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アンドレ・ゴルツ

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アンドレ・ゴルツ
特別対談
能なる
﹁そんな恐ろしい話は聞きたくなどと、そ
えても、地元の人びとは聞かないそうです。
によって、自然的、共同体的な、生きるた
まっているからです。それまでの成長政策
いのは、それ以外に産業がなくなってし
二つの要因があります。過疎地に原発が多
﹁減らす方がよい﹂﹁やめるべきだ﹂とする意見が合わせて
原子力発鉱を今後どうすればよいかという質問に対して、
︺
命
ントで半数を超えている。;
認できれば再稼働させる﹂とする愈兄が計五二・三パーセ
のは直ちに再塚働させればよどと﹁安全対策が一分と確
おこなった冠詰世諭調壷では、﹁定期検壷が終わったもl
う福井新聞が福井県民を対象に七月一六日と一七日に可
能
る
を段階的に減らして将来はやめる﹂ことに七四パーセン革
卜が践成と答えている。塑
2六月一三日の朝日新川の世脳鯛壷では、﹁脱子力発危“
四一パーセントだった回
「−可
可能なる琉命(4)
見田宗介
×
大羅真幸
禰一耐一一諦恥一誤一毒︽︾一﹂
現代社会の理論と二睡能なる革命﹂
腰でもないと思われていた時期です¥そうし
を﹁革命﹂と定漉されているからです。今日は
一言第。
た時期に、見田さんは現代の情報化/消費化
﹃現代社会の理詰﹂には、情報化/消費化社
社会柵造、そして輔神描造が根底にある﹂と
そくさと立ち去ってしまったということで
めの基盤を解体・剥奪され、貨幣を媒介と
’1
会が必然的にもたらす環境.壷源問題、貧困
﹁可能なる革命﹂を巡って思考を続けられてい
﹁定本見田宗介著作梨﹂の刊行がはじまる見田
の限界問題巻提示し、さらに﹁情報化﹂と﹁消
などが﹁間の巨大﹄として提示されています。
るお二人に﹁震災後の世界について﹂という
宗介さんとの対談をお願いしました。定本
識化﹂の愈味自体を根本的に読み替える︵とい
3.皿の東日本大震災における福島第一原発
の必然の展側であるとしながら、このシステ
の卵一巻に収録された﹃現代社会の理論﹄は、
うより服装に戻って突き詰めるというほう
砺故は、﹁間の巨大﹂そのものをもっとも破滅
社会というシステムが﹁近代﹂市民社会の原理
一九九六年に出版されました。一九八九年の
が正しいかもしれません︶ことを通じて、備
的な形で露呈させたものだと思います○この
11ム・日は弊誌での大浄英幸さんの迎織
ベルリンの壁崩壊以降、社会主義の敗北が明
させるという、アクロバットのような手法
報化/消費化社会システムそのものを転回
テーマでお話いただければと思います。
らかになり、自由,民主主義的派天本室菰こ
鞭故に際して、見田さんは六月一七日の朝
ム源必然的に直面する環境や資源、貧困など
そが、人類が最終的僅兇いだした可能な社会
で、まさに﹁莱命﹂を提示されました。なぜな
髄していらっしゃいました。この問題は、大
す。一見飛躍するようですが、太平洋戦争
してしか生きられないシステムの内に編入
岩波新書、】”6年
aワラス10号2011年11
﹁可能なる茄命﹄の一環として、一一月から
のなかでベストなものである、という潔識が
原発の再諮唇働を求めているのはなによりも
こうした状況を生みだす理由は簡単で、
日新聞で﹁福島第一原発の聯故で僕が驚いた
の峰少しあとの世論調五です含あれだけ
放射能の危険にさらされている地元の人び
これまでにも指摘されていることですが、
ら、﹁可能なる革命﹂のなかで、大津さんは、
の那態でも、半数以上の人が原発を続けよう
とだということもあります。シンボリック
原発依存の柵造があり、原発に地元の雇用、
広く分けもたれ、もはや革命など可能でも必
と答えていた。原発に依存的な椛造ができ
な話をすれば、福井の原発でのことです
財政が依存しているからです。具体的には
深さんも連載でその不思議について論じてい
に突入した日本と似ている状態だと思いま
されてゆく。この解体と剥奪によって、原
いで突っ走るわけです一︶
てしまっているのです。成長を続けなければ
が、駅前などで脱原発派がその危険性を訴
らっしゃいました。
す。米英、つまりほとんど全世界を敵にす
3
社会が成り立たないかのどとき成長依存的な
見田l最近は逆転してきて広義の脱原発
「現代社会の理論」
1四月一八日の朝日新聞に掲載された世論鯛査では、
るような戦争をしたらどうなるかというこ
見田宗介
Z
ろう﹂と思考停止をしてしまった。耳をま
い結果は聞きたくない。﹁なんとかなるだ
かっていたわけです。でも、そんな恐ろし
派が三分の二まで増えましたが、あの世論
現代社会の理離」恐波替店、2011年
とは、首脳部の大部分の正気の人たちはわ
見田宗介
調盃には本当にびっくりしました。また、
『定木見田宗介著作集I
aワラス1032011年11
連載
『
かみのせき
い、というわけでもない場合ですね。祝
した
島の反原発運動で知られる山口県上関
ら検ぱいになる。失敗すると滅びます。人
ば、安定平衡期に入って周りと共存しなが
生物も環境が臨界に達すると、うまくいけ
﹁大爆発期﹂にあたります。しかし、どんな
ですね。第Ⅱ 局 面 が 文 明 か ら 近 代 に 至 る
す。第1局面は、文明以前の定常期の段階
けです。第1から第Ⅲまでの局面がありま
きるかということに立ち返ることになるわ
一つの秘がどういうふうに生きることがで
球という有限の環境のなかで、人類という
れることはできません・これを見ると、地
約一万二三○○人いた上関町の人口は、現
けでもなかったんです。一九六○年代には
しかし、以前の予算で暮らしていけないわ
総額二四億円にのぼる寄付も受けています。
四五億円、二○○七年以降は中国磁力から
明後の約三○年間で原発関連交付金が約
は二億五○○○万円程度でしたが、誘致表
に原発誘致を表明した際の上関町の町税収
町が典型的だと思いますが、一九八二年
ちよう
大浬真幸
いわい
もう一つは、原発なしでは生きていけな
です。
発にすがる以外の道がなくなっている場合
(
‘
霞
類はちょうど、﹁大蝋発期﹂の最終局面の最
鍵
y
蝿
見田宗介
かにならないと立ち後れるという椛造があ
をいえば、成長依存なんです。物質的に豊
たりする。剥奪も確かにありますがへ結論
派なホールができたりきれいな道路ができ
います。そこに七○億円がやってくる。立
五○○○人ほどの人口が五○○人に減って
在約三五○○人にまで減少し↑祝島でも
ても当選できないでしょう。つまり、成長
党は過半数を取れないし、政治家個人とし
成長依存からの脱却を表明すると、その政
取りになったと思います。一方で現状では、︾
があり、大きくいえば、それが菅内閣の命郵
成長依存からの脱却はできないという矛盾い
ない。原発依存からの脱却をいいながら、
した。ところが、成長神話からは脱してい
としてほとんどはじめてそういう理念を出
戸
る。選挙で敗れた原発反対派候補が﹁豊か
がないと回っていかない企業などもたくさ
んある。それくらい根深い問題です。だか
の丈にあった町民自身による町づくりを進
めたい﹂といっていました。﹁身の丈にあっ
らこそ、落選など関係ないわれわれのよう
な自然、歴史、藤らしの魅力を生かした身
た﹂という言葉が印象的で、つまり原発関
な研究者や言論人が言明する必要があると
では、どうして成長依存から脱却できな
連交付金ありきの生活は身の丈にあわない、
いか,.まず包括的な話をします。﹁鉱プ
思います。
示されると乗つかってしまう。いずれにし
困っていない地域でも過剰な成長の夢を提
ラス﹂鰹号での大瀧さんとの対談でも言及
過剰な成長だということです。経済的に
ても、原発依存の背禦には成長依存という
ものがあります。これはある生物種の一定称
しましたが、言ジスティクス曲線﹂という月
菅直人前内閣は、原発の間脳に関しては、
の環境条件下における繁殖状況をモデル的唖
神話と椛造があります。
大分ましだったといえるでしょう。浜岡原
に純化した曲線で、S字を描きます面Ⅱ︶。家
人間という種の歴史の全体もこの原則を免諏
力というものは大きい。ここでいう慣性と
んだりするわけです︵ぎ。それほど慣性の
カーブを曲がりきれないで観客席に突っ込
うものがありますから。カーレースでも
意味たいへんなんです。歴史の慣性とい
しかし、カーブを曲がるというのはある
す。一代目が猛烈に稼いで豊かな財産を築
と、要するに三代目はダメだということで
ご存じないかもしれないので若干説明する
三代目﹂というものがあります。若い方は
す。古い日本の川柳に﹁売家と唐犠で書く
が、それでは具体的に人びとの意識がど”
のような方向性をもっているかを考えまa
見田lここ霞での話は包摺的鞭ものです崎
一﹁三代間﹂という生き方
発も止めたし、原発依存から脱却するとい
う基本方針を打ち出していた。日本の総理
す。つまり、図1でいうと現代は第Ⅱ局面
は、成長依存的な経済構造・精神構造です
き上げ、二代目は一代目の苦労を知ってい
から第Ⅲ局面への過獅而悩あたります。
がいかに難しいか。いま本当に難しい局面
るから、すでに豊かであってもさらに稼い
釧州州離職剛柵︾淋鵬.︹
唐様とは教養がないとできない書の書き方唾
ですね。いまふうにいえば、アートや文学、覗
貼り紙の字を唐様で書いたという意味です心蹴
敷も売りに出す羽目になり、﹁売家﹂という
て散財し、一代目が苦労して手にした家屋
の辛苦を知らないので、文化や趣味に生き
でお店を大きくしようとする。三代目はそ
にいると思います。
ね。それに抵抗しながら方向転換すること
図1ロジス昂イクス曲線
=
後の段階に入っていて、どうやって安定平
時間の経過
デ 生
衡期に入るかというところにいると思いま
」岡ノロ
的なロマンチシズムは遊女とのあいだにあ
近松門左術門の人情話が典型ですが、近世
な愛傭関係は遊里にしかありませんでした。
めです。例えば、身分社会のなかでは自由
それは古い時代に生きざるを得なかったた
に遊んだりするというものです。しかし、
や歌舞音曲を習い、友達を引き連れて遊里
れる。そのイメージは、商売もせずに、書
そういうものです。自分に見合った卑しい
ほうがされる対象よりも卑しい。もともと
しかしパロディ化とはつねに、する人間の
ダメだと川柳にされ、パロディ化される。
的な貧困な価値観から見ると、怠けていて
共存する安定平衡的な生き方です。一代目
生き方は、資源浪費も環境破壊もしない、
ディカルに反転する必要がある。三代目の
要するに、﹁三代目﹂というイメージをラ
﹁記憶の固執﹂という絵がありますね。この
があります。サルバドール・ダリの有名な
あるいは﹁欲望の胃風駕g8﹂という言葉
を引き継ぐという柵造があると思います。
客観的な経済椛造から遅れた、前の価値観︾
それに倣えば﹁且篇肩﹂とでもいいますか、蔀
ら遅れるという社会学の理論がありますが、㈹
遅滞︵2言邑一畠︶﹂という、文化は社会構造か
上必要でなくなったにも関わらず↑まだ成
るわけです。近松はそれをポジティブに描
生き方でしか理解できないからパロディ化
絵には﹁記憶の残津﹂という訳もありますが、
とだと思いますg
いていますが、ああいう形でしか実現でき
する。僕は、三代目の社会こそが、人類が
もとの語は胃易胃gRです。川が流れてい
負三代目がネガティブなイメージで語ら
なかった社会のなかで仕方なしにとった行
目指すべき社会だと考えています。
もったりすることではなく、文化や自然を
とって究極の幸福が、金を稼いだり権力を
代目になってしまうのか,.それは人附に
しかし、どうして人間は放っておくと三
まれ育ち、貧しい社会に条件付けられた欲
いえるでしょう。一代目は貧困のなかで生
結論からいえば、現代は二代目の社会だと
その際に問題になるのが、二代目です。
するわけです。成長神話から抜け出せない峰
つまり、いまは二代目の社会という感じが月
でも、前の世代の欲望に固執することです。
望の駕旦質g且とは、豊かになったあと
というイメージでしょうか。ですから﹁欲
くのに水底にこびりついて残っているもの
フィーの選択﹂とはその改悪版で、自分が項
望、つまりできるだけ多くの財産をもち、
えていることについて衝撃を受けたし、そ
持っているのは子どもとエアコンだと。例咋
物質的にもつと豊かになりたいという価値
の理由を考えることは社会学的にも興味深
えばエアコンではなくて一億円でもいい。蝿
楽しみ、友情や愛情を深める、それこそが
い問題でした。だからこの連載でも書いた
そこに強盗が入ってきて、﹁一億円か子ど”
本来求めている価値だからです。貧しい社
大津︲⋮⋮:おっ一しやる通りだと思います.|ま
わけです。その理由は、見田さんが説明な
殺して一億円も盗皇と脅されるわけです。
もかどちらか寄こせ、拒んだら子どもをa
根本的な理由はそういうことだと思います。謹
ずは世論調査の話題に即して話すと、僕も
さったことで概ね尽きていると思います
この選択は迷う必要はないですよね。しか
観ですね。一方、二代目は、かなり豊かな
あの結果には非常に髄きました。僕だけで
るので詳細は省きますが、巡栽爺麓肥珍で
が、疑問はまだあります。繰り返しにな
会ではそれは不可能です。豊かにならない
なく周囲の人も一様に驚いていました。つ
し、原発交付金がないと困るというのは、
社会になったにも関わらず、一代目の価値
まり、僕の付き合いの純囲が狭くて、相当
は、﹃ソフィーの選択﹂という映画を改造し
実は一億円を選択したことに近い。これは
とできない。しかし豊かになった人がそう
偏っている︵笑︶。僕自身は、九割の人びと
て﹁偽ソフィーの選択﹂として考えてみまし
観や欲望にとらわれているわけです。歴史
は原発に反対すると予想していたので、逆
たうえで、それに応じた社会学的説明が必
非常に奇妙な状態だということを肝に銘じ
・
ず
寒
惑
〈
?
