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使徒信条 : その史的考察
牧野, 玲子
基督教学 = Studium Christianitatis, 8: 1-22
1973-07-10
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Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/46291
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8_1-22.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
使徒信条1その史的考察
おとめ
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
野
玲
子
序
攣り偽&の融ミ昌9↓§荊鉱潟e℃”“凱蔦篭屋ミ$ヒ
とこしえ いのち
国︾﹃ミρ①.
ると語る。使徒行伝の著者も、初代教会におけるキリスト者早旦間の一致について述べている。われわれは、初代教
︵2︶ ︵3︶
のからだである教会にあってその肢体であり、この教会においてのみ、頭であるイエス・キリストと本質的に一致でき
使徒パウpは、手紙において、たびたび一致について語っている。かれは、また、キリスト者が、イエス・キリスト
︵1︶
融黛∼勤轟司隠旨e℃融勲叩踏袴鋤q馬ド
︹讃ス撫笙巻︵琢諮版社︶︺
我は聖霊を信ず。塑なる公議の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン
からだ 全能の父なる神の右に坐したまえり、かしこより来りて生ける者と死ねる者とを蕃きたまわん。
もとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰野にくだり、三日回に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、
よ み
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は盤霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトの
牧
1
文
穐の慧為へδミ黛ミミへり娠い冬ミミ禽.
ノ
文
rm @i一
口冊
輪
︵4︶
会の成員たちが”兄弟的交わりさヘミミ9”のなかで一致していたことを知っている。ところで、この”兄弟的交わり”
てバプテスマを受ける⋮⋮﹂必要があった。このように、イエス・キリストとの一致やキリスト者相互の一致は、ま
に入るためには、ペテロの説教にあるように﹁悔い改めて⋮⋮罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によっ
︵5︶
ことに一つの主に、この主にたいする一つの信仰に、そしてこの儒仰への門であり信仰公言の機会の一つである洗礼
に根ざすものである。ところで、イエス・キリストから始まった教会は、その歴史の中で、どのようにしてこの一つ
︵6︶
の信仰を保持し続けてきたのであろうか。また、現代人であるわれわれにとって、この一つの信仰をことぽ化してい
も ヘ ヘ へ
るものとは一体何か。さらに、そのようなものが存在するとしても、多くの宗派にわかれているキリスト者各共同体
にとって、それは真に一致のしるしになり得るであろうか。教会は、その歴史の中で、さまざまの信条ω団ヨぴ9⇔を
残した。時代、地方、教会内外の諸問題はその必要性に応じて、それぞれの伝承に基づいて、さまざまの定式
︷自ヨ巳器を形成した。小論がとりあげたのは、数ある僑条の中でも、西方教会のわく内でだけ育てられたのにもか
かわらず、キリスト奢たちにひろく知られている”使徒儒条ω矯ヨげ。げヨ︾℃o。。ざ一ざ¢ヨ”である。小論の目的は、こ
の信条がどのような過程を経て現在の形に固定するに至ったかを論じることにある。だがそれに急きだって、複雑な
歴史をもつこの信条に関する研究の歴史を概観しようと思う。というのは、確かにこの信条はコンスタンティノープ
ル信条についで重要であり、その権威は、現在ではキリスト教諸宗派に広く認められてはいるが、しかし、多くの信
条の中でこれほどまでにさまざまに研究されたものも珍らしいと思われるからである。なお以下に用いる時代区分
は、ケリーのものを参考にした。︹旨2・O・囚Φξ”国主ぞO﹃触聾置鵠OHo①翁●1一国6b自暴叫参照おαO\①O︺
* * *
一、初代教会時代∼八世紀 使徒信条に関するこの時代の一貫した態度は、この信条を十二使徒に帰するという
ものである。確かにこの信条は、その教義内容ならびに−断片的にではあるが一その言語蓑現について考察吟味
一2一
すれば明らかになることだが、十二使徒のそれらと密接な関係をもっている。しかし、この時期を特急づけているの
は、十二使徒を全く文宇通りにこの信条の著者としたことである。このような態度は、確かにルフィヌス↓貿雪濠霧
即¢訪⇒離。。︵恕?凸O>・O・︶の﹁使徒信条註解﹂︹閃巷。珍ご︵・。窪OoB旨①三貧ごω︶営ω岩蓼び。ぎ江湖℃o陰。同。拷ヨ︵癖O緊︾.P>”男■炉b。磨
ω。。㎝−ω。。ご○。弓臣○町醇冨き遷ヨωΦ旨。。訂けぎ⇔11ρ○卜××参照︺によって広まったのであるが、しかしこれに鈍きだっ
て、この問題に関するいくつかの史料が存在していた。アンブロシウス︾巨財。ω貯。。︵ωお。−。。ミ︾bしのものと思われて
いる北イタリア文書﹁入門者のための信条解説扁︹閃ζ一§巴。ω寵臣び。躍⇔瓢巨欝巳。。。・国い・ドS二ゆωみお9、四世紀後半に
属する﹁使徒規約﹂︹○。霧葺薮。器u。︾℃8ざ一。さβや○﹂︺、 ニケタス2ざ①富ω閃①邑巴き⇔︹・。ω窃。ム置。︾・∪・︶の﹁信条解
説﹂︹国老貯蛋一。ω賓臼ぴ。一一・娼・炉総︺などが代表的なものである。また、 ルフィヌス以後のものとしては、偽アウグス
ティヌス℃ω①¢蜘。−︾9σq仁ω瓢づβωの﹁説教﹂︹ω興旨。質①ω恥①ω団ヨげ05悶﹃ωP陣◎。P︵Q。ρ。﹀︺、ピルミニウス国旨βぎ貯ω︵誌αcゆ
実際、聖教会共通の聖典である新約聖書文書には、この信条の決定に関して一鞭も述べられてはいない。しかし、こ
︵7︶
の文書が、使徒信条にもられている教義内容を示す多くの箇所を持っていることもまた否定できない。それにもかか
司教マルクスζ段。gω国qσqΦ巳8ωによって、この儒条が東方教会の伝統に属していない旨が指摘されたからである。
た。というのは、 一四三八年にフェララにおいて、西方教会の代表者たちが使徒信条を唱えたとき、エフェソスの大
会の再合同を審議したこの会議において、この単純素朴な伝承はきびしい批判と振絶とに遭遇しなければならなかっ
