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平成18年5月号PDF P2-10

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平成18年5月号PDF P2-10
冷土現724'号 { 毎月 1 回 1 自発行) 平成 18年 5月 1 日発行沼初 101草 5 月初日 1113 樋郵便掬 U 可
A
坦里y2006
法然上人鏑仰会
往生のためには念悌第一なり
学問すべからず。
。
たぜし念悌往生を信ぜんほどは
ζ れを学ぶべし
。
(
渋谷入道道遍伝鋭の飼 )
ゆム
月刊 f浄土j 通巻800号記念講演会慣録
平和 の た めに 仏教と キ リ ス ト教 の 対話 …・… H ・ H ・-…… H ・ H ・...・H・
2
表紙 の 言葉 … H・H ・-… H ・ H・-…H・ H・-… H・H ・-… H・H ・..........… H ・ H ・..・蝿谷佳加
1
1
出雲紀行第3闘 …H ・ H ・...……-……・… H ・ H ・-… H ・ H ・-…H ・ H ・...・H・高
清鑑
1
2
会いたい人県鉄 ヒ ロ シさん② ・.........・ H・-…H ・ H ・-…・…・・聞
容子
24
コラム …H ・ H・.....・ H ・..…H・ H ・...・H・....・ H ・.....・H ・..…...・ H ・-……・佐々木糞冬
3
1
響流十方 …H・H ・.....・H・..… H ・ H ・-…H・ H ・...・H・....・ H・-… H ・ H ・...・H・-… 韓国 廠順
32
シ ネマ随想 ・. . ..・ H ・...・H ・.......・ H・.... ....・ H ・.....・ H ・... .・ H ・..…...・H ・-… 袖 山 ..
コラム ー....・ H ・....・ H ・.....・ H・....・ H ・....・ H・........・H ・...・ H・...…・・ H ・ H・-…・ 大重 了暗
36
4
2
J フォーラム
43
・...・H・…...・ H・-…・…・….....・ H ・....・H・....….....・ H ・-……....・ H ・-….….日.
3
浄土誌上句会.……….“…….“…..………...……….日……..….日..日……….い…….日….日...……….日….日..……….日……….日……..…..……….日……….日……….日………..………..…..….日.………....……….日….日..……….日…….日….日.
さ つちやんは ね つ.…
….“…..……..……..…....……..…..…....・ H・..... かまちよしろう
4
7
編集後記・・H ・ H ・…・…....・H・….....・ H・...・ H ・.....・H・...・ H ・.....・ H ・....…・・・H ・ H・....・H・...
4
8
マンガ
表紙題字 = 浄土門主
中村康隆貌下
アートディレク ション= 近藤十四郎
鎗カ=迦陵頻伽合
4
平和のために、
仏教と
キリスト教の
岡一
成田有恒
平和のた め に、仏敏 と キ リスト 数の対話
本日このような機会をお与えいただきまして、本
当 にありがとうございます
っしゃる成田台下とこのようにお話し
岡田
。
。
できますことを、大変うれしく光栄に存じます
心から御礼申し上げます 著名な作家でもいら
。
私ども 宗 教者はそれぞれ創始者と申しますか、開祖様
今日の世界、そしてこの社会の中で生きております私どもは、本当 にさまざまな課
題、問題に遭遇しております
。
宗教者は特に平和のために働
と出申し上げるのでしょうか、その教えに従い、
一人ひとりが大切にされる世界となる
。
ように努めていかなければならないと考えております
ッ
っ ております
。
非常に残念に思
。
っております
。
。
ミ
サ
時に
っ て平
O
旦 の深夜の
私の担当しております教会でも
そして、世界中で聖母の取り次ぎを願
ク教会では、 元 旦が 「世界 平 和の日 」 とされておりまして、同時に
く人でなければならないのではないでしょうか
私どもカトリ
「聖母マリアの日 」 にな
っております
って、平和のためにミサを捧げております
和のために祈るということにな
集ま
。
キリスト教ではクリスマスはたくさん人が来てくれるんですが、元
が寂しいんですね
。
。
。
外国人もたくさん
間くところによりますと、ご法 主 が大僧正をしておられますこちらの増上寺の大晦
っておられます
日の風景ですが、たくさんの人が集まる 若い人がたくさんいる
集ま
って、カウントダウンと
言 うのでしょうか
。
見ていなくて問いただ
そして、風船か何かを飛ばして、みんなが和気 あいあいと新しい年を迎える心の交
流、触れ合いがあ
けですが、やはり世界人類の 平和のために祈念しているというように開きました 。今
。
3
。
年の様子はぜひ拝見したいなと思っております
。
もちろん、自分のほうも同じ時間に
一人ひとりを平和のために駆り立てる大切なことではないかな。う
しなければいけないことがありますが
そういうことが
。
まく人々の生活、習慣に溶け込んで、人類が民族や言語や習慣を超えて、平和のため
そういうものかなという気がしており
。
に尽くそうという気持ちを醸し出してくれる
。
どのようなお考えだったのでしょうか
。
。
大変失礼でございますが、増上寺ではそういうことはどのようにして始まった
のでしょうか
ます
必ずお念仏
。
。
これはお十念と 一緒になりますから、お念仏を一緒
。
。
。
成田 今増上 寺 の大晦日の行事のお話になりました どういうふうにして始まったか
これは余り根拠がないんですが、いつのころからか、この数年前から若い人が集まっ
勺
、南無阿弥陀仏
雷 いましたら南無阿弥陀仏
てきまして、除夜の鐘をつく直前からいわゆる叩カウントをするようになりました
l
仏教では叩カウントはないんですが、私どもはワンと
ツ
に唱えます
去年の大晦日、ロ月別日は約 三 万数千人の人が境内に集まりまして、これはよその
。
。
さらには、最後の叩になりますと、風船を夜空に放ちま
それを夜空に上げてくださる
。
これは先着順、五千個だけ皆さんに配っているわけですが、それではとても足り
。
ここにお参りに見えた方は遠くからおさい銭を投げるのと違いまして、全員に何らか
お宮さんや明治神宮、川崎大師、成田山に比べると物の数ではないかもしれませんが、
。
これにはまず凶カウント
の行動をしてもらいます
す
ないんです
4
平和のために、仏教 とキリスト 教の対話
。
五盤の塔が焼けるというのは大変
大本山増上寺には、本堂に向かって左手に昔は五重の塔がありました。ところが、
この五重の塔が戦時中に Bm の空襲で焼けました
すごい姿だそうでして、私は見たわけではありませんが、子供のときにそれを見たと
ったそうであります
。
。
幸い
いうご近所の人の話によると、真っ赤な朱の流れが天の上からダラダラッと流れ落ち
るような焼け方だ
残念ながら、まだ増上寺の資力では五重の塔を復元するわけにはいきません
。
いわゆる電光に輝く 「東京タワ
l
」というものがちょうど右側にある
ってそびえて
H
なことに、場所は反対側ですが、ご本堂の右側のほうに 五
重の塔 u が下から上へ建
。
。
そして、五重の塔が焼け落ちてくるように、地上から空に向か
っております
んです
おりまして、まことに風景がよろしゅうございます
。
去年あたりはお断りをするような状況でありました
。
三万五千人と人数は大したことないかもしれませんが、もちろん境内にはそれ以上
は入りきれません
ト
。
。
教というのは日本では少数派でございます 日本にキリストが伝えら
。
だから、仏教、キリスト教に限ら
やはり、信心があろうとなかろうと、人間というものはそういう節目のときには何
か行動したいというものがあるのではなかろうか
キリス
ず、宗教というものはそういうものに答えていく必要があると思います
周囲
。
私たちはそういうもどかしきを持 って います
。
れてからはまあまあの年月、四五 O年ぐらいたっておりますが、日本の方々の心にな
かなか届かない
既に日本には偉大な宗教家がいて、そして苦しみ悩む人々に、キリスト教的な雷 い
。
方をすれば救いの道を示された 法然上人はその代表的な方だと存じます。私どもは
5
その偉大な先人たちからも学びたいと考えているわけでございます
。
。
二 前ですが、私はドイツのケルンというところに参りまして、ケルンのカト
ニ ー 一年
リ ック教会でお話をしました
そのときに、今の日本はどうなのかということを話す
ようにと言われたので、いろいろ話した中に、実は日本人はいろいろ悩みや苦しみが
。
。
。
それで大変驚かれまして、日本は戦後経済的にすぐに復興
一けた違うんじゃないですかと聞かれたので、いや、確かに
自殺する人が結構いる 。三 万人ぐらいいるんですと言 いました
。
あって、特に大都会では寂しい思いをして暮らしている者がいる そして、孤独に苦
しんでいる
そうすると、ちょっと
三万人ですと答えました
。
。
やはり、日本の宗教はそういう人々に対して何をしているのか、と
し成長して、豊かな生活をしていると聞いているけれども、どうしてそういうことに
なるんだろうか
差 しのべ
昔、時世紀に法然上人が出られた時代は、源平争乱の時代で人々は塗炭の苦しみを
関われたような気がいたしました
なめ、本当に心に大きな苦悩を抱いておられた
。
っとわかりやすく受け入
。
そういう人々に救いの手を
られたのが法然上人ではないのかなと思っております
