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おii - 法然上人鑽仰会

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おii - 法然上人鑽仰会
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号
七月
妻、
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女合 信仰の 「 泉 J 浄土トラクト カ会
新説版九O 頁
定価七 O 円
送料八円
待到の内「浄土宗勤行の下引」愈々刊行
、
問版 「浄土京日常勤行式僻品」をふ
ι而的に
改 訂 版も持ち払すい新作版として刊行
尚制的凶の都H
〈
で大変巡れました事をおわび中
上げま す。
〈百部以上五分引送料無料)
佐川勝良智蒋
お紙
さし絵
カット
即絵
・
・
七月号
法然上人七百五十御忌記念
結城天間
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夢声
「帽柄拘酬と映画のつどい」紙上特集
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小
由人と仏教
・:
新聞進
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鶴岡
・:
須藤防
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しつげというとと
官同僧伝
1
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(日)
時)
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(
幻)
泌氏(初)
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中村山附降(剖)
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1
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大正 大学教授
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制服と阿 附 似|第 二 阿
談:・
仏教 判 俗党 m
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大
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若き人びとにおくる仏教入門
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、
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いあ
まり
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お話をいたします
。
二
、
、
三たしかに其理だとおもわれる言葉
その方は教行も何にもないのですが、
。
、
のだ
、
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ほっとけないというととで
。
宮戸
、
ζれをど
自分に宿った
、
、
一
一
人類というものが 我欲に禍い 一
、
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'
'
要するに
、
というわけであります。…
、
…
一
「すべ て、 伎のなかの出来事というも
なるほど 、なかなか良い乙とも仰言るのですが 、妙なと
とも仰 言 るのです。
、
「全認がめおと(夫い州)で
一あ
一
、
政
とい・つんです。いろいろ夫い仰の実例をい此べ
ますが
る。」
五と余り変りありませんが
のは二つの襲来からなっているご乙の辺までは我々の…
考え
一時間ばかり一人でたてつづけにお話をされまし
そのなかに
、
神さまが自分 の体をかりで人
実は今日も私のととろへ、
類に警告をあたえているんだ というおばあさんが現れま
して
。
もございました
lζ
た
•
されて救いがたい状態になっている 神さまは
まいりまして
徳、
そのこ
「講演と映画のつどい」紙上特集
昨l と
しで
上す
説くととろに
、
、
弘法さまも
。
親鷲聖人の名も山山て
、
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乙うなるとも・つついていけませんですよ亭主の方が
一
…す
わかにある時から一砲の紳がかりにはったのであります 後に「わが大和以族が夫で、外国が袈だ」とい・つんで
ザ そして
-2-
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人
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多少仏教のおしえに関係があるかもしれないというよ
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、
、
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しかん教がかに
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、
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、
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長しにさ光で怠る
、 のにつつ人の三いう
大体いばっているから 我々には工合がいいんですがね
術術私し
。
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、
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かすい。ん応はで
、 す起れもとらわな
らかう そ な|刷
、 き叫乙りにあいのけ人
紫
、よ れ ζ いどなのとましりうすか
、
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よぺ私仏
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まり批か
、
まので発釆ん
- 3-
、
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すると
7
、
ζ ろが
「ア 1
「ア I
」というと乙ろでしたな。
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、
」「ア 17 乙のような乙と
、
まあ
、
宗教家
、
、
、
には
一
空飛ぶ円盤を研究し て
、
今年お乙る というのですね。
とに品川、
おもしろい乙と
ないと思いますが
それから
乙んな乙とを申し上げますと。漫談にしか問えませんので
一
ん
や』 …
…
アーであわせる
、
、
てコ マのよう
ζの地球が
と、 皆さんは
一
、
工会がいいのですが まともな大博士がいう
ζ ろによりますと
ζの納を中心とし
、
「ア 1」という
。
噌-e'
、
、
、
一
一
どうい …
、耳 、 秋 、冬は乙の地軸の傾きによってお乙るのであ
字街全体の足の位位も何千年に一ぺん
、
、
その宇宙全体の配躍がえのようなものがあるとき 地 …
、
…
、
球の地軸一が変るんだそうです。そうすると太平洋や太西
、
山
一
洋の水は
、
それが伝説にったわる洪水と
一
生き残った 人類の子
一
海の水が陸へあがってくるんだ
、
と菅あったんですが
l
変って逆に回転しますと
、
実はそれだとい・つんです。
ζの洪水伝説は方々 …
今の我々なん でして
、
そうです。ず
孫が
、
との地球の回り方で流れているものが 、 地軸が
と
うわけだか分かりませんが変るのだそうです。そうし一
ます
りますが
春
北半球がぷになるわけです。
南半球が五になるわけでしょう。それが逆になりますと …
に地球が回っていますね。それが 、 乙ちら側にきますと
斜かいになっていますが
一派の説くと
一
:::
もしくは神ヰ家という
二
ある
不安の念そいだくのではないかと思います。
、
というふうに言うのでいす
。々が 字宙人というものと相談いたしました。私が 一
ア IT --」
::
る方
そのとき紳さまは
、
、
山田さんのタマシイを
イ を山聞きんに入れ
、
そして、 正しい方向
もろもろの悪業をおかすよ
、
というわけであります。それ
。
、
とにかく年内にどえらい
いま四月も無事に過ぎました。そ
、
法然上
、
し、
はあるはずがない
とのような教祖
ζに感ずるのでありましょうか
ー ケストラがみんなそうです。
乙の アーが共通しているのですが
のはオ
、
ものの紳縦伎をそ
さて
今年は大変な年だといっているのです。霊光尊な
、
、
今年がタマシイの入れ替のお乙なわれる時だ。
、
人途が
ども
。
中村さんのタマシ
、
タマシイの入れ替といっても
中村さんに入れて
、
を全部きれいに治めて
イ
るというような訟味ではない
うなタマシ
に人類全体を向わせよう
と
本年度において入れかえねばならんというととが 方
、
、
と
乙とが起きるというととです 。みな綴方の ように
れらの方々の仰せによ ります
月も三月も何事もなく
実は私も正月からピクピクしていたのでありますが
々で 言われ ているようです
が
の
人のみ教えを奉ずる方々ほはそういうような恐怖の予告は いうのは
ー
4
-
。
ζ
一
つ
て困つ
の人間としては当然じゃないかと恩・ん
つですが。しかし
っ
、
マホ
メ
、
一
ット教に 一
私は仕合せだと思い …
、
教にしろ
ト
~の民族にあります。幾日も幾日も水が引かなく
、
クリス
百パー セント 信じるととができたら
、
ぷね
、
一た。そのときえらばれた民であります一群が ほかの動物
~uζ
ますね。仏教にしろ
安全なと乙ろへ移民して助か
、
、
ζとは出来ますけれども
ーセント
信ずる
ζ
…
一
一
山
…
一
一
K 乙れとそ真理だと
全面的に百パ
、
私にはそのある部分は感服もし 、ある部分は信ずる 一
一と大きな方舟に乗りまして
ζ
しろ
、
一った。それがだ んだんにふえて血族が受け継ぎ受け継ぎし
一て今日に至っているという 、ノア の伝説がありますが
、
ど ん なに 仕 合せだろうと
どうも前世に於て何か罪を犯
何んでも多少信ずるという結果になるのでありま
、
-
-
。 ですから 、何んでもたえず疑惑をもって聞きますと同
、 そういうわけにはいかないので
、
、
とは私にはどうしてもできない。本当
、
す
かしているのでしょうか
思うんでありますけれども
私に感じ られたら
一れに似た伝説は方々の民族にあるととろをみると かつて
な
、
いうものが
しか
、
チキだろうという
小さな本崖が
時に
ていただきたいと思います
。
正直なとζ ろを申しますと
。
決して脚色などをしてお話をいたしませ ん
、
一
一
一
て皆さんに聞い
だから一種の講演という、
よ
倣り
悔とし
。
てになるかも知れないという
ζれは正気の沙汰じゃない。だから売れません。精々七千
そうすると
非常な
、
、
、
が起り・まし
て、
ー
従って
ルギ
しい
エネ
、
山
今の地軸の傾くというととですが
、
。
過然にも教祖さん逮がお説きになった
度が変る
位院が少しづっ移動があるら
。
実は今年だというの
部ぐらいしか刷らなかったんじゃないかと思いますがね。
しりぞける事はど
一
ζれは気狂いが苦いたと
乙の世の建
頭から
です
、
叩
私は
てかえが今年だというのです。それから比較的科学的に空
、
eζ れは普通
地軸の角 一
一うも出来ないのです。何ごとも疑うという性質があります
ζ ともできない
、
…
信じな いという
、
飛ぶ円盤の研究から入った人達が 天体の編成があるらし
、
ント
一全面的に百パーセ ント信ずるというとともできませんし
一百パーセ
い
一と同時に 何事もいくらか信ずるというくせがあります。
、
ナン
す
、
ζの「地輸は傾く
」というのは
、
、
何にか気狂いが書いたような
、
イン
ζの「地軸は傾く」という本が本屋に出ています。
一地球上 K大変な洪水があったと忽品旅されるのであります。
一
一し買手がないんだそうです。乙れは
、
つ
の
たが
ζれは人類を救うてだ
い
- 5-
大きな出版屋は出しませんので
一ので
、
と
し
で
一る程
り
ので出版をいたしま
だ
か
センス小説ならいいけれど 大まじめに書いてあるから
本
。
、
水爆にしろ
、
原爆にしろ核兵
、
あれが安全な よ うに別々に 分 けてあるん
、
いずれにしても
~いまの原爆だの水爆があわきると 核融合式に爆発のか た
一ちになる
。
一器でありますが
一だ そ うです
。
、
と
ー
干不
が作用しま
地球 上 に大変な
、
ζ の 干 不ルギ
宇宙人逮は見ていられない
、
。
シチョフとか親
玉
。
仲々 人
ソ速が努えている核兵恭 が自爆すると
。
地軸が逆になります
充分一緒にならないような倉庫に分け て ある
一 ん でしょう
リカや
が起る ん だそうですね
ー
し て 、アメ
一 ルギ
一
一 いうのです。それで
。
ワ!とかフル
一絡があるんですね そのため轡告に現れるんだそうです
アイゼ ン ハ ウ
急に私の家に来 な くなりました
。
。
「どうした んだね」「え 一
いるととはいるらしいのですが
、
と はないと思うんですがね
。
その
まさか他の 天体に 一
一
一
うん
l、あの人はお見えにならなくなり止めました」とい
です
連れていかれたという乙
…
、
との 人
痕せ方の紳士で
一
、
乙
次ぎに代表者として尋 ね てきた
。
一
、
。
ちょ
っと気持が悪
た んだか
一
一
、
向う と いって
ζの人迷が向うに行って
山
、
り
ま ζ とにリ
アルな報 告 な 一
一
おもしろいで
…
一
一
非常に木曾な
、一人 乗りらあるそう
…
。
。
乙れは綴 拠 の ない ζ 一
ああいう山へ行くん
、
ませんが
ロッパじゃあ
。
、大丈夫です 。
。
そのつもりでお聞を願います
: ::
。
一
何か空間です
乙れはどういうわけで来れなくなっ
ったという
乙の頃 釆
・ なくなっちゃ った
そ
、
も熱心な研究家でしたが
、
、
乙れからが
人 間の乗れない円錐もある
、 人 間が五 人 ぐらい乗れる円銚
。
。
…
の団体を代表している神経質そうな人がいたのです が
。
の人も来られなくなっちゃ
るいですね
分 かりませんが
、
ー
です 。 私正 気 ですから
ね 。日 光と か奥多摩とか筑波 山 とか
リカやヨ
一それなら
、
す。
その辺が帥聞に
名もな・ぃ 徴力な 空飛ぶ円盤を研究している純心な背
、
も アメ
、
一の と ころへ現われてくれるといいんですが どういう わ け
一か
。
時何年連は聞い
たそうで
、
一年のととろへ宇宙人 が現れるとい つ
・ んです
だが
円盤
です
す
聞の生活を採
人上
から電波みたいなもので操縦して地球
る た めに時々回すんだそうで
…
一
とれは大きい方の円雄
先きの円継というのに幾通りもあります
、
とをいってるのではないんです
。
い
すよ
一落ちないんですがね
、
と
一
いうので す 。そのうちのある代表者が
、
とても問題にならな
っている
何故瞥告なさら な いの ですか」
、
のですから
、
、
「いや 今地 球上 で政治 上 の梅カをにぎ
、
それより 一閣 の政治を動かす 軍隊を動かすカのあ
。/
一「何故あなた方は 我々のような無力な 人 聞に 仰言るの で
一すか
、
その椛力に自がくら ん で い て
と
と い・つんです。だから、 その よ うな純心な背年に
、
った ら
一る実力のある 人 達に
一
一人 は
一 い」
一大警告をす るんだ
•
ー
6
-
私
、
子供のときそういうものをみた乙とが
、
、
、
、
、
、
、
と患ってい
大間越前の子孫の住んでいるとい
だろう
、
とい・つんですが 二人一絡に拶みるわけはないで
、
は信じてくれるのですが
、
。
あるとき
、
一
座談会の叩
一般の方々はいいかげんな創り 一
話をしているとお考えになるのです
。
「どういうわけだ」と聞いた …
、阿部真之助氏が 、「それは夢声君 、
黒
席でとの話をしたら
と自だろう」というんです
、
と,‘ぴ
.
