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1925年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会における 会場の計画

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1925年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会における 会場の計画
学位請求論文
論文題目
1925年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会における
会場の計画過程と展示館の建築造形に関する研究
公開発表会資料
申請者
三田村 哲哉
東京都立大学
2004 年 2 月 24 日
3-5. 1925 年 5 月案
論文構成
3-5-1. 会場計画案:最終案
3-5-2. ルイ・ボニエとシャルル・プリュメの方針
3-5-3. 「新建築」と諸外国の独立館
序 アール・デコ様式
第 2 部 エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの展示館:建築造形とその諸条件
第 4 章 ギャラリー
研究の目的
研究資料
4-1. ギャラリー
既往研究
4-1-1. ギャラリー
4-1-2. 平面・立面
第 1 部 会場:計画過程とその諸条件
第 1 章 企画(1901-1911)
4-2. ギャラリー附設:塔
4-2-1. 塔
1-1. 会場の地理
4-2-2. 平面・立面・断面
1-1-1. アンヴァリッド
4-3. 技能館
1-1-2. エコール・ミリテール
4-3-1. 技能館
1-1-3. 帝政下の会場
4-3-2. 平面・立面
1-2. 会場の歴史
4-4. 技能館附設:劇場
1-2-1. パリ内国博覧会と 1855 年パリ万国博覧会
1-2-2. 1867 年パリ万国博覧会と 1878 年パリ万国博覧会
4-4-1. 劇場
1-2-3. 1889 年パリ万国博覧会と 1900 年パリ万国博覧会
4-4-2. 劇場の平面・立面・断面
4-4-3. 図書館
1-3. 企画の設計者
1-3-1. 建築家ルイ・ボニエ
第 5 章 百貨店館
1-3-2. 建築家シャルル・プリュメ
5-1. ギャルリー・ラファイエット百貨店館
1-3-3. 政治家
5-1-1. ギャルリー・ラファイエット百貨店館
1-4. 企画の考案
5-1-2. 平面・立面・断面
1-4-1. 起案
5-1-3. 規制外輪線
1-4-2. 報告書
5-2. プランタン百貨店館
1-4-3. 法・協定
5-2-1. プランタン百貨店館
1-5. 企画の課題
5-2-2. 平面・断面
1-5-1. 装飾美術と近代
5-2-3. 立面のエスキース
1-5-2. 諸外国の博覧会
5-3. ルーヴル百貨店館
1-5-3. 展示館と「分類」
5-3-1. ルーヴル百貨店館
5-3-2. 平面・立面・断面
第 2 章 敷地(1911-1921)
5-4. ボン・マルシェ百貨店館
2-1. 選考
2-1-1. カルノー・レポートの候補地
5-4-1. ボン・マルシェ百貨店館
2-1-2. シャプサル・レポートの候補地
5-4-2. 平面・断面
2-1-3. ルイ・ボニエの敷地検討とパリ城壁跡地計画
第 6 章 独立館
2-2. 候補
6-1. セーブル国立工場館とダイヤモンド商組合館
2-2-1. ピュトー島
2-2-2. 1919 年 4 月 19 日法案
6-1-1. セーブル国立工場館
2-2-3. パリ城壁跡地
6-1-2. セーブル国立工場館の平面・立面・断面
6-1-3. ダイヤモンド商組合館
2-3. 問題
6-1-4. ダイヤモンド商組合館の平面・立面・断面
2-3-1. 農業・馬術博覧会宮
6-1-5. ブラン館
2-3-2. パリ植民地国際博覧会
6-2. リヨン・サン=テチエンヌ館とナンシー地方館
2-3-3. 1921 年 7 月 26 日協定
6-2-1. リヨン・サン=テチエンヌ館
2-4. 決定
2-4-1. 1921 年 11 月 7 日協定
6-2-2. リヨン・サン=テチエンヌ館の平面・立面・断面
2-4-2. 敷地範囲とその問題点
6-2-3. ナンシー地方館
6-2-4. ナンシー地方館の平面・立面・断面
2-4-3. パリ市と公共事業省の協定
6-3. コレクター館と「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館
2-5. 条件
2-5-1. 敷地委譲の条件
6-3-1. コレクター館
2-5-2. 地理・周辺環境の条件
6-3-2. コレクター館の平面・立面・断面
2-5-3. 交通問題
6-3-3. 「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館
6-3-4. 「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館の平面・断面
第 3 章 会場(1922-1925)
6-3-5. 応用美術・工芸館とルネ・ラリック館
3-1. 1922 年 3 月案
6-4. その他の独立館
3-1-1. 30 棟案
6-4-1. 現代美術館
3-1-2. 会場計画案:基本方針の図案化
6-4-2. 現代美術館の平面・断面
3-1-3. フェルナン・ダヴィの質問
6-4-3. メゾン・フォンテーヌ館
3-2. 1922 年 7 月案
6-4-4. ミュルーズ館とルーベ・エ・トゥールコアン館
3-2-1. 60 棟案
6-4-5. クレス社館とゴールドシェイダー館
3-2-2. 会場計画案:精度の向上
6-4-6. クリストフル・バカラ館とグルノーブル手袋工場館
3-2-3. パレ・ロワイヤル事務所
6-4-7. ロイヤル・コペンハーゲン館とプラス・クリシー館
3-3. 1922 年 11 月案
3-3-1. 78 棟案
結
3-3-2. 会場計画案:基本計画の完成
展示館の造形管理と様式意識
3-3-3. 交通問題への対応
会場と展示館の造形
3-4. 1924 年 1 月案
アール・デコ様式の特徴
3-4-1. 会場計画案:敷地拡張
3-4-2. エスプラナード・デ・ザンヴァリッド
文献目録
図表
3-4-3. 敷地分割
1
序
研究資料
アール・デコ様式
本研究は、建築家の作家論に代表される建築歴史・意匠研究とは異
Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modenres
à Paris 1925
1925 年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会は、アール・デコ様
なり、建築資料のほかに博覧会に関する幅広い資料を必要とした。そ
式が結実した近代建築史上最も重要な博覧会のひとつである。本博覧
れらは、次の 5 点に整理することができる。
Esplanade des Invalides
Grand Palais
第 1 点目は、本博覧会閉会後 50 周年記念展覧会の資料目録である。
会は、パリのエスプラナード・デ・ザンヴァリッドとグラン・パレを
Le Corbusier, 1887-1965
Pavillon de l'Esprit Nouveau
中心に開催され、建築家ル・コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー館
これは、パリの図書館に所蔵された資料をまとめたものである 6)。
を初めとする規範的な近代建築と、アール・デコ様式の典型とされる
第 2 点目は、当時出版された建築図書である。その中でも、建築家
展示館が建設された。これらの展示館の評価は、美術史と近代建築史
ミシェル・ルー=スピッツによってまとめられたものが最も多くの図
それぞれの視点からなされてきた。
面及び写真を掲載し、これ以上充実したものはない 7)。
アール・デコ様式がはじめて認識し始められたのは、1966 年にパリ
第 3 点目は、本博覧会の公式記録である。
「美術・技術編」と「管理
Musée des Arts Décoratifs
Administrative
Michel Roux-Spitz, 1888-1957
Section Artistique et Technique
Section
編」の 2 編から構成されている 8)。
の装飾美術館で開催された展覧会においてである1)。
それ以降、
アール・
Giulia Veronesi
第 4 点目は、フランス上院及び下院議会の官報、パリ市議会公報及
デコ様式に関する研究が盛んに行われ、美術批評家ジウリア・ヴェロ
Yvonne Brunhammer
Bevis Hillier
ネージ、美術史家イヴォンヌ・ブリュナメール、美術記者ベヴィス・ヒ
び、協定書等である 9)。
リアーらの成果が発表された 2)。これらの成果は、開催以前のアール・
第 5 点目は、建築誌及び美術誌である。本研究では、主要 5 誌を中
デコ様式の源泉と、その造形の特徴を明らかにしたことであろう。この
心に考察を行った 10)。
中で、本研究が注目するのは後者である。それはジグザグ文様、流線
この他に、フランス建築協会20世紀建築アーカイブ、フランス国立
Centre d'Archives d'Architecture du XXe Siècle IFA
Archives Nationales
Archives de Paris
公文書館、パリ市立公文書館などに所蔵された資料を用いた。
型、幾何学模様などの具体的な形態によって示され、それらは装飾を主
体として建築の部分や表層を特徴付けるものであると解釈されてきた。
既往研究
一方、近代建築史においてはじめて本博覧会の建築を取り上げたの
Henry-Rusell Hitchcock, 1903-1987
本研究は、建築に関する既往研究のみならず、博覧会、装飾美術を
は建築史家ヘンリー=ラッセル・ヒッチコックである。彼はアール・
Beaux Arts formulas
ヌーヴォー様式から続く芸術が過去のボザール式に戻るのではなく、
主題とした関連研究を把握する必要があった。それらを整理すると、
本博覧会において突出して表れたものと捉えている 。しかし、それ
次の 5 点にまとめることができる。
以降、本博覧会の建築は近代建築史上に取り上げられることは極めて
第 1 点目は、本博覧会の建築に関する研究である。その中で、近代
3)
Michel Ragon, 1924-?
建築史の視点から行われたものは、A. ペレ研究の中で取り挙げている
少なく、1958年の建築批評家ミッシェル・ラゴンの評価を待たねばな
Auguste Perret, 1874-1954
吉田鋼市のものが最もまとまったもののひとつである 11)。
らなかった 。彼は、ル・コルビュジエ、建築家オーギュスト・ペレ、
4)
Tony Garnier 1869-1948
Le style 1925
トニー・ガルニエらの展示館を取り上げ、1925年様式という枠組みの
第 2 点目は、アール・デコ様式を中心として、美術史の視点から考
中で近代様式の延長線上に捉え直している。こうした点から、本博覧
察が行われた本博覧会の展示館に関する研究である。これは、「アー
会の展示館が近代建築史の中で捉えられるようになったのは、近代建
ル・デコ様式」の中で取り上げた。
築を先導した代表的な建築家の作品が着目されたことによる。
第 3 点目は、パリで開催された博覧会に関する研究である。これは
はじめて、本博覧会の展示館を総合的に評価したのはG. ヴェロネー
さまざまな視点から膨大な既往研究がある。主要なものは美術史家
ジであり、それは美術史の視点からであった。彼女はこの中で、ル・
タグ・グロンベルクのものと建築史家ピエター・ヴァン・ウェスマエ
コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー館をはじめとする 4 棟の独立館
ルのものである 12)。
を「新建築」と表現した 。これに対して、フランスの百貨店館をは
第 4 点目は、博覧会研究に関してである。博覧会を総合的に捉えた
じめとする展示館をアール・デコ様式の建築であると捉えている。そ
主要研究は、ジョン・E・ファインドリング、ロバート・W・ライデル、
Tag Gronberg
5)
Pieter van Wesemael
John E. Findling
Robert W. Rydell
Paul Greenhalgh
の後、本博覧会の展示館はこの評価に大きく影響され、アール・デコ
吉田光邦、ポール・グリーンハルジュのものが挙げられる 13)。
様式に関する考察と平行しながら、
「新建築」をはじめとする近代建築
第5点目は、装飾美術に関するものであり、多数発表されている。その
を先導した代表的な建築家の作品を中心に評価されてきた。
中で、本研究が重要視するものは様式論ではなく、社会、政治、文化とい
Debora L. Silverman
う視点から考察を行ったデボラ・L・シルヴァーマンらのものである 14)。
研究の目的
これらの評価に対して、本研究はフランスの百貨店館をはじめとす
第 1 部 会場の計画過程とその諸条件
るアール・デコ様式の展示館の建築造形を主題とする。本研究の目的
第 1 章 企画
は、会場の計画過程で生じた条件に関する分析を踏まえた上で、主会
1-1. 会場の地理−アンヴァリッド、エコール・ミリテール
場となるエスプラナード・デ・ザンヴァリッドに建設されたフランス
アンヴァリッドは、オテル・デ・ザンヴァリッドとドーム・デ・ザ
の展示館の構成に着目し、形態、空間、装飾からなる建築造形の特徴
ンヴァリッドからなる(図 -1)。前者は、1671 年から 1675 年にかけ
を明らかにすることである。さらに、この一連の考察によって得られ
て建築家リベラル・ブリュアンが設計した建築群であり、廃兵の病院
た知見を基に、これらの展示館を代表作品とするアール・デコ様式の
として機能した。一方、後者は、1677 年から 1691 年にかけて建築家
再考を試みる。
ジュール・アルドゥアン=マンサールが設計した宮廷用礼拝堂であり、
そのため、本研究は会場を中心とした史的考察である第 1 部と、エ
軍事的栄光を象徴して建造された。
さらに北側には前庭だけではなく、
スプラナード・デ・ザンヴァリッドに建設された展示館の建築造形に
その後セーヌ川まで主軸を基本として構成されたエスプラナード・
関する考察である第 2 部から構成される。
デ・ザンヴァリッドが整備される。
Invalides
Hôtel des Invalides
Dôme des Invalides
Libéral Bruant, 1637-1697
Jules Hardouin-Mansart, 1646-1708
2
École Militaire
Jacques-Ange Gabriel, 1698-1782
エコール・ミリテールは、1751 年に建築家ジャック=アンジェ・ガ
には、博覧会の回を重ねることによって大規模な建築が建設され、そ
ブリエルによって設計され始めた建築群である(図 -2)
。これは、その
の地域一帯の枠組みが形成されたことがわかる。
中心に教会が設けられ、セーヌ川に向かって練兵場となるシャン・
Champe de Mars
ド・マルスが計画された。これら両軍事関連施設の特徴には、フラン
1-3. 企画の設計者−ルイ・ボニエ、シャルル・プリュメ
ス古典主義様式特有の主軸を中心とした構成、中庭を取り囲む配置計
本博覧会に参加した建築家は非常に多い。その中で、会場を中心と
画、中心に位置する教会建築、セーヌ川との間の広大な広場が挙げら
する企画を遂行した中心人物は、建築家ルイ・ボニエとシャルル・プ
Louis Bonnier, 1856-1946
Charles Plumet, 1861-1928
École des Beaux-Arts
れる。また、両建築群ともにセーヌ川対岸の主軸線上の焦点に展開さ
リュメである。L. ボニエは、エコール・デ・ボザールを卒業した後、
れる建築の可能性を後世に大きく残していた。
アール・ヌーヴォー様式を得意とする建築家として理解されているが、
パリはナポレオンの時代に入ると、急速な都市整備が進められる。
むしろ彼は行政建築家と博覧会建築家として活躍した。彼は、パリ
しかし、エスプラナード・デ・ザンヴァリッド及びシャン・ド・マル
市主任建築管理官などの重職を歴任し、規制外輪線を用いた 1902 年
Archiecte-Voyer en Chef
gabarit
Les Règlements de Voirie
スは、広大な都市の空地として確保された。その理由は、内国博覧会
の道路規制により、
道路から垂直に切り立ったパリの街並みに対して、
を始め、凱旋、祝典、パレード、舞踏会など国家規模の集会に利用さ
建築上部を後退させながらアール・ヌーヴォー様式の装飾をともなった
れていたからである。
美しい街並みを登場させる規制緩和を整えている(図 -8、9)15)。その
一方で、彼は積極的に博覧会への参加を試みていた。1900年パリ万国
博覧会では、1894年に開催された会場計画に関するコンクールにおい
1-2. 会場の歴史−パリの博覧会
Exposition Industrielle 1798 à Paris
て 4 等に入選し、キオスクと 5 棟の展示館を提案している 16)。
パリではじめて開催された博覧会は、1798 年パリ内国博覧会であ
François de Neufchateau, 1750-1828
一方、Ch. プリュメも博覧会建築家として活躍するが、L. ボニエと
る。その中心人物フランソワ・ド・ヌシャトーは、美術品に対して用
École des Arts Décoratifs
arts utiles
いていた言葉“Exposition”を実用工芸品にも用いて、博覧会が美術
は対照的に、パリ装飾美術学校出身の建築家である。彼が世に名を馳
品だけではなく実用工芸品の発展を促すことを提案した。それ以降11
せたのは 1890 年代の集合住宅であり、アール・ヌーヴォー様式の豪
回に及ぶパリ内国博覧会が、シャン・ド・マルスなどで開催される。
華で斬新な建築によってであった。また、彼はサロン・ドートンヌ、
Salon d’Automne
Société des Arts Décoratieur
それに続き、パリでは 1855 年にはじめて万国博覧会が開催された。
装飾美術家協会などの組織において活躍する。その中で、Ch. プリュ
この計画は、ナポレオンⅢ世を中心にサン・シモン主義者の技師フレ
メの博覧会への参加は、1900 年パリ万国博覧会に始まる。しかし、そ
Frédéric Le Play, 1806-1882
れ以降、彼は審査委員などの立場で博覧会に参加することを余儀なく
デリック・ル・プレーらを中心に進められた。その敷地はアンヴァリッ
Esposizione Internazionale di Torino 1911
Champs Élysées
された。その中で唯一、彼は 1911 年トリノ国際博覧会で、平面が 8 角
ドの主軸の焦点となるシャンゼリゼであった(図 -3、12)
。そこには、
Palais des Industries
Galerie des Machines
Pavillon de l'art
Palais des Beaux-Arts
décoratif français moderne
産業宮、ギャラリー、機械館、ボザール館が建設された。しかし、これ
形で中心に 2 階まで吹き抜けたホールを持つフランス近代装飾美術館
らの建築の配置及び構成はその主軸を無視したものであり、
主会場の産
を設計する機会を得る。これが本博覧会のフランスの独立館に大きな
業宮はシャンゼリゼ大通りを正面に建設される。さらに、ボザール館は
影響を与えることとなる(図 -10、11)17)。
Avenue
Montaigne
そのほかの展示館とは離れたモンテーニュ通りに建てられたのである。
本博覧会の企画は彼らを中心に進められたが、議会と世論形成にお
この会場計画を省みた F. ル・プレーは、1867 年にシャン・ド・マ
いて政治家と批評家の役割も指摘しておかなければならない 18)。
ルスに会場を集約したパリ万国博覧会を計画した(図-4、13)。その中
心には産業宮が建設され、周辺には諸外国の展示館が建設された。そ
1-4. 企画の考案
の中でも、産業宮の構成はエコール・ミリテールの主軸を中心に、統
本博覧会の起案はさまざまな視点から指摘されているが、これらは
計学の諸原理に基づいて計画された。これによって、その会場全体が
諸外国からの影響であった 19)。これに対して国内においても、1900年
整然と形成される。1878年パリ万国博覧会は、普仏戦争からの回復を
パリ万国博覧会の閉会後、アール・ヌーヴォー様式の衰退に対する危
強調するため、前回よりも一層の規模拡張が必要であった(図-5、14)。
機感と、
純粋美術以外の芸術の認識の向上を狙った動向が現れていた。
その敷地は、エコール・ミリテールとその対岸に拡張され、はじめて
こうした動向の中で、下院議員シャルル=モーリス・クイバが、1906年
Charles-Maurice Couyba, 1866-1931
Chambres des Députés
Jean-Gabriel-Antoine Davioud, 1823-1881
の下院議会のエコール・デ・ボザールの予算に関する審議において、本
エコール・ミリテールの主軸の焦点に、建築家ガブリエル・ダヴィウー
Palais de Trocadéro
らによって設計されたトロカデロ宮が建設された。そしてその焦点に