今、私ども宗教者は、多くの悩み苦しめる人のために、も
。
れやすい私たちのプレゼンテーションというか、自分たちの信仰を伝える努力が必要
ではないだろうかと考えております
。
きっとどの宗教団体もそう考えていると思いますが、浄土宗ではそういうことはい
一昨年の統計によりますと、 日本人の自殺者は 三万四、九二七人だそうでござ
かがでしょうか
成田
6
平和のた め に、仏敏 と キ リスト 放の対髭
。
。
。
カトリ
そういうことがございました
。
。
ッ
います これはアメリカの自殺者の倍、イギリスの自殺者の四倍だそうで、日本人は
非常に平和だ、富んでいるというにもかかわらず、非常に自殺が多いわけでございま
す
。
。
ところが、この法然上人様の教えでは自殺は絶対に許きれない この辺はカトリ
。
クも同じではなかろうかという気がしますが、いかがなものでございますか
っとお伺いしておきたいと思います
私どもでは自殺はもちろんいけないこと 命は神様のものですから、神様だけ
ックの自殺に対する考え方をちょ
岡田
。
に属するものですから、自分で自分の命を処分することはいけませんということです
った
ですが最近、我々というか教会の考え方は微妙に変わってまいりまして、自殺とい
そして、以前は自殺した人は葬儀も許されなか
。
病気あるいはいろいろな障害があ
。
ったのか、どの
って、自分で正常な判断ができないまま、い
っても本当に意檎して、理性が判断して自分の命を絶つということはむしろ少ないだ
ろう
わば事故のような形でこの世を去ってしまう人もいるだろう
本 当 にその人がこの世を去るときに、神の前でどのような状況にあ
。
った人も、神の広い大きな慈しみに委ねて、
ような心を持って神様と出会ったのか それはわからないことであると考え、そして
「自死」 といいますか、自分で死んでしま
。
神様がその人を受け止めてくださる可能性は十分にあるんだと、私たちは信じ、その
人たちが神の下で憩えますようにと祈りを捧げるようにしております
どのような最後を遂げたとしても、その人の魂が神様の前でどのような状態にある
。
かは、私たちが軽々に判断してはいけない やはり神様の慈しみに信頼して、私たち
7
。
そういうように今私たちは言っております
。
法然上人様のお雷業にも、人の命というのは食事をしている聞にも急に死ぬこ
は地上でできる供養をしましょう
成田
とがある
。
。
。
だから、かむ度に南無阿弥陀仏 それを飲み込むときも南無阿弥陀仏と言
って、ぐっと飲み込みなさいというお言葉がござい ます
。
しかし、
このように、死というものはある意味で自然というか、場合によっては仏様のお迎
えがあると我々は言っていますが、いつどういうところに来るかわからない
自分の手でそれをどうのこうのするということは、やはり許きれないというのが法然
様の教えでございます。
それから、近年でもベトナムでありましたが、焼死というものがありまして、現実
に今でも那智の滝の辺りに行きますと、昔の焼死するお坊さんが釜の上で死んでいっ
。
。
たお釜が残っております 結構自殺を美徳とする時代もあったんじゃなかろうかと思
います
人のために
。
。
一声でも多くお念仏を唱えなさいと教えていらっしゃ
。
。
自分の
これを教えていら っしゃる
そういう時代に法然様が出まして、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、病が
重くなっても、 絶対に最後まで生きなければならない
。
そしてそういう人間に何ができるか お念仏ぐらいはできるのではないか
。
ためだけじゃない
るわけです
戦国時代の末期から江戸時代にかけて日本にやってきましたキリシタンの方々の歴
。
。
みな処刑されたりいろいろされた殉教者ですね 自殺というのはほとん
史を見ると、殉教者がたくさん出ているわけですが、あれを見ていると自殺者はいな
いんですね
8
平和のために、仏教とキリスト教の対話
9
ど聞きませんね
岡田
。
。
。
。
殉教と自殺は違うわけであります
殉教は信仰を理由に迫害を受けて、自分の
その結果、命を傘われる場合、信仰のゆえに命を捧げるというこ
意思で信仰を守る
とが殉教ということです
しまうということとは線本的に追います
。
。
自
ですから、ほかの理由でいやなことがあるとか、苦しいから自分でこの世を去って
殺と殉教はそのように区別しております
。
殉教者は、自分の信仰を命をかけて証した
人として、教会ではずっと尊敬してきました
そして、この世界から神の世界といいましょ
うか、キリストの復活した世界に入れていた
キリストの復活にあずかる
だけるという信仰だと思って、この世の命の
。
。
ことができる そ
れはそういう約束というか、
終わりではない
自分のために命を捨てる者は、必ず永遠の命
。
そう
に入ることができますよ、というキリストの
言葉への信仰に基づいて命をささげる
。
(つづく)
いうふうに私たちは信じ、教えているわけで
す
写真鍋供:浄土案文 化局
10
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世醤司R
!.u似山のおの小 J な工房て‘
その土地の土を丹念 l 二総
民j 人形をイ乍 J ている
て、
表
l
l
人の女竺かい ...
郷土人形のような、
土の喬りのするその人形たちから、
1
l
I くさんのぬくもりか伝わ J てさま~
識もかみんな伶 J てい I や心
l
濯もかみんな大事にしていたい章,心
l
そして進もかみんな怜ち続けたい市,心
l
そんな私たちの,心に、
l
1
人形たちか呼ひかけ C くれています
紙
1
9
7
0 奈良県生まれ
1
9
8
8 京事B~芸術mllll大学進形E芸術学科陶芸コース入学
の
1989-入遭l!i
中自国間E ビエンナーレ 、 京度、 関酋贋
奈良慮、 支贋 ‘ ..包囲E尚信111、 』量三貧贋
京事B芸術短期大学陶芸芸コース'攻利修了
1
9
9
2
1
9
9
7 滋賀県大湾市山φ砲に組立
http://www.回net.ne.lpl・kajitanil
5 月号は
鯉峨
黄河上流に屯 111) と呼ばれる急流があ っ た 。 鯉
がのぼっ たと き、 体より舷しい光を放ちなが ら 龍
となり、悠々と天に舛 ってい っ たという伝広があ
る 。 すなわち鯉は 「 成功 j ゃ f たくまし き J を唆す
魚となり、これにあやかり、子どもの 底功 や幸せ
の願い をこめて 「銀融J を立てるよう にな っ た 。 唱
歌「こいのぼり (Þ ~ ( い ら か)の 波と
の 三和こ f þ 百瀬の沌を
舶に
と
なりぬベき
震の波)J
昇りなばた悦7ら
設が身に似ょや男子ご
空に躍るや鯉椴J の歌調がある 。
(...l
葉
森
清
鑑
井戸平左衛門
。
L4L
・
指酒な社ではあ
。
大森の代官座敷から銀山川を渡り、少し登
一身に集めている
った左手 に井 戸神社はある
るが地元の人々の畏敬を
。
。
彼は、
この神社だけは、素通りするわけにはいかな
ったのか
い 。祭られているお人は井戸平左衛門
いかなる人物で、何を行
事保十六年 (一
七三一) の初秋の阜朝、古
老の武上と家来数名の 一行は今にも雨が落ち
bu止
ま
って深々と旅の安全を祈
や
そうな曇 天の もと、壮麗にそびえ立つ 芝増上
寺の 三解脱門に向か
願した 。当 時の芝増上寺は将軍家の御霊屋
。
(霊場)として浄土宗の東の大本山として、
今とは比べものにならぬ規模を誇っていた
旅の 一行は、将監橋を渡り、 札 の辻を抜け、
泉岳 寺 近くの高輪の大木戸に辿りおいた 。一
八世紀末まで東海道を挟む両側に巨大な石垣
と水戸が築かれ、ここで人馬や荷物などの検
出窓紀行
査をしていたのである
。
いわば江 戸 の表 玄関
であり、ここから内側が江 戸 とされていた
。
うな意味を持つのであろうか
。
銀の産出量は、慶長年間の約五千賞をピー
平左衛門着任時には
クに年々減少している
湧水に阻まれる
採
。
こうした状況下での銀山経営の建
鉱夫の労災の危険性も増大
誇強だとは思われる
。
年産百 二十賞程度まで落ちていた
古
。
。
木 戸 の役 人 は 笑 顔 で 旅 の 無 事 を 挨 拶 し た
。
坑
間歩 (
老の武 士は駆けつけた親類・縁者と最後の別
道 ) を深く掘り 下 げる
。
。
い おり的句たけ
江 戸 には長男の伊織敬武がいる
ことができる
その代官を務めることは栄転であ
。
学問に長
ったと見る
に百八十 二ケ村五万石を支配していたので、
つ 。 また、当時の天領石見銀山領は銀山の他
て直 しを 平左衛門に託したという見方がひと
している
。
れをかわし、 「必ず帰る 」 の 一一を
百 残して家
の長旅が始
。
摘は困難を極めていた
っての約 三 百盟
っくに隠居の身で
は急減している
来と従僕の 二人を連れ、 左 に芝浦の海を望み
。
これから出 雲 、その先の徳川天領地の石
ながら東海 道 品 川 宿 に 向 か っ て 歩 い て い っ
。
が最盛時 二十万人といわれた人口もこの頃に
た
見 大 森銀山に向か
ま ったのである
通常なればと
白髪古老 の 武 士 は 井 戸 平 左 衛 門 正 明 、 こ の
。
(
財務官僚 ) とし
。
江 戸 に 生 まれ、江 戸で 育ち、大岡越前
とき六 十 議
ある
守 忠相の懐 万 と し て 勘 定 役
て極めて 信 任 あ つ く 、 単 に 能 更 で あ る ば か り
「
高輪の木 戸
ただ惜しむらくは身体が丈夫でないこと
本人は断固として
。
。
平左衛門が江戸を出立する際にも発熱し
った
。
床にあ
だ
。
じ、心棋やさしい自慢の息子である すでに
。
この人事は 一体どのよ
