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の形成 九 - 新潟県地域共同リポジトリ
地域世界と「 国民国家」 - アラブの場合 コミ ューン 植民地アルジェリアにおける行政町村の形成 小 山 田 紀 子 成年男子す べて の住民 の きるo Lか し, 21 歳 以上の は じめに 年 の アル ジェ遠 征 に始 ま る フ ラ ンスの アル ジ 1 8 3 0 政治 的権 利 の平 等 原則 の上 に成 り立 っ フ ラ ンス市町 シェマ 村 制 の図式 を, 冒- ロ ッパ入 入 植者 が形成 す る 植 民 ェ リア植民地 化 は, イギ リスの植民 地 (た とえ ば東 地社 会 にその ま まあて はめ る こ とは, 入植 者 執 ア フ リカ) にお け る間接統 治政 策 とは異 な り, フ ラ の強 い抵抗 に会 い, その移行 は蕃 易 に は進 まなか っ ンスの資 本主義 の発展段 階 で さま ざ まな政治 的 局面 た。 彼 らは ムス リム原住民 を政 治 的経 済 的 に低 い地 あ るい は経 済 的要 因 によ って, フ ラ ンス人 を アル ジ 位 に保 持 して お きた い と考 え, ム ス リム住民 め町村 ェ リアに入植 させ る植民 政 策 に特 徴 が あ った。 フ ラ 行政 へ の参加 の ためのすべ て の権 利 を剥奪 したいと ンス当局 によ る一 連 の土 地政 策 によ って,原住民 か 願 って いた。 こ う した入植者 の意志 に よ って, アル らフ ラ ンス入 植者 (コロ ン) の手 に移行 した土地 を ジェ リアに形成 され た行政 町村 は, 彼 らの利益擁護 基 盤 に入植村 が創設 され, ヨー ロ ッパ系 植民 社 会が の ため に変形 させ られ, フ ラ ンス本 国 のそれ とは異 か ら 形 成 され て い くこ とにな る。 こ こにお いて, 原 住民 な る もの とな った。 植民 地 当局 が行政 町村 の抜本的 と ヨー ロ ッパ 人入 植者 との摩擦 ・対立 が引 き起 こさ な改革 に乗 り出 す の は,1 9 5 6 年 にな ってか らの こと れ,現地 の植 民 地 当局 は, これ らの対立 を いか に押 で あ る。 それ に先 立 っ1 9 5 4年 1 1 月 1日, アル ジェ リ え込 み, 両者 を どの よ うに統 治 し共存 させ るか, の ア民 族解 放 戦争 が勃 発 し, 植民 地 当局 は民族 解放戦 問題 に直面 す る ことにな る。 そ して, 植民地 支 配体 線 FLN と住民 との分 断 を はか るた め, 住民 再編成 制 の末端機構 と して の市 町村制 , つ ま り植民地 行 政 政策 ( 住民 強制 移住政 策) 1 )を展 開 して新村 落 の創 町 村 の形 成 によ る支配 シ ステムが編 み出 され て い く。 設 を進 め る一 方 , 市 町村 制の改 革 を迫 られ る ことに そ こで本稿 で は, 1 9世 紀 前 半 の フ ラ ンス植 民 地 化 な る。 民 族運 動 側 は, 1世紀 前 に宣 言 され て いた町 に よ って, 「部 族 」 に規 定 され る と言 われ るアル ジ 村 行政 の諸原則 を実施 す る こと, す なわ ち, すべて ェ リアの原 住民 社 会 が いか な る変容 を遂 げ るのか を 捉 え, 同時 に ヨー ロ ッパ系入植 者 を組 み込 んだ植民 の選 挙区民 に よ って選 ばれ た議 員 に よ って構 成 され コミ ュ-ン る町 村議 会 が 行 政 統 治 す る一 種 類 の 町 村 を アル ジ 地 社会 の実態 を探 るため の分析 単 位 と して,植 民 地 ェ リア全土 に設 け る ことを要求 し, 行政 当局 はそれ 行 政 町村 の形 成 を次 の 2つ の政 策 か ら検 討す る。 第 に対 応 した根 本 的改革 に着手 せ ざ るを碍 な くな る。 1は, フ ラ ンス人 入植拠 点 の行 政 区 の変遷 と市町 村 9 6 2 年の しか し, この改革 は戦争 によ る混乱 状 況 と1 体 制 の確立 ,第 2は,原 住民 部族 の解体 と行政 町村 アル ジェ リアの独立 に よ って実 現 され る ことはなか へ の統 合 で あ るO そ して それ は, 1 8 7 5 年 以降, 「自 治 町村」, 「混 合 町村」, 「原住民 町村 」 の 3種類 の町 った 。 さてチ フラ ンス植民 地支配 期 の アル ジェ リアの市 村 が共 存 す る市 町村 体制 と して確立 す る ことにな る。 町村制 の形 成 と変化 の歴 史 はサ 次 の 3つ の段 階 に区 と ころで, 植 民 地 アル ジェ リアにお け る フラ ンス 分 す る ことが で きる0 第 i段 階 は市 町村 制形 成 の第 の務 町村 制形 成 の歴 史 は, オ スマ ン帝 国支配下 の ト 8 3 0 -1 8 7 0 年, 第 2段 階 は1 8 7 0 年代 に 一 歩 と して の 1 ル コ統 治 行政機 構 か らフ ラ ンス植民 地 支配機構 と し 成 立 した帯 町村 制 が 制度 的 に は変化 せず,適 用 の成 て の市 町村体 制 へ の移行過 程 と して捉 え ることが で 果 が表 われて実 態 が 緩やか に変 化 す る1 8 7 0 -1 9 5 6 年, 26 歴 史学 研 究 第6 3 3号 第 3段 階 は市町村制の抜 本的改革の時期 となる1 95 6 原住民社 会の変容 を招 き, 1 863年元老院決議適用以 -1 959年 である2 ㌔ 本稿 で は, 植民地化初期 の第 1 降の フランス市町村制の導 入によ って,植民地の民 段階 (18 30-1 870年・ ) の 時期を中心 に, フランスの 族的な複合社会が形成 されてい くことにな る。 この 市町 村 体 制の形成確 立の 過程 をみ ることに したい。 植民地支配体制 の末端機構 と しての市町 村制度 を通 じて, ヨー ロ ッパ人植民者 は現地住民 を支配す るだ 1) C( ) r n; 1 L i on ( Mi cheI ) .Le sr e gr ou Pe me nl sd t ,l a r i s ,E di t i ons ouv de ' c o l t ) ni s aE i o ne n Al gt ; r i p . Pa r i er e s ,1 9 6 7 - けでな く, アルジェ リア選 出の国会議員を通 じて本 国政府 に圧 力をか け, その結果, 1 898年 にはアル ジ . 2) Col l ot( Cl aude) ,I , e sI 7 7 S t i l ut i c ) n sdeL ' ノ 1 1 gd T 7 ' e dur anEl ape を n' O dec o L o ni u/ e( 1 8 3 0 1 9 6 2) ,Mar s e i l l e . 1 9 8 7 ,p. 81 . 1 ヨー ロッパ人の入植 と市 町村 制 の確立 1 830年 に始 まるフランスの ア/ レジェ リア植民地化 ェ リアに 「財政審議 会」 が設置 された。 これは事実 上の植民地議 会であ り.予算だけでな く行政 全般 に つ いて も発 言権 を もって いた 8 ㌔ 1 900年 に は, 「財 政上 の 自治」が本国政府 によって承認 され, ここに 植民 者の利益 を守 るための植民地権力が樹立 されて, 植民地支配体制が確立 され ることにな った。 は,原住民部族 の抵抗 を鎮圧 す る軍事的征服 の時期 本章で は, ヨー ロ ッパ人植民 者によ って形成 され 848年以降同化政策が開始 され る。政府 の をへて, 1 るアル ジェ リアの植民地社会の実態 を探 るための前 860年代か ら1 870年代に 入植政 策の進展 とともに, 1 提 と して, まず フラ ンスの入植政策 と植民 の発展過 かけて植民地統治行政制度 が徐 々に整 ってい くが, 程を1 9世紀 未 までの時 間に限 って概観 してお くこと 第三共和制 の成立 に伴 い, それまで フランス陸軍省 に しよ う。 の管轄 下で軍政が続 いていたアルジェ リア統治 は, 且 8 71 年 に民政 に移管 した l)o これ以後, 植民入 口は かな りの増 加 を 見 る 01 880l l 目こおいて, 1 入植政策 と植民 の発展 フランス政 フ ラ ン スの 入植 政策 と植民 の発展 は, 自由植民 と )にのぼ り, 土地政策 府 によ る植民拠点 は 亜 6カ所 2 政 府 的 植 民 の 2つの形態 に区分で きるが, それは主 によ って原住民 か ら収用 され た86万 ha3 )の土地 が に政策担 当者の思想 と移民 の送出固 フラ ンス側の プ され, さ らに 自由な土 ッシュ要因 とに規定 され,時期によって さまざまに 地売買 に よ って 1 6万 5 綱Oha5 )が コロ ンの手 に移行 r aul t( A. )の 研 変 遷 Lた. こ こで は, ジ ロ ー Gi したO この よ うな, 冒- ロ ッパ丸 ( 主 に フ ラ ンス 究9 )に基 づ いて 5つ の時期 区分 を行 な いサ その特 A) の アル ジェ リアへの入植 は,特 に農業植民 に惑 徴を明 らか にす る。 4 0万 人 余 4) の入植者 に分配 点が置かれていたが, ヨー ロ ッパÅ入植者 は当初試 みた熱帯作物,綿花, タバ コなどの導入 に失敗 し, ① 植民者 の農業経営 は停滞 を続 けていた6 ㌔ ところが, 征服初期 の1 0年間 は軍隊 占領期で無政府状態 にあ 初期 の 自由植民 (1 830-1 840年) 1 87 6年, フランスの ブ ドウ栽培地域 に害虫 ブイロタ ったが,征服 当初か らアル ジェ リアに自由植民が進 セ ラが 発生 したため, そ の後 の 1 2年 間 に生産 量 が め られ た 1 0 1 。大胆 不敵 な人 々は, アル ジェ リアの 8 300万 か ら2300万 hl(ヘ ク トリッ トル)へ と 7 29 J 6 将来の不確実性 と原住民の敵対行為に もかかわ らず, も低 下 す る とい う事 態 が生 じた 7 ㌔ これ を契機 に 土地 を購入 し,譲渡 を願 い出て,植民事業 をすすめ 1 8踊年以降, アル ジェ リアにブ ドウ栽培が積極的に たo熱狂的 な入植者 は 弾 丸 導入 され ることになる。 ブ ドウ栽培 は高収入 の商品 害 し,村 の創設 を 強 行 作物生産 であ り, ブ ドウ酒 と して輸 出 され,特 に販 した 自由植民 に 対 して , 政 府 は移 民 を 奨 励 す る ど こ 路を フランス本国市場 に依存 して発展 してい くこと ろか, む し ろ そ れ を 阻 止 し よ う と努 力 し た 去 こ う し とな り, アル ジェ リアの植民地経済 の支柱 としての た政 府 ブ ドウ ・モノカルチュア経済が形成 されてい った。 領 有 す る か ど う か ま だ 確 定 し て い な か っ た と い う状 他方, ヨ-ロ ッパ系移民 の増加 とその定着化 は, 況 に よ る 。 さ ら に 少 し後 に は , 自 由 植 民 に よ る 農 村 に よ って 多 くの 人 々 を殺 して , そ れ に 成 功 し た O こ う の 動 き は , 当 初 は フ ラ ン ス が ア ル ジ ェ リア を 棉民地 アル ジェ リアにおける行 政 町村 の形成 ( 小 山 田) 27 への入植 人口が増加 したため, これ ら入植民 を保護 れを受 け入れ るために, アル ジェ リアの軍 当局 は, す る必要性が生 じ, その ことが フランス軍 の活動 を 1か月以 内で農業 コロニーを組織 す るための作業着 こ 妨 げると考え られ たのであ る。従 って, この時期 は とりかか った。 まず , 土 地 調 査 を 行 い ,将来創設す 自由植民 の模索 とそれに対 す る政府 の移民阻止 とに べ きÅ植村 の領域 を確保す ること,耕作 の画地 と菜 よって特徴づ け られ,政府 による植民村 は-村 も建 園 を画定 す ること,土地 の一部 を開墾す ること,A 設 されなか った。 植者 の住居 の建設,集落 の主 な道 を整備す ること, 住民 のために水 の問題 を解決す ること,新拠点 に到 ピュジ ョ-線轡 の政府 的植民政策 と1 8 4 8 年の ② 農業 コロニーの設置 ( 1 8 41 -1 8 5 1 年) 着す るための道 と開発 のための道路 の建設,必要な 農業資材 の謂盈 1 8 4 1 年 2月 2 3日曹 ピ且 ジ ョ- Bugeaudがアル ジ 賃貸家畜 と飼料 と種子の供給 を準 備す ること,最後 に,移民 を指導 し,忠告を与え, ェ リ7総督 に任ぜ られ るや いなや,政府 の移民阻 止 教育す る責任 を与え られた特別行政官 を選んで設置 の政策 は-愛 して 積 極的 な植民地化が開始 され る。 