博覧会の開催をはじめて起案した 20)。それは、装飾美術の社会的地位
は大劇場が設けられ、その両翼には展示室が配置される。
向上と啓蒙活動の必要性を主張したものである。こうした点において
1889 年パリ万国博覧会では、前回の敷地がさらにエスプラナード・
美術批評家ロジェ・マルクスの社会美術を中心とした主張も、これを
デ・ザンヴァリッドまで拡張された(図 -6、15)
。しかし、その会場の
強く後押しした。さらに、1911 年 4 月 15 日に、上院議員 Ch.-M. クイ
Roger Marx, 1859-1913
Art Social
Sénat
Galerie des Machines La Tour Eiffel
Exposition Internationale des Arts
バは上院議会において、1914 年にパリにおいて装飾美術・工芸美術
中心は、機械館とエッフェル塔が建設されたシャン・ド・マルスであ
Décoratifs et Industriels
り、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドは二次会場という位置づけに
国際博覧会を開催する計画の検討を促す決議案を提出した 21)。
あった。これに対して、1900 年パリ万国博覧会は、エスプラナード・
こうした主張は、装飾美術の協会団体による政治的な働きかけによ
デ・ザンヴァリッドとその対岸を中心に開催された(図 -7、16)
。そし
り、本博覧会の開催を法案化することにつながった。これに最も積極
Société de l’Union Centrale des Arts Décoratifs
Henri Deglane, 1855-1921
Charles-Louis Girault, 1851-1932
François Carnot
的であったのは、装飾美術中央連合である。その代表者フランソワ・
て、アンヴァリッドの主軸の焦点には、建築家アンリ・ドグラーヌら
Petit Palais
によるグラン・パレと、建築家シャルル=ルイ・ジローによるプティ・
カルノーは、最終的に 7 つの協会団体を取りまとめ検討委員会を発足
パレがはじめて建設される。
これらは主軸を挟み込むように配置され、
させた。この委員会は、本博覧会の開催に関して 1911 年 6 月 1 日に
その構成はトロカデロ宮のものから大きく発展していた。
報告書をまとめ、これを基に 1912 年 2 月 6 日の下院議会において、現
Exposition Internationle des Arts Décoratifs Modernes
代装飾美術国際博覧会開催に関する法案を提出した 22)。この法案によ
このように、アンヴァリッドとエコール・ミリテールの主軸の焦点
3
シャンゼリゼ大通り
ボザール館
イエナ橋
セーヌ川右岸
セーヌ川
ギャラリー
セーヌ川左岸
図 -1 アンヴァリッド 鳥瞰図
:展示館
:前回までの博覧会で
建設された展示館
:展示館として利用さ
れなかった建築
図 -2 エコール・ミリテール 鳥瞰図
産業宮
グルネル橋
シャン・ド・マルス
機械館
アンヴァリッド前庭
エコール・ミリテール
N
コンコルド橋
0
アンヴァリッド
500m
図 -12 1855 年パリ万国博覧会 配置ダイヤグラム セーヌ川右岸
セーヌ川
アルマ橋
1855年産業宮
図 -3 1855 年パリ万国博覧会 配置図
セーヌ川左岸
図 -4 1867 年パリ万国博覧会 配置図
産業宮
アンヴァリッド橋
エコール・ミリテール
N
アンヴァリッド
500m
0
図 -13 1867 年パリ万国博覧会 配置図ダイヤグラム 図 -5 1878 年パリ万国博覧会 配置図
トロカデロ宮
セーヌ川右岸
セーヌ川
1855年産業宮
セーヌ川左岸
産業宮
エコール・ミリテール
N
0
アンヴァリッド
500m
図 -14 1878 年パリ万国博覧会 配置ダイヤグラム 図 -6 1889 年パリ万国博覧会 配置図 図 -7 1900 年パリ万国博覧会 配置図
トロカデロ宮
セーヌ川右岸
セーヌ川左岸
セーヌ川
1855年産業宮
エッフェル塔
自由芸術館
ボザール館
機械館
エコール・ミリテール
N
0
アンヴァリッド
500m
図 -15 1889 年パリ万国博覧会 配置ダイヤグラム 図 -8 1884 年政令による「外枠線」
作図:ルイ・ボニエ 幅 6 m道路の場合
トロカデロ宮
図 -9 1884 年政令改正草案(1902 年改正)
作図:ルイ・ボニエ 幅 6 m道路の場合
ドゥビリ橋
セーヌ川右岸
グラン・パレ
プティ・パレ
セーヌ川左岸 エッフェル塔
外国館
1889年機械館
アレクサンドルⅢ世橋
エコール・ミリテー ル
N
0
図 -10 フランス近代装飾美術館 外観写真 図 -11 同館 内観写真
500m
アンヴァリッド
図 -16 1900 年パリ万国博覧会 配置ダイヤグラム 4
り、パリにおいて 1915 年に本博覧会の開催がより具体的な検討に基
ている。1867年パリ万国博覧会では、いわゆる装飾美術の作品に大別
づいて決定された。
されるものが「分類」の第 1 群から第 4 群までを占め、この指標は会
このように、本博覧会の企画は議員と協会組織の力によって決定さ
場計画の指標としても利用されるようになった 24)。こうした「分類」
れた。それは、装飾美術に関する重い主張に支えられたものであり、そ
は、パリ万国博覧会を重ねるごとに発展し、1900年パリ万国博覧会で
れが本博覧会開催の決定を促したのである。
は全 18 群、全 121 組からなる「分類」に発展している 25)。また、1889 年
のパリ万国博覧会では、美術展示がシャン・ド・マルスで行われたの
1-5. 企画の課題
に対して、1900 年パリ万国博覧会では逆にエスプラナード・デ・ザン
この装飾美術に関する主張は、本博覧会の会場及び展示館の造形に
ヴァリッドとグラン・パレで行われるようになる 26)。
対する条件及び背景を形成した。
本博覧会の「分類」は、1900 年パリ万国博覧会の不十分であったも
そのひとつは、装飾美術と近代である。フランスでは、美術の概念と
のから大きく変更することが必要であった。これに対して、ロベール・
Robert Guilleré, ?-?
制度の崩壊にともない芸術の序列、区別、境界が薄れていた。そのた
ギレーレは、1911年に作品の生産方法の向上を支える技術に対する視
め、19 世紀フランスの美術行政がそれらの融合や統一の動向を支援す
点、作品制作のための材料に対する視点、作品の用途に基づいた視点
William Morris, 1834-1896
John Ruskin, 1819-1900
る。これは、イギリスのウィリアム・モリスとジョン・ラスキンの思
から作り直した 27)。その後、本博覧会の「分類」は、これを基本とし
想を受容したことも影響している。しかし、フランスでは産業の発達
て最終的に全 5 群全 37 組に発展された。
とともに、美術行政が積極的に美術と工芸の融合を押し進め、歴史的
な様式やその折衷から抜け出し、現代の様式を求めるようになる。こ
第 2 章 敷地
れは、フランスの社会美術という考え方に支えられていた。
2-1. 選考
こうした考え方に基づく装飾美術の抱えた問題は近代化であった。
本博覧会の敷地に関する検討は、1911年6月1日のカルノー・レポー
過去の偉大な様式への崇拝と、その様式を用いた製品を複製する生産
トにはじめてまとめられた 28)。その中で、次の諸点が議論されている。
システムは、新しい様式ではなく過去の偉大な様式を模倣した作品を
ひとつは、3 年間という敷地の占有期間である。もうひとつは、占有可
大量に生産し、それらによって室内空間を満たすという事態に陥って
能な地域と不可能な地域が明確にされた点である。それによると、可能
いた。R. マルクスもこうした状況に対して、フランスの独特な精神性
な地域はパリ城壁跡地であり、これはその解体と関連づけて計画され
と調和した装飾美術の近代化に対して積極的であった。そのため、こ
た。一方、不可能な地域はグラン・パレ及びその周囲と、エスプラナー
の 2 つの背景はあらゆる作品を対等に認めるという考え方と、過去の
ド・デ・ザンヴァリッドと定められている。
様式を否定し新しい様式と造形のみを求める考え方に発展する。そし
これに対して、1912年7月23日に発足した博覧会調査委員会は、そ
て、これが本博覧会の作品に対する基本理念に成長したのである。
の調査と敷地検討を行っていた L. ボニエの検討をまとめ、上院議員
もうひとつは諸外国の博覧会である。しばしば、本博覧会の開催は
フェルナン・シャプサルが1913年5月23日に報告書を発表する 29)。そ
Commission Chargée d'Étudier les Conditions de l'Exposition Projetée
Fernand Chapsal, ?-?
Der Deutsche Werkbund
ドイツ工作連盟への対抗を強く意識したことによるとされる。しかし、
の敷地に関する検討は、12の地域を対象としたものであった(図-17)
。
この対抗心はそう単純なものではない。まず、パリの博覧会が対抗心
これはシャプサル・レポートと呼ばれ、カルノー・レポートとは異な
を基本として企画されてきた背景を指摘しておかなければならない。
り、
建築の面積と棟数などを基準としたより精度の高いものとなった。
さらに、本研究が指摘すべき点は 1900 年パリ万国博覧会以降大規模
さらに、この中から候補地はピュトー島とパリ城壁跡地に絞り込ま
な万国博覧会が減少する一方で、芸術をテーマとした小規模な博覧会
れている。これに対して、そのほかの敷地が選出されなかった理由は
が各国で多数開催された点である。それによって、各国が芸術を主体
次の通りである。ヴァンセーヌの森は、本博覧会の成功にとって都合
として大きな対抗心を持ち始めていた 。こうした対抗心は、1906年
の良い地域ではないという理由が挙げられた。ドートゥイユの競馬場
の Cf.-M. クイバの報告以降、それらの博覧会を取り上げた各報告書の
に対しては、パリ市内とをつなぐ地理及び政治問題の解決が困難で
中に描かれている。
あったという。イッシー・レ・ムーリネォーの演習場は、戦争庁が利
23)
L’Administration de la Guerre
La classification
次は、展示館と「分類」についてである。パリで開催された博覧会
用を継続するために困難であると判断された。
の展示館の特徴は、鉄の建築、大規模建築、大空間の確保、サン=シ
次に、パリの市内中心部にあたる「トロカデロとシャン・ド・マル
モン主義の影響、会場の均衡などのさまざまな側面に現れている。
スの公園」、
「ガルデゥ・ムゥーブルとオルセー河岸」、及び「グラン・
1900年パリ万国博覧会までは、
大規模な展示館が技師を中心に計画さ
パレ、プティ・パレ、クー・ラ・レンヌ庭園、エスプラナード・デ・ザ
れてきた。しかし、本博覧会は建築家によって会場の計画から進めら
ンヴァリッド」の 3 点の敷地に対しては、具体的な会場計画に対する
れる。もちろん、これは本博覧会が装飾美術という特定のテーマを
問題点、例えば交通問題をはじめとした極めて多い制約が、その理由
持った博覧会であったからでもあるが、実はそれほど簡単に大規模な
に挙げられた。
展示館を中心とした博覧会から小規模な展示館による博覧会へと移行
シャプサル・レポートでは、本博覧会の開催年は1916年とされたが、
したわけでもない。その理由は、これらの展示館を配置する会場計画
1914 年の第一次世界大戦開戦によりさらに延期を余儀なくされた。
の影響によるからである。
会場計画に最も大きな影響を与えたものが「分類」である。これは、
2-2. 候補
あらゆる展示物を整理するための基本指標であり、百科全書のように
シャプサル・レポートの中では、候補地ピュトー島がセーヌ川に浮
すべてを一元的に取り扱おうとするためのものであった。これは、サ
かぶフォリー小島を含み全面積が約32ヘクタールという適切な広さで
ン=シモン主義思想に基づいた 1855 年パリ万国博覧会から用いられ
あること、この候補地が緑豊かな地域であること、セーヌ川に浮かぶ
le petit île de la Folie
5
小島が魅力的であることが高く評価された。また、この候補地はブロー
ニュの森への敷地拡張が容易であること、
当時の購入金額が妥当である
ことも魅力的であった。
終戦直後の 1919 年 7 月 2 日に、下院議会において本博覧会開催に
関する審議が再開された 30)。この中で 3 年後の 1922 年に延期するこ
とが確認されている。さらに、1919 年 12 月から本博覧会の敷地選考
Commission Consultative de l’Exposition Internationale des Arts Décoratifs
Modernes
は、
新たに発足した現代装飾美術国際博覧会諮問委員会だけではなく、
パリ市を中心として審議が展開されるようになる。1919年12月15日
に、通商産業大臣の要請に対してセーヌ県知事が推薦したピュトー島
が最有力候補であることは変わらなかった 31)。しかし、1920 年 4 月
23 日の審議で、最終的に地価の高騰を理由に、この候補地を断念せざ
るを得なくなる 32)。
こうした状況において、L. ボニエは最終的には、ドートイユ門を中
図 -17 パリ城壁跡地を中心とした候補地の位置 ダイヤグラム
心としたパリ城壁跡地を推薦している。その背景には、彼自らが進め
ていたこの地域の整備計画を押し進め、その地域を本博覧会の敷地に
しようとしていたことを指摘できよう。
一方、1919 年 7 月 19 日にパリ城壁跡地に関連した法案が提出され
le déclassement de l’enceinte fortifiée
た。これは、パリの防護城壁撤去に関するものであり、城壁撤去及び
その周辺地域の整備計画を進めることを意図していた。これにとも
なってさまざまな計画が検討されるようになる 33)。そのため、パリ城
壁跡地は本博覧会だけでは解決できる問題を遙かに超えたものとなっ
図-18 P.ギデッティ、L. ギデッティ 農業・馬
術博覧会宮案 鳥瞰図
てしまっていた。
図-19 ルイ=イポリト・ボワロー 農業・
馬術博覧会宮案 内観図
シャプサル・レポートによれば、この地域は休閑地であり、パリ市
内及びブローニュの森に隣接し交通手段も容易になったため、日常的
に多くの市民が赴くようになったと高く評価された。また、この地域
は、国政の意のままに無償での利用が可能であった。さらに、第一次
世界大戦後、パリの城壁跡地開発計画が本格化してから、これを本博
覧会の候補地とする案が優勢となる。しかし、第一次世界大戦後のパ
リ城壁跡地を取り巻く状況の変化と、パリで開催が予定されるこのほ
Foire
Olympique
かの博覧会、フェアー、オリンピックなどの敷地と時期が重なったこと
によって、この候補地も本博覧会だけの問題ではなくなっていった34)。
一方、パリ城壁跡地は非常に細長く、大きな高低差が残っていた。し
たがって、博覧会会場として敷地整備を行うことは、実際には多大な
La Commission des Fortifications
困難が予想された 35)。そのため、最終的にはパリ城壁跡地委員会の意
図 -20 パリ植民地博覧会 1921 年 敷地図
見によって、これもまた廃案に追い込まれる 36)。
1921 年には、こうした博覧会の企画をより発展させて、1925 年に戦
Exposition Coloniale Intéralliée
2-3. 問題
勝国による植民地連合国博覧会の開催を決定する。こうした状況にお
しかし、これら 5 つの案件が広大な敷地と大規模な建築をともなう
いて、前通商大臣で上院議員フェルナン・ダヴィが本博覧会の検討委
が、
それぞれが企画実現に向けて衝突のない調和的解決を望んでいた。
員会委員長に就任すると、この敷地問題の議論の場を、F. ダヴィ、セー
そのため、本博覧会の敷地問題はこのほかの 4 つの案件とともに議論
ヌ県知事 A. オートゥラン、パリ市長及び、植民地博覧会委員長アング
Fernand David, ?-?
A. Autrand, ?-?
Palais des
Angoulvant, ?-?
Le Ministre
されるようになる。そこで、最初に議論が進められた案件は農業・馬術
ルヴァンの 4 氏の会合に移した。その結果、1921 年 7 月 26 日に植民
Expositions Agricoles et Hippiques
des Colonies
博覧会宮であり、これを中心に敷地問題が検討され始めた。
Albert Sarraut, ?-?
地大臣アルベール・サローとセーヌ県知事の間で、植民地博覧会の準
Charles Lemaresquier, 1870-1972
この博覧会宮の検討は、建築家シャルル・ルマレスキエと建築家
備に関する協定が結ばれる 39)。その敷地の範囲は、1900年パリ万国博
Victor Laloux, 1850-1937
ヴィクトール・ラルーの計画や、このほかの建築コンクールによって多
覧会の敷地からトロカデロ宮、グラン・パレ及びプティ・パレを除い
くの計画案が提出された。その多くは、大空間を確保する鉄とガラスの
た地域とほぼ同様であり、過去に開催された博覧会の中でも最も広大
大展示館であった(図 -18、19) 。こうした博覧会宮建設に関する動向
なもののひとつとなった(図 -20)40)。
37)
は、政治的な動きとともに、パリ城壁跡地及びその周辺に博覧会宮の敷地
を誘導した。さらに、それは会場を転用するための議論も巻き起こして
2-4. 決定
いる 38)。
1921 年 7 月 26 日協定が結ばれると同時に、F. ダヴィが博覧会宮の
一方、パリ植民地博覧会の企画は、大戦勝利により急展開を見せる。
ような大展示館を提案した 41)。しかし、その一方で F. ダヴィは、本博
6
覧会をパリの中心部で開催することを強く望み、意欲的に敷地問題に
取り組んでいた 42)。そのため、これが功を奏することになる。本博覧
Ministère de l'Instruction Publique et des Beaux-Arts
会の主題に最も関連の深い教育・美術省は、本博覧会の会場としてグ
ラン・パレを利用することに積極的な態度を突然示したのである。こ
れにともない、彼は敷地問題解決のために、アングルヴァンに対して
1921年7月26日協定によって取得した敷地の一部の利用を要求する。
これに対して、アングルヴァンはF. ダヴィの要求に対してさまざまな
条件付きで認めるに至った 43)。これが、最終的には 1921 年 11 月 7 日
の F . ダヴィとアングルヴァンの間で交わされた協定である。さら
Ministre des Travaux Publics
concession
に、公共事業省によって委譲された敷地と、パリ市より委譲された地
域などを加え、本博覧会の敷地は次の 3 点からなる一帯に決定した
(図 -21)
。また、これは 1924 年に本博覧会を、1925 年に植民地博覧
会をそれぞれ開催することもあわせて決められている。
A. 1. クー・ラ・レンヌ の一部で、中央遊歩道とセーヌ川
の欄干を含む
2. ジェネラル・ガリエニ通りを含むエスプラナード・デ・
ザンヴァリッド
3. セーヌ川の河岸及び港
(公共事業省によって委譲される
敷地)
。特に、シャンゼリゼ港、アンヴァリッド港。上流
はコンコルド港の発端から下流はアンヴァリッド港まで。
B.アレクサンドルⅢ世橋。開催前15日間及び閉会後15日
間、植民地博覧会と同条件。
C. 次の間の接続部分
1. クー・ラ・レンヌの中央車道とグラン・パレ
2. アレクサンドルⅢ世通り、プティ・パレ、デュテェイ通
りの起工部分(プティ・パレは清掃予約済)
この敷地に対して、一貫して本博覧会の計画に携わってきたルイ・
図 -21 1921 年 11 月 7 日協定等によって決定した敷地 敷地図
ボニエの見解は、次の諸点にまとめることができる 44)。ひとつは、こ
の独立館も同様に、閉会後30日以内の完全な撤去が条件であった。つ
の敷地がパリ城壁跡地などと比べて、平坦で広がりがある点である。
まり、独立館と庭園を交互に配置することによって、パリ植民地博覧
もうひとつは、このほかの有力な候補地に比べて遙かにパリの中心部
会の独立館の建設期間を少しでも長期化しようと試みたのである。
に近いという点である。さらに、そのほかの候補地に比べてこの敷地
また、クー・ラ・レンヌ及びセーヌ河岸については次のような条件
の周囲が、アンヴァリッド、グラン・パレ、プティ・パレなどの壮麗
が課せられた 46)。それは、この敷地に独立館しか建設できないという
な大建築群と、セーヌ川及び豊かな緑によって会場の枠組みが完成し
ものである。また、この独立館も同様にそれぞれの間に、敷地と同じ
ている点が指摘されている。
広さの空いた空地を設け、パリ植民地博覧会の独立館が本博覧会閉会
直後から建設できるような敷地をあらかじめ確保しておくことが求め
2-5. 条件
られていた。さらに、これらの独立館も閉会後30日以内の撤去が要求
この敷地問題の政治解決は、多くの条件を残していた。そのひとつ
されている。
は、敷地委譲にともなう条件である。これは、本博覧会とパリ植民地博
こうした会場計画の経済性や合理性は、
敷地の都市基盤整備に要する
覧会が同一地域で開催することにより可能な経費削減を狙ったものであ
負担を両博覧会間で均等に分担すると定められた点にも表れている47)。
る。具体的には、それは会場及び展示館の再利用することが考えられ
もうひとつの条件は、地理と周辺環境による条件である。これは、L.
