
な町並みの向こうに輝く青を捉えていた。
空と繋がるかのごとく伸びていく水面。自然のままの色が、日の
光を反射して宝石よりも鮮やかに煌く。限りない景色、悠然と広が
この茫洋に感傷を覚えるのは何故なのだろう。
る海の様を、彼女は言葉なく眺めた。
︱︱︱︱
オルティアは遠くに見えるその水底に、刹那自分が立っているよ
うな錯覚を覚えた。想像が生んだ海面を見上げる
水を出て生きられぬのは不便なことだろう。
だがそれを言うならば、いつ何処にいても生きている限り、皆が
不自由なのだ。
民草として生きようとも王として生きようとも、変えられぬもの
は変わらない。
皆が空のようだと喩えるあの瞳。
干渉を拒絶する薄青の双眸が、海底から仰ぐ空虚に見えるように。
若き女王は琥珀色の両眼を閉じる。
貝に似た瞼がやりきれなさを孕んで震えた。沈んで小さな声が側
近に届く。
﹁ティゴール﹂
﹁は!﹂
﹁もし妾があの男の子を⋮⋮﹂
彼女が言えたのはそこまでだった。
次の瞬間﹁陛下!﹂という叫び声と共に、ティゴールがオルティ
アに覆いかぶさってくる。そのまま共に倒れこんだ頭上で大きな破
裂音が鳴り響いた。苦悶の声が愕然とするオルティアに注がれる。
﹁⋮⋮へ、陛下⋮⋮﹂
1555
﹁ティゴール!﹂
力を失った男の体を女王は抱く。
一瞬で騒然となる周囲。
護衛兵たちの怒声が錯綜した。
﹁魔法の狙撃か!?﹂
﹁方角を確かめろ! 犯人を追え!﹂
﹁魔法士を呼べ! 治療だ! 早く!﹂
兵たちがオルティアを保護しようと集まってくる。ティゴールを
治療しようと魔法士が駆け寄ってきた。
場を支配する混乱の中、オルティアは自分を庇った臣下を兵士に
預けると、誰の手も借りずゆっくりと立ち上がる。
あまりにも予期せぬ時に訪れた暗殺の手。その手をかろうじて逃
れた彼女は、女王として命令を下すまでの数秒間、小さな溜息をつ
くと琥珀の瞳を怒りと苦渋に曇らせたのだった。
※ ※ ※ ※
オルティアを庇って背に大火傷を負ったティゴールだが、幸い命
には関わらずに済んだ。手当てを受け今は城の治療室にて眠ってい
るという報告を受け、執務室に戻ったオルティアはひとまず安心す
る。
﹁暗殺犯は未だ見つかっていない﹂とのことだが、あの時かなりの
距離があったことを考えれば既に逃走しているだろう。女王は報告
書に目を通すと頬杖をついた。報告書を持ってきたダライ将軍が険
しい表情で主君を見やる。
﹁計画的な暗殺にしてはあまりにも不確定要素がございます。他の
1556
転移先にも調査を向かわせておりますが⋮⋮﹂
﹁あの時妾が転移陣を通ったのは単なる気まぐれであったからな。
まさか未来が分かるというわけでもあるまい﹂
﹁陛下がどの陣を使われたか、誰か教えた内通者があの場にいたと
いうことでしょうか﹂
﹁だとしても手配が早い。転移を使える魔法士を雇ったのだとして
も、妾が外に出なければそこで終りだ﹂
あの時オルティアは気まぐれで転移陣をくぐり、思いつきで外に
出たのだ。そこまで予想されていたとはさすがに思えない。
ダライはすっきりしない事件に厳つい顔をますます固める。
﹁城都では犯行に及べないと判断したからこそ、低い可能性に賭け
たのかもしれません﹂
まだ玉座に彼女ではなく彼女の兄が座っていた頃、キスク城は一
度暗殺者の侵入を許してしまったことがある。
その時の犯人は結局捕まってはいないが、その後しばらくしてベ
エルハースが不審死を遂げたということもあり、キスク城、ひいて
は城都自体の警戒態勢はかなりの改善を加えられていた。
街道などから城都へ入るには通行門での申告が必要であり、転移
陣を使っての移動でも管理局が身元を確認し不審者は弾いている。
国から国へ移動して仕事を引き受ける傭兵たちなどは、変わって
しまったこの体制に不平を申し立てたが、彼らには書類審査などを
経て各人に通行証を発行し、その動きに対応していた。
加えて城都全体には無許可転移禁止の結界が張られ、現在身元の
分からぬ人間はすっかり入り込めない状態である。
その城都の中心近くで、頬杖をついたままの女王は美しい顔を顰
めてダライを見上げた。
﹁今、妾を殺して簒奪しようとする者がいるとしたら誰だ?﹂
﹁王位継承権が発生しましたのは、陛下の曽祖父君にあたります三
1557
代前の王の非嫡出子のご血族でいらっしゃいますね。確か現当主に
は一番若くて陛下より五つ年上のご子息がいらっしゃったかと。領
地から滅多に出てこられませんが﹂
﹁妾も顔をあわせたことがない﹂
オルティアが即位しベエルハースが死亡した後、十二家の当主は
女王に万が一のことがあった時のために、血を遡って新たに王位継
承者を選び出した。
以前から与えられた辺境の領地に引きこもり外に出てこないとい
そうであるならむしろその方がいいと、オルティアは
うその一族は、だが玉座の為に意外にも行動力を見せてきたのだろ
うか。
︱︱︱︱
陰鬱な苦笑を浮かべて内心独りごつ。
今まで己が行ってきた所業を思えば、殺したいと思い、実際殺そ
うとする人間が数多くいることなど容易に想像がつく。一度はその
引け目があったからこそ、彼女は兄に陥れられても簒奪に踏み切れ
なかったのだ。
為してしまった過去は決して消え去るわけではない。それは一生
負いきっていくものだ。
だからこそオルティアは、自分に復讐したいと思う人間の気持ち
を否定しようとは思わなかった。
﹁仕方がないことだ⋮⋮。そうであろう? ファニート﹂
彼女の為に死んだ男。子供の時から変わらず仕え続けてくれた男
の名をオルティアはそっと呟く。あの頃自分の傍にいてくれた人間
自分の死によって、積み重ねたものが清算されるのな
が今は誰もこの場にいない皮肉に、女王はほろ苦く笑った。
︱︱︱︱
らば、その結末も否定はしないだろう。
だがそれにはまだ、やりたいことが数多く残っているのだ。もう
少しだけ足掻きたい。自分を守り傷つけたこの国の為に。
1558
※ ※ ※ ※
日が落ちた後の城内。
廊下を行く影は減り、人の残る部屋にはささやかな明かりが灯っ
ていた。静寂が長い年月を漂わせながら石の廊下に沈殿し、広く複
雑な建物の隅々にまで手を差し伸べている。
木々でさえも息を潜める時間。毎夜訪れる休息の時に、だがティ
ゴールはようやく深い眠りから意識を起こした。自分が何処にいる
かを確かめるより早く、治療着のまま近くの明かりに手を伸ばす。
﹁誰か、誰かおらぬか﹂
彼は魔法具のつまみを弄って燭台の光量を上げた。
その光で気づいたのかティゴールの声が聞こえたのか、椅子に座
したまま眠っていた魔法士が部屋の隅で顔を上げる。
﹁ティゴール卿、お目覚めに⋮⋮お体の具合は⋮⋮﹂
﹁そのようなことよりもここは城か? 陛下はいずこにいらっしゃ
る!?﹂
﹁城の治療室です。陛下はお休みになられたかと⋮⋮﹂
怪我で昏睡していた男の突然の剣幕に、まだ若い魔法士はたじろ
いだ。だが相手の困惑など気にもせずティゴールは言い募る
﹁早く陛下にお伝えするのだ! 城都に不審者が侵入した可能性が
ある! 管理局の人事に関わったヤウスが⋮⋮﹂
女王の危機を示唆する言葉。
オルティアの元へは、襲撃の刃が迫っ
そこに昼間の暗殺未遂との関連性を嗅ぎ取った魔法士は、慌てて
部屋を飛び出した。
だが時既に遅く︱︱︱︱
ていたのである。
1559
※ ※ ※ ※
﹁体を冷やさないように﹂との意図で作られる食事にも最近は慣れ
てきた。
それらは調理法だけではなく材料からして気を使っているらしく、
目に見えて暖色の野菜が増えたことに彼女ははじめ憮然としたもの
である。
元が小食である為、若干無理をしてそれらを食してしまうと、オ
ルティアは女官が二つに分ける粉薬を見ながらお茶に手を伸ばした。
何とはなしに壁際の時計を見やる。
ラルスが二晩続けて訪ねてくるということは今まで一度もない。
ということは置物についての苦情は言えないが、今夜はゆっくり眠
れるということであろう。
オルティアは凝った肩をほぐしながら立ち上がった。
﹁先に入浴にする。今日はいささか疲れた﹂
﹁かしこまりました。すぐに支度をいたします﹂
若い女官は粉薬を二つに包み直すと部屋を出て行く。その戻りを
待たずにオルティアは浴室に入ると自ら服を脱いだ。鏡の中、脹脛
に痣が出来ていることに気づいて眉を寄せる。
﹁あの時か⋮⋮﹂
昼間ティゴールによって庇われ倒れた時、地面にぶつけでもした
のだろう。青黒くなっているその部分をオルティアは指で押した。
柔らかい感触と共に鈍い痛みが走り、それが見かけだけではない
ことが分かる。
1560
ほとんど怪我などしたことがない彼女には肌の変色が面白く、湯
船の縁に腰掛けて何度も押してみた。その度ごとに膨らんだ痣は指
の形にたわむ。ひとしきり押して満足してしまうとオルティアは象
牙色の腕を胸の前で組んだ。
﹁奴が見る前に隠した方がいいか⋮⋮?﹂
魔法で怪我は治せても、痣を消しきることは出来ない。白粉でも
はたくなりしなければ気づかれてしまうだろう。
そこまで考えた時、しかし女王はいつまで経っても女官がやって
来ないことに気づいた。訝しみ振り返ると、部屋の方で何かが倒れ
る物音がする。オルティアは眉を顰めて立ち上がった。
﹁どうかしたか! 怪我でもしたのではあるまいな!﹂
張り上げた声。
その声に応えるよう、扉が音を立てずに開き始める。
だが、そこに立っていたのは見知った女官の誰でもなく︱︱︱︱
顔を隠した男が二本の短剣を帯びて、標的たる女王を見つめてい
この大陸において短剣の双剣を使う者はほぼ全て暗殺
たのである。
︱︱︱︱
者であると言える。
即位する以前は、大陸のあちこちにて揉め事を起こさせることを
娯楽としていたオルティアは、側近から確かにそう聞いたことがあ
った。
ならば今彼女の前にいるこの男もやはり暗殺者であるのだろう。
顔を隠していることから﹁何者だ﹂などと聞かなくても分かる。
オルティアは言葉を飲み、立ち上がった我が身を確認した。
入浴中であったこともあり何も持ってはいない。武器はおろか身
を隠す布さえも。勿論何か持っていたとしても職業的な暗殺者に太
刀打ちは出来ないであろうが、それにしても絶望的な状況だ。
1561
相手が彼女を殺そうと思えば、持っている短剣を投擲すればそれ
で済む。それだけで終わってしまうのだ。生も統治も、何もかも。
ならばすべきことは何か。
女王として誇り高く最期まで胸を張ることか。
﹃王族とは何なのか﹄
彼女は二十年にしか過ぎぬ己の人生において、ずっとそのことを
考えて続けていた。
選ぶ余地もなく自分に与えられた責務。終生変わらぬその立場に
ついて。
民の為に犠牲にされる生。民を犠牲にして君臨する生。
王族の本質を語るそのどちらもが真で、どちらもが偽だ。
まるで鬱屈とした小さな鳥籠。
彼女はその中から外に向かって毒を吐き続けてきた。そして国を
保ちもした。
自分を生み出し、育て、傷つけたこの国を、疎むと同時に愛して
もきたのだ。
だからこそ兄に裏切られた時、彼女は全てを捨てて城を逃げ出す
今は、深い海の底に立っている。
のではなく、兄を追い落とし玉座を得ることを選んだ。
そうして鳥籠から出て︱︱︱︱
復讐されるようなことをしたのは紛れもなく自分自身だ。
だからその清算を否定しない。仕方のないことと思っている。
けれど︱︱︱︱
﹁妾を殺しに来たのか﹂
徐々に晴れていく湯気。
冷めた声に黒尽くめの男が微かに震えた。顔は見えないが若い人
間なのだろう。若干の戸惑いが見て取れる。
1562
そしてそのせいか剣はまだ上げられない。オルティアは素性も分
からぬ男を見据えた。
﹁ここまで来られたということは腕の立つ者なのであろう? 大し
まだ死にたくはない。
たものだ。⋮⋮その腕を妾の為に使う気はないか?﹂
︱︱︱︱
これ程までに早く終わりたくはないのだ。まだ多くの為したいこ
とが残っている。王族として、この国の人間として、たとえ誇りを
投げ打とうとも命が惜しい。
﹁どうだ? 報酬は弾むぞ。他に欲しいものがあれば申せ。お前の
能力に見合うだけのものを払おう﹂
オルティアは笑う。
妖艶な微笑。
女王になってからなりを潜めていた蠱惑が、湯気よりも重く痺れ
る程の甘さを持って立ち昇った。
見る者の視線を惹きつけ、心を捕らえる目。
忌まわしいと皆がその本性を恐れながらも、否定出来ない美貌が
嫣然と男を見つめる。象牙色のなめらかな肌。細い四肢を持つ魅惑
的な躰が困惑する視線に曝された。
だが彼女はそれを気にもしない。ゆっくりと男に向かい足を踏み
出す。
何も持っていないことが一目で分かる女を、しかし剣を持った男
は本能を忌避するように恐れた。
﹁う、動くな﹂
﹁何故だ? 何も怖がることはない﹂
艶のある眼差しが毒霧の如く注がれる。
抗し難い引力が、たおやかな腕の形を取って差し伸べられた。男
はその指先を見て息を飲む。
﹁ほら、望みを申せ﹂
魂を絡め取る誘惑。
剣を握る指が緩んだ。オルティアは妖姫そのものの笑みを見せる。
1563
︱︱︱︱
捕らえた、と。
だがそう思った瞬間、彼女の躰は突き出された銀の刃と共に鮮血
に染まったのである。
※ ※ ※ ※
ティゴールは治療着のまま魔法士を通じて城中に連絡を取った。
しかしその結果として分かったことは、既に城内には複数人の刺
客が入り込んでおり、各所で犠牲者が出ているという事実である。
陽動と思われるいくつかに混じって、女王の部屋がある建物にも
連絡がつかないと知った彼は、すぐに兵士たちをオルティアのもと
へ向かわせた。自らも魔法士を伴って主君のもとへと走る。
﹁よくもヤウスめが⋮⋮﹂
﹁彼が首謀者だということは明らかなのですか?﹂
まだ容態が安定しきらないティゴールの為に、治療室から付き添
ってきた魔法士は困惑の目を見せた。何故三家当主の一族が女王を
暗殺しようとするのか、彼にはそれが分からないのであろう。女王
の側近は浅い息をつく。
﹁昼の暗殺事件。いくつかあった転移陣のうち、奴はさりげなく一
つの転移陣を指した。陛下は一番近くにあった転移陣ではなく、奴
その後漁港に出た時も部屋に誰もいなかったにもか
の指した転移陣にお入りになったのだ。さりげない意識の誘導だろ
う。︱︱︱︱
かわらず、役人は存外早く現れた。ヤウスがあらかじめ時間を指定
して陛下がいらっしゃるとでも伝えてあったのではないか? その
後さりげなく役人たちに町を案内させる手筈だったのだろう。陛下
1564
がご自分で外に行かれたのは奴にしてみれば幸運だ﹂
﹁それは⋮⋮ですが、それだけでは﹂
確かに一応の説明をつけられるかもしれないが、確証とするには
あまりにも危うい。言いがかりだと言われてしまえばそれまでだろ
う。
だがティゴールは魔法士の反駁に対し、昼間の記憶を思い出した
のか怒りの形相で顔を歪めた。
単に私は外に出てからずっとヤウスの行動に
﹁私が何故陛下の御身を守り得たと思う? 兵士でも何でもない老
いた私が。︱︱︱︱
注意していたのだ。奴が山の方角に向かってさりげなく手を上げた
⋮⋮直後に同じ方角から火矢が飛んでくるのを見たからなのだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁昼の暗殺が失敗したとなっては、陛下はもう当分外にはお出でに
ならない。ならば管理局に手を回して城都に直接刺客を引き入れる
しか手段はないだろう。奴であればそれが出来る﹂
魔法士は何も言えない。
そうして訪れた沈黙には、彼らの足音とティゴールの深い溜息だ
けが響いたのだった。
※ ※ ※ ※
体を貫通した銀の両刃。
その輝きにオルティアは形のよい眉を寄せた。血が飛び散った己
の躰を見下ろす。
正確に心臓を貫いた剣は、突きこまれた時と同じく唐突に引き抜
かれた。力を失って浴室に崩れ落ちた死体を、男は足で転がす。彼
1565
はその体を仰向けにさせると首を傾げた。
﹁殺してよかったか? 何となく邪魔だったから殺しちゃったが﹂
﹁殺す前に聞け! そのようなことは!﹂
オルティアの非難にラルスは楽しそうに笑う。血に濡れたアカー
シアを一振りすると鞘に戻した。唐突に現れ暗殺者を刺殺した男は、
血の飛沫がかかった女王の躰に気づくと目を細める。
﹁壮絶だな。さすがよく似合う﹂
﹁誰のせいだ! 風呂に入った意味がないわ!﹂
﹁そう怒るな。結構そそるぞ﹂