す ることが軍 当局 に課 せ られた 1 4 ) 0 ビュジ ョー総督 はアル ジェ リア征服 を望んでお り, 入植者 が到着 し始 めた晩 村 の見取図が示 され, ・ 政府的植民政策 の轟 の制定者 とな ったO殻 蔚政策 と い くつか の仮 のバ ラ ックが建 て られ,何 haかの土 は, あ らか じめ選定 され た防衛 の容 易な拠点 に村を 地が開墾 されていたo そ して,Å植者 は到着時に, 創設 し, それか ら移民 を村 に置 いて,彼 らに,村落 国家か ら次 の ものを無償で支給 され ることが約束 さ では建設用地 を,農村で は耕作地 を譲渡す るとい う れた。す なわち住居 と してれんが作 りの家 l軒 と庭, ものであ った。 これ は無償譲渡 の制度 を とり,土地 耕作 めための 2 -6haの画楓 譲渡 を うけた入植者 は条件付 きで土地所有者 とな る 畜であるo そ して,国家 は 3年間,入植者 に食塊の ことが規定 された。 すなわ ちまず,仮 の土地権利証 割当量 を配給 した。国家 との契約 による 3年 の期限 書 を うげ,土地開発 条件 が履行 された晩 が満期 にな った時,譲渡 された画地 を開発 したと認 確定 した 土地権利証憲 を取得す るもの とされた 11)o ビュジ ョー総督 はこの システムを さらに押 し進 め 農具, 種子, 耕作家 め られた入植者 は, その土地 に確定 した権利 を証明 す る土地所有権利証書 を受 け取 ったo逆 の場合 には, て,旧軍政 のい くつかの拠点 を選 んで兵士たちに さ 入植者 は立 ち退 きを命 じられ,政府 は土地 を取 り上 え, 土地開発 を請 け負わせ ることを計画 し, 3つの げた。 この1 8 48年の農業 コロニーの計 画 は, 全休 と 軍事村 を建設 したが, それに必要 な国家予算 を議 会 しては約 2万人の入植者をアル ジェ リアに入植 させ が拒否 したため 12) この計画 は失敗 に終わ り,1 8 4 7 8 0 0万 フラン以上が浪費 された。 3年後, るために, 2 年 9月 11臥 ビ温 ジ ョー総 督 は辞 任 に追 uこまれ た1 3 ) O たため, その成果 は見 るべ きものはなか った といわ 次 に, 1 848 年の で は, 新 その半数 の入植者 は死亡 した り, フランスに帰国 し た な 政府 二 月 革 命 的 植 民 政 に 続 いて,第二共和制下 策 試 み られた。す なわ 以上,第 2期 の10 年 間 はまず, ピ温ジ ョー総督の が れる1 5 ) 。 ち,二 月革命後 の事 態の停滞 によって, フランス政 8 4 8 年 の農業 コロニ-と 政府的植民政策 が発展 し, 且 府 が警戒 して いたパ リの失業労働者 をパ 踊 ゝら追放 2 6 村 〔 義2 , 30 貰〕 合 わせ ると, 創設 された村落 は旦 す るため に, アル ジェ リアに農業 コロニ-を創設 し, にのぼ り,合計 9万3909人 1 6 )の移民 が入植 したo 彼 らを ここに入植 させ よ うとす る計画であ ったO従 って, これ はアル ジェ リア経済 の新 たな飛躍的発展 をめざす もので はな く,根拠 のない空想 的な試 み と ③ ナポ レオ ン三世治下の植民政策 の停滞 ( ま 8 5 1 -1 87 0年) な ったO政府 は 8月 に,農業 コロニー創設 のための 第二牽制下 の前半 の且 0 年間 は,政府 的植民 と自由 予算案50鍋万 ブラ ンを国会 に提 出 し, 9月 1 9日法案 植民 の両方が進 め られ,失敗 を くり返 しなが らも, は国会 を通過 した。 こうして,1 0月 には,すべての 0 植民 の進展 はある程度 み られた。 しか し,後半 のま 志 願 者 か ら成 る最初 の入植者 がパ リを出発 した。 こ 年 はナポ レ 28 歴 史 学 研 究 第6 33号 オ ン 三 世 の 政 策 で 植 民 事 業 が 停 止 した時 期であ った。 T -?i / 1 8 5 3年 4月2 6日政 令は, セ テ ィフSet i f近郊に良 たナポレオン三世の政策 による植民地化 の停滞 に対 地 2万 haを ジ ュ ネ ー ブ会 社 Compa gni ege nevl するアルジェリア入植者 の抗議 の表明 とな って爆 発 0 村落 (1村が5 0戸 より oi s eに譲渡 したo これ は,1 した ( 1 8 7 0 年 9月アル ジェ ・コ ミュー ン)。 そ して, 成 る)の建設 と土地開発を会社が請負 うとい う条件 1 871 年以後,再 び入植が発展す る。 1 87 0-1 871 年の の下で なされたo Lか し,数年後 には この計画 は失 普仏戦争敗北後, フランス人であ りたい と望む アル 敗 し, 入植者 は破産 した これ らの村 々を見捨 てて立 ザ ス ・ロレー ヌ人が アル ジェ リアに呼 び寄せ られたO ち去 り,以後, ジュネ-ブ会社 は原住民 にこの土地 すなわち, ドイツ帝国 に併合 されたアルザ ス ・ロ レ 7 ) a を貸与す ることに甘ん じた1 ーヌ地方出身 の11 83家族 は,国 とアルザ ス ・ロ レー 第二帝制末期 にお ける自由主義の抵抗 は, こう し 浪費を くり返 しなが らも,植民地化 は徐 々に進展 し ヌ保護協会の配慮 によ って, アル ジェ リアに移住 し デクレ た。 1 871 年1 0月1 6日政 令は, アル ジェ リアにお け る 8 6 0 年 までの第二帝制の初期の数年問 に,8 5の た。1 1 0万 haの土地 を アルザ ス ・ロ レー ヌ人 に無償譲 渡 8 ) , 同時 に 自由植民が発達 したo 新村落が創設 され 1 す ることを規定 した。 この努 力は,期 待 され た ほ ど こう した第二帝制 による植民事業の努力は失敗 と ところが,第二市制後半の 1 0 年間 は,植民事業が の結果 を生 み出せなか った とは言え, か つ て, ア ル 停 止 したO ナポ レオ ン三世が 1 8 6 3 年 2月6日命令で ザスの工場 で働 いていた入植者 たち は, ア ル ジ ェ リ 発表 したアラブ王国構想 は, アル ジェ リアを軍事上 アで は,農業 によ って, か ろう じて 生 計 を維 持 す る の-属国 とみな し,経済上の利益 はないとす る考え ちとがで きるよ うにな ったo そして書 この移 民 はア 方であ ったため,政府 による入植 は停止 され, 入植 ルジェ リアにおけるフラ ンス人人口 を か な り増加 さ 者の反抗 を生む ことにな った。植民 のための国有地 せた 2 1 ) 0 デタレ の譲渡 に関 して は, すでに1 8 6 0 年 7月2 5日政 令が土 デタレ 地売却制度 ( 有償)を発表し,1 8 6 4 年1 2 月3 0日政令 によ って無償譲渡制度 の廃止が決 め られたが,この ことも植民 の発展 を阻 害する要 因 となった。こうし て, 1 864年か ら 1 869年 の問 , いかなる新村落 も創 他方, フランス当局は, ヨーロッパ生 れ のすべて の フランス人入植者 に対 して も無償 譲 渡 の 制度 を復 活 し, ヨー ロッパ人拠点 の創設拡張 に よ る政府的植 デケレ 8 71年 1 0月1 6日政 令によ って植 民政策を再開 した。1 民地賃貸借契約が次 のよ うに設定 された。 すなわち, 設 され なか った 1 9 ㌔ 1 861 年 か ら且 87 0年 の1 0年 間を 土地 の譲渡人 は 9年間 ( 1 8 7 4 年 には これ は5年に短 とってみて も,創設 されたの は21 柳 こす ぎない2 0 ㌔ 縮 され る), その土地 に居住 す る ことを必要 と し, 売却 に付 された国有地 は,大部分が原住民 によ って この期間中,彼 は借地人で しかな く地代 を支払 わな 購入 され, また, ヨー ロッ′ ヾ人によ って買い取 られ ければな らない。 そ して この期間を経過 した時,土 た土地 も,再 び原住民 に売却 され るものが多か った。 地 所有者 とな る もの とす る 2㌔ そ の後,新 たな便 しか し,皇帝 ナポ レオ ン三世 は,一方では資本主 宜が この規定 に付 け加え られ るが, このよ うな改革 8 6 5 年, オラン州 のアグ 義大会社 に特権 を与え た。1 は, アル ジェ リアに移住 を望む フラ ンス人 に対 して, ラ Ha br a平原 の衛生状態 の改善 と開拓 のため に設 土地 を獲得 してい く上で可能 な限 り優遇措置を与 え, 立 され た 7 ブ ラ ・マ ク タ会社 So ci et edel ' Habr a 法律 によ って移民 の権利 を守 ってい こうとす る もの e tdel aMact a会社 や, 1 8 6 5 年 に設立 されたアル であ った。 こうして,第三共和制 の初期 の1 0年余 は, ci et egen台r al eal ger i enneの例 を ジェ リア会社 So 特に1 8 7 3 年以降 の フランス経済の不況期 における帝 み ることがで きる。 しか し, この試み は,植民 の発 国主義の高揚 を背景 と して, アルジェ リアへの入植 達 とい う観点か らす ると, ほとん ど成果をあげるに 8 7 0-1 8 8 0年 の10年間 に264 が発展 した。 そ して, 1 は至 らなか った。 〕 。 村落が政府 によ って創設 された 〔 表2 ④ 第 三共 和制 初 期 の植民 政策 の発展 ( 1 8 7 1 - 1 8 8 3 年) ⑤ 政府的植民政策 の低下 (1 883 年以降) 前期の植民 の発展 の1 0 年後,公有 地 の大 部 分 は人 柄民地 アル ジェ l . )了における行政町村の形成 ( 小山ul ) 29 植 者のために譲渡 しっ くされたために,政府 は新 た な対策 を打 ち出す必要 にせ ま られた。 旦 883 年,政府 は. ` ▲ . ' ' r J I ) l H. ・: : ; I ) . ・ ti l l :, : . -・ 、 一 丁∴・ .J ' . (:! ' : : :・ t . ' 仁' ・ . 人納入 日 調査対象期間毎 の増加数 自然増加 移民 による増加 7, 81 2 1 836 1 41 5 61 - 落 1 841 37. 374 - 1. 71 1 十 にお 1 8 46 95, 321 - 3, 6 88 + 61. 6 35 1 851 1 31, 2 8 3 - 1 0, 7 90 十4 6, 7 52 1 85 6 1 59, 2 92 - 3, 8 73 十 31, 8 82 1 861 1 92. 7 46 十 3, 41 6 十3 0, 03 8 1 866 21 7, 990 十 1 2, 2 82 十 1 872 24 5一 11 7 - 3. 92 3 十 31. 05 0 住民 か ら収用 し, そ こに入植 の た めの且 7 5の新 村 いて否決 されたため実現 しなか った。 これ以後毎 年 , 植民地予算 は徐 々に落 ち込んでいきサ若干 の新村落 の 建設 調香隼 1 833 議会 に提出 したol そ の 目的 は,38万 haの土地 を原 を創設す ることであ った が, こ助草案 は,下 院 蓑 1 入植移民 の人 L l変動 (1 8 33-1 95 ・ . 咋 ) と既設 村 落 の拡張 とに甘 ん じることにな っ た 23) 0 355 十 7, l o ヰ 2 4. 5 2 4 1 2, 962 1 87 6 3 44. 749 十 7一 5 47 十 5 7, らl l 1 8 81 41 2, 4 35 十 9, 2 7 4 十 5 8, 41 2 と政府の入植政策の結果, アル ジェ リアには6 3万人 1 88 6 464, 82 0 + 14, 3 98 1 891 530I 9 2 4 + 1 4, 9 02 + 51 . 2 02 余 の ヨ- ロ ッパ系植民 者 が定住 し 〔 表扶 1 896 57 8, 480 + 1 8, 90 9 十 1 901 6 33. 85( ー + 2 6. 92 2 + 28,448 2 7, 41 8 + 1 8. 9 95 以上,植民地化初期 か ら1 9世紀末 までの 自由植民 創設 さ れた入植村落 は,政府的植民 によ るものに限 って も 十 37. 9 87 2 8. 64 7 1 9 06 6 80, 2 6 3 十 約7 0 0 拠点 に ものぼ った 〔 裏 釘O このよ うに して創 1 911 7 52, 0 43 + 38, 0 82 ト3 3, 6 9 8 設 された入植拠点 に対 して現地 で はどのよ うな統治 1 91 6 77 9, 65 4 十 38. 41 5 80 4 - 10, 1 921 7 91. 370 - ll, 72 5 十 行政制度 が整備 されてい くのだろ うかO次 に入植拠 1 92 6 8 33. 35 9 +3 8. 0 41 + 3. 94 8 点 を中心 に形成 され る市 町村制 の導入か らみてい く 1 931 8 81, 5 84 + 34. 8 65 + 1 3. 3 60 1 9 36 9 46, 01 3 + 40. 3 2 3 + 2 4. 