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津モリノの浅草オペラ時代
津モリノの浅草オペラ時代 忘れられたスタl歌劇女優 由' いては殆ど知られていない。浅草オペラの熱狂を今日に は、名前こそ広く知られているが、その活動や人生につ 子!﹂と連呼して、歌もセリフも聞こえたものではな 人が舞台に現れると﹁モリノ!モリノ!﹂﹁澄子!澄 ことにモリノと澄子のファンは二階左右に分れて、本 ノのファンは瓢箪池の藤棚の下に、澄子のファンは市川 場内だけに留まらない。毎朝、開場の数時間前からモリ を代表する歌劇女優だ。彼女達のファンの応援合戦は劇 東京歌劇鹿の津モリノと河合滑子は浅草オペラの初期 かった。 ち六区の興行界を席捲し、学生たちの声援もの凄く、 館の前から瓢箪池までの長蛇の行列。爆発的人気で忽 蓋を開けてみると連日開演前から観客が押し寄せて、 六区の興行師は噸笑的な冷たい目で見ていたが、さて 昭 ラの生活﹄のよく知られた次の一文は、津モリノという 大正期の浅草オペラを飾った男女優の中で、津モリノ 正 説明する際にしばしば引用される内山惣十郎﹃浅草オペ 歌劇女優の人気の高さを教えてくれる。浅草で最初のオ ペラ常設館である日本館に、東京歌劇座が登場した大正 六(一九一七)年秋噴の様子である。 緩営者は桜井藤太郎といって興行にはズプの素人で、 9 5 野 べ去二種異常な人気で 、 遂 に は 観 劇 に 来 て い た 中 学 生 達 同様に浅草の新名物となった 。 それはまさに熱狂と呼ぶ 固十郎の銅像の傍に集まり、数十人が列を作って日本館 へ入っていった 。 そ う し た 熱 心 な フ ァ ン の 姿 が 、 オ ペ ラ た と い う ︻図1 ︼。 果 た し て 津 モ リ ノ と は ど の よ う な 歌 として、観客の快感を唆らずにはおかない﹂魅力があっ えて、 モリ ノ に は ﹁美 人 で な い け れ ど も 小 柄な風姿楚々 た い え る だ ろ う。 し か し そ う し た 年 齢 や 容 姿 の 問 題 を 超 ティックな魅力を備えた河合澄子とは対極的な存在だっ が 警 察 に 一 斉 検 挙 さ れ た り 、 津 モリ ノ ら 女 優 に プ レゼン 劇女優だったのだろうか 。 ヲ 匂 。 度かの 小 休 止 を 挟 み な が ら 、 お よ そ 次 の 五 つ に 分 け ら れ こ れ ま で 調 査 し た と こ ろ 、 棒 モリ ノ の 舞 台 活 動 は 、 何 トを贈る為に呉服店員が窃盗を働くといった事件が新聞 の社会面を賑わすなどスキャンダラスな話題をふりまい た。 明治四十四(一九 一 一 )年 9 6 学 生 時 代 の 川端 康 成 が 夢 中 に な っ た こ と で も 知 ら れ る 一、 帝 国 劇 場 歌 劇 部 時 代 人蔵〕 河 合 澄 子 は 、 そ の セ ク シ ーな 姿 態 と 演 技 で ﹁発 展 女 優 ﹂ の代名詞として語られる華やかな歌劇女優だ 。近年では 代 表作 『 瀕死の白鳥 』 の衣裳か 〔 個 図 1 漂モリノのブロマイド写真 舞 踊 学 の 観 点 か ら 調 査 ・研 究 が 行 わ れ る な ど 相 変 わ ら ず そ の 人 気 は 高 い 。 他 方、 津 モ リ ノ は と い え ば 、 そ の 舞 台 も 人 生 も 今 日 ま で 顧 み ら れ た 様 子 は 殆 ど な い 。 意外なこ とに、モリノは澄子より七つも年上で、大正六年当時は 二十 七 才。 同 時 代 の 宝 塚 歌 劇 等 の 少 女 歌 劇 は も ち ろ ん の こと 、浅草の歌劇女優の中でも最年長と 言 うべき年齢だっ た。 お ま け に 既 に 人 妻 で 、 そ の 容 姿 も 決 し て 美 人 と は 言 い難かった 。 大 正 期 は ﹁女 優 ﹂ が 本 格 的 に 舞 台 に 立 つ よ う に な っ た 時 代 だ が 、 モ リ ノ の 印 象 は ﹁ 発 展 女 優﹂ が 世 間 を 賑 わ せ た 浅草 オ ペ ラ に あ っ て 実 に 地 味 で あ る 。 コ ニ ロ 下本稿では、その人生を概観すると共に、﹁浅草オペラ としての評価を伺い知ることが可能な時期でもある。以 二、浅草オペラ時代・前半東京歌劇座からオペラ座 ての輪郭を捉えてみたい。 