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私の身体はどこまで私のものか - 東京大学学術機関リポジトリ

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私の身体はどこまで私のものか - 東京大学学術機関リポジトリ
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私の身体はどこまで私のものか
――代理出産をめぐる問題から考える身体のあり方――
齋藤 瞳
はじめに
近年、少子化、不妊治療等の問題を背景に、生殖補助医療の進展や現況に対す
る関心がより高まっている (1)。ますます高度になる生殖補助医療が運用され、根
づいていく社会の中にあって、身体のあり方を考えなおす機会も多くなってい
る。こうした社会の中で、私たちは身体をどのような存在として捉え、どのよう
に扱っていくべきなのだろうか。本稿では代理出産 (2) をテーマとして取りあげ
て、身体のあり方について考えたいと思う。
生殖医療の中でも代理出産をめぐっては、自然の摂理に反した技術であるとい
う意見 (3) や、これとは反対に子宮を失った女性などにとっては優れた技術であ
るという意見をはじめとして、精子や卵子提供に関する諸問題との関係、また従
来型の生殖のあり方、および家族のあり方に対する問題など問題は山積みであ
る。なかでも子の福祉に関わる問題は代理出産をめぐる問題の中できわめて大き
な問題であり、さまざまな立場の意見が激しく対立し続けている (4)。ことフェミ
ニズムの領域においては、リプロダクティヴ・ライツを背景に、女性の自己決定
権に重きを置く立場と、代理母契約がもつ身体の道具化、それによる女性の人権
や尊厳の侵害の危険性に慎重な立場との間に対立がある。これに関連しては、そ
もそもこの問題圏域の中に婚姻関係にある男女以外の人びと(非婚、同性のカッ
プルなど)が含まれて考えられていないという問題もあり、代理出産の(あるい
は生殖補助医療一般の)問題がけっして男女、あるいは依頼女性と引受ける女性
の間にのみ関わる問題ではないことを表している。
このように代理出産をめぐる問題は広く、また多様である。こうした問題の複
雑さからすれば、本稿で扱う話題は非常に限定的なものであるし、また本稿は代
理出産の是非に直接答えを出すものではない。本稿が指摘するのは、代理出産を
容認しない理由が語られる時、そこには身体のあり方についての私たちの考え方
が浮き彫りになっているという点である。先取りしていえば、それは変化し、意
のままにならず、周囲の環境からの影響を被らずにはいられないという、ある意
石原孝二・稲原美苗編『共生のための障害の哲学─身体・語り・共同性をめぐって─』
UTCP Uehiro Booklet, No. 2, 2013 年 10 月,pp. 43 57.
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齋藤 瞳
味で脆弱な身体のすがた、さまざまな関係の間で、はじめてそのあり方が決まる
身体のすがたである。ではこうした身体のあり方についての理解はなにをもたら
すだろうか。この点については本稿の最後で触れたいと思う。以下、まず国内に
おける代理出産についてのさまざまな見解を取りあげ、代理出産の基本的な問題
構図を確認し、さらにそこで身体の倫理(身体をどのような存在として考え、ど
のように扱うべきか)が強く意識されているのをみることから始めたい。
1.国内の代理出産についての見解
代理出産とは、「子を持ちたい女性(依頼女性)が、生殖医療の技術を用いて
妊娠すること及びその妊娠を継続して出産することを他の女性に依頼し、生ま
れた子を引き取ること」である ( 日本学術会議・生殖補助医療のあり方検討委員
会 2008)。では代理出産について社会はどのような見解をもっているだろうか。
厚生労働省が実施した意識調査 ( 平成14年度厚生労働科学研究費補助金厚生労働
科学特別研究 2003) を見ると、代理出産は一定の条件のもとで社会的に認めるべ
き技術であるという考えに〈一般論として〉同意する人の数は、認めない人の数
を上回る (5)。その一方で、子どもを望んでいるのになかなか子どもに恵まれない
場合に〈あなた〉はこの技術を利用するかとの問いに対しては、半数を超える人
たちが利用しないと答えている。代理出産は他の誰かの悩みを解消する技術とし
て一般論しては許容すべきものなのだが、実際に自分が当事者となると利用し難
いということである。どうしてこのような非対称な見解が導かれるのか。代理出
産容認の理由をみると、産めない女性が子どもをもてる技術であり、依頼者と代
理母の間で同意が成立しているなら容認すべきといったことが挙げられている。
他方で、代理出産否認の理由として挙がっているのは、妊娠は自然になされるべ
き、人を生殖の手段としてはならない、商業的利用につながるようなことをして
はならない、親子関係が不自然になるかもしれないということがらである。この
意識調査からは、人びとがまず注目しているところが代理出産という技術そのも
のをめぐる安全性よりも、身体の倫理的問題にあることがわかる。代理出産には
