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北方四島訪問見聞録

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北方四島訪問見聞録
北方四島訪問見聞録
沼南支部
1
永 岡 雅 史
はじめに
交流訪問事業に参加できる事となり東京での事前の勉強会への参加、会員からの情報
入手及びロシア語会話集による付け焼刃の勉強等を行い慌ただしく出発の日を向かえた。
6月25日5時半日本対コロンビア戦日本が1点ビハンドの中自宅を出発し、羽田空港
に向かう。7時半空港到着ロビーのテレビで、1対4日本の完敗を知る。
残念、4年後を目指しガンバレサムライ日本!!
釧路空港からバスと列車を乗り継ぎ根室まで約3時間半集合場所の千島会館に到着す
る。
その後、中標津空港利用者の到着遅れの為約1時間遅れで北連協の勉強会に参加する。
この22年間に日本人約11,500名、ロシア人約8,300名が相互に訪問して
相互理解の増進に努めてきた。又、終戦時四島には約17,000名(歯舞群島約5,
300名、色丹島約1,000名、国後島約7,400名、択捉島約3,600名)の
日本人が居住していたが、現在四島には、約16,000名(歯舞群島ゼロ、色丹島約
3,000名、国後島約7,000名、択捉島約6,000名)のロシア人が居住して
いるのみでロシア政府は、各種優遇策をとっているが厳しい生活環境等のため毎年人口
が減少している。開発の遅れを取り戻すため新クリル発展計画を推進している最中の訪
問となった。
2
出港
6月26日9時北海道立北方四島交流センターで結団式・事前研修会の後、16時
10分出発式を行い返還運動関係者の見送りを受けて16時30分根室港を出港した。
当初心配していた揺れもなく快適な航海の後19時40分古釜布湾着、投錨した。
船の朝食(味噌汁、卵、納豆、海苔、焼魚、漬物、ヤクルト:ホテル並み献立)は、
その後体験する事となるが、ロシア料理を食べた後の疲れた胃袋にとって、非常にあり
がたく美味しかった。(調理関係者に感謝!感謝!)
えとぴりか号
3
国後島
見送り(岸壁の関係者)
曇り/晴
(1)上陸(6月27日
09:05~09:35)
波が荒いため船を岸壁に少し近づけ、ロシアの艀で2グループに分かれて上陸する。
日本船が接岸できない港ではないが、23年目を迎える今回も艀を利用した上陸でし
た。(艀の乗員の雇用対策のためか当初の取り決めのためか?)
港からは、ロシア人所有のランドクルーザー等約20台を借り上げ、友好の家へ移
動した。
これも雇用対策の一環?ドライバーには、日当が支払われている。
島では、舗装道路がほんの一部で大半の道路は砂利道の悪路である為、故障の少な
い日本製の四輪駆動車等(コンピューター制御でない中古車)を使用している。
トラック等は、非常に古く日本では車検をパスしないであろう車が大半であった。
市内でガソリンスタンドを見かけなかったので何処で給油しているのか不思議でした。
ロシアの艀による上陸
借り上げのランドクルーザー等
(2)「アリンッカ」保育幼稚園視察(10:10~10:40)
ウリヤーノワ園長の概況説明(2010年開園、2歳~7歳児、現員117名等)を
受けた後、12名の卒園児による歌や踊りの歓迎を受け団員一同心を和ませる。
四島では、0歳から1歳半まで育休制度(国の手当て)があるので島内における出生
率は高く、現在3つある保育幼稚園では不足しているので定員110名の園を建設中で
あった。日本も少子化対策の一案として見習うべきだ。
(3)古釜布墓地墓参(10:50~11:05)
サハリン州内に60ケ所ある墓地の1つである古釜布墓地にお参りした。
墓地は、ロシア人の手で草刈りされていたがロシア人の墓と混在しており、日本の墓地
と違い手入れがされておらず、先祖の霊を敬う習慣が希薄ではないかと思われた。
古釜布日本人墓地
混在するロシア人墓地
(4)ロシア正教会見学(12:40~13:10)
島民の浄財(約9億円)で建て替えられた教会は、新しく内部は荘厳で煌びやかであ
った。
内部の写真撮影も自由で、地下の洗礼室まで案内され塔の鐘まで鳴す事が出来た。
ロシア正教会の見学者に対する対応は、伝統・格式及び神秘性等を重んじる日本の神
社仏閣と違い、形式に捉われず比較的オープンな事に驚かされた。
(5)郷土史博物館見学(13:15~13:50)
四島の歴史物を展示している博物館には、交流訪問事業で日本がプレゼントした品物
や訪問時の写真が飾られており、23年目を迎える本事業の長さを感じた。
この施設は、古い木造アパートの1階の一部を間借りして開設されており日本では考