る
勘定役に列せられ、申し分のない後継者であ
った
「石見銀山領
その彼が六十歳にし
。
でなく、 そ の 人 格 高 潔 な る こ と 比 類 な し と 讃
えられた人 物 で あ
てこの七月 の 始 め に 、 大 岡 か ら
。
支配を命じる 」
との令違を受けたのであった
大森第 十九代の代官
1
3
永久の別れではあるまいし 」
。
っ
この親孝行の息 子は自に 一杯の
。
までお送りします」と申し出たが平左衛門は
。
「
無理をす る な
と説諭した
。
涙をため道 中 の 無 事 と 新 任 の 仕 事 成 就 を 祈
た
った
平左衛門 は 大 坂 か ら 船 で 尾 道 に 出 て 、 銀 の
元
二 十日あまりで到着
路伝いに駕 能 を 乗 り 継 い で 大 森 に 向 か
。
まるで知らないし、ましてやこの
老齢では栄転としての任務期間を
。
辺
大過なく勤め上げてなすこともな
く帰国の途につくのが落ちだ
。
特に配下
地の 行政にまともに対峠する情熱
などはない 」 と思った
った
。
良民や鉱夫のた
の役人の 一人、伊達 金 三 郎にこの
思いは強か
めに義を重んじ、これまでの代官
三 百里に及ぶ長い道中を
したというからかなり急いだのであろう
に裏切り続けられ、切歯拠腕して
むしろ待ちかまえている役
来、頑健と い う ほ ど の 肉 体 の 持 ち 主 で は な く 、
。
人の中で最も強く、代官たるものに不 信 感を
官を眺めていた
きた金 三郎は冷めた目で役人の末席から新代
。
ましてや老 齢 に 及 ん で の こ の 長 旅 は 平 左 衛 門
にとってはかなりきっかったと推察される
大森に近づくと代官配下の役人逮がすでに
。
。
最初のお目通りの
。
今後、 よろしく頼む 」 と声をかける
彼は末席
。
くだん
のこの若者の名を聞い、 「金三郎と申すか
て鳴らした平左衛門の眼力である
そこは江 戸 で大岡越前のもと有能な土とし
った
持 っている 人物であ
挨拶を交わし、彼らは白髪
迎えに来て い た
際に、平左衛門はこの若者の鋭い眼光に着目
。
の老体だが端正な顔立 ち、擦と背筋がとおり、
し、有為な人材であることを見抜く
。
品のある穏やかな江戸弁を話す新代官にこれ
江戸 で
雰囲気その も の を 醸 し 出 し て い る 新 代 官 に 対
までの代官とは異なる感覚を受ける 江 戸 の
。
ったかも知れぬが、現地のことは
し彼らは 一様に 「これまでと同じさ
は有能であ
。
.往・のまま復元された大森代官恩恵
1
4
出雲紀行
しかし、同時に
「最初
き っとそのうちに馬脚をあらわす
。
の若者は 一一瞬うろたえ「これまでのお代官と
。
は違う 」 とつぶやく
だけだ
。
あらぬ期待 は せ ぬ こ と だ 」 と の 思 い が 心 に こ
だまする
着任して み る と 、 職 務 の 事 態 の 深 刻 さ は 想
。
まず、
そうである
。
ここ数年、当地では凶作が続い
。
ている 農
民は年貢米の上納にあえいでいる
銀の採掘は滅り、毛利氏が支配していた頃の
。
奥深く鉱脈を求め掘り下げたものの、出
露天掘りに近い銀採掘など夢のまた夢であ
る
水により断念、新鉱を求めるにも成果が上が
。
らず、ただでさえ人体に危険なこの作業のた
。
金 三郎
。
。
事
そればかりか役人の末端
。
像の域をは る か に 超 え た も の だ っ た
。
め、鉱 夫 の生活は辛酸を極めている
何もしてくれない
江戸では到 底 考 え ら れ ぬ ほ ど の 凶 作 が 待 ち 受
彼は 主
がこの実情を報告しても前任の代官はまるで
。
けていた 。平左 衛門の最晩年の人生を変える
としてかえって不利な立場に立てられ、うる
大難事が次々と襲ってきたのである
立った役人から鉱山経営、農業政策の実情を
さがられ、岨衝にされるのが落ちである
そのときには必ず金 三
。
どうしたら良いの
江戸を出立する前は 一応五万石
あり、それが眼前にある
戸の華や かな生活からは想像もつかぬ現実で
と銀山労働者の悲惨な生活は、遠く離れた江
ここの良民の惨状
聞く 。「なにしろ現地のことはなにもわから
。
金 三 郎にしてみれ
。
実金 三 郎はそういう立場に立たされている
現地を 視 察 す る
。
平左衛門は立ちつくす
んのでなあ 」 とつぶやきながら、前任者の残
。
した帳簿や 資 料 を ば ら ば ら と め く り 、 目 を 通
す
郎を呼ぴ、 と も に 従 え る
ば有り難迷惑のようなものであった 。平 左衛
。
であろうか
。
本当
門はことあるごとに金 三 郎に質問する
の代官としての栄達の日々を思うこともあっ
たが直面した事態ははるかに深刻でこれを解
油断
それは
。
。
の内情を何 処 ま で 答 え た ら よ い も の か
は禁物と金 三 郎の顔には瞥いである
1
5
決する方策といっても
。
一代官の権限ではいか
。
。
大森でもそのこ
。
し
彼は代官屋敷に豪商
資金を調達する時代である
った
って搾取や賄賂がや
その利益内容を吟味する
とは例外ではなか
平左衛門によ
。
を呼び寄せる
。
しかし、
んともしが た い も の ば か り で あ る
かし、決して事を荒立てるというのではない
。
このままでは村民は立ちゆかなくなる 平左
。
衛門が着任した享保十六年の秋はかくのごと
どうしたらよいものか思い
たじろぐ
着任早々というのに商人違は驚くべき慧眼に
。
その金で他国
その真務
それまでの度
。
き不作で、このままでは 一撲も起こりかねな
い状況であった
。
んわりと指摘されるが彼はそのことを決して
。
惑う 前任者と同様にこのまま見過ごそうか
皆
糾弾しない 。平 左衛門は最後に切り出す
。
。
。
。
。「かといっ
いかが豪商でも食わなければ生きて行か
こ のことを切々と説く
。
。
の米を貿って食うや食わずの農民にまず米を
「
資金を供出してもらいたい
て私たちにどうすれば良いというので?」
れない
。
ここで平左衛門の心に民を思う気持ちが湧き
。
手をこまねいている場合ではない
そこで目をつけたのが
い
が食していくためには民なしにはあり得な
起こる
そして決然 と し て 立 つ の で あ る
。
農民の窮 状 を 打 開 す る た め に 平 左 衛 門 は ま
ず資金の出所を探る
。
(
藩)や土地
商人は米の生産に拘泥するこ
提供してもらいたい 」 と平左衛門
となく、し か も 活 動 の 範 囲 が 国
商人であった
に縛られる こ と も な く 、 も の の 販 売 の 他 、 物
。
こうして飢値で
な態度に豪商逮の心も動く
。
流・金融、酒の酸造など当時とすれば極めて
食えない農民の命をつないだ
平左衛門の時
広範囲の業 務 を 展 開 す る こ と が で き 、 大 き な
。
重なる農民への足運びとそこで農民の窮状を
った
。
での代官様とは違う これまで訴えるすべも
利益を上げうる立 場にあ
大名が豪商から
真撃に聞く平左衛門の姿に農民の方もこれま
。
代にはすでに豪酪が天下を制する時代が地方
まで浸透していたのである
1
6
出舞紀行
ない農民 の 心 が 動 く
。
。
と同時に涙
。
平左衛門が次に打った
これには農民も驚いた
平左衛門は「告げ」の看板を立てる
。
手は 一年間年貢米の取り 立 てを免除する処置
。
である
した
。
。
このような処
危急の折、共に協力し、この大問題を乗り切
ろうとい う 主 旨 の 看 板 で あ る
置は 一代官としての職務権限を越えている
これらの対策も、いわば緊急処置
。
すでに刈り入れ直前にウ
って例年通りに米ができなければ、問題
しかし、
であ
解決にはな ら な い
とともに石見銀山を視察する
。
。
。
そこには銀の
平左衛門は金 三 郎の
金 三郎は独自に工 夫 してこし
採掘で胸を日され、惨憎たる死病にとりつか
れた人がいる
らえた漢方薬を 与 える
。
今、現実に目前で病み衰えていく
この独特の植物漢方療法に着任当 初から着目
していた
人々になんとかならん かと思ってもやるすべ
がない
って見ているほかない
。
。
。
平左衛門は彼
権威などものともしない、
。
金 三郎に惜し
。
金三郎が一生懸命、煎じ薬を飲ます
のを黙
に聞く 。「おぬしのその漢方療法はいかにし
て知り得たのか 」。そこで病人をただ同然で
った稲を食い荒し飢筒
。「見龍先生ですよ
っているはずです 」。「
おお
その名は中島見龍
る
。
金 三郎
。
ンカの大 群 が 現 れ 、 実
こればかりは防ぎょうがない
。
お代官もすでにあ
献身的に面倒を見ているところの医者を知
。
った
すでに
状態になる 兆 候 が 歴 然 と し て 現 れ て い た の で
ある
の報告は厳 し い 状 況 ば か り で あ
ったのである
った
つ気もないこの男が名医であると
同時に徳のある人物であ
一見味も紫
治ま
の大入道の煎じた薬を 飲 むとけろりと痛みが
。
あの大入道か」 実は平左衛門が着任当初持
門
金 三郎はこの状況を何とか打開できないもの
。
平左衛
病の腹痛に見舞われ往生していたところ、こ
。
。
かと代官に真意を伝えていた 最早、一役人
としての立 場 云 々 の 問 題 で は な い
に寄せる信 頼 は 日 噌 し に 強 ま る
三郎
その信頼 を 決 定 づ け た 出 来 事 が あ る 日 に 起
こ った 。平 左衛 門 はいつものよう伊達金
1
7
げもなく漢 方 薬 の 知 臓 を 伝 授 し 、 彼 は 懸 命 に
徳川 天 領地とし
平左 衛門が
薬草を採取し、病人に役立 てていたのである
。
この日は鉱山で働く人々の実態を
った
。
そこで
目
にし
豪商と談
。
?