﹁黙れ、変態! 礼を言う気が失せた!﹂
オルティアはラルスが放る布を受け取ると、怒気を発散させるよ
う乱暴に血痕を拭った。そのまま急いで服を取ると部屋に戻る。先
程の物音を確かめようと思ったのだ。
だが、彼女の目に入ったものは予想通り、喉を切り裂かれ死んで
いる若い女官二人と床に散乱した茶器や小物の数々だった。苦悶の
表情で事切れている女を見下ろし、オルティアは沈痛さを瞳に浮か
べる。そこに背後から男の声がかかった。
﹁多分もっといるぞ。城内の空気がざわついてる﹂
﹁もっと? 他にもいるというのか﹂
﹁んーこういうのは肌で分かる。何処かで戦闘が起こってるな。ど
れだけ入り込んでいるかまでは分からんが﹂
ラルスは何ということのないように言うと、近くに置いてあった
置物を手に取った。﹁俺はこれ返しに来た﹂と昨晩持ち去った硝子
細工を指す。
すぐに返しに来るくらいなら持って行くな、とオルティアは思っ
たが、事態はそれどころではない。彼女は急いで服を着ると隣国の
王を見上げた。
﹁ともかく助かった。礼を言う。妾はこれから外の様子を見に行く
が⋮⋮﹂
﹁俺は行かない。他国のことだし﹂
1566
そう言われるのではないかと思ったが、聞くまでもなく即答され
たことに彼女は少しだけ表情を強張らせた。
期待していたわけではない。それでも、何処かで手を貸してくれ
るのではないかと思っていたのだ。彼女は自分でも気づいていなか
った甘えを自覚すると舌打ちする。護身用の短剣を手に取ると、扉
に向かいながら後ろ手に手を振った。
﹁ならば面倒に巻き込まれぬようファルサスに帰っておれ。今夜は
お前の相手は出来ない﹂
﹁外に行くのか?﹂
﹁当たり前だ。妾の城に妾の民だ﹂
﹁オルティア。俺は自分の力を見誤るなとお前に言わなかったか?﹂
男の声は、からかうわけでも笑うわけでもなく、ただ沈んで響く
ものだった。
今までにも何度か聞いた﹁王としての﹂声。
静かな威を帯びる声に、オルティアは足を止める。
﹁お前は戦場の将にはなれない。剣を取って戦う人間にもだ。自分
がどのように戦う人間だったのか、もう忘れてしまったのか? よ
く思い出せ﹂
王の青い瞳は澄んだ色でありながら、昏い部屋の何よりも闇に近
く見えた。
振り返ったオルティアは穏やかに微笑する男を見つめて、その言
自分には力がない。すぐ目の前にいる敵を殺すような
葉を反芻する。
︱︱︱︱
力は何も。剣を振るうことさえままらない。
そしてラルスも、そんなものを求めて彼女を選んだわけではない
だろう。
彼女が持っているものはもっと別種の力だ。座したまま人を操り
その道行きを狂わせる︱︱︱︱
﹁善王になろうとするな、オルティア。それは笑いながら相手を殺
1567
し得る人間がなるものだ。お前のような人間がそう見られれば狸ど
もに舐められるぞ? 小娘が己の罪を恥じ引け目を感じているのだ
と﹂
罪を悔いている。
だがそれは、いつ何処においても見せていいものではないだろう。
若き女王を陥れようと目を光らせる者たちに、軟弱になったと思
わせてはならない。
彼女が選んだものは自分自身の安寧ではなく、泥を被ろうとも負
い通す責。
それは決して、一時の感傷で失うことは許されないものなのだ。
オルティアは死した女官の貌を見つめた。
涙の跡が見える横顔。強い恐怖が見開いた目に刻まれている。ほ
んの短い一生をこのように終えていかねばならなかった彼女たちを
思って、女王はきつく唇を噛んだ。ただ己の視界を閉ざす。
悔恨を切り離さねばならないこともある。この先も女王として生
きていくならば。
オルティアは目を開けると短剣を置いた。冷えた視線で男を見返
す。
﹁通信用の魔法具は持っているか?﹂
﹁あるぞ。レティが煩いから持ち歩いてる﹂
﹁なら貸せ﹂
尊大に言い放つとラルスは声を上げて笑った。懐から取り出した
小さな箱を彼女に向かって放る。
オルティアがそれを操作して城内の他の場所に繋げようとしてい
ると、男は散らかった床を越えて女王の傍に立った。
﹁俺は外には行かない。だが、この部屋にいる限り俺はお前の男だ。
1568
何が来ても殺してやろう。︱︱︱︱
好きに使え﹂
ラルスは手を伸ばすと濡れた女の髪を引き寄せる。そのまま艶の
ある一房に顔を寄せ口付けた。
オルティアはそれを留めるわけでもなく、ただ唇を上げて笑うと
﹁ならそうさせて貰う﹂と刃のように光る声で言い放った。
1569
003
キスク城の内部は、あまり知られていないことだが、複雑極まり
ない構造をとっている。三国が婚姻により一国となって生まれた起
そのことは依頼人より聞いていたが、具体的に地図を
源のせいか、争うように建物の増改築が繰り返された為だ。
︱︱︱︱
渡され女王の部屋を指示されていなければ、ここまで行き着くこと
は出来なかったかもしれない。
二本の短剣を携えた男は息を潜めて廊下を走りながら、目的の部
屋を見つけると注意深く辺りを見回した。
周囲に人影はない。衛兵の姿もないということは誰かに先をこさ
れたのだろうか。彼は少し迷ったが扉に手をかけた。鍵のかかって
いない大きな扉はゆっくり奥へと開く。
僅かに開いた隙間から見えたのは荒らされた部屋の惨状。
自分が纏っているものとは出所が異なる血臭に、男は誰か他の人
間が先にここまで到達していたことを知った。
この分では標的は既に殺害されているかもしれない。そして手柄
を取られたのならば早急に脱出した方がいいだろう。彼が身を引き
かけた時、だが部屋の奥から誰かが出てくる。
纏められていない長い髪に細い躰。薄暗い部屋であっても浮き立
妖姫とも呼ばれる、若きキスク女王。
つ繊細な容姿。物憂げな美貌は間違えようもなく指示された標的の
ものだ。︱︱︱︱
男は刹那で判断すると扉を大きく開いた。部屋の奥にいる女に向
かって投擲用の短剣を振りかぶる。だがその剣が指を離れる前に侵
入者に気づいた彼女は目を見開き
1570
﹁待て! 殺すな!﹂
と叫んだ。
それが、彼の人生において最後に聞いた言葉となった。
※ ※ ※ ※
﹁女王陛下が何者かに重傷を負わされた?﹂
夜中に突然呼び起こされた重臣たちの一人、ヤウスは暗い廊下を
足早に行きながら、その知らせに微妙な表情を作った。同様に呼び
起こされた何も知らないらしい同僚の様子を横目で伺う。
転移陣管理局の人事を任された彼が、部下に命じて十数人の暗殺
者を城都に侵入させたのは、まさに今夜オルティアを暗殺する為だ。
長い間、優れた才を誇りながらも残虐な性質を剥き出しにしてキ
スクの城奥に君臨していた女。ヤウスは彼女こそが王位を巡る争い
の中、父を謀殺したのだと信じて疑っていなかった。
未だその真相は明らかにされてはいないが、父は王を決める審議
の直前に殺されたのだ。何があったかなど考えなくとも分かる。父
に代わって領地を治めるようになった長兄は﹁女王に関わるな﹂と
彼を叱った。﹁真実など既に隠されている﹂と。
だが、証拠全てが葬り去られようとも、起こされた事実までもが
変わるわけではない。今までオルティアは何十人もの人間を影で処
分し、また処刑台へと送り続けてきたのだ。この所業が真実を雄弁
に物語っていると言っていいだろう。
彼女を父と同じ目にあわせること。
ならばすべきことは失われた真実を明るみにすることではなく︱
︱︱︱
ヤウスはその為にこの一年半色々と策を練ってきた。なにしろ相
1571
手は王冠を抱く女王である。復讐を為そうにも簡単には近づくこと
さえ出来ない。彼はまず夫候補として彼女の傍に寄ろうと狙った。
だがその試みは彼の能力不足によって空しく頓挫した。
ならば重臣の中に食い込み、事を起こすしかない。
ずっと機を狙っていたヤウスは、転移網の配備が行われるという
情報を得てその役目の一つに立候補すると、新しい立場を使いよう
やく絶好の機会を得ることに成功したのだ。
﹁お怪我が重くなければよいが⋮⋮﹂
ヤウスは夜の廊下を行きながら本心とは真逆の言葉を口にする。
実際、今夜こそが最初で最後の好機だと思っていたのだ。今なら
ば普段彼女の傍についている魔法士もいない。城の中にいれば安全
と思っている皆の足下を掬うにはまたとない時だ。
だがそれも、昼の失敗と同じく怪我を負わせただけで終わってし
まったのだろうか。彼は隣の同僚に気づかれないよう歯軋りする。
単なる怪我であれば、魔法の治療によりすぐに回復してしまう。
そうなればあの女王はすぐに自分を殺そうとした人間が誰なのか突
き止め、ヤウスは二度と目的を達せられなくなってしまうだろう。
まだ女王の命が残っているというのなら、完全に復調する前に何と
かもう一手を打たねばならない。
ヤウスは暗殺者たちがよく用いるという毒が、女王を蝕んでいる
ことを内心期待した。建物同士を繋ぐ渡り廊下を抜け、更に奥の建
物へと向かう。このような時にでもなければ彼でさえ立ち入ること
が許されない奥宮へ、二人は足を踏み入れた。
人気のない廊下。
夜の窓からは人の心と同調する闇が染み込んでくるようである。
ヤウスは落ち着かなさを噛み殺して先へと進んだ。やがて目的の部
屋が見えてくる。建物の中でも奥まった場所にある女王の部屋には、
1572
既に入り口に何人かの衛兵が立っていた。彼らの敬礼を受け中に入
ると、本来客を迎える為の広間は、荒らされた状態を慌てて片付け
たのか雑然とした様相を呈している。
奥の扉の前に立っていた文官が二人に気づくと頭を下げた。彼は
﹁陛下のご容態は?﹂と聞かれると表情を曇らせる。
﹁思わしくありません。投擲された短剣に毒が塗られていたようで
して⋮⋮現在、魔法士たちが解析を行っておりますが﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
心中の喜色を押し隠してヤウスは項垂れた。間を置いて﹁面会出
来るか﹂と問う。返って来た答は意外にも﹁少しの間でしたら﹂と
いうものだった。
文官が退いた先の扉。そこに手をかけたヤウスは、袖口に仕込ん
でおいた毒針を意識する。
扉に僅かな隙間が開いた途端、その奥からは噎せ返る程の甘い香
が漂ってきた。
鼻孔を侵し脳を痺れさせるような重い匂い。
その香りに一瞬ぎょっとしたヤウスはけれど、部屋の中で焚かれ
ている香に気づくと、気を取り直して寝台へと向かう。
広く豪奢な部屋。
普段は天蓋から下ろされているのであろう紗布は、しかし今は全
て寝台の奥側に寄せられ留められていた。白い掛布が理由の分から
ぬ忌まわしさを醸し出して、歩み寄る彼を待つ。
﹁美しい﹂と、その一言では言い表せない存在。
それが彼女だ。寝台の上、沈み込むように目を閉じているオルテ
ィアを、ヤウスは注視する。
美しいだけではない。人を支配し縛る妖艶を彼女は持っている。
造作だけでいうなら絶世と謳われるファルサス王妹の方が彼女より
1573
も上だ。だが誰もがそれを分かっていながらも、オルティアの前で
は彼女から目を逸らせない。
そこに見てはいけない、けれど知りたくてたまらない﹁何か﹂が
あるかのように、人々は彼女を見つめ、そして捕らえられていくの
だ。
ヤウスは取り出した針を注意深く意識する。
確実に復讐を為せるのなら、自分の身など惜しくはない。
オルティアを生かしておけば、あの妖姫は同じことを何度でも繰
り返すだろう。いずれ国を傾けてしまうほどに。
その前に彼女に罪の清算をさせる。
父の為に国の為に、これは今ここでやらねばならぬことなのだ。
寝台脇から見下ろす女王は人形のように仰臥しぴくりとも動かな
い。
ヤウスはその細い腕を見下ろした。針を持った手を気づかれない
よう伸ばす。共に入ってきた同僚はオルティアの顔ばかりを見てい
て彼の行動には気づかない。
だがその時
誰にも見咎められないまま、隠し持った針先が女王の腕へと触れ
ようとする︱︱︱︱
﹁寝台⋮⋮の下⋮⋮を⋮⋮﹂
女の声。
目を閉じたままの女王が洩らす呟きにヤウスは思わず硬直した。
隣の男が聞き返す。
﹁寝台の下? 陛下、寝台の下がどうされたのです﹂
だが彼女は答えない。ヤウスは半歩退いて跳ね上がった鼓動を落
ち着けると、女王の顔を窺った。同僚の男が振り返る。
﹁念のため寝台の下を見てみようか﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
1574
オルティアの言葉が何を意味しているのかは分からぬが、まだ目
標は達せられていない。不審に思われぬ為にもヤウスは床に片膝を
つくと寝台を覆う布に手をかけた。右手で捲り上げると明かりの届
かない下を覗き込む。
まず気づいたのは強い血臭。花の香よりも濃いその匂い。
そして次いで目に入ったのは男の体。彼のよく知る、部下であっ
た⋮⋮
﹁っひいぃぃぃいいっ!!﹂
悲鳴を上げて腰を抜かしたのは隣の同僚だった。ヤウスは愕然と
変わり果てた男の姿を見つめる。
その四肢は全て切り落とされ、胴体だけの無残な生き
寝台の下に転がされた男は拘束されていない。する必要もないの
だ。
︱︱︱︱
物へと変えられていたのだから。
﹁﹃それ﹄はお前にくれてやろう、ヤウス﹂
鈴のように鳴る声。頭上に降り注ぐ声に男は体を震わせた。のし
掛かる圧力に顔が上げられない。彼は染み一つない床を睨み続ける。
その間に体を起こしたオルティアは、蕩けるような柔らかい笑み
を浮かべ臣下であった男を見やった。艶のある笑声が紅い唇から漏
れ出す。
﹁既にこの件に関わった者は全て捕らえたぞ。後はお前だけだ。残
念であったな﹂
﹁へ、陛下⋮⋮﹂
﹁おや? まだ妾をそう呼んでくれるのか?﹂
あからさまな嘲弄がヤウスの頭を叩いた。その声に押しつぶされ
るようにして男は床に両膝をつく。
1575
部下が捕らえられ、拷問を受けたということは既に全てが筒抜け
であるのだろう。好機を好機として使い切ることが出来なかった。
彼は敗北したのだ。
がくがくと震えだすヤウスにオルティアは冷笑を投げかけた。彼
女が指を弾くと共に、部屋の影に隠れていた武官が彼を拘束する。
上流貴族相手とは思えぬ乱暴な扱い。その最中にありながらヤウ
スが僅かな可能性を求めて反駁しようとした時、だが寝台の奥から
男の声がかかった。
﹁左手に針持ってるぞ。多分毒針だから注意﹂
軽い声。
寄せられていた紗幕を上げて、一人の男が現れる。本来女王の寝
台に持ち込まれるはずもない長剣を当然のように抜いた男は、ヤウ
スと目が合うと人の悪い笑みを見せた。
﹁オルティアの声が間に合ってよかったな? もう一秒遅かったら
お前の手首を切断していたところだ﹂
﹁どうせ処刑だ。手首があろうとなかろうとどちらでもよいわ﹂
﹁もう血塗れだもんな、この部屋﹂
全て断たれた。
﹁ファ、ファルサス国王⋮⋮﹂
︱︱︱︱
オルティアが重傷など嘘だったのだ。全ては彼をここに導き、真
意を確かめる為の罠だった。
そんなことを知りもしない彼は、注視されているとも気づかず女
王を弑そうと自ら動いた。
結果、言い逃れも聞かない程の袋小路に自身を追い込んでしまっ
たのである。
武官が二人、左右から彼を拘束して引きずっていく。それとは別
1576
の武官が、寝台下から彼の部下を引きずり出した。
魔法で延命されているだけの惨たらしい姿。女王を裏切った者の
末路に、ヤウスの中で何かが弾ける。
﹁こ⋮⋮この妖女が! 呪われろ! 忌まわしい女!﹂
狂乱する男の罵声にも、オルティアは動じない。ただ横目でヤウ
スを一瞥しただけだ。
﹁お前は⋮⋮っ! いつか! この国を滅ぼす! お前の悪名は永
遠に残る!﹂
四方の壁にぶつかる叫び。敗者の讒言をラルスは鼻で笑う。
オルティアは乱れた髪をかき上げると立ち上がった。去り行く男
へ向かって言い放つ。
﹁それはお前の知り得ることではない。妾への評価は生きた人間の
みが下すであろう﹂
そう思わせる
笑うわけでも怒るわけでもない、ただ泰然と響く声。
女王の毅然は誰にも侵すことは出来ない︱︱︱︱
だけの威厳を以ってオルティアはそこに在った。
居合わせた者たちは畏怖を覚えながらもその威に対し粛然と居住
まいを正す。ヤウスは彼女の存在感に打たれ、何も言えぬまま武官
たちに引き摺られていった。
彼の姿が見えなくなると、オルティアは隣の部屋に控えていたテ
ィゴールを呼びつける。
﹁あれの兄に釘を刺しておけ。どうせ弟の計画が成功しようがしま
