...

クリントン政権の海外派兵政策

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Transcript

クリントン政権の海外派兵政策
クリントン政権の海外派兵政策
法学部政治コース 3 年
寺井渉
[目次]
序
第 1 章 選択的介入
第 2 章 クリントン政権の発足時の方針
第 3 章 ソマリア
第 4 章 クリントン政権の方針転換
第 5 章 ボスニア
おわりに
[総字数]12,293 字(注を除く)
1
序
湾岸戦争での勝利は、当時、民主主義の勝利として賞賛された。それは、100 時間にわた
る地上戦で圧倒的勝利を収め、会戦後数ヶ月で停戦を合意することができたからであろう。
また、アメリカ、ソ連の二超大国のコンセンサスのもとで軍事作戦を進めることができた
からでもあろう。しかし、その後の派兵においては、勝利であるとの評価を広く得られた
ものは、むしろ例外的であった。それは、その後のアメリカの派兵と比較して、湾岸戦争
には、勝利を勝利となしえる要素があったからであると考えられる。
湾岸戦争では、派兵の態様、目的、対象は明確に意識されていた。湾岸戦争における対
象はサダムフセインであり、その排除こそが目的であった。停戦もまた、サダムフセイン
との交渉という形でなされたのである。それゆえ、湾岸戦争では、明確に勝利と呼び得る
ものが存在しえたのである。
それでは、その後の派兵の例についてはどうであろうか。アメリカは、1992 年以降ソマ
リア、ハイチ、ボスニア、コソボ等、様々な国に派兵を行っている。それらの国において
は、イラクにおいて見られたような構造を見出すことはできない。それらは、いわゆる破
綻国家問題である。アジア、アフリカには、多民族国家ゆえに国民意識が形成されていな
い国家が多数存在する。これらの国々は冷戦が終結したがゆえに、国民意識の欠如が顕在
化した国々であるといえる。例えば、ソマリアはかつて「冷戦の中で重要な役割がある」
国とされ、米ソから武器の含む援助を得ていた。この結果、冷戦後には、流入した武器を
用いて、部族間の争いが激化するに至ったのである。アメリカが冷戦後に派兵を行うにあ
たり、部族間対立という複雑な問題に直面するのは、必然的であったといえよう。
こうした国々に派兵する際には、様々な試行錯誤が要求される。最初に、派兵の目的に
ついては、食料、物資供給に限定された人道支援を行うのか、それとも治安維持まで担う
のかいった、目的の選択が要求される。また、対象については、常にサダムフセインのよ
うな明確な敵を相手にしていたわけではない。民族、部族により分断された状況の中では、
どの勢力に加担すればよいのかということは明白ではない。そもそも、人道を根拠として
支援がなされる場合においては、問題の本質的解決は敵の設定によって達成されるもので
はないことが多い。
また、そもそもなぜアメリカが派兵を行わなければならないのかという、派兵の根拠も
問題を生じさせる。多くの場合は、根拠は人道、民主主義に求められた。しかし、こうし
た根拠とアメリカの利益との関連性を見出すことは難しい。したがって、これらの国々へ
派兵を行うためには、国民、議会といった様々な主体を説得する必要がある。湾岸戦争は
この過程がうまくいった例であるといえよう。
以上のような試行錯誤を経なければならないため、紛争地域の人々を保護するために派
兵が必要とされるすべての人道的危機に際して、アメリカは派兵を実施したわけではない。
実際、ソマリア PKO の失敗の後、ルワンダへの派兵が政治的に争点化したが、実施には至
2
らなかった。このように、アメリカが派兵を実行する際には、事例ごとに一定の選択が行
われているのである。
本稿では、クリントン政権機を事例を用いて、アメリカがどのような条件に基づいて、
選択すべき介入を選択したのかという問題を扱いたい。換言すれば、どのように人道的危
機が争点化した場合に、アメリカは派兵に踏み切るのかということである。そのために、
本稿ではクリントン政権、議会の行動、発言に着目する。選択は、冷戦後の問題への適応
の過程といえる。それは個別の事例の政治的争点化の過程においてこそ明らかになる。こ
うした過程をうかがい知るためには、政治的アクターがどのように行動、発言し、どの決
定が取捨選択されていくのかということに着目することが有益であると考えられるのであ
る。
第1章 選択的介入
先行研究では、クリントン政権下での派兵政策は、選択的介入の実例とされている。こ
れは、アメリカが介入するのは特別な事例のみであり、かつ民主主義や人道といった価値