時代・前半﹂の活動を中心に、津モリノの歌劇女優とし 八月1大正六(一九一七)年五月 までの日本館時代大正六(一九一七)年六月1 気役者の戸籍調べ﹄(大正八[一九一九]年、文星社)、 に、大正期に出版された歌劇俳優名鑑の高津初風編﹃人 津モリノに関する基本的な情報は一部の人物事典の他 生い立ちから帝劇時代まで 大正九(一九二O ) 年四月 三、浅草オペラ時代・後半民衆歌舞劇団及び地方巡 業 時 代 大 正 九 ( 一 九 二O ) 年五月1昭和田(一 九二九)年? ) 年十一月 四、浅草レヴュ l時 代 昭 和 五 三 九 三O i昭和八(一九三三)年二月 五、満州巡業昭和八(一九三三)年三月1五月 時代・前半﹂は、モリノが帝劇歌劇部という後ろ楯から 的纏まった資料を得ることができる。特に﹁浅草オペラ 劇場時代﹂と﹁浅草オペラ時代・前半﹂に関しては比較 に判断するのは難しい。が、劇場が定まっている﹁帝国 も舞台に関する情報は断片的で、津モリノの実力を充分 が消えたのに比べてその活動期聞は長い。いずれの時期 で及んでおり、大正時代の終わりと共に大半の歌劇女優 女玉沢モリノの末路﹂(﹃サンデー毎日﹄昭和十[一九三 涯については沢以佐夫﹁北満に骨となった舞姫歌劇の よ﹂(﹃オペラ﹄大正九[一九二O ] 年十月号)、その生 ては京之助﹁モリノさんの生ひ立ち記すだに涙の過去 等から得ることができる。またモリノの生い立ちに閲し 劇俳優名鑑﹄(大正十[一九ニコ年、活動倶楽部社) (大正九[一九六O ] 年、歌舞雑誌社)、森富太﹃日本歌 (同年、日本評論社)、藤山宗利﹃日本歌劇俳優写真名鑑﹄ 子・小生夢坊・小ぐら生共著﹃女盛衰記女優の巻﹄ 藤波岩太郎﹃歌劇と歌劇俳優﹄(周年、文星社)、三楽流 独立して全盛期の輝きを見せた時期であり、また浅草オ 五]年十二月八日号)がいずれも短い文章ではあるが情 モリノの舞台活動は昭和初期の浅草レヴュ 1時代にま ペラ雑誌が発行され始め、記事の中からモリノの舞台人 9 7 らの文献をもとに、簡単ではあるが、生い立ちから帝劇 報量が多く、内容も具体的で、参考になる。先ずはこれ 多い。﹃人気役者の戸籍調べ﹄は他の俳優名鑑よりもや 津モリノの経歴は、本人の存命中から誤りや不統一が がみられる。 や詳細な記述がされているのだが、やはり幾つかの誤り 高津初風編﹃人気役者の戸籍調べ﹄では津モリノの経 歌劇部解散までの足跡を辿ってみよう。 ) 年三月に深海登代吉 (一八九O 海モリノは本名を﹁深津千代﹂とさ口い、明治二十三 しては、東京音楽学校から帝劇歌劇部へ移り実力派とし カ合衆国ニューヨークに生まれた。高木徳子(明治二十 九O 二)、たけ子(生没年不詳)の長女として、アメリ 歴は次のように記されている。﹁歌劇俳優﹂の掲載順と て知られた原信子、浅草オペラの先駆である高木徳子 四[一八九二│大正八[一九一九])より一歳上、原信 (?l明治三十四[一 (永井徳子)に次ぐ一二番目で、男性の清水金太郎や石井 漠らよりも先に掲載されている。 子(明治二十六[一八九三]│昭和五十四[一九七九]) 父の登代吉は東京音楽学校の第二期卒業生のピアニス より三歳上だ。 治二十三年三月米国に於て生る、父は音楽学校出身の トで、母も同じく東京音楽学校卒。二人は卒業と同時に 津モリノ東京八等(歌劇)俳優、本名深津千代、明 ピアニストにして渡米後青楽を研究中にモリノ生る﹄ のニューヨークでモリノを生んだ。その後、津一家はカ リフォルニア州サンフランシスコに移った。﹃芸能人物 結婚、そのまま音楽修行の目的で渡米し、やがて滞在先 ロl シーを師として津美千代と名乗り同劇に出勤せし 事典明治大正昭和﹄(日外アソシエーツ、平成十年﹀ と共に同国に客死す、モリノは十六歳の年まで米国に が其容貌の有名なる伊太利の舞踊家モリノ 1に似たる ているのは、とれが理由だろう。 等の文献で、モリノがサンフランシスコ生まれと記され ありて舞踊を研究し、後帰朝して帝劇歌劇部に入り、 を以て、更にロ 1シーより津モリノの名を与へられ、 モリノには二歳下の妹・美代がいたが、両親は妹が生 歌劇解散後浅草日本館に出演す、現住所浅草区三間街 一五小松方。 まれた頃から夫婦仲が悪くなり、やがて母たけ子は夫と 9 8 によれば、数年後に母子が再会した時、既に母は再婚し ショナルな話題として世間の注目を集めた。 歌詞で人気の軍歌だっただけに、この盗作事件はセンセー きて、父の没後、残された姉妹は臼本橋のある大間展 幼い姉妹を残して家出。京之助﹁モリノさんの生ひ立ち﹂ ていたという。 の夏のことだ。その年の三月に開場した常国劇場が、八 に引き取られ、モリノはそこでお茶の水高等女学校を卒 月に歌劇部(のち洋劇部と改称。本稿では歌劇部で統一 子どもを抱えた登代吉は帰国すると、地方の師範学校 られて各地を転々と歩き回った。しかし明治三十四(一 する)を新設し研究生を募集したのだった。﹁モリノは 業するのだった。