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熊 野直樹 - 九州大学

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熊 野直樹 - 九州大学
論説
熊 野直樹
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス
テユーリンゲン州を中心に
ヤング案反対闘争からバウムーープリック内閣ヘ
テユーリンゲン農村同盟とナチスとの同盟と競合
強制的同質化過程におけるテユーリンゲン農村同盟
66 (3 ●89) 933
テユーリンゲン農村同盟とナチスとの関係史に関する研究の現状
結四三ニー序
論説
序
.昏
従来一般的にいって、ナチスの支持基盤として都市の新旧中間層とならんで、農民が指摘されていることは、周知
の通りである。その際、ナチスと農民との関係において、一般に想定されているイメージは、一九二六i二七年にか
けて勃発した農業恐慌によって、農民が経済的に困窮状態にあり、その結果、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン
︵ω07一①ω毛一ひq−寓O一ωけ①一口︶で農民運動、すわなちラントフォルク運動が一九二八年に勃発し、こうした農民の直接行動
的な抗議運動が各地で勃発し、従来の既成政党が農民の不満を解消できずに、彼らの不満はやがてナチス支持へとま
わった、というものである。その結果として、一九三〇年九月の国会選挙での農村部におけるナチスの大幅な躍進が
説明され、強調されてきた。こうしたイメージは、もともとへベルレのシュレスヴィッヒ・ホルシュタインでのラン
トフォルク運動の研究によって作られたといっても過言ではない。その後も、ナチスと農民との関係については、多
くの場合、このシュレスヴィッヒ・ホルシュタインでの事例研究をもとに農民のナチス支持ないしはナチスの農村進
ヨ 出が研究され、分析され、かつ語られてきたといってよい。しかし、その一方でようやく最近になってシュレス
ヴィッヒ・ホルシュタイン以外のプロテスタントの農村地域におけるナチスと農業界との関係が、本格的に研究され
る 始めている。また、カトリックの農村地域においては、農民がプロテスタントの農村地域と比べて、相対的にナチス
に対して免疫をもっており、一線を画していたことが既に指摘されている。しかし、こうしたカトリック農村地域に
おける農民とナチスとの関係は、例外として考えられがちである。というのは、カトリックの農村地域はプロテスタ
ントの農村地域と比べるとドイツ全土に占める割合は相対的に低く、従来の研究においては、ナチスと農民との関係
を問題にするとき、主たる分析対象として、中小の自立農民が相対的に多く存在していた、北部並びに中部ドイツの
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
プロテスタントの農村地域が想定されてきたからである。その意味で、シュレスヴイッヒ・ホルシュタインがその典
型的な地域として事例研究が集中的になされてきたのは、当然であるといえる。
しかし、ここで強調したいのは、プロテスタントの農村地域におけるナチスと農民との関係についての従来のイ
メージは、主としてシュレスヴィッヒ・ホルシュタインといったラントフォルク運動が最も激しい形で展開した地域
での事例研究を通じてのものであって、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインでの農民とナチスとの特殊な関係が一般
論へと引き上げられた傾向が強いということである。我々が自明の前提としている、ヴァイマル共和制末期の農民の
ナチス支持といったイメージは、総じて、多数の地域の事例研究を比較・検討した結果ではなく、基本的には一地方
の事例研究を通じて得られたものか、ないしは、都市部︵ωS鼻ζΦ一ωΦ︶と農村部︵冨昌α汀①一ωΦ︶といった単純な二
分法をもとに、選挙における農村部でのナチスの得票数の激増でもって、これをア・プリオリに﹁農村部のナチ化11
農民のナチ化﹂とみなした結果にすぎないということである。しかし、選挙統計上分類される農村部には、実は小さ
な都市︵Qo種目︶も含まれる。しかも、農村部を構成する村︵O①日Φ早馬Φ︶ないしは村落共同体︵Uo臥αqΦ上巴亭
ωoず賦け︶にしても、そこでの住民は別に農民だけではない。足立芳宏氏が示唆するように﹁農村11農民﹂ではなく、
農村にも農民以外の実に多彩な職業を営む人々が暮らしていた。
以上のことを整理すれば、我々が農民のナチス支持という場合、この命題が、きわめて限定的な事例、単純な選挙
分析並びにそれに基づく素朴な考察によって、導き出されてきたことがわかる。﹁農村部のナチ化11農民のナチ化﹂
だと結論づけるには、さらに幾つもの手続きが必要なのである。
こうした問題状況において、既に伊集院立氏は、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインにおける国会選挙や大統領選
挙と農業会議所選挙でのナチスの得票率の著しい乖離に着目して、その原因を国会選挙や大統領選挙が普通選挙であ
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論説
ハ るのに対して、農業会議所選挙が地主や農業経営者に選挙権が限られている制限選挙であったことに求めている。さ
らに伊集院氏は、ナチスが地主経営者に直接影響力を及ぼすことができなかったことを指摘したうえで、﹁ナチスの
この地域︵シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン︶での農村進出は量的にはともかく、質的には非常に低く評価せざる
をえない﹂︵括弧内筆者︶という注目すべき結論を引き出している。伊集院氏の見解に従うならば、ナチスの農村進
出の典型のようにみなされてきたシュレスヴィッヒ・ホルシュタインにしても、実は地主経営者をはじめとした農民
へのナチスの影響力は従来考えられてきたほどではない、ということになる。もちろんこうした見解は、シュレス
ヴィッヒ・ホルシュタインに限定されたものであり、ここから、一般的結論を引き出すことには慎重であらねばなら
ない。そこで問題となるのは、それではシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン以外のプロテスタントの農村地域におけ
る地主や農業経営者をはじめとした農民とナチスとの関係はどうだったのか、ということであろう。
以上のような問題設定をうけて、他のプロテスタント地域の地主経営者をはじめとした農民を考察する際、シュレ
入ヴィッヒ・ホルシュタインと並んで注目されるのが、中部ドイツ、とりわけテユーリンゲン︵]りげ口﹃一昌ひqO昌︶とヘッ
セン︵国①ωω①⇒︶である。というのは、この地域は地主経営者である中小の自立農民が多く、かつ農民の政治的運動
は、むしろシュレスヴィッヒ・ホルシュタインよりも活発であったからである。このテユーリンゲンとヘッセンの農
民が、当時の最大の農業利益団体である全国農村同盟︵勾O一6回目占U9昌血び¢P伽︶内部でもユンカー翼と対峙するほどの強
い自立性と影響力を誇る農民翼の一角を担っていたことを考えれば、テユーリンゲン並びにヘッセンといったプロテ
スタントの農村地域もまた、ナチスと,農民との関係を考えるうえで重要な地域になることは首肯できよう。とりわけ
テユーリンゲンは、トーマス・ミュンツアー︵目げ。§9。ωζ冒N臼︶に率いられた農民戦争の舞台であり、ドイツ農民
の歴史においても主要な舞台であった。さらに、テユーリンゲンでは全国に先駆けてナチスが州政府レベルで初めて
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
入閣しており、その際、ナチスの主たる連立相手は全国農村同盟傘下のテユーリンゲン農村同盟︵U臼 ↓暮﹁ぎσq①﹁
い鋤巳び巷α︶の第二議長であるエルヴィン・バウム︵国﹃≦ぎOσ四⊆日︶という農民であった。いうなれば、テユーリンゲ
ンは、ナチスと農民団体の代表とが州レベルで連立を組んだところであり、ナチスと農民との関係を考えるうえで、
きわめて興味深い対象となることがわかるであろう。しかも、ドイツ国家国民党︵O①暮ω98鼠op巴①<o貯ωO⇔暮①一︶
から分離して成立したキリスト教国家農民農村住民党︵Oξ一ω甕。ゴ墨ぼ。コ巴①bd窪9亭⊆温いきα<o一与戦け皿以下、農
村住民党と略︶は、テユーリンゲン農村同盟が中心となって結成され、しかもその初代の党首がバウムであったこと
を考えても、農民の政治運動におけるテユーリンゲンの重要性が理解できよう。
それ故、本稿では、ナチスと農民との関係を、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインと同じプロテスタントの農村地
域である、テユーリンゲンに限定して考察していきたい。その際、ナチスと農民との関係を考えるうえで、ここでは
農民を組織しその利益を代表していた地方の農民団体であるテユーリンゲン農村同盟を分析の対象として具体的に取
り上げていく。テユーリンゲン農村同盟は会員四万人を誇り、地主経営者である中小の自立農民の大部分を傘下に治
めており、これを代表的に取り上げることは妥当であろう。しかも、従来、ギースやピータ、伊集院並びに中村幹雄
や豊永泰子諸氏によって、ナチスは地方の農民団体、とりわけ各地域の農村同盟への浸透を通じて、農民並びに農村
ロ 社会への影響力を獲得していったことが既に指摘されており、その浸透の様子を見るうえでもテユーリンゲン農村同
盟を取り上げるのは適していると考えられる。
それでは以下ではまず簡単に、テユーリンゲン農村同盟とナチスとの関係史についての研究を概観してみることに
しよう。
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論説
一 テユーリンゲン農村同盟とナチスとの関係史に関する研究の現状
管見の限りではあるが、テユーリンゲン農村同盟とナチスとの関係について論じた研究はきわめて限られている。
その理由の最たるものとして当該テーマに関連する史料的基盤の貧弱さが挙げられる。にもかかわらず、有益な研究
はわずかながら存在する。そのなかで、重要なのは、まずディーター・プリッケ編纂の﹃政党史事典﹄に収録されて
ほ いる、ファウルブッシュとメスフェッセルによる農村住民党の研究であろう。そこでは、農村住民党とテユーリンゲ
ン農村同盟とが同一視して分析されており、農村住民党が農村における﹁ファッショ化﹂を促進し、農民の一部をナ
チスへ追いやることに貢献したことが強調されている。しかも、テユーリンゲン農村同盟とナチスとの関係について
触れてあり、テユーリンゲン農村同盟がナチスへの﹁シンパシー﹂をたびたび表明したことが強調されている。それ
に反して、ジョーンズの研究は、テユーリンゲン農村同盟の指導者が一九三二年の大統領選挙においてヒトラーに反
対しており、しかも一九三二年七月の国会選挙では農村住民党とは決別し、自ら独自の候補者リストを出したことが
お 明らかにされ、テユーリンゲン農村同盟の反ナチス的態度が強調されている。さらにピータは一九九六年の著書にお
いて、一九三三年までテユーリンゲン農村同盟がバイエルン農村同盟︵U臼じd塁①器9①冨巳げ巷伽︶と並んでナチス
の支配要求に抵抗していた、と述べている。こうした研究状況をドーンハイムは、一九九七年の論文でテユーリンゲ
レ ン農村同盟の政治的態度については﹁様々な評価がなされている﹂と整理したうえで、ナチスに対する﹁テユーリン
ハま
ゲン農村同盟の態度について最終的な判断を下し得るには、なお詳細な調査が必要である﹂と総括している。
そのなかで、一九九六年にイェーナ大学に提出されたドレッセルの修士論文︵未刊行︶は、テユーリンゲン農村同
盟について論じた唯一のモノグラフィーである。この研究はバウムの遺稿集を発掘し、興味深い史実を少なからず明
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