が問題となったときのみであるという考え方である。1)この概念に基づいて、選択的介入が
政治的に争点化するにあたり、議会や大統領がどのような態度を示したのかということが
研究されている。具体的には、議会、大統領の個別の言動が、単極的世界像、多極的世界
像のどちらを前提とするものなのか、国際的関与に積極的なのか消極的なのか、という点
が着目されている。また、単独主義化、国際協調主義化という観点から議会、大統領の言
動を分析する研究も存在する。2)
本稿は、人道的価値、民主主義的価値が危機にさらされるすべての場合に、アメリカは
派兵を実施したわけではないという点に焦点を当て、そもそも、どのような場合に派兵が
実施されるのかということに関心を向ける。すなわち、派兵に対して政治的アクターが積
極的であったときに見出される、アクターを取り巻く環境要因やアクターに共通する考え
方が、何であるのかということに着目するのである。
第 2 章 クリントン政権の発足時の方針
クリントンは 92 年の大統領選挙キャンペーンの時点からボスニア紛争への積極的介入を
掲げてきた。ブッシュ大統領のボスニア政策を消極的であると批判しつつ、国際社会のリ
ーダーとしての責任から積極関与を行う必要があると主張し、地上軍投入の必要性にまで
言及した。3)
大統領就任後には、クリントンは、ボスニアに限らず、紛争に対して積極的関与を行う
べきであるとの考えを示した。一例として 12 月 8 日の議会での発言をあげよう。
「世界はかつてよりも混沌としている。―中略―その中には困った問題がある。我々は、
3
これらの問題に集中することもでき、相当の政策を持って対処することもできるし、積極
的に対処することもできる。また、我々はしばらくの間それを無視することもできる。(そ
うすると)諸問題が噴出する。そして、それらは我々を襲い、私は時間をすべて外交政策
に費やさなければならなくなるであろう。」4)
大統領のこうしたスタンスは、他の政権担当者にも広く共有されていた。たとえば、オ
ルブライト国務長官は下院公聴会において「平和維持活動に関する五つの神話」と題され
る 証 言 を 行 い 、 PKO の 重 要 性 を 説 い た 。 そ こ で は 、 断 行 的 多 国 間 主 義 ( assertive
multilateralism)という概念が打ち出された。それは、国際組織内でのアメリカの指導力
を前提としつつ、多国間での平和維持のための関与を行うべきであるという考え方である。
そして、オルブライトはこの考え方がアメリカの国益に資すると主張した。5)
一方、議会の反応はイデオロギーによって分かれた。民主党のリベラル派は、クリント
ン同様旧ユーゴにおいてより実効的な措置をとるべきであると主張していた。6)しかし、議
会の大部分については、紛争への介入は純粋な人道支援に限られるべきであると主張して
いた。7)
以上のように、クリントン政権は初期において、広く破綻国家における平和維持のため
の派兵を行うべきであるとの考えを示していた。さらに、派兵の前提として、多国間の協
調が挙げられている点にも注目すべきであろう。
しかし、実際に派兵を行うに当たっては、こうした原則は修正を迫られる。以下におい
ては、派兵の実例を取り上げ、このことを検証したい。
第3章 ソマリア
ソマリアへの PKO 派遣はブッシュ政権によって始められた。ブッシュ政権は 92 年 8 月
の安保理決議 751 を皮切りに、ソマリアへの援助物資空輸、3500 人規模の地上軍
(UNOSOM)の派遣を決定した。
ブッシュ政権は派兵の目的として、飢餓状態に苦しむ一般市民を救うために、援助物資
輸送を中心とする人道支援を行うことを挙げた。上院もまた、人道支援目的での派兵に承
認を与える議決を行った(Senate Joint Resolution 45)。8)
こうした政府、議会の対応の背景には、アメリカ国民の人道的衝動があった。1992 年夏
までに、テレビを通して、ソマリアで餓死寸前の状態に陥っている人々の映像が大量に流
された。この結果、1993 年 3 月の時点で、アメリカがソマリアに特例として手を差し伸べ
る責任があると考えた人々は、世論の 67%を占めるに至っていたのである。9)
一方、当時アメリカでは、ソマリアの現状をどのように認識していたのであろうか。一
般的には、人道支援の実現可能性について甘い認識をもっていたといえる。アメリカが負
うであろうコストも過小評価されていた。例えば、統合参謀本部のパウエルは、2個師団