た。すべての建築及び庭園は、本博覧会によって例外なく返却され、そ
ボニエが指摘したように、アンヴァリッドに始まり、その主軸を中心
の期限は 1924 年 10 月 20 日までとされた 45)。また、エスプラナード・
として形成された敷地の枠組みを、まずはじめに指摘しておかなけれ
デ・ザンヴァリッドに建設されるギャラリーは、キャーンコンスの内側
ばならない。一方、より具体的な条件は、敷地の全体だけではなく部
des galleries d'exposition,
avec ramifications
とすることと、平面形状は枝分かれを持つことが求められた。また、
分にも不連続な地域が多く残されていたという点である。この敷地の
ギャラリーの立面に施される装飾は自由に設けることが許されたが、
閉
中心にはセーヌ川が流れているため、主会場のグラン・パレとエスプ
会後 30 日以内の撤去が条件となった。
ラナード・デ・ザンヴァリッドが分断されていた。また、セーヌ川両
一方、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの独立館は、ギャラリー
岸を走る路面電車の軌道も厄介な問題であった。さらに、エスプラ
des pavillons légers
の間に庭園を設け、軽量独立館を配置することが求められた。また、こ
ナード・デ・ザンヴァリッドのセーヌ川側の地下にはアンヴァリッド
7
地下鉄駅があり、ガリエニ通りを中心として幅の広い架橋がエスプラ
ナード・デ・ザンヴァリッドとオルセー河岸をつないでいた(図-21)。
最後の条件は交通問題である。これは、開催期間中の一般交通に関
する問題であり、1911年のカルノー・レポートの敷地検討でも指摘さ
れている。この問題の中心はアレクサンドルⅢ世橋である。その理由
は、この橋を博覧会会場内専用とすることによって、一般交通が排除
されるからである。パリ市議会では、日常の交通量計算に基づいた報
告などとともに、警察を交えた実務的な議論がなされ、いくつかの解
決策が取られる。しかし、結果的には大きな問題として最後まで議論
が継続された 48)。
第 3 章 会場
3-1. 1922 年 3 月案
1921 年 11 月 7 日協定から約 1ヶ月後の 1921 年 12 月 16 日に、L.
ボニエは会場計画の基本方針に関する報告書をまとめ、F. ダヴィに提
図 -22 1922 年 3月会場計画案 鳥瞰図
図 -23 1922 年 3 月会場計画案 配置図
出している 49)。その中で、展示館の種類は独立館、ギャラリー、グラ
ン・パレの 3 つに分類され、それ以外を屋外展示とレストランなどの
サービス部門とした。また、その独立館は約 30 棟計画された。その敷
地面積には約 34、000 ㎡が割り当てられ、エスプラナード・デ・ザン
ヴァリッド、クー・ラ・レンヌ、セーヌ川両岸が与えられた 50)。これ
は、1921 年 11 月 7 日協定に全く倣ったものである。さらに、独立館
はフランス国内だけではなく諸外国にも建設を依頼することと、さま
ざまな芸術分野の職人や専門家のグループによって建設することを要
求している。こうした内容は、美術全体を平等に扱おうとする考え方
に基づいたものであろう。さらに、L. ボニエは 3 種の展示館には、そ
れぞれ特徴を与えること主張している。その中で、独立館には、住宅
を中心とした建築用途を取りあげ、現代の装飾美術を決定する具体的
な計画を要求した。一方、ギャラリーは 1921 年 11 月 7 日協定に従っ
てエスプラナード・デ・ザンヴァリッドを敷地とすること、その短辺
を 16 mとすること、回廊を設けることを求めている 51)。
図 -24 1922 年 7 月会場計画案 配置図
こうした基本方針は、1922 年 3 月案で具現化された(図 -22、23)。
道橋による解決案は、
アンヴァリッドの眺望を破壊するため却下され、
この計画案の中で敷地条件に倣ったことは、緑地帯であるキャーンコ
ンス以外に地域に設けられた独立館が、ほぼ同じ大きさの庭園と交互
1900年パリ万国博覧会と同様に路面電車の地下埋設が検討された。 に組み合わせて配置している点である。これに対して、L. ボニエが強
一方、この会場計画案と前案の最大の相違点は、その計画自体の精
調していることは、次の諸点にまとめることができる。ひとつは、エ
度である。まず、独立館の数を 30 棟から 60 棟に増加させ、建築面積
スプラナード・デ・ザンヴァリッドのアンヴァリッド側及び、グラン・
が 90㎡前後のものから250㎡を超えるものが用意された。しかし、こ
パレとプティ・パレに挟まれたアレクサンドルⅢ世通りの 2 カ所にメ
の変更から独立館の建築面積を縮小して、その数量を増加させたこと
イン・エントランスを設けている点である。もうひとつは、オルセー
がわかる。例えば、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドでは、10 棟
河岸及び、クー・ラ・レンヌを走る路面電車の軌道を、各所に設けら
の主要な独立館は、短辺が 11 mで長辺 15 mの長方形の平面外形が与
れた歩道橋によって、分節された敷地を連続させ、会場内の交通問題
えられ、ガリエニ通りに沿って壁面線が揃うように配置されている。
を解決しようとしている点である。さらに、展示館を重要性の度合い
また、クー・ラ・レンヌのセーヌ川側の一列に並べられた独立館の平
に応じて大きく 2 種類に分類し、エスプラナード・デ・ザンヴァリッ
面の短辺は 12 mに揃えられているのに対して、グラン・パレ及びプ
ドの中央部分には重要性の高い独立館を、キャーンコンスにはそれよ
ティ・パレ側に配置された独立館の平面の短辺は 8 mである。一方、
り重要性の低い独立館を計画した点も強調されている 52)。
ギャラリーは、その短辺の長さに違いを与え、それぞれ異なる性格が
与えられている。具体的には、プティ・ギャラリーの短辺は 10 mであ
3-2. 1922 年 7 月案
り、グラン・ギャラリーの短辺は 16 mである。
1922年7月に、より具体的な展示館の規模とその数量を定めた会場
会場計画の造形にも、大きな変更が加えられた。それは、アンヴァ
計画案が発表された(図-24)
。この会場計画にともなって、1922年7月
リッド側に設けられたメイン・エントランスは削除され、実施案にお
9 日に、L. ボニエは本博覧会の会場計画に関する報告書を発表してい
いて劇場・技能館・図書館が建設された地域に図書館と会議場が計画
る 53)。その中で注目すべき点は、路面電車の問題である。前案の歩
された点である。もうひとつは、緑地帯であるキャーンコンスの展示
Théâtre
8
Palais des Métiers
Bibliothèque
La Salle des Confèrences
館の数量及びその総面積が縮小され、ギャラリーによって囲まれた地
域を会場の中心と捉え直している点である。これは、緑を重視する考
えに基づいている。この捉え直しにともない、ギャラリーはガリエニ
通りからキャーンコンスに通り抜ける部分を削減し、前案よりも一体
感のあるものへと変更することが可能となった。
3-3. 1922 年 11 月案
1922 年 11 月案は、最終的に 1923 年 3 月 5 日の委員会において承認
され、本博覧会の会場計画に関する多くの事項が決定された 54)。本案
では、それらの基本となる 2 つの方針が定められている。ひとつは本
博覧会の全体の眺望を重視する点である。この点に関して、次の 4 点
の具体策が挙げられた 55)。それらは、アンヴァリッドへの視覚的配慮、
樹木の視覚的な効果の尊重、展示館などを建設しない空いた空間の重
図 -25 1922 年 11 月会場計画案 鳥瞰図
視、庭園と水面の効果を引き立てることである。その基本は、建築の
distribution proportion
会場全体に対する配分と均整という 2 つの視点からまとめられた。
もうひとつは、作品の展示方法を重視することである。この点に関
しては、L. ボニエのまとめた基本方針と変更なく、作品の「分類」に
応じた展示方法を採用し、グラン・パレ、ギャラリー、独立館の 3 つ
の建築によってそれらを収容することを確認している。
この全体の眺望を重視する基本方針に対して、
独立館は全て平屋建て
とすることが求められた。これにより、高くそびえ立つ塔はアレクサン
ドル3世橋の4塔の装飾塔を起点として、アンヴァリッド地下鉄駅の上
部に設けられたギャラリー端部の4棟の塔、さらにその奥のギャラリー
端部の 4棟の塔が徐々に高さを増し、この 3種の連続する塔がドーム・
デ・ザンヴァリッドの垂直方向に対する視覚的な眺望を誇張する都市ス
ケールの彫刻となった(図 -25)
。また、ギャラリーの大小関係をより
一層明確にして、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの空間を区切
りながら、その骨格となることが提案されている。さらに、独立館に
sobriétée
対して、装飾のために外観は非常に簡素にすることも提案された 56)。
一方、作品の展示方法を重視しようという基本方針に対して、展示
の基本指標となる「分類」は、5 群 34 組からなるものが提案された。
それに対して、独立館には住宅を中心としたものとすること、フラン
ス部門だけではなく諸外国部門及び植民地部門にも建設すること、さ
まざまな芸術家と職人によって完成させることが前案から継承された。
さらに、フランス部門にはエスプラナード・デ・ザンヴァリッドとプ
ティ・パレ庭園が、諸外国及び植民地部門には、クー・ラ・レンヌ及
びグラン・パレ庭園が、それぞれ均等に割り当てられた(図 -26)。こ
のセーヌ川を挟んだ部門と独立館の配置計画に、フランスの対抗心が
stand
表れている。一方、ギャラリーはスターンドによる展示空間が提案さ
れ、グループによる展示と個人による展示の両者が受け入れられた。
図 -26 1922 年 11 月会場計画案 配置図
独立館に関する本案と前案との最も大きな相違点は、独立館を60棟
前案とは大きく異なっている(図 -27)
。この庭園は、パリ市が 1925 年
から 78 棟に増加させ、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドでは、地
7 月まで、国立園芸協会と賃貸契約を交わしていた地域である。その
下がアンヴァリッド地下鉄駅となっている部分にも、水面を囲む庭園
ため、前案までは、本博覧会の敷地として計画されていなかった。こ
と交互に8棟の独立館が軸線対称な位置に設けられている点である 。
の地域には、園芸、フランス村、植民地をテーマとした展示館が計画
Société Nationale d’Horticulture
Exposition d’Horticulture Village Français Section Coloniale
57)
され、その対岸のオルセー河岸には、前案においてキャーンコンスに
Moyens de Transport
3-4. 1924 年 1 月案
計画されていた輸送手段をテーマとした展示館などが計画された。
本博覧会は1924年の開催を1925年に延期し、パリ植民地博覧会の
さらに、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドにおいては、地下が
開催年は 1925 年から 1927 年に変更される。
アンヴァリッド地下鉄駅のギャラリーの幅が半分に縮小され、端部に
Le Cour Albert-Ier
本案は、敷地がアンヴァリッド橋からアルマ橋までのアルベールⅠ
乗せられていた塔の替わりに、その周辺の独立館よりも少し敷地面積
世庭園と、その対岸にあたるオルセー河岸まで拡張された点において
の大きい独立館が用意された。これにより、その地域の展示館の配置
9
も大きく変更される。加えて、地下がアンヴァリッド地下鉄駅となって
いる地域と、端部に塔を持つギャラリーの間の広場にも、この周辺の独
立館よりも敷地面積の遙かに大きい独立館が計画された。
このように、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドは、最も広くまと
まった敷地であるが、敷地委譲にともなう条件、地理と周辺環境による
条件のために、最も検討を必要としていた地域となった。
3-5. 1925 年 5 月案
この会場計画案と前案との相違点は、セーヌ河岸のクー・ラ・レンヌ
に計画された諸外国の展示館の平面がより正確に与えられ、
さまざまな
形状の展示館が 2 列に配置された点である(図 -28、29)
。こうした変更
は、その対岸に計画されたフランスの展示館も同様である。さらには、
アルベールⅠ世庭園に計画された園芸、フランス村、植民地をテーマと
した独立館だけではなく、
その対岸の独立館にもより正確な平面形状が
図 -27 1924 年 1 月会場計画案 配置図
与えられた。一方、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドにおいては、
展示館の平面外形に関する変更は各所で見られるが、
最大の相違点は前
案においてギャラリー前に計画されていた4棟の独立館を本案では3棟
に集約して、その中心に大規模な展示館を配置した点である。
このように、
本博覧会の会場計画はさまざまな条件と背景を踏まえな
がら計画されると同時に、
展示館の建築造形に影響を与える多くの条件
をもたらした。こうした会場計画の特徴は、エスプラナード・デ・ザン
ヴァリッドではギャラリーを骨格として重要な独立館をその内側に計画
したこと、その対岸のクー・ラ・レンヌでは独立館を直線上に配置した
こと、独立館を庭園と交互に配置した点であり、これらの3点の特徴は
初期案から最終案まで変更されることなく首尾一貫して守られた計画に
基づいている。これに対して、フランスと諸外国の独立館を対置した点
及び、
骨格となるギャラリーからより小規模な独立館を中心に会場を計
画した点は、会場計画の進展にともない変更されたものである。
図 -28 1925 年 5 月会場計画案 配置図
また、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドでは、展示館の数量、平
面形状、規模、位置など会場計画に大きく影響を与える諸要素を中心
に、計画案ごとに変更を繰り返し、会場構成そのものを改善したのに対
し、諸外国の独立館を計画しているクー・ラ・レンヌでは、展示館の会
場構成が 1 列から 2 列に変更された以外に大きな改善はなく、計画案の
改善という点においてクー・ラ・レンヌより、エスプラナード・デ・ザ
ンヴァリッドの方が遙かに重視して計画された。
ここで、この会場計画を取りまとめた L. ボニエと Ch. プリュメの考
え方について整理する必要がある。彼らの会場計画に対する考え方は、
ほぼすべての点で共通していた。しかし、その中で異なる点がひとつ
あった。それは、セーヌ川からアンヴァリッドに至るガリエニ通りの単
調さの改善に関してである。この改善に対して、L. ボニエは否定的で
あったが、Ch. プリュメは積極的であった。したがって、この一連の会
場計画を振り返ると、
L. ボニエの考え方は会場の骨格や基本を打ち出す
のに有効なものであり、Ch. プリュメの考え方は 1922 年 11 月以降、そ
図 -29 1925 年 5 月会場計画案 配置図
の骨格に対して独立館の変更により単調な会場から複雑な構成に変更し
面外形、立・断面外形、空間構成、装飾などあらゆる点で多種多様で
たことに大きく寄与したと言えよう。
あった。例えば、建築家ヨゼフ・ホフマンのオーストリア館、建築家
本博覧会は、1925 年 4 月 29 日から 10 月 31 日までの約 6ヶ月間開催
ヴィクトール・オルタのベルギー館、建築家ジャン・フレデリク・ス
Josef Hoffmann, 1870-1956
Victor Horta, 1861-1947
Pavillon des Pay-Bas
された。本博覧会に参加した諸外国は、我が国を含めて 22ヶ国に上る
。それらの国々の中で自らの独立館、つまり外国館を建設した国は、
Pavillon de la Belgique
Easton and Robertson
Pavillon de l'Autriche
Jan Frederik Staal, 1879-1940
Pavillon de la Grande-Bretagne
タルのオランダ館、イーストン・アンド・ロバートソンのイギリス館
58)
が挙げられる。さらに、
「新建築」も諸外国の独立館と同じクー・ラ・
18ヶ国であった59)。これらは、アレクサンドルⅢ世橋を中心として敷地
レンヌとその周辺に建設され、フランスのアール・デコ様式の展示館
が割り当てられ、さまざまな諸外国の独立館が発表された。それは、平
と対置された。
10
第 2 部 エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの展示館:建築
うに、開かれた開口部を用意するためらしい。一方、このような建築
造形とその諸条件
構造を可能にしたのは鉄筋コンクリート造である。また、この塔を支
第 4 章 ギャラリー
える 4 棟の小塔の平面などにも、この 8 角形が用いられている。1 階
4-1. ギャラリー
は回廊と連続し、ギャラリーのエントランスホールとなっている。一
Galeries
ギャラリーの設計者は Ch. プリュメである。彼の仕事は主に外形と
方、3 階及び 4階にはレストランが設けられ、その中でも 4 階にはパー
外観に表れている(図 -32)。具体的には、それは会場と関係付けて計
ゴラによって屋根の葺かれたバルコニー付きレストランが用意された。
画されたギャラリーの構成、大理石による外装の仕上げ、8 角形の窓
この塔の平面外形は 17、200 mm の正方形であり、ガリエニ通り側
枠の形状などに確認することができる(図 -33)。一方、ギャラリーの
の側面に取り付いた回廊の全幅は 4、850mm であった(図 -34)。1 階
空間構成と室内装飾は、各棟ごとに建築家と室内装飾家が割り当てら
平面は階段室及びエレベーター室が設置された 4 隅の各小塔と、その
Rue de Constantine
れ、それぞれ独自に計画された。その中でコンスタンティンヌ通り側
間のホール部分に対して、それぞれ 2、150mm、2、766mm のグリッ
Pierre Chareau, 1883-1950
に建設された棟は、それぞれ建築家ピエール・シャロー、P. セルメル
Maurice Dufrène, 1876-1955
ドを設けて、軸線対称となるように構成された。さらに、回廊に飛び
Joseph Hiriart, 1888-1946
シェイム、室内装飾家モーリス・デュフレーヌ、建築家ヨゼフ・イリ
Georges Tribout, 1890-1962
出したキャノピーも、このグリッドに合わせて形成されている。しか
Georges Beau, 1892-1958
アール、ジョルジュ・トリヴー、ジョルジュ・ボが担当した。
し、このグリッドの基本となる大きさは 2、150mm である。この長さ
このギャラリーの内壁の面から面までの有効寸法は16、000mm、壁厚
は、平面外形である 17、200mm の 8 分の 1 に相当し、2 つの階段室及
は 350mm であり、これは会場計画から継承された寸法である(図 -30)
。
びエレベーター室の全長は、この平面外形の 2 分の 1 に相当する。さ
一方、長手方向は 6、220mm を基準として計画された。その寸法は、
らに、3 階平面も、この 2、150mm 及び、2、766mm のグリッドを基
このギャラリーに付設された回廊だけではなく、キャーンコンスに通
本として構成されている。
り抜ける通路部分の基準にもなっている(図 -30、31)。こうした計画
キャティレヴァーによって張り出した 3 階レストランは、2 0 、
は、L. ボニエと Ch. プリュメによって進められたものであろう。しか
005mm の高さにあり、吹き抜け及びバルコニーのある最上階は 23、
し、この基準はギャラリーの構造及び外形に対するものであり、内部
470mm の高さにある(図 -35)。このほかの独立館の最高高さは、約
空間を構成する基準として利用されることは全くなかった。つまり、
11、200 m以下であるため、このレストランはそのほかの独立館より
スターンドを中心とした展示室には、建築家や室内装飾家が自由に内
も確かに倍近い高さにあり、ほぼすべての会場を眺望することが可能
壁を設けることによってそれぞれ独自の内部空間が形成され、それら
な高さにあった。
は全くこのギャラリーの構造体とは無関係に計画された。こうした構
4-3. 技能館
成が可能であった理由は、厚さ350mmの外壁に構造体が収められてい
Palais des Métiers
たことだけではなく、
このギャラリーが平屋建であったからでもある。
技能館の設計者も、Ch. プリュメである。これは、会場計画の段階
からギャラリーと同じ考え方に基づいて計画された(図 -37)。そのた
4-2. ギャラリー附設:塔
め、この技能館は独立館とは全く性格の異なるものであり、建築の規
Tours
この塔も Ch. プリュメによって設計された(図 -36)