すまないが我が家に
了承していただけるか
。
。
戸 か ら金が届く問、賞般から同じ金額の金を
借りねばならない
借りる以 上担保がいる
伝わる家 宝 い っさいを担保にするのでお願い
った日であ
心底から知
。
ってくれまいか 」という
。
。
。
これから先、伊達金 三 郎
平左衛門は必死に米収穫の打開策に取り組
心情に遣する
は井 戸平左 衛門のためには命をかけるという
らしてください」
平左衛門様 。それくらいのことはこの私にや
する 」 。 家 宝 の目録を記そうとする 平 左衛門
。
て働く人々 は ま だ 良 い と し て 、 い わ ば 出 稼 ぎ
った
に対して、その豪商は「担保など要りません
。
で来た人々 の 生 活 の 悲 惨 さ は 、 細 々 と し た 銀
。
ちょ っとつきあ
平 左 衛門は、銀山から降り 立 つと、 「金 三
山経営の元では悲惨の 一請
一であ
郎
そしてとあ る 豪 商 の 家 に 入 る
た金 三郎の心は感激に打ち震えた
ところが自然は待
。
それが
着任当初から凶作にあ
ってくれない
む
った、いわゆる未曾有の
。
判し、平 左 衛 門 の 家 計 に と
着任翌年の秋に起こ
。
一千
両を銀山で 働 く 、 悲 惨 な 労 働 者 の た め に 用 立
享保の大飢舗である
っておきの金
江戸からその 一千両が
。
てるというのである
えいでいた村々にまたしてもウンカの大群が
。
届くまで 至急その豪商に用 立 ててくれないか
った
襲い、西日本だけでも 二万人の餓死者を出し
金 三郎は思わず、 口走
。
という話で あ る
九月、農民の必死の努力でたわわ
たという
次第に侵
。
食されていく村々の畑の異変を最初に気 づい
ウンカの大群に襲われたのである
。
「お代官様、そんな無茶な 」。「第 て 江戸 の
って
に実っ た稲が、 空 の色が変わ ったかに思える
。「あい つは必ずや
そのことは心配ない 」。「
ところで江
、っ
跡取りの息 子 さんの承諾もなしに 」。平左衛
。
門は 平 然として 雷
くれる
18
出型書紀行
たのが金 三 郎である
。
背くな
って平左衛門の
元 に駆け込んできた金 三郎は、緊急の処置と
。
若干 二十五歳
。
っ
しかし、それだけでは食
結果は惨憎たることにな
。
してウンカの襲来を 止 めるために畑を焼き打
。
つ処置を願 い 出 る
。
い止められない
た
った
そこに追 い 打 ち を か け た の が 最 愛 の 息 子 伊
織の死去の 知 ら せ で あ
とする
。
。
幕
だては、ご禁制の幕府の米合を開陳し、
ここに 至っ て、餓死者が出ている良民を救
う手
民に配るしかないと平左衛門は決断する
一種の兵糧米であ っ て 一代 官 がこ
府の米倉というものはそもそも戦の有事に備
えておく、
の米倉を開くなどと言うことはすなわち幕府
。
への謀反であり、当然切腹ものである 無論、
そのことは大森代官といえども例外ではな
平左
衛門に車 言 する 。「お代官様が米倉を開くな
ら 申し出た意見とはいえ、
父親からの要請である銀山供与の 一千 両を即
平左衛門の心情はいかばかりで
金 三郎は自
座に決断し、石見に送り届けたのち、 元 来病
。
ったこの優秀な息子はついに病に倒れ
v
弱であ
たのである
私がやりま
お代官様は知らなかったことにしておい
。
どと 一言
一 うことは止めてください
ことを知った金 三郎は銀山の 一件
あ ったか
す
。
を目の当たりにしているだけに、お会いした
て下さい よ 「馬鹿を申すな 。 私はもう六十 一
ってもらいたいことが山ほどあ
若いお前様にはこれから先、 今 の意志
。
を継いでや
歳だ
。
ことはないが、 「
なんて偉い息子さんだろう」
っていただけに、当たりかまわ
未曾有の大飢餓に直面している平
。
と心底から 思
ず泣いた
。
」。平
自の前で打 つ手がなくて飢
あなたでなければそれはできない
る
。
左 衛門は江 戸 に帰るいとまもない
左衛門は考えた
直ちに文
を送り、こ れ ま た 伊 織 と 兄 弟 同 然 に 育 て 、 そ
餓にあえいでいる人々を救うには、江 戸 に速
。
の子が平左衛門を慈しんでいる甥子 を跡取り
1
9
給し て い る 暇 は な い
かかる
。
。
江 戸 がたとえ即断即決
その聞に間違いなく餓死者が出る
したとしても返事をもらうには優に二 ヶ月は
。
領民
そこで平左衛門は死を覚悟で江戸 には知らせ
ずに 、 幕 府 の 米 倉 を 開 き 民 に 分 配 し た
ってくるのだ
。
。
た
。
確か薩摩を巡業しておりました折、
当地
ではサツマイモというのがありましてそれが
ために米の飢値に遭遇しても民は命をつなぎ
止めていると聞きました
。
いかにし
」。平左衛門はある
種の天啓を得たように礼を述べた
してサ
。
。
った平左衛門は日がな考え
これは
まず躍摩からいかに
。
。
しかし、薩摩と通じている道
ツ マイモの種芋を入 手 するか
を巡らし、行動に 出 た
その場を 立 ち去
に悩もうともとにかく生きていける
。
てこの冬将軍がやってくる寒冷地にサツマイ
これからもまた飢簡は襲
それができれば米の不作
はこのような代官様がこの世にいるのかと就
この決断のために大森管
モを育てられるか
。
った
。
任たった 一年足らずの平左衛門に、まさに生
神様 だ と 感 謝 し た
轄領 で は 、 最 低 の 死 者 数 を 出 す に と ど ま
。
しかし、これで問題は解決したわけではな
い
金 三郎に頼む
。
これは比較的自由
しかも、石見から艦隊串まで幾多
の関門を通らねばならぬ
。
案内が要る
ここで全国を行
ある日、 平左衛 門 は金 三郎を連れて両親や息
。
子の 菩 提 を 弔 う た め に 銀 山 と 大 森 町 の 分 か れ
目にある栄泉寺に立ち寄る
その 一人は平左衛
見ずとも知れぬ幼子を
。
に関所を通れる僧侶の助けが要る この任を
。
くれるに違いない
。
っても不可
しかし、当時、薩摩に入
助けた、あの僧ならばもしかすると同行して
。
脚している僧逮に出会う
久しぶりの挨拶
あの若い僧に頼もう
。
門が石見に就任する道すがら、幼い子供を助
った
この僧侶の 一聞が思わぬことを口
けん と す る 若 い 僧 で あ
。
るには江 戸 の幕府直属の隠密であ
を交わす
にする 。「
確かにこの村の食に悲惨な状況は、
これは直接幕府の認
能なほど警戒が厳重だ
。
私ども他所と比べ尋常ではないと思いまし
20
出 ~-*è行
可を得 る し か な い
。
平左衛門がこのとき取った手段は、正に政
自分を任命した大岡越前
まる
。
選ばれた優良良家の、どの家でも金三
郎らが命からがら持ち運んだ種芋をことごと
。
く腐らせてしまい、最悶ずこれまで 万策尽き
。
しかし、この時、
一
一軒
治的判断であった
。
呆てた状況にな
それが境港に近い農家の松浦
った
に依頼 し 、 江 戸 幕 府 か ら 直 接 、 江 戸 薩 摩 藩 邸
の良家からサツマイモの栽培に成功したとい
。
にサツマイモ種の受け取りを依頼する これ
種芋の受け渡し場
。
う朗報が届く
。
にはいかが薩摩藩とても認可を出さざるを得
薩摩藩は了承した
与兵衛という農家で、名人といわれた農芸の
。
彼は厳しい冬の問、芋種を
まい
。
持ち 主で あ
った
所は同じく幕府最南端の天領地、本庄(日向
金 三郎とその若い
暖かな家の地中深くに極め 生 育に成功したの
。
。
このこ
この朗報は平左衛門にと って 神の
お 告げのごとく救われた思いがした
。
園、宮 崎 県 ) と 決 ま っ た
温暖な離摩と異なり、冬の厳しさ
であった
。
僧侶は 命 が け の 困 難 を 克 服 し て 数 ヶ 月 後 に 大
森に戻 る
とは菅木昆陥が江 戸、小石川の薬草闘でサツ
。
こ の地で果たしてサツマイ
の喰えようもない
。
戸か
ひた
マイモの栽培に成功する 三年前のことであっ
た
。
モが根付くものであろうか そこは金 三 郎の
ここで問題
大森代官就任からわずか 一年九ヶ月
。
なのは 、 サ ツ マ イ モ の 栽 培 法 の ノ ウ ハ ウ を 薩
すら民のために苦闘していたある日、江
情報を 頼 り に 近 在 の 農 家 に 配 る
ったことであ
摩藩か ら 得 る こ と が で き な か
ら幕府の米倉を聞いたという理由で大森代官
サツマイモの種芋を提供するというのが
。
方ないという処 遇 であった
。
大森を出る際に
って いるのだが当時の法令により表向き致し
。
幕府も分か
る
ここから苦闘が始
これはけ
の臓を解かれ艶居の命が下った
。
。
幕府の 命 令 で あ っ て 、 そ の 栽 培 法 の ノ ウ ハ ウ
った
まで求 め ら れ て い る わ け で は な い
だし 当 然のことであ
21
。
はほんの形式の背網が駕範に被せられた 平
ない
。
では、自ら自刃しよう 」と果てた説と、
元来 強健な身体ではなく、しかも 六十 議から
し
の 二年の苦闘で病死したとの こ説がある
。
い人 崎 、 有 能 の 士 が い る こ と 、 後 事 は 彼 に 託
左 衛門は、江 戸 に伊達金 三郎というすばらし
しかし、江戸
。
しかし、石見、岡山県
その後、 天 明の大飢館、 天保の大飢簡で何
十万の餓死者が出た
った
。
サツマイモは
備後、備中の広大な範闘でサツマイモのお陰
で 一人の餓死者も出なか
。
年貢の対象外であり,人々は自由に食するこ
とができたのである
将軍吉 宗 の時代に 生 きた平左衛門は、中園
そこで石柱を 立て
、
。
十 年、
かし、あの矢継ぎ早の困難の時に、五
別れ際、芋の栽培
すべし と 折 々 伝 え て い た
百年先の手 だてを、身命を賭して打ち 立 て得
。
に成功した与兵衛の手を撮り、ただ 一言、全
金 三郎は居た
っ
。
たことは、高潔な心の結露でしかないと思う
。
前代未聞の光景であ
この地で平 左衛門
衛門 」 と絶句したと 言 われる
土に芋 を 広 げ て く れ と 述 べ た
。
って手のひらを仁に
「ょせよ 」 と江 戸 人のテレの表
平左 衛門は明るく笑
って泣いた
多数の農民が、銀山の鉱夫が地べた
大岡は彼の死を聞いた途端 「
見事なり、平左
。
たまれ な く な り 、 駕 鈍 か ら 離 れ 泣 き じ ゃ く っ
ていた
。
に遣い勝
た
。
向け起きろよ
現をした
。
笠岡の 人々の待遇は暖かいものであ
った
瀬 戸 内海に而する岡山県笠岡市、ここも平
。
左衛門の兼務 地であ
。
。
って、命を救 ってくれた神様
は死ぬ
地方の農民にと
。
口伝えに平左衛門の徳に普が感銘して
の存在になった
った
艶居の身とはいえ、少しも
。
当 時の良民はすらすら字を
いたのであろう
書くわけにはいかない
。
不自由 は な か っ た 平 左 衛 門 の 死 に つ い て は 、
。
「苧代官級 」 とか平左衛門の戒名を刻み、雄
った
「いかにしても御法を破
そして日々感謝の
もが通る畑の角に建てた
。
の人々も平左衛門を邦人 のように処罰はでき
22
ili!!ì紀行
。
。
その後、
百年近く経っても現存するそ
意を表した 。一二
の数は四百基は下らないという
明治十 二年大森に井戸神社建立
明治四十 三年大森は多大の寄付(当時の金で
故に現場で苦しんだに違いない
存在で紙挟みの中で民と接するが
百年どうやら
そして穂川時代が 三一
も ったということは、いわば肉体
。
。
-井戸締役
って,社殿を造営
太極望書級師。
一万 五 千円 ) を民聞から募
。
海外/圏内の広告-マーケテイング軍事査。
ったとい
環演・腐棄物総査有事。その他
っという間に寄付金は集ま
。
(著書轡プロフィール)
Mα瓜AsヌlCiates代表。
あ
。
野回 ..
