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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
華僑社会と幇 ― 特に南洋客属総会に因んで ―
Author(s)
須山, 卓
Citation
研究年報, (15), pp.131-137; 1974
Issue Date
1974-09-30
URL
http://hdl.handle.net/10069/26401
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
華僑社会と幇
131
華 僑 社 会
と 幇
一特に南洋客属総会に因んで一
須
山
卓
(1)はじめに
海外に存在する中国人社会=華僑社会はその歴史的発展において独自の社会的団結を維
持し,相互扶助的役割を果してきた最大の社会関係の支柱は箒(Pang)であった。幕は
今日まで一貫して華僑社会の構成体の基本的要素である。本来移民社会として存在してき
た華僑社会が最:初に経験する社会的事象の一つは海外での自分自身が熟知している方言を
話している他人と接触するだけでなく,自分の郷里や部落などの地域から到来した人々と
の多くの接触は自ら親近感の温床となっていることである。どちらかと言えば,この経験
は異邦において流亡する者達が,地理的にもっとも近接した出身者として,お互いに同情
し合う激しい感情の発露として時に重要な意義をもつことにもなる。
このように蓄は華僑社会という特殊集団あるいはCommunityの現実の生命と生活の
維持のための必要性に根差している重要な意味のものであるにかかわらず,今日まで,実
はこの用語の歴史的発祥について未だこれと言った定説がない。その機能的役割について
は,これまで自力救済的なギルド(Guild)として,数多く論じられてきているが,歴史
(注1)
発生的ということになると華僑の海外発展は一千年にも及ぶにかかわらず,それに関する
考証にいたっては今のところ一つの課題として残されているのが現状である。しかるに,
今日華僑研究グループの一部には「かってのi華僑および華喬が現在では現住国住民の一
部,すなわち,華人系市民に変り,または激しく変りつつあるのを無視して彼等を相も変
らず華僑または「華商」はなはだしくは中国人と表現したりするのは正しくない」という
(注2)
ことを理由の基礎として「華人上層ブルジョアジーは,彼等の利益のために,幣結合に表
現される伝統的な結合原理や前近代的な意識をできうるかぎり利用してきた。しかしその
幕結合にも内部から強い批判が出され,いまや幕結合は理論的には否定されたに近い」と
(注3)
見る傾向さえ生じている。勿論かかる見方に一理のあることは認めるとしても,基本的に
は華僑があくまで「客居異邦の中国人」であることを看過すべきでなく,仮りに頭の切換
えによっていわゆる今日の世界人権宣言によって示されているように,外国人である華僑
が居住国の国民と平等に基本的人権において差別を受けないということが文字の上に書か
れたとしても,現実におかれた華僑達の頭の中にはブルジョアジーやプロレタリアートを
問わず,実生活の上で示される具体的な無権利状態の数々は,人権i尊重の保障が与えられ
るどころか,差別的取扱いという意識的支配の方がはるかに,強く作用しているのではあ
132
るまいか。もしそうだとすれば華僑の大多数は差別雨湿抑圧民族であり,将来の世界史的
段階においては入権平等の基本的原則の確立をみるに至るであろうが,現段階では未だ客
居異邦の外国人であるとの意識は観念的にも払拭し得べくもない。万事は“樹高千丈,落
葉帰根”の思想であり,すくなくとも,理念的にはそれが歴史の底に流れている。
わたくしは以上のような現状認識において華僑の幣を理解し,その社会経済的機能を評
価しつつ客家常について関即することにしたい。
注1)成城大学の内田直作教授は,幣をもって自力救済的なギルド的結合の集団だとされ,「それは
通常指摘されがちな,単なる歴史的残津物ではなかった」と指摘されているが,幣が何時から
一般に呼称されてるようになったか歴史的発生については触れるところがない。ただ併し同教
授はギルドが「中国国有の姓氏国体と相ならんで海外にあって,何等の国家保護を期待しえな
かった華僑商人社会の保全と発展に寄与したのみならず,……漢民族の発展を今日まで導いた
民間の潜在勢力であった。」 (内田直作「日本華僑社会の研究」昭和24年同文館p.45)と
せられている点では根岸倍博士の「支那ギルドの研究」と共に教えられることが多い。
また現在ホンコンの中吊大学の全離昇氏の旧著「中国行革制度史」(民国23年新生命書店)お
よびバージェス(J.S. Burgess)著のThe Guild of Peking(1928)などがある。
現在熊本商科大学教授の游仲勲氏は,華僑の社会経済組織の性格をギルド的と見倣すことには
批判的だとして次のように指摘されている「中国人が本国同様,海外にあっても,強固な社会
経済的結合を示しつつ発展を遂げてきたことは著名である。
しかし,ここに組織された華僑社会経済組織をすべて単純なギルドそのものとするのは正しく
ない」(タイ華僑社会経済組織,日向学院論集)第5号,昭和37年3月p.103,またR。H.
