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No.2 - 兵庫県立教育研修所

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No.2 - 兵庫県立教育研修所
平成28年4月1日 兵庫県立尼崎小田高等学校「看護医療・健康類型」2期生 NO.2
東日本大震災から5年、仮設住宅を訪問
東日本大震災から5年経過した3月13日(日)から16日(水)まで、3泊4日で、宮城県南三陸町、登米
市の仮設住宅に入り、住民の方の交流を持ちました。また、病院、障がい者施設では、当時の生々しい体験を聞
くことができました。
地球温暖化の影響と思われる大規模な自然災害が多発し、南海トラフ地震が必ず起こると言われている今日、
被災地に足を運び、住民の方と交流し、当時の話を聴くことの意義は大きいと思います。
「自然災害の脅威の前で人は無力であること、しかし、その無力の中で、人と人との助け合いによって復興に
向けて前進していること」
「生きるとはどういうことなのか」
「医療職に就くにあたって、
『災害医療は看護の原点』
だという意味」など、生徒たちはこの3泊4日の東北で様々なことを感じ、学びとってくれたことと思います。
【生徒の感想】
全体
①今回、東北のボランティアに行くのにあたって、関わって下さった福田
先生はじめ皆さんに本当に感謝したいです、皆さんの力がなかったらここ
までくることが出来なかったと思います、
本当にありがとうございました。
そして、みんなで協力して作り上げたこの東北のボランティアはどの活
動にも換え難いものだったと思います、本当に 3 組のみんなに感謝したい
です、ありがとうございました。
私は今回の東北のボランティアに行く前は、地震のあった当日に行かないで何をするのか、ボランティアとい
っても私たちに一体何が出来るのか、正直言ってすごくめんどうくさく思っていました。それと同時に、中途半
端な思いで行って、被災された方に失礼な事を言ってしまったり、震災当日の苦しい思いを思い出させてしまう
のが怖いなと思っていました。
1 日目に私達が訪れた南方イオン跡地に住んでいらっしゃる方々のお話を聞いていると、こんな事を言ったら
失礼ですが、本当に被災されたのかなと思うほど「どこから来たの?寒かったでしょう」と気さくに話しかけてい
ただき、逆に私達が力をもらいました。この時に、私はきっと被災された方の気持ちは全ては理解できませんが、
お話を聞かせていただく事で、少しでも理解できました。
日本国際飢餓対策機構の清家さんが授業中の講演で言われていた「ファシ
リテーター」になろうと思ったし、行く前に思っていた「何が出来るのかで
はなく、何かをしよう」という前向きな気持ちに少し変わりました。
私が話を聞いた方は「地震があって普段の生活で使っている色んな物がな
くなって苦労した。だからこそ日々過ごせる事を大切にしないといけない」
と言われていました。
それを聞いて、
地震で普段の生活が一瞬にして失われ、
普段私達が何気なく過ごしている日々がどれほど大切か、震災が起こらなか
ったら気付けないと思ったし、何よりも命は尊いものだと思いました。
これから命ある限り、命を大切にして、被災された方、今私よりももっと苦しい思いをされている方に胸を張
って生きていけるような生き方をしなければならないなと改めて思いました。
南方イオン跡地の仮設住宅に住む皆さん、貴重なお話をありがとうございました。すべてのお話が心に残って
いますが、1 番印象に残っているのは、南三陸病院での看護部長さんのお話で、
「災害医療は看護の原点である」
ということです。看護師は、ただ医療行為だけをするのではなくて、やはり普段の会話であったり、気づかい、
患者さんとのコミュニケーションが大切になってくると思います。震災したとき、どれだけ自分が苦しい状況に
1
あっても、自分の事だけではなく、どれだけ患者さんのことを考えられるか、同時に自分の命も大切にしなけれ
ばいけない、自分がもしいなくなったら、自分がもっている患者さんはどうなるのか、すごく難しいけれど、私
が看護師になったら常に考えていかないといけないと思いました。そして、常にたくさんのことを考えられる看
護師になりたいと思いました。
最後ですが、これはミーティングの時に聞いた西村先生のお話で、すごく心に残ったことがあります。それは、
「優しさは甘さではなく、強さだ」という事です。私の友達にもとても優しい子がいます。その子は、ただ優し
いだけではなくて、自分がどんなに難しい状況にあってもそれを顔に出さず、困っていたり、しんどい時に私に
笑顔で話しかけてくれます。この人こそ本当の意味で優しい人なのかなと思います。しかし、この強さは、自分
の弱さを知らないと強くはなれないと思います。自分の弱さを知り、どうすればそ
れを克服できるかを考える事は今もこれからも大切だし、
その弱さを知ったことで、
それを自分の強さにも変えられるのではないのかなと思います。今の私の弱さは積
極性のなさだと思うので、勉強や類型の活動など色々なことに積極的に取り組み、
克服していきたいと思いました。
②私は東北のボランティアに行くことが不安でした。被災していない私の些細な言動によって被災者の方を傷つ
けてしまったらどうしようと思っていたからです。関西からやってきた私たちに話しかけてくださったら、その
お話をうんうんと、頷きながら聞いていようと思っていました。実際に東北に行くと仮設住宅で生活されている
方と交流する時間がありました。お話を聞いていると、やはり質問したい事が頭の中でたくさん浮かびました。
でも聞いても良い事なのか、いけない事なのかわからなかったから聞くことができませんでした。本当は聞きた
いことがたくさんあったけれど、聞けませんでした。交流が終わってから、違う方と交流していた友達からそれ
ぞれが聞いたお話を私も知ることができて、情報を共有し合いながら友達の考えも同時に聞くことができて良か
ったです。
東北はあの日から 5 年が経っていても、あの頃にテレビのニュースで見た仮設住宅や津波によって破壊された
建物がそのまま残っていました。5 年も経っているのではなくて、5 年しか経っていないんだと本当にショック
を受けました。忘れられない光景になったと思います。ニュースで報道されなくなってしまうと、私たちのよう
に離れた場所では東北の様子があまりわかりません。しかし、今回の東北ボランティアを通して、今ではニュー
スで取り扱われなくなってしまった東北の現状を人や建物から知ることができました。実際に自分の目で見ない
とわからない事があるなと感じました。同時に、東北の方の心や町はまだ復興していないのに月日が経ったから
といってニュースで取り扱われなくなることは冷たくて寂しい事だと思いま
した。
③東日本大震災が起きたあの日、まさかこんなことになるとは思いもしませ
んでした。それまで地震といえばごく稀に発生する震度 3 程度のものしか経
験したこともなく、あの地震も震度 3 ぐらいだったと思います。当時、小学
6 年生だった僕は、学校で授業を受けていました。帰宅前、友達とさっきの
地震の話をしながら廊下を歩いているとすれ違った先生から「東北の方で大
きな地震があったらしい」と聞かされたけれど大きな地震を経験したことが
ない自分にはピンと来ることはなく、家に着いてからテレビで地震の揺れや津波が押し寄せる様子が流れている
のを見たとき、初めて、さっき先生が言っていたことが自分の中に入ってきたような感じがしました。
それから 2,3 年が経っているにも関わらず、被害状況や荒れ果てた土地の映像が放送されているのを見ると、
何事もなかったかのように毎日の食事、お風呂に入ることができている自分に「これでいいのか?」という疑問
を抱くようになり、それが次第に、
「何か自分にできることはないのか」
「できることはなくても同じ日本国内で
の出来事を知らん振りすることはできない」と、思うようになり、いつか東北に行って「あの日何があったのか」
そして、
「どうなってしまったのか」を自分の目で確認したいと思うようになったのです。それが、震災から 5
年が経った今年、小田高校の看護医療・健康類型で実現させてくれたのでした。
去年の終わり頃、東北へ行く前に「東北の現状を調べる」という課題が出されたときに、平成 26 年 3 月末時
点で瓦礫処理の進歩率が 100%に達しているということがわかり、当然、瓦礫の処理が終わっているのだから中
から人が出てくることなんてないから、東北へ行きたいという思いはありながら、一体、ボランティアって何を
するんだ?という思いはありました。しかし、災害ボランティアというと瓦礫撤去や救助活動しか知らなかった
僕はこの後、福田先生の授業の中で「傾聴ボランティア」についての番組を見て、目に見えるボランティアだけ
でなく目には見えない心のボランティアというものの存在を知りました。また、話を聞くことによって、当時、
2
震災を経験した方の思いや、あの日の目の前で起きた事実を知ることができると考え、東北へ行きたいという思
いが強くなりました。
そして、初めて東北へ向かいました。日曜日の朝に出発して最初の活動日となった翌日の月曜日には、南方イ