1 0 6 1 9 48 92 2. 2 72 十 80, 3 59 - 7 6. 27 7 ことに しよ う。 2 3, 4 4 2 E J Q拠 :HL , nni( Ahmc d) .L' "oL o'zI I sat l l ond g' t Z i r ' ,i , IE eJ 仙S 仙・ e L o p 卵珊e nte nA後納 B ,Al ger ,1 9 8 2 ,p.8 2 . 2 入植拠点の行政 と市 町村制 の確立 ・ フランスの征服 は, かっての オスマ ン帝国支 配 地 蓑 2 政府 的植民 の占領 か ら始 ま り,次第 に原住民部族地 に その勢 力 を拡大 してい くが, それ は植民 地化 の進展 に応 じて 年 度 創設 され た 人横付 の故 国家 によ り柵民有 に ha) 捉供 された土地 ( 民政 区 と軍政 区 に区分 され, 1 90 2年 1 2月24日法 2 J ) 1 830 -1 8 40 によ って南部領 サ- ラと北部領 の境界が画定す るま 1 8 4ト1 850 1 26 11 5, 0 00 1 85ト1 860 85 251, 5 5 0 1 86卜1 870 21 11 6. 00 0 1 871 -1 8的 2 6 4 4 01. 09 9 1 88ト1 89( ) 1 07 1 7 6. 00 0 1 891 -1 90 0 1 0 3 1 20. 09 7 1 90ト1 92 0 1 9 9 2 00, 0 0 0 管,民政区,軍政区のそれぞれが拡大 して い くo ま ず, アル ジェ リアの行政区の変遷 をみてお こう0 オ ル ドナ ンス 1 8 亜年 4月1 5E 3命 令 ( or donnanc e ) は海 岸 線 に沿 って垂 直に, アル ジェ リアを 3珊 ( pr ovi nc e ) 2◆ 7 4 3 に分割 したが, それはフランス征服以前 のオスマ ン 帝 国 支 配 下 の 行 政 区 に 基 合計 ・ --1. 657, 40 5 づ くものであ ったO すなわ ち, オ スマ ン帝 国 の アル ジ ェ Ai 酢 r領 は, そ の統 De y) の直轄領 ダ-ル ・エス ・ソル タン 治者 デイ ( 興拠 :表 lに同 じ。同書3 4頁の ` Annuaire s t at i s t i que1 9 2 7 より作 成。 フランスの影響 が放 射 状 に広が ってu った。 ' D; L r I 、 ヾSL ・ . ミ Im、 ・ : l・ ∴ ,I : I . ' , . 三 六・ _ ! こ. ∼ . .: , 1 LJ 、∴・ 加 ま 8 4 8 年 にな ると, 同化政策 の適欄 によ って, これ 方長官 ベイ ( Be y) が統治す る 3つの行政 区域 ペイ ら 3州の中の民政区 は 3殿 と改め られたが, このよ Beyl i k)リク ( 東 の コ ンス タ ンチ - ヌ Co ns t - うに して設定 されたアル ジェ リアの県 は,現地の地 t t er り札 西の オ ant i ne州, 中央 のテ ィ トゥリー Ti 理的条件 を無視 した もめであ りき それ は抵抗部族 の ラ ン Or an州- に分 割 され て いた 2 5 ㌔ そ こへ フ 反乱地域 の分断を も意図 していた。 た とえばカ ビ リ ランスは地中海沿岸 のアル ジェ, ポーヌ B6ne, オ ー山地 i aKabyi i eは, アル ジ孟県 とコ ンス ダ ンテ ランの 3地点か ら侵略 を開始 し, これ らの拠点 か ら - ヌ県 とに, シ ェ リフ渓 谷 Va l l e eduChe l i fは7 30 歴 史 学 研 究 第6 33号 7 L 典鞄 :Ager on( Ch:R. ) .L' L 5 . . 41 gt f Tit , T L h . mZ L 5/IT打IT L ' i , Il GFT Un C t , ,Par i s ,1 9 6 8. ル ジ ェ県 とオラン県 とに分 の多寡 によ って,3つの種類 に分類 され るo 断 さ れ た。 平行 に , 南 北 には民 政区 と軍 まず, フランス人が多数であ る場合 は, 「自治町 政区 とに分 け られ た。1 8 4 5年に分割 され た 3つ の 村 ( 完 全施行町村 c omn l t l nedepl ei nexer ci ce)」 また,海岸 に 沿 行政 区 域- って 民政 区 ( t er r i t oi r e sc i vi ュ s ) ,混合区 ( t er r i t oi r es mi xt es), ア ar abe s )- ラ ブ 区 ( t er r i t oi r e s は、 1 848年 に 混 合 区 とア ラ ブ区 が統 廃合 されて軍政区 とな り, それ以後,民 政区 と軍 政 区のそれぞれが領域 を拡張 してい く。 とな り町村議会が町村長の選 出や予算等の決定権限 を もっていたが, アル ジェ リア人の議員 のみは任命 制 で. 人F比ヒにかかわ りな く,定数 の 4分 の 1以下 に制 限 されて いた 28 ) 。 これ は民政 区 のみ に存在 す る。 次 に. フランス人が少数 の場合 は, 「混合町村 特 に民政区の拡張が急速 に進 め られ. 1 87 0 年 には xt e) 」 と規定 され, 民政 区 と軍 政区 ( communemi 1万2 7 9 3km2 2 6 ) , ド ・ゲ イ ドン DeGue ydon元 帥 の両方 に存在 した。民政区の 「 混合町村 」 は, 文官 ( 1 8 71 -7 3 年) の下で は 3万1 5 2 0km2 に, 後任の シ 行 政官 が行政権 を行使し, フランス人 が増加す ると. ャ ン ズ ィ Ch anz y将軍 (1 87 3-1 8 7 9年) によ って 4 第 1の 「自治町村 」に昇格す ることにな っていた。 万865 0km2( 1 8 7 8年) に達 した0 7 ルベ ール ・グ レ 軍政区の 「 混 合町村」 は,軍 人行政官 の統治下 に お グ ィ Al ber tGr evy総督 かれた。 次 に第 3の 「 原住民町村 ( c ommunei ndi ( 1 87 9-1 8 81 年) の 下で は 一 2倍 になり. 1 8 81 年末 に民政区 は1 0万4 8 3 0km2 とな ge ne ) 」 り2 7 ) ,2 0世紀初頭 に は 1 2万8 7 2 2km2 に及 ん だ。他 の軍政 区 にのみ設 け られた。 方,軍政区 は. 1 901年 調査で面積3 5万 km2で人 口 は58万881 6人であ った。 各 県 の民政区 は さ ら は, フランス人がま った くいない南部地方 以下 で は, ヨー ロッパ人入植拠点 の行政区の変遷 を中心 に, フランスによる市町村制 の導入 とこれ ら に 郡 分 け られ, 3県で合計 1 7 郡 に ( arr ondiss ee n m 区分 された 〔図 t) 1 に 〕。 こ 3種頓 の町村 の形成過程 をみて い くことに しよ う。 なお, フ ラ ンスで は,郡 の下 位 行 政 区 「コ ミュー の郡 は面積 の点か らす ると, フランスの県 ( depar - ン」 は 日本 における市 ・町 ・村 の区別 はな く, 1つ t e ment )に等 しい区 画で あ る。 さ らに下 位 の カ ン の行政区画を示 すので あ るが ,本稿 では,都市 にお コミ ュ ー ン コミ ュ ーン ける 「市 」 ,そ の 他 の地 域 における 「町 村」, あ コミューン トン ( c ant on) は存在せず, 各郡 は市町村 ( c om - mune ) に分割 された。 市町村 は フランス人居住 者 るいは地方行政全体を指す 「コ ミュー ン制」 とい う 柄民地7J Lジェリアにおける行政町村の形成 ( 小山凹) 31 コミ ュ ーン の あ るいは町コ村 ミ ュ1 , 言 葉 を 「市 町 村 制」な ど と した。 そ して, こ の コミ ュ -ン 「 町 村」 とい う言葉 は,植民 地 ア ル ジェ リアにおい 艶 ては実態 に対応 して伸縮 自在 に変化する概念 と捉 え 民政委員 の権力の も てお きた い 。 た。 これ らの措 置 コミ _ 1 -ン 集中 させ,町 村 体 ルジェ リアに 5つの 「コ ミュー ン ( 市) 」(アル ジェ, 財鼠 道路 に関 して町 1 865年以後 , オ ラ ン, ボ ー ヌ, ブ ジ BoL l gi e, モ ス ク ガ ネム ; : ・∴ ∴左 :.'・ Mo s t a ga ne m)が設 置 され, それ ぞ れ固有の予算 を有 した。市長が任命 され,市議会 は総督府によっ て選ばれた フランス人 と原住民 とか ら構成されたO このような 5都市 の フランス占領拠点 とは別 に, び外国人 もまた こ の 制 村 議 票 会 と の 町 目 的 は , ら 確 の み なさ に 帰 属 コ ミ1- i / で -; it二r ';;: 1 投 の と を れ も 村 入 れ る財 産 の管 した 権 予算 限 の執 行, の確 定 で あ っ コミュ-ン 植民 A E jを 町 村 に る ことで あ っ た 。 ュ ーン 柳T こ新 た な 改 革 が 起 こ -?i / 立 す コミ 町 '・ 3 1 ! ' :日. I J , . ' . ; ::∴ 権を有す る こ と ・ : ; 十 、∴ . ::_ : と な し, 選 挙 に J ■) ∵l l h1 、 3 . 嘉二 ・ . ∼ . ・ J T は・ 、 :\・ I 一日1 : ・)PtJ‥、:I I : ・ _ :JI. I . I l i 8 48年の原 則 に 戻 ることが規定 され, 1 った。 この時期 の 占領地域 の行政 区画 はい くつかの管 区 これ らの入植拠点 ( 入植村落) はサ ある程度の規 デクレ 866年 1 2月27日政令によ 模に達す るに したが って,1 ( di s t r i c t )に区分 された。 この管区において,既存 り 「自治町村 」に昇格 した。一定の規模 に達 しない の都市 とは別に, フランスの行政当局 はヨーロ ッパ 他の入植拠点 は,1 868年 5月2O田命令 によ り創設さ 人の植民拠点 を建設 しよ うと急 いだ。それ らの拠点 840年 には, 1 83 4年 9月 1 の行政的管理のために, 1 れた混合町村 ( 後述) のなかに統合 された。 この新 コミューン デケレ 868年 1 2月1 9日政令によって しい 「 市町村制」 は, 1 日命令で規定 された民政 委員が設 け られた。 民 政 委 869 年 l月 1日以降,民 政区全体 に適周 補完 されて1 員 は行政官であると同時 に管 区長,判 事,警 察 署長, Lが決定 された。 これ以 され,同時 にアラブ局 の廃 l 7 し テ を も兼任 した。 しか し,管区 は独立の予算をもたず, 級,民政区における原住民 は市町村 当局 によって行 その上,民政委員 は管区の ヨーロッパ人入植拠点 し 政統 治 され る ことにな った 2 9 ㌔ ここにお いて,氏 か行政統治 しなか った。 原住民 は特別組織であるア 政区 における市町村 Bur e auAr abe ) によって統治 され た。 し ラブ局 ( 次 に 軍 ア レ テ 体 制 が 発 足 したのである。 政区における頓似の改革 は, 1 868年 5月2 0 か し,民政委員 はアラブ局 の将校を想起 させ るもの 日命令を もって実施 された。 その窮極の目的は,ム であ った。 ス リム住民 にフランス市町村制度 の運用を周知 させ, 1 8 4 7 年 になると, ある一定の発達 を遂 げた植民 拠 コミ ュ ーン 点 ( c e nt r e ) は 「町 村」 に編入 され る こ とが 規定 地方の行政管理において, ヨーロッパ人 と原住民の 2つの共 同体 された ( 1 847 年 9月2 8日命令) 。 これ は1 837年 の フ 1 8 68年 5月2 0日政令で は, 2種類の町村が創設 され ランス本国の "コ ミュア ン法河を模倣 した もの で, 各 「町村 」 には町村長 1名 ,助役数名,総督が任命 たoすなわち, コミュー ヨーロ・ て ンパ人が存在す るか不在であ るかによって 「 混合町村 」 と 「 準町村 ( 形成途上町 した町村議会 ( cons ei lmuni ci pal ) が置かれ, 独 oml mu1 1 eS ubdi r i s i onnai r e ) 」と に 分 け られ 村c 立予算を獲得 した。 た 30)0 つけることであ った。 しか し, を 結 び デ ク i / 1 848年 になると, 同化政策の適 岡の結果, " 選挙 コミ ュ -ン 混合町村 は 1名の将校 を委員長 とす る 「町 村」 の原則"が立て られ,選挙権および被選挙 資格が条 委員会によって行政統治 され, その委員 は町村長が 件付でムス リム原住鼠 且 ダヤ系原住民,外国人 に 指名す るもの としたo 「準 町 村 」 はその町村 の司令 85 4年 7 認め られた。 