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1950∼1973年 - TeaPot

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1950∼1973年 - TeaPot
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戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって : 1950∼1973年『主
婦の友』の口絵/グラフを中心に
坂本, 佳鶴恵
お茶の水女子大学人文科学研究
2015-03-31
http://hdl.handle.net/10083/57327
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Departmental Bulletin Paper
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人文科学研究 No.11, pp.87ー97
March 2015
戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって
――1950∼1973年『主婦の友』の口絵/グラフを中心に――
坂 本 佳鶴恵
Ⅰ 戦後の皇室と女性雑誌
戦後のビジュアル・イメージを含んだ報道の分析として、その社会的影響力の大きさのゆえに、繰り返
し注目を集めてきたテーマに週刊誌を中心とした皇室報道がある。松下圭一は、「平民」との「恋愛」に
よる結婚という皇太子妃ニュースが、皇室に無関心でありえた若い世代をブームに巻き込み、新憲法下の
大衆社会状況に適合的な天皇制をつくりだしたとしている(松下1959→1994)。井上輝子は、皇太子の婚
約から成婚をへて浩宮誕生にいたるマスコミ報道が「恋愛結婚イデオロギーをいわば正の側面から補強す
る機能を果たし」マイホーム主義につながっていったとその社会的影響を論じている(井上1980:46)。
吉見俊哉は、松下の「大衆天皇制」論を踏まえて、戦後の皇室が「スター」としてまなざされる存在となっ
たことを強調し、1958年の創刊から1975年までの『女性自身』の皇室記事を分析して、美智子妃のファッ
ションへの注目、美智子妃と子どもたちの母子関係への焦点化、スナップショット写真化、美智子妃を中
心とした女性皇族をめぐる皇室イメージの組織化を指摘している(吉見1996)
。
石田あゆうは、週刊誌を中心に1958年11月の婚約発表から「ご成婚」までの 4 ヵ月の「ミッチーブーム」
を分析し、本人の服装や「ご成婚」にあやかったドレスがメディアによって流布し流行したことをその特
徴として指摘し、むしろその後も続く女性週刊誌をはじめとする戦後メディアの「皇室ファッション」批
評こそが、皇室への無関心を回避し戦後の象徴天皇制を支えてきたとする(石田2002)。
『週刊新潮』1956年、『週刊明星』1958年、『週刊文春』1959年など、1950年代末は週刊誌の創刊が非常
に多かった時期であり、皇室報道はこれらの週刊誌においてトップニュースとなった。また『週刊女性』
1957年、『女性自身』1958年と、1950年代末から都市部を中心に増加してきた OL 層を対象として若年女
性向けに女性週刊誌が創刊され、皇室報道によってその部数を伸ばした。特に『女性自身』は「皇室自身」
とも呼ばれたほど皇室報道によって有名であった。戦後の皇室報道の分析は、こうした週刊誌、特に若い
世代を対象とした女性週刊誌を中心になされてきた。
しかし1950∼1970年代は、月刊婦人雑誌が戦後からほぼ30年にわたり大きな人気を博していた、いわ
ゆる「四大婦人誌時代」(塩澤1994)でもあり、1970年には合計で278万部を超えていた(岡1981)
。これ
らの婦人雑誌は、女性週刊誌より高い年齢層も対象として広く読まれ、なかでも『主婦の友』
『婦人倶楽部』
は戦前から全国的に読まれていた。しかし、その皇室報道についてはそれほど研究されているわけではな
い。本稿では、
『主婦の友』を分析対象にして、地方や中高年を含んだより広い読者層へのイメージ形成と、
戦前との比較をおこないたい。
― 87 ―
本稿では『主婦の友』の、1950年から1970年代初めまでの口絵/グラフの人物写真・絵に注目する。口
絵/グラフの人物写真・絵は、その人物の地位・社会関係が明示され、そのときにどのような社会関係に
ある人物が、女性雑誌および読者にとって視覚的に重要であったかを知る大きな手がかりとなる。印刷コ
ストなどの制約で写真がまだ多くの頁に載せられなかった時代、写真や色刷りの絵などの頁は、視覚的効
果を発揮し読者の目を惹きつけるよう、雑誌の最初の数頁に「口絵」として集約されていた。口絵は、戦
後も戦前に引き続き、カラー写真が雑誌全体にふんだんに使われるようになる以前、1970年代前半くらい
までは「グラフ」と名称を変えながら存在し、写真記事を特別な存在として強調していた。こうした口絵
/グラフに注目することによって、数ある報道のなかで、何が特に視覚的に強調されたのかを検討したい。
Ⅱ 分析対象
