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Page 1 Conor McPherson の The Weir における「語り」の世界 I Conor

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Page 1 Conor McPherson の The Weir における「語り」の世界 I Conor
Conor McPhersonのThe l2Veirにおける「語り」の世界
山 田 久美子
1
Conor McPherson(1971−)は、現在、ロンドンやアイルランドで活躍する劇作家の一人で
ある。McPhersonは、 UCD(University College of Dublin)で、哲学を専攻しながら、劇作
を始めた。
McPhersonは、仲間と共にThe Fly by Night Theatre Companyという劇団を作り、1995
年には、AGood Thief(1994)という作品で、スチュワート・パーカー賞を受賞した。また、
同年、Dublin Theatre Festival FringeでThis Lirrte Tree Boωerを上演し、成功を収めた。
それ以来、若手劇作家として活躍している。さらに、McPhersonの名を広めた作品が、 The
Weir(1997)である。
The iUeirは、1997年にロンドンのロイヤル・コート・シアター(the Royal Court
Theatre)で初演され、それ以後、アメリカのブロードウェイはもちろん、ベルギー、カナダ、
日本の各国で上演されてきた。また、この劇は、ローレンス・オリビエ賞のベスト・プレイ賞を
初めとし、数多くの賞を受賞した作品であることから、演劇として優れた作品であることがわか
る。劇自体は、古いアイルランド演劇の手法であるかもしれないが、アイルランド演劇の伝統的
な特色を意識的に用いながら、現代的な問題を扱っている。
劇のストーリーは決して複雑ではない。風の吹く冬の夜、アイルランドの西にある田舎の小さ
なパブに、4人の男性がいっものごとく集まり、とりとめのない話をしている。そこに、アイル
ランドの都会ダブリンから引っ越してきたという女性ヴァレリーがやってくる。4人の男性はヴァ
レリーの気をひくために競って、幽霊物語、妖精物語などの作り話を語り始ある。その時、パブ
は、現在でも田舎に残っているストーリー・テリング・ハウスになる。ストーリー・テリング・
ハウスというのは、アイルランド/ケルト文化における口承伝統の名残りで、家に集まり、それ
ぞれが、順に即興で物語を作り、聞かせるという娯楽的要素を含むものである。
アイルランドにおいて、物語の「語り」は、ケルトの口承伝統を受け継ぐものであり、饒舌で
あることは、大変重要で、人を引き付ける魅力になりもする。また、物語を創作し、語るという
ことは、語る側も語られる側も、想像力を必要とする。従って、想像力と言葉が結びっいた「語
り」は、人々を楽しませると同時に、大きな言葉の力となり、人々に影響力を持っものとなる。
しかし、劇の題名のThe Wejrと、これまで述べた内容とはどのように結びついているのだろ
うか。The VVeir、つまり『ダム』または『堰』という題名は、劇のストーリーとは直接関係し
てはいないことから、この題名は、象徴的に用いられ、この作品の主題にも大きく関わっている
ということがわかる。従って、劇のストーリーは複雑ではないが、象徴性を帯びた劇であるよう
に考えられる。また、この作品は、登場人物さえも象徴的に扱われている。特に、男性ばかりの
中で、一人の女性の異質な存在は、象徴的であり、重要な役割を意味する。本論で、アイルラン
ドの田舎という特質性を考慮し、唯一の女性の登場人物の役割を分析することにより、The
VVeirの主題を考察したい。
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Languαge&Literature(Japan)第12号
皿
劇の舞台の背景を考察してみると、さまざまな設定が象徴的であることがわかる。
まずは、劇の舞台が、アイルランドの北西部の田舎のパブという設定に注目してみたい。アイ
ルランドの田舎のパブというのは、閉ざされた世界を象徴すると考えられる。パブは、都市では、
いろいろな人が集まる場であり、一見、にぎやかな楽しい場所というイメージを持っが、人が多
くない田舎のパブともなると、わずかな常連客がいるだけでしかない。この田舎のパブは、変化
のない閉ざされた世界であり、刺激もない現代的文化から掛け離れた地域社会の象徴である。
閉鎖的な社会を表わすのは、田舎のパブという場所だけではない。登場人物の構成をみても、
閉鎖的であることがわかる。アイルランドの劇作家Brian Friel(1929− )のDαncingαt
Lughnasα(1990)は、アイルランドの北西部を舞台に、独身の女性ばかりの閉鎖的な社会を描
いているが、The Weirにおいては、この常連客というのが、男性ばかりである。50代の独身で
おしゃべり好きなジャック、寡黙なパブの主人ブレンダン、40代で母親と暮らすお人好しのジム、
40代後半の不動産屋フィンバーの4人の男性、つまりパブは、男性たちの閉鎖的な社会である。
そして、若者が少なく独身の中年男性が多い、社会的にバランスがよくない田舎の現状を表して
いるようである。その社会的にアンバランスな状況は、現実の問題を提示しながら、1っの世界
の象徴として利用されている。
次の場面においても、この世界が閉鎖的であることを暗示している。
BRENDAN. That’s some wind, isn’t it?