. ,、
(笑)そういうシャレ が入っちまうので
、
乙の話がいよい
制
一
経験談としてお話をするのです。と一
れ
ζ しの …
よ怪しまれるようになったんですよ。私は本当にす
雌もありませんし
a
~そういえば
、
、
、
しか
よう
。
一あるのです。赤坂の袋町に住んでいました。川品川稲川何
ら
のちに、私は活動写真の説明者になりました頃、キネ一
マ
たそ
一見付の方へ半丁ばかり来たととろに焼いも昆があっ。
五軒長屋の一番乙っち側に住ん
一この横町の突きあたりに
カ ラ !というのが出来ましたね 。天 然色です。天然色の原 山
・ んですが
ζの辺の記
一で いました 。ある初阜の頃だと思 つ
理は 、赤と緑のシャッターが交代に 7 イルムのと ζ ろへ尚 一
一憶は危いのですが何しろ日露戦争の前でした。その二階 てくるのだから一つの番
商が二 校づつあるわけです。です 一
私の母が二階へ
一が六位の間でしたが
、そ の雨戸をしめに
から普通のフィルムの回転より僚になるわけです。そ一
し
一上っていって 途端に「 アラッ、アラッ」とい・つんです。
て 、 乙っちは赤の光線を通し、その降りは緑の光線を通す 一
「変
そが
の母が
一不断奇戸など究する散ではないのです
といったふうに、乙れが非常に早くおとないますからあの ω
一 なものがある、 変なものがある」と云うんです。私が階段天然色が出て米るのです。
F
、私が 一
一をかけ上りまして、指差す方を見ますと、隣りの秘町をへ
赤と緑があると大体天然色が出てくるそうです
が
、
一
一だてて 下駄屋でしたが、その屋銀の鬼瓦の上にポコンとみたのも赤と緑に分かれたものです。との話は ζ の頃に …
はてな
。
、大郎、ζとに空飛ぶ円盤を研究している人途
一正方形で真四角の上が淡い綬色でピカッと光っているな
んり
で まして
、
一す。何だか見当がつきません。子 供ながら不思議でした
ζ
ヤして夢でもみたん
ζれを普通の人に話しても信じて
それはポ ヤ ボ
、
んもりとした脱税の辺までその四角のものが飛ん ら 、そ れは 大間怠まの上だから黒白を分けたんだろう一
」
、
その四角のものがピュ!と管をたてて飛んでいっち
、
一あり得ない乙とだ と思 いましたから
一 たら
、
一 ゃったんです。そして
一 われる
。
ζで赤と緑にわかれて、ファ!と下に落ちて
一 おしまいになりました
、
一 でいくと、そ
一 くれ ない のです。 何 か
一 7
、
と
随分
、
一が近年に主りまして 地上を偵察にきた空飛ぶ円般から派
一泊された角舵ではな いかというのです 。そうする
。
宇宙人はあくまでも人間でありま
、
答える。
英語で終えてくれましたが
、
、
ζちらも質問する。それは何語だろう
と いうと
はじめは英語でいったら
、
、
そ
一
…
相手が答えてくれる。つまり…
一
ζとに不便でとの脳味吻で考えた乙
のうちに、 ζ っちで思うと
、ま
一
は …
一
乙っちに一種の受信装置があれ ←
、
ζとをそのままにずっと感ずるわけ
、
とを、口へ出して管放によって相手の耳へ通ずるという、…
私たちの二階の鬼瓦の上へ品川股が到われた 言葉というもの は
、
一前から視察に米て いるわけですね
一何んだって
一のでしょう ね 。思うに
、相手の考えている
一す。もしかすると乙の頃人頭はそういうものをやっと発比 まととに原始的なもので
数
、
ば
、
一したんでありますけれども 宇宙人たちには数千年も
レ ビにしたって受信装置を合せますと
、
。
ζ んど
山
一
ζんどは向うが受信する
抗があれば相手の考えている 乙とはそのまま分る
と思うと
、
。だ
っきり出ますでしょう。言葉も出て来る。乙っちに受信装
ですね 。今のテ
、
非常に進んでいるのです。円盤
、
一万年も前に地球上が危いとみて 早くも他の天体に移民し
一たのでしょうね。だから
。もしかする
に将米有担な少年がいるからとか、何とかいって
一でもって旅行する くらいわけはないのです
ζζ
は ζうでしょう
、
一と
一
から言葉はいらないとい・つんですζ
。れを彼らはテレパシ
円鍛は浮いて
、
一きたのかも知れない。(笑)
降りてきまして
く
、
彼らは戦争というものは
、
水線という
、
あ』いうように
、
ζとを考える
、
、
、
いかに馬鹿
一
…
一
一
これを平和産業一
いざという場合に
ζ るかもし
ζんど第三次大戦争がお ζ
一
北半球の人聞がみんな一人 もいなく
、
…
ったら両方でぶつけあって、丁度映阿の「滑にて」の如
れない。地軸が制かなくても
はお互に威嚇し令っている。だから大戦争がお
などの利 m とかいっていますけれども
のために原爆
々々しいζとであるかを知っている。地球上の人類が戦争 一
それで
!といっています。従米のテレパシーという芯味と大部途 …
、
ζに十五、六人の宇宙人がいたそうで
。
一ある山奥へ行きますと
、
引力を遮断する乙とを知っているらしい。もしくは引
ット離れる事も出来る。とに角
引
っている
、
l
ζ にはお迎えの点
聞に浮いているるわけでありま
山L
川
下の方から入りますと、そ
、
、
一いるそうですが 地上に落ちない。どうして浮くかという
一と
一カを逆に利用してス
、
一カを容の状態にすれば
一す。そ乙で
そ
一があり 、しばらく飛んで、広 い字街円般の御般にな "
つ。広
、
ζれは長老というのでしょうね。色々質問して ζれに
一い部屋があり
{す。
- 8-
九なっちゃって
、
、
い
遂次南半球に及ぼして人類が死に絶える
、
一というような乙とがないとは云えないのですよ。勿輪
ウ ワーさ
んとが
何とかして戦
、
メリカ
の空軍に来臨認総隊の専ら探索する一つの隊が出
…来
ている。ブラジルには空飛ぶ円般に関するお役所ができま一
すから
、
n
本にも空飛ぶ円盤立というのもできぬとも限り …
も政治家が段々若くなるにしたがって科学的になって一
きま
を作ろうか」と仰吉る。乙れは研究すべきですよ。日本一
で
「もし必要とあれば日本にも空飛ぶ円盤を研究するお…役所
、
一まその原水爆を一審沢山もっているソ述のフルシチョフさ した。日本あたりでも中曽根さんあたりは若いだけに一
一んと アメ リカの アイゼンハ
一争がないようにしたいと思って交渉しようとしています。
一 イギリスも原水爆の保有、頁に今度それに加入した闘があ
一ります。サハラでもってやりましたね。自分の闘では決し
…
一
一てやらないですからね。遠い処でやるんですよ。他所の方 ません。
明実乙んどア
メリカでは、I ・C ・B ・Mが成功したよ一
、
自分の国で死ぬ 人間
一へ放射能が行って死ぬ人聞がいても
ζれはソ述の方が大部先きんじました。
うでありますが
、
一が出なければよろしいですからね。ありがたい考え方でサ
ピカド
ンとくれば、
ュ l
一
…
一
モ|スコーからニューヨーク
万一戦争がはじまります、と
、
あ たりを襲えるのです。狙いは殆んど誤まらない。 ニ
した。いまは原
一ハラの沙設で二発ばかりパンパンとあげま
、
もっと簡単に作れるよう
一爆や水爆は骨が折れるけれども
ζ ろでも
ヨーク全市はおろか店経三十マイル位は人間が死一
に
ー
ヨ ー クの上笠をはずれたと
一になるでしょう。台所の隅でコンロで火をおとして作れる
ど ζの国でも水煤をも
ニュ
、
、
ζんど出釆たそうですが
一
品産さ…
、
戦争がはじまったのでは間に合いま
、
ソ辿を打つというのは
直も
接 アメリカから
両方とも無数にもっているといっ、
て
一
一ようになるかもしれない。例えば
宇宙人はテレ
、
、
。
断えるというようなのが 二 パツやニハツではないのです…
ζういうような乙とをやり出していると
一つようになったら大変な乙とです。
一
、
一パシ 1 で或は 決飛ぶ円盤だの角披だので 地球上の人類
ちょいちょい来る
たとえば
、
それがソ辿側が
I
・C
・
B
Mを
・
、
ニュ
1
ヨ
んでもっています。外交上それが問題になるのですがね。
…
、
その代り中間中距緩誘道弊の発射基地をソ述を一
回
一の動向を翻べている。「可愛そうだ」我々は地球をいち早 れてはいません。今
、
一く見捨てたんだが、今残ってとれ迄栄えて来た人類を亡ぼ せんが
、
一したくないから 幹告を与えるために
、
一ので 決しって戦争するためにくるのではない。現に 、ア
ー
9
-
't力'
'
、
ワシントン、
フィラデルフィア:::或い はロスアン
多 いそうです。ヨーロッパ 人、アメ リカ 人、 ブ ロンド、 プ …
一
或
、
ニン
、
l
一
帥純白…
、
自のない服だそうです。日本のとの頃流行の化学繊維
、レ
一処でボ
一
もっと進歩すると上着なら上着というものが
行
コ l
、
なしに生産されるようになるのじゃないかと思うんです
一
、
どっか変った乙とがないか
一
、
というんです 。そして靴の ようなものを履い
乙れは考えますに、地球から離れたと
一
…
。
宇宙人たちはそう
。
、
山
、
いは今の所は反物にして両方で縫う ような ζとをしていま
っ
バラバラでなく
並で いまして
モスコー か
いう ものが出来 ている
、
ζの通りでありますから
とい
一
。
非常に長い
ている
引力は距離の二乗に反比例しまして 、 引力のない
、
一
アーとしてしまう。空中に浮んでしまう。そ ζでそれを防 一
々は乙れは下と思っているのですが、引力がなくなればフ
e引均があるから、我一
と下がなくなる
ような所へ行く上
と
ますと
ζろへ行き
大休地球 上の人間とは変ったととろがないが
いかに何んでも
との大切なお役所
、
足が
すが
つける休制が
の要処要処 へ向
ルlネッ トもある。男と女の区別がちょっと っかぬそうで
コな
ど、アメリカ
フラ ン シス
ズル セ、 サン
。
、
ユ ニホームを若ていまして
あります。 大体 同 じような
そうは簡 単 κ いか ない
Yし
、
うと
ー クまではざっと一
た
とっちでも敵の方へ 全部向け て
乙ちらが分かるんだそうです。ワア来た
、
。
・・・・・・
0
そういう場合でも 地 下室の厚い壁であらゆる放射
乙れで人類は 全滅だと思いながら
ζろに入っていますから当分は生きてい
、
縫…
一
ンさえ押せば発射するように
ア メリカ側は 、モ ス
けてあるんだそうです。ボタ
なっている。同時に
、
グランド行などというように要処要処をや
できている 。いざ となったら
タンを押すんです 。ピ アノのキイみたいに
、
ニ ューヨ
一十
一分かか る。向うが打出し
ね。先きにやった方が勝ちじゃないかと仰言るかもしれん 地球上ですら
が
ら
、
という事が 分 ったら
ー
て五分 かかると
な
、
-レ古ぞっ。 ζれで全 部パ ーです
だけは
能を防ぎ得ると
る。当分ですよ
、
可能性は充分あるので
白人が
、
私の知合いが字宙人の長老花、逢
、
あのようになりかねない
、という
ζとを私が 申しま すと
一
って一
・
、宇宙人花会
.
。それを み …
ると、余り科学知識のある人じゃないことは確かで一
すね
来 た人が私の 窓見を聞い てうなずいていました
ゃないか
靴を履いているそうです。それで足が長くなっているのじ
験阻の「諸にて」は空想映磁でありますけれども、まかり ぐために何か 磁力のようなもの で下ヘピかッとつくような …
間迷うと
ございます。
話はもとに艮しまして
った 。どんな顔をしているのかを聞いたのですが
- 1
0-
.
.
へ笑)
、
一いか
さが
て でしょうか
弘がいま申しあげました
、
、
ζ と
も棋は
一は、少しも作り話がないんですよ。ないけれど情
一さながらほら吹き先生の間訟を聞くようにお笑いになって
、
一いらしゃる。又 お笑いになって結構なんです。私の話を
ね
が
全部無だという
、
ζ とは
、
そ乙までは仏教と同じです
無が有だという乙とは仏教だけです 。 だからニヒリズ
、
ζうなってみますと
、
たしかに仏教の教えというもの
一
一
一
ムは色即九叫ん引を説いただけですq
ね即
。是色とはいわな…
ぃ。
は非常に深いと乙ろを云っていると思・つんです。何とな一
れ
一
ガラスのコップに水を注ぐと漏らない。だから抜
、
ば
どうすれば宇宙人と会えまし
、
一聞いてシ l ンとなりまして
、
はないと思うでしょう。しかし乙れを拡大すると隙間だら
、
一ょうか 申込書は何処でしょうか なんて云われると図る
、
こういう話もあるという乙とは 皆さんもお考
何とい
、
コ ップ一つでも色と空で
一
本当に何も…
、
一
通さないむのは光も通すはずがない。ですから明即赴色で …
刻に光線はつつぬけているではありませんか
す。空は非常に微小なものからみればつつぬけが出一
来る。
が縮めたからあるんです。乙の
けなんですよ。乙れは空です。何にもないに等しい。それ 一
一んです(笑)そうなられでも弘には処置がないんですかな
、
一ね。冗談としてお聞きになって結構です。
一しかし
私の処へ教組じみた人がまいりますが
、
一えになっておいて頂きたいのです。
一乙の点
、
ζれは 立派
、
あの人の中間子論というもの
、
一
一
実験の結果中間子というものをそ乙へ摘出しまして、…
、
いものであるかという事を申しておられました。しかも湯 一
、
湯川博士と話しをした時も 仏教というものがいかに深…
一つでも 焼乙乙に至りますと、クリスト教よりも仏教の方 すよ。仏教というものはえらいものです。
、
一が深いと乙ろをいっているような気がするんです。仏教の
、
一色即是空 空即是色という言葉がありますが
、
.