戦後の『主婦の友』は、1945年はまだ頁数も少なく、1950年くらいまでは印刷にかなりの制約があった。
出版に対する用紙統制が全面的に解除されるのは1951年である。1948年 9 月には戦後最初の別冊付録が
つき、用紙の削減によって1943年 6 月から廃止となっていた裏表紙の広告が、用紙の供給が十分になって
きた1950年 4 月から復活した(主婦の友社1967)。なお、1953年にアメリカ軍に接収されていた主婦の友
社新館が返還され、誌名も『主婦之友』から『主婦の友』に変更された。
口絵をみると、1946年はまだ写真はなく、47年は口絵がグラビア 1 枚のみという状態である。1949年
の11月頃から「口絵」として 5 タイトルが掲載されるようになりほぼ戦前の形式が復活している。50年
には「豪華口絵」として強調され、その後「美しく明るい口絵と写真集」「美しい口絵と写真集」「美麗口
絵大画報」と名称を変えていった。1953年 8 月には「口絵と写真の豪華大画報」となったが、1956年 3
月に「口絵と写真の豪華グラフ」となり、「画報」に代えてはじめて「グラフ」という言葉が使用された。
その後「写真グラフ」
「絵と写真のグラフ」からたんなる「グラフ」に変わり、「グラフ」という写真記事
を主体とした項目は1974年 4 月頃まで続いた。
本稿では戦後の用紙統制の影響がほぼなくなる1950年から目次にグラフの項目が毎号たてられていた
1973年までを対象とする。後に述べるように、『主婦の友』における戦後の皇室報道は1970年代初めで一
旦終息するので、この時期を一つのまとまりとして対象とする。
Ⅲ 口絵/グラフの人物写真の推移
戦後1950∼1973年の『主婦の友』は、皇室を中心に特集が組まれたことがなく、皇族全員を紹介する
ような写真もない。戦前の「御真影」と呼ばれた礼服正面姿の写真はほとんどなく、庶民と共通するプラ
イベートな面を見せるスナップ風の写真が中心である。
以下では特に口絵/グラフの最初の人物写真に注目して検討していく。雑誌の巻頭に近い写真は、雑誌
を開いたとき最初に目にはいる可能性が高いため、読者への訴求力も高く編集上も重要と考えられる。
次頁の表は1950年から1973年の「口絵」あるいは「グラフ」の最初の人物写真が誰かを調べ表にまと
めたものである。なお、1963年からは、巻頭の写真や記事も「グラフ」以外の「服飾」
「家事」
「特集」の
項目のものが多くなり、「グラフ」は必ずしも巻頭におかれた写真や絵を意味するものではなくなった。
しかし本稿では「服飾」「家事」の項目で登場する人物よりも、その人物に特に焦点をあてた人物写真の
意味を検討するため、1963年以降の「グラフ」が雑誌の巻頭におかれていない場合も「グラフ」の項目の
― 88 ―
戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって
最初の人物写真を対象とすることとした。
表 『主婦の友』口絵/グラフ巻頭人物写真・絵(1950∼1973年)
皇族 皇族 皇族
女優
皇妃 皇女 皇男 夫婦 複数 家族 外国人 単数
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
女性 女優
歌手 複数 俳優
3 2(男女) 2
1
1
1
1
3
6
2
2
1
1
3
3
4
2
1
2
1
1
1
3
4
1
2
2
1
1
3
2
1
1
1
1
2
1
1
1
4
1
1
1
1
2
1
1
2
1
3
1
1
1
1
3
1
1
1
2
1
女性
女性舞踊家 画家 女性デザイナー その他
1 2(男女1)
1
3 1(複) 4(男女2)
0
1(複)
3
1
歌舞伎
1 3(能1) 3(複2)
2 2(男女1)2(男女複1)
2(複2)
2(複2)
1
1(能)
1
1
1
1
1
1
1
1
2
5
2
1
3
2
1
1
1
俳優
男女
1
1
2
1(複)
5
5
5
1
2
1
1
1
1
1
4(夫婦2)
1
2
1
1
1
1
1
1
書家1
10
2
3
5
4
6
6
3
2
7
8
5
2
0
2
1
4
2
1
5
3
注)皇族複数は複数の皇族のみの写真
皇族夫婦は婚約中も含む
この時期は全体として、皇族と女優が多いことがわかる。女優と俳優あるいは女優と婚約者、俳優とそ
の妻などの男女の組み合わせの写真も少なくない。舞踊家の写真は50年代は多かったが、その後はほとん
ど出てこない。数は少ないが60年代後半から女性の服飾デザイナーが登場するようになっている。以下で
は皇族の写真・絵に焦点を絞り、その特徴を分析する。
Ⅳ 皇族巻頭写真の分析1950-1958年
表をみると、口絵/グラフの巻頭となった皇族写真は1958年までは比較的少なく、1959年から1969年
までが非常に多いことがわかる。1959年は皇太子「ご成婚」があった年であり、それ以前と以降で皇族写
真の扱いが異なっている。
「ご成婚」以前の1950∼1958年に発行された『主婦の友』109冊のなかでは、皇族が口絵の最初の人物
写真になったのは 6 冊のみでわずか5.5%にすぎない。内訳は皇太子の写真あるいは肖像画が 2 冊、皇太
子を中心として複数の皇族を含んだ写真が 1 冊、皇后の写真・肖像画が 2 冊、皇女孝宮の肖像画が 1 冊で
