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科研研究会報告要旨改訂版(2)
科研「近代移行期の港市と内陸後背地の関係に見る自然・世界・社会観の変容」 第一回研究会(2014 年 6 月 14・15 日 立教大学)要旨 1.港市と内陸後背地の関係史―東南アジア史の観点から 弘末雅士(立教大学) 本科研プロジェクトの目的は、港市と内陸後背地の関係を歴史的に検討することにある。 国民国家の領域を基盤とした従来の陸域中心的史観を相対化する目標を掲げた海域史研究 が、1980 年代終わり以降進展し、海洋交易活動の展開や諸海域間の交流が明らかにされて きた。その一方で、海域と陸域がいかに連関し、内陸世界像がどのように相対化されうる か、具体的に検討する作業は、あまり進展していないように思われる。またともすれば、 内陸部と沿岸部との関係を近代以降の一元化された視点で捉えがちになるが、前近代にお いて港市は、距離の離れた内陸部に食糧を持ち込むことが困難であり、港市が内陸部を一 元的に支配することはできなかった。前近代の港市には、内陸後背地が豊かな食糧生産が でき、商品作物や森林生産物を搬出できることが望まれた。 14・15 世紀に森林生産物や胡椒の輸出港として栄え、東南アジアのイスラームの先進地 とみなされた北スマトラの沿岸部に王都を構えたパサイ王国の王統記『パサイ王国物語』 は、その点を如実に語る。それによると、王統記はパサイの初代王が、①スマトラの森林 動物世界の力に与かり、②後背地住民の支持を得てライバルを制圧し、沿岸部に建国した ことを語る。王国建国後に、パサイ王は夢でムハンマドの啓示を受け、イスラームに改宗 したとされる。建国の根幹をなす①と②は、イスラームと直接関係のないスマトラ的な伝 統であり、パサイ王は内陸民から、彼らに繁栄をもたらすことが期待されたのである。パ サイ王はイスラームを受容し、パサイはムスリム商人が多数寄港する港市となったが、後 背地住民は必ずしもムスリムになったわけではない。しかし、パサイと内陸民との交易ネ ットワークは、その後も維持された。また 9 世紀頃から 20 世紀初頭まで、この北スマトラ の内陸部には人喰いが住むという風聞が流布した。後背地の食人風聞は、外来者が内陸民 と直接接触することを妨げ、港市支配者が後背地住民と独占交易することを可能にし、後 背地にとっても外来者が病気を持ち込んだり、人々を奴隷として捕えることを防ぐ効果を もたらした。このように港市と後背地は、緊密な相互的関係を形成していた。 こうした両者の関係は、近代になると大きな変容を余儀なくされた。植民地支配に服し たスマトラ島の内陸部では、農園企業が展開し始め、食糧は必要な場合、外部からもたら されるようになった。均質な近代的空間が出現し始め、多様な人々が流入し、多彩なネッ トワークが形成され、様々な運動が展開した。それらが国民国家形成とどのように関係し ていくのか、人々の自然観や世界観と関係する心象風景を絡めながら考察していく必要が あろう。 (質疑応答・コメント) ・発表者による港市と内陸世界との関係は、東南アジア島嶼部の事例であり、地域によ ってそのあり方は多様である。東南アジア大陸部の場合、河口に港がある事例はあまり なく、港市は川を数十キロ~数百キロ遡った場所にあり、その付近で農業が行われてい る事例が多い。インドでは地域によって異なり、スーラトやカルカッタのように川をあ る程度遡った場所に港が形成される場合と、大河川が存在しないゆえに河口というより も海に直接面した場所に港が形成されるコロマンデルのような地域もある。また、日本 の場合は、河口は河川を媒介として海と内陸部を結ぶ水運の中継地という性格を有し、 水運は専ら物資の輸送手段として用いられる。 ・港市と王都の関係が極めて近い東南アジアと異なり、中国の場合は港市と王都の間に 存在する距離が非常に長い。距離が長いほど、王権の威信が高まると考えられていた からである。これは日本についても同様である。 ・インドの場合、港と内陸部の関係がナショナリズムと直接関係することはなかった。 インド大反乱に見られるように、インドにおける近代以前のプロトナショナリズムは ムガル皇帝に向けられ、これは近代に生じたヒンドゥーナショナリズムとはまったく 異なるものである。