一切の現
電子論のようなものといえるのですね。色と 川博士に伺ってみますと
一な菜料弘子論
、
が
、
一はマイクロホンでもテーブルでも皆さんでも
、
ζれが中間子だという発見ではないのです。どうしても
、
空即是色だ 空が
一象をいうのです。これは空だけれども
、
除也子と…
ζの一つの版チなら原子の迎動をみていますと
、
一是だというんです ζれは大変なととを喝破したもので
、
半分です
一つ
つま
あって
屯子が廻りをぐるぐるまわっている。一
、
-
一陰
一す。恐らく仏教以外にはないでしょう。今進でもニヒワズ 陥屯子というものがある。大体、陽電子が其・叩にあって
、
{ム 虚無主義がちょっと乙れに似ていまし た が
- 11 ー
•
、
ζの数が増してくる
、
とれなる迎動の説明がつく
、
そ
それだけでは説明がつかない
だんだん重くなるにしたがって
。
、
中聞があるのではないか。小聞にそう
。だが
~わっているのが水索です
一
一運動がある。丁度
一いうものがあるとすれば
メイ
う ζと
天 王星 と海王 星の向に盟 遠鏡花は
王日比というものがある、とい
、
のちに湯 川 純士白身は発見しなかったけ
一乙で小川子があるに迎いな い、 というのが湯川博士の論旨
ζ ろが、
、
外 国の学者が
、
一です 。と
一れども
一入らないけれど
ないと思います
ζの偉大なる科学者の湯川
だから
、:、
ζとは云
t
JFH・hu--宮J、・
hv
、
現在地
仏教 は、 科学が今にいたって
、
ζζ
たどりつきました結論を
、
に別の説がある。もしかしたら
、
たまたまお釈迦様の
、
山
一
一
ぉ
、 というのですがね(笑)つま
。
一
山
一
二千五百年前花、お釈迦様は思松山ζ
を
らされたのだから 、
えらいものですね。不出世の宗教的天才ですよ。,
ととろがまた
釈迦械は字筒人じゃないか
まらない争いをつづけている
り後殺の地球上の人類があまりつまらない生活をしてい
る 。つ
、
お釈迦棋も
、
リ
スト
にしても処女にして伎胎するわけはないで
一
山
一
一
クリストも宇宙…
ようなお方を派 近して 、人知を少しでもいい方へ導乙うと 一
ク
。
松近お
、
ζなわれて庇ります
、
とういうような説もあり
、
さま
­
真面目にそれを …
、
、
という
ζ とを山
論じている科学者もある という ζとを申上げ、しかも 仏教 一
って結構です
ざまの根拠のありそうなお話すが 皆さんお聞きずてにな 一
ませんけれども。以上
宇宙 人の杭拠だと思うんです。乙れは断定する ζとは出来…
しよう。とれも字宙人ですよ。聖徳太子もクリストもみな
すよ。
れない。その証拠は第一お釈迦綴は脇の下から生れていま
人である 。聖徳太子も字街 人だ。法然上人も字町人かもし
が狸愉で曲。きに発凡されております。湯川さんは犯愉的に するのではないか。だから
、
霊魂を否定しませんでしたよ。
、
、
、
ないという
、
「いや私どもの科学は 否定の論理とい
、
、
、
一
お話を終ることといたしま…
というものの哲政は大変に深いものである
門外部の私から巾上げまして
(教学院主催の講演会における要旨)
-1
2-
中間子というものを発見した
さんは
、
「霊魂というものはある と思いま すか
か」と伺ったら
うものを殆んど持合せていないので
ζとは証明出来ないのですね」
一えないんです 。あるという乙とは証明できても
一う
「その巡りですね
たまた ま生かじりの仏教の話を持
ζの抑制川さんが、私が
、
一
一ち出しましたならば
、
、
やはり感心するだけの珂論をもっているのは 私は仏
、
一球に京教がさまざまありますけれども、最も深き哲学者
一が
一教だけではないかと思います」と いわれました。 しかも
す
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一
一
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理想があり
、
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、
一番恐しい乙とであろ
叱 るべき
ζとは
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いわゆる
γ
一
手もとに在 '
v
p
一
能、衝動を抑制し
て社
H
…
会生活に必意義良な習
慣を 、身につけ
@252
るζと。身についた礼容。身だし♂
なみ。
しつけ〈袋)①礼儀作法を身につけさせ
る「広辞苑」でひいてみたら 、
「しつけ」ということばを
「しつけ」とい
とであろう。
ζう
・つ考え方や生活態度の育成が
Jpzi-
if
7
F
ットとか
~
、
エ チケ
モ ラルの窓
山
、
ナ !とかいっ た具体的な函 と
とは確かで
f -
zf
・・
・〈
--i r--〈
E ・
e・-L1
・
・222 〈 t
i
t--
L
J
子どもは 、 それぞれ一箇の人絡で 、決し方や生活態度を身につけさせたい。そういどによく笈われる。例えば御承知のように
…
メリカのホーム ド ラ マな 川
、ほとんに思われる。身近かなζと
川 しいと常荷思っているが、さて教育はどうそういう欠点を言ってくれる人は
で雷
えば 、テレ叫
一 のも てる 、しっかりとした人間になってほし事っ。一たん社会に出てからは、総身にの乙とは外磁の方がずっと進んでいるよう吋
伊あろう。
~る場面によくぶつかる。自分の行為に責任どもはそれに気づかないまま大きくなって親たるものの災伝であり義務で
、川
くさいζとばではな
く
ヘ
多 くはそのこつの場合が融合してい 戸
、
批判すると忠われる。
、
れらしいが。とにかく
をふくんだ粉神的な面 と あると
中学一年の女の子と小学て大人の付属物ではない。どんな小さな子とある。@の解釈は教育学的な怠味でのそ ~
、
ぬ・側兵
くし には
‘
岬閏翼民同一
aa
Ba
a罷
a-幽
'
u
mm
掴〓r
日N
吋、
F
ド
S
E
E
R
F
わた
、
、
また「愛の鞭」という ζとばもあり
、
て はい ろ いろ考 えさせられるととが多い。生活がある。子どもの自由な創訟やくふう
、
の教育についにもそれぞれの主張があり
}五年の男児とがあ家
る庭が
ん
〆
しかし兄弟げんかをしあるように
子どもたちは結構スクスう。然し
、
明 やかまし い細部会の生活巨大なマ
} 強い刺裁の中で
、
13 ー
叫 たり 、 ハラハラさせられたり 、闘ったりすべき点はどんどん言ってやらなければ 、子「しつけ」は古
川 クと育っ てゆくが
-
••
山 すればよいか仲々むずかしい問題である。ど無いのだから 、できるだけの正しい考えピ奮をあるア
吋
…
/
>
>
P
、
思春期の般と 高校生の男の子と
、
、感 銘する
生活が索直に織かれているが
、
り
、
、
いたわっている光景が美し
、
f
ζと
<
、
キれをする
スクール大流行の時代で 女性はますま
男性までもおし
、
、
、
「銭」の字
淡字で「しつけ」を普くと
、
ζとから始 めて
、
ζと
、
そ
生活のあらゆ
災しく整える
、
人聞にするというモラルが
そのまま生活
ζとなのであ
容貌や服装だけでな
、
ζとばの使い方などにもいえる ζとで
乙のおしゃれは
、
t
t
t
t
t
山伏して災しいζとばでなく
、
むしろ
、
のは
アクセ
にな っている
が 、大 きなしつけの百京都府
、
験均などでは筒帯同化した敬絡が笠ましい
乙とばの 使い方 に無駄がなく
を感じ る。しつけ教 育の一つの場として教
、
、
また考えてみると
ともっと考えられてよい。
しかし
、
つけでは
自 分で自覚して一つ
いくらロ をすっ ばくして説
、
たいせつである。作家
レビであっ たが
、
も繰返して
しい 乙とである。そ
はるかに利口なやり方である
、
ζとが
と同じように
、
その『日総」とは簡単な記
、
夜就床前に一日のきまりを
、
録程度のものらしいが 朗組きて聞を洗う
られるそうで
とをつけてお
三十年米「口総」と「日記」
のKMm
たまさんの絡がテ
習慣 づける
うでなければ始めは強制約にで
ζれが仲々むずか
った方が
の事を徹底的に実行するようにしむけて行
いて・きかせるよりも、
そのためには
「身につける」 ζとがたいせつであろう。
、し
上に、 センスのある話し方の紋背は、もっ
r
方の「口記」は作・※として 必要な峨総録の
類らしい。仲々かくれた管心があると思っ
て聴いた。毎日閉そ泌わぬ人はなかろう。
生怒的なものになっ てしまえばよいのであ
が
ふつうの
5
会が折々に尚てくるが
、
5
ントや臨仙の切り方にもよく注意を払った訴 それは気持がわるいからである。そういう
ζれは
1
日本の家庭では見られない点であろう。
、
f
あろう。必町却な以上に敬訴を使ったりするつける怠味で メモ するのだそうである。一
く
、
れがしつけの第一歩であろう。線作正しい
る而で秩 -w
をw
保ち
そういった
を宛てる P身のまわりをきちんと 整 える、
H を美しく
身
ρ というわ けか
れているが
わる いわ けはない。当用淡字表からは外さ
ようになって来たが、美しくあって気持の
す災しくなり
・
ゃれの教育だと思っている。チャーミング
t
出ぷ
・彪の中での自由な絡し の災につながってゆくという
、
でも夫婦
しっくり行
ζのドラマ
も一方交通にな ってしまって
かないものであろう。
、
〈円いの安気がなくては しつけという
ましい。やは
に示される健全な米
・庭教育ぶりは、会 く談
たあいもないも のが多いが 、そ うした片織
でいるのが 快 い。三十分のお窓そのものは
ユーモアが一家の中をふんわりと包ん
互いを噂重し
気をつけてやるといったふうに 家族がお
、一 家ぢゅうで
自動車に夢中になる息子に
、
と が多い。野館時に凝って学校を怠けたり
ζ
かわいい少女と三人の子のある中統家庭の
では
『パパは何でも知っている」というドラマ
、
がとても伶腿ましいので、 そういう乙と
,
明快である
6
- 1
4-
p
しぶりは大きな魅力であろう
. .0・ 1・""..・ 、,... - . t.....'・・・ ~ .. . . .. ....~ 川""'....
、
わたくしは、 「しつけ」は、 一種のおし
.
"
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、
さ
、 本乙
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な
一の。
Il!l lま
のよら
と女絞れ種
う子外
さえお乙を
はし後しも
「日
つ約まう
らをさ護けなな­
史しそ代はしれ怒文たく蒋れ撃 は織も歩
をし合いの一行いるの学のと
、
ぬ
tζ
三
い争成 . 惑の災
つ
け
は
22 て箸な !E 作るうの
t.í fIFた伴しで
ゆ、ししがないいわ富者ま愈婆 子中 も ついい
けそてて、主るもち結のい 味 1[. 1ζ
、 のてもえ
れ う伊j い乙あとの、し好かでをF し隊と 釆の Iま
ばい とるれるいと奨て怒。のきて中いるに
とっしのを
う考しいの
し送おかえよ対悦
れ
いたてでほ巧わえい る感
つつくらよ うすい
22
き砂観
たのが
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、
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かちをて手はい宗むう教らわの
ね
、
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いで代とろ触や子なな方気はとててまけな
にあ窓ん うがわ lEq
もる訟ど。あらは
つ。を
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れれる
乙捕 は広脇なじな tまま
i潟今るか反抑ろ数
、
いのい
と新伴失日湯な抗しが的何怠下のうが容。
お盆やお彼洋や御命日など折々の行事をえ
2F
、
てし教い時 えド逆 iとて つ数段汗そなそしの
ゆっ宵る代てを効な、けえ援のう宗乙い生
冷、ん、ま
、
l
J
かの
らんで
考しっしででム的つあなと味にでぶ ら望 毎
えいたでは考!なけつし
ていないのか」という疑問 があったら
そ
j
.
れは大削巡いであろう。 もちろん種々の場
客観的に見て 、あら ゆる教科を利
合があって一様に崎沖する
ζとはできないけ
、
もちろん逃徳の時間も活則されていよ
れども
、
用して人間形成の教育が為されているはず
で
、
う。子どもたちにとって学校という抑制間生
、
じゅ
活の坊で 話し合い 地域社会の抽出向性に
、
ζの世話から
まで発展してゆく人間関係の勉強は
おしっ
ょ
うぶんに用恕されていよう。先生一方も新入
、
いろいろとしつけをして下さっ
学の一年ともなれば
、
めていうまでも ない乙と
何といっても多勢一し
、
ζとは、改
始まって
ている
である。しかし
、
、
母親の果す役割りは大き
、
の教育であるから しつけはやはり・以底に
ζとに
。
おける両親協力の教育に 比重がかかって
来よう。
なものがあろう
ζとであ
r
J
、 込
の磁隠しのす断、あい守き出しを卑ん
てが出にと
宗教的なしつけという
i
との三中のとの 哉芳
も
持れいも良話動も。判はでう繍ず毛功銭
、
3
で賀
、
J
1"7 育る
当志の象るのそ乙そ ifí:をがいの
殺後に
、
をう、
砂
団地生活などのため、仏檀もなく神
J
fro
い」の。
育。
、
う
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のいが;志志喜教
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教るっかを美と葬物正わ 慈のい
るが
、
。衡
、
けてれそうにる
しい学た線玄人まいまんてそと
繍もない家庭の多い現状では 困難な点も
j
る均いで
f仰,'1
校あ
多いが、 一家そろってのお慈まいりとか、
九
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lぼま永けてもと
学で、な文れ鍛 m
j 行
ヨわ
1
、
現とに迎
、し
3
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長は あ
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.
.
- 1
5-
』
・ミユラ
l
、
、
惜しLは
、
、
近 代 高僧 伝
原
、
、
来
その取引竹次
w
を
郎苫ぷ
うけたのは文校入学前後の滋カ停にしかすぎ
、
なかった。支校から京学本校に入り 似合及
、
直ちに教授を拝命、似る乙と二年。三
、
び大口地笈沙を研究し 同 一
エ十年七月決を終え
るや
十二年には選ばれて海外留学生となり、ドイ
、
ツに学んだが 彼が師事したロイマンの許に
は各国から俊秀があつまり研究に
いそ しんで
いた。その中にも一ふさわ学級に光彩をはなっ
、
ていたのは雲米と海旭であった。彼の洋行を
聞き我がのように必んだのは綿雪合であり
、
此時
、
の山立に け
絶対といってもよい程 弟 Jr
川送る
ζと」と只てはいわれたと
守
つ
ω
怖
ばかりは者びのあまり珍らしく玄関に山「道
Mm
に出向雌の志をいだき儒 乙とをしなかった師であったけれども
、
| 伝
と改めた。似合はレ〈m
削a五棚輔の丘公寺に伎し 心阪国の
のようなもので、ぷでも浴日パをむって働ら叫
さ
H
九3Aを
H托してω 皮し
必らず金片そ摘り仰せる」と述
、
τrs:
、
ねた
耐条文雄 ・日比畑町次郎崎市によって開桁され
n
からは小央にあって、恰かも宗門が束
、
i
ウイルへんNム第二
世大学のロ イマ ン教授に舗がしたのは荻原安
り
又北海道の削教を志して札幌になむ与を
、
、
制柵屯品すを述兎
てに浄土宗高等
;
JI
J
1守
、
又逃心堅闘の律的
、
す」と口必った乙とがあったという。
、一 入室にとじ乙もり
、
そ
ヤシ
外出
外遊し研学に熱心であった彼は知んど M
ζ ともなく
ヨミトラの間以会論釈やハリパドラの八千頒絞
、
の依Hhを
H重ねた俗であり
若経註訳 さては党文菩護地の研究をつづけ
、
でもあった。従って宝来が舗の膝下で養育を
十カ月の後には彼の後を追って渡 学院長に就任するなどして宗門のために斌身する
、
彼は明治二年二月土橋次郎の次見として
辺海旭がドイツに渡った。
来であり
m
f
I
1
J
めストラスプルヒカイザ
凹を統一して京法の拠隠をはかるべく企てた の影慢を・つけてか古米も「倹は仰向ががすきで
生として 、明 治二十九年九月党話学研究のた M
、
く叫制作などちらかと古えば郷附としての而
、
の風絡は身の丈の低い 顔色の以いど乙とな
べているというゐそのふ知の鉱保は設国ではていたが 多くは期凶守仰をはいて今世仰をゆだ
さえすれば
ヨき
市三以内情什た術門町の紀州泌邸に生れた幼
が
萩
災の自叙伝に「党沼研究の学問介は木知の鉱山
にして答父を火い
党語学のぷ斗マックス
、
エ円ボ初の南川尚
市尚
「却に分かれ紡抗の勝ある乙とを飲き、市恥影を多分にもっていた人であったらしく
が、其の向械の耐瞬間官ぞ受v
けψ
、
16 ー
-
…~
一一
々について言話学的な
、
彼は文時閣を大切にされ 終駄にすどすと
におしすすめられた彼の生活は緩めて規則正
堂字倒壊の後は寺地を多摩に移
にも尽持
し、
武践野の
仏教の蕊機的研究と学徒の養成
、
同十五年四月大正大学の創立を見
西蔵諮まで解する乙とができ、料品蔵漢を いうととはなかったようで、研究生活を一途自然の中に再建をはかるなど寺門経営のため
、
たが、 それにしても彼が淡訳仏典のみなら
ず
対照して仏教党語の個
、
、
、
其の主任教授となった。かく
、
しく、
且つは関際的学術の貢献を企図して聖路学研
反面如何に熱心に仕事をつづけられて るに及び
説明を試みた所に 、ヨーロッ
いる時でも用事があれば
究室を設けて
パの到底追従し
得 ない焚 語学界に世界的綴威と仰がれた所以
であってもきっと止めて次の事に移られると
たとえ仕事の途中
があった。前回ってロイマンか ら高楠憾士に宛
いう鮮かさもあり、「今少しやれば一段落つ て一生を党語学研究のために捧げ 「研究し
際「せめてあと八九年は生きていたい。そう
、
てた消息に「荻原はすばらしい人物である。
た。そ してどち
く
研究の成果という ζとには重きをおかれ
すれば大体今までの研究をまとめるととがで
、
、
六十九歳をもっ
多くの学績と著容をの
、
生きられるものではない」と述懐し 還悠の
でもあるが、そう何時ま でも
それに学問はヨーロッ パ人が及びもつかぬも
、
「その時その時の ζとに全力を向なけれ
ζとは幾ら
のである。お前がいつもいっていた辞典の編
か
、
たい
集にはもって乙いのものである」と記されて
ず
から」というようなととはなされなかっ
し でも如何に偉
きる」といった彼は
らかと言えば仕事の結果と
あったとい う。乙れをもって
ばならない」と話されもし 、文平 繁から人の
、
‘
ζし昭和十二年十二月二目
守
A 山珠を腕から総さず、外出の
て示寂せられ た。法名を
生命はいつ何時どんな事になるかも知れない
、
迎逮社接誉上人心阿独有雲来大和尚
という。
俊雄 )
17 ー
-
大な学者として 留学時既に衆人の認むると
ζろとなっていたかが察せられるであろう。
からといって
三十八年ドクトルフィロソフィア lの学位
を得て帰朝され、宗教大学教授のポストにつ
〈大橋
.