ある。
戦後の皇族写真は、戦前に多かった肖像写真ではなく、ほとんどが礼装・盛装ではない日常生活の一場
面のようなスナップ写真である。皇后の巻頭写真・絵も、戦前は洋装の礼装姿であった皇后が着物姿で歩
いている写真(1956年 1 月)や、
「ばらと皇后さま」と題した手作りのばらを切る皇后の絵(1955年 5 月)
と日常生活を写し取ったような写真や絵である。
― 89 ―
皇太子は、
「日本の希望」「日本の未来」と表現されており、英語ができ外人と対等につきあえること、
スポーツマンであることが絵や文章で強調され、敗戦後対外的な地位向上を目指す日本の姿勢やスポーツ
が武道に代わる新しい男らしさの象徴として取り上げられている。1951年 1 月の「皇太子さま」と題した
馬にまたがった学生帽・学生服の皇太子の絵では「若い日本の希望の星として、全国民の敬愛の的になっ
ていられる皇太子さまは…高校生としての御勉学も進み、とくに英語の御会話は…外人との御談話に、今
ではほとんど通訳を必要としないまでに御上達あそばされたということです。また、スポーツは…ことに
乗馬はお得意」、1955年「主婦の友カレンダー」の 1 ・ 2 月は、
「スキー上の皇太子さま」と題した皇太子
のスキー姿の絵が綴じ込みとなっており、「山に積む白雪のごとく、気高く、そして明るい皇太子さま。
…われらのプリンスは、秀れたスポーツマンであり、そのスキーのお姿には、凛々しい力と若さが、日本
の未来を示すごとく、満ちています」と説明がつけられている。このような新しい日本のあり方としての
皇太子像は、1953年新春特別号の「世紀の式典立太子礼写真画報」、1953年 6 月の付録につけられた「皇
太子さまとエリザベス女王」のカラーの特大の絵など、巻頭写真以外の写真や絵にもみられる。
また1957年 3 月では「民衆の中の皇太子さま」と題して清宮、義宮の間に座っている皇太子の写真があ
り、
「日比谷の映画館での幕合いのひととき。…一昔前は、映画館はもちろんのこと、御兄妹揃つて外出
なさることも、めつたになかつた御身分の方々なのだけれど、今ではこうして、巷の空気にすつかりとけ
こんでいらつしゃる」と、戦後の皇室のあり方の変化を強調している。
Ⅴ 母・妻としての美智子妃
1959年から1969年は、皇族写真が非常に多い。1959年から1969年までの132冊中52冊の「グラフ」の巻
頭に皇族の写真があり、39%を占めている。うち16冊が皇妃(うち 3 冊は皇妃と一般の人々)
、12冊が皇
族あるいは元皇族を含む夫婦、11冊が皇族家族、5 冊が皇女あるいは元皇女、4 冊が複数の皇族、4 冊が
皇族男性である。この時期は皇妃と皇族家族に焦点があてられていたことがわかる。もちろん、その中心
は美智子妃を迎えた皇太子一家である。
皇妃16冊のうち、10冊は美智子妃単独あるいは美智子妃を中心に周囲に一般の人々が写っている写真
である。ほかは華子妃(婚約中含む) 4 冊、皇后 1 冊、高松宮妃 1 冊である。皇女・元皇女は三笠宮(婚
後は近衛)甯子 3 冊、清宮(婚後は島津)貴子 2 冊である。皇族・元皇族夫婦の写真は、皇太子夫妻 5 冊、
島津(清宮)夫妻 2 冊、天皇・皇后 2 冊、常陸宮夫妻 1 冊、近衛(三笠宮)夫妻 2 冊である。皇族家族の
写真は11冊中10冊が皇太子一家あるいは美智子妃と皇子の写真ないし絵である。複数の皇族を移した写真
4 冊のうち 3 冊は美智子妃を含む皇族女性の写真である。男性皇族の単独写真 4 冊はすべて浩宮の写真で
あった。
1970年代になると70∼71年に 3 冊あるだけで、皇室の写真は少なくなる。グラフ記事ばかりでなく、70
年代は皇室についての記事はほとんどない注1。
1959∼1971年は、美智子妃を含んだ写真が非常に多い。55冊に掲載されている皇族写真・絵のうち31
冊に美智子妃が登場している。以下では主要な対象であった美智子妃の写真を詳細にみてみよう。
美智子妃は、1959年 4 月の結婚を祝した折込みカラーの絵に描かれ「荘重な十二単の晴れ姿のなかに
も、美智子さんのもつ皇太子妃にふさわしい知性の香りが、たしかなタッチでよくとらえられている。」
と知性への言及がある。しかしその後は、巻頭写真のキャプションではこのような言及はみられない。
美智子妃の単独写真のなかで公務を写した写真は、10冊中 3 冊であるが、うち 2 冊は公務だけでなく母
― 90 ―
戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって
としての側面を強調している。1959年 5 月は「こどもたちとプリンセス」と題して、数人の男の子を見守
る美智子妃を大きく写した写真に、皇太子夫妻が「貧しい子供たちのための」養護施設を訪ねたこと、直
後に「プリンセスご懐妊の発表」があったことをキャプションにし、また「全国民は、よろこびに沸きたっ
た」というように、妊娠が待ち望まれていたことも示唆している。1968年 8 月は「ママとして、妃殿下と
して…/ 公私ともにお忙しい美智子さま」と題した見開きの頁で、聖心女子大学で「身障者の作品をごら
んになる」様子を右に、礼宮と「すべり台のそばで、母と子のほほえましい語らいのひととき」の写真や