。これは、エス
模、形態、空間はむしろギャラリーと共通している点が多い。さらに、
プラナード・デ・ザンヴァリッドのギャラリーの両端部に 4 棟建設さ
この展示館はその位置付けが本博覧会では装飾美術に対する精神性と
lanterne
れたが、それらはすべて全く同じのものであった。これは巨大な電灯
いう点において最も高く認識されるように計画された。その中でも、
として機能することが求められていたため、この上階にはフランス各
この中庭は本博覧会の「心臓部」と位置付けられている(図 -38)60)。
地方のレストランが設けられた。これにともない、塔の上層 2 層分が
これまでのパリ万国博覧会では、
この位置にドームが計画されてきた。
キャンティ・レバーによって持ち出され、四隅にある 4 棟の小塔より
しかし、
1889年のパリ万国博覧会において建設された鉄骨製のドーム
張り出している。この外形は、Ch. プリュメによれば、彼の体験に基
に対する反省に基づいて、この中庭が提案されたらしい 61)。
づいたものであり、会場の高い位置からの眺望をより一層楽しめるよ
この中庭はキャノピーによって開放的に計画されている。これは、
Le Coeur
図 -30 ギャラリー 平面図 S=1:1800
図 -31 ギャラリー(初期案) 立面図 S=1:1800
11
図 -32 ギャラリー及び塔 外観写真
図 -36 塔 外観写真
図 -37 技能館 外観写真
図 -33 ギャラリー 外壁及び開口部 写真
図 -38 技能館中庭 外観写真 図 -39 コレクションホール 内観写真
図 -34 塔 平面図 S=1:500
図 -40 技能館 平面図 S=1:1000
図 -41 技能館 北側立面図 S=1:1000
図 -35 塔 立面図 S=1:500
12
装飾美術の知的性質を積極的に市民化する意図を建築造形に反映した
ものである。こうした意図は、本博覧会の開催意義の中核をなすもの
であり、それを建築によって表現していたと評価できる。
技能館のほかの 3 辺には、フランス大使館のレセプション・ホール
やプライベート・ルームなどが設けられた。一方、この中庭は絵画に
Gabriel Mourey, 1865-1943
よって囲まれているが、それは作家ガブリエル・ムーレイの発案によ
るものであった。その絵画の題材は、
「分類」に挙げられた「建築」、
「家
図 -42 劇場 外観写真
具」、
「装身具」などの項目とほぼ同じ内容である。これは、噴水や彫
刻とともに、装飾美術の精神性の高い空間を演出している。しかし、こ
の絵画は開口部を壁面に設けることを妨げた。そのため、 M. ルー=
スピッツのコレクション・ホールのように、その室内装飾は開口部が
制約されたため、極めて閉鎖的なものとなっている(図-39)。したがっ
て、コレクション・ホールの 3 面は彫刻の施された大理石によって覆
われた。しかし、開口部を設けないことが逆に、壁面を活かした室内
空間を導き、アール・デコ様式につながる室内装飾の真価を発揮しや
図 -43 劇場 平面図 S=1:1000
すい状況を作り出していたとも言えよう。一方、この技能館の平面の
特徴は、会場計画の段階からギャラリーと同様に指定された10、000mm
という基準と、キャノピーのグリッドの基準にも利用された中庭の絵
画の寸法によって構成されている点である(図 -40、41)。
ここで、Ch. プリュメの得意とした8角形のモチーフに関してまとめ
Antony Goisssaud
ておかなければならない。建築誌記者アントニ・ゴワソーによれば、技
能館中庭及びその付属建築物は、
彼の才能と興味を注いだ美術家の才能
図 -44 劇場 断面図 1 S=1:1000
の面目を保った62)。それは、数年前からしばしばすべての作品に目に留
まる、新しく、しゃれていて、簡単な形態であり、これらの良い提案は
共働者によって実際に用いられた。その影響は、新しい近代建築の中で
好ましい。さらに、それはいたるところ、パネル、枠、池、噴水、台座、
ピラスター、開口部、エントランスに影響を与えているという。
図 -44 劇場 断面図 2 S=1:1000 図 -46 図書館 内観写真
4-4. 技能館附設:劇場
周囲の廊下及びステージから客席のある空間を象っている。さらに、こ
Théâtre
劇場は技能館に隣接した独立館である。その設計者はA.ペレであっ
のステージと客席とを分割している2本の柱は、
新しい舞台形式を象っ
た(図 -42)。この展示館は舞台を 3 場面に分割し、場面展開を早める
たものである。したがって、この新しい舞台の構成は、場面展開を早
新しい劇場形式を提案した。しかし、これは当時演劇委員会から要請
める舞台演出だけにこだわって考案されたものではなく、
8角形を基本
Henry Van de Velde, 1863-1957
を受けたものではなかった63)。また、これは建築家アンリ・ヴァン・デ・
とした平面構成と、新しい舞台形式の両者を検討して計画されたもの
ヴェルドによる劇場のものと共通点を指摘されている。もうひとつの
と言えよう。
特徴は、この独立館が仮設建築であるため、簡素さと経済性を追求し
図書館は、劇場と対をなして計画された独立館である。また、その
ている点である。それは、この建築には装飾要素が少ないということ
全長と全幅ともに劇場と同規模の建築であった(図 -46)。その設計者
だけではなく、木造、無筋コンクリート造、鉄骨造の 3 種の構造形式
は、建築家ポール・ユィラールである。これは、従来の図書館と大き
の混構造を実現しているという点である。具体的には、この劇場を支
く異なるため、しばしば誤解されていた。その理由は、この図書館が
える36本の柱は木造であり、これらを繋ぐ無筋コンクリート製の大梁
新しい種類の図書館として提案されたからである 64)。具体的には、こ
は舞台部分を除き、放射状に架構が組み上げられた。そして、この劇
の図書館はいわゆる読書を目的とした図書館ではなく印刷、製版、製
場中心の客席上部のみ鉄骨の架構が組まれ、最もスパンの長い部分を
本の展示するためのものであり、図書芸術の展示を目的とした独立館
支えている。
だからである。この図書館と従来の図書館の相違点は、採光を考慮し
これは、全長約58、000mm、全幅約25、000mm、最高高さ約13、300mm
て計画された建築構造にも表れている。これは、建築の構造体を内部
の小規模な劇場であり、エントランス及びホワイエ、客席及び舞台、楽
に剥き出しにして、大きな開口部を設けることによって、印刷や製版
屋及び倉庫の 3 部から構成されている(図 -43、44、45)。この劇場の
などを展示するために最適な自然光を取り込み、最適な光環境を提供
中心に位置する客席及びステージ部分は、12、000mm と 9、500mm スパ
できるように計画された。
Paul Huillard, 1875-1966
ンから構成されている。さらに、9、500mm スパンは、東西方向及び
南北方向ともに 4、500mm と 5、000mm スパンに分割されていた。こ
第 5 章 百貨店館
れらは客席のある空間を構成し、その平面形が8角形となっている。さ
5-1. ギャルリー・ラファイエット百貨店館
らに、この 8 角形の頂点にはフルーティングの施された柱が設けられ、
ギャルリー・ラファイエット百貨店館は、M. デュフレーヌの主宰する
13
Atelier la Maîtrise
アトリエ・ラ・メトリーズを中心に計画されたものである(図-47、48)
。
しかし、これは J. イリアール、G. トリヴー、G. ボの若手 3 人組の代
表作である。彼らがこの百貨店館を設計することができた理由は、建
築コンクールにおいて 1 等を獲得したからである。この建築コンクー
ルには、延床面積を約350平方メートルとすること、各諸室をポーチ、
玄関、ホール、ギャラリー、階段、食堂、寝室、サロン、浴室、事務
室及び、
ティールームから構成することなどの条件が課せられていた。
しかし、
その多くは会場計画の段階で定められた条件と共通している。
40の応募案の中で、J. イリアールらの作品に対する建築コンクール
の講評が興味深い 65)。そのひとつは、この百貨店館が芸術作品に対し
てその枠組みだけを提供するものであり、展示作品の価値を高められ
るように計画された点である。もうひとつは、彼らが建築材料や建設
技術を合理的かつ的確に検討しているという点であった。さらに、こ
plan
の百貨店館の魅力が、建築の細部や建築装飾ではなく、平面、ヴォ
volumes
図 -49 ギャルリー・ラファイエット百貨店館 平面分析図 1 S=1:500 silhouette
リューム及び輪郭としている点である。つまり、審査員はこの百貨店
館自体には、建築装飾や装飾美術の魅力を全く求めていない。それと
ともに、この百貨店館には装飾美術の作品に魅力的な展示空間を提供
するものであるという認識が強く現れている。
この百貨店館は、本博覧会の独立館を代表する現代的で想像力にあ
ふれたものであるという賞賛が与えられた 66)。また、これは 8 角形の
平面のうち 3 辺を大階段に割り当てるなど、ほかの独立館にはない大
胆な手法によって構成された。さらに敷地内の段差を利用しながら、
中心にホールを設け、その周囲に寝室や食堂などの各諸室が取り囲む
魅力的な内部空間が計画されている。その展示室には、アトリエ・ラ・
メトリーズの家具、絨毯、クッション、花瓶、照明器具、食器、ガラ
ス細工など、華美で貴重なものが多数展示された 67)。
その平面には、一辺が 20、000mm の正方形とその正方形を 45 度回
転させた正方形からなる正 8 角形が与えられたが、この百貨店館の平
図 -50 ギャルリー・ラファイエット百貨店館 平面分析図 2 S=1:500 面はほぼその通りに計画された(図-49、50)
。また、内壁は 4、300mm
及び 4、800mm を基準として計画されている。ここで重要な点は、壁
の面と面の有効寸法を基準として構成されている点である。これは、1階
及び 2 階平面に共通した特徴である。一方、この正面は幾何学を用い
て計画された 2 面の立面を重ね合わせることによって構成され、より
一層立体感のある正面を表現しようと試みていることも、この百貨店
館の特徴のひとつである(図 -51、52)
。
この百貨店館の平面外形と立・断面外形は大きく制限されているが、
これは規制外輪線によるものである 68)。この条件は、エスプラナード・
デ・ザンヴァリッドに計画された独立館に対して、5、000mm を超え
る部分の 45 度の斜線規制と、約 11、200mm の最高高さを規制してい
図 -51 ギャルリー・ラファイエット百貨店館 立面分析図 1 S=1:500 た(図 -53)
。それは、敷地の四方から制限されたものであり、その対
solide
象となったものは頑丈なものと規定された。
では、この規制外輪線を設けた理由は次の諸点にまとめることがで
図 -47 ギャルリー・ラファイエット百貨店館 外観写真 図 -48 同館 内観写真
図 -52 ギャルリー・ラファイエット百貨店館 立面分析図 2 S=1:500 14
きる。ひとつは、アンヴァリッドに対する配慮であり、アンヴァリッ
ドを中心とした歴史的建造物の枠組みを、無秩序に破壊してしまうか
もしれないという不安の現れであると捉えることができる 69)。もうひ
とつは、自由を重視し独自性に傾倒している建築家に対する緩やかな
抑制であった。これによって本博覧会の独立館を設計することが、美
学の独自性を再検討させる機会となることを意図している。この規制
外輪線に対して、こうした誠実なる理由が掲げられるが、その一方で
エスプラナード・デ・ザンヴァリッドに計画されたフランスの独立館
にのみ条件を与え、これらの外形全体に調和を与えようとしていたと
いう解釈もできよう。
図 -53 ギャルリー・ラファイエット百貨店館 断面分析図 1 S=1:500 5-2. プランタン百貨店館
Atelier Primavera
プランタン百貨店館は、この百貨店が主宰するアトリエ・プリマ
Henri Sauvage,
ヴェラによるものである(図-54、55)
。その設計者は、建築家アンリ・
1890-1931
George Wybo, 1880-1943
ソヴァージュとジョルジュ・ヴィボであり、室内装飾を行ったのは、ア
A. Levard, ?-?
トリエ・プリマヴェラから任された建築家A. ルヴァールである。その
外観は、この曲面の大屋根だけではなく、エントランスのピアのよう
などっしりとした柱が目を引く 70)。その一方で、この屋根形状により、
図 -54 プランタン百貨店館 外観写真 図 -55 同館 内観写真
建築の外形と内形が一致しない部分が多く生じている。これは、鉄筋
コンクリート造で円錐型の大屋根であるにもかかわらず、この独立館
の各室の天井はその大屋根とは全く異なる形態と高さに形成されたか
らであり、内部空間と建築外形とが全く異なってしまった 71)。
一方、この百貨店館の食堂や執務室などの各諸室が中央のホールを
介して全く独立し区切られていない点が高く評価され、これは住宅と
しての新しい提案であると期待された。こうした空間構成は、住宅の
各諸室の間につながりを持たせるという点において重要である高く評
価された点である72)。これを象徴するのが2階のギャラリーであり、そ
こから中央のホールを介して各諸室を眺めることができるように計画
された。これは、ひとつの装飾美術の作品だけを楽しむのではなく、多
様な作品が各諸室の中でまとまり、それがひとつの作品として認識さ
せることを意図している。
一方、この百貨店館の平面はギャルリー・ラファイエット百貨店館
と同じ平面外形が与えられた。これに対して、H. ソヴァージュと G.
図 -56 プランタン百貨店館 1 階平面分析図 S=1:500
ヴィボは、一部だけ逸脱しているが、その外形線を最大限利用して、そ
の平面を計画した(図 -56)
。また、内部空間は中央ホール及び各諸室
を象る内壁と、中央ホールに設けられた 4 本の大円柱によって構成さ
れ、それらは外壁の外面からそれぞれ 4、500mm、3、500mm の間隔
を開けた位置に計画された。また、この各辺に沿って諸室が設けられ、
その平面外形は楕円や 8 角形などの単純幾何学を用いて計画された。
その理由は、食堂、寝室、執務室を矩形の室として計画したことによ
り、それら以外のエントランス、婦人室、洗面室などは、余った直角二
等辺三角形の部分に計画する必要があったからであろう。また、この独
立館の最高高さはギャルリー・ラファイエット百貨店館と同様に、規制
図 -57 プランタン百貨店館 断面分析図 S=1:500
外輪線の基準よりも約 2、000mm 高い約 13、200mm あった(図 -57)
。
5-3. ルーヴル百貨店館
Albert Laprade, 1883-1978
ルーヴル百貨店館を設計したのは、建築家アルベール・ラプラドで
ある(図 -58、59)
。この百貨店館の特徴は 2 階に設けられた屋根付き
のテラスが外部に軽快な表情を与えている点である。もうひとつの特
徴は、1 階外壁面に設けられたショーウィンドーであり、この独立館
図 -58 ルーヴル百貨店館 外観写真 図 -59 同館 内観写真
15
の外部から家具や装身具などのさまざまな展示品を見ることができる
。これは来館者に好評で、百貨店館の展示機能という点において非
73)
常に実用的なものであったという 74)。
この百貨店館の平面も、ギャルリー・ラファイエット百貨店館と同
じ外形が与えられた。これに対して、A. ラプラドは最も正確にあわせ
て平面を計画した(図 -61)
。この独立館の平面構成も非常に明快であ
る。具体的には、この正 8 角形の各 1 辺にあたる外壁面に沿って、エ
ントランス、食堂、居間、婦人室、階段室、浴室、寝室、事務室が配
置され、その中心には吹き抜けのある正 8 角形のホールが設けられて
いる。この中心に設けられたホールの外形は、外壁面の心から4、400mm
内側に描かれる正8角形の各頂点に配された柱によって象られており、
さらにその中心に設けられた家具までもが、この内側に描くことので
きる正 8 角形を尊重して配されている。
一方、断面の分析から、2 階喫茶を覆うパーゴラが、規制外輪線に
よる45度の斜線制限を大きく逸脱しているが、このパーゴラは当局に
よってこの制限を緩和されたため建築可能となった(図 -60)75)。
図 -61 ルーヴル百貨店館 平面分析図 S=1:500
5-4. ボン・マルシェ百貨店館
Louis-Hippolyte Boileau, 1878-1948
ボン・マルシェ百貨店館の設計者は、建築家ルイ=イポリト・ボワ
ローである。この百貨店館の外観の特徴は、全体が水晶の塊のような
見え、外部に突き出た部分が各諸室の配置を暗示している点である
(図 -62、63)76)。そのため、この立体的な外観の造形と各諸室の配置
計画の合理的な関係を高く評価したものは少なくなかった 77)。
この独立館も 2 階建てである。1 階には中央に広いホールと、それ
を取り囲むように食堂、居間、執務室、婦人室、喫煙室が計画された。
図 -62 ボン・マルシェ百貨店館 外観写真 図 -63 同館 内観写真
また、各諸室の平面は矩形または 8 角形を基準としているが、据え付
け家具などとともに、その形状が大きく変形されている。
その平面外形もギャルリー・ラファイエット百貨店館と同様に正 8
角形が与えられた(図 -64)
。これに対して、彼の描いた平面図はその
幾何学の特徴を活かしたものであった。さらに、平面の特徴を挙げら
れば、
それはこの独立館のグリッドが壁心で捉えられている点であり、
それは内部の構成に関しても同様であった。この独立館は、外壁とエ
ントランスホールを象る 8 本の柱によって支えられているが、この柱
位置も外壁からそれぞれ、約 4、850mm、約 4、250mm 内側に設けら
れた交点に定められている。
一方、この独立館の敷地には、ガリエニ通りの高さと背後のギャラ
リーが計画された地盤の間に、1、000mm 弱の段差があった(図-65)
。
この百貨店館は、ギャラリー側及びガリエニ通り側ともに、5、000mm
の高さから45度の斜線によって制限するという規制外輪線を、基本と
して計画されたことがわかる。
図 -64 ボン・マルシェ百貨店館 1 階平面分析図 S=1:500 図 -60 ルーヴル百貨店館 断面分析図 S=1:500
図 -65 ボン・マルシェ百貨店館 断面分析図 S=1:500
16
第 6 章 独立館
6-1. セーブル国立工場館とダイヤモンド商組合館
Pavillon de la Manufacture de Sèvres
セーブル国立工場館は、アンヴァリッドの主軸線上の最も重要な位
置のひとつを占めている(図 -66)
。これは、1924 年 1 月の会場計画案
において初めて計画されたが、この敷地の形状や用途は会場計画の段
階において変更が繰り返された。
André Ventre, 1874-1951
当初の計画案を取りまとめていたのは、建築家アンドレ・ヴァント
ルであった。しかし、アンヴァリッドのドームへの配慮を強く望む意
図 -66 セーブル国立工場館 外観写真
向に対して、A. ヴァントルはその計画案を白紙撤回し、建築家ピエー
Pierre Patout, 1879-1965
ル・パトゥに依頼した 78)。そこで、P. パトゥはこの平屋建ての独立館
を 2 棟に分割し、その間に庭園を設けることを提案している。
彼らの基本的な方針は、外観に簡素な表情を、内観に優美な表情を
与え、内外に対照性を持たせることであった 79)。これは、外観がセー
ブル工場において製造された外装材を用いてその魅力を存分に表現す
る一方、内観が彼ら以外の建築家らによる華麗な室内装飾が発表され
たことに表れている。そのため、この独立館の立面には極力開口部が
図 -67 セーブル国立工場館 平面分析図 S=1:800
ない。その理由は、室内の壁面を用いて展示を行うからであり、それ
ぞれの各諸室には外壁面に開口部を設けることを極力避けている。し
たがって、この両面から本館は外壁面に開口部を設けることが不必要
となり要塞のようだったという 80)。
図 -68 セーブル国立工場館 立面分析図 S=1:800
ここで注目すべき点は、中心に設けられた庭園の幅とガリエニ通り
の幅がともに 20、000mm に揃えられている点である(図 -67)
。つま
り、セーヌ川側からアンヴァリッドへの鳥瞰を、このセーブル国立工
場館が視覚的に分断することのないように、その配置とガリエニ通り
の幅を決定された。また、両館の平面はほぼ同様である。それぞれ各
辺は、18、400mm と 15、200mm の矩形を基準としており、各 4 隅が
三角形によって隅切りされている。また、各諸室の寸法がすべて有効
寸法によって与えられた点もこのほかの独立館と同様の特徴である。
一方、この独立館の高さは 4、840mm であり、この規制外輪線による
高さを守っている(図 -68)
。
Pavillon des Diamantaires
図 -69 ダイヤモンド商組合館 外観写真 図 -70 白の家 外観写真
次は、ダイヤモンド商組合館である(図 -69)
。これは平屋建てであ
り、本博覧会で建設された独立館の中では、最も規模が小さいものの
Jacques Lambert, ?-?