オン跡地仮設住宅と南三陸病院、火曜日は戸倉中学校の仮設住宅と事業所「ホップ」へ。月曜日の南方イオン跡
地仮設住宅、火曜日の戸倉中学校仮設住宅では共に、住民の方々から震災当時のご自身のリアルな経験を聞かせ
ていただくことができました。地震発生後の話、津波が襲ってきた話、家がなくなった話など、思い出すのも嫌
になるような辛い経験を語ってくださったのです。順番が前後しますが、事業所「ホップ」の佐藤工さんの話で
は何度も「本当は、こんな事話したくないんだけれども」とおっしゃられました。東北へ行く前に、
『16 歳の語
り部』
(ポプラ社)という本を読んだのですが、この本の中でも「語る勇気」について書かれており(P.120)
、そ
こには、
「自分の事を自分の言葉で語ることは、とても勇気がいることです。正直、いまだに傷つくことも多いで
す。
」と書かれていていました。この本を読むまで僕は、震災の経験を話すことに辛さが伴うなんて事を考えたこ
ともありませんでした。仮設住宅で当時の経験を聞かせていただいた時、
「この話をするのにどんな辛い思いをし
ているのだろうか?」と思いました。そして、その方は、話をなさっている途中から目に涙を浮かべられました。
「決して簡単にあの日の出来事を語っているわけじゃないんだ。苦しい思いを抑えらているんだ。
」と思うと 、
今の僕がしている、話を聴くという経験は当たり前の事ではないんだと感じました。また、
「ホップ」の佐藤工さ
んの話の中で「この会館の近くで、津波が流れていくのを見たと言っている人がいた」とおっしゃっていたのが
気になり、話が終わり、会館を後にする時に僕は佐藤さんに「津波が流れて行った所が見えたのってどこからで
すか?」という質問をしました。すると、Sさんは僕の腕をつかみ、その場所まで連れて行ってくださったので
す。ただ、あの日の事を話すのが辛いだけなら、腕をつかみ、引っ張ってまで教えてくれなかっただろうと思い
ます。辛いけれど、それ以上の覚悟と情熱があると感じる事が出来ました。連れられたその場所は、高台になっ
ていて、眼下には道路がありました。佐藤さんは、
「あそこを、津波が流れて行った」とおっしゃられました。ち
なみに、その場所から、遠くを見渡すと少し海が見えていました。ここに来る道中のバスの中からも海は見えて
いたのですが、こんなに穏やかで綺麗な海が突然襲ってくるなんて想像がつか
ないほどでした。今の、あの海を見たら、あの日の津波を経験した人は一体ど
う思うのでしょうか。そう考えると少し複雑な気持ちになりました。
そんな海のすぐ近くにあった公立志津川病院も津波の被害を受けたそうです。
現在は、新しく病院ができて南三陸病院となっています。そこでは、
「災害看護
は看護の原点」という言葉を聴きました。
「災害は怪我するかどうかではなく”
亡くなるか、助かるか”」ともおっしゃられました。入院されていた患者さんは自らの命の危機にさらされている
だけでなく大災害によって更に、危険な状態になられています。助かる事が第一だというところでの看護師さん
たちの苦労は想像を絶するものだったのだろうと思います。目指す職業は違いますが、
「自分が辛い時に優しくな
る」という事が僕にはできるのかと思いました。震災後、再建された南三陸病院では、訪問看護や、南三陸町で
盛んに作られている紙細工「キリコ」を院内に展示するなど地域への密着を行っているそうです。
南三陸町のさんさん商店街で「モアイみくじ」をしました。さんさん商店街にはモアイ像が置かれていて、モア
イとはイースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味だそうです。
東北での 2 日間の施設等での活動で、震災について、ほんの少しですが知る事ができたと思います。今回の東北
への訪問で「できる事なら、この場所で一緒に歩んでいきたい」
、
「僕は、被災したわけではないのでわからない
事だらけですが、ここで少しでも力になりたい」と思いました。辛い事を思い出しながら、あの日の事を語って
くれた方々は、僕に、前を向く強さを教えてくれたと思います。いつか、将来、その恩に報いる事ができたらと
思いました。
東北から帰ってきてから約 1 週間が経ちましたが、まだ昨日のことのように思い出されます。また、この看護医
療・健康類型 2 期生の仲間と行った今回の経験は一生忘れないものとなると思います。
④震災が起こった当時、私は小学校 6 年生で、家に帰ってからテレビをつけると、どのチャンネルも津波の映像
で、テレビ越しでありながら初めて見る光景に怖くて泣きそうになっていたことを覚えています。しかし、自分
が経験したわけはなくても、同じ日本で起こったことなのに、阪神淡路大震災を経験していない私たちは、どこ
か「他人事」のような感覚を感じていたかもしれません。私が、東北へ行って、一番に感じたことは、震災を経験
した方たちは、下を向いているのではなく、
『上』を向いているのだ、ということです。どこに話を聞きに行って
も、私たちを笑顔で迎えてくれて、明るく接してくださり、私たちの方が元気をもらっていました。でも、中に
は 15 日に行ったときに仮設でお話をしてくださった方は少し涙目になっていて「つらいことを話させてしまって
3
いる」と思いました。でも、震災のことを聞くため、そしてそのことを周りに伝えるために東北に来たんだ、と思
い、つい、「今でも震災のことを思い出されることは多いのですか?」と質問をしてしまったとき、「毎年こういっ
たお話をする機会がたくさんある」と聞き、今でも仮設から出られない人がいるのだということを知り、このこと
を他の地方に知ってもらい、震災のことを忘れないようにしよう、と思いました。
また、私は宮城県の現状を見て、正直、この現状が進んでいる方のか進んでいない方のかはっきりとはわかり
ませんでした。でも、東京オリンピックの工事のために、復興が遅れているのは事実であり、まだ、自分の家で
暮らすことが出来ない方が大勢おられるのも事実です。高校2年生になって、東北ボランティアに行くという話
があるまで、テレビや募金箱を見た時や、3 月 11 日にしか震災のことを思い出していなかった私ですが、もっと
震災のことに興味を持ち、どうすれば復興に役立つことができるのか考えていきたいです。
⑤ボランティアに行ったその日、現地に着いた時は夜だったため、朝太陽が登って明るくなった現地を見た時、
震災が起きて5年たった今でもまだこんな状況なのかと驚きました。
現地で仮設住宅を見せていただいた時、四畳半というスペースに11歳の犬と生活をしているという方にお話を
聞かせていただけました。仮設住宅での生活はしんどい、辛いとよく聞くのですが、実際にどのようにしんどい
のか、何が辛いのかがわからなかった私はすごく驚きました。たったの四畳半というスペースで、隣との壁が薄
いため、
隣の音や振動が伝わってくるというだけでもかなりのストレスになること、
さらに犬を飼っているため、
吠えた時など周りの人たちに迷惑をかけることなど、たくさんのことなどを聞かせていただけました。
中でも一番印象に残っているのが、
ペットを飼っている人は仮設住宅で暮らすことになった時どうするのだろう。
また、仮設住宅にペットを入れれるようになるにはどれくらいの時間がかかったのだろうという質問をした時で
した。本来、仮設住宅にはペットの連れ込みは禁止なのだそうです。では、どうしたのかと尋ねた時、その方は
保健所の方に「仮設住宅にペットを行れてはいけないならあなた達が連れて行って殺してくれ」と言ったそうで
す。人間の勝手な都合で家族同様に育ってきた子を殺したり野に放ったりすることはできないとおっしゃってい
ました。抗議の声もあり、仮設住宅でペットを飼うことは許可されたそうですが、やはり四畳半というスペース
なので、口には出されませんでしたが、生活しづらいという雰囲気が感じ取れました。
現地の方々と交流して分かったことは、
しんどくても表に出さない、
明るくしようという感じが表に出ていたな、
ということです。どんなにしんどくて、辛いお話をされた後でも、私達のことを逆に気にかけてくださったり、
明るくしようとしてくれました。それを見て、震災があったにもかかわらず、笑顔で、そして強いなと思いまし
た。自分がもしそんな状況になった時、他人に気を使えるのか、周りの人たちを
笑顔にすることなんてできるのかと改めて考えさせられました。
震災のような自分も他人も危ない状況に陥った時、自分は他人に対してどこま
で優しくなれるのか、それが優しさと看護というものなのだと気付かされるボラ
ンティアでした。
⑥東北に行くまで私はすごく不安でした。私の班は仮設住宅での交流で紙の人形
劇をする予定でその準備も出来ていましたが、どんな人が来るのか、どんなとこ
ろでするのかがわかっていなかったからです。そして何より不安だったのは被災地にいる方たちに失礼なことを
言ってしまわないかでした。
事前に被災地の現状について調べていたときまだまだ復興には程遠いとありました。だから、私は被災者の方の
心も傷ついたままなんだと思い込んでいたのです。
でも実際に交流を終えて感じたのは、交流してくださった方たちはとても優しく、確かに心は傷ついていますが
前を向いていて、同じ悲しみを繰り返さないで欲しいという思いを感じました。紙人形劇も笑って楽しんでくれ