浩宮や礼宮の水遊びの写真を左に、載せている。
美智子妃は、母としての写真と記述が非常に多く、皇太子一家の写真は母としての美智子妃が中心に
なっているといっても過言ではない。1959∼1971年の皇太子一家の写真・絵は12枚あるが、7 枚は美智子
妃とその子どものみの写真・絵である。なかでも、美智子妃が赤ん坊を抱くという構図が多い。
1960年 4 月は「ママ美智子妃」と題した、清水宜の子どもを抱いた母の絵と「二月二十三日、男子出生。
万歳である。… なによりもありがたいのは、その温暖にして豊麗な母性美にあふれておられることだ。」
という文を載せている。8 月は「ママに抱っこして浩宮さま / はじめてのお出かけ」と車のなかで帽子と
パールのネックレスをつけた洋装の美智子妃が笑顔で赤ん坊を抱いている。背後に皇太子の姿が写っては
いるが、半分かけた横顔であり、明らかに母子を写した写真である。「浩宮さまは…ふつうの赤ちゃんと
同じように、ご両親殿下の愛情を一身に受けて育っておられます。/ 離乳にそなえて、一日一回くらい人
工栄養のミルクを召し上がっているけれど、あとは全部お母さまのオッパイ」と、美智子妃の子育てを紹
介している。1966年 2 月は、
「おすこやかな礼宮さまと美智子妃殿下」と題して、美智子妃殿下が赤ん坊
を抱いている写真に「妃殿下のやさしいお腕にだかれてほほえまれるお顔に、そっとやわらかい春の光が
…」と書かれている。
美智子妃に抱かれた赤ん坊を中心にした一家の構図としては「浩宮さまをかこんで」と題して赤ん坊を
抱く着物姿の美智子妃と背後からのぞく皇太子の写真(1960年 6 月)、
「紀宮さま おすこやかに / お喜び
の美智子様と皇太子ご一家」と題して赤ん坊を抱く美智子妃を中心に左に皇太子、右に二人の皇子を配し
た巻頭折込の絵(1969年 6 月)、「御所のお庭にもう初夏が……/ 一年生の浩宮さま、お箸初めの礼宮さま」
と題して、写真中央に何かをつかんでのぞきこんでいる浩宮、その右隣で見守る皇太子、左側で赤ん坊を
抱きながら浩宮を見守る美智子妃が写っている写真(1966年 5 月)がある。
1966年 4 月号では、「礼宮さま、ママにだかれて初参内」と題して、中央に浩宮が赤ん坊用の椅子に寝
ている礼宮をみつめ、その両脇の皇太子夫妻が二人をみている写真がある。写真では礼宮は「ママに抱か
れて」いないが、「礼宮さまはママのお手にだかれて、両陛下にお会いになった」とキャプションがつき、
タイトルとキャプションで「ママにだかれて」が繰り返され強調されている。1970年12月も「おたあちや
ま おめでとう / 三十六才のお誕生日をサーヤとともに」と題して赤ん坊の紀宮を抱く美智子妃の写真
がグラフ巻頭の写真となっている。
幼児・小児の礼宮とともに美智子妃がうつっている写真もある。これらの写真は、写真ばかりでなく
キャプションの内容も子どもが中心となっており、美智子妃はその母親としてのみ位置づけられている
(1964年10月、1969年10月)。1971年11月には少年とそれを見守る母の構図がみられる。
「野球、剣道 / 鍛
える少年浩宮さま」として浩宮のスポーツをする姿の写真があり、水のなかから片手をあげている写真に
「水の中ならまかしとけ。手をあげて舟の美智子さまにごあいさつ。
」というキャプションや、美智子妃が
乗っているボートからダイビングする写真など、母が見守っているなかで息子がスポーツをしていること
が示されている。
― 91 ―
夫婦の写真では、頻繁に夫妻の仲の「むつまじさ」が強調されている。1960年10月は「訪米間近な皇太
子ご夫妻」と題して万平ホテル・ロビーでの皇太子夫妻の姿をうつし、「浩宮さまの離乳も完了。軽井沢
では、一夏を親子三人でむつまじくおすごしになったお二人である」とキャプションがある。1967年 1 月
は「二人のお子さまもすこやかにお育ちになり、このところ、ますます仲むつまじい皇太子ご夫妻は、一
日、平家物語の…寂光院をたずねられた」
。1966年12月は「お二人のお子さまもすこやかに / ますますむ
つまじい皇太子ご夫妻」と題して、夫妻が映画館で座って談笑している写真を掲載、
「皇太子ご夫妻は…
おそろいでお出かけになり、…二日前の十月二十日は、美智子さまの三十二回目のお誕生日。浩宮、礼宮
の二人のお子さまもすこやかにお育ちになって、ますますむつまじく、おしあわせな、このごろの皇太子
ご夫妻である」
。
Ⅵ 皇室ファッションへの注目
美智子妃の写真は、こうした幸せな母、妻としての側面が強調されるとともに、その服装のセンスの良
さが強調される。1962年12月号では夫妻の写真に「皇太子ご夫妻は、東京・永田町にある国会図書館をご
見学になった。…美智子さまは、帽子、コート、靴、ハンドバッグとすべて象牙色に統一されたエレガン
トなお姿」とキャプションがつけられている。1964年 1 月の「カラーアルバム / 美智子妃と浩宮さま」と
題された最初の写真は、「学習院にて」とされ、「この春幼稚園に入園ご予定の浩宮さまのために、保育施
設を下見なさるお心づもりもおありでした由。シルバーグレーのツーピースが、ママらしいベストドレッ
サーぶり」
。1963年11月は「秋の装いも美しく / お元気な美智子妃殿下」と題した歩く姿の写真に「オフ