いが、邪魔者のどちらかは排除できると思って誘導したのであろう。
いかにもあの男のやりそうなことだ。今回のことはいずれ清算させ
てやる﹂
﹁かしこまりました﹂
側近の男が退出するとオルティアは寝台に座ったままの男を振り
返った。女王の部屋に到達した暗殺者を悉く切り捨てた王。契約上
1577
の情人を半眼で見やる。
﹁⋮⋮面倒をかけたな﹂
﹁別に。おもしろかった。他所の揉め事を見るのは楽しい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
溜息をつく女王からはつい先程まで濃厚に漂っていた酷薄がさほ
ど感じられない。だがオルティアは玉座に在る者として、自らの纏
う汚名や恐怖をも使い国を動かしていくのだ。
長く続くであろう茨の道。けれど彼女はその道を選んで歩いてい
く。その果てにあるものが賞賛か悪名か。まだ誰もが分からないま
まだ。
オルティアは﹁犠牲になった者たちを丁重に弔ってやれ。遺族に
は見舞金を﹂と文官に命じると、男の隣に腰掛ける。
感情を封じ込めたその横顔をラルスは何か物言いたげに見やると、
しかし何も言わずに欠伸を一つこぼした。
※ ※ ※ ※
襲撃の後片付けもあり、オルティアの部屋は一時別室へと移るこ
とになった。
とは言っても今夜はもう眠れるかどうか分からない。女王は真夜
中を回った時計を確認しながら苦い顔になる。
同じ建物内にある別の部屋。現在は使われていない王族用の部屋
いらない気を利かせたらしい女官が早々に退出する
に移動した彼女は、ラルスがついて来たことに意外さよりも胡散臭
さを覚えた。
と寝台に座る男をねめつける。
﹁何だ? まだ何かあるというのか?﹂
1578
﹁あるある。色々ある﹂
猫を招くような手。オルティアは顔を引き攣らせながらもその手
に応えて男の隣に座った。
するとたちまち腕が伸びてきて体ごと引き寄せられる。男の手が
彼女の顎にかかり、上を向かせた。
﹁さて、俺からの質問だ。オルティア、お前は何故こんなものを飲
んでいる?﹂
ラルスが胸元から出したのは小さな白い紙包である。おそらく部
屋を荒らされた時に散らかってしまったのだろう。乱雑に畳みなお
されたそれは、オルティアが毎日飲んでいる苦い粉薬だった。
彼女は眉を寄せると反駁する。
﹁何故? お前との契約の為に決まっているであろう﹂
﹁契約?﹂
男は怪訝そうな顔になると考え込んだ。
理由の分からぬ沈黙。
苛立ちにオルティアが声を上げようとした時、だがラルスは彼女
に視線を戻す。
﹁お前はこれが何だか知らないのか? 古いものだからか? いく
ら男がいなかったからといって無用心だぞ。常に飲んどけ﹂
﹁は? 何のことだ﹂
一体何を言いたいのか。掴みかねて彼女はますます顔を顰めた。
彼は女の膝に紙包を放る。
﹁それ、避妊の魔法薬だ。十五年くらい前に主流だった奴﹂
男は足を組むとその上に頬杖をついてオルティアを眺めた。率直
な視線を受けて、女王は滅多にないことだが完全に凍りつく。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
ようやくそう口にした時、彼女が理解したことは今まで苦い薬を
我慢して飲んでいた、その行為が無駄だったということで︱︱︱︱
次の瞬間オルティアは激しく脱力すると寝台の上に突っ伏したの
だった。
1579
﹁私の甥は先だってのファルサスとの戦争で命を落としました﹂
女王の前に呼び出されたデルシは悪びれもせず、そう言って微笑
んだ。
﹁体の調子を整える﹂と偽ってオルティアに飲ませていた薬が、実
際は避妊薬であったということはつまり﹁女王にファルサス王の子
を産ませたくない﹂ということだったのだろう。
毒見に引っかからなかったのも当然だ。デルシの持ち込んだ薬は
単に妊娠を阻害するだけで、体に害を及ぼすような薬ではなかった
のだから。
事前に薬を調べた若い魔法士も毒かどうかを調べただけで、一地
方の民間薬という先入観もあり具体的な効果までは突き止めなかっ
た。結果、粉薬は十五年前に主流であった薬ということもあり、真
逆の効果を信じられたままオルティアの手へと渡ってしまったので
ある。
﹁お前は妾の側仕えからははずす。その他の処分は追って決定しよ
う﹂
﹁かしこまりました﹂
デルシは用件を言い付かった時とまったく変わらぬ表情で頭を下
げると、文官に連れられ女王の前から退出した。
再び二人きりに戻ると、オルティアは苦く疲れ果てた顔で隣の男
を見上げる。
﹁すまなかった﹂
﹁別に構わん。迂闊娘﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの小娘に感化されて迂闊が感染したんじゃないか? やーい﹂
﹁殴ってもよいか?﹂
﹁やだ﹂
悪童のように舌を出した男は、本当に今夜は帰るつもりがないの
1580
か寝台の上、横になる。
まったく扱いづらい相手の体をオルティアは瞬間蹴り転がしたい
衝動に駆られたが、諦めると隣に寝そべった。男の声が囁く。
﹁で、どうする? 当然ながらああいう風に反対感情を持っている
人間もいるわけだが。⋮⋮やめるか?﹂
﹁誰がやめるか。今までのことが無駄になって腹立たしいだけだ﹂
民草全ての賛同など得られるわけがない。それはただの理想で、
夢物語だ。
だからオルティアは理想と現実の境を歩いていく。どちらも捨て
ず、どちらも忘れずに。
挑戦的にも聞こえる女王の言葉にラルスは楽しそうに笑った。体
を起こし彼女の髪を梳く。
そうして男は華奢な躰を組み敷くと、何も言わずに深く口付けた
のだった。
※ ※ ※ ※
廊下を近づいてくる足音。
明らかに走っていることが分かるその足音に、執務をしていた女
王は軽く眉を上げた。部屋に控える魔法士に視線を移す。
あんな風に城を走る人間は城内にはまず存在しない。だが二人は
二人ともが心当たりを持っており、揃って微妙な表情になった。す
ぐに扉が乱暴に叩かれ、来訪者が現れる。
﹁姫っ! にんしゃんしたって本当ですか!﹂
﹁にんしゃん⋮⋮?﹂
発音の苦手な女の舌足らずな言葉。部屋の隅にいたニケは﹁ご懐
1581
妊と言いたいのではないかと﹂とそれを補足した。オルティアは遅
れて頷く。
﹁ああ。妊娠か。しているぞ。それがどうした、ヴィヴィア﹂
﹁おおおおおおおおお王様の子供だって、本当ですか!?﹂
﹁本当だ﹂
﹁ふ、ふくしゅうしてきます! 姫!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
どういう伝わり方をしたのかは知らないが、激しく誤解が生じて
いるらしい。
オルティアは﹁お前の夫はそのような単語も教えているのか⋮⋮﹂
と呟きながら、ぷるぷると震えている友人に軽く手を振った。
﹁やめておけ。間違いなくお前の方が酷い目に合わされるぞ。あと
一応合意の上だ。ごうい。分かるか?﹂
﹁ごういだからってやっていいこと、と、わるいこと、ありますよ
! ドサド! あの変態!﹂
空回り気味の怒りは言葉の不自由と絡み合って非常に混乱した状
態になってしまっている。
途中から異世界の言語になった罵り言葉にニケは溜息をつくと、
闖入者を頭が冷えるまで放り出そうと転移門を開きかけた。
しかしそれをオルティアは手を上げて留める。
﹁ヴィヴィア、こちらへ来い﹂
柔らかい手招きに応じて雫は机の脇を回る。
それを迎えた女王の体は、まだ見かけとしては変わっていないが
幾分ゆったりとした服を纏っていた。オルティアは自分の腹部を指
して笑う。
お前も楽しみにしておれ﹂
﹁面白いであろう? 妾が子を産むのだ。父親が誰であれ妾の腹で
育つ妾の子だ。︱︱︱︱
﹁⋮⋮姫﹂
何処か楽しそうな女王の顔。
それを見た雫は沈黙したが、ややあって不服そうながらも頷いた。
1582
短い期間ながら女王の側近として働いたこともある彼女だ。オルテ
ィアの立場と考えを理解したのだろう。納得しようと試みる友の表
情にオルティアはくすくすと笑う。
﹁妾も充分若い。子供一人生んでも充分夫を迎える余裕はあるわ。
そう心配するな。それよりこれからはもっと菓子を持って来い。孕
んだせいか普通の食事が美味くなくなった﹂
﹁⋮⋮お菓子ばかり、食べていてはだめですよ、姫。体をひや⋮⋮
ひやさないようにしないと﹂
﹁お前も女官のようなことを言うのか﹂
今まで散々言われてきたことと同じことを言われ、オルティアは
苦い顔になった。
それを見た雫はほろ苦く微笑むと、女王の手を取って﹁わたしが
出来ることでしたらなんでも﹂と頭を下げたのである。
※ ※ ※ ※
妊娠が判明してから、オルティアなどはラルスが来なくなるかと
思っていたのだが、彼が来訪する頻度は同衾する必要がなくなって
も以前と変わらなかった。ふらりとやって来てはくだらない話をし
たり部屋のものを弄ったりし、最後には彼女の体調を確認すると帰
っていく。腹の子供が心配なのか単に退屈なのか、分からないなが
らもオルティアは適当に彼をやり過ごしていた。
しかしある晩、ラルスはやって来るなり彼女に上着を着せ抱き上
げると、そのまま転移陣を使って連れ去る。
男が彼女を連れてやって来たのは、ファルサス城の奥にある中庭
の一つだった。
1583
人影のない広い庭。
静寂が辺りを支配し、昼は鮮やかな花でさえも夜の中その色を潜
めている。ところどころに石像が置かれ、整然と切り込まれた植え
込みは草の上に深い闇を投げかけていた。
月だけが照らす真夜中の風景。何処か落ち着かない景色をオルテ
ィアは唇を曲げて見回す。男の手を借りて地に下ろされた彼女は、
己の腹の子の父である男を見上げた。
﹁何だ一体。何のつもりだ?﹂
﹁お前に精霊を継承させる﹂
﹁は?﹂
精霊と言えば、勿論何を指すのかオルティアは知っている。
ファルサス王家に代々伝わる上位魔族の使い魔。王族の魔法士し
か継承できないそれを、どうして自分が継承し得るというのか。
呆気に取られてしまった彼女にラルスは立ち並ぶ石像を指差した。
よく見るとそれは大きく円状に配置されていることが分かる。
﹁正確には腹の子に継承させる。普通なら無理だが、俺はちょうど
自分の精霊継承を放棄しているからな。それと合わせればなんとか
いけるだろ。いけるいける﹂
﹁いけるって⋮⋮妾はファルサスの人間ではないのだぞ! それを
無責任な⋮⋮﹂
﹁お前がどこの国の人間であろうと、その子は俺の子供だ﹂
きっぱりとしたラルスの言葉は大きくはなかったが、反論を許さ
ない静かな力があった。絶句するオルティアに王は続ける。
﹁俺は腹の子の父親として子供を守る為に出来るだけの手を打つ。
特にお前は狙われやすいからな。大人しく受けとけ﹂
オルティアはただでさえ一国の女王なのだ。その上、別の大国の
王の子を身篭っていると知られれば、他国からも暗殺の手は伸びる
だろう。
ファルサスにおいて歴代の王妃はその懐妊の間、王の手によって
1584
守られてきた。
だがオルティアだけはそれが為されない。ラルスはその代わり王
家の精霊によって彼女を守らせようと、そう言っているのだ。
さすがにすぐには返答出来ない彼女を、ラルスは石像が円を描く
その中心に立たせる。背後に立ち詠唱をし始めようとして︱︱︱︱
しかし彼はふっと視線を泳がせると、庭の奥を見た。暗くて見通
せない林の先、闇の奥を青い瞳が睨む。
﹁⋮⋮昔、この庭の更に奥で女を殺そうとしたことがある﹂
﹁は? 痴情のもつれか?﹂
随分唐突な話だが、オルティアはそれくらいでは驚かなかった。
興味なさげに、しかし一応の礼儀として問う。
男は彼女の相槌に目を閉じて笑った。
﹁違う。が、似たようなものだな。私情を以って殺そうとした。ま
この男は私情で女に向かって王剣を振るうのか。
だアカーシアも持っていない子供の頃の話だ﹂
︱︱︱︱
オルティアは全力の公私混同に皮肉を挟みたくなったが、ラルス
はそういった常識に囚われるような人間ではない。男の口調がいつ
になく沈んだものに聞こえたこともあって、彼女はその言葉を飲み
込んだ。代わりに別のことを聞く。
﹁それで? 途中でやめたのか。殺そうとした、ということは殺さ
なかったのであろう?﹂
﹁いや、負けた﹂
﹁え?﹂
思ってもみなかった答にオルティアは目を丸くする。
いくら子供の頃の話とは言え、この男が負けるというのは何故か
想像が出来なかったのだ。彼女の驚愕に、背後に立つ男は穏やかな
声で先を紡ぐ。
﹁負けた。叩きのめされた。俺は殺そうとした女に打ちのめされて、
1585
敗北を刻み付けられた。俺を嬲っている間、女はずっと笑っていた
な。今でもあの声は忘れられない﹂
暖かい風。
草が揺らぎ、ささやかな音を立てる。
夜の庭は誰もいない。他には誰一人動かない。
まるで深い海の底のようだ。
オルティアは後ろから聞こえてくる男の声さえ、非現実の一部で
あるようにその場に立ち尽くしていた。積み重ねられた王家の暗部
の、その欠片を見ているのだと直感すると身を震わせる。
﹁どうした? 寒いか?﹂
﹁いや⋮⋮それでどうしたのだ?﹂
聞かない方がいい。
そうは思ったが、聞かずにはいられなかった。
ラルスは自分の上着を脱いでオルティアの肩にかけると小さく笑
う。
﹁どうにもならなかったぞ。俺は女の隙を見て逃げ出しただけだ。
怪我はレティが治してくれたが理由は言わなかった。勿論父にもな。
いつか王になってアカーシアを継いだら、その時もう一度殺そうと
思っていて⋮⋮だが女はその前に死んだ﹂
男の声は淡々として、真の感情を読ませない。
自分のことでさえまるで本を読み上げるように話していく。
だがそれは、感情がないということではないだろう。オルティア
は自身の過去をも振り返って口を噤んだ。
ラルスはふっと息を吐き出すと、女の肩を叩く。
﹁まぁそういう訳で、力はあるに越したことないぞ。何があるか分
からないからな﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
飲み込みきれない思い。
1586
周囲を閉ざし圧してくるものが何であるのか、分からないはずが
ないだろう。彼女はそれをよく知っている。
彼ら二人は初めから音のない海中に立っているようなものだ。
空には遠い、不自由な世界を泳ぎ回っている。そこを出ては生き
られない。
オルティアは頷く。
詠唱はすぐに始められた。
夜に溶けていく声。染み込んでくる男の声を彼女は黙して受け入
れる。
やがてその詠唱が二十分にも及ぼうかという頃、石像の一つが音
もなく形を変えた。美しい女の姿となって二人の前に跪く。長い緑
の髪を後ろで束ねた女は、ラルスを見上げると温度のない声で問う
た。
﹁王よ。私はこの方につけばよろしいので?﹂
﹁ああ。アカーシアの契約にはないが俺の正妃みたいなものだ。子
が生まれるまで守ってやれ﹂
誰が正妃だと反論しようとしたが、ラルスに王妃を娶る気がない
ことはオルティアも既に分かっている。ならば彼の子を産む自分だ
けが﹁正妃に準じる存在﹂なのだろう。他には誰もいない。彼は誰
も選ばない。
王の命を受けた精霊はオルティアに向かって頭を垂れた。
﹁かしこまりました。王妃よ、私の名はリリア。これから貴女をお
守りいたしましょう﹂
﹁⋮⋮オルティアだ。よろしく頼む﹂
かつてその強大さの為に神とも呼ばれた上位魔族。その一人を側
に置くことになったオルティアは途方もない気分を飲み込んだ。溜
息をつくと上着を手で押さえる。
1587
果たしてこれから生む子はどのような人生を送るのか。
もし叶うのならそのどれでもでなければよいと、オル
父に似た生か、母に似た生か。一生を閉ざされた世界で過ごすの
か。
︱︱︱︱
ティアは口には出さず願った。
そしてこの半年後、彼女は一人の男児を産み落としたのである。
1588
004
ゆっくりと大きくなっていく腹部に、何かしらの強い感慨を抱い
たわけではない。
ただ不自由なことが増え、眠気が強くなり、気がつくと思考が鈍
重になっていただけだ。
そんな時、オルティアはいささかの苛立たしさを帯びて気を引き
締める。あとどれくらいで出産になるのか、日数を数えながら気を
紛らわせる。
それでも腹の中で何かが動いていると感じる時、彼女の心はいつ
も﹁今﹂を離れて遠い未来へと放たれた。
人が人の命を繋いで作る流れ。