トーネイが「欧州の諸国において,ギルドが微弱な職入の組合から,後には政府を攻撃し,時
にはこれを左右するほどの有力な機関となった。その歴史は,中国のギルドの歴史には欠けて
いたのである。」(支那の農業と工業 浦松,牛場訳,岩波書店昭和10年P.126),とする見
解にも注意を払いたい。中国のギルドはヨーロッパのそれに比して同郷性が強く,世界に拡が
る華僑の赴くとごろ常にギルドを携えて行くと言われた所以である。但し,中国ギルドはヨー
ロッパ,ギルドと異なり中国独自の血縁,地縁,熟識にかる自然的な人的結合関係が支配してい
ることに注目すべきである。
注2)戴国輝編「東南アジア華入社会の研究,上 アジア経済研究所p.14」
注3)同上p.lll
(2)客属の歴史的移動と卵形成
今,ここに客家の方言の口話を話す客家集団の本国における居住範域を明らかにすれ
ば,次の通りである。
すなわち,純客振県33県,非純面住(客家畜住)県106県,計7省,135県におよんでい
る。だが,東南アジア地域に進出した客家幕を出身州県別に大別すれば,ほぼ次の通りに
することが妥当である。
133
華僑社会と需
省別1
江 西
純
客
州
県
レ
客 家 混 住 県
尋部 安遠 定南 竜南 慶南 信野
鞍県 興国 州都 会昌 学都 石域
南康 大盃 崇義 上空
瑞金広昌 永豊 万安 広川 吉安
訳載 二郷 二水 吉水 泰和
福 建
l
i広東
寧化 長汀
上杭 武平 門守 将楽
清流 連城 竜岩 帰化 平和 詔安
南雄 曲江 楽式 乳源 連県 連山
沙県 南平
梅県 興寧
五二 心匠 蕉嶺 大塘
和平 竜川
紫金 連平 始興 英徳
陽山 恵陽 海豊 陸豊 博羅 増城
翁源 仁母
赤渓
竜門 芦安 東莞 魚津 清遠 仏岡
開平 中山 番萬 従化 掲陽 饒平
信宜 旧聞 陽春 三水 防城 合三
広 西
野高 陵水 欽県 広寧 一斗 憺県
定安 崖県 化県 澄題 蟻聚 潮陽
新豊 羅定 二品 潮安 河源 封川
武宣 馬平 柳:城 藤県 桂平 平南
貴県 博白 雛林 陸川 北流 賀県
象県 昭平 平楽 灌陽
四 川
汝城 榔県 劉陽 平江
浩陵 巴県 栄昌 隆昌 濾県 新繁
台 湾
彰化 諸羅 鳳山
湖 二
内江 資中 新都 広漢 成都 灌県
(1)永定客家(福建省永定県)
(2)嘉応州客家(広東省嘉応州の梅・五十・蕉領・平遠・興寧の5県)
(3>大哺客家(広東省潮州府大哺県)
はいろほん
(4)恵州客家(広東省恵州府,恵州の海豊・陸豊の両県の海陸豊客家をふくむ)
東南アジア各地で客家の組織する主要な下位団体も,大体右の地域別で,永定会館,応
和(嘉応州)会館,茶陽(大浦)会館,恵州会館,豊永大公司(福建省腰掛県,広東省潮州
府大埴県と豊順県の三県)等が目立った存在であって,それ以外の江西省・広西省・湖南
省・四川省・台湾省方面からの進出は,ほとんどみないで,主として臨海の福建・広東両
省に居住するものが国外に進i出して,華僑社会の「客家幕」を編成しているといって差支
えない。
(注4)
たまたま本稿を執筆するとき本校卒業生で目下シンガポールのB・Sタイヤの営業部長
を勤めている塚本努君が昨年9月のことであったが,シンガポールの星州日報を送付して
くれた。それは南洋地域の客属総会の特集号であった。この際本記事によって窺えば,同
地方の客家族は1929年彼ら共同の福利を謀るのを目的とする「南洋客属総会」を組織し,
ユ9フ3年9月9日は創立44週年記念に当るのであった。一瞥するのに,客家族はこれを契機に
その団結力を一層強化するために,本総会の創設史略が掲載されているだけでなく,客三遷
