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社会での生き方における禅修行の位置づけ
社会での生き方における禅修行の位置づけ ――若い WS 居士の質問に応えて―― 丸川春潭 0.若い WS 居士の質問 (『セレンデイピテイ(偶然的発見)と精神集中・三昧』を読み、)すごくすごく 興味津々の内容ですね。私は会社で開発、大学のドクターコースで研究をして いるので、特に。でも、未熟のため、まだまだ実が成らず。 研究開発に限れば、結局は、数息観のみで OK ということ? それとも参禅が 必要?その辺が未だによくわからない。(H15.7.1) 私は、入門してから8年程でしょうか。私の現在の認識では、「禅をすればど のように生きればいいかは分かるが、 (社会の中で)何をして生きるか、何をな すべきかは分からない」、という感じです。これについて、どうでしょうか?(学 生時代から今日まで、)未だに答えを求めつづけています。 「何をして生きるか」 「何を研究開発するか」が私のテーマですが、(この模索と禅の修行とをどう結 びつけたらよいか分かりません。数息観ででしかないのでしょうか? (H15.7.14) 1.人間形成と仕事・生き方 (1)実社会での仕事の値打ちは、人間形成に比例する。 ・入学試験、入社試験は、たまたまということがあるが、毎日仕事をし、 毎月給料を貰う実社会においては、たまたまも、はったりも、フロッ クもない。本当の実力が発揮でき、また評価される。 ・仕事とは、自分が価値を創造すること、役に立つことである。 ・人間形成と共に能力は発揮され、仕事が出来るようになるということ は、まぎれもない公理である。 ・身の丈(人間形成)以上の仕事が出来るはずがない。 (2)実社会での実情は? ・仕事の業績を上げるのを最優先に、 (人間形成などそっちのけで)しゃ にむに頑張っているのが、大部分の社会人の一生である。 ・人間形成を後にして、仕事だけを追いかけていては、いくら真面目に 仕事一本でやっているといっても、その人が持っている能力の半分も 使わずに一生を終えてしまうことになる。勿体ない人生である。不完 全燃焼の一生と言える。 ・人の能力というものは、人間形成を積み、人間力を長年の精進により 身につけてはじめて開花し発揮されるものである。 1 ・目先の仕事に追われる日暮らしでは、いつまで経っても仕事をする人 間としての格が上がってこない。 2.人間形成における人間力・三昧力と境涯・見識 (1)人間力・三昧力(法話「三昧」参照) ・人間力は三昧力に比例し、三昧力は、体を鍛える、知識を広める勉強 と並んで長年月を費やし努力を重ねて身に積むものである。 ・三昧力は、深い数息観法の行取による一日一炷香の継続にかかってい る。 (2)境涯を高め、見識を付けるには ・先ずは見性することである。最も効果的であり且つ本格的なのが、道 眼を開き、道眼を磨く参禅弁道である。 ・境涯の進展は、その人の従来の殻を破ってもう一回り大きくなるため の変革脱皮である。変革脱皮なしに、境涯の進展はない。 ・当然大変な難事であり、難行苦行も必要になる。厳師が不可欠であり、 勇猛心がなければ先に進めないのは当然である。 (3)人間形成は、道力と道眼の両柱で支えられる ・人間形成・人間力は、道眼(参禅弁道によって開かれ磨かれる)と道 力(一日一炷香を深い数息観三昧で継続することにより身に付く)よ りなる。 ・道力(三昧力)が付かなければ、道眼は開かれないし、境涯は進展し ない。 ・道眼(境涯)が磨かれて、また道力(三昧力)が深まるものである。 3.人間形成と数息観・参禅弁道 (1)人間形成は、禅でだけではないが ・特定の宗教を持ってなくても古来より大人物は大勢輩出されているが、 何らかの方法で、三昧力・集中力は必ず身につけているはずである。 ・キリスト教、浄土真宗によって人間形成を進められた人も又多い。 ・ (臨済)禅は、凡人でも効率よく人間形成出来る方法論(人間教育シス テム)を持っている。ただし、生きた正師に師事しなければ、それは 機能しない。天才でなくても正脈の師家の坩鎚を受けて、年月を賭け れば、10人が10人法の淵源を極めることができるようになってい る。 (2)三昧力を付けるのは、数息観だけではないが ・諸芸道あるいは、念仏、礼拝でも三昧力は付くであろうが、数息観は 一般的で、入りやすく、しかも奥が深い。3千年の間、人類は心を磨 2 くツールとして主として東洋において数息観法を愛用してきた。 ・本当の数息三昧は、境涯の向上(参禅弁道の進展)とともに本物に なってゆくもの。 (ただし、数息観のみでは、本当の三昧力を身につけ ることは、不可能ではないが、余程の素質、天分に恵まれた人でない と難しい。) ・公案200則が済んでからは、数息観だけでも良い。修証一如が仕上 げとなる。 (3)人間形成と参禅弁道 ・「見性」には、ピンからキリまである。 ・ 「見性」のキリ(初歩)の境涯で止めるくらいならならやらない方が良 い。(「自己の絶対性を見た」だけでは、中途半端。これでは禅は、お 悟りを担いだ、鼻持ちならない片端者を世に送り出すことになる。) ・自利の仕上げといわれる「即今汝性」 「南泉遷化」までいって初めて本 当に見性したと云える。 (それまでは本当に見性したと自信が付かない ものである。) ・社会に出て役に立つ人間形成の境涯の目安は、「五蘊皆空」を本当に透 過した境涯である。