らかにしており、その意味で有益である。テユーリンゲン農村同盟のナチスへの態度をドレッセルは﹁アンビヴァレ
め ント﹂と評し、その親ナチス的な態度と反ナチス的な態度双方について検討を加えている。彼は、テユーリンゲンの
レ 農村住民の主要な部分はテユーリンゲン農村同盟に対して政治的に忠誠を守ったと指摘する一方で、一九三三年のヒ
トラーの首相就任はテユーリンゲン農村同盟内部では﹁最大級の賛同﹂を見出したとして、テユーリンゲン農村同盟
がヒトラーの首相就任を支持したとみなしている。ここでは、ナチスの浸透を受けなかったテユーリンゲン農村同盟
が、にもかかわらずヒトラーの首相就任を支持したということになる。彼の研究ではこの理由が明らかにされていな
い。果たして、彼のいうようにテユーリンゲン農村同盟はヒトラーの首相就任を支持したのか、もまたここでの問題
にしよう。ナチスの浸透をテユーリンゲン農村同盟が受けなかったという指摘は、一九九八年に出版された全国農村
ド 同盟に関するメルケニッヒのモノグラフィーにおいてもなされている。しかし、メルケニッヒの分析は主に一九==
年一二月までの分析であり、それ以降テユーリンゲン農村同盟はナチスの浸透を受けたのかどうかは不明である。
これまでの研究史をまとめるならば、テユーリンゲン農村同盟とナチスとの関係については、テユーリンゲン農村
同盟の親ナチス的態度を強調する立場とその反ナチス的態度を強調する立場、さらにはその﹁アンビヴァレント﹂な
態度を強調する立場があることがわかる。本稿では、テユーリンゲン農村同盟のナチスに対する﹁アンビヴァレン
ト﹂な態度を前提としつつも、むしろその反ナチス的な態度に着目することにしたい。本稿と同様に、その反ナチス
的な態度に着目した最近の研究では、テユーリンゲン農村同盟が組織内部へのナチスの浸透を或る程度防いでいたこ
とが明らかにされているが、しかし、いかにして、そして何故にそうした状態が生じたのかについては明かにはされ
ていない。また、その状態が一九三三年一月のヒトラーの首相就任時まで続いたのか否かについても曖昧なままであ
る。しかも、テユーリンゲン農村同盟の反ナチス的態度が一方で強調されつつも、いつまでそうした態度が続いたの
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説
払
両冊
かについても必ずしも明かにはされていない。
こうした研究の現状を踏まえたうえで、本稿では具体的に次の問題について考察していきたい。すなわち、テユー
リンゲン農村同盟がナチスの浸透を受けなかったのは、なぜなのか。また、その状態はいつまで続いたのか。さらに
はテユーリンゲン農村同盟がヒトラーの首相就任を支持したのは果たして事実なのかどうか。反ナチス的な態度をと
りながらもテユーリンゲン農村同盟は、結局、強制的同質化︵O一〇凶6ゴωoゴ巴εロゆq︶によってナチスに屈服しこれに同
化していくことになるが、その際、誰がそれを推進し、これに対して一般の会員である農民はいかなる反応を示した
か。しかもテユーリンゲン農村同盟がナチスに同化した際、従来の地方における農業界の権力構造は変わったのか、
否か。もし変わったとしたならば、どのように変わったのか、以上である。
最後に、ここで依拠した史料について簡単に述べておこう。本稿で主に利用した史料は、テユーリンゲンに存在す
る六つの州立文書館、とりわけヴァイマルのテユーリンゲン中央州立文書館︵↓プ母貯σq誇ゲ㊦ω団鎚讐ω梓9象ω碧。霞く
農民のナチ化﹂という従来のイメージに対する、もうひとつ別のイメージを対峙させることが、本稿のささやかな目
ことによって、従来の研究を補いたい。こうした作業を通じて、ヴァイマル共和制末期における﹁農村部のナチ化11
的基盤は依然として貧弱ではあるが、これらの文書館所蔵で、今まであまり知られていなかった関連史料を使用する
民党関連文書、経済省関係文書、区裁判文書、官憲報告書などである。既に述べたように、当該テーマに関する史料
いる機関誌︵紙︶、地方新聞、州議会議事録、州政府関係文書、農村同盟関係文書、ナチ党関連文書、ドイツ国家国
立文書館︵↓げ宥ぎoqδ9①ωω$緯ω帥離島くO﹁①一N︶並びにベルリンの連邦文書館︵Uσ二巳①ω費。尊くロdo島昌︶に所蔵されて
ωoゴ①ωω三百ω9。﹃o良くOo昏”︶、ルドルシュタット州立文書館︵]りげ偽﹁一昌oq帥ω6げOωQりけ99什ω帥﹁Oげ間く菊口αO一ωけ四αけ︶、グライツ州
毛①巨鎚︶、アルテンブルク州立文書館︵↓ゴ費貯αeδoゴ①ωω巳9ω9﹃〇三︿﹀犀Φ5げ霞σq︶、ゴータ州立文書館︵↓暮二昌σq学
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
表1 テユーリンゲンにおける農業経営規模別階層の農用地面積比(1927年)
44.9%
5.4%
9.0%
農用地面積比
2−5ヘクタール
5−20ヘクタール
14.0%
20−50ヘクタール
50−100ヘクタール
100ヘクタール以上
16.8%
的である。
ニ ヤング案反対闘争からバウムーブリック内閣へ
ここでまず、テユーリンゲンの農業経営について簡単に言及しておこう。テユーリン
ゲンは﹁農民の邦︵くに︶﹂︵ud窪Φ琶冨コα︶と呼ばれるように、農業だけで生計が営め
るとされる経営規模がニヘクタール以上の独立自営の農民が、農業経営の中心であった。
各経営階層が占めるテユーリンゲンの農用地面積比について言及すれば、表1のように
なる。
表1から明らかなように、経営階層別に見れば馬五−二〇ヘクタールの中農民が四
四・九%、ニー五ヘクタールの小農民が一四・○%の農用地面積比を占めており、ニ
ー二〇ヘクタール規模の中小農民が全体で五八・九%の農用地面積比をテユーリンゲン
では占めていたことがわかる。テユーリンゲンが﹁農民の邦﹂と呼ばれる所以である。
確かに、テユーリンゲンでは二i二〇ヘクタール規模の中小農民が、農用地面積比にお
いて全体の約五分の三を占めており、彼らが農業経営において中心的な存在であったこ
とがわかる。
次に農業経営規模別にみた各階層の農業経営数を見てみよう。データーはやや古いが、
表2から明らかなように五−二〇ヘクタール規模の中農民の経営数が約三万件で、二
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9.9%
経営階層
2ヘクタール以下
出典:Die Thnringische Landwirtschaft, hrsg.vDr.Wilmanns, W., Jena 1933, S.VllL
4853 (’3.0%)
390 ( 0.2%)
20−100ヘクタール
100ベクタール以上
24686 (15.4%)
30465 (19.0%)
2−5ヘクタール
5−20ヘクタール
経営数
99998 (62.4%)
経営階層
2ヘクタール以下
説
訟
ロ冊
表2・テユーリンゲンにおける農業経営規模別階層の経営数(1907年)
出典:Th血ringen. Kultur und Arbeit des ThUringer Landes, hrsg.v.Becker, Carl/Erwln
Stein, Berlin・1927, S.129.
1五ヘクタール規模の小農民が黒影・五万件であった。・ここから、テユーリンゲンにお
いてはニー二〇ヘクタ﹂ル規模の中小農民の経営数が約五・五万件であったことがわか
るコこれに二〇ヘクタール以上の農業経営数である約五千件を加えると、二ヘクタール
以上の農業経営数は約六万件となる。
テユーリンゲン農村同盟自身の説明によれば、経営規模が二ヘクタール以上である農
業経営者は当時約六万人であったという。この数字は表2で示した農業経営数とほぼ合
致する。しかも、そのうち三分の二以上、すなわち四万人以上がテユーリンゲン農村同
盟に組織されていたという。事実、設立当時のテユ﹂リンデン農村同盟の正会員数は約
四万人足らずであり、経営規模が二ヘクタール以上である農業経営数約六万件のうち、
お 二〇ヘクタールまでの中小の農業経営数が二五帆五万件で約九割を占めていたことを考
えれば、会員の大部分は経営規模が二ヘクタールから二〇ヘクタールまでの中小の農業
経営者であったことかわかる。当時の農業調査によると二ヘクタールから二〇ヘクター
お ルの農業経営者の場合、基本的に家族経営であったことが報告されており、この意味で
テ4コリツゲンの農民は、ニー二〇ヘクタール規模の家族経営を中心とするものが主体
であったといえるし、テユーリンゲン農村同盟もまた、こうした中小農民の利害を代表
する農業利益団体であったことがわかる。
テユーリンゲン農村同盟は、そもそも一九一八年の革命に際して、革命による土地の
没収を防止し、自分たちの農地を維持するために各農村で農民によって自発的に結成さ
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
れた反革命的な団体が一九一九年に大同団結して結成したものであった。そこでは、戦時ならびに革命下における統
制経済︵N≦睾ひqω惹昏ω9鷺け︶への拒否及び国家による農業経営への介入の断固たる拒否が、さらには﹁自由な土地
に基づいた強固な自由農民を維持するための闘争﹂︵円①旨嘗ニヨ9Φ国︸巴εづひqΦ冒Φωω葭葺①員ず虫Φ昌じd餌¢Φ毎εヨω
鋤銭貸Φ一Φ﹁ω90︼一①︶がテユーリンゲン農村同盟の重要な基本理念とされた。家族経営を基礎とするテユーリンゲンの
℃o一一鉱ω魯Φω鮎σω毒蛾コ9σq貯①詳αΦωピ潜コαびニコαΦω︶が強くうたわれた。その結果、一九二〇年の州議会選挙においては、
中小農民の経済的自立性は、テユーリンゲン農村同盟の政策にも反映され、そこでは﹁農村同盟の政治的自立﹂︵臼①
お テユーリンゲン農村同盟は独自の候補者リストを出して一三万票︵二〇%︶を得て、=議席を獲得し、一九二四年
め の二度にわたる国会選挙においても独自の候補者を出して二名を国会に直接送り出していた。
テユーリンゲン農村同盟は農業利益団体として全国農村同盟に属しながらも、これまで見てきたように、政治的自
立性が強く、州議会ならびに国会に独自の議員を送り出すほどであった。
さて、一九二六年から二七年にかけての農業恐慌の発生は、テユーリンゲン農業にも影響を与え始め、地理的・地
り 質的制約から酪農・畜産が主流であった農業経営に、一九二五年の関税自主権の回復とともになされた最恵国条約に
よる﹁通商条約体制﹂︵霞豊山Φ一ω<Φは鑓ひqω紹ω叶①ヨ︶のもと、安価な外国産の酪農・畜産品はテユーリンゲン農業にも打
撃を与えることになった。中小農民の現金収入の約六割は、酪農・畜産関係からのものであった。こうした状況のな
かで一九二八年二月にテユーリンゲンでもいわゆるラントフォルク運動が勃発する。従来、このルドルシュタット
︵勾=血○一ω什餌α叶︶という小都市でなされた農民大集会は、従来ラントフォルク運動がテユーリンゲンに波及したものと
ハ ね
してシュレスヴィッヒ・ホルシュタインでのそれと同列に論じられてきたきらいがあるが、実際はそれとは大きく異
なる。これは、テユーリンゲン農村同盟によって徹底的に計画された農民の大集会であり、しかも税務署の前で税率
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論説
ね の引き下げを求める、徹頭徹尾組織されたデモであり、いわゆる自然発生的な農民運動ではなかった。テユーリンゲ
ン農村同盟のもうひとつの目的は、この農民大集会をヘッセンやハノ、ーファー︵匡9Ω昌口O︿Φ﹃︶の農村同盟と農村住民
お 党を新たに結成するための準備大会として利用することでもあった。
確かに一九二六年以降の農業恐慌は、地方の農村の状況を社会経済的に揺さぶるものであったが、政治的に揺さぶ
ることになったのは、一九二九年のヤング案反対闘争であっ元。この反対闘争にテユーリンゲン農村同盟も一九二九
お 年の八月龍参加すゐが、’しかし、いち早く七月の段階から積極的に農村においてヤング案反対のアジテーションを
行っていた政治勢力が、他ならぬナチスであった。ブリッツ・ザウケル︵句昏Nω鋤9評9のもと、ようやく党を再建