ひとつであった。その設計者は、建築家ジャック・.ランベール、ギュ・
Gus Saacke, ?-? Pierre Bailly, ?-?
サアケ、ピエール・バイイである。会場の計画過程を見直すと、1925年
の4月に発表された計画案に初めて登場するだけである。したがって、
これは会場計画の造形や美点という点からは、主要な要素と考えられ
てはいなかったとも言えよう。また、逆にこの会場計画をより一層複
雑化している点から、これはルイ・ボニエの主張する簡素な会場とい
う点に大きく反するものである。したがって、この独立館とその軸線
La Grande Maison de Blanc
対称となる位置に計画されたブラン館は、Ch. プリュメによってすす
められたものである考えることができる。さらに、本館と白の邸宅の
平面から判断すると、これらの平面外形には正 8 角形が与えられてい
図 71 ダイヤモンド商組合館 平面分析図 S=1:500
た可能性が極めて高い。
ダイヤモンド商組合館の平面の特徴は、その周辺の舗装の模様、庇の
平面形状及び、平面外形が正8角形を基準として構成されている点であ
る(図 -71)
。一方、その最高高さは約 11、300mm であるが、これは規
制外輪線によって制限された最高高さにほぼ等しい(図 -72)
。
白の邸宅は平屋建てであり、控えめな装飾と山高帽のような屋根を
持つキオスクと呼ばれるほどに小規模であった(図-70)81)。設計者は、
Orieme, ?-?
Marlaix, ?-?
オリエームとマルレである。実際にはその形態及び規模は、ダイヤモ
図 -72 ダイヤモンド商組合館 立・断面分析図 S=1:500
17
ンド商組合館とほぼ同様であり、その会場計画における計画過程に関
しても同様であった。この両館については、これほどにまで多くの建
築形態に関する共通点がある(図 -69、70)
。したがって、この両館に
対して規制外輪線などとは別の外形に対する規制が設けられていたと
考える方が、むしろ自然であろう。
図 -73 リヨン・サン=テチエンヌ館 外観写真
6-2. リヨン・サン=テチエンヌ館とナンシー地方館
Pavillon de Lyon et Saint-Étienne
リヨン・サン=テチエンヌ館は平屋建てであるが、この周辺に建設
された独立館よりもはるかに大規模である(図 -73)
。これが大規模な
独立館となった理由は、それが会場計画案の中で 2 棟の独立館及びそ
の間に設けられた水面または庭園をも取り込んだものへと拡大された
からである。さらに、庭園がエントランスホールとなり、その両側の
独立館が各展示室となったように、
空と塞の関係も明確に継承された。
この独立館の設計を行ったのは、T. ガルニエである。この中で、彼
が最も入念に計画した部分はエントランス・ホールであり、とりわけ
図 -74 リヨン・サン=テチエンヌ館 平面分析図 S=1:800
その中心に設けられた噴水とそれに光を注ぐ段状に構成された屋根で
あった 。一方、展示品は壁面を利用して展示することとなっていた。
82)
そのため、この独立館の展示室部分の外壁面には全く開口部を設けら
れていない。したがって、外観には長大な白い外壁面だけが残ってし
まった。これは、外壁のニッチが当初図面には描かれていなかったこ
とからもわかる 83)。つまり、T. ガルニエにとって、このニッチは明ら
かに装飾であり、この壁面に表情を与えるための苦肉の策であったの
図 -75 リヨン・サン=テチエンヌ館 立面分析図 S=1:800
かもしれない。
こうした独立館に対する当時の評価には、均整が取れていて重々し
いというものがある 84)。一方、これは地味であり、建築要素の貧弱さ
が力強さの欠如につながっているという指摘もある 85)。しかし、G.
ヴェロネージによれば、この独立館は単純化された新古典主義として
高く評価されたところが興味深い 86)。
その水面または庭園として計画された部分の大きさは、1辺が17、000mm
図 -76 リヨン・サン=テチエンヌ館 断面分析図 S=1:800
の正方形である(図 -74)
。これに対して、両側の展示室部分の大きさ
は、1 辺が 16、000mm の正方形である。これに対して、T. ガルニエ
は全長 49、000mm という長さを変更することなく、ガリエニ通り側
及びギャラリー側の立面線を一直線にあわせるような変更を行ってい
る。また、四隅の隅切りに対しては 4 分円を用いた隅切りを行ってい
るので、敷地外形の範囲内に収まっているが、与えられた形態とは大
図 -77 ナンシー地方館 外観写真
きく異なるものであった。
正面の立面は、平面に対応して軸線対称である(図 -75)
。展示室の
高さは 5、000mm であり、規制外輪線によって規制されている高さの
上限を基準として計画された。これに対して、その中心に設けられたジ
グラッド風の塔に対する規制外輪線による斜線規制は緩和されたと判断
できる。一方、この塔の断面構成は、幾何学を用いて決定されたことが
わかる。具体的には、この塔は約 2、500mm を基準に構成され、パラ
ペットの高さ分に相当する700mmだけ低く見えるように計画されてい
図 -78 ナンシー地方館 平面分析図 S=1:800
た(図 -76)
。
一方、ナンシー地方館はリヨン・サン=テチエンヌ館と同様に、大
Pierre LeBourgeois,
規模な独立館へと発展した(図 -7 7 )。設計者は建築家ピエール・
1879 -1971
Jean-Émile Bourgon, 1895-1959
ルブルジョワとジャン = エミール・ブルゴンである。この独立館の北
Salle de Concert
Musée
側には150人収容できる音楽ホールが、南側には博物館が計画された。
この独立館の最大の特徴は、中央のエントランスホールの上に載せら
れたドーム屋根である。これは主産業である鋼鉄によって作られたも
図 -79 ナンシー地方館 断面分析図 S=1:800
18
のであった。そのため、これは広告塔となっていた 87)。
この独立館の平面は、リヨン・サン=テチエンヌ館と同じ平面外形
が与えられたと考えられる(図 -78)
。それに対して、彼らはこの独立
館の平面をその与えられた平面外形に合わせて計画した。また、この
平面を有効寸法を基準として計画した点も、このほかの独立館と共通
する特徴である。
断面はエントランスホール上部のドームを除いて、2種類の高さを基
図 -80 コレクター館 初期案 鳥瞰図
図 -81 コレクター館 外観写真
準に構成されている(図 -79)
。音楽ホールの客席や博物館の展示室の
中央部分は、その周囲の通路やギャラリーなどよりも天井高さが高く、
最高高さは 6、500mm に達している。しかし、その周囲の通路やギャ
ラリー部分は、直接ガリエニ通りに面しているが、その高さは中央の
客席、舞台、展示室よりも低い。
6-3. コレクター館と「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フラン
ス工芸家館
Pavillon d'un Collectionneur
コレクター館の建築設計は P. パトゥが、室内装飾は E-J. リュルマン
を中心とした各分野の芸術家が担当した(図 -81)
。この独立館が、本
博覧会の代表作とされる理由は、段状に構成された建築外形が特徴的
図 -82 コレクター館 1 階平面図 S=1:500
だからである。しかし、これは P. パトゥの確固たる意図に基づいたも
のであるとは考えにくい。むしろ、それは規制外輪線に対する配慮に
よって生まれたものであろう。その理由は、P. パトゥの初期案が、段
状に構成された建築ではなかったからである(図-80)
。一方、P. パトゥ
も本博覧会の建築部門に対して、各計画案を縮小させ、それを破壊し
ており、建築家がこの規制外輪線によって設計の障害をおっていると
主張していた 88)。こうした点からも、この特徴的な段状に構成された
屋根が、P. パトゥの積極的な意図によるものではないと考えた方が自
図 -83 コレクター館 北側立面図 1 S=1:500
然なのである。
この独立館の敷地外形は、1 辺が 18、000mm の正方形の各 4 隅か
ら、斜辺が3、000mmの直角二等辺三角形を取り除いた形状であった。
それに対して、
P. パトゥはこの外形を基準として平面を計画した
(図-82)
。
平面全体を構成するグリッドは、各 4 隅を段状に切り取るための基準
としてだけではなく、この独立館の内壁の位置や中央に設けられた居
間の楕円の中心の位置を決定するための基準としても利用されている。
このようなグリッドを用いた内壁の決定は、このほかの独立館と同様
に有効寸法を基準としている。
図 -84 コレクター館 北側立面図 2 S=1:500
この独立館の北側は、楕円形のサロンとその両側の寝室及び食堂に
よって構成されている。一方、東西方向の長さは、サロンが寝室と食
堂の 2 倍となる約 9、000mm を基準として計画された。さらに、寝室
及び食堂の幅である約 4,500mm は、約 1、400mm と約 1、700mm を
基準に構成され、これにより内壁及び柱の位置が決定された。さらに、
サロンを象る幅約 9,000mm は約 1、500mm ずつに分割され、サロン
とは反対側の玄関、浴室、執務室の外形を決定している。
一方、この主要立面は基壇とその上部の建築に分けて構成されてい
図 -85 コレクター館 北側立面図 3 S=1:500
る(図-83)
。さらに、基壇より上部の立面の外形は、1辺が約9、000mm
の 2 組の正方形によって決定されている。また、この約 9、000mm の
半分に相当する約 4、500mm は、寝室、居間、食堂を大きく分割した
平面の南北方向における基準に相当する。さらに、段状に構成された
屋根の幅は、それぞれ約 1、400mm,約 1、400mm,約 1、700mm が
与えられているが、この幅は平面の格子線の間隔と全く同じ幅である
(図-84)
。したがって、主要立面と平面の外形は幾何学を用いて関連付
図 -86 コレクター館 断面図 S=1:500
19
けながら構成されたことがわかる。さらに、地盤面よりも約700mm高
い位置の 1 階床高を基準として、この特徴的な屋根の形状が規制外輪
線によって定められた斜線制限にあわせて構成されたことも確認する
ことができる(図 -85、86)
。
Pavillon de la Revue "Art et Décoration" et des Groupes des "Artisans Français
Contemporains"
「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館の設計者
Henri Pacon, 1882-1946
は、建築家アンリ・パコンである。この独立館の敷地は、このほかの
独立館のものとは異なり、敷地の 2 辺が斜めに交差する 2 本の通りに
面している(図 -87)
。
この独立館の平面外形は、1 辺が約 18、400mm、約 16、000mm、約
図 -87 「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館 外観写真
12、400mm の 3種の正方形を組み合わせることにより、幾何学を用い
て構成された(図 -88)
。また、現代フランス工芸家グループの展示室
を象る2辺の内壁は、一辺が約16、000mmの正方形の各辺から約6、000mm
ずれた位置に、それぞれが軸線対象となるように設けられた。
一方、断面の特徴を整理すると、次の諸点にまとめることができる。
ひとつは、規制外輪線による斜線制限に関してである(図 -89)
。ガリ
エニ通りの分岐した幅8、000mmの通り側の正面の高さは約7、500mm
ある。さらに、この独立館の最高高さも約 8、500mm に上る。その一方
で、ガリエニ通り側の立面の高さは約 5、000mmであり、規制外輪線に
よって制限された高さの最大値に合わせて計画されたことがわかる。
もうひとつは、屋根の高さと天井高さの相違点に関してである。こ
の独立館の断面外形は、異なる3つの高さによって構成されている。し
かし、それぞれの室はその外形とは大きく異なる高さに天井が張られ
ている。つまり、この建築の外形は規制外輪線による斜線制限を考慮
して、外観のために最大限の大きさを確保できるように決められてい
図 -88 「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館 1 階平面図 S=1:500
るが、これに対して内部空間は、建築の外形とは全く別に各室に応じ
た自由な高さが確保できるように計画されている。
Pavillon de la Société de l’Art
Appliqué aux Métiers
応用美術・工芸協会館は、コレクター館と対置された独立館である
Charles-Henri Besnard, 1881-1946
(図-90)
。この設計者は、建築家シャルル=アンリ・ベナールとベルナー
Bernard Haubold, ?-?
ル・オボールである 。この独立館の敷地はコレクター館のものと同様で
あるが、彼らは12の小展示室を設け、それが外壁面に凹凸を与えるとい
う特徴的な計画案を実現した 。さらに、この平面形と同調して、立面及
び屋根の形状も独特なものである。立面には装飾がなく、スレート葺き
にロシア山岳地方の瓦を用いた伝統的な大屋根が特徴的である 。
図 -89 「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸家館 断面図 S=1:500
ルネ・ラリック館は、ガリエニ通りを挟んで「アール・エ・デコラ
シオン誌」及び現代フランス工芸家館と対をなす独立館であり、それ
とほぼ同じ条件の敷地が与えられた(図-91)
。この独立館の設計者は、
Marc Ducluzard, ?-?
René Lalique, 1860-1945
建築家マルク・デュクリュザールと工芸家ルネ・ラリックである。彼
らはこの敷地外形とは異なり、4 つの直方体を組み合わせてできる独
立館を計画した。この立面のコーニスは古典的であるが、その壁面に
は装飾はなく、滑面の平静な独立館であった。その一方、その外観と
は対照的な室内装飾が魅力的であり、その中でも玄関ホールを抜けた
図 -90 応用美術・工芸館 外観写真 図 -91 ルネ・ラリック館 外観写真
奥にある食堂が特に美しい 。
このように、
「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フランス工芸
家館とルネ・ラリック館には、中央の大きなヴォリュームとその両側
の小さい 2 つのヴォリュームからなり、その空間構成に共通した特徴
を指摘することができる。
6-4. その他の独立館
Musée Contemporaine
Louis Süe, 1875-1968
André Mare, 1885-1932
現代美術館の設計者は、建築家ルイ・スゥと画家アンドレ・マール
図 -93 メゾン・フォンテーヌ館外観写真
図 -92 「アール・エ・デコラシオン誌」
及び現代フランス工芸家館 外観写真
である(図 -92)
。これは、隅切りされた立方体の中心部分に半球形の
20
壁が設けられ、これが出版社の独立館であることを暗示としている。
ドームを載せた球心性の強い建築であった。外壁面には開口部や装飾
。エ
正面の外形は、約 3、000mm の高さから斜めに切り落とされ、その最
ントランスは、正方形平面の四隅それぞれに設けられ、中央のサロン
高高さも、フランスの百貨店館の最高高さの2分の1に相当する約6、400mm
の四周には、ギャラリーが取り囲んでいる。そのため、来館者がこの
に抑えられている(図 -100)
。
ギャラリーを回遊することができた 90)。つまり、この独立館はセーブ
一方、ゴールドシェイダー館はクレス出版社館と対をなして計画さ
ル国立工場館などと同様にいわゆる壁の建築であり、展示空間も内向
れた。また、その平面外形も同様である(図-101)
。その設計者は画家
的に計画された。
エリック・バジュであった。彼はこの平面外形を尊重ながら、美術出
この独立館の敷地外形は、1 辺が 16、000mm の正方形の四隅から、
版者の銅や大理石で作られた彫刻が展示されるアトリエを設計した95)。
斜辺が約 4、000mm の直角二等辺三角形を切り取った形状であった
しかし、彼が計画したのは大きな開口部を持つアトリエや美術家の仕
(図 -94)
。これに対して、L. スゥと A. マールは与えられた敷地外形に
事場のような展示空間であった 96)。また、正面の外観からわかるよう
則してこの独立館の平面を計画した。中央のサロンには、外壁の外面
に、この両館の正面の外形には、斜線によって切り落とされた共通し
から約 4、000mm 内側に、内面が位置するように内壁が設けられ、中
た外形を指摘しておかなければならない。
央サロンには平面が 8 角形の空間が与えられた。その外側には、外壁
クリストフル・バカラ館の設計者は、装飾家ジョルジュ・シェヴァリ
及び内壁の壁厚を含めて約 4、000mm のギャラリーがこの中央のサロ
エと彫刻家シャサインである。敷地外形には 4 隅を隅切りされた長方
ンを取り囲んでいる。また、この独立館のギャラリーの最高高さは約
形が与えられ、その大きさは長辺が 15、950mm、短辺が 11、800mm
4、500mm であり、ドームの最高高さも約 8、400mm まで低く抑えら
であった(図-102)
。この独立館の正面の高さは約 6,000mm ある。し
れていた(図 -95)
。
たがって、中央の円形屋根の部分を除くと、屋上に設けられた球形の
がなく、ロゴが大きく刻み込まれた墓石のようであったという
89)
Un Atelier de Sculpteur Goldscheider
Eric Bagge, 1890-1978
Pavillon des Maisons Chiristofle et des
Verreries de Baccarat
Georges Chevalier, ?-?
Chasaing, ?-?