ホワイトのコ一トのコート姿が美しく、深まりゆく秋の気配を色どっていた」とキャプションがついてい
る。
1968年 6 月号では「美しい旅の装い / 皇太子ご夫妻 鹿児島、奄美をご旅行」と題して夫妻の大きな写
真と美智子妃の 4 枚の小さい写真を載せ、デザイナーの芦田惇の名前で次のような文章が書かれている。
「美智子妃殿下は、このご旅行で三色のご旅行着をお召しになっておられる。…三つの色が、美智子妃殿
下のふんいきを鮮明に浮き彫りし、それぞれハッとするようなお美しさである。/
たとえば、このブルーマリンのスーツの見事なお着こなし。…さらに茶色を少量加えて、ノーブルな魅
力にされている。美智子妃の卓越された色彩感覚のあらわれと拝察される。…このお写真の中で、いちば
んほほえましいのは、皇太子殿下とお並びのものである。/ お母さまとしてのしっとりとしたおちつきが、
茶色のアンサンブルからもそこはかとなく感じられて、いかにもご幸福そうな味わいである」。このよう
に母としての美智子妃の服装が特筆されている。
1970年 2 月号では、「白樺の清楚さと石楠花の愛らしさと / すてきな美智子さま、華子さまの帽子」と
題して、美智子妃と華子妃のさまざまな帽子姿をファッションとして紹介し「フォーマルなお出かけには
帽子がつきものという、女性の本格的な身だしなみを、私たちは美智子さまから教えられます」とファッ
ションの手本・参考として掲載している。
Ⅶ 強調されなかったこと
メディアの分析においては、語られたことだけでなく、何が語られなかったかも重要である。何を美智
子妃を中心とした巻頭写真にして強調し、何を強調しないかは、記者や編集者が、読者を念頭におきとき
― 92 ―
戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって
には宮内庁にも配慮した結果である。美智子妃の巻頭写真は、母性愛、仲むつまじさ、一家団欒、美智子
妃の優れたファッションと美しさを伝え、妻・母としての幸せな生活を描いているが、苦労や辛さ、不幸
な出来事などはあまり触れられていない。美智子妃は1963年に流産をし公務から離れ半年療養している
が、10月に「お久しぶり!元気になられた美智子妃殿下」の記事で「半年にわたる長い療養生活で、すっ
かり元気になられた美智子妃殿下は…ほおのあたりに多少おやつれのあとが残っているように見受けられ
たが…すっかり明るさをとりもどされ」(90頁)と書かれているだけで、この間の『主婦の友』には美智
子妃の流産にふれた記事はみられない注2。1969年 4 月号はグラフ巻頭に「美智子さま『十年の愛の日々』
」
と題した結婚10年と妊娠を記念した 6 頁にわたる写真記事を掲載し、「ご一家の愛の日々をふり返って」
「お二人の愛の年輪」の姿や二人の皇子を中心にした一家団欒の姿が載せられているが、10年を振り返っ
たとするこの記事では、美智子妃の流産や痩せたこと、宮中での苦労などについてはまったく触れられて
いない。同号の「ご出産を待たれる美智子さまの愛と生活」という 5 頁の記事についても同様である。
1969年12月の、美智子妃が肋骨の手術を受けたという記事のなかでは、「この十年間を振り返ると必ず
しもご健康に恵まれておられたとはいえない。…浩宮さまご出産のころからおやせになり、第二子ご流産
のころは、はたの目にもお気の毒なほどのおやつれよう。…長期にわたる療養生活」と痩せたことや1963
年の流産について触れ、「りっぱに立ち直られ…ご一家は明るい笑い声に包まれていた」という箇所があ
る(49頁)。
1986年10月の「皇太子妃美智子さまの27年」では、1986年 3 月に子宮筋腫の手術があったことが最初
に書かれ、結婚当初を「皇室とは何のつながりもなかった実業家のお嬢様から飛び込んでこられた宮中の
生活。苦闘の連続だったにちがいない」と、当時の美智子妃の記者会見での「むずかしいと思うこと、つ
らいと思うこともいろいろありました。いつになったら慣れたといえるか、見当もつきません」といった
発言をたどりながら述べている。また英語が堪能で、生後 6 か月の浩宮をおいて皇太子と国際親善につと
めたことが書かれている(87頁)。
このように1969年12月以降は、手術・療養があった機会に過去の苦労が書かれているが、1959∼1969
年11月までは、それ以降と比較して美智子妃の苦労や不幸はあまり触れられず、また当時の美智子妃の仕
事ぶりも積極的には語られず、母・妻としての幸せな姿が特に強調されていたといえる。
記事をよく読んでいくと、皇太子は、皇室の慣例に反して子どもを手元で育てるという「一番の御希望」
(1959年 1 月)を貫き、生まれたばかりの浩宮の写真を毎日とったり(1960年 5 月)、夕方になると 2 才
の浩宮に「お風呂に入ろう」と声をかけ体を洗ってあげたり(1962年12月:98-9)
、一緒に遊んだり、3
才の浩宮のために鉄棒を作ったり(1963年 4 月:135)、7 才の浩宮の体力づくりと知識の吸収のために家
族登山の計画をたて実行した(1967年 9 月)など、父親として積極的に子育てに関与している姿勢がう
かがえるが、こうした父と子に焦点をあてた写真はほとんどみられない。むしろ皇太子の父親役割として