て、お茶やコーヒーなどを配っていた時に「私はもう頂いたからあなたも飲んで」
「遠いところから来てくれてあ
りがとう」
「楽しかった」と暖かい言葉も頂いてボランティアをしたのではなくボランティアさせて頂いたんだと
思いました。そして私が今回何より思ったのは、この体験を伝えないといけないということです。口に出したく
ない方もいたと思いますが津波の怖さを教えてもらい私はこの思いや経験を持って帰って伝えないといけないと
思いました。
⑦今回の東北へのボランティアは医療職に就こうとする私たちにとって有意義で今のある経験だったと思います。
私が医療職につく上で大切なのはどれだけ相手の立場に立つことができるかどうかだと思います。私は作業療法
士を目指しています。リハビリをしていく上で、患者さんと同じ痛みや不便さをわかることができればいいので
すが、私にはわかりません。ですが、患者さんが少しでも社会で生きやすくするためにリハビリをしていかなけ
ればいけません。そのために、カルテだけてはなく、会話や表情などからいろんな情報を得て相手の立場に近づ
4
くことが必要だと思います。
人は自分が経験したことがないことは理解できないものだと思います。だから、今回のボランティアに行くと決
まった時、大きな震災を味わったことのない私に、現地の方の思いがわかるのか不安でした。少しでも分かりた
いと思い、たくさん調べてボランティアに向かったのですがやはり全てをわかることはできませんでした。想像
以上の心の痛みや悲しみを同じようにわかることはできませんでした。でも、理解することは出来たと思ってい
ます。
「ここら辺も随分変わってしまってね。元には戻らないね。
」と笑顔で話されていても、辛い思いは声や仕
草から感じられました。そのように相手の思いをいろんな情報から汲み取って理解した上で、声をかけることを
自然と交流の中で学びました。このことはこの先も大切にしていこうと思います。
最後に、震災から 5 年経ってもまだ土の山だらけで復興ということばからはまだまだ遠い状態にある現地のこと
を忘れてはいけないと強く思いました。明るいニュースも必要かもしれませんが、目を背けてはいけない事実も
世の中にはたくさんあります。そのことを忘れずにいたいと思いました。交流した方がおっしゃられていた「こ
こら辺も随分変わってしまってね。元には戻らないね。
」という言葉が頭に残っています。確かに現地の方々にと
っての故郷の景色は無くなってしまいました。しかし、震災の経験を踏まえ
て、少しでも高いところに避難所になるような学校を建てるとか、丈夫な家
を建てるとか、震災を嫌な経験だけで終わらせるのではなく、教訓として後
世に残せる街になればと思いました。東北が、亡くなった方々が作り上げて
きた街の雰囲気は残しつつも新しい街へと進めるように募金活動など、ここ
からできる支援を続けていきたいと思います。
⑧私は東北に行く前にインターネットで色々調べました。調べてみると「復
興している」と書いてありました。だから、私は建物が立ち、仮設住宅で暮らしている人はほんの少しだと思っ
ていました。その事を思いながら私は東北に向かいました。
東北は私が思っていたような感じとは少し、いやとても異なっていました。地震が起きた時に残った建物があ
ったり、仮設にはたくさんの方がまだ暮らしていました。ニュースやネットに流されている東北の事はいい事ば
かりで、まだ復興しきれていない事をみんな忘れているんじゃないかと思いました。
東北の方のお話を聞いた中で一番心に響いた言葉があります。それは「人は 1 人では生きていけない。誰かの
手助けや協力がないと生きていけない」という言葉です。この言葉は何回も聞いたことはありますが、東北に行
き、たくさんの話を聞いた中で本当に心に響きました。身近な方の協力だけではなく、全国各地からボランティ
アに来ていただいたと言っておられました。
もう生きていけないと思っていたという方がおられました。
しかし、
その方はたくさんのボランティアの方が来てくれたことによって孤独だったけど、
たくさんの方と打ち解けられ、
亡くなった方の分まで生きると決意されたそうです。その話を聞くとボランティアによって人の心を動かすこと
ができ、素晴らしいことだと感じました。最後になりましたが福田先生や両親を含めたくさんの方々のご協力に
よりたくさんのいい経験ができたと思っています。感謝申し上げます。ありがとうございました。
14日(午前)南方イオン跡地仮設住宅(宮城県登米市南方町鴻ノ木 35-1)仮設住宅の住民の方との交流。
①南方イオン跡地仮説住宅にお伺いさせてもらいました。東日本大震災が起きた時、私はただ驚くことしかできませ
んでした。この地震で私の生活が変わったことはほとんどありませんでしたが、とても衝撃を受けたのを覚えて
います。それを思い出しながら当時のことを聞かせて頂きました。
「地震があったあと車で逃げたが上へ行く道がいけないため違う道から行った。すると小学校へ着いて助かるこ
とができた。目の前まで津波が来ていて、その中に人が飲み込まれていった。その人達の「助けて」「助けてく
れ」という声が聞こえたが、なにもすることができなかった。」とお話ししてくださいました。
私は相槌を打つしかできませんでした。この方の話を聞くと、テレビで報道されている話よりはっきり描写が現
れてきて、地震や津波などの災害の恐さを知り、少し体が震えました。
私は、震災の当時は、もっとみんながみんなを助けることができたのではないか?津波が来る前に高いところに
もっとたくさんの人が行けたのではないか?と思っていました。けど聞いていく中で自分が逃げるだけで精一杯
なのに他人を助けるのは自分の命も落としかねない状況だったのだと知り、私は何でそこまで考えが及ばなかっ
たのだろうか。と思いました。
この私の心の変化も現地の方にお聞きしないと変わらなかっただろうし、刺激を受けることもなかったです。
5
もしも私が東日本大震災を体験していたなら私は今の私が思っている以上に心が塞がっている状態かもしれませ
ん。どんな[わたし]になっているか考えると怖いです。今回お話ししてくださった方は私達に笑顔で接してく
ださり、思い出すのが辛い震災の話もしてくださり、心が強い方達なんだな、と思いました。
その方達が揃って言われたのが「とにかく逃げて」です。この言葉をもっと深く心に留めたいです。そして 5 年
が経った今でも私達にできることがあります。それは伝えることです。聞いたことを自分、そして家族や友達…
などといったようにたくさんの人に知ってもらえるようにしたいと強く思いました。
貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
② 私は、世間体を気にして失敗を恐れてしまい積極的に行動することを酷に感じています。私は現地の方と交流
する中で、楽しんでもらえるような行動ができるのか、少しでも心の傷を癒すことができるのか、とても不安で
した。ですから、下を向いていても迷惑をかけてしまうだけで自分のマイナスな部分を嘆くのではなくプラスの
部分をどう活かしていくかを考えて行動しようと考えました。
私のプラスの部分は、
愛嬌だと思うのでとにかく、
明るく楽しい雰囲気で現地の方々と交流しました。そうすると、現地の方から声をかけて頂きいい雰囲気で会話
に参加することができました。流れるような会話はできませんでしたが、互いに故郷のことについて話し合うこ
とができました。話を聴いていて、地域の協力が大切だということ、家族や周りの人が大切だということを実感
することができました。そう感じたのは、現地の方から聴いた震災の経験からで地域の取り組みや周りの人との
協力が衣食住も十分ではない中で、今の状況まで乗り越えられたのかと思います。 現地の方はこう言っていまし
た。
「すべて流されてしまった。高台にある小学校に行って助かった。
」
「高台にある小学校は子どもの通学に距離
が遠く不便だという声もあった。でも、津波が来ても高台にあったおかげで私たちは助かった」死と隣り合わせ
の状況を経験して、大変な思いをされて、経験してない私でも津波が怖いと思い、命の尊さも実感できました。
これらのことを実際に耳で聴いて、日常を過ごしていると忘れてしまうのは事実ですが、今ある命がどれほど大
切なのかや今できることが普通ではないことを周りに発信しないといけないと思いました。今回の活動での収穫
は、ポジティブな考え方一つで上手くいくこともあるということがわかりました。しかし、マイナスの部分も見
つめないと本当の成長はできないと思います。プラスの部分は伸ばしつつ、マイナスな部分も克服できるような
目標(達成できるかできないかは置いておき)を掲げて挑戦したいと思いました。
③ 今回、被災地に実際に訪問し復興・復旧はまだまだ進んでいないということを実感しました。
2011年3月11日の震災があった日から5年が経ち、メディアなどは被災地のことに対し関心が薄れ、正
直、私自身も被災地のことは頭の片隅にしかありませんでした。移動の際にバスの窓の外を見ると、綺麗な海や
山が多く見えました。このとても綺麗な海が町や人々を飲み込み、攫ったのだと考えるととても恐ろしく思いま
した。そして、建物は仮設住宅が多く5年たった今でも町の復旧は進んでおらず、現在の報道などではあまり伝