時に方紀正に三十五歳の頃であり、「今少
留
しヨーロッパで勉強させたいが何とかならな 時には必らず名刺を持多されたという。
、
学に
いか」とい うた ってのロイマンの 言策で
ら れ 、ケンプリッチ大
、
博士の学位を得たのは同十一年 五月 傍ら組
ラ
学 は一 年延長させ
イツの 学風を会
いたが、大 正元年には紹かれて東京帝国大学
ζ そはド
学ばれたが、「荻原
講師となり、一時畿山大学に も出 総 し、文出
、
その
「笠首相挺薩多雲釆た
」。そして「仏教党路の研究」によ って文学
乙のロ イマン が学風を愈々宣揚せる でて芝中学校及び淑徳高等女学校長にもなっ
得し 自分の心血を伝え、飾の使命をはづか
、
、
、
X
しめ ず
天晴れの学者よ」と いい
ζろを見ても
林誓願寺にも獲位、ζζ が関東大震災にあ い
x
とまで称揚されている と
精進振りがほぼうかがえるであろう。
ラ
裏道門と浄土門
法然上人が浄土宗という史上絶大なる怠畿
のであって、突に態度のはっきりした宗教な
の である。
私はこれまで長々と啄木の宗教観を述べて
、
ことに啄木という一例の入閣を笠上させ
、
きた。
をもっ仏教の新しい方向を定められた時、先
の のも 一体何で私が今 法然上人へ返る道とし
づ一審始めにお手・守れたのは、仏教そ
、
Kふれておいた如く
ζの抑制の日頭
、
浄土念仏の道に速なるものだ
、
啄木の宗教観の帰結が 山車問は法然上人のお示
それは
たのであろうか。
を援護分類して、自づからのためにその中の て
どれ を選 ぶか、という乙とであった。
いわゆる教相判釈(略して教判ともいう)
といわれるもので、その詳細は不朽の名表選
択集第一な段に述べられる通りである。しし
かになられた
も上人のそれは送料斜師の鋭に基いて、塗逃 ったからなのである。
、
- 1
8、
突に獲然そのものであった。
、
、
。
という
、
法然上人へと述なるも
ζと
第二段階の「宗教へ向う心」である。私は乙
る のは
ζとに就て述べていく
、
それで緩く結論偽な紋述となるが 彼の宗
である。
門 浄土門と二つに仏教を大別されたのであ 啄木の宗教観に就ては銃犯掛け述の巡りで
今一符び部分を引用する乙とも紙数を増すだけ
るから
、
他宗の祖師方の教判は三つのもの 四つの
もの、あるいは五つのもの、などあり、しか
、
のである
念仏の道
もその中で更に細分されるからずい分断制維 教 制限が、お
とな るが上人の仏教はそうではない。自分の
助けて下さい H
H
啄木の宗教観の中で一審問題とな
カで聖者の道を進んで仏という最高人格をねとしたい
、
、
る逃〈型巡門)と 向円分本来の其の後に目覚
、
めて その無力なるを悟り
、
と救いの主を求めて、一向きへと引上げておれ
らを「浄土念仏の心 」 乙う思っているのであ
う道(砂土門)と、とのこつだけである。
私迷はこの二つのうちどれかを選べばよい勿論同時十小は「念仏」のネの字もいっておら
る
道一
- へ 還
1
石川啄木 @
j
彼の生派のど乙にも「念
、
のものとして
、
しかもれ分自身の災政から制
、
(併問〉が 仏の木簡
自身は割切に
ζれ罪慈生死の
凡犬』 という強い内約
、
ない。のみならず過去に於ては法業経に関心
似であゥてはいけない。あくまでも自分日説
身かれ しかも
をもったくらいで
立派 な 「念仏の心」 である。
、
抑え きれずに
、
、
は押えきれずに
来の自分
、
脇
ほとばしり山川たもの。でな
H
見せ畿けがあっては
、
、
、
偽りのない自分、正良正銘の
、
ζ
との
念
、
三つ
深く信ずる
このためなのである。
してみると隊本のあの強い
、
H
,
鐙田氏の言禁を借りていうならば「人
、
人間意誌と問殺の立場に立たされるものであ
って
、
函館公 園 の啄木 歌碑
H 仰に祈りたい とい
柏
H
う
生に対して設尖」であった絞 e その彼 v然
h持
論といいながらも
次 の恋歌 矢ぐるまの花
函館の青白軒町ζそかなしけれ
ζないのである。
り
自分にしなければならない。飾りがあり
決して念仏は 出て
法然上人が『一
r
昨入
小知の怨鈍のnM
になして』と・泌さ
突に
、
れた一枚起粉火の
み教えも
、
の赤蜘時々な本来の
白H
分に遣れ
思召しであり
、
仏する者の心(出品
、
という『深心』が
中に
の虫憂会-一心)な
その山中に我か品川界の総べ
心〉として
十分別解して預ける
、
人間そのも
仏」という表面立てられたものを見る乙とは山川きれるもの 「陶相川アミグ仏」の一戸々々を円いずる〈伊い)必柄引条件となっているの
できない。
又第二の
、
即ち私が 「
幅削宗教の中の
、
ζろのもの
A仙仏にが、ける
それには先づ自分というものを徹・民的に本 の Hとの取組みみは 実に"ザエ
しかし彼の晩年は『念仏」であった。少くければならないのである。
るもの
とも無宗教といっているその成の中にある無
宗教 ならざ
只宗教」と表現したと
、
「由市教へ向う心」として綾々説いて・きたと乙 「つくろい」があ
ろ の も のは
、
制仰々に生れた彼 そし てあのよ うな喰道系
、
の思惣に一時なりとも心動附した彼その彼が
絞後に偽りのないが災として
「松然上人 」の
な い方がある
、
n身の円以・低からほとばしり出た心
災
はに念
仏の心だったのである。
、
ζういっただけでは政解でき
かも知れない。
、
、
を只に山口分のものとして
しかし「念仏」その もの
み教えそのもの
その中に生かされ
てをもっている人には
と思うのである。
念仏は借りものであってはいけない。入実
19 ー
-
も
ζ
ろのもの
汝いを求める気持の出てきた ζとは当然の乙
ととさえ理解されるのである。
、
、
ζとだっ
、
人聞が真に本来の自分に目覚めた時 そ
法然上人が最も力説されたと
は
ζ
とは御著書や御法務を拝
とに求められるものは何か という
たのである。乙の
、
その無神論の中に
、
、
やは
uはあったのである。神様と譲治した夢
H
求むる心 HH 抑えきれずにほとばしる
しかし既述の巡り
り
心
上主義〉ぞ上げている。そして乙の位機を克
完全に己を放楽し
、
、
、
と
一切の私を否定する
服するものとして、玄上主義の独惑ではな
く
。
却ち『宗教的無我」というと
精神的態度
、
の認などは災によくとの閲の消怠を物経って
を力説している
ζの宗教的無我というこ と の純粋を
法然 上人の念仏の中花見い出す。先に述べた
私は
いるものではなかろうか。
、
必然的に浄土的な方向に動か
、
要するに啄木は宗教の商に於て 霊道を進
ζと能わず
深い内省からくる「自身は現に乙れ罪悪生死
、
読すれば直ちに信解されるととろであるが む
ざるを得なかった人間という乙とができると
、
あの智恵第一といわれ 持律堅固なる 上 人
乙の点彼が生き長らえていたな
、
、
して仏道を成ずるととのできないもの
、
をい
カといい「断谷線」「 mm不 RH
」 つまり本性と
おられる。断前世間提とは党問でイチャンテイ
善問鑓のごとくなるもの也」と俄織を釈して
d tNe'MMEhp
である。上人は者怨『三郎経釈』の中で「断
必ゐ
ζれ
の凡夫」という信機(凡夫としての自 分 をそ
、
突に
思うのである。ただ残念なのは ζの「念仏の
、
のであって
ζそ
本来の自分を見い出した時 浄土の門で
、
、
単なる惣定としかならな
、
ら必ず浄土系に依処を求めていたであろう。
という私の推断も
いのである。
H 感生死の凡夫
罪
μ だけである。
一切の「私」も総められない。た
、
うのである。浄土念仏の人間観は かくの如
、
啄木という一個の人間を
しかしとにかく
のままに見ていく〉の人間銀
が
ほん
心」ともいうべき第二の宗教への心は
、
なければ真に救われる乙とはできない(往
、
、
と川町ばれたのは突に偽りなき
、
生) 聾逃門ではとても仏の道を歩む乙とは の芽を出したところで彼の一生は終っている
できない
、
啄木の開場合でも 十八才から二十才頃
、
災突の盗として合本され感泣されるのであ
広v。
今
までの符牛や梁川に傾倒していた時代は、い
、
、
き徹底したる自己否定である。そ乙には一片
思う時
の独諮も
Hm巡は A1
の巡に非ず H として型遊
も ってい
わば仏教的に「翌巡の滋
」に山関心を
、
か士一後遺ばれた上人に心から合掌さ
ぞ給て
、
た時代なのであって しかもその上自我怒識
およそ非電道的なものをもっていた
、
と
ばしり
、
、
Hほと
あの市民
、
それは子
思わず
、
H出たものがお念仏であり
乙の泥凡夫に其に目覚めた時
ζ とから始めて出てくるのである。
だあるのは
いう
ζれを完結へと進める
法然ヘ還る遭 〈結びとして〉
、
ある留学者は現代の危機として 人間が人
念仏は
せられるのである。
と
のであるから、勿議
とはできなかったのである。
、
自分の生活的無力を知るたびに 啄木の心
、
間が
を過信する という人間至上主義(自我豆 供が「お母さーん」と思わず叫
んだ
は無神鎗へと意識的に傾いたようである
20 ー
-
心の川町び声と同じである。
ζのような意味で
現
、
もある。
、
、
ζの罪深さ
、
、
ζζ
乙の泥だらけ
ζ
とであ
、
乙の無
の自分ある
に
を救うもの
、
虚心に自己を見つめた場合、そ乙には必
、
、
、
突に乙の人間の必然的なあり
、
弥陀の本願が鋭かれ 念仏が教えら
、
法然上人は
ρを、説かれたお方だった
もっといい換えれば、 H本当のあり方。
、
のあり方
、
即ち「災存」とでもいうべきもの
啄木の生涯を見る時、乙の人間というもの
のである。
磁のないあり方
H
方
れるのである。
として
力
ζとに気づく ζとであろう。
ずや無力な 罪深い 泥だらけ
り
ばならない。人生に絞突とは ζ の
uで
、
、
乙の点で彼
冷土教の心
て、唯『永劫不変の性格の根」のみを残した
ζ とから開けゆくもの ζ そ
、
、
(了〉
、
啄
ζれまで余
少し尻切蛸鈴に
けに重点がおかれ 後の法然上人の浄土念
、
れ、勢い長大のものとなり 又との部分だ
に鈴慌紋述しなければならない必嬰に迫ら
、
り知られておらなかった問題だけに 細か
木の宗教観というとと自体が
たのである。しかし容さ出して みると
とんなに鬼大な紙数を旋す気持はなかっ
〈付言)
いのである。
を『法然へ還る道』に一一脳述るものと結びた
であり、若死に ζ そしているが
更に念仏は逆に障問機の心を起すもの、とも人間は総しもが虚心に自己を見つめなけれ 彼、
逆販の
、
いわれる。「念仏すれば三心はおのづから兵
すなり」(勅伝二十一)
ζ乙に念仏に於ける精神的態度は
、
、
重姿のもの としているのである。更に
、
展回に於て 常に「宗教的無我」を問題と
し
、
といってさえ過言ではないであろう。
、
緩品目
国 すれば、とれなくして浄土の京総はな
い
法然上人の念仏は
ζのような、浄土念仏のWH鎚に徹す
H 代を導くもの
代続々 時
H とされるのであ
る。
しかし
終には
る ζとは勿給簡単ではない。念仏そのものは
、
ζ の ζとのみを尊く思う ζとで
一切を否定してしまっ
、
、
一繰越として述べ
ζの方は略さして帽刷会、 ほんの
結訟だけを述べて前者と結ぶ ζとにしたの
なるので、
なければならない。乙れ又、長大なものと
は浄土念仏それだけを
鋭かれている問題でもあり 乙の点の鯵述
、
しかし上人の浄土念仏に関しては 既に
、
精神主後的だった彼 虚郁州主護者としての
『浄土』総に於ても 絡先生方から怨切に
、
伶大なる法然上人の道へと還りき
せて、史に「 WH災だった彼」。
彼も又
、
たる絞突の人だったのである。二十七才とい
う若き死応
、
、
彼、そして、それらと、それらの縫移とを合
、
仏に関する問題の部分が
a,
剖行〈棺U
創
什な行い〉と鋭かれるが
n
なった感があるのである。
いg
「熊併の法」と示されているのである。(阿 を、つくづくと汚えさせられる。
弥陀経)
、
硲かに ζれが右の如く 高次なる精神的態
Hそのまま
度を問題とする以上、そう一朝一夕に簡単で
あろう筈がない。なればとそ
、
と円騒然 mmなる仏へ
、
益々念仏を唱えよ、念仏行から信心の道 吏
には信心から称名の戸
の道が一焔の尊さをもうて関かれてくるので ある。宗教も道徳も
21 ー
-
である
、
姿は 啄木の宗教相慨を逝瞥すれば
。
にもな らない 自分
H という
ζとで
、
逆にそ
、
いわば「必
、
、
、
乙の弁註法的な
そのまま「浄土念仏の在り
友人へのの中におられた泌
、
それらの中から騒然とし
れたわれわれが
き方
今
ζそ
、
総ぎさっているのだ
、
、
この限界という
、
、
と
そ乙に始
ろ うか。
あの虚熊へ
ζたで苦し
本当に限界を知った生き方だ
啄木に就ていうならば
H とでもいうべきものであ
、
の到達
、
、
、
「約泌をもて生死を織るべくば -m
岱なん
ぞmx滋門をすてて
門におもむく
とのか十'
、
まれた。符必第一といわれ それなのに
法然上人は
、
宮を也使えれば グ自分の限界 を知った生
ζとに本当に気がついた時
その
、
、
燃の品目向 細川軌道な生活、「体そ駁してく
から二十阿才
は乙れをよく物語るものであり、二十一一一才 ったのである。
方」なのである。後の『臨吋氏関穫の現状』
在り方乙そ
的在り方だったのであり
然そのものが成織ではない」という弁庇法
の虚無は以なる底無ではなく
のまま高次なものへと述むる袈図となった
、
も
念仏との問題も門づから領解されてくる
、
めてよりよさ生き方が問聞けられるようであ
ζの付析を鋭んで
のである。であるから必然といっても 仙似
、
と思われるのである。もし織らなりとも納
得のいかない方は
う一度啄木の部分を悦んで頂きたいのであ
啄木の生涯は突に浄土入門の生涯で
、
ζ そ「法然へ返る道」 と され
るが
ある。なれば
、
引私は
、
、
くどいようであるが
るのでもあり
彼がもし二十七才以上 生き延びたならば
と断言するものなのである。
、
必ずや浄土教的人間に な っていたであろ
う
彼が強い鋭敏的良川例〈第一の山川敏的立 れ」という附え
て明白を求める乙の野論の生れてきた ζ と
、
もろくも織れ落ちたのは 本治
、
、
人間というものは
形乙そ巣
、
ζうして 啄木の宗教的立場を考えてみる
私には
、
H 質の在り方
間
H へと口加
乙
と
で
ζのいわば巡命づけら
そんなに鳴いでおりながらも結構浮ぷ
Q
、
ら
ら也。翠道建行のけわしき道には
、
はづベしはづベし
、
、
総じて
れ た。
£
悲しむべし悲しむ
、
、
n非
.も
A 知らざる縦仰の者也」
、
〈商宗要〉十惑の法細川川
一畑
一痴
説の法然おと
子の如く
制予もさぬ法然肘也 m胤門をも知らざる銀
dM'L
べし」〈一部
-打
一開釈)と号放され遂に「ぬ
と
「われは何によて生死にはとどまれるぞ
望みをたつべし」(問)と仰せ
、
行法のあしなえたるともが
、
べき」(和怒灯録〉と仰せられ又「智恵
場〉から
22 ー
院側めて注目させられる汚実なのであ
、
は
、
々おめられるどと
と
-
のまなとしゐ
に霊鋭した・如く自我の至 上と、 加えて俗
、
勿論借りものの宗教では満足できなか
そしてその自我が益
りものの祭 数観のためだったのである。
に
皆一織に
、
なるが
その借りものが否定されて
あ
、
ったのであり
あくせ
入されるもの、と信じられてくるのであ
いが
、
、
、
自我の最高のみが泌められた時 次には当
る。生きる
J2
L
さ
、
、
i
A
P7
く
せ
く
瀬の ない われわれ。
り
あ
然白衣そのものが 、収拾のつかないほど
手におえないものになってしまっていたの
、
である。 ととに始めて雌側聞が生れその虚
、
加問は単なるニヒルなものではなく Hど・つ
。
る
。
る
く
して木阪の前に平伏したのであ る
。
なればこそ浄土念仏は先 諭 の如く「信
-h
A,
Eι
.