不幸つづきだったモリノの人生に漸く 九O 一)年六月、父親は病に倒れ、そのまま東北の田舎 親類や、養育してくれた恩家の人々の反対を押し切って 転機が訪れるのは明治四十四(一九一一)年、二十一歳 町の宿屋で息を引き取る。モリノが十一歳の時だ。﹃人 ンを弾いて何とか生計を立てた。モリノと妹は父に連れ 気役者の戸籍調べ﹄はじめ大正期の文献には﹁モリノは それに加入した﹂とされるが、この時のモリノの脳裡に や女学校等の臨時の音楽教師をつとめたり、ヴァイオリ 十六歳の年まで米国にありて舞踊を研究し﹂と言った記 死後三十五年以上経ってにわかにその名がマスコミによっ 父の深津登代吉は音楽家としては無名のまま没したが、 以後も活動を共にし、生涯にわたり親しい交際をつづけ 子八名、女子七名の計十五名で、なかでも石井とは帝劇 ち上山草人夫人)、河合磯代(のち山田耕符夫人)ら男 (石井漠)、小島洋々、小森敏、南部邦彦、山川浦路(の は、背楽家だった父親への想いが強くあったのだろう。 て取り上げられることとなった。昭和十二三九三七) 帝劇歌劇部応募者四O O余 名 の う ち 合 格 者 は 石 井 林 郎 年、それまで大和田健樹作詞、西野虎吉作曲で知られて ることになる。帝劇歌劇部でモリノは芸名﹁津美千代﹂ 述が多く見られるが、これは彼女の舞踊家としての起源 いた軍歌﹃日本陸軍﹄(明治三十七[一九O 四]年、開 を名乗る。自分の﹁千代﹂と妹の﹁美代﹂ぞ合わせたこ をアメリカに求める過程で強調されたのだろう。 成館)に盗作疑惑が持ち上がり、登代吉が作曲した明治 の名前に、彼女が込めた想いの深さが想像される。 女性部員は早くも十二月にオペラ﹃カヴァレリア・ル 二十八(一八九五)年の日本陸軍歌がその原曲だったこ とが判明した。﹁天に代わりて不義を討つ﹂の勇ましい 9 9 O月)のキュー 歌劇 ﹃ 天国と地獄﹄( 大正 三年 一 ピ ッ ド 、 夢 幻 的 パ レ l ﹃猟 の 女 神 ﹄ (大正四 年 七 月 ) の 女 神 ダ イ ア ナ ︻図2 ︼、 そ し て ﹃瀕 死 の 白 鳥 ﹄ の つで共通している 。 エン 二 一 リコ ・チェケッティ門下のロ lシlが歌劇部 で指導した舞踊は専らクラシック ・バレエだっ た が 、 伊 藤 道 郎 や 石 井漠 など早々にロ│シー の元を離れた者が日本のモダンダンスの草創 スティカ 1ナ﹄ (イタリア人声楽家アドルフォ ・サルコ 九 二 二 ) と結婚し、子どもにも恵ま 九O︺ │大 正 十 一 [ れる 。 舞踊家としての才能に目覚め、また女性としての ヴァオリンを弾いていた小松 三樹 三 (明治 二十 三[一 八 1 0 0 期を築くことになったのに対し 、モリ ノはロ 1 シl直伝のバレエダンサーだったと 言 えそう だ。 またこの帝劇時代の大正 二(一 九 一三) リ!と柴田環による独唱と 二重唱の抜粋)に コーラ ス要 年 、 二十 三歳のモリノは帝劇管弦楽部で第 一 員として出演しており、これがモリ ノの初舞台となった 。 検討の必要もあるため、ここではこれ以上は詳しく触れ 帝劇時代の津モリノに関しては、歌劇部それ自体の再 ない 幸 福 にあった 。 ﹁津 モリノ ﹂ の芸名を与えられた彼女は 、 歌 劇 部 公 演 を ず稿を改めることにしたい 。 献を見る限り 、 帝 劇 歌 劇 部 時 代 の モ リ ノ の 当 た り 役 は 喜 通じて次第に舞踊家として頭角をあらわしていった 。 文 指導者としてイタリア人の舞踊家 ・振 付 師G ・ ロー シ│夫妻を招く 。 ロlシーから 洋舞の才能を認められ、 v- 幸 せも手に入れたこの時期、津モリノは人生の中の数少 アナ ( 漂モリノ ) と怪物 ( 高田雅夫) 〔 個人蔵〕 翌明治四十五(一九 三 己 年八月、帝劇は歌劇部の新 図 2 帝J l i J 絵葉書より 『 猟の女神』のダイ オペレッタ﹃カフエーの夜﹄(佐々紅華作)、ミュージカ ルプレ 1 ﹃女軍出征﹄(伊庭孝作﹀、新舞踊吋明暗﹄(石 モリノは小山内薫、山田耕符、石井模らの﹁新劇場﹂第 大正五(一九二ハ)年五月に帝劇歌劇部が解散すると、 ﹁海辺の女王﹄(伊庭孝作)、﹃カフエーの夜﹄(好評につ 明日無し達磨﹄(佐々紅華作)、ミュージカル・コメディ 第二回はファ l ス﹃鏡わり﹄(伊庭孝作)、オペレッタ 薫要なフランス女士官を演じている。十一月一日からの 浅草オペラ時代 三岡公演(大正五年九月、於・保険協会ホール﹀、ロ l き続演)で、モリノは吋カフエーの夜﹄以外の三作に出 井摸按舞、山田耕符作曲)で、モリノは﹃女軍出征﹄で シlが赤坂に開場させたローヤル館、高木徳子と伊庭孝 演している。 興味深いのは十一月九日からの第三回で、辺倒新聞﹄ の歌舞劇協会に公演単位で参加した後、石井漢に誘われ ) 年四月の 揚げに参加する。