したガウ・テユーリンゲンのナチスは、ヤング案反対のアジテーションを積極的に都市部だけでなく、農村部におい
ても展開していた。その際、五月の国会選挙戦において既に展開していたテユーリンゲン農村同盟への批判を農村で
あ お さらに継続七行っていたのである。これに対して既に一九二九年の五月の段階からテユーリンゲン農村同盟はその都
度機関誌上において、ナチスを﹁社会主義の政党﹂並びに﹁労働者の政党﹂として反批判していたのであった。
.ギースの論文以来、ナチスの農民獲得運動が組織的に本格化するのは、一九三〇年の秋以降とされてきたが、ここ
テユ︺リンデンではヤング案反対闘争において、既に積極的に農村でのプロパガンダ並びに農民獲得の運動がなされ
ていたことは興味深い。それに対して、テユーリンゲン農村同盟は危機感を募らせ、いち早くこれに対抗して機関誌
上でナチスを﹁社会主義の政党﹂として積極的に批判していたことは、その後のテユーリンゲン農村同盟とナチスと
ハ の関係を考えるうえで重要である。統制経済を﹁国家社会主義﹂︵ω$9ωωo賦巴一ω∋ロω︶と捉えるテユーリンゲン農村
同盟にとって、いかなる社会主義も﹁自由な土地に基づく自由農民の維持﹂のために拒否されなければならなかった
のである。ヤング案反対闘争を契機として既にナチスが農村において進出しており、それに対していち早くテユーリ
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
ンゲン農村同盟が反応して、ナチスを﹁社会主義﹂とみなし批判していたという事実並びに農村部における両者の競
合関係をここではまず確認して お こ う 。
既に記したように、ガウ・テユーリンゲンのナチスが積極的にヤング案反対闘争を一九二九年七月から農村部や都
市部において展開する一方で、八月中旬になってようやく他のナショナルな団体や右派政党の間で、テユーリンゲン
においてヤング案反対闘争のための共闘関係を構築しようという機運が高まってくる。そのイニシアティヴをとった
のが、テユーリンゲンの鉄兜団︵一︶ΦH ω陣門プ一げ①一bρ︶であった。鉄兜団はヤング案反対のための右派勢力結集のために、
八月一四日にヴァイマルにおいてテユーリンゲン農村同盟とドイツ国家国民党などと協議を行った。その結果、ヤン
グ案に反対するための国民誓願運動︵<o貯ωげΦひq①耳①コ︶を支持するための共闘が、テユーリンゲン農村同盟、ドイツ
れ 国家国民党そして鉄兜団の間で成立することになった。これを契機にようやくテユーリンゲン農村同盟も遅ればせな
がらヤング案反対闘争に国民誓願運動という形で参加することになったのである。以上のような合意を受けてテユー
む リンデン農村同盟は、九月六日ヤング案反対闘争に積極的に関わっていく旨を機関誌上で公表した。
こうした状況のもと、テユーリンゲンにおいてナチスをも含んだ右派政党の間でヤング案に反対するための﹁抵抗
戦線﹂︵ぐく一α①﹁ω叶四昌αω暁﹃O口梓︶が、営営会内で九月二八日に成立する。この﹁抵抗戦線﹂についてテユーリンゲン農村
同盟は機関誌上において次のように報じている。
﹁テユーリンゲンにおける抵 抗 戦 線
ヴァイマルにおいて水曜日︵九月二八日︶に、農村住民党、経済党︵芝三ω9㌶房B答①一︶、ドイツ国家国民党とナ
チ党とのメンバーとの間で会談が行われた。上記の諸政党によってテユーリンゲンの州議会内で提出された以下の動
議が、この会談の成果である。
66 (3 .101> 945
論説
﹃州議会は以下のことを決議することを欲す。すなわち、ハーグ協定︵パリの賠償計画︶の採択に関するライヒ政
れ 府の法案に対して、州政府は、ライ七参議会において反対票を投じることが委託される。﹄﹂﹂
こうして州議会内においてテユーリンゲン農村同盟とナチスとの間でヤング案反対闘争をめぐる共闘関係が成立し
たのであった。議会内においてナチスとテユーリンゲン農村同盟との間で共闘関係が成立する一方で、議会外におい
てはナチスやテユーリンゲン農村同盟によるヤング案反対のための国民誓願運動が積極的に展開されるが、既に述べ
たように、農村部での両者の競合もまた継続してなされて・いた。すなわち国民誓願運動への協力並びにヤング案反対
のための州議会内での共闘という関係は、農村部における両者の競合を妨げるものではなかった。こうした共闘と競
ハゐ 合といった関係のなかで展開された国民誓願運動は、テユーリンゲンにおいて一八四、一六九もの署名を獲得し、ヤ
かられることになったのであっ た 。
ング案に調印した政治家らの処罰をも要求した﹁解放怯案﹂︵宰①ぎ虫房σqo。。①冒︶が国民投票︵<o節ω①三ωoげ虫α︶には
ゆ .さて、一九二九年一二月には国民投票と並んで州議会選挙もなされ、農村部における票をめぐってテユーリンゲン
農村同盟とナチスとの競合もまた一段と激化していた。その結果、テユーリンゲン農村同盟は五三議席中、九議席
ハあ ︵得票率一六・四%︶を獲得し、州議会内第二党の地位を確保する一方、ナチスは六議席を獲得したコ従来テユーリ
ンゲンの州政府は右派のブルジョア政党の連立によって担われてきたが、ドイツ社会民主党並びにドイツ共産党を除
くブルジョア諸政党で過半数の議席を確保するにはナチスの六議席が必要不可欠であったρそこで、ヤング案反対闘
争を契機に曲がりなりにも成立していた豊田会内でのナチスとの共闘関係を背景として、議会内第二党のテユーリン
ゆ ゲン農村同盟がイニジアティブをとって、右翼連立内閣樹立のためにナチスを政権に入閣させることになった。こう
して一九三〇年一や月二三日、ドイツ史上初めて、州レベルでナチス︵ブリック[≦ゴゴ①ぎ聞ユ。巴並びにマーシュ
66 (3 。102) 946
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
ラー[閏同一けN 悪態吋ωOゴ一Φ﹃]︶が政権に加わることになったのであった。その際、ナチスとの同盟を模索したのが、議会
り 外の農村部においては競合関係にあったテユーリンゲン農村同盟であった点は重要である。しかし、このナチスとの
同盟によるバウムーブリック内閣の成立はテユーリンゲン農村同盟とナチスとの同盟の始まりではなく、同盟の終わ
りの始まりともいえるものであ っ た 。
テユーリンゲン農村同盟とナチスとの同盟と競合
勃発すると両者の競合は激しくなった。テユーリンゲン農村同盟は農村住民党を一方的に支持したが、結果は、
テユーリンゲンにおいて農村住民党は一〇八、九八七票︵一一・八%︶獲得したが、ナチスは一七九、六六〇票︵一
九・五%︶獲得した。農村住民党は一九二九年の一二月における州議会選挙と比べて、二三、○○○票ほど喪失した
のであった。
が ナチスによる農村進出においてこの時期重要な役割を演じたのは、村の居酒屋と村学校の教師であったようである。
この間の選挙戦を総括したテユーリンゲン農村同盟の機関誌に掲載されたヴァイマルの支部からの報告は興味深い。
66 (3 。103) 947
︵閃﹃Φ一①昌じU2D賃Φ﹁づ鋤⊆︷h﹁Φ一Φ﹃ω070=Φ一︶というスローガンを強調した。一九三〇年七月に国会が解散されて、選挙戦が
抗してテユーリンゲン農村同盟はナチスの綱領を﹁社会主義的綱領﹂とみなし、﹁自由なる農地に自由なる農民!﹂
を各農村において展開する。そこにおいてナチスはテユーリンゲン農村同盟を﹁階級の敵﹂として攻撃し、それに対
一九三〇年の五月の段階からナチスは、同盟の相手であるテユーリンゲン農村同盟を激しく批判するプロパガンダ
三
説
弘
両冊
﹁我々は、・なぜテユーリンゲン農村同盟が我が村にいるたくさんの教師たちの、党利党略的な活動に関わる態度に
対して、何ら措置をこうじなかったのか、不思議でならない。教師が自分が正しいと思う政治的意見をもつのは当然
のことだ。しかし、忠実な農村同盟員で、歳食った我々農民には、教師がとくにナチスのために行うその宣伝のやり
方が、だんだんと悩みの種になってきている。︵⋮⋮︶我々のところでは、たくさんの教師たちが今ではいつも居酒
屋︵︵甲餌ωけく﹃凶﹃けωOげ9hけ︶に入り浸って、ナチスのためにアジテーションを行っている。学校に通っている生徒を子供に
持つ農民がいるが、彼らは、子供たちの身に何も起こらないように、教師のご機嫌をとるためにもナチスびいきであ
らねばならないと考えている。いずれにせよ、そうした向こう見ずなナチの教師らを通じて平和と民族共同体が我が
も 村 に も たらされるようなことはな い の だ 。 ﹂
ナチスの農村への進出の一端がここからも垣間見られよう。
既に述べたように、﹁ナチスの農民獲得運動が全国規模で組織的に本格化するのは、一.九三〇年の秋以降である。
R・ヴァルター・ダレー︵幻麿ぐ弔①山けゴ①噌H︾曽﹃﹁ひ︶によって、農村同盟を﹁内部から征服する﹂ないしは﹁きれいにする﹂
という方針が出され、テユーリンゲンにおいても、ナチスは農村でのアジテ円ションと並んで農村同盟員の獲得とそ
れによって﹁内部から﹂テユーリンゲン農村同盟を征服しようと試み始めるのである。こうした方針は当初極秘で
あったはずであったが、実は興味深いことにテユーリンゲン農村同盟はこの方針を翌一九三一年一月に機関誌上にお
いてすっぱ抜いて、これに対して警告を発するとともに、各地域の幹部たちの集まりで最高議決機関でもある代表者
会議︵<①二半gΦ昌ωヨ9、巨①疑①﹃ω僧ヨ巨ロコひq︶の名のもとで、すべての会員に対して、テユーリンゲン農村同盟に対する
忠誠義務を要求したのである。以降、この会員に対する忠誠義務は、拘束力を持ち、テユーリンゲン農村同盟並びに
その指導者に対して敵対行動をとった会員は除名されることになった。この会員に対する忠誠義務こそが、結果的に
66 (3 ・104) 948
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
いえば、ナチスのテユーリンゲン農村同盟への浸透を抑える、制度上における重要な役割を演じることになるのであ
る。
事実、ダレーの側近でガウ・テユーリンゲンのナチスの農業専門顧問︵︼U鋤昌α♂<一﹁什ωOげ鋤hけ一一〇げΦ﹁ ﹁四〇げσΦ﹃鋤けΦ﹁︶であ
るルドルフ・ポイカート︵幻二匹○一︷ ]℃Φ二〇評Φ﹁け︶は、元々青年農村同盟の会員であったが、一九三一年一月に﹁農村同
お 盟の指導者に対する反抗並びに冒漬によって﹂除名されているのである。
こうした状況において一九三一年三月三一日にドイツ社会民主党の不信任決議案がドイツ国民党︵U①三ω畠Φ
お <o涛ω窓詳Φ一︶の協力によって成立し、その結果、州政府は退陣し、テユーリンゲン農村同盟とナチスとの州政府レ
ロ ベルでの同盟は終焉を迎える。ナチスはその責をテユーリンゲン農村同盟に求めて﹁最も激しい闘争﹂を宣言し、こ
れ以降、ナチスによるテユーリンゲン農村同盟への攻撃はさらに激しさを増すことになる。
こうしたナチスとテユーリンゲン農村同盟との競合は、一九三一年=月における農業会議所の選挙戦において一
つの頂点を迎える。従来の研究において、ナチスはこの農業会議所選挙での勝利を通じて農村同盟内への浸透を一層
あ 強めることになったことが強調されている。確かに、ナチスは農業会議所での勝利を通じて全国農村同盟内部での発
め 言力を強めて、それによって、全国農村同盟の第四議長のポストを新設させてこの掌握に成功したのは事実である。
しかし、テユーリンゲンにおいては、結果的には、ナチスは大敗しているのである。この選挙においてテユーリンゲ
ン農村同盟は﹁農業会議所を州議会にするな﹂というスローガンのもと、農業に関する専門的知識を有する農村同盟
ヨ 系の候補者を農業会議所のメンバーに選ぶように再三再四訴えている。その結果、テユーリンゲン農村同盟は、七五
議席︵六三・五%︶を獲得し、その一方で、ナチスは三六議席︵三六・○%︶にとどまった。その際、ナチスが
テユーリンゲン農村同盟の票より上回った選挙区はアルテンブルク︵﹀一8暮ξひq︶という大土地所有者が農用地面積
66 (3 ●105) 949
説
両冊
弘
比において高い比率を占めている地域と、アルシシュタット︵﹀﹃︼ρω什9α什︶という零細農民が農用地面積比で高い比
率を占めていた地域であった点は、テユーリンゲン農村同盟が中小農民主体の利益団体であったことを考えれば、と