4
あれば人道支援に十分な兵力であり、任務を限定すれば米軍兵士に危害は及ばない、また、
任務は早期に国連に引き継がれ、米軍は迅速に撤退できると考えていたという。10)
しかし、ソマリア情勢は 92 年末を境に変化し始めた。ソマリアの無政府状態は悪化の一
途をたどった。これに対して、PKO は希望回復作戦を展開し、部族間の紛争の沈静化を図
った。しかし、93 年 6 月ごろまでには、アイディード将軍の民兵が PKO に対する攻撃を
強めるようになり、パキスタン兵 23 名が死亡する事件も発生した。
こうした情勢の悪化によって、ソマリア派兵へのコンセンサスは揺さぶりを受けた。も
っとも、この時点では、議会において派兵への是非が顕著な争点となることはなかった。
なぜなら、両党の大部分の議員は予算審議に没頭しており、外交についての議論はそれほ
ど高まりを見せなかったからである。11)一方、一部の政策決定者はソマリア介入の是非につ
いておのおのの考えを明示するようになった。ソマリア情勢によって、アメリカは冷戦後
の紛争の複雑性に直面した。この時点から、アメリカの派兵政策のあり方が本格的に模索
されるようになったといえよう。
ソマリア派兵に対して積極的態度を示したのは、クリントンおよびその閣僚である。彼
らは、前述の断行的多国間主義の立場に立ち、議会への働きかけを行った。12)クリントン自
身、断固たる態度でアイディード派に臨むべきであると主張した。彼は、アメリカ軍が撤
退する条件として、モガディシオ南部に平穏が戻ること、先頭当時集団の武装解除の完了、
主要人口集中地区に信頼のおける警察組織が配備されることを掲げた。13)また、国防総省の
フランク=G=ワイズナーらも、平和維持のために費やされる 3 億ドルの 1994 年度支出案
への承認を要求した。彼らは、ソマリアの現状認識について、成功例と評価されるもので
あり、暴力も一部の地域で生じているに過ぎないと述べ、派兵の実効性を主張した。14)リー
=H=ハミルトンら民主党の年長議員もまた、積極的態度を示した。ハミルトンはアイディ
ード派への空爆を主張し、アイディードを実力行使によって排除すべきであるとの考えを
示した。15)
一方、共和党上院少数派リーダーであるボブ=ドールと民主党のロバート=C=ビルドは、
派兵政策の現状について批判的であった。彼らは、ソマリアが混沌とした状況に陥りつつ
あり、アメリカの関与の出口が見えなくなりつつあるとの批判を行った。16) こうした現状
の派兵政策の実効性が低いという認識が、アメリカ軍が具体的にソマリアで何をすべきな
のか、換言すれば、何をもって派兵が目的を達成したといえるのかということについて、
政権が明確な考え方を持つべきであるとの意識を高めていくことになる。つまり、派兵の
出口政策が明示的に争点化するようになったのである。
9 月から 10 月にかけてソマリア情勢はさらに悪化した。9 月 25 日にはアメリカ軍のヘリ
コプターが撃墜され、10 月 3 日にはアメリカ兵 18 人が殉死した。特に、アメリカ兵の死
体が引き回され、空軍兵士が捕虜にされている映像によって、国内世論のソマリア政策に
対する批判が高まり始めた。
この結果、議会においてソマリアへの派兵政策に対する批判が活発化した。特に強い批
5
判を行ったのが共和党議員である。彼らは派兵の目的がシフトしていることを批判した。
当初の派兵の目的は、飢餓に苦しむ一般市民を救援するための純粋な人道支援に限られて
いた。にもかかわらず、現状ではソマリアの治安維持、政治体制の支えが目的になってい
るではないかという批判である。例えば、共和党議員のベンジャミン=ギルマン、フロイ
ド=スペンスは、派兵の趣旨が人道支援から`nation building'といった政治的目的に代わって
いる点を指摘し、早期にアメリカ軍は撤退すべきであると主張している。17)
一方、民主党議員もまた長期にわたってソマリアに介入することを批判し始めた。しか
し、撤退の方法について、民主党は異なる見解を示していた。例えば、ハミルトンは、長
期的視野に立った場合、ソマリアからの急な撤退はアメリカの利益を害すると主張した。18)
このように、民主党側は、撤退を行うにせよ、それが独行的なものであることは認められ
ず、国際社会の利益へも配慮を行うべきであるとの立場に立っていたのである。
このように派兵に消極的な意見が議会の大多数を占めたことを受け、クリントンは派兵
の「明確な出口」を示すに至った。彼は、10 月 7 日のテレビ演説で、アメリカ軍を、3 月