関係を示す美しい物語は、この教会会議までは本当に歴史的事実として一般にうけとられていた。しかし、東西両教
二、08亀ごヨ閃Φ誕鋤艮Φ霧①−コ。津蟹ぎ仁ヨ︵H藤ωQQlH画心門 ㌧r両︶.﹀を契機とする使徒信条批判 使徒信条と十二使徒との
やされたことを示しているといえよう。
の史料の存在は、この時代が、この信条と使徒との直接的な結びつきを強調する学説と信心の形成および流布につい
︾U・︶のωo畏Q甥器︹UΦ。・写σ登象。。一一σ蕃。霧。嵐。一・。。・。費書ω器v℃・ぴ・。。㊤し8り中︵隷㌣相盛艶O・e⋮竃︺があげられる。これら
一3一
わらず、この時代は、マルクス流の批判者たちーヴァラゼ。器自。<㊤=効や司教レギナルド園①αq言⇔峯℃Φ8。〆i一を
ヘ ヘ ヘ へ
まと
輩出し、十二使徒源泉説、十二使徒著者説が否定された。ところで、批判の的がこの点にしぼられたこの時期は、信
条研究を新しい方向へむけるきっかけとなったといえる。
三、十七世紀における使徒信条研究の動向 一五〇〇年代の教会の全関心は、宗教改革に集中していた。それゆ
え、信条問題は背後におしやられた感があり、その復興をみたのは十七世紀半ばになってからである。この時期の研
究者たち一○.ト<oωωやqωωぴ2一のとった方法は、先入観を排除した歴史的研究法であった。さらに注目すべき
ことは、かれらがとりあげた問題が、これまで論議されてきた十二使徒と使徒信条の文字通りのつながりという点で
はなく、初代教会においてすでに承認されていた、教義・典礼・聖職位階制度等に関する資料全体を、十二使徒へ、
さらにかれらを通して主キリストへ帰するということであった。このために、歴史的研究を計画した当時の研究家た
を探究し、その結果、両者の間に同一性を見出した。それゆえ、十二使徒とこの信条との直接的つながりは問題とし
︵8︶
ちは、二世紀のカトリシズムの代弁者たちの残した雪意の規則話σq巳鎖ま蝕が十二使徒の信仰と一致しているか否か
ヘ へ
ての意義を失なうに至った。これにかわって、使徒信条−信仰の規剛一十二使徒ーキリストという歴史的流れにそっ
た研究がなされていくのである。
四、十九世紀における使徒信条研究の動向 この時期の研究態度は、 一幕懐疑的であった。 ハルナック跨・く。⇔
誕錠建業蕊鐸∴霧O︶および、一八六〇∼一九一四年までに、かれから影響をうけた人々は、教会の揺らん期、すなわ
ち一五〇年頃までにはまだ信仰そのものが発展しておらず、したがって落魚として純化されるまでに至っていなかっ
たと考えた。それゆえ、かれらにとって、信条の足跡をたどり、固定化された定式を探して初代教会時代までさかの
ぼることそれ自体無意味であった。かれらが新約聖書文書中に認めた信仰宣言とは..贈号δのN零&の.、、、旨竜需蟻ミ偽∼の
&℃×bミ㌫℃&℃ミき円巳亀80、、の類のものであった。この時期の信条研究を特徴づけているのは、信仰に関する論
一4一
争、信仰の危機、カトリシズム神学の発展等を通して短い信仰宣言文が拡大していく過程こそ信条発展史とする態度
である。
五、二十世紀におけるキリスト馬方宗派の態度 上述のような批判にもかかわらず、使徒僑条は宗教改革出たち
によってもその価値を認められてきた。二十世紀に入って、この信条の権威はますます堅固なものとなり、多くの教
会一致のための集い①8ヨΦ⇒ざ巴αq象ゲ興ぎαqωにおいて承認されるに至った。たとえば一九二〇年に開かれたラムベス
の会議ピ鋤ヨぴ①昏Oo駄賃Φ鄭。Φでは、使徒信条は聖書・秘跡・聖職位階と共に、教会の可見的一致を麦える柱の一本に
かぞえられた。さらに、一九二七年目ローザンヌでの会議.、同げ①芝ob山O§け掃切。Φo鵠男巴昏碧山○凱巽、、において
は、はじめて東西両教会に属する人々が一致してこの信条をとなえ、これがキリストのメッセージをふさわしく蓑明
している旨を確認しあったといわれる。それゆえ、この時期は、実践的にエキュメニヵルな方向へ展開しつつあった
一5一
︵9︶
ヘ へ
と同時にA信条研究の面からみると、教義史的観点からの探究が行なわれたといえよう。
以上から推察できる通り、使徒の名称を冠せられながらも、このような紆余曲折に寓む研究史をもつ使徒信条は、
キリスト教会の歴史および教義史が濃縮されているものといえよう。
HOo磐お\巳識い国℃冥ミ腿蹴い09・H鳶A.
囲。日レ趙黛ド○。“H鰻お欝O。轡ω鳶α■
諺。叶.鱒云卜。ゑ甲ミqO卜⊃融W黛旨鍬.
︾。け・専ωc。ひ
︾簿●鱒誌蝉
洗礼の秘跡は、竪信、墾体の両秘跡と共にH凶εω凶鉱甑黛δ巳ωといわれる。この意味で洗礼の秘跡は“門”である。この秘跡の効
果は①罪のゆるし、②聖霊の援与︵諺。rb。\ω。。︶、③イエス・キジストのものになること︵国喜ぐ罷h︶、④兄弟的交わりさミ§貯
註
(6} (5} C4) (3) (2) (i)
に加えられる︵入会︶こと︵︾9.b◇\痒︶である。初代教会がらこの秘跡のための準備期闘および式中に、志願者は信仰告白をする
HOo野◎。\9︸o磐cQ\ωご一〇プ.○◎﹀ρ勾。ヨ.日O\∼ζけ.ぐNOひ○巴.ミ合諺9噸bσ蕊ゴ踏。ヨ’↑O\①1ご箇覧ドミG。山9H、艶ヨ.①\δい
必要があった。
HO諏⊆。甲︵>o嘗隠>Oご一↓四日・①\巳甲同点。︸ピ鰻瞬。これらは、大体、使徒信条の項目順に対応する箇所である。但し①笥ミ据即ざ款靴
H℃⑦け■も。鳶QQ津目Oo辱δ\ωひHα\に廟同6一窪。も。\δいド℃①幹ω\bON⋮殉。日・G。\Q。分δ\館bQ6酵ピ変ご︾o幹δ\お甲︵上覧ピ黛bOもゆ︶甲︾o
鴨り銭建角暑袋麻.⑪零Sド②⋮尋ミミ遷蹄乱零貯℃息℃養も。々息ド③鶏三身を二三ミドの三項目に逐語帥に一致する新約聖
悼①おも。︶﹁死人からの復活﹂︵い諾P卜。O鳶黛>o㌘A鳶﹀と表現されており、姪鼠も印&q勧鳶袋の復活という表現箇所はみあたらない。
書の箇所はみあ.たらない。特に③について、新約聖書では﹁死人の復活﹂︵HOoび観≧b。二蔓疑り鱒rお申﹀αρHミ。。込。いb。も。おw卜。ミb。ご
ぴ①鐸鶏Φσq2あるいは菊①σq鮎熊①﹃堵ゆび跨Φ犀と訳されている。 これは二世紀の教父たち、特にぼ①昌鋤①霧︵ド心O膏①OゐO曽γ6Φ暮ロ7
℃①8困じ⇔歪コづ①旨 芝霧Φ雛二⇒︵一男¢ゆド瓢。昌<opO鐵¢ぴ①づ。・ぴ①犀。コ纂p猷。ゆ¢嵩︵お①Q◎γ鳩.①Oムド によれば、話σq霞冨ゆ鎌魚は○ド亨
櫓囲昌¢ω︵μ①O恒嘗る銚3によってピΦ︸霞臨。目白巴として用いられていた。話αq巳鋤艶盛魚の内容は﹁人となった神﹂の歴史が救いの歴
ヘ へ
その内容は、はやくから確立された伝統である。それは、聖書文憲や典礼文、特に、洗礼式文やミサの叙唱℃養Φ鍵笥。等の中の揺
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
史となった中心的な神のわざ、すなわち、﹁救いのわざ﹂で貫かれている。これは、文書の形をとらず、口伝によっている.。しかし
