...

02社会心理(社会心理の社会学) pdf.

by user

on
Category: Documents
21

views

Report

Comments

Transcript

02社会心理(社会心理の社会学) pdf.
社会心理学目次
テキスト:随時
講
義:社会心理学
1.ガイダンス
2.認知的不協和理論
3.レイブリング論
4.動機づけの語彙
5.状況の定義と役割距離
6.エスノメソドロジーへの糸口
7.行為の意図せざる結果--『悪循環の現象学』を読む
8.行為の意図せざる結果--『悪循環の現象学』を読む(続)
9.アノミー論の周辺--問題としての個人主義
10.儀礼論
11.社会学的自我論
12.大衆論とサブカルチャー
13.大衆化の条件
14.若者文化の発見と学生反乱
15.ウッドストックジェネレーション
16.ウッドストック世代とサブカルチャー
17.サブカルチャーの変貌をめぐって
18.ジェネレーションXと自我
19.離脱の文化再考
20.聖-俗-遊
21.リアルの両義性
22.両義的なものの併存(2)
23.
『サブカルチャーの社会学』について
-1-
第1講
ガイダンス
◇はじめに
東京女子大における社会心理関係の講義は通常隔年開講になっていますが、いろいろな
事情で 、「大衆社会論→社会心理学→社会意識論」というかたちで三年連続の開講になり
ます。講義内容は工夫しますが、 昨年度と内容に一定の重複が生じることはご海容願い
たいと思います。
◇講義についての注意
出席・平常点
学期末試験
レポート
受講についてほか
◇講義内容
サブカルチャーという視点から、メディア文化
青年文化
等々について論じる。
問題:社会心理学の理論について概観する必要はあるか?
基本視点
文化や知識の両義性
科学や宗教によって人間は自由を獲得し、幸福になることができる。
科学
~
宗教
~
科学
~
物質文明
生活の利便
精神的な豊かさ
死の受容などなど
他方、それは一つの枠づけである。場合によっては暴走することもある。
宗教
核兵器の問題
~
環境問題
遺伝子操作
クローン人間
カルト宗教による救済という名のテロ宗教対立
サブカルチャーという文化装置
「なめらかさ」「透明感」/「ごつごつ感」
「ざらつき」
(奥村隆)
「はまり」と「覚醒」、
「加熱」と「冷却」
(大村英昭、奥村隆)
「サブ」によってつくりかえられてゆく「メイン」
テレビ化する社会
ワイドショー化する社会
リアリティの両義性
「遊び」と「マジ」
80年代
90年代
遊び感覚
遊び感覚
ゲーム感覚の礼賛
ゲーム感覚の深刻
「さあさあゲームの始まりです」(酒鬼薔薇)
野島伸司
宮藤官九郎などの作品
音楽で言えば・・・
-2-
とりわけ後者
文化と身体性
規律訓練される身体
(補足)認知・身体・・・などを枠づけるもの
三年生は一年の時紹介したわけだが
ある日トムは父親と二人でドライブに出かけました。その帰り道の
ことです。道から子供が突然飛び出してきました。トムはとっさに
ハンドルを切り、子供をよけることができましたが、街路樹につっ
こんでしまい、車は大破し、二人は大けがをしました。そこにたまた
ま車で医者が通りかかりました。事故を
見て、医者はけが人を診る
ために車に近づきました。そしてトムが自分の息子で
あることにび
っくりしましたが、ともかく応急処置をして、二人を病院に運びま
した。この場合の医者とトムの関係はどういうことになるでしょう。
こうした固定化のメカニズムを講述することも可能であるが・・・。
-3-
第2講
認知的不協和理論
・レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)アメリカの社会心理学者
『認知的不協和の理論』1957
意味の不協和(dissonant)不適合(nonfitting)→「つじつま」をあわせる
意味に一貫性(consistency)
を与える
:人間性の本質として規定している
(例1)喫煙者
煙草をすう人の意味世界
(例2)数学の得意な女性への偏見
数学の得意な女性
(例3)デマ
→
「大丈夫」という「つじつま合わせ」
→
あいつは女じゃない??脳が違う??
いろいろ理屈をつけて認めない
たとえば関東大震災のときにおこった流言飛語の社会心理
地震が起こる
→
こんなものではないはずだ
→
いやいやもっとしたはず
「つじつま」をつける
試験・ゼミ選びの時のデマ
(例4)浮気の仕方(遠藤周作)
浮気なんかしてませ~~ん
「高まる不安」
もてない奴ほどやきもちをやかれる
じゃあどうするか?
折れた煙草の吸い殻で・・・♪♪
オレはもてる!!と言いまくれ
(例5)怒った相手のなだめかた(遠藤周作)
ゆるちて!!!
じゃあどうするか
→
いやこんなもんじゃ許さん!!
怒りの加算
「言い過ぎたかしら?」というスキをつくる
(番外)泣いている女性のなだめかた(太宰治)
泣くなよ
→
じゃあどうするか?太宰の神業とは?
シクシクシクシクシクシク・・・
(例6)
「やまとなでしこ」ではないまでも・・・
医者をゲット~~~!!! →
医者って素晴らしい!!
-4-
恋愛心理:趣味や感心の変化に注意しよう!!
他にもプラダを買えばプラダ通に・・・
「意味世界」の形成
(例7)
「男なんてみんな同じ」
「女なんてみんな同じ」
おならをする
→諦観
パンツ一枚で歩く
鼻くそをほじる
会話がない・・・
(例8)
『予言のはずれるとき』
クラリオン星人と通信できるキーチ夫人とキーチ教
終末の日に信者のみが救出される
→ どうなるか?
コスト&ベネフィット
しかし・・・・
費用便益
過重な費用の「つじつま」をあわせる
(例9)
「どうせ私をだますならだまし続けて欲しかった♪♪」
(バーブ佐竹)
これも過重な費用の「つじつま」をあわせる
(例10)
「ゆかたの君はすすきのかんざし♪♪」
(吉田拓郎)
「あなたが私にくれたもの♪♪」
(ジッタリンジン)
すすきのかんざし
安物のプレゼント・・・
CF:「毛皮の君はシャネルの香水♪♪」
「あなたが私にくれたもの♪♪純金製のネックレス♪♪・・・」
(例11)
「転向」
拷問の果てに・・・
些細な一言で・・・
→
こちらが根が深い
(例12)鰻丼でお引っ越しのお手伝い
札びらでお引っ越しのお手伝い
→権力の本質
<整理>
1-2
都合よく変える
7
減じる
3-6
<問題点>
文献:
費用極小化
8-12
加える
費用便益の逆説
「ほんとうに」そう思っているのか???
『命題コレクション社会学』
『日常世界の虚と実』など
-5-
第3講
レイブリング論
◇レイブリング(labelling)=レッテルを貼ること
レッテル貼り理論
H・ベッカー『アウトサイダーズ』
(新泉社)
E・ゴフマン『スティグマの社会学』(せりか書房)
大村英昭『非行の社会学』
(世界思想社)
◇スティグマ論と逸脱論
どんな人をのけ者にしているかで、社会のあり方がよくわかる
逸脱者(deviant)
:社会から逸脱した者
スティグマ(stigma) :烙印を押された者
「老いぼれ」
リタイヤした者
棄てる
「おちこぼれ」
役に立つ奴をより分ける
=バリアフルな社会
病院にたたき込む
=適者生存の競争社会
「おちこぼし」:意図的ふるい分け
「デヴ」
どのように人的資源を開発し、配分するか?
美貌と体力
=自己管理能力と肥満
=「小顔」
「小尻」志向
一時のアメリカ
=「恰幅がイイ」と言われた時代
こういうものをつくることで集団の結束は固まる。
いじめ
一種のいけにえの儀式
敵
敵ができるとみんなまとまれる
「外集団」と「内集団」
よそ者
イジメと道化
お笑いといじめは紙一重
流れ者
サムナーの「自民族中心主義」論
異邦人を排除した封建社会の秩序
NTV『伝説の教師』
しかし、ウケをとれば大丈夫というわけでもない
多湖輝と「ターバン君」の話
→笑いという水路づけが万能という保障はない
しかしどこかで悪意は昇華しなければならない
悪意は昇華できるか?
寺田寅彦『天才と国防』
:私の出発点
×国、○国よりも天災に対する愛国心を
弱者がいることで人はまとまれる
-6-
しかし・・・
◇レイブリングの問題
「めがね」
「でぶ」「おたく」
・・・・
→多様な人間存在を抽象化してしまう。
固定観念(cf ステレオタイプ)を増強してしまう
:だからレッテルは貼られたくない
だから政治的な争いごとなどでイメージ戦略は重要
マキコ
ムネオ
ツジモト
レッテルの効果は激烈
うまく使えばすごい威力
レイブリングは不可避??
すべての理解は抽象化とレイブリング
◇予言の自己成就(マートン『社会理論と社会構造』)
悲観ばかりしていると、プラスの要因を排除してしまい、結果として
悲観的な予言が自己成就してしまう。
楽観してポジティブな考え方をしている人間は結果として成功する。
→レイブリングとの合わせ技
「東大生」になることの意味
イイ自分ばかりが目に入ってくる
バラ色の人生
悪い自分ばかりが目に入ってくる
お先真っ暗
「犯罪者」
「不良」になることの意味
:地位は人を創る
レッテルの創りだした物語を生きる
甲冑の故事
英雄もよろいを変えたらあっとゆうまに・・
◇天才のレッテル
新開発した能力テストという実験@アメリカのハイスクール
そのテストで発見された四人の天才の行方
→果たしてどうなったか??
家庭教師のコツ
恋をすると何故きれいになる?
逆も真なり
バカと言い続けて子どもを育てる
-7-
第4講
動機づけの語彙
◇動機は創造される
なぜ、昔はいじめで自殺する者がいなかったのか?そんなことをしても、誰も納得して
はくれなかったし、そんなこと思いつきもしなかったからだ。「いじめ自殺の動機」をそ
う分析するのは、大村英昭『現代社会と宗教』
(岩波書店)である。そういう意味で、
「い
じめ自殺」という社会現象において、象徴的な存在となったのが、1986年に東京都の
中学で起きた「葬式ごっこ」である。いじめがエスカレートし、みんなで「お葬式」をや
り、その結果、いじめられた生徒が自殺に追い込まれたという痛ましい事件である。机の
上に花を飾り、弔辞を読み、クラス41人でお別れの寄せ書きをした。その寄せ書きに担
任ほか4人の教師も参加した。色紙には、
「いなくなってよかった」
「ざまあみろ」など、
心ない言葉が書かれていた。これは、センセーショナルな話題となったが、学校側は、
「葬
式ごっこはいじめではない」と主張するなど、加害者意識の希薄さをさらけ出した。「距
離化」され、クールで陽気な「遊び心」に裏付けされた「はまり」の実例でもある。不幸
なことに、いじめの自殺はこれで強い「動機づけ」として銘記され、しばらく後追いが続
く。その後も、動機づけを再確認させるようなインパクトのあるいじめ自殺がおこる度に、
後追いがしばらく続くという現象が起きている。似たような「動機づけの発見」は、その
昔、藤村操が華厳の滝で遂げた「哲学的な自殺」などにもみることができる。藤村の自殺
は、ある種の感動を呼び、哲学的理由は充分人を納得させることができるようになる。以
来、哲学的自殺が続く。こうして、藤村は自殺の「動機づけ」を「創造」した。なお、1
980年代半ばになり、これは商家の娘に失恋した末の自殺であることを証明する資料が
発見された。
◇例解--自殺・犯罪の How
「独創的」=動機を開発した犯罪・事件
・保険金殺人
荒木虎美3億円保険金殺人事件(1974年)から林真澄まで
・酒鬼薔薇
てるくはのる
ネオ麦茶
弱いものが弱いものをを殺す
cf. 少女殺人M
儀式性
・金属バット
一柳展也から岡山野球部員まで
・自殺の方程式
故に死ぬ
・失楽園
ワイン
不倫
心中
・よろめきから不倫へ
『美徳のよろめき』
・ラブ&ポップ
意味不明な輝き
意味不明な不安
-8-
神奈川同級生殺人事件
買う側の論理
売る側の論理
・高島平から中央線へ
どこで死ぬか
・レッサーパンダと渋谷金属バット
何気なく殺す
・マクロな動機の語彙
金権政治
土建政治
ゴーンとトヨタ
国際関係のかけひき
◇動機づけのパターン整理
会話のパターン
行為フレームのパターン
行為の逆説のパターン
---------------------------------------
ミルズ「状況化された行為と動機の語彙」
『権力・政治・民衆』みすず書房
ミルズの社会心理学的知識社会学
スコット=ライマン
「動機外在説」
バーガー&ルックマンなどは完全無視だったが
ブラム=メヒュー
井上俊
大村英昭らが再評価
◇なぜ?ホワイ? Why??--心のなかを見たがる人々
なぜなぜなぜ???