‘.
』A
司W
、
となった塑光上人の如きは 由主泡門を知る
ほど浄土門の伶大さがわかるといわれてい
、
かの
表而突
、
放に法然上人を
、
ζそ巾えに万人の締結というべ
るが
念仏門
うと とを第一の条
機 」 (限界を知る〉とい
きであろう。相端m
綱z
同
人は
、
件とするのであ る。
万人がかくあらねば
、
、
、
/
ラジオを聞いても
ζの教え
、
暗い
、
石川啄トホという近代の泌人につい
にあづかるととの有怨さに肌判明するのであ
今
て、上人の念仏の教えの、一一
胤の尊さを知
、
、
ただ 念仏し て
あなたは
、
、
何をしたのご
、
、
||(終〉
ll
、
一自にした接亦を賠しあい 喜び
してあげたの よ一
などと
AH・つ乙とです。
、
もっと明るく
、
毎日を送りまし
二人よれば 他人の慈口、吻 穏に終始し
、
たくないものです。
明るく
う。(栴)
主
一
一
一
》
ーを鴨川い電いってひっぱっていたから押 一
「あのねえ@ぼく。おじいさんがリヤカ
、
灯を お使いに行く途中で四つ消したの。 』
、
「おかあさんはね。きょう 消し忘れた街 一
こども途にも 食事どきなどを利用して
、
都品をおくものなのであ
むしろ当然のととかとさえ感らじ
、
念仏が万人の帰結と
ることのできるのも
ζの立場 ζ そ
絶対の締とされたのであり
要は
して
、
晴々
、
H 然主人の一分流である
法
H とい わ れ
、
に念仏門を攻椴申している白蓮上人までが
、
ならぬ災突の立場であって この立場に立
突は
る。
新聞を凡ても
、
燥な事ばかり。まるで梅雨空のように。
、
せめて家路の巾だけでも 明るい
した毎日を送りたいものです。
ほめたたえ運動 HH 炎点、長所だけを
H
、
される時 そ乙から先の問題として「念
るに至つては門 家永三郎博士〉 いかに上
北海道森の自坊の媛炉の側にて)
(心 〉
れ
仏」が生れてくるのである。又乙の立場を
人の浄土念仏が最高のものであるかという
〆ヘ
もっと明る
。
( 仏)
、
知らぬ不実の人間に、災の人間としての立
ととに 、た だただ感激させられ
(心 )
見つめる巡動 ρを全国的に展闘したいもの
です。
- 23-
。
る
場(在り方〉を教えるものとして「念仏」
(宣 〉
明るく
〆「
が僻められるのである。
啄・本は前者の側に自づから至った人であ
加入されべき
って、当然「念仏の道」へとm
人だったのである。
、
かく『念仏」というものに於て 人間の
、
人生というものに対して 上迩の
、
其の在り方を究められたよ人は勿治体大で
あるし
、
如く真剣であった.啄木も又やはり近代の
私人と目されるのである。
極言すれば上人の浄土念仏の数えは、恐
らく人類総べての、当然還り来たるべき逃
かとも仰がれるのである。
護送天台よりよ人の門に入 り、浄 土二組
、,一
一
,、白台場内山,、-働咽-、-
~"~NN"""" ,/",,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,/,,,,,,,,,/~'/'/'''''''''''''''''''''~''''''''''~''~'''H''''''''''''''''''''""""""U.h'a
4)
(仏教習俗覚書
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t --21ki--ri
魂棚の奥なつかしゃ親の顔
(鬼
賞)
〈去来〉
悲しさもひとしお 、さま ざまな愛
、
心にて顔に向ふや雛祭
懐かしきもひとしお
同時にま
、
と情念とを織りまぜてつづるお盆の風物詩くらい温かい
。
ζの月くらい諮るに余るとと
人聞の血 潮のかよった絵巻物は少 ないでしょう
た、 仏教的な習俗と しても、
、
もないでしょう。本誌にも毎歳脅かれている乙とだし私
、
今回は月間の行事を中心に雑記する
ζ とにしよう
。
て もいる
も何回か孟蘭盆の歴史やら習俗ゃらについて書い
ので
、
もっとも、そのどれ一つをとっても興趣はっきませんが
シでは以前行事解説風に普いたメモを願を追ってとりあ
ζ
日
かまぶたAVいた‘。
釜董朔
ふた
と呼びます。いわゆる地獄の釜の蓋
げてゆ乙うと思います。
H
七月 一日を釜蓋朔日
が脚聞い
、い
てよいよあの世から亡き 人々 が飯ってとられる
7
-b仇
-v
呼んだりもする。別に亡き人々がみんな地獄へ
。
お盆を迎える朔日だという択です 場所によってはエン
の 口あけと
、
ζ とさら
に
ζう呼んでるのです。むしろ江戸前の タン
おちている筈はないのですが、そ乙は日本人らしい酒落
で
24 ー
-
隆
康
村
中
rJ
122 、,
、,‘ ,、・・
ar.‘,、
-
お 盆 の 行 事
•
、
品 -eSとか念
ζの月の祭りばかりは故郷に仮して
といっ た気持もあっての呼び名で
、
。
タ
乙の自にお
ζ の朔自の
と 立てるそうで
にいほん
庭に燈寵を高々
、
信州の諏訪あたりでは
事 bn
、
ζ の日から月の問中
また家々では夕方に迎え
中には
、
お寺ではお施餓鬼の旗を立てたし〈A「で
、
、
亡き人のためにする乙の月の祭りと そ し
、
設に落ちた人までも
貰えるのだから
乙の
日
っかりとせねばならぬ
、
しょうか。
特は
、
も村によっては行なっている)
たぞ
火の焚き初めをしたもので
た
に LPU
とW
イマツ焚きをすると乙ろもありました
、
ほんはし らと今ゐ""
去年のお金からあとで新仏を出した家では
。
それで
ζ
とを
盆の般飽竿||盆柱とか舵植木竿ともいうーーをたてまし
た
、
す
。
、
かの 10
・づ《
AW
句ょう
霊ヤ
ン 7
ンボ になってと
「刈路作り」 とかいっ
期日は 精 霊が赤ト
ボとかいっていま
しょ
乙の
人 々が
「燈飽立て」といって 新盆の曲集には親類や隣家の
集ってきて
赤トンボが飛びまわり始めるが
、
・
A-,A
白日a
,
司
A,
V
鍋HV
、
ま た精 霊ト ンボとか ホト ケ トン
ζ とを 精
ζちで精霊トンボとかおショウロさんと呼
七月にもなると
トンボはあち
、
ばれてます。関東地方では賞 ヤン マの
と呼び
って ノ
す。丹 後 のあ た りでは
の世にか え
え呼んでいます。
叫んみ、づ 4
またとの口は「盆路作り」とか
て
、
基地や
も
中固にお い ても
撃を刈っ て道をきれ
、
すでに「持経」に
、
ζ
お盆まつりが穀物ま
、
ζの日の供物に初変の粉で伺い焼き餅
e
語地から我が家までの遣を掃除します。遣い
、
西の国から飯ってくる 人 々のために
いに清めるわけです。
、
盆なりとむしりけりか な訟の草
倍州や上州など
をつくってお供えするととろもあり
いお
く
ζとを示していると思われます。
・-、主
M同 AV
町
七夕と七日傘
た伝ばたな骨か阻ん
つりをかねている
同
ひとほしたな
来牛と織女と今行逢ふ
hH& 危ゐ
maの
a
aか
天部門に狼立つなゆめ
ゐ叫由か@aa
ひととせに七夕のみ逢ふ 人 の
こい主
、
ζの閣の詩 人た ちの詩情をいたくかきたてた
恋もつきねば夜の ふけ行
万葉集以来
た危ぽた
七夕のロマンスは
、
後世
、
怯んげ つ
元来秋 の初めの半 月 の自
と し
タマ〈お 精霊さ
七夕をナヌカノヨ 〈七日の夜)と続んでい て
本来
、
など
ん祭目だった のです。 万葉山一
古代 の農民 たちが畑作物を祖先のミ
、
奇 数 の月の奇数日を えら ん できめた五節
、
の起の時がお怠められてあるくらいに古い説話なのです。
七夕は
、
匂の 一つとされた のですが
て
でも
25 ー
-
はんげつ S い
、
は七日の夜の半月祭であったものが 所謂七夕の説話にか
七夕竹と呼ばれる笹竹を六 日の夜に立 てて 翌朝流 す所も
まとむ
ネムや
、
水浴みし
イボタの葉で目や身体を撫でて流した
な
蕗や真菰などでつくった七夕人形や七夕馬や牛など
、
、
りすると乙ろさえあります。また髪を洗ったり
あり
ζの
らんでお星さまの祭りかのようになってしまったものなの
、
を流したり
およそ三千余年の昔には
、
お金のまつり
御在知でしょう。
、
切.