しか し, この規定 は数年後の1 ヂクレ 月 8日政令 によって廃止 され, 1 8 那準命令の規定を 官が これを行政統治 し,準町村会が これを輔佐する。 7レテ その後, 「 準町村」 は1 874年 11 月1 3日命令によって 復活 した。 また, 1 8 56年 4月 1日政令はフランスの c ommune摘 digane)」 ( 第 Ⅱ章で述 「 原住民町村 ( 伝統 にさ らに近 い行 政体系 を規定することになるO べ る) に代替 され ることが規定 きれ, 1 8冒5 年 1月 1 総 督 は,法 令 に よ り,入植村 落 に 日以後実施 された3 1 ) 。 デクレ 村 落委員 会 ( c o mmi s s i onss ynd孟 c a 急 e s )を創 設 す とが で き コミューン るようになる。 この村落委員会 の役割 は, 町 村 の る 32 歴 史 学 研 究 第6 3 3号 こ こうしてアル ジ且 リアには, フランス植民地支配 ,「 自治町村」,「混合町村」, 体制の末端機構 として コミェ-ン 「 原住民 町村」の 3種類 の町村 が 共存す る市町村体 ユー ン コ三 表 3 アルジェリアにおける町 村の分 布 ( 1 9 0 0 年) 制が制度的には確立 したのであ るO それでは実際に コミJ-ン この汀i 町村制 の導入 によ って, アルジェ リアにはど 町 コ ミ ユ -村 ン 統 治 } ア + レ + オ ラ コ ン ナ ー 輿 ン ス 夕 ン県 ヌ 計 れほどの町村が成止 したのだ ろ うか。次 に20世紀初 の 類 区 分 輿 こ . / : こ 0 年余の成果 を,数屋的に概観 しておこ 頭 にいたる3 自 治 町 村 民政区 1 0 6 8 2 73 -Ii , まず, 1 8 6 6 年1 2月2 7日政令で規定 され, 1 8 6 8 年8 ヂクレ 月1 8日政令 で完 成 され た 「自治 町 村」 は 当 初 8 0 コこ _ i -ン 町 村へ の適用 が予定 され たが,1 8 6 9 年 には96町村 混 合 町 村 民政区 軍政区 21 1 8 34 3 3 が成立 し, シャンズィ将軍 の下 での増設 によ って, 1 8 7 9 年 には1 7 6 町村にな った。 一万, 1 8 6 8 年 5月2 0 T -?i , ロッパ 人 町 村 日政 令で規定 された 「混合町村」 は, ド・ゲイ ドン いの ままに課税 した。 自治町村 はいわば 「原住民 を 1 8 71- 1 8 7 3年) の 下 で は,「カ ン ト ン区 元帥 ( 鳴 って生 きて いた」 粥 のであるO -方, 混合町村 う 。 種 0 2 61 73 6 興拠 :Gi r auJ t( Ar t l l ur ) . PnT Z C t L l ) ( , sdL ,( . ・ Ol t 7 T 7 i wE i o ne Ldt ,L t gz l S J t z h( ) T Z c o L u n山 Lc .Par i s .1 9 0 4 ,pp.4 07 41 0 .より作戎O ッ 長 は, 監 視 を パ人の利害 に そ っ た 予 受 けることな く, ヨー ロ 算を組み原住民納税者 に思 s c r i puo nscantonal es )」 として広範 に設定 ( ci r c on は 「カ ン トン区制」 を受 け継 いだため,面積 は自治 され,原住民管理を フラ ンス人区長 に委ね るのでは 町村 を しのいだ。 その平均規模 は. 1混合町村当 り, な く,民政委員あるいは軍政委員 に委嘱 した。 ド・ 面積1 1万 3 0 0 0h a ,住 民 数 2万 人 (ほぼ全員 が ム ス ゲイ ドン元帥 は入植者 と意 見を同 じく し,原住民首 リム住民)で あ った。混合町村 は民政区 と軍政区の 長を排除 してア ラブ人組織 の勢 力を完全 に消滅 させ 両方 に存在 し, その行政統治 は,民政区で は制服 を たいと考えていたのであ る。後任の シャンズ ィ将軍 着た行政官が.軍政区で は将校がその任 にあた った。 ( 1 8 7 3 -1 8 7 9 年) はアラブ局 の元将校であ り, 同化 コロン 政策, 植民地化 を礼賛 しなが らも,入植者の願望に 「カ ン トン区」設 定 に際 して は,旧 来 の 反 して, 1 9 0 0 年 には混 合町村 の数 は,民政区 7 3 ,軍 政 区6を 数えた。混合町村 はいずれは自治町村 にな ることが 予定 されていたが, ムス リム住民 に とって は幸 いに 「 混合町村」 の名 をその まま残 して広 く一般化 した。 も, その移行 は非常 に緩 やかであ ったo最 後 に原住 初代文民総督 とな ったアルペ - ル ・ダ レヴィ ( 呈 8 7 9 民町村 は軍政区のみに設置 されてお り,一般の ヨー -1 8 81 年) は,軍事行政 を大幅 に削減 し,1 8 81年末 ロッパ人入植者 は存在 しなか った。原住 民問題担 当 民政区 ( ま 0 万4 8 3 0 km2 ) には, 自治町村 1 9 6 , 混合 将校 によ って統治 された原住民町村 は, 1 9 0 0 年時, 町村 7 7 が成立 した 3 2 ㌔ 1 2町 村 あ っ た は全 く共通性 のない ものであ ったと言 えよ う。2 1 歳 s ub 区 分 さ れ る の に対 して,軍 政 区 は分 管 区 ( 以上 のすべての成年男子 の政治的権利の平 等 原 則の コミ ュ -ン 上 に成 り立っ フラ ンスの町 村 モデルを植民地社会 di vi si on) に分 か れ, この分 管 区 の 中 に 「 混合 コミ ュ -ン ところで, 自治町村 は, フラ ンス本国の町 村 と 。 なお,軍政区につ いて補足す ると,民政区が郡 に - 村」 と 「原住民町村」 とが含 まれ るのであ る。 軍 町 政 に適用す ることは, ムス リム原住民を政治的経済的 区で は町村数 が少 ないことか ら,各町村の面積 が広 に低 い地位に保持 したいとす る入植者の強 い願望に 大であ ることは明 白であろ う。 よ って妨 げ られ た 33)0 1 8 7 9年 に は, 自治 町村 の 3 分 の 1が 1万 h a以上 の土地 を所有 してお り, なか には 3万 h aに達 す る例 もあ った。後 に述 べ る原住 以上 ,1 900年 において設置 されて いた 3種類の町 村の分布数 を まとめ ると表 3の とお りであ る。 9 0 2 年1 2月2 4 最後 に南部領 につ いて述べてお く。1 ドゥ丁-ル 民村 落 は実 際 には, 自治町村 に密接 してお り, そ 日法 は,先述 のよ うに新 たに南部領 を創設 す ること の財磨潤沢 に大幅 に寄与 していたo その後 自治町村 によ って,北部 の軍政区の拡大に終止符 を打 った。 が増 加 して 如 8 4 年2 09野 村, 1 9 0 0年 2 6潤 村),1 それ は, アル ジェ州, コンスタンチーヌ州, オラン 自治町村 当 た りの領 域 面 積 は減少 したが,原住 民 ド ゥ ア-〟 村 落 か らの 「吸 い上 げ方式 」 は維持 されたO ヨー 州の各軍政区が南部 に向か って無限 に拡大す ること はで きないとい う原理 に基づ き, サ- ラをアル ジェ 楠民地 アルジェ リアにおける行政町村の形成 ( 小L L I H ] ) 33 リア と区別 した ので あ るO こ う して, 南部領 は ア ラ ブ局 ( BuT eauX ar abes) を後 に引 き継 いだ南部領 総局 ( Di r ect i on desTer r i t oi r esdu Sud) によ っ 902 て行政統 治 され, 予 算 も北 部 とは区別 され た。 1 年 法第 1条 によ ると, 南部領 は 7つ の行政 区 サ ー ク I , 日. lt ! l・ l t . ・: I5 + J ∵. . . 、_ :. ・ L ・ . r / .、 : I 1) Gi r aul t( Ar t hur ) , Pr i nc i pe sdec o l c mi s at i ( ) n( ? tde L d g7 1 s L aE i o nc o L o nL i al e .Par i s .1 9 0 4 . 2 5 ) 拙稿 「フランス植民地化前アルジェリアの土地制 度 」『 国際関係学研究』 津D ] 戦入学, No・8 ,1 9 8 2 .7 4 貢。 2 6) Gi r aul t( A. ) , o p. c i t "p. : i O 9 . 2 7) Ager on( Char l e s Ro ber t ). Hi s E o i r edel' AL ge ' r 7 ' e ・ . ・ .[ ・ ・ こ ‥ . ∴L Jt .: ' J →・I、 \ !一 ・ ' J f J :. t ・ ・ L ・ ・ , . / t l L ・ / 仰りr E J i l pp. 4 5-4 6 . ) , o f ) . c i E . .p. 4 2 3 . 2 8) Gi r aul t( A. 2 9 )I b i d_ ,p. 4 21 . ) . o p. c t ' t "p. 8 9 . 3 0) Col l ot( C. ,I , ac o l o ni s at i o na gr ai r ee ll e 2) He nni( Ahmed) r aul t( A. ) , o t ) . c i t . .p. 4 21 . 31) Gi n' e ,Al ger ,1 9 8 2 .p. 3 4 . s o u s dd v e l o p♪e me T Z Ee nAl gd 3) Bena che nhou ( Abdel l at i f ) ,Fo m at i o ndus o us - ) , o ♪. c i t . ,pp. 4 6-L ' 1 7 . 3 2) Ager on( Ch,R. de u e l o p pe me nEe nAL ge r i e( 1 8 3α1 9 6 2) ,Al ger .1 9 87 , p. 7 2 , C. ) . o p. ( 7 i "p. 81 . 3 3) Col l ot( 3 4) Ager on( Ch. l R. ) , o p. c i E "p. 4 6 _ ) , 0 7 1 _ c i l . .pp. 4 0 9-41 0 . 3 5) Gi r aul t( A. コミ ュ ーン 1 1 原住民部族の植民地行政町 村への統合 ) . o D. c i E . .p. 82 . 4) Henni( A. , o P. c i t . .p. 7 2 5) Be nachenhou( A. ) . 6) 宮治-雄 『アフリカ現代史V 北アフリカ』 1 9 7 8 年.山川出版社.7 2 -7 4頁. 7) フイロクセラ ( phyl l oxer a) は, ご く小さいあぶ ら虫で, ブ ドウの木の根を食い,根を枯 らす害虫であ る。 前章 で は, ヨ- ロ ッパ人入植拠点 の行政 区の変遷 コミ ューン を中心 に, アル ジ ェ リアにお け る市 町 村 休制 の確 立 過 程 をみて きたO 以上 の よ うな, ヨー ロ ッパ人入 植拠点 の増設 と, それ らの 「自治町村」- の昇格 あ L.ペルネ,R.プランション, Mノヾレスト,J.マシ エックス編著,井上幸治他編訳 「フランス3」 ( 『 世界 8 2日 の教科書;歴史』) .1 9 81 年,ほるぷ出版,1 。 8) 宮治一雄,前掲雷.6 6-6 7貢0 9) Gi r aul t( A. ) , o p. c ,pp. 61 2 -61 8 . 1 0) I b i d. .pp. 61 2 1 61 3. l l ) Gi r aul t( A. ) . o p. c i t "pp. 60 7 -61 3 . るい は 「混 合町村」 へ の統 合 の一方 では, 原住民部 族 に対 す る政策 がすす め られ た。 それ は, アブデル する初期 の原住 カーデルの対 仏抵抗 運 動 を は じめ と 民 部 族 の抵 抗 が 鎮 圧 され, 同 化 政 策 が開 始 され る iL ,Hi s E o i r edeE ' AL ge ' r i e 1 2 ) J ul i en ( Char l e s Andr e) c o nE e mZ ) o r ai ne ,1 9 6 4 .Par i s ,pp. 5 0 3-5 0 5 . ) . o ♪、 c i t . ,p. 61 3 . 1 3) Gi r aul t( A. ,No t i c es urL e sdo 2 L Z eC O l o ni e s 1 4 ) Boye r( Pi er r e) a g T i c o l e sc T e J d e spaT ' l e sz J o l o nE ai r e spaT T l s i e nsdamsl e de ' par t e me nEd' Al ge T T ,1 950( ?). 且 848年以 降 1 868年 にか けて, 三段 階 に区別 で きる五 ㌔ そ して, それ ぞれの段 階 にお いて,次第 に軍政区 は, コミュ-ン フラ ンス市町村制 に基 づ いて組織化 され改 変 されて い った。 