特有の身体的危険性があるかないかということよりも、身体は自然なあり方をし
ているべき、身体を道具のように扱ってはならない、身体を物品として扱っては
ならないという身体の倫理が重要視されているのである。依頼女性が先天的、後
天的原因によって子どもを産むことができない場合 (6)、代理出産は遺伝的につな
がりのある子どもを生むための最後の手段、福音的技術ではある。他方でどのよ
うな理由にせよ、代理出産とは金銭を介して他人の身体を産む道具とする行為で
あり、大きな倫理的問題を含んでいるがゆえに実施すべきではないのではないか
という考えがある。この「福音か、他人の身体の道具化か」といった図式は代理
私の身体はどこまで私のものか
出産をめぐる基本的な問題構図のひとつである。
ところで日本産科婦人科学会は2003年にガイドラインを作成し、「対価の授受
の有無を問わず、本会会員が代理懐胎を望むもののために生殖補助医療を実施し
たり、その実施に関与してはならない。また代理懐胎の斡旋を行ってはならない」
( 日本産科婦人科学会 2003) と述べ、代理出産の実施は認めないという方向を打
ち出している (7)。ガイドラインは、代理出産を認めない理由を四つ挙げている。
それは(1)生まれてくる子の福祉を最優先するべきである、(2)代理懐胎は
身体的危険性・精神的負担を伴う、(3)家族関係を複雑にする、(4)代理懐胎
契約は倫理的に社会全体が許容していると認められない、という4つである。
すでに述べたように、代理出産において子の福祉はきわめて大きな問題であ
り、また従来型の家族観との対立も問題である。この点をガイドラインは重要視
しているのだが、ここでは特に(2)代理懐胎は身体的危険性・精神的負担を伴
う、を取りあげてその内実をみてみたい。というのも、ここに身体の倫理的問題
が表れているからである。(2)の理由には次のような解説がついている。「代理
懐胎は、妊娠・出産にともなう身体的・精神的負担を第三者たる女性に引き受け
させるものであって、人間の尊厳を危うくするものである。たとえ代理懐胎契約
が十分な説明と同意に基づいたとしても、代理母が予期しなかった心理的葛藤、
挫折感などをもたらしかねない。これらの観点からみれば代理懐胎は不妊治療の
範囲を越えるものであり認め難い」。身体的危険に関してはいうまでもないだろ
う。代理出産における妊娠、出産が通常の妊娠、出産とは異なる特有の身体的危
険をもっているかどうかについての医学的データは今のところは存在しないと言
われている ( 日本学術会議・生殖補助医療のあり方検討委員会 2008)。とはいえ
通常の妊娠、分娩であっても妊娠中に身体にかかる負荷は大きいし、産褥期に疾
患が発症する場合もあり身体的なリスクは現代においてもなお高い。だから代理
出産において身体的危険のリスクはつねに重要な事項である。しかしより重要な
のは、その技術の使用が重大な精神的負担を引き起こす可能性が指摘されている
点であると思われる (8)。精神的負担が重く懸念されているということは何を意味
するのか。それは、代理出産がけっして〈出産〉をもって済んでしまうことがら
ではなく、身体は単なる孵卵器としては存在できないと認識されているというこ
とである。たとえば、精神的負担として次のようなことがらが考えられる。それ
は子を引き渡す際に代理母が抱くかもしれない喪失感、誕生した子の成長をみる
ことができないで起こるかもしれない無力感、そもそも代理出産がつねに成功す
るとは限らず、さまざまな理由で子の誕生にまで至らない場合に挫折感が生じる
可能性などである。このような精神的負担という点から代理出産を見てみると、
他の誰かの身体をマシーンとしてではなく、また妊娠、出産という限定された期
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齋藤 瞳
間においてのみならず、その後の生のすべてにおいて影響が出る可能性を含んだ
仕方で扱わざるを得ないということがよくわかる。代理出産は他人の身体をどの
ように捉え、どのように扱うかという倫理的な問題と切り離せない。それは子の
福祉や家族観と同じくらいに重要なことがらである。だからこそガイドラインの
中で、身体的危険性と同等に、精神的負担という言葉を使って指摘されているの
である。
厚生科学審議会先端医療技術評価部会・生殖補助医療技術に関する専門委員会
が2000年に、そして厚生科学審議会生殖補助医療部会が2003年に提出した精子、
卵子、胚提供に関する報告書は代理出産に関しても言及している (9)。この報告書
によれば、代理出産が認められない理由はたとえば次のようなものである。「両
者〔代理母と借り腹〕の共通点は、子を欲する夫婦の妻以外の第三者に妊娠・出
産を代わって行わせることにあるが、これは、第三者の人体そのものを妊娠・
出産のための道具として利用するものであり、『人を専ら生殖の手段として扱っ
てはならない』という本専門委員会の基本的考え方に真っ向から反するものであ
る」。この報告書も、認めない理由を身体の道具化という点においており、身体
の倫理的問題を重要視しているのがわかる。他方で、この報告書の別の箇所に
は、代理出産の是非を検討する過程で、代理出産を認めないことが憲法第13条に