本人だってわからない
(例)医学部の学生の話
人のことは言えないが・・・
デートに遅れたのはなぜ?
◇どのように?ハウ? How??
それはわかるものではない
交際を断るのはなぜ?
手練手管の輩は何故とは問わない
むしろこういう場合はこう・・・こういう場合はこう・・・
どのように行為するか?
TPOで決まっている
=「状況」
(situation)によって決まっている
私の講義遅刻したときと○○先生の講義遅刻したときでは動機づけがまった
く異なる。(つーか、まったく動機づけすらしない奴らが多すぎる)
。
<文献>
井上俊・作田啓一『命題コレクション社会学』筑摩書房
井上俊『遊びの社会学』世界思想社
大村英昭『死ねない時代』有斐閣
大村英昭『現代社会と宗教』岩波書店
-9-
第5講
状況の定義と役割距離
◇二つの会話
(別紙資料1)石川准『人はなぜ認められたいのか』旬報社
→(1
)としての会話
(2
)はわかるか?
なぜ私たちは特定の解釈に到達するのか?
二つの文化の存在:(3
つまり、会話の背後には(5
おさまりのいい(6
一種の(7
NB:(5
)、
(8
より
)
(4
の了解)が存在する。
)
・つじつま)をつくりだす
レース)として会話を考えることもできる
の了解)ではすまないもの:エスノメソドロジーとの対比
占いやカウンセリングの例
きつねとたぬきの例
差別の例
◇トーマスの公理(Thomas theorem)
「人が状況を(9
)だと定義すれば、結果としても(9
)である」
→問題に直面した個体が熟慮し、自分の行動を決定することを方向づける
吟味と思索の段階=(10
(10
(10
)
)1:社会の成員が行うもの
)2:社会が成員に提示するもの
この二つは競合する:
行為の選択肢が複数あり、そこから一つの行為を選択する場合必須の与件
:意志的な行為の与件という側面が強調されていたことに注意
類例1)マートンの「自己成就的予言」
「ダメだ」と状況を定義する場合
「イケる」と定義する場合
まったく正反対のつじつま合わせ
勉強
仕事
恋愛・・・
<おさまり>
とる行為違う
類例2)ミルズの「動機の語彙論」
→
状況によって動機づけの語彙は決まっている
状況を定義して「適切」な語彙を採用する
つじつまを合わせ<納得>を作り出す
:つまりは<おさまり>がつくか?
言い訳
どうすれば<すむ>か
正当化
----------------------------------------
(文献)トーマス&ズナニエツキ『生活史の社会学』お茶の水書房、マートン『社会理論
と社会構造』みすず書房、ゴフマン『出会い』誠信書房、安川一『ゴフマン世界の再構成』
世界思想社、大村英昭『新版・非行の社会学』世界思想社
- 10 -
)論
◇ゴフマンの(10
相互行為=過程:(10
)の提示→共有された定義の維持→修復
人々は一定の状況のなかで(10
)を調整しあうことによって
(10
)は社会的に与えられるもの
互いの関係を取り結ぶ:一種の(7
(例)精神病院の患者と医師の会話
)、
(8
レース)
(例)ゼミでの会話
「出会い」と「共在」の定義
出会い→焦点の定まった集まり・関係
適切な状況定義と印象の操作→儀礼的秩序
(例)合コン→本気モードかどうか?効果的な自己提示
「われわれは 、(10
)という観念から出発するのではなく、特定の定義がそ
の状況を管理しているという考えから出発しなければならない」
◇役割距離
状況定義1:一般に従うべき公式の状況定義
状況定義2:個人的な状況定義の維持
状況に埋没しないさめた自己
定義1
=
「表局域」
定義2
=
「裏局域」
→
真面目に受講
---関与シールド---
共在の秩序維持
真摯デス!!
<前に座っているお友達>
☆の眼
携帯メイルで会話
バカゆってんじゃねぇよ
聞いてられねぇんだよ
一つの役割に没頭するのではなく
その役割におさまりきらないもう一つの自分を
(例)手術中の外科医
バ~カ!!
この当の役割を演じながら
演じてみせる
講義中の大学教師
冷徹なオペレーター
冗談とばしまくりのナイスガイ
「役割距離こそが自我の住処なのだ」
博識の碩学
おやぢギャグとばしまくり
「帰属するものがなにもなければ、われわれは確固たる自我をもてない。だが、
何らかの社会的単位ないしは役割への全面的な献身と愛着は、一種の自己喪失
(selflessness)である」
。
「関東人はたてまえの裏にある本音を見ようとし、本音を知ると安心する。しかし、
京都人は本音すら信用していない。彼らは本音と建て前の距離、加減、あんばいが
どのようなモノであるかということを考える」(上野千鶴子)
→二重構造から多重構造へ=フレーム分析
- 11 -
第6講
エスノメソドロジーへの糸口
◇二つの会話復習
(別紙資料1)石川准『人はなぜ認められたいのか』旬報社
→「出来レース」という解釈について
より
:人間はほんとうに「出来レース」を「意のまま」に出来るのか?
「意のまま」にならない面にこそ着目すべきではないのか?
さわりだけではあるが、エスノメソドロジーという視点に触れておきたい。
人々が「被っているもの」を見るために・・・。
有名な「アグネス論文」における「通過儀礼(passing)」論
(ガーフィンケル『エスノメソドロジー』せりか書房)
転調(keying)できない
「儀礼的出来レース」とは言い難いもの。
いじめ論
わざといじめられるか?
再びターバンの話
◇ガーフィンケリング
H・ガーフィンケル(1917 -)
『エスノメソドロジー研究』
妙な英文で、異彩を放っていた。
固定観念を棄ててひたすらにものをみる
「無関心」の重要性
Cf.エポケー
固定観念を捨てて、見えないものを見る
ガーフィンケリング:
日常生活における奇矯な方法
交差点に大量のガチョウを放す
鼻を近づけて話す
「値切り」
実験的な方法
等々
カウンセリングマシン
→気づかなかったことに「はっと気づく」
その後サックスやシュグロフが、会話分析の手法を精緻化
- 12 -
NB:よく聞くことばではあるが、
「現象学的」にものをみるとは?
社会学の勉強という範囲で言えば・・・
<本質と現象>
日常性
日常生活
◇「つじつま」=文脈に注目すること
:秩序の形成を読み解く
indexicality
reflexivity
◇例解
山崎敬一・佐竹保宏・保坂幸正「相互行為場面におけるコミュニケーションと権力
: 〈車いす使用者〉のエスノメソドロジー的研究」
『社会学評論』44-1
買い物における車いす使用者と介助者と店員の会話
「取っちゃっていいですか?」
:差別、医療、裁判・・・様々な応用。
- 13 -
資料参照
第7講
行為の意図せざる結果
①不随意なものを理解することの重要性
②より明晰なミクロシステム論の定立
<文献>
⇒いわゆる悪循環という問題
⇒ベイトソンとゴフマン
長谷正人『悪循環の現象学--「行為の意図せざる結果」をめぐって』ハーベスト社
⇒第一章を忠実に読解する
1.象を追い払う男
十秒毎に手をたたくのをひたすら繰り返す奇妙な男がいた。なぜそんな変わった事
をするのかと尋ねると、彼は「象をおいはらうためさ」と答えた。「象をですか?で
も、どこにもいないじゃないですか」と聞き返すと、すぐさま彼は「そのとおり。見
た通り僕が追い払っているから、ここにはいないのさ。でも象たちがここへ二度と戻
らないようにするためには、こうやり続けなくちゃいけないわけだ」と答えた。
・意図した結果?
「意図」象を追い払う
「行為」手を叩く
「結果」象を追い払う
・行為の意図せざる結果
:特徴の考察
「意図」象がここに現れては困ると言う恐怖を消す
→「行為」手を叩く
手を叩くから恐怖は温存される
「結果」恐怖は消えてくれない
だから手を叩く
→行為は行為によって反復されている
=
いわゆる「自己言及」問題
2.自己成就的予言と自己破壊的予言
マートンが始めて、社会学的問題として提起(『社会理論と社会構造』)
。
二つに分類
①自己成就的予言「最初の誤った状況の定義が新しい行動を呼び起こし、その行動
が当初の誤った考えを真実なものとする」
(例)銀行の取り付け騒ぎ
(例)組合と黒人
(例)象の例
CF:状況規定を重視する解釈
殺到→倒産
黒人排除→黒人のスト破り
主観的な意味構成=意図した結果を過大視したマートン
それでは問題の本質=「意図せざる結果」の鋭さが半減
「意図」倒産を回避しよう
スト破りをふせぐ
「結果」倒産
黒人がスト破り
「行為」殺到
黒人を除外
②自己破壊的予言「予言がなされなかったらたどったであろうコースから人間行動を
外れさせ、その結果予言の真実さが証明されなくなる」ような社会現象
小麦の生産過剰予想→つくり控え→生産過剰でなくなる
マルクスの予言(富の集中と絶対的貧困→社会主義)→回避
こうした「予言破り」ではない例
- 14 -
「穴場情報」
予言自体が予言を外れさせている
=
自己言及的
3.神経症のメカニズム
フランクル『現代人の病』の神経症の二分類
かつ「意図せざる結果」
マートンのに分類に対応
①誤った受動性から生じるもの--不安神経症や恐怖症
失神、赤面恐怖、高所恐怖、汗や臭い恐怖、心臓停止恐怖・・・「期待不安」
恐れれば恐れるほど症状は余計に起こる
<回避>
②誤った能動性から生じるもの--強迫神経症や性的ノイローゼ
睡眠、快楽・・・
焦れば焦るほど症状は余計に起こる
<達成>
フランクルの逆説志向(paradoxical intention)セラピー
一種の症状処方
眠るな
性的快楽を感じてはいけない
汗をかけ
→問題解決しようとする意図が逆に問題を生みだしている
「ニセ解決」
意図せざる結果
4.