31 日まで猶予期間を設けた後に、撤退させると表明した。19)
第 4 章 クリントン政権の方針転換
クリントンによる撤退表明以後、議会では、いつアメリカ軍を撤退させるべきなのかと
いうことを中心に議論が行われた。その一方で、これ以後のアメリカがとるべき派兵政策
の枠組みもまた模索されるようになった。
当初、枠組みについての議論は、どの部門が派兵について決定権を有するのか、どの部
門がそのための財政支出権限を有するのか、といったことを中心に行われた。共和党は決
定権をなるべく議会の下に置くべきであると主張した。実際、10 月 18 日には、アメリカ軍
が外国の指揮下に置かれるときには、議会の承認を得なければならないという修正提案を
提起した。20)さらに、94 年 1 月には、共和党上院のドールがアメリカの国連 PKO 拠出額
の削減、大統領に対する PKO 参加決定の議会への事前通告の義務付け等を内容とする平和
権限法を提出している。21)民主党議員もまた 94 年に、海外派兵の決定権が行政にあるのか
議会にあるのかということについて議論を提起している。22)これらの動きはクリントンの海
外派兵についての自由を制限するためのものであった。
こうした圧力を受け、クリントンは、94 年 5 月に大統領決定令第 25 号を公表し、冷戦
後の PKO 活動の取り組みについての方針を提示した。それは、①国連の平和維持活動への
米国の参加は選択的に、より効率的に行う、②米国の平和維持活動の費用分担割合を削減
する、③平和強制活動に米国が参加する場合は国連の指揮下に置かないなどの方針を示す
ものであった。23)ここでは、①、②を特に取り上げたい。
大統領決定例は、大統領が平和維持活動への参加を勧告する際には、いくつかの要件に
従うと規定している。例として次のものを挙げる。
▽ 参加することが米国の利益を増進させるものであり、かつ米国の人員に対する特定
6
の状況下および全体的な危機がすでに検討され、許容できると考えられる。
▽ 米軍の役割が明確な目的と結びついており、米国の参加の終了点が確認されている。
▽ 国内的および議会の支持が存在するか、支持とりまとめが可能である。24)
先に述べたように、ソマリアでの混迷以後、議会は派兵の枠組みについて議論するよう
になった。当然ながら、個別の派兵を行うに際しても議会はその内容の是非について活発
な議論を行うであろうことが予想される。したがって、新たな派兵の枠組みは、議会での
議論の中で彼らの承認を勝ち取るようなものであることが期待されよう。こうした要請は、
大統領令 25 号においてクリントンが、議会の動向への配慮の必要性を説いている点によく
現れている。
さらに、大統領令 25 号は、ソマリア派兵における議会、特に共和党議員による批判を反
映し、議会の承認を勝ち取ることができる枠組みのより具体的な像を示そうとしている。
第一に、派兵政策の目的を限定しようとしていることが伺える。大統領令は、参加の選択
に際して、アメリカの国益が侵害されているか否かを考慮すべきであると強調している。
クリントンは当初の積極的な紛争への介入姿勢からの転換を図るに至ったのである。第二
に、平和維持活動の終了点が定まっていることを要求し、出口政策の明確化を明言してい
る。
結果的に、これ以後の派兵において、クリントンは大統領令にあるように、議会の動向
に対して配慮せざるを得なくなった。ソマリアへの PKO 派遣の直後に争点化したハイチへ
の PKO 派遣においては、ソマリア問題について議論されていた時点からその是非が議会で
争われた。次に詳述するボスニアへの地上軍派遣についても同様である。
第 5 章 ボスニア
95 年 11 月のデイトンにおけるセルビア、ボスニア、クロアチアの紛争当事者による和平
会談の中で、クリントンは、3 者による和平の履行を確実なものにするために、2 万人の地
上軍をボスニアへ派遣することに合意した。
ボスニアへの派兵の目的は複合的なものであった。クリントンは、人道的見地から派兵
を主張する一方で、欧州の安全保障に対してもつ戦略的意義も指摘した。25)ボスニアでの
ナショナリズムの高揚は周辺地域に飛び火するであろう。これはヨーロッパの不安定化に
もつながりうる。したがって、アメリカはヨーロッパ諸国の先頭に立ってナショナリズム
の飛び火という悲劇を回避しなければならないと彼は述べている。また、彼は、地上軍の
派兵は和平会談を経て国際公約となっており、アメリカへの国際社会の信頼を守るために
も、派兵が要求されると強調した。26)以上のような目的を揚げ、クリントン政権は派兵に対