より保証された幸福追求権の侵害になるかどうか検討すべきであるという意見が
出ていたことも記されている (10)。代理出産の依頼および引き受けは、幸福を追
求する権利の中に含まれるべき事項であって、「福音的技術」の恩恵に浴する機
会を一概に否定できないということである。
同様の問題は別の報告書の中でも取りあげられている。2008年、日本学術会
議・生殖補助医療のあり方検討委員会によって提出された「代理懐胎を中心とす
る生殖補助医療の課題―社会的合意に向けて―」がそれである (11)。報告書によ
れば、憲法13条で保証される幸福追求権のなかに自己決定権が含まれると考えら
れているため、代理出産は依頼も引き受けることも「権利」として認めなければ
ならないという議論がなされる場合があるのだが、権利行使のための自己決定
が、どこまで自由な意思決定に基づいてなされているかには疑問が残る。代理出
産に限らず、どのような場合において意思決定に関わる圧力が完全に排除され
ることはないとはいえ、こと代理出産(あるいは生殖補助医療全般)において
は、依頼者、代理母といった契約を交わす人たち以外に、新たに誕生してくる人
間(子)が根本的な問題として関わっており、それゆえに身体の処遇について自
己決定権という観点から代理出産を許容するのには限界があるということをこの
報告書は指摘している。(この重要な問題に関しては次節で改めて触れたいと思
う。
)
私の身体はどこまで私のものか
意識調査やガイドライン、生殖補助医療に関する報告書に見られる代理出産に
ついての見解をみてきた。そこから見えてくるのは、第一に代理出産の基本的な
問題構図(福音か、他人の身体の道具化かという問題)と自己決定の問題であ
る。さらに代理出産をめぐるさまざまな見解が、代理出産そのものの是非を考え
る過程で、身体をどのように考え、どのように扱うべきかという倫理的問題と向
き合っているということである。そしてそこに、身体は道具でも物品でもない存
在であり、そのように扱ってはならないという考え方がくり返し表されているこ
とが分かった。以下、この基本的見解をもとに代理出産をめぐる問題をさらに考
え、身体のあり方を明確にしたい。
2.代理出産をめぐる問題から見えてくる身体のあり方
2-1 変化する身体、意のままにならない身体
多くの報告書が、代理出産を認めない理由として人を専ら生殖の手段として扱
ってはならないということを挙げていた。これが問題になるのは、
〈そもそも身
体は単なる道具、商品ではない〉からである。身体の道具化、商品化は代理出産
の文脈に即して言えば、遺伝的につながりのある子を持ちたいという自分の望み
のために、他人の身体を孵卵器として使用するということを意味する。実際、代
理出産の依頼者は他人の身体を子ども得るための道具として、多くの場合は金銭
を介して、使用しているという面を消去することができない。このことは依頼を
引き受けた代理母本人についても同様に言うことができる。なぜなら代理母本人
は自分の身体を代理出産の市場に出した時点で、自分の身体を孵卵器という商品
とするのに同意していることとなるからである。こうした身体の道具化、商品化
は身体の本来のあり方ではないと考えられているがゆえに否認される。身体の道
具化は、時に〈人間の尊厳〉を危うくさせると表現されるが、この表現だけでは
十分ではない。重要なのは〈尊厳〉という語の内実だろう。では人間の尊厳、あ
るいは身体の本来のあり方とはどのようなものなのだろうか。ここではベビーM
事件を参照にして考えたい。
ベビーM事件とは代理出産によって生まれた子(後にマスコミによってベビー
Mと名づけられる)の引渡しをめぐり、代理母契約の有効性が争われたアメリカ
の訴訟である。1986年3月、代理母は無事子どもを出産するとそれまでの態度を
変えた。そしてベビーMを依頼者夫婦に引き渡さず我が子とするため、報酬を受
け取らず契約を破棄しようとした。両者の争いは「生みの親」である代理母は親
権を(つまり代理母契約は無効)、そして依頼夫婦は養育権を獲得するというこ
とで結着した(結局、代理母には訪問権のみが認められる)。これがベビーM事
件の概要である。
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このベビーM事件は日本における代理出産についての見解にも影響を与えてい
る。ある報告書には次のように書かれている。「代理懐胎を行う人は、精子・卵
子・胚を提供する人とは異なり、自己の胎内において約10か月もの間、子を育む
こととなることから、その子との間で、通常の母親が持つのと同様の母性を育む
ことが十分考えられるところであり、そうした場合には現に一部の州で代理懐胎
を認めているアメリカにおいてそうした実例が見られるように、代理懐胎を依頼
した夫婦と代理懐胎を行った人との間で生まれた子を巡る深刻な争いが起こるこ
とが想定され、『生まれてくる子の福祉を優先する』という本専門委員会の基本
的考え方に照らしても望ましいものとは言えない」( 厚生科学審議会先端医療技
術評価部会・生殖補助医療技術に関する専門委員会2000、および厚生労働省科学
審議会生殖補助医療部会 2003)(12)。この報告書の中で今着目したいのは、子の福