これ以後大正九(一九二O 掲載の広告(十一月九日付)によると、歌劇豆冨術家同 て理大正六年十月の浅草・日本館での﹁東京歌劇康﹂旗 オペラ座解散までの約二年半をモリノは石井漢と共に日 喜歌劇﹃ビスタ!の結婚﹄、お伽歌劇﹃ビリケンとキュー 小島洋々、杉寛、天野喜久代、千賀海寿一、岩間百合子、 漢、津モリノ、河合澄子、服部清子、内山惣十郎、歌に 石井漢に座長を任せた歌劇団で、メンバーは舞踊に石井 いた音楽家の佐々紅華が日本館の依頼を受けて企画し、 てきたので、各自が得意とした演目を﹁番外﹂で出すよ うに新聞広告が掲載されるようになる。興行に余裕が出 た頃になると劇団も軌道に乗り始めたらしく、毎日のよ 立した演目に添えられている。この旗揚げ三週間を過ぎ 独唱天野等﹂と記され、番外ながらもモリノの舞踊が独 じり﹁番外﹂として﹁トーダンス海モリノ、新舞踊石井、 ピー﹄、歌劇﹃サイノロジー﹄、喜歌劇﹃女軍出征﹄に交 桂与太郎、小知情吉らがいた。石井安中心に座組みされ うになったのだろう。 東京歌劇座は、東京蓄音器(現・日本コロムビア)に 本館を拠点に活動をする。 たこともあり、舞踊に力が入れられていることが特徴的 人気に火が付いた東京歌劇座の勢いは凄まじく、たち だ 。 プログラムによると十月二十三日からの第一回公演は 1 0 1 って居たのである尚さういふ学生を多く出したのは模 を組織して後援し此の外何々会と七八種の後援会を作 範中学と称せらる まち新聞の社会面を賑わす事件となった。年が明けた大 学生団女優に漏る/後援会を設けて幕を贈り/会費を得 会外二校であった﹂︹略︺中学生の後援を得てゐると 正七(一九一八)年一月二十六日の﹃朝日新聞﹄は﹁・ る為悪事を働く/マ中学生舟余名検挙さる﹂の見出しで いふ浅草日本館はオペラ専門の活動常設館で目下正喜 中にでも俳優の物真似を為し風紀頗る素れ居る傾向あ けて男女優へ幕、職、旗等を贈り演劇に熱中して登校 近来中学生聞に俳優を最嵐にする風流行し後援会を設 談に依ると同館は学生や若い会社員を華客とし女優に いふ旗がドツサリ舞台の天井にプラ下ってゐる館員の たされ学生連中から寄贈された﹁津モリノさんしなど さうな甘い物を演じ階上も階下も観客は殆ど学生で満 劇﹁子ボ l の夢助﹂やトーダンス其他若い者共の喜び h麻布中学校や早稲田中学、独過協 こう報じている。 りより各中学校職員聞の問題となり是れが矯正方法に 六名居て夫々幾つもの後援会を有してゐるとのことで は揮モリノ、富士川小波、小村時f、松下栄美子等十 ある 付協議中彼等の聞には終に金銭に窮したる結果悪事を れず︹略︺係官は日く﹁今回検挙した学生は目下横行 働くもの頻出するに至りしより警視庁にては捨て置か それにつづけとばかりにオペラ館、観音劇場、金龍館な 日本館のオペラ人気を見て取った浅草の興行師連は、 してゐる不良少年と違ひ大罪を犯しては居ないが男女 優に贈るべき物を購求し又は会費を得んが為に父兄に どが次々とオペラ専門に鞍替えしていった。浅草オペラ そうした中、石井漢と津モリノは、清水金太郎夫妻の 対し学用品を購求すると称して一円から三円までの金 加入と入れ替わりに東京歌劇座を去り、東京歌劇座は劇 銭を貰ひ尚夫れだけでは不足を感ずる処から少年少女 で遂に検挙するに至ったのであるが取調べて見ると浅 時代の幕開けである。 草公演日本館の俳優井田芳美の為に四十名の学生が好 団名を七声歌劇団と改称して金龍館へ出演、石井とモリ を脅迫して金品を巻き上げたものもある形跡があるの 美会、女優河井すみ子の為に七十余名の学生が松風会 1 0 2 静子、津モリノ、天野喜久代、井上起久子などを数ふべ 花房静子、岩間百合子、岡村文子、松本徳代、明石酒磨 ノは日本館に戻り大正七(一九一八)年十月に新たにオ 子、白川澄子、さては少女の堺千代子、一線久子などが きで、花形としては、安藤文子、木村時子、原せい子、 浅草オペラ全盛期をモリノは一三十歳前後で迎えている。 ある。︹略︺清水静子、井上起久子、津モリノ等は、何 ペラ座を結成した。モリノが二十八歳の時だ。 のだろうか。 当時の浅草の歌劇女優の中でとれはどういう位置にある 俳優名鑑﹄の女優八十六名中モリノは三浦環(明治十七 六[一八九三]l昭和四十八[一九七三])、帝劇歌劇部 されており、モリノは清水金太郎夫人の静子(明治ニ十 れこれしてゐる中には突を結ぽんとする所である れも三十歳前後で、花ならば盛りを過ぎたと云ふ所、か [一八八四]昭和二十一[一九四六])、松旭斎天勝(明 まず年齢だが、歌劇俳優の掲載人数が多い﹃日本歌劇 治十九[一八八六]昭和十九[一九四四])につづく年 第二期生の天野喜久代(明治二十七[一八九四]l昭和 少女歌劇団の﹁生徒﹂(宝塚歌劇団と改称した現在も宝 とになる。