して積極的な態度を示した。
しかし、ソマリアの場合と異なり、ボスニアの現状に対する認識のほとんどは厳しいも
のであった。例えば、国防長官のウィリアム=J=ペリーは派遣されたアメリカ軍が重武装
7
のセルビア、ムスリムの民兵に直面するであろうと警鐘を鳴らしていた。27) また、軍も、
死傷者が出ることを覚悟しなければならないと警告していた。28)なぜなら、ソマリアやハ
イチへの PKO 派遣と比較して、ボスニア紛争は何世紀にもわたる民族間の憎悪と複雑な勢
力配置という点で異なっているからである。29)
こうした評価を背景に、議会の派兵への態度は消極的であった。特に、共和党議員は、
なぜセルビアのためにアメリカ人が自らの命を危険にさらさなければならないのかという
疑問を示した。彼らは、なぜボスニア和平を履行させることにアメリカの利益が関わるの
かということについて、クリントンが議会や国民に対して納得しうる説明を行っていない
と批判した。30)実際、世論もボスニアがアメリカの利益に関わるという主張に対して懐疑
的であった。31)さらに、下院新人議員を中心とする共和党保守派は、ボスニアへの派兵そ
のものに反対していた。彼らは支出権限によって派兵を阻止しようとした。32)
これに対して、クリントンは、もし議会が派兵について自発的に法的正統化を行うなら
ば歓迎するが、仮に議会の承認がなかったとしても、合衆国憲法第 2 条第 2 節の戦争権限
を根拠に、大統領が派兵決定について正統な権限を有すると主張した。33)彼は、派兵が国際
社会の既成事実となっていたのを背景に、議会の承認にかかわらず、それを履行しようと
考えたのである。
こうしたクリントンの独断的な派兵決定に対して、議会側は抵抗を試みた。10 月 30 日に
は 2 つの議決が行われた。一つは、10 月 30 日に地上軍派兵に関するクリントン大統領の
公約を批判する議決(H Res 247)である。この議決は 315 対 103 で可決された。党派ご
との投票行動に着目すると、共和党議員はほとんどが賛成票を投じていたのに対し、民主
党議員はほぼ半数で賛成、反対に分かれていた。もう一つは、派兵への支出を制限するた
めの議決で、共和党保守派が先導した。こちらは否決された。後者が派兵そのものを批判
しているという意味合いが強く、支持者が共和党保守派に限定されていたからである。34)
2 つの議決はどのように理解されるべきであろうか。前者は派兵に対する懐疑からなされ
たものであったが、後者は派兵そのものを批判するものであり、互いに性格を異にする。
派兵への消極的な態度は党派を問わずに共有されていたため、前者は党派を超えた幅広い
支持を得たが、否定的態度まで示していたのは共和党保守派に限定されていたため、後者
は限定的な支持しか集めなかったのである。
しかし、これ以後の議決では変化が生じ始めた。11 月 17 日には議会が派兵予算を承認し
ない限り、クリントン大統領はボスニア派兵を行うことができないという議決(HR2606)
を行い、243 対 171 で可決された。このとき、議決を支持した民主党議員は 28 名にとどま
っており、10 月 30 日の議決よりも党派色が強まった。35) また、12 月 13 日に、派兵に対
して肯定的な合同決議案(S J Res 44)の議決が行われた。合同議決案は 69 対 30 で可決
された。このとき、民主党議員はほぼすべてが賛成を投じていた一方で、共和党議員は賛
成、反対で分裂した。さらに、同日、下院においてボスニア派兵に必要な資金拠出を拒否
した法案(HR2770)が 210 対 218 否決された。この議決では、反対票を投じた共和党議
8
員が 42 人いた一方で、160 人以上の共和党議員は賛成票を投じており、やはり党派色の強
い投票結果になったといえる。36)
このように党派色が強まったのは、民主党下院議員がクリントン大統領の権限を制約し、
政権の行政能力を低下させるべきではないと考えるようになったからである。37)上院におい
ては、大統領の戦争権限に理解を示す考え方が党派を超えて存在するようになっていた。
例えば、共和党のウィリアム=S=コウエンは「誰が権限を持っているかは、誰がその権
限を有していると先に宣言するかにかかっている。議会は長年にわたって戦争権限を行政
府に委譲してきたのがまぎれもない現実である」と述べ、民主党のジョセフ=I=リーバー
マンは「これこそわれわれアメリカ国民が大統領という制度を創設した理由である。海外