祉の問題よりも妊娠中の女性と子の関係性が重視されている点である (13)。報告
書が指摘しているのは、妊娠は時間的な幅をもったプロセスであり、子宮という
場所のみで起こる、限定的で独立したできごとではないという点である。このご
く当たり前の指摘が含意しているのは、身体は環境から独立に、その影響を受け
ないような単なる器、孵卵器として存在することはできないということだと考え
られる。つまり女性は子宮だけを独立に貸し出しているという経験をすることは
できないのである。妊娠期間には様々な身体的変調、感情起伏のプロセスがあ
り、また体内で日々変化する子を意識して、寝る姿勢を変えたり、運動を増やし
たりという行動の変化のプロセスもあるだろう。この中で、女性は周りの環境に
合わせて身体のあり方を日々変様させ、適応させ、身体は妊娠前とは異なるあり
方へと変化し、こと胎児との間に特有な関係性が構築されたりするようにもな
る。身体の道具化、商品化が否認されるのはこうした環境との相互性、それに伴
う変化という観点が欠けているからである。おそらく私たちは変化のない、環境
との相互作用のない身体を生きた身体とは感じない。こうした本来のあり方が阻
害された時、ひとは〈尊厳〉が踏みにじられたと感じるのである。
こう考えるならば、ベビーM事件における代理母が妊娠している間にやがて生
まれてくる子どもを手放したくないと態度変更したのは当然のことともいえるだ
ろう。身体はそもそも変化するというあり方が本来のすがたであり、またその変
化は多くの場合、本人の意のままにはならない。そもそも自分の意のままになら
ない身体に契約の名のもとに制約を加えても、それが最後まで行使できるか当の
契約者でさえ予測がつかないのは当然である。しかしながら、一見ごく当たり前
に思えるこの変化という身体のあり方の特徴は忘れられてしまう。そして極端
な場合には「ただの健康な子宮というだけで、脳みそも心も無用」( クライン編
1991: 第3部 ) なものとして代理母の身体は扱われることになる。
私の身体はどこまで私のものか
多くの報告書や意識調査がしめているように、代理出産が認められない理由
は、人を専ら生殖の手段として扱ってはならないという点にあるが、その理由は
報告書内には明示されていない。しかしいくつかの見解を突き合わせて考えてみ
れば、それが否認されるのは身体の本来のあり方を逸脱させてしまうというとこ
ろに理由があるのがわかる。身体を道具のように、物品のように扱うことによっ
て、身体の本来のあり方である、環境と連動して変化するというあり方はいびつ
に切り詰められてしまう。身体は環境から独立に存在するものではなく、環境の
中にあって、環境からの影響によって変化しながら、そのあり方が決められてい
く、そういう存在である。身体の道具化、商品化の否定の背景となり、本来的な
あり方と考えられている身体像とは、変化する、意のままにならない身体という
ものである。
2-2 間で生きる身体
環境の中にあって、環境からの影響によって変化しながら、そのあり方が決め
られていくという身体のあり方がさらに含意しているのは何だろうか。それを明
らかにするために、代理出産を引き受ける代理母の立場から出発して身体を考え
てみたい。
ベビーM事件の代理母は、「私は人間がこの世に生きているのはお互いに助け
あうためだと、ずっと信じていました。家庭で子育てしながらもこれなら私にも
できると思ったのです」と応募動機を後に語っているが、他の何人かの代理母た
ちも同様に、代理出産を「人助け」の方法だと思っていたと証言している ( クラ
イン編 1991: 第3部 )。ベビーM事件の依頼者の妻には病があり、彼女は妊娠す
るのが困難な身体であったという。同様に、代理出産を考える人の中にはがんな
どで子宮を切除した人、生まれつき子宮がない人がいる。この場合、代理出産と
いう選択肢は遺伝的なつながりをもった子を持つための唯一のかけがえの無い手
段である (14)。代理母たちはこうした女性たちに同情し、解決策のひとつとして
自分の身体を貸し出すのである。
実はこの自分の身体を貸し出す行為は、こと生殖の場面においては、自己決定
権という大きな問題に関連している。すべてのカップルと個人が自分たちの子ど
もの数、出産間隔、ならびに出産する時を、責任をもって自由に決定でき、その
ための情報と手段を得ることができる権利は、リプロダクティヴ・ライツとして
認められるべきことがらと考えられている。したがって「代理母となる女性が自
らの意志によって代理母となることを選択したのであれば、彼女が搾取の対象と
なるとか、手段として使われるからといって、国家が一律に代理母を禁止する必
要性も権限もない」( 日本産科婦人科学会 2003) ということになる。「女性は生殖
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に関する自己決定権をもち、自らの選択によって代理母となることを決定できな
ければならない」( 金城 1996)。だから代理母になることを強制することはでき
ないが、他方で代理母にならないことも本人以外が決めることはできない。こ
の強制はいずれもリプロダクティヴ・ライツに抵触する可能性があるからであ