Pavillon de la Maison Fontaine
メゾン・フォンテーヌ館は、現代美術館と対をなす独立館である。設
装飾を含めた高さが、周囲の百貨店館の最高高さである 13、200mm
計者は現代美術館と同じ L. スゥと A. マールであった(図 -93)
。この
の約 2 分の 1 に該当することがわかる(図 -103)
。
敷地は、現代美術館と同じ外形である。これに対して彼らは、ほぼ同
グルノーブル手袋工場館は、クリストフル・バカラ館と対をなして
じ建築を計画した。そのため、これらの外観は極めてよく似たもので
計画された(図-104)
。設計者は、P. セルメルシェイムとM. デュフレー
あった。具体的には、コーニスが強調された下部のヴォリュームに、半
ヌであった。この敷地に対して、彼らの描いた平面は大きな矩形の展
円形のドームの載せられたものであり、開口部を設けない壁面とロゴ
示室があるだけの極めて簡単なものであり、ガリエニ通り側の壁面線
。
に対しては、クレス社館とそろえるように計画された。しかし、この
Pavillon de la Ganterie de Grenoble
の刻み込まれた平滑な外壁面に至るまで共通点は少なくなかった
Pavillon de Mulhouse
91)
Jean Launay, ?-?
ミュルーズ館の設計者は、A. ヴァントルとジャン・ローネーである
独立館のエントランスは、キャノピーの飛び出した庭園側にあり、
(図 -96)
。この独立館の敷地外形は、16、000mm の正方形の各四隅を
セーヌ川に向かって計画されている。クレス社館とゴールドシェイ
隅切りしたものであった。これに対して、A. ヴェントルは、全く異な
ダー館の正面が斜線によって上部を切り落とされた形態であるのに対
る形状の平面を描き出した。その平面外形は十字形であり、これはそ
して、この両館の正面の外形は矩形を基本として構成されている。
のほかの独立館の平面と比べて極端に小さい。そのため、ガリエニ通
ロイヤル・コペンハーゲン工場館の設計者は、デンマークの建築家
りから大幅にギャラリー側へ奥まった位置に計画することができた。
エルビュ・ミュラーである。この敷地外形には、ガリエリ通り側の 2 隅
また、ガリエニ通り側の正面は規制外輪線を考慮して計画されている
のみ隅切りされた長方形が与えられた。その大きさは、長辺が14、000mm、
(図-97)
。その立面は、切り妻屋根がその半分以上を占めており、まさ
短辺が 12、000mm である(図 -105)
。この独立館は 2 棟からなるが、
に情緒深い外観を呈していた 92)。さらに、これは外壁や屋根に設けら
与えられた2箇所の敷地には、全く同じ建築が計画された。その正面は
れた開口部から、3 階建の住宅と思わせるが実際には平屋建ての独立
ガラス張りであり、ショー・ウィンドーが設けられている。一方、この
館であった。
独立館に与えられた敷地外形に対して、
彼はほぼそれに沿って平面を設
Hellweg Müller, ?-?
Pavillon de Roubaix et Tourcoing
ルーベ・エ・トゥールコワン館は、ミュルーズ館と対をなして計画
計した。さらに、この独立館の最高高さは約 6、000mm であり、正面
された。また、その敷地外形も同様である(図 -98)
。この設計者はオ
の外形も矩形を基本としたものである(図 -106)
。
George de Feure, 1868-1928
ランダ人の画家ジョルジュ・ド・フェウレである。しかし、彼はミュ
プラス・クリシー館は、ロイヤル・コペンハーゲン工場館と対をな
ルーズ館とは対照的に、その敷地外形を尊重しながらこの独立館の平
して計画された。この独立館も2棟から構成されているが、ロイヤル・
面を描いている。また、この屋根は北フランス特有の切妻屋根をモ
コペンハーゲン工場館とは異なり、その間を連絡通路によって繋いで
チーフとしたものであったらしい 93)。そのため、この独立館の外形は
いる。その設計者は、建築家シャルル・シクリスである。敷地外形は、
全体的に歪な形状となっている。このような形状の独立館となってし
ロイヤル・コペンハーゲン工場館と同じものであった。この敷地に対
まった理由は、彼が初期案ではより背の高い案を計画していたにもか
して、彼は2つの敷地に対して全く同じ平面をもつ独立館を計画した。
かわらず、規制外輪線による建築形態の規制によって、高さを抑えら
一方、この独立館は、百貨店によるものであるため、コーニス下の壁
れ平たい建築に変更することを余儀なくされたからである 94)。
面にロゴが設けられ広告塔となっていた 97)。
Charles Siclis, 1889-1941
Pavillon de la Maison d'Édition Cres et Cie
クレス社館の設計者は、建築家 J. イリアール、G. トリヴー、G. ボ
であった。その敷地外形は 4 隅を隅切りした長方形であり、その大き
結
さは長辺が 14、000mm、短辺が 10、900mm である(図 -99)
。これに
展示館の造形管理と様式意識
対して、彼らの描き出した平面は、その外形を象るものであった。こ
の独立館にはガリエニ通りに面して、書籍をモチーフとした 3 枚の控
ものとして認識し始めていた。その認識は、1931年パリ植民地国際博
21
フランスは、本博覧会閉会後、出展された作品の様式や造形を自国の
覧会の展示館や入植地に建設された建築に表れている。パリ植民地国
際博覧会では、フランスの展示館と植民地各地の展示館を対比させる
ために、フランスの展示館にアール・デコ様式を用い、それにフラン
スを中心とした西洋文明を象徴させた 98)。さらに、それはカサブラン
カに代表される植民地の商業建築にも愛好されるようになる 99)。
このようにフランスが自国の様式としていわゆるアール・デコ様式
図 -98 ルーベ・エ・トゥールコワン館 外観写真 を用いるようになった理由は、本博覧会において、フランスの装飾美
術に 1 つの統一を見ることができたからであり、母国の様式としての
自覚が芽生えていたからであろう。こうした認識は、アール・デコ様
式がアメリカやイギリスを中心として、商業に支えられながら大流行
した側面とは大きく異なるものである。これは、本博覧会においてフ
ランスの装飾美術振興運動を基本としながら、寛大に受容したさまざ
まな様式や造形を、1 つの会場内に集約した成果と言えよう。そこに
図-100 クレス社館 外観写真 立面分析 S=1:800
図 -99 クレス社館 平面図 S=1:800
は、出展された作品の様式や造形を自国のものとして認識できるまで
にまとめ上げているための会場と建築による演出があったからであり、
それが本研究の主題なのである。
その手法は、一言にまとめるならば、それは部分の完全なる自由を
担保するための全体の緩やかな抑制という言葉で表現できよう。より
具体的に言い換えれば、それは装飾の完全なる自由を担保するための
形態と空間の緩やかなる抑制ということでもある。この中で、造形の
自由は本博覧会の基本理念であり、多様な芸術の対等な受容と過去の
図 -101 ゴールドシェイダー館 外観写真
装飾美術の刷新によって保証されていた。もちろん建築もその中に含
まれており、装飾を中心とした部分の造形だけに対するものではな
かった。しかし、現実には、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドに
建設されたフランスの展示館に対しては、
多様な条件と背景に基づき、
緩やかなる抑制が課せられていた。これは本博覧会の最も重要な開催
図 -103 クリストフル・バカラ館 外観写真
立面分析 S=1:800
理念に真っ向から対立する概念である。それにもかかわらず、自国の
展示館に調和を与える全体の抑制を重視していた。これが、アール・
図 -102 クリストフル・バカラ館 平面分析図
S=1:800
デコ様式を母国の様式として認識させるための、会場と建築による極
めて有効な演出手法であったと言えよう。そこで、こうした建築の演
出手法を、形態、空間、装飾という視点から総括する。
図 -104 グルノーブル手袋工場館 外観写真
図 -94 「アール・エ・デコラシオン誌」館
平面分析図 S=1:800
図 -95 「アール・エ・デコラシオン誌」館
断面分析図 S=1:800
図 -105 ロイヤル・コペンハーゲン館
平面分析図 S=1:800
図 -96 ミュルーズ館 平面分析図 S=1:800
図 -106 ロイヤル・コペンハーゲン館 外観写真 立面分析 S=1:800
図 -107 プラス・クリシー館 外観写真
図 -97 ミュルーズ館 外観写真 S=1:800
22
会場と展示館の造形:自由と抑制
小空間による構成は、独立館だけではなくギャラリーにも確認でき
る特徴であり、住宅に設けられる小室の集合によって展示館が構成さ
「形態」
第2部で明らかにした展示館の形態に見られる特徴は、軸線対称性、
れたために生じたものである。これは、本博覧会が装飾美術を主題と
斜線制限に対応した外形、8 角形または隅切りされた平面にまとめる
したものであるから当然のことのように思われるが、そう簡単ではな
ことができる。軸線対称性は、展示館だけではなく会場から日用生活
い。敷地選考の過程から明らかなように、ギャラリーの平面の形状及
品に至る作品すべてに用いられた構成手法である。エスプラナード・
び大きさは敷地条件によって決定されたからである。さらに、スター
デ・ザンヴァリッドに建設された展示館の軸線対称性は、アンヴァ
ンドの影響も指摘しておかなければならない。
リッドの主軸を中心とした敷地の文脈、L. ボニエ及び Ch. プリュメに
一方、独立館が小室群によって構成された理由のひとつは、住宅を
よる軸性を重視した会場構成、各設計者による軸線対称性を重視した
範とする推奨の影響によるものである。もうひとつの理由は、規制外
展示館の建築構成の 3 点による相乗的な効果によるものである。
輪線及び平面外形によるものである。具体的には、ほとんどの独立館
斜線制限に対応した外形は、規制外輪線によって与えられたもので
の立面及び断面は規制外輪線によって決定されており、さらに平面形
あり、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドに建設されたフランスの
についても 8 角形または隅切りされた正方形が基本となっていた。そ
展示館のほぼすべてに確認することができる特徴である。この規制外
のため、中心に吹き抜けのあるホールが設けられ、その周囲に各展示
輪線は、パリのアール・ヌーヴォー様式の建築を生み出した道路規制
室を設けるという空間構成が最も典型的なものとされた。これを後押
であり、建築の骨格を規制し外観を飾る装飾に自由な造形の可能性を
ししたものが、独立館を平屋建てとするという条件であり、建築外形
残すために有効な規制であった。したがって、アンヴァリッドへの眺
と内部空間の構成とを一致させるためには、この典型的な空間構成を
望を阻害する建築の登場を阻止することと、外形だけでも整えようと
変更することが困難となり、ほとんどの独立館の空間構成に調和が生
する意図から設けるためには、
これは非常に有効であったに違いない。
まれることとなる。その一方で欠点も残している。それは、多くの利
この規制は全体を抑制し、部分に自由を与える手法を支えていた。し
用できない小空間を、独立館の隅々に生み出してしまった点である。
かし、その背景にはこの規制外輪線に込められた本博覧会委員会の教
平面だけではなく断面にもさまざまな形で残された。これは、規制外
育的な姿勢を強調しておかなければならない。それは、近代の建築運
輪線に従って計画された建築外形と、自由に計画された空間構成の間
動及び芸術運動によって、より一層自由な造形を手にすることのでき
に生じるものであり、これはそうしたさまざまな条件によって生じせ
た建築家に対するものであった。
ざるを得ない潜在的な問題であった。しかし、ここで重要な点はこれ
この8角形または隅切りされた平面は、Ch. プリュメの成功と趣味に
らの条件が、それぞれの独立館の空間構成全体を決定する緩やかな条
よって生まれた条件である。しかし、ここで最も重要な点はこうした
件となっている点であり、各部の空間構成はそれぞれ独立館の設計者
統一された平面形状が規制外輪線と相乗的に、その効果を高めている
に委ねられたことである。つまり、小室群による空間構成というもの
点と言える。それは、諸外国の独立館と比較すれば、その差は歴然で
は、さまざまな条件によって成り立っているが、その基本となってい
ある。これらの条件を考慮しなかった諸外国の独立館の平面は、それ
るものは、全体を緩やかに決定するものであって、展示空間の部分の
ぞれ自由に計画され、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドのような
造形には完全な自由が認められている点である。
整然とした会場とは正反対のものとなった。それは、もちろん規制外
壁面の建築とは、多くの独立館が壁面を中心として構成されたとい
輪線による建築外形に対する条件が大きな影響を与えている。しかし、
う点である。これは、外壁面に開口部を設けずに、天窓から採光を確
それだけではなく諸外国の独立館の平面の外形が多様であることは、
保することが可能であったために生じたものである。こうした独立館
逆にエスプラナード・デ・ザンヴァリッドの独立館に対する外形の統
が多く計画された背景には、2つの条件が大きく影響を与えていた。そ
一効果の大きさをより一層強調することとなった。また、隅切りも立
れらは、平屋建てという条件及び、展示室に多くの壁面を必要とした
面両端部に外形を際立たせるという点において、同様の効果をもたら
ことである。したがって、独立館の各室の採光は天井面から確保でき
していると言える。
るため、外壁面には開口部を設ける必要がなく、できるだけ多く展示
このように、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの独立館の形態
用壁面を多く確保することが可能であった。この会場に建設される独
に対する3種の抑制は、この会場以外の独立館とは明らかに異なり、形
立館を平屋建てとする条件は、単にアンヴァリッドへの眺望の配慮が
態全体に大きな影響を与え、その部分にアール・デコ様式と認識され
その主要な目的であった。しかし、結果的に壁面を展示用に多く利用
るようになる新しい造形を試みる可能性を残しながら、形態の管理が
する独立館が多数あったために、これらの条件が重なり合い、いわゆ
なされていた。それは、フランスの展示館を際立たせ、アンヴァリッ
る壁面を主体とした独立館が多く登場することとなった。さらに、こ
ドを背景とした調和を与え、新しい装飾美術の近代化を支えていた。
うした壁面の建築は、アール・デコ様式として認識されるようになる
こうした形態に 1 つの統一感をもたらし得たことは、これまでにも理
室内装飾を生み出す基本条件であったことも指摘しておく必要がある。
解さていることであるが、それは全体の抑制が極めて大きな役割を果
たしていたからである。
「装飾」
展示館の装飾に最も大きな影響を与えたものが、住宅を範とする推
奨である。これはさまざまな側面に表れているが、装飾全体を秩序立
「空間」
エスプラナード・デ・ザンヴァリッドに建設されたフランスの展示
てるにまでは至っていない。例えば、外観から室内空間に至るまで一
館の空間に見られる特徴は、小空間及び壁面の建築という 2 点にまと
般住宅と全く同様に計画された独立館から、外観のみ住宅であっても
めることができる。
内部空間は全くそれとは異なる展示空間が展開される独立館まで、さ
23
らには単に食堂に食卓を並べただけのものから、その意図が明確に表
の展示館に見られる装飾を中心とした部分を発展させたものであって、
れていない独立館まで、ありとあらゆる装飾美術が住宅を表現しよう
建築の形態や空間といった側面における様式の発展は見られていない。
としていた。したがって、こうした装飾という点において、エスプラ
これらの応用と増殖は、それぞれの地域特有の造形を融合し、建築の
ナード・デ・ザンヴァリッドに建設されたフランスの独立館には、全
部分と表層を特徴づけるものでしかなかった。その理由は、こうした
体を決定づけるものが見出されることはなく、それぞれの条件は部分
建築の空間や構成に対する特徴をより明確に捉えていなかったからで
の造形に大きな影響を与えただけに留まっていた。こうした独立館の
あり、またこれまでの解釈によるアール・デコ様式の特徴が装飾美術
装飾は、これらの条件によってというよりむしろ、本博覧会に潜在す
に対するものとしか理解されてこなかったからである。
る商業性というものが、展示館の装飾に大きな影響を与えていた。
註
1)この展覧会の題目及びカタログの表題は、
「25 年代、アール・デコ、バウハ
ウス、デ・スティル、エスプリ・ヌーヴォー展」(Les Années“25”-Art
Déco/Bauhaus/Stijl/Esprit Nouveau)というものであり、アール・デ
コ(Art Déco)という言葉がその題目を飾った。
2)ジウリア・ヴェロネージ著、西澤信彌、河村正夫共訳、
「アール・デコ〈1925
年様式〉の勝利と没落」
、美術出版社、東京、1972
Yvonne Brunhammer Illustrated by Several Color Photos, The
Nineteen Twenties Style, Paul Hamlyn, London, 19??