りわけ興味深い。 . ﹁ 一
各地域の農村同盟内でのナチスによる浸透を背景として、.一九三一年=月以降なされた各州での農業会議所選挙
でナチスは勝利し、これを通じてナチスはさらに全国農村同盟内への浸透を噌層強めた、と従来の研究ではいわれ、
こうしたイメージが形成されてきたが、テユ肝リンデンに関していえば、このイメージは当てはまらない。この時点
においてもテユーリンゲン農村同盟は確かにナチスによる組織への浸透をくい止めていたといえよう。また、農業会
議所の選挙権は農場所有者並びに農業経営者にしかなく、農民青年や農業労働者並びに奉公人にはない。その意味で
も農業会議所選挙でのテユーリンゲン農村同盟の圧倒的勝利は、テユーリンゲンの地主経営者でもある農民が、ナチ
スに対して当時一線を画していたことを示すといえる。
こうした状況において、大統領選挙戦が繰り広げられることになる。そこにおいてテユーリンゲン農村同盟は政治
的に独自の路線をとることになるのである。以下ではその過程について概観していこう。
一九三二年三月掛二日に大統領選挙がなされることになったが、農村住民党がヒンデンブルク支持を打ち出す一方
お で、テユーリンゲン農村同盟はこれには同調せずに、鉄兜団やドイツ国家国民党と並んで、鉄兜団の第二団長である
デュス千国ベルク︵ハ﹁ゴ①O血O﹁一︶=Φωけ①﹃び①﹃ひq︶−を支持した。その一方で、テユーリンゲン農村同盟は﹁ヒトラーを選ぶ
お ものは、社会主義を選ぶ﹂というスローガンのもと、選挙戦を展開した。当時のテユーリンゲン農村同盟とナチスと
の関係について、ナチスのロベルト・ライ︵菊OσΦ﹃梓︼UΦ<︶は、次のように報告している。
﹁テユーリンゲンの民族社会主義には、主要な敵として社会民主主義者と農村住民党がいる。中央党やその他のブ
66 (3 ●106) 950
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
ルジョア政党並びに共産主義はテユーリンゲンにおいては副次的な役割しか演じていない。︵⋮⋮︶奇妙なのは、
む ︵⋮︶今日においても農村住民党がなおも非常に強大なことである。﹂
この時期におけるテユーリンゲン農村同盟内部における反ナチ的な雰囲気について、或る地方の郡農村同盟幹部は
或るナチ党員である全国農村同盟幹部への密告において次のように報告している。
﹁既に貴兄に申し上げましたように、私は今やナチ党員です。こうした移籍は南テユーリンゲン全土にわたって影
響を及ぼしました。その結果非常にたくさんの農民たちが農村同盟から脱退したがっています。私は新聞紙上で、引
き続き私が全国農村同盟の会員でテユーリンゲン農村同盟の幹部であることを公言しました。というのは、テユーリ
ンゲンでは農村同盟の指導者は同時に農村住民党の指導者でもあるからです。そしてナチ党は農民には原則的に認め
ら れ てはいないのです。
テユーリンゲンで根本的な変革がなされなければならないのなら、農民はそれを理解するでしょう。しかしながら、
ほ 農村同盟の会員であると同時にナチ党の党員であることはとても難しいことなのです。﹂
テユーリンゲン農村同盟内では、ナチ党員となってそのまま団内にとどまることが困難であった雰囲気が垣間見ら
れる。
66 (3 ●107) 951
一九三二年三月=二日における大統領選挙では、テユーリンゲン州全体で、デュスターベルクは=二〇、一八九票
O・二%︶、ヒンデンブルクは三四三、二三六票︵三四・七%︶、ヒトラーは三三三、四二一票︵三三・七%︶で、
れ 誰も過半数をとることができず、結局第二回投票へと持ち越されることになった。シュタットローダ︵ωβαqo9︶
農民の勢力がとりわけ強い地域であったことは興味深い。
並びにルドルシュタットという地区ではデュスターベルクがヒトラーをわずかながら上回っていた。ここでは、中小
(一
説
払
荷冊
さて、第二回投票をめぐって、全国農村同盟がヒトラー支持を表明する一方で、テユーリンゲン農村同盟は全国農
村同盟の決議並びに中央の指導部を激しく機関誌上で非難し、﹁全国農村同盟の決議は社会主義者である候補者への
党利党略的な支持表明を意味する﹂と公然と批判した。そして、テユーリンゲン農村同盟は、ヒンデンブルク支持を
お 打ち出した。第二回の大統領選挙戦では、テユーリンゲン農村同盟はさらに激しくナチス、とりわけヒトラーを攻撃
するのである。テユーリンゲン農村同盟はヒトラーの大統領就任を﹁ヒトラー独裁﹂とみなし、﹁社会主義の大統領
れ などまっぴら御免﹂、なぜなら﹁社会主義は農民の敵﹂だから、というキャンペーンを展開した。ここでも再度彼ら
は、ヒトラーの社会主義的側面を強調したのである。
こうしたテユーリンゲン農村同盟の反ナチス的態度を当時のナチスは次のように評している。
﹁テユーリンゲン農村同盟は決議でなされた次のような主張に基づいて、反ヒトラーの選挙戦を行ってきているの
だ。すなわち﹃社会主義はいかなる形であれ、われわれ、自らの農地によって立つあらゆる自立農民にとっての、墓
堀人である﹄と。これらすべては、テユーリンゲン農村同盟がアードルフ・ヒトラーをテユーリンゲンの農村住民の
なかでおとしめようという、一見にして明らかな意図のもと、なされているのだ。アードルフ・ヒトラーの社会主義
をマルクス主義の一種としてみなすことは、我らが総統を最もおとしめることになる。﹂
一九三二年四月一〇日になされた選挙ではヒンデンブルクが多数を制したが、テユーリンゲン州では、ヒトラーが
四二七、五八三票︵四五、○%︶を獲得し、ヒンデンブルクの三九二、四五〇票︵四一、三%︶を上回った。こうし
た選挙結果を受けてテユーリンゲン農村同盟は以下のようなコメントを発表した。
﹁ヒンデンブルクの勝利は、彼個人の勝利であり、また、とりわけヒトラーのような社会主義政党の党指導者擁立
に反対する抵抗である。﹂
66 (3 ・108) 952
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
パーペン内閣が成立した一九三二年六月以降、農業恐慌が一層過酷なものになり、さらには外国産農産物の輸入割
れ 当制の導入をめぐる問題が当時の政策課題に登場するや、テユーリンゲン農村同盟の主要な敵は、ナチスだけではな
く、輸入割当制の導入を阻む工業界、特に重工業界を含む輸出産業界となっていった。しかも、一九三二年七月にお
ける国会選挙並びに州議会選挙をめぐって、テユーリンゲン農村同盟は農村住民党と関係を断絶し、国会選挙では再
び彼ら独自の候補者リストを作成し、ナチスにも他のブルジョア政党にも合流することなく、その政治的自立性を維
れ 持した。この時期におけるテユーリンゲン農村同盟についてガウ・テユーリンゲンのナチスは報告書の中で、次のよ
うに報告している。
﹁テユーリンゲンは主として農業地域である。︵⋮⋮︶現にテユーリンゲンは農村住民党の故郷であり、この政党が
テユーリンゲンでは大統領選挙まで、たとえそれを契⋮機としてバラバラになったとしても、政治生活において絶大な
権力を有していた。それ故、ナンバー・ツーの農民候補者を当確ラインまでもってくることは、政治上絶対に必要で
ある。こうした措置はテユーリンゲンにおける先の大統領選挙での決定的ともいえる農民票を確保し、かつさらに新
お たな票を獲得する前提である。﹂
ここでいう農村住民党が実際にはテユーリンゲン農村同盟そのものを指すことを考慮するならば、この時期まで
テユーリンゲン農村同盟はナチスにとって農民票を奪い合う主要な政敵であり、政治的自立性を依然として保ってい
たことがわかる。
一九三二年の七月の国会選挙ではテユーリンゲン農村同盟は、五四、五九三票︵五・七%︶も獲得し、一人を国会
に送り込むことに成功した。州議会では七七、六七八票︵八ニニ%︶も獲得し、中小農民主体の八つの選挙区で一
○%以上を獲得した。同時になされた州議会選挙で八・三%も獲得したことは、テユーリンゲン農村同盟がなおも農
66(3●109)953
説
両冊
弘
民の支持を得ていたことを示すものといえよう。また、同時になされた国会選挙と州議会選挙で州議会選挙の方が約
三%ほど得票率を上回ったということは、テユーリンゲン農村同盟支持者の投票行動が決して単純なものではなく、
少なくとも三%はテユーリンゲン農村同盟を全国レベルでは支持しないが、州レベルでは支持するといった二重の基
準があったことがわかる。ここからもテユーリンゲン農村同盟支持者の帰属意識の多様性を指摘できよう。
一九三二年秋以降、テユーリンゲン農村同盟はナチス批判よりも、政府の通商政策批判にその重心を移すことにな
お る。=月の国会選挙においては、従来のナチス批判は影を潜め、むしろヴァイマル政党制そのものへの攻撃がなさ
が れる。そこでのスローガンは﹁政党など排除せよ!﹂︵毛Φひq9Φ勺費什Φδ5一︶であった。その代わりに職能身分による
り 代表制を主張していた。選挙の結果、五九、四九四票︵六・五%︶獲得し、その政治的自立性を保つとともに、支持
票も若干増やすことに成功した。テユーリンゲン農村同盟の会員数が約四万人であったことを考慮すれば、基本的に
テユーリンゲン農村同盟はヴァイマル末期においてその基礎票ともいえる四万票を選挙で下回ることはなかった、と
いえる。確かにドレッセルがいうように、テユーリンゲン農村同盟の支持者は組織に対する政治的忠誠を選挙では保
の 持していたとはいえるであろう。その一方で、ナチスはテユーリンゲンにおいて約八万票も喪失した。
の 一九三二年一二月に農産物価格がテユーリンゲンにおいても最低を記録するや、テユーリンゲン農村同盟は複数の
通商条約の破棄と輸入割当制の導入を、新たに組閣されたシュライヒャー政府並びに全国農村同盟に対して要求する。
さらに、一九三三年一月には、テユーリンゲン農村同盟は中小農民主体の他の農村同盟と会議を開き、酪農畜産物を
はじめとした農産物の保護を政府が早急に行うように、全国農村同盟指導部が仲介するよう要求していたのである。
シュライヒャー内閣の失脚の要因ともなった全国農村同盟指導部によるシュライヒャー政府への激しい政府批判の背
景には、テユーリンゲン農村同盟をはじめとした中小農民主体の農村同盟の下からの圧力が存在していたのである。
66 (3 ●110) 954
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
四 強制的同質化過程におけるテユーリンゲン農村同盟
さて、こうした危機的な経済状況において、一九三三年一月三〇日にヒトラーが首相に就任した。そもそもヒト
ラーの大統領就任はヒトラー独裁を招くとして、さらには社会主義者ヒトラーの大統領就任など﹁まっぴら御免﹂と
彼が政治的指導権を掌握することに対して反対してきたテユーリンゲン農村同盟はいかなる態度を示したのであろう
か。一九三三年二月一日にテユーリンゲン農村同盟はその機関誌上においてヒトラー内閣についてのコメントを発表
した。それによると次のような内容であった。
﹁シュライヒャー内閣の失脚は、この間の出来事からすれば、何ら驚きはない。少し前、ハルツブルク戦線が接近
しているということを耳にはしたが、それにもかかわらず、ヒトラーの首相就任は一つの敬馬きである。︵⋮⋮︶祖国
を愛し、マルクス主義には同調しないドイツ人すべてが、再建とドイツの名誉並びにその防衛のために達成せねばな
らない目標こそが、内部での力強い結束を伴ったあらゆるナショナルな諸団体の統合であった。一党による統治は、
ドイツにおいては、決して長続きはしないであろう。あらゆる行為やあらゆる部門の占有は、国家のためにこそなさ
れねばならない。そこでの行為や部門の占有によって党利党略的な印象が生じるようなことがあってはならない。そ
れこそが、農村同盟の思想なのだ。こうした意味において我々は、常に望み続けたナショナルな統合を深く心より歓
お 迎するものである。﹂
ここで興味深いのは、テユーリンゲン農村同盟はヒトラーの首相就任をコつの驚きである﹂と述べ、しかもナチ
スによる一党支配に対して警告を発していることである。また、確かにヒトラー内閣を歓迎してはいるものの、それ
66 (3 ●111) 955
説
払
百冊
は隅その構成がナチス一党による部門の独占ではなく、ナショナルな諸勢力の統合による内閣の構成、すなわち内閣