派兵に関する決定は 535 人によって決定できる類のものではない」と大統領そのものに支
持を与える立場をとっていた。38)
以上のように、派兵の是非そのものに関して議会で論争が行われる一方で、共和党上院
のドールとジョン=マケインは派兵の内容面について問題を提起しようとした。彼らは、
アメリカ兵派兵のための基準のリストを作成した。たとえば、12 月 6 日にドールは「アメ
リカ軍がデイトン合意の純粋に軍事的側面において強制を行うこと、デイトン合意の
nation-building 条項を執行しないこと」を条件に派兵を支持するという提案を行った。さ
らに、ドールとマケインは、ボスニアのムスリム民兵を訓練し、NATO 軍撤退後にムスリ
ム共同体が脅威から身を守ることができるようにすることを、派兵の条件とすべきである
と主張した。39)
しかし、一連の議会の行動も象徴的なものであったとされる。なぜなら、ボスニア派兵
は国際公約上既成事実化しており、それを阻止することは事実上できなかったからである。
結果的に、議会はクリントン政権の政策を不承不承ながらも黙認する一方で、政策への明
確な支持を表明しないことで議会としての面目を保つことになったのである。
おわりに
クリントン政権期においては、クリントン自身が派兵に対して積極的な態度を示してい
た。その際、主要な根拠となったのは、国際社会のリーダーとしてのアメリカの役割であ
る。こうした態度は就任当時から見られ、ソマリア、ボスニアでも派兵の根拠として挙げ
られた。しかし、彼は、すべての非人道的事態についてアメリカ軍を派遣すべきであると
主張したわけではない。彼が派兵を決定する過程においては、世論、議会がどのように反
応を示したかということが、重要な考慮事項となっていた。特に、議会については、大統
領令 25 号において、派兵決定を行う過程でその動向に配慮すると明言していたし、ボスニ
ア派兵においても、議会の法的承認があったほうが望ましいというスタンスを取っていた。
それでは、議会は派兵についてどのような条件の下でそれを認めるという考えをもってい
たのであろうか。
9
議会は、派兵がコスト―特にアメリカ兵の犠牲―を伴うと予想されるときには、派兵承
認に際して様々な条件を課すという反応を示した。実際、ソマリア事例で、派兵のあり方
が議会で活発に議論されるようになったのは、アメリカ兵の犠牲が増してからであり、ボ
スニアの事例では、当初からアメリカ兵の犠牲が予想されたためにその是非が議論された。
こうした場合に、議会が要求した派兵の内容の条件として、国益との関連性、目的の限
定性、出口政策の存否をあげることができる。国益との関連性は、大統領令 25 号でも言及
されていたし、ボスニアの事例でも問題になった。ボスニアの事例では、大統領は、国民
や議会に国益との関連性を主張することによって、派兵に対する支持を得ようとした。ま
た、目的の限定性については、派兵が純粋に食糧輸送といった人道的な面にとどまるのか、
破綻国家での治安維持、さらには nation-building までをも担うのかといったことが問題と
なる。議会は、人道支援目的に限った場合に派兵に対して承認を与える傾向にある。ソマ
リアの事例では、上院は人道支援を目的とする派兵を承認した。しかし、治安レベルの低
さの故、アメリカ軍が治安維持をも担わざるを得なくなってしまった。この結果、議会は
撤退を強く主張するようになったのである。一方、ボスニアの事例においても、ドールや
マケインは、派兵の前段階において、その目的に限定を加えようと試みている。また、出
口政策の存否については、アメリカ軍の犠牲が予想される場合には、特に強く主張される
傾向にある。実際、ソマリアの事例では、議会が撤退の時期を定めようとし、結果的にク
リントン自身が撤退時期を明言するに至っている。
以上のような、派兵内容の条件付けについては、党派ごとの違いを見出すことができる。
共和党は、目的の厳格な限定を要求する傾向にある。ソマリア派兵において派兵目的のシ
フトを強く批判したのが共和党であった。また、共和党側の意見表明には、独行的要素が
多く見られる。ソマリアの事例で、共和党側では、ソマリアの長期的利益に関わらず、直
ちに撤退すべきであるという意見が大勢であったし、ボスニアの事例でも、保守派は国際
社会の信頼に関わらず、アメリカはボスニアに派兵すべきではないと主張していた。
一方、民主党も、ソマリアの事例で顕著であるが、大勢においては目的の厳格化を要求
していたといえる。ただし、個別的行動のレベルにおいては、国際社会の利益を配慮する