話
、
霜
”
瀞
謡
.
,
楓
’
華〃ご
慰
冒
凸学●
綱
し、ソフイーはあえて一人を選ばざるを得
のどちらかを選ぶなんて不可能です。しか
と選択を迫られます。本来、大那な子ども
を拒否すれば二人ともガス室送りになる﹂
残りの一人はガス室送りだ。もし選ぶこと
充分な数ではないと思います。さらに、僕
のほうが過半数になってはいますが、まだ
ら幾分か流れが変わって、さすがに脱原発
また、五月の浜岡原発を停止したころか
誰が見ても心が痛む話です。一方、﹁偽ソ
れなくなって糖碍神が乱調していく。これは
犠牲にしたことからくる罪の意識に耐えら
いうような選択ですが、ソフィーは一人を
が実はかなりいるのではないかと疑って準
蝿霧瀧湾
なかった。客観的に見てもそれしかないと
は、本当は原発がなくならない限りにおい鉦
て﹁原発反対﹂といっているにすぎない人︾
要だと思ったんです。
た。﹃ソフィーの選択﹂という映画では、ソ
一
一
人を選びなさい。その子どもは救ってやる。
に六割近くの人が原発はあってもいいと考
した価値を求めるのは、きわめて自然なこ
価値観が社会構造に遅れるわけですね。
長、成長といっている段階です。﹁文化の 屍
動でもあるわけです。
A
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(
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Y
o
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k
フィーはナチスに﹁二人の子どものうち一
鐘
Pー
サルパドール・ダリ
『記憧の固執』1931年
R2011SalvadorDali,GaU-SilvadorDj│[foundjlioni
「一一一一一一一
のいちばんの理由は、見田さんが説明され
という人がかなりいるということです。そ
定されない、その限りで、脱原発に賛成、
してしまうからです.すぐには脱原発が決
人が脱原発と考えだしたら、本当に脱原発
る、ということですね。権力をもっている
る人が脱原発を言明し、現実化されると困
は原発反対と答えたものの、政権を維持す
ちで起きたわけです。つまり、世詮調査で
そんなこというなよ!﹂という声があちこ
依存社会を明示的に謡った瞬間に、﹁お前、
されるはずです。それなのに、彼が脱原発
したとき、世論から﹁よくいった!﹂と応援
菅直人前首相が明確な脱原発方針を打ち出
賛成しているわけですから、本来だったら、
ん。ましてやいまでは七割の人が脱原発に
首相は明確な脱原発の方針は出していませ
いいきった首相はいなに実際、野田佳彦
たものに変わっていくという順番で構想し
それによって価値観が、社会構造に見合っ
実際問題としては、まずは原発を止める。
却という根本問題を秘かに隠しもちながら、
ないか。戦略としては、成長依存からの脱
の経済成長に対する考え方を変えるのでは
いったときに、それが結果的にいままで
ところにきた。原発のない社会をつくって
ポジティブなイメージを抱くことができる
したために、原発のない社会に対しては、
して、あれほどの原発事故を目の当たりに
したりすることはかなり難しい。それに対
な社会というものをイメージしたり、柵想
経済成長はしていないけれど、豊かで幸せ
い社会に対してはみんな厳しい印象をもつ。
ほうが現実味がある気がします。成長のな
長しない社会が実現したという順番にした
う。逆に、脱原発を進めたら結果として成
から逃れろといくら説得しても難しいと思
方、日本は自分のところで駆故が起き、い
故を未然に防ごうとしているわけです。一
況になったのです。早めに手を打って、事
この事故に敏感に反応して、このような状
被害を受けていないヨーロッパでさえも、
に脱原発なんですね。今回の蛎故の直接の
るかどうかは別にして、世論的には圧倒的
ヨーロッパでは、牢薩謄政策的に実現でき
多くの人が脱原発を支持しているのです。
セントの人が脱原発で、日本よりはるかに
スでさえも、世論調査によれば、七七パー
易に完全な脱原発ができそうもないフラン
存率が世界でもっとも高い、したがって容
電力需要の八割近くを原発が担い、原発依
早い対応をして、脱原発を確定しました。
けて、ヨーロッパ、特にドイツは非常に素
があります。今回の福島第一原発事故を受
一︿疑問L思一し︽
|脱原発に向かうヨーロッパ
た原発維持の根拠になっている成長に対す
たほうがいいと思っています。
まも喉元にナイフを突きあてられているよ
4
る胃風舞gRというか、こだわり、執蔚だ
と思います。
うな状況にいるのに、原発から逃れられな
に思っていたこと、ときには明示的に語
消費社会と見なした人たちが、暗黙のうち
ただ、僕は戦略としては、まず成長神話
経済成長率がどうなるかという判断より古
られさえしたことは、﹁日本は一週遅れの
い、原発を止めるという断固とした決断が
トップランナーでよかったね﹂ということ
まずは原発を止めることを優先させて、勝
これはどうしてなのか、考えてみる必要が
負に出ようという勇気をもとうとしている。
だと思うのです。消海操社会というのは、ポ
できない。これも不思議なことです。
近代については、いうまでもなくヨー
あります。ヨーロッパは早めに三代目に
スト近代、脱近代の社会の様相ですね。そ
によくあてはまる。どうしてかというと、
移っているということですか9.
ロッパのほうが本家本元です。彼らは骨の
髄まで近代という人びとで、日本はその狼
まねで、かっこだけ近代になったといって
日本は近代になりきらなかったために、逆
の消費社会についての記述が、日本の社会
ば、ヨーロッパのほうでしょう。近代の畑
見田lどちらが早いかということでいえ
に、はじめから脱近代だったのじやないか
もいい。ところが、日本は心底から信じて
いるわけでもない近代を手放すことができ
熟期に入ったのはヨーロッパが先ですし、
堆穣のうえに成り立っている近代を、ある
は見解が分かれますが、世紀単位の時間の
てきた近代を l そ の 淵 源 を ど こ に 見 る か
日本よりはるかに時間をかけてつくりあげ
すが、成長し尽くしたという感覚は、日本
代と超近代という二つのベクトルがありま
追いついた。ポストモダンにしても、脱近
日本は一九七○年代にようやくその段階に
していくといった現象等は、もちろん最初
るとか、オリジナルとコピーの差異が消滅
価値としてだけでなく記号として立ち現れ
対象となるような現象、例えば商品が使用
ということです。消費社会の理論で分析の
可能なる訳命(4)「一万
atプラス10号20'1年'1
atラスioi:7on年11
両一一1可能なる莱命(4)
ないでいる。それに対して、ヨーロッパは、
程度相対化しているともいえます。完全に
ボードリヤールを中心としたヨーロッパや
はアメリカやヨーロッパでも起きていて、
つつあるというステージはヨーロッパのほ
ンシごが公表した世諭調登による。
わけです。しかし、日本ではそうした消費
アメリカの社会学者は、それらを見ていた
本でも湘泌器社会論が流行りました。日本を
ャールの詞掘算社会の神諦と椛造﹂以降、日
大潟’一九七○年に山版されたポ︲ドリ
うが早いように思います。
てもそうです。その意味でも三代目に入り
紀伊園腿書店、1”5年
よりも早くからありました。人口減少にし
ジャンロポードリヤ→シ
れませんが、原発があるとないのとでは
『流R社会の
神蹄と構通普及版」
成長神話を脱しているとはいえないかもし
鶏
論が、学者の範囲を超えて、広く受け入れ
状態だった。だから、ボードリヤールの理
もむしろ日本に対して脱得力があるような
て、ボードリャールの理論はフランスより
社会的な現象がラディカルな形で現れてい
が短命で助かったね﹂といったイメージを、
二代目が日本では弱くてよかったね、彼ら
なければならないのだとすると、二代目.