歌劇の女優という点では、よく知られる宝塚 ノは浅草の歌劇女優に於ける﹁舞踊の名手として斯界の ノ一人だ。﹁元老﹂の原信子も声楽なので、事実上モリ ただし、モリノを除く三人の特技は声楽で、舞踊はモリ 五[一八九二]│?)と並んで中堅に数えられている。 と記 齢の高さだ。ただし三浦も天勝も浅草の女優ではない。 二十二九四五])、同第一期生の井上起久子(明治ニ十 塚では演者を﹁生徒﹂と呼び、公演を宝塚音楽学校の延 第一人者﹂と目されていた。ここでの﹁舞踊﹂とは洋舞 L その意味でモリノは浅草オペラ界の最年長女優というこ のに対し、浅草の歌劇の﹁女優﹂の年齢は閉じ十代後半 長に位置づけている)が十代後半からニ十代前半だった のことだ。 近年の書物の中には浅草オペラも宝塚少女歌劇と同様 から三十歳前後まで幅広く揃っており、このことが少女 歌劇の芸能者らしくない処女性、純粋性を観客に強く印 る記述が見られるが、それは間違いだと言える。浅草の に演者もその人気も十代の愛らしい踊り子にあったとす では実力の方はどうだろうか。当時の雑誌には﹁元老 場合、歌劇女優の年齢の幅は広く、観客は、女性として 象づける結果につながったのだろう。 としては原信子が控へて居り、巧者な人としては、清水 1 0 3 順位も同様で、舞踊家としてのモリノの評価と人気は高 モリノの得票数は二O七二票で、二位の一保久子と八O O票以上の大差をつけての一位獲得だ。他の人気投票の ﹁唱声﹂では原信子がそれぞれ第一位に選ばれている。 ﹁容貌﹂では宝塚の篠原浅茅が、﹁舞踊﹂では津モリノが、 では﹁容貌﹂﹁舞踊﹂﹁唱声﹂の三部門が設けられており、 (一九一九)年八月号誌上で行われた歌劇女優人気投票 価する視座を持っていた。例えば﹃オペラ評論﹄大正八 の容密の他に舞台人としての技術に対しても客観的に評 ﹁新舞踊大歌劇オペラ座﹂として再出発する。新生オペ 刷新して舞踊を主体に、石井漢と津モリノの二人看板 なく演じる上で大いに役立った︻岡3 ︼ オ ペ ラ 座 は 大 正 九 三 九 二O ) 年十。 一月に組織を一部 具合に、逆にその小柄な体躯が少女的な役柄をも違和感 チヨコ走りする様子は二十前後としか見えない﹂という 柄だったが、﹁小さい身体に可愛い﹄洋装をしてチヨコ か表情の豊かさに定評があり、舞台人としてはかなり小 芝居の方では、決して美人ではないがアメリカ育ちの為 では特に目立った評価も、また不評も見られない。他方べ 面がより具体的に知ることができる。プログラムには ラ座は舞台人としてのモリノの特性、浅草オペラの舞踊 く常に上位に選ばれている。 洋舞の第一人者 軽快な小品でその個性を発揮したという。石井漢の相手 フスキ 1 ﹃瀕死の白鳥﹄のようなオーソドックスな作品、 ネル 1ダ﹃ベルス 1ズ(スラプの子守歌)﹄やチャイコ シl譲りのクラシック・バレエで、なかでもフランツ・ た。先にも記したように、モリノが得意とした舞踊はロ l ×何卒ながい眼で御守立の程を御願ひいたします。 ×誇とする未来ある一座でございます。 ×即ち舞踊劇の上品にして美しく面白いを ×之に演劇の滑稽譜識を伴奏せしめたる ×形と線との音楽なる舞踊を基調とし ×所謂オペラと御混同下さいますな ×新舞踊歌劇オペラ座を御紹介いたします。 ﹁ごあいざっ﹂として劇団の主旨がこう記してある。 役を度々務めてはいたが、モダンダンスに強く惹かれた 浅草でモリノは女性洋舞家の第一人者と見なされてい 様子はない。声楽の方はメゾソプラノだったが、こちら 1 0 4 新舞踊歌劇 オペラ座 ロlシl の指導に反発した石井漢とロ l シーを師と仰 三、舞踏 ﹃フラグダンス ﹄一 幕(津モリノ氏振付) 四、新舞踏 ﹃ジプシイの生活 ﹄一 幕(カ lルボ 1ム曲、 石井漠氏振付) 五、歌舞劇 ﹃女軍出征 ﹄ 一幕(伊庭孝氏訳) 三 の ﹃フラグダンス ﹄ は ︻図3︼ から分かるように、 いだ津モリノは、その影響は異なるもののどちらもロ l バトントワリングなどで見られるショートフラッグを使っ eRH 手 aT'ae g-w ,、 ・ ・ 省周・・予 図 3 淳モリノ振付 『フラグダンス 』新舞踊 歌劇オペラ座、本郷座プ ログラム ( 大正 9年 1 2月 1 3日発行) より 〔 個人蔵 〕 シーによって舞踊へと導かれた 。 その 二人の組み合わせ ・ ‘ たダンスだったようだ 。 出 演 は 津 モ リ ノ 、 彼 女 の 弟 子 の J が、こうして音楽ではなく舞踊主体の歌劇団結成へと至っ グ た の は 自 然 の 流 れ だ と 言 うべきだろう 。 浅 草 オ ペ ラ と 言 ダ 津野文子、 津野 光子、そして石井小浪、間 君代の五人 。 