徒の概史の歴史が集録されている。按ずるに,客家の歴史を壁頭に掲載するという意味に至
っては,そもそも歴史なるものが現在から見た過去であるとは言え,われわれが過去を研
134
究するのは,それが現在の諸問題と何等かの連がりを持っているからに外ならないのであ
り,それ故にわれわれに歴史的関心が生まれてくるのは,社会的集団が今日のような急激な
変革の時代に1つの危機的な時点に立ち,幕の廃止問題のような決断の前におかれた場合
(注5)
には,自分達自身の過去をふりかえって,その回答を得ようとする時にのみ,必要性が生ま
れるのである。そうした意味では,E. H. Carrが云うように歴史は現在と過去との対話な
のである。わたくしは,南洋客部総会が創立44週年に当り,わざわざ冠頭に客家族の遷徒史
を掲載したという意味はまさに贅言を要するまでもなく彼らの決断の正しき保証を歴史の
中に発見しようとしたものに外ならないと確信するものである。華僑社会が目前に直面
する山幕の危機に際し,自他の共通の立場を確立するために客観的可能性の明察が重要
なのである。それでは客家の遷徒史はどのような歴史的経緯を示すであろうか。われわ
れは先ず中原の中国人が南方へ移動した時期を大きく3区分するこは,ハンチィントン
(E.Huntington)とキャンベル(G. Campbe11)によって提唱されたことを知っている。す
なわち,ハンティントーキャンベル説によると,客家の三遷をつぎの三期に大別する。第
一期は山西,河南・安徽等の住民は第4世紀二大二藍または五胡の乱によって南方に逃避
し,江西省内に定住し,その他一部分は東南に向ひ移動し,漸江および福建の北部に土着
した。これを史実に徴すれば,上書地理志二二の条には「三二三江しまた山州を徐に二
二し,後ち,弘農人の尋陽に流寓するを以て弘農郡を僑回し,また河東人は南方漢武二二二
二県界上に寓するを以て河東郡を僑立す言々」と記し,また三州の条には「元二二上し春
穀県を以て二二郡および繁昌県を山立し,成帝豫州を江准の間に山立し蕪湖に居る時に准
の南北に入り,すなわち丹陽を分ち准南郡を三山す言々」と記している。また客家族譜の
中にも同種記録が存している。二三,張喧の合著漢族二三史には林達泉の言を引いて「東
晋元嘉に当り五湖華を乱し,睡遊路を塞ぎ,是において豪傑の士,冠帯の倫,相共に家を
携へて渡江し,王室を匡扶した。その時の著姓には王謝の家あり,王謝は河東の大原人で
あり,自鯨の衣冠族には八姓あり,林,郡,胡,何等の族は倶に閾中(福建)に入り,そ
の他の流民は難を江南に避け,南徐,南司等の州を立てこれを三三と謂ふ」と記し,当時
の「僑は回れ「客」の意義である故に江南の僑単は即ち第一期の客人である。二代福建に
入った民族の林,胡,郡,何等の姓は,大概漸次に福建民族に変化したのである。第2期
の南山は第9世紀頃からであり,即ち唐末黄巣の乱,昼代の兵変当時である。中部中国が磯
荒混乱の中に陥った頃に,約五千人内外の一隊住民が河南に向って移動し,唐の光啓元年
(885年)福建の西部山中に定住した。これらは北方から移住した客家で自ら一族をな
し,四百余年の大平時代を経過した。第三期は宋末からであり,客家:境内には特に大磯鰹
等はなかったが,元兵の侵略に遭って少数同族は山中に避難し困苦した後,聡明な能力の
持主であったから漸次勢力を恢復し繁栄し,彼らは福建の西部より百余哩を経過し面面省
の北東部斜懸州(今日の話劇)に到り,一方別途江西方面からの移住も行われた。その後
嘉恋州の客家はますます繁殖し,明の洪武23年(1390年)の1686戸,6989入が清の道光28