1 863年以 前 の第一段 階 の政 策 は, オスマ ン 帝 国支配下 の行政組 織 の名残 りを解 体 して,部族 を 行政 の基 本的 中核 とす る ことにあ った。 1 863年 の元 老院決 議 は部族 を村落 ドゥアール ( douar ) に分割 ドサアール 1 5 ) Gi r aul t( A. ) , o p. c i t . ,pp. 61 3161 4 . 改変 し, また遊牧 部族 の単位 の代 わ りに, 村 落 と 表1 〕より算定 した数字。 1 6) 本稿 〔 い う別 の行政 単位 を設 けた。 これが第二段 階である。 1 7) Gi r aul t( A. ) , o p. C れ pp. 61 3-61 4 . 次 に第三段 階 は, 1868年 5月2 0日経督令 を もって始 コミ ューン ま る。 この命 令 は軍 政 区全域 を町 村- す なわ ち ュ -ン コミ ュ-ン コミ 「 混食 町 村」 と 「 準 町 村 」 - に分割 す ることを ) . o z ) . c i t . ,p. 3 4 , 1 8) He nni( A. 1 9) Gi r aul t( A. ) . o p. c i E . ,pp. 6 0 8-61 4 . ) , o ♪. c i t . .p. 3 4 . 2 0) He nni( A. 21 ) Gi r aul t( A. ) , o p.c i E _ ,pp. 6 0 9-61 5 . 2 2 )l a i d. .pp. 61 0-61 5 . 2 3 )I b i d. ,pp. 61 5-61 6 . 2 4) 1 9 0 2 年1 2月2 4日法はアルジェリア北部領 と南部碩 ) , o ♪, c i t . .pp. サ-ラとの境界を画定 した.Gi r aul t( A. 4 0 9-41 0 . 34 歴 史 学 研 究 第6 3 3号 決 定 した。 以下 で は,前章 で みて きた, ヨ-ロッパÅÅ植者 つこ ユーノ̀ を中心 に形 成 され た行 政 町 村 に, 原住民 が いか に して統 合 されて い ったのかき その過程を 3つの段階 を迫 って た どる ことに した い。 のアルジ フランス征服以前 且 (1848 1863 1 年) 部族 の確定 - uアの原住民 いて組 織化 されてい ったO ア ラブ局 の設 置 に踏 み 切 社会 の た らなか であ フランスの植民地行政官 っ 。) によ のフランス植民地化 ても っ っ , た2㌔ はどれだけの部族が存在したかを調査研究し, 権力をめぐ に の抵抗を押さえ, 現地社会 められ それは161購己以降 に のオスマン帝国支配, また19世紀初期 紀 帝国侵入以前 基本的性格は に形 オ の15世 スマン ,会 ても梶本的変革を受けなか フランスは部族 っ 植民地支配を確立していくため 植民地化前夜 穴i i リアに は のアルジ s ou nn(L ェ ,516 部族(あるいは社会集団)をトルコ て っ 3㌔ 次 4 のように分類している(衰 ) の実態を調査することから始めなければな たリン 成され に求 の部族社 ていたベルベル系 アラブ系 ・よ り,最 初にそれを動 か したの は, ラ ・モ リシエール LL lh , ・ l or i ci er e(1 833-34年)で あ る 6 ㌔ ,そ の 後, 1 8 3 7年 4月 1 5H. ダム レモ ン Damr 卓montが ア ラ ブ問 題担 当局 ( di r ect i ondesaf f ai r esar abes) と 改 め, ペ リ シ エ ・ ド ・ レ イ ノ Pel l i s i erdeReynaud ( 1 8 37-1 8 39年) に委託 し, ペ リシ工は ヴァ レ将軍 Mar e chal Val E , eと対 立す る1 83 9年 初 め ま で同局 を別当 したO ヴ ァレ将剰̀ こよ って廃_ l 上され た aud将軍 に ア ラブ問題担 当局 は, ビュジュー Buge アi /チ よ って, 1 8 41 年 8月1 6E ]命令 ( ar r et t l ) を もって再 び設 置 され,新 任 局 長 に ドウマ Dauma s( 1 841- 1 8 47 年) が任命 された 7 ) O ドウマは, アブデル カー リアの社会集団 4 のアルジ フランス征服前夜 ェ 表 デルの組織 を研究 し,支配階層 に属す るア ラブ人首 長 に現地部族 の支配 を委 ね る間接統治 が良策 であ る r -フザ ン部鴫 還 諸 賢鷺鮎 - ライヤ部族 ( 被支配部族) 蛋) ・ ・ ・ ・ --1 2 6 ・ ・ -I. と, ビュジ ョーに進言 した. こうして 「ア ラブ問題 -------1 0 4 合計51 6 担 当局」 は, フラ ンス側 の命令 と原住民 首長 との仲 -同盟集団 ----・ -8 6 介役 と しての機能 を果 たす ことにな った0 1 8 4上 川二2 -独立集団 1 -日・ -・ -・ ・ 2 0 0 ア レテ 月 lE l命令 で, 新 た に各州 に下 位 部 局 ( di r ect i on フ ランス征服時 の アル ジェ リアは, 人 し コが約 3 00 di vi s i onnai r e) が 設 け ら れ, 各 分 管 区 ( sub- 万人 と推定 され 4), そ の うちの 90-95% を農民層 di vi s i on) あ るいは下位 区 が 占める農業社会 であ ったo オスマ ン帝国下 のアル 組織 された。 その構成 員 とな った役人や通訳 は, 7 ジェ領 のデ イ総督府 において最高の権 力を もつ トル ラビア語をあやつ り, イスラム社会に溶 け込んで い コ入支配階層 は,豊 に都市 に居住 す る トル コ入軍人 った。彼 らは早 くも直接統治への移行 に心 を動 か さ か ら構成 され.農民層 に対 す る土地の所有権 と税徴 れていたが, ビュジ ョー と ドウマは公式命令で これ サ ークルにアラブ局が 域 収 の権利 とを組 み合わせた搾取形態 の中で, さまざ を禁止 したO それ よ りも, あまりに も拡大 しす ぎた まな依存関鼠 原住民 の指導権 を可能 な限 り粉砕せ よと命 じた。現 対立関係 によ って結 ばれていた 5 ) o フランスの アル ジェ リア征服 によって, トルコ支 地 の支配層 は利用 されなが ら徐 々に崩壊 してい った。 配 は完全 に崩壊 し, フランス当局 は今度 は原住民部 こうして原住民 に対す る行政 の要 は再 びア ラブ局役 族 の 抵 抗 の鎮 圧 に乗 り出 すO軍 事 的 征 服 の時 期 ( 1 8 47 年 まで) ,原住民政策 はいか にあ るべ きかにつ 人の手 に移 った。 アラブ局 は原住民部族 の支配 と保 コロン 護 の混 合政策 8 )を と ったため,初 期 の入植者 た ち いて, フランスの学者間で延 々 と議論 され熱烈 な論 の激 しい憎悪 を招 き, つ いにはアラブ問題担 当局 は, 争 が展 開 された。植民 地 化 を押 しすす め る ことで 原住民 に荷担す る行動 を とった と して議会 に5発さ 徐 々に部族 の撃退 をはか るのが よいとす る嵐 れ,政府か ら講義 を受 けた。 共存 「合 併 主 義」 の理想家等, さまざ 1 8 48年 にな る と同化政 策 の開始 に よ って各州 の まな意見が表明 された が き これ らの理論 ・論争 は, 「 民 政 区」 は 3つ の 県 に 昇格 し ( 1 84 8年 1 2月 9日 1 -ン 7レテ コミ フランス政府 や アル ジ 且 uアの将軍 たちに現業的な 命令) ,各県 は郡 に分かれ, さ らに町 村 が設 け られ 解決 の道 を与 え るもの とはな らなか った。原住民政 て, それぞれ知事,副知事,町村長 によ って行政統 策の山元化 は1 848年 を持 たねばな らなか った。 治 された。 一方, 「 軍政 区」 と改め られ た旧 「 混合 説 を説 く理論嵐 さ て,原 住 民 政 策 を 担 っ て い く ア ラ ブ 局 ( Bur eaL lar abe) は, 初期 の将軍 たちの経験 に基づ 区」 と 「アラブ区」 は, 陸軍 少 将 ( 扉 ner aux de di vi s i on) と 分 管 区_少 将 (genera ux de subdi 一 植民地 アルジェ リアにおける行政町村の汗 . 三 成 ( 小山L i J ) 35 vi s i on) の管轄 にとどまり, 原住民首長 による間接 とい うものであ ったO ア ラブ 統治が アラブ局によ って続行 された。他方, ア ラブ 反発 し, ときどきその反対意 見 問題担 当中央局は,植民者の攻撃の矢面 に立 たされ た。 て廃止 された 9 ) 0 局 は この 政 を通 す こ 策 と して に 対 毒こ 成功し これ と平行 して, ア ラブ属 によ る間接統治 は,覗 さて,1 8 48年以降,現地のア ラブ属 は,部族 を直 地入 の主 な首長 の介在 を排除す ることによ り,部族 接統治す る方 向に向かうのだが,この政策 はどのよ の直接統治 にな るよ うな傾向を もったO この観点か さ れたのであろうか。 アラブ局の政策 8 5 8 年 まで オスマ ン帝国支配時代 の統治 らす ると, 1 うに して 実 施 はま ず , 基 本 単 位 と して 「 部族」という単位 を採用 を組織化することにあっ 行 政 機 構 の 各 段 階 の 最 で あ った カ リフ ァ し, そ の 領 域 を 確 定 し部 族 ( khal i f as ) ,バ た。 ( a ghas ) を介 して上 か ら統 治 して いた ア ラブ担当 シ ャ ガ ( bachaghas) ,ア ガ オ ス マ ン帝 国 下 , トル コ 人 により踏襲 された公的 8 5 8 年以降の, フランス式 に,行政 当局 と部 局 と,1 な基 本 区 域 の単 位 は, 社 会 経 済的な生 きた核 の集合 ト r l リ ビ ュ 族 の長 との間 にカ リフ ァ, バ シャガのよ うないかな 体 で あ る部 族 (フ ラ ン ス 語 の t r i buまたはア ラ ビア フェルカ erka) で あ っ た 。 し か し実際 には部族 は安定 語 のf アラブ局 とを区別す ることがで きるO現役 のアガや る集団を形成 してはいなか った。 バ シャガは次第 に肩書 きは立派だが, それ相応の権 族 は消 滅 し (た とえ ば ブ ・サ ア ダ 威 を持 たない無用 な要素 にな って い った。 たとえば した ま と ま り の あ あ る若 干 の部 る介在者 を も排除 しよ うと しなが ら現場で統治する, Bou-Sa畠 daの北部 の ウ- レッ ド・シデ ィ ・ハ ジュ コンスタンチ-ヌ地方 では,将軍 たちは原住民の首 レ ス Ouま ed Si diHadj eT eS族) , 長 の漸進 的弱体化政策 を行 った。特 に彼 らの個人的 また新 たに形成 さ れ る部族 もあ った (た とえば ベ ル7ギ ア Ber r oua一 特権 を徐 々に剥奪 した。 また他方.部族の首長であ ghi a南部 の ルバ イア Rebai a族) 。 ア ラブ局 のね ら るカイ ドや シャイフたちは次第 に単な る執行職員の いは.戦争 によ って離散 した部族を再編成 す ること. よ うな ものにな ってい った。 そ して彼 らの境界を確定す ることによ って,彼 らを こうして,原住民政策 は徐 々に部族の直接 統治の 多少 な りとも土地 に定着 させ ることであ った。実際 方向 に進んで い った。 しか しその後 ま もな く.1 8 6 3 には,必ず しも常 には旧来の単位を考慮せず に部族 の手直 しが行われた。 たとえば, 1 854年, シェ リフ 年 4月と5月の 2つ の元 老 院決 議 に よ り,部 族が ド ゥ アール 村 落 ( douar ) に分割改変 され るとともに, 事態 Ch61 i f平原 の ウ- レッ ド・シデ ィ ・ベ ン ・シ ャ7 はさ らに大 きく進展 した。 0ul e d Si dlBen Chaa族 は, 以 前 はアケルマ ・シ r maCher aga族 に属 して いたのだ った ェラガ Ake ド r T 7 ' -ル 2 部族か ら村 落への分 割 が, ム- ル Me hal族 に併合 され た。 ウー レッ ド ・ 部族 を基礎 と した直接統治政策 を追求 してい く- 7- メ ド ・ベ ン ・ス ル タ ン Oul e dAhme dBe n 方 で,部族 の単位 を解体す ることを奨 めるとい' ぅも ( 1 8 6 3-1 8 6 8 年) Soul t anの フェルカは, それ までは一人のカイ ドを うひとつの主張があ らわれた。 