そもそもインドは、その範囲は明確だが内実は非常に曖昧模糊と したところがあり、 「多民族国家」と規定できるかどうかも難しい側面がある。 ・以上のような地域ごとの偏差を考慮に入れた上で、各地域の自己のイメージがいつ、 どのように変化していったのかを考える必要性がある。 2.エーヤーワディー河が結ぶベンガル湾・ビルマ・雲南~18-19 世紀を中心として~ 渡邊佳成(岡山大学) ビルマにおいては、17~18 世紀にかけて、綿花と銀が中国向け交易に用いられるように なり、それに伴ってエーヤーワディー河から陸路を経て雲南に至るルートがビルマと中国 を結ぶルートとして注目されるようになった。その一方で、ベンガル湾を通じてインド・ 東南アジア各地とも関係を有しており、ビルマと外部世界との関係を考える際には、この 両方について目を向ける必要がある。 18 世紀、島嶼部東南アジアとアユタヤでは華人の大量移住が見られ「華人の世紀」と称 されるが、大陸内陸部にもそれが存在したのかという問題は、後の東南アジアの生活文化 にも影響する問題であり、近現代との連続性と絡めて考察すべき問題である。ビルマの場 合、銀鉱山開発とそれに伴う中国人労働者の流入を背景に、彼らを中心とした「廠」とい う軍事共同体が形成された。これは鉱山労働者に、彼らが必要とするモノを供給する必要 上交易も行っており、その指導者は強力なリーダーシップを発揮し、現地勢力と提携した り、地方官と結託して朝貢を主導する者もいた。 このほかに、ビルマ・中国貿易で重要なビルマ側の産品として綿花があった。当初は国境 周辺の交易に限定されていたようだが、18 世紀半ばごろからその規模が拡大し、ビルマの 綿花(ビルマ産)が雲南に盛んに持ち込まれるようになった。ビルマ・雲南の交易は広東貿 易とも関連があった可能性があり、中国側が一時交易を禁止する措置を取ったものの、密 貿易と綿花貿易の隆盛によって有名無実化し、18 世紀末には官が統制に関与しながらも、 交易が「再開」されることとなった。 一方ベンガル湾交易については、16~17 世紀にかけてはアラカン、ペグー、シリアム、 テナセリムといった交易港が存在していたが、18 世紀に入ると海上基地及び船舶建設資材 としてのチーク材の供給源として、イギリスとフランスがビルマをめぐって抗争するよう になる。この抗争にイギリスが勝利する 18 世紀末~19 世紀初頭にかけて、ビルマではコン バウン朝がさらに勢力を拡大し、ビルマ全土を統一するとともに、ビルマ王朝から独立し た地位を保っていたアラカン、テナセリムをも併合し南方へ勢力を伸張していく。このよ うな状況下で、インド統治機関としての性格を有したイギリスのベンガル当局は、ビルマ を戦略的拠点としてではなく、市場及び中国ルートの中継点として捉えるようになる。第 一次英緬戦争(1824~26)でベンガル湾を内海化したイギリスは、ビルマを中国への入り 口として注目するが、シンガポールの開港の影響などもあり、ビルマ・中国ルートはしばら くの間本格的に使われるには至らなかった。このルートが本格的に注目されるようになる のは、フランスがベトナム北部経由でビルマに進出を図る 1860 年代以降である。 (質疑応答・コメント) ・華人の活動に関し、東南アジア島嶼部とビルマの共通点・相違点はなにか 共通点としては、その大量の移住、彼らが鉱山開発にかかわったこと、自治区・華人街 の形成、などが挙げられる。一方、相違点としては、島嶼部ではマレーシアに見られる ように、18 世紀以降も鉱山開発に華人が積極的に関与するが、ビルマでは華人の関与は 見られなくなり、銀山開発も衰えて消滅に至ること、また、島嶼部では華人が商品作物 栽培に関与するが、ビルマではそうした事例がないことなどがある。さらに島嶼部では 華人が国民統合に重要な役割を果たした点も見逃せない。 ・中国とインド以西の世界との媒介、という視点から見た雲南ルートの役割について 不明である。特に前近代についてはわからない。ただ言えることは、銀山の銀はほぼ 100%中国へ流れ、インドはおろかビルマ本土に流れることもなかった。一方、19 世紀 の英領下ビルマの通貨はインドルピーが用いられていた。 ・インドでは通用していたが、ビルマでもペルシャ語は通用していたのか 交易については通用した。