たのですが、最終的には、三代目に移行し
目のほうが強そうでコンプレックスがあっ
“蚕〆︽の一代二代
メージでは、ボードリヤールというのは脱
見田lそのあたりは複雑ですね蝿僕のイ
ないのか。
んな肝心なときに、三代目的精神が活動し
一軸畦一.E︾砂へ鐸一色
られたわけです。特にバブル期は、脱近代
近代というよりはウルトラ︵超︶近代という
ようと思っている虚椛の時代の話とつな
イメージがあります。つまり、あとで触れ
合、政治的にも経済的にも思想的にも苦職
がってくるんです。虚構の時代というのは
します。一方、ヨーロッパやアメリカの場
脱近代の様相をもち、他方では、近代棄本
していて、脱近代・超近代に適合したエー
ある種のウルトラ近代です。この点につい
多くの人が暗黙のうちにもったような気が
主義の原理を徹底して活用しているという
トスや哲学もうまく出せない、あるいは定
ては、あとでまとめて話したいと思います。
は、﹁主体﹂のような近代の原理を否定する
意味では超近代であるという状況として、
着しづらい状態だった。気がついてみると︽
と超近代のミックスとして、つまり一方で
になっていた。どうしてそうなったかとい
消費社会論がたいへんよくあてはまる社会
か、という印象でした。
日本のほうが先頭に立っているのではない
うと、日本が近代に染まりきらなかったた
は、日本の三代目は一皮剥けば二代目とそ
ための伏線として、付け加えておきたい
大識lでは虚構の時代の龍につながる
ところが、原発醐故が起きて露呈したの
いるのではないか、そういうイメージを皆、
う変わらないのではないか、ということで
めに、比較的早くその呪縛から逃れられて
もっていたと思うのです。見田さんの例え
に﹁近代の矛盾の﹃解凍こ︵定本第六巻所収︶とい
う論文をお書きになりました。非常に教え
と思います。見田さんは、四年前に﹁思想﹄
問題が起きると、いちばん歩みが遅いとい
られることの多い論文だったんですが、そ
ル的な部分では先を走ったのに、いざ原発
目がわりに早めに引退しようとして、三代
うことになっている。あのとき、先に三代
のなかでこういうことをおっしゃっていま
す。これは悲しいというか、ボードリヤー
目への引き継ぎがわりにうまくいっている
目になろうとしていたように見えたのに、
ことですこつまり、合理化の貫徹が人生の鯛
でいえば、三代目の社会へのバトンタッチ
ような印象だった。一代目、二代目のとき
家族の在り方を自由に選び、組んでいくこ
というのは自由と平等です。しかし、考え”
隅々まで及んでいる。一方で、近代の理念恥
をいち早く遂げたという印象でした。二代
一近代歴田二拳,理念一
いう柳がなくなったとき、自由と平等とい
とも可能になってくると。つまり、成長と
う近代の理念がはじめて、実現しうるもの
てみると、合理化と、自由・平等は、原理”
と理念の矛盾です。その矛盾を抱えた現実a
いるが、成長神話が足を引っ張っていて、
を全面的には開花できないような状況だっ
になったというわけです。
その近代の理念がもっていたポテンシャル
た、と。
い社会にとって有利になりうる。革命とい
本来あるわけです。すでにあるものが新し
ですが、仕事中心のモーレッ社員と、それ
経済成長期の一九六○年代の家族が典型的
﹁近代家父長制﹂とは、日本でいえば高度
が﹁近代﹂だと思います。
のは、近代家父長制イデオロギーでした。
うのは必ずしも近代の価値観をすべて否定
を支えるシャドーワーク的な主婦というイ
つまり、近代のなかにある種の可能性が
近代の自由と平等という理念からすると、
することではなく、近代がすでにもってい
その論文で具体的に取り上げられていた
男女平等でなければならないのに、かなり
こういう時代だから、理念はちょっと我慢
自由・平等は封印されていました。いまは
メージです。この時期、近代の理念である
とでも革命ができる。そういう問題と、今
しようと。この近代家父長制というシステ
るポジティブな側面をうまく掘り起こすこ
ともなう核家族的なユニットが、成長する
回のヨーロッパの脱原発への向かい方は関
ムとメンタリティーが日本の特殊な那悩か
テムが存続した。それは、性別役割分業を
社会では機能的であり、非常に有利だった
を吸収したヨーロッパのほうが、近代から
係があるような予感がします。充分に近代
というと、そうではありません。フロイト
長いあいだ男性優位の家父長制家族のシス
からです。男が外に出て働き、女が銃後の
のテイクオフにおいて有利になるというこ
が必要な社会における競争にとってたいへ
の理論が前提としているエディプス的な鉦
支えとなるという家族の形態が、経済成長
とがあるのではないかと。
[
恋恋雛灘繊瀦懲溺騨”
家族像や、アメリカの国民マンガ﹁プロン蝿
ん機能的だった。ところが高度成長が終わ
りを告げると、家父長制的な家族のシステ
ウェーバーが指摘したように、近代社会の
いるなかで、とりあえず理念のほうを封印
見田l童書にその通りです”マックス・
原理は合理化です.合理化とは、社会の組
して合理化した。
ムが崩壊し、それを支えていたイデオロ
織と生の全領域を生産主義的に手段化する
ギーも衰退してくる。つまり、成長の足か
と女性が、自由に平等に自己実現しながら、
せから逃れると、それぞれの個人が、男性
atプラスlOt2011年11
「一一一一一一一
がある。そこでは平等も自由も存在できま
であっても、軍隊だけは階級があり、規律
印されます。自由な社会とされるアメリカ
ない。闘う集団ではつねに自由と平等は封
に働かないといけない、闘わなくてはいけ
だったからです。成長に向かって一所懸命
なぜ封印できたかというと闘う家族
なれない、非常に苦しい状況にある。
いかないのはわかっていても、三代目にも
僕らは二代目の世代で、一代目のようには
じる。成長が自明の前提なんです。かたや
ると、単純に活気があって、羨ましさを感
ているような段階でした。しかし、見てい
盛の社会でかろうじて二代目が顔を出し
由と平等という近代の理念と照らし合わせ
国からスタートしていることもあって、自
テムとしてとらえたとき、中国は社会主義
もう少し具体的に見てみます。社会シス
です。
幸福になっているだろうと予想できるから
まり文字通り二代目の世代ではより豊かで
体したのが現在です。
てきた。それが日本でもヨーロッパでも解
要はないじゃないかと自由を求める人が出
す。モノガミーニ夫一婦制︶を前提とする必
た。家父長制に連動する性モラルもそうで
要がなくなったからです。女性も我に返っ
闘う必要がなくなり、無理してがんばる必
が終わると崩壊に向かうのですが、それは
せん。この近代家父長制は、高度経済成長
それは彼らが、まさに、二重の意味で一代
が意外と小さく、相当な希望をもっている.
も、格差のボトムにいる人でさえも、不満
ても、中国のそれは日本の比ではない。で
測をもっているからです。例えば格差にし
い。多くの人が、未来に対して希望的な観
会調査の結果を見ると、意外と不満が小さ
国でもあります。しかし、あとで述べる社
もちろん中国は多くの矛盾を抱えている
り、徐々に戸籍にまつわるこの制限は緩和
戸籍をもつ人は、原則的には、農村に住
れません。つまり、農村に生まれ、農村
戸籍があって、原則的には、これを変えら
に選ぶ権利がない。戸籍に農村戸籍と都市
ません。つまり、住居や労働の場所を自由
国には、完全な意味での移動の自由があり
な法律をたくさん残している。例えば、中
てみると、明らかに不平等を帰結するよう
ありますから、仮に現在がひどい状態でも、
愈味で、つまり社会の段階として一代目に
は、見田さんが話されたような、比喰的な
市に住んだり、都市で働いたり、そして最
市戸籍の区別があって、農村戸籍の人が都
されてはいますが、いまだに農村戸籍と都
受けて下層にいる人のほうが、現恢のまま
なに近代的な社会システムをうまく回転さ
し続けることができるという要因が、どん
それにしても、中国を見ていると、成長
原発邪故の一九八六年に出版した﹃危険社会﹂
『危険社会−
新しい近代への逆」
法政大学出版冊、
功l'リヒ・ペック
でのインセンティプを利用するものです。
ただ、ウルリヒ・ベックがチェルノブイリ
のゆくえ﹂中央公篭新社、二○○八年。
可能なる莱命mf−−一両
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んでいなければならない。二一世紀に入
大露l経澗成長について少しだけ弓メ
自分の人生の後半では改善しているだろう
行はきわめて困難です。中国では、現実的
後には都市戸締を取得したり、といった移
|中国という一代目社会
ントします。先日、中国に行く機会があり
し、それ以上に、自分の子や孫の世代、っ
でかまわない、諏撚隼の必要はない、といっ
せるかということを実感するんですよね。
によると認原発事故や遺伝子組換作物の花粉
蕊
10号2011年11牙』
ました。中国という国は、まさに一代目全
の社会で、将来の成長や幸福、将来におけ
左一心︽喫一面べは車国万一代
先歴夫禅一醇雰消費糾震山諦房
にいって成功 は 都 市 に し か あ り ま せ ん か
る逆転への期待がもてるためです。ただ、
﹁悩報化﹂の拙み替えの一例として、社会的黄
す。見田さんは﹃現代社会の理論﹄のなかで、
いわれたのも同然です。中国で、経済的な
ら、農村戸薪の人は、一生貧乏でいろ、と
ですから、例えば中国製品の主な輸出先で
用を納税者や噛塀龍謁に妖姫するのではな
出ましたが、現代社会のもう一つの要素であ
あるEUやアメリカ、日本などの需要がな
中国の二代目﹂というのはグローバルな経
はない。ところが、ある調査だと、格差社
くなったときには、一代目ではいられなく
格差が拡がる最大の原因は、都市戸籍と農
会の上位にいる人たち11当然都市戸締の
く商品の利用者が負担するという、フルコス
る﹁備報化﹂についてお話を伺いたいと思いま
有利さの恩恵に与っている人たちlのほ
なるわけですから、そのとき上手に﹁二代
ト・プライシングという考え方を紹介してい
済のなかでの位置取りで決まっているもの
うが、下位にいる人たちよりも、この戸締
目﹂に移ることができるかどうかは、わか
らっしゃいます。これは、商品の外部収奪性
村戸籍という制度にあるといっても過言で
制度は変えたほうがよい、といっている人
りませんが。
ていることになる。いってみれば、格差社
解開放系運放出されるリスクは、保険がつく
5
が多い。いいかえれば、戸籍制度の影響も
会のボトムにいる人のほうが、現状の社会
逆にいえば、成長という基本線を放棄した
られた一九世紀的リスク︵予測可能で計測可
函一■曲ら『寺■■■
をコントロールするため、市場システム内部
に対する満足度が高いという奇妙なことに
とき、それでも社会にある種の満足感や幸
能で収拾可能であるから保険料も算定でき
感じました。
うことでもあります。そんなことを中国で
:
索語,.