管甘ß伝来400年祭ホ ー ムペ ージ
(hUp:l/y州w.n句uni400.∞m/index.html) 他
の関節ともいえる代官が諸 外国に
比べ優秀だったのではあるまいか
それにしても井 戸 平左衛 門は飛び
抜けた存在であると私は思う 感
謝
.考支猷
。
。
テレ
日本国民が誇れる歴
。
杉本予直子 r.き駕j
した
。
。
ったのではないか
。
鳥居にかかる満額は勝海舟の曹による
う
今でもここだけは特別な神社です」とお っ
「
しゃった、地元ボランティアの歴史研究家ガ
イドさんの声が忘れられない
すなわち
江 戸期において代官は民と政府 (
幕府 )をつなぐ重要な接点で民と直接接する
行政官であ った 考えてみれば、大名や幕府
高官などは民と直接生活面で接する機会など
薄か
史はこの代官が立派だったことである
ピでは悪の象徴であるかの如く喧伝されてい
大多数
会社で 言 えば係長や課長の
。
るが、代官が立派なればこそ江戸 が 三 百年も
く
2
3
の問、とにかく持続したと私 は思う
の代 官 は お そ ら
.芥戸事~衛門に感樹し 、 鹿民が建てた日商事層面軍
局 、苦手
a・~/ ~カ>tカ"彦
会 いたい人
黒鉄さんが精神的にも知識の而でも並外れ
この、ちょっとニヒルっぽい恋愛観は、県
鉄さんが敬愛してやまない小説家、 吉 行淳之
吉行さんに聞いた話
。
て大人びた少年だったことは容易に想像がつ
.
われて、あやしいと思わずにいい気になるか
「
自分がもてるわけないのに女から好きと言
介さんからの影響が大きいのかも知れない
。
/\。
初恋はさぞ早かったことだろう
(笑).
映画とかの
「
物ごころついたときから必ず好きな人がい
初恋しまくり
ら大事故に遭うんでね
。
ましたね
ですけど、友人が女と別れることになって、
.
・:男はパカですからね 女と別れ られる上に
影響でしょうから、対象はまあどうでもよか
ですから姉さん的な人が多か
じゃあ最後の旅をしましょう、と 言 われて:・
。
ったんです。好きな人がいる、ということが
大事なんでね
行きがけの駄貨が 手に入 るんで、未練も当然
ま
風目上りに
った.上級生とか友だちの姉さんとか 。う
。
あるわけなんで出かけて行った
。
検死に 立 ち合ったらしいんで
ルすすめられて、 一気に飲んだら青酸カ
リが入 ってた
l
くいかなくて、よかったと思いますね。今で
掛
ビ
。
も恋愛というのはよくわからなくて、イマジ
ネーションの遊びのほうが楽しいですね
。
もらって喜ぶ男と、気持悪がる男の、
。
っぱ り用心しないと
だったとは思えな いが。
「
ちゃんと引っかかってますね
。
引っかかっ
しかし吉行さんが恋愛にそんな用心深い人
ね」
栓を敏いたとしてもや
すが怖いぞお、 って(笑)。まずピ!ルが既
ー
賞妃とかクレオパトラとかを呼び 出 して飲ん
タ
に注がれている状況が怖いですね 自の前で
ー
だほうが 面 白い 。実 際の女性から、手編みの
セ
センスの迎いですかね
二年かかったのよ、
なんでいうのをもらったら、黙々と編んでる
その時間の長さ考えただけでも気持悪いでし
ょ・つ
」
2
5
リズムに耐えられない黒鉄さんだが、でも吉
女の手編みのセーターというセンチメンタ
(笑)、みたいなものだったんじゃないかな?
」
たのかどうか・ ・・
・・・あれは覚悟の上の入水自殺
24~25織の頃、.向型F 自宅にて
26
会いた い人
ー
パーウェイトに仕 立 てたというのは、自
行さんが遺した吸いさしのタバコをガラスの
ペ
身では自身ではかなりおセンチなこともして
いる。
.
「
わが家に麻雀しに来られてたんですが、日取
。
『
四谷佳談』の
が男に惚れるというのはこうしたことか、と
実感させられる
「
女性の作家が、吉行さんに
いろあ〈たみやいえもん
.
繊細で、
色悪、民谷伊右衛門そっくり、って言ったら
しいんですが、 言 い得て妙ですね
くれるときなんか、どっちが送ってるのかわ
。
病的なくらい気を追う人で、クルマで送って
からないくらい気を遣って送って下さった
か:::人生のお手本みたいな人だった。電話
自己犠牲の極みというか、達意の人というの
た。吉行さんが亡くなって、家事を手伝って
をすると、ダメだ、もういけませんへとか
から誰のかすぐわかっ
くれてる女性がこの灰加掃除しちゃっていい
一応 言 うんだけど、自分の悲しみとか未 練と
イ ラ イトだ
スで、井上陽水さんがマルポロで、吉行
期となった晩の後始末で灰皿が自に入った
ピ
灰皿にある煙草の吸いがらの銘柄は、ぼくが
1
ですか?って訊いてくれたんでついその気
か感傷に、最後まで引きこまなかった方です
さんがハ
になってハイライトの吸殻をペーパーウェイ
三島由紀夫さんが割腹自殺したときも、俺は
.
.
トにしたんですけど、机に置いて毎日眺めて
自殺はしません
その昔、赤坂の「のなみ
.
「ええ、吉行さん、その近啓さん、阿 川弘之
たことがある
そこに近藤啓太郎さんの原稿をもらいに行っ
行さんたちが集って麻雀に興じていた。私は
」 という旅館に吉
可愛そうだなと仰った 」
いるのがだんだんつらくなってきて、 村松 友
.
でも村松さんも眺め続
けられる神経じゃなくて、書斎からリビング
規さんに差し上げた
に移した、って 雷 ってましたね
」
黒鉄さんが吉行さんについて語るとき、男
27
ん、でおぼえちゃ
。
ったんでしょうけど、ウオ
でも歌舞伎の外題に
『
魚屋 宗 五
・
ム
FUゃそうご
ったときサカナになるんで、ま
が酒の特にな
さん、佐野洋さん、写真家の秩山庄太郎さん、
ろううおそう
なるほど
俳優の芦田仲介さん、漫画家では闘 山 俊 二 さ
当時、
だ 手 を加えてない原料はウオなんです、って 」
。
んとか福地泡介さんとかぼくとかが常連で、
たまに井上陽水さんがゲストでくる
ンズで
『
魚宗』
郎 』というのがあるが、これを略して
ー
芸能人の長者番付 一位のときで、ジ
と言 ったりするので、ちょっとわからなくな
.
.「変難 帽 のこ
」 と尋ね
ム 」 という音を聴い
見当がつくんですね
「
なんなんですかね
l
ラジオで前後が判らず外国語のような
。
かっこよかったけど、彼も吉行さんのファン
l
てみた
て、阿川さんに
「
パッカンサナダヲア
カ
ってくる
。
だった。みんなが騒ぎながら非常識な言葉を
使うと、吉行さんはいちいち訂正はしなかっ
たけど、アッと驚いたような顔をしてらした
いと
.
(
意図)がわからな
とじゃないか、そんな弱いモノで真田ヒモの
けいだい
たとえば、あなたのイズ
境内 ) とかね
(
そ
いとか、 神社 のケイナイ
曹拘
一時続行って、
れから誤字ごっこというのが
ように堅牢に編んだところで無駄、そんな意
「
麦稗真田
ば っかん
わざとシンタイタニマッタ(進退谷まった)
。
味だろう 」。帰って調べてみると、
。
ほとんどのろけ話のよう
。
ー
。
奥で麻雀
じゃない
「
あるとき、のなみのおかみさんの部鼠で小
を回想する
そして黒鉄さんは、しみじみと 吉 行淳之介
を編む 」 ではたして正解だった
と言 ったりね(笑 ご
。
文士の多い麻雀だからさぞ言葉には敏感だ
ったに違いない
「
阿川さんは、お若いから御存じないのも無
.
パクチをやってましてね、メンバ
理はないが、と断 っていろいろ教えてくれる
サカナ盛って 雷 うと、あれは本来はウオ屈で
人が混じってて、ちょ
っともめた
す、って 。ヘ 輩舗の可愛い可愛いサカナ屋さ
2
I
J
会いたい人
してる吉行さんたちに、大変ですよ、あっち
のがわかる
も全力で投げてやると、大人のすごさつでも
ケガする程に投げちゃ駄目です
けど(笑 ご
とになったのか
.
県鉄さんはそれで 美 術大学への道を歩むこ
。
でもめちゃって、と誰かが御注進したら、も
信
の概念と
ったから、数学の魔法の沼に
。
め事の原因も訊かずに吉行さんが、クロがい
.
るだろ、って 言 ってくれたそうで、これは今
人は褒めなきゃダメですね
「
まあ、中学高校のときに普通の勉強が面白
.
頼されたら絶対手は抜けない、という気にな
くなくなったから、というのもありますね
だに有蝶い
これ、教育なんですよね。後輩に対
。
O
ゼロ
ります
山 ですね、
数学にはいまだにコンプレックスがありま女
いだったそうだ
。
黒鉄さんの小学校時代はもっぱら映画館通
捉われなくてよかったかな、と思ってます」
いてもらわなか
かすごいことなんですが、学校でそこまで導
今考えると数学は宝の
する先輩のね」
。
手抜きをしない、ということから昔の絵本
の話になった
「
講談社の絵本の武将物、『木村重成』とか
『菊池武時』とかが好きでしたけど、これは
当時の最高画壇の絵描きたちがまったく手控
「
映画は何でも好きでした .当 時の映画館は
ばんつま
えずに描いてますから、まず子供はその画力
フィルムが買い取りだったので、阪饗(阪東
てる、と 言っ た
、
クロちゃ
アチャコの漫才も観
・
ら 色川武大さんが
のがあって、エンタツ
映画館にはときどき実演という
おろも
テレビというもの
キャッチボールで
相手が子供だからっ
.