「行為の意図せざる結果」の諸例
①私って嫌われ者なの
嫌われているという不安→敵意への敏感→ほんとうに嫌われる
国家間の紛争
②自発的になりなさい
宿題をしないでテレビを見ている子供に注意→しぶしぶ→注意「自発的に」
ファウルズ『コレクター』
③自尊心のパラドックス
監禁して「自発的に好きになれ」
監禁後に身を任せようとする女に激怒
売女だと。
『地下室の手記』
自尊心を満たすには軽蔑するものに認めてもらわなければならない
自尊心を満たすには彼らに屈服しなくてはならない
⑤トイレットペーパーの買い占め
CF:性的神経症
不安の自己成就
⑥復讐の苦い味
ユダヤ人のドイツ人への復讐
CF:異性への憧憬も同じ
5.自己言及性のパラドックス
「私は嘘つき」
言明の内容が言明に適用されると言明が無意味化する
類例はいくらでも・・・「私の命令に従うな」「自発的になれ」
復讐=自分を苦しめる強者をやっつける
=
トイレットペーパーをなくならないようにする
論理的矛盾というよりはコミュニケーションの問題
「自発的になれ」
相手を弱者にする
=
なくす
他者に投げかけられるとき「新しい意味」が加わる
- 15 -
メッセージの内容レベル
メッセージの関係レベル
(例)
「今日虐められちゃった」
内容レベル
関係レベル
=
「新しい意味」
文字通り
なぐさめて
(例)
「ウラニウムは92の電子を持つ」
内容レベル
関係レベル
「行為の意図せざる結果」
内容レベル
関係レベル
文字通り
テキスト/同業者/無知なもの・・それぞれに意味
内容レベルと関係レベルの食い違い
自発的になれ
自発的になるな
私は尊敬されるべき
私を尊敬してくれ
→この理屈はもともとのパラドックスにも適用できる
- 16 -
私のほうが偉い
他人のほうが偉い
第8講
行為の意図せざる結果(続)
<文献>長谷正人『悪循環の現象学』
(ハーベスト社)
第3章
病理としての「行為の意図せざる結果」
1.家族療法とダブルバインド論
不眠の例などを見てもわかるが、行為の意図せざる結果は治療の対象にもなる
⇔家族療法派
患者個人ではなく家族のコミュニケーションを治療対象とし、これに介入した治
療を行う。→面談で家族の同席を要求する。
家族療法は、個人の心理的病を維持する病的な「システム」を発見した。」
不眠症=不眠のシステム
⇔ダブルバインド論
ベイトソン他『精神の生態学』思索社
(例)分裂病から快復した若者と母親
思わず肩を抱いた若者
体をこわばらせる母
手を引っ込める若者
母「私のことがもう好きじゃないの」 頬を赤らめる息子
母「まごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることないのよ」
その後再発作
:愛情表現を拒否された
愛情表現をやめることも避難された
第一の拘束
第二の拘束
二重の拘束
逆説命令「私を愛さないことによって愛しなさい。
」
真剣に愛さねばという意図→近づく→意図せざる恐怖心、嫌悪感
:行為の意図せざる結果
:ダブルバインド状況の構成要件
①メッセージのパラドックス性
自己言及性
分裂病者
「自発的になれ」ほか
ストレートに言ったことも逆説的に理解
告白のうらに否定的メッセージを見る
自己否定的無意味化
親愛表明のうらに敵意を表明してしまう
②濃密で抜き差しならない関係性
親子、看護、介護、恋愛、友情、信仰、政治
先ほどの親子
母親は裏では嫌っていると思えれば分裂しない
→裏のチャンネルの存在がわかれば分裂しない
建前「愛している」本音「愛していない」
濃密な愛情関係がそれを不可能にした
③関係性の悪循環的再生産
- 17 -
類例:カレンの例
息子のほうもパラドキシカルなメッセージを送っていた可能性
表情や歩き方のニュアンス=恐怖の表現→母親に注入
この悪循環がダブルバインド状況をひきおこす
システムやコミュニケーションの病理を考えること=システムの悪循環の分析
2.病理形成としての悪循環
病理の本質は悪循環
象を追い払う男の例
悪循環だから
復讐の例
=
病理
手を叩くことで恐怖をつくり出している
これだけでは悪循環ではない
復讐にむなしさを感じた男がむなしさをけすためにさらに復讐にでたら病理
「ニセ解決」(不眠症における眠る努力)が悪循環を創る
症例①
門限破りの非行少女
門限を厳しくする=「ニセ解決」
症例②
「あれ買って」という子供
症例③
心臓発作で病院に飛び込む男
症例⑤
「私をもっとリードして」
症例⑦
酒をやめた夫
症例④
症例⑥
両方とも「ニセ解決」
世話をしすぎる両親
アル中の夫
強くしかる母
まだまだねだる
安いものを買ってやる父
発作で仲良く=「ニセ解決」
高いプレゼントで仲良く=「ニセ解決」
がみがみ言う妻
疑いを持つ妻
夫と妻
双方の「ニセ解決」
また飲む夫
「行為の意図せざる結果」の反復的再生産
そして悪循環を支え合う関係性
「ニセ解決」の悪循環
回避しようとして繰り返す悪循環
「わかっちゃいるけどやめられない」ストーカー
3.ポジティブフィードバックとネガティブフィードバック
システム維持
ポジティブフィードバック
逸脱増幅的因果過程
PF
ネガティブフィードバック
逸脱解消的因果過程
NF
ハウリング
飲酒をしかると相手を飲酒に追い込む
サーモスタット
(例)子供の成長
成長=PFと親の思い通り=NF
(例)
「私をリードして」言えば言うほど
PF
閉じこもれば閉じこもるほど
→療法
PF
コミュニケーションパターン不変
やる気を利用する
そして関係を変える
NF
4.治療戦略としての「行為の意図せざる結果」
不眠症→眠るな
症例1:放屁する女性
妄想だとは言わず・・・
→両親の前で放屁させる
満員電車のなかで
症例2:八時の授業に間に合わない
十時に起きる
出来るだけ大きく
→
その後・・
十一時に起きるように
正しい解決ではなく「さらに大きく放屁」
「ベッドからでるな」→患者の力を出す
<「××すれば治る」→不安の生成>という悪循環を断つ。治れ-治るな。
- 18 -
「治るな」=「意図せざる結果」として「治れ」
上記症例への対処
①門限時間を決め、帰らなかったら寝ちゃう。反抗は無視。②泣き叫ぶ子供を転がす。
③救急車を呼ぶ。葬儀屋のパンフをばらまく。④「たかる」くらい世話をさせる。⑤リフ
レーミング=再定義づけ
夫に近づこうとしている妻、争いを避ける夫=+に解釈させる。
⑥いっしょに飲め。しかも妻が一杯多く飲め。⑦飲んでいるときに飲んでないように、飲
んでないときに飲んでいるようにふるまえ。→好意的に見られるようになる。
社会学的含意:変化の条件を問うた構造機能主義、変化の法則を問うた史的唯物論などと
は異なる、変化の理論。働きかけがシステムを変化させる→社会学的に面白い。
- 19 -
第9講
アノミー論の周辺--問題としての個人主義
◇現代社会の重要な変化--合理的組織化と積極的販売
技術革新とオートメーション
大量生産のシステム
オートメーションとモデルチェンジ
産業組織の形成
フォードからGMへ
フォードのオートメーションは大量の製品を効率よくつくり出したが
これを打開したのがGMのモデルチェンジの発想(見田宗介『現代社会の理論』。
批判を受ける
個人主義の問題
「欲望の生産」
(マルクーゼ)
「消費者の生産」
(ヴェブレン)
「依存効果」
(ガルブレイス)
:欲望のコンサマトリー化(自足化)
生きるために食べる→食べるために食べる
(自己目的化:空疎化、無意味化)
こうした問題を考えた古典としてデュルケムの二つの著作を概観する
参考文献『クロニクル社会学』(有斐閣)のデュルケムの章
◇組織の問題--『社会分業論』(1893)
分業の進展→連帯の変化 :機械的連帯
<機械的連帯>
近代以前に存在していた連帯
→
有機的連帯
<有機的連帯>
分業の進展と個性の十全な開花
個人は共同体に埋没している
役割は分化する
課題=個人主義の再構成
『社会的方法の規準』
(1895)
「社会的事実」
共同性
役割
機能分化
服従
埋没
個々の個人から
説明できない
○○○○○・・・・○○
○○○○○・・・・○○
cf.類似の概念はいろいろとある
マッキーバー
community
association
ギディングス
基礎的集団
派生的集団
クーリー
一次集団
二次集団
テンニース
ゲゼルシャフト
ゲマインシャフト
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 20 -
◇個人と社会的凝集性の問題--自殺論(1897)
「各社会が自殺に向かう資質の原因を、個人に見ないで社会そのものの性質に求める
ことによって、われわれはまったく異なる結果を得た」
(序)
・作業仮説と仮説
仮説:社会の凝集性が高いほど自殺は少ない
作業仮説:プロテスタントよりもカトリックの方が自殺が少ない
→統計的に実証
・自殺の三類型
エゴイズム型
自己本位型
アノミー的自殺
欲望の暴走と個の不安定
愛他的自殺
集団本位型
個人主義の行き過ぎによる自殺
殉死など個人主義の未発達による自殺
・アノミー: animie <ανομοσ = anomos
無規範状態
→
欲望の暴走
無限昂進
法の不在
◇アノミー論の展開
マートン
手段の稀少性論
アノミーを目的手段関係において規定
手段の欠如にアノミーの原因を見る
サイモンとギャグノン
「豊かさのアノミー」論
先進資本主義国ではむしろ手段よりも目的が稀少になっている
大村英昭
ことを指摘。
不満のアノミーと不安のアノミー
マートン
サイモン他
不満のアノミー
不安のアノミー
再び加熱と冷却へ
:応用範囲の広い議論
さまざまなアノミー論を考えることができる。
卒業論文からの例解
- 21 -
第10講
儀礼論(『社会学に何ができるか』第2章)
1.「集まり」で起きること--この章の問題
◇街角の風景
「儀礼的無関心」
(civil indifference)
街角で見知らぬ人に出会ったとき
電車のなかでのルール
エレベーターのなか
◇「儀礼」ということば
私たちは、「集まり」のなかでどのようなふるまいをなぜやっているのか?
それを考えることで「社会」について何がわかるのか?
→それを考えるキーワード:「儀礼」(ritual)
「儀式」
(ceremony) 冠婚葬祭
上で言った「ルール」=日常的なふるまいに埋め込まれた「儀式」
:ゴフマンという社会学者の業績
→下敷きになっているのはデュルケムの議論
2.「儀式」をする社会--デュルケム・「大きな秩序」の社会学
◇同じだから集まる社会
「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命後の社会
この社会の問題をどう考えるか?
自殺が増えたりした
「近代社会」の問題
→デュルケムは、
「連帯」という観点から考えた
「自分たちは同じなのだ」というまとまり
つながり
おさまり=「共同意識」
→どういうときにこれを感じるか?「儀式」をする「聖」の時間
「共通に大切なもの」=「聖なるもの」を共有する時間
⇔
生産や消費をする「俗」な時間
◇「儀式」の三つの側面
cf. サッカー、祭り・・・
『宗教生活の原初形態』
オーストラリアの部族社会「トーテミズム」の分析
1.消極的な礼拝
「儀式」の3側面
そこから距離を取って汚さないようにすること
=「禁忌・タブー」
2.積極的な礼拝
いけにえを捧げること
「供犠」
それにより「聖なるもの」を感じる
3.聖なるものを汚すものを罰すること。
「贖罪」
:分業がまだ進んでいない「みんなと同じ」社会→「儀式」の遂行
「社会的なものは、ことごとく宗教的でありこの2語は同義である」
(『社会分業論』p167)
それでは今はどうなのか?
