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福音のヒント 主の洗礼 (2016/1/10 ルカ 3 章 15-16,21
福音のヒント 主の洗礼 (2016/1/10 ルカ 3 章 15-16,21-22 節) 教会暦と聖書の流れ 降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、 イエスが誕生してから 30 年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子として の現れ」という降誕節のテーマが続いていると考えられているのです。 同時にこの出来事は成人したイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から 教会の暦は「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。 福音のヒント (1) きょうの箇所の15-16節は待降節第3主日(C年)にも 読まれた箇所です。「メシア」(ヘブライ語)は「キリスト= クリストスchristos」(ギリシア語)と同じく「油注がれた者」 の意味で、神が遣わす救い主を意味します。「ヨハネ」はも ちろん洗礼者ヨハネのことです。「洗礼を授ける」はギリシ ア語では「バプティゾーbaptizo」で、本来は「水に沈める こと、浸すこと」を意味する言葉です。「聖霊と火で洗礼 を・・・」(8節)の「霊」はギリシア語では「プネウマpneuma」 と言い、これは「風」 「息」を意味する言葉です。 「聖霊と火 による洗礼」とは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれ るもみ殻(がら)」のイメージだったようです。洗礼者ヨハネが 予想していた「来るべき方」は、この「風と火による裁きの 中に人々を沈める方」だったのでしょう。 しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈 し直しました。 「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージです。古代の人々 は目に見えない大きな力を感じたときそれを「プネウマ(風、息)」すなわち「霊」と呼び、 それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現したのです。 「火」は聖霊の力強さの象徴で す。聖霊の根本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単 なる回心のしるしである「水による洗礼」以上のもの、「人を聖霊によって神に結びつけ、 神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものだということになります。 (2) 21-22節で、イエスが洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こ った3つのことです。 (A)天が開け、(B)聖霊がイエスに降(くだ)り、(C)「わたしの愛する子」 という声が聞こえた。(A)の「天が開け」というのは、神がこの世界に介入してくることを 表す表現です(イザヤ63章19節参照)。(B)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげ て舞い降りるときのように、聖霊に覆われるということを表すイメージです。 これら3つのことはマタイやマルコも伝えることですが、ルカ福音書の特徴は「祈ってお られると」これらのことが起こったということです。ルカは、イエスの変容の場面でも、 「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(9章29節) とあります。祈りとは神との特別な親しさの中にあることだと言ったらよいでしょう。 (3) 上の(B)と(C)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。 マルコでは聖霊が降るのを見るのはイエスご自身であり、声も「あなたは」とイエスに向か って語りかけます(マルコ1章10-11節)。マタイでも、イエスご自身が自分の上に聖霊が降 るのを見ますが、声のほうは「これは・・・」と三人称ですので周りの人にも聞こえたような 表現になっています(マタイ3章16-17節)。ルカでは、声はマルコ同様「あなたは」とイエ スに向かって語りかけますが、聖霊が降ったことについては「目に見える姿でイエスの上 に」というような客観的な描写になっています。この出来事は、洗礼者ヨハネやその場に いた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、一方ではイエスの内面的 な体験と見ることもできるようなことでもありました。とにかくこの出来事には、イエス が神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を自覚したと いう面の両方があると考えたらよいでしょう。 (4) 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イ ザヤ42章1節以下があると考えられます。新共同訳ではこうなっています。 「1 見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。 彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、 声を巷(ちまた)に響かせない。3 傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消 すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てるこ ともない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」 「主の僕の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシア語訳は「パイスpais」で 「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味する言葉です。福音書の「子」は「ヒュイオ ス(hyios)」で「息子」を意味する言葉ですが、イメージとしてはつながっています。つまり、 この「愛する子」という言葉には、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始 めることが示されているわけです。 (5) 「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向け て語られている言葉です。わたしたち自身の洗礼はそのことを意味しています。 ところで、「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切 ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。ヨルダ ン川で聖霊に満たされた時から、イエスの神の子としての活動が始まっていったように、 ペンテコステ(五旬祭)の日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音を告げる活動を 始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の 使命に参与することを表しています。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣・使命)」 と結びついています。人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力 である聖霊が支え導くのです。これこそが堅信の秘跡の中心テーマです。 「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子として のミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。ど んなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。