に面食ら
妻 三郎)の 『
雄日血』とか、結構昔の映画も
っちゃうんです
が出てきてからは、安易に説明しすぎて子供
観てますね
。
.
.
のイマジネーションがいっせいに発達しなく
なったように感じます
て 手 を披いちゃいけない
2
9
ん、それほどっちかがニセモノか、両方ニセ
劇はダメ
。
野暮だし、泣かせようとする努力
にシラけるし、逆に笑ってしまう
。
チャ
(
笑 )。映
モノだよ、って
画というのはこの世の物とは思えない架空の
戦後すぐのことですから、
年譜を調べると 二人はもうコンビを解消して
世界に連れてってくれるのが面白いんで、だ
。
るし、考えてみるとエンタツなんて人は、チ
から過去に行くと安心感があるんです
.
ヨピヒゲをはやせば誰でもなれたんですね
ンパラ映画も好きですね
「
チャンパラ映画とか、歌舞伎とか、相横と
。
しましたからね(笑) 高瀬実乗という、ア
か:::過去に遡るものは粋だし、それを観る
を見せる
ここで、クロガネロジックは 一挙に急展開
」
地方の 小屋はニセモノのいい稼ぎ場で、エノ
ケン(榎本健 こ の実演というふれこみで、
看板をよく見るとエノケソ来たる、だったり
ノネおっさん、ワシャかなわんよ、とやって
のが好きってことはぼくが墓石 を見るのが好
みのる
笑わせる喜劇俳優も本物かどうかわからない
.
けど来たような気がするし、映画館は過去も
ト
を擁人化して、ああ、この人も
石に刻まれた名前を眺めてるうちにその
きというのに共通しているのかもしれません
モニュメン
。
ね
と タイムマシンのようで没入しまし
見せてくれたし、現在進行形のものもあって、
今思う
生きてたんだな、とか感慨がわきますし、先
祖代々の墓石が並んでたりするとそ こに無情
た」
黒鉄さんが、映画は何でもと言っても伝記
.
のドラマが起きるし、哲学的思考がそこにも
それと悲
.
ね 変態ですかね? (
笑ご
(つづく)
ここにも潜んでいるようで、時間を忘れます
物は好きじゃなかった、というのが興味深い
。
子 供の身 体 に悪い (
笑 ).
「
エジソンとかワシントンとかリンカーンと
か、成功謂なのが
だいたい艶っぽくありませんしね
3
0
佐々木鍵冬。向田邦子の回り道
いささか季節が違うので恐縮だが、
小説でも「花の名前 」「かわうそ 」「犬
彼女にと
って
って書き始め
小屋 」などの短編連作で直木賞を受賞し
って秋の
。
都々逸に 「人には 言 えぬ仏があ
た随筆は特に心を打つ
たが、乳癌の発病が機とな
。
彼岸の回り道 」 というのがある 。「来し
方の艶聞 」 を匂わせたものであろうか
。
。
。
今年の花見を谷中の霊園に場所どりし
。
父親の死、
「死 」 は身近なものであ
しかし、独特の
った
向田邦子の小説に、墓参のたびにふと消
。
そういえば、山本
彼女の書く随筆の行間には、いわ
N氏の自殺
恋人だった
。
。
夏彦も亡くなり、今年は久世光彦も亡く
ば仏教的諦観がある
えた
えて、いつの間にか 戻っ ている父親の場
他
彼女は 一九八 一年、台湾
機知と酒落た譜識で彼女はそれを乗り越
。
面があり、そこに何気なく引用されてい
た記憶がある
。
「
時間ですよ 』
旅行中、飛行機事故に遭い急逝した
界して 二 五年もたつのに
な った
彼女に縁の深い人々もひとりひ
『寺内貫太郎
とり消えてゆく
などの珠玉のドラマはいずれも色槌せな
た私は帰途、墓地をふらふらと訪鎧 った
一家 』「阿修羅のごとく 』
『
あ・うん 』「だいこんの花 』『七人の孫 』
随雛を啓き始めたとき、あの辛口批
。
。
い
り道 」 である
艶聞などとは縁がないが 「
春の花見の回
。
評の山本夏彦が「向田邦子は突然あらわ
れてほとんど名人だ 」 と激賞した
こう
る じっ ぽ う
響涜+方
、
、
、
。
、
心うろたえることなく極楽に往生
、
一遍でも多 くの お念
.
心
、
、
人のいのち終らんとする時
阿弥陀ほとけ聖衆とともに 目の
まえに来たり給いたらんを まず見まいらせてのちに 心は顛倒
されば (
せずして、極楽に生まるべしとこそ心得て候え
中略 )
いま 一返も、病なき時念仏を申して、臨終には阿弥陀ほとけの来
迎にあづかりで、 三種の愛心を除き、正念になされまいらせて
極楽に生まれんとおぼしめすべく候 。(
荏生浄土 用心 』)
、
.
ですから (
中略 ) とにもかくにも
そのお饗をまず拝することによって
臨絡 にあたり、 阿弥陀 さまが諸々の菩離と共にその 人 の自の 前 にお 迎 えに来て
下さり
するのだと 心得 て下さい
仏を称え、 臨終 には阿弥陀 さまのお 迎えを頂戴 して、 三種の愛心を払 い除き
静かな安らかな気持ちにしていただいて極楽 に往生しよ うと思い定めて下さい
阿弥陀さまの来迎をいただいてこそ
響流十方
先日、終末期の患者さんが入るケア病棟を中心に活躍されている栃立
木が
県
。
。
種村先生は、その女性
当初、その女性は、死期が迫って
んセンター緩和医療部長の種村健二朗先生が、肺ガンを患っていた七十歳代の
女性を紹介されたエッセーを拝見しました
いるにもかかわらず、泰然自若とされていたそうです
。
。
しかし、容態の急変を機にその女性の態度
「すごいこ
が歩んできた苦難の道が彼女をそうさせているのであろうと察し、
とだなあ」と感心されていました
は次のように 一変したというのです
。
。
何と
患者さんが危篤状態から回復し意識を取り戻した 驚いたのは、あの泰然と
。
言葉づかいではなく、幼
死にたくない」と、それまでの自信に満ちた
していた患者さんの姿がなくなってしまったことだった 。「どうかして
かして
。
。
娘さんは、今までのあの毅然
児化した態度で娘の名前を呼び続けた ベッドの上の患者さんを娘さんが抱い
て涙を流している場面にも出合うようになった
。
再 三、「どうしたらいいのでしょうか」と助けを求めてきた
。
。
そ
その都度、
とした母親がオロオロする姿に変わって、どう接してよいのか途方にくれてい
た
「一緒に抱き合っていていいのですよ 」 と娘さんの行為を肯定してあげた
hFl』ニ OO
六・新春号 )
のような状態のままで 一週間ほどして亡くなられた 。(「苑が伝えてくれたもの」高教情線
お・ムディ
3
3
*
ったのです」というメ
。
わないことをお見通しでした
「自分たちのケアが間違
っていたのではな
」 と語られたこと、
そんな母と抱き合うことができて本当にう
。
とうしようあい
。
三種
そし
② 自身の存在そのものに対
Sょうかい島い
それは、 ① 家族など大切な 方、そし
って、臨終の際、人は
セージにスタッフの心が癒されたことなどが紹
ッ
。
当 時、 三種の愛心とい
。
。
土往生が遂げ
そして、冒頭のご法語を通じて、死を目前にし
けれども法然上人は、人が自身の力で 三種の愛心を抑え込むことなど到底叶
られるのだと考えられていました
ってこそ、はじめて阿 弥陀さまの来迎をいただくことができ、浄
て、わが身の内から沸き起こる 三種の愛心を自身の力で抑え心静かな境地にな
する執着である自体愛、 ③ 死後どうなるのかと憂える当生愛の 三 つです
て、自分が遺していくものへの愛着である境界愛、
の執着の心を起こすといわれていました
ところで、法然上人ご在世
介されていました
れしか
て近寄ることができませんでした
後日、母の葬儀を終えて報告に来た娘さんの 「母は、今まで忙しそうにしてい
な って取り乱し、必死に娘に助けを求めたことをよかった
お母さんが死ぬ間際に
いか」 と心を痛めていた看護師たちを前に種村先生が 「
患者さんの急変を目のあたりにし
*
3
4
響流十方
手に取るようにご存じで、だからこそ、
た私たち人間の心の弱さを阿弥陀さまは
。
お念仏を称えてわが名を呼んだ者の前に自ら来迎されて私たちの揺れ動く心を
ったのです
静めてくださるのだ、とそれまでの考え方を根底から覆して下さ
。
そしてあなたは、わが浄土からしばし別れる大切な方々をしっかりと見
。
来迎された阿弥陀さまは「心配には及ばない 私があなたをわが浄土へと導
こう
。
守り、その者たちが念仏を相続するように促し続けなさい きすれば、わが浄
。
。
他ならぬ阿弥陀さまご自身からこうしたお諭しを直接いただけば、私た
土 での再会は確かなものとなるであろう 」と優しく語りかけてくださるのでし
ょう
人前ではそうした思いをお
三種の愛心が現代人の心の奥底にも厳として存
ちの心は自ずと静まり、穏やかな 気 持ちに包まれることでしょう
口には出さずとも、こうした
。
ったこの女性も、心底ではどれほど思い悩まれていたことで
在することに疑いを 差 し挟む方は少ないでしょう
。
。
っかりと抱きしめ続けられた娘さんのぬくも
。
そんな心の叫びが娘さんの名前を呼び続けさせたのでしょう自
か分
くびにも出さなか
しょう
の名前を呼び続けるお母さんをし
りと阿弥陀さまの大いなる慈悲とが 重 なり合い、思わずお念仏を称えました
掌
(
大正大急・専任偶蹄・線図書
}串順
3
5
必』
ロ
袖山楽員
同たら
の刺
監督
ウスマン・センベーヌ
6月-'!fìl置ホールにてロードショー
〈配鎗〉アルシネテラン
かねて噂に聞いてはいたが、「ブラック・ア
。
1
ッ
ソ村の風物
初めて目にする
だからーというより、に
フリカ映画」を見たのは、恥ずかしながら今
回が初めてだった
もかかわらずというべきか