JACK. It is.
BRENDAN. Must have been against you, was it?
JACK comes out fromろehind tl乙θcounter.
JACK. It was. It was against me‘til I came around the Knock. It was a bit of
shelter then.
BRENDAN goθ8 in behind the counter. He ti〔iies uρ,(iries glasses.
BRENDAN. Yeah it’s a f皿ny one. It’s coming from the North.
JACK. Mm. Ah, it’s mild enough though.
BRENDAN. Ah yeah. It’s balmy enough.(pαuse.)It’s balmy enough. (4)
季節は冬であり、この会話でもわかるように、外では、風の音がしている。その風は、最初は向
い風であったが、シェルターに変わると言っている。さらに、ここで、「おかしなことだ」と言
いながら、また別の話題へと移っていく。何げない会話の中で、この風の音への注目は、大変暗
示的であると考えられる。風が暗示しているものは、向い風である時、世の中の抵抗を示し、風
の音を感じるのは、外の世界と家の中の世界の違いを、そしてパブの付近を取り巻く風は、閉ざ
された世界を表すシェルターのようであるということである。そして、またシェルターは隔離す
る物であると同時に、保護するものでもある。
この保護された場所というのは、妖精の国であるという解釈ができないだろうか。なぜなら、
この劇の舞台となるアイルランドの北西、スライゴには、次のような由来があるからである。
The name was derived from the Irish word for sea shells, sligeach [sly’ga],
which abound in the Sligo River that flows out to the sea. The history of Sligo,
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Conor McPhersonのThe Weirにおける「語り」の世界(山田久美子)
town and country, goes back beyond recorded history to the legends of ancient
races and fairy folk that have come down in song and story. (Conner,73)
このスライゴの由来を考えると、妖精の伝説に関係していることがわかる。また、スライゴの中
で一番穏やかな所が妖精の国だと言われているのも納得できる。McPhersonが、劇の舞台をア
イルランドの北西部にしたのは、以上述べたような妖精の伝説に関係している場所であるからだ
と考えられる。引用した場面で、ジャックが「ノック(the Knock)のあたりに来るまで、向い
風であった」ことを話す。っまり、このノックは、ノックナシー(Knock Na Shee)やノック
ナリー(Knocknarea)を意味すると考えられる。シー(Sidhe、またはShee)は妖精を意味す
る言葉で、ノックナシーもノックナリーも妖精の丘を意味する。アイルランドでは、このような
名が現存している。また、そのあたりから風が穏やか(balmy)であったという表現が用いられ
ている。Sidheはゲール語で風を意味することから、風と妖精は関連が深いことがわかる。そし
て、ノックのあたりは、妖精の住む場所であるから、風が穏やかになるわけである。従って、こ
のパブの閉ざされた世界は、田舎のコミュニティを表す現実の世界と、妖精の住む場所の非現実
的な世界が共存する場所であると言える。
皿
この劇のパブは、象徴的に現実と非現実が共存する場所であることを述べてきたが、それは、
場所の設定だけではない。
風の音で劇は始まり、誰もいない静かなパブに、常連客のジャックが入って来て、勝手に酒を
飲み、レジにお金を放り込む。そこヘパブの主人であるブレンダンが暖炉の燃料を持って戻って
くる。さらに、ジムが加わり、うわさ話などの会話が始まる。ジャックは明るく饒舌であり、ブ
レンダンは寡黙で聞き役であり、ジムは人の良いおとなしい性格である。ここまでは、この3人
のとりとめのない会話で、変化のない現実の世界でのやりとりである。ところが、そこに、フィ
ンバーがヴァレリーを連れてやってくることで、劇の流れは変わる。
不動産業をしているフィンバーはクリーム色のスーッ姿で、いかにも仕事をしているという服
装であり、ヴァレリーは、ジーンズにセーターという服装の現代女性である。ヴァレリーは、ダ
ブリンからこの田舎のモーラ・ネルソンの古い家に引っ越してきたばかりだと言う。このヴァレ
リーの登場で、男性たちは、特に変化もない田舎へ新しい人がやって来たことと、男性ばかりの
ところへ若い女性が来たことで、心ときめかせる。そこで、パブは、それぞれの登場人物たちが