◇近代社会の「礼拝」
近代化:「同じだからまとまる」→「ちがうからまとまる」
機械的連帯
分業化
有機的連帯
- 22 -
「共同意識は強く明確な感情を失ってきている」『
( 社会分業論』p162)
では、
「共同意識」はどうなるのか?
「個人こそが信仰」『
( 社会分業論』p167)
人格的個人の信仰→「共同意識」
◇「刑罰」という儀式
個人を信仰する「儀式」とはなにか?
→修復的礼拝
「刑罰」
神の冒涜の方が殺人よりも罪が重かった時代
何が聖なるものか?はっきりする
その逆の時代
しかし「個人を礼拝する儀式」はわからない。
というよりも、それだけではダメだと思っていた。
『自殺論』の自己本位的自殺。
個人が尊重されすぎて生きる意味がわかりにくくなっている。
『自殺論』のアノミー的自殺
「これで十分」と個人の欲望の歯止めがきかない。むなしさや挫折感。
むなしさ=不安のアノミー
挫折感=不満のアノミー
3.日常のなかの「儀礼」--ゴフマン・「小さな秩序」の社会学
「個人を礼拝する儀式」
:二つの成分
①「敬意」
小さな秩序の社会学
相手の人格を「聖なるもの」と考える
「回避」の儀式
「提示」の儀式
②「品行」
これに注目したのがゴフマン
尊重して避ける
エレベーター他
相手の評価をはっきりさせる
「エチケット」
「マナー」等々
「髪切ったんだ」他
「ちゃんとした人であること」「敬意に値する人であること」を示す
「聖なる他者」にあいさつされたらあいさつを返す
:デュルケムとの対応
回避~消極的礼拝
提示~積極的礼拝
禁忌・タブー
供犠
消極的礼拝と積極的礼拝の矛盾
距離を取りすぎても「聖」性が失われる。距離を取らないと「聖」性は汚れる
:日常生活も同じ
距離を取りすぎると「冷たい」
頃合いを知ることが重要
「私」の礼拝式としての社会
1)
「私」=「聖」なるもの
2)集まりのルール=儀式
密着しすぎると「ほっておいてほしい」
「儀礼的無関心」=過剰でも過小でもない
宗教的配慮を持って接せられるべきもの
正しさよりもメンツ
3)人間は儀式を行うために社会をつくる
しかし、儀式は壊れることもある
4.「儀礼」がこわれるとき--「小さな秩序」から「大きな秩序」へ
足を踏まれた
- 23 -
→「謝罪」
儀礼は保たれる「修復の儀式」
修復されない場合
「痛いなぁ」「せぇ!!」→儀礼の崩壊
儀礼を破ることは「暴力」につながる
儀礼により「暴力」は回避されている
もう一つの修復
「ヘン」な人だという納得
→逸脱者は隔離
「精神病」という装置
隔離
→
アイデンティティ装置(洋服、髪型、装飾品、化粧)の剥奪
「聖なる私」不可能に
儀式により「力」をふるいあっている
「大きな秩序」
- 24 -
第11講
社会学的自我論(『社会学に何ができるか』第1章)
1.「私」という問題
私という問題は、教育や心理ではなく、社会学でも扱うことができる。
NB:<私>というおさまり、まとまり、つながり=「社会的」
社会集団や社会構造と同じこと。
2.「関係」としての「私」--ミード
・「私」についての常識
=他者から切りはなされ、ばらばらに独立して存在し、内面をもつ存在。
・脱常識的にとらえた「私」=関係としての自己(ミード)
他の自我との間に明確な関係づけがあるから自我は存在する
他の自我があって初めて自分の自我は存在する
他の自我と自分の自我との境界線はひけない
「自我とは、まず存在していて、そのつぎに他者と関係をむすんでいくようなもの
ではなく、それは社会的潮流のなかの、いわば小さな渦で、したがって社会的潮流
の一部である」
教師と学生
親と子
恋人と相手
:他方がなければ一方はない
日本人と他の国の人
自己意識「よい自分」
「悪い自分」
まず社会があって自己がある
男と女
他者があって初めて成り立つ
・私のなかの他者
「よい教師」「悪い教師」←他者が自分をどう見ているか
:他者の視点から自己を眺められることが必要
<私>の内側にある「他者のまなざし」=「 me 」
これを前提に行為する者=「
I 」
私は他者に通じてしまっていて、境界線などひけはしない
親、兄弟、恋人、教師、近所の人、通りすがり、世間一般、マスコミ・・・
私のなかには広大な社会関係が込められている
一粒の砂に宇宙が・・
「もしも精神が社会的に構成されるのなら、ある個人の精神の領域なり、位置な
りは、それを構成している社会的関係という装置なり社会活動なりとまったく同
じひろがりをもたなくてはならない」
・私が先か関係が先か
関係が変われば私は変わる
醜い私を引き出していた関係
美しい私を引き出す関係
しかし関係が変われば私は変わるか?同じことを繰り返すだけではないか?
:私と関係との循環
3.パラドックスとしての「私」--ルーマン
・「私」が先か、関係が先か=パラドックス
例はたくさんある
「私の言っていることは嘘だ」
「日本人は嘘つきだ」
「勉強は自発的にやれ」
- 25 -
・オートポイエシス・システム
システム:あるパターンでの要素の組み合わせ
外部と区別される
オートポイエシス:要素がうまくつながりあっていることで自分で自分を創り出す
「私」の思考のシステム
外部から影響されることなく自律的に再生産される
ただしシステムは外部=環境から区別されることによりのみ成り立つ
→システムが維持されているから諸要素はうまくネットワークを創る
諸要素のネットワークがうまく創られているから境界は維持される
:こうした循環こそが生命の本質なのでは?
・循環について
意識システムの循環
システム境界の維持
外部との区別
システム内諸要素の相互接続
(例)
私は両親の自慢の子どもだ
「私」の維持
両親の期待に応えるように振る舞わねば
両親の期待に応えられなかったらどうしよう。・・・
:「私」の境界=「よい子である私」があるからうまくつながってゆく
:一連の思考がなめらかにつながるからこそ、境界は維持される
「予期」
こうすれば期待に応えられる
⇔「どうでもいいや」ということになると、境界も変わる
「自分を変えたい」と思う私
「いやな自分」を再生産している
果てしない自己探求
「最終の要素」はない。あったら要素はくずれる。
・白いネズミと自分探し
「白いネズミを考えるな」と言われれば言われるほど・・・
4.再帰性としての私
・近代社会
果てしない自己探求に人間を駆りたてる社会
・再帰性
近代社会の三つの特徴
①空間と時間の分離
②「脱埋め込み化」
むしろ例外
やりとり~当事者間を超える
③「再帰性」
自分自身をふり返る
近代
耐えざる自己評価
伝統による正当化
→「私」の成り立ちを変える
→
「私」を作り出す基準
制度的なものに
昔からそうだった
最新の達成に照らして
絶えずつくりなおされる「私」
「私」=人生の軌跡
近代社会
空間的隔絶は問題ではなくなる
「貨幣」
「法体系」
「科学技術」
前近代
=
過去から未来に至る統一体
内部に
- 26 -
modern
Cf.近代以前では「外部」から、外的要因(生まれ、育ちなど)によって決定
・二重の選択と根拠の喪失
現代社会
再帰性がいたるところに・・・→「私」を不安にする
あらゆるものが選択の対象に
ベストなものを選択する基準
基準を選択する基準
Cf.
:二重の選択
昔は選択は限定されていた。結婚相手は親が決めるなど・・・
近代では選択の根拠は自分が選んだということ以外ではなくなる。
→不安 ①今ここの意味がわからない
自分が選択したというだけ
②根拠を求めてもそれもまた選択の結果にすぎない
・美しく不確かな世界へ
真の自分
いくらでも書き換えられる
5.自我論に何ができるのか
自分→あいまいで多義的なものへ
こうすればいいという答えではなく、自己の条件を問うことを教える。
問うためのガイドラインを与える。
- 27 -
第12講
大衆論とサブカルチャー
◇後半の授業計画
『サブカルチャーの社会学』からの展開
サブカルチャー論の理解
サブカルチャーから見た戦後の社会心理史
現代日本文化
◇大衆論の系譜
mass 大きなかたまり
社会の平準化(政治的
経済的)
→
社会過程へ大量の人々が参入
<平準化する大衆>
社会の「仕切」がとれた
個性も何もない人々の登場
欲望のまま暴走する人々
「個」の矛盾が露呈した
(様々なパラドックスの発見)
資本主義の本質としての
欲望のコンサマトリー化
「不安=目的喪失のアノミー」
<暴走する大衆>
ヨーロッパにおける二つの批判:ファシズムや社会主義の問題に直面して
「大衆民主主義は可能か?」 という問への見地によって
可能
=民主主義的批判
不可能=貴族主義的批判
→アメリカへの移入
前者
後者
中間集団無力化説
過剰同調説
理想的民主主義を壊したファシズムへの批判
精神の貴族性を脅かす大衆の愚劣への批判
ロボットのように操られる人々(ミルズ)
個性を失う人々
柔軟に同調しすぎ(リースマン)
<平準化=無定型化没個性化する大衆>
:しかしアメリカは民主的政治体制に対する強烈な自負を持っていた。
アメリカは全体主義でも大衆社会でもない多元的民主主義国家である
:しかしまたアメリカは大統領が野球を観戦し、ジャンクフードを食べる国でもある。
巨大な物質文明下に築かれた大量消費社会
「大衆文化」の国アメリカ
⇔
「高級文化」のヨーロッパ
多くの人が享受できる文化を力強く具現していた。
(トクヴィルの予言)
<個性化・多様化する大衆>
<消費する大衆>
- 28 -
◇対抗文化の登場とサブカルチャーの発見
アメリカは本当に多元的民主国家なのか?という問
国内では軍事、経済、政治のエリートに権力が集中しているのではないか?
国外ではいろいろなツケを途上国にまわしているのではないか?
→60年代こうしたものを問題にする運動に火がついた
公民権運動
ベトナム反戦運動
そうしたなかで大衆文化の意味が問い直された
愚劣な情緒的文化
→
感情に正直な文化
性
→
正直に生きること
欲望のたれ流し
頭で考える文化
→
→
身体感覚の重視
生きられた文化
スローガンとしての「セックス、ドラッグ、ロックンロール」
:いろいろなサブカルチャーが生み出された
→大衆のなかの積極的要素
こうした「サブ」の「メイン化」
対抗性の消失
ビジネス化
しかし、
「ボランタリーなもの」の発見
知と熱
資源動員
対抗的相補性・・・・
◇今サブカルチャーとは何か?
マスカルチャー
等々
サブカルチャー
ポピュラーカルチャー
- 29 -
第13講
・大衆化の条件
大衆化の条件
産業化
民主化
交通・通信手段の発達◎
→
ここについて補足
・大衆化の運命
多くの人が「享受できる存在」となる
消費できる者
僧侶・貴族→一般ピープルへ
しかし、その結果質的にも低下する
・ジンメルの『流行論』
流行という現象が起こるための条件
「流行分化」という考え方
インフラの整備
流行の二面性
大衆化された集合行動(=みんな「おなじ」
)としての流行
そのことによって「ちがい」が証明されるものとしての流行
ファッション
ジーンズ
クルマ
サブカルチャー的なもの
・流行品の楽しさ、おもしろさ
消費の楽しさ、おもしろさ
=単なる精神の堕落(オルテガ)にすぎないのか?
そうではないのではないか?