ともt深い関係を有しながらも⋮決して悶一視されるべきではないことに注意すべきである。すなわち、話びq餌早い処臨は、口
仰告白文にも現存している。また、これは教義および双書解釈のための標準でもあった。しかし、これが、﹁クレド﹂とも﹁黎書﹂
伝形式によった、したがって特定の定式として園定されなかった。その内容は、徹頭徹尾、神の創造のわざ、救済のわざの、単
宿.2二︶.菌①∫・H国.○○梱ワも。①G。.参照。
㊤伍ヨ潔冒三雛。︿福田OヨoO護φ〇二〇三。。“o℃①餐三①。。9臨。簿ゑ℃き訟。δp8⊆躰ρ=⑦ぎかロ①葺鵬門斜二目︵δ轡
ミ尊。始ミミミ,碧翁㌧ミ,ら黛こ∼﹀ミ貯ミ㌔、翁ミ,、・へ目無ミミミ. 頴⇔oδσQ⑦か︵8一ヨ鋤po纂oo①笛鑓一通ヨ象。・oぢ甥⇔節の象oO⇒く①話餌甑。口厨
嬉Nミ♪馬ミb笥黛へ∼恥、,象ミ義ミ誉ここ勢望胸ミ,縣ミ漁、,ミ§ミミ斗へ”ヘミN鋳鴇亀恥Qミ笥ミミ§らへN儀へ結聴、ミベ∼ミ騒∀ミ触,詳雨ミさご、、ヘミ隠ミ母ミ,鳥
叙ミヘミミミ、膏ミ§馬ミこ軍ミミ∼ミきミ、㌧ε、6Qミ堕ミ、奪、ミミミ蕎勧﹄、ミO、㌶,鋭逗ミなミミミ鑓邑蔑、頓㌧、ミ︾§救3へ一こミミ§ミ勉藁腎きミご
麟闘醸養︶. o・憎 ﹂0讐、簿ρ償箆①ヨ、軋無煮づ麟︵︶ヨづぎ︵︶①ωρ。。o㌶一幅ヨ︵︶凱留鵬簿掩護Φ︷o円露拶重縁。。層貸ミへ∼§ミ。陰。一露8侍ミミ馬時ミ匙
の史料を引用しておこう。 、一、Φ上巳二〇づ¢o自” 圃︶①︿写αqぎぴ¢ω︿①冨詳鎌ω11﹁目窪3豊B!、マ胃Oぐ’^﹂﹀﹂︶、NO刈公那眞ゴ僻e需︵国鶯プ昌
、門①詳¢葺餌浮垢口 ︷︶の勺舜①。。O鳳℃篇O嵩①=鋤①滞鵬OO毎一昌賛﹁津韮蝋﹀㊦欝蔚・﹂O.同GQ︵匡9訂冒鵬巨峯養︶に、これを見出しうるQ次に一つ
なる総括である。 われわれは今鏑、 7①⇒餌①qω” ﹀乱︿①屋鶴。c頃餌①戦①。。①。。錆﹁海流﹀δ薄着﹂磨。圏⑩.励戯︵寓巴ヨ⑳㎝嚇蒸︶および、
一6一
(7)
(8}
(9)
第一節 使徒信条1その名称について一−i
︵1︶
Oo飛禽鼠ご臼臼①儀巳搾簿陣。。といわれる使徒信条は、最初から今日の定式をもっていたのではなくて、その各項が、
︵2︶
モザイクのように、時代、地方、状況等の影響をうけて、付加され組み込まれて、次第に形成され固定されてきたも
ヘ ヘ へ
のである。したがって、使徒の︾唱。無◎膏娼8という語は、この信条の作者を、全く丈字通りに十二使徒とすることを
︵3︶
意延しているのではない。この信条が現在の定式をとるに至ったのは、紀元六世紀、あるいは八世紀のことである。
ところで、使徒信条ω団ヨげ。ξヨ︾も。。。巳ざ娼ヨという名称は、この時代をはるかにさかのぼり、この最古の史料は八
九〇年にミラノで開催された宗教会議において、当時の教皇シリキウスQo三鼠霧︵Q。◎。堅ωりり︸U.在位︶宛の手紙である。
それゆえ、この手紙の起章者といわれるアンブロシウスがこの名称を史上はじめて交書に残したことになる。かれと
この信条との関係を示すもう一つの資料、﹁入門者のための信条解説㎏において、かれ自身、信条の項日数と使徒の
数との対応を認めている。ルフィヌスはこの影響をうけて、使徒漆器の註解書を著わし、この名称を表題に用いると
︵4︶
ともに、この信条の形成過程にまつわる物語を残した。この美しい物語はやがて、十五世紀にきびしい批判をうけ、
︵5︶
これ以後、使徒信条の作者を全く文字通りに十二使徒とする説は完全に退けられることになる。ところで、使徒僑条
と十二使徒との関係は、クルマソρO巳屈睦君。昌⇔がのべているように﹁信仰箇条の客観的性格を強調し、すべての恣意
︵6︶
の疑いを近づけないために﹂、また﹁それが正典として採択されるために、使徒たちを作者とするしという便宜的な
点からのみ論じられるべきであろうか。たしかに、十二使徒が宣教を前にして会議を開き、聖霊に満されて使徒信条
へ
を編さんしたという話は、単なる信心深い物語にすぎない。だが、初代教会において信じられかつ教授されていた信
、、、︵﹂v 、、、、
て、二世紀にはすでに確信されていたのである。そして、この規則の独特のアウトラインを、われわれは新約聖書文
仰の規則が十二使徒からうけつがれたものであり、また、教授定式浄①℃舞8導。臨8舜。。ぼ⇒頓恥象①ピ①げ猟oHヨ巴とし
ヘ へ
一7一
︵8︶
書中に探すことができるのである。もちろん屋σq匹蝉ま臨とω同旨げ。ごヨ,とは区別されるべきものである。しかし両
彫上して無関係なものではなく・前里は後喜と・て重要な.陶ゼのである・したがって・懲纂という名称に
暗示されている使徒と信条との関係は、クルマンの説とあわせて、この側面からも研究されなければならないのであ
へ
る。以上から使徒信条の名称に関する考察は、この信条の形成過程を研究するこ之によって一層深められることが明
、 、 、 ︵9︶
らかとなった。この研究によって、十五世紀のマルクスによる使徒信条批判に対する答弁が可能となると同時に、使
徒信条という名称の真に生きた意味と意義とが明瞭になるであろう。
Ooヨ℃¢昌低葺ヨ。捲α誤謬霧冨魏信仰すべきことについての綱領。○帥①。・鷲ご。。﹀巴窪舞の嵩。。ぼ”GっΦ尉ヨ。圃×.、︸α寓﹃⑦類餌虹ヨ。陰謬麟ρ爆①
⇔ooヨ娼㊦昌αごヨoh費。ひ①oδぴq︽o︷穿①○ゲ弩。ダ
臼。山巳圃審缶ω鈴ξ訂①ooヨ娼。昌岱ごヨ⋮..一旨.ρ¢⇔ω8訂”℃螢霞。げαQ団○︸≦娼■同㌦.⋮謬︵翻藩①︸℃oω臨Φω.○お①瓢︶ヨ⇔団げΦ$=Φ瓢
6。菊¢油p睡夢 国×唱oG喚一凱。︵。。O信ooヨ旨①質ξユ諜。。︶ぎω月寒σo一¢諺bO︵勺。ピ.卜3㌣いWQ。﹃︶﹁我らの空の昇天ののちに︵そのように我らの父
ω①吋営O目×﹁ にも︻6︼に非常に似たテキストが残されている。
今日の定式を残している最古の資料は、八世紀の℃マB闘ご。弓⋮ωo貧⇔℃ω二艶 である。しかし、六無詑のO節霧鴛ごω﹀﹁色簿①謬。。﹃“
は紙数の関係から吏料による裏づけを管略する︶。
代と場所と対象等によって変化すべぎものであり、変化してこそ、其の信仰告白としての意味をもてたのであろう︵なお、ここで
ような傾向は東方諸教会の定式に共通してみられる。これらも〃諸状況”〃地方色”を示す大切な要素である。儒条の定式は、時
にわけた。更に、①は、イニス・キリストの人性を強調する定式と、神であることを強調する定式にわけることができる。後者の
℃長きδぴqざワ謹塗は、信条定式を①キリスト論的定式。ξ翼。びσqざ既ho醜ヨ三餌、②三位一体論的定式酢ユ巳㌶甑§︷霞ヨ巳β
をあげている。これらは、数項目が岡時にからみあって信仰告白を要する状況をつくり出すのが普通であった。また、﹄’ρ∬鋤簿Φ轟”
しご.≧雷pΦ糞℃餌霧90αqδ”巳①ρ℃.。。OI。。8を参照︶、②正規の礼拝︵式文と説教︶、③悪魔払いの式、④異端との論争、⑤迫害、
おいて、クルマソは、古代教会の初期に揺仰告白の使用を不可欠にした諸事情として、④洗礼と受洗者に対する教理教育︵なお、