■■"●■■官御
ヨワラズ
云司可能なる革命(4)
目だからですね。二重の意味で、というの
1”8年
福感をもたらすことがいかに難しいかとい
危険社会
割
だけを見てしまうのが哲学者の危ういとこ
ることが哲学者の任務である。だが、遠く
ルの話をします。ヘーゲルは、﹁遠くを見
の限界ですね。この話に入る前段にヘーゲ
見国lいわばフルコストプラ罰シング
どう読み替えればいいでしょうか。
いといいます。震災以後において﹃情報化﹂を
報のコンセプトを徹底して理論化しました。
優れた理輪家であった吉田民人さんは、惜
決は︿情報化﹀で、原点に立ち返ることです。
きる。しかし限界がやはりある。究極の解
ている﹁情報化﹂によって相当程度が解決で
ていて、先回りしていうと、普通にいわれ
化﹀があります。それは二重の機造をもっ
れを解決する方法として﹁情報化﹂と︿情報
まってきたのが現代であるとすると、そ
れ以降は振幅が大きいものの、傾向として
年までは伸びてきたマテリアル消費が、そ
化﹂︵図2︶です。この表によると、一九七三
は﹁m世紀アメリカのマテリアル消磯の変
は終わらず、本文も沓きかえました。それ
きかえる必要はありませんでした。
データを追加しました。しかし、本文を習癖
わっていたので、二○世紀の終わりまでの㈹
標﹂の表です。新書版では一九九三年で終
まり↑環境や資源の限界に直面し、行き詰
ろである﹂というんですね。子どものころ
世界は物質と情報の二つから成り立ってい
は横ばいになっています。それを可能にし
一つは詞世紀アメリカの主要な経済指 屍
所浄除上は密か畠必要壁誌〆テ
に読んだので出典を覚えていませんが。つ
ルム︵形恕︶です。したがって、︿悩報化﹀と
ると。物質はマテリー︵素材︶、情報がフォ
たのが﹁情報化﹂の力です。経済成長をして
ことが課題ですが、哲学以上に近くを見る
にもあてはまります。社会学も遠くを見る
象を僕はもっているんです。これは社会学
という話です。先ほどのヘーゲルに倣えば、
で、第二部が﹁現代社会はどこに向かうか﹂
が新書版﹃現代社会の理論﹄を増補したもの
は、二つの部分からなっています。第一部
実は今度の定本第一巻﹁現代社会の理論﹂
なことです。何十年かはそれでもったわけ僻
ヘーゲル約にいうと、近いこととして大鞭恩
も一九七三年以降横ばいを続けた。これは
の技術革新によって、アメリカも地球全体
いるのにも関わらず、さまざまな堂産過程
もう一箇所は、表のデータの追補だけで
まり、逮くを見ると同時に近くを見ること
は脱物質化ともいえます。
ことを世間からは要求されている。なぜこ
ですから。だから、﹁情報化﹂でやれるとこ舜
姥華椎池畦御詐蓉嘩誌岬娃心鋤鉱如峠涯細極
第一部が近くの話で、第二部が遠くの話で
す。第一部を増補するにあたって、一五年
論﹄の第四章では﹁情報化﹂と︿情報化﹀を区
別しました。実は﹁情報化﹂が近くを見る話
前のものなので銃み直したのですが、二箇
て資源消費を相当おさえることができた
一九七○年代後半から技術革新の力によっ
ところが、二○世紀の終わりまでの最新
0320世紀フメリカのマテリアレ消炎量の変化c最新版)
ということ、です。②については日本が
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2
1
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2
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大きな貢献をしてきた。一九九二年リオ.
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データを加えてみると︵図3︶、一九九○年
Scant馴低"J咋恥"姉"碗ご“U、S,CcoIo8ica1Surv守Circu1刺r
以降、オイルショック以後の横ばいをまっ
19001920W0196019802000
年
デ・ジャネイロの国連環境開発会議でのラ
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今 .9
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14
(単位:100万トン)
たく帳消しに す る く ら い 急 激 に 伸 び て い
「現代社会の理硝l図4.1より
ンファルによる基調報告では、日本がエネ
図220世紀フメリカのマテリヌル湘費風の変化
年
る。この新しいグラフからいえることが三
書版の記述でした.|
で、︿悩報化﹀が巡くを見る話なんです。つ
んな話をしたかというと、﹁現代社会の理
ということです。この言葉に非常に強い印
によってはじめて全体的な哲学は成り立つ
る︶と述睦想定外で妥当な保険がつくれな
#
19001920194011601980200(】
ルギー消費堂を潮やさずに生産性を向上
500
つあります。はじめの二つは前の版と同じ
1,000
させたことを特に賞賛しています。しか
1,500
で、①二○世紀後半からの資源消費がいか
2,000
し、データを二○世紀末まで延長して見る
2,500
に激しいものであったのかということ、②
3,000
雲熱2号霊旨
(
1
0
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万
ト
ン
ノ
1
.
1
1
1
1
万
人
)
『定本見田宗介著作集I現代社会の理諭』第4.2図より
「自動gの社会的費用」
らかにすることができるわけです。
ることによって、逆に﹁情報化﹂の限界も明
新しいリスクですね。この△を明らかにす
もので、ベヅクがいうリスク社会における
かは予言できませんが、しかし、日本全体叩
特定の人、例えば自分が事故に遭うかどう
タをもとに推定するわけです。そうすると、 屍
状況で何件起きたかといった.膨大なデー
で見れば、来年何件くらい起きて、どのく薮
らいの死傷者が出るかということは、小さ︾
大源11非常に面白いですね。見田さんの
遭った人の損害を補償できるのか、算出可
みんなでいくら金を出し合えば、事故に
い誤差の範囲でわかるわけです。だから、
お話と重なりますが、ベックが指摘するよ
達するのですが、その流れの延長上で宇沢
保険のシステムは二○世紀初頭に大きく発
第一に、リスク社会のリスクは、本来起
いに関連した四つくらいの理由がある。
こういう方法では計算できないのです。互
故のようなリスクの確率や保険の掛け金は、
ところが、リスク社会のリスク、原発事
能です。
さんの社会的費用の理論やフルコスト・プ
こってはいけない、ということが垂要な
クを分けて考える必要があると思います。
うに、古典的なリスクとリスク社会のリス
ライシングの考えが出てきたと考えてよい
影響を与える。起こってはいけない理由
でなく、フルコストを計算すると実は非常
んが﹁自動車の社会的費用﹂で示されていま
と思います。でも、その理論が通用しなく
第三に、フルコストを考えていくと、プラ
にコストが高いということを、宇沢弘文さ
すが、あれはいい仕事であったと思います。
なってしまうのが、二○世紀後半のリスク
は、そのリスクは、なにより人間の生存の月
例えば、自動車保険であれば、事故が起
トダウンが原発六○年の歴史のなかで五回
おう、ということになるわけです。しかし帳
の確率がある。だからこそ、互いに助け合咽
なことになるわけで、そういうことはあっ釦
以上起きていることからも明らかですね。
三万年に一度﹂といわれると、自分はそう鴫
るべきではなどということを僕らが知っ
センティプがほぼなくなってしまうのです。
いう目には遭わないだろう、と人は思って”
しまう。そのとき、高い掛け金を出すインa
険というものを成り立たせている理念を考
を機能させるのは、困難です。それは、保
などという気分にさせておいて、なお保険
に対して適用可能なのです。人に﹁ほぼ起き
起きないけれども、ときどきは起きること・
題があります。保険というのは、頻繁には
それはそれで、保険になじまないという問
度﹂という推進派の数字を認めたとしても、
第二に、一○○歩譲って、三万年に一
する自動車保険と糖度が大きく違います。“
過去の事故の実証データにもとづいて算出
因だけを入れて計算しているわけですから、
それぞれ、計算する人が重要だと認めた要
しかない。シミュレーションというのは、
た、理論上のシミュレーションで計算する
めには、原子炉の素材や構造等をもとにし
がありません。だから、確率を計算するた
確率を計算するもとになる経験的なデータ
は、自動車駆故のようには起きませんから、
第三に、どちらにせよ大規模な原発事故
えればわかる。保険は、﹁自分にもそうい
リスク社会のリスクに対して、フルコス蕊
卜・プライシングが通用しない第四の理由燕
劇にみまわれるかもしれない﹂と思える程度
が、三生に一度くらいは自分もそういう悲
おっしゃったようにプライスレスというか、
端じゃないということです。見田さんも ︻
す。例えば、自動車事故は、たいていの人
をベースにした、一種の連帯のシステムで
うことが起きるかもしれない﹂という可能性
識を大幅に歪めるからです。
ているために、その規範的な意識が事実認
まうかといえば、﹁原発事故は本来は起き
どうしてこれほどまでに事実と誰離してし
きる確率は、自動車事故が過去にどういう
謹叫職測瀬や揺灘棚猟秘
社会のリスクだと思います。そのことは、
イシングできない部分が出てくる。例えば
放射能の生命や健康などに及ぼす危険や不
安などがそうです。そうすると、フルコス
ト︵恩とプライシング︵忍のあいだにギャッ
プが生じる。数式でいうと、弓。︲国ⅢE
です。この△霊分︶がプライシング不可能な
、実際恥原発塞畝厩側度か
起きていますが、理論上はほぼ起きないと
いう確率にならないと困るんですね。カン
トの倫理学に﹁汝はそれをなさなければな
らない。なさなければならない以上は、実
際にそれができるのだ﹂という論理がある
のですが、原発事故にも、それと似たよう
な論理が働く。﹁それは断じて起きてはな
らない。起きてはならない以上は起きな
いのだ﹂という論理ですね。僕らは、普通、
事実認識、事実判断がまずあって、それか
ら規範的判断が出てくると思いがちですが、
極端に誠い規範的判断は、事実判断を規定
するのです。大規模な原発事故は、あまり
に起きてはならないので、実際にほぼ起き
ない、という結論を出さざるを得ない。だ
から、かつて原発の推進派は原子炉でメル
トダウンが起こる確率は二万年に一度と
いっていたわけです。﹁二万年に一度﹂とい
うのは、たいていの人はほぼ起きないとい
う気分になるような︾致字なのです。しかし、
この確率が事実と合致しないことは、メル
とわかります。
条件にまで関わっているからです。例えば、秤
岩波折密、1974年
リスクを算出する際の理論的根拠を考える
準になる.自家用車は、その商品自体だけ
の他がいいかを検討する際の資源配分の基
車がいいか、オムニバスがいいか、鉄道、そ
る。つまり、交通手段として例えば自家用
すね。第二に資源配分の問題に寄与しう
宇沢弘文
うのは素哨らしいアイディアですが、リス
なのか︵き・フルコスト・プライシングとい
あり得ます。このとき保険金の受取人は誰
れば、﹁被害者は全人類です﹂ということも
あるいは、もっとも大規模な蕊故を想定す
りに被害が巨大すぎて値付けができない。
くらいかな﹂などという事態になり、あま
極論すると、一被害規模は日本列島一個分
原発を見て、どのくらい古いか、地震が起
原子炉を厳しく森定していく。例えば浜岡
半端なことはやりませんから、一つ一つの
を払うのがいいでしょう。保険会社は中途
ち国益に関係ない外国の保険会社に保険料
の保険を使うとよい。第三者機関、すなわ
備えてかける掛け捨ての保険があって、こ
ボンドと呼ばれる、大きな事故や災害等に
に教わった手法ですが、カタストロフィ・
ら、いい原発については、かろうじて営業
保険会社としては儲ける絶好の機会ですか
身が一銭も儲からないですから。つまり、
ことができる原発がなくなり、保険会社自
りに高額な掛け金にすると、それを支払う
ることはないでしょう。というのも、あま
ボンドを媒介にしても、原発が全部なくな
ただ、僕の考えでは、カタストロフィ.