傾向にあったといえる。民主党年長議員はソマリア情勢が悪化している中でもアメリカが
国際的責務を果たすことを主張していたし、ソマリア撤退を要求するにしても急な撤退は
国際社会の利益を害するという考え方も、広く見られた。
一方、ボスニアの事例では、異なる判断枠組みに注目する必要がある。なぜなら、議会
の大勢は、派兵政策の内容について条件付けとは別の争点で争っていたからである。それ
は、派兵についての最終的決定権を有するのは、行政か議会かということである。つまり、
大統領に海外派兵についての最終的決定権を認めることを認めることで、大統領の主導性
を尊重すべきであるか否かということである。この問題は、ソマリアからの撤退直後に戦
争権限法の立法が議論されて以来、議会で争点化した。ボスニア派兵においても、上下院
で関連する議案が何度か提出された。
10
この点について、党派ごとの反応は明確に分かれる。当然ながら、大統領を出している
民主党は、大統領が派兵権限を有することについて高い許容性を持っていた。実際、前章
で述べたように、ボスニア問題では、政権の行政能率を低下させるべきではないと民主党
議員は判断するようになり、議決を経るごとに投票行動の党派性が高まっていったのであ
る。
以上のように、アメリカの派兵政策を考える際には、派兵政策の内容の局面と、最終的
決定権の局面とに注目する必要があるであろう。2005 年 11 月現在、ブッシュ政権はイラ
クに 10 数万人の兵力を駐留させている。その前提となったイラク戦争の大統領権限を付与
する決議は、下院では賛成296票(共和党215、民主党81)、反対133(共和党6、
民主党125)
、上院では賛成77票(共和党48、民主党29)、反対23(民主党21、
共和党1、無所属1)であった。イラク戦争の場合も、政権党の議員の大多数、および民
主党議員の 4,50%がブッシュ大統領の派兵権限に承認を与えていたことが分かる。確かに、
イラク戦争初期において、ブッシュはアメリカがイラクに派兵する理由として、大量破壊
兵器の保有、アルカイダとの結びつきにより、フセインがアメリカの安全を揺るがしてい
ることを挙げており、より派兵の大統領権限に対するコンセンサスを得やすい状況にあっ
たといえよう。しかし、アメリカ兵の死傷者が増加する中で、イラクの情勢の展望は不透
明になりつつある。さらに、大量破壊兵器、アルカイダとイラクの関係も証拠が不十分で
あるとの報告がなされた。ソマリアでは、死傷者が増加する中で、派兵の内容、例えば何
を目的とするのか、何を出口とするのかということについて、議論の圧力が高まった。イ
ラク戦争においても、2004 年大統領選挙で民主党側が撤退時期を明確するよう主張したこ
と、ブッシュがイラク国民議会選挙の実施を派兵の明確な目的としようとしていることに、
動揺の構図を見出すことができるのではないだろうか。
注
1) 阿南東也『ポスト冷戦のアメリカ政治外交』
(東信堂, 1999), p.37.
2)詳しくは、阿南,前掲書,第 2 章、および五十嵐武士「ボスニア紛争とクリントン政権」
『国
際問題』(1996,5),pp.55.を参照。
3)小松浩「収拾程遠い旧ユーゴスラビア内戦--ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争介入を巡る
クリントン政権の苦悩」『国防』(1993, 6),pp.15.
4)Congressional quarterly Weekly review, December 12, 1992, pp.3808.
5)阿南, 前掲書, p.117.
6)Congressional quarterly Weekly review, January 9, 1993, pp.81.
7)Congressional quarterly Weekly review, December 5, 1992, pp.3762.
8)原文は、’In response to this heart-wrenching situation, the U.N. Security Council, on
December 3, 1992, enacted Resolution 794 authorizing the use of all necessary
means to established as soon as possible a secure environment for humanitarian
11
relief operations in Somalia.’