華僑社会と需
135
年(1848年)には多数他地方に移動したものを除くの外に26万89ユ3人に増加し,その人口
は自然増加し,彼らは絶えず西方に向って進展したのである。
(注6)
羅香林に依れば客家の南遷はまた大略5期に細別し,第一期は東晋から六区までとし,
漢族は島西,山西,河北,山東,河南,安三等の諸省にいたものが,北方民族の揉欄に遭
い流離顛倒し,仕官の人家は南下し多く難を大江南北に避け,当時号して之を「渡江」と
称し,また「衣冠避難」と称し,而して一般平民は多く群を成し奔命し号して「流人」と
称し,就中泰雍(今日の陳西山西一帯の地)等難民は多くi三州(湖北一帯)を経由し,漸
次南下し,素水流域を沿ひ,今日の湖南洞庭湖流域に移り,遠きものは今日の廣西東部に
入った。是れ南遷漢族の第一支派であり,而して井,司,豫,諸州の流人は多く今戸の安
徽および河南,湖北,江西,江蘇の一部地方に集り,その後また都陽湖流域および鞍江に
沿ひ,今の江西南部および福建邊境地方に至った。是れ南遷漢族の第二支派であり,その
外に青徐両州の流人は多く今日の江蘇,南部に集り,また太湖の流域を沿ひ,今日の面一
および福建の北部に移った。出れ南遷漢族の第三支派である。
第二期は唐心黄巣の乱からであり,遠きものは今日の河南の光山,横川,出始,安徽の
蕃県,阜陽等の地方におよび,渡擁し江西に入り更に福建南部に移り,近きものは江西北
部および中部を経由し,江西南部あるいは福建南部に入り,或は廣東北辺に移った。
第3期は丸払宗が元兵に駆逐されて南渡した後からであり,福建南部から廣東東部およ
び北部に移った。
第4期は宋末より明代に掛けて廣東内部に移ったのを始とし,漸次廣東東部および北部
より中部に入り,また四川東部,中部におよび,更に廣西,蒼梧,柳宿所属の各県に達
し,または台湾彰化,諸羅, (嘉義)鳳山の各県或は江西,福建南部より江西の西部に移
った。下って清の康毒言隆時代より主客闘争解決を同治の頃までに達するものである。
第5期はその後瀬山,開平,四温一帯におよぶもので,即ち廣東中部及び東部より高,
雷,欽,廉i各地に移り,或は更に渡海し海南島に達したのである。
(注7)
斯く六出が南遷し,殊に廣東省におけるその人口が激増したので,土着湿たる後記本地
人(Puntis)と衝突紛争をおこしたことは特筆すべきである。太平天国の南京に葵話し
て数年を経ざるに,廣東西路の客家は本地廣府系と劇烈の闘争を発したが,道光,威豊の
交にはすでに温湯省恩平,開平,増城,新寧(今日の丸山)および廣西省武宣県地方の出
家は,土民と相反撃し,また威豊4年(1954年)には恩平,開平,鶴山,新寧,高要等の
地方は土匪に攻涼され,地方官はこれを防圧する心なく,客勇を募ってこれを鎮定し,或
は両廣総督葉名深は鶴山知寝息造舟に命じ,また客止を率いて訴訟を剃定したが,当時各
地の匪首および附近の無頼は多く本地系に属し,勢いに乗じ,客民を殺掠したので,土着
と山辺との間に遂に械闘を形成し,はじめは鶴山に起り,開平,恩平,高明,高要,陽
春,新魯等に波及し,新寧の闘争は最:も劇烈を極めた。本事変(土客械闘)は成豊6年
(1856年)より同治6年(1867年)に亘り,12年継続し,双方の死傷散亡の人数は5・60
136
万に達し,官兵の死傷も数千を算した。死傷数については諸説あり,100万に達すると過
大視するものがある。同治6年廣東巡撫蒋益濃は土客を調停し,田地を区劃し,西江の客
家を赤渓県等に移住せしめる等の善後処置をして問題を解決したのである。当時の客家に