○。。o貧O償ニョ窪﹃ ピ窃箕2筆記①ωoo⇔融ω巴。コω血oh駄。げ鼠件置添づρH漣G。噂℃霞グ﹁原始教会の信仰告白﹂由木 康訳、第二章に
一8一
註
(1)
(2)
(3>
(4)
{9) {8) {7) (6) (5}
祖の伝承は記しているのだが︶墾田の降臨とともに香のような炎が使徒たちおのおのの上にとどまった。かくて彼らは、いかなる
国昆も彼らにとって外国人ではなく、いかなる外国語も彼らの理解できないものはないことに気づくという結果にともなって、さ
まざまの言語を語れるようにされた。それから主は神の言葉を宣書するためさまざま.の国々にわかれわか3τに旅立つように彼らに
ら、気がついてみると彼らがキリストを信じるようにすすめている人々に対して、異なる使物を伝えていたというようなことにな
命じられた。彼らが互いにわかれを告げる場所にやってきたとき、今後の問題として彼らは広い範閥に分散させられるであろうか
にみたされ、各自が適当と判断する箇条を差し賦すことによって彼らの将来の宣教に関するこの短い要綱を起草した。そしてこれ
らないため、彼らの将来の宜教に対する共通の型をはじめて定めた。そこで彼らは一ヵ所に集まり、わたしが説明したように聖霊
は改宗者に対して標準的な教えとして与えられなければならないと宣言した。﹂この物語は、後に一層真に追ったものに発展してい
く。その例は、℃の①‘畠。−諺ゆσq¢ω僧号郁ω”ω①戦諺09。。匹①○り団長び。δあ費営。漣O︵勺.ぴ. らQ⑩1トり同OQ⑩﹀およびこれと同時代の℃マヨぎご。・の
これはすでにあげた物語に次のものが付加されている。..℃Φ霞¢。。” ○直門。ぎ儀Φ郁導噂餌嘗①ヨ。巳づ帯08摸Φヨ︾臼Φ簿oHΦBo①離簿
もの ︵頃鋤ゲ貯” じu卿σぱ。昏①犀匙⑦目Qつ矯旨び。δ¢詳山O︸帥環びΦ⇔。。目①σq巴質”6①ひ∂︾伽⑩bO噂びのσqω旨阜①昌︷○村§Φ︸白目。げ℃膣5ぎぎ。DVに見出される。
8ほ器■旨︵浄§⇒霧⋮卑一p竃ω二〇︸三。・けP2ごヨ①一塁¢駄2露岱○ヨぎ償ヨづ富宥。ヨ.⋮.、という形式で十二使徒が各々一項目ずつ
信仰宜言を行なったように記されている。
○●○β峯ヨ9p鵠﹁原始教会の信仰告白﹂ 一四頁参照。
序文、﹁信条研究の歴史 二﹂、参照。
序文註⑧参照。
﹁使徒信条﹂という名称について明らかなことは唯一つである。それは、本文にも記した様に、この信条が直接使徒の手によって
HOO円●δ\ωム一H卜Q脚GQ\ρ︾OρbQ\置1ω9ω\δ−顧い罷\笛GQlG◇黛HO蚕駆−蕊一同℃簿噸も○>QQIbQbコ等参照。
つくられたためにつけられた名称ではない、ということである。これは消極的な絃論ではあるが、璽要である。この二条と使徒と
の直接的つながりを主張するかぎり、この信条は全くその歴史性を失なう。本論文は、 この信条を、﹁キリスト者共同体によって
雌史の中で必要に応じて要約された使徒からの伝承﹂とみたい。時代、地方によって、種々の定式を生み詳した理由は、その時代
の教会のあり方、すなわち、各地方教会がその地方の中心となっていたという状況にあったといえよう。事実それぞれの地方はそ
れぞれの個別酌問題をかかえていたし、問題解決は、その共同体U地方教会の仕事であった。たとえ六世紀あるいは八世紀頃まで
ト者共同体であり、特定の教会会議ではなかった︵ここが、いわゆるω鴇鋒。創山事①Φ牙と椙徴する点なのである︶。それゆえ、残
に各地の教会の責任者たちによって、 一つの定式を使徒信条とする約束がなされたとしても、それまでにつくりあげたのはキリス
一9一
存している諸定式には、諸地方色がうかがえるのである。しかし、その骨組はあくまでも﹁使徒たちの∼﹂
ゐ ヘ へ
仰を継承しているものであり、諸定式聞の桐違点は、その点が単に濫掘化されたか否かによると思われる。
第二節 使徒信条の形成過程について
V約聖書女書からヒッポリュトスまで
︵1︶
︵2︶
二、ヒッポリュトスから[8一まで
であり、使徒からの信
使徒信条が古ローマ信条︵伝統的略記法に従って、以後︹空とする︶の変化型であるという説は⋮般に認められてい
る。[盈の形成時代や場所について、 クアステン旨ρ¢器叶①コは﹁教父学﹂二十六頁で、ヒッポリュトス篤ぢ℃○ぐ9ω
園。ヨき霧雪トニ。。㎝︶の﹁使徒的伝承﹂︹、奇§8Nへ急≧竃S。ミリN遂黙二く。の作︺のなかに洗礼に関係する一つの信条の存在を
指摘し、クロス﹁■い.O円○器やケリーは、 このテキストを、ルフィヌスのテキストおよびカッパドキアの司教マルケ
ルスζ霞8二霧。断諺9鴇卑がギリシャ語で残した[空テキストとほとんど逐語的にい致し、しかも一層目るい時代に
︵3︶
︵喋︶
属するものとみなしている。教会は最初の三〇〇年間にすでに、種々の異説とたたかわなければならなかった。また
モ ヘ へ
異教からの多数の改宗老をうけ入れるなどの状況下におかれていた。このような理由から、十分な正統僑仰に関する
教育および正統信仰を明示するなにかが必要であった。ローマの教会は、顯時、特に有力であったグノーシス派の説
から信徒を守るためもあって、﹁使徒伝承﹂を著わし、この点で他の地方の教会に先んじていた。クロスが指摘して
いるように、ヒヅポリュトスが保守的な性格の持ち主であったとすれば、かれが自らの著作物に記載した信仰告白文
は、多分ローマの教会において、少なくとも二世紀には用いられていたものにちがいない。二世紀の教父たちーエ
イレナイオスやテルトウリアヌスーが言及している信仰の規期の内容から考えてみても、この疇代のいっかローマ
ヘ ヘ ヘ
で西方教会最初の信条定式が形成されたとおもわれる。しかし、残念ながらこのテキストは今日残存していない。こ
一 10 一
一、
れは使徒信条の発展史における..ヨ博も・臨コσq一ぎ犀、、といえよう。それゆえ、ヒッポリュトスのものが文書で残っている
西方教会の信条定式の最古のものということになる。ところで、現在[盈とよばれている定式とは次のようなもので
ある。ルフィヌスが生国アクィレイアの教会で使用されていた信条を研究した際に、当時ローマで広く知られ、用い
られていた定式と比較し両者の相違点のリストを作成した。これを逆に利用して当時のローマ信条を再構成して作ら
れた、これが一般にルフィヌスの[勾︼とよばれているものである。もちろん、ルフィヌスの比較リストが完全なもの
であるという証拠ぱない。しかし、かれは、ローマ教会こそ使徒の教えをそっくり保存していたにちがいないという
確信をもっていたので、かれの著書に残っている資料はおそらく注意深く引用されたであろう。われわれはこのテキ
ストのほかにすでに述べたギリシャ語の︻盈テキストをもっている。これは三四〇年にアンキュラのマルケルスが自
分の信仰の正統性を疑われた時、教皇ユリウス一世が召集したρ⋮マにおける教会会議で信仰告白を行なった際に用