は、
「よい意味の傍観者でいらっしゃる」
(1960年 8 月:85)
、「妃殿下に絶対の信頼をおいておられる皇
太子殿下のお力も大変なもの」(1961年10月:219)、
「浩宮さまがおおらかにご成長になられたのは、一に、
皇太子殿下が妃殿下を信じてすべてをまかされ、口出しひとつなさらないご態度にある」(1961年 2 月:
97)と、子育てを妻に任せることが高く評価されている。
Ⅷ 専業主婦モデルとファッション
1959年以降の『主婦の友』の口絵 / グラフでは美智子妃が中心的被写体であり、その知性や仕事ぶりよ
― 93 ―
りも、母・妻などの女性役割が対象となった注3。とりわけ、母としてのイメージ、赤子を抱く美智子妃と
いうヴィジュアル・イメージが繰り返され好まれていた。
赤子を抱く女性という構図はその女性に、抱いている子どもに全面的に愛情をそそぎ、世話をし育てる
母親という視覚的位置を与える。これは美智子妃が母乳育児、乳人廃止の子育てをおこない、育児責任を
一身に担う母親像をうちだしたことにも合致するイメージであったといえる注4。しかし、それにしてもな
ぜこれほどまでに母が強調されているのだろうか。
戦前皇后は、
「国母」としての母性愛が強調された注5。戦後に「国母」という言葉は使われず、また美
智子妃はまだ皇后ではない。しかし、この繰り返し登場した赤ん坊を抱く構図は、古くはヨーロッパの聖
母子像のイコンで知られる、赤子のキリストを抱くマリアの像を思わせ、マリアがキリストを生んだ聖な
る母としてあがめられるように、美智子妃の母性愛を称揚し、皇子を生んだ母として国民の崇拝の対象と
して印象づけているようにもみえる。
また美智子妃の浩宮の育児については、口絵 / グラフ以外でも多くの記事があり、
「美智子妃殿下の育児
の中で、特色あるもの」(1961年10月:218)と、育児方法が詳しく紹介され、「養育主任は美智子妃殿下」
(1961年 2 月:97)と美智子妃が全面的に育児を担っていることが強調された。「御息所さまは、まさに
育児の優等生」
(1960年 8 月:85)、「育児熱心なママ」
(1961年 5 月:108)
、「巷では、あたかも、育児に
かけてはスーパーマザーのようにいわれる」
(1962年12月:101)というように、母の鑑として提示され
ている。
戦前においては「国母」である皇后に象徴されるように、
『主婦の友』においても皇族女性は母性愛が
強調され、また母・主婦の鑑として提示されていた(坂本2014)。美智子妃の聖母的な母性愛の強調や、
育児のすべてを担う母の手本としての美智子妃の描き方は、戦前の皇后の「国母」化や皇室女性に手本と
しての「母」役割を象徴させたのとそれほど遠くないように思われる。
また、美智子妃の仕事ぶりや皇太子の父親ぶりにはほとんど焦点をあてず、皇太子が美智子妃に育児を
まかせていると賞賛されるなど、専業主婦をモデルとした性役割分業の枠組みにはめた報道が行われてい
た。美智子妃や皇室女性の記事には、料理や洗濯に関する写真や記事もあり、「主婦」という面も提示さ
れている注6。
確かに先行研究が指摘しているように、『主婦の友』においても戦後は皇族スナップ写真、子どもを中
心とした一家団欒の写真が多く、庶民との共通点を強調しており、皇族は戦前のような権威のある存在と
してではなく、親しみのもてる憧れの対象として表現されていた。しかし『主婦の友』では特に1959∼
1969年、赤子を抱く母親イメージや夫婦の仲むつまじさが強調され、美智子妃の苦労や不幸はあまり報道
されず、一部の週刊誌でみられたゴシップも多い「スター」扱いの報道とはやはり異質な要素があったよ
うに思われる。1960年代美智子妃の生活が「10年の愛の日々」と要約されているように、『主婦の友』で
は幸せな結婚・家庭生活という女性の憧れの生き方として美智子妃の姿を提示することによって、この時
期、政策的にも推進された高度成長期の専業主婦モデルを強化する役割を果たしていたのではないだろう
か注7。
もう一つ、美智子妃報道で特徴的なのは、ファッションが盛んに言及されたことである。美智子妃の登
場以前にも、巻頭ではないが皇族女性のファッションへの言及はあった。1956年 1 月の「皇后さまのお
しゃれ」と題した記事は「皇后さまはお美しい」で始まり、皇后の日常と化粧、髪の手入れ、
「お召し物」
などについて書かれている。しかし、その内容は「あえて、おしゃれと名のつくようなおしゃれを、ちっ
ともしていらっしやらぬ」(ママ、376頁)。1958年 1 月のグラフではトップではないが「ひときわ美しく
― 94 ―
戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって
なられた清宮さま」と題して上半身の写真を掲載している。清宮は当時まだ大学一年生ということもある
が、そこでも「美しい」と形容されているが化粧は「口紅くらい」であり、ファッションも「カワムラあ
たりで布地をお選びになる」程度である。
1954年11月に高松宮妃がクリスチャン・ディオールに日本の絹織物を売り込みショーに採用されたこ
とを話題とした、インタビュー記事が掲載されている。そこでも、高松宮妃について「特に印象に残るほ