ヴァレリーの気をひくため、幻想物語を語る場へと変わる。まずは、ジャックが、次のように語
る。
Bridie. She was a well−known woman in the area. A widow woman. She was a
bit of a character....And she was always shouting from upstairs or this
‘There’s someone at the door.’She was always saying there’s someone at the
back door or there’s someone coming up the path. You know. This. And there’d
never be, anyone there. And people got used to her. That she liked her joke.(20−21)
ブリジーというのは、モーラ・ネルソンの娘である。さらにジャックは、モーラ・ネルソンが住
んでいた家にっいて、語り始める。その家は、ヴァレリーが引っ越してきた家である。ジャック
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Languαge&Literature(Japan)第12号
の話の内容を要約すると次のようになる。「1910年か1911年、ドァをたたく音がした。その音は、
ドアの下の方でしたが、人間がノックする高さではなかった。しかし、ドアを開けても誰もいな
い。ある日、司祭にドアや窓を浄めてもらった。すると、音はしなくなった。その家が建てられ
ていた場所は妖精の通る道であったのだ。ところが、堰がっくられようとした15年後、またドア
をノックする音がした。ドアを開けると、生け垣には鳥の死骸が積まれていた。」(21)このよう
に、ジャックは言葉巧みに話す。
実際に、このパブの近くに堰がっくられようとしている。っまり、堰をっくるという現実とジャッ
クが語る妖精の世界という非現実が交錯している。そして、フィンバーが霊媒物語を語り、次に
ジムが幽霊物語を語る。ブレンダンは、雄弁なジャックとは対照的に寡黙な性格で、語りの場面
はないが、パブの主人であることからこの場所の提供者ということにもなる。
さらに、現実の世界は、登場人物の会話の中に、ドイッ人が多く来ることが語られることで表
わされている。最後の場面でも「どこからドイッ人は来るのか」(50)というような台詞がある。
これは、アイルランドの閉鎖的な田舎の人間からの視点で考えた場合の人種的異質性を表わして
おり、ドイッ人たちに代表される異質な文化の到来という現実的な問題を表わしている。経済発
展がめざましいアイルランドでは、政府による外資系企業の誘致などの経済政策が行われている。
堰の建設と同様に、近代化に対する不安を暗示していると考えられる。
しかし、このような現実的な問題を提示するパブは、一人一人が現実から掛け離れた幻想的な
話をすることで、多次元的な場となる。アイルランドでは、超自然に関連した幻想的な話が多く
残ってる。幻想物語は、厳しい自然の中で、目に見えない妖精の世界を信じる人々の心が、作り
上げたものであるといわれている。
『ケルトの薄明』(The Celtic Tωilight,1893)、『ケルト妖精物語』(Fαiry and FoZんTαlhs
of the Jrish Peαsαntry,1888)、『ケルト幻想物語』(lrish Fαiry Tαles,1892)に、 W B.Yeats
は、自らが聞き歩き、妖精の話やこの土地にまっわる不思議な話をまとめているが、確かに、こ
の劇の舞台となるスライゴは、イェイッが詩想を形成した重要な地でもある。スライゴは、アイ
ルランドの北西に位置し、新しい文化の影響を受けておらず、伝説が多く残っている。このスラ
イゴにはコノハトからアルスターへ続く一本の道があり、そこは、このコノハトとアルスターの
2っの地方の戦いの場になったこともある。そしてまた、オシーンというアイルランドの伝説上
の英雄が妖精界へ誘われた土地でもある。従って、このスライゴのパブにいる4人の男性たちは、
現実と妖精の世界に代表される超自然界を行き来している幻視家ということになる。
IV
この4人の男性たちの話以上に、ヴァレリーは、怪奇的でショッキングな体験を語る。その内
容は次のようである。
ヴァレリーには、ニーアブという娘がいて、ヴァレリーが仕事を持っていたため、夫の母親が
学校へ迎えに行っていた。ニーアブは暗闇をとても恐がり、ヴァレリーか夫が一緒でないと寝な
かった。彼女は、夜、窓の所に人々がいる、屋根裏部屋に人々がいる、ノックする子供がいる、
階段を誰かが上って来るなどと言う。そこで、家具やカーペットなどすべてのものを取り去り、
もし、恐かったら電話するようにとヴァレリーはニーアブに電話番号を教えた。去年の3月、プー
ルで子供たちが泳ぐので、ヴァレリーは、娘のニーアブが泳ぐのを見に行く約束をしていた。と
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Conor McPhersonのThe Weirにおける「語り」の世界(山田久美子)