筈のブルキナファソ園、ジェリ
いわゆる認知陣
であるほかはすべて日干し煉瓦と粘土と木で
できており、雨や風や陽にさらされて崩れる
部分をたえず補修するための足場として壁面
から沢山の太い木の枝が長く突き出している
。
a
l
マたる「割
:::」サハラ南縁の西ス l ダン地方独特の
建築織式と知れば、まさに 蹄に落ちる ~
さらにこの映画のメイン・テ
礼」についても「酉アフリカ内陸社会では一
。
に目をさらすうち、「見覚えがある」との心証
に戸惑いを禁じ得なかった
害の一種、既視感症候ではあるまいかとの不
般に男子の割礼はイスラ|ムの浸透と結びあ
S
安にさいなまれ始めた頃、幸運にも疑惑を氷
除は、古くから西アフリカ社会でひろく行わ
ヂ dv了ヴ
解させたのが、石の摺臼で穀物を潰すショ ッ
ルーツは、四半世紀も前に読み耽
れていたらしい」と、性器を対象とする施術
わされており・・・・・・これに対して女子の陰核切
トだった
。
った川田順造さんの『サバンナの博物誌』『サ
とモスクとの関連が性別によ って明瞭、ある
トとして随
ッ
新潮遺書 ) のカ
バンナの手帖』(
ヌ監督が「この村の
A五 ,b . 。
が、 「
アフリカ連合白川ヶ圏中、およそ羽カ国
速にすたれつつある」と報告される女子割礼
だし、川田さんの親しんだモシ族の場合「急
いは不明瞭である状況も明らかにされる。た
f
l
所に鍾められていた、温雅なスケッチだ っ た
のだ
試写会資料にセンベ
中央に有るハリネズミみたいな」と醤えるモ
で」行われている現況を訴え、この随習打破
った」のも道理、
スクに、まず「見覚えがあ
確な意図のもとに製作されたのが、この作品
の「ために闘った母たちに」捧げようとの明
つ
アフリカの声』(膏土社)を引用
川固さんの 『
するならば「基層のごく 一部に石灰岩を使
3
7
.たちの村
である
。
ここいらで原題『モ
l
ラ
デ 』 に話題を移
l
。
エンディング・クレジッ
ムの提ではないことを、ラジオで聴いて良く
知っていたからだ
トに乗って高らかに歌い上げられる「昔から
。
すならば、一昨年二月に亡くなられた網野善
。
言われて来たことがある でも割礼のことは
書かれていない」という事に確信があったか
ャ
・v
・ジェネ
l
ラ
l
ップの
。
FG
。
『
通過儀礼 』新
(思索杜)
aa'ィ,シ曾シ
M のM)は何年かに一度、一定の期間を限っ
女性性器切除
によれば、この「不具化」
(
A
込んだ少女たちには誰も手出しできない
の組を張り「モ
トゥ邸(?)の出入り口に高さ+五センチ位
デ」を布告する 逃げ
そんなわけで、コレは土塀に固まれたハジ
らだ
彦氏の「史観」の根源に位置する「アジ
lル」
無縁・公界・楽 』(
平凡社選
の一種である 。『
書)に例示される「縁切り寺」のように、そ
こに逃げ込めば如何なる権力も法の力も効力
を失う「避難所」であって、「人類発達の或る
ウが旅に出た直後、かれの第二
。
段階に於いて、一般に(民族を問わず・筆者
ト
注)経験する風習文は制度」とされる
農夫ジャ
。
七年
夫人コレのもとに、割礼を拒否する四人の少
デ」を求めて駆け込む
l
。
て行われ、コレの村の場合たぶん七年に一度、
ラ
女が「モ
期間も十日ぐらいと思われる
l
まえ、娘のアムサトゥに割礼を受けさせなか
文字どおり「来曾有」の事態に村中は大混
。
乱 ハジャトゥの兄は長老会議の意向をうけ、
った「頼もしい小母さん」と見込まれたのだ。
留守中の弟に代わ
親も割礼師たちも、モ
。
l
ラ
l
デの紐を跨ぐわ
逃げ込んだ娘たちの母
ってコレの説得にかかる
コレは少女時代に受けた割礼の後遺症で、流
が、見事黙殺される
それというのも、これがイスラ
られたアムサトウには、割礼を受けさせまい
。
産を重ね、生死を賭した帝王切開のすえ授け
と決断した
38
シ ネ 7・JI
けにはいかない
こんなところへ
。
村長ドゥクレの長男イブ
、
実はかれ
そしてクライマ
旅から帰
った
て のお前の権威はど
。
クスの感動も崇高なる
ッ
ゥは「 家長とし
「無抵抗 」 から産み出される
ャト
ハジ
。
ラヒマがフランスから帰
うな
っ てくる
はアムサトゥの婚約者だったのだが、割礼を
、
と 言 え」 と連呼し
。
父君
ガ
つつ、 無
って、打 って、打ち据える
デを解く u
l
っているのだ」との挑発と共 に 、兄から
衆人環視のもと つ モ
手渡される鞭を揮い
ラ
抵抗の妻を打
l
。
ンディ
、
「非暴力 」 の英姿を佑悌とさせ
ア
は
、
、
し
。
コレと閉 じ「知臓 」 を共有する
って作られる
ら を省み
て
よ
敢えて自
知織 」に
電波 に乗 って伝えられる 「
って蓄積されたのだ し、
ー
、
ベルリンの壁を一挙に崩壊させたエネルギ
一人の男によ
る切掛けは
しからざる べ
の遺言にも通底する 「無抵抗の抵抗 」 が 「空
」との観客の祈念が叶えられ
法然上人が 「忘 れ雌く 」と述懐される
lの
、
ッ クス
つつましやか
。
速くは棄の
より近くは金正
う
割
ここで作品は
受けていない女性を 「ビラコ口 」 と蔑む父親
。
ックスを迎える
たちは婚約解消を息子に迫る
目立たぬ一つのクライマ
。
、
ムサトウは結婚できても、できなくても
に母親に被漉するのだ
礼を拒否し抜く覚悟を濃然と
ッ トラー
、
次なるハラハラドキドキのクライマ
近くはヒ
、
を語る前に愛書に触れておこ
始皇帝
、
コ レの
日に至るまで、独裁者による極端な情報規制
、
の悪あがきの例は 枚挙に温ないが
を
・ニ
ュ ートラルを
他を言うならば、この映画の登場人物たちに
反乱に手を娩く男どもは、 「ラ ジ オ狩り 」
プラス・マイナス
、
つ いて
的確な感情移入を日窓の観客たち に
、
期待できるのも、文化人類学によ って提供さ
問わず
始め、遂にはモスクの前に集積されたラジオ
。
「私らの心を閉じこめる」と不平を唱
の山に火を放つのだが、この暴挙に対して女
たちは
えつつも「無抵抗」を貫く
3
9
母たちの村
川田願造さんの最近著
。
』(筑摩書房)に、若き浄
。
れた貴重な「知識」の賜物にほかならない
・川の匂い
例によって蛇足
『母の声
。
後者は川田さ
土宗の住職と老檀信徒との聞の羨むべき心の
鉾を伝えるエピソードがある
。
んの曽祖父、前者は近代浄土宗が生んだ名僧
蛇足その二、前項に比べると品格に格段の
中の名僧、渡辺海旭大僧正(追贈)である
めて煩瑞な手続きと思われたが、先に引用し
たジユネップの本の「割礼」の項に付された
「包皮の長さには人種によって大きな差があ
り、黒人やアラブ人たちの間には驚くほど長
い場合がある」との注に接すれば、納得でき
るし、この習俗に関する異文化聞からの最古
の記述というべき 『
歴史」において「陰部に
割礼を施すのも清潔のためで、体裁より清潔
を重んずる」エジプト人の衛生概念を評価す
るへロドトスの「データ」の質と量も推定可
うでない種族が混棲していたわけで「創世記」
。
更に世界(へ口ドトスにとっての)で割礼
。
能となる
落差を感じるが、この機会に筆者宿年の疑問
についてご教示を乞いたい
を行う民族はエジプトとの通交の結果その習
ミケランジェロ
のダヴィデ悔のことだ
『旧約』「サムエル記上」+七章でダヴィデ
俗を学んだとの見解を示し、その中にパレス
。
はゴリアテを「無割礼のペリシテ人」と罵り、
チナのシリア人を挙げているのも興味深い
おのが性器の形状と寸
。
十八章では戦場において二百人のペリシテ人
パレスチナには割礼を習俗とする種族と、そ
。
を討ちとり、人数分の「陽皮」を切り取って
持ち帰った、とある
。
法に甚大なる関心あるいは懸念を抱きつつ、
これがわたし
に「あなたたち男子はすべて、割礼を受ける
。
十七章が伝える神とアブラハムとの契約条項
包皮の部分を切り取りなさい
銭湯で蒐集した日本人成人男性についてのデ
ータに照らすならば、無理とは言わぬ迄も極
4
0
シネマ値"
とあなたたちとの契約のしるしとなる
。
:::
生まれてから八日目に割礼を受けなければな
。
らない」と規定される背景もほぼ明らかにな
る
元来この習俗を持たぬ地域に教線を拡張し
たキリスト教の場合、『
新約』「口
l マの信徒へ
の手紙」第二章に展開される「心に施された
割礼こそ割礼なのです」の論理を根拠に廃棄
された儀礼を、『旧約』一辺倒のユダヤ教が
墨守するのは当然であり、『旧約』に立脚しつ
つも、割礼についての明確な記述を欠く 『コ
ス』(例えば「他人の家に入る許しを求め
ラン』と、直接・間接の言及を含む『ハデ
1
ィ 1
。
ること」五一章) を車の両輪とするイスラム
においては、墨守から無視まで様々なヴァリ
エイションがあるそうだ
いずれにしても「女性割礼」が「書かれて
いない」のは厳然たる事実だが、ジユネップ
。
の注記は陰核の長さに友び、それにも甚だし
い個人差と人種差を認めている 或いは施術
を必要とするケースもあるかも知れないが、
この映画が訴える女性性器のあらゆる部位に
加えられる「不具化のための不具化」が、ピ
(
浄化 ) と強弁されている
ユリフィカシオン
。
現実を「知る」者の限りなく多からんことを
願わずにはいられない
。
長い長い蛇足を結ばねばならぬ ダヴィデ
は当然生後八日目にして割礼を受けていた筈
なのに、フィレンツェ・アカデミア美術館に
舵立する大理石像の股聞は、なぜ「無割礼者」
長田町・+念脅伎}.