閣
•
でしょう。
天文学上の説によると
。
…
半
もともと大きな祭りにはっき
虫ぼしゃ池や井戸のさらいをしたりする(池替盆と
、
たり
銀河を東西にはさむワシ座と潔座の二つの ア
、
、
残りといえる でしょう
ζ ろのあるのも
みそぎはらい
七夕の頃が
、
また次第に星まつ
もいう)と
説話が生れ
ルフ ァ星が銀河上にもっとも接近して見えたという乙と
、
ζからいわゆる七夕
ものの綾抜の名
そ
、
七日正月と対
…
、
ME 一度の一ヶ月にわたる大祭だったので
…
y トウ
の俵武多や秋聞の竿般に代表される「眠り流し」の行事も…
、
eプタカ
る
えるための物忌みを初める祭りだったといわれます。青 森 切
照的な七夕は乙の大祭の中心として最も大切な満月祭を迎
元来盆正月と 並び称される 乙とでもわかるように
で
しょ 46 よ曾い
そのままに天上にきざみつけた乙とになりま
、
は
、
(棚機つ女)は織女星の字の示
げんがゅう公い
メ
コボシ(彦昆)は滋牛島の字の如く中国では牛飼いの
りの意味が加えられてきたものでしょう。
ヒ
男を意味し 、タナ パタツ
はなおめ
、
すように機織り女を指していて 中国上代の民民間の回国
ロマ ン スを
秋…
、
向
四
叫
…
正月の松一飾りと同じで紳露の恐代として
…
利率の送迎にまつわる根被の変形ともいえましょうし
七夕の笹竹も
えるでしょう。
しょう。日本では遠い上代に村はずれの水辺にしつらえた
ナ
翌日 (七日)神送りの ため村人
そこからタ
立てているのです。笹竹を逃代とするのは七夕に限りませ
よりしる
の盤作を願い勤勉を誓う円程粉まつりにふさわしい行事とい
たなか付づ,、お路た
、
、
e
、
棚(懸造り)に織り機をおいて聖なる乙女が神の来臨を仰
いで一夜を祭って過ごし
みそぎほらい
。
たちが謀殺を行なったものらしいとされ
よぴな
パタの呼称が生れたといわれています
ζ うでん
ζ とは
に迎え祭る紳露は、それがお盆と一連の祭り …
、
、
なのだから 当然組露であってよいわけです。七夕を一名
だが七夕
立てると乙ろも多い
、地
し愛知や棟上げ…
に
七夕の自の行事には中国の星会説話とそれから生じた乞 ん。北九州では八朔節供にも立てる
…
、
み そ 6 ばらい
巧挺(裁縫が上手になるよう 転じては歌など技芸の手の
、
上がるように祈る祭り)の風俗以外花 乙の模核の要紫
。
も多く見受けられるととが出来るのです
26 ー
-
ζからです③それで
u盆と呼ぶのも、そ
七
、
盆棚と同じよ
誌や真菰で七夕馬や牛をつく
ζろ
、
うな七夕棚を設けると
、
、
七度飯
、
七度浴びをする
・
またミガキ盆といって仏具や食器その他
晩には迎え火をたいたり
、
よしゅん
モ a
va
弓均 号 ・し
$eb
つにら
ドゅ。
沌の資仲好の「春秋
満月祭から一五以の祭を欠いたもので
M ゐる
・
繁露」には古の年四回の祭りは四季それぞれの作物(並
-eぴ
しH
ようとしたものか、それとも天文学上の不自的大変
nJA
、
、
との三元のうちの中元が のちに中元に際しての悶りも
月の満月祭はうすれているようです。
七日金としてお説的除をし苔前に棚をつくっ 動治によるものかはっきりしませんが 日本でも同様に四
、
七夕流しをすると ζろなど、あきらかにお盆と
ると乙ろ
麦 ・黍桜 ・初稲)をもって先祖と父母とを祭るものだとい
つながる一辿のみ漉祭りの性絡をしめす風習が見受けられ
っています。それが三元説になったのは、印度の三季節wt
ます。
、
そのほか
たり
とよいとしたり
。
, mpe
t
民団
tH
a 。げは
av
。
、
とは白地獄や魚類その他の食料を主としたもので信州など
、
の家具や詰所までミガキ泊めるといった風習も残っていま
のの意味に転用されているのですが その贈りものにはも
す
D
。
畿 いほ
、
元
巾元を鎌持のやりとりになぞらえて盆セイ ボ
というととろもありますが、また盆供と・もいうように
第一には
、
とうした中元のやりとりにはニつの意味があったようで
例の貯比桁制ゆと叩胤蹴述との放がも、七夕の相撚と
でし
はて
結晶州や千もの昆布等の泌物を川いる所もあります。
、
千葉県などにも盆穏で寺の境内に土俵 す d
有名ですが 、朝鮮では現在もお盆に相撲をとる風習が残っ
ているそうですし
お中元
をつくり相撲をとると乙ろがあります。
国
、
米お存へ附け届ける盆供と同じように 純益供誌のために
、
生米やソ
盆まいりとか棚見舞など
、
たづ
1 メンなどの供物を持って訪ねる風が
あり、また叫灯や燈簡易】削ったりする風も一般μ
に受けら
といって
のでしょう。殊に新盆の家へは
お盆につきものの一つに中元の売出しやら贈り物やらが 税調紘者の魂捌へ御供物を持って訪れる乙とから来ている
中元は地の紙(下元
、
、
本来道教の三元の説では七月
、
必いいっしん
ι
憎かゐ
q,、て
通常天の神太乙仙仰を祭る日とされますが
、
あります。中元というのは
十五日をさし
同'"ょう恥
山川の体
〈肢を記したでハ典」では
V制
は水の紙〉の口となっています。乙の三元説は古い四季の れるところです。
- 2
7-
い きぽゐい
-み
e たま
生盆とか生身玉(生御魂
、
ゐZLV
忽
生身魂〉とかいっ
、
た gfsM
両親のそろった家ではわざと生臭(盆者
)Ilムハ親の
、
第こには
て
ζれを生見
い-qa'
豊橋辺では昔は十自に
、
、
お盆は 古くからある民間の祖鐙を迎えてする秋 の初め
。らぽゐ$か。る
の前月祭と仏教の軍聞説会とが一つになった習俗と解すぺ
問
、
もともと
、
ラン
パ
lナ
、
、
の音釈だとされ
ま す。印
まつられぬ組先の誌はあの世〈父組の
sam
令る
、
死者の国〉で逆吊しの苦しみを受けるとし したがっ
、
皮人には
懸)を意味する焚語ウ
者は十五日になますなどーーをたぺる例があり、生品川や
き刺
もののようです 。孟 聞盆という語は 通例 逆吊し〈倒
鯖を殺にたべさせると乙ろも多く
、
ζとです。また
述の飯に刺蛸をニ刺三刺し添えて叙類へ附り
zt
玉の祝いとか中元の祝儀とか云ったという
い -eみたまい
またその贈りもの
SM ゐ
相州などでは親分にあたる人の
、
s、
乙れは正月の年玉と同じ乙とで
、
母 まいり
、
、
、
今
殺とか親方に贈
、
ャプ入り 、エン
マ
それぞれに民俗の長い
務棚、棚経
、
。
どれ一っとりあげてみても
ζんでいます
団子
・
、
・ピ
トリヤ
l ジュ
l ラ
(え んま)と先祖を供養
供餅の類を組先に供える祭
団飯
7
・
1
その他秋分にも ヤ
、
月々の新月祭を供餅初盆祭(ピ ンダ
、
、
頁に太陰肝六月末三臼聞と一月十五日と V はマハ
、
、
股火を点じて肪れる怨霊
、
、
のち庇
翌朝主婦が唐箕と符とを持 って「神は
燃倍加
mを
A似し
、
、
貧は外」と唱えながら家の隅々で打ち合せて
、
、
デュボ
、
の本では
T
南印
、
の死者年祭は防府十月の新月の白から九日間の怒りでマハ
節分祭りに似ています。しかし
貨を村の外に貧も一絡にすててくるということで 日本の
内
らを迎えてまつり
除肝八月末の夜
度の民間宗教と民俗」という本を見ると 北印ではいまも
地や民族によってちがいますが 、クル ックの書いた「北印
。
ヤとよぷ机拡大祭を営んだものです 広い印度のことで土
し
りをし
ナ 〉ともいって
え
嫁に行った娘などが生米または小麦粉等の食物を持って里 て祖先の祭りは子孫の義務であり 祖先への負債だと考
、
阪りして殺に馳走するのを生盆といい
をそう呼ぶと乙ろもあり
。
家は盆礼に賜りものをするのを生身玉 とか生盆とかといっ
てます
い@‘,
りものをしてその生命の相にあずかろうとするもので
家毎花子は殺を
、
の中元の贈答も ζうした風習から転じ た 一面もあろうかと
。
うらほん&
孟蘭盆会
思われます
同
、
年ごとにめぐってくるタマまつりの目
聡い
、
続は子を飽かしんで迎えまた送るお盆の行事||迎
え火
、
送り火
賭で
服火がしみ
- 28 ー
.‘
祭とは別だといってます。古典プ
ラ i
ナ によると
、
マ ハナ
げ
めんと
円以安肘
、
とにかく日本のお盆のように広く組
、
グミはデュルガ祭〈シヴ神の安の祭)九日間の枇終日の祭
りとされていますが
、
その七月十五日にそ
すなわち雨期三ヶ月間の修行の集りの終りの自に伯た
誌を祭る風が此られたわけです。 ζれに対して
Ilt
-bL
さかっる
、
仏
何よりも逆吊しの苦し
、
ちが自恋〈倣悔滅罪)の集りをする
の修道僧たちを供養する乙と乙そ
し ょう。
ζろから出ているのが
行事だといってよいで
、
だと 勧めたと
みを救う円以上の道
教の孟臨盆会の儀鋭
。あんご
に修行巾の
多くのお妨さんたちが来って修行する雨安居ぞ終えてま
H
信者たちが乙の日にお坊さんた
、
古いマハ
1 ラ
ヤ組霊大祭に
お釈迦さまの生きておられた頃か
、
のんeav
、
その風習乙そ
これらの闘の民俗では
、
印度とちがって
た定
、
も
麹類などは
、
、
li
稲秘や菜穂
洗米
、
胡
、
元来それが問時に組誌を迎えて変
そして盆捌に飾る色々の供物
瓜や茄子
作畑作の収避を峨均し併せて稲葉等の泣作の祈願そした段
盆花を山からとってくる風習
緋の民の秋まつりであった ζとをよく示しています。
、
いM"ばな
床の間 K生花をいける風習もこうした
、
またみ魂迎えのし 33
しに
も残っていますが
ζの腕の闘迦の水。
のかっeぬか
みたま迎えのための花いけから起って来たものだという乙
とです。
棚経や
、
盆慨に迎えてまつる祖誕のために 暑い日中をお坊さん
が初経にまわります。何はなくともせめて盆中は的らかな
ζうして生きていられる||乙の尖しい
水を観光のみ魂の前に供えて米中で拝みたいと思います。
祖先のおかげで
llζ
のほのぼのとした悩愛の心
敬愛の念と 、キ ウリや ナ スの牛馬でなつかしい 人々 が戸毎
お せがき
私たちはいつまでも持ち続けてゆきたいものです。
、
に飯ってこられるとする
とを
同
とういんぜが@
低音の織餓鬼身にしむ夕べかな。
お盆の前後には方々の寺で施餓鬼会が他おされます。餓
レタ〉とか先祖(ピトリ)とかいう党
鬼とは本来亡者〈プ
29 ー
-
た明日から諸国泌肢の行脚の旅へ出るという
反省会を聞く時を泌んで
、
ちを供聾する習わしが
らあったので
代えるにたりる仏教徒の祖霊祭にふさわしいやりかただと
したものでしょう。
しかし、乙の孟蘭盆会は印度よりも支那や日本での方が
、
、
盛んになり より適切なものとして行われているようです。
というのも
ともと七月の前月然が秋の収獲をい
あったからげ恥外ならないからです。
•
.
、
ab
新亡や無紙
、
、
がい Mゐれい
語の意訳で 前にも述べたように印度では亡くなゥた人を 後ち民間の舵いの儀式にかわるすぐれた仏教の行と事
し
ぐいピ
Jhy--7
・y
'1
、
ヤタ 〆 ?
夜文
va
タ JhT
悪霊の類(昆舎 閥 、躍利
m,、のようた
-
e句
プ
'
タヤ泊 ya--hτ
と乙ろ
古代宗教でも万霊祭
aApr
・-T
-a
、
とうふ
た
になったのです。引い円本の荒魂とか御霊
勺い
τんべん
AY
怨おとかの思
多分に民俗的な背景を持っ た行 事と いってよ
、
、
乙の行事を通 じ て 有為転変の世の 不 幸な魂
地蔵盆
しく
愛に 支えら れて
、
生きてゆ乙うとするのが仏教の根本
ζとを教えるものといえるでしょう
開
c
お地蔵さまをまつつで
あるお寺や町の辻などで地砥盆がいとなま れます。 また亡
にいほゐ
行われます。お川崎蹴さまくらい民間になじんだ仰
抗対級も
、
マヌ法典では義務
七月ま たは八月の二十四 日には
、
精 神であって 、お施 餓先もまた乙の精神の現われの大切な
助けあって共に正
説くわけです。 人間お 互いが愛で給ばれ
や災難にたおれた 人 々へ の深い思いやり と社会愛の 発露 を
、
、
あ ら み食三ご均£令れん句主
悪一刻等を合む
三界万話供 誌の法式として
て
もし葬祭をしてくれる
、
、
まつる のは子孫の ねい目だとし
邪鏡
HA7い
MH uaT
恥い
、
にんがい
、
広く用いられるようになり、特にお盆には寺々で行うよう
lay
死者は亡話
、
近級者がなくて供物も上げず父祖の凪へ送って口えない
と
プ
、
とまれ
想か り
‘ する
ζ で印度の
都多)になって 、人 界近くさま よ い十字路や戸口などにい
そ
いでしょ・っ。
。
て人議に 害 を加え たり時には鬼病(つきもの)の原因にな
ると信ぜられていた
。
仏教でもとうし た餓鬼を 救
をして乙れらの 孟を慰めねばならぬとしたのです
、
a
悪話邪魔の鮪を鈍め脳める
、
陀縦尼神呪が羽せられるようになった
、
が南印で密教が盛んになると
b
.‘んに
eU8
一ニ界万誌をまつるおおらかな慈悲の心のあらわれと
がいばんれい
今ロの施飯 島の起りで
、
、
う儀式が作られ
のが
には
UAv
S
八校紀)の訳した 「救抜焔口餓鬼陀
UAVえん,、が
して法によって施食をする乙とだと説いたもので 店の不
イ ロ ン品 人、
匡ゐ 6 ゆ き よ令
,、今$ゐぞう〈
に
空三蔵〈セ
ら
ら聯
・想したもので
、
緩尼神呪経」が・本規とされるが ロから火を吐 く亡 霊 とい