アル ジェ リアの現状 戴 いてお り, したが って一つの行政単位を構成 して に関す る皇帝 あての報告 の中で,陸軍大 臣 は1 85 6 年 いたのであるが, これが アケルマ ・シェラガ族 に併 に,「 統治 に関 して 当局 に与 え られ た 目的 は部族の 合 された iO)o この部族 の組織 化 とい う長 い作業 は 解体 であ る」と断言 しているo この意見 はその後進 ヨーロッパ人の入植 と,入植者 に土地 を与えよ うと 展 し, 入植 の必然性 とい う勢 いの もとで, 1 8 6 3 年4 す るフランス政府 の願望 によ り急が され, また同時 月22日 と 5月23日の 2つ の 元 老 院 決 議 を こ結 実 し に混 乱 させ られ た。 そ の結 果, カ ン トンヌ マ ン た 川 oす なわ ち,第 二 帝 劇 前半 の 息 852-1 8 6 4年 の ( c ant onneme nt )政 策 の考 えが生 まれ た。 この政 間 に実施 されたカ ン トンヌマ ン政策 は, 沿岸平野 な 策 によると, 部族はそれ 自身 す る以上 の土地 ど民政区を中心 と して限 られた地域 で展開 し, これ 分 け し, その に伴 うフランス入植民者 の定着が進 むにつれ,入植 が 占有 を所有 してお り,従 ってその 領 土 を区 一 部 を放棄 させ,残 りの部 分 が 彼 ら の 所有 となる, 36 歴 史 学 研 究 第6 3 3号 地 の不足 も目立 っ よ うにな ったた め 12), さ らな る 入植地確保のために,内陸のアラブ人 占有地 に対す る政策 として,1 8 63f f A ・ 元老院決議が発布 されたので ①伝統的組織 ある 13)O「ァル ジェ リアの アラブÅ 責有塊 における 1 85 0年か ら1 865年 までのフランスの公的報告書 に 土地 権 の設定 に関す る法 令」 と題 され る1 863年 記述 されているよ うな部族の組織 において, その基 4月22日元老院決議 は. わずか 7条項か らな り, 梶 礎 になる単位 は ドゥアール ( doua r ) すなわち, 氏 強い部族共同体的土地所有を解体す ることを目的 と して,次のような段階的政策の施行が想定 されたの であ る。 すなわち第 1に, 部族 (tri bu) が土地 に 対して持 っている用益 (j oui s s anc e) の権利か ら部 族が土地所有者であることを認 めている (第 1条)0 つま り, 共同体的所有 (propri et ecol l e ct i ve )と いう概念 で植民地 化以前 の アル シュ ( ar ch)を法 族の起 源および習慣 に よ って集団を成 し,家畜 に草 所 有 的に確認 したわけである。 その帰結 として,部族の をや るために一緒 に移動す る, テ ン ト数が8ない し 1 0個程度 の複数の家族 の集合体である。 彼らの幕営 の形 が円形 であ ることが, ア ラ ビア語 の動詞 ダラ dar a( 回 る,回 す)か ら 発 生 し た ド ゥ ア ー ル douarの呼 び名 を説 明 す る もので あ る。 したが っ て, ドゥアールは緊密 に構成 された,比較的人数の 少ない集団である。 領域 ( t er r i t oi r e) を確定 す る ことが第 1段 階 とな ジュマアについてい うと, これには各種の形態が り, そ の 上 で 第 2に,部 族 の領 域 を ドゥア ー ル ある。 実際に機能 していた唯一 の ものは, たとえば ( douar s ) の間で分割 し, さらに第 3段階 として, 部族の中の一部の遊牧す る者たちのなかに存在 して ドゥアールの成員の個別的 な土地所有権 を確立す る いた。 その場合, ジュマ了の構成 はまちまちであ り, ことが予定 されている。 ( 第 2集う減O とのような部 彼 らはときにはフェルカの良を任命 したこともある。 族共 有地分割 の窮極の目的 は部族 の首長の支配力の そのはか ジュマ了は定住者の多い地方の小部落 メシ 縮少であ り,部族 を分割 し, さらに部族地 の中に ヨ me cht a) の集団の中に も存在 してお り, 耕 ュタ ( ーロッ′ ヾ人を入植 させ ることによって,原住民を共 地の分割を担当 していた。 さらにまたジュマ了はカ 同体を通 じての土 部族的結合 を 破 地 と の自然的結 合か ら引 き離 し, 壊 し て,反乱の危 険を除去 して いく ビ リ ー地 方 の村 ( t acker t )ま た は 村 落 集 団 ( t ouf i q)のなか に も存在 して いた。 これ らの地 方 では, ジュマ了は実質的な一・ 貫性を もっていた。家 ためであ った 15㌔ さてここにおいて,旧来の 「 部 族」 とい う枠組に 族 の長で構成 されたひとつの ジュマ了は共同体財産 とって代わ り 「ア ラブ人町村 ( c ommunear abe ) 」 を管理 し,投票 し,税を分割 し,裁判所を組織 し, ド. ?ア-ル の核 となるべ きものと して, 「村 落 ( douar ) 」と 慣習的な法規であるカヌー ン ( kanoun) を変更 し い う新 しい行政区画が考え出された。 そ して,入植 ド ゥ 7-∼ を推進 し, 新 しく設定 された村 落が, その村有財 た。 しか し,征服 され るとともに, カ ビリー地方の 症 ( 土地)の全部 または一部を交換 した り売却す る 植民地 当局 に密着 した管理 の もとで,村の長である ことを許 可す る政策主体 と して, 1 863年 5月23日 ami n) を選挙す るのみとなった。 さ らに ア ミン ( T - ク レ ジュマ了は政治的,財政的 自立性を失 い,ただ単 に ドゥアー ル 政令 ( 第1 6条) は,各村 落 に ジュマア ( dj e m畠a: 征服者 側の将軍 たちはジュマアとともに討議を し, 村落委員会)を創設す ることを規定 した。 その創設 aman) 降伏者 に対 す る生命の保証であるアマ ン ( には,土地 の譲渡や交換 に許可 を与 える軍政区の指 丁レテ 揮官 または知事があた った。 1 863年 7月命令が,実 ド ゥ ア-ル 際 に村 落委員会 ( c onl nl i s si ons syndi ca t e s) ジ ド 巾 T-/ L ・ ユマ了を創設 し,以後, ジュマ了が村 落 を代表 し, 共同体の管坪 を担 うことにな った。 ところで, 1 863年元老院決議の適用 によ って創設 を与えたのだ ったが, この組織 を戦争時 に部族の代 表 と して形成 された例外的な組織 と理解 していた。 事実,伝統的な部族の長 は しば しば ジュマ了に,敬 るに足 りない職務のみをまかせ,選挙 もまた取 るに 足 りない一面で しかなか った。 したが って,旧来の ドゥアールとジュマ了は以下で述べるフランスが創 ドゥアール された村 落 とジュマ了は,既 存 の伝統 的組織 に基 設 した組織 とは共通性 はまった くなか ったとコロー づいていたのだろうか。 col l ot( C. ) は述べている1 6 ㌔ 植民地 アルジェ リアにおける行政町村の形成 ( 小山」 山) 37 第 3段階 の私 的上地 所 百の確定 は,1 873年 ワルニ工 ② フラ ンスが創設 した組 織 フ ラ ンス語 の概念 にお け る村落 ドゥアール- コ ミ douar一 一 C Ommune) は, と くに確定 され ュー ン ( gour bi s ) あ るいは メ た地方 にお いて は ダ ル ビ- ( 法 によ ってひ きつか れ る ことに な る. ド r A T 7 l 1 L ・ この よ うに して成 立 した村 落 は, 旧部 族 が い く つか に細分化 され て複数 の村落 とな った もの,-部 ド ゥ アール 族 が その ま ま村 落 に な った もの, あ るい はい くっ シュ タ ( mecht a) と呼 ばれ る小部 落 の集合体 に も か の フ且ルカ ( f e r ka) が まとま りのあ る- つの集 対応 し, また遊牧 地方 の伝統 的 な複数 の ドゥアール に も対 応す る もので あ るO この概念 は部族解体 の政 合体 を構成 す るために手 直 しが行 われ た もの もあ るO ド ゥ ア-ル -村 落 の平均規 模 は,地 域 に よ って さまざ まであ 策 に も,行政上 の必要性 に もこたえ る ものであ った。 るが,人 口2 000-300 0人程度 の村落 が 1つ のめやす さて,1 863年 4月2 2日元老 院決議 はどの よ うに実 9 ) 。 となろ う 1 デ タ レ 地方, 且 86 3 年 5月23日政令 によ って各村 落 の内部 施 され, いか な る結 果 を得 たので あ ろ うか。 その実施 に当 た って は, まず政令 に よ り特別委員 に創設 され た ジュマ 了は, 伝統 的 な ジュマ アとはま 会 が設 置 され, アル ジェ総 督 に委員 の任命 が委託 さ った く異 な る議会 で あ ったo あ る入 射 まジェ毒アが れ た。委 員 会 の 構 成 は, 委 員 長 と して 練 指 揮 官 町村 議 会 ( c ons ei l smuni ci paux) と類似 の もの と ( gener auxc ommandant s)1名, 県副知事 また は 考 え,選挙 によ って選 ばれ る性格 を与 え よ うと したo 県会議員 1名,県職員 また はア ラブ人軍人 1名, 公 実 際 は, ジュマ 了は政府 の任命 した者 によ って構成 有地管理官 1名 か らな る。 さ らに,下 部 委 員 会が ア され,部族 の長官 で あ るカイ ドが議長 を務 めた。 こ ルジェ リア地方行 政官 によ って組織 され, すべ ての の カ イ ドもまた政 府 が任 命 した。 1 865年, この ジュ 準備作業 を行 った。 す なわ ち, 部族 の境 界線, 可耕 マ アに対 し, 原住民 の良 を村 の問題, お もに共同体 地 と可耕地 内 の放牧 地 ,部族 の勢 力範囲 内 に含 まれ 財 産 や 集 団 の 耕 作 地 の 管 理 にお いて補助 しっっ,監 る私 的 占有地及 び公有地 な どの正確 な境 界画定 をす 督 す る任務 が与 え られ た。 ジュマ 了は と くに, 共同 るため に資料 を集 める仕事 を受 け持 った。 その後 に 体 財産 の交換 や譲渡 に関 して,判断 を明 らか にす る 委 員会が介入 し, まず第 1に隣接 諸部族 の代 表 の立 任務が課 せ られ る ことにな った。 ド ゥ ア-] レ しか し,村 落 と ジュマ アが そ の重 要 な機 能 を果 ち会 いの もとで分割 に付 され る家族 の土地 の境 界線 を現場 で画定 す る こと, 第 2に部族 共 有地 の境 界内 に含 まれ た私 的 占有者 と部族 との間 の契約 の確認 , た し始 め るの は, 1 868年 お よび1 870年 に軍 政 区 に市 コミ _ 1 -ン 町 村制 が導入 され た時 で あ る。 第 3に割 り当て られ た 占有地 の境 界線 の不公正 な画 定 に関 し て 隣接謡 部族 の苦情 が で る場 合 の裁判 によ る決定 を行 った。 委 員会 は採決 したすべ ての措 置を アル ジェ リア総 督 に報告 しな ければ な らず,総 督が 最 終決定 を下 す ことが規定 されて いた ( 1 863年 5f i 3 村落か ら混合町村への統合 ( 1 8 6 8 年 5月2 0日総督令 以降) ド ゥ ア-ル 村 落 の創設後 ま もな く, 植民 地 当局 は軍 政 区 を 権 威 主 義 的 で な い方 法 で編 成 す る必 要 性 を感 じ, ア レ テ 1 865年 4月2 6日命令 を も って,軍 政 区 の 下 位 区 23日政令)1 7 ) 0 実際 の適 用 は, 1 870年普 仏戦 争 と第二 市制転 覆で 作業 が 中断 す る時 まで に,最初 の施行 にあた って想 s ubdi l ′ i s i onmi l i t ai r e)の 中 に 画 で あ る分 管 区 ( 「付加税委 員会 ( C om mi s s i ons addi t i onnel s ) 」を設 de s c e nt i me s 定 され た 3段 階 の うち, 第 2段 階- す なわ ち,那 ド 巾 7-ル 族 の境 界 の確 定 と部 族 の村 落 へ の分 割- まで が す ることを決定 した。 この ド . ? 7 -J し 付加税委員会 は,部族 および村 落 にお いて実施 さ 実 施 された。 また,適 用地域 と して は, フ ラ ンス占 れ る支 出 に関 して意見を述べるよ うに要 請 されてい 錦地拡 大 のため に主 に軍 政区の部族が対象 とな り, る原 住 民 の最 によ って構成 され た。 つ いで皇帝 ナポ 分 割 が予定 され た部 族 数 6 4 3の うち, 1 8 70年 の 中断 「 ノ 〉 アー ル まで に374部 族 のみが村 落への分割 を終 え, その結 ド r > 7-∼ 果6 5 6村 落 が生 まれ た 1 8 ) 。残 りの部 族 の 分 割 及 び レオ ン三 世 は, 1 865年 6月,広 大 な改 革 の プ ログラ コミューン ムと,原住民 を組織 して市 町村体 制 の原 則 を拡大 す 38 歴 史 学 研 究 第6 33号 立 ることを予告 した。 