えられていない風景も目に入りました。
また、町の復旧とともに、震災に遭われた方々の心の復旧も進んでいないだろうと思いました。
14日、月曜日の午前に訪問した南方イオン跡地の仮設住宅の住民の方との交流の際に、震災があった時に家
族を亡くした方の話などを聞いたりしました。あまりに怖くて壮絶な体験で、今の自分には想像もつかないよう
な話でした。涙目になりながら、震災のお話をしてくれている方に対し、
「これ以上深く震災のことを聞いても良
いのだろうか。
」という思いがあり、何か言葉をかけたいけどなんと言えばいいかわからず、私には話を聞くこと
しかできませんでした。その時、何もできなかったことを情けなく思います。
私たちの今回したことが、被災地の方々の心の復旧に繋がったかはわかりませんが、少しの間、ほんの一瞬で
も笑顔に繋がっていれば良いなと思います。
そして、東日本大震災という恐ろしい出来事を絶対に忘れてはいけない、自分に
とって遠い場所の出来事、関係のない出来事という風に捉えてはいけないと改めて
感じました。私は今の生活を何気なく過ごしていましたが、当たり前と思わず、一
分一秒を大切にしながら過ごしていきたいです。
貴重な体験を有難う御座いました。
④14日の午前中、中学校の中にある仮設住宅で交流会をさせてもらって、現地の
方たちと出会って話を聞く中で、地震や津波の恐ろしさ、まだ復興が出来ていない
ことを改めて感じました。
私自身、地震や津波を体験したことがないので、想像でしか出来ませんでしたが、お話の中で、
「人が流されてい
るのを見ているだけで助けに行けなくて、辛かった。
」とおっしゃられる方がいました。目の前に助けを必要とし
ている人がいるのに行けないということは辛く、自分を責めてしまうだろうなと思いました。しかし、福田先生
6
や西村先生もおっしゃっていたように、まずは自分の命を守ることが一番です。
その方も最後に、もし、地震や津波が起こった時にとにかく、
「逃げなさい、絶対に戻ってはいけない」と教えて
くださいました。この事は自分の周りの人に発信していかなければならないと感じました。
交流会では、足湯のお手伝いをさせてもらって、震災の話以外にも、体調の話や、趣味の話をして、とても喜
んで下さいました。笑顔で手を握って「ありがとう、ありがとう」と何回もお礼を言って下さり、本当に嬉しか
ったですし、私ももっと、強く生きないといけないと勇気をもらい感謝でいっぱいです。
東北ボランティアへ行って、震災への恐怖を現地の人から聞くことで本当の恐ろしさを知ることが出来きました
し、現地の様子を見たことで復興にはまだまだ時間がかかるということも分かりました。こうやって学んで私た
ちが出来ることは何かと考えたときに直接復興へのお手伝いが出来るわけではないですが、聞いた話や、見たこ
とを周りの人に伝えることが大切だと感じました。現地の人が、津波の時に必死で高台まで行って、それでも間
に合わなかった人がいること、生きてさえいればこれから先どうにかなるからとにかく生きること、こんなこと
を私は発信していきたいと思います。
⑤仮設住宅での交流会では挨拶や司会進行、準備などをしていき、司会進行では上手く伝えることなどができな
かったり恥ずかしさや緊張で声を出せなかったりしたけれど次につなげる良い機会になりました。挨拶では普段
なかなかすることがなかったので文が繋がっていなかったり間違えたことを言ってしまったことが後悔していま
す。ですが、人前で話すことに少しずつ慣れていくことがとても大切だと改めてわかりました。準備では担当だ
ったこともあり、率先してできたと思います。ですが、みんなとの協力できたことで、成功できたと思います。
みんなで1つのことを成し遂げることは達成感もすごくあるし、とても楽しいことだなと思います。しんどいこ
とを達成すると次も頑張ろうと言う気持ちになることがこれまでの活動でわかりました。私はこれまでの活動で
もそうですが、今回の東北へ行ったことによって変わることができました。人任せにしていたことも、積極的に
していくようになりました。震災から 5 年が経ってから被災地に行きましたが、とても良い経験になりました。
⑥今回は皆様の貴重なお時間を頂いて一緒に交流させて頂き本当にありがとうございました。この催しで私たち
の班は花咲か爺さんの紙人形劇を行いましたが、楽しんで頂けたでしょうか。この紙人形劇で使われている紙人
形は私が書いたもので、私自身とても思い入れがあります。本番で紙人形がくるくる動いているのを見ると、我
ながら中々のものじゃないかなと少し思いました。
内容は昔話によくある残酷なシーンをなるべくコミカルになるよう努めたのですが灰を撒く、という話の流れ
上でシロ(犬)が死んでしまうことは無くすことはしませんでした。
そこで涙を流していた人がいるとあとで知り、
少し、配慮が足りなかったと思います。気を悪くされていたなら申し訳ないです。すみません。シロが死んでし
まっても桜は咲き続けている、という事を表したかったのですが、技量不足でし
た。またの機会がありましたら次はもっと良いものにしたいと思います。
足湯では皆様と近い距離でお話する事ができ、
少し緊張しましたが終わった後、
握手や名前を聞いて覚えてくださった方もいて、とても嬉しかったです。足湯は
病院の見学実習などで何回もやっていたので、こういった場でその経験が活かせ
て良かったです。こういった皆様のために自分のできる事を精一杯したい、とい
う時に普段している事が活きてくるのは感慨深いものがあります。
気持ち良かったと感じて頂けたなら幸いです。
その後のお話やかるたでは震災についての話を聞きましたが私が聞いたお話は主に「これから」の事でした。
女性お二人にお話を聞くと、お二人とも3月には復興住宅や息子さんのお家に移るらしく、新しい生活の準備で
大変な事、仮設の人達と離れてしまう事についてお話しされました。仮設住宅について、私はテレビなどで「狭
い」そして「暮らしにくい」というイメージを持っていました。ですが、こちらに来てお話を伺うと「住めば都」
と言われている方がいました。理由を聞くと、昔は隣の家は離れた距離にあったのが今では隣や前にたくさんの
人が住んでいて、にぎやかで協力して生活しているからだそうです。震災で人を失い傷ついた心は、人でこそ癒
す事ができるのだ、と感じました。震災で失ったものも多いけど、得たものもあったとお二人は教えてくれまし
た。ありがとうございました。
14日(午後)南三陸病院 (宮城県本吉郡南三陸町志津川字沼田)お話を聞く会 「震災当時を語る」
。
①南三陸病院を訪問させていただきました。そこでも震災当時のことを看護部長、副部長のお二方に語っていた
だきました。そこで「災害看護は看護の原点」という言葉を知りました。南三陸病院では震災のあった日、病院
内は津波に襲われ 4 階まで水が来ていました。看護師さん達は患者さんを 5 階まで運び出しました。そこで大事
にしたのが近代看護教育の母であるナイチンゲールが最も大事にしていた衛生管理と濡れた体では体温が下がっ
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てしまうのでカーテンや新聞紙などで暖をとること、そして気遣いでした。いきなりきた大きな津波にも関わら
ず冷静に患者さんのカルテの入ったパソコンを避難させ、避難してきた約 120 人の住人も誘導しながら病院にい
る患者さんも避難させ、避難した後も患者さん達に気を配りながら一夜を過ごすことはとても簡単にできること
ではないと思います。話しにも連携が大事ということを聞き「本当に原点そのものなんだ」と思いました。なか
でもわたしが一番心を打たれたのは「家族のことも大事だけど、今起こっている目の前のことをしないといけな
い。」という言葉です。災害があった時に一番不安になるのは家族のことです。しかし第一に患者さんのところ
にいって、そのことに集中できる精神の強さは並大抵では難しいと思います。
お話が終わった後、看護部長さん達に「やっぱり災害看護は看護の原点というから若い方よりも経験をたくさ
ん積んだ方達の方が動けたんですか?」とお聞きしてみたところ「みんな一緒!みんなで協力したからできたの
よ」「頑張ってね」と言ってくださいました。
私は、災害看護は災害看護で一般的に行っている看護とは違うものだとこの話を聞くまでは思っていました。そ
れに災害があった時に率先して動けなさそうだし、もし看護師になれたとしても私は積極的にしないだろうなと
思っていました。でも今回の話を聞いて、率先して出来なくても 10 の思いやり
の心を持って接したら 1 は届くかもしれない、届くのはもしかしたら 1 人かも
しれない、けど、その 1 人の生きる材料になれるのではないか、と思い、ちゃ
んとした言葉では表せないですが、私自身はもちろん他の人も守りたい。と思
うようになりました。
私は本当に看護師になれるかわかりませんが、もし本当になることができたな
ら
『災害看護は看護の原点』
という言葉を忘れず進んでいきたいと思いました。
② 私は、南三陸病院の看護部長の話を聴いて印象に残っている話があります。患者さんの為に自己を犠牲にされ
た看護師の方三名の話を聴いて、私は単純にかっこいい、このような看護師を目指したいと思いました。 その出