ころが、仕事が遅くなり間に合わず、行ってみると、ニーアブはプールに頭を打ち付けて亡くなっ
ていたのだった。その後、電話がなり、受話器をとるとそれは死んだはずのニーアブからで、迎
えに来て欲しかったということだった。ヴァレリーは今もなお、彼女が自分を必要としていると
思っている。そして、ヴァレリーもニーアブと同じように、ドアをノックする子供たちや男の人
が道路を横切って立っているというような幻影を見ることになる。この内容から、娘ニーアブは、
母を必要としているけれど思い通りにいかなく、心に傷をもった幻視家である。このヴァレリー
の話は現実的な世界と非現実的な話が交錯していると言える。
水難事故で死んだヴァレリーの娘のニーアブという名は、アイルランドの伝説を想起させる。
ニーアブは、マナナーン(Manannan)または、マクリル(Mac Ler)という海神の娘で、金髪
の美女、または妖精、そしてその名は、光、輝き、美を表わす。また、この名は、西の海の底の
島であるティル・ナ・ノーグ(常若の国)の王女の名であるともされている。確かに、この劇の
題名は、『堰』であり、水に関係している。ニーアブが亡くなったのは、プールという現代的、
または、現実的な場所ではあるが、水が現実と非現実の境界になっているとも考えられる。そし
て、ヴァレリーは、ニーアブの事故により、誘われるかのようにこの土地に来る。ダブリンから
西のこの土地へ、妖精などの伝説が残るスライゴへと移ってくるということは、現実から非現実
の世界へと移り住むことにもなる。
スライゴは、前に述べたように、英雄が妖精界に誘われた地でもある。そして、ヴァレリーが
スライゴで住む家というのが、ジャックの話でわかるように、妖精の通り道に建っているという
ことである。ヴァレリーが、「ニーアブが私を必要としている」と感じるのは、妖精によるこの
地への誘いであるのかもしれない。’
では、都会のダブリンから田舎のスライゴへやってきたヴァレリーは、この劇でどのような役
割を果たすのだろうか。Sam Marloweは、ヴァレリーの登場は、「触媒」だと述べている。
The catalyst is the arrival of Valerie, an attractive young woman from Dublin
who, for mysterious reasons, has decided to leave the city behind and seek lonely
solace in the remote countryside. The stories told by the men resonate with life,
death and, above all, the quality of humanity, and ultimately lead to Valerie’s
chilling and heartrending disclosure of her own tragedy. (VVhαt’s On,1997.7.16.)
確かに、ヴァレリーの登場により、男性たちは、心ときめかせる。それは、閉鎖的なコミュニティ
の刺激となっている。ブレンダンを除いて男性たちは、冗談を交えながら、幻想的な話をする。
男性たちは、言葉が一つの力となり、一っの世界を作り上げるように語る。そして、その力の源
は、ヴァレリーであると言える。男性たちは、ヴァレリーを、このパブに現れた唯一の異性とし
て注目しているからでもある。
だが一方、異性として意識する男性に対し、この時のヴァレリーは心に傷をもった母でしかな
い。ヴァレリーtを引き付けようとして話す男性たちの力のこもった物語も通じない。ヴァレリー
は、仕事のために子供に寂しい思いをさせたという母親としての罪悪感で心は一杯である。この
罪悪感には、一つの現実の問題が提示されているように考えられる。育児は女性の仕事であるこ
と、そして女性の仕事と育児の両立、そして育児は夫の母を含めて母としての女性の責務である
ということである。母としての役割にヴァレリーは、苦しんでいると言える。そして、ヴァレリー
が見るニーアブと同じ幻影は、ヴァレリーの心の投影である。現実と非現実は一致することがな
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以上述べたことから、The VVeirという劇には、いくっかの問題提示がされているように考え
られる。
Michael BillingtonはGuardiαn(1997.7.10.)に次のように書いている。
McPherson is also saying something about sexuality and the nature of the Irish
imagination, about the residual fear of women and about the incapacity of these
tale−telling men−with the exception of the sympathetic barman−to accept real−
life tragedy as articulated by Valerie.