の右翼による連合体約性格を歓迎しているのであって、決して七トラーの首相就任その為のを支持している訳ではな
い点に注意しなければならない。ヒトラーの首相就任とナショナルな統合による右翼連立内閣の成立とは必ずしも同
じでねないのである。以上から、ドレツセルのようにヒ小ラーの首相就任がテユーリンゲン農村同盟内部で﹁最大級
お の賛同﹂を見出した、という結論を導き出すには明らかに飛躍があるつ
事実、このようにヒトラ薄の首相就任をコつの驚きであ乃しと評し、かつナチスの一党支配に対して警戒する
テユーリンゲン農村同盟億一九三三年三月の国会選挙においては、ナチスではなく、ドイツ国家国民党や鉄兜団そし
てパーペンら保守勢力が作った﹁黒白赤戦線﹂︵囚白目鼠ヰ8けω9≦碧N・≦Φ一ゆ40什︶に加わった。しかもこの選挙リ
ストにテユーリンゲン農村同盟はハその同盟員である六名の名前を盛り込んだのであった。選挙の結果は、テ4ーリ
ンゲンにおいて﹁黒白赤戦線﹂は一二五、九五三票︵一二・四%︶獲得した。その一方で、ナチスは四八三、〇二六
お 票︵四七・六%︶獲得した。テユーリンゲン農村同盟はこの選挙結果を﹁国民的勝利﹂︵Zロ鉱。昌巴2ω一①ぴq︶と位置づ
けた。
この﹁国民的勝利﹂を背景に一九三三年三月二三日に全権委任法がライヒ議会において可決されるや、確かに
テユーリンゲンにおいても、ナチスによる一党支配並びにナチス以外の政治団体や議会の解散を求める声が、市町村
め レベルでナチ党員によって叫ばれてくる。しかし、こうした例はわずかながら史料的に確認できるにすぎない。にも
かかわらず、この時期テユーリンゲン農村同盟は、それまでの反ナチないしはナチスとは一線を画してその政治的自
立性を保つという態渡を、その指導部並びに地方の幹部の方から一方的に放棄し始めるのである。残存する史料から
判断して、テユーリンゲン農村同盟は、ポメルンにおけるドイツ国家国民党のように、ナチスによって暴力的な攻撃
66 (3 ●112) 956
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
を受けてもはや組織としての存立が困難、といった状態にはなかったようである。また、テユーリンゲン農村同盟内
部にナチスが浸透して、ついに指導部がナチスに征服されたというわけでもない。ところが、それまでナチスの内部
への浸透を積極的にくい止めてきたはずのテユーリンゲン農村同盟指導部並びに地方幹部の方が、この時期、それま
での態度を一変しナチスへの同化政策を積極的に押し進めるのである。しかしながら、その直接的な理由については
残念ながら現在の史料状況では不明である。恐らくは、彼らの機会主義的ないしは日和見的な態度から由来するとも
考えられるが、ここでは、彼らがこの時期いきなりナチスの諸要求に一方的に屈服していったことを、まずは確認し
ておこう。
こうした状況において、ついにガウ・テユーリンゲンのナチスはテユーリンゲン農村同盟に書簡を送り、そこにお
いて農村同盟が議会に自らの代表を送るのを放棄し、さらには自らの政治的団体をも放棄すること、しかもその第一
並びに第三議長はナチ党員によって占められること、各地域の郡農村同盟に至っては、第一議長の少なくとも半分は
ナチ党員であること、最後に農業会議所は解散され、ナチスと共同のリストを作成し、選挙を行わないこと、が要求
された。こうした一方的な要求に対して、テユーリンゲン農村同盟は、﹁歓迎し﹂これを受け入れたのである。以上
の のことは、四月一日付けの機関誌上において公表された。こうしてテユーリンゲン農村同盟は瞬く間にナチスの軍門
に下ったのである。その結果、テユーリンゲン農村同盟の第一議長にナチスの農業専門顧問ポイカートが就任した。
ナチスの要求どおり、第一、第三議長はナチスが占め、第二議長はテユーリンゲン農村同盟の幹部が残留した。各地
チ党員によって占められることになった。その際、定款を改訂し、ナチ党員でテユーリンゲン農村同盟を除名になつ
域の郡農村同盟も例外なく、最終的に第一議長︵正式には郡農民指導者[内﹃Φ凶ω冨口①﹁艮警お昌︶の地位はすべてナ
わ たものも再入会できるようにした。ナチスのテユーリンゲン農村同盟への組織的浸透を防いでいた除名規定をついに
66 (3 ●113) 957
論説
ナ チ ス は撤廃できたのである。
そして一九三三年五月テユーリンゲン農村同盟の議員団は州議会において次のような声明を読み上げた。
﹁テユーリンゲン農村同盟は統一事業という点でその政治的使命を果たしたという判断から、一九三三年三月二九
日にその政治的中立を公表しました。︵⋮⋮︶こうして内部からなされた和解によって、テユーリンゲン農村同盟の
お 議員団はこれをもってナチ党の議員団へ併合されるのであります。 ︵ナチス側からブラボー︶﹂
こうして一.九三三年五月二日、州議会におけるテユーリンゲン農村同盟の議員団はついにナチスに併合され、その
政治的自立性を喪失し、ナチスに同化されたのである。
しかし、既に述べたように、こうしたテユーリンゲン農村同盟のナチスへの同化はその指導部並びに地方幹部のイ
ニシアチブによってなされたものであって、残存する史料から判断するならば、その一般会員からの下からの突き上
げによってナチスに屈服したものではないようである。というのは、テユーリンゲン農村同盟がナチスによって﹁占
ハが 領﹂された、後、同盟内部でこれに対する多くの不満が生じていたからである。ここではハアイゼナッハ
ヨ①昌鋤Oげ︶の郡農村同盟の緊急総会の模様を紹介することにしよう。
一
部会選挙の法的重要性を力説したうえで、次のように語ったという。﹁同盟に再び定款に沿った秩序だった指導を付
挙をめぐる総会での紛糾を前にして、留任が決まっていた事務局長であるエーベル︵白餅隣国び巴なる人物は、幹
らはナチ、ス主導の幹部会役員リストを支持し、これを認めるように、威圧的に会員に迫っていたのである。幹部会選
ヴァイステ︵︾﹁昌O一ユ ぐく①一ω叶①︶なる人物をそのまま留任させるように要求したのに対して、旧来の郡農村同盟の幹部
・して、何人もの会員が異議を唱えて、総会で意見対立が生じたほどであった。とくに何人かの会員が前第一議長の
そこでは、幹部会役員の改選がなされたが、幹部会側が提出したナチス主導の幹部会役員リスト︵表3参照︶に対
(】
66 (3 ●114) 958
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
\
表3 アイゼナッハ郡農村同盟幹部会役員改選リスト
()内前任者名
第一議長 カール・ハウプト (アーノルド・ヴァイステ)
第二議長 アーノルド・ヴァイステ* (アウグスト・ヘルムボルト)
第三議長 カール・ラインハルト* (アルフレート・ギーゼ)
第一副議長 ブルクハルト・フォン・ボイネベルク(ハインリッヒ・ホイヒェル)
第二副議長
アルフレート・三軸ゼ*
(P・カイザー)
第三副議長
ハインリッヒ・ホイヒェル*
(カール・ラインハルト)
P・ヤンソン*
(エミール・ホーマン)
同
(P・ヤンソン)
同
P・フォン・レーマー
アウグスト・ヘルムボルト*
同
オスカー・ニーブリング
(アウグスト・ニーバーガル)
事務局長
ヴァルター・エーベル*
(ヴァルター・エーベル)
与するためにも、選挙は無条件になされなければならない﹂と。その
後、前第一議長ヴァイステとナチ党員の次期第一議長ハウプト
i四日目 国鋤二”叶︶との合意がなされているのかどうかということが争点
結局、改選リストは紆余曲折を経て、賛成三三、反対二、保留五で承
に抗議して会場から退場するという事態さえ生じていたのであった。
が幹部と衝突し、その結果多くの会員がもはや討論に参加せず、幹部
烈な対立が繰り広げられた。しかも、役員リストに反対する一般会員
類似の現象が確認できる。そこでは、幹部会役員リストをめぐって熾
いったテユーリンゲ.ン農村同盟の勢力がとりわけ強かった地域では、
対立は、各地でも見られた。たとえば、カムブルク︵O餌ヨび霞ひq︶と
ナチス主導の幹部会役員の選挙リストをめぐる一般会員と幹部との
されたのであった。
あ 加者に与えたという。その結果、幹部会役員リストは全会一致で承認
く、ただ単に仕事に取り組むことこそが肝要﹂であるという印象を参
ると、彼の発言は﹁彼にとって、農村同盟でポストを担うことではな
になり、そこでついにヴァイステが発言した模様である。議事録によ
(一
認されたが、当初の出席総数が六〇であったことを考えるならば、半
数ぎりぎりで承認されたにすぎなかったのである。旧来のテユーリン
66 (3 ・115) 959
(アドルフ・キルヒナー)
幹部会委員
出典:ThOringisches Staatsarchiv Gotha, Th豊ringisches Amtsgericht Eisenach, Nr.16,
BIL33 u39f.*の印は幹部会役員留任を指す。
説 ゲン農村同盟の指導者並びに郡農村同盟幹部がナチス主導下の指導体制を押し進め、これに対して一般会員の農民が
論 反発していたことは、ナチスと農民との関係を考えるうえで、我々に興味深いもうひとつ別の農民像を提示してくれ
るのである。
は自らナチスに屈服し、テユーリンゲン農村同盟のナチスへの同化において重要な役割を果たした。この背景には、
トはナチスと競合し、その政治的自立性を維持して、ナチスへの屈服を防いできたが、強制的同質化の過程において
れは時期的に分けて論じる必要があり、一九三三年の三月以降にはじまる強制的同質化以前では、地方の農民エリー
のナチスの浸透を防いだのも彼らであるし、またナチスへの同化を推進したのもまた彼らであった、と。しかし、こ
方の農民エリートの役割は、二重の性格を帯びていたことが指摘できよう。つまり、テユーリンゲン農村同盟組織へ
し進めた張本人だったことをも示すのである。それ故、テユーリンゲン農村同盟のナチ化という点において、彼ら地
彼ら地方の農民エリートが、強制的同質化の過程でみせた行動は、逆に彼らこそが、農村同盟のナチスへの同化を押
には、ナチ党員による農村同盟内部への浸透を防ぐために、会員全員に対して忠誠義務を課したのも大きい。しかし、
ある地方の農民エリートが果たした役割は無視できない。彼らが率先して、ナチスの﹁社会主義性﹂を強調し、さら
テユーリンゲン農村同盟が強制的同質化によって屈服するまで防ぎ得たのは、その指導者ならびに郡農村同盟幹部で
確かに、ナチスによるテユーリンゲン農村同盟への浸透並びにそれによる内側からの征服といったナチスの目標を、
結
66 (3 ●116) 960
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
彼らの機会主義的・日和見的態度を指摘できょうが、何よりも、テユーリンゲン農村同盟並びに各地域の郡農村同盟
内部の権力構造において、トップの座をナチスに渡しても、自らは新指導体制のもとでは、ナンバー・ツーの位置の
り 確保ないしは幹部会での残留がナチス側によって約束されており、こうした権力構造上のナチス側の配慮も少なから
ぬ影響があったのではないか、と考えられる。それ故、ヒトラー政権初期における地方の農業界の権力関係は、確か
に指導権はナチスに握られたものの、基本的には旧来の農民エリートの多くは権力構造から排除されてはおらず、指
導権をナチスに委ねる形でのナチスと旧来の農民エリートとの提携関係であったといえよう。テユーリンゲンにおい
ては、ナチスがすべての権力の座を占めたわけでも、旧来の農民エリートがナチスに鞍替えして、顔ぶれは変わらな
かったわけでもなく、ナチス指導のもとで両者が提携した関係にあったといえる。
それに対して、一般会員である農民が農村同盟のナチスへの同化に受動的に従ったわけでも黙認したわけでもなく、
かなり反発していたことは、彼ら農民の政治的﹁保守性﹂を示すとともに、ナチスの﹁社会主義性﹂に対する疑念が、
中小の農民レベルでは、かならずしも払拭されていなかったことをも示唆しているといえよう。戦時並びにドイツ革
命期における統制経済を﹁国家社会主義﹂と捉え、﹁自由なる農地に自由なる農民﹂といったスローガンのもと、