来事と言うのは、志津川病院で勤務している看護師が震災の時、津波が来て大人数の患者全員を避難させること
はできないので、
諦めず横に寄り添い亡くなったこと。休暇をとっていた看護師が病院に戻り、
亡くなったこと。
これらの状況を想像して私ならどうするかと考えると、逃げることを選びました。患者に寄り添うこと、その心
は看護師になる上で常に考えるべきことだと思いますが、命と引き換えとなると、やはり「生きたい」というの
が本音です。言いたいことは、自分を犠牲に何かをすること、それは非常に恐怖で勇敢なことだと思いました。
私は、命と引き換えとなると恐怖に立ち向かうことは今の状況ではできません。ですから、犠牲になられた看護
師をかっこいいとも思いましたし尊敬しています。私にできないような行動ができる、私にない考えを持って行
動ができる、だから犠牲になられた看護師のようになりたいと思いました。西村先生が言われたように、今は他
人の為に犠牲(身代わり)になることは考えていてもできないので、嫌いな人にどれだけのことができるのか、
言い換えれば、しんどいことをどれだけ他人ため自分のためにできるのか、他人にしている行動をもう一度、見
直してみようと思います。そうすることによって、
「人のためにする」ということがどういうことなのか自分でも
経験できるのかと思います。それを、私の中で確立した上で、理想の看護師に近づけたらいいなと思いました。
③東日本大震災が起きてから 5 年。私が東日本大震災の事を知る情報源はテレビのニュースやインターネットで
した。テレビのニュースで被災地の現状や当時の映像を見たときには心の底から言葉にできないほどの悲しさと
むなしさがありました。今回被災地に赴き南三陸病院でのお話を聞かせて頂いた時、私にはまだまだ知らないこ
とが多いということを感じました。お話の中で予想された津波の高さよりもさらに高い津波が押し寄せ多くの方
が亡くなったこと、生き残った方でも寒さで亡くなってしまった方がいたこと、テレビのニュースや映像で知っ
たことよりも遥かに津波の怖さや被災した後の暮らしについて身をもって震災の恐ろしさを感じました。
まとめの 1 つとして災害看護は看護の原点ということがありましたがこの言葉に大きく感銘を受けました。
私が思う看護の原点とは他人を支え思いやる心だと思っています。その思いやりを無くして看護師は務まらない
と考えています。そしてその思いやりの心は此度の東日本大震災でも多くの方の命を救ったと私は思います。ま
た地域の拠点病院としての役割を果たすということは日々この看護の原点を忘れずに務めることだと考えました。
この様にお話の中で考えたこと、思ったことは数多く私にとってお話を聞けたことは非情に勉強になりました。
これから先、南海トラフ地震が起こるといわれています。その時私は看護の原点を忘れずに一人でも多くの方を
支えられるような立派な看護師になりたいと思いました。本当に貴重な経験をありがとうございました。
④私は東北に実際にボランティアに行くまで新聞などでしか見たことがなかったのですがまだまだ復興していな
いと改めて思いました。私は足湯とカルタの班でしたが、足湯をしているときに男性が「足湯なんてめったにで
きないので気持ちがいいですね。ありがとう。
」と笑顔で言ってくださり、とっても嬉しかったです。カルタをす
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る前に震災当時のお話を聞いたのですが、そこで子どもやお年寄りの被害が少なかったことや仮設に住むまでの
ことなどを聞いてどれだけ当時大変だったのかということを初めて知りました。病院では津波が来た時のまま時
間が止まっている時計を見て当時の津波の恐ろしさを改めて感じました。お話を聞いていくうちに 3 階までは来
ないから大丈夫と思っていた津波が予想以上に高く目の前で患者さんが流されていくのを見たり看護師さんが犠
牲になってしまったと聞いて新聞などではわからないことが聞けたのでこのお話を聞けてよかったなと思いまし
た。私は看護師さんが患者さんのそばにいて津波の犠牲になったと聞いて自分がその状況だったらと考えました
が、同じことはできないと思います。自分の命が他の人の命かなんて選ぶことができないからです。だからその
看護師さんの行動が正しかったかはわかりませんがきっとそばにいてもらった患者さんは心強かったんじゃない
かなと思いました。私は今回聞いたお話は自分の心の中に留めておくとともに他の人にも伝えていかなければい
けないなと思いました。そして、今くると言われている南海トラフ地震がきたら今回聞いたお話を思い出して「て
んでんこ(災害の時は家族のことも構わず1人でも逃げろという意味の言葉)
」で逃げたいです。きっとこの言葉
は東日本大震災を経験したからこそ生まれたのではないかと思いました。それと同時に私はこの言葉は大事だと
思いました。だからこれからは今回の経験を忘れず活かしていきたいです。
⑤南三陸病院でのお話で 1 番心に残った言葉は「震災が起こった時でも患者さんに笑顔で接した」という言葉で
す。私は嫌な事や不安なことがあるとすぐに顔に出てしまい、笑顔でいることができませんが、看護師さんは家
族がどうなったのか、これからどうなるのかなど一切わからずに不安で心が
押し潰されそうになったと思いますがそのような時でも患者さんに笑顔で接
することができることは本当にすごい事だと思いました。ですが看護師にな
ったらいきなり、いつでも患者さんに笑顔で接するとことができるようにな
るわけではないので、すごいと思いましたが、それだけで終わっては意味が
無いので行動に移そうと思いました。なので、そのお話を聞いた時から、嫌
なこと、不安なことがあった時でも、自分で顔に出してはいけないと自分自
身に言い聞かせてそのような時にでも笑顔でいれるように心がけています。
ですが、まだそのような能力が身に付いていないと思います。その理由は日々の積み重ねが足りていないからだ
と思います。日々の積み重ねでしか身につかない能力があります。ですが、今までの私は日々の積み重ねをしな
くてもそのような能力をすぐに身に付けることができるだろうと簡単に思っていましたので日々の積み重ねを怠
ってしいましたがこれからは日々の積み重ねを怠ったりしてはいけないなと思いました。
⑥私は今回、東北ボランティアで南三陸病院を見学、お話を聞かせてもらい、感じたこと。それは、看護師さん
の「強さ」です。当たり前かもしれないけれど、震災を経験した看護師の方のお話を聞くのは初めてで、震災に遭
ったことのない看護師さんは中々持っていないものだと思います。そのひとつは、当日の夜に、話題になった『自
分の命を犠牲にして他人の命を救うべきか』
についてです。
看護師が患者さんを救うために命を落としてしまう、
という話を聞いた時は、
「私にはそんなこと出来ない」と心の中で思ってしまっていました。きっと、こういった
出来事は沢山あって、看護師さんだけでなく、教師や生徒、親と子ども、兄弟、友達といったように、誰かを助
けるために亡くなってしまった方は沢山いると思います。また、助けることができずにどちらも津波に巻き込ま
れた方もおられると思います。でもそれは、誰かを助けようとしたことであり、たとえそれが「義務感」だったと
しても、「自己犠牲」にはしてはいけないのかなと思いました。
また、今回お話をしてくださった方のように、辛い出来事を思い出しながらも、震災のことを、そして、当時
の看護師の方のお話を、私たちにお話してくださったことも、震災当時、自分も辛いことがあるにも関わらず、
患者さんに笑顔で接して、不安にさせないようにしていたことも、「強さ」があったからこそだと思います。本当
は泣きたいけど泣けなかった人や頼りたくても頼れなかった人、1 人で泣いていた人、それぞれ事情はあっても、
自分自身ではなく、他人である患者さんのことを考えることができるのは、すごいと思います。
私は、震災や事故、病気といったことを経験したことはありませんが、私が将来医療職に就いたとき、自分が
どれだけつらい時でも、患者さんの前ではそれを見せては行けないと思うし、不安を見せることが、患者さんを
不安に思わせることだと思います。でも、もし本当に私の家族の誰かが亡くなったり、家をなくしたとき、患者
さんの前で笑うことが出来るのか。自分は崩れずに患者さんの支えになれるのか。今の私にはわかりませんが、
どんな時でも前を向いていくしか道はないと思いました。
⑦私は南三陸病院で医療人としての覚悟のようなものを感じました。私が今でも考えさせられるのは「自己犠牲」
についてです。まだ考えはまとまってないのですが今回は自己犠牲について私なりの考えを書くと同時に感想と
したいと思います。
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震災の時、志津川病院では 3 人のナースの方が亡くなり、1 人はおそらく病院に戻ろうとした方、2 人は最期
の時まで患者さんに寄り添っていた方がいた。この事実を聞いた時私は鳥肌が立ちました。その瞬間に私はその
方たちの覚悟を感じました。3 人の方がおかれていた場面を想像してみると胸が締め付けられる思いです。きっ