原発はなくなっていく。
プライシングを機能させる方法で、劣悪な
浄紅悌険一媒アトーご↓
ク社会のリスクには一○○パーセントは対
きる危険性はどのくらいあるか、地震の揺
れでも見田さんがおっしゃるように、リス
大澱lただ、脚注的に付け加えるとそ
な保険料になる可能性もある。すると、耐
一個分です︵ぎ﹂などと、とんでもなく高額
広がった場合などを想定すると、﹁名古屋
社が波れてしまいますから.放射能被害が
そうしなければ、叩故が起きたとき保険会
か、克明に、厳しめに算出するはずです。
きたときに補償費用はどれくらいに遮する
ためには有効だと思います。
発問題に取り入れることは、原発を減らす
廃するには至らないですが、﹁情報化﹂を原
ことになってしまう。ですから、原発を全
しい柏崎原発はなんとか成り立つ、という
てくるはずです。すると、例えば比較的新
が成り立つくらいの金額の掛け金を要求し
なければ理解できないほど難解で複雑な金
えなくされていました。よほどの専門家で
︵金駐派生商邑のなかにうまく紛れ込んで見
“︾かあ﹃のに辛の易.はア〃一一
す。多分、僕は原発躯故もそうなると思う
げ付きが起きてしまうと用意がないわけで
は二万年後に備えればいい﹂と商を括って”
いたからです。二万年どころか一○年で無a
安全だとする理論にもとづいて、﹁税が社府
というのも、保険会社のほうも金融工学の岬
︽制憲錘勾一二ロ唾岬一一︽”圭一〆手1
応していくということが亜要だと思います。
を決めるのではなく︽それよりもつとベー
ど破綻しないはずのデリパティプをつくり
融工学の技術を駆使して、計算上はほとん
んですね。せっかく原発に商額の保険を
ただ、最終的には、フルコスト・プライ
シックな価値観の観点に遡って、原発を続
あげたのです。これは、コンピュータ上で
かけても、本当に事故が起きたら、保険
用年数を超えていたり、津波などの対策が
けるか続けないのかの判断をしなければな
シミュレートすると原子炉が二万年に一度
会社は﹁とても払いきれる額ではありませ
保険は、いま述べたように、例えば原発に
州にいいアイディアだと思います。現実に
しかメルトダウンを起こさないといわれて
ん。我が社は倒産します﹂と率先して倒産
シングしたところ高くて市場では通用しな
福島第一原発事故の災害補償は誰がするの
いたのと同じですね。だから、サププライ
すると思います。すると保険金でまかなう
充分でなかったり、地震多発地帯に建設さ
かということは大間題で、東篭であれば潰
ムローン付きのデリバティプも孫どころか
関していうと、次善の策として、原子炉に
れる可能性もありますし、政府であれば国
何十代先、アメリカがなくなっても焦げ付
つまり市場の価値観にまかせて原発の存否
の税金ですから、国民がみんなで負担する
はずだった被害補償がまったくできなくな
いという方法で原発をなくすのではなく、
ことになる。しかし保険をかけておけば、
かないから大丈夫と思って、みんな買った
り、大問題になると思います。だから原発
れたりしている原子炉は、あまりにも掛け
保険金が何兆円なⅧ十兆円かはわかりませ
わけです。しかし、リーマンショックが示
に保険をかけようのは、部分的には有効で
一つずつ、保険をかけることを法律化す
んが、どこかの金持ちの国からくるという
したことは、原発のリスクが計算できない
しょうが、結局は、機能しないようにも思
金が高くやっていけない、という話になる。
ことがあり得るわけですから、被災者とし
のと同じように、サププライムローンのリ
見田原発に保険をかけるというのは非
らないとは思います。
ては、少しは安心できるかもしれない。
います。
んですが、僕は、保険には懐疑的です︵笑︶。
はずだった保険会社がきちんと動いていれ
はじめたとき、理論上は、それを補償する
会に、東京砿力は、原則的にはすべての蛍 [
さらに、サププライムローンが焦げ付き
サププライムローン問題とのアナロジーで
ば誰も損しなかったはずです。もちろん保
産を補償に使うべきじゃないですか。東京
大源11lただ↑自分でいいだしておいてな
考えてみればいい。サププライムローンは
険会社だけは損しますが。しかし、保険会
被害補償に関していえば、今回の福島第稲
一原発事故については国も東京億力も明ら恥
スクも計算できなかった、ということです。
る。電力自由化を唱えている八田達夫さん
ク社会のリスクにも﹁情報化﹂である程度対
イントだと思います。
れに原子炉は耐えうるか、万が一郡故が起
署
応できないということがいちばん重要なポ
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放射性物質みたいなものです。・本当はリス
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「一一一一一一一
電力は補償にあてればよい。また、発電所
すべての資産を売却して得たお金を、東京
は政府が買い上げる。発電所を中心とする、
所自体を全部売ればいい。ただし原発だけ
と考えると、それは発電所です。その発電
電力にと︵一ていちばん重要な資産は何海
金によって補うにせよ、まずは、東電は、
かしなやり方です。足りない分を最後は税
力会社からの支援で補おうというのは、お
し、足りない分については電気代や他の電
ずれにせよ、瀧輩電力が余力を残し烹郷侭
分は税金で補填するしかないでしょう。い
まかなえるわけではありませんs残りの部
でしたが、危機に陥った.同じ時期にGM
テムが、最終的な破綻にまでは至りません唖
二○○八年ですね。つまり、世界金融シス蕊
されたサププライムローン問題が起きた㈹
薪蝿鱗講謹
を、発電鞭業に関心のある個人や法人に売
︵ゼネラルモーターズ︶の破綻がありました。そ
まずGMのほうから考えてみましょう。
の中身巻考える必要があります。
︵送電線以外の︶沓産をすべて売るべきです。
きっかけになります。僕は、電力の自由
化には、さまざまな利点があると思ってい
︾如曽の詔が出たが
り象徴であり、現実にも、世界両堀を牽引
が、まさに情報化/消費化社会の典型であ
GMは、﹁現代社会の理論﹄にも書きました
だけを残す。東京電力は、送電に特化した
﹃現代社会の理諭﹂が出版された一九九六年前
I
会社として残すわけです。こうすると、電
す。あの時代、GMが潰れるなんてほとん
してきたアメリカという中心的な国の、自
はまさに自己地拠的に利潤を生みだすシステ
どの人は考えたことがなかった。そのGM
動車産業の断然トップの企業だったわけで
買い取った会社は、発電用の職負が必要で
ムで、﹁悩報化﹂によって金磯無限空間湾つく
の破綻は、やはり情報化/消費化社会の一月
しはじめた時期でもあります。金融資本主義
すから、東電からそういう職員も買い取る
りだし、そこから利潤を生む手法です。これ
つの節目だといっていいでしょう。正確に昨
後は、グローバル金融資本市場が世界を席巻
ことになるし、東電は東電で、送電のため
以降、情報化/消費化社会はまた別の段階に
します。ついでにいっておけば、発電所を
の職員を必要としますから、このやり方は、
いうと、GMは自動車産業としては、二○躍
一ノ弄琶しは走一“し売謹伽しわ皿
商品となっていました。まさに、ご質問に昨
しど/含第次の高度垂融︲
釦皿奔恥幽毒鋤畔癖“魂殿埜涜細鉾錨渉”。掴
入ったという印象があります。愉報化/消愛
化社会のその後の展側について、見田さんは
です。実際、軽自動車が世界市場でものす
どのようにお考えでしょうか。
株式毒処分一異哩垂融りほへ垂琴出
ごく売れ始めました。明らかに、GMはグ
あがった。
すことによって収支をプラスにしていた。
ローバルな環境の限界や資源の限界に対応
しかし、二○○八年に一度破綻したGM
です。なぜ破裂したかというと、いちばん
ん膨らんで、それがパンツと破裂したわけ
のことですが、まさに風船のようにどんど
警冒はメキシコなどの日常語では風船a
例えば、サププライムローン問題に端を発
は、翌年、﹁トヨタ・プリウスの約四倍の燃
もとにあるアメリカの貧しい人びとの住宅
できなかった。
する世界金融危機で、日本のトヨタも相当
ハイブリッド車︵ワポレ1ボルト﹂︶を発売す
しなくなってくる。それどころか下落しは
費効率﹂という調い文句で、プラグイン式
かった。その理由はきわめて簡単で、トヨ
キ旦という触れ込みです。GMの経営者
じめた。当然貧しい人びとは返済に窮する
なダメージを受けましたが、GMやクライ
タは非術に早く、二○年、三○年前から環
自身が、自分たちが破綻した本質が環境問
ようになりますが、彼らが家計を食べてい
需要が飽和に達し、もはや住宅が値上がり
境対応を考えていたからです。一九九○年
題、資源問題にあったということを理解し
ると発表しました。これは﹁リッター九七
代には、二○○万円クラスのトヨタの大衆
くほうに振り分けるか、ローンの返済に充
で、石油をまき散らすようなことをしてい
は豪華車ですから、一リットル五キロほど
ンを組んで、住宅を持ったわけですね。こ
人びとが住宅の値上がりを前提どしてロー
サププライムローンとは、要するに食しい
なって、グローバルな破綻を引き起したわ軸
いう汗臭いまでのリアルな状況が破綻点と︾
い層の間の寒体的な住宅班悩や家一論支出と“
優先する。つまり、アメリカの都市の貧し
てるかと考えると、当然食べていくほうを
たわけです。
た。それでもGMは、金持ちが買ってくれ
のローン俵権が証券化され、ローンの返済
サププライムローン問題も同じ構造です。
れば利潤は上がると、路線を転換しなかっ
を前提に組み込んだ第二次金融商品ができ、
噸蛎剛識懸押蝿鵬縦側、[
さらにそれを組み込んだ第三次のものがで
き、世界中に販売され日本の証券会社も買
格が高騰しはじめ、また発展途上国の人び
とが自動車を買うようになると、リッター
た。ところが、二○○○年代に入り石油価
ロの燃擬を達成していました。一方、GM
車はすでに、一リットル一三キロ∼一八キ
スラーに比べると、遥かにダメージは少な
問題の限界に対応できなかったからです。
結論からいうと、グローバルな環境資源
なぜGMが破綻したのか,、
あった、グローバルな金融無限空間ができ鰐
もちろんこれだけで被害補償のすべてが
られると思う。
東電の現職員のリストラも簸小限におさえ
力自由化の前提になる、発送電分離も実現
ます。また、その際、東京砥力には送電線
|無限性の時代から布限性の時代へ
れば、結果的に、電力の自由化を推進する
鵠
│
も 、 〆
− P 甲
1−−
大沢其幸縄
「アキハパラ発一一
く00年f句への問い』
のテーマではないかと思います。他のとこ
里︿淵一翼逮寿蚕一躍描吻時症岬牽﹄
考えられていました。しかし、それが世界
から仕入れればいい、無限に膨張しうると
つては一国で環境資源が枯渇すると、他国
です。これはたんなる比聴ではなくて、か
いう、非備に面白い幾何学的な図形なわけ
あり、球は無限でありながら有限であると
有限でもある。実際、球の表面稜は有限で
てはありませんね。しかし、無限だけれど
へ行っても際限がない。地球上では地の果
ました。球はもっと完全な無限です。どこ
例えば古代ギリシャ人は無限を円で表わし
う意味です。球は幾何学的にも興味深く、
﹁グローバル﹂とはもともと﹁球形の﹂とい
です。
してきたシステムが破綻したという柵造
リアルな限界によって、グローバルに展開
、ら3J_グご匙.