税関などに関与していたのはインド系の人々であり、イン ドムスリム商人も数多く来航していた。政治・外交面についてはよくわからない。なお、 中国との関係では金(銀)葉にビルマ語で文書を書き、雲南で中国語に翻訳して原文・ 訳文双方が北京の宮廷に運ばれた。それ以外の部分については漢文でやり取りがなされ、 これには華人・タイ系の人々が関与していた。 ・ビルマの国民国家の心象風景については、ガラス絵に描かれたビルマ女性の姿や、仏 教の風習、例えば寺院の入り口で靴や靴下を脱ぐようになったのはいつからか、といっ たミクロな部分を考察していく必要があろう。 3.東ユーラシア世界とタカラガイ 上田信(立教大学) 東ユーラシア世界とは、ユーラシア大陸における中国の活動範囲を指して発表者がつけ た名称である。中国雲南省を中心に、直径 3000kmの同心円に含まれる範囲がそれに当た る。 さて、中国古代の商(殷)の古墓から大量のタカラガイが出土し、殷代にはタカラガイ が貨幣として利用されていたことはよく知られているが、この事例に留まらず、東ユーラ シア世界の広い地域でタカラガイが様々な場面で用いられている。チベット、シプソンパ ンナーで衣装や呪術面に、インドネシアやタイのゲームにもタカラガイが登場するし、ツ ングース系シャーマンの衣装に大量のタカラガイが使用された事例もある。 こうした事例で用いられているタカラガイは、キイロダカラとハナビラダカラの 2 種類 にほぼ特化しており、大きさが均一、貝殻がこすれていない=生きた貝を採取していると いった特色がある。また、貝の背が削り取られている事例も多く、貨幣として使用された 名残と思われる。 歴史的に見ると、雲南では 13 世紀にはタカラガイが貨幣として使用されており、元代に は納税にタカラガイが用いられていた。また元王朝は、江南商人がタカラガイを雲南に持 ち込むことに制限を加えており、雲南の経済とタカラガイの量を関連付け、同地の経済に 配慮していたことが伺える。明代になってもその価値は変わらず、明は雲南に封じた王族 や官僚への俸禄としてタカラガイを利用している。ただし、元代のように雲南へのタカラ ガイの持込を制限はしておらず、雲南の経済とタカラガイを結び付けて考えることはなく、 単なる報酬の便利な支払い手段としてタカラガイを用いていたと思われる。 明末から清にかけてもタカラガイは通貨として用いられたが、その価値は下落し、最終 的には銅銭に取って代わられ、貨幣としてのタカラガイの役割は終焉する。その後、雲南 で利用されることのなくなったタカラガイが内陸ルートを利用してチベット、青海、満州 方面へ流れ、先に述べた衣装や呪術面で利用されるようになったと思われる。 こうしたタカラガイは、インド洋から入ったものもあるが、明代には主に琉球産のもの が福建・広東経由で雲南へともたらされていた。このような貨幣としてのタカラガイの利 用については、通貨として用いられるために必要な均一性と、威信財、宗教的なものとし て利用されうる価値を有する希少性のバランスが取れていたことにあったと考えられる。 (質疑応答・コメント) ・タカラガイの希少性とはどういった性格のものか タカラガイの中でも比較的大量に取れるキイロダカラ、ハナビラダカラを用いつつも、 貝という性格上内陸部まで大量に運ぶことが困難なため、限られた量しか運搬されえない、 という面で希少性が発生すると考えられる。納税に利用されていたことでもわかるとおり、 雲南ではタカラガイは貨幣としてかなりメジャーな存在だったと言いうる。なお、スコー タイやタイ北部の盆地国家でもタカラガイが使用されていた記録があり、雲南のタカラガ イを重視する文化とつながりを有する可能性がある。 ・なぜ雲南だけでタカラガイが重視されるのか。また、タカラガイが通貨としての役割 を終える要因は何か。 雲南現地における銅銭の鋳造量との関連から考察する必要がある。 ・17 世紀半ば以降、ビルマに雲南から銅銭が流入するようになり、また遷海令解除(1683) 以後、中国船が日本から持ち出す主要な商品は銀から銅に変化する。雲南を中心とした銅 の流れの変化と雲南におけるタカラガイ使用の関係について、考察する必要があろう。 ・タカラガイが通貨としての役割を終える要因については、経済的側面ばかりでなく、 文化的側面も検討する必要性があろう。