その中に自分が確かに立っているのだと、女王は己の子によって
深く実感するのだ。
﹁ヴィヴィア﹂
その名を呼ぶと縫い物をしていた女は顔を上げた。黒茶の瞳が女
王を見る。
﹁はい。姫。どうなさいました?﹂
オルティアが臨月近くなった頃から、雫は城に泊り込むようにな
った。膨らんだ腹以外は頼りない体のオルティアが心配で仕方ない
のだろう。常に傍について仕えるようになったのだ。
そこまでしなくていいと何度も言ったが彼女は退かない。そして
実際、オルティアも気を抜ける相手が近くにいてくれることは嬉し
1589
かった。日常の細やかなことから先回りして助けてくれた友人を女
王は苦笑して見つめる。
﹁人を呼んできてくれ。痛い﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それって﹂
﹁多分そうだ。産室の準備を﹂
﹁うっわああ! 待っててください!﹂
お前が落ち着けと、言いたいくらいの勢いで雫は執務室から飛び
出していった。その背を精霊が面白そうに眺める。この半年間オル
ティアをあらゆる危険から守ってきたファルサスの精霊は、机を回
ると女王に手を差し伸べた。
﹁王妃よ。お連れします﹂
﹁妾は妃ではないというのに﹂
言いながらも女王は小さな手を精霊に取らせる。体が浮き上がる
不思議な感覚。すっかり慣れきった力の行使にオルティアは小さく
笑った。自分の足に拠らず空中を滑っていく途中、精霊の声が聞こ
える。
﹁出産中は痛覚を遮断いたしましょう。貴女はあまり体力がおあり
でないので﹂
﹁そうだな。頼む﹂
痛みは決して得意ではない。オルティアはその申し出を受け入れ
ると深く息を吐いた。駆け込んできた女官や医師たちに案内され、
用意された産室へと向かう。
すぐ後ろを小走りについて来る雫が、まるで自分のことのように
青褪めているのに気づくとオルティアは笑った。
﹁そう心配するな。大したことではない﹂
﹁姫⋮⋮﹂
出産によって命を落とす人間は後を断たないが、オルティアには
精霊がついている。
ファルサス王家に仕えるこの精霊が﹁生まれてくる子供の安全﹂
のみならず女王自身をも守るよう命じられている以上、危険は無に
1590
はならないとしても限りなくそれに近いのは確かだった。
精霊の干渉によって痛みは感じなくなったが、しきりにつかえる
違和感に産室に着いたオルティアは浅い息をする。握る為の手を探
して相手を呼んだ。
﹁ヴィヴィア、傍にいろ﹂
﹁はい﹂
苦しいと、確かに感じるにもかかわらず、思い出すのは澄んだ海
の青だ。
硝子の瓶に詰められた水。海底から仰ぐ遠い海面。
そう思った時もあった。自分だけがこの海底に横たわ
あの輝きを越えて外に出られたのなら、どれ程楽になるのだろう。
︱︱︱︱
っているのだとも。
けれどそれでもいいと、今は思っている。
全てが変わらずとも充分生きていけるのだと。
生きることは不便で不自由だ。
だがそれはそれでいい。苦しくて構わない。
彼女は意識の断片で遠い海面を仰ぐ。
明るく澄んだ青。空に近いその場所。
そこに漂う者もまた渇えていると、今では知っているのだから。
出産までには九時間がかかった。
元々体力のないオルティアがそこで弱りきってしまった為、精霊
が補助に加わり何とか赤子を無事取り上げることに成功したのだ。
血に濡れたまま産声を上げる子を、まずは沐浴させようと女官が
控えの間に連れ出す。だが女王はそれを呼び止めた。
﹁見てみたい。連れてまいれ﹂
1591
﹁ですが陛下、まだお清めが⋮⋮﹂
﹁構わぬ。ヴィヴィア﹂
﹁はい﹂
雫は生まれたばかりの子を抱き上げると顔の血だけを軽く拭う。
そのまま母となった女王の前に連れてきた。オルティアは友人の腕
の中で泣いている生き物を見ると、疲れきった顔を顰める。
﹁小さい﹂
﹁当たり前ですよ、姫⋮⋮﹂
﹁これ程小さいのに睫毛があるぞ﹂
﹁そうですね﹂
雫は﹁抱いてみますか?﹂と言いながら女王の胸の上に赤子をそ
っと寝かせた。オルティアの手を取って小さな体を支えさせる。
大人の誰しもが忘れてしまったであろう大きな泣き声。全力で生
ただ黙って目を閉じたのである。
きていることを示すその存在を、オルティアはまじまじと見つめる
と︱︱︱︱
※ ※ ※ ※
生まれた子は一週間後、精霊と共にファルサスへ帰っていった。
迎えに来たラルスはその場で報酬の支払いやキスク王位継承権の
放棄を手続きすると、オルティアに﹁手間をかけさせたな﹂と言い
残して去る。
産後一ヶ月女王に付き添い続けた雫も、オルティア自身が﹁もう
よい﹂と言って夫のもとに帰らせた。
約一年間続いた非日常。
それはようやく終りを告げ、女王はいつもの平穏へと戻る。
1592
当たり前の日々は実に過ぎ去るのが早い。
時折ファルサスを訪ねた雫から、自分の子の近況を聞かされる度、
オルティアはそう実感せざるを得なかった。
あれ程忘れられないと思った妊娠時の煩わしさもいつの間にか記
憶から薄れていく。自分が本当に子を産んだのか、それさえも茫洋
として思えた。
ファルサスで育つ我が子に会いに行こうとは思わない。その子は
オルティアの子であって、キスクの子ではないのだから。
けれど幸せそうに育っていると⋮⋮そんな話を聞く度、彼女の心
は少しだけ温かくなる。自然と笑みが零れる。
そうして八ヶ月が過ぎた頃、彼女は再び彼と出会った。
﹁よ、行き遅れ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あまりにも腹が立つと、人間何も言えなくなるらしい。
オルティアは機嫌のよさそうな男を前にしながら、一体どういう
切り口で切り込めばいいのか、それとも無視した方がいいのか真剣
に悩んでいた。結局簡単に﹁ついにお前も三十歳だな﹂と返す。
ファルサスにて毎年行われる王の生誕を記念した式典は、ガンド
ナの建国記念の式典と並んで、大陸諸国がお互いの関係を窺う為の
外交の場となっている。五ヶ月前にあったガンドナの式典は体調不
良にて欠席した為、一年ぶりに諸国要人の前に出てきた女王は、主
催国であるファルサスの王を冷たい目で見上げていた。
﹁第一妾はまだ二十一だ。行き遅れと言われる筋合いはない﹂
﹁でも夫のなり手がいないんだろう? 性格のせいだな﹂
﹁半分はお前のせいだ﹂
オルティアがファルサス国王の子を産んだという事実はいまや誰
もが知っている。
1593
そしてそれは様々な意味で、女王の夫になりたいと思う男たちに
二の足を踏ませることになっていた。
常々﹁それくらいで怯むような男は要らぬ﹂と公言してやまない
女王は、相変わらず性格の悪い男に出くわしたことで激しく顔を顰
めたが、彼に引き留められていてはどんどん疲労が蓄積してしまう。
だ
大体の用事はもう済ませたことだし、さっさと国に帰った方がいい
だろう。
オルティアは軽く手を振って﹁またな﹂と言いかけ︱︱︱︱
がその手を捕まれたことに、ぎょっと驚いた。
﹁まぁ待て。折角来たのだからセファスに会ってけ。ほらほら﹂
﹁ちょ⋮⋮っ! 待て! 自分で歩ける!﹂
﹁よし! 走るか!﹂
﹁待てというのに⋮⋮!﹂
手を引かれていく、というよりは半ば小脇に抱えられて広間を出
て行く女王を、残っていた客たちは唖然として見送る。
こうして第三十代ファルサス国王ラルス・ザン・グラヴィオール・
ラス・ファルサスの誕生日を祝う式典は、うやむやのうちにその幕
を下ろした。
抱えられて走っている間は舌を噛まないよう口を閉じていたオル
ティアだが、下ろされたのならまず﹁どれだけ非常識なのだ﹂と文
句を言おうと思っていた。まったく彼は長く会わずにいてもほとん
ど変わっていないのだ。果たしてこんな男が父親で自分の子がちゃ
んと育っているのか、さすがに不安になってくる。
だが全ての言葉は、彼が﹁ほら、母親を連れてきたぞ﹂と言って、
彼女を下ろした時に消えうせた。
広い部屋の入り口に立ち尽くすオルティアは、青い瞳でじっと自
分を見てくる幼児を見つけると息を飲む。
白い肌に黒茶の髪色。瞳の色も全て父親譲りだろう。けれど顔立
1594
ちはどちらかと言えば母親に似ていた。まだ性別の分かれていない
美しい容姿。好奇心に満ちた目は、父親の声に反応したのか大きく
見開かれる。
ラルスに向かって寝台をずり落ちてこようとする子を、傍につい
ていた精霊が床に下ろしてやった。
ゆっくりと四つ這いで近づいて来る我が子を二人はその場で待つ。
ようやく息子が手の届くところにまでたどり着いた時、ラルスは
小さな体を抱き上げ、オルティアに向かわせた。
﹁お前の母親だ、セファス﹂
何の不安も持たず、ただ伸ばされる小さな手。
透き通る青い瞳は澄んで自由な空だ。
無垢で伸びやかな魂は、父とも違う、母とも違う。
違う時を生きていく、新しい︱︱︱︱
柔らかな指が頬に触れる。
覗き込んでくる瞳。あどけない笑顔が彼女に向けられた。
何も言えずにいたオルティアは、両腕を伸ばすと我が子の体を抱
き取る。
そうして名前を呼んで寄せ合う体は⋮⋮涙が出るほど温かかった。
※ ※ ※ ※
﹁お前が父親をちゃんとやれているとはな﹂
眠ってしまった我が子を女官と精霊に任せ、ファルサス王の私室
へと移ったオルティアは、部屋に入るなり率直な感想を投げかけた。
1595
皮肉のような褒め言葉のような評価を受けた男は笑いながら寝台
に座る。
﹁色々面白い。見てて飽きない﹂
精霊曰く、ラルスは仕事の手が空いた時はほとんど子供に付きき
りになっているのだという。それを非常に意外に思ったオルティア
は、だが彼の妹に対する執心を思い出すと幾分納得した。
﹁お前は本当に身内には甘いな。大方妹が嫁いでしまって淋しいの
であろう﹂
は?﹂
﹁いや? 気が楽になったぞ。これであいつを殺す可能性が減った﹂
﹁︱︱︱︱
何だかおかしなことを聞いた気がする。オルティアは自分の耳を
疑って男の顔を見た。
寝台に座る王。ラルスは穏やかな表情で窓の外を眺めている。そ
ういう顔をしている時、男が冗談を言わないことを既に彼女は知っ
ていた。
王はオルティアの視線に気づくと顔を傾けて彼女を見やる。
﹁どうした、オルティア。お前も俺がレティを溺愛していると思っ
ていたか?﹂
﹁⋮⋮違うのか﹂
誰しもがそう思っていただろう。
傍若無人で人を人とも思わぬ男。その唯一の例外が血を分けた妹
なのだと。
だが問われた当の王は少し眉を上げて微笑しただけだ。青い瞳に
昏い空虚が浮かぶ。
﹁オルティア、簡単なことだ。少し考えてみればいい。身内同士で
殺しあったファルサス王族の最後の二人が、本当にそんな愛情で結
ばれ得るかどうかを﹂
低い声はさざなみのように暗い部屋に行き渡った。
その飛沫を受けたオルティアは足下を掬われたかのような愕然に、
1596
ただ男を注視する。
六十年前の狂王の即位から約二十五年間続いたファルサスの内乱。
それは王族同士の血で彩られ、多くの犠牲者を生み出した。
欺きあい騙しあい、疑いあって殺しあった彼ら。
数十人もいた直系のほとんどがこの争いの中息絶え、その人数は
激減したのだ。
結果、ラルスの時代には彼と妹の二人しか残っていない。
﹁そうだな⋮⋮お前には話しておくか。セファスを産んでくれたこ
だからお前には伝える﹂
とを感謝しているからな。これは子供には伝える気のない話だ。︱
︱︱︱
それはファルサス王家を蝕んだ醜悪極まりない話。
三十五年前には決着がついたと言われていた闘争は、けれど水面
下ではその後も長くくすぶり続けていたのだ。
﹃誰が裏切っているのか分からない﹄
二十五年間王族全員を支配したその疑惑は、闘争を終わらせた王
の長子、ラルスの父の時代にあってもまだ残っていた。
臣下たちや血族に裏切り者が残っていないか疑い続けた父は、も
っとも近しい血縁であった自分の妹が王族であることを放棄して他
国に嫁いだ時、ようやく安心して彼女に向き合うことが出来た。
その正直な思いを苦渋混じりの顔でラルスに吐露しながら彼は、
それでも血族を疑えと。
その上で息子に叩き込んだのだ。
︱︱︱︱
﹁実際父は口だけじゃなく徹底してたぞ。ファルサスの貴族出身だ
った母を﹃王を毒殺しようとした﹄という疑惑で暗黙裡に処刑した
んだからな。まあそれは偽の情報だったわけだが﹂
1597
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁とにかく俺は﹃誰も信じるな﹄と叩き込まれて育った。当然レテ
ィもだろうな。だからこそ俺には一般の兄が抱くような愛情はない。
俺がレティに向けているのは、ただの覚悟だ﹂
﹁覚悟?﹂
オルティアは月光しか光源がない部屋で、息苦しさを感じて喘ぐ。
夜の中閉ざされた部屋は、まるで水が隅々までを満たしているか
のようだ。
誰もが入って来れぬ場所。
不自由な海を泳ぐ二人だけが、今この場で世界を同じくする。
寝台に座す男はオルティアの問いに唇を上げた。躊躇いなく情味
のない声を響かせる。
﹁覚悟だ。争いを起こさないというただそれだけの覚悟。⋮⋮俺は
母が殺された時もその結果に納得した。母を死に至らしめた情報が
何者かの流した偽りだと知った時もな。誰にでも間違いはある。そ
れが悲劇を生み出そうとも、王であるなら飲み込まざるを得ないこ
間違っていると思ったのはその六
ともあるだろう。だから父を責めなかった。その姿勢が間違ってい
るとは思わなかった。︱︱︱︱
年後、母を殺した過ちを履き違えた父が、罪人を解き放とうとした
時だ﹂
男の声が嘲弄を含んだ。
陰惨さが染み出してくるような声音。オルティアは低くなった声
に背筋を強張らせる。
﹁母を殺してしまった父はそれをずっと気に病んでいたらしい。そ
こまでは個人の自由だ。好きに悔恨の涙を流せばいい。だが父はそ
れだけに留まらず贖罪として別の女を牢から解き放った﹂
﹁別の女?﹂
﹁ああ。こちらは正真正銘の罪人だ。王族たちを誑かし争わせた妖
1598
女。 ただその人格はとうに失われたと思われ、長い間幽閉されて
いた。記憶もないと思われていたんだ﹂
記憶の中で何かが震える。
オルティアはその話の先が分かる気がして、口を開いた。
﹁⋮⋮お前が殺そうとした女とは、その女か﹂
﹁当たり。俺はあの女が元の人格と記憶を残しているのではないか
とずっと疑っていた。母を殺させた情報の出所もその女ではないか
と思っていたくらいだ。父に牢を開けさせようとしたのもな。だか
ら俺はある晩、剣を持って女のところへ走った。正式に女が解放さ
れる前に先の憂いを取り除こうと思ったんだ﹂
その結果はオルティアも知っている。
彼は敵わなかった。
殺そうとして、逆に叩きのめされたのだ。そしてそれを誰にも言
わなかった。
﹁何故父に言わなかった? その女にやられたのだと﹂
﹁誰にも知られたくなかったからな。言っても信じてもらえなかっ
レティと争わないことを覚悟と
ただろうし、実はあまり思い出したくない。だがその時以来俺はい
つかその女を殺すことと︱︱︱︱
して決めた﹂
少年だった彼がその時何を思っていたのか、ラルスはそこまでは
語らない。今でも表に出そうとはしない。
だがオルティアには彼の思考の軌跡が不思議と見える気がして沈
黙した。
﹁誰も信じるな﹂と叩き込まれ、その方針もまた王として当然と考
おそらくそこで初めて自分に与えられた教育を疑ったの
えていた彼は、罪人を解き放つという父の過ちを目の当たりにして
︱︱︱︱
だ。
1599
しかし疑おうとも染み付けられたものは拭えない。欠けた愛情は
生み出せなかった。
結果、王として作られた彼は欠落を補う為、自分だけの覚悟を選
んだのである。
﹁争いが王家を疲弊させた。まぁ血族結婚を繰り返したせいで、捩
れた情念が纏わり付いていたってのもあるだろう。だからせめて俺
の代では権力闘争はしないでいようと思った。レティを優先して大
事にして、それでもあれが俺に反するというなら、王にふさわしい
方が玉座につけばいい﹂
彼が長らく王妃を娶らなかったのは、争いに加わる人間を減らし
たかったという理由もあるのだろう。王家の影に巻き込まれ命を落
とした母を見た彼は、同じような立場の人間を作り出したくなかっ
たに違いない。
﹁あれの方が俺より優れた王になるというなら、俺はすぐにでも死
んでやる。そうでないならあれを殺す。それだけのことだ。要らん