うのは墓地の鬼火か
水路会
ずい句 〈え
き子供たちの護 特に新盆の一すの症のために地限まいりが
、
。中凶 では、阿部の
ζの焔口飯鬼の故事を知り
を怠ったバラモンがなるとされています
武串mが党本をさぐって
n
それを
た思想から
、
少ないでしょう。 小さい チはろくにあの世へ巡ってもらえ
、
乙うし
仕方 )の 俄火を作ったと 伝えられて おり
〈川施餓胤の
ぺいかねら
お地蔵さまが抱く見守ってくださる
ll
ぬので 謂の河似で遊 んだりさまよったりしている
''eうえか
、
本へは不 空の弟子の恵 泉に学んだ弘法大師がと の純を持ち
aa・h
,.‘A,
阪って行者が毎夜庇障を除くためにすべきだとされたが
30 ー
-
、
今日七月二 十四
「
8 ・・
AV
n
は地蔵の御縁日
のまつりの風が起ったといわれます。
ζ
なに b かがみ
難波鐙という本に
、
乙の
日
、
防し
・ ています。
ったのですが
、
、
まち かど
元来は
を地蔵菩躍の縁日と する のは
日
の追風かと
二十四
以来の風がったわ
ずい事。
・77 皐守"'
。 ebae
支那の六朝随店
、
ま
ょう。
つるお
への導き手
特に地蹴緋も郎け
ζ の日が下弦の月
、
めいE
症を
、
ま が亡盆の冥土
をまつる古 代の祭日にあたっていたため
及を見たわけ で、此刊
に お地蔵さ
S AV
では亡き子供たちを弔う親心か
り
幼くし
行わ
、また一 方
、
ら するまつりとしても
の信仰から子供 た ちが主宰するまつりともな
そして 、二 聞には冥土へゆけぬ 子供たちの霊 の守り手だと
盆月の二 十 四日には地蔵盆がさかんになったのでし
(引路菩疎トモ)と信ぜられるとζ ろから
いん ag ぱ
4
街角の石地肢の前に
にて町々の辻にワラベども供物灯明をかかげてまつるな
、
日次記事には
,
子供 たちが香惑をそなえて地蔵まつりをするのは逃饗祭り
り」 とみえ
‘A
れるのです 。更 にそれが子供の無事息災を祈って
ので
公危時戸
、
-MV
・h
背の予は夢路を廼ぐる地蔵か な
、
α
、
ζの下弦の
し主 A,avA令
ひと月にわたるお盆の行事のシメクク
乙の 日を送り盆とか終い盆とか呼ぶのは
の まつ りをも って
、
自
、
・まちまちだが 地蔵
、
いや 十 五日に送る とすると乙
ζろなど
二十 回全をもって裏伐として燈施活りをすると乙ろ
、
リと考えたからでしょう。お裁に迎えた粉霊を送る十六
、
日を送り盆 とすると乙ろ
ろ
三十日まで燈龍をともすと
ま
と
、
はだ多
折があったら述べた
、
ζ とが
いえるのでしょう。
大念仏など
お盆月の行事には諮るべき
、
次の機会にゆづろう。
はな
盆は純況な炉供と子供をもっ親たちのミ タマま つりの終り
、
を彩る突 しい的 愛の花
ζ のほか
、
い。般髄流し 盆が
いと思うが
(大正大学前師)
31 ー
-
,
六斎太鼓といって六指念仏 の 人
、
かねゆ
ラ
Lqb
て死んだものの設をとむらう供整会ともなっている
す 。六 地蔵 街 でをしたり
、
ラ
b'M
A
太鼓を撃ち錨を鳴らして踊
たちが六所の地蔵堂を詣 でて
。
, AV
hTね
4ん a
蹴 念仏 をしたものだそうです
ラ
•
ラ
AV
‘,
円口
4小田
解答者
、
中
lijji
か、惑いととなのでし
うか。
主
t
う
私の家には、お仏壇も神棚もあります。
、
そして両方へ手を合せて拝むのですが 此
頃では何か制り切れないものを感じます。
どちらか一方に決めた方がいいのではない
といって、坊さんがやって来てお径を上げ
はないのですが。 ζういった気分では本当
で別に 、偲仰の上 でどおしてもというので
そうはいっても、それは気分のよの乙と
て行きます。家でもまた設かがお寺諮りを
乙の
の信仰は出来にくいと思いますが
信仰の道に
尊ぶととの
、
します。お盆というと、ふだん忘れていた
点 御教示下さい。(東京都大関区間
鴎溺
信ず
、
お守の乙ととか、仏教の乙ととかを思い出
「日本人はクリスマスでキリ
るととと、
布二丁目三山
十下
六郷
才夫
〉
、
びついているのですか。先頃のラジオの om
­
教の時間で
違いを考えて
、
教徒になり お正月になると明治伯仲宮
卜
ス
日本人の信仰がニ量E
一ニ
、
ζ とです。
入る
ζ のように
、
すのですが、どおして、お盆と仏教とが結
なのですが、お盆になると、お寺から棚経
常
になっているととは良い ζ と な のでし
lili--iji:
信 仰
、,‘.,,,臥E,、
種々の宗教を信仰すること
、
お盆が近づいて来ました。毎年思うとと かと思 います。
の良否をお教え下さい。
<
などへ 参拝して神道になる。そしてお盆が
、
来ると仏数徒になる」といっていました
が
:!:jlilia--:
お金と仏数が結びつい ている乙とについ
ては 、イ ンドの普からです。自恕得者が地
獄に段ちたお母さんの苦しみを救おうとし
て、七月十五日、雨期が終って、坊 さん遣
、
坊さん逮に御供養し
、
がこれから行脚に出かける前日、反省の一
むし
日を暮す自窓の自に
、
ζれが嵐明日化怠れて、色々の行事
生活のリズムの合間のひとときに
、
農村では回総も終ってホッと一息つ
たという故事によるものです。日本では
了皮
いた頃
当るので
、
が行われるようになったので 得しい乙と
、
日本人は色
は・氷号所裁の仏教習俗の認をおよみ下され
ζで第二の御出問ですが
ばお分りになると思います。
そ
々の術仰を持っているが、それは胡甘
い
ζと
か惑いとかとという窓味だと思います。直
畿に申しますと、 それは懇い乙とです。信
仰というものは 、自分 のものなのです。そ
して爽剣なものなのです。ですからそれは
とれと思い定めたものを、ひたすらに信ず
るべきなのです。お念仏ならお念仏、
をま
っしぐらに信ずる乙とです。法然上人のお
- 32-
竹
答
‘
•
…
言葉にも
、
創価学会のように 自分の信仰
ll
本当の
とんでもない
、
ζ
「せ乙にとめたる鹿も、ともに包をかけず 信仰とはいえませんがーーを無理に他人に
ζとは
佃押しつけるという
、
剣笠宮本武蔵は神仏をうやまったが 決
して、人かげにかへらず、むかひたる方
かならずにげらるるな
とです。
、
、
へ おもひきりて、まひらににぐれば、い
くへ人あれども
り
、
いつで
キリスト教の教会へ行く ζとがありま
、
す。しかし、そのような場合でも
も、手を合せて、ロの中でナムアミグプツ
t
うか。中には、あ
とお念仏をとなえて頭を下げます。それで
もよいのではないでし
たりかまわずナンミヨウホウレゲキ
と
してたよったりすがったりはしなかったと
大声を出す人もいますが、 ζれはどおかと
結局、
a!
り。その定に他力をふかく信じて、万事を
いわれます。日本という悶は色々の郁的か
、
色々とお指ししましたが
う。
しらず往生をとげんと思べき也」
、
、
t
思います。やはり 静かに心の中で念ずべ
ら
きでし
さて
、
社会的な一事情でやむを得ないの
日本人の宗教生活は複雑です。それは色々
、
色々の宗教が入って来て、それが私共
どんなに障碍があって
、
一生懸命に信ずれば立派に往生が出来 の生活に幾重にもかさなって行われている
と あり ま すように
、
そ
の歴史的
、
キチンと
ζれを中心にして筋を過
、
とれをうやまって行く
です。ですから、一応は従来の慣習に従っ
て、神仏を尊んで
、
、
たより、すがるべき
しっかり心に刻み
- 3
3-
も
、
一木にまとめて
、
して行く。乙れが大切です。
自分が本当に拝み
、
落ちついたものになります。
一
るのであります。それを、あれ乙れと細川分 のです。ですから、私共の前には色々の神
、
緩や仏様がおいでになります。そして
、
ζとと信ずる ζととは別
絡んじたりしてはなりません。
、
、
ζとです。
他の一切はかえりみな
の信ずるものは阿弥陀如来一仏と定めて
ζれに没入して
ぃ、そ ういった心待ちで信ずる
、
です。い くら 沢山の伯仲仏があっても白円分 べきですが 自分の信仰内容は
しかし、うやまう
観したり
を散らせてはよくありません。気分がまと
、
それは決して信仰とはいえないと思い
、
それは即ち「疑いの心」です。疑いは
れはすべて うやまうべきです。決して無
、
まらぬというとと は心が動織している鉦拠
で
俗仰とまるで反対のものです。ですから
、
あ なたがそのような気分で神仏を拝んで
も
ます。
、
信仰というものは 元来 非常に不寛容
、
、
念仏一本にまとまれば、気分もす
はアミダ如来であると
あなたの場合は 信ずる乙ととうやまう
つけて
、
なものなのです。自分の信仰のほかは す
ζととが混同してしまっているようです。
、
ベて排除するという気持ちのものなので
それは自分の心
時に は神社へお多りした
、
っきりと
、
乙の頃町に横行している
し F っか。私も
ですから気分が宮市ちつかないのではないで
、
す。ただそう はい っても
持 の ととでして
…
、
第 二
いつまでもえ
が御在位な芯れていると
.1"
、
34 ー
-
世尊と阿閣世
うが
t
田
回
鶴
が」
、
て政を執る方が得策であると思います。私も
、
一日も早く父王に代っ
批情"は年老いていら
、
れまずから引退を追って 私が教団の主となろうと決心していま
さすがに太子は
、
、
仙紙袋の無尽な針凶に
一総会身が鳥肌になる忠
と甘言を以って太子を一誌おうとした。
えw川
て崎臨凶を治めるζ ととな
ζ・つして明正、幅削仏予をたづさm
、
日頃と即時った倫然とした彼の安を眺めて心配そうにたづねた。
す。
、
「弘が処分がr ぐれませんのは %はあなたのためでどぢいます」
ではありませぬか」
りますれば、悼誌に人下の快WF
日分のためといわれて 太子はいぶかしげにさき返した。
、
「太子さま 私か山中す乙とをおきさ下さい。太子さまはやがて王
•
、
『弘のためとは、一体どういう訳ですか」
、
あなたが王位にあって按カを家う愉快一還を味う期間も短うどざいま
位に却かれまし
泉
作
提婆の訪問を交付た阿間訟は
、
湛
定t
す。人の命はおだ短うございます。それ故
、
「穆省 どうなきれたのです‘今日は顔色ひどくすぐれませ訴
一
一
一
.
いで
、
、
「尊者 そんな恐ろしい話は
、
よ して 下さい」
、
あなたは父王に何の御風もど
ζられてはなりませぬ。あなたは父王のと
言禁もあららにたしなめ、耳をかすまいとした。
「そうむきになってお
、
とをそれほど大事に 考えられますが
ざいませぬぞ」
、
「何を申すぞ 私は 父王の太子でないか」
、
「まづおちついて私の申すことをおさきなされませ 太子さまが
!
弘を殺そうとした」
、
誕生なされる時に 父王は王妃と太子を殺そうと計られたのであり
まするぞ」
、
「ええ 何
、
、
ζ とぞ と言繋をつよめて
、
よって来て
、
、
「移省 もっと詳しくきかせてくれぬか」
とせきたてた。
約われるままに m
援は、本ナ挺伎にからまる秘僚ぞすべて打ち明
油川澄な太子の心に与えたシa ツクは大きかった。太
、
けてしまったのであった。
無汚
、
呆然と殆んど於心の状態であろ。
、
終決
子は
、
、
泣きくづれている太子の耳許に 相似援は 更に何事かをささやい
たのであった。
、
、
、
それ以来慎 悩 の日が緩い
ζとか。ハ父母の愛情に対して摘出疑的と
、
いかに呪われた自分の遮命であった乙とか、父ヱや母夫人は 何
ζとをされた
今まで天真燭爆であった太子にも
、
という恐ろしい
なり
た。
、
それのみか
、
Aて
Y 父子でない感怖を抱くに至ったのか
、
、
支の
王の室
、
成る円
父母を深く信愛していただけ、掛川惑
来ては父王への信愛の併はくつがえされ引き裂かれ 俊敬の念
父子であ
窓に近づ いていた太子の伐中深くに剣が治ばされていた。
、
さすがに恩愛の儲にむすぼれてか 足はあやしくふるえ
へ入り切れず幾度か思い返して宅外で鴎践していた。
驚き慢しんで 王に告 げた。
、
縮刷而菟白となって殺気を合んだただならぬ太子の芥子に気付いた
ヱの侍臣は
、
「太子さまのお顔色はひどくすぐれませぬ。何事かを心に企ん
•
35 ー
-
即応外な合策に太子が驚いたのも熊灘はない。
縫裟は
、
「太子が出産なされます時 事もあろうに百尺の一ぬい楼上から地
、
の念も深まって行った。
下の床上に滋み務して墜死させようと艶まれたのです。不思柑酬にムも町
うすらぎ行き
、
ζとを若し偽と思い召すならば
日頃気にしている自分の折れ飽 って屈伸の
不審げに
、
」
?
、
先づあなたの小品川
を全うされたのは 会くあなたの待たれた沼運のおかげでございま
す。私の申す
、
をごらんじませ。それが正しく証拠でどざいます」
そういわれて太子は
、
いつわりではあるまいの
っくりどとを申し上げまし tうか」
、
重ねて
自・闘のきかない小指を顔曇らせてじっとみつめ
、
ζとか
ζ とさらに
「それはほんとうの
、
「私は 何故
、
小指の制祉を解かれた思いで見る聞に太子の額に苦悶の色がただ
,
でいられるに相途どぎいませぬよ
に餓死花王らしめようとしたのであ った。勿論一滴の水さ へ与え な
、
、
い。近医との面会も一切許すはづがない。獄舎には数人の衛士をつ
、
.