いたものである。この定式はラテン語の[盈と全く同じである。ところでこの[短から鳶嗣までの変化は、主として
付加によるとされている。したがって、本節の主題を考察するためには、ヒッポリュトスのテキストにいつ頃どんな
項目が付加されたかについて吟味していく必要がある。
霞署○ぼε。。圃○ヨ雪島“.眺謹暑気へ息自寒&ミへのe■ω冒δ︶
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◎ ︿固↓﹀竃︾国6国力Z>ぞ目
︵5︶
* * *
① ﹁天地の創造滋﹂o霧鎮。掃BooΦ躍簿叶角目㊤¢の骨加について
︵6︶
この句の西方教会の信条定式への挿入はおそく、しかも非常に稀であった。われわれが知る限りで、この点で他に
先んじたのは北アフリカの諸定式である。しかし、現行定式と阿じ表現による挿入はカユサリウス○器ω鴛瓦。・︾器︸午
8霧﹃︵ミOふ餐>b.﹀﹁説教九﹂まで待たなければならなかった。さらに注意すべきことは、この挿入句が固定するま
でに用語上の変動がみられた点である。西方教会の諸定式では、。8岳ε華墨と。審讐。捲ヨの両方が用いられていた
様である。この.句の挿入動機として積極的に指摘できるものはない。ただ少なくとも、西方教会の神学者たちが、こ
一 12 一
の句を何らかの誤謬や異端に射する塁とみなしていた証拠がないこと、および、教義として熱心に支持され、神がす
とりで
べてのものの創造主であるという事実は教会のなかできまった教理教育の内容に含まれていたことは確かである。そ
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
れゆえ、この句の挿入は、単に時間の問題にすぎなかったといえよう。
︵7︶
② ﹁キリスト・イエス﹂から﹁イエス・キリスト﹂への変更について
* ﹁そのひとり子、われらの主﹂Φ貯ω〇三〇爆ヨαoヨぎ¢筥8。。自民鋸ヨ
Oずユω蝕ロヨ 富。,自旨 目。ω望ヨ Oげ二〇・言ヨ
この句は、すでに房嗣にあらわれている。この一句の中で特に重要なのは途き蓋愚の11βぼ2のである。この語は、
エイレナイオス以前の文書には稀である。イグナティウスは8P&ξにミ。Oを用い、 ユスティヌスは篭ξ需尽りを用
いている。挿入動機は、二世紀半ば頃エジプト出身のグノーシス派思想家ヴァレンティヌスく巴Φ馨ぎ器の、μーマ
での活動一かれは、一三五∼一六〇年の間、ローマで自説の流布につとめた一にあったと思われる。かれの影響
をうけたこの派の人々は、..篭ξ需愚の.”と”歴史上のキリスト”とをするどく区瑚した。この説に対抗したのがエイ
レナイオスで、かれは真の意味での転§ξ罵愚のを明らかにしつつ、ヴァレンティヌス派のグノーシス思想を後世に伝
えたといわれている ﹁異端への反論﹂︾匹く’鵠幾等目HlH①等参照。したがって、この句の挿入時期は、異端論争の
後と推定できよう。
③﹁聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれし8糞①冥塁①。。什傷のω嵐葺嬬ω①口。8u器欝のΦ掴青膨㌶︿騨σQ膨①への
拡張について
︵8︶
この句をもつ最初の定式は三五九年にリミニ国警巳での会議で起草された定式集に記されている。この拡張を示
竣したのはヒエロニムス鵠δ冠○蔓B器︵叢Hり︶で起草者はフェバディウス℃げ。④ぴ巴ごωo︷︾σq①口︵富⑩b。。︶であった。こ
の句の挿入は同時代のヒラリウス黒鼠N置の無℃o賦①誘︵↓ω①刈︶によってくりかえされ、一世紀後にはファウストウス
閃磐・。εωo︷菊δN︵唖直りO\㎝◎Oo﹀によってプロヴアンス地方に流布された。
︵9︶
13 一
︵10︶
︵10>
④﹁苦しみをうけ﹂窓霧器の付加について
⑤﹁死にて﹂露。ほ。器の付加について
⑥﹁陰府にくだり﹂身。。8巳搾⇔山冒臨費轟の付加について
これは新しい内容の付加であると同時に、釈義上、相当の困難を含んだものである。ルフィヌスが示唆するところ
では、この一句は四〇〇年頃の涯方信条定式にはみあたらない。イグナティウス、エイレナイオス、テルトゥリアヌ
ス等初期の諸教父はこの句の意味するところを知りかつ信じていたのにもかかわらず、自分たちの儒仰の規劉や、信
仰告白のなかに書き留めていない。この挿入句は六世紀のいくつかのスペインの定式に見出され、またヵエサリゥス
のテキストからはじまって七∼八世紀フランスの信条定式を特徴づけた。この句の挿入動機および時期について、わ
れわれは現在いくつかの仮説をたてる以外になく・確言を求めることができ施・
お ︵12︶
⑦﹁全能の﹂o讐巳℃○酔①翼置の付加について
⑧﹁かしこより﹂ぎ曾について
⑨﹁、公同の・普遍の﹂鑓臼。庁飴ヨの付加について
この諮が西方の儒条定式に現われるのは四世紀後半であ.る。その叢初のものはニケタスのテキストであり、後にス
ペイン、フランスの儒条におきまり文句として付加されるようになった。
、 、 、 、 ︵14︶
⑩ ﹁聖徒の交わり﹂。。審。8毎ヨ。○ヨヨニ巳。器Bの付舶について
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
教会の歴史.のはじめから、聖徒の交わりは中心的テーマでありながら、この句が信条の一部として挿入された隣代
や事情については全くわからないと言ってよい。新約聖書文書では、すべてのキリスト者を”聖徒たち”穿ミ一湾。欝.
ぐ8。。落馬騰\鵠 卜O。罫七声O\Fま﹀虫ρとよんでいる。ここから聖徒の交わりとは、兄弟的交わり.としての教会を意味
しうるであろう。他方、ファウストウスは、リエズの司教となった頃︵四五二年頃︶フランスで行なわれていた殉教者
!4 一一
たちにたいする崇敬を助長しようとして、この句を使用した。この場合、聖徒の交わりとは、殉教の栄誉をうけた
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
天上の教会のメンバーとの霊的交わりを意味している。この挿入旬に関する諸々の点が不明瞭なのは、このように、
入時期についても、憶測の域を出ない。唯一の確実なことは、この句が西ヨー・ッパの諸地方で四∼五世紀頃、教会
ω舜。98謹呈8ヨ白§ざという語句それ自体がもつ意味の復雑さとその使われ方の変遷とに関係があると思われる。挿
︵15︶
⑪ ﹁永遠の生命を﹂鼠寅ヨ餌霧①話帥露の付加について
員の気持の中で非常に生き生きしていたという点である。
あ * ﹁罪のゆるし﹂諾ヨ冨。。δコ①巨℃⑦oo鉾。毎露
これは易︸に挿入されているが、ヒッポリュトスのテキストには欠如している。残念ながら、欠如の出歯を明らか
に示し得ない、がしかし、この現象は、使徒信条定式ぽかりでなく、新約聖書文書に続くキリスト教諸文献において一
般的なことのように思われる。バ⋮クレー名艶鍵ヨじd貧9塁﹁使徒信条手解扁︵8げ①豆⇔ぎヨきδo犀の鎮齢げ①諺悔。ω臨Φω.