テユーリンゲン農民は、或る意味ではこのスローガンに最後まで忠実であったといえるかもしれない。彼らは、自由
なる土地を侵しかつ統制経済の悪夢を再現しかねないナチスの﹁社会主義性﹂に対して、テユーリンゲン農村同盟の
終焉まで、懐疑の念を持ち続けたとも指摘できよう。いずれにせよ、ヴァイマル共和制末期におけるテユーリンゲン
農村同盟の軌跡は、農民とナチスとの関係を考える際、従来シュレスヴイッヒ・ホルシュタインだけから抽出された
農民像とは、およそ異なるもう一つ別の農民像を我々に示してくれているのである。
しかし、以上見てきたように、テユーリンゲンではヴァイマル共和制末期において農民が相対的にナチスに対して
66 (3 ●117) 961
一線を画していたとすれば、一体農村部ないしは農村での誰がナチスを支持していたのか、が問題となる。テユーリ
ンゲンにおいても︵農村部におけるナチスの選挙での躍進ぶりは目を見張るものがあるが、地主経営者である中小農
民がその主たる支持基盤ではないとすれば、考えられるのは、地主経営者ではない青年農民や農婦及び兼業の零細農
民の他に、農民以外の農村住民、例えば農業労働者、奉公人、職人、失業者、村の工場労働者ということであろう。
これまで﹁農村部のナチ感受農民のナチ化﹂というように農村部でのナチスの躍進をそのまま無批判に農民のナチス
支持とみなしてきた従来の視角こそが相対化されなければならない。この意味で、﹁農村︵部︶11農民﹂といった考
えに基づいた﹁農村部のナチ化11農村のナチ化一農民のナチ化﹂といった三位一体的な捉え方を、或る程度、相対化
することがここでのささやかな目的の一つであったが、以上のことを最後に強調して本稿を締めくくることにしよう。
*本稿は、筆者が一九九八年九月に日本学術振興会に提出した﹃︵平成八年度︶海外特別研究員最終報告書﹄所収の、
内‘ヨ舜。謬ρZき匹”U①﹃目げ母一ロ嚇9U目口αび⊆づαぎ自粟国昌αロゴ霧①,畠9二巴ヨ霞臼閃8⊆呼野・d耳臼げΦωoコα巽2じd①昌島・
66 (3 ●118) 962
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が、農民が支持基盤の一.つであったことは依然として共通の了解である。参照、木村靖二・﹁山田欣吾・成瀬常設﹃世界史歴史大
︵1︶ もっとも最近では、ナチスの投票者が一部には労働者層にもおよぶ国民政党的広がりをもつ、ていたことが指摘されている
る。この場を借りて、日本学術振興会並びに関係者各位に厚く御礼申し上げる。
いβ。巳く。一言9。二虫︵ζ鋤ωOゴ一〇昌Φ鵠ω07円一︷けH刈Q◎・ω①一け①昌⊥1 ︶︵︶︵<自︶に基づき、その一部を加筆・訂正し、訳出したものであ
ω幽
説
肖冊
訟
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
系ドイツ史 3﹄山川出版社、一九九七年、一八一頁。
︵2︶ ルドルフ・へベルレ︵中道寿一訳︶﹃民主主義からナチズムへーナチズムの地域研究一﹄︵新装版︶御茶の水壷旦房、一九八九
年。
︵3︶ わが国の最近の代表的な研究をあげると、中村幹雄﹃ナチ党の思想と運動﹄名古屋大学出版会、一九九〇年、豊永泰子
﹃ドイツ農村におけるナチズムへの道﹄ミ.ネルヴァ書房、一九九四年。シュレスヴィッヒ・ホルシュタインにおける農民ではな
く、農業労働者についての最新の研究については、足立芳宏﹃近代ドイツの農村社会と農業労働者1︿土着﹀とく他所者﹀の
あいだ一﹄京都大学学術出版会、一九九七年を参照。この作品では﹁農村11農民﹂といった従来の分析視角が相対化されてお
り、本稿は多くの示唆を同書から得ている。
︵4︶例えば、ニーダーザクセン州におけるナチスと農民との関係について、日常史からの研究としては、ζ⇔爵①r U①三Φ再
Z讐一〇づ巴ωo臥巴一ω臨ω6ゴ①﹀αq﹁胃bo澤貯⊆”血・bd鋤⊆Φ自白一8ひq℃閃鐙コζ二詳鋤・一≦・\Z①≦磯○蒔一㊤㊤①がある。ポメルンについては、
しd費彗○≦ω箆噂ω冨=2”Ooコ︿臼αq魯80昌9①霊σq窪・﹀σq鑓ユ①コ日詳①菊①島$=ω日①づ血Z①臥℃8巳冨∋貯勺。∋ヨ興P一㊤卜。。。山ω﹂⇒ ︸8①ρピ鷲憂国二ひq①口Φ\冒∋①ω菊Φ冨=8貯od簿≦①2菊①8﹃日”幻①霧賦8①己殉①ω毎磐6Φ QDε臼①ωぎ普①田ω8﹁︽o︷O臼∋碧
08ω①署自。辞圃ω重壁。ヨ嵩。。㊤け。一三9軍。︿こ98\○改oa一8ω︺oD.お?おト。唄U陣Φω“Oo馨ぎ三な四民08鉱昌αq窪2⋮﹀αq8ユ彗国澤①ρ
OoコωΦ﹁<讐貯①ぎω葺二二〇口ω鋤コ匹山勘斡日げ壁ぢζ○α①∋O①﹃ヨ負。コ=凶20蔓﹂旨ωoo凶賊国凶ω8﹁ざく。=N︵一㊤。。刈アω・N。。叩G。O。。●並びに
伊集院立﹁ドイツ.農村の変容とナチス ーポメルンにおけるナチスの農村労働者政策1﹂﹃社会労働研究﹄︵法政大学︶第四四
巻第三・四号︵一九九八年︶、一−七八頁が最近の成果である。また、ヴァイマル期全般におけるプロテスタントの村落共同体
におけるオピニオンリーダーと政治的意志形成について考察した勺旨P∼<2ヰ①嚢Uoほσq①日①ぎωo﹃通津ニコ匹℃蒸け①昼。一凶叶貯一㊤一。。−
一㊤ωω・日①<Φ﹁ωoぼ雪評⊆昌αq<8]≦≡2⊆コα℃費8凶2ぎ亀2肩08ω一己づ二ω99い①コ創ひq9駒①8づU2富〇三碧自ωぎα①﹁ミ虫ヨ自。﹁Φ﹁
菊①薯げ=犀︵巨コ地主ひq”UO﹁hひq①日①3ω9鷺け︶℃U⇔ωω巴αo臥一㊤㊤①は当該テーマに関する最近のとりわけ貴重な成果である。
︵5︶ 村瀬興雄﹃ナチス統治下の民衆生活1その建前と現実1﹄東京大学出版会、一九八三年、豊永、前掲﹃ドイツ農村におけ
るナチズムへの道﹄第九章並びに参照、井上茂子﹁ナチ体制下のカトリック教徒 ーナチズムに対する相対的に高い﹃免疫性﹄
についての一考察1﹂﹃キリスト教史学﹄第五一集︵一九九七年︶、二六−四六頁。また、バイエルンの地域研究としては、
ジェフリ・プリダム︵垂水節子・豊永泰子訳︶﹃ヒトラー権力への道ーナチズムとバイエルン 一九二一ニー一九三三年一﹄時事通
信社、一九七五年を参照。
66 (3 ●119) 963
論説
︵6︶・ピータの分析対象がまさにこれに該当する。<伽q一・勺旨g。、Uo味σq①ヨ①ぎω6ゴg。津
︵7︶・選挙区を・都市部と農村部と・に簡単に分.けた当時の選挙結果をもとに、農村部での.ナ.チスの増大で.もってこれを農民のナチ
ス支持とア・プリオリにみなしている典型として、ギースを指摘できる。<σq一●O凶①ρ=oおけZωU>勺ロ巳冨巳垂準。・6冨津一圃にゴ。
︵10︶
OδρZQ◎U>担ω●ω朝潔尊℃旨ρUo﹁hoq①§oぎ9記法ψωαω津 伊集院︽前掲﹁ナチスと農村同盟の地域支配旨中村、前掲
同論文、七九頁。
︵81︶ 国げ①昌α鋤︾ω﹄一一・
︵71︶ 国びO昌α鋤uωμNω。
︵評O昌h自σq”]︾い一W︶讐竃鋤αq凶ω梓O﹃口ρ﹃σO一ρ一Φ昌鋤H㊤O⑦︵7一ω︶℃Q∩●H卜ON・
︵61︶ 一︶噌①ooω①一︾O面一α9一︶Φ﹃↓げ曽﹁陣昌oqO円ピ①昌αぴ⊆昌α一㊤bの刈−目OωQQ・ ﹀σq円鋤ユωの7①一づ梓Φ﹁①ωω①コ<O﹁q①け=昌αq①二︷ユ①∋ぐく①αq一昌ωUユ簿①菊O凶Oゴ
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︵15︶ UO∋げ①随§糟﹀昌ユ﹁①90ω”い9昌α≦・四這ω6ず僧置注昌α昌餌鉱O白雪ωON一号一ωユω67Φ﹂♪αQ﹃9趨O一剛ユ詳岡目同ず口﹁ぎσqO戸ぎ“一︶O尋①一∋噂﹀昌匹﹁①四ω\
︵41︶ 勺︽けP一︶O臥σqΦ∋O一5ωOげ僧hけ噌ω●ω①轡
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︵13︶ 旨O鵠Oρピ僧﹁岩国鳳ぴqΦコ①“○甑ω陣ω昌昌血幻⑦卯=αq昌ヨ①穿け︾σq﹃①ユ餌昌ωO一一昌侍①﹁勺①﹃臨①Oo陣屋件げ①い餌け①ぐくΦ一国”﹁菊①”亘げ一圃ρH㊤トの0◎i一㊤ωρ一巨
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党
の
思
想
と
運
動
﹄
第四章第四節、豊永、前掲﹃ドイツ農村πおけるナチズムペの道﹄第八章。
﹃ナチ
︵11︶
︵9︶ 伊集院立﹁ナチスと農村同盟の地域支配、一九三〇1一九三二﹂.﹃茨城大学教養部紀要﹄・第二〇号︵一九八八年︶、六八頁。
︵ 8 ︶ 足
立 、
前﹂掲﹃近代ドイツの農村社会と農業労働者﹄七頁以下。
N⑦詳伽qOωOげ一〇げけ①.一伽q﹄ω︵一〇◎oO︶矯ω臼bのω一一ら一・
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66 (3 ・120> 964
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
︵91︶ ζ①﹁評Φコ一〇げ鴇ω梓①冒げ鋤昌一①“O﹁⇔口①閃﹁Oコ↓σq①σq①口ぐ﹃①一ヨ①μ 菊Φ一〇びω−︼U鋤昌αげ⊆一匹⊆昌α餌ひq﹁鋤﹁一ωOび①﹁ピ○げげ︽一ω日二ω一㊤一QQl一㊤ωρ︼︶9ωω①学
αO﹁h一り㊤OQ℃ω・○○ωGQ.
︵20︶ ︼︶﹁.♂<①﹁⇒一〇評⋮U①噌一門プ⇔ユコσqΦ﹁︼じ⇔づユげ⊆コα︵評口口h江αq”]]UゆY一コ”↓ゴ⇔﹁一口ひq①﹁一動ゴ﹁げ二〇ゴH㊤トの①噂 [①圃ON圃σqOqこω.一Q◎’
︵21︶ 正確には、設立当時の正会員は三七、三四八人で、補助会員は九、一七三人であった。<αq一画bd二民①。・費6三<udΦ﹁一書︵巨鼠詳σq 一W>\一W①﹁一一口︶噸幻○◎Oω軽 一導フ馴﹃・心卜φ鋤博一W=・HO◎一−卜0目①.
︵22︶ 一︶凶Φ]﹂プ⇔噌一コσq凶ω6ゴ①ピ①昌α≦凶﹁けωOび90転け︵評O口h臨ひq”︼∪一Φ日.げO﹁●︼U鋤コα≦.︶︸ゴ噌ωひq・<・一︶﹁・ぐ﹃一一∋鋤コ⇒ω一ぐ﹃・︾自門樽①門ツ昌降≦一円評二づoq<.一∪噌.
093﹁けコΦき力。二昌島︼︶罫国●︸︿一①℃℃曽臼①コ鋤一㊤○ゆω導ω.×・
︵23︶ 設立に関しては、以下が詳しい。Uおωω①r日ピ炉ω・H弁白臼づ凶。ぎ日[炉ω・一。。即くαQピ毛価喜鋤ユω筈9N①津§σq”Z﹃.N霧<・H㊤●一P
一㊤一〇◎一一づ”︼W>\bdΦ噌=昌一幻OQOωら 昌℃7馴﹁b㊤刈ω.
︵42︶ <ひq一。︼︶一①σqΦωOゴ一∩ゴニ凶Oげ①一WΦαΦ⊆梓ニコσqαΦ﹁血①二併ωOプ①昌じ。鋤二Φ﹁コび①≦Φひq⊆口σq︾一瓢 ︼︶①﹁]写﹃O﹁圃コαq①﹁い①口騒げ口昌自︵障囲口︷ユひqH]]U一W︶矯7唄5
N①<.①.ω﹄㊤bQ幽一一づ⋮bd︾\切①﹁一一昌曽勾OoOωら HH鴇7咽﹃bり刈ω鴇bd=.一㎝O口引N①ゴコ︸90げ﹃Φ.︼9Φコ醤①昌≦一①N①ゴ昌一自ρげ吋ΦN¢円⇔6渥一一づ”↓一U一W博Z﹁﹂<.一㊤●一馳
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︵52︶ =Oh①5 国﹁昌ωけ 一︶一Φ ↓び⇔﹁一コひq凶ωOゴΦ い鋤づ鳥を一﹃樽ωOび鋤h戸 凶口”]りげ昏﹁一コぴq①コ●内二一肝二噌二づユ ﹀︻げ①凶樽 α①ω↓ずO﹁一コσq①﹁ ピ①=血①QD︼ゴ﹁ωαq●<’
しU①鳶騨①び○鋤﹁一\国﹁≦凶昌ω什Φ一づ︾一WΦ﹁一瞬旨一㊤N8ω.一〇QO.
︵62︶ O¢Φ=①⇒.N二﹁ ∩甲①ω6げ一〇び辞Φ ]リゴ⇔﹁凶コひq①コQ自.ぐ﹃①び一①コ 同旨α ﹀げω題目ヨニ旨ひqωΦ﹁σq①σP一ωω① 一㊤bφOI一㊤㊤切 ︵騨⇔コh餓ひq OO一門ゴ︿﹃﹀︶鴇ゴ﹃ωαq.<’
一︶﹁①ωω①一︼∩甲二一αO一国噌暁二﹁け一㊤りα噂QD.bQO旧一︶﹃Φωω①一℃]りい切噂Qo・一ωN
︵72︶ 一門ずO﹁一昌σq①昌⊆コ血ω①凶づΦmW辞①=⊆コσq一旨旨コ鳥N二ζ一け什①一切①=辞g厚Oず一口コ匹導<﹃①一欝⇔﹁一㊤NPωひω■.
︵82︶ ︵︸①ωωづΦき︼ワ一①辞①瞥﹀σq﹁鋤﹁匹①燭﹁①ωω一〇=⊆コ匹℃﹁93ω一山一白一﹁①ひq一①﹁=昌oq①づ一⇒︼︶①¢辞ωOび一動コ血一りGQOσ圃ω一㊤ωω● 勺﹁Oげ一①ヨ①鳥①ω﹀ひq﹁鋤噌℃﹁Oけ①貯−
ユO口駒ω∋⊆ω①∋国〃口匹①αΦ﹁ぐ弔①一ヨ餌﹁①﹁即①〇二げ=パ一一︶⇔ωω①一山O噌h一㊤刈高−Go●qQ一.