{
としか思えぬ形状を誇示しているのだろう
か?
4
1
大量了暗。半世紀を経て巡り合う
た
。
不思議な 「
仏縁 」 に高ぶる心を抑え、
緊張のうちに私は枕経の回向をしてい
。
。
。
。
所は増上寺の害院
俗名は藤山愛 一郎氏 。
中学校への行き帰りに、ある大邸宅の
前を通っていた 。 その敷地はその隣、現
在の八芳固と同じ位の広さだと聞かさ
れ、どういう人の住いなのか、世の中に
は凄い人もおられるものだと感心して毎
日お屋敷を眺めていた 。 そのうちに父が
教えてくれた 。 藤山愛 一郎という人で、
自由党の衆議院議員さんだよ、と
復員後、更に立派にな ったお屋敷に、
今更ながら感じ入り、 一目でもお会いし
たいと叶わぬ願いをつのらせていた
五
年の長い閥、馴染んできたお屋敷だった
から、そのご主人に親近感を抱くように
な ったのだろう
。
。
総理大臣を目指しておられたようだ
が、外務大臣をも って政界を引退された
後、広大な邸宅を整理して簡素な所へ移
られた 清廉潔白な方で、殆どの財産を
政治に費消されたと新聞が報じ、その人
柄を称えていた 。
その邸宅の跡はいま「都ホテル東京」
となっている
。
中学生以来、尊敬し憧れていたその方
と遺影ではあるが、半世紀近くも経てい
まお会いできたのである
。
不思議な仏縁と感激し、万感をこめ涙
と共にお念仏を棒げていた
。
二十年ほど前のことであるが、当時私
は増上寺の役職にあり、故藤山氏の葬儀
はここで営まれたのだ った
長い人生、どういう方と巡り合うかも
しれない 。一 期 一会、仏縁を疎かにして
は、と心に刻んだ 。
FORUM
広場
。
。
伊藤寿美子
河合冨美綬
4
4
- ふくらむ
。
.
。る
一年の初めとい
初場附だから裏岡市であ
うの で、力士の意気込みも違うだろう 東風
とはいえ風は寒いが、ひるがえる織には胸を
ふくらむ」にはこう
踊らせるものがある 「
いう気持ちが含まれているの
たろう
〈
佳作〉ぽつぽつとふくらみ初むる描柳
し くらみT おリにけリ
梅が容の問、
か
沈丁の替ふくらむニつ三つ
雅子
初来風に、小くらむカ士械かな
〈
筆〉
浄一
旬
上
り
人
。
受験の日から待ちに待ったA民努表の日で
ある 合格を知ってやれやれと思うと、気持
気に出
ちが張りつめていただけに、疲れ一
も
一〈g好きなだけ眠らぜておく令格子片桐てい
-眠
隼
藤
肉
佐
叢
一
。
。
リ
。
老婆日向ぼ
L
・』
新島美 智 香 ・
ょう 今はもう 眠るだけ眠らせておくのがよ
家族の心遣いである
い
うとうとと眠
、
日向ぼ‘』背安神ばしては描眠る
。
。
リ
石原
。
中 島富 士子
子
也
〈佳作〉ビル禽は眠る墓地なリ烏曇リ
-自由題
。
〈佳作〉歩行ままなら ぬ夫あリ春立
T
の 日 にも回 ってきたのだ 病状に大きな変化
がなければ、日記には短く「
略語巴と記すだ
けである 寒さもあと少しで緩んでこよう
快方に向か-つ望みも感じさせる
。
何回か置きの病院通いだろう それが立春
"し一特〈
通
選〉 院ど書きて春立つ日の日記
の題
一切問一
団帥
子一
郎一
河一
回一
やくにもらいたる南大根抜〈
一丁由美恵
4
5
よう
野良錨に拭けし石‘』ろ草芽ぐむ
弘
善
ち
泊一
番 一
選一
J
I
北
村
田
新
ゑ
井
浦
梅窓院文化問断
9月 118(月 H阿弥陀緩j
仏・菩薩 ーその教えと信仲
'崎裕彦 {昏週刊・ . x f.x字削
4月 13日 (木>r大祭の". -館館と慾惣の教えj
6月 22臼{木)日本仏教の仏・智信信仰.- li:日*についてJ
8月 24日{木>r奮蔵信仰 E 一書砲についてj
中国 の名 寺・名山
岡川正貨 {惨N四 . ~f.x"風船
4月 20臼(木H九.山と池蔵書置J
6月 16 日{金H.山と簸逮J
8月 18日{金H実台山J(予定)
. 時間:午後6時-8時
. 場所: 梅窓院観音堂
. 受講料:無料
. 申込み : 03・3404-8447へ電話で申込み
03-3404-8446へFAXで申込み
s-horiuchi @baisouin .or.jpへEメールで申込み
. 問合せ: 03・3404・8447 (梅窓院 . ibf.畑究所)
http://www.baisouin.or.jp (梅窓院ホームページ)
平成時年度
7~25 日(火)r.無量痔経J
一F
屯a,AJAA"U
5月 29 日(月 H無量湾経j
ム役毒事
SE
法然上人と 浄 土三部 経
街井俊定 ( )I削(~・ . ~of.x字削制川
宮内ちゃゐ~藩
園 行い 日
込内 牛 、
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(
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、 11 "
、 1"
4
7
編集後記
順風も逆風も関わないこいのぼり岱潤
三年前に代替医療の連載をお願いした
.
しているからだそうだ.現在医療器具と
しても使われているという
水利普111 (長野・寛目隆寺)
宮事事昭彦 (大本 山光明寺)
宮事事鎗彦 (横浜 ・ 大光院)
山 田和鎗 (諏訪 ・貞松院)
(徹祢略 ・ 五+音順}
。
厳谷'正 ( 目黒・結天寺)
江口定lI (浦安・大蓮寺)
大江図鱒導 (仙台・西方寺 )
大国努三 (大本 山 清浄覇医院)
北山大趨 (燐j$.光心寺)
熊谷繍彦 (佐賀 ・ 本目隆寺)
粂原笹久 (川 越 ・ 選霧寺)
tを.掌緩 (鎌倉 ・ 尚徳院)
.
.回得三 (鴻巣・勝願寺)
・
音楽に疎い筆者は、バイオンという 言
井上朝厳氏の紹介で‘牧野持街氏という
葉も初めて聞いたが、聞きかじりで言 え
クリスタルポ i ルの演奏家とお会いし
ば、低い音であっても振動数はその倍の
た それまでクリスタルボ lルなる楽器
を見たことも縫いたこともなかったが、 高い音が出ていることで、倍立固によって
これは水晶を粉末にして型に入れ、四千 人間の体の中の水分が振動して、測俸聞が
度の高温で成形して料理に使うボウルの 行われるという、これが鍍しになるとい
うことだ.
ようなものにしたもので、それを叩いた
そして修行した僧侶の声も倍音を発生
り、こすったりして出す音色、響きは、
実に透明感に溢れ、島田だけでなく床面か するという だから意味のわからないお
らも響き伝わり、心と身体を直思して不思 経を聞いている人が、直恕されるのはその
ためだ.お緩はテクニックではなく、毎
議な気持ちにさせてくれた
特別、維持、賛助会員の方々
日の修行の賜物だとい うことを改めて理
健麗成順 (品川 ・ 願行寺 )
tを際良鈍 (小石 川・光聞寺)
東海事事.蜜 (塩釜・~上寺)
須.,量仙 (函tIl.称名 寺)
袖山祭民 (長野・十念寺)
高ロ費量行 (大阪 ・ 一心寺)
図中光成 (町回・養運寺)
中島.成 (符 山・梅愈院)
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年会資 六千 円
七十 二巻五月号制帆価六百円
大室了時
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真野龍海
佐藤良純
平成+八年五月
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実行所
東京圏岬港区芝公開・
問七-m明照 会館内
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印刷 Em-- 綜式会社
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発行
昭利十年五月 二十日 第 三憎由郵便物隊司
平成十八年四月 二十日
印刷
浄土
編集顧問
htJゆ:lIgekkan-jodo.info
ホームページ
解した.(長)
掴回 a匹前 (静岡 ・ ヨ医陽院)
.野憧湾 (芝 ・天光院)
ルが何故綴しの効
野上智穆 (鯵側 ・ 宝台院)
舗口隆信 (石巻 ・西光寺)
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中村康強 (f背水 ・ 実相寺)
中村民進 (仙 台 ・ 感鈍院)
このクリスタルポ
飯問実鎗 (駒ヶ綴・安楽寺)
巣があるかといえば、それは倍晋を発生
雑誌 f浄土j
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月刊ゆム 800 号記念事業
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法 然上 人織仲会
(C閣X抱 20061ω\11\下、 51ωu、[).阜、叫冶1JlI..\J ~II 伺酔"章旗n 剖
法 然上人鎖仰会のホーム ペ ー ジ ご紹介
法然上人鋪仰会の機関誌月干IJ ~ 浄土 』 は会員の皆様方のお力添えで本年の
2 / 3 月合併号で通巻 800 号を迎えました 。 執筆に機わっていただいた先達善
知識は 1700 名を超えております。
鑓仰会ではこれら創刊号から現在に至る月刊 『 浄土 ~ 800 冊以上、総
35000 ページあまりの貴重な財産を PDF 化しインターネットを通して全国の
会員の皆様に自由にお読みいただけますように準備しております。 現在 360
冊ほどがお読みいただけます .
効果的な使用方法といたしましては r http : //gekkan-jodo. infoJ にアクセス
し、月刊行争土」検索から目次検索で氏名やタイトル名で検索し、表示された
検索結果かから読みたい浄土を選択すれば目次一覧がでてきます 。 そのページ
の表紙下部の r>>PDF J をクリックすれば PDF ファイルが表示されます 。 お
読みいただくには PDF ビューアなどのアプりケーションが必要です. 詳しくは、
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これを機会にお近く一人でも多くの方々に月刊『浄土 』 をお勧めいただき、
法然上人鏑仰会の会員にご勧誘いただければはなはだ幸いに存じます。
法然上人皇賞仰会スタッフ一同
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法然上人績仰会の
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月刊 "浄土
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出 発行人/奥野飽海
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編 集 人/佐一勝良純 編 集 チ
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フ/長谷川岱潟
「法然上人総伝鎗濠・」
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2・補版 '浄土への遭
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