距が 王と内通する
れたがためであった。
侍臣の言繋花 王は太子を膝下に呼んでやさしくたづねた。
、
つつみ切れず涙と共に俄悔し
い。王は 隠下と外界から完全に遮断され てしまって、昨日までは印
日開明多くの侍医に庖従されていた王も、今は雄一人此切にはいな
ζとをおそ
けて者被せしめ 大臣といえども入る乙とを厳しく制したのは 近
、
父王の愛情に乙もったいたわりの言葉に援すると 太子はやはり
れ分の muい途いであったと後悔して
すべてを正直に告白したのであった。
、
年若な太子が鎚婆の巧みな言柑却に誘惑されている心を思うと王
、
度での捌
明者も 今日はすべての絞カを剣怒され 暗い牢獄の一介の
、
、
ζえて来ない。窓外には
透か彼方の山のあた
、
、
王としての符りと安車検とを感じていた が 今は一切
、
、
けだし乙の乙とか。
、
王 の身を案ずると心は干有に除けて身もそ
王は時総 として 白い吐息をのみ ついていた。
、
〈どうしたらよかろうか)
制止されている衛士が勿論許ずはづがない。
、
そう思った夫人は主に食事を運ぼうとしたが 阿間世王から固く
「さぞ、“ひもじい思いをされているであろう」
ぞろに夜も眠る乙とが出来ないでいた。
一方 設提議夫人は
た前途を思うと
一生を封ぜられ
絞淡とした時い牢中で一粒椅子の我がヱずによって
測々として身にしみるのは孤独感である。
と恩えば拶の如しとは
が経亡の如く怠え問中われる。拶であるかと思えばうつつうつつか
昨 日までは
りを去来する嬰のみが見えるだけである。
寂として物音一っき
一方のmk 切窓一つしかない寒 々とした氷 室のよう な獄舎の中は
、
はむしろ不備にさえ恩われた。太子のためには 、何 物をも犠牲にし
その反対を押し切って太子の望んでいる王位を何の隊贈賄す
、
わびしい囚人となり果ててしまって いた。
、
ても惜しくはないと思っていた王は 掛川医の聞には稜々の銭稔があ
ったが
る ζともなく裁られる ζととなった。王はただ太子の 幸福をのみ念
販されていたのであった。
いつかは再び王位に復す
王手』
捕えて宮殿に幽閉して
、
太子が王位に郎いたのみでは満足し切れなかっ
、
、
非道にも飲食を断って自然
、
36 ー
-
にもかかわらず
、
ζζ のまま生かして泣いては
たのは提婆であった。
(父
王を
る ζともあろう〉
万一王位に復された時の ζとを恐れ
会を断って餓死注せようと再三太子にすすめるに至ったのである。
、
、
阿閣世王は 老狼な提擦の衡のような甘言にそ
、
未だ十六七才で未だ常識も発迷せず 思出版分別も十分定かでない
新王の乙とである
そのかされて次第に心が勤絡し初めていた。
七霊の厳重な獄舎に除禁してしまうと
人の子としての良磁も然卑してしまったのか 阿附世王は父王を
凶
、
、
人の顔を見ると同 時に 焼
きつく
四忠み夢みていた程であった王は 夫
のだ」
ζけて
、
、
1
」
ヒゲはのびまる で余人の如
ζのみ安
く
、
であ る。
し
、
今までの王者とい う容織が怨散してしまっ
、
、
外ならぬ肉観の我が子のためであると忽うと 出蛮 の因縁
、
、
王 は設 が子を怨む気になれないで いた。
主の守口業にとらえかねてむせび掛
いて
川いた 夫人 は
ぐって、
山海の珍味に飽食していた王にも
、
、
、
、
、
やっと涙をぬ
ζれ以上の美味は味わなか
ム「は牢舎に囚
、
ただ舎利弗 目遼等と今一度、 巡の奥底を
、
ヲザ ヲ 4
係り〈Hいたいと願うばかり で ある。搬に残惑が人を迫うととは、影
そるると乙ろでないが
えられて鍛のため死のうとしている。自分は死する乙 とは少しもお
「王位にあった時は食物も 心のま ま であったのに
やがて水を求 めて口を暗唱さ終っま
たは全く蘇生 の思い である。
ったであろう。
ゃ
食務といってもほんの僅かのものであったが 日開制賛沢な飲物
す まいと甘露の思い で呑み ほした。
、
ま は現磁 の玉の曲川萄殺を一浦 一山側ゴクリゴクリと一 泊もと ぼ
僻密
と身 VL
Bを集め て王 にすすめ た。
「お食事を持って参りました。早や
ばゃ、召し上り下さいませ」
、
を恕い起して 築制械のおそろしさに戦傑し目はに
一光
狭っている。而
たのも
、
〈夢幻のよ うである。恐 ろしい 朝刊いが 早や私逮の身に襲って来た
「鍛に世相"が教え給うように、人の怠かえはいつまでもつづき簸
ぼとぼと思案もつきかねていた。
呑治の変りに掛川めた身
、
ような渇きと、自のくらむような飢えの苦痛を訴えたのであった。
と
しかし、祭ずれば通ずるの鵬首で、夫人はやっと一気実乎る ζ と
が出来た。
呑湯に 入 って泳浴し て身を 洗い浄める
〈密)とを一絡にしたものを変
体に献 (牛乳で製したもの)と衝鯵
H
a
v
衛士も
、
粉に和して九到に箆り化粧した如く袋・っとか衣をまとい、絞りの硬路囚われの身となって
外ならぬ王妃の乙ととて
、
拙を入れて徐ろに牢
AU
に近づいて行った。
の玉の中に制劃時
閣
王に面会したいとのゆ出には
無下に拒む乙とは出来なかった。
、
も怪しまれず やっとの思いで椛れのような獄伶に入 った
侃剛士に
夫人 は変り果てた王の援を眺めて驚かざるを得なかった。
、
僅か数日の聞に あわれはや王は獄舎の苦さと飢えにつかれて見
新は
、
る影もなく愉伴し果てているのではないか。顔面は資自となり
自
はおちとみ
「ああ、 おいたわしや
、
王の傍へ馳せよった夫人の自には一すじの一波がにじみ初めると
態相総務1」・
、
飢えは日毎に我が骨肉を明
、
まるで数百の虫が腹中であばれ廻っ てい るよう な苦しさであ
、
「獄支が食を絶って以来とい うもの
おどろき見やる王の自には、生色がない。
「おお
後はたきっせのように流れ務ちて来た。
み
る。 我が命も既に迫っ て来た ようだ」
、
ど ζからか手が相慣れて一片の食物でも投げ与えてくれる ζとを
•
- 37 ー
,.aa
「あなたは何が不足で出家なされるのでどざいます。若し迦維田紘
一間で不足と思われますなれば、私の尽を献上して もよろ しうどざ
の形に添う如く轡の戸に応ずるようである。み仏に逢って仏の教え
った。 自分は間もなく
ζ とは 、も 開平や出来なくな
いまずから出家などは思い止まって下さい」
AW
終って遥
をきく
も似ん で仏の教えを守って後の摘を
ζへ行くであろう。夫人
頃道をきいていた惟柑悼の
ζ
B
ζの山の帥制作に於て法
いた
感動した王は
く
、
「きょうでありますならば
えて下怠るように」
、
法せ しめたのであった。
、
、
、
党りを側聞かれた艇には 必ず私を数
'・
9
、
王は日傷付恥夫人の逮び僅
来か
るの食物によって身体そ縫い
、
史に山肌絡は 鋭法第一の郁子である浴後泌を遺して王のため説
、
悠の如く王宮の獄舎に飛期して来 て、 八成を毎日授けたのであっ
、
王の念力が世穏に通じたものか 日蓮は神通カ によって腐 の如く
と倣絡の加穫を乞い願ったのであった。
一夜を限って在家の者が受ける戒)を授けて下さ いますように 」
、
「目甜躍は私の級友でありますから 願くば弘を慰んで八戒(一日
て能停していた王は
過去の乙うした出来事を恕い浮べながら 透かな者日間制開山花向っ
と聞く約束した ζとがあった。
、
深い決意のほどを打ち明けた。
訟を明らかにしよう と して出家するのです」
「私は問が不足で出家するのではありませぬ。解脱を求め叢円相挺の
、
悦却は 王の好意を紺しながら
と白目闘を献じてまで思い止めようとしたのであった。
かなと
防がれるがよい」
、
、
初めて人生を凝視したのであった。
、
光さえ締われた字以で 迩かれ早かれ朽ち来てて行く ζとを悟っ
た王は
今の王に取っ て蕊い恕われるのは
とのみであった。
一つしかない窓外に透かに迫く怨の去来するあたりに見える符附
、
、
銅山の m
棒銀を強み仰いで まは批判"を泡同伴するのであった。
、
は或 は淡く或は濃く協に美しく郷いていた。かつて ζ
日制の色
、
霊は
鷲山と称せら
ζろか ら斡抽出訟、又
、
- 38 ー
島波間瞬山は 王合械の東北ニ虫余りの近くにあって 狐出弔問くそ
びえ
終んでいたと
く
世尊は
、
又犬繁が羽を伸ばして飛ぴ上ろうとしてい る形に似ているので
、
の山に鷲が多
れ
そういわれるようになったといわれ
、
谷を埋め岩を 砕いて広さ十余歩の広い滋を
、
王は総岨な三里余りの山道を自ら訟をきくための便
、
を多く説かれ 多くの仏弟子もこ乙で逃を修めていた。
かつての円
利のために切り闘いて
迭り石を 畳ん で階とし往来の便を計 った。
、
、
世尊より年少であった王は 世情帽の出家の時から浅からぬ関口械が た。
あった。
aピ,
、
王は世尊を呼びとめられて
迦叫織田雌械を出奔された世尊た
がまたまヱ合殺を一地られ允。
その時
自
、
主 の顔には
、
、
出品絡を得ていたので時い
、
倫相wの色はいささかも見受け られな
阿附世王は牢舎の衛士を呼んで
、
、
、
命が
涯 宮鈴那から法をきいて延悩が除かれ精神を裳い得たの
で
、
いつ終るかとの不安もいささかもなく
獄舎にあっても
かった。
既に三七日も絞った或る日
「父の王は、今尚凶健在であるか」
、
伐に父王は
ζの世にいないに相違ないと心
親子の品川からさすがにあらわにささかね
、
ヲ
e-
今尚健全に在します」
、
ときいた。獄舎に監禁して以来 少しも飲食を与えずに早や幾臼
も柑絞っている乙と とて
大正 は
、
中ひそかに期していたが
、
たものらしい。
「ハイ
、
予期に反した窓外な答えに 王は細川も傾倒するばかりに精米して
しまったのも無政はない。
、
あり得るべからざる ζとのようにいぶかしく思った王は 衛士を
王からいかなる処罰を受けるかも知れないと恐れたの
、
強く責めてその理由をさきただした。
衛士は
、
か 王の厳しい結間にあって今は陰方なく王妃が日々人にわからぬ
、
その上 目述、忽様相加が獄舎に
、
がら 、全ての事実をつつみかくさずに物語った&
-きいているうちに も、 王の腐はピリピりと動き
りのため泌前朱をそそいだ。
」
1
、
「ウ |ム」と怒
償怒の形相ものすごく母の都展へあわただしく
母に対して逆 上するような新たな怨みを感じたのであった。
、
自分の計闘が母によって見事に裏をかかれていた乙とそ知った王
は
「おのれ
、
剣をとるや否や
駆け乙むと
、
、
「践を庇う上は 母もやはり賊でありまするぞ 妖術を用うる沙
門も亦同類でありますぞ」
、
ぬいた鮪を胸に擬してまさに刺そう
、
と叫びながら怒りの火焔に心も鉛乱したのか 王は舟の一肌涯をむ
んずとつかんで引きょせると
とした。
「アレ 1」
、
ら、
あわた だしく乙の場へかけつけて来た大陸の月光と香祭
王の狂気のふる ま い に身の毛をよだてなが
、
その時
骨単援車夫人は
、痛 さを忘れて、悶絶するばかりに篤 いた。
は
、
「玉 何をなされ まする」
母の授の毛をつかんだ王の
、
、
京総務は、王の仙川に餓づき手を〈円せ頭をたれて
手を放たしめた。
よう身に蘇柑衡を抽出ってひそかに王に食物をすすめていられるらしい
と左おからひっしといだきとどめて
ζと、
が、臣下なればともかく悶の大夫人であるので、王と対衝を願われ
る ζとまで拒み切れなかった
「勘弁して下さい。私が思うどざいました」
、
.土を街ねて説法されているが柑柑者等は神活力によって虚空から通
震ふるわせて悲泣するのであった。
と熱い涙を流して鮒り
、
って来るので人カではどうする乙とも出来なかったζとなどわびな
•
- 39-
五
「にくい母上1」
怒廃に魅せられた
、
王 は、 尚も僧惑にみちた目で、母を腕めすえている。
聴明多 相官の名医と
箔 われている大臣の月光は
ような王の行為に胞を冷やしながら
ζう涼めた。
「大 玉、心 をおちつけておきさ下され。弘共がきいていま するの
血涙を 流 さんば かり
、
言裁に激しながら W紛
Hを吠忽し
、
さす がに 王も 、賢臣たちが死を以ってする鎌-吉熊
田路
にせざるを得
な か った。
有力 な大 臣が自分に対して 侠 よく息わなかったなら、将米織勢の
ある彼等の協力を得られないの み ならず、 自分に背いて父王と巡ず
に
る事があるかも知 れないと恐れ、思い直してやっと創を も との 帥刊
ニ毘 は、ぽ っと出
A
給する
と轡波置は、 うやうや
。
ζとが出米た。
相岬屈に退りまする」
、
しく叩頭して辞し・去
ろ う とした が
「では国務もありますれば
月光
王の
ζととて 王の悠をかつて創を絞って 白H
分途
目ざし は未だ翼線に血走って いる。
た
。
王は
ニ臣の抽壁面を入れて母を詩しはしたが
得しめな い ようにしてしまった。
尚余践があって 幡町
、
+口元)
てはおけぬと、母をも深宮に幽閉して再び父王と初まみえζる
とを
償が胸中にみなぎり釈然たらざ るものがあったのか 、そ のままに拾
、
用心しながら、二人はあとずさりになってまの血即座を退いて行っ
に危怒を加えるかも計り知れなかったので、万一そ考え剣を侮って
滋絡を以って綴止し た
、
「よく私共 の官業をおさき入れ下されてありがとうございます」
いささか自分の行為を 悔いられて来た
「母を刺そうとしたのは自分の患い途 いであっ た。許してくれ」
昂官加も軌貯まり、やや平静になったは
王、
に、天地開閥以来、悪玉が王位を盟むがために我が父を苦したもの おさめた。
は 一万八千にも及ぶとい う乙 とでどざいますが、しかし無道にも母
王位脱の名を
汚す ものです。ど
、
を害した王は未だ一人も芯かったという ζ と です。しかなるに今大
王が、かかる恐逆を犯された ならば
、
王宮 に一一刻もお出で願
う乙 とは叶いませぬ 」
主か。さような人非人の行
うして私共が然相似する乙とが出米ましう
為を敢て な さるならば
、
言語同断、人道をふみはづした鬼替のなされ方と、言いはらわだ
をしぼり
ζ
王 は声をふ
且つは一掴の危機にも及ぶ
、
今後、暴君となって隠下に対してどんな暴必をもお
、
ζとを怒れ
、
,,
40 ー
-
•
雲禁をつくし
ζさないとも限らない
とと必死になって線めたのであった。
、
ニ匿のただならぬ婆気に圧倒され、た ぢろさながら
るわせ響裂に向って
、
、
「警護 そなたはなぜわしのために計ってく れないのか」
、
父王の抽別であり日頃答顧をかけ ている 者獲までが 自分を批鐙
する態度を心外らしく訴えた。
「
面総事に
与すると とは断 じて白米ませぬ。」
一徹な賢箆樹首婆は、官戸を強めて叱略するように諌めた。
来
•
大 正大学教授
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定価三十円 〒 A 円
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東京畠品川区上大崎一ノ七八ニ
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土」 脱税制定
会賞一カ年
鮒拘十年五川品
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昭和 三十五年六月廿五日印刷
第 三 mm 便物卸
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昭和三十五年じ月-日発行
編集人
発行人
印刷人
印刷所
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武田
佐 藤賢
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発行所
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側々と人の心を打つ失明の休験
文学の世界からみた無常の祈
宗教の信仰の迫文にみる
東京都品川区上大崎一の匂八ニ
法然上 人 鎖 仰 会
東京八二 一八七番
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宗教は実際に生活の上に 実践占・
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信 仰と儀礼の 一致相即である。
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著者はそれを儀礼の形で体系化した。そのいん
わとすると
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本
- 舎は務者が学位日制求論文として拠出したものをもととして
その内総什は次の如くである。宗教行布
成
、
、
先
信仰実践 法式作法に関心ある点々にひろくおすすめする。
、
、
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問 惣6札
制
本文 二 KO 瓦
O門
スが十年の政川を貸して
(附和三十年四月 廿七 日)
序説宗教儀礼の怠味
、
儀礼発生論
・ 礼学説
第一編儀礼の別立川・;:儀
儀礼矧到論 儀札における一合定と消町側
彼礼変終論 呪術と儀礼
第二一制儀礼の椴悠 :: :析結 死の儀礼 物忌 と
断食 胤 の儀 礼 火 の儀 礼
礼儀と信仰
紡
仏陀と龍樹
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著
法然上人鎖
第二十 六 巻
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昭和十年五月廿目 第 三種郵便物館可《 毎 月一 回
三十 五 年 七 月-日 発行
昭和 三十五年 六 月二十五日印刷刷昭和
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