と「病院に戻らないと」
「患者さんを守りたい」と思っていたのではないかと思います。それは亡くなった方だけ
ではなくその場にいた看護師さん、お医者さん、全員が同じ思いだったのではないでしょうか。とてつもない地
震と津波が押し寄せる中で、全員が冷静になって患者さんの事を考えられるということはものすごく難しいこと
だと私は思い、同時に私にはできるだろうか。と考えさせられます。なぜそのように冷静になれるのか私はずっ
と考えています。私が感じたのは、1 人の人としての心の中に、
「医療人」という筋が通っているということです。
医療人として今すべきこと、医療人として自分になにができるのか、それを常に考えておられるのではないかと
感じました。だからこそ亡くなった 3 人の方を含めその場にいた全員が患者さんを救うことに徹底しようとして
いたのではないでしょうか。
しかし、1つだけ忘れてはいけないことは亡くなられた 3 人の方は決して自分の命を諦めたわけではないとい
うことだと思います。患者さんを救いたいという想いの中で、
「自分も死にたくない」
「家族は無事だろうか」
「家
はどうなっているんだろう」といったいろんな思いがあったと思います。そのような想いの中でも患者さんを救
うことに徹底した看護師さんは本当にかっこいいと思います。しかし、実際に患者さんと看護師さんが両方助か
った事実もあります。ですので、私は両方を尊敬するからこそ亡くなられた方を、決して悲劇のヒロインのよう
な捉え方で見てはいけないと思います。
このように自己犠牲について考えている中で私は、どんなときでも最善を尽くすことができる医療人になりた
いと思いました。臨機応変に今しなければいけないこと、何をするべきなのかを考えて行動することが大切なの
ではないかと思います。その上で 1 番に大切にするべきは自分の命であることも忘れてはいけないと思います。
自分の命は自分で守ることを忘れずに医療人として成長していきたいです。
15日(午前)戸倉中学校グランド仮設―慰問イベント(宮城県本吉郡南三陸町戸倉字沖田)
①私は、15 日に訪問させていただいた仮設住宅で体験をさせていただき、震災の恐ろしさを聞かせていただきま
した。まず、体験させていただいたことは、オリジナルの体操です。はじめは、ラジオ体操だと思っていたので、
思っていたのとは違い驚きました。
今回初めてオリジナルの体操をしましたが、
とても簡単で楽しいものでした。
しかし、ラジオ体操では方言まじりで何を言っているのかあまり分かりませんでした。ですが、新鮮で時には良
いなと思います。色んな年代の方ができる体操で楽しみながら健康になれて
素晴らしい体操でした。ちなみに、私のお気に入りはズンドコきよしバージ
ョンです。
それらの体操をした後、お話を聞かせていただきました。やはり、震災は
恐ろしいと改めて思いました。また津波はとにかく逃げることしかないとい
うことを学びました。お話を聞かせていただいた方は、電気やガス、水道と
いった生活に必要なものすべて止まってしまったと聞きました。そして、水
はなんとか川の水を飲んでいたそうです。津波で、家の上に車がのっていた
と聞き、津波の高さや強さが尋常ではないとわかりました。私は、話や写真などしか東日本大震災を知りません。
実際に東日本大震災で被災者の方々は、本当に怖くて不安で明日はどうなっているかわからない日々を過ごして
いたことでしょう。でも、話を聞かせていただいた方は、今はお孫さん達と旅行を行ったりして楽しんでいると
聞きました。5 年前に東日本大震災があったけど今は楽しいし次はどこに行くのか楽しみとおっしゃっていまし
た。私は、今は楽しいと聞き安心した気持ちになりました。また辛い記憶やご家族の温かいお話などを私達に一
生懸命伝えていただきました。なので、私は家に帰ってすぐに家族に自分が何してきたかどんな話を聞いたかを
話しました。このように、より多くの方に伝え知ってもらうことが今自分にできる事だと思っています。 今回の
東北ボランティアは、色んなことを考えさせられるものとなりました。ありがとうございました。
②3月 15 日の午前に 仮設住宅に住む方々との交流を行いました。ここでは震災を受けたからこそ分かる震災前
に準備しておくべきことを聞かせていただきました。それはお金の管理についてです。お金は現金で持っている
と全て津波で流されてしまい戻ってこないけれど銀行に貯金している家が全壊してしまったとしてもお金は戻っ
てくるので大人になったら絶対貯金しておくべきだと言われました。
とても現実的な話だけど 震災を受けた後の
自分自身や自分の家族を助けるための 震災前に自分達にできるとても大切な準備だと思いました。
こういったこ
とから震災後すべき事は復興のために自分のできる支援をするのはもちろんですが、 震災を受け そこ後の震災
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が起こった時のためにできる対策を考えて準備をしておくことだと感じました。東北の地震でもあったように、
予想していた範囲を超える災害が起こる可能性もありますが、
少なくとも対策できる準備をしておくことで 今ま
での災害が起こる前では救えなかった命を救えることができることと思います。
そういったように 震災が起こっ
たことによって得ることができたものもたくさんあると感じました。とても 貴重なお話が聞けてよかったです。
③戸倉中学校仮設住宅は、海からより近いところにあるので実際に震災を体験された現実感のあるお話を聴くこ
とができました。南方イオン跡地仮設住宅の方の話と共通することですが、地域のつながりが本当に大切だとい
うことがわかりました。現地の方の話によると、震災があった日から衣食住に困ったそうで、お風呂に入ること
ができたのも数ヶ月後だったり、服も洗濯できないままだったり不便な生活を送っていることがわかりました。
その中でも、被災された方々同士で支え合い、復興していこうとしている姿や話を見て勇気を頂きました。震災
があり津波に物が流されても、地域の住民が協力して、冷凍庫の氷を溶かして共有したり、津波の被害がなかっ
た地域からお米が届いたり、手芸の趣味を楽しんだり、とても心が温まるようや話が聞けました。 私たちが住ん
でいるところは都会で、東北の人とは環境が異なるかもしれませんが地域のつながりを大切にして何かがあると
協力できるような人付き合いをしていきたいと思いました。
戸倉中学校の体育館に津波がきて、車が体育館に乗っかっていたり、海から津
波が襲う南三陸の姿を写真で確認して、恐怖を覚えました。南三陸の防災庁舎で
は、最後まで街の人に避難を呼びかけていて津波にのまれたりしているのを聴い
て、人と些細なことで喧嘩している自分をみつめて情けなく思いました。南三陸
の勇敢な人々を本当に人生の教訓として見習っていきたいと思いました。
④戸倉中学校グラウンドの仮設での活動の時に私は衝撃を受けました。それは 1
人の女性に聞いたお話についてです。その方は「もうすぐ仮設住宅を出て、娘の家に引っ越すんです。
」と言って
いました。しかし、そう言ったおばあさんの顔は全く嬉しそうではなくて、むしろ悲しそうでした。私はてっき
り仮設住宅での暮らしは大変でみんなが今すぐにでも家に帰りたいのではないかと思っていました。だから不思
議に思い、表情が曇っている理由を聞きました。おばあさんは「震災からずっとここの仮設住宅に住んでいて、
共に頑張ってきたご近所さんを置いて私だけが家に戻るのが申し訳ない。
」と仮設の人を心配していました。その
言葉に私は心が痛くなりました。確かに改めて考えるとその通りです。引っ越しをすると聞いた時に、もしおば
あさんの曇った表情に気づくことができなかったら、私は祝福の言葉をかけていたに違いありません。一歩間違
えればその人を簡単に傷つけてしまうことを実感しました。よく「もし自分だったら」と考えろと聞きますが、
必ずしもその人が自分と同じ考え方とは限らないのです。ですから、何事にも〝もしその人だったら〟と考えら
れる人になろうと思います。
今回、東北に行って、現地を実際に目で見て、被災した人にお話を聴くことができて本当に良かったです。学
んだこともたくさんありましたが、もっと自分で学ばなければいけないこともたくさんあり、これからの課題と
なりました。近い将来、私たちが住む地にも南海トラフがくると言われています。その際に東北で学んだことを
活かせることが出来ればいいなと思います。
⑤戸倉中学校仮設住宅では被災地の方と交流する中で色々なことに気づき、
考えることができました。
ここでは、
私達の班が中心となり頭の体操や○×ゲームをしました。私は、ただ○×ゲームの問題を読むことかしていなく
て、他の頑張っている子達を見ていると情けない気持ちになりました。そして、東北に行く前にもっと被災地の
人の気持ちを考え、楽しい時間を過ごしてもらえるように努力してこなかったのかと後悔しました被災地の人に
肩たたきをした時、
「初めてしてもらった。
」とおっしゃっていてとても驚きま
した。きっと、震災が起こってからリラックスできる時は今までほとんどなか
ったのだろうなと思いました。私がお話を聞いた方は震災があった時は、家に
おらず離れた場所にいたそうです。家に戻れる距離にいたら、家に戻って津波