AUTHORIZING THE USE OF THE UNITED STATES ARMED FORCES IN
SOMALIA(SJ Res 45)(http://thomas.loc.gov/)
9)阿南,前掲書,p.69. CNN-Time1993 年 3 月 13 日の調査による。以下に記載。
アメリカは援助を必要としている他国すべてに手を差し伸べる責任があると思う
か。それともソマリアは特例か。
すべての国
27%
ソマリアは特例 67%
わからない
6%
10)デビッド=ハルバースタム『静かなる戦争,上』(PHP 研究所,2003),p.451.なお、国家
安全保障問題担当補佐官スコウクロフトは、楽観的な見方をもつ国家安全保障会議、
国防総省、軍のトップに対して批判的であった。
11)Congressional quarterly Weekly review, September 4, 1993, pp.2332.
12)Carroll J. Doherty, ‘Contrary Paths to Peacekeeping Converge in Wake of Violence,’
Congressional quarterly Weekly review, October 2, 1993, pp.2655.
13)阿南, 前掲書, p.122.
14) Gregory J. Bowens, ‘Officials Urge Fund Approval, Say U.S. Key in Peacekeeping,’
Congressional quarterly Weekly review, July 17, 1993, pp.1893.
15)Pat Towell, ‘op. cit.,’ Congressional quarterly Weekly review, June 19, 1993, pp.1590.
16) Congressional quarterly Weekly review, September 4, 1993, pp.2332.
17) INTRODUCTION OF
LEGISLATION TO EXPEDITE
UNITED STATES
WITHDRAWAL FROM SOMALIA, H.R. 3292 -- H.R. 3292 (http://thomas.loc.gov/)
18) Carroll J. Doherty, ‘op. cit,’ Congressional quarterly Weekly review, October 2, 1993,
pp.2657.
19)Carroll J. Doherty, ‘Clinton Calms Rebellion on Hill by Retooling Somalia Mission,’
Congressional quarterly Weekly review, October 9, 1993, pp.2750.
20) Pat Towell. ‘Behind Solid Vote on Somalia: A Hollow Victory for Clinton,’
Congressional quarterly Weekly review, October 16, 1993, pp.2823.
21)阿南, 前掲書, p.130.
22)Carroll J. Doherty, ‘Aid Reform, Use of Troops Await Hill’s Attention,’ Congressional
quarterly Weekly review, November 27, 1993, pp.3279.
23)『世界週報』(1994, 6, 7), pp.64.
24)同上, pp.68.
25)五十嵐,前掲書,pp.55.
26)Pat Towell, ‘Hill Set for Full-Scale Debate on U.S. Peacekeeping Role,’ Congressional
quarterly Weekly review, November 25, 1995, pp.3602-3603.
12
27)Carroll J. Doherty, ‘Clinton Vow to Provide Troops Reviews War Powers Conflict,’
Congressional quarterly Weekly review, October 14, 1995, pp.3158.
28)DO NOT SEND TROOPS TO BOSNIA (http://thomas.loc.gov/)
29)Pat towel, ‘Hearings Fail to Win Support for Peacekeeping Mission,’ Congressional
quarterly Weekly review, October 21, 1995, pp.3218.
30) PEACE IN BOSNIA AND DEPLOYMENT OF UNITED STATES MILITARY
FORCES TO IMPLEMENT THE PEACE (http://thomas.loc.gov/)
31) 五十嵐,前掲書,p.39-40.
32)久保文明「共和党多数議会の動向」『国際問題』431(1996, 2), pp.51-52.
33)阿南, 前掲書, p.173. なお、この問題の背景には、第 1 条第 8 節第 11 項の議会が戦争
を宣言する権限と、第 2 条第 2 節の大統領の最高司令官としての権限についての、憲
法解釈上の争いがある。
34)Pat Towell, ‘op. cit.,’ Congressional quarterly Weekly review, November 4, 1995,
pp.3390.
35 ) Pat towel and Donna Cassata, ‘House Votes to Block Clinton from Sending
Peacekeepers,’ Congressional quarterly Weekly review, November 18, 1995,
pp.3549.
36)阿南, 前掲書, p.190.
37) Pat towel and Donna Cassata, ‘op. cit,’ Congressional quarterly Weekly review,
November 18, 1995, pp.3549.
38)阿南, 前掲書, p.191.
39) Pat Towell, ‘Congress Reluctantly Acquiesces
in Peacekeeping Mission,’
Congressional quarterly Weekly review, December 2, 1995, pp.3669.
13
Fly UP