圃! えば、西欧オペラ運動ばかりが知られているが、 実際に ? s , .・ 揖雪 は洋舞、洋劇を含めた多様な西洋演劇の 展開だったことは改めて留意しておくべ きだろう 。 手元にある 二公演分のプログラムから 演目を転載してみよう 。 十 一月 三十日初 日の南座(東京・麻布)での第 二回公演 の演目は次のとおり 。 人作 ) 、 童 話 歌 劇 ﹃シ ン デ リ イ ラ ﹄二 幕 ( ぺ ロオル原作、若松 美 鳥 氏訳 ) . 1 ' ‘ • 4 一、オペレット ﹃壱 高 弗﹄二 幕(野の 一 一 . ス ‘蘭 1 0 5 敬 白B 軍出征﹄の三作品に出演、いずれも主役か準主役である。 他にモリノは﹃シンデリイラ﹄、﹃ジプシイの生活﹄、﹃女 の舞踊の見せ場となっている。 には狂乱の舞を舞ってみせる場面があり、これがモリノ だ。﹃ロズムンダ﹄では主役のロズムンダを演じ、最後 殊に女軍出征では其感を深うした。︹津野︺文子や︹津 ぬ﹁真面目さ﹂だった。﹁非常に舞台では真面目な人で 舞台での津モリノの印象は、浅草の歌劇女優らしから ているのがよく分かる。 南陸も本郷座も音楽よりは舞踊と芝居に比重が置かれ 新舞踊﹃ジプシイの生活﹄は石井漠との二人舞踊で、こ 十二月十三日初日の本郷座での第三回公演の演目は次 れが劇団の最大の売りとなっている。 のとおり。 一、、ミュージカル・コメディウ男者﹄ 一幕(故寺田唖 野︺菊子にダンスを教へて居た時合点が行かない二人に は笑顔で幾度も幾度もやり直して居たには傍から見て居 伝氏原作、無名氏改修) 二、舞踏﹃フラグダンス﹄一幕(津モリノ氏振付) (叩) いといふ女優を養成する﹂旨の広告が度々掲載されてい は自己の芸術のために、真面目に熱心に舞踊を勉強した 後輩の育成にも積極的で、歌劇雑誌にも﹁津モリノ氏 さがモリノの典型的な印象評である。 ふこと、蔭口を知らない人だ﹂といった真面目さ、誠実 た我々には何と苦へない敬度の念を起さしめた。人を疑 作曲) 三、舞踊劇﹃明暗﹄一幕(落合浪雄原作、山田耕符氏 四、新喜歌劇﹃女権拡張運動﹄二幕(若松美鳥氏訳編) 五、無言劇﹃ロズムンダ﹄一幕(石井漠氏作及振付、 奥山国平編曲) 六、歌舞劇﹃女軍出征﹄ 一幕(伊庭孝氏作)(お好み る 。 こちらの﹃フラグ、ダンス﹄には、モリノは出演はして 婚し子供にも恵まれたモリノだったが、不運なことにそ も薄幸さがつきまとった。帝劇楽劇部の小松三樹三と結 により) いない。モリノの出演は﹃女権拡張運動﹄、﹃ロズムンダ﹄、 の子は幼くして病死してしまう。こうしたそリノの薄幸 モリノの生い立ちは既に記したが、浅草時代の私生活 ﹃女軍出征﹄の三作品で、やはり主役かそれに準じる役 1 0 6 ところとなる。モリノの当たり役の一つはグノ 1作﹃フア の人生は、歌劇雑誌でも度々記事化され世間の人の知る て観客を惹きつけていった。 を呈す﹂と言わしめるような、一種の神聖な魅力となっ 浅草オペラ界の煩型にまで﹁年増なれど無邪気な処女色 難を浴びる中で、薄幸な横顔を覗かせながらもひたすら の巧みさもさることながら、﹁発展的女優﹂が世間の非 津モリノという歌劇女優の魅力は、その舞踊や演技力 (担) ウスト﹄のマルグリットだったが、観客は愛児を失い煉 あるいは吋ロズムンダ﹄の狂気の乱舞にその苦悩を重ね 真撃に舞台に打ち込む芸術的求道者というイメージに支 獄に繋がれたマルグリットに現実のモリノの膿罪の姿を、 正十(一九二一﹀年には、夫までもが急な病で此の世を えられるところが多分に感じられる。モリノの不幸な運 合わせずにはいられなかった。吏に不幸はつづいた。大 去ったのだった。 環境下で日々の舞台を上演し続けるしかない浅草オペラ らは民衆芸術と持ち上げられながらも、実際には粗悪な 命とそれでも健気に舞台の向上に勤しむ姿は、知識人か ずに仕舞ったので、︹モリノは︺強度のヒステリーに の苛酷な生活と重なり合いながら、芸術家の生々しい現 不幸にして旅から旅を歩く聞に、子供の死目にも逢れ 心悩まして舞台に卒倒したことも屡々あった。真個に 実を人々に印象づけた。 さて、 最後に晩年の津モリノについて簡単ではあるが 最後の舞台 気の毒な女優である。 モリノさんの笑顔には何処か淋しい所が有ります。人 知れず楽屋の鏡台に泣き伏す事も時折あるさうです。 記すだに涙のそリノさんの過去よ││ 大震災によってほぼ活動の息の根を止められてしまう。 の少なくなかった浅草オペラの活況は、大戦終結と関東 触れておこう。第一次世界大戦の好況に支えられる部分 舞台に対する真面目な求道者としての彼女の印象は更に モリノも、他の多くの歌劇俳優同様に、旅回りの一座に モリノの不幸な私生活が世間に広く知られるに従い、 強められていったようだ。