生活のなかの文化
生きられた文化
レイモンド・ウイリアムズ
ミッシェル・ド・セルトー
マリー・シェーファー等々
- 30 -
第14講
若者文化の発見と学生反乱
・団塊の世代=ベビーブーマー
第二次大戦後ベビーブームによってたくさんの子供が生まれた
世界的現象
世界的に景気がよくなり、欧米の人々は豊かな生活を享受していた
欧米日本では、進学率が上昇し、多くの大学が新設された
他方まだ旧来の道徳や社会の規律というものは権威を持っていた
エチケットやマナー
徴兵制度
男女の決まり
・50年代におけるロックンロールの誕生
規律を破る若者
反抗する若者
その象徴としてのロックンロール
プレスリー
多くの共感を呼んだ
しかし、その反抗は大人たちの権威によって押しつぶされるものでしかなかった
プレスリーも徴兵された
・60年代前半のティーンエージャー文化
若者のスタイルとしての文化はますますひろがりを見せた
その象徴としてのビートルズ
全世界で爆発的なヒット
そのなかで再び大人たちへの反抗が芽生えた
髪を伸ばす
ヒッピーの文化とセックス-ドラッグ-ロックンロール
サンフランシスコ
ヘイトアッシュベリー付近
解放の象徴
「新しい世界」をつくり出す
・60年代後半
大学での学生運動
公民権運動
ウッドストック
団塊の世代が大学に入学して・・・
ベトナム反戦運動
それが世界的に広がってゆく
キューバ革命とチェ・ゲバラ
スタイルとしての反抗
男女交際の手段でもあった
マルクスやトロツキーを読んで異性を口説く
パリの「五月革命」
市民との共闘
しかし労働者との溝
- 31 -
アメリカでの反戦運動
希望としてのケネディー兄弟の暗殺
ベトナム反戦に対する
多くの若者が傷つき
場合によっては命を失い
大きな問題に
一番大きな影響力を持ったのは帰還兵の反戦運動
・70年代以降の展開
学生反乱→ラディカルさは消滅
フェミニズム
ゲイの運動
環境問題へのとりくみ
反核運動
しかし生活のなかで実践される
エコロジー運動
人権運動など
青年のスタイルは、日常化しつつある。
- 32 -
第15講
ウッドストックジェネレーション
資料:渡辺潤『アイデンティティの音楽』世界思想社
伊奈正人『サブカルチャーの社会学』世界思想社
『ヒストリー・オブ・ロックンロール
二巻』ワーナー
→ビデオを検討
ベビーブーマー、日本で言うところの団塊世代。人口が多い。通常若者は大人に逆らう
ものではあるけれども、この世代は人数が多く、さらに第二次世界大戦後の社会主義イデ
オロギーの展開やそれに対する失望、冷戦やベトナム戦争などを背景にして、多くの実験
的な試みが行われた。
対抗文化の原点
象徴としてのサンフランシスコ
「セックス
ドラッグ
R&R」
ヘイトアシュベリー
フリーセックスの実験
ターンオン
ビートルズの語りかけ@『サージェントペパーズ』
「ヒューマンビーイン」
ジェファーソンエアプレーン
ザ・フー
クリーム
ジミ・ヘンドリックス
一つの奇跡としてのウッドストック
公民権運動
ウーマンリブ
ベトナム反戦運動
これがメジャー化することで多くの文化が生み出された
「メディアの融合」
新しい共同性
社会参加
・・・
しかし、ワイト島では騒乱が。
ロックビジネスの問題
巨大ツアーとミュージシャンの孤独
結局
多くの人が亡くなる
自殺、事故、ジャンキー・・・
大きなところにではなく、小さな小屋の「つながり」こそ基本だったのでは?
- 33 -
第16講
ウッドストック世代とサブカルチャー
・「サブカルチャー」
下位性
周縁性
メインではない
西欧近代古典
アジア
雑種性
寄生する文化
大衆性
横領する文化
⇔
身体性
場所性(テキスト)
「切符」の例
フュージョン
アフリカ
柔軟性
南アメリカ
まぜまぜ
ハイブリッド
「幻覚的なモノ」の人間性
「超心理的なモノ」
一種カルト的な宗教
「頭で考える文化」⇔「身体で感じる文化」黒人音楽
文化の場所
ダンスホール
ライブハウス
多くの人が享受できる文化
飲み屋
大衆性
ブルース
ストリート・・・
・「ラブ・アンド・ピース」
「ビートニク」の「やさしさ」志向
ギンスバークの詩やサリンジャーの小説を読んだ世代
「主張する自己」
「消失する自己」
アイデンティファイできないもの
「ヒップスター」のエコロジー志向
ピースボート
古着
グリーンピース
リサイクル
草の根の運動
NPOなど
「フリーセックス」と「ウーマンズリブ」
性の解放
「封建的なくびき」からの解放
様々な実験
ホモセクシャルの「台頭」
「共同生活」
新しいライフスタイル
フリースペース
フリーマーケット
・「セックス・ドラッグ・ロックンロール」
現実
⇔
理想
人間的理想の主体的実現
=
:増幅装置としてのトリップ感
- 34 -
一種の幻影の増幅
アンプリファイアー
(機械時代→)電気時代(→電子時代)
電気時代
増幅して多数の受け手に送る
増幅して新しいリアリティをつくり出す
双方向性
ネットワーク的共同性などの理想は出ていた
テレビの否定とラジオの肯定
ライブハウス
ダンスホールなどの「場」の形成
電子時代
双方向性やネットワーク化などが初めて実現してゆく
多数対多数のコミュニケーション
ネットワーキング
参加
編集の思想
松岡正剛
金子郁容
この時代をになったのが、元ヒッピーのジョブズたち
・サブカルチャーをアイデンティファイすること
上位性
下位性
純潔性
雑種性
原則性
柔軟性
中心性
選良性
頭脳性
周縁性
大衆性
身体性
場所性
アイデンティファイ
まとまり
むしろ後者の微妙なニュアンス
もう一つ理論的哲学的な問題も
前者のこだわり
おさまり
「表情」
(長谷正人)こそが問題
実体論と関係論
- 35 -
第17講
サブカルチャーの変貌をめぐって
◇サブカルチャーは融解したという説
宮台真司
山田真茂留
石原直樹
「対抗性」
サブカルチャー神話解体
若者文化の抽出と融解(東大出版社会学講座
なくなった
「下位性」
大学生
メジャー化した
音楽
音楽
アート
文化の巻)
文学・・・
ファッション・・・
私の考え方:サブカルチャーは対抗的な下位文化として「発見」された
「サブカルチャー=対抗的な下位文化」として括る言説
「サブカルチャー=消失した」という言説
熱い若者の理想に期待することへの警戒
その意味
非常に大きな前進であることを認めるのにやぶさかではない
しかし様々なレベルで下位文化はあいかわらず存在する
それをどう括るか?力強い同定が警戒される時代に
それを括る言説はどのような意味があるか?
他方メジャー化のなかで、商業化され、ポップになったサブカルチャーがある
これをどう考えるか
根底にある問題意識:かっこいいポップな日本というよりは・・・
◇社会心理史の再確認
60年代の若者
政治的反抗
さまざまな生活実験
理想への熱意
公民権運動(黒人差別反対)
、ベトナム反戦運動、ウーマンリブ
フリースペース、フリーマーケット、→未整理ながら詳しく述べました
70年代の若者
内向化
シラケ
センチメンタル
自分を決められない
消費の肯定
熱意のシラケ
『ボクって何?』
拓郎、陽水、中島みゆき
---------------
『勝手にシンドバット』
『コバルトアワー』
80年代の若者
ゲーム感覚
イヤなものはイヤ
ポップな生と性
カラオケ文化
90年代の若者
サザン
ユーミン
山口百恵から松田聖子へ
大学生文化から続く文化の素人化
ゲームのマジ
ゲーム感覚の宗教
性
犯罪
マジなゲーム
その実態は??
「さあさあゲームの始まりです」
(酒鬼薔薇)
:「若者の変貌」=70年代
- 36 -
井上俊『死にがいの喪失』筑摩書房
「死にがいの喪失」と「生きがいの喪失」
若者たちの「離脱の文化」 距離をおく若者
新しい価値としての「やさしさ」への期待
栗原彬『やさしさのゆくえ=現代青年論』筑摩書房
アイデンティティ=モラトリアム論から青年論を見つめる
若者の「居場所」を考察した
社会にでてもなかなか自分を決められない若者の姿を、シビアに見つめると
ともに、そうした若者の可能性をいろいろと考えている。きめられないこと
=きめないこと=「やさしさ」を放棄しないことという読みかえを行いなが
ら、自然や弱いものたちと共生する若者の可能性を追求した。
平野秀明・中野収『コピー体験の文化』時事通信社
若者の自閉化傾向をはじめて指摘 。「カプセル型人間」という人間像を提起
した。四畳半の勉強部屋にラジカセをセットアップし、深夜放送やFMにア
クセスして、エアチェックをしたり、ディスクジョッキーと双方向のコミュ
ニケーションを楽しんでいる若者の姿を的確に描いている。
中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房
オタク、やおい、思春期やせ症に共通する若者の病理を、「コミュニケーショ
ン不全」に見いだした著作で、若者論の必読書とされている。紹介済み。
大塚英志『リボンのふろくと乙女チックの時代』ちくま書房
「乙女チック」をキーワードに若者文化を解析
小谷敏『若者たちの変貌』世界思想社
反抗的な若者の消滅について、気鋭の論を展開。
- 37 -
第18講
ジェネレーションXと自我
◇前回の講義内容の文章化
(1)若者文化の背景と定義
若者文化が、問題としてとりあげられ、議論されるようになった発端は、極端に言え
ば団塊の世代が登場した後である。その背景としては、戦後改革と社会の民主化、高度
経済成長、イエや就業構造の変化、教育=自己形成期間の延長、青年人口の増大などを、
あげることができる。家族や貧困というくびきがなくなり、就学期間という時間を与え
られ、自由な立場から思考、行動できるようになった、ベビーブーマー以後の若年層が
生み出した文化と、若者文化を定義しておく。高度成長に動員された人的資源のなかで、
比較的高学歴な層、とりわけ大学生がこの若者文化を主導した。
(2)対抗文化としての若者文化:1960年代へ
大学生は、ラディカルな異議申し立てを行う一方で、既成の道徳とは真っ向から対立
するサブカルチャーを形成した。やがて、消費文化に同調的な行動・意識が、ひろがる
につれ対抗的色彩は薄弱になる。商業化された消費生活に埋没する若者は当初無意味な
ものとして批判されたが、消費文化の楽しさはやがて認知され、若者は、その享受者・
担い手として評価をうけるようになる。
(3)若者文化の生活構造化:1970年代へ
団塊の世代は、やがて社会の中核をになうようになる。そして、かつて対抗的とされ
た文化スタイルは、むしろ公に認知されたものになってゆく。たとえば、長髪、ロック
音楽、カジュアルなファッション、女性の権利主張、さまざまな性や家族のあり方、自
然に優しいライフスタイル、ボランティア活動や運動を通じた社会参加やネットワーク
形成などが、例としてあげられよう。
(4)新人類の登場:1980年代へ
異議申し立てをする若者はめっきり少なくなったが、1980年代くらいまでは「若
者」という括りが消滅したわけではない。若者は、積極的、消極的、いろいろな若者像
が探求された。なにごとにも熱中できないシラケ世代、自分を決められないモラトリア
ム人間、そしてわけのわからない新人類などが、その例としてあげられる。新人類の登
場で、若者は文字通りわけのわからないものになり、やがて若者というものに対し、明
示的な括りが与えられることはなくなっていった。
(5)若者文化の融解:1990年代へ
ついには、サブカルチャーや若者をめぐる神話が解体したという論が提起され、若者
という括りの意味自体が疑問視されるに至る(宮台他[1993]、山田[2000])。他方で、
おたく、ブルセラ、援助交際、ひきこもり、パラサイトシングルなど、断片的な現象は
指摘されるものの、若者を明確に画期するものはなくなり、鮮明に特化された若者像が
提起されることがなくなった。こうした現状を、山田[2000]にならって、若者文化の
融解と呼んでおくことにしたい。
◇若者の終焉とジェネレーションX
「若者の終焉 」「
( ジェネレーションX」『日本経済新聞』2000年3月25日付)を
予感させるような状況
- 38 -
少子化により若年人口は数的にもますます減少している。終身雇用制は、崩壊し
つつあると言われ、就業構造の変化とともに、若者の意味も変化してゆくに違い
ない。そして、社会の高齢化がすすむなか、パワフルな団塊世代がついに老人と
なり、世代間の関係は変化してゆく
「空白の10年」としての90年代
どのようにくくれればいいのかという問題?