るということです。球の無限性と有限性は
わば虚構の無限空間の有限性が明らかにな
うことがたちまち明らかになってくる。い
中に行き渡ってしまうと、有限であるとい
でも金持ちでもなく、﹁リァ充﹂と呼ばれる、蕪
大が憎しみの対象にしたのは、資本家階級い
あり、そこでも書かれていますが、加藤智
編集した﹁アキハパラ発﹂という優れた本が
秋莱原通り魔事件に関しては.大瀧さんが
︷
比聴でなく実際に地球上で起こっているわ
信じられないくらい多くの共鳴者が彼にい
友人が多く、恋人などもいて、生きること能
う構造が、大きな前提だと思います。無
たわけです。彼が派巡労働者であったこと
けです。つまり、長期的なスパンで現代社
限性の時代から有限性の時代へというモ
からその過酷な境遇に同備や共鳴する人び
のリアリティに満ちた毎日を送っている人
チーフは、﹁現代社会はどこに向かうか﹂と
とも多かったわけですが、大企業の正社風
たちでした。インターネットの世界では、
いう仕事で展開していますが奉柴節一巻閥巡.
や学生もいました。その彼が秋葉原で殺人
の時代から﹁有限性﹂の時代に反転するとい
﹁グローパリズム﹂ということの其の意味は
を犯すときに、トラックから降りて、わざ
会が向かう方向性を考える際に、﹁無限性﹂
そういうことであると思います。
わざ一人一人刃物で刺すわけです。トラッ
クだと動きにくかったということもあるで
かに賭けていたか。一人一人をトラックで月
しょうが、彼が殺すことのリアリティにい
踏みつぶすよりも、わざわざ追いかけて刺称
|
ン問題とGM破綻がありましたが、秋葉原
見田:’二○○八年は、サブブライムロー
すときに、肉体の抵抗感や血しぶきが跳ね鯉
人などが、いつのまにか現地に行って瓦喋恥
対生奉隆明山愛読老山訴一三坐李。1
稽牒淘緬霊緋灘謝唯淵獅
通り魔事件も同じ年に起きました。この事
件とGM破綻は一見関係がないように見え
ますが、構造的には同型だと思うのですね。
年末にも再放送され、翌年一月には﹁久米
マナ一四話皿E皿テの零組畦
組で日経産業地域研究所が刊行した﹃加代
加藤智大やリストカットの少女たちが求
をリアルに瞥いてきたりしています.a
繕
『20代若者の禰費災変」
日本経涜新聞
亜築地城研究所、
2008年
ボランティアの仕事などをツアーに組み込
があって、現地の人たちの役に立つような、
道されました。ただ、海外ツアーには例外
の﹁現代若者像﹂を反砿したような現実が報
ツアーに関心がない、という、それ以前
に関心がない、商級車に関心がない、海外
に、﹁正しい三代目﹂の世界が開かれるので
リティを充実する方向を見つけ出したとき
別の仕方で、青年たちが生きることのリア
分を傷つけたり他人を殺したりするのとは
ものであったかもしれないと思います。自
向かう青年たちが求めているものは、同じ
めているものと、ボランティア等の活動に
はないかと思います。
サププライムローン問題やGMの破綻に
テムというものがまさにリアリティの一点“
は、グローバルな虚構に虚椛を重ねたシス
のあとに実に多くの青年がボランティア活
から破綻する、あるいは、地球規模のリァ準
ルな資源や環境の限界によって破綻すると唯
ていますが、実際僕の周辺でも、およそボ
ランティアなどには行きそうもない人たち
lミラノとパリと蝋京を往復して先難的
なデザインの世界に生きている人とか、反
恥唖岬峠榊︾棉華︾︾八却睦乱酔評犀拙一[
動などに参加したことはすでによく知られ
二○二年三月二日の震災と原発事故
どから、同じような傾向を聞いています。
う。別のルートからも、旅行会社の知人な
むと、多くの若者たちが集まってくるとい
どをやっていて、充篭罪した日々であること”
ていいますが︵湿代日奉の愛の歴史’一八六八
若者の消費異変﹄という本が紹介されまし
灘
若者に異変が起きていることをレポートし
い、新ニッポン人﹂というテーマで現在の
座という番組が放送され、﹁お金を使わな
ペシャル〃新ニッポン人“現わる!﹂︵テレビ東
また、同じ二○○八年に﹃久米宏・経済ス
に感じられます。
内に向かって内抗した加藤智大であるよう
女たちであり、リストカットの少女たちは
は外に向かって暴発したリストカットの少
の感触はとてもよく似ています。加藤智大
リストカットをする少女たちと、加藤智大
︲二○一g、定本節四巻遍代日本の心愉の歴些所収︶、
岩波書店、2008年
た。それによると、鍛近の若者はブランド
の片付けの力仕乎や、避難所の炊き出しな”
1
宏のテレビってヤシはP隼︵TBS︶という番
'
.
’
八割¥霧
ろでもいったことなのでうんとはしょっ
’
”メ占いB凸圭
課吏寸室'
がある。サブプライムローン問題であれば、
端に豊かな部分と極端に貧困な部分の両面
があって、しかもそのリアリティには、極
くと、リアリティという一点に接する場面
きたこと全部が、ぎりぎりまで煮詰めてい
気づきましたが、二一世紀になってから起
と思います。見田さんに指摘されて改めて
アリティの諾と関連づけて感想を述べたい
大深111とても刺激を受ける話でした。リ
ていると思います。
に一つの時代の曲がり角である兆候が見え
のすごく飢えるわけです。﹃アキハパラ発﹂
ができず、だからこそ、リアルな充実にも
しょうか、リアルな貧困にしか接すること
﹁リア充﹂ではない。了ア含曇とでもいいま
かし、いくらリアルな労働に接していても、
ローンの労働者以下の労働をしている。し
けではありません。それこそサププライム
場にいて、バーチャルな仕事をしているわ
する仕事という、まさにリアルな労働の現
す。加藤智大は車の塗装状況を目視で点検
リアルなものに接する場面の両極を感じま
るがす。
か︺瞬間一華一爆発要穿奉主義ま
マーで殴っていた。普通殺すときには、相
こちらに向けてくださとといって、ハン
被害者の女の子に、﹁︵お礼をいいたいので︶顔を
てみるところにリアルを求めていた。彼は、
鬼蓄蔽事件です。彼も、殺してみる、殴っ
この点で思い出したのが、一九九七年酒
望を感じてしまいます。
応があるのではないか。そんな狂おしい願
さすがに身体を刺すところまでいけば、反
びかけてみても応答はなかったけれども、趣
行って、人を刺してみる。﹁ただいま﹂と呼郵
には彼はリアルを感じるために秋葉原まで帥
がなく、たまに反応があっても︵、ツシング
一彼砂投稿声一切にはほ煙反応
を新てやっていることの根幹は、肉体労働
資銀行や証券会社などでエリートがスーツ
アリティに究極的には行き着く.つまり投
れど誰もいってくれない。しょうがないか
かえり﹂といってくれるのを待っているけ
るけれども、﹁ただいま﹂といいたい。﹁お
帰ってきて、誰もいないことはわかってい
川柳のようなものがあります。アパートに
二○○/竿陰萎一度は一の姿本主義目1
て見て殺していた。そこにリアルの瞬間を月
さくするものですが、彼は相手の顔をあえ
云
金融テクニックというバーチャルな話であ
にも掲載しましたが、﹁ただいまと誰もい
手の顔を隠して、殺す実感をできるだけ小
者に支えられているという現実ですね。い
らバーチャルな空間で充実を求めるけれど
体が危ないのではないかという意識が広が唯
を受けて充実とはほど遠い。そこで最終的
りながら、その最初と最後に肉体労働など
ない部屋に言ってみる﹂という彼が書いた
かに資本主義が洗練されてきても、その根
同時f便而感︽︽︽誇一応援一斑
また、特に秋葉原通り魔事件の場合は、
り、﹁もうお金を払えない﹂という切実なリ
に従事している貧しい人びとの存在があ
幹部分で克服できていない貧困や資源問題
ていることからくる高揚も伝わってきま
そこにはともにリァリティの極端な貧困さ
ティだというところまで行ってしまった。
殺すことだけが唯一の充実感のあるリアリ
は同じ世代に属している。そして二人とも、
ルなものが揺らぎ、はじけていく事態があ
題があって、そこが起点になってバーチャ
も、バーチャルな空間の根幹にリアルな問
妙なあわいが出てきている。いずれにして
す。リアルの充実とそうでないものとの微
最後の支えに国家があると感じられたわけ
な状況なのですが、とにかく、章本主義の
的に救済するという、とてもアイロニカル
家が公的資金を投入すればなんとかなると”
思われてもいた。章本主義を国家社会主義a
りました。ただ当時は、いざとなったら国鰐
型昭郵漣繊錐搬雛純購燕
蝿蝿壁鞭趣椎帥う詫挫侭け許種嘩癖鵬和ヤ
蕎蔽は年齢的0蛙子同畢一三〃
と、だからこそリアリティに究極の充実を
らゆる局面で生じていることを改めて思い
3.u以降、僕が亜要だと思っているの
です。ところが現在、ギリシャの国債︵ソプ
プリン危機で、国家自体が破綻したらどう
リン債︶の大暴落からはじまったいわゆるソ
ました。
求めるという二亜性があるんですね。
は、原発労働者の問題です。そこでは日本
国内における南北問題が露骨に現れている。
明らかな搾取がなされていて、いちばん貧
がおっしゃった3・皿のボランティアの仕
アルに変わることもある。先ほど見田さん
で、状況によってはそれがポジティブなリ
です。二○○一年の9.uテロをきっかけ
成長しなければならないシステムだから
た空間が生みだされたのは、資本主義が
ローバルな金融無限空間ですが、こうし
夫深グー〃の蚊一一のか〃
いるのではないか。
もおしまい、というところに来ようとして鍬
にまで及ぶと、いよいよ成長するシステム
さらに拡大して、これが先進国の財政破綻
込んだ経済危機になっている。この危機が
シャが財政破綻するかどうかで欧州を巻き
するの?.という問題が出てきた。ギリ
事は、通常であれば若者が自らやりたい仕
に、政治的理念としての自由︲民主主義が
困で悲惨なリアルが垣間見える。でも他方
事ではなく、むしろ秋葉原で人を殺したく
万能ではないのではないかという疑問が数
何人もいますが、彼らの肉声からは空しさ
では、決死の覚悟で現場で働いている人が
やそんなところがあります。福島第一原発
夫、という前提は崩れなかった。それが、
としての成長する資本主義については大丈
多く出てきました。しかし、経済システム
を買っているからです。しかし、これはと
パのユーロもダメだと判断し、こぞって円
︹
例えば、現在は異常な円高です。世界中嘘
ときには充実感が得られる。原発労働もや
なるような労働ともいえますが、こういう
「ー一一一一一
干、みんなが密かに期待しているのは中国
一つもないということを窓味している。若
中するということは、顔りになるところは
いちばん多い。そんな国の通貨に買いが集
GNP比︶は世界最高、つまり借金が世界で
なくても、二○一○年の政府債務残高︵対
有の大災害に襲われた直後ですし、そうで
で優等生ではない。むしろ、逆です。未曾
んでもない逆脱です一﹂なぜなら円はそこま
えば、経済成長率がゼロだったとする。江
不安定になり、破綻するシステムです。例
結果を残す変化が絶えず生じていないと、
しかし、責本主義だけは、経済成長という
会が不安定なり、秩序が崩壊するときです。
状態にある。大きな変化があるときは、社
安定した秩序があるときには、社会は定常
われますが、日本に限らず、伝統社会は、
代について、ゼロ成長社会だったことがい