争いをすることはない﹂
だが、その妹ももう城を去った。
彼のもとに残るのは何も知らない子供だけだ。
オルティアは男を見つめる。
月の光によって青い光を宿す寝室。ここはまるで海の中のようだ。
そして彼ら二人は閉ざされた海中を泳いでいる。
水から出られぬまま、縛られた己をよしとして。
﹁⋮⋮お前に子供が育てられるのか?﹂
続いてきた連鎖を断ち切れるのか。止められるのか。
彼に向かい合う唯一の人間としてオルティアは問う。
1600
僅かな沈黙。
だが男はその問いに笑って、女を見上げた。
﹁当然だ。こんなものは何一つ持ち越さない﹂
伸ばされた手。
それが何を思って伸ばされたのか、今は考えない。彼女はその手
を取る。
細い体が抱き取られる。膝を抱える女の耳元で彼は囁いた。
﹁セファスは何も知らない。だから信じられる。⋮⋮大分違うもの
だな。そういう存在がいるということは﹂
普段と変わらぬ声。
だが、紛れもない安堵にオルティアは嘆息する。
暗い部屋。誰も来ない部屋。
あの場所で泣いていたのはいつのことか。
今は遠い時。
だが決して忘れられぬ記憶。
あの時違えられた道は、今も取り戻せぬままだ。
また産んでやってもよい﹂
﹁⋮⋮信じられるのか?﹂
﹁ああ﹂
﹁なら︱︱︱︱
この道筋は彼らを最後に終わる。
ここから先には続けない。
何も伝えはしないだろう。空を美しいと思った、この思い以外に
は。
﹁また? だからお前を信じろと?﹂
1601
少しの皮肉が混ざる声にオルティアは首を振る。
愛情を誰よりも期待しない男。向かい合わぬ相手に向かって言を
紡いだ。
﹁妾ではない。お前の子供を信じろ。新しい時代を生きる子だ﹂
希望さえも同じものは必要ない。
子は子の夢を、未来を、時代を、自らのものにして。
そうして彼らは礎となって死んでいく。長い歴史の一部に埋もれ
ていく。
思いもかけぬ言葉を受けた王は腕の中の女を見下ろした。
彼を見ない横顔を見つめ⋮⋮我に返ると喉を鳴らして笑う。
﹁分かった。どうせお前も夫を選ぶのが面倒なんだろう? 何人欲
しい?﹂
﹁お前の面倒と一緒にするな! 全部はやらぬからな!﹂
﹁その辺は相談だなー。実は娘も欲しかった﹂
﹁何故かお前には娘をやりたくないと思うぞ⋮⋮﹂
生まれたばかりの子を抱いた時、涙が滲んだことを覚えている。
言葉にならないあの感情が未来への思いだというのなら、それを
重ねていくのもいいだろう。
空虚を抱えた彼らは束の間交差し、新たな世代を生み出す。
そうして新たな時を行く子供たちの道はきっとずっと、温かなも
のとなり得るはずなのだ。
※ ※ ※ ※
1602
翌朝、王の部屋を出たオルティアは、もう一度我が子に会いにそ
の部屋を訪れた。
目覚めたばかりの息子が遊んでいる子供部屋。その寝台に座った
女王は、傍のテーブルに置かれた置物に気づく。
﹁これは⋮⋮﹂
﹁ああ。王妃のものとお揃いなのでしょう? 王がそう言って与え
てらっしゃいましたよ。セファス様のお気に入りです﹂
精霊の説明にオルティアは目を丸くして硝子の置物を見つめる。
青い水の中に二匹の魚が泳ぎまわっている硝子飾り。
彼女の部屋にあるのとまったく同じそれを眺めたオルティアは、
ややあって小さく吹き出すと、笑いながら我が子の体を抱き上げた。
End
1603
飛ばない鳥 001
兄の私室に招かれたのは、その時が初めてだった。
当時既に彼女は九歳。そしてその兄が十四歳だったことを考えれ
ば、むしろそれは遅すぎる機会で、異常なことであると思われただ
ろう。
だが彼らは大陸でも最強と言われる国家の王族だったのだ。血族
を愛しながら憎み裏切る王家の末裔。
次に用心した。
だから彼女は深夜唐突に兄の部屋に呼ばれた時、何よりも意外さ
に驚き︱︱︱︱
一つの玉座を争う兄妹同士として、彼が自分を殺す気ではないの
かと。
※ ※ ※ ※
﹁もう面倒だから今年の式典は高山の上で開催することにしないか
? 転移禁止にして正装で山を登りきった者だけが参加できるとい
う形式に⋮⋮﹂
﹁いたしません。どのような国ですかそれは。他国から顰蹙を買い
ます﹂
﹁参加者が絞れていいと思うんだがなー﹂
執務机に頬杖をついて溜息をつく兄に、レウティシアは冷ややか
1604
な視線を向ける。
毎年ファルサスにおいて国王の誕生日近くに開かれる式典は、大
陸諸国が外交関係を調整する為に欠かせない場となっているのだが、
当の王はそれが面倒で仕方ないらしい。何とかして参加者を削って
やろうという意思が見て取れ、先程から彼女は頭の痛い思いを味わ
っていた。王の手から書類を取り上げると彼女はそれに目を通す。
﹁例年通りで進めます。よろしいですね? 兄上﹂
﹁ファルサスの諸侯連中だけでも登山させてみないか? 他国の人
間じゃなきゃいいだろう﹂
﹁例年通りで進めます﹂
﹁任せた﹂
まったく表情の変わらぬまま王が手を振ると、レウティシアは礼
をして執務室を辞した。廊下を行きながら文官たちを呼び手配を始
める。
ラルスが即位してから四度目の式典。
兄ももう二十八歳になるのだ。そのことに気付いた彼女は何とは
あの夜からもう十四年だ。
なしに書類を手にしたまま窓の外を見上げた。
︱︱︱︱
彼は生まれてからあの時までと同じだけの月日を、今もう一度重
ねた。
この年月の間に果たして何かしらの変化はあったのだろうか。本
心を滅多に見せることのない彼からそれを窺い知ることはレウティ
シアには出来ない。
彼女は声にならない溜息を紙面に落とすと目を閉じる。
そしてレウティシアは、変われないことの愚かしさを自覚すると
⋮⋮心中で一人嘆いた。
魔法大国と呼ばれ強国の中でも抜きん出た存在であるファルサス。
1605
だがその国を支える王族は、現在ただ二人しか存在していない。
一人は勿論王である男。そしてもう一人が王妹である彼女だ。
かつては百人近くいた﹁直系﹂と呼ばれる王族が、たった数十年
でどうしてここまで激減してしまったのか。それはある廃王の狂行
に端を発している。
彼の残した爪痕は六十年を経てもまだ癒えてはいない。
死と猜疑を王族たちの中に振りまいていった廃王ディスラル︱︱
︱︱
しかしその傷自体は、宮仕えの者であってもほとんどが知らぬ事
実だ。
もっと明らかな事実は、ラルスには妻も子供もいないということ
だけ。
そしてこれは非常に由々しき事態であろう。かつては後宮に美姫
が十数人置かれていたこともあるが、ラルスは他国から献上された
彼女たちに自分の子供を産ませることはしなかった。むしろ政治的
に利用価値がなくなると彼女たちに次々暇を出していったくらいで
ある。
結果、現在ファルサスの後宮は名目だけで空なのだ。これは放っ
ておける状態ではない。
﹁ファルサスの人間でもそうでなくてもどちらでもいいわ。頭の切
れる美しい娘を呼びなさい﹂
﹁家柄は気にしなくてもよろしいので?﹂
﹁いいわ。そんなもの兄上が選んだ後からでも付け足せるのだから﹂
通常の式典準備に加え、将来の王妃候補をも出席させようと目論
んでいるレウティシアは、そこまで指示すると不意に沈黙した。よ
り詳細な容姿を条件に付け加えるかどうか迷う。
ラルスは美しい女が嫌いではない。女の容色に惑わされることは
ないが、美食を愉しむ程度には彼女たちの美しさを評価する。
だが彼には好みの容姿はないが、代わりに﹁好きではない容姿﹂
というものが存在するのだ。それは例を挙げるならレウティシア自
1606
身︱︱︱︱
透きとおるような白い肌に蒼い瞳の、ファルサス王家
によく見られる容貌だ。
彼女の兄は昔から、魔力を保つため血族結婚を繰り返した王族の
歴史を嫌っていたが、その考え方が彼の好みにまで影響を及ぼして
いるのかもしれない。後宮に納められた女たちの中でも、ファルサ
ス王族に似た容姿を持った一人だけは彼の足が遠かったと、レウテ
ィシアは女官から聞いたことがあった。
﹁まったく⋮⋮いい加減遊んでばかりいないで後継を作ってもらい
たいのだけれど﹂
とかく破天荒な王ではあるが、いつか妃を得て落ち着いてくれる
のだろうか。
想像しがたい光景を想像しようとしてレウティシアは眉根をよせ
た。招待客の名を書き連ねた書類を確認しながら、その中の一人の
上で視線を止める。
もしラルスが誰かを気に入る可能性があるとしたら。
それは﹁彼女﹂ではないのかと、レウティシアは考える。何処と
なく兄と似たところを持つ妖姫。
ラルスはキスクとの停戦交渉の際、女王である彼女を自分の妃に
誘ったという。それはかなり異例なことだ。少なくとも面と向かっ
て嫌がらせをしてやろうというくらいには相手のことを目に留めて
いる。
実際彼はそういった嫌がらせの場において嘘はつかない。﹁王妃
にしてやる﹂と言ったのなら、その資格があると考えているのだろ
う。
だが、残念なことにその彼女はファルサス王妃にはなり得ない人
材でもあるのだ。
ファルサス以上にかの国は今、王族不足である。そのような状況
で辣腕の女王が、玉座を退き他国の妃になることを選ぶはずはない
1607
だろう。まともな手段ではまず不可能だ。
﹁となると⋮⋮あとは力ずくかしら﹂
王妃一人を得る為に、その国を奪う。
それは度し難いことではあるが不可能ではないだろう。事実先だ
っての戦争でファルサスはキスクを圧倒した。
大国といえどもキスクは歴史の浅い国である。魔法の技術的にも
両国には明確な差があり、正面から力比べをして敗北することなど
まず考えられなかった。
レウティシアは、かの女王が数度にわたり自分たちに暗殺者を差
し向けていたことを思い出すと、紅い唇で優美な笑みを形作る。兄
が望むのなら女王でもその国でも、いくらでも罪の清算をさせてや
ろうと考えながら。
※ ※ ※ ※
初めて入った兄の部屋は﹁妙にがらんとしている﹂という印象だ
った。
余分なものが何一つない部屋は、わざわざ命じて調度品を減らさ
せたのだろう。王族の部屋としては殺風景と言ってもよかった。
もっともレウティシアも人のことは言えない。彼女は他国の姫の
ように花や宝石や香水などを部屋に並べることには興味がなかった。
ただ毎日を魔法と政務の勉強に費やしており、そこには少しの甘え
も許されない。父王は自分の子二人に対し平等に厳しかった。
﹁レウティシア、来たか﹂
鋭い声は部屋の奥から聞こえた。兄の姿は見えないが、彼女は思
わず身を竦める。
1608
殺されるのではないかという緊張。だが彼はアカーシアを持つ王
ではないのだ。彼女の防御結界を破ることはきっと出来ない。
レウティシアは呼吸を落ち着け精神を統御しようと試みる。その
時また、少年の声が響いた。
﹁⋮⋮ちゃんと一人で来ただろうな﹂
﹁はい、兄上﹂
﹁ならいい。こちらへ来い﹂
本当に罪人であったのは誰なのか。
それは、彼らの運命を変えた夜だ。
︱︱︱︱
※ ※ ※ ※
式典当日、オルティアは出席はしていたが、必要以上にラルスの
傍へ近づこうとはしなかった。一度儀礼的な挨拶を述べただけであ
とはものの見事に避け続けている。しまいには早々に帰ってしまっ
た女王を見やってレウティシアは兄の隣に寄ると耳打ちした。﹁よ
ろしいのですか?﹂と名を呼ぶことを避けて問うと、ラルスは不思
議そうな顔で妹を見下ろす。
﹁何がだ? オルティアか? あいつがまた何かしたのか﹂
﹁いえ何も。ですが兄上を思いっきり避けてらしたので﹂
﹁あいつは俺を嫌いな虫でも見るような目で見るよな。結構楽しい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
これはやはり見当違いだったのかもしれない。
レウティシアは残りの言葉を飲み込むと兄の傍らから離れかけた。
しかしその背に王の低い声がかけられる。
1609
﹁レティ、独断専行はするなよ﹂
﹁兄上?﹂
﹁あの女は女王となってからの方が手強いぞ? 余計な手出しをす
るな。足下をすくわれる﹂
何と答えるべきか分からない。
彼女は迷った結果、黙って頭を下げると煌びやかな広間を出た。
喧騒から遠く離れた夜の廊下で足を止め、小さく嘆息する。
﹁何を考えているのかしら、兄上は⋮⋮﹂
手強いと思っている相手を何故野放しにしているのか。自由にさ
せていいのは先が読める相手だけであると、父は彼に教えたはずだ。
彼女もそう叩き込まれたのだから間違いない。
レウティシア自身が、そうして王から自
それともこれは﹁キスクなどいつでも屠れる﹂という自信の表れ
なのだろうか。︱︱︱︱
由を与えられているように。
﹁ともかくこれではいつまで経っても後継が出来ないわね。まった
く⋮⋮私が城から離れられないじゃない﹂
﹁ええ? それは貴女が第一王位継承者である為ですか?﹂
少し離れた暗がりから聞こえてきた声。それはお世辞にも明瞭と
は言えない、ぼんやりとした男の声だった。
レウティシアは顔を上げるより早く、無詠唱で構成を展開させな
がら声のした方へと向き直る。
﹁どなた?﹂
﹁ああ、申し訳御座いません、殿下。アルノ・ガルヴァノと申しま
す。本日は父の代理で参りました﹂
人のよさそうな表情。闇の中から現れた、ごくごくありふれた容
姿の男は、ファルサス一領主の家名を名乗ると礼をした。
レウティシアはその頭に訝しげな視線を投げかける。本来聞き取
れるはずもない口の中での独白を耳にした彼は、その視線が持つ意
1610
味に気付いたらしい。﹁昔から耳がよくて⋮⋮﹂と苦笑した。細め
られた目の悪気のなさに、レウティシアは警戒を解かないまでも空
気を和らげる。
﹁貴方がガルヴァノ侯の代理? 予定では貴方の姉が来ると聞いて
いたのだけれど﹂
そしてその姉は、ラルスの妃候補としてみなされていた一人だっ
た。目論みがささやかに外れたレウティシアは細い首を軽く傾げる。
すぐに忘れてしまいそうな平凡な出会い。けれどそれは、彼女に
とって忘れられないものとなった。
アルノは貼り付けたような笑顔のまま頭を下げる。
姉は昨日死にました。それで弟の私が父の代わりをする
﹁申し訳ございません。連絡が行き届いていなかったようで⋮⋮。
︱︱︱︱
ことになったのです﹂
男の挨拶は物騒なことこの上ない。彼の姉は確かまだ二十代半ば
過ぎ、死ぬには若すぎる年齢だ。それが突然どうしたというのか。
事故よりも策謀を疑ったレウティシアに、アルノは軽く補足の説明
を加える。
﹁昨日自ら首を吊りました。屋敷に戻れば調査報告書もございます
が、提出いたしましょうか﹂
﹁⋮⋮そうね。一応お願い﹂
﹁かしこまりました﹂
自殺と言われて素直にそれを信じるほど、レウティシアは純朴で
はない。第一、事前の調査書では彼の姉は少々高慢なところのある
自信家ということだったのだ。そのような性格の人間がはたして自
縊などするだろうか。
男の申し出に肯定を返しはしたものの、彼女の表情は晴れない。
もし女の死が策謀によるものであれば、調査報告書にもその手が入
1611
っている可能性は高いだろう。既にこれは起こってしまった時点で
﹁終わってしまった﹂話ではないのかと彼女は疑ったのだ。
だが、まだ何も肝心なことは分からない。レウティシアは大分先
まで行ってしまった思考の手綱を取ると改めて男を注視した。
育ちのよさがよく現れた顔つき。しかしそれは言い換えれば、年
齢の割りに苦労が染み付いていないということでもある。
ガルヴァノ侯は既に老齢で床から起き上がれない日も多いと聞く。
その後をまもなく継ぐのであろう男がこんなのほほんとしていてい
いのだろうか。
レウティシアは蒼い瞳を少しだけ細めてアルノを見やった。彼は
困ったように肩を縮こめる。
﹁他にはよろしいでしょうか、殿下﹂
﹁ええ。時間を取らせてごめんなさい﹂
﹁なら私から一つ質問をさせて頂いてもよろしいでしょうか﹂
﹁何かしら﹂
少しだけ意外な要求に、レウティシアは零れ落ちた黒髪をかきあ
げた。冷めた視線が男の茶の双眸を捉える。
﹁先程の話です。貴女はご自分が第一王位継承者である為にこの城
に留まり続けていらっしゃるので?﹂
今まで幾度となく聞いた問い。彼女はその意味を悟って苦笑した。
通常、王族の姫は十代のうちに結婚して城を出て行く。その理由
が政略結婚であれそれ以外であれ、レウティシアのように成人後三
年が経過しても城に残っている王妹は珍しいのだ。
つまりこの質問は﹁結婚する気がないのか﹂という意を婉曲に示