対しては自動的に欽廉地方,海南島および廣西省の武宣,馬平方面へ移住せしめ,荒地の
開墾をなさしめた。なおこの争闘に際しては両派は共に香港から軍隊や武装汽船を取り寄
せ騒擾したのである。
(注8)
客家は優秀民族であるにも拘らず,本地人からは賎民扱にされ,当初は種蛋等蕃族に擬
せられ,その名称にぢ篇を附け「狢」とせられ,また客は「犯」と同音であると言はれ接
斥されたので彼らはこの汚名を雪がんとして抗争を続け,死を賭し,南洋辺までも出掛
け,華僑の援助を求め,多額の金銭を募り,水平運動に努め,学者の中には客家が漢族で
あることを研究し,その駁論をしばしば発表するに至っている。
これを要するに,客意は漢族のうちでも江西人でも,湖南人でも,福建人でも,広東人
でもなく,きわめて移動性に富み,独自の習俗と言語をもつ人種集団であって,それが客
家と称せられるにいたったのは,定着的な広府系が本地一the Puntisと呼称されるのに対
し,外乱から移住してきた新米の「外客」との意味において,多少軽侮的な含意をもっ
て,客家一the Hakkas, or the Khesと呼称されるにいたったものとみられる。客語で
は,’‘the khes”と発音されるが,広府語の発音による“the Hakkas”と客家自身も呼
称するのある。
(注9)
かくて客家縛形成の歴史は,相互扶助,提携連帯の社会的紐帯によって結合し,その独
立と自律的発展を確保し,ついに移住地域を一大水源として後世の客家集団が現われるに
いたったのである。
注4)内田直作「タイ国における華僑社会の構造」
一客塩払の場合一成城文学「同済研究」第38篇33頁。
注5)需(Pang)は箒集団の内部結束を固めるため前近代的共同体観が支配的であるが,その反
面,割の集団利己主義,幣同士の排他性が強い。したがって割の改革を志向し,その解消の動
きを象徴的に示しているのが,各需の頂点に立つ「シンガポール中華総商会」(会員2500人・
87団体)の動きである。この改革案はこれまでの門派体制を廃止して広く指導的人材を大選挙
区制の採用によって求めようとする狙いであるが,それには賛否両論があって,1965∼1968年
7月までの数次の会議によっても結論がでかねている現況である。むしろ,剤維持論の方が有
勢であって,その主張はつぎの3点に集約できる。
第1は従来の帯同体制を廃止してしまえば,小聖の代表がなくなる恐れがある。
第2はそうすれば党派間の争いを激化して華僑社会の統一は乱れ大分裂を引起す可能性がある。
第3はそれ故に,当面暫らく幣派制度を保留し適当な時期再び常派の廃止問題を研究すべきで
ある。 ・
というのであって,大勢はむしろ幕の懐古主義に陥らざる新しい装いのもとに再編成強化の方
向にさえあるといえる。けだし,それは中華思想の裏がえしであってはならなのである。
華僑社会と幕
13ワ
注6)EUsworth Huntington;The character of Paces, New Yok,1925
George Compbelli Origin and migration of the Hakkos, in China Recorder, Vol
XV皿,1912
注7)羅香林著「客:家史料涯篇」香港中国学社1965年PP.5∼31
注8)広州中山大学地理学季刊第一巻第四期葉涯広東民族の史的移動及地的分俺Dyer. Ball, op
Cit l926.282,羅香林前掲書。
注9)内田直作「前掲書」33頁
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