えられない事である。
(6)住民交流会(文化会館
14:20~15:35)
ロシア人21名による着物ショー&家族・知人との写真撮影に始まり、着付け踊り、
日本舞踊、ロシア女性のお礼の歌等最後は日ロ入り乱れ徳島の阿波踊りで盛り上がった。
日本文化とロシア文化の融合を垣間見る事が出来た。
(7)夕食交流会(友好の家
16:00~17:15)
サジラコ南クリル地区副行政長の歓迎の挨拶、前原、江口両議員の挨拶の後ウォッカ
で乾杯し交流会が始まりロシア料理とお酒を堪能した。この日のロシア料理は、1日目
であり美味しく味わう事が出来た。
(8)択捉島への移動(18:40出港~翌02:20投錨)
ウォッカのお陰で、国後水道航海中の揺れを感じることなく熟睡出来た。
4
択捉島
晴れ
(1)上陸・地区行政長訪問(6月28日
08:40~10:30)
今回は、えとぴりかⅡで 4 班に分かれて上陸。
車で紗那の文化会館へ移動して、ゴリューク「クリル地区行政長」を訪問する。
行政長の歓迎の挨拶は、信頼と友好を深めることにより強い絆で結ばれている良好な
日ロ関係と早いテンポで発展している択捉島の現状(3年前に道路が舗装され埃ぽい環
境が改善された。又、数年前の近代的な発電所建設により夜の街の灯りも増えた。現在
プール・文化会館・図書館・博物館等の大規模な建設工事も始まっている。)と医療支
援等日本の支援に対する感謝の気持を表した。
えとぴりかⅡによる上陸
団長
パンと塩の歓迎を受ける
ソ軍上陸を発信した紗那郵便局
(2)ホームビジット(10:30~13:30)
元島民2世を含む東京周辺から参加した3名で訪問した紗那市郊外(港近くの二階建
社宅)の家庭は、(株)ギドロストロイに勤務するご夫婦と3ケ月の夏休みを利用して
遊びに来ている11歳の孫娘の3人家族でした。前日から準備したロシア料理とウォッ
カ(我々3名はワイン)で歓待して頂いた。ロシア料理の量と過剰サービスに胃袋が対
応出来ず料理を全員が残してしまったので通訳に決して美味しくないのではなく、量が
多かったと釈明してもらった。
通訳が巡回して来るまでの会話は、奥様が英語を少し喋れるので英語とロシア語会話
集を手で示しながら殆ど「スパシーバ(ありがとう)」「ダー(はい)」で終始した。
ロシア語が話せれば、もっと相互理解と友好の絆が深まったと思われる。
奥様も10年前に北海道に、孫娘のナターシャも9月に交流訪問事業で北海道来ると
の事、この様に多くの北方四島の住民が北海道や関東・関西等を訪れ日本の良さを理解
しもらい友好の絆が益々深まる事を願う次第です。
(3)住民交流会(児童芸術学校
13:30~14:55)
国後島での催しと同じく着物ショー、日本舞踊、阿波踊りを地元島民と共に楽しみ、
日本文化とロシア文化の融合・相互理解に大いに寄与した。
着物ショーは、島民に人気があり多くの方が参加し記念撮影も盛況でした。
特に子供や若い女性は、スレンダーで可愛く美人揃いで和服が良く似合っていたが、
ある年齢以上のロシア人は、寒さの為か食事の影響か肥満の傾向にある。
その後の意見交換では、日本での禁煙や着付教室の現況や若者の興味等について質問
があり、大学生の団員等が流暢なロシア語で答え喝采を浴びた。喋れる事は素晴らしい。
ロシア人による着物ショー
ロシア民謡を踊る両国民
(4)紗那市街散策(15:05~15:30)
非常に短い時間でしたが、お店(外観からは何屋さん判らない。)で買い物をした。
日常消費する物は、思っていた以上に豊富にあったが土産品は少なく、賞味期限切れ
が迫った商品が散見された。
(5)紗那墓地清掃(6月29日
08:15~08:45)
団員全員で墓地の草刈りを行いその後墓参。この墓地も古釜布墓地同様ロシア人との
共同墓地で整備されていなかったので蒸し暑く、虫の飛び交う下、全員で使い慣れない
鎌と草刈機を使用し汗を流した。
団員として参加している元島民の先祖の墓を探したが見つけることが出来なかった。
(6)指臼山温泉へ移動(09:35~10:10)
四輪駆動車を利用しなければ行けない山の中の温泉を目標に前進する。
山間道は、雨で抉られ大きな雨裂のため四駆でも厳しい悪路で1台がオーバーヒート。
温泉は、地元住民が多数利用していたため入れず、海岸へ目的地を変更した。
復路途中の展望ポイントで死の湖、紗那空港、残雪とグイ松林等の眺望を楽しむ。
未開の自然環境の残る北方四島の観光地としての価値を改めて認識する。
(7)海岸温泉で昼食(11:30~12:30)
オホーツク海に面した海岸の温泉地でバーベキュー料理の昼食をとり、温泉を楽しむ。
この温泉地は、駐車場も狭く、建物も小さいので少人数が利用する娯楽施設であり、