O誘①Pち①Nい8島。箒︶によると、使徒教父として知られている人々の文書のうち、この点に言及しているのは﹁バル
ナバの手紙﹂︵六回︶、﹁ヘルマスの牧者﹂︵一丁︶、﹁十二使徒の教訓﹂︵一回︶、﹁イグナティウスの手紙﹂︵一圓︶にすぎ
ない。この点を説明するために一つの仮説をたてることができるかもしれない。すなわち、﹁罪のゆるし﹂は洗礼の目
的・結果の一つとしてはやくから知られ、信じられていたために、ヒッポリュトスの定式の原型であった信条が用い
られていた時代には、定式化するまでもないことであった。したがって、洗礼志願者への教育によって徹底されてい
たであろうこの項目が定式化されたのは、逆に池43えるなら、角器のゆるし扁を明文化する必要性が後代のいっか、﹃菊]
形成までの問に、生じたということになろう。また、使徒教父たちが、これに言及していなくても、当然の真理とし
て認めていたことはいうまでもない。なお、ヒッポリュトスのテキストと濁]との間にはこの敵いくつかの相違があ
る。しかし、それらは、信条形成上の本質的な問題とはなり得ないので、ここでは省略する。
一 15 一
われわれは、[菊]から[8回までの間に、もう一つの重要なテキストをもっている。それは、アルルの司教カェサリ
ウスが﹁説教九﹂に書きのこしたものである。今日の[出定式を完全な形で伝えている最古の史料は、ライヒェナゥ
の初代修道院長ピルミニウスの﹁スカラプスス﹂である。そのため、ある二条研究者は鷲︼の出現を八世紀とする。
︵17︶
しかし、他の研究者は、この時期を六世紀と考えている。その理由は、このカエサリウスのテキストを使徒信条とみ
なすところにある。いずれにせよ、このテキストは、信条研究上みおとすことのできない重要な三振を占めているゆ
え、ここで吟味しておこう。
O話餌○ヨσ①∬彰唱ゆ霞①ヨ。諺巳唱○竃葺。ヨ”亀、免黛な、、Qミら亀無篤ミ妹ミ,︸、食♪
○餌①。。費ごω﹀冨♂8箒。。同ω” ω巽ヨoH×● 門06ヒ:O目ご
ゆ ︵︾,馬翫。簿ぎ密ω¢ヨ○げほ。陰εヨ︾融雪ヨΦ貯ヨ裂、職鷺ミ嚇ミ趨賜§略一霞こ§ミ到
訪図器堵ヨ忠言島田。。③℃醒酔自幹 蹴象ら§ミ曽ヘミ篭冬、,嵩38箕ご凸Φ拷藁葺Φ翼帥δ鎚田○糞鼠ρ窃。㊦p鳥搾節鳥。霧ざ。・’
◎ ◎
ρ巳8考㊤貯。。⑦簿紆ω覧撹首ω睾99協§§婁§ン§臓、置ミ謎§魯.愛議§§矯導、。ミ凡。ミNへ§ら嵩。憎
ゆ
養しミ。ぎ勧ミ§§ト魯隠,ミミ♪ωき。鼠巳①8冨ω置Bらミぎ勘§ミ混ミ∼9ミ、∼§§ミミ§§N§き諾邑。。。。一8Φ旨窟。。雫
越叙§践締×8莚ヨ仙魚饗汁駐。露巳噂。器箕グぎ号建§琳ミ・婁ミミへ§、Qぐ客○ω卑ヨ。溝琴ω.
辞。図信ヨ”o帥吋臨冨門¢も。自葭①◎梓︸9冨ヨΨ嘘肺袋ミ輿無ミ、、§毛野 ︾ヨ㊦轡
⑲ ㊧ @ ㊨
③ α器鎮○罐ヨ。霧賦簿富附酒器 この句は、カエザリウスと隅年代の二人のフランスの教父、フアウストゥスお
よびキブリアヌスの信条定式テキストにはみられない。すでに述べたように、この句は北アフリカ定式にはやくあら
われた。この句がカエザリウスのテキストに入ったのは、多分、かれがアウグスティヌスの研究家であったところが
ら、アウグスティヌスに帰されている説教集などを通じて伝達されたからであろう。
②三つの9亀。について これは、かれの神学が一貫して三位一体論をとりあつかったことからもわかるよ
うに、三位一体への信仰を明らかに宣雷するためであった。[、説教九﹂に認されているつぎの交からも証明できる。
一 16 一
⋮訪仙Φω○日陰亘ヨ○プ廿。。隊嚢。⇔o建日一渇↓嵩巳$措8器冨葺”①け鳳8簿㌶箒g二ごB︿o窪の冨導仁ヨ。。︽彰ぴ○ロ
嵩も①甑ヨ¢99甘ω①⇒篇旨①毎。。器℃①甑鉱。駄ω貯。・おコooo憎くΦ目白8ユ巳衆愚。。・
三度くりがえす。というのは、くりかえしの数︵三度︶が三位一体のしるしとして適当だからである。偏
﹁すべてのキリスト者の儒仰は、三位一体に在る。それゆえ、われわれは、あなたがたのために、信条のテキスト︵クレド︶を
③暮おΦ巳ε白。。①笑覧お同薯ヨ﹁ この句をもつ定式は少ない。煽巳αqΦ巳窪ヨが、カエリウスのテキストに挿入さ
れたのは、多分ハ四世紀スペインの信条定式の影響によるものであろう。かれが、アルルの司教であった五〇三∼五
閣三年は、大部分東ゴート族の政治的支配下におかれ︵五〇七∼五三穴年の間︶、これに窪きだっ四七六∼五〇七年は、
西ゴート族が支配者であった。また、五一四年には、教皇シュムマクスωロヨ尊霊ぴ岳は、スペインで起った信仰上
一玉7一
の問題解決のために、 カエサリウスを起用した。 以上のことからかれはスペインの教会と関係をもつに至り、 この
§斜Φ巳8ヨという語を四世紀スペインのエルヴゴフの聖グレゴリウスの鑓ぴ①︸ぼω四隣Φ陣から借用する可能性はあっ
たといえよう。かれ蒸留の﹁説教﹂九および十にみられるつぎの例は、現行︻円︼と同じ表現をかれが知っていたこと
を示す竜ので、q巳σq①巳εヨが借用語であったことの証拠となろう。
伽。ヨぎ償ヨ昌。ω欝 環 ヨ . ︵ 図 ︶
国柄⑦ヨ2巴窪窪ρ節密・ぎ伸亀①σq⑦勺餌霞①ヨ■︵一×︶甲9&ぽ①二ψ冨ω信ヨ○びユωεき頴ぎヨΦ貯ω§6βヨ
り り う へ
﹁あなたが、、父ときいたら、子の父とさとりなさい︵九︶、またそのおんひとり子われらの主イエス・キリストを信じなさい︵十︶﹂
[OOト.○自昌
@ヨ覧3寒月ヨは、かれが東および西ゴート族の政治的支配下におかれた司教であったところがら、 アリウス派を信
④器け霧Φ魯餌Φζ仁。門㌶三村αQ同コΦ この胴法は、カエサリウスと同時代のあの二人の教父にはみられない。カエ
奉する支配者たちに対抗して、信徒の信仰教育のため挿入されたものであろう。 ∵∵・ 訊、
。。
サリウス自身﹁説教﹂十においてO目②自謬①o¢ヨ60コ口Φ℃ε営。ωもαΦ伍①ω℃マ津鐸ω⇔降。けPoθ昌勲欝ヨΦ×ζ⇔甑㊤︿冒σqぎ①
︻ρ○■ピ◆OH自0昌と表現している。したがって、ω§oεヨω℃三εヨにみられる名詞と形容詞の倒置とあわせて、この
変化はかれにとって純粋に定式のためのものと思われる。
⑤冨のω話㊦露鶏げ℃○箕ざ霊︸象。 ﹁説教﹂十では、○器臼審⋮唱窃盗ヨ霊げ℃。三δ麟聾ρとなっており、
[8]テキストと同じである。したがって、変型の理由は④と同様と考えてよいであろう。
⑥浄ω8民ば辛党鵠諺曽 この句の挿入にはたした二丁サリウスの役割については、すでに、ヒッポリュトスの