︵29︶ ヴァイマルのテユーリ.ンゲン中央州立文書館には、当時の税務署による詳細な農業経営者の所得調査の資料が保管されて
「る。約六割という数字はハ一九二七年から二八年にかけての所得.調査から筆者自身が導き出したものである。<ひq一.↓まユ亭
66 (3 ・121) 965
︵30︶ O①ωω昌①きU一①梓①﹁⋮﹀ひq門90﹁<①﹁げ93コ山①一口αΦ﹁箋①一∋鋤﹁①﹁カ①℃⊆げ=匠・ <﹃マ辞ωOげ9Ω︷菖圃Oげ①二吻血ωON一四一①<O﹁鋤二ωω①侍N=づσq①口引σq目9ρ﹁﹃Oロ・
ぴq一ω6びΦω踏⇔二〇蝕ω目印薗けω①﹁Oぽ周くぐ﹃Φ一己鋤﹁︵ア曽⇒h鉱αq ↓げ=QD辞﹀を︶一一︶①﹁○げ①﹁臣コ①口Nづ﹁9一ω一α①コ陣酒門﹃口円凶づひq①ローコ幻⊆鳥O一ωけ国α戸フ唄噌’N①躯●
論説
器署鋤鉱く臼勺。一凶二障く。吋H㊤ωω噛じ口頭。厩。﹁=O﹃伊ω●り。。.中村、.前掲﹃ナチ党の恵想と運動﹄二七五.頁。
︵38︶じdき①∋器69乞﹁.器︿﹄ω・N﹄りb。㊤︾ぎuロ﹀\じσ巴ぎ︾カ。。。ω=岡セ門●§♪じd一●H。。。・
=三〇β宣ωけ。甘60心uQり.さh︷・
︵37︶o蕾ン旨︾℃℃ω・ω戯ω罫O随①ωヒ。﹃ωけ\曾ω冨︿。○。ヨ抽︵痔・∀”セ⊆ε巳.bq&窪.、●寄馨三α旦。σq帯§α﹀αq噌悉無三江§ω富讐
。。旧切碧Φヨ耳凶Φひ登↓ピしd”Z二①<.φ①・6卜。。。噛Qっ・P . ‘ ・
︵36︶≦虫ヨ費凶ω990d碧Φヨびロ巳●Z鋤9αo﹃雪曇r>旨ω=①<①雲母⊆2ωヨ9、目9琶α竃律冨罵器量謬“↓いしロ”Z﹃●旨く﹄O・置O卜。。。導ω・
︵35︶Z巴8巴ω三三ω二8げ。寄曾9ω9ヨ帥雪・α9冨昌き轟轟=白日い員Z二㊤︿●器.δN。。”﹁Qっ・卜。.
20∋び①﹃σq①﹁ご昌巴8︵百三二ひq“ωけ鼠。旦い①凶冒凶σqおりρω.8予ω。。H●
響§ロ更け。。曾ω①蚕9。三。伽q①p:.、﹂旨憲言。旦閑葺\竃嘗h聖旨ξ①凶じ。げ①粛①﹁︵痔●∀ω薮①謬N⊆ヨO諾①コ・冨σ9ω堀。αq①<。﹁鳥8
↓暮﹃ぎσq9︶℃要旨再HOOq糟切.Hミ山。。H∵芝①蕊び8評⑦きζき守①9﹁簿Nω翁。9﹃①[”ミ弓馬①a9島巴⑦葺け9ω6巨9。。冨づ§ω①﹁9
壽N“︼︶凶①.幻琶。コ躍ωき鼻。=昌”=、巴聲.u①二Φ︿\O§幕円客甘口。q・︶”↓冨︸鐙①﹃讐ま①∋芝Φ。Q冨℃b﹃瞬け§幻Φ喜..︵百艮喧
羅3邑§霞ω§誓昌↓冨ユ謬αq。p碧。凶§﹃\霞一昌\≦二会伊。。・ら㊤堂も。ωけb①∋冨轟く。﹁ひq§Φq①器ξ。暮げ§普ヨ⑦
を参照。↓﹁90ざ閃.U8巴鼻U①﹁︾ロhω二①αqα2ZωU>℃ぼωおω9・.︵百冨隷αq”﹀鼠ω江⑦ゆq︶﹂昌=Φ置①昌L︶亀。︿\O§夢臼言m一︵=σq.︶”
︵34︶ ザウケル並びにガウ・テユーリンゲンのナチスについての研究は、最近になって盛んになっている。これについては、以下
u霞9び毎6=oNo謝罠O①8耳ぎ§α.O露=零冨津しσq.5︵け㊤。。㊤︶”ω●心。。o虫。■ ・ .
<。蕾き閑㍑u魯ω$琵琶ヨ●bd§魁鳥Φ﹁津§蝕ω。塞け魯.§。。映り・。鈎u婁匿。﹁=り09Q。●=黙.こ§ひq矯。§舞コΦび凶ωN凶§①﹁
舌砦g§。。出ωω..豊里三。置碁。q矯ω巨ぎgω$コαg二亘器器旦凶側目ω6げ①N笹ω①けN§αqも。馨ぎ﹃口oO伊ω・霞h・旧じσΦ﹁σ。冨げ戸
α9ぎ§α。・℃巨§畠旨.匹窪け善§樽凶。邑①ωΦ・①塗8b東員口げ冨①昌H尋︵言ω︶”。,.・。韓こ8鋤ωb﹁9ω暮ω”uδ<鼻ωざ昌8雫
︵33︶ ヤング案反対闘争の展開にういては、・以下を参照。﹂宰陣①α①5貯①r国一凶ω⇔げ簿げ”<o涛ωげ①αqσ訂①ロ§α<o涛ω①艮零ゴ①乙張σq⇔げ霞
ド ﹂ ﹁ ’. :
︵32︶.ooヨ。貫煙9。・N“N霞O﹃口&§ひq9ω9﹁宣旨“z鑑8三差bq摺①ヨきα[済民くg菖雪。凶魯“↓[cd”z﹁・。。Nく●母自㊤N。。矯ω・
↓いじd鴇Z婦・おく●FN・H㊤N。。”ω・麟’−− ・ ・ . ﹂ ・
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︵31︶ このルドルシュタツ挙における農民大集会については、以下が詳しい。・、Zo建屋且oqoぴ§αqぎ菊巳。一ω富α戸凶範↓い炉Z﹃.HO︿・
66 (3 ●122) 966
ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
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︵39︶ 勾二づαωO﹃﹃位げ①づ一Φ<Oヨ吋9N一㊤3b
) ) ) ) )
一二月二二日に行われた﹁解放法案﹂をめぐる国民投票は、結局テユーリンゲン州において二八二、五三二︵二六・一%︶
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44 43 42 41 40
︵49︶ 署巴ヨ①ユωoげ①﹁し口曽⊆①噌昌げ⊆鵠α● い鋤コαげ⊆コα⊆コαピΦ﹃﹁①﹁ωoゴ鋤ヰ﹂巨]りいbd一Z﹁菊QO<・bO刈・㊤●一日目ρQつ.9
︵48︶ 数字については、OO日げ芝♪Qっ.㊤N逡を参照。
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66 (3 ・123) 967
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一㊤心押目瓜⊆辱一㊤㊤9Qo’Q◎刈︷●⊆口αUo﹃Z噌HQQ︵9︶︼ω・目ω蔭1一ω掴一︶Φ﹃ω・”限りげρユコひq⑦口ぎα①コ一鋤プ﹁⑦づ一Φ一〇〇げ一ω一㊤蔭9国詠g博一㊤㊤伊Qつ・卜○い○一N押
じd﹁凶Φ︷︼田詳冨﹁ω鋤二ωαΦヨ一①び﹁①一㊤ωρぎ⋮<hNO一匂σqμら︵一㊤①①︶”ω﹂切蔭1ら①倉一〇げP一口﹃ひq①肩O⊆①=①づN⊆﹃O①ω〇三〇ゴΦ↓げ⇔ユづひq①コω一㊤一◎ol
刈鼠引O﹃①ωωΦr↓ピud”ω’①O獣.旧∪ド開3①口P閃﹁詳N U一Φ勾Φσqδ﹃⊆口ひqωげ=α二づαq貯↓げ⇔﹁ぎαq①づ巴ω︼≦○自①=α①﹁︼≦①oげ8﹃σq﹁①竃二口ひq● 国ヨ
い①σq巴δ辞α①ω¢づ門①oげ房ω辞月面辞①ω。 国一口①Oo=二ω6びΦbご凶。αq﹁①O鼠ρ℃鋤亀①﹁げ。﹃昌一り㊤卜。”ωb切一㊤PぎωσΦωoコ島①﹁①ωb①旧日用①oざ﹀¢hω什凶Φσq”ω.
︵47︶ この間に至る過程については、既に多くの研究蓄積がある。詳しくは以下を参照。2①まPO雪8憾乏旨巴ヨ胃ドぎ U①﹁
︵46︶ 一︼①菊Φσq冨﹃二づσqω玄匡ロ5αqぎ]写ゴロ噌ぎひq①づ・bd①gヨ<o﹃ω津N①口αΦきぎ“↓いしu℃Z﹁・α<・一伊一.H㊤ωρω・一●
︵45︶ OO↓ゴぐ弔﹀”ω。o◎○◎捗
九三頁以下を参照されたい。 −
えず、 拙稿﹁ドイツ国家国民党と全国農村同盟 一九二八−三〇年﹂﹃政治研究﹄︵九州大学政治研究室︶四〇号︵一九九三年︶、
を獲得
し
て
い
た
こ
と
は
、 興味深い。これ以降の全国レベルでの国民投票をめぐるヤング案反対闘争の展開については、とりあ
を得 る に と ど ま り
る か に 達 し な か っ
過
半
数
に
は
は
た
。
しかし、テユーリンゲンにおいて全国の得票率の約二倍にあたる賛成票
を得る
に
と
ど
ま
り
、
過半数には達しなかった︵OO↓げを︾鴇ω・QQα︶。また全国においても結局五、八二五、○八二︵一三・八一%︶
論説
︵50︶ 男口昌OooOげ﹃①凶げ①昌くOヨH①・UON①H口ぴ①﹁HOωP一戸“一W︾\一WOユ別口層7﹁Qりトσ①︾7マ●Oα一.
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︵53︶ <凶一・ζ凶ゆけ﹃9ρ⊆①口ω四二件﹃餌Φq①◎q①伽q①昌︼︶﹃・閃ユO目口昌α7目切﹃ω0ゲ一①﹁鋤昌伽q①昌Oヨヨ①昌矯一コ”一門い︼鮒7﹁﹁・トの①\N¶<●ω﹂●一〇ω一鳩ω﹄⋮♂<一⑦Oω評鋤ヨ●
︵25︶ Qり①Oゴ嵩Oげ①菊律ゴニひqoo樽O一一鐸昌σqO昌N‘戸口ニO昌鋤一ωON一同一陣ω鉱ω6ゴ①昌ωOげ一①げロ昌αq①P凶日↓いbd﹂Z﹃・O<b一’一●一〇QQH噛ωb.
一⊆5ゆqαOω]りげOユロαqΦ﹃い鋤昌α︿O一7Φoo讐圃昌”一門い剛W︾Z﹁●α<﹄刈﹂﹁]bO◎酬ω●一●
︵15︶ 閃O﹃O①ωOげ一月置ωΦ口げ①凶け⊆昌血肉①什梓⊆昌ゆqαOooい昌昌α<O一網①ω● U一Φ︿﹃帥﹃一9﹁σΦ津α①﹁7︻●Qり●一︶●﹀.℃﹄ヨい9昌αび二昌αΦ● =⇔⊆噂辞くΦ噌oo鋤§ヨー
66 (3 ●124) 968
︵54︶ 旨OげP︸⇔﹁ぴqO昌\幻O二月げ鋤﹁伽旨O昌ω0げ①﹃\♪×①一ωけ①一N口050①ωOげ一6日目①一匹UO什O昌一﹃げOユロσqO昌﹂≦繋累6げ①昌\口口Φ﹁一ぎ目㊤O伊ωbbρO・
︵55︶ ︵︸凶①ρ7馴ω一︶﹀℃℃Qつ.ωO蔭hh
︵56︶各地域における農業会議所選挙の様子については、伊集院、前掲﹁ナチスと農村同盟の地域支配﹂六二頁以下が詳しい。
テユーリンゲンに関しては、客観的な叙述のみで選挙結果に対する評価は慎重にもなされていない︵同論文、六八−九頁︶。
︵5︶
]嵩①一≦①ω①昌剛昌αO﹃一︵掌Ωヨヨ①﹁り’司匹田α①ロ一WOゴ﹂hωけ四口α︾謬一〇げ二陣口﹃勺助暮①凶ひqΦ冒一93︷︷一り一昌”ハ﹃ピ一Wu7マ.O即く●一山.μ一●H㊤ω﹃ω﹂h●
76 .
︵60︶
一qヨユ一①菊①一〇ゴω口﹃蝉ω凶ユ①コ叶①昌≦POげ一︾圃昌日A門ピ一W︾7﹁﹃●目蔭く。bのOσN●一〇ω卜○博Q∩●目●
TΦω戯§§Oh黒日一山一二①噌一︾一昌”↓いbd噛7﹁﹁﹂﹁H︿●α●ω﹄㊤ω卜∂︾ω●らゆ旧ぐ弔Φ﹃一二津一①﹃ぐく帥げ一戸一ミ帥げ日田O①昌・ωON圃曽臨ωヨ仁ρ凶口”日,︼]W℃7﹁﹁bO<●
︵59︶ 国口﹁︼9口OωけO﹁ぴΦ﹁ひq℃圃昌”一門︼﹂W︾2﹁﹄o◎<●α●QQ﹄り09bQ︾ω・一.