それは時に小生夢坊のような 1 0 7 と呼べる生活ではなく、﹁その聞こそモリノの荊練の道 婚、四人の子供をもうける。しかし、それは決して幸福 閉じ旅回り一鹿の若い俳優の森弘(本名・根本弘﹀と再 モリノは絶望から自殺を闘ったこともあったが、やがて 骨となった舞踊﹂によれば、子供と夫を相次いで失った した平穏な道は残されていなかった。海以佐夫﹁北満に 台を引退して家庭に収まったのに対し、モリノにはそう く引き続き調査が必要だが、浅草の歌劇女優の大半が舞 この大正末から昭和初期の活動については、資料に乏し 身を落とし、糊口を凌ぐ日々を送るようになったようだ。 し、再び旅回りの生活に身を落とす。当時のモリノの窮 は、数回出演しただけで早々にプペ・ダンサントを退底 アチャラカ喜劇の悪ふざけに絶えられなくなったモリノ の劇団を一つにまとめた混成劇団だ。浅草式レヴュ lや 川淳吉(のちの軽演劇作家・斎藤最古口)など既存の複数 らが、俳優陣には榎本健一や中山呑海、淡谷のり子、田 で、文芸部に内山惣十郎、サトウ・ハチロ 1、菊田一夫 座で共に舞台に立った佐々木千恩が支配人を務める一鹿 に参加する。プペ・ダンサントは、東京歌劇座とオペラ の玉木座に開場したレヴュ 1劇団﹁プペ・ダンサント﹂ た子は、歳月も経たないうちに他人の手に渡されてし 旅役者には乳呑み嬰児を養ふことが出来ない。生れ 十二月に新宿に開場したレヴュ!劇場︺に寄った。佐々 ンサントを経て、佐々木千里が昭和六(一九三一)年 ったついでに佐々木君のム lランルージュ︹プペ・ダ 昭和七年頃だったと思うが、ある日、私は新宿へ廻 乏生活を、石井漢はこう記している。 まふのであった。 木君はいなかったので、二階へ上って腰をおろすと、 であった﹂という。 モリノも四十を越した。四人の子を生ませ、さん もうと思って来たがいないし、子供と二人で死のうか 泣き声になって、ひどく困って佐々木さんにお金を頼 のである。どうしたと声をかけると、彼女はいきなり そこに六っか、七つの男の子を連れた津モリノがいる 十年は過ぎた。 V ル¥に彼女の若さと労働をしぽりとった根本は、彼女 ︻ 田 を破れたかづらのように棄て、満州に行ってしまった。 ) 年、浅草 東京に戻ったモリノは、昭和五(一九三O 1 0 8 と満州へと渡った。満州事変聞もない昭和八三九三三) 事変の動揺からか、満州興行は不入り続きで、仕方な 年三月のことだ。 舞台生活をいつまでもやっていてはいかんからといい く一座はそのまま朝鮮へと移動し、五月十四日からは平 と思っているという。そんなばかなことがあるかと、 含めて、日本青年館で引退公演をやらせることにし、 の映画館で、モリノの舞台は正規の劇場公演ではなく、 壌の金千代鹿で興行を始める。当時金千代鹿は松竹経営 叱るようにして私は二人を家へ連れて帰り、それから 知っている連中が集まって彼女の後援会というものを 映画のアトラクションだったと思われる。他にも松竹は 作り、骨折って切符を売った。この時忘れられないの は、帝劇の山本久三郎氏が過分の金子を送って下さっ これらにもモリノは出演予定だったのかもしれない。 大郎に大栄館、威興に真館を持っていたので、あるいは ︽ 路 ︾ 同じ平壊に平壌キネマ、京城に大正館、釜山に相生館、 この引退公演でモリノ君は﹁瀕死の白鳥﹂と﹁アヴェ・ たことである。 マリア﹂のニつの舞踊を踊ったが、それは永い聞の惨 しかしこの金千代鹿での初日が、彼女の最後の舞台と 布井漢としては、このままモリノと息子の弘文を自由 に悲しいことに、没後、モリノの遺骨は長らく行方不明 引き取った。死因は心臓麻輝だった。享年四十三歳。更 たモリノは直ぐさま宿へ運ばれたものの、そのまま息を めな楽屋生活にひしがれた痛々しい踊りであった。 が肢にある自分の研究所に引き取り、稽古の手伝いでも となる。 なった。得意の﹃瀕死の白鳥﹄を踊る途中に高熱で倒れ しながら暮らして貰えたらと考えていたが、そこへ満州 石井漢が棒モリノの遺骨が奉天にあることを知ったの に渡っていた夫の森弘が急に帰って来て﹁大連の方に出 演することにきめて来たから頼む﹂と言い出したのだと は昭和十三九三五﹀年九月の息軍慰問興行の折のこと リノが化粧台に掛けていた縮緬花模様の布に包まれ﹁縛 だった。奉天寺の納骨鷺で発見した時、遺骨は生前のモ い ・ っ 。 モリノにとっても、もう一度満州で一旗揚げたいとい 局宣真女﹂の戒名が記されていたという。帰国後、石井 う気持があったのだろうか。周囲の反対を押しきり弘文 を人に預けたモリノは、七、八人の小規模の一鹿を組む 1 0 9 漢とその仲間は生前のモリノを偲んで多磨霊園の深津家 の墓に彼女を納骨し直すと共に、その傍らにダンサー姿 のモリノを刻んだ碑を建てた。 