テキストと[困および[8]の比較の際に述べた。かれは門説教一十においては、O話黛9夏芝巴ぎ︷嘆轟鋤Φ。。8β象ωω①
と記している、がしかし、モランP9ζ霞ぎの註解によると、これはカエサリウスの荘厳な形式で、かれの定式
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
では現行[6嗣テキストの形をそのまま伝えている。
⑦ω①象齢 ﹁説教﹂十では[空および鷲]と同様に負①融8⋮。。巴簿と記されている。
⑧<窪ε凄ωご蝕。鴛① 一、説教﹂十には、自①無欝⋮︿2巳凄ω巴蝕ご無。鷺①と記されており、覧嗣テキストの形を
うけついでいる。
⑨舞夢皇。鋤ヨ [滋に欠如しているこの語の挿入についてはすでに述べた︵ヒッポリュトスのテキストと門盈および
肩]の比較参照︶。この語がかれのテキストに付舶されている事実は、この時代にすでにこの語がフランスの信条定式に
固定しつつあったことを示すものといえよう。
⑩。。§90凄ヨ8ヨヨ島島○尾冨μ この句が門空に欠如している点についてはすでに述べた︵龍述の比較参照︶。同
じ門空の系統に属する定式でも、アムプロシウスとアウグスティヌスが残したミラノ教会の二つの定式、アクイレイ
ア、ラヴェソナおよびトリノの定式にはみられない。また、 ヒッポ、 カルタゴ、 ルスペの諸定式およびスペインの
六世紀のテキストにもまだ挿入されていなかった。 ただ、レメシアナ︵ユーゴースラヴィァ︶の司教ニケタスZ8簿⇔。。
一 18 一
ヨ甲凸恵が残したテキストには記されており、六世紀になってフランスの信条定式にもあらわれるに至った。
⑪︿ぱ⇔掌中ゑ臼欝窮 この句はカエサリウスにとってきわめて重要なものであった。[空にはまだ挿入されてい
なかったこの句が、カエサリウスよりさきに、レメシアナ信条に付加されているので、かれ独特のものではないとは
いえ、かれが他定式から積極的にうけとったのには理由がある。それは﹁説教﹂九に述べられているように、かれ
にとって﹁永遠の生命扁は信仰の頂点であったからである。
現在われわれがもっている現行[8]の最古の定式は八世紀のピルミニウスのテキストである。しかし、以上で吟味
したカエサリウスのテキストは、かれがおかれていた立場や時代による特殊事情を別にすれば、また﹁説教﹂の丈脈
によって補ってみるならば、このテキストをもって使徒信条定式の完成とみなしうるものと思われる。さらにこれは
まで、の二時期に区分した。しかし、残念ながら紙数の関係上、 一、を省略せざるを得なかった。因に一、に用いた研究史料をあ
使徒信条の形成過程について論じるにあたり、小論では、一、瓢約聖誕文書からヒッポリュトスまで。二、ヒッポリュトスから︻8︸
げておく。④﹁新約罫書文書﹂ ⑧﹁ディダケ﹂ ⑥アソティオキアのイグナティウスの﹁手紙﹂ ⑪殉教者ユスティヌスの﹁第一弁
証論扁、﹁ユダヤ人トリュフォンとの対話﹂⑭エイレナイオスの﹁異端への反論﹂⑪テルトゥリアヌスの﹁異端者への抗弁﹂、﹁処
ヘ へ
女のヴェールについて﹂ 使徒信条定式の最初のものは、この時期すなわち二世紀までに形成されていたらしいつしかし、定式のま
︹6嗣翻8①置ε。ねHOoO℃ε。。の伝統的省略記号。
ま残存していないため、この信条の定式にもとつく歴史的研究は、ここから始まるといってよい。
閃・じ’ONOω。。”﹁教父学概説﹂八九頁、旨’乞﹂﹀図Φ︸ζ”国.O●○弓.Q。ρ参照。
ζ.Oユω江p巳”﹁異端小史﹂、旨Z﹂﹀閤。=質 国●◇○参照。
神の創造的活動を示す句は東方教会儒条定式ではほとんど一定した要索であった。−この部分の欠如は[菊回の特徴として最もきわ
ヘ へ
だった点でふ‘oる。しかし酉方の教理教踏篭たちは、神による宇宙万物の創造のわざを重要項目としてとりあつかい、この点で他
一 19 一
(ω
[空と現行[昌テキストを結ぶ重要な橋であり、複雑な使徒信条の形成過程を知るうえで貴重な史料といえよう。
註
{1)
〈5) (4} (3) (2}
宗教とキリスト教とを区別したほどであった。q話舞2ω“︾α︿層鵠器巴.・回員ム許譲・︿雲霧諺”σの↓旨冨四二参照︶、また、.
濁x℃o。。三〇︵ω①自 OOヨ誉P①]P艸⇔﹁一¢oo︶冒。,累ヨび。﹃ヨ・、.⋮冒︿押ω評定簿卿日℃器ω子濠.、︵ルフイヌスは、白書四で﹁創造重なる神、すべ
察8奮菊①段。。踊§父q。ωo。点δ。︶いOΦ琢Bぴ書歯”、.02ヨぴ。宕B簿甘。・窪ヨ。8一一。:①舞①。話藁葺§、.■とβ㌘欝器”
ての急なる神﹂に誉及しながら、自ら定式に挿入しなかった︶は、門殉︼と門8︼の中間にあらわれた例である。さらに、この挿入句
と異端の関係からみると、グノーシス思想が問題になりそうに思える。しかし、グノーシス思想が各方数会を鷹巻した時代とこの
句の定式化の時期とにずれがある。
σΦ¢ヨ勺碧吋Φヨ。ヨp轄。δβ3資噸ββぞ①屋oHβヨ。圏O象。凪⑩ヨu.,
諺¢窪自¢ωけ冒¢ω” GQΦHヨobっH窃ぎH①伽魯甑O鐸①o。団日ぴ。一坤︵勺・﹃cゆGQ−陣O刈悼︶、、男鉱①ωφ回σqoずρΩ①O露ω効貯こω①oD什器m窪一畳oH①飢①巴①移。ωヨ
この語順は[菊]の特徴である。渓、へqaの釧﹁メシア﹂の意として、唱qo隔りのさきにおかれるのは初代教会時代のギリシャ語では普通
のことであった。 ギリシャ語とラテン語の交替の時代をむかえ、 キリストー1﹁メシア﹂の意の麗実性がうすれていくにつれて変化
し、固定したと考えられる。なお、○.ζOび目ヨ節コ⇒”囲﹂巴凪αqざ巴ぴ餌戸毎りはω○㎏薦ぎ勉欝篇Oゲ貧簿08ドおOメ¢φ﹀顧参照。
瓢鋤げ譜”吻6①.司。巴ヨ色傷霞割・旨.もQαゆN億︾ユヨぎqヨくΦ誘⇔ヨ日①ぽ。昌。慧び。αoメ①揖じd騨。ゲα措凸、.O繊焦①o◎Φ︸︵︶鐸窃8つ鳥FoO㌣
@20 一一
一一一
o①冥ロ。。霧けαΦω覧壇昏睡ω⇔詳08①諸臭素貯く団壇σq冒①⋮..なおこの挿入句は、起草者が属していた教会で、すでによく知られていた
この句の挿入動機として、ヒラリウスは、豊霊の働きが。︵︾口。首段①にあることを強調するためであるという説をたてた︵Oφ日イぎ7
定・式からの借用であろう。
鼠8卜31譲いドOl嵩庸︶。しかし、これを異端との関係から考えるよりも︵8昌。轄①おと旨簿霧との区励の確立が﹁養子説﹂駁論に
役立ったとしても、それは八世紀末のことである︶ 一般酌な教会生活にみられた誤解の諮正のための挿入と考えられる︵トZ.H︶.