特に、“the residual fear of women”というのは、ヴァレリーの現実の話が、作り話の怪奇物
語よりも恐怖感を感じさせるからであろう。また、“the incapacity of these tale−telling
men”
ニいうのは、パブで飲んで、語るだけしかできない人たちだからということが言える。従っ
て、男性と女性という対比だけでなく、男性のロマンスと女性の現実、田舎の男性の悲劇と都会
の女性の悲劇、パブでの非現実と現実などが考えられる。そして、パブは、何層もの世界が重な
りあっている場所であることになる。
V
では、その世界と劇の題名の『堰』はどのような関係があるのか考察したい。
Nicholas Greneは題名の『堰』について次のように分析している。
The title refers to a local weir built by the Electricity Supply Board in 1951 to
regulate the water for generating power in the western area of Sligo−Leitrim
where the play is set. It acts as a metaphor for the controlled release of
emotion through talk and story−telling among the five characters, not as a
symbol of a stage in the modernisation of Ireland.(Grene,261)
劇の題名の『堰』は、感情を放出するメタファだということである。確かに、パブに飾られてい
る写真を見ると、決して堰の存在を否定はしていないことがわかる。その写真は、「白黒で、荒
廃した修道院」、「ESB(Electricity Supply Board)、っまり電力供給公社の新しい堰の近くで
ポーズをとっている人々」、「堰の回りの山々に囲まれ奥まった場所」などの写真である。色を持
たないこれら写真は、過去と現代、文明と自然が混在する世界を象徴的に表している。また、堰
の前でポーズをとる人々の写真から、堰を歓迎していないわけではないことがわかる。堰はアイ
ルランドの現代化の象徴としてではないかもしれないが、過去と現代の対比を暗示しているので
はないだろうか。そして、それは、幻想的な話によって、時間や空間を超越する役割を果たすこ
とになる。神話や伝説の語りは、歴史を超えて、現代にも甦る。歴史的出来事は、過去のもので
しかないが、古くから語られる神話・伝説は、現代にも力衰えることがない時空を越えるものだ
ということである。The VVeirにおいて、語られる幻想物語は、そのような力を表していると言
える。
堰は、Greneが述べているように、「語り」による、感情の解放のメタファである。それは、
感情の解放による言葉の力をも象徴しているかのようである。そして、その言葉の力は、ダブリ
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ンという都会からやってきたヴァレリーによって、発揮されることになる。何も刺激のない田舎
のコミュニティは、ヴァレリーが登場することで、一瞬であってもエネルギー溢れる場となるか
らである。このように考えると、ヴァレリーは堰と同じエネルギーの源のような役割を果たして
いるのではないだろうか。
都会の現代的な仕事を持っ女性であり、子どもを亡くした母であったヴァレリーは、傷心し、
田舎へとやってくる。アイルランドの西の田舎は、妖精に関係が深い伝説の土地である。その土
地は、過去と現在、現実と非現実、男性と女性、田舎と都会という二項が、対比される場所であ
り、それらが交錯する世界でもある。それらの世界は、語りを通じて、普段は静かな所ではある
が、強い力が秘められていることを暗示している。
引用文献
Billington, Michael. Rev. ofアんθVVeir. Guαrdiαn.10 July 1997.
Conner, Lester I. Aγεα彦s Dictionαry. New York:Syracuse University Press,1999.
Grene, Nicholas. TんθPolitics(ゾIrisんDrαmα:Plαys in Context from Boucicαult to Friel.
Cambridge:Cambridge University Press,1999,
Marlowe, Sam. Rev. ofアんθUJeir. Wんα〆s On.16 July 1997.
McPherson, Conor. The VVeir. London:Nick Hern Books,1998.
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