ことを意味していたわけです負よく江戸時
とで、それこそ、﹁革命﹂という主題につな
超える社会システムへの構想力が必要なこ
題が出てきましたが、それは、章本主義を
初のほうで、成長神話からの脱出という話
いうのは、萱本主義の逆説の一つです。最
化し↑成長している限りでのみ安定すると
や破綻することは確実だが、一瞬だけ儲け
いずれ日本も破綻するかもしれないが、い
は日本が救ってくれるとは思っていない。
を買っているからといって、誰も、最後に
本は、いま、それに近い状況にあるわけで
政権も倒れるに違いありません。現に、日
る企業や失業者がたくさん出るでしょう。
いへんな不況だということになり、倒産す
下で、経済成長率がゼロということは、た
これでOKなのです。しかし、資本主義の
戸時代だったら、去年と同じなのですから、
理想と現実、夢と現実、虚構と現実という
ほぼ一五年ごとに時代を区分したもので、
実﹂という言葉の対義語によって戦後から
ですか、とよくきかれます。これは、﹁現
あったためか、虚構の時代の次は何の時代
︵定本第六巻所収︶という文章を書いたことが
見田lかって一夢の時代と塵総の時代﹂
一.虚構﹂の時代
がってくることです。
ですが、中国はアメリカ経済があってこそ
ておこう、という投機的な意図から円商に
三つの時代があります。一九四五年∼六○月
成立している経済です。しかも、いまは円
なっている。こうした状況の全体が、成長
す。章本主義は、成長し続けない限り、職
の対語でいえば、一九九○年以降は﹁バー
ここで先ほどの答えをいうと、﹁現実﹂と
評言◎畠2喜色一を生みだします。擬制資本
いう虚構の空間に言及しましたが、これは
ライムローン問題の際に、金融無限空間と
ね。これは世界においても同様で、サププ
わ一一虚椛﹂の時代.E唖需わけ一一
ち返っていうと、﹁虚構﹂の時代というのは、
にならざるを得ない。理詰的に根本まで立
なのではないか。
とすると、必然的にならざるを得ない形態
高慶成長の欲望の胃厨胃g8で強行しよう
とバーチャルには少し違いがあり、虚椛と
戻ると、現代は第Ⅱ局而から第Ⅲ局面へと
でしょうか。図lのロジスティクス曲線に
では、なぜ﹁虚構﹂の時代が続いているの
に泡、バブルです。高度経済成長期が終
引いているのに波だけが残っている、まさ
バーンと来たように見えましたが、実体は
だと思います。日本は一九八○年代に波が
はなくて、︵蕊鷺六巻2解浬に詳しく瞥いたので
との区切りに本質的な意味があるわけで
性格づけたわけ で す 。 し か し 、 一 五 年 ご
ら振り返って戦後四五年間を一五年ごとに
評昌o匡いな金融操作をするしかない。何正
掻きたて、罰R言。肩なものをつくりだし、
長を強行するためには、評目◎肩な欲望を
くなったあとで、無理矢理名目上の経済成
マーケットで考えても、リアルな需要がな
九五年にオウム事件が起きて、オウム那件
の時代区分から藩想を得ています。一九
大謡’一虚徽の時代の果て﹂は見圃さん
下された金楓も雌北て、収益を生む元本として﹁資本﹂と
して計算される架空漬本。
0
を求めた時代。一九六○年∼七三、四年あ鞄
0
しなければいけないシステムである華草本主
る貧困な層をたくさん出してしまう。成長
蕊蕊搾網淡騨霊慈
年までが﹁理想﹂の時代で、人びとが﹁理想﹂樺
考えてみると、前近代の社会、近代より
は、破綻してしまうのが萱本主義です。変
率がゼロで、昨年からの変化がないときに
をもたなかったり低賃金で搾取されたりす
前に人間がつくった社会は、すべて、安定
チャル﹂の時代です。実は、一九九○年代
と訳されていますが、原語では虚構の資本
世界的にいっても高度経済成長期というも
いうと、嘘の一三アンスが強い感じがあり
移る過渡期だとお話ししました。環境資源
わったあとの、美しい波しぶきがいわば
柵﹂の時代です。
初頭、バーチャルという言葉が非常に流行
です。つまり、世界的にも﹁虚柵﹂の時代が
のが終わったあとの波しぶきみたいなもの
ますが、バーチャルには開き直った感じが
問題で、すでに現実には限界に達している
﹁虚構﹂の時代なのではないかと思うのです.
高度経済成長を無理に続けると、バブル
りました。バーチャル︵仮想︶とは、ある秘
ずっと統いているわけです。
あります。
と、虚構にならざるを得ないのではないか。
にも関わらず、成長を強行しようとする
すが︶並要なのは、プレ商度経済成長期、高
にも秤量。居なものに頼らざるを得ない。
とは﹁虚柵﹂の時代に含まれます。ただ虚柵
最初に﹁夢の時代と虚構の時代﹂を書いた
度経済成長期、ポスト高度経済成長期とい
それは、高度成長の時代が終わった局面に、
6土地や金艦侭の﹁時価﹂のように、元々資本として投
うことです。ですから、高度経済成長が終
リアん
のは一九九○年で、つまり、一九九○年か
5
の雌柵ですね。だから﹁バーチャル﹂の時代
幸烹4三年九○年均しま︽壁虚
し、秩序があるということは、変化がない
義の困難を物語っていると思います。
可能遡る菰命(4)「−弱
茜すう町鮒敷愚賊命")
atプラス10号2011年11
一
起きていて、それを僕の場合は﹁不可能性﹂
達して、それがある秘裏返すという状況が
有効でした。﹁虚栂﹂の時代がリミットまで
を理解する際のフォーマットとして非循に
自然災害との遭遇、こうしたものが、すべ
出した、津波というカタストロフィツクな
たこと、そしてさらにこうした事実を暴き
発の労働者が日々、その危険に接触してい
の危険があること、蛎故などなくても、原
る疑問は、もうこれ以上成長はしなくてい”
いにしても、農業などの必要な食料物資の
会ですね。しかし、そのときにすぐに生じ評
的で安定平衡している、いわば、素敵な社伽
岬峠撰継瀞州如糊猟確紳、房
の時代と呼んだのですが。そのときに念頭
てリアルなものです。
生産などはどうするのか?みんなが﹁三
代目﹂になってしまったら、そうした生産
てしまう。秋葉原通り脆班件でトラックか
とが出てきた。しかもそれが異様な形で出
が、逆に現実に向かって逃避したがる人び
奪を少ないものにする︿澗撹社会﹀を構想する
社会ではなく、自然の収奪と他社会からの収
なかで、生産を自己目的とす⑰産粟主義的な
なります。見田さんは、﹃現代社会の理論﹄の
る程度豊かな現代社会で必要な労働時間
スの社会学者が一九八○年代半ばに、あ
一つは、アンドレ・ゴルッというフラン
になります。
そう思いますね。それに対する答えは二重
一一
にあったのは、先ほども言及された﹁リァ
充﹂へのあこがれです。虚柵にどんどん深
入りした結果、気がついたら逆にリアルな
ものに対するあこがれが膨れあがる。普通
ら降りて人を刺すというのはまさにその典
とおっしゃっています。これについてお話を
を算出しています言ルッ室コロジー共働体への
に従事する人がいなくなるのではないか,.
型で、最悪の出方ですね。
伺いたいと思います。また、この︿消費社会﹀
いえば、現在のわれわれは週に一○時間働刈
構国痔構と人凹一九八五年一旦Ⅸ幕︶。結論から
一一1
考えてみると、今回の福考島第一原発事故
での︿労働﹀はどのようなものに変愛するので
は僕らは﹁現実からの逃避﹂を問題視します
も、リアルが露出することで、虚描が破壊
しょうか。
けぱいい。週に一○時間ということは、ゴ稗
されたということですね。そのため、﹁安
無駄な労働が圧倒的に多いからです。例え
では、なぜ一○時間でいいのか“それは
われわれの身体をダイレクトに侵す放射能
虚構性を自覚しました。安全神話の背後に、
らも明らかなように、いまでは、皆、その
面白いと思います。困難な作業ですが、不
現在の高度な情報技術を使って計算したら
︾具懸鶴は分か群一一一僕は
先に述べたことの確認になりますが、例え
なったあとのあるべき社会という意味です。
見田l︿消費社会﹀というの睦豊かに
るかもしれない。ただそういう仕事を数え
す。もちろん、誰もやりたくない仕躯もあ
仕事は、やりたい人がやると埋まるんで
働の一端を担︵一てしまう︵笑︶“ほとんどの
ルッは、週五日で二時間ずつといっていて、唖
ば戦争に備えた防衛や訓練。アメリカをは
倉可能ではない。それができればノーベル賞
全神賭﹂は、﹁神話﹂と呼ばれていることか
じめ膨大な防衛費が投じられ、それに関わ
級の経済学になるかもしれません。
労働愚を出して健康な労働人口で割り算す
当に人びとが食べて生きていくのに必要な
限でいい。そういうものを全部除いて、本
に儲けることを考えなければ、労働も最小
持する労働も必要ではない。各会社も過剰
をつくるために金融の複雑なシステムを維
すし、それこそバーチャルな金融無限空間
饗を結ぶ流通過程にも多くの無駄がありま
を送ったところで、結局退屈になってしま
ていたそうです。一六日間釣り三昧の生活
しているのを尻目に、好きな釣りばかりし
ものかといって、入会し、みんなが仕事を
を聞いたある人が、そんなうまい話がある
く、ということで成り立っています。それ
出版もしていますが、働きたい人だけが働
は労働が強制されない。農業や牧畜、本の
もう一つは、ある共同体の話で、そこで
こそ素敵な三代目の生活だと思います。
アートと文学と愛憎と友悩に生きる。これ
間はやりたい必要労働をする。そのうえで、
事を分けもてばいい計算です。あとの九時
あれば、みんなが週一時間ずつそうした仕
ゴルッがいうところの、週一○時間労働で
もっても一○パーセントです。アンドレ・
ントくらいではないでしょうか。多く見職
r一一一一一一一
atプラス10号2011年11
輔頓統懸崖輿鴻調くぼうゃ
る労働鐘は莫大です。あるいは、生産と消
出しても、社会的必要労働の内の五パーセ
ると、週一○時間という計算になる。その
い、仕事をしたくなったらしい︵笑︶。やは
ては非常に不本意ながら、社会的必要労
から誰かに分けてあげるとすると、彼とし
れるようになって、一人では食べきれない
れば自然にうまくなる。魚もある程度は釣
釣りばかりしていたとしても、毎日してい
すね。それにこれは冗麟ですが、仮に彼が
計算が正しいかどうかについては無数の議
ちくま学芸文廊、20”年
り、仕事には面白い面があるということで
繍
蔦
1
,
の
蝶
て
」
給があるでしょう。どんな項目を入れるか
|︾一
一一一
一一︾
哨凸TZd●
トの人によって所有されているとか、社会
ば、八○パーセントの土地が二○パーセン
が貫かれている、というわけです。例え
いるなところで領域で帥/釦の比率
業が成り立っていることと同じですね︵笑︶。
ない本が八○パーセントあるために出版産
本は二○パーセントしかないけれど、いら
するにゴミがゴミ同士で支え合う。必要な
のゴミのような仕蛎があるからで⋮⋮。要
た書.そのゴミのような仕事があるのも.別
でしょうね。まして、失業している人は、蝿
とされているという実感が持てなかったん錘
から。しかし、おそらく彼は、自分が必要帥
るとクレームがつき、返品されるわけです
そのチェックがなければ、塗料が剥げてい
あ勾車︸毎発ダ手訂孟劉は重亜育喋票一
すが。しかし、それは、悲しい現実ですね。
になってしまうのではないかと思っていま
本当に必要な労働は一○パーセントくらい