にのまれてしまっていたかもしれないとおっしゃっていました。だから、やっ
ぱりどんなことがあっても絶対に戻ってはいけないと思いました。それから、
お金に関係する大事な話をしてくれたのですが個人的な内容だったので、発表することになった時にこの話をし
ていいのかわからなくてどうしようってなっていたら、一緒に話を聞いていた正善さんが発表してくれると言っ
てくれました。Sさんの感想は個人的な内容には触れずに大事なことを上手くまとめられていて、本当にすごい
なと思いました。誰も嫌な思いをしないこういう言い方があったんだなと気づかせてもらい、もっと上手くまと
められる力をつけたいと強く思いました。でも、まずは上手くまとまらなくても自分から積極的に発表できるよ
うにならないといけないと思うので、まずはそれを頑張っていきたいです。被災地の方のお話を忘れず、自分に
11
できることをこれからやっていきたいです。
⑥ボランティアをさせていただくにあたって、私の目標は話を途切れないようにすることでした。ですが、○×
ゲーム担当なこともあり、すごく緊張していました。緊張以外にも、震災の話をどこまで聞いていいのか考えて
しまい、あまり聞けませんでした。話が途切れた時に相手の方から話をしてきて
くださり気を遣わせてしまったことが反省すると共にすごく悔しかったです。私
たちがボランティアさせてもらっているのに、逆にみなさんの笑顔に元気をもら
いました。でも、それは震災から 5 年経ったからできる笑顔であって、今まで、
人それぞれ悲しい経験や想いをしたのに、
人に優しくできるって凄いと思ったし、
私も人としてそういう人になりたいと思いました。
ボランティアの一番最後には感想を述べさせていただきました。みんなの前で自分の思いを話す勇気はなかっ
たので、代わってもらいたいなと弱気になってしまっていました。でも実際に言ってみると、うまくは言えなか
ったけど、自分の想いをみんなに伝えることができたと思います。何より、交流させていただいた方が前で話を
した私に対して「すごいね、前であんなことをいってくれてありがとうね。
」と、泣きながら言ってくださったこ
とです。そこで初めて感想を言って良かったなと思ったし、私自身の自信にもなりました。このボランティアで、
辛い時に他人に優しくなれる「強さ」と、
「自信」をもらいました。本当にありがとうございました。また会いた
いです。
15日(午後)障がい児施設「ホップ」 自治会集会所に移動。
(宮城県気仙沼市吉町登米沢)
①震災当時よく耳にした防災庁舎を訪れました。現在は当時のままの状態で保存しているということでしたが、
手すりはひどく折れ曲がり、以前の姿からは全くの別物になっているように見えました。この防災庁舎で津波か
ら逃げるよう注意勧告をし続けたという有名な話がありますが、警告を発していた人自身は津波により亡くなっ
ています。この記録から自身の命に対する考え方を見直す機会ができました。私は現場に居たわけではないので
詳細を知っているわけではありませんが、恐らく地域の住民を避難させることに一生懸命で全力を尽くしていた
のだろうと想像します。その際、どのような思いでいたのか今の私にはわかりません。私はまだそのような場面
に遭ったこともないので、平和な環境の中にいる私は愚直にも自分の命と住民の命を天秤にかけるようなことを
考えるものなのだろうか、と想像したりしました。そんなことを考える余地もなく、あるいはもう結論が出てい
るもので立ち往生などするわけがなかったのかもしれないと考えたりもします。看護医療・健康類型として、あ
るいは医療に携わる者として人の命を奪うのは病だけでなく時には自然が牙をむくということをしっかり認識し
たうえで、命にかかわる問題を考えていきたいと思います。
Sさんには震災後の取り組みについて様々なお話をしていただきました。
子どものため何ができるかを考えたり他者の立場を考え事業に取り組む姿勢
が強く印象に残っています。震災の被害に遭った方が他者に対し尽力すると
いうことは私にはできないところで尊敬しています。今回のお話の中でこの
部分の印象が強かったのは、最近になって私自身が「人のために」といテー
マについて考える機会があったからです。身近なところからいくと、グルー
プを作って一つの目標達成に向かうといったことや、受験勉強、大人になっ
てマニュアルに沿った行動以外にどこまで他者を考え臨機応変に取り組んでいけるかなど様々ですが、このよう
なことを今のうちから考え自分なりの結論を導いていきたいと考えています。一つ私自身についてわかったこと
は自分に余裕がないうちは他者のために行動もしくは他者について考えることすらままならないいうことです。
結局は自分がかわいいのか、あるいはそもそも人とは自分を第一に考える生き物なのかもしれませんが、この点
を考慮したうえでSさんはご自身が震災の被害に遭ったにもかかわらず、様々な事業の取り組みから他者の立場
を考え、どこまで親身になって取り組んでいけるかということが考えられているように感じました。私は自分に
余裕があるとまではいかなくとも、他者のことを考えていけるようになりたいと思いました。これは表現を変え
ると、自分をある程度保護したうえで他者のことも視野に入れていくということに過ぎませんが、今の私はここ
が到達点にあるべきだと考えます。震災に関して津波の話も出ましたが、今回こういったことを考えたうえで、
各々が自分の身を守りつつ集団行動するといった方針が大事だということが本当によくわかりました。
②私は、15日の午後、感想を言うときに、津波が来た時に助けに戻るのではなく、避難した先でたくさんの人
を支えたり助けたりしたいと思いました。しかし、上手く頭の中を言葉に出来ず、違う風に伝わってしまったと
思います。この事も合わせて、今回のボランティアで思ったこれからの目標は、自分の考えていることを上手く
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言葉にして相手に伝えるということです。そして、私が感想を言った後に「あなたみたいに優しい子は震災あっ
たら死ぬよ」と言われた時、心から生きたいと思いました。それに、他の人を助けようとして亡くなった人も行
きたかったと思うし、亡くなったけど、助けられて良かったとおっしゃる家族の方も、絶対に、生きてほしかっ
たと思っていると感じました。
自分の命が亡くなると涙を流す人がいるので、そんな大切な人を悲しませないためにも、ここまで育ててもら
った大切な命を無くさないためにも、私が震災にあったら必ず、まず逃げようと思いました。そして、他の人に
も、早く、絶対に逃げてほしいと思いました。それから、自分の安全を確保し、確認してから、心を落ち着けて、
自分も相手も助かる考えを瞬時に思いつくような人になりたいと思いました。
そして最後に、大きな震災にも合わず、家族や友達がいることが当たり前のような生活を送ることの出来てい
る自分は、とても幸せだと思いました。
③今回、「ホップ」を見学させていただいて、最初の印象はたくさんの自然の中にカラフルな建物があるな、と
思いました。 そして施設の中でお話を聞かせていただきました。子ども達のストレスがピークになったら、ガラ
スを何枚も割って暴れる事がある、と聞いて、私はその子を落ち着かせるのは大変だろうな、と思ったのと同時
に どうやって落ち着かせているのかな、と思いました。小さな部屋があるからそこに連れていったりしている、
と聞きましたが、施設の方の熱意とその子に対する思いがないと向き合う事はできないので、その熱意にとても
感心しました。私だったらきっと、どうしたらいいかわからず向き合う事を遠ざけてしまうと思います。でも、
そんな事をしていたら 医療職についた時、患者さんと向き合うなんてできないので、自分がどうしたらいいかわ
からないとしてもそこから目を背けないで、しっかり向き合おうと改めて考える事ができました。もう少しした
ら 600 坪の公園ができると聞きました。その目的も子どもたちがのびのびと遊べるようにということや、公園に
するために平地にするのにもたくさんの人の協力があったとも聞きました。震災で大変な思いをたくさんしたは
ずなのに、子どもたちに自分の熱意を注げる事にとても感動しました。そしてその熱意が周りの人たちを動かし
たのかなと思います。今回お話ししてくださった佐藤さんは、地域や人のつながりがあれば、それに応えてくれ
る人はいる、とおっしゃっていました。これは、看護類型で福田先生から聞いた言葉と同じだなと思いました。
私は今回、戸倉中学校の仮説での交流やイオン跡地の仮説での交流、南三陸病院で
のお話、そしてSさんのお話、これも全て人と人とのつながりだと思いました。私
はこのつながりを大切にしたいと思います。自治会集会所へ移動して聞いたお話は
震災の恐ろしさ、その後の生活の厳しさでした。私は何不自由1つない生活を送っ
ていて、それが当たり前だと思っていました。帰る家があって、水や電気が使えて、
学校に行けて、それが当然だとずっと思っていました。でも、地震が起こると、私
がずっと当たり前だと思っていた事が、180度変わるのだと知りました。もし、急にそういった状況になった
時、自分だったらどう行動するのだろう、どうなっていくのだろうと想像してみました。ですが、わかりません