注)小柴先生の変人エピソード
五十年前に出題した物理の問題
「摩擦がなくなったら世界はどうなるか?」
問題はこれに似たところがある
「くくることの意味」に問題を投げかけている社会状況
団塊
シラケ
新人類
→
こういうくくり=アイデンティファイ自体の無効
90年代以降的アイデンティティ論
アイデンティティ
対
アイデンティティクライシス
選択的能動
対
受動的盲従
男性
対
女性
自由
全体
対
束縛
対
成熟
対
理性
対
細部
未熟
感情
コミュニケーション対
ディスコミュニケーション
マジ
遊び
素
対
現実
対
対
演技
仮想
こうした対立図式、
「一人前の構図=パースペクティブ」が無効になりつつ
ある時代という時代認識と様々な言説
サイバーパンクとインターネット
マンガ
『ニューロマンサー』などへの注目
『寄生獣』分裂した異形のモンスターのパラサイト(大沢真幸)
吉野朔美における双子へのこだわり(清水学@『文化社会学への招待』)
『ECCENTRICS』天と劫
密着した関係
『ジュリエットの卵』
私の自我→二人の私に
亀裂や分裂への注目
ホラー
川原泉ほか
頭身変化
多重人格障害への注目
ドラマ
蛍と水
二重人格
モード変化(伊奈)
『催眠』
『いそら』
・・・
『リング』ビデオと現実の交錯
アメリカでの評価
千寿
ラストのリアリティ
ポスト『スクリーム』
『スクリーム』『最終絶叫計画』などのコンセプトを転換
『未来日記』
シナリオに沿ったマジ
やらせかどうか?という問の無意味
- 39 -
素と演技の混在(田所&吉野)
『SOS』
純粋と邪悪の混在
『トリック』
『ケイゾク』
『IWGP』など
『真珠夫人』
『新愛の嵐』など
『ツーハンマン』など
くくれない同一性
くくるのではなく、
「表情」(長谷正人)を記述すること
◇仮想と現実の交錯としての90年代的犯罪
グリコ森永事件からオウム事件&少年犯罪へ
サティアン
宮崎勤
酒鬼薔薇
ホーリーネーム
スプラッタの実行
救済計画・・・
「ゲーム」としての挑戦状
→京都、佐賀、愛知、岡山・・・
◇人間関係の把握
自我の把握
希薄化論=孤立化論
選択化論
関係のなかにある個
無意味な重荷になるような規範に縛られることから自由に
実体論
関係論
なること
たとえばメンズリブ・・・。
- 40 -
第19講
離脱の文化再考
◇「離脱の文化」論@井上俊『死にがいの喪失』
没入・没頭する文化
政治の見方
テレビの見方
→
離脱の文化
鳩ポッポ
スポ根
CF:三島由紀夫と全共闘
マジからギャグへ
自己戯画化
『遊びの社会学』
「聖と俗」デュルケム
聖
俗
宗教的なもの
義務遂行行動
経済的なもの
利害追求行動
もう一つの領域としての「遊」
聖と俗=まじめな世界
CF:価値合理的(ウェーバー)
CF:目的合理的(ウェーバー)
ホイジンガ
カイヨワ
遊=離脱
◇森毅と井上俊の論争@井上俊『遊びと文化』
遊びはいつでもやめられる
遊びだからやめられない
井上俊
森毅
聖&俗=まじめなもの
「遊びの聖化」の批判
むしろ俗のいかがわしさこそ重要
◇長谷正人による離脱の文化再考@『文化社会学への招待』
「遊びにおける離脱と拘束--『丹下左膳余話・百万両の壺』をめぐって」
「遊び」は「拘束」によって可能になるのであり、
「拘束」されることは
「自由」と矛盾しない。
『丹下左膳余話・百万両の壺』
源三郎は、
「俗」
「聖」どちらの側にたっても「遊び」は不可能に
なるため、きわどいバランスのなかで巧みに壺探しを楽しんでいる
「拘束」の遊び
源三郎の魅力はあくまでも「壺探し」というルールに拘束されながら
も、そのルールと戯れることによって生じている。
=「拘束」こそ「遊び」を成立させている
メンコ
矢当て(無意味なものへの拘束)
「拘束」こそが現実世界の「なか」に遊びを作り出す
離脱の遊び
「なか」としての現実を変革する力ない
「拘束」のない「遊び」という不自由
「遊び」において肝要な「自由」を獲得するためには、
「拘束のない遊び」の状態では逆に窮屈さにとらわれてしまう。
◎遊びを愛せよ、そしてそれに拘束されよ。そうすれば自由に遊べるだろう。
- 41 -
◇「遊びの聖化」再考
「拘束」と「自由」
ひとつの「はまり」
マネーゲーム
救済ゲーム
俗
聖
マルクスの物象化論
ウェーバーの物象化論=価値合意的行為
自足的行為論
ルール~遊び~自由
酒鬼薔薇の全能感
cf.オウムはたいしたことない
あれは落ちこぼれの例外だ
楽チンに生きようとする若者
まったり生きようとする若者
cf.ブッシュの全能感
「内側」からみること
という判断
ながめること・・・
- 42 -
という判断
第20講
聖-俗-遊
『命題コレクション社会学』の上野千鶴子の論考を参考にしながら
◇デュルケムとカイヨワ
デュルケム『宗教生活の原初形態』における聖俗図式
→応用者としてのカイヨワ
その独自性は?
デュルケム理論の応用
◇祭と戦争
日常性を侵犯する<聖>としての祭と戦争
:祭の変容
1)違背の聖>尊厳の聖
2)世俗的な祭
→聖俗遊の図式
井上説へのコメント
あと原文読解
- 43 -
第21講
リアルの両義性
「遊びの両義性 」:拘束と自由
ない。団塊世代から
こういうポリフォニックな枠組は今に始まったわけでは
例)ジュディ・コリンズ 「青春の光と陰」
(both sides now)
I've looked at clouds from both sides now,
上下両方から雲を見てきた。
from up and down.
And still somehow it's clouds' illusions I recall.
I really don't know clouds at all.
だけど見ていたのは雲の幻影だけ、
本当は雲の事なんか何にも知らない。
「love と勝ち負け」
「life と損得」も同様に歌う
フォーク世代
ヒップスターなどの価値観
ニューアメリカンシネマ
「イジー・ライダー」
「卒業」
「ある愛の歌」
たとえば「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」はどこがちがうのか?
→フーコー
バフチン
バークなどなどの現代的枠組
・美しさのリアリティ
完全無欠のリアリティ
美しいものの醜い表情と醜いものの美しい表情
あまりの善意はリアリティがない
中和すること
「ライブイズビューティフル」
「セントラルステーション」
「オールアバウトマイマザー」
・ビョーキとヘン
ヘンな奴
病気とビョーキ
健康と病のが微妙にデリケートなバランスを保っている状態
・ゲームとマジの併存
最近のドラマ
90年代~21世紀的なリアリティ
ゲーム感覚でテロテロ
オウム真理教
「さあさあゲームの始まりです」
『天皇ごっこ』 見沢知廉
→湾岸から9.11へ
善意の狂気
酒鬼薔薇
テロをめぐる「正義」の言説
正義の狂気(あるテロリストの伊太利亜映画=残念ながら失念)
・「よい子」と「わるい子」
絵に描いたようなよい子
よい子の演技に疲れ果てた優等生
上手く演じられれば演じられるほど・・・
「わるい子」の面の封殺
→よい子という牢獄
よい子=大人にとっての都合のよい子
むしろリアリティはわるい子とよい子がつくり出す危うい均衡
誰にでもわるい子の面はある
女性と男性の差異
どこかにわるい子の部分を位置づけるが必要なのでは??
損得だけではなく、(
「 都合の)わるい子」の面もあらためて注目すべき
- 44 -
暴力
性・・・
追補1)今年の学会より
公衆の社会学
大衆と公衆
人間の徳
ミルズ
悪いものへの赦し
ラッシュ
(例解)ロバート・カーライル主演
「エンド・オブ・オール・ウォーズ」
「これは第2次世界大戦中、若くして日本軍の捕虜になったスコットランド人たちが、
絶望と困難の中で真の自由を獲得するまでを描いた壮絶な人間ドラマである。
1941 年 12 月 8 日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。開戦して
すぐに日本軍はマレー半島に上陸し、次々にアジアを占拠していった。熱帯の地シンガポ
ールもそのうちのひとつであった。そんな中、スチュアート・マクリーン中佐率いる帰還
中の小さなスコットランド部隊が日本軍に捕らえられて、ビルマの密林地帯の奥地にある
捕虜収容所に強制収容されてしまった。そこでは、ビルマのジャングル地帯を走る悪名高
い“死の鉄道”の敷設工事のために、何百人という戦争捕虜たちが強制労働させられてい
たのだ。日本軍の非人間的な虐待行為が日常的に繰り広げられる中、劣悪な生活環境や飢
えから、捕虜たちは精神的にも肉体的にも蝕まれ始めていった・・・。
ある日、日本軍とのちょっとした口論からスコットランド軍のボスであるマクリーン中
佐が虐殺されてしまう。この事件をきっかけに捕虜たちの緊張状態が途切れ、内部に蓄積
されていた感情が一気に噴き出した。キャンベル少佐は復讐の思いを秘めながら、危険な
脱出計画を企てはじめる。一方で、敬虔なイギリス人捕虜ダスティに触発されたアーネス
トたちは文学、哲学、芸術、そして「生きる」ということについて考える秘密の大学を収
容所内に開く。捕虜たちは徐々に自らの尊厳と希望を取り戻し、さらには、自己犠牲、彼
らの敵に対する赦しの気持ちを育んでいく――しかしこの二つの対極の価値観は捕虜どう
しの確執を増徴させ、次第に内部闘争へと発展していってしまう。大学の卒業式の日、収
容所内の捕虜たちが浮かれる中、キャンベル率いる反発グループは危険な脱出計画を遂に
実行に移した!しかしそれが日本軍に見つかってしまい、最悪の事態に・・・!
戦争という絶望的極限状態の中で、人間は“人間”として生き抜くことができるのだろ
うか!?戦争という極限状態を生き抜いたスコットランド将校の苦悩と葛藤を描いた戦争
超大作!」公式ページ(http://www.at-e.co.jp/details/atvc060.html
)より引用
追補2)昨年の学会より
:「未来日記」
素と演技
→感情リアリティの構築
:友人関係
新しいリアリティのかたち
最近の若者は明るいのか暗いのか
自閉化と操作化
自閉化の操作化
操作の自閉化
- 45 -
第21講
リアルの両義性
「遊びの両義性 」:拘束と自由
ない。団塊世代から
こういうポリフォニックな枠組は今に始まったわけでは
例)ジュディ・コリンズ 「青春の光と陰」
(both sides now)
I've looked at clouds from both sides now,
上下両方から雲を見てきた。
from up and down.