︵58︶
用ワ
一(
︵76︶ 国ぴ①昌α①旧く﹃Oコヨ昌一〇﹃け︸山一二①﹃押・凶昌”一門い一W”7﹁﹃b周く’0﹂.一㊤ωbQ噸Qつ﹂団引=凶日①﹃幻①一〇げωb﹁帥ω一α①昌け押一昌⋮①げ①口出帥℃ω﹄●
︵66︶ ︸︵①剛昌ωON一①謡ω二ω0ゴΦ﹃幻①凶OげωU﹃9一ω一α①昌昌回℃一旨”一門H一W℃Z﹁.boOく﹄﹂μ㊤QQbO博ω●一・
︵65︶ ω齢①げ①昌≦凶﹁m一一〇一昌ぎ凶昌“↓い一W噂7﹁﹃bQ◎<b眞・HOω卜。糟ω・目.
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︵46︶ U一Φぴq①ヨO凶コωOゴ9津=Oザ①ω犀N¢δαqα①ωbd⊆昌O①ω︿O円ωけ鋤口島Oωヨ凶け甲︷pρ⊆OけσqΦωO﹃帥沖ωhOげ﹃①円昌Oヨbのトσ●]≦帥﹁N同㊤OQbの”一昌⋮切︾\bdΦ﹃一一P
︵63︶ OO目げを︾りω●一〇〇1一〇ω●
︵62︶ ﹀﹄︵凶噌Oげ昌①﹁曽昌くO昌ω矯び①一鋤ヨbO・ω.一〇ωN一昌”︼W㎏〆\切Φ﹃一一コ”因◎◎OQQ心 一思Z同﹂Ubの山鉾一.HO⑦●
一︶O閃●2﹃b軽讐ω●卜σωOh●
︵61︶ ドφ︽︾菊Oげ①誹”一W①﹃凶6げけOげO﹁ユ一Φ剛WΦω凶Oげ鉱αq¢昌αq血Φω[ZωU>勺・] O①口①ω↓げロユ昌σq①昌糟boら.N﹄㊤ωN一コ”三9一\=①一亀Oコ︾]ワプ⇔﹁一昌σq①づ︾
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ヴァイマル共和制末期における地方の農民団体とナチス(熊野)
︵68︶ 一︶Φ﹁↓ゴロ﹁・ピ”口αげ¢づα<①ユ①二σq昌①辞ωΦ一⇒① ω︽ω叶①巳bO一凶二戸 凹︾一口”]ワΦ﹁7︻餌餓O昌鋤一ωON凶①一一ωr Z﹁・同幽㊤︿bOQ・①・一㊤しQbQ︾凶コ 一門﹃=ω辞﹀≦一
ZωU>℃・9巳①ぎ畠日冨﹁圃轟Φp琴・ぐ伊
︵69︶ ︵臼O日リプぐ弔﹀一〇〇μO鼻IHO﹃・
︵07︶ =一コα①口げ二﹁αqぐ乱①自①﹁σqΦ≦節げ一戸一⇒”]]U剛W℃7﹁﹁﹄㊤<・目ω﹂﹂.㊤ωbO℃ω・一・
︵71︶ 詳しくは、拙著﹃ナチス一党支配体制成立史序説ーフーゲンベルクの入閣とその失脚をめぐって一﹄法律文化社、一九九
六年、第二章以下参照。
︵72︶蛍雪N①巳Φ﹁<①器出血①ωbσ磐①﹁三鋤αq①ωぎω。&①︸鋤二ω①P旦日いじu”写●画く・・。α・巳㊤ωNω・寡旧く亀Φω<①母磐魯Nξ霊汀量σq℃
凶づn日H、bd リム﹁・㎝ω <。①●刈■H㊤ωN ω.同。
︵73︶9⊆↓暮﹁ぎσq8き島Φ力蝕。匿①冒昌ひqα①﹁ZωU>℃曽ヨ一刈φ目りω・。﹂旨しu>\bU①﹁ぎ矯Zω・。ρ2ぴミ●
り り
︵74︶OO↓ゴ藝♪ωさ。。山拝=継−=メ
︵57︶ 一︶鋤ω昌①鐸Φ﹀ひq﹁簿﹁b﹁Oαq噌①ヨ∋︾凶コ”]リピ︼W一Z﹁●刈刈くbQQ.㊤●一りω卜Q一ω﹂﹁.
︵76︶8&び琶集ωけρ5↓いbd℃2︻・。。①<’b。£O.δ輿ω.一●
︵77︶ OO]リプぐく\rQD●一NO−HNω●
︵ 78︶9①ωωΦ㌍日ぴbdあ.旨。 。 ・
︵97︶ ︿O巨9ρひqΦhO﹁α一①QD一けNニコαq飢①ω宮=6ゴぐく一﹁けωOげ鋤h=一〇げ①口﹀二ωω6ゴ⊆ωωΦωα①﹁↓ず魯ユづσq一ωOび①コ=①⊆b二四コα♂<冒什ωOげ蝉暁樽ω評9Ωヨヨ①﹁①∋
bのω.一鋤昌⊆餌﹃H㊤ωω︾一昌”一門ゴ=ωけ﹀ノM<u一門ゴロ夙凶昌αq一ωOゴ①ωぐく一日目ωOゴ曽h叶2自一鵠ωθ①噌一円ヨーZ﹁bO㎝.
︵80︶=Q民巴ω冒。=什陶ω9①O≡口αω警NΦ血Φ三ω。冨﹁﹀σq﹁霞”呂嘗貫旦日いUd℃Z﹁.8<・H念b。.ち貫ω齢H
︵81︶﹀ヨ国巳。α9芝之ω6竃房犀﹁①津・O霞牢08ω什鳥①ω↓菖﹁ぎひq露量民9&①。。﹂罠↓ピUd℃Zこく.心●H・おω。。あ﹄旧芝鋤ωωo=≦①a2”
︼︶一Φ<①﹁N≦①一団①一⊆づαqα①ωOd鋤口O﹁づ樽⊆5Pρ一口H]]Ubd一7﹃噌●ω<●一一辱一﹂﹁㊤ωω鴇Qり。一’
︵82︶U臼麸二8巴①N⊆ω鋤∋日魯ω。三島﹂目↓いOu”Z﹁・㊤<﹄.N.這ωρQ。齢一
︵83︶騨①ω。。①r↓ピ炉ωヒビ
︵48︶ ︸︵鋤ヨ℃hh﹃Oづ蒔ω6プ≦鋤﹃N11≦①一ゆ日﹃Oけ㌍凶づ ]﹂﹂W一7マ.一老く.一◎○﹄●一㊤らQρQD.一・
︵85︶OO↓ゴ白♪ω●お蔭山。。◎
︵68︶ 国一口Φ7︷Φげ﹁ゴ①凶仲暁口Hα一①菊①一〇げω﹁①ひq凶①﹁⊆づひq一一づ一]りい︼押7﹁﹁﹄りく。○◎・ω●一㊤ωρω・一’ 、
66 (3 ●125) 969
論説
︵87︶ UO﹃O詳ωσq毎O℃①α①﹃ZωU>℃鳴圃ω6げ①賊ooαo蹴”昌α鋤ω↓ゲロ﹃甘αq凶8げ①開﹃①置⇔∋併ω餌巴ΦhΦ匡\Q∩餌巴Φ帥ヨN◎◎レω・H㊤QQQQ”.旨⋮、﹃ず⇔﹁ぎσq画・
ツ国一昌一αq口伝ひqαOωしd①﹃⊆︷器け拶口αΦω● 閑四日ロhゆq①∋①ぎω6ず餌津α①﹃ゆ餌ロ①﹁P凶冥↓ドじd”Z噌b①<。一・卜HOωρω.一’
¢§︵観Φ国凶ロ一〇q¢昌σqユ①﹃酒﹃げOユ5αqO﹃い905α≦一#ω6げ四津℃一旨]り日口ULZ﹃bO<.一﹂﹂㊤ωρω﹂・−
詳しくは参照、拙著、前掲﹃ナチス一党支配体制成立史序説﹄二七四頁。
﹂ω6げ①ωQDけ鋤9けω9月Oげ一く閑ロαO一ωけ餌鳥θ”一門﹃Oユコぴq圃ω6げ①ω即く噌①凶ω⇔ヨけ6つ鋤①一〇h巴92可.刈O軽矯一W一﹄OP
) )
六名のうち、少なくとも六名︵パウル・ユングハン・ス、カール・ハウプト、・アルフレート・キルヒナー、アルノ・ヤーン、
U一Φ閑﹁①剛ωぴ鋤⊆Φヨh9お﹁”幽思↓げ〇二昌σq①﹁じU9⊆①∋N①一ε昌㈹︵貯O臥二σq”↓bdN︶”Z﹁●αω︿・9。。﹂㊤ωω︾ω●H●しかしながら、郡農民指導
66 (3 ●126) 970
幽㊤hも↓げωけ>Oけケ● ↓7口﹃貯αqδ6﹃Oω﹀ヨけωσq①ユ67けOO什ゴpo﹂Z噌●幽HPbd一一.ω釦FQQ◎◎.
げ二日αOΦ﹁9①.<.回すOO﹁⇔93H絢.一〇ωρヨ”]りげ⇔ユ昌σq凶QoOげΦωωけ9四冨曽吋Oげ凶︿○門①凶N鴇↓7魯ユコσq圃ωOげ①ω﹀ヨけωσq①ユO﹃仲O①﹁po”Z﹁5一トのQ◎ρゆ一一●
指導部の他に、ゲラ郡農村同盟並びにゴー金山農民同盟の各指導部においても指摘できる。<αqド<oお訂巳。。零鋤三冒昏①凶の訂巳・
︵97︶ こうした点は、本論で言及したテユーリンゲン農村同盟指導部、アイゼナッハ郡農村同盟指導部、カムブルク郡農村同盟
目9Q二50一ω”ω●
︵96︶ ﹀⊆ωN鐸αqω≦Φ一紹﹀ぴ鶉げユ津レ.O①ヨげ⊆﹃oq馴匹①昌N●一日目H㊤ωρぎ”↓げ自Q∩け﹀白糟↓げ⇔噌ぎαq♂Oび①ω﹀︼B什ωαq①ユ。げ梓09日げ⊆﹁αq℃Z5ω臼”bu一一・
﹀ヨ件ωσqoユ。茸個ω①鎚6貫Z﹃.H9国一●。。㊤−自を参照。
N一⊆三お器ぎ田ω①自白。﹃””O①≦9び①7①ロω、.糟ぎ“↓げO﹃冒αq尻。ゴ。ωω富①冨鎮〇三︿Oo芸m曾〇三二αq”↓げωR>O浮︶”↓﹃口二づσq凶8ゴ①ω
︵95︶ 以上の叙述については、︾¢ωNロαq9⊆ωα臼Z一①α①﹁ωoゲ﹁凶津Oげ。﹃岳①9。⊆ωωΦ﹃o﹁α①因島。ゴ①工曽償嘗く臼ω鋤ヨ画幅ロづαq鋤日U凶①口ω冨αq糟ユ①昌
.一≦①﹃同げΦ詳び①﹃Φ津. Oげ昌①℃ωδσqo噌、鐸昌α層切Φωδαq什①、”一昌好い一W︾Z﹁●No◎︿●◎◎眞・H㊤ωω”Q∩b・
︵94︶ 当時のマスコミの多くは、テユーリンゲン農村同盟がナチスによって﹁占領﹂された、と報じていたようである。<σqドN貰
︵93︶ 一。QD一けN仁昌αq鋤§H︼≦⇔凶一〇ωQQ℃一§ωけ①αq昌。σq同仁℃ゴ尻Oげ①b口ΦユOザ榊ρ≦幽い①コα樽9αq<o=↓げロユ昌αQ①Pωb円くσq一]︶﹁O器①一”一﹃戸じ◎冒ω﹄一〇●
︵29︶ ↓げ口﹁凶昌σq①﹃いO昌αげ¢昌αN二﹁国凶ロ一σq⊆ロσqσΦ﹁①一戸一当↓ぴbu鴇Z﹁・N白く●9蔭﹄㊤ωρωb.
ω.o。●
<bb・一〇ωω’ω.Q◎馴↓じdN℃2﹁・α◎◎<‘㊤●P一〇ωρω●ω一目じuN噛Z﹁●α㊤<●一①・㊤●HOqQO◎℃Qり●QQ旧↓じuNコZ﹁60<bω.ρ一〇ωω讐ω・ω⋮↓じ口NZ﹃・①αメNω・一〇・一〇QQρ
エー リ ッ ヒ ・タイリッヒ.、ブリッツ・ヴュステマン︶は、もともとテ洛﹂リンデン農村同盟の会員であった。<σqド↓じ﹂NZ﹁.零
者
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