したものであり、今まで彼女の前に現れた数多の求婚者たちは揃っ
て同じ問いかけを口にしていた。この男もその列の中に加わる気な
のだろうか、と一瞬考え、彼女は首を縦に振る。
﹁そうね。兄には子がいないから。もし後継が出来れば城を出るつ
もりはあるのだけれど﹂
1612
︱︱︱︱
白々しい、と。
唇の端が僅かに上がる。その欺瞞を誰よりも自身がよく知ってい
る。
真実が一つに集約されるのなら、人はもっと分かりやすく生きら
れるだろう。だが、そんなことは極稀だ。
レウティシアはふっと息をつく。
気だるい焦燥。男はそのささいな仕草に視線を寄せた。刹那、茶
色の瞳に鋭さが浮き上がる。
﹁⋮⋮なるほど。殿下はよい妹君でらっしゃる。不躾な質問、大変
失礼致しました﹂
アルノはさっさと踵を返すと夜の廊下に消えていった。あまりに
も唐突な退場にレウティシアは虚を突かれて目を瞠る。まさか本当
に城へ残る理由を聞かれただけとは思わなかった。だが現にそうな
のだろう。彼女は警戒を解くといびつな微笑を口元に浮かべる。
﹁よい妹? そんなこと⋮⋮﹂
兄も自分も思っていない、とレウティシアは声に出さず呟いた。
※ ※ ※ ※
﹃血族を疑え﹄とは、ここ数十年ファルサス王族の間に共通して植
えつけられてきた観念である。
それは六十年前、廃王ディスラルが狂乱によって多くの血族を惨
殺した事件から始まっており、彼の王の死を以って凶行が終わった
後、密やかに王族たちを蝕んだ。
血縁たちを王剣によって葬り去ろうとした狂王には、直系の中に
1613
正体の知れぬ協力者が複数名いたという。ならば誰がそうであるの
か。誰が誰を裏切り、誰と通じているのか。
拭いきれぬ疑惑の果て、いくつかの変死事件を引き金とし、残さ
れた王族たちは玉座と矜持と情念をかけて争い始めた。陰謀が宮廷
に巣食い、唐突な死と失踪が溢れた。
そしてその結果⋮⋮直系王族の人数は激減してしまったのだ。
今はラルスとレウティシア、二人の兄妹が城に残るだけであり、
最後の直系である彼らもまたそれぞれ教え込まれている。
︱︱︱︱﹃己の血族を疑え﹄と。
レウティシアが大広間に戻った時、既に式典は終わりかけていた。
招待客もまばらになった中を彼女は縫って歩き、文官の一人を呼び
止めると兄のことを尋ねる。
普通の思考では計り切れない彼は、今夜も招待国の王にもかかわ
らず、きりのいいところでさっさと自室に戻ってしまったらしい。
彼女はその報告に頷くと兄の私室へ足を向けた。子供の頃とは異
なり、見慣れた扉を自分の手で叩く。
﹁誰だ?﹂
﹁私です。兄上﹂
﹁入れ﹂
軽い声はあの夜のものとは違う。今の彼は本当の姿をレウティシ
アに曝すことは滅多にないのだ。それを喜ぶべきか悲しむべきか分
からぬ彼女は、寝台に座る兄を前に﹁妹﹂として美しく微笑んだ。
﹁また途中でお帰りになったのですか﹂
﹁面倒だからなー。ちゃんと最低限は仕事したぞ﹂
﹁最低限ではなく標準でなさってください﹂
﹁平凡はつまらないぞ﹂
ああ言えばこう言うのは子供と同じだ。レウティシアはそれ以上
の忠言をやめると、兄の前に跪いた。長い髪が床につくのも構わず
1614
頭を垂れる。
魔法で動く飾り時計。その中の数字が変わったばかりの日付を示
した。それを確認するまでもなく彼女は口を開く。
﹁二十八歳となられましたこと、心よりをお祝い申し上げます﹂
こうして日が変わる瞬間、兄に祝いの言葉を述べるのも、もう数
年来の習慣だ。
一年ごとに確認していく心中。ラルスはそれを聞くと真顔のまま
頷く。
﹁そうか。そうだったな。まだ二十八か﹂
若くあることを厭うような呟き。レウティシアはその述懐に口を
挟まなかった。顔を上げると同じ蒼い瞳と目があう。
﹁もう、二十八です﹂
﹁そうかもしれない。が、先は長いな﹂
ファルサス王が玉座に在る期間は平均して約三十年。王でありな
がら王剣の主人であることも求められる彼らは、ほとんどの人間が
二十代で即位し、子がやはり二十代になる五十代半ばで退位する。
彼ら二人が今のままの均衡を保つ限
だがこのままいつまでも後継が生まれなければ、その期間は更に
延びていくだろう。︱︱︱︱
り。
倦怠感と、言いようのない虚しさ。そんなものが胸中を駆け抜け
ていく。
レウティシアは体の中に息苦しさを抱え込んでしまったような気
がして目を伏せた。滑らかな動作で立ち上がると再び頭を下げる。
﹁失礼します﹂
毎年この日だけは、兄に背を向ける瞬間、消しがたい緊張を覚え
る。
だがそれを押し隠して立ち去ろうとする妹に、ラルスは澄んだ声
をかけた。
1615
﹁︱︱︱︱
レウティシア、欲しいものはあるか?﹂
ただ問う。
そこに私心はない。兄としての愛情も。
だからレウティシアは振り返らず、全ての感情を殺して答えた。
﹁ございません、陛下﹂
こうしてまた、新たな一年が始まるのである。
※ ※ ※ ※
レウティシアが王家の精霊を継承したのは五歳の時だ。
彼女は直系の女性がしばしばそうであったように強大な魔力を持
って生まれ、その力によって精霊一人を支配下においた。
継承の儀式後、城の奥庭には十一体の像が残り、それは動乱の時
代が過ぎ去ったことを意味していると見ていいだろう。一時期は八
体の精霊が使役され、その主人たちが相打ったことさえあったのだ。
継承に立ち会っていた父王は遠い目で精霊の像を眺めると、まだ
幼い娘を見下ろす。
﹁レウティシア、これでお前も王家の魔法士だ﹂
﹁はい、父上﹂
﹁その力を有効に使いなさい。ファルサス王家には二つの義務があ
る﹂
王である父の言葉を疑ったことなど一度もない。レウティシアは
姿勢を正し彼を見上げた。逆光で父の表情はよく分からず、ただ口
元に蓄えられた髭だけが動いて見える。
﹁一つは民を守り国を支える義務。そしてもう一つは血を繋ぎアカ
1616
ーシアを継いでいく義務だ﹂
﹁アカーシア、を⋮⋮﹂
﹁そうだ。もっと大きくなった時に王家の口伝を話してやろう。そ
れまで今の二つを肝に銘じていなさい﹂
﹁はい﹂
レウティシアは素直に頷く。父の言葉がなおも重々しく続いた。
﹁いざと言う時に力を惜しんではいけない。手段の是非に迷うこと
もやめなさい。迷いが即敗北に繋がることもある﹂
王はそこまで言うと、しかし口調とは反対に力なくかぶりを振っ
た。まだその意味が分からぬレウティシアは、一人沈黙する。そう
して城に戻る父の後をついて歩き出した彼女は、何気なく﹁その問
い﹂を口にした。
﹁アカーシアを守るということは、私は兄上の守護者となればよろ
しいのですね﹂
王剣の主とそれを守護する魔法士。この組み合わせは三百年前か
らファルサス王族の要となる一対なのだ。そして自分もその片翼と
なるのだと期待に似た高揚を抱いていた彼女は、しかしこの時、振
り返った父の目に冷水を浴びせられた。
重い悔恨とそれを上回る諦観。それらを生み出す源泉が普通でな
いことはレウティシアにも分かる。だが当時の彼女はまだ何も知ら
なかったのだ。どうして許可なしに兄と会ってはいけないのか。そ
の理由たる何もかもを。
それが、彼ら二人の父親である王の言葉だった。
﹁レウティシア、お前はラルスを殺せる人間になりなさい﹂
︱︱︱︱
そこから先レウティシアの記憶は、断片化し穴だらけになってし
まっている。
覚えているのは大人たちの目を盗んで、勉強中の兄に会いに行っ
たこと。それなりの魔力は持っているが精霊を継承していないラル
1617
スは、妹が精霊を得たという話を聞いて笑った。
﹁そうか、これでお前も王家の魔法士か﹂
﹁兄上は精霊を継承なさらないのですか?﹂
ラルスはレウティシアほど魔力はないが、長い詠唱を伴って儀を
行えば充分に精霊を使役できるはずだ。
そう思って問うた彼女は、だが父に続いて兄にも裏切られること
になった。未完成ながらも秀麗な顔立ちの少年は机に頬杖をつき皮
肉げな笑顔を浮かべる。
﹁しない。俺が精霊を連れたら、お前、俺を殺せなくなるだろ?﹂
それは或いは父の優しさ
記憶は断片化し⋮⋮彼女は兄に何と答えたか、覚えていない。
無断で兄と会ってはいけない︱︱︱︱
だったのかもしれない。
いざと言う時、情に鈍らないように。深い悲しみに囚われないよ
うに。
だが、レウティシアの欲しかった優しさとはそのようなものより、
もっと
※ ※ ※ ※
ガルヴァノ家から届けられた調査報告書は整然としたものだった。
突然の令嬢の死について事故状況その他が不足なくまとめられて
おり、最後には調査責任者として先日出会ったアルノともう一人城
都の大貴族であるシバルド公爵の署名が連名で記されている。
これは、領内だけで事件を片付けてしまうことにより生じる不透
1618
明さを避けるがゆえの配慮であろう。城都の貴族に依頼したのは、
王族が不審を抱いた時すぐ彼から詳細を聞き取れるようにとのはか
らいに違いない。
レウティシアはアルノの人のよさそうな顔を思い出す。
あの時は凡庸な人間だと思ったが、なかなかどうして如才ない人
間らしい。彼女は全て読み終えると、彼に書信を書くべくペンを取
った。
ファルサス城において、レウティシアが一身に担う仕事は魔法に
関する全てである。
魔法士たちの人事から教育、研究内容の把握と実験の許可、様々
な最終決定が彼女のところに届けられ、レウティシアはそれらに采
配を揮っていく。
もし一般に魔法大国と見なされるファルサスが本当に魔法のみの
国であったなら、女王としてその頂点に立ったのは魔法士である彼
女自身かもしれない。そうでなくともラルスが面倒がって放り投げ
た仕事などもそつなくこなしていく王妹に﹁兄妹が逆だったらよか
ったのに﹂と不敬な感想を抱いた者もいるだろう。
だが、そのような感想をレウティシアが聞いたなら、真っ向から
否定されることは確かだ。彼女は自分が﹁どういう人間として作ら
れたのか﹂よく知っている。レウティシアは執務室に自分の精霊と
二人きりになると嘆息した。
﹁結局私は処理型の人間なのよね。そつなく、益ある結果に向けて、
今あるものを処理していくっていう﹂
﹁それが問題なのでしょうか﹂
﹁問題とは言わないけれど、王の器ではないわ﹂
﹁何処の国であっても、王がかならずしもその器の持ち主であると
は限りません。その逆もまた然りです﹂
淡々と返す精霊の言いたいことは分かる。
1619
王が常に名君の器を持っているのなら、この大陸にはそもそも暗
黒時代など訪れなかっただろう。消え去った国、今も残る国、それ
らの玉座に在った人間の多くがいわゆる﹁ただの人間﹂だった。そ
して野には器を持ちながらも王になれなかった者、その座を選ばな
かった者も無数にいるのだ。
能力だけが王を決めるわけではない。その度し難さをレウティシ
アはよく知っている。実際彼女の生きる国は﹁王族の血に意味があ
る﹂国なのだ。彼女自身が自分の才を不十分と思っても、他に直系
そして彼女に課せられたものはそれだけではなかった。
がいないのなら王として立たねばならない。
︱︱︱︱
﹁シルファ﹂
﹁はい﹂
﹁貴女が今まで仕えた主人たちは、どのような人間だった?﹂
千年を越える長い年月、人間界において﹁精霊﹂とされた上位魔
族は、もっとも若い主人の問いに目を伏せた。
銀色の瞳が感傷に似た何かを刹那宿し、それは統御の向こうへと
消え去る。
﹁皆様、ただの人間でした﹂
温かいとも温度がないとも取れる声音。
人であるレウティシアには、その言葉の意味は分からない。
※ ※ ※ ※
不足なく整えられた報告書の中でただ一つだけあった書かれてい
ない点。それは死亡した女が残した遺書の内容だった。
念のため書信にてそれを尋ねたレウティシアは、数日後届いた返
1620
信を見て目を丸くする。それはアルノ自身からの返事で﹁遺書は自
分宛の私信であるから、城の要請であっても公開出来ない﹂という
ものだった。
王族からの直々の要求をやんわりとかわすその態度に、不快より
も感心を覚えて彼女は苦笑する。
﹁中々面白い人ね。度胸もあるようだし。⋮⋮でも﹂
レウティシアが取り上げたもう一枚の紙は、彼女が直接派遣した
密偵からの報告書だ。そこには﹁今回自殺した姉とアルノは目だっ
て険悪というほどではないが、姉はアルノを嫌っていたらしい﹂と
記されている。
どこまでが真実でどこからが虚偽なのか。レウティシアは絶世の
美貌と謳われる顔を思考で染めた。いくつかの命題を次々と挙げて
いく。
﹁女の死は自殺か否か﹂﹁自殺ではないとしたら、事故か、殺人か﹂
﹁そうであるならば何故自殺に見せかけるのか﹂﹁侯爵令嬢が死し
て益を得る人間はいるか﹂﹁彼女の家族関係、交友関係はどうであ
ったか﹂
水泡のように現れては弾ける疑問。その大半を﹁保留﹂で終わら
せ、レウティシアは椅子の背もたれに体を預けた。いつも自分が日
中を過ごす執務室の天井を見上げ、長い息を吐き出す。
兄弟の不仲などというものは何処にでもあるのだろう。ファルサ
ス然り、キスク然り、そして彼女たちのように身分が上になればな
るほど。
だがそれらの全てが悲劇で終わるわけではない。終わらせたくな
いのだ。たとえそれが無駄な足掻きであっても。
彼
彼女だけが味わう静寂。レウティシアはしばらくそのまま彫像の
ように停止した。生命を欠いたかのように時を止める。
そしてこの一瞬がとても長い年月と同義に思えた時︱︱︱︱
1621
女は転移魔法を発動し、唐突にその場から消え去ったのである。
ガルヴァノ侯が領地として治めている地方はファルサス城都から
見て南西、なだらかな丘陵地帯と一つの山から成る場所だ。そこは
決して広大な面積を誇るわけではないが、国境に面していないせい
か数百年来戦争の舞台になったことはない。
平和な領地を変わりなく治め続けるガルヴァノ家も、かつて王族
筋の姫が嫁いだことなどにより大貴族の一つと数えられており、ガ
ルヴァノ領は現当主である慈悲深い領主のもと恵まれて穏やかな土
地として知られていた。
温かな陽の光。小高い丘の上に建てられた城は周囲の領地を一望
できる。
緑豊かな風景の中、つつましやかに寄り添って建つ眼下の家々を
レウティシアは何処か空虚な目で見下ろしていた。
一面海のように揺れる緑草が魔法着の裾をくすぐっていく。風に
舞い上がる黒髪を彼女は白い指先で手繰った。終わらない思考の中
決断する時が迫っているのかもしれない。
を泳いでいく。
︱︱︱︱
それはここ数ヶ月ずっと彼女が迷い続けていることだ。
いや、もっと以前から気付いていたのかもしれない。いつかこの
ような日がくるのではないかと。だがその予感を覚えてから一度も、
彼女は自分が何を選ぶのか想像することが出来なかった。
ここに至った今でも分からない。このまま気付かない振りをする
のか、それとも︱︱︱︱
﹁どうしてこのようなところに﹂
背後からかけられた声は、走ってきたのか少し息が上がっている。
レウティシアは振り返るまでの数秒間に微笑を作ると男を視界に入
れた。
1622
﹁すぐに来られるから。この国の中ならば何処へでも行けるわ﹂
﹁調査書に不備がございましたか?﹂
微妙にかみ合わない会話が、それぞれにとって作為的であること
は明らかである。レウティシアは肩を竦めると、男の乱れた髪を指
差した。
﹁走ってきたのかしら。私だと気付いたの?﹂
﹁窓からお姿が見えましたもので。もしやと思いましたが来て正解
でした﹂
二人の後ろには灰色の城壁が聳えている。おそらくアルノはこの
壁よりも高い部屋から彼女の姿を見止めたのだろう。
視力の良さを称えるべきか、ここまで走ってきたことを感心する
べきか、レウティシアは言葉を選びかねて微苦笑した。先程の彼の
疑問に答を返す。
﹁不備はなかったわ。よく出来た報告書だった﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁遺書には何が書かれていたの?﹂
﹁私への私信です。読まれて気分のよいものではないでしょうし、
既に焼いてしまいました﹂
突然の切り替えしにも眉一つ動かさずついてくる。その豪胆さに
彼女は好感を持った。それと同量の油断ならなさも。
﹁貴方は姉君と親しかったのかしら﹂
既に答の明白な問いかけにアルノは苦い笑みを見せた。茶色の瞳
が一瞬、傷を帯びて煌く。
﹁いいえ。ご存知の通りで、それが真実です﹂