る。先に挙げたように、憲法十三条を重視し、代理出産は依頼も引き受けること
も「権利」として認めなければならないとすれば、ここには搾取された身体は生
じていないことになる。代理母たちは自ら身体を貸し出すことを幸福追求という
名のもとで自己決定したのであり、その責任やリスクは決定した本人が引き受け
る。
しかしひとつの重要な問題を避けて通ることはできない。それは〈自らの選択
によって〉ということがはたしてどこまで言えるのかという問題、別の言い方を
すれば意思決定に関わるさまざまなプレッシャーをどの程度考慮していくかとい
う問題である。ベビーM事件に顕著なように、大抵の場合、代理出産の依頼者は
金銭的に恵まれており(依頼者の夫は生化学者、妻は小児科医)、他方で代理母
となる女性の側は金銭的、あるいは社会的に恵まれていない場合が多い。後にベ
ビーMの代理母自身が「アメリカの代理母の経済学は単純です。精子提供者は裕
福で、その子どもを産むために雇われる女は大抵そうではない」と話している
し、また他の代理母も「代理母として妊娠したことのある女性の大部分は、経済
的な誘引がなければやらなかっただろう」と述べている (15)。代理出産において
身体を貸し出す動機として人助け、同情があるのは事実だろう。しかし同じく
らいに、経済的理由も動機として働いているだろう (16)。こうした場合を考える
と、自身の身体に対する自己決定権が認められていたとしても、その十分な行使
は経済的環境に左右されるのは明らかである。私たちは普段、自分の身体に関す
る事柄を〈自主的に〉、〈自らの意志によって〉決定しており、自分以外のものが
それを行なっているとは考えないし、その可能性について意識することはあまり
多くないだろう。しかし、自己決定が十全に行われるためには実は一定の条件
(たとえば経済的条件)が必要であることを代理母の例はしめしている。つまり
私たちの身体のあり方は、経済的状況と無縁な形では成立していないということ
である。
身体のあり方の要因となるのは経済的状況のみとは限らない。先の報告書は次
の点も指摘している。「代理懐胎の依頼または引受けに際して、自己の意思でな
く家族及び周囲の意思が決定的に作用することも考えられる。とりわけ、『家』
を重視する傾向のある現在の我が国では、(義)姉妹、親子間での代理懐胎にお
いて、このような事態が生じることが懸念される。さらに、このようなことが繰
り返されるときには、それが人情あるいは美徳とされ、それ自体が一つの大きな
私の身体はどこまで私のものか
社会的圧力にもなりかねない」( 日本学術会議・生殖補助医療のあり方検討委員
会 2008)。ここで指摘されているように、身体のあり方は周囲環境からの、特に
親しい関係にある他人たちからの影響を大きく被る。この例として、たとえば大
野が取材したカリフォルニア州に住む一人の女性が挙げられる。大野によれば、
この女性は愛する姉に懇願されて代理母を引き受けざるを得なかったのだが、後
に大野の取材に答えて、代理母となったことを後悔しながら「みんなが私を洗脳
していた。命という贈り物がいかに素晴らしいか、みんな寄ってたかって私を
洗脳した」と話している ( 大野 2009)。差し迫った経済的な理由が背景になくて
も、親しい親族から懇願されればノーと言えなくなるというのは想像に難くな
い。それは大野の取材した女性のように代理母になることの依頼である場合もあ
るだろうし、また本人は望んでいないのに代理出産という手段を用いて子どもを
作ることを周囲が要請させるという場合もあるだろう。こうした時に行われてい
る決定は、自らの意志にもとづく決定といっていいかわからないようなものであ
る。
ところで柘植は、代理出産は金持ち女性による貧しい女性の一方的な搾取とい
った単純な図式では捉えられない面があると指摘している ( 柘植 2010)。柘植に
よれば、代理母は確かに経済的弱者ではあるのだが、一方で〈産めない女〉を憐
れみ助ける位置におり、逆に経済的弱者を道具として搾取しているようにみえる
依頼側の女性は、子どもを産めないことによって〈逸脱した女〉とされることに
葛藤し、代理母に依存せざるを得ないという意味での弱者でもある。この解釈に
基づけば、依頼者の女性は子を生むことこそ女性のあるべき自然な状態という規
範に飲み込まれ、それによって代理出産を選択せざるを得ない状況に追い込まれ
ているとみることができる。上では経済的理由や、家族環境、親密さが身体のあ
り方の要因になるとしたが、同様に社会のさまざまな規範が、依頼者側の女性を
も含めて、身体のあり方に深く関わっているということになる。
身体のあり方は経済的理由や、周囲の環境、家族環境、親密な人間関係、文化
的、社会的背景の影響をつねに受けており、その変化と連動して変化する。身体
のあり方はさまざまな人たち、さまざまな制度の網の目の中にあってはじめて成
立しているといえる。ではこのことが含意しているのは何だろうか。それは自分
の意志でそのつど自分の身体のあり方を決めているようにみえても、それがどこ
まで本当に自主的に決定されたものなのかを見極めるのは慎重でなければならな
いということである。自分の身体のあり方が完全に自分のコントロール下にある
と考えることは無理であり、自分の預かり知らぬ部分とつねに隣り合わせの状態