どのお化粧もなさつてはいない。しかも…お美しいのである」(
「新しくひらかれる絹の道」93頁)とし、
洋服のデザインについて高松宮妃の「そんなにおしゃれじやない」
(ママ、同上)という回答を載せている。
またディオールのファッション・ショーへの高松宮妃の売り込みは、ファッションへの関心より「日本が
持つすぐれた伝統美と高度の技術の再認識」、輸出の増大を願ってのことであるとまとめられ、最後はし
つけや施設の子供の「一日里親」の話となり、
「流行(モード)という表面のお仕事の裏にひそむお心ば
えの深さを拝察し…家庭を失った子供さんたちの幸せにもつながつている」と結論づけられている(96
頁)
。
このように美智子妃の登場以前は、皇族女性は「美しい」が、むしろ外見にはそれほど気を使っていな
いことが強調されている。皇族女性が実際にそうであったとしても、1952年から田中千代が皇后のデザ
イナーになっていることを考えれば、皇族女性のファッションについてもっと言及があってもおかしくな
い。しかし、流行に関わることが日本文化の評価や輸出と関連づけられて正当化されたり、無関係な恵ま
れない子どもへの母性愛と関連づけられているように、50年代半ば当時は、まだ皇室女性は外見や流行に
こだわらないほうが、女性の手本として適切とみなされていたのではないだろうか。
こうした皇族女性のおしゃれやファッションへの言及は、美智子妃報道を契機として一変する。巻頭写
真以外にも1962年 4 月の「美智子妃殿下のトップスタイル集」と銘打って美智子妃のファッションに注目
した 5 枚の写真が掲載されたり(12-3頁)、美智子妃以外でも1959年 3 月巻頭の人物写真では、
「和服の清
宮さま」と題した清宮の着物姿と洋装でエプロン姿の写真があり「制服を脱がれてからは、服装もぐっと
シックな淑女風。…でも、お母さまの皇后さまは、やはり、ジュニアー風のかわいいスタイルをお喜びに
なる。写真のお召し物も、きっと皇后さまがお選びになったにちがいない。週一回クッキングの練習。花
嫁修業?」とキャプションがつけられている。ここでは、料理という性役割とともに、皇族女性のファッ
ション・スタイルやその好みに焦点があてられている。1967年11月では目次の「美容・洋服」とされてい
る頁で「わたしの好きなセーター」と題してセーターを着て座っている近衛(旧・三笠宮)甯子の 1 頁大
の写真があり、
「コペンハーゲンで…求めたセーターです。胸のなわあみが、えり元に向かってしぼった
ようになっていることや、たっぷりと大きめなのが気にいりました」とキャプションがつけられている。
戦前の『主婦の友』ではファッションは女優が提示するという役割分担がみられ、母として主婦として
の手本とされた皇族女性は、むしろ質素な生活が強調されていた(坂本2014)。戦後も美智子妃登場以前
は、皇族女性はむしろおしゃれでないことが示されていた。しかし、戦後の美智子妃の写真では、質素と
いう形容はみられず、美智子妃のファッション感覚の良さが賞賛され、「ママらしいベストドレッサーぶ
り」
「女性の本格的な身だしなみを、私たちは美智子さまから教えられます」とまで表現されている。
石田は女性週刊誌で皇族女性のファッションに対する批評がみられたことを重視し、こうしたファッ
ション批評が「大衆天皇制」を形成維持したとし(石田2006)、また、吉見はワイドショー的な女性週刊
誌が「男性からの視線を深く内面化させ」ファッションや育児に焦点をあてた報道が美智子妃の性を商品
化したとしている(吉見1996:471)。しかし、
『主婦の友』では、皇室女性のファッションに対する批評
はあまりみられなかった。また、主婦層に教養や実用的知識を提供することを目指した『主婦の友』が、
― 95 ―
男性からの視線や欲望をそれほど強く意識しているともいえない。むしろ母・主婦は性の商品化の象徴で
ある娼婦とは対極の役割である。
『主婦の友』のなかでは、美智子妃に端を発する皇族女性のファッションへの注目は、母・主婦役割の
なかでなされていること、戦後も『主婦の友』では皇室女性が母・主婦の手本として位置づけられている
ことを考えると、こうした皇室女性のファッションへの言及は、むしろ女性の欲望の正当化や推進と考え
たほうがよいように思われる。つまり良き母・主婦の手本としての皇室女性が、
「質素」から「ベストドレッ
サー」になったのである。皇族女性のファッションへの言及は、中年層も含む女性全般のなかでは、批評
の対象以前に、女性、とりわけ母・主婦のファッションへの罪悪感を払拭し、ファッションをぜいたくで
はなく良いものとして積極的に肯定し、正当化する役割を担った面があるのではないだろうか。
Ⅸ 結論
本稿では、女性週刊誌を中心に議論されてきた戦後の皇室報道とその影響について、『主婦の友』の口
絵 / グラフを中心に分析することにより、戦前から戦後にかけて、若い女性だけでなく中年層を含むより
広い女性読者のなかで、どのようなビジュアル・イメージが提示され、それがどのような意味を持ちえた
かを検討した。
週刊誌の報道分析を中心とした先行研究が指摘しているように『主婦の友』でも戦前とは異なり身近な
家族イメージを主とした「大衆天皇制」といえるイメージの提示がみられたが、他方で戦前と通じる母性