And still somehow it's clouds' illusions I recall.
I really don't know clouds at all.
だけど見ていたのは雲の幻影だけ、
本当は雲の事なんか何にも知らない。
「love と勝ち負け」
「life と損得」も同様に歌う
フォーク世代
ヒップスターなどの価値観
ニューアメリカンシネマ
「イジー・ライダー」
「卒業」
「ある愛の歌」
たとえば「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」はどこがちがうのか?
→フーコー
バフチン
バークなどなどの現代的枠組
・美しさのリアリティ
完全無欠のリアリティ
美しいものの醜い表情と醜いものの美しい表情
あまりの善意はリアリティがない
中和すること
「ライブイズビューティフル」
「セントラルステーション」
「オールアバウトマイマザー」
・ビョーキとヘン
ヘンな奴
病気とビョーキ
健康と病のが微妙にデリケートなバランスを保っている状態
最近のドラマ
・ゲームとマジの併存
90年代~21世紀的なリアリティ
ゲーム感覚でテロテロ
オウム真理教
「さあさあゲームの始まりです」
『天皇ごっこ』 見沢知廉
→湾岸から9.11へ
善意の狂気
酒鬼薔薇
テロをめぐる「正義」の言説
正義の狂気(あるテロリストの伊太利亜映画=残念ながら失念)
・「よい子」と「わるい子」
絵に描いたようなよい子
よい子の演技に疲れ果てた優等生
上手く演じられれば演じられるほど・・・
「わるい子」の面の封殺
→よい子という牢獄
よい子=大人にとっての都合のよい子
むしろリアリティはわるい子とよい子がつくり出す危うい均衡
- 46 -
誰にでもわるい子の面はある
女性と男性の差異
どこかにわるい子の部分を位置づけるが必要なのでは??
損得だけではなく、(
「 都合の)わるい子」の面もあらためて注目すべき
暴力
性・・・
追補1)今年の学会より
公衆の社会学
大衆と公衆
人間の徳
ミルズ
悪いものへの赦し
ラッシュ
(例解)ロバート・カーライル主演
「エンド・オブ・オール・ウォーズ」
「これは第2次世界大戦中、若くして日本軍の捕虜になったスコットランド人たちが、
絶望と困難の中で真の自由を獲得するまでを描いた壮絶な人間ドラマである。
1941 年 12 月 8 日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。開戦して
すぐに日本軍はマレー半島に上陸し、次々にアジアを占拠していった。熱帯の地シンガポ
ールもそのうちのひとつであった。そんな中、スチュアート・マクリーン中佐率いる帰還
中の小さなスコットランド部隊が日本軍に捕らえられて、ビルマの密林地帯の奥地にある
捕虜収容所に強制収容されてしまった。そこでは、ビルマのジャングル地帯を走る悪名高
い“死の鉄道”の敷設工事のために、何百人という戦争捕虜たちが強制労働させられてい
たのだ。日本軍の非人間的な虐待行為が日常的に繰り広げられる中、劣悪な生活環境や飢
えから、捕虜たちは精神的にも肉体的にも蝕まれ始めていった・・・。
ある日、日本軍とのちょっとした口論からスコットランド軍のボスであるマクリーン中
佐が虐殺されてしまう。この事件をきっかけに捕虜たちの緊張状態が途切れ、内部に蓄積
されていた感情が一気に噴き出した。キャンベル少佐は復讐の思いを秘めながら、危険な
脱出計画を企てはじめる。一方で、敬虔なイギリス人捕虜ダスティに触発されたアーネス
トたちは文学、哲学、芸術、そして「生きる」ということについて考える秘密の大学を収
容所内に開く。捕虜たちは徐々に自らの尊厳と希望を取り戻し、さらには、自己犠牲、彼
らの敵に対する赦しの気持ちを育んでいく――しかしこの二つの対極の価値観は捕虜どう
しの確執を増徴させ、次第に内部闘争へと発展していってしまう。大学の卒業式の日、収
容所内の捕虜たちが浮かれる中、キャンベル率いる反発グループは危険な脱出計画を遂に
実行に移した!しかしそれが日本軍に見つかってしまい、最悪の事態に・・・!
戦争という絶望的極限状態の中で、人間は“人間”として生き抜くことができるのだろ
うか!?戦争という極限状態を生き抜いたスコットランド将校の苦悩と葛藤を描いた戦争
超大作!」公式ページ(http://www.at-e.co.jp/details/atvc060.html
追補2)昨年の学会より
:「未来日記」
素と演技
- 47 -
)より引用
→感情リアリティの構築
:友人関係
新しいリアリティのかたち
最近の若者は明るいのか暗いのか
自閉化と操作化
自閉化の操作化
操作の自閉化
- 48 -
第22講
両義的なものの併存(2)
◇「9.11」を体験して
「ならず者国家」
「テロリスト支援国家」とアメリカ
cf.
いじめとお笑い
「絶対悪と絶対正義」という対立軸
「鼻毛ボン」と「貞子」の被写体として
このような事件に出会うたびに思うこと
人間の存在自体の暴力性
集団の存立自体の暴力性
戦争や暴力はなくせるのだろうか?
邪悪でない善意は果たしてあるのだろうか?
◇批判の論理の底にあるもの
社会学における批判の論理:弁証法と三段階図式
弁証法とは何か?
三溝信『社会学的思考』より
正-反-合などというけれども
<前近代>-<近代>-<未来>という三段階の思考法
二つの批判
保守的諦観と歴史に学ぶ知性
ラディカリズムと啓蒙の弁証法
かならず自分に跳ね返ってくる○×式の批判
自分に跳ね返ってくること=再帰
客観や賢い場所の無効
「多数になること」の逆説
=
独善
賢しらな場所にたてない人間
大衆
多数になることと純粋さの混濁
◇クリストファー・ラッシュのナルシシズム論とポピュリズム論(立命館大学千守隆夫
「クリストファー・ラッシュにおける思想的展開と『ポピュリズム 』
」日本社会学会)
『ナルシシズムの時代』におけるナルシシズム論
①人間のうちに善悪の要素が存在し、敵対者に見られる悪い側面が
大なり小なり自らの内にあるにもかかわらず、そのことの心理学的
基盤が弱体化してしまっていること
②弱体化により、
「人々をサバイブさせる世界に対する信頼」が弱体化
煮詰まった時に:完全に逃避するか
社会制度や状況の持つ悪ではなく敵対者を攻撃
⇔ラディカリズムの再生に必要なこと
「敵の中にある悪が自分の中にもあるということを認める悔い改め
の態度」=「赦すこと(forgaveness)」
「希望の再生」
「預言者的伝統」
楽観主義と絶望の悪循環の打破
「限界の認識」によって媒介された人間性=「徳」や歴史理解
公民権運動と啓蒙的公衆像の転換
昨今のミルズ研究
- 49 -
◇とある卒論より
『2000 年 3 月 12 日にローマ法皇ヨハネ・パウロ 2 世によってバチカン市国のサンピエトロ寺院で行わ
れたミサである。このミサは、過去 2000 年にわたって教会が犯してきた数々の〈排除〉を認め、赦しを
請うたというものである。なぜ、このミサを考察するのか。いささか唐突な印象を与えるかもしれない。
第一に、「ユダヤ人に対する罪」「愛と平和、諸民族の人々の権利と、彼らの文化と宗教に対する尊敬
に反する行為の中で犯した罪」
「女性に対する罪」
「基本的人権に対する罪」など多くの〈排除〉に対する
「赦し」を請うている点。
第二に、おそらくこれらの罪を告白することは、カトリック教会にとっては、
かなりの決意を伴った行いであり、創造的であると思う。
第三に、このミサが行われた日に論者は、バチカンにいた。そこに集う人々の様子をみていると、宗教
の力の大きさを感じるとともに、この宗教に向かうエネルギーをどうにかして利用できないかとも感じた
からだ。それは、たとえば、次節で述べる〈排除〉の対象へとむかうエネルギーを他のものに水路づけす
るというようなことである。
論者がもっとも注目するのは、法王の「わたしたちは赦し、そして赦しを願います 。
」という一節であ
る。自分が赦してもらう前に相手を赦すという点が重要だと論者は考えている。
J・デリダ 3)はこのようなことを言う。わたしたちは、交換の論理ではなく贈与の論理に従った赦しを
考えなければならない。それは、善や正義(の行為)がまずあって 、それに対して与えられる赦しではない。
逆である。善や正義に赦しが先立っている。一方における、無条件的で、恩寵的で、無限の赦しが必要で
ある。贈与の理論にのっとった赦しは、絶対に赦しえないことへの 、赦しが不可能なことへの赦しである。
大澤真幸 4)はこの点をアメリカとアフガニスタンとのテロ後の関係を論じながらもう少しかみくだい
て説明する。真の無条件な「赦し」とはアフガニスタンに対する大規模で無条件の経済援助、返済義務の
ない純粋な贈与、しかもタリバンやテロリストたちにも平等に援助を贈ることであるという。
相手を絶対的に赦すこと、場合によっては相手が「赦し」を請わなくても赦すこと。そう簡単にはで
きそうもないが 、
〈排除〉の連鎖を断ち切るためには、
「赦し」という創造的な行為が大きな可能性を秘め
ているのではないだろうかと思う。
』
(資料)
1.
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方
を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、神の義を得ることがで
きたのです 」
(2コリント 5.20-21)
。
これは、四旬節の初日である灰の水曜日に、教会が毎年読み上げる聖パウロのことばです。四旬節のこ
の時期、教会は特別にキリストと一致したいと望んでいます。キリストは、内から聖霊に動かされて砂漠
に行き、そこで40日40夜にわたる断食をされた後、救いの業を開始されました(マルコ 1.12-13 参照)。
今日の典礼で読まれるとおり、マルコ福音記者は簡潔に述べていますが、この断食の終わりにキリスト
はサタンから誘惑をお受けになりました。マタイとルカはこれに反し、砂漠におけるキリストの闘いの様
子と、サタンに対する最後のことばを、もっと詳しく記しています 。
「サタン、退け。
『あなたの神である
主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」
(マタイ 1.10)
。
こう話しておられるのは、
「罪とは何のかかわりもない方」
(2 コリント 5.21)イエス、「神の聖者」(マ
ルコ 1.24)です。
2.