二人の間を風が吹き抜けた。生温いそれは、まるで倦怠感を誘う
かのように全身に纏わりつき、肌の上を撫でて行く。
レウティシアは男から視線を逸らすと天を仰いだ。雲の流れが早
い上空はもっと強い風が吹いているのだろう。その下を翼を広げて
飛ぶ鳥の影が見えた。黒く大きな影を彼女の視線は諦観を持って追
う。男はそんな姿をただ黙って見つめていた。
1623
︱︱︱︱
決断を、しなければ。
進むべきか、退くべきかではない。退くことは最初から許されて
いない。そして留まることもまもなく出来なくなるだろう。彼女に
ある選択肢とは﹁いつ進むか﹂しかないのだ。
その時を兄が待っているのか違うのか、レウティシアには読み取
れない。読み取れないから惑う。
気づいた時には既にどうしようもなく不自由で、﹁別の時代に生
まれたかった﹂と、少しだけ思っていた。
不審にも思える自殺が、どうしても気になったわけではない。
彼女が死んで得をする人間は調べた限りでは存在しないのだ。本
来ならばもっとも怪しいであろうアルノも、家督を継がない姉を排
除する意味などまるでない。むしろ王妃候補として後押しする方が
よほど有益だ。
だからこうしてここまで来たのは、単に少し外へ出たかったから
なのだろう。彼女が居続けるあの城から、遠く離れた外へ。
﹁普段もこのようなことをなさるのですか?﹂
風に親和し溶けてしまいそうな男の声。彼の言う﹁このようなこ
と﹂が何のことか分からず、レウティシアはアルノを見やった。彼
は﹁失礼﹂と断ると手を伸ばして彼女の髪に紛れた草を取り去る。
﹁どのようなことかしら﹂
﹁お一人で遠出をなさることです﹂
﹁⋮⋮時々?﹂
無断での外出はさすがに月に一度あるかないかぐらいではあるが、
他の王族と比べれば充分多いかもしれない。彼女は目を閉じて微笑
むと﹁自分で動いた方が早いこともあるわ﹂と嘯いた。男に背を向
け丘の下を眺める。
1624
遠い町並は平和そのものだ。あの場所で生まれ育った人間は温か
な家族に恵まれうるのだろうか⋮⋮そんなことさえ頭をよぎる。
レウティシアは目を閉じ、束の間の空想に浸った。もし自分が生
まれていなかったら、今頃城はどうであったのかと。
﹁殿下はまるで、誰も信じていらっしゃらない方のようだ﹂
男の声は耳に心地よい。そしてその分だけ、レウティシアには物
悲しく聞こえたのだった。
1625
002
殺風景な部屋。その奥から自分を呼ぶ声に、九歳のレウティシア
は硬直した。息を詰め、気配を窺い、そうして部屋の奥を窺う。
今ここで実の兄に殺されるという可能性は、決してあり得ないも
のではないだろう。
いつ何が起こるか分からない。真実など自由に書き換えられる。
そうして過去幾人もの王族が葬り去られてきたのだ。
ならば何故、そのような可能性を分かっていながら来てしまった
のか。皆が寝静まった夜更け、内密の呼び出しに応じたりしたのか。
自問を重ねる彼女を少年の声が呼ぶ。
﹁来い、レウティシア﹂
反論を許さぬ強い声は、けれどこの時だけは何故かいつもの自信
が薄れ、乾いているかのように聞こえた。
レウティシアは開かれたままの控えの間の扉を抜けると、恐る恐
る奥へと進み始める。緊張の空気が張り詰め、息をするだけで何か
失敗を犯しているような気さえした。どのような予測も全て虚しく
思え、彼女は意を決すると兄の寝室へ踏み込む。
紗布の下ろされた寝台。部屋の中でももっとも存在感のあるそこ
に、彼女は兄がいるのだと思い近づいた。だが一歩を踏み出した途
端、薄い肩を横から引かれてレウティシアは悲鳴を上げそうになる。
何とかその声を飲み込んで自分の隣を見上げると、そこには髪の
濡れたラルスが立っていた。少年は蒼ざめた顔色で妹を見下ろすと、
すぐ後ろにあった椅子に体を投げ出す。
﹁治せ﹂
1626
言われて初めてレウティシアは、兄の状態に気付いた。
彼は水でも浴びたのか、全身ずぶ濡れの上に袖のない室内着を羽
織っていたが、その様子が尋常でないことは一見して分かる。
腫れあがった腕、あちこちにつけられた裂傷、痣、火傷、刺し傷。
そして更には脇腹に深手を負ってでもいるのか、手で押さえられた
下の布には真っ赤な血が滲んでいた。その赤い染みはみるみるうち
に範囲を広げ、見えない傷の深さを窺わせる。今まで見たこともな
い兄の無残な姿に少女は絶句した。
﹁兄上、いったい何が﹂
﹁いいから治せ。痛い﹂
不愉快そうな兄の声にレウティシアは我に返る。
確かに事情を聞いている場合ではない。彼女は兄の前に屈みこむ
と、脇腹を見せてくれるよう頼んだ。
ラルスがそれに応えて上着を脱ぐと、痣だらけの上半身の中、鋭
魔法の傷だ。
く切り裂かれた腹部が目に入る。
︱︱︱︱
おそらくは空気の刃ででも斬られたのだろう。内臓に届く一歩手
前の深い傷にレウティシアは震える手をかざした。まずは血止めを
し、続いて治癒の詠唱に入る。
出血が多い。痛みもかなりのものだったろう。なのに何故水を浴
びるような真似をしたのか。それとも浴場で襲われでもしたのだろ
うか。
色々な考えが頭をよぎる。だが今はそれらを脇に押しやって彼女
は治療に専念した。痛みを消したせいか兄の表情が少しだけ和らぎ、
感情の読めない瞳が妹を見下ろす。
﹁レウティシア﹂
彼女の名を呼ぶ声は生彩を欠いていた。
普段の強さも威圧もほとんど感じられない声。そういったものが
1627
全て剥ぎ取られ苦味だけがまぶされた声に、レウティシアは冷えた
ものを覚える。
﹁何でございましょう、兄上﹂
﹁誰にも言うな﹂
沈黙は時に何よりも雄弁だ。
たとえばこの僅かな静寂に、﹁生きていることが苦しい﹂と吐露
したくなるほど。
ようやく塞がりかけた腹の傷から顔を上げ、少女は兄を見つめた。
ぶつかりあう蒼い瞳。声にならぬ声。同一でありながら相対して
人知れず絶
育てられた彼らは、変えられぬ立場に刹那思いを馳せる。
そうして彼女は自分が何であるかを知って︱︱︱︱
望した。
※ ※ ※ ※
﹁そうね。そうかもしれないわね﹂
男の言葉に肯定で返すと、アルノは僅かに眉根を寄せた。
少しだけしか見せない表情は、だが確かに苦を知っている者の貌
である。もはや彼の第一印象を単なる表皮として押しやっているレ
ウティシアは、作り物めいてたおやかな微笑を浮かべた。
﹁信じたくないわけではないの。そうではないわ。私はただ、やり
たいことと違うことをしているだけで﹂
﹁ええ﹂
二人の頭上を白い鳥が飛んでいく。緩やかな弧を描いて風を切る
1628
様はまるであらかじめ道を選んでいるかのように美しかった。
レウティシアは飲み込めない煩わしさを抱えてアルノを見つめる。
﹁いつもそうなの。ただ私は⋮⋮﹂
長い間喉につかえ続けてきたもの。その飛沫を吐き出すように、
彼女は続く言葉を口にしようとした。
けれど寸前で我に返る。
一体何を言おうとしていたのか、レウティシアは自分の愚かしさ
に気付いて愕然となった。束の間の熱が引いていき、後にはただ自
嘲だけが残る。
言葉を嚥下した喉が覚える痛み。彼女は声の代わりに溜息を吐き
出すと力なくかぶりを振った。
﹁ごめんなさい﹂
疲れているのかもしれない。
﹁構いません﹂
︱︱︱︱
或いは自由に広がる景色の中、自分だけが異物のように感じられ
たのだろうか。
レウティシアは目を閉じた。ほんの二、三秒、その間に意識を切
り替え、精神を統御しなおす。瞼を開けるとアルノは先程までと変
わらぬ穏やかな目で彼女を見ていた。そこに自分を心配するような
色がないと分かってレウティシアは安堵する。
彼女は肺の中にある空気を全て外気と交換してしまうと、作り慣
れた笑顔を見せた。
﹁お邪魔してしまってごめんなさい。そろそろ帰るわ﹂
﹁もうよろしいので?﹂
﹁疑われることが好きなの?﹂
冗談めかして切り返すとアルノは困ったように笑った。一歩退い
て礼を取ると女の蒼い瞳を見つめる。
﹁またいつでもお越し下さい。心よりお待ちしております﹂
社交辞令には聞こえぬ声音の強さに、レウティシアは目を丸くし
た。
1629
風が穏やかにそよぐ。一刻ごとに姿を変え波打つ緑の海を、鳥の
影が伸びやかに滑り丘の下へ消えていった。
息を抜けた、と思ったのは城に帰るその時までだった。見慣れた
自室に戻ったレウティシアは、寝台の上に体を投げ出し目を閉じる。
この場所に戻れば、また現実が待っているのだ。いつか下さなけ
ればならない決断と直面し続ける日々。その重圧に胃の中が焼け爛
れる思いがして彼女は顔を歪めた。
﹁ねむりたい⋮⋮﹂
小さな呟きはいつからか彼女の口癖となってしまった言葉だ。
そうして彼女は眠ることを厭いながら休息を求めて、また過去の
夢の中に落ちていくのである。
※ ※ ※ ※
大怪我を負ったラルスが彼女を呼び出した翌日から、二人の兄妹
の関係は変化を見せた。
それまで妹に必要以上関わらぬようにしていたラルスは、彼女を
見つけると笑顔になり愛称を呼んで手招きするようになったのだ。
その親しげな態度にレウティシアは激しく困惑を覚えたが、それ
でも兄の温かさに触れられることは嬉しかった。口止めされた怪我
のことや、兄が父に対し冷淡になったことなど、気になることを挙
もっともその時には
げていけばきりがなかったが、彼女はそれらを兄に任せて新しい日
常を受け入れることを選んだのだ。︱︱︱︱
既に遅くはあったのだが。
1630
少年の指がテーブルの隅にあった硝子の器を開ける。
中から白い紙包みを一包取り出したラルスは、それを開けて中の
粉薬を確認した。水差しから水をくみ出すと何のためらいもなく白
い粉末を水で飲み干す。兄の私室で同じテーブルについていたレウ
ティシアは、怪訝に思って空になった紙包みを指差した。
﹁兄上、それは何の薬ですか?﹂
現在彼は何の病も煩っていない。怪我も全て完治しているのだ。
ならば何を飲む必要があるのだろう。
純粋な疑問として呈した問いに、ラルスは軽く笑ってみせる。
﹁内緒﹂
﹁何ですか⋮⋮害のないものならば別にいいのですが﹂
﹁ないぞ。お前も飲むか? とっても苦い﹂
﹁要りません﹂
巻き添えでそんなものを飲まされてはたまらない。慌てて首を横
に振る妹に兄は優しげな目になった。
父王は親しくなった兄妹に何も言わなかった。
或いはラルスが父に何かを言ったのかもしれない。少なくとも許
可を取らずに兄と会うなと、レウティシアが注意されることはなか
った。
それを幸運に思いながら、けれど彼女は常に周囲を窺うような緊
張感に包まれ、手探りで毎日を送っていく。
欲しかったもの、手に入らなかったもの、すべきこと、望まれた
こと。
そんなものたちに囲まれ、徐々に自分を完成させていく。
1631
﹁レウティシア、欲しいものがあったらいつでも言え。花でも玉座
でも俺の首でも﹂
﹁何も⋮⋮ありません、兄上。何も欲しくはないのです﹂
彼女は顔を上げる。余裕に満ちた笑みを見せ、力を示しながら魔
法士の頂点に立つ。
たとえこの生が苦悶に満ちたものなのだとしても、歪に作られて
しまったのだとしても、主体は彼女一人だ。最後の選択を下すのは
彼女自身だ。
だから嘆いているところは見せない。揺らいでいるところなど微
塵も。少なくとも兄はそうして生きている。
だがそれをま
王に忠誠を。国に献身を。狭間に作られた細い道を彼女は歩んで
いく。
力を行使し、為したくはないことを為し︱︱︱︱
るで自ら望むかのように見せながら。
そして彼女は夢から覚める。
※ ※ ※ ※
朝起きた時、部屋の中は妙に蒸し暑く、彼女は全身に薄い汗をか
いていた。
重い半身を起こしたレウティシアは染み付いた習慣で枕元の小さ
1632
な瓶を開けると、中から白い丸薬を一粒取って口に含む。
かつて兄の薬をこっそり味見した時は非常に苦く感じられたもの
だが、今はまったく無味であるところが面白い。
レウティシアは自室の浴場で汗を流すと、魔法着を着こんで仕事
へ向かった。
廊下でかつての部下と出会ったのは、この日が彼の出仕日である
為だ。
今は非常勤として月に一度だけ研究発表に出てくる男︱︱︱︱
エリクは﹁ちょうどよかった﹂と言うと挨拶もそこそこに研究資料
を渡してくる。
相変わらず独自の視点から非常に完成度の高い論を呈してくる男
の資料に、レウティシアはその場で立ったまま目を通した。いくつ
かの疑問点を指摘し、続く研究の予定を聞き取りながら、数ヵ月後
の研究会に彼を出席させるかどうか迷う。
﹁そう言えば、ヴィヴィアの勉強の調子はどう?﹂
﹁順調ですよ。まだ一人で生活出来るほどではありませんが﹂
﹁結婚すればいいのに﹂
﹁そういうことを権利の濫用と言うのでは? この世界に基盤を持
たない人間へ要求するようなことではありません﹂
異世界から来た女の教師を担っている彼は、妙なところで律儀で
あるらしい。起きた時から何処かぼんやりとしているレウティシア
は、男の言葉を半ば無意識の上に滑らせながら、ふと窓の外を仰い
だ。
雲一つない青空。その下を白い鳥が一羽悠然と翼を広げて飛んで
いる。
﹁⋮⋮でも、だからこそ家族が欲しいこともあるわ﹂
ぽつりと返した返答は、彼女のものにしては力ない素朴な言葉だ
った。
1633
レウティシアはすぐにそのことに気付くと動揺を面に出さぬよう
エリクを見上げる。
彼は、少し驚いているようにも見えたが、いつもと変わらぬ平然
にも思えた。不審に思われないうちに彼女は資料を書類の中に纏め
ると、男に手を振る。
﹁私はもう行くわ。必要資料があったら要望書を出しておいて﹂
﹁分かりました﹂
研究室に向かう彼とすれ違い一人になると、レウティシアは歩み
を緩め束の間目を閉じた。
しかしそこに生まれた闇の中には、帰りたいと思う景色の一つも
浮かんではこなかったのである。
※ ※ ※ ※
ファルサス直系が背負う責務とは二つ。
﹃一つは民を守り国を支える義務。そしてもう一つは血を繋ぎアカ
ーシアを継いでいく義務﹄
ああ⋮⋮そんなことを聞かないで。
ではその片方を放棄するものは、王たりうるのか。その資格があ
るのか。
︱︱︱︱
頭が痛い。
レウティシアは寝台から起き上がるとまずそんなことを思った。
実際に頭痛がするわけではない。ただ頭が割れるほど痛む夢を見
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ていたらしく、疼痛の残滓が残っていただけだ。
だが、細
彼女はのろのろと寝台から下りかけて、ふといつもの薬を忘れて
いることに気付く。振り返って瓶に手を伸ばし︱︱︱︱
い腕の自重に耐え切れないとでもいうようにその手を下ろしてしま
った。
十五歳の時から欠かさず続けてきた習慣。しかし、それは本当に
必要なわけではないのだ。ただ当然の備えとして服用し続けている
だけで。
それは王族としては半ば常識の一つであったが、彼女はもっと別
の理由からこの薬を飲んでいた気もする。たとえば兄の見ているも
のを見たいと思った、そんな理由の為に。
﹁⋮⋮別にいいわよね。飲まなくても﹂
零れ落ちた声音は乾ききったものである。
彼女はそのまま床の上に立ち上がると、あの日苦い薬を飲んでい
た少年の苦々しい笑みを思い出したのだった。
※ ※ ※ ※
ラルスの二十八歳の誕生日から既に半年以上が過ぎた。
その間王は重臣たちから幾度となく妃を迎え入れるよう忠言され
ているのだが、一向に隣に座す女を選ぶようには見られない。いつ
までそうしているつもりなのか。誰よりも王の態度に不安を覚えて
いるのはレウティシアだ。
彼女は表面上普段通りの仕事をこなしながら、だがその内実は日
々無形の圧力と向き合っている。精霊を継承した時から少しずつ先
延ばしにしてきた終わりに、彼女は今、ゆっくりと近づきつつある
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のだ。
息苦しさに苛まれるレウティシアが僅かながらも安息を得られる
場所は、城から離れた緑の草原においてである。
別に﹁いつ来てもいい﹂と言われたから向かうわけではない。た
だあの広い空と地の間に立つ時、彼女は少しだけ自由になれる気が
するのだ。
理由もなく城を空けられるのはせいぜい月に一、二回。レウティ
シアはその機会をガルヴァノ領の草原で過ごし、いつしかアルノと
親しく言葉を交わすまでになっていった。いつも何の連絡もせずと