(原著はイタ
リア語で 1966 年に出版)
ベヴィス・ヒリアー著、西沢信彌訳、
「アール・デコ」、PARCO出版、東京、1986
3)
Henry Russell Hitchcock Jr., Modern Architecture: romanticism and
reintegration, Payson & Clarke, New York, 1929, pp.146-147
4)この他に参照したものは、いわゆる近代建築史の通史を主題としたものであ
る。主なもの以下の通りであり、著者のみを記した。それは、ジェイムズ・リ
チャーズ、ニコウラス・ペヴスナー、レオナルド・ベネヴォロ、アーノルド・
ウィティック、ヴィンセント・スカーリー、ジークフリート・ギーディオン、
レイナー・バンハムなどである。
5)このほかの 3 棟は、建築家コンスタンティン・メルニコフのソ連館、ロベー
ル・マレ=ステヴァンスの観光情報館、カイ・フィスカーのデンマーク館である。
6)これは、装飾美術図書館(Bibliothèque des Arts Décoratifs)と
フォルネー図書館(Bibliothèque Forney)に所蔵されている資料を中心
にまとめられたものである。Cf. Cinquantenaire de l’Exposition de
1925, Bibliographie 1925, Société des Amis de la Bibliothèque
Forney, 1976
7)
Michel Roux-Spitz, Bâtiments et Jardins–Expositions des Arts
Décoratifs Paris 1925, Albert Lévy, Paris, 1925(ミシェル・ルゥ =
スピッツ著、鈴木博之翻訳監修、
「アール・デコの建築と庭園 : パリ、アール
・デコ展 1925」
、学習研究社 、東京 、1985)
8)
「管理編」
では、
全5巻から全6巻が計画された。
国立印刷局図書館
(Bibliothèque
Imprimerie Nationale)の学芸員ポール=マリ・グリネヴァルド(Paul Marie Grinevald)によれば、国立工芸学校図書館(Bibliothèque du
Conservatoire Nationale des Arts et Métiers)に所蔵されている
可能性があることを指摘された。それに基づき、
「管理編」第 4 巻目の所蔵を
確認した。これは、会場全体及び全展示館の1階平面図が描かれた配置図であ
る。尚、本研究において「管理編」の所蔵を調査した公文書館及び図書館は、
フランス国立図書館(Bibliothèque Nationale de France)を初めと
した 12 カ所にのぼる。第 4 巻は以下の通りである。Cf. Fernand David,
Paul Léon, Louis Nicolle, Henri–Marcel Magne, Ministère du
Commerce de L’Industrie des Poste et des Télégraphes, Exposition
Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes Paris
1925: Rapport Général: Section Administrative 4 Plans Construction
& Aménagement des Bâtiments et des Jardins, Larousse, Paris,
1931, Bibliothèque du Conservatoire National des Arts et Métiers
9)
Documents Parlementaires: Annexes aux Procès-Verbaux des Séances:
Projets et Propositions de Loi, Exposés des Motifs et Rapports–
Sénat, Imprimerie du Journal Officiel, Paris, 1882-1948
(以下、
「上院議会官報」と記す。
)
Documents Parlementaires: Annexes aux Procès-Verbaux des Séances:
Projets et Propositions de Loi, Exposés des Motifs et Rapports Chambre des Députés, Imprimerie du Journal Officiel, Paris,
janvier 1882-1938(以下、
「下院議会官報」と記す。
)
Bulletin Municipal Officiel de la Ville de Paris, Imprimerie
Municipale, Paris, 1885-(以下、
「パリ市公報」と記す。
)
10)5 誌は以下の通りである。L’Architecture, La Construction Moderne,
L’Architecte, Art et Décoration 及び、L’Illustration である。
以上のように、エスプラナード・デ・ザンヴァリッドに建設された
フランスの独立館の形態及び空間は、さまざまな条件及び背景の多大
な影響を受けながら構成されたが、その装飾はほとんどこれらの条件
の影響を受けていないことが確認できる。したがって、それらは、独
立館の全体を決定するものであり、部分に影響を与えるものではな
かったと言えよう。
アール・デコ様式の特徴
エスプラナード・デ・ザンヴァリッドに建設されたフランスの展示
館の建築造形の特徴から、これらを代表作品とするアール・デコ様式
の再考を試みる。そのために、建築と装飾美術を敢えて分けて捉え直
す必要がある。その理由は、これまでのアール・デコ様式の造形の特
徴が、建築から日用品に至るまで、ありとあらゆる非常に幅の広い作
品群を対象として捉えられてきたからである。さらに、そうした幅の
ある寛大なアール・デコ様式の包容力は美徳とされてきた。そのため、
非常に多岐に渡る解釈が定着し、明確なる特徴を明らかにすることは
避けられてきた。
これに対して、本研究で得られた知見を基に、アール・デコ様式の
ひとつの大きな特徴を明確化するならば、それは建築の全体を象る形
態と空間に表れるものの特徴である。
本博覧会の会場は敷地の枠組み、
フランス装飾美術振興運動、パリの博覧会などの影響によって統一や
調和が求められ、その会場に計画されたフランスの独立館も同様に、
それらを重視した計画とすることを余儀なくされた。そのため、これ
らの展示館には、
本博覧会の基本理念である造形の自由とは対照的な、
緩やかなる抑制が求められていた。もちろん、本博覧会は装飾美術の
近代化を推進すること、その社会化を主眼として計画されたものであ
るため、近代主義、商業主義、地方主義、植民地主義、折衷主義など
非常に幅の広い主張を寛大に取り入れ、それらを基に表現した作品が
展示室を満たすこととなった。しかし、こうした作品は装飾美術に集
中した。確かに、フランスの展示館にもこうした傾向を読み取ること
ができる。しかし、それは建築の全体を象る形態や空間ではなく、部
分に特徴を与える装飾により強く表れている。
こうした造形の自由を支えたさまざまな主張に対して、展示館の抑
制を支えていたものは、本博覧会の計画段階で生じた条件及び背景で
あり、それらは本博覧会の計画過程を振り返ることによって明らかに
することができた。アール・デコ様式は、しばしば近代的な側面と古
典主義的な側面の両面を備えたものとして解釈されるが、このように
捉え直すことによって、その理由をより明確になろう。さらに、この
全体と部分の二面性を備えた様式として解釈し直すことにより、アー
ル・デコ様式のその後の発展に対する説明もより明確になる。つまり、
アール・デコ様式は本博覧会閉会後、アメリカを中心としたさまざま
な地域において、より一層の発展を見せた。それはあくまで、これら
24
また、これらに加えて、部分的に以下の雑誌の記事を引用した。それらは、
L’Architecture Vivante, Gazette des Beaux-Arts, L’Amour de
l’Art, La Renaissance de l’Art Français et des Industries de Luxe,
Revue Politique et Littéraire-Revue bleue である。
11)吉田鋼市のもののほかに、ルイ・ボニエの作家論をまとめたベルナール・マ
レイ、シャルル・プリュメの作家論をまとめたアリックス・パッセラ・ドゥ・
ラ・シャペルが、それぞれ本博覧会の建築を取り上げているが、それぞれの建
築家の活躍を描いたものがある。Cf. 吉田鋼市、
『アール・デコ博とオーギュス
ト・ペレ』、
「建築史学」、第 2 号、1984 年 3 月
Bernard Marrey, Louis Bonnier 1856-1946, Collection Architectes, Institut
Français d’Architecture, Pierre Mardaga Éditeur,Liège, 1988
Alix Passerat de la Chapelle, Directeur: Bruno Foucart, L’Architecte
Charles Plumet(1861-1928), Mémoire de DEA, Université Paris IV
一方、美術史の視点から総合的に捉え直したものには次の通りである。Cf.
Victor Arwas, Art Deco, Academy Editions, London, 1980
12)Tag Gronberg, Design on Modernity-Exhibiting the city in
1920s Paris, Manchester university press, Manchester and
New York, 1998
Pieter van Wesemael, Architecture of instruction and delight:
a socio-historical analysis of world exhibitions as a didactic
phenomenon (1798-1851-1970), 010 Pub, Rotterdam, 2001
13)John E. Findling, Historical Dictionary of World’s Fairs
and Expositions, 1851-1988, Greenwood Press, New York, 1990
Robert W. Rydell, All the world's a fair: Visions of Empire at
American International Expositions, 1876-1916, University of
Chicago Press, Chicago, 1984
吉田光邦、「万国博覧会の研究」
、思文閣出版、東京、1986
Paul Greenhalgh, Ephemeral vistas : the expositions universelles,
great exhibitions and world's fairs, 1851-1939, Manchester
University Press, Manchester, 1988
14)Debora L. Silverman, Art Nouveau in Fin-de-Siècle France
–Polotics, Psychology, and Style, University of California
Press, 1989(デボラ・シルヴァーマン著、天野知香、松岡新 一郎訳、
「アー
ル・ヌーヴォー フランス世 紀末と『装飾芸術』の思想」
、青土社、東京、1999)
Nancy J. Troy, Modernism and the Decorative Arts in France-Art
Nouveau to Le Corbusier, Yale University Press, New Haven, 1991
天野智香、
「装飾/芸術 19‐20 世紀フランスにおける「芸術」の位相」
、ブ
リュッケ、東京、2001
15)Bernard Marrey, Op.cit., 11), pp.57-60, 213-220
16)
Le Fonds Louis Bonnier, "Exposition Universelle de Paris 1900
1894 Concours d'Implatation", 35 IFA, 35/32, Institut Français
d'Architecture-Centre d'Archives d'Architecturedu XXe Siècle
17)
Paul Alfassa, “Le Pavillon de l’Art Décoratifs Français à
L’Exposition de Turin”, Art et Décoration, tome XXX, Librairie
Centrale des Beaux-Arts, Paris, octobre 1911, pp.317-320
18)上院及び下院議会などにおいては、Ch.-M. クイバ以降、通産大臣経験者に
よる積極的な活動は、多くの法案採決を後押ししている。また、R. マルクス
をはじめとする世論形成が、本博覧会の基本となった。それ以降、予算、敷地、
理念といった本博覧会の企画には大きな役割を果たしていた。
19)その影響は、1909 年のロシア・バレーのシャトレ座での初公演、1910 年
のサロン・ドートンヌにおけるドイツ工作連盟展の出典などが挙げられる。
20)下院議会官報: 13 juillet 1906, pp.1545-1673, Annexe No.344
21)上院議会官報: 15 avril 1911, p.161, Annexe No.136
22)François Carnot, Rapport sur une Exposition Internationale
des Arts Décoratifs Modernes Paris 1915, Imprimerie Paturel,
Paris, 1er juin 1911
下院議会官報:6 février 1912, pp.81-82, Annexe No.1641
23)それは、1902 年トリノ・ドローイング国際博覧会、1904 年セント・ルイ
ス国際博覧会、1905 年リエージュ万国・国際博覧会、1906 年ミラノ国際博覧
会、1908 年ロンドン・フランコ−ブリティッシュ博覧会、1909 年コペンハー
ゲン芸術家・産業・職人博覧会、1911 年トリノ産業国際博覧会、同年ローマ
国際美術博覧会である。
24)
E.Dentu, Fr. Ducuing, Pierre Petit, L’Exposition Universelle
de 1867: illustrée, La Commission Impériale, Paris, 1867, p.6
25)
Catalogue Général Officiel-Exposition Internationale Universelle
de 1900 Paris, vol.20, Imprimeries Lemercier, Paris, 1900, Tome
Premier, pp.V-XIII
26)Alfred Picard, Ministère du Commerce, de l’Industrie et
des Colonies, Exposition Universelle Internationale de 1889
à Paris: Rapport Général, Imprimerie Nationale, Paris, 1891
Alfred Picard, Ministère du Commerce, de l’Industrie, des Postes
des Télégraphes, Rapport Général Administratif et Technique,
Plans Généraux, Imprimerie Nationale, Paris, 1902-1903
27)François Carnot, Op.cit., 22), pp.8-9
28)François Carnot, Op.cit., 22), pp.14-15
29)
Fernand Chapsal, “Rapport à M. Le Ministre de Commerce, de
L’Industrie, des Postes et des Télégraphes”, Ministère du Commerce
de L’Industrie, des Postes et des Télégraphes, 23 mai 1913
30)
下院議会官報:2 juillet 1919, pp.2065, 2058, Annexe No.6442
(本来 pp.2065-2066 であるが、ページ番号 が乱れている。
)
31)下院議会官報: 19 mars 1923, pp.611-612, Annexe No.5825
32)
パリ市公報: “35-Résolution relative à l’aquisition de l’île de
Puteaux et à l’organisation de l’Exposition Internationale des
Arts décoratifs Modernes”, dimanche 25 avril 1920, pp.2059-2060
33)このパリ市城壁跡地計画は、パリ市にとどまらず、低家賃住宅(H.L.M.:
Habitaion à Loyer Modéré)建設などと絡んだ課題となる。
34)博覧会の問題とは、農業・馬術博覧会宮(Le Palais des Agricoles
et Hippiques)の建設候補地の問題と、1925 年開催予定の植民地博覧会の
敷地問題である。農業・馬術博覧会宮は、1889年パリ万国博覧会の機械館(Le
Galerie des Machines)の解体にともなって生じた建築計画である。こ
の機械館は 1909 年に解体が進められ、これに変わる大展示館を要求する農
業関係者及び政治家が中心となって博覧会宮が提案された。この建築は、敷地
面積が 15 ヘクタール、建築面積が 7 ヘクタール と定められている。
35)
“L’Exposition Internationale des Arts Décoratifs Modernes”,
Art et Décoration-Chronique-Notes et Informations, Librairie
centrale des Beaux-Arts, Paris, novembre 1919, p.1
36)
Préfecture du Département de la Seine, Le Préfet de la Seine
A. Autrand, “Mémoire de M. Le Préfet de la Seine au Conseil
Municipal”, Imprimerie municipale, Paris, 12 décembre 1921,
p.12
37)パリ市議会では、1920 年に博覧会宮建設に関する建築コンクールを開催し
た。そこでは、建築家ルイ・イポリト・ボワローが、鉄骨製の大建築を提案し
ている。また、同年に国も、博覧会宮建設に関する建築コンクールを開催して
いる。そこでは、建築家ピエール・ギデッティ、ルイ・ギデッティの案が選出さ
れていた。
38)その成果として、パリ市長の誘致にも後押しをともないながら、1921 年 12 月
21日に、
博覧会宮の敷地がヴァンセーヌに決定したことを挙げることができる。
39)
Signé: A.Autrand, A.Sarraut, “Convention relative à l’organisation
de l’Exposition coloniale.”, Paris,le 26 juillet 1921, (Délibération
du Conseil Municipale du 11 juillet 1921)
40)しかし、この協定にはさまざまな条件が付けられている。例えば、植民地博
覧会の主会場を6番目のヴァンセーヌにすること、敷地としての占有期間を開
催期間及び、開催前と開催後それぞれ 15 日間以内とすることなどである。
41)下院議会官報: 19 mars 1923, p.642, Annexe No.5825
42)Lucien Dior, “Lettre de M. le Ministre du Commerce et de
l’Industrie à M. le Préfet de la Seine”, Paris, le 10 novembre 1921
43)
Le Commissaire Général de l’Expostion Coloniale interalliée,
Signé: Angoulvant-Le Commissaire Général de l’Expostion
Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes,
Signé: F.David, “Convention relative aux Emplacements à Concéder
Éventuellement par l’Exposition Coloniale Interallièe à
l’Exposition Internationale des Arts Décoratifs Modernes”,
Ministère du Commerce et de l’Industrie-Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes, Paris, 7 novembre
1921
44)
Louis Bonnier, ”L’Exposition des Arts Décoratifs et Industriels
Modernes”, Les Travaux Publics, Paris, No.832, avril 1926, p.54
45)
Le Commissaire Général de l’Expostion Coloniale interalliée,
Signé: Angoulvant-Le Commissaire Général de l’Expostion
Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes,
Signé: F.David, Op.cit., 43), Article 4.
46)
Le Commissaire Général de l’Expostion Coloniale interalliée,
Signé: Angoulvant-Le Commissaire Général de l’Expostion
Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes,
25
1925, p.579
68)この規制外輪線に関しては、当時の建築誌を中心に、極めて部分的な指摘が
数点確認されたのみである。
69)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.32
70)吉田鋼市 , Op.cit., 11), p.47
71)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.41
72)Henri CLOUZOT, “Le Pavillon de Primavers”, La Renaissance de
l’art francais et des industries de luxe, Paris, août 1925, p.372
73)Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pp.35-36(ミシェル・ルゥ=ス
ピッツ著、鈴木博之監修、Op.cit., 7), p.128)
74)Lionel Landry, “L’Architecture Française à l’Exposition
des Arts Décoratifs”, Art et Décoration, Librairie centrale
des beaux-arts, Paris, juin 1925, p.203
75)Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), p.36(ミシェル・ルゥ=ス
ピッツ著、鈴木博之監修、Op.cit., 7), p.128)
76)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.41
77)Paul Vitry, Op.cit., 61), p.13
78)Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pp.26-27(ミシェル・ルゥ=ス
ピッツ著、鈴木博之監修、Op.cit., 7), p.72)
79)Antony Goissaud, Op.cit., 58), “La Manufacture Nationale
de Sèvres”, 16 août 1925, pp.541-546
80)Paul Vitry, Op.cit., 61), pp.4-5
81)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.42
82)Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), p.29(ミシェル・ルゥ=ス
ピッツ著、鈴木博之監修、Op.cit., 7), p.80)
83)
Gabriel Vessière, “L’Architecture Français à l’Exposition
des Arts Décoratifs Modernes de 1925”, L’Architecture, vol.
XXXVIII, no.14, Paris, 25 juillet 1925, p.203
84)Paul Vitry, Op.cit., 61), p.4
85)Georges Le Fevre, “Exposition Internationale des Arts
Décoratifs-l’Architecture”, L’Art Vivant, éditée par les
Nouvelles littéraires, Paris, 1er octobre 1925, p.23
86)ジウリア・ヴェロネージ著、西澤信彌、河村正夫共訳、Op.cit., 2), p.169
87)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2,
pp.39-40
88)
Antony Goissaud, Op.cit., 58), “À L’Exposition des Arts Décoratifs
-Le Pavillon du Collectionneur”, 3er janvier 1926, p.161
89)Gabriel Vessière, Op.cit., 83), pp.203-204
90)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2,
pp.42-43
91)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.43
92)Paul Vitry, Op.cit., 61), p.10-11
93)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.40
94)Lionel Landry, Op.cit., 74), p.210
95)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.42
96)Survey by Sir H. Lleellyn Smith, Report on the Present
Signé: F.David, “Convention Additionnelle No.1”, Ministère
du Commerce et de l’Industrie-Exposition Internationale des Arts
Décoratifs et Industriels Modernes, Paris, 7 novembre 1921,
Article 2
47)具体的には、本博覧会開催時においてギャラリー及び展示館までの消化水路
(canalizations d’incendie)
、水道、ガス、電気(電灯及び動力)
、圧縮
空気、電話、電信(télégraphe)の配管工事を行うというものである。
48)パリ市公報:“188-Question de M.Emile Massard à M.le Préfet
de Police sur les difficultés de la circuration pendant l’Exposition
des arts décoratifs”, mardi 17 juillet 1923, pp.3170-3171
49)
Louis Bonnier, “Rapport à Monsieur le Commissaire Général”,
16 décembre 1921
50)また、ルイ・ボニエが 1922 年 2 月に本博覧会の敷地及び展示会場の面積計
画に関する報告をまとめている。この中でより具体的な検討がなされ、より正
確な面積が決定された。例えば、独立館は、350 ㎡から 400 ㎡のものを建設す
ることなどである。
Cf. Louis Bonnier, “Exposition Internationale
des Arts Décoratifs Modernes”, février 1922
51)ギャラリーの短辺を 16 mとする理由は、中央に 4 mの通路を設け、その両
側に奥行き6mの展示空間スターンド(Stand)を取るためである。また、回廊
は、
ギャラリーの背景にあるアンヴァリッドを視覚的に引き立てるためとして
いる。特に、中央のドームを会場に取り込むことを考えている。
52)
F.Honor, “L’Exposition Internationale des Arts Décoratifs”,
L’Illustration, no.4122, Les Bureax, Paris, 4 mars 1922, p.212
53)Louis Bonnier, “Exposition Internationale des Arts Décoratifs
et Industriels Modernes en 1924”, Direction des Services
d’Architecture et des Travaux No.8, 9, juillet 1922
54) また、本案は、配置図、エスプラナード・デ・ザンヴァリッド部分の鳥瞰図
からなっている。この案は、本博覧会の開催を招待国に通知するための報告書
にも掲載されたものである。Cf.Louis Bonnier, Rapport, 1922?