にあると考えたほうが自然である。とするならば、身体についての何か決断をな
す際に、それがかならずしも常に〈自主的に〉、〈自らの意志によって〉なされて
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いると結論することはできないだろう。主体的な決定によるよりも、むしろ周囲
の状況や他人との間で成立してくるがゆえに、時に主体的な決定を超える形で、
身体のあり方は決まってくる場合が少なからずあるからである (17)。
むすび
代理出産についてのさまざまな報告書には、身体は道具でも物品でもない存在
であり、そのように扱ってはならないという考え方が表れていた。道具として、
物品として身体を捉えると、身体の本来のあり方を取り逃してしまう。身体は環
境から独立に存在するものではなく、環境の中にあって、環境からの影響によっ
て変化しながら、そのあり方が決められていく、そういう存在である。この意味
で、身体のあり方は、経済的理由や、周囲の環境、家族環境、親密な人間関係、
文化的、社会的背景の影響をつねに受けており、その変化と連動して大きく変化
することもある。変化し、意のままにならず、周囲の環境からの影響を被らずに
はいられない身体のあり方、どこまでが私のものだといっていいか判然としない
身体のあり方が、身体の本来のあり方であろう。
こうしたある意味で脆弱な身体のすがたを本稿では代理出産をめぐる問題の中
から取り出した。ではこうした身体のあり方についての理解はなにをもたらすだ
ろうか。第一に、身体についての自己決定には慎重であるべきだということであ
る。身体についての自己決定が十全に行われるためには、経済的状況を含めて、
さまざまな条件が揃っている必要がある。おそらくその条件の一部には、強制や
脅迫や同調圧力がないと同時に、そうしたものがないと確認できる手段や情報や
人が揃っているという状況、またその状況を十分に吟味し、検討できる仲間たち
がいるということも含まれるだろう。さらに、自己決定がなされて後でも、その
決定に関して反省し、吟味し続ける状況が用意されていることが必要ではないだ
ろうか。こうした状況が揃ってはじめて、身体のあり方に関する自己決定は意味
あるものとなる。これを踏まえて、第二の点は、身体についての自己決定に伴う
自己責任に関しても慎重であるべきだということである。自分の身体のあり方
が、自分で主体的に決定できるといえるためにはさまざまな条件が揃っている必
要がある。この意味で、自己決定はたった一人での決定ではない。しかし、自己
決定は自己責任の問題を伴いやすい。自分で決めたことは自分〈ひとりで〉責任
をもつべきだ、あるいは自分〈ひとり〉で責任の取れないことを決めてはならな
いと考えがちである。しかし自己決定をすぐさま自己責任の問題と結びつけてし
まうことには、少し慎重であるべきではないだろうか。しかしながら他方で、女
性の身体のあり方についての自己決定は難しい問題をはらんでいる。なぜなら、
周囲の環境からの影響を被らずにはいられず、どこまでが私のものだといってい
私の身体はどこまで私のものか
いか判然としないのが身体の本来の方であるからこそ、こと女性の身体に関わる
問題においては、女性の自己決定権を確立する必要があるというのもまた重要な
考えだからである。身体が脆弱で、環境の変化を受けやすいからこそ自己決定に
は慎重であるべきなのか、だからこそ自己決定権を確立すべきなのか。この問題
はどう考えたら良いだろうか。あるいはそもそもこれは対立した主張なのか、見
かけよりも対立的ではない主張なのだろうか。この問題はここではこれ以上扱う
ことはできないが、この身体についての自己決定に関する問いを次なる問いとし
てさらに検討していきたいと思う。
注
(1) 新型出生前診断についての報道は、2012年8月29日の一斉報道に端を発し、現在
まで継続的になされている(従来型の出生前診断をめぐる問題については、坂井
(1999)、優生思想を問うネットワーク編 (2003) など参照)。また卵子提供について
は、韓国 ES 細胞論文捏造事件に絡んだ倫理問題で以前からも取りあげられていた
が ( たとえば蔵田 2009)、最近では直接生殖に関わる重要な問題としてたびたび報道
されている。たとえば NHK のクローズアップ現代「急増 卵子提供」(2013年1月
10日放送)、NPO 法人 OD-NET(非配偶者間体外受精のための卵子提供登録支援組
織)の報道(2013年1月15日読売新聞)、日本産科婦人科学会による卵子提供に必要
な法整備を国に求める考えの表明(2013年1月18日読売新聞)など。
(2)本稿では、代理出産という語を公的文書における代理懐胎の意味で使用する。代理
出産という語の方が一般的な語と考えられるからである。また代理出産において依
頼を引き受ける女性の呼び方として、夫の精子を妻以外の女性に人工授精するサロ
ゲートマザーの場合は代理母、受精卵を妻以外の女性の子宮に移植するホストマザ
ーの場合は借り腹と区別して呼ぶ場合がある。本稿では特に区別せず、依頼を引き
受けて依頼者の代わりに妊娠、出産する女性はすべて代理母と呼ぶ。
(3)生殖技術に対するフェミニストの立場の整理としては村田 (2009)12章を、生命倫理