と、二○パーセントでもまだ多くて、実は
ているということです。僕は正直にいう
パーセントの労働者は必要でない仕事をし
とになります。いいかえると、残りの八○
二○パーセントの人が担っているというこ
八○パーセントの労働は、実際の労働者の
す。この法則からすると、社会的に必要な
の人の意志で決まっているといった法則で
感じてしまうことが糖神的に辛いという問
ない﹂と社会的に宣告を受けているように
きないという問題と同時に、﹁お前はいら
ティの支えになっている.失業には生活で
が人間にとってかなり重要なアイデンティ
分の労働は必要とされている、ということ
わってくると思いますが、過渡的には、自
テムができた暁には、人生の生き甲斐も変
いう問題にもなります。本当に優れたシス
に何十時間も働いているのに何なんだ﹂と
すむことは朗報でもありますが、﹁俺は週
また、必要労働時間かわずか一○時間で
ぱ、それがまた自分のよろこびになるとい畔
に人のよろこびにつながっていると思えれ月
仕事の内容に関わらず、それがストレート
してくれる被災者の人びとがいたからです。
﹁ありがとうございます﹂と涙を流して感謝
ごく楽しかった﹂というのは、そのときに
﹁ヘドロをずっと揃除していただけでもす
智大の仕事とあまり変わらないのですが、
アだって、仕事の内容だけ見れば、加藤
と、他者の反応です。3.皿のボランティ
房
的決定の八○パーセントが二○パーセント
ほとんどの人の仕事がいらないといわれる
題があります。秋葉原通り魔事件の加藤智
人が何によってリアルを感じるかという
充﹂ではない、ということだと思います。
もっとそう感じるでしょう。それが﹁リァ
のうちに必要なものは一○か二○しかなく
わけですから。一○○集まったけれど、そ
俺瞥一番のa L b ﹃ s 一 二 〃 こ ず 別 の
別のゴミのような仕事があるからです。ま
なぜゴミのような仕事があるのかというと、
て、残りは本当はゴミでしかない。では、
ても、止めたほうがいいと思うのはそこで
た僕は仮に安全な原発かつ℃れた巳し
て、何十台か何百台かに一台、塗り残しの
す。彼は、車の塗料が剥げてないか目視し
大の仕事も客観的に見れば必要な労働で
かけをなさいました。これは、ロジスティク蝿
たちがとらえることが可能なのかという問い岬
う、そういう柵造ですね。
尭遥霊雲窪掘
いい方をすれば、バーチャルな仕事を支え
いるときでさえも、誰かがほぼ生きるか死
す。原発というのは、仮に順澗に稼働して
U﹄起諦一一︸和也1
るための別のバーチャルな仕事になってい
0
2
て、生きることの意味がどこにあるのかが、
が、根本的に間違っていて、不要なのでは
l不要にしてしまうようなシステム自体
セントのものをlつまりは大半のものを
成り立っているようなシステム、八○パー
どうでしょうか。つまり、帥/釦の法則が
たせているシステム自体に適用してみたら
法則を、自己言及的に、その法則を成り立
わからなくなっている。しかし、“/mの
原発労働ほど必要な労働もなかったといえ
依存するシステムを前提にしてしまえば、
からでしょう。逆に、現在の原発の電気に
しまったら、それを引き受ける人がいない
分に伝えないのは、危険についてわかって
原発の労働者に、労働の危険を正確に、充
やらせなくては成り立たないのが原発です。
け手がいなくても、誰かにこういうことを
ぬかの仕事をしなければならない。引き受
発の場合は、廃炉まで何十年もかかり、さ
孫ならまだ想像力は及びますが、例えば原
なっています。未来でも、自分の子どもや
的にいうと、未来の他者を搾取する構造に
大津⋮⋮⋮・原発問題も環境・資源問題も結論
らっしゃることをお聞かせください。
大源さんがその点について現時点で考えてい
めにも私たちに必要な感受性だと思います。
らに放射性物質の最終的な廃棄まで考える
と、﹁いちばん困るのは一万年後の人です﹂
一”
さんの椛想される︿浦費社会﹀を現実化するたa
ないか。そのシステムこそが、実は、必要
ます。
ス曲線の節Ⅲの局面への移行、あるいは見田”
でない八○パーセント︵大部分︶に入っている
のではないかと、考え直していくことが堕
見田⋮⋮⋮まさに不必要なものを支えるため
ということにもなりかねません。この未来
する。
ことができない状鰹を、﹁パレート効率的﹂であると我現
用︵満足皮︶を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高める
会状態︵査源配分︶を避択するとき、集団内の誰かの効
に必要な労働ですね。
!i大禅さんは弊誌述峨第二回︵舵号︶の鎧
後で、いまだに生まれていない未来の他者と
可龍なろ莱命〔.:
要なのではないかと思います。
3.皿以降、福島第一原発という巨大な
ゴミのために、過酷な仕事をさせられてい
る人びとがいます。時こ初期設階では内部
被曝状況も知らされずに、まさにゴミとし
て扱われているというか、放射性物質と同
じくらいの重要度しか与えられていなかっ
L一一一一一一
どうやったら撒築できるのか、それが僕の
の問題として深刻に受け止めるロジックは
やって問題を脱ぐのか唾未来の問題を現在
のなかに摂っている近代的時間を形成する、伽
間意識が般終的に、われわれがいまでもそ
意識が生じてくる。そのヘプライズムの時
末の関係一現在毒見︾し﹂し︽時間
[
問題意識です。
い問題をいちばん近くの問題として実感し
をあえてもじっていいますと、いちばん遠
見田さんがおっしゃったヘーゲルの言葉
めばよいのかということを、考えなければ
の問題をどのように私たちの現在に組み込
時澗を成り立たせた一つの契機として、旧
どのようにして形成されてきたのか。その
可逆的に流れる、無限の時間という意識が
つまり、過去から現在、そして未来へと不
社会学的に解明した本です。近代的時間、
理でつくられてきたかということを、比較
ります。これは、近代的時間がどういう諺
で追いつめていったときに、未来を現在の
ロギーになっていきますが、それを極限ま
は、まさに成長社会を支える給理やイデオ
近代的時間というのは、そのままの形で
さにその通りだと思うんですが︵琴。ただ、
おっしゃっているのがわかります。僕もま
く、見田さんは近代的時間はけしからんと、
値判断抜きで書いてありますが、何とな
崎州
なければいけない。遠い問題は、理論上は
約聖誓から新約聖書へと、つまりユダヤ教
うちに体験する論理として使えないだろう
きわめて重要な契機︵のろ︶となっています。蔀
思考できますが、深刻な実践的問題になら
からキリスト教へと受け渡されていくプロ
かと、思ったんですよ。先に述べた、近代
見田さんの主著の一つに其木悠介名義で
ないことが多々あります。特に原発の場合、
セスのなかで出てくる、黙示録的、終末論
いう理念をもっているように、使いように月
社会がポテンシャルとして、自由と平等と
この本は客観的な社会学研究なので価耐
一万年後といわれると、いま生きている人
的な時間が扱われています。緩い意味での
書かれた﹁時間の比較社会学﹂という本があ
は一人も関係ないということです。普通、
ていの終末は、終末即開始なので、円環す
終末論は世界中どこでもありますが、たい
て絶対困らない状態にいる人たちに、どう
に訴える説得法です。しかし、雛一人とし
のです。これは、互酬性というか、相互性
一熟讐か世の画に浸透.なし社言蚕動か
の終わりになっている。だから、未来の終
だけは、直線上になっていて、奥の意味で
る。しかし、ユダヤ人たちがつくった終末
色にはならす急山一神の国にごこわしb︲
と関係があります。
あるんじゃないかという問題提起も、これ碗
よってはポジティブなモメントが近代には秤
ならないと思ったんです。
﹁お前が困るぞ﹂といえれば、いちばん早い
人に何かをやらせるように説得するときは、
w時間窓識山守垂卜何章ざ︸〃二哩而
が生じるのです.だから、イエスの言葉は蝿
社会に変えなければいけない、という義務峠
による福音譜﹂のなかでは智かれています。
めよ。神の国は近づいた﹂だったとマタイ
イエスが発した最初の福音は、﹁悔い改
﹁未来に危険なことがあるから、止めよう﹂
訴えは、人にどこか余裕をつくるからです。
めよ。神の国は近づいた﹂というタイプの
者のことを、現在のなかで僕らが生き生き
境・資源問題が必然的に巻き込む未来の他
このイエスのロジックは、原発間巡、醗
当時インパクトがあり、少なくとも、ある”
秘の社会変革につながったのだと思います。a
近代的時間の起源となったヘプライズム癖
はないのか、使えるものがないかと考えた
で、人はそう簡単には動かない。﹁悔い改
さないのです。本当に原発事故が起きるま
ところが、最近の研究では、これはイエス
ことになってしまって、リアルな問題とし
というと、﹁危険はいまではなど、という
と感じ取りながら、社会の構築の論理に含
ときに、気づいたことがありました。
の独創的なアイディアではなくて、当時ユ
て考えられないのですね。
際、イエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネも
との一つだったことがわかっています。実
というプラトニックな意味ではありません。
ヵ唱言描音書︶と。これは、心のなかにある
たんです。﹁神の国は汝らの中に在る﹂元
それに対して、イエスは別のことをいつ
のテーマに戻れば、革命といっても、かっ
たものはまだ一つもないと思います。今日
哲学や倫理観がありますが、それに成功し
考になるかもしれません。さまざまな社会
んでいくか、ということを考えるうえで参
ダヤ教の預言者たちみんながいっていたこ
このメッセージを伝えていました。しかし、
当時のアラム語の﹁汝らの中にある﹂という
際、3・皿が起きる前から原発は危ないと
耶故は起きてしまったということです。実
命、反原発の声はあげたものの、結局原発
と、﹁原発は怖いぞ、悔い改めよ﹂と一所懸
には無視されて し ま っ た 。 比 職 的 に い う
の人はついて き ま し た が 、 ほ と ん ど の 人
ものになります。なぜなら、神の国はすで
ですから、人びとの反応はもっと鬼気迫る
と、神の国は実現されてしまっているわけ
というメッセージになるのです。こうなる
つまり、汝らは神の国の内側に入っている、
のは、汝らの手の届く範囲にもう来ている、
だと思います。
来の他者を現在に生かしていくことが必要誠
だと思います。それを考えるうえでも、未癌
体が変わってしまった、という形での革命“
を重ねて、気がついてみると社会の体質全
てのような暴力革命ではなく、小さな変革
うち
いくら洗礼者ヨハネがそう伝えても、一部
いうことは、ョハネのように何人かの人が
に実現されたから、よかったな、というこ
︹
伝えていました。しかし、そういう預言は
1
重職規嬢’
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方
(1
2011
特集
一うぐ二−画と工冒口系ぞI
四画
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