1 868年 1 2月1 9日政 令 は民政 区 に コミ1-ン お け る市 町村 体制 を発足 させ た ことは前章 で述 べ た。 ヂクレ 軍政 区 にお け る蔑視 の改革 は1 868年 5月20日政令 を 3870人の ヨー ロ ッパ人が それ らの町村 に統 合 され て 874年 まで存続 す るが, いたo これ らの混 合 町村 は且 もって実施 され た。 追求 され た 目的 は, ム ス リム住 1 879年 まで に さ らに 1 6の新 しい混 合町村 が成立 した。 民 に フ ラ ンス町村制 の運 用 を周知 させ,地 方行政 に しか し, 軍 政 区 の混 合 町 村 で は, そ れ を 構 成 す る r : I , T-, ・ L ・ 村 落 の ジ ュ マ ア は 少 しず つ な くな って い った。 お いて, ヨ- ロ ッパÅ共 同体 と原住民共 同体 を結 び アレテ っ ける ことで あ った。 しか し, 1 868年 5月20日命令 コ三 ユ -ン は 2種類 の野 村- す なわ ち, 「準 町村」 と 「 混禽 町 村」- を創 設 した 2 0 ㌔ 暫 定 措 置 と して つ く ら ド ゥ ア-ル れ た 「準 町村」 は, 法 的 に制度化 された村 落 と伝 1 900年 に は, 民 政 区 の混 合町村 は73. 軍政 区 の それ は 6で あ ったO 以上 , 原 住 民 部 族 フラ ンス車町 村 制 に が 統 ド ゥ アール 分 割 さ れ て 成立 した村 落 が 合 されて い く過 程 を み て きた。 統 的組織 と して とどま って い る部族 鶏r i bus) とを, 1つ の ま とま りの あ る集 合体 と して統 合 した もので. 分管 区 ( subdi vi s 呈 ommi l i t ai T e) の 規 模 に も匹 敵 し た。 この町村 には ヨ- ロ ッパÅ住 民 は全 日 璃 い。 1) Col l ot( C. ) , o ♪.dJ ‥pp.8 5 -91 . 編 『アフリカ植民地化 と上地労働問題ム アジア経済 9 7 3 年 ,1 2 8貢。 研究所.1 「混 合 町 村 」 はサ純 粋 ア ラ ブ人 町 村 玩ommumes 3) Ri nn ( Loui s ) .Ler o yaumed' A/ ge ls ousl ede r - pur ement ar abes) と フ ラ ン ス 入 野 村 玩om- our dan.1 9 0 0,p.1 7 2 . T Z i e rde y,J 4) J ul i en( Ch. lA. ) . o I ) .c i E "p.7 . munesf TanGai ses ) (-自治 町村) との中 間 に位 置 し, ここで は下位 区域 サ - クルの指揮官 が町村長 の 役割 を果 たす ことにな ったO その傍 らに, ヨー ロ ッ パ太, ユ ダヤ教徒, ムス リムに よ って構成 され る町 5) 拙稿 「オスマン帝国支配末期の 『アルジェリア危 機』- フランスによる植民地化の原因をめ ぐって - 」 『吉備国際大学紀要』創刊号.1 9 91 年,1 62白二 0 om mu i ci m pal e) が設 け られ 村 委員会 ( cor nmi s si 6) Ager on( Ch. lR. )o p.c l ' t . ,P_2 0 . 7) J ul i en( ChrA. ) , o ♪.c i E . .p.3 3 3 . たが, その 冒的 は原住民 の町村行政 への参 加 の奨励 8) これはもともと ドウマの功績 と言えるものであっ と, 冒- ロ ッパÅ共 同体 と原住民共 同体 の結 合 にあ った 紺 。混 合 町村 は 自治 町 村 へ の昇 格 が予 定 され て い た が, そ の移 行 は容 易 に はす す まず 実 際 に は 1 950年 代 の改革 に至 るまで, 多 くの混合 町村 は存続 7レテ した。 「準 町村 」は, 1 874年 1 1月 呈 3巨壬 命令 を もって 「原 住 民 町村 」 に代 替 され た こ とは先述 の とお りで た.Ager on( Ch. -R. ) . o p.c i L p.2 2 1 9) I b7 a. .p.2 2 . ,Lac ( ) l oT l i s aE i o7 1do spl ai ne s 1 0 ) Yac oI I O( Xavi e r ) f Al ger ,1 9 55 -1 9 5 6 ,TomeⅢ,pl2 8 4 ・ duChe ' l i ll ) Col l ot( C. ) . o z ) .c i t ‥p.8 7 . ,前掲 1 2) 宮治一雄 「アルジェリアにおける土地政策」 書 ,1 2 8 頁。 1 3) 1 8 6 3年 4月2 2日元老院決議が発布 されるまでの, あ る。 以下 で は, 「 準 町 村」と 「混合 町村」 の成立状 況 元老院での法案の審議過程においては,ナポレオン三 世の命令に従 うために法案の擁護にまわった賛成者と をみてお くことに しよ う。 準 町村 は1 870年 に1 5附す 村 成立 し, 1 874年 まで存続 丁レテ 874年 ま1月 1 3日命令 を も って, そ れ らは した が, 1 アルジェリア植民者を中心 とする頑強な反対者の激 し いや りとりが展開された。1 8 6 3年 3月初めに提出され 29の原 住 民 町村 に分 割 され た。後 に, ご く少 数 の 3Uになって めの法案条項の検討が委ねられた。 4月1 植民者 が加 わ って混合 町柳 こな った原住民 町村 もあ ようや く元老院での審議は終了 し書法案は通過成立す 原住民 町村 の数 は1 2で, 1 956年 には るが,皇帝ナポレオン三世は, この新 しい土地法の実 1 3町村 が存在 し,常 に1 874年 l 五月 1 3日命令 によ って 施は国民の熱烈な支持を得 られないと考え,自己の主 つ藍o 1 9醐 軌 7 レ テ 統治 され たO す なわ ち, 町村議会 は総督 に よ って任 命 された原住民有 力者 か ら成 り, それを構成 す るい ド ゥ アール くつ か の村 落 の各 ジ温マ アの メ ンバ ー も任命制 で あ った。 導権に基づいてことを運ぶことに決心 した。 この法案 の笛議過程については, 別稿で詳 しく検討 したい。な お,-一 次史料 としてはアルジェ] )7総督府の次の史料 が, また研究書としては次のものがある。 -Al ger i c, Go uver neme nt Gener al l Do C ume nE s 混 合 町 村 は, 1 870年 に は 1 7町 村 が成 立 し,合 計 綿民地アルジェl )了におけるt ] J ・ 政町村の形成 ( 小山山) 39 o Ni c i e l sr e l at i f sdl aConstitutiondcl a♪r o ♪T 7 1 6 t d げた次のサ リの研究,および私が現在すすめているウ .Anne e d ansl e st e T Ti t o i r e so c c u pd sI ) arl e sAr ab e s 1 86 3 ,Al ger ,1 8 6 4 . Gal dz ei guer .Le Ro y aume Ar ab e . 1 Anni e KeyPar i s ,1 9 7 8 ,pp.2 0 9-2 2 3 , 1 4) J ur i s l二 1 as s eurAl ger i e n,2 2avr i l1 8 6 3 .Senat us I f畠iaconstituti ondel apr opr i et e Cons ul t er e l at i e n Al ger i edamsl e s t er r i t oi r e soc cupe sparl es Ar abe s . アルスニス地方の 1山村 トゥニエ ・テル ・-ア ドの挙 例研究 ( 後述)に基づいて,稿を改めて論 じる予定で ある。 -Sar i( Dj i l al i ) ∴L̀ede mant el ementdel apr opr i 卓 t ef onci er e , ' ' Re l , ueHi s t o ・ nque ,Par i s ,1 9 7 3 ,No.5 0 5 . 2 0) Col l ot( CJ o p.( 7 l t "pp.8 9-91. 21) Ager on( Ch. -R. ) , o p.c t ' E . .pp.4 6-4 7 . 結 びにかえて 1 5 ) Kar lMar x," Les ys t emef onci ere nAl ger i eau 'Surl as o c i d E 6 mome ntdel ac onquet ef r anc ai s e: ,Ed.CERM,Par i s .1 97 0 . Pr 6 c a Pi t aL i s l e , o p .c i E . .p.8 8. 1 6 ) Col l ot( C) 本稿 で は, 19世紀 前半 に フ ラ ンスの植民地 となる アル ジェ リアの植民 地化 の過 程 を, その支配機構 と しか し, フランスが創設 した ドゥアールとジュマ了が, して の市町村体制 の形成 を中心 に検討 した。入植政 旧来の組織を全 く利用 していなかったのかどうか,そ 策 によ って特 徴 づ け られ る フ ラ ンスの植民 地政策 は, れとも枠組を利用 しなが ら実態を改変 していったとい アル ジェ リアに ヨ- ロ ッパ入入 植者 を い か に組 み込 コミ ュ ーン ん で い くか の問題 に直面 し,入 植 拠 点 へ の蒋 町 村 うことなのか,実証的に検討する必要があるO また, 1 8 71 年に部族の大規模な反乱が起 こったカビリー地方 の例と,その他の地域の例の相違など,伝統的組織の 地域的な違いや植民地化の段階の相違を考慮 して, フ ランスが創設 した ドゥアールやジュマアの実態を探る 必要があるであろう。 制導入 の一 方 で は, ヨ- ロ ッパÅ共 同体 と原住民共 同体 との結 接点 と して の行政 町村 の創設 を模索 す る。 8棉 年 以 降 確立 され た市 町 村体 制 は,部族 そ して ま ド ゥ ア0ル を解 体 して つ くられ た原 住民 村 落 を もそ の内部 に 1 7 ) J ur i s Cl as s e urAl ger i en,2 3r nai1 8 6 3,Dec r et 包摂 し,原住民政策 を統 合 して, それ まで ヨー ロッ por t antr と gl eme ntd' admi ni s t r at i onpubl i quepour l ' ex卓cut i onduS台nat us Cons ul t edu2 2avr i l1 8 6 3, パ 人 と原住民 の 2つ の共同体 に対 して別 々に進 め ら r el at i fa l ac ons t i t ut i ondel apr opr i 卓t eenAl gさr i e, dansl e st e r r i t oi r e soc cup卓 sparl esAr abe s . 1 8 ) Be nache nhou( Abdel l at i f ) .Fo r T n al z o ndus o us - nte T ZAL gd ・ T 7 ' e( 1 8 30 19 6 2).Al ger .1 9 87 . dd u e L o ppme p.7 2 . 8 6 3年元老院決議の適用を扱 1 9) アルジェ州における1 A. )の研究 によると.アル ジェ ったサ ン ト・マ リ ( 0 0 0ha,人 州の ドゥアールの平均規模 として.面積5 口1 4 0 0人の ものが想定 されている。 しか し,地域や ド ゥアールの創設時期の違いによって,その規模はさま ざまであり,平均的数字は相対的な意味 しか もたない れ て いた統 治行 政制度 を一元 化 す る ことにな った。 す な わ ち,行 政 町 村 を 「自治 町 村」, 「混 合 町 村」 , 「原住 民 町村 」 の 3種 類 に分 類 す る ことに よ って, 植民地 アル ジェ リアに特 有 の地 方行政制度 をっ くり ,「自治町村」,「混 合町村」 上 げたので あ る。 そ して と称 され る行政町村 は, ヨー ロ ッパ人 と原 住民 の 2 つの 共同体 を緊密 に結 びつ け る支配機 構 と しての機 能 を果 たす ことによ って,複雑 にか らみ合 う複 合民 族社会 を アル ジェ リアに生 み 出す ことにな った。 こ う した フラ ンス植民地 支配 の あ り方 は, イギ リスの 。 -Sai nt e -Ma r i e( A. ) ,… Lapr ovi nc ed' Al ge rver s 1 8 7 0 :l 7 et abl i s s e mentdu douar -c ommune etl a 植民地 に見 られ るよ うな,部 族組織 を温存 して利用 f i xat i on de l a pr opr i et ee nt e r r i t oi r e mi l i t ai r e dansl ec adr edu Se nat us ICons ul t edu 2 2Avr i l 村 は, 「軍事 的行政 的 」支配 と して特徴 づ け られ る : 'Revue del ' Oc c i dentMus ul man etde l a 1 8 6 3 9 71 .No.9 .pp.41 42 . M台di t e r r an卓e.1 e -Mar i e( A. ) ,L' Appl i c at i ondu Senat us I - Sai nt Cons ul t edu2 2abr i l1 8 6 3daロsl apr ovi nc ed' Al ge r す る間接統 治 とは対照 的 な もの と言 え よ う。 行政町 フ ラ ンスの植民地 支配 のあ り方 その ものを表 わす も ので あ った。 しか しその実態 の解 明 は ここで は成 し 得ず,行政 区画 の制度 的な改変 を市 町村 制形成 の第 1段階 (1 830-1 870l l p F) に限 って跡 づ け るに とどま ( 1 8 6 3 -1 87 0 ) ,1 9 6 9 ,Al ger . なお,1 8 6 3 年元老院決議の適用過程については,上記 った のサント・マ リの研究と,ウアルスニス地方を取 りあ アの地域 社会 を どの よ うに再編 して い くの か。 その 40 歴 史 学 研 究 第 6 3 3号 。 さて, フ ラ ンスの行政町村 の形成 は, アル ジェ リ 過程で 「 原住民」社会 は いか な る変 容 を遂 げ, 原 住 を失 い, そ の枠 組 が消滅 してい くのか, それ と も常 民 はその中で どのよ うに して民族形 成 の道 を た ど り 始め るのか。換 言すればアル ジェ リア民族運 動 の起 に植 民 地 支 配 に 対す る住民抵抗 の結 集の場 とな りう ド 17-' レ る の か。 ま た 村 落 の中 に設 け られ た ジュマ了 は, 源を探 ることを目的 と して, 行政町村の実態 を植民 上記の下位委員会 に取 って替わ って部族 の解体政策 地斯全般 にわたるその変容過程の中で解明す ること のための村落内の土地 の境界確定 の作業 を担 って い が次 の課題 である。私 は,植民地時代のアル ジェ県 くのか, そ してその機能 を果 た し終 えた後 にはやが の西南に位置す るウアルスニ スOuar s eni s地方の 1 て消滅す るのか。 あるいは形骸化 した形 で残存 す る 町村, トゥニエ ・テル ・- ア ドTeni eトe1 Hadを取 のか。 り上 げ, 1 863年元老院決議適 用以降 の行政町村の形 コミ ュ ーン 成 と農村社会の変容 を, この町 村 の事例研究 1 )か 次 に第 2期の課題 は, 自治町村 と混合町村の実態 ド ゥ 丁-∼ の解 明 であ る。入植拠点 と村 落 か ら構成 され る自 ら実態的 に探 りたい と考えて いる。 ここで は,同町 治町村 は, 町村議会が町村長 の選 出,予算等の決定 村形成 の概要 に触 れ る余裕 はないが,今後の課題 を 権限 を もっが,町村議会 は ヨーロ ッパ人入植者のみ 明 らかにす ることで本稿の結 びにかえたい。 すなわ が選挙で選 ばれ, ムス リム住民 は任命制 で,人 口比 ち, トゥニエ ・テル ・-ア ドに1 880年代 に創設 され にかかわ りな く定数の 4分の 1以下 に制限 されて い た 2種類の町村- た。 ここで はまず, 自治町村 の住民構成 を明 らか に トゥニエ ・テル ・- ア ド自治町 村 と トゥニエ ・テル ・-ア ド混合町村- の事例研 し, どのよ うな人 々が町村行政 を担 ってい くのかを 究2 )を通 して,地 方 行 政制 度 を軸 と した アル ジェ 検討 した い リアの近代植民地社会の形成 をめ ぐる諸問題 として, 極 の 目的で あ った, アル ジェ リアにおける私的土地 次のよ うな点 を解 明 して い き た い と考 え る。 所有権 の確立 は, ヨーロッパ人入植者 と原住民 ムス 。 すなわち,植民地 当局 の土地政策 の窮 まず,行政町村形成 の 第 1段 階 に つ い て は さ らに リムに対 してそれぞれ どのよ うに進 め られ, その結 2つの時期を区分で きるで あ ろ う. 第 1期 は ヨー ロ 果生 み出された土塊所有者層 孝はいかな る人 々で あ ッパ人入植拠点 の形 成 と原 住民 部族 の解 体政策 が ったのか, そ して彼 らは行政的権力層 と重 なるのか。 別 々に進行 していた時期で あ り, 第 2期 は1 86 8年以 さ らに, 土地所有者の所有規模別階層分化 は,住民 降,両者が統合 されて 自治町 村 , 混 合 町 村が形成 さ の民族構成 とどのような関連 を もつのか。 これ ら土 れる時期であ る。第 1期で は, 入 植 拠 点 お よ び原住 ド 巾 7 -, ・ L 民村 落の実態を探 りたい。 す な わ ち , 入 植 拠 点 の 868年以降各町村で 地所 有者層 の分析 につ いては,1 創設の 目的 とその形成過程 は, フ ラ ン ス 本 国 の 政 治 の と思 われ るが,土地台帳の整備 は税制 の確 立のた 的 ・経済的要因 に規定 され る入植 政 策 と現 地 ア ル ジ めに進 め られたO 要す るに. 「 原住民か らの吸 い 上 ェ リアにおいて入植地確保 のために展 開 さ れ た 土 地 げ方式」と言 われ る町村予算 の作成 の実態 をみて い 政策 との変遷 の中で明 らか にす る必要が あ る。 そ し くことによ って, 町村 レベルの行政制 度がいか に し て成立 した入植拠点 の植民人 口の構成 と彼 らの経済 て植民者の原住民 に対す る支配組織 と して機能 して 活動 ( 主 に農業) の開始に と もな う定着化 の過程 は コミ ュ-ン どのよ うな もので あ り, 町 村 - の昇格 の条件 は何 ド ゥ 7-ル であ ったのか を検 討 した い 。 次 に原住民村 落 の形 い ったのかを解明 したい。振 り返 って,「自治町村」 成 につ いては, 1 863年元 老 作成 されて い く土地台帳の分析か ら明 らかにな る も とは正確 には 「 完全施行町村」 と称 され るものであ ●● り, 「自治町村」 とい う通称 は, 町村住民 の うち, 決議適用 による部族 の ヨー ロッパ人植民者のみが町村 レベルの 「自治」 を 解休政策の地方 におけ るその政策主体であ った下位 獲得 していた ことを意味す る ものにす ぎない。 そ し 委員会 とはいかなる ものであ ったのか, そ して この て1 87 0年代以降 の こうした自治町村 の増加 は, 植民 政策 に対す る原住民 の抵抗 はどの よ うな形 で表われ 地統治 にお ける ヨー ロッ′ ヾ人植民者 の政治的発言権 るのか,両者 の対抗関係の中で政策 の施行過程をみ の増大 を物語 るもの と言 えよ う。 ただ し,差別 を受 院 ドゥア-ル そ して成立 した村 落 は, やがて自治 けなが らも町村行政 に深 く関与 し,植民地統治機構 町村や混合町村 に統合 されて い く中で, その重要性 の中 に組み込 まれてい くことによ って大土地所有者 ていきた い 。 植民地 アル ジェリアにおける行政町村の形成 ( 小山凹) 41 とな る少数 の現 地 住民 の存在 を も昆逃 がす ことはで 史的諸条件 を いかに して醸成 してい ったのかを探ろ きな いO 彼 らが町村 行政 にお け る ヨー ロ ッパ入共 同 かなめ 体 と原住民 共 同体 を接 合 す る要 と しての役割 を果 た 第 3段階の検討 を も含 め,今後 の実証研究 によって す ことにな るの で あ るが, 民族運動 に対時 した時, 明 らか に して いきた い うとす るものであ り,市町村制の歴史の第 2段艶 。 披 らの立場 は微 妙 な もの とな り, フ ランス当局側 と 民族運動側の間で揺 れ 動 くO 他方 , 「自治」 が認 め 1) ウア ル スニ ス地 方 は, アル ジェL l r b ' 方 に位置す る沿 岸部の シェ リフ、 「野 の豊か な農業地域 と両部のサ-ラ られていない混合町村 は菅入植者 の利益擁護 のため 砂漠地域 の中間 に位 置 す る技 しい農 業地帯 で.標 高 に中央権力への依存がより強 ま るもの と思われ るが , 1 000-200OT 一 一の 山 々を含 むI L 庇 地帯 とその間辺 の山 この点 を自治町村 との比較か ら検討 したいo さ らに, 鹿地域 か ら成 って い る。 そ して内陸山地であ りなが ら, 自治町村 と混合町村の行政機構上 の相違 が, 植 民 者 ヨー ロ ッ′ ヾ人入植 者の数 も比較的 多 く,植民地化によ 内部での階層化 に反映す るのか ど うか に つ い て も考 る社会変容 を捉 え るために充分成果をあげ うる対象地 えていきたい。 それは ヨーロッパ人 植 民 者 の 原 住 民 域 であ ると思われ るD また ここは,独立戦争が激 しく 社会のr p f lでの定着の度 合いを測 るこ と に もつ な が り, 展開 された地域で もあ り,植民地支配 と民族解放闘争 の衝突 の場 と して, さまざまな問勘 定起 が可能 な素材 後の民族運動への対応の仕方 に も, 地 域 間 あ る い は 984年 に現 在の トゥ二エ ・テル であ ると考える。 私 は1 植民者問でのさまざまな相違 を生 み 出 す の で は な か ・ハ ア ド市を訪れ る機会 に恵 まれ, そ して偶然に も同 ろうか。要す るに, アルジェ リア の伝 統 的 な 社 会 組 863年元老院決議適用 以 市 の市役所で, 1 織を解体 し, その最末端 に至 る まで ヨー ロ ッパ 人 を 政 文書 を発 見 した。 この現地 における町 村 レベ ルの コミ 、 ニ 行政 文 書の発見が,私 に行政 町 村形成 の ひ とっのモ 入植 させ るとい う, フラ ンス植 民 地 政 策 が 生 み 出 し 地 行 」『歴史学研究 拙稿 「アル ジェ リア農村 史研究 の旅 リア民族運動 に直面 した時, 民族 の対立 の構 図 が地 月報』No.334. 1 987年 1 0月 域社会において は単 純 に は措 け な か った と ころに, は な か ろ うか 。 民 デ ルをつ くりあげ る視点 とその可能性 を開 いて くれたO た複雑 に結 びつけ られ た複 合 民 族 社 会 が, ア ル ジ ェ ア ル ジ ェ リア の 植 民 地 社 会 の特 徴 が 兄 い出 せ るの で 降 の 植 コ ニュ - ン - O 「アル ジ皿 リア民族解放戦争 の裏切 り者」『国 際関係研究所報』 第21 号,津 凹型 大学 ,1 987 年1 1月。 コミ1 -ン 2) 民族解放戦争 が始 まる直前の 1 950年前後 に,町 村 9世 紀 後 半 につ く り上 以 上 述 べ た よ うな課 題 は, 1 レベルのモ ノグラフが行政 当局 によ って次 々に作成 さ げ られ た フ ラ ン ス植 民 地 支 配 の あ り方 が, 1世 紀 後 , れ るが, トゥ二二 ・テル ・-ア ドに閲 L J ては次の 2つ のモノグラフがあ る。 世 界 で最 も激 しい と言 わ れ る ア ル ジ ェ リア民 族 解 放 -Monogr aphi edeCommuneMi xt edeTeni et - 戦 争 を勃 発 させ, 1 00万 人 の ヨ ー ロ ッパ 人 入 植 者 を el -H畠d、1 94 8. ア ル ジ ェ リア か ら引 き揚 げ させ て 社 会 構 造 の 転 換 を -Monogr aphi edeComnl unedePl ei nExer ci c e 招 く こ とに な る, そ の独 立 の あ り方 を 規 定 す る, 磨 投 稿 deTeni et el -t i ad,1 953. 歓 迎 次の要領 で投稿 をお願 い します。締切 日はとくに定 めて いません。 【 種類 と標準枚数】 論文,5 0-80枚 ;研究 ノー ト,20-50枚 ;批判 と反省 ・研究動 向,20-40枚。 (いずれ も,図表 ・註 など含 めて 400字詰 で換算) 。規定枚数 を厳守 して ください。 【 原 稿】 ①原稿用紙使用の場合,横書 き,1マ ス 1字 と し,鉛筆書 きは ご遠慮 くだ さい。 欧文が 入る場 合 にはなるべ く l ,2 3字 ×30行 でお願 い します。 ③審査 の迅速 化の タイプでお願 い します. ② ワープロ原稿の場 合 は, な るべ く AL ため, コピー 1部 をそえて下 さい。④ 執筆者名 にはローマ字 のよみ方 を添え, また論題 には英訳 をつ けて下 さい。 【審 査】 委員会の責任 において審査 し.で きるだけ早 く採否を通知 します.不採用の場合 は,原稿 はす ぐお返 しします. 【投稿先】 歴史学研究会編 集部宛。 4 2