親しい者にしてみれば、既に浅草オペラ華やかな頃か らそリノの不幸な最後は予想されていたことだったよう だ。雑誌に掲載された歌劇俳優の占いの中で、モリノの 未来はこう告げられている。 君の過去の経歴が複雑な為か、どうしても余の脳味 噌には君の命数が乱れ合ってゐて判明しない。君の命 要するに生きるだけ生きてゆかれるだらう。寿命な 数は四十越して間もなくだと思ふが? どは君にとってはどうでもい、のだ。君は歌劇界には 永遠に生きてゆける天才的素質を持ってゐる女だから ね。まあ其の積りで一生懸命に芸に舞台に努力し、ま あ日本歌劇界の為に君は自分の身体を大切にし給へ。 数奇と言うに相応しい人生である。 *本研究はJSPS科学研究費23720084、2452 0183の助成を受けたものです。 r (l) 内山惣十郎吋浅草オペラの生活﹂雄山閤出版、昭和四 十二年、六四頁。 (2) ﹃朝日新聞﹄大正七年一月一一六日付。 (3) ﹃中央新聞﹂大正七年間月二九日付。 (4) 河合澄fについては杉山千鶴﹁文字の世界で踊り続け るーー一九二0年代浅草の女王・河合澄子﹂(瀬戸邦弘・ 杉山千鶴編吋近代日本の 身体表象││演じる身体・競う 身体 h森話社、平成で十五年)はじめ杉山による精徹な 研究がある。 (5) 波野ちどり﹁オペラ人気女優﹂﹃オペラ﹄大正八年五 月号。 (6) 津モリノの墓は多磨霊園にあり、墓所側には一族の墓 石と共に﹁津モリノの碑﹂が建てられている。埋葬場所 は二二区・二種・四阿側。霊闘事務所を介して親族と連 絡を取ろうとしたが、残念ながら連絡先住所が不通と言 うことだった。 (7) この軍歌﹃日本陸軍﹄盗作事件については﹃朝日新聞﹄ H に代りて の以下の記事が詳しく報じている。﹁新説 天 不義を討つ u/原曲は薄命の音楽家、故沢モリノの父﹂ ﹃朝日新聞﹄昭和十二年十一月二十二日付、﹁﹁天に代り て﹂纂を立つ/薄命の背楽家・沢モリノの父へ/昔の教 え子逮が美挙﹂同年十二月十三円付。 (8) 津以佐夫﹁北満に骨となった舞姫歌劇の女玉沢モリ ノの末路﹂﹃サンデー毎日﹄昭和十年十二月八日号。 1 1 0 注 (9) ﹃日本歌劇俳優名鑑﹄には﹁帝劇歌劇部第二期生とし て入りしが、有望なりし為に第一期生に進められたり﹂ とあるが、同書以外にこれに関する記述はない。 (叩)松本克平﹃日本新劇史新劇貧乏物語﹄筑摩書房、昭 和四十一年、三二九頁。また同書には東京歌劇座旗揚げ 以前に石井漢が東京歌劇座の名で牛込の芸術倶楽部で行っ た試演会のことも記してある。 (日)内山、前掲書、六三i六四頁。 (ロ)男優は五十八名、男女合計で一四四名が掲載されてい る 。 (日)小ぐら生﹁花形や誰?﹂﹃オペラ評論﹄大正八年十月 号 。 (U) 藤山宗利﹃日本歌劇俳優写真名鑑﹄歌舞雑誌社、大正 九年。 (日)﹁懸賞女優投票結果発表﹂﹃オペラ評論﹄一九一八年八 月号。﹁舞踊﹂部門の順位と投票数は次の通り。津モリ ノ・二O七二票、一燦久子・一二六三票、河合澄子・一 二二九票、瀧川すゑ子・一一八八票、二見秀子・一 O五 七票、今村静子・一 OO九票、石井小浪・九七四票、松 山浪子・九一一.一票、松木みどり・八六二票、高砂松子・ 八三三票。 (凶)﹁歌劇俳優人気投票・第一回﹂(﹃オペラ﹄大正六年五 月号)では男女優合同で、岡谷力三・五一ムハ票、一候久 子・三O一一一票、白川澄子・七九八票一、明石須謄子・二八 七票、海モリノ・一ヱハ一票と第五位に選ばれている。モ リノが安定した人気を保持していたことが分かる。 (げ)清水まつみ﹁オペラ座││去りし人々﹂﹃オペラ﹄大 正九年八月号。 (日)﹃石井漠・津モリノ新舞踊歌劇オペラ座﹄プログラ ム、大正九年十二月十三日初日、本郷座。個人歳。 ( ω ) 清水、前掲書。 (初)﹃オペラ﹄大正九年八月号には以下の広告がある。﹁女 優募集問/日本歌劇界の第一人者オペラダンサーとして 知られた津モリノ氏は自己の芸術のために、真面目に熱 心に舞踊を勉強したいといふ女優を養成するさうです。 希望の方は左記の所に本人が直接行ててごらんなさい。 午前中に面会いたすさうです。/浅草区三間町十五番地 小松方津モリノ﹂。 (幻)波野、前掲書。 (幻)京之助﹁モリノさんの生ひ立ち││記すだに一棋の過去 よーー﹂﹃オペラ﹄大正九年十月号。 (お)湾、前掲書。 (M) 石井漠﹃私の舞踊生活﹄大日本雄弁会講談社、昭和二 十六年。六三1六四頁。 (お)笹川慶子﹁京城における帝国キネマ演芸の興亡││朝 鮮映商産業と帝国日本の映画興行 L﹃大阪都市遺産研究 h 第三号、平成二十五年。 (お)﹃朝日新聞﹄昭和八年五月十五日付。 (幻)天津瑚弄﹁歌劇俳優印象判断記﹂﹃オペラ﹄大正八年 八月号。 1 1 1