下院議会官報:19 mars 1923,p.610-615,Annexe No.5825
55)Louis Bonnier, Op.cit., 54), p.1
56)それには石膏(staff)の濫用によるものではなく、建築の単純(simple)
な線が、彫刻、陶磁器、モザイクのモチーフによって装飾されることが求めら
れた。特に、ギャラリーは多くの花を用いて充実させることも提案された。
57)このほかにも、クー・ラ・レンヌにおいては、路面電車の軌道部分であった
地域の敷地の舗装を拡大させ、道路位置を変更することによって、庭園と交互
に展示館を2列に配置し、独立館の数を増加させることを可能としている。
58)Antony Goissaud, “Exposition des Arts Décoratifs”, La
Construction Moderne, Paris, 3 mai 1925, p.363
59)それらの国々は、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スペイン、イギリ
ス、ギリシャ、イタリア、日本、ルクセンブルク、モナコ、オランダ、ポーラ
ンド、スウェーデン、スイス、チェコスロヴァキア、トルコ、ソ連、ユーゴス
ラビアである。
60)Gabriel ROSENTHAL, "Exposition Internationale des Arts
Décoratifs-La Cour des Métiers et l'Ambassade Française",
L'Art Vivant, Éditée par les Nouvelles Littéraires, Paris,
15 octobre 1925, pp.11-17
61)Paul Vitry, “L’Exposition des Arts Décoratifs Modernes L’Architecture”, Gazette des Beaux-Arts, 67e année, Tome XII,
Imprimerie Moderne des Beaux-Arts, Paris, mai-septembre 1925, p.2
62)Antony Goissaud, Op.cit., 58), “La Cour des Métiers”, 9
aôut 1925, p.536
63)Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pp.19-23(ミシェル・ルゥ=ス
ピッツ著、鈴木博之監修、Op.cit., 7), p.40)
64)Anonymat, Encyclopédie des Arts Décoratifs et industriels
Modernesau XXème Siècle, en douze volumes, Garland, New York,
1977,“Architecture: Exposition Internationale des Arts Décoratifs
et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.33(これは、次の図書
が再版されたものである。Cf. Encyclopédie des arts décoratifs
et industriels modernes au XXème siècle : en douze volume,
Office Central d'Éditions et de Librairie, Paris, 19--)
65)Guillaume JANNEAU, “Le Pavillon de la Maîtrise”, La Renaissance
de l’art français, Paris, mai 1925, p.221
66)Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pp.34-35(ミシェル・ルゥ=
スピッツ著、鈴木博之監修、Op.cit., 7), p.122)
67)Antony Goissaud, Op.cit., 58), “A L’Exposition des Arts
Décoratifs, Le Pavillon des Galeries Lafayette”, 6 septembre
Position and Tendencies of the Industrial Arts as Indicated
at the International Exhibition of Modern Decorative and
Industrial Arts, Paris, 1925, Department of Overseas Trade,
London, 1925, p.48
97)
Anonymat, Op.cit., 64), “Architecture: Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes 1925”, vol.2, p.42
98)Patricia A. Morton, Hybrid Modernities: Architecture and
Representation at the 1931 Colonial Exposition, Paris, MIT
Press, 2000, pp.6-7(パトリシア・モルトン著、長谷川章訳、「パリ植
民地博覧会−オリエンタリズムの欲望と表象」
、ブリュッケ、東京、2002、p.13)
99)
Jean-Louis Cohen, Monique Eleb, Casablanca-Mythes et figures
d’une aventure urbaine, Hazan, Paris, 1998, pp.149-150
26
図版出典
図-1 Vue en Perspective de l’Hôtel National des Invalides
@Musée de l’Armée, Pairs
図 -2 ピエール・ラヴダン著、土居義岳訳、
「パリ都市計画の歴史」中央公論美
術出版、東京、2002、p.228、図 85
図-3 Présenté à L'Empereur par S.A.I le Prince Napolèon Président
de la Commission, Rapport sur L'exposition Universelle de 1855,
M OCCC LVII, Imprimerie Impériale, Paris, 1857
図-4 William P. Blake, Reports of the United States Commissioners
to the Paris Universal Exposition, 1867, Government Printing
Office, Washington, 1870
図-5 James Dredge, The Paris International Exhibition of 1878,
Charles Gilbert, London, 1878
図-6 Alfred Picard, Ministère du Commerce, de l'Industrie et des
Colonies, Exposition Universelle Internationale de 1889 à
Paris: Rapport Général, Imprimerie Nationale, Paris, 1891
図-7 Alfred Picard, Ministère du Commerce, de l'Industrie, des
Postes des Télégraphes,Rapport Général Administratif et
Technique, Plans Généraux, Imprimerie Nationale, Paris,
1902-1903
図 -8 Bernard Marrey, Op.cit., 11), p.218
図 -9 Bernard Marrey, Op.cit., 11), p.219
図 -10 Paul Alfassa, Op.cit., 17), p.318
図 -11 Paul Alfassa, Op.cit., 17), p.319
図 -12 図 -3 を参照し筆者作図
図 -13 図 -4 を参照し筆者作図
図 -14 図 -5 を参照し筆者作図
図 -15 図 -6 を参照し筆者作図
図 -16 図 -7 を参照し筆者作図
図 -17 筆者作図
図-18 ”Palais des Exposition agricoles”, La Construction Moderne,
du la Librairie de la Construction Moderne, Paris, 8 novembre
1925, pl.23
図 -33 Ibid., p.67
図-34 Adolphs Dervaux, "L'Exposition des arts décoratifs et
industriels Modernes", L’Architecte, Éditeur-Gerant Albert
Lévy, Imprimerie G.Kadar, Paris, mai 1925, p.50, fig.58
(寸法線及び分析線を筆者加筆)
図 -35 Adolphs Dervaux, Op.cit., 図 -34)、p.48, fig.56(寸法線を
筆者加筆)
図 -36 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.18
図 -37 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.8
図 -38 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.11
図 -39 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.12
図-40 Adolphs Dervaux, Op.cit., 図-34)、 p.47, fig.55(寸法線及
び分析線を筆者加筆)
図 -41 Adolphs Dervaux, Op.cit., 図 -34)、p.45, fig.54(寸法線を
筆者加筆)
図-42 Architecture Vivante, MCMXXV, Édition Albert Morancé,
Paris, été 1925, pl.43
図 -43 Ibid., pl.45(寸法線及び分析線を筆者加筆)
図-44 ”Notes sur l'oeuvre des Architectes A.-G. et C. Perret”,
La Construction Moderne, Éditions du la Librairie de la
Construction Moderne, Paris, 1er août 1926, p.519(寸法線
を筆者加筆)
図 -45 Ibid., p.518(寸法線を筆者加筆)
図 -46 Lionel Landry, Op.cit., 74), p.210
図 -47 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.54
図 -48 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.56
図-49 Antony Goissaud, Op.cit., 58), “Le Pavillon des Galeries
Lafayette”, 6 septembre 1925, p.582(寸法線を筆者加筆)
図 -50 Ibid.
図-51 Guillaume JANNEAU, "Le Pavillon de la Maîtrise", La
Paris, no.40, 1er juillet 1923, pl.157
図-19 Jean Louis Cohen, André Lortie, Des Fortifs au Perif-Paris,
Les Seuils de la Ville, Picard Éditeur, Édition du Pavillon
de l'Arsenal, Paris, 1991, p.133, fig.148
図 -20 Archive de Paris,Le Fonds VR/249(筆者加筆)
図 -21 Institut Français d’Architecture-Centre d’Archives
d’Architecture du XXe Siècle, Fonds Louis Bonnier, Exposition
des Arts Décoratifs de Paris 1925 Dossier de Préparation
et Suivi 1912-1925, No d’Inventaire: 35/70(筆者加筆)
図 -22 L’Illustration, 4 mars 1922, no.4122, p.212(筆者加筆)
図 -23 Ibid., p.213(筆者加筆)
図-24 Discours de M. le Sénateur Fernand David, Réunion de 7
juillet 1922, Société d’Encouragement à l’Art et à l’Industrie,
Imprimerie Henri Diéval, Paris
図 -25 L’Illustration, no.4159, 18 novembre 1922, p.484
図-26 Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels
Modernes, M DCCC XXII, Imprimerie Nationale, Paris, 1923
図-27 ”Exposition des Arts Décoratifs en 1925 Plan d’ensemble”,
La Construction Moderne, Paris, 13 janvier 1924, no.15, p.174
図 -28 Paul Géraldy, ”L’Exposition Internationale des Arts
Décoratifs et Industriels Modernes-L’Architecture Vivante”,
L’Illustration, no.4286, Paris, 25 avril 1925
図-29 ”Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels
Modernes 1925 Plan d’ensemble”, La Construction Moderne,
no.31, Paris, 3 mai 1925, pl.122
図-30 Notice Comité Commission de Placement Plan Général Plans
des Galeries, Exposition Internationale des Arts Décoratifs
et Industriels Moderne 1925 Classe 7, décembre 1924, Les
Archives Nationales, Exposition des Arts Décoratifs de
1925 à Paris, Preparation de l'Exposition F/12/11928(寸
法線を筆者加筆)
図-31 Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels
Modernes,M DCCCC XXII,Imprimerie Nationale,Paris,1923,pp.6-7
(寸法線を筆者加筆)
図 -32 P.Marcilly, “À L'Exposition des Arts Décoratifs-Les
Galeries des Marbres”, La Construction Moderne, Éditions
Renaissance de l'art francais et des industries de luxe,
Paris, mai 1925, p.221(寸法線及び分析線を筆者加筆)
図 -52 Ibid
図 -53 Jean Porcher, “L'Exseignement de L'Architecture”,
L’Architecte , Éditeur-Gerant Albert Lévy, Imprimerie
G.Kadar, Paris, juillet 1925, p.68, fig.84(寸法線及び分析
線を筆者加筆)
図 -54 ”L'Exposition des Arts Décoratifs Paris 1925”, Les
Édition G. Crès et Cie, Paris, 1925, p.161
図 -55 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.60
図-56 G. Richard, “Le Chauffage au Gaz”, L'Architecte, Éditeur Gerant Albert Lévy, Imprimerie G.Kadar, Paris, septembre
1925, p.82, fig.108(寸法線を筆者加筆)
図 -57 Ibid., p.83, fig.109 et fig.110(寸法線を筆者加筆)
図 -58 Institut Français d’Architecture-Centre d’Archives
d’Architecture du XXe siècle, Fonds Albert Laprade, Exposition
des Arts Décoratifs de Paris 1925 Le Studium Louvre, No
d’Inventaire: 01/24
図 -59 Ibid.
図 -60 Ibid.
図 -61 Jean Porcher, Op.cit., 図 -53), p.70, fig.89(寸法線を及
び分析線を筆者加筆)
図 -62 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.51
図 -63 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.53
図-64 Paul Léon, “L'Exseignement de L'Architecture”, L’Architecte,
Éditeur-Gerant Albert Lévy, Imprimerie G.Kadar, Paris, juin
1925, p.64, fig.80(寸法線及び分析線を筆者加筆)
図-65 次のアクソメ図を参考に筆者作図。
Paul Léon, “L'Exseignement de
L'Architecture”, L’Architecte, Éditeur-Gerant Albert Lévy,
Imprimerie G.Kadar, Paris, juin 1925, p.64, fig.81(寸法線
及び分析線を筆者加筆)
図-66 Exposition des Arts Décoratifs Modernes Paris 1925, Braun
& Cie Éditeurs, Paris, 1925
図 -67 Jean Porcher, Op.cit., 図-53), p.69, fig.88(寸法線を筆者加筆)
図 -68 Jean Porcher, Op.cit., 図-53), p.69, fig.86(寸法線を筆者加筆)
27
図 -69 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.71
図 -70 Anonymat, Op.cit., 図 -66)
図-71 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.39(寸法線を及び分析線
を筆者加筆)
図 -72 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.38(寸法線を筆者加筆)
図 -73 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.33
図 -74 Le Musée des Beaux-Arts de Lyon, Pavillon de Lyon et
de la Région Lyonnaise, Plan, échelle 0M02 PM, 24/3/1924,
No d’Inventaire 1982-94(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図 -75 Le Musée des Beaux-Arts de Lyon, Pavillon de Lyon et
de la Région Lyonnaise, Élévation, échelle 0M02 PM, 29/3/
1924, No d’Inventaire 1982-96(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図-76 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.29(寸法線を及び分析線
を筆者加筆)
図 -77 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.35
図-78 G. Richard, “Le Chauffage au Gaz”, L’Architecte, Éditeur Gerant Albert Lévy, Imprimerie G.Kadar, Paris, septembre
1925, p.85(寸法線及び分析線を筆者加筆)
図 -79 Ibid.(寸法線及び分析線を筆者加筆)
図-80 Fernand David et al., Guide Album de l'Exposition Internationale
des Arts Décoratifs et Industriels Modernes, L'Edition Moderne,
Paris, 1925, p.14
図 -81 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.42
図-82 Antony Goissaud, Op.cit., 58), “À L'Exposition des Arts
Décoratifs-Le Pavillon du Collectionneur”, 3 janvier 1926,
p.163(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図-83 Antony Goissaud, Op.cit., 58), “À L'Exposition des Arts
Décoratifs-Le Pavillon du Collectionneur”, 3 janvier 1926, p.157
(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図 -84 Ibid.(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図 -85 Ibid.(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図-86 Henri CLOUZOT, "Le Pavillon du Collectionneur", La Renaissance
研究業績一覧
1. 審査付論文
三田村哲哉、小林克弘、中原まり、
「パリにおける博覧会の変遷に関す
る研究− 1855ー1937 年を対象とした配置計画の分析−」、日本建築学
会計画系論文集、1999 年 5 月号、No.519、pp.333-339、
三田村哲哉、小林克弘、
「1925 年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博
覧会の敷地選定に関する考察」、日本建築学会計画系論文集、2003 年
1 月号、No.563、pp.321-326
三田村哲哉、小林克弘、
「1925 年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博
覧会の会場計画に関する考察」、日本建築学会計画系論文集、2003 年
5 月号、No.567、pp.171-177
三田村哲哉、小林克弘、
「ギャルリー・ラファイエット百貨店館の建築
造形− 1925 年パリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会の展示館に関
する考察 その 1 −」、日本建築学会計画系論文集、2003 年 12 月号、
No.574、pp.223-229
2. 口答発表論文
三田村哲哉、小林克弘、中原まり、
「幾何学構成論 XVII −パリ万国博
覧会の配置計画と都市軸−」、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2
、1996 年、pp.299-300
de l'art francais et des industries de luxe, Paris, novembre
1925, p.530(寸法線を及び分析線を筆者加筆)
図 -87 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.40
図 -88 Jean Porcher, Op.cit., 図 -53), p.72(寸法線を及び分析線
を筆者加筆)
図 -89 Ibid.
図 -90 Lionel Landry, Op.cit., 74), p.211
図 -91 Michel Roux-Spitz, Op.cit., 7), pl.46
図 -92 Lionel Landry, Op.cit., 74), p.206
図 -93 Institut Français d’Architecture-Centre d’Archives
d’Architecture du XXe siècle, Fonds Louis Süe, Exposition des
Arts Décoratifs de Paris 1925 1925 Pavillon Fontaine, No
d’Inventaire: 30/59
図 -94 Fernand David, et al., Op.cit., 8)
図 -95 Institut Français d’Architecture-Centre d’Archives
d’Architecture du XXe siècle, Fonds Louis Süe, Exposition
des Arts Décoratifs de Paris 1925 1925 Pavillon <<Un Musée
des d’Art Contemporaine>>, No d’Inventaire: 30/58
図 -96 Fernand David, et al., Op.cit., 8)
図-97 ”L'Exposition des Arts Décoratifs Paris 1925”, Les
Édition G. Crès et Cie, Paris, 1925, p.159
図 -98 Lionel Landry, Op.cit., 74), p.211
図 -99 Fernand David, et al., Op.cit., 8)
図 -100 ”L'Exposition des Arts Décoratifs Paris 1925”, Les
Édition G. Crès et Cie, Paris, 1925, p.156
図 -101 Lionel Landry, Op.cit., 74), p.209
図 -102 Fernand David, et al., Op.cit., 8)
図 -103 ”L'Exposition des Arts Décoratifs Paris 1925”, Les
Édition G. Crès et Cie, Paris, 1925, p.148
図 -104 Anonymat, Op.cit., 図 -66)
図 -105 Fernand David, et al., Op.cit., 8)
図-106 Antony Goissaud, Op.cit., 58), “La Manufacture Royale
de Porcelaine de Copenhague”, 31 mai 1925, pl.137
図 -107 Lionel Landry, Op.cit., 74), p.192
三田村哲哉、小林克弘、中原まり、
「1925年パリ現代装飾美術・工
芸美術国際博覧会に関する研究Ⅰ−アンヴァリッド広場に建設された
フランス展示館の幾何学構成に関する分析−」
、
日本建築学会大会学術
講演梗概集 F-2、1998 年、pp.497-498
三田村哲哉、小林克弘、中原まり、
「1925年パリ現代装飾美術・工
芸美術国際博覧会に関する研究Ⅱ−会場構成の計画案と実施案の比較
分析−」、日本建築学会大会学術講演梗概集F-2、1999年、pp.537-538
三田村哲哉、小林克弘、中原まり、
「1925年パリ現代装飾美術・工
芸美術国際博覧会に関する研究Ⅲ−キオスクの建築造形に関する分析
−」、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、2000 年、pp.537-538
三田村哲哉、小林克弘、木下央、
「1925年パリ現代装飾美術・工芸
美術国際博覧会に関する研究Ⅳ−ルイ・ボニエによる会場計画初期案の
分析−」
、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、2001 年、pp.591-592
三田村哲哉、小林克弘、木下央、
「1925年パリ現代装飾美術・工芸
美術国際博覧会に関する研究Ⅴ−会場計画案の条件−」
、日本建築学会
大会学術講演梗概集 F-2、2002 年、pp.453-454
三田村哲哉、小林克弘、木下央、
「1925年パリ現代装飾美術・工芸
美術国際博覧会に関する研究Ⅵ−コレクター館の建築造形に関する考
察−」
、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、2003 年、pp.571-572
28
資料 1
エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの配置図
実施図面
1 ギャラリー
2 塔
3 技能館
4 劇場
5 図書館
6 ギャルリー・ラファイエット百貨店館
7 プランタン百貨店館
8 ルーブル百貨店館
9 ボン・マルシェ百貨店館
10 セーブル国立工場館
11 リヨン・サン=テチエンヌ館
12 ナンシー地方館
13 コレクター館
14「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フラ
ンス工芸家館
15 応用美術・芸術館
16 ルネ・ラリック館
17 現代美術館
18 メゾン・フォンテーヌ館
19 ミュルーズ館
20 ルベ・エ・トゥールコアン館
21 クレス社館
22 ゴールドシェイダー館
23 クリストフ・バカラ館
24 グルノーブル手袋工場館
25 ロイヤル・コペンハーゲン館
26 プラス・クリシー館
(図面に記載されているアルファベットはオリジナルである。
これとは
別に、筆者が数字を加筆した。)
3
3
3
4
5
2
2
16
14
18
17
1
1
1
12
11
1
20
19
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13
2
1
1
2
10
8
6
21
1
22
26
25
26
25
24
1
25
7
9
Exposition Internationale des Arts Décoratifs et
Industriels Modernes,Esplanade des Invalides et Couverture
de la Gare, Plan Général, MINUTE 8861, DUPLICATA 9351,
Archive de Paris, VR252, 縮尺 1/200、大きさ:縦約 282.5cm ×
横約 138.5cm
(筆者撮影、合成及び、加筆)
0
29
100 m
資料 2
エスプラナード・デ・ザンヴァリッドの配置図
竣工図
1 ギャラリー
2 塔
3 技能館
4 劇場
5 図書館
6 ギャルリー・ラファイエット百貨店館
7 プランタン百貨店館
8 ルーブル百貨店館
9 ボン・マルシェ百貨店館
10 セーブル国立工場
11 ダイヤモンド商組合館
12 白の邸宅
13 リヨン・サン=テチエンヌ館
14 ナンシー地方館
15 コレクター館
16「アール・エ・デコラシオン誌」及び現代フラ
ンス工芸家館
17 応用美術・芸術館
18 ルネ・ラリック館
19 現代美術館
20 メゾン・フォンテーヌ館
21 ミュルーズ館
22 ルベ・エ・トゥールコアン館
23 クレス社館
24 ゴールドシェイダー館
25 クリストフ・バカラ館
26 グルノーブル手袋工場館
27 ロイヤル・コペンハーゲン館
28 プラス・クリシー館
(図面に記載されている数字及びアルファベットはオリジナルであ
る。これとは別に、筆者が数字を加筆した。)
3
5
3
4
3
2
2
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18
19
1
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1
1
1
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1
15
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10
12
6
8
23 24
28
27
1
1
27
28
Fernand David,Paul Léon,Louis Nicolle,Henri–Marcel
Magne, Ministère du Commerce de L’Industrie des Poste
et des Télégraphes, Exposition Internationale des
26 25
9
Arts Décoratifs et Industriels Modernes Paris 1925:
Rapport Général: Section Administrative 4 Plans Construction & Aménagement des Bâtiments et des Jardins,
Larousse, Paris, 1931, Bibliothèque du Conservatoire
National des Arts et Métiers
(Isabelle FERAL 撮影、筆者合成及び加筆)
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