二世紀の教文たたちは、自由に、④⑤を挿入あるいは酎除した。たとえば、
囚皿ぞの見解︶。
W葬葬轟一三︷圃−堅ζしぎ・・詫・・も裂霧・羨
ヨO詳餌qω.、を付加している。
U①夙藍団釜ω︵○。。鍵。○びH㍊。ゆ二3黛℃§り鳳、、
爽輩苫舟菅蓑憶﹃隠逮萎Lマ・・驚・・はぎ詫・あ・・
ィφ邑雪器︵︾雪罫吋g。gヨHEε 鳳
一華一纏ま回れて使用された。
{6)
(7}
{8)
(9)
(10)
へ し へ
二世紀の教会ぽ、新約塑書にひきつづき、この点に関する修理を保持していた。回αQ瓢簿貯。・h︾儀竃鎗αq騨曾℃o︸団。幾℃霧簡︾価℃げ濠や
両語が定式に最初に付加された例はミラノ信条である。この付加も自然に固定したと思われる。
ぴ8焦8塁蕊異端に対して。②U。。①諺琶奮異端に対して。︵説明省略︶、挿入時期は五世紀頃と推定される。
ご一石舞2ω”﹀身’口器響H︿愚﹃Ib。角くi鐸∴簿ρ堕8臼霧笛き仁。。”Uo︾鼠顕ρ綬.参照。なお、仮説として、①︾や。岳づ霞﹃
西方教会でO蝕。読字首。富β訟ωをもつ最初の定式は℃臨ψ9宗⇔口○話Φ匹︵四世紀頃引用された︶。なおこの語の挿入は使徒信条定
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
式の第一項との関連から当然おこり得たことである。
ヒッポリュトス・テキストにはいずれも入っていない。
多くの地方教会の使徒信条定式ではぎ島⑦を使用。したがって︹図︼の鴬⇒瓢①はこの点で.のμーマ教会の孤立状態を示す。因みに、
リック教会﹂という意識をもっていなかった。それゆえ、むしろ普逓的な、キリストにおける︸つの教会の意識の強調︵2⋮8欝曽
この語は目σq暴樽ごωの﹁スミルナ人への手紙﹂二・八にはじめてあらわれる。教会は、はじめ現在のような﹁他宗派に対するカト
ヘ ヘ ヘ
σ①ω団ヨび島oHO膝﹁一つの正統な教会﹂参照︶こそが挿入動機であったと思われる。アリウ・ス派の教会やドナティスムの教会など
が。葺①畔甥①=畠。ゐゲロ零財︵㎏.窯’O曜囚9ぢ”輿Obごやω◎。ごとよばれて区別されていたらしい。
う︶。②ト客P浴ξ・頃ρ○︵℃■ω8>は、Z︸8雷ω︵ωω㎝。ムドO頃︶によって註釈をつけられた定式︵O・ω旨び。︸。δ参照︶を
①零’bご霞。冨堵⋮﹁使徒信条新解﹂、やω謡は六世紀半ばとする。︵この説は多分、斜日サリウスのテキストを考えてのことであろ
鱒ooおよび蛮pげコ’伽⑩b⊃に記されている。
黙認。瓢oQ団島げ90讐日’]︶①ゆ鼠ユ○鄭βヨ簿O①o二面島。づ月露審器げ霧団民活Φ叶ヨ。艮ヨ’OΦ欝ぎαqo雫ω島9ヨΦ言¢巴ω.︸■︵嵐罫U.Qっ●︶
教教義に関するハンドブック。およそ七﹁○∼七二四年の間に書かれたらしい。なお、かれの残した使徒信条テキストは国口。ぴ㍗
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ω﹃勺貯旨冒貯Q。︵ω酷く① ℃二目bP一昌陣鐸ω︶︵↓刈窃ω﹀、ベネデイクトム瓜三川、..ωop屈p℃ωqω匪]︶⑦ωぢ鵬巳同ω甥σH冨。昌昌○づざδωo四隣餌℃o。¢ωり、ーーキリスト
ンナ信条に挿入されている。
の時代︵念01参じにラヴェソナの司教℃・○ゲ蔓。。o一〇αq島︵幽ら。も◎一心㎝O餅濤︶の﹁説教﹂五七∼六二︵℃.じ●㎝b⊇−bQO陰影︶にみられるラヴェ
顕。ヨ同氏餌心O山.は重要史料である。アウグスティヌスによるべラギウス反駁時代に、この句の定式化は準備され、レオ・マグヌス
壱州8$ω幣⑦毒口。・賦p費UΦしQ団ヨび。ぎ這旧︾¢σQ器櫛ぎ蕊”Qり①巴ヨ。践。舞Φoゲロヨのβoωり︵勺ト.①お︶甲い○ず曼ωoω8日島︵G。鰹。ムミ︶”
最初のものとする。
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キリスト者共同体は、複雑な過程を経て使徒信条を手に入れた。信仰の柱ともいえる信条が、何故最初から一定式
として与えられなかったのであろうか。 一般の規翔を考えても、その場の事情を考慮しないで出来上ったものなど一
つもない。これと同様に、信仰の規則もそれを信じ守る人々の関与があってはじめて発臆するはずのものである。新
約聖書それ自体でさえ、最初から一定の形をとっていたわけでなく、各地方のキリスト者共同体の中に生き生きと伝
えられていた伝承が、ある屠的のために取捨選択されてまとめあげられてきたものであろう。それにしても使徒信条
は、その形成過程において、多くの謎を持っている。紙数の関係上、多くの問題を省略せざるを得なかったため、説
明不足に終った感がある。たとえば、 一項目定式︵キリストへの信仰告白のみから成る︶、二項翼定式︵キリストとその御父
なる神への儒仰告白から成る︶および三項碧定式︵父.子・聖霊への信仰告白から成る︶の成立と変遷、ならびにこれらとキ
リスト論的定式あるいは三位一体論的定式の組みあわせ、その使用の機会等について、また、初代教会時代の史料に
残っている幻巴里甑。−↓高慢菖○ω︽ヨげ。¢について等。また本文では詳述できなかったが、定式の部分的相違点をもつ
多くの姉妹定式が残存しているのも使徒僑条の特徴である。これらは、キリスト老各共同体が信仰箇条の骨組を共通
にしながら、必要に応じて、自らの信仰を確立しようとする態度のあらわれであり、自分たちの共同体のきずなの公
ヘ へ
言であったと思われる。小論は、この使徒信条を、㌧×③図ヒへの信仰から出発して、諸事憶による付加を経験しなが
ら、歴史によって純化されたものとみなしたい。
この小論は、”信仰の一致点を求めて”という副題をつけて、昨年度の北海道基督教学会で発表したもののまとめで
あるが、その目的を十分に達成できなかったことを反省し,今後も研究を深めていく必要を痛感する次第である。
@22 一
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