も彼女の姿を見つけて城を出てくる男を前に、その日もレウティシ
アは肩を竦める。
﹁それで、何なのこれ?﹂
﹁町の子供たちがよくこうして弁当を持ち寄って遊んでいるのです﹂
草原に敷かれた布にはあちこちに刺繍が施され、縁には柔らかな
毛が縫いこまれている。東国の職人が手がけたらしいその繊細なつ
くりはどう見ても青草の上に敷くようなものではないのだが、貴族
として育った彼には違いが分からなかったのだろう。手近にあった
ものを持ってきたに違いない。
だがそれよりも不可解であるのは、敷物の上に座る男が籠から広
げ始めた食べ物の方である。おかしな形に焼けているパンに似た﹁
何か﹂を、座り込んだレウティシアは手にとって眺めた。
﹁これ、貴方のところの厨士が作ったの?﹂
﹁私が作りました﹂
﹁⋮⋮何故﹂
料理をする貴族などほとんどいない。ごく僅かいるにしても、彼
がその僅かでないことは出来ばえを見れば明らかだ。
ならばこれは何かの悪戯なのだろうか。悩むレウティシアにアル
ノは人のよさそうな笑顔を見せる。
﹁私の父は子供が食事以外の時間に物を食べることを厳しく注意し
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ていたのです。なので未だに、このような時間に何かが欲しいと言
っても厨士たちは私に食事をくれない。もう私も二十四なのですが﹂
﹁だから、自分で?﹂
﹁彼らの目を盗んでこっそりパン種を持ってきました。あとは兵舎
の厨房で焼いたのですよ。少々形は悪いですが⋮⋮﹂
そこまで聞いた彼女は軽くふきだすと声を上げて笑った。ころこ
ろと通る声が草原に響く。
﹁いいお父上ね。貴方も﹂
﹁次はもっと普通の形になるよう練習しておきます﹂
﹁次は私が作ってくるわ﹂
大陸最強の国家、その次の玉座にもっとも近い女の言葉にアルノ
は目を丸くした。彼女が貴族以上に珍しい﹁料理を嗜む王族﹂なの
か真実を掴みかねているのだろう。問うことさえ迷っているらしき
男に、レウティシアは手元のパンを割ると笑ってみせる。
﹁正式な教育を受けた魔法士は大抵料理が作れるのよ。魔法薬と料
理は基礎が同じなのだから﹂
﹁知りませんでした﹂
﹁もっとも私、魔法薬の成績はよかったけれど料理を作ったことは
ほとんどないわ﹂
﹁⋮⋮大丈夫なのですか﹂
自らもひしゃげたパンを手に取ったアルノは当惑顔で聞いてきた。
その目にレウティシアはくすくすと笑って答える。
﹁やってみたいと思ったの。貴方のこれを見たら﹂
男の焼いたパンは味は悪くないのだがひたすら固い。
だがそれを嬉しそうに口に運んだ彼女は、今この時間がどれだけ
自分を楽にしてくれているのか、そんなことを頭の片隅で考えてい
たのだ。
楽しい時間は疾く過ぎ去るとは言うが、その意味をレウティシア
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はこの年になってようやく実感出来た気がした。
他愛もない感想を言い合いながらパンらしきものを分け合って食
べた彼らは、冷めかけたお茶を手に広がる景色を眺める。
温暖な国であるファルサスは、日が落ちかけても肌寒さを感じな
い地方の方が多い。レウティシアは生温い風に髪をくすぐられ耳の
後ろに指を伸ばした。髪全体を軽く梳いてまとめなおす。
﹁お父上の容態はどうなの?﹂
﹁芳しくありません。最近は政務も負担のようですし、近いうちに
領主を代替わりさせねばならないでしょう﹂
﹁貴方が継ぐのよね?﹂
それ以外の可能性を疑ってもいない王妹にアルノは苦笑して見せ
た。
﹁どうでしょう。私はあまり出来のよい子ではございませんので。
伯父は反対しております﹂
﹁貴方の能力が分かっていないのなら、その人間に見る目がないの
よ﹂
レウティシアは自分が感じた第一印象を思い出しながらも、少し
気分を損ねて言い放つ。
アルノの能力は領主としては充分すぎるほどだ。それは彼の手が
けた仕事を見れば、そして彼と会話を交わせばすぐに気が付く。
だからアルノの伯父が彼の後継に反対するというのなら、彼のの
んびりとした上面しか見ていないか自分の欲の為なのだろう。そう
指摘してやるとアルノは苦味の混じった微笑を浮かべる。
﹁伯父には私より三歳上の息子がおります﹂
﹁ああ﹂
つまり伯父は、その息子の方がアルノより有能であると言いたい
のだろう。レウティシアは理解を得ると憤然として、そのことに対
し口を開きかけた。
だがその時、男の肩越しに彼女は草原を近づいてくる人間を見つ
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けて感情的な言葉を飲み込む。
貴族らしい豪奢な格好をした若い男は、はじめ堂々と歩を進めて
いたが、途中から彼女に気付いたのか小走りになった。レウティシ
アの前まで来ると驚愕を両眼に湛えながらも膝をつく。
﹁これは殿下、どうしてこのようなところで⋮⋮﹂
﹁名乗りなさい﹂
﹁無礼をお許し下さい。グリスト・ネイラと申します。ガルヴァノ
領主ゴルカ・ガルヴァノの甥にあたります﹂
レウティシアが横目でアルノを一瞥すると彼は苦笑していた。と
いうことはこの男が問題の従兄弟で間違いないだろう。
グリストは王の妹が挨拶だけを返して彼の疑問に答える気はない
と分かると、矛先をアルノに向けた。
﹁アルノ、父上が先日の書状の返答がまだ来ないとお怒りだ﹂
﹁既にお返ししましたよ﹂
﹁来ていないと言っている﹂
﹁またですか⋮⋮。もう四度目ではないですか﹂
このやり取りから察するに、伯父はアルノに何かしらの苦言を呈
し、その返答を握りつぶすということを繰り返しているらしい。
病床にある父を抱える彼に嫌らしく消耗を強いるやり方をレウテ
ィシアは不快に思ったが、彼女には権力がありすぎるため軽々しく
口を挟むことは出来ない。少なくともどちらかの否が明白でないの
なら、一族内の問題に直接介入は避けるべきだろう。
沈黙を守り続けるレウティシアを前に、アルノは彼女が聞いたこ
ともない冷ややかな声を上げた。
﹁仰りたいことはよく分かりました。ですが今日のところはお引取
り頂きたい。叔父上には後日私が直接お答えしに参りましょう﹂
この場にはレウティシアがいる。そのためアルノの返答は当然の
配慮を含んだものだったのだが、グリストはそれを聞くと忌々しげ
に目を吊り上げた。
﹁それで父上も﹃自殺﹄とするのか? アルノ、ルアナの件はまだ
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終わっていないぞ﹂
姉の名を出されての揶揄にアルノは溜息をつく。
だが彼はそれだけで従兄弟には何も答えなかった。レウティシア
に視線を移し微笑む。
﹁殿下、本日はありがとうございました。申し訳ございませんが私
にはこの後少し所用がございまして⋮⋮﹂
﹁ええ。もう失礼するわ。ありがとう﹂
彼女が立ち上がると二人の男は頭を下げた。レウティシアはその
頭を一瞥すると無言で転移の構成を組む。
自由が終わり各人が義務の中に帰っていく時間。彼女はふと語ら
れない遺書の話を思い出し、何処か悄然とした気分を味わったのだ
った。
城に戻ったレウティシアはまず自身の執務室に顔を出すと届けら
れていた書類に目を通した。その中にもはや見慣れた王妃候補の推
薦状を見出し、眉を顰める。数年前であればこのような書類は彼女
の元まで届かなかった。それが今や当たり前のことになっていると
いうことは、重臣たちももはや手段を選んでいられない段階に近づ
いているということなのであろう。
彼女は推薦状と添え書きをあわせ持って王の執務室を訪れた。日
が落ちてもまだ仕事をしていたラルスは妹からの苦言に広い肩を竦
めて見せる。
﹁王妃か。面倒﹂
﹁面倒ではそろそろ済まないのです。世継が出来ればそれで充分で
すので、適当にお選びになってください﹂
﹁と、言われてもな﹂
そして、
﹁でなければいい加減私が兄上の寝室に女性を届けざるを得なくな
ります。強制的に﹂
出来ればそのような仕事は勘弁して欲しい。︱︱︱︱
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もっと先の役目も。
妹の苦言に王は蒼い瞳を窓の外へと向けた。
戯言さえもない空隙。レウティシアはそこに変化を感じ取って気
を張り詰める。
しばしの沈黙の後、ラルスは彼女を顧みないまま口を開いた。低
い声が二人の血族しかいない執務室に響く。
﹁身分が上であればあるほど行動に自由が利くと思っている奴らは
多いが、ほぼ頂点にいる俺たちがそうでないことは事実だな。俺は
気に入らない女を抱くのは好きじゃない﹂
﹁⋮⋮兄上﹂
彼女はそのことをよく知っている。おそらく彼が思うよりずっと。
一番彼が嫌っているのは﹁蒼﹂ではなく﹁緑の瞳﹂だということ
でさえ。
﹁分かってる。どんな人間だろうとやりたくないことをやっている。
そして俺たちもその中の一人だというだけだ。違うか?﹂
けれどレウティシアはずっと疑い続けているのだ。
﹁違いません﹂
︱︱︱︱
兄が本当はファルサス王家を憎んでいるのではないかと、その断
絶を願っているのではないかと。
もしそれが真実なら彼女は動かねばならない。王家の義務を守る
ために。この血を伝えるために。
﹁レティ、そんな顔をするな﹂
振り返った兄の目は優しい。だがそれが愛情ではないことなど最
初から分かっていた。レウティシアは柔らかく微笑みなおす。
窓の外から注ぐ月光、青白い光が灯火よりも清冽に彼らの姿を照
らした。部屋の半分を覆う影がゆっくりと頭をもたげる。
﹁兄上、どうか後継をお作り下さい﹂
残酷だと、欺瞞であると知っていてもそう言うことしか出来ない。
彼女にはそれしか出来ないのだ。自らの血に大きく抗うことは許
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されない。
そしてレウティシアはそのまま兄の言葉を待たず、執務室を後に
した。
※ ※ ※ ※
滅びぬ国など存在しない。
それはこの大陸に生まれ、暗黒時代の知識を得た者なら誰もが知
っていることであろう。かつて強大な力を有し、歴史を左右するほ
どに栄えた魔法大国トゥルダールでさえ、ある夜唐突に滅んだのだ。
国は、人と同じように死ぬ。
そしてそのことをよく分かっている者は、そうでない者よりずっ
それは既に歴史が幾度とな
と地道な努力をしなければならない。自国だけは永遠と信じ込んだ
時、国の礎は砂となり始める︱︱︱︱
く証明した事実でもあるのだから。
署名が入った契約書をもう一度読み直すとレウティシアは満足し
て微笑んだ。それを他のものと一緒にハーヴに手渡す。
彼女直属の魔法士となった男は、一瞬その書類の存在に複雑そう
な表情を見せたが、すぐに深く頭を下げた。他の契約更新書類と共
に保管庫に移す為、金具で一まとめにし執務室を出て行く。
一年近く前、この城にいた二人の男女が遠い町で結婚したという
知らせは、レウティシアに大きな安堵をもたらした。それまで彼女
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はずっとエリクに雫を妻にするよう勧めていたが、ようやくそれが
現実のこととなったのだ。
今のところ彼ら夫婦は他国の田舎町に住んでいるが、夫となった
男は新しい生活の為であろう、ファルサスの正式な研究者となる契
約に肯定を返してきた。出仕日数はあいかわらず月一回だが、その
ようなことは関係ない。問題は、彼らに対しファルサスが権利を有
しているか否かである。
﹁これであとはもうしばらくすればヴィヴィアとも契約を交わせば
いいかしら⋮⋮。キスクが欲しがるかもしれないけれど﹂
夫婦になったばかりの若い男女。彼らはそれぞれ﹁特殊な人材﹂
だ。
男の方は、類稀な構成能力と発想、思考を持った魔法士ではある
が、それ以上に戦争において大きな役割を果たしうる人間でもあり、
禁呪知識をその頭脳に蓄えた人間でもある。
そして彼の妻となった女は、或いは彼以上に危うい存在だ。別の
世界から来た、まったく異なる文明の知識を有した人間。
二人は現在権力闘争に巻き込まれることを嫌って田舎町に住んで
いるが、それで全ての人間が彼らを見逃してくれるほど甘いわけで
はない。
ファルサス・キスク戦時に最高位の防御結界を無効化し戦況を左
右した男が野に下っていると知れれば、その力を欲しがらない国は
ないであろうし、ましてや彼は禁呪の管理者であったのだ。エリク
はその知識を契約により口外出来ないようになっており、また公式
では﹁記憶を消された﹂ことにされているが、それでも﹁聞き出し
てみないと分からない﹂と考える者は少なからず存在しているだろ
う。そういった人間たちを牽制する為にも、ファルサスが正式に彼
と繋がりを持っているという事実は必要だ。
彼は権力者を好まない性格のせいか、ファルサスの庇護の下に入
ろうとしたがらない。
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だがレウティシアはそれを承知の上で、それでも男に報いたかっ
た。せめて彼とその妻が二人、穏やかな一生を送れるくらいの計ら
いはしておきたい。
﹁それくらい⋮⋮当然でしょう? カティリアーナ﹂
記憶は消さない。
エリクの中の禁呪知識の量は相当なものなのだ。それをレウティ
シアの能力で消そうと思えば、人格に影響が出てしまう恐れもある。
そのような可能性は悲劇でしかないだろう。昔同様にして現れた
無垢な少女が、覚えのない罪を背負わなければならなかったように。
﹁カティリアーナ⋮⋮⋮⋮⋮⋮クレステア﹂
赤子のようだった少女。緑の瞳の女。
彼女のことを単一の感情で思い出すことはきっと一生出来ない。
あれはまさにファルサス王家を体現する歪みの一つだった。
﹃本当に、何も覚えていないの? 分からない? カティリアー
ナ﹄
﹃レウ? どうしたの。わからない。こわいわ﹄
﹃貴女なんでしょう? あの夜、兄上を⋮⋮﹄
﹃わからない。私じゃない﹄
﹃お願い、カティリアーナ、貴女は﹄
もし人格が戻る時が来たなら、おそらくレウティシアが彼女を殺
していた。
だが結局﹁カティリアーナ﹂は自ら選んだ男に﹁殺してもらった﹂
のだ。彼女はそうして歪んだ生に幕を引いた。
そして今、残されているのは二人だけだ。兄と妹。王と断罪者。
それは違う。どれも違う。
﹁⋮⋮違う﹂
︱︱︱︱
全ては少しずつ事実で、少しずつ虚偽だ。真実が一つに集約され
ることなどない。
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若い夫婦に報いたいと思ったのも真実。国益の為に彼らを取り込
みたいと思うのも真実。彼女が王に仕える魔法士であることも、そ
して王に対する監視者であることも、真実。
泡沫に似て浮かび上がり弾ける思考はそれぞれが互いを否定しな
がら溶け合って消えていく。
そして飛べない淵の底に佇むレウティシアはそれら残滓全てを受
け取って⋮⋮⋮⋮最後にはいつも虚脱だけが残るのだ。
机の上に乗っている書類は普段より若干分量が多い。単に今日は
兄が城を出ている為、その分が回ってきているのだ。
今夜ガンドナで行われている建国の式典は、二百年程前までは一
月に行われていたらしいのだが、現在は九月に開かれている。
ガンドナの式典もファルサスでの国王誕生日もどちらも外交の場
である以上、立て続けに開かれるよりは半年以上間が空いていた方
がどの国にとっても好ましいのだが、ガンドナからすれば王が代替
わりする度に日程が変わるファルサスの方が譲るべきだと言いたい
ところであろう。幸いと言うべきか否か、ラルスの誕生日は二月だ。
レウティシアは一番上の書類から手に取ると書面に目を通し始め
る。
ラルスもラルスで通常執務は行っていった為、彼女のところまで
来ているものは予定なく飛び込んできたものばかりだ。それらを黙
々と処理していった彼女は、ふと一通の要請書を見つけ顔を顰めた。
先日出会ったアルノの従兄弟だ。
貴族の紋が捺された封書はレウティシ
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