愛の強調や、仲むつまじさ・愛の強調による妻としての幸せなイメージの提示が多く、1950年から1970
年代初めまではセレブ的なゴシップの対象となりうる「スター」としてよりは、独特の尊敬と憧れをとも
なった、新たな女性の生き方・あり方の手本として提示されていたと考えられる。特に仕事役割や父親役
割はあまり注目されず、専業主婦的性役割分業の枠組みを用いた報道が多くみられた。
この時期の皇室報道は戦前からの変化が強調されているが、女性役割のモデルの提示という意味では戦
前と共通する点が指摘できること、またマイホーム主義に通じる一家団欒の家族イメージだけでなく、こ
の時期に増大した子育てを中心とした性役割分業に基づく専業主婦的な女性の生き方や幸せを強調して提
示していたことを指摘できる。
また、都市部の若年女性より、年齢・地域的にみて対象が広かった『主婦の友』で、美智子妃のファッ
ションが強調されたことは、ファッションに公的な正当性を与え、女性の欲望を形成、推進していく側面
があったと考えられる。
1950年に衣料切符が廃止され、衣服の製造・販売は飛躍的に伸び、特に1965年から69年までの衣服製
造業の製品出荷額の伸び率は男子服製造業79.2%に対し、婦人子供服製造業は107.6%増と倍以上の伸び
を示した(千村1989:137)。女性雑誌は、1950∼60年代のスタイルブックや1955年に創刊された『若い女
性』
、1962年に文化服装学院が出版した『ミセス』など、服装を主要な記事に位置づけた雑誌の創刊をへ
て、1970年代の『 an・an 』『 non・no 』から始まるファッション誌全盛時代を迎えることになる。1950
∼60年代の皇室ファッション報道はこうした女性のファッションへの欲望・消費の増大と関心の変化のな
かで、一定の役割を果たしたと考えることができる。
― 96 ―
戦後婦人雑誌の皇族写真をめぐって
注
1 .美智子妃の両親や皇室デザイナーについての記事が数件あるのみである。
2 .美智子妃は1963年 3 月 4 日に妊娠、23日に流産が報道された。流産が報じられた頃『週刊平凡』に掲載され
た人気小説『美智子さま』に宮内庁から自粛要請があり連載中止となったこともあり、その心労が原因とい
う推測もあった。また週刊誌による美智子妃をめぐる興味本位の記事が当時プライバシー問題となった。こ
れらの「行き過ぎた」記事への批判が流産の報道をしなかった一因としてあったかもしれない。美智子妃の
流産、当時のプライバシー問題などついては、朝日新聞1963年 3 月 4 ∼23日の記事や(石田2006)に詳しい。
3 .前述した例以外に、美智子妃の花の展覧会での写真(1961年 6 月、1965年 4 月)など、女らしさと関連づけ
られる写真もある。
(長2005)参照。
4 .皇室の母乳育児は戦前にも例がある。
5 .昭憲皇太后の表象については(若桑2001)、戦前の『主婦の友』におけるイメージについては(坂本2014)
に詳しい。
「皇太子妃美智子さまと清宮さまのお得意料理」1959年 6 月:260-1、
「皇太子さまご一家の新しいお住まい」
6.
1960年 5 月:90-1など。
7 .小山静子は、1950年代末∼60年に家庭科の女子のみ必修などの性別分離教育が確立したこと、60年代前半に
母親の保育責任の強調や、母親の家庭教育の振興策が本格化したことを指摘している(小山2009)。また、
1950年代後半から70年代にかけては20代後半女性の、1960年代から70年代にかけては30代前半女性の労働力
率が低下(総理府統計局1983:43)しており、この時期出産・子育て世代の専業主婦率が増大していった。
引用文献
千村典生 1989『戦後ファッションストーリー』平凡社
井上輝子 1980『女性学とその周辺』勁草書房
石田あゆう 2006『ミッチー・ブーム』文藝春秋社
柏木博他 1990『情報支配』軌跡社
小山静子 2009『戦後教育のジェンダー秩序』勁草書房
木村涼子 2010『〈主婦〉の誕生』吉川弘文館
松下圭一 1959→1994「大衆天皇制論」
『戦後政治の歴史と思想』筑摩書房
岡満男 1981『婦人雑誌ジャーナリズム』現代ジャーナリズム出版会
長志珠絵 2005「家族イメージの形成と天皇・皇室」田中真砂子ほか編『国民国家と家族・個人』早稲田大学出
版部
坂本佳鶴恵 2014「戦前期女性雑誌における口絵写真の分析――『婦人世界』および『主婦之友』から」『お茶
の水女子大学人文科学研究』第10巻pp.97-109
桜井秀勲 1993『本日発売――女性誌編集長の物語』イースト・プレス
塩澤実信 1994『雑誌百年の歩み』グリーンアロー社
総理府統計局 1983『人口の就業状態と産業構成』日本統計協会
主婦の友社社史編集室 1967『主婦の友社の五十年』主婦の友社
多木浩二 2002『天皇の肖像』岩波書店
吉見俊哉 1996「メディア天皇制とカルチュラル・スタディーズの射程」吉見他編『カルチュラル・スタディー
ズとの対話』新曜社
若桑みどり 2000『戦争がつくる女性像』筑摩書房
――― 2001『皇后の肖像』筑摩書房
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