一般に対するフェミニストの立場の整理としては Tong(1996) 参照。
(4)子の福祉の問題は生殖補助医療全般において重要であるが、子の出自を知る権利に
関する問題は特に重要である(日本学術会議・学術の動向編集委員会編2010参照)。
(5)ただし全体の約3割は「わからない」と回答している。
(6)代理出産の依頼者が男性の場合や、子どもを生むことができる女性の場合もあるが
ここでは除く。
(7)ただし代理出産は国内でも実施されたことが公表されている ( 根津 2001)。また代理
母を求め渡航する例も確認されている(向井2004; 2007参照)。日本人が国外で代理出
産を依頼した例は、2008年の日本学術会議の報告書では百例を超すとされる。ヨー
ロッパでは無償の代理出産のみを認める国がある一方で、無償、有償問わず禁止し
ている国もある。アメリカは州によって容認、禁止が異なる。
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(8) 代理母の経験を当事者が語ったものとしては、クライン編 (1991) 第3部、ケイン
(1993) などが手がかりになる。
(9)二つの報告書は、生殖補助医療の急速な技術進歩と、制度整備の不十分さのアンバ
ランスから将来起こりうる問題に対して適切な対応をとるための意見集約を目的と
して作成された。
(10)「なお、代理懐胎を禁止することは幸福追求権を侵害するとの理由や、生まれた子を
めぐる争いが発生することは不確実であるとの理由等から反対であるとし、将来、
代理懐胎について、再度検討するべきだとする少数意見もあった」。幸福追求権に関
する言及は、2003年の『精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療制度の整備に
関する報告書』でのみなされている。
(11) この報告書は、出生した子の法律上の取り扱いや、子の出生届の受理をめぐる裁
判、医師による施術実施の公表など、代理出産についての明確な方向付けを行うべ
きという世論を背景に作成された。ここで代理出産に関して十の提言がなされてい
る。その提言は以下のようなものである。(1)法による代理出産の規制、法に基
づく代理出産の原則禁止、(2)営利目的の代理出産の施行を処罰化(施行医、斡
旋者、依頼者が対象)、(3)母体の保護や生まれる子の権利・福祉を尊重し、先天
的に子宮をもたない女性及び治療として子宮の摘出を受けた女性に対象を限定し
た、厳重な管理の下での代理出産の試行的実施(臨床試験)の考慮、(4)医療、福
祉、法律、カウンセリングなどの専門家からなる代理出産の公的運営機関の設立。
医学的安全性や社会的・倫理的妥当性などについて検討し、問題がなければ法を改
正して一定のガイドラインの下に容認。弊害が多ければ試行を中止、(5)代理出産
により生まれた子の親子関係については、代理出産者を母とする、(6)代理出産を
依頼した夫婦と生まれた子については、養子縁組または特別養子縁組によって親子
関係を定立、(7)出自を知る権利については、子の福祉を重視する観点から最大限
に尊重すべき。長年行われてきた夫以外の精子による人工授精(AID)の場合など
について十分検討した上で、代理出産の場合を判断すべき、(8)卵子提供の場合や
夫の死後凍結精子による妊娠、出産は引き続き検討が必要、(9)公的研究機関、公
的な常設の委員会を設置し、政策の立案なども含め、処理していくのが良い、(10)
生まれる子の福祉を最優先として議論すべき。
(12)ここに記されている「通常の母親が持つのと同様の母性」という語については、そ
もそも母性とは何かということも含めて色々な問題が含まれていると思われるが、
この問題に関してはここでは立ち入らない。
(13)妊娠の経験や妊娠した女性の主観性について考察したものとしては Young(2005)3章
が参考になる。生殖という文脈における身体は、こうした研究を参照しながら考え
ていく必要があると思われる。
(14) 代理出産は子宮のない人たちにとっては唯一のかけがえのない手段である。だか
ら、そうした人たちのために、厳重な管理下での代理出産は容認すべきであるとの
意見がある。報告書も「先天的に子宮をもたない女性及び治療として子宮の摘出を
受けた女性に対象を限定した、厳重な管理の下での代理懐胎の試行的実施(臨床試
験)は考慮されてよい」(「代理懐胎を中心とする生殖補助医療の課題―社会的合意
私の身体はどこまで私のものか
に向けて―」)とか、「代理懐胎を容認する方向で社会的合意が得られる状況となっ
た場合は、医学的見地から代理懐胎を絶対禁止とするには忍びないと思われるごく
例外的な場合について、本会は必要に応じて再検討を行う」(「代理懐胎に関する見
解」の付帯事項)とのべている。しかし他方で、管理下における治療が、代理母た
ちの身体を生殖技術の生身の実験室としてしまう危険性をさらに高めると指摘する
声もある。
(15) クライン編 (1991) 第3部。また代理母と報酬と貧困の結びつきに関してはコリア
(1993) を参照。コリアは、貧困層に属する女性ばかりでなく、家のローンや子ども
の学費のために代理母になろうとする中流階級の女性がいることも指摘している。