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました 」
(2 コリント 5.21)
。
先ほど第二朗読の中で、使徒パウロの意表をつくようなこのことばを聴きました。このことばは、何を
- 50 -
意味するのでしょうか。まるで逆説のようですが、まさにそのとおりなのです。聖そのものであられる神
が、ご自分のおん独り子を罪びととして世に送られるとはどういうことか。パウロはコリントの人々に宛
てた第二の手紙に、このように書かれているのです。このことばによってわたしたちは、一つの神秘の前
に立たされます。一瞬、混乱を招くことばですが、そこには神の啓示がはっきりと記されているのです。
旧約聖書のイザヤの預言は、神のしもべの第四の歌で、すでに霊感を受けて次のように述べています。
「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、
主は彼に負わせられた」
(53.6)
。
聖者キリストは、全く何の罪科もないのに、わたしたちの罪をご自分の身に負われました。それは、わ
たしたちをあがなうため、わたしたちの罪の重荷をご自分で背負うため、おん父から受けた使命を完うす
るためです。ヨハネ福音記者が書いているように、おん父は、
「その独り子をお与えになったほどに、世
を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため」
(ヨハネ 3.16)です。
3.愛するがゆえに、わたしたちの不義を身に負われたキリストの前に、わたしたちはみな 、
「良心の
深い糾明」をするよう招かれています。大聖年の特徴の一つは「記憶の聖化」『
( 受肉の秘義』11 参照)
です。ペトロの後継者としてわたしは 、
「このあわれみの年、教会がその主から受ける聖性の力に強めら
れて神のみ前にひざまずき 、自分の子らの過去の罪、現在の罪のゆるしを請う」
(同)ように願いました。
私は、今日四旬節の第一主日を、ペトロの後継者の周りに霊的に集う教会が、すべての信者の罪のゆるし
を神に嘆願する絶好の機会であると思いました。
「わたしたちはゆるし、ゆるしを願います」
。
この呼びかけは、教会共同体に実りある深い反省を促しました。この反省は国際神学委員会の文書とし
て、
「記憶と和解:教会と過去の罪」というタイトルで先日公に発表されました。この文書作業に貢献さ
れた方々に感謝します。この文書は、正しくゆるしを願うにあたり、その理解と実践のために大変有益で
す。ゆるしの嘆願は、神秘体のメンバーとしてのキリスト信者に共通の客観的責任に基づくとともに、ま
た、今日の信者たちを、歴史と神学に裏付けられた識別の光に照らして、
自分の罪と過去の信者たちの
罪とを認識するよう促す客観的責任に基づくものです。事実、
「神秘体の中には、互いに一つに結ぶきず
ながあるのですから、わたしたちはみな、個人としての責任はないとしても、ただひとり人の心を知って
おられる神の判断をいささかも侮らずに、わたしたちの先人が犯した誤りと過ちの重荷を担います」『
( 受
肉の秘義』11)
。過去の逸脱を認めることは、現在の危険に臨むわたしたちの良心を呼び覚ますことに役
立ちます。こうして、一人一人に、回心への道が開かれます。
4.「わたしたちはゆるし、ゆるしを願います」
。宣教者たちの熱誠、および、キリストと隣人への全面
的奉献による聖人たちの見事な群れを、 慈しみ深い愛によって教会に与えてくださった神を一方で賛美
しながら、他方で、
「わたしたちの兄弟が、特に第二千年期の間に陥った福音に対する不忠実」を認めな
いではいられません。キリスト者の間で、ある人たちが真理への奉仕に暴力を行使し、また、ある人たち
が他の宗教を信じる人々に対して不信や敵意にみちた態度をとったために起きた分裂のゆるしを願いま
す。
さらに重大な理由で、
「今日の悪について、キリスト者であるわたしたちの責任」を告白します。無神
論、宗教的無関心、世俗主義、倫理的相対主義、いのちの権利に対する暴力、多くの国々の貧困に関する
無関心の前に、わたしたちは、自分たちの責任を問わないではいられません。
わたしたち一人一人が、教会の顔をゆがめながら、自己の生活態度をもってこれらの悪に加担してきた
ことにつき、へりくだってゆるしを願います。
同時に、わたしたちの罪を告白する一方で、
「わたしたちに対して他の人たちが犯した過ちをゆるしま
す」
。歴史の流れの中で、数えきれないほどひんぱんに、キリスト者たちは虐待され、横暴にあつかわれ、
- 51 -
信仰のために迫害されました。 このような暴力の犠牲者たちがゆるしたように、わたしたちもゆるしま
す。教会は、今日も、明日も、いつも、これらの悲惨な出来事の記憶をきよめ、恨みや復讐の思いを取り
除く義務を感じるでしょう。このように、聖年はすべての人にとって、福音への深い回心のために恵まれ
たよい機会となります。神のゆるしを受けることによって、兄弟をゆるし、互いに和解する義務が生じま
す。
5.
「和解」ということばは、わたしたちにとって何を表すのでしょうか。正しい意味と価値をそこか
ら汲み取るには、まず、分裂、分離について確かめることが必要です。そうです。地上においては、人間
だけが、自分の造り主と友好関係を結ぶことのできる唯一の被造物です。しかしまた 、
「離れ去ることの
できる唯一の被造物」でもあります。残念ながら、人がたびたび神から遠ざかったのは事実です。
さいわいにも多くの人は、ルカ福音書に語られる放蕩息子(ルカ 15.13 参照)が、父の家を捨て、底を
つくまで遺産を浪費した後われにかえった(ルカ 15.13-17 参照)ように、自分が失ったものについて気
がつきます 。その時、人はもとの道に立ち返ります。
「ここをたち、父のもとに行って言おう。
『お父さん、
わたしは罪を犯しました……』
」
(ルカ 15.18)
。
神は、このたとえ話の中の父によく表されており、父のもとに立ち返るすべての放蕩息子を迎え入れて
くださいます 。キリストを通して迎え入れられるのです。キリストにおいて罪びとは、神の正義による「義
人」となることができるのます。神は罪びとを迎え入れる。なぜなら、神は、わたしたちのためにご自分
の永遠の独り子を罪とされたからです(2コリント 5.21 参照)
。
6.
「神は、そのおん独り子をお与えになるほど世を愛された」
(ヨハネ 3.16)
。これこそ和解の意味、
世のあがないの神秘です。イエスにおいておん父が、わたしたちに与えてくださった偉大なたまものの価
値を深く悟る必要があります。わたしたちは、自分のたましいの目の前に、キリスト-ゲッセマネのキリ
スト、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、十字架を担い、ついに十字架に付けられたキリストを見な
ければなりません。キリストは、全ての人の罪の重み、わたしたちの罪の重みをご自分の身に負われまし
た。それは、わたしたちが、救いのいけにえの力によって、神と和解することができるためです。
その証人として、聖パウロとなったタルソのサウロが、今日、わたしたちの前に出てきます。彼は、特
別なかたちで、ダマスコの道で十字架の力を体験しました。復活のキリストは、目もくらむほどの力をも
って、彼にご自分を表されたのです。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」
「主よ、あなたは
どなたですか 。
」
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使 9.4-5 参照)
。キリストの十字架の
力をこれほど強く体験したパウロは、今日、あつい祈りをもってわたしたちを顧みています 。
「あなた方
に勧めます。神からいただいた恵みをむだにしてはいけません」
(2 コリント 6.1)
。わたしたちに与えられた
この恵みは、神ご自身からのものであるとパウロは強調し、今日、わたしたちに言います。
「恵みの時に、
わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」
(2コリント 6.2)
。
ゆるしの母マリアよ、聖年がわたしたちに与える豊なゆるしの恵みを、わたしたちが受けるのを助けて
ください。この大聖年の四旬節が、全ての信者にとって、また、神をさがし求めるあらゆる人にとって、
恵の時、和解の時、救いの時となりますように。
- 52 -
第23講
『サブカルチャーの社会学』について
学会誌に載った論文(「地域文化としてのサブカルチャー」1998)を核にして、研
究成果を書き下ろしたものです。
◇内容的な二つの柱
(1)地方都市のサブカルチャーの調査を行った。
(2)サブカルチャーという文化スタイルを、ミルズを中心に思想史的に吟味した。
◇学問的な主張
<通説>
①サブカルチャーの本質は、バリアフリーなものである。対抗文化、下位文化と
いう性格を持ち、若者、女性、アフロアメリカンなどが、それを担ってきた。
②「ゆたかな社会」の進展とともに 、「サブのメイン化 」「メインのサブ化」が
起こり、
「サブ-メイン」の構造は「融解」しつつある。
<伊奈説>
地方都市のサブカルチャー=「サブのサブ」という視点から見るならば、
①サブカルチャーは純粋にバリアフリーなものではなく 、「上京 」「洋行」とい
った自己投機を不可避のものにするバリアフルな構造を随伴している。
②したがって 、「サブ-メイン」の「融解」を自明の前提にして 、「サブカルチ
ャーの終焉」という主張をしたり、ポストサブカルチャーの文化スタイルを
賞揚したりすることは、少々単純にすぎる議論である。
③むしろ 、「サブ-メイン」構造の変容とバリアフリーなサブカルチャーの可能
性について、慎重に分析する必要がある。
◇研究の成果
・マージナルで、周縁的な視点から、文化のバリアを見るために「サブカルチャーの
サブカルチャー」という視点を設定した。
・科研費の交付を受け、岡山で足かけ三年の調査を実施した。具体的には、岡山県の
映画上映運動、ミニシアター、映画サークルなどを調査した。
・調査結果の考察に 、「文化シーン 」「居場所」というような言葉を使い、被調査者
の文化的自己表現の問題を場所的に捉えようと努力した。
・岡山市における映画と関わる文化的営為の概要をほぼあきらかにして図示した。ま
た岡山県の文化行政の特徴を解明した。具体的には、一個人の努力によるところ
が大きいが、とりあえず「たてわり行政」「はこもの行政」を回避するような制
度を作り得たこと。(概要はこの個人を焦点にして整理した)。
・「サブ-メイン」構造について、理論的に吟味した。
「下位性」
「対抗性」
「身体性」
「周縁性」
「大衆性」「身体性」など
・バリアフリーなサブカルチャーの思想=アンダーグラウンドなネットワーク思想と
いう観点から、ミルズの社会学を再考察した。
- 53 -
(参考)鷲田清一氏門下の増田氏が、書評のようなものを、HPに書いてくれています。
「もてない男」論で著名な小谷野氏と比較されたのには正直感服しました。面識もないの
に、ここまで鮮やかに「もてなさ」を指摘されたのには、びっくりでした。
増田氏のHPより
http://member.nifty.ne.jp/MASUDA/rock/rock99-10.html
伊奈正人『サブカルチャーの社会学』(世界思想社)を読み始める。まだ序章と幾つか
の章を読んだに過ぎないが、地味だが現代文化研究にとって極めて重要な本のように思え
る。ちょうど、ジェンダー論に対して小谷野敦『男であることの困難』(新曜社)が差し
挟んだ異論を 、(日本の)カルチュラル・スタディーズに対して提出しているとすら言え
るかもしれない。
小谷野の「恋愛」に対応する伊奈のターゲットはサブカルチャーにおける「東京」、正
確に言うなら「上京文化」である。なぜ「地域文化」は東京からの眼差しによってオリエ
ンタリズム化、あるいは「東京の真似事」と化して/見なされてしまうのか。この問いを
可視化することは、出版を含む「支配的」メディアが地理的な位置としての東京の文化環
境を自明のものとする限り極めて困難だったのではないか。なぜ岡山の、あるいは仙台の
(あるいは任意の「地方」の)文化はサブカル的に「おしゃれ」でありえないのか。なぜ
そのような問い直しが「田舎者のヒガミ」と受け取られる言説構造に編入されてしまうの
か。すなわち 、「地方」と「東京」という差異を隠蔽することによってサブカルチャー研
究は「先端的なる様々な意匠」を名乗ってきたのではなかろうか、という疑問を伊奈は突
きつけているように思える(最近の沖縄研究の流行もその文脈から読み直されるべきかも
しれない )。前著『若者文化のフィールドワーク 』(剄草書房)と共通する著者独自の論
理運びがやや読みを困難にしているが、同時代サブカルチャーを誠実に考える者であるな
ら、本書との対峙を避けるわけにはいかないと思える 。「先端」を気取るツールとしてカ
ルスタやってる人にとっては、どうでも良い本なのだが。
- 54 -
Fly UP