でした。こういったことは実際起こってみないとわからないのだと思います。だから、後悔しないために次に関
西に来ると言われている南海トラフのために「準備」をしようと思います。地震を未然に防ぐ事はできないけど、
いつ来てもいいように準備はできると思うので、それをしようと思います。そして地震が来た時自分の命をちゃ
んと守りたいです。「高いところへすぐ逃げる」この言葉は今回関わらせて頂いた皆さんがおっしゃっていまし
た。この言葉を、しっかり自分の胸に留めておきます
「ホップ」の見学、自治会集会所でのお話を通して学んだ事は本当に多かったです。実際現地に行かないと知ら
ない事が多いということも知りました。復興のために少しでも力になれる事があれば協力したいです。
④私は、施設長の話を聴いて感動することばかりでした。自分自身が障がいを持っていたり、子どもが障がいを
もっているのではないのに震災を通して、少数派(不自由な人々)の声を聴き暮らしやすい環境を整える活動を
している姿を見て、このようなことがしたい。人の役に立ちたいと思いました。印象に残っているのが、知的障
がいの親はパニックになってしまうので、温泉に入ったことがない。 だから、経験させてあげたい。この言葉を
聴いてほんとうに施設長の温かさが伝わりました。人と言うのは、何に影響されて成長するか人それぞれ違うと
思います。例えば、私なら看護師に影響されました。でも、機械の部品に影響されるなど、些細なことでもたく
さん経験するということは大切であり、
どんな人でも平等でないといけなのではないかなと思います。
その中で、
狭まっている環境を切り開いたのは施設長です。私は、施設長のように本来あるべき環境を作ってあげられるよ
うな人になりたいです。施設長の障がい者の問題を見る力を見習って、私が病気で体験してきたことを基に多く
の人の目線に立てたらいいなと思いました。
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⑤私は本吉にある「ホップ」という施設の施設長さんからお話しを聞かせていただきました。私は施設長である
Sさんからお話しを聞かせていただくなかで、印象に残ったことが 2 つあります。まず、1つめは正義感とはど
んなことなのだろうということです。Sさんは震災直後自らの家族の安否を確かめたあと地域の方々の安否確認
をされ、その後避難所での暮らしを余儀なくされた方々へのお世話をされたそうです。佐藤さん自身も被災され
た中でどうしてそこまで人のために一生懸命になることができるのかと私は疑問に思うのと同時にSさんは人の
ために何かやりたいという正義感が強い方なのだと思いました。Sさんのお話を聞かせていただく前に震災直後
に病院に戻ろうとして亡くなった看護師の方の話を聞きました。自ら被災しながら看護師としての正義感はとて
も立派だと私は単純に思いました。しかし、そんな正義感は正しい正義感なのか?と問われたとき私は何も答え
ることができませんでした。その後、Sさんの話を聞かせていただくことで、自分の命も家族の命も大切にしな
がら周りの方々のためにできることはたくさんあることに気づきました。Sさん自身も家族の安否が確認できた
ら躊躇せず前に進まれたそうです。将来、このような大災害が起こったら自分は看護師としてなにができるのか
正直今はわかりませんが、Sさんのおっしゃられた言葉を忘れずに心に留めておきたいと思いました。
2つめは地域とはどのようなものなのかということです。私が住んでいる周辺は何かあった時に助けあったり
声を掛け合うことはあまりありません。しかし、本吉の方々は震災直後声
を掛け合って、お隣同士の方々の安否を確かめあったそうです。また、家
がなくなってしまった方々に食事が食べられるように呼びかけあって少し
ずつ食材を持ちあったそうです。そのため、県や国からほとんど支援を受
けることはなかったそうです。Sさんはこの震災を経験したことで、地域
の方々とのつながりが大切だと気づいたとおっしゃられていました。ボラ
ンティアを通してSさんはじめたくさんの方々からお話を聞かせていただ
きました。聞かせいただいたことを無駄せず周りの人に伝えこのような震災に備えたいと思いました。ありがと
うございました。
⑥Sさんの震災が起きてからの生活やエピソードを聴いて、地震というものは本当に恐ろしいものだと改めて感
じた反面、感動しました。お話の中で、家が流された11世帯の人たちのために他の80世帯の人たちが食材を
かき集めて、ご飯を作ったりしたというお話がありました。このことを聴いて私は、人間というものは温かい生
き物なのだろうと思いました。震災が起きて、自分のことで精一杯なはずなのに、他人のためにそんなことがで
きるなんて、本当に素晴らしいことだと思いました。しかし、今の私だったら絶対にできないことだと思いまし
た。ただでさえ、今の私は、しなくてはならないことが多く手が回らない状況にある時、周りに困っている人が
いて、助けたら自分のすることが増えてしまうとなれば、私はお
そらく助けないと思います。
他には私に辛いことがあってドン底に落ちている時に、周りの
人に同じような人、私よりもひどい人がいたら救うことができる
かなと考えたら、自分のことで精一杯になって救うことなんてで
きないと思います。今の私は弱いなと思いました。将来、看護師
になった時このような様ではいけないです。普段から自分のこと
だけで精一杯にならずに自分のことだけではなく、自分がしんど
い辛い時こそ、他の困っている人を助けられる人になりたいなと
思いました。
たくさんお話していただいたことを忘れず、自分の胸に留めて、
亡くなられた方の分まで、これから精一杯生きていきたいです。
旧2年3組への手紙
「にんじん」教師 西村 健一
『20 年前に担任していたクラスから届いた同窓会の招待状。かつて、そのクラスには、どうしても好きになれ
ない生徒が一人いた。すべての生徒に対し、平等に接することなどできなかった。その生徒に「にんじん」と密
かにあだ名をつけて、他の生徒にはわからないよう区別していた。
』
~重松清「にんじん」~
生理的に受け付けない、どうしても好きになれない人っていませんか?その人が、何も悪いことをしていなく
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ても、自分に危害を加えていなくても、嫌いなものは嫌いなのです。顔が嫌い。声が嫌い。しゃべり方が嫌い。
食べ方が嫌い。見られるだけで嫌い。自分にとってその人の存在自体が不愉快なのです。でも先生も人の子、看
護師も人の子。また生徒も人の子、患者さんも人の子。だから、自分のまわりにそんな人がいても当たり前のこ
となのでしょう。
だけど、みんな傷つきやすく、
いわれのない仕打ちを受ける必然性などはありません。
先生は生徒のためにそれぞれのスタンスで一生懸命に生徒たちと向き合い、看護師は患者さんのために一生懸
命に精神的・肉体的苦痛を取り除く。仕事だから、そんなことはこなして当たり前とまわりは見ている。若手の
皆さんが、現場に出た瞬間からベテランと同じ完璧な仕事を求められ、ときにそれは、仕事以上の労力を求めら
れることもあるだろう。好きな人に優しくできるのは当たり前。好きでも嫌いでもない人に優しくできるのも大
丈夫。教師・看護師とは、好きな人ばかりでなく、どうしても好きになれない人に対しても向き合う仕事なので
す。さあ、そこで君たちの真価が問われます。
「優しさ」とは?
そのヒントは今回の研修中にお話ししたとおりなので、割愛します。今回の研修に同行して、私は君たちの優
しさに胸打たれました。ほのぼのとした絵で手作りした紙芝居風劇「花咲かじいさん」
。仮設住宅のお年寄りが見
やすいように、大きく絵を描いて作ったカルタの取り札。上半身は暖房でぬくいものの、足下は底冷えする仮設
住宅でしてあげた足湯〔丁寧に足の指まで洗ってあげて、お年寄りたちは気持ちよさそうでした〕
。君たちとのお
別れのとき、一人のお年寄りが微笑をたたえ、目を細めてつぶやくように「ありがとう」といっていました。こ
れは、君たちの優しさの何よりの証だと思います。
でも、今回の私たちには精神的にも物理的にも余裕がありました。だからこそ、南三陸病院の看護師長さんが
おっしゃっていた「
『
「災害医療〔看護〕
』に看護の原点がある。
」という言葉は重く響きました。決して自己犠牲
ではなく、患者さんのためになることを自分がしたいからなんだということなのでしょう。
未来の君たちは、心に余裕がないときもあれば、生理的に受け付けない患者さんに接するときもあることでし
ょう。逆に君たちのことを、わけもなく毛嫌いする患者さんもいると思います。患者さんが「にんじん」になる
ときもあれば、未来の医療職たる君たちが「にんじん」の立場になるときもある。それでも本当の優しさと医療
職たる誇りをもっていれば、君たちは乗り越えていける。そんな未来の君たちに偶然にでも会いたいなと思いま
す。授業で接することもなく、名前すら知らなかった君たちと4日間過ごして、私も少しだけ優しくなれた気が
します。ありがとう。
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