アメリカの代理母一号として知られる女性も、代理出産と女性の経済的地位に関し
て手記で言及している(ケイン1993参照)。
(16) 経済振興のため、国策として生殖ツーリズムを推進しているインドでは、商業的
代理出産が政府公認のもとで行われている。多くの場合、そこで代理母を生業とす
る人たちは貧困層に属する女性たちである。たとえば借金を背負った夫のために、
野菜売りの夫の収入では食べていけないために、女性たちは代理母業を請け負う。
時に、周囲の説得や懇願によって否応なく請け負わざるを得ない場合もあるという
( 日比野 2011)。
(17) 生殖における女性の自決権の問題についての考察としては、荻野 (1994)、井上
(1996)、加藤 (1996)、柘植 (1996)、江原 (2002)、浅井 (2002)、柘植 (2012) などを参照。
文献
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同通信社.
コリア、ジーナ (1993).『マザー・マシン:知られざる生殖技術の実態』(斎藤千香子訳)
東京: 作品社.
クライン、レテーナ編 (1991).『不妊:いま何が行われているのか』(フィンレージの会訳)
東京: 晶文社.
私の身体はどこまで私のものか
Abatract
Hitomi Saitoh, “Woman’s Body and Surrogacy”. In Ishihara, K. and Inahara, M. (eds.), UTCP Uehiro
Booklet, No.2. Philosophy of Disability & Coexistence: Body, Narrative, and Community, 2013, pp. 43– 57.
In this paper, I shall offer an analysis of the modality of woman’s body focusing especially on some
matters regarding surrogacy. As the birth rate drops in Japan, assisted reproductive technology (in short
a fertility treatment) becomes an important subject. The opportunity to rethink the modality of body
increases under this circumstance. Not a few women are interested in the infertility treatment, and
some women undergo actually treatment for infertility. As for the surrogacy, some people think that
surrogacy is possible as one of the options for the fertility treatment. At the present time, there is no a
special law banning surrogacy in Japan. However, the Japanese Society of Obstetrics and Gynaecology
have guidelines that prohibit either the obstetrician or gynaecologist from assisting a surrogacy, so it
isn’t commonly used in Japan. Some people go overseas to find a surrogate-mother. But surrogacy is a
controversial matter because there is a risk of a human rights violation. This is but one of many reasons for
prohibiting a surrogacy. There are also other reasons which question the need for the surrogacy. However
topics dealt with in this paper are limited and this paper doesn’t directly answer problems regarding
surrogacy. In this paper, by considering basic problems of surrogate, I shall offer an account arguing that
woman’s body has several layers, one that deeply situated in a variety of contexts.
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