ただし、公案が通っただけでは駄目であり、実社 会の日々において、五蘊が空じられなければならない。特に「識蘊」 を空ずることが極めて難しい。 ・五蘊が本当に空じられれば、相手を選ばず仲良くでき、順逆縦横の働 きが可能になり、自利利他の素願を大車輪のごとくぶん回すことがで きるようになるものである。 ・五蘊皆空と深い数息観三昧の一日一炷香の行取が継続されれば、着実 に境涯は向上し、法の淵源が極められるというものである。 (4)参禅弁道による境涯の進展 ・公案は、境涯進展のための試金石である。 ・苦労しない公案は意味がない。壁にぶつかったときが、変革脱皮の時 であり、チャンス到来である。逃げず、小手先を弄せず、正受してみ じっともしないで、関門を撃破すべし。 ・本来は、公案の透過と境涯の進展は比例するものである。 (公案は透過 しても、境涯の進展が見られないのを禅学という。) 4.社会での生き方における禅修行の位置づけ (1)「何をなすべきか」の模索 ・社会に出る前の「何をなすべきか」の選択は、結婚相手を選ぶのと同 じ。そのうち偶然性が必然性に転化する。 ・(入社後は)新入社員に話したアドバイス:「いくら難しくても良いか 3 ら、枝葉ではなく幹になる仕事に、手を挙げて挑戦せよ!」 ・本質的には、その人の生き方の見識が決め手になる。禅の修行は、そ の見識を本物にし、豊かにし、日に新たにする。 ・ 「何を成すべきか」に神経質になるのではなく、縁があった仕事を必然 のものと正受し、仕事を本物にしてゆく気構えが大切。石の上にも3 年であり、耕雲庵老師は、「何をやるにも10年!」といっておられた。 (2)実社会に役立つ境涯の目標と修行の位置づけ ・前にも述べたが、本当にその人らしい、本物の仕事が出来る「禅の境 涯」の目安は、五薀皆空(風大級)であるが、その境涯を得てから仕 事というわけに行かないから、仕事と修行を両輪として進めてゆく。 ・修行のために削く今日の仕事は、力を付けた明日には十二分に穴埋め できるという信念が必要である。これも人生における見識である。一 生一回しかない自分の人生を自分で大切にすることである。 ・数息観だけではなく、しっかり参禅をすればするほど、人類の築いて きたすばらしい法財を噛みしめることができ、人間形成が進む。人間 形成の進展に応じ、人間力を発揮することができるようになり、いい 仕事ができるようになる。 ・そして本人の個性を具現することができ、仕事の中で自己実現ができ るようになる。これは会社だけではなく、家庭においても、地域にお いても。 ・好い夫婦になる、良い家庭を作ることも、人間形成と仕事の関係と同 じことである。夫婦で日進月歩の人間的向上・成長があるかないかが、 三十年四十年後に蓄積され効いてくるし、その人の人生を豊かにも貧 弱にもするものである。 5.人生の方向性について 「何をして生きるか、何をなすべきか」への答え。 (1) 人生の生き甲斐 ・立身出世だけが生き甲斐ではない。 ・ましてや仕事に追われて自転車操業の明け暮れで、不完全燃焼で一生 を終わることは、父母に対して自分に対して申し訳がない。 (2) 修行の目的 ・修行の目的は自分のためだけではない。 ・正しい発菩提心(修行の最初から自利利他の誓願を持つ心)がなけれ ば、修行は継続できない。人間形成を全うすることができない。 (3) 居士禅の先進性 ・居士禅の対極にある僧堂禅の最大の目的が一個半個の伝法であるのに 4 対して、我々居士禅とりわけ人間禅は、布教のための伝法である。 ・現在の社会への貢献と将来の社会を世界楽土に近づけるための布石を 打つことが目的であり(立教の主旨の第一項)、その為に伝法が必要(立 教の主旨第二項)であるという見地である。 ・ 「人間形成のための禅」を基盤に、現世(現在と22世紀以降も)を少 しでも「正しく、楽しく、仲よく」(立教の主旨第3項)しようとする主 体は、出家禅ではだめであり、居士禅こそが新しい時代の担い手であり、 新しい宗教のあり方である。 (4) 居士禅者の人生 ・居士禅者は、修行により人間力を付けて、自分の能力を100パーセ ント発揮して良い仕事を成して、自分の生き甲斐とともに社会に貢献す る。 ・社会での真剣な仕事への打ち込みが、人間形成の修行に大きな力とな る。 ・自分の社会での仕事は、自分の生活のためとか自分の生き甲斐のため だけではなく、世のため人のために貢献することにつながる意識が大切 である。 ・そうであるからこそ、その仕事への努力・精進が深まり、それによっ て仕事がより本物になる。 ・自分の修行は、自分のためだけの修行ではなく、利他をするためにつ ながる意識が大切である。 ・四句誓願の最初の「衆生無辺誓願度」のために、後の三句「煩悩無尽 誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」があるのである。 ・また自分の修行のためだけでないからこそ、法の淵源まで精進・努力 できるのである。 ・修行と仕事と両方持っているから、両方ともに本物になってゆくこと ができるのである。 ・修行も仕事も最終的には自分のためではなく、人様のお役に立つため、 というのが居士禅者の人生である。贅沢なことこの上なし。笑うに耐え たり、悲しむに耐えたり!である。 合掌 初稿 改訂 平成15年7月18日 平成20年10月4日 5 於坂東支部摂心会 於鎮西支部摂心会