床に穴が開いているだけの男子用トイレは、日本では見ることのできないものでした。
(8)ヤースヌィ水産加工場(内岡)視察(12:50~13:40)
2011年に完成した新しい工場は、年間3000万匹以上のシロザケを孵化する施
設やサケ等の加工処理から冷凍までを自動で行う近代的なものでした。
しかし、孵化場の設備はフィンランド製、水産加工場の機械は日本製でありその技術
を海外に依存しているのが現状である。
(9)紗那空港建設現場視察(13:55~14:15)
8月1日開港予定の空港工事現場は、市内からの連絡道路の舗装工事、ターミナル前
の駐車場及び空港関連施設工事等のためドーザーや労働者が日曜日を返上して働いて
いた。とても後1月で飛行機が離発着できる状況ではなかったが、これもお国柄の表れ
であるかもしれない。
消防施設
ターミナルビルと管制塔
(10)夕食交流会・コンサート(14:45~16:35)
シュートフ副行政長、副団長、江口議員及び文化会長の挨拶は、「この交流事業が両
国の相互理解と信頼の絆を益々深め、これからもこの良好な関係が続く事と新たな出会
いが待っている。」と本事業の有意性を述べた。
現地住民(小さな男の子や女の子、若い女性、中年の紳士等)のロシア民謡や踊り等
を楽しんだ。特に男の子の歌った「大きな古時計:日本語」は、印象に残った。
最後は、会場の皆で輪になりロシア民謡を踊りながら友情と信頼の絆を深めると共に
別れを惜しんだ。
(11)えとぴりかⅡ移乗、帰船(17:10~18:00)
択捉島の港に設置された通関施設をとおりバスで岸壁へ移動し、えとぴりかⅡで船へ
戻る。
(ロシア領を強調する扱いを痛感する。)
通関所とバス
5
出域から解散
船から紗那港正面
(1)国後島古釜布湾着・出域手続等(06:30、07:20~08:10)
(2)解団式(船上09:30)・根室港入港(12:00)・解散(千島会館12:45)
6
まとめ
4泊5日の短い滞在でしたが、北方四島の厳しいインフラ等の現況及び現地の方々の暖
かいおもてなしの気持ちを知る機会を得たことは、今後の活動にとって非常に有意義な体
験でした。
先ず、今回見聞した事を身近な方々から所属団体等で啓蒙し、市町村から県・国へと活
動の輪を広げ北方領土返還運動が国民世論として、政治へ反映させる環境を醸成する必要
性を痛感した。
領土問題は、元島民や外務省、内閣府及び関係諸団体だけの問題ではないので、歴史的
背景、四島の地誌及び現況等について学校教育で必須科目として教えるべきではないかと
思料する。隣国の反日教育の成果をみれば幼少期からの教育の重要性が判る。
今年で23年目を迎える北方四島訪問事業の目的である相互理解の増進は、この事業に
参加した両国約19,000名は十分達成していると認識しているが、国民一人一人が正
しく理解し、世論を盛り上げ外交交渉を後押しするまでになっていない。
現地では、23年間の訪問事業を通じ日本及び日本人に対する親近感と尊敬の念を持ち
世界第3位の経済力と技術力を高く評価している。
しかしながら、不法占領から70年が経過した今、返還交渉が進展していない原因は何
処にあるのか原点に立ち帰り、新たな目線で施策を推し進める時期ではないかと思料する。
残された時間が少ない一世の方々が返還された故郷の島に帰る為に決断すべきです。
例えば、歯舞群島(住民ゼロ。)及び色丹島(住民約3,000名)を先ず返還しても
らい、日本の投資で島の生活を豊かにし、日本に返還する事が二島(歯舞群島、色丹島)
に明るく豊かな生活を保障する事をロシアの住民に実感してもらい、残りの二島(国後島、
択捉島)への波及効果を期待するのも一案ではないでしょうか。
この場合、返還後の島の在り方について具体的なビジョンを示し、現在住んでいるロシ
ア人の生活がどうなるのか?全員退去(その補償は?)してもらうのか?それとも、その
まま残れるのか?
共同統治の有無・要領、期間等各種状況を想定し、交渉する必要がある。
(現在日本各地に存在する外国人の多く住む町の形態を参考に!)
又、オホーツク海の聖域化と太平洋への安全航行に不可欠な北方四島は、ロシアにとっ
て戦略上及び地政学的に重要性な地域である事を如何に担保するか等も重要となる。
このまま徒に時間を過ごし不法占拠の常態化を懸念する次第です。
最後になりましたが、内閣府、外務省、北方領土問題対策協議会、北方領土返還要求運
動連絡協議会(特に児玉事務局長)及び四泊五日寝食を共にした団員の皆様(特にサポー
ト隊及び通訳の方々)に